青木氏氏 研究室
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  [No.170] Re: 青木氏と血縁族(家紋)-18(揚羽蝶紋)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/23(Fri) 10:12:05
Re: 青木氏と血縁族(家紋)-18(揚羽蝶紋) (画像サイズ: 2130×2100 60kB)

Re: 青木氏と血縁族(家紋)-18(揚羽蝶紋)
青木研究員 さん 2006/05/21 (日) 22:12
第17/33番目の紋様です。

この紋様には97もある。

この紋様は家紋200選に選ばれた紋様です。

この紋様に関わる青木氏の家紋は次ぎの紋様である。
第1番目は揚羽蝶紋である。
第2番目は丸に揚羽蝶紋である。 第1番目の分家に当る。

この紋様は平安中期頃に京平家の平重盛等が鎧や車紋もなどに用いたのが最初である。

蝶紋のうち揚羽蝶紋は桓武平氏が最初に用いたものである。

桓武平氏とは後漢の末帝の献帝の子の阿智使王と孫の阿多倍王らが孝徳天皇期(645)に漢の東国と北朝鮮の朝鮮族の17県の民200万を引き連れて九州の北側に上陸して大和の国に帰化してきた。この阿智使王と阿多倍に率いられた民は瞬く間に九州全土を殆ど無戦の状態で統一した。この200万の民は全ての技能集団を引き連れていたが、この技能を土地の者に伝授し平和裏に同化したのである。
この一団の一部は次第に中国地方に移動しこの地方でも陶族が勢力を持ち全土を制圧した。更に移動して最東信濃と美濃地方まで移動してここを開拓した。
この渡来人は技能集団として海部、服部、綾部、陶部、土師部、鍛冶部、磯部、渡部等の「部」のついた姓はこの技能集団の末裔である。

この軍事集団で有名なのは蘇我氏に仕えた漢氏や東漢氏や直文氏である。

この技能集団は現代の第一次産業の殆どの基礎を作り上げたのである。
この技能集団は朝廷の政治形態を3蔵という形態をとっていたがこの3蔵のうちの2蔵を占め、この政治官僚として日本の律令政治の基礎を作り上げた。
この3蔵とは「大蔵」で朝廷の財政を、゜「内蔵」で天皇家の財政を、「斎蔵」で政治を含む祭事や祀事を司っていた。この内、「大蔵」「内蔵」はこの阿多倍一族が占めていた。
「斎蔵」は鎌足の藤原氏である。故に後には藤原氏は朝廷の政治を司る摂関家となったのである。

後にこの二つの「蔵」の功績から天皇から賜姓を受けて次男は「大蔵氏」と三男は「内蔵氏」と長男は「坂上氏」の3つの賜姓を受けた。

長男の坂上氏は阿多倍の率いた軍事部門を統括して征夷大将軍となり東北から北海道を制圧した。この坂上田村麻呂が初代である。

今までは、天智天皇期から第6位の皇子が臣下して5代の天皇から出た青木氏が天皇家の親衛隊として皇族賜姓族の役目であつた。

其処にこの渡来系の阿多倍の集団が朝廷の軍事部門を担うようになり青木氏との間に軋轢が生まれた。
桓武天皇は律令政治を完成した天皇としてこの青木氏の発言力を排除して自らの母方の一族を頼りに推し進めたのである。

さらには後にはこの阿多倍は敏達天皇の曾孫娘を娶り天皇家と縁戚となり朝廷の全権を握った事にもなった。

この阿多倍の率いた一団は大和の国の経済的基盤と政治的基盤と軍事的基盤を確立した程に貢献した。ここの功績に報いるために桓武天皇は阿多倍の死後にこの阿多倍の高望王を大和の国の「高尊王」として扱いこの一族に「たいら族」として渡来人に初めて日本の氏をあたえた。そして、この子孫に伊勢国北部伊賀地方を切り裂いて与え、不入と不倫の権を与えた。

この一族の貞盛が「平の将門」の乱を藤原秀郷と共に5年もかけて鎮めた功績で天皇に寵愛され5代後に「平の清盛」の太政大臣まで上りつめた。
これが「桓武平氏」である。

この桓武天皇の母はこの阿多倍の子孫である。

この為に、この桓武平氏の阿多倍一族を引き上げるために総宗本家の伊勢青木一族をはじめ5家5流の青木氏は桓武天皇から圧力をうけ、伊勢青木氏と5家5流の青木氏は一時守護の職を失う。
この時、藤原秀郷より2代前祖父の藤成なる者が一時伊勢の守護となることが起こり、これ等を契機に5家5流の青木氏と後の嵯峨天皇から始まった賜姓青木氏から変名した皇族第6位の賜姓源氏も平家の台頭で力を失う。

これを嫌った次の天皇の嵯峨天皇は皇族第6位皇子の賜姓方式を元に戻して青木氏から源氏に変名したのである。

この時、藤原秀郷はこの伊勢守護の時に伊勢伊賀北部の平家から妃を求めて縁組をし、この子供の藤原秀郷の第3子の千国が青木氏の元祖となる。

この青木氏は直系1氏、直流4氏、支流4氏となり、ついには116氏の藤原秀郷流青木氏が出来る。

この支流4氏のうちの3氏はこの揚羽蝶紋の家紋である。

この3氏中の1氏が主流であり、元は嶋崎と岡本を名乗り後に元の藤原系の青木氏に戻る事となりこれより揚羽蝶紋の青木氏が分派して子孫は拡大する。

つまり、中国後漢の光武帝の子孫の阿多倍王の渡来系人の血筋を引いていることになる。更に同系の京平氏の子孫ともなる。

この子孫と同じ血筋を元祖に持つ青木氏はほかにもある。
甲斐武田氏の諏訪族の武田系諏訪族青木氏である。

阿多倍らが引き連れた帰化民が甲斐の国の開拓民として入植して大型の外来馬を飼育して生計を立てた。
この地に定住した末裔の諏訪族とこの地の守護としての皇族第6位皇子の青木氏がこの地の甲斐王として赴き後にこの諏訪族との間に血縁をもち青木氏を発祥させた。
後に武田氏とも皇族賜姓青木氏と血縁し、諏訪族は武田氏とも血縁する結果となる。この青木氏も元祖には阿多倍の血筋を持つ事になる。

藤原秀郷の主要5氏は永嶋氏と青木氏と長沼氏、それに進藤氏と長谷川氏であるが、この永嶋氏は京平氏との縁組にてその子孫は青木氏と永嶋氏を発祥させたが元は阿多倍の大蔵氏からであるので名乗ったもの。

つまり、阿多倍と敏達天皇の曾孫娘との間に出来た子供の「大蔵氏」は、後に九州に於いて「永嶋氏」に変名する。

この永嶋氏一族はその勢力を背景に中部地方から以西にたちまち広まる。
中部地方から以東は藤原秀郷流永嶋氏である。

よってこの永嶋氏は阿多倍の末裔の平家族の血筋を持つ青木氏と同じ母方元祖の血筋を引いた藤原秀郷流永嶋氏とは同血縁になる。

藤原秀郷にはこの様に京平家の血筋を持つ氏が2氏もある。

ここで注意が必要なのは「坂東八平氏」と言う一族が関東に居たが、この坂東八平氏とは全く別である。こちらは京平家の「たいら族」に対して゜平族(ひらぞく)」という。
桓武天皇はこの「ひら族」になぞらえて渡来人を「たいら族」として賜姓した。
この「ひら族」は皇族第7世以上の者が天皇が代替わりするたびに生まれる7世以降の者が関東に定住しその末裔が「坂東八平氏」である。

京平家を伊勢者と言うがこれを主流として関氏や織田氏らの支流が出た。
伊勢者に対して関東は坂東平氏と言う

この2氏の揚羽蝶紋の京平氏のながれを組む支流の藤原秀郷流青木氏である。

主要紋を次ぎに掲示します。家紋掲示板にも掲示します。参照して下さい。



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