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  [No.265] 家紋掟
     投稿者:福管理人   投稿日:2010/06/13(Sun) 17:53:08

「家紋掟」

家紋に関して大変ご質問が多いので一つにまとめました。

そもそもは、「家紋の使用」は、平安末期から使用される様に成りましたが、その家紋化した目的は「氏家制度を規則正しく保つ目的の根幹手段」として室町時代の中期から明治の初期頃まで使用される様に成ったものなのです。
従って、「家紋」と云う初段は、当初から「家紋」として存在していた習慣ではなく、本来は最初は奈良時代初期に「皇族」が自らの「ステイタス」(印章)として使用していたものでした。
その最初は何んと「青木氏」に関わる事から始まったのです。
この「家紋」というものを理解する上で「家紋の経緯」としてそれを少し詳しく述べておきます。

それは「蘇我入鹿」を倒した「中大兄皇子」の時代に遡ります。
それまでは「文様」としては「儀式的な意味合い」が強く「天皇家と朝廷」の「儀式の権威」として位置づけられていました。
その「儀式」を司る天皇に対する「間接的権威」として扱われていたのです。
ところが、この「大化の改新の事件」と成った原因から、天皇家の「体制固め」(大化の改新)が始まりました。

先ずその一つは「経済的な原因」でした。
つまり、それは無秩序に近い状態で存在する「皇子の数」でした。
それまでは「数を固める事」で「天皇家の権威」を作り上げていたのですが、そこを入鹿に狙われたのです。
先ず、蘇我氏に内蔵の経費に依る経済的な弱体化を狙われたのです。
軍事的には「渡来人の漢氏(あやし)」、又は、「東漢氏(やまとあやし)」等の軍事集団を「蘇我氏」に抱え込まれ裸同然の無力化に干されました。
政治的には、「天皇家」は「斎蔵の祭祀による「権威のみの立場」に追いやられると云う事態に成っていたのです。
つまり、「天皇家の財政」を司る「内蔵」、「朝廷の財政」を司る「大蔵」、「朝廷の祭祀」を司る「斎蔵」の「政治機構の三権」と「軍事権」を蘇我氏に奪われていた事に成ります。

この「経済的に問題」に付いて、「4世族」までの皇子皇女の数が大変多く34人にも成っていました。
「第6世皇子皇女」までいれると50人以上と成っていたのです。
(7世族以降は坂東に配置されていました。)
「権力」を取り戻す為に、そこで「大化改新」と云う「大政治改革」を断行しました。
その「目的」の一つとして、「皇族に掛る内蔵の経費」を少なくする為に「第4世」までを「皇子王とし、「第6世以降」は臣下させる事を実行しました。
その「第4世皇子」までに順位を付け「第4位皇子」までに「皇位継承権」を与え、「第6位皇子」(1)を臣下させる仕組みとして改革をしました。
この結果、これらの「下俗臣下」した「皇子の身分」を保障するために、この新たな「世族の仕組み」は「身分制度の確立」に発展し、先ず「8つの家柄階級」(八色の姓の制)を定めました。
そして、この時、問題の皇子族は、「真人族」(まさと)、「朝臣族」(あそん)(2)と、特別に「宿禰族」(すくね)。を加えて「3つの身分」に分けました。
これら「八色の姓」に合わせて、別にその功労能力に応じて画期的な「官位階級制度」が定められたのです。
これは現在でも観られない徹底した「実力主義」でした。

例えば、「皇太子」であろうと、他の下位の皇子が優れていれば皇太子よりも遥か上の官位を授かると云うものでした。
現在でもあり得ない「実力主義」でした。(天武天皇がこれを制度化した。)
つまり、「家柄制度」と「身分制度」が定めた事に成ります。
そして、この「2つの制度」に伴い「職務制度」も定めたのです。
この「職務制度」でも下位の皇子でも能力が高い場合は、重要な守護王に任じられると云う事が起こりました。
(三野王や栗隈王の例がある。)
そして、「朝臣族4世皇子族」までには「6段階の位」に準じて重要な順に「天領地の守護王職」を命じたのです。
更に、その皇子には順位を付けて「第6位皇子」からは臣下する事としたのです。

この「3つの制度」によって先ず最も昇格したのは「第6位皇子の伊勢王」の「施基皇子」(実質は天智天皇の第7位皇子)でした。
これは「日本書紀」に記述されています。(「日本書紀と青木氏」のレポート参照)
この時に、最初に「中大兄皇子(天智天皇)」から直接与えられたのが「第6位皇子」の「施基皇子の伊勢王」の「青木氏」(3)と、特別に第7位皇子(実質は第2位皇子)の「川島皇子」の「近江の佐々木」の地名から「佐々木氏」の氏を与えたのです。

(注釈 「川島皇子」は「天武天皇」に不信感を持たれ、皇位を下げられ、施基皇子は逆に挙げられた経緯を持つ。)

この制度に則って「実力のある皇子」には「氏」を与えると云う「賜姓の仕組み」が出来上がりました。
この「皇族の改革」を始めとして、「八色の姓」に準じた他の臣下の特別な豪族の身分改革も起こりました。
政治機構は一段引き締まる体制が出来上がりつつありました。
そこで、この「家紋の経緯」に入ります。

先ず、皇子族の「身分制度」を明確にする為に、更にその「ステイタスの表現」の一つとして”「独自の印章」(「印章制度」)”を用いて明確にする様に改革しました。
結局、次ぎの「5改革」が行われたのです。

5つの制度改革
「家柄制度」
「身分制度」
「職務制度」
「賜姓制度」
「印章制度」

「天智天皇」は、この「2人の皇子」にはその「ステイタス(印章)」として「竜胆の花」とその「葉の形」を文様として「笹竜胆紋」(4)を使用する様に命じ、他の氏には使用を禁じ区別させました。
注釈 これが「施基皇子の氏族」には「青木氏の笹竜胆の印象」の使用を命じたのです。
この「実力主義」に基づく「5つの制度」に裏打ちされた「笹竜胆の印章」が、後に各氏の「家紋」への展開の始まりと成ったのです。
その代表者が我々の「青木氏族の始祖」の「施基皇子の青木氏」であったのです。
「施基皇子」は、「第6位皇子」でありながら「天武期の皇太子」よりも3階級も上の官位(浄大1位 天皇に継ぐ官位)を獲得したのです。
これは異例中の異例でした。

更には、この「施基皇子」は「天武天皇の葬儀」を「皇太子」に代わり「取り仕切る」と云う前代未聞の事も起こったのです。
そして、日本の「律令の根本」と成る「善撰言司」の役を与えられ「善事撰集」の偏纂を任じられると云う「名誉の編纂者」に任じられたのです。
「天智天皇」が「天皇家の守護神」として「伊勢神宮」を指定し、後に「天武天皇」がこれを正式に定めましたが、「天皇家」にとって最も大事な祭祀の地のここの「伊勢の国の守護王」に任じた事からもその仕事ぶりが判ります。
そして「官吏」として彼の有名な「三宅連岩床」を「伊勢国の国司」として送っているのです。
恐らくは、研究中ですが、この事実の実力から観て、この「4つの制度」の制定も「施基皇子」が指揮したと観ています。
「家柄、身分、職務、賜姓」の制度に裏打ちされたこの「印章制度」を、更に確実な権威付け的なものとして次の事も実行しているのです。
これらの制度は完璧と云わざるを得ない程に理路整然として作り上げられているのです。
この時、その「皇族賜姓族」の「青木氏」にはその姓の源と成った「一族の神木」(5)として「青木の木」の使用を指定しました。
当時は「青木」は、「榊」と同じく「朝廷祭祀の神木」として同党として扱われていたのです。

そして、その「守り本尊」として日本最初の仏師の「鞍作部止利」作の「北魏方式の仏像」の「大日輪座像」(6)を与えました。
「印象」を与え、「神木」を指定し、且つ、「守り本尊」を与えると云う事は大和朝廷の始めての事でした。

次に、それまでは「天皇一族」には自らを護る「親衛隊」が無く、「蘇我氏の増長」を招いたとして「大化改新」の一つとしてその「護衛隊の任務」(7)を与えました。
そして、何んと細部には宮中の「3つの衛門」の護りの実務をも与え、これに官職名として「左右の衛門」に位を与え、「左衛門上尉」や「左衛門上佐」などの「尉佐と上下」の「4階級の職務」(8)まで設定し与えたました。(後にこれが「北面武士」と呼ばれるように成った。)
更に、「天皇家の守護神」として「伊勢神宮」を指定し、ここを守護する王の「守護王」(9)の最大任務を与えると云う徹底した改革でした。

(注釈 この親衛隊の「宮殿の役務」から「青木氏の綜家の世襲名」は「左衛門上佐長兵衛」と呼称する様に成りました。つまり、最高位の佐位の者の務める「左の衛門」を護る「兵の長」であるとしての名が継承されました。
軍隊であれば、将軍の直ぐ下位の「大佐」である意味です。「将軍の位」は「征夷大将軍」でこれは「臨時の冠位」で、常時は「上下の佐官位」でその「上佐」です。
「青木氏」は、この他に「令外官」として「賜姓五役」とする「永代の役目」が与えられました。
「令外官」とは「天皇の直接の意」を受けて動く役人の事です。)

因みに、江戸時代には御家人や旗本等の中級武士以上が金品を渡して朝廷より一代限りの官位をうけましたが、例えば彼の江戸南町奉行の遠山の金さんは遠山左衛門上尉景元と名乗っていた様に。
この元は、「皇族賜姓族の青木氏」と「藤原秀郷流青木氏」に与えられる「永代官位」だったのです。

その後、上記「5つの制度」と共に「施基皇子」で始まった「9つのステイタス」に裏打ちされたこの権威のある「第6位皇子」に「5代の天皇」が「5つの主要天領地の守護王」を命じたのです。

14の地域に配置した天皇
天智天皇
天武天皇
文武天皇
聖武天皇
光仁天皇

そして、「第4世皇子」までが「守護王に任じられたのは下記の当時の「天領地の王」に及びました。
「嵯峨天皇」からは、「賜姓青木氏」の役目の「皇親族」と「令外官」の役目を中止し、「賜姓」もその代わりに「賜姓源氏」に変名されて11代続きました。
然し、下記の守護王や国司に任じられたのです。

天領地の守護王
「伊勢王、近江王、美濃王、三野王(信濃王)、甲斐王、山部王、石川王、高坂王、雅狭王、栗隅王、武家王、広瀬王、竹田王、桑田王、春日王、難波王、宮処王、泊瀬王、弥努王」

以上19王/66国

この中で、「伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王」には、「第6位皇子」が任じられ、上位王として「5家5流の青木氏」が発祥したのです。
この「5つの国」に「青木氏の子孫」を遺しました。
「他の14王」では、「ステイタス」が授与されましたが、「氏」を遺したとされる「王」と、遺し得なかった「王」とがあります。
「賜姓源氏」は滅亡しましたが、「未勘氏(確認されない氏)」として子孫を遺しているとされていますが、史実は結果として、この14の地に多くは「賜姓佐々木氏」がこの「印章権威」に保護されてこの地の多くの子孫を遺しています。

以下の「9つのステイタス」は、「皇族賜姓青木氏5代」と「皇族賜姓源氏11代」と「皇族賜姓佐々木氏2代」に続けられました。
(1) 「第6位皇子」 (1)
(2) 「朝臣族」 (2)
(3) 「青木氏」 (3)
(4) 「笹竜胆」印章 (4)
(5) 「一族の神木」 (5)
(6) 「守り本尊」「大日輪座像」 (6)
(7) 「護衛隊の任務」 (7)
(8) 「左衛門上尉」や「左衛門上佐」などの官職 (8)
(9) 「守護王」 (9)

この「9つのステイタス」が「5代の天皇」に引き継がれて「光仁天皇」まで続きましたが、「桓武天皇」と「平城天皇」は律令国家完成を目指して皇親族の「賜姓青木氏」らの「皇親政治の勢力」を維持しました。
ところが、これに反発した「桓武天皇」の「第2位皇子の嵯峨天皇」が、これを元に戻し改めて、これに手を加えて「嵯峨期の詔」を発しました。
「賜姓青木氏」には皇族の者が下俗する際に称する氏名としてその「氏名」とその「慣習仕来り掟」の使用を禁止しました。
これは明治3年まで3つの混乱期を除き原則守られました。

このわずか後に、「平将門の乱」を平定した功労で「藤原秀郷」は貴族に任じられましたが、その為に「秀郷護衛団」として「第3子」の「千国」を「侍」にしてこの「嵯峨期の詔」に基づき「(2)の身分」を「円融天皇」より授かり、「(3)の呼称」を許され、(1)同等の身分を持つ「補完役の青木氏」として呼称する事を許されて、朝廷より母方を同じとする事を理由に、特別認可され発祥させました。
そして、代々「青木氏」と同等の「天皇家の近衛軍」の「(7)(8)の官職」を与えられ、(9)として「伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の守護王」の「補佐官吏」として国司に任じられました。
(4)では、この秀郷は下賜の「下がり藤紋」の印章を維持しました。
ところが、他の摂関家等の藤原氏四家は、元の「下がり」を忌み嫌い「上り藤紋」に変紋しましたが、「秀郷」は「下賜家紋」を固持したのです。
(5)は藤、(6)は守護神の「春日大社」として「9つのステイタス」を代々保持したのです。

「五家五流の賜姓青木氏」は、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」を守護神としました。

以上の様に「藤原秀郷流青木氏」は、「皇族賜姓青木氏」と全て同等の扱いを受けていたのです。
この様に、家紋の「下がり藤紋」には「皇族賜姓青木氏」の「笹竜胆紋」と、同等の身分家柄扱いを朝廷から受けていたのです。
「家紋」は、この様に「9つのステイタス」を背景にその全体的な「象徴」として観られていたのです。
この「9つのステイタス方式」を継承して、その「第6位皇子」には「賜姓青木氏」から「家紋」はそのままに源氏の賜姓に変更しました。
「賜姓源氏」は、正式には花山天皇までの11代の天皇に継承されました。
合わせて16代続いた事に成ります。

この同等扱いを理由に「源氏」とも繋がりを持つとして、後に、「藤原秀郷流青木氏」は「源氏」でもあるとする説が生まれたのです。

この様な「4つの制度」(身分階級制度等)の政治システムが次第に確立してゆく中で、その「立場」を表す「印」が必要に成り、その「ステイタス」として平安初期には「真人族の貴族や朝臣族」や他の「藤原氏の血筋」を引く「公家」や「八色の姓族」などにも使用される様になったのです。
この「印章」となる紋だけではなく、同時に「他の8つのステイタス」がその身分に合して制度として引き継がれる様になりました。

注釈として、 「賜姓源氏」の「象徴紋(権威の印象)」は「笹竜胆」としていますが、「印象」を下腸したとする記録はありません。
「賜姓青木氏」が、「天智天皇」より「賜姓」を授かり「臣下朝臣族」と成る際に、「高位の印象」として下賜された際に、「六つの印象」が与えられました。
その一つが、「印象紋の笹竜胆紋」で、二つは「氏の木の神木」が「青木の木」で、三つは「護り本尊」は「大日如来坐像(鞍作止利作)」で、四つは「守護神」が上記の「神明社」で、五つは「仏帰依」は「古代浄土宗」で、六つは「旗印」は「白旗」とする様に命じられました。
ところが、「嵯峨期の詔勅」に基づく「賜姓源氏」には、何も与えられなかっただけでは無く、「嵯峨期の禁令」、つまり、「青木氏の慣習仕来り掟の禁令」に逆らって、同じ皇族の「賜姓族」であるとしての理由で、「印象紋の笹竜胆紋」と「氏の旗印の白旗」の使用禁令を破ったのです。
又、この「白旗」は「古代浄土宗の印象」で、「法然」が「浄土概念」を変異して「浄土宗」と云う派を造りましたが、後に法然の死後、この「浄土宗」は二つに分裂し、「賜姓青木氏」等の「古代浄土宗の派」は衰退しました。
ところが、「清和源氏の分家河内源氏の源頼朝」はこれを見直し、更に、「室町幕府」は正式の二派に分裂した「浄土宗の主派」をこの高位の氏族が帰依する「古代浄土宗」の派に正派として定めると決定したのです。
この時、この「正派」は、「旗印の白旗」を引き継いでいた「高位の賜姓青木氏らの旗印」としていたのです。
この正派の「住職僧」は菩提寺である為に全て「賜姓青木氏の者」から編成されていた事からその派も「白旗」を「印象」と成っていたのです。

この「嵯峨期詔勅」の「賜姓源氏」は、印象等「下賜」の無いままに勝手にこの経緯から「禁令」を破って「笹竜胆紋」を象徴とし「白旗」を「印象」として「旗印」としたのです。
「四つ他の印象」は流石にこの禁令を破って引き継ぎませんでした。
その証拠に、因みに、「守護神」は「八幡神社」、「菩提」は「古代密教」では無く、顕教の「法然浄土宗」であり、「抑止力」では無く「武力を持つ賜姓族」であり、「賜姓五役」に従わず等、将又、禁令を破っての「姓族の発祥」や「本家分家等の氏家制度の慣習」も行いました。
他のは「禁令」を破っていず、「賜姓族の印象」では無く独自の別の禁令外の一般のものとしています。
「賜姓族の役目」の表す「賜姓五役」も全く引き継いでいませんし、「嵯峨天皇」の前の「二人の天皇(純仁、光仁)」が手掛けて失敗した「新撰姓氏禄」の偏纂を強引に推し進めました。
ところが、青木氏が出自元でありながら「源氏」を賜姓する事を決めた「嵯峨天皇」が、自ら偏纂を強行したこの「新撰姓氏禄」の中には、自ら決めた「源氏族」は、「皇族別」の中に無く、何と一段下の「朝臣族」の中にあるのです。
つまり、これは、この「賜姓五役」のみならず「六つの印象」の使用を認めていない事を示します。

従って、「平家」に同格として対抗する為には、つまり、これは「平家との戦い」の為には、「嵯峨期詔勅」に明記されていない以上は、この「二つの権威の象徴印」だけが是非に必要だったのです。


さて、この予備知識を前提に「家紋化」へと進んだ時期は、「渡来人の帰化人」が国に同化し「渡来人」と云う言葉が使われなくなった時期で、「律令政治」が確立した頃の「桓武天皇の時期」からその「ステイタス」を表す「諸道具」や「牛車」などに盛んに「権威ある印章」が用いられました。
記録によると、牛車等に付けられた「印章」で、その位や身分の差異で道を譲れ譲らないなどの「権威争い」が起こるなど一種のブームと成りました。

平安初期の最初は、「皇子族、貴族侍、公家侍等」の「40程度の氏」を構成する者が使用を許される様に成りました。
平安中期には、「80程度の氏」、平安末期には、「200程度の氏」に拡がり始めて、鎌倉時代には、幕府の推薦で朝廷が授与するシステムが出来上がりました。
従って、急激に増える様に成ったのです。
この「ステイタス」は、「幕府」が開かれる事に成って明確に家紋化に特化して「侍」にも「身分の区別化」として用いられる様に成って拡がりました。
鎌倉期には、朝廷からこの「9つのステイタス」を授受される事が最高級の「上級侍」としての「誉れ」とされました。
しかし、鎌倉時代の移行期を経て、更に、室町初期には幕府体制の下で「姓族」が多く発祥し、「家紋」の元に成った「印章」だけは「姓の武士」を中心に「上級武士」の間で用いられる様に成りました。
この事と平衡して、「朝廷の下賜」では無く、自らが定める完全な「家紋」と成り、800程度に、戦国時代には1200程度の氏と一時急激に増えました。
然し、末期には武力の持たない「氏族」は、戦乱で淘汰されて平安初期程度に戻ってしまったのです。

この一連の「9つのステイタス」は、当初は「印章」から「家紋」に、「誉れ」から「判別」に変化して行きました。

この様に「家紋(判別手段)」を始めとして、(4)(5)(6)だけは個別に成り、遂には(7)(8)(9)は実態とは別に名前だけを「金銭」を前提に「幕府の推薦」と「朝廷の授受」するものの方式にと変わりました。
(1)(2)(3)は、朝廷内部のものとして「禁令の詔」を発して明治3年まで原則護られました。
(2)だけは(1)と(3)の家柄を持つ氏に与える事として定められました。
これは結局は、鎌倉、室町幕府を開いた征夷大将軍にのみ与えるものとして遺されたのです。

因みに、徳川幕府は(1)(3)の「朝臣族の家柄」にはなく、南北朝の天皇家の乱れた系譜を搾取偏纂して朝廷の抵抗を撥ね退けて強引に取得すると云う有名な事件が起こりました。
すでに南北朝時代はこの制度は無くなっていました。
徳川氏はそこを突いたのです。
安定した桃山時代には、遂には、天下を取った「秀吉」が、今度は天皇家の「五三の桐紋(天皇家の祭祀紋)」等を変紋して「五七の桐紋」にし、秀吉の「勲功紋」として家臣に勝手気ままに与えるなどして再び増えました。
江戸初期には、「幕府の権威付け」の為に「国印状発行」に伴い「家紋奨励」するほどに中級以上の「武士階級」は全て持つように成りました。
「姓族」から伸長した大名は、この「国印状」を獲得する為に、上記の武士では無いと騒いだ「氏人の郷士の家系」を盗み、その「氏人」を遡れば「氏族」に繋がると云う搾取策を使ったのです。
中には、この「郷士」と血縁する事で系譜を作ってその出自元が武士である証拠を創り上げて「国印状」を獲得しました。
この現象は、大名のみならず「家臣、媒臣」にまでに及び「武士である事」を「幕府から認証を受けた大名」から認めてもらうと云う事が起こったのです。

江戸中期からは、朝廷は(7)(8)(9)を乱発して経済的な収入源とした為に中級武士以上は「家紋」は元より「架空の官位官職」までもを全て持つ様に成りました。
結果的に(4)は、この様に室町末期からは自由と成ったのです。

挙句の果てには、江戸末期から明治初期の戸籍化と苗字令に因って「裕福な一般庶民」も搾取偏纂で使用する様になりました。
何時しか「全ての姓」が使用し、日本全国には「8000もの家紋」が存在する様に成りました。

この様な経緯を持つ「家紋」は、初期には「特定の氏」だけに認められて使用を禁じられていましたが、禁令の順守が緩やかに成り鎌倉末期には慣習化されて次の様な「家紋のルール」に基づき使用される様に成りました。
江戸時代初期には、幕府によりこの「家紋掟(ルール)の概要」が明文化されて、各大名が更に慣例に基づき自らの氏の「家紋掟」を定めて「氏家制度」を新たな形で保持しました。

この様に、完全な画一的な「掟」ではなく、統一する事は「各姓族の事情」により異成る為に、大筋を社会慣習にて定めたものです。
例えば、奈良時代から存在する一連のステイタスを保持する「藤原氏一族一門」の様に、元来「丸付き紋」は使用せず、大一族一門を見分ける為に「丸付き紋」では困難であり、「分家」を始めとする「分流と分派」を見分ける為にも「副紋方式」の様な「独特で詳細な掟」を定めました。

因って、「皇子族、貴族侍、公家侍、大古豪族」の氏族の「家紋(印象紋)」は、当時の社会慣習により、「血縁関係」もあり「身分釣り合い」と「純潔習慣」もあり、「丸付き紋」は原則使用していませんでした。
依って、「(1)(2)(3)」、「(4)(5)(6)」、「(7)(8)(9)」の「ステイタス」が「3つ」に分離が起こりました。

その結果、「姓族」の「武士階級」によって「家紋(姓判別紋)」が左右される様な時期からは「丸付き紋」が始まりました。
「氏族」が姓族化して拡大して行く室町期頃からの必然的な使用と成りました。

本来、この「丸付き紋の目的」は、「青木サイト」として「家紋掟の古原本」より筆者なりにまとめますと、次の様になります。

「氏家制度」の武家社会の「家紋掟」により細かく分けるとすると、「7−8つ程度の役目」があります。

以上の経緯を考慮に入れ、次ぎの各要素を組み入れて「家紋」を分析する事で、ご先祖のルーツ解明の一つの手段に成り、ご先祖の氏姓での位置付けが見えてきます。

「皇族賜姓青木氏29氏(21氏)」は、特別な史実に基づく未勘氏を除くと、原則は「丸付き紋」は使用していません。
「朝廷が認めた氏族」である限りは子孫には「姓」を出す事は禁令です。

例えば、「青木氏」は「皇別の氏名」ですが、上記した様に「嵯峨期禁令」と「賜姓五役の役務」から「姓名」は在りません。
全て「青木の氏名」です。
そして、「氏族」ですから「氏人の血縁族」は、氏の「福家と四家」以外は「青木の氏名」は名乗りません。
然し、「青木氏の姓」ではない訳です。
ですから、「氏人名」は、「姓名」では無く、「氏の中の氏人の位置づけ」であり、本来は「氏人名」か「郷士名」と成ります。

(注釈 江戸初期にこの「氏人」は「姓の武士」では無いと云う大議論が起こりました。
論理的には、「姓の武士」の「社会」と成った以上は、確かに、「武士」では無いと云う事に成ります。
そうすると、論理的には、「旧社会」では、「氏人、郷士」はその「役目」を果たしていた「元来の武士」と云う事に成ります。
「氏人の郷士」は、「元来の武士」、つまり、「本来の侍」である事に成ります。
「武の士」が「武士」であるとするならば、ではその務めをしていた元の社会の「氏人の郷士」の役目名の”「侍」を名乗るな”と議論されました。
議論は平行線の末に「氏人の郷士」は、「武の家」(侍)であり、「武家」と成る論理に到達します。
そして、「郷氏」の「氏」の中の「武家」と云う定義と成りました。
これの「定義」の中で、平安期にはその「差配頭」を「家人」と成っていて、その「役目の呼称」を「御家人」と云う「区分け」が起っていたのです。
この定義を下に、これを江戸期には、「氏人の郷士」を「御家人」と呼んだ決着をつけたのです。
平安期に呼ばれていた「御家人」を其の侭に「江戸期の御家人」としたのはその証拠です。
そして、「武士」で無いのなら、では、”郷士の「元来の武士」は何だ”としたのが、「姓側」からは「御家人」としたのです。
結局は、「郷氏の郷士」で「氏族の氏人」は、元の「武士」であるとする結論に落ち着き、「本来の役目柄」より「武士」としました。
数少なく成った遺る「青木氏」の「氏族」の「氏人の郷士」は、「姓」、又は「姓名」では無く、「氏人名」か「郷士名」と成りました。)


ただ、注釈よりそうすると上記した「象徴紋」の「笹竜胆紋」は、当初は「部分変紋」を使用していたと観られていますが、「賜姓青木氏の笹竜胆紋」と「賜姓源氏の笹竜胆紋」と「賜姓佐々木氏の笹竜胆紋」は「竜胆の花」と「5枚の笹葉」との間の「軸の部分」を変化させて判別させていたと観られます。

藤原氏が採用した「副紋」では無く、調査すると、文様の「笹」と「竜胆の花」の間の文様は、「賜姓青木氏」の場合は、「軸状」であり、「賜姓佐々木氏」の場合は、「円点状」であり、「賜姓源氏」の場合は「菱状」であったと観られ判別されていた模様です。
これが何時しか「軸状」と同じに成っています。

この原因は、奈良時代から平安時代の皇族の「純潔慣習」が保たれて「同族血縁」を繰り返した結果から「部分変紋」を維持する事が難しく成ったと考えられます。
この「同族血縁」が制度的に続けられていた最後の時期は、「伊勢青木氏」の血縁を観ると嵯峨期の禁令を破った「清和源氏宗家源頼光系頼政の仲綱の子」との「養子血縁(京綱)」をしている事から、1180年頃から1185年までと観られ、これは平安末期です。
その理由は、「武力」を持ち最大勢力を誇った「清和源氏」は、1195年で滅亡しました。
後は、「同紋5家5流青木氏」か「近江佐々木氏」との「同族血縁」しか無く成っていました。
その後には、「美濃、信濃青木氏との血縁」が観られます。
依って、「部分変紋」が無くなったと考えられます。

同じく補完族の「藤原秀郷流青木氏」も原則は使用していませんが、116氏の内30紋が「丸付き紋」と成っています。
依ってこの「30紋」は江戸初期前後に発祥した氏が多いのです。

「秀郷流青木氏」に関しては、あくまでも「丸付き紋」の単独で存在する「家紋文様」はなく、全て「分家」である事が裏付けられます。
つまり、単独であっても「分家」が生き残ったと観られる「補完氏」であります。

室町末期、江戸初期、明治初期に発祥した「青木氏」には、全てと云ってよい程に「丸付き紋」が目立ちます。
これは、室町末期は下剋上と戦国時代を経て立身出世した者が、没落した氏の家紋などを使用する、又は、似せて使用した事から「家紋掟」に憚って「丸付き紋」を使用したことが原因と成っています。
「下剋上」で元の主君の家紋を何等かな方法で使った事が大きく原因しています。

江戸初期は、百姓から「武士に成った者」や家紋の持たない下級武士であった者が左程に姓族を構成するほどに大きくなくてもこぞって持つ様になりました。
この時、土地柄や周囲の盟主豪族の家紋に似せて「丸付き紋」と「一部変紋」や「糸輪紋」や「囲い込み紋」の方式で変化を付けて「家紋文様」を作りました。

この時期は、武士の間では急激に家紋が増えた時期です。
家紋としての役割が、それほど無い家でも”家紋が無い家は武家ではない”とも観られた時期でもありました。

(参考 当初「武家」とは「公家」に対して「氏」を構成する「侍集団」として主に天皇を護衛する武力集団として呼ばれたものです。
室町末期ころから一般の「武士」までを呼ぶ言葉と成りました。
そもそも、家紋の元と成った「象徴紋」は、大化期に「伊勢青木氏」から最初に発祥したものです。
それまでは「部」を構成する「武力の職業集団」であった。
これが「物部氏」が最初です。)

「氏家制度」に沿って一族一門が結束する為の「ステイタス」としての役割では無く、「氏」が乱世で個別離散してまった為に結果として一族間でありながらも「家紋文様の違い」が起こる等の問題が起こりました。
この時期、この様な家紋やルーツを手繰る専門の職業が生まれて、力のある者は良く似た家紋を作ってもらう等のブームが起こりました。
室町期中期や江戸初期や明治初期に顕著に表れたのです。
「明治初期」は、「氏家制度や身分制度の崩壊」で政治新体制下で「契約社会」となりました。
この為に全ての国民が「明治3年の苗字令」と「8年の督促令」により「姓」を持つ事を義務付けられて、明治3年に「苗字令」、8年に「督促令」が公布されました。
なかなかその習慣に馴染めない民衆は、一度にある日村全員が村の周囲の盟主の氏名や姓名を名乗るなどして苗字を持ち、苗字に合わせて家紋も同じ要領で持つ等の事が起こりました。
「苗字」でも民衆は8年も掛りましたから、「家紋」に至っては文様を考案する等は程遠く、「類似する家紋」か「盟主の家紋」に「丸付き紋」を付けるなどの事で対応するのが限界でした。
この時、憚って「盟主の家紋」に主に「丸付き紋」を付ける事などして「家紋化」が起こりました。

例えば、全国各地に多い「下がり藤紋に丸付き紋」はこの時の家紋群で、群や村の全員が藤原氏の宗家本家筋だけが名乗る「藤原氏」を名乗り、又合わせて「丸付きの下り藤紋」の「家紋」も使う等の事が起こったのです。
この様に、「氏名」である藤原氏等をあり得ない事の名乗りや各地では盟主の家紋に「副紋方式」である筈が「丸付き紋」が多用されました。
家紋で代表される「源平藤橘」の「丸付き紋」はこの様な背景から生まれました。
「丸付き紋」などの家紋群ではその発祥や出自元が判り、これで「掟破りの家紋」で8000と成ったのです。

因って、そもそも、「丸付き紋」には、元来、正規には分家を意味しますが、「氏」や「姓」の発祥の時期によってはこの様な意味を持っているのです。
この時期の「丸付き紋」の家紋は、「村の盟主(郷士などが成る庄屋、名主、村主、豪農)」の「分家」と云う意味を広義に捉えた手段に成ったのです。
中にはそれなりの理由根拠があり、{盟主}が「農兵」として駆り出されその功労として「姓」と「家紋」の使用を主君より許されると云う行為を多用したのです。
然し、「農兵」にしてみれば、彼らには生活の中に苗字や家紋を使うそのような慣習がそもそもなかったのですから、当時としては何の価値もありませんでした。
但し、「明治の苗字令」で督促されて過去のこれを持ち出した事が起こりました。
「盟主」にしてみれば文句の言えない事でした。
明治期には、「盟主」は「地権の地主」に成り、「農民」には小作人として働いてもらわなくてはなりません。
むしろ、「苗字と家紋」は新体制維持のためには是非もない事でもあり、従って、「維新政府」の「奨励と厳しい指導」があったのです。

そこで、上記した様に「印章」から始まり「家紋化」したものには必ず其々次の特徴を持っています。

1 由来姓
2 時代性
3 地理性
4 氏名性
5 特記

以上の1から5の「其々の特徴」と「氏家制度の慣習」とを把握し勘案すると、その「姓の家紋」の発祥内容が確定できます。
特に、「氏族」の「青木氏」に関する内容については明確になります。
従って、「丸付き紋」の有無で「氏の構成具合」は大方は評価できるのです。

普通は、次の要領で「家紋掟」として判断されていました。

a 嫡子が存在する場合
本家筋の末裔と分家筋の末裔に分離する。
嫡子が同紋を引き継ぐ。
本家筋の嗣子には家紋部分変更を行う。
分家筋の嗣子には丸付き紋を付ける。
妾子には丸付き紋を付ける。与えない。
因縁性のある嗣子に丸付き紋を付ける。

b 嫡子が存在しない場合(女子がいる場合)
二代続きの養子婿の場合は、婿養子先家紋に先ずは変紋し、婿養子が妾子の場合は丸付き紋を付ける。(養子先本家の許可)
この場合は変紋時、正式略式の場合の使い分けを行う。
一度目の婿養子に嫡子が出来ると元の家紋に戻る。(本家の許可)
二代続きの婿養子では親の婿養子先の家紋に確定する。(女系化 婿先系の新氏発祥)
確定時に丸付き紋の有無の許可を婿養子先に求める。

c 嫡子が存在しない場合(子供居ない場合)
養子(養嗣)の男子を迎え嫁を取る場合、丸付き紋に変紋する(本家の許可)
養子(養嗣)の婿先の家紋に丸付き紋を付ける。

d 嫡子が存在しない場合(縁者より養子の場合)
家紋は変わらない。(最も一般的で多く採用された方法)

大きな氏は、原則、「丸付き紋」で対応する事に成ります。
然し、次の要素により「3つの変紋」の手段が採用される場合があります。

 「時代の変化」
 「地理的な変化」
 「氏(姓)の拡大」
 「全体の氏(姓)性」

以上が原因で大きい氏(姓)は確実に把握が困難と成りました。

この自然淘汰による履歴の把握が困難に加えて、家紋経過には次の事が起こりました。

 室町末期(新興勢力 氏のステイタス)
「下剋上」と「戦国時代」で混乱 奈良時代から始まった「氏の構成」が「新興勢力の姓」に新しく変化した。
この為に「氏を示す家紋」も新しく発生した。

 江戸初期(下級武士 氏の判別)
鎌倉期と室町期初期の「新興勢力の氏」は自然淘汰されて、「氏の安定期」に入り、それまで「姓」を構成しなかった下級武士が改めて興し独自の姓と家紋を持った。

 明治初期(庶民 家柄の誇示) 
「氏家制度」の崩壊で明治維新の「契約社会」へと変化し、全ての国民が苗字を持ち姓をあらためて構成し始めた。
当然に家紋も併せ持った。

以上の3乱期には「第3氏」が「丸付き紋」を採用しました。

(注釈 「第3氏」の呼称や判別方法に付いては、江戸期の「大日本史」の中で使用され本ルートではないとして区別されています。
青木氏に付いても{第3氏}が記載されている。)

この為に「丸付き紋」の採用は一族性に問題を生じて来ました。
この一つとして「8000の家紋群」の中の「主要な家紋」としての「家紋200撰」の様に増加しました。
唯、「氏家制度」が無くなり「身分制度」の無く成った社会慣習の明治初期以降に使用された「家紋」が、この「家紋掟」を護られたかは疑問です。
先ず護られていません。

唯、a、b、c、d、イ、ロ、ハ、ニ、等の方法の中でも、ただ「養子縁組」になると「丸付き紋」だけを一時使用していた事は確認されています。

現在では「家紋の持つ意味」も核家族社会の中で無くなり殆ど護られていない事と思います。

そこで、次の「4つの方法」が採用されて来ました。

上記のabcを繰り返して行くと次の方法が採用されて来ました。

イ 部分変紋(最も多く用いられた方法)
ロ 囲い込み紋(糸輪紋含む)
ハ 陰紋
ニ 類似変紋(イの変化)
ホ 副紋併用紋

#1 嫡子の本家筋ルートは次第に分家化する。
主に家紋の「部分変更紋」で何処の本家筋かを判別する方法を採用した。

#2 嗣子の分家筋ルートは次第に分家化する。
「丸付き紋」が細分化すると、「丸」は採用できなくなる為に、主に「囲い込み紋」を採用して分家筋を判別する方法を採用した。
更に「部分変更」を加えて対処した。

#3 妾子の分家筋ルートは次第に支流化する。
「丸付き紋」が細分化すると重複して維持できなくなる為に、一族性を保持する為に家紋の明暗を逆転して主に「陰紋」を作りだした。

#4 #2 #3のabcが進むと次第に傍系化する。
更に「血縁性」が不明確に成り「傍系支流化」すると「類似別紋」を採用した。
「部分変紋」にはその違いの大小に依って「類似変紋」に変化する事も起こった。

大小の氏(姓)では時代性が異なるが、#1から#4の経過を辿っています。
つまり、正規には、「直系尊属派」、「傍系尊属派」、「直系卑属派」、「傍系卑属派」等の四つに分けられ、この中で家紋が変異して引き継がれる。
”「源氏族」だ”と云っているのは、殆どは、良くて「傍系尊属派」か、「直系卑属派」に成ります。
要するに、「支流」なのです。

「家紋」は本来は「6つの掟」に成る。

1 宗家、本家、分家、支流、分流、分派の区別
2 嗣子と妾子分類
3 宗家の許可
4 配流子孫の区別
5 男系跡目の継承
6 養子縁組(養嗣、義嗣含む)
7 嫡子尊厳
8 身分家柄の保全

1についての説明
先ず、「宗家」が家紋を決めます。そこから枝葉が拡がります。
又、それぞれの分家の本家ができます。そして、嫡子以外は分家となります。
これを繰り返して行くと、1の様に呼ばれる枝葉が拡がります。
この6つに更に宗家から分派まで出来る事になります。
この大元が「総宗本家(藤原氏)」となります。
この時、「家紋の使用」は、「氏家制度」(室町期中期以降は姓家制度と云った方が正しい。)ですから、それぞれの本家筋がこの「伝統」を重んじ使用許可を出して決めます。
「氏家制度」の中では一族の「純血」を出来るだけ守るためにそう簡単には使用を認めません。
この許可は本家を継いだ「嫡子」が行います。
「嫡子」は何も長男とは限りません。能力のあるものが「嫡子」となります。
長男が「嫡子」と成る事を決めたのは、「江戸初期」の徳川家康が決めました。
徳川家の後継ぎとして定めたものです。これに諸国の大名が習ったものです。
「氏家制度」の中では実力のある者が成ります。
「嫡子」が出来なければ、氏の血筋目が立ちませんし、「長」がいないことにも成る訳ですから、当時の「妾」の存在の概念は罪悪感はなく、「子孫」を残すと云う人としての大命題である為に「氏家制度」では普通の概念でした。
唯、とは云え「正子」と「妾子」では身分上で原則区別されます。
然し、「正子」に「妾子」が勝れば「子孫繁栄存続の目的」のために「妾子」が成ることがあります。
「正子」が無ければ「妾子」が「嫡子」に成ることがあります。

この為、大きい氏、又は、姓では「妾子」は次ぎの「3つの身分」に分けられます。

妻の身分
 后:きさき (正妻)
 
夫人
 妃:ひめ、
 嬪:みめ、

 采女:うねめ

正妻と次ぎの2つの妻との間には一つランクがあり、更に妥女との間にも一つランクがあります。
当然、この子供が独立するとなると、歴然としてその扱いには差異があり、「家紋の継承」が問題と成ります。
「正妻の身分」に子供が居ないとなると必然的に下に降りて行きますが、「嫡子」が江戸時代までは原則は正妻よりランクに従い長男と成りますが誰になるかは別問題です。
これは大きい氏や姓には、正妻等の血族結婚による弊害を避ける事もあり、戦国時代で優秀な者を嫡子にしなければ氏や姓の存続は保てない事情もありました。
従って、「本家、宗家」はこのシステムで血縁性と家紋継承を保つのです。

「正子」がいる場合は、「采女」の身分まででは、「丸付き紋」は当然の事として「部分変紋」、又は「陰紋」「類似変紋」「別紋」の順序でかなり厳しい扱いを受ける事に成ります。
この「3つの身分扱い」は各氏で血縁性を担保するために「掟」として定めていました。
一般的には「副紋」「丸付き紋」「部分変紋」「陰紋」「類似変紋」「別紋」の順序となっています。
「陰紋」は、その意味合いや目立たない事から比較的に使用を嫌われていました。
「家紋」は、「部分変紋」の差異が小差であるから「類似変紋」へ、「類似変紋」の差異が大差であるから次第に「別紋」へと変異しているのです。

この様な「家紋掟」の中では、分家以降は余程その子孫の枝葉が大きくならないと勝手に家紋を決める事はできません。
依って、主要な姓の大豪族は、原則として「丸付き紋」は使用しません。多くは「副紋方式」です。
分家の分家以降は主に普通は、「丸付き紋」が多いのですが、これは、普通の姓、氏で、分家である場合か、他氏の無断使用の場合かによります。

然し、ここで「丸付き紋」に欠点があります。
分家の分家の場合は「丸付き紋」は二重の丸となり使えないことが起こるのです。
そこで「丸付き紋」に「部分変紋」が起こるのです。
そこで、又、更に分家扱いが起こると「部分変紋」にも限界が起こる為に「類似変紋」と成ります。
この「類似変紋」に来ると「変化の多様性」、つまり、差異が大きく取れる特長を持っているので「別紋」に至るまでには時間的な経過期間を保てるのです。
この様にして「一族の家紋」は変化して行くのです。

「血縁性の経緯」を一定に保つために「戸籍簿、系譜」の様に氏家制度の中ではそれを宗家本家が管理している事に成ります。
然し、この管理が江戸中期以降緩んだと云う事に成ります。
「宗家本家の力」が落ちた事を意味し、氏家制度も低下した事に成ります。
明治期に入り氏家制度が崩壊し、「家紋の使用」は庶民に広がったがその家紋の持つ意味合いは「9つのステイタス」からほど遠く成り、「氏の誉れ」と云う単位から「家の虚勢」へと変化していったのです。
「家紋掟」は護られる環境では無く成っています。

例えばそれが、「藤原秀郷一門」の「家紋掟」ではないあり得ない「丸に下がり藤紋」が出来て庶民のせめてもの搾取に依る「虚勢行為」と考えられます。

例えば、藤原氏の「下がり藤紋」や「上がり藤紋」に「丸付き紋」は、元来、「家紋掟」の中には無く「副紋方式」ですので、「第3氏」である事になります。
この様に、高位の立場から「源平藤橘」の紋は、主に「副紋方式」ですが、「源平橘」の氏の子孫拡大はそれまでに至っていません。
依って、これを捉えてこの3氏には「丸付き紋」の「未勘氏」が実に多いのです。
殆どは、「未勘氏」か「第3氏」です。

「橘紋」は藤原氏に圧迫されて子孫を多く広げる事は出来ず大衰退を余儀なくされました。
従って、この衰退を末裔は忌み嫌い、橘氏自身がこの「橘の紋」を使う事をやめると云う事が起こりました。
依って、「第3氏の丸付き紋」の「橘紋」も著しく敬遠されました。
「丸付き紋」になる程に「橘紋」は使用されなかった筈なのです。
然し、現実に子孫もそれだけに広がっていないのですが、これを見越して実に「第3氏」が多いのです。
明らかに、明治期の第3氏であることが判ります。

ところが、この「橘紋」には上記の由来性、時代性、地理性や宗派性に先ず矛盾し、尚且つ、「丸付き紋」が実に多いのです。
この「氏」はその地理性が極めて限定されいて大変に「氏」が小さいのですが、第3氏として矛盾しての名乗る氏が驚きを超える程に多いのです。

平家の「揚羽蝶紋」も、滅亡して関西以西に逃亡して農民として隠れ忍びましたので、この家紋を公に使う事が憚られ室町期に入ると表に出てくる事が再び起こりました。
この為に史実から末裔の素性が明確になりません。
各地で「農民」として生きていた為に「丸付き紋の揚羽蝶」が出来る程に管理されていなかった筈なのです。
「揚羽蝶紋」に対して、実は「平家の分家」には「臥羽蝶紋」もあるのです。
平家には「丸付き紋」は、元来なくこの様な「家紋掟」により分家筋は実は「臥羽蝶紋」が使用されていたのです。
「丸付き紋の史実」がとれない平家の「未勘氏」も子孫の数より数倍も多い氏が驚くほどにあります。

源氏には「11家11流」がありましたが、清和源氏、村上源氏、宇多源氏、嵯峨源氏の末裔が何とか政争の中でも生き残りましたが、中でも引き継いだ鎌倉時代の清和源氏の河内源氏の頼朝の末裔が滅亡して史実は子孫を遺せなかったのです。
何とか「不入不倫の権」で守られていた「賜姓青木氏の5家5流」と「近江の佐々木氏」、「宇多天皇の滋賀佐々木氏」がこの「笹竜胆紋」を維持して来ています。
「清和源氏の未勘氏」が膨大と云う言葉で表現出来る程に多いのです。
何んと家紋から観ると1165氏も名乗りを揚げているのです。
少なくとも1/100も無い筈です。「未勘氏」を入れると2000前後にも成ります。

普通でも、身分家柄上同族血縁を原則としている為に、これほど清和源氏が子孫を遺す事そのものが難しいのに源氏だと名乗っている氏があるのです。
そうだとしたら、「源氏の末裔」を尽く潰した鎌倉幕府の北条氏らは放って置く事はありません。
鎌倉幕府の後の政権を取った足利氏も家紋の違う「傍系支流」ですから、本流の末裔が生きているのであれば足利氏の室町幕府に参加していた筈です。
そして、「副紋」も「丸付き紋」等も使わない「掟」のある「氏」であり、「嵯峨期の詔」で禁令が出ているのに、「家紋」は「笹竜胆紋」ではなく「氏名」も異なる氏が源氏だと名乗っているのです。
ほとんどは史実がありませんので、殆どは「搾取行為」です。

因みに、上記した藤原氏に殆ど抹殺され、氏名家紋を使う事さえ嫌われた橘氏ですが、家紋から観ると86氏も名乗っているのです。
藤原秀郷一門でさえ永嶋氏は34氏、長沼氏が52氏、進藤氏は48氏、長谷川氏は111氏、もちろん青木氏は116氏で、「関東屋形」と呼ばれて平安、鎌倉、室町期、江戸初期までに全盛を極めたこれらの秀郷一門の氏でさえせいぜい30−50程度です。
それが「橘紋」が86もあると云うのです。
未勘氏を入れると150くらいにも成ります。
この意味合いを考察ください。

ところが、藤原秀郷一門の「主要5氏」で観てみると、全部で「361氏」ですが、家紋から観てみると不思議に「371氏」なのです。
未勘氏を入れると凡そ500程度に成ります。意外に少ないのです。
これは、一門が「第2の宗家」として「秀郷流青木氏」を中心にして管理されていた事を物語り、なかなか「第3氏」が秀郷一門の氏名(家紋)を名乗れなかった環境があった事が云えます。
名乗れば天下の武力で潰されたのです。

つまり、代表的なものとしてあげれば、傾向として「源平橘」は滅亡しているので氏の「厳しい管理の目」が無く自由に名乗れると云う現象があり、室町末期、江戸初期、明治初期の3乱期に起こっていた事を意味します。

賜姓青木氏でも、或る伊賀の立身出世した者が、元近江青木氏が滋賀に移動して再び近江に戻りましたが、一部滋賀に残った全く絶えた分家を乗っ取り、滋賀の青木氏を名乗り、その近江青木氏本家がこれに異議を申し立て2度も戦いをしました。最終、秀吉の承認の下で決戦をし滋賀から近江に戻った近江青木氏本家は負けてしまったのです。伊賀上田の者は滋賀青木氏を堂々と名乗り、後には滋賀青木氏本家を名乗ると云う事件さえ起こりました。そしてこの滋賀青木氏は著しい子孫拡大を果たしました。

藤原氏に付いても群村単位で農民が名乗りましたが、氏家制度の管理が解き放たれた明治期に成って名乗った事、秀郷宗家本家筋が名乗る氏名を名乗ったが、家紋はなかなか使えなかった事と丸付き紋等を使用した事によるものと考えられます。
藤原氏全体では未勘氏があまりに多すぎて検証は困難です。

この様に、絶えた有名な氏を名乗った「虚勢」の未勘氏が実に多いと云う事なのです。
氏家制度の慣習の中では上記した5つの条件から検証するとそれを明確に検証できるのです。

この現象は「源平籐橘」全てに云える現象です。如何に室町末期や江戸初期に武士となった者が搾取して家柄身分に「虚勢」を張っていたかが判ります。
殆ど、5つの条件 即ち、由来性、時代性、地理性、宗派、特記や当時の慣習などから調べると矛盾が出てくるのです。

「伊勢青木氏」よりはじまった「賜姓紋の笹竜胆紋」は「副紋」も一切使用していませんので、「福家」と「四家20家」の「総紋」の継承と成ります。
従って、「丸付き紋の笹竜胆紋」は、「未勘氏」(明確でない氏か史実として認められるが継続した証明がとれない氏の事)か「第3氏の使用」となります。

(「姓」を出しませんので、「本家、分家の制度」を執りません。従って、「象徴紋」である事も含めて「家紋の変紋」もありません。)

「笹竜胆紋」や「下がり藤紋」の「青木氏」は、「各青木村」を形成して「嫡子」がいない場合とか死んだとかした場合は、「青木村」を形成している事により「縁続きの者」を迎え入れて同じ血筋を保持し、「象徴紋」を保持する事が出来たのです。
これを護る「宿命的な伝統」のそのような「仕来たり」があったのです。

(注釈 「嵯峨期の詔勅の禁令」により「氏名」を「村名」に出来るのは「二つの青木氏」だけです。
あとは全て地名を村名とする事に成りますし、「姓名」も「村名」とする事は出来ません。)

「笹竜胆紋」は「5家5流の青木村」と「24の国の青木村」、「下がり藤紋」は武蔵入間を中心に神奈川横浜を半径とする地域に「116氏の青木村」と「24国」に「青木村」を形成しています。
従って、「宗家本家筋」が血筋と家紋維持のためには「縁者」を迎え入れる事は「氏家制度」の中で管理されていればそう難しい事ではありませんでした。

「笹竜胆紋の青木氏」と「下がり藤紋の青木氏」との相互血縁も母方血縁族ですので不可能ではありませんでした。
例えば、次の様になります。

「讃岐藤氏の秀郷流青木氏」が「足利氏系青木氏」や「甲斐の武田氏系青木氏」を保護し血縁、
神奈川の秀郷流青木氏が信濃諏訪族青木氏を保護し血縁、
伊豆の賜姓青木氏と神奈川の秀郷流青木氏が血縁、
その伊豆賜姓青木氏と本家筋の伊勢賜姓青木氏との血縁、
信濃賜姓青木氏と美濃の秀郷流青木氏との血縁、
その「信濃賜姓青木氏」と「伊勢賜姓青木氏」とが江戸末期まで各1300年程の歴史を持つ「伊賀和紙と信濃和紙」で結ばれた長い期間の血縁関係、
「皇族丹治氏系青木氏」と「入間秀郷流青木氏」との血縁

以上の様に複合した血縁関係等の多くの史実があり、恐らくは、これ以上に慣習として頻繁に更に相互間で行われていた事が予想できます。

これは同じ村単位だけではなく、何処に血縁族が居て互いの宗家に話を通せば相互間で紹介し合える「仕来り」が生まれていた事を物語ります。

秀郷一門の「第2の宗家」の「秀郷流青木氏」は、この管理を江戸初期頃まで一元化して管理したいた事が判ります。

「氏家制度の青木村」は、「只一族が集まる」というだけではなく、「9つのステイタス」の家柄、身分、家紋、伝統、血筋等を護るために「血縁関係のシステム」、即ち、「氏家制度の根幹」を担っていたのです。

この様に同じ「青木村」だけではなく、各地に分布する「青木村」から迎え入れる事も頻繁にしたのです。
この様にして広い範囲から「宗家、本家、分家、支流、分流、分派」から迎え入れる事で血筋の弊害をなくしていたのです。
その証拠の一つに、「甲斐武田氏」が滅びた時、「甲斐賜姓青木氏」、「武田氏系青木氏」、「諏訪族青木氏」ら一族一門が「藤原秀郷一門」を頼って神奈川や栃木など、四国讃岐、土佐、阿波にも逃げ延びた史実が遺っています。
これは真に「宗家本家筋」のこの「管理」が行き届いていた事を証明するものです。

一般の「丸付き紋」は、この事から「宗家、本家、分家、支流、分流、分派」の5つの中で血縁性の高低で直系性が無く成る場合に多く使う事を求められました。

この「6つの流れ」の中で、「女系」と成り新たに「氏」を発祥させる事となると、ここで始めて「丸付き紋」の家紋が出てくる事に成ります。
「丸付き紋」で違いを出し「支流性」を表現して宗家との区別をします。
始めから「丸付き紋」の氏はこの結果で生まれるのです。
「丸付き紋」の家が血縁性が低下した場合に「丸付き紋」に更に「丸付き紋の変紋」は物理的に困難ですので、「部分変紋」や「囲い込紋」や「陰紋」が一定の規則の下で使われたのです。

「家紋200選」から観ると、むしろ「本家」より「分家」が勢力を持った結果、3割もの「丸付き紋」が多い事になります。

2番目は「嗣子と妾子扱い」に付いて。

これに当たる場合は、「嫡子」が指示しない限りは「嗣子」は原則は「丸付き紋」は使用しない事になります。
しかし、「嫡子の指示」が無い場合の「妾子」は、原則は使用する事になり得ます。
ここに区別がつきます。
只、「妾子」が「嫡子」となった場合は自らが決める事になりますので問題はなくなります。
ここに、「嫡子」、「嗣子」、「妾子」の問題が出て類似家紋が増加する事に成ります。
「氏家制度」の中での「妾の概念」は、制度を維持する為の方法に主眼が置かれています。
そして、元来は「男子子孫」を遺す事に目的があり、「妾子」の「妾の差別的な概念」が強く生まれたのは「長男=嫡子」となった江戸期に入ってからの事です。

3番目は「宗家の許可」です。
「氏家制度」は宗家を頂点にして一門を構成しています。
当然に、「勢力」を持つ宗家から「経済的、武力的、政治的な保護」を受けて成り立っていますから、この組織からはみ出しての勢力拡大は困難です。
氏家制度とは、要するに一族の「互助システム」ですから、「家紋」はその「ステイタス」ですからその許可は「宗家の許可」を必要とします。
何事も「宗家」に睨まれると「家の存続」は元より「家紋」の使用も難しい事になります。

「家紋類」を分析すると、これにより現実には「3割近く」が「丸付き紋」の使用を指示された事になります。
そして、これは「宗家本家筋」より「丸付き紋」の「分家筋の方」が勢力を持った氏が3割近くもいた事を物語ります。

4番目は「配流子孫」の区別です。
平安初期から「氏の戦い」が起こり始めて、「負けた側」が遠地に追いやられる事に成ります。
この史実として、各地には配流されましたが、その史実は認められるが、「戦い」や「勢力争い」などに敗れて「島流し」や「逃げ延びる事をしたりして、その地で再び子孫を広げた場合などの時にその確たる証拠等がない場合のその「家紋」の使用は、原則は「丸付き紋」を使う事に成ります。
「皇族、賜姓族の青木氏」では、「5家5流」以外に「嵯峨期の詔」により後に「皇族青木氏」を名乗り、史実として認められる特例として「日向青木氏」等の3氏の「丸に笹竜胆紋」の「青木氏」が正式に認められます。
「源氏」や「青木氏外」の「丸に笹竜胆紋」は、上記した経緯から明治期か「江戸期の第3氏」と成ります。
比較的この場合の「家紋」が多く、「源氏」や「藤原氏」や「橘氏」や「京平氏」等の「家紋」にはこの「未勘氏」のものが大変多いのです。
源氏等を名乗る氏の9割は、この「配流子孫の類」の「未勘氏」です。
この「配流子孫の未勘氏」には、史実が明確な子孫と、そうではない史実が発見されない子孫に分かれています。
ほとんどは言い伝えだけで「史実の無い未勘氏」です。

5番目は「男系跡目の継承」の原則です。
「氏家制度」ですから「男子」が跡を継ぐ事になります。
当然に、上記した「嫡子、嗣子、妾子」に分けられます。
江戸の初期までは、「嫡子」は原則は「正妻の長男」と云う事では必ずしもありません。
一族一門を束ねるだけの器量を保持しているかどうかが問われる時代で、且つ、又その制度でした。
因って、下の者に器量があれば「嫡子」に成る事もあります。
当然に内部で「跡目争い」が起こります。
それを乗り越えての試練でなくては一族一門を束ねる事は出来ないと考えられていました。
「必要悪の条件」の様なものでした。
中には、「本家」からではなく「分家」に良い「嫡子」とみられる者が居れば「養子(養嗣)」に迎え入れて「長」に据える事も行いました。
比較的、「分家」から「養子」を迎える事が多かったのです。
「本家」に「男子」が生まれるとは限りません。
そうなると、「分家」から迎え入れて「血筋や家紋」を保つ必要が出ます。
大きい姓や氏では、縁者関係まで広げて探し出して「本家筋の血筋」を護る事になります。
そうでない「氏や姓」の「分家支流筋」は、「女子」に婿養子、養子婿を迎えて「嫁」をとる方法が起こります。

6番目は「養子縁組」です。
原則は「丸付き紋」です。
「女子」に「婿養子」をとると、「男系の制度」ですから、一時、「婿養子の家紋」を使います。
「婿養子」に「男子」が生まれると、その「男子」が「跡目」と成れば、「家紋」は元の家紋に戻ります。
然し、再び、「女子」に成れば「婿養子」を迎える事に成ります。
この様に、「2代」続いて「女子」となると、その「家」は「女系」となりますので、「男系の最初の婿養子先の家紋」が定着してしまいます。
つまり、「家紋」は変化して「新しい養子先系列の姓」を発祥させた事に成ります。
この場合は、元の家紋に「丸付き紋」は使えなくなります。
又、多くは「養子先」からも本系列ではないので「養子先家紋」に「丸付き紋」とする事が多く起こりました。
この様に成らない様に、「宗家本家筋」だけは無理でも縁者関係から「婿養子」を何とか探してきます。

「女子」もなく「養子婿」を迎えて家を継続する場合です。
多くは、これは「分家筋の事」となります。
この場合は、「縁者」から迎えない場合は「血縁関係」は無くなります。
「女子」を縁者から迎えて、それに「婿養子」とする場合もあります。
これは「家」を継続すると云う事だけの目的で採る処置です。
従って、江戸時代では、「武士」で「家紋の持った家」からの「養子婿」であればそれを「家紋」とする事に成ります。
然し、どうせ許可は下りないので。「本家からの許可」は多くは無視した様です。
それでも「摩擦」を避けるために「丸付き紋」を使用する場合が多かった様です。
元々、問題が起こらない様に「丸付き紋」の場合は、「丸の太さ」を変えたり中の一部を変えたりして新しいものを作りだしました。
この場合は「家紋」も持たない「下級武士」などそうでない場合が多かったので、「家紋」は無く新たに定める事も起こりました。
しかし、大きな姓や氏では出来ない事ですが、江戸中期以降では「男系の血縁」の姓が途絶えても「家紋掟」を無視して「家紋」も継続してしまうと云う事が起こりました。
ほとんどの「武士」が「家紋」を持ち始めたのは、江戸初期からで、「旗本、御家人」等にブームが起こり、こぞって持つ様になりました。
従って、「江戸初期からの発祥」が殆どなので、「本家の許可」の云々の問題はあまり起こりません。
ルーツを手繰れてもせいぜい普通は江戸初期までで室町期に入れる姓は少ないのです。

その点では「青木氏」は、「平安期初期まで遡れる氏」です。
「家紋8000」の中では、武士の場合は、戦国時代を経てきた為に「子孫」が少なくなり、殆どはこのタイプです。
農民等から身を興して新たに姓を興した場合が多かったのです。
又、先祖が「武士」であっても、そのルーツが下剋上や戦国時代で消失して判らなくなるなどして新たに姓を興したのです。
この為に、「未勘氏」が多く成ったのです。
使用した家紋のその姓に憚って「丸付き紋」とする事が多く起こりました。
この場合は中の一部も変えると云う方法を使い争いを避けました。

七番目は「嫡子尊厳」です。
「氏家制度」の中では「嫡子」が「絶対的権限」を持っています。
「嫡子」に選ばれると、「他の嗣子妾子」は、その「嫡子」の心一つで「家紋」を引き継げるかどうか決まります。
「家紋」を引き継げると云う事は、一族の中に残れるかどうかが決まる事です。
「家紋」を継げるという事は、それなりに「財産分け」がある事に成りますが、「嗣子妾子」はほとんどは他家に養子に出る運命です。
勢力を拡大しない限りは、「嗣子妾子」を抱え込むと姓や氏の財政が圧迫するのです。
むしろ、他家に出す事で勢力範囲が拡大する事に成るので積極的に行われたのです。
どちらかと云うと、結婚適齢期に「婿養子」に入ると云うよりは、「小さい子供」の頃から預けると云う習慣が多かったのです。
その後に、「正妻」や「妾」に「嫡子」が生まれたりすると、「養子」には「家」を新しく興して「傍系支流」を発祥させたりしました。
従って、「家紋」が変化する事の方が「氏家制度の中」では「正常な事」であったのです。
その為にも「宗家本家」だけは、「家紋や伝統」を絶対的に護る必要が生まれたのです。
ただ、乱世であったことから「婿養子」に出て「男子」が多く生まれた場合でも、「養子先」を子供に任して実家に「跡目の問題」など絶えたなどの事が起こると「実家」に戻る等の事が頻繁に起こりました。
「固定された嫡子」が「長男」と考えられる様に成ったのは、江戸初期からで家康がその先鞭を付けたのです。

八番目は「身分家柄の保全」です。
「氏家制度」の中では「血縁はつりあい」で行われます。
その為には、「家紋の判定」が重要に成ります。
「婿養子」や「養子婿」では、「つりあい」をある程度無視した形で行われました。
特に、「婿養子」に「男子の子供」が生まれる事で解決するので家紋問題は解決します。
「つり合い」のとれない婚姻の場合は、「家紋継承」が許されるかは問題で、「丸付き紋」を指示されたり、「影紋」や「家紋の一部」を変える「変紋」を要求されるか「囲い紋」を要求されるかは「本家次第」と成ります。
「宗家本家筋の血縁」には「吊り合い」が重視されますが、「分家以下」ではその様な事を云っていては「跡目の継承」は困難となります。
「養子縁組」は、この様な事をある程度無視しなければ成り立ちません。
そこで、このままでは「氏家制度」が崩壊して行きますので、「養子縁組」には「家紋の継承」には統一的に「一つのルール」を設けていたのです。

以上の様な理由で一族の家紋は変化して行きます。

故に、「藤原秀郷流青木氏」では116氏にも成り、「皇族賜姓青木氏(皇族青木氏含む)」では「24氏(29氏又は21氏)」に成っています。
この様に長い間に、「一族の家紋」は、元の「総紋」を「宗家本家」がどんな事が起こっても引き継ぐ苦労が伴います。
然し、上記の理由で分家筋では緩やかに拡がって行きました。

その様な「家紋継承」にはそもそも次の様な方法があります。

A 「総紋」と云うのがあります。
これは「宗家、本家」が引き継ぐ一族の始めからの紋で、それが「氏(平安期)」が拡大すると「代表紋」に成るのですが、これが「家紋掟」により、「分家と成った者」が次第に「家紋」が変化して行き「藤原氏」で云えば361氏の家紋数に成ったと云う事です。
その「元の家紋」が「総紋」と呼ばれるものです。
藤原秀郷一門で云えば、「下がり藤紋」と云う事になるのです。
この「総紋」と「藤原氏」の氏名を継承している事は361氏中に限られた数の24氏と成る筈です。
中でも「氏名」に付いては、「藤原氏」には「ある掟」があり、「藤原氏」そのものを「名乗れる氏」は、武蔵入間の「総宗本家筋」だけと成ります。
つまり、「氏名」も「総称」なのです。
それを名乗ると成ると、"藤原朝臣青木左衛門上尉・・・・"と成ります。
この「総紋」を継承するには、「男系跡目」を必ず果たさなくてはなりません。
その為に「宗家本家筋」では、「妾子の方法」も必然的に必要であり、それだけでも「宗家本家筋」に肝心の「男子」が生まれなかった場合には、一族一門より「男子」を「養子婿」に迎えて嫁取りをします。
「女子」がいれば婚姻し「婿養子」としますが、居なければ縁者から先ず「養女」を迎えてその「婿養子」をとる等して縁者による「男系跡目の方策」を構じて何等かな方法で宗家本家を維持し、家紋の一族紋の「総紋」の伝統を維持します。
ここが、「宗家本家筋」の大変なところなのです。
当然に、「総宗本家」を持つ様な大きい氏では、確実に維持できる何等かな方法を構築しているのですが。


本家と分家の違いを出す方法
B 「副紋方式」(主紋に他の血縁族の家紋も併用して使用する)があります。
本家筋では養子を迎える努力はするが、どうしても叶わない場合は「総紋」にその迎えた養子先の家紋を併用する方法、或いは、「総紋」の中にその養子先の家紋かその一部を組み入れて一つの家紋を作り上げます。
「藤原秀郷流青木氏」の本家筋では、「下がり藤紋」にこの「2つの方式」の何れかを採用しています。
「宗家本家筋」は依然として「下がり藤紋」です。
領国の宗家筋は、「総紋を維持する環境」が周囲に整っていますので、「総紋方式」で継承して行けますが、地方に定住した本家筋には総紋維持は困難ですので「副紋方式」を用いたのです。
本家筋に近い分家筋では、ここまで縛られませんが、「丸付き紋」を使わない「下がり藤紋」に「藤の花数」を変えるなどして変紋します。
この意味から良く見られる現象ですが、そもそも、「傍系支流」が「総紋」の「下がり藤紋」である筈がなく、血縁性から「副紋」でもなく「丸付き紋」でもなく「別紋」である筈です。
藤原秀郷一門で「下がり藤紋」を家紋としているのは、「青木氏を含む主要7氏」だけで、「藤原氏」だけでも系列から見て「9氏」しか使用できない筈です。
「主要7氏の宗家本家筋」は、結局、養子縁組が起これば「副紋」を使用する事に成ります。
「361氏」を監視監督しこの「氏の管理」をしていたのが「第2の宗家」と呼ばれた武力を持ち内外に睨みを利かしていた一門一族の「大護衛団の青木氏」なのです。

C 「丸付き紋方式」
明らかに分家となると、その氏が定めた「家紋掟」により「養子先の家紋」に変化して行きます。
「丸付き紋」を使用する「氏」は、「宗家本家」に伺いを立てて「丸」を付けますが、許可が得られない場合は「養子先の家紋」と成ります。
「嗣子」となった「妾子の場合」は、この対象に成ります。
「妾子」は多くは他家に養子と成ります。
この「妾子」が「養子」に入った先で「男系」に恵まれなかった場合は、実家に家紋の使用の伺いをたてますが、「妾子」である事を理由で先ず許可が得られず、多くの場合は「丸付き紋の使用」と成ります。

従って、基本的には「丸付き紋」は「分家紋」です。
一部に「女系」に成ってでも「分家」と見做して使用している「氏」があります。
この様に「分家の広義」の「捉え方」が広まり、「分家」の「一種の分流や分派」はこの「丸付き紋」と成ります。
「血縁性の乏しい支流」に「広義」に依って「丸付き紋」を使っている場合が多いですのでが、元来は「別紋」である筈です。
あくまでも、「丸付き紋」は、原則として「同門一族」に「分家筋以下」を区別させる為に用います。

この他に次のような場合があります。
有名家紋の様な「他氏の家紋」を無断拝借する場合に多少なりとも遠慮して「丸付き紋」を用いました。
この現象は、室町末期、江戸初期、明治初期に起りました。
本流ではないが、「血縁性の低い支流」であるがどうしても「本流の家紋」を使用したいとして「丸付き紋」を無断使用する事が室町末期に起こりました。

更には、進んで直接血縁がなく自分の親族がその縁者である場合に「丸付き紋」を用いたと云う事が起こりました。
縁者の縁者の場合であるので無断使用が多かったのです。

この様に、室町末期に一族の見方を誇示する事から、又その「一族に大きな背景」がある事を匂わせて身を護った事から「丸付き紋」が使用されました。

D 「影紋方式」
本家に遠慮して家紋の明暗を逆にして用いる。
「丸付き紋」を使用せずに「家紋の明暗」を逆転させて、「血縁性のある支流」を敢えて誇示させる方式である。
室町末期に多く用いられました。

E 「変紋方式」
文様の一部を「局部的」に変更して用いる方式である。
「軸、葉、花、花弁等」の「形や数」を変更して用いる。
「宗家」から「同紋の使用」が許されないので、一見して同紋の様に見えるがよく見ると一部が異にしている文様に変更して一族性を表現した。
特に、「妾子の場合」にこの方式を多く採用した。
一般の家紋はこの方式から広まった。
この方式からは血縁性が薄れる方式である。
室町末期、江戸初期、明治初期に広がりました。
特に、江戸初期に「御家人や旗本」に多用されました。

F 「囲い紋方式」
「角舛」や「糸輪」で囲って用いる方式である。
「糸輪」は「丸付き紋」に似せて用いたもので「変紋方式の一種」である。
江戸中期以降に用いられたもので、「土豪集団、職人集団、氏子集団、檀家集団等」の「集団紋」に多く用いられました。
明治期には、姓の庶民はこの「神紋」や「寺紋」を使いましたので爆発的に増えたのです。
元の文様は、「神紋や寺紋」から発展し、「小集団同士」が結束して「自主防衛の連合体」を作りその「集団紋」としたものに多く観られます。
「文様として囲う事」で「集団性」を表現したものです。
それを家紋としたものです。

この様な氏家制度を保つための社会慣習があり、「家紋」はその過程で変化して行くのです。
従って、各姓や氏の家紋がこの上記する方式の何処に属するかにより氏家制度の中で大方の先祖の姓や氏の位置するところが判るのです。

「丸付き紋」の青木氏
以下39の青木氏に関わる「丸付き紋」
・丸に州浜、丸に三つ盛州浜、・丸に抱き角、・丸に違い鷹の羽、・丸に蔦、丸に陰蔦、・丸に木瓜、丸に横木瓜、・丸に片喰、・丸に剣片喰、・丸に三つ柏、丸に蔓柏、・丸に梅鉢、・丸に揚羽蝶、・丸に九曜、・丸に三つ星、・丸に一つ引き、・丸に二つ引き、・丸に三つ引き、五瓜に丸に三つ引き、・丸に桔梗、・丸に三階菱、丸に三つ目菱、・丸に剣花菱、・丸に花菱、・丸に抱き茗荷、・丸に三階松、・丸に根笹、・丸に違い矢、丸に八矢車、・丸に隅立四つ目、丸に三つ目、・丸に扇、丸に違い扇、・丸に日の丸扇、・丸に並び扇、・丸に立ち沢潟、丸に三つ鱗、丸に青の角字

・印は「家紋200選」に撰ばれている「丸付き紋の家紋」です。
つまり、この「青木氏の丸付き紋」の「氏」は「大豪族の氏(郷氏)」です。

「丸付き紋」中の大豪族28紋/39紋で72%も占めています。
「青木氏全体361氏の家紋」からすると、「家紋200選」の「丸付き紋28紋は7.8%」を占めています。
全体の39紋では11%となります。
「家紋200選」の全体から観ると28/200で14%です。

「青木氏」は「丸付き紋」の分家筋でも家柄、身分に釣り合いを合わせて血縁している事が云えます。

この分家を分家、分流、分派、その他で分析すると、次ぎの様に成ります。
分家 21家 79.5%
分流 12家 30.7%
分派  5家 12.8%
其他  1家  2.5%

殆ど、直系の分家で血縁(79)しています。
それも大豪族との血縁(72)です。

この「丸付き紋の氏」は次ぎの様な血縁で成り立っている事が云えます。

1 男系跡目が2代続きで叶わず変紋した氏。
2 直系の分家筋で丸付き紋に変紋した氏。
3 同族血縁した氏。

先ずは、分家筋の氏に「1の事」が起こり、他氏から養子縁組で変紋して家紋が増えて行くのです。
然し、以上の内容データから観ると、1-2にて氏が拡大して家紋が増え、そこで、3-2-1の順に氏が構成されている事に成ります。
これほどの「家紋200選」にある「丸付き紋の氏28氏」もある事は、1と2で起こった事とは、氏家制度の中での慣習からは、血縁関係は出来難いと考えられます。
大豪族を幾つも一門に持つ「藤原秀郷一門の氏」には血縁に関してはそれなりの明確な戦略があったのです。

イ 24の赴任地には土地の豪族との血縁族を拡げて勢力基盤を固めている事、
ロ 氏家制度の本筋でもある「血縁にはある一定の釣り合い」を求めている事、
ハ 氏が大きく成る弊害を克服する為に各地の同族間の純潔血縁を求めている事、

この「3つの戦略」を遂行すると、一つの「血縁上の問題(良い子孫が生まれない事)」が生まれる為に、各地で「他氏との血縁」で一門で無い血液濃度の平均化を図る必要が起こった。
その事から、3を実行する事で「3つの戦略」は可能と成ります。
故に、普通ではあり得ない上記の79%であり、72%等のデータが出て来るのです。

つまり、「家紋」から観ると、1-2-3-3-2-1-3を繰り返す事による「家紋データ」なのです。
この中で、この上記する「家紋掟」は(1-2-3−3-2-1−3)の循環が働いているのです。

この「家紋」は次の事に大きく関わっているのです。

X 氏家制度の社会慣習
Y 家紋の掟
Z 宗派の慣習

1、2、3のサイクルは、上記X、Y、Zに大きく影響を受けて定まって行くものです。
これを考慮しないでは判断できない仕組みの「掟」なのです。

「家紋」は、要するに「9つのステイタス」を背景として初期には用いられ、次第に「氏の判別」としての目的が強く成りました。
然し、それでも忘れては成らない事として「家紋」と同様に、「宗派」も「一種のステイタス」であったのです。

「家紋ステイタス」と連動してその「宗派ステイタス」と観られて宗派は「古代密教」を掲げる「3つの宗派」でした。

天台宗密教、
浄土宗密教、
真言宗密教

以上です。

この3つは其々、又、「違う階級の氏」を宗徒としていました。

「青木氏」に関しては「浄土宗古代密教」を慣習として引き継いでいました。
あくまでも「密教」でありますので、「密教でない宗派」との「運営上のシステム」(四掟)が異なります。

{氏}が自らの寺を建立して、自らの氏の者の住職を立て、自らで運営し、自らの氏だけを祭祀する「排他的運営方式」ですので、「宗派の発展」は特定地域に限定する事に成ります。
この「菩提寺方式」が、これが「ステイタスの象徴」と成っていたのです。
その「菩提寺」に「寺紋」として「氏の家紋」を使う事に成ります。

「藤原秀郷一門では、この「浄土宗古代密教」ですが、「24地方」に赴任していますので、限定されたところにしか無い寺と成ります。
そうすると、一時的に浄土宗から派別れした「浄土真宗」に仮入信すると云う事が起こりました。

「24赴任地」に定住し勢力を拡大させた者は、多くは同様にその地に「菩提寺」を建立しましたが、一時的な事が本宗と成ってしまった氏も一部に確認できます。
この様に「家紋と宗派」は、その欠かす事の出来ない二つの「氏のステイタス」であったのですから、簡単に「家紋も宗派」も「氏家制度」の中では変える事はあり得なかったのです。
それは「氏家制度」の中では、それまでの「氏の先祖の伝統」が切れてしまう事を意味しているのです。
これは「自らの伝統」を切る事は、「氏家制度」の中では「氏への冒涜の何物」でもありません。

これは一人の判断で出来る事ではありません。
今と違い「家紋と宗派」は生活に根付いていて、連動しての「氏の伝統の象徴」であった訳ですから「個人の判断」では困難です。
従って、「一定のルール」で維持した「家紋と宗派」を勝手に変えると云う事は有り得ない事だったのです。

因みに、「甲斐青木氏」に於いて「武田氏」が潰れる3年前に「改紋」と「改宗」をした人物がいて大問題と成りました。
その結果、「親子、親族間の争い」に発展したのです。
結局は、正子の「2人の子供」が、「浄土宗の菩提寺」を別に建立して、且つ、「家紋」を元に戻すという大事件が起こりました。
この様に「家紋と宗派」は氏家制度の中では連動して動いていたのです。

(注釈 五家五流の「賜姓甲斐青木氏」には、「皇族賜姓青木氏」があって、これを平安末期には、分家の清和源氏の「河内源氏」の「源の源光」と云う者がこの「青木氏の跡目」に入りました。
ところが、この「源光」の兄の「時光」は、「家」を興せず、遂に、「嵯峨期の詔勅」を使って「皇族系の源氏」である事を理由に朝廷の許可なしに「青木氏」を名乗ったのです。
この「時光系甲斐青木氏」が、勢力を甲斐で拡大し、{源光の賜姓甲斐青木氏}を凌いだのです。
「家紋と宗派のステイタス」の異なる「青木氏」が「甲斐」を抑え、これが本家勢力と分家勢力に分派したのです。
この「分家」が、更に、「分家の本家(A)」と「分家の分家(B)」に分派しました。
ここでも、分家の「本家争奪の争い」が起こり、「分家の分家(B)」が「家紋と宗派」を正当に戻そうとしたのです。
結局、(B)が敗退して北巨摩郡の山間部と柳沢に追いやられ衰退しました。
ところが、その後、武田氏が勃興し、本家勢力と分家勢力(A)が武田氏に味方し、(B)は織田氏側に味方したのです。
(B)は徳川氏に拾われて武蔵鉢形に移流され生き延びたのです。
この(B)を背負っていた兄と弟の二人の弟の子供が柳沢吉保(甲斐青木氏系)です。
この柳沢を名乗った「吉保(父は青木豊定)」は「家紋と宗派」を何とか武蔵に興し直したのです。
この様に、「家紋と宗派のステイタスを護る事」は最大の命題であったのです。)

ここでは、複雑に成る為に宗派の慣習を論じない事として別に機会があればその掟や社会慣習に付いて研究論文を記載する事にします。

「青木氏」に関しては室町末期から江戸初期前後に発祥した「氏の家紋」の「丸付き紋」と観られ、恐らくは上記した掟から「丸付き紋」と成るには50年から100年程度の期間が必要と成ると考えられます。
依って、江戸初期から江戸中期前までに分家化したものと考えられます。
江戸中期以降は、政治的に安定期に入り「家紋と宗派」も当然に安定化に入り、「新たな姓の発祥」は「青木氏」に関わるものとしては考え難いのです。
(幕末から明治初期に調査編纂された資料による為に「家紋掟」による以後の家紋の変化は未確認)

江戸末期には、「家紋掟の遵守」が低下した事から「丸付き紋」にする氏や姓がどれだけ居たかは疑問です。
多くは、「藤原秀郷流青木氏の末裔」が、室町末期から江戸初期にかけて「家紋掟」により新しく発祥させた「氏の丸付き紋」と観られます。
(この資料は室町末期と江戸初期の第3氏の青木氏も含む)

以上は、「氏家制度の社会慣習」の中で「家紋」に関する各氏の定めを凡そ共通する内容をまとめたものです。
特に「丸付き紋」を中心に考察したものです。

(注釈)
「家紋」による「ルーツの解明」も然ることながら、「戸籍」による解明も可能ですが、
「戸籍」はその「ルーツを紐解く要素」が必要です。
それが「氏名又は姓名の継承」でありますが、氏名の戸籍の歴史は最も古いもので「天智天皇」の「大化の改新」の時の一つとして「戸籍簿」、又は「人別帳」成るものが作られました。
これが最初で「日本書紀」にもこの事が記載されています。
この時の戸籍簿たるものは、主に氏の出自を目的とするものでは無く、税の「租庸調」の課税対象者を設定する為のものでした。
その税の最低年齢が男6歳とした為に民衆の不満が爆発したと記録にあり、むしろ「戸籍」と云うよりは「人別帳」の「色合い」が強かったのです。

然し、これも「平安期の荘園制度」が確立する事に成り、「荘園内の事」はその「荘園主の持ち主」のものとして扱われた事により次第に公的なのものは消滅しました。
矢張り、その一時的な「人別帳」的なものとして使われた様です。
然し、「荘園の民」はその「氏名の継承」は有りませんので、次第にルーツの概念が薄くなり無くなり江戸末期までこの状態が続きました。
あるとすれば「村の庄屋」が取り扱う「人別帳」程度であり、「武家」を構成し支配階級の中級以上の「武士の身分」と「権威の保全目的」からでした。
その「氏」の「氏寺」、即ち、「菩提寺」が「過去帳」として「戸籍簿」を管理する習慣に成って行ったのです。

これに対して、室町初期から中期には「下克上」が起こり、この支配階級の社会制度を崩壊させて、力のあるものはこの中級以下の武士が取って代わろうとしました。
その為に多くの元の支配階級のこの様な権威を示す物件の焼き討ちや取り壊しをしたのです。
その結果、「家紋と宗派」に連動する「権威を代表するステイタス」の「氏寺」を含む等のものが消失してしまいました。
又、江戸時代から明治の初期まで250年以上続き、多発した「民衆の一揆」もこれらの「武家の武士」ではなく「下級武士」を含む「民衆の権威への抵抗」が起こり、この2度による「事件」と「反動」で「戸籍や人別帳」による「ルーツの解明」は困難と成ってしまっているのです。
それに耐えた「特定の地域」や「氏の権威物件」だけが遺される結果と成ったのです。
その意味で、「皇族賜姓族5家5流青木氏」や「藤原秀郷流青木氏等」は、「不入不倫の権」とその勢力に護られてある程度その難を逃れました。

(むしろ「民衆の一揆」の経済的支援はこれらの難を逃れた「氏」が「シンジケート」を使って裏から支援を行っていたのです
この様な歴史的経緯から、その意味で「姓名」を持つ事を命じた「苗字令3年」や「督促令8年」の明治維新体制が確立するまでの間は、「戸籍簿」に代わるものとして「過去帳」や「氏寺菩提寺」等の存在はルーツ解明には重要な要素に成るのです。
そして、この「氏名」等の歴史的経緯と「家紋と宗派」とその「習慣」は無関係ではなく連動しているのです。

(これ等に関する詳細は研究室関連レポートに記載しています。)