青木氏氏 研究室
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  [No.264] Re: 伊勢青木家 家訓7
     投稿者:福管理人   投稿日:2010/05/01(Sat) 16:58:55

家訓7
伊勢青木氏の家訓10訓

以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。

家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導きく為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

家訓1は「夫婦の戒め」
家訓2は「親子の戒め」
家訓3は「行動の戒め」
家訓4は「性(さが)の戒め」
家訓5は「対人の戒め」
家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)


家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
「品格の戒め」である。
この家訓7は「執着」つまり「こだわり」であると考えている。
「執着」は兎角悪く考えられがちであろうが、そうでも無い事もある。
人生に於いて苦難が多く立ち向かう。この様な時に「執着」無しでは生きていられない事もあり、それに依って苦難から幸せの扉を開く事も出来る場合もある。むしろこの場合の方が多いのかもしれない。だから、最近では、世間ではこれをむしろ煽っている向きもある。その例えの言葉として「拘りの一品」とか「拘りの・・」とかの流行言葉も出ている。
しかし、ここで云う家訓7は「こだわり」は「拘り」ではない。敢えてその違いが有るから分けて論じることとする。
人間は物事を考える場合、脳は「拘り」を持つと幅広く思考範囲を広げてその上で適切な判断を下せ無くなる「性」を持っている。狭い範囲で思考する事で正しい対処が出来なくなり人生の難業苦難に引き込まれる場合が多い。そして、狭い範囲の思考から抜け出す事が出来ず、そのような「悪のスパイラル」に陥るのである。
まして、昨今の様な科学文明が起こり「合理的な判断」無しでは正しくものが成せ得ない事に成る時代である。
科学は「合理」で成りたっているからだ。この様な時代に「主観的な拘り」を持つ事はそれだけに逆行に成り思考範囲が針の様に狭くなるだろう。
特に「感情主観」の強い傾向の持つ範囲ではこれが起こりやすい。
特に、前の家訓のところで述べた脳の一部の「性」(さが)を司る「脳陵帯」で管理されている「女性の深層思考の原理」(感情主観:感情-勘定-妥協)から観るとこの傾向が強く成るだろう。
男性に於いても「論理思考の原理」では論理的に間違うとそれを正しいとして過剰な「拘り」を強く持ちすぎる傾向があり、むしろ「女性の拘り」よりも厄介であり危険である。
女性の場合は元々揺れ動く「感情主観」であるので「環境」が変わると「他の感情」に移る事も起こり得て「拘り」は消えうせるであろうし「性(さが)」の定めに依ってその様に神は仕組んでいる。
しかし、男性は「論理の錯誤」を起している事から「環境」が変化してもその「錯誤」に気が付かない限りは「拘り」から抜け出させない「質癖」を持っている。
勿論、男性も「性(さが)」の定めに依ってその様に神は仕組んでいる。厄介な宿命の「性(さが)」の定めであろう。
むしろ女性の「拘り」に比べて個人の範囲に留まらず周囲にその「悪の影響」を及ぼしてしまう危険性を持っている。あらゆる「争い」の主因とも成っている。
この「男性の拘り」にはここが問題なのである。この家訓7はこの点を指摘しているのである。

この家訓7が説く意味は次ぎのことによるだろう。
一つは「こだわり」と「目標(目的、狙い)」とは違う事。
二つは「こだわり」は「頭の使い方」如何である事。
三つは「こだわり」と「拘り」を区別している事。
四つは「こだわり」は「長」としての「戒め」である事。

先ず、一つ目の”「拘り」(こだわり)と目標(目的、狙い)とは違う事”付いて考えてみる。
心に固く決めた揺るぎ難い「目標」はその進める過程には長期的で「論理的な戦略と仔細な戦術」を保持しているものである。
一見すると、「こだわり」と「目標」は何れもこの”心に決めた揺るぎ難いもの”を持っている様に観える。しかし、良く観察して見ると何か違う。
それは「戦略と戦術の有無の差」(1)が起こる。しかし「こだわり」はこれが「殆どゼロ」であり特に戦略は観られない。
そして、それは達成されるとその目標は「解消」はされる(2)。しかし「こだわり」は解消する事はすくない。
更には、過程では揺るぎ難い「目標」は「臨機応変」に変化させる事がある(3)。しかし「こだわり」は周辺と進行過程の変化に対して頑なに盲目である。
目標は衆議に対して「賛同」が得られる(4)。しかし、「こだわり」は個人性が強く衆議に弱い。
揺るぎ難い「目標」は周囲に「弊害」を生まない(5)。しかし「こだわり」は兎角に「弊害」を生む。
この「5つの違い」がある。
この家訓7は揺るぎ難い「目標」を持つ事を否定していない。むしろ、「こだわり」を否定する事で人生に於いて揺るぎ難い「目標」を持つ事を求めているのである。

「戦略と戦術の有無の差」(1)「解消」(2)「臨機応変」(3)「賛同」(4)「弊害」(5)

この「5つの違い」が「目標」と「こだわり」と区別されている。
これは「青木氏」の歴史的な背景から観ると、「賜姓族侍」の一面と「商人」の面も持ち得ている内容である。どちらかと云うと「商家」に成るのではないだろうか。
伊勢青木氏は「不入不倫の権」で護られながらも、室町末期からは少なくともこの「権」が弱く成っていた事は明らかであり、同じ東伊勢の村上源氏の末裔の北畠氏が信長に騙まし討ちされ織田信雄が城に養子婿として入る等の「乗っ取り事件」も起こっている。
「武力による戦い」とは別に北畠氏のような事が起こる可能性が”伊勢松阪青木氏にとっても無い”とは云えず、この時を含めて「極めて冷静な判断力」を求められていた筈である。
伊勢に限らず賜姓族の青木氏は上記の「5つの違い」の柔軟な「こだわりの無い判断力」が求められていた事が、隣で起こった深い付き合いのあったこの北畠氏で充分に認識していた筈である。
現に、大きく時間を置かずして「丸山城の戦い」が伊勢青木氏との間で起こったのである。
この時の戦いは信長の只一つの「負戦で有名な戦い」で、信長が家臣の面前で指揮官の次男の信雄を罵倒し蟄居されると言う事が起こった。この勝利したのは真にこの家訓7の「こだわり」を捨てた戦略戦術であった。
商人の顔の紙屋長兵衛が全面に出て城構築の材料の買占めから初めて経済的に締め付けて弱らせ、最後は出来上がったばかりの城を伊勢シンジケートを使って城を爆破させてしまうという実に見事で冷静巧妙沈着な戦略戦術を長兵衛は使ったのである。目に見えない相手と戦って信雄は負けたのである。商人として城構築の莫大な材料利益を生み出し、賜姓族としては邪魔な城を潰しその上青木氏は安泰と成っている。
賜姓族とか青木氏とか武士とかの必要以上の「こだわり」だけで有ればこれ程の戦略戦術は浮かばないし成功も無かっただろう。
他にもこの後の同じ「伊賀攻め」でも今度は武士の顔の長兵衛は名張の青蓮寺城と3つの城から中立を装い、商人の顔の長兵衛が伊勢シンジケートを使ってゲリラ作戦で食料調達を困難とさせた上で疲れさせて置き、この伊賀氏の伊賀城が陥落寸前に信雄の軍を側面から突き敗走させると云う戦いを実行した。これでは信長は立場は無いし怒るのも無理が無い。
この後の秀吉はこの事を学習して最後の松阪青木氏等の「伊勢松阪攻め」ではこの「こだわりの無い戦略戦術」を防ぐそれに勝るとも劣らない戦い方をした。そして、戦略家で学者であり青木氏とは繋がりの有った蒲生氏郷を派遣して青木氏を温存したのである。その経済力を潰さずに信長が好んだ西洋風の楽市楽座の出来る日本初の「伊勢松阪の街づくり」を実行したのである。この時青木氏は西洋風の街づくりの「侍屋敷町」の2区画(9番と19番)を与えられて生残ったのである。
普通に「武士のこだわり 執着」で戦っていた場合は今の青木氏は無く、これ程の扱いは氏郷も採れなかった筈であり、救済する大義名分の根拠も言い出せなかった筈である。
この「こだわり 執着」が、戦いながらも勝利し秀吉を学習させて、無傷で生残る事を成し遂げたのである。もとよりこれは「武士商人」の「こだわり」も無かった事を意味するだろう。

「組織の長」の採るべき「精神的な格」(こだわり)を心得ていた結果の勝利なのである。

この戦い方を分析すると「5つの違い」が浮き彫りになる。
兎も角も賜姓族でありながらも、「5つの違い」は左様に「商家」に課せられた立場にあると考えられる。どちらかと云うと「紙屋長兵衛の顔」の方の家訓であろう。
侍的な「難くなさ」が無く添書にも然程に詳しくはない所を観るとこれも(1)から(5)は「商家の家訓」である傾向が強いだろう。
昔、筆者は「こだわり」に対する判断力が無い若い時に、”お前は間違っている”と親父と話す時によく誡められたが、これは「青木氏の伝統」(こだわり 執着)とも云うべき家訓7であった。
何故、間違っているかは大分長い間判らなかった。”間違っている”とはっきり云うのだから”親父には何か明確な根拠が有るのだろう”。それは何か何時も意識していた。
その理解できたきっかけは結婚して「男女の性(さが)」に”「根本的に違う思考原理」が働いている”と云う事が経験を通しても判り、書物による脳科学的にも納得し判った時である。
つまり、そうすると男女の「こだわり」と「拘り」にも”論理的に違いがある事”と云う理解であった。「男の論理主観」と「女の感情主観」から考察すれば「男のこだわり」と「女のこだわり」は本質的に違う事に成る。
そこである時に「家訓添書」に書いていた「仏教の教え」と云う字句に気が留まった。
日々の務めとして「般若心経」を何時も仏壇で何気なしに唱えているが、”どんな内容で唱えているのだろう。”心の経(みち)”の悟りを得た仏を前にして、悟りを開いてもいない生きている者が”「心の経(みち)」を唱えるのはおこがましいのではないか”、”それが何でお経なのか”と次から次へと疑問を抱いた。
筆者の「こだわり」とも云うべき質癖が又もや働いたのである。
「般若心経」の書いている意味を元来持つ字句語意一つ一つを調べてその「字句の総意」を考えたのである。そして、その「傾向分析」を行った。真にその手法も「技術屋の質癖」である

私の結論は次ぎの通りであった。
”この現世の何気ない意思一つ一つが「拘り こだわり」の発露であり、その「拘り こだわり」の保持する「強さ」と保持する「時間」の差異に依って無意識に判別しているものである”と考えた。
”その究極は「有無の定義」であるとし、「有る」とすれば「有る」であり、「無い」とするば「無い」。「有る」を「有る」とする事がそもそもが「拘り こだわり」であり、「無い」を「無い」とするも「拘り こだわり」である。「現世」と「彼世」の差異もこの「仏法の定義」に当て填る。

「般若心経」の全ての行の共通する真意は、その真意には強弱はあるが、この”「拘り こだわり」に捉われるな”であると考えた。その”「拘り こだわり」の誡めの最大の語意の行は「色即是空 空即是色」である”と考えに達した。そして「色不異空 空不異色」との2つの語句が「拘り こだわり」の強い戒めで有ると。

その場、その時で色々な解釈は出来るが、”「色」は「現世」、「空」は「彼世」”と定義する事で
全ての行の一節語句はその意味するところが読み取れる事が判った。
この定義そのものが「拘り こだわり」ではあるが、仏の前で唱える「般若心経」を通じて、”私は不必要な「拘り こだわり」を無くす事を誓い努力します。 ご先祖の仏様ご安心ください。”と。

「色不異空 空不異色」(こだわり)であるのだから、「色」有る世界から色の無い「空」の世界へ「心」を媒体として念じ発している事となるだろう。唱えるはその姿を云う事に成る。
人の現世の生きる目的は「喜怒哀楽」に必ずしもあらず、子孫を遺す事にその一義があり、その一義の為に悪行と成す「こだわり」を捨てる事を誓っている事と成る。

即ち、上記の青木氏存続に関わった史実に観てもその秘訣は、「こだわり」を悟れば「5つの違い」の柔軟な「こだわりの無い冷静な判断力」を培える事にあるのだと考えた訳である。
そこで、此処の世の意志は全て「拘り こだわり」であるとするならば、「拘り」は感情的主観のものとし、「こだわり」は論理的主観のものとして、その思考を狭める「拘り」と「こだわり」は「色」のある現世の中では「人格形成」の一つとして習得せねば成らない「必須条件」としての事柄である。依って、この青木氏の家訓7はこの事を誡めているのだと考えている。
「拘り」も時には子孫存続に間接的に関わることもあるが、「こだわり」は特に誡めておかなくては成らないものと考えている。勿論、「揺ぎ無い目標」とは異なるが。
この「目標」と「夢、希望、願い」は仏法からすると感情主観の「拘り」であるが、その上記「5つの違いの強さ」に起因すると考えられる。依って、仏法の考え方からすると、この「弱い拘り」はむしろ「良質の拘り」であり、「現世で生きる糧」とも成ると説いている。

「5つの違いの強さ」<「目標」
「夢、希望、願い」=「弱い拘り」=「良質の拘り」=「現世で生きる糧」

標記した”「拘り」には全て悪いものではない”としたのはこの仏説に有る。

二つは「こだわり」は頭の使い方が違う事である。
即ち、頭(脳)の使う(働いている)所が違うと云う事である。
それはどう違うのか、以前の家訓でも述べたが、「感情主観の拘り」と「論理主観のこだわり」は本質的に異なる。
「感情主観の拘り」は脳の「前頭葉」の部分に於いて起こり、その「強さと時間」を保有する「拘り」は脳の神経伝達機能網シナプスのスイッチング時間が長く入っている感情の保持状態を云う。
本来の感情保持の時間は0.2-0.5s程度であるのに対してその「拘り」を持ち続ける時間だけスイッチングが保持状態になる。
電気回路で云えば「自己保持状態」である。「自己保持状態」である事から外からの信号に依ってスイッチングを切る以外にはない事に成る。例えば「うつ病」はこのスイッチングが入ったままの状態であり長く入っている事によりエネルギーを多く使い脳のシナプスは疲労しシナプスに被害を受ける状態を指す。
「拘り」はこの状態と類似し「うつ病」より「強さ」の点で弱い事に成る。
これは「自己保持状態」である事から、「外からの環境の変化」を与える事でスイッチングは切れることを意味する。つまり、「拘り」は消えるか弱くなる事に成る。
従って、感情主観に左右される女性の場合はこの「拘り」は消える事が起こる。
論理主観で左右されている男性の場合に於いてもこの感情による「拘り」が起リ得る。
そもそも深層思考が「論理主観」で有る事から、女性特有のこの「拘り」の現象が男性に起こった場合には、「論理性の矛盾」に気付けば、元々感情による「拘り」であるのだから直ぐ霧散する。
元来、男女差の性(さが)は「脳陵帯」で管理されているので「前頭葉」で起こる「感情の強さ」の部分で低いレベルで異なっている為に「拘り」の問題は少ない。
つまり、「拘り」は女性に起こりやすい事は否めないが誰にでも通常に起こっていることを意味する。この「拘り」の範囲は現世の「イザコザ」の範囲であろう。

そうなると、次ぎは「こだわり」である。
「こだわり」は「論理主観」により「錯誤」にて起こっている状況である。
だから、「論理性」を構築する「左脳のデータ」とそれをシナプスで繋いだ「右脳の働きの思考原理」を働かせて「中紀帯」で一つの思考を取りまとめ想像し構築する仕組みの中で論理主観は生まれるである。
この時、蓄積されていたデータに偏りがあった場合には、「右脳の働き」と「中紀帯の働き」とに「間違いの思考」が生まれ、これを「良し」として「こだわり」が「深層思考」として起こる事に成る。
即ち、その保有する「左脳データの信頼度」(1)や、その大脳でシナプスを繋いで「綜合判断をするデータ量」(2)や、その保管されていたデータはそれまでの構築されてきた環境に依って左右される事になるので、その「質の良悪、偏り、偏差値」(3)に依って、直接にその「こだわり」の良悪が左右される事に成る。これはその本人の「質癖の錯誤」と呼べるだろう。

「左脳データの信頼度」(1)「綜合判断をするデータ量」(2)「質の良悪、偏り、偏差値」(3)

この「質癖の錯誤」の「こだわり」が起こるとこれを解消するには(1)(2)(3)を変える以外に無い。
では”この3つを変える事が出来るのか”と云う疑問が湧く。
先ず、”難しい”と云う答えになるだろう。この3つを自ら自覚して直ぐに変える事は出来ない筈である。
なぜならば「左脳データの信頼度」では長年培って来たそのデータ量を急激に変える事は時系列に無理である。
まして、その信頼度はその者の環境とその者の賢明さにもよるだろうから殆ど無理である。
「綜合判断をするデータ量」ではデータ量を急激に増やす事は有り得ないし、その様に人間の脳の記憶を仕分けする「海馬の仕組み」はその様に出来ていない。間違い無く無理である。
「質の良悪、偏り、偏差値」は(1)(2)に左右される事からこれだけを良くする事は論理的に無理である。
これは、その「こだわり」を持った者の人生に大きく関わる問題である。その生きて来た環境に左右される問題である。余程の「左脳のデータを消滅させられるだけの衝撃」が無くては困難である事は容易に判る。その衝撃に「人間の精神」は持つとは思えない。
まして、この上記3つは個人の保有する「先天的資質」に左右されるもので誰でもが「確実で良質」な「こだわり」を持つ事の可能性は低いだろう。
多くはこの「こだわり」は終局は(3)の影響を大きく受ける事に成るだろう。
故に、仏法では「縁無き衆生動し難し」として説いている。
”無理な者は元々無理なんだ。 理想にかまけて「こだわり」を起してはならない。それこそが「こだわり」なんだ、錯誤なんだ”。と。
又、仏法では”「人を見て法を説け」”とまで云っている。
だとすれば、”どうすればよいのだ、「こだわる」な。人を観てその人なりに合わせて其れなりに説けばよいのだ。”と。”肩を張って考えるのはそれこそが「こだわり」なんだ。「こだわり」の持った者が説くことに意味は無いのだ。”と説いている。
だから衆生が「般若心経」を仏前で唱えるのはここにある。
”先ずは無心に唱える事から始まるのだ、「こだわるな」「こだわるな」”と自問自答自責して仏の前で懺悔している姿なのである。

皆、衆生が「確実で良質」な「こだわり」を持ち得ているのであれば仏前で唱える必要も無く仏も心配はないだろう。「般若心経」の様な「心の路」のお経を作る事は無かった筈であろう。
だから、この現世は「こだわり」の世界にして「こだわり」を抑える事の戒めを解いている事になるであろう。
論理主観のこの「こだわり」はその「深層思考の性の定め」により主に男性によるものであろうが、女性にはこの「こだわり」はその「性の目的」(産み育てる本能)から先ず有り得ない。もし、仮にあるとすると「こだわり」の錯誤が起これば子孫は育たない事になる。
「神」は矛盾するその様な「性(さが)」を作る筈が無い。
男女ともに”人はどんなに優れていたとしてもこの「神」から受けた性(さが)から抜け出せる者はこの現世にはいない”という事である。居るとすればその者は「現世の神」である。
この様に「人生」は「拘りとこだわり」であるとしても過言ではあるまい。

況や、殆ど「拘りとこだわり」の間に垣間見れる「喜楽」の中に生きていて、「怒哀」はこの「拘りとこだわり」の産物と成るのではないか。
その「拘りとこだわり」の大小が「怒哀」の大小と成り得ているのであろう。
だとすれば、この「拘りとこだわり」を小さくする事で「喜楽」が増え、「怒哀」は小さくなる。この「拘りとこだわり」のこれを「抑える努力を試みる事」が「現世の幸せ」を大きく享受する事になるであろう。
それを「般若心経」は現世に於いて色々な人間の性(さが)が持つ「五感」との「五体の機能」を使って表現して判りやすく誡めているのであろう。
そして、仏教では「拘りとこだわり」(執着)は「108つの煩悩」として具体的に細かく分けているのである。
人である限りに於いてこの「108つの煩悩」を無くす事は不可能であるが、幾つかでもより多く抑える努力は可能である筈。それが「人格形成」と言う事に成る。
この「108つの煩悩」は感情主観による「拘り」の産物であるが、この家訓7の戒めは上記する論理主観の「左脳データの信頼度」(1)「綜合判断をするデータ量」(2)「質の良悪、偏り、偏差値」(3)から起こる「錯誤のこだわり」を誡めている。
当然に、この「108つの煩悩」(執着 拘り)の中で生きているのであるから、全く無縁であるとは云えない。「幾つかでもより多く抑える努力」が高いレベルで成し得ている事、即ち「人格形成」が成し得ている事がその前提にはなるだろう。
この現世では「108つの煩悩」(執着 拘り)の何割で「人格形成」が成し得ていると云われるかは判らないが、多い方が良いに越している。それでなくてはこの「論理主観のこだわり」を[抑える力」は出て来ないであろう。

この”「108つの煩悩」(執着 拘り)の「抑える力」と「論理主観のこだわり」は逆比例する。”と考えている。

「108つの煩悩」(現世 執着1 拘り 感情主観)<=「人格形成」

「左脳データの信頼度」(1)
「綜合判断をするデータ量」(2)
「質の良悪、偏り、偏差」(3)
(1)+(2)+(3)=「錯誤」(現世 執着2 こだわり 論理主観)

「錯誤」の抑止=「人格形成」(人間形成)

「拘り」(感情主観)<「こだわり」(論理主観)

平易に云えば、脳医学では「統一・一貫性の抑止」と云うらしいのだが、「拘りの抑止」(人間形成 人格形成)は「こだわりの抑止」の基盤になると考えられる。そして、仮にこれが成し得られたとすると、一段上の「人格形成」を得た人物と成り得るのであろう。この時、それが「品格の形成」を成し遂げた事を意味する。
この家訓7は家訓6と類似するが、敢えて家訓6で「人間形成」が成し得られたとしても、更にその”「品格の形成」を成すには家訓7を会得(悟り)しなくてはならない”としたのであろう。
青木氏の「長」としての条件として、”「人間形成」だけでは「品格」は得られない。「悟り」で「品格」を得よ”とより厳しく求めたものであろう。

故に、此処に「伊勢青木氏が置かれていた立場の長」としてのこの「家訓7の会得」を子孫に求めている事であると考える。
添書では仏教的な事柄が書かれているこの家訓7ではあるが、上記する数式論になるであろう。
それを顕著に表すのが、上記する信長との「天正の3つの戦い」に現れていると思われる。故にこの家訓の説明では何度も引用記述しているが、この有名な史実の事を判りやすくする為に「標語の形」として子孫に明確に言伝えているのであろう。これを子孫に悟らす為に。

三つは「こだわり」と「拘り」を区別している事。
この「長」に求めた2つの戒め「拘りとこだわり」の事に違いを敢えて求めているのは、”「拘り」の範囲に留める場合は上記する一段上とされる「品格の形成」は無い”と観ていたからに違いない。
恐らくは、この厳しさは「長い青木氏の歴史の所以」であろう。
だから1365年以上も生き延びられたのである。
「信長との戦い」の口伝があるのは”見事勝った”だけの意味では無く、”織田氏の様に急に興きて急に滅びる所以”も伝える意味をあったのであろう。
つまり、室町期の青木氏の先祖は、織田氏には「家訓6、7」に値するものが無かったからに過ぎないとして観ていた。故に、青木氏としての「家訓心得」を以って全身全霊で戦えば、飛ぶ鳥を落とす勢いのある信長と云えども”潰す事は出来なくても勝てると見抜いていた”事になる。
ただ、「皇族賜姓族の誉れ」に安住しての青木氏であればたちどころに滅びたであろう。
ところが、伊勢青木氏を始めとして一族親交の深かった信濃青木氏までも子孫を遺し得ているのは、この家訓の「人間形成」と「品格形成」に依って沈着冷静な判断が可能となり生き延びたことを意味するのである。

四つは「こだわり」は「長」としての「戒め」である事。
それは、この家訓6と家訓7の戒めは、伊勢、美濃、信濃の青木一族を束ねていた長の「紙屋長兵衛」に有る。
「2足の草鞋策」の「商い」が、「皇族賜姓族の誉れに安住」させなかったのである。
家訓6よりも更に家訓7を求め、更に「拘りとこだわり」の戒めを「長」に求めていた事にある。

仮に、史実から信長と長兵衛を比較すると次ぎの様に成る。
経済力からの考察からすると、家康も名古屋城で秀忠の本軍の遅れを待つとして一時徳川軍を留めて、それを理由に伊勢路の確保の為に伊勢青木氏の合力を求めてきた程の伊勢の豪商紙屋長兵衛である。経済力の大きさは堺の貿易と松阪の商いから信長とほぼ互角で有ったであろう。
信長も「楽市楽座」の制度を推し進めた人物である。そうすると直ぐ近所の伊勢松阪の紙屋長兵衛の事は知っていた筈である。当然、伊勢攻めを命じたのであるから、賜姓族青木氏の事も名張の青蓮寺城を始めとした3つの城持ちである青木民部上尉信忠の事も知っていた筈である。
ただこの「2つの顔持ち」である事は判っていたかは疑問である。
長兵衛が仲介者を通じて材木の商談を持ち込んだのに対して知っていれば警戒する筈であるが結果としてしなかった事に成る。織田信雄も家臣の滝川一益も知らなかったのであるから。
つまり、紙屋長兵衛と青木長兵衛は同じである事を知っていたとするとこの戦略戦術はもとより成り立たない事に成る。青木氏側も知らないだろうと予測し、現実に織田氏側も知らなかった事に成る。
知っていて騙される馬鹿は戦国の時代には居ないであろう。彼の有名な知者の滝川一益も補佐しての戦いでもある。「商人の顔」の長兵衛の経済力だけと観ていただけにその経済力効果がより大きい事に成る。

次ぎは軍事力の検証である。
兵力は資料から江戸初期前には250程度と記録されている。
この戦いに”「不入不倫の権」で護られている賜姓族だから静かにしているだろう”と踏んでいた事に成る。「伊賀の戦い」、「永嶋の戦い」によもや参戦するとは考えも無かった事に成る。
しかし、「商人の顔」の長兵衛が裏で暗躍していたのである。そうすると目に見えない「伊勢シンジケート」の戦力が既に戦い前に暗躍していた事に成る。信長のお膝元の岐阜の「信濃シンジケート」も伊勢青木氏とは連携を採っていたとされるので事前に動いていた事にも成る。当然に信濃の動きも情報として伊勢には入っている。
堺には大店を構えているし、信長の膝元には「楽市楽座」で仲間の豪商が入り込み信長軍との取引上から詳細な動向は掴んでいた事にも成る。
つまり、「情報戦」と「ゲリラ戦」で青木氏の方が先んじていた事に成る。
だから、海辺に面した丸山城構築の情報が入り、逸早くそれにシンジケートの大工や人夫を忍び込ませる事が出来ていたから天守閣から爆破されたのである。これは充分に「情報戦」に勝っていた事に成る。当然に事前に材木等の戦需品の買占めも出来た事からも判る。

後は「直接戦」の兵力は1/50となるが「戦わないで勝つ方法」を編み出していたのであるから問題は無く成る。当時からすると全く新しい戦法で「近代戦法」を敷いた事なのである。
つまり、「経済力」を全面に押し出した「戦い方」である。
シンジケートも「武力」で繋がるのではなく、「闇の元締め」を元に小さい小豪族や戦いで敗れた一族などを「経済的な裏付」で組織化して、お互いに一族や組織を護り合うシステムなのである。
豪商はそのシステムを利用して商品運搬の護衛や取引の安全等を担保に経済的な支援も行う互助組織である。山陸海にその組織を構築していたのである。
この組織を通じてすれば「ゲリラ戦」「情報戦」は山陸海をくもの巣の様に実行できる。
そして、そのシンジケートと他のシンジケートとが結ぶと領主どころの「武力や経済力の勢力」ではない。到底及ばない「広域の力」と成る。そして、相手が「闇の組織」であり見えない為に攻撃が出来ないのである。
しかし、秀吉だけはこの事を蜂須賀小六の子分の時に学んだ「ゲリラ戦」と「堺の商人」との付き合いから「経済力を使った情報戦」の事は良く知っていたのである。
(この小六等も今宮神社のシンジケートのこの一員であった。)
その証拠に、史実では信長には秀吉から、鉄砲入手の時に「今宮神社」の「闇の元締め」のシンジケートの有る事を教えられていた。そのお陰で紀州の「雑賀衆」から3000丁の鉄砲とその戦法を獲得でき武田軍に勝てたのである。とすると、信長はこの「近代戦法」を採用しながら、青木氏との戦いでは、この事の「ゲリラ戦」と「情報戦」の警戒はしていたと観るのが普通であろう、
しかし、「天正の乱」(3乱)は何故なのか疑問である。
恐らくは、信長は、後にこの戦法を使う事を得意とする「職業武力集団」雑賀衆と敵対するが、これが何かを物語っている。逆に家康はこの時に直様この「雑賀軍団」と手を組んだのである。
家康は何故組んだのかも疑問である。
この2つの疑問の鍵が答えに成るだろう。
そして、対比して家康は、青木氏との戦い方も観ており、且つ、豊臣との戦いの時には名古屋城でこの「伊勢路の確保」とその「青木氏の経済力とシンジケート」を味方に取り入れる事を合作し「ゲリラ戦」と「情報戦」を「戦いの本質」(前哨戦)と捉えていた事に成る。
つまり、”豪商の「影の戦い」で8割は決まる。”と家康は判断していたことに成る。
此処に信長と家康の違いが出たのは両者の「生い立ち」による「こだわりの悟り」の差が出た事を意味する。経緯からする偶然にそうなったのではない。信長の行動を観て直ぐに「雑賀衆の取り込み」に家康は行動した事でも「こだわり」を無くして冷静に判断していた事に成る。

信長が本能寺で明智光秀に打たれた時、家康は堺の商人の家に居たことからも判る。このゲリラ戦と「情報戦」の近代戦法の重要さを知って豪商に下工作をしていたのである。
信長と光秀の戦いは「情報戦」から既に家康は承知して予測しての下工作であったと考える。
そうなると、だから家康は、この戦法を得意として駆使した「戦わずして勝つ」の秀吉の死ぬのを待ったのである。
つまり、「こだわり」を捨てていた「冷静沈着な判断」「長の心得」を家康も秀吉も悟っていた事に成る。問題は信長である。
つまり、学習していたが、信長はこの「ゲリラ戦」と「情報戦」が嫌いであった。”性分に合わない”と排除していた事になる。
これは信長の生い立ちと性格から、又、「比叡山の焼き討ち」から観ても上記する環境(5つの間違い)が左右し、明智光秀の扱いにしても判るが「品格形成」更には「人間形成」のところに歪みが生まれていたのである。此処が、「長のこだわり」なのである。つまり、信長はこの「こだわり」を捨てなかった事に成る。むしろ、「こだわり」に「こだわった」のではないか。

長兵衛は千石船3隻を保有しているし、伊勢湾の丸山地区の海辺の城は海を抑えれば城の効果は半減する。では何故海辺の側に城を築こうとしたのか疑問と成る。
欠点は陸から攻められれば背後は無い。利点は補給路を確保出来る。
この当時の城は戦術上「山と川」を前提としていた。「山は護り、川は補給」である。
この考えからすると、「川」の代わりを「海」としたのではないか。
この当時には伊勢には11の城があった。真ん中から入ると周囲から囲まれ補給が困難と成る。
つまり、伊勢シンジケートと信濃シンジケートのゲリラ戦で挟撃されて補給路を立たれるし、11の城から囲まれる可能性が高い。これを打ち破るには10万の大軍が必要である。
信長には各地で戦線を広げていた事からその兵力を伊勢攻めに割く余裕は無かった。

何故10万なのかと云う事である。
実はこの例と同じ事が「南北朝」時代に起こっているのである。
新田義貞軍と足利軍の鎌倉幕府10万の兵を用いて天皇側に味方した楠木正成の3千の軍と対峙した戦いがあった。それも伊勢の横である。
そしてその戦いは正成の「情報戦」と「ゲリラ戦」であったし、その「ゲリラ戦」と「情報戦」は伊勢シンジケートに依るものであった事と、正成はその伊勢シンジケートの田舎の小豪族の一員であった事は有名な史実である。
恐らくはこの時、そのシンジケートの元締めの当時の青木長兵衛の配下と成り経済的支援を受けていた事に成る。そして、結果は10万の軍はシンジケートの「ゲリラ戦」で水と食料路を断たれて確保出来ずに餓死して敗退したのである。周囲を山に囲まれた地形である。そして、山の上で谷川を持つ城を背景に篭城戦を繰り返した。山城にはシンジケートが武器と食料を補給する。10万の軍は水と食料で飢える。この敗退した史実の学習は承知していた筈である。

この歴史的な史実を知っていた為に、伊勢シンジケートを警戒していた事に成る。だから海辺に構築しようとしたのであろう。城作りの常識を破り海から補強しながら中に戦線を広げながら攻め入る戦略であったのであろう。
これでも判る様に、信長は有る程度の戦略的な戦い方の事はこの海辺の城作りから観ても知っていた事を物語る。

これに対して青木氏側は自らも船を持ちながら海の支配を商人として持っている。陸の豪族の信長にはこの海の支配権は無かった。仮に信長に広域に補給路を抑えられたとしても海からのシンジケートを使って補給できる。また逆に織田軍の補給を抑える事も出来る。
この様に検証すると、何よりも計り知れないのは「伊勢シンジケート」と「信濃シンジケート」との連携ではほぼ互角に近かったのでは無いか。
だから、豊臣氏との戦いで家康は上記する様に伊勢青木氏に合力を求めてきたのである。
そうなると信長と青木氏との戦いは後は「戦い方」に成る。
当然に、「商いの経済力」で締め上げ、「シンジケート」で周囲から「ゲリラ戦」を駆使すれば勝てる。最も愚昧戦なのは「直接戦」である。
これでは仮に勝てたとしても被害も大きい。史実は明らかのように「ゲリラ戦」であり被害は殆どなしである。
だから信長は知っていての悔しさの余り自分に腹を立て、その腹いせに家臣の面前で次男を叩き罵倒し蟄居させてしまったのである。信長は「自分の至らなさ」に気がついたのであろう。
しかし、最早遅い。歴史的に観ればこの事が皮肉にも疎んじられた次男の織田信雄だけが生き延びて子孫を遺したのである。(子孫はスケートの織田信成)秀吉の茶友で家康の茶友として生き延びたのである。信長に取って観れば、「不幸中の幸い」であった。
つまり、言い換えれば信雄は青木氏の御蔭で生き延びた事が云える。

信長は結局、この「天正の戦い」で3つの失敗を起した事に成る。
「長」として求められる「人間形成」はもとより「品格形成」に欠けていた。
 生い立ちに打つ勝つ事が出来ずに「こだわり」に「こだわった」事にある。
1 「直接戦」を好み「シンジケート力」の「ゲリラ戦」「情報戦」の力を見誤った。
2 「武力戦」に過信し「商人の力」「経済戦」を軽視した。

ここで、「シンジケート」の史実を述べ立てたが、真にこの「シンジケート」を維持出来る事は経済的な繋がりはあるとしても、全て「人」である。ここにそれだけでは成り立たない一つの要素がある。それが「長」として「こだわり」を抑えた事によって「品格を得た者」に成し得る要素なのである。そして、その組織が「大きな力」を発揮し得るのである。
ここが「信長」に成し得なかった事なのであり、強い「こだわり」により「深い思考を巡らす能力」を会得できずに「軽視」していた事を意味するのである。
 
比較する家康も、この史実は信長の面前で観ていたので知っているから、学習して伊勢青木氏の力の有り様を知り青木氏との連携に力を注いだのである。
同じ学習した秀吉も只一度「直接戦」をして陸奥の豪族を叩くために「ゲリラ戦」にしびれを切らし、その時の指揮官は「蒲生氏郷」であるが直命して「直接戦」で失敗して3千の兵に惨敗している。
その反省として「小田原城攻め」が物語っている。
だから、更に学習した秀吉は松阪を攻略する時にこの氏郷を廻した理由の一つなのである。
その証拠に、徳川氏の天下に成って、家康の子の頼宣を紀州の藩主として差し向けた時も先ず松阪の青木氏との面談を行った。この時の様子も口伝で伝えられていて「上座」を青木長兵衛に譲ったと伝えられている。
紀州藩三代目の妾子出(巨勢氏)で後の将軍8代目吉宗が部屋住みの時、伊勢の加納家に預け親族関係にあった伊勢青木の後見として育った。将軍に成った時、伊勢青木氏で豪商紙屋長兵衛の子供を江戸に引き連れて「享保の改革」を実行させ、更には紀州藩にも長兵衛の子供を配置させて藩財政を立て直させた経緯を江戸幕府に見せ付けて、幕府の「享保の改革」を断行したのである。
筆者祖父の時代まで大正14年まで親交があった。絵画、書道、茶道、漢詩、禅道、商道などを藩主と藩士に代々教授した事が伝えられ、その徳川氏からの返礼として豪商青木長兵衛に紀州藩より十二人扶持米(1年間12人が食べてゆける石高)を与えられていたことが記録に残っている。

つまり、青木氏の「皇族賜姓族の誉れに安住」だけでは、最早、藤原秀郷の末裔で人格者で学者で歌人で戦略家であった蒲生氏郷も、徳川時代に成って紀州徳川氏も、代々これ程までに扱わなかったであろう。
これは誉れだけではない。家訓の教えに従い「こだわり」を押さえ「品格」を獲得し「見えない力」を会得したからこその所以である。

結論
この様に、”「人間形成」とその上の「品格形成」は「人を呼ぶ」事で「発展」するが、「こだわりの力」と「権力、力の形成」は「人を遠ざける」で「衰退」する。決して間違っては成らない。現世はこの条理で動いている。”況や、!成蹊の人たれ”即ち”「こだわり」を捨てた人たれ”である。これが添書の言い分である。

上記の史実が殊更に青木氏に口伝化されているのはここにあり、家訓6と家訓7の「長の戒め」が判断を間違えずに歴史上に無かった新しい戦い方で、冷静に処理し「長」としての「戒め」の勤めを果たした事を意味する。又、その後の徳川時代にも上記の素晴らしい生き延び方を図った事を物語っている。
これ全て家訓6と家訓7が伊勢青木氏を形成していた事の所以になる。


伊勢に築づいた城(館城、廓城、櫓城、寺城、山城を含む)
伊勢青木氏の城
(・は伊勢青木氏の城)
・柏原城(奈良)、・名張城(奈良)、・青蓮寺城(奈良)、・桜町城(摂津)、
・桜町中将城(奈良)、・四日市羽津城(三重)、・四日市蒔田城(三重)、・浜田城(愛知)、
・福地城(三重桑名)、・脇出城(三重松阪)、・青木山城(三重松阪)、
・松阪館城(三重松阪)

・柏野城(三重伊賀)、・阿山城(三重伊賀)、

藤原秀郷流青木氏(伊勢)
滝川城、須賀川城、

丸山城(三重 織田氏)、



次ぎは家訓8に続く。



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