青木氏氏 研究室
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  [No.219] Re: 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究 史料 9/10(家紋分布の分析)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/25(Sun) 08:23:27

史料 9/10(道別、国別、地域別の家紋分布の分析)

主要5氏の家紋の地域分布の状況
(作成要領と注意は史料 7/10と同じ)

A 全体綜合(道別の詳細は下記参照)
東北地方 14  2.6%  
北陸地方 13  2.4%
関東地方 103 19.2%
中部地方 180 33.5%
近畿地方 88  16.4%
中国地方 57  10.6%
中国地方 3   0.5%
四国地方 42  7.8%
九州地方 39  6.9%

合計   539
各地に分布する秀郷一門の血縁族の家紋(青木氏121家紋を含む主要5氏家紋数361とそれに関連する家紋)を各地(66国)にプロット(B)し、それを上記地方(A)にまとめた。
その時代を「氏家制度」の社会システムが崩れていない江戸中期までのものとして使用した。
但し、同じ家紋が国地方を跨ることはあり合計537と成る。

このデータで利用の仕方如何では秀郷一門の「生き様」のさまざまな事が判る。
秀郷一門の主要5氏の血縁分布では、上記の様に成る。

東北、北陸地方は代々鎮守府将軍として赴任した土地柄である。
「秀郷一門の血縁戦略」即ち、その土地での血縁族を増やし、地固めをして行った結果によるがこの地方では意外に少ない。この地では小山氏、小田氏、等の多くの土豪と血縁氏しその血縁族が関東に出て勢力を伸ばした。
その中でも代表的な氏として、足利、武田、小山、花房(花山)、小田氏等があるが、他の土地との比較からすると少ない。全体の5%に過ぎない。
秀郷より発祥11代までで大体6ー7代頃まで続いたこの官職で、尚且つ、前発族である土地柄であって、宗家の土地柄血縁族である。その後も進藤氏や利仁流が引き継いで行った土地であるのに不思議に低い。
このデータは一門の各地での勢力分布としても観られるデータである事から観ると、史実、殆ど疎遠だった中国地方の山陰地方のデータから比較しても「鎮守府将軍」として務めた土地柄とは思えない数字である。これは何故なのか疑問が大いに湧く。何か子孫を遺せなかった出来事が起こった事を物語る。

つまり、血縁が進まなかった事になるが、末裔が広がるチャンスが無かった事を意味するのであるから、結論的には”時代の変化”に対応出来無かった事に成る。
そうすると、末裔を遺せなく成るような事が次ぎの様な「時代の変化」によって起こっている事に成る。それはどのようなものなのか先ず史実を拾い出してみる。
その中から何かが見えてくる筈である。

陸奥地方の秀郷一門の子孫存亡の時代の経緯は概容は次ぎの様な事に成る。
一つは鎮守府将軍から征夷大将軍に権力が転換した事にもよる。
二つは源氏勢力と藤原勢力が勢力を後に二分した事にもよる。
三つは鎌倉幕府樹立後の秀郷一門の失職離散と国換えなどの体制整理に基づくものによる。
四つは室町幕府樹立後の「下克上戦国時代」「足利氏探題」として大きく勢力を伸ばした事による。
五つは安土桃山時代の「全国平定」の変化(殺戮戦)に上手く対応する事が出来なかった事による。
六つは江戸時代の安定期に仕官等の対応が上手く出来なかった事による。
この程度であろう。

そこで、この中から史実から観てみると、藤原秀郷一門の基盤をこの陸奥の地に固めた時期としては「鎮守府将軍」と成ろう。
「鎮守府将軍」は多賀城に724年から軍政府を置いた時期からと始まる。
802年に胆沢城、志波城に移して4等官制にして運営されたが、これ等の政治的支配を嫌った地元の「伊治砦麻呂の反乱」が起こり、更に「征夷大将軍」の坂上田村麻呂が藤原氏と合力して、当地域を支配していた「アテルイ(阿弓流為)」を破り811年頃までに征圧した。その様な土地柄である。
その後、この「朝廷軍」の「征夷代将軍」の勢力が大きく成り、かなり静まったが依然としてその土地柄の「独立性の強い反骨性」は残っている。史実を細かく見ると各地で燻っているし、北海道の彼等の勢力は以前として維持されている。
第一彼等の首魁アテルイを攻めて討ち取ったのでは実質ない。4度戦ったが勝負が着かなかった。そこで、「一時停戦」を理由に天皇に合わせると云い名目で引き出し、途中で「騙まし討ち」をしたのが史実である。この間約90年経っている。首魁を失った彼等は一時勢力を落としただけである。彼等には大した勢力の低下は無い。
その中で、一方征夷代将軍を含む全体としての「朝廷の軍事力」の低下も起こり、各地で反乱が頻発する。朝廷は陸奥の反乱を何とか押さえ込む為に苦慮していた。
一方の関東では、この5年も掛かっても誰も平定する事が出来ずに居た「独立国反乱」を打ち倒した秀郷に対して、朝廷は「威信低下」の窮地を救ったので最大の讃美を送った。
940年に秀郷が、「独立国反乱」の「平将門の乱」平定後、その中で、その勲功からはこの陸奥の地の治安を「鎮守府将軍」としては藤原秀郷一門が再び担う事と成り結果は陸奥は盛り返した。そして、彼等との血縁族を広げて懐柔策にでて成功する。
そして、この勢いは秀郷5代目「頼行」の処(1050-75頃)まで続くが、その間この秀郷一門は9人、利仁流は2人がこの役目を担ったのである。
ところが、渕名氏の始祖と成った兼行(1080頃)のところからは一段下の官職の「押領使」に留まり、秀郷一門は関東以西赴任地の各地にシフトされる事と成る。この時期が事の「変曲点」と成っている。
その後、官職は北陸道7国の「押領使」に変化していて、この地域は秀郷流が手を引き引き上げて信濃や甲斐や美濃や阿波などへと赴任地を移している。この時期から北陸東北地方を利仁流が担う事と成った。当然に、この時期、陸奥の血縁族の分家筋は秀郷一門の護衛として同行したのである。
そして、中部山岳地方にその勢力を伸ばす事と成ったのが陸奥血縁族の花房氏の足利氏であり、同じ陸奥血縁族の小山氏の武田氏でありその後の常陸の小山氏でもある。
ところが1185年の「鎌倉幕府樹立」で秀郷一門は足元をすくわれて失職離散で衰退したにも関わらず、頼朝に合力した秀郷5世孫の「朝光」が藤原秀郷一門の元の領国の常陸「結城」等を本領安堵(1192頃)され一門は下総結城の「広綱」の下で息を吹き返し復活した。
その息を吹き返した朝光の孫の弟の結城の「裕広」が、この陸奥白河に移り「白河結城氏」として再び陸奥で勢力を盛り返した。150年後の1335年頃である。
室町期に入り、更に秀郷一門、特に秀郷流進藤氏は足利氏の大老として活躍し「陸奥出羽国探題」に同行して再び陸奥出羽国に根を降ろす(1365)。陸奥は結城氏と進藤氏が固める事と成った。
しかし、この後、この秀郷流進藤氏は跡目継承に恵まれず子孫をおろか本家の血筋さえもを拡大する事は出来なかった。
そこで遺された陸奥の白河結城氏は南北朝末期(1370頃)に陸奥に下向した南朝(後村上天皇)に加担したにも関わらず、陸奥白河氏結城氏の秀郷一門は北畠氏の援護も受けて生き延びる事が出来ている(200Y)。ところが安土桃山時代(1573年頃)に成って全国平定の秀吉によって末裔末孫まで尽く潰される。これで陸奥には秀郷一門の息は途絶える(1590Y)。
この時、結城の結城氏は足利氏に合力(伊勢長嶋北畠家を軍師として迎え入れた)し勢力を持ち返すが、更に窮地に陥った秀郷一門の残存勢力の陸奥の結城白河氏は、秀吉にとっても暦戦上ただ一つの汚点となる過酷な戦いとなり、秀郷一門陸奥の勢力挙げての必死の戦いにも関わらず「末孫まで尽く滅ぶ有名な過酷戦」をした。ここで子孫は滅んだのである。この時、天正17年(1590)義親の時であった。
所謂「天正(17)陸奥の戦い」で有名であるが、秀吉は北畠氏をも「天正伊賀の乱」(伊賀攻め、長嶋攻め:1-3次)の「伊勢長嶋攻め」(1579-1591)で滅ぼしてしまった。
(注 秀吉2つの失敗の一つで「焦った無理押しの戦い」で大きな犠牲を払ったがこの後この反省から秀吉は2度と「無理押しの戦い」をしなかったがその反省の基になった苦い戦いであった。)

この時、陸奥では差し向けられた藤原秀郷一門の近江の蒲生氏と、陸奥白河氏の藤原秀郷一門との藤原秀郷一門同士が戦う悲惨な結果と成ってしまったのである。結果として秀郷一門の蒲生氏は陸奥と伊勢の「一門同士の戦い」を2度強いられたのである。
このために、進藤氏の跡目継承問題を始めとして結城白河氏の秀郷一門の子孫を潰してしまい多く遺せる状況では無かった。「時代の変化」に翻弄され陸奥一門は滅亡したのである。
950年から1591年に及ぶ「時代の変化」の期間である。この史実が低いデータと成っている。

しかし、陸奥の血縁族の小山氏、花山(花房)氏、足利氏、武田氏、佐竹氏は、信濃、甲斐と、常陸では「関東屋形」と呼ばれるほどに勢力を伸ばし生き延びたのである。
只、足利幕府と鎌倉公方との戦いで鎌倉方に味方し「関東屋形」は「永享の乱」(1439)でこの下総結城氏、下総小山氏ともに一時、「結城合戦」で没落した。その後、「政勝」の代で盛り返す。
結城氏、小山氏、佐竹氏、宇都宮氏の4氏の「関東屋形」は反対に勢力高めたのがこの「時代の変化」の経緯である。この様に明暗を分けた陸奥と結城で血縁劇が起こったのである。
時代としては、恐らく「鎮守府将軍」から「西域に赴任地を変えた事」が「子孫繁栄」に大きな基点を作り出した事が「時代仕儀の変わり目」と成ったのである。

では何故、陸奥一門滅亡のきっかけの原因と成った「一門が戦略上で西域に移した決断」をしたのか疑問である。
この決断が滅亡を導く事は誰でもが判るに、あえて決断したのは秀郷宗家とその一門に何かこの大きな事件が起こったからであろう。

本文の史料を読むと理解されると考えるが、事前に少し背景を述べる。
そのキーは「阿多倍一門」の知識であろう。未だ把握していない方は多くのレポートで記述しているので参照されたし。これを説けばその決断した理由が浮かび上がる。
兎も角も、それは阿多倍の長男の坂上田村麻呂の朝廷軍の「征夷代将軍」と、藤原氏四家の最大勢力を誇った北家秀郷一門の「地方統治軍」(押領使)の違いにあろう。

(参考概容 後漢末帝献帝の子(石秋王)の子阿智使王とその子阿多倍は200万人の職能集団を引きつれ大化期に帰化、66国中32国を無戦支配し政治経済で桓武天皇の律令体制を完成、日本の第1次産業の基礎を築く、朝廷政治の6割を官僚支配する。桓武天皇の母で阿多倍の孫娘高野新笠、阿多倍は敏達天皇の曾孫芽淳王の娘と結婚し、准大臣を拝命、3児、伊勢伊賀と大隈半島の半国を割譲、桓武平氏の祖、九州の「遠の朝廷」歴史上只1家の「錦の御旗」を正式に与えられた氏と呼ばれる、大蔵氏の永代太宰大監、中国地方の支配者陶族大内氏、関西以西支配者の桓武平氏と坂上氏、九州支配の大蔵氏、出羽支配の内蔵氏、伊賀阿多倍の末裔の阿倍氏等の一門末裔末孫大きく、藤原氏の勢力をはるかに凌ぐ一門。阿倍氏は政権では藤原氏と均等する勢力を保持した)

当時は、この様に「3つの軍」に依って軍構成が成されていた。
もとより、青木氏の天皇を護る親衛隊の「近衛軍」後には北面武士と呼ばれた、朝廷の征夷代将軍の「国軍」、と各国を護る「地方統治軍」(押領使や大監や探題や鎮守府将軍)に分轄されていた。
(このシステムは室町末期まで実質的に維持された)
そして、この朝廷の「征夷代将軍」は坂上氏の通り後漢の帰化人の末裔が担う軍であった。況や、その坂上氏ら3氏の末裔の66国中「関西西域32国」を支配統治する「平家軍」である。
方や「関西以東域」に勢力を張る藤原秀郷一門の地方統治軍である。
(北九州の大蔵氏の太宰大監や九州探題、中国地方の陶氏も平家一門)
この「時代の変化」は室町期までその様に動いた。
この勢力分布から、秀郷一門等にとっては「生残り」の為にも必然的にシフトを変えるが戦略と成ろう。まして、この帰化人末裔の平家を含む阿多倍一門の坂上氏等の末裔は朝廷の実権の3つ中2つまで(6割)握り、且つ、官僚の6割までを阿多倍一門を占める状況となり勢力を高めた。
更に、ここに坂上氏の親族の内蔵氏血縁族一門がこの北陸道と東山道に浸透しその実権も握り始めた。
鎮守府将軍としてアテルイ一族をほぼ鎮圧した形と成ったが、別の阿多倍の平家一門を含む大勢力が既に北陸道7国まで主に内蔵氏と阿倍氏が浸透してきたのである。
32/66国の関西以西勢力圏域だけでは無い。
これ等の勢力に依って秀郷一門は戦略的に「挟み撃ちの形」に填ったのである。
この時の勢力圏の陣形を纏めてみる。

言葉を整理する為に、次ぎの表現とする。
平家一門を含む後漢帰化人の首魁阿多倍の末孫一門を阿多倍一門と呼称する
坂上氏一族、大蔵氏一族、内蔵氏一族、阿倍氏一族、技能集団の首魁陶氏一族とその末裔の大内氏、そして、平氏(たいら族)一族等。
(内蔵氏や阿倍氏の末裔子孫の詳細は別に記述する。)
(秀郷一門(主要5氏)利仁一門は既に本文に記述)

陣形
A 関西以西勢力圏を阿多倍一門が保持 
B 中部関東以東の秀郷一門の勢力圏を保持
C 北陸道は秀郷一門に阿多倍一門の内蔵氏と阿倍氏が侵蝕進出。
D 北陸道を秀郷一門から利仁一門と進藤氏に任す。
E 中部地方以西域に秀郷一門進出 
F 関西以西の阿多倍勢力圏を四国地方の讃岐籐氏等の秀郷勢力圏が中国地方の沿岸域を侵蝕進出
G 九州北部地方の阿多倍一門の大蔵氏勢力圏に秀郷一門の永嶋氏(青木氏、長谷川氏)が侵蝕進出

陣形の動静
この2つの陣形の本拠地 阿多倍一門のA、秀郷一門のBは勢力圏安泰
本来Cが秀郷一門の勢力圏域に阿多倍一門の内蔵氏と阿倍氏が末裔を広げて侵蝕して進出。
本来Dが阿多倍一門の勢力圏域に秀郷一門の永嶋氏と青木氏と長谷川氏が末裔を広げて侵蝕して進出

CとFで互いの末端勢力圏が侵蝕される「氏存続の戦い」となった。
この様に、互いに侵蝕しあっていた。しかし、ここに愕然と勢力の違いがある。
それは、支配国数から 阿多倍一門>秀郷一門*2 式に成る。
この数式から、明らかに秀郷一門は領国を護るために陸奥を捨て中部関西東部域にシフトを余儀なくされたのである。この中心と成ったのが勿論護衛軍の青木氏であり主要5氏に号令を出して統治したのである。

この侵蝕CFの結果、次ぎの事が起こった。
A 北陸道の陸奥出羽から秀郷一門手を引く。後を進藤氏と利仁一門に任す
B 阿多倍一門は秀郷一門の背後に北陸に二つの氏の基点を置き血縁子孫を増やす
C 阿多倍一門は近江滋賀に坂上氏、伊勢伊賀地方に阿多倍末孫が進出する。
D 秀郷一門は、阿多倍一門の北進を食止めるべくCの力をEに振り向ける
E 秀郷一門は、関東以北の勢力圏を関東以西に方針転換する。
F 阿多倍一門は秀郷一門の本拠地の関東勢力圏の北側の背後を突く。(内蔵氏、阿倍氏)
G 阿多倍一門は秀郷一門の陸奥出羽の北端勢力圏域を侵蝕する。
H 逆に秀郷一門は阿多倍一門の関西以西勢力圏の本拠地を四国の秀郷一門の勢力を以って瀬戸内沿岸域を突く。

つまり、「時代の変化」に対する動静は次ぎの様に成る。
1 末端勢力圏を両者が突く。
2 中央域では北進西進で衝突。
3 両者はその本拠地を側面から突き合う。
この勢力の3つ動静の陣形が出来上がったのである。

藤原秀郷一門と阿多倍一門の2つの陣営の勢力争いはこの様な形で動いた。
しかし、これには未だもう一つの勢力が考察されていない。
阿多倍一門から観た動静だけでは無く、秀郷一門から観た動静では無く、又両者二つから観た動静では無く、これにもう一つの勢力が考察されて加えられて真実の動きのある史実通説が生まれるべきである。しかし、現実の現在の通説はこの一方からが多い。それは、その3者の全ての血縁から含むあらゆる史実を掴まなくては出来ない。しかし、阿多倍一門の事や藤原秀郷一門の事にしても研究発掘の史料は殆ど無いのが現実である。
幸い青木一族に関する史料と関連氏(秀郷一門と阿多倍一門含む)のは何とか網羅できる程度に保有した。依ってより正しい史料が出来ていると考える。

さて、そこで、もう一つの勢力である。
当然、近畿域圏を勢力範囲として持っている氏は、主に3氏である。
既にお気づきと思うが、第6位皇子より発祥した皇族賜姓青木氏5代5家5流と、同族賜姓源氏11代4家である。16代の皇族賜姓族である。これ等の末裔末孫である。
そして、天智天皇第7位皇子の賜姓族の佐々木氏、宇多天皇の第6位皇子の賜姓滋賀佐々木氏である。つまり、皇族賜姓族3氏である。
この他に、清和源氏配流末孫大島氏と嵯峨期の皇族青木氏3氏であるが、史実上勢力圏を云々する程の氏力(子孫繁栄)を保持しなかったのでここでは除外する。

即ち、上記の勢力式 阿多倍一門>秀郷一門*2の2を補う勢力と成った氏である。
この結果、勢力式はまだ 阿多倍一門-0.5=>秀郷一門 式に成った。

この阿多倍一門と藤原秀郷一門の2大勢力と、上記3つの皇族賜姓族3氏の1勢力との考察が加えられて始めて「正しい動きのある史実」が観得て来るだろう。
既にこの皇族賜姓族の詳細はレポートされているので参照されたい。

先ずそこで、この皇族賜姓族3氏の勢力が上2つの勢力図にどのような変化を与えるであろうか。如何お考えか。

さて、この勢力圏は言わずもがな、当然、天智天皇からの親衛隊を担う近畿圏の中央である。
皇族賜姓族3氏は賜姓青木氏は5国(伊勢近江を含む東山道中部)を勢力圏としている。
源氏は当然、畿内5国である。実質は清和源氏が支配する。
(11代の源氏の中、嵯峨、村上、宇多源氏が一時勢力保持するが後に消える)
佐々木氏は近江滋賀を2勢力圏とし清和源氏の畿内5国と協調する。平家との軋轢で北陸道に移る。

この近江伊勢2国と東山道中部3国の5国と、畿内5国が勢力圏と成る。
以上を、「皇族賜姓族3氏10国」と呼称する。
この地域は阿多倍一門と藤原一門の勢力圏外である。明らかにポケットに成っている。
「皇族賜姓族3氏10国」には子孫は拡大していない。
これは大化期よりの詔「不入不倫の権」の保持による原因と観られる。
当然、この「皇族賜姓族3氏」(10国)藤原秀郷一門との血縁族と成っている。

平安末期
「阿多倍一門」(32)><「藤原秀郷一門」(24)+「皇族賜姓族3氏」(10)の構図と成る。
上記の説明による勢力圏のこの陣形は平安末期まで続く。

陣形
末端勢力圏を両者が突く。
中央域では北進西進で衝突。
両者はその本拠地を側面から突き合う。

鎌倉期に入り、次ぎの様な陣形と成る。
1185年に平家が滅亡する。中央域の「皇族賜姓族3氏」(10)は安泰と成る。
頼朝は「平家没官僚」策を実施する。関東域の平家領地は秀郷一門に本領5国安堵される。
源氏と藤原氏への2度の「本領安堵策」を実行する。阿多倍一門は中国9国を失う。
北九州の大蔵氏の支配は元寇の役で崩れる。阿多倍一門九州5国を失う
北九州3国を藤原秀郷一門が支配する。
大蔵氏と永嶋氏は血縁する。阿多倍一門と秀郷一門の末端勢力は共に崩れ始める。

鎌倉期
各時代の全国の大名の家紋から観た氏系列と土地の血縁豪族数から計算

一門の末裔実効勢力の陣形
「阿多倍一門」(13)<「藤原秀郷一門」(17)+「皇族賜姓族3氏」(10)

室町期
「阿多倍一門」(13)<「藤原秀郷一門」(19)+「皇族賜姓族3氏」(3)

安土桃山期
「阿多倍一門」(4)<「藤原秀郷一門」(9)+「皇族賜姓族3氏」(1)

江戸期
「阿多倍一門」(3)<「藤原秀郷一門」(7)+「皇族賜姓族3氏」(0)


関東地方103を領国として、中部地方180はその主勢力を西に進めて「西固め」していた事が判る。最大の勢力圏を示している。
当然であろう。上記の勢力分布を示している以上は当然にこの域を先ず固めることが必要である。
関東が20%で固め、出先の勢力圏の中部地方は34%で最も勢力を割いている。
秀吉に依って全国を完全に軍事統治出来た中でも、関東と中部は陸奥の様な衰退は起こっていない。
室町期、安土桃山期のそれは「転封」と云う形で行われても、既に各地に分布する一門を率いて新興勢力の上級武士として仕官する体制に成っていた事により末裔を減らす事無くむしろ増やせる状況にあったからである。むしろ、新興勢力は藤原一門を挙って家臣の上位に据え、その勢力を根こそぎ集めて自らの勢力の安泰を図ったのである。
徳川氏はそれを行ったその最たる氏ではないか。
甲斐の諏訪族を中心とする武田軍や東国の藤原秀郷一門をごそりと雇いいれたから秀吉は関東にその勢力を強く伸ばせなかった事だし、江戸に追い遣ったのもこの事からである。
私は、秀吉はこれが判断の失敗したと観ている。
中部から関東に掛けての勢力を持つ藤原一門の根拠地である。信長も決して手が出せなかった地域である。それだけ主要5氏の一門で固めた大きな地に根づいた勢力を保持していたのである。
北陸東北中部関東地域を観ると60%である。これだけ60%で主要5氏で固めた氏を最早「氏家制度」の中では余程失敗しなければ潰されないだろう。まして、陸奥では失敗している。
秀郷流進藤氏では跡目の問題を持っていた進藤氏では維持出来ない事から利仁流進藤氏の血縁で固め様とした策を労したが時代では追い切れ無った事を提示する。
その後もこの関東以北は大きく犯されなかった事が勢力を温存する原因に成っている。
それが、新興勢力に入り勢力維持が出来子孫を遺せたものであろう。
一門の6割を使って生残れたのである。

近畿関西地方は88と16.5%と割いているのはもとより北家の地元からであり、皇族賜姓青木氏との連携もあっての事でもある。四国を除き姓の「藤」の字の着く一門の西限が紀伊半島の伊藤氏を始めとして以東地域である事も物語る。
後は、中国地方は四国地方との連携に依って勢力圏が起こっているのである。単独ではない。
藤原秀郷一門が中国地方に赴任して血縁を拡げたのは3国で周防3代と美作1代と安芸1代である。
この地は陶族を始めとする室町末期まで最大勢力として第1の平家末裔一門の統治地域であった。にも関わらず、血縁を遺せない筈であるのに主要5氏の幾つかの氏を出している。
これは一体何故なのか疑問がまたもや湧く。
その答えは二つ挙げられる。
瀬戸内を中心として「2足の草鞋策」を採った「讃岐籐氏」がこの海を廻船問屋として支配し続け抑えていた事である。
そして、平家末裔の水上水軍と渡り合いながら、この経済力を背景に中国地方に神紋寺紋の連合集集団を形成していた事による。

四国討伐は秀吉も手を焼いたが深追いはしなかった。地元から這い上がった四国を支配していた藤氏秀郷一門長宗我部氏に土佐の国を与えて最終統治した位である。
もし最終まで長期戦で戦ったとしたら一門の動きでは時代はどう変わる判らない「経済力と武力」を持っていたのである。
もし、長期戦となれば、私は秀吉は負けたと観ている。
最大の敵の藤原一門を家臣に抱えた徳川氏が動くからである。又、四国全土に長期戦を行える「氏力」を持っていたからである。「讃岐籐氏」の青木氏を中心として瀬戸内の勢力を動く事に成れば秀吉とは同じ「経済力」を背景とするから戦いの実力の差はないので互角に戦える。
あるとすると、動向に依って利点とする場合は「徳川氏の動向」であり、弱点とする場合は「単独攻撃戦」であろう。秀郷一門の「絆」がこの弱点を補っている。
とすると、秀吉には不利と成る。その不利を招くのは長期戦である。秀吉もこの同じ考えに成っていた筈である。だから秀郷一門を潰さない形から勝利とする形式上ものとして処理したのである。
両者それを納得して軍師の条件を呑んだ。だから四国は生き延びたのである。

この二つの結果から、阿波の片喰族と剣片喰族、讃岐の青木氏、土佐の青木氏、愛媛の藤氏が海向こうに血縁族を広げて瀬戸内の水際に勢力圏を張った。この勢力は史料から昭和初期まで勢力が維持されていたと言われるくらいである。
多く青木氏が中国地方瀬戸内に多いのはこの事から来ている。
四国の7.8%と中国の10.66%と合わせると19%程度である。
秀郷一門の2割の勢力をこの一点に絞って集められていたのである。
中国地方の10.6%の数字が大きい。
3国の赴任地であるにしては。これはこの結果から来るのである。
四国の勢力からすると7.8%も低いのも2つの同じ結果ら来る原因である。
その勢力は山陽地方57まで届いていた事が判る。山陰は殆ど届いていない。
四国42と瀬戸内を武力と経済力で抑えていた「讃岐籐氏」の青木氏の支配下にあり固い地盤である。当然、平安期からの赴任地でもあり歴史的地盤もある。5氏の共通血縁族主要8氏の主力で領国から来た片喰族、剣片喰族の土地柄である。最も青木氏の強い勢力圏である。最終、秀吉に依って潰されたが、長曾我部氏末裔一門の土地柄である。

特長あるのは、九州地方37は北九州の4地方であり、「飛び地勢力圏」で赴任地の影響でもあるが、この4地方の豪族が関東に移動し、秀郷一門と血縁を広げた九曜紋族の末裔の紹介で拡がったものでもある。
北九州と西中国に分布する巴紋族と、下総上総等に分布するその末裔の秀郷一門の佐野氏、結城氏、小山氏の巴紋族から出た永嶋氏と、長沼氏の関係も働き、更に、近江の長谷川氏の支流族の「釘抜き紋」の移動末裔の北九州族もあり、この勢力圏から外れた土地に青木氏の「縁者血縁紹介」でこれだけの勢力を築いたのである。
北九州3国赴任地の肥後、豊前、豊後には秀郷流青木村を形成するくらいに定住している。
あわせて、大蔵氏の永嶋氏の存在もあり、約7%の勢力築いていた事に成る。
この形の勢力圏を保持して現在の末裔子孫を維持したのである。
子孫存続のあり得る条件が「時代の変化」に秀郷一門が一部では潰されたが、相対的にマッチングしていた事を意味するが、「氏家制度」の中で、青木氏の主導があったからこそあり得たのである。
この様に史実に基づく「時代の変化」と「秀郷一門の血縁族」の研究とを比較するとその「生き様」を観得て来るのがおもしろい。これが「動き」のある「真実の史実」ではないかと思える。

この様に本節本文を含み検証すると「通説の史実」と違うものが出て来る。それがおもしろいのではないか。
上記の結果の主要5氏の勢力内訳は次ぎの通りである。

B 個別綜合(地方別の詳細は下記参照)
青木氏       永嶋氏      長沼氏      長谷川氏      進藤氏
東北地方 3   東北地方 3  東北地方 3   東北地方 3    東北地方 2 
北陸地方 2 北陸地方 2 北陸地方 1 北陸地方 7    北陸地方 1
関東地方 33  関東地方 8  関東地方 25  関東地方 23   関東地方 14
中部地方 60  中部地方 16 中部地方 22  中部地方 66   中部地方 16
近畿地方 27 近畿地方 12  近畿地方 14 近畿地方 26   近畿地方 9
中国地方 18 中国地方 2   中国地方 11 中国地方 17 中国地方 9
中国地方 0 中国地方 0 中国地方 0 中国地方 3 中国地方 0
四国地方 15  四国地方 2    四国地方 3   四国地方 15  四国地方 7
九州地方 14 九州地方 3  九州地方 1  九州地方 14 九州地方 5

主要5氏の地方別の分布を分析したものである。
上記の史料8での役割もこの史料でも確認出来る。
関東の入間を中心に神奈川横浜を半径に「青木氏116氏」の本家筋を螺旋状に置き護衛をし、武蔵下野に領国しながら、「青木氏」は中部地方を中心にピラミッド型の血縁族を築いていた。
四国、九州地方は上記の綜合で記述した通りの特長である。それだけに他の主要4氏とは血縁力が高い。
この「青木氏116氏」とほぼ同じ血縁力分布を示しているのは、矢張り殆ど同じ「氏力」111氏を持つ「長谷川氏」である。兼光流と文行流の主力領袖の所以である。
丁度、「青木氏」と「長谷川氏」のその中間の血縁力の分布とレベルを示すを示すのは、長沼氏58である。やや関東よりの分布である。
これは史料8/10-2の長沼氏の地元を固める「政治的役割」を明確に示すデータである。
武蔵7党の「西党」を統括して地域の地侍の集団をまとめていたとすることを証明するデータでもある。
ここには、秀郷一門の神紋寺紋の氏子檀家の連合集団体と相まって大きな秀郷一門の「血縁戦略」が観えて来る。
血縁族を只羅列しただけではなく、この様に血縁をし、それを「組織化」してその「血縁の力」を最大に発揮出来る体勢も採っていたのである。
同じく関東地方には「武蔵7党」、
中部地方には「伊川津7党」等の「地方豪族の連合体」
史料8の広域的な「氏子檀家の連合集団」との血縁族にて固められ、尚、本筋の「主要共通血縁族8氏」とがある。
主に組織的にはこの「3つの集団」で守られていた事に成る。

永嶋氏35は長沼氏48と違い中間の血縁力の分布を示すが、やや関西よりに分布である。
青木氏と長谷川氏、長沼氏と永嶋氏とは対照的な特長に「戦略上の違い」がはっきりと出ている。
そこで、進藤氏52は中部に主力を置きながらもやや関東よりであり、永嶋氏と同じレベルの逆に成っている。
5氏の関係が不思議なほど戦略的に理屈が分けられている。「第2の宗家」の青木氏の「恣意的戦略」が働いているとしか観えない。
このデータは色々な分析に使用できる。本文の考察を証明する最大の史料ものであろう。
その内訳の内容は下記のデータを参照。



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