青木氏氏 研究室
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  [No.207] Re: 皇族賜姓青木氏の背景 8
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/24(Sat) 08:54:32

Re: 皇族賜姓青木氏の背景 投稿者:福管理人 投稿日:2009/01/18(Sun) 15:49:08


Re: 皇族賜姓青木氏の背景
青木研究員 さん 2005/06/24 (金) 12:05
青木氏は誕生以来、150年程度政治の荒波にもまれることも無く成長を遂げ、青木氏の親衛体として軍略所としての役目を果たしてきた。そして、子孫を増やし、大化期から律令国家が成立する800年ころまでは太平の世であった。しかし、この影で、大きな時代の変化の「うねり」が気がつかぬままに押し寄せていたのである。その「うねり」は時代に伴う必然的なものであった。
一つは渡来系一族がもたらしたの余りにも大きい津波の様な「うね  り」で、軍事、経済、政治の3面の「うねり」があった。
二つは本来あるべき国家の姿が次第に出来つつあった。
三つにはこの状況に上手く対応出来た二つの氏がいた。
一つは云うまでも無く阿多倍一族のもたらしたもので、軍事の近代化や経済の部制度と生産技能の発達、政治では、財政や政治手法の知識の普及である。200万と言われる人民が進んだ後漢のノウハウを一度に持ち込んだのである。近代に於いても例を見ない速さと質と量であった。明治のそれに比較にならないものであったのである。そして、それが近代日本のまだ基幹産業になり、政治体制の基礎に成っていることは不思議である。それが明治以降の植民地時代をくりぬけられた一因ではないか。
このようなものを持ち込んだ一族が動けば5家青木氏などひとたまりもありません。多分青木氏に於いてもこのことには気付いていた筈です。しかし、余りの力の差に手も足も出ない有り様であった事は間違いなく、それが桓武期まで引きずったと見る事ができます。
当然、桓武天皇はこの神にも近い万能超勢力を国体に利用しない手はなく、当然の流れとして。自分もさることながらその勢いを天皇の立場からも利用した。利用せざるを得ずしていた。なぜなら、歴史が物語るように蘇我氏のそれと同じくなり大化期前に戻ることを意味するからである。
当然にして、弱いながらも、天智天武から平安初期の未完の時期の働きから比較して、天皇の相談役の軍略所の役目は時代遅れの感あり、消え行く定めであろう。
二つは聖徳太子の冠位十二階制度など国家の基盤を作ろうとしていた頃から次第に整いつつある律令制度への国体が見えてきた時期でもあり、周囲から青木氏に対する目も異なりつつあったのではないか。それでなければ、阿多倍一族を倒すまでも、何時の世も同じで不満を表す程度の反乱が起きるはずである。
しかし、歴史を調べてもすくない。多分青木氏は政治と言う場面から孤立に近い立場に置かれつつあつたのではと推測する。
そして、5家間も次第に隙間風が吹いていた。結束することで生き延びることも容易であった筈なのに、次第に弱体化していった。
三つは先ず、藤原氏一族である。青木氏と同じくして誕生した藤原一族(4家)である。本来なら、朝廷の役職も阿多倍の子孫に軍事、政治、経済の3面を握られたのである。ただ一つ三蔵の一つは藤原氏が鎌足の頃からの役職であつた「斉蔵」を守った事。それに、2代目の不比等の活躍とその洞察力が生き延びるに一役をなした。
それは天皇家との血縁を結んだことによる。これによる力が藤原氏を支えた。5代目位までは血縁を盛んに結んでいる。そして冠位を獲得し、不動の体制を作っていた。
次レポートのテーマとなるのだが天皇家から外れはじめると15源氏中の10源氏位まで、今度は源氏との盛んな血縁関係を結び、天皇家と源氏と両極から固めている。
それだけではなく、地方の押領使等の役職で一族を配置して地固めを進めているのである。
現に、藤原氏の姓に付いて見ても判る。各地に配置した一族は姓を変えて、藤原の文字の前に土地の名を採って、例えば、伊藤、近藤、尾藤、武藤、加藤、遠藤等はそうである。殆ど全国に配置した。又、朝廷ないでも、役職の文字を付けて、斎藤、工藤、佐藤、左藤、進藤、内藤など小さい役職でも受けて子孫を守っている。
そこで、地方武蔵の押領使であった鎌足から8代目の藤原秀郷である。この一族の青木氏はこのような政治的な行動でその一とその二の荒波から逃げることが出来たのである。むしろ逆手にとって子孫は成長した。賜姓の青木氏とは大違いである。次レポートで記することにするテーマであるが、しかし、810年頃を境として嵯峨天皇期からは逆転していくのである。それは、この頃は藤原氏も例外ではなく、賜姓青木氏との苦肉の策の政治的戦略であり、これが大成功に導き、1185年についに最大の超ライバルの渡来系一族を抹殺するのである。もう一つの氏は言うまでも無く、渡来系一族から名を変えて成長してきた平氏である。 4つ巴の子孫を残す戦いの次レポートに期待ください。



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