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  [No.252] 秀吉に取り立てられた青木氏
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/05/29(Fri) 18:28:17

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秀吉に取り立てられた 青木氏
かんりにん [本物] 2003/04/26 (土) 19:03
青木氏には、清和源氏武田氏の一族で、甲斐国巨摩郡の青木村を発祥地とする青木氏、武蔵国入間郡青木村を発祥地とする丹党の青木氏、美濃国安八郡青木村を発祥地とする藤原姓青木氏などがあるが、この青木氏がそのどれにつながるのか、あるいは全く別な系統であるのか、よくわかっていない。

子孫の家に伝わる家系図によれば藤原北家利仁流とされ、その後裔青木持通が美濃大野に住んだことに始まるという。摂津麻田藩主の青木家の祖重直はあとに出る重矩の甥にあたるともいう。もっともこちらの青木氏は丹党青木氏の末とされているが。

史料上に名前が出てくるのは、青木右衛門佐重矩で、その子紀伊守に至って有名となる。紀伊守の名乗りは一矩・秀以・重吉・秀政と称したが、ふつう一矩といわれている。また先の重矩の妻は、秀吉の叔母にあたるともいう。

一矩は一説によれば、織田信長に仕えていたというが、ふつうには、はじめ羽柴秀長に仕え、天正十三年(1585)、それまでの千石から一万石に加増され、その後、同十五年には秀吉に直接仕えるようになったとされる。播磨立石城主から越前大野城主となり、石高は八万石といわれている。さらに、慶長四年(1599)には二十万石に加増されて越前北庄城主となり、羽柴北庄侍従と称していた。秀吉の朝鮮出兵のときには名護屋在陣衆のなかにみえ、名護屋城に駐屯していた。

慶長五年の関ヶ原の戦いのときは、西軍に属し、北国口防衛という任務を与えられていた。そして、東軍の前田利長の攻撃に備えて、北庄城に籠城して防戦体制を整えたが。西軍の敗戦を知り、また利長の縁者である土方雄久の斡旋により、嫡子俊矩を人質として利長の許に遣わし、降伏した。当時一矩は病気で、結局、関ヶ原の戦い直後の10月10日に没している。

さて俊矩は、利長が一矩の遺領相続を許してほしいと家康に嘆願してくれたものの、ゆるされず所領はそのまま没収され、改易処分を受けているのである。なお、俊矩は慶長十三年に没し、その長子久矩は大坂の陣のとき豊臣方に加わり、夏の陣で戦死している。俊矩の末子の子孫は醸造家に転じたという。

家紋 - 富士に霞(藤原北家利仁流)
http://www2.harimaya.com/sengoku/index.html


  [No.253] Re: 秀吉に取り立てられた青木氏
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/05/29(Fri) 18:29:51

Re: 秀吉に取り立てられた 青木氏
青木研究員 [副管理人] 2005/06/19 (日) 07:15
タイトルの中で2ケ所ちがっていると思われる所がありますので、参考のために記述します。

美濃の国の安八郡の青木村は藤原流青木氏となっていますが、この土地は当初、皇族賜姓の青木氏が守護地として赴任したところです。その後、ある戦略的理由で清和源氏嫡流の源の頼光が国司として赴任したところです。そして、この青木氏は清和源氏の頼光の子孫が跡目に入り同化しました。よってここは皇族賜姓族の青木氏のルーツとなります。

AAAの青木氏は藤原秀郷流青木氏であることはこのルーツが元は武蔵の国の足立郡に住まいしていたことが判明し、信州の小県郡にも青木村があり、足立郡の移住によることがわかりましたので藤原秀郷流青木氏である事が確認しています。
藤原利仁流青木氏はちがっています。

利仁流は分行流の進藤氏の分派です。分行流には進藤氏と長谷川氏の流れですが、この進藤氏は余りにも大きい派閥のために藤原利仁から分派したものです。
したがって、この流れには青木氏は原則はありません。
青木氏は兼行流におこります。長沼氏と長嶋氏とともに。
利仁流青木氏というのは戦国時代の搾取偏纂の疑問が大きく残りますが、秀郷一門の進藤氏と利仁流進藤氏が陸奥の奪回の時為に同族を固める為に秀郷流は北陸に地盤を固めていた利仁流と史実として血縁していますので、この時に青木氏も血縁して「家紋掟」により利仁流青木氏が出来たとする説が有力です。
嵯峨期の詔にて青木の氏名の使用は真人族、朝臣族、特別に宿禰族以外之ものが使用を禁止しています。
直接の利仁流青木氏は秀郷流青木氏の様に「朝廷の許し」を得た史実は有りませんので、分流したものが正しいと考えられます。

しかし、青木氏と姻戚関係があるというのは藤原秀郷流では。