青木氏氏 研究室
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  [No.222] 青木氏ステイタス お仏像様 1
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/02/11(Wed) 08:27:01
青木氏ステイタス お仏像様 1 (画像サイズ: 936×1519 470kB)

青木氏ステイタス お仏像様 1
副管理人さん 2007/06/24 (日) 09:31

青木氏ステイタスの仏像
(写真添付)
この仏像の由来は、「青木氏 綜紋 笹竜胆紋」のところでその概ねの由来を書いた。
(詳細は、「青木氏 綜紋 笹竜胆紋」を参照)

そもそも、この仏像は、大化改新の改革の一つとして、天智天皇(中大兄皇子)が、第6位皇子を臣下させる際に、皇族賜姓族の伊勢青木氏の「ステイタス」として、与えたものである。
(1200年頃の「鎌倉新仏教」としての仏教像形式とは異なる)
このステイタスの仏像は、「大日如来坐像」(大日像)で、台座を入れると背高約70センチ位で、横幅は60センチ程度の仏像で、材質は高級材の紫檀で出来ている。
台座には見事な彫刻が施されていて、全体は磨かれて茶褐色で艶のある黒光りをしている。如何にも年代ものである印象と威厳を感じる。それを言葉にするのは難しいが、敢えて何とか表現すると次の様になる。

国宝としての扱いは敢えて申請していないが、今までの見知る範囲の国宝仏像より決して見劣りはしないし、より優れている。大きさに於いても見劣りはしないし、総体的な美しさは、我が「大日如来坐像」の方が優れている感がする。
国宝級仏像を見ても、”あー古い仏像か”の印象しか残っていないが、「お仏像様」は、見た瞬間、いつも何か圧倒され萎縮するものを感じるのである。青木氏のステイタスであるからかもしれないが、自然と頭が下がる思いがしてならないのである。直感的に言葉に表現できない”何かある”と脳に直撃するショックみたいなものを感じるのである。
そのショックは、目と目の間に火の玉が直撃して頭が少し後ろに倒れる衝撃感である。

この仏像は、伊勢の総宗本家の青木氏が、大化期から代々所有して、別地で平成10年10月15日まで代理宗家(子孫は絶える)で祭祀されていたが、その後、遠路移動して、基本家での保存の安全を考えて、ある適切な所で保存し時事適切な供養をする事にしたのである。
この様に人に与える印象でも左様に、矢張りご先祖様も同じであった様である。
だから、ただ、この仏像には、色々と口伝による代々「言い伝え」がある事がそれを物語っている。

その事について、筆者なりに考えることが有るので、上記のレポート(「青木氏 綜紋 笹竜胆紋」)から進めて、この「お仏像様」に対する特別な詳細を全国の皇族賜姓青木氏の方々と、母方を藤原氏で繋がる同族とされる藤原秀郷流青木氏に、お知らせしておきたいとしてここにレポートする。

というのも、青木氏に方には、この「お仏像様」のステイタスとしての存在をご存知無かったと思われる。
この仏像は、著名(司馬遼太郎氏や黒岩重五氏等の)な歴史家でなければその存在は余り知られていないからだ。

実は、代々、我が家には、この仏像を”世に晒す事ならず”の厳しい言い伝えがあり、現在まで明らかにしていなかった。
この言い伝えの根拠は、仏像は、”お仏像様”と呼ばれていて、1360年の歴史を経て、最早、”お仏像様”では無く、大化期からの「人括りにした先祖」としての「人」を意味している。
ことの尊厳を考えての「戒め」の言い伝えがあり、”人を世に晒す事”の行為を誡めてたのである。

別の意味として、皇族賜姓の「伊勢青木氏」だけの「ステイタス」と考えるのではなく、下記に示す全体の青木氏ステイタスとしての配慮もあったのであろう。

まして、この種の大変な歴史的価値のあるステイタス等を所有する何処の宗家の氏でも、通常は、”その持ち主は世に晒す事はしない”のが慣例であると聞いている。
これは、矢張り、青木氏の「戒めの考え」と同じ考え方であると言う事であろう。

世に晒されているものは、”殆ど欺瞞で、室町期、江戸期、明治期の氏の混乱期の偽行為の発露のものである”と成っているからである。青木氏等の氏名の「搾取偏纂の行為」(第3青木氏)と同じものと見られるものを出しているだけである。

実はこの種の話には、下記に示す危険が伴っているのである。
現に、知り聞いている範囲として、祖父、父の間には、何度も各界から手を変え品を変えての話があったと聞いている。
この話の殆ど、否、全部が言葉巧みであるが、腹の奥にある種の悪意の目的があっての話である。
この様な話は”耳がたこ”になるほど聞いている。

例えば、有名な歴史家が、大化期の歴史調査の為に伊勢の青木氏を調べ上げて、我家に辿り着いた。そこで、史実よりその仏像の存在を確認して、それをある種の対談の中で、匿名で間接的にその存在を発言しされたが、その対談をある歴史写真グラビヤで一部の話が掲載された。(掲載には問題はない)
そのことを読み聞きつけた学者関係者や書籍企業関係の者と思われる者等が、調べ上げて「世に出す事」をいかにも大儀明文かの様に話を持ち込んできた事があった。当然断わった。

ある時は、同じ大化期の祖先をもつ近江佐々木氏の宗家末裔の超有名大学の名誉教授の学者の方が、皇族賜姓佐々木氏と共に、皇族賜姓青木氏とこの仏像のことの研究論文を載せた不売品の書籍を出した。
そうすると直ぐに、この種の関係者が押し寄せて来た。

又、知り合いの旧家でも、かなりの価値のある宝物があった、これを調べてきた専門家の正真正銘の女性大學教授がやって来た。そして、その言葉と身分を信用して、この者にある種の史料を借用書共に提供して貸し出した。
しかし、待ってもかえって来なかった。大學に何度も電話したが、その都度、”もう少し”の答えであった。
次の電話ではもう転勤して居なかった。追求したが行方はつかめず、結局は、数年後にある歴史写真書籍に出ていて、京都の古物商の所有に成っていた。この様な話は幾つも聞いている。

更に、この様なことが地元でもあった。
つい最近に、地元の方の伝来の宝物を調べ上げて、近くの公的博物館から研究と展示話しが持ち込まれて貸し出した。帰ってこないので役所に異議を申し立てた。個人的に館長がやった行為なので知らないと突き放された。その館長に問いただしたが”のらりくらり”で埒があかない。結局、挙句の果てには、そんなものは借用した覚えはないとの事で、ツッパリである。裁判しても費用が嵩むだけで得策ではないと諦めた。この様に、全く同じ事が起った事を聞いている。
この様なことを請け負う暴力的背景を持つ悪質シンジケートがあると聞いている。

事程左様に、根拠が長くなったが、「世に出す事」の意味と意義は、現代に於いては大したものは存在しないのである。むしろ危険が伴う事を意味しているのである。

しかし、現代のこのインターネットの時代では、写真転送という情報伝達手段がある。この手段を使って、全国の青木氏の方々にそれを伝えても、実物を晒すのではなく写真という手段で伝達する分には、厳しい言い伝えに反する事では無いと考えて、敢えて、その存在場所を伏せて公表する事に今回踏み切った。

つまり、この青木氏の歴史的史実の情報伝達をして、現在にその薄らぐ史実を遺す事が、このHPの本来の目的であるからである。最早、私はその正しい史実のその時間的余裕と、進化する社会情勢では無いと見ている。

さて、そこで、本論に入る。

この仏像は、日本最初の仏師の「鞍作部止利」の作である。
仏師の「鞍作部止利」は、渡来人の「司馬達等」の孫と言われている。

そこで、この「司馬達等」とは、どの様な人物なのかである。これには大変な意味を持っている。
後漢の「阿多倍」が引き連れてきた初期に上陸した技能集団で、且つ帰化した渡来人であり、「鞍作部の始祖」と言われている人物である。又、日本の「彫刻の祖」とも言われている。
そして、彼は、正式な仏教伝来期よりやや以前に、大和国高市郡坂田原(天智天皇の高市皇子の里)で草堂を営み、仏像等を彫っていたが、この時に既に仏教を信心していたと言われている。彼の配下の者達や周囲の者も影響を受けていたのである。つまり、日本に最初に「仏教の私伝」を成し遂げた人物なのである。このことは余り知られていない。
彼の生まれ故郷は、後漢の国の北東部(高句麗)といわれている。(現在の北朝鮮の遼東半島やや西に位置する所)

司馬氏(馬具)は、秦氏(機械染色)や漢氏(軍事)と同じく同時期の初期の渡来人である。
この渡来人であった3氏等の頃は、一箇所に集中して生活して、その技能を磨き大和の民にその技能を広めていた。

この司馬氏は、馬具の鞍等を作る職人であったが、「司馬達等」は仏教を信心していた事から、同時にその技能を生かして仏像を彫っていたと見られ、その末裔(孫)の「鞍作部止利」は祖父に鍛えられて「仏師」となったと考えられる。

ここで、お気づきと思うが、実は、上記に書いたその著名な歴史小説家の一人とは、司馬遼太郎氏の事であり、彼が伊勢の青木氏を探し尋ねて、何故その仏像の行方を調べていたかの理由がお判りと思う。

司馬遼太郎氏のご先祖の「司馬達等」や孫の「鞍作部止利」等が残した仏像を、伊勢青木氏が所有している事の史実に基づいて、伊勢を訪ねて伊勢青木氏の宗家を探し当てたと言うことであろう。
そして、その「お仏像様」を探し当てたと言うことであろう。
その時の内容を対談の中に個人情報を匿名で話されたのであり、青木氏では、それの内容が漏れて上記の結果となったと見ている。(この様な似た事が3度あり、都度断わった。)

では、”何故、長い間この仏像の存在を世間に公表しなかったか”の理由は、この様な事があったからである。

その事に付いての前置きはこの位で、この「お仏像様」の事について述べるとする。
そこで先ず、「鞍作部止利」の代表的作品として、法隆寺金堂釈迦三尊像、飛鳥寺釈迦如来像などの「北魏方式」の仏像彫刻などを多く手掛けた。

念のために、「北魏方式」とは、中国南北朝の北魏の彫刻方式の影響を受けたもので、その特長は次の通りである。
1「杏仁形の目」と、2「仰月形の唇」と、3「左右対称の幾何学的衣文」等の「3つの判別特長」を持っているのである。

大化改新のNHK新説の反論の8でレポートした様に、多分、中国後漢から馬具等を作っていた「司馬達等」氏らにより持ち込まれ伝わった技法であろう。それを受け継ぎ研究して「鞍作部止利」が完成した技法である。

青木氏のステイタスの「大日如来坐像」は、確かに上記のこの3つの技法様式を保持している事は確かである。

「鞍作部止利」が入念して彫り上げたこの仏像だけに「不思議な力を宿す懐」が備わっているのである。

「お仏像様」の神通力
この「お仏像様」には、不思議な力というか、気迫というか、魔力というか、神通力というか持っている。

この事に付いて述べる。
皇族賜姓青木氏は1360年の長い歴史を持っている。この間には、一族の危機存亡の事件が起こっている。
おおよそ、大きなものとして十数件が起こっている事が解る。
危機存亡の事件にこの「お仏像様」が大きく関わっているのである。

そこで、この「危機存亡の事件」を検証して見る。

皇族賜姓伊勢の青木氏が発祥した大化期(645-647)から光仁天皇の時期までは5家5流の甲斐青木氏までは、少なくとも大きな発展期で初期の「第1期皇親政治」の基礎を築いた。
(皇親政治は、第2期の桓武嵯峨期、第3期の醍醐期の3期ある)
ここまでは問題が無い。
しかし、その変化としては次のことが起こった。

「軍事的影響」
この時、、今までになかった制度であったので、青木氏は、その天皇家の皇子の親衛隊としての新しい軍事勢力となって行った。これが軍事的な発展であった。

「経済的影響」
今までは、天皇家の皇子として特別な役職と経済的な活動はなかった。むしろ、天皇家の経済的負担であった。
大化改新の改革の一つとして、5地方の守護王として配置され、そこで、その開発した土地から上がる租税等の経済的収益増が発生して、むしろ、今度は天皇家のプラスの経済的効果として発展した。

「政治的影響」
もとより、上記の様に、皇子が軍事、経済の2つの影響力を持ち、更に、5地方の青木氏の皇族集団が出来た。
それも主要国の国の守護王である。必然的に政治に対する発言力が増す。
「皇子と2権と集団と守護王」の4要件が揃えば、嫌でも政治に対して影響力が生まれるのは当然の事である。
周囲がそれを意識する事でもある。むしろその位置に押し上げられた。

しかし、律令国家の完成を仕上げた第2期皇親政治の「桓武天皇」の時期になると、この発展に付いて次の事が起こった。

第一番目は、先ず、政治に対しての影響力が「律令国家の完成」の障害とみなされた。
また、桓武天皇の母(高野新笠で、後漢の阿多倍の孫)の勲功一族を引き上げるに障害となった。
更に、軍事的支配を改善する目的から、阿多倍の長男の賜姓坂上氏をその中心に置く必要があった。
これらの事などで、青木氏に対しての圧力として、国司を藤原藤成に変更して実権を外された。 
親衛隊として大きな働きをしている青木氏に対して、政治の場から遠去けられた。

これらの為に、政治、経済、軍事の3面で弱体となり、第6位皇子の賜姓青木集団の第一番目の衰退期が訪れた。

第2番目には、桓武天皇の引き上げから始まったこれ等の伊勢北部伊賀地方の一族の時代が訪れた。
それは、阿多倍の末裔、たいら族の伊勢衆、国香より始まり5代後の平清盛まで32/66国を支配した「たいら族」である。
この時、衰退した青木氏に代わって、嵯峨天皇は止む無く皇族賜姓するとしても、青木氏を使えず、結局、この時から始まった同族の皇族賜姓の源氏一族と共に、次第に朝廷内を2分しての「承久平治の乱」が起こった。
一族を遺す為に源氏も内部分裂した。
その後に、青木氏と源氏にとって、再び、危機が訪れて朝廷から政治の場から外された。
分裂による軍事的弱体化が起こった。
経済的には赴任地を「たいら族」に奪われた。
以上の様に3権共に無くす完全な衰退が進んだ。

第3番目には、その後、ただ一人清和源氏宗家の頼光の末裔の源頼政が、朝廷内に三位(天皇と面会して会話が出来る身分)として生残り、力を蓄え遂には、「以仁王の乱」を起こした。
これがきっかけで源平合戦が起こり、鎌倉幕府が樹立した。
頼朝の2策(平氏没官僚と2度の本領安堵策)で源氏一族と青木氏は一時、息を吹き返した。
数年後に北条氏の反対を押し切った策の為に、北条氏により抹殺された結果、清和源氏の分家筋(頼信系)の頼朝一族が完全に滅亡して北条氏の天下と成った。
11代の源氏も完全に滅亡して再び衰退する。

しかし、この時から、政治と軍事の衰退は起こったが、今度は強力であった。

伊勢青木氏を始めとする青木氏一族は、「2足の草鞋策」を採り、その力と実績と軍事力を背景に「大商い」を営んだ。
衰退しながらも伊勢青木氏は、伊勢伊賀地方付近で取れる古代からの歴史ある「伊賀和紙」を扱う紙問屋(紙屋長兵衛)を営んで、経済的には自立し発展期を迎えた。
(参考 伊勢青木氏の系譜では明治までの血縁の相手は、小林氏、加納氏など殆ど2足の草鞋策を採っている家柄である)

この時期には、信濃と甲斐との間にも伊勢町と言う地名があるくらいに互いに青木氏の連携が起っている。信濃青木氏も同様に信濃で生産される古代からの歴史ある「信濃和紙」を扱っていた。
伊勢青木氏と信濃青木氏とは相互に商いの面でも連携を深めていた。

伊勢の豪商の紙問屋の「紙屋長兵衛」は、紙だけではなく大船3艘を保有し弾薬など武器なども扱っていた。
(この弾薬により明治35年に行灯の火が移り爆発、「伊勢松阪の大火」元となり賠償して倒産した。
玉城町の8割はこの蔵群であった。他にもセンセーションとはして有名な「忠臣蔵」の浅野家の城引渡しの際の財産処分に関わった等の10件程度の日本の歴史上の史実に記録として残されていて、伊勢青木氏と信濃青木氏の連携関係も「日本書紀の記述」を最初にして記録として出てくる )
この様に経済的な自立により、政治、軍事を動かすほどに成熟したのである。

第4番目には、源氏支流一門の足利氏の室町幕府の樹立で、伊勢北部伊賀地方を除く「本領安堵策」が再び実行されて、政治的にも軍事力的も保持して復興した。
この時は、室町文化の発展期で、紙問屋の伊勢の青木氏とそれと連携する5氏の賜姓青木氏は、以前の青木氏の力に較べて経済的には比較になら無いほどに力を付けて、政治、軍事を動かす程度の、否、それを凌ぐ力を付けていた。

しかし、ここで危機が訪れた。
室町期末期には下克上で織田信長らによる新興勢力が台頭し、信長の「三大伊勢攻め」が起こり、伊勢永嶋攻め(北畠氏)、天正の伊賀攻め(北条氏 平氏)、最後に秀吉による松阪攻め(青木氏)が起こり、伊勢青木氏は何れの戦いにも合力して軍事的、経済的に対抗したが、敗退して政治と軍事による力は完全に衰退低下した。

この3つの戦いの状況を「お仏像様」を理解する上で必要であるので詳しく記する。

「天正伊賀攻め」では、次の通りである。
軍事的には名張の青蓮寺城から伊勢青木宗家の青木民部尉信定が出て伊賀衆(北条氏 平氏)を助けた。
経済的には、一方では、伊勢青木氏の「二束の草鞋策」で別の顔を持つ紙屋長兵衛(青木長兵衛)が、材木や武器弾薬などの供給をブロックして、堺と松阪の2大店から他の豪商を指揮して長引かせる戦略を屈指して対抗した。
(名張の小太郎 伊賀の小次郎の歴史小説でも詳細な戦闘史実が明らかにされている)
戦いは長期戦になり、やっと出来た野戦城は、伊賀者と長兵衛のシンジケートに依って火薬で爆破されて火事で燃えるなどし、「二足の草鞋」の紙屋の青木長兵衛、即ち青木民部尉信定は側面から援護した。
再び、建設しようとすると、材木が不足して高騰し、城が建てられない所まで追い詰めた。
信長は激怒して息子の信雄と家来(滝川三郎兵衛一益)を無能者呼ばわりして排斥したことは有名である。

ここで、伊勢北部の分轄領の伊賀地方の事について述べて置く。
足利氏が執権北条氏を破ったときに、北条氏の執事をしていた者が足利氏の執事をしていたのである。
伊賀北部はこの者の支配下にあった。
この元北条氏執事は、北条氏に門前で拾われて育ち、その有能さから信頼されて執事となり政治の実権を握ったのである。この時、養子縁組で、北条氏から坂東八平氏の一つである「平(ひら)姓」を引き継いだ。
ひら姓は、この裏切りの執事に与えられた氏である。
しかし、日和見から足利氏に味方したのである。そして、足利氏の執事となったのである。
この為に、足利氏は、北条氏を倒して足利幕府を樹立する事が出来た。

本来では、伊勢北部伊賀地方は、本領安堵策で伊勢青木氏に安堵される筈であったが、この時、足利幕府は論功行賞でこの執事に、無理にこじつけてこの土地(阿多倍の末裔のたいら族 京平氏の土地)を与えたのである。

その理由は、この土地は、昔、伊勢の国を割譲して阿多倍に与え、その末裔の平国香と貞盛親子から5代続いた清盛の太政大臣になった伊勢衆(阿多倍の末裔 京平氏 たいら族)のものであった。それを坂東八平氏(ひら族 天皇家第7世族)の同じ姓の「平氏」を名乗ったこの北条氏執事で、後に、足利氏の執事に成った者に与えたのである。
しかし、伊勢青木氏はこれ等の元から居た伊賀衆の民を援護したのである。

「伊勢永嶋攻め」では、青蓮寺城と他2つの山城から青木氏は、客員軍司として北畠に合力した。
北畠氏と伊勢青木氏とは天皇家を通じて親交を暖めていた。
北畠氏は天皇家の官職は「学問所」であった。伊勢青木氏は親衛隊でもあり天皇家の官職は「軍略所」であった。

参考 日本書紀ではこの軍略所の伊勢青木氏の始祖(施基皇子)は、最も多く出て来る人物で、日本全国を飛び回り、紛争や施政執行のために働き18回にも登る。 天皇(天智天武)の相談役で代理執行人の役を果たしている。

この様な関係から深い親交があったので、皇族賜姓族としては、天皇家を無視する信長に対して、伊勢国を信長に侵される事には絶えられないことであった。故に合力した。
そこで、陰で紙屋長兵衛(伊勢青木氏 二束の草鞋策)は抵抗して、物資の供給などに障害を与えた。
特に、戦いには戦陣を構築する為には材木は必需品である。
当時は、材木は吉野、信濃、甲斐の産物でもある。伊勢の青木シンジケートは、これ等の土地の陰の勢力者で豪族5家青木氏と強調して、ブロックしたのである。
そこで秀吉は、止む無く吉野を押さえ、その材木を切り出した。しかし、吉野熊野付近は前期した様に「楠木政成」の時の伊勢シンジケートの南圏域範囲であった。これを指揮してゲリラ戦を実行したのである。

これを矢張りブロックした。しかし、信長の家来であった秀吉は、このことを熟知していて察知していた。
そこで秀吉は材木を自らの兵を使って山から切り出して谷川から麓に流した。
山では伊勢のシンジケートのゲリラ戦が始まった。陣形を組む事ができなければ攻め側としては裸同然で負ける。
苦労の末に、軍事と経済的な大負担を強いられた挙句の果てに、時間が掛かったが、秀吉は、それを使ってなんとか陣形を組んだ事は有名な史実である。
伊勢青木氏の合力(客員軍司)に拘らず4代続いた北畠氏は負けて、信長の徹底した戦後処理で北畠氏の子孫は滅亡する。

しかし、一方では、信長の「天下布武」の戦いで、逆に、経済的には紙屋長兵衛を始めとする青木一族による大商いは「戦時景気効果」でむしろ更に拡大し力を得たのである。

「伊勢松阪攻め」では、軍事と経済を挙げての秀吉との伊勢青木氏、即ち紙屋長兵衛との戦いであった。
この時、この戦いを任されたのは、秀吉、家康などから天下の名将と称された「蒲生氏郷」であつた。
何故に秀吉は、この蒲生氏郷を差し向けたのかは解る。
軍事的には伊賀、永嶋は最早、敗戦で力が無く青木氏に対して合力はない。
しかし、問題は2つあった。
先ず、一つ目は、天下に対して、伊勢神宮の膝元の伊勢松阪(青木氏)を攻めることは、天智天皇の古来よりこの地に「不入不倫の権」が与えられていて、未来永劫犯してはならない掟があり、これを犯す事は全国の民の賛成が得られない。

次に二つ目は、堺と松阪に大店を構え、大大名をはるかに超える1100年を越える力のある大豪商の紙屋長兵衛を相手にすることである。

秀吉は経済に聡い人物であった。経済力が軍事を越えるどれほどの力を持っているかを知っている。
この経済力の裏にはシンジケートが存在することは、過去に蜂須賀小六の子分時代に教えられて知っているので、信長に忠告したほどの秀吉であった。
現に、史実では10万の軍に3千で立ち向かって、このシンジケートで10万の軍を餓死に追い立てて勝った「楠木政成」の軍史を知っている。(伊勢シンジケートが動いた)
真に、経済的に全国を結んだその青木氏5地方の「伊勢のシンジケート」である。その大元の伊勢青木氏を相手にするのである。誰が考えても軍事的だけでは勝てる戦略ではない。
そこで、天下の歌人でもあり、天下の武将でもあり、歴戦の戦上手でもあり、同族の源氏の血筋を引く「蒲生氏郷」を当てたのである。
兎角、武力だけの戦いは小説やドラマで、軍事力でよく例えられているが、決してそうではない。
軍事力は最後の手段である。信長と違い、秀吉はこのことを身をもって知っている。

彼の歴戦の中で、武力だけで我慢できずに戦い負けた史実がある。敢えてシンジケートを理解する上で紹介する。
陸奥地方の掃討作戦に対して、地元豪族が山城に3千で籠ったが、周囲の阿倍清水一族の残党シンジケートがこれを支えた。
この時の数万の豊臣の武将は、蒲生氏郷であった。小豪族を相手に長引く事は世間に対して秀吉の権威が低下する。
秀吉はシンジケートの強さと恐ろしさを知っているだけに焦った。シンジケートの為に軍事物資や食料水は押さえられて底をつく。秀吉は、絶えられなくなり氏郷に短期決戦の武力による無理押しを命じてしまった。
氏郷は攻めたが山から丸太、岩石、糞尿、あらとあらゆる物が雨のように落ちてくる。怪我人死人は続出する。何度も繰り返すがだめであり、相手は無傷である。大軍だけに食料は直ぐに底をつく。疲れと怪我人と餓死者が出る。志気と意気は最低となる。梅雨になる。これはどこかで聞いた話である。そうである。南北朝の時代の楠木政成と執権北条の鎌倉幕府10万との戦いの戦歴である。
(これが元で執権北条氏の鎌倉幕府は権威失墜で崩壊を始め足利氏が力を着ける)
まさしく、その様相を呈してきた。秀吉は遂に無理攻めを諦めた。

秀吉はこの身をもって知った学習から以後、2度と軍事力による無理押しの戦いはしなかった。
この後の最後の「天下統一の後北条氏の小田原攻め」は、「小田原評定」と言う有名な言葉がある様に、10万の軍隊を全く使わなかった。
大軍を動かせば動かすほどにこのシンジケートとの重要さは増してくる。それは当然である。
大軍事物資や食料や水は運ぶには限界があるし、ゲリラ戦で奪われるや潰される。現地調達しかない。それにはこのシンジケートの経済力を味方に入れないと基の食料が底をつき戦わずして負ける事となる。
大軍には反面この問題が付き従うのである。
つまり、補給路の確保は最大の戦いの前哨戦なのである。現地のシンジケートを味方に入れる事は最大の条件である。大軍であれば有る程この必然性は増す。
シンジケートの「武力」は大したことは無い。しかし、裏に潜む「経済力」と「陰の組織力」の恐ろしさである。それは地元に根づいた関連一族の何かに集中し、主にその一族のステイタスでの下に働く「横の関係」の強さである。

秀吉は、このことを今更ながらに知った。そして、その後の最後の仕上げのこの伊勢の戦いである。
ここでも、解るように、蒲生氏郷を差し向けた理由とその人的な深い配慮が見える。まして伊勢の国である。
民はこの伊勢に対する思い入れは普通ではない。「伊勢詣で」の言葉でも判る。

だから戦いは、実質は殆ど起こらなかったのである。伊勢を戦乱から残すことを前提に紙屋長兵衛の賜姓伊勢青木氏は、敗戦を前提として、一時、大店をそのままに青木氏は、名張から桑原の線上にある2つの山城から出て、新宮に軍を引いたのである。
これで、蒲生氏郷は立場が立ち、源氏一族として伊勢を残す事が出来、秀吉の政治的立場が保たれたのである。
問題は、伊勢青木氏の立場である。そこで、さすが蒲生氏郷である。
伊勢青木氏を一年後に伊勢松阪に呼び戻し、紙屋長兵衛の大店を含む「本領安堵」の策を採ったのである。

この時、ただ一つ蒲生氏郷は禁令を破った事があった。
それは、松阪に有史来初めて「不入不倫の権」を破って松阪城を築いたのである。しかし、氏郷は優れている。この城は軍事中心の城ではなく、経済、政治を中心とする所謂政庁であった。
その証拠に、町を編み目状に企画し、政庁中心には周囲に西10町、東9町の屋敷町を区画して、ここに政治に関わる上位の家来と町の経済の中心と成る大店を集めて、楽市楽座の制を敷いた。(信長も岐阜で同じ事を実行した 見習ったのではないか。)
当時では、ヨーロッパの経済方式を採用した全く新しいシステムである。秀吉も信長のときにこの方式は賛成している。
後に、豪商として多くの伊勢の「松阪商人」を育て有名を馳せたのはこの原因による。
この時、伊勢青木氏の紙屋長兵衛は2区画与えられ、難波の堺には依然として大店を構えて、尚且つ、松阪の隣りの玉城町の8割を蔵群として権利を与えられた。
(この状態は明治35年まで続く。)

ここで、この3つの戦いで負けて離散した筈の伊賀衆一族や北畠氏の縁者一族や伊勢青木氏一族は結果として離散していない。江戸時代では再び末裔は忍者の伊賀者の様に同地域で活動している。
これは何なのか。当然にこれを支える大きな力が働いているのである。
青木長兵衛即ち、紙屋長兵衛の伊勢シンジケートが、一つのステイタスの下でこころの拠り所として、共感共鳴して集中して結束した結果によるのであった。
普通は戦時の常識として親族縁者は殲滅するのが掟である。

この様に、1000年もの間に多くの危機から不思議にも青木氏は生き残ったのである。

その「不思議さ」は、この青木氏のステイタスの「お仏像様」の元に一丸となって結集する一族の「心の力」なのである。

この一族は、日本でも最も古く高位の氏である。ピラミッドの系譜からしても多くの関係一族が結集する。
更に、鎌倉幕府樹立で職を失ったとは言え、各地に依然として経済と軍事力で日本最大勢力を張る藤原北家一族と藤原秀郷一門と藤原秀郷流青木氏の軍団116氏が存在し、間違いなく藤原氏の母方血縁で味方する。

現に、この時代に信長に追われた皇族賜姓青木氏5家5流は、この藤原秀郷一門と藤原秀郷流青木氏に、四国の阿波、讃岐、土佐、伊予、中国の美作、安芸国、関東の武蔵、下野、常陸、駿河、下総などで保護されている。

この当時は、未だ、母方の藤原氏の系譜が、何処の賜姓青木氏の母方と血縁しているかと言う詳しい情報があり、そのことは「氏家制度を中心とする社会」では詳しく判っていたのではないかと考える。判っていなければ氏家を維持する事は出来なかったし、戦乱の中では実力を発揮して一族を護れる事は出来なかった。

現代でも、田舎に行くと、5親等以上くらいまでは親族や縁者と判っている。一般的には次第には薄らいできているが、当時では、氏家制度の中では、宗家や本家を忘れては生きて行けない。事ある毎に宗家や本家にお伺いを立てる事や、又護ってもらうなどの事が起こる。現代では悪く見られている傾向があるが、「氏家制度」とはそう云う親族が助け合う社会である。
少なくとも、7親等くらいは充分に判っていた筈であり、そのために家紋や系譜や菩提寺や氏神が重視され、親族血縁者が一つに結集する心の拠り所として、又、それを見分ける手段として存在するのである。

(余談 現在では核家族化して、これ等全てのものが無くなっている。ここに、日本人が、我を忘れた現在の病魔が存在すると見ている。全てを戻さないにしても、{日本的な結合}を取り戻す必要があると考える。単一融合民族の日本と米国とは社会構造が異なっている。)

だから、5親等程度の藤原秀郷方の東西各地の青木氏を頼ったのではと思われる。当然にこの時も、この全国に散らばる藤原秀郷一門のシンジケート網が彼らの逃亡を助けたのである。東西の逃避経路から見ると頷けるのである。
信長の勢力権域の末端でシンジケートの境を移動している。
そして、逃避はどの地域でも完全に成功し、史実は、後に土地の名手(郷士、郷氏、豪農、庄屋、名主)となって働いているのである。
ただ、当時の社会情勢では相当な力を持った盗賊、山賊、海賊は普通の事である。むしろ職業としていた。
逃げただけではこの様な成功実績は生まれない。どこかで彼らを統制する力が働いているからこそ可能なことである。
何も持たずに走って逃げるとは異なる。女子供一族を引き連れて食料を確保しながらの大集団の逃避行である。
現実に、彼らと戦う事は、土地に不慣れであるので不可能である。
この様な逃避行を現実に東西に出来ていることは、この保護援助してくれるシンジケートが存在するからである。

ここで、研究室でレポートしている様に、賜姓青木氏の5家5流の土地と、藤原秀郷流青木氏の各地の定住地を思い起こして頂きたい。全て、「主要路」で、「穀倉地」で、「要衝地」である。
この3つの意味する所は何なのかが疑問として湧くと思う。

そもそも、シンジケートが出来る「背景」として、又、「二束の草鞋」策を実行できるには、ある条件が成立しなければ成らない。それは次の条件である。

第一に、政治、経済、軍事の実権を握るその地の守護王か国司かそれに近い身分である事。
第二に、戦乱で各地の衰退したか滅亡し離散した一族とその統率者が存在する事。
第三に、それと連携出来る一族縁者の何らかな血縁関係を持つ守護王が多くの主要地に存在する事。
第四に、連絡網を構築できる力がある事。
第五に、心の拠り所が存在する事。

この事は、守護で有れば、土地の産物を「租庸調」の税で集めて民間に売り裁き、そして、それを護送し搬送する。これを日常業務としている。これを「二束の草鞋」で行えば直ぐにでも出来る。
「産物を集める」、「売りさばく」、「搬送する」には、当然に、これを保護して行く「軍事的武力」が必要であり、各地の権力者との「政治的繋がり」を持っていることも必要であり、これらをただでは出来ないのであるから、それらを裏打ちできる大経済力が必要である。この要件をに叶う者は守護か国司かでなくては出来ない。

一概に、「商人に成る」と言ってできることではない。
例えば簡単に「米屋」を営むとする。しかし、その米を仕入れてくる事、否売ってくれる所が無い。
米は統制されている。たとえ、横流しで入手しても、大量の米を山を越え海を渡りて安全に運ぶ事は、山賊、盗賊、海賊は当時では普通の事であるから、武力が無いから出来ない。まして、米は統制であり、役所の認可が下りなければ営めない。下りることなど普通の者にはない。
この「3つの力」が完全に備わっていなければならないのである。
「二束の草鞋」とは、その様な意味を持っている。社会の縮図でもある。


「青木氏ステイタス お仏像様 2」に続く。



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