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  [No.268] 青木氏と守護神(神明社)−1
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/02/09(Wed) 13:09:10

青木氏と守護神(神明社)

副題 「神明社」「融合氏」「物造り」

序(ルーツ解明に思う事 雑学の根拠)
なかなかルーツの歴史を辿ると云う事は難しいです。
知識の積み重ねが何かのヒントとして役立つので色々と広範囲に雑学を会得する事が先ず大事で他に方法がない気がします。ルーツを辿るにしても、その歴史の中ではいろいろな事が起こっています。
ただ「系譜」を通り一辺に探し当てる事は容易でなく、まして簡単に信用できない歴史的なことが「氏家制度」の社会の中では起こっているのです。まして「下克上、戦国時代」と云う事の真偽が確認できない程の乱世か起こっているのですから、その中から糸の縺れを解くように答えを導き出すにはその時代のより多くの「雑学」を把握するしかないのです。そして、その「雑学」をいろいろと組み合わせて推理し「矛盾」を思考して排除して初めてルーツがその先におぼろげに観えて来るものです。
特に江戸期に作られた資料や文献には多く虚偽の資料が多く、信じて研究するといろいろな所で矛盾が出て来るものです。より「雑学」を把握すればする程にそれが観えてきます。
それをフィルターの様に「事実と虚偽」を「篩いに掛ける事」が必要で、「残った物」を史実として遺し整理する作業事が必要に成ります。個人が単純に「我が家のルーツ」をテーマにこの期の資料で辿ると神代のルーツの様な矛盾だらけのルーツが出来てしまいます。それはそれで個人の範囲で納得をしていればそれは良いことだと思いますが、この多くは「下克上、戦国時代」に伸し上った氏が家柄身分を良く見せようとして「搾取偏纂」をして創り上げた結果に依ります。それを元に編集したのが「・・系譜本」と呼称されて遺されているのです。
しかし、小説なら兎も角も本サイトの史実のお尋ねのお答えとしては難しい事に成ります。
そこで、「青木ルーツ掲示板」にお尋ね頂きました事にお答えを正しく出すというのはなかなか範囲が広くて説明が難しいのです。当然にお尋ねする側から見れば情報が少ない事だし、その情報の原石があってもそれを磨き上げて全うな情報とするにもそもそも難しいし、お答えする側としても「個人の範囲」としてのお答えをする程の処までの知識は無いと思うのです。また世間に於いても無いと思います。古来より其処(個人の範囲)まで整えられた社会体制ではなかった筈です。
まして、「氏家制度」「封建社会」の社会習慣や考え方と現在の自由な社会とではある事の捕らえ方ひとつが全く異なります。奈良期、平安期、鎌倉期、室町期、安土、江戸期、明治期とではその期毎に「習慣や考え方」が異なっているのです。
現在から古代過去を観る時、”現在の視点で観てしまう”と云うついこの間違いを起してしまいます。
これが問題なのです。その時々の人の自然の悩みや自然に起こっていた資料に載っていない様な社会情勢を見抜く事が出来ないのです。当然に先祖の「生き様」や「悩み」も判らなくなります。

しかし、そこでまあ楽しみの一つとして正しく何とか知る範囲で書いて見ようとすると、「脳の反応」が硬くなり「雑学の記憶」が出てこないと云う事が起こります。実はこれが序文の問題なのです。

「脳の反応と雑学の取得」
上記の事は「人間の脳」が起こす忌まわしい「性」(さが)です。
この「性」(さが)を何とか克服する必要に迫られます。
そこで、私は次ぎの様な事をします。

 「3つの脳」の「思考訓練」
第1番目に、何でも良いから「雑学量」を増やす事。
第2番目に、それを「系統的」に分別して覚える訓練をする事。
第3番目に、覚えた事の幾つかを引き出し「組合せ」をする事の訓練をする事。

第1番 これはある期間を限定して納得できる程度にある事の範囲に付いて「読み漁り、調べ漁りする事」で出来ます。
第2番 これは覚える時にそれに纏わる何か「印象」を遺す事で出来ます。
第3番 これはその都度「人、時、場所」の3要素でその重要度、関係度のような事で発想訓練をする事で出来ます。

筆者はこれを「3つの脳」の「思考訓練」と呼んでいてこの「習慣」の特技を身につける事となります。

そもそも「人間の脳」は本来このパターンで思考する仕組みに成っています。
これが他の動物と違う「知恵の差」と成るのです。人間に於いての差も「訓練の有無」に依ってその差が出ている事に成ります。
身近な事では、最も判りやすい例として「受験勉強」がこれに当り、それをまとめたものが「・・参考書」と成ります。これをより多くマスターし、試験問題に適用する事と同じに成ります。
私は幸い「物理系の技術屋」であった為に仕事柄で朝から晩までこの繰り返しでした。
 「経験談 物造りの例−1」
どう云う事かと云いますと、ある市場に完成製品の問題が起こります。そうするとその発生原因を究明する為にあらゆる現象を思い浮かべ想定し試験し検査し原因を特定して行きます。これには広範囲な技術的な知識が必要に成り、その知識を瞬時に思い浮かべると云う能力が要求されます。
因みに、判りやすくする為に参考として経験談述べますと、例えば皆さんがお使いの自動車のブレーキのクレームが起こりました。
先ず普通では考えられない事なのですが、ブレーキに摩擦を起させてタイヤの回転を止める焼結金属で出来たライニングがありますが、このライニングを取り付ける鉄の板があります。これをパットといいますが、この何枚かある内のひとつにライニングが取り付けられた金属板(パット)が板圧方向に平行に二枚に割れてしまってブレーキの効きが悪くなったという問題です。
(焼結金属とは金属を粉にしてそれを型に入れて形にして熱を掛けて固めて均一な部品を生産する方法です)
調べた結果、金属を精錬する際に、不純物が金属内に残った結果なのですが、不純物はJISで決められた範囲に維持しているのです。普通はこの不純物を精錬で取り除きますし、もし残ったとしても溶融している時に「リミングアクション」と云う金属に起こる自然現象でインゴットの上部にこの不純物が集まりこれを強制的に取り除きますので起こらない筈なのです。
しかし、この不純物の一部が何等かな理由で金属板の中央に残り、それが圧延時の何度もの加熱で板圧方向に広がり不純物が均等に分布するという現象が起こったのです。
これは専門的には特異な現象で「バンドストラクチャー」と云う現象なのですが、普通余り技術的に知られていない事でもあり、かなりの専門書でなくては文献等には出て来ないものです。
この板を使って部品にするには適当な板圧に圧延されたフープ材(円状に巻いた鉄の板)からこの金属板をプレスで打ち抜きます。この欠陥を持った金属板の不純物現象のところにプレス圧力が掛かり、目に見えない程度に衝撃亀裂が起こります。普通は仮に不純物の欠陥があったとしても何の問題も起こりません。金属を剪断する時は板圧の4−8%の範囲(クリアランス)で切り口を入れると鉄板は後は軽い力で押すと自然に切れ落ちるのです。ところが、これを多くしたり少なくしたりするとこの金属にはその「金属の特質」を超えたところで致命的な欠陥が起こるのです。それは上記したイオウやリンや銅等の不純物がある事に依ります。まして上記の「バンドストラクチャー」等の現象が起こっていると尚更です。そこにこのブレーキの繰り返し荷重と振動が金属板に掛かり、この「バンドストラクチャー」に均等分布する不純物の一つに剪断範囲を超えた力が掛かるとミクロの破壊が起こります。
そして、次々と分布する不純物に破壊が連覇して遂には金属板が結果として二枚に成ってしまった現象でブレーキの効きが悪く成ると云う致命的な危険な現象です。一般に知られていませんが全ての金属にはこの難しい特質範囲で出来ているのです。
これを電子顕微鏡で見る前の処理として「サルファプリント」や「ナイタールプリント」と云う特殊な検査方法で調べると、丁度、サンドイッチの様な模様に成っていてその中央に不純物らしきものが点在してピカッと光るものが見えます。サンドイッチの中味は約0.5ミリ程度の薄く薄灰色の模様として見えます。これが不純物の集合体でその物質はシリコン、イオウ、リン、銅と炭素の一部が組み合わさったものです。
この不純物は原鉱石の中に含んでいるもので、この不純物があると金属は脆く成ります。
普通はこの不純物は0.03%以下でなくては鉄は成り立ちません。
これを無くす綜合技術が優れているのが日本の鉄製品の良さで、これを「ラミネーション」(薄板)と云いますが、他国ではこの現象を無くす事は出来ないのです。外国に輸出される薄板製品で自動車関係等の精密なものに使用されます。この進んだ「ラミネーション薄板」には「リムド」と「キルド」と云う2種類の板がありますが、キルドはこの現象を無くした鉄製品で高価です。普通に使用されるのはリムド(自動車関係部品等に使用)です。
 「経験談 物造りの例−2」
この様な「日本の技術」は「雑学技術」から技術者のこの「3つの脳」の「思考訓練」で解決されて良い品質の物が生まれて行くのです。

その最たる綜合物のもう一つの良い例は「日本の新幹線」です。
実はこの新幹線にも上記と同じ事が起こっていたのです。
この事は未だ日本の高速新幹線が走る前の開発段階の事で、未知の高速のタイヤにブレーキを掛けると云う未知の技術で、ブレーキ開発段階の時にこの現象問題が「新幹線ブレーキ開発」にも及び特に問題に成りました。
新幹線はブレーキを掛けた時に高速の為に400度位に繰り返して成るのですが、この金属板にこの「バンドストラクチャー現象」(1)があると、更に加熱されて温度分布の差と繰り返しの「熱にての破壊」(2)(熱疲労や熱脆性破壊)が必ず起こる事が予想されていたのです。
特にこの350-400℃ではイオウやリンが反応して「ステッドブリットネス」と云う第1期の「脆性現象」を更に起こす「危険特定温度領域」(3)なのです。またあらゆる金属は繰り返しの熱過熱が起こると「熱疲労」と言う現象が起こり破壊します。その臨界限界が300度以下なのです。
この「3つ問題」を解決しないと新幹線のブレーキは効かず走らせる事は出来なかったのです。普通は無理なのですが、そして更にはこの金属板を車体のブレーキ本体に取り付ける方法も熱問題や脆性問題等の同じ上記の問題で困難を極めたのです。(4)
普通は考えられるボルトや溶接やリベットなどの固定方法では熱で「3つの問題」と「軟化」が起こり強度が持たない事が考えられ、この「現象の特定」と「原因の究明」とその「後の解決策」が無ければ今の新幹線は走らなかった筈なのです。(「物造り日本」)
勿論、日本人はこの特技の「3つの脳」の「思考訓練」で解決したのですが、今でも日本以外の先進国の高速新幹線は遠くからブレーキを掛けないと効かないのはこの辺の開発が出来ていないからなのです。日本の新幹線だけです。
この知識としては冶金学、材料力学、化学、金属学、熱処理学、ブレーキ力学、破面工学、塑性工学、自然力学などが働き、何れもが広範囲な「高い専門知識」と「熟練技術」が要求されます。
先ず、常識的にこれだけの学問を習得している技術者は、専門化しているために居ないし、文献の殆どが専門領域に限定されているもので、これだけの範囲で綜合的に研究されて解析され説明されているものは有りません。ですから、直ぐに外国が真似の出来ないノウハウであるのです。
反論として、最近の急に出てきた韓国や中国の新幹線があるだろうとするでしょうが、実はこれには落とし穴がありこの様なノウハウに追いつくことは出来ないのです。
新幹線やロケットは「総合力」」ですから「物真似」だけでは殆ど作れないのです。そこで”彼はではどうするか”と云う事に成ります。
それは新幹線の「日本の部品」を殆ど単体購入して自国で組み立て一部の可能な部分を取り付けて国産のものとしてしているのです。当然に彼等の「人工衛星」もロシアから主要な部分を購入しているのです。
これを専門的に「OEM生産」と呼ばれます。この「OEM」で政治的な自国の国威発揚を図っているのです。日本は自国製品です。「3つの脳」の「思考訓練」の結果です。
日本はこの「特技」を生かした「物造り」を成し経済的な発展を成し遂げたのですが、彼等は日本を始めとする「外国資本」の「技術の持込」と「OEM」で成り立っているのです。

 「ルーツ解明」と「3つの脳」の「思考訓練」
下記に述べる様な「ルーツ解明」も全く同じで「3つの脳」の「思考訓練」に依って解明されてゆくものです。敢えて上記に例を挙げてくどくどと記述しているのは、「ルーツ解明」には上記知識と同じ様に、「考古学」や「歴史学」等の様により多くの広範囲な知識の「歴史知識」(雑学)が要求され、その中には大変重要な事が多く潜在しているからです。
例えば、当時の「生活様式」や「考え方」や「常識」や「慣習」や「仕来り」や「掟」や「身分」や「家柄」や「宗教」や「学問」等人間が生きて行く上で必要とするあらゆる「行為」の知識が学べるのです。そして、これ(雑学)が「ルーツ解明」の「紐解き」や「真偽選別」の道具に成るのです。
恐らくは「平成の事」も未来から観ると、「雑学」の一つに成る筈です。
その「平成の雑学」と「平成前の雑学」を「ルーツ解明」と云うキーワードで遺しておけば一つに繋がる事が出来、それは連続した「歴史」、即ち「伝統」と成る事に成ります。
少なくとも、「青木氏」の範囲に於いて、文科系の人には目を覆いたくなる様な例として技術的な事をくどくどと述べたのもその「青木氏の人たち」の未来に遺す「平成の雑学」の意味を持ちます。
そもそも、この「判断材料」の「雑学」の会得は「目を覆いたくなる事」そのものなのです。
文科系の得意の人は技術系が苦手、技術系の得意な人は文科系が苦手。しかし、「ルーツ解明」にはどうしても両者が必要なのです。バランスの取れた、且つ正しい「3つの脳」の「思考訓練」を成すには絶対不可避なのです。
研究室には他にも青木氏ならではの「色々な論文」(雑学)を遺しています。
その雑学行為(「3つの脳」の「思考訓練」)で「日本の伝統」況や「青木氏の伝統」を「解き明かす事」が、”日本そのものを生き遺させる仕儀の一つに成るから”と考えているのです。
ともあれ、残念ながら何処にも「ルーツ解明」の要素が一つにまとめられた「受験勉強の参考書」の様に「文献、参考書」としてのものが無いからで、それを「一つにまとめる方法」は個人努力でこの「3つの脳」の「思考訓練」による以外に他に方法が無いからです。
これ等の要素は普通はばらばらの「常態」で存在しているのです。故にこの「努力」が欠ければ「日本の伝統」は現状のように必然的に消えて行く運命にあるのです。
現在の「伝統消滅」の有様は、この「3つの脳」の「思考訓練」の「努力」が足りないか無い事ですが、「技術立国」(物造り日本)として余りに「技術」に偏りすぎた為に「伝統消滅」を起し、多くの「社会問題」を発生させているのだと考えているのです。

  「技術立国」(物造り日本)と「熟練技能」と「熟練技術」
上記した「技術立国」(物造り日本)の構成を考えた場合、「熟練技能」と「熟練技術」に依って構成されていると考えます。これは「日本人の特技」とされながらも「熟練技能」と「熟練技術」で生きていかなければ成らない(下記に理由を述べます)古来よりの「日本の宿命」でもあるのです。
そうすると、当然に「技術側」(技能側)に偏りが起こります。
これも仕方の無い事とは思う事なのですが、然りながら故に、日本の「技術の伝統」は「3つの脳」の「思考訓練」で成されていても、偏り過ぎで「心の伝統」関係は消えて行けば”日本は日本で無く成るは必然”です。
無くなれば論理的に「技術の伝統」も消え去る筈です。しかし、まだ消え去っていないのですから「心の伝統」は「何がしかの工夫」で維持されている事に成ります。
では”それは何なのか”と云う疑問が起こります。
この「心の伝統」が本論の目的(これが下記本論に示す「守護神」等なのです。)
詳しくは守護神「神明社」のところで論じますが、それをより深く理解を得るためにそこまでに至る論調を追々述べて行きます。
先ずこの事についての筆者の考え方は数式に表すと次の様になります。

A「技術の伝統」+「心の伝統」=「日本の伝統」=「日本の特技」=「技術立国」(物造り日本)
B「熟練技能」+「熟練技術」=「3つの脳」の「思考訓練」=「技術立国」(物造り日本)
故に「A=B」

つまり、筆者はこの「技術の伝統」(物造り)と「心の伝統」(神明社)は表裏一体であると考えているのです。故に「守護神の神明社」本論を論じる場合はどうしても「A=B」を論じる事になるのです。
このAの表裏一体の「2つの領域」を「熟練技術」(上記した技術例)の様に高い位置に遺す事が必要と考えていて、一方の「心の伝統」を「一人の努力」として「狭い範囲」ではありますが「青木氏の範囲」で本論文の調査に入ったのです。

全くの素人であった故に、初期はその調査に入る方法が判らず、止む無く「技術屋の特技」を生かして”手法「3つの脳」の「思考訓練」”で入ったとするところです。これが序文「雑学の根拠」であります。取りも直さずこれは「雑種の優位性」(下記)の「日本人の特技」でもあるのですが。

  「物造り日本」と「技術立国日本」
いずれにしても、「ルーツ解明」や「技術解明」にしても、それに必要とするどの学問一つ欠けてもこの問題解決の原因が判らないのです。原因が判らなくては「クレーム」や「ルーツ」が解決出来ずに「企業存亡」や「伝統消滅」に至り、否、これは「日本存亡、又は衰退」に関わり至る事なのだと思うのです。
ともあれ、これらの何れの学問の「雑学知識」を保持するだけでは「解明」は出来ず、それには上記する「3つの脳」の「思考訓練」の熟度が無ければな成らないと考えています。
「専門職」や「専門家」としては大変な仕事ですが、この様な事が「高い努力」に依って現在も解決されて「日本の技術」や「日本の伝統」は世界に冠たる位置にあるのです。

(「3つの脳」の「思考訓練」の熟度」)+「雑学知識」=「解明」

ここで「技術面」で観れば、「資源の無い国」でありながらも、不思議に日本の「資源の学問」域は世界的にトップ域であり、その応用域の「綜合技術」(例えば「ブレーキ関係産業」等)の置かれている立場も世界に冠たるもので、当然に上記「8つ程の学問」とその業界も侵されないトップクラスなのです。他の産業域もほぼ同じであると観ています。
つまり、「物造り日本」と「技術立国日本」は”「造る事」のみならず、その「資源の学問」も「学問立国」でもある”事なのです。

「物造り立国」+「学問立国」=「技術立国」

この数式が成り立たなければ中国、韓国の新幹線、ロケットは出来得ないのです。故に彼等は「OEM」なのです。仮に、純正であるとするならば、学問域でも「ノーベル賞」を取得出来る筈でそのレベルがどの程度かを確認する出来る事です。技術面から、部品を外から観て真似を出来るほどではそれは高いノウハウではないのです。単品のブレーキ部品でも絶対に真似の出来ないノウハウは私が知る範囲でも5つ程度もありそれを作り上げるノウハウの特殊な生産設備も無い筈で上記の例の様に一つではないのです。それらを作り上げる生産設備を含む経費は莫大で短期間で出来るものではないのです。日本から購入した方が割安で「相互依存」になり、彼等にとってはその目的は「海外に向けた宣伝」と「国威発揚」の政治的手段に他ならないのですから、「時期を重視」する必要があるのですから莫大な経費をかけてのものではないのです。
彼等の「国民性の考え方」は「国は面子」「石は薬」「法より人」の常識ですから「莫大な経費」より容易な「購入の相互依存」を選択するのが採るべき手段なのです。
「部品単位のOEM」は日本にとっては生産コスト削減には成り、実質日本製に他ならないのです。

これは先輩諸氏、否、先祖による「3つの脳」の「思考訓練」(「熟練技能」「熟練技術」)の努力による功績で他国が侵す事の出来ない領域まで到達させたのです。
しかし、これを今後コンピーターによる激しい速度の「学問の進歩」に合わせて、「造る事」が持ち堪えて行けるかは「遺伝的な日本人の特技」の「引き出し努力」にある事は明らかです。
つまり、その「引き出し努力」とは「3つの脳」の「思考訓練」」(「熟練技能」「熟練技術」)であると観ているのです。
「物造り」+「学問の進歩」=「技術立国」

つまり「物造り」は「学問の進歩」を連動させる事が絶対条件なのです。
だとすると、その「物造り」の概念を時代に合わせながら明確に把握する必要があります。
「物造り」=「熟練技能」+「熟練技術」

故に、「物造り」から「エキス」を引き出したとすると、この二つの概念から下記の数式が成り立っています。
「熟練技能」+「熟練技術」+「学問の進歩」=「技術立国」

この「物造り」には「普通の技能と技術」も当然に潜在しますが、日本が必要とする「物造り」は「普通の技能と技術」を軽視できませんが、コンピューター時代の基礎の進化で補う事が可能な領域です。(下記)

A「遺伝的な日本人の特技」=「3つの脳」の「思考訓練」=「引き出し努力」
B「熟練技能」+「熟練技術」=「物造り」=「3つの脳」の「思考訓練」
A=B

  「A=B」の検証と詳細な「経緯」
そこで、ではこの数式の歴史が”何時から始まったのか、何処から導入したのか、誰が推し進めたのか”と云う疑問が先ず理解を深めるためには必然的に起こる筈です。

実は調べてみると、結論から云えば、この努力(「引き出し努力」)の始まった明確な時期は、何と「青木氏の発祥」(「大化改新」)と一致し、その「造る事」「資源学問」は皮肉にも中国(後漢)だったのです。そして、その推し進めた人物は当然に中大兄皇子だったのです。
  
「後漢」の「光武帝」より末帝の21代「献帝」の子供「阿智使王」と孫の「阿多倍王」が17県民200万人の「技能集団」(職能集団)を引き連れて北九州に上陸し瞬く間に日本66国中32国を無戦征圧した時から始まったのです。
それまでの奈良期初期前では「物造り」と云う影は無く、むしろ「原始的な日々の生活」を続ける漫然とした体制であり、蘇我氏等による一部の政治的思惑の範囲で国揚げての政策範囲というものは無かったのです。日本統一は当然に未だ無く「7つの民族間」の争いの中にあったのです。

しかし、その環境の中に突然、主に中国から渡来人が続々と襲来し始め、後漢の帰化人が第1期と第2期とに渡り入国するに当り、「日本の民」はその進んだ技能を後漢の渡来人に積極的に進んで学び、進んでその配下に入りした結果「無戦」と云う形で瞬く間に関西以西全土を彼等の帰化人が支配すると云う現象が起こったのです。この時、民は生活の向上と国を主導できる彼等に陶酔して行ったのです。
全ての青木氏の元祖の中大兄皇子はこの有り様を観て、国体の全体の有り様に疑問を持ったのです。
そして、その思いから蘇我氏を討ち「大化改新」を推し進めるのです。
しかし、この時、彼には別の大きな悩みがあった筈です。
その32/66国の「軍事、経済、政治」の勢力と民から慕われる彼等を観て、為政者である限りただの想いだけでは絶対に済まなかった筈です。
この時、史実から観て国内には次ぎの様な国難が起こっていたのです。

  「国難」
1「蘇我一族の横暴」「天皇家を脅かすほどの脅威」と「天皇家の無力化」
2「国の漫然化」 国を豊かにし、国の安寧を計る国策の無さ 「民の疲弊」が起こる
3「民族氏間の争い」「7つの民族」が40程度の「民族氏」に拡大し「民族間抗争」が起こる。
4「朝廷内の抗争」 蘇我氏一族と反蘇我氏一族の抗争が起こる
5「後漢の民の動向」 その勢力は朝廷を凌ぎ日本の半分は支配下 「独立国の懸念」が起こる。

しかし、この5つの国難の内、大和国で無く成る「最大の懸念材料」は矢張り「後漢の渡来人の動向」であり、他4つは「国内の腐敗」によるものであり、リスクから観て彼の頭の中では、最大の問題であった筈です。

彼等の「軍事と経済の勢力」と「民」から慕われるその「支配形態」から観て、日本に「後勘の独立国」が出来てもおかしくなかった筈です。まして国内では「4つの崩壊する要素」が潜在していたのですから「独立」の方向に進むのが「自然の流」であった筈です。

そもそも「独立」とは「1から4」が在って起こるものです。
「1+2+3+4」=<「独立+5」
上の数式が成り立てば、為政者は危機感を感じ考えない方がおかしいの筈です。

中大兄皇子は蘇我氏を倒して「大化改新」を実行した決断力、胆力、頭脳明晰な天皇です。
「1+2+3+4」=<(「独立+5」)

ところが、幸いに「帰化」と云う形で納まったのはこの「日本の民」を巻き込んだ「無戦征圧」が原因しているのです。
(「独立」+5)=<「日本の民」+「無戦征圧」

故に、次ぎの数式が成り立つ事になる。
「1+2+3+4」=<「独立+5」=<「日本の民」+「無戦征圧」

とすると、右が<であるので、ここで、当然に、「阿多倍王の判断」が左右した筈です。
「阿多倍王」はこの数式が成り得た場合、”「独立」が可能か”を考えたのではないかと想うのです。と云うよりは、「独立は可能」だが「独立後の施政」に問題が出ると観たのではないかと考えられます。

「唐国」と崩壊寸前の隋国に西から圧迫を受け、遂には618年に滅亡し、軍隊と共に日本に後漢の漢民族の全てを引き連れて渡来したのです。
”「独立国を新たに造ろう。軍事、経済力、政治力の弱い大和の国なら潰せる」”と考えていた事は自然である筈です。まして、「漢国」が滅び東に移動して「朝鮮国」北部を征圧して「後漢国」を造った歴史を持っている民族です。疑える条件は何も無い筈です。
まして「阿多倍」は入国した主力の在る北九州に住まいせず南の薩摩大隈に定住したのです。
何故でしょう。恐らくは「独立国」にした場合に「大和から最も遠い所」に首魁を住まわせるのが「戦略の常道」です。そして、この薩摩は民族的に穏やかな「太平洋族」と、「ベトナム系民族」とその系列の「漢民族」の移民地なのであり、元を質せば半分は中国系民族で構成されていた安全な地域なのです。つまり、ここに定住した事は明らかに当初は「独立」を考えていた事に成ります。
(その史実は下記)
しかし、彼等は帰化したのです。「帰化」に決めても彼等集団の中に「乱れ」が起こらなかったのは「200万人を統制する絶大な力」があったことを意味します。

   「中大兄皇子の考え」
そうすると、一方「中大兄皇子」は1から5の悩みの中で起すべき態度は決って来ます。
「独立」と「帰化」の中で、それは1から4を粛清する事以外に彼には「解決の道」は無い筈です。
そうなると「蘇我氏を滅ぼし政治の体制を改善する事」以外にありません。
そして、考え出した改善策とは「大化改新」策なのです。(研究室大化の改新レポート参照)
その中では、当然に考える事とは「1−5に対する施策」(「改新の詔」)と成ります。
つまり、「改新の詔」とは別にこれに関する「4つに関する付随政策」(勅)を別に実行しているのです。
それらを上記した技術屋的に解析すると、それには関連する「一つの道筋」が見えて来ます。それが、「氏融合策」なのです。

A「改新の詔」概容
1 公地公民制度
2 統一地方行政制度
3 戸籍、計帳、班田授受制度
4 統一税制制度

B「付随策」概容
  「皇位継承制度の変更」
  「東国国司制度」
  「男女の法」
  「冠位の制」
  「葬祭令」
  「食封」
  「八色の姓制度」
  「三蔵の制定」
  「天皇の近衛軍の創設」
  「部経済方式の創設」
(本文に関係策のみ記述)

C「政治課題の改革策」概容(上記重複)
1「大豪族と東漢族の横暴」「天皇家を脅かすほどの脅威」と「天皇家の無力化」
2「国の漫然化」 国を豊かにし、国の安寧を計る国策の無さ 「民の疲弊」が起こる
3「民族氏間の争い」「7つの民族」が40程度の「民族氏」に拡大し「民族間抗争」が起こる。
4「朝廷内の抗争」 蘇我氏一族と反蘇我氏一族の抗争が起こる

政治課題1に付いては、先ず「蘇我氏」を討ち天皇家に政権を取り戻した後に、朝廷の経済と軍事の疲弊の元凶と成っていたものを改善する為に、空かさず「皇位継承制度」の全般の変更を行います。

  「主な変更点」
第4世皇族継承(第6世より)
第4位皇子まで皇位継承権(真人族 第6世より)
第6位皇子の賜姓臣下(朝臣族 新設)
第4世守護王(宿禰族 第6世族より)
第7世平族(新設)
第5世王、第5位皇子、第6世族はその中間位とする。

(後の7代後の嵯峨天皇は、女系天皇が続いた事により「皇位継承者」が激減した事で継承権を敢えて第4世族に変更する。例、天智天皇から5代後の光仁天皇は第6位皇子の施基皇子の子供 例外で継承し次ぎの子の桓武天皇に継承−平城天皇−嵯峨天皇)

それまで実施されていなかった「氏融合策」の「賜姓臣下策」を除き「第6世族」までを全ての対象としていたのです。しかし、これでは「大蔵、内蔵」の「財政」は耐えられず「朝廷の弱体化」を食止める事は出来なかったのです。そこで、先ず「皇位継承制度」を詳しく見直したのです。

これらCを背景にしてAとBを観察すると、次ぎの関連する政策が実行されています。
「改革策」
「付随策」
「変更策」
以上があります。

政策を単純にならべると”そんな物か”と見えますが、特技とする上記した「3つの脳」の「思考訓練」によりそれ等をよく分析して関連性を調べると、実は色々な「複合的な関連性」があり「政策的意味」を持っていることが見えて来ます。
先ず上記した「改新の詔」の4つを観ても、「Cの背景」が存在していれば「絵に描いた餅」に過ぎません。
「改新の先決問題」は要は全て「Cの背景」なのです。

「Cの背景」のその中でも、1に付いては先ず最初に手を着けるべきは、政治母体を完全に安全に保つ必要がありますから、彼の立場からすると先決問題として「軍事的な弱点」を改善する必要があります。
そこで先ず手を着けたのが「軍の編成」の点です。
天皇自らを護る一団の「近衛軍の創設」(イ)を実行し身内で護る事に成ります。
つまり、況やこれが天皇を護る為に身内の皇子にその任を課した「第6位皇子賜姓制度」(青木氏)」(ロ)と成りますから、これが「近衛軍」に相当する訳です
これには、更に別の目的として、分析類似点を調べると次ぎの様な「関連性」が見えて来ます。
「皇族」から「臣下」させて初めて「侍」としたとありますから、つまり、「民間」の中で「侍」として「皇族」から「独立」し、「身分家柄」を得て「氏」を形成する訳ですから、「氏の融合」策(「八色の姓」策併用した)(ハ)を率先して図る役目を得た事になります。又、それは強いては朝臣族とする「民間のトップの位置」を得ている事ですから、その立場を利用して「力」を発揮すれば「民族間の勢力の削除」をも図る事にも成ります。
そこで、これには実行するに必要な「経済的な裏づけ」が必要です。
そこで、殆ど「蘇我氏と物部氏」の主要豪族に所属して牛耳られていた「物造り」の「部」を制度化(ホ)を実行します。これを「公地公民」で「朝廷の政治組織」に組み入れたわけですから、今まで「民族氏」が占有していた「物造り」から生まれる「財力」を獲得できます。
依って、その「財力」で政治的に課せられた次ぎの役目は果たせる事に成ります。

青木氏の政治的任務
「近衛軍の発祥源」
「賜姓族の発祥源」
「侍の発祥源」
「朝臣族の発祥源」
「武家の発祥源」
「融合氏の発祥源」
「皇祖神の守護職発祥源」

これらは次ぎの施策から読み取る事が出来ます。
「近衛軍の創設」(イ)
「第6位皇子賜姓制度」(青木氏)」(ロ)
「氏の融合」策(「八色の姓」策併用)(ハ)
「民族間の勢力の削除」(ニ)
「物造り」の「部」を制度化(百八十部 ももやそべ :180)(ホ)

経済的には(3)の補足策の「物造り」の「部」を制度化(ニ)して一度朝廷に納品させた上で市場に供給する画期的な「経済方式」を始めます。
この為にはこれらを「公地公民制度」にして豪族からその「経済的背景」を削除して勢力を低下させて全て「国の管轄下」に起きます。
当然に「豪族の不満」は必然的に起こります。そこでこの「豪族の不満」を完全に封じ込める為に、俸禄を定めた「食封」(じきふ)と「冠位の制」と「八色の姓」制度(やしきのかばね)の「3つの策」を創設します。

  「3つの策」
1 「食封」(じきふ)とは、俸禄を定める事でそれに見合った力にさせ必要以上の力を封じた。
  つまり、「勢力の制限」を図ったのである。

2 「冠位の制」とはその者の冠位を授けて冠位以上の施政への関与を牽制した。つまり、「身分の  確定」による権力と行動範囲の限定を図った。

3 「八色の姓」制度(やしきのかばね)とは「氏の家柄」を8つに分けてその家柄に見合った職務  と権力を定めた。つまり、「家柄の統制」にて氏の勢力拡大の制限を図った。

このこれが後の「氏家制度」へと発展しその根幹と成ったのです。

以上が彼等豪族達の「立場」を「法」で縛ったのです。

要するに次ぎの施策と成ります。
「勢力の制限」
「身分の確定」
「家柄の統制」
と云う事に成ります。

「民族氏」の彼等は「法」のこれらに従わなければ朝廷側にその「大義名分」が出来ますので潰されることに成ります。これが「力の政治」ではなく「初期の律令政治への始まり」であったのです。
「天智天皇」はこの事にいち早く悟った事に成ります。

しかし、これでも彼等の「不満」は完全に抑える事は出来ません。そこで効いて来るのが、「近衛軍の創設」と、蘇我氏の「雇い軍隊」であった「阿多倍」の父の「阿智使王の護衛軍」(「職能軍の東漢氏」)を味方に引き入れて、初期の「朝廷軍の創設」を果たします。
そこで、帰化した阿多倍に薩摩の国を裂き「大隈国」を造り「半国割譲」(713年)し、更に「伊勢北部伊賀」を「半国割譲」(715年頃)して呼び寄せてここに住まわせます。
(日本書紀には「大隈の首魁阿多倍」と記されている。伊勢伊賀から出て来て天皇の前で踊りと相撲を披露すると記されている)
そして都に呼び寄せた「阿多倍」天皇自ら勲功し褒賞して「准大臣」に任じた上で、「敏達天皇」の孫の「芽淳王」の娘と血縁させます。
平安期の「桓武天皇期」(791頃)にはその子の長男に「坂上氏」を賜姓して「彼等の軍」を「朝廷軍」に組み入れ、「征夷大将軍」に任じて、「職能軍と阿多倍軍」から成る「強力な朝廷軍」を編成します。
(注)
(「蘇我氏討伐」の時、蘇我氏が雇い入れていた「東漢氏の職能軍」は中大兄皇子の呼びかけに岡から引き上げた)
(「朝廷軍」の主力は父の「阿智使王軍」と子供の「阿多倍王軍」の編成軍と成る:帰化人「後漢の軍」に相当する。)

(その後の経緯):この朝廷軍だからこそ国を統一出来た。
800年始めに一族の阿倍比羅夫と坂上田村麻呂が征夷族を以上4回に渡って攻め3回目で異民族のアテルイ一族が率いる民族を制圧します。(806)
900年代には秀郷一門が「鎮守府将軍」として鎮圧します。
1100年代には源義家が「征夷代将軍」として完全制覇します。
以北勢力は以上3回で統一する。

「民族性」の強い「民族氏」が以北に現存していてなかなか進まなかったのですが、以西は「帰化」、以北は以西の帰化人が「制覇」と云う珍しい形で「氏融合の基礎」を完遂させ、益々上記する「氏融合策」は進み日本全土は朝廷の支配下に入ります。
支配下に入ると云う事は一連の上記の政策が実行されるという事に成ったのです。とりわけ「氏数」と補足として「家紋」(象徴紋含む)の変化を観て見ると、この3つの時期を基点に「氏融合策」は3度に掛けて急激に進みます。

  「近衛軍創設」と「朝廷軍の創設」
 「勢力の制限」「身分の確定」「家柄の統制」の意味
「八色の姓制度」は、飛鳥−奈良期初期の「氏姓制度」から「氏の融合策」へと推し進める上で、更に発展させる上で、この改革をしたものですが、「国力」即ち、「公地公民」とした「物造りの生産力」に合わせた「氏数の制限策」をこの「3つの策」で実行したのです。

ただ「氏数」が無制限に伸びる事はそれに見合った「物造り生産力」と「部曲の農産力」が無くては争いが生まれます。そもそも「氏融合」の本来の目的からそれは逸脱する事に成ります。
それを「勢力の制限」「身分の確定」「家柄の統制」の「3つの策」で「許可制」にしたのです。
勝手に「氏」を起しても「身分」と「家柄」が与えられなければ「経済的裏付」「社会的な裏付」を得ることが出来ません。増やそうとすると結局、「朝廷の許可」を必要となります。
つまり、これは「物造り」の政策が拡大するに従って「融合氏」を増やして行くと云う戦略であるのです。この様に何度も力説していますが「物造り」と「氏融合」は連動しているのです。
  「物造り生産力 5倍(氏融合は5倍)」
とすると、この「時代の生産力」又は「経済力」の発展具合が判る事に成ります。
奈良末期から平安末期までには「氏数」が「20から40に、40から80に、80から200に」
変化したのですから、それに見合う「物造りの生産力」更には「部曲の農産力」が最低限あった事に成ります。奈良末期から平安末期まで約550年間に5倍に伸びた事に成ります。
鎌倉前記まで100年で「倍増の生産拡大」を起したことに成ります。
(部曲に関する政策の検証は別にします。)
「融合氏の政策」に伴なって「物造り生産力の政策」は力を入れた為に効を奏している事がこれで明確に判ります。故にこの「2つの策」は連動していると解いています。
もしそうでなければ、「食の争奪戦」が起こる筈です。「政治権力の争奪戦」が在ったにせよ「食の争奪戦」の事件はこの間にはありません。
起こったのは無政策による「氏数の拡大」によりこの連動関係が崩れた結果、「下克上、戦国時代」の室町期の混乱であります。つまり、「物造りの生産力」「部曲の農産力」の不釣合いから起こる争奪戦の「氏数の生き残り合戦」です。

例えば、藤原秀郷流青木氏119氏は「秀郷第3子の千国」が母方藤原氏を理由に朝廷からの青木氏の許可を得たのも、又「皇族賜姓青木氏」の血縁を持つ「5家5流の青木氏血縁11氏/29」も、「嵯峨期の詔」に準ずる「皇族青木氏」等もこの許可の下にあったのです。
元より北家一門藤原秀郷一門主要361氏もこの許可の下に発祥した「融合氏」です。中でも母方血縁による秀郷流青木氏の「氏の融合」の勢いは恐らく当時としては比較にならない「最大の融合力」であったのです。
本流119氏、永嶋34、長沼52、長谷川88、進藤48の青木氏の主要血縁族222氏

そもそも、元の阿多倍集団の帰化以来「部制度」(「物造り」の制度)の「部民制」(180部)は、「民族氏」の諸国の有力豪族が管理して「経済的潤い」を得ていて、その「経済的潤い」の下で民を「伴」(とも)としてこの「部民」(品部)を率いて「民族性の強い彼等豪族」が朝廷の「職務に奉仕する仕組み」であったのですが、これを朝廷に組み込んだものです。
依って「民族氏」の彼等を「伴造」(とものみやつこ)と呼んだのです。これを更に「国造」(奈良期の国司:くにのみやつこ)が管理統括する仕組みとしたのです。
これらの政策により「民族氏」は否定される結果となり、必然的に「融合氏」へと動き始めるのです。「八色の姓制度」等の政策で「民族氏の性格」に固持すると「家柄身分」を得られなくなり氏の存続は難しくなりますので動かざるを得ないのです。
「氏融合」策を戦略的に推し進めて「民族的」な傾向から「融合的」な国体の形に進める以上は、それを絶対対条件として「経済的に裏付ける制度」にしなくてはなりません。それには「部の仕組み」を確固としたものに作り上げる必要が起こります。

(参考 農民は”「部曲」:かきべ”と呼ばれた。 部制度の民を「品部」:”しなべ”と呼ばれた 「品部」の下に助手「雑戸」:ざこ 2段階制度に成っていた)
(氏の宗家の長を「氏神」ならぬ「氏上」:”うじがみ”と呼称し、その支配下にある一族一統は「氏人」:”うじびと”と呼称していたのです。後にこの「氏人」は一族一統の下にある「品部」と「部曲」までを呼ばれる事になった。この「品部」は室町期後半には職能集団の首魁の部名を採って「氏」(180)を形成した。)

実質は「八色の姓」の制度では、仕組み上「朝臣族」「宿禰族」の第4世族が天領地の国の「守護王」として置き、「国造」(くにのみやつこ:奈良期の国司)を指揮したのです。これが初期の「氏姓制度」から「部制度」と連動させて、更に「公地公民制度」と変化させて、これを管轄する氏の根幹を「八色の姓制度」で明確にして改革し「氏融合策」の推進過程としたのです。

 「氏融合の推進過程」
「氏姓制度」−「部制度」(物造り策)−「公地公民制度」−「八色の姓制度」−「氏融合策」

注目点として、「物造り策」と「氏融合策」と連動させたのです。
見逃してはならない事は、これが「経済的裏づけ」を生み「氏融合」を飛躍的に発展させたその「推進力、原動力」の猛烈な元となったのです。
これら「部」等を「国の管轄下」に置くことに依って「財政に対する全権」を握り、その上で「政治機構」を3分割にして「内蔵、大蔵、斎蔵」を明確にして「財政的根拠」と「権力の集約」をして「統括管理」を実行し易くし、終局、明確な「朝廷の財政的裏付」を図ります。

更に、この制度を「安定化」させる為に「改新の詔」の「2と3と4」と「男女の法」を定めて実行したのです。これで「民と支配層」の「不平不満」を抑えます。これを「管轄管理」する為に「東国国司制度」を定めて朝廷より官吏を送り「監視体制」を整えます。

「皇族賜姓青木氏」と「物造りの部制度」は同時に「Cの3」の解決策としての「氏融合」政策とします。この「氏融合政策」に伴い「庚午年籍」を定めて「戸籍制度」(ニの補足策)と「氏姓制度」(ハの補足策)を実行します。

飛鳥期ではそれまでは「氏」と云う概念が無く「民族氏」的な個人の「集団生活」を主体とした社会でしたが、これ等の連動した政策実行により「氏」は40程度に定まり初期の「氏家制度」が本格的に開始されて行きます。ただこの時、「氏」を無制限に拡大する事を避けた帰来があるのです。
それは「氏間の争い」を起こさない範囲限度、つまり、「監視出来る範囲」を考えていた事なのです。
この「監視出来る範囲」を配慮した「融合政策」を効果的にする為に「実務で補佐する政治システム」の「御史太夫制度」を定めます。つまり適時適切の臨時の「専任官僚」を任命した事に成ります。つまり指定する「地域」や「期間」を限って適切に「人選人事」をして監視する体制を施行したのです。「氏数」を増加するに伴ってこの固定制度では「専任官僚」を増やす事にも成り、結果として「経済的負担の増大」を招き、「腐敗と権力乱用」を起こす事を嫌ったものと考えられます。
よく考えています。
実質、次第に「朝廷の力」に応じてこの「令外官」の「専任官僚」が管理しながら40−80−200と拡大をさせますが、鎌倉期にはこの「平安時代の統制」が取れて「鎌倉期以降の乱世」にて無秩序になり最大1200となります。
結局、その結果、「融合氏」の「生存競争」が発生し「下克上、戦国時代」の様に「氏間の争い」が全国的に頻繁に起こってしまったのです。
経時的に観ると「令外官」の効果があった事が証明されるのです。
必然的に「潰しあいの争い」から過剰反応を起こし平安中期の80程度に急激に戻り収まります。
結局、「物造り生産力」に見合った程度に納まるのが必然です。
再び自然量の200程度に回復し、更に江戸初期には急激に拡大を始めたのです。この江戸初期では「氏」を形成していなかった「氏」の下で働く「下級家臣群」氏を立て事で1200程度以上にも成りますが、江戸幕府は史実からこの事(「物造りの生産力」「農政の生産力」)を把握していたと観られ、国内の藩を限定して大小「主要200氏」の下に組みました。これが「家紋200選」である訳です。後の氏は「主要200氏」の「枝葉氏と抹消氏」として呼ばれ拡大したのです。
江戸時代の「適正氏」は、即ち「物造り生産力」と「農政の生産力」は平安末期と同じ程度に絞ったことが判り、「融合の氏数200程度」であった事に成ります。(石高にて表現した)
平安期はこの「枝葉氏 抹消氏」は許可制の下「氏姓制度」政策と社会の「氏家制度」に縛られて発祥は無かったのです。つまり「実質の氏数と物造りの生産力」であるのです。

  「物造り政策の生産力と農政の生産力の不均衡」
ただ、問題は「融合氏数」に比較してこれには見合う「部曲」の「農産力」が見合っていたかは多少疑問なのです。九州南北基地の阿多倍一族一門が国策に不順であったもう一つの原因は実はこの事にあるのです。「物造り政策の生産力」は「彼等の得意業」それに引き換え彼らに「追随した民」の「農政による生産力」が見合わない事に不満を抱いていたからなのです。
と云うのは、農政による奈良期平安期の税制として「租、庸、調」「雑よう」「兵役」「衛士」「仕丁」「運脚」「出挙」「正税」等多くの政策が実行されましたが、内容を観察するとかなり厳しいもので「重税、重役」の様にも観られます。
(各地で土豪や地方官吏を巻き込んだ大規模な不満爆発、叛乱が起こる。)
ここに証拠があって北九州基地の大宰府官庁から官吏が痺れを切らして「公営田制」「直営田制」と云う提案が朝廷に出されているのです。九州北部基地の収入を上げる為に独自の農業政策を提案実行したのです。これに依って「物造り」の「品部や雑戸」の生活の安定を図ったのです。
別途、機会を観て農政との関係に付いても論文を投稿したいと考えていますが、現に「日本書紀」には農民が不満を持ち騒いだ事や信濃の諏訪族の長が「開墾の功」で呼ばれて「信濃王」立会いの下で直接天皇に税軽減の具申をする異例の事件が起こる等の事が書かれています。他にもこの様な事が多くの資料記録等に遺されています。
明らかに「物造り政策の生産力」と「農政による生産力」とには若干の違いがあったことが認められ「農政の生産力」には恒久的な問題があった事は間違いありません。
この事に対して900年以降から徐々に発生し、1020年頃を境に「氏融合政策」が山場を越えた時期の特に1030年以降、朝廷の「部制度が弱体化」に呼応して各地の「融合氏」と成った豪族がその勢力に応じて独自に「品部、部曲」の「囲い込み」を行って「富」の分配が不均等になった「荘園制度」の結果で、これらの「富不均衡」が鎌倉期まで続いたのです。その証拠として、10世紀から13世紀前半まで、この禁令や整理令が13令も出ているが守られず、逆に基準や規制が緩かった為に拡大させて終った失政の制度と成ったのです。戸籍を偽る「偽籍」と云う行動が頻発し制度は限界を超え腐敗へと進んで行くのです。
この事が原因して「物造りの改革」に比較して「農業の改革」が進まず、13世紀後半から16世紀にその影響が出てしまったのです。
「物造り生産力」>「農業の生産力」この数式が融合氏の生存競争を加速させてしまったのです。

ここでは「物造り生産力」に重点を置きながらも、「物造り政策の生産力」+「農政による生産力」と観て検証しますが、この様に歴史的経緯から観て「安定化、沈静化」が起こった歴史的な実績でも判るのですが、この様なアンバランスが論理的に起こる事を充分に予測していた事を意味します。
天智天皇を始めとして大化期の為政者は、これでも心配であったと考えられ、これらの「補足策」を含む「政策実行」を守らせるための「規則」を定め「令」と云うよりは先ずは「氏の行動規範」とする「近江令」を制定します。
更にこの行動規範の「近江令」を補完する為に「青木氏の始祖施基皇子」が「善事選集」司を担当し、それを元に最終の編成令として「飛鳥浄御原令」を施工する事になります。
この様に念に念を入れた「氏融合策」を実行した事に成ります。

参考 皇族賜姓青木氏は「古代和紙の物造り」
皇族賜姓青木氏5家5流の国は、何れも穀倉地帯でありますが、「5大古代和紙の主要名産地」でもありこれを商いとして扱っていた。
(何れもほぼ1300年程度の歴史を持っている。重要文化財に指定されている。)
5家5流の青木氏は「2足の草鞋策」として「古代和紙」(下記)でも経済的に繋がっていた事が証明出来るのです。
これは取りも直さず、5家5流の青木氏の土地全てにこの古代和紙の「物造り」が共通してある事は偶然ではないと観られます。国の安寧は「物造り」にある事を物語るもので、5代の天皇はそれぞれの賜姓する第6位皇子に対して、”「物造り」の国策を指示し「氏融合」の役目を目指して「自立」する事を促した”と観るのが妥当ではないかと考えます。

伊勢青木氏は「伊賀古代和紙」
伊勢国北部伊賀地方で生産される最も古い和紙で阿多倍一族に依ってその技法がもたらされた。
青木氏は大化期の政策によりその立場から最初にこれを扱う。
各地伝導は710年前頃から810年前頃の100年間と観られる
恐らく、生産の各種の歴史資料(検証年代)から観て、賜姓青木氏の関係から「氏融合策」と連動して「物造り策」として他4国に伝えられたと考えられる。

信濃青木氏は「信濃古代和紙」
信濃川流域で生産された「古代和紙」で伊勢青木氏との関係からの技法で生産されていた「伊賀和紙」に継ぐ古い歴史を持っている。

近江青木氏は「近江古代和紙」
現在の滋賀県大津市桐生で生産されていた古代和紙で「 雁皮紙・鳥の子紙」と呼ばれていた。
「土師焼き(信楽焼き)」 でも後漢の技能集団の「土師部」(しがらきべ)の民が持ち込んだものが広まり近江商人青木氏が扱った「物造り」。

美濃は「美濃古代和紙」、
現在の岐阜県美濃市蕨生地域で生産された古代和紙である。

甲斐青木氏は「甲斐古代和紙」
富士川下流、河内領(現在 の西八代郡と南巨摩郡一帯)で生産されいた古代和紙。市川和紙、西島和紙の名称で和紙生産

以上の様に「農政の補足策」として古代より職能集団が伝えた「物造り」を「2足の草鞋策」の商いとして「地産の物」を扱い推進していた事が青木氏の記録で判ります。 
他に「墨、硯石」等「紙」にまつわる「物造り」(生産販売)にも大きく関わっていた事が口伝や先祖の遺品、骨董品でも判ります。
中には「火薬造り」もあり、玉城町の8割を占める面積の一部の屋敷蔵に保管されいてこれが明治35年に爆発したとする記録が有り、又、紀州墨や紀州硯石などの関連品も扱っていた模様です。長い間中国との貿易をしていた形跡があり、松阪とは別に堺港には2つの大店を構え、3隻の大船を持っていたと記録があり、大きく「物造り」を推進させそれを裁く商いも両立させていた事になります。

この様に明らかに青木氏が「和紙」と云う伝統とする「物造り」で結び付いていた事は、これは取りも直さず、上記する朝廷の「融合に関する政策」が効果を発揮した事に成ります。そもそも朝廷の政策的な裏づけがあったとして発祥してもそれは充分ではなく「自立」する気構えがその氏に無くしては存続は現実は不可能です。
「3つの発祥源」のその「先駆者としての青木氏」が「経済的な困難」を乗り越え「自立力」で生きて行き崩れる事の無い姿勢を国民に示し促した事で、更に勢いが着き「融合政策」は推進していったのです。
全青木氏初代始祖施基皇子伝来の天智天皇授受の司馬氏「鞍造部止利」作「生仏像様」と共にこの紙でも強く結び付いていた事を示す大きな史実資料なのです。
この様に「物造り」と「氏融合」は連動している史実があるのですが、「青木氏の家訓10訓」の中でも「家訓8」は正にこの経験事が代々に強く在った事を示していて家訓の形に遺したと考えられます。世襲名「紙屋長兵衛」(青木長兵衛 代々南画水墨画を本職に近い形で会得しそれらの遺品が残されている。歴代の有名無名の画家の墨絵が保存されている)を示すものです。

筆者は、「物造り」は1120年代に「2足の草鞋」策としてが成されてたのですが、発祥時期頃から守護王として「自立」を認識していて積極的な支援を「物造り」の「紙部」にしていたと考えているのです。「紙」を元とする故に5家5流の賜姓守護王の「長」の資質として、「家訓8」の「長」としての認識に「物造りの戒め」を強く置いたのだと考えています。

続く
次ぎは「国難2」に付いてです。


  [No.269] Re:青木氏と守護神(神明社)−2
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/02/09(Wed) 18:59:19

青木氏と守護神(神明社)−2

  「国難」
1「蘇我一族の横暴」「天皇家を脅かすほどの脅威」と「天皇家の無力化」
2「国の漫然化」 国を豊かにし、国の安寧を計る国策の無さ 「民の疲弊」が起こる
3「民族氏間の争い」「7つの民族」が40程度の「民族氏」に拡大し「民族間抗争」が起こる。
4「朝廷内の抗争」 蘇我氏一族と反蘇我氏一族の抗争が起こる
5「後漢の民の動向」 その勢力は朝廷を凌ぎ日本の半分は支配下 「独立国の懸念」が起こる。


  「国難2」
次ぎに国難2に付いては、国難3「民族間抗争」と国難4「朝廷内の抗争」と共に共通項がありより立体的に論じることが出来ると考えますので、国難2を口火として論じて行きます。

先ず国体をどのようにして豊かにして行ったのか、その考え方と行動施策を論じる必要があります。
時期を同じくして大化期に阿多倍王に率いられた200万人が第1期、第2期の難民として渡来しましたが、入国来、働く彼ら「後漢の技能集団」の「物造りの効果貢献」を観て、「大和の民」を引き付け、著しい経済的な効果を生み出します。
豊かさを享受した民が自ら進んで彼等の支配下に入り無戦でその支配地域を拡大して行きます。
その進んだ技能集団を観た朝廷は「物造りの国策」を全面に押し出し推進する事になります。
つまり「部制度」を定めて部方式の「経済の確立」を促す政策を採用したのです。
国を「物造り」で豊かにする事が出来、且つ「民の安寧」を確保する事が出来るとする教訓と、その手法がある事を彼等から具に学んだのです。それを具体化し「国策制度」として採り入れる事をこれも直に彼等から教わります。
「物造りの技能」のみならず「政治への取り入れ方」、挙句は国体の「政治手法」も彼らの官僚から学んだのです。日本書紀によると”官僚の6−7割近くは彼等の集団であった”と書かれています。
この為に天武天皇は”民より優秀な者を選び学ばせよ”と命じたと記録されています。
その政治に関する知識を持っていた「部の集団」は「史部」(ふみべ)、「文部」と呼ばれ、「阿多倍王」の父の「阿智使王」が率いる集団であったのです。「阿智使王」は自らがこの政治を主導する史部の首魁として、「文直」(ふみのあたい:官僚)として働いたのです。そして、この「阿智使王」は自らも武力集団(漢部)をも率いて軍事面での政治主導をも首魁として働いていたのです。

  「乙巳の変」の経緯(改新劇)
後にこの軍事集団は「民族氏」の「漢氏」(あやし)と呼ばれ、その末裔は「阿智使王」の末裔「東漢氏」(やまとのあや)と呼ばれる様になります。
この「漢氏」は職業軍事集団として「蘇我氏」に雇われていたのです。これが「蘇我氏」の軍事的な背景であり、「蘇我氏」が裏表の軍事武力行動は全て彼等の集団が行ったのです。これらは記録として残っています。
その顕著な例として、「中大兄皇子」が「蘇我氏」を倒すことが出来るか否かは、この「漢氏」、つまり「阿多倍」の父「阿智使王」の出方如何であったのです。結局、「漢氏」の首魁「阿智使王」は「蘇我氏」の大屋敷から「漢氏」に引き上げを命じたのです。「中大兄皇子」に対して”我等は元より雇い軍である。攻める意思なし。一両日中に岡より引き上げる”と伝えて来たのです。本来、家臣である「蘇我氏」が宮殿より上の土地に館を構えるは法度でありながらも「宮廷」より遥かに大きい館を構え周囲を防御柵で覆うものであったのです。
戦略上、「中大兄皇子」にいかなる強力な軍隊が構えていても三方の岡よりくだり攻められた場合は全滅です。元より「中大兄皇子」には「蘇我入鹿」を倒しても軍事的に戦略的にも勝ち目は無かったのです。
しかし、「阿智使王」は命令を下さず事件後直ちに伝令を飛ばしてたちどころに伝え消えたと記録されています。一定期間その所在は不明であったとあり、後に出てきて「史部」「文部」の首魁、「漢部」の首魁として朝廷の官僚として働きます。そして後には朝廷軍は「阿多倍軍と阿智使王軍」の編成軍として作り上げ日本全土を制圧したのです。(阿倍比羅夫・坂上田村麻呂の軍)
この様な予備知識を下に「民族氏」の代表の阿多倍一族一門を比較対象に青木氏を「融合氏」の代表として下記に論じて行きます。(詳細は「日本書紀と青木氏」に詳細参照)

当時180もの「品部」が生み出す物を一度「朝廷に納品」させ、「必要な量の物」を「税」として郡毎の「正倉」に収納し、残りを市場に「適度な量」を放出して安定した経済にする方式で、それまでに無かった「準市場経済」の「統制仕組み」を創設しました。
それまでは「品部」を支配下に置いていた「蘇我氏」等の「一部の豪族」に「利益」が吸収されていて経済を想うままに支配されていました。これでは「氏融合」の発展の経済的基盤が整いません。
そこで彼等の指導によりそれまでの「物々交換」の経済からそれを一挙に統制された「市場経済」(貨幣経済:和銅開宝 「鋳銭司」[すせんじ]が各地の主要駅舎で発見されている)に近い方式に変更する事で平均して「氏が融合できる体制」を確立したのです。
そして、それをより効果的に可能にするには、当然にそれまで頻繁に起こっていた「物品の争奪」や偏った「利権の確保」や「民族間の争い」を無くす事に集中する必然性が出てきます。

 参考記録 (「物造り」に積極的な例)
「物造り」を推進して経済的発展を促して「融合性」を進めようとする為に、これには積極的に天皇自らが新しいより良い品を作る提案や準備をする等の行動を採ったのです。
例えば記録によると日常よく使う「墨や硯石や筆」や「貨幣の材料:銅」などを探す努力や提案、その匠(墨では方氏)の派遣を中国に直接頼む等の努力をした事が数多く記録として遺されています。

(例 和歌山県海南市下津町に「方」と云う地名が現在もあり、ここに墨を造る職能集団が定住:日本最古藤白墨の生産地 熊野古道沿い 天皇が探し当てた それまでは中国から全て輸入)

この様に中には天皇が直接旅をして「材料探し」をした等が記録として遺されています。それ程に「物造り」政策が根幹であるとして積極的に力を入れていた事を物語ります。(研究室にレポート済み)

この事は「物造り」を平衡して国策として進めれば「経済的な潤い」が生まれ、争いの基と成る奪い合いは無くなり、その基盤に依って「民族氏」から混血を進める「融合氏」にする事で争いを抑えられます。
また、優秀な「後漢の民」との融合を図る事で、彼等の「独立」を防ぎ、「日本の民」を巻き込んだ「職能集団」の「経済力」の活用をも図り得ます。
「7つの民族」が定住する国土の中で「民族氏」の構成では蘇我氏の例に観られるように”「民族間の争い」が起こり「国の安寧と安定」を図ることが出来ない”と考えた天皇はこれ等を融合させて一つにする事が肝要と悟ったのです。この為に必然的に「天皇家」自らが模範として進んで「融合氏」を計る事が必要に成りました。そして其の為にも先ずは朝廷の大きな経済的な負担と成っていた「皇族数」を下野させて減らし、且つ融合を進め、それまでの「民族氏」形態から「融合氏」形態への推進の為にも、その融合の弊害の根本と成っている「皇位継承制度の改革」を全般的に果敢に断行します。 
「皇族数」を減らし経済的な負担軽減を率先して行い「物造り」を併用して経済的な潤いを発生させて「融合策」を天皇家が進んで率先したのです。これに依って「民の合意と賛同」を得ようとしたのです。
天皇家の第5世族以下(1000家程度 5000人/代)が下野する事で「民との接近」が生まれ「融合」は進み「民族氏」の数(20−40)に比べて「融合氏」は一挙に増えると考えたのです。
これに皇族と母方姻戚関係を得た藤原氏の「融合氏」を加えると「民族氏」に匹敵する融合氏の数と成ったのです。(現実に増えた 荘園制で弊害の問題が起こる)
これに依って、第7世族を含む「皇族系の融合氏」が各地に広がりを示し、そこに建立して行けば「民の心の拠りどころ」として定めた「皇祖神」の「神明社」(「伊勢神宮」)の各地への普及が図られると考えたのです。つまり、根本の政策戦略としては「物造り」−「融合氏」−「神明社」の関係が成り立つのです。

その「融合策」の目玉として次ぎの様な施策を実行したのです。
先ず、第5世族以下の皇族系臣下・下野の長として第4世族内の朝臣族の「第6位皇子」を「臣下」させ「賜姓」して「融合氏(侍)」を「発祥源」とさせる事を押し進めたのです。
これに身分と経済的裏づけ(官位・官職・爵位・賜田・功田・位田・俸禄田)を与え天皇と天領地を護る近衛府軍を創設し、その責任者に任じます。
(「侍」「さぶろう」の古語 ”真人族に寄り添って護る”の意 「国、院、家」の3侍を定める)

皇位継承者を第4世族までとして真人族・朝臣族の「王」と改め、それまでの第6世族以下を改めて臣下・下野させます。(第5世族は政治の官職に就く・貴族公家)第6・7世族は坂東の護りとして「ひら族」を賜姓して夫々「8つの融合氏」として配置します。(坂東八平氏:ひら族)

「平安期以降の融合経緯」(1期から5期の融合)
この「臣下策」と「賜姓策」が平安末期までの丁度550年間継続されるのです。

「第1期融合」は、「民族氏」から「融合氏」の「初期的融合」は900年頃に政策的にも終る。
「第2期融合」は、「自然の摂理の現象」で室町期初期頃までには必然的に更に「濃厚な氏融合」へと進みます。この時から「民族氏」傾向の強かった「部民」の殆どに「職能集団」を生かして生き残りの「姓氏形成と融合」が起こります。
「第3期融合」は、完成した「濃厚な氏融合」は室町期末期頃までには今度は「自然の摂理の現象」で「氏の潰しあい」へと変化します。
「第4期融合」は、「氏の潰しあい」は終り、江戸初期には氏を形成出来ていなかった「下級武士階級」が氏を競って形成します。
「第5期融合」は、主に第4期までの全武士階級の「氏間の融合」と、封建社会に阻まれて「氏の形を採る融合」を採れずに居た庶民が「明治期の苗字令」により国民の9割が氏姓を形成します。

つまり、先ず正式で初めての「融合氏の発祥源」として、「皇族賜姓青木氏」(真人族 国侍の氏)の施策を関西域に行い、続けて「皇族7世族」(家侍の氏)の「坂東八平氏」」の発祥政策を関東域に行ったのです。
(奈良期は近江、伊勢域 平安期は美濃、信濃、甲斐域 4世王族は19地域に「融合氏の発祥源」として配置した その象徴(シンボル)として本論の「神明社」を建立した)

九州を含む関西以西域は「阿多倍一族」とその「職能集団」の配下域にあり「民族氏」の傾向が強くなかなか「融合氏の政策」を「朝廷」が率先して先に行うには難しい政治的な状況にあったのです。
何はともあれ、彼等は軍事、経済、政治共に優れ、むしろ彼等から学ぶ立場にあって、「融合氏政策」とその象徴(シンボル)の「神明社」の普及は到底「立場の優位性」から見て難しかったと考えられます。
又、関東より以北はまだ「朝廷の力」が完全に及ぶ制圧域にあらず、関西以東関東域までの施策とせざる得なかったのです。それ故に、この域には「神明社」の建立は果たし得なかったのです。
恐らく、以西と以北の地域では、これは「民族氏」の傾向が強い事から「融合氏」の「神明社」(「祖先神」)と云う「宗教観の概念」との違いが大きくあったと考えられます。

(「物造り策」−「氏融合策」−「神明社布教策」は相互関係にて連動していると云う史実観)

まだ蘇我氏と物部氏が争った「仏教観」と「神道観」が起こって60年程度しか経っていない時期でもあり、尚且つ「仏教化」が進んでいる時でもありますから「神道」の「融合氏」と「神明社」(「祖先神」)とを連動させて政策を実行するには奈良期の初期の段階では無理があったと考えられます。
そこに、阿多倍の配下の職能集団が「司馬達等」を先頭に「仏教」を崇拝していた私布教の環境下では、尚更、難しさがあったと考えられます。
(司馬達等は私伝で仏教を職能集団に普及させ最初に伝えた人物)

  「宗教観」
「氏融合」と「神明信仰」を連動させての政策は先ずは限定された範囲の中にあり、しかし、反面では「氏の融合」を推し進めないと「国の安寧と発展」は無いし、「首魁阿多倍」とその「職能集団」を「九州独立」から遠ざけるには「根本的な政策」としては他には無かったのです。
史実から観て、この「氏融合」と「神明信仰」の政策を推し進めながらも、終局は「独立」から「帰化」と成りはしたものの、未だこの問題の解決は完結出来ずにいたのです。

史実から、観ると次ぎの事件が起こっていて難しさが判ります。
A 7世紀始めに朝廷は南西諸島と九州域を制圧し服属させたが、その後直ぐに九州地域は阿多倍軍に  制覇された。
B 713年に朝廷は薩摩国から日向4郡を割いて大隈国を半国割譲して何とか「独立」と云うことを避ける  為に妥協した。しかし、律令政策の浸透は九州域では無理と成った。
C 720年には遂には「朝廷の軍」を送りこの大隈の首魁に対して大征討を試みるが挟撃を受ける事を恐  れて軍を引き上げた。
D 結局、その後、阿多倍の職能集団の配下に入った九州の民の賛同が得られず放棄。
E 800年に数々の妥協策によりやっと朝廷の律令の内、農政の部曲に対する「口分田」だけが施行出   来る程度に成った。

ただ、ここで大きな疑問があります。
「関係する歴史的経緯」
645年に阿智使王と阿多倍王17県民と共に九州地方無戦制覇後に帰化する。
648年頃に阿多倍は准大臣に任じられる。
650年頃には阿多倍に伊勢の国から「伊勢北部伊賀地方」を半国割譲して住まわせる。
670年頃には阿多倍は敏達天皇孫芽淳王の女と婚姻(第6世族)する。
698年阿には阿多倍一族一門の阿倍比羅夫が蝦夷を征討します。
690年頃に子3人に賜姓(坂上、大蔵、内蔵)を受け朝廷の軍事権、経済運営権、政治権を任す。
713年には阿多倍に薩摩の国から「大隈の国」を半国割譲します。
720年には国策に従わない事を理由に朝廷軍は大隈国を攻めています。
730年頃には阿多倍孫娘(高野新笠)と天皇家(光仁天皇)と直接血縁する。
758年頃には朝廷軍の主力を「阿多倍軍(坂上氏)]と「阿智使王軍(東漢氏)」で編成する。
764年には朝廷軍として阿多倍末裔二人(阿倍氏等)が以北征夷を攻め「征夷大将軍」に任ずる。
769年には和気清麻呂は大隈国に配流される。(大分の九州最大神社の宇佐八幡宮神託事件)
790年頃には九州北部と南部大隈国に騒ぎが起こり朝廷の全ての政策に反抗して従いません。
800年には朝廷政策の内の「班田収授法」の「部曲」に支給する田畑(口分田)だけに従います。
806年には阿多倍の子坂上氏は蝦夷地の異民族アテルイを以北制圧して絶大な勢力を確保する。
820年頃にも九州地方特に大隈国は末裔肝付氏が勢力拡大し国の「律令政策」に従っていません。
833年には太宰の大蔵横凧は「宿禰族」になります。
938年には太宰の大蔵春實は「錦の御旗」を受け「藤原純友」を追捕する。
940年頃には阿多倍末裔の国香−貞盛は「将門の乱」を鎮め「功績」を上げる。維衡、正盛、忠盛−清盛
950年頃には「太宰大貫主」と成り初めて「半自治形態」を採る。
1018年には大蔵種材は「遠の朝廷」「錦の御旗」を受け「太宰大監」に成り九州を「完全自治」する。

この様に、関連史実を時系列で並べるとこの阿多倍一族一門には何か大きな「氏融合の生き様」が観えて来ます。

720年には以西では国の政策に従わず攻められています。そして以北では698年と802年に朝廷の命で蝦夷を攻めています。この時、関西では軍事と3政治機構の内、大蔵、内蔵を占有し「国の政策」を立案推進しています。
以西以北では全く逆でこの様に阿多倍一族一門の地域に依って異なる行動を採り矛盾が起こっています。

この事は何を意味するのか。「氏融合」の過程で大きな政治的な戦略が観えて来ます。

結論から述べますと、「九州基地」と「伊勢基地」との間で「両立2面作戦」の戦略を展開しています。
それは先ず、「氏融合、農政、物造り」の史実から観て、戦略的に「3つの基地」を展開しています。
1 大隈国を基地として「九州南部地域の基地」
2 大宰府を基地として「九州北部地域の基地」
3 伊勢伊賀を基地として「関西中国地域の基地」

阿多倍側からの考察
「九州南部地域」は国政に対して従わず入国以来「物造り」と「農政」には「自治」を継続。
「九州北部地域」は国政に対して「物造り」に従い「農政」には不従政策 「半自治」を継続
「関西中国地域」は国政に対して「物造り」「農政」共に従い、政策を主導
800年までこの態勢を維持した。


朝廷側からの考察
入国来、無戦征圧32/66国を征圧した彼等一団が「帰化」か「独立」で来るかで朝廷は悩む。
結果は「帰化」で来た。しかし、武力制圧して「帰化」に成った訳ではない。
争いを避ける事である。”完全に従う”という事ではないと判断して朝廷は悩む。
そこで「首魁阿多倍」を都に呼び寄せ「伊勢」に勲功を理由に懐柔策に出た。
要するに「首魁不在」の「九州南部基地」を空にする作戦に出て九州南北の基地の勢力を弱める作戦に出た。
そこで妥協策として、勲功とは別に朝廷の力が及ぶ所に定住させる作戦に出た。
関西以西中国地方の影響力に限定する戦略である。その為に阿多倍に「伊勢北部伊賀割譲」をして留めた。
しかし、九州2基地は依然折れて来ず、国策に従わない。これでは「独立」と成ると焦る。止む無く次ぎの手を考えた。
そこでこの「都定住策」に加え、取り合えず、阿多倍王と「間接血縁」させて一度目の「天皇家との繋がり」を作り恐れている「独立」の「回避策」に出た。
ここで天皇家と間接的にも結び付けば「子孫繁栄」の生活圏を築かせて置く事で縛りつけられると考えた。中国関西基地は何とか折れて国策に従い始めた。
それで九州の北部基地はやや折れてきたが南部基地は依然として国策に従う様子なしと観て、更に懐柔策として「大隈国割譲」で様子見守った。
矢張り動かないので今度は阿多倍の子に異例の賜姓をしてお膝元の九州南部基地を従わせる様に試みた。(坂上氏、大蔵氏、内蔵氏)
朝廷は妥協して阿多倍賜姓族に「軍事、経済、政治」の政策実務を任せて自らの首魁が行う政策であるので九州南北の基地が国策に従うだろうと考え誘導した。
これでも従わないので、そこで遂に軍事で解決しよう決断を下した。
当初の作戦通りに空した「九州南部基地」の本拠地を攻めて彼等の「分断作戦」に出た。
首魁らが行う政策に従わない事を理由に一族の粛清と見せて挙動したのである。
これが恐ろしく強い「彼等の戦力」に押されて失敗して慌てて船で逃げ帰る。
これで「立場と信頼」は完全に消失したと考えた。
「本拠地」大隈を突かれて「関西中国地域の基地」では阿多倍一族は驚いた。極度に警戒を強めて来た。
最早、動かし難い「伊勢伊賀基地」の今にも「独立」の気配の態度硬化を観て、軍事的にも解決は無理と観た。
後は「天皇の権力」しか無く成る。つまり「冠位と血縁の策」しか無く成った。
朝廷内も政治、軍事、経済の実務を握られている。「蘇我氏の専横」のレベルでは到底ないと感じる。
第1期の青木氏等が主導する「皇親政治」では天皇家の中で「何の改新か」との批判高まる。
遺された道は只一つ阿多倍の孫娘と2度目の天皇家と「直接血縁」で逃げる又もや懐柔策に出た。
朝廷は「仏教政治」の弊害で乱れている。「称徳天皇」の道鏡に振り回されて政治は混乱し朝廷はますます弱腰になる。
そこで、皇親政治族の賜姓青木氏や藤原氏に無理やりに押されて例外の天皇に成った優秀な光仁天皇は「仏教政治」を廃止し「皇親政治」に戻して朝廷内を先ず一新し、そして阿多倍一族から妻を向えて以西の問題を先ず収束させた。
朝廷の政治を主導し律令国家体制に整えた。しかし、3権を殆ど牛耳る程の彼等の勢力と成っては逆に打つ手なしと判断した。
「桓武天皇」が率いる賛成派は阿多倍の末裔を賜姓策で引き上げて又もや更なる「血縁融合策」に出た。そこで、先ず朝廷軍を「阿多倍軍と阿智使軍」を主力とした編成にし信用させて、九州の南北の2基地を攻める意思の無い事を示し、「政治、経済、軍事」の「3権」を任して「究極の独立回避策」に出た。
さすれば九州は国策に従うと観たが南部基地の「強行派肝付氏」が勢力を増して依然従わない。
そこで、以西を突けば「民族性」の強く「融合」に従わない「異民族」の「以北勢力」を逆に南下させると見て、まず「以北の憂い」を無くす事から始めた。
優秀な妻方の連合軍を編成して強力な「阿多倍軍+阿智使軍」を使って取り合えずは先ず以北の征圧策に出る。成功する。後は彼等の以西を国策に従わせるのみと成る。
阿多倍の子を「征夷大将軍」に任じて最終「軍事の最高権威」も与えて動きを誘導して3権で九州南部基地を従わせる様に仕組んだ。
戦っても身内同士の戦いになるし戦力の差がある。間違いなく国策に従うと観た。
ところが”強力な身内の「伊勢伊賀本部」の「首魁宗家」と争う事を避けるだろう”として考えた。朝廷は命じた。そこで「九州北部基地」に地盤を置く「大蔵氏」は国策に従う様に条件付の「柔軟な姿勢」を採ったが、逆に「九州南部基地」では騒ぎが大きくなり依然として国策に従わない。
しかし、「伊勢伊賀本部」からの指令で止む無く妥協策として農政の「口分田」のみに従うとする態度を示す。
ところが、強硬派の「九州南部基地」では異変が起こり、阿多倍末裔の超強硬派肝付氏が台頭し主導権の勢力図が変わり「律令政治」そのものに従わない態度を示す。
最早、打つ手なしとして、今度は朝廷内では「最悪の独立」を避ける為に「九州2基地」の「半自治政策」に傾く。
そこで、暫時策を打ち出す。九州阿多倍末裔の最大勢力の大蔵氏に焦点を当てる策に出た。
先ず、彼等を完全に引き入れる為に一族の大蔵氏に天皇家の流を汲む身分の「宿禰族」を与えて「身分家柄」を高める策に出た。
次ぎに、暫くして大蔵氏の本拠地「九州北部基地」に対して前代未聞の「錦の御旗」「太宰大貫主」を与え「冠位と身分」の妥協策で朝廷側に引き込むお膳立てを構ずる。完全に成功する。
依然、更に国策に従わない「九州南部基地」を横目に、「九州北部基地」に配置して「半自治」を認める「懐柔策」を展開した。
つまり「九州北部基地」の大蔵氏をして「九州南部基地」を凋落させる戦略である。
それでも、まだ不安があり解決が出来ない。そこで本家筋の大蔵氏に従わない肝付氏との間に険悪な状況が起こった。「九州南部」と「九州北部」の「基地間の争い」(同族争い)が起こる可能性が出た。
「関西中国基地」と「伊勢北部伊賀指令本部」は焦った。朝廷が狙う共倒れが起こる。
「関西中国基地」等3基地の全権を握る「伊勢基地の司令部」は慌てた。最早、「人物策」しかないと考えた。
天皇に働きかけをして一族の中でもこれを解決できる「人物」は日本全国で唯一とされる万来の「人物」に白羽の矢を当てた。
大蔵氏の優秀な政治、経済、軍事で有能で万能な逸材の「大蔵種材」に任す事を提案する。
超強硬派の肝付氏も”種材ならば”とこれに従うと判断。それには前提条件がある。
朝廷は、彼等の「共倒れ」で「乱」を選ぶか、「国策」を守らせ全国共通して律令下で「氏融合策」を採るか選択を迫られる。
そこで、前提条件を認める事に成る。九州全域には多少の「国策律令の不順」は妥協しても「運用権」を認める戦略に出た。
止む無く彼等の末裔の主力大蔵氏に「運用権」の範囲で「九州全域の政治」を任す「完全自治国」とする事で「乱の国難」を避けた。九州南部基地は従い大成功する。そして矢張り九州南北の基地では政治、経済、軍事で安定に向かう。
この時、丁度、「物造りの本拠地」でもある九州全域の安定化に伴ない「品部の物造り生産力」の向上とは裏腹に、逆に、特に全国的に「班田収授法」等の「農政政策」を定めたものの、各地で「凶作や天災、飢饉、動乱、政権不安定等の原因で、全国的に「農産物の被害」が続出し、「重税や労役の負担」で「部曲の不満」が頂点に達し「農民反乱」が各地で起こっていた。
これに呼応した豪族等が叛乱を起こし、これを潰そうとして朝廷は戦いを起こしたり挙句の果てには朝廷内で「農政による政争」が起こった。
この様な環境の中で、「部曲の農産力」が限界に至り、「難民移民」などの受け入れが国策上限界と成っていた。
特に北部地域に頻発していて、武装難民等の入国を阻止する為には九州南北基地の彼らの力が必要な環境下に入った時でもあった。
ここで「九州南北基地の戦い」が起これば、依然不安定な武力制圧で納めたがその末裔が息を吹き返してきた以北、一応は「運用権で納めた九州南北」、膝元の「中央の政権の乱れ」、「各地の農政による不満の反乱」、これに呼応した「豪族の反乱」、これでは国が立ち行かなくなると朝廷は悩んでいた。
そこで、危急存亡の「秘策の提案」を採用する事になる。
九州南北の問題を「運用権」より進めて「自治」を宣言させる方策で任して置いて、他方の「以北の憂い」を解決する為に源義家の「征夷大将軍」と藤原秀郷一門の「鎮守府将軍」に任じて、彼等の氏力で片方の「以北の完全鎮圧」に当る方策に切り替えたのである。成功する。
しかし、義家は荘園制で大きくなり過ぎて却って問題が出た。義家を潰しに掛かる。成功する。以北はほぼ解決した。
次ぎは九州全域の問題だ。彼等の狙いは実質は「独立」だか、朝廷はその「大義名分」として「遠の朝廷」として権威を与えそれを証明する「錦の御旗」で繕う事で「独立の形」を避けて「自治の国」を認める決断を下した。これが1018年の事である。成功する。
以西と以北は解決する。
しかし、この結果、「融合氏」の勢力が必要以上に増し、荘園制が行き過ぎ土地私有化へと勝手に進み始めた。朝廷は観てみぬ振りをする。
しかし、これを憂いていた天皇が立ち上がった。後三条天皇。融合の弊害に成る荘園の私有化に歯止めを掛けた。「荘園整理令」を出す。
身に危険が迫る。白河天皇は更に勇敢に「荘園公領制」に踏み切った。融合氏は正常な形で進み始めた。
融合氏推進を国策とする天皇側と、民族氏の阿多倍一族一問との駆け引きの問題に一応休戦状態となった。
これで、全国統一して「律令国家」の前提が、九州に「自治の国」は存在するにしても、一応は出来上がったのです。阿多倍側と天皇側とには両者共に主張点は確保して後は妥協策で解決する方向へと進み始めた。

時系列で観た融合に関するこれが平安期の経緯と考えられます。

  「律令と造作」
これで「氏融合」「物造り」「神明社」の「3つの国策」は一挙に進むことになります。
その解決への弟1の変曲点ピークは桓武天皇期にあり、この「3つの国策」を成した天皇として、彼を「律令と造作の天皇」と呼ばれた所以なのです。
明確な”「造作」”の名称が着いた事は「氏融合政策」には「物造り政策」が連動していなければ成らない国策状況であったことを物語ります。
彼の「物造り」(造作)は資料記録から観ると、大事の「都造り」から始まり「河川道路造り」「寺造り」「神社造り」末端の「物造り増産と開発」などに率先して働きこれ等は広範囲に渡ります。
つまり、「高負担の税と労役」を課しながら「公共工事による税の還元」や「朝廷に入る部制度による物造りの利益」に依って「税と労役分」を民に戻し潤いを与えて、「農政不満の解消」を図り国の安定を計ったのです。
「物造り」政策の「増産」とそれに伴なって起こる「開発」を基盤として、自然災害の「農政問題」を補完した政策を採ったのです。
そして其処に「民の心の安寧と安定」を図る為に「神社仏閣の建設」も積極的に並行する相乗効果を狙ったのです。
これらの考え方(「氏融合」−「物造り」−「神明社」)は平安期の代々の天皇に引き継がれて行ったのです。これは真に融合氏の発祥源「青木氏」、青木氏の「守護神・祖先神」、青木氏の古代和紙・殖産「2足の草鞋策」に一致し、そのものの考え方です。これで天皇家と青木氏は連動して行くのです。(後述する)

  「運用の基盤差」
上記した連動した国策(「氏融合」、「物造り」、「神明社」)は「九州南部基地」と「九州北部基地」とでは若干の導入に関する温度差はあったと想われますが、筆者は、自らの首魁等が決めた国策には概ね従っていたと考えていて、それを実行する「完全な拘束力」に対して「柔軟な運用権」を主張していたのではないかと観ているのです。”全く国策を撥ね付けていた”とは考え難いのです。
その根拠はその「土地柄」「民族柄」を未だ強く遺されていて一概に国策の「律令制度」には馴染めない環境が強く遺されていたと考えているのです。
だから、それを解決する手段としては「柔軟な運用」以外に無い筈です。彼等は「氏融合」策に付いては論理的には”「国の安寧の根幹」を示す事である”とは充分に認識していて、「否定的」ではなく「総論賛成 各論反対」の態度を採ったのであって、其処には3基地の受け入れの「温度差」があったと考えているのです。特に後の末裔「たいら族」(平族)の根拠地になった「関西中国基地」では”都に近い”と言う「地理的要素」があり国策をある程度呑む以外には無かったと観るのです。
九州の「2つの基地」に付いては、恐らくは「地理的要素」が強く遺されていた事からこの様な経緯を辿ったと考えます。とりわけ、「土地柄」「民族柄」を基本としていますが、決定的な要素が此処にあるのです。それは本文の論説の一つのなのです。

つまり、彼等は「中国人」それも最も「優秀な民族」と評されている「後漢の人」なのです。
彼等の思考の原理は「儒教の教え」から来る「石は薬」「法より人」の「生まれつきの概念」があるからなのです。今も彼等には色濃く遺されている概念です。
この「石は薬」「法より人」の「生まれつきの概念」がある限り、「律令」よりも「人」と云う理屈が生まれてくるのは必然です。ましてや、「古代の時代」「日本も始めての律令」の環境下にあったのです。遺伝的に持つ彼等の概念「柔軟な運用権」は「人」の思考を優先する彼等には「自然の思考」であったと考えます。
優に摩擦が生まれて自然にこの様な経緯を辿ったのです。
日本人の「7つの民族」から来る「集団性癖」から観ると、「集約する思考」が存在しない限りは成り立たない「融合単一民族」であり、つまり、「常識」が「法」としたとの考えがあり、「最低の常識」つまり「法」が優先されるべきと考えるが「自然の思考」と成ります。
少なくとも「人」は最低は「法」の概念を守るべきと成るでしょう。ここが彼等とは全く逆なのです。
ここが、日本の「氏融合」と「物造り」と「神明社」の概念が中国に差をつけて大きく進んだ所以と考えます。

  「青木氏の功績」「妥協と争い」
兎も角も、奈良期、平安期の時代には、現在にも未だ大きく遺されて問題事件と成っている「人類の課題」が、この時期に大きくのさばっていた事を物語る「融合氏の生き様」であったのです。
恐らくは現在でも起こる中国ロシアとの摩擦どころの話では無いと考えます。
それをこの様な「経緯」を280年間の間に解決して共通認識の「氏融合」は成されたのです。
「国策経緯」=「氏融合」=280年間
日本の歴史上最も見本とするべき経緯です。
恐らく、諸外国が「民族性」から脱し得ず「氏融合の単一民族化」していない原因は「妥協」を選ばず「争い」で決着する方法を選んだ事だと考えます。
日本人の「妥協的思考原理」とすると、それから観れば彼等の遺伝子的に持つものは極端な「合理的思考原理」とも成りそれに起因するものと成ります。
「争い」も「自然摂理」から観ても必ずしも否定するものではないとは考えます。
「争い」の手段は「解決」と云うよりは「決着」と考えるのが日本人なのかも知れません。
この世の「物事の解決」には分析すると「幾つかのプロセス」が存在している筈です。
一挙に右から左と「問題発生−解決」と云うシナリオを経験した事はありません。
この間には「決着」を始めとする「2、3のプロセス」が必ず介在しています。
「決着」は「解決」と云う目標の一つ手前のプロセスである筈です。
とすると、「争い」には大小あると思いますが少なくとも人間が考え出した「本能」に近いもので「決着の手段」の一つと認識されるでしょう。
「人」が「人間」である限りは現代も全く変わっていないと考えます。
  「長は理想と現実の理解者 青木氏の教え−1」
現に、この1018年以降は今度は下記の「三相の理」が崩れて「氏融合の弊害」の「生存競争」が起こり、「争い」という「自然の神」が織り成す解決手段で「下克上」「戦国時代」へと突入して行くのです。
恐らくは現代あるこの社会でも、国内外の問題を問わず「神の力」を除きこの様な事が起こればその「流れ」の中では、矢張りその解決手段は「争い」以外には無いと考えられます。
これだけ「大きなエネルギーを押さえ込む力」は「神の力」以外に何人にも無い筈です。神でも不可能かも知れない。
「神」も時には「争い」を以って解決を示します。つまり、「理想論」では行かないのがこの世の摂理です。
そもそも、少なくとも「理想」とは「人間の知恵」の「発露の発展」が成した「論理的な究極の思考」と定義付けられるでしょう。他の動物に観られない無い思考なのです。
と云う事は「厄介な思考」とも取れます。「理想」は「争い」があるからその反意として「理想」と云う形を「人間の知恵」は形作っているのであって、現実の中に容易に存在するものではない筈です。
それを恰も現実中に存在するものとして、「理想通り」に物事を進める事は「集団の長の思考」とはとても考えられないものと成ります。
歴史上の史実から観て確かにその様な人物は一部存在しますが、考察すると一時は事は成したとしても、むしろ周囲には必ず「弊害や滅亡」を生んでいます。
しかし、世の中、”「長」が理想論者であるべきだ”とする説があるのは「論理的な究極の思考」に酔っている姿の説であり、良く見掛ける”耳障りの良い事を言い立て自己を満足させる”と云う事に執着している「人間の性(さが)」(癖)の一つと筆者は観ているのです。仏教でもこの説を採っています。つまり、仏教の説法にもあるのだからこのタイプの人間が多いと言うことです。
例えば、「人を観て法を説け」「縁無き衆生動し難し」”現実から大きく離れ「理想」「無関心」などに拘り過ぎ「色即是空の説法」を聞き入れない者は捨て置きなさい”そして裏意では”行き詰まり救いを求めた時に手を差し伸べなさい”と説いています。
筆者は個人の範囲で「理想論」を思考する事が「知恵の性」である限りは否定はしませんが、”長はそれに酔って物事を云々する事”を否定するものなのです。
「理想世界」の中では、「人間の妄想」と位置付けられ「人間の性」「人間の煩悩」が無くならない限りは、現世に「矛盾差」が生まれ、その世界があっても、その中では人間は生きられない筈です。つまり、生きるには「理想の世界」は「人が生きられない世界」と考えているのです。むしろ「仏説」の説く処の「地獄」だと考えているのです。
”「理想世界」が「極楽」で、「現世(うつせ)」が「地獄」ではない””「理想世界」が「地獄」で「現世」が「極楽」である”と。これが「般若心経の教え」であり、青木氏家訓10訓の真意であると考えています。
「理想世界」は「人間の思考」の成せる業であり「神」の成せる業ではないのです。「現世」が「極楽」とする場合、「無条件」ではなくこれには「適切な条件」が伴っている筈です。
上記の「経緯」の如く歴史的に事を正しく納めた「長」にはこの理想思考タイプの人物は見当たりません。
「理想」とは、突き詰めればそもそも「個人の産物」に過ぎないのです。
「理想」は、団体では「民族性」、個人では「人生経験度」に依って異なります。
故に、「長」は「妥協」の「プロセス」として「現実」を直視すれば、「民族性」(民族氏)から脱して、より小さい集合体の「氏性」(融合氏)に終結させる事が必要である事に成ります。
1つ2つの民族ではなく、「7つもの民族」が存在している現状の中では、「自然の摂理」として「民族氏」の「民族性」が強く存在する限り、”「争い」と云う現象が起こりより良い現実の「安寧」は獲得出来ない”と考える事が「長」に求められる筈です。
この「氏融合 280年間」の「国策の山」を越させた「長」の人物「嵯峨天皇」までの「濃い血縁」で繋がる「我等全青木氏の祖」は、「長」としてぶれる事無く、この事を理解していた事を意味します。
(「我等全青木氏」は下記「血縁と絆」からの「4つの青木氏」を意味する)

  「適切な条件」=「手段の使い方」と「三相の理」
「家訓10訓」の青木氏の教え−2」
ただ、問題はその「手段の使い方」によるものでしょう。「妥協」もその使い方如何では「争い」以上の悲惨さを生む事は「神と仏教の教え」でもあります。
即ち、「手段の使い方」とは「人時場所」の「三相の理」であります。
この解決策と成った「妥協」は、この「三相の理」(人、時、場所)に叶っていた事を意味するもので、即ち、「7つの民族」の「集団性」から来た「日本人の特技」であり「癖」でもあるからです。

「奈良平安期の天皇と後漢の帰化」の「人」
「上記280年経緯」の「経時」
「3つの基地と都」の「場所」
以上の「3つの理」が叶っていたと云う事に成ります。

では、この「三相の理」を一つにして適える「使い方の手段」とは「律令」「格式」であります。
「律」は刑法、「令」は民法、「格」は追加法令、「式」は雑則規定類
この4つを「現世」に於いて「極楽」と成す条件であり、これにより「現世」の「人の性(さが)」による「弊害」を最小限に押さえ込む事が出来るとするものです。
「律令」「格式」により「地獄」から「極楽」に変換するものです。
ただ、これでは「絵に描いた餅」、要は「長」のそれの「手段の使い方」、つまり、「運用」と成ります。「絵に描いた餅」「環境問題(人、時、場所の環境変化)」は刻々変化します。
それに適合する「運用」(妥協)が「長」に相応しい「資質」として求められるのです。
これが上記した経緯「律令国家体制への道筋」なのです。(現在でも通じる事)

「適切な条件」=「手段の使い方」=「三相の理」=「律令」「格式」・・・「極楽」>「地獄」

この「三相の理」を理解していた「皇親政治側」の青木氏等の偉大な為政者には私事を捨て「大変な苦労」であった事が絵に描くように判ります。現代の為政者を評価する時、大いにその評価基準と成り得ます。
故にこの思考は、この時代を「皇親政治のリード役青木氏」の全ての「始祖施基皇子」の「善事選集」司の処から発している事を強調する点なのです。
「飛鳥浄御原律令」、「大宝律令(養老律令)」等と「上記した国策」であり、その究極は「氏融合」とそれに連動する「物造り」であったのです。
日本書紀にも書かれている記録であるのですが、この大元は全国を歩き回って集めた行動指針として活用を始めた施基皇子編集の「善事選集」から発しているのです。
(「善事選集」:各地の豪族たちが国を運用する時に決められた賞罰、慣習法の良いものを集め「律令格式」の下地にした。 後に整備された「律令格式」以外にも独自に「国例」即ち、慣習法として国ごとに定めた残った。 現在の「国政令」と「地方条令」の仕組みの下に成った)
これを上記した「長」としての資質を持ち天皇に代わって先ず執行したのが青木氏の始祖であるのです。この当時としては現在の「2つの仕組み」になるほどのものを考えた事は驚きで卓見そのものです。
これが青木氏にとっては本文の目的とする「伝統とするべき認識」なのです。
「3つの発祥源」である青木氏はこの様な「やり取りの渦中」に居た事を物語るものです。
これは取りも直さず、故に「青木氏の家訓10訓」の大いに示す所でもあります。
大化期では施基皇子が「天地、天武天皇」の「皇親政治の相談役」として主導している事は日本書紀にもよく出てくる事でなのです。(研究室にレポート有)
まして、「光仁天皇」は「施基皇子」の子供で女系天皇が続いた為に皇位継承者が無く押されて天皇に成った人物です。
(女系天皇が続きその精神的負担から逃れるために「仏教のお告げ政治」を敢行し、国は乱れ疲弊してしまった危機状況であった。 これを解決するために民衆と藤原氏は皇位継承権外の第5世族次席者第6位皇子の家柄に白羽の矢を立てた。)
青木氏の始祖末裔で、「阿多倍の孫娘 高野新笠 血縁の妥協策」の苦しい時期の為政者であって、正に青木氏の「皇親政治」の真ん中に居たのです。つまり、「青木氏の孤立的な苦悩」でもあったのです。
「280年の経緯」全体から見ればこの時期は「最も重要な良悪の分かれ目」になるポイントであったと観られます。青木氏は正しい判断を問われて親族として具申した事は明らかに予想が出来ます。
日本書紀の伊勢国を「国司三宅連岩床」に任せて「天皇の補佐役」をしていた「施基皇子の優秀さと立場」から判断すると、間違いなく「皇親政治の立役者」の「青木氏の具申」と考えられます。
まして「桓武天皇」は「青木氏の第3始祖」とも考えられる人物です。大いに具申はあったと考えるのが自然ではないかと思うのです。
(青木氏と直系血縁天皇: 天智天皇−施基皇子−光仁天皇−桓武天皇−嵯峨天皇)
筆者は、青木氏は「3つの発祥源」である訳ですから、「皇親政治」を標榜する天皇は青木氏の考え方、提案を聞かない訳には行かなかったと考えています。
 重要参考
光仁天皇の妻 高野新笠の実子の桓武天皇は父方(皇親政治)、母方(阿多倍政治)の「苦しい選択」に迫られて「母方重視の策」を止む無く採った。故に「律令政治」に成り「第1期の皇親政治」は終わり、何と青木氏出目の天皇に依って青木氏は一時衰退させられる憂き目を負う事に成る。
(ここで5家5流青木氏は和紙を扱う「2足の草鞋策」に入るのです。)
2代後「激しい政争」の末に嵯峨天皇期では再び第2期の「皇親政治」は「賜姓青木氏」から「賜姓源氏」に復活するのです。
ここより「賜姓源氏」に変名するのですが、「賜姓源氏」も「阿多倍伊勢一族」の直系子孫(平清盛)の台頭を抑えきれずに憂き目を引き継ぐのです。
国策「融合氏」から発祥した「賜姓青木氏」「賜姓源氏」と、「民族氏」から発展した「阿多倍一門の融合氏」の対照的な2種氏の勢力関係の競合は、依然として1275年頃にやっと起こった九州北部基地の大蔵氏と、九州南部基地の肝付氏と、藤原秀郷流青木氏と秀郷一門永嶋氏との血縁までのその時期まで続くのです。
これらの関係は次ぎの融合数式により成り立ったのです。
A 「賜姓青木氏」+「賜姓源氏」><阿多倍一族一門
B 「秀郷流青木氏」+「秀郷流永嶋氏」><阿多倍一族一門

C 「賜姓青木氏」+「賜姓源氏」=「絆」=阿多倍一族一門(関西中国基地 伊勢基地本部)
D 「秀郷流青木氏」+「秀郷流永嶋氏」=「血縁」=阿多倍一族一門(九州南北基地の2氏)

「融合氏」の「賜姓青木氏5家」にしてみれば宗家が「伊勢北部南部の隣の地理的関係」から、また「5大和紙と云う経済的関係」からの関係からも、「民族氏」の彼等との血筋は無いにしても「絆」と云う点では多少なりともあった事になります。
所謂、判りやすく云えば、日本人ノーベル賞の有機物の不可能な結合を成した「カップリング現象の結合」で相反する氏は融合したのです。「絆」を触媒として。

(1180年の「源平合戦 以仁王の乱」にて賜姓青木氏の伊勢青木氏の跡目に入った京綱が助けられ、賜姓清和源氏頼光系頼政末孫3名がこの「絆」で日向で日向青木氏として助けられる。)
最終の結末は「争い」と云う手段で解決しなくてはならない方向に動きます。
5年後には「2軍の将相立たず」の教えの通り「絆」で結び付いていても「解決」と云うものに向って「決着」と云うプロセスを踏まなくては成らないのがこの「世の条理」です。
「関西中国基地 伊勢基地本部」は滅亡するのです。

E (「賜姓青木氏」+「賜姓源氏」)>×(阿多倍一族一門:関西中国基地 伊勢基地本部)=0

しかし、「解決」には影で動かす勢力も必ず存在するのもこの世の摂理条理です。
上記の数式の影で「第7世族 坂東八平氏」が再び「融合氏」として成長して来ていたのです。
「決着」の「争い」で弱体化した「賜姓源氏」は影の氏に依って葬りさられるのです。

F 「第7世族 坂東八平氏」×「阿多倍一門一族 伊勢基地本部」=0
G 「第7世族 坂東八平氏」>「賜姓源氏」=0

結局、上記のAからGまでの数式から差し引くと

「賜姓青木氏」+「秀郷流青木氏」

 「九州南北基地の阿多倍一族一門」
結局、「融合氏」の「3つの発祥源」の青木氏が無傷で残る事になります。
これは上記で論じてきた事柄
a 「三相の理」や「理想と現実」を弁えて「家訓の戒め」を良く守った。
b 「2足の草鞋策(物造り)」と「絆」で結ばれた「絆結合の青木氏の支え」があった。
c 「神明社で団結」の4つの条件が整っていた事があった。
以上の3つがあったからこそ「融合氏の3つの発祥源の青木氏」として生き延びられたのです。

今から観れば、”これ以外には無い”と考えられる素晴らしいこの様な経緯を辿ったのです。
恐らくは3地域を率いる阿多倍一族一門側も、青木氏等と藤原氏等を始めとする「皇親政治」を主導している朝廷側(天皇家)との駆け引きには、上記する経緯に「裏腹の相似する態度と思考」を持っていたと考えられます。
それはその上記した大化の国策に始まった「融合政策」と関連する「物造り」等の国策は取りも直さず彼等の立案と実行に掛かっていた事なのです。
彼等にとって大きく反動する事は「自らの政治立案」と矛盾する事になり、政治は成り立たなくなり「皇親政治側」の反発を招き危険な筋道を辿る事は必定です。
其処に両者には難しい上記する手綱捌きが起こったのです。
この青木氏を始めとする「皇親政治側」の「苦悩と生き様」は研究室のレポートに詳細にしている通りであり、これ等との知識と連動させると立体的な奈良時代から平安末期までの「生き様」が観えて来ます。

この「氏融合」「物造り」「神明社」とするには研究室レポートと他面の阿多倍側の「苦悩と生き様」も描き明確にする事が必要で一挙に大論文に入っているのです。


次ぎは「青木氏と守護神(神明社)−3」に続く


  [No.270] Re:青木氏と守護神(神明社)−3
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/02/25(Fri) 10:06:47

青木氏と守護神(神明社)−3

  「経緯の考察」
彼等が入国して以来、上記した約280−300年間の独立性の経緯の事を留意して更に次ぎの検証を進めます。
終局は、彼等が「優秀な民族集団」であると云う事とは別の見方をすれば、150年後の900年頃(変化点)から「半自治の運用権確保」から始まり「遠の朝廷」「錦の御旗」「太宰大監」(大蔵種材)を確保して九州域を「半独立に近い自治区」にして彼等側も朝廷側も解決せざるを得なかったのでは無いかと観られます。
現在に至るまで誰一人として正式に授与されていない「遠の朝廷」「錦の御旗」と呼ばれる最大名誉の授与の所以は、彼等を誉めそやす事が目的ではなく、「半独立に近い自治区」に実質した事を意味するのではないかと観ています。歴史的経緯から観ても”その様にせざるを得なかった”と云った方が正しい答えである筈です。

 「阿多倍の一族一門の主観概念 儒教」
そもそも、「半独立に近い自治区」を勝ち取った彼等の主観概念は元々は「鬼道」から発した「道教と儒教」(5世紀中−6世紀)にあった筈です。
当時、「仏教」(司馬達等500−552)より早く日本にもたらされていた「道教と儒教」の「宗教観」と同じ概念を持っていたのですから、「鬼道」−「神道」の「神明の宗教観」の導入は彼等にはかなり受け入れ難い政策事であった事が伺えます。
「物造り」を背景とする彼等の集団には「唯物史観」への傾向も強くあり、「観念的」な「神道」の「神明の宗教観」の押し付けはむしろ「独立」に向かわせる事に成ったと考えられます。
そこを朝廷は”「宗教観の違いによる争い」”これを避ける為にも先ず地域を限定して推進したと観られます。
そもそも、阿多倍側は概ね「道教 儒教」、朝廷側は「鬼道」−「神道」と「政治弊害」を起す程の「仏教政治」「神仏併合策」を採っていたのですから、なかなか帰化の初期段階からでは彼等には「氏融合、民族融和政策」の押し付けは無理であったと考えられます。
これ等の史実から観ても、反論する史実が見つからず「氏融合」と連動する「神明」の「振興策」は結局は「関西以東、関東以西」に成らざるを得なかった事に成ります。
故に、中大兄皇子の「氏融合策」と「神明信仰」の初期の段階では、「皇族賜姓青木氏5家5流と19地域」と「第7世族」の「坂東八平氏」のみと成ったと観られます。
  「その後の経緯」
平安初期までには「公地公民」の制度領域外にあった「異民族(アテルイ)」等を「征夷大将軍」の「坂上田村麻呂」が制圧(791)、900年頃から「藤原秀郷一門」が関東域と以北を「鎮守府将軍」として最終的に鎮圧し、平安末期には「清和源氏義家」が「征夷大将軍」と成って「朝廷の勢力圏」として「清原氏等」の「強い民族性」を持つ以北の「民族氏」(征夷、蝦夷、俘囚などと呼ばれた)を武力で征討します。

この280年の期間で藤原一門と以北勢力との間で「氏の融合」が進み、その結果の証明として下記の「神明社」2社が建立されたのです。
この記録からは制圧と同時に「神明社」を「氏融合政策」の象徴として朝廷が積極的に建立した事に成ります。つまり、「3つの発祥源」の象徴「青木氏」から始まった上記した「氏融合策」は「神明社」とは切り離せない「政策手段」であった事を意味します。
言い換えれば、「全国統一のシンボル的政策」であった事を物語っています。

天智天武の両天皇が政策的に定めた「伊勢神宮」は「皇祖神」とする事のみならず、「氏」と云うキーワードでそれに関連する歴史的なワードを引き出し、史実により組み立て綜合的に検証すると、見えなかった姿が次ぎの関係数式として成り立っている事が判ります。

「神明社」=「天照大神」=「太陽神」
「神明社」=「伊勢神宮」=「皇祖神」=「氏融合策」=「全国統一のシンボル的政策」
「神明社」=「民の心の安寧」=「物造り 品部の象徴神」=「部曲の象徴神」=「五穀豊穣」
「神明社」=「青木氏」=「3つの発祥源」(氏、侍、武家)=「皇親政治の祖」=「3つ国策」
「神明社」=「民の象徴」=「氏の象徴」=「天皇」=「天皇家の守護神」
゜神明社」=「鬼道」=「自然神」=「祖先神」

つまり、天智、天武天皇の頭の中にはこの「国体の関係式」が思考されていた筈であります。

上記する「人の生き様」は「太陽の光の恵み」に依って生かされている。依ってその限りに於いて「神明社」を「皇祖神」だけのみならずその「全ての象徴」の手段と位置付けたのです。
この概念が代々受け継がれて行ったのです。少なくとも「氏融合の完成期」「1018年」を僅かに超える時期まで。
しかし、国内ではこの時期には大事件が13件から広義には25件以上発生していて、その「国政の乱れ」を抑えようとして発した有名な「乱発法令」から観ると、30年程度ずれて「1045年頃」が境になります。
そしてこの丁度この時期(「氏融合の完成期」)には、「源平対立」と「皇室内対立」と「朝廷内権力争い」もこの時期から全て起こっているのです。

何も知らないひ弱い皇族者が”発祥源の荷物を担いで足腰を鍛え苦労して来た。 何とか「坂」を登り切ったところで”やれやれ”と思った瞬間、その坂の上は「氏」で”ぎっしり”、坂の上に残ろうとして互いに三つ巴の”おしくら饅頭”が起こった。 場所を私物化する者、坂から転げ落ちる者、知恵を使う者、力を使う者、うろうろするだけの者、入り乱れての混戦と成った。 最早誰にも止められない。 ”はっ”と気がつくと”皇族系だ 3つの発祥源だ”なんていっている場合ではない。 ”何か考えなくては”。 落ち着いてよく周囲を観察すると天皇もお隣の仲のよい為政者も同じ新しい考え方で何かを模索している。 ”これだ”と気がつく。 周囲を説得出来るし環境条件が整っている。 ”立場も利用できるがそうも行かない立場もある”。 ”「2足の草鞋策」を採ろう”。 ”伊勢だけではなく全青木氏に呼びかけスクラムを組もう”。 ”「商い」は和紙だ” 朝廷の推し進める「貿易」政策に乗ろう。青木氏一族一門を養える。これで生残れる。

上記の数式の考え方は少なくとも「武家政治」が始まるまでは「国の運営の根幹」に据えていた事は間違いないのです。

朝廷政治では”「融合氏」を育てる 「武家」を育てる”と云う「親心」で気配りをされて来たが、「武家政治」では「自らの事」の故に失われると云うよりは疎かに成ったと考えられ、それ故に独り立ちしたかと思うと「氏融合の基点」の「箍」が外れて遂には崩れ果て勝手気侭に成り果て、乱世の「生存競争」に突入してしまったと解析出来ると考えます。
つまり、その「箍」を締めたのが青木氏であり「箍」を締めなかったのが源氏と成ります。(後述)

その「融合氏発展の象徴」としての「神明社」の建立を使った証拠として次ぎの様な事があるのです。

下記の通り「経緯のポイント期」の762年と807年には「制圧統一シンボル」として、それまでは関西19域にしか建立は無かった事なのに、突然に都から遠く離れた場所の以北に2度に渡って「神明社建立」を成し遂げているのです。「以北制圧の証」として、また「制圧後の氏融合の証」として実施した政策で在った事が良く判ります。

「伊勢神宮」を「皇祖神」として決め、且つ「青木氏の祖先神」としましたが、実はこの決定の前には「神宮の鎮座地」を遍歴させ13の国・地域に皇祖神80社を建立して移動させているのです。
松阪に決定後は直ぐに先ず天領地の19地域にも「祖先神の神明社」を建立したのです。
この時期にいっきに合わせて99社も建立しているのです。
神明社に「国統一・氏融合」の象徴の役目を与えて居た事がこの事でも良く判ります。 (本文 詳細後述)

1度目は光仁天皇の642−645年に阿多倍末裔の阿倍比羅夫が以北攻めに従いその経路中の以北勢力を先ず一掃制圧した。この時に白石に「神明社」を建立した。
(記録では762年に成っているが再建したのではないか)
2度目は桓武天皇期に阿多倍の子供の坂上田村麻呂が以北攻めで以北の根拠地を制圧した。この時に仙台の岩沼に「神明社」を建立した。806年に制圧した。

まとめると次ぎの数式が成り立ちます。

「氏融合策」=[神明社」=「全国統一の象徴」=「融合の基点」=「人心の集約」=「物造りの起点」

(「神明社」の建立記録:全国の詳細は下記資料)
 朝廷の命で坂上田村麻呂が仙台岩沼市(現)に「押分神明社」(807年)の建立
 宮城県白石区益岡町(現)に「神明社」(762年)の建立
 政庁として胆沢城802、志波城803を築く
「桓武天皇」806年没 「坂上田村麻呂」811年没 アテルイ802年没 
以上の記録あり。

参考知識
  (「侍」の前は「武人」で「武装職業集団」漢氏(あや)、東漢氏(やまとのあや)、物部氏等(5)がある。 後に氏と成る。「蘇我氏」はこの「漢氏」等を最大護衛軍として雇っていたが、事件後、味方せず丘の上から引き上げた事により「改新劇」は軍事的衝突なしで成功する。)

  (漢氏、東漢氏は阿多倍王の父阿智使王の末裔子孫:職能武力集団)

  「青木氏」→「氏の発祥源」 「侍の発祥源」、 公家に対して「武家の発祥源」」←「3発祥源」

  (「武家」とは「武士」の事を指す言葉として通常認識されていますが、これは室町期以降に呼ばれたもので、本来は「公家集団」に対して新しく発祥した「侍の氏」を構成している「武士集団」として「武家」と呼ばれたものです。これが青木氏であったのです。「家」とは「氏:融合氏」を指す。)

これ等の「国体関係式」の考え方は天智・天武天皇が「民族間の国体そのもののあり方の如何」を見直して「氏の融合策」を優先した施策を「国体の始め」とした事により、代々の天皇にも上記の考え方が引き継がれて「国の体制」が進み「律令国家」への足がかりを掴みます。

その「氏融合」「物造り」「神明社」の「3つの国策」はほぼ全国的に成し得たとしてそこで「成功の証」として次ぎの様な2つの事を発布しているのです。

「氏融合」+「物造り」+「神明社」=「3つの国策」

  「日本の呼称」
その一つ目はそもそも「日本」は多くの島から成り立っている事から、古くは「大八州」(おおやしま)とか「秋津島」(あきつしま)と呼ばれていました。その後「倭」と成り、聖徳太子が「日の本」と称した事に始まり、以北の蝦夷地方を制圧してこの「白石」にシンボルとして「神明社」を建立した頃の701年頃から「日本」(ひのもと)という言葉が多く使われる様に成りました。
これに伴い資料から確認できる範囲としては年号(「大宝」)も途中で停止時期がありましたがその後継続して使われる様に成って行きます。そして7世紀後半には数ある書物には明記される様に成って行きます。

この国の称号事は「国」としての「一民族の形」が基本的に一応構成された事を意味し、明らかに「民族氏」から「氏融合」策が進んで「融合氏」へと急激な変化を遂げた事を意味します。
「雑種の優位性」か発揮出来得る充分な融合が達成されていないにしても、その「初期的な形」が整えられたと当時としては判断されていたのではないかと観られます。
故に朝廷は「国の称号」を「民族氏」が多く存在した「大八州」−「秋津島」−「倭国」を使わず新たに「日本」(ひのもと)としたのです。

これは資料から観ると、この呼称に付いて外国では三国志の「魏国」が「倭国」として、その後、「日の本」では最も先には「唐」が630年頃に「認めた記録」(認識)があり、これが初期に認めた記録とされます。
律令制度の完成期の頃(桓武期800)には遂に「正式な呼称」として800年頃に「国の称号」の発布が成されたのです。
諸外国、特にアジアでは950年前後であり、西欧では書物資料から観ると1020年頃に音読で「にっぽん」として伝わり呼ばれる様になったのです。
これは阿多倍の子孫「大蔵種材の1018年」に九州を何とか「3つの国策」に従わせた時期に一致します。
西洋の外国でも「九州自治」により「融合氏」による「単一融合民族」が完成したと認めた事を意味します。逆に云えば九州地域はまだその頃外国からは「不安定地域」として見られていた事に成ります。

実は皮肉にもそれは「貿易」と云うキーワードが左右した事にあったのです。
「貿易・交易」に依って「外国人の目線」と「貿易が成せる国」とによる評価を受けたものと考えられます。
この懸命な努力に依って成し遂げられつつある「融合氏政策」に連動させていたこれらの「物造り政策」も飛躍的に進み、更に上記した「氏融合」の「3つの国策」とが整った事から、今度はそれを「貿易」と云う形に廻す余力で行われたのです。それが外国から観れば、これは”諸外国に廻すだけの「国力の安定とその余力」が生まれた事”と受け取られたから認められた事なのです。
現に、意外に知られていない事なのですが、阿多倍の末孫「伊勢平氏」の「太政大臣平清盛」は積極的に「日宗貿易(南宋)」を朝廷として正式に推し進めた始めての「歴史的人物」なのです。
この頃の政治環境として、一方では九州で阿多倍一族一門の「賜姓大蔵氏」等の「民族氏の自治」、他方では阿多倍一族一門の「賜姓平氏」の「貿易による開国」と何と同じ一族一門が関わっていたのです。
「民族氏の自治」と「貿易による開国」の2つは「相反する施策」が「同じ時期」で「同じ民族氏」に依って成されていたのです。
偶然ではないこの2つの政策関係があったという事は、この時の「政治の駆け引き環境」が存在していた事を意味します。その「天皇」側の考え方に対して阿多倍一族一門はタイミングを図っていたと考えられます。
天皇側の”貿易に依って国を富ます事”の考えを後一条天皇等が主張していて、阿多倍側はこの「九州の大蔵氏による自治容認」を”何時認めるか”を見計らっていたのです。
何れにしても「貿易」を成す「物造り」は彼等一門の配下にあり彼等の「協力同意」なしでは何も進まないのです。
天皇側にとって見れば「国体の関係式」(”貿易に依って国を富ます事”)を成立させるには「大蔵氏による九州自治容認」は呑まなければ成らない必須の条件であったのです。
当然に彼等に「協力同意」を得なければ成らないのですから、桓武天皇の賜姓から始まった「平族」を無理にでも引き上げねば成らない事に成ります。これが5代後と云う急激な速さの勢力拡大を成し遂げた「太政大臣平清盛」となるのです。歴史上「侍」が始めて「太政大臣」になるのだから、「清盛による正式な国の拡大宗貿易」となったのです。

「貿易=物造り=氏融合」の関係式が「氏融合→物造り→貿易」の関係式で成立すると考えていた天皇は阿多倍一族一門から交換条件として「大蔵氏による九州自治」を暗に示していた筈です。
以北問題等の後述する他の要件も整った為に天皇側が「自治容認」を呑んだ事から、この摂津からの「宗貿易」が始まり正式に「平清盛」に引き継がれて拡大し諸外国から「日本国」を容認させる結果と成ったのです。

この事は青木氏にとって無関係ではないのです。「融合氏」を始めとする 「3つの発祥源」の「賜姓青木氏」に取っても「商い」(「2足の草鞋策」)はこの時期直後に興っていますが、この事は天皇と阿多倍一族一門の狭間にあって「融合氏の発祥源としての立場」と「青木氏の趨勢」とこの「時代の変革期」を読んだ結果の「青木氏の決断」でもあったのです。

天皇家側  「融合氏」を含む「国体の成り立ち」は「国を富ます事」=「貿易」→「皇祖神」=「伊勢神宮」
青木氏側  「融合氏」としての「氏の成り立ち」は「氏を富ます事」=「商い」→「祖先神」=「伊勢神宮」

代々の天皇は、上記「国体の関係式」を念頭にして「氏融合」をより進めるには「国を富ます事」、それには「物造り策」が必要で、その「物造り」を富に変える「交易」を行う事、結果として「融合」が進み民の「感覚概念」が統一されて「国の安寧と安定」が図られるとした考え方を保持したのです。そしてその感覚概念の拠所を伊勢神宮に置いたのです。
これに対して青木氏は全く同じ考え方をして「殖産」(物造り)を進め「商い」(2足の草鞋策)を興し「氏の安寧と安定」(祖先神)を図ったのです。そして、個人と氏の感覚概念の拠所を伊勢神宮に置いたのです。
全く同じ考え方をしていたのです。

詳しい事は本文で後述しますが、その証拠に今までの古代の信仰概念は先ず「自然神」の考え方であったのです。それを「鬼道」と云う占術に変化し、それが「民族氏」の誕生と共に社会構造が変化して「産土神」の考え方に発展します。
そして、それが国策により「融合氏」へと再び社会構造が変化して「祖先神」と云う考え方に発展して行ったのです。青木氏を「融合氏」の発祥源として国策を進めたとき社会の信仰概念も新しい信仰概念に変化を遂げたのです。これが青木氏を始めとする皇族系融合氏が信仰する「祖先神」と呼称される概念なのです。
「青木氏・神明社」=「祖先神の信仰概念」=「氏の安寧と安定」
以上の関係式が成立するのです。

「祖先神」(詳細は本文後述) :「氏」と云う概念に変化した新しい考え方が誕生
「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 「自分の集合」である一族一門の子孫の「守護神の重複性も持つ神」とする考え方

ところが一口に”皇族賜姓族・皇親族が「商い」(2足の草鞋策)を営む”という事はなかなか身分・家柄・伝統という観点から極めて難しい事であり、本来であれば天皇・皇族に理解・認可が得難い事でありますし、思い付いたから直ぐ出来ると云う程にそう簡単な事では決してありません。まして賜姓族・皇親族・融合氏発祥源の立場があるのです。
そもそも当時は皇族系の者が武器を持ち武力による勢力は卑しいとする考え方が一般的でした。青木氏は朝臣族で浄大1位の皇族から離れてわざわざ臣下して「侍」に成り天皇を護る力を保有したのです。
そこに、その天皇を護る役目の「侍」が「殖産」「商い」をすると云うのです。現在の概念では何の問題も有りませんが、「自然神」−「鬼道」−「産土神」の感覚概念の時代の中に「祖先神」の考え方を導いた社会構造を構築した中で「殖産」「商い」の領域に立ち入るのです。
何か「相当な政治的な環境」が整う以外に無い筈です。筆者はこの環境の如何を重視しているのです。

「殖産・商い・交易」は未だ大きく発達していない社会構造で「部制度」による「準市場経済」であり「物々交換」を主体とした「貨幣経済」での中で、「荘園制」が進み「私有化」が起こり「社会問題化」し始めて「整理令」「公領制」に戻された時期に「殖産・商い」を興したのです。相当反動的な決断であった筈です。
「殖産・商い」の点でも研究は進んでいませんが状況判断から相当フロンティアであったと考えています。

「相当な政治的な環境」とは次ぎの様なものであったと観ているのです。
青木氏からも光仁天皇・桓武天皇・嵯峨天皇系を出している縁戚の家柄とすると勝手に進めていれば恐らく非難轟々で在った事が予想できます。
しかし現実に「商い」(2足の草鞋策)が出来た事から観て、上記の様に同じ考え方をしていたから同意を得られたと見ているのです。むしろ指示があったと考えられます。
ましてその「宋貿易」を主導しているのは伊勢松阪の隣の伊賀の賜姓平氏なのです。
更にはその伊賀の和紙を商いの基本としているのです。(松阪を中心として摂津堺にも2店舗・大船3隻)
この様に条件が整っているのです。
11代の皇族賜姓源氏の同族はこの「商い」(2足の草鞋策)を採用していないのです。採用できなかったと云って過言ではない筈です。「賛成・同意」が得られる条件下に無かったからに依ります。
口伝より逆算すると1120−25年頃に「商い」(2足の草鞋策)を始めた可能性が高く「平清盛の宗貿易」の時期に一致しているのです。

その「相当な政治的な環境が整う事」とは「平清盛の宗貿易」が大きく作用したのではないかと観ています。
先ず「伊賀−松阪の隣国関係」と「伊賀和紙の関係」があった事から”「平族」と同意・同調した”のではと観ているのです。現にこの50年後では「以仁王の乱」で源頼政の孫の助命嘆願が伊賀から成されて日向に配流となった史実から見ても、「平族」の実家との深い付き合いに特別なものが在った事を示す出来事です。
更には「桓武天皇」の母は「平族」の阿多倍の孫娘、「桓武天皇」は「光仁天皇」の子供、「光仁天皇」は「伊勢王施基皇子」の子供、「施基皇子」は伊勢青木氏の始祖、源三位頼政の孫京綱が「青木氏の跡目」を考慮すると「同意・同調」が得られる「深い付き合い関係」が在った事が充分に伺えます。
「国体の関係式」の考え方を引き継いでいる「歴代の天皇」は勿論の事、「商い」(2足の草鞋策)では太政大臣「平族」にも同意が充分に得られたと観ているのです。筆者は同調説を採っているのです。
この「5家5流の青木氏の路線」と比較すると、全く同じ立場にあった「11代源氏」は「平族」と敵対関係を形成してしまった為に「商い」(2足の草鞋策)は成し得ず生き残りは果し得なかったと考えられます。
この源氏の事から観て上記の事は「軽視できない環境」としているのです。

「相当な環境」=「天皇の決断」+「青木氏の決断」+「平族の決断」+「平族との関係」→「殖産・商い」
「融合氏」+「殖産・商い」=「2足の草鞋策」→「物造り」→「貿易」

天皇が考えていた「国体の関係式」とこの「氏融合の3策」には無くては成らない決断であったのです。

「国体の関係式」+「氏融合の3策」=「民族氏の自治」+「貿易による開国」→「2足の草鞋策」

この「宗貿易」は阿多倍の子孫「大蔵種材」の1018年に依って国体が遂に整った頃から丁度100年後にも一致します。(1045年頃と観れば50年後と成ります。 しかし、この結果、荘園制の行き過ぎが起こる)
この事は「氏融合政策」が整った為に、100年で「物造り」に「国策的に余力」が生まれた事を意味します。

つまり、その1つ目は「中大兄皇子」(天智天皇)の26年間とそれを引き継いだ「天武天皇」と「持統天皇」が行った上記の政策、突き詰めると「氏融合策」と「物造り策」の2策が国体(国の称号)を成したことを意味します。そして、それが「氏融合・100年間隔の節目」と云う特徴を持っているのです。

「氏融合」の「3つ国策」の変化を観てみると、この様に700年直前、800年直前、900年直前、1000年直後、1100年直後と夫々「100年間隔の変革」の節目時期を持って進んで行っています。
(鎌倉期以降も「100年間隔の周期性」を持ち続けている)
不思議な現象で、当時の「朝廷の政治慣習」の中には「100年間隔の節目感覚」が有ったのではないかとも考えられます。或いはもっと云えば「日本の政治」にはこの「100年間隔の周期性」が遺伝子的なものとして潜在しているとも観られます。
これは紀元前から起こっている「日本の気候変動の周期」が凡そ「100年周期性」で起こっていて、その度に「大飢饉」が起こり「氏」の「生存競争」により国が乱れる事による原因ではないかと筆者は考えているのです。これを繰り返す事から起こったものと考えられます。(詳しくは論理的な解析は後述する)


  「皇祖神 神明社−祖先神・伊勢神宮」

そして、その二つ目は、何をか況やそれに伴ない本論の「皇祖神」即ち「神明社」−「祖先神」の考え方を朝廷は新たに採用したのです。
その考え方の具現化として「天領地」でもあり、「融合氏発祥源」の「皇族賜姓青木氏」が守護する伊勢松阪に、「天照大神」を祭祀する「伊勢神宮」を置き、そこを「氏融合と物造り」2策を根源とする「日本国」の「神の象徴源」(万民の心の象徴)の場所としたのです。
そして、この時期に下記19の地を定めそこにも第4世族までの守護王を置き、この「分霊を祭祀する政策」を天智天皇と天武天皇は積極的に実行したのです。(天智天皇が実行し天武天皇が正式に定める)
つまり、青木氏を代表とする「祖先神」の考え方が進んだのです。

上記の”「A=B」の検証と詳細な「経緯」”での疑問はこれで検証されるのです。

つまり、故に本論の神明社論では「氏融合」と「物造り」を語る事になるのです。
本論の基点はここにあるのです。つまり、言い換えれば「4つの青木氏」(下記)はこの「基点の氏」(三つの発祥源: 氏発祥源・侍発祥源・武家発祥源)であると云う事に成るのです。

「4つの青木氏」=「氏融合」+「物造り」の基点=「氏発祥源」+「侍発祥源」+「武家発祥源」

つまり、「氏の融合」は「雑種の優位性」を生み、それが更に「物造り」を助長させると云う循環の「国体の仕組み」政策だったのです。

「氏融合」=「雑種の優位性」=「物造り」

  「物造りの開始、終期」」と「帰化の定着、終期」
「日本の民」は先ずは中国の進んだ「知識や技能」を吸収したのです。
天智天皇期から桓武天皇期までの間(イ)では経済的、政治的な完成を成し遂げたのです。
経済的(工業的)には日本の「第一次産業」を飛躍的に発展させたのです。
政治的に国体のあり方として「律令国家」の「政治体制」を完成させ、更には朝廷の「政治機構」をも構築したのです。
軍事的にも、進んだ武器を使い「水城や烽火や山城」などの新戦術を使う「朝廷軍の創設」を完成させたのです。これ等は全て彼等の力(阿多倍一族一門)にあるのです。

(「日本書紀」にも「天武天皇」が”一般の優秀な民からも登用して学ばせる様に”とした発言が書かれている様に。 日本書紀の編纂は舎人親王が宰相となり彼等帰化人の官僚が主体となって作成した事も書かれている。)

「学ぶ終りの時期」(ロ)では800年過ぎ頃で、その頃の資料文献には「渡来人」の言葉が文字として出て来なくなります。「第1期の融合」が完了(80)したのです。

「渡来人に日本名が定着した時期」(ハ)では彼等から4世の子孫が出来て藤原氏を凌ぐ一大勢力が出来上がった頃でもある事。

「帰化の終わりの時期」(ニ)では、「阿多倍王」の末裔大蔵氏が「大宰大監」として「遠の朝廷」と呼ばれ、唯一個人に「錦の御旗」を与えられた人物の「種材」の時期(900年頃)で、この時には北九州や下関一帯から正式に外国からの移民を武力を使ってでも強制的に停止した時期でもあります。

この様に概ね(イ)から(ニ)の経過を通して文明的に顕著に観られる初期は、450−500年頃の大和政権の飛鳥末期から始まりますが、工業的には640年頃に始まり920年頃の間に「中国の進んだ技能と知識」の吸収は終わる事に成ります。
後は彼等から離れて更なる「氏融合」策により「雑種の優位性」が起こり日本人の「遺伝的特技」を生かした「独特で独自の発展」となるのです。

  「物造りの疑問点」
此処で疑問が起こります。何故、教えた中国はこの「進んだ技能と知識」の範囲で留まってしまったのかと云う点です。同じ様に日本と同じく「物造り立国」が進む筈ですが、日本は進み中国は進まなかったのです。
何れも国内の混乱は同じ程度にあったと考えられますが、「歴史的、政治的」な史実から筆者なりに考察すると、「移動、移民、難民、帰化」の点では次ぎの6分類に成ります。
日本では次ぎの様に成ります。

 「移動、移民、難民、帰化の経緯」
第0期(紀元前後頃)国境的な区切りの緩やかな状況下で各種の民族は日本各地に上陸
第1期(150-250年頃)の太平洋と大西洋からアジア全域と北方大陸からと世界的な民族大移動
第2期(300-550年頃 2期)に朝鮮半島南から倭人の帰国と南朝鮮人の大移動と西アジアからの難民
第3期(600-700年頃 2期)に中国が混乱し後漢と北韓から帰化大移民(経済的な発展)
第4期(750-850年頃)の各地に散発的に難民流入 (全土征圧 難民は朝廷の難題と成る)
第5期(900年頃)前後2次期に渡り大量の散発的な南中国と南朝鮮人の難民(移民難民の防止)
(研究室の詳細な関連レポート参照)

以上の第1期から第5期までのその年代の状況により異なり「移動、移民、難民、帰化人」により「7つの民族の融合」が完成される事により世界に珍しい「完全融合単一民族」が構成された事に依ると観られます。

0期から2期前半では国内で特に九州全域に於いて「民族的な集合体」を形成、各地で「民族間の争い」が起こる。
2期後半から「民族的な争い」が淘汰されて優劣が決まり、納まる。結果としてその優劣により「民族間融合」(「民族氏」の乱立)が始まる。
3期前半で小単位に成った「民族氏」間の争いへと変化して行く。
3期後半では「民族氏」は終局して、更に「融合政策」を実行して新たな「融合氏」は爆発的に変化する。これを以って目を外に向け「防人」「烽火制度」「水城」「山城」等の防御システムに観られる「国境警備体制」が整えられる。 
第4期前半では国内的に経済的、政治的な理由から「移動、移民、難民、帰化」が限界と成る。
第4期の後半では「氏融合」は進むが、新たな「他民族の難民」の流入は「氏融合」の弊害と成り処置が困難と成る。
第5期前半では主に九州全域を政治、経済の運営を一手に帰化人末裔の大蔵氏に「遠の朝廷」として「錦の御旗」を与え「太宰大監」にし全権委任して九州全土の安定化に大成功する。
第5期後半では「武力難民」が多発する中で軍事的な防御力で成功する。

国内的にも「氏融合」の結果「藤原氏」等の「源平籐橘」系列での「氏の優劣」が整い安定化する。それに合わせて「律令国家」に伴なう「氏家制度」の国体が整えられる。
この5期の成功で大蔵氏(個人的には種材なる人物)は”武人の誉れ”の氏として賞賛される。
その中でも「大蔵種材」は日本の守護神と崇められ多くの武人の模範とされた。そして、神を護る仁王像や四天王像の彫刻のモデルとも成った。

  「参考:氏数の変化」
家紋数と氏数の平均(資料に残る主要氏)
奈良期20位
平安初期40位 中期80位 末期200位 
鎌倉中期800位
室町初期1200位 中期80位 末期200位
江戸初期2000位
明治初期8000位  

(数字は氏の真偽判定が困難の為、室町期からバイアスが大きく計算で大きく変わる)
(氏姓制度が決まる前は「氏の概念」は無く5世紀中期では民族的な集団生活を基本としていた)

  「大蔵氏と坂上氏の勢力範囲」
この史実の事は、当時、国内ではこの第4期から起こった事に国民が心配し大政治課題に成っていた事を端的に物語るものです。それは「民族氏」ではなく「融合氏」単位に対する意識が大きかった事や、それが「渡来人の大蔵氏」であった事、国民が挙って賞賛する事が「渡来人意識」が無くなり「氏の融合」が完成に近い状態である事が検証出来る事件でもあります。
更に、これに加えて、この大蔵氏の兄は「坂上田村麻呂」であり日本一有名な人物で日本全土を初めて「征夷大将軍」として征圧させ、「日本の国」を統一(氏の融合を意味する)させたとして朝廷軍の「武家武人の頭領」と称号を与えられた人物です。後にこの事で「征夷大将軍」の称号と「武家の頭領」の身分は「幕府樹立の条件」に成った程の事なのです。
これらは「氏の融合」の完成と後の「政治体制」(民族氏では成立しない)を決めた要素となったことを物語ります。
つまり、何と渡来人の後漢の阿多倍王(日本名:高尊王 平望王)の末裔が、朝廷の命により自ら西に太宰大監「大蔵氏」、北に征夷大将軍「坂上氏」の兄弟が日本全土を制圧し、遂には天智天皇が「大化改新」で初めて採った「氏の融合政策」の実行は、彼等一門の主な努力で「氏の融合」の完成を成したと云えるのです。
  「以西と以北の融合勢力」
この事だけでは実は済まないのです。では平安時代には西と北の真ん中はどうなったかの疑問ですが、実は同じ渡来人の後漢の阿多倍王の支流末裔で「阿倍氏」の末裔子孫(阿部内麻呂や阿倍比羅夫で有名)と、中部東北に掛けて同じく三男の「内蔵氏」の末裔子孫の2つの親族が関西と中部域を勢力圏とし、その一族の筆頭末裔の平氏(たいら族 5代後の平清盛で有名)等で「氏の融合」を構築したのです。
  「中部関東域の融合勢力」
又、他氏ですが、東は「斎蔵」(斎藤氏)を担う藤原北家一族秀郷一門361氏が「日本一の氏」と成って中部関東域で、又、母方で「藤原氏」と「たいら族」の「2つの血縁」を引く天皇家第7世族の「坂東八平氏」らにより「氏の融合」は完成させていたのです。
そもそも、「桓武天皇」が母方の阿多倍一族を引き上げて賜姓するにはそれなりの家柄身分の裏づけが必要です。そこで、中央に於いて藤原氏の血縁を持ち、且つ、坂東に於いて赴任地に居た国香、貞盛ら阿多倍一族等との「血縁融合」が部分的に進んでいた皇族系の「第7世族」「ひら族」(坂東八平氏)の呼称に習って、この「2つの血縁」(藤原氏とひら族 融合氏)を間接的に受けている事を根拠に、賜姓時に「たいら族」:同じ漢字の「平氏」として呼称する氏を与えたのです。

(国香、貞盛の親子は下総、常陸の追捕使、押領使を務める 坂東八平氏と血縁 「独立国」(たいら族国家)を目指した仲間同僚の「平将門」の乱鎮圧)
  「桓武天皇の父方母方のジレンマ」
「桓武天皇」は彼等の努力に依って「律令」による「国家完成」が成し遂げられた事を考えて、「天智天皇」より始まった5代続いた「天皇家の賜姓慣習」がありながらも、それに反する「皇親政治」を標榜するの父方(光仁天皇)の「青木氏」(「天智天皇」の子供「施基皇子」の子供の「光仁天皇」)で賜姓せずに、母方でもあった「阿多倍一族」を賜姓してより「氏融合」を図ったのです。
このままで行けば「阿多倍一族の単独的な勢力化」に繋がり、反って「乱れ」に成り「融合」が果たせない事を懸念して、敢えて「父方派(青木氏と藤原氏)]と「母方派(阿多倍一族)]とを競わせる事を目指したと考えられます。(父方の青木氏は衰退する)
「桓武天皇」には「父方と母方」、「皇親政治と律令政治」、「氏の融合の可否」の「3つの選択」が伸し掛かりかなり苦しい選択であったと考えられます。
この時、朝廷では「桓武天皇と長男の平城天皇」派の「改革派」と、「次男の嵯峨天皇と青木氏」派の「保守派」とが「賜姓の路線争い」で「同族間の骨肉の争い」が「官僚と豪族」を巻き込んで起こったのです。
結局、「桓武天皇」が母方の上記した「政治、経済、軍事」を背景とした「強力な後押し」もあり、勝利の象徴として「賜姓」を「天智天皇」からの「第6位皇子」の「賜姓慣例」を廃止し、彼等に「たいら族」と賜姓したのです。これが後に「国香」と「貞盛」親子から5代後の太政大臣「平清盛」と発展したのです。”平氏に在らずんば人に在らず”と云われる程に旺盛を極めたのです。
つまり、桓武天皇の「政治目的」の「氏の融合」が反映されずに成ってしまったのです。
しかし、この間、保守派の「嵯峨天皇と青木氏」派は手をこまねいていた訳では無いのです。
「嵯峨天皇」は兄の反対派「平城天皇」(不思議に病気を理由に2年後に退位 退位後活動)に続いて「皇位」に着くと「天智天皇」が採った「氏の融合策」の「賜姓」策に戻し、「第6位皇子」を「源氏」と変えて賜姓したのです。
そして、5代続いた「青木氏」は皇族の者が臣下又は下族する際に名乗る氏名として詔を発したのです(対象者18人)。これが11代続き「花山天皇」まで「氏の融合策」の「賜姓」策は続いたのです。
この間、11代の天皇は「融合策」は採りつつも、「平族」は益々勢力を高めて「賜姓源氏」や「賜姓青木氏」を凌ぐ力を持つのです。
終局、5代続いたこの「平族」(たいら族)は「全国的」に「積極的」に「管理された融合策」を採らなかった為に1185年滅亡する事に成ります。
「全国的」に「管理された融合策」を「積極的」に採った「賜姓源氏」と「賜姓青木氏」は生き残ったのです。ここに大きな違いがあります。
「清和源氏」と「嵯峨源氏」と「村上源氏」と「宇多源氏」の4氏が生残ったのです。
しかし、「賜姓源氏」は11代続くにしても、結局、最大勢力を維持した「清和源氏」が鎌倉幕府3年後に第7世族の末裔「執権北条氏」と「坂東八平氏」に依って滅ぼされて子孫を遺せず滅亡します。「氏の融合」拡大とは裏腹に元を質せば天皇家の同族に潰されたのです。
結局、村上源氏(傍系北畠氏)と宇多源氏(滋賀佐々木氏)と清和源氏(清和源氏宗家 青木氏)が子孫を僅かに遺したのです。(北畠氏も結局織田信長に滅ぼされて滅亡する)

  「4つの青木氏の血縁と絆」(重要)
特に青木氏に於いて検証すると、青木氏は近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐で29氏、母方で、藤原秀郷流青木氏として24地方で361氏と拡がったのです。この29氏と361氏の390氏は清和源氏の宗家頼光系と分家頼信系で「氏の融合」を果たし血縁して遺しているのです。

 「血縁融合」
1「皇族賜姓青木氏」と「皇族青木氏」 29氏
2「藤原秀郷一門の青木氏」119と「青木氏血縁氏」 361氏

これ等は「2つの血縁融合」です。
青木氏には他方次ぎの様な「2つの無血縁融合」の氏が融合形式を採っているのです。

 「無血縁融合」
3「未勘氏結合」「社会的結合」(何らかの社会的な縁にて結合している氏 遠縁関係等)
4「第3氏結合」「生活圏結合」(限定する域内で生活を共にする氏 村民関係)

これ等が「2つの無血縁融合」です。
1から4までを「4つの青木氏」と呼ばれます。

参考
記録調査から分析分類すると、3の「未勘氏結合」の青木氏の中には、その割合は不確定ですが次ぎの「4つの青木氏」が観られます。
A 室町末期に立身出世した者の先祖が、次ぎに示す兵役に着いていた事の「口伝」をたよりに「絆」を基盤とした「絆氏」。
B この期に「皇族賜姓青木氏」や「秀郷流青木氏」と密接に網の様に繋がった家臣一族の末裔が青木氏との「絆縁」を基盤として名乗った「縁者氏」。
C 「2つの血縁」の青木氏が「青木村組織」「家臣組織」で「優秀な者」や「氏」に大きく「貢献した者」に「青木氏」の姓を名乗らせる「養子方式」の「養子氏」。
D 「2足の草鞋策」でその「職能組織」を支え貢献し職能を引き継ぐ優秀な者に青木氏を与えた「職能氏」

これ等AからDは、1から4の「4つの青木氏」を基盤から固める為に「より幅広い子孫を遺す目的」で行われたものです。
AからDの「絆氏」「縁者氏」「養子氏」「職能氏」の「未勘氏結合」の中でも「4つの未勘氏の青木氏」が鎌倉末期から室町中期に始まりあった。
この「無血縁」ではありますが、形式的な「養子方式」でもあり、一種の青木氏独自の「賜姓方式」でもあった事になります。
恐らくは、青木氏が歴史の厳しい中で「源平藤橘」がほぼ滅亡している中で、「2つの血縁」の青木氏390氏もの氏が生き残れた事から観て、下支え無くしては殆ど無理である事は明白であり、このことから判断しても「未勘氏結合」の少なくとも5割はこのAからDが占めていると観ています。

実は筆者の伊勢青木氏にも「養子氏」Cの青木氏が3氏確認できる範囲では知る事が出来ます。
その内の2氏の青木さんが「ルーツ掲示板」に投稿あり、残りの1氏は末裔の人(元は藤田氏 明治初期)を口伝で承知しているが、相手は筆者の特定の先祖の名前を始祖だと発言している。筆者がそのルーツの跡目者である事を知らない。「青角字紋」の青木氏はこの「職能方式」の一種の賜姓の青木氏であります。
以上の3つの傾向も「個人の由来書」などから強く観られます。

これの氏の占める割合がどの程度であるかは把握困難ですが、鎌倉期以降には乱世である事から、「血縁融合」だけではなく「優秀な者」を「青木氏」として育て「絆融合」でも「団結」により「青木氏」の生き残り策を構築したものと観られます。
これは平安末期から採った「2足の草鞋策」(経済的)には、特にこれらの「優秀な者の力」を必要とした事から起因していると考えられます。
又、源氏が滅亡する鎌倉期から始まった、青木氏に起こる「乱世」を生き抜くための手段としても又、武力的にも、下記の縁の繋がりの「絆融合」も必要であってその為にも「組織の上位」の「優秀な者」を賜姓して固めたと考えられます。
これは「皇族賜姓青木氏」と「母方血縁の秀郷流青木氏」と云う「2つの朝臣族の立場」が成せる業であった事によります。つまり、下記の官職から来ていると観られるのです。
  「青木氏の永代官職」
「六衛府」(左右近衛府、左右衛門府、左右兵衛府)と(左右衛士府)の宮廷軍があります。
この「宮廷軍の指揮官」が「皇族賜姓青木氏」で、後には平安中期には「源氏」と「藤原秀郷流青木氏」もこの「指揮官」の任に着いたのです。
この1と2の青木氏は「衛門」と「兵衛」の官職名の永代名が付いたのです。
賜姓臣下した青木氏のこの役目を「侍」と呼ばれたのです。そして、この「侍の氏」を「公家に対して同等の家柄として「武家」と呼ばれたのです。
この「侍」は「国侍」(真人侍)と「院侍」(貴族侍)と「家侍」(公家侍)に分けられます。
(江戸時代は「武士」は全て「侍」で「武家」と呼称される様に一般化した。その為に金品で一台限りの官職名が朝廷より授与されたが末期以降には誰でもが自由に付けた)

それぞれの兵は概ね次の役目を平時は担っていました。(左右の兼務含む)
「六衛府軍」」(左右の兼務含む)
1 近衛府軍は貴族など高位身分の者の子弟を集めて兵とし軍を編成 天皇の護衛軍 全般
2 衛門府軍は諸国の国司等の上級官僚の子弟を集めて兵とし軍を編成 主に左右宮廷門の警護軍
3 兵衛府軍は諸国の郡司等の中級官僚の子弟を集めて兵とし軍を編成 主に行幸等の警護軍
(平時はこの任に就く 非常時は天皇を直接護る護衛軍の任に就く)

「衛士府軍」(左右の兼務含む)
4 衛士府軍は諸国の役所の衛士を徴発して軍を編成 宮廷内各所の巡視をする警備軍。 
(明治期の庶民から成る近衛軍は元はこの衛士府軍であった。)

つまり3と4(「未勘氏結合」「社会的結合」、「第3氏結合」「生活圏結合」)に於いても「室町末期(1期)、江戸初期(2期)、明治初期(3期)の「3つの混乱期」で青木氏が大きく拡大しています。
「2つの血縁融合」の青木氏に対して、集団を形成して住む村(青木村)又は郡で生活をともにした家臣や農民や庶民の「絆」を基にした「生活圏結合」と、血縁先の縁者と間接的な血縁状態になる「未勘氏結合」がありますが、この「2つの無血縁融合」に依って他氏には観られない「幅広く重厚な青木氏」が大きく構成されているのです。
つまり、「血縁」を絆とする「2つの血縁融合」と「社会」「生活」を絆とする「2つの無血縁融合」で構成されているために子孫は上記した様に遺せたと観られます。

「血縁の絆」と「生活の絆」の何れもが「融合の優劣」に無関係であります。
筆者はこれを丁度、「鶏の卵関係」と呼んでいてこの事が子孫を遺せた条件と観ているのです。
数式にすると覚えやすく認識しやすいので何時も原稿にはこの様にまとめて記録します。

ここでそもそも「氏」の起源についてより理解を深めるために更に述べておきます。
そもそも、この氏と姓(かばね)付いては記録としては次ぎの様なものがあります。
  「氏と姓の書籍」
最古のものとしては、「日本書紀」には「氏」に関する事が書かれていて、「舎人親王」が編集の氏系図一巻が添えられていた事が「釈日本紀」にあります。
大化期の国策が「氏融合」を前提として進められていた事の証明です。
次ぎに「釈日本紀」の系図を前提とした「上宮紀」、「古事記」「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「文徳実録」「三大実録」
嵯峨期の「新選姓氏録」とその元と成った「氏族志」は体系的にも完成度が高く有名です。
個人の古い信頼される範囲では「和気系図」「海部系図」があります。
南北朝期には「尊卑分脈」があり公家武家の系図であります。
鎌倉期には個人の系譜として「中臣氏系図」「武蔵7党系図」
江戸期の各藩が競って編集したものでは「新編会津風土記」「上野国志」「新編常陸国志」「新編武蔵風土記」「尾張志」「丹波志」「芸藩通志」「防長風土記」などがありますが、その編集の前提がそれらの氏家の系譜を信用しての編纂であるので、家柄身分誇張の風潮下、搾取編纂、疑問点も多く概要を知る上ではその価値には配慮が必要なのです。
新しくは江戸期には「寛永諸家系図伝」「諸家系図纂」「寛政重修諸家譜」があります。

上記した限定された資料の中で、立身出世した者の個人の家の系譜まで詳細に記録されたものは無い訳であり、そこまで社会体制が整えられていなかったし、その系譜元としている平安期の氏は「皇別、神別、諸蕃」の主要な範囲のものであり、青木氏、藤原氏等と異なり「個別系譜」を造れる「資料環境」ではなかった筈です。この様な系譜資料には共通するある特徴とパターンが垣間見られるのです。ただ、特記するは研究過程でのその「系譜の使い方」ではそれなりの意味を持ちます。
室町末期より江戸初期に掛けての資料には歴史的な混乱期の3期が介在していて配慮が必要なのです。
そこでそれを効果的に使うとする次ぎのような歴史的な氏の編成拡大の経緯を把握しておく必要があるのです。
本文の参考となるのは「新撰姓氏録」です。これによると1282の「氏姓」があり、京畿内のもので「氏姓」は、4種から成り立っています。
「皇別」
「神別」
「諸蕃(民族氏の渡来人、部氏含む)」
「未定雑姓(末梢氏、枝葉氏)」
以上4種からなるものです。

これは815年編ですのでその編成過程は明確になっています。
この「1182」の数字は「本文の氏数(20−40−80−200)」とは算定の基準が異なり、本文は「象徴紋、家紋」からの算定とするもので、「部氏」と「未定雑姓」が含まれて居ないものです。
本文のものは論じるために確立した「氏」集団を構成する単独単位として計算されたものです。
依って、「諸蕃」の内「民族氏」の一部有力氏は含まれますが、これらの氏として確立したのは平安末期から室町期に掛けてと成ります。

「氏名、姓名の呼称」
そもそも、「氏」と「姓」に付いてその発祥経緯を把握しておく必要があります。
奈良期初期450年頃には朝鮮半島から応仁王が船を連ねて難波の港に攻め入ってきます。
この時戦いが起こり、古来から存在した5豪族との連合国軍と戦います。先ず「紀氏」が潰され紀州南紀から山伝いに奈良に入ります。葛城氏等の連合軍と戦いますが決着が付きません。そこで協和会議を開き、応神王を初代王として連合体形成による初期の「ヤマト(大和)王権」を成立させたのです。
この時まで「氏姓」は原則としてこの応神期までにはありませんでした。
この「氏姓」は次ぎのプロセスを経て成立するのです。

  「氏の構成形態」
当時の「氏」そのものの構成形態の経緯は次ぎの様に成ります。
地域の「民族的集団」が「一定地域枠内」で「集団生活」をし、その「最小集団」が相互に「血縁」を繰り返し、「血縁性」の「家族性集団」を先ず造ります。
次第に出来る「血縁が高い集団」毎に「小集団」、「中集団」、「大集団」が生まれその集団毎に結集して行きます。
このそれぞれの「血縁性集団」が互いに結束して他に出来た「血縁性集団」から自らの「血縁性集団」を護る為に「防衛」と云う「共通目標」が出来てその「集団防衛体制」が出来ます。
この「集団防衛体制」を敷いた事から、其処にその「集団」を指揮する「首魁」が生まれます。
この「大小集団の首魁」を中心に「集団防衛体制」と云う「共通目標」でまとまった事からこれを「氏」と呼ばれる様に成ったのです。
しかし、ここではまだ「民族性」が強い集団の「民族氏」を作り上げただけなのです。
「防衛」と云う「共通目標」の集団単位=「民族氏」
この「民族氏」には当然に集団の大小が生まれます。
その防衛集団の「首魁」を「氏上」とし、その「血縁者」を「氏人」と呼ばれる様に成ったのです。
ここから第2段階が起こります。
その集団には子孫末裔の「氏人」が増え、更にこれが血縁活動に依って「分散独立」して、新たな「民族氏」の小集団を構成します。この「終結 分散、独立」を繰り返します。
この「民族氏」は今度はより「血縁性」を基準としての他の「民族氏」との血縁を繰り返してゆきます。
多少の血縁性を持ちながらも「防衛」と云う「共通目標」で結びついていた形態から出来た「民族
氏」は、今度は発展して「血縁性」を主体にして「終結 分散、独立」を繰り返して行きます。
次第に「血縁関係」により集団が大きくなり、数も増して「結束力」も大きく成って行きます。
「枝葉の定理」で「血縁」と云う「共通性」の集団単位=「氏」の単位に再編成が起こります。
この「民族氏」の「氏集団」の「相互間の血縁」が進むにつれて「呼称」が必要となります。
臣勢族、葛城族、紀族、平群族、等と互いに「呼称」に伴い「族」を形成して行きます。
「血縁関係」を基準として「呼称」は「・・族」の「・・氏系列」の「枝葉の系列化」を生み出します。
最初はそれらの「民族氏」の「氏族」が「由来のある地名」で呼び合った事から大集団の「族名」が出来ます。
大集団の中は、その「集団生活」の「族名」の中の「一集団」を「氏」として呼称される様に成ります。この様に「大集団」の族の中に多数「氏名」が出来ます。
「民族」−「朝鮮族」−「百済氏系列」−「蘇我氏」

更にはその「一集団」を構成している「家族性」の「最小集団単位」にも呼称として地名等の「姓名」が付けられて呼ばれる様に成ったのです。
「民族」→「朝鮮族」−「百済氏系列」−「蘇我氏」→「姓名」
ただこの時、「大集団の首魁」だけがその集団の「民族名」を採って単独で「民族氏」として進んだのです。つまり、首魁が宗家として「民族氏」のままで「血縁」(純血性)を保ちます。
その族の氏の首魁が「氏上」と呼称される様に成ります。
  「首魁」初代「応神大王」
飛鳥期に於いてそれぞれの族の「民族性」を持つ「臣勢族」、「葛城族」、「紀族」、「平群族」、等「大民族氏」の元と成った「氏族」の「大連合体」(大和)があり、そこには「総合血縁氏の大和首魁王」(飛鳥前の大和地域の王:天皇家の祖 出雲など各地に大小の首魁王が居た)が居た。それに対して渡来した「朝鮮族の首魁:応神王」が血縁する事で「民族氏の連合体+朝鮮族」が完成し、「ヤマト王権」を樹立させた。初代「応神大王」が誕生する。
結局、「連合体+朝鮮族」により大勢力を得たこの「ヤマト王権」が次第に中部南−関西域を制圧した。中国地方と中部北北陸域の一部を聖域としていた「出雲首魁王権」を吸収し血縁してヤマト王権に統合した。
その系列(後の天皇家)末裔には「朝鮮族」の「物部氏系列」と「蘇我氏系列」の2系列があり、この2つの系列は上記「氏の構成形態」の循環作用で集約されて遺されました。
つまり、渡来人初代大王の末裔この二つは「朝鮮族」の「民族氏」の形態を持っている事に成ります。
この二つの「朝鮮族系列」は更に「神別派」と「皇別派」に上記する様に「集団分裂」して行ったのです。
そして、元から大和圏に古来より居た強く「民族性」を持つ「民族氏」形態の「大和4族」は「2つの朝鮮族系列」と「相互血縁」して「一つの政治大集団」を形成して速やかに「ヤマト王権」の「連合体の体制」を維持したのです。
参考
神別系・・・物部氏系列→ 血縁族・巨勢氏系列 葛城氏系列(にぎ速日命族)
皇別系・・・蘇我氏系列→ 血縁族・平群氏系列 紀氏系列(武内スクネ族)

 参考 「日本民族の体系」
(研究室 日本民族の構成と経緯 参照)
「中国系民族」、九州全域と中国全域 −関西西域
「朝鮮系民族」、九州北部域と中国西域−関西西域と関西北域
「太平洋系民族」、九州南部域と九州中部東域と紀州南部域−北海道南沿岸域
「北方系民族」、東北北陸全域と北海道域−中部北山間域
「東アジア系民族」、九州北部域と中国東域と北陸域沿岸域−中部西山間域
「南アジア系民族」、九州北部域と九州南部域と九州東域−紀州南部域
「在来族系民族」、日本全域沿岸域東西南域−関西中域 (縄文民族 弥生民族) 

 参考 「民族移動の手段、理由、条件」
これ等は入国場所の地域には次ぎの関係によりそれぞれ特徴ある分布をしました。
船、 移動できる手段
黒潮、海洋を渡る手段
温暖、定住できる環境地
海山物 食料を確保出来る地域
地形 集団が安全に住める土地環境
大陸 大陸との移動する距離関係
外国動乱 移動する理由
先住地 他民族地域外の土地

この「7つの民族」は「生存競争」により上記経緯形態で「集団形成」しながら「特長ある流れ」を示しながら「民族性」に依って分布しました。
「ヤマト王権」の「民族氏」がどの上記「7つの民族」のルーツを持っているかは資料が遺されているレベルでは無いので確実な判断が着かないのですが、「コルボックス」から始まり「民族移動の手段と条件と理由」を複合的に考慮すると大方の判断が出来ます。
取分け関西全域は初期からやや年数経過後の飛鳥時代には最終「7つの民族の坩堝」と成り、上記の「民族集団形成の経緯の形態」が顕著に現れた所です。
一方、九州全域は初期の段階から後期の1020年代まで民族流入が留まらず「民族移動の手段、理由、条件」が全て合致する要素が備わり、北方民族を除く全ての民族流入が起こった地域でありました。
それだけに、本文の様に「先住・移民族」−「民族」−「氏族」−「民族氏」−「融合氏」までの過程を検証する場合は上記したこの「2つの地域」の様子を比較しながら詳細に論じる必要があるのです。そこで本文は史実が明確になるところの大化期前後のこの「民族氏」から「融合氏」へと転じて行く過程を通じて「青木氏と神明社」を論じています。
その前の「民族氏」に変移する経緯経過の事前情報を提示しています。

参考
恐らくは、初期は九州の「邪馬台国」の卑弥呼時代前後3世紀初期から後期の4世紀後半の「ヤマト国」へと変化したのは「九州−関西」への押し出される様な大規模な「民族の移動過程」があったのではと考えています。現実に、史実が確認出来る大化期に成ってでもこの「押し出される現象」は止まってはいないのですから、この事を考慮すると、「卑弥呼問題」は「卑弥呼の墓の判別」の確定論に成るのではないでしょうか。
「九州−関西」への押し出される様な「民族の移動過程」がある限りは「奈良ヤマトに卑弥呼説」は「九州−関西」の民族の「流」の「自然の摂理」に逆らう事は困難である事から納得出来ないのです。この世の誰も除し難い「自然性」への考慮が欠如していると考えています。
あるとすれば、当然に「自然説」から離れて「事件説」以外には無い事に成ります。
「事件説」と成れば、卑弥呼は九州での死亡はほぼ確かですから、「ヤマト王権」から「大和政権」に以降前、「正統性」と「統一性」を確保させる目的を以て、「邪馬台国」が滅亡していて放置されていた「卑弥呼墓」を、また九州に「続々民族流入」が起こっていた事も含めて、応神大王」の子の「仁徳天皇」が九州討伐後に「ヤマト」に移したのではないかと考えられます。

(注 「応神大王」を「応神天皇」と呼称したのは後の事で正しくは次ぎの下の国の変移:経緯から「応神大王」が正しい。)
(「民族集団」−「ヤマト族連合体」−「ヤマト王権」−「大和政権」−「大和朝廷」:国体変移)

  「氏と姓の違い」
次ぎに「未定雑姓」と呼ばれるものがあった事は余り知られていないのですが、実はこの「最小単位」の「家族性小集団」の呼称名が「姓」(かばね)としてあるのです。
大集団から小集団の「氏」が出来、それを同等に扱うのではなく、更にランク付けする為に下の小集団は「氏名」で呼称されずに「姓名」で呼称されていたのです。

大集団の「氏」には臣(おみ)、連(むらじ)中央の大豪族

中集団の「姓」には君(きみ)、直(あたい)地方の中豪族
小集団の「姓」には造(みやつこ)、首(おびと)地方の小豪族

これ等の「氏」と「姓」の区別は、大小は区別されていたが、中に位置する豪族の血縁集団はむしろ明確にされていなくて「直」までを「氏」と見なす事もあり、逆の事もあったのです。
この考え方は当時の常識で「中間」は何れともせず何れともすると言う認識であったのです。

特に、大集団の「氏」で「執政官」の「氏」には更に「大」(おお)を付けて分別したのです。
中の集団から執政に関わった「姓」には「夫」として「大夫」(まえつきみ)と呼称したのです。
この役職には大化の国策を特別に監視する御使大夫(ごしたゆう)が在りました。
小の集団から執政に関わった「姓」には「史」(ふびと)と呼称したのです。
これには後漢阿多倍の一族一門(渡来人)が大きく関り、彼等の持つ進んだ「政治専門職」を生かしての事だった為に小集団であっても特別に「史部」(史:ふびと)と呼ばれたのです。これでも阿多倍一族一門が特別な扱いを受けていた事が判ります。
更には、これに属さない渡来系の「家族性集団」(村の長)には村主(すぐり)の「姓」で呼んだのです。阿多倍一族一門の180の「部」が日本の民を吸収して小集団の村を形成してその部の首魁が長を務めさせていた事を示すもので、その彼等の持つ「政治専門職」を積極的に活用して国策に生かした事がこれでもも判ります。
在来族の郡や県などの「中小の家族性集団」には「造主」(くにのみやつこ)や「県主」(あがたぬし)「郡司」(こおりつかさ)と呼称されました。
この「氏姓」は民族のランクにより国体を造っていた事が判りますが、この様に明確に「民族性」(「民族氏」)がまだ強く持っていたのです。
そこで「大化改新」でこの「民族性」を無くさなくては「国の安寧と安定と発展」が無いとして「国策」として「氏融合」を図り「民族性」を無くそうとしたのです。
これが、「氏」のランクを全て「姓」に依って統一して「八色の姓」制度に変更された理由なのです。
  「八色の姓」
真人(まさと)、朝臣(あそん)、宿禰(すくね)
忌寸(いみき)、道師(みちのし)
臣、連、稲置(いなぎ)

第4世第4位皇子までを「真人族」に。
皇族系血縁族で第6位皇子までを、「朝臣族」に。
前の王族血縁族の「連、臣」までを、「宿禰族」に。
前の「君、直」と「渡来系族」とを、「忌寸族」に。
前の「造、首」までを、「道師族」に。

実際には「道師」以下の「姓」は授与しなかったのですが、朝廷に帰属する「官僚」には別制度で対応したのです。 
これは大化期の「臣連」は前の「臣連」と連想させる事が起こるとして保留したのです。
現実には、制定当初は関西以西に定住する渡来族系の「枝葉の民族氏」が国策に従い「融合氏」に成ると予測していましたが、現実には上記に論じた様に「独立」と言う方向に動き始めていた事から保留したのです。しかし、大蔵氏にだけは「遠の朝廷」「錦の御旗」「太宰大監特」等の別な身分で応じました。
関西以西の阿多倍一族一門の「枝葉末裔族の氏」には姓は正式に与えられていない事から検証出来るのです。

これでも明らかに「時代の変化」に合わした「制度変更」である事が判ります。
「皇族系」と「臣族系」との2つに身分家柄の分離・・「皇室族」。
「阿多倍一族」の国策への著しい台頭が影響と「物造り」と「朝廷軍策」・・「渡来系族」
「氏融合」策「3つの発祥源」の賜姓策(皇親政治補佐青木氏) 自衛近衛軍・・「朝臣族」
「皇親政治」の「皇族」の重用・・「真人族」
「旧来の氏族」「臣連族」を上記3つの族の中間に据えた・・「宿禰族」
「旧来の姓族」「造首族」で「官僚体制」構築、即ち「律令政治」に向けた。・・「道師族」
以上にてこの制度でも「氏融合策」のその方向性が判ります。

これ等の制度の「姓」の集団には、「氏」と「姓」とに身分家柄を分けていましたが、大化後には「氏」に対して統一して全て「姓」として身分を定めその集団の呼称「姓名」を定めたのです。
其処で「氏融合策」から新たに出る青木氏を始めとする「融合氏」を大化期以後の新しい「氏」としたのです。つまり、それまでの「民族氏」から離脱して「融合氏」を「新氏」と定めたのです。
この制度をより身分家柄を明確にし「氏姓」に権威を与えて「融合氏」の拡大を促す為に、原則を越えて「柔軟な運用」で「姓」以外の村とか郡の「小集団の首魁」にもその勲功功績に応じては広範囲に与える「爵位制度を」定めます。所謂、「爵位制度」にも「やる気」を起こさせ「氏融合」策を末端根底から起こさせる試みを導入したのです。

  「爵位制度」
明位は二階、浄位は四階、これを「大」と「広」に分ける 合わせて十二階 王階級に授与
正位は四階、直位は四階、これを「大」と「広」に分ける 合わせて十六階 渡来系と重臣に授与
勤位は四階、務位は四階、追位は四階、進位は四階 これを「大」と「広」に分ける 合わせて三二階 諸臣の位として授与
以上が爵位制度です。

  「氏姓授与の実態」(運用実績)
一応は授与する位が定められているが、正位からに付いては「日本書紀」では授与された者はこの位に限らず「柔軟に運用」していて、「国内の郡や村の長」のみならず挙句は「百済等朝鮮から来た者達」にも十数人の単位で与えています。
問題は阿多倍一族末裔(部の首魁にも)には「直位」を授与している事で如何に重く扱っているかが判るところです。
第4世王までの王族にはその天皇に近い順に授与しているのですが、興味ある事は原則皇位順位であるのに、よく観ると天皇に実力的に如何に王族として貢献したかに依って異なっているのです。
例えば、天武天皇の皇太子が最も高い位になる筈ですが、天智天皇の子供の施基皇子(伊勢青木氏祖)が皇族の者の中で最も天皇に近い「浄大1位」次ぎに天智天皇の川島皇子(近江佐々木氏祖)、天武天皇の長兄の高市皇子が最終「浄大2位」に成っているのです。
これは日本書紀にも記録されているところですが、この3人が最も天皇に代わって働いている事でも判る様に「改新の国策」を推し進める為にも「実力主義」が徹底されていた事なのです。
皇太子草壁皇子が本来仕切る政治を施基皇子と高市皇子が仕切っているのです。
代表的な例として、天武天皇が死去した時の職務代行の仕切りとその葬儀まで施基皇子が行ったのです。その後も主に施基皇子と高市皇子と川島皇子が皇后を補佐しています。
我等全青木氏の始祖施基皇子がこの動乱期の「融合策の国策」に「3つの発祥源の祖」として全責任を持って取り組んでいる事を証明しているのです。
この事は、上位の「姓氏」だけではなく名もない末端の下位の小集団の「政」に関った勲功功績を残した首魁にもこの爵位を運用して与えたのです。

この「実力主義」を貫いた「柔軟な運用」の「2つの身分家柄制度」(八色と爵位)の相乗効果が大きく奏して、それの実績を証明する記録として、大化期から180年後の嵯峨期の「新撰姓氏録」に記録されているのです。
100にも満たない「姓氏数」が何と1182にも拡がったのです。
つまり、要はこの記録を”何の目的で作ったのか”です。
行き成りの「姓氏」の記録ですから、「嵯峨天皇」は「桓武天皇」と「路線争い」の戦いまでしてこの「記録」を造ったのは、「皇親政治」に戻した結果を証明したかったのではないでしょうか。
それは総合的に観ると、「阿多倍一族一門」の台頭が進む「桓武政治」の余波が依然続いている環境の中で、「国策」を「一つの形」に遺したかったと観ています。
どれたけ「国の安定と安寧」の国策(「民族氏」から「融合氏」 「物造り」)を観る上で最もそれを的確に表現する事が出来るのは「新撰姓氏録」(1182)であるでしょう。
わざわざ「新撰」と呼称している位ですし、「姓録」でよかった筈です。そこに「氏」を付けた呼称にしたのは「皇親政治の国策」「融合氏」の結果を求めたかったと考えられます。
「桓武天皇」の「法」に基づく「律令政治」に比較して「法」を定めるにしてもその運用に「皇親政治」が働く「国家体制」を標榜しての争いであった訳ですから、大化期からの第1期の皇親政治の功績を政治的には明確にして置く必要があったと考えられます。
皇親政治を否定し律令そのもので国家の基本運営を標榜する桓武天皇であったからこそ、皇親政治の基と成る賜姓制度では矛盾を孕む問題である為に、「政治と経済と軍事」中枢の官僚6割を占める民族氏集団(一般の阿多倍一族一門 母方族)から賜姓を行って、その「律令政策」を作り運営している彼ら一族を政治の根幹に据えたのです。
ただ、「物造り」策に付いては「桓武天皇」は推進しているのです。「財源論」は賛成していることを示すもので、「政治手法」(皇親政治−律令政治)が異なる議論が朝廷内で2分して争った事と成ります。
参考
本文は平安期までのものとして論じていますが、結局は、嵯峨天皇期の第2期の「皇親政治」(809-850)に続き、院政が始まる手前の後三条天皇期の第3期の「皇親政治」の終焉(1070年)まで続く事になりますが、この後末期は「伊勢北部伊賀基地」の「平族」や「大蔵氏」の台頭(112年間)は抑えられなかったのです。
後三条天皇は「大集団化の融合氏」象徴の「荘園制度」を見直して最大ピークに成った頃に「荘園整理令」を発して矢張り「皇親政治」を敷いてこの「大集団化」を押さえ込みました。これにより朝廷の政治は一時落ち着き経済的な潤いが生まれます。
この様に、何か大改革を天皇が成そうとすると、必ず「皇親政治」を強いています。
これは、官僚の6割が阿多倍一族一門末裔が占め「政治経済軍事」の3権を握っている事が原因していて強く反発を受け推し進められなかったのです。
この時は250年経っていても「律令政治」が完全に敷かれているのですが、矢張り無理であったことに成ります。それは「律令政治」は「官僚政治」でもあるからです。
それどころかこの「官僚政治」を推し進める彼等の利益集団化した「荘園制度」もこの結果彼等に牛耳られてのもので、天皇家は政治経済軍事の面で次第に弱体化して行ったのです。
まして「公地公民」であった「部の組織」も「軍事」もいつの間にか「荘園」に「大集団化した氏」が集中してその配下と成り、挙句は「天領地」までも脅かされ削がれる状況と成っ行ったのです。
そもそもこの「荘園制度」は、天智天皇から始まった「氏融合」の「国策3策」が一定の進展を遂げたと観て、それらを「安定化」させる目的と「経済的裏付」を目的として政策的に打ち出したものです。しかし、その経緯、過程を観ると、本来の目的を超えて次第に独立した形態を示し始めたのです。

以上

青木氏と守護神(神明社)−4に続く。


  [No.271] Re:青木氏と守護神(神明社)−4
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/03/21(Mon) 11:06:28

青木氏と守護神(神明社)−4


  「荘園制の経緯」(大化期から平安期)
田地・俸禄・褒章に関る制度の経緯

位田      有品の親王と5位以上の官人に支給される輸祖田地
職田      特定の高級官僚に支給される田地 郡司以下は不輸祖田地
         後にこれが拡大して荘園制の一因と成った。
功田      功績(大上中下に4分類)に応じて支給される田地 輸祖田地 世襲制
         後にこれが拡大して荘園制の一因と成った。
賜田      天皇からの恩勅に依って与えられた田地 輸祖田地 褒章世襲制
         主に皇族に与えた田地
         後に拡大して荘園制の一因と成った。 
俸禄      主に一般官僚に与えた俸給 位階と官職に応じて俸給された 年2回の季節録
         中でも三位以上は「位封(階級手当て)」として「封戸(ふこ)」を与えた
         四位、五位には「位録(現物支給)」として「布帛(ふはく)」を与えた
         特別の官職を指定して「職田」を与えた 「職封」も与えた
         後にこれが拡大して荘園制の一因と成った。
 
(此処までは基本制度 以下が荘園制度化)
 
班田収授法    690年頃 国から人民に支給された田畑 戸籍身分に応じて支給
           一身耕作地(私有化)
口分田       702年頃 国から支給された田地 戸籍身分に応じた税に対する支給
           終身耕作地(私有化)
園地・宅地法   710年頃 国から支給された条件付私有地 制限付きで売買が可能 荘園の基盤
郷里制       717年頃 「国郡里」から「国郡郷里」に地方行政区画の変更
           人民の支配管理の強化 荘園の基盤範囲を拡大 (740年廃止 元に戻す) 
墾田法       720年頃 初期荘園制度で墾田を集約させ管理支配の強化 「荘園」の形を形成
三世一身法    723年 開墾を奨励の為に施行した土地法期限付きの私有土地法 初期の荘園

墾田永年私財法 743年 三世一身法を身分、面積、開墾期限の条件付きに変更 荘園形成 
           完全に永年の私有財産を認めた法
荘園長制     初期荘園の荘園官 豪族を任命 浮浪人など集めて自経営化 免税の不輸租田拡大
           免税の寺田、神田等の土地が拡大          
国免荘制     豪族国司により租税が免除される荘が出来る 国荘官は交代制で原則否免税

荘園整理令    1070年 後三条天皇が天領地も侵略される 事の行過ぎの限界を是正する。
知行国制     1080年頃 特定の高級貴族に国の行政権を与え経済的給付で力を付けさせた制度
院宮分国制    1086年 特に知行国の中でも「院政」の基盤を造り確定させてた制度
荘園公領制    1107年頃 土地制度を「巨大氏の荘園制」から再び「国の管理する公領制」に変更

以上が平安末期までの荘園(融合氏の拡大)に至るまでの経緯を「経時的変化」にして並べたものです。
夫々の内容を合わせて考えると「何かの変移」が起こっています。
大化期の初期は通常のものであった制度が次第に「位田」から「賜田」まで挙句は「俸禄」までの運用が拡大化して行き荘園制に繋がるところまで拡大されて行きます。
青木氏や源氏などの賜姓族には「賜姓田地(賜田)」が与えられたのですが、「位田」から「賜田」又は「俸禄」等の支給の運用が拡大して発展して遂には「班田収授法」(50年程度)へと進んだのです。
荘園制の要件が加えられ運用されて行きます。
この「位田」から「賜田」までの「基本制度」は平安末期まで荘園と合わせて施行されたのです。
この「基本制度」と「荘園制度」の2つが施行されている事に成りますので、天皇家(内蔵)と朝廷(大蔵)の財政の逼迫は大変であった事が判りますし、「荘園制度」の私有化が「基本制度」の併用で更に加速する仕組みに成っています。これでは「過剰な私有化」を留める事は無理だと考えられます。

この様に「基本制度」から観て行くと「荘園制度」に繋がる要因が明確に観えて来ます。
ここで、では上手く運用すれば済む筈です。「基本制度」に大きな欠陥が無いのだから、”何故に「基本制度」が有りながら「荘園制度」の方向に近づいて行ったのか”疑問が残ります。

それは次ぎの2つの要因が考えられます。
1 「融合氏育成説」  増え続け勢力を得た「民族氏」の構成から切り替えて、「融合氏」を育て「国の安寧と安定」を促進させる為に積極的に「基本制度」の枠を超えて運用した。
2 「官僚利害主導説」 この「基本制度」を運用する官僚が阿多倍一族一門とその配下の「史部」等であった為に自らの都合の良い方向に運用した。

この事を史実から確認するには「日本書紀」から考察するしかありませんが、1の「融合氏育成説」も2の「官僚利害主導説」も積極的に運用して褒賞している事が伺えます。
これを経緯から観ても1と2も何れも納得できる説であります。
しかしこの内容から観ると、「位田」と「賜田」はこの大化期では主に1の説の「融合氏」に効果を発揮するものだったのですが、「職田」と「俸禄」は2の説に効果を発揮するものです。
ところが問題は「功田」です。
これが「4段階に分類」されている為に運用が容易であり、又「世襲制」である事から勢力を高めるには都合が良く、「功」の「大階級」は永代、「上階級」は3代、「中階級」は2代、「下階級」は子供までとされていますので、「下階級」でも50年は支給される田地と成ります。
中以上は一応制限はあるとしても殆ど永久的と成ります。
これだけ50年以上の年数が経てば時代がどう変化するかは確定できません。”変わらない”という前提であれば「功田」でも問題は無かった筈です。”恐らくは変わらないだろう”と考えていたと観られますので、年数にも問題がある事に成ります。

 「制限の年数設定の問題」
A 「皇親政治」であった事から行く先も「皇親政治」は変わらないだろうから年数の制限の運用の効果が発揮すると観ていた。

B 「田地は有限」であるとして「大開発による私有化」が起こるとは考えていなかった為に年数は問題ないと考えていた。この時代は「天候不順」「飢饉」「疫病蔓延」「凶作」「部曲の限界」などで開発は無理と判断していた。現実に平安遷都の時期まで頻繁に起こっていた。

C 「阿多倍一族一門」とその支配下の部の職能官僚が故意的、恣意的に先を見越して「功田」のみの年数を延ばした。自分達の勢力から観て「大開発の荘園」を造り年数から私有化する事が出来ると観て勢力を高める事が出来ると先読みをしていた。
即ち、「官僚の先読み思考」と「皇親政治の保守思考」とのズレが起こっていたと考えられます。

「官僚の先読み思考」(C)>−「皇親政治の保守思考」(A+B)=「荘園の私有化」

この判別式の数式が700年頃まで「功田」に起こっていたと観られます。

1では皇族が主体と成るために官僚側からは無関係となります。
2の「職田」では特定の官職に与えるものであるので、官僚側からすればそう簡単に運用が図れない事に成ります。無理に上申すると警戒されて疑われる可能性があり困難です。
更に主に地方の「国司」の配下の「郡司」以下の場合のみ税を免除される仕組みである為に官僚が勢力を高める手段には効果が低い事が起こります。
ただ盲点が一つあります。それはこの「職田」の盲点を突く事です。
この「職田」には盲点と成った「蔭位の制」と云う誘引の制度と絡んでいるのです。(下記)

「俸禄」では年春秋の2回であり、「3位」以上は天皇に拝謁できる身分であり「蔭位の制」で権利恩典が制限されているので無理です。
又、特定官職でないと「田地」は与えられない仕組みである事から効果は期待できないし、これで以て運用しても大きく勢力を高める事は無理が伴い困難です。

参考として、「蔭位の制」で5位以上なら子は21歳になると自動的に位が与えられます。
3位以上の場合は孫までこの「権利恩典」が与えられるので、結局は運用的に世襲制であったのです。
「俸禄」の制度を使うとしても、少なくとも荘園の所有者に成りあがるには先ず何度も出世して3位以上に成る事が必要ですのでかなり難しい状況と成ります。

最初からだとすると、臣下した「賜姓族」に相当する皇族であるか「血縁性」の縁のある身分である事が必要ですので、普通は「俸禄」で上がるには「天皇の引き上げ」か「優秀な特定の官僚」に成り5位から昇格する身分となることが必要となります。

結局は実質、皇族系でない限り信頼されて、且つ優秀である官僚であって、「天皇の引き上げ」がなくては「俸禄」からは大荘園または大集団の氏になる事は難しい事に成ります。

(注):「位田」の「有品」とは天皇家の「親王・内親王」を身分別に4つに分けられた。「品1位」から「品4位」に分けられた。これを云う。

そもそも、「蔭位の制」の貴族とは上級官人で5位以上の位階・官職の人を云い、 「品4位」以上には「供人」、「品5位」には「資人」と呼称される「付き人」が付与されます。 
この「帳内の制」の供人・資人・舎人は下級官僚の事で、「課役免除の特典」が与えられたのです。

この「課役免除の特典」で私腹を肥やし賄賂が横行し「職田」に左右し昇格する者が生まれ、上記「基本制度」の正規な運用の妨げには成ったのですが、別面ではこの特典を上手く使った昇格し実力をつけた有能な者は「融合氏」の元と成った「姓氏」を多く形成したのです。
有品の氏の護衛と雑用を務める傍らで、繋がり易い立場を利用してその実力を認められ早期出世の糸口として使われ、これに依って上級官僚に成った歴史的に有名な人物が実に多いのです。
これが盲点と成っていたのです。
(例: 元上山氏の青木氏・滋賀青木氏はこれで立身出世した典型的な「姓氏」の「融合氏」です。)



   [青木氏の位置関係]
ところで、「氏融合の発祥源」の青木氏はこの制度に於いて果たしてどの様な位置関係にあるのかですが、この問題では次ぎの様に成ります。
臣下した皇族賜姓青木氏はこの「位田」から「俸禄」(3位)までの官位と成るので全ての対象者と成り、「3つの発祥源」「融合氏の祖」として成り立つ様に成っていて、制度的には当初から「拡大できる融合氏」として指定され保護されて成り立っていたのです。
この制度でも「3つの発祥源」として「天皇家」から「融合氏の祖」を作り出そうと意図している事が充分に理解できます。
現実には「不入不倫の権」も付与されて「民族氏」に対抗できる程に拡大し「皇親政治」を実行出るまでに勢力を保持した或いは保持させたのです。

藤原秀郷流青木氏は「位田」を除く、「賜田」「職田」「功田」そして「俸禄」は4位ですが、「特定の官僚、官職」に属する「六衛府軍」の官職を持っていましたので、ほぼ賜姓族と等しい勢力拡大の条件が保障されていたのです。
特に「賜田」に付いては「嵯峨期の詔勅」外であるが「母方血縁族」として「特別な賜姓族」として認可された事からこの対象氏になるのです。
逆に云えば「六衛府軍」の官職は、記録不明な為に確定は出来ないが、この「賜田」「職田」「功田」の何れかと成り、恐らくは当時の「優位の原則」から「賜田」が優先されたものと考えられます。

この位置に居た秀郷流青木氏は「鎮守府将軍」「朝臣族」の「姓氏と官職」を獲得出来たのです。
この事は何を意味しているかと云う事なのですが、「秀郷宗家」よりはむしろ「秀郷流青木氏」の方が立場は上で、鎌倉幕府の「坂東八平氏」の出方如何では源頼朝が潰された後でも「征夷大将軍」に成り幕府を開ける立場にあったという事なのです。
むしろ「宗家」より「青木氏」の方がこの官位からすると上位と云う事に成るのです。元より宗家は貴族であり武力を保持できません。

  「青木氏の立場を物語る慣習例」
(参考)
源氏が潰された時、背後では藤原秀郷一門青木氏の出方が大いに話題と成ったと考えられるのです。「生き様」が観えて来ます。平泉の秀郷一門の藤原氏との決戦がありましたが、これにもし青木氏が加わっていれば鎌倉側は「秀郷一門の圏域東山道」を横切る事に成りますと戦略的に弱く両側面を突かれるので勝負は青木氏側が勝利となり青木氏の幕府は開けていた筈です。
疑問の一つですが、源氏の頼朝を旗頭に立てていた事が潰せない理由であった筈です。しかし幕府樹立後3年後に殆ど源氏一族が抹殺されてしまいます。
「坂東八平氏」の反対を押し切って上記する田地制度の平安中期の状態に戻す2度の「本領安堵策」と「平家没官僚」策を実施し、藤原秀郷一門と賜姓族青木氏を含む源氏一族同族の再興を図った事が原因とされています。
しかし確かにそうであることは事実ですが、青木氏が参戦して来ないと観て、「坂東八平氏」たちにとっては元々旗頭として権力を掌握するまでの期間の「源氏撲滅を狙いとする傀儡氏者源頼朝」であったのです。その戦略が採れたのですが、これに4つの青木氏が関わっていたなら変わって居た事に成ります。
それは源氏の頼朝等を潰しても青木氏が幕府を開くことが出来るからです。2つの氏を潰す事は後々の朝廷に対する幕府執権としての立場を獲得する事は出来なかった筈です。
この後、直ぐに「坂東八平氏」は新宮太郎の末端までの源氏一族掃討作戦が実施されたのはその証拠です。
結局、源氏一族掃討作戦で遺したのは「永代不入不倫の権」で保護されていた「青木氏」に源氏宗家頼光系直系の[頼政-仲綱]-「京綱」が伊勢青木氏の跡目に入り、青木氏と云う形で「源氏直系子孫」のみが遺される結果と成ったのです。敵に成っていない青木氏を潰す名文が見つからないし「不入不倫の権」を犯す事が出来なかったのです。

だから鎌倉幕府執権にとっては藤原秀郷の平泉一族と戦っても青木氏が静観した事から秀郷一門全体の本領安堵が許されたのです(秀郷宗家の朝光も上総結城が安堵される)。そしてこの様な立場にあった秀郷流青木氏は鎌倉幕府以降江戸期までも力を蓄えて秀郷一門を束ねる事が出来る様に成り「第2の宗家」と呼ばれていたのです。

つまり、「融合氏」の経緯を「荘園」と云うキーワードで時系列的に傾向分析すると見えないものも観えて更にこの様に深い青木氏の実態が判るのです。
この様な見地から観ると「青木氏」を名乗る事が出来ると云う事は天皇に続く身分、家柄、官位、官職を永代的に保持する「融合氏」と成る訳で、「血縁の青木氏2氏」とその「絆で結合した青木氏2氏」の「4つの青木氏」は明治期まで高い誇りの中に居た事を物語るのです。
その明治期までこの「社会慣習」が遺されていた証として、筆者の伊勢青木氏が、松阪が紀州徳川氏の飛地領と成った時、家康の次男頼宣と伊勢で対面面談した時に、頼宣は下座し先に「挨拶の儀礼」の態度を執ったと「言い伝え記録」されていて、更には8代将軍吉宗が若年の時を家老加納氏と共に伊勢で養育し、吉宗が将軍と成った時には「享保の改革」の主軸として働くことを求められ、「大店紙屋青木長兵衛」に経済に強い一族の者を同行させる様に依頼がある等、又、尾張藩や会津藩等から反対の強かった節約方式の「享保の改革」に対し、それを証明する為に同時に紀州藩に於いても「藩建て直し」でも特別に依頼され、「特別勘定方」を務め成功する等をして活躍して反対を押さえ込みに成功する等の親密な付き合いは続いたのです。

(この「挨拶の儀礼」仕来りは大正14年(祖父の代)まで続いたと直接祖父より聞いている。徳川氏の親書が多く遺されている)
(伊勢加納氏とは伊勢青木氏と何度も血縁し加納氏も「2足の草鞋策」を採り「「伊勢の豪商加納屋」を営む :筆者の父の祖母も加納屋の伊勢加納氏の出)
(江戸同行の伊勢青木氏は江戸に定住し江戸青木氏6氏の一氏となる。)
(以上一つの慣習例として記録して置く)

話を戻して、下記する「後三条天皇」は「大江氏」の様にこの基本制度の「俸禄」を利用して優秀な「下級官僚」を引き上げて育て「特定官僚」にし「小融合氏」の育成に力を注いだのです。
(他には890年宇多天皇の菅原氏氏等の例がある)
本来、「位田」「賜田」「職田」は皇族か高級官僚か特定の重要な官職に適用運用するものであり、優秀な下級官僚を引き上げて育てるにはこの「俸禄」制度以外にはなかったのです。
となると、結論は「賜田」の運用と「功田」の運用との競合と成ります。
そもそも「賜田」は対象者は皇族関係(6世族まで)が主体であり、天皇が指名する方式であります。
そして「功田」は功績が趣旨であり、対象者は原則任意で官僚からの上申方式であります。

そうすると「功田」以外に官僚から観れば荘園に近づく「永年性の勢力」を蓄えるにはこれ以外にない事に成ります。

この事から、行過ぎた荘園制になったのは、初期は「賜田」<「功田」の関係式で運用が図られいた事が50年間でこの関係式<の運用は制限なく徐々に大きく成って行った事に成ります。
そこに「班田収授法」が施行された為に余計に「荘園の勢い」に火を付ける第2の火種に成ったと考えられます。

「賜田」=<「功田」・・・「1の説」=<「2の説」
「功田」+「班田収授法」=「荘園」

以上の関係式と成ります。

これは「荘園制度のそのものの変移」であり、そこには「制度を仕切る権力の強弱の変移」が観えて来ます。
「融合氏」の「経済的背景」は本来は「田地の保有」であり、その「田地の保有」は「荘園」に結びつき、その「荘園」の保有は「制限年数拡大」が重要となり、その「制限年数の拡大」が「永代の私有化」に成り、そしてこれが最大の「経済的効果」となったのです。この「荘園拡大サイクル」が起こったのです。
(青木氏はこのサイクルに飲まれない為にもこれをカバーする為に「2足の草鞋策」を採った)
結局、「荘園の拡大」はこの「流れ」が一度に依って成り立つ訳ではなく、この下記の「荘園拡大サイクル」を何度も繰り返しての結果と成って起こったのです。

  「荘園私有化のサイクル」
「融合氏」→「経済的背景」→「田地の保有」→「功田の運用」→「制限年数拡大」→「荘園」→「私有化」→「経済的背景」→「融合氏」

結局は前半150年以上はこの上記の数式サイクルを繰り返した事に成り大集団の荘園が形成され、その後、後半の150年は大きくなり過ぎた荘園に「自然の流れの力」が付与され「自然増大」を起こして「私物化−私有化」で収集が就かなくなった事が起こったのです。
しかし、これだけでは行過ぎた荘園制が起こりません。これには「自然増大」を起こすには何がしかのエネルギーが必要です。その要因が実は深刻な「国内問題」と成っていたのです。

それは、次ぎの二つの現象から起こっているのです。
一つ目は、国内で「天候不順」「飢饉」「疫病蔓延」「凶作」「部曲の限界」「重税」に喘いでいた「部曲」や「奴卑」が耕作放棄して放浪すると云う現象が常態で起こっていたのです。

二つ目は、朝鮮半島から難民が日本海の各地に盛んに上陸し犯罪などを起こし国内問題と成っていたのです。

これ等の2つの事は「日本書紀」にも書かれていて平安末期まで1018年頃まで続いていたのです。
この「2つの放浪民」を「融合氏」と「民族氏」の「大集団」は競って吸収して「働き手」として「荘園開拓」へと向けたのです。ここが「基本制度」の読み間違いの一つなのです。
事実、「公地公民制度」の中では「重税と労役」に喘ぎ限られた「部曲」だけの力では絶対に先ず荘園開拓まで進まなかった筈です。この「放浪民」の存在がサイクルのエネルギーと成っていたのです。

「放浪民」={サイクルのエネルギー}→「行過ぎた荘園制」

この為にこの事が根幹にある事に遅く気がついた天皇は、1018年に大蔵氏に九州地域の全権を委任して入国を法的に禁止し武力で阻止するように命じ、特に大量流入していた九州地方と中国地方で入国を防ぎました。
官僚は「放浪民」のこれを「先読み」していたのです。そして「功田」を使う事により「荘園の拡大と私物化、私有化」が成せると考えていた筈なのです。
現実に班田収授法が施行されると急に「放浪民」を積極的に吸収し始めたのです。
そして、言い逃れの為に”この「放浪民」の「救済対策」として「荘園開拓に吸収する」”と云う「大義名文」を打ち立てたのです。これでは累代の天皇にしてみれば手足が出ません。
結局、この荘園の暴走が遂には「天皇家の弱体」に直接繋がって来た事から、この根幹問題の「放浪民の阻止」に遂に動かざるを得なかったのです。それには大蔵氏の力を借りなければ成りません。裏を返せば大蔵氏による九州地域の自治を認めざるを得ないことを意味します。苦渋の決断です。
この「流入阻止」に動いた時期から「荘園の拡大」は止まったのです。つまり、「天皇家の弱体」を食い止めたことに成り、「民の安寧と安定」の国策を推進していた「融合氏の国策3策]の衰退は止められた事になります。
(この後一条天皇の決断(1018)の前提があったからこそ後三条天皇の整理令(1068)に踏み切れる決断があった)

これは「阿多倍一族一門」の「九州の南北基地」の自治を認めた時期(1018年)と一致しているのです。
東(内蔵氏、阿倍氏の一門)、
西(大蔵氏、肝付氏一門)、
中央(伊勢基地の平族、坂上氏一門)、
中国地方(陶氏、海部氏、武部氏の部配下一門)
以上の様に全国的にその勢力を張る「荘園拡大の最大の大元締め」「阿多倍一族一門」が「九州南北の基地」の「民族氏の自治」を認めさせる替わりに「放浪民」の「流入阻止」を故意的に約束したのではないかと判断されます。この程度の読みは判らない筈はないと考えます。
何れにしても「荘園拡大」には「利害」が一致し解決するにはそろそろ「適切な時期」と観たのではないかと考えられます。
「朝廷政治」を拒否した「薩摩大隈の戦い」の713年から「大蔵種材」の1018年までの300年で完全自治を成し遂げたのです。これが前半と後半の「150年の変化」の経緯なのです。

本来であれば政治的に「公領制」に戻す前に、このサイクルを崩せば良い事になりますから、それは「功田の年数」の「見直し」か「廃止」と「放浪民の措置」が必要であった事に成ります。
恐らくはこの事は充分に認識出来ていたと考えられます。しかし、天皇側は「放浪民の処置」のところまで出来なかったのです。

それは「郷里法」(717年)を発布して置いて740年にまずいとして廃止している事と、合わせて数年後には「墾田法」で出来た「荘園の制限付きの管理強化」を発令しています。
これは拙いとして勢いづいた「荘園」を何とか止めようとしている事が良く判ります。
しかし、止められなかったと云うのが実情であったのです。
これは「放浪民」と云う原因が他にもあったからです。(後述)
止む無く、「流れ」に押されて「三世一身法」で遂には「制限付きの私有化」を認めざるを得なかった事に成ります。この「放浪民」を確保した「荘園側」が強気に出た事がありありと伺えます。
彼等の大集団の「融合氏」と「民族氏」の荘園側にとって見れば”「放浪民」を放置せず国の為に面倒見ている”と云う「大義明文」があるからです。
当時の世情問題と成っていた政治上の大問題であるのですから、「朝廷側や天皇側」からすると納得出来る明文であった筈です。”判っていて何も云えなかった、出来なかった”が正しい現状であったと観られます。
故に「郷里法」や「墾田法」が出されても効果なかったのであり、「融合氏の大集団化」と「民族氏の拡大・大集団化」が一人歩きし始めたのです。こうなれば止める事は誰にも出来ません。「流れ」に任すしかなかったのです。
兎も角も命を掛けた「後三条天皇」までの何れかの天皇がこの「功田」の「年数制限の運用」の見直しを実行する勇気が無かった事に成ります。

元々「公領制」に戻す大変な事になる前に「基本制度」で「融合氏の育成」が果せたと考えられます。
こうして観ると、「功田」の「年数制限の運用見直し」は「詔」まで行かなくても「勅」で行えばそう難しい事では無かった筈で、先ず国内への「難民流入」を少なくとも押さえ「勅」を出す事で彼らに「法の違反の罪」が来て、今度は大儀は天皇側に移る事に成ります。
そうする事により止めることは出来なくても緩める事は出来た筈です。

また「郷里法」や「墾田法」に続いて「基本制度法の功田法の修正」を行うことが必要だったのです。
これで「政治手法」からの「完全な大儀」を獲得出来ていた筈です。
肝心なものを修正しなかった事が中途半端な大儀と成ったのです。
そのずるずるの原因は、矢張り、「天皇」と「阿多倍一族一門」と「藤原氏」等との「血縁関係」の「絡」(しがらみ)から実行出来なかったとも考えられます。

待っていたかの様にこの「絡」の無い「後三条天皇」の英断と成ったのです。 
1068年から始まり124年間まで「親政−院政」に依って「朝廷権力」と共に「公地公民」に近い体制に戻し天皇家にその権力が取り戻されてたと云う事です。
大化期に造られた「基本制度」を目標にほぼ戻したと云うことに成ります。
ただ1068年以降それが「武家の台頭」と「荘園」を保持していた「融合氏」の彼等の反発を招いた事が、取り戻したとは云え、結局は1185年の鎌倉幕府の樹立で朝廷政治は終局を迎えたのです。

当然に「公領制」も白紙と成ったのですが、しかし鎌倉幕府「源頼朝」の2度の「本領安堵策」と「平家没官僚策」で「平安中期の状態」まで戻ったのです。
まあ「大化期」まで戻す必要は無いと考えますが、頼朝もある程度この「荘園制の問題」を認識していた事を物語るものです。
お陰で頼朝もこの「3つの策」の実行で「坂東八平氏」の不満が爆発して抹殺されて11代続いた源氏は一掃されて滅亡の憂き目を受けたのです。
(権力実行だけでは無理である事 三相の理:「人」では無理であったのです)

それまでの平安末期までは、「荘園制度側の権勢」(融合氏の勢力拡大)が増してそのピークに達しているのです。しかし、「公領制」(1070年)に戻したとは云え皮肉にも約100年で「天皇家の権勢」が逆に低下して行った事に成ります。
「荘園制」「融合氏」の勢いは留まらなかった事を意味し「公領制」は「朝廷の権勢」(荘園側の不満増大)の低下と共に強制力が低下して行った事を物語ります。

「正常な氏融合」=「公領制」=「朝廷の権勢」<「荘園側の不満増大」

「後三条天皇」の英断実行は矢張り遅かった事を意味します。
(困難な状況の中でも「公領制」(20年)に戻せたとしても、結果としては「三相の理」:「時」が必要であった)

しかし、結果として「融合氏」は九州の「民族氏問題」も「後三条天皇」の「公領制」(1070年)と同時期(1018−1050年頃)を境にして決着し、全国的に「民族氏」から脱して統一した「単一融合氏民族」が誕生したのです。これが現在の日本の根幹を成しているのです。
この鎌倉幕府の「頼朝の3つの策」まで120年が経っていますので、「公領制」=「朝廷の権勢」<「荘園側の不満増大」(大集団の不満)の状態が20年程度あった事に成ります。
後は天皇-上皇-源-平の争いの混乱期に成りますが、後世から観れば「結果良し」であります。
大化期の国策3策の「融合氏」は結果として成功した事を意味します。

考え方に依れば天智天皇の目標を忘れず引き継がれて、累代の天皇はこの事が念頭にあったとも考えられ”譲れるところは譲る”の考えがあったのかも知れません。少なくとも桓武天皇、嵯峨天皇、後一条天皇、後三条天皇、白河天皇と院政の上皇にはあった事は間違いないところです。

  「融合氏の拡大化の経緯」
奈良期からの経過を観ると、次ぎの様に3つに成ります。

「645年−公地公民−710年」−「717年−荘園−1068年」−「1107年−公領制−1192年」

(不明な年代設定は年代の周囲の事件性から算定 鎌倉幕府成立後も6年間院政が続く)                                
この順次、時代状況毎に打ち出された政策が上記の様に次第に「荘園化」して行く過程が良く判ります。初期の目的とは違って「郷里制」の頃から慌てて締め付けに掛かりますが、朝廷内部の勢力争いもあり「墾田法」の頃からは「荘園の勢い」が強く解決が着かなく成ります。

  「朝廷の政治目的」
この様に経時的にあるテーマで傾向分析で検証すると、他の書物では「権力主義」と兎角簡単に云われがちな事に評価されるのですが、私は少し違っていると考えています。
この「朝廷の政治権力」或いは「天皇の権力」は、あくまでも「国策」を実行するに必要とする手段であった事がこの時系列変化でよく判ります。決してそれが第1義で云々している訳ではありません。

要は「国の安寧と安定」の国是を遂行するには「氏融合」とそれを成功させ得る裏づけ策の「物造り策」1とそれを養い得る「農政の充実」2の2つが先ずは必要不可欠な専決事項であった事が観えて来ます。

「国の安寧と安定」の国是= 「氏融合」→裏づけ策の「物造り策」1+養い得る「農政の充実」2

しかし、これ等の経緯から観て、中でもこの時代毎に起こる「農政による生産力」を経時的に検証すると、その状況は「荘園」が拡大しながらも何時の時代も例外なく極めて悪く賄い切れない状況であった事なのです。(農政の時系列は膨大になる為別の機会にする)
「荘園」が拡大する事は「天候不順や疫病飢饉」等で減少する事はあるにしても、本来は「農業生産力」が増大する筈です。その「農業国策」は遂次間断なく実行されていますので良し悪しはあるとしても少なくとも政策によるものが主因では無いと考えられます。

ここで、”では何故、増大しなかったのか”の疑問が起こります。
この疑問を解く方法として、奈良期から平安末期までの「農業政策」を経時的に、系統別に2つの分類方法で並べて考察しその2つの答えを付き合わせた結果を検証すると次ぎの事が浮かび上がって来ます。(この分析資料は別の機会で提示する)

その結論は、故に、「氏融合策」に依って生まれた氏の「経済的裏づけ策」(「仕上げ策」)として採用し実行した「私有財産政策」(4政策)が、その内一人歩きし巨大化して朝廷から離れて行く「荘園制度」と成ったのです。つまり「巨大化した荘園」に「富の偏り」が起こったのです。
その為に政治的な統制が採れず、この「荘園の巨大化勢い」と「農政」とのギャップが大きくなり「国是の遂行」はますます不可能となって行く事に成ります。農政の効果が偏りとギャップの為に効果が無く成ったのです。
それを憂慮した為政者の天皇は、これを解決すべく先ずその「農政の効果」を高め「巨大化の勢い」を抑える為に、その遂行の「手段の確保」に当たりました。
それが、先ず「親政」(皇親政治)であって、それに依って「権力を集中確保」させて、その「融合氏数」に見合う「物造生産力」と「農業生産力」に戻す強力な政策実行を敢行したのです。

実は歴史的に観て平安期までには「国政の大問題」が起こった時期には必ず「権力集中」を実行させる為に「皇親政治」を強いているのです。この時だけではないのです。
それが「3期の皇親政治」と「2期の院政、上皇政治」といわれるものでなのです。
累代の天皇にはこの手法が受け継がれていたと考えられ、問題解決するとまた開放すると云う伝統的な政治手法を採っていたのです。

(桓武天皇の前の光仁天皇の時まではその皇親政治の主役は融合氏の発祥源の賜姓青木氏一族で有ったのです。それが同じ一族の桓武天皇に依って排除されたのです。そして嵯峨天皇が賜姓源氏として再び戻したのですが、終局、桓武天皇の「賜姓たいら族」との勢力争いになってしまって嵯峨期の皇親政治は終わったのです。融合氏政策は頓挫して源義家の荘園に引きずられての失敗で源氏は滅亡の引き金を引いてしまったのです)

この事で一面で捉えると「権力の確保」が目的ではあるかの様に観えますが、前後の政治問題を検証すると決して通説の様では無かった事がこの経時的、系統的な解析経緯でよく判ります。

要は次ぎの関係式が成り立てばよい訳です。
「氏融合数」=<(「物造生産力」+「農業生産力」)←「権力の確保」←「親政・皇親政治」
「氏融合数」+「私有財産政策:4政策」=>「荘園制度」←「国の安寧と安定」
「荘園制度」=<「農業生産力」

ところがこの3つの判別の数式が成立せず不等号は結果的に逆に成ってしまった事なのです。
特にこの判別式の数式から判断できる事は(=)とすべき「政策実行の時期」が「遅く悪かった事」を意味しています。
つまり「三相の理」の「時」を失していた事です。
 この「判断力」に欠けていた事を「後三条天皇」の以前(900年代前半まで)の歴代の天皇に云える事であります。
そこでそれを確かめる為に更に細かく傾向分析を行いますと、”判っていたが圧力で積極的に出来なかった”が正しいのかも知れないと出るのです。
それを示す「荘園側」からの「妥協策」が「天皇側」に次ぎの策が実行されているのです。

荘園側からの策
1 寄進 荘園権利を天皇家等の「中央権力」に寄贈し名義領主を借料して弾圧を避ける仕組み
2 除田 荘園内の所有する特定荘園に「中央権力」のお墨付きをうけて借料し税等を免れる仕組み

3 領家 開発領主から直接寄進を受け荘園領主に成ってもらい借料を「天皇家」に具納する仕組み
4 本家 荘園領主が権門勢家(天皇家等)に名義上本家を依頼し借料を具納する仕組み
5 本所 本家となった者の内実質的な支配権を獲得した者(主に天皇家)に具納する仕組み

天皇側からの策
6 不入の権 天領地や公領に一切の権力勢力の侵入を拒否する特権を与えて収納を高めた。  
7 不倫の権 天領地や公領に租税免税特権を出し経済的な収益を高めた。

この経緯から「後三条天皇」前には経過処置として荘園側もこの事態を察知していて何とか「妥協策」で逃げ延びようとしている事が判ります。
荘園側(巨大氏)からすると1から5まで少しづつ内容を変えて対処していた事が観えます。
天皇側にしてみれば、「妥協策」でも納得していない事が判ります。
自らも「政策実行の力」をつける必要があり、この力が現状では難しい事を認識していて、「自らの特権」を生かしています。

1 「天領地」や「妥協策」に依って得られた「荘園」に
2 「妥協策」で得られた「準天領地」に
3 「朝廷の「公領」の形となった荘園に

以上この「3つ土地」」に対して収益をあげる為に積極的に「不入不倫の権」を実行し、この時期(整理令の前)に乱発しています。
そもそもこの「不入不倫の権」は大化期に青木氏5家5流の天領地に与え使われた特権なのです。
ところがこの場合は「天皇家内部の経済力:内蔵」を把握されない様にする為に「経過内容」(妥協策)に対応してこの権力を乱発行使しているのです。
つまり、この「不入不倫の権」の使い方が本来と違うのです。その事で「乱発の目的」が判るのです。
本来、大化期のこの大権は皇族賜姓「青木氏」を「融合氏の発祥源」として遺す為に「武力、権力、経済力」の点から守る目的であったのです。「錦の御旗」に近い手段であったのです。

これ等の事である程度「荘園側の妥協的な態度」と自らの「天皇家側の力の復元」を見定めていたのです。 ”「荘園整理令」はこれでやれる。千歳一隅” と判断して、”「姻戚外の自分」を生かす事で「しがらみ」から逃れられ出来る” と「後三条天皇」は決断したものと考えられます。
(後三条天皇は源平藤橘の氏や高級官僚との姻戚関係のない出自であった)
そして、この時、世情は「源平籐橘」同士の「荘園争い」を起している環境下でもあり、”これを側面から政策的に突けば押さえ込める”と見込んだ事は間違いないと考えられます。

故に「氏融合」のキーワードから観ると、この「後三条天皇」がたった4年の在位ながらも素晴らしい人物であった事が云えるのです。”機を観て敏””勇気のある人物”成せる業”の人物であったのです。
書籍で観れば”そんな天皇も居たか”で終わるでしょうが。
累代の天皇の中で唯一人「荘園の行き過ぎ」を押さえ「国是」を遂行する「国策3策」の「融合氏」を成功させたのです。

   「融合氏の変移」の分析
この様に「氏融合」と「荘園制度」とが「経済的裏づけ」で連動している事に判断が付けば、「荘園制度」の傾向分析を行う事で、「融合氏」の「変移」を掴む事が出来るのです。
序文で記述した様に、史実を「経時的」(時の要素)に、「系統的」(場の要素)に、「人為的」(人の要素)に並べて「3つの考察」をすると必ずその本質が観えて来るものです。
夫々の内容に依ってこの「三相の理」「3つの要素」のどれに重点を置くかに依って決められます。
これを「傾向分析」と技術専門的に云うのですが、余り採用していない歴史にも適用すると矢張り観えて来ます。これに依ってより正しく書籍に惑わされずに判断する事が出来るのです。
何度も主張していますが、「青木氏家訓10訓の家訓8」は真にこの事を教えているのです。
何も技術に限らずこの世の「万物万象」は「相対の理」と共にこの「三相の理」に従っているのです。
現世は「善事」があれば必ずその裏には「悪事」が働きこの「善悪」は「三相の理」の「3つの要素」に左右されているのです。
「相対」(+−)を基準に「三相」の3つ(人時場)が連動して「6つの傾向」が生まれこれを「取捨選択」して「検証」する事で「現実」の「立体性」が浮き彫りにする事が出来るのです。
「歴史」は「1次元の結果」だけを並べたものです。従ってこの「一次元の結果」を突き合わせても正しい答えが浮き彫りにする事は難しいのです。
「技術」の問題の解析も同様であり答えを出すには、この「6つの傾向」を考察し取捨選択する「傾向分析」手法を使わなくてはならないのです。

「経時的」(時の要素)+「系統的」(場の要素)+「人為的」(人の要素)

「相対の理」(+−)×「三相の理」(人時場)=「現実」(傾向分析 6傾向)

「構成の理」(「理由」「目的」「手段」)
 
 「3つのツール」
「6つの理」が出てきますと、次ぎは「構成の理」と筆者なりに名付けている手法があるのです。
それは「万物万象」は「理由」「目的」「手段」に依って構成されていると云う事です。
従って、「相対の理」と「三相の理」の「傾向分析」で浮かび上がったものを、この3つの「構成の理」で調べてみるのです。そうすると必ず「疑問点」が浮かび上がって来ます。
「疑問点の有無」を発見するという事でも使う事が出来ます。
虚偽の様なものはこの何れかがかけている事が多く又矛盾を含んでいる事が多いのです。
ある史実とされるものがあるとしますと、これはどのような理由で、何の目的で、どの様な手段でと問い詰めて行くのです。この「構成の理」の3つ或いは2つが叶っているとほぼ真実に近くその時代の「生き様」「様子」がより立体的により詳細に描く事が出来るのです。
殆どは「6つの理」で傾向分析をすれば観えてきますが、より面白くする為にも「構成の理」を使います。「疑問点」を発見するには最適です。そうするとその「疑問点」を解明しようと研究します。
この時、「疑問点」に必要なのが広範な「雑学」なのです。此処に「雑学の意味」が出て来るのです。広く浅くをモットーにです。
「疑問点」を持つ度に「雑学の探求」が起こりますので更に「雑学」が増えてゆきます。増えれば更に「疑問点」の解明に役立つし時間短縮が起こると云うのです。
まあ、これが「濃い歴史」が生まれると自負し自己満足している「技術屋手法」です。
世の現実もこの「相対の理」「三相の理」「構成の理」で成り立っているのではないでしょうか。
青木氏の始祖は天皇の軍略家であったのですから、上記する理で考えていたのではないのでしょうか。そうすると筆者がその癖が取分け大きいので遺伝ですね。
私はこれを「3つのツール」と呼んでいます。

筆者の認識では技術文献は兎も角も他の歴史文献の多くはこの「傾向分析」の手法に欠けていて一つの面から見た論調が多い気がします。極論、否現実論、感情論、誘導論の類に見えます。
筆者は「通説」というものには余り信用していないのです。特に室町期以降の資料を使ったものには信憑性が掛けています。
特に、歴史に関してはもっとこの手法を採用すべきと考えています。どちらかと言うと「左傾」にあり「天皇」という「権力象徴」の様な一面を強調(学説)されている傾向が強い事が気がかりです。
特に戦後見直された歴史の通説にはこの傾向が残っており疑問を感じるのです。
現に、これだけ日本の構成に寄与した「後漢の民」の帰化・移民・技能伝導・仏教伝来等の事が教科書にも載せられていない事に疑問を感じます。戦後の影響が未だ遺されているのでしょう。
誰でも一度は読む「三国志」等から中国の「漢民16国時代」の事を知るとこの事に気づくのですが。
余談ですが、多くの文献を読むと恐らくは(この種の学者に)この「技術的な傾向分析」への偏見から来ているものと観られます。
どちらかと云うと司馬遼太郎氏等の様な歴史小説家の研究に「相対の理」と「三相の理」と「構成の理」から考察して立体的に評価検証していて賛同を覚えます。
歴史を研究し趣味として学んでいる場合やルーツに関する雑学知識ではこの懸念を是非持つ必要がある事を注釈します。

  「2つの疑問点」
では、次ぎの疑問です。
1つ目として、何故、「農業の生産力」が増大しなかったのかの疑問が起こります。
2つ目として、何故、「判断」が出来なかったのかの疑問が起こります。

この[2つの疑問]は大きなテーマで本文の中では別のテーマですので別の機会に論じたいと思いますが、筆者の結論だけ述べておきます。
「巨大化大集団氏への富の偏り」が原因していると分析しています。
「融合氏」の「巨大化の経緯経過の過程」に問題があり、上記した様に「中小融合氏」が融合を重ねて大きく巨大化したのではなく、「無血縁」による「大集団の融合氏」への「勢力による吸収過程」を採ってしまったことが原因しているのです。
「荘園開拓」に依って多少の「生産力」が上がったにせよ「無血縁」である事からその「保護の見返り」としてこの「経過過程」の原因(無血縁小集団)により「農業の生産力」が大集団に吸い上げられて行く事になるからです。その様な「荘園形態」が出来上がった事に因ります。結局、「均等な富の分配」が行われなくなり「小融合氏」が拡大に必要とする「生産力」にならず回らなくなる体制に成ってしまったのです。富が回らなくなれば「生産力」はますます低下するのみとなります。
これもまた「巨大化し過ぎた荘園」と「起こり過ぎた階層毎に富の偏り」が原因なのです。
そして、「巨大化した融合氏」=「巨大化した荘園」の関係式が起こり、朝廷を牛耳る「源平藤橘」族等に匹敵する様に成り「統制力のバランス」が崩れて、自ら「巨大化した荘園」の「利害権益体制」を崩そうとしなかった事によるのです。

「巨大化し過ぎた荘園」+「過ぎた階層毎に富の偏り」=「利害権益体制」←「巨大化融合氏」
「巨大化融合氏」=「天皇為政者の血縁関係」

「後三条天皇」以前はこれ等の族が為政者であったからです。
この判別式の数式のそこを見抜いていた「後三条天皇」はこれ等の巨大族と「無血縁」である事からすべての「絡」(しがらみ)から外れられ、一挙に「強権」を発動して「政治体制」を変え、「親政」にして、「小中の融合氏」の優秀な者を引き上げて擁して、「融合氏」を育て、「国策施行」に臨んだのです。
これこそが「三相の理」(人、時、場)の判断力の持ち主であります。隙がありません。
真に「風林火山」の略意そのものです。恐らく、平安期に於いて千歳一隅のチャンスであった事に成ります。
場合によっては天皇に成る為のその機会を狙って下工作を行っていた事も予想できます。
それは、下級官僚小集団の大江氏等を直ぐに登用した事から観ても準備は整って居た筈です。
「俸禄」や「功田」で引き上げるには時間が掛かりますから始めから大江氏等と事前に密かに談合していた筈です。中大兄皇子の大化の改新劇の様に。
「源平藤橘」や「大集団氏」の彼等が事前にこの「無血縁の皇子」を天皇にする事がどれだけの意味を持つかは充分に計算できていた筈です。判れば抹殺です。
だとすると、彼は自分の考えを隠していた事に成ります。
天皇に成り彼等の集団をすぐさま排斥した時点で「驚天動地」の事であったろうと予想できます。
そうなると自分の命が危ない事は予測できます。何かの手を直ぐに打たなければ自分はおろか登用した大江氏らの命も危ない事に成ります。
故に在位4年39歳(前後の天皇在位10年以上)と極めて短いのです。何かあった事が伺えます。
歴史に載せられない何かがあったと予想できます。
しかし、この父の姿を観ていて父の意思を引き継いだ20歳の若き「白河天皇」(1072)は先ず直ぐに「北面武士」軍団の創設をして身辺近くで護衛を行う仕組みを実行したのです。この事がその時の状況を証明しています。

矢張り”「この親ありてこの子あり」”です。この意思を継いだ白河天皇はその資質からも在位14年院政43年の期間を維持し「融合氏政策の仕切り直し」を成したのです。
上記した経緯の次ぎの3つの政策を実行して大化期に近い状態に戻します。
知行国制     1080年頃 特定の高級貴族に国の行政権を与え経済的給付で力を付けさせた制度
院宮分国制    1086年 特に知行国の中でも「院政」の基盤を造り確定させてた制度
荘園公領制    1107年頃 土地制度を「巨大氏の荘園制」から再び「国の管理する公領制」に変更
これで再び正常な「融合氏」は進みます。
しかし、この3つの事を進めるには命を掛けての事であったのです。
それは、通説では評判の悪い「院政」なのです。
院政を執って置けば”危険が迫ったいざと云う時”の為には常態を維持出来て天皇にも教育できる期間も獲得できますし、命の危険性は低下する事にも成ります。
天皇か上皇かどちらが裁可を出すのかは倒そうとする側から観れば難しく成ります。その上で身の安全の仕組み(北面武士)を作る事で相手に対して大きな脅威と成ります。
倒そうとして失敗すれば「北面武士」の軍に潰されます。大儀も有りませんから天皇側に大儀が採られて関連する大集団荘園群そのもの全てをも滅亡させてしまう危険があります。それこそ天皇側の思惑(大きくなりすぎた大集団群の解消)です。

そこでこの「北面武士」の詳細な仕組みに触れておきます。
それは、それも門を護る近衛軍の様なものではないのです。緊迫しています。天皇が住居する部屋の隣がこの「北面武士」が侍従する部屋なのです。
「北面」とは”北側の隣の部屋”の意味の通りです。
その武士はある最も信頼する数人の氏の将軍で構成され交代制です。
軍はその都度その将軍の配下の軍が動くのです。天皇の全ての行動に順じて常に即時に動く仕組みです。
参考
「侍」(さぶらう)でその語源の元は「候」(そうろう)であって、奈良期の「発音の仕方」(そうらう)から「さぶらう」となり「さぶらう人」の「さぶらい」となり「さむらい」となり、”退位した天皇や上皇が居住まいする「門跡寺院」を守る人”つまり、「人と寺」が「侍」と成ったのです。その漢字を「侍」としたのです。「候」の意”そっと側に寄り添い守る”の意の通りなのです。
正しく武士侍が使う”何々・・・で候”の語尾の接尾語はこの意味の発展したものなのです。
念のために、「青木」の発音は平安期まで、現在では神社等の祝詞でも発音しますが、「ウォーキ」または「うあぉーき」でした。貴族等は字の発音を「韻」(いん)に籠らせる事で「綺麗な発音」としての習慣があったのです。従って、神社もこの習慣を今も引き継いでいるのです。

主に信用の出来る者の源氏方将軍で構成される(中に1名の桓武伊勢平族が記録あり)もので極一部の豪者で固めました。「組織命令」ではなく「臨機応変」に動く「天皇直命」であり藤原氏(1名指名有)や他の阿多倍一族等は矢張りなかったのです。今で言うSPです。
これでも当時の「氏融合策」の改善の政策実行の危険性の状況が切迫していた事が良く判ります。
でも危険を物ともせずに実行したのです。命が欲しければしない筈です。

この勇気ある行動を成した「後三条天皇の判断」が「行過ぎた荘園制」を押し留め、青木氏を「3つの発祥源」とする「融合氏の発展」を成したのであり、終局、「単一融合民族の優越性」を担保させ、現在の日本の根幹を成した人物なのです。
この直前の1018年の大蔵氏による九州地域の「民族氏の自治」を認めた後一条天皇の卓越したバランス感覚の判断も見逃す事は出来ないです。1068年の後三条天皇のこの行動もこの後一条天皇の行動が裏打ちされているのです。

  「農業生産力との関係」
その証拠に上記の「3つの経過期間」には間違いなく「政治権力を集中」をさせるべく「皇親政治−親政政治−院政政治」の様に「皇親政治体制」が敷かれているのです。
「物造生産力」と「農業生産力」が「融合氏数」に見合う物以上であれば天皇はそれで権力が低下しても「国の安寧と安定」が確保されるのであれば「所期の目的」は達成されている訳であり、何もより「国力が増す方向」に進んでいるのなら問題は無く、天皇として見守るに値する状況である筈です。
しかし、現実は「物造り生産力」が賄えていたのですが、史実より「農業生産力」は極めて難しい状況にあったのです。
平安期までは「農業」(部曲)より「物造り」(品部)は身分扱いとして低く観られていたのですが、これは「農業政策」が思うように進まない事で「放棄民」が生まれるのを身分と言う形で温存していた事の現われであり、逆に概ね「物造り」政策は上手く行っていた証拠でもあるのです。

そこでこの事を法的にもはっきりとさせる為に「良賎の制」と「五色の賎」で区分していたのです。
「部曲」を2段階(部曲と奴婢)に、「品部」も2段階(品部と雑戸)に分けて均衡を図ったのです。
ところが後に間違いに気が付き、元々「良民」であった「雑戸」は平安中期に彼等の努力により「物造り生産力」が上がった為に廃止しました。
「部曲」は後漢(漢民族)の職能集団に加わり「物造り」を教わりその「物造り」の基礎の生産にも関っていたのですが、その境がはっきりとしない事から身分制度により区分けして農業に従事する「部曲」を「良民」の「百姓」の上に据えたのです。
(百姓は貴族官人以外の総称であった)
ところが身分を保障したのにも関らず「天候不順」「飢饉」「疫病蔓延」「凶作」「部曲の限界」「重税」「耕作放棄」「品部に職換え」に依って左右され一向に生産力は上がらず、挙句は荘園に吸い取られると云う悪循環を繰り返していたのです。
「品部」の「物造り生産力」はこの環境に余り左右されず「品部の職換え」にも左右されて伸びていったのです。
その為に、この「神頼みの災難」を無くす事の為に歴代天皇は「五穀豊穣」を願い祭祀の一番としている事、それに伴う「民の心の拠所」となる「神明社の建立」を合わせて積極的に国策としていたのです。
現在と異なり「神頼みの災難」とは云え、古代の「信仰概念」は人の「生き様の根幹」を成していた程のものであって、「神の存在」を固く信じたその神の宿る「神明社建立」国策は「単なる建立」の価値とは異なるものであったのです。
故に「氏融合」−「物造り」−「農業」−「神明社」は連動していたのです。
この流が狂う事は「国の安寧と安定」は乱れる事になり、上記した様に「氏融合」と「農業」は連動して連鎖反応を起こしていたのです。
この連鎖する「2つの問題」を一つにして解決する事に迫られていたのです。
それの全ての原因は「荘園制の行き過ぎ」とそれに伴う「富の偏り」であったのです。
この難題を解決するには、”「氏融合」−「物造り」−「農業」−「神明社」は連動”が必要であってこのどれ一つも欠かすことも出来ない要件であったのです。

これを成した「院政」を兎角悪く表現されている通説の歴史評価は間違っていると観ているのです。
この様な「広い環境」を考慮して「傾向分析」で検証すると、むしろ当時の危険で複雑な政治環境の中で国策の政治課題解決、(”「氏融合」−「物造り」−「農業」−「神明社」の連動策実現)には「院政」が最も「理想的な政治戦略」であった事が云えるのです。
つまり上記する「相対の理」と「三相の理」の「6つの理」に少なくとも叶っているのです。

  「追加 研究手法」
ここで、ルーツを探す時の「探索、研究手法」をどの様にすれば良いのか、普通に調べていたら答えが見つかるのかの疑問が湧きます。上記の様に「歴史」には通り一辺では行かないのです。序文でも記述しましたが改めて印象的な項なので追記しておきます。
その時代の「環境」(場)を探し出した中で、その時代の「概念」(人)を把握し、その時代の「時系列全体」(時)を通した時の「考察」で、その事件の「相対する事件」をも並行して模索して、時系列のそれぞれが「人時場」の何れに最も合致しているかを「傾向分析」する事でその時代の「様」が見えて来るのです。
そしてその時代の「人時場」の、例えば「人」の要素が大きく働いていれば「人」を中心に検証して、結論を導き出す事でその事件の真実に近い答えが出せるのです。
「歴史」はあくまでも「6つの理」の一つでしかなくなっているのでこの手法でその上記の「様」を再現しなくてはならないのです。序文でわざわざ執着して書いた様に「技術問題」も「歴史」と全く同じなのです。
しかし、兎角、歴史を観る時この「概念の違い」を忘れて単に一次元で「歴史評価」をしてしまう事が危険なのです。この時代毎の「概念の違い」を研究して書いた文献が殆ど見当たらない為にもどうしても「相対の理」と「三相の理」に関する「6つの理」の「雑学」を高めなければならない苦労が歴史には伴います。
不幸にしてか「室町末期」と「江戸初期」と「明治初期」には上記「6つの理」の検証は兎も角も、殆どと思われるほどに「虚偽」のものとしてあるのです。
例えば、「系譜」を大義名文かの様に云われる方が多いのですが、「系譜」などは一部の限られたもの以外は「虚偽」で個人の系譜を網羅するほどに昔の氏家制度の社会は充実していなかったのです。
特に江戸大名の平安の頃までの個人系譜が存在するのは不合理です。
と云うのは、平安末期の氏の「大集団化」で中小の集団の氏の履歴や戸籍(部曲や奴婢や品部や雑戸も含めて)が判らなくなると云う現象が殆どの荘園内で起こったのです。
(荘園の内部を知られたくなかった事からその様にした経緯がある)
それ程に「荘園の集団化」は無秩序に成っていたのであり、これが原因して直ぐその後「下克上、戦国」を経た為に、以後、特定の「融合氏以外」は戸籍の無い社会慣習の概念が生まれ明治まで続いたのです。江戸大名はこの時の立身出世した者が殆どですので戸籍は本来は無い筈なのです。
又在ったとしても独自の氏寺(菩提寺 大集団の氏 浄土宗密教)を持つ程の氏でなくては「氏の過去帳」は無いのです。
この様な史実もありますが、まして、現在の様に歴史学者が多くはなかったのにどの様に確保したのか疑問です。特定の系譜でも疑問が多いのに不思議です。何百年と云う時代毎の人物が書き足して行ったとでも云うのでしょうか。ある時代のルーツのある特定の人物の自分の先祖を作り上げた系譜が殆どですが、その特定の作り上げた人物が歴史の専門家でしたか、その資料何処から、もしその様に造れる個人の資料を書いたものがあるなら教えて欲しいのです。彼の徳川氏の系譜や豊臣氏の系譜が搾取編算で有名な見本ですよ。
ただ、青木氏に関しては、1365年も生残ってきた皇族賜姓青木氏や藤原秀郷一族一門青木氏の融合時の「3つの発祥源」としての責任からか多くは管理されていて、時代ごとに系譜を書き足して来たのです。そして、それに伴う時代毎の主な出来事等が「家訓」や「添書」「忘備録」等の「文書記録」と「口伝」と「遺品」と云う形で添えて引き継がれて来ているのです。
それは勿論、古代密教とする浄土宗である事、青木氏の祖先神の神明社である事、この2つがそれを成し遂げたのです。
自らの氏だけの神社と寺社を自らの財力と、自らの職人が造り、自らの神職と住職を置き、自らの歴史管理を成し遂げる神道と密教のシステムを有していたのです。

しかし、「遺す」と云う事は大変な苦労を伴います。長い間には不可抗力の天変地変が起こり次第に欠け始めるのです。筆者の場合はこれを明治35年まであった資料も一部不可抗力の事情により欠けてしまい、上記の手法で昭和の補完をして来ましたが、本文に似た様な大筋を書いた近いもの(青木氏)が在ったようです。
しかし、松阪の大火で消失したので昭和型の復元をして、これを全て整理しました。
そしてサイトに個人外の必要な部分を公開しているのです。
本文は青木の氏に纏わる「融合氏」に関して研究補完し整理し追記した論文を公開投稿していますが、念のためにその時の研究手法と感想をここで記述して置きました。
それの内容には大きく祖先神の神明社の事柄が関わっていたのです。

以上

青木氏と守護神(神明社)−5に続く。


  [No.272] Re:青木氏と守護神(神明社)−5
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/04/01(Fri) 12:06:03

青木氏と守護神(神明社)−5


  「5つのキーワード」
青木氏と守護神(神明社)−4で述べて来た様に、つまり、どの歴史事件や史実を観ても、「国の安寧と安定」−「氏融合」−「物造り」−「農業」−「神明社」(寺社)の「国策関係」が連動して生まれているのです。融合氏の歴史には必ずこの「5つのキーワード」で史実を検証して立体的に論じる必要が不可欠なのです。

ところが、人は間違いを起こすのです。歴史には殆どその間違いを起こしていて、指導者と為政者は「三相の理」を極める事無く、遂にはその勢いに押されて「妥協策」まで必ず打ち出す始末と成るのです。
これを俗に「流れ」と云いますが、故に「事件と事件の間」には必ず「経過期間」として評価できる「妥協策」が存在しているのです。
有るとなれば、先ずこの「妥協策」が何処にあるのかを発見する事がその事(例えば荘園制度とすると)の正しい評価(分析、考察、検証)が出来るものです。
この「経過期間」=「妥協策」がもし見落としての「評価」(分析、考察、検証)は史実と異なってしまうのです。
「大化期、嵯峨期、後三条期」の「3期の皇親政治」には「衆知の知恵」を生かしてこの「三相の理」が良く働いているのです。故に、前代未聞の大改革が達成されているのです。
ただ「皇親政治」には危険性も認められますが、「皇親政治」を敷いた時はある「特定の条件・環境下」に必ずあり、この「独走する危険性」は低くなるのです。
傾向分析にて調査すると、この「独走する危険性」が低くに成るには次ぎの3つの要因が認められるのです。
先ず、一番目として、この「特定の条件・環境下」とは「国難」となっている大問題があって、それに強い「流れ」が起こり止められない状況と成っている事なのです。つまり、その国難の「限定された問題」に集中する為に「独走」は起こらないのです。
政治課題が広範囲で長期間で有れば特定の共通する手法が用いられる為に「個性的な偏り」が全体に及ぶ事から起こる現象ですから、「限定された問題」に「著しい個性的な偏り」とはならないのです。
そして、二番目には、その「独走する危険性」が低く成る要因として、その国難がほぼ解決すると「危険性が高くなる直前に「皇親政治」を開放している事なのです。
次に三番目として、「皇親政治」の政治手法に「合理性」が強く働いている事なのです。つまり、「相対の理」と「三相の理」と「構成の理」で処理されている事なのです。
補佐する「皇親方」が「優秀」であってこの「合理性の理」に聡い人物で有ればこの一貫してその合理性のある政治手法が貫かれます。しかし、これが長期に及び他の聡くない人物に引き継がれるなどを起こすとこの合理性を欠く「独走する危険性」が起こります。だから開放するのです。

この「3つの要因」が「3つの皇親政治」に傾向として働いているのです。
この事は当然に読み取れる事として、「皇親政治」を強いた天皇には、或いは天皇家には伝統として”「皇親政治」は「通常の政治手法」ではない”と云う思考原理があった事を意味します。
それは、「皇親政治」によって問題解決までの一時的期間には良いがその課題・国難が解決すると今度は「自然の摂理」(「相対の理」と「三相の理」と「構成の理」)で「人民の反動」の現象が「良し悪し・好み好まず」に拘らず起こる事を悟っていて「皇親政治の短期的な開放思考」は伝統的に引き継がれていた事を意味します。
主に中でも+−の「相対の理」が働く事を家訓的に引き継がれていたと観られます。
国難が解決してもこの「現世の条理」には必ずその後には「負」の反動がある事を悟っていたのです。
これは「青木氏の家訓」に示す様に「相対の理」による「負の反動」は、”先ず「人」の優劣に左右し、次ぎに「時」の長短に左右し、最後には「場」の有様に左右する” と云う「戒め」がある事からすると、同じ伝統を共有する天皇家にもその「伝統思考」が充分に「長の戒め」として引き継がれていた事が考えられます。

この様に「3つの理」は扱い方に依っては「悪」にも成り「善」にも成る事なのです。
特に「政治の世界」に於いては通り一遍では無く「人心の不確定さ」が大きく左右するのです。
”良ければ飽きが起こり増長して不満を述べ立て、悪ければ騒ぎ立て不満を述べる”と云う厄介な「人間の性」がある限り、”「良は良で有り続けない」”のです。仏教の認めるところです。
だから、「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」なのでしょう。
この様に日本の歴史には「相対の理」と「三相の理」と「構成の理」が連動している限りは論理的に次ぎの判別式が必ず成り立って行くのです。

「事件」−(経過期間)−「事件」→「妥協策」
「大改革」=「3期の皇親政治」=「三相の理」+「相対の理」+「構成の理」

  「整理令の反発事件」
「三相の理」の「人の要素」の欠如から起こった過程では当然次ぎの過程を色々と生むのです。
「融合氏」に成って大きくなった豪族等が「大集団氏」の翼傘下に入り好き勝手な行動を採り1050年頃から挙句は「荘園同士の潰しあい」にまで発展して行く過程を必ず採るのです。(相対の理)
実はこの「荘園整理令」(1070年発布)の少し前から起こり始めた「荘園問題」(1028年頃)の象徴とする事件が東国にも起こっていたのです。「相対の理」として西を(+)とすると必ず原理に基づき東の(−)にも何か起こっていると云う事です。
「三相の理」の「人」で起こっているものとすると「人の心理」は無意識の内に「相対の理」の対の現象をある時間を置いて起こすものなのです。
史実として「氏吸収の大集団化」と「荘園力」に依って余りに大きくなり過ぎた東国の「平忠常」の「氏勢力」に対して朝廷は史実「恐怖」を感じてこれを清和源氏3代目源頼信に潰させたのです。
1051-1062年には「安倍氏」の陸奥方面の超大勢力を5代目源義家に、更に源義家に1083-1087年の奥羽で清原氏の事件等の巨大化した氏に対して潰させ、これらの事件を潰した清和源氏頼信から孫の義家の源氏も大きくなり過ぎたと観て皇族の同族でありながらも、挙句は朝廷から警戒されて無視される始末事となる等の事件が起こりました。
この様に歴史の経緯を観ると、朝廷による同じ「潰し作戦」に掛かる事件が各地で頻繁に起こる様になるものなのです。現実に頻繁にこれ以外にも大中の集団の氏が潰されて行きます。
天皇が「朝廷軍」で自ら潰すのではなく大きくなり過ぎた「融合氏」で先ず潰させ、今度は「天皇の権力」でその「氏」を「政治的に潰す」と云うことが起こります。
先ず、この時の後三条天皇と白河天皇とその院政は、阿多倍一族一門の「官僚勢力」と「摂政藤原氏勢力」を先ず首脳から外して無視してから、用意周到にこれ等の官僚氏に対して「無血縁の皇族」による「親政−院政政治」に依って「整理改革」が起こされたのです。これらの天皇は極めて頭脳的であります。

この様にしてから、「荘園整理令」から始まり「知行国制」「院宮分国制」「荘園公領制」と40年間で「経済的な建て直し」と「権力の取り戻し」と「巨大化融合氏の潰し」を図り、内部には「大きな不満」を抑えながらも成功します。 (この不満が後に「負の反動」の元凶となる)

  「同時期の東西の始末策」
この時期を同じくして、以西では九州の大蔵氏問題(1018年の巨大化した大蔵氏)の「九州自治統治」の時期が一致しています。つまり、日本の国左右で「巨大化氏」の「大集団化」が起こっていたのです。
つまり、以西の九州では「民族氏」の「独立始末策」、九州より以東では「融合氏」の拡大の「荘園始末策」が起こっていた事に成ります。
これでは阿多倍地族一門末裔の国策に従わない彼等に対して(九州基地の「民族氏」の「独立懸念」に向けての騒ぎに)は朝廷としては手を出す余力がありません。
この様に以後に打ち出された国策を「相対の理」に従って予測し調べだしてそれを系統化して並べてみると、「朝廷」と云うよりは「天皇家」の「皇親政治族」は最早九州では「自治」を認める以外に無かった事が判ります。
もし、仮にこの「自治」を認めなかったとすると左右からの「阿多倍一門一族の圧迫」により天皇家は無くなる事は間違いないと考えられます。
東西から同族で挟撃されていて、尚且つ「軍事、経済、政治」の官僚6割を占めていた為に阿多倍一族一門に「政権の座」もしくは「天皇の座」も取って代わられていた可能性が大いにあったと考えられます。
朝鮮族の蘇我入鹿の時にもあった様に、今度はそりよりも遥かに大きい後漢民族に。

以西−「独立始末策」+以東−「荘園始末策」=「阿多倍一族一門」

この様に同時期に東西の「2つの始末策」には両方に阿多倍一族一門が最大に関わっていたのですから。
実はそれだけでは無いのです。以北の地域には実は大きく忍び寄っていた勢力があったのです。
源義家らに依って鎮圧された以北には無傷の大勢力があったのです。
それは何と阿多倍の3男の賜姓「内蔵氏」が以北の半部近くを占める大勢力の「融合氏集団」を既に形成していたのです。(以北の小集団の土豪連合と血縁した:民族氏ではなかった)
そして、以北と中部、関東の境界付近には阿多倍の一族一門の「阿倍氏」も「融合氏集団」を同じように形成していたのです。
しかし、「親政−院政」の歴代天皇はこれに手を着ける事は「火に油」に成り出来なかったのです。

以北−「内蔵氏」+以北-中部-関東−「阿倍氏」=「阿多倍一族一門」

東西に問題を持っていたにも関わらず関東と以北のこの融合氏にも手を出さなかった事に成ります。
関東は藤原秀郷一門です。以北は「内蔵氏」と「阿倍氏」の一門です。

”一体何故なのか”疑問です。
この「2つの大集団」融合氏に共通する条件を観る事で判別出来ると考えます。
次ぎの4つがあると考えます。
1 全てを潰すと逆に乱れ全体の「力関係バランス」が崩れる事
2 1の中でも「温厚な氏」「経済的な具納する氏」「朝廷の主要官僚氏」を温存する事
3 東西の阿多倍一族一門(直系兄弟、従兄弟)に挟撃される戦略上の事
4 天領地と穀倉地の地域帯であり「食糧問題」に直結する事
この4つの共通理由で平安末期この二つの「一門一族」は温存されたと考えられます。
その歴史的な史実が多く遺されています。
例として有名な秀郷一門の平泉の藤原三代の朝廷への「金の御調」等があります。

皇族賜姓族の源氏でさえも押さえ込まれたのですが、不思議な事にこの中間にいた「日本最大の融合氏」361氏にも成る藤原氏北家族秀郷一門が院政に依って関白から外されても温存されたのです。
この時点での「親政−院政」の皇族は賜姓青木氏とは殆ど無血縁であったのですが、皇族賜姓青木氏も温存されていますが、これは又何故なのか2つの疑問が残ります。

  「皇親政治の意味」
その前に論じておくべき事があります。
1020-1050年を境に「融合氏政策」の「国策3策」も有名無実と成りつつあったのです。
恐らくはこの「後三条天皇」が大化の志を完遂する為に勇気を振り絞って命を掛けての「平安期の最後の抵抗」を試みたのです。
孤軍奮闘の中で3度目の「皇親政治」そのものを敷く事自体難しい事とであった筈です。しかし、この問題を解決するには「皇親政治」を敷く事は避けられません。
「律令政治」が熟成域に達していた時の彼等の末裔が要職を占めている環境下で、その彼等の最も利害の高い彼等の根幹と成る荘園に手を出したのです。

ところが幸いこの天皇は次ぎの様な特長を持っています。
  「目的達成の手順と特長」
1 藤原氏と血縁関係が無い事
2 藤原氏を退けた事
3 親政を敷いた事
4 融合氏として成長した優秀な中小集団の大江氏等を登用した事
5 多少の血縁性のある中流級貴族層を起用した事
6 耕地調査やそれを監督する官僚を阿多倍一門から外して任命した事
7 命令を徹底させる為に「宣旨」制度(天皇の直接命令書を制定)を矢継ぎ早に実行した事
8 身の安全を守る為に「北面武士団」を創設して皇族身内族で固めた事
9 後三条天皇の奮起により1070年から134年間「親政と院政」の土壌を敷いた事
10「公地公民」を変化させて親政で目的とする「荘園の公領制」に道筋を開き戻した事

史実を考察すると、この目的とする事の為に「的確に状況判断」をし、自分の取り巻く「条件の強弱」を見定め、必要とする「論理的な手順」の順序を間違いなく執行して達成しています。
この10項目を考察すると、真に「相対の理」「三相の理」を会得していた人物である事、天智天皇の再来の人物である事が云えます。だから成し遂げられたのです。
逆に云えばそれまでの天皇は、既に荘園制度が朝廷の圏域も脅かされる状況に成り、国策の行き過ぎが認識されていた筈でありながらも、改革を実行できなかった事はそれだけの「気構えと知力」が備わっていなかった事を物語るものであります。(長としての欠如)
以西には九州の彼等の末裔大蔵氏が自治を始めた時(1020)でもあり、これだけ悪い条件の中では先ず「後三条天皇」と云えど命の保障は間違いなく無かったと観られます。
周囲の大勢力阿多倍一族一門や藤原氏は大利害が伴う敵であります。

  「氏融合(国策3策)」<「荘園制度」
「氏融合策」の「国策3策」の余りの勢いを抑えようとして採った政策が、想わぬ逆の方向へと走り結局は自分で自分の首を締めて、朝廷と天皇の力を弱め最早留める事が出来なかったのです。(荘園と云う強い流れが起こっていた)
歴氏的に観ると、その「流れ」のピークは「園地宅地法」でその切っ掛けを作り、「墾田永年私財法」で完全な失政をしたと観ています。(「流れ」を作り出したのは「班田収授法」と成ります。)
「荘園整理令」を、「天皇第2期皇親政治」(嵯峨天皇期)で一致結束して更に続けて、「文徳−清和天皇期」に発令する事が適切な時期と考えられ、「三相の理」から観てもう少し早く出すべきであったと観ています。そして諸般の事情を鑑みると「私有財産化」は鎌倉期前に出すべき事と考えられます。
しかし、朝廷内では阿多倍一門一族平族を廃し藤原氏を外した為に結果として「3つ巴の争い」と成りました。誰が敵で味方か判らない状況と成り遂には天皇側の「賜姓族」「藤原氏」と「阿多倍一族一門末裔」側との「武力の戦い」に成り、「自然の摂理」にて「争い」以外に解決する方法が無く成って「決着」へと発展して行きます。

  「皇親政治院政」
(第1期:天智天皇671没−天武天皇686没−持統天皇697没) 52年間 皇親政治
(第2期:嵯峨天皇823没−淳和天皇840没−仁明天皇850没) 41年間 皇親政治
(第3期:後三条天皇1072没−白河天皇1086−堀河天皇1107没) 60年間 親政政治
(第4期:鳥羽天皇1107−白河上皇1129没−鳥羽上皇1156没) 49年間 第1期院政政治
(第5期:後白河天皇1158−後白河上皇1192没 5代院政)34年間 第2期院政政治

  「同時代の経緯」
 大蔵氏九州南北の自治1018
(清和源氏全盛期−源頼光1021没−平家台頭160年間−源頼政1180年没 源頼朝1195没)
(以西で大蔵氏1018−都で源氏1021−平族960-1180)

  「大集団化への融合」
1018年頃で皇親政治の国策(融合政策)はほぼ完成しましたが、その後は1180年までの160年間は姓氏(11824氏)にも成った「小集団の融合氏」が、上記の経緯の様に今度は「大集団の融合氏」に吸収されて行き「無血縁の大集団の融合氏化」へと変化して行くことに成ります。
つまり、「血縁の融合氏」が大きくなるのではなく、ある力のある「一つの融合氏(A)」に無血縁の小さい融合氏が群がる様に吸収され、その大集団と成った氏名は融合氏(A)を呼称する事に成ります。吸収された「無血縁の小融合氏」もその氏名(A)を名乗る現象が起こってしまったのです。
これが極めて多い通称「未勘氏」と呼ばれる氏なのです。

丁度、「渦の現象」で周りのものを事ごとく巻き込んでしまう現象でそれがあちこちで起こりその渦も更に一つの氏に成りつつ最後には収拾できないほどの渦が出来てしまい、遂にはその環境を破壊し爆発さしてしまう現象なのです。この環境の破壊は朝廷・天皇家の体制を壊し共和性の政治体制へと変化する事を意味します。

この事は天皇が考える「国策の融合氏政策」にとって目的とする現象では有りません。
尚、更にこの難題「大集団化」には大きな弊害が起こったのです。
「部曲、品部」などの「農業生産力」や「物造り生産力」の富がこの大集団に吸収され著しい富の偏りが生まれ、逆に民は疲弊したのです。
何時の世も富の偏りが生まれれば当然に一局に「権力の集中」も起こり、腐敗等が横行して「政治の渋滞」が起こる事に成ります。
終局、民の信頼を失い「天皇の権力」と如いては「朝廷の権力」の低下も起こり「悪の循環渦」を誘発して果てしない止める事のできない「政治の混乱」と成って行きます。
累代の天皇はこの現象に憂慮していたのですが、この津波の様な「渦の流」を誰も止める事が出来なかったのです。少なくとも1018年の「後一条天皇」か1068年の「後三条天皇」までは何も出来ずこれ等の勢力に思うが侭に漂うのみだったのです。
「第3期の皇親政治と親政・院政」で何とか留める事が出来たのですが、事は既に遅く「渦の流れ」は緩やかに成ったとしても、上記した「相対の理」による「負の反動」が皮肉にも「国策3策」の「融合氏」の発祥原の「侍」・「武家」に依って起こってしまったのです。
「融合氏」の発祥原の「侍」・「武家」を育てようとして「荘園制の行き過ぎを留めたのですが、肝心の大集団の荘園主では無く、その「融合氏」の発祥原の「侍」・「武家」に依って憂慮して居た事が起こされてしまったのです。
最早、天皇朝廷の権力の低下は避けられず、「決着」をつける意外には方法は見出せず遂に「大集団の荘園主」と「融合氏」の発祥原」(「侍」・「武家」)との争いへと発展して行ったのです。

「小集団の融合氏化」(645-1018)→「大集団の融合氏化」(1020-1300)→「第1期の室町期混乱期−下克上−戦国時代」(1350-1570)

しかし、実は「渦の流」の中で、天皇側は憂慮した事が起こらない様にそれまでに働いた形跡があるのです。
その証拠に「天地・天武期」の「第1期皇親政治」と、桓武天皇の官僚による「律令政治」と対峙し「戦いを含む争い」を起こしてまでも嵯峨天皇は「嵯峨期の第2期皇親政治」を採用しているのです
この「2つ実績経緯」を詳しく調べると、”燻っている朝廷内の不満を抑えようとした”とも見方も充分に採れるのです。
現に、皇族外(たいら族:阿多倍一族)に賜姓した桓武天皇の「官僚による律令政治」を一部緩めて、第2期皇親政治の嵯峨天皇は第牟6位皇子による「賜姓制度」を再び皇族に戻し「賜姓源氏」にして「融合氏」国策を継承させ、更には「元の青木氏」を皇族出身者の「氏名」としての「融合氏」策も更に継承させ、又、上記した「八色の姓と爵位制度」の「柔軟な運用」も実施して優秀な官僚を登用した事も然る事ながら、荘園主には上位の姓と爵位を与えて不満の解消に当たった事にも成り得るし、天皇家一族自らも「氏の模範」として継承させて行く姿勢を内外に示した事等の事から観ても積極的に不満を抑えようとしていた事が史実から数多く観察出来ます。
その総合的な姿勢を示す最たるものとして「嵯峨期の詔勅」(弘仁の詔勅)が発せられた事なのです。
普通の安定した政治状況なら内容から観てこの詔勅は違和感を感じます。
何かの政治的背景が有っての詔勅です。それは上記の「官僚による律令政治」の「初期の弊害」が生まれていたからなのです。
何故、此処に来て嵯峨天皇がわざわざこの詔勅を発したのかを考えると納得が行きます。
一方で「不の反動」の切っ掛けと成る「不満」を抑え、他方で天智天武期からの「国の安寧と安定」の国是の”「民族氏」から「融合氏策」”を推進させようとしていたのです。
一方、「国の安寧と安定」は”律令政治の完成から”を主張する桓武天皇は律令国家を推進し完成させた日本で最初の天皇ですが、この2つの「政治路線」の違いが起こっていて、子供の嵯峨天皇は「律令政治への弊害」を問題視していたのです。
この弊害は一つ目は「荘園制への憂慮」であって、二つ目は「官僚主導による政治体制」から「皇族の疎外感」が大きく燻っていたのです。
この2つともに「天皇家の存在感の低下」とその「政治体制の崩壊」を招く材料です。
まして、その官僚の6割を占めていた阿多倍一族一門の「民族氏」の台頭は、当然にも「天皇家の存在感の低下」とその「政治体制の崩壊」に直接結びつく要因であり、尚且つ、以西と以北の彼等の勢力(32/66)を度外視する訳には行かなくなっていた環境下だったのです。
殆ど国ごと乗っ取られる可能性を占めていたと考えられ、そのきっかけは最早、荘園の行き過ぎを押さえること以外に無くなっていたと観られます。
(現実に1018年以西域を含みと九州全域を大蔵氏に自治を委ね、以北は源氏の力を上手く使って制圧させて何とか国難を避けたのです。)

このこれだけの「3つの要因」が存在していれば誰でもが憂慮することに成ります。
しかし、「桓武天皇」は頑として譲らなかったのです。だからこの「路線争い」で「親子の争い」まで発展したのです。
そこで「血みどろの親子争い」を何とか避ける為に「桓武天皇」は賛同者の子供の長兄の「平城天皇」に譲位します。しかし、「平城天皇」は病気で退位せざるを得なくなります。
皇族側の態勢も「嵯峨天皇」の主張する側に優勢となり、結局、「嵯峨天皇」に譲位せざるを得なく成ります。
この結果、”「民族氏」から「融合氏策」”の推進派が主導権を握ったのです。
そして改革断行の為に第2期の「皇親政治」を実行したのです。
これ等の事を実行するには勢いづいた「桓武天皇の官僚の律令政治」の時期に、それを押し留め天智・天武からの国策「融合氏政策の推進」に舵を切り直すのです。
”今更何だ”の反対の怒号が官僚や大集団の氏からは、利害が左右するのですから、当然にして聞こえてきそうです。
何せ政権は確保したにせよ厳然と阿多倍一族一門の勢力とその配下の6割の官僚は無傷で存在しています。

参考
桓武天皇は母方(高野新笠)の「賜姓平族」(たいら族:781〜)を引き上げ育て味方にし、嵯峨天皇は第6位皇子の「賜姓源氏」を皇親族として育て味方にしていたのです。
当初は嵯峨天皇の皇親族の源氏が勢力を高め、特に清和源氏(858〜)が台頭しましたが、この頃からは「たいら族」(桓武平氏)も台頭して来ます。この頃、朝廷、或いは天皇家と云った方が適切であると思いますが、再び「賜姓たいら族」(桓武平氏)派と賜姓源氏・皇親族派に二分されて行きます。
そして「たいら族」の清盛(1167太政大臣〜81)の代に成り遂には清和源氏を圧倒します。
この経緯の変化に伴い荘園も拡大をしながらも、清和源氏の皇親族が勢力を保持していた時期には押さえ込まれていました。一時、後三条天皇期(1068〜)の皇親政治と白河天皇の院政期では押さえられます。しかし、清和源氏義家の失敗(1087〜)を契機に再び荘園拡大が後三条期の歯止めが外れて起こり始め、これとは逆に「たいら族」の勢いも増し、荘園制も再び勢いを得て完全に「たいら族」の清盛の時代となるのです。
この様に荘園の経緯は丁度、「清和源氏」と「桓武平氏」の勢力の経緯に一致しているのです。
この様に逆に「融合氏の経緯」の障害と成って行くのです。

参考から話を戻して、これは態勢が嵯峨天皇側に傾いたとしても明らかに難題です。
それ故に「皇親政治」を敷きこの勢いの中を突っ走る政治体制が必要に成ります。
荘園制度の初期の行き過ぎを感じ、国是とする「民・国の安寧と安定」に欠かせない「融合氏政策」が未だ道半ばであると受け取っていた事を意味します。
その証拠に「国内の姓氏数の実態」の調査(「新撰姓氏録」)をわざわざ嵯峨天皇は突然に行っているのです。

この「2つの制度で直接権威付けられた事により「姓」から外れる「下部層の小集団」にも正式な「姓」として「小さい融合氏」が生まれて行ったのです。
(「2つの制度」とは「八色の姓」と「爵位制度」の運用と、青木氏と守護神(神明社)−4の俸禄褒章制度の運用)
そして、それら「小集団」が「無血縁」でありながらも「権威」を基に結合して中集団へと拡大して行き、そこで「血縁関係」を結びして、遂には「姓族」から「融合氏」として拡大して行くのです。

この様に大小の集団が互いに「血縁」と「権威」とを相互に絡めながら「融合氏」が新たに生まれて行きます。「融合氏」としての認可はこの「権威」が裏打ちされて氏数は増大し、それに伴なって「八色の姓」の姓の身分家柄を獲得し増して行きます。

この事(姓氏)は詳しく日本書紀等の多くの史籍にも記録されていて、斯く正式な朝廷行事にこれ等の「姓氏」の首魁を呼び出して権威付けの儀式が頻繁に行われています。

例えば、日本書紀で観てみると、天智−天武−持統期代の期間を大まかに筆者なりに確認すると次ぎの様に成ります。

天智期では、集団では初期であるので少なく「個人−数人単位」での「新規の姓」の授与をしていてその数は25程度です。
天武期では、23年間も経っている事もあり「氏融合政策」がある程度に軌道に乗ったと観られます。
一挙に10以上の集団単位では6回で合計185、数人単位で5回程度で20、合わせて205位と増大しています。
持統期では、天智期と同じ程度で個人授与25程度、集団単位の授与は見当たリません。

全体として、大化改新の「融合氏」政策を採用してから65年間に合わせて回数で30回程度で250の姓に氏として授与しています。

その授与された「姓」を観て見ると、殆どは「地方の中小の集団の長」で所謂、「土豪」と観られます。

これで観ると、大化期の「氏融合政策」にどれだけの力を入れていたかが良く判ります。

そして、文武−桓武を経て、嵯峨期の「新撰姓氏録」の調査では1182と成っています。
この推移を考えると次ぎの様に成ります。
この間180年間で250から1182まで増えている事に成ります。4から5倍に拡大しています。

つまり、天智期から持統期まででは今までの氏数(20−40)から姓氏が250程度増えて、52年間で1年間に平均で「5融合氏」(姓氏)を認証している事に成ります。

持統期より嵯峨期まででは935程度増えた事に成り126年間で1年間に「8融合氏」」(姓氏)が認証されていることに成ります。

天智期から嵯峨期の全体では1年間に「八色の姓制度」で認められるもので180年間で1年間に 「7融合氏」」(姓氏)と成っています。

以上の事から「融合氏」(姓氏)Ave5−8/年間と成り一定と見なされる集団が生まれて行く事に成ります。

天智期−持統期 氏数20−40 姓数250  5融合氏/年間  倍数8.3  52年間
持統期−嵯峨期 氏数40−80 姓数935  8融合氏/年間  倍数15.6 126年間
天智期−嵯峨期 氏数20−80 姓数1182 7融合氏/年間  倍数23.6 180年間

この事は氏数は60増加に対して姓数は922増加となり姓数は「小集団単位での融合」が盛んに行われその集団が朝廷に認められる力を持った集団に成った事を意味します。

氏と姓の比率は15姓数/氏数となります。

結局、氏数は4倍に、姓数は4.1倍で同倍数と成り、比率15はこの期間比例的に一定で伸びた事に成ります。
そして、全体として4倍速で増え続けた事に成りかなり速に伸びた事にも成ります。

以上の数字の実績から観ると、明らかに大化期から執った「融合氏の国策3策」は効果を発揮したことに成ります。

朝廷は1:15のこの比率を保って何とか問題を認識しながらも政策的に認可して居た事が判ります。
その変化(天智期−嵯峨期)の間は重要な事として「小集団単位から大集団単位」(15比)に成って行った事に成ります。
嵯峨期前までは少なくとも「大集団が小集団」を吸収して行って大きく成って行った事が主流の経緯ではない事も判ります。
しかし、この思わしくない傾向(荘園制の行き過ぎ)が起こっていた事は次ぎの数字で判ります。

天智期−持統期の倍数 8.3倍−52年間 
持統期−嵯峨期の倍数15.6倍−126年間 

以上で拡大していてその差が2倍(15.6/8.3)になっていますが、年数比から観てみると同比率とで伸びたとすると嵯峨期前頃の倍数は本来は20に成らなければ成りません。
この倍数は(15.6/20)下がっていますので大集団の荘園による吸収化が起こっていた事に成ります。

全体として大集団に吸収されてゆく経緯では、数字的には4の倍数は低く成り、15の比率は低く成り、同倍数の現象は起こらず崩れる事に成りますので、「大集団の吸収化」問題は未だこの期間では本格的に起こっていないか見えていない事の近い状況で在った事になります。

これでも明らかに「国策」として衰えていない事がこれで判りますが、しかしピークには達していないが徐々に「私物化−私有化−荘園化」の「経過期間」が静かに起こっていた事が数字的にも理解できます。

しかし、遂に嵯峨源氏等が生まれ阿多倍一族の平族が台頭する時期(900年前頃:清和源氏)からは逆の現象が起こります。

天皇が考えている本来あるべき姿として生まれて来る小集団が「自立する方向」に行くのではなく、明らかに顕著に大集団に吸収されて行くのです。
この頃から「清和源氏や京平氏(桓武平氏)」は「武家の棟梁」と呼ばれる様に成り、各地方に生まれた「融合氏の小武士団」は「清和源氏や京平氏」の「皇族の権威」の下に入ったのです。
つまり、第1期の「未勘氏」の大量発生となります。

この無血縁の大集団化で、ある一つの大きい氏の下に繋がる現象が起こった事から、無血縁でありながらもその大集団の氏の中に入った事から、無血縁であっても仮に清和源氏であれば”源氏一門の誰々・・”と名乗る現象が起こったのです。
その為にその清和源氏は「公家」に対して「武家」の身分であった事から、大集団であった清和源氏を「武家の棟梁」と呼ばれる様に成ったのです。
この様に「武家の棟梁」の呼称は「大集団への吸収」の代名詞と成ったのです。

参考
この事が結果的に源氏滅亡を招いたのです。特に清和源氏の分家頼信の末裔の義家がこの現象に累代の天皇が追い求めている「国策の融合氏」政策とは逆の荘園制に肩入れしてしまったのです。
この事が原因で天皇から無視される羽目に陥り、次第に「武家の棟梁」ともて囃されながらも「衰退の道」を辿り始めるのです。
本家頼光系4家4流と青木氏5家5流は皇族賜姓族の身分」と「3つの発祥源」を弁えてこの「荘園主の路線」を採らなかったのです。
この「路線の違い」は5家5流の賜姓青木氏と賜姓清和源氏の本家頼光系4家4流は血縁関係を保持している事でも判ります。分家頼信系とは血縁を結んでいないのです。
しかし、本家もこの余波に飲み込まれて、ただ一人朝廷内に源氏の立場を残された総宗本家筋の源三位頼政は孫の京綱を伊勢青木氏に跡目を入れて、源氏を絶やさない為にも皇族賜姓族の本家血筋を天智期からの青木氏本筋に一本化にした上で、負けを覚悟の上で源氏再興のキツカケを作る目的で「以仁王の乱」に突入して行くのです。


参考より話を戻して、この事は「氏数と家紋」から観ると、つまり、上記した「氏の経過形態」では、「大集団の権威」の中に「無血縁で小集団」が入り、その「権威勢力」の下に「氏の安全と重職」を獲得しようとする「流れ、動き」が「融合氏」間に起こり始めたのです。
所謂、綜紋、家紋、血縁の異なる「未勘氏」の発生です。
つまり、「280年間で1182」をピークとしてこれを境に「融合形態」がやや危険な「成熟期」に入った事を意味します。
この事は「第2皇親政治」の嵯峨期の「政治の動き」が良く判る数字です。
年表、氏数、家紋数、計算、史実、用語などから集約する「氏融合」は次ぎのような経過を辿った事に成ります。

−天智期「融合化」20−(成長期)
−嵯峨期「成熟化」80−(最高期:ラップ期)
−清和期「荘園化」200−(過剰期:吸収化)
−後三条期「整理化」+200−(滞留期)
−後白河期「公領化」−200−(低下期)
−鎌倉期「無秩序化」800−(拡大期)
−室町初期「混乱化」1200−(混乱期:潰合期)
−室町末期「減少化]80−(回帰期)

中国・関西地方以北で主に起こっていた「融合氏形態」が「成熟期」(「荘園化」の形で後に行き過ぎが起こる)に入ると、一方中国・九州地方ではこのピークに上記とは逆の現象(この融合時の国策3作に抗して)が起こっていたのです。
上記した阿多倍一門一族の「独立」「民族氏」の大問題が以西地域でクローズアップしていたのです。
真にこの世の万物万象の何事にも観られる様に成熟期とする「変極点に起こる自然現象(YP)」(ピーク時)が「融合氏」問題にも嵯峨期には起こっていたのです。如何に大変な国難であるかが判ります。
上記した判断を一つ間違えると国は滅びる事にも成りかねない「東西の大問題」です。青木氏の血縁祖の一人嵯峨天皇の苦労が判ります。

  「融合氏数の変化」(民族氏の変化)
この間には(桓武期から始まった阿多倍一族の「民族氏」の問題)上記で論じた「負の反動」の「反発現象」もあり一時的に「停滞期」も認められます。
しかし、900年頃から「負の反動」のこの反発も解決の方向に向かい、「九州域自治」を認めた頃の1020年頃から阿多倍一族一門が、遂に天皇の妥協条件を受け入れて周囲との血縁を進め「融合氏」になっていつた事から急激に増える事に成ります。
つまり、以西以北の脅威と憂いは一応解決に向ったのです。ただ問題は「荘園の行き過ぎ」を解決せねば成りません。
その間「融合氏」の政策はどの様に成ったのかを観てみると次ぎの様に成ります。
恐らくは阿多倍一族一門の「末裔550」と配下の「品部180の部民氏」」を合わせて「730」がある短い期間を経て一度に融合氏と成った事に成ります。

「氏数」が200から鎌倉期800に成ったのはこの要因であり、この時期、「藤原秀郷一族一門361氏」、「賜姓青木氏29氏」と、「以北の民族氏の約30程度」が加算されて行きますので、平安末期−鎌倉期では「姓氏」で観ると一度に1230−50が増え合わせて2400には成っていた事に成ります。

「氏」クラスで観ると、この1割程度の200−240と成り、平安末期の象徴紋と家紋から観た「氏数200」と完全に一致します。
つまり、平安末期までには順調に伸びて「物造り」策と共に連動して「荘園行き過ぎの問題」があったとしてもマクロで観れば「氏融合策」は成功していた事を意味します。
そして、「桓武天皇」の「律令政治の国家」政策路線は「皇親政治」で一時滞留していたが「皇親政治の開放」に依って復活する訳ですから、「嵯峨天皇」は国内の「融合氏政策の効果」をわざわざ調べたのです。
そして「皇親政治」に依っての上記の様な充分な実績を確認して「新撰姓氏録」を発表したのです。
つまり、「1182の姓氏」が生まれている事を認識して、後は自然増に委ねる事で進むと観て、「荘園の行き過ぎ」問題が起こる事を懸念しながらも、最早、これ以上「皇親政治」を続ける事は国家にとってむしろ不必要な弊害を生むとして「開放」を決断したのです。
現実に懸念通りに「荘園行き過ぎ問題」は「国家体制を揺るがす問題」と成って行ったのです。

その後、200年程経って「嵯峨天皇の意思」を継いでいた「後一条天皇の院政」と「後三条天皇の第3期の皇親政治」と「白河天皇その院政」で、再び天皇家の「伝家の宝刀」を抜き「皇親政治」を敷き「国難の解決」に当たる事に成ったのです。
天智期からの3期の「皇親政治」は何れも「国家の安寧と安定」を目標とする「氏融合の国策3策」を成し遂げるためにそこに起こる「国難」を解決し排除する政治体制を採ったのです。
「荘園の行き過ぎ問題」は放置すれば最終は「国家体制の危機」を招かないとも限らず、再び「国策の融合氏政策の3策」に舵を切り直したのです。
決して、俗説の天皇家の牽制の為ではなかった事がこの様に傾向分析により経緯をつぶさに調べると判って来るのです。

  「氏名と姓名」
現在では「氏名」(しめい)と「姓名」(せいめい)は同じに扱われていますが、本来は1080−1100年頃の鎌倉前期までは違っていたのです。嵯峨期の「新撰姓氏録」では殆どはこの「姓名」です。
本文で論じているのは「氏領域」の「氏名」です。
当時では「姓氏」が幾つか集まって氏を形成していたものを分けて考えていて、この集まる条件が「血縁性」、「民族性」、「未勘氏性(大集団吸収族)」に依って違っていた事から「氏」と「姓」を使い分けしていたのです。
そして、主に「氏」とは血縁性を主体としてのものを云っていたのです。「民族性」「未勘氏性」のものは「姓」として使い分けをしていました。更には「姓」は「小さい集団」と云うが概念が存在していました。

皇族賜姓青木氏は「3つの発祥源」で「天皇護衛団(親衛隊)」である事から「氏」が青木氏で「姓」は無しと云う事に成ります。従って、青木氏から他の「氏」や「姓」が分派分流してはいません。
ただ、母方青木氏の特別賜姓の認可を受けての藤原秀郷流青木氏も同様で、矢張り准皇族系として「青木氏の仕来り」を護ったことに成ります。
これが皇族関係氏の「仕来り」で家紋もそもそもの家紋ではなく、元々の「象徴紋」で有る事から「家紋掟」による変化は起こりません。又起こさない様にする務めがあります。これが「3つの発祥源」としての「固い仕来り」だったのです
嵯峨期の詔勅による「皇族青木氏」も仕来りを守り、「皇族関係者」と「賜姓源氏」から青木氏が発祥していますが、他の「氏」と「姓」は分流分派していません。この「2つの氏」は合わせて29氏と成ります。

嵯峨期の詔勅で特別に名乗った藤原秀郷流青木氏は、理屈上は藤原氏から見れば「氏」が藤原氏で「姓」が青木氏と云う事に成りますが、秀郷流青木氏からは他の氏や姓は分流分派していません。
故に116氏と大きな氏と成っています。
これは賜姓青木氏と母方血縁族であり、天皇を護衛する六衛府軍の役目と藤原秀郷一族一門の護衛団と云う2つの役目があった事によります。
又、宮廷の近衛軍団の六衛府軍になる資格を持っていてその役職を皇族賜姓青木氏と供に務めました。
皇族賜姓青木氏は「蔭位の制」の有品の位は3位か4位、藤原秀郷流青木氏は4位か5位であった事からも判ります。
この「血縁性」のある「2つの青木氏」は高い「有品の立場」からその権威を基にした平安期の「大集団吸収過程」の「名義荘園主の手段」を採らなかったのです。

その裏返しとしてこの「2つの血縁性のある青木氏」に仕えた「血縁性が無い2つの青木氏」には血縁にも勝るとも劣らず「強く古い絆」を基とした「家臣団の未勘氏」と「部曲、品部」の「生活結合の青木氏」(第3氏)が「2つの氏」が存在するのです。
他氏の「未勘氏」や「第3氏」とはその結合そのものが違っていたのです。他氏には観られない「有縁結合」であったのです。1千年を超える「歴史の所以」の所作が成し得た「特異な融合体」(絆氏)であったのです。
故にこの「2つの無血縁族青木氏」は「大集団吸収過程」の「姓族」ではなく「氏」そのものを呼称しているのです。
ところが藤原秀郷一門は361氏でありますが、24地方に分散して子孫を遺したことから血縁性のある大集団と成り、24の姓氏名を有しています。これに血縁性の無い平安期の「大集団吸収過程」に発祥した「姓氏」からの「未勘氏」と、「絆氏」とも見られない「第3氏」が大変多い氏と成っています。

調べてみると、藤原秀郷一族の「未勘氏」と「第3氏」は青木氏の様な「絆結合」の判別が現在でも出来ないのです。恐らくは他氏に比べて格段に多い「未勘氏と第3氏」の姓数は全体の5%程度ではないかと考えられます。
その「判別条件」が現在は研究が進んでいないので不明ですが、「5%の根拠」は平安期の荘園に隷属した「部曲、品部」(貴族奴婢を除く呼称の百姓)の比率がこの数字であった事が記録より判明しています。秀郷一族一門は「源平藤橘」大集団の一つであった事から間違いないと観られます。

その条件は各地に存在する秀郷一門と「場」の「地理性」、「時」の「時代性」、「人」の「人為性」、「宗教性」のより近いものを有している「未勘氏」と「第3氏」を選択する事で判別できるのです。
特に「宗教性」で1−2割程度に絞れるので、「地理性」と「時代性」と「人為性」とで5%に近づけます。
しかし、これにはより幅広い「歴史概念」とか「史実の把握」とかの雑学が必要とされますが、何はともあれ秀郷一門より数倍も多い「未勘氏と第3氏」なのでかなり難しいと観られます。
ですから個人でルーツを探索するには、思い立ったら直ぐには「ルーツ探索」がこの様な事から難しいのです。それ程に上記の様に個人の事に付いて書き遺した殆ど資料はありませんので、その意味でもせめて本文の内容でも参考にすると「ルーツ雑学」に貢献し効果が出て来るでしょう。

  「諸蕃の氏系列」(雑学)
「氏」と「姓」がはっきりとした「姓族」が多く「血縁性」があっても血縁による結びつく事を積極的にせず「自立、独立性」が強く働き日本の「氏家制度の仕来り関係」が薄いのが阿多倍一族一門の特徴です。
これは「儒教道教」を宗旨とする「中国人」ならではないかと考えられ、帰化当初からの持ち込んだ概念を遺し強く「民族氏」から脱却する事が出来なかった観られるのです。

中国の「三国志」にも観られる様に、広大な大陸の多様種な民族がその民族毎にその民族を中心として政権が度々入れ替わる中国に於いて派、人民を纏めるにはその集約する「民族」と云う大きい概念で括る以外に統一した概念が生まれないは必定であり、「集約」とした概念は生まれることは大きく広すぎて困難と成ります。
その真逆の環境にある日本に於いては「民族」→「氏」→「姓」と成り、当然に括る概念は小さく成るのはこれまた必然であり、そこに生まれる集約した小さい概念の「掟」「規範」が生まれ「人より法」となり「掟規範」を先ず守りその上での「人」と成り「薬は薬」は当然の概念として生まれるのも必然と成ります。
(中国の共通概念は「法より人」「石は薬」の考えに集約出来るのです。全てこの概念の運用で彼等の思考原理や行動が判別できます。)
16国を成し得ている漢民族を含む中国では、「民族」と云う大きい概念で「族」を構成する為に(大きい順で「民族−氏−姓族」となる為に)、「氏族」−「姓族」が「多様種の民族集団」であるが為に必然的に形成されない結合と成ってしまうのです。
従って、集団で入国した漢民族の内の「後漢民」の阿多倍一族一門とその「品部」達には「氏と姓の関係」が、個人で入国しない限りは観られない原因であったと考えられます。
阿多倍一族一門は上記した「3つ基地」と「1つの本部」を持ちながらも、基地夫々が独自の「別の行動」を採ったのもこの事から来ているのです。

矢張り、故に現在でも観察出来る様に、「民族」と云う事で熱を上げて日本攻撃のデモやスプレヒコールで直ぐに騒ぎたてる帰来のある「中国人」なのです。
しかし、日本と中国と戦った過去4度の「民族」で戦った「戦争の内容」を調査すると必ず共通して見られる現象があり”苦戦になると「戦場放棄」する”と云う性癖事が起こっているのです。
この性癖の良し悪しは別として、「民族」だけでは固まるが「横の関係」「末端の関係」況や「兵の関係」で固まらない国民性の性癖なのです。
そこに「法より人」「石は薬」の彼等の共通概念が更に「兵の関係」を弱くさせているのです。「人」を重視するのであれば「兵同士の関係」を重視する筈です。
しかし、この「人」には「石は薬」の概念が加わり日本の「氏家制度」の「相互扶助」の様な考え方が起こらないのです。
この「2つの概念」は個別の概念では使用するのではなく連動しているのです。そうすると彼等の思考は理解できるのです。
「法より人」は「戦線離脱」は「兵の法」、しかし苦戦となると「兵の法より人」と云う概念が先行するのです。そして「兵の法より人」の言い訳には「石は薬」の理屈が付け加えられるのです。
筆者も中国人の実習生を長い間受け持った経験があるが、日本人から観ると明らかに就業違反なのだが、当初から知ってはいたが、あぁ又かとこの「2つの概念」を必ず持ち出し言い訳を等々と述べだすのです。彼らは述べだすと留まらないと云う印象で「儒教の教え」が染み付いているのか大声で喚き立てるという印象であったのです。日本では大声は悪い習慣ですが彼らには普通の事なのです。
彼らには全く発言、行動、態度は異常ではないのです。彼等の概念に従っていますから。そこで”郷に入りて郷に従え”と氏家制度の「融合氏と姓関係」で生まれた日本人の概念で彼らに説得を試みるのですが、納得せず「法より人」「石は薬」は思考の最上位にあると云う論理なのです。
「郷に入りて郷に従え」は確かに「融合氏 氏と姓」の関係を正常に維持する為のものとして生まれたものではあるが、”その国に居てはその国の法律に従う”は当然の「世界の概念」です。
その時は(彼らには現在でも未だ「民族氏」から脱却できていない程度の)「民度」と云う結論になったのです。
この筆者の経験と同じ事を、天智天皇や天武天皇は彼らと話していて感じとっていた筈と思うとその時の苦労が判り天智天武の天皇に親近感を沸く感じであったのです。
だから、天皇や我等青木氏の始祖たちは”このままでは国体が危険””「民族氏」を放置していては危険”と観ていたと予測出来るのです。

(余談 この実習2年後、中国に企業進出した時の最新鋭のマシニング機械と全ての生産設備をこの2つの理屈で奪い取られるという前代未聞の事件が起こり、それを実行させる無法なサボタージュが起こったのです。恐らくも尖閣諸島の領有権問題もこの「2つの概念」で更にエスカレートさせて来る事はあきらかです。直ぐにこの染み付いた彼等の国民性の「2つの概念」は帰化したとしても直ぐには変わらないだろうから。同様に大和の民にも云える事ですが。)
日本人も「氏家制度」「氏と姓」から生まれて来る日本人独特の概念「相互扶助と上下主従」がある様に。(最近はこの概念も変わりつつあるが。)

これらの正しいと信じている中国の独特の概念が帰化しても消える事がなく、「天智期」から「後一条院-後三条天皇」まで「民族氏の思考基準」で「独立−自治」の主張が特に九州に蔓延り、天皇を悩まし続けた問題であった筈で、それは避ける事が殆ど出来なかったものと観られます。
つまり「氏と姓の関係」は「氏家制度」(相互扶助)を充実させ”郷に入りて郷に従え”の例の様に、結果として日本人には「良い概念」を生み出しているのです。それが「民族氏」には無い「融合氏」に観られるものと成ります。累代の天皇は{律令国家体制」を成し遂げながらも「国の安寧と安定」の国是の為にこの「政治路線」を採ろうとしていたのです。

阿多倍一族一門:「民族氏」→「法より人」「石は薬」→「民族氏」→「独立−自治」

「日本の氏と姓」
「郷に入りて郷に従え」←「氏と姓関係」→「相互扶助と上下主従」
「氏と姓関係」→「郷に入りて郷に従え」→「相互扶助と上下主従」

故に「融合氏の形成」が国策として採用された背景の最大の国難の一つなのです。彼等の思考原理に対してこのままでは「政治体制」が維持できなくなると云う危機感が生まれ、彼らを含む民族を融合して一つの民族に造り換える以外に方策は無いと考えていたのです。
天智天皇−天武天皇が始めた”国策「民族氏」から「融合氏」に変換した国体を造る”と云う判断は現在に於いても理解できる驚くべき優秀さを保持していたのです。取り分け累代の天皇の中で「如何に優秀な2人の天皇」であったかと考えているのです。
この判断だけではなく、上記(1〜4)で紹介した様に検証すると「具体的に、詳細に、綿密に、適切に、大胆に、合理的に」策が打ち出されている事も驚きでそれを証明しているのです。一分の隙もないくらいです。
これを策案実行し主導して補佐したのは他でもない「融合氏の発祥源」と「皇親政治」の我等青木氏の始祖なのです。

  「皇別系」「神別系」
ところが、更に難しさを増していたのは、この「諸蕃」(外国人 他民族)に対しては日本には入国した族は「一つの発祥族」ではなかったのです。それらの族は「皇別系」と「神別系」に分けられるのです。
「皇別系」と「神別系」とは、「質」を異にする「諸蕃」の中で、阿多倍一族一門の「渡来人の首魁族」を除くその配下の「渡来人の集団」を指し、180もの「部」で構成されていたのです。
それが次ぎの様に成ります。

「諸蕃」→「神別系」(1+2)+「皇別系」(3+4)

「神別系」(180)
1 「中国系」では秦部の秦氏、漢氏、司馬部の司馬氏、海部の海部氏、磯部の磯部氏、等々
2 「朝鮮系」では、百済部の百済氏、物部の物部氏、等々
「皇別系]
3 「朝鮮系」では「朝鮮族首魁」との血縁を有する「天皇家の族」(応仁大王時から)
4 「天皇家」その「血縁氏」の蘇我氏、平群氏があります。

上記した様に「民族氏」の形態は次ぎの様に分類できます。
0 後漢民「阿多倍一族一門」 (賜姓)坂上氏、大蔵氏、内蔵氏、阿倍氏、肝付氏、平族→「民族氏」

1 後漢の「職能集団」200万人 第1期渡来民+第2期渡来民 →180「品部」→「融合民」

朝鮮からの「渡来民」  第1期飛鳥期+第2期奈良期+第3期平安期
2 第1期飛鳥期  「応神大王」が引き連れた集団 百済部氏 物部氏→「民族氏」   

3 第1期飛鳥-奈良期  「天皇家」と「渡来応神一族」の血縁第7世族→「融合氏」 
4 第1期飛鳥期  「応神大王一族」と「豪族」血縁族−武内宿禰の末裔族→「民族氏」

民の難民(1−4の期間に次ぎの難民が流入)
5 第2期奈良期 朝鮮半島の動乱難民→「融合民」
6 第3期平安期 朝鮮半島の難民 中国からの難民→「融合民」

(参考 3は天皇系族 4は応神大王系−蘇我氏、平群氏、紀氏、葛城氏、巨勢氏)

注釈
「神別」の2とは「ニギハヤヒノミコトを末裔(ミコト)とする事から歴史的に神別としているが伝説域である。「神別」とされる「民族氏」は全て「・・部」を氏としている事から「漢」と「後漢」に制圧され圧迫され「弁韓域方面の民族」が百済の応神王と共に難波港に渡来した4世紀時代の「部民」である。

この「物部氏」は応神期の兵部関係の「武力職能集団」であるに対して、「百済部」は飛鳥期の応仁王が渡来した時に百済の民族(民)が一箇所(難波と飛鳥の境付近)に集団で生活した事からその集団を「百済部」と呼ばれ「百済氏」の「民族氏」と成ったのです。
この「百済部」の「民族氏」の存在はその後、荘園期(900年頃)までの記録がある。

「神別」の「ニギハヤヒノミコトを末裔(ミコト:神)」とした事は「蘇我氏」が「応神王」の「王族末裔」であるのに対して、物部氏等の「民族氏」はその時の「渡来軍の民末裔」である事から伝説域の「ミコト末裔」と虚勢を張り主張した事に因ると考えられます。

(これは嵯峨期の「新撰姓氏録」の分類であるが、現在の判明史実から観るとルーツはこの様になる)

飛鳥期から奈良期に掛けて渡来した外国の民族には阿多倍一族一門の首魁末裔と、1のその後漢の職能集団180部が「在来民族」との融合で発祥した「融合民」があります。

上記の様に「首魁末裔」の「民族氏」としての「行動、考え方」に付いて論じて着ました。

しかし、遥かに多いその配下の「180部の民」はどの様な考え方や行動を採っていたのか検証する必要があります。それは次ぎの2つです。

a それは「融合氏」にどのような影響を与えていたか、
b それに依って天皇を始めとする為政者にどの様な問題を投げかけていたのか、

以上aとbの「2つの問題」を知る事で「皇親政治」を主導する青木氏の「生き様」をより詳しく立体的に網羅する事ができます。
そこで、この上記1から4の異民族がどの様な位置関係にいたのかを考察してみる事にします。

渡来人の大半はその数から、又その影響度から観ても、阿多倍一族一門の末裔のものである事は云うまでもありません。しかし、この1から4もかなりの影響を及ぼしていたのです。

先ず1に付いて。
1の180の部の「品部」と「雑戸」は比較的自由にあり、後漢の民族性(「法より人」「石は薬」)に固守していたのではなく「集団生活」をして居た事は事実としてあり、首魁の支配を受けていた事も事実であるのですが、「融合」と云う点では極めて緩やかで「在来民」との血縁を行っていた事が「奈良期」の「法の制定」の内容で観えて来ます。
これは「在来民」が積極的に「180の部」の技能を吸収しようとしてその配下に入った事からそこに「民族」と云う「垣根」が消滅して行ったと考えられます。
そして、その結果「血縁」が垣根の制限も少なく積極的に行われたのです。

その史実として、かなり多くなった「民の種類」に因って「税」と云う観点からこの民を区分けしてそれに応じて「税を課す体系」を見直しているのです。

先ず、「民は」一つであったところを大化期645年に直ぐに次ぎの様に分けました。

  「4つの法令」
「民」→「良民」と「賤民」に大別しました。
「五良民の制」  「良民」→貴族、官人一般、百姓(部曲)、品部、雑戸
「五色の賤制」  「賤民」→「奴婢」→陵戸、官人、家人、公奴婢、私奴婢  901−923解体
「俘囚の制」    「俘囚」→蝦夷の討伐民(奴婢外下扱い) 
「男女の法」   良民5と賤民5と良賤民の間とに生まれた子供の所属を決める法

「品部」の配下の「雑戸」は良民であるが「雑戸籍」で管理されていた。(賤民扱い) 890解体
「良民」と「賤民」は原則的に通婚は禁止
「俘囚」蝦夷民は「公民」として認めず 討伐後収容して関東以西に配置し直した
「男女の法」子の所属の法(良民男女の子は父に 良民と奴婢の子は奴婢に 奴婢間の子は母に)

上記の様に、大化期には余りに増えた「民の種類」に驚き「男女の法」(645)を慌てて定めましたが、次ぎの2つの問題が起こりました。

A 「民の身分」の区分けが出来なくなった事です。
B 「民」に付加する「税と労役」に狂いが生まれたのです。

その原因はこの「自由な民の融合」が起こりそれまでの「税と労役」の配分が困難と成ったのです。
そこで、これでは拙いと観た朝廷は、先ず、大化改新後直ぐに645年の「男女の法」の法を定めて「民の身分」の「区分け」を行ったのです。
それまで怒涛の様に入国する後漢の民(1)、それに朝鮮半島の乱れから朝鮮族難民(5、6)が続出していたのです。
そこに少し前に入国した「朝鮮族の在来民」と成りつつあった渡来人(2、3、4)があり、夫々の「族間の争い」も絶えず収拾が付かなくなっていたと考えられます。

「日本書紀」にもこの時の様子としてこの「民の配置」や「犯罪」などの問題が記録されている程です。中には本国に送り返される「民」もあって混乱状態が起こっていたのです。
そこで上記の「4つの制度」を施行して大化の改新として融合氏政策と供にこの改革を早々に踏み切ったのです。

イ 4世紀までの7つの民族の「従来の在来民」
ロ 5世紀の朝鮮族の「新規の在来民」(2、3、4)と成った族
ハ 6世紀−7世紀(後漢の0、1)の帰化渡来人、
ニ 7世紀以降(5、6)の朝鮮半島とアジア大陸難民族

これだけ(イからニ)が飛鳥期から奈良期までの約200年間に入国していて主に「民」の領域を構成し始めたのです。
特に大化期はそのピークと成っていましたが、もし現在この様な事が起こった場合の事を考えても、その混乱さは図り知れない程のものであったと観られます。

  「民の人口の考察」
人口は後漢の民17県民200万人以外には正式に記録にはありませんが、「従来在来民」(450万)を除外しても500万人以上には成っていたことが予想できます。
この500万人と云う数はどの様な意味を持っているのか、国政にどれだけの負担となっているかを考察してみますと次ぎの様に成ります。

後漢の民が入国帰化した時にも「唐の征討」により朝鮮半島からも同時難民の入国が起こっていたのです。この時の賤民が人口の5%で合ったとする記録がありますので、江戸時代で4000万人とする記録からすると、大化期では食料事情や寿命から概ね1000万人弱前後となり、何と国民の25%に上る入国があったと事に成ります。恐ろしく急激に増えた事に成ります。
後漢200万人で25%と成り、それまでに身分として存在しなかった「賤民」が大化期に設定されて5%とする記録があるところから観ると25%は納得出来る数字である事が判ります。
これに加えて厳寒地で人口は少ないが統治できていなかった「蝦夷の民」が入ります。
恐らくは次ぎの事が起こっていたと考えられます。

「部曲の生産力」と「品部の生産力」が確実に不足した事に成ります。
「居住地の面積」が不足していた事が予測出来ます。

この為に未開発地域に良民と賤民、難民と帰化人全てを配置し直して自立開墾させる事に成ります。
現実に日本書紀には九州に居た多くの品部を各地に配置した事の関連記録が観られます。
現在から観るとその土地柄を生かしている配置で在った様で、その地方域から多くの部民の融合氏が出ています。全て「部名」を「姓氏」にしています。
次の様な主な配置が行われています。

「180品部の部民の主な配置状況の概要」
信濃地方には馬部関係、鵜飼部関係、山部関係を
美濃尾張地方に矢作部関係、磯部関係を
甲斐上野地方には山部関係、服部関係を、
尾張遠江駿河地方には磯部関係、漁部関係を
肥前肥後地方には弓削部関係、来米部関係を
筑前筑後地方には鍛冶部関係、鍛師部関係、金作部関係、鏡作部関係を
豊前豊後地方には佐伯部関係を
長門周防地方には武器部関係、武部関係、陶部関係を
安芸地方には舟部関係、海部関係を
奈良紀州地方には史部関係、倭文部関係、鞍造部関係、墨部関係、硯部関係、鍛冶部関係を
摂津難波には錦織部関係、石作部関係、玉作部関係、工部関係を
近江滋賀には土師部関係、矢作部関係、綾部関係、舎人部関係、和気部関係を
関西西域には麻績部関係、衣縫部関係、赤染部関係、茜部関係、紙部関係を
(部民180品部全てを記述する事は困難な為にこの内記録的に配置状況が明確なものを記録した。「・・関係」とはその部を行うに必要とする関連の職能集団の部を云う。)

後に記録としてこれ等が最も速く「融合氏」として集団化したのは890−900年の頃で「品部の廃止」(890)からで、その勢力の強い「品部」から「姓氏」を構成したのです。
最も古い記録では確認できる「融合氏」の「姓氏族」は「陶氏」「海部氏」と「和気氏」と「弓削氏」等で記録が遺されています。

この土地の特徴を生かした「配置状況」からその土地の当時の「生活環境」が観えて来ます。
例えば、土地の環境に合わせて「山部」で「植林材の生産」や「まゆの生産」をしその絹の織物に必要な機械も甲斐の「服部」(はっとり)で織物の機械を作る品部が配置されています。
産業が一定の周囲の環境から連携して生産できる様に配置に対して考慮されています。
そして「民の融合化」が進む様に生活品の調達が出来る様に盆地地域と海岸地域の産物の交換が盛んに行われていた事が記録されていて、例えば海産物の加工品の「磯部氏」が信濃、甲斐にも彼等の「融合氏」「磯部氏」が観られるのです。この様に土地や集団域を越えて「品部」の「民の融合」は現在と殆ど変わらない程度に盛んに行われていたと観られます。

ここで問題なのは「部曲」「民部」「奴婢」の”農業に従事する「民」の融合はどの様であったのか”に付いて疑問が出ます。
これ等の「3つの農業民」は土地に属する「民」であって「公民、荘園民」がありますが、土地から移動する事は「品部」と異なり出来ない事ですから、「融合」と云う点ではリスクを負っています。
上記の開墾地域では初期は品部自らが農業に従事し開墾を進めた事が日本書紀にも信濃の事の関連記録として書かれていてその様子が読み取れます。
しかし、5、6の「流入難民」や「俘囚」を関東中部地域のこの開墾地域に配置したと記録されていますので、これ等が「部曲」「民部」の下位の「奴婢」と品部の下位の「雑戸」と成って農業に携わったのです。
そして、この各地の開墾地の「流入難民」や「俘囚」が「奴婢」「雑戸」としてシステム化されて行き「部曲」「民部」「奴婢」「雑戸」間の「民の融合」が「男女の法」「五色の賤」の法令を定めなければ成らない程に進んだ事を物語っています。

この「農業に携わる民の融合」は900年の「品部の廃止」から一挙に開放的に成り「流入難民」「俘囚」の「奴婢、雑戸」身分の「垣根」が無くなり「部曲」として融合が加速的に進んだのです
この時点で「品部」の「民の融合」と「部曲」の「民の融合」は「開墾」を通じて爆発的に進んだのです。
筆者は、逆に云えば、「俘囚」は初期の段階では、この美濃、信濃、甲斐等の青木氏が守護を務める「新規開墾地域」に「部曲、奴婢、雑戸」として送り込む目的で「蝦夷地域」を討伐したと観ていて「蝦夷」の蔑視する呼び名からも読み取れます。
しかし、900年頃の「法の廃止」からその目的が達成されて代わって「全国統一」の討伐に成ったと観られます。
「荘園の経緯経過」の法の時系列から観ても、阿倍比羅夫から坂上田村麻呂820年頃の討伐までは初期の目的の「開墾の働き手の確保」であったと考えられます。
「品部」の生産には「食料供給」とは別に「部曲」の生産が素材等で必要で「品部−部曲」間には切り離せない中間工程が伴うのです。
つまり初期、後期共にこの工程人として「部曲、奴婢、雑戸」を「俘囚」で補ったのです。
ただ、藤原秀郷一族の鎮守府将軍や源義家の征夷代将軍からは主目的は「全国統一」に代わったのです。

「品部」生産−「中間工程」−「部曲」生産
「俘囚」の目的→「新規開墾地域」(890-923)→「全国統一」(1020-1060)

  「4つの民の融合化」
「品部間の民の融合化」
「部曲間の民の融合化」
「品部と部曲間の民の融合化」
「奴婢と雑戸の部曲化」

この「4つの民の融合化」が余りの速さの融合で起こった為に判別が困難と成り上記の「男女の法」「五色の賤」の法(890−923年)は最速、意味を成さなくなったと云えるのです。
「氏の融合」(私有化荘園)や「姓氏の融合」(集団化荘園)や「民の融合」(氏・姓荘園化)は矢張りここでも一致して「法の廃止」から観ても「3つの融合」のピーク期である事が判ります。

大化期から平安期までは「荘園問題」でも物語る様に、また上記の「渡来人、帰化人、難民問題」でも判る様に、更に「品部」の各地への配置でも判る様に、各地殆どで漏れなく「開墾」は著しい速度で進み、それに合わせて「民の融合」も起こったのです。

故に第6位皇子を臣下賜姓してわざわざ未開の開墾に皇子を守護王(青木氏)として送り込んだのです。それだけの「融合」が進み「治安統治」の必要性が急激に出てきた事を示しています。
そして、その地を直轄領の天領地として認定したのです。政治的な意味がある事を示す事柄です。
上記した開墾地は全て「天領地」或いは直轄地なのです。
特に青木氏5家5流が配置されたと5地域は全て「穀倉地帯」に成り「要衝の地」で成り「主要街道」と成って行ったのです。

この事でも如何に「開墾」と「民の融合」が短期に爆発的に進んだかこれで判ります。
これは「品部」の「物造り」が「民の融合」(後には「氏の融合」「姓氏の融合」に変化)でも連動している事と成りその事の証明となります。

参考
(「日本書紀」に系図一巻が在った事が「釈日本紀」に記されている。これは「融合氏」の国策が国家的優先課題であった事を物語ります)
(融合氏の事を系譜的な形で記録したものとして、他に「古事記」「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「文徳実録」「三大実録」「氏族志」(未完)がある)

以上の様に配置し主要地のその開墾に守護王として皇子を送ったとあります。
ここに後に守護王として第6位皇子を臣下させ青木氏を賜姓して送り込んだのです。奈良期には阿倍比羅夫が蝦夷を掃討してその時にその土地の「民」(俘囚:ふしゅう)等をこの3つの地域に送り込んだのです。その後も平安期に坂上田村麻呂や源義家らも「俘囚」を送り込んだことは有名な事件として語られています。(この時は「荘園の開発」を目的としていた)
朝廷はこの「蝦夷の民」を征討する度にその地の「民」を「俘囚」と呼称して政策的に関東より西の各地に移動させて配置したのです。

  「上位の融合氏」「中位の姓氏」「下位の融合民」
上記「4つの法令」取り分け「男女の法」と「五色の賤」の法制定から観ても、後の荘園の経緯経過状況が理解できます。
又、その「二つの身分制度」が890−923年間の間に「法の廃止と解体中止」が行われた事から観ても、更に「俘囚の配置」処置から観ても、上記した様にこの「民の融合」の経緯からも観ても、荘園の「加速」と「行き過ぎの経緯」は何れも900年頃から確実に起こっていた事がはっきりと判ります。

上記した様に征夷討伐完成は「阿倍比羅夫」(660)から始まり「坂上田村麻呂」(820)に続き、「鎮守府将軍の藤原秀郷一門」(960)と最後の「征夷代将軍の源義家」(1087)で終わった事に成りますので年代的に「俘囚の配置」もこの荘園の開発手段として移動させた事が判ります。

この事でも「後三条天皇」までの「整理令・公領制令」(1068)まで「阿多倍一族一門の官僚方」が故意的に恣意的に政策誘導していた事が証明できます。
その後の院政「後醍醐天皇」の「義家冷遇」の原因も「荘園の行き過ぎ」を押さえる措置の一つであった事が判ります。
つまり、無血縁で小集団の荘園主の豪族武士たちは賜姓源氏権威の傘下に入り荘園を護る意図として源氏を「武家の棟梁」と呼称して祭り上げていた所以である事が判ります。(その意味で義家は後醍醐天皇の意思に反した行動を採ったことに成ります。その事から義家は冷遇されたのです。)

兎も角も問題視される「荘園」が「上位の融合氏」と「中位の姓氏」と「下位の融合民」を誘発させて拡大した事が云えるのです。ただ900年以降の「荘園行き過ぎ」が「氏、姓、民」融合の政治状態に大きく影響を及ぼした事が問題と成るのです。

  「3つの発祥源の族」と「皇族賜姓族の立場」
「融合氏」の国策3策を主導した天皇と「皇親政治族」には当時の「社会制度」とりわけ「身分制度や人口」などの考察からも「人間の能力を超える政治的課題」であって大変な精神的圧力であったかが良く判るのです。「悩む生き様」が観えて来ます。
「3つの発祥源」として位置づけられた青木氏はそれだけに難しい立場に追いやられていた事が良く判ります。900年以降の身分制度がある程度解けて氏家制度が確立し成熟期に入った時に、「荘園行き過ぎ」が起こったのですから、2つの青木氏は「3つの発祥源の族」と「皇族賜姓族の立場」もありその権威を下に顕に「荘園」に直に組する事も出来ず苦しい立場にあった事が伺えます。
まして、美濃、信濃、甲斐の国の開墾時の守護王であり「民の融合」の立役者でもあったのですから直接荘園に手を出す事は出来なかった筈です。
その点で同族である賜姓源氏が取り分け清和源氏分家頼信系の末裔は勢力拡大を狙いこの「荘園」の「行き過ぎ過程」に手を染めてしまった事が後に滅亡の宿命を負ってしまったと考えられます。
ここが青木氏の「3つの発祥源」の認識の有無の差が左右して頼信系源氏はその認識が欠けていたところであったと考えられます。
その証拠にその代表的な清和源氏頼信系の義家は功績は実に大きかったにも拘らず「院政と天皇」に排斥され疎んじられた原因であると考えられるのです。
確かに頼信系の清和源氏は「荘園の集団化」に権威を利用して無血縁の未勘氏を闇雲に増やした事は事実であり、それが同族の賜姓青木氏の様にその「皇族賜姓族の立場の認識」と「3つの発祥源の認識」に欠けていたと判断され、天皇家からは賜姓青木氏と比較されて排斥され疎んじられたと考えられます。
元々清和源氏は青木氏の様に「開墾と民の融合」を成し遂げる守護王としての苦労を成していないのです。ただ蝦夷を鎮守府将軍の藤原秀郷一門に代わって征夷代将軍として制圧しただけなのです。
その制圧も阿倍氏末裔安倍氏と清原氏を制圧し、最後は首魁を「だまし討ち」にした程度の功績なのです。それを背景に、「荘園」の「行き過ぎ」を懸念していた「院政の悩み」に対して、院政政治に逆撫でするか様に、逆の「行き過ぎの荘園」に手を貸して自らその旗頭(武家の棟梁)に成ってしまったのです。
(祭り上げられた)
清和源氏は頼信系だけでは決してないのです。宗家の頼光系(4家)が主役として厳然として勢力を張っていたのです。同族の皇族賜姓青木氏の守護地の代理守護として源頼光は開墾地の近江、摂津、美濃、信濃、甲斐の国を歴任し「荘園の行き過ぎ」の「未勘氏の集団化」には手を染めていないのです。
「武家の棟梁」の呼称は、源氏の「未勘氏」になろうとしていた地方の小集団の武士達から、分家の頼信の子孫の義家に言われたものなのです。
実は「頼光系4家」と「同族青木氏5家」とは「同族血縁関係」を保っていますが、頼信系と同族青木氏は血縁関係を結んでいないのです。

これは何故なのか疑問です。
「分家の頼信系の路線」と「宗家の頼光系の路線」が異なっているからで、つまり”「3つの発祥源族」と「皇族賜姓族の立場」を認識した立場を護っていたか”の有無の差なのです。
本来であれば、この様な「路線の違い」がなければ当時の習慣から「同族血縁」を結んでいる筈です。
(路線の違い:融合氏国策3策の「行き過ぎ」を制御→整理令−公領制→900年前の正常状態に戻す。)

恐らくは、これは清和源氏宗家頼光系と賜姓青木氏等は頼信系との間には血縁を結ばない程に「路線の違いの軋轢」が起こっていた事を物語るものです。
簡単に云えば、”立場を弁えないで品が無い”と云う事を囁かれていたのではないだろうか。
だから”院政は「比較する同族」(頼光系と青木氏)が居たからこそ余計に苛立ち、皇族として蔑視され、まして「氏融合の国策」にも逆らい、「行き過ぎ」を助長させ得る頼信系を疎んじた”と観るのが正しい事に成ります。決して”理解が出来なかった、知らなかった”と云う訳では無い筈です。
1068年以降に続けて「整理令と公領制」(1068)を発布し、「後三条天皇」「白河天皇」等が藤原氏等主要な為政者等を完全排斥する事件を起しながらも決死の覚悟で実行したのですから、源頼信(968-1048)も直前の状況は把握していた筈だし、孫の源義家(1039-1106)はその渦中に居た人物だあるし”知らなかった”は当たらない筈です。
兄源頼光(948-1021)に甲斐の守護代理(国司)の基盤を譲ってもらった部屋住みの身分の河内の源頼信は伊豆の兄の領国の勢力を背景に関東へ「勢力拡大」に邁進したのです。
その結果、関東上総下総方面に基盤を持っていた「平族」(たいら族 桓武平氏)と対立する方面に勢力を拡大した為に争い(平忠常の乱をきっかけに平族を押さえて勢力拡大)となり、反面中央の平族の勢力拡大に伴いこれを援護する朝廷から余計に政治的な軋轢を受け疎んじられる事となって行ったのです。

この様な全体の経緯があるからこそ「蝦夷制圧」(安倍氏清原氏)の戦いも下命して置きながらも朝廷は「私闘」として片付けたのです。
歴史は「拡大しすぎた義家」として「疎んじた」と成っていますが、上記する融合氏の経緯等から全体的に時系列で観て史実を詳細に傾向分析するとこの様に真の答えが出てくるのです。

結果として、頼信系は青木氏に跡目を入れずに衰退し「頼朝で源氏滅亡」と成り、「融合氏の集団化」を利用しながら極めて拡大させながら皮肉にも逆の結果が起こってしまったのです。
その意味でこの難しい時代を生き残る術を見抜き、”立場を弁えた「品位」”のそれこそ「品位3位」と「品位4位」(有品の制)の「有品の融合氏」(源氏頼光系と青木氏の同族血縁の一本化として)を遺したのです。勿論、「有品の制」の「品位4位・5位」の藤原秀郷流青木氏にも頼光系源氏との一本化をさせたのです。


青木氏と守護神(神明社)−6に続く

以上


  [No.273] Re:青木氏と守護神(神明社)−6
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/04/21(Thu) 08:47:26

青木氏と守護神(神明社)−6

 「生き残りの秘策」
ここで、更に”もし「3つの発祥源族」と「皇族賜姓族の立場」の名誉だけで青木氏は「融合氏」として果たして生き残れたのか”と云う疑問が残ります。
しかし、これには実は「生き残りの秘策」が在ったのです。
それは5家5流の土地の開墾地の「物造り」の産物を殖産しそれを「商い」(紙関係・墨硯等)とする「2足の草鞋」策なのです。「商い」は「3つの発祥源族」と「皇族賜姓族の立場」からすると氏家制度の中で当時とするとかなり異質であり、それこそ源の頼信系の様に”模範となるべき氏が何事かけしからん”と世間から「疎んじられる」事は明らかです。
しかし、それを「2足の草鞋」としたところに意味があるのです。表向きには「別人の商人」とした処で「疎んじられる」事を避けたのです。又、「開墾地の殖産」の為と云う「大義名分」もあったと考えられます。
それも武器等の品位を汚すものではない「紙関係」なのです。
この為に周囲はなかなか表向いて批判は難しいかったと考えられます。”見て観ぬ振りをする”以外に無かったと観られます。
恐らく、天皇家の体質としては”皇族、貴族は自ら「武力」を持たない”と云う「仕来り:慣習」が会った事から考えると、同じ賜姓族の源の頼信系の源氏の様に「武力」に繋がるものであったなら同じ憂き目に会っていた事は間違いないと観られます。
この事から賜姓5家5流青木は「紙関係業」と、秀郷流青木氏は水軍を使った主に「回船運搬関係業」であった事からも”非難は小さかった”と決められます。
同じ「品部」を使ってのものであっても、その差は青木氏は「開墾−殖産−販売−運搬」と、片方の頼信系は「荘園勢力・武力」とで異なっているのです。
現実に、仮に「開墾−殖産」までは同じとしても「販売−運搬」の「商いの領域」を行える力のあるものとしては当時では先ずは「ある程度の勢力」を堅持していなくてはこの「商いの領域」は成り立ちません。
当時は大量の「販売−運搬」には危険が伴います。この危険を担保するには矢張り「ある程度の武力」を必要とします。「民の商人」ではこれは困難です。「民が武力を持つ事」は法的に不可能です。
仮に闇で持ったとしても潰されるが落ちです。まして、「運送する」と云う事に成ると通過する長距離の国間の警護が伴います。これには「シンジケート」を構築する以外にはありません。
「民の商い」では金銭による経済的な支援で構築できますが、多種多様なシンジケートの武力を金銭だけで確保する事は無理であり、そこには「ある程度の武力」と「高い権威」と「重厚な信頼」とが無くては「氏家制度の社会慣習中」では成立しません。

この「ある程度の武力」と「高い権威」と「重厚な信頼」の「3つの条件」は「血縁」と云う形で形成されて行きます。これは「民の商い」では氏を構成しない為に「血縁の意味」が氏家制度の社会慣習の中では成立しません。まして「民の血縁」は法的に身分の境を制限して平安期までは定められていますから無理であり、そもそも「民」の中には「商人」の独立した身分は上記した様に現実には無いのです。
部の制度のシステムの中(平安期)では相互間に「物々交換」を主体とした「売買」であり、実態は金銭を以て行うのは限られた範囲の身分に相当していたのです。
「物々交換」が困難なものに対する手当てであったのです。
例えば、シンジケートへの「経済的支援」などは「物々交換」は困難であり金銭を以て行われていたのです。故にこの平安期の「大商い」は「民の商い」では社会体制から無理でありそもそもその概念が低かったのです。
これが「融合氏」の「氏家制度」(相互扶助:上下支配)の一つの意味なのです。
この「氏家制度」の「社会概念」が間違えるととんでもない答えが出てくるのです。この氏家制度の平安期に「商いの概念」が薄かった時代に「生き残りの手段」として選んだと云う事は大変な画期的な手段であったのです。
丁度、この時には伊勢平氏伊賀の末裔太政大臣の平清盛も「平族」として「宗貿易」を実行したのです。
その伊勢の松阪では伊勢青木氏が中心となって国内は元より摂津と堺にも2店舗の大店を構え同じく5家5流の紙を中心に「宗貿易」を行っていたのです。
意外に、平清盛は、伊勢青木氏との「付き合い」が同じ伊勢国の隣同士(伊賀)であった事からかなり親密な付き合い関係があった事が後の「ある事件記録」の中に伺えるので、大いに青木氏の商いに触発されたのではないかと観ています。(触発は逆の事も考えられる)

参考
「ある事件記録」とは、源の頼政の「以仁王の乱1180」の敗戦の時、源3位頼政の孫の「京綱」(伊勢青木氏跡目)を除く「有綱、宗綱の助命嘆願」を清盛の母等を通じて伊勢青木氏が行い「二人は日向配流」で助けられた実績がある。(後にこの二人は廻氏との間で日向青木氏を発祥させる)
この乱の時、源の頼政−仲綱親子は伊勢松阪の京綱の居る伊勢青木氏に向けて逃げる途中、宇治の平等院で切腹する。逃げていれば助命嘆願の経緯から何らかの「時代の変化」はあったと考えられる。

以上の様に「2足の草鞋策」の「商い」(古代和紙)による「経済的な潤いを背景」として「生き残る力」を保ち苦難を乗り越え「秀郷流青木氏」を含む「4つの青木氏」は子孫を現在まで遺せたのです。
特に「絆結合の青木氏2氏」も大変であったと考えられます。現在でも存在する伊勢松阪と員弁、桑名、四日市、名張の「青木村」には血縁に勝る絆で1千年もの間、数え切れない子孫から子孫を村で引継ぎ、主家青木氏を支えてきたのです。血縁以上のものがあったと考えられます。
伊勢青木氏で38代目位に成っていますが、”明治35年時では250名以上の昔からの家人が居たと口伝され隣の玉城町の面積の8割はこれ等の家人の住居と蔵群であった”と、当時の店主の祖父と父から真新しい口伝として聞かされているのです。
この様な意味から「絆結合」で名乗った青木氏は最早、「家族の一つ」であったと認識しているのです。
伊勢のみにあらず「生仏像さま」と「笹竜胆紋」で固く結ばれていた「4家4流」と「秀郷流青木氏」と「絆結合青木氏」は少なからずも上記の様な経緯の中にあったと歴史的に観て考察されます。

話を戻して、そもそも秀郷流青木氏も母方を機軸とした「3つの発祥源族」と「皇族賜姓族の立場」にあり、且つ、摂関家北家一族の藤原氏と云う「名氏の立場」もあり、藤原氏の中でも氏家制度と云う環境の中では厳しい難しい立場にあった筈です。
故に24地方の秀郷流青木氏と同様に中でも「讃岐籐氏」の青木氏の様に大々的に「2足の草鞋策 回船問屋」を実行したのです。その先鞭をつけたのが皇族賜姓族5家5流の青木氏であると考えていて、伊勢青木氏の口伝(浅野家の取潰しの際の所蔵品・貴重品の買取)からも讃岐籐氏青木氏の回船業との繋がり関係が垣間見えてきます。
ですから、源氏一族の頼信系は方向性を間違えて完全滅亡し、頼光系も「2足の草鞋策」を講じないままにした事で平家に圧迫されて、遂には「以仁王の乱」に突入せざるを得ず、結局、5家5流青木氏には跡目を入れて青木氏として遺しはしたものの、頼光系も「2つの立場」(「3つの発祥源族」と「皇族賜姓族の立場」)は保ったにせよ未勘氏を多くしたままで源氏としての直系子孫は遺せなかったのです。
頼光系は摂津、河内、伊豆に3領国を持ちながらも経済的な裏づけが子孫を大きく残す程に無かった事によります。
頼信系を含む11代の源氏は荘園に繋がり勢力を拡大すれば子孫を遺せると考えていて、皇族賜姓族5家4流は毅然としてその立場を弁え勢力拡大には目もくれず「商い」に依る「経済的自立」で子孫を遺せると考えたのです。
結局、荘園に関わる勢力拡大は互いの勢力の保持の為に戦いが起こり戦いで全て滅亡してしまったのです。「血縁による2つの青木氏」とその絆で結ばれた「絆による2つの青木氏」にとって、「商い」(古代和紙)は、武力による戦いは無く細々としながらも、大きく現在まで子孫を遺せた源なのです。
況や、武器を使わず知恵を使う「物造り」に依って生き延びられたのです。そしてその「心拠りどころ」として「祖先神」を敬う「神明社」がそれを支えたのです。(参考 源氏は「八幡宮」を守護神とする)

(結局は伊勢に直系の跡目と伊豆には頼光系4代目頼政の血縁の信濃青木氏と伊勢青木氏の末裔を遺した事で終わる。後は傍系と未勘氏である)

話を戻して、青木氏の守護神(神明社)−5の「3つの発祥源の族」と「皇族賜姓族の立場」に続けます。

次ぎに上記の様に「良民」の範囲も定めました。良民の範囲が決まると残る「民」を「賤民」(せんみん)として呼称しその奴婢を更に五段階に分けたのです。
この五段階に分けた理由は次ぎの2つの理由に因ります。

第2期奈良期− 朝鮮半島の動乱難民→「融合民」
第3期平安期− 朝鮮半島の難民・中国大陸からの難民→「融合民」

理由1 続々と入国してくる「難民」に対処出来なくなりこの難民の処置に困ります。
そこで、これらを「賤民」に所属させ「奴婢」(ぬひ)として扱いその難民のレベルに合わせて区分けします。

これ等の「難民」は次ぎの通りに分類されて身分分けされました。
貴族の奴隷、
官僚家の奴隷、
武家の奴隷、
天領地の奴隷、
豪族の奴隷
以上5つの職位域の集団に吸収されて行きます。

  「民分類の解体」
夫々は奴隷で5つの集団に隷属して離脱する事は出来ない為にその集団の中で融合して行きます。
しかし、この身分制度は900年頃を境に解体を徐々に進めます。

「賤民制度」は901年から923年の間に解体。
「品部と雑戸」の関係は890年を境に解体。

これ等は丁度、荘園制のピーク時に当たり何れも890−923年の間の解体で一致しています。
この荘園制がこの身分制度のこの解体で益々勢い付いた事に成ります。

解体理由は次ぎの3つに因ります。
1 良民間、良民と賤民間、賤民の奴婢間に著しく融合が進み最早「区分け」の理由が大筋を残して無くなりつつあった事
2 荘園に賤民が大きく吸収され、「税と労役」はその荘園から徴収出来る体制に変化した事
3 この解体をきっかけに5つの区分けした集団の賤民が集団間の垣根が取れてますます「民の融合」が進んだ事。

900年前後に起こった「品部」等の「身分解体」により「民の融合」が著しく進みます。それに連れて「荘園大集団化」がその勢力に応じて加速度的に発達して進みます。結局、「民の身分解体」と「民の融合」は進み、挙句は「荘園の行き過ぎ」のその加速度の勢いは逆に最早誰の力も及ぶものでなくなってしまったのです。
しかし、ここで疑問が湧きます。
「民の身分解体」により「民の融合」を推し進めることには理解できますが、当然にこの事に依って懸念している筈の「荘園の行き過ぎ」は加速する事は、「朝廷と天皇家」にとっては「国家の政治態勢の維持」が困難に成る事は解りすぎる位に判る筈です。しかし、「民の解体」は実行されたのです。
これは「天皇家」と「朝廷」との間に思惑の解離があって「朝廷」を牛耳る「名義荘園主」と「官僚の主体」と成っている阿多倍一門一族の勢力の方が勝っていた事を物語るものです。

「天皇家の勢力」<「官僚の勢力」=政治の横暴と腐敗

まして、その解体で朝廷は「税の収入増と安定」が図られるし、「1、2、3の解体理由」が政策的に「融合」と云う点で合致していた為に”好ましい現象”で”解体政策は成功”と捉えていてそこに大義名分があったのです。そちらの方に目を向けていた事も考えられます。この間の累代の天皇は「無能」と云う以外に無かった事を物語ります。
しかし、これは同時に、「量的」な「荘園の拡大」、取り分け「質的」な「荘園の大集団化」に都合が良い事に気が付かなかったのです。”累代の天皇家は気づいていたとしても何ともし難かった”が真実の処でしょう。
しかし、下記123の状況を作り出した事から考えても”何をしているか本当に”と成ります。これが為政者としての「無能」の前提と成らずして何が前提でしょうか。

1の理由では、「区分け」が無く成ると云う事は荘園にとっては逆に自由に労役要員を確保が出来る事に成ります。
それまでは荘園開拓には限られた数の「部曲」(農民)を使う訳には行かず、無理やりに武力を使って「難民や俘囚」を確保する事が必要であり、この「難民や俘囚」は朝廷の管轄下にあった為に、今度は自分の力を使って確保する事が自由に出来て且つ「無届」が出来る様に成ったのです。

2の理由では、1に依って確保した「労役の担い手」には「税と労役の責任」は朝廷に対し詳細不明による「無届」とする事で逃れられ収益はより高まります。

3の理由では、「賎民の垣根」が取れる事でそれまで法で押さえ込まれていた血縁が自由に成り、出生率が増え「労役の担い手」が自然増加しそれを「無届」とする事で「自前の分」の生産力が拡大します。
(戸籍制度の有名無実化が起こった 戸籍の廃止 これ以後江戸時代まで続く)

この123の解体で900年頃を境に「民の融合」としての国策は進んだのですが、結局は荘園主はより朝廷への「税と労役の負担」は軽減される事に成ってしまったのです。
つまり、「内部留保」が大きくなりより「荘園力」を増すように成ったのです。

ところが、この「無届」には更に増幅させる「愚かな措置」を発したのです。
それは「奴婢戸籍」を廃止し「戸」を形成出来なくしたのです。この為に更に「無届」が横行したのです。

これでは何か「朝廷の政策」が影では「融合の目的」とは逆の「荘園自由化」に成る様な事をしている気がします。事実その様にして阿多倍一門一族の官僚主体は「九州自治」を実現できる様に圧力を加えていたのです。如何に天皇と朝廷の間は腐敗していたかが判ります。

ところが、この腐敗の犠牲に耐えかねた民は、その証拠に、この「賎民」即ち「難民」「俘囚」「不浪人」「放棄人」「奴婢」は余りの過酷さに「俘囚」を中心に各地で大小の「暴動」を起したのです。
主なものとして、始めに878年の「元慶の乱」大暴動が有名です。これは丁度、「融合」政策、荘園ピーク期の900年前後に当たります。

「各地での主な暴動」
この暴動は歴史上では余り出て来ないのですが、各種の遺されている資料を調べて総合すると何と次の様に起こっているのです。

660年(3)−708年−712年−724年−733年−762年−802年)(4)−820年−[878年*]−1051年−1061年−1083年−1087年

主な記録から観ても20回程度は起こっている事に成ります。実質は記録に遺されない小事を入れるとこの数十倍は起こっている事に成ります。
(データーは暴動が何らかの形で起こったものを調査したもので、荘園の周囲に逃げ出さないように柵を施した等の大きな兆候を抽出)

(*)の印のピーク期900年頃から「大きな暴動」が起こり始めたのです。

蝦夷鎮圧の鎮守府将軍の頃からで、秀郷一門が鎮守府将軍に成った頃が「俘囚や賤民」が各地で起こした最大の暴動期と成ります。この陸奥の地で土豪と秀郷一門の青木氏の血縁の意味が定説とは違う意味を持っていることが良く判ります。(小山氏、花房氏、小田氏等との主な血縁)

「俘囚賤民の暴動」には余り武力は使えない経緯があり、それらの代表者との血縁を進める事で何とか解決を進める以外に無かったのです。
現にこれらの暴動は「俘囚賤民の暴動」だけの暴動ではなかったのです。余りの過酷さからその地域の土豪や地方官僚(郡司)も加わっていたのです。
江戸期の一揆には役人や土豪の蜂起はありませんが、この時の動乱には土豪や地域の役人の郡司(こおりつかさ 現在の知事と市長との間の国の役人)が加わっているのです。
良心的な役人が立ち上がる位に道理の通らない無法地の状態であって著しく政治は腐敗していた事が一揆の大きさと比べても判ります。
(実際、資料を調べて書いている筆者が”何をやってんだ。全く”とむかつく位なのです。丁度、現在の政治情勢です。)


つまり、関東各地の「俘囚賤民の暴動」は以北の大豪族の「安倍氏や清原氏の反発」に結びついていたのではないかと考えられます。
その安倍氏は朝廷の官僚である宗家阿多倍地族一門(阿倍氏等一族)の身内一族の仕打ちに憤慨し、代々の家人や兵であった者が連れ去られ、それも歴然として阿多倍一族の「民族氏」であるのに「蝦夷民」(北方の醜い民族)として決め付けられていたのです。むしろ、阿倍比羅夫や坂之上田村麻呂が征夷を掃討して此処に一族の阿倍の末裔の安倍氏や清原氏などを配置したのであって「蝦夷」では決してないし統治することで此処に定住して子孫を拡大させていたのです。それを蝦夷地の掃討を理由したこの事でもかなり強引であった事が云えるし、これを理由に平気に実行されていたのです。
この様な事から各地で「俘囚の奴婢」として酷使されいる事に首魁や地方に赴いている官僚としても絶えられなかったと考えられます。だから中央の阿多倍一門一族とその官僚族に対して安部氏等の身内の反乱が起こったのです。
故に犠牲にされた彼らには阿多倍一門一族の中央の一族は救援の兵を向けずに見殺しにしたのです。

耐えられなくなり遂に反発した事件が安倍頼時−貞任  前九年の役[1051-1062] 後三年の役[1083-1087]の乱なのです。
或いは、各地で起こる暴動を押さえ込むには「俘囚の首魁」の蝦夷(陸奥)の安倍氏等一族を倒す事として藤原氏や源義家らを差し向けたと観るのが妥当と考えられます。
(しかし官僚の主体の阿多倍一門一族の九州自治の勢力圧力を恐れて後で天皇は知らぬ顔を決め付けたが、源の頼信系分家の義家がこの戦いを通じて後に天皇家の悩みの種の「荘園制の行き過ぎ」に「3つの発祥源族」と「皇族賜姓族の立場」も弁えずに進んで手を貸してしまった事にも憤慨した。)
この時、後三条天皇(位1068-1072)は未だ19歳で天皇ではなく前九年の役の6年後(1068)に天皇に成っていて、この醜い施政の実情を知っていて「阿多倍一門一族と藤原氏等の為政の行き過ぎ」に”何とかしなくては”と憤慨していた筈です。
そして、立ち上がった後三条天皇は「2つの勢力」を果敢に排除したのです。そして、改革の為に登用された大江匡房(1041-1111)は白河−堀河天皇の3代に渡ってに仕え後三条天皇−白河天皇−上皇の意を踏まえ徹底した改革を断行します。

余談ですが、この事を観ると「累代の無能の天皇」と本論では決め付けたが、「3つの皇親政治の天皇」はいかに優秀な天皇であったかが逆に証明できるところで、むやみやたらに「皇親政治」を敷いたと云う事ではないのです。「天皇の権力欲」を避難するかの様な定説には納得が行かないのです。
確かに、「皇親政治・院政・親政」を敷いた時に「国のあり方」を左右する「国難」が無く、その「皇親政治・院政・親政」を何時までもだらだらと続けるという事では「天皇の権力欲」の定説は納得できるが、他面的に「時系列と傾向分析」をすると「国難解決の目途」が就いた時に開放しているのであるから、一つの「非常時の政治手法」として三相を得た適時適切な行動であると認められます。むしろ斯くあるべきです。
本論では「皇親政治・院政・親政」は「国難を解決する一時的な政治手段」であると云う説を採っているのです。

兎角、定説では”身内で天皇家の権力を強めた”等と一面的な事と成っているが、どうしていつもこの様な否定的な定説になるのかが不思議です。”歴史は1点で評価しては真実は見えない”が筆者の私観です。殆ど定説に納得出来るものは未だ見つからないのです。
歴史の研究は定説では何も真実が見えて来ずむしろ「疑問と矛盾」が生まれ、釈然としないし「先祖の生き様」が見えて来ないのです。
故に前述に記述した私なりに一定法則に基づく「技術屋からの分析法」を用いての研究を進めているのです。
本論のこの様な上述する事が観えて来ます。


(白河法皇は反改革派の弟「輔仁親王」を退け子「堀河天皇」を立て政治制約の少ない院政を敷き改革断行した)
(最高権力者の藤原教道を排斥した。 白河天皇:位1072-86 院政1086-1129 堀河天皇:位1086-1107)
(もともと安倍氏は「蝦夷」と蔑視の呼称をされているが「北方民族」ではない。「北方民族」660-802を制圧した阿倍氏末裔で陸奥に勢力拡大して定着した「融合氏」でルーツは「後漢の民」である。阿倍氏は阿多倍一族 阿倍比羅夫は白村江の戦いで後漢に戻った人物)

歴史的には「全国統一」を定説とされているが、この様に本文の「融合民族」と云う観点から時系列と共に見て行くと疑問が多く残るのです。

「全国統一」は「荘園主官僚の大義名分」(天皇の大義名分では必ずしもない)であって、本当は官僚たちの利害に関わる「俘囚賤民の暴動」を抑え込む目的であったと観られます。
その証拠に「院政」は「源の頼義−義家」の「征夷討伐」(前九年と後三年の両方の役)は通説の「義家等の私闘」と片付けたのもこの「阿倍氏」の「末裔安倍氏」等の行動に非は無いと考えていた事と、「荘園行き過ぎ」に「皇族賜姓族」として「あるまじき行動」を採った事からではないかと考えられます。

そもそも阿多倍一族一門の「阿倍比羅夫」(3度:658)660年、同じく宗家の「坂上田村麻呂」の802年の「蝦夷の北方民族」と、「頼義−義家」の時の「蝦夷の民族」とは最早異なっているのです。(民族そのものが違っている)
「724年」以降は「蝦夷の北方民族」は衰退し、制圧した「阿倍氏」の末裔の「安倍氏」と阿多倍の3男の「内蔵氏」の末裔がその後に陸奥地域を勢力圏としたのです。

(元の安倍氏勢力圏は越後北(新潟)−岩代北(福島)−羽前南(山形)−陸前南(宮城)に囲まれた地域を基盤としていた。古代後漢渡来人の開墾配置地域の「中部山岳地帯域」であったが阿倍氏・坂上氏等一族一門で蝦夷を制圧したことから蝦夷の東北域に勢力を伸ばした) 

だから、制圧後に残った北方民族勢力が盛り返したので「掃討作戦」に依って阿多倍長男の「坂上田村麻呂」(3度:アテルイ)が802年に完全制圧していたのです。



完全制圧の証として朝廷の命により次ぎの証としての神明社を建立しているのです。
A 宮城(陸前)仙台に762年(光仁期末期頃 「伊治砦麻呂の反乱」)先ず「神明社の第1社」建立しています。

B 続けて4回の「掃討作戦」を実行し、3度目で制圧後に白石に807年「神明社の第2社」を坂上田村麻呂は建立しています。

C 平安末期には「最終掃討」(人物は不明)として仙台の中田に1171年「神明社の第3社」を建立しています。

制圧した証として「征討圏の象徴」として「融合政策の達成地」としての印として「神明社を建立」する事は平安期の仕来りと成っていたのです。
この様な史実を見逃しての定説にどの様な意味を持つのでしょうか。

  「安倍氏の掃討原因」
従って、「蝦夷」と呼ばれる族は「アテルイの北方民族」であって、明らかに「安倍氏」は阿多倍一門一族「阿倍氏」の末裔としての大化期からの有力氏ですから、最早「蝦夷民」では無いのです。しかし、「蝦夷民」でないのに陸奥を「蝦夷民」として攻めるには「大義名分」は希薄な「名文」と成ります。
だから、各地の「荘園主である豪族」たちから「大集団化の為の権威のある氏」として「源氏の棟梁」として祭り上げられた「義家」を、疎んじて天皇にその痛くない腹を探られる様な「飛び火の非難」を来ないように「私闘」として扱い防護策を効じて逃げたのです。
しかし、現実は世間では「皇親政治・院政・親政」を敷いた天皇を非難し、義家を英雄と持て囃したのです。「源氏の棟梁」とか「武家の棟梁」とか決め付けたのです。世間は拍手喝采です。
明らかに、これは藤原秀郷流青木氏を除く藤原氏と阿多倍一族一門の「荘園主」等の利害を考えた「宣伝戦略」で在った事が観えて来ます。
「希薄な名文」と「武家の棟梁」がセットに成っている事はこれを物語ります。

a 阿倍氏末裔の安倍氏を「蝦夷」として攻めたてた事、
b その「兵、家人、民」を「俘囚賤民」として関東域以西に配置した事、
c 各地で起こる「一般賤民、俘囚賤民の暴動」の原因矛先を安倍氏に向けた事

以上のa、b、cの本質は蝦夷掃討後の阿倍氏の末裔安倍氏、内蔵氏の末裔清原氏等により東北地方全域を勢力圏に納められた事に対して、同時期(713−723)に起こっていた難問の南九州基地が国策に従わない肝付氏を攻めた事と理由は同じである筈です。

一方の勢力(藤原氏)が、南北で阿多倍一族一門が国策に従わない程に勢力が大きくなり過ぎた為に難癖を付けて「潰そう」としたか、或いは少なくとも「勢力を削ぐ戦略」に出たと考えられます。つまり藤原氏の策謀では無いかと考えられます。朝廷内のウチゲバが起こっていたのです。
清原氏を裏切りをさせて安倍氏を打ち、大きくなった清原氏を今度はその後に義家に依って清原氏を潰す事をしたのは、この「削ぐ戦略」があった証拠に成ります。だから、この戦略に史実として藤原氏は手を貸したのです。
安倍氏−清原氏では到底潰せなかったのです。その勢力圏を観れば一目瞭然で、史実、彼等は青森、岩手、宮城、福島、秋田、山形、新潟北部、群馬北部の8県(全国1割)の勢力圏を保持していたのです。


(阿多倍一族一門は制圧期 関西以西32/66国であったが、常陸上総下総を加えて最終43/66国と成る)
(「清原氏」は朝廷の高級官僚として「清原夏野」等は「日本後紀」「令義解」の編集に関わった氏:782−837)

そこで「攻めて側」は各個攻撃の戦略を行った事に成り、最後にその名義荘園主として拡大する義家には、2つの大勢力の外に居た「天皇と院政」は「恩賞」も絶えず、「私闘」として扱い、「政治的」に疎んじます。
最後の決め手として義家に各地方の豪族の名義上の「荘園寄進を禁止令」まで発して疎んじて押さえ込み衰退させたのです。これで義家は天皇と院政の政敵と扱われたと同じです。
2つの青木氏の様に、身内であり正常な勢力として温存すれば天皇院政側に取ってはむしろ得策である筈なのに敢えて潰す戦略に出た事は身を切る思い出あった筈です。
逆に、九州に於いての阿多倍一門一族の勢力と行動からすれば、こちらを潰しておきたい筈です。
しかし、それが43/66の勢力で北と西で挟撃される懸念があり逆に民族氏の共和国が出来てしまう戦略上の事が起こる為に出来なかったのです。

では、これ程に不合理なことがありながら、ここで「天皇や院政」は本当に”攻撃を命じていたのか”と云う疑問が湧きます。確認をする必要があります。

これは先ず年代で明らかに判ります。
「後三条天皇」が天皇に成ったのは「前九年の役」後の6年後で、天皇の立場は「後三年の役」の前11年前であり明らかに命令してはいない事が判ります。
次ぎに、「白河天皇」が譲位後の11年後に「後三年の役」が起こっていて、退位3年前に「後三年の役」が始まっています。終わったのは退位1年後で、後は「堀河天皇」に譲位して院政を敷いています。
つまり終わるまで退位しない筈ですから命令していません。
まして、「白河天皇」は「後三条天皇」の「整理令−公領制」「荘園の行き過ぎ」国難の改革意思を引き継いでいるわけですから、改革に反する戦いの目的の命令書を出す訳はありません。
この時、「詔勅」「院宣」「令旨」以外に「宣旨」と云う特別の天皇が自ら書しての直命の「命令書」をわざわざ作ったくらいのです。この「命令書」がないのです。勝手に「詔勅」や「院宣」をひそかに作られるほどに危険な状態で在った事を物語ります。

ここで時系列で分析すると決定的な証拠が2つあるのです。
決定的証拠−1
それは、大改革を行う訳ですから、前期した様に「後三条天皇」は勝手に天皇の名前を使って為政に関わる荘園主でもある官僚豪族が都合よく何かを行う事を防止する為に天皇の命令を明確に伝える制度を制定して偽物が出されない様にしたのです。
それが「宣旨」というもので「書式」もわざわざ定めているのです。以後継続されました。過去からの「令旨」(法の執行命令書)を更に細分化して「宣旨」(執政の執行命令書)を新設したのです。
「令旨」と「宣旨」の中間の不詳のところを官僚たちに使われたことが起こっていた事を意味します。この事をわざわざ「後三条天皇」が定めたと云う事は前の天皇の時に「前九年の役」も恐らく令旨の盲点を使われて彼らに都合よく「荘園拡大」の為に起こされた戦であったかが判りますそれを天皇は知っていたのです。17歳から26歳の時の出来事ですから実情を把握できる年代です。

決定的証拠−2
つぎの証拠は前記した「九州南北基地」の大蔵種材に「錦の御旗」「遠の朝廷」と呼称して「九州自治」を認めた時期でもあるのです。後一条天皇の時1018−1020年です。
征西大将軍に命じられて、そして、この後、寛仁2年1019年頃に”異族九州に乱入する武装大襲来の由其の告あり、其の時大蔵種材これを向いて西戒を退治せしめる。”。その後、「院宣」を発して異族を退治せし・・・”と在りますので、引き続き押し寄せる異族の難民に対して1086頃前後に全ての難民を防止する命令を正式に大蔵種材に命じているのです。
恐らく、この内容から1018−1090年頃まで1019年の大事件より「難民流入」が次第に押さえ込まれていった事が判ります。
「荘園拡大」の「働き手」の「賤民の奴婢」の元と成っていた「難民」をここで政策的に押さえ込んでいるのです。その為に彼に「宿禰族−従五位下−岩門将軍−壱岐守−太宰大監」、最後には「征西大将軍」の関西以西の治安責任者の官職に任じているのです。
そして、それを権威付ける為に「錦の御旗」「遠の朝廷」を授けて、つまり、「九州全域の自治」と「難民」が大量に入国してくる「全地域の責任者」に任じているのです。
この最後に任じられた「征西大将軍」には大きな意味をもちます。
荘園主は「開墾の働き手」の根本を1018年から押さえられた為に、今度は「蝦夷」では無いのに「蝦夷」とされてしまった「安倍氏や清原氏」等を「令旨」「宣旨」「院宣」を抜きに、今までのルーズな慣習で以て「全国統一を名目」にして攻めて潰し、昔の「俘囚賤民」と見立てて頼義−義家親子は勢力拡大を図る為に「勝手な戦い」を始めたのです。そして荘園に送り込んだのです。名義上の荘園主になろうとしたのです。
其の為に荘園主側から観れば義家は「武家の棟梁」として持ち上げられたと云うのが本質であるのです。

しかし、天皇側から観れば、後三条天皇−白河天皇−白河上皇から観れば、「皇族賜姓族」でありながら、尚且つ、「後一条天皇」に「征夷大将軍」に任じられていながら最早「反逆者」の何物でもありません。「愚か」である事に成ります。恐らくは「皇族系」でなければ目先に起こっていた「平将門の乱」や「藤原純友の乱」や「平忠常の乱」と同じく「乱」として処理された筈です。
”知らなかった”は通らない周知であります。
これには「乱」にしなかったのは、宗家源頼光系4家と賜姓青木氏5家からの何らかの働きかけや取成しがあった事がなくては逃れられない事だと考えられます。

そうでなくては名指しの「義家に荘園寄進禁止令」は出さない筈です。反逆者になるよりはましで、正しく妥協の産物です。
まして、この時期は普通の時期ではありません。
「一般賤民、俘囚賤民の暴動」の鎮圧の時期
「安倍氏、清原氏の潰しの時期」
「整理令、公領制」の時期
以上に3つの国難に一致します。取成しに依って、この時期の事から院政側の大儀名文が成り立つのです。
義家が如何にこの「法」に対して、「融合氏の行き過ぎ」に対して、まして「3つの発祥源」で「賜姓族」でありながらも、全て無視し、氏拡大のみの「利得」だけの考えで「反行動的な態度」を採っていたかが判ります。これでは潰されます。
頼信系の分家は「3つの発祥源」であり模範とするべき「融合氏」でありながらその逆を行ってしまったのでは滅亡するしかありません。
歴史では”「不運な義家」””「武家の棟梁」”と成っていますが、この様に時系列で傾向分析等を行うと違う事が見えてくるのです。我々融合氏の発祥源側から観れば”何をやってんんだ。 源氏を潰す馬鹿なことを”となります。
歴史はその様な意味で先ず「定説や風評」に”オヤ 変だな”と一度疑問を持つ事が必要なのです。その疑問を解くのが楽しみに代わるのです。

  「予断雑学−1:邪馬台国の自分説」
さて、上記と離れてここで思い出した様に予断を出します。
予断
例えば、無邪馬台国の奈良説や佐賀説がありますが、これも自分なりに疑問を持つと自分説が出来ます。
私はこの件では両説を採っています。どちらにも「三国志」魏国の「魏志倭人伝」に書かれている事が「建物」や「祭祀方法」(鬼道)等が確実にあります。これ程最早、邪馬台国としての条件が確実に両方に存在すると云う事は両方なのです。
もし近畿説とすると佐賀説の国のは”何の国”となり、邪馬台国に匹敵する国がもう一つ在った事になりますよね。そんな国2つも在った事は無い事は判っていますから疑問です。
初期2世紀半頃から全国が繰り返しの飢饉にて食料不足で乱れ戦いが起こり、佐賀にても卑弥呼が鬼道を用いて祭祀を司り「お告げ」の方法にて夫々の国の決定事項を定めるうちに卑弥呼を佐賀の邪馬台国の国王として祭り上げて国の運営を連合方式(共立と記述)で行った。
遂には全国の王国もこのうわさを聞きつけこれに従い、余りにお告げが的中する卑弥呼を中心としてまとまった。
幸い100年周期で起こるとされる地球の気候変動期が過ぎて安定期へと入り飢饉は回避されて国はまとまり始めたのは卑弥呼の「鬼道」のお陰とした。
そこで大国の魏国の脅威に対して通交を行ったが、其の為、国が卑弥呼中心でまとまり始めた事から、列島の全国の中心付近にある奈良の国に政庁を移し、佐賀には魏国との通交の拠点とした。
奈良はその意味で遠すぎる為に佐賀の政庁には港から水路を引いて通交を容易にした。
通交拠点化した為に佐賀には「金印」が存在したとすれば疑問点は解消する。
その後、4世紀の始め佐賀の政庁は南九州からの民族に攻め込まれて北九州の国々も全滅したが南九州の族はここに留まらず南下して戻ったとされている。
故に奈良の政庁のみが残ったのである。その後、共立国の弥生時代の銅鐸による弥生信仰を主体としていた出雲の国等との争いがあり、弥生信仰はこの100年周期の気候変動に合わせることが出来ず祈祷の予言が当たらず弱体化しつつあった中で、大和の政庁にその立場を争いではなく話し合いで譲ったと考えられます。
そして、その後、朝鮮族応仁王の渡来と成り、戦いの末に話し合いと成り、応仁大王を主軸として連合国のヤマト王権が出来る。
その後に、北九州は征討されて奈良の政庁に集約される。ここまでが「ヤマト王権」で、ここからは「大和政権」となり本文の大和朝廷の領域と成るのです。

 「予断雑学−2:道教との関わり」(重要)
実は上記の「鬼道」は本文に記述した中国の「道教」の基とされその祭祀方法は酷似されるし、現在も中国奥地には未だ「鬼道」を行う地域があり、その「鬼道}の巫女には、古来から人間が「野生本能」を働かせる「複眼」と云うものを持つ女が多く、「透視能力、予知能力」を中国では未だ持っている地域があると云われている。
卑弥呼もこの「複眼」を強く残っていた人物ではないかと見られている。お釈迦様の額の中央鼻の上に「ほくろ」の様な丸いものがあるがあれが複眼なのです。
現在も人間の頭の中央の下の脳の真下に大脳と前頭葉が大きく成った事により押し下げられて10ミリ程度のものが人により存在し、特に女性に存在するが未だ僅かに使われている女性もあると云われています。
女性の「感情主観」取り分け「母性本能」としてのインスピレーションが強いのはこの複眼の遠因とされています。
本文による中国の特徴ある「民族性」は「鬼道−道教−儒教」へと発展し、日本人に理解し難い「固有の国民性や概念」が生まれたと観られ、「法より人」「石は薬」の中国人の共通概念はこの「鬼道」の「祈祷」の「宗教概念」が色濃くここに残っているのです。
ところが大和の国では「鬼道−神道−儒教−仏教・神道」へと進んだのであり、日本人の「融合氏」から来る「集団性」に関わる「固有の国民性と概念」がこの過程に依って生まれたのです。
この「鬼道」がある過程を経て「祖先神」と云う信仰概念が生まれねその代表とする「神明社」信仰が生まれたのです。
その意味で歴史的に学術的に未だ余り知られていないこの「鬼道」は日本の歴史を取り分け神明社に関わりその存在を大きく左右させているのです。
(詳細は研究室の「日本民族の構成と経緯」を参照)

義家のところに話は戻ります。
ただここでもう一つの「影の利得者」が居たのです。
”何故、その様な「愚か」と云える様な行動を採ってしまったのか”疑問が湧きます。
「相当虚け者」でなくてはこの様な行動は採る事は無いでしょう。
実は鍵はこの辺にあると考えているのです。

それは何と義家に合力した藤原氏北家秀郷一族一門なのです。
特に、平泉の藤原氏で、当初は清原氏と組み血縁して「清原清衡」と呼称する等一族に成り、最後は策略でこの清原氏に内紛を起こさせて裏切り、挙句は義家と共に滅ぼす等して3代の栄華を築いたのですが、義家の末裔頼朝に滅ぼされる始末です。
この最後に残ったのが「第2の宗家」の秀郷流青木氏に率いられる武蔵入間の秀郷宗家一門であったのです。
安倍氏や清原氏が滅ぶと上記の8県の圏域は戦略的に空に成り、結局、「鎮守府将軍」の懐に転がり込んだことに成ります。

「院政」は頑固で律儀な「秀郷」を選んだのではないかと考えられます。
それは「平将門の乱」に在ったのではないかと考えられます。
藤原氏が「下がり藤紋」を”下がる”を忌み嫌い一族殆どが「上り藤紋」に変紋した経緯がある中で、秀郷一門9氏だけはこの「下がり藤紋」の伝統を護り続けたのです。それはこの背景には「義家と平泉藤原氏」の経緯があったのです。(平泉は秀郷一門とする説がある)
そして、秀郷一門の陸奥の「蝦夷鎮撫」の「鎮守府将軍」の任命は、その目的が明確に成っていないが恐らくは、最終、政界から外されたものの策略を擁した「藤原氏京の北家の本音」であって、安倍−清原氏をを押さえ込ませたものと考えられます。そして「俘囚賤民の暴動の首魁元」(1058-1062:1083‐1087)と陸奥域8県の大勢力を獲得するところに裏の目的・狙いあったのです。
結局、この結果、これに関わった「義家と京の北家筋(摂関家)」は衰退してしまった事から観るとこの二つの氏が策略的に仕掛けたことであったことが云えるのです。
その「陸奥域8県」は鎮守府将軍の秀郷一門に与えられる事に成った事から見ても明らかです。

もう一つは大きくなり過ぎた阿多倍一族一門の内、東北部の勢力を削ぐ事を朝廷や天皇と云うよりは藤原氏北家摂関家一族の思惑があったと考えられます。
この背景から観ても京の摂関家は後三条天皇(1068)に排斥されたのです。何も大したことが無ければ長い以前の実績のある摂関家であるのですから「排斥の責め」を受ける事は無い筈です。
「放置できない責め」があったからこそ義家と供に「過去の実績」を阻害されたのです。

まして、丁度、この時、「整理令、公領制」を実行していた時期なのです。それに逆らう行動を採ったのですから見逃す事は絶対に出来ない筈です。見逃せば矛盾を生じて「整理令、公領制」は有名無実に成り果てます。
その証拠にこの8圏域は義家が疎んじられて後は藤原氏北家秀郷一門の圏域と成るのです。

そうすると、矛盾点が一つ起こります。
「蝦夷の制圧」を名目にした敗北民と敗北兵を関東に「荘園の労役の働き手」として送り込んだのですが、その「俘囚」と呼称された民と兵は、元々「蝦夷」と云う意味の民ではないのです。
阿倍氏の末裔の安倍氏の「家人や兵や民」を、「荘園拡大」の為に「人手」を獲得するために(陸奥の以北の民等を)適当な理由を付けて強引に奪ったことに成ります。

初期の北方民族の「俘囚賤民」と制圧後(802)の「俘囚賤民」とは全く民族そのものが異なっているのです。つまり天皇が政治の国策の目途とする「融合氏」「融合民」なのです。
それを強引に「俘囚賤民」として扱うことには無理が伴っていた事に成ります。
天皇としても絶対に黙っている訳には行きません。「黙っている事」は「融合の国策の3策」を自ら無視した事に成ります。
「安倍氏」はそもそも阿倍氏の末裔で阿多倍一族一門の末裔ですが「俘囚」等の首魁である事は事実です。この支流末裔には安東氏−秋田氏等が居る歴然として名家の家柄の「民族氏」から「融合氏」になった氏なのです。

(鎮守府将軍:各地で起こる動乱を鎮撫し治安・経営をする軍政府の長官)
(清原氏:阿多倍一族一門の内蔵氏の末裔 陸奥出羽の古代の豪族)

とすると、この作戦は明らかに天皇が主導したのではなく、名義上の大集団化の荘園主となった阿多倍一族一門の官僚と、摂関家斎蔵の藤原氏北家等と、清和源氏頼信系義家等の「思惑」と駆け引きから密かに計画されたものと成ります。
「詔勅や宣下や院宣や宣旨」の命令書のない無断独断の大義名分だけを掲げた無謀な行動であったのです。天皇の権威や許可無く勝手にやった況や「私闘」と成ります。「私闘」にしてもこれだけの大きい戦いを「天皇治世」の中でやると云うのはどの様に考えても問題です。
あまり知られていない”義家のこの「戦いの戦費は自前」”としている史実からもこの事は許可を得ていない事は明らかです。
ただ、民に対して「蝦夷を制圧して国統一」の「大義名分」だけを作り宣伝して批判をかわしたのです。
この事だけは成功を収めたのですが、天皇だけはこれを見逃さなかった事を意味します。
義家への「名義荘園主の禁止令」を出されてからは頼信系及び頼光系の清和源氏全体が信用を失い各地に飛散衰退して行きます。
(結局、逆に阿多倍一族一門の「たいら族」の桓武平氏も関東の勢力を失いますが、朝廷内の勢力を伸ばす結果と成るのです。
朝廷内にいる阿多倍一族一門は、この駆け引きの為に一門の阿倍氏の末裔安倍氏(内蔵氏の末裔清原氏も犠牲に)を犠牲にした事になります。観てみぬ振りをした事に成ります。
これは失うものよりこの駆け引きの結果で得るものの方が大きいことを読み込んでいたのです。
つまり、これが前記した阿多倍一族一門の「民族氏」の特徴(法より人 石は薬の潜在的固定概念)を顕著に出た史実なのです。
つまり「伊勢本部基地」の徹底した戦略と成ります。しかし、この事で彼らも「関東の勢力圏」の常陸と上総と下総は全て失うのです。
秀郷一門はこの結果、武蔵、下野、上野の3県を入れると14県/66の大勢力となり藤原氏京宗家を凌ぐ北家最大勢力と成るのです。
この関東の全勢力圏は秀郷一門に下りますが、一門は兼光系の秀郷流青木氏、永嶋氏、長沼氏とそれらの支流の小山氏、織田氏、一部進藤氏の支流に護らせる結果と成ります。後に古来からの結城も戻ります。

安倍氏らは既に融合氏に成ってはいたが、伊勢基地の阿多倍一族一門は後漢中国人の「法より人」「石は薬」の概念がまったく抜けていないで居たのです。
時代が経ち、末裔が広がるも「血縁による絆」が「希薄に成る性癖」を諸に出した事に成ります。
安倍氏は融合氏と成っていて日本人と成っている事からこの「仕打ち」は理解できなかったし「怒り心頭」となり、故に各地に「俘囚の賤民・奴隷」として配置された者達に秘密裏に連絡を採り暴動を起こしたのであり、それに呼応して安倍氏と大化期からの古代豪族内蔵氏の末裔清原氏は立ち上がったが、清原氏が裏切り、結局、路線争いの内紛が原因で藤原清衡に乗じられて清原氏も潰される始末となったのです。

(歴史の定説をこの様に「融合氏」をキーワードで時系列的に立体的に傾向分析すると「矛盾」と「疑問」が多く出てくるのです。)


この上記の年代の出来事と前期の南九州とを比較して下さい。前記した様に全く同じ事が同時期に南九州にも起こっていたのです。違いは南九州の一族一門は「戦いに勝った」事で展開が変わったのですが、この様な「融合氏」の国策を進め「国の安寧と安定」の基盤を造るにはこれだけの「生みの苦しみ」があったのです。
右左に何時巻き込まれてもおかしくない混乱の流れの中でその中央に立ち、且つその混乱の中で「3つの発祥源」の重荷を背負う「4つの青木氏」はその範として立ち回るべき苦労が実に大きかったと考えられます。
「4つの青木氏」即ち「2つの血縁氏の青木氏と2つの絆結合の青木氏」の採るべき態度での出方如何では同族源氏と同じ道を歩んでいた事は間違いないのです。
勿論、そうなれば現在の「4つの青木氏」は存在しないのです。それは”何に依って滅亡の同じ道を歩まなかったのか”と云う疑問が湧きますが、それが解こうとしている本文とするもので、何か「精神を支える本質的なもの」が「4つの青木氏」の中にあったとする考え方なのです。
この様な厳しい融合氏の環境経緯の中で生き残れたのです。何かがあった筈です。

  「4つの青木氏」と「5つの伝統」
それが、次ぎのものだとしています。これは真に「青木氏7つの伝統」と云うべきものです。
4つの青木氏が「心の拠り所」加護としてのお仏像様
4つの青木氏が護る皇祖神、
4つの青木氏の祖先神の守護神の神明社 
4つの青木氏の人生の戒めの家訓10訓
4つの青木氏が集う象徴紋笹竜胆の家紋
4つの青木氏の堅い歴史のある絆
4つの青木氏の「2足の草鞋策」の生き残り策

以上「7つの伝統と殖産事業」が存在していたからです。

そして、この「7つのもの」で維持されていたのは「3つの発祥源」としての「誇り」です。
他の「民族氏」と「融合氏」との間にある違いはこの「7つの有無」にある筈です。
それが1千猶予年代々引き継がれて来た事他ならないのです。
古いとされる他氏でもせいぜい300年から多くて500年は超えていませんし、どの様に調べたもこれ程の条件は備わっていません。
時代の激しい遍歴を得て殆どは滅亡衰退してしまって「融合氏」としての形を保持していないのです。
その倍の悠久の中を生き抜いて来たのです。最早、物質的なものではないことは明らかです。
「生き抜きたい」としても生き抜けないのが「無常の世情」です。しかし、「4つの青木氏」は現に生き抜けているのです。
これを何とか「4つの青木氏」の「先祖の生き様」として描き、その時系列的に起こる現象の史実を用いて解こうとしています。
そして、この「青木7つの伝統」に依って構成される精神が「3つの発祥源」としての立場を護らせたのです。
同じ同族の源氏が翻弄される中で、「4つの青木氏」も頼光系の様に同じように観られて巻き込まれる可能性は十分にあったと考えられます。

  「550年の隣人」
しかし、上記した事も事実あったのですが、もう一つ「巻き込まれる事」が避けられた事があったのです。
それは、「伊勢」と云う地理的要素が働いたと観ています。
伊勢は賜姓青木氏の根拠地で、そこに半国国司として950年頃から藤原秀郷の祖父の藤成が伊勢の国司代を務めています。(伊勢はj天領地であり松阪・伊賀・長島の3つの半国に成っている)
そして、1050年頃にも基景が国司代として務め、その後、此処に伊勢長島以南域を藤原の伊藤氏として定住し、護衛役とし秀郷流青木氏も定住しています。
平家滅亡期の1185年前は此処伊勢北部伊賀地方が阿多倍一族一門桓武平氏の「たいら族」の半国領国でした。この様に同じ伊勢の住人として550年間の「隣人付き合い」が在ったのです。
実は伊勢の「たいら族」とは血縁的には無関係ではないのです。
伊勢の青木氏の始祖の施基皇子の子の光仁天皇と伊勢の阿多倍の孫娘「たいら族」の「高野新笠」との間に生まれた桓武天皇は母方の「たいら族」を引き上げ賜姓した訳ですから、「たいら族」とは縁者関係にあったのです。
この事で上記しましたが「以仁王の乱」の時、源京綱を跡目として入った伊勢青木氏を中心に「4つの青木氏」は主謀者の頼政の子供1人と孫2人の除名嘆願をしますがこれに清盛は応じます。
また、4つの青木氏の殖産の「古代和紙」は伊賀地方の伊賀産で繋がっていたのです。
伊賀の「たいら族」は「宗貿易」で栄え、それを観ての「4つの青木氏」も「商い」で子孫を繋ぐと云う「死生感」は同じで有ったからも知れません。
織田信長の「伊勢攻めの3乱」で桓武平氏の末裔伊賀が攻められますが、この時、伊勢青木氏と伊勢秀郷流青木氏は、2度も大群を相手に織田信勝軍の大軍の側面を突きます。織田勢から突然責められる危険性もあり、名張の城に一族一門を護る為に集結した「4つの青木氏」は伊賀城落城寸前で急遽城から出て織田軍の不意を突き敗退させ助けたのです。
これは「たいら族」とは政治的には相反する立場に置かれていたとしても、この様に「550年の隣人付き合い」は政治を超えていたのです。この様な史実があって、「4つの青木氏」は源氏の渦中から逃れられたのです。
もとより、「4つの青木氏」の「死生感」なるものを「たいら族」は「550年の隣人付き合い」から判っていたのではないかと考えられ「脅威感」はおろか「親近感」を持っていたと考えられるのです。
どの点から考えても渦中に巻き込まれる可能性は無かった事と、「平清盛」と云う人物が上記の背景を考慮して助命嘆願に応じ渦中に巻き込まなかったことから考えて大きかった事ではないでしょうか。
人物が小さければ上記の経緯が有ったとしても潰しに架った事ではないでしょうか。

  「決定的な失敗」
ところで話を元に戻して、この事件を更に詳細に追及すると、更に次ぎの事が起こっているのです。
この頃の政治を牛耳っていた彼等の「思惑」のこの政策には、「決定的な失敗」が潜在していたのです。
900年の前から上記した様に徐々に「大集団が小集団を吸収する現象」が起こっていたのですが、この現象が益々急速に起こってしまったのです。

それは、次ぎの「2つの失敗」です。
イ 「奴婢戸籍」をも廃止し「戸」を形成出来なくしたのです
ロ イを根拠に「賎民」取分け「難民」「俘囚」「不浪人」「放棄人」から成る「奴婢」は「売買」の対象として許可されたのです。(戸籍があれば手続上出来ない)

   イ「戸籍廃止」
荘園大集団は、上記123を背景に「荘園力」を高め、その高めた力で今度は小集団の「労役の担い手」「奴婢」を買い占める現象が起こったのです。「奴婢戸籍」を無くせば荘園主は「奴婢隷属」であるので自由に扱える事が出来る様に成ります。
これで益々小集団は「労役の担い手」「奴婢」を失い大集団に吸収されてしまいます。これで荘園を継続する事が困難と成ってしまったのです。止む無く「小集団」はその「大集団」に吸収されて行く「加速度的な循環」が起こってしまったのです。こうなれば「流」が出来て止める事は誰にも出来ません。
そもそも荘園に対して「税と労役」の負担分を算定する為に「奴婢戸籍」なる特別の人別帳の様なものを造っていました。しかし、それを廃止する事は荘園が拡大しても「税と労役」の負担分を算定できず大きくなった分の税と労役は免除されて終います。この為に益々収益がが上がり拡大の一途を辿ります。

むしろ、無届に「難民や放棄人」を集め勝手に力ずくで連れてきた「俘囚」等を囲って荘園経営をする様に成り把握出来なくなった事が一番の要因であり、次ぎには源氏や阿多倍一族一門や藤原氏や橘氏や一部の皇族貴族等に「名義主」に成って貰ってその政治的力で「税と労役」を逃れ、その分を「名義主」に支払うと云う巧妙な手口を作り上げたのです。
「名義主」はその力で更に拡大し、更にその名義料の拡大を図る為に「難民、放棄人、俘囚」を更に獲得しようとして政治力を使って巧妙に無届の戦いを起こしたのです。
名義主になった大豪族には更に別の利得が生まれるのです。名義料のみならずその実質荘園主が無血縁の一族として名を連ねて其の荘園主の勢力を加えて益々拡大して行ったのです。未勘氏の「源平藤橘」族等が新しく出来上がったのです。(平:阿多倍一族一門)
こんな「戸籍廃止」の問題だらけの政策を誰が見ても事前に「荘園拡大の行き過ぎ」や「俘囚問題」や「放棄人の流失」の難問が起こる事は承知できる筈です。しかし、実行されたのです。
これも「源平藤橘」族等の「政治的な裏工作」によるものであり、観てみぬ振りをする公家貴族等の傀儡政権であるからです。
戸籍を押さえておけば「税と労役」を課して抑制する事も出来たのですが、最早、全く歯止めが利かなくなったのです。
源頼時−義家親子は真にこの典型的な行動をしたのです。
清和源氏のみならず源氏一族11家は少なからずこれに同調したのです。
しかし、清和源氏頼光系4家と2つの血縁氏青木氏はこの流れに同調せずに同族血縁して「2足の草鞋策」へと回避したのです。「3つの発祥源」としての立場を守ったのです。
古代豪族で皇族賜姓佐々木氏2家(天智天皇近江佐々木氏、宇多の滋賀佐々木氏)は立場を守り「2足の草鞋策」を近江青木氏(摂津青木氏 近江商人)の様に積極的に採らずこの為に衰退したのです。

(注:この時の令の慣習は江戸時代まで持ち込まれ「百姓」(:現在の意味と異なる 兵農の下級武士も含む)に適用されたのです。戸籍の代わりに村ごとの「人別帳」(履歴を有しない帳簿)を設けたのです。従って、700年以上の間は姓名も墓の概念もなくなったのです。中級以上の武士は「融合氏」を形成して独自の菩提寺を定めてその寺が本家筋の過去帳と戒名で管理したのです。江戸末期まで。
「良賤民の制」と「五色の賤」が「士農工商」に)

(参考:近江佐々木氏末裔 佐々木小次郎は衰退して剣術修行に 直系子孫は遺して現存する。 結局、阿多倍一族一門や関東の坂東八平氏[7世族:ひら族]等の掃討作戦で潰されて11家の源氏は直系子孫の「融合氏」を遺せなかった。 遺したのは未勘氏と第3氏である)
(「源平藤橘」以外にも佐々木氏や賜姓族も含む代表語とする)

  ロ「賎民の売買」
天皇側にはこの「賎民の売買」の禁止も合わせて行わなかった失敗があったのです。
ここで敢えて「天皇側」としましたが、この事は阿多倍一族一門の官僚と藤原氏の摂関家等の官僚即ち「大集団の名義上の荘園主」は知っていた筈です。しかし、敢えて知らぬ振りをして123の「政策実行」を、如何にも「氏融合」の[国策3策の効果」を推進するかの様に見せかけて、実は123が荘園力を増す事を知っていたのです。否、この時期の天皇側もこれ位の事は理解し知って居た筈です。
それも「奴婢売買」の事を「傀儡の天皇」に隠して「大集団の荘園力の拡大」を狙っていたのです。
123に限らずイ、ロも内容的には天皇もそこそこの頭脳があれば理解できる筈です。無能であったか、何も云えなかったか何れであろうが「可笑しな政策」である事くらいは理解出来ていた筈です。
まして、各地で下級官吏を巻き込んだ「暴動や反乱」が頻発しているのです。判らないのでは゜馬鹿」を通り越しています。
”何も云えなかった”、つまり無能であった事に成ります。だから、1068年の「後三条天皇」の行動に繋がったのです。国難と察し実に「有能果敢、洞察力、戦略性のある天皇」であった事が判ります。
天智、天武天皇の「大化改新」に続くものである事が判ります。
その後に力を持った「大集団の首魁、荘園主」は血縁の無い他の集団をも征服して土豪として君臨し、その「吸収された集団」もその「氏(融合氏)」の中に組み入れられて、同じ「融合氏」を名乗りながらも「血縁性」のある「正系」と「血縁性」の無い「傍系」と云う形で統合されて行きました。
(ここに正系と傍系の呼称が残ったのです。)
この「血縁性」の有無は元よりその「血縁濃度の高低」をも意味します。

  「正系、傍系」(融合氏の氏詳細)
例えば、清和源氏などの「正系、傍系」はこの形から来ているのです。
「甲斐源氏」は、正式には「清和源氏」には頼光系本家(4)と頼信系分家がありますが、この「頼信系分家」の「摂津源氏」の支流「河内源氏」の「傍系」となっているのです。「足利源氏」も同様ですが藤原秀郷一族の仲介で清和源氏と血縁しています。甲斐は河内源氏の傍系一族の放追者が常陸に逃げ甲斐に到達して甲斐の土豪と血縁して勢力を高めたとされていて真偽は定説としては武田氏の言い分を聞けば真であるとしているのです。
系譜は義家の弟三男義光を祖とし義清より分岐し清光−信義と成っている。ここから上記の物語が生まれて武田に行き着いた事に成るので義光系の系譜と成っています。しかし一方藤原秀郷一門が鎮守府将軍として陸奥で務めそこで血縁した小田氏が次ぎの赴任地甲斐に同行して勢力を高め土地の土豪と成りその事から地名から武田を名乗ったとされる説もあります。前者は清和源氏説で後者は藤原説です。

では、源氏説となれば家紋から見れば「笹竜胆紋」で「副紋と変紋」は一切使わないのが賜姓族の慣習です。主に平安期に於いては各地に分布する源氏11家と青木氏29氏と藤原氏北家主要9氏と佐々木氏2家の合わせて概ね55氏×5程度の中から血縁族を求め同族血縁を主体として主系正系を保っていました。その為に武家の「家紋掟」に従う事無く象徴紋(家紋)が保たれていたのです。
これ等の融合氏では「武家の発祥源」でありながらも「家紋」の扱いは「家紋」と云うよりは「象徴紋」的扱いの習慣であったのです。
これは天智天皇期から賜姓青木氏が「融合氏」のその「象徴紋」として、又「3つの発祥源」のその「象徴紋」として、「正系」の象徴紋としての扱いのもので在ったところから家紋感覚は低く、因って「副紋、変紋」が生まれなかった事によります。
これ等の事から武田氏は「4つ割菱紋」である事は「源氏説」は異なっている事に成り、仮に源氏で在ったとしても「傍系」であり、その「傍系」も上記した「大集団化」の「融合氏」の「未勘氏族」の可能性大であるのです。まして、河内から各地を流浪して常陸に行き甲斐に来た者としているところは未勘氏の源氏説に使う手でありその可能性が強いのです。甲斐に到達した時に名乗ったとするだけでの心証ですので疑問が残ります。恐らくは河内源氏とするのであれば氏家制度に基づいて河内の宗家に対して家紋の認証と呼称の認証を採っている筈です。見つかっていません。
もしこの系譜であれば笹竜胆紋である事に成ります。伊豆の源氏や木曽の源氏や新宮の源氏や近江の佐々木氏や滋賀の佐々木氏等直系の系譜を持つ源氏は全て笹竜胆紋です。この様に歴史の定説には矛盾を多く含んでいます。
つまり、「源氏」を名乗った時に上記の「賜姓族の仕来り」を知らずに名乗り後勘にて矛盾を孕んでしまったのです。間違いなく「傍系」であり「未勘氏源氏」の可能性が大であると観られます。
現実に源氏が滅亡しているのですから後から適当な系譜を作り上げても何も文句を言う者が居ません。其の内、「搾取と編纂」が実しやかになるのです。
室町期の殆どは仕来り無視の名乗りでこの類なのです。
其の点で藤原説では、足利氏と同様に、藤原秀郷一門の陸奥の血縁族の「小田氏の末裔」と考えられ、地名より武田氏を名乗ったと成っています。この小田氏の一部が常陸に移動して「関東屋形」と呼ばれる氏(結城永嶋氏、佐竹氏、小田氏、宇都宮氏、小山氏)の一つの大豪族小田氏(秀郷一門支流一族)と成っています。後に秀郷一門宗家の圧力仲介により清和源氏より跡目に入っています。
この陸奥小田説を採り難い理由は「蝦夷」で無いのに「蝦夷」と呼称されて義家に征討され安倍氏と清原氏の俘囚民か支流末裔と観られる事に対する懸念からではないかと観られます。
むつの土豪の花房氏、小田氏、小山氏等は阿倍氏や安倍氏か清原氏の支流末裔であると観られます。その根拠は秀郷一族一門が陸奥の鎮守府将軍として赴任し、「現地の騒動」を鎮めたのは武力に因らず「血縁関係」による「政略」を主体としていたからです。
それを主導したのは秀郷一門の護衛団の秀郷流青木氏だからで、各地の赴任地の治世では歴史上大きな戦いは無く24地方の政略婚が藤原氏の主戦略でした。この意味で陸奥安倍氏との繋がりを持っているのです。治世策で観てみると、藤原氏の「政略戦法」に対比して源義家は余りにも違ったのです。秀郷一門の政略婚は真に「融合氏」の国策に順じているのです。ここでもこの「荘園の行き過ぎ」には秀郷一門は加担していないことが判ります。秀郷一門の彼等の勢力はこの「義家らの荘園行き過ぎ」行動の始末に依って天皇より与えられ獲得した領国です。
実は足利氏は同じく陸奥の花房氏で秀郷一門と血縁しその花房氏の血縁氏が同行し足利に秀郷一門として赴任しました。その後、信濃足利(栃木ではない)の土豪と成り勢力を拡大し足利の地名を採って足利氏と名乗りました。
この土豪の足利氏の本家は秀郷一門に反発して云う事を聴かなかった為に秀郷一門はこの土豪足利氏の分家に秀郷一門の宗家から跡目を入れて後盾の後見人となり、この分家を以て本家を追い出しに掛かります。結局、この土豪足利氏の本家は足利氏系青木氏(賜姓信濃青木氏の血縁族)と共に米子八頭方面に逃亡して定住します。残った分家を本家として信濃足利氏となるのです。この足利氏に清和源氏の跡目が入ります。故にこの史実より足利氏も源氏の傍系の支流一門と成ります。

(この時、秀郷一門は東山道域の中部地域に勢力圏を延ばしたのです。そうしなければ伊豆を基点として頼信系清和源氏の関東伸張と対峙する事に成ります。最終、清和源氏衰退後秀郷一門の勢力圏に成ります。)
武田の土豪小田氏は足利氏と同じ事件が起こり小田氏はこれを受け入れたのです。その代わりに青木氏系小田氏の一部を常陸に移し秀郷一門を背景に「関東屋形」と呼ばれる小田氏一門を拡げたのです。
従って、武田氏は全体の経緯から「藤原説」を採るか途中から「源氏説」を採るかによりますが定説は中間の折衷説を採用しているのです。
常陸からの流浪説もこの常陸と関係させておく配慮であったとみられます。恐らくは、武田の小田氏に跡目が無くなり一族の常陸小田氏から跡目を採ったのではないかとみられます。結局は足利氏と全く同じ源氏傍系支流一門と成る筈です。
この地名を採った武田氏はその家柄をより誇張するために「一条氏の末裔」だと名乗っているのですが、この時、貴族血縁がある事を誇張する風潮が流行っていて四国などに逃げた一条氏の末裔と名乗る事が各地の豪族で流行ったのです。名乗るほどの一条氏に人物数が無いにも名乗ったのです。
これでも武田氏のルーツ説の疑問があります。源氏と異なり藤原説は一族一門は厳然として残っている訳ですから変な名乗りをすれば周囲の藤原氏から潰される事は必定です。「第2の宗家」青木氏が絶大な武力を以て潰される事は判っていますから源氏の様な事は無いのです。

(青木氏も秀吉の時代に摂津青木氏(近江青木氏)が元上山氏の滋賀青木氏(近江青木氏断絶分家を乗取り再興)に対して秀吉了解の下で2度戦い元上山氏の滋賀青木氏が勝ち名乗る事件等があった。各地でこの様な事が室町期末期から江戸初期前に頻繁に起こる)

  「定説の疑問」
この様に「定説」と成る資料は氏家制度の習慣、掟、仕来り、取り決めを考慮せずに現在的な感覚で一面的に考察して検証しているのです。だから主に各氏の作る搾取編算の系譜を正としての説が多いのです。ですからルーツ解明となるとこの時期の「融合氏」の研究には特に注意が必要なのです。
藤原秀郷一門からのルーツを観ると定説に対する搾取の疑問が多く観えて来るのです。
この定説に影響を与えているのは「義家と安倍氏と清原氏」の事が見え隠れしているのです。
殆どは定説の義家を「正」としての事から始まっているのです。
しかし、本文の様に研究していると「義家の性善説」に疑問が出てくるのです。

嵯峨期の「新撰姓氏録」には、古くから地方豪族であった氏が旧来の名字を捨て、中央で勢力のある豪族の氏に「何らかの縁」を求めて属し、その傘下に入り、その代償を払いその「氏名」を名乗る事に依って地方豪族が中央の官職を獲得する事が出来たのですが、その様子を観る事が出来ます。
特に、この事(「正系、傍系」)を集大成したものが「南北朝期」に出来た「尊卑分脈」です。
要するに「未勘氏現象」と呼ばれるものですが、「縁結合」のその一つです。
その代表的な「氏」として中央に繋がる「源平藤橘」(阿多倍一族一門含む)がその「対象氏」と成ったのです。
これ等が大勢力に成った主な原因は、主にこの事(正系傍系の未勘氏現象)に依るのです。
しかし、この「結合氏」の「絆」(縁結合)は緩いものがあり、「橘氏」の様に藤原氏に押されて衰退すると直ぐに鞍替えして霧散するという現象が起こったのです。
「橘氏」(4家)はこの判断(実力を過信)を誤った為に滅亡の憂き目を受けたのです。
「源氏」(11家)も「義家の幻想」を理解損ない実態は左程に大きくなく院政から疎んじられると脆くも同じく滅亡の憂き目を諸に受けたのです。
その点で「桓武平氏、平族」は上記した様に血縁による阿多倍一族一門が余りに大きく成り過ぎた為に「氏間」の結束が取れなくなった事と、「民族性」の強い互助の働き難い「氏姓性」を持っていた事等の別の原因で滅亡したのです。
しかし、反面、「融合氏の集団化」による「未勘氏現象」が起こり「吸収と離反」を繰り返すと云う事が記録から少なかった事が云えます。
平将門、平忠常、安部氏の事件等は乱世を生き延びる為の政略であったのです。日本人が求める「融合氏」の様に「氏姓」を同じくする「同族血縁」を深める等の事は比較的少なく”「薄く結合する」”と云う概念であったのです。だから安部氏の様な「トカゲの尻尾切り」の様な事は逆に頻繁に起こるのです。
例えば日本人に理解し難い事として伝わる現在の中国の山岳地で起こる騒動の鎮圧の政治的措置に観られる現象と同じです。
この様な大化期から入ってきた「民族氏の概念」が国内に蔓延すれば「在来民族」との間で遊離現象が起こり国は再び2分する結果となる事は「自然の摂理」として必定です。
邪馬台国の卑弥呼を中心とした「国家共立体制」が「ヤマト王権−大和政権−大和朝廷」と引き継がれ802年にほぼ統一した国家が、再び阿多倍一族一門とその集団200万人の帰化に依って分裂すると云う事態に遭遇していたのです。既に九州では独立自治の動きがあり国政に従わずそこに「荘園の行き過ぎ」が起こったのですから危険極まりない状況に陥っていたのです。

初期の天智天武天皇期の皇親政治、中間期の嵯峨期の皇親政治、そして末期の後三条天皇の親政院政政治の国を預かった天皇の悩みは計り知れないものがあったと考えられます。
取り分け初期の皇親政治に関わった青木氏中間期の秀郷流青木氏には計り知れない悩みがあった事は間違いない史実であり、それ故に青木氏側から観れば源氏頼信系の義家等の行動は容認する事は出来ないものであります。「正系傍系の未勘氏現象」を起こして大きくなる等は言語道断であります。

ところが、この「未勘氏現象」を上手く利用して勢力を戦略的に運用して生き延びたのは、政権の中枢に居て「同族4家の族争い」を起こした中でも「藤原氏の北家」、中でも「秀郷一族一門」なのです。
不思議な現象です。「融合氏」の青木氏等の「正道」−「民族氏」の阿多倍一族一門の「逆道」に対してその中道を歩んだのです。「頭脳的な生き様」と云う以外にはありません。
なかなか何時の世も「中道派」は生き難い筈です。「衰退の道」が世の常です。ところが「繁栄の道」なのです。
「繁栄の道」になるとすると何かシステム(緻密な戦略戦術と組織の掟と司令塔の存在)が必要です。
現在まで繁栄を遂げて来たのですからシステムが在った事を意味します。「それは何なのか」です。
既に論じましたがその主因は「秀郷流青木氏」の「第2の宗家」としての「緻密な戦略的行動」にあったのです。当然にこの「未勘氏現象」が起こりましたが、それを「判別する仕組み」を採用して「血縁性の有無」を明確にし、「実力の過信」を起こさない様に「管理統括監督」していた事が生き残りの原因です。
その仕組みは次の通りです。
一つ目は「藤原氏の呼称方法」です。
青木氏と血縁性の高い主要5氏を除き、分けて「藤」の前に「24の地名と斎蔵の数種の官職名、役職名」を付けて一族一門の「血縁の関係性」の判別を明確にしていたのです。(主要5氏:青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏)
二つ目はその枝葉の「氏の象徴」となる「象徴紋または家紋」を明確にして「正系の系列」と未勘氏の「傍系」を判別出来る様にしていたのです。
例えば、次ぎの様な方策を採りました。
一つ目の仕組みには、秀郷一門は「副紋方式」を採用し「丸紋」は使わず「藤紋の変紋」も限定していてそれも判別出来る様にしたのです。
二つ目の仕組みには、「氏掟」が存在していて「融合氏」が拡大するに連れて監視監督が困難に成る事を避けて一族一門が結束できる方法を考え出していたのです。
ここに阿多倍一門一族との大きな違いがあったのです。
甲斐の武田氏が信長に滅ぼされた時、甲斐の武田氏系の「3つの賜姓青木氏」が各地の藤原秀郷一門の青木氏を頼って逃げ延びる事が出来たのはこの「2つの仕組み」のお陰で血縁関係が明確に把握されていた事によるのです。特に青木氏に関しては母方での血縁関係が明確に把握されていたのです。

これは「融合氏」として氏神の守護神(春日大社)と氏寺の菩提寺(興福寺)等の支社を各地に置きそこで系譜、戸籍などを管理記録されていたのです。
この記録は「3つの発祥源」としての認識があったからこそと考えられます。
全藤原氏においては「傍系未勘氏族」の判別が完全に出来るのはこの仕組みから来ているのです。
「正系、傍系」の違いは「未勘氏」である事のみならず、この「3つの発祥源」にあり、これを護る認識の有無によります。それは「血縁性の有無」と「有品認識の有無」にあり「正系、傍系」は根本的に大きな違いを持っているのです。この「血縁性」が在っても氏家制度の中では「本家分家の差」に於いても分家は本家の指示行動に従うと云う仕来りから「義家の勝手な不合理な行動」(義家は頼信系分家筋の直系)の差として出て来るのです。
結局は、最終は「有品認識の有無」が左右する事になるのです。(頼信−義家は本家と違い有品の認識が薄かったことに成ります。)

このシステムを管理監視認可など場合によっては血縁の紹介と段取りもして居た事が判っています。これをする秀郷流青木氏が「第2の宗家」と呼ばれる所以なのです。青木氏の指示に基づいていたのでしょう。

(甲斐の3つの賜姓青木氏:武田氏系青木氏、武田氏系諏訪族青木氏、諏訪族青木氏 これ等の氏は甲斐賜姓青木氏の末裔で家紋掟により分家となった。)

青木氏と守護神(神明社)−7に続く


  [No.274] Re:青木氏と守護神(神明社)−7
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/05/22(Sun) 08:05:45

青木氏と守護神(神明社)−7

  「皇族賜姓族の生活圏範囲」
勿論、皇族賜姓青木氏5家5流一族はその皇族と云う立場(3つの発祥源)からこの「未勘氏」を発祥させて勢力拡大を図ろうとする行動が制約されていたのです。且つ、従って行動そのものが限定した伊勢と云う領域の範囲に留め、限定した「氏と民」を指定し、同族の賜姓源氏の様な権威を背景とした広域的な勢力拡大(荘園制の集団化)を図らなかったのです。
勢力圏域は5家5流とその一族が定住する「生活圏の範囲」に留めたのです。
藤原秀郷流青木氏も24地方域に限定し「未勘氏拡大」や「荘園制の集団化」の策は「母方族 有品の位:第4位」としても藤原秀郷一族一門の中に於いてもその行動の範囲を厳格に守ったのです。
そもそも荘園に属する未勘氏の多くは、旧来の「姓名」を持ちながらも「名義料」とその「労役の責任」を果たした上でその代償として名義主の「氏名」を名乗ったのです。そして、その主な義務と労役は「兵の提供」と「兵糧の提供」と戦いとなると「合力」する事でした。

「4つの青木氏」は「国」よりも「郡と村」と云う小域に限定した事が、その「生活圏」で結束する「絆」を強めたのです。小さいながらもそれに見合った戦略を採用して結束して戦った事によります。
それと、この「生活」と云う「絆」を強めるために採った経済策「2足の草鞋策」(物造り)を古くから採っていた事が共に生き延びられた原因なのです。
更に云えば、「賜姓族青木氏」にとっては母方で繋がる「血縁性の結合」である「秀郷流青木氏」の存在が色濃くあったでしょう。
その「秀郷流青木氏」には藤原氏の「第2の宗家」と云う確固たる立場があり、彼等の強大な護衛軍を擁していた事が賜姓青木氏に採っては大きな願っても無い「抑止力」となり「安全」を保障されていたからであります。
そして、「賜姓青木氏」が「不入不倫の権」で護られていたとは云えど、「賜姓青木氏」が存在する地理的範囲の周囲には必ず「藤原秀郷流青木氏」が定住赴任していると云う環境も見逃すことが出来ないのです。
恐らくは国策の「融合氏」「3つの発祥源」の元を潰す事は出来ないとした「天皇家の採った戦略」であったと観られます。
平安期に「賜姓青木氏」に与えられた「不入不倫の権」とは別に、安全保障の意味からも「秀郷流青木氏の抑止力」を明らかに大策として採ったものと考えられます。
「嵯峨期の詔勅」に依って皇族関係者は青木氏を名乗るとして民に「使用の禁令」を発したのですが、藤原氏北家の秀郷第3子の千国にはこれを特別に許し、「母方族」として「特別に賜姓」して「青木氏」を名乗ることを許し、更にはその”「官職」と「有品の位」は皇族賜姓青木氏と同じとする”と定めました。
これは明らかに「単純な許可」では無く、「単純」であれば何も官職と有品を賜姓族と同じとする必要性はありませんし、賜姓する必要も無い筈です。青木氏を名乗る事のみ許す事でも充分です。
「賜姓青木氏」と同じ様に「家柄と身分と役職と官職」を藤原氏北家自身が求めていないのに全く同じにした事は「藤原秀郷一門の勢力」を「賜姓青木氏」に「抑止力」として着けて護る目的であったのは明らかです。
つまり、同じ青木氏を名乗らせ同じ仕事をさせる事によって”同族だ”と思わせてその威力を見せ付けて融合氏の発祥源賜姓族に手を出させない事を目論んだのです。
又、天皇家にとっても「親衛隊の威力」を示威する狙いがあります。
この時期は960年頃ですので「荘園の行き過ぎ」に依って起こっていた諸問題が佳境に入った時期でもあります。
後60年至もすれば阿多倍族の九州自治の問題、外国からの難民流入、賎民問題、陸奥安部氏等の動向、各地での動乱、天皇の身辺もそろそろ危なくなってきた時期でもあり、「融合氏」の5家5流の賜姓族の安全保護を図るべき環境でもあったのです。
兎に角にも、朝廷内外に問題を多く抱えながら摂関政治の最盛期でもあり、その中でも「平将門の乱」を鎮めた唯一信頼できる当時の大勢力と成った藤原氏北家筋で周囲(賜姓族)を固める必要もあったのです。 
「不入不倫の権」
しかし、これも充分に「抑止力」として発揮したのは平安期の事であり、「武家政治」「武家社会」を中心とする鎌倉期から室町期にかけては周囲が皆武家であり力を持った為にそうも行かなくなりました。
本来であれば、最も「3つの発祥源」の「融合氏」としての充分な「氏拡大」を図るには、「皇族」と云う立場から考えてその「行動範囲」は極めて制約されていた筈で難しく、むしろ同じ「武家の社会」の中でこの立場(3つの発祥源」)に頼っていた場合は滅びるのは速かったと考えられます。
それだけに「融合氏」やそれに連なる「姓氏」の急激な台頭が起こったと云う事でもあり、「融合氏」が増えたら増えたでその環境は別の意味で難しく成って行ったのです。
そうすれば当然に、それまでに無かった「武家の目」が起こり、鎌倉−室町期には賜姓青木氏一門に向けられる目は、藤原秀郷流青木氏の「後ろ盾」がある事そのものが、他の豪族たちには「畏敬の念」と云うか「専横の目」と云うか”ちらついていた”ものであったと観られのです。
しかし、「武」を以って成り立つ「武家」である以上、例え青木氏に「不入不倫の権」があるとしても潰そうとすれば潰せたと考えられます。それはあくまでも「公家社会の掟」としては成り立つ「物言い」であり、何の「武」による罰則の様な拘束力も有りません。武家にとっては"片腹痛い"と成ります。
但し、その場合、ある意味で「朝敵の汚名」は覚悟する必要がありますが、それは汚名の範囲であり周囲の武家が乱世にてこの範囲を超えていればその汚名も関係は無く成ります。
現に室町期の「下克上」と「戦国時代」には殆どの武家は信長の様に「空虚な権威」として何の躊躇もしなかったのです。
信長だけではなく殆どの豪族は「不入不倫の権」は余り念頭に無かった筈で、言われれば”あっそうか”程度のものであったろうと考えられます。
まして、鎌倉期以降は社会は前記した様に「融合氏」の数では無く「姓氏」の数が主体であり、歴史と伝統のある「融合氏」ではいざ知らず、賜姓族の「不入不倫の権」は左程の「拘束力」は無かったと考えられます。
まして室町期の「下克上」の乱世の中では、5家5流の賜姓族に与えられた永代の「不入不倫の権」を気にしていては「下克上」は論理的に起こらない筈で、「下克上」とは「上の権威」の理屈が通らなくなった社会なのですから、「絵に描いた餅」程度のものとしてしか扱われなかったと考えられます。
其れだけに平安期は兎も角も「朝廷又はむしろ天皇の力」には、鎌倉以降は青木氏を支える力が無く衰退して行ったのですが、この様な社会の中では「3つの発祥源」の青木氏に執って生き残るには秀郷流青木氏一門の「抑止力による武力」と、「自力・自立の経済力」以外には無く、その意味で「2足の草鞋策」の判断が大きく効を奏したと云えます。

「秀郷流青木氏一門の抑止力による武力」+「2足の草鞋策の自力・自力の経済力」+「影の力のシンジケート」
これら「3つの策」は互いに連携した関係を保持し「相乗効果」を生み出していたのです。

「平家の様な生き方」
平清盛も「宗貿易」を試みたのも阿多倍一族一門の「民族氏」の宗家「たいら族存続」を「栄枯盛衰」のたとえの通り強く意識していたのではないかと考えられるのです。
恐らくは「伊勢の隣人」であり「古代伊賀和紙」の殖産で伊勢青木氏と繋がっていた事を考えると、伊勢青木氏が特に「2つの陰の力」と表に見える「自力・自立」で生き延びようとする姿勢を見て「武家・武門」でありながら「武」では無くむしろ「商家」に行き先を強く求めていたのではないだろうか。
その証拠に平家滅亡後、実は各地に飛散し土地を無くした平家族は各地の阿多倍一族一門を頼る事なくその飛散地で「殖産」と「家具・陶磁器等の生産」に大きく関って生き延びているのです。それは家紋から判るのです。
”平家がどの様な生き方をしたのか”を検証する事で融合氏の「4つの青木氏」と同じく生き延びられた原因の本質が観えて来ると思えるのです。
後漢の阿多倍王の6(7)代目末裔平清盛が確実に子孫の為に採った生き残り策「殖産と商い」が滅亡後に生かされていたのかを「織田氏」を通じて検証してみたいと考えます。
同じ激動の時代を生きた青木氏と共通する何かが其処にある筈です。
それがこの時代に必要とした「共通する生き残れた条件」であって真実が見えて来る筈です。

「共通する生き残れた条件」
ここからは少し「たいら族」の生き様を論じたいと考えます。
そもそも「たいら族」は滅亡後、資料と家紋考証から紀州、四国、北九州、岐阜愛知等の山間部に逃げ延び、その地にはこの「殖産と家具・陶磁器等」の名産地が多く遺されていて、その職人家のルーツを家紋と資料で調べると「平家落人」が大変多いのです。
逆に言えば大勢での落人先はこの4地域に成っていて「殖産と家具・陶磁器等」で生き延び逃げ延び通したのです。
例えば、そこでその一つの氏に注目をしたいのです。
この「織田氏」は筆者は「美濃平氏」として観ていますが、「平氏遺族だ」と名乗っている「織田氏」としてその主張している「家紋」(五つ木瓜紋 揚羽蝶紋)を正しいとして検証すると、次ぎの様に成るだろうと考えます。
しかし、「織田氏」には諸説紛々であるので、ここでは先ず「織田氏系譜」の以前のルーツとして「たいら族」として家紋考証で検証します。
その「たいら族の生き様」に青木氏に共通する何かがあると観ているのです。更に、驚くべきか何とこの織田氏が青木氏と深い関わりを持っていたのです。
その意味でもこの織田氏を徹底的に検証してみたいと考えます。

誤解のないようにする為に先に言っておく必要があるのは、諸説をまとめると彼等織田氏の主張は「搾取偏纂」の典型であると云う事です。ところが家紋考証と時代考証ではただ1つの矛盾の無い筋が観えて来るのです。
織田氏の主張
それは次ぎの3つの氏に成ります。
1 先ず最初に尾張で土豪守護代として勢力を高めた時期に名乗った氏は「藤原氏」
2 次ぎに頂点に躍り出た時期に訂正したのは「たいら族」(桓武平氏)
3 現在の各種の調査資料から判明したのは「斯波氏の家臣」

1と2は完全な搾取偏算の典型的な「搾取偏纂の方式」(「貼付方式」「継足方式」「遺子方式」「某方式」「混迷方式」など)を駆使して系譜の中に使用して作り上げているのです。
下記にも証明しますがこの説を少し歴史を勉強したものであれば信じる者は居ないでしょう。

3が正しいところですが、家柄の出世状況をよく見せる為に、後に室町期の系譜には「遺子方式」と「某方式」で搾取偏纂して付け足していて系譜は信用できないのですが、「斯波氏の家臣」であったことだけは最近発見された史実で「下克上」にて伸し上った姓氏である事が判明確定しました。

ところが、これら123の系譜に書かれていない「平安期と鎌倉期末期のルーツ」はすべて不明と成っているのです。
家紋考証から織田氏の行動の節目の年代が観えて来るのです。

例えば”斯波氏の家臣で守護代に成った(1339)”と云う事が正式に解明されたところから色々なことが判明して来ます。この時期は「1339年」と先ず特定出来るのですが、これ等の節目の時期を確定して時代を遡れば平安期と鎌倉末期の事が判明する筈です。
恐らくは平家滅亡の1185年−最終決戦の1190年以降、室町期初期の系譜にあるところまでは少なくとも職人であったと考えられます。(下記)
家紋の考証から割り出しますと共通するキーワードは下記の様に成ります。
織田氏は「五つ木瓜紋」である事は間違いない唯一のところです。

それは現在から考証してこの「五つ木瓜文様」の氏のルーツの傾向が「職人あるいは殖産農業」の従事者の傾向を持っています。又、この木瓜紋の95文様の中の一つの氏には「農兵」であった事も資料と家紋から判っていますので、「五つ木瓜文様」には先ず農兵でもあった事が判ります。
という事はこの家紋の「五つ木瓜文様」は元は武士の可能性が大であった事が云えます。
平安期後、直ぐに足利氏系斯波氏家臣であれば寺の過去帳等のルーツに関するに類するものが存在する筈ですが現在見付かっていないので、直ぐに家臣ではなかった事は確実です。
足利氏の斯波氏が未だ然程大きい豪族では無かったのですから、斯波氏が鎌倉時代を通して次第に力を着けて居た事は事実ですが、北条氏の圧力から未だ自由に家臣を求められる状況では有りませんでした。
この事から家臣になった時期の算定が斯波氏の経歴を調べると出て来ます。
それは(「1280-1300年の間」)下記に考証考証します。
この様な家紋考証・考察を進めて行きますと、元のルーツのところの色々な出自等を探り出せます。
そこで、ただ一つ信頼に値する可能性のある「家紋の考証」から「たいら族」として検証を進めますと、そうすると上記した123の主張と基本が一致する経緯が観えて来ます。

  「家紋からの考証」
先ず、美濃-信濃域の山間部に落延びたグループであるとして(下記証明)、このグループで云えばこの生業にて生き延びたのは「たいら族支流」(下記 美濃平氏 通盛系)ですが、その家紋の「五つ木瓜(織田木瓜)紋」の五瓜がこれを物語るのです。
つまり、判っている史実の越前国織田郷の土豪(織田姓氏家 下記証明)をどの様に観るかに依って歴史評価は異なってくるのですが、上記の1、2は次ぎの「家紋考証」からそれなりの理屈は成り立つのです。
ただそれには根拠とするものには「五つ木瓜」の文様しか無いと云う事に成ります。
結局は問題は室町期のこの文様(「家紋」)の証拠力に関わりますが、かなりの事が判ります。

その主張している家紋は変えようと思えば変えられますが、変えるには全ての縁者や親族の家紋を変えると云う面倒な事が起こりますし、織田姓氏家一党の不明期の鎌倉期の段階では「五つ木瓜紋」の文様(家紋)としては無かったか有ったとしても「口伝状況」程度の筈です。
つまり、滅亡し衰退し隠遁生活の一族一党が生活の糧として「職人あるいは殖産農業」(家紋考証)に携わっている状況の中では、家紋とすべき文様的なものは、最早、「伝統的遺産」に過ぎず、丁度、仕官まで150年の経過期間(下記)を経ていますので、織田本家が「口伝」として遺してきたものに過ぎなくなっている筈です。
そこで、力を取り戻し土豪と成り表に出られる時期は、鎌倉幕府の勢力が低下し、平家一門(下記証明)としても最早、「討伐対象」とは成らなくなった時期は、室町初期の「下克上」のチャンス到来期(1280-1300)と成ります。この時初めて「家紋」と云う「伝統遺産」を表に出せる事に成ります。(下記証明)
では、その表に出られる経緯ですが、平家一門の様な場合は、通常は「職人あるいは殖産農業」に関わっていた場合は次ぎのように成ります。
先ず、「下克上」や戦国時代にはその土地の守護、この場合は尾張の斯波氏(室町期の11国の守護大名・足利氏系 各地に守護代を置く その一つが尾張)と成りますが、家臣は出陣と成りますと、一騎に対して普通は50人程度の兵を宛がわれその騎将は近隣の村から兵農の村民を徴収して来ます。この時、一人または一族一統の単位で「前金何両・・後金何両・・首何両・・手弁当・・」等を契約して揃えます。この事を専門にする斡旋業もいました。
その時、参戦して著しい戦功を挙げた一族一党の農兵には騎馬将や領主守護の信頼を得ます。この事繰り返す事で仕官という道が開かれて来ます。一族一党統等で参加した農兵はその首領が仕官しその首領の下に兵として一族の若者が孫仕官するという形が出来ます。
「美濃平氏」(下記)とも成れば元は武士で戦い慣れたものですから領主側からすれば願ってもない領民であり、守護領主が大きくなれば当然にこの様な優れた一族一党統は召抱えるが常道です。
これが織田郷の「隠遁美濃平氏」(下記証明)であったのであり、通常の農兵もこの一族の配下に仕官して兵の形態が生まれて行くのですが、一族を揃えての実力がありますから直ぐに伸し上がります。
これが尾張守護斯波氏の守護代(織田氏:ある史実の経緯がある)と成ったのがこの織田郷に辿りつきそこで土豪の織田姓氏を名乗った事を意味します。(下記)
その織田氏は次ぎの経緯を持っています。

 「織田氏の経歴の考証」
この「五つ木瓜紋」を家紋としている氏から観ると次ぎのような事が判ります。
先ず、織田氏が守護代になった時期は1339年です。
この事から鎌倉幕府が滅亡する直前の1290−1300年頃に斯波氏に仕官したと見られます。
この時1300年前半に、丁度、越前朝倉氏や今川氏や浅井氏などが斯波氏の守護代に成っています。織田氏はこの間仕官40年で他の守護代と違い度々斯波氏に従って出陣した史実の記録を持っています。この事から斯波氏は織田氏を信頼し可愛がっています。
1339年頃に尾張は「応永の乱」で幸運にも斯波氏は一度に2国(尾張と駿府)が手に入り斯波氏の領地と成り、この時に可愛がっていた織田氏は一挙に守護代に据えられます。
ところが斯波氏の中で「応仁の乱」を境に1467年頃から下克上が起こります。
駿府で今川氏、越前で朝倉氏が謀反します。しかし織田氏は謀反に加担をしません。
斯波氏の守護代の中では下克上を起こさず最も長く255年間も斯波氏を支えます。
しかしその織田氏は1554年を境に下克上を起こします。
斯波氏は領国11国を失い1561年滅亡します。
逆に斯波氏を背景にして織田信長の時に勢力拡大します。
経緯
1185−90年に最終的に三浦半島で平氏滅亡し、離散隠遁後120(150)年程度で斯波氏に仕官し織田氏名乗る。
織田氏の姓氏は越前織田郷より名乗ります。
朝倉氏が1300年頃に守護代になるが織田氏は未だ下級家臣です。
40年間の間に織田氏は記録から戦積を挙げるべく出陣回数が最も多く斯波氏に可愛がられる。
斯波氏は尾張等の2国領地となり急激に勢力拡大(11国になる)を図り家臣が追い付かない。
織田氏を1339年に尾張の守護代に大抜擢する。
鎌倉幕府滅亡し南北朝で国乱れる。1400年頃まで織田氏は斯波氏の中で出陣重なる記録あり。
室町幕府で一族の足利氏系の斯波氏は政治の中心として勢力拡大。 織田氏は力を付ける。
1467年前後から11国の守護代は次々と下克上で謀反 斯波氏は織田氏を使って奪回作戦失敗
斯波氏衰退し1550年頃から1561年まで織田氏は斯波氏を匿う。
織田氏250年以上斯波氏に最も長く仕えた家臣です。ところが戦国大名と成った元家臣と5年間密かに同盟。織田氏1554年斯波氏を名目上追放し尾張の戦国大名と成る。
1561年斯波氏の残所領は織田氏に流れ、斯波氏系の他の戦国大名を凌ぐ。
織田氏は同盟と斯波氏保護を前面に勢力を温存。1561年に2つの同盟を解消し旧斯波氏の家臣の戦国大名の朝倉氏や今川氏を全て潰します。

「120年程度の放浪生活」と「270年程度の家臣の歴史」を持ち、ほぼ「平家滅亡から400年の経緯」を有したことに成ります。

これらの予備知識を背景にして、家紋考証に話を戻して、この時、当然に、守護代とも成れば家紋を必要とされますので、「伝統遺産」として持っていた家紋を引き出して口伝・由来書を持出しある種の手を加えて類似する家紋を作り上げたのです。

この家紋の作り上げる経緯が次ぎの事から起こります。
「120年程度の放浪生活」の中で「家系不明の部分」に上記の1と2の経緯の宛がえが起こったのです。

そこで更に少し織田家に拘ってみます。意外にこの1と2の関りが出て来るのです。
そこで、織田氏の通説を述べて置きますと、次ぎの様に成ります。
"1300年前の1と2は全くの搾取偏纂 1300年の後は越前織田郷の土豪が斯波氏の尾張守護代に(1339)" の通説と成っているのです。
この事から割り出すと、斯波氏の家臣(1300)になるまでの経緯として観て見ると1185年の平氏滅亡離散から凡そ120年の間は不明に成っているのです。
この120年間は家紋考証から観て「殖産-職業人」で糧とし生きて、滅亡より100年位経った鎌倉幕府が衰退始めた頃から一族は農兵をしながら各地に仕官口を探しながら生き延びたと判断出来るのです。
この120年前の滅亡前は次ぎのルーツを持つ氏であったとしているのです。

「通説 滅亡前の織田氏系譜の主張」
1の藤原説は越前越後の藤原利仁−昌仁
2の平氏説は平重盛−資盛−親実
だと云っているのです。

1の藤原説
鎌倉期から室町期までは藤原氏は一時失職離散があったが本領安堵でその後勢力を「関東屋形」や「武蔵7党」等で勢力を持ち直しているのです。
まして、織田氏が云う120年間も一族一門が不明に成ると云う事は氏家制度の中で藤原秀郷一門は古来より融合氏であり藤原氏の独自の菩提寺や春日大社等の氏神で一族一門は詳細に管理されているので不明は全くおかしいし、足利氏(斯波氏)とは陸奥と信濃で秀郷一門は血縁関係にあり家臣になる事もおかしいのです。藤原氏系の足利氏に藤原氏が仕官は矛盾ですし、藤原氏北家であれば仕官の主家側にありますし、利仁流は秀郷流と並んで北家の2代勢力を室町末期まで維持したのです。
第一に利仁流にはこの様な人物は存在しないのです。
又、更に織田氏の時代考証がこの人物では120年位大きくずれています。
更に、越前(権守)に関わった人物は「利仁」の子供や末裔の中での長男の「大束」だけです。
利仁の9人の子供や孫・祖父等にはこの様な人物は存在しないので全くの搾取偏纂です。
要するに酷い主張の論外説です。
この程度の主張でもこの室町期はこれで通ったのです。周囲が皆立身出世の搾取偏纂の主張なのですから”赤信号皆で通れば怖くない”です。織田氏には限らないのですがこれで十分に済んだのです。
この時代の客観的立場から書かれたまともな資料には”後勘に問う”と最後に記述されています。
藤原氏北家筋としたのは「下記の経緯」から織田氏の当時の「考証力の不足」から間違いを起こしたと観られます。間違いではなく分からなかったが正しいと考えます。
そもそも木瓜紋は藤原北家筋の徳大寺氏の文様です。(下記)

2の平氏説は確かにこの人物は存在します。
しかし、親実はも資盛の子説と経盛の子説の2通り併記しているが先祖とするに自信がなく迷った形跡が観えます。これに関わる過去帳や菩提寺、氏歴の産土神か氏神または鎮守神の神社に存在するこのルーツに繋がる根拠は全く存在しないのです。
ただ、上記した「織田氏の経歴の考証と経緯」から藤原氏では全くない事と、この様な上記した「経歴と経緯」を持つ事は「平氏の末裔」以外にあり得ません。
そもそも急に斯波氏の守護代までに成れる実力は平安期に於いて組織的な実力の平家以外にはありません。
ただ藤原説としてあり得ない事が発覚し、口伝の経歴や経緯から平氏説が高いとしたがその特定の人物設定に考証力不足から搾取偏纂をしたのでしょう。
そこで、恐らくは「家紋考証」と「織田氏の経歴の考証と経緯」から”藤原氏では矛盾が大きい為にどうも平氏である”と観て訂正したと観られます。

「平親実」とは、「斎部親実」であり、斎部親澄と富田三郎基度の孫娘(あるいは蒲生親長の娘)との間の子とされます。
この人物は貞永2年(1233年)越前国丹生郡織田荘の織田神社(劔神社)神主。正嘉2年(1258年)出家し、覚性と号した。平姓は跡付けです。
この越前織田郷の「斎部覚性」「織田覚性」(或いは「津田親実」)を捉えて、この「覚性」を平資盛のこの「平覚盛」と重ねて同一人物として「平親実」として搾取偏纂したものである事は後に判明しているのです。
故に、「斎部覚性」「織田覚性」(或いは「津田親実」)は織田氏の祖である事に疑問があるのです。
「覚性」(かくせい)と「「覚盛」(かくもり)の音読みを使って同一人物と見せたのです。

実は、これには大きな史実が遺されているのです。
それは「美濃平氏」なのです。
この美濃には「美濃源氏」と、それに「美濃平氏」が居て元より混在地域でした。小競り合いがありながらもある程度安定した地域でバランスが取れていたのです。「たいら族」の本拠地の伊勢平氏と賜姓伊勢青木氏と同じ様に相反する立場にありながらも隣人付き合いをしてバランスを採っていた様に、美濃も歴史上有名な源平混在の安定地域でした。
そこに前記した常陸、上総、下総から追い出された国香・貞盛の末裔の「たいら族」(関東平氏)が1100年頃に美濃まで引き下がりここに定住したのです。
ところがこの事により「美濃平氏」(現地では「美濃平家」と呼称)とが混在していた美濃地域が勢力バランスが崩れ争いが起こり始めました。
以後、この「美濃源氏(土岐氏系)」と「美濃平氏」(通盛系)は常に勢力争いが絶えない有名な地域となりました。
そこで遂に「美濃平氏」と「美濃源氏」には、次の様な有名な争いの経緯が起こります。
「美濃源氏」は「尾張源氏」に加勢を頼み組んで「美濃平氏」を追い出しに掛かります。
有名な1180年10月「富士川の戦い」に於いて平氏は敗北して一度帰京します。
その直後の11月に「源頼朝、源信義追討の宣旨」が改めて出され、再度の源氏追討使派遣が検討され、その際、「平時忠」が「美濃源氏」を味方につける策で安定化の和睦策を進言しますがこれは容れられなかったのです。するとこれに11月に尾張・美濃の源氏が勢いついて更に蜂起したのです。
その後、「反平氏」の挙兵は畿内にも波及し、10月に「近江源氏」が挙兵します。
しかし、反撃に転じた平氏の軍事行動により先ず近江源氏の反乱勢力は制圧されます。
敗れた「近江源氏」の武将らは美濃へ逃亡して「美濃源氏」と合流します。
「美濃源氏」は「近江源氏」を迎え入れて平氏に対する抵抗を続けます。
1181年1月 平氏は美濃へ攻撃を開始します。
末裔の居る美濃に向けて「平通盛」が「蒲倉城」を落として「美濃源氏」「近江源氏」を制圧し「美濃平氏」を救います。(後にこの城が「美濃平氏」(織田氏)とって重要な拠点となる)
この様な経緯を経て通盛の流れを汲む「美濃平氏」の末裔が再び美濃を制圧したのです。
この有名な激しい戦いで両軍共に多数の戦死者を出しました。
一時は「美濃源氏」の中心人物である源行家を制圧し支流源光長(土岐光長)も討ちとられ梟首されたとの有名な歴史夜話の噂が流布。「美濃奪回・攻略」に成功した平氏は次に尾張制圧を続けます。
この直後に平清盛の死去 出陣は停止延期されますが、しかし、1181年3月に有名な「墨俣川の戦い」を迎えるのです。
この時に「美濃平氏」を救った「平通盛」の守護兵とその末裔はその後も美濃を守り続けますが、遂に1190年この「美濃平氏」は離散する経緯を辿ります。

この時期前、越前は始めは「平重盛」が国主でありましたがこれに代わって「平通盛」は国司で務めていました。しかし重盛死後1176年に通盛が越前守に成ります。
(ここで織田氏が主張する説の間違いを起こしている)
その後、朝廷内の政争ある事件が起こり1179年に平通盛は一時失職しますが、清盛がこれを解決して数ヶ月して戻ります。
その直後に上記1180年の反乱が起こり通盛は越前より美濃源氏制圧に動きます。
1181年の3月に制圧し、以後平家滅亡までの1187年まで越前と制圧した美濃平氏だけに成った美濃を合わせて平通盛が統治します。
この間、下記に示す1150−60年頃から美濃に教盛-通盛の末裔を置き、1176年から越前国司・守護を務めながら1187年までの約40〜30年間程度は美濃に関わっているこ事に成ります。

上記の平通盛の経緯から観ても2の説の「重盛-資盛-親実の説」は確かに越前国主でありましたが京に定住していて、越前との関係は1176年では既に終わっていて、その前から平通盛が国司の実質の管理下にあったので間違っているのです。
越前-美濃の関係からは平通盛が実質の関係者なのです。
まして、もし重盛ルーツであるとすると織田氏は越前の土地の者と云う事に成り「越前平氏」なる一族がいた事になり新たな平氏説が生まれますし、平家滅亡後、鎌倉幕府の掃討も受けずに逃亡もせずに住み付きその土地に穏やかに居た事にも成ります。(越前は知行国で平氏領国ではない)
そして斯波氏にすんなりと仕官した事に成りますが、だとしたら「150年の過去の消失」は起こり得ませんし、織田氏の姓名も生まれない事に成ります。
とそう成ると当然に織田氏の神社、寺社も残っている事に成りますから「150年の過去」を消失する事はあり得ません。
そもそも各地の平氏掃討はそんな生易しいものではありませんでした。殆ど追手を逃れて都から遠く離れた人里離れた山間部を切り開き密かに隠れて住んでいたので生き残れたのです。(「隠れ里」と言う言葉がある位なのです)
紀州の資料に残る平家の村も四国の平家の村と云われる所等(平家の里)はこの様なところです。
”越前に居て越前に”などあり得ないのです。
現実に越前では平通盛は越前国人の全てから長い間反抗されていて”命令を聞かない”と清盛に愚痴手紙を送っている位にこの地の国府の平家役人の政治は上手く行っていなかったのです。
もし、2の説であるのなら平家の部族が居て武力で押さえ込んでいた筈です。
だから後白河法王は越前守を平家一門から外す事件が起きたくらいなのです。数ヶ月後に有名な政変事件を起こして平清盛が圧力を掛けて元に戻させたのです。
そもそも越前は平氏の「知行国」であって末裔子孫が定住する「領国」ではないのです。
知行の為に一定の軍を引き連れての赴任国でそこに赴任したからと云って、”子孫だ”と云うには矛盾であり、普通は知行国は政治的な知行能力があれば一人で幾つもの国を持つ事があり、重盛や教盛などは清盛の傍に居て補佐役で政権を維持する必要から代わりに「国司」を送るのが普通でなのです。
国司とは本来その役目なのです。越前も長い間「知行地行政」を平通盛が代行していたのです。
「たいら族」の平家は中部より以北地域は一時の関東を除き知行地でした。
本論6までのところに記述した様に美濃より以西地域が平氏を含む「たいら族」の領国であったのです。美濃がその最前線です。
「たいら族」の関東に押領使等で赴任しながらも一部には「関東平氏」の地域を作り出していた事も有りますが、その地域の「常陸-上総-下総」には「平将門の乱」はこの地域を領国として作り上げた上で近隣を制覇して更に進めて「独立国」を造ろうと考えた事件なのです。ここには元は一部は藤原秀郷の領国もあったのです。
この様に知行国と領国とでは社会慣習やルーツ的な事も含めて根本的に色々な事が異なる判断が起こるのです。この事を織田氏は系譜を作る時に既に400年前の祖先のルーツを伝え切れていなくなっていた事を示しています。微妙なところですが「たいら族」は承知していたと観られますが、「越前−美濃」と「清盛−重盛」と「教盛−通盛」の違いを間違えてしまったのです。
口伝で「清盛」(きよもり)と「教盛」(きよもり)の違いを間違えたために矛盾が生まれてしまったのでは無いかと観ています。

先ずはこのおだしが主張している2つの説はどこから考察しても矛盾があり、鎌倉幕府の地頭が居た越前から足利氏の斯波氏に越前は変わったのにその間何をしていたというのでしょうか。
重盛ルーツ説は搾取偏纂の疑問矛盾だらけですから通説でもどの様な根拠か不明ですが否定されているのです。
(参考 清盛−重盛 教盛−通盛 教盛は清盛の弟)
しかし、本論の「平通盛」の「美濃平氏」説では無理が生まれません。

「美濃検証」
更に詳しく家紋考証から「美濃検証」を進めます。
本来「たいら族」は「阿多倍−国香−貞盛」から始まり「伊勢平氏」(維衡が伊勢半国司に任じられる)と呼ばれる頃から本拠地の伊賀地方に居て、その勢力は北部に向かいその隣には後に「美濃平氏」の通盛支流末裔が定住し、1100年頃には「関東平氏」は常陸、上総、下総から美濃に引き上げて来ます。「美濃平氏」は「美濃源氏」本流と「土岐源氏」を凌ぐ勢力拡大を図ります。

ここで「美濃平氏」と「美濃秀郷流青木氏」との深い付き合いが浮き彫りに成るのです。
この時期に「美濃平氏」と「藤原秀郷北家一門」との血縁関係が盛んに行われます。
(北家秀郷一門の主要5氏の内3氏の13家13流が発祥します。)
最終、「美濃源氏:行家」の本流は滅亡し「土岐源氏」も圧迫され衰退し、宗家源の頼政の「以仁王の乱」を切っ掛けに最初に攻め落とされた「近江源氏」と合力して最後の決戦を挑むのですが、敗退し遂に遺された3源氏も「近江源氏」と「美濃源氏」と「尾張源氏」は滅亡するのです。
この「美濃平氏」は凡そ美濃には170年間位定住していて、この内1160年の後半50−30年が「平氏の拡大期」でもあり「美濃の拡大期」でもあったのです。
この期間が下記に示す「50-30年」の期間で、この間に藤原氏北家筋とも家紋考証でも見られるように盛んに血縁をしているのです。

「家紋が生まれ使われた時期は何時」
そこで、先ず家紋考証するに際して参考として、そもそもこの文様は御簾の周囲に施した刺繍の布巾「帽額」(もこう)に付けられた文様が独立したもので、木瓜や胡瓜をせん断した模様の切り口とされていますがこれは間違いで、そもそも歴史は中国で「果紋」と呼ばれ、唐の時代に官服として袖口に刺繍してその職位をあらわす文様でした。
これが奈良時代に使用された衣服や車紋や家財道具などに見られる物で、特に保元・平治の頃に多く利用されたのものなのです。資料からこの文様が最初に使われた時期は1156年に観られ「公家徳大寺氏」(藤原氏北家)の車紋に使われたとされています。
とすると、家紋として使われた時期は徳大寺氏の1180年−85年代であります。
この時期は綜紋「揚羽蝶紋」の平家一族が「美濃平氏」(織田氏)の支流まで家紋が定まっていたかは検証する必要があります。
これは象徴紋から家紋として発生した経緯と年代と氏数から明らかに成る筈です。(下記)
そうなると、この家紋が生まれた時期は何時になるのか””この文様を使った時期は何時になるのか”という疑問が湧きます。
当然に「美濃平氏」の末裔が本格的に使った時期は「平家滅亡」後の各地に姓氏が多く発祥した時期と成ります。(平家滅亡前には織田木瓜紋は使用されておらず「五つ木瓜紋」は使用していた事が証明出来ます。)
「織田木瓜紋」としてのその時期は室町期の「下克上」の頃が適切で1300年頃前後からと成ります。

次ぎに資料から越前朝倉氏が1335年頃後半にこの「菱木瓜家紋(3文様)」を正式に使用した記録がありますのでこれから考えると、少なくとも上記の1300年が妥当な時期と成ります。
この間、このグループの「美濃平氏」、つまり、「美濃守備隊の平氏」と「美濃に居た通盛系の平氏(後の織田氏)」等は、「越前−美濃−尾張−伊勢東」のライン域の山岳部(家紋分布)に先ず逃げ延びて、後世から観てこの家紋に関る何らかの職業(殖産と陶器家具等)に関り一致結束して隠れて生き延びた。
ほとぼりの冷めた頃、再び元の武士の力を盛り返して来て農兵をしながら仕官口を探して各地を農兵として転戦して行くうちに、一部の「美濃平氏」は織田(斯波氏)に仕官口が見付かり、その後土地の土豪として定着し農兵から武士に戻ったと観られます。
この時が室町期初期(南北朝期前後)で、仕官口が当時の足利氏であって勢力を拡大していた斯波氏に見出され「美濃平氏」の一族は家臣と成ります。
これは斯波氏の経歴と一致します。
ところで室町期初期から斯波氏は各地に勢力を広めましたが、足利氏系斯波氏の領国間運営は「守護代方式」を11国に採用したのです。
拠って足利氏の急激に増える領国の家臣が大量に必要に成ります。
(斯波氏11国 越前、若狭、越中、山城、能登、遠江、信濃、尾張、加賀、安房、佐渡)
それも陸奥から始まり九州までに及んできますので1農兵の単位では間に合いません。
(斯波氏は陸奥斯波の地名から名乗った)
そうなると、「即戦力」として平家滅亡の各地に飛散隠遁している平氏に目を付けることに成ります。
この事が「斯波氏の思惑」と「美濃平氏の思惑」が一致していたのです。
「美濃平氏側」からすれば、”斯波氏が兵をどこそこで求めている”と云う噂を聞きつけます。そうすると農兵をしていた美濃の一族は挙って集まります。丁度、その土地が斯波氏の越前で求めていてそこに駆けつけて一族が農兵と成って大活躍をし、その元武士の実力の「即戦力」から「斯波氏の信頼」を一挙に得たということに成ります。
現実に斯波氏の記録から、斯波氏は戦力の中でも「美濃平氏」のこの一団に対して目を付けて便利に各地に連れ行った記録が残っています。つまり、「即戦力」に成ったからです。
その為に守護代になるのが遅かったのです。普通ならそれだけに「即戦力」の実力があったのなら朝倉氏の様にもっと早く1310−20年頃には守護代に成っていた筈です。
しかし、斯波氏にとっては「信頼でき即戦力」となれば勢力拡大著しい時期の斯波氏にとっては喉から手が出る程に必要としていて、守護代として固定させる訳には行かなかったのでしょう。
しかし、斯波氏はその代わり40年後に越前などに比べて尾張の温暖で主要な穀倉地の守護にします。

当時、この様な農兵を集める仕事をする専門の斡旋業が横行していて、「斯波氏」や「美濃平氏」双方からこの斡旋業に繋ぎを求めていた可能性があります。
筆者は考えるには、1300年頃に越前で朝倉氏等が斯波氏の守護代に成っていますが、1250年頃に「美濃平氏」の別働隊(美濃守備隊か通盛末裔隊−3集団の第2集団)が鎌倉幕府が傾き始めた時期の早期に動いて先に仕官口を得たのではないかと推測しているのです。
それは、諸説ある朝倉氏等の家紋がこの木瓜紋類(菱木瓜、三つ盛木瓜、一つ木瓜 :四つ木瓜紋は疑問)であるからなのです。同じ文様である事は見逃すわけにはいかない要素です。
そこで織田郷の「美濃平氏」の土豪一族は家紋として関った職業と口伝から「徳大寺木瓜紋」(四つ木瓜文様)から「何らかの経緯−血縁」を経て、案じて「織田木瓜紋」(五つ木瓜文様)に成り、それを使用したと考えられますがその検証が必要ですし、又”案じたのか始めからなのか”も家紋考証で見てみますとこの2つの答えが出て来ます。

「何故木瓜紋にの経緯と理由」
ここで先ず、先に問題は”何故木瓜紋にしたか”の経緯と理由です。
この紋には実はそれなりの確実な経緯と理由があるのです。

その前に本論とは外れますが、参考として次ぎの事を知って置くと更に深い興味が湧いてきます。
「美濃平氏」(織田氏)と因縁浅からず越前朝倉氏も浅井氏も織田氏と同じ木瓜文様類を使用している事です。その「ルーツと経緯」が実に酷似している事なのです。
同じ斯波氏の越前から始まった守護代であった両氏には因縁何かあるのかも知れません。
この朝倉氏は諸説紛々で現在のところ定まっていません。
殆どは上記した様に織田氏と同じで搾取偏纂で織田氏より酷い状態ですが、その諸説の共通点を纏めますと次ぎの様に成ります。
「朝倉氏のルーツと経緯」
大化期頃の帰化人・九州出自・神官は共通の通説で、阿多倍が引き連れてきた北朝鮮系後漢の職能集団の「祀部の末裔」と成り、平安期は九州−伊勢伊賀−美濃域の神官であった。 後に「たいら族」の支配下にあった経緯を持つ事。平安末期は美濃に居た事。 鎌倉期に武士に転身した事。 前身は日下部氏ら3氏(伴氏、紀氏 飛鳥期からの5大氏 3氏とも後付の木瓜紋類 伴氏は九州の弁済使)の枝葉説である事。
この朝倉氏の事を背景に考察すると、少なくとも織田氏は阿多倍一族一門の「たいら族」かその配下の技能集団の出自である事が頷けます。
但し、家紋を「五つ木瓜紋」として考証すると「たいら族」の末裔と成りますが疑問が多いのです。
しかし、考証の前提とする物は家紋しかないのです。
朝倉氏は天皇末裔説と阿多倍一族一門の技能集団の祭祀を司る「祀部」の末裔説の2つに分かれます。主張する家紋3種(菱木瓜、三つ盛木瓜、一つ木瓜)から観るとこの家紋は室町期の家紋類ですので織田氏の「五つ木瓜紋」類とは時期が異なります。
朝倉氏はこの矛盾を隠す為に唐突に「四つ木瓜紋」(徳大寺氏家紋)を持ち出しているのですが、阿多倍の技能集団の祀部である事は共通の通説、即ち学説ですから直の「四つ木瓜紋」は室町期中期までは有り得ない家紋と成りますのて搾取偏纂は明らかです。
結局、木瓜紋から観ると、「藤原氏北家の徳大寺氏の末裔」か「藤原秀郷流青木氏」との血縁しかありえませんので、ルーツとしての家紋を観ると、斯波氏の家臣に成った1250年代の朝倉氏の家紋の時代考証が不明不祥なのです。
この考証から見ると家柄は織田氏の方が上である事に成りますが、ドラマや通説などでは数段に朝倉氏の方が上と成っていますが、これは殆ど信用できない天皇説を独自で主張しているからで間違いない祭祀部から観れば(共通説から観れば)織田氏側の方が主君側に成ります。
織田氏と朝倉氏の戦いでは朝倉氏は虚勢を張って肩を怒らし家柄をよく見せての織田氏への態度は、信長がこの事を知っていれば”片腹痛い”と成ります。信長は同格程度に見ていたのでは無いかと観ています。
後勘から云えば家紋考証では”織田氏の方が家柄は上、斯波氏家臣では40年の朝倉氏の先輩””出自経緯からは”織田氏は朝倉氏の主家”と成ります。

朝倉氏の方が配下と云う立場から鎌倉幕府との”しがらみ”が無い為に数段に仕官運動を早めにできた事に成り、50年遅い織田氏は「美濃平氏」の立場を補完する様に遅くなった事が頷けます。
家紋を考慮しないで観てみれば、両氏は斯波氏の経緯から観て”美濃平氏の配下”か”たいら族の配下”と成るでしょう。家紋考証が大きく左右しています。

兎も角も朝倉氏は青木氏とは無関係であるので研究を進めると面白いですが此処までとして、織田氏は青木氏と関係する氏族であり、同じ時代を同じ糧で生き様も似て、生きた氏族で助け合いの絆もあった氏としてこれからも研究を進めます。

話を戻します。
「五つ瓜桔梗紋」の位置付け
この文様が大きな決め手に成るのです。
そもそもこの「五つ木瓜紋」には「7つの酷似文様]があるのですが、それとは別に放置できない極めて又似ている「五つ木瓜紋」が一つあるのです。これが大きな決め手に成るのです。
それは「五つ瓜桔梗紋」です。
桔梗紋は上記した「美濃平氏]と1181年に戦って滅びた「美濃源氏」系支流の「土岐氏」の家紋です。
つまり、既に滅びる前に「美濃源氏」の土岐氏と、上記した北家秀郷一門の3氏の何れかと血縁して「五つ瓜に桔梗紋」が平安期に出来ていた事を示します。
当然に秀郷流青木氏か秀郷流長谷川氏かですが、美濃は青木氏の領域ですので美濃土岐氏とでは地理的に青木氏の方が極めて可能性が高いことに成ります。
そもそも長谷川氏には五つ木瓜紋の単独の家紋はありません。織田木瓜紋のみですのでこの場合は対象外と成ります。また美濃の秀郷流青木氏は特別賜姓族でありますので家柄と有品の位から観て吊り合いは青木氏と成ります。

「美濃の秀郷流青木氏と美濃源氏土岐氏」、「秀郷流青木氏と美濃平氏の通盛系平氏」の2つの関係が「美濃の秀郷流青木氏」を仲介して血縁して互いに血縁により上記した「勢力バランス」を維持していた事を示します。
上記した様にこの様な事が家紋考証から観ると美濃秀郷流青木氏を介して三角形の形でこの美濃の勢力バランスが取れていた原因なのです。

その「五つ瓜桔梗紋」に成る経緯に付いて追記しておきますと、つまり、「五つ木瓜紋」の青木氏が土岐氏と血縁して土岐氏側に「五つ木瓜紋」の青木氏から跡目養子を受けた後にも続けて男系継承の跡目が叶わず両者の家柄(土岐氏が上)から養子側の家紋とせずに「五つ木瓜紋」に唐花部分を桔梗紋にして変紋せずに「副紋方式」を採ったのです。
この方式は藤原氏北家一門の青木氏が家紋掟の仕来りとしてよく使用した方式です。「藤原方式」と呼び24地方で青木氏の本家がどうしても一門から探しても男系継承が困難と成った場合に用いた仕来り手段でした。
宗家本家筋はこの場合2つの方式のどちらかを採用します。一つは上記の方式で、もう一つは主紋をそのままにもう一つの副紋を2つ併用して使用する方式です。
枝葉には夫々本家筋が存在しますが後者を使用する習慣と見られ、前者は宗家筋の傾向を持っています。
(例えば、讃岐藤氏の讃岐の宗家青木氏は「下がり藤紋に雁金紋」、雁金紋は足利氏系花房氏の例 秀郷流賜姓青木氏と賜姓源氏の支流土岐氏は家柄は同格)下がり藤紋の真ん中に雁金紋などを入れて本家筋の変紋を防ぐ方式です。

話を戻して、ところがバランスが崩れたのは常陸等から「関東平氏」が美濃に引き上げてからバランスが崩れましたから、この家紋の血縁時期は1150−60年前後と成ります。
つまり、「五つ瓜に桔梗紋」が存在する限りは「秀郷流青木氏と美濃平氏の通盛系平氏」の血縁は、その家紋は少なくとも1150−60年前後域と成ります。
1181年で決戦が行われ土岐氏は完全に滅亡したのですから、その後の「五つ瓜に桔梗紋」は存在しない訳ですから、その後も5−7年は「美濃平氏」が美濃を支配していたことに成ります。
従って、この家紋は「美濃平氏」が滅亡前(30−40年)に既に家紋として使用していた事を示します。

従って、結論は「美濃平氏」の織田氏に成った時期には既に家紋は持っていた事に成ります。

それを正式に使ったのは1335年前後(1339前)で、「織田木瓜紋」として一部判らない様に修正したのは1339年頃と成ります。

次第に天下を治めるに当たって美濃の「藤原氏秀郷流青木氏」の支流紋そのままにするには「藤原秀郷流青木氏」の支流族としても、「美濃平氏」の支流一族としても、権威として問題があるとして独自性を強調する意味から「五つ木瓜紋」に見えない修正をかけて去勢を張ったと観られます。

その「7つの類似五つ木瓜紋」即ち、「五瓜に唐花線陵紋」類は、3つは織田氏の本家分家一族、残りは藤原秀郷流青木氏2つ、長谷川氏1つ、永嶋氏1つが使用しているのです。
そこで、類似紋の「3つの織田氏の紋」は美濃平氏の「織田氏の3集団」(下記)に一致し、使い分けしているのです。

「30年間の経緯」
以上は職業紋から考証したルーツですが、滅亡前にこの家紋の主の徳大寺氏、即ち、藤原氏北家筋との何らかの血縁関係(上記検証)から美濃平家支流の越前織田郷に1300年頃に定住した一族がこの家紋を落人時代からも密かに伝承していた可能性が極めて高いのです。

そこで、この家紋の主は徳大寺実能を始祖としていますから、徳大寺氏一族との血縁関係があるとして使用したとした場合、その期間上記の約30年の前の間に秀郷一門と同族血縁していたことに成ります。
これをどう観るかですが、ここでも「美濃平氏3分家」までの藤原氏北家筋との血縁が有り得ない事も有りません。
当時の北家筋とは3大豪族の一つですので秀郷一門青木氏であったとする可能性は上記の経緯からも明らかですが、しかし、支流の「美濃平氏」と直接に京の「徳大寺氏」とが血縁をする可能性がありません。それは地理性や時期性や家柄性や戦略性から平家本家を超えて血縁をする事は氏家制度の仕来りから観て皆無ですので、「美濃秀郷流青木氏」と「美濃平氏本家」との血縁は兎も角も「美濃平氏3分家」までの血縁はこの期間内に果たして有り得るのか疑問なのですが確認は難しいのです。
類似紋とすれば先ずは支流までは無いと考えます。本家の類似変紋にあわせて分家筋が更に変えたのだと考えます。
有るのと無いのとでは美濃平氏の考証関係には問題が無いのですが、この「織田氏3集団」のどの集団が斯波氏への仕官口を掴んだのかが変わってくる問題です。

「4つ木瓜」と「5つ木瓜」の仕来り
それには先ず「4つ木瓜」と「5つ木瓜」との違いがあります。
「五つ木瓜紋」は平安後期のもので平安期には少なかった文様でその文様の元は「四つ木瓜文様」に成っているからです。「四つ木瓜」と「五つ木瓜」は変紋による類似家紋で家紋掟によって分家が起こりますとその分家が本家の家紋を引き継ぐことが出来るかは本家の裁量に委ねられます。
その際分家を興す者が「本家の嫡子と妾子との身分関係の有無」、「嫡子と妾子との親密度の有無」に依って家紋継承の有無が決まります。
本家が容認しなければ類似紋か最悪は別紋という事に成ります。支流化の枝葉が広がるに連れてその可能性は広がります。
「四つ木瓜」より「五つ木瓜」に成る事は上記の2つの条件の何れかが適用された事を意味します。
「四つ木瓜紋」にも類似紋の変紋、「五つ木瓜紋」にも類似紋の変紋がある様にその関係度が判断出来ます。
別の氏が類似紋とする場合は氏家制度の中では争いが起こりますので同じ木瓜文様とする場合は争いが起こらない程度に大きく変紋をする事が仕来りとして要求されます。
歴史資料の中で”提訴したが最終戦いで決着と成った”とする史実もあるくらいでした。
この様に類似家紋に無なっている事は当然に身分家柄の関係が低くなった事を意味しますので、徳大寺氏から観れば直接血縁は有り得ない事に成ります。
これらの仕来りに依って既に「五つ木瓜紋」に成っている訳ですから、秀郷一門の中で起こった類似変紋の過程と成ります。そして、この「秀郷流青木氏の木瓜紋族」の支流と「美濃平氏」の支流とが養子血縁して家紋掟の男系跡目を理由に「美濃平氏」側にこの「五つ木瓜紋」の家紋が発祥した事に成ります。
上記した様な分類からその美濃平氏側でも類似変紋した事に成ります。

又、「美濃平氏」の支流一門として当時の京の平安期の最高権力者の一人徳大寺氏とが身分家柄の吊り合いの仕来りから血縁する事はありませんが、念の為にそこで調べました。
実は上記した中継可能な方法で血縁しているのです。上記した仕来り通りに現実が動いていたのです。
秀郷一門主要氏の中で次ぎの一門が血縁しているのです。
次ぎの3氏です。

青木氏  4つ木瓜、丸に4つ木瓜、・五つ木瓜 糸輪に陰木瓜、横木瓜、丸に横木瓜、
長谷川氏 ・織田木瓜、横木瓜、丸に横木瓜、四方木瓜、、三盛木瓜
永嶋氏  丸に木瓜、・丸に五つ瓜に唐花
以上3氏です

北家は9氏中7氏が秀郷一門ですから、可能性は極めて大です。
「徳大寺氏」の家紋から13家紋と成ります。
北家筋の徳大寺氏と北家筋秀郷一門との同族血縁をしているのです。それも13家に及びます。

その中で本家筋は青木氏の「四つ木瓜」、長谷川氏は無し、永嶋氏は無し
分家筋は青木氏は「丸に四つ木瓜」、永嶋氏は「丸に木瓜」(四つ木瓜は木瓜と同じ)
支流は青木氏と長谷川氏の「横木瓜」、「丸に横木瓜」

直接血縁の長谷川氏の「織田木瓜」紋と成ります。
直接血縁と観られる青木氏の「五つ木瓜」紋と成ります。
直接血縁と観られる永嶋氏の「丸に五瓜に唐花」紋と成ります。

(「五つ木瓜」は判別困難の文様が7つもあり「織田木瓜」であるかは不明。「五瓜に唐花」もこの7つの一つで不明)
青木氏だけが徳大寺氏一門の本家との血縁を幾つも重複血縁の血筋を持っています。
ここでこの事から観て次ぎの2つの関係の可能性が高いと観られます。

A 青木氏と美濃平家(織田氏)
B 長谷川氏と美濃平家(織田氏)

参考として先ず徳大寺氏とは、北家藤原実能が屋敷に小堂を建て徳大寺と名付け出家しその後徳大寺を氏名として名乗ったものです。(徳大寺氏の経歴は下記)

A 青木氏と美濃平家(織田氏)
Aの説から、北家秀郷一門の青木氏との同族血縁(6氏)をし、青木氏に跡目を入れたが男系継承ならずして養子先系列の「四つ木瓜紋」の青木氏が発祥となり家紋は「四つ木瓜紋」となる。この「四つ木瓜紋」に分家支流が発祥し、その分家裔が正妻と妾妻との身分差から家紋掟により「五つ木瓜紋」の青木氏を発祥させて生まれた家紋です。
この美濃の「五つ木瓜紋」の青木氏と「たいら族」(京平氏 桓武平氏、伊勢平氏)一門との養子血縁で美濃の「たいら族」側(美濃平氏)に男系継承ならず家紋掟により養子先家紋の家紋の「五つ木瓜紋」となった。この間30年の期間の出来事です。
しかしその後、「平家滅亡」により美濃−越前付近山岳部に隠遁し職人的糧により生き延びて後、室町期初期の下克上期に再び力を得て越前織田郷の土豪となり勢力拡大を次第に図る。この時、家紋を五つ木瓜紋(5瓜)に戻そうとするが、平家一門であるので敢えて北家紋の「五つ木瓜紋」から一部変紋して美濃平氏系列の独自の「織田木瓜紋」(5瓜紋)とした。そして室町期の公表されている「織田氏の系譜」の人物に入り(最終は斯波氏の尾張守護代)信長の経緯に至る。
以上の経緯が仕来りから間違いなく起こったと考えられます。

青木氏と守護神(神明社)−8に続く。


  [No.275] Re:青木氏と守護神(神明社)−8
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/06/10(Fri) 10:22:12

 「美濃秀郷流青木氏の系列」

では”この美濃の秀郷流青木氏はどの系列の青木氏か”と云う問題がでます。
9系列116氏の青木氏が各地に定住していますが、116氏の中で「五つ木瓜紋」の青木氏ですから先ず美濃の中では9つ系列のどの青木氏かを確定します。
この青木氏は答えから「長沼氏系列−中沼氏系青木氏」(地理分布の詳細下記)です。
A 美濃の地理的条件と時代性の一致度
B 116氏中の「五つ木瓜紋」の位置付け
C 上記した伊勢「たいら族」と「秀郷流青木氏」
以上の3つの関係からも可能性は極めて高い事に成ります。

美濃で伊勢より側と成りますと、下記に詳細を記述しますが、現在の地名で云いますと次ぎの2つです。
一つ目は「愛知県清須市春日中沼」と云う地名があります。
もう一つは「愛知県名古屋市西区中沼町」とあります。(現在と昔との国県域は異なる)

この美濃の伊勢より西側域一帯では、この2地域に「長沼氏系列−中沼氏系青木氏」の秀郷流青木氏が幾つかの家紋を異にして集中して定住しているのです。
この場合は「五つ木瓜紋」とすると主に前者の地域と成ります。
2地域共に近接していますが、家紋での領域が異なっているのです。
この事を証明するものとして実は家紋では無く系譜から次ぎの2氏がこの「越前−美濃−尾張−伊勢東ライン上」に存在するのです。
イ 「織田氏族長沼氏」
ロ 「桓武平氏系長沼氏」

先ず、イの氏はこの「美濃−尾張地域一帯」には長沼氏族主要9氏の一つ「織田氏族長沼氏」が定住しているのです。(長沼氏に付いては研究室レポート参照)
この長沼氏は家紋を異にしていますが織田氏の血筋の入った長沼氏です。
この「織田氏族長沼氏」は「美濃平氏系長沼氏」が正しい表現と成ります。
この氏は織田氏系図に記載があります。
この「織田氏族長沼氏」は後の織田氏が系図を作った時にこの一族の事を織田氏側から命名した事によって呼称されています。
学術的には内容から「美濃平氏系長沼氏」とするべきところですが、織田氏は「越前の清盛-重盛系列」の本筋を元祖として主張している事から、一段下げた弟の教盛系列の通盛の「美濃平氏系長沼氏」とする訳には行かなかったのです。
そこで「織田氏族長沼氏」として虚勢を張ったのです。それも「系」とはせずに「族」とした自己中心的な表現にしたのです。
そして、それもこの「長沼氏」は「永沼氏」と表現されていたのですが、研究に依って「飯尾定宗」の孫「宗康」成る者が「永沼左馬進」と同一人物と学説的に判明したのです。
この者が過去の先祖の血縁した長沼氏(永承の頃1050年頃)を継承して部屋住みから脱して独立し名乗ったもので美濃に定住する一族であった事が判ります。
この者は信長の祖父信定と兄弟定宗の孫に当たります。
ところが秀郷流長沼氏はこの「永沼」を使用していないのです。
後にこの長沼氏系である「飯尾宗康」が「永沼左馬進」を名乗る際に織田氏側がある種の虚勢で敢えて「永沼氏」とした事になります。この事から学術的には「美濃平氏系長沼氏」と成るのです。

次ぎはロの氏の「伊勢平氏系長沼氏」或いは「桓武平氏系長沼氏」です。
これは諸に「氏と地域性」を明確に指定しています。
つまり、明らかに「美濃平氏系長沼氏」なのです。
この長沼氏は「新撰会津風土記」に記述されています。
会津地域一帯に分布していた長沼氏です。
呼称は「たいら族」、「京平氏」を指定し中立的に学術的な呼称を採用しています。
地域を指定していませんが、会津から判断して長沼氏と血縁できる「たいら族」は美濃平氏と成ります。
この血縁の時期は明記していませんが、この長沼氏は鎌倉期直後に会津に来たと記述されていて、その前に”何処かの「たいら族」と血縁して赴任して来て土地の豪族と成った”と成っています。
さて、その”何処か”ですが、下野国結城長沼地区(元祖は長沼五郎家政と解明)である事が文脈から判ります。
この時期に「たいら族」の血筋を得ていた事を意味し、この家政の先祖は伊勢東-美濃-尾張の地域一帯の住人である事が判明します。つまり、この地域の「たいら族」は前記した様に「美濃平氏」だけです。
この2つの「織田氏族長沼氏」と「桓武平氏長沼氏」は結局は「美濃平氏長沼氏」なのです。

前記した様に伊勢北部伊賀地方の「たいら族」の宗家は「北-東域」に勢力を伸ばそうとしていた事がよく判ります。
つまり、「長沼氏系列−中沼氏系青木氏」の秀郷流青木氏の考証は「家紋」と「地理性」と「2系図」から長沼氏本家が率先して長沼氏系列の美濃域の青木氏を援護して美濃平氏との関係を維持しようとしていた事が良く判るのです。
家紋から観て、この2系列の長沼氏からは出て来ないのは徳大寺氏の「四つ木瓜紋」との血縁をしていない事からです。依って織田氏の「五つ木瓜紋」と繋がらないのです。
恐らくこの2系列の家紋は「揚羽蝶紋」を綜紋とする平家一族の家紋群と成ります。
何れも男系継承に依って長沼氏の歴史を持ちながらも平氏族の系列に入った長沼氏であるからです。

「美濃平氏の実態」
ではこの2系列の”この「美濃平氏」とは一体何者”と成ります。
前記した様に滅亡前の「平教盛-通盛系列」の支流平氏である事を論じましたが、更に詳しくは、つまり、織田氏の「美濃平氏」には上記した様に最近判別した資料からは次ぎの「3流」ある事が判っています。

織田氏が主張する搾取偏纂の資料ではなく別の信頼できる資料から観ると次ぎの様に成ります。
「美濃平氏の3つの流れ」
1 清須地域による平家一族 (Aの地域 平常昌)
2 岩倉地域による平家一族 (Bの地域)
3 平左馬頭敏隆を祖とする平家一族(地域不明 平敏隆)

この1、2、3の内、信長は2の系列と云われています。
この「3つの集団」が個別に活動し農兵となり仕官口を求めて越前まで次第に移動し、そして遂に1の集団の「平常昌」なる人物が首領として働き先に仕官口を切り開いたのです。

重要: 常昌は斯波義重の家臣に成る−常昌の子常勝が尾張守護代に成る。

これに伴い2および3がこの配下に入った事に成ります。
1、2、3を加えれば150年間の末裔の枝葉の拡大で大変大きな集団になった筈です。
彼等の末裔数で最低は500とその近隣村の農兵を加えれば最大1000人の兵と成る可能性はありますから、凡そ騎馬将20と云う凄い集団であった筈です。
仕官叶えば「即戦力」があり任せられ直ぐに上級家臣団に成れる力を持っていた筈です。
足利氏の斯波氏であっても勢力拡大期の時期ですから喉から手が出るほどの集団であった筈です。
「兵数」はもちろんの事、「即戦力」に大いに魅力があったと考えられます。
事の次第によっては全国の「たいら族」の残兵に号令を掛けて集めれば一戦国大名の力はあった事に成ります。
この勢力拡大中の斯波氏の家臣に成った人物は「美濃平氏」の初代と観られる人物から9代目の「平次郎四郎常昌」と成っています。
(1300年頃)恐らくは尾張の守護代(常勝)に成った1339年には全てそれだけの家臣団を養える力が付いた訳ですから西国から集めたと考えられます。
(他に後述する尾張尾藤氏系長谷川氏の系譜から証明できる)
この人物(常昌)は信長より10代前の人物であり、この1の美濃宗家は代々隣の総宗本家筋の伊勢守(伊勢北部伊賀地方の守護防御を命じられていた事を示す 清盛の弟教盛の系列子孫であったから信頼があった)であったことが記述されていますので「美濃平氏」であった事を裏付けます。
この人物から9から10代前は丁度1150−70年頃で「平家の最盛期」で150年間程度前と成りますので、それより少し前の時代(1025)の人物まで読み取れます。
上記の検証と150年は一致します。

(参考 長沼氏はこの美濃で青木氏と共に懸命に「美濃平氏」と「美濃源氏」とのバランスを取ろうとして「美濃土岐氏系流長沼氏」が同時期に発祥しています。この美濃地域は如何に微妙な関係地域にあった事が物語ります。)

(参考 この地域の分布 伊勢−美濃-尾張の伊勢よりにも秀郷流青木氏が、美濃三河より東側にも4地域に秀郷流青木氏が、中央部域にも秀郷流青木氏が家紋を異にして存在します。当然に尾張−三河−駿府域にも秀郷流青木氏の定住地があります。 片喰紋など7-8の家紋類群)

この美濃の木瓜紋類の秀郷流青木氏は7つ青木氏が家紋から観て、徳大寺氏一門との血縁関係を持っているので、普通ではないかなり親密な重複で同族血縁・縁者関係にあった事を物語ります。
(氏家制度の中では特に珍しい事ではない。)
この家紋から観て徳大寺氏と秀郷流青木氏とは親密な親族関係にあった事が判りますから、「四つ木瓜紋」か「五つ木瓜紋」の秀郷流青木氏と「たいら族」(京平氏・桓武平氏・伊勢平氏)の「美濃平氏」との血縁があった可能性がここでも極めて高い事に成ります。
しかし、「美濃平氏」側はどの程度の支流分流分派であるかは判別できませんが、「阿多倍一族一門」「たいら族」の東側の最前線ともなれば分派では済まない筈です。
一族の命運に関わる地域であり、清盛の弟教盛の末裔通盛に委ねた事から観て、恐らくは支流の範囲であろう事が判りますし、美濃源氏とのバランスの中で東側前線を護るには弟しかないでしょう。
もしここが破られたら伊勢伊賀の本拠地が前線に成ってしまい、又伊勢神宮のお膝元で争い事の問題を起こす訳には行かない筈です。
源氏、藤原氏、青木氏を巻き込んだ大事に繋がって行く筈です。越前からのライン上にあるこの美濃は護らなければならない一線であった筈です。戦略上要衝の地であります。
だから、美濃がバランスを崩して美濃源氏が動いた時、すぐさま大軍(富士川の戦い等)を動かして騒ぎの源氏を大きな犠牲を犯してでも潰しにかかったのです。そして支流(教盛-通盛)を護る為にもそれを清盛の弟(教盛)の子供(通盛)にやらせたのです。
(越前南-美濃・尾張西一帯の平氏は通常は「美濃平氏」と呼称される 地名も遺されている)

そこで美濃の秀郷流青木氏が現在の愛知県清須市春日中沼地域に定住していた事にと成りますが、その理由はこの木瓜紋の家紋13を観てみると判ります。
使用しているこの文様の地理性は越前(南)−美濃−尾張−伊勢東のライン上域に分布しています。
これは室町守護大名の足利氏系斯波氏の勢力圏(11国)と重複します。
つまり、鎌倉期末期ごろから斯波氏は足利氏の為に勢力拡大で各地に奔走します。
1339年頃が斯波氏の勢力の絶頂期で尾張など2国が転がり込んで来ます。当然に急に守護兵が必要となります。その結果、実力、即戦力のある織田氏を取り立てて尾張守護代に据えたのですが、ところが斯波氏の領国運営の欠点は、一族は京に居て陸奥を始めとする11国に守護代を置いて任し放しにしたのです。この事が原因して最終それが実力が付き主家の云う事を聞かなくなり「下克上」が起こり滅亡したのです。
斯波氏はつまりこの「守護代方式」の欠点に気がついた時にはもう遅かったのです。必死に奪回しようとしますが事は遅し、結局、一番可愛がっていた織田氏に逃げ込み最後は尾張の織田氏に面倒看て貰っていたのです。しかしその織田氏も1554年に謀反します。
織田氏も守護代に成った事から当然に急激に拡大した為に兵を揃えなくてはなりません。
越前(南)−美濃−尾張−伊勢東のライン上域に分布している「美濃平氏」の末裔(3集団)を早急に呼び集めなくてはなりません。
本家、分家、支流、分派、縁者とそれぞれのその村の農兵等も含めて集めて尾張国を戦国時代から護らねばなりません。
一国を護るには常備兵として50騎は最低必要と云われていて、戦い時はその戦いにもよりますが国に依っては100騎は必要とされていてこれは周囲から農兵を集めて来るのです。

この様にして、「美濃平氏」の末裔は、越前−美濃−尾張−伊勢東域に「五つ木瓜紋類」が分布している事は斯波氏の動向に合わせて参戦しながら、仕官口を求めて同じく奔走して仕官口を得て来たことを示す事になります。その中の一つのグループが越前織田郷で(1の常昌)仕官が叶った事を意味します。
その時が丁度1300+30年代となります。このグループが尾張の守護代になるまでに織田一族はこの経路を辿って来た事を示しています。
その為に本家と分家と支庶流のこの3家紋類が分布したのです。現実に織田氏は大別すると3流、細分すると5流と成っています。
そもそも「五つ木瓜紋」の類似紋の元と成る藤原秀郷流青木氏の場合はこの移動経路を辿っていないのです。
秀郷一門は平安期の旧来からの勢力圏が鎌倉幕府や室町幕府に拠って一時は混乱しますが、多くほとんどは「本領安堵」されていたので、仕官口を探して参戦して奔走すると云う経緯を辿らなかったのです。
依ってこの越前から伊勢東までのライン域での分布は「美濃平氏」の末裔等の織田氏3流等の行動分布に一致するのです。この木瓜紋の分布が織田氏の移動経路と成るのです。
( 参考 伊勢の秀郷一門伊藤氏もこの文様です。)
つまり、そもそも藤原氏等の「融合氏」族の出世形態と、織田氏等の「姓氏族」等の出世形態が根本から異なっているのです。
秀郷一門は鎌倉期には失職しますが、戦いに依って失職の憂き目を受けた訳では無く、依然として24地方の勢力は保全されていますし本領安堵されています。
仮に失職したとしてもその土地に新たに守護・地頭として赴任して来た姓氏等の家臣に積極的に勧奨されて成ると云う云わば「勧奨固定型」で、ところが「姓氏」は「移動行動型」と云う事に成ります。当然に家紋も前者は「枝葉伝播」と成り、後者は「移動伝播」が主流と成るのです。

ここで恐らく、確かに150年間の「伝統継承」で「五つ木瓜紋類」(藤原北家筋)である事は確かであるので、織田氏は上記1の藤原説と当初はしたものの上記の様にこの搾取偏纂には無理があるとして、今度は「美濃平氏」側の2の平氏本筋論を引き出して来たが、当時の社会の「家紋考証力」が低く始祖を特定出来ずにこれも1と同じく搾取偏纂をしてしまった事に成ります。
要するに織田氏が主張する1と2の説は論理的に間違いは無いのですが、始祖とする人物特定に搾取偏纂をしてしまった事に成るのです。
上記する様に美濃−尾張の木瓜紋類の秀郷流長沼氏-中沼氏系の秀郷流青木氏(青木氏116氏主要9氏の一つ)であり特定する事が出来るので間違い無い所です。
一方、又、「美濃平氏」支流として、且つ始祖も上記する様に時代考証と家紋考証から通盛系の支流末裔である事も特定出来るのです。
「長沼氏−中沼氏系青木氏」には他に片喰紋と剣片喰紋と沢瀉紋の秀郷流青木氏が定住して居ます。
愛知県清須市春日中沼と愛知県名古屋市西区中沼町の地域に存在します。
この両氏の人物特定はどの年代のところを以って始祖とするかの問題もありますが、1150−70年代の系譜人物で特定が可能と考えますが本論の目的が異なる為に個人情報となり敢えて指定しません。

  「類似7文様の存在」
さて、次ぎの問題は「五つ木瓜」の文様の判別困難な「類似7文様」が何故存在するかです。一部上記しましたが、これを念の為に付加して説明して置く事で確実な考証は観えて来ます。(下記)

B 長谷川氏と美濃平家(織田氏)
Bの説から、直接に「織田木瓜紋」との血縁族を持っている事に成りますが、問題は何時血縁したかその時期が問題です。
”a「織田木瓜紋」と成ってから長谷川氏と血縁時期なのか”
”b「織田木瓜紋」とした長谷川氏の家紋の呼称の時期は何時なのか”
以上と成ります。
平家の支流「美濃平氏」系(尾張)織田氏が「織田木瓜紋」とした後に血縁したとなれば室町期であり本論から除外となります。
しかし、この家紋が「後呼称」の系譜とすれば、青木氏を長谷川氏に置き換えての経緯とすれば青木氏よりより高い可能性が出て来ます。ただ青木氏も「五つ木瓜」紋と血縁していますのでこの「五つ木瓜」紋が「織田木瓜」紋とするかしないか問題はありません。青木氏の可能性は美濃と云う地理性で1150−70代の仲介の史実でも確定していますし上記した事の様に男系継承跡目により家紋変異が起こりますので一致します。
しかし、「たいら族」との関係では長谷川氏の「美濃」と云う地理的要素が青木氏に比べて可能性が低い事が揚げられます、その他は青木氏と同等です。依って長谷川氏の血縁性の必然性が無く成ります。
そこで、念の為に「後呼称」の件を検証しますと、実は後世の「織田木瓜」又は「織田瓜」紋は「後呼称」なのです。これには特別な事情があります。

「織田木瓜の後呼称」
正式にはこの家紋は上記した様に総じて「5瓜に唐花線陵紋」が正しいのです。
ところが、この「五瓜に唐花紋」には素人で判別困難な紋が7文様もあるのです。正直殆ど判別は出来ません。
そこで、その「7つの家紋」(五つ木瓜紋)を使っている氏名をその家紋の前に付けて後で呼称するように成ったのです。
その判別はその「線陵の太さ」と「背景の黒の多さ」に依ります。と云われても直ぐに見分けられない判らない範囲です。
依って、徳大寺氏の家紋も「木瓜」紋とはせずに正式呼称は「四瓜に唐花線陵紋」と呼称します。
そもそも上記した様に瓜や木瓜(ぼけ)を紋様化したものではないので、「唐花紋」が正しい呼称なのです。依って、長谷川氏に付いては「織田木瓜紋」は後呼称なので地理的要素だけの問題です。

美濃には秀郷一門の戦略的な住み分けに依って長谷川氏が少なく、この辺域一帯は上記した様に兼光系3氏(青木氏、長沼氏、永嶋氏)主体ですので、文行系進藤氏と同様に長谷川氏は関東北陸東北域が主体と成ります。従って、長谷川氏との関係は美濃平氏(織田氏)の行動域から判断すると血縁の必然性は無く可能性が低い事に成ります。
平安期「たいら族」の圏域は、当初は関東の常陸と下総域まででしたが、上記した事件より西の美濃域まで引き下がったのです。この地域に定住していた平氏を「美濃平氏」と呼ばれます。
まあ、血縁ともなれば文行系の権域まで伸びる事は問題はないと考えられますが、”平安期末期30年の間にそれがあり得たのか。”と云う疑問が湧きますが先ずはその必然性が無いと考えます。
ところが、ただ一つ大きい当時の可能性が認められるのは「京域での血縁」とすればこの30年の間には充分に考えられます。
秀郷流文行系長谷川氏は北家族秀郷一門の主要5氏の一つですので一門は秀郷流青木氏と同様に「京」に赴任して詰めています。
「圏域の安定や拡大」を目途として地理的に血縁するのではなく、「権力の安定」を図る目的で行った京域での血縁であると考えられるのです。
経緯としては次ぎの様に成ります。
京に居た長谷川氏が「美濃平氏」と養子縁組で血縁をした。しかし、嫡子が生まれず男系跡目が叶わず男系の養子先の家紋の「五つ木瓜紋」「美濃平氏(後の織田郷の土豪美濃平氏支流末裔の氏)」の長谷川氏が新たに発祥した。ところが「美濃平氏」が滅亡して飛散し越前-美濃山岳部に逃げ込み「物造りの技能職」で糧を凌いだが、時期を得て再び美濃−越前域ライン上の土豪となり勢力を盛り返して尾張守護代と成って家紋を上記した経緯で一部修正して類似変紋で「織田木瓜紋」を独自に作り上げた。織田氏の天下統一期に乗じて長谷川氏のこの末裔が「織田木瓜紋」に戻したと考えられます。だから13の家紋のある中で長谷川氏だけ「後呼称」に成っているのです。
但し、この場合は「五つ木瓜紋」の「美濃平氏」が既に発祥していた事に成りますので、青木氏と同じく長谷川氏の中で「四つ木瓜紋」から「五つ木瓜紋」が発祥していた事に成りますが、長谷川氏の中に「四つ木瓜紋」は有りませんので、この仮説は地理的要素と合わせて無く成ります。
結局は青木氏との血縁以外に必然性は無く成ります。

 「美濃での生き延びられた背景」(「美濃秀郷流青木氏の背景力」)
ここで問題なのは、この「たいら族の一部の平氏」が紀州、四国、北九州の地域にに逃げ込まずに、”何故、美濃と云う主要衝の土地で残り無事に生き延びられたのか”が疑問です。
何らかの「背景の力」が働いていなければ少なくとも鎌倉幕府からは逃れて「美濃」で生き延びる事は不可能です。

だとすると、その「背景の力」は血縁した鎌倉幕府の家臣の中でも厳然として幕府に対する威圧勢力を保持していたのは藤原秀郷一門と言う事に成ります。ではこの地域にその勢力を持っていたのは紛れも無く長谷川氏では無く青木氏と云う事に成ります。矢張り地理性を見逃す事は不可能です。
秀郷流青木氏であれば全く問題はありません。
この美濃−尾張に勢力を張っていた秀郷流青木氏は、「系列9氏を持つ中の長沼氏」の血筋を引き継いでいる「秀郷流兼光系長沼氏系−中沼氏青木氏」と、更に東側域にその「支流中沢氏系青木氏」とが主流と成ります。
この青木氏の縁者一族の保護が有ったからこそ「美濃平氏」の支流の「織田氏3集団」が1300年までの間150年間を戦略的に生き延びられたのです。
他の逃亡域では3集団も終結していればいくら山間部に隠遁していても追及の手はめだっ事で免れぬ筈です。つまり背景力を意識して事が彼等の行動が幕府に対して大きくならなければ”この美濃に付いては戦略上鎌倉幕府は観て見ぬ振りをした”と成ります。幕府としても他の逃亡地域と違い藤原秀郷一門の「袋の鼠戦略」にはまる事は避けたいところです。
つまり追求の手を緩めて「坂東八平氏」は藤原氏北家一門の目色を伺ったと成ります。まして秀郷一門の「第2の宗家」ですから指令一つで動きます。まして「116氏護衛軍団の武力専門集団」を相手にするのです。一豪族の武力と桁が違うのです。
家紋から観れば「四つ木瓜紋-五つ木瓜紋の政治的背景とその戦略」(13家紋の威力)がちらついていた筈です。もしそれを鎌倉が犯して強行突破した場合何が起こるかです。それは当然に前記した「袋の鼠戦略」に引き込まれる可能性があったからです。他はこの「袋の鼠戦略」と「藤原秀郷一門の勢力圏」から外れていて鎌倉はつぶれる可能性は無かったのです。
その意味でもこの秀郷一門の青木氏と長沼氏の血縁戦略は利いていたのです。美濃の源平籐と勢力バランスと共に後の鎌倉幕府に対しても、源氏は滅びて立ち上がれなくなりましたが美濃平氏の生き残りには大きく影響していたのです。その証拠があります。
それは「伊勢北部伊賀地方」の「たいら族」の本拠地です。この地域の平氏は逃亡をしなかったのです。
その理由は恐らく次ぎの事に成ります。
一つはここは藤原秀郷一門の袋の鼠戦略の圏域末端のところです。
二つは伊勢の「不入不倫の権」の国で朝廷を重視していた鎌倉幕府は手が出し難かった事。
三つは賜姓青木氏の武力は無視できる範囲だがその「青木氏の経済力」と「伊勢シンジケートの影響力」が大きかった事。
「参考 シンジケートの威力」
(現に鎌倉幕府軍と楠正成の伊勢シンジケート作戦で対10万軍の勝利がある。この時に伊賀兼光は楠正成に合力している。「元弘の役」)
(天正の乱の丸山城の戦いでは2つの伊勢青木氏が率いる伊勢シンジケート作戦でも織田軍に勝利する。)

結局は、伊賀地方は伊賀和紙と伊賀忍者で知られ生き残り、美濃は殖産と織田氏で生き残った事で知られる事に成ります。
そして、皮肉にもこの生き残った2つの「たいら族」は最後は「天正の乱」の戦いで相い戦うことに成るのです。この時、更に皮肉にも伊勢賜姓青木氏と伊勢秀郷流青木氏は共に伊賀を助けます。
この段階で美濃と伊勢の秀郷流青木氏は最早一人歩きした制御の利かなくなった血縁族の「美濃平氏」の織田氏を見放したのです。
しかし、行き着くところは”伊賀は負け生き残り、織田氏は勝ち滅びる”の宿命を負っていたことに成ります。(青木氏と戦った時の大将織田信雄だけは負けた為に信長から追放されて子孫を残す)

この「2つのたいら族」は「2つの青木氏」と大いに関わりその資は「生きる糧」を「殖産物造り」に求めたからなのです。方や和紙であり、方や陶器・家具(家紋から判断 仕官するまで期間150年)であったのです。

他の地域での「たいら族」掃討作戦は執拗に行われた事が歴史史実と逃げ込んでいる山間部から判りますが、伊勢ではこの3つが働き動かず、美濃では越前−美濃間では隠遁逃亡はしたが逃れられ上記する秀郷一門青木氏の「背景力」が作用していたと考えられるのです。

先ず美濃平氏論が間違いはないと云う事と成りますと、後の信長が過去の恩義を忘れて秀郷流青木氏と繋がりを持つ皇族賜姓青木氏を「権威への挑戦」として倒しにかかった事に信長の序しきれない性格(共和性への信念)が垣間見えてきます。
どうしても「3つの発祥源」の「権威の象徴」の「青木氏の存在」と「伊勢神宮の政治的権威」の存在は比叡山と同じく見逃す事が出来ない「挑戦」であった事に成ります。
「4つの青木氏」の関係を持つ側からすると”「伊勢伊賀の戦い」で「たいら族の宗家」を縁浅からずの隣人として助けたのに、更には昔の宗家を攻めるとは恩知らずめ”となりますが、そこがこの世の諸行無常です。
まぁこれが前記した「後漢の民」の阿多倍一族一門の「民族氏」の持つ遺伝子的な潜在的思考原理です。
この家紋考証から「藤原秀郷一門とした経緯」と「美濃平氏とした経緯」の2つが観えて来ます。
秀郷一門とする経緯は論理的にありえませんが、家紋とする「五つ木瓜紋」の「7つの文様」の経緯から観れば関わり具合は否定出来ません。しかし「秀郷一門とした経緯」は「第2の宗家」青木氏として室町期までも一族管理されていますので有り得ません。
家紋から観て関わっている事は事実ですが要は「人物考証」と「時代考証」に矛盾が生まれるのです。また、織田氏系譜から観てその時期の人物を「某」として記し、その後の人物は一門の中に無くその人物の出自は「遺子」(系譜外の不明落子)と成っています。
出来るとすると「美濃平氏とした経緯」の方が可能性があります。確かに「出自」には無理があり「人物」は間違えているが「時代考証」、「地理考証」には間違いはありません。
「人物考証」は恣意的、作為的に違えたのでは無く、設定する際の「考証力」の不足から錯誤したものと考えられます。この部分を修正すれば矛盾は完全に払拭されますので、「美濃平氏とした経緯」は正しいことに成ります。藤原説から平氏説に変更した事には問題は無い事に成ります。
要は「錯誤修正」で収まるのです。

 「類似7文様」
そこで「五つ木瓜の7文様」の件ですが、この元は長谷川氏のところで書きましたが、四つ木瓜の徳大寺氏の支流紋として「五つ木瓜紋」が生まれたものなのです。これが「何らかの理由」(下記)にてその支流関係を表現する為に線陵の太さと黒の領域差で区別したものです。
それが7つ産まれたことに成ります。その一つが上記の経緯から織田氏はこの支流紋「五つ木瓜紋」の線陵違いを付けて「織田木瓜紋」を案じた事に成ります。
元の徳大寺氏の「四つ木瓜紋」から秀郷流青木氏支流の「五つ木瓜紋」は次ぎの家紋と成ります。
1「五瓜に唐花」紋」(主紋)
2「変わり五瓜に唐花紋」
3「陰五瓜に唐花紋」
4「中陰五瓜に唐花紋」
5「石持ち地抜き五瓜唐花紋」
6「丸に五瓜に唐花紋」
7「織田木瓜紋(五瓜)」
別枠「五瓜に桔梗文」

1と2と7は判別困難でこれが更に変化している
3と4は陰紋ですが2つは判別困難
5は丸付き紋で判別が出来ますが1と2と7にも丸付き紋があり判別は困難
別枠は気が付かなければ1と2と7と判別はやや困難

結局、織田氏は室町期の初期に1に対して「美濃平氏」として藤原氏の家紋系列から離れて独自性を出す為に7の文様としたと観られます。
しかし、この様に検証を深く進めると意外なところに「青木氏との関係」が出てくるものです。
故に通説の検証には疑問が多くあるのです。
この様に検証を多面的に進めると青木氏と関わった「信長の生き様」即ち「たいら族」がより鮮明に見えてきます。

この徳大寺氏は下記の経歴から策謀家として有名な一族で、平家との権力保全の為に近づいて行動した史実が多く残っているのです。この事から可能性から観て地理的要件ではなく、京に於ける長谷川氏との血縁の可能性やあの手この手を使い策謀していた事がよく判る様に成ります。
筆者は「秀郷流青木氏」(五つ木瓜紋)と「長谷川氏」との間での養子縁組の血縁が行われ「五つ木瓜紋」に成ったと観ていて、その「五つ木瓜紋」に成った長谷川氏が今度は「たいら族」(美濃平氏)との血縁をしたと観ているのです。徳大寺氏などを介してかなり政略的な血縁を早期に合作したと観ています。
本来の家紋掟に拘らずに”長谷川氏に遠縁の養子の分家を「美濃」に作りそれを更に養子に出す”と云う事を実行したのです。当時には良くある政略結婚方式です。

つまり藤原氏北家秀郷一門の兼光系と文行系から主要氏が代表して「たいら族」との血縁を図ったと観ていて、特に「たいら族」支流末裔の織田信長に関するルーツは文行系長谷川氏にも家紋考証通りにあったと観ています。
青木氏に付いては検証通りで兼光系中でも長沼氏が猛烈に青木氏を補足していた事でもより明白に成ります。

「参考特記 長谷川氏の仮説と検証」
徳大寺氏の経歴を記録して置きますが、政治を自らの手で動かしている事が判ります。
この人物と同族と云えど秀郷一門の「第2の宗家」として繋がり平氏とのバランス関係を美濃で保つには絶対不可欠な人物であった事が云えます。この事から既に先に起こる「源平の戦い」を予想していていてトップの政治家として藤原氏を介在させて何とか防ごうとしていたのです。
ただ地元美濃の平家と血縁する事のみで争いの無いバランス関係を保持する事は無理で、その大元のところ「政治の場」との関係(清盛のたいら族との関係)を血縁保持してこそ成せる業であります。
下記の経歴から明らかに為政者の徳大寺氏はこの「美濃の状況」に対して何かを合策した事は十分伺えます。関東下総から引き上げてきた時から美濃は乱れる争いが起こると見込んでいて何とかおさめる手立てを講じる様に考えて行動している事は読み取れます。又、為政者トップにいる者としてしなくては成らなかった筈です。それが既に青木氏と長沼氏といちぶ永嶋氏もは動いている中でより新たな関係を敷く為にも長谷川氏の血縁の策であったと観ているのです。
つまり、藤原秀郷一門が美濃の周囲を固めている中で、長谷川氏とも血縁関係を作り関東東北関係にも押さえの網を張ったのではないでしょうか。それが、家紋掟による「五つ木瓜紋」では無く「織田木瓜紋」と明確に後呼称で血縁の深さを印象付けたのではないでしょうか。
「後呼称の時期」
そうすると問題は「後呼称の時期」が何時なのかです。
「織田木瓜紋」を作り上げた時期は1300年の斯波氏仕官が叶った時期から織田氏が尾張守護代に成った1339年までの少なくとも40年間の間と成ります。それまで滅亡逃亡期より150年は家紋に関する必要性そのものが無かったのですから、又逃亡中に血縁する事は無い訳ですのでこの期間は外すとして、この40年間に果たして血縁する必要性があるかの問題ですが無い筈ですし京に於いて徳大寺氏の政略はない訳であり鎌倉幕府に成っているのでそのものは起こりません。
そうすると、「滅亡前の平安末期」か「40年後の後呼称」と成ります。
「滅亡前の平安末期」では「織田木瓜紋」が存在しない筈です
下記の経歴から「四つ木瓜紋」から「五つ木瓜紋」の分家が発祥する程度が限界ですので「織田木瓜紋」は有り得ません。この段階では未だ美濃平氏(織田氏)の家紋は「五つ木瓜紋」の範囲です。。(織田姓は1300年まで未だ存在しない) 従って、「40年後の後呼称」と成ります。

「美濃平氏」が再び行きを吹き返して斯波氏に仕官し家紋を必要と成り守護代に成った時期に類似紋として織田木瓜紋を作り上げた。これを観て、美濃平氏と血縁(養子)した長谷川氏の「五つ木瓜紋」の一族は天下を取りそうな勢いの血縁先の縁者の「美濃平氏の織田氏」に合わして一族である事を誇示する為に「織田木瓜紋」に修正したと見られます。そして、後日にその末裔が呼称を織田木瓜紋と呼称するようにしたと考えます。
上記した様に徳大寺氏の政略に依って「五つ木瓜紋」の美濃平氏に跡目養子に入った長谷川氏の者が平氏滅亡を期に実家先を頼り長谷川氏に匿われ一時150年程度を長谷川氏として生き延びるが、「美濃平氏」の宗家が斯波氏に仕官し織田氏を名乗り息を吹き返した事から、「美濃平氏」の跡目養子の末裔一族は再び織田氏に合流したのです。つまり、守護代とも成れば縁戚関係を呼び集めて信頼できる縁戚家臣団をつくる必要性が出ますので、この時、縁戚の長谷川氏は旗下に入ったのではないかと考えます。各地から生き残った平家一族一門を呼び寄せたと考えられます。この中の一つが「美濃平氏織田氏族長谷川氏」の一団ではなかったかと考えられます。そして合わせて「織田木瓜紋」にして一族縁戚である事を誇示したのではないでしょうか。

111氏もある膨大な長谷川氏の資料の中から次ぎのこの仮説を立ててこれと同じと観られる織田木瓜紋とする系譜が必ずある筈として忍耐強く調べた結果、これを発見する事が出来ました。
(「調査」はより「現実性のある仮説」を立てる事が発見に結びつく秘訣なのです。)
この仮説とする長谷川氏は尾張の尾藤氏族長谷川氏である事になります。この「流れ」は秀郷7代目左衛門尉公澄ルーツの末裔となります。この公澄の孫の知昌−知忠より10代目宗重の時に長谷川氏を別にこの宗重長谷川氏を発祥させたものです。
この宗重の枝葉庶流(丹後)15代目宗茂にも別流長谷川氏を発祥させているのです。
この様に長谷川氏は各枝葉のところから何らかの事由により長谷川氏を発祥させている一門の中では特長を持っているのです。
その長谷川氏概流としては7つになるものと観られます。
織田氏、或いは美濃に繋がる長谷川氏は下記の流れのみです。
この流れの末裔守知よりの後は枝葉国であり、矢張り美濃の東隣の尾張(尾藤氏)からの宗重の長谷川氏を美濃に作り発祥させ、上記する「美濃平氏の政略跡目養子」を図ったと考えられます。

実はこの流れに仮説を考証する現象が起こっているのです。
この尾藤氏族長谷川氏系譜には「宗重」から「宗的」までの間の世系が本図から消えているのです。この間年代的に19−20代程度以内と成ります。"消える"というよりは"外す"が表現としては適切で、この尾張尾藤氏の系譜の本ルーツより外し、「宗重」の前の「宗継」で止め、別書で「宗重」を記しそこからこの流れを別に沿えているのです。
この「世系中断」は秀郷一門361氏の中に比較的観られる現象です。恐らく一門はこの仮説の様な「政略血縁」の手法を多く用いていたと観られます。
氏家制度の氏の武家での世襲の仕来りで「嫡子」外は「部屋住み」と成り、分家を興すか、養子に出るか、跡目養子に出るか、別家を興すか、部屋住みで終わるか、僧侶に成るか、武士を捨てるか等に迫られます。当然、藤原氏の場合は家柄が良い為に「政略的な血縁」と云う「道具」に使われる可能性が高い事に成ります。
この「宗重」は次男「部屋住み」で美濃域(場所不明)で藤原秀郷一門の尾藤氏から長谷川氏を継承して興すと成っています。
添書に特定年代が明記している「秀仁」(1312)より7代目前です。つまりこの間(175-196年間)とすると(1137-1116)年頃と成り、消えているのはこの10-20年前の頃に成りますので15として設定すると、1131−1151年頃から「世系中断」と成ります。
この「美濃平氏の政略跡目養子」と成った仮説時期との時代考証が年代一致しますので「美濃平氏の政略跡目養子」の長谷川氏を興したのは「宗重」であると観られます。経緯が完全一致します。
そして上記した徳大寺氏の政略の分家を作った初代は「宗重」で、養子本人は「宗重本人」かその子供の「宗有」が「美濃平氏の政略跡目養子」と成った事に成ります。筆者は「宗有」と観ています。
平氏滅亡後、長谷川氏を頼って逃げこの「系譜の有様」の長谷川氏を遺す形式を採っている事からその長谷川氏は「宗重」のところであるのが自然です。あくまでもこの長谷川氏は美濃の「平氏」族なのですから本来は「平氏」を名乗るが順当ですが、現実、あくまで逃亡なのですから名乗れる事は有り得ません。「長谷川氏」としているのはこの地域では美濃の実家の「宗重」のところしかありません。尾張の尾藤氏と成っていません。
(系譜は本家筋の尾藤氏の中にありますが 尾藤氏族長谷川氏系譜)
依って、「宗有」と状況判断から自然に成り得ます。
完全に時代・地理・経緯状況から系譜はこの仮説に一致します。

又、この流れの長谷川氏の「添書」にある年代からも織田氏の斯波氏への仕官年代とも一致します。
この「宗重」・・「宗的」の世系を本図から外している事は事実なのですが、しかしこの事の表示は系譜上には別書きし「添書」に"宗重―宗的まで世系から中絶し外す"と記されているのです。
これは「美濃平氏の政略跡目養子」に成った事から来ていると考えます。
もし「宗有」が養子であれば「宗重」の長谷川氏は「中絶」と成ります。
故に添書の文と成ったと考えます。
しかし平家滅亡により「宗有」か「有経」が再び藤原一門に帰って来た事で元の長谷川氏を継承した事に成ります。この時「宗重」が存続していたかは不明ですが、この間30−50年ですので「宗重」長谷川氏は生きていたことは充分に考えられます。当然に「宗有」も存命であった可能性があります。そして後、「美濃平氏」が仕官するまでの150年間は長谷川氏で生きた事に成ります。
添書の如く「秀仁」が織田氏本家に1312年に今度は「美濃平氏」として仕官した事に成ります。

平家滅亡からこの上記の「美濃平氏の政略跡目養子」の一族は本家尾藤氏-長谷川氏(駿河−尾張 下記移動経路)を頼って150年間生き延びたとしていますが、この間、尾藤氏族の長谷川氏の系譜の中にこの一族を「一つの流れ」として扱い追加され、その後の末裔は150年間も生活を共にして来た経緯から「美濃平氏族」として扱うのではなく「長谷川氏」として扱われたのだと考えられます。
その時に形式上平氏である事からこの「宗重」・・「宗的」を一応は系譜から消してその系譜の位置に添書で遺したと考えます。
つまり、この「宗重」から「宗的」までが「美濃平氏の政略跡目養子」の一族の系譜と言うことに成りますが、平家滅亡により長谷川氏に逃げ延びて難を逃れた。その後、「秀仁」−「宗仁」の信長仕官まで別系譜の形を保護した尾藤氏族長谷川氏側では採ったものと考えます。
故にこの「美濃平氏の政略跡目養子」の「流れ」の末裔の「宗忠」が1340年頃(尾張の守護代)尾張織田氏本家に仕官しています。これも仮説と一致しますし、「宗仁」も信長に仕えています。
系譜の添書にありませんが、「秀仁」(1312)も美濃平氏が斯波氏に仕官した時期に一致していますので織田氏を名乗った際に戻ったのではないでしょうか。それが以後「守知」も信長に仕えています。その後はこの末裔(秀真)は秀吉の家臣に成っています。

「宗重長谷川氏系譜」
秀郷−・7・−公澄−・?・−知昌−知忠−・10・−「宗重」−・?・−宗有−・6a・−秀仁(1312)−「宗忠」−満兼(1368)−・6b・−宗的−宗仁(1578)−守知−正尚−守俊・

(・・)は添書に明記
・6a・有経−秀光−秀宗−宗昌−宗郷−秀久−
・6b・秀知−基昭−知経−宗茂−宗常−宗的−

秀郷より19代目に当たる宗重なる者がこの流れの長谷川氏を名乗る。
宗有は美濃平氏に跡目養子となる(1131-1151)
秀仁は元弘の役後に越前の織田氏に仕える(1312)
宗忠−満兼は尾張織田氏本家に最初に仕える。(1339-1368)
宗仁−守知は尾張織田信長に最初に仕える。(1578)

「長谷川氏の主家筋尾藤氏の移動経路」
尾張−丹後−下総−駿河−大和−駿河−尾張
尾張は最初と最後に、駿河が2度戻っている事が仮説として重要です。
尾張で尾藤氏を興し、後に赴任により各国守を歴任し最後故郷に戻る。
この間下記の枝葉の末裔国が広がっています。

枝葉国(尾藤氏族長谷川氏を含む全長谷川氏の分布地域 17地域)
丹後、美濃、下総、大和、岩代、越後、上野、常陸、羽後、武蔵、相模、駿河、尾張、越中、紀伊、肥前、越前、
長谷川氏の主要氏 7氏-111氏

この様に織田木瓜紋の家紋考証が同時に美濃平氏の時代考証をも証明するものと成ります。
その意味でも特筆しましたが、ここで「青木氏の生き様」、「平氏の生き様」、この「二つの氏の関わり具合」、対比して「源氏の生き様の欠点」を描き、そこに存在する「生き残れた絶対的条件」を浮き彫りにしたいのです。
それは前回まで論じてきた「物造り」「心の拠り所」「融合氏」の「3つの有様」が左右しているのですが、更に検証を進めます。

参考 徳大寺氏の経歴(政略家を示す経歴具合)
長治元年(1104年)従五位下。
元永元年(1118年:娘璋子が鳥羽天皇の中宮)中宮権亮。
天治元年(1124年:璋子院号宣下)待賢門院別当。
保安3年(1122年)権中納言。
同年に左兵衛督・右衛門督・検非違使別当。
長承2年(1133年:長女・幸子(22歳)を藤原頼長14歳と結婚)、摂関家と関係を強めた。
保延2年(1136年)正二位権大納言。
永治元年(1141年)の崇徳天皇の退位
康治元年(1142年)の待賢門院の出家、閑院流は低迷期。閑院流は異母兄の三条実行。
頼長と親交の実能は、実行を名誉職である太政大臣に棚上げして空席にする。
久安6年(1150年)に内大臣。
久寿2年(1155年:幸子が逝去 頼長から離れて美福門院に接近。
皇太子・守仁(後の二条天皇)の東宮傅。
保元元年(1156年)9月、左大臣。
保元2年1157年正月、従一位。7月に出家して法名を真理。9月に仁和寺の小堂(徳大寺)で薨去。
歌人、家人の西行と親交があった。

「木瓜文様の全般的なルーツ傾向」
実はこの文様を使うルーツには、この衣服や車や家財道具に入れる文様職人に多いのです。そのルーツを調べると綜紋を平家綜紋の「揚羽蝶紋」とする姓氏に多いのです。真偽は別として”昔は平家一門であった”とする氏が多い事に成ります。
つまり、平家一族落人がその技能を活かして平家滅亡後、この技能職人として生き延びたと観られるのです。これは和紙などの殖産物の職人にも観られる傾向です。
そもそも元を正せばその技能は阿多倍が後漢から率いてきた200万人の技能集団が持ち込んだものであり、その宗家の6或いは7代末裔の清盛はこの事を承知していて「たいら族」一族一統の配下の者にまでその伝承を指示していたと観ているのです。
清盛が朝廷内の反対を押し切って「宋貿易」を行った背景には一族一門の配下に荘園時代からのこの昔からの技能集団を抱えていた事を示すものです。
この事のその御蔭でその「技能伝承」が効を奏して滅亡を免れたのです。
ここでも「青木氏」や「たいら族」と比較して、明らかに「11家の源氏の生き様」の拙さが如何に悪かった事が頷けます。清盛は極めて聡明な人物であってこの程度の気配りは出来ていたと考えているのです。
上記した美濃平氏は生き延びられたのであり、全く同時期に生き残っていた3つもの源氏が滅亡してしまうのです。
滅亡しても「美濃平氏」の様に生き延びた氏、滅亡しても「美濃源氏」の様に死に絶えた氏、これは偶然では無い大きな違いなのです。
「美濃平氏」に比べて「美濃源氏」の方が周囲状況から観て殺されると云う事は無かったのですから生き残れる確率は高かったと考えられます。
その差は清盛から絶やさず築かれていた「美濃平氏の技能集団」にあったのです。それは力説する「物造り」なのです。「自力、自立の精神」なのです。
それは阿多倍が定住していた清盛の実家の「伊勢伊賀和紙」の青木氏と関った殖産がそれを物語ります。
5家5流の賜姓青木氏の定住地は全て「5大古代和紙」の産地で、「伊賀の伊勢和紙」を含む「近江和紙」、「美濃和紙」、「信濃和紙」、「甲斐和紙」は夫々特徴ある紙質を持ち1千年の歴史を持つ古代和紙の殖産地です。現在でもこの紙に関る職業の人なら誰でもが知ることです。
これを5家5流の賜姓青木氏に依って「2足の草鞋策」として引き継がれて来たのです。
青木氏は「物造りと2足の草鞋策」が結びついた結果です。
”物を作って売り捌く”の経済理論が成り立っていたからなのです。
全く同じ事が云える「たいら族」一門も滅亡から生き返ったのは、家紋から観ると矢張り「殖産(物造り)と交易」が氏の基本にあったのです。
中でも織田氏と云うキーワードでそれが「現実の生き様」として証明できるのです。
仕官後もこの「殖産(物造り)と交易」が無ければ「家臣の知行」だけでは天下統一まで成し遂げられなかった筈です。普通の見聞きする歴史からするとあまり知られていない事柄なのですが、もう一段歴史を掘り下げると、この「たいら族」配下一門の家紋から見るとこの「殖産(物造り)と交易」の努力があったからなのです。
「信長の派手なドラマティクな行動にスポットライトが当たり過ぎて、この美濃平氏配下の「殖産(物造り)と交易」に当たっていませんが、別の面の「家紋考証」から観るとドラマティクな面が消えて現実の姿が観えて来るのです。
(通説は兎角このドラマティクなストーリーが前提に成っている傾向が強いが現実はもっと泥臭いものです)
「たいら族」には「自力・自立」の精神が一門の末端まで浸透していたのです。矢張り後漢の帰化人の所以です。源氏11家にはなかなか観られない「自力、自立」の精神なのです。
其の証拠には、「義家の荘園拡大」を利用した様に「氏存続」を図ったとしても、この「自力・自立」精神が無くしては鎌倉−室町期には、結局は「坂東八平氏」に滅ぼされるまでもなく、「自然」に或いは「下克上」で滅亡していたのではないかと考えられます。
そして「たいら族」の様に再び各地で末裔が草の根からよみがえる事も無かったのです。

「自力、自立の精神」
考えて観れば、室町期初期の「下克上」の乱世では「自力・自立の精神」無くしては「悠久の絆の青木氏」であったとしても、その結末は「下克上」が起こって無血縁の家臣や民に取って代わられていた事も有り得た筈です。
しかし、「4つの青木氏」の中には「下克上」は起こらなかったのは、この「自力・自立の精神」が原因していたと考えているのです。「自力・自立の精神」(物造り殖産)は生き延びる事の糧、のみならず「下克上」も起さず、更にはより「絆結合」は強くして他氏には絶対に観られない何と「1千年の歴史」を刻む「4つの青木氏」の根幹を構築したのです。
「下克上」は下が上を廃して「氏」または「姓」を維持しようとする事件です。
「上」が長として確固たる「氏姓」を維持する能力があれば「下」はその「氏姓」の傘下で安寧に生き延びて行く事が出来ます。要は「戦国」と云う「姓氏乱立」と「潰し合い」の中での自分の「氏姓がどうなるのかと云う事に対する不安感」に基づいている訳です。
従って、「氏長」が「氏姓」を「自力」で「自立」させられる資質を有している事がその「基本の要件」であり、「2足の草鞋策」はそれを叶えている事に成ります。
故に賜姓青木氏には起こらなかったのであり、「伊勢青木氏 家訓10訓」の「長のあるべき戒め」をくどくどと詳細に解き求めているのです。
その証拠に源氏では僅かに遺されていた最後の支流末孫と観られる村上源氏では「下克上」が起こって室町期に滅亡しています。それは室町期に成っても荘園に頼り「氏の長」としての「自立・自力の資質」が無く「下」が不安となり取って代わったのです。その弱点を信長が見抜いていてそこ突いて滅ぼしてしまいます。美濃平氏の末裔の織田信長はこの「自力、自立の精神」が阿多倍からの「先祖伝来の精神」として遺伝子的に継がれていて、信長に滅ぼされた氏姓にはそこを突かれたのだと考えます。最後に残った伊勢「村上源氏の北畠氏」はその典型的な氏であったのです。学問を主とする貴族型源氏であったのです。この様にこの「自力、自立の精神」の無い「上」の氏も「下」の姓氏も結局は乱世に飲み込まれて滅亡します。

「自力、自立の精神」=「物造り」「心の拠り所」「融合氏」
「物造り」=「2足の草鞋策」 「心の拠り所」=「神明社」 「融合氏」=「祖先神」

この様に「下克上」が起こった社会の中では、平安期では「源氏の実力」と見せていた「未勘氏」が蟻の子散らす様に源氏から離れて行き、遂には「荘園の未勘氏族の反動」が起こり争いで雌雄を決する以外には無く成っていたと考えられます。
義家一門の力は権威に包まれた「名義上の力」であり、現に「たいら族」を破った義経の2万の軍でさえ「頼朝との争い」で御旗を失えば「くもの巣」を散らす様に2000を遺して飛散してしまっているのです。
1198年には源氏11家もあった同族の源氏は「氏の運営」の悪さで全て滅亡しています。1氏も蘇る事も無く完全滅亡です。
支流と見られた僅かな掃討作戦で逃れられた支流傍系末裔も上記する「下克上」で滅亡して「氏」は当然「姓」も滅亡してしまったのです。
残るのは前回までに論じた「荘園制」での血縁性の無い「未勘氏」と血縁性の薄い「傍系氏」です。
現在、ドラマ等で通説と成っている「源氏」と呼ばれている足利氏や新田氏や武田氏や多田氏や太田氏等はこの「未勘氏」か「傍系氏」であり、室町期の混乱期に名乗った氏で少なくとも家紋が異なり宗派や系譜にも疑問があり正式な源氏ではないのです。足利氏や武田氏は間違いなく傍系です。
上記した様に織田氏等の「たいら族」の例に観る様には源氏に「生残れる術}=「自力、自立の精神」=「物造り」「心の拠り所」「融合氏」は無かったのです。
少なくとも平安期の氏家制度の中では「総宗本家」から認められる必要があるのですが、上記の氏源氏と目される一族にはこれが現実にはありません。つまり、家紋の異なる勝手かわずかな縁で名乗った氏なのです。徳川氏等はその最たるもので見え見えで甚だしいのです。

因みに徳川幕府開府の際に朝廷から認められなかった明確な経緯があるのです。
朝廷は経済的圧力に屈し取り敢えずは「征夷大将軍」の呼称は渋々認めはしたものの義家から名乗る事に成った「武家の棟梁・頭領」は認めませんでした。結局、「武家の長者」で妥協したのです。
又源氏を名乗っていますが、足利氏も同様の事が起こり認めはしたものの正式には、そのルーツには2流あって本流の宗家は陸奥の花房氏で秀郷一門と血縁した血縁族で、その後、信濃足利の土豪となり土豪足利氏を名乗り勢力拡大したのですが、この「陸奥花房氏の姓氏」の足利氏が云う事を聞かない為を理由に藤原秀郷一門がこの宗家を難癖をつけて廃嫡して、断絶した分家筋を持ち出し其処に秀郷一門より跡目を入れて立てたのが後の足利氏で藤原氏の秀郷血筋を受けた所に後に源氏頼光系の跡目を入れ足利氏の元を作り出したのです。直系源氏子孫では仕来り外の氏と成り宗家認証は無く当然に家紋も異なる事に成ります。(元の花房氏系足利氏は米子、八頭に逃げて定住します。)


青木氏と守護神(神明社)−9に続く。


  [No.276] Re:青木氏と守護神(神明社)−9
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/07/07(Thu) 10:00:47

「武力的背景」の「抑止力」
「2足の草鞋策」の「経済的背景」
いつも思うのですが、何故間違った通説が実しやかに起こるのかは実は腹立たしいのですが、”虚偽でも時間が経てば虚偽で無くなる”はこの世の傾向 そこを他面から史実を積み重ねて解きほぐすのが面白いのですが。古来よりまともな資料に書かれている”後勘に問う”があるのは昔も同じ事を感じていたのですね。しかし、青木氏とそれに関る氏に対しては”後勘に問う”では困るのです。

結局は「未勘氏」によって支えられていた「名義上の権威」(源氏)ではその平安期と云う体制が維持されている間は勢力と見なせますが、「鎌倉」と言う体制になった時点では滅亡以外には無かったと観ているのです。この世は”権威が無くなれば取り巻きは霧散する”は常道です。
まして、室町期の「下克上」では、尚更に「未勘氏の動向」が左右しますので生き残りは無理であったと確信しているのです。
足利氏でさえ幕府開幕以来6つの家臣が力を持ち思う様に動かす事は出来なかった事からも如何に難しいかは判ります。
この事から考えれば幾ら皇族で「不入不倫の権」が与えられていたとしてもその気になれば潰されていた事は青木氏と源氏でも明らかです。
生き残れたは「2足の草鞋策」と云う「自立策」が源氏と違っていた事に成ります。ただ、これだけでは生き残りは無理で、「氏家制度」の社会の中では何らかの「武力的背景」を獲得する絶対条件が必要です。
この「武力的背景」の「抑止力」が無ければ、恐らく、隣人の「民族氏」の「たいら族」(京平氏・桓武平氏・賜姓平氏)にでは無く、源氏の様に、賜姓青木氏も第7世族の「ひら族」の「融合氏」の「坂東八平氏」に潰されていたと考えられます。(「たいら族」とは隣国で且つ「殖産・物造り 伊賀和紙」で親交が深かった)
それも自前の「武力的背景」を保持していた場合では「戦い」に誘い込まれていたと考えられます。

ただ「伊勢シンジケート」の反抗力では潰されていたかは判断が難しいところだと考えますが、「坂東八平氏族」と対峙する「武力的背景」とも成れば、「青木氏」も源氏の様に「未勘氏族」を味方にする結果と成った筈で源氏と同じ経緯を辿る羽目ともなりますし、室町期の「下克上」が起これば「武力的背景」に頼り、結果として「生き残り」は無理と成った筈です。
では、実質に抗する戦力と成る軍事力が殆ど無かった青木氏にとって、この「武力的背景」とは当然に「抑止力」の事であり、その「抑止力」は「2足の草鞋策」の「経済的背景」に裏打ちされていなくては成りません。
幸いに「青木氏」にはこの「大抑止力」には2つあったのです。
一つは血縁族の「藤原秀郷流青木氏の力」であります。
一つは経済的背景を基にした目に見えない影の「シンジケート」であります。
この2つがあったと遺された記録から考えているのです。
この5家5流賜姓族の「シンジケート」の件は遺された資料の史実から明治期の関西で起こった大一揆(伊勢暴動など明治4−9年の3騒動)まで維持されていた事が判っています。
この時代まで続いた事から観てかなり大きく堅実な組織であった事を物語ります。
記録から760年は続いた事になりますが、この年数から観て最早単純なシンジケートではなくかなり「家族性」を持った「陰の力」であった事を物語ります。

(これだけの長期間を堅持している処から、女系による血縁性は充分に考えられるが記録が発見出来ない。その存在意義を保つために故意的に遺さなかったと観られます。シンジケートと云う形態体質上、遺すと同族間の勢力争いが起こる 全ての関係をフラットに保つ必要がある為)

これは青木氏にとっては源氏の「未勘氏」の位置に相当するものでありますが、その関係する質的なものが青木氏の生き方と共に全く異なっていたのです。
社会体制が変わった明治期に入りその質的なものが変化した模様で、明治35年を境に解散しているところから、「伊勢-信濃シンジケート」はその特長を生かして多くは「商い」を補足する主に運送関係(陸海)に従事した模様が読み取れるのです。

さて、問題は秀郷一門に裏打ちされた「秀郷流青木氏の抑止力」の検証です。
それは下記に記する「青木氏の血縁状況の考察」で証明されるのではと考えているのです。

「抑止力」の検証
その前に、「抑止力の相手」の「ひら族」(坂東八平氏)は、元を質せば両氏共に奈良時代の「皇族第7世族」(ひら族)と賜姓青木氏の「皇族第2世族」との差です。
つまり、「源氏滅亡」では”奈良時代-平安初期の「皇族第7世族」が奈良時代-平安中期の「皇族第2世族」を潰した”と成るのです。
「ひら族」「第7世族」、即ち「坂東八平氏」は「源氏」を表向き先ず祭り上げて置いて、裏で潰す戦略に出たのです。ですから、鎌倉幕府には源氏を登用せずむしろ排斥し潰しやすくしていたのです。
それにはこの戦略を見抜いていた義経や伊豆大島氏を闇夜に襲うと言う戦術を露に使ったのです。
「坂東八平氏」にとっては、源氏跡目が入っている賜姓青木氏に付いても同じ考えの中にあった筈です。「武家の頭領・棟梁」の「源氏の幕府」が源氏を登用せず、排斥し、源氏を夜襲する等頼朝や義経に限らずどんな人物でも坂東八平氏の本音は何処にあるかくらいは直ぐに判る事です。
ましてこの行為は未だ幕府を開く会議の最中に起した事件です。
この現象を「民族氏」や「融合氏」の他氏から観れば、”皇族出身者で潰しあった”と受け取られます。
だとしたら、室町期の信長の様に信長の立場から観れば、”我々では問題ないだろう”と成ります。
故に通説の通りの”信長異端児”とする事には、多少の強引な傾向があった事は認められるが、全面的な事としては疑問を感じるのです。
だから信長が”「権威に対抗する行動」”を採ったとしても、同じ様な事を鎌倉幕府の「坂東八平氏」も行っていたのです。まして”「権威の象徴」の皇族出身者同士の潰しあいではないか”と成り、”信長異端児”とする通説には興味本位の云い過ぎと成ります。
何はともあれ、そもそも”主君を倒しての「下克上」”がこの時代のこの最たる争い事で、現在からの思考原理では”信長異端児”と観えても、この時代の思考原理からにすると普通であり、それは言い換えれば「権威への挑戦」に他成りません。
(通説の大きな欠点はこの時代の思考原理差の考慮なしの説になっているものが多い事なのです。)

鎌倉時代の「坂東八平氏の脅威」や、室町時代の「織田信長の社会への挑戦」の社会環境の中では「賜姓青木氏の盛衰」にとっては、「賜姓の権威」「源氏の跡目」等が付け添えられている事はそもそも「無用の長物」であって、その為に”極めて危険な状況”に落ち至っていた事に成ります。
取分け伊勢青木氏と信濃青木氏は「清和源氏頼光系の跡目」が入っている事に成る訳ですから、彼等が源氏を討ったとしてもそれだけでは終わらない極めて危険な位置に青木氏は置かれていた事に成ります。11源氏が「坂東八平氏」と「美濃平氏織田信長」に依ってその末裔は掃討作戦で全て潰されたのです。"賜姓青木氏は関係ない"とする事には何の保障も有りません。

現実にこの事の史実として2度歴史上で有名な事件が起こっているのです。
その一つが「美濃平氏織田信長」なのです。もう一つは「徳川家光」なのです。
この二つとも歌舞伎に成っています。
「権威への挑戦」事件1
「美濃平氏織田信長」が信濃に入って謁見した際に信濃青木氏の末裔が下馬せず白馬に乗り白の装束で乗馬のままで挨拶したとして烈火の如く怒り末裔をその後末梢させてしまうと云う事件が起こります。
これは皇族賜姓族等の「有品の氏」が執る正式な挨拶儀礼なのですが、平家の支流末裔の織田家の信長は武家である限り、この最高の挨拶儀礼を知らない筈は有りません。
恐らくは「有品の儀礼」が「権威の誇示」として受け取り知った上で衆目の前で敢えて潰す事を前提に否定する姿勢を見せたと観られます。
「織田家」は「美濃平家」の「織田木瓜」の家紋ですので、「有品の位」(美濃平氏本家は従五位下)では家柄として低くない氏でありますので、通説と成っている”知らなかった”は考え難いのです。
源氏の跡目を継承している信濃賜姓族を潰す目的があったからで、この行動、即ち「権威への挑戦」に出たのです。結局、その信濃の賜姓族は伊勢青木氏との「シンジケート連携の保護」と「信濃古代和紙による2足の草鞋策」で再び直ぐに息を吹き返し一時宗家衰退はあったが生き残ったのです。

「権威への挑戦」事件2
伊勢では、「坂東八平氏」からは「秀郷流青木氏の戦略的抑止力」で何とか生き残り、「織田信長」からは小さい勢力でありながらも「3つの発祥源」の「権威の象徴」として警戒されて、直接3度「伊勢信濃天正3乱」で戦っていますが2度勝利しています。この2度の戦いは伊勢と信濃末裔の密かなスクラムを古くから組んだ「伊勢−信濃シンジケート」と「伊勢長島の秀郷流青木氏の援護」で生き残ります。
最後の戦いは伊勢では秀吉に命じられた藤原秀郷一門の「蒲生氏郷との戦い」で「恣意的敗戦」をし新宮に落ち落延します。しかし、1年後に蒲生氏郷に松阪に呼び戻されます。
明らかに蒲生氏郷は秀郷流青木氏の仲立ちで青木氏を助けた事が判ります。
蒲生氏郷は秀郷流青木氏との強い血縁である事、又その上に松阪に政庁城を建設し特別に「家臣扱い」として「侍屋敷・99区画」の内の2区画も与えられる厚遇を受けている事からも秀郷流青木氏一門から保護を受けていた事がよく判ります。(融合青木氏が存在し血縁関係にあった)
(松阪には城を築いては成らないとする平安期の仕来りがあった為に蒲生氏郷はヨーロッパ風の政庁方式を採用した。)
(伊勢の青木氏は江戸から明治まで江戸幕府に同じ扱いで維持されている 家臣ではないが「紀州藩建て直し」や「吉宗享保の改革で勘定奉行布依扱い」として貢献)

現実に無傷で5家5流賜姓青木氏が生き残れているのはこの秀郷流青木氏の存在が大きかったと考えているのです。
(蒲生氏郷経歴:伊勢大河内城1569 伊勢長島攻め1574 伊勢松ケ島12万石1585 伊勢松阪城1588)

「坂東八平氏と秀郷流青木氏の戦略関係」 
平安期後半は「たいら族」の圧迫に喘ぎながらも耐え忍んで来ましたが、平安期に於いては「青木氏」には「天皇と朝廷の権威と保護」が働いていましたが、それが無く成った室町期には「自立」が余儀なくされ経済的には「2足の草鞋策」で生き、裏ではシンジケートを固めて身を護りました。
しかし、がそれだけでは行かないのがこの乱世の厳しさであります。
秀郷一門取分け「第2の宗家」を務める「秀郷流青木氏の背景」がこの様に大きく影響していたと観ているのです。
それは武蔵入間を中心に神奈川横浜を半径とする円状の圏内にいる秀郷流青木氏の位置が坂東八平氏の地理的な戦略的背景が左右していて彼等は手を出せなかった筈です。
坂東八平氏が勢力を大きく拡大してその全ての力で幕府が開けた訳ではないのです。
彼等の周囲は秀郷一門の領国に囲まれているために彼らを味方に引き入れる以外に幕府を鎌倉に樹立させる事は出来なかった筈です。そこで彼らに藤原秀郷一門と戦う力があるのかと云う事に成りますが、彼らには無かったのです。それはあくまでも鎌倉軍は頼朝の頼信系源氏の荘園の「源氏の未勘氏の集まり」であったからで「坂東八平氏」が顎で動かせる軍の実態ではなかったからです。
そもそも関西で起した源平の2回の戦いには現実には「軍監の坂東八平氏軍」は動いていないのです。
上記した荘園制の副産物の「未勘氏軍」「日和見軍」に他ならないのであって、故に義経や大島氏が主張していた藤原氏を背景とした確固とした「源氏軍の創設」と「源氏主体の幕府の創設」を主張したのです。その上で「朝廷の院政権威」と結びつくことが狙いであって「坂東八平氏」にとっては相容れない考え方であったのです。
源氏に取って代わるだけの「皇族朝臣族」として幕府を開ける立場にある賜姓青木氏はたとえ小さくても源氏に取って代わる危険極まりない存在であったのです。賜姓青木氏にその気が無くても担ぎ上げられると云う危険性は極めて高かったのです。
東海の海側が「東八平氏」の勢力圏域です。これを取り囲むように「東山道」を東は常陸−西は美濃のラインと、背後は越後−陸奥−出羽の秀郷の勢力圏域で押さえ込まれていれば、この様な事から戦うことは現実的に無理で味方に引き入れる戦略しかありません。
現実に平泉を落としたとしても勢いに乗った鎌倉軍は川を超えても深追いせずに直ぐに鎌倉に引き返したのです。もし、平泉の藤原氏が潰れかけ東山道域を勢力圏としている秀郷一族一門がこれに加わった場合は地形から戦略的に袋の鼠です。
これには「坂東八平氏」は更に「2つの弱点」があったのです。
一つは独自の水軍を持っていない事で背後を突かれた場合弱い事、
もう一つは下総上総の右翼と美濃−信濃の左翼が弱かった事です。

ただ問題は、この弱点に加えて頼朝が一層拡大に向わせる彼等秀郷一門の「旧来の土地」を「本領安堵」してしまったことが計算外であったのです。
頼朝にとってはやむ終えない措置であった事は頷けますし、この事から推測すると坂東八平氏の嫌がる事、或いは弱点を頼朝は実行したのですから、本音は義経と同じ考えで有った筈です。
自分はしがない「浮き草」である事くらいは聡明な頼朝であれば理解していた筈ですし、ましてこの2つの弱点は知っていた筈です。
せめて、滅ぼした「たいら族」の土地を余り戦功の無かった「ひら族」の「坂東八平氏」に残しておけば良かったのですが、頼朝は判っていて敢えてこれも「平家没官僚策」として元の持ち主に返してしまったのです。当然、それは美濃より東の各地に位置していた秀郷一門にです。
これは頼朝は「藤原秀郷一族一門」を味方に引き入れるには戦略上返さざる終えない立場にあった事を物語ります。また自分の身を護る為にも「秀郷一門の抑止力」を必要としていた事に成ります。
「頼朝」と「坂東八平氏」の激しい「鍔迫り合い」が起こっていた事が判ります。
結局、関東の秀郷宗家の政光(親)−朝光・宗政・朝政(子)等こぞって2度の「本領安堵策」と「平家没官僚」で勢力を復活して頼朝に仕えます。
これが「藤原氏を背景(抑止力)にする頼朝の狙い」であったのです。
だから、危険承知の2度もの「本領安堵策」と「平家没官僚策」なのです。
これでは「坂東八平氏」とっては弱点が更に弱点と成り、戦略的に最早、秀郷一門には一切手を出せなくなります。
この事から、結果的に源氏頼光系の跡目を入れている”4つの青木氏は難を逃れられた”と考えられます。義経や大島氏に夜襲をかけ、はたまた平泉を攻めたくらいです。”その青木氏を潰す可能性は充分にあったのでは”と考えていて、「頼朝の秀郷一門の平泉攻め」は本音ではなかったが”坂東八平氏に押されてしまった。”が真相ではと考えているのです。
そのためにも「本領安堵策」と「平家没官僚」で何としても武蔵入間の一門を温存して保護する為に身の危険も顧みずに遂に「対抗策」に出たと云うのが真相では考えているのです。
そもそも考えて見ると、何も平安期よりも秀郷一族一門の彼等の所領(武蔵・下野・上野)を大きくする必要は無かった筈です。それをわざわざ大きくしている(常陸・上総・下総)のはまさしく「頼朝の本音」の現われです。
特に、その安堵内容が史実として遺されている事として、頼朝に合力する彼等の条件として提示したのは旧領「下総安堵」で中でも「下総結城」です。彼等は旧領下総結城に拘ったのです。
現実に、その後、この下総結城に配置した結城氏(後に永嶋氏を名乗る)が著しく勢力を拡大して「関東屋形」(佐竹・宇都宮・小山・永嶋)と呼ばれるくらいに関東を押さえ込んだ重要拠点なのです。
秀郷一門が拘った下総結城は勢力拡大には欠かせない要衝の地であった事に成ります。
当然に「坂東八平氏」にとってもこの下総結城の位置は東の戦略上要衝の地であったところを藤原氏に抑えられたのです。これでは東西北を袋の様に藤原氏に抑えられた真に「袋の鼠」なのです。

この苦しさから坂東八平氏は秀郷一門の血筋を引く足利氏を何とか潰そうとして北を開こうとしますが成功しません。しかし、最終北条氏の執事の足利氏への裏切りで幕府は潰れることに成ります。
「元寇の役」が衰退の原因として通説に成っていますが、元よりこの秀郷一門の「袋の鼠戦略」がじわりと効を奏したのです。
(足利幕府に成ってこの孤児であった執事は足利氏の執事に成り、伊勢北部伊賀地方を知行地として「たいら族」に代わって与えられます。)

「坂東八平氏」からすれば、本来で有れば「源氏根絶やし」の仕打ちが「戦国の世の習い」であり、これは有り得ない出来事だった筈です。しかし、秀郷一門が頼朝に取らした「袋の鼠戦略」の結果、「坂東八平氏」は気に成る「青木氏」に対しても手を出す事が出来ずに「融合氏」として生き延びられているのです。
もし、「青木氏」に手を出した場合はこの「袋の鼠戦略」が動き反って自暴自棄に陥ります。
現実に、「坂東八平氏」は支流北条氏の「傍若無人な態度」に身の危険を感じてすべて引き上げてしまうのです。それが引き金に成って執権北条氏は弱体化が起こるのです。これを観た執事は足利氏に裏切りを起し始めたのです。
「経済的な自立」は「2足の草鞋策」に成し得たとしても「戦国の世の防御」はどの様に観ても「秀郷流青木氏の背景」しか無いのです。
そこで、この「強い絆」で結ばれた「2つの血縁の青木氏」は「母方血縁」以外にも鎌倉期−室町期には戦略的に観て「母方血縁」だけでは済まない「直接血縁」の縁組があったのではないかと考えていて研究中なのですが、現在のところかなり「親密な付き合い」があったと考えています。
それは次ぎの様な事から云えるのです。

 「3賜姓族融合戦略」(「室町期の秀郷流青木氏一門との付き合い」)
「融合青木氏−伊勢」
例えば、伊勢の秀郷一門の藤原基景を始祖とする伊藤氏を護衛する秀郷流伊勢青木氏(近江秀郷一門の蒲生一族末裔)が室町期に伊勢長島に定住しました。
史実からこの伊勢秀郷流青木氏は藤原秀郷の末裔の蒲生左衛門太夫高郷の末裔であります。(高郷は氏郷の祖祖父に当たる)
この高郷末男の青木玄蕃允梵純(伊勢の秀郷流青木氏を継承)なる者は常陸と陸奥の永嶋氏を援護して陸奥−常陸に転戦している史実もあります。
この青木氏が長島付近に住み分けしていたとされていますが、実は伊勢四日市青木村では「皇族賜姓伊勢青木氏」と「秀郷流伊勢青木氏」の判別区分けが付かなくなっているのです。
これは松阪の「皇族賜姓青木氏」と長島の「秀郷流青木氏」が血縁してその末裔一族が四日市に定住していたと考えられ、最終、四日市は両者の青木氏の賜姓族の「融合青木氏」の一つと成っているのです。
賜姓伊勢青木氏を救った氏郷は祖祖父の兄弟の末弟が秀郷流伊勢青木氏の祖でありますので、四日市での「融合青木氏」として繋がっているのです。
上記の「権威への挑戦」事件2の経緯はこの縁戚の繋がりから来ているのです。
信長-秀吉の「伊勢攻め3乱」の蒲生氏との戦いは結論は実は茶番劇です。
片方で表向き賜姓伊勢青木氏と戦い、裏では蒲生氏の伊勢秀郷流青木氏が縁戚の賜姓伊勢青木氏に味方するという構図が出来上がっていたのです。だから「示威的敗戦」を採ったのです。
だから、直接的な「藤原秀郷流青木氏の抑止力」が働いていたのです。
この事は全く同じ事が史実から「日野城蒲生氏」の領国の「近江青木氏」でも起こっているのです。(詳細は別途)だから賜姓青木氏は「秀郷流青木氏の抑止力」で生き残れたのです。

「融合青木氏+秀郷流青木氏」=「秀郷一門の抑止力」

(参考 秀郷流青木氏は「嵯峨期の詔勅」による「皇族青木氏」であるが、特別に天皇より認可を受けている事、その官位官職も皇族賜姓族と同じ六衛府軍の近衛であり、「有品の位」も同じ4位と5位に位置する事から特別賜姓族でもある。)

「融合青木氏−伊豆」
また、清和源氏頼光宗家の頼政の本領の伊豆の2つの皇族賜姓青木氏(信濃青木氏と伊勢青木氏)も神奈川横浜の秀郷流青木氏と血縁して村を形成して一つの「融合青木氏」を発祥させているのです。

参考 皇族賜姓伊勢青木氏に孫の京綱を跡目に入れている宗家頼光系の4代目源頼政の領国の伊豆地方は5つの青木氏の融合の坩堝域であります。これは鎌倉のお膝元であり「坂東八平氏」に襲われる危険性が高かった為に採った対抗策でもあります。

「融合青木氏−美濃」
美濃と信濃の国境にも「融合青木氏」が存在しているのです。美濃には美濃賜姓青木氏と秀郷流青木氏との血縁氏と観られる末裔青木氏が最終確認が取れないが「伊川津7党の青木氏」として存在します。
更に美濃には西より域の現在の愛知県清須市春日と名古屋市西区に秀郷流中沼氏系青木氏、東よりの域に豊田、新城、額田、設楽の各市に中沼氏の支流中沢氏系青木氏が定住していて、各々と美濃皇族賜姓青木氏及び伊勢皇族賜姓青木氏との「融合青木氏」が存在します。
これは鎌倉期−室町期に掛けての時代性に大きく左右された地域である事からかなり長い歴史的な背景での青木氏の融合氏の展開があったと考えられます。

「融合青木氏−土佐」
他に高知では武田氏滅亡後、甲斐武田氏系賜姓青木氏が讃岐籐氏を頼って定住し讃岐の秀郷流青木氏と血縁し村を形成しています。これは室町期の信長に対抗する防御戦略でもあります。

「融合青木氏−越後」
越後にもはっきりと見られる現象で、昔の越後国高井郡小阪金谷域滞には秀郷流青木氏が定住しています。現在の新潟市金屋−新発田町諏訪−阿賀野市金屋−村上市金屋の直線ライン上に青木村が形成されているのです。この直線上の新潟よりの新発田域には信長に追われて秀郷流青木氏を頼って逃げ延びた信濃賜姓青木氏と諏訪族系青木氏が集中して定住しています。
この越後の青木氏のライン上でも2つの判別の付き難い「融合青木氏」が存在します。
この地域は地理的な関係から室町期にかなり信長の勢力圏が及んだ地域でもありその為の「融合青木氏の展開」であったと観られます。

「融合青木氏−信濃」
この現象は更に信濃北東部と甲斐の東部上野より域にも見られる「融合青木氏」の現象が起こっています。信濃の国府には皇族賜姓青木氏系が定住し、信濃北東部域と越後南部域国境域には、平安期の秀郷一門の陸奥赴任に伴ない陸奥から移動定住した秀郷流血縁族花房氏の末裔で土豪足利氏と成った一族がここに移り住んだものですが、この地域には更に信濃賜姓青木氏との血縁族土豪足利氏系青木氏が定住していたところでもあります。
そして信濃より上野北域と越後南より域の国境域には藤原秀郷流青木氏が定住しているところです。この信濃−上野−越後の3つの国境域にはこの2つの青木氏の「融合青木氏」が存在するのです。
この青木氏は鎌倉期−室町期に融合したのではと観られます。

「融合青木氏−甲斐」
甲斐−信濃−上野−武蔵の4国の国境域にも藤原秀郷流青木氏と甲斐皇族青木氏と信濃皇族賜姓青木氏との判別が着かない「融合青木氏」が存在します。
地理性や時代性から観て平安期−鎌倉期−室町期の判断が出来ないのです。何れの時代にも重要な政治関係があった事なので現在結論を得ていません。

これ等現在判っている9つの「融合青木氏」は、明らかに時代的に明治期の「第3氏」や「未勘氏」ではない事は判るのですが、調べると「家紋と土地と宗派と一部には古系譜等」に依って本来は判別が可能なのですが、鎌倉期−室町期にこれ等の判別要素がある規則を以て混在する青木氏が発祥して現在もその子孫が存在するのです。
現在では研究段階であるので確定的な事は云えませんが、平安期の「氏融合」は「住み分け主体」ですがそれと異なり違う点は次ぎの二つに成ります。

「国境域」
先ず一つ目は鎌倉期−室町期中期の「融合青木氏」の住み分けが大方「国境域」にあると云う事です。
しかし、ただ室町期中期以降の住み分けには国境域傾向より秀郷流青木氏の中に潜り込んでいると云う傾向を示しています。
論理的に考えれば、「国境域」は、平安期の直ぐ後の未だ氏家制度の社会慣習の強い鎌倉期の中では「藤原氏抑止力」を全面に押し出す事で「戦略的効果」を出し、相手に対して「威圧効果」を働かせ生き延びられる事が可能でした。
その為にその「前戦域」、つまり「国境域」に住む事でも防御が出来たし、「氏家制度」の重要な慣習の「住み分け」も護る事が出来たし、万が一にも攻め込まれても「融合一族」で護れる事が出来たのです。
そもそも「国境域」の位置付けは、比較的知られていない事なのですが、「戦略的国境域」には堅固な「氏寺や氏神」を建立し領内を城壁の様に取り囲み、領民の「心の安寧」を図ると共に、同時に軍事的な「要塞拠点」「情報収集拠点」として使う等の目的が主たるものであったのです。
(例えば伊勢青木氏で言えば名張には城が2つあり名張城ともう一つは青蓮寺城でお寺なのです。)

鎌倉期はまだ軍事政治の拠点は山城にあり(平時は平地の館に居住)、それだけに山間部の「国境域」に村を形成させて「融合青木氏」を置くことは「軍事的な抑止力」として充分に理に叶っていたのです。
しかし、室町末期の織田信長の様に「権威への挑戦」とも成れば、その上記する「場所的・地理的な戦略性」は問題ではなく「権威の抹殺」が目的であれば、その「場所的・地理的な戦略」を破壊してでも「権威の抹殺」を達成させる事に成ります。
政治的に絡んでいた「古来からの宗教権威の象徴」の比叡山や真宗本願寺や高野山や根来寺等の破壊に観られる様に、信長は「伊勢神宮」も直接破壊対象として挑む危険性があったのです。
それから逃れるには「敵対」しないで「抑止力」だけの中に溶け込み、そして見分け判断が着かない様にする事が必要であったのです。
「敵対」は衆目からすれば「伊勢神宮」を破壊すればいざ知らずただの戦いと見なされます。
信長にすれば「権威の象徴の抹殺」であって「伊勢神宮」そのものはただの物体であることに成ります。
その物体にまつわる権威を興している集団を潰す事がその抹殺になりその結果、「伊勢神宮」はただの「物体」と成り果てます。依って「敵対行為」は「目には目歯には歯」の結果を生み出し、この「物体」と「権威の集団」を潰す事に繋がってしまう事に成ります。
この「衆目の目」と「伊勢神宮」を保全するには極めて効果的な「抑止力」を使うことが必要です。
「強いだけの抑止力」は「目には目歯には歯」の結果を呼び込みます。

この意味で信長強みは「武力型戦術」ですから、彼に弱い戦術は「影の抑止力」の効果です。
「影の抑止力」は大義名分を青木氏側に呼び込み、且つ、「目には目歯には歯」の連鎖を起こしません。
先ず、それには「秀郷流青木氏の定住地」のそのものの中に「溶け込み」をし、その上で同じ「青木氏で融合」する事での「2段構え」で幅の広い「抑止力防御」で構える以外にありません。
しかし、ところが「伊勢青木氏」だけはこの信長に対してこの「2段構えの戦略」が採れない宿命があったのです。それは「伊勢神宮の皇祖神」を護り「祖先神の神明社」を護る為には「溶け込み戦略」は採れません。溶け込んだところで「皇祖神と神明社」が現存して目の前に存在するのです。
これを物体として放置する訳には行かないのです。
信長であれば先ずこれを破壊に掛り「権威の集団」の「青木氏」を引き出しに掛かるでしょう。
これは「青木氏」に採って許す訳には行かない仕儀です。
又、信長側から観れば「伊勢青木氏」の様な「見え見えの権威の象徴」は放置し見過ごす訳には行きません。
「青木氏」としてもいくら子孫を遺すとしても「3つの発祥源」の象徴の「祖先神の神明社」と「皇祖神の伊勢神宮」を放置してまでして子孫を遺す事は出来ない事に成ります。
仮に「子孫を遺す事」に舵を採った場合、世間は「伊勢青木氏」を認める事はしないでしょう。
氏家制度の中では社会に容認されない氏は源氏の様に滅びるしかなく生きて行けません。
少なくとも結果が同じであれば戦うが良策です。しかし、"ではどうすれば良いのか"と云う事に成ります。
そこで「伊勢青木氏の採った戦略」は、筆者の論点の前提 「2足の草鞋策」と「シンジケート」にこの「2段構え」で「幅の広い抑止力防御」を組み合わせる事だったと観ているのです。

「影の抑止力」の効果=「2足の草鞋策」+「シンジケート」+「2段構え」+「幅の広い抑止力防御」

この「数式戦略」に依って個々の弱点を補完し合って強力で重厚な予測の付かない不気味な防衛網が出来上がるのです。信長はこの戦略に弱いのです。
弱いからこそその証拠に「比叡山や真宗本願寺」の「目に見えない力」を押さえ込みに掛かったのです。
信長は秀吉にこの「目に見えない力」の存在の事を教わります。(今宮ジンジケート)

これを実証した最たる事件が有名な「丸山城の戦い」と「伊賀の戦い」の信長からの青木氏の勝利なのです。何と攻めて側の大将との血縁戦略を密かに行い、攻めて側の親族の伊勢秀郷流青木氏との血縁、この更には秀郷流青木氏を味方に引き入れて攻めて側と戦うと云う実に奇妙な戦略を駆使したのです。これでは攻めて側はうっかりと手が出せません。本腰入れて攻めた場合は全滅の憂き目を受ける事は必定です。例え総大将が信長の次男であって2万の軍を廻して来ても。
その証拠に信長に引き続いた秀吉はこの事を充分に承知していて「恣意的敗戦」を求めて1年後に松阪に引き戻す条件を密かに提示させ青木氏を新宮に引き上げさせたのです。(追走しなかった)
条件を護り1年後には「青木氏」の元の状態以上の扱い(上記の数式戦略の保全)をしたのです。
この事が解決した時点で秀吉は蒲生氏郷に伊勢松阪城と伊勢松ケ島12万石を与えた上で「陸奥攻め」に廻したのです。(陸奥黒川城も与える)

( 参考 伊勢青木氏は伊勢松阪の本領を引き渡し、名張郡一部−三重員弁桑名3郡−玉城町全域−新宮尾鷲の本領安堵となる 伊勢56万石 内訳 伊賀10万石 志摩2万石 名張2万石 松阪12万石 長島18万石 他社領、寺領等5万石相当等を50万石相当割譲 室町末期 )

当然に「伊勢神宮・皇祖神の権威の破壊」をする信長に対しても世間の目は向きません。少なくとも「伊勢神宮・皇祖神の権威の破壊」は「別のもの」を持っているのです。仮に全て破壊が成し得ても「信長政治」は成り立たなかった筈です。短命であった筈です。
「物質の破壊」で「権威の破壊」は成し得ても「人心の破壊」は出来ません。「人心、世間・周囲」が容認しない政治は「下の者」はこれを容認しないでしょう。取り分け少なくとも信長の周囲の人物に於いては。
それだけにこの「伊勢神宮・皇祖神」と「祖先神・神明社」を護る皇族賜姓青木氏が信長に挑み敗退したとしても、もう一つの「秀郷流賜姓青木氏」の「第2の宗家」は全国の秀郷一門を率いて立ち上がら無ければ成らない逃れられない宿命を青木氏として浴びている訳ですから、信長に取っては大きな賭けに成ります。
現実、信長は「共和性」を敷く政治体制を目途としていたと観られ、かなり危険な状況に落ち至っていたことに成ります。その「日本騒乱状態」に突入する前哨戦が伊勢で起こり始めた事を意味します。
筆者は「伊勢神宮・皇祖神」「祖先神・神明社」の「権威の破壊」は「共和性」(王性の共和制ではなく共和性としている)を意味すると捉えていて、行く末は朝廷の解体まで進む可能性があったと考えているのです。この時、「伊勢青木氏」もその様な「心構え」であったと観ているのです。
その「前哨戦の2戦」は勝利したものの「第3戦」の手前で信長は明智光秀に討たれ頓挫します。
筆者は明智光秀がこの認識(共和性)にあったと見ていて悩んだ末に自分の身を犠牲に信長を討ったと観ているのです。そもそも本能寺の謀反は短絡的過ぎると観ていて天下を掌握するのでは信長を討ったとしても天下は取れるわけでは有りませんし、無謀すぎるし軍略家の光秀にしては無知そのものです。
人時場所の三相を得ていません。単純に信長を討つ目的であったとするのが普通です。
矢張り信長にしても、光秀にしても無謀と言う面では世間の目・下の目が働いたと考えているのです。

「完全な共和制」を目途としている概念では無く未だ「共和性のある社会」の構築を目途としていたと考えます。その例の一つとして「楽市楽座」、「新城郭構築」、「キリスト教の布教」、「近代的な物造りの推奨」「近代的な戦力戦術」に力を入れていましたが、しかし、この推進に大きな壁として「権威への障壁」が起こっていたと考えるのです。
その後、秀吉に引き継がれた政治は幸いにも「権威への挑戦」「権威の破壊」ではなく、むしろ最もこの様に見られない人物の藤原秀郷一門の、賜姓青木氏とも繋がり縁戚関係を持つ、「蒲生氏郷」を差し向けてこの件を丸く治めた事は、裏を返せば秀吉も明智光秀と同じ認識の中に居た事を意味します。
「蒲生氏郷」は温厚で学者であり、家康とも仲がよく、当時天下一と謳われた軍略師でもあって秀吉に戦わずして勝つ戦略を指導していた事は有名な話です。
ただ一度秀吉の命で伊勢平定後に氏郷は陸奥で3000の兵で山城に籠られゲリラ作戦で長引きそこを無理押しして大失敗をします。(黒川城の戦い)その様な人物を間逆に選択したのです。
何も青木氏が信長に当初から敵対している姿勢を採っていた訳でも無く、「権威への挑戦」「権威の破壊」の対象として攻め込まれたのです。故に、止む無く「伊勢神宮・皇祖神」「祖先神・神明社」を護る為に、皇族賜姓伊勢青木氏と村上源氏支流伊勢北畠氏だけは信長に対して秀郷流伊勢青木氏の合力を得て戦いを挑んだのです。北畠氏は先ず乗っ取られて落とされ滅亡します。
しかし、伊勢青木氏は圧倒的戦力の差がありながらも「経済的戦略」を駆使し、伊勢−信濃シンジケート戦術で揺さぶり無戦で勝利します。
(丸山城の戦い、伊賀城の戦い 長島吉野の戦い−秀吉との材木調達戦 名張の戦い−青蓮寺の戦い 松阪の戦い)
しかし、最後に「松阪の戦い」で無戦に近い状態で新宮の飛地本領に引き上げて終わります。
何れも青木氏の背後には縁戚の「伊勢秀郷流青木氏(蒲生氏)」の合力を得ていたのです。
このままで行けば「伊勢の天正の3戦」は、信長・秀吉が強引に先走れば「秀郷一門と秀郷流青木氏の戦い」に発展して行く事は間違いなかったのです。
ところが「天の裁き」か信長が討たれる事で「伊勢神宮・皇祖神」「祖先神・神明社」「権威への挑戦」「権威の破壊」は免れたのです。
最早、この事が避けられれば青木氏としては「戦う目的」は無く成りますし、蒲生氏郷とは縁戚故知であったと伝えられている事からも尚更です。
この経緯が異なっていれば5家5流青木氏は少なくとも源氏と同じく滅亡していた事に成ります。

この様に鎌倉期の「坂東八平氏の脅威」は「秀郷流青木氏の抑止力」に依って、室町期の「美濃平氏織田信長」の「権威への挑戦」「権威の破壊」には「秀郷流青木氏の抑止力」と「天の裁き」で避けられて生き延びられたのです。

「政権運営」
二つ目は鎌倉期と室町期で、鎌倉期では「坂東八平氏」(北条氏)、室町期では「織田信長」の政権運営に関っている事です。
これは明らかに、本来は氏家制度の中では一族が「融合氏」を形成して住み分けして菩提寺と「祖先神の神明社」を建立してその下に助け合う社会制度の中です。
分布状況から観ると、「2つの血縁青木氏」の存在する全ての地域にこの「祖先神の神明社」が最も多く建立されているのです。(本文末尾の資料参照)
この「青木氏」ならではのこの特殊な現象は、その鎌倉期−室町期に成っての事であり、生き残りの為に懸命に「横の関係」(物心両面)を取ろうとしていたことを物語る出来事だと観ているのです。

大化期からの「融合氏の国策」は、平安末期の公領制の効果がタイムラグ的に働き何とか「荘園制の行き過ぎ」が室町期にはブレーキがかかり、結局、「荘園の争奪戦」が起こる事に成ります。
この結果として「融合氏の細分化」と供に「荘園も解体・細分化」して行き、それに連れて懸命に生き延びた「融合氏」の発祥源・象徴の「賜姓青木氏」は、「秀郷流青木氏」の力を借りて生き残りを果たして更に融合化へと進んだのです。

室町期の下克上と戦国時代に狙い撃ちされた青木氏は、「2つの血縁賜姓青木氏」と「賜姓源氏宗家頼光系の血筋」の3つを融合させて遺そうとしたと考えられます。(融合青木氏)
ただ特記すべき歴史的に見逃しては成らない事は、「2つの血縁青木氏」には「2つの絆結合の青木氏」が親密に存在し、その結果、他氏とは異なり”「下克上」を起こさなかった”と云う事実です。
この事が起こらなかった為にこの「3賜姓族融合戦略」が功を奏して生き残ることが出来たのです。

「3賜姓族融合戦略」で生まれた「融合青木氏」には、家紋は笹竜胆紋か下がり藤紋を綜紋とし、「祖先神の神明社」、「祖先神の八幡宮」、「鎮守神の春日大社」、「産土神の諏訪大社」、「浄土宗古代密教」、「浄土真宗、真言宗密教」等の混在する氏が地域を限定して上記の様に発祥しているのです。
「2つの血縁青木氏」と「2つの絆結合の青木氏」とは別の上記の「判別の確定要素」に迷う「融合青木氏」なのです。しかし、ある3つくらいの共通条件(地域・時期・歴史史実など)が存在して判別は可能です。

話を戻して、「坂東八平氏」の腹の中は”源氏を潰して自らの政権を”と考えていたのにこれでは目論見は無理と成ります。”源氏を潰した後は秀郷一門を潰す”と目論んでいたのではないでしょうか。
これを察知していた義経と大島氏が頼朝に警告するが無視、警告の夜に坂東八平氏に襲われたのです。この大した戦績のない「坂東八平氏」の行動は目論見が行き詰まっていたことを表すものです。
最終的に、この「坂東八平氏」は最終仲間割れを起こしてしまいます。
当初の目論見を捨て支流北条氏が勢力を持ち執権として坂東八平氏を廃して鎌倉幕府を主導することに成ります。「元寇の役」での通説衰退説は切っ掛けであって原因説ではもとより無いのです。

(経緯 水軍の無かった鎌倉軍の弱点を突くために、「たいら族」は水軍を立て直して瀬戸から出て鎌倉湾を突然に突きます。これを聞きつけた源氏頼信系の大島水軍は急遽三日で黒潮を乗り越えて三浦半島に運び水軍による最終決戦をして功績を挙げ頼朝軍を救ったのです。
しかし、最終会議の後に平家軍を敗退させた義経と鎌倉幕府を三浦湾で救った大島氏を襲う。大島水軍はその日の夜の内に大島に引き上げる。義経は平泉に逃れる。現在5家5流賜姓青木氏以外に傍系ではない綜紋の「笹竜胆紋」の大島支流源氏のみが現存し正式に遺されている。大島氏は庶流、傍系、未勘氏、第3氏ではない唯一の正式な支流源氏 大島と云う地理的要素が働いた為 更にこの大島氏の支流で富岡氏(富田氏)が静岡−埼玉の線上に分布している)

  「義家の不合理性」
まして、「3賜姓族融合戦略」を採っている中で上記する平安末期の「義家等の不合理な行動」です。
この事件行動の余波は全源氏に波及するのは確実です。波及すれば行動範囲が制約されていて生活圏範囲が狭ければ潰れる事は必定です。
我々「4つの青木氏」から観れば、源義家の行動は「世間の絶賛」とは別には「裏切り者、反逆者、うつけ者」でしかありません。
筆者は頼朝も義経の諌言を受けなかった事が義家に続いて2回続けての間違いの元でもあったと観ているのです。
頼朝も危機感はあったが止む無く義経を打った後に悟って「本領安堵策」を何と2度も、更に念を押して「平家没官僚策」を北条氏らの反対を押し切って実施したのです。
恐らくは現実思考性の持った戦略家の義経を潰した後に、北条氏等の態度が急変して初めて”アッ”と懸念を悟ったから「巻き返しの策」として命を掛けたのです。
傀儡政権の中ですから、命を掛けないのであれば始めからこんな危険な策に出ることはありません。
沈着冷静で戦略家の「義経の諌言」は歴史が物語る「世の無常」を悟っていたものであったと観ているのです。

参考雑学 義経はその武勇だけを賞賛されているが、平氏を瀬戸内で討った時に事前に味方を引き入れる為に関西域の各地を駆け回り粘り強く説得し「平氏水軍」に対抗する独自の「源氏水軍」を作り上げる為に奔走していた事がその水軍の氏の資料として多く遺されている。
源氏には水軍が無かった為に勝てない事が大きな戦略上の欠点であって「坂東八平氏」の軍には戦える水軍は無かったのです。
ましてこの時、軍監の「坂東八平氏」は義経をこの戦いで潰す目的ではなかったかと観ているのです。
その事を承知している義経は自らの軍2万を集め、自らの水軍を作る事に奔走する優れた緻密な戦略家であった事がこの時の資料から判るのです。「坂東八平氏」の軍は全く動かなかったのです。
義経はこれを無視して「紀伊水軍、熊野水軍、伊勢水軍、駿河水軍」を集めたのです。
そして、この水軍全て「海賊」のシンジケートだったのです。この「海賊」に意味があったのです。
瀬戸内の「平氏水軍」と同じ戦い方では「多勢に無勢」で負けるが必定であり、この事を補う為には「海賊的な戦い方」を用いたのです。「平氏水軍」は違った戦い方に面食らい慌てふためいて総崩れを起こしたのです。
義経はこれを狙ったのです。特に紀伊水道の紀伊海賊の説得に何度も粘り強い姿勢を示し義経の人間性に信頼を感じて味方をした事が資料に遺されているのです。その紀伊水軍が戦いの先頭に立ったと記録されているのです。ところが戦いに勝利すると直ちに引き上げたと記録されているのです。
(この時代の「海賊」とは海賊そのものだけではなく、海の安全航行の保障を前提とした「海利権」的なもので一種の海のシンジケートなのです。従わない場合は武力で潰される事は陸のシンジケートと同じなのです。義経は「氏存続の3つの条件(経営哲学)」を"斯くの如くあるべし"と云う事を都近くにいて清盛や藤原氏や青木氏から学んでいたのです。

「氏存続の経営哲学」
これは義経は偶然に勝てたのではなく「青木氏が採った戦略性」と「長としての青木氏家訓」とほぼ同じものを考え方として持っていたからと観られます。

(青木氏と類似する「氏存続の経営哲学」を持っていた。記録では現実に義経は平清盛に宋貿易等の教育を受けている。同族賜姓族5家5流の青木氏の「氏存続の経営哲学」を観ていた可能性が高いのです。頼政の跡目の入った「青木氏の伊勢松阪」と「平清盛の伊勢伊賀」の親密な関係から観ても考えられる事です。 義経と青木氏の関係を調査中)

この「義経の優れた特性」に対して頼朝はカーと成る「氏の性癖」と対比して「嫉妬と危険性」を感じたと観ているのです。
ところが、その義経を潰した時、頼朝は「坂東八平氏」の豹変に初めて気が付いたのです。
「頼朝」と「坂東八平氏」は頼信系の義家に続く清和源氏の分家子孫には観られない優れた「義経の優れた特性」を観たのです。
頼信系の清和源氏には、新宮太郎や木曽義仲等の一門の人物像の書物を読むと、義経を除くと何かこの様な「不合理な性癖」(カッと成る癖で突っ走る)があったとも取れる印象を持つのです。
その意味で賜姓同族で血縁性もある宗家頼光系4家の宗家頼政の血筋を受け継ぐ青木氏一族一門の「家訓10訓」は「生き延びる3条件」即ち「氏存続の3つの条件(経営哲学)」を前提にこれらの事を強く戒めているのだと感心するのです。先祖も同じ考えであったと観ているのです。

この義家末裔に観られる「不合理の性癖」は「融合氏」の賜姓青木氏側にも在ったのかも知れません。
或いは、頼信系一門を観ていて感じ採っていた事も考えられ、だから敢えて「長の務め」として戒めているのだと云えます。
恐らくは平成期の青木氏が検証している様に、平安期にも本文の様に検証していたのではないでしょうか。そして「3つの発祥源」の「融合氏」は家訓で”斯く在るべき”としたのです。
そして、室町期には「生き残り策」として「3賜姓族融合戦略」を展開したのです。
伝来の「家訓の背景」と観られる集大成「由来書」(大筋概要)の様なものを「平成の復元」で再び成し、明治35年の消失で無くなったものを筆者に復元させたのはここに子孫を思う先祖心があったのでしょう。
取り分け由来書成るものは「神明社」(「3つの発祥源」「物造り」「融合氏の由来」)に力が入っていたとされるのです。

ところが筆者には「経済的自立」と「3賜姓族融合戦略」とに依って「生き残り」は成し得た事は事実ですが、何かもう一つ納得行かないものがあるのです。
それは「蒲生氏郷」から「江戸幕府」徳川頼宣までの青木氏に対する保護はこの「3賜姓族融合戦略」には無関係です。これは何かがあった筈です。
それは何か青木氏に「人を引き付ける要素」があったと観ているのです。
それが、「旧来の人の心に遺されている伝統」、即ち「祖先神の神明社」にあったのではと観ているのです。人はこれを否定する者はいないだろうと考えます。
例え、ヨーロッパの影響を受けた「権威に挑戦」した信長でも。その信長の行動は「政治的な権威への挑戦」であって、「人の心」に存在する「伝統」と、その「象徴・権威」でもある「皇祖神」や「祖先神の神明社」そのものには幾ら信長でも否定と破壊はしないであろうと思うのです。また出来ない筈です。
その「伝統から発する権威」が「政治的色合い」を強く示した時には、信長は挑戦するのであって、単に内に秘める「心の権威」のみを否定する事は、それこそ社会の「異端児」と成り果てあり得ない事です。
それは人ではなく「鬼」に過ぎない事です。其処まで信長は異端児ではなく、やや人より「共和性の考え方」に富み進んでいた事から、当時では氏家制度の中では異端児的に観られているのであって、現在から観れば極めて合理性に富んだ当れ前の考え方であります。
この「心の権威」の「伝統の祖先神」を守り通してきた「健やかな姿勢」の青木氏を人は認めたのではないのでしょうか。止む無く戦ったとしてもその上記した「戦い方」そのものにあったと考えるのです。
それが源氏分家頼信系の宗家の義家一族に無かったものであり、”政治的な権威と軍事力の上に胡座をかいていた”から潰されたのです。
青木氏の家訓に強く戒めている「長のあるべき姿勢」は「心の伝統」を重んじる「祖先神の神明社」に結び付いているのです。まして「絆」結合を重視した青木氏一門郎党ですから尚更の事では無かったかと観られます。「生き方が穏やか」であります。
「氏家制度」の社会の中では「3つの発祥源の青木氏」ならばもっと積極的な生き方もあったとも考えられます。しかし、違ったのです。
信長はこの「心の権威の伝統」の範囲に留まっていれば伊勢への「権威の挑戦」は無かったと考えられます。しかし、如何せん「氏家制度」の社会慣習の中では「伊勢神宮・皇祖神」「祖先神・神明社」は「心の権威」と当時に、それを「政治の権威」の基点とする「旧来からの政治体制」であった為に、信長は止む無く「神社の伊勢神宮」「寺社の比叡山天台宗」「真宗本願寺」等に類するものを攻撃したのです。
しかし、青木氏の立場として止む無く関わらなければならなかった下記の戦いには信長の対応は少し異なっていたのです。

1564年から始まり1584年まで「伊勢攻めの主要三乱」は各地で大小の戦いが続いたのですが、この内青木氏に関わる戦いとしては次ぎの通りです。
「長島攻め」の3乱(1568−1575)の内北畠氏攻め(1575)
「伊賀攻め」の4乱(1565−1581)の内第2次丸山城(1578)と第4次伊賀城の戦い(1581)
「松阪攻め」の2乱(1583−1588)の内松阪無戦引渡し(1588)
以上4戦に関わったのです。
(参考 信長没1582年)

「権威の守人」
ところが、社会がまだ信長の「共和性」には理解が届かなかったのです。むしろ、逆に義家の様に振舞うのではなく、信長に執って、青木氏の行動が「権威の守人」として穏やかに振舞うところに引かれ、故に「伊勢神宮・皇祖神」「祖先神・神明社」である「心の権威」の「守人の青木氏」にむしろ「畏敬の念」を抱いていたと考えます。
その証拠に伊勢神宮を焼き討ちせず、伊賀と長島の周囲を先ず攻め最後に松阪を攻めようとしていた矢先に「本能寺の変」(1582)が起こったのです。
「伊勢攻め 丸山城事件」(1578)に対して、”何故に海側の先端の丘に丸山城を建て様とした”のでしょうか、地形から観て疑問が残ります。また「伊勢攻め」の前哨拠点にしては大げさで必要性と地形に疑問が残ります。
第一に、城を建てなければ成らないほどに信長に抗戦する力(最大9千)が青木氏と伊賀氏と北畠氏等にあった訳では有りません。北畠氏は信長の調略(1575)に先ず落ちていますし、青木氏にはシンジケートの危険性だけ、伊賀氏は信長の始祖の「末裔たいら族」であり、縁戚でもあり内部に名は裏切りもあり実質小さい勢力です。他に伊勢には土豪勢力の屋形か陣屋か寺城程度の平城が10程度ある程度のものですがこの程度で出城の建設には疑問が残るのです。
(注意 本論は青木氏に関わた事として限定して論じている。天正の伊勢3乱として歴史は大きく「戦い」として書きたてているが筆者は結末が大きくても内実は違っていると観ている。信長はこの戦いを通して結果として大軍を擁したがその間「村民と城兵」には傷つけなかった事は有名な事で盟約まで結んでいるし、伊勢の土豪との戦いは殆どは裏切りで解決している。)
そもそも”何の為に岬の先端にわざわざ建て様としたのか”不思議です。前線基地として建てるのであれば好適地がある筈です。北畠の城も既に獲得していた筈です。
この疑問を解決する要素はただ一つです。それは全青木氏に関しての戦いでは、「権威の守人」を遺そうとしたか、それとも秀郷流青木氏の背後を気にしたかの2つではないでしょうか。(伊勢土豪の小戦は不問)
いずれにしても武力を全面に押し出さない穏やかな「権威の守人」の「青木氏の陰力の抑止力」が働いていた事は事実です。しかし、敢えて信長はこの「権威の守人の青木氏」一門を残そうとして、「抑止力」を果たす「監視城」を目指そうとしていたと考えられます。
石山本願寺の悲惨な戦いの様にならない様にする為に、その差として「門人」と違う所と云えば、「守人青木氏」の「氏柄」の所以であったと考えられます。
それを理解できずに次男信雄が大金を使い果たし建設時期を大幅に遅らせやっと出来た挙句は青木氏の影の力シンジケートに燃やされてしまうと云う失態を繰り返しこの建設に失敗するのです。
故に、「青木氏の戦状況」は伊勢3乱の1564−1588年の間にはどの「表の歴史資料」には出て来ないのはこの「青木氏の陰力の抑止力」の働いた穏やかな「権威の守人」の行動からなのです。

最終それを引き継いだ秀吉は青木氏と縁戚である蒲生氏を差し向けて穏やかに納めたと観ているのです。
秀吉をそうさせたのは「信長の真意」を汲み取り、矢張り秀吉も「心の権威」の「守人の青木氏」(伊勢を始めとする2つの血縁青木氏)に「畏敬の念」を持っていた証と観ているのです。
(2つの血縁青木氏 5家5流賜姓青木氏と賜姓藤原秀郷流青木氏)
しかしながら、現実には信長とすると「政治の権威」と結び付いている「守人の青木氏」を一時攻めると云う事が起こったのであって、、伊勢を支配下に入れるにはそれには土豪の押さえ込みの「監視城」の必要性がありますので、奈良時代からの長い歴史来の禁手の天領地伊勢神宮の伊勢松阪に「松阪城」(蒲生氏郷 松阪松ケ島十二万石等計44万石の割譲後、 松阪城に移す)を建てたと考えているのです。
この「監視城」とは松阪の平城は政庁舎の趣が強く築城の配置形態が資料から観て「戦城」とは異なっていたのです。
伊勢路の松阪は尾張から京に出るには軍事上要衝の地である事からも戦略上ここに戦略基点を設ける絶対的な必要性があって、平安期からの「禁手」(不入不倫の権)では戦国時代では最早済まなく成っていた事も明らかです。
従って、信長は未だこの「戦略基点」を丸山に置いたとする事は、伊勢の「土豪潰し」は行ったが、伊勢松阪の「伝統」を護る「戦略的配慮」があったからの事であります。
そこで、秀吉は「禁手」を犯してでもそれをもっとはっきりとした形態を採りたかった為に一挙に松阪としたのであって、そのはっきりとした行為を和らげる為に青木氏縁戚の蒲生氏郷を配置し、且つ氏郷の人柄を表に出し、城より政庁の赴きを付けさせ、「権威の守人の青木氏」に「没本領」として氏存続の為に「割譲残石高」程度を与え残し、現状を維持させ残したと考えられます。
これで「神明社破壊への民衆の動揺」をも抑えたと観られます。
信長−秀吉−家康の時代を通して生き延びられたのはこの「皇祖神−神明社」背後にを控えた「氏柄」の生き様の所以だったのです。
これが、疑問の答えの「穏やかな権威の守人」「伝統の氏」が人を引き付けたのです。

常にその生き様を対比する「源義家」一門はこの「心の権威」の「守人の源氏」の姿勢を採らなかった事に所以しているのです。
源氏の「祖先神・八幡社」の精神「守人の氏」(2つの血縁青木氏の様に)に徹せず「荘園制」に「氏の命運」を掛けて「氏世拡大」を夢見てしまって「人を引き付ける要素」を失って「滅亡の流」を源氏の中に作り出してしまったのです。
筆者はこの「義家の生き様」と「信長の生き様」は「人を引き付ける要素」に一面欠けていたと観ているのです。

そこで、この「青木氏」をより深く検証するために話をもう一度大きく戻します。
 「部曲と民部:(かきべ)」
本来、上記の義家の例に観られる様に「源平藤橘」や「荘園主」の「融合氏」の「氏族」は多数の「部民」を「隷属民」として支配していたのですが、この「部民」は「部曲」として、又、朝廷に命じられる労役に「氏族」に代わって従事したのです。
荘園に組する氏姓には血縁性は全く無く、「部民」間も血縁性が無く、「部民」の「品部」も同様で天皇家の「部民」、後に豪族も「部民」を持つ様になります。
皇族賜姓青木氏は「天領地」を管理する守護王ですから、この5地方の天皇家の「部民」が「青木氏の部民」であることになります。
皇族賜姓青木氏の永代官職名は「民部」を管理監督する「民部上尉」であるのはここから来ているのです。
(平安期末には荘園が大集団化するにつれて荘園の「百姓」を「部曲」(かきべ)と、朝廷直属の「百姓」を「民部」(かきべ)と呼称される様に代わった。
(字は異なるが何れも呼称は「かきべ」 、「品部」「部曲」「民部」の3つを合わせて「部民」と呼称された)
これ等の「部民」が後に勢力を持ち「姓」を名乗る事になります。
ところで、「氏名」では無くこの「姓名」に付いてどの位の種類で出来たのかを調べてみると次ぎの9つの種類の「姓名」があります。
1 血縁的同族が形成する「氏」の姓名(奈良期)
2 大和朝廷の統一過程における「部の制度」の姓名(平安期末期)
3 名田制度から起こった名字の姓名(平安期末期)
4 皇族が臣下した賜姓よる「氏」の姓名(奈良期)
5 4の分家分派分流が名乗った「氏」の姓名(平安期後期)
6 4の官職、役職の一部と組み合わせた「氏」の姓名(平安期中期)
7 知行する土地の名称を名乗った姓名(鎌倉期以降)
8 武士の集団移住分封より宗家とは別の土地の名を採り分家が名乗った姓名(室町期以降)
9 江戸期初期と明治初期の苗字令により名乗った姓名
以上9つの「姓名」から成り立ちます。

但し、9は更に次ぎの分類が出来ます。
明治初期の姓名は2つに分けられます。
9−1 1と4と6の生活圏を共にした民の「絆結合」で名乗った姓名(絆結合の第3氏)
9−2 地名等自由な形で名乗った明治期の苗字令の姓名(否絆の第3氏)
江戸初期
9−3 1と4と6が生活圏を共にした家臣の「絆結合」で名乗った姓名(絆結合の未勘氏)
(4に付いては賜姓族[青木氏と源氏]と「嵯峨期弘仁五年の詔勅むの[青木氏]に2つに分けられる)
(8に付いては大日本史に多く掲載されている姓名。)
(8に付いては宗家が先祖伝来の「名字地」と「家名」と「伝統」と「子孫」を護る役目に対して宗家の統制に従わない者は除名追放が頻繁に行われた。この為に一族であっても違う姓名を興して名乗った。)

「参考 (重要)」
「賜姓」は次ぎの通りです。
1つは「類聚三代格」賜姓の皇族賜姓青木氏(弘仁格式、貞観格式、延暦格式に記載)
2つは「嵯峨期詔勅」賜姓の皇族青木氏と賜姓源氏に分けられる。

1つ目の「類聚三代格」
初回賜姓氏は8皇子皇女で内5人が青木氏(5家5流)、1人が佐々木氏の皇子で、他2名の皇女は斎王、宮王で不明死滅。
2つ目の「嵯峨期詔勅」
嵯峨期からは対象者17人 内皇子15人皇女2人で、青木氏は4人 源氏11人 他2人は比叡山門跡僧は斎王(宮王)と門跡尼に成り死滅

(注 徳川氏はこの2名皇子(門跡院僧)の内の1名が南北朝の時に三河にて托鉢中に松平氏に逗留して還俗し子孫を遺したとして朝廷に認証を求めたが2名とも「門跡院僧」に成っている史実からなかなか認めなかった。 この時源氏を16代として拡大したが実際は花山天皇までの11代) 
(注 上記計25人の皇子末裔で有る事を朝廷の認証を得て証明されなければ「征夷大将軍」になれず幕府を開けない。)

「4つの青木氏」=「鶏の卵関係」
上記の4と1の「氏名族」(2つの血縁族)と、9−1と9−3の「姓名族」(2つの絆族)から成る「2つの血縁族と2つの絆族」に付いてもう少し次ぎの事を論じておきます。
「2つの血縁族」
「2つの絆族」
「鶏」は「卵」から「卵」から「鶏」に、卵は黄身と白身はどちらにも優劣なしにて成り立ちます。
「鶏と卵のどちら」の論争は化学的に「卵が先」と判りましたが、その位置付けの「卵」(氏)の中味(血縁と生活の絆)の「構成関係」と「4つの青木氏の構成関係」と同じと考えています。

「卵(黄身と白身)の構成関係」=「4つの青木氏の構成関係」
「卵」=「氏」

そこで其の前に果たして”「氏融合」とは何なのか”と云う疑問が湧きます。
先ず「氏融合」は少なくとも「子孫存続」があってこそ成り立つものです。
この「卵の構成関係」は、「氏融合」が可能となる「子孫存続」の「重厚な基」と成っていますが、これが”「4つの青木氏」の関係にあるのだ”と考えているのです。
つまり、数式では次のように成ると考えています。

「鶏の卵関係」=「氏融合」=「子孫存続」=(「血縁」と「生活の絆」)=「4つの青木氏」
「2つの血縁融合」+「2つの無血縁融合」=「子孫存続」の条件

そもそも最低はこの判別式の「数式条件」が成り立つ事こそが「氏融合」では無いでしょうか。
上記した「3つの発祥源」と成る青木氏(390氏)は最大1365年以上の古い歴史を持つ事からこの条件が充分に醸成されて、この様な他氏に絶対に観られない「卵の構成関係」に観る様な「融合状態」が成立したのです。
この「絆結合」は最大1365年の「有品悠久の歴史」と「日常の生活」を共にし「村」を形成して代々子々孫々暮らして感情を持てばむしろ「血縁以上」となるのは必定です。
大化期から江戸期までその土地に住む「全ての民」はその「土地に対して所属」し、「氏家制度」に依って「互助社会」が成立し、その土地の「環境の中に生き抜く」のが定めです。

現在の様に「契約社会」の中でその「契約の範囲」に限り「移動を含む自由」が成立するのですが、氏家制度の社会は、それだけに「村」を形成し、その「村」の中の人間関係(絆)は身分家柄上下の関係を問わず現在から見れば想像を絶する「強力な絆」で結ばれていた筈です。
現在、我々が感じ云う「絆」の持つ意味が質、量共に異なっていたのです。

例えば、ここで「第3氏の青木氏」と使えば殆どの人は3者の間には完全な溝が横たわり繋がりを持ち得ない関係の一方を意味するものと考えますが、明治期を除いてこれが違うと云うのです。
室町期の「第3氏の青木氏」には確かに溝らしきものがあるが、その溝には他方を冷やす水が流れていないのです。溝があってそこを行き来出る状態の概念を持っていたのです。
かと云って、今で云う「自由な往行」を意味するものではないのです。「自由」の中に「けじめ」を大きく占めた「自由」なのです。
名づけて「けじめ自由」と云うべきものであったのです。つまり「けじめ社会」であったのです。
つまり、「けじめ社会」=「氏家制度」であります。これが「発展の基盤」となるのが「融合氏」であります。
この「けじめ社会」のレベルはその「環境の歴史」に左右される筈です。
「融合氏の青木氏」は上記する様に「3つの発祥源」として最大1365年もの「有品悠久の歴史」を保持している訳ですが、この環境下ではその「けじめ社会」の概念が緩やかに成り、かと云って「けじめ」が疎かになるのではなく、丁度、充分に熟成した日本酒の「円やかさ」が生まれるのです。
麹菌が加糖になりブドウ糖になり熟成してアルコールに変化してアルコールが更に細部まで分解して度数が上がるが逆にアルコールの「ビリッ」としたものが無くなり、円やかで独特な芳香が豊かになるのと同じなのです。
室町期発祥の「100年の融合氏」の場合は、未だこの「けじめ」の部分が強すぎて身分家柄上下の関係が醸成されていない状態なのです。真さしく造ったばかりの日本酒なのです。年代が過ぎると徐々に変化してよい日本酒になるのと同じなのです。
ここが他氏と異なる違いだと云っているのです。「4つの青木氏」はこの関係にあったのです。
「4つの青木氏」の関係は”熟成された「けじめ」であった”と云っているのです。

この熟成されたものが「青木氏」の「権威の守人」の穏やかな衆目を引き付ける「氏柄」を有していたのです。戦国時代を生き抜ける青木氏の「根本の氏柄」であったのです。
故に「3つの発祥源」でありながら「家訓10訓」の様な「真意の戒め」と成っているのです。
ここが同族賜姓源氏と異なっている所なのです。
「嵯峨期の詔勅」が「皇族賜姓族の氏柄」を変えてしまっていたのです。


青木氏と守護神(神明社)−10に続く。


  [No.277] Re:青木氏と守護神(神明社)−10
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/08/13(Sat) 10:57:42

  「平族の融合形態」

生き残るために必要とした「3つの条件」がどれだけ「大変な事異」であったかを判る為にはこの「たいら族」を含む阿多倍一族一門がどれだけの勢力を保持し青木氏を圧迫していたかを上記した事件性とは別に間接的なデータを以って検証する必要があります。
なかなかこの阿多倍一族一門まで掘り下げて研究している論文が不思議に無いので青木氏と大いに関わった一族だけに本サイトで掘り下げてみます。
本文に入る前に、この「融合氏」青木氏に対して対比する為にもう少し「民族氏」阿多倍一族一門の直系子孫と平族「たいら族」を掘り下げてみます。

「鶏の卵関係」=「氏融合」=「子孫存続」=(「血縁」と「生活の絆」)=「4つの青木氏」
「2つの血縁融合」+「2つの無血縁融合」=「子孫存続」の条件

一方、上記の「青木氏と守護神(神明社)−9」に記した「数式条件」を有する「青木氏」に対して、「平族」(たいら族)と阿多倍一族一門は、平安期では「民族氏」的な色彩の濃い集団で、後(本格的には鎌倉期以降)に関西圏と九州全土を「融合」で広め多くの「融合氏」を広範囲に構成しています。その九州に起こった氏では殆どがこの大隈の「首魁 阿多倍」の血縁を受けていて次ぎの6つに分類されます

「氏の基本数」は「約55」もありこれから次ぎの支流分流が起こっています。
1 本宗の血筋から輩出した氏族 18
2 支流に属しているが出自が不明な氏族 5
3 同族であるが出自が不明な氏族 14
4 同族であるが基本氏に相当するか不明な氏族 4
5 何らかの血縁があると観られる未勘氏族 4
6 鎌倉期と室町期の「未勘氏」と「第3氏」と観られる氏族 推定10 
(関係文書と家紋群より算出)

資料より確認出来ませんが、支流、分流、分派はこの5倍以上「280程度」に及ぶのではないかと観られます。(歴史的に観て多くは支流、分流、分派の分家は3〜6の倍数にある。)
九州に於いてこの数ですが、家紋と氏の資料から分析すると定住地域は次ぎの様に成ります。

「定住地域」は「概ね5地域」に成ります。
1 中国地方 陶族や海部氏や武部氏等の支援豪族と平氏に成って広めた一族の大きな末裔基盤地域
2 四国地方 讃岐籐氏の基盤地域であるが平族に成ってからの末裔分布地域
3 近畿中部地方 阿多倍の伊勢領国と阿倍氏に関係する本領末裔基盤地域
4 東北北陸地方 内蔵氏に関係する末裔基盤地域
5 関東地方 国香−貞盛親子時代の赴任地基盤地域
以上の何らかの「末裔血縁族」を合わせると最終「大小550超」には成ると観られます。

 比較 鎌倉期以降 藤原秀郷一族一門361氏 550/361≒1.5

鎌倉期から室町初期に掛けては家紋から観ると日本の全氏では約800氏(姓族含まず)}と観られますから何と「65%(家紋)以上」がこの「阿多倍一族一門」の「末裔血縁族」で占められていた事に成ります。
平安期後半からこの傾向が強く「平氏にあらずんば人にあらず」はこの事から来ていると観られます。
国レベルでは「平安初期 48% :32/66」、「平安末期 66% :45/68」 氏数

これは源氏や藤原氏等よりは遥かに大きな「末裔血縁族」を有していた事は明らかです。
これに彼等の配下で「後漢の民」の末裔であった「品部180」が「氏姓族」に平安末期から成って行きますが、これを合わせると勢力と云う点で観ると「7割弱程度」730になるでしょう。

最早、この「鎌倉期以降 7割 :730」という数字は「帰化末裔氏」阿多倍一族一門の国と成り、「在来氏」30%は「異民族」であるとしても過言では無いでしょう。
(子孫繁栄力がそれまでの在来民の3倍と云うことも出来ます。)
800年ごろから「渡来人」と云うの言葉は書物から消えていますので、納得できる数字で「日本人」と成っている事を端的に物語ります。
ただ問題は「民族氏」の「物事に対する概念」が前記の様に「法より人」「石は薬」に代表する様に異なっていた事なのです。
天皇は帰化は認めたがこれでは”何かが起こる”と悩んでいた事はこの数字の検証からも明らかです。

例えば、此処では本基盤地で本末裔血縁族を有する九州地域を観てみると、此処には大蔵氏を筆頭に菊池氏や酒井氏や佐伯氏や宗像氏等の大きな古氏が存在します。
「産土神」の神社を中心とした古い「歴史性」があり、幅広く「事件性」を持っている北九州から南九州の肝付氏、廻氏等、同じく南九州の島津氏等の発祥源を検証すると、奈良期と平安期には少なくとも「平族」の始祖源となる「後漢阿多倍一族」の血縁を受けている事が明らかに観られます。

この関係を地名、家紋、関係資料から重複する氏族を洗い出しますと、多くは「大隈の首魁」であった奈良期頃の阿多倍一族が関係した地域には、必ず「阿智使王」や「阿多倍王」の「阿智」や「阿倍」「阿多」(現在も遺す)等の「地名」が古代に在った事や、何がしかの「証拠物件」が遺されているのです。
(阿多や阿倍は現在も存在します)

例えば、「阿倍」(あばい)から奈良期と平安期には「阿倍氏」(あばい−あべ)が生まれ、この「阿部氏」から一族から「生贄」にされた問題と成った以北の末裔「安倍氏」の氏が誕生し清原氏が発祥し、九州はもとより各地(関西−中部以北−陸奥)に分散し「氏の融合」が起っています。
彼ら末裔血縁族は、その地域の豪族との3倍の繁殖力の血縁があり、当時の「生活慣習」から明らかに「彼等の生活圏」にあった事を意味します。
平安時代末期に地方の豪族のみならず九州には朝廷から「弁済使」として派遣された都の豪族官僚5大氏の一つ「伴氏」(伴兼貞−兼俊)が九州各地で肝付氏(大隈国肝属郡)等を始めとして融合しているのです。(肝付氏の関係族 末尾の氏姓族参照)
九州全土が彼等の繁殖力で占められますが、中央の都とは「伴氏」(弁済使)等を「接着剤」として繋がります。(弁済使は税の官僚 今で云う税務官)
この「接着剤」なしでは「独立」の形に事が成り得ず、上記の数字で示す様にこの「接着材」を背景に爆発的に「自然力」で進んでいた事が判ります。
当時はこの「接着剤」が大きな意味を持ち、故に中央で力を持っていた事を物語ります。
(官僚の6割は彼等の末裔と品部の職能集団(史部等)で構成されていた事が日本書紀にも記述されています)
「伴氏」等の5大官僚が何故力を持ったかの理由が明確ではありませんが、恐らくこの「接着剤」であって、むしろこれは朝廷が採った「何かが起こる」の戦略であった事が原因している事を意味します。
日本の国の「軍事、経済、政治」のどの面から見ても「65−70%の力」を持った一族一門と「5大官僚」との血縁でこれを「背景力」にし、朝廷内では「5大官僚族」として巾を効かせる事で「天皇力」を彼等に持たせたのです。
「5大官僚」を「背景力」=「接着剤」=「仲介役」として存在させ大蔵一族とのバランスを保っていたのです。
しかし、これも根本的な解決戦略ではありません。「何かが起こる」の一時的な彼等に対する「抑止力」としての効果に過ぎなかったのです。

最終的には、1018年九州全域を「3権の自治」を認め、「遠の朝廷」として「太宰大監」の任を与え、「大蔵種材」に「錦の御旗」を与え「統治権」を委ねる結果で納まったのです。
そして「民族氏」から「融合氏」へと巨化(進化)して行く事に成ります。
最終は何とか八方を成功に収めたのですが、累代の天皇が懸念していた「何かが起こる」は大きい「国家の分裂的事件」へと成らなかったのです。
後勘から観れば、「3権」と「民族融合」の観点からも”これ以上のバランスの採れた解決策はなかった”と成ります。しかし、それは国が危機一髪の状態で下記に示す「汚職、腐敗、騒乱」の「大荒れの状態」から立ち直ったものであったのです。

「融合事件(繋がり)」
依って、「民族氏」から「融合氏」へと変化していったことで成功裏に納まったのですが、これを「融合」という観点から更に調べて行くと、阿多倍の根拠地九州にはその経緯として青木氏にも関係する一つの「融合事件(繋がり)」が此処にもあるのです。
青木氏は間接的ではありますが、「氏融合の最低条件」を成り立たせる実に密接に各地に「氏融合」を進めている事件の例が数多くあります。

(青木氏の融合形態の例)
因みにその例の一つを記述します。
1180年清和源氏の宗家頼光系4家と本家筋の源三位頼政が平族に対して旗揚げをして失敗します。(以仁王の乱 1180)
この時、伊勢青木氏が領する伊勢国の北部伊賀を(大隈の首魁阿多倍一族 平族に)朝廷から奈良期に割譲され定住していました。
隣の松阪の伊勢青木氏は次ぎの深い親交から京綱(伊勢青木氏に跡目 頼政−仲綱の子3男)を通じて助命嘆願します。
(桓武天皇の母の「高野新笠」(伊勢伊賀の阿多倍の孫娘)は、伊勢青木氏の祖の施基皇子の子供の「光仁天皇」の妻です。 即ち、桓武天皇にとってみれば、父方は伊勢青木氏、母方は伊勢阿多倍の一族、跡目青木京綱の3つの関係があった)
平族は伊賀の「阿多倍一族」宗家からの助命嘆願を受けて「頼政」の孫の「仲綱」の子の3人の内2人と叔父(宗綱、有綱と叔父高綱:京綱は伊勢青木氏に事前に跡目)が処刑されずに九州日向国の廻村に配流されます。(除名嘆願は有名な事件)
この時、肝付氏一門の廻氏等の支援を受けて城を築き再び「九州平族」と戦います。
敗退して敗死、廻氏との間に生まれた末裔と廻氏と共に、本家の阿多倍の血縁を受けていた肝付氏の領内薩摩大口村の山寺に逃げ込みます。
この時、この末裔は「嵯峨期の詔勅」に基づき、又、清和源氏の頼光系頼政本家(宗綱、有綱)を同族伊勢青木氏(京綱の跡目)に移した事等の2つの理由から寺の僧侶に勧められて追手から逃れる為には「日向青木氏」しかないとして名乗ります。(嵯峨期の詔勅に基づき名乗る)
(後に日向青木村を形成してこの末裔を抱えて農兵民になり黒田藩の領民となります。明治3年8年の苗字令に基づき青木氏を復活させる)

賜姓青木氏は「永代不入不倫の件」が認められているので、その末裔とすれば平家は手を出せない事になります。又、九州南部の周囲は阿多倍の肝付氏の本拠地 敵地の本拠地の中では青木氏を名乗ること以外になかったのです。九州全体が敵地でありだから配流先として選ばれたのです。
阿多倍の領国薩摩国(大隈地方を割譲地:平族の始祖の割譲地)の懐に逃げ込みます。
”雉子懐に入らずんば猟師これを撃たず”の言葉通りに隼人の本拠地近くに逃れたのです。
(この事でも判る様に阿多倍一族一門の族間の絆は薄い事が判ります。)
「平族」の本領でもこの関係でこの青木氏末裔(日向青木氏 現存)を結局は討つ事は出来なくなり子孫を遺しました。(後に九州に唯一の青木村を形成し「兵農」として黒田氏に仕える)
この様に「廻村の民」の様に地元に根ざした「生活、社会の絆」から新たに「氏の融合」が生まれ子孫の存続拡大が青木氏には起こっているのです。
しかし、この考察から観られるように特長が出て来ます。
「平族」即ち「阿多倍一族一門」にはそれは殆ど「血縁」が明らかですが、その元となる「出自」が明確でない事です。ここにもこの一族一門の特徴が出ているのです。
これだけの本流氏34にも成る肝付氏の一族でも「民族氏」の概念が色濃く引き継がれているからに過ぎません。
これでは近隣は兎も角も国を超えては時代が進むと、情報社会が低かった時代では一族一門が「互助」「合力」は働きません。

「互助」「合力」
「平族」が滅亡した理由の一つが、次ぎの事となります。
中国地方と九州全土のこの「氏族」を味方にして、更に中部北陸から挟撃して戦えば100%で勝てて居た筈で氏を遺せた筈ですが、しかし、平安末期には余りにも一族の「氏の融合」が進み、その結果、自らの氏が「平族」に血縁している事が不明(出自不明)と成っている為に末裔は味方する事に躊躇した事が原因の一つとして観られるのです。
恐らくは歴史的経緯から彼らは薄々は末裔と承知していたとは考えられますが。平安末期-鎌倉期-室町期には末尾の資料の様に「姓族」は爆発的に融合拡大します。
其の為にそれなりに中心氏と成る者がいて「氏寺、氏神」で管理されて居れば一族一門性の「融合氏」の「互助の結束」は成り立ち出来るのですが、それが無った事から「民族氏」の形態の「無関心の感覚」だけが残り、その「他の民族性」は消え去ったのです。
ただ鎌倉中期−室町期には関西から関東域に掛けての「菩提寺による集団」の形態は殆ど無く、その代わりに九州−中国域には「氏神による氏子集団」としての連合結束する傾向が生まれて来たのです。
日本の融合氏はその経緯から次ぎの2つに分類されます。
関西から以北に掛けては「氏神の守護神」−「氏寺の菩提寺」を中心とした「融合氏」を「第1の融合氏」とすれば、関西から以西の中部九州域は「第2の融合氏」とでも云うべきものに変化していったと考えられます。
「第1の融合氏」 関西以北 「氏神・鎮守神・祖先神の守護神」−「氏寺の菩提寺」の2つを標榜する融合
「第2の融合氏」 関西以西 「産土神の守護神」を主体 神道系 「民族氏」系「融合氏」
参考
神道系融合氏の例
阿蘇神社・宗像神社−菊池氏、酒井氏、佐伯氏等 
出雲大社−亀甲氏子集団等

資料からこの一族一門の「34の姓氏」に共通するものとしては次ぎの事が挙げられます。
A 上記の氏子集団化が加えられている事
B 「家紋:三雁金紋、支流は丸に桔梗紋」である事
C 襲名の名を「兼・・」と関係する事
D 地名を「姓名」としている事
以上4つが共通項です。
これを慣習として「一族である事の印」としていたのではないかと考えられます。
つまり、それを「一族一門性の証」としていたと観られます。
ところが時間の経過と共にこの「一族一門性の認識」が不思議に薄れていったと観られます。
何故なのでしょうか。

鎌倉期−室町期の変化
関西−関東域には「氏神・菩提寺による集団」「互助の概念」−「融合氏の形態」「弟1の融合氏」
九州−中国域には「氏神による氏子集団」「無関心の概念」−「民族氏の形態」「弟2の融合氏」

「源平合戦」では、「平族」は意外に上記した「1から5の血縁族」が味方に成らなかった事に大いに悩んだ筈です。
原因(下記1から3)は判らないままにうすうす知っていたのかも知れません。
それは奈良期、平安初期と古く成りそれが血縁を確認出来なくなってしまった結果なのです。
逆に云えば、むしろこの現象が本来の「氏の融合」でありそれが著しく進んだ結果から来るものかも知れません。
しかし、重要な事は此処には「平族」には更に「青木氏」と違うもう一つ大きな欠点(下記)を持っていたのです。
「平族の非融合の欠点」
これを見逃しては成らない事なのです。
この後漢「大隈の首魁阿多倍」が引き連れてきた職能集団「部」の氏族も同じ傾向を持っています。

例えば、室町期の中国地方全土を制覇していた「陶氏」は後漢16ヶ国の「陶部」(平安末期の記録有)の頭領です。他には、「品部」(180)の中で最も早く「姓氏族」を発祥させた海部(平安末期の記録有)、武部、村上氏等多くはこの血縁を受けています。
「平族」はこれ等の末裔「村上水軍」等の中国地方の氏豪族を背景に戦ったのですが、九州の中部より南の氏族は味方しなかったのです。
筆者はむしろこれらの無数に近い「品部」(雑戸含む)等の「血縁族」が一門と強く認識していた場合は源平の「たいら族」は勝利するか、又は1018年以前に九州全域を明らかに「独立国」と出来ていたのではないかと観ています。
事実、過去(150年前)にその「独立」と云う歴史を史実として下記に示す5度の経緯を「平族」は持っていたのです。

「独立への経緯」
先ずその5度の中で最も有名な挑戦事件として、「平族」の初期の「国香、貞盛」の頃、関東に「独立国」を目指した一族の「平将門の乱」が起こっています。
この時「国香」が同族「将門」に殺されたのですが、「貞盛」は父の仇でありながら最初は観て見ぬ振りをして放置していたのです。”何故見ぬ振りしたのか。”の疑問1が残ります。
未だ、始祖「阿多倍王の没」より余り時間が経っていない時期でもあり、「後漢の意識・感覚」が強く残っていて、上記した勢力(70%)の一族を終結させれば、朝廷より遠く離れたところで関東域でも「たいら族の将門」も「独立国」を造れるのではないかと観ていた反乱ではないかと考えています。
”何故、親族の国香を殺さなければならなかったのか。”の疑問2が残ります。
歴史の通説では”土地をめぐる一族の争い”となっていますが、これはおかしいのです。
そもそもここは2人の「領国」ではありません。「知行国」で国香・貞盛親子と将門は押領使と追捕使等を務める朝廷派遣の令外官の役人です。通説の”土地争い云々”の話ではありません。(国香は将門の叔父)
それならばその役目上で貞盛自身自分で解決しなくてはならない筈で、様子見などはもっての外であります。そもそも勲功の対象にはならないのです。土地の奪い合いをしても何の得にも成りません。
朝廷より赴任地変えを受ければそれで終りで、犠牲を負うだけ損です。通説の論調が矛盾しています。

(「通説」への注意 「後勘に問う」)
歴史の通説は第1には前後の「時系列の検証」が欠けているのが殆どです。
実は第2にはこの「知行国」と「領国」の判断の間違いの通説が実に多いのです。(前記の「源平の美濃の戦い」の通説も全く同じ間違いを起していました。)
”何故この様なミスをするのか”と云うと、次ぎの第3の事が原因しているのです。
それと第3には朝廷側から観た「不都合な事」は「事件の反抗者・当事者への罪人扱い」としての決め付けが偏纂資料に書かれているのを前提に通説として用いているのが多いのです。
この第3の事が原因して第2の矛盾が生まれるのです。
ミスと云うよりは「承知の上でのミス」なのです。
これ等は資料に忠実であればある程に起こる問題です。
第1 「時系列の検証」
第2 「知行国」と「領国」の判断の間違い
第3 「不都合な事の偏纂記録」
第4 「承知の上でのミス」

この「4つの要素」(第1から第4)の配慮の判断ミスが通説の間違いの主因です。
要するに”歴史を読み解く側がこの矛盾を判断すればよい”の考え方であり、当時の「慣習」なのです。
つまり、系譜・系図のところで書いた”後勘に問う”の慣習であるのです。
ですから、”後勘に問う”で”読み取る側が修正すればよい”と云う事に成るという「日本の歴史の慣習」であるのです。

ルーツなどを調べる場合は、この4つの事に配慮しながら進めますが、第2の場合は調べればすぐに判ることです。しかし、この第2には色々な「歴史的意味合い」を多く持っているのです。「時代考証」が大きく絡んでいて当時の「慣習や仕来り」の雑学を必要とします。実は作業は簡単ですがこの間違いが一番多いのです。向後の資料の殆どは「現代感覚」で判断してしまっている場合が多いのです。
第3は記録に残すものは「よい事はよりよく書く」、「悪い事はより悪く書く」の人間の性が起こります。
これをより正しくするには「ギャップ差」を見抜く事が必要に成ります。
それが第1の「時系列の検証」なのです。「前後関係」から観て”その「事象」があり得るのか”を推理し判断し検証して確定をしなければならないのです。特にその差を必要とする場合は筆者は下記に記述する「自然の摂理」による技法を用いています。
この第1から第3まで判れば第4は自然に判ります。
これが歴史資料が求める「後勘に問う」の作業と成ります。

当事とすれば資料も少なく、時代の環境も厳しく、”承知でこの様に書かざるを得ない”と云う事もあり、まともな資料は上記した様に、だから「書き記した人」と「後勘に問う」の「2つの語句」を記するのです。
しかし、「搾取偏纂の系譜」などは”ばれては困る”の訳ですからこの「2つの語句」を書かないのです。
「書き記した人」の事を調べられて搾取が判るし、「後勘」に問われては嘘がばれてしまい末裔が大恥を掻き困る訳ですから書かないのです。

これは仏教の精神構造から来ているもので、その思考の根底は”「三相」(人、時。、場)により事の真偽は変わるのだ”とするもので、とりわけ「武士の精神構造」を成していた「禅宗の問答」にあるのです。
心理の追求の問いに対して何度も追及され、最後に、窮すると”答えは後勘に問うものなりー”と交します。 ”仏教の教えの「三相の原理」により、今、答えを出すものではない”と交すのです。
「後勘に問う」は仏教の教えに従い正しい姿勢なのです。
”物事をこうだと決め付ける事はよくない事である” ”何事も拘ってはいけない”と云う仏教の最大の教えを護っていたのです。
”「後勘」から観れば今は多少の矛盾があっても良いのだ それは「後勘」が正してくれる”なのです。
”今はそれなりの理由があって書き記しているのだから正しいのだ”としているのです。
故に、”多少の矛盾と疑問はあって良いのだ”としているのです。
例えば、”「日本書紀は矛盾があって信用できない。”と主張する学者もいますが、この主張そのものが間違えているのです。当時の「後勘に問う」の精神が理解出来ていないのです。
「後勘に問う」は「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」の解釈の当時の社会の忠実な実践でした。仏教精神が希薄に成った現在の一文の間違いも許されない社会と違い、当時は仏教精神がそもそもが大きく社会の規範に成っていたのです。

だから「歴史の研究」にはこの事(「後勘に問う」)で大変惑わされ時間を要するのです。
しかし、「歴史の探求」が面白いのはこの「後勘に問う」があるから”見つける事の楽しさ”が湧き出でてくるのでしょう。
普通は、そのままに信じて行くと上記の「将門の乱」の様に必ず、”アレ”と云う風に疑問矛盾に突き当たってしまうのです。
(疑問1と疑問2の共通する応え)
ともあれ、この「後勘に問う」で行くと、疑問1と疑問2の共通する応えは”味方するのを待ったが、結局しなかった。だからこの独立国の計画はその内に頓挫すると将門は考え殺してしまった。”とすると納得できます。この様に要は第1位の「時系列」の紐解きが重要に成るのです。「時系列」は真に「後勘に問う」の役目です。
”南の九州でも自治か独立に近づいている”と考えていて、”関東で成功すれば九州の大蔵氏でも反乱を起こす”と戦略を描いていたのです。
(ところが、朝廷もしたたかで大蔵氏を褒章冠位官位など出来る事全て賭けて宥め行く末に自治を約束します。大蔵氏の資料 純友の乱の指揮者に任命)

(九州は「自治圧力」のその直前の状況であったし、「荘園制の行き過ぎ」で国内全域の不満と混乱はもとより、北の一門の阿部一族末裔の「長い騒乱状態」が背景にあった。
その結末の事件はずれていますが、全ての事件には「前兆現象」の期間が10−20年位はあるのです。)

この背景の下では、”その鍵は伊勢伊賀の国香の動きが戦力的にキーと成っていた。” として動かなかった親族の国香を抹殺したのです。そうなってしまった貞盛は困惑し「将門の乱」の行く末と自らの一族の行く末を見計らっていたのです。
現に九州全域、特に南部(肝付氏:713-730に戦う)は殆ど朝廷の力が及び難い地域であった事から既に「自治国」的状況であった。(1018年自治)
陸奥では既に阿倍一族と内蔵一族も勢力を高め東北北陸一帯は既に勢力圏にしていて騒乱状態下にあつたのです。
この3つがこれを期に動けば最早日本は阿多倍一族一門の国に成っていた筈です。

この様に一族の者が関東で「新皇」と呼称して関東に「10年間は独立国の覇者」として君臨した経緯を一族は持っているのです。

しかし、そこで誰もが日本全国の大勢力「平族」の「末裔血縁族の動き」を見計らっていたのです。
この動かない状況を観て危機感を感じた朝廷が西の大蔵一族の動きと北域の阿倍内蔵の一族の動きを横目に見ながら困って先ず関東の乱に特別な条件を出します。
やっと名乗り出たのが何と一族の伊勢伊賀の宗家「平貞盛」と、予想外のこの地方の下野の押領使「藤原秀郷」だったのです。だから平定に5年以上も掛っているのです。西と北の動き見守って焦らずにすすめたのです。しかし、大蔵氏は乱を避け「自治獲得」を考えていた為に動かなかった、いや動けなくなったのです。
と云うのは、九州全域が”他人事のように争いを好まず積極的に動かず”であって、その背景には技能を求めての在来民の民が180の部に大きく関わっていたからなのです。それと「民族氏の融合の形(第2の融合氏)」がそれを拒んでいたのです。
(「何かが起こる」の疑念の元になっている「民族」の感覚と「融合の氏」の感覚の違いから起こる「国民性の差異」が露骨に民に引き継がれて出ていたのです。)

朝廷は8世紀前半の大隈での反乱での敗退で、その反省から西の動きが自治を認める事で解決するのではと観察していたので、先ず関東の乱を鎮める事に専念したのです。
この時は既に天皇は西の問題は「自治」で解決する腹づもりであったことが伺えます。
”北はまだ反乱には至らない時間がある”と踏んでいたのです。
関東から始まり西、北の事件はほぼ50年間隔で起こっているのですが、天皇家の内心は「体制の崩壊」の危機感でいっぱいに成っていたのです。
実は「何かが起こる」はこの様な経緯の中で「荘園問題による崩壊の危機」も含めて400年の間で起こっていたのです。その強い危機感が累代の天皇にあったのです。

そもそも、両者共に「押領使」と「追捕使(令外官)」に任命されていたのであれば「警察権と治安権」を持っているのですから鎮圧出動するべき立場にあり、まして統治の国司から進言があって、その為に特別に派遣された「令外官」なのですが、観て見ぬ振りをしていたのです。
近くに居て旧領地の下総を奪われている秀郷にしてみれば ”一族の貞盛が居るではないか”と成るでしょう。”今下手な出立てをすると平族を敵に廻す事に成る”と考えたでしょう。
「貞盛」にしてみれば「将門」は一族なれど分家支流となれば”そんなの知るもんか”の「民族氏」の感覚が湧き出てくるでしょう。”場合によっては”とそれなりのゼスチャーを見せながら見据えていた可能性があります。
そもそもその証拠に事前にこの地域が「不穏な危険域」として観て「国司」や「郡司」から強い要請があって朝廷は「2つの令外官」を派遣していたのですから始めからこの傾向があった筈なのです。
更に、そもそも「押領使」は当初は「軍事上の兵員移動の担当官」であったのが、この乱の前から権限を大幅に広げて「反乱鎮圧(警察権併権)」にわざわざ変わったのです。
又、「追捕使」は「凶賦を追捕する役目」を持っていて「臨時任務」であったのですが、この状況を観てこの時から常置するようになったのです。全て符号一致しているのです。
「鎮圧平定」まで「切っ掛け」から観れば5年ですが、実際は前の混乱期から観ると少なくとも10年−15年程度の前兆期間になっていた筈です。
この乱以降はこの「令外官」は要請ある地域には各地に常駐する事に成ります。
ですから、「50年前後」で10年から15年程度を重複しながら「何かが起こる」の事件は進んでいたのです。

この「押領使と追捕使(令外官)の状況」を観ても”観て見ぬ振りをし、下手な手立てをすると、そんなの知るもんか”が働いていた事は明らかです。
間違いなく一族であり且つ事前に追捕使で派遣されている貞盛にはその役目があった筈です。
まして「融合氏」の秀郷にしてみれば”急に治安警察権への変更と云われても困るし貞盛が居るだろうが”と成ります。
ここでも阿多倍一族一門の「民族氏」の抜け切れない「民族氏」の「遺伝子的で無関心な感覚」が出ているのです。これが平族等の「彼等の特徴」なのであり概念ですから間違っているとは考えないのです。

この時期の背景も背景なのです。同時期1年後に瀬戸内から北九州に掛けて「純友の乱」の「独立反乱」が起ったのです。急に起こったのではなく「3−5年の潜伏重複期間」があって起こっているのです。
何か繋がりがある筈です。
「将門」は何らかの「純友」との繋がりを持ち「反乱」を共に呼応したのではないかとも観られます。

資料をよく考察すると、何れも「清和源氏の始祖の源経基」が関わっている事が判ってくるのです。
「将門の乱」は経基は「武蔵介」在任中に「郡司」(地方の行政長で地方豪族)と対立し、「追捕役」として仲介に出た将門に不満を持ち朝廷に告訴するのです。要するに逆恨みです。
「純友の乱」は大蔵氏と共に源経基は乱を鎮圧した事が大蔵氏の資料から判明します。
ところが通説は異なっているのです。源経基と小野好古の二人と成っています。
経基が朝廷に告訴(讒訴の傾向あり)します。
(朝廷記録の疑問)
ところが、何故、朝廷はこの事を書き記さなかったのか疑問が湧きます。
それはこの「2つの事件の経緯」と「朝廷側の苦しい思惑」が働いていたのです。
要するに歴史始まっての大褒賞と大勲功をした上で大蔵氏を指揮官に命じて置いたのだから当然そちらの方で記録が残る。片方で多少朝廷側の「立場事情」があって、「経基の讒訴」から事を歪曲させて「事件」から「乱」に仕上げたのだから、記録上は大蔵氏の事は別の意味もある事だし「後勘に問う」で逃げたのです。
「朝廷側の立場事情」とは「九州大蔵氏の自治独立の難題」と「以北の騒乱状況」でこの件で「純友や将門の事件」が引き金に成って収拾がつかなく成る事を恐れた事なのです。
そこで、先ず九州大蔵氏の「自治独立」の問題を無くす事の目的から、この事件を利用して「九州自治」を約束する形で「褒章勲功」などできる事全てを行う式典を行った上で指揮官を命じたのです。
指揮官の任命は名目です。
官僚からすると名目上は「別の式典」として記録する事を避けたのです。
「指揮官を命じる事」は「名目上の手立て」であり、同時に「中国以西の管理統括権」を与え約束する式典にも成る訳ですから、「純友や将門の事件」は質的に違う事から、官僚は記録を切り離して「褒章勲功」の方で別に記録して「後勘に問う」で逃げたのです。
その証拠に、「純友や将門の事件」の讒訴者でもあり、事件発端の当事者でもある経基の追捕の立場を「次官」として責任者の立場を与えなかったのです。また、逆恨みもはなはだしい将門告訴の当事者の経基は追捕とその責任者に指名されなかったのです。この事でも経基の立場と行為は見えて来ます。
責任者に任じられる事は鎮圧後にはその勲功とその地域の管理統括者に成れるのです。
しかし、経基にはその権利を与えなかったのです。
(経基には第6位皇子でありながら長い間源氏の賜姓を受けられなかったのです。事件解決後やっと受けた時の喜びの記録が遺されています)
「後勘に問う」から観れば”経基の行動少し変だな”と感じる筈です。
その”変だ”に対して直ぐに誰でもが察することですが、”事件を讒訴させ解決して勲功を挙げさせ賜姓の根拠にする”と受け取るでしょう。そうすると、これで ”アレ、責任者は誰”と「後勘に問う」で気付く筈だとしたのです。
「責任者探し」で「別の記録」(勲功幇助の記録と大蔵氏の記録)から大蔵氏が責任者であり、その時に責任者として事後は瀬戸内中国以西の管理統括権を大蔵氏に委ねる事で「九州の自治独立の問題」は解決する方向に動いた事が判明する事に成ります。芋づる式に判明します。
それでなくてはこんな事件の責任者任命に何も大げさに下記に示す要に「錦の御旗」と「国刀」と「従五位下の官位」等の現在までの有史来の誰一人も与えられていない様な勲功授与式典にする訳がありません。
誰が見てもここが「後勘に問う」で”変だな”と気が着く点の筈です。
さすれば朝廷としては「九州の自治独立の問題」は歴史上に遺す記録としては避けなければなりません。
少なくとも「後勘に問う」で判明したとしても絶対に避けるべき記録事であります。
 
とすると、「大蔵氏の自治独立」の方に主眼を置いて利用した事ですから、「純友や将門の事件」の内容には多少事件の歪曲が事件の取り扱いと記録上で働いている事に成ります。
そこで、何れも朝廷側から見ての罪状認否は次ぎの様に成っています。
将門は関東の賊に仕立てられ、純友は瀬戸内の賊・海賊に仕立てられている事になっています。
2人は何れも元役人。純友は「海賊」を取り締まる役人。その役人が海賊に成って反乱したとする朝廷側の言い分です。
将門は役目柄で藤原玄明を匿まったが常陸の国府を襲撃したとの朝廷側の言い分です。
経基は清和天皇の孫皇子でなかなか「源氏賜姓」を受けられなく功を焦っていたのです。
ところが疑問・間違いがここにあるのです。

「当時の海賊」(瀬戸内の海賊)とは、海の盗賊の意味での「海賊」そのものではなく、陸上にもある様に海上の「海利権」を糧として海上に「運行の安全」を保障し君臨した荒々しい仕儀する豪族の事ですから、明らかにわざとらしい間違いがここにあるのです。
そもそも、瀬戸内は讃岐藤氏の青木氏が海利権を持ち、対岸の中国側は「たいら族」の水軍(後に村上水軍)が持っていたのです。この事で海の海運の運行や漁業・海産物の殖産の安全の管理責任を負いパトロールなどの行為で「海の賊」等の掃討に働いていた「海の族」の「海族」(海のシンジケート)と称されていたのです。
それを「海賊」とわざと決め付けて記録したのです。明らかに当地の豪族によって管理統括されている海域で「海賊」がこの「乱」と呼称するほどの力は到底無く青木氏らによって押さえ込まれていたのです。
これ等の事を承知していれば明らかにこの矛盾と偏纂は「後勘に問う」であります。
瀬戸内の秀郷流青木氏は丁度この80年後頃の時期に「2足の草鞋策」で回船問屋を営み対岸から伯鰭の日本海沿岸までその圏域を伸ばします
「藤原純友」(藤原氏の養子とも言われ多説あり)は「海賊追捕使」(この事件に初めて派遣された「令外官」なのです)を務めていたのです。
これも「恣意的事件の根拠」としている事と明らかに矛盾しています。

(将門が上野を攻めた時の「上野介」は純友の父。 中央から派遣された行政長官の階級は 守「かみ」、介「すけ」、掾「じょう」、目 「さかん」と成っている。国司では介が実質の長官 )
(「藤原純友の乱」の主謀者純友は「上野介の父」がこの乱に関わっていた事から「将門の乱」をよく知っていた筈。)
(中央の行政官「国司」と地方の行政官「郡司」とは立場は必然的に異なりこの2つの事件の発端は源経基の「武蔵介」と土地の豪族の「郡司」との立場の違う「勢力争いの諍い」が原因している)

この時以降、「将門の事件」を含み各地に申請により「令外官」は派遣されるように成ります。
(国司が令外官の派遣申請の目的と郡司の申請はその目的とするところは異なる)
そもそもこの「海族」は各地にもあり、紀伊水軍、熊野水軍、伊勢水軍、駿河水軍、摂津水軍などがあります。(この5水軍は源平合戦の時義経に味方して、「たいら族」の水軍を破ったのです。)

又、当然、役目柄で過剰な行為に対する事に対して取り締まるにも「硬軟の戦術」があります。
見方によれば「純友の行為」は「海賊に成った」と成るでしょう。これを経基にこれまた讒訴の告訴をされ止む無く戦う事に成ったとするところでしょう。
将門も役目柄仲介しているのに郡司に恨みを持たず仲介役の自分を恨み、挙句は告訴される。
止む無く争いの藤原玄明の当事者を役目から安全上匿うことに成りますが、それを告訴されれば”何だ朝廷と経基と郡司は”、”経基等にしてやられた”となります。(玄明は常陸介末裔−父と将門は親交)
それを理由に攻めてきますが実力で応戦し周囲の朝廷軍を潰し回った。これに応戦出来る者なく、”それならば腐敗した朝廷に代わって関東の自治を九州の一族大蔵氏と同じ様に独立国にする”と成って反逆的な様相となった。そこで一族の国香に同調を求めたが反対された。結局は国香を潰す事に成ってしまった。以上と成りますが朝廷側の片方の言い分が先行していて何か変です。

「新王」とかの決め付けは朝廷側の言い分の罪状認否の明文構成ですので、「後勘に問う」からすると、朝廷側の言い分に上記した様に「時系列的史実」として傾向としては無理矛盾が多く出てくるのです。
後世に残す記録としては朝廷側を正とした大義名分が必要と成ります。この事から無理矛盾が出てくる事が多いのです。
この事から世の争いの「讒言讒訴の常」で、どちらにも同時に関係していた経基の動きから当時の朝廷内部の政治の何かが読み取れます。
(因みに海賊の意味の例としては、源義経はこの関西の4海賊軍で「たいら族」の瀬戸水軍に勝った。もし海族が悪とするならば義経は悪の親分に成ります。そうなのでしょうか。変ですし無理が伴います。)

その理由は「瀬戸内」と「坂東」どちらも「平族」の平安期中期までの基盤地域であり、同時期であり、「役職的な立場」と「反乱の根拠」の行動に持ち込む為の手法が全く同じである事です。

「歴史の時系列」と「史実の列記」から考察するとこの様に見えぬものも見えてくるのです。真にこの様に矛盾が出て「後勘に問う」と成るのです。
(3つ巴の構図と朝廷の思惑)
この2人(純友・将門)に何か親密な繋がりがないか調べていますが確定するに足りるものは現在確認出来ないのですが、あるとすれば”純友の親を将門は攻撃した”とするもの位です。
対立構図は「藤原氏」対「平族」の形でも、或いは「源氏」対「平族」の形でも、「藤原氏」対「源氏」の形でも、全く「3つ巴の構図」であったのかも知れません。
(筆者は「3つ巴の構図」と見ていて朝廷内の勢力分布の丁度狭間にあったと考えています。)
と云うのは、広域で云えば、朝廷から命じられた追捕使と押領使の「平族」の統括域とは云え、藤原氏北家の進出基盤地域でもあった処に「平族」の「将門の乱」(935-940)、「平族」の基盤地域に「藤原氏」の「純友の乱」(936-941)、共に相手先で起し合った「乱」とも観えます。これに経基が絡んだ「乱」とも観えます。
だから、誰も手を挙げない中で「平族」から「貞盛」 「藤原氏」から「秀郷」が名乗り出たのです。

源氏は何故名乗り出なかったのか疑問です。”潰す勢力が源氏になかったのか”と云うとこの後直ぐに清和源氏と成った3代目頼信系の源義家は以北勢力に力を注いでいますので「鎮圧の勢力」は無かったとは云い難いのです。
確かに頼信は兄頼光に守護代を譲り受けて兄の領国の伊豆を拠点に関東に勢力を伸ばしていました。手を出すと「藤原北家−たいら族平氏−頼信系源氏」の争いの構図が出来て共倒れが起こると観たと考えられます。
(天皇の思惑)
そこでこの事で”誰が得をするのか”と成ります。
それは、この事件の背景がそもそもそれが3氏の「潰しあい目的」が天皇の策略であったからです。
九州の大蔵氏には朝廷は最早歯が立たないところまで来ている事から以西は「自治」にして解決し。、東は3氏のどれかを遺す戦略です。そして”以北の阿部氏等の勢力は義家に潰させ私闘とする”を描いていたのです。
現に、この2つの乱・事件と思しき事件は、結局は朝廷にとっては「汚点の事件」でありますから、事件中は仲裁が入り私闘とする事の旨を将門側に史実正式に出していますので、「私闘」として裁かれ記録される結果と成っています。この時から天皇と朝廷は「私闘」の方針を持っていたのです。
「私闘」であれば「恩賞」「論功行賞」はしないのが普通ですが、この場合は秀郷と貞盛の約束がある為に特別の事はせず辞令により約束を護るだけの行為は果たします。
経基には源氏の賜姓を行いました。貞盛には官職の引き上げの約束をしますが、一代遅れの惟盛で行いました。
結局はここで「漁夫の利」を得たのは秀郷で、以後、関東域全域を獲得し支配下に入れますし、この時以降秀郷一門は藤原氏の北家一族として他の3家を潰して最大勢力に伸し上がります。
ただもう一人何もしないで利得を獲得したのは大蔵氏で中国以西と九州全域の自治権と貴族の身分と氏の誉れを獲得するのです。
結局、天皇はこの「2つの氏」(源平)を遺し、残りの2つ(大蔵氏と藤原氏)は潰す事を狙ったのではないでしょうか。この事件後の仕打ち・仕置きを見ると判ります。
「たいら族」は”美濃に下げられる”と云う事で最も危険な「源平の緩衝地帯」に追いやられます。
この事で「源平の潰しあい」を起こさせたのです。
この天皇家が描く戦略によって「たいら族」は滅亡し、11家あった源氏と義家等は「私闘扱い」とされ、且つ天皇から疎んじられて衰退し、遂には頼朝の反抗で一時的に蘇ったかの様に観えた事も静かに力を蓄えていた第7世族の坂東八平氏に3年も経たぬうちに完全滅亡させられるのです。
天皇の描いたシナリオは成功します。
更には普通なら地元の豪族集団の皇族7世族(ひら族)「坂東八平氏」が土地を奪われているのですから手を挙げる筈です。しかし、「将門」を潰すだけの勢力は「平族」と「藤原氏」と「源氏」の3勢力とに押されて「7世族の坂東八平氏」と云えども其の勢力は無かったのです。
この事が皇族7世族(ひら族)「坂東八平氏」にとっては、結局、”棚から牡丹餅”の結果となるのです。
結局、「たいら族」がこの結果、朝廷の懲罰を受けて一族は上総下総を残して平族(たいら族)は中部(美濃域)まで下がり勢力圏を以西の美濃にまで戻されて、この時以来、関東域にはきっぱりと勢力は無く成るまでに下げさせられたのです。
(この時から美濃秀郷流青木氏が大きく関わってくるのです)
(これが原因して緩衝地帯の美濃で源平の対立激化が起こり、美濃秀郷流青木氏が何とか仲介を図りバランスを取り戻そうとします。)
(秀郷一族の先祖伝来の上総と下総結城は取られたままに成っていたが、平氏退場後は実質支配の形であったが、最終的に頼朝により旧領と本領は安堵される。)

秀郷には恩賞の2条件が叶えられて「武蔵国、下野国」を与えられ、結果、関東は秀郷が押し出してその勢力権域を取り戻す事に成ります。
実はこの事から裏では大きく「純友の乱」を鎮めた大蔵氏を含む「5つの勢力」がうごめいていた事に成ります。

「2つの事件と青木氏の関係」
この思惑の働く混乱の中間に居て「3つの発祥源」の立場を護った2つの青木氏は巻き込まれる事無く子孫を遺し、「2つの賜姓族青木氏」は清和源氏の頼光系四家の血筋も受け継ぐと言う事を成し遂げます。これには秀郷流青木氏のバックアップがあった御蔭であり間一髪の「生き残りの戦略」であったと考えられます。一つ判断を間違えれば生き残れなかった筈です。
この「2つの事件」も1180年には「頼政の乱」もあった中です。
この「2つの事件」後と「頼政の乱」との間に生き残りの難しさを身に染みて感じていた「2つの賜姓族青木氏」は「2足の草鞋策」を実行するのです。
天皇も同族源氏を翻弄させていながらも青木氏には何も手を出さなかったのです。不思議です。
確かにその「武力的な勢力」は小さいのですが、「3つの発祥源」の「立場や権威」を源氏と共に発揮すれば源氏以上に武門を動かす力は充分にあったと考えられ、天皇もその事を充分に承知していた筈です。
もし天皇が「青木氏の力と行動」に疑問を抱いた時には「2つの事件」と同じ様な事の「引き込み戦略」に巻き込まれていた筈です。しかし、天皇と朝廷は賜姓青木氏5家5流と特別賜姓族秀郷流青木氏には手を出さなかったのです。
それは「3つの発祥源」を他に影響を与える事なくその「静かな立場」を厳守した事にあると考えられます。
故にそのままでは飲み込まれ結局じり貧すると読み、その為には「たいら族」と同じ様に「2足の草鞋策」で生き延びる事を決意したのです。
それにはこの時代を生き抜くには無力では無理であります。その為には「影の力」が必要であり、それを「2足の草鞋策」の経済力を基に「陰の力シンジケートの構築」に力を注ぎ、表に対しては「秀郷流青木氏の抑止力」を戦略として用いたのです。
これで「表向きの武力」は見えず巻き込まれる事は無くなります。
この事が朝廷と天皇に安心感を与えたと考えられます。

この様に「青木氏の外的要因」を主に描きその中で「青木氏の置かれている立場」を網羅しようとして論じていますがまさしく”紙一重であった”と云う事が判ります。
では、”何故に紙一重を守り通す事が出来たのか”と云う疑問が湧きます。
それは「紙一重の判断」を成し得たのはそれは”沈着冷静に研ぎ澄まされた精神構造”にあった訳ですからそれを人間に成し得るには「心の拠り所」と「仏の導き」以外にはありません。
それは有史来の先祖伝来の「祖先神の神明社」と「守り本尊の生仏像様」以外にはありません。
「4つの青木氏」が「固い絆」で結ばれていてこそ「心の拠り所」は守り通せるものであります。
この構図は他氏には決して見られない構図であります。
だから天皇と朝廷はこの「祖先神の神明社」と「守り本尊の生仏像様」の2つを決して潰さなかったのです。「4つの青木氏」を潰そうと思えばこの2つを潰す事で成し得ます。自然崩壊してゆく筈です。
現に各地に存在した神明社は現在では5000程度(主に江戸期建立)と成っていますが、当事の神明社は200程度であったと見られますが多くは消失焼き討ちされずに残存しているのです。
(この乱世の中でも「社会」もこの事の意味や青木氏の姿勢を評価していて、その神明社の尊厳を守り遺したのです。)
それは「4つの青木氏」がこの2つを護る事は強いては天皇家を護る事にも成るからです。
「祖先神の神明社」は「皇祖神の伊勢大社」を護る事と同じであるからです。
「祖先神の守人」とは「皇祖神の守人」であったからです。
「紙一重」としても「4つの青木氏」はその立場を沈着冷静に護り通したのですが、況や「天皇家の心の拠り所」でもあったからなのです。その沈着冷静な行動に対して天皇に深い感銘の安心感を与えたからなのです。つまり、天皇家の立場も東西南北で阿多倍一門に脅かされている天皇家をも護っている氏の青木氏であったからなのです。孤立無援の天皇家にとって唯一の味方と受け取っていたからなのです。
これはまさしく「天智天皇の初心」を忘れずに「天皇家の護衛団・近衛六衛府軍」の「2つの血縁青木氏」と「2つの絆結合の青木氏」が頑なにも200の神明社と共に護り通していたからなのです。

敢えて対比して、11代の同族の賜姓族の源氏を観ても判る様に天皇に疎んじられ社会から抹殺の憂き目を受ける等して潰されているのです。
朝廷と天皇は11代の源氏族を護ろうとはしなかったのです。何故でしょうか。
それは上記の事の「有無の差」なのです。その「生きると云う姿勢」の違いにあったのです。
社会も源氏に対して”武士の頭領”と誉めそやしながらも、他面ではその存在を認めていなかったのです。だから1氏も残らず11代もの源氏が抹殺滅亡させられたのです。

話を戻して、つまり、「2つの事件」より120年後の青木氏の「後勘に問う」の効用が大きく発揮されたのです。
その史書では、通説では”「純友の乱」には「源経基」と「小野好古」とが当たった”と成っていますが、ところが大発見で青木氏の研究範囲の中で、大蔵氏の資料史実から「大蔵春実」と云う阿多倍の10代目の子孫の人物が、天皇から直接に正式にこの乱の指揮官を命じられていたのです。(上記注釈の件)
経基は”追捕次官に任命”と成っています。そうすると指揮官が居た筈です。
その指揮官は誰なのか疑問が起こります。そこで上記の経緯から大蔵氏が絡んでいる筈としてここで「後勘に問う」の慣習から調べました。

この時938年、「純友の讒訴事件」に関して天皇より「錦の御旗」と「国刀」と「従五位下の官位」が与えられて指揮官を命じられている事が判りました。その人物が何と九州の大蔵春実でした。
この人物は更に1018年に自治を認められた大蔵種材の祖父に当たります。
孫の大蔵種材も1018年に「錦の御旗」と「国刀」と「従五位下の永代官位」と「岩門将軍」と「太宰大監」と「征西将軍」と「九州菅領」と「弓馬達者の栄誉号」と「遠の朝廷の称号」を与えられます。
自治に伴う全ての権限の政治、経済、軍事の3権と最高位の身分官職を与えられた事に成ります。
”与えられるだけ与えた”と云う感じで現在までにこれ程に与えられた人物はいません。
あってもせいぜい一つの称号程度の範囲です。春実にしても種材にしても驚異の勲功授与です。
歴史的にこの2人の勲功授受の史実の意味するところは大変大きい事に成ります。
「後勘に問う」そのものです。
将門と純友の恣意的な「讒訴事件」に対して朝廷は史実と違う事を正式な朝廷の記録に残さねばならない事に成ります。讒訴でありながら賊として反乱として扱い記録しなければならないことから矛盾疑問が出る事は承知していた筈で、後勘から観れば史実判明は必定です。

(後勘の史実)
1 940年頃の将門の乱や純友の乱の時に既に「九州全域」と「中国西域」を大蔵氏に委ね自治を認める事を決意しての天皇の行為と成ります。天慶3年5月3日の日付と成っています。
2 「錦の御旗」と「国刀」と「従五位下の官位」を与えた事は現在までの有史来で一氏と個人に与えたのはこの大蔵春実が始めてで最も信用している氏と成ります。
3 「従五位下の官位」は貴族に列する事を意味し、藤原秀郷一門と同じ身分となり、「錦の御旗」と「国刀」を与えられた事は藤原氏には与えられていませんので、藤原氏以上の身分と家柄となり「源氏−平氏−籐原氏<大蔵氏」で公に認めた事を意味します。
4 関東の阿多倍一族一門の「将門の乱」と連動しない様に以西は自治を約束して押さえ込んだ事を意味します。
5 「純友の乱」が通説とは異なる事を意味します。この「小さい反乱」と見られる「事件」の鎮圧に「錦の御旗」と「国刀」をわざわざ与える事ではありませんし、大蔵氏が出てくる事ではありません。
この乱はあくまでも「讒訴事件」である事を意味し、これを利用して大蔵氏を指揮官としたこの契機に関西以西と関東の安定を図ろうとした事を意味します。要するに経基の「2つの讒訴」を上手く利用した事を意味します。
6 大蔵氏の引き出しで成功した独立問題は別の反乱へと繋がってゆくのです。残るは以北の阿部氏一族等の解決と荘園制行き過ぎ問題の解決と成って行きます。ところが関東の問題を解決して「たいら族」を関東から引き上げさせたのですが引き上げたところが美濃で、その美濃での源平緩衝地帯の最前線のバランスが崩れて「源平の乱」が併発して始めたのです。
そして源義家がこの以北問題と荘園問題に大失敗を起こして以北は大混乱に成ります。

  「輪状の鎖の対立」
後勘の史実として、この時代の事件関係を並べて考察すると全て輪状の状態で夫々の立場で原因関係が繋がっているのです。
A 九州全域に”独立か自治か”で争っている時に。
B 以北陸奥域の安倍氏では”蝦夷と見立てられて”潰される苦労している時に。
C 関東域では「将門の独立の乱」で。
D 瀬戸内・中部地方域には「純友の独立の乱」で。
E 「国司苛政上訴・国司愁訴」が郡司や百姓等により各地で多発で。
(記録 尾張国郡司百姓等解文988)
F 賤民の難民、流人、放棄人、俘囚の反乱多発で。
G 朝廷内の官僚の腐敗
 
これは同時期の大きな出来事ですが、これ以外に典型的なこの時期の事件(E)が全国的に起こっているのです。それは上記の「4つの乱」の原因となる基なのです。
「以北問題」と「荘園問題」は関連しているのですが、国の代理施政官の「国司の苛政(非法行為)」を「郡司」や「百姓」等に依って朝廷の中央政府に訴えられる事件が多発していたのです。
朝廷に訴えても取り扱う官吏が腐敗の中にあるのですから無駄と言えば無駄な行為ですが、それだけに不満の限界に来ていたのです。
要するに「国司の政治」が良くなかったのですが、余りに「酷い状況」であって宮廷の大内裏の陽明門の前で直訴したのです。この行為は当事の慣習から異例中の異例で遠い地方から集団で歩いて出てくるのです。現在の「国会デモ」か「皇居の正門」でデモ行進するのです。民が国を離れる事態がそもそも異常な前代未聞の行為であったのです。
どれだけの「酷い社会環境」であったかが、現在の民主主義のデモではありませんので、この行為で判ります。”最早、誰に訴えていいのか判らない 何でもいいからやるしかない”の「民の心情」であったのです。まして、国司の下の「郡司」が参加しているのです。異常です。

AとBは国司の行政を無視した態度に不満
CとDは「将門・純友の乱」も戦いの元は国司に対する不満
となるのです。

丁度、この時期は「荘園の集団化」がピーク時(900年)に成り、これより行き過ぎの過程へと進む時です。
最早社会の横暴の流れを誰もが止められない状況と成ってしまっていたのです。

「対立の輪」「輪状の鎖」
この流れの輪は次ぎの様に成っていたのです。
7つの輪がぐるぐる廻る「酷い社会環境」と成っていたのです。
⇔の印の間には「苛政」(苛立つ酷い政治行為)が往行していたのです。

(天皇・皇親側)⇔(朝廷・上級官僚側)⇔(武家・武士団側)⇔(下級官僚・国司側)⇔(荘園主・地方豪族側)⇒(郡司・百姓側)⇔(賤民・俘囚側)⇔(天皇・皇親側)

AからFの経緯を調べると、これ等の7階級族が互いに隣の階級族と「輪状の鎖」で対立し腐敗していたのです。
これでは「対立の輪」が起こっている世情ですから、最早「融合の行き過ぎ」・「氏大集団化」・「荘園化」が誰にも止める事が出来ません。

特に(E)ですが、現場の治世を担当する国司が不法行為をして私腹を肥やしているのでは「国が腐敗」している事は確実です。
そもそも「政治腐敗」とはこの様な各階層の「対立の輪」「輪状の鎖」の連鎖が起こる事ではないかと思われます。
奈良−平安期の時代毎にこの階層の状況で調べてもこの様な完全な「対立の輪」は他にはありません。
私の方法として、”この「輪状の鎖」がどのくらいの程度で起こっているか”を「史実」を探し出し「時系列」で並べその「傾向分析」で調べると其の時代の乱れ具合が下記した様に判るのです。

全ての階層(要因)でこの「対立の輪」が起こっていれば「政治腐敗」、「輪状の鎖」の輪がところどころで切れていれば「部分的に腐敗」とか云う風にレベルの程度を判断して行く方法です。

(検査などに用いる統計手法の一種:技術手法です 逆に安定している場合にも要素の設定の仕方で可能)

注釈として、「3つの発祥源」の青木氏側から観れば、尚更にこんな「輪状の鎖」「対立の輪」中で上記の融合過程の「義家の不合理な行動」には同族として納得できませんし、また別の面で観ると、これ程の「輪状の鎖」の「世情の流」を止めた事は、「天智・天武天皇」「嵯峨天皇」に並ぶ「後三条天皇」はすばらしい逸材で在った事が云えます。先ず自然の摂理に任して行く所まで行く以外に止められない筈です。
しかし、主に優秀な3人の天皇が出現して止めたのです。
これには「洞察力」と「勇気」と「決断力」と「戦略的思考力」の4つを兼ね備えた崇高な人物であらねば成りませんが、天は味方してこの3人にそれを与えたと考えられます。

だとすると、累々と前記している様に「阿多倍一族一門」が全階層に何らかの形で深く関っている事は明らかですから、彼等の「独特な行動」、或いは「法より人」「石は薬」の考え方が「階層の対立」を直接、間接に影響して「対立の輪」を起こしていたのかも知れません。現在の中国の様に。私はこの説を採っています。これは阿多倍一族一門の利害の害の一点で天智天皇の「何かが起こる」現象の根源に成っていたのです。

「天智天皇」が「融合氏の国策」の3策を断行したのは実はこの「何かが起こる」の「懸念事」に在ったと観ているのです。
つまり、この「輪状の鎖」「対立の輪」が国民の間に連鎖的に起こり、国が場合に依っては割れ、全階層に「法より人」「石は薬」の考え方の影響力を蔓延らせて行くのを観て懸念して、「阿多倍一族一門」の”「独立自治」が「武力的独立」に因らずとも自然に雪崩の様に必然的に起こってしまう”と考えたのではないでしょうか。
この「天智天皇の考え方」が累代の天皇の難題の一つとして引き継がれて、「後一条天皇」の時に「九州の自治」(1018年)に対して最早逃れられないとして止む無く改革を決断したのではないかと考えられます。
片方では「荘園の行き過ぎ」から「融合氏の行方」が「行き過ぎ」になり、止められない状況と成って来ていたのです。
この「輪状の鎖」の対立の中で「阿多倍一族一門」に日本の精神の「互助」が働けば、尚更にそう難しい事ではなかったのではと考えられます。
日本列島南北で戦略的に揺さぶれば3箇所は一族一門に必ず有利に働いた筈です。
恐らくこんな政治状況の中で、天皇側は、”後漢が日本に移したような形が出来てしまう”と冷や冷やしていた筈です。幸いに「法より人」「石は薬」から「互助」が働かないのです。

簡単に渡来後に瞬く間に「無戦制圧」して行って突然に「帰化」の手段を採った理由は”史実的に何かあったのか”と調べましたが史実として遺されている事件性はありません。
天智天皇は「何かが起こる」から早々と先手必勝で先ず「帰化」の決断をしたと考えられるのです。

「品部180」から「在来民」が「物造り」の「技能伝授」があり「急速な経済的な潤い」を得た事が”「無戦に成った唯一の理由」”とされているのは事実なのですが、”帰化する、しない”は”直接の理由にはならない”のではと考えているのです。
「潤い→無戦→帰化」の「流れ」の中で「無戦」と「帰化」の間には”何かあった”と考えるのが普通ではないでしょうか。

「何かが起こる」の考えは「帰化」を認めた以上は「国策3作」「融合氏のへの転換」によって「石は薬」「法より人」の考え方を変える又は無くするの唯一の手段と成ります。
それでなくては ”国体は成り立たないし、その安寧と安定はありない”と成ります。
この事は言い換えれば、「融合氏:3つの発祥源」の「青木氏の存在」は「国の国体の安寧と安定」と等しい事を意味します。

つまり彼等の神の「産土神」を押さえ、別に「融合氏の青木氏」には新たに祭祀させた「祖先真の神」にする以外には ”国体は成り立たないし、その安寧と安定はありない”とする天智天武天皇の「手立て」であった事が判ります。
即ち、「祖先神 神明社」はその時より「融合政策のシンボル」と成り得たのです。

「皇族賜姓青木氏」と「特別賜姓秀郷流青木氏」はこの「対象氏」としてこの考え方を体現しこの紙一重の時代を沈着冷静に行動判断したのです。

中でも、「特別賜姓秀郷流青木氏」の立場は極めて難しく重要で事の可否を決め得る立場であった事が覗えます。
皇族賜姓族を護りながらも、秀郷一門の中での「経緯」や「第2の宗家」の立場もあり、この2つの難しい立場を護ると云う「至難の業」に挑んだのです。
それには”「皇族賜姓青木氏」と全く同じ官位官職名誉を与える”と云う「嵯峨期の詔勅」の範疇を遥かに超えて天皇は決断したのです。

(「嵯峨期の詔勅]による青木氏の名乗りは、皇族の朝臣族又は場合に依っては例外的に宿禰族であることが朝廷に依って承認されれば賜姓無くして名乗れるだけのもので、前記の青木氏と守護神(神明社)−4での「俸禄と褒賞制度」の授受一切と官位官職等の授受は無関係です。
秀郷流青木氏はこの「嵯峨期の詔勅」により特別に賜姓を受けて青木氏を名乗った氏であり、その時、賜姓族と同じ身分・家柄・官位・官職等を同じく保持した氏です。大きな違いがあります。記録からは「青木氏の名乗り」だけでこれ等のものは申請していないのですが与えられたのです。この事からも以下の数式の天皇の思惑が良く判ります。)

「2つの青木氏の存在」=「国の国体の安寧と安定」
「産土神」<「祖先神」=「国の国体の安寧と安定」
「2つの青木氏の存在」+「祖先神 神明社」=「融合政策のシンボル」

「阿多倍一族の考え」
反対にこの時の渡来時に”阿多倍一族は何かを考えた。”とすると、”ではそれはどんな考えなのか”となります。
先ず、全体の置かれている環境・経緯から観て、筆者が阿多倍の置かれている立場であれば次ぎの戦略・戦術を採るでしょう。経緯から見てこれ以外に「首魁・長」としてないのではと考えます。

想像する経緯
国を追われてぞくぞくと入国してくる漢族の難民の「衣食住の手当て」等の安定の担保が成されなくては戦いは難しいし、下手な出方をすると17県民200万人の大難民は大混乱に陥る。後漢の首魁としては無茶な事は出来ず「戦略」が必要となる。かと云って滅びたとは云え優秀だといわれていた「漢民族の自負」がある。
国が違うのだから考え方も違う。何とか柔軟に対処したい。幸い人民の進んだ技能がある。在来民も慕っている。ここは戦いを避けて何とかこれを生かす先ずその算段が必要だ。状況を観ながら上手く行けば次の戦略で行こう。ただ場合に依っては朝廷側から何らかの方法で潰しにかかることも有り得る。その手立ても考えて置く必要がある。と首魁・長である阿智使王と阿多倍王は考えた。
そこで次ぎの戦略を立てた。

基本戦略
1「潤い→無戦→帰化」の「流れ」の考え方を「基本方針」として踏襲する。
2「民族氏」>=「融合氏」の体制を構築する。
3「独立か自治か」を獲得する。

戦術1 全国に上から下まで自前の力を浸透させる。先ず「限定地域」(九州南北地域にする)を定めて「安住の地」を作り上げる。その為に「在来民」との融和を図り「職能集団」を全面に押し出す。

戦術2 入国地の北九州から南九州に拠点を移して朝廷から遠隔地にしておく必要がある。
大隈の隼人を本拠地として200万人を指揮する。

戦術3 「潤い→無戦→帰化」の「流れ」の中では、在来民の賛同を得られないし孤立する恐れがあり「食料武器調達」は「長期戦」になると困る。続々と入国してくる「後漢の民」に対して危険である。支配下に入った在来民にも大犠牲が出る。仮に独立しても長く続かない。
故に今すぐに「独立戦」は困難と判断。

戦術4 一度帰化して上から下までの階層に勢力を浸透させて基盤を造る。天皇家に血縁で繋げ朝廷に政治基盤(政治、経済、軍事)を伸ばして為政力を着ける。
其の力で国内を幾つかに分けて子孫とその配下と品部を配置する。

戦術5 状況に応じて7つのブロックの自治か独立を政略的に基本方針に従い達成する。
一族一門の「多少の犠牲」が予想されるが政敵(源・藤・橘・皇親族等)を政略的に潰す。

戦術6 政敵日本全国統一する為の国策「融合氏」に対して、「私有化」に誘導して「民族氏」である「後漢人民」の「安寧の地」を確保する。

現実には帰化(645)から概ね100年間位で次ぎの様な初期基盤が構築された。
これ等の「戦略戦術」に際しては次ぎの基地を構築して実行した。

「7つの基地」
関西伊勢本部  阿多倍王の一族(後漢王族の直系子孫 桓武賜姓平族・京平氏 たいら族 品部)
九州北地域基地 大蔵氏の一族 (皇族血縁族 賜姓族 品部 上級官僚為政族 品部)
九州南地域基地 肝付氏の一族 (大蔵氏末裔 皇族賜姓族支流 官僚伴氏と血縁族 品部)
中国地域基地  坂上氏の一族 (平族末裔1一族 皇族血縁族 賜姓族 官僚軍務族 品部姓族)
関東地域基地  平族支流一族 (平族末裔2一族 後漢王族の血縁族 下級官僚族 品部) 
中部地域基地  内蔵氏−清原氏(皇族血縁族 賜姓族 上級官僚為政族 品部)
陸奥地域基地  阿倍氏−安倍氏(後漢王族支流族 中級官僚為政・軍務族 品部)

「基地のその後の経緯」
関西伊勢本部は1185年 平族滅亡 伊賀氏として遺す
九州南北基地は1018年 自治権獲得 大蔵氏・肝付氏等繁栄する
中国地域基地は1185年 陶部氏滅亡 村上氏・海部・武部の姓氏族で遺す 
関東地域基地は950年  関東平族衰退 関西以東に後退 磯部氏等姓氏族で遺す
中部地域基地は1062年 内蔵氏・阿倍氏衰退 支流族で遺す
陸奥地域基地は1087年 安倍氏・清原氏滅亡 支流族で遺す

平安末期に最終の段階で関東、中部、陸奥地域は最終的に犠牲の予期はしていたが、思わぬ事件が起こり失敗し戦略を見直し後退させます。しかし、鎌倉期−室町期から観れば常識的に首魁が採る「基本方針と判断1−5」の全ての「基本方針と6つの戦術」の内容は完全一致しているのです。

筆者が最初に描いた「戦略・戦術」通りにほぼ進んだと観ています。
「無戦」と「帰化」の間には”何かあった”と”阿多倍一族は何かを考えた。”は真に「基本方針と判断1−5」と考えたのです。
それを判断通りに「150年程度」(初期100年)で完全に実行したのです。
(阿多倍はかなり長寿であったことが記録から判明する)

史実から領土の確定時期
645年に正式な帰化許可 北九州域(大宰府付近)に定住を許可
650年頃には薩摩大隈隼人に定住地移す 「阿多」にも定住地
675年頃には伊勢北部伊賀地方の半国割譲
685年頃には賜姓授受 賜田賜る
723年頃には薩摩大隈が攻められ護る 大隈地方を半国割譲
728年頃には功田で飛鳥高市郡を治領する
730年頃には近江−安芸の以西地域を治領する(大領)
780年頃には北九州の以北の正式な領主に(檜前領主・・)
802年頃に蝦夷地征討 内蔵氏と阿倍氏 奥羽7国全域と越後一部を治領する
833年頃には「7つの地域」を発展させた功労で例外的に特別に一族の賜姓族を「宿禰族」に昇格
(この時に軌道に乗っているので帰化から最大185年程度経過) 
938年に「純友の乱」(清和源氏始祖経基王と共に)で朝廷軍として「錦の御旗」の下に「天国刀」を賜り鎮圧の責任者として命じられる。中国以西と九州の自治を約束
940年頃に暫定にて瀬戸内と長門国域まで鎮圧し治領する
941年以降 鎮圧後、中国12全域と北九州全域を治領する
1018年以降 九州11全域の自治の「院宣」を受ける
1070年頃以降 長門国・岩戸(出雲)・岩門を治領する。

阿多倍一族一門は・「帰化後425年」で国の大半と一部地域を正式に領地としているのです。
正式の前には既に無戦征圧しているので帰化後は20年程度で完全に勢力圏に納めているのです。
だから、この後の内蔵氏・阿倍氏末裔の「安倍氏・清原氏等の事件」や平族の「将門の事件」や「純友の事件」(大蔵氏・平族等で鎮圧)やAからG等もこの判断の中での出来事なのです。
安倍氏や清原氏等の「辛い犠牲」も「大事の前の小事」として予期していた事で首魁・長の判断の中であったと観られます。

「概念の違い」
これは在来民持つものと比べると、「戦い方」或いは「目標達成」に対する根本的に異なる「感覚・概念」の違いとして出て来るものなのです。
これが「融合氏」と異なる「後漢の民」の「民族氏」の一見「無関心主義」と観られる概念なのです。
彼等の中では「通常の思考規準」として割り切れて出てくる概念なのです。
「融合氏」であれば躊躇なく”それ助けよ戦いだ”と成るでしょう。
「融合氏」であるならば「身内を犠牲」にしての「戦略戦術」であるなら大いに悩むところである筈です。
「身内を犠牲」にすれば「因果応報」の概念が湧き出でて”何時か自分も同じ目に会う”と考えて「通常の思考規準」としないのが「武家の習い・武士道」として「伝統」と成っている筈です。
ここが「融合」と云う言葉の意味なのであり、”溶け合う”に依って”同一”と成り、”身内は自分””身内を見放せば自分を滅ぶ”と成る概念なのです。
これが「民族氏」と「融合氏」の概念の根本的な違いなのです。

「民族氏」の概念=「無関心主義・漢民道」(民族制度の思考)
「融合氏」の概念=「武家の習い・武士道」(氏家制度の思考)
「民族氏」は「大陸的概念」
「融合氏」は「家族的概念」
その違いは以上と成ると考えられます。

阿多倍一族一門(惣領・家人・郎党)と其の配下は全てのこの8階層(「対立の輪」「輪状の鎖」)
に関わっていますので「大義名分」はどの階層からも出せます。しかし、これ程の「独立自立」を押し立てる名文があるのにも拘らずこの様に阿多倍一族一門にはまだこの「姿勢や態度」の「民族氏」の抜け切れない「無関心の感覚概念」が存在するのです。
「中国大陸」と云う「多種多様民族」の中では「無関心の感覚概念」でなくては生きて行けないのであり、概念の「良し悪し」では無いのです。
同様に日本においても”「7つの民族」を一つにまとめて「国の安寧と安定」を図る”と天皇が考えた以上は「融合民族」(・民族)をより進めるには「思考の単位」を小さくして矢張り「融合氏」(・氏)の国策を採る以外には無い筈で、ここに阿多倍一族一門との帰化後の「激しい対立」があったのです。

上記の様に66国中の40国程度が彼等の治領範囲であるのですから、彼等の影響は影響の範囲を超え上記する「民族氏」の「大陸的な感覚・概念」が日本と云う「小さい島国」に蔓延こる事は誰が考えても当然の事です。
そして蔓延った場合は”国は滅びる”(現在の国体は消える)と考えるのも当然の事でしょう。
「天智天皇」(「何かが起こる」)から「嵯峨天皇」と「後三条天皇」の優秀な為政者と、その後の「院政」(天皇・上皇)では充分に考えられる「感覚・概念の差」である事でしょう。
だから、彼等の「基本方針と6つの戦術」に比較して、対峙する天皇の「国の安寧と安定」の基本方針である以上は「融合氏の3策」を絶対的に推進しなくてはならないと成るのは必然です。
両者ともに当面採らなければ成らない「必然の戦略戦術」だったのです。
普通から考えればこの状況では「争い、戦い」は起こる事は間違いありません。

「帰化と治領の理由」
では、国が「融合氏」の「国策3策」を掲げていながら、それに反する事を何故したのかが疑問です。
”それならば、「帰化と治領」をしなければ良いではないか””何故、帰化を許し上記する国の40国の治領を許したのか”矛盾です。
それは次ぎの6つの理由によるのです。
イ 疲弊していた国を「物造り」の「技能集団」が在来民を誘って国を豊かにしてくれた事、
ロ 優秀で豊富な知識官僚(6割)として働き国体の根幹とする「国家体制」を近代化し「律令国家」にしてくれた事、
ハ 治領する国々の安定化を任せられる力を持ち対処してくれた事、
ニ 統一されていない日本の国を彼等の進んだ武力で鎮圧してくれた事、
ホ 対外国の脅威から国を護ってくれた事、
ヘ 入国後、無戦征圧で実効支配している事、

これだけも一民族氏の彼等に「勲功や治領」を許す事があれば認めない方が国が乱れる筈です。
これが彼等の「基本戦略ーイ〜ヘ」であったのです。
天皇は”しかし「民族氏の思考原理」は問題だ”のジレンマに陥っていたのです。

そのジレンマが今度は”余計に危険だ、「融合氏」にしなければ”と「天皇の悩み」は逆行して行ったのです。そして一時は天皇はこの「判断の過ち」(隼人の戦い)を犯したのです。
当然にこれには歴史的に史実として上記し前記する「戦い」を含む激しい「やり取り」があったのです。
「民族氏の思考原理」が働き、国策に従わない713年−723年の「隼人の戦い」の例に観るように。
しかし、朝廷は上記した勢力では勝ち目など始めから有りません。
しかし、余りのジレンマの酷さから”潰しにかかるミス”を犯してしまったのです。
それ以後、冷静に成り「戦いのミス」はしなく成ったのです。
むしろ、上記「史実から領土の確定時期」の様に「取り込む作戦」に切り替わったのです。
「排除作戦」→「取り込み作戦」
その決定的な流れの重要な判断をしたのが「後一条院」の寛仁2年(1018)の「九州全域の統治権自治」を認めた事なのです。これでほぼ決着した事に成ります。無闇に認めた訳ではありません。それだけの綜合的な実力を持ち得ていたからでねむしろ朝廷よりあるのではと考えられる位です。判断はその直前の「純友の事件」の時に事前通告する(938年)手立てを講じていて冷静です。
これは「民族氏」と「融合氏」の妥協案と成ったのです。
阿多倍一族一門からすれば「基本方針と5つの戦術」に合致し「独立」に成るには及ばすとも充分とは行かずとも納得できる結果です。
「32国の統治権」を獲得しているし、天皇家とも血縁族と成り子孫末裔は遺せたし問題は少ない筈です。ほぼ達成できたからこそ”「大事の前の小事」”として「陸奥の一族」を「無関心主義」をここで発揮し見放したと云う事に成ります。

清和源氏や藤原氏と戦っていた場合は帰化時ではなく40国の勢力ですし、天皇より九州地域の自治権を認められて40年後の事ですし、「錦の御旗」と「遠の朝廷」と「天国刀」を授かっているのですから、上記する様に大儀名文は充分あります。
軍事力から云っても格段の差、阿倍比羅夫や阪上田村麻呂の実績もあります。
内蔵氏、阿倍氏、安倍氏、清原氏を救い出す事は簡単であったし、天皇も文句は出せない事であった事から犠牲をわざわざ払う事無く基本方針を貫く事は充分に出来たと観られます。
そうなれば関東と中部と関西の3地域を残して両サイドは独立まで待ちこむ事は出来た筈です。
この両サイドの力からすれば関東や中部や関西を獲得する事は時間の問題です。
軍事だけではなく政治の6割を末裔一族が占め、経済は品部180とその姓族が各地で育っているのです。問答無用です。
しかし、彼等は何とそうしなかったのです。後一条院の正式な「自治認可の裁可」に対する「交換条件」として。

彼等の基本方針は
1「潤い→無戦→帰化」の「流れ」を踏襲する。
2「民族氏」>=「融合氏」の体制を構築する。
であったからだと考えられます。
この基本方針が賄えていたからです。
しかし、2の基本方針は朝廷側からすると「民族氏」<「融合氏」成っている筈です。
朝廷はこの「折り合い」をこの段階では「民族氏」=「融合氏」にほぼ等しいとして踏み切った事に成ります。朝廷の基本方針にするには「2つの青木氏の存在」の今後の如何に関わっていたのです。
ですから、上記した「青木氏の存在」=「国の安寧と安定」の数式が成り立つのです。

問題は”その後の荘園問題の絡みから来る「融合氏」はどうなるのか”です。
答えは次ぎの政治改革の断行にあるのです。
「後三条天皇」の1068年の「荘園整理令」
「白河天皇」の1072年の「荘園公領制」
以上2つの改革を導いた英断にあると観ます。

恐らくはこの英断を観て”阿多倍一族一門は引いた”と観ていて、上記の「基本方針」に沿ったと見て居るのです。
「九州全域の自治」に対し「国策に従う事」(荘園整理令と荘園公領制)と「戦いを起さない事」を条件に纏まったと考えられ辻褄が合うのです。

源義家一族の「前九年の役」と「後三年の役」を天皇が「私闘」としたのはこの「協議の妥結案」に逆らうものであったからです。
「義家等の行動」そのものが「国の行く末」、「融合氏の行く末」、「青木氏の行動」を破壊や波乱に導く可能性があったから「私闘処置」のみならず「疎んじる」(源氏を潰す)と云う決断の行為に出たのです。
「青木氏」に対する扱いとは源氏の扱いは間逆であったのです。

天皇は場合に依っては阿多倍一族一門が「契約違反」として動く事を懸念してハラハラしたのではないでしょうか。そして、「民族氏」の彼らの冷めた様な冷酷無比と観られる「無関心主義」に対して「融合氏」の欠点として、”周囲の実情も考慮せず「カーと成る性癖」”を天皇は憂いたのではないでしょうか。
それが「融合氏の象徴」の源氏に出ていたからなのです。「融合氏」を進めなければならない立場にありながら「間逆の行動」を採っている源氏を許す訳には行かなかったのです。

これが「後勘に問う」の当時の実情であって、「荘園整理令」「荘園公領制」の実行に依って、”最早「事の流れ」は決まった”と観て、単に「私闘」と片付けたのではないかと考えます。
しかし、この事を救ったのが「真逆の立場」にあった懸念していた阿多倍一門であって、幸いにも上記した様にこの「民族氏」は鎌倉期−室町期の「弟2の融合氏」と進み、結果として「民族氏」の「阿多倍一族一門」と「融合氏」との両方に執って丁度良い「結びの結果」と成った事に成ります。
この事から、青木氏と同じ立場にありながらも「源氏の判断ミス」の行動が際立ってしまったのです。
これでは最早、天皇のみならず社会は「源氏を遺す根拠」が無く成ったと成るのではないでしょうか。
武士階級では「源氏の頭領」と表向きには褒めはやしていたが、一面では「青木氏の存在」即ち源氏に匹敵する力を持っていた藤原氏の秀郷一門の「特別賜姓族の青木氏の背景」と「皇族賜姓族青木氏」を片方で見ながらも認めていなかった事が判ります。
それは「社会の民」は当事、民自身で「心の拠り所」の神社を建立する力は無く、多くは青木氏が建立する「皇祖神の伊勢大社」に繋がる「神明社」に「敬いの心」を持ちながら「心の拠り所」を求めていた事でも判ります。
(源氏の八幡社より神明社の方が段突に信心は高くこの傾向は明治期まで続きます。伊勢参りの形で神明社に詣でた。)
源氏が持て囃される事で民から「特別の氏」と見なされ、必然的には源氏の守護神の「八幡社」は武士以外には「特別な神社」と扱われてしまったのです。その反面、青木氏は「特別な氏」でありながらも、「神明社」を通じて慕われ崇められていたのです。平安期以降は「2足の草鞋策」としても生活は民の下まで降りて行き民と一体と成って行ったのです。それには「絆結合」で結ばれた民の「第4の青木氏」の功績が大きかった事が覗えます。この様に青木氏は源氏と異なり「生活の面」でも「民と一体」で生き延びてきたのです。

この民まで繋がる「融合氏」「3つの発祥源」としての青木氏を護り支えた平安時代の累代の天皇はその意味では”ぶれ”ていなかった事が判ります。
(平安以後は特別賜姓族の秀郷流青木氏が天皇の代わりを勤め賜姓族を懐に抱え、秀郷一門も護りその役割を果たしたのです。特別賜姓族の秀郷流青木氏あっての「4つの青木氏」であった。)
その意味で「後勘に問う」から観れば、秀郷第3子の千国を申請外で特別賜姓族として「村上天皇」が容認した事の判断も優れていた事に成ります。
その天皇の中でも「後一条天皇」「後一条院」も「後三条天皇」と並んで優れた先を観た判断の「先見の明」の「通眼の持ち主」であった事が云え、「逸材の天皇」として認める必要があった事に成ります。

しかし、この平安期の「民族氏」の冷めた「感覚概念」は現在も引き継がれていて日本人の政治に対するアンケートでも出て来る4割にも上る数字の「無関心族」「無所属派」としてこの感覚の持っている人が多いのは此処から来ているのでしょう。又、”周囲の実情も考慮せず「カーと成る性癖」”も同等に多いのも此処から来ているのでしょう。
現在でも「民族氏」が消え「第2の融合氏」と成ったけれど「7つの民族融合」の日本の国民の3割程度は中国系の日本人ですので、この「感覚・概念」を執拗に遺伝子的に引き継いでいるのかも知れません。
「氏的」には7割程度に融合していればまあ殆どの「融合の国民」と云っていい筈です。

  「融合の必然性」
本文で云う日本人の「7つの民族」の「融合氏」を分けるとすると、鎌倉期以降では「第1の融合氏」と「第2の融合氏」がある事に成りますが、この「2つの融合氏」を成そうとすると、初期には「血縁」で緩やかに拡がりますが、必然的に「氏間の競い合い」が起こり、この様に最後期には「争い」で決着をつける事が起こるのは「自然の摂理」です。
「2つの融合氏」=「血縁」→「氏間の競い合い」→「争い」→「融合」=「自然の摂理」

平安末期に起こり始めた「源平」(民族氏と融合氏)の様な「争い」は各地で起こっていますが、「民族氏」問題から危機を感じて「国の安寧と安定」を国是として、この様に「天智天皇」が政策として始めた「3つの発祥源」の「青木氏」を模範として、それを進化させ発祥させ推進させました。

それが第1(融合氏)と第2(民族氏)の「融合」の経緯を辿り、遂には、この様な融合は「争い」を誘発させ、下の氏(姓族)が上の氏を潰す「下克上の争い」の現象(姓氏誕生)へと繋がり、それが全国的に広がり「氏の潰し合い」(氏間と姓間と氏姓間の争い)の「戦国時代」へと繋がっていくのです。
この時、多くの氏は「平安期の氏数」まで入れ替わり激減して潰れてしまったのです。
つまり「融合氏」としての弱点が原因したのです。
「弱点を直す努力無し」では生き残れずこれはこの世の「氏融合の必然性」です。

この様に「後勘で問う」で観ると、この中で「氏」を遺せるには、(「源平」の様に成らないようにするには)「決定的な何か」が必要な筈です。
それが(証拠)「1千年以上の悠久の時を過ごして来た生き残りの歴史」を持つ「青木氏」に観えているのです。
それが前記した次ぎの数式で表されると考えています。

「鶏の卵関係」=「氏融合」=「子孫存続」=(血縁と生活の絆)=「4つの青木氏」
「2つの血縁融合」+「2つの無血縁融合」=「子孫存続」の条件

「争い」を伴なう「氏融合」ではこの条件(「鶏の卵関係」・「血縁と生活の絆」)を伴なわなくては「滅亡の憂き目」を受けるのです。
しかし、これは「青木氏の歴史と期間」から観た証明の条件ですから「融合氏」全体から観た集約される条件としてこれ以外に他に何かがある筈です。
それを検証する為に次ぎに更に検証進めます。

  「氏融合の第2の条件」
阿多倍一族一門以外にも実は中国地方と北九州地方一帯にも藤原純友による「独立国反乱」が起こっており、これには阿多倍一族一門の「大蔵春實」と賜姓族の清和源氏の祖「源経基」が当たりました。
1年早く起こった「将門の乱」も夫々を代表する「平貞盛」も「藤原秀郷」の2人も上記した全国の「阿多倍一族一門」の出方を観たと考えられます。しかし、「貞盛」と「秀郷」の両者と共に上記する理由(融合が進み過ぎた)で「阿多倍一族一門」も「将門の乱」の方では直ぐには動かなかったのです。
この「両方の乱」の発生場所は何れも阿多倍一族一門の根拠地・土地柄で共通しています。
「純友の乱」の方は根拠地として重要度の高い地域であり、相手は「藤原氏」でありすぐさま大蔵氏が敵対したのです。
「将門の乱」の方は「関東たいら族」の根拠地(上総下総)で「将門」は伊勢伊賀の桓武賜姓族(781)の支流平族の身内ですので「無関心」を装ったのです。
そして、結局は「純友」には「阿多倍」の次男の「大蔵氏」(賜姓族・北九州)の末裔10代目「春實」が当たり、5年の後に鎮圧させ、春實には中国地方と北九州地方を正式に領地とする事を許されます。
「将門」には「阿多倍」の伊勢伊賀の末裔賜姓「平国香」(将門に殺された)の子4代目の平貞盛(賜姓族・伊賀)が当事者(事件の追捕使・押領使でもある)でありながら暫くは無関心を装い様子を伺ったのです。
何れも阿多倍一族一門の地域帯で起こり、阿多倍一族一門が対応したのです。
将門の乱は身内が起こしたのです。
そこで、今度は二人は逆に痺れをきらした天皇から出された条件に吊られて、「貞盛」は身内の拡大を、「秀郷」は潰されることが無いと見て身内の拡大を考えて苦しい5年の戦いに挑んだと観られるのです。

特筆・注意
ここで理解を深める為に先に「たいら族」と青木氏との関わりを知っておく必要があります。
「たいら族」とは「氏」としては敵対する立場にありながら「血縁・隣人・人」としては不思議でかなり親密な関係にあったのです。
「青木氏とたいら族の関り」
「桓武平氏」・「京平氏」・「伊勢平氏」と呼ばれる桓武天皇より賜姓された氏です。
関東の「皇族第7世族」の「ひら族」(平氏・坂東八平氏)に準えて「伊勢伊賀」に住する事に成った後漢から帰化した大隈の首魁「阿多倍王」にその功(技能普及で国を富ました)に対して慣例を破り「たいら族」(平家・伊勢平氏)を賜姓し伊勢北部伊賀地方を青木氏から外し半国割譲して与えたのです。
本来は賜姓は4世族内の者で第6位皇子に与えられる天智天皇からの慣例でそれまでは青木氏として賜姓していたが、「光仁天皇」(伊勢青木氏の始祖施基皇子の子)の子の「桓武天皇」は自分の母の「高野新笠」(阿多倍の孫娘・光仁天皇の妻)の祖父阿多倍王(伊勢伊賀在住)に対して賜姓したのです。
伊賀の高齢の「阿多倍王」又の名の「高望王」「高尊王」、朝廷側の名の「平高望」「平望王」「平尊王」として、死亡後に”生きている”として伊賀に出向き賜姓したとされています。
そして「辻褄と帳尻」を合わせる為に「桓武天皇の曾孫」として処理したのです。

しかし、伊勢北部地域の伊賀にはこの様な「桓武天皇の曾孫」とするものは皇族の記録には確認されないし、伊勢伊賀地方に第4世族の皇子の「王」とすることもおかしいし、「曾孫」とするも年数が合わないのです。
後漢の王の「阿多倍王」と極めて酷似の名であるところから、又経緯からも「高」を「たいら族」(平族)とした事から真実味を出す為に「平」に変えたと観られています。
これに対して「阿多倍王」は「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の孫娘と血縁して3人の男子を産みこの子供に賜姓をうけ「坂上氏」、「大蔵氏」、「内蔵氏」を発祥させたのです。
つまりは、この事により「皇族出自」としてその父親も同扱いにして第7世族の「ひら族」(坂東八平氏)に準えたのです。
記録上は阿多倍の名に似せた名を作り出し「皇族出自の曾孫」として扱ったのです。
その「平氏」の賜姓を受けた事によりその「阿多倍」の孫より「賜姓伊勢平族」として「平国香」−「平貞盛」より以降の平清盛までの末裔等の記録が残っています。
(末裔の国香以前は不明で、国香は年代から孫か曾孫に当たる)
大蔵氏等3賜姓族は天皇家の血筋を保持し、賜姓「たいら族」と阿多倍の縁戚族「阿倍氏」等は無血縁です。
これを強引に孫或いは曾孫としているのです。
この「平国香」より6代後が「平清盛太政大臣」であり、「阿多倍」の孫としたのは「阿多倍」の子は坂上氏(806年没)、大蔵氏、内蔵氏の3人であるので「平族」の2代目(国香の親)は誰なのか不明です。(記録上では高望王としている)
一説によれば孫とする「平国香」はこの3人の内の一人の子の推測説もあり妥子の説もあるが、元々阿多倍王は超高齢(85歳以上−735年頃没?)であった事は事実で、死んだ後(35-45年後)の事で無理で強引な桓武賜姓であるので、不明としていると考えられます。
「桓武天皇」が生まれた737年頃が最大時期で「阿多倍王」が没した時期前後とほぼ一致すると考えられます。
95歳−100歳であればぎりぎり母親の実家の祖父の阿多倍を何とか知っているのが限界であると観られます。(当時の平均年齢は45−50です)
桓武天皇生誕期≒阿多倍王没期 桓武天皇位781-生737=44年後に賜姓した事に成ります。
この44年を埋めるには阿多倍を強引に孫(又は曾孫)とする以外に無くなります。
これが矛盾の通説の根拠なのです。
従って、阿多倍から次に判っている平族の人物は国香であり、国香は将門に殺されたので935年没で依って生誕不明としているのです。この国香の行動ははっきりしていて同年代の者の生誕日は明確に成っている事から観ると何も不明と成る理由は見付かりませんから明らかに伏せたと観られます。
しかし、計算から当時の平均年齢から観て、「国香」は885年頃(895年頃)が生誕と成りますと(885-735)=150年前後位経った人物と成り、「孫か曾孫」と成りますので、実際はこの阿多倍から国香までの間には少なくとも「2人の人物」が存在する筈ですが判っていません。
「国香」を始めとして「2人の人物」には賜姓するにはその功績が認められませんので、どうしても始祖である「阿多倍王」に戻り賜姓する必要があります。
既に阿多倍の子供の大蔵氏等3氏には賜姓をしていますのでその父親だけは准大臣に任じてはいるものの賜姓は受けていません。
そこで桓武天皇は母方の没祖父に何としても賜姓をしたかったのです。
確かにそれだけの勲功は充分にあります。そこで、これは奈良期の「身内外の賜姓仕来り」により中臣鎌足の「藤原氏」の賜姓も没直前か直後とされているのに準えたものと観られます。
これはその天智天皇が採った賜姓の仕方とも同じです。前例の”慣例に従った”と成ります。
依って、「国香の生誕」を明確にすると「慣例の賜姓」の矛盾を露出させてしまいますので終えて消したのです。
「桓武天皇」は、「阿多倍」の長男の「征夷大将軍」の「坂上田村麻呂」とは母方の伯父に当る事もあり極めて「知友」であった事は史実として残されていて、桓武天皇と同じ同没806年であり、伊勢の阿多倍の実家の内容は手にとるように実に良く知っていた筈です。知った上での行為でありその賜姓の目的が明確であります。(父方は伊勢青木氏の施基皇子の子供の光仁天皇)

桓武天皇は「律令国家」政治を完成させる為に父方の「皇親政治」族側の実力氏「2つの血縁青木氏」に対する対抗勢力(母方族)を作り出しました。その勢力が阿多倍一族一門なのであり官僚の6割を占め彼等の勢力なしでは律令国家は成し得なかったのです。
「阿多倍勢力」による「律令国家完成」か、義の実家先の「皇親政治」側青木氏を採るかの決断に迫られたのです。
父方族の青木氏では無く、上記した様に国の6割から7割を有する実力充分のその「対抗勢力(母方族)」に自分の律令体制の維持の意思を継がせたかったと観られます。
「律令政治」と「皇親政治」は相反する体制で、現実に後にも天皇家はこの勢力に二分されて政争が起こって入るのです。
事実、この「桓武天皇」(737-806・位781-806)のこの慣例を破った無茶な賜姓(天智天皇からの第6位皇子の青木氏を賜姓しなかった事)に対して、後の「嵯峨天皇」(桓武天皇の次男)と「政治手法」で争いを起こして対立するのです。
結局は、「嵯峨天皇」は元の「天智天皇」の「皇親政治」に戻したのです。
そして直ちに「弘仁の詔勅」を発して「賜姓の方法」を戻してこの様なことの無い様に規律を作った経緯なのです。
以後、11代に渡り実行された「賜姓源氏」と変名して「青木氏」は皇族の者が還俗する際に用いる氏名として一般に使用を禁じ江戸末期まで原則守られました。
結局、その「賜姓の意思」の決断は「融合氏の国策」に執って400年と云う間の「融合氏」を啓蒙する「民族性の強い相手」であった事に成ります。
「桓武天皇」は身内の実家先の「3つの発祥源」の伊勢青木氏を、良い方で考えれば”強い氏として鍛え末代までに残る氏”に天智天皇の意思に従い遺したかったのかも知れません。
何も「皇親政治」族として政治に関る事が目的だけでは無く未来の事を考えた場合「3つの発祥源」として生き残らせるべき事が本筋であります。
それがと天智期からの”「国策3策」に合致するのだ”と考えていたと観ているのです。
その為に結果としてはこの時の仕打ちで鍛えられて青木氏は衰退浮沈してもそこから這い出し生き残ったのです。
桓武天皇は争いまでして「苦渋の選択」をした事に成ります。
「たいら族」は「青木氏」(伊勢青木氏と信濃青木氏)とは直接に血縁性は無いにしても、「何れも伊勢の住人」「青木氏と光仁天皇の末裔の桓武天皇・父方族」の「関り・隣人絆」から「親心」から強い「母方」を使って「皇族」と云う「ひ弱さ」を克服させる為に採った戦略では無かったかとも考えているのです。
それでなくてはこの様な突拍子もない事をしなかったのではないでしょうか。
それでなくては余りにも”平族賜姓の目的が単純すぎる”のではないでしょうか。
恐らく、その時の父方の実家の青木氏は「皇親族」として「奢っていてひ弱さが目立っていた事」を示唆していたとも考えられます。

現実に「嵯峨天皇」から同族として発祥した11代の源氏は「桓武平氏」を滅ぼしたけれど自らも共倒れする様に全て11代は完全滅亡しているのです。
その意味で「平清盛」と接し「政治、経済、軍事」に付いて教授されていた「源義経」は兄頼朝に”諫言した事は正しかった”と観ているのです。
既にこの時には直系の「近江源氏」「美濃源氏(賜姓美濃青木氏も滅亡)」「尾張源氏」「駿河源氏」は「たいら族」に因って「美濃の戦い」で完全に潰され子孫は滅びているのです。

(最早、皇族賜姓族の青木氏や佐々木氏などの嵯峨期前の賜姓族と村上源氏支流(北畠氏等) が遺された。しかし:最終村上源氏も室町期に滅ぶ。特別賜姓族の秀郷流青木氏は5家5流の青木氏と佐々木氏を護る。 村上天皇は第6位皇子を源氏として賜姓するが、秀郷第3子も特別賜姓する。)

「2足の草鞋策の強み」
特に記録では義経は「清盛の宋貿易」に付いて「貿易経済と物造り」(商い)に感動したと記されています。皇族賜姓族の「生き残り策」は「武力」では無く、「荘園」で無く、領地を生かした「商いと物造り」つまり「殖産策」である事を「義経の感性」で感じ採っていたのではないでしょうか。
「武家が商い」には感覚的に抵抗があったと観られますが、論より証拠で同族の「2つの血縁氏の賜姓族青木氏」と「平家の清盛」さえも悟っていて実行したのです。

”「税と権力」を基盤とする「勢力繁栄」は何時か「栄枯盛衰」のたとえの通り滅びるは必定”と見抜いていたのです。しかし、「清盛のたいら族」は滅びたのです。

その原因は次ぎの事が働いたと考えられます。
1 「税と権力の基盤」>「商いと物造りの基盤」であった事
2 関東での治領の運営に失敗し撤退した事
3 「荘園の行き過ぎ」にも肩入れし過ぎた事
4 阿多倍一族一門の援護が無かった事
以上の4つから起こった滅亡です。

室町期の状況として分析すると、特に3の平族の未勘氏と家紋分類から見ると源氏には及ばないが姓氏含みで373もあり、これも”いざとなった時”には逃避離散する為に戦力には成らなくなる事も原因しているのです。(源氏では判明できないくらいでこの数倍となる)
平族の氏力の約10倍程度と成っています。平族の実際の氏力は見た目より1/10程度の力しかなかったのです。これを清盛は間違えたのです。
1に付いては「知行国と領国の比」から領国では殖産し産物を拠出することが出来るので「商力」(宋貿易額)とし、知行国は「知行と権力」に依って得られる「基盤力」とすると、「商力/基盤力」または「領国/知行国」から概算すると凡そ1/2程度と計算できます。
2と4に付いては上記した通りであり、これら1から4を考察すると外見の方が大き過ぎた事に成ります。
ここに落とし穴があり、人間の性(さが)でもある誰しも起す”思い上がり”が起こり「思考と判断の間違い」を引き起こしたものと考えられます。
勿論、生き残る事が出来た特別賜姓族の藤原秀郷流青木氏も「殖産・商い」を各地で積極的に行ったのです。確かに秀郷一門は荘園にも加担していたのですが、「秀郷流青木氏」だけには「特別賜姓族の立場」があり、一族一門の「護衛団の役割」から行動を抑えたと観られ、家紋から観るとこの荘園名義上の未勘氏が極めて少ないのです。
この荘園に対する加担の証拠が見付からないのです。その大きな証拠として秀郷流の他の一族一門は未勘氏が大変多いのです。(源氏とほぼ同じ程度かそれ以上と観られます。)
つまり藤原氏の名義を貸し名義上の荘園主として間接的に利益を挙げ、その代わり「無血縁の藤原氏」を名乗らせる要するに「未勘氏」族なのです。
361氏の家紋群外の藤原氏は名義上の未勘氏族であったと観られ、室町末期、江戸初期、明治初期の何れかで名乗り変えをしたと観られます。
しかし、秀郷流青木氏にはこの未勘氏族が極めて少ないのです。物理的に出来なかったか故意的にしなかったかは筆者は両方であったと考えています。
恐らく、故意的にしなかった事としては、特別賜姓族の青木氏であると云う立場を貫いた事、勿論、それに見合う「2足の草鞋策」(殖産策)を採用した事(24地域の15程度で沿岸沿い地域)、その一門の「第2の宗家」としての権威も護った事の3つにあると考えられます。
物理的に出来なかった事としては一門の護衛団であった事と成ります。
この4つの事を護り維持するとすると、かなりの「財力を確保」をしなければ成りません。
その証拠に室町期と江戸期の多くの「豪商のルーツ」を探ると本流支流は別として「藤原秀郷流一門の出自」である事が判るのです。中でも秀郷流青木氏の比率が高い事が家紋群の比率で判ります。
一族一門の24地域にも上る各地の藤原氏の勢力と縁故を使って栄え、そこで蓄えた財力を一門の基礎としていたのです。

ここに少し違う事があって、傾向として九州北、瀬戸内、日本海側、静岡の地域の秀郷流青木氏の方は「2足の草鞋策」を明確に採っているのですが、他の一門は判らない様にして運営していた傾向が認められるのです。これは「公家貴族」と言う立場を大きく気にしての計らいであったと見られます。
(この分を補足すると24地域の殆どと考えられる)
そこには、「政治の公家貴族」と「護衛団の武家」との差が歴然としてあった事を物語っています。
この「商い」は何処から他人が作ったものを集めて売り捌く「小商い」ではなく、自らが「殖産」に財力をつぎ込みそこから生まれる物産を大量に計画的に売り捌く「大商い」を秀郷流青木氏は行っていたのです。
他の一門は前者の形式を採用して財力(資本投下)を拠出する事のみとして、その配当利益を獲得くして表には「公家貴族の商い」として出ない様にしていたのです。
要するに「計画殖産」と「集約生産」との「商い方の違い」があったのです。
前者はそれだけに各地の一門の力を集める必要があったと見られます。
後者は自らの財力で各地のシンジケートを育成しての商法であったのです。
ここに大きな違いがあったのです。

この商法が「子孫繁栄」と「生き残り」の将来に大きな影響の差となって現れるのです。
鎌倉期を過ぎ室町に入ると各地で下克上が起こり、更に戦国時代へと突入して行きますが、この事に依って各地は乱れ各地の産物の生産力は落ちます。産物を運送するにしても相当な武力を要します。
しかし、公家貴族の藤原氏はこの武力を保有し使う事は出来ません。また産物を集約して調達している一門も自らの身を護る事に精一杯と成ります。次第にこの形式の商いは成立せずに衰退して行きます。
公家貴族の藤原一門は当然に貧して来ます。
反面、秀郷流青木氏らが採用する殖産の商いは、繁栄を果たし強固なものに成って行ったのです。
それは「下克上や戦国時代」で潰され敗退した各地の土豪集団が生活に困りこのシンジケートに入り豪商から経済的支援を受け、尚且つ、豪商の青木氏から殖産作業に従事させて貰え生活は安定し潤いを得るように成って行ったのです。
そして、いざと云う時は、「シンジケート」として「影の武力」として「戦費の充足」を受けて「活躍の場」を獲得する事が出来る様に「商いの組織」は順調に繁栄へと働いて行ったのです。
今までは荘園制の中で名義の荘園主の背景の下に細々と生き延び来たものが「活躍の場」「水を得た魚」の如くであったのです。

「殖産策の大商い」の青木氏一門の中では、彼等を助け、益々その「発言権」を増し「第2の宗家」としての活躍を果たす事が出来るように「良のスパイラル」が起こり成長していったのです。
結果、藤原一門は室町期に成っても勢力は衰えず、むしろ中には永嶋氏等の様に「関東屋形」と呼ばれる日本一の豪族として伸し上がったのです。その勢力は遂には東山道と東海道を勢力圏に治め以西は中部地方西域伊勢地域まで拡大する事に成ります。
その勢力は留まるところを知らず、秀郷流青木氏の仲介で日本一最大勢力の大蔵氏と結びつき血縁して九州全域の長嶋氏まで勢力を拡大したのです。
この永嶋氏と長嶋氏は旧来より土木建築業を配下に収めて繁栄を続け、これを基に「2足の草鞋策」を採用し青木氏からも「大商い」に基づく経済的な支援を受けたのです。(平安時代は永嶋氏の本職)
今で言う青木氏は殖産企業もグループ化に納めた総合企業兼商社であろうかと思います。

(青木氏の構図とその解析手法)
「後勘に問う」からすると日本の2大勢力の「西の大蔵氏」、「東の藤原氏」とが血縁し、その間に有った「たいら族」と「源氏」の2つは共に栄え争い消えて、「東西の2大勢力」が血縁する事で日本の混乱の収拾が着いたと云えます。その意味からすると「荘園制の行き過ぎ問題」も「中央の2大勢力」が消える事で霧散して「自然の摂理」の通りに収まった事が云えます。
「中間子」(中央の2大勢力)の「核分裂」を起こす中間子の持つエネルギーは何かに依って補われねばなりません。それが「武家社会の誕生」であったのです。
この構図からする「2つの賜姓青木氏」はこの「中央の2大勢力」の間の「核」に成る部分に居たと見ているのです。「核」が東西の勢力や中央の勢力の様に動いては「核」は「核融合」を起して爆発します。それこそ国が朝廷が崩壊するでしょう。
その「核」が沈着冷静に働いたからこそ「臨界点」に達せず「放射能」(大混乱)を放出する事無く「核爆発」は起こらなかったのです。「青木氏の採った判断と行動」は極めて「自然摂理」に叶っているのです。
その「2足の草鞋策」は「核」が持つエネルギーと成り、周囲の「中間子」(中央の2大勢力)や「中性子」(東西の2大勢力)を引きつけていたのです。そして、その「中間子」「中性子」に引き連れられた「氏末裔」は「電子」(エレクトロン)と成り働き、その「電子」に引き付けられたプラトン(姓・民)は飛散する事なく「融合」して物質(融合氏)を構成し続けたのです。
これは真に「自然物理の理」に叶った「構図」に成っているのです。
筆者はこの「構図論理」を採用しているのです。核、中間子、中性子、エレクトロン、プラトン、等がどの様に動き働きするかに依って「臨界点」や「核エネルギー」がどの様な「反応」を示す事に成るかの判断をしているのです。
(構図の構成要素が増えれば「分子量や質量や電位量」等の要素を加えて適性に応じて使う。物事の構図によっては別の自然摂理を使う。)

そうする事で累代の天皇評価や乱・事件や歴史的な出来事やあらゆる所業の如何の判別が凡よその形で着く事に成ります。推理する際もその位置から”恐らくこうではないか”と考察することも出来るのです。
この事は後勘に於いて多くの歴史史実からこの論理に当てはめての「分析・考察・検証」は真に「後勘に問う」の行為そのものであります。
この筆者の「分析・考察・検証」の前提は、”この「世の所業・諸業」が「自然の摂理の構図」に基づいている”と云う思考原理(仏教理論と相似)にあります。(「後勘に問う」の手段=「自然の摂理の構図)
この思考原理からすると、「皇祖神 神明社」は「青木氏の心の拠り所」「心の有様」と成りますので、「核の有様」つまり「核の持つ性質」を意味し、周囲に「不可抗力の恐怖」を撒き散らす放射能の出さない物質の「核」である事に成ります。差し詰め人間や生物の根源(3つの発祥源)の「ミネラル元素」の人体や生物への働きにあると考えられます。(「皇祖神 神明社」=「ミネラル元素 NaKCaMg)」と成ります。)
そうすると、真に天皇又は朝廷はこの構図では「核」ではないかと云う考え方もありますが、これは「天皇」と云う存在の位置付けの考え方に依り異なりますが、筆者はこの「核や中間子等」を含む全体を含有する本体つまり「水素原子」ではないかと判断するのです。
水素原子は自らの構図に影響し、尚且つこの世に存在する全元素に影響し左右させ得る基点であります。全体の「構図を左右させ得る影響力」を持っていて、かと云って直接的関係を持たないと云う事に重点を置いたのですが、当然構図が壊れれば歪めば本体は破壊し弱体化するのですから、天皇に指揮される朝廷の判断は構図そのものの行動や活動を決定付けることに成ります。
そこでもう少しこの自然摂理の論理を展開してみたいと思います。
では、自然摂理で云えばこの「中間子の行動を抑制する物質」がある筈ですね。出なければ物体は社会を破壊する怖い放射線を放出し続けて最後に核爆発を起こします。何かあるのです。
実はあるのです。
それは「放射線同位元素」と云うものなのです。「ハロゲン同位元素」と云うものなのです。2種類あって、フッ素、塩素、臭素、ヨ−素、Atとこれに関連するネオン、キセノン、クリプトン、ラドンがあり、それぞれ特徴を持っています。
特に、中でもヨー素はこの中間子の活動を抑える能力を強く持っています。中間子が暴れればこのヨー素を放出して押さえ込む事が出来ます。
では、中間子は「中央の2大勢力」の位置づけでしたが、この「放射線同位元素」は社会の何に当たるのかと云う事に成ります。他の原子を持ってくる訳ですので、本体の原子は「天皇」と位置づけしましたので天皇がこれらの中間子」(中央の2大勢力)と中性子(東西の2大勢力)を監視して、場合に依っては「他の原子の力」(「政策」)で抑制する手を打つ訳です。従って、「政策」「抑制策」がこの「放射性同位元素」の働きと成ります。
「放射性同位元素」→「政策」「抑制策」、「原子の力」→「天皇の力」
どの「放射性同位元素」(政策 抑制策)をどの様に使うかに依って効果的に抑制できるかが決まります。
原子に当たる天皇が「放射性同位元素」の(政策 抑制策)を「三相」を以ってどの様に使うかに決まる事に成ります。
中間子の「中央の2大勢力」は「放射性同位元素」の(政策 抑制策)で抑制し押さえ込まれたのですからその結果、拒絶反応として必然的に自然摂理が変位した中間子が生まれ事に成ります。
この変化の力が働き「武家社会」と云うものに変化して生まれる事に成ります。
「変位中間子」→「武家社会」
このヨ−素の抑制では「原子の力」即ち「天皇の力」、つまり、「原子の力」が弱まる事ですから、放出された「放射性同位元素」の「政策 抑制策」は何かが保有しなければ原子は保てない事に成ります。
弱体化して持ちきれなくなったこの放出され浮遊し遊離している「放射性同位元素」の「政策 抑制策」の力は、過剰反応したのですから、「武家社会」の力に吸い寄せられて必然的に「中間子の変位」が起こることに成ります。つまり中間子の「中央の2大勢力」から「変位の形」即ち「武家社会」が「政策 抑制策」の力を合わせ持つ事に成リます。
そこで、この「武家社会」とはこの「原子構造」では”何に当たるのか”という事に成ります。
それが新しい形の中間子の形即ち「融合氏」に当たるのです。
「中央の2大勢力」→「融合氏」
中間子の「中央の2大勢力」は「中間子の形を融合」と言う形に変位して、2の数字が消えて「別の力」(「放射性同位元素」(「政策 抑制策」)を持つ「融合氏」即ち、新しい形の進化した「武家社会」(幕府)が誕生した事に成ります。
これに因って原子構造の内部エネルギーバランスは保たれた事に成ります。

この様に観てみると、「社会が起こす森羅万象」は突き詰めれば「原子構造の自然摂理」に合致している事が判ります。合致しないと云う論理があるとするならば、それは「自然摂理」の全ての成り立ちを理解されないままでの論調と成ります。”この万象の出来事の成り立ちは自然摂理に合致する”は「仏教の教え」でもあります。

(現在の最新物理学では我々が良く知るこの「エレクトロン構造」の宇宙体の他に宇宙の成り立ちが解明されて来て反対の「プラトン構造」を主体とした宇宙体があるとの学説が進んでいます。)

(この様に構図を考えてそこに構成要素を当て嵌めて物事の解析をする事そのものも面白いのですが、推理案もこの構図の成り立ちや性格から観て”恐らくこう成っているのでは”と浮かび易いのです。この推理案で史実の発見も確率が高まります)

その意味ですると、「放射性同位元素」の「政策 抑制」を効果的に使った事に成り、平安期のこの時期の「後一条天皇」の「自治の英断」と「後三条天皇」の「荘園制の停止」の英断は日本を救ったことに成ります。そして、その原子の英断は自然摂理に合致していた事を意味し冷静沈着の判断であった事に成り、尚且つ、「核」に相当する「2つの青木氏」が採った行動もこの「自然の摂理」に合致し「沈着冷静」の判断であったと云えます。

それが故に、青木氏の「2足の草鞋策」も繁栄する事が出来たのですが、平安中期から末期に掛けて「荘園制の拡大」で、その増産された「産物の処分」を「殖産・商い」(紙問屋)の方向へと進んで行ったのではないかと考えられます。(資料から垣間見える)
そして、其の証拠に鎌倉文化から室町文化(「紙文化」とも云われる)の全盛期に繋がったのです。
(青木氏5家5流は有名な「5大古代和紙」と呼ばれる「伊賀和紙、近江和紙、美濃和紙、信濃和紙、甲斐和紙」の「紙」を「2足の草鞋」の基とした。)
「文化」は樹木と同じで其の「下地」が無くては華は開きません。この下地が「荘園」過程であり「融合氏」過程から来ているのです。
これも「後勘に問う」から観ればそもそも「自然摂理」に合致した判断であった為に起こり得た繁栄であったのです。

この面で「荘園拡大と行き過ぎ」問題は「自然摂理」に合致してしていた為に悪いことばかりでなかったとも考えられます。
考えて見れば本来「平清盛」は対立する「源氏の者」にわざわざこの様な事を教授する事は無い筈です。
何か「桓武天皇」の意思を継いで「親側」の天皇家は「青木氏や源氏」を鍛え様としたとも考えられますが、賜姓源氏はこの「貿易経済と物造り」(商い)に関らなかった事が滅亡へと進んだのでしょう。
まして、其処に「分家の源義家の不合理な行動」(荘園制肩入れ)が拍車を掛けたと観ているのです。
(本家清和源氏の頼光系宗家4家は賜姓青木氏3家に跡目を入れて日向青木氏と共に遺した。)
「殖産・物造り−商い」以外にも、この様に「融合氏」の発祥源として生き残れた原因の一つは少なくとも「桓武平氏」の「伊勢伊賀平氏:伊賀和紙の発祥」にもあったと考えられるのです。

以上の事の「たいら族」の検証は青木氏のみに大きく関わる事以外には他氏がこの件に関して検証は無いものと考えられるので敢えてここで記しました。

再び話を戻します。
「氏融合の第2の条件」
「将門の事件・乱」の始末に対して、その天皇が苦しい環境下で提示した条件とは「無条件」であって「望んだ事を叶える」であり、二人(平貞盛と藤原秀郷)は「貴族の身分」と「領国を取得」の条件を提示し叶えられます。これが大勢力拡大に繋がったのです。
この時、更に「秀郷」には第3子(千国)に天皇の許可を得て「特別賜姓」で青木氏を名乗らせて「天皇近衛六衛府軍」に成る事の条件を付与されたのです。秀郷一族一門の護衛軍として勤めさせると共に賜姓青木氏と同じ役目と扱いと身分と家柄を与えたのです。
天智天皇が天皇家一族が天皇を護る役目を作ったのですが、村上天皇は母方が同じ藤原氏と言うことで特別に青木氏を賜姓して母方同族氏による「六衛府軍の役目」なども同扱いとしたのです。
この意味は大きいのです。これは真に「3つの発祥源」の「賜姓青木氏」を護ろうとした事に他成りません。

「貞盛」は朝廷に直に仕えられる「身分の保証」と「常陸、上総下総、下野」を要求しますが最終関東での「たいら族」の醜態を理由に撤退(追い出し)の憂き目を受けます。
この様に、「平族」の動きの中では理由はともあれ「独立国」を狙っていた事は明確で、少なくとも一度は「平将門」も「独立国」の行動を目指したのです。普通の在来の融合氏はこの様にはならない筈で「民族氏」ならではの事であります。奈良時代の蘇我氏しかりであります。
しかし「後勘に問う」から観ると「将門の事件・乱」以外に彼等にはこの独立に関する絶好のチャンスは5回も訪れているのです。

独立の経緯
・第1回目の32国/66を無戦征圧して帰化した時 奈良、平安初期
・第2回目の「遠の朝廷」「錦の御旗」「太宰大監」「大蔵種材」の時 平安期中期
・第3回目の前九年の役と後三年の役の安倍氏と清原氏の征討(義家の私闘)
・第4回目の「平族」の「源平の戦い」
・第5回の「平族」の傍系支流の血縁族「織田信長」の「天下布武」

この1、2回の時は日本全国が彼等一族一門を絶賛している訳ですから100%「独立国」は出来た筈ですが、軍事、経済、政治の3権を手中に収めながらも何故かしなかったのです。
第3回目の時も同じ状況下にありながら、何故かこの血縁族を集結させなかったのです。

しかし、これだけの力がありながらはたいら族の「直系子孫」は実質的には遺せたのですが、首魁一族の宗家「平族」は結果として宗家は遺し得なかったのです。(支流一族のみ)
むしろ「宗家としての認識」が上記した「平族の発祥経緯」もあって「九州血縁族」と共に無かった可能性が強いのです。これは明らかにこの一門には余りの「民族氏」からの「間接的な氏の融合」が進み過ぎた結果と見なされます。
その証拠に、次ぎの5回目の事で判ります。

・第5回の「平族」の傍系支流の血縁族「織田信長」の「天下布武」の時もこれ等血縁族は全く動かなかったのです。(レポート9記述)
品部や部曲の「姓族」の「下克上」と、「姓族」と「氏族」入り乱れての戦国により末裔である事の事態が無くなったか、最早、無意味なものと成っていたかによりますが筆者は両方であったと考えます。
むしろ、この時も家紋から観ると、味方と敵対した氏を調べると末裔でありながらも平族末裔に対する「敵対状況」の方が大きかったのです。
「姓族」の様な「氏形態」の未だ持たない族の台頭に加えて次ぎの様なことが挙げられます。

 「第2の条件」
「氏の血縁融合」(1)が進み過ぎた事
「青木氏」の様に「4つの氏の構成」(2)が観られない事
「青木氏」の様に「氏の管理統括の有無」(3)が無かった事(下記)
この3点なのです。

この(3)が上記した”「争い」を伴なう時の「氏の融合」の「第2の条件」”と成ります。

むしろ、青木氏の「社会と生活の結合氏」とは違う点は、「民の結合」が「職能の部」と言う形で形成した為に「部氏」(職能氏・姓氏・海部氏等)の形で独立して行った事に依るのです。

「民の結合」=「職能の部」(品部)=「部氏」=「姓氏」

(「姓氏」も平安末期から「海部氏」「陶氏」などが中国地方の部民の集まった豪族となって発祥しているが、「たいら族」に組しなかった。)

青木氏の「未勘氏結合」(「社会的結合」)、「第3氏結合」(「生活圏結合」)の「結合氏」と異なり、阿多倍一族一門と「職能・部氏・姓氏」との間には、即ち、「民族氏の形体」を進化させなかった事の違いがあったのです。

「平族」の間接的な「氏の融合」とは、上記したデータから観ても、直系氏孫で固めて「氏融合」の拡大をさせて行く方法よりは、「各地の土豪」との「母方血縁」の方法が多かった事を物語ります。

これは阿多倍等が九州に上陸し中国地方まで無戦征圧した原因は、その「高い後漢の技能」を吸収して生活を高められる事があった為に「土地の民」が進んでその配下に入った事から起こっている現象だからで、その為に「間接的な氏の融合」が起こったからなのです。

つまり「平族」に於いては、阿多倍一族としては奈良期から平安期(600年)までの「間接的な氏の融合」の拡大でありますが、たいら族としてはこの5代(或いは7代)(国香−貞盛より)による短期間(165年)の「氏融合」(その前は「民族氏」と「部氏」)であるが為に「直接的な氏の融合」の基盤が平安期には充分に出来ていなかった事に原因しています。


青木氏と守護神(神明社)−11に続く。


  [No.278] Re:青木氏と守護神(神明社)−11
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/09/10(Sat) 15:54:01

  「青木氏の利点」

>阿多倍等が九州に上陸し中国地方まで無戦征圧した原因は、その「高い後漢の技能」を吸収して生活を高められる事があった為に「土地の民」が進んでその配下に入った事から起こっている現象だからで、その為に「間接的な氏の融合」が起こったからなのです。
>つまり「平族」に於いては、阿多倍一族としては奈良期から平安期(600年)までの「間接的な氏の融合」の拡大でありますが、たいら族としてはこの5代(或いは7代)(国香−貞盛より)による短期間(165年)の「氏融合」(その前は「民族氏」と「部氏」)であるが為に「直接的な氏の融合」の基盤が平安期には充分に出来ていなかった事に原因しています。(前回の末尾)

逆に、その点で全青木氏390氏は朝廷の奈良期と平安初期の「2つの詔勅」で発祥しましたが、青木氏の古代密教に導かれた「菩提寺」や「心の拠り処」としての「祖先神の神明社」が遺された事に因って書物が残り、している事から比較的にルーツが明確に成っていて、後に於いても「氏族の発祥源」が管理されて引き継がれて行った事が「子孫存続」の「生き残りの団結」(伝統の継承)に結び付いたと考えられます。
これは真に前記した通りの「4つの青木氏」の存在が起因しての事であります。
これは言い換えれば「青木氏の伝統の継承」が成されて行った事にも成ります。
「3つ発祥源の古氏」であり「高位の氏」であるが為に、「直接的な氏の融合」を主体としては少ないけれども、「間接的な氏の融合」にも力を注がれていた事に成ります。
取分けこの「紙一重の乱世」の中で「融合氏」として生き残れたのは「賜姓青木氏」では「伊勢青木氏」が29氏を主導し、藤原秀郷一門では特別賜姓族の「秀郷流青木氏」が「第2の宗家」として361氏を主導して「氏の融合」を成した事です。
その「氏」を室町期末期まで「管理統括」し、この「氏家制度」の管理統括された「2つの青木氏」390氏が氏家制度の根幹を守り、強く「相互間の助け合い」をしていた事の差によります。
そして、その基点となったのは「心の拠り所」の「祖先神の神明社」であり、「行動規範の拠り所」の奈良期からの「古代密教(浄土宗)の教え」であった事は云うまでもありません。

「2つの青木氏」の「3つの拠り所」
1「心の拠り所」=「祖先神の神明社」
2「行動規範の拠り所」=「古代密教の教え」(浄土密教)
3「人生の使命感」=「3つの発祥源」

この「3つの拠り所」の下での「相互間の助け合い」(互助・絆・氏家制度)では、武田氏滅亡で武田氏系青木氏と諏訪族青木氏を武蔵入間を中心に神奈川横浜の半径上に接続する勢力圏内に保護した事や、四国讃岐籐氏の勢力圏に保護した事、新潟−陸奥で保護した事等の例から観てもこの「氏の管理統括」が確実に成されていた事が証明出来るのです。
他にも鎌倉末期に「元寇の乱」の時に秀郷主要一門の青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏等は北九州に赴き、そこで一族の連携を採り互いに助け合い大蔵氏や肝付氏や北九州の主要豪族の菊池氏、宗像氏、佐伯氏、酒井氏等と積極的に血縁して一族の末裔を阿多倍一族一門の根拠地に遺しているのです。其の時の青木氏が主導して血縁をした資料が残されています。
北九州に地域的には限定されて少ないのですが、青木氏や永嶋氏や長沼氏や進藤氏や長谷川氏が秀郷一族の末裔が存在するのです。中でも秀郷流青木氏と大蔵氏系永嶋氏が大きく末裔を遺しています。この事が何よりの証拠と成ります。
これが「元寇の役」を切り抜ける為の「第2の宗家」の「青木氏主導の戦略」であったのです。

では、この「氏の管理統括の有無」とはどう云う事かと考えると次ぎの結論が出て来ます。
上記(3)の ”争いを伴なう時の「氏の融合」の「第2の条件」”とは、それは「氏の民の心を一つに纏める政策」でした。
そして、次ぎの数式が成り立ったからこそ「3つの発祥源」(氏の発祥源、侍の発祥源、武家の発祥源)が成し得て江戸期までに氏は2000までに成り得たのです。
この数式条件を整えず「青木氏」が「平族」や源氏の様な「生き様」をしていた場合は、現在の様な「氏の融合」は有り得ず、「氏融合」が成されなければ「雑種の優秀性と融合性」は成し得ず、「物造り日本」も有り得なかったと考えます。
では、この「第2の条件」を時代を通して維持させたのは、全て「青木氏の家訓10訓」の「教え戒め」に他ならず、遂には次ぎの「数式条件」を成し得たと考えます。

「3つの発祥源」=「氏の発祥源」+「侍の発祥源」+「武家の発祥源」
「青木氏家訓10訓」=「氏融合の第2の条件」
「氏融合の第2の条件」=「氏の管理統括」=「氏の民の心を一つに纏める政策」

この「数式条件」が本論の核心部分と成りますので、本論1より前記した事柄を前提にここより次第に本文に入ります。


  「氏の民の心を一つに纏める政策」
そこで、ではこの政策を更に詳しく検証して見る事にします。
そもそも、青木氏にはその政策として次ぎのような事が採用されています。

1「氏神の創設と創建」(神明社・祖先神・皇祖神・守護神)
2「氏寺の創建」   (菩提寺・浄土宗古代密教)
3「氏象徴の創設」  (象徴紋・綜紋・お仏像様)
4「氏の神木」    (青木の木)
5「氏の掟」     (総則 掟 家訓・添書 累代忘備録)
6「宗家の設定」   (一族一門を管理 総括者)
7「経済的背景」   (2足の草鞋策 経済的繋がり 古代和紙)
8「軍事的独立」   (皇族:近衛府軍、衛門府、兵衛府の左右六衛府3軍と左右衛士府軍、民部府を統率)
以上の8つの「青木氏政策」がありました。

これだけ「纏める政策」を整えている融合氏は他には全く見当たりません。

・8つの「青木氏政策」
1に付いて、「氏の人心を集める象徴−1」 「氏神」「神明社」(皇祖神)
特別賜姓族を含め賜姓青木氏はその賜姓に依って伊勢「皇祖神」の守護として成り、「氏の発祥源」の象徴として「神明信仰の対象」を定め、「人心」を集めて、その後に発祥した「賜姓地」(「氏融合地」)の各地にこの「神明社」を建立し、普及させて「神の加護の象徴」(19地域)を定めました。
奈良期の当時は、現在と違い「宗教に対する認識」は「生きる事」=「宗教」程の意味合いを持ち「絶対」であったのです。
「氏」が安寧に融合し存続して行くには「神仏」に「人心を一つに纏める事」が必要でした。
青木氏には伊勢神宮から発祥したそれが青木氏の「氏神」の守護神・「祖先神の神明社」であったのです。
平安期には、各地の安定域に成った天領地を始めとして、陸奥域を征討し鎮圧する毎に「神明社」を建立し、そこに青木氏が守護神を護る為に住職として移動定住しています。
この「皇祖神」と「祖先神」の「神明社」があるところには「青木氏」が、「青木氏」が定住しているところには「神明社」があるのです。
特に北陸関係には同族の近江皇族賜姓佐々木氏(天智天皇第7位皇子川島皇子始祖)もこの「神明社」と共に住職として移動定住しています。
青木氏だけでは務めきれなかった事から賜姓近江佐々木氏も奈良期の慣例に従い平安期にも「同族祖」として務めたと観られます。
平安期の古い「皇祖神と祖先神」の神明社には「社木」として「青木氏の神木」があり、又「神紋・笹竜胆紋」の幕が多いのはこの事から来ています。
「神明社」の多くは1400年以降の「社」が多く、このものに付いては特に天皇家が建立したのではなく主に当時の幕府か主要豪族が建立したものが殆どです。
領国の民を安寧に導く為に「伊勢宮の分霊社」として建立されたもので、平安期の目的とはやや異なっています。
奈良期−平安期の「氏の融合」が達成された目的とは別に、祖先神の「神明信仰」の色合が強いものでした。
荘園制に依って大豪族と成った「融合氏」等が「神明社」の慣習に習って別に「土地の守護神」を建立して「氏神社」を立て自らを氏子として並行して進んだのです。
そして守護神はただ一つではなく次ぎのような特徴ある歴史を持っているのです。

守護神は次ぎの形式に分けられます。
1 「自然神」
2 「産土神」
3 「祖先神」
4 「氏神」
5 「鎮守神」
以上「5つの神」に分けられます。(本文で詳細記述)

この「5つの神」は「神に対する考え方」が異なります。「4つの青木氏」は3の「祖先神」です。
各氏はぞぞれの上記の「5つの神」の内その「氏の成立ち」によりどれかを「神」として信仰しているのです。
そもそも、守護神は次ぎの形式に分けられます。
1 「神明」
2 「大神」
3 「大社」
4 「住吉」
以上の「4つの形式」に分けられます。

夫々の形式には「時代」と「宗教性」と「氏子対象者」の異なる「3つ要素」を持っています。
従って、夫々の「融合氏」と「姓氏」に依ってこの「4つの形式」のどれに入るかが決まって来ます。
「青木氏」は「皇族・賜姓族関係」であり、奈良期からの時代性を持ちますので「神明形式の守護神」と成り「祖先神」と成ります。
秀郷流青木氏は4番目の「氏神」でありますがこの神は別名「春日神」とも呼称されます。
秀郷流青木氏は「嵯峨期の詔勅」により発祥した氏でもあり、同時に賜姓青木氏を受けた特別賜姓族でもある事から皇族賜姓族の「祖先神」と藤原氏の「春日神」の両方を有する立場にあります。
勿論、「絆結合」の「2つの無血縁青木氏」も家人として郎党として「氏上」の守護神を「神」とします。
皇族賜姓族のみに限られた「守護神」の「祖先神」と成ります。

特に青木氏に関しては上記した様な他氏には決して観られない「血縁融合」−「絆結合」の関係で出来上がっていますから、「氏上−氏人−氏子の関係」を保持し同祖先神の守護神と成るのです。
「神」に対する考え方も次ぎの様に成ります。

「祖先神」
”自分と氏族の先祖を神として祭祀し、累代子孫までの守護神の性格的教義を持つ”。
以上と成りますので「2つの絆結合」も同じ守護神と成るのです。

この考え方に沿う為に「2つの血縁結合」の青木氏と「2つの絆結合」の青木氏、即ち「4つの青木氏」は他氏とは全く別の「氏の結合構成」をもとより持っているのです。
青木氏とそれを構成する族民は共に「祖先神」を守護神として崇める事になるのです。

例えば阿多倍一族一門は「民族氏」でありますので、「神」に対する考え方は次ぎの様に成ります。
「産土神」(うぶすなかみ)
”其の個人の生まれた土地の神で一生その個人の守護神として持ち続け子孫に伝播しない性格的教義を持つ”。
以上と成ります。(但し、現在では「氏神」と混同されている)
「産土神」ですので上記の「大社」形式と成ります。
(出雲大社、阿蘇大社、熊野大社、宗像大社等これに類する)

「5つの神」の「自然神」、「道祖神」、「皇祖神」を「祖神」として、「祖先神」(青木氏)と「鎮守神」(血縁氏)が「4つの青木氏」を守護したのです。

・8つの「青木氏政策」
2に付いては、「氏の人心を集める象徴−2」「氏寺」(秘匿)
そもそも「氏」は現在では親族を構える者は氏として扱われますが、氏家制度の中では鎌倉期以前は「氏」と「姓」に家柄が分けられていて、「武家」を構成する身分の者が「氏」として扱われ、武家を構成しない者を「姓」と呼称されていました。
「武家」とは「公家」(有品5位以上の貴族)に対しての「侍の呼称」で限られた「身分家柄」を認められた「氏」を云うもので、「公家の社会」から「武家の社会」に移った事で室町期からは「武士」を一般に「武家」と呼称するようになったのです。
本来は「武家」とは「有品の5位」以上身分を永代保証された者の一族に与えられた家柄でした。
この「武家」にはその一族一門を祭祀する「独善・排他的自営の寺」を営む事を許されてたのですが、これを「菩提寺」と称し、「3大密教」の「古代密教」の3宗派に限定されていました。
(青木氏は奈良期より古代密教を崇拝し、その考え方を継承したの浄土宗に帰依)
後の江戸初期にこの「密教方式」を解除して一般に開放奨励したことから「独善・排他的自営の寺」が無くなり「菩提寺」の呼称は一般的に適用されるように成ったのです。
本来は、「3大密教」外は「檀家寺」と呼称されていました。
室町期の「下克上・戦国時代」に発祥した「姓氏」には「独善排他的自営の寺」は持ちませんので、全て「檀家寺」と成ります。
従って、「姓氏」の祭祀は江戸初期の「密教方式解除」と「奨励督促令」を含み3宗派外の宗派の「檀家寺」と成ります。
3大密教の天台宗は「公家貴族」を対象とし、浄土宗は「氏」を構成する「上級の有品の武家」を対象とし、真言宗は「中級の武家」を対象としていました。
これ等の身分家柄階級は平安時代の身分家柄を定める令に従います。

中でも「2つの血縁青木氏」の「神仏の加護」として、「氏の発祥源」に対して初めて「氏の象徴寺」(氏寺)と云うものを正式に定めました。
これが「氏寺」であり賜姓族は当初伊勢松阪に「菩提寺」を建立し、「仏の加護」の象徴を定めました。
天智天皇から賜姓時に「氏融合の発祥源の象徴」として授与された「生仏像様」と称される「氏寺」の「護り本尊」として仏像を祭祀したのです。
その後、「護り本尊」の「生仏像様」を伊勢に置き「菩提寺」は分霊されて「神明社」と共に5家5流の国府に建立されました。(「青木氏ステイタスと生仏像様」のレポート参照)
「2つの血縁青木氏」の一つの特別賜姓族の秀郷流青木氏は、「有品4位」であり、母方の特別朝臣族でありますから「古代密教浄土宗」の氏寺の「菩提寺」を有することに成ります。
依って、「藤成−基景」にて発祥させた「伊勢特別賜姓族の秀郷流青木氏」は4日市に「菩提寺」を有していましたが、後に「2つの血縁青木氏」の結合の「融合青木氏」が発祥し、「賜姓族青木氏」と同じ「松阪の菩提寺」にも祭祀されていました。

「氏の発祥源」=「氏の象徴寺」(菩提寺)=「氏の信仰対象仏像」
これが全青木氏の「守護仏像信仰」即ち「人心を集める象徴」だったのです。

(注 「青木氏の氏寺」(菩提寺)を”秘匿”としたのは、江戸初期から明治35年までの間、青木氏とある特定氏の2氏の排他的な「専属の氏寺」であった為に、現在は青木氏外の「特定の寺」と「一般の檀家寺」とも成っている為に迷惑が掛かる事を避ける為)
(信仰対象の「象徴仏」の「お仏像様」に付いての詳細は「青木氏ステイタスと生仏像様」レポートを参照)

・8つの「青木氏政策」
3に付いて、「氏の人心を集める象徴−3」「綜紋」「笹竜胆」
青木氏はそもそも大化期より「3つの発祥源」(融合氏、侍、武家)です。
それ故、「青木氏の氏名」「氏の証のお仏像様」(大日如来坐像 皇祖神天照大神)を始め「氏の象徴の紋」を天皇より賜紋を授かり「正式な象徴紋」として世に定められたです。
この「象徴紋」は後に公家も使用する様に成り、平安期末には限られた朝廷より認可された数少ない「融合氏」等には、その証として「武家の家紋」として使用を許されたのです。つまり「武家の綜紋」です。
(同族である源氏11氏もこの象徴紋に準じる)
平安初期の「象徴紋」から「公家」や「武家」の「家の象徴紋」、即ち後には「家紋」(平安末期)と成ったもので、「笹竜胆紋」は「融合氏」の「最初の家紋」として全青木氏(4つの青木氏)はこの家紋を敬い、この家紋で「姓族」等をまとめる「綜紋」として「3つの発祥源」の誇りを以て結束したのです。
「象徴紋」を有するのは全ての8000氏の中でも青木氏だけです。
「笹竜胆紋」は「家紋」とする扱いよりはむしろ「融合氏発祥源」の全武家の「象徴紋」としての扱いが強かったのです。
これは「皇族賜姓族青木氏の綜紋」でもありますが、且つ、「融合氏の武家の綜紋」「笹竜胆紋」でもあるこの「象徴紋」の下に、その「母方血縁族 藤原秀郷流青木氏」としても自らの「融合氏」の「藤原秀郷一門」の「下がり藤紋」をも「綜紋」としていました。
この「2つの綜紋」を持つのが「血縁族の藤原秀郷流青木氏」なのです。
(秀郷青木氏は守護神も春日社の「氏神」と神明社の「祖先神」の2つを有する)

この由来は「藤花」の形に囚われて一般には余り知られていない事なのですが、「2つ目の綜紋」の「藤花の色の紫」をその「象徴紋の基調」としているものなのです。
その所以は、平安期は「紫」は「色の最高位」でもあり、「公家、武家、僧家」の「身分の色分け」にも使われたものです。ですから「下がり藤紋」は藤の花そのものより、その「紫」を以って「笹竜胆紋」の権威に続く「藤原朝臣族」の「最高権威の象徴紋」でもあるのです。
「花形」よりも「紫色」に意味を強く持つものなのです。
「氏家制度」の中ではなくては成らない「象徴紋」として、この様に「一族一門の人心」を「綜紋」に求めたのです。
これは他氏には無い「4つの青木氏」の誇りであり、且つ「人心」を集める「拠り処」であったのです。

「象徴紋」=「綜紋」→「家紋」→「人心の拠り処」

・8つの「青木氏政策」
4に付いて、「氏の人心を集める象徴−3」「氏の神木」
「青木氏の神木」のその由来は樹木の「青木」の木の性質にあります。
「青木」の木は常緑樹で常にその幹も枝も葉も青く、その木の勢いは他の木に見られない常に強い勢いを持ち、青長枝は1年に50−100センチにも伸び、その実は真紅の10ミリ程度の大きな実を付けます。
その葉には色調豊かに白、黄色、緑を有し四季に変じてその色合いを変化させます。
この事から、常に常緑で四季に応じた「色変化の特質」は「長寿」を意味し、「青い木」は体躯を表し、その「枝葉の成長」は子孫繁栄を成し、その「実」は健康な体の血液を表すとして、古代飛鳥より「神木」として崇められてきました。この「神木」を「3つの発祥源」の象徴としてこの木の持つ象徴の意味から、青木氏の「氏名」を賜姓される時に天智天皇から「臣下名」として授けられたものなのです。
そして、この樹木を「青木氏の神木」とする事を定めたのです。
この事から、この青木の「神木」は「神社の神木」から「青木氏の神木」として使われ、平安期末には「神社の神木」は「榊」と変化して行ったのです。この神木は仏教の仏木「槇の木」に当たります。

この様に他氏には言い伝えの様なものがあったにせよその「融合氏」を護りする正式な「神木」と云う習慣が無く天皇が認める青木氏に関わるものだけなのです。
「氏家制度」の中では他氏には認められなかった習慣です。一種の飛鳥期からの「自然神」の「自然信仰」の楠の様な「唯心の樹木信仰」でありました。
それだけにこの樹木には伝統的な「人心」の思いが込められているのです。
(「氏の神木」の詳細はレポートを参照)

・8つの「青木氏政策」
5に付いて、「氏の人心を集める象徴−4」「氏訓」「家訓10」
1365年以上とする歴史を持ち、この中で全青木氏が乱世を一致して生残る為には、その「生き様」から遺された経験を生かす事のみにしかありません。
家訓の内容からその時代に刻まれた苦難を省みると、少なくとも平安初期頃からの戒めであったと考えられます。青木氏に於いて大きな試練毎に追加されてきたと考えられ、凡そ1100年前半(1125年頃までに)に完成されていたものと観られます。
この事は経済的とも取れる内容もあり「2足の草鞋策」を採った時期に符号一致していると考えられます。普通「3つの発祥源」の「融合氏の祖」とすればがちがちの「侍気質の家訓」と考えられるのですが、そうでない内容と考えられます。かなり柔軟で「人の本質(性:さが)」を求めています。
特に「3つの発祥源」であった事から全融合氏のその「模範氏の責任」が求められていたと観られますが「侍、武家」と云うよりは「人として、氏長として」の責任を追い求めたと考えられます。
「3つの発祥源」の青木氏が「2足の草鞋策」を採ると云うことは当時としては世間では「奇想天外」な事であった事が予想できますが、青木氏5家5流がほぼ同時期に同商いで全て「古代和紙」を営んだ事から観て家訓の様にかなり「柔軟な考え方」を伝統として持っていた事が云えます。
この「柔軟な考え方」が生き延びられた原因の一つで他氏とは全く違う体質であった事が云えます。
それを示す端的な事件として、「武家の祖」であるにも拘らず「不入不倫の権」で護られた「貴族侍」と観られていた青木氏が「天正伊勢の3乱」「丸山の戦い」「伊賀の戦い」で信長を打ち破った「天下布武」を唱える「信長ただ一度の敗戦」(戦わずして負ける)のその時の「青木氏の戦略戦術」がこれを証明するものです。(伊勢のシンジケート戦略:青木氏に関わる全ての民の活躍)
言い換えれば、上記した「4つの青木氏の結束」(家臣、村民)の強さはこの「家訓10訓」に観られる「柔軟な考え方」が原因している事を証明します。他氏には観られない家訓で結束されていたのです。

・8つの「青木氏政策」
6に付いて、「宗家の活躍・設定」(一族一門を管理 総括者)
初期の「民族氏」として肥大化した大集団が「融合氏」化して行く過程では、必ずこの世の「万物万象」に観られる様に、その集団の「核・中心」と成るものが相互の「連絡の不足・絆の薄れ」に依って忘れ去られて無くなるという現象が起こります。
「濃い血縁関係」に依って集団化するのでは無く、「民族」と云う広義で「薄い血縁関係」で結ばれていたとすると、必然的に余程のリーダーシップの勢いが無くてはなかなか「中心・核」と成るものが生まれるものではありません。つまり、「民族氏」が「核家族化」ならぬ「核民族氏化」を起こすのです。

この摂理で行くと結局は、「核民族氏化」した集団が拡大過程を採り、「中集団化」を起し、「大集団化」へと繋がり、再び、「核民族氏化」が起こり「大集団化」へと繰り返し、あくまでも再び「核民族氏化」が起こり一つの「超巨大集団化」でまとまることは無くなる事になります。

「核民族氏化」→「中集団化」→「大集団化」→「分裂破壊」→「核民族氏化」」→「中集団化」→「大集団化」=「民族」の「薄い血縁関係」
このサイクルを繰り返すことに成ります。

「民族氏」では、氏の「細胞」の増殖が起こるがその細胞間の「同胞性」が無くなって遂には成長が留まり、時には「同胞」が戦い死滅する恐れさえ起こるのです。
つまり、ある大きさで収まりその「相互間の絆の薄れ」が起こる現象を繰り返す事に成ります。
これが阿多倍一族一門と呼ばれる「民族氏」の典型的な「経過形態」なのです。
本来、「民族性」を持つ渡来人であって「小集団」の渡来であれば少なくともその「民族性」も周囲に感化されて「時代の経過」に依って「民族性」が薄れて遂には「融合氏化」への方向へと進むのですが、この点に進まない原因を有していたのです。

「阿多倍一族一門」は当初から後漢「光武帝」と云う滅亡した漢国の一将軍が逃亡中に中国東地域を制圧し新たに「後漢国」を創建し、21代後に16国に分散しその中の「滅びた隋」と「建国した唐」に圧迫されて遂には後漢の漢民族は崩壊して、その国の「全17県民 200万人」と云う「国レベルの集団」が大和に渡来しているのですから、もとより「民族性」を強く持っていた事は否めません。
そして、それらは「血縁と云う結び付き」が希薄で「組織的な命令系統」を中心に依って形成されていた集団であったのですから、その「組織または国の首魁」が「核・中心」と成る「集団構成」であったのです。
「民族の坩堝」と呼ばれる中国大陸に於いて「優秀果敢な漢民族」とは云えど、それは全て「漢民族」で成り立っていた訳ではなく、「洛陽・東中国人」「中国系朝鮮族」等の民族が多く主に3つの「民族の混成集団」からそもそも成り立っていたのです。
そして、それらが既に約400年が経ち「民族氏」の「経過形態」が既に終わった超大集団であったのです。
(民族氏は中国の構成形態 前漢29−220:後漢220-618年滅亡 隋581-618滅亡 隋唐に圧迫)
その「構成形態」を以って「国レベル」で渡来したのですから「民族意識」は変えられる事は無理であったと考えられます。
彼らが良いと信じていた「民族氏の概念とその組織形態」を”「大和国」を「融合」と云う手段で一つにまとめ「国の安寧と安定」を図るのだ”と聞かされても、直ぐに換えられる事もなく渡来したとして「帰化」−「独立」も考えるところであったとも考えられます。
故に「朝廷の国策」の「融合氏3策」には根本的に馴染まなかった事を意味します。真に”何かが起こる”の所以であります。(例 「大隈隼人の戦い」)
しかし、反面、青木氏の「融合氏」は「集団化」してもそこには「血縁」を中心にした「核・中心」と成るべき生き抜くべき形態を保持していたのです。

「生抜形態」=「総宗本家」-「宗家」-「本家」-「分家」-「支流」-「分流」-「分派」
以上の氏家制度の管理された「組織形態」を造り挙げていてたのです。

「部曲・品部」←「生活絆」→「生抜形態」←「絆」→「無血縁結合」
この組織に「無血縁結合」の「絆」を基とする「姓氏」が夫々の枝葉に結合すると言う網の目の様な「組織形態」を造り、これに殖産(物造り)を加えて「生活絆」で結ばれた「部曲・品部」が土壌を支えていたのです。

この細部までに結び付いた「生活環境」中で一族一門が生きて行くに必要とする事を「相互扶助」で「護り合う形態」を作り上げていたのです。要するに「氏家制度」の形態の完成であります
そして、この「核・中心」と成る「氏の長(氏上)」の指揮命令系統を定めて「氏人」−「家人」−「部曲」「品部」「雑戸」の「融合・結合の結びつき」で「支えあう社会」、末端の民に至るところまでの「相互扶助」の組織、即ち「氏家制度」(一族一門を管理し総括し扶助する社会形態)を構築していたのです。
阿多倍一族一門との間には、ここに大きな違いがあったのです。
とりわけ、青木氏はその「悠久の歴史」が「血縁の力」を超えてむしろ「絆の社会優先」で結ばれていた「融合氏」であったのです。
「3つの発祥源」として範たる形態を敷いていたのです。「氏家制度」の範と成っていたのです。

(例 明治35年まで続いた皇族賜姓族5家5流の「紙の殖産と販売網」の組織 昭和20年まで続いた讃岐特別賜姓族の「回船問屋と殖産業網」の組織がこれを物語る。)

・8つの「青木氏政策」
7に付いて、「経済的背景」(2足の草鞋策 経済的繋がり)
阿多倍一族一門はその配下には実質「180品部」の大集団を持ち「公地公民」と成りながらもその売却益を「経済的な支え」として成り経っていました。
「公地公民」に成ったとは云え、彼等の「民族性」、「旧来からの支配形態」を直ぐには壊すことは出来ません。そこで、一度朝廷に納める方式を採るにしてもその収益の一部を彼等の集団に納め、その「部民」に関する詳細な指示配命令形態は彼らを「伴造」(ともみやつこ)に任じて管理させていたのです。
この「伴造」を管理する為に地方の行政末端役所の「郷戸・房戸」と行政局の「国造」(くにのみやつこ)を置いていたのです。
ところが次第にこれ等(伴造)が独自の「墾田」を造成して私腹を肥やし「私有財産化」へと進んだのです。
阿多倍一族一門はこの様に莫大な「経済的背景」を持っていたのに対して、「融合氏」らの経済的背景が主に「土地からの収益」があったにせよ「氏勢力拡大」に相当するものでは無く、阿多倍一族一門の「民族氏」の勢力に圧迫を受ける状況と成っていたのでした。
そこで、集団化した主な「融合氏」は「三世一身法」「墾田永代私財法」を境に徐々にその「守護の立場」を利用して「殖産・土地の産物」を商いとする「2足の草鞋策」を実行して行ったのです。

1 「守護王」の「行政権」     :(阿多倍一族一門:「行政担当」の「官僚権」)
2 「国造」の「権益」       :(阿多倍一族一門:「伴造」の「権益」)
3 「2足の草鞋策」の「経済的背景」:(阿多倍一族一門:「品部」の「収益」)
以上の「3つの権益」を獲得して彼等の「民族氏」の勢力に対抗する事が出来たのです。

「3つの権益」1と2は「相当の力」を保持していますが、3の「品部の収益」に匹敵する力を初期には保持していなかったのです。
それを拡大する「民族氏の勢い」に押された朝廷は、止む無く「公地公民制度」を緩めて「三世一身法」「墾田永代私財法」を発布したものですが、「融合氏」の頂点に立っていた青木氏の様な氏の一門は、これを逆手に取って「土地の産物」の「殖産と増産」(物造り)を営みそれを「商い」とする対抗策に出たのです。
「5家5流賜姓青木氏」は全て「古代和紙」の土地の殖産産業を興してこれを商いとして相互間の連絡を取り、後の織田信長(2万)との戦いに観られるように「1、2、3の総合力」で勝つ程に「大商い」としていたのです。
これで「民族氏」=「融合氏」と勢力均衡のバランスが成り立ち生残れたのです。

この「3つの権益」がとりわけ「2足の草鞋策」の「経済的背景」の努力が無ければ現在の青木氏は生残る事は100%考えられず、同族の賜姓源氏の様に11家もありながら「滅亡の憂き目」を受けていた筈です。(阿多倍一族末裔の平族の清盛さえも「2の特権」を生かして「宗貿易」も行った事でも証明出来る)

同族血縁族の藤原秀郷流青木氏も赴任地24地方では「3の商い補完対策」を大いに構じています。
資料の中には昭和20年まで続いた「讃岐安芸土佐の土地の殖産」とそれと結びついた「大廻船問屋」の「讃岐青木氏」様な「融合氏」が存在します。
「讃岐青木氏」の分布状況を観るとその商いの大きさが判ります。
讃岐を出て関西以西中国地方全域に小さいながらも「讃岐青木氏」の末裔が存在しているのです。
家紋から観た分布でこれは支店を設けていた事を物語ります。

因みに筆者の伊勢青木氏の宗家の商いは外国貿易の堺に2大店舗、松阪に2大店舗 玉城町8割を占める蔵群 千石大船3隻を有して明治35年(祖父)まで営み分家の商いは大阪で現在も続いています。

当時の平安期の環境からすると「民族氏」勢力=<「融合氏」勢力の判別関係式が成り立たなければ「弱肉強食」の中では生残る事は絶対にあり得なかったのです。
「3つの発祥源」「皇族」「賜姓族」の置かれていた立場からは”商いする”と云う事は「奇想天外な発想」であった筈です。これを成し得たのは悠久の歴史を持つ事から生まれた「4つの青木氏(血縁+絆)」の環境が他氏と違うところを作り出していた事に他ならないのです。
これは「2つの青木氏」の「祖先神」の考え方を「心の拠り所」として、一致結束して他氏に観られない「青木村」を形成して「2つの絆結合社会」を構築していたからに他なりません。

・8つの「青木氏政策」
8に付いて、「軍事的独立」(皇族:近衛府、衛門府、兵衛府の左右六衛府3軍と左右衛士府軍を統率)
皇族賜姓青木氏の臣下の目的は、そもそも天皇家の問題にあったのです。
それまでに皇族を護る「親衛隊」が無かった事が「弱体化の問題」と成っていて、それを解決させる為に”皇族の者に「臣下」と云う形で「武力」を持たす”と云う事を、天智天皇が「政策大転換」をさせた事です。
当時は皇族、貴族は”「武力」を持たない”と云うのがステイタスでした。
従って周囲の「民族氏」の豪族が力を持つとこれを背景に「軍事力、経済力」を高め挙句は「政治力」をも獲得すると云う方向に進み、「権威」のみに依って保護されている「皇族、貴族」をも凌ぎ、その立場を脅かすと云うところまでに発展してしまいます。恐らくは「貴族武力保持政策」は仰天倒置の騒ぎで合った事でしょう。
(「臣下の仕来り」は皇位継承順位と供に天皇の皇子順位が第6位皇子に当る者に任じる事を定めた。)
蘇我氏の例に観る様にこの弊害を無くす事から、更にはそれまでの身分制度(臣、連、君、直、造、首、史、稲置)の姓を見直し、弊害と成っていた飛鳥時代の大王家(天皇家)に繋がる「民族氏」の「臣族(蘇我氏等)」やそれに相当する勢力を保持している「民族氏」の「連族」等を解体して「八色の姓」の制度に依って大変更しました。
そしてその制度に基づいて新たな「皇族臣下族」を作り上げて「氏」の姓を与え、「皇族、貴族」でありながらも「武力」を持たせ、前記した「5つの俸禄制度」(功田、賜田等)を制定し「爵位」と「冠位」と「職務」を与えたのです。
それが「朝臣族」の「浄位」であり、「左兵衛門尉佐」「右兵衛門尉佐」「民部尉佐」の冠位と、総括「近衛軍六衛府軍」の指揮官の職務と成ったのです。

これまでの「臣連」を指揮官とし全国から「伴の労役」に従事する民を集めての朝廷軍(後に阿多倍一族軍が加わる)を編成していましたが、それとは別に天皇の身辺を護り任す「近衛軍」を創設したのです。
これを任されたのが「皇親政治」」を担った初期の賜姓族5家5流の青木氏一族一門であり、900年ごろからは「同族賜姓源氏」と「同族母方血縁族」の「藤原秀郷一族一門の特別賜姓族青木氏」もこれに任じられたのです。
これに依って、それまでは「臣連」の「民族氏」の参政による「政治体制」から、彼らに揺さぶられる事無く、天皇家の身内による「独自の軍事力」を背景に身を護り、青木氏等による「皇族貴族」が主導する「皇親政治」を敷き、当時としては全く新しい「画期的な政治体制」を確立したのです。
今までに無かった「政治体制」が樹立したのです。
従って、恐らくは奈良期社会はこの時「天変地異」の出来事であったと観られ、周囲は相当に紛糾し、反対者も多く天皇と云えども身の危険は保証されていなかった筈です。
蘇我氏が潰れたとしても従兄弟の蘇我氏一族「蘇我仲麻呂」や「蘇我赤兄」の「民族氏」の豪族は温存されていて脅威の一つであったのです。
天皇家の中でも彼らと利害を一致し血縁性があり、その代弁者とする「反対皇族者」は居て、天皇の身内であっても事件後(日本書紀にも書かれている様に)これは粛清されて行きます。
当然に反対する「民族氏」の飛鳥時代の「臣」「連」の豪族等も「蘇我氏」と同様に潰されて衰退してゆきます。
歴史的には「皇位争い」を「通り一辺」と位置づけられていますが、この様に周囲の政治的な変化を考察すると、筆者は「皇位争い」はその「最終の始末の方便」であって、正味はこの「大化の異変の経過措置」としての「争い」と云う「決着の手段」であったと観ているのです。
この「決着の手段」の「捉え方」に依っては其処に起こる「見える画像」に対して著しく観方は違ってくる筈です。
「孝徳天皇」の皇子の「有間皇子」の例の様に、”「皇位争い」で抹殺する事”が、「中大兄皇子」から観れば”反対者には「抹殺の大義明分」に抗する大儀は無く程遠い”と考えていた筈だからです。
「中大兄皇子」はその順位からしてもトップであり何の問題も無く、まして蘇我氏を自らの刀で刺し自らの指揮下で蘇我氏の護衛雇い軍の東漢氏と交渉し蘇我氏の軍を解体させ、自ら「大化の政治改新」の具体策を発案し実行した唯一の人物なのです。
これだけの条件がそろっていれば、周囲の反対者がそれに取って代わると云う風に考える事そのものが異常とするものです。仮に取って代わったとしても他の周囲はそれを容認する事は100%有り得ず、「民」も天皇としてのそれを認めることは出来ない筈です。
まして、「中大兄皇子」が下した「抹殺を含む処置」をどうするかの問題もこれだけの条件が揃っていれば反対者が取って代わっても政治の実行は元々不可能です。
「有間皇子」(従者一人)は、家来一人を伴い同行し、蜜命を帯びた「蘇我赤兄」に直接後ろから熊野古道の藤白神社の直ぐ側の民家の横で考察されますが、その直前に(海の見える山越えが終わった実に神社横の一息つきたくなる様な景色の良い角の場所)座り民家から水を貰い飲み、そして読み遺したとされる「時世の句」から観ても「皇位継承争い」だけでは無いと観られます。
反対派の裏工作と知らずに会合に参加した事が原因(失敗)と観られます。
父の「孝徳天皇の弱体化」から観ても、「有間皇子」は皇位につける条件下に無い事ぐらい判って居た筈です。「天皇家の復権」を自らの力で成し遂げた「中大兄皇子の絶対優位の立場」から観ても取って代わる事が不可能である事くらい判る筈です。まして反対派も同様に「大儀」は失って居た筈です。
通説の「皇位継承争い」は立場を変えてみれば違う事に成ります。
「抹殺の殺意」とは別の”無意識に「事の流れ」に偶然に取り込まれていた”と成るのではないかと観られます。この世は意識、無意識に無関わらず「自然の流れ」に抗しきれない「流れ」に呑まれる事が有ります。

この様に大変厳しい政治環境の激動の「流れ」の中で、「生仏像様や神明社の加護」の下に巻き込まれることも無く護られ、平安中期には「2つの血縁青木氏」は天皇家の同族を護るために「自らの軍」を保持したのです。その「流れの自然渦」に巻き込まれる危険性は充分に有りながらも自立への道を歩んだのです。「融合氏の青木氏」が「3つの発祥源」を護り「氏」を育てる始めての持つ「自衛軍」であったのです。
そして、「天領地の守護王」として護る事も行ったのです。
ただ平安期にはこの「自衛軍」のみならず「4つの青木氏との絆結合」と「5家5流の連携」「4つの青木氏との絆結合」と「母方同族 特別賜姓族の藤原秀郷流青木氏」の力を背景に、「近江−伊勢−美濃−信濃−甲斐」の線上に存在する「融合氏の小集団との連携」、所謂「シンジケート」とが組合わさって「実数の軍事力」より遥かに大きい「巨大な相互防衛網」を構築して行ったのです。

1 「自衛軍」
2 「4つの青木氏との絆結合」
3 「5家5流の連携」
4 「4つの青木氏との絆結合」
5 「融合氏の小集団との連携」所謂「シンジケート」
この「5つの防衛線上」に途切れも無く「商いの経済力」が乗っているのです。

「5つの神」
「守護仏像信仰」
「象徴紋の基調」
「唯心の樹木信仰」
「4つの青木氏の結束」(家臣、村民)
「3つの発祥源」
「2つの絆結合社会」
「3つの権益」
「5つの防衛線上」

以上8つの「青木氏政策」の基に「9つの政策基調」を持ち得ていて、これ等が有機的に働いて生残れたのです。
これ等の「9つの政策基調」を「心と物」に分けて、「物」に付いてもう少し掘り下げて観ます。
とりわけ先ずは「物」の「防衛力」です。
その「防衛力」は次ぎの数式で成り立っています。

「青木氏の総合防衛力」
「近衛軍」+「4つの青木氏との絆結合」+「5家5流の連携」+「シンジケート」=「自衛力」
「自衛力」+「実数の軍事力」+「商いの経済力」=「巨大な相互防衛網」

そして、970年頃からは次ぎの防衛網のラインが構築されます。
1 伊勢青木氏−信濃青木氏の防衛網ライン
(伊勢秀郷流青木氏と信濃に隣接する美濃秀郷流青木氏が加わる)

2 「母方血縁族」の「藤原秀郷一族一門の青木氏」の「尾張−常陸」までの「東山道の防衛網ライン」
(武蔵入間を中心に片側相模の2幅)

3 「賜姓5家5流の青木氏」の「近江−甲斐の防衛網ライン」
以上3つラインが結合し「東山道」を常陸から近江の都まで繋いだ勢力圏を構築したのです。

4 「伊勢路防衛網ライン」
これに伊勢青木氏が奈良期から独自に持つ「近江−摂津−堺」までの「伊勢路防衛網ライン」が加わります。このラインは、「神明社」を伊勢神宮から近江まで円域の19の地域に建立し、そこに第4世族の「守護王」を置き、伊勢神宮からの神明社圏域を固める為に作り上げられた天皇家の独自の伊勢青木氏が護る防衛網ラインです。
そしてこの防衛網ラインに沿って平安期末期には「青木シンジケート」が敷かれているのです。

5 「瀬戸内防衛網ライン」(讃岐籐氏の秀郷流青木氏が独自に瀬戸内に構築した防衛網ラインで室町期には南北に日本海側まで延びたライン)

この事は青木氏の事以外にも歴史上ではなかなかこの「シンジケート」の事は扱われません。
しかし、平安期中期頃からでは戦いに敗れた「融合氏」や「姓族」や「民族氏」は生き延びなければ成りません。敗者は集団で家族共々逃亡する訳ですから、簡単に全て奴隷(「部曲や品部や賤民や俘囚や浮浪人」)には成り果てる事は出来ません。
当事(平安期から室町期末期までは)は有名な武田氏の有名な事件の様に打ち破った相手側の者を奴隷や戦利品として扱い売買すると言う歴然とした戦国の厳しい慣習があったのです。しかし、武田氏や上杉氏はこの慣習を禁止します。
これは室町期だけではなく平安期の安部氏の「前九年の役」「後三年の役」でも明らかの様に「俘囚民」(920年頃と1020年頃に公の仕組みは一時廃止される)と呼ばれ「奴隷」として「荘園の労働者」に送り込むという「陰」ではなく社会全体の正式な仕組みの一つに成っていたのです。
鎌倉期(豪族間の戦い)から江戸期中期(除封・移封)までにも「戦いや叙封」であふれ出た家臣や領民は下手をすると「醜民族」(明治末期まで残る)と呼ばれ「社会の陰の労働力」として扱われていたのです。
これから逃れる為に、敗退した氏や姓とその家臣領民は上記した様に山に逃げ込みこのシンジケートに入り生き延びると云う「陰の社会構造」が出来上がって行ったのです。
これが豪商などから経済的支援を受けて生き延びた「陰の力」の「シンジケート」なのです。
この様にそこで敗者は「海賊、山賊」、「山郷の隠れ土豪」、「兵の請負業」の様な事をやりながら、傍ら豪商からの「経済的支援」を受けて”いざ”と云う時には「互助の掟」で連携して役目を果す事をして生き延びたのです。(徳川家康はこの陰の力を戦略として大いに使った)
室町期の「下克上、戦国時代」には敗者が多く溢れ出て更にこの組織が拡大します。
鎌倉期の800あった融合氏は平安期の状態(80−200)まで減少するのですから、溢れ出た「融合氏」の家柄のある者等は家長・家人・郎党等が山を切り開き村を形成してこの組織に入ったのです。
「シンジケート」が山間部や山伝いにあるのはこの事から来ているのです。
(最たるものでは前回に記述した平家の落人がこの各地の「陰の仕組み」のシンジケートに入った)

平安期から江戸初期までの「氏家制度」の「陰の縮図」で、この「陰の縮図」が成り立たなかった場合は「氏家制度」も成り立っていなかったのです。
このシンジケートは「物心両面」の「陰の相互扶助」を「掟の旨」として存在し、況や、「氏家制度の縮図」で「陰の氏家制度」なのです。
「表の氏家制度」+「裏の氏家制度」=「社会構造」

「表の氏家制度」のみでは決して社会は成り立っていなかったのです。
そもそも論理的に成り立たないのです。
800あったものが80−200の1/4に成れば3/4は浮いてしまいます。
3/4は何らかの社会の「救済仕組み」が無くては社会が成り立ちません。
それが「俘囚民」、「醜民」の「悪い仕組み」であり、「良い仕組み」として「シンジケート」が「必然の理」に基づき「氏家制度」の社会の「救済の仕組み」「陰の仕組み」として公然として生まれてたのです。

因みに、南北朝の有名な楠木正成等は伊勢の集団の「青木シンジケート」の首魁の一人ですし、紀州九度山の真田氏も伊勢のこの「青木シンジケート」に組み込まれた一員で経済的な裏づけを採っていたのです。上田氏は信州上田郷の土豪が「夏冬の天下分け目の戦い」に生き延びる為に親子が二つに分けて両陣営に合力し親は九度山に配流され、生き延びる為に伊勢の「青木シンジケート」に加わります。しかし、真田幸村は豊臣側に付き「青木シンジケート」から外れ「滅亡」を選んだのです。
何れも軍師でありますが、「シンジケートの陰の力」を全面に受けての戦いに参加します。
結末も軍師を請われての同じ結末を辿ります。楠木正成は陰の力を背景にゲリラ戦を敷き10万の軍を餓死に追い込み勝利し、真田幸村は騎馬と軍馬を補助され、原野に配置した「陰の力」(シンジケートの野戦ゲリラ戦)2面の支援を受けて本陣の家康を完全孤立させる事に成功し討ち取る直前で止めて家康を生かして去りました。

この様に何れも本来外に出る事のない構成員が何れも表に出てしまった構成員です。表に出た以上は最早、構成員では無く成ります。何れ滅亡するしか無い事を意味します。表に出た構成員がシンジケートに戻ればシンジケートの「有り様」が変化してシンジケートは自然崩壊します。

この勢力圏は明治初期まで維持されたとする青木氏の記録と公開された史実が有り、「青木シンジケート」を使って各地に起こった殆どの一揆に対して「経済的支援」を行っていたと観られる記録が青木氏側の資料にも遺されています。

敗退した小集団の「融合氏」や「姓氏族」はこの様にして「シンジケートの陰の力」を背景に生き延びたのですが、これを用い保持しなかった大集団の源氏や平家は消え去ったのです。
しかし、阿多倍一族一門の平家(たいら族)の支流族は各地でこの真にこれを地で行く様にシンジケートの一員として生き延びたのです。

青木氏は次ぎの「4つのシンジケート」に関わっています。
「青木氏の3つの防衛網ライン」に構築されたシンジケート
1 「東山道の防衛網ライン」(藤原秀郷青木氏の勢力圏 東山道東側シンジケート)
2 「近江−甲斐の防衛網ライン」(皇族賜姓青木氏の勢力圏 東山道西側シンジケート)
3 「伊勢路防衛網ライン」(伊勢青木氏の勢力圏 伊勢路シンジケート)
4 「瀬戸内防衛網ライン」(讃岐籐氏秀郷流青木氏の勢力圏 瀬戸内海族シンジケート)

この「4つの青木シンジケート」に付いて歴史史実に残る証の事件が全てに有ります、表に出た主な有名な事件として次の様な事があります。
徳川家康は「天下分目の戦い」の為に甲斐武田氏系青木氏の3氏を殆ど家臣団に加えたのはこの1のラインの「勢力圏の確保」が目的であり関東とのその繋ぎ目を獲得します。
(柳沢氏もこの時の家臣団の一つです。「甲斐武田氏系青木氏]のレポート参照)
「関が原の戦い」を前にして家康は名古屋城にて本隊を待ちます。一方秀忠本隊は家臣と成った藤原氏秀郷一門の「防衛網ラインの東山道」を使い西に下りながら周囲の掃討作戦を展開している時、家康は名古屋で伊勢青木氏が抑える「伊勢路防衛網ライン」の獲得に動きます。
この時、伊勢青木氏は250の兵とシンジケートで護る伊勢−堺までの通行の保障作戦を展開することで約束します。
つまり、名古屋城に入る本隊の通行の安全を保障する「東山道西側ライン」は5家5流賜姓青木氏のシンジケートが保障したのです。
この「防衛網獲得作戦」でこれで大阪関西域の東は完全に押さえたのです。

又、武田氏が滅びた時、藤原秀郷流青木氏が諏訪族青木氏を含む甲斐武田氏系青木氏3氏の受け入れに成功したのは織田信長がこの「東山道防衛網ライン」に手を出せなかった事によります。
この時、甲斐のラインは一部崩れますがこの地に残る甲斐皇族賜姓青木氏が修復します。
他には次ぎの様な有名な事件がありますがこれ以外にも数え切れない記録が遺されています。
「壇ノ浦の源平合戦」、「楠木正成の南北朝の戦い」、「藤原純友の乱」、「甲斐の100年一揆」、「江戸末期から明治期の動乱一騎」、「信長の伊勢天正の3乱」等々。

それにはこれだけの「相互防衛網」を維持するには矢張り「経済的背景」が絶対に必要とします。
又、この様にどの場面から考察しても「奇想天外な近衛軍の政治改革」と「奇想天外な2足の草鞋策」の実行は歴史の必然として絶対的に必要であったのです。

「青木氏生き残り」→「3つの発祥源」→「シンジケート・防衛力」←「経済的裏づけ」←「2足の草鞋策」

「融合氏の青木氏の秘訣」
そこで源氏の様に「単一の軍事力」を必要以上に大きくするのではなく、「経済的背景」と「総合防衛力・軍事力」を組み合わせた「生き残り策」を構築する事であって、これが「融合氏」の「青木氏の秘訣」なのです。
その「青木氏の秘訣」を「戒め」として遺したのが、実に「柔軟性」に富みで「戦略的」な「青木氏家訓10訓」であると考えているのです。
何度も主張している様に「3つの発祥源」でありながらも、上記の様な「判別式の数式」から来た「侍、武家」らしくない家訓と成っている所以であると考えます。

多倍一族一門「6割統治」
この事から筆者の認識では「氏融合」と云う血縁で観ると、後漢の阿多倍王は、帰化以来、平安時代末までには遂にはその子孫を以って「政治(律令制度の完成)」、「経済(部経済制度)」、「軍事(朝廷軍制度の主力」)の3権の主要職の末端までを荷っていたのです。 (天皇近衛軍は青木氏と藤原氏)
実質、武力に依らず良い意味で他民族の「渡来人」が自らが民族の域を越えて積極的に「氏の融合」政策を推し進めて成功させ、「日本書紀」の”天武天皇の発言と舎人親王の編集に関わった官僚記述”にもある様に、少なくとも日本を「6割統治」し征圧していた事に実質成るのではないかと観ているのです。

「10割統治」では「革命・独立」か「謀反・乗っ取り」と成りますが、帰化後の早い時期に於いて阿多倍一族一門の「6割統治」では「反乱」とまでは行かなかったのではないでしょうか。
日本で生き延びる以上の「理解できる限界」であった事に成ります。
それ故に、阿多倍一族一門の「民族氏」の行動が、地域的に観て一族の「理解し難い行動」と成っているのではないでしょうか。
もしこれがどの地域で同じ行動を採っていて全て同じとした場合は「10割統治」の「革命・独立」か「謀反・乗っ取り」と成っていたと考えられます。
それを「民族氏」の主張をある程度通しながらも丁度良い所で押さえて「日本に融合」し「半自治」を勝ち取った事(1018年)に成ります。
故に「以西」−「中央」−「以北」の一族の行動に矛盾が生まれたと考えられます。

これは実に不思議な現象で、次ぎの様な現象が起こっているのです。
A 「九州の南北基地」の「南基地)(肝付氏)」では「融合氏」政策3策に「絶対服従せず」の態度
B 「北基地(賜姓大蔵氏)」では「自立」を主張した態度
C 「中国関西基地」は「本部基地に従う」という姿勢を採る態度
D 「伊勢本部基地」(賜姓平族)では官僚と成り「3策の立案推進する」の態度
E 「以東の関東」では「独立を主張」し「将門の乱」で終局引き上げる態度。
F 「以北の末裔(賜姓内蔵氏・阿倍・安倍・清原氏)では「犠牲に成る」と云う状況

以上、AからFと云う「シーソウの支点」を中心に「左高−右低」の傾きの「政治姿勢の戦略」を採っていたと成ります。日本人の「一族」と云う思考原理から見ると、実に理解し難いと云うか不思議な現象が起こっていたのです。真に「シーソウ」の「傾き程度の有利性」を表現しています。

筆者は「伊勢基地本部」から「都」を中心に「地理的要素」を配慮して帰化当事の方針の「6割統治」を執拗に成し遂げようとしていたのではないかと考えているのです。
EやFの様に多少の犠牲があったとしてもそれを切り捨てでも、”「目標達成」に拘った”のではないかと考えるのです。 「目標達成」>「義・大儀」 
日本人で有れば「義」「大儀」を重んじて「統一行動」して助けてでも”「目標達成」は二の次”とする行動に出る筈です。 「目標達成」<「義・大儀」
例えば、国家観に於いても同じ事が云えるのです。
阿多倍一門の「民族氏」は、「国家の目標達成」>「個人の目標達成」を重視する。
在来民の「融合氏」では、「国家の目標達成」<「個人の目標達成」であり、「個人の目標」の集約が「国家の目標」の集約となり行動する。
「民族氏」では、「国家の目標」又は「より大きい集団の目標」が成し得ない時は”「個人の目標」も成し得ず”と成ります。
「融合氏」では、「個人の目標の集約」が成し得ない時は”「国家の目標」も成し得ず”と成ります。
ここに「民族氏」と「融合氏」との「思考原理の違い」があり、尚且つ、それは「道教・儒教」と「仏教」の違いにあったのではないでしょうか。
更には、「産土神」と「祖先神」の「神様の有り様」の違いと観られます。

故に阿多倍一族一門と言う「大集団の目標」は、安部氏らの「小集団の目標」より多少の犠牲が出ても優先される事に成るのです。
その彼等の「民族氏の戦略」として「シーソウの原理」を採用したと見ているのです。
偶然にしては「民族氏」の「シーソウの原理(地理性戦略)」に一致し過ぎていると考えているのです。
この「考えの背景」には”「後漢系」の「民族氏」の「思考原理」にある”と決め付けているのです。

現在にも観られる彼等の姿勢、”カーと成るかと思いきや根気良く戦略戦術を実行する性癖・国民性”や、
 ”「三国志」にある様な゜中国人の姿勢」 ”や、”「六稲三略」の思考原理”、や”「法より人」「石は薬」”。
これは日本人に理解しがたい思考原理です。天智天皇が”「何かが起こる」”と観たのはここにあるのです。
筆者はこの「思考原理」に「彼等の行動原理」が加わり、彼らの行動を理解する上で大事な忘れてはならない「思考原理」と観ているのです。
それ故に、阿多倍一族一門の採った態度は”「これは偶然ではない」”としているのです。

彼等「民族氏」は朝廷内の「3蔵の政治機構」をも官僚の末端域まで、先ずは蘇我氏に代わって、「日本人」として牛耳り、取りも直さず、天皇家にも「桓武天皇」の母親の「高野新笠(阿多倍王の孫娘)」がは入り天皇を、そして「阿多倍王」の孫(曾孫)の「国香」と「貞盛」より始まって「清盛」までの「平氏(たいら族)の血縁」を天皇家の中に敷きます。蘇我氏以上の遥かな「専横の食込み状態」であったのです。
ただ彼等は「天皇の力」の「搾取や弱体化」を侵し脅かさなかった事にあります。
どちらかと云うと「協力体制」を確立したのです。
この2段階のルーツ(天皇ルーツと平族ルーツ)で「氏融合」をさせているのです。
これは「大集団の目標」の「帰化当初の目的達成」の為に行動していたものであって、「長期戦略」を執拗に採っていたのです。
これは別の面から観れば、真に”「後漢国」が日本に移動した”と観られるほどに、その200万人の末裔達の「氏の融合」は上から下まで完成させた事に相当するのです。
ただ問題は「九州南北の基地」(大蔵氏、肝付氏)の「民族氏」の「融合氏化」が900年頃から始まったが上記した様な背景(目標達成)で1018年頃まで100年間程度解決しなかったのです。
かなり腰の据わった粘り強い「目標達成」であった事が云えます。
「三国志」にもある様にこれも「民族氏の特徴」とも云える性質であります。
現在に於いてもこの中国と日本の「国家観の違い」如いては「思考原理の違い」による「摩擦」は歴然として発現しています。
これは別の面から観ると、阿多倍一族一門の200万人から拡大した融合末裔の3割近い人口の日本人は完全に「融合氏」と成り得ている事の証明でもあります。
この状況は、平安期中期950年頃から「渡来人」の言葉が書物より消え、その350年後の鎌倉期末期(元寇の役)では、最早、「民族氏」は完全に「融合氏」と成り得ていた事を物語ります。
その中間期が1020年頃(九州自治期)で、これを境にして「物心」の「心の部分」の「融合化」が起こり、上記した「考え方」の変革期でもあったと考えます。
「九州自治」を境にして彼等の「心の開放」が起こり、急速に「融合」が進み、故郷の中国から攻め込んできた「元寇の役」では、最早、生死を賭けて供に戦い、永嶋氏や青木氏や長谷川氏や進藤氏の大蔵氏との血縁に観られる様に、「心の開放」は頂点に達し爆発的な融合が進んだのです。
つまり、彼等の「心の開放」は「融合氏化」をも促進させたのです。
”何かが起こる”の天智天皇の645年の心配は1335年頃には霧散した事に成ります。

この意味で、筆者は「純友の乱」の時の自治約束の決断と1018年の大宰府の大蔵種材への自治決断は国家の存亡を救うに値する優秀な決断であったと見ているのです。
阿多倍一族一門の採った彼等の執拗な「民族氏」の「6割の目標達成」は「彼等の目標」だけではなく「日本の目標」と成り得た事を意味するのです。
同時に「民族氏と融合氏の軋轢」は間違っていなかった事をも意味します。
これは全て「産土神と祖先神」の「心の融合」を意味します。
大きく云えば、「祖先神」に導かれた「青木氏の生き残り策」は「物心両面」で「国家の進行方向」と合致していた事にも成り故に生残れたのです。

  「民の融合」(2階層の融合)
勿論、一方民「(民)品部」と観られる領域でも、彼等(阿多倍一族一門)の努力による「民の融合」は実は完全なのです。
「一般の民の領域」での「融合」(民の融合)は、2期に渡り入国した「後漢の民」の技能集団「部」が国内に広まります。これを朝廷は政治的に「部制度」政策(物造り政策)として主導して構築して行った為に、これらの配下に入り技能を享受した「国内の民」(在来民)は、「後漢の民」との障壁の無い「民の融合」が積極的に行われて行ったのです。
この為に「身分制度」を基調としていた朝廷は、慌てて「税や身分の混乱」を避けるために秩序ある融合を配慮して次ぎの3つの法を定めたのです。
1 「男女の法」
2 「五色の賤」
3 「良賤の制」
危機感を感じて以上「3つ身分法」等を定めたのですが、ところがこの法は次ぎに掲げる理由で902年で廃止されます。
この開放は一度に行ったのではなく混乱を避ける為に898-923年の25年間に徐々に行っています。
上記した様にこの点でも900年と云う一つの「荘園制の節目」や「融合の節目」が出てきます。

そして、平安期の「荘園制度」の確立に依って「朝廷の政策」のみならず「荘園内」での小単位の「部制度」が活発化して、「民の融合」は荘園に関わる「内外の民」の「2階層の融合」が起こったのです。
「民の域」では全ての「民の末端」まで行われましたが、その「部」単位(職能部の単位数 180)で起こった融合は、荘園に関わる「内外の民」の判別が困難な程に、「内外」を問わない緩やかな「完全融合」が起こりました。
「氏」としての構成では無いが「部の氏」と見なされる「単位集団」(日本の融合職能集団:「物造り集団」 「姓氏」)が誕生し構築されたのです。

「姓氏」の発祥
これが上記した初期に生まれた「海部氏」等の「姓氏」の「融合集団」なのです。
(丹後国 籠神社資料 海部氏の平安末期の「姓氏」の最古の記録 後に「融合氏」として拡大する)
この「融合職能集団」が室町時代初期から、この「民の集団」を背景に「部の姓氏」が正式に「姓氏」として乱立する結果(180−250)と成ったのです。

「組合職能集団化」の編成
これらの「民の融合」は当初は、「姓氏」として集団化したのではなく、室町文化(紙文化)発展によりその「職能域」をまとめるために「集団化」して行ったものなのです。
しかし、鎌倉期から室町期に成って「部制度」が解けて「部民」は自由開放と成り、この元の「部単位」での「組合」の様な「職能集団化」が起こり、その集団の内で「血縁融合」を繰り返す段階で有る程度の「緩い血縁性」が生まれます。
その「組合職能集団化」により実力のある者はその首魁と成り、鎌倉期−室町期の「文化の発展」に依って次第に「経済的潤い」を得て、「部」から発祥した彼等の呼称を「部民」として呼ばれ、集団化同士間の「無血縁の民」の「組織化」が起こりました。
「無血縁」で「異職能」の「集団」を取り纏めて行く必要からから「目標とルール」とを定めた「組織化」が起こったのです。
次第にそれが拡大化して勢力を持ちそれを背景に職能集団による「姓融合の集団化」(例:海部氏・陶氏)が起こったのです。
つまり、最終の形としては「氏融合」を主体としていた社会構造の中に職能集団の「姓融合」が食込んで行ったのです。この為に「既成の基盤」の上に胡座をかいていた「氏融合」と、新たな職能による「経済的潤い」を背景にした「姓融合」との間で「勢力争い」が起こります。
結局、”下が上を潰す” 「配下」であった「姓融合」は「主家」の「氏融合」を脅かし遂には乗っ取ると云う現象が起こったのです。
「氏融合」の「主家」に取って代わる事に因って「姓融合」は「融合氏化」への経緯を辿る事に成ったのです。この豪族となった「姓氏」を主体とする社会構造が出来上がり、「融合氏」は殆ど潰されて社会に対応出来得た数少ない「融合氏」のみが「姓氏社会」の中で「姓氏」と融合を繰り返す事で生き延びて行く結果と成ったのです。「融合氏」を主体とした「氏家制度」の中で上下逆転の社会が起こった事に因って「氏家制度」は「自然崩壊」へと進み、「姓氏」と「融合氏」とが入り乱れて「生存競争の戦い」へと突入して行く事に成ったのです。
況や「自然力」(流れの力)による「力と知恵」を駆使した「取捨選別の戦い」即ち「戦国時代の到来」が起こったのです。これは即ち「自然の摂理」(自然の流れ 時流)が起こった事なのです。

「融合氏の発祥源」(3つの発祥源)でもある「4つの青木氏」は、「知恵」は「2足の草鞋策」、「力」は上記した「陰の力と抑止力」と、それを支えるで「神明社・生仏像様」と供に、「自然の流れ」に逆らう事無く上手く「時流」に乗ったのです。その成し得た高度な英知は「青木氏家訓10訓」と秀郷流青木氏の上記して来た「戦略的知力」に有ったのです。

姓氏発祥の経緯(姓融合)
→「部制度」」[無血縁組織] (奈良期−平安期中期)
→「部民の開放」 (平安期末期)
→「職能集団化」[組合化] (鎌倉期初期)
→「血縁融合」[自由]→「経済的潤い」
→「部民」→「組合間の組織化」 (鎌倉期中期)
→「拡大勢力化」→「姓化」 (鎌倉期末期)
→「姓氏化」」[無欠縁組織]→「下克上」 (室町期初期)
→「融合氏化」」 (室町期中期)
→「融合氏の集団化」→「豪族」(「姓氏」)
→「戦国時代」
→「融合氏3」 (室町期末期)

「職能集団の青木氏」(無血縁)の誕生
この中には、前期の「4つの青木氏」以外に実はもう一つのこの「職能集団の青木氏」(無血縁)が存在しているのです。
前記まで「氏」は次ぎの様に論じて来ました。

「融合氏の種類」(鎌倉期以降の変化)
1「融合氏」−「融合氏間の血縁」→「血縁性を有する同族集団」(第1の融合氏) ⇒「融合氏1」
2「民族氏」−「血縁性の薄い民族集団」→(「融合氏1」と「姓氏」との血縁) ⇒「融合氏2」
3「姓氏」 −「無欠縁の部組織」→「血縁性の無い組合集団」 ⇒「融合氏3」

「部民」と同じ立場にあった「百姓」(おおみたから:部曲等)にとっては、「姓氏」に成る事は「下克上と戦国時代」の「立身出世による機会」によるもの以外には社会的に無かったのです。

これは次ぎの事によります。
1 「百姓の法制度・税制度」により土地に縛られそこから離れられない事
2 その基盤と成る「核・組織・集団」が無い事
3 「融合氏」「姓氏」に成る利点が無い事
4 更に「氏家制度」の「仕来り」や「仕組み」の中では反乱(一揆)と看做される仕儀となる事
以上から「4つの社会的拘束」により基本的には不可能であったのです。

しかし、「品部の民の解放と組織化」(898-923年)に感化されてその発展を観て、「百姓」(おおみたから)等は何とか「組織化」を図り、「意見の集約と主張」を前面に押し出そうとします。
この為に平安期の「元慶の動乱」に観られる様な「郡司」まで巻き込んだ事件が各地で頻繁に起こったのです。
そして、これが上記したシンジケートの経済的支援を受けた「百姓や賤民等の動乱」から、鎌倉期から室町期には今度は「一揆」と云う形に変化して起こします。
この一揆は、武士が起した゜乱や役や謀反や事件」と云った長くて5年程度の程度のものでは無く、100年間と云う途方もない「為政者に対する戦い」が甲斐や陸奥や美濃や伊勢や駿河に起こったのです。
中には”政治的権力を奪う”と云う所まで起こりました。
中でも「元慶の動乱」等は各地に飛び火して郡司等の地方の下級官僚の援護を得て組織化が起こったのですが、この一揆は「百姓」のみならず背後には「豪商や下級中級武士等」が控え援護して組織化を促していたのです。
どちらも「偶発的な動乱」「不満の爆発」等ではなく、援護関係が明確な「組織的な動乱」であったのです。
この動乱の目立ったものとして「徳政」、「播磨」、「正長」、「嘉吉」、「長禄」等の「百姓(商人・職人・武士等)」による「一揆動乱」がありますが、当初は資料や趣意書を調べると本来の目的は、「組織化(不満)」を目途としていたものが、通説と成っている「為政側」からは結果として「反乱・一揆」として扱われたものなのです。

上記の「部民」に認めたものが、”「部曲」(かきべ)には認めない”と云う不満から”おおみたから”達の「爆発的行動」と成ったのです。
地方行政官の「郡司(こおりつかさ)」が、中央行政官の「国司(くにつかさ)」に逆らってまでも「部曲」に賛同支持して動乱を起したのは、単に「賛同支持」と云う事だけでは命を賭けてまでの事には成らない筈です。
資料や趣意書などを具に調べると、其処にはその行動は「具体的信念」に基づいたものであり、其処には、「人間性の発露」が観られ、要約すれば”社会における部曲のあるべき姿”に疑問を抱き、”変革しなければ国の行く末は暗い”と考えての行動で有った事が云えます。
まして、豪商等が「商いの利益」の為に支援したのであれば100年など続きません。
動乱を100年も続けるには、其処には「豪商の理念」が存在していて、その「理念の実現」に経済的支援をした事を物語ります。
100年とも成れば、その経済的な支援額は彼等の生活を保護する事にも成りますので、天文学的な額に成る事は必定です。更に100年とも成れば、指導する人もされる人も3代も変わる事に成ります。
途中で頓挫する事も充分に有り得ます。しかし、続けたのです。これは「理念」の何物でもありません。
然し、歴史書の通説では「騒乱動乱」や「反発一揆」として「為政者側の言い分」をそのままに決め付けられています。(通説はこのパターンが大変多い事に注意)
然し、「騒乱動乱」と決め付けられても「2つの血縁青木氏」は歴史的に歴然として明確に「2足の草鞋策」を以って支援したのです。
特に「伊勢一揆や暴動」は上記した「4つのシンジケート網」を使って「戦術戦略」を指導し彼等の安全を護り、加納氏の「加納屋」と供に「青木長兵衛の紙問屋」は支援していた事が判っています。
(大きいもので6つ程度の事件が起こっている)

この事は”何を意味するのか”であります。
「3つの発祥源」の立場もある事も然ることながら、「家訓10訓」の「長」としての戒めを「為政者側」に着く事をせずに忠実に「戒めの真意」を悟っていた事を意味するのです。
上記した「時流」に押し流される事無く、冷静に「英知」を働かせたと同じく、ここでもその「英知」を働かせ本来あるべき「百姓」「部曲」の「社会に於けるあるべき正しい姿」を追い求めて支援した事を意味するのです。「利益追従」であれば「為政者」側に着く事が最大の効果を発揮します。
しかし、「郡司」と同じく「2つの血縁青木氏」は「為政者側」に居ながら「部曲側」にも居たのです。
上記した「陰の力」の「4つのシンジケート網」を使えば少なくとも「為政者側の無謀な行動」を抑える事は可能であった筈で、後は「経済的支援」を図る事で彼等を護る事が出来た筈なのです。
部曲の「組織化の要求」を実現させられるかは、革命を起さない限りその「決定権」は「為政者側」にあり、この点に対する青木氏には「決定力」は無くその「影響力」も無かったのです。
ここが「弱点」でもあり「青木氏の立ち位置」でもあったのです。
上記した「4つの社会的拘束」を開放し「組織化の要求」を実現するには其処に矛盾があったのです。
為政者側にとって観れば、「組織化の要求」だけを認める事は上記の「4つの社会的拘束」の秩序を崩壊させる事に成るからであります。
この事は「氏家制度」と「封建社会」や「身分家柄制度」等の「社会秩序」を変える事を意味するからです。
「部民の開放」はしたけれど「部曲の開放」までも認める事は「社会秩序の崩壊」と成るからであったのです。
果たして「4つの青木氏」は”この「時流」に正しく載り得ていたのか”の疑問と成ります。
平安期を経由して鎌倉期−室町期の「時流」は、「荘園時代−群雄割拠−下克上−戦国時代」の乱れた社会の中では、武家社会の「氏家制度の変異期・経過期間」であったのです。ですから本来であればこの「時流」は少なくともその「理念の根底」は「氏家制度の互助精神」であった筈です。
しかし、それは「武家」のみに対する「互助精神」であって「部民−部曲」のものではなかったものです。
それ故、其処に「品部」による上記した「姓氏の経緯」が起こった為にこの「社会構造」に矛盾が芽生えたのです。それは当然に「姓氏の経緯」が起これば必然的に「部曲の経緯」も起こる筈です。
しかし、偏向的に「武家社会の互助精神」はこれを許さなかったのです。大きな不平等な矛盾です。
そこで問題が起こったのですから、「時流」としては”「部曲の経緯」も認めるべきだ。”が社会の中に渦巻き始めたのではないでしょうか。
趣意書以外に確固たる確定する資料記録を見つける事は出来ませんが、「部曲の暴動」が「品部の開放」の経緯の期間中で現実に史実として連続して各地で起こっている訳ですから、この「時流」は渦巻いた事は確かなのです。
そして、この渦巻く現象を観て、「4つの青木氏」は「青木氏の理念・家訓」から”そうあるべきだ。それが正しいあるべき「時流」だ”と考えたのではないでしょうか。そして、”「4つの社会的拘束」は最早何らかの形で解くべき時代だ”と主張したのです。
しかし、それは100年も続く戦いと成ったのです。この「時流」は「時流」で正しかったのです。
この、”「4つの社会的拘束」は最早何らかの形で解くべき時代だ”の「流れ」は、最終的には、薩摩、土佐、長州に依る「明治維新」の「時流」に繋がって成功するのです。
しかし、その後「4つの社会的拘束」の社会は急激には変化を遂げられず、「2つの青木氏」と別に加わった伊勢の豪族の加納氏等の「2足の草鞋族」は、明治1−9年の近隣県を巻き込んだ「伊勢一揆」(櫛田川−真壁−小瀬−伊勢暴動 他3件)まで続ける事になり、遂にその「理念の暁」を見る事が出来たのです。
「2つの血縁青木氏」の観た「時流」は矢張り間違いなく「時流」であったのです。
(加納氏は吉宗の育ての親 紀州藩の家老 2つの伊勢青木氏と血縁)

「時流」
では、一体その”「時流」とは何なのか 「質的」なものは何なのか”と成りますが、筆者は”仏教が説く「三相の理」である。”と観るのです。
つまり、”「時、人、場所」の要素を複合的に一つにした形の流れ”を云うのだと考えているのです。
それには「時」の要素が強い場合、「人」、「場所」の要素が特質して強い場合があるが、それを見誤ること無く、事の「質と状況」を「見抜く力」が「長」には要求されたのです。
これ即ち「青木氏の家訓」の教えであります。故に青木氏は「時流」と見て利害を超え理念を信じ執拗に援護したのです。

さて話は戻してもう少し「時流の中味」を論じておきます。
その時代に起こる「時流」の「顕著な現れ」にはこの「3つの要素(3相)」が必ず持っているのです。
「部民の組織化」に対比して「部曲の組織化」は歴史の記録に載らないまでも明確になっていない地方動乱は数え切れません。ところが、通説では”単発的な一揆 不満の爆発”と云う形でしか論じられていないのです。平安期中期から底流に「時流」としての「部曲の組織化運動」が澱みなく流れていたのです。
中には甲斐の最長150年間も続いた百姓(おおみたから 商人・職人・下級武士の事)の「組織化した動乱」もあった位のものなのです。各地では短いものでも5年、長くて20−50年というものもありました。
この「150年動乱」と成ると最早一揆ではなく武田家の「偏狭・山岳の武士団」(武川12衆など)が参加する「政治体制」に対する反発の完全な「組織化集団」でした。
この「150年動乱」は「部曲」から「下級武士」まで「全ての身分の人」が参加する「人」の要素が大きく働いたもので、下地には「生活の困窮」などの事がありますが、この「時流」は「人」の「本来有るべき姿」即ち”人は皆等しく同じ扱いを受けるべし”とする理念を押し通そうとしたもので、この”特定階級に牛耳られる社会への反発”であったのです。
現在の完全な「平等論」とまで行かずとも、「身分制度」の社会の中でも最低限の「人としての扱いの等しさ」の「時流」は、この平安期から既に「明治維新」までの「流れの動き」の中に起こっていたのです。
上記した平安期中期の「男女の法」、「五色の賤」、「良賤の制」の「3つの身分法」の例に観られる様に、「天皇」から始まり「奴婢」の者までの幅広い階層に、その「人としての扱いの偏重」が余りにも大き過ぎたと考えられます。
これは根底に「仏教の教え」に影響していたのです。法然や親鸞の資料を観ると、この事に悩んだ事が書かれています。
特に「親鸞の悩み」は、庶民の中に入り余計に矛盾を感じて、その結果の彼の激しい遍歴を観ると判ります。
「宗教論争」で有名な法然、最澄、空海の3人による「密教論争」からも「密教の有るべき姿」の論争は、反して云えば「人の等しさ」を論じていることを意味します。
平安期から既に論争に成っていた事を物語ります。
”社会全体の体制の否定”ではなく、これを”もう少し緩やかにすべし”とする主張で有ったのです。
それの証拠に前回に論じた荘園制のところで「後三条天皇・後白河院」の頃に掛けてこの「身分法の見直し」が現実に危険を顧みずこの2人の天皇の決断で行われるのです。
「荘園制の行き過ぎ」に因ってこの問題が露見しそれに連動して1070年頃までに掛けて「法的修正」が行われています。

その一つが180にも及ぶ「大集団の階層」を持つ「品部の開放」の経緯なのです。
しかし、この時、「百姓」はこれでも納まらず「部曲の開放」「商職人の開放」「下級武士の開放」と次第に「全体の階層の偏り」(3つの開放/4つの開放)の修正も要求して行くのです。

(注意 「百姓」とは「おおみたから」と呼称され、その字の如く「百」は「全ての意」と「姓」の「民の意」から「全ての民」となり、「おおみ」は「百の古代語の意」、「たから」は「宝の意」となり、これも「全ての民」の意味に成り上級侍以上を除く民の事です。
現在の「百姓」とは江戸期の「士農工商」の身分制度から「百姓」は「農」の意味となった。)

(室町期までの「下級武士」とは、「農兵」の大意で「農業と兵」を兼ねた階層を云い、多くは氏姓、苗字、家紋等を持っていなかったのです。「甲斐武川12衆」は「氏姓、家紋」も持つ武士ではあったが「農」も兼ねていた「農兵」に近い身分として扱われていた。)

「富と扱いに対する不満」
これも「富と扱いに対する不満」の対象で弱者が集団化して子孫を護り対抗しょうとした現れです。
この様に鎌倉期から室町期末期まで「・・・衆」が全国的に拡大したのは「富と扱いに対する不満」の「流れ」を引き起こし始めた一つの現われなのです。
通説の様に、”「戦乱の世に身を護るだけの目的」”では無く、「富と扱いに対する不満」の表現であったのです。むしろ、「150年」も続いた「甲斐の騒乱」でも判る様に、甲斐の中での事であり他国から攻められてて「身を護るだけの目的」の必要性は無く、、「富と扱いに対する不満」の「150年間の表現」であったのです。
ですから各地の騒乱は長く50−100年というものが多かったのです。150年は例外ではないのです。
ただ、江戸期のものとは「時代」が「流れ」が進行して進化して年数は短くなる傾向にあって、その分「身を護るだけの目的」の必要性は無く成っている訳ですから、「富と扱いに対する不満」が増大し全てこの傾向にあったのです。この「流れ」の傾向が留まらずに結局は明治維新に繋がったと云う事に成るのです。

江戸期の時流=「身を護るだけの目的」→「富と扱いに対する不満」→(3つの開放)

「時流」=「身を護るだけの目的」+「富と扱いに対する不満」(平安期)→「身を護るだけの目的」(室町期)→「富と扱いに対する不満」(江戸期)→「明治維新」

鎌倉期から江戸初期までの集団化の形の一つの「・・・衆」を状況証拠から調べると、「身を護るだけの目的」よりは「富と扱いに対する不満」の方が8割を占めているのです。ただ室町期末期の「・・・衆」は「富と扱いに対する不満」は少ない事が認められますが、元々この時期の「・・・衆」の結束は最早事が遅く、数的には少ないのです。
上記する数式の武士階級の「身を護るだけの目的」の組織化に連動して、「氏や姓」を構成しない「農民−職人−商人」も集団を結成して、この2つが合体して「富と扱いに対する不満」のみのものとして主張した「時流」だったのです。

これを解決しようとしたのが江戸時代初期の身分制度「士農工商」なのであって、上記する「下級武士」(農兵)は「苗字、家紋、帯刀」の保持を正式に許されて、「武士」として正式に扱われて「家臣」として引き上げられたのです。身分が定められた結果、生活もある程度の範囲で確保され、その不満は解消されて行きます。
1 「品部の開放」(平安期末期)
2 「下級武士の安定化」(江戸期初期)
以下4つの内の2つが解決された訳です。

「品部の開放」
「部曲の開放」
「商職人の開放」
「下級武士の開放」

然し、百姓等の「富と扱いに対する不満」は結局は江戸に成っても解消されなかったのです。
(上記2に依って農兵は解消され江戸初期に多くの「家紋と苗字」が生まれた)

これを成したのが「明治維新」であり、「百姓問題」と「富と扱いに対する不満」」を解決し、且つ、一挙に「武」も解体したのです。平安中期から明治維新とすると凡そ「1000年の悲願」であった事が云えます。

「明治維新」は兎も角として、この「中間の経過処置」として、豊臣秀吉は、「兵農分離制度」を敷き、この「農兵制度」を禁止します。
然し、この禁止の目的は開放ではなく、「農兵」の主張を叶えたのではなく、「禁止する事」に依って各大名の勢力を削ぎ、「常設兵力」の削減と大名の「経済的な負担」を高めさせて弱体化を図ったのです。
然し、これも現実には殆ど護られず、「農民の命」を賭けた高額な「現金収入」が無くなる事に成ります。
むしろ、当然の結果として「陰の農兵制度」が生まれたのです。
この「陰の農兵制度」では、「農兵」を登録し集めて臨時に集団化して、終われば解体するシステムが陰で構築されて行くのです。それを職業とする集団や土豪が各地に生まれたのです。(雑賀族、根来族、柳生族、伊賀族、甲賀族、・・・)
そして、この一躍を担ったのが上記した青木氏の様な「2足の草鞋策」を敷く各地の豪商と繋がるシンジケートなのです。
本来は「戦いの負けた武士団の就職先」の様な「陰の集団」であったものに「農兵の臨時集団」が加わり更に拡大して行きます。
「2つの血縁青木氏」はこの「農兵の臨時集団の役目」と、「富と扱いに対する不満」とを結合させて「シンジケート」と云う手段を「時流」の上に載せたのです。

「敗戦の武士団の就職先」+「農兵の臨時集団の役目」=「シンジケート」(室町末期−江戸初期前)

現実の「農兵、農民の集団」に、別の「農兵の臨時集団」とを連結させ、これに「下級武士の集団」
と、「2足の草鞋策の殖産」と繋がる「職人商人の集団」の「4つの集団化」を促し、「時流」を更に勢いを付けさせて押し流そうとした「2つの賜姓青木氏」「2つの血縁青木氏」の「戦略」で有ったのです。
他氏の資料まで研究は及んでいないので正確には判りませんが、下記の数式の「4つの集団化」を成し遂げられる勢力図を持ち得ていて「シンジケート」を構築していたのは「2つの血縁青木氏」以外には無かったのではないかと考えられます。
それは「2足の草鞋策」を敷きその必要性から多少の「シンジケート」を持ち得ていた事は他の資料からも観られる事ですので否定はしません。然し、下記にも示す勢力(石高5万石)を有する「2足の草鞋策」の他氏とも成ると数的にも多くありませんし、青木氏の様に「3つの発祥源」程度の「社会的立場」を持つ武家とも成ると10本の指に入る程度でしょう。
その中でも、「陰の力」「シンジケート」に入る彼等の集団にとって観れば、「氏姓」を構成し「武士」である限りは「陰」とは云え、其処には「こころの支え」としての「大儀」が必要です。
「皇祖神と祖先真の神明社」と「3つの発祥源」の「2つの賜姓青木氏」が行う「富と扱いに対する不満」”下記で論じる「緩やかな富の分配」と「緩やかな人間の扱い」に挑戦する姿勢を観て、これに協力する事は彼等の最大の「大儀」と成ります。
故に平安期から明治期まで彼等はこの「2つの賜姓青木氏」が管理運営する「シンジケート」に加担していたのです。極端に云えば”「錦の御旗」を得た”とも思っていたのではないでしょうか。
この様な「大儀」を保持出来る得る「氏」ともなれば、「2つの賜姓族」の「2つの血縁青木氏」以外にはありません。
(故に同族縁戚の蒲生氏郷も徳川家康も「2つの賜姓青木氏」を上座に上げるほどに崇め擁護したのです。家柄身分が高い云うだけではなかったのです)

「農兵、農民の集団」+「農兵の臨時集団」+「下級武士の集団」+「職人商人の集団」=「4つの集団化」

「甲斐の騒乱」には源光の賜姓族青木氏が関わっていた資料は確認出来なません。甲斐の源光の賜姓青木氏の力が「甲斐の騒乱」を後押しするだけの勢力は無かったのです。
然し、無冠無位の皇族青木氏の時光系青木氏も困窮に喘ぎ農兵に近い状態であった「武川12衆」として自ら関わっていた事が資料からも判っています。

実は「甲斐の青木氏」に付いては、これまた通説には不思議に載らない甲斐らしい「複雑な問題」を持っていたのです。
甲斐青木氏は「青木蔵人別当」の冠位官職を持つ清和源氏 「源の源光」の「青木氏」が主流で、賜姓族に相当し、兄の時光系は無冠無位であったので武田氏の中では低く扱われたのです。
その石高も系譜添書より観ると、200−250石程度でありました。農業をしながら山間部に追い遣られ住まうと云う「極貧の生活」であったのです。”華やかに甲斐の青木氏の名家”と通説では囃し立てられていますが、これも武田氏の特質の資料に惑わされて信じて、通説は「源光の青木氏」と「時光の青木氏」と判別出来ていないのです。武田氏が書く嘘の多い資料をベースにして通説が造り上げられていて全く異なっています。
この虚偽の通説には留まらず、更には青木氏を名乗りながらも、且つ南北朝で山口や高知に逃げた貴族の公家一条氏をも”母方氏だ”として名乗ると云う家柄身分の搾取も公然として名乗られているのです。公然とした矛盾1です。それでいて山間部で農業をしていた「武川12衆」とて供に150年の「甲斐の騒乱」に加わっているのです。これも公然とした矛盾2なのです。
まだあるのです。上記した源光系賜姓甲斐青木氏は国府付近南に定住し本流として甲斐賜姓青木氏の子孫を拡大させているのに、兄の時光は弟の役職を使い「無位無官の青木氏」を勝手に届ける事も無く名乗っているのです。これも公然とした矛盾3なのです。
この様に下記にそれに必要とする勢力2.5万石等は到底無く、「後押しするだけの勢力」は時光系青木氏には元来から当然に無かったのです。
常光寺や源空寺や松源寺などの簡単な菩提寺を作りましたが、長く持たず室町末期には直ぐに維持に耐えられず荒廃し廃寺と成ってしまうのです。
(時光の子の常光が親との争いで獲得した常光寺は養子一族の青木氏が曹洞宗の力を借りて再建して維持した)
「富と扱いに対する不満」を実現させる為に「シンジケート」と云う手段の「時流」の上に載せるどころか自らが「時流」の中に入ってしまっている「自滅状態」であったのです。巻き込まれている状況です。

美濃の資料からは賜姓青木氏は出てくる事もなく、衰退していて「殖産と美濃和紙との関係」から僅かに資料に残る程度と成っています。(女子供の末裔は隣の桑名や員弁の伊勢青木氏の居留地に逃げ込んだ可能性が高い (ただ一つ「伊川津7党の青木氏」がある完全滅亡した土岐氏系青木氏か)
その分美濃は前回信長のところで論じた様に特別賜姓族の5つの秀郷流青木氏の独壇場です。ほぼ入間の「第2の宗家」の援護を受けて5万石程度の綜合勢力を以って一致結束して何とか「富と扱いに対する不満」を実現させ様として働きます。それだけに一揆などは国内で最も多かった地域でもあります。それ故に美濃から駿河の5つの秀郷流青木氏は地元の信任を得て大地主として明治期までその勢力維持させたのです。

近江も「近江和紙」で資料に出てくる程度の勢力であり甲斐との生活はほぼ同じですが、一時一族挙って滋賀に移動定住するなどして、再び近江に戻り、更には摂津に移動定住するという移動の遍歴を繰り返します。これは「源平の美濃の戦い」に源氏と供に参加して敗れ「完全滅亡の憂き目」を受けた事が原因しています。「完全滅亡の憂き目」から美濃と近江は「和紙の殖産」を通じて伊勢青木氏や信濃青木氏は賜姓族として何らかの血縁を通じて生き延びさせようとしたと観られます。(添書には美濃や近江の地域を示すものがある)

前回より論じている青木氏と源氏の歴史の歩調論が異なる事を論じましたが、その歩調の違う源氏と一時の判断ミスにより合わしてしまった事が大きなミスであります。
前回織田氏のところで論じた近江源氏滅亡後に伊勢−信濃の「2つの血縁青木氏」の援護(殖産和紙で支流援護)を受けながら何とか「完全滅亡」を避けられ、賜姓族ではなくて再び「和紙と殖産」の範囲で末裔を広げたのです。
(伊勢秀郷流青木氏は近江の日野の秀郷流蒲生氏の跡目が入っていて近江青木氏とは無関係でない)

下記に数式から解析している様に、伊勢−信濃の「2つの血縁青木氏」の綜合勢力は10−12万石を有する勢力を保持していますから、近江+美濃+甲斐の賜姓青木氏を援護し「殖産和紙」で支える勢力は充分にあり、「シンジケート」で護り「商いの利益」を補填すれば子孫を拡大させられる事は容易でったのです。武蔵入間の「第2の宗家」の支援を受けて、特に近江−美濃は秀郷一門の大居留地でありますのでその末裔を遺してきます。

信濃−伊勢間の一揆には「2つの血縁賜姓青木氏」はこの「4つの集団」との関係を保ちシンジケートを使って援護したのです。凡そ、この「時流」の初期の頃平安末期から観ると700年程度援護した事に成ります。
この年数から判る様に「氏」として25代以上援護している訳ですから、これは「理念の何物」でもありません。
「2つの血縁青木氏」は、、「3つの発祥源」の氏で有りながらも、片方ではほぼ近代の「平等主義」を意味する「富と扱いに対する不満」を援護すると云う一見して相矛盾する行動をとって来た事を意味します。
恐らくは、「平等主義」と云うよりは、”もっと「公平」とまで行かなくても「緩やかな富の分配」と「緩やかな人間の扱い」を求める”と云うものであったと観られます。”「体制破壊」までの考えは無かった”と観られます。
果たして、天智天皇や村上天皇はこの様に成るとは考えても居なかった筈です。
然し、天皇側にしてみれば3つの発祥源」の末裔であり潰す事は望んでいなかった筈です。しかし、源氏が”親の心子知らず”で独走してしまって「事の流れ」最早止める事も出来ずに11代も続いた賜姓源氏は滅亡の道を辿ります。
この源氏滅亡でも判る様に、「農兵、農民の集団」+「農兵の臨時集団」+「下級武士の集団」+「職人商人の集団」=「4つの集団化」=「時流」の数式を構築する努力をしなかったからなのです。
「3つの発祥源」の立場を護り子孫を生き延びさせるには「時流」を観て行動する以外にはそもそもなかったのです。これが「正しい青木氏に課せられた姿」であったのです。
決して、”「時流」に迎合する。利益を挙げる”と云う事では無いのです。
もしそうだとしたら、「時流」に載る事だけすれば。、最もリスクの少ない商いである筈で、「時流」に載り、、「時流」を支え、「時流」を押し上げ、「時流」を護るところまでする事は、余りにリスクが大きすぎ危険であり、且つ、経済的負担は「商いの利益の範疇」を超え母体そのものが持たない事に成っていた筈です。
700年も続ければ、幾ら「陰の力のシンジケート」を持っていたとしても、「体制側からの潰し」が働き、場合に依っては「直接の戦い」ともなり得た事もあった筈です。

(「楠木正成の戦い」(半間接)と「天正の3乱」(直接)と「伊勢大社移転反対運動」(直接)以外は記録から発見出来ない。)
然し、一揆に類するものとして古い記録の確認が出来ないが、各種の関係する添書類などの状況判断からすれば、「4つの集団化」=「時流」は「陰の力」に留めた全て「間接的な行動」であったと観られます。
”「緩やかな富の分配」と「緩やかな人間の扱い」を求める”であったから、「陰の力」に対する攻撃戦いは無かったと考えられます。
まして、一方ではその「陰の力」のシンジケートを使って同じ程度以上に”「殖産」を促進させる”と云う逆の行動もあったのですから、体制側からの直接攻撃は論理的に無い事も考えられます。
当時の体制側にとっても敗残兵の俘囚現象は好ましくなく、「4つの集団化」=「時流」は利益の上がることであり、「陰の力」は社会としての規制の事実とし承知した「救済手段」でもあったのですから、否定する事は不可能であった事に成ります。
もし、この「陰の力」を否定するとなれば、社会に3/4に相当するの「多くの難民・俘囚民」が生まれ、「国の崩壊」にまで繋がる国難と成って居た筈です。どの面から考えても有り得ない攻撃であったことに成ります。
筆者はむしろ、表彰される位の立場に置かれていたと考えています。
それを物語るものとして何度も記述してきましたが、伊勢3乱の「蒲生氏郷」からの特別厚遇や家康の次男頼宣との直接面接と300年間の親交、吉宗の「享保の改革」や「紀州藩の財政建て直し」に家臣ではない青木氏が請われて関わる事等は無かった筈です。
然し、一つ間違えば逆に成る事も有り得て「事の大儀」を無くし、かなり「難しい立場の操作」が必要であったと観られます。それだけに歴史を通して「長」の「有るべき姿と資質」を「家訓10訓」で青木氏に求めたと観られます。その「家訓10訓」の理念を守り通す力と成ったのが「祖先神」であり「神明社」であったのです。「陰の力」でありながらも「4つの集団化」=「時流」はこの「祖先神」・「神明社」の理念に護られていたのです。いわずもがな「賜姓源氏」と違うところであります。
”三相に依って時代時流の良悪は異なる”ので、[良悪]ではなく「利益」を追い求めた賜姓源氏と「人間の理念」を追い求めた「青木氏との差」によります。

(参考 後に武田氏が滅んだ時、現地の戦後処理の指揮官の家康は、この「山岳武士団」を武蔵国鉢形と八王子に移住させて解決します。この中に武田氏系皇族青木氏の支流一族が含まれます。
逆に、この事で武蔵領国の秀郷流青木氏とこの武田氏系皇族青木氏との「融合青木氏」がこの地域で発祥しています。 甲斐−武蔵の国境と下野−常陸−磐城の国境に発祥)

しかし、この様な厳しい状況の中でも、この様に着実に「融合」は進んで行きますが、実はこの百姓(商人・職人・下級武士等)の「組織化」が明治期まで「姓氏化」には進まなかったのです。(「部民」は集団化・組織化・姓氏化であった。)

この各地で開放された「部民集団」の「集団化」→「姓氏化」を起こるのを観て、「百姓集団」は「氏家制度」の中では「反体制の組織」となる為に「姓氏化」は起こらず衰退します。
これはその「集団化」が起こるには「経済的背景」が低かった事が原因しています。
体制側にとっては「経済的潤い」を常時獲得する事は好ましいことではない事から「政治的」に故意に低くさせられていた事の方が正しいと考えられます。
「部民集団」の「集団化」→「姓氏化」には「殖産物造り」と云う「経済活動」が背景にあり、その「経済活動の底流」に存在する事が、これが豪商等との繋がりを強く生み動乱を通じて「姓氏化」の融合が起こったのです。
しかし、この事から学習した「百姓の集団化」は室町期から明治期に掛けて豪商等の「経済的援護」と「シンジケート勢力」の2つを得て再び盛り返します。

ここで「百姓の集団化」と異なるのは、一方の「品部」の「姓族」が「姓氏化(集団化)」したのは、上記した「荘園の問題」が主因で有ります。898−923年の「身分の開放策」に依って「部組織」から「改めて職能集団」としての「組織化」を成し、繋がりのある豪商等の「経済的援護」に基づき、それが更に複合的に「姓氏化」→「融合氏化」へと繋がったのです。
この点が異なっているのです。つまり「部民の集団化」には「融合のサイクル」を興したのです。

つまり、この「2つの集団の融合化」の違いは次ぎの有無が異なりました。
第1は集団化の経緯の中での「身分の開放」の有無が大きく左右したのです。
第2は援護関係に「豪商とシンジケート」の有無が左右したのです。
これが江戸期までの「農と工商」の「自由性の違い」に繋がったのです。

そこで部民に付いて、家紋等から確認できる範囲として、この事(「組織化・集団化」)に依って興った青木氏は大別すると次ぎの様に成ります。
A 「宮大工の青木氏」(氏)
B 「仏具・彫物、襖絵・天井絵・仏画・絵画の青木氏」(氏・姓氏)
C 「紙殖産の青木氏」(姓氏)
以上の青木氏にかかわる職能集団の「絆融合」による「氏・姓氏」が現在も確認されて居ます。

これは「皇族賜姓青木氏」と「藤原秀郷流青木氏」の2氏が独自の「氏神」と「氏寺」を有する事を許され、「浄土密教宗」であった事から、「独自の氏」から「宮司、住職」を出して運営していたことに始まります。
その配下の職人を職能の跡継ぎとして指名し「青木氏」の「氏名」を与えたのです。(姓氏ではない。)
多くは「氏名」を与えるだけではなくて、正式に[別家養子縁組]をして一族の氏の中に取り入れたのです。
その為、「神社仏閣」の建設や彫り物、仏像等の内部の装飾品の類一切までを伝統的に保全する必要性が求められました。そこで自らの神社・寺社の青木氏に関わる集団が結束して(5家5流賜姓族、藤原秀郷流青木氏24地方)これ等の「職能者」を養成する為に「経済的援助」をし、その職能を継承する首魁には伝統ある「青木氏」を名乗らせ「4つの青木氏」の「氏の集団」に組み込んだのです。
(別家の養子縁組が基本であった模様 中には青木氏縁者娘と血縁させる事もあった。)。

上記した「品部の職能集団」による「姓氏」とは別に、青木氏には祖先神の「氏の神社」、密教の「氏の寺社」関係から、保全・管理・運営の為に独自の職能集団を抱えていた。この為にこれらは「物造りの神」でもある「祖先神」であるが為に「姓」ではなく氏上の「氏」を名乗ったのです。

「品部」の職能集団→「姓氏」→「融合氏」
「青木氏」の職能集団→(別家養子縁組・氏)→「融合氏」

つまり、上記した長い1000年以上に及ぶ他氏には決して観られない「祖先神の独自の考え方」に依って築かれた「歴史的な絆」があるからこそ生まれた「無血縁の絆結合」の青木氏の一つなのです。
この様に「祖先神の神明社の存在」が「4つの青木氏」の根幹に成っていて、「絆」を作り上げる強い「接着剤的働き」を果たし、「より良い融合」が興り生き残りを果たせたのです。
その「より良い融合の発展」は何と「4つの青木氏」同士の「融合青木氏」をも生み出すところまで発展したのです。
高位の身分家柄を持ちながらもこれを守る中で、これに拘ることなく更なる「融合」を果たしたのです。
これは全て「4つの青木氏」のみが持つ「祖先神の考え方」に由来するのです。
その「祖先神」の教義が「殖産・物造り」に基づいている事のそのものが、「4つの青木氏」の中で接着剤・潤滑済として働き、更なる発展を遂げたのです。
結局はその「4つの青木氏」の「集約する拠り所」は「祖先神」を祭祀する「神明社」にあったのです。
そして、更にはその「神明社」が「皇祖神」の「伊勢神宮」に直接に繋がっている事が「衰退することの無い推進力」を生み出していたのです。

「神明社」+「皇祖神」=「推進力」

(部の氏の類に付いては研究室に詳細レポート)
この外に、「2足の草鞋策」として「物造り」を「殖産」して、それを販売し商いとする為に、上記の同じ根拠で職人を養成してその者には「青木氏」を与えたとする記録も残っていて、特に先ず「古代和紙」から発祥した青木氏が確認できます。これも「無血縁の絆結合」の一つです。
これ等の「職能に関わる青木氏」は室町初期と江戸初期に多くが発祥しています。
何れの時代も「紙文化」が発展した時期であります。

「紙文化」+「殖産物造り」=「無血縁の絆結合・職能青木氏」

記録では、「神明社、氏神、氏寺」の「建設と保全」の為に必要とするこれらの青木氏の配下にある職能集団が、伊勢や信濃から陸奥や越後にまで「青木氏の神職・住職」と共に出かけて定住もしています。
(皇族系のこの様な「特定の民」を「民部」と云う)
各地の「天領地」にある「神明社」を含む神社仏閣の「建設・保全の職能集団」が「青木氏の配下」にあったのです。
この「職能集団の青木氏」の優秀な若い中心と成る配下等も、その集団の首魁から宗家の許可を得て「別家養子縁組」をさせて「青木氏」の襲名を許し名乗らせた事が記録されています。(孫襲名にまで)
氏上宗家筋の娘との縁組血縁と成ったその頂点にいる職能の頭領「大首魁の青木氏」が更に信頼できる配下にも「別家養子縁組」を行い、一つの職能によるピラミッド型の「青木氏の集団化」が興ったのです。
「添書や忘備禄」などから具に調べ辿ると、氏上宗家筋の遠縁の縁者からも娘を探し出して一度宗家筋に養子とし入れた後に、首魁・頭領に嫁がせて血縁関係を築き青木氏を襲名させる努力をしています。

(これ等の子孫の方からのお便りも「ルーツ掲示板」には多く寄せられています。 筆者の家にも職能による3氏の「別家養子縁組」の青木氏を承知し、宗家筋よりむしろ多く子孫を遺している 現在、筆者の家を本家と発言している。)

添書から辿ると「孫襲名」までの確認は何とか出来るのですが、恐らくは、曾孫・夜叉孫までも職能による「青木氏襲名」は興っていたと考えられます。

ここが他氏と大いに異なるところであります。
これは青木氏の排他的な「氏神・氏寺」と「祖先神」の考えに基づく「神明社」にあり、「氏神の管理保全」や「紙の殖産」の「職能集団」を保持していた事が長い歴史の間には極めて「強い絆」で結ばれた「4つの青木氏」が構築された得たのです。血縁以上のものがあったのではないかと考えられます。

何度か記述しましたが、因みに例として、青木氏の「表の規模(勢力)」に付いて、次ぎの通りです。
他の青木氏に付いては個人情報の領域に入りますので、筆者の伊勢松阪の紙問屋で見て観ます。
伊勢青木氏の「表の規模(勢力)」
250名の店子と、玉城町の8割を占める蔵群、2つの寺と1つの神社所有、3隻の大船、松阪、堺、攝津に5つの大店、5つの城館、装飾職人、専属の宮大工、紙職人等を有し、運送職人、保養地、これ等の職人・店子の住居群が玉城町にあって、これ等に全て各種の店子・職人が付いていたことが明治35年までの記録と口伝と祖父からの伝聞とで存在していた事が確認出来ます。また、松阪、名張、四日市、員弁、桑名の線上には一族一門が地主として青木村の居を構えていた事が判っています。
恐らくは商いに伴なう支店や大地主で土地管理などの施設があったものと考えられます。

伊勢賜姓青木氏の勢力の経緯
当初は平安期初期に56万石程度、寺社領で51万石 中期には北部伊賀割譲で41万石、名張西部域割譲で39万石 末期には志摩領割譲で37万石 伊勢東部長島地方割譲で19万石、室町期には伊勢南部地方割譲で8万石、他秀郷一門伊藤氏等の所領の割譲で5万石、と変化して行きます。合わせて51万石割譲と成っているので、江戸期初期には最終5から6万石弱が伊勢賜姓青木氏の石高・支配地と成り、大地主として活躍、明治7−9年の地租改正で2割程度に縮小、明治35年には「松阪の大火」の出火元として上記の資産権利等全財産の売却で賠償し解散、大店倒産 新宮の許容地のみと成った。
伊勢秀郷流青木氏は蒲生氏郷の跡目にて15万石の内12万石が氏郷支配下に成っている事から実質3万石程度有していた模様です。(2足の草鞋策の「経済的利益」と「シンジケートの力」は除く)
(徳川氏は伊勢賜姓青木氏が遣って行けるぎりぎりの石高を選んで決めたと観られる。)

「調査要素の項目」
(地主、豪商、郷氏、豪農、庄屋、名主の存在 系譜の添書、菩提寺の有無、神明社の数、鎮守神の数、城館、城郭寺、地名、家紋種、資料記録から調査 各地域性でその調査の項目が異なる 所有する資料は以上の項目毎で下記数式の条件を加味してそれを1として石高を割り出した 非公表の添書にも家臣としての石高は記述照合して判定 )

明治以降の履歴は兎も角として、この一つの例からも伊勢を含む5家5流の賜姓族青木氏と24地域の特別賜姓族の「2つの血縁青木氏」に就いても「添書や資料」を解析すると読み解く事が出来ても、、5家5流は天領地でありますので天皇家の室町期から江戸期に掛けての困窮状況から観て、少なくとも同じ割譲状況が大小起こっていた筈です。

信濃と甲斐は豪族足利氏と豪族武田氏が存在していましたので、添書や資料・記録では青木氏の勢力を読み取れませんが、1−2万石程度の融資産で有った模様です。

美濃と近江は源氏側に合力して「平族との戦い」で滅亡に近い勢力低下が起こりましたので、正味0.1から0.5万石程度のものであったと観られます。
特に美濃は激しい「源平の戦い」の場と成った事で(土岐氏の滅亡等が興った事で)賜姓族の石高は無いに等しいか低かった模様で、「大地主の青木氏」を確認する事は難しいのです。
この後、この地で勢力を高めた秀郷流青木氏が美濃の地盤を固めました。
美濃と駿河西域には主要5氏の系列の「5つの秀郷流青木氏」が住み分けています。
(然し、「2足の草鞋策」を採用していない青木氏も居て判定は難しい。採用していれば5氏の総合を1と見なす事が出来るが2氏が確実 豪商の家紋から判定可)
これ等の石高が(0.1)−0.5万石(1氏分)と観られます。当然、この程度の構成で存在していたのです。
5家5流近隣の秀郷流青木氏と24地域の秀郷流青木氏(116氏にも及んでいることから不明)も細分化していて判断が難しいが、判る範囲の歴史の史実として残っている秀郷一門の「豪族の石高」から観て伊勢秀郷流青木氏のは平均(0.5)−1万石程度の融資産であったと考えられます。

(当時の石高は米だけでは無く海産物などの産物も石高に換算して合わせて土地の石高を表現していた)

上記した様に、つまり、「2つの血縁青木氏」と「2つの絆結合青木氏」とには「首魁青木氏」を通じて結ばれていて「4つの青木氏」が「1つの青木氏」と成り得ていたのです。
これが生残れた団結力の「強い基盤」に成っていたのです。

余談ですが、研究の当初、忘備禄に簡潔に書かれていて何気なく読み過ごしていた事なのですが、調査しているある時、「4つの青木氏」の「系譜添書」に「通名」でない「異質の名」が出てきて疑問が湧き、ハッと気が付いて忘備禄の意味が判り調べて行く内に繋がり始めて、「職能による孫襲名」まで判明する事に成り、その仕組みを読み解く事が出来たのです。(伝聞では承知 強い意識化は無かった)
そして、これが特別賜姓族青木氏(秀郷流青木氏)にもあり、その「2つの血縁青木氏」を繋ぐ「融合青木氏」が存在する事までが判ったのです。丁度紐を解くように。
この傾向は「賜姓族の血縁関係」と「職能集団」と「和紙の殖産」と「シンジケートの存在」で通じた信濃、近江、甲斐、美濃にもこのシステムが及んでいる事が紐解けたのです。
何れにも其処には「特別賜姓族青木氏」と「融合青木氏」が「伊勢と同条件」で存在している事が判ったのです。
「神明社」+「建設・保全」=「無血縁の絆結合・職能青木氏」

青木氏の官職の一つ永代の「民部上尉・民部上佐」はこれ等の集団の統率者であったのです。
これは「伊勢神宮」の「皇祖神」、「祖先神」の「神明社」を「守護神」とする「融合氏・2つの賜姓族」であった事からこそ「永代民部府」の責任者になったのです。
(伊勢青木氏は他に永代「左兵衛門上佐・上尉」と永代「民部上佐・民部上尉」の官職名を持ってい
ます。其の為に「世襲名」として宗家は「長兵衛」を継承しています。
分家は「右兵衛門」・「次左兵衛門」、支流は「作左衛門」を世襲している。
信濃青木氏には「右兵衛門上佐・上尉」が観られる。同様に特別賜姓族秀郷流青木氏も「左・右兵衛門上佐・上尉」の官職を担っている)

( 注:江戸時代に朝廷の経済的裏づけとして家柄、身分、出自に無関係に一代限りのこれ等の官職名を金品と引き換えに朝廷から名目上の上で名乗る事を許された経緯がある事に注意。後に誰で無許可で使う様に成った。)

遺されている資料・記録の上では初期には次ぎの様な「姓氏」と成った族が確認できます。
阿多倍一族一門の品部の「姓族」
「九州地方」では「鍛冶族」「佐伯族」(和歌山に一部移る)
「中国関西地方」では「海部族」「陶族」「武部族」
「関東中部地方」では「服部族」「磯部族」
「関西地方」では「秦族」、「司馬族」、「土師族{設楽氏}」、「鍛冶族」、「綾部族」

以上等が早く平安期末期頃に遺された資料で「姓氏」として勢力を持った事が判ります。実際は記録で確認できない為に判断が付きませんが「小さい姓族」としては存在していたと観られます。

鉄鋼関係、海産物関係、衣料関係、食器関係の「姓族」が記録として残っているところを観ると、矢張り市場性から必需品の関係族に下記した数式条件を持つ大きな勢力が付き「集団化・融合化」が起こっていた事に成ります。
当然に、これ等には青木氏の様に「商い」を「2足の草鞋」としている「融合氏集団」が、「殖産」・「物造り」から来る「産物の安定供給」を目論む背景もあって、それらの後押しで「姓氏化」したものと考えられます。
「品部」が物を生産するだけでは経済力が着きません。販売してそれも大きく商い出来なければ成り立ちません。それには「商いの強力な背景」を持つ必要があり、これを搬送するにもある程度の「武力を持つ強力な背景」の「2つの背景」が絶対条件として「姓化」には必要となります。

「商いの強力な背景」+「武力を持つ強力な背景」=「姓氏化」

「氏族」と異なり単独で「姓氏」を構成する事は「経済的、武力的」に困難です。
恐らく「シンジケート」との繋がりが必要で、これ等を獲得した職能集団が「姓氏化」が出来たものと成ったのです。
「シンジケート」つまり、「氏族」の「2足の草鞋策」と繋がりに成るのです。

「2足の草鞋策と繋がり」+「シンジケートとの繋がり」=「姓氏化」

「姓族」+「氏族」(「2足の草鞋策」)=「姓氏」

ですから、この数式から「姓氏」が発祥している地域が特定できるのです。
「2足の草鞋策」を採った「氏族」を特定すればそこには必ず「姓氏」が存在するのです。
そうなると、平安期からの「氏族」で「2足の草鞋策」で室町期を乗り越えて生き残れた「氏族」と成れば限定されてきます。80-200の氏族の中からこの氏族を特定するのは簡単です。
「2足の草鞋策」には広域の「シンジケート」と「運送運搬」と「適度の武力」を持っているのですから、阿多倍一族一門の「2足の草鞋策」を採った「氏」の発祥している地域には、その配下の「姓氏」が発祥している事に成っているのです。その「姓氏」はその「職能種」に依って「地域性」が強く出ている事に成ります。
「姓氏から地域」、「地域から姓氏」、「姓氏から職能」、「職能から地域」、「地域から歴史」等の判別が可能に成ります。当然に「氏族」との関係もありますが、その「氏族」もほぼ同じ関係性を保持しているのです。
例えば、鍛冶部の様に鉄と水と港の所、綾部の様に染料と水の地域、土師部や陶部であれば良い粘土、と云う風にルーツ探求の判別には雑学として大変重要な要素と成ります。
180と言われる部でそのルーツや歴史や由来など判別が出来ます。
他に瀬戸内から起こった最も早く「姓氏」に成ったとされる「海部氏」が記録上で最初とされるのも「海産物の生活品」のものであったからと考えられます。

「青木氏と関係した部」
この様に「青木氏」で有れば「2つの血縁青木氏」の存在する近隣地域には必ずその特長を持った「姓氏」が発祥しているのです。
工部(くべ) 土木職人・建築職人  ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏  
紙梳部(かみすきべ) 紙職人  ・近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の青木氏
楮作部(こうぞべ) 楮職人・素材職人  ・近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の青木氏
土師部(しがらきべ) 素焼職人・土器職人  ・近江、伊勢の青木氏 秀郷流青木氏 
金作部(かねさくべ) 金工職人・金細工職人  ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
石作部(いしつくりべ) 石細工職人・造園職人  ・伊勢、信濃の青木氏
玉造部(たまつくりべ) 仏壇仏具職人・装飾職人  ・伊勢、信濃の青木氏
服部(はっとりべ) 職機・機械製作職人・機織機職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
錦織部(にしきごりべ) 錦織職人・錦職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏
倭文部(しどりべ) 文書職人・書物職人・印刷職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
史部(ふみべ) 文書職人・記録保管職人・事務職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
来米部(くめべ・くるめべ) 鉱山開発職人・情報伝達職人  ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
綾部(あやべ) 綾編職人・布織職人  ・近江、伊勢の青木氏
馬部・馬飼部(うまべ・まべ) 飼育馬職人・輸送職人  ・伊勢、信濃、甲斐の青木氏 秀郷流青木氏
麻績部(おみべ) 麻布紡績職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
衣縫部(いぬいべ) 衣服縫製職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏
赤染部(あかそめべ) 染色職人  ・近江、伊勢、甲斐の青木氏
茜部(あかねべ) 茜染職人・染色職人  ・近江、伊勢の青木氏
鞍造部(くらつくりべ) 馬鞍造職人・仏像職人・木工細工職人  ・近江、伊勢の青木氏 秀郷流青木氏
弓削部(ゆげべ) 弓製作職人・竹細工職人  ・近江、伊勢、信濃、甲斐の青木氏 秀郷流青木氏
矢作部(やはぎべ) 矢製作職人・竹細工職人  ・近江、伊勢、信濃、甲斐の青木氏 秀郷流青木氏
山部(やまべ) 山林職人・木材職人・山警備職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
鵜飼部(うかいべ) 鵜飼職人  ・近江、信濃の青木氏
舎人部(とねりべ) 付人・秘書・警護人・番頭職・代理人・御用人 ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
佐伯部(さえきべ) 警備職人・警備兵・情報職人  ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏 
硯部(すずりべ) 硯石製作職人・砥石製作職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏
墨部(すみべ) 墨職人・砥職人・(方氏)  ・近江、伊勢、信濃の青木氏
作部(さくべ) 墨作職人・砥石職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏


以上が平安期から室町期までの遺された資料から発見できる青木氏の定住地で関わった職人集団で全てではありませんが確認出来る「部民」と成ります。
・印の職能集団が確認出来る地域です。
但し、近江、美濃は平安末期に衰退し滅亡していて記録は無く成っているが、佐々木氏の資料などから奈良期から平安期初期の各種資料から存在を判断したものと、室町期以降の伊勢青木氏との関係資料から判断したものです。甲斐の資料は少なく又搾取偏纂が多いので推測域を出ません。
秀郷流青木氏は各地の青木氏の系譜の添書からと、伊勢青木氏と信濃青木氏の親交からの繋がりからと、源氏の関係資料や佐々木氏の関係資料から割り出したものです。
藤原氏は荘園制度に大きく関わっていた事からこれ以外にも職能集団との関わりは最も大きく持っていたと考えられます。その中の青木氏に関するものを抜粋したものです。
伊勢青木氏と信濃青木氏と伊勢秀郷流青木氏とは共に深い連携をして生き残りましたので、同じ職能集団を持ち、且つ、中には共通する職能集団としていた事が覗えます。

「部」の本来の職が時代毎に少しづつ関係する職種に変化しているので上記した内容から広範囲な関係職種に成っているのです。
これ等は「5家5流の商関地域」と「秀郷流一門の24地域」に関わる地域と成ります。
これを観ると、青木氏の「2足の草鞋策」の「商い範囲」と「商い規模」と「商い組織」と「氏と姓」が観えて来ます。上記で論じた「4つの青木氏」の「絆の成り立ち」もなるほどと観えて来ます。
又、「3つの発祥源」としての役務を務めた奈良期からの舎人部、佐伯部、倭文部、史部もあり青木氏の旧来からの絆が観えます。
「神明社と菩提寺」を物語る職能集団が青木氏の部の多くを占めています。
これで観ると、奈良期からの「部」が「絆」と成って「青木氏の別家養子の徒弟制度」に繋がっている事等なるほどと理解できます。
未勘氏の青木氏の家臣団、姓化した青木氏の家臣団、室町期末期、江戸期初期、明治初期に発祥した「姓名」が良く判ります。
この内容を観ると、奈良期から江戸期までの「青木氏の総合的な立場」を物語る職人集団である事が良く判ります。又、奈良期と平安末期頃までの青木氏の置かれていた立場や勢力がよく観えて来ます。

(青木氏ルーツ雑学に大きく影響する基礎資料に成るので都度調査続行している。 「部」や「阿多倍一族一門」に関する資料と研究資料が殆どないので苦労している。最近では墨部の氏、硯部の氏、作部の氏と方氏のその所在と歴史上の史実が判明した。)

工部(くべ) 土木職人・建築職人
この職能集団の「工部」の存在は、青木氏にとって大変重要な歴史上の史実の判断要素に成るのです。特に、「神明社との関係」が密接に繋がっているので、その各地の5000にも及ぶ寺社の建設と維持管理にはこの職能集団が青木氏の神官や住職と供に移動しますのでその広がり状況を判断する事が出来るのです。
奈良期から平安初期に「古代密教と祖先神の神明社」を崇拝し、その後、平安中期の密教浄土宗と神明社を、青木氏に関わる地域に青木氏の自らの力で建て育てていた事を物語ります。、
その「神明社や菩提寺」の「建立と維持管理」に専門的に携わっていた事を意味しこれを物語る記録が多く遺されています。
この「部」は伊勢青木氏に記録されているので、全国各地の全ての青木氏には持ち得ていなかったと観られ、記録は信濃以外には見つけ出す事がまだ出来ないのです。
武蔵の秀郷一門宗家にもこの職能集団を持っていたと観られる記録があります。
伊勢青木氏と武蔵秀郷一門の宗家がこの集団を抱えていて要請に応じて派遣していたと考えられます。特に、武蔵では平安期末期から永嶋氏一門がこの集団を統括していて朝廷の官職も務めていました。
永嶋氏は兼光系3氏一族青木氏と長沼氏と永嶋氏ですが、その最初の氏を発祥させた「第2の宗家」と言われ千国を始祖とする特別賜姓族青木氏から、平安末期に朝廷の官職を譲って永嶋一門に委ねたと考えられます。それまでは添書から観ると「大工頭」」(木工寮・木工頭 こだくみのかみ・むくみのかみ)は青木氏に書かれていて、ある時期からこの官職を成長した永嶋氏に成っていますので譲ったと考えられます。永嶋氏は元は「結城氏」を名乗り「酒井氏」を名乗り、次に「永嶋氏」と名乗っています。
(青木氏発祥から結城氏は朝光7代目、長沼氏は考綱5代目 永嶋氏は行長12代目)
「結城」の字の通り、最初はこの役職を一族の青木氏から譲り受けてそれを「氏名」にした事が判ります。秀郷一族一門の組織が余りに大きくなり、且つ、「特別賜姓族青木氏」は、賜姓族と同じ「官職と身分家柄」と「3つの発祥源」の役目を与えられ、且つ、賜姓族青木氏を護る為にもそれを全うする目的から、戦略上担当域の整理を行ったと考えられます。時期がほぼ一致しています。
その後、鎌倉期の後もこの職域を護り、他氏との建設も請け負っていて九州の大蔵氏の末裔永嶋氏も土木建設業を営んでいた記録が残っています。
問題の未解決な点は、伊勢青木氏外に信濃の青木氏から東北北陸各地に神官、住職、工部を移動させている記録があります。この末裔が工部に関しては徒弟養子制度で青木氏を名乗って新潟、陸奥(青森、岩手)に定住している事が判っています。(この3つの末裔の方からもお便りがあります)
つまり、伊勢青木氏とはこの「工部」に就いてどの様な仕分けであったのかが明確ではないのです。
その記録の内容から読み取ると次ぎの様に成るのではと観られます。
”総元締めは伊勢青木氏、神社は伊勢大社分霊と神明社関係は伊勢青木氏、寺社の密教菩提寺浄土衆は信濃青木氏が主に担当し建築維持管理するシステムを採っていた。神官と住職の派遣は総元締めから移動辞令を各地の神社・寺社に命じていた。工部の管理は2つに分けていた”と読み取れます。
これ等の細部の事務管理は下記の舎人部と佐伯部が専門に行っていた事に成ります。
当時、記録保管管理は氏の神社、寺社が行っていた事から比較的に下記にあるような事が青木氏の場合はよく把握されているのです。

紙梳部(かみすきべ) 紙職人 
楮作部(こうぞべ) 楮職人・素材職人
紙関連職人の存在は、奈良期から楮や三叉の植物を育てて殖産し、それを加工して紙を梳き、紙製品としての一環した殖産事業を成し遂げ、平安期にはそれを販売し、商いとしていた事が証明出来ます。この事は5家5流の皇族賜姓青木氏が5古代和紙の生産地として殖産していた事を意味し、平安末期には「2足の草鞋策」を採用していた事をも意味します。
この職能地域は甲賀−伊賀−松阪であった事が記録から判断できます。
同時に伊勢の伊賀地方は奈良期末期に阿多倍に割譲しますが、その後も続けて殖産され続けていた事に成りますので、阿多倍一族「たいら族」との深い交流も有った事を意味します。
「紙屋青木長兵衛」としていますので、先ずは紙が主要製品・商品であった事と成ります。
5家5流の青木氏を繋ぐ和紙であった事に成ります。伊賀・伊勢和紙から信濃、近江、美濃、甲斐とこの職能集団を移動させて殖産を拡げて行き戦略的に青木氏の基盤を確立させて行った事に成ります。

土師部(しがらきべ) 素焼職人・土器職人
この職能集団は近江青木氏と美濃青木氏の資料から観られる事ですが、奈良期から器類の職能集団を抱えていた事は「2足の草鞋策」の商品に成っていたことを意味します。平安末期からはこの2つの青木氏の衰退滅亡で地元に根付いた産業(信楽焼きとして)として育って行ったと観られます。
ただ、神明社や菩提寺の仏具類には欠かせないものとして伊勢−信濃青木氏はこの集団を室町期まで抱えていたか援助していた事を物語ります。信濃にも焼き物や陶器類が現在も生産されていますが信濃青木氏が関わっていたかは不明です。それの元は奈良期から近江青木氏の土師部であったのです。「信楽」は元は「土師」なのですが、この土師部が源平の戦いで近江と美濃の青木氏が衰退滅亡した事等により土師部は主を失い「地元産業」として生き延びてきたと考えられます。

金作部(かねさくべ) 金工職人・金細工職人・金具職人
この職能集団は、「皇祖神の伊勢大社」と「神明社や菩提寺」の「神器・仏具類」には欠かせないものとしてその職能集団を抱えていた事に成ります。平安末期からは「2足の草鞋策」としての商品としても扱っていた事を物語ります。伊勢青木氏の資料と、越後(陸奥)の青木氏に遺された仏教資料から覗えます。

石作部(いしつくりべ) 石細工職人・造園職人
玉造部(たまつくりべ) 仏壇仏具職人・装飾職人
この職能集団は、「金作部」と同じ事で、伊勢青木氏と信濃青木氏と美濃秀郷流青木氏に観られる事です。55地域にも及ぶ各地の青木氏の定住地の神明社菩提寺の建立と維持管理に携わっていた事に成ります。

服部(はっとりべ) 職機・機械製作職人・機織機職人・(情報収集職人)
この職能集団は、神明社・菩提寺の建立と維持管理とその「神器・仏具類」の製作に必要とする事でかなり大量に生産していた事を物語ります。間違いなく、「2足の草鞋策」の商いの主用品としていた事を意味します。近江青木氏と伊勢伊賀地方と美濃秀郷青木氏の私有古文書や神社の古文書に観られる記述です。伊勢伊賀はルーツの服部氏の発祥地ですが、伊賀氏と伊勢青木氏との関係資料から観察できます。
下記の織物職人等の織機関係を担当していたのです。織機そのものを商品として扱っていたのです。
青木氏の部の職能集団の中で来米部の影響受けて情報収集職人(忍者)もかねていた事を意味します。
服部に関わらず部の相互間でも有機的に働いてい事を物語ます。
服部が何故情報収集の役目を担っていたかは不明ですが、織機器の販売輸送から各地を移動すると云う事から来米部の手助けをしたと考えられます。各地に平均的に服部の「姓氏」が多いのはこの事を物語ると考えます。(信濃が目立ちます)

錦織部(にしきごりべ) 錦織職人・錦職人
この職能集団は、近江に多い所で近江青木氏が抱えていた職能集団であったと見られ、この職能は「神器・仏具類」の製作・装飾に用いられるもので、伊勢青木氏が神明社・菩提寺の建立と維持管理の為には必要として平安期末期頃に移動させた物ではないかと考えられます。近江青木氏の平安末期の衰退滅亡に関わっていると考えられます。服部部に織機を作らせて「2足の草鞋策」の商いの一つに成っていたと考えられます。

倭文部(しどりべ) 文書職人・書物職人・印刷職人
史部(ふみべ) 文書職人・記録保管職人・事務職人
この職能集団は、奈良期から江戸期末期までの「神明社・菩提寺の建立と維持管理」の事務職・記録保存・家系図・祭祀等の職務に付いていたと観られます。製本や印刷技術や果てはお守り札類・暦までの一切を担当していたと考えます。全国の青木氏への「神明社・菩提寺」に関わる膨大な量の事務・雑務を担当していたと観られます。伊勢青木氏の資料に観られますが、「2足の草鞋策」の商いに関係していたかは不明です。無関係であったと観ます。

来米部(くめべ・くるめべ) 鉱山開発職人・情報伝達職人
この職能集団は、実は重要な内容なのです。本職は鉱山開発の山師ですが、全国を歩き回り鉱山を発見し開発する職人なのです。しかし、別の面で各地の「戦略上の情報」や「商いの情報」なども集めて逸早く対応する体制を採っていて青木氏の生き残りに重要な役割を果たしていたと見られます。
平安期初期より既にこの「2つの面」を持っていたと記録されています。
鉱山開発では、秀郷流青木氏の越後青木氏の職能集団として関わっていた事が記録されています。
伊勢青木氏や信濃青木氏にもそれらしき鉱山開発の表現が見られますので、鉱山開発はしていたとしても、むしろ、伊勢青木氏と信濃青木氏が鉱山に大きく関わる明確な資料が見つから無い事から、古くから主に「情報伝達収集」の職能として活躍していたと観られます。
この事等から秀郷流青木氏と伊勢・信濃青木氏との間で「情報伝達収集」のやり取りをしていたのではないかと考えられますが、それを物語る何らかの確実な記録が現在発見出来ていません。
「3つの発祥源」と「2足の草鞋策」の両面を支えていた「情報伝達収集」の職能集団で、職務上の役目履行の為に「忍者」の様な能力も持ち合わせていたものと考えます。これは鉱山開発に必要とする能力であったと考えられます。この「忍者的技能」は青木氏の「来米部」が始祖と考えられます。
伊勢青木氏の「来米部」は、日本書紀の中にも全青木氏の始祖施基皇子が天智天武から命じられて全国各地を争い事の調停や平定や国情調査で飛び回っていた時に、警護役や先行掃討役で動いていた事が書かれています。
平安初期と中期の古い資料からもそれなりの表現で警護役で動いていた記述が観られますが、伊勢の伊賀地方と隣接する滋賀の甲賀地方は、後にこの「忍者」でも有名なったのはこの青木氏の職能集団の「来米部」のところから来ていると観られます。これは鉱山開発で培った各地の地理を含む知識や技能や各地の豪族やシンジケートとの繋がりから、その上記する役目に合わせて任じたと考えられます。
その証拠に施基皇子は、持統天皇に命じられて「律令制度の基本」と成るものを作る為に、上記の経験から彼等からの話も聴集して全国各地の細かい国情から見た「人の行い」を纏めた「善事撰集」の編集をしています。これが日本最初の律令の「大宝律令」の基礎に成ったと云われています。
この時に陰で活躍したのが鉱山開発の「来米部」であった事が文面から観て判っています。
全国を駆け巡った「伊賀忍者の服部半蔵」は服部の織物器機製作職人の古来からの青木氏の「部」でありますが、同じ伊勢青木氏の職能集団の「来米部」の影響か血縁を受けてか「情報伝達収集」をも兼ねていた事と観られます。
そもそも忍者には3つの階層があり、上忍は「郷氏」と中忍は「郷士」であるので「来米部」より姓化した「姓氏」です。上忍の郷氏は青木氏の徒弟制度の別家養子制度の「来米部」の首魁の氏、中忍の郷士は農兵の地侍であるので姓化して姓氏を名乗った配下の中の来米部、下忍は農兵組の来米部と成ります。
忍者の階層から観ても伊勢青木氏−信濃青木氏の「来米部」は「情報伝達収集」の役目を荷っていたのです。この事は伊勢−信濃「シンジケート」との結びつきでも証明できます。
平安期末期から「2足の草鞋策」の一つとして「シンジケート」が考えられるのですが、筆者はこの「来米部」から考えると、既に奈良期から、近江青木氏、伊勢青木氏、美濃青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏の5家5流の間では各氏が抱える「来米部」の役目としてシンジケートに近い状態のものが存在していたと考えているのです。それが平安末期から「2足の草鞋策」となった事から「来米部」の役割は大きくなり「情報伝達収集」の役目に重点を置く様になって行ったと観ています。
奈良期末に滋賀の甲賀に接する伊勢北部は、阿多倍の伊賀割譲と室町期に室町幕府執事の所領となった経緯がありますが、その後も青木氏の「来米部」として続けられていました。
そして、室町末期からは「シンジケート」が戦乱で拡大し、その役目も激しさを増し、更に急激な「情報伝達収集」の役目が増して、所謂「忍者」成るものとして一部が活躍するように成ったのです。この時に服部が借り出されて忍者と成ったと観ています。甲賀、伊賀が後にこの影響で「忍者村」となったと考えられます。
伊勢青木氏の勢力圏域は室町期には名張−松阪−玉城−四日市−員弁−桑名のライン上(伊勢の中央より北部域)にあり、この「来米部」の末裔居住地は名張付近ではなかったかと観ています。
玉城の8割は蔵群と家臣や雇い人や職能集団の居住地と仕事場であった事は記録から判っています。
即ち、「来米部」の役割は青木氏にとって無くてはならない「抑止力」であり「商いの手段」の「シンジケート」の維持運営管理を担ったのです。

綾部(あやべ) 綾編職人・布織職人
この職能集団は、綾編職人・布織職人である事は事実でありますが、実はこの綾部(あやべ)の存在は歴史上である事を意味しているのです。それは「シンジケート」なのです。シンジケートの者はこの綾織の手作業をして綾紐などを「家内工業的」にしていたのです。勿論、伊勢−信濃青木氏の商いの一環として戦略上繋ぎの仕事なのです。シンジケートの一員で信濃甲斐の国境の真田郷より配流になった九度山の真田氏の「真田の綾織」でも有名ですが、「綾織」はその伊勢シンジケートの一員の証しなのです。
倭文部や史部や来米部等と連携しながら情報収集のシステムを構築していたのです。
忍者の来米部と供にこのシンジケート間を駆け巡っていたのです。

馬部・馬飼部(うまべ・まべ) 輸送職人・飼育馬職人
この職能集団は、当時の陸上の輸送手段として、戦いの騎馬として、移動手段として最も重要であったのですが、その大量の馬の飼育と管理を専門にしていた職能で、「戦い」には馬の貸し出しも行い、飼育も請け負うなどの商いと、その商いの物資の輸送手段にも用いました。当然にシンジケートのイザという時の戦力にもなったのです。この部は信濃青木氏、伊勢青木氏、近江青木氏に確認され、特に信濃青木氏の馬部は日本書紀の記述にも出て来ます。

麻績部(おみべ) 麻布紡績職人
衣縫部(いぬいべ) 衣服縫製職人
赤染部(あかそめべ) 染色職人
茜部(あかねべ) 茜染職人・染色職人
この4つの職能集団は神明社・菩提寺の建立と維持管理とその「神器・仏具類」の製作に関わっていたのですが、青木氏に大きく関わる事では無く、主に商いの殖産と産品の一つとしての意味合いもあったのです。もう一つはこの職能は伊勢−信濃シンジケートの殖産にも関わっていたのです。
シンジケートは経済的裏付とを受け、そして、それを商品化していたのです。
自らもこの職能集団の能力を受け生きる糧ともしていて、それを青木氏の商いの「4つの元締め」に収めると云う仕組みを持っていたのです。一種の家内工業の組織であったのです。縫い−染めるの連携組織です。表向きは「家内工業」で、裏は「シンジケートの一員」で構成されていたのです。

鞍造部(くらつくりべ) 馬鞍造職人・仏像職人・木工細工職人
弓削部(ゆげべ) 弓製作職人・竹細工職人
矢作部(やはぎべ) 矢製作職人・竹細工職人
この職能集団は、神明社・菩提寺の建立と維持管理とその「神器・仏具類」の製作に関わる根幹に成る職能で、その技量の範囲を生かして神社や仏閣の欄間や仏像等を彫る事をしていました。
弓削部や矢作部は武器を作る傍ら、鞍造部に協力して細工物を作り「神器・仏具類」の製作にも関わったのです。これ等のものは商いの商品としても扱われていた模様でその殖産は山部と供に連携していたのです。これ等も上記した麻績部等と同様にシンジケートの組織に載せて彼等の家内工業的な生産をし収め商いの商品として販売し経済的な潤いと糧としていました。

山部(やまべ) 山林職人・木材職人・山警備職人
この職能集団は、山や山林の維持管理が主体ですが、神明社・菩提寺の建立と維持管理とその「神器・仏具類」の製作に関わる素材を提供するのが目的です。上記した色々な殖産に関わる材料の育成管理も行います。青木氏は信長の伊勢攻めの際に材木の買占めなどをこの山部を使って行い丸山城の戦いを征しました。また楠木正成の南北朝の戦いにもこの山部の山を知り尽くした力を使って山の山道通過阻止や飲料水の阻止をし10万の軍に対して勝利を導き出しました。
山賊の排除などにも役立ちました。この山部を通じてシンジケートとの連絡を図る等の役目も荷っていたのです。山部そのものもシンジケートの一員でもあったのです。伊勢−信濃青木氏の天正の3乱でもこの働きがよく出てきます。

鵜飼部(うかいべ) 鵜飼職人
この職能集団は、信濃青木氏の関係資料の中に出てくる事ですが、鵜飼だけの職能ではなかったのではないかと観ています。それは「河川の輸送」に対する役と各河川の道案内役ではなかったかと観られるのです。単純に鵜飼では河川産品だけでは青木氏に執って大きな意味を持ちません。山部と同じ様な役目をも持たしていたと観ているのです。山部−鵜飼部の連携を構築していたと考えます。

舎人部(とねりべ) 付き人・秘書・警護人・番頭職・代理人・御用人
佐伯部(さえきべ) 警備職人・警備兵・情報職人
この職能集団は、上記した職人を抱えて有機的に「3つの発祥源」と「2足の草鞋策」と「氏神の祖先神 神明社」と「氏寺の菩提寺」を持つ「青木氏」を支えていたのですが、青木氏の氏上の長一人が全体を仕切る事はそもそも困難です。そこで参謀本部や司令部の様なシステムを構築し、其処から指揮する体制を敷いていたのです。それには多くの番頭が必要となりこれを専門的に行っていたのです。
指揮、作戦に関する専門的知識や情報収集分析能力を要求されますし、当然に長に対する身の危険も伴ないますのでそのガードマン的働きも併せ持つ警備本部の役割も果たしていたのです。
「2足の草鞋策」の両面に必要とする最も重要な能力です。
この本部の仕事を「舎人部」(指揮)と「佐伯部」(警備)に分けていたのです。この2つを複合的に青木氏は統括していたのです。全青木氏との連携なども此処から行っていたと考えられます。
上記した一揆などへの援護等もこの本部機構を動かしていたことに成ります。

硯部(すずりべ) 硯石製作職人・砥石製作職人
墨部(すみべ) 墨職人・砥職人・(方氏)
作部(さくべ) 墨作職人・砥石職人
この職能集団は、青木氏の商いの「和紙」に関わる職能種です。
この集団は近江と奈良と紀州と信濃に存在し、主に奈良から紀州に掛けての産品が良品とされ平安初期から生産していた事が判っています。当初は紀州の産品は累代の幕府の専売・販売品で紀州は徳川時代まで徳川氏に納めていました。この4つの地域は時代毎にその産出量が異なり、又品質も異なっていました。この3つ共にその職能の産地は紀州だけで後は墨だけでした。
伊勢青木氏紀州産品は累代の幕府から平安時代からの歴史もあり伊勢を中心に生産とその販売権を確保していたのです。奈良は松煙墨で荒く粒にばらつきがあり色合いが悪いとして、その品質から紀州に劣る事から途中で専売を解除されています。紀州産(藤白墨)は万葉集にも出てきます。
近江、奈良、信濃は専売から外れていて紙と合わせて商いの対象と成っていたのです。
紀州産の硯石や砥石は高級紫石として平安期は朝廷に納めた後に市場に出回るものとして重宝されていました。
当時墨は大和では生産できずに輸入に頼っていました。そこで朝廷は作氏・方氏を平安期にわざわざ中国から呼び寄せた専門の墨職人です。朝廷の資料にも出てきます。最初は近江、信濃、次ぎに奈良、そして最後に紀州となり輸入品より優れたものが生産できるように成りました。調査に依って、その定住地は紀州の「下津」という港の近くで「方」という地名にも成っています。姓氏として硯氏や(作氏)・方氏として現在でも末裔は村を形成しています。
実は伊勢青木氏には、平安時代の朝廷の専売品であったもので、明治の末期に天皇家よりその時代の「藤白墨」をその所縁で拝領していたのですが、然し、平成の世までこの3つの職能集団の末裔の行方が不明でした。青木氏の職能集団であるので、その責任上調査を進めていましたが、つい最近判明しました。(研究室にレポート済み)


青木氏の職能集団の疑問
以上の青木氏の職能集団に付いては記録から確認出来るのですが、凡そどの様な商い(商品や営業方法)をしていたかはこの部でも判ります。然し、幾つかの疑問点があり、先ず海の部が確認出来ないのです。(生活上の職能集団の膳部等は除いた)
つまり、「海部」・「船部」等です。「海上輸送」は伊勢青木氏では堺、摂津の港で4店舗を持ち貿易をし、輸送手段として千石船3艘を有していたことは判っていますし、越後、尾張、三河、陸奥には大きな港があります。「2足の草鞋策」を敷く以上は無くてはならない職能集団です。
ただ、瀬戸内の秀郷流青木氏には廻船問屋を営んでいるので「海部」・「船部」(海族・海人族)等が確認出来るのですが、5つの地域は港を持っていますのでなくては成らない筈です。
尾張と三河では「磯部」が確認出来ますが、歴史的な職能域が少し異なります。
考えられる事として、「海産物」の商いは別として、「海上輸送」は讃岐籐氏の秀郷流青木氏がその専門職の廻船問屋を営んでいる事から、「貿易」ともなればかなりの操船の専門域となり合わせて海利権の問題もある事からこの瀬戸内の青木氏に一切契約して任していた事が考えられます。確かに、江戸末期の浅野氏滅亡時に伊勢青木氏の3隻と瀬戸内の秀郷流青木氏とが連携して浅野氏等の骨董品などの買取をした事が記録で判っています。
連携していた事は確認は出来ますが、常設する程の連携であったかは不祥です。
そこで、不思議にこの記録が無い事に付いて、考えられる事として「2足の草鞋策」で殖産と商いをしたのが1125年頃ですから、部の職能集団は985年から1025年頃の身分制度は開放されています。しかし、法的な「身分制度の開放」であって部の職能集団を解体した訳ではありません。
部の職能集団はこれ以後集団化して行くのですが、その所属する氏での中での職業の継続は雇用人としてされているのです。この時に青木氏に所属する職能集団は雇用人として法的開放から丁度100年位立っています。これ等の集団の雇用を支えて行くにも「2足の草鞋策」でこの職能集団の生産する産品とその技能を保持し、且つ、乱れの生じてきた社会の中で逸早く「青木氏の衰退滅亡」を防ぐにも、「商い」以外には無かったのではないかと考えられます。
つまり、その時に抱えていたのが上記の集団であってその時には疑問点の海上に関する職能集団は抱えていなかったと考えられます。そもそも和紙を主体として始めた「商い」であった為に海上に関する職能集団は必要なかったと成るのです。それほどまでにこの商いが大きくなかったと考えられます。陸上輸送の範囲で事足りていたのです。
然し、鎌倉時代と室町時代には「紙文化」の花が咲き、真に「青木氏の商い」そのものの文化が開いたのです。そこで「商い」は大成功を遂げて拡大し、更に職能集団の体制をこれに合わせて「組織化」して確立させたと考えられます。その中には「氏の徒弟制度」もあって、「家臣による未勘氏」と「絆による第3氏」の「4つの青木氏」が出来上がって行ったのです。
(上記青木氏の部の職能集団では家臣に成った部、絆で結ばれた部に構成されて行ったのです。)
この時に拡大した「商い」の輸送手段に問題が生じ、海上手段として大船を保有したと考えられますので部としての職能集団が記録には出て来ないと観られます。
「神社と寺社」は青木氏の独自のものを保有していたのですから、各地55地域の青木氏の記録は遺されていた筈です。然し、見つからないのです。
当時は「神社と寺社」が「氏の記録と保管」の職能を荷っていたのですが、平安末期の「源平の戦い」から室町期の「下克上、戦国時代」によりその戦いの最前線となった「神社と寺社」の城郭としての役目の為に焼き討ちに真っ先に会うという憂き目もあり、記録の多くは消失してしまっているのです。
江戸期から明治期にあっても「一揆」の拠点として使われた為にも記録は消失と成った為に、特に海上に関する史料関係が発見出来ないのでは無いかと考えられます。
何か海上に関する「特別な慣習」があって遺し難かったのではないかと観られます。「海利権」と「独特な慣習」に有るのではと観られます。
「陸上のシンジケート」は旧来からの経緯で育て克服出来たとして、「海上のシンジケート」、つまり、各地に存在する「水軍」です。駿河、三河、大島、伊豆、伊勢、熊野、紀伊、瀬戸内、村上、陶、豊後、(青木氏が関わった水軍)等の主要な水道には水軍が存在していて「シンジケート」を構成していたのです。即ち、「海賊」までも抑えた「海族」(海人族)です。(源氏は前8つの水軍で、後3つの平家水軍に勝利した)
この「海族」に「繋がり」を持てたとしても支配に及ぶまでの力は勢力は無かった事を意味します。
(同族の源氏は平家との戦いの際に義経は前4つは源氏に味方し、中の4つは義経が再三出向いた味方する様に働きかけ最終的に味方した位で勢力圏に無かった記録がある事から全く青木氏も無かったと観られる。)
それ故に、「讃岐籐氏」の秀郷一門の讃岐青木氏はこの瀬戸内水軍を支配し、横の水軍にも「繋がり」を効かせられる事が出来、日本海側にも進出していた「廻船問屋」として「大商い」を営んでいた事から、他の「2足の草鞋策」を採る青木氏は大口の商いにはこの瀬戸内の青木氏に「海上輸送」を一括して委ねていたと観ているのです。


そこで、これ等の「青木氏の基盤の支え」になった青木氏が一体どのくらいの「勢力」を保持していたのかを検証して観ます。
これには次ぎの数式論が成立する筈です。

A(固定条件)=「殖産」+「地場(土地)」+「広域シンジケート」+「運送・運搬」+「適度の武力」
「2足の草鞋策」=「商い」+「A」
「神明社・菩提寺密教」=「職能集団」+「2足の草鞋策」+「A」

∴「神明社・菩提寺密教」=「職能集団」+「商い」+2「A」

「神明社・菩提寺密教の維持」
上記の数式から果たして「神明社・菩提寺密教」を維持しょうとすると、どの程度の力が必要に成るのかは疑問です。
それは上記の数式から判ります。
それは「商い」と「職能集団」を維持し、固定条件の2倍の力が必要という事に成ります。
独自の「守護神と氏寺」を所有する事は大変な勢力が必要である事が判ります。
では、”どの程度のものか”と成りますが、次ぎの様に成ります。
因みに、この数式論を展開すると、伊勢青木氏は「神明社・菩提寺密教」を持っていたのですから、2「A」以上に相当する「綜合的な力」を有していた事を意味し、これが上記する5万石程度と成ります。
2「A」ですので固定条件の「A」(固定必要経費に相当)は2.5万石程度は少なくとも最低で必要で、この程度の場合は「商いの利益」だけでは”「神明社・菩提寺密教」は維持出来ない”と云う事に成ります。
伊勢と信濃以外の美濃や甲斐や近江は、単独では室町期以降には「神明社・菩提寺密教」は持てない事に成ります。現実には単独では持っていなかったのです。
A=2.5万石として、”「商いによる利益」で「職能集団」を何とか維持する事が出来る”と云う判断も出来ます。
秀郷流青木氏は「地域の幾つかの同族の青木氏」を綜合することで持てる事に成りますので、現実にはその様に成っているのです。
又、「2足の草鞋策」=「商い」+「A」では、「商いの利益」と供に少なくとも2.5万石を保持する勢力を持っていれば「2足の草鞋策」を続ける事が出来ます。
「3つの発祥源」を護り、「A」(シンジケート等)を維持し、「商い」を維持するには2.5万石程度の勢力が必要という事にも成る訳です。
この様に「神明社・菩提寺密教」の有無を確認すればその石高を知り勢力を知る事も出来るのです。又逆の事も知る事にも成ります。菩提寺があり、神明社が近隣にありとすると2.5万石以上の勢力を持っていた事を示し、「2足の草鞋策」を採っていた事も判る事に成ります。
この雑学の判別式はルーツ解明に大変役立つものです。
この事から2.5万石は大名か大郷氏、大豪族・大地主・大庄屋の扱いと成りますから、その氏ではそれに見合う遺品が存在する事にも成ります。この勢力では一軍(4−5騎 1騎50人)を指揮する事に成りますので、「軍配」、「馬盃」、「床机」等の指揮官が持つ物が遺品としてある事にも成りますし、宗派、仏壇や墓形式、戒名、邸、館、門構え等も全て違ってきます。

推して知るベしで、この数式以外にも上記した幾つかの数式条件を満たす為にはある一定の「上記した勢力」が必要と成ります。これらの「数式論の解析」で色々な状況を判別検証する基準にも成ります。
奈良期から明治期までの筆者が論じて来た菩提寺など「青木氏の力」に付いての多くの判定要素はこの様な「数式論の解析」から「史実の数値」などとを照合し駆使して割り出しているのです。

資料が遺されているので判断基準にしている「伊勢青木氏の経緯」として、平安期初期には伊勢北部、平安期中期には伊勢東部、平安期末期には東南部、室町期末期には伊勢松阪の一部の割譲、江戸期初期には「青木氏の5万石」の土地を残して細部地域の割譲が起こりますが、江戸期中期の5万石でこれを維持するのに限界で有った事に成ります。
56万石から上記の様に「伊勢青木氏の勢力」の時代事の推移を観る事も出来ます。
各地の天領地の青木氏は、天領地割譲が天皇家の衰退の経緯を示しています。依ってほぼこの推移と類似していますので、各国の「特別な国情」を加味して全体の石高を当て嵌める事で判断が可能です。
伊勢国のみならず各地の史実からも(データーの少ない近江、美濃、甲斐等も)割り出せますし、判れば逆に判別して行く事も出来るのです。この数式解析論をよく採用して判断に用いています。
算数論の様に1+1=2には成らずとも、より多くの判定要素を組み入れて行けば感覚的に観るよりは史実と真実に近い「類似性の答え」が出て来ます。

(近江、美濃、は上記した「源平の戦乱の有名な激戦地」で滅亡状態になります。甲斐は戦国の戦乱で滅亡状態に有った事から消失や衰退で独自で保有する事は出来な区成っていました。
従って、和紙を通じて伊勢−信濃から経済的援助を受けていたと観られる)

「神明社・菩提寺密教」を基本として「和紙」と「職能」と云う事で繋がっていた「5家5流青木氏」と「秀郷流青木氏」にはそれなりの上記の「数式条件」の「神明社・菩提寺密教」=「職能集団」+「商い」+2「A」が備わっていなければ連携も成り立たない事を意味します。
筆者の計算では、室町期から江戸期の55に近い地域の青木氏各氏の勢力領を観て見ると、石高で表現すると少なくとも1万石程度の勢力を持ち得ていなければ「2つの血縁青木氏の関係」は成立しない事が云えます。

「青木氏のパラメータ」
つまり「2つの血縁青木氏」には青木氏の添書等の資料から平均的に次ぎのパラメータが出来るのです。
「姓氏の発祥地域」=1万石
「青木氏の地域」=1万石
「1万石の地域」=青木氏
「1万石の青木氏」=「2足の草鞋策」
「2足の草鞋策」の地域=「姓氏の発祥地域」
「姓氏の発祥地域」=「青木氏の地域」

(平均1万石:バイアスB=±0.2万石で、R=0.01〜5万石)
以上等の論調が成立する事に成ります。

(基準を1万石(0.5)の多くの氏の勢力を調べて平均化してそれを1として、「青木氏の勢力」を計算した。この数式論に「調査要素の項目」を照合して「青木氏の表の勢力」を検証調査した。)

大体青木氏1氏の1万石は「40人の家臣団」(常設期、 戦乱期は常設・5、 4−5騎)と成ります。
そうすると、勢力圏の程度を考察して観ると次ぎの様に成ります。

「美濃一帯」では5氏の同族の秀郷流青木氏がいましたから、5万石の勢力を保持していた事に成りますので、「200人の家臣団」で「1000人の集団」となります。

「伊勢」では秀郷流青木氏は3万石でしたから「120人の家臣団」で「600人の集団」と成ります。賜姓青木氏では1氏で5万石でしたから「200人の家臣団」(実際の記録は250の家臣団)で「1000人の集団」と成ります。伊勢では合わせて「320人の家臣団」で「1600人の集団」と成ります。

「信濃」では4氏から構成されていて5万石ですから、「200人の家臣団」で「1000人の集団」と成ります。
「近江」では3氏で構成されていて0.5万石程度でしたから「20人の家臣団」で「100人の集団」と成ります。

秀郷一門青木氏24地域の中では次ぎの様に成ります。
「関西−中国域」では「讃岐籐氏」の秀郷流青木氏は大勢力でしたので讃岐、瀬戸内・(土佐)、阿波、安芸、伯鰭の勢力(8)を合わせると10万石程度の勢力圏を有し、「400人の家臣団」で「2000人の集団」はあったものと考えられます。(8地域/8は「2足の草鞋策」の確認地)

「武蔵・関東域10と東北北陸3」では根拠地ですので、各地域毎に5〜8万石程度の勢力圏/地域(13)で「320の家臣団」(常設)で「1600の集団」であったと観られます。(8地域/13は「2足の草鞋策」の確認地)

九州は肥前、筑前、豊前の3地域では土地柄から資料は少ないし末裔の拡大は低いが、北九州の豪族の酒井氏、佐竹氏、菊地氏、佐伯氏等の武蔵・関東域との秀郷一門青木氏との度々の交流(荷駄等)の痕跡資料があり、この結果として、この4氏の末裔が関東の秀郷一門地域に認められjます。
この事から秀郷流青木氏の「2足の草鞋策」の痕跡が認められます。
石高は算出は困難であるが平均値に等しいと考えて3万石程度とすると、「120人家臣団」で「600人の集団」と成ります。

これに「商いの勢力」と「シンジケートの勢力」が加算されますので、上限は別として、この程度が「最低限の勢力圏」を常設保持していた事に成ります。
「シンジケートの勢力」は別として、「商いの勢力」を全額計算する事は出来ませんが、上記の「常設勢力」の「10倍位の勢力」を以って「非常時の勢力」と見なされます。

その根拠は「関が原の戦い」の時に家康より伊勢青木氏は(信濃青木氏と共に)合力を打診された時の資料として”250の兵(食料調達と安全確保)と信濃−伊勢−京都路の進路の安全確保を担保した”と記されていますので、「非常時兵力」(警備傭兵)の1000程度の兵(暗に示唆)と1万人程度以上の進路側面確保に「伊勢−信濃シンジケート」(暗に示唆)を動かしたことが判っています。(これにより伊勢と信濃は本領安堵された)
恐らくは、「信濃」と共に「近江」と「美濃」の青木氏はこれに加わり「援護兵」「1000の兵」としたのではないかと観られます。(上記Aの要員を加えていた可能性がある)
(ぴったり1000の兵としたかは当時の書き方として漠然とする習慣がありますので不明ですが2000は超えていなかったと考えられます。依ってほぼ8−10倍と見られます。250は記録にある)
一般の他氏の大名クラスも非常時は農兵の傭兵役10倍にしてを集める慣習が出来上がっていた事に成ります。

「武士の生活費」
そこで、その根幹の武士の生活し得る最低の石高が問題に成ります。
江戸時代初期前後の武士の生活は次ぎの様に云われています。
1石高/人/年で、一般諸経費はこの最低5倍/人され、家族5人の生活費は25石/年必要 雇人5人を要するとされ 150石。これに一般管理費に相当する維持費50石加算で最低の200石/年 その他の雑費の最低出費50石 総合の250石が江戸時代初期の限界石高ですので、これに多少なりとも余裕を持たせるには兼農となります。
故に上記した甲斐の武田氏系青木氏は巨摩郡山間部で農業を営んでいたのです。

これからすると、上記伊勢青木氏は250人の雇人があったので、「商い」では最低で2A=5万石以上の収入であった事が云えますので、少なくともこの10〜15倍の商いの実績がなくては成りません。
依って最低で50〜75万石以上の実質勢力があったと観られます。(上限は判らない)

上記した経緯から平安期末期(1125年)に「2足の草鞋策」を実行した立ち上がり時期にはこの程度の勢力が必要であった事に成りますので、この事からその時の実績46万石/56万石に相似します。
伊勢青木氏は割譲が続く状況の中で、41−46万石に成った衰退時点で不足分を補う事で和紙による「2足の草鞋策」に踏み切った事が伺えます。同様の運命が近江、美濃、信濃、甲斐にも起こっていた事に成ります。しかし、この過程で近江、美濃と甲斐に「時流」に押し流されてしまう判断ミスを起こしてしまった事を物語ります。
伊勢と信濃の賜姓青木氏は何とか助けようとして余力を作り出すために「2足の草鞋策」に連携して力を入れた一つの理由にも成ります。
それ以後、「鎌倉文化と室町文化」の「紙文化」の花が運良く開きましたので次第に大商いを拡大させています。遂には、室町期には「総合商社的な商い」も認められますので、充分に美濃、近江、甲斐を援護し、上記の数式は元より「理念追求の行動」は可能に成った事に成ります。
室町期にはいち早く火薬を扱っていた事が記録で判っています。

(実は伊勢の松阪の大火の火元になった原因はこの火薬庫の爆発によります。明治期には一応は「花火」とされていますが、鉄砲や発破の原材料の火薬であったと観られます。)

この事から、長く続く「紙文化」と「戦国鉄砲」の「大商い」は明治期まで続きますから、外国貿易とあわせるとこの利益は計り知れない利益であった事が予測できます。
伊勢−信濃の青木氏と伊勢の秀郷流青木氏の「3氏の青木氏連携」によって徳川氏に匹敵する位以上に「総合勢力」はあったと考えられます。
この「総合勢力」に近江、美濃、甲斐の「2つの血縁青木氏」は連動して生き延びたとする上記の「勢力説」から観た説を筆者は採っています。

(伊勢青木氏と同様に、瀬戸内は阿多倍一族一門の平族の根拠地であり、天下の平族でさえ「殖産」を推進し、それを「宗貿易」で大商いを推進していた。 矢張り「殖産・商い」無くしては平族を維持しその中で配下の「姓化」を起こさせるには困難である事を物語ります。これに依って「宗貿易」を行い富みを獲得し、それを背景に海産物を扱う海部氏の他に「姓氏」と成った陶器の陶部の「陶氏」が室町末期まで中国地方全土を制覇していたのです。 九州では大蔵氏の佐伯部の佐伯氏も同じです。「たいら族」の栄枯盛衰はこの商いのここから始まっていたのです。)

伊勢青木氏を例とすれば「信濃の青木氏」や秀郷一門の「2足の草鞋策」を採用した各地の「秀郷流青木氏」の勢力は上記した様に推して知るべしです。

その意味では、上記した勢力を持つ青木氏の「古代和紙」の「殖産・商い」は、「品部」ではなく「部曲・民部」(かきべ)の職能域でもあった事、勢力から観ても充分な環境でありながら現地では「姓化」は起こらず、又上記した「氏名の継承」の徒弟制度があった事の為に、更には天領地の「民部」の「かきべ」であった事、「神明社」で固く結ばれた4つの青木氏の集団があった事等からなかなかその中に溶け込めずにその各地の「青木氏の地」に発祥しなかったのです。
総じて「3つの発祥源」の「氏」の地には「姓」を発祥させる事に躊躇したと観られ、又、発祥そのものも少なく有ったとしても「館」ではなく「2足の草鞋策」の方の離れたこの商取引の関係地(主に港、主要宿)に発祥させているのです。
「嵯峨期の詔勅」と「祖先神の神明社と菩提寺」と「4つの青木氏」が護る整えられた領域の中に「姓化」が興し難くかったと観られます。
「2足の草鞋策」や「シンジケート」と云った「自由性を持つ組織」を保持しながらも、このスクラムは別の意味で「排他的環境」の傾向であった事も考えられます。この「氏」の青木氏も「姓化」をしようとする方も遠慮した事も考えられます。そもそも徒弟制度の中で「氏の継承」をしていた事もあって「姓化」は”「差別化に成る」”と考えたかも知れません。
これは「商い」のみならず「3つの発祥源」と云う立場の印象から来るものが強く出ていて「2面性」を持っていた事による弊害とも考えられますが、これは「家訓10訓」で誡めているので考え難いのです。

それはそれで当然に止む無き事として、これは「姓化」に依って起こる「商取引」が当時の「運搬・運送状況の環境」に影響して全体的に大きく関係している事から来ていると観ます。
全体的に観ても、例えば鍛冶族は「金属の搬送」が可能な港と云う様に。上記した様に、その職能種の「殖産」の特長を生かす「地理性(環境)」を先ず優先し、「商い」に必要とする「市場性」は現在と異なり第2次的要素と成っているのです。従って、其処にはこの「地理性(環境)」−「市場性」の「2つの要素を結ぶ線上」の「運搬・運送」に適する地域に「姓化」が起こっているのです。

青木氏と守護神(神明社)−12に続く。


  [No.280] Re:青木氏と守護神(神明社)−12
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/10/13(Thu) 11:02:46

以下 神明社の12に続く
>「2足の草鞋策」や「シンジケート」と云った「自由性を持つ組織」を保持しながらも、このスクラムは別の意味で「排他的環境」の傾向であった事も考えられます。この「氏」の青木氏も「姓化」をしようとする方も遠慮した事も考えられます。そもそも徒弟制度の中で「氏の継承」をしていた事もあって「姓化」は”「差別化に成る」”と考えたかも知れません。
>これは「商い」のみならず「3つの発祥源」と云う立場の印象から来るものが強く出ていて「2面性」を持っていた事による弊害とも考えられますが、これは「家訓10訓」で誡めているので考え難いのです。

>それはそれで当然に止む無き事として、これは「姓化」に依って起こる「商取引」が当時の「運搬・運送状況の環境」に影響して全体的に大きく関係している事から来ていると観ます。
>全体的に観ても、例えば鍛冶族は「金属の搬送」が可能な港と云う様に。上記した様に、その職能種の「殖産」の特長を生かす「地理性(環境)」を先ず優先し、「商い」に必要とする「市場性」は現在と異なり第2次的要素と成っているのです。従って、其処にはこの「地理性(環境)」−「市場性」の「2つの要素を結ぶ線上」の「運搬・運送」に適する地域に「姓化」が起こっているのです。
(前文末尾)

  「指導階層の融合:2階層の融合」
主に「民族氏」に所属していた「180もの職能集団」から「姓化」による「姓氏」が上記した様に起こっていたのですが、一方の「融合氏」にも一つではなく2階層に分離した「融合」が起こっているのです。そこで少しこの事にも触れて置きます。
そもそも「指導階層の融合」とは、平安末期の頃に最終的に「氏の優劣」は決まり鎌倉幕府へと移行しますが、「完全な氏融合」は更に「細分化」の途へと変化して行くのです。
(「第1融合氏」と「第2融合氏」)
そして、一方「民の融合」は鎌倉期からその「融合技能集団」の首魁を長として上記の経緯と背景から一大勢力を持つ様に成り、その勢いで「正式な姓氏」への過程を歩み始めるのです。
この様に日本には「指導階層の融合」(融合氏、民族氏)と「民の融合」(姓氏)の「2つの異なる経緯の融合」が分離して起こったのです。
それは「氏家制度」即ち「身分家柄制度」による結果から分離したのです。
「指導階層の融合」=(「融合氏」+「民族氏」)=「第1融合氏」+「第2融合氏」
「民衆階層の融合」=(「職能技能集団」の「姓氏」)=(「品部」と「部曲」の2つの融合)

前記した「移動、移民、難民、帰化人」の第0期から第5期までの経緯により頑なにその属性を護っていた「民族氏」が、鎌倉期以降は「第1融合氏」との血縁を積極的に進めた事から「第2融合氏」(融合2)へと変化して、国内では「完璧な2種の雑種融合」が起こったのです。
これは九州全域を勢力圏に置く阿多倍一族一門の「大蔵氏」が「自治」を獲得した事、又一門の「たいら族の滅亡」を切っ掛けに、「民族氏」としては先読みして最早このままでは生きて行く事は困難と観て「盤石な勢力」(「融合力」)を固める為に、その「自治の特権・自由性」(「融合要素」)を生かして、特に関東以北を征圧している藤原北家筋秀郷一族一門との血縁に踏み切ったのです。これに依って「民族氏」は「第2の融合氏」へと変化して行ったのです。
この「指導階層の2つ融合」(第1融合氏、第2融合氏)と、「民の融合」(「品部」と「部曲」の2つの融合)に分かれて行った事が後に「完全融合」を成した要因であったと考えられます。
もしこの「4つの階層」が混在一体と成って融合していたとすると、身分階層の境界が薄らぎ鎌倉期以降の社会体制は全く違ったものに成っていたと考えられますし、「共和国的な社会」に成っていた可能性があります。
これらの「融合」が「上層部の2つ」と「下層部の2つ」に分かれてそれなりの特徴を生かして「融合」が進んだ事と成ります。
ところが、この階級社会の中で「上層部」と「下層部」の間には、実は積極的な「融合」は起こらなかったのです。この状態は「士農工商」の身分制度と「氏家制度」の家柄身分の「吊り合い慣習」により歯止めがかかり原則として江戸時代中期まで続きました。(室町期の下克上、戦国時代の混乱期を除く)
況や、これは「下層部」の「民の融合」が国民の最低8割以上を占めていた事から、彼等の全てが「職能集団」の「品部の民」と「部曲の民」で主であった事から、「物造り」を「絆」にして「融合」が起こった事が原因していたのです。
「上層部の2つ」は身分家柄制度があった為に「横関係」で相互間の「融合」は進み、「下層部の2つ」では身分家柄制度が希薄であつた為に「縦横関係」で相互間の「融合」は進みましたが、「上層部」と「下層部」の間には「身分制度の垣根」が強く「融合」を起すだけの「力」つまり「融合力」とその基と成る「融合要素」が無かったのです。
「融合力」+「融合要素」=「異種間融合」
しかし、「下層部」の「品部」と「部曲」の間には「融合」を阻害するこの「身分制度の垣根」と成るものが無かった事に依って「自由性」(「融合力」)が発揮されて「限定した領域」で「融合」は進んだのです。
上記した「部曲の融合」は「品部の融合」に比べて「異なる融合の発展」を起こしますが、然しながらその「融合要素」となったのが、「部曲」は農業の傍ら「物造り」の「一つの工程」(原材料生産)をも一部で荷っていた事なのです。つまり、「融合要素」=「物造りの工程」であって、その「限定した領域」とは「物造りの工程」に関わった「重複部分での血縁融合」であったのです。
「物造りの工程」が縁と成って血縁して行ったのです。
総じて云えば、「品部の民」即ちその先祖は「後漢の民」と「在来民」(部曲)との「血縁融合」と云う事に成ります。
その証拠に平安期に使用されていた「百姓」(おおみたから)と云う「百のかばね」の言葉は、本来は、正しくは「皇族」と「賤民」を除く良民一般(公民、地方豪族含む)の総称(奈良大化期から平安末期)であったのです。「農」を意味する言葉ではなかったのです。
これは「品部」と「部曲」との階層の間には上記の「物造りの工程」の「融合」が有った事から一つとして見なされて区別せず相称して「百姓」と呼称されたのです。
(「品部」や「部曲」の中には姓を構築した「豪族」・「豪農」も存在していた。)
「百姓」の呼称が「農民」(部曲)のみと使用し限定されたのは室町末期から江戸期初期に掛けての事なのです。正式には「士農工商」の「封建社会の身分制度」が確立してからの呼称なのであって、平安期から室町末期までは「氏家制度」の下では「士農工商」の「士」の上層部「氏」を構成する「武家」階級を除く総称であったのです。「士」にも下記に述べる「3つの階層」(123)があって「農工商」に類する
結局、奈良期・平安期から室町末期までの「農」と、室町末期から江戸期中期までの「農」ではその質は異なるのです。
従って、因みにルーツ探求から観てみると、藤原秀郷一門が鎌倉期に成ると失職離散して「農」に携わった事は江戸期の「農」とその持つ意味合いは異なるのです。
鎌倉期以後から室町期末期の「農」は「兵農方式」が未だ主流の時代でもあった為に一時的に主体をどちらに置き変えたかの違いだけであったのです。身分的要素の低い呼称なのです。
 鎌倉期以後から室町期末期の「農」(兵農民)≠ 室町末期から江戸期中期までの「農」(農民)
(これ等の雑学はルーツ探求で資料を考察する時に特に注意する必要があり、時代考証に於いて大変な判断の間違いを起す。)

ところがこの「農」に関わったものとして分類するとそもそも次ぎの「4つの農」があるのです。
1 「武士」で有るが生活の糧として「農」も兼ねる者(兵農)
2 「農民」で「農兵」を兼ねている者(農兵)
3 「農民」で若者が「傭兵制度の組織」に組する者
4 「農民」として純然として「農」を営む者

そして1には次ぎの階層があったのです。
A 下級武士で姓名・家紋を保持しない「兵農民」である者
B 下級武士で地元の地侍の「郷士」である者(姓名・家紋を保持)
C 中級武士で土豪(郷士長・首魁)である「庄屋、名主」である者(平安期に豪族であった)
D 上級武士で豪族で「郷氏」で「大豪農、大地主」である者(室町期前期に守護等の氏上)

1のAと2と3が室町期の末期に「農兵」として働き「武士」として名乗りを挙げたのです。
1のAと2と3は元々姓名や家紋や氏を形成せず、江戸初期に成って仕官し改めて姓氏、家紋、等を持つ様に成ったのです。
因みに青木氏における「農の青木氏」と成るルーツは、1のB、C、Dで、多くは記録からCとDが主流と成りますが、「4つの青木氏」の「家臣団」の「未勘氏」と、前記した青木氏に所属する「部民」の「絆結合」の「第3氏」と、青木村の「4の農民」の3つが明治期に「姓氏」として発祥しているのです。
皇族賜姓族青木氏にはこの「農兵」は原則として存在しません。
皇族青木氏と特別賜姓族の藤原秀郷流青木氏の一部には「農兵」は存在していた事が添書などから僅かに観られますが、そもそも秀郷流青木氏には護衛集団(武装集団)を平安期から室町末期までそれを本職とする集団であって特段に「農兵」を傭兵する必要性が無かったのです。
(皇族青木氏の甲斐武田氏系青木氏や丹治氏青木氏の2氏は除く)
5家5流の賜姓青木氏は、源氏と異なりその「生様」は前記した様に抑止力(シンジケート、秀郷流青木氏、経済力)を全面に押し出し「戦い」を前提とした「農兵」を必要とする事に組しなかったのです。

上記した「品部の姓化の氏」と、上記1から3の「農民(部曲)の姓化の氏」が別系列で興った事に成ります。
実際は「百姓」の呼称は「農民」だけではなく山民や海民等を指す「調庸の税」の「被支配民一般」の用語として正式には平安期(現実は室町期)までに用いられた言葉なのです。
「農民」が「百姓」と限定して呼称され始めたのは資料の表現から観ると鎌倉末期から室町期に入ってからの事なのです。(タイムラグがありここでは奈良期−平安期の意味を採る)
これは、奈良期から鎌倉期末期(平安期)まで農業の傍らこの「品部」の集団に組み込まれて「物造り」の一工程(素材生産)を担っていた構造に成っていたからによります。
「物造り」の「原材料の生産と加工」、一部はそれを本業の農業として彼らに委ねられていたからなのです。
依ってこれ等の「物造り」の関係から「品部」と「部曲」の関係は切り離せない関係にあって「品部」と「部曲」の「融合」も当然に起こったのです。
しかし、実は平安期では「氏家制度の根幹」と成っている「身分制度」を護る為には5つある階層間の血縁を朝廷は嫌ったのですが、「下層域」では護られず「税の徴収体制」が崩れる事を恐れた為に法を定めて護ろうとしました。中でも「部曲」と「品部」の血縁には注意を払ったのです。この状況は鎌倉期まで維持され、室町期に入り群雄割拠が起こり次第に崩れ始め、この結果「下克上、戦国時代」の混乱期を招き、安土桃山からは引き締め始め、遂には江戸時代に入り再び「氏家制度と税の徴収制度」の根幹部分を護る為に「士農工商」ではなく「士・農・工商」の身分制度を確立しました。
この制度の中でも「物造り」の勢いが強く「融合力と融合要素」が働いて上記した限定部分で「品部と部曲」との間では血縁が続いたのです。
そもそも「後漢の品部」が渡来してその技能を最初に教わり吸収したのはこの「部曲」なのです。従って、そのような絆から血縁融合は止める事は出来なかったと観られます。
即ち、日本の「民の融合」は名付けて「物造り」を媒体とした「物造融合」であった事に成ります。
ですから、日本は「融合」と「物造り」は無縁ではないのです。
「民の融合」(品部、部曲)=「物造融合」=「雑種の優秀性」
この国民総出で「物造り」が進んだからこそ積極的な「融合」は起こったのであり、その「融合」が進んだからこそ「物造り」が顕著に進んだと云えるのです。そしてその「物造り」は当然に「雑種の優秀性」を生み出し増幅させて行ったのです。この「民の融合」即ち「物造融合」が自然の「サイクルの流」を生み出したのです。
しかし、其処にはサイクルから出る弊害も見逃せず、「荘園制の行き過ぎ」等前記する様に色々な角度から論じて来た様に「天智天皇」等数人の優秀な天皇が「国策3策」を命を賭けて「弊害の苦難」を乗り越えて遂行したからこそ成し得た優秀性をベースとする「物造り国家」が完成したのです。
そしてその「物心両面からの策」が後世から観ると理に叶っていたのです。此処に本文前節の力説部分があるのです。

 「現在が完全融合期」(「民の融合2つ」「指導階層の融合2つ」)
遂には、日本は「自然の摂理」により「渦中の芯」に向かって、室町末期では「下克上」と「戦国時代」の混乱に合わせて、次第にこの「民の融合2つ」と「指導階層の融合2つ」は更に一つに成る為の「完全融合」を重ねる過程へと辿るのです。
しかし、ところがこの過程を辿るものの「完全融合」を成す過程は「氏家制度」と「封建制度」の社会により「身分家柄」の「縛り」が起こり、その「縛り」により「指導階層の融合2つ」には更に階層に階層を何段も造るという「吊り合い」による血縁現象が生まれ、結局、江戸末期か明治初期まで緩やかな変化と成ったのです。
ですから重要な事は、「完璧な2種の雑種融合」の論理的な「完全融合」と言う定義では、未だそう遠くない100年程度前の明治初期(平等の契約社会)の過去に始まり起こって居るのです。
この過程で見る限りは様々な「縛り」が取れて「完全融合」は丁度、現在であるかも知れません。
論理的に云えば、日本に於いては現在が最大の「雑種による優秀性」が顕著に出て来る時期と観られます。
つまり、この様に明らかな様に、「日本人の優秀さ」は動物に見られる「雑種による優秀性」が顕著に出た事に依る結果以外には有りません。
そして、その「根源・基点」は天智天皇の「青木氏」から始まった「融合氏」(国策3策)の厳しい経緯から起こっているのです。我々「4つの青木一族一門」はこの「根源・基点の象徴氏」なのです。
「根源・基点の象徴氏」青木氏から始まった「融合氏」の現在の発展は天智・天武天皇の先見性に関わっていたとするも過言ではありません。

「研磨剤」(「3つの脳」)
論理的に云えば、現在がその「雑種による優秀性」が出る時期であると観られる事に成ります。
では、”その「優秀性」はどの様な処に出るのか”と云うことですが、特に、それは「融合」に切り離せなかった「物造り」と云う場面にあると観ていて、その「優秀性」を引き出す原石を磨く「研磨剤」(「3つの脳」)は家訓8にもある様に下記の事だと見て居るのです。
宝石(融合氏)も磨く事(思考訓練)なしでは成し得ませんが、故に其処に「力説点」を置いているのです。

「民の融合2つ」→「雑種による優秀性」←「3つの脳」→「物造り」←「指導階層の融合2つ」

「力説点」
その「融合氏」の「優秀性」(特技)が、”「3つの脳」(「思考訓練」「熟練技能」「熟練技術」)の努力”の「遺伝性特技」に現れたものであると青木氏の歴史的史観からの研究結果から主張しているのです。

「3つの脳」=(「思考訓練」「熟練技能」「熟練技術」)=日本人の「遺伝性特技」
”「物事」についてよく考え、それを何かに「応用」し卓越し、それを「文明の形」にして生かす。”
この特質です。

逆に云えば、「三国志」の中にも出ている様に劉備が立ち上がった理由の「中国の国民性」ですが、中国では今でもその気風は消えていません。
それは「法より人」「石は薬」「雑は良識」の中国の諺に物語ります。
日本の「遺伝性特技」=「3つの脳」の「思考訓練」の「物事に真面目に考える国民性」と、「法より人」「石は薬」「雑は良識」の考え方とは逆なのです。
此処に「中国との違い」があり決定的要素として差が出ているのです。
それは「7つの民族」の「融合の所以」であって、「民族氏」の「個人の志向」を重視するより「集団性」を重視する「融合氏」」(2+2=4の融合)から起こった「国民性」なのです。

その昔は中国は世界でも「物造り」は先進国であった筈ですが、それが1/10の国力も無い小さい日本が「物造り」の先進国に成って行ったのは、中国の支配民族がころころと変わった事でもあり、取分け主にその「物造り」を進めたのは、中でもそれをリードした「優秀とされる漢民族」で有った事によります。
日本には大きい意味で「支配民族」は無く「7つの融合単一民族」で支配されていた処に差異があります。しかし、其処に「漢民族」が日本に流入したのです。
「漢民族」は中国西側域(ヘトナム)にも武力難民と成り流れ「西国の民族」は押し出されて北九州と南九州に渡来する事と成ったのです。

その優秀な漢国が滅び16国に分散してしまい、その結果、中国では「物造り」の精神は衰退したと観られます。しかし、その「漢民族」の東の国を統制していた将軍の「光武帝」が東に勢力を伸ばし朝鮮半島の3韓を制圧して統合して「後漢国」を建国しました。
矢張り、この優秀な後漢の民は「物造り」を伸ばし、結局21代末帝の献帝の時に滅びます。その後、後漢は隋に徳化して行き618年に滅びますが、それまでは「物造り」は「180の職能集団」に分類されて強く政策的に継承され続けていました。
現在から観てもこの時代までには後漢の民は素晴らしい優れた文化財を遺しているのです。漢民族の「物造りの優秀さ」が証明されます。
その618年の時に末帝末裔の子「阿智使王」と孫の「阿多倍王」が後漢の民の17県民200万人を引き連れて日本に渡来し、帰化して来たのですが、青木氏の関係論文で論じている様に彼等がこの「物造り」の技能の下地を日本にもたらすした事でも明らかです。
しかし、この様に「三国志」頃から観ても、中国の国を支配した「民族同士の融合」は一つの融合民族を構成する程に起こって居ないのです。これは中国人は「個の意識」が強くその延長の「民族意識」も強くそれが下で中国の長安を中心として「民族の住み分け」で済ました事に依ります。
日本に帰化した彼らの神は「道教」−「産土神」であった事でも判ります。
つまり、「意識問題」として云えば、この頃の「民族の縛りの意識」は”一民族はその民族の中で暮らす”と云う事が常識であった事なのですが、日本では「7つの民族」が集まっていて不思議にその「縛り」は低かった事が「融合」を促進させたのです。
確かに、彼等が渡来した時は、色々な資料を観ても、上陸時の初期から奈良期の前半までは遺跡からこの傾向が観られましたが、大化期を境にそれなりの「縛り」はあるにしても中国の様に生活圏の全周囲に城壁を構えその中に「民族」を防御するまでには至っていません。
大化期付近から変化したしたのは数々の「天智天皇の施政」からも観ても判る様にこの「民族」の「縛り」を無くす「公地公民」等の「中央集権政策」を矢継ぎ早に実行した事が原因しているのです。
つまり、これ等の政策は全てその「融合政策」に通じているのです。
その「融合の象徴的代表」が「青木氏」なのです。つまり「青木氏」そのものが「民族の縛り」を無くす「象徴策」であったのです。
恐らく日本は山岳部の多い「国土の地形」が「縛り意識」を起す環境下に無かった事も原因していると観ます。
中国では、”一族が住む地域の周囲全域を城郭で広く囲み、その中に同一民族が暮らす”と云う、つまり、”城郭内に住む民は皆少なからず親族”と云う形の中国の都市構成を観ても解ります。
この「民族状態」では、地形から「民族の縛り」が起こらず開放された状態の日本の様には、中国では大きな「雑種交配」は起こりません。
「山岳地形による集団生活」と「平地での城郭による集団生活」との差が融合をより容易にしたのです。
とすれば、この住み分けと云う事等から考えれば、中国では「民族」、日本ではより小さい単位の「氏」の「住み分け」であった事であります。

中国=「民族」=「平地での城郭による集団生活」
日本=「氏族」=「山岳地形による集団生活」

この「氏」の社会の中に「異民族」が混入し来たのです。ましてや「国土の地形環境」の違う中に入ってくれば「自然の摂理」で「人心の拒絶反応」が起こるのは必然です。
しかし、この「拒絶反応」が「技能伝授」と云う形で「在来民」に福をもたらし事で大きく起こらなかったのです。「拒絶反応」−「技能伝授」=「在来民に福」
しかし、「拒絶反応」が起こらなかったとしても「民族性の思考原理」は依然として残っていたのです。何とも不思議な現象です。
「拒絶反応」と成る原因の基の「民族性の思考原理」がそのままに潜在したままで「技能伝授」がそれを押さえ込んだと云う事です。
普通ならば「拒絶反応」が起こり「民族性の思考原理」を排除してくれる筈です。
しかし起こらなかったのですから「民族性の思考原理」は社会の中にそのままに存在してしまったのです。丁度、「日本」の九州に「中国」が出来た事に成ります。
これでは中央の為政者は慌てます。”何とかしてこの「民族性の思考原理」を解消しないと危険だ””何か起こる”とする危惧を抱いた筈です。
それが前記した様に「民族氏」と「7つの民族融合」を成した「融合氏」とのその2つに問題が起こったのです。
当然に初期的に「7つの民族融合」が折角進んだ社会の中に腫瘍の様に再び危険な火種の「民族性」が出来てしまった様相です。こうなればもう一度中期的に「融合政策」を推し進める必要性が出てきます。
初期は恐らく「地形的環境」から自然淘汰が起こり「自然融合」が起こったと考えられ、中期は「自然淘汰」では行きません。政策的な解決策の実行が必要と成ります。
それが「大化の融合政策」であったのです。それには為政的にはシンボル的なものが必要と成ります。
つまりそれが「青木氏」で有ったのです。シンボルに位置づけられた「青木氏」にとっては国体の成否の如何を左右する任務であり宿命でありますが、嵯峨期(弘仁の詔勅)から発祥した源氏に取っては既に165年も経過してその任務の認識度は低下していた筈です。
前記した様にこの2つの賜姓族グループの間には根本的に認識度が異なっていた事に成り、清和源氏分家頼信系の義家等が採った「愚かな行動」はこの国体如何を左右すると云う「認識欠如」がその任務を全うする事も無く、更には「源氏滅亡」までを招いてしまったのです。

「融合氏の血縁性」
更には、日本では「国民思想」として「氏間の融合」を「子孫存続」の「血縁の前提」としていた事でもあります。
飛鳥、奈良、、平安期の記録から「融合」という観点で分析して観ると次ぎの様に成ります。
例えば、「氏の象徴」の天皇家で観てみると、現在では考えられない極めて高い「純血」を護りながらも一つのルールに従っていた事が解ります。
そのルールを検証すると、奈良期の子供の作り方で観ると、前半は2親等から4親等の近親婚を行って極めて高い純血婚で保持していたのですが、後半は大化の改新により、天智天皇が「氏の融合」とこの「近親婚の弊害」をより無くす為に、次ぎの様な改革を行ったのです。
例えば、純然たる「融合氏」の「発祥源」と成った天智天皇と天武天皇の間では、天智天皇(中大兄皇子)の子供は地方の豪族からの娘(いらつめ 郎女:妥女 人質)を仕組みとして入れて子供を作り、その子供(姪)を天武天皇の妻に迎えて「純血」を護ると云う慣習が採られています。
そして、その地方の豪族も同じ慣習に従っているのです。特に「八色の姓」族までの身分家柄の氏を構成する宗家、本家筋ではこの「純血」が維持されていたのです。
そして、この「妥女の制度」(うねめ)は「氏の融合」を推し進める為に全ての一般地方豪族からの郎女(いらつめ)を「人質」として朝廷に仕えさせ、その性質は「女官奴隷」とし、「純血」の中に制度的に「混血」を行う為の正式な「妻の制度」(皇后、妃、嬪)の補助身分として「妥女」(うねめ)制度を導入したのです。
その為に、妻は4段階にして、先ず、皇后と妃は2親-4親等の親族 嬪は大豪族とし、妥女は地方の小豪族の他氏の郎女とし、この前2段階で産まれた子供の中から近親婚の弊害を受けた皇子を除き4段階の妻の身分に順じて皇子順位が定められ、4世族王までそのルールに従う形を採っているのです。
そして4世族までも上記した「純血保持」のルールに従に従います。(大化期前は6世族まで)
皇子数が少ない場合は第5世族、場合に依っては第6世族まで引き上げてその皇子を定める皇族身分の継承を行い、「子孫の融合」を天皇家に入れる仕組みにしたのです。
この意味で「皇族関係者」のみならず「八色の姓」の範囲の各豪族の氏等はこの「仕来り」に従いますが、決して「性的目的」や「権力継承者」の保全目的からの「妻4段階の慣習」を保持したのでは無いのです。近親婚は定められた「仕来り」であって異常とされる慣習では無かったのです。
つまり、「氏融合」の政策が進むに連れて薄れる「純血低下」に対する「権威の低下」の防止策であった事に成ります。
「純血」は当時の社会体制から民を除く為政者の立場にある者の「権威保全システム」で有った事に成ります。
平安期までの「氏」はこの意味で鎌倉期以降の急激に増えた「氏」とは「純血保全」と云う点と、「氏として朝廷の承認」(「八色の姓制度」と「氏姓制度」で縛られていた)の有無も含めてこの2点が異なっているのです。
平安期に於いては無法治に「氏姓」が発祥したのではなく「血縁性の縛りや制度」に依ってある一定の「品格、資格、家柄、身分、勢力」などの条件に依って管理されていたのです。
「日本の民」も「中国の民」の様に「民」の段階に於いても、初期は地域を限定して「民族間血縁」であり、ある種の「近親婚」で有ったのですが、それが崩れて日本では、第2期頃(飛鳥期-大化期)からやや早く完全な「混血婚」と成って行きます。
少なくとも、平安末期までは「純血の保全」と「子孫融合」又は「氏の融合」を本来の目的としていた慣習だったのです。しかし、第4期の鎌倉期以後、爆発的、飛躍的に「氏の融合」が進んだ結果その目的が変化して「権力継承者の保全」へと変化していったのです。

「純血の保全」と「子孫融合」(「氏の融合」)⇒「権力継承者の保全」

その意味で第2期頃この「仕来り」と「慣習」で生まれた第6位皇子の皇族賜姓族を始めとする青木氏は「氏の発祥源」であった事を意味します。
平安末期の賜姓源氏(10代目頃)には、「氏の融合」よりは「武家」(公家に対する武家の意味)の「権力継承者の保全」に変化して、この意味合いは少し異なって行きます。
反して云えば、「氏の融合」が進みそれに連れて「純血保全」は低下して、その意味合いが社会の中で低下した事に成ります。

この様な「仕来り」で生まれた平安初期までの「氏の融合」に付いては、若干、この時には記録では「渡来人」と云う言葉が存在している事から観て、未だ確かに「幾つかの民族」を意識していた事に成ります。
日本書紀にも”蘇我入鹿が「中大兄皇子」のグループに粛清された時にこれを聞きつけた「古人親王」が[渡来人が殺された]と叫び奥に逃げた”とするその発言が記録では遺されています。恐らく、蘇我一族類縁の「古人親王」は「中大兄皇子」の宿敵であり、この粛清がどの程度に及ぶか判らない為に恐れて逃げた事が伺えます。
その時に発した言葉が30年後(675)の「舎人親王」の日本書紀編集時に記録されるという事は、その時の発言の意味が大きく「朝廷内の意識」の中に未だ残っていて継承されいた事に成ります。
つまり、この記録から観ても、皇族の一部が応仁期に渡来した蘇我一族の類縁でありながらも自らも「渡来人」の意識を持っていて、然りながら一方では「渡来人」で無いとする「不思議な過程域」(重複期)であった事を物語ります。
丁度、何年も経たないこの時期に「青木氏」が賜姓され発祥をした事もこの「不思議な過程域」即ち「融合意識」が「氏意識」へと「移行する時期」の中にあった事にも成ります。
そうすると日本書紀に”この記録を遺す”と云う事は50年後の700年頃にはかなり「氏への融合」が急激に進んでいた事を物語ります。
そして70−130年後頃には全体の書物の記録から「渡来人」の言葉が消えているのですから、「氏の融合」は爆発的に進んだ事を物語ります。「氏融合意識」で「渡来人意識」を消え去られる程度に融合が急激であったことに成ります。
この「不思議な過程域」が「氏融合の急激な変化」に依って「渡来人意識」が人心から消え去った事に成ります。
奈良時代末期は「初期の民族融合」が進む中で未だ在来民の「民族の意識」は多少残っていたことを物語り、「氏の融合」は上記した様に20程度の「民族氏」の中で、同じこの時期に発祥した伊勢青木氏や近江青木氏がその「氏の融合」の発祥基点と成った事を証明します。
(当時の一般の民は「民族氏」又は「氏」の構成員の立場にあり、「部」の職能集団での構成員でもあった。)

古代の「物造り」の「部」を管理統括する国の長官を「国造」(くにのみやつこ)、管理者「伴造」(とものみやつこ)と云う呼称であった事はこの政策を優先したと観られます。
(この下に現地で実務管理をさせた「伴造]: とものみやつこ、労役をする民を伴って朝廷の税外の仕事に出仕した事からの呼称)
”「物造り」即ち「部制度」を「国造」(国つくり)”としている事は、明らかに奈良期から朝廷は「優先政策」として「物造り」としていた事を物語ります。
これは「国造り」=「物造り」から来ています。
「国家の安定」とその根幹を成す「物造り」の政策を推し進める為には、日本の人民を一つにする必要があり、その為に「民族氏」から「融合氏」へ政策的に移行させる必要に迫られていたことを物語ります。
「物造り」は「国造り」であり「氏造り」(融合)であることに成ります。
逆に云えばこの事は「7つの民族」の「異民族国家」の認識が未だあった事に成ります。
この意味でも大化期から平安末期では、「国造り」=「物造り」を成すには「民族氏」から「融合氏への政策転換」に迫られていた事に成ります。

「国造り」=「物造り」=「氏造り」(融合)⇒「シンボル賜姓青木氏」〓(3つの発祥源)国策3策

そもそも筆者は「青木氏」を研究している中で、とりわけ本論の神明社の研究で”「青木氏の持つ意味」は何であったのか”と云う事に拘り研究して来ました。
それは、中大兄皇子は第6位皇子を臣下させる目的の「天皇自らを護衛する集団の構成」の目的と、もう一つの目的は「7つの民族」で構成される国からより民族同士での争いを無くす為により安定した国、又は「日本人」にするには「氏の融合」と云う「政治的テーマ」が有ったのだと考えて居るのです。
それを裏付ける次ぎの11の事柄が考えられます。

1「不思議な過程域」(融合意識が氏意識への移行期)であった事。
2「氏の発祥源の青木氏」と「嵯峨天皇による青木氏から源氏に変名」と云う「源」の氏名の賜姓を使った事。(青木氏から源氏まで16代も賜姓を続けた理由)
3「天皇の皇族」をしてこの「臣下」と云う手段を採った事
以上の主要3点に観られると考えているのです。

何も臣下せずしても護衛集団の目的は果たせる筈です。確かに皇族は「武力を持たず」の皇族の仕来りはあったにせよ第4世王の有名な「栗隈王」らは自ら武器を持っていた事は日本書紀の中の大友皇子と大海人皇子との争いの場面でも出てきますし、他の記録を観ると徹底されていなかったと見られます。わざわざ「臣下」という手段に出たのもこの「氏の融合」政策を押し進める目的があったと強く考えているのです。
更には、次ぎの事柄でも検証出来ます。

4「第6世族」までを皇族王としていたのを第4世族までとした事、
5「第7世族」を都より遠路の坂東に配置した政策の「坂東八平氏」と名づけられた事、
6「准賜姓」を許し彼等に地名の氏名を名乗らせ坂東守護を許した事、
7「嵯峨天皇」の以後の皇族が下族する際に使用する氏名を「青木氏」と詔で定めた事、
8「後漢の阿多倍王」の渡来子孫に坂上氏、大蔵氏、内蔵氏等の賜姓をした事、
9「敏達天皇」の孫の芽淳王の末裔をこの渡来人に娶らし融和策を講じた事、
10「後漢渡来人」等を「遠の朝廷」として「錦の御旗」を与え九州全土の政治を任せた事、
11「本文の神明社」の配置策などから観れば明らかに「氏の融合策」で有った事
以上の事が覗えます。

故に、この平安期初期までの「氏融合」の積極策が効を奏して、”「氏の融合」は爆発的に進んだ(100年間)”のだと観ているのです。
その「氏の融合」は文化・由来の括りで分ければ次ぎの「6つの族」に分類されます。ここでは「A〜Dの族」を中心に論じています。
EからJまでは個々に異なる文化・由来の経緯を持っています。

青木氏の関係族の構成(守護神別分類)
A 皇族賜姓族の氏の発祥源青木氏(朝臣族 5家5流青木氏 25氏)
B Aの母方で繋がる藤原秀郷流青木氏(藤原秀郷流青木氏:嵯峨期詔勅の特別賜姓族青木氏116氏)
C 室町期と江戸初期にA、Bの縁類として発祥した青木氏(未勘氏 家臣団 徒弟制度)
D 明治初期の苗字令で発祥した青木氏(第3氏 村民 絆結合 職能集団)
E 宿禰族橘氏(葛城王始祖)の青木氏(石清水社社家 皇族1氏 A族別系)   
F 嵯峨期詔勅にて発祥した皇族系青木氏(多治彦王・島王配流孫青木氏2氏 甲斐青木氏4氏)
G 嵯峨期から花山天皇期までの賜姓源氏(賜姓同族源氏11氏 源氏系配流孫青木氏1氏)
H 皇族賜姓族佐々木氏(天智天皇賜姓氏 近江佐々木氏1氏 同族血縁氏青木氏1氏)
J 宇多天皇佐々木氏(嵯峨期詔勅氏 滋賀佐々木氏1氏)
K 上山氏系滋賀青木氏(近江賜姓青木氏の遠戚青木族1氏)
 
「4つの青木氏族」(A〜D族)
(2つの血縁氏)−神明社
Aの5家5流25氏を発祥源とした青木氏
Aの藤原氏の母方で繋がる嵯峨期の「血縁的類」の116氏の青木氏、(神明社・春日大社)
(2つの絆結合氏)−神明社
A、Bの青木氏116氏に何らかの間接的な縁者関係にあったとされる「縁者的類」の青木氏、
A、B及びCの青木氏と郡村で「生活を共にした民」の「社会的縁類」の青木氏、

E族は、A族の慣習に基づき本来は朝臣族が務めるところ橘諸兄(葛城王)の母橘三千代が藤原不比等に嫁した為に橘諸兄は朝臣族となり、その末裔が橘氏の守護神の石清水社社家を務めた事からA族の慣習に基づき青木氏を名乗った橘系青木族1流 (石清水社)

F族は、関東丹治氏系青木氏1流と島氏系青木氏1流 甲斐の源源光系青木氏2流 源時光系青木氏3流

G族は、 Aの皇族第6位皇子の同族賜姓族の青木氏より変名した賜姓源氏族(Aと同族) 九州源有綱−高綱配流孫の源氏−廻氏系青木氏1流

H族は、天智天皇の特別賜姓族川島皇子始祖系近江佐々木氏1流と、近江賜姓青木氏との血縁族青木氏1流

J族は、嵯峨期詔勅に基づく賜姓族の滋賀賜姓佐々木氏1流 青木氏を賜姓せず同属H族に倣って佐々木氏を宇多天皇は賜姓した。

K族は、近江青木氏が滋賀に移動した時の遠戚末裔廃絶孫の名籍を伊賀上山郷の上山氏が盗籍し興し滋賀青木氏を継承氏1流(継承は戦いの末に承認)

つまり、AからKの「10の族」に対して「縁と云う関係」から観ると次第に緩やかな「縁的関係」を保持する青木氏に分類されるのです。

中でもA〜D族は「悠久の歴史」が血縁に勝るとも劣らず強い頑強な「絆結合」を構築したのです。
(4つの青木氏)=(2つの血縁氏)+(2つの絆結合氏)←「縁的絆関係」
「悠久の千年歴史」→「縁的絆関係」

そして、「天智天皇」から「光仁天皇」まで、「桓武天皇」と「平城天皇」の続けて2代の天皇を除き、「Aの同族」としての「嵯峨天皇」から「賜姓源氏族」と変名して続けられたのです。
(この2代の天皇は賜姓を皇族にせず、自らの母方阿多倍王の孫娘の実家先を賜姓した。後の「たいら族」の「賜姓平氏」で5代後の太政大臣平清盛の一族一門である。)
この2代の親子の天皇の反動がもし無ければ、本来であれば皇族賜姓青木氏は続いていた筈なのです。
ただ、「律令国家」の完成を成した天皇としては実家先の青木氏等の「皇親政治族」の存在で国の運営が左右される事には問題であった事は確かに考えられますし、その完成を成し遂げ官僚を牛耳っている母方の阿多倍一族一門を賜姓して引き上げて”律令国家体制を軌道に乗せる”とする事も充分に考えられます。そうも物事が上手く進まないのもこれも「浮世の現実」でありますが、現実には賜姓青木氏源氏と云う氏名では続いているのです。
問題は上記した様にこの”賜姓源氏の採るべき態度が間違えていた”と云う事なのです。
源氏に観られない「4つの青木氏」の数式が物語る様に、「血縁の前提」(縁的絆関係)の考え方なのです。

「家紋の意味」
その証明する最たる「血縁の前提」の考え方は、主に平安期から顕著に始まった「氏の象徴」の「家紋」に重点を置いていた事で証明できます。
大別すると、2期に分けられます。
先ず1期目は、未だ「民族意識」の存在する中での「氏の融合期」、即ちこの平安期の時期「民族融合」の終了期(桓武期 1次800年頃-2次900年頃)です。
次ぎに2期目は、「民族意識」が無くなり其処からは鎌倉期からは積極的な純然たる「氏の融合」へと変化して行くのです。
つまり、日本は「民族融合」⇒「氏の融合」=(氏家制度)の過程を辿ります。
これに伴って上記数式の「氏家制度」は「数多くの仕来りが」生まれ確実に「氏の集団互助システム」として充実して行きます。そして、これには「氏の象徴」である「家紋」も連動して「数多くの仕来り」が生まれが並行的に増加して行くのです。(特に藤原氏は最も多い「仕来り」を持った。)
これらは時代毎の「氏の数の変化」(最大1500)と「家紋の数の変化」(最大8000)でも証明出来るのです。(研究室参照)
要するに「家紋の持つ意味」として、「民族融合」⇒「氏の融合」に依って「融合の単位」が「民族」からより小さい「氏」に変化した事に依って、その「氏」を判別する目的として「家紋」が用いられたのですが、この「家紋」が「融合」を助長する役目を大きく果たしたのです。
「氏の境目」がはっきりしなくて判別が出来なければ社会組織「氏の集団互助システム」の「氏家制度」は成立しなかったからです。「家紋」はその醸成された仕来りで「氏の境目」を明示させたのです。
はっきりとした氏間の「血縁融合」(血縁の前提と縁的絆関係)が判別出来た事に依ります。

ところが「民族性」の強い中国は現在に於いてもこの「氏の融合」が積極的に起こっていない事によります。つまり「家紋化」が起こらなかった事で、「血縁の前提」(縁的絆関係)の判別が観えなかったのです。自然発生的な「氏家制度の構築」が成されなかったのです。
結局、日本では突き詰めると「氏融合」が「家紋」に依ってより「雑種の優秀性」が助長されて発揮される様に成り、その優秀性は「氏と部曲、品部」との連携により「殖産・物造り」へと変化を興し、この「物造り」への変化は今度は「家紋」の変化に象徴される様に成って行ったのです。
そして其処に「家紋」のより「大きな役割」が生まれ、「家紋の持つ意味合い」が追加醸成されて行ったのです。
この様に当初は「家紋」は「3つの発祥源」の青木氏の「象徴紋」であったものが、何時しかそれが「氏の家紋」と成り、その「家紋」が「血縁雑種の優秀性」から「物造り」へと結び付き、又その事が逆に経路を辿る事で加速性のある「著しい融合」が進んだのです。
この様に「家紋」に於いても、「物造り」に於いてもその根源は「青木氏」に無関係ではないのです。従って「物造りの象徴紋」は「青木氏の笹竜胆紋」と云っても過言ではないのです。

「氏融合」=「物造り」=「笹竜胆紋」=「賜姓青木氏」

ただ、同族の「賜姓源氏」の「笹竜胆紋」は賜姓族として青木氏と並んで使用したのですが、本来、前記する「愚かな行動」からすると「笹竜胆紋」は相応しく無く単純な無味乾燥の「家紋」に過ぎないとしているのです。”その認識が薄かった”と考えているのです。
賜姓源氏は家紋に持つ「物造り」や「3つの発祥源」の崇高な意味合いに欠けていたのです。
此処に「青木氏の笹竜胆紋」は「家紋」とするよりは元来は「象徴紋」であって、その意味合いも次ぎの関係式が成り立つともしているのです。

「氏融合」=「物造りの象徴紋」=「青木氏の笹竜胆紋」(象徴紋)

当然、この「氏融合」は「祖先神」の「神明社」に繋がります。
「氏融合」=「神明社」(祖先神)となり、「神明社」(祖先神)=「物造り」の以上の数式の関係が生まれたのです。

1・・・「氏融合」=「神明社」
2・・・「神明社」=「物造り」
3・・・「3つの発祥源」=「賜姓青木氏」
4・・・ ∴「氏融合」=「物造り」=「笹竜胆紋」=「賜姓青木氏」=「神明社」=「3つの発祥源」

そして、この数式の過程を辿る中で次ぎの関係式が続けて起こります。

5・・・「氏間の血縁融合」(血縁の前提と縁的絆関係)=「4つの青木氏」

この幅広い関係式が成立し「氏家制度の成長」が氏の代表の青木氏の中で醸成されて行ったのです。

6・・・「氏間の血縁融合」(血縁の前提と縁的絆関係)=「氏家制度の成長」
7・・・ ∴「4つの青木氏」=「氏家制度の成長」

以上の7つの連立する関係式が起こり、その「氏家制度」には社会組織の必須条件の「物心両面の基盤」が醸成されて行ったのです。

上記7つの数式が中国と異なる処であり、これが「国民性の優秀さ」となって現われ、「物造り」は基を正せば中国でありながらもこの「国民性」が「物造りの基盤」の差異と成って現れたのです。

この頃から後漢からもたらされた「物造り」の経済活動と共に、後漢渡来人と彼等に育てられたと日本の民等の「技能集団」等が力を持ち、「氏」と「姓氏」を構成し、「2段階の氏家制度」を拡大させ、その「氏」と「姓氏」の家紋を象徴紋として拡げて行く経緯を辿るのです。

「氏名の持つ意味」
この様に「物造り」は「青木氏」と「家紋」に無関係ではないのです。
それは初代「青木氏」は647年頃に日本で初めて「皇族賜姓族」として発祥した「氏としての発祥源」ですが、この時に「象徴紋」として「笹竜胆紋」を氏の正式なものとして定められたものです。
それまでは「大和政権」時代の紀族、巨勢族、葛城族、平群族、物部族、蘇我族等20程度の族は「単位氏」では無く、「ヤマト政権」の初代「応仁大王」等の出自に観られる様に夫々は大半は南北の「韓民族」(3韓の中の集団名)の渡来人の「民族集団名」であり、むしろ、上記した「民族」の「小単位の氏名」であったのです。
応仁期(応神期)以前は「正式な民族」の「固有の氏名」はそもそも無かった事は歴史的に認められている事なのです。(以後 これを「民族氏」と記する)
しかし、この事から純然とした「正式な氏名」として分類すれば伊勢の「青木氏」から始まったとしても過言ではないのです。(以後 これを「融合氏」と記する)

その後の奈良期末期から平安期に掛けてこれに見習って主に地名や役職名等から採った氏名が自然発生的に「豪族の氏名」として広がりを示し、それらが朝廷の認可(八色の姓制度)の下に20から40程度に成ったものなのです。
この頃は「氏名」と言う確固たる習慣ではなく、「ヤマト政権」時頃の「族呼称」の20程度を除いてその「族の存在する位置関係」を固有名詞的に用いていたのです。「民族氏」
例えば、青木氏で云えば「越道君伊羅都女ー施基皇子」と成るのです。
「越」「道」「君」「伊」「羅」「都女」(「郎女」:「伊羅都女」は終局「妥女」の意味を持つ)

この「6つの要素」で、国、出自、身分、家柄、官職、立場、母筋などを明確にし「施基皇子」の位置関係を表していたのです。
奈良期の大化期からはこの「6つの要素」を「氏」として表したのです。後にこれに「象徴紋」を付け加えて「青木氏」の「氏名」で表現する様に成ったのです。
つまり、平安期以前の「氏名」にはこの「6つの要素」を持っていたのです。
平安期までは人は「青木」と聞き取る事に依って上記で述べました様に「青木の神木」の持つ意味から「氏の源」と云う事が判り上記「6つの要素」の意味を読み取ったのです。
そして、「八色の姓制度」と「有品の制」(蔭位の制)が加わりこの「6つの要素」の意味合いと共に「有品」「朝臣」の2つが付け加えられて正式な呼称として「青木三位朝臣・・・」と称する事に成ります。
これに永代の冠位官職を加えると「浄大1位 六衛府軍上佐 青木三位朝臣 民部上佐 左衛門佐信定」
(源氏で云えば青木氏に跡目に入った清和源氏頼光系4家の宗家では「源三位朝臣頼政・」と成る。)
これが「青木氏」の固有名詞として「呼称の氏名」とされていたのです。
人々は"「青木氏」"と名乗れば「八色、有品の祖」と「3つの発祥源」の「氏」である事を悟り理解したのです。
その慣習は現在は全く消えていますが、明治初期頃まで上層階級の人々の常識の中に遺されていたのです。当然に「青木氏」呼称の他に、「賜姓族」としてはその「象徴紋の笹竜胆紋」や「生仏像様」、中には江戸中期までは「伊勢紙屋長兵衛」等でも「氏」を物語るものとして通じていたのです。
特別賜姓族(秀郷流青木氏)としてもこれに順ずる「氏族」との認識が高く、且つ、藤原氏北家筋名門「第2の宗家」として人々の認識の中に深く遺されていたのです。
特に賜姓族と特別賜姓族の「2つの伊勢青木氏」には口伝によれば大正半ば頃(14年)まで遺されていた事が伝えられています。
(平成15年頃まで神仏職関係者にとりわけ菩提寺の住職には認識が遺されていた)
しかし、上記する呼称「青木氏」は1125年頃に「2足の草鞋策」を採用しますが、当時の人々は「3つの発祥源の青木氏」との認識が強かったところに、突然に「2足の草鞋策の青木氏」が現れたのです。
恐らくは、一時、「青木氏」と「殖産・物造り」(2足の草鞋策)との繋がりに戸惑ったものと観られます。
当然に、青木氏の中でも「笹竜胆紋」と「生仏像様」と「祖先神・神明社」の「青木氏」を物語るステイタスが厳然として存在しているのですから切り替えに戸惑ったと考えます。
人々はこの印象・認識がどの様な変化を示したかを記録から考察すると、次ぎの4段階に分かれている模様です。

「印象・認識の経緯」
第1期(平安期末期)
平安末期50年前頃は知る者と知らない者との区別がはっきりしていたと観られます。
和紙に関る者が知る範囲であったと観られます。恐らくはこの時期には「2面作戦」に出たと考えられます。時代は「融合氏政策」を実行している中で、「青木氏」が「2足の草鞋策」を採ったとすれば世間の批判は無条件で「青木氏」に向けられ、強いては朝廷への批判となり国策推進に影響を及ぼす事に成ります。もし、そうなれば終局、愚かな行動を採り朝廷から疎んじられ民から見放された滅亡に向かった源氏一門の様に存続そのものが難しく成っていた筈です。
丁度、「荘園制の行き過ぎ」による粛清がなされていた時期でもあり、平族の繁栄期でもあります。先ずは納まらなかったと考えられます。
同じ平族も伊賀和紙の殖産紙に共に関わり海外に殖産貿易を行っていた時期でもある事から、内々で黙認されていた筈です。依って恐らくはこの事態を避ける為に「2面作戦」で挑む以外には無かった筈です。
その証拠となる事が起こっています。丁度50年後に「以仁王の乱」が起こって主謀者の源頼政が敗退に依って滅亡を避ける為に事前に「平族」との親交のある伊勢青木氏に京綱を跡目として入れて遺します。
この事は5家5流の賜姓青木氏が「清和源氏宗家」を武力では無い形で継ぐだけの力が備わっていた事を意味します。
それは和紙などで繋がっている事で「平族」に潰される事が無く、且つ裏面の「2足の草鞋策による経済力」に裏打ちされていて安定していたからです。
「商家と青木氏」(2足の草鞋の家筋)が表立っていてはっきりしていれば、家柄前提とする氏家制度の中では「清和源氏宗家の跡目」を継ぐ事は出来ませんが、あくまでもこれは賜姓族「青木氏」だけであって出来る事です。取りも直さずこの行動は、つまり「商家」は衆目には未だ「陰」であった事を物語ります。

第2期
しかし、鎌倉中期から室町期初期にはこの「2面作戦」は長くは続けられる事は有りません。
北条氏の執権により青木氏の守護地は本領安堵されたとしてもその職務は地頭等により管理される事に成ります。「2足の草鞋策」が続けられるとしても守護職は失職しますので「殖産・商い」に主力を移す事に成ります。平安期と比べ限られた本領の中での事に成ります。まして、伊賀の平族は滅亡して伊賀一族は武装放棄の状態で取り敢えずは残りますが、「青木氏」と同じよう「殖産・和紙」で生き延びなければならない状況に陥りました。
この時期は「2面作戦」の一面は縮小した状態で「3つの発祥源」のステイタスを保た無くてはならない状況と成っていたのです。しかしこの時期でも「氏家制度」は保たれながらも「武家社会」と云うより「2足の草鞋策」は平安期にまして厳しいものと成った筈です。
その証拠として残されているものとして「青木氏の家訓10訓」の内容で、その家訓はこの時期の影響を色濃く繁栄していると見ているのです。
しかし、この「2面作戦」は「本領の一面」は縮小した分だけ「殖産・商い」は「鎌倉期」−「室町文化」のハシリから「紙文化」が拡大して行き大きく繁栄拡大を果たした事に成ります。
「3つの発祥源」のステイタスと「本領安堵」の中では「2面作戦」は続けねば成りません。
「本領安堵」により当然に為政者領域では認知の範囲と成ります。
拡大する「商家」は衆目には”知る者は知る、知らぬ者は知らぬ”の状態の「半陰」であったと観られます。

第3期
室町期初期から江戸初期前までには「2足の草鞋策」も「室町文化」の発展で「2面作戦」の「武家の一面」が弱く成ったもののそれを補い超える力を持つ様に成ります。それは「殖産・商い」の経済力を補完し、その「青木氏」を防御する為の目的で採った対応策が厳然として「陰の力」(シンジケート)として働き始めたのです。何とその力は10万の軍をも餓死させ敗退させるだけの「陰の力」と成っていたのです。
それは和紙の「殖産・商い」で生きる5家5流の青木氏(背景には特別賜姓族の青木氏が存在)の連携を守ったのです。
それはシンジケートなのです。「大商い」には「陸海の利権と安全」の問題が伴ないますが、他の既存の勢力に頼らず自らがその経済力を背景に創り上げた「絆」に依って成り立つ、真に「2面作戦」による「陰の軍事力」なのです。
例えば何度も例に挙げていますが、この下記の2つの事件は「青木氏」にとってその「生き様」を如実に物語るものであるからです。
南北朝の北条氏と楠木正成の戦いでも3千の軍が10万の軍を餓死に追いやり勝利したのはこの青木氏が持つ伊勢−信濃の「陰の軍事力」が楠木軍の裏に控え「ゲリラ作戦」で勝ったのです。
周囲の食料調達網の遮断作戦、深夜の局地的攻撃による兵の疲労作戦が働いたのです。
織田信長が「伊勢の3乱」で青木氏が採ったこの「陰の軍事力作戦」で織田信雄と軍監滝川一益の2万軍を敗走させるだけの力を持っていたのです。
この時、信雄はこの青木氏の「陰の軍事力」を知らなかったのです。しかし秀吉は知っていたのです。その為に信長に叱責され蟄居させられる事件まで起こります。
何れも戦場と成る周囲の村全域がこの「絆による陰の力」として協力したのです。
この「陰の力」(シンジケート)は「絆で結ばれる互助組織」であり、これは「氏姓」や「血縁性」や武家や身分家柄に無関係の新たな「氏家制度」に変わる「絆互助制度」を広域に構築したのです。
この段階では、この例に観る様に、既に衆目の知るところでありながら、未だ公然としたものではなかったのです。衆目は「3つの発祥源」の「青木氏」と認めながらも「2足の草鞋策」も積極的に認めると云う不思議な印象と認識を持っていた事に成ります。
それは公然とした目に見える「いかつい軍事力」を背景にするのでは無く、武士から一般の民衆(衆目)の「絆」を「陰の力」として身分家柄に拘らない「互助・協力の体制」を構築したからだと考えられます。真にこれが「青木氏の家訓10訓」に観られる真意だと考えられます。
「絆」を「陰の力」として身分家柄に拘らない「互助・協力の体制」の「長の戒め」を解いたものなのです。その「青木氏は」もとより「悠久の絆」で結ばれた「4つの青木氏」なのです。
この様に最早、特定の範囲ではなく一般の範囲での「半透明な陰」であったと観られます。

第4期
江戸初期から明治期までには「半透明な陰」では無くなり、それは衆目全てが衆知する「2足の草鞋策」と成っていたのです。
そして、それは5家5流の土地の「殖産・和紙」を含む「商い」と「総合商社」を兼ねた「大商い」で摂津堺に大店を構える「海外貿易」をこなす豪商に成長していたのです。
むしろ、最早、小さなながらも本領を護りつつある「3つの発祥源」の「青木氏」から「豪商青木氏」の印象の方が勝る処まで繁栄していたのです。
しかし、衆知の史実と成っていたにも関わらず「3つの発祥源」の「青木氏」は「2面作戦」の形は守っていた様で、「菩提寺」と「青蓮寺」等「3つの寺」を維持していた事と「4つの城」を維持していた事がこれが物語ります。この「3つの寺」と「4つの城」は本領だけでは維持困難であり「商い」には無関係の拠点でありますが、この維持は商いからの補完で成り立っていたのです。
この目的は「2面作戦」の「青木氏の結束の拠点」であった模様である事が記録から判断出来ます。
例えば、これも何度も例として記述していますが、大阪の陣の時、徳川家康は名古屋城で本陣秀忠の東山道掃討軍を待ちますが、この時、この青木氏に対して「合力参戦」を促します。
軍事力としては保持しない「青木氏」に対してわざわざ正式に促したのです。これは明らかに第3期、第4期の記述する「2面作戦」の計り知れない「両方の力」を期待したのです。
3日後に合力を伝えますが、この時、伊勢−信濃のシンジケートと250の手勢(兵ではない)で信濃−伊勢−近江までの進軍路(東山道と伊勢路)の安全確保と食料の補給調達を担当したとあります。(青木氏の分家は豊臣軍に参戦した事実もあり、伊勢より以西は豊臣軍の勢力範囲で極めて危険で真田軍等の戦略が働いていた地域であった)
「軍による力攻め」をするのではなく「青木氏の陰の力」で押さえ込んだのです。
(1) 秀郷一門近江の「蒲生氏」本家
(2) 伊勢の蒲生氏郷
(3) 末裔の特別賜姓族でもある秀郷流伊勢青木氏
(4) 賜姓伊勢青木氏の「2つの青木氏」の融合縁戚力
(5) 東山道は藤原秀郷一族一門の勢力ライン(第2の宗家青木氏の指揮下)
(6) この近江−東山道ライン上に働くシンジケート
以上を確保した事に成ります。
この「6つの勢力」の確保は「2つの青木氏」の「2面作戦」の「陰の力」をオープンに相当に評価していた事を示します。
この後、家康は次男の頼宣を遣わし伊勢松阪で代表の伊勢青木氏と会見をしたと記録されています。
この後、「2足の草鞋策の商い」の「青木氏」は、8代将軍吉宗の「享保改革」の勘定方の協力貢献(吉宗の親代わり伊勢加納氏と伊勢青木氏は縁戚関係で育てる 伊勢加納氏も「2足の草鞋策」で伊勢加納屋を営む)、徳川紀州家の財政建て直しに勘定奉行として協力貢献している事(大正14年まで親交)等を挙げると、これは最早、衆目は”知らない者はない”「透明な陰」と成ります。

ここで、だとすると当然に青木氏の由来や経緯の中に、この「2面作戦」の「殖産・物造り」の何がしかの軌跡があったと考えられます。
それが、上記した通り、即ち「青木氏の家訓10訓」全体の真意であり、とりわけ「家訓8」が、何故に家訓と成っているかはこの事で理解出来るのです。
「家訓8」は武家的でもあり商家的でもありその誡めは両面に渡ったものと成っているのはこの軌跡であると観ています。(家訓8の詳細に付いては「青木氏の家訓10訓」を参照)
特に印象的な事として上記した青木氏の「3つの発祥源」の立場を特別に恣意的に強調していない事です。本来ならばその立場を意識して守ろうとして家訓とするのが普通の常識ですが、そうではなく確かに「立場」に重きを置いている事は認めますが、それが「長」と云うあるべき「人間的姿」を追い求めているものに成っています。
「3つの発祥源」そのものを戒めとするのではなく、突き詰めるとその中の共通する真意である「長:人間的成長の姿」を戒めとしていると観ているのです。
平安初期の頃であれば真に「3つの発祥源」の立場に重点が置かれていた可能性があったと考えられます。平安初期から中期頃に家訓があったかは確認出来ませんが、「象徴紋 笹竜胆紋」と「生仏像様」の「青木氏の遺産の存在」とがある事は何がしかの「戒め」的なものがあったとするのが普通であると考えます。青木氏から光仁天皇が出ていることも考え合わせると無い方がおかしいと観られます。
しかし、明治35年に家訓的なものの資料や口伝や物語る遺品も消失し全く確認は出来ません。
恐らくは1125年代頃に「2足の草鞋策」を採った事に依って、それまであった家訓的なもの(古代家訓とする)が合わなくなった事から見直されて、「殖産・物造り」が加わり「3つの発祥源」を基とする「古代家訓」は論理的に意味を生さなくなったと考えられます。
子孫存続に厳しい時代を生き抜いてきた先祖からすると、この時かなり思い悩み、終局、”「長」と云うあるべき「人間的姿」を追い求めた”ものと成ったと考えます。
この時、同じ立場にあった他の4家4流の皇族賜姓青木氏は「和紙の殖産・物造り」でより強く結び付き連携し、「3つの発祥源の古代家訓」らしきものは霧散して、伊勢青木氏に遺されていた「家訓10訓」が「笹竜胆紋、生仏像様」の下に「青木氏の共通認識」に成って行ったのではと考えられます。
伊勢青木氏以外の賜姓族に補足的な個別の家訓的なものがあったのかは確認出来ませんが、「青木氏」の上記1〜4期の経緯から察するところがある限り「伊勢青木氏」に遺された「家訓10訓」が同族全青木氏の家訓に成っていた可能性が高いと観ており、生活基盤の「殖産・物造り」と思考の規準とする「皇祖神・神明社」を共通認識に成っていて、「3つの発祥源」の立場、「笹竜胆紋と生仏像様」のステイタスを持つ家柄からすると大きく異なる家訓的なものは考え難いのです。
一致結束して「悠久の1千年」を共に全く「同じ道と同じ糧」を求めての「4つの青木氏」と生き抜いてきた事からしてもあり得ないと考えているのです。
伊勢−信濃−甲斐では「笹竜胆紋、生仏像様」、「殖産・物造り」に関わる関係資料が多く遺されているのですが、ただ近江と美濃に於いてはそれを物語る資料が「和紙と殖産」以外には佐々木氏の関係資料以外に信頼出来て裏付けられるものが矢張り見付からないのです。
逆説的に考えれば、同族賜姓族である源氏11代は上記した本道を通らず異なる道を歩んで400年で滅んでいるのです。5家5流がばらばらに源氏の様に異なる道を歩んでいたとすると厳しい環境の中では滅亡は必至であったと考えられます。

「美濃青木氏の疑問」と「紀伊守の検証」
ただ、秀郷流青木氏は兎も角として、5家5流が全て上手く行っていたかは保障が困難なのです。
実は「美濃賜姓青木氏」の末裔が少ない事には多少の疑念を持っているのです。
上記した様に同じ道を歩んだ事は事実であるのですが、少ないとする原因が何なのかを研究したのです。この事から、前回での「たいら族」の「織田氏の研究」にも論じましたが、美濃は不安定地域であって、美濃での源平の激しい戦いに巻き込まれた可能性が一応は高いと観ているのです。
”源氏のような体質的な何かがあったのであろうか”と疑問が湧きます。
此処では最後に遺された3つの源氏(近江、美濃、尾張源氏)さえもが滅んでいる事からして一部の「美濃青木氏」も源氏方に味方した事が原因しているのではないかと考えられるのです。
美濃と近江の賜姓青木氏は、何れも清和源氏の宗家根拠地として近江摂津源氏、全11流源氏の集積地域として美濃−尾張源氏であった事から大きな影響を受けていた事があるからです。
源平の初期の戦いで平族に滅ぼされて近江源氏の一族郎党が美濃−尾張に逃げ込んでいますし、他の関西中部域の圧迫された源氏は美濃の富士川決戦に備えて集結・集積していますので、同族として近江美濃青木氏も同行していて壊滅に近い状態で滅亡した可能性が高いのです。
「近江−美濃」と「伊勢−信濃−甲斐」との間には「笹竜胆紋、生仏像様」、「殖産・物造り」、「家訓10訓」
の多少の「生き様に温度差」があり、「同族源氏との親交差」があったと考えられます。
これは「藤原秀郷流青木氏との親交さ」に起因していると考えられるのです。
数式に纏めると平安末期には次ぎの様な関係式にあったと結論付けています。

「伊勢−信濃−甲斐」→「藤原秀郷流青木氏との親交差」>「同族源氏との親交差」
「近江−美濃」→「藤原秀郷流青木氏との親交差」<「同族源氏との親交差」

「伊勢−信濃−甲斐」→「シンジケート」+「2足の草鞋策」+「藤原秀郷流青木氏」=「抑止力」
「近江−美濃」→「2足の草鞋策」+「同族源氏」=「抑止力」

「伊勢−信濃−甲斐」→「神明社」+「伊勢社」+「笹竜胆紋、生仏像様、家訓10訓」
「近江−美濃」→「八幡社」>「神明社」>「笹竜胆紋、生仏像様、家訓10訓」

この「3つの関係数式」から「源氏力」が低下すれば「近江−美濃」は崩れることに成ります。
その意味では「不入不倫の権」で護られていた事から「伊勢と信濃と甲斐」はその「源氏力」の影響力が少なかったのです。有ったとしても「分家頼信系」ではなく「清和源氏本家頼光系」の守護代地であった事、「2足の草鞋策」、「伊勢−信濃シンジケート」等から独立性が高かったのです。
(甲斐とは無冠の源時光系武田氏系2流ではなく、賜姓信濃青木氏と血縁した別当蔵人の源源光系賜姓青木氏2本流の事)
此処美濃には「秀郷流青木氏」が「源平の緩衝氏」として武蔵を背景に以西に対して最前線でその総力を傾けていた地域であります。その緩衝環境の中で「秀郷流青木氏」以外に一方の源氏に肩入れをする事はそれだけに危険性を孕んでいます。
「源平の緩衝地帯」として止む終えない仕儀であった事とは考えられますが、氏性の「源平の緩衝氏」と地理性の「源平の緩衝地帯」との2つの事を考えると、戦略上”生き延びる”と云う最大使命からは「氏性の緩衝氏藤原氏」に組する事は兎も角も、”「伊勢−信濃−甲斐」−「近江−美濃」の関係強化を「2足の草鞋策」のみならず図るべきではなかったのか”と云う疑問が湧きます。
結果的には、”「藤原秀郷流青木氏」との関係強化”と云う事にも成りますが。
近江には秀郷一門の蒲生氏の定住地であり藤原一門が無かった訳では無く、この蒲生氏は伊勢青木氏と血縁性を持つ「伊勢秀郷流青木氏の祖」でもあるのであり、当時は伊勢にも勢力を伸ばしていたのです
(後に大河内、松ケ島、松阪と3ケ所に勢力圏を伸ばす)。
近江は「たいら族」の東勢力圏内であった事もあり、逸早く「たいら族」に抑えられる宿命を背負っていた事は否めませんが、美濃に引きずられて滅亡の憂き目を受けた事はその「生き様」に間違いがあったと考えられます。むしろ「不入不倫の権」の領域の「伊勢青木氏」に逃げ込むべきであったと考えられ、「たいら族」は伊賀本拠地と青木氏との親密な関係もあり手は出せなかった筈です。
(現実に以仁王の乱の時には手を出さなかったし、主謀者頼政の孫の2人を助命嘆願を受けているし攻めなかった 頼政さえも松阪に向けて逃亡しているし、孫京綱を伊勢青木氏の跡目に入れた事は「たいら族」は攻めないと観ていたからだ)
では、”何故逃げ込まなかったのか”疑問と成ります。
それは美濃に集結した事で、未だ、「美濃−尾張−甲斐」などの青木氏と源氏と坂東勢力の秀郷一門も味方して美濃域で「たいら族」と戦い支える事が出来ると観ていた事に成ります。確かに坂東八平氏を背景に支えて勝利しますが、その前に現実には「富士川の大激戦地」となり、集結した近江−美濃−尾張−木曽−新宮等の多くの源氏と近江−美濃の青木氏は潰されてしまうのです。
源氏に大きな犠牲を払い過ぎてその5年後に頼朝は勝利します。
結局、殆どの源氏が滅亡して立ち上がることさえ出来ない程に勢力低下を起こし、その2年後に全源氏族は皇族第7世族の坂東八平氏に抹殺されるのです。
「近江−美濃」の青木氏は何とか、”「伊勢−信濃−甲斐」の青木氏と秀郷一門の伊勢秀郷流青木氏と近江蒲生氏の援護・保護の下にて本流は滅亡しましたが末孫は生き延びる事が出来たのです。

この一帯には「皇族賜姓美濃青木氏」とその流れの「土岐氏系青木氏」の2流が定住している筈ですが、この2つの系統では明確には存在は確認出来ないのです。土岐氏は、未勘氏や第3氏は別として、史実として明らかに完全滅亡していますので、同系列と成った賜姓族の土岐氏系青木氏も先ずは滅亡としたと考えられます。

「皇族賜姓美濃青木氏」の確認
問題は「皇族賜姓美濃青木氏」の確認が取れないのです。筆者は存在していると確信しています。
それは「和紙」の関係調査から「みの和紙」は平安期から明治期まで「有名な和紙」で和紙に関係する人であればよく知っている和紙です。「みの和紙」の商人の青木氏は確認出来ていますのでまず間違いはないと考えられますが「笹竜胆紋」の「皇族賜姓美濃青木氏」の確認が取れません。
家紋などの氏家制度の仕来りから考証には一部に疑問が残る事と、この地域は「下克上、戦国時代、一揆」など混乱の大きかった事から伝統や資料や遺品や記録が青木に関して存在しないと云うのが現状です。土岐氏系の伊川津7党の青木氏等がありますが未勘氏とも観られます。
そこで戦略上で観て岐阜と愛知の国境域に賜姓美濃青木氏の末裔が現存していると観られる事から、本流は別として、伊勢と美濃と尾張の秀郷流青木氏の影響が背後に働いていたので支流末裔が生き延びられたのではないかと考えられるのです。

実はこの域には前記した「皇族賜姓美濃青木氏」と「秀郷流青木氏」の血縁氏の「融合青木氏」現象の強く起こっている地域でもあるからなのです。
家紋から観ると、多くの「秀郷流青木氏」が最もこの地域に集中している事もあり、その結果、つまり判別が付かなくなっている事もあるのです。
「皇族賜姓美濃青木氏」は集中する秀郷流青木氏に吸収されていて「融合青木氏」と成っている地域であると観ているのです。
むしろ平安末期から鎌倉期に生き延びる為に大勢力の秀郷流青木氏の中に戦略的に溶け込んで行った、或いは最も生き延びるには厳しい地域であった事から秀郷流青木氏が保護したと観るのが妥当では無いかと考えていて家紋考証からこの説が納得できるのです。

もう一つ美濃には、西側で隣接するは「員弁や桑名」には伊勢青木氏が集団で多く存在しています。
場合に依っては「源平の混乱期」に末裔が伊勢青木氏を頼って逃げ延びて来た事が充分に有り得ます。それは平安末期からのシンジケートの存在がこの事を裏打ちしている筈です。最も肝心な事にシンジケートが動かない筈は有り得ません。又伊勢−信濃の青木氏が動かすのが普通です。
特に、信濃青木氏や近江青木氏との繋がりが「和紙」と云うキーワードで調べると明治期まで強く確認出来ることから連携はかなりのものであったと考えられます。
江戸中期から明治初期に掛けて起こった伊勢−美濃−尾張の大一揆には、「2足の草鞋」の青木氏と伊勢加納氏が経済的背景としてシンジケートとして関わっていた事は記録から明らかですので、上記の2つの説は何れも同時に動いたと考えられます。
美濃の青木氏は和紙に関わっていた青木氏である事は間違いはないと考えられます。

調査の疑問点は「融合青木氏」の特長ですので生き延びていた事を実証出来るのではと考えます。
美濃−尾張では源氏系列は滅亡していますが、矢張り「殖産・物造り」の青木氏は生き延びていた事に成ります。明治35年まで美濃−近江との「和紙」で付き合いがあった事が確認出来ていますので、この相手が美濃と近江の「賜姓青木氏の末裔」である可能性ありますが、青木氏に関わる「家臣団の未勘氏」か「絆による第3氏」か「徒弟制度の青木氏」か「融合青木氏」かの判別が付かなくなっているのです。
家紋からある程度の判別が就きますが確定は困難な状況です。

問題は室町末期の美濃境に定住していた伊勢青木氏とも観られる「青木紀伊守一矩 従五位左衛門佐」が確認出来ます。秀吉に任じられて越前府中北の庄8万石の領主(徳川除封禄記載 末裔は若狭−越前−越後−陸奥等に逃亡)の存在から観て、この本家筋の問題は兎も角も支流としては確認出来ますので、伊勢青木氏の「融合青木氏」の可能性も高い事が認められます。

(青木紀伊守一矩の検証)
(紀伊守には諸説あり搾取偏纂に多く利用されていますのでここで青木氏として一度整理しておきます)
先ず丹治氏と言う説もありますが、丹治氏系青木氏は徳川方に味方して麻田藩摂津4万石を獲得しているのでこの説は搾取偏纂説であることは間違いありませんし、この丹治氏はこの従五位左衛門佐の冠位官職位は得られません氏、家紋も丹治氏は青木富士山に三鱗主紋(霧紋もある)で異なります。

筆者は鎌倉期以降に美濃境の員弁域に定住していた「青木紀伊守」は、その冠位官職の「従五位左衛門佐」の六衛府軍の永代最高職を持っています事から、これを前提とすると伊勢青木氏系以外には無いと考えますが、美濃青木氏は宗家本家は滅亡していますのでこの冠位官職は本来は継承できません。
伊勢青木氏一族で、豊臣方に分家筋の形で「紀伊守」として合力したとした青木氏の資料には記録があり、これと同時に伊勢青木氏の「青木伊賀守忠元」が合力し越前坂井郡丸岡4.6万石を領し豊臣に味方したと記録もあります。また「青木民部上尉信定」が徳川方に合力したと記録があるところから、伊勢青木氏本家筋は徳川方、伊勢青木分家筋として忠元が豊臣方に合力し、伊勢−美濃青木氏(融合青木氏)が豊臣方に味方した事に成ります。
つまり、信長の時は伊勢青木氏本家筋は「3つの発祥源」の立場から千年もの間常に中立を保っていたが攻められ、秀吉が柴田氏を滅ぼした時には秀吉に「紀伊守」と「伊賀守」は合力しました。この時、立場上、伊勢青木氏本家筋は二つに分けて「青木民部上尉信定」は中立を保ち、天下分け目では徳川方に味方したと事に成ります。

又、別説の清和源氏の義光流系青木氏がありまして、近江甲賀郡照養寺には義光より16代青木下野守祐清は足利幕府に仕え、その末裔青木紀伊守8万石は豊臣に仕えたとする説もあります。、
更に別説では近江甲賀青木氏の女がいて、その女は武田勝頼の嫡男信勝の妾となり、懐妊して近江に甲賀に帰り青木新五郎を産み、この者は豊臣に仕えて四国に任じられたとする説もありこれを紀伊守だとしています。

この3つ説には系譜の繋がりの確証が取れない事と家紋が異なります。
義光流青木氏の場合、武田氏の系譜には多くの疑問矛盾が定常的ありますのでの俄に信じ難いのです。特に義光系青木氏とは何なのか不明です。義光系青木氏には源の源光なのか源の時光なのかはたまた誰なのかはっきりしません。
青木別当蔵人は確かに源の源光ですが、源光ルーツは明確ですので「紀伊守」は疑問ですし、もしそうだとしたら家紋は笹竜胆紋ですが、「丸に揚羽蝶木一文字」と違っています。
これは源氏と青木氏の家紋継承の慣習に一致しません。当然に搾取偏纂で寛政系譜や寛永史でも第3氏とされています。
時光系は無官の青木氏ですので、上記の冠位官職は得られませんので異なりますし、時光系青木氏も武田氏系ルーツが完全に解明されていますので異なりますので搾取偏纂は明らかです。
「紀伊守」の末裔と観られる子孫が越前を中心に各地に分布していますが家紋は全て異なっていて統一していませんが、その中でも越前の末裔が主家と見られます。この家紋が「丸に揚羽蝶木一文字」です。
(越前には「丸に違い鷹の羽」系もあります。)
「紀伊守」は新五郎説とする説は余りにも唐突で家紋、冠位官職、発祥地、出自、生没も全て合いません。この手は搾取偏纂には良く使われる手で全く信用根拠がありません。
「青木紀伊守」が持つ史実を無視しての我田引水のこの様な多くのルーツ説が室町末期から江戸初期にかけて実に多いのです。
恐らく当時の社会がそれを「チェックする機能」や「人心の無関心さ」があったものと観られ、搾取偏纂する側も”ある限定した範囲での家柄搾取が通ればそれでよい”とする安易な感覚もあったと考えられます。
「寛政系譜」等では比較的この点を厳しく査定している様で当時としては珍しい書籍です。
社会のこの様な風潮が充満しこれを厳しく批判していたのではないでしょうか。
その証拠に信頼出来うる史書や書籍には疑わしきは”「後勘に問う、後勘に備える」”と記述追記しているか「添書」を添えています。

(何度も論じている事ですが、例えば、個人の系譜を自分の家柄に都合良く見せる為に搾取偏纂した。それを暫くは一族に隠して公表せず何代か後に遺品整理していたら箱から出てきた。子孫は身内を疑う事も当然に無く、疑うだけの歴史雑学の知識も無く、これを信じ切って後生大事に更に末裔に伝える。これでこの系譜は末裔にとっては実しやかに史実と成る。「姓氏」の処まで系譜が掴めない情報量の無い社会であったのに、まして菩提寺や守護神も持たない「姓氏」のルーツをどの様に管理できたのかも考えずに、江戸期を越えて鎌倉期までこの様に系譜を搾取している状況を観る事が多い。
現在では中には最たるものとしては書籍やマスコミも時代考証と検証をも行わずそれを信じて演出しているものも多く見かける。「姓氏」は最古でも海部氏と室町期後期発祥であるのに。 云いたい事は近江青木氏と美濃青木氏はこの搾取に惑わされてしまった事なのです。これを元に戻すには資料も無くなりつつある中で最早自らの努力で青木氏が行う以外に無くなっているのです。)

そこで、伊勢−美濃青木氏の「融合青木氏説」を採る筆者の説では、”では何故、親族の「紀伊守」がいる伊勢青木氏を信長は「伊勢丸山攻め」をしたのか”が唯一疑問と成ります。
美濃域の伊勢−美濃青木氏(紀伊守)の定住地は美濃の織田氏との国境域である為に織田氏に家臣と成り合力体制を採っていましたが、この攻めると云う事は、信長が「紀伊守」を「伊勢青木氏」とは見ていなかった事を意味します。
然し、実際は直接に伊勢青木氏を攻めてはいないのであり、丸山に前線基地の城を築き伊勢一帯の征圧に乗り出したもので、伊勢青木氏側も伊勢−信濃シンジケートがゲリラ戦でこれに対抗した戦いであったし、「伊賀攻め」も「永嶋攻め」も「北畠氏攻め」も「松阪攻め」も伊勢青木氏は「シンジケート」による「間接的参戦の合力」であったのです。最終、信長没後に秀吉の命にて蒲生氏郷による「松阪攻め」の「直接戦」も伊勢の秀郷流青木氏は氏郷末裔であり、且つ、伊勢秀郷流青木氏は伊勢青木氏とは親族関係にあることから「一時無戦撤退」の形を採り1年後に戻され5万石程度の本領安堵されています。
信長−秀吉の「伊勢攻め」に関しては実態は「直接抗戦」は無かったのです。
そもそも信長に取ってみれば伊賀は信長のルーツの「たいら族」の根拠地でありながら攻めたのですからそのような関係には無頓着な戦略を採っています。織田氏親族をも意に背けば滅ぼすのが彼の常道でまして家臣の親族ともなれば論外と成ります。
(「伊賀攻め」の際には実戦は落城寸前に名張の側面からシンジケートの軍が側面を突いたのみ)
依って、この疑問は解けます

「紀伊守検証」(纏わる諸条件)
次ぎはそもそも「紀伊守」の家紋とする「丸に揚羽蝶木一文字」は主紋の揚羽蝶は伊賀を根拠地にする「たいら族」の綜紋ですが、「丸付き紋」は家紋継承の慣習では「たいら族」は採用していません。類似副紋方式を採用していますので疑問です。そうなると、美濃−伊勢域の「たいら族」の血筋を一部に受けて家紋掟にて変紋を余儀なくされた事を意味しますが、この時、「たいら族一門」ではない為に「丸付き紋」とした事が考えられます。
「笹竜胆紋」は、美濃青木氏が滅亡して傍系支流分流の血縁末孫(木一文字紋)の伊勢青木氏との血縁氏であった事から継承できずに、「たいら族」の血筋の揚羽蝶の家紋に丸を付けて類似副紋を木一文字として採用したとすれば「伊勢−美濃の融合青木氏」の家紋とする事が出来ます。
「紀伊守」は織田氏(信長)にも仕えた事から織田氏の綜紋「たいら族」揚羽蝶紋とも何らかの血縁による因縁があったとも推測されます。
柴田氏の領地(49万石)の府中8万石、北の庄の20万石を秀吉から与えられる身分であった事等のこの因縁は否定出来ません。同様に伊勢青木氏の青木伊賀守忠元も越前の坂井郡丸岡4.6万石を秀吉から与えられている事を考え合わせると、「青木紀伊守一矩」は伊勢−美濃の青木氏以外にはこれだけの領地を2度に渡り与えられる事はあり得ません。織田家家臣一統の中でも相当な立場と軍功が無くては有り得ない事です。依って揚羽蝶の家紋は織田家との因縁は完全否定は出来ません。少なくとも何らかの関わりがあった事を意味します。
それには「住域は伊勢伊賀のたいら族隣」、「美濃のたいら族の織田氏」、「員弁桑名の伊勢−美濃国境域の住人」、「美濃南域の木一文字の土豪の家紋分布域」、「丸付き蝶紋は織田揚羽蝶の使用」、「祖先神神明社」の伊勢−美濃に纏わる条件が附合します。
(判別条件)
揚羽蝶紋の見分け方はその「足の数」、「輪郭」、「姿勢」、「羽根模様」の4つで判別しますが、この丸付き紋にはこの「4つの判別条件」をいろいろ組み合わせた文様が多くあります。
そこでこの「丸に揚羽蝶紋」は「織田蝶」ではなく「伊賀たいら族」の文様そのものでして「判別条件」の4つが全一致採用しているのです。
正真正銘の「伊賀たいら族宗家筋の揚羽蝶紋」なのです。
このところから「丸付き紋」はそもそも直系孫ではありませんが、何らかの関係性を持つ青木氏である事が云えます。
(丸付き紋)
丸付き紋使用は「家紋掟」により「6つのパターン」があります。
例えば、「笹竜胆紋」も「丸付き紋」は使用しません。然し、「丸に笹竜胆紋」が存在する理由として次ぎの事があります。
青木氏宗家のその末裔が直系孫ではないとして次ぎの4つがありえます。
A 嗣子であるが罪などを犯して除籍された者の場合
B 妾子や配流孫である場合
C 血縁子であるが一族として認めがたい事情がある場合
D 5つは未勘子や第3氏や明治期の不特定氏の使用の場合です。
以上の場合に宗家本家が「丸付き紋の使用」を強制する事に成ります。

この場合のその青木氏の見分け方は竜胆の花の下の軸の部分を正紋と区別する事に成ります。
同様に、丸付き紋の揚羽蝶紋もこの掟に従いますので、「4つの判別条件」が揃っていますし、それが「たいら族」の一門の者では無く「伊勢青木氏」ですから、Cの場合に成ります。

「伊勢青木氏の分家」が経緯として「伊賀のたいら族の分家」から養子を迎えたが嫡子が出来ずに女系と成り、結局家紋掟により変紋を余儀なくされた。しかし、「青木氏」と「たいら族」は平安末期に敵対関係にあり、一族の手前上、養子先の「たいら族宗家」は「揚羽蝶の家紋」の使用は認める事が出来ないと判断し、妥協案として「丸付き紋使用」を許した事に成ります。(当然許さない時もあり得る。)
この場合は普通は「4つの判別条件」のどれか或いは全てを変える事に成ります。
然し、この「紀伊守」の「丸付き紋」は4つ共に全く変えていないのです。
これは相当な信頼関係が成り立っていた事を意味します。
「紀伊守」は”「従五位左衛門佐」の六衛府軍の永代最高職”の平安期初期からの青木氏だけそのものの冠位間職位を保持している事からもこの「血縁関係」の仕儀は納得出来得ます。
伊勢青木氏の宗家筋の者であればAからCに関わらず「笹竜胆紋」を継承し続ける掟ですが、変紋は名張や伊賀や員弁や桑名や脇出や四日市の分家筋一門と云う事に成ります。
これに上記の「伊勢−美濃に纏わる条件」を加味すると、伊勢−美濃の「融合青木氏」である事に成ります。
(「冠位官職位」を継承)
そうすると、伊勢青木氏の宗家嫡子が「冠位官職位」を継承する事に成りますから、もう一つ”「従五位左衛門佐」を名乗っている事はもう一つ先祖伝来の「冠位官職位」を継承しているものが伊勢青木氏系の中にある事を意味します。つまり、これが伊勢青木氏系の美濃青木氏(「融合青木氏」)が継承していた事を意味します。と云う事はこの事から、美濃青木氏が「源平の戦い」の「富士川の激戦」前で「美濃青木氏」の一族が滅亡したのですが、この中から「伝統の永代冠位官職位」を継承し得る「嗣子の者」が隣の伊勢青木氏に逃げ込んだ事を物語ります。伊勢青木氏だけが「源平の戦い」の追手から逃れられます。
(信濃青木氏に逃げ込むのも一策と考えられますが、知行国越前より「美濃のたいら族」を助けに主力が南下して来ていますので帰る方向の信濃方向には危険であったのです。)
当然に信長の8−20万石を領する家臣に成り得る勢力を持ち得ていたのですから、この時この嗣子を護って美濃青木氏のかなりの数の重臣も同行していた事に成ります。向後、伊勢青木氏と同族血縁をして伊勢青木氏の中に組み入れられ鎌倉期から室町期中期まで生き延びていた事が判ります。
そして、前記で論じた織田氏の勢力経緯で美濃尾張の守護代と成った時に美濃境界に住していたこれ等の家臣団は嗣子を押し立てて織田氏に合力して独立した事に成ります。
恐らく、伊勢青木氏に逃げ込んだ時から織田氏に合力した時の家臣や兵力までも伊勢−信濃シンジケートに擁護されての事であった事が考えられます。
この「融合青木氏」は鎌倉期から室町末期まで350年間は「伊勢青木氏」の扱い受けてその保護下いた事に成ります。伊勢青木氏は前記で論じた様に当然に伊勢秀郷流青木氏と美濃秀郷流青木氏の抑止力を受けて護られていた事からこそ、故に「伊勢青木氏」や「近江佐々木氏」や「伊勢秀郷流青木氏」の資料に何らかの形で遺されているのです。(「伊勢青木氏」に組み込まれていた事を物語る)
そうなるとこの記録からは、「伊賀たいら族」と関係性を強く持っていたのは唯一伊勢青木氏でありますので、他に関係性を持ち得るのは後は「美濃青木氏」ですが、「源平の美濃戦い」で滅亡しているし、「美濃青木氏」の「生き延び方」としての「たいら族との独自の血縁」は、一食触発の緩衝地帯でもあったし、厳しい敵側であったのでこの血縁は難しいことに成ります。依って家紋検証と記録との矛盾が起こりこの件は消えます。
故に、これが筆者が伊勢青木氏系に入れている根拠の一つなのです。
つまり「員弁−桑名域の伊勢青木氏系」と成りますが、「系」としたのは「伊勢青木氏」は、この家紋は直系孫では慣習上あり得ませんので、南の四日市の秀郷流青木氏との「融合青木氏」と同じく、「家紋掟」により家紋は近隣豪族の家紋と成っています。依って慣習に一致しない事から「美濃青木氏」との「融合青木氏」である事に成ります。家紋から観た場合美濃に纏わる条件に完全に一致するのです。

(「皇祖神の神明社」)
そこで他氏と判別でき得る絶対条件として、「青木氏の守護神」の「祖先神の神明社」の存在です。
美濃青木氏は後述しますが「美濃の源平の戦い」で神明社を消失しています。
依って鎌倉期から室町期末期までの間は美濃の神明社は建立する事はその勢力、能力、立場からもありえません。伊勢の四日市の神明社の2社と本宮伊勢神宮3社が守護神になっていた筈です。
そうすると、その後、信長に合力したのは尾張守護代の頃1545年代から北の庄の時代30年間程度、北の庄から関が原までの間20年間程度の何れかに成ります。
後述するデータから全期30年間の定住地にはこの年代に立てられたと観られる神明社は発見できないのです。次ぎは後期20年間の北の庄でこの時代までに建立された北の庄には分霊神明社は2社確認されます。
(現在の福井市域に祠を含む神明社関係大小23社あり、建立地域は5ブロックに分けられている。 この時代までの福井市近効で主な分霊社は8社と観られ、該当するのはこの2社のみ。 データは後述)
建立する能力としては後期20年間にしかないと考えられますが、5年程度を建立に要します。
この2社の内一つは924年代の平安期に建立されています。(福井市宝永)
もう一つは明確ではないが建物形式より1585−1595年代と見られます。(福井市・)
関が原は1600年ですからせいぜい豊臣方の趨勢は見えていた筈ですから、1590年以降には立てられない事が判ります。北の庄に赴任して直ぐに建てたと成ります。1585年はぎりぎりの年代と成ります。
2者択一で難しいのですが、そうすると”何故同じ所にもう一つ神明社を建てたのか”と言う疑問が重要に成ります。
924年代の越前のこの分霊神明社は、陸奥に865年に陸奥征圧を記念して阪上田村麻呂が桓武天皇に命により、桓武天皇と阪上田村麻呂の同没の直前に建てたものに継ぐ最も古い神明社で、これ以後その全国統一した証しとして主要各国に建立したものです。この50年後に建立した分霊神明社は、伊勢神宮の正式な分霊による朝廷の命による下克上の洗礼や戦国時代の焼き討ちにも逃れられた有名な「越前神明社」です。歴史上に遺された「祖先神の神明社」です。
依って、この分霊神明社を紀伊守の美濃青木氏が「氏の守護神」として復活して使う事には問題が出ます。
そうすると、守護神として同地域内にもう一つ建立する事以外に無く成りますので、1585年代の神明社が紀伊守の美濃青木氏の分霊神明社と考えられるのです。現在では「不祥扱い」にされている為に最終の確認が採れませんが間違いはないのでは無いかと見られます。
(しかし、神社はなかなか建立者や建立年代等を明確にしないのが慣習なのです。又古社はそれまでの歴史的混乱にて殆ど不祥に成っている事由もあるのです。)
そうすると、紀伊守説を搾取引用している多くの他説の氏は「姓氏」ばかりですから、現実に「祖先神」ではありませんので搾取で完全排除出来ます。
(青木伊賀守も坂上郡丸山に同時期に分霊神明社を建立している)
ところが、氏として観られる佐々木氏系の「滋賀丹波青木氏説」に付いては、この様な検証は行われず、且つ重要な青木氏のみが持っている情報がありませんので、家柄搾取偏纂の行為の説に成ります。
特に、「祖先神の神明社」の条件を検証する事で以下の全ての説には青木氏にとっては「紀伊守の件」では検討するに値しません。

(搾取偏纂の真意)
神明社の事でも明らかですが、これには次ぎの別の意味を持っているのです。
秀吉立会い面前にて200の兵を以って近江青木氏と滋賀青木氏が「滋賀青木氏の名籍」をめぐって「争いの決着」をつけました。勝利した側の青木氏が滋賀青木氏の名籍を獲得継承する事が出来る事としたのですが、結局、滋賀青木氏を名乗る側が勝利します。これは元上山氏の青木氏と近江青木氏との戦いで近江青木氏は滋賀の断絶名籍を奪われる事となったのですが、この戦いが秀吉との関係からこの青木氏が「紀伊守」と間違われているのです。否、ある目的を以って恣意的に間違っているのです。
又、豊臣側系譜作成上で「従兄弟説」に付いても恣意的に上手く利用されて搾取偏纂されたのです。何れも弱味につけ込まれたのです。
これは豊臣家をより良く思わせる為の工作劇であったと観ていて、鎌倉期にあった過去の事件に模して戦わせて、”「青木氏の名籍」が豊臣家のルーツの中にあるのだ”と印象付ける演出であったのであって、その為には「戦い」をわざわざゲームの様に仕立て自らが立ち会うと云う演出までしてのけたのです。
何処にでも常に起っている「名籍争い事件」であれば秀吉自らが立ち会う必要など全く無い筈です。
其処が「朝臣族青木氏」と云う所に意味があったのであって、それを縁者と見せていた家臣の元上山氏にさせたのです。この時点では上山氏は衆目の知る範囲ではなったのであって、”縁者”と衆目に思わせてる為に足軽であった者を秀吉に取り立てられてわざわざ現地の丹波に住まわせて準備万端にして「青木美作守家頼」と名乗らせていたのです。
(上山郷の農民であった事は「丹波志」の資料から判明 丹波青木氏は元は上記した佐々木氏系近江青木氏)
これに更に柴田氏の所領跡にわざわざ「青木紀伊守」と「青木伊賀守」の青木氏ばかりを宛がい与えて、更には上記の滋賀丹波には上山氏の青木氏を与え宛がえて演出して強く青木氏を衆目に印象付けたのです。主だったところに皇族賜姓族と衆目から見られている青木氏を配置したのです。その上で皇族に繋がる系譜上の演出の為に、又、秀吉は、天皇の子供を湯殿女であった母が懐妊して里に戻り産んだ遺子であるとする系譜さえ作る程の搾取偏纂に徹していたのです。周囲の親族も近江青木氏や近江佐々木氏等の断絶名籍を狙って系譜の中に入れる事は当たり前の仕儀であったのです。
ここに紀伊守が持ち込まれて美濃青木氏の鎌倉期滅亡後の後の出自がややこしくなってしまったのです。

(注 滋賀青木氏の名籍は近江青木氏が滋賀に移動定住した時の断絶名籍であった。滋賀青木氏を元上山氏を名乗る者がこの名籍を奪った事件 よく似た事件が鎌倉期にもあり、近江青木氏と美濃青木氏に限りこの「断絶名籍」を狙った事件は室町期から江戸初期までに数度起こっている。
実は、平安末期からこの類似事件が起こっていて、元上山氏が美作守家頼の時に丹波にて青木氏を名乗った搾取事件があり、その後には関西のこの元上山氏の青木氏と関東の元上山氏のこの青木氏が名籍争いも起している。他に元上山氏の青木氏だけによる本家名籍争いも他に2件も起こっている。)

この青木氏は佐々木氏より出自した佐々木氏系青木氏で、佐々木氏が北陸、越後、近江、山城、大和、淡路、阿波、土佐、伊予、石見等11の守護地を建仁3年から承久3年の19年に掛けて守護職歴任、この時に各地に同行したこの佐々木氏系青木氏の一族の末裔一部が残留したものでこの中には名籍断絶もあります。丹波氷上郡友政城はこの末裔青木久政の居城ですが、この様な名籍が四国地方に多く残されているのです。この佐々木氏系青木氏の一族からは更に枝葉として「多々良姓青木氏」が出自しています。
この佐々木氏系青木一族が各地で実に「名籍争い」を起こされていて、記録から室町期末期から江戸初期に架けて他に5件も確認出来ます。秀吉面前での近江青木氏の名籍争いはこの中の一つであります。
紀伊守の「秀吉の従兄弟説」があるのはこの事件より拡大解釈した搾取偏纂説で賜姓青木氏か特別賜姓青木氏以外には名乗れない「従五位左衛門佐」と、この氏の家紋は「丸に揚羽蝶に木一文字」である事から従兄弟説等は、”みえみえの明らかな搾取偏纂説”であるのです。”みえみえ”を承知の上で搾取偏纂しているのです。
(川島の皇子を祖とする近江佐々木氏の事で、宇多天皇系の滋賀佐々木氏より青木氏は出自なし これも間違われている)
依って、この家紋などからも明らかに「青木紀伊守」は伊勢−美濃の「融合青木氏」である事に成ります。
青木氏としては乱され搾取された部分を自らこれ等を紐解きなおして解明しておく必要があると考え、敢えて分類では、今まで筆者は「伊勢青木氏」として論じていますが、「青木紀伊守」は青木氏資料からも佐々木氏資料からも「源平の戦い」で滅亡又は衰退した美濃としての青木氏と観る事が出来るのです。
敢えて、ここで論じました。
(加賀前田氏を頼った越前にて本家現存 分家筋は越後、陸奥、土佐、讃岐、阿波、安芸、中には肥前に避難 主に鎌倉期以降の近江佐々木:近江佐々木氏系青木氏の守護職の赴任移動先に叙封後逃亡している)

(近江青木氏の背景力」)
「美濃青木氏」と「近江青木氏」とが組み込んだ搾取偏纂説が多く起るほどなのですが、何れも一族か衰退して「断絶名籍」が起りそれを狙われたのです。しかし、近江は近江で別なのです。
「近江青木氏」の方は、上記した様に「名籍争い」が多く起こり、合わせて「名籍の搾取偏纂」も多く起こっています。
親族の「近江佐々木氏系青木氏」が「近江佐々木氏」の助けで宗家である「近江青木氏」の名籍を護ろうとした事件です。現実には一時は平安期には「近江佐々木氏」と「近江青木氏」が同族争いを起し、滋賀に一族が移動しますが再び戻ったのです。この後、摂津に定住しますが、「近江佐々木氏」が「近江青木氏」を護った事件なのです。この滋賀移動時の「断絶名籍」を巡って元上山氏に食いつかれて搾取の事件が幾つも起こったのです。

「徳川氏の源朝臣」の搾取
この様に「断絶名籍の搾取」はみえみえの搾取偏纂であっても、”時代が過ぎるとそれは正当化する”と云う傾向があります。
因みに徳川氏は、幕府樹立の条件として「源氏」か「青木氏」の朝臣族で無くてはなりませんが、これを獲得する為に南北朝の第6位皇子を作り出し、その皇子が比叡山門跡僧侶となり全国托鉢の旅に出て三河の松平氏の門前に立ち逗留して娘との間に子供が生まれた。それが16代目の源氏遺子だとしていてその3代後子孫が家康だとしているのです。このストリーは明らかに搾取偏纂である事は判ります。
そもそも源氏は11代目花山天皇までであり、その以後の第6位皇子は皇子数が少なく無く天皇に成る者等も少なく苦労している時で、まして「南北朝」でもめている時です。且つ、松平氏と「時代性」をあわす為に採った苦肉の策で源氏賜姓の意味は最早この時期は南北朝では無く成っていたのです。
その為には12代から16代までの賜姓源氏を作り出す事が必要に成りますが、この12から16代までは現存しない人物で、幕府樹立際にこの旨を申請して天皇家から搾取である事が明らかであるので却下されます。
これに対して天皇家に対して生活も侭成らないほどに徹底した経済的圧力を掛けて認めさせます。
嵩に掛かって、更に2つ目の条件の「武家の頭領」も認めさせようとしますが、さすが天皇家も頑としてこれを認めませんでした。そこで徳川氏は「武家の長者」で妥協して認められ幕府は樹立します。
時代が過ぎると、この事は人々の意識から遠ざかり恰も「源氏朝臣」が「搾取」から「事実」の様に成ります。これが世の常であり、現在に於いては「時代考証力」の低いマスメディアはこの「搾取の時代遍歴」を信じて「正」として「源氏朝臣」と徳川氏が成っているが現状です。
注 然し、この事に付いては少し違うのです。
徳川氏側はこの搾取偏纂には自らは酔ってはいない事実があるのです。その証拠を伊勢青木氏だけが掴んでいるのです。
実は、家康の次男扱い頼宣が紀州徳川氏と成り、飛地領伊勢松阪で伊勢青木氏と面談した時に頼宣は上座から下座し座布団を外し儀礼の挨拶を伊勢青木氏に採ったと伝えられていて、この慣習は筆者祖父の代の大正14年まで続いたと聞かされています。
普通なら「源氏朝臣」であると信じていれば、否、信じていなくても、「時の最高権力者」であり、天皇家に認めさせた直後でもり、まして唯一遺されている青木朝臣族の賜姓伊勢青木氏で有っても、むしろ逆に無理にでも「源氏朝臣」を威圧的に認めさせて世に知らしめたい処です。正式な面談ですから少なくとも同位であるので、同座か又は”無礼者”で処理される筈です。家臣も黙ってはいなかった筈です。
しかし最初から家臣も平伏して「上座下座の問題」が解決する長い間を頭を上げなかったと伝えられていて、面談の間までの家臣の扱いは”極めて鄭重過ぎた”と伝えられているのです。
家康が最も信頼した紀州藩初代次男扱い頼宣がそのようにしたのです。それも伝え聞く一癖のあった頼宣がその様にしたのです。これは頼宣個人の思惑では無かった事を意味しています。兎も角も先祖は少なくとも座布団を外し同座を主張して押し問答と成ったとあり、この間、列座する家臣は平伏のままであったと伝えられていて、結局、同座で落ち着いたとあります。
以後、先祖は頼宣以降15代まで、南画、禅問答、俳句、漢詩、和歌、茶道の師を務め、政道の話し相手を祖父の代まで累代で務め、この時の慣習が引き継がれたとあります。
つまり、完全に違って逆だったのです。だから、筆者先祖も驚き「稀有と尊敬の念」を抱きその事を後世に伝えんとしたのだと思うのです。
また特に、8代将軍吉宗の代には伊勢青木氏と伊勢加納氏は「育ての親代わり」(伊勢青木氏と伊勢可能氏は親族関係にある)として関わった事もあり、また吉宗の「享保の改革」の裏方(直接の経済学の相談相手 御側用人扱い 加納氏と同等)として江戸で経済改革を主導したと伝えられ青木氏と紀州家に記録に残っていますし、吉宗の郷里の「紀州藩の財政改革」も平行して伊勢青木氏が依頼されて断行したと記録にあります。これも「2足の草鞋策」の所以であり、徳川氏の家臣でなかった為に家臣面前でも「布衣」をつけての特別待遇であったと伝えられています。謝礼として「十二人扶持」を5万石の大地主で紙問屋を営む襲名伊勢青木長兵衛は代々受けていたと記録と口伝で伝えられています。
この「享保の改革」の時に伊勢青木氏と共に信濃青木氏も協力して江戸にその子孫を送り遺しています。

この様に吉宗も「伊勢−信濃の関係」をも掌握していた事が判ります。(江戸6流の青木氏が定住 有名な青木六左衛門は筆者の先祖)
この事(徳川氏の上記経緯:源朝臣)は「幕府樹立」と云う「国の安定」の為の「権威擁立手段」に過ぎなかった事を意味します。「源朝臣」と成った以上は源氏11代は滅亡しているので、上位は傍系化した近江と美濃を除き伊勢、信濃、甲斐の賜姓青木氏と藤原秀郷流の特別賜姓族青木氏のみがそのルーツを保全維持していた事に成ります。
逆に言えば、上記の事は、徳川氏は、源氏の様に武力的権威に溺れず「家訓10訓」を護り「表の氏」に成るのではなく「3つの発祥源」として「神明社」を護り「悠久の年月」を「地道」で歩んで生残った「特別賜姓族」を含む青木氏の立場を認めていた事を物語ります。
故にこの儀礼を敢えて江戸時代末までに成っても徳川氏は守った事を意味します。特に頼宣と吉宗の代が最もその関係が強化されていた事が判ります。

「時代の慣習癖」
この様に「時代の慣習癖」を見越した上で、各氏は室町末期から江戸中期頃まで恣意的、故意的にこの「時代習性癖」を悪用して家柄呼称や系譜に搾取偏纂が横行したのです。そして、現在では何がほんとで何が嘘なのかも判らない様に成ってしまっているのです。
特に「系譜」に付いては「個人所有の系譜」は殆ど搾取偏纂であり、本来はその「氏の菩提寺」が所蔵保管しているもので過去帳と共に個人が書き記して行くのではなく寺が間接的に書き記して行く方式が本来の形なのです。「姓氏」の不特定の姓の「檀家寺」ではなく「氏」を形成し「氏の菩提寺」か青木氏の様に「氏の祖先神の神明社」を保有する処に保管されている系譜は信用できるのです。
「個人書き」には当然にその書き記した「人物の思惑と歴史知識」に左右されてしまいます。「個人書き」には過去に遡るだけの資料の保全が当時には無い訳ですから「過去に遡った系譜の作成」は論理的に有り得ません。まして上記して来た「姓氏」には江戸初期にやっと系譜の人物故人が出来る程度であり、人数的にも慣習的にも平安期まで遡っての系譜は物理的、論理的に有り得ない訳でありますのに、実しやかに「系譜」を全面に押し出して家柄を誇張する「氏」や「姓氏」が殆どです。
そもそも「氏」は下克上、戦国時代で滅亡して遺されている氏は1%にも満たないのです。全て室町期末期の「姓氏」であります。その事から考えて、「氏の菩提寺」と「氏の神の社」を持ち信頼できる系譜などを保有する氏は青木氏や藤原氏一門など全国20にも及ばない筈です。(8000の姓氏の中で)
「姓氏」に於いても「個人書きの系譜」で信用し得るものには、必ず、”「個人書き」した者の明記”と”後勘に問う”と”歴史上の箇条添書”が存在しています。信用出来ない推測領域には書き及んでいないのが定番です。この様な系譜「3つの条件」に合致しない系譜には必ず「搾取の系譜3つのパターン」があり史実雑学に照合すると間違いなく「矛盾」が生まれます。
事程左様に、信用できない「時代の慣習癖」を経た系譜の多くの通説では、例えば「近江青木氏」と「近江佐々木氏系青木氏」との様に混同していますし、又、同じく「佐々木氏」も「天智天皇(川島皇子)系近江佐々木氏」と「宇多天皇系の滋賀佐々木氏」とも混同している傾向を持つのです。
(近江と攝津にて2家青木氏の末裔家現存 摂津は「近江青木氏」 近江は「近江佐々木氏系青木氏」 滋賀は「上山氏系滋賀青木氏」)
(家訓と神明社)
奈良期から始まった「青木氏」は平安期の藤原氏系の「青木氏」へと繋がりそして明治期の「青木氏」へと広がりを示し変化して行く過程から、この佐々木氏や秀郷一門に支えられて互いに助け合い地道に生き抜いた青木氏の行動指針の「家訓10訓」は大きな効果を発揮しました。
これは「祖先神の神明社」と「家訓10訓」が連動していたからに他ならないのです。
(源氏とはここが異なっていたのです。 同じ賜姓族の「近江佐々木氏」も「近江青木氏」を支えていた事から観て、青木氏側からは近江佐々木氏に付いてその研究は大きくは進んでいませんが、青木氏と同じ様な生き方をしたと観られます。  近江佐々木氏資料から平安期の全青木氏の事が多く出てくる事は鎌倉−室町期には藤原一門と同じ位に同族の関係性を強く維持していたのではないかと推測していて、今後の研究課題と成っています。  
その証拠が多くあるのです。例えば神明社の神職に佐々木氏、春日社にも佐々木氏、八幡社に佐々木氏、青木氏菩提寺に住職として佐々木氏、青木氏の村主に佐々木氏等が資料から観られるのです。 於佐々木氏資料より考証)

青木氏とほぼ同じ時代経緯や祖先神や宗教や由来や末裔の地域性や藤原一門の特別賜姓族との関係などほぼ一致している佐々木氏の資料などからも考証すると、上記した様に「氏の融合期」の初期頃(平安末期:「民族融合」の終了期後 1125年頃)にこの家訓は定められたと考えて居るのです。
幅広い関係性の中で定められたと考えられます。
恐らく、奈良期に「中国後漢の民」からもたらされた第1次産業がこの頃に飛躍的に進化して日本全土に拡大し、そして質的にも醸成され始めた「初期的な物造り」の「社会の気風」が起こり、それが更に強くなり民にその意識が高まったと観ています。この頃からむしろ「平安文化」「鎌倉文化」「室町文化」の「3つの文化」(紙文化)の発展に支えられて「生活の糧」の目的から「文化」の目的に質的量的にも拡大進化して変化を遂げます。
この「文化の基盤」が出来た「殖産・物造り」は基盤と成った「文化」の「心の余裕」がより「神明社信仰」へと結びつき、「神明社」は「青木氏の祖先神」から「庶民の神明社」へと変質して行きます。
結果として「民は生活の糧」のよりよい発展を期待して「民の物造り」の「神」の対象として崇める様に成って行くのです。
この時、「神明社」の変化は「氏から民まで巻き込んだ信仰体」と成って行った事から「3つの発祥源」の青木氏はその正しい行動とより高い規範の維持を要求されて来たのです。
その結果、平安期末期の「源平の戦い」で衰退し「青木氏」として生残るには家訓10訓の中でも特により高い「家訓8の考え方」が物心両面で大きく左右して行ったのではないかと見て居るのです。
その結果、「神明社」の維持と相俟って、「殖産・物造り」を最初に「5つの和紙」を扱う青木氏の「2足の草鞋策」は(青木氏口伝からも含めて)伊勢の青木長兵衛(民部上尉)が主導して互助組織の氏家制度を通して、この時に各地の秀郷流青木氏を巻き込んで一族一門を通して一斉に「商い」を起したのではないかと観ています。(1125年頃)
「物造り」とそれに関係する「民の信仰対象」と言う要素が付加されて青木氏の「2足の草鞋策」は前記したように「色々なしがらみ」が1125年頃に一度に増え続けて絡み、結局は「時代の渦と流れ」が青木氏を「2足の草鞋策」へと押しやったと考えます。
ここを的確に「渦と流れ」を捕らえたからこそ生き残れたのです。
しかし、ほぼ同じ環境にあった同族の嵯峨期からの11家の賜姓源氏はこの「渦と流れ」を短絡的に履き違えて捕らえ「滅亡の道」へと押し進んだのです。(荘園制)
そして、その異なる要件の一つとして、彼等の源氏の守護神の「八幡社」に「物造り」=「八幡社」の構図が出来ず「民との絆」が生まれなかった事なのです。
前記した「絆」に基ずく「4つの青木氏」の関係に類する様な「11つの源氏」には生まれなかったのです。
青木氏と対比対象となる同族の「源氏の生き様」は”「皇族」と云う身分家柄に始終し民との間には溝を構えた為に「絆」は出来なかった”のです。
(渦と流れの入り口で最早如何ともし難くなり頼信系に引きずられて止む無く清和源氏頼光系4家は伊勢−信濃−甲斐の賜姓青木氏に跡目を遺したのです。)
つまり、源氏には「重厚な生きる力」=「絆」は生まれなかった事に成ります。
(近江佐々木氏との関係)
特筆するは研究が進んでいない「近江佐々木氏」が「源平の戦い」に巻き込まれて「近江青木氏」と共にこの時から衰退し、一時は江戸期には滅亡を危惧されるまで衰退を起しますが、然し、末裔は生き残り拡大して現在に至っています。(近江佐々木氏末裔の剣豪佐々木小次郎の頃 )
「近江佐々木氏」は「2即の草鞋策」−「祖先神」を連動させたのか等は不祥で、青木氏から観た事では判る事は「神職住職」が大変多い傾向を持っていて、全国各地にくまなくその子孫を遺している特長を持っている事なのです。
「神職住職」が青木氏と藤原氏の寺社神社にも多い事が気に成るのです。「祖先神の神明社」を論じる場合内心は欠かせない事ではないかと危惧している処です。未だ其処まで研究が行っていせんが今後の課題とします。
つまり、何故かと云いますと、皇族と藤原氏の両方の血縁族を得ている事から「祖先神」と「鎮守神」を守護神とし、「神明社」と「春日社」を護ってきた事が生き残りの根幹と成っていたのではと観ているからです。更に源氏滅亡後に同族であった事から「八幡社」も「近江佐々木氏」が祭祀続けたのではないかと考えられます。(特に近江攝津に拠点を置く頼光系清和源氏系の八幡社に対して)
結局、江戸期に入って「神明社」と「春日社」と「八幡社」の信仰が盛んになった事で、各地に存在するこの3つの全国の社を合わせると3−5万社と成り、この内の2割程度から3割程度が佐々木氏で有ったとすると、全国各地に末裔が広がる事の大きな要因に成ります。
(明治期の神明社で観ると大概に3割程度弱 特に関東以北に多く観られる)
まして、当時の神職の慣習は「氏の守護神」(「氏の菩提寺」)であった事から、上記した様に「4つの青木氏」の職能集団を抱え、その神職は室町期までは青木氏、佐々木氏、藤原氏が多く、他氏の誰でもが成れると言う慣習ではなかったのです。(住職も同じ。)

(注 江戸期から明治期にかけては神社仏閣の宗教改革は幾度と行われたためにこのシステムは消えた。浄土督奨令 神仏分離令 大教宣布 寺請制度 廃仏毀釈 寺社領上知令、地租改正等で「特定の氏」の「独善的排他性の組織体制」は国体に好ましくないとして解体されて行った。 これに対して反発の混乱が長く続いた。これ等に関する一揆も含む混乱は江戸初期から始まり明治9年頃にほぼ納まった。この終息期の明治3年の苗字令から明治8年の督促令がこの「仕上げの政治」であった。「特定の氏」と「宗教」は深く関わりあっていたので「特定の氏」の「特権とその勢力」を削ぐ為に「宗教分離」と「土地の剥奪政策」を明治6年までに実行した。これで氏家制度の氏は根本から解体された。)

青木氏と異なり佐々木氏はこの3つの守護神(氏の菩提寺も含む)に関わっていた事が生き残りの要因に成っていたのではないかと考えているのです。青木氏の「2足の草鞋策」の様な役割を果たしていたのではないでしょうか。青木氏は「2足の草鞋策」で回避できたとしても、「近江佐々木氏」は江戸初期から始まった上記の経緯で「江戸期の衰退」が起こったと観られ、研究はこの辺にポイントがあると観ています。
然し、この混乱期で最も資料が遺されていると観られる寺社の改革である為に資料が遺されていない事が考えられ、更には寺社は「霊験新たか」を前提にする為その資料を積極的に公的にしない傾向があり研究は困難が予想されます。
しかし、。研究が進めば、更に発展してこの「3つの賜姓族の氏」が鎌倉期以降「三つ巴のスクラム」を組んでいたのではないかと観ていますが今後の研究課題です。
「近江佐々木氏」が幅広く「青木氏」を研究している事から観れば大きく関係性がある事を意味します。
青木氏の「生き様」がより幅広く蘇させられるのではないかと観ています。

青木氏と守護神(神明社)−13に続く。


  [No.281] Re:青木氏と守護神(神明社)−13
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/11/12(Sat) 08:54:05

「青木氏と守護神(神明社)−13

以下は「青木氏と守護神(神明社)−12の末尾前文
>青木氏と異なり佐々木氏はこの3つの守護神(氏の菩提寺も含む)に関わっていた事が生き残りの要因に成っていたのではないかと考えているのです。
>青木氏の「2足の草鞋策」の様な役割を果たしていたのではないでしょうか。青木氏は「2足の草鞋策」で回避できたとしても、「近江佐々木氏」は江戸初期から始まった上記の経緯で「江戸期の衰退」が起こったと観られ、研究はこの辺にポイントがあると観ています。
>この混乱期で最も資料が遺されていると観られる寺社の改革である為に資料が遺されていない事が考えられ、更には寺社は「霊験新たか」を前提にする為その資料を積極的に公的にしない傾向があり研究は困難が予想されます。
>しかし、。研究が進めば、更に発展してこの「3つの賜姓族の氏」が鎌倉期以降「三つ巴のスクラム」を組んでいたのではないかと観ていますが今後の研究課題です。
>「近江佐々木氏」が幅広く「青木氏」を研究している事から観れば大きく関係性がある事を意味します。青木氏の「生き様」がより幅広く蘇させられるのではないかと観ています


「融合氏」と「物造り」の雑学(「3つの脳の思考訓練」:特技)

参考
 「3つの脳」の「思考訓練」
第1番目に、何でも良いから「雑学量」を増やす事。
第2番目に、それを「系統的」に分別して覚える訓練をする事。
第3番目に、覚えた事の幾つかを引き出し「組合せ」をする事の訓練をする事。
(詳細は「青木氏と守護神(神明社)−1」に記述 参照)

そこで、少し脱線のついでに話題を拡げます。前記にも論じましたが、更にここでも掘り下げて下記に論じます。と言うのも真に本論を集約する様な事件が矢張り中国で起こったのです。それは「中国の新幹線脱線問題」ですが、この事件に関する論文を敢えて追加して投稿しました。

その中国の発展と進出に対して昨今の問題として日本では「中国進出」に大変懸念を抱いています。
それは「日本の物造り」の中でも「熟練技能」が流失してしまうのではないかと云う懸念です。
”日本の「熟練技能」を取得して日本を空洞化させ「物造り」が再び中国に脅かされるのではないか”と云う問題です。
然し、筆者は”その中国が確かに過去が過去であっても幾ら進んだとしてもこの「熟練技能」の「日本の領域」にはまず到達する事は不可能な事だ”と主張しています。
(過去とは5世紀頃から7世紀に掛けて後漢の帰化民族から「物造り」を教わった)
それは「日本の領域」は偶然に到達したものではないからです。それは後漢の200万人を含む「7つの民族の融合」から来る「日本人の遺伝的特技」(日本人の遺伝的な思考原理)から来たものなのだからです。
それは「時間による要素」ではなく、現在までの中国の「国民性」と「綜合力」がこれを阻んでいるのです。
それは、「時間」に依って「技能・技術の習得」が仮に成されても、上記する「3つの脳」の「思考訓練」の特質は、外国人には無理であり、日本人の「雑種による優位性」から来る「遺伝的特質」を保持している為に困難でなのです。これは外国人には有しない「7つの融合単一民族」(雑種の良質)の日本人ならではの「特技」なのです。
(付属論文「中国の新幹線脱線問題」での論文は研究室に投稿済み 是非参照)
筆者は多くの外国人技能者や技術者を見てきましたが、この「特技」は日本人ならではのものと観られます。彼等にはこの「脳の思考原理」の癖が遺伝的なものとして苦手と見られ簡単には習得できないと思えるのです。

「日本人の遺伝的特技」=(日本人の遺伝的な思考原理)=「3つの脳の思考訓練」

ですから、中国人は質の低い類似品は作りますがそれを超えるものは余り見かけません。
その逆にその証拠として科学や医療分野での先進技術を開発しノーベル賞を日本人は多く取得するのです。又、過去の日本人が確かにアメリカの類似品を作りましたが、それは中国人のそれと異なり米国等で開発されたものを日本人がそれ以上に良い製品に開発させてしまったものです。
それに取って代わる現象もこの特技から来るものです。今や先進国を超えてどの分野でも先導する立場に置かれています。
勿論、序文の鉄鋼製品と云う範囲で考えても上記する8つの専門分野が全てトップでなくては到達する事は不可能でもあります。(「中国の新幹線脱線問題」がこの現象を顕著に表す。)
そこで、逆に問題に成っている「技能・技術の海外流失問題」(主に中国)ですが、この事からすると日本の生きて行くべき道は上記した経緯から自ずと観えています。
それは、”「汎用的な技能・技術」(熟練技能)の移転はやむ終えない”としても、この上記する「3つの脳」の「思考訓練」で得られた領域の「技能・技術(熟練技術)」は日本に残すべきです。
又、必然的に日本人の特技である為に日本人が日本人である限り残ると考えます。
仮に流失しても「融合民族の遺伝的な特技」である限り、「流失後の特技」に対してもまた日本の中にそれを土台に再び「進んだ特技」を飽くなきまでも作り出すという行為に出る事は必然です。
もし、「新たに特技」を作り出さなかった場合はそれは日本人では無い事を意味します。
それが「遺伝的特技」である限りに於いて「遺伝性」が突然に無く成る事を意味します。
そんな事は遺伝学では存在しないのです。”無くなる”と云う事はそれは遺伝では無い事に成ります。
「7つの民族の融合」が事実でありますので必ず向後の特技の開発は起こります。
まして、過去の融合を見れば、これでも「明治前の身分制度による障壁」に依って充分に「完全融合」が起こっていなかった筈で、明治後150年が経ち3乃至4代目に至る現在が「完全融合の時期」となった筈であります。
これからが最も「完全融合の遺伝的特技」が最も発揮される時期である事に成ります。
(「流失」が起こったとしての仮定ですが”起こらない”と断言しているのです)
それがより「高品質で高付加価値品」が生み出される事に成り決して流失したとしても心配には当らない事なのです。
”「3つの脳」の「思考訓練」で得られた領域の「技能・技術(熟練技術)」”のこれを日本に残し、”他は外国に移す”と云う戦略を採ればイギリスの様な「技術斜陽国」には成らない筈です。
そもそも「日本人の特質」なのですからここを間違えなければ、前記して来た「青木氏の1125年代の判断」と同じく日本は生残れる筈です。
自動車等の海外生産問題の技能・技術問題でも真にこの判断を適用すればよい事に成ります。
ただそこで、よく間違われる事は”「高度な熟練技能」は別だ”と云う事なのです。
「普通の熟練技能」のこれは「時間」が過ぎればそれなりに得られるものであり、これにしがみついていては生残れないのです。「熟練技能」は自然に任せてむしろ「自然の放出移転」をさせるべきものと考えます。それに依って”「熟練技術」の全体は生きてくるものである”と考えているのです。
”水は高いところから低い所に流れるもの”の例えの通り、日本の「普通の熟練技能」が「外国の熟練技能」より高ければ「自然の摂理」で低い方へ流れて行く筈です。当然に日本の方が低ければ流れ込んでくる筈です。
とすると、日本の「高度な熟練技能」は外国が低ければに流れて行く可能性があります。
然し、そうではないのです。この「自然の摂理」には「歯止め」が効いているのです。
その「水の環境」には、「地形と水量と勢い」の「環境条件」が備わっています。
その「環境条件」が低い側に受け入れられるものが無ければ流れ込みません。
受け入れ側の「地形と水量と勢い」が整っていて初めて流れ込む事に成ります。
これが本当の「立体的な自然の摂理」です。「一元的な自然の摂理」の例えはこの世の摂理ではありません。この世は「立体的な環境条件」に依って成り立っていて起る筈です。
とすると、低い地形の方に「地形と水量と勢い」を受け入れられるキャパシティーが無ければ、幾ら低くても流れ込む事はありません。一時的な現象で留まります。
つまり、「高度な熟練技能」には「普通」ではない「高度」と云うある範囲を超えている限りこの「環境条件」が働く筈です。
そしてその受け入れられる「環境条件」は「高度」と云う事から何かと関係して”高度”という扱いに成っている筈です。それが”「熟練技術」と連動している”と云う事に成ります。
そして、これが”ある範囲を超える”と云うパラメータに成ります。

「ある範囲を超える条件」=「熟練技術」

つまり、次ぎの数式が成り立ちます。
「地形と水量と勢い」とは、流失先の産業力・産業形態(地形)と、消費力(水量)と、経済力・国力(勢い)と云う事に成ると考えます。

「立体的な環境条件」=「地形と水量と勢い」+「熟練技術の環境]

相手側にこの数式の条件が成り立たない限り流れ込まないことを意味します。
「家訓8」でも論じましたが、そもそも「熟練技能」と「熟練技術」は違います。
「技能」とは、「経験」を主体としてそれに「知識値」を以って補う技。
「技術」とは、「知識」を主体としてそれに「経験値」を以って補う技。
これを定義とすると、全ての殖産物はこの「技能」と「技術」を以って成せるものと成ります。

「技能」+「技術」=「殖産物」

この数式論から、「普通の熟練技能」とは、”殆ど「技術」を伴なう事の無い「技能」の領域のもの”になる筈であります。「殆ど」の意味を仮に0と置き換えると、次ぎの様に成ります。

「技能」+0=「殖産物」、即ち、「技能」=「殖産物」と成ります。

世の中の「殖産物」には定義の「技能」の領域で出来上がるものが恐らくは5割程度は占めている筈です。なぜならば、「技能」の定義に、”ある程度の「技術」(知識)”を含有しているからであり、それで5割は賄えると云う理屈に成ります。
この「普通の熟練技能」に拘っていては生残る事さえも何も出来ません。
上記する「高度な熟練技能」とそれに連動する「熟練技術」の流失を抑える事が慣用です。
(「熟練技術」の基準の判断は下記)
その「高度な熟練技能」とは、上記の定義より、「技能」が高度なのですから「技能」+Aと成ります。

「技能」+A+「技術」=「殖産物」

このAのこの数式から来る意味は、「技能」+「技術」=「殖産物」で数式は成り立つのですから、Aは「余剰値」と成ります。
この「余剰値」Aは「技能」と「技術」とを”より結び付ける力”、即ち、「接着値」と成る筈です。

「余剰値」A=「接着値」

「高度な熟練技能」は、定義から、”「経験」を主体としてそれに「知識値」を以って補う技”としていますから、最早、この「技能」の「知識」は「経験」=「知識値」となり「補」では無くなっている事に成ります。
この場合の「知識値」は「経験」の中に特化した事を意味します。
従って、この「経験」は「Aの部分」を特化していますので、「経験+A」と成ります。
故に「高度な熟練技能」とは、Aが介在する事に依って「経験」と「技術」とは引き離せない関係にある事を意味します。
要するに、科学で言えば「触媒」と成ります。

「余剰値」A=「接着値」=「触媒」

「熟練技能」と「熟練技術」を使って「技術立国」として物を海外に売るとしても、売る相手側にそれなりの「受け入れられる土壌」が醸成されていなければより売る事は出来ません。
まして「高品質で高付加価値品」であればこそであります。
それには、外国に受け入れられる最低の土壌の発展を促す必要があり、日本としてはそれが「普通の熟練技能」であるとしているのです。
残った「高度な熟練技能」は上記の数式から「技術」が付加される事に成り、次ぎの関係式によって成り立っている事に成ります。

「高度な熟練技能」+「熟練技術」=「高品質で高付加価値品」

この数式は、触媒を取り除かない限り、「高品質で高付加価値品」なものを獲得するには、絶対条件として「高度な熟練技能」と「熟練技術」は常に連動していなくてはならない事に成ります。

真に皮肉にも昔、奈良から平安時代に掛けて日本が中国から受けたのはこの「熟練技能」であったのです。それはこの上記の数式が成り立つ条件の全てを受け取ったのです。
然し、時代は進み、「日本人の融合」からもたらされる「遺伝的特技」に依って、その結果、中国は現在の日本の「高度な熟練技能」+「熟練技術」=「高品質で高付加価値品」のより進んだ数式のレベルにまで到達出来なくなってしまったのです。

全く同じく「産業革命」をリードしたイギリスもこの一点を間違えたと見ているのです。
「国力」を大きくする手段の「植民地政策」の手段として「熟練技能」と「熟練技術」の両方を海外に出してしまったのです。
問題は流失させる相手の如何です。むしろ日本などに「遺伝的特技」を生かされて盗まれた事の方が問題であって、当時の日本をイギリスは他の諸国と同じと見ていた事の現れで其処に問題を持っていたのです。昭和の始め頃には「猿」と表現していた事も事実です。
つまり、この「2つの放出」のみならず、「相手の評価」を間違えた事にも成ります。
そして、今日本はそのイギリスの産業革命の成熟期の立場と同じ境遇の所に達しているのです。
この立場にあるとして日本の採るべき「流失の方法」は「ある範囲の基本」の「熟練技能」(普通の熟練技能:下記)を自然体で流失させ「ある範囲の高度」な「熟練技能」と「熟練技術」(下記)を残す算段が正しい判断になると考えます。そして、「相手の評価」を間違えない事だと考えます。

海外への「人材の流失問題」も仮に誘いがあったとはしても、外国ではこの様な優れた「熟練技能」+「熟練技術」の「学問的環境と土壌」が無い事から、先ずまともな技能者・技術者は、「技能・技術屋魂」で環境を選びますので外には出ませんし、出たとしてもその頭脳を生かす環境は有りませんし整いません。
米国などの先進国への「熟練技能」+「熟練技術」の2つの流失は高いレベルに於いて「相互依存関係」にありますので「2つの放出」と「相手の評価」には問題では無くなる筈であります。

つまり上記した数式の通り「高品質と高付加価値の環境」を日本に保全する事が唯一生きる道なのです。それは日本人の大量の「移民的な海外流出」が起らない限りは保全される筈です。
全ての「熟練技能」とその「技能者」を残すべきとの強い意見がありますが、一見正論かの様に観えますが、この論議はある種の思惑を以って利害関係者に依って論議されているもので、その環境に居た者として賛成できません。

兎も角も「普通の熟練技能」は「外国人の実習」と言う形で十数年の経験を得て流失する事に成るでしょうし、その取得する者の資質にも大きく関わってくるものです。
つまり、此処にはこの流失問題には「タイムラグ」と「資質」と云うリスクを有していますので、日本にとって「自然流失」は問題には成らない範囲の事を意味します。
然し、「技能者」のそのものの「人の流失」はその「遺伝的特技の環境」の中にいてこそその「技能」は培われ生かされるものであって、ある「範囲の技能・技術」の技能・技術者の「単独の流失」だけでは外国に於いて生かされ得ないのです。
上記の数式論から、あくまでも「熟練技能」だけはある範囲の「複合的な流失」で無くては意味を成さないのです。
又、その海外に於いて「熟練技能」のそれを受け入れられる「充分な環境」が存在し得なければ直ぐに「効果的な活用」は望めないのです。
此処にもその「環境」が海外に整えられる為の「タイムラグ」が存在します。
又、その流失した技能者にも働ける寿命・時間があり、その「寿命の範囲」は「熟練取得」と云う期間を既に使い果たしている事に成ります。
だとすると、流失して生かす期間は極めて少ない事を意味しますので、「熟練技能」を海外で伝達する時間の「タイムラグ」が起こります。
この結果、「伝達時間」が少ないと云う問題が起り、これも成り立つものではない事に成ります。
(筆者は発展途上国の取分け中国はこの熟練技能の取得を最早期待していないと観ていて次ぎの論じるものを期待していると説いています。)

実はそれと決定的な流失の可能性が低い事が有るのです。それが本文のテーマの一つであります。
それは、この「熟練技能者」とその「技能そのもの」には「物造りの神」即ち「神明社」と云う「精神的な心の拠り所」が付き従っている事なのです。
これが日本の「熟練技能者」の彼等には外国人との間に違う大きな相違点であるのです。

「熟練技能者」+「物造りの神」=「精神的な心の拠り所」

それは外国人に決して理解され得ない事なのですが、日本の場合、「熟練技能」の「物造り」には「精神的な技能」を目標としていて「心技一体」の「修練取得」がその「熟練」を成し得るのだと定義つけているのです。つまり、「人間的成長」がその熟練を支えているのだとしているのです。
「技」だけで存在するのではなく「心」と合致して初めて成し得るものであるとする「技能者の信念」です。

「技」+「心」=「物造り」

以上の数式が成り立つ技能なのです。
そしてこの数式の維持は過去に於いては上記で論じた「4つの青木氏」の「品部と部曲」の様な「徒弟制度」に依って護られていたのです。
最近に於いてもこの「徒弟制度」は多少の変革はあったにせよその根幹の「弟子と師匠」の関係は「技」+「心」=「物造り」の中に生きているのです。
その「物造り」の「究極の頂点」を「神明社」に置き「弟子と師匠」の組織は「物」を「物」と見るのではなく「物」を「上」(神)からの「授り物」として崇める対象としたのです。
この考え方は今も高い「熟練技能」には遺されているのです。

これは古来に「後漢の民」がその技能を伝えた時、同時に彼等が持ち込んだ「仏教」と「道教」が併せ持って伝えた事が、「融合民族」の「遺伝的特質」から日本人は「技」+「心」=「物造り」の精神を醸成してしまったのです。
何を作るにしても其処に”「心」=「神」が宿っていなければ「物」ではなく、それを成す「技」は「技」ではない”とする考え方が存在するのです。
古来の鞍作部の「仏像や神物」の製作過程を観ても明らかであり、「作り手」(熟練技能者)と「仏神」とが一体に成ってこその「仏像や神物」であって、其処に”神や仏が宿る”と信じ、宿った「仏像や神物」に対して人は信仰するのです。

「作り手」(熟練技能者)は「水ごもり」や「座禅」等の行為をする事に依って「汚れ」を取り除き「人と神仏」との間に「架橋の筋道」が宿り「神仏」が人の手に往来すると信じているのです。

これは「仏像や神物」に限らず「刀剣」に於いても同じであります。
筆者は物理学が専門で中でも冶金・金属学を得意とするものでありますが、この刀剣の製作については「技」+「心」(神仏)=「物造り」の事は良く判るのです。
砂鉄を溶かし鍛造で固め何度も炭の煤を溶融させ鍛え刃先に焼きを入れて固くし最後に強靭さを出す為の熱処理をします。昔のように計器のない時代に「極めて狭い範囲の温度」のところで的確に工程処理をして行くには「神仏の加護」なしでは殆ど無理であります。精神を研ぎ澄ますには「神仏の加護」なしには成し得ない領域の「技」であるのです。
現代の計器に於いてでさえ難しい温度域にあるのです。真に「神業」であり上の2行の事なしでは成せる物ではないのです。
「日本人の遺伝的特質」を「物」で例えるならば、この「日本刀」の全製作過程に代表されるのであります。

「日本人の遺伝的特質」=「日本刀」=「日本人の魂」

これが「日本刀」は真に「日本人の魂」と言われる所以であります。
日本の全て「物造り」には過去現在に於いて強弱の差はあるにしてもこの「技」+「心」(神仏)=「物造り」の「考え方」は変わっていないのです。
そして、「神仏」とりわけ、その日本の「5神」の中でも「神」は「自然神」を祭祀する「皇祖神」に結び付く「祖先神の神明社」に求めたのです。そしてそれを人は「物造りの神」と崇めたのです。
又、この「心」=「神」の精神が「融合民族」に裏打ちされた「日本人の遺伝的特質」をより増幅させているのです。
「心」=「神」の精神が「神の加護」を得て ”より良い物を造ろうとする飽くなき追求心」”を引き出しているのです。依って、”より良い物を造ろうとする飽くなき追求心」”は「高品質と高付加価値」の環境を止め処なく追求する精神が生まれているのです。
「高品質と高付加価値」の環境はこの「熟練技能」の「心」=「神」の精神から生まれているのです。
つまり、この領域の「高度な熟練技能」は最早、「日本の文化・伝統」の範囲にあるのです。
況や、その「物造りの神」の「神明社」は青木氏に委ねられていて、依って、「3つの発祥源」のみならず「神」とは行かずとも「物造りの氏上・始祖」とも衆目から観られていたのです。
この無形の神明社の青木氏に対する衆目の印象は、資料に遺される事は無いので証拠付ける事は出来ませんが、「青木氏」に関わった「品部、部曲」の「民」の有り様(4つの青木氏)や、全国各地に広がる「神明社」の有り様や、「3つの発祥源」や「2足の草鞋策」の有り様等から観て、ひしひしと伝わるものがあり「物造り氏上・始祖」と観られていた事が良く判ります。
故に、「物造りの氏上・始祖」であったからこそ違和感無く衆目からも排他されずに、青木氏は物を初めて作り出す「殖産の2足の草鞋策」を追求出来たし、追求したと考えているのです。

他国に於いてこの「熟練技能」に関わる上記の「環境条件」即ち「高品質と高付加価値」の環境が叶えられるのであれば「技」と「人」は制止しても海外に自然流失して行くものでしょう。然し、私はそれは無いと考えているのです。
宗教、生活環境、国民性、気候、技能環境、技能の置かれている立場、等が整えられているとは到底考え難く、ましてそれを押し通してまでも流失させようとする考えが生まれるとは思えないのです。仮に押し通してもその「技」と「人」はこれ等の「環境条件」を整えるまでに時間的余裕は無くなる筈です。
「熟練技能」=「環境条件」は「絶対条件」であって、「熟練技能」+「環境条件」=「高品質と高付加価値」の数式が故に成り立つのです。

「熟練技能」×2=「高品質と高付加価値」
「環境条件」×2=「高品質と高付加価値」
以上の2つの数式が成り立ち、「×2」の意味する様に容易い事では無い事が判ります。

つまり、「熟練技能」の「技と人」は「日本と言う環境条件」の中にいてこそ成就するものであると云う事ではないかと考えられます。
当然に同じ外国の土壌の中にも外国の土壌にあった「熟練技能」が生まれ醸成されて行くものであるとは考えられます。
其処に日本の「熟練技能」が入り込んでもそれを100%生かすだけの「熟練技能」は生まれないのが道理です。
従って、外国が環境を無視してまで好んでこれを得ようとする場合ただ一つの方法しかない筈です。
それは日本の土壌の中で会得する以外に無い事を意味します。もちろん「技と人」に付いて会得する事に成りますから、「実習」と云う手段以外に無い事に成ります。
この場合、上記の数式条件をクリヤーする必要があります。
特に「心技一体」をクリヤーする事が出来るかが問題ですが、「技」は”ある処まで”は可能としても「人」即ち「神明社」に繋がる「心」は殆ど無理であります。

それは筆者の経験でも「実習生」の研修を経て彼等と議論を重ねると、この「心」の領域の部分はどんなに説明しても無理で理解され得ない事なのです。「激論」を交しても「国民性」と云うか「遺伝性」と云うか彼等の脳が全く受付けないのです。その様に考える「思考原理」が無い事を痛感するのです。
従って、”ではどの程度か”と云う事に成りますが、彼等の取得出来る「技」は、「熟練技能」×2はおろか「熟練技能」×1の領域にさえも到達しない範囲でのものに成ってしまうのです。
それは「技」の領域ではなく普通の「記憶の領域」に留まるものであって高く広く応用し維持させ、より良いものにする領域に到達しないものなのです。
つまり、「高品質と高付加価値」を生み出す領域までも到達し得ないのです。
これを「小技」と呼称するならば、次ぎの数式と成ります。

「小技」+「心」=「技」
「技」+「心」=「物造り」
「小技」+「心」+「心」=「物造り」

∴「小技」+「心」×2=「物造り」

以上のこの「3つの数式」が成り立つのですが、「心」×2である様に「心」が「物造り」には大事である事をこの数式は意味しています。
そして、「心」×2の一つは技能者の「心」であって「心域」であり、もう一つの「心」は「神」「仏」であって神仏の加護であり、これを信じる「心」であり崇める「心」なのです。
この「2つの心」が得られて初めて「技」と呼ばれるものに成り、「熟練技能」の領域に到達できるのです。
これが「物造り」の真髄なのです。この事をこの数式は物語っています。
これが「日本人の遺伝的な思考原理」なのです。
「日本人の宗教心」は「観念論」のみならず、上記全ての数式に基づく「論理性」を心の奥底に持ち得ているのだと考えます。
故に彼等には当然に論理的にこの数式が理解出来ずあくまでも”「技」と「心」は別物である”と主張するのです。然し、彼等には言わせれば”日本人そのものが同じアジア人ながら「奇異的な人種」に観えている”と云うのですが、これには日本の現在の成長の根源と成っていると観ていて、それはむしろ”「尊敬の念」を抱いて観ている”と云っているのです。
つまり、”「日本の物造り」は「科学」と「文化伝統」が融合している”と感じ取っているのです。
そして、その事が”「奇異」”だと表現しているのです。
これが彼等の結論であって、現代の”世界の物造りのトップを行く根源だ”と云いたいらしいのです。
最後に付加えた彼等の発言は”だから、これからの日本は衰退しない”と付加えたのです。

「日本の物造り」=「科学」+「文化伝統」

我々「遺伝的特技」を受け継いで持っている者にとって「心」の無い時に、「心」乱れる時にその者の「体」を通じて高い「技」のものを作る事は不可能と考えます。
「心魂一滴にして何事も成らざらん」でありますが、しかし彼等は”其処まで深く考える必要性はない”とするのです。(”自国の環境の中では”と云いたいらしい)
そこで ”では敢えて深く考えれば納得するのか”と云うと、”自らの頭と体に無理が伴なうもの事は良くない事だ。常で無い事だからそれは維持出来ない”と云う論調です。
更に ”では「高い物」を会得する必要がある時には如何にするのか”とたたみかけると、”高い物を会得する必要性はこの世には低い事だ。誰かがするだろう。それで世の中は成り立つ”と最後は成るのです。再々に ”その誰かが貴方であったならどうするか。その為に実習をしているのではないか”と議論を覆い被せると、”常である事が最善であるのだ。私には常以上の事は求められていない”と答えたのです。

そこである実験を試みた。「高度な熟練技能」を要する試作品を作る事にした。そしてその為にほぼ同じ経験を有する数人の「日本人の技能者」と共に同条件で試作品に挑戦さした。実習生の彼等は直ぐに諦めたが、日本人の技能者は諦めない。何とか工夫してものにしようと悪戦苦闘する。やはり結果は思う物には成らなかった。そこで彼等に問うた。”この事で会得したものは何か”と、すると彼等はこの様に答えた。”出来ないと思ったら直ぐに止める事が大事な事でリスクが少なくなる。最も肝心な事だ。”と。
日本人は”未熟さを恥る。何時か何とかしたい。”と答えた。
そこで、次ぎに最も信頼できる年老いた「高度な熟練技能者」にこの試作品の製作を頼んだ。そしてその試作品を作るまでの3日間の間中、製作中と生活も共にし彼等を密着させた。
そこで彼等に聞いた。日本人の彼等は”仕事に入る前の熟練技能者の有り様”と”製作中の熟練技能者の有り様”に対して2つの答えを出した。仕事に入る前には、工場の隅にある神棚に向かって精神を統一させた事、仕事中には、”まるで「脳」が「体」を道具の様にして「脳」が機械を動かしている様で、「体」で「脳」を使って作っていない様に感じた”と答えた。
”自分と製作技に一線を超えた何かの違いがある様だ。と言い結んだ。
ところが実習生は、仕事に入る前には、”熟練技能者の行動には意味が無い、判らない。”と答えた。仕事中には、”単純に経験の差だ。自分達も経験を得られれば可能な事だ”と答えた。
日本人の方は、勿論に出来上がった製品の素晴らしさに感嘆すると共に、”目に留めた事は3つあった。”と答えた。一つは”仕事前の段取りと道具などの下準備の綺麗さ”、二つは”製作中、仕事中の製作補助剤と切削屑(キリコ)の綺麗さ”、三つは”仕事後の後始末の綺麗さ”の3つの綺麗さがどこか自分達と違う事を付加えた。
実習生は自国でもそれなりの経験があったのだが、答えはこの3つの違う点には答えは無かった。無かったと云うりは”無関係だ”と云いたい様であった。
更に日本人の方に聞いた。”ではこの三つの違いは何処から来ているのか”と。すると”良く判らないが、全ての違いは「仕事に入る前の熟練技能者の有り様」に起因しているのでは”と答えた。
矢張り、実習生と日本人の若手との間には答え方まで違っていたのです。
筆者は、”「脳」が「体」を道具の様にして「脳」が機械を動かしている様で、「体」で「脳」を使って作っていない。”が”「日本人の遺伝的特質」の悟りである事を物語るものである”と云いたいのです。
この悟りに到達するには”神仏と一体化すること以外にはこの状態はあり得ない”と考えられます。
何も、「神仏」に手を合わせお経や祝詞を上げるばかりのご利益の形ではなく、その「心意気」、「心域」「心境」に到達する事が必要である事を意味するものです。
現在に於いても「神仏」に手を合わせる事は少なく成ったとしても、この「心域」「心境」に持ち込み”「汚れ」を取り除き「人と神仏」との間に「架橋の筋道」が宿り、「神仏」が人の手に往来する時にこそ生まれる”と信じる「遺伝的思考癖」は無くなっていないのです。
実習生との違いでも判る様に、この「遺伝的思考癖」が外国人が真似のできない「熟練技能」を醸成している根源となっているのです。
そして、この「遺伝的思考癖」が「3つの脳の思考訓練:特技」だとしているのです。

筆者はこの「心」を伴なわない「小技」の領域のものは自然流失しても問題はないと考えているのです。
「小技」は応用力を伴なわないからで「技」から一つ超えた新しいものを作り出す事は出来ないからです。彼等にはこの「技と人」「技と心」が別物とする思考原理がある以上は日本の様なより良くして且つ新しく超えたものは「自らの力」では成し得ない事を意味するからです。
ただ一つ彼らにこれを成し得る方法が在ります。
それは”良くして且つ新しく超えたも”を日本から一つ一つを導入して階段を上げて行く方法が残されている筈です。
筆者はその「小技の領域」や「階段を上げて行く方法の領域」のものであれば問題は無いと考えられますし、また彼等にはこの方法が無理なくして適していると云えるのです。又、そうあるべきです。「高品質と高付加価値」の物を効果的に広める事に依って、日本人の「生きる糧」としても、人間社会の「文明の進化」に貢献する為にも必要な事である筈です。
この点では実習生の発言の”誰かがするだろう”は一面では真理である事が云えます。
日本人が他に比べて特異に「遺伝的特質」を有しているのであれば、”「文明の進化」を日本人が先頭に立って主導すればよい。”と云う事に成ります。”神が日本人に命じているのだ”といいたい筈です。
だとすると、”外国の全ての者が「熟練技能」の領域のものは保有する必要性はない”という事に成ります。実習生の言い分や主張は「文明の進化」と云う観点から観れば”正しい”と云う事に成ります。つまり、この理屈で云えば、”日本人の「遺伝的特質」は宿命だ”と云う事に成ります。
”無い者がある様に立ち振舞うより、有る者がある様に立ち振舞う事が自然で道理である”と云う事に結び付きます。
突き詰めると、実習生は心の中で主導する日本人を尊敬していた発言であった事を意味します。
上記した様に「技と心の一体化」は「日本人の宿命」であるとし、その拠り所が「神明社」にあるとするならば「神明社の位置付け」は「3つの発祥源」に匹敵する「象徴的重み」を持っている事に成ります。筆者は、先祖が「2足の草鞋策」を通じて外国貿易をしていた事から、この辺の事を悟り「神明社の氏上・始祖」の青木氏の「家訓10訓」の「家訓1及び2と家訓8」にこの事を繁栄させたのではと考えているのです。取分け「家訓8」に対して本文を組み込んだと観ています。
この「青木氏と神明社」に関わる「文化と伝統」の範囲の「物造り」は遺すべきと考えているのです。

「高度な熟練技能」の範囲=「高品質と高付加価値」の環境=「文化と伝統」の範囲

筆者はこの様に「3つの発祥源」(青木氏)と「物造りの氏上・始祖」(神明社)を多面から論じているのです。そこで「神明社」を「青木氏の守護神」とする事のみならず、その根源に付いても論じる事を試みています。つまり、”青木氏にはもう一つ「物造りの氏上・始祖」と云う使命が課せられていた”と観ているのです。それが”神明社なんだ”と云いたいのです。

「熟練技能」と「マシニング」
続けます。そこで彼等つまり外国は”彼らにこれを成し得る方法が在る。それは良くして且つ新しく超えたもを日本から一つ一つを導入して階段を上げて行く方法”と論じましたが、”では一体それは何なのか”です。それをこれから論じます。
と云うのは、「流失拒否論」ですが、これにはこの様に”熟練技能は流失はない”とする明確な理由、”小技の領域は流失しても良い”とする明確な理由があるのですが、これを隠してか知らないかの議論なのです。日常その環境にあるのだからその論者であってそれの背後やその環境に居る者等がこの事に付いて知らない筈は有りません。
そこで更に進めます。
実は、工業界の現在では「マシニング」と云う超ハイレベルの「コンピーター」で動き、人間の持つ「高度な熟練技能」と「高度な熟練技術」はコンピーター化されて記録されていて、且つ、それも人が介在しないで自動的にプログラミングされコンピーター化される工作機械が既に日本の末端まで一般化されているのです。
今や「人間の熟練技能」を「その品質とその安定度」に於いて遥かに超えているのです。
当然に中小企業の中に於いてでも容易に獲得できる環境にあるのですが、それにも拘らず「流失拒否論」なるものが述べられているのです。少し変です。
更に、仮に製品に「熟練技能」が必要であったとしても、それを調べ再現できる超コンピータの塊の様な「3D測定機」というものがあるのです。
この「3D測定機」のコンピータ機は他国を寄せ付けない程度に「日本人の特技」を生かしたもので日本の独壇場の市場です。一般の人には馴染みではないと思いますが、工業会では最先端の機械なのです。「機械」というよりは「人間の頭脳」かそれ以上のより「高度な再現力」を持っているのです。
この工業界の範囲に於いて「人間の脳域」を遥かに超えて再現出来て、且つその精度域は10万分の1まで確実に検出出来るのです。オペレータが外からこの頭脳にデーターを入れる事も出来るし、コンピーターが自分でその物を計測して解析してデーター化する事も可能な測定機なのです。
測定機と言うよりはコンピータ人間と云うべきものかも知れません。測定機の中に人間が入ってオペレートするのです。
20℃50%RHの無菌無埃の完全空調の部屋全体がコンピータに成っていて、その中の一角にオペレータが座りCRTを見てキーボードやジョイスティクを操ると云う形です。一度操れば後は自分で状況判断して全てを遣りこなしてしまうと云う優れ物です。
これを「ティーチング」と云うのですが、この様な高度な熟練技能と熟練技術を併せ持った人間の頭脳に代わるCPU機なのです。
この日本国内だけで汎用化されている「3D測定機」を使えば、これ(「熟練技能」と「熟練技術)を簡単に汎用的に何処でもコンピーター化できるのです。
現在ではこの「マシニング」と「3D測定機」の2つが連動して組み合わされて使用し使用されていて、日本では最早20年前位から「熟練技能」の依存域では既にないのです。
(ある一面に於いて重視されて需要が高く”「マシニング」と「3D測定機」の2つが連動”に取って代わられない領域があるのです。今後「高品質で高付加価値品」に成れば成るほどに必要とされるでしょう。)
これは「日本の特技」の「高品質で高付加価値品」の「代表的な極め」であります。

(因みにこの”「マシニング」と「3D測定機」の2つが連動”が無くしては8角面から原子核目がけて完全同時に電子衝撃信号を発して原子臨界反応を起こさせる事さえも出来ないのです。つまり、原子力発電や原子爆弾も作れないのです。原子力の必需品なのです。)

「熟練技能」の多く潜在する零細企業に於いてもこの「熟練技能」をコンピーター化されるシステムが既にとっくに備わっており、各県に存在する工業試験所や、高精度のものに応じては頼めば直ぐに企業の協力体制出来上がっていて「3D測定機」で解析して修正してプログラム化してデーター化して、それを「マシニング」に移して高度な物を作る事が簡単に出来る体制に成っているのです。
この領域は現状では、主に「試作段階」に於いて設計化できない高度な部分をこの「零細企業の特技」とする「高度な熟練技能」で先ず補い作り、それを「3D測定機」で10万分の1の精度でコンピーター化し画像解析出来て、目で確認しながら不具合ヶ所を自動解析しながら自動修正して、それを同時に「3D測定機」で「プログラミング」しながら工作機械の「マシニング」にセットして量産的にする事が簡単に汎用的に出来る環境に日本は末端までに成っているのです。これが上記した”ある一面”なのです。
ただ高度な熟練技能を要する様な試作品を作る場合に、先ず第1段階の試作品を「マシニング」で作り「3D測定機」で解析して、更に「マシニング」で加工修正してこれを2度乃至3度繰り返す事で満足し得る「高度な熟練技能を要する様な試作品」を造り上げると云う手段もあります。
これを一挙に「熟練技能者」に依って試作品を造り上げてしまうと言う手段が実際には多いのです。
それは設計者が考えている事を直接会話を通じて反映させられると云うメリットがあるからなのです。
なかなか設計値や図形に表現出来ない事があるからで、金属やプラスティクの温度や機械的強度等の加工特性に依って設計寸法通りに成らないものや、設計どおりにしても実際には使えないものがあり、これを「熟練技能者」と対話しながらより現実味のある物に仕上げて設計に反映させる必要があるのです。
これを試作段階のものにはなかなか読み込む事は実際には困難なのです。
それを神業の持った上記した「熟練技能者」に先ず作ってもらい、その上で「3D測定機」でデター化して設計値に反映させるのです。そうする事で「3D測定機」と「マシニング」には高度な学習機能が両方に備わっていて2度目からはかなりのものが出来ます。
「マシニング」でも加工温度、加工速度、バイト切削角、切削剤等の諸条件を決める必要がありますがこれも学習化して数値化してしまうのです。
後はマシニングが勝手に自動的に量産化してしまうのです。
高度な熟練技能は「3D測定機」にデータ保存されるのです。
この「高度な熟練技能」を”「マシニング」と「3D測定機」の2つが連動”化すればするほど人間の熟練技能の領域を遥かに超えるのです。
普通の程度の「熟練技能」程度の領域では「マシニング」のそのものだけの高能力がこれを簡単に補える事が出来るのです。故に「熟練技能」の海外流失はリスクを負わないのです。
”基本とする「熟練技能」が日本に無く成るではないか”とのご指摘があろうと思いますが、この事でそれも違うのです。無くならないのです。
何故かと云いますと、次ぎの事に成ります。
先ず第一にマシニングのコンピーターに「日本人の繊細な思考」から出た技能を既に多くは記憶化されているのです。これは上記した「日本人ならではの遺伝的特技」であって下記の数式に示す様にこの領域を他に追随を許さないのです。

「日本人の繊細な思考」=「日本人ならではの遺伝的特技」=「高度な熟練技能の試作品」
「3D測定機」+「マシニング」=「高度な熟練技能の試作品」=「高品質と高付加価値」

その記憶は次ぎのものに成ります。
第一に「学習」として生かされるシステムにコンピーター上でマシニングは出来ているのです。人間の持つ学習能力が「日本人の遺伝的特技」で出来上がっているのです。
第二に「3つの脳」の「思考訓練」に依って得られた「熟練技術」は既に一段上のレベルの「新熟練技能」を学習に依って生み出しているのです。
上記する前者の「熟練技能」を「基本的な熟練技能」とすると、後者は「熟練技術」に裏打ちされた「応用的な熟練技能」と呼ぶべきものに現在は進化しているのです。
「時代は進む」の諸事に合わせて「熟練技能」も進化するべきでその姿に日本は既に成っているのです。これは”「技能−知識−技術−新技能」のサイクルは繰り返す”の「青木氏家訓8」の誡めに真に合致します。
第三に中国はこの「熟練技能」に期待をしていないという事です。そんな時間的余裕が無い筈です。
此処が「彼等の狙いどころの方法」でこれさえ獲得してしまえば「熟練技能の入手」は何の問題も利点もないのです。ところが此処に彼等にとって厄介な一つの障壁があるのです。

中国はこの「2つの機械」(マシニングと3D測定機)は共産圏には「貿易管理令」で輸出は抑えられている為に、これを獲得しようとして上記の「2つの機械」を悪質なあの手この手で搾取しているのです。
「時間」で解決できる「熟練技能」そのものより、最早、中国はこの「2つの機械」があればどんなものでも出来る事を知り、その入手方法の獲得に躍起になって走っているのです。
「高度な熟練技術」を持った企業とその協力工場を人件費という餌で誘致し、工場を提供し、「2つの機械」を設備させて、その間に合わせてそれを動かす人を育てさせて、最後には「2つの機械」を設置したままに「工場移転」を迫り、云う事を聞かない場合は移転先を紹介しないと脅すのです。
移転すれば又同じ事を繰り返す事になり日本企業は撤退としてしまう「国家的戦法」を堂々と行っているのです。
又、日本国内で倒産した中小企業のこの「2つの機械」をスクラップとして購入し見るからにスクラップに見せかけて解体し、中国に持ち帰って何とか自分達で修理し組み立て直し、中国国内企業に売りさばく戦術の何れかです。これは「国家戦略の領域」なのです。部品の生産のみならず原爆や原子力発電機を作れるのです。
後の問題は「元による経済力」で、この様な零細企業を買収して自国に移動させて人共に使用する戦術で既に実績をあげているのです。

この「3つの彼等の無法な離れ業」は私の現役中に目の前で何度も起こった驚くべき現実の日常問題です。伝達に時間が掛かりと資質が左右する「熟練技能」の海外流失は最早、彼等には最早無関係なのです。未だこの手法は続いているらしいのですが、最近はこの種の誘致には乗らない傾向が出てきたとの事ですが、この事の方が問題なのです。
しかし、これらは中国の貨幣「元の引き上げ」に依らなければ解決は不可能です。しかし、米国はドル防衛の為に日本の貿易摩擦のような積極的な行動には出ず腰は何故か牽けています。まさかオバマ氏の親族が中国人であるからかでは無いでしょうが。

確かにこの様な背景下である為に、この「熟練技能」の「海外流失」の懸念はある部門に於いて認められます。それは主に3次元的に「流体力学」が大きく働く部門に於いては有り得るかも知れません。其処まで「3つの彼等の無法な離れ業」でこの部門領域が犯されているとは考え難いのです。
つまり、端的に云えば、皮肉にも古来中国より教わり発展させた「日本人の特技」の有名な「ケサギ」と云う作業があります。
これは「高品質と高付加価値」を成すために必要とする「高度な熟練技能」である事は否めません。
中国後漢から司馬達等氏が持ち込んだ「鞍造部の技能」を使って、「仏像を彫る技能」即ち3次元的な立体像を完成させるのは「ケサギ」作業が無くてはなりません。奈良時代、平安時代の仏像の例に観られる様な「幾何学的流線型」であります。
専門的には「コーキング」と云いますが、多分コンピーター化が難しいと見られる物は他には無いと考えます。しかし、これは余りにも「熟練技能」域にあるが為に「人的要素」に安易に頼りすぎて「コンピーター化」を怠って来た部門域である事に依るものです。
現在では上記した様に「3D測定機」も高度に進み「ナライ機構」と云う装置でこれを充分に量産的に再現出来て、「マシニング」も「ナライ機構」で三次元的(3D的)に再現させ稼動する事が出来る常態に成っているのです。
ただ、「人的」に依存し過ぎて「コンピーター化の努力」を怠っているに過ぎないのです。
如何なる遺すべき物であろうと「努力」を怠るものには日の目は当らないのがこの世の定めです。
むしろ、この様な物であるからこそ「コンピーター化」を施すべきなのです。

上記した金属的な作業を含めて、仏像に然り陶器等の「伝統品、工芸品」を含めて機械らしきものが無い時代の古来より全ての作業はこの手作業の「ケサギ作業」から発しているのです。
そして文明が進むにつれて「機械化」や「道具化」が進み、「ケサギ」は最後に残った難しい流体的な物の「特技」としての代表的な位置にあるのです。
この事から「特技」としての「長い歴史」があるが為に、妙な誇りの様な事に拘りが生まれているに過ぎないのであり、つまり「ケサギ」は「作業の伝統」そのものである事は否めませんが、本来は脱却すべきでものなのです。逆に、これが「日本人の遺伝的優秀性」の「特技」に対する”「3つの脳」の「思考訓練」(「熟練技能」「熟練技術」)”の努力を怠る欠点に成っているのかも知れません。それだけに何としてもこの一点から脱却すべきなのです。
古来中国や産業革命後のイギリスの二の舞にならぬ様に、「作業の伝統」だからと云ってそれに胡座を斯く事では無く、時代の進歩に合わせた形(コンピーター化)に変化させて記録保存すべきものと考えます。出来ないのではなく出来るのです。難しくなく易しいのです。
兎も角も中国でのこの種の脅威は中国が共産主義的市場経済である限り何時かその壁が訪れると観ます。それは「私有財産」を認めない事です。”使用権は認めても所有権は認めない”事です。
人はより良いものを作ろうとする本能を有しています。日本人はその遺伝的にも飛び抜けて持っています。とすると、その努力が結果として自分のものとして所有権が認められるから人は頑張って努力して進化させようとするのです。
この「所有権」がないと云う事に成れば必ずや自由圏の外国企業は何時か人件費的魅力(元の引き上げ)が無くなり「所有権」が無ければ、更に再び他国の「所有権」が認められる低賃金の国へと移転して行く筈です。そのキーは「元の引き上げ」だと見ます。雪崩の様に引き上げる渦が起ると観られます。
既に上記した「追い出し戦術」と共に「所有権」が原因して起りつつあると聞いています。
この「熟練技能」と「熟練技術」の連動はこの様な環境下にある事を知って頂き下記の「本文」をお読み頂きたいのです。この意味で序文のところでくどく述べたのです。

「青木氏の伝統」(家訓8)
現在に於いては「日本人の遺伝的特質」の「3つの脳」の「思考訓練」は、その努力の行き着くところの結果として「コンピーター化」を促し、それが更には「高品質で高付加価値品」を造り上げ、遂には「日本を再生」をさせる起爆材である事を意味する事であると本文はしています。
これは、「日本存続」でなくても、「青木氏に於いての子孫末裔の存続」は「青木氏の家訓」の「家訓8」で既に戒めとされていて、平安末期頃にこの事を見抜いていたのです。
それ故に、「全青木氏」に於いては、この”「3つの脳」の「思考訓練」”の「日常の努力」は古より「課せられた生き方」なのだと云えるのです。
終局、「家訓8」の「技能−体系化−技術」の体系化の作業をより具体化、具現化するとすれば「3つの脳」の「思考訓練」でしか無いと云えます。

「日本人の遺伝的特質」=「3つの脳」の「思考訓練」=「高度な熟練技能」=「高品質で高付加価値品」

そこで、このその基と成っている「3つの脳」の「思考訓練」の話に戻しますが、つまり、筆者もその環境下にあって、年中、上記の云う所謂「受験勉強」時代での「知識の習得」の環境が要求され、上記の「3つの能力」の向上が要求されていました。
考えてみれば、「家訓8」である事に気が付き日夜実践していた事に成ります。
実は「技術屋」としての仕事の悩みで、”どの様にしたら仕事の能力を高められるのか”を悩んで「脳の勉強」をしたのがこの切っ掛けでした。
(「熟練技能」「熟練技術」も含めて「青木氏家訓8」の意味に気付いた)
この技術職業病なのか必要以上にこの論理性が強く成り過ぎて人生観が少し捻れて世の中のことが読み取れなくなり悩んだ時期がありました。その反動で技術系ではない文科系の”「歴史に関する趣味」を持つと云う事で解決できるのではないか”と幸い気が付いて、他方この方向にも上記1から3の「3つの能力」を駆使したのです。
その始めは親からの依頼で始めた「ルーツの復元:青木氏の研究」であったのです。
一番最初に取り掛かったのがこの伊勢の「神明社」でした。ところが調査が進むに連れて”「神明社」が「神明社」であるだけではなく何か納得出来ないものがある”と感じていたのです。
家に残る色々な慣習や、青木氏の資料や、遺産品から見えるものや、各種の神明社資料や、「2足の草鞋策」の記録帳簿や、「家訓10訓」の添書や、紙屋長兵衛の最後の人物であった当事者の祖父からの口伝の内容等から「3つの発祥源」以外に「特異な立場」があったのではないかと感じ採っていたのです。

「神明社」の祭祀の際に「始祖のような立場の役目」を果たしていた事が各所に出てくるのです。
そのことに付いては調査して行くと、伊勢神宮にも「御役」と云う役目等があり「神明社」にも同じ役目(「御役」と書かれている)がある事が判ってきました。そして伊勢神宮では当初は伊勢青木氏が務めていたらしく、それが江戸期に入ると「神仏分離令」や「大教宣布」等の宗教改革が行われ「民の心の拠り所」とする「神社や寺社」を一氏が独善的に専有する事等を禁じて、且つ更に「寺社領上知令」を出しその勢力を排除したのです。
その結果、伊勢神宮は幕府管轄になりましたので幕府直轄任命の「御役の村役」が大きな権限を与えられて治めていた事が判って来ました。
(明治以降は神明社をはじめとして全ての大社関係は県の神社庁の管理管轄に置かれました。)
伊勢神宮と合わせて「物造りの神」でありながらも「民の心の拠り所」とも成っていた特に5家5流の守護神で「祖先神の神明社」の祭祀には、青木氏一族一門郎党と主な秀郷流青木氏が各地から参集していた事が書かれています。筆者は「神明社」になのか「祖先神」になのか、はたまた「祖先神 神明社」になのかの完全な判別が現在研究中で付いていませんが、兎も角もそれが「物造りの氏上・始祖」と云う立場であった事が判ったのです。
「物造りの氏上・始祖」としての明記した確定する資料が見付かりませんが、江戸末期の宗教改革の令があったにせよ全体の状況判断から明治期前までこの立場が在った事が確認出来ます。
明治初期頃10年頃までには伊勢神宮(125社)の各地の青木氏の寄贈が確認出来ます。伊勢神宮の膝元の伊勢賜姓青木氏と伊勢特別賜姓族の秀郷流青木氏と信濃青木氏と甲斐青木氏の江戸期からの寄贈の記録が遺されています。
(これ以外にも伊勢神宮街路灯には青木氏の大街路灯が現在でも5燈が確認出来ます。特別であった事が覗えます。)
この様に青木氏全体を繋いでいる神明社を調べる事でルーツの根幹が徐々に判る様に成ったのですが親は「ルーツ復元」の目的よりむしろ筆者に「家訓8」を悟らすために実践させたかったのではないかとも後で解った次第です。と云うのは「家訓8」は「ルーツ解明の作業」そのものであって其処から人間として学ぶものが多かったのです。)

この「神明社」のテーマで入れば、ある程度の私資料が有ったにせよ祖父の代の明治35年の伊勢松阪の大火(出火元)で消失してはいますが、「70年後の復元」としては”青木氏に付いて解るのではないか”と考えて「伊勢青木氏」の守護職であった「伊勢神宮」のスタートからそもそも安易に入ったのです。5家5流の青木氏関係と伊勢秀郷流青木氏を基点に秀郷流青木氏へと進みその「調査と研究」は年数と経費と労苦と大変苦労しました。特に資料の信頼度に関しては雑学が無かった事もあって当初は判別力をつけられるまでは遅々として進みませんでした。「宗教と歴史」、「家紋研究と地理性」等を研究する事で判別力がついて来たのです。
それらの研究過程では中でも「青木氏と佐々木氏」の「賜姓族の親族関係」が判り、佐々木氏も同じルーツ解明で研究している筈と観て、更に進めると青木氏の事がある範囲で研究されている事が判ったのです。
当時はまだコンピーターは無く勿論インターネットも無く、資料文献も少なく、「ルーツ解明」のみならず、「ルーツ」そのものの「世間の意識」は全くないと言う現状でした。むしろ、「ルーツ」を解明する事、「ルーツ」を述べる事さえもタブー視され、伝統を否定し、酷い時には蔑視される時代だったのです。
確かに筆者の代でもこの程度でしたので親の代では「ルーツの復元」は難しかったことは頷けます。
原因は戦後から昭和の末頃まで世間には社会主義が蔓延し、「伝統」を否定し社会革命を目指す為に左傾化していた事によると思います。
そこで、あるのは「自分の解明努力」のみで、結局はルーツ解明方法は特別には無く筆者の技術手法を取り入れて進める方法で研究の糸口を開きました。その切っ掛けは昭和の5大歴史小説家の特別単行本でした。非売品や対談本や簡単な単行本には彼等の独特の調査方法が書かれていたことでした。
(5人中の2人の小説家が青木氏の事に研究し触れていました。大化期と平安初期の研究)
そこで私なりの利点を生かした解明方法を編み出す以外には無かったのです。
資料の信頼度が高ければそれ程でもなかったのですが、如何せん難しい物でした。
(現在においては益々資料関係や遺された情報が無くなり、又法的な規制の中ではかなり難しいと観られ”無理”の領域に到していると考えられます。まして個人の領域ともなると一つの例として筆者の様な何らかの手法を用いなければ闇雲には不可能です。)
そこで、参考に筆者手法を紹介致します。

それは次ぎの様に成っていたのです。

「筆者の5つの手法」
解明プロセス(PLAN1)⇒集約プロセス(PLAN2)
⇒推理プロセス(DO1)⇒処理プロセス(DO2)
⇒検証プロセス(SEE)

解明プロセス(PLAN1)
1「文献資料探求」
2「電話調査」
3「講演受講」
4「足取調査(聞取調査)」
5「現地調査(写真)」
6「資料整備」
7「読取検証」
8「考察整理」
9「書込整理」
10「保存文書」
以上の順序で進める。

集約プロセス(PLAN2)
そして、これ等から得られた結果を
1 「人、時、場所」に先ず集約して纏める。
更にそれを
2 「理由、目的、手段」に分類する。
例えば、ルーツ解明で重要な位置を持つ家紋で観たい場合は
A 家紋分類集、
内容の重要性に応じて
B 宗派集
C 地理集
D 慣習集
E 歴史(史実)集
以上等で分類する。

推理プロセス(DO1)
集約し纏めたものを「世の中の動き」はある種の行動パターンに分類出来る、即ち「三つの戦略」と「6つの戦術」に照合してある種の「推理立て」を行い、「拾い出し」を行う。
「拾い出し5点(イからホ)]
イ「推理点」
ロ「疑問点」
ハ「問題点」
ニ「矛盾点」
ホ「調査点」
以上を定める。

処理プロセス(DO2)
この3つのプロセス(PLAN−DO)を何度も繰り返して前に進める努力を行う。    
普通は2回(多くて3回程度)でイからハを解決し確率の高い答えが観えて来る。
中には不明不詳は多く残るが、これは「雑学」が拡がると意外に解消する。
(雑学を得て何十年後に解明したと云う事もある。)

検証プロセス(SEE)
これを「他の研究論文」や時代の「社会慣習や史実(雑学)」に照合して「矛盾の有無と修正」をして検証を行う。

この「5つのプロセス」に「3つの脳」の「思考訓練」が働くのです。
特に、「解明プロセス」と「推理プロセス」にはこの「思考訓練」が大きく働きます。

「解明プロセス」には「単一要素に対する思考訓練」
「推理プロセス」には「綜合的な思考訓練」
以上が要求されます。

ここが一番楽しい所です。これが上記した「無意識の思考」であり何時でもイからハの事が頭の中に残っていて「無意識」の中で(下記の庭仕事等の癒しの中で)考えているのです。

上記した「筆者の5つの手法」であるこの「3つの脳」の「思考訓練」の御蔭で「雑学」が格段に広がりを見せたのです。いよいよこの”「3つの脳」の「思考訓練」”の手法で元気付き研究はどんどんと広がりを見せました。
この「特技経験」を活かして「青木氏の研究」がかなり広範囲と成り48年後の今だ余生の課題として続けているのです。
この様な事から得たものを「青木氏氏のサイト」の「青木ルーツ掲示板」や「青木氏氏研究室」等にこの「研究結果」を公表したのです。
恐らくは、”ルーツ解明にはお膳立てされてそれを見ればルーツが判る”と云う程に世間に資料があり、資料がまとめられている程甘くありません。この「3つの脳」の「思考訓練」即ち「特技経験」が無ければ「ルーツ解明」には到達できなかったのではと思っています。
有っても各種資料の「相互関係」が採れていなくて「矛盾」が殆どです。

「青木ルーツ掲示板」の様にお尋ねの「歴史の世界」を思い浮かべて「雑学の記憶」を引き出し「まとめる努力」が必要です。「雑学」が増えれば増えるほどに「歴史の真実の世界」が浮かび上がると云う気がしますが、そこではこの「3つの能力」(「3つの脳」の「思考訓練」)だけでは駄目で、それらを「書くと云う方法(レポート化)」への工夫が別に必要に成ります。
昔の「技術レポート」の書き方ではすらすらですが、「サイトの投稿」はそう上手く行かず、そこで、考えたのは筆者流”まず一度少し書いて留める”と云うやり方です。
青木氏氏には管理人室がありそこに色々なツールがあります。その一つに「原稿書き」するところがありますので、そこで投稿用原稿を作っています。

そうすると”書かねば成らない”と云う意識が緩やかになりますが、頭のどこかで不思議に”無意識に考えている”。と云う事が起こるのです。
テレビを見ている時、庭仕事をしている時等に”フッ”と何か浮かび上がるのです。
長い間の経験と云うか、出来上がった習慣と云うか、この歳に成ると、この瞬間がスロービデオの様に判る様に成っているのです。”アッ来た”と云う感じです。
そうすると、この関係の記憶が蘇って来ます。そうなれば、テレビを見ながら、庭仕事をしながら不思議に「2つの事」(意識の思考行動と無意識の思考)を出来る様に成るのです。手や目を動かし一方で「蘇る記憶」を考え合わせて「書く事の内容」の「関係や答え」が自然に湧いて出てきます。
この「2つの脳」の動作の割合が7:3位のような感じがします。
庭仕事のここを切ってここを伸ばす等の「思考7割」と、全く違う事の脳の記憶の思い出しと緩やかな組み立て動作の「思考3割」とが連動しているのです。
そして、この現象が起こると、後は書くことには問題が起こらず繋がってずすらすらと書ける様になります。
これは、長い間、技術屋としていつも問題を抱えていて、いつも「考える癖」がこの様な「連動癖」が出来る様に成ったらしいのです。
恐らく、「左頭の記憶脳」と「右頭の発想脳」と「後頭の運動脳」が同時に使える癖が出来上がったのではと考えています。
ただこの時の条件がある様で、嫌なこと、見たくない事、腹の立つ事、聞きたくない事等の事(高いストレス)がある場合は起こらないのです。
要するに”好きな事を見聞きしている時”の様です。卑猥な話ですが、意外に便所に入っている時に起こる事があるのです。何も考えない目的だけを達成させるだけの瞬間、つまり、”脳が楽になっている時”でしょう。好きな事で脳がリラックスしている庭仕事や細工物の時にも多く起こりますが、これも「樹木の香り」が「心、即ち脳」を和ませるのだと思います。
恐らく森や林の様な「より広い自然」の中での環境に左右されているのだと思います。酸素やオゾンの豊富さとそれによる温度の格差断層が脳を休ませている気がします。
後はゆっくりと別の時に”書く事”のみです。意外にこの時間が経っていても、”その時に思い出した事、考えた事”は不思議に忘れていないのです。此処がつまり「印象の特技」なのです。

実は、この現象を脳科学的に調べて観てみると、女性にはこの特有な遺伝子的な「思考連動」を持っている本能がある事が判ったのです。
当然、訓練以外には男性には持ち得ていない「特技」だと云う事も。”料理をしながら他の事を考えて目が届いている”という風に、これは子供を育てると云う「母性本能」の一つらしく「前頭葉」と「右脳」と「左脳」のシナプスの「感情主観」による「連動本能」と云うことなのです。
この事が「論理主観」の男性にも長い訓練や習慣で本能ではないこの「連動作用」が出来上がるらしいのです。つまり「女性の本能」と「男性の訓練」の違いでしょう。
男性には本能ではないので必要とする「書くと云う方法]に対する「絶対条件」と云う事ですね。

先日、体調不良でおかしくなって倒れた時に、私の脳の異常の有無を徹底的にMRI、MRA、CT等で2度にわたり解析調査してもらいましたが、この時、偶然にも病理検査の結果で偶然にこの「特技」が証明されたのです。
幸いにも病理欠陥は無く、年齢から観た脳の若さについてどの様な生活をしているのかとの質問で話題に成ったほどに脳神経外科医のお墨付きでした。
実は脳の各部の容積が年齢から見て全く縮小していない事と、特に記憶装置の「海馬」が若い者と同じ大きさかやや大きいと云う事で、普通は年齢から観て65%位に萎縮しているらしいのですが極めて元気とのお墨付きを貰いました。頭の良し悪しは大した事がないのですが、自覚する事では「海馬」の印象力が繊細且つ敏感に動作している事を示していて、この結果「記憶力」がかなり人より秀でている事が証明されたのです。(実は記憶力は人より確かに良いと自認していて自慢なのです。)
結局は、若い外科医との話中で、「3つの能力」(「3つの脳」の「思考訓練」)と「書くと云う方法]に対する「絶対条件の繰り返し」が「脳の活性化」を起しているとの結論に達しました。
(脳外科医もこの、「3つの能力」(「3つの脳」の「思考訓練」)を肯定)
(海馬は記憶するか否かをその時の印象力にて判断し取捨選択する機能を持っている。)
実はこれは学業ではそれ程でも無いのだけれど、記憶だけは同じく孫が驚くほどに飛びぬけて良いので、この特技が遺伝されている事でも証明できる様です。
内心、何時かこの孫等もこの青木氏の歴史を記憶で引き継いでもらえると喜んでいるのです。

さて、その為にもこの「記憶力」で青木氏の歴史を更に紐解き、何とか「青木氏の範囲の伝統」を護り後世の青木さんに遺そうとしています。現在のところインターネット等を観ても他の氏は殆ど氏の歴史は遺されていない模様です。
そこで、「3つの発祥源」と「神明社」の「物造りの氏上・始祖」である事も意識して、歴史資産の元として張り切って、今度は青木氏に大いに関係する「神明社」関係の研究の記憶を「特技」で全て吐き出そうと考えました。
では、前置きが長くなりましたが、未完成ですが完成を待っているとアウトするかもしれないので先ず遺すことの意味の方があると考えて「神明の記憶」を吐き出し遺します。
後は後で判った事は随時に書き足す手段に出れば良いと考えますのでそのつもりでお読みください。

先ず青木氏と守護神との関係がどの様に成っていたのかを研究室やルーツ掲示板のご返事のところ等で色々なレポートに散在して書き記してきましたが、此処で一つにまとめてとおきたいと考えて整理する事にしました。元々昔調べたものである程度の論分と資料として保管しているだけのもので完全に整理されずにいたものです。
それを今回現在に合わせて論じ直して綜合的にまとめて本タイトルでレポートしています。中には既にお答えした文章を引用して重複するところもあります。
但し、資料データも他の文献と内容が青木氏に関係する事と歴史的な期間の限定等に依って整理している為に異なります。それはそれで面白いとお考え頂いてお読みください。それを前提とした研究論文に成っています。

付録1
「中国の新幹線脱線問題」 ルーツ掲示板(後刻に研究室レポートにする予定)参照

付録2
「肝付氏の氏姓族」
1 明確な出自
救仁郷氏、北原氏、検見崎氏、萩原氏、前田氏、岸良氏、野崎氏、川南氏、小野田氏、三俣氏、鹿屋氏、橋口氏、山下氏、川北氏、頴娃氏、出水氏、井口氏
2 支流の出自
梅北氏、馬瀬田氏、安楽氏、津極氏、加治木氏
3 同族の出自
薬丸氏、波見氏、小城氏、内之浦氏、榎屋氏、窪田氏、慶田氏、富山氏、二方氏、中村氏、山口氏、永嶋氏
以上 支流族の末裔34氏
大蔵氏系一族 合わせて42氏

分流、分派、縁者を加えるとこれ以上に数倍程度はあると観られる。
123の分類が不明であるが第2次の支流一族が数え切れない程にある(下窪氏、板敷氏、豊留氏)
これ等の出自の仕事役処を見ると「税の徴収と産物、土地の管理」に類するものである。
これ等の氏の通名には「兼」が前に付いている。
家紋は肝付氏123は「三雁金紋」 支流に「丸に桔梗紋」が多い。

次ぎは神明社の分類と検証です。
「青木氏と守護神(神明社)−14に続く。


  [No.282] Re:青木氏と守護神(神明社)−14
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/12/25(Sun) 13:25:09

「青木氏と守護神(神明社)」−14

本文
「神明大社」との関係
先ず、神明社又は神明神社は青木氏に大いに関係する事ですので、これから始めたいと思います。
「神明社」とはそもそも、「天照大神」(「豊受大御神」)を祀る神社です。
  「経緯」
「豊受大御神」(とようけのおおみかみ)」を祭祀する「豊受大神宮」は、「皇大神宮」「天照大神」の内宮(ないくう)に対して外宮(げくう)とも云います。
「皇大神宮」「天照大神」は言わずもがな国民等しく日を照らす神であり「太陽神」であり「自然神」であり後の「鬼道」の基に成ります。つまり要するに「民の心の神」であります。

祭祀する経緯由来は、「雄略天皇」が、夢の中で「天照大御神」のご託宣を受け「豊受大御神」(外宮)を「丹波」の国から、内宮にほど近い「山田の原」に迎えたとされるものです。
この真偽の程は別として「雄略天皇」の「御託宣」とは、「心の神」に対して民には「生活の神」「物造りの神」が必要であるとしての行為であったと考えられます。人はこの「2つの基神」があってこそ「人の世の生の神」でありますが、当初は「心の神」だけを祭祀する事で「人の世の生の神」としていたのです。
しかし「夢のご託宣」の「丹波国」からわざわざ祭祀の場所を伊勢国に移して「天照大神」(内宮)と共に「豊受大御神」(「外宮」)を正式に合祀して「皇祖神」として「2つの基神」を祭祀した天皇家では、その最初に伊勢国の現在地に於いて祭祀し始めました。
その祭祀したのが「大化改新」(645年)の立役者の中大兄皇子です。後の天智天皇です。そして、この「2つの神」を「皇祖神」として祭祀しました。
ところが、この」「天照大神」の「皇祖神」として長い間の遍座(90社90地域90年)からやっと伊勢神宮に遷宮したのですが、ただこのままにしては政治的に、国家戦略的に布教を進めるには問題があるとしたのです。
(参考 伊勢大社建立期は他説あり 「大伯皇女」が「泊瀬の斎宮」に籠り、674年に伊勢大社の「斎王」として入るので、最終伊勢の周囲で更に遷宮した期間と建設期間と遍座期間と天智天武の在位期間内から判断すると650年頃と成る)

その原意となったのはそれは後漢の人「阿多倍王」が率いる技能集団の帰化人等がもたらした「技能」に依っての事であります。その結果は「物造り」が盛んに成り、「民の生活の豊かさ」が増し、この「豊かさ」を享受することで国家が安定し安寧に進んだのです。それまでは前記した様に、3世紀から始まった「邪馬台国」から「大化期」までは国内での騒乱が続き、その中で100年周期の「著しい気候変動」によって飢饉が発生して民は大疲弊していたのです。其処にこの「技能」に依る「豊かさ」に依って民を安寧に導く方法がある事を「大化改新」の立役者の中大兄皇子は知ったのです。
それまでは「自然神の鬼道」(邪馬台国の卑弥呼の「占い術」)が示す様に、民は「心の神」と「五穀豊穣」が叶う様に神に信心していたのです。
然し、そうではない事を「為政者」も「民」もこの「技能から来る豊かさ」を知る事に成ります。
この事が天智天皇の悟る処と成り、丹波国に「豊受大御神」を鎮座していたのですが「天照大神」と共に祭祀する必要性に目覚めさせたのです。
「やまと王権」の応仁大王から始まる神代の時代の3代目の雄略大王を引き合いに出し「夢の御託宣」として古さを誇示し「天照大御神」に継ぐ「2つの基神」として考え方を変えた事を意味します。
そして、この「皇祖神」に「天照大御神」を加えて「伊勢大社」に内宮と外宮として合祀する事になったのです。日向高千穂の地の「天岩戸神社」から発した90社90遍座を繰り返した「皇大神宮」「天照大神」を最終伊勢の地に遷宮する事を定めますが、この際にこの「2つの基神」をも伊勢に遷宮したのです。
伊勢豊川を中心に近隣地域にこの「2つの基神」を「皇祖神」として125社の分霊を行いますが、ここで政治的に国家統一の戦略的な意味合いから、この「2つの基神」の「皇祖神」だけでは成り立たなくなったのです。
「2つの基神」とは次ぎの様に成ります。
「自然神」+「鬼道」⇒「皇祖神」=「天照大御神」+「豊受大御神」=「心の神」+「生活の神」「物造りの神」
「生活の神」「物造りの神」=「豊受大御神」=「祖先神」=「神明社」
「祖先神」=「代替神」=「皇祖神」
∴「皇祖神」=「天照大御神」+「祖先神」


それは、前記で論じて来た様に「民の声」が「豊かさ」を享受してくれる「生活の神」「物造りの神」の要求度が大きくなった事によります。
その為には天皇は急務として「大化改新」の一つとして「皇祖神」に繋がる「代替神の創設」が必要と成り、別の国策「3つの発祥源」としての「賜姓臣下」の「融合氏」の青木氏に、この「代替神」を創設させる事に成ります。そして上記の関係式の通りのその「代替神」を「皇祖神」に継ぐ「祖先神」としたのです。
その「祖先神」を祭祀する「代替社」を「神明社」としたのです。

「3つの発祥源」+「皇祖神の代替神(神明社)」=「青木氏の象徴」⇒「4つの発祥源」

この青木氏が「守護神」とする「神明社」は上記の経緯から、「豊受大御神」を主神として「生活の神」「物造りの神」として「民から信仰」を集めたのです。
この「皇祖神」の「伊勢大社」のある伊勢国に「神明の社」を創設して松阪の地に定めました。
この時、「伊勢大社」の125社と同じく近隣地域に先ず19社の神明社を建立します。
そしてそこには「皇族第4世王皇子」を配置して守護させました。
後にこの天領地の主要守護地(5地域:東山道域+東海道域)には「第4世王内」の「第6位皇子」を賜姓臣下して配置したのです。
然し、ここに至るまでには「皇大神宮」は大変な経緯と遍歴(90年−90箇所)が伴ない、最終的に天智天皇が伊勢を鎮座地として定めるには簡単ではなかったのであり、かなりの時間と複雑な経緯を要したのです。

そこで、この事に付いて「皇祖神の伊勢大社」と「祖先神の神明社」との関わりに付いて理解を深める為にも先に触れて置く事にします。
先ず、日本人に於ける「神」は悠久の歴史の中で一つであったと考えがちですが、ところがそうではないのです。
日本は、”世界に稀な「7つの融合単一民族」だ”として、その「由来や経緯」に付いて今までいろいろな角度から詳細に既に延々と論じてきました。
そこでそれらの「神の事」に付いて取り纏めますと次のように成ります。

「氏神の種類 4神」(下記に詳細説明)
0 「自然神」(しぜんしん)
 山海・草木・湖沼・岩石等の自然物や雷・風雨・地震・火などの自然 現象に宿る神とし「否特定の神」

1 「産土神」(うぶすながみ) 
その「人」の「生まれた土地の神」であり、一生来その「人」の「土神」とする「人(単独)の神」

2 「祖先神(祖霊)」(そせんしん)
「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 自分の集合である一族一門の子孫の「守護神」であり「人と氏の重複性も持つ神」

3 「氏神」(うじがみ) 
「人の神」ではなく、「氏のみの一族一門の神」で、氏永代に守護する「氏(独善)の神」

4 「鎮守神」(ちんじゅのかみ) 
「現在住んでいる土地の守り神」であり、「土地・地域」を守る「土地・地域の神」であり、「人」は土地に吸収されるとした「土地・地域優先の神」

(注 0は1から4の基本に成る。 不特定にて独立して祭祀されている部分もあり 其の一つとして「天皇家の祭祀」はこれに当る。)

「氏の神の種類 4神の経緯」
上記の説明を前提に次ぎの経緯・背景に付いて先に論じます。
上記の”一つでは無い”と云う事のその大元は「7つの融合民族」が原因しているのです。
先ず最初にはこの「7つの民族」の「融合過程」から起る「ある程度の集団化」が起こります。
それは先ず最も血縁する一族一門の「小さい集団化」の「氏の形成」であったのです。
その「小さい集団化」の形が「氏家制度」(氏の形成)と云う形で「規則化」が起こった訳です。
その「氏の形成」が奈良期から室町期までの事として、大別すると幾つかの氏の種類が起るのですが、最初は「7つの民族」の小さい範囲で「集団化」が起ります。
それが先ずは「民族氏」Aであったのです。
次ぎにこの「民族氏」Aのある種の弊害の事由により政策的に推進して「融合氏」Bが発祥します。
要するにその「融合氏」Bの最初は青木氏であります。
更に、この「民族氏」Aと「融合氏」Bとの血縁化による「血縁氏」Cが誕生します。
次ぎにこの「融合氏同士」の血縁化による枝葉化した「枝葉氏」Dが誕生します。
これ等の支配下にあった者等が勢力を勝ち取りそれらの血縁化が起こり「姓氏」Eを構成します。
この「5つの集団化」(A〜E)が当然に遺伝子的に各々の立場から来る考え方で”自らを守護し信じる神”を構築し祭祀する事に成ります。
この立場から来る「守護神」が上記(下記にも詳細記述)に示す「5つの神」であります。
これが一つに纏まらなかった経緯なのです。
ところが、この「5つの神」(0→4)は「支配する族側」の「守護神」であり、「民衆の守護神」ではなかったのです。
それは「支配される側」の民衆は「氏家制度」と言う「身分制度」の中で拘束されていた事から生まれ得なかったのです。しかしながら彼らもそれなりに「心の拠り所」としての「何がしの行動」を採ったのです。
民衆の「心の拠り所」としての「神」に対する考え方には「2つの形」があるとしています。
1つは”人は迷うものである”とする仏教の教えから来る救いの神を「心の神」としてこれを「神仏」に求めたのです。−(「心の神」)
2つは”安寧と安定はその生活の豊かさにある”として「五穀豊穣と物造りの願い」として「生活の神」を求めたのです。−(「生活の神」)
この「民衆の支え」(「心の神」+「生活の神」)は”国の安寧と安定に繋がる”として「支配する側」はこの「2つの神」の形の実現を目指したのです。
彼等の民衆は大まかには「部曲と民部」に分離され、その「部曲と民部」の「支配される側」の民衆は「殖産」と云う形で「共通項」(接点)を持ち得ていて、そこにその「共通項」(接点)の「共通の神」を求めたのです。
「共通項」(接点)=「殖産」
「支配される側」の民衆には、「守護神」」(「心の神」+「生活の神」)を単独で維持管理する勢力は当然に到底持ち得ていない訳ですから、単独では無く「支配する側」の「神」にその神を定めたのです。
中でも下記に記述する様に、「国の神」でもあり「万世一系」に通ずるとして天皇家の「皇祖神」に信心しそれを「心の神」としたのです。

(”万世一系に通ずる”は「7つの融合民族」である限りあり得ない事で全ての万民を皇祖神に結び付ける為の「政治的方便」であり、「皇祖神」=万民の「心の神」とするものであった)
そして、「皇祖神」=万民の「心の神」とする以上はその「皇祖神」に繋がる「祖先神」に対して、「共通の神」「共通項」(接点)としての「生活の神」即ち「殖産の神」を求めたのです。

「2つの基神」
「皇祖神」=万民の「心の神」
「祖先神」−「生活の神」(殖産の神)

「支配される側」の民衆は「心の神」の「皇祖神」と、「生活の神」の「祖先神」とに分離して信仰し祭祀を重ねたのです。
これが平安期までの「神の姿」であり、国民は総じてこの「2つの基神」に信心する形が出来上がったのです。
そもそも平安期末期までは、朝廷により「八色の姓制度」などで「氏規制」され制限されていた為に、初期には20からせいぜい末期80までの「氏」での構成であり、「氏毎の守護神」を作るまでには至らず、国民全ての「共通の神」は「自然神」であり、帰化人が持ち込んだ「産土神」と、「融合氏」を始めとする「在来民」の「皇祖神−祖先神」との構成に成っていたのです。
「民の共通の神」は「自然神」⇒「皇祖神−伊勢大社」

ところが鎌倉期に入り平安末期の「融合氏」の青木氏を始めとする「武家の台頭」により朝廷からの許可規制と八色等の法の規制が外れて、氏数が200に乱立し到達し、その氏は「武家の独善の守護神」を求めるに至ったのです。その結果、次ぎの様な類別される守護神の考え方が出来上がったのです。

「武家の守護神」の誕生 →「自然神」「産土神」「皇祖神」「祖先神」に変化

此処で、「支配される側」の民衆は「支配する側」の個別の独善的な「守護神」に対して無視する事が出来ず、上記した様に「2つの基神」の使い分けを試みたのです。

「自然神」→「支配される側」の民衆→「心の神」の「皇祖神」→「武家の守護神」

然し、「支配される側」の「生活の神」の信心は強く、「支配する側」の個別の独善的な「守護神」に対してはその信心は強くは生まれず、結局は旧来からの悠久の歴史を有する「皇祖神−祖先神」に対して”霊験新たか”の心を捨てる事はしなかったのです。
それは、全ての神の「共通神」の「自然神」に通ずる「神」である事、更には台頭した氏の歴史の無い「守護神」には「生活の神」までの「霊験」を主張する事は出来なかったのです。

(守護神 阿蘇大社、宗像大社、出雲大社、住吉太守、熊野大社等を背景として氏子集団が台頭して「姓氏」が乱立した)

結局は「支配される側」の民衆は「生活の神の祖」としての「皇祖神−伊勢大社」、現世の「生活の神」の「祖先神−神明社」に信心を求め続けたのです。

「生活の神」の「皇祖神−伊勢大社」⇒「祖先神−神明社」

その時代の経緯の中でも、台頭する他氏と異なり、われ等の「融合氏の青木氏」は身分の別があるにせよそこに「溝」を求めずして「4つの青木氏」を構築し、「支配する側」と「支配される側」が一体と成って民衆が求める「祖先神」を祭祀し続けたのです。(詳細下記)
その一体化は国民は皆等しく「生活の神」の「皇祖神−伊勢大社」⇒「祖先神−神明社」に求めたからであって、「3つの発祥源」としても求められた事に由来するのです。
その求めに応じて働いたのが「神明社」の「管理・建立の職能集団」や「青木氏の神職」等の前回より論じている青木氏の「部」との掛け合いであったのです。

青木氏=「2つの血縁族の青木氏」(賜姓族、特別賜姓族)+「2つの絆族の青木氏」(未勘氏族、職能族)

この行為が下記する「物造りの氏上」と成った所以なのであって「氏神様」の呼称の所以でもあるのです。

(室町期以降の書物には”「氏神様」”と呼称の字あるが、筆者は上記する「4つの青木氏」の事から平安期までは”「氏上様」”の呼称であったと考えていて、江戸期前には「御役」(御師)の呼称もある処から間違いは無いと考えています。この変化は平安期まであった「民族氏」と「融合氏」は衰退し室町期に多くの「姓氏」が発祥し、その結果、彼等の「守護神」とする「氏神」の呼称と「物造りの氏上」の呼称が重なった事から次第に間違われて行ったと考えられます。)

「二重の信心構造」
他氏の支配下にあった「部曲と民部」の民衆は、支配される「守護神」に信心する事は当然としても「皇祖神」に繋がる「祖先神」の「神明社」にも信心すると云う「二重の信心構造」を持っていたのです。
何れに重点を置いていたかは”「5つの神」の何処に所属するか”とか、「氏家制度」の中でその氏の「勢力」「環境」「身分・家柄」に依って異なっていて判定が困難ですが、大別すると筆者は「心の神」は其の「氏の守護神」に求め、「五穀豊穣や物造り」等の「生活の神」には最終的に平安期末期頃には「皇祖神−祖先神」に置いていたと考えられます。
「皇祖神」の天皇家では「自然神」から来る新嘗祭等の祭祀を司り、全国に125社の伊勢大社の分霊を置き、「祖先神」の青木氏の「神明社」(566社程度)には朝廷もこれを推進し、中でも「桓武天皇」は積極的で全国を征討する旅に「神明社」の建立を命じて行った背景があります。
平安期末期までには「式内社」として凡そ500社−600社に上る支社・分霊を置いて民衆の「生活の神」に応えています。室町期末期では「式内社」外の「氏社」として1000社、江戸末期では5000社位にも成っています。各土地の累代の守護や領主が神明社のないところや新たに村の形成で必要となった領域には「民の安寧と安定」を願って積極的にその資力で建立して行ったものです。
特には江戸期全般を通じて「他教の布教」が目立つ事もあって「神仏分離令」などを発して奨励したのです。
「伊勢信仰」と「神明信仰」を始めとして「熊野信仰」や「諏訪信仰」や「阿蘇信仰」や「出雲信仰」や「宗像信仰」や「住吉信仰」や「八坂信仰」や「八幡信仰」や「大神信仰」等多くの「大社信仰」を競わせて各地に布教を奨励したのです。(末尾の付録データ参照)

そもそも神社は其の信仰の利害を配慮して”神社は本来古いもの”として信じさせて、各地の「神明社」の由来を明確にしない傾向があり、正しいカウントがなかなか出来ない処があります。
しかし、「鳥居や社舎の建造形式」や「建設地の地形」や「古い土地の豪族」や「神紋」などから判定する事が可能であり、その判定方式からすると凡そ566社として全国的には以上の様に成ります。
(下記 素データは付録記録参照)
しかし、これには正式な支社・分霊社かどうかは判別できないし、室町期末期の以降頃に各国の豪族は「心の神」は氏の「氏神」に求められるが、「生活の神」には出来得ない事から「象徴と権威」の「祖先神の神明社」に求め、青木氏が建てるのではなく上記する様に江戸期には土地を支配する大名大豪族自らが独善的に建立すると云う現象が起こったのです。
(依って本文はこの室町末期から江戸期のものに付いては除外した)
その前兆は「氏の拡大」と「姓氏の発祥」で、その家柄、身分、由来などを誇張し搾取すると云う現象が起った事で、その影響を受けて平安末期頃から徐々にその「社寺の由来や寺社歴」に対して「搾取偏纂の横行」が起ったのです。中でも「皇祖神」125社に繋がる神明社600社が多く狙われたのです。
その原因は「平安末期の混乱」と「武家社会誕生」に依って「2つの青木氏」の勢力が一時混乱し衰退した事でその「150年程度の間隙」を狙われたのです。
青木氏のそれを阻止する勢力はこの時期には最早無くまた方針も意思も無く、むしろ黙認し放置していたのです。
青木氏に於いては「氏の存続」に対してその「利害の損傷」は余り無かったと観られるのですが、その傾向は広く主に関東域と関西より以西の地域で起りました。(付録データ参照)
その意味で「神明社の検証」はこの搾取に付いては深慮な考察が要求されるのです。
これは鎌倉幕府以降から室町期中期までは「武家の社会」となり「関東域の豪族」が勢力を拡大させた事によると観られ、武家社会の家柄身分の誇張現象の風が吹いたのですが、その影響で「民の信任」を引き付ける為に「民の生活の神」としての「神明社」を独善的に建立したと考えられます。
この傾向が調査により131社−全国比 23%にも成ります。1/4もです。無視出来ない勢いです。

では”その豪族は何氏なのか”と云う事に成りますが、「神明社」を建立すると云っても「維持管理」に対してそれだけ「財力と勢力と維持力」が必要であり、豪族と云うだけでは過去の慣習から建立は不可能であります。又、其の建設に必要とする「職能の保持」と「神職が氏に有する氏」ではなくては困難であり、「氏家制度」を確実に構築している豪族が可能と成ります。
「皇祖神」に繋がる「祖先神」の「神明社」ですし、他氏(殆どが氏神)が建立すると成ると、「青木氏」の「祖先神」の「神明社」としても矛盾が起り許可を得る事の必要性もあり、皇族や朝廷の許し無くしてはなかなか難しい筈です。勝手に進めれば「朝敵」の汚名を受ける事にも成りかねないし下手をすると衰退の道を歩む事にも成ります。
少なくとも天皇朝廷との強い繋がりを有する豪族氏である事に成ります。依ってその氏は必然的に限られます。
当然に、この領域は平安期からは北家筋の藤原秀郷一門の領域ですから、この地域の支配者としての建立に必要とする条件は藤原秀郷一門には全て備わっている事に成ります。
この様な背景がある以上はこの室町中期前、又後期に於いてもこの「神明社の建立」は間違いなく「藤原秀郷流青木氏」による建立と考えられます。(下記のデータでも証明)
藤原氏は「鎮守神」の「春日大社」であり、この関東領域に「祖先神の神明社」を建立する事が出来るのは中でも青木氏のみであります。
「特別賜姓族」であり「賜姓族」と全く同じ「家柄、身分、官位、官職」を持つ氏であるからです。
もし他氏が建立するとしても争いが起こりますし、青木氏の存在する領域に建てる事は上記の慣習に伴なう条件を備える事はなかなかに難しいと考えられます。
ただ群馬北域に付いてはこの室町期中期以前には特別賜姓族と賜姓族の青木氏の定住は少なく建立する条件が備わっていたかは疑問でありますが、隣接する国境域の建設は有り得ると考えられ確認したところ「神明社建立地」は越後、信濃、甲斐、武蔵、下野に隣接する国境の領域が殆どです。依って群馬域は可能であったのです。
この隣接する国域は全て「2つの青木氏」の領域であり、その領民は「4つの青木氏」のスクラムの所以であります。
このデータから観ても「4つの青木氏」のその「スクラムの強さ」をも証明する事が出来ます。
依って、特別賜姓族で藤原秀郷流青木氏の影響から観ると、117/566と成り、全国比21%を占めるものと成ります。仮に群馬を外したとしても、103−地域比 79%−全国比 18%も占めます。
全国の1/4の神明社を伊勢ではなく武蔵の領国に建立すると云う事は「秀郷流青木氏」は「特別賜姓族青木氏=賜姓族青木氏」の考えを以って心魂からその責務を果たそうとしていた事に成ります。

更には下記のデータから顕著に出ている事は、「/地域」でも「/全国」でも「神明社の分布比率」は特別賜姓族で「秀郷流青木氏の末裔分布」の比率に完全に沿っています。
(これは賜姓族の末裔分布比率も同じ 下記])

「神明社の分布比率」=「青木氏末裔の分布比率」
「神明社の建立地」=「青木氏の定住地」

そして武蔵国だけでも全国比10.8%強の高い比率で関東域の中心に成っています。
「秀郷流青木氏」の「第2の宗家」と呼ばれる所以がこれでも良く判ります。

本来で有れば「春日大社」の完全領域ですが、61にも成る「神明社」がある事は、「心の神」は「春日大社」にあるとしても、「生活の神」「物造りの神明社」としての特長が色濃く出ています。
藤原一門としても「神明社」に対する「心入れ」は相当なものであった事が云えます。
これは「戦略的意味合い」と云うよりは「政治的な民に対する姿勢」であった事が云えます。
「秀郷流青木氏」と「特別賜姓族」の立場を持ちながら「第2の宗家」としての立場をも揺るぎ無いものにしていた事を物語ります。
恐らくは本領にこれだけの「祖先神」の考え方を入れられては「鎮守神」の考え方が霞む事も在り得て一門から反発は本来であれば出る筈ですがむしろ積極的な姿勢とも読み取れます。
更には藤原一門の「春日大社群」の中で「秀郷流青木氏」は「2つの青木氏」側にその軸足を強く置いていた事が良く判ります。又、これだけの「神明社」がある事からもこのデータから甲斐の青木氏が「秀郷流青木氏」を頼って逃げ込んだ史実の事が良く判ります。
「春日大社群」の中では逃亡生活も躊躇する事もあると考えられますが、これだけの「青木氏の神明社」がある事が身を寄せる気に成った条件でもあったと考えられます。
又「氏家制度の青木氏」という仕来りを「秀郷流青木氏」は厳格に護っていたことを意味します。
むしろ藤原氏よりは青木氏側に軸足が掛かっていた事が伺えます。
しかし、其の中でも「第2の宗家」と呼ばれていた事は相当な一門からの信頼を受けていた事も判ります。

(Aの分布表)
建設地域   戸数   /地域   /全国
関東域  5県−103−18.2%  
茨城(常陸) 8+1    6.9  1.6
千葉(下総) 22    16.8   3.9
埼玉(武蔵) 31    23.7   5.5
東京(武蔵) 30    22.9   5.3
神奈川(相模)9+2   8.4   1.9

この傾向は次ぎの地域(Bの分布表)でも同じで一層「2つの青木氏」(皇族賜姓青木氏と特別賜姓青木氏)の結びつきを証明しています。(特別賜姓青木氏とは藤原秀郷流青木氏である)
”埼玉入間を中心に半径神奈川で円を書いた領域に青木氏が螺旋状に取り囲んでいた”と云う記述は良く証明されています。この数から観ても分布から観ても切れ間無く神明社を建立していた事が観えて来ます。
「生活の神」「物造りの神」と当時に藤原秀郷一門の戦略的な役目も充分に果たしていた事が観えます。
「祖先神」「鎮守神」の二つが混在する中で一種不思議な現象とも取れますが、これが藤原氏の「生き残りの戦略」であって ”何事にも融合する”と云う適合性をこの「融合氏」は遺伝子的に天性として持ち得ていた事が云えます。
明らかに「赴任地戦略」として”血縁子孫を赴任地に残してくる”と云う事を採用している事にこの事からも伺えます。故に源氏と異なり状況に順応して生き残れたと考えられます。
これは秀郷一門の性格を物語る大事なデータであります。
「生きる為の考え方」に付いて「2つの考え方」をしていた事に成ります。なかなか難しい事であります。
それは”人は物事に拘泥する性質を持っている”と仏教では教えていますが、この「融合氏」はそれを克服して”2つを一つにする思考原理”を造り上げていた事を意味します。
故に”不思議”と云っているのですが、その先頭に立っていてその両方を責務義務として生き抜いている特別賜姓族の秀郷流青木氏がいるのです。
どちらかと云うと、「賜姓青木氏」より難しい世の中を難しい考え方で行き抜いたと云えるのではないでしょうか。
大化前の蘇我氏の専横の為政者の蘇我氏の行き方よりは遥かに優れていて為政を担う立場に於いては数段に優れていると筆者は断じているのです。
むしろ「日本の政治史上」に於いて最も優れた為政族であったと考えます。
日本の現在の「物造りの下地」と「律令の下地」を作った「産土神」の「民族氏」の「阿多倍一門」と、それに勝るとも劣らずその2つを上手く運用した同じく「政治的な下地」を構築した「融合氏」の「藤原氏北家」がこの「日本の基礎」を造ったと考えられます。
この「縦横無尽な性格」の所以であり日本の歴史上の喜事であります。

(Bの分布表)
北陸道域 4県−104−18.4%
建設地域   戸数   /地域   /全国
新潟(越後) 55+6 58.7 10.8
富山(越中) 32+1 31.7  5.8
石川(能登) 1+1   1.9  0.0
福井(越前) 8     7.7  1.4

ここには「秀郷流青木氏」の中に「3つの青木氏」(皇族賜姓美濃青木氏と信濃青木氏と甲斐武田氏系青木氏)が逃亡した地域でもあります。
「豊臣−徳川の戦い」と「織田−武田の戦い」の「2つの戦い」に依って敗走して秀郷流青木氏を頼ったのです。中でも「越後」は平安期から朝廷の蝦夷地域の征圧の[前線基地]として力を入れていたところでもあり「神明社」の建立は政策的課題・戦略拠点として盛んであったのです。
鎌倉期−室町期に入っても秀郷一門が「鎮守府将軍」として9代に渡り「北の勢力圏」として勢力を保全する「戦略上の前線基地」でもあった事から、次ぎに論じる「東山道域」(Cの分布表)に継ぐ「神明社地域」でもあったのです。
関東域の比率(18.2%/18.4%)に勝るとも劣らず同率であります。
これは大きな意味を持っています。
越後の青木氏は「武蔵の領国」の「総宗本家」と同じくらいの力を持っていた事を意味します。
これは別の面で言えば「発言力」に起因する事に成る訳ですから”一軍の将、2頭相立たず”の例え通りもめるが必定です。然し、揉めていないのです。
現実には武蔵の青木氏は「第2の宗家」として君臨しているのです。
恐らくは、陸奥域の前線基地としての役割上、宗家の青木氏はこの越後との関係を強化していた事を物語ります。むしろ宗家の「出先機関」であったと観ているのです。
だから、「関東」と「越後」のこの2地域は賜姓族の青木氏の逃亡を助け保護したのです。
その証拠に此処越後には秀郷の遠戚族の藤原利仁流が東域よりに定住していて、少ないですが、利仁流青木氏が血縁の結果生まれているのです。山形福島の県境東域に分布しています。
これは越後を戦略上の最大重要拠点として位置付けている事を意味して、当然そうなると武蔵の宗家の青木氏も出張る事は必然です。

「神明社の分布比率」=「青木氏末裔の分布比率」
「神明社の建立地」=「青木氏の定住地」
当然に、この関係式は例外無く全国的でありますが、ここでもより上記の関係式が成り立っているのです。
(下記で詳しくデータで論じる)
「関東域」の「秀郷流青木氏」を頼って逃げ込んで保護された事のみならず、其処にも上記の「3つの武田氏系青木氏」が逃げ込んで定住した事からも、「秀郷流青木氏」の勢力が関東のみならずこの地域にも頼られるだけの力と土壌を有していた事を物語ります。
その勢力は上記の密にしてむしろ関東域を凌いでいます
それは逃亡して来た賜姓族系の青木氏の「諏訪大社」が全国的に見ても関東域を凌いでいるのです。
本来であればこの時代の慣習からはあり得ない筈なのです。
その「秀郷流青木氏」の姿勢がより「神明社の信仰」が相乗的に益々活発化したと考えられます。
其の証拠に「賜姓諏訪族青木氏」と「武田氏系諏訪族青木氏」がここに「諏訪大社」をも建立していて、全国的に観ても諏訪大社の最も多い所なのです。
それを許す「秀郷流青木氏」のその度量のある勢力が観えて来ますし、賜姓族側の「軸足の置き方」を更に証明します。戦略上危険である筈で氏家制度の中でそれを許す事が出来るのは矢張り武蔵の宗家が出張る以外にはないのではと考えられます。
つまり、全国の24の地域の指揮系統をどの様にしていたのかが問題です。
果たして、氏家制度の中で(「秀郷流青木氏」の中で)”何処の青木氏が指揮を採っていたのか”が疑問と成ります。
そもそも集団の逃亡者を保護し、他氏の守護神をも建立させる事を許す事は場合に依っては秀郷一門としても戦略上簡単に許す事は出来ない筈で、そうなると当然に武蔵入間の宗家の許可無しでは出来ない事は間違いなく、その宗家を説得していたのは”何処の秀郷流青木氏か”と云う事なのです。
果たして”入間の青木氏の宗家”なのか、”地域事の個別に指揮を得ていたのか”、はたまた”他の地域からの働きかけで指揮を得ていたのか”が疑問です。
筆者はそれには下記にも神明社のデータから論じられる様に、”「2つの青木氏」の「2つの指揮系統」が互いに連絡を取り合い秀郷宗家の指揮を得ていた”と考えているのです。

この保護の史実は、「関東域」、「北陸道域」のみならず「東海道域」、「南海道域」にもあるからであります。九州域を除いて秀郷一門のどこも例外なく青木氏の逃亡者を保護しているのです。
これは「神明社の建立」の比率にも沿っているのです。
戦略上からすれば、5地域では強いところ弱いところはある筈で受け入れは困難とも成る事は当然に起る筈です。しかし、全て受け入れているのです。
この事から考えれば、”「2つの指揮系統」が連絡をし合って指揮を受けていた”と判断出来るのです。

それは「皇族賜姓族」の地域が神明社の数の全体の1/3を占めていて、残り2/3は「秀郷流青木氏」と成ります。
この時代に「連絡の取り合う事の出来る条件」と「保護する事の条件」が兼ね備わっていなくては決して出来る事ではありません。
では ”それは何なのか”と考えれば、先ずは「第1要件」としては次ぎの様に成ります。
「第1要件」
1 「保護する事ができる武力」
2 「情報を伝達する情報網と設備」
3 「保護収用する設備と経済力」
4 場合に依っては「医療等の介護能力」
先ずは以上「4つの要件」が確保され充実されている事が必要です。

「第2要件」
次ぎは「第2要件」としてはこの時代のみに必要とする要件です。
A 当然それに対する「ケアー能力」等の「総合力」が絶対的条件として必要です。
B 又、「民衆の賛同や土豪の同意」も必要と成ります。

この第2の「2つの要件」(A、B)は下手をすると争いとも成り得る難物で、何時の世も充分に警戒する事柄です。安易には出来ない事である事は一族の悲惨を招く結果とも成ります。

では、藤原秀郷一門の青木氏が実行し得た上記する要件・条件に合致したものとは、”何なのか”−”それが「神明社」である”と云う事に成ります。
実は、当時、「神社仏閣」はその建立する目的にはもう一つの「戦略的意味」を持たしていたのです。
それは「領国の防衛上」の「前線基地」Aでもあり、「情報収集の拠点」Bでも有ったのです。

これ等は上記した様に、戦略上重要な拠点で主に「国境」に位置する「地形的に良好な位置する山岳部」を選んで建立されているのです。(室町末期と江戸期建立の大きな相違点 :平地の要衝地点)
当然、例外なく「祖先神の神明社」もその意味を強く持たしての建立であり「建立地域の地形」から観て例外はありません。これは一種の「城郭」でもあり「櫓城」で有ったのです。
この「城郭」の社には神官住職以外に必ずその神社仏閣に所属する「警護侍」を配置していたのです。
そもそも「武士」つまり「侍」は「寺の人」と書きます。”さぶろう”の寄り添うの意から”さむらい”呼ばれる様になったものであり、「社の人」も同じく「神社侍」と呼ばれていたのです。
この逃亡の受け入れの設備としての「神明社」が「皇族賜姓族側」には1/3の148と、「秀郷流青木氏側」には2/3の418があり、この設備を使う事で上記する全ての絶対的条件は備わります。
つまり、「皇族賜姓青木氏側」から「秀郷流青木氏側」にこの「連絡網」を通じて「各種の情報」Bが入り、宗家との談合により決断を夫々地域の拠点に指揮する体制が出来上がっていた事を物語ります。
この「2つの青木氏」の割合(1/3-148)がその「総合的な氏力」を示していたと考えます。
これは「政治力、軍事力」だけではなく「2足の草鞋策」や「4つの青木氏」の力の「総合力」であったと考えられます。
賜姓青木氏=148−1/3−組織力・経済力・職能力
特別賜姓族=418−2/3−政治力・軍資力・総合力
”「賜姓青木氏」に足りないものを「特別賜姓族」が補う”と云う態勢が確立していたからこそこの様なデータが出たのではないでしょうか。
こんな素晴らしいシステムを”食うか食われるか”の時代の「生き残りの手段」として使わない方がおかしい訳であり、使わないのは愚能そのものであり得ない事です。必ず使ったと考えられます。
この「2つの青木氏」がスクラムを組めば先ず打ち叶う氏は「大蔵氏」を始めとする「阿多倍一門」を除いて無かったと考えられます。
この「4つの青木氏」の弱点は「情報力とその収集能力」であり、これを破ればこのシステムは崩れるのです。
云わば人間の欠陥であります。その為には政治的にも戦略的にもその「総合力」を背景にしてそれを生かすには何よりも先ず「情報力」が優先されます。
「総合力」=「情報力」
その為にも、現実には「戦いの作戦基地」を山城から出してこの「神社仏閣」にまず移したのです。城で作戦する時は最早、非常時の篭城作戦の前兆であり、作戦展開するには城は活動や情報収集には不便なのです。
特に「4つの青木氏」に取っては互いの連絡も他の変化の情報も全ての情報は「生命線」であり「神明社」は単純な神明社だけでは無くその「組織体の要」とも成っていたのです。
(「組織体の要」のツールが必ず必要です。一種「人間の血管」に価する物が「シンジケート」と説いている)
この様に「神社仏閣」の建立の目的は「心の神」「生活の神」「物造りの神」だけでは無いのであります。
平時の時ではいざ知らず乱世であります。”使えるものは何でも工夫して使う”の精神が必要なのです。
そこで、更に考察しますと、関東域の秀郷一門の宗家を入間にして青木氏が本家分家筋を主体として螺旋状に横浜神奈川を半径として取り囲み護っていたのですが、「心の神」「生活の神」「物造りの神」にしては103は多すぎると考えられます。宗家付近の武蔵だけでも61もあるのです。
「心の神」「生活の神」「物造りの神」であるのなら”多ければ良い”と云う物ではありません。
間違いなく「戦略的な防御体制の代物」の意味があった事を物語ります。
この傾向は全ての拠点に云える事であります。

筆者が論じて来た「青木氏のシンジケート」はこの「神明社システム」が機能していた事を意味しているのです。そしてこの全国の神明社のデータから読み取れる全ての事柄を論所の一つの基礎にしているので有ります。

「皇族賜姓青木氏」では「伊勢青木氏」が5家5流を統括し、「特別賜姓族青木氏」では入間の「宗家青木氏」が116氏を総括していたと考えられます。何れも賜姓族の「青木一族」の「2極体制」であります。
特にその中間の位置にして「仲介役」として機能さしていたのが平安期より「伊勢秀郷流青木氏」(伊勢特別賜姓族青木氏)が担っていたと考えられます。
何故ならば、それは九世紀始めから秀郷の祖祖父の従4位下の宗家の「藤成」(820年頃−嵯峨天皇期)がこの伊勢の「半国国司」を務めていた事からも良く判ります。
(「桓武天皇」没年の806年頃で神明社創建は一時止まる。15年後に衰退した青木氏の建て直しに「嵯峨天皇」は「藤成」を差し向けた。)
この人事から観ても、「入間の青木氏」よりはより「特別賜姓族的な青木氏」の傾向を累代にこの「伊勢秀郷流青木氏」が持ち合わせていたと考えられ、秀郷以降は双方の賜姓族の「立ち位置のズレ」を調整していたと考えられます。
物事の進行は当事者同士だけでは成り立つものではなく、何時の世もこの調整役を演じる「仲介者」がいて成り立つものです。ましてこの様な難しい事を実行するには危険が伴ない危険が生じた時には双方が円滑に連携して対処して解決できるものであり、悠久の歴史を誇る「2つの青木氏」ならではの事で有ります。
因みに「特別賜姓族の青木氏」は関東域外に次ぎの様な戦略的な指揮を演じる根拠地を有していた事が系譜添書や主要家紋の如何で判ります。(詳細は下記)
武蔵入間を本拠地として「特別賜姓族」としては次ぎの「4つの指令基地」があった事が検証できます。

特別賜姓青木氏−34県−418−73.8%
北陸道域   4県−104−18.4%−北陸域 (Bの分布表)
東山道域   6県−105−18.6%−東北域 (Cの分布表)
東海道域   8県−154−27.2%−中部域 (Dの分布表)
移動先域  16県− 55− 9.7%−分布域 (Iの分布表)
(詳細地域は下記)

4つの各域には神明社100を超え全国比で一地域2割近い分布状況です。
1県に付き20〜25の神明社を有しています。
当時の人口から観て現在の1/3〜1/4程度ですから、郡制でしたから1県に4〜6の郡数として一つの郡に4〜6の神明社があった事に成ります。
当時としては「心の神」「生活の神」「物造りの神」の目的だけであればやや多すぎる感が否めません。
郡の大きさに依りますが、当時の人口(1/4×2万)として観れば、千人に1社の割合程度と成ります。現在の郡の構成から観て1郡に平均で4〜6つの村があったと考えられ、1村には200人±50程度の人口と成ります。
この事から筆者の主観ですが、郡に対してせいぜい神明社1〜2つ程度と観ますと、これに「戦略的拠点」としての目的を加えたとすると納得できる数と考えられます。
これだけの数を維持管理するには矢張り当域を指揮する青木氏が存在している筈で勢力から観て次ぎの青木氏と考えられます。

「各分布域の指揮拠点」(藤原秀郷流青木氏)
北陸道域は越後青木氏   (陸奥前線基地)
東山道域は陸奥青木氏   (鎮守府基地)
東海道域は武蔵青木氏   (宗家本拠地)

移動先域は次ぎの4域がありますが各域の事情が異なる為に次ぎの域に分けられます。
関東域は下野青木氏          (隣接国境より勢力拡大 東北の北前線基地)
中国域は讃岐籐氏の讃岐青木氏   (宗家に肩を並べる位に勢力保持)
四国域は讃岐青木氏(阿波青木氏)
北九州域は筑前青木氏         (九州域の西前線基地 後述)

[関東域]
この4域に秀郷流青木氏が定住しているのですが、室町期までの社会は氏家制度の強い社会であった事からその「勢力圏分布」から観て以上の指揮拠点である事に成ります。
この勢力は青木氏の分布する「地域の家紋分析」と「その村形成」などの「支配地の大きさ」と「ルーツ拡大の要素」と「地理・地形考纂」と「郷土史実」に依って判別したもので、家紋に関しては秀郷流青木氏の家紋群の主要家紋とその系列で判別したものです。

特記する事として「下野青木氏」は武蔵域から北に勢力を伸張した結果、ここに「下野青木氏」で勢力を固めその勢力は磐城の仙台の手前まで子孫の定住地を拡大しています。
この仙台地域は江戸初期まで戦いに明け暮れていた土地柄であってかなり難しい伸張で有った事が伺えられ、その意味での「神明社」の役割は「心の神」「生活の神」「物造りの神」のみならず戦略的意味合いは大きかったのです。
又、栃木(下野)には「賜姓族系の諏訪族青木氏系の2氏」が神奈川に落延び、更に一部は下野に移動した一族でありますが、「藤原秀郷流青木氏」の「下野青木氏」の勢力拡大に沿って「諏訪族青木氏」も合力して土地を確保したと考えられ、下野に多くの「諏訪大社」を祭祀して豪族で青木村を形成し土地の地主と成っています。
この時にこの「下野青木氏」も「神明社」を14も建立し、入間との連絡網の拠点を構築していたと考えられます。
(参考 武田氏系青木氏は皇族賜姓甲斐青木氏と武田氏と血縁して跡目継承が女系と成った事から武田氏に組み込まれた賜姓族系青木氏です)
後に「結城永嶋氏」と共に「宇都宮氏」や陸奥出自の「小山氏」や北九州から秀郷一門と血縁して移動して来た「戻り族」の秀郷一門と血縁した「佐竹氏」や豊後の「竹田氏」等も再び勢力を拡大して「関東屋形4氏」と呼ばれる位に秀郷一門は勢力を北に向けていたのです。
その意味で神明社の存立理由は他国と異なり「心の神」「生活の神」「物造りの神」の「心の拠り所の拠点」と「戦略的拠点」の2つの目的は一段と高いものであった事が覗えます。
その意味で伸張したこの地域の「人心の把握」として「心の神」「生活の神」「物造りの神」の「神明社」と、この前線基地の地域を確固たるものとする為にも「戦略的意味」も含めて28もの「神明社」を構築したと考えられます。
従ってこの勢力は江戸期に成っても衰退する事は無かったのです。
「秀郷流青木氏」は武蔵の国境を越えて上野にも伸張して「上野青木氏」として同様に14の神明社を建立しています。
何れにしてもこの「神明社」の「数」は乱世の世である限り「数」そのもの意味だけでは無くその青木氏の「勢力の大きさ」とその「権域の広さ」と「存続期間の長さ」や「存続の強さ」を意味するものなのです。

[中国、四国域]
特に中国、四国域の移動先の拠点の基地はこの中でも長期間に及び最大勢力を誇った「讃岐籐氏」の「秀郷流青木氏」であったと考えられます。
四国の東域の「阿波青木氏」は「北家藤原利仁族」が主体を占めていた事もあり、「阿波青木氏」の「剣片喰族」は秀郷一門の中でも主要家紋の一つでありますが、北域の「讃岐青木氏」(下がり藤に雁金紋の主家柄)のその勢力は東の宗家に匹敵する位に瀬戸内一帯と安芸、美作を縦に経由して中国出雲域までを支配していた「讃岐籐氏の青木氏」には及ばなかったと考えられます。
この「讃岐青木氏」は「武田氏系青木氏」の逃亡を手助けし最終高知に移住させて「土佐青木氏」の青木村を形成するまでに保護していますが、同じ青木氏が定住する阿波国は逃亡先と成っていないのです。
この「武田氏系青木氏」は「讃岐青木氏」の背景を基に「青木村」を形成するだけの勢力を保ち賜姓族の守護神の「祖先神−神明社」を建立したと考えられます。
神明社の数は1でありますが、逃亡先での「青木村形成」と「神明社1」はそれなりの勢力を保持したと云う事を意味します。戦略的意味合いではなく「生活の神」「物造りの神」としての「氏の守護神」の「祖先神」としての「神明社」であったのです。

つまり、「神明社の数の1」は「青木氏の勢力の基本単位」であり、「村を形成する力」と「土豪地主」と成り得た事の単位である事を物語っているのです。
例えば、上記した様に当時の人口から観て、神明社4(戦略拠点2含む)とすると、次ぎの様に成ります。

A 「1つの郡」程度
B 「人口−千人」程度
C 「4つの村」程度

以上の力を保持していた事と成ります。

石高にしてみればバラツキはありますが、1国を平均40〜60万石、1国は4〜6郡として試算すると次ぎの様に成ります。

a 1郡では7〜8万石程度
b 1村で1万石強程度
c 米の石高だけでは約半分の4〜5千石程度

以上と成ります。

これで本分析の基礎判断とする事が出来ます。

「青木氏の概略の勢力判断数値」
「神明社1」とは次ぎの勢力を持っている事に成ります。

イ 「郡の半分程度の支配面積」
ロ 「2つの村程度の人口」
ハ 「2万石程度の経済力」
ニ 「米石高−1万石程度の食料」
ホ 「1万石の小大名程度」(江戸時代)

ABC、abc、イロハの以上の判断基準と成ります。


[北九州域]
北九州域は「元寇の乱」以後九州全域を絶対支配していた大蔵氏との血縁を進め、肥前のここに秀郷流青木氏の拠点を置き大蔵氏との関係保全を保っていたのですが、大蔵氏は青木氏や永嶋氏や長谷川氏や進藤氏とも血縁関係を結び秀郷一門の子孫を拡げていたのです。
秀郷一門側から観ればこれを仕切ったのは護衛団として同行していた秀郷流青木氏で、一門の主要氏を仕切れるのは「第2の宗家」としての立場であります。
家柄・身分・官位官職・勢力圏・武力・賜姓族・朝廷を経由しての大蔵氏との繋がり等どれを採っても青木氏に及ぶ一門一族はありません。
特に「菊地氏」や「佐伯氏」(九州佐竹氏、九州酒井氏は元は関東から移動)等の北九州の大蔵氏系の豪族は秀郷一門と血縁し、その関係取引の中で「物資の運搬」などの往来で関東に頻繁に赴いたとする記録資料があり、現実に関東の常陸、下総にはこの4氏の子孫が定住しているのです。
関東の「菊池氏」や「佐伯氏」、「竹田氏」等、「関東屋形」の一つとも成った上記に記した「九州佐竹氏」があり、北九州の小さい秀郷一門の勢力圏の中でも夫々の領国の5つの国では下記の1の「神明社」は納得できるのです。
其の為に、平安期に秀郷宗家の赴任地として「秀郷流青木氏」が護衛役として同行した「筑前青木氏」の指揮の下で肥前から子孫拡大を図り、「神明社」を建立または維持管理できる程に勢力を得て「神明社」が建立されています。
(筑前) 1
(筑後) 1
(肥前) 1
(肥後) 1
(豊前) 1
以上の「維持の状況」と成っているのです。

この地域は、つまり当然に「秀郷流青木氏」の九州に定住した分家筋末裔の分布域でもあります。
これは「戦略的な勢力の伸張」のみならず「祖先神」を神と崇め「神明社」を祭祀する者、即ち神職神官は青木氏であるからで、本来「青木氏の独善的の社」として身内から神職神官を出す仕来りであったのです。
「祖先神」は「皇祖神」に繋がるものとして青木氏と源氏宗家の守護神だけであります。
源氏宗家筋は完全に絶え未勘氏だけと成っていますので「祖先神の神明社」は青木氏だけの守護神と成りますが、其の神職神官からも必然的に青木氏末裔が広がる事を意味します。

前記したように、”「神明社」のあるところには「青木氏」が、「青木氏」の有るところには「神明社」がある”と云う事に成るのです。
それがこれ等のデータと云う事に成ります。

その「神職神官」とその「神社侍」は拠点基地と成る青木氏から指揮し配置される事に成りますので末裔が枝葉にて広がるのです。
九州では「筑前青木氏」がその指揮と配置をしますので少なくとも九州域に於いては「筑前青木氏」の末裔であると成ります。
この末裔分布は、秀郷一門宗家筋と血縁した上記の北九州の豪族であり、肥前の「秀郷流青木氏」も同じくこれ等の豪族と血縁した事から興った青木氏であります。
これは家紋分類から観て「筑前青木氏」の室町期中期までの末裔分布によるものと考えられます。

「人心の把握」共にこの地域は「大蔵氏」の地元である事からも日本最大の「物造り拠点」でもあった事から、少ないながらも「神明社建立と維持」は他の地域と異なり絶対条件であったと考えられ、遠い関東との情報の「連絡拠点」としても重要であったと考えられます。
其の上でこの「神明社の1」の数字は他の地域の4〜5の意味合いを持っていたと考えられます。
平安中期には「太宰大監」として「遠の朝廷」として「錦の御旗」を全面に「九州全域の自治」を任された大蔵氏の絶対的支配領域の中で、この5国で関東並の120〜125の役割を果たしていたと考えられます。
中でも「永嶋氏」は「大蔵氏系青木氏」と「大蔵氏族肝付氏系長嶋氏」を継承し薩摩域では肝付氏を継承する程に勢力を拡大させました。

そこで問題なのは薩摩3、宮崎4の神明社です。”この地域の神明社は何を意味しているのか”と云う事です。
このデータには「皇族賜姓青木氏」と「藤原秀郷流青木氏」に直接繋がるものが歴史的に少ないのです。
実は、”少ない”と云うよりは”消えた”と云った方が正しいと観られます。
確かに、「天智天皇」から「桓武天皇」までの朝廷は北九州との関係を歴史的に大きく持ちました。
然し、それが ”「神明社」として南九州に繋がるもので有ったか”は疑問でありますが、実は九州北半分に関してはそれなりの経緯があるのです。
この経緯が南九州に繋がっているかは難しいのです。
確かに「令制後」には薩摩がこの経緯に入り込んできますが、”「神明社建立」までは関係があり得たか”は疑問です。

そもそもその経緯とは、天智天皇の「白村江の戦い」の準備として「神明社」を建立したと考えるにはそれを裏付ける朝廷の「歴史的な経緯」が必要であります。
その充分な「歴史的な経緯」とするものが次ぎの事にあるのです。
「中大兄皇子」による「大化改新」の一つとしてそれまでは第6世王までとしたものを第4世王までを皇子とする改革を行いました。その時、其の皇子の指定に関して特別の事由により第4世王として「栗隈王」を指定します。
大化期の「第4世王」のこの有名な「栗隈王」が「天智天皇」の命に基づき「守護王」として「九州筑紫国」に赴きます。
その後「令制前」はこの日向国から「北地域3国」(「筑紫国−豊国−肥国」→「筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後」)が組み込まれ、この「北地域3国」の守護王として任されております。
「令制後」は薩摩の北域も組み込まれています。
この時に「天智天皇か天武天皇」に命じられて建立している可能性が大いにあると考えられます。(その記述が下記)
日向の古い一つとされる「神明社」はこの時のものではないかと考えられます。
且つ、上記の「北地域3国」(筑前)1(筑後)1(肥前)1(肥後)1(豊前)1は「日向の神明社1」を含めて、この時の「神明社」ではないかと観ています。
「北地域3国」と「神明社分布の域」とは全く一致します。
そして、その後に上記する特別賜姓族(960-970年頃)に成った筑前の「神明族の秀郷流青木氏」がこれを引継ぎ護ったと観ているのです。

実は「栗隈王」は「大海人皇子」と「大友皇子」との争い(壬申の乱)で「大友皇子」が出した命令書の脅しに屈せず「大海人皇子」に味方した為に「天武天皇」の時世では九州で大勢力を収め末裔の一人は「筑紫氏」(武家王)として、もう一人は「三野王」として美濃と信濃粋域に子孫を拡げたのです。
この「栗隈王」は「美努王」の父で王の中でも秀でて優秀で中大兄皇子はこの歳を得た「第4世王」の「栗隈王」を主要守護王19人の中から外さず九州半域を任した程の人物で信頼していた人物なのです。
(日本書紀 6大皇子守護王と呼ばれる王)
「伊勢王」、「近江王」、「信濃王」、「甲斐王」、「美濃王」、「栗隈王」で中でも高位王として4王 「伊勢王」、「近江王」、「信濃王」、「栗隈王」が上げられている)

この「栗隈王」の末裔は古い九州出自の「筑紫氏」で有りますが、九州全域特に日向より北域の氏は何がしかの血縁を有していると考えられます。
後漢からの帰化人の阿多倍一族により7世紀から九世紀にかけてこの一族に折檻されこの血縁筋の旧来の土豪族は衰退したのですが、新しい「民族氏」にも何らかの血縁関係を持っていた事が考えられます。
九州は後漢の阿多倍等の軍勢に依って無戦征圧であった事から恐らくは在来民との婚姻関係を重ねての事ですのでその可能性は高いと考えられます。
依って10世紀初頭に「筑紫の秀郷流青木氏」に引き継がれるまでの間は朝廷の管理の下で150年程度はこれ等の血縁関係(筑紫氏等)のある豪族に依って護られていた事が考えられます。

この「栗隈王」の子供の「三野王(美努王):信濃王」は奈良期の19の神明社の一つを三野(信濃)に建立しているのです。 (三野王は橘諸兄の賜姓族橘氏の祖であります。)
「天智天皇と天武天皇」は「皇祖神」を「伊勢大社」とすると同時に、関西域から中部域にかけて19の神明社の建立をその19の守護王に命じているのですが、現実に例外的にこの19の第4世守護王に命じた「神明社の建立」の中に「筑紫」の「栗隈王」「武家王」が入っています。

参考(重複)
第4世族内の19守護王−19の神明社の建立地
伊勢王、近江王、甲斐王、山部王、石川王、高坂王、雅狭王、美濃王、・栗隅王、・三野王(信濃王)、・武家王
広瀬王、竹田王、桑田王、春日王、(難波王、宮処王、泊瀬王、弥努王)  以上19人/66国

この「栗隈王の守護国」と現在の「神明社建立地」とが一致し、「大化期の19」の「神明社建立地」の中に「栗隈王」の守護地が入っている事のこの2つの「歴史的な史実」から、当然に”「栗隈王」に九州の半域に「神明社建立」を同時に命じた”と考えるのが普通である筈です。
「天智天皇」は防人制度、九州から飛鳥までの直線広軌道の建設、煙火システムの確立、伴造制度、租庸調の見直し、戸籍制度など数多くの改革を実行していて、前記して来た様にこの一環として北端の陸奥域を含む国全体に「神明社建設」を行ったのです。
「陸奥域」には神明社建設の計画があって、「桓武天皇期」は「陸奥丹沢城」の建設と伴に征圧域に「神明社建設」を「坂上田村麻呂」に命じ、「桓武天皇」と「坂上田村麻呂」の稚友で同没年でその806年に「陸奥域の計画」は完成しています。

この「九州域」は「栗隈王」の子供の「武家王」の時代までに建設が進み、「令制後」に「日向域」まで組み込まれている事から、日本書紀の記述の「五畿七道」の完成期(天武天皇の時代に成立)の記述通り700年前後に基本的な配置(第1期期間)は終わっている事に成ります。
この間、日本列島約100年の神明社の建設期間(第1期)であった事が覗えます。

この様な史実を組み合わせて考察すると、当然に上記する信頼する「栗隈王」に”「九州域の神明社の建設」を命じた”と考えるのが普通と考えます。

「伊勢大社と神明社の関係」
そこで、”何故、神明社なのか”、”何故、伊勢大社ではないのか”、”何故、秀郷流青木氏に命じたのか”、”何故、「賜姓源氏−八幡社」ではないのか”、全国に戦略的に配置するのであれば、この様な「4つの疑問」が出てきます。そこでこの「4つの疑問」を解き検証します。
これ等の検証は下記の神明社で論じる事をより理解を深めるものと成ります。
「4つの疑問」
そもそもこの場合は、「皇祖神」の「伊勢大社」を創建するのが筋とも考えられますが、あくまでも「天皇家の守護神」として威信を鼓舞するには必要ですが、「戦略的な意味合い」を持たすという事には「伊勢大社」では抵抗があり、「皇祖神」である以上は「純然とした伊勢大社」で祭祀する必要があり、”「戦略的意味合い」が「皇祖神−伊勢大社」を汚す”と考えたと観られます。
そこで、その系列の「神明社」を「伊勢大社」125社以外の「戦略的拠点」に、”皇族賜姓族の「青木氏の祖先神」の「神明社」を設置した”と考えるのが普通では無いかと観ます。
筆者は、天皇家は「皇祖神の伊勢大社」の建立に不適当な地域の所の代わりに「祖先神」として「守護神」を造り、その「守護神」を「神明社」とし、それを「皇祖神」の系列に置き、「伊勢大社」の代わりに「神明社」を「戦略上の拠点」に配置させる政治的配慮があったと考えていて、故に「第6位皇子」を設定し臣下させ、「親衛隊の六衛府軍の指揮官」にして力を持たせ、5代の「5家5流の賜姓族」を創設して各地の「主要地」に「神明社」と共に配置した経緯と考えているのです。

(上記の記述した設問のその先鞭を付けたのが「藤成」の伊勢の松阪の「半国司」の布石であったと観ている。− 下記の第4期の最後の神明社建立時期806年で其処から神明社を建立する青木氏は衰退した為に次ぎに賜姓青木氏に代わって神明社を建立させる青木氏を発祥させなくてはならない筈で、そこで藤原氏の秀郷の祖祖父の「藤成」を嵯峨天皇はその目的の布石として先ず松阪に赴任させた。この時が820年頃赴任であり、此処に藤成の末裔を遺した。それまでは半国司は三宅氏であった。然し、青木氏に代わった賜姓源氏が神明社を建立する姿勢を採らなかった。同時に「嵯峨期の詔勅」で発祥した皇族青木氏も到底天皇の意に沿わなかった。結局、空白期間を生んでしまった。150年後のその後、秀郷の第3子(千国)にその任を与え「特別な賜姓の待遇」(賜姓族と同待遇)を採った。この特別賜姓族青木氏が960年頃に発祥させて松阪の末裔の跡目に入れた。以上の経緯となったと観る。)

そうすると、では「賜姓族青木氏創設」と「神明社の戦略的、政治的配慮」の順序は ”どちらが先なのか”の問題が生まれ、この順序の如何では「青木氏と神明社」の関係の意味するところが代わる事に成る筈です。そこを充分に吟味検証しておく必要があります。
この「2つの順序」は時代性から観て極めて短い範囲の政治的な実行課題であったのです。

前記に縷々と論じて来た様に、当然に「賜姓族の青木氏創設」が先であります。
この経緯は日本書紀等からも読み取れますが、その時間的な差は「伊勢大社の遍座遍歴」(飛鳥期−90社−90年−大化期前期)と、「19の神明社の創建」(大化期後期 670−686年頃)から観ても大化期の前期と後期の差であります。
そうすると「賜姓伊勢青木氏」は647年頃「伊勢王」−「伊勢大社の鎮座地の警護」として発祥していますので、大化期直前でありますので約40年の差があります。
ここから光仁天皇781まで5家の賜姓青木氏が発祥します。
この間に伊勢大社は90社から125社に向けて35社を建立して行きます。
(35社は遍歴経緯で記述 近隣4市2郡に存在)
同時に、「神明社」は19社から566社に向けて建立して行くのです。
(詳細は下記 賜姓青木氏は126社建立 桓武天皇は20社建立)
この時、第6位皇子を賜姓する青木氏の制度は、桓武天皇期で一時途絶えますので、桓武天皇は自らの力で神明社の建立を続けて行きます。
「桓武天皇」は「律令政治」を完成させ、結果、それまでの青木氏等の「皇親政治」は後退させて「桓武天皇」の圧迫で「5氏の青木氏」は衰退し「神明社の建設」は困難と成ったのです。
この間、代わって「律令政治」を主導して各地に「戦略的、政治的な目的」の為に「神明社」を建立し、最終、「桓武天皇」による「神明社建立策」は陸奥の「丹沢の神明社(806年)」の建立で終わります。

「祖先神−神明社の建立期間」
区別の期間         建立者        建立時期   建立数  建立時期
第1期神明社の建立期間 天智天皇      大化期初期  19社  天智天皇 政治的な期間
第2期神明社の建立期間 賜姓族青木氏   大化期後期  80社  天智天皇−天武天皇の期間
第3期神明社の建立期間 賜姓族青木氏   奈良期後期  46社  文武天皇−光仁天皇の期間
第4期神明社の建立期間 桓武天皇      平安期初期  20社  桓武天皇 戦略的な期間

・第1次の空白期間 :嵯峨天皇期−花山天皇期−賜姓源氏発祥−祖先神八幡社  809年〜986年

第5期神明社の建立期間 特別賜姓族青木氏 平安期中期  90社  村上天皇−花山天皇の期間

・第2次の空白期間 :賜姓族青木氏の衰退期間 近江−美濃脱落 祖先神神明社 806年〜1125年

第6期神明社の建立期間 賜姓族青木氏    平安期末期  22社  1125年頃開始−室町期中期
第7期神明社の建立期間 特別賜姓族青木氏 鎌倉期全期  15社  藤原一門の勢力低下期間
第8期神明社の建立期間 特別賜姓族青木氏 室町期前期 148社  秀郷一門の勢力挽回期間
第9期神明社の建立期間 特別賜姓族青木氏 室町期中期 165社  秀郷一門の勢力拡大期間

(注釈)
期間の設定は「2つの青木氏」に関わる「政治状況の変革期点」を区切りとした。
期間中の年数(期間年数/2)に対して守護国数の増加分を指数(全国数/増国数)を乗じてそれを全体比(126/全年数820)(418/全年数820)を乗じた数をその期間中の建立数としその時代の勢力状況を観て加減調整したもの。
つまり”「勢力状況」に応じて神明社を建てた”を前提とする。

この間に「神明社」がどの程度建立されているのかを考察しますと、その「桓武天皇」の「政治的な征討域」から割り出すと、「征討地に関わった地域」に一社建立したとして主に以北地域とすると、20社程建立している事に成ります。
これまでの「神明社」と合わせると「桓武天皇期」までは全社150社/566程度と成ります。
(781〜806 35年間−20社程度)
凡そ室町期中期まで160年程度の間に27%建立されていた事に成ります。
全体の1/4程度が無建立されていたのですが、年数比で20%(160/820年)とすると27%−20%となり、政治的で戦略的な建設はハイピッチであった事が云えます。
神明社建立が国の絶対的課題であった事を物語ります。それだけに青木氏に期待していた事が良く判ります。
天皇家が「3つの発祥源」を象徴として前面に押し出し国策を推進していた事をもこの数字が物語るのです。突き詰めれば「桓武天皇」は「律令政治」を推進する上で「皇親政治の青木氏」と「3つの発祥源」が壁に成り、然し「律令政治」を推進せざるを得なかった事で衰退させてしまった青木氏に代わり止む無く自らが建立する立場に追い遣られたと云う事を示しています。
父光仁天皇の実家先や自らの親族の5家5流の「賜姓青木氏」を追い遣るのですから苦渋の選択を迫られた事に成ります。
だとしたら、”何故、母方の伊賀の「たいら族」を賜姓して青木氏を賜姓しなかったのか、苦渋ならばこの賜姓の仕方が矛盾しているのではないか”と云いたくなります。
現実に、この事で「桓武天皇」は親子・兄弟の「骨肉の争い」を起したのです。
「桓武天皇」と後の子供の「嵯峨天皇」、後の兄の「平城天皇」と「嵯峨天皇」の争いであります。
「嵯峨天皇」は「律令政治」を推進するとしても「皇親政治」の体制は残すべきとしたのです。
この時、青木氏の5家5流は「嵯峨天皇派」に付き「桓武天皇」と争う事に成ったのです。
結果、「賜姓青木氏」は「神明社」を建立出来ずに衰退します。
然し、「嵯峨天皇期」で賜姓族としての立場は安堵されますが、「嵯峨天皇」は「青木氏」の賜姓を中止し賜姓を変名して源氏とします。
此処で、青木氏を除いた「皇親政治」と「律令政治」の両立させた態勢が出来て必然的に「5家5流の賜姓青木氏」は途切れ、「青木氏の皇親政治」も後退して「神明社建立の根拠」とその「力」そのものも無く成ります。それに代わって同族の賜姓源氏が起る事に成ります。そしてここの同族の賜姓源氏に賜姓族としての「国策の推進」(神明社の建立等)を期待します。
この時、「賜姓青木氏」と「賜姓源氏」はその「生き様」「生き方」が違ってしまって、同族間の連携は無くなってしまったのです。
つまり、「3つの発祥源」と「皇祖神」に繋がる「祖先神−神明社」の「青木氏の立場」と、「荘園制」を利用した「勢力拡大」に主眼を置いた「賜姓源氏」(祖先神−八幡社)との間には歩く道が全く異なってしまったのです。
この事に依って「青木氏の神明社建立」も無くなり、「政治的−戦略的」な国策の「神明社の建立」は空白期間を発生させてしまったのです。
つまり、「桓武天皇」は「自らの責任での矛盾」は含むが「苦渋の選択」の上でも「神明社の建立」は推進させたのですが、これに対して「嵯峨天皇期」は「皇親政治」に戻しはしたが、「賜姓源氏」にはこの国策に充分な理解を得られずに「皮肉な現象」を起してしまた事に成ります。
「賜姓青木氏」の「祖先神−神明社」は「生活の神」「物造りの神」であり、「賜姓源氏」は「祖先神−八幡社」は「弓矢の神」であります。必然的にその「氏の発祥源」が異なってしまったのです。


大化の「天智天皇の国策の真意」、つまり「豊受大御神(とようけのおおみかみ)」を祭祀する「豊受大神宮」は「生活の神」であり「物造りの神」であり、つまりは、 ”人に豊かさを授ける神”であります。
「賜姓青木氏」の「祖先神−神明社」は、この「国策」の「本来の真意」を守り通したのです。
故に「桓武天皇」も「律令国家の完成推進」であったが、敢えてこの「皇祖神」の「国策の真意」を押し通す義務を果たしたのです。
確かに矛盾を青木氏に露出したが、筋が通っていて「合理的な判断」をした事を意味します。
青木氏に執っては「苦渋の選択」であって賜姓族としての本来の立場に大きな矛盾を含んだ事でものであった事が云えます。
それは「律令国家の完成と推進」は母方の「伊賀のたいら族」の如何に拘っていたからです。
なぜならば「立案と推進」を担う官僚の6割は彼等の一族一門郎党で構成されており、軍事は彼等の一門の宗家「坂上田村麻呂」が荷っていたのです。父方の青木氏は「六衛府軍」の「天皇親衛軍隊」であります。軍事的に圧力を掛けるにしてもこの勢力バランスでは太刀打ち出来ません。
これでは「国策の推進」を進める以上は、「桓武天皇」は、”好む好まない”にしてもこの路線を執るしかありません。だとしたら、勢いから「たいら族」が祭祀する「産土神」と成るかもしれませんが、其処は「皇祖神」を貫く意志が固かったのです。
「皇祖神」は「祖先神」でありますから、「神明社の建立」は敢えて譲らなかったのです。
だからこの厳しい辛い政治的環境の中で”筋を通した”と云えるのです。
この時の「賜姓青木氏」は「大事の中の小事」であった事に成ります。
我々末裔としては”納得すべき遠戚天皇の「桓武天皇」である”と考えるべきです。
(既に126社程度が賜姓青木氏5家5流で建立していた。下記で詳細を論じる)

実は後世の累代の天皇家はこの事(神明社国策推進)を忘れていなかったのです。
それは、結論から先に云いますと、最も大事な要点の”「特別賜姓族青木氏」の発祥経緯”なのです。
そして、”「祖先神−賜姓源氏-八幡社」は何もしなかった” ”その立場の責任を果たさなかった”のです。
(正しくは、「祖先神−賜姓源氏-八幡社」は「皇祖神−祖先神−賜姓源氏-八幡社(八幡神)」と成る。)

次ぎの「嵯峨天皇」(809年〜823年)は抗争の上に再び「皇親政治」に戻し、賜姓を「青木氏」から「源氏」に変名します。(前記で論じた)これより花山天皇(984〜986年)まで11代−177年間の「賜姓源氏」が発祥します。
(但し、その後の宇多天皇[887〜897]は「滋賀佐々木氏」を賜姓した。「佐々木氏」は天智天皇が伊勢青木氏を賜姓したが、「第7位皇子の川島皇子」に対しても特別に地名から賜姓した「賜姓近江佐々木氏」がある)

ここで上記の「4つの疑問」の”「源氏−八幡社」がどの様に動いたのか”です。(既に先に結論は述べた)
と云うのは、”「特別賜姓族の青木氏」が「賜姓青木氏」に代わって「神明社建立」に入った”のは早くて「円融天皇期」、遅くても「花山天皇期」からであります。
つまり。この177年間は「神明社の空白期間」なのです。
従って、「賜姓青木氏」は衰退し、賜姓は「源氏」に成りましたので、この「神明社の建立」の「政治的、戦略的な国策」は引き続き「賜姓源氏」が「花山天皇期」までの間、つまり「特別賜姓族青木氏」が誕生する同時期まで果たして続けたのか”と云う事なのです。結論は前にも述べた様に果たさなかったのです。
当然に、この場合は「祖先神の神明社」ではありません。「祖先神の八幡社」に成ります。

何度も云いますが、そもそも「皇族賜姓族」でありながら「賜姓源氏」はその立場を護らなかったのです。
「祖先神−神明社」は「生活の神」「物造りの神」−「豊受大御神 豊受大神宮」「3つの発祥源」
「祖先神−八幡社」は「弓矢の神」「戦いの神」

「皇祖神」の「祖先神」を祭祀する系列神でありながら、文頭の「伊勢大社」の守護神 「皇大神宮 天照大神」(「心の神」)と「豊受大御神 豊受大神宮」({生活の神])を積極的に祭祀する立場を採らなかったのです。

(参考: 八幡宮の主神:全国の武士から「武運の神」[武神]「弓矢八幡」として崇拝され「誉田別命」[ほんだわけのみこと]−「応神天皇」と呼ばれた。別名では後に「八幡大菩薩」とも呼ばれた。大分県宇佐市と滋賀県大津市の宇佐八幡宮があるが大分を総社とする説がある。)

「賜姓源氏」とりわけ「清和源氏の時代」には時代の荒波に翻弄され、その「立場と責任」を果たそうとはしなかった事をこの祭祀する「神」でも異なっている事が判ります。
又、「弓矢の神」「戦いの神」では「政治的、戦略的な国策」としては天皇と民は納得しませんし国策としては成り立ちません。まして、「弓矢の神」は「侍の神」であり「民の神」ではありません。
「弓矢の神」「侍の神」では「生活の神」「物造りの神」強いては到底「心の神」には成らず「自然神」に基づく「心の拠り所」とは成り得ません。4つの神は本来は自然神に基づいているのですが賜姓源氏はこの自然神に基づいていないのです。、「弓矢の神」「侍の神」は到底「自然神」に基づくものではないのです。
皇族であり賜姓族でありながら「稀有な現象」が起ってしまったのです。
当然にこの事からもとより「皇祖神の祖先神」に基づく立場には完全に成り得ていません。

その稀有な現象が11代も続いたと云う事は政治そのものに直し押し切れない長い期間の状態が続いていた事を物語っています。天智天皇からの賜姓のあるべき姿を学んでいた累代の天皇の心には本来あるべき姿に戻せない遣り切れない空虚な空間が生まれてしまったのです。それが朝廷内の乱れの原因とも成って行ったのです。(第1次と第2次の空白期間の発生)
そもそも、「村上天皇」から「円融天皇」までには賜姓源氏は発祥しています。
しかし、この期間には「賜姓源氏」を差し置いて「藤原秀郷一門」に対して「特別賜姓青木氏」を「嵯峨天皇期の詔勅」に基づき「母方族」として敢えて重複して再び発祥させています。
「賜姓源氏」がその責任を果たしていれば、何も「特別賜姓青木氏」を177年後に再び持ち出して賜姓する必要は無い筈です。
それも「3大源氏」と云われた「嵯峨源氏(809〜823)、清和源氏(858〜876) 村上源氏(946〜967)」の「村上源氏」の時代にです。(村上源氏は伊勢北畠氏 後に信長に滅ぼされる)

そもそもこの賜姓に付いて矛盾しています。
本来、皇族の賜姓は「3つの発祥源」の象徴として、「皇祖神」の「祖先神−神明社」−「生活の神」「物造りの神」として、「政治的、戦略的な国策」として「第6位皇子」を賜姓して臣下させて働かせようとしているのですから、”その役目を全く自覚せずに「弓矢の神」を吹聴して果たそうとしていない「源氏」を11代も何故賜姓するのか”大いなる矛盾行為です。
これは天皇側にも問題があります。

資料から拾い出すと次ぎの様な事が浮かんで来ます。

1 何時か護る賜姓族が出る「期待感」があった。
2 天皇に「観る目」が無かった無能であった。
3 仕方無しに「惰性」で賜姓してしまい続けた。
4 政治的に「負担軽減」に主眼を置いた。
5 渋り続けたが慣習に押された。
6 自らの「身の安全」を守ろうと臣下させた。
7 「弓矢の神」の必要性を感じた。
8 「神明社の必要性」を感化されなかった。
9 「源氏の武力」を恐れた。
10「たいら族台頭」のバランスを取ろうとした。

明確に記述しているものはありませんが言葉端や文脈から以上の事が読み取れます。
この内容を分析すると時系列的に2つに先ず分類出来ます。
1〜5と6〜10です。
清和天皇前までは1〜5で11代のほぼ中間位から様子が変わってきます。
この前後から天皇は賜姓を渋り始めます。「時代性」も「事件性」が出て変化しています。
「桓武天皇のたいら族台頭」と「荘園制の行き過ぎ」の「政治課題」が大きく左右していると考えられます。
これは1〜5に大きく政治的に影響を与えたと考えられます。

「神明社の空白期間」+「賜姓源氏」⇔「桓武天皇のたいら族台頭」と「荘園制の行き過ぎ」

確かに、「清和天皇」の前後頃から天皇は「源氏の賜姓」に対して賜姓する事を渋っていたのです。
特に11代の中でも最も後にこの役目を果たさなかった異端児族の源氏は「清和源氏」であったのです。
そして賜姓に対して顕著に出たその一連の事件が起こります。
それが「平将門の乱」とそれを終焉させた「藤原秀郷」とその子の「特別賜姓青木氏の誕生」へと繋がって行くのです。(前論で記述) それが再度、「神明社建立」に繋がって行きます。
この間「たいら族台頭」は一方で進みます。しかしこの「渦の流れ」の最後には「源平」の真に「ビッグバーン」が起るのです。
しかし、何と不思議に再度起った「神明社建立」はこのビッグバーンに影響しなかったのです。

その「清和源氏」の賜姓には「清和天皇」の孫の第3世族の第6位皇子「経基王」にはその行状の悪さ(前記した平の将門の乱の経緯)からも躊躇して賜姓をしなかったのです。
やっと賜姓したと思ったら、「経基王」の子「満仲」は全国の武士に対して「荘園制」(前記の論)を利用して「荘園名義主」と成り勢力を高め、由緒ある名家名籍の源氏の「名義貸し制度」を無秩序に拡大利用して多くの「未勘氏族」を作り上げ「源氏武士団」を構築してしまったのです。(たいら族に対抗する為に)
さすが「満仲」は”天皇家と皇族の印象を汚す”として本来なら賜姓族である為に前記した「冠位の制」や「有品の制」などの「4つの規定の官位官職」(前回で論じた)は与えられず天皇から疎んじられます。

(再注釈:前記した様に、各豪族が開発し、或いは奪い取った荘園を護る為に皇位名籍の氏名を借りて「名義上の荘園主」に成って貰い、それに見合う代償を支払い荘園を護るシステムで、その為に今度は「名義荘園主」は「名籍氏」を名乗ることを許し、「無血縁の名籍氏」を作る方式で、”いざ戦い”と成った時は”馳せ参じる”と云う契約です。中には大荘園の場合は「遠縁の娘」を何処からか探し出して、或いは作り出して間接的な遠戚を作り出す事もあった。これを「未勘氏族」と呼ばれるもので「源氏姓」や「平家姓」や「藤原姓」等を名乗る氏の95%族がこの族に部類するのです。
その「未勘氏族」の系譜を観ると、その一手法は、その「名義荘園主」の系譜のある代の処に一人架空の名籍人物を作り、その架空の人物から自らの氏の末裔が拡がった様に系譜を繋ぐ方式です。この偏纂は概ね「3つのパターン」に分類されます。)

この注釈の行状を”天皇家と皇族の印象を汚す”とし、”第6位皇子の賜姓の源氏が何処まで本当の源氏か判らなくなっている事を憂いた”のです。
当然、”同じ対比する氏が無ければ左程の憂いでは無かった”と考えられますが、厳然と「賜姓青木氏」と「特別賜姓青木氏」が「3つの発祥源」「祖先神−神明社」のその象徴としての「立場と役目」を全うしているのですから、累代の天皇は無関心ではいられないのが普通です。
これが前記した「一条天皇」から「後三条天皇」−「白河天皇」−「堀河天皇」−「鳥羽天皇」(院政含む)の累代天皇政治の「粛清政治」(「荘園性の行き過ぎ論)と成って行ったのです。

(結論はビッグバーンで「源平の問題」は解決したが、もう一つの「荘園制の行き過ぎの問題」は上記した累代粛清を実行した天皇6人が命を賭けて解決に取り組んだのです。残ったのは室町中期までの何と無傷の「神明社建立」だったのです。)

この「源氏行状」(下記のデータで論ずる)は止まらず、次ぎは3代目の三男の頼信は嫡男頼光の援護を受けて関東を支配下に攻め込んで獲得する有り様で、祖父の思惑を実行して国策の真逆の行動を採ったのです。
(援護の宗家頼光側にも問題は無かった訳ではない。)
そして、分家頼信4代目の義家では陸奥を攻めて獲得した事はしたのですが、遂に天皇は痺れを切らし「白河天皇」から「鳥羽天皇」まで完全に疎んじられて全ての彼の行為は「禁じ行為」の「私闘」と決め付けられ排除されます。
義家と頼信系清和源氏は一挙に衰退して行き、頼朝で5年間程度持ち直しますが共倒れで11代の源氏は完全に滅亡してし仕舞います。(義経−頼朝の争いはこの路線争いであった)
(この事は前記で一条天皇から鳥羽天皇の処で「国難」で論じた)

しかし、一応は調べる事として、そこで「177年間の空白期間」(第1次空白期間)の「祖先神の八幡社」の建立状態を調べる必要が出てきます。但し、”「戦略的、政治的目的」の為に”であります。

確かに「嵯峨天皇期」(809〜823年)から再び「皇族賜姓族青木氏」は次第に回復する期間に入りますが、未だ「皇族賜姓族」は衰退して「神明社」を建立する勢力は無かったのです。
しかし、父桓武天皇に依って「賜姓青木氏」が衰退させられたのであれば、桓武天皇の様に”自らが神明社の建立者と成っては良いではないか”と云う疑問が当然出て来ます。
確かに、筆者は「2足の草鞋策」(1125年頃)を「賜姓青木氏」が採り始めた時期までその勢力は無かったと観ています。衰退した事も「2足の草鞋策」を採ったのですが、経済的な問題だけではなく源平の間にあって採り難い事情も考えられます。
そうすると「特別賜姓族青木氏」が「神明社建立」を始めた時期(970年±10前後)までの「160年間の空白期間」(第2次空白期間)があります。
もしこの「2つの空白期間」に「源氏−八幡社」が神明社に代わって”「戦略的、政治的目的」の為”に建立していたとするならば、この「2つの空白期間」は解消する事に成ります。(しかし無かったのです。)
その時の「4つの経緯」を下記にします。

「4つの経緯」
「180年間の空白期間」(第1次空白期間) 809年〜986年 11代の賜姓源氏の時代 
「225年間の重複期間」(第1次重複期間) 970年〜1195年 特別賜姓族青木氏の誕生
「160年間の空白期間」(第2次空白期間) 970年〜1125年 2つの青木氏の不連携 
「70年間の空白期間」 (第2次重複期間) 1125年〜1195年 賜姓青木氏と賜姓源氏

つまり、「源氏11代目花山天皇在位末」986年と「特別賜姓族青木氏の誕生期」970±10年がほぼ一致するからです。
残った「清和源氏」の頼朝没までの1195年に対して1125年の70年間 賜姓青木氏の重複期間、と970年の225年間 「特別賜姓青木氏」の重複期間がどの様に成るかが決ります。

しかし、この様に「桓武天皇」による「律令国家」と共に「国の征討」が進み「5家5流の賜姓青木氏」だけではこの「国家戦略」の「神明社建立」は維持する事が叶わ無くなった事も史実です。
更に推し進め様とした「村上天皇期」(946〜967年頃)には、そこで勲功の高かった「北家藤原秀郷」にその「第3子」を「特別賜姓族」に任じて、「賜姓青木氏」と全くの同格の扱いである身分、家柄、勲功、官職、官位、叙勲を与えて「嵯峨期の詔勅」を使って「特別賜姓族青木氏」としたのです。
その「由来の根拠」を「母方同族氏」として「賜姓血縁族」である事を前提に引き上げたのです。
この時に特記すべき事は、「青木氏の子孫存続・維持の方策」として天皇は、秀郷に、”「秀郷宗家より第3子を以って「青木氏の跡目入れ」とする”とわざわざ命じて定めたのです。
この意味は大変大きいのです。つまり天皇家が「青木氏」をどのように見ていて、どの様に扱い、天皇家の意向を汲み、”「3つの発祥源」と「祖先神−神明社」の責任を果たしてくれる唯一の味方”と云う事が読み取れます。それは関東での「平の将門の乱」の引き金に成った一連の秀郷の頑固なまでにも天皇家に対して「律儀な性格」を見抜いて「白羽の矢」を建てた事も読み取れます。
その為には「空白期間の焦り」と「源氏の行状の憤慨」と「源氏への幻滅感」を払拭するが為に「秀郷の末裔」に期待していた事が判ります。
それ程にこの「空白期間の失政」を反省して天皇家は「2つの青木氏」に対して政策的に重要視していた事を物語ります。
それにより ”「拡大する征討地の守護」として、その「政治的、戦略的な拠点」として、「祖先神」の「神明社」を創建配置した”と考えているのです。
故に”「賜姓族」は神明社1/3であり、「特別賜姓族」は2/3であり、その守護範囲をこの様に分けた”と観ているのです。この数字の持つ意味であります。
そして”伊勢の皇祖神の伊勢大社のお膝元に、「賜姓族伊勢青木氏」と共にこの「特別賜姓族」の「秀郷流青木氏」を配置して、この「2つの青木氏」を結んで「一つの青木氏」とした”と観ているのです。
「伊勢秀郷流青木氏」を置き真っ先に伊勢に「特別賜姓族」としての役割を果させ様としたこの事が重要な事なのです。
(この事は前段で何度も論じて来たが、「5家5流の青木氏」の「青木氏の建直し」をも狙っていたのです。
それには、急に配置したとは考え難く、「事前の布石策」が天皇家にあったと考えているのです。)

秀郷の祖祖父の「藤成」を九世紀初頭(秀郷から150年前:800年頃 桓武天皇期末期)に「伊勢の半国司」と配置しているのです。これは嵯峨天皇が青木氏衰退を承知していて、「将来の布石」として政策的人事として手を打ったと観ています。依って、恐らくこの伊勢に「藤成」は末裔を遺したと考えているのです。
なぜならば、”赴任地に末裔を遺して定住させる”の戦略は秀郷一門のみならず北家藤原氏の例外の無い「赴任地の基本戦略」です。これにより一門の拡大を図ったのです。(前記で論じた)
秀郷末裔の「基景」が伊勢長嶋の地の「半国司」に成った時に「伊勢の伊藤氏」を継承しています事(この時も護衛団としての青木氏が同行している事)から”「藤成」は末裔を少なくとも遺していた”と考えられます。(この時は未だ秀郷流青木氏は発祥していない。3代後)
これが後に史実として秀郷一門の「近江蒲生氏」との跡目血縁をしていますので、その末裔が伊勢四日市に定住していて、その事から「秀郷流青木氏の始祖」となる秀郷一門(「藤成末裔」)が古くから定住していた事が判ります。
又、清和源氏の宗家頼光系四家は5家5流の青木氏に跡目を入れている事からも「賜姓青木氏」を側面から援護していた事が判ります。宗家側では何とか皇親族の青木氏を残そうとしたのです。
それに応えた事件があります。それは「以仁王の乱」の首謀者の頼光より4代目の頼政の孫等の「助命嘆願」にたいら族に対して「賜姓伊勢青木氏」が動いた事なのです。
これ等の一連の事からも清和源氏宗家頼光系が青木氏に対して援護していた事が判ります。
片方では分家頼信系は「勝手気侭な行動」を採ったと観えるのです。

筆者は、”「特別賜姓青木氏」の「始祖千国」の末裔(子供)がこの伊勢の「藤成末裔」に跡目を入れて「青木氏」を興して配置した”と考えているのです。
その”始祖千国の嗣子が誰なのか”研究中で、「賜姓族」に成った「千国」は恐らくは直ぐに天皇家の守護神の「伊勢大社」のある所に、「賜姓青木氏」と同格の身分を得た以上は、子供を直ぐに配置する筈です。否、「義務」として配置しなくてはならなかった筈で、伊勢には、「藤成の伊勢の末裔」が定住(四日市)している訳ですから、そこに跡目を入れるが常道です。
この行動は「同格の役目と家柄」を与えられた以上は必定な絶対的職務です。先ず100%入れている筈です。末裔が居て定住地も判っているのですから後はその人物の特定だけです。
「賜姓伊勢青木氏」の関係資料の中からこの事に付いて何らかの資料が出てくるのかとも研究しましたが、松阪の大火消失で確認出来なくなった事や、伊勢秀郷流青木氏等からもなかなか出て来ません。
従って、”他の関係する処”からの研究を進めていますが「特別賜姓族青木氏」の「伊勢の祖」も確認出来るかは疑問です。この部分が現在の研究課題です。


「青木氏と守護神(神明社)−15 (「賜姓源氏の祖先神の役目」) に続く。


  [No.283] Re:青木氏と守護神(神明社)−15
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/02/02(Thu) 11:13:16

「青木氏と守護神(神明社)」−15
>筆者は、”「特別賜姓青木氏」の「始祖千国」の末裔(子供)がこの伊勢の「藤成末裔」に跡目を入れて「青木氏」を興して配置した”と考えているのです。
>その”始祖千国の嗣子が誰なのか”研究中で、「賜姓族」に成った「千国」は恐らくは直ぐに天皇家の守護神の「伊勢大社」のある所に、「賜姓青木氏」と同格の身分を得た以上は、子供を直ぐに配置する筈です。否、「義務」として配置しなくてはならなかった筈で、伊勢には、「藤成の伊勢の末裔」が定住(四日市)している訳ですから、そこに跡目を入れるが常道です。
>この行動は「同格の役目と家柄」を与えられた以上は必定な絶対的職務です。先ず100%入れている筈です。末裔が居て定住地も判っているのですから後はその人物の特定だけです。
>「賜姓伊勢青木氏」の関係資料の中からこの事に付いて何らかの資料が出てくるのかとも研究しましたが、松阪の大火消失で確認出来なくなった事や、伊勢秀郷流青木氏等からもなかなか出て来ません。
>従って、”他の関係する処”からの研究を進めていますが「特別賜姓族青木氏」の「伊勢の祖」も確認出来るかは疑問です。この部分が現在の研究課題です。

 「賜姓源氏の祖先神の役目」
”他の関係する処”として、源氏があります。
「嵯峨天皇」(809〜823 52代)から11代続いた「花山天皇」(984〜986 65代)まで同族源氏がありますが、「祖先神」を祭祀した5代続いた「賜姓青木氏」の後に、”何故に「賜姓源氏」(八幡社)にはその「祖先神」を祭祀するこの役目を与えられなかったのか”と云う疑問が湧きます。
或いは、”「賜姓の役目」があった筈なのに何故実行しなかったのか”、反して云えば、”何故、秀郷流青木氏にこの役目を与えたのか”と云う疑問が湧きます。
この「2つの疑問」の解明に付いて青木氏として答えは出していません。そこで「神明社」を論じる処でこの疑問を解き明かす必要がありますが、実はこの事に付いては不合理な疑問・矛盾が実に多いのです。

既に前段で論じたその「背景と経緯」の様に、”実行しなかった、又はさせなかった”事の理由は上記しましたが、そもそも「源氏」と云えば一般的に「清和源氏」 (858〜876 56代)と思われがちです。
しかし「青木氏の賜姓」に続いて2代の天皇(桓武、平城)をあけて、再び嵯峨天皇(52代)から始まった11代の「賜姓源氏」が発祥します。中でもその源氏そのものと思われている56代の「清和天皇」の「朝臣族の源氏臣下」の「賜姓方法」にだけそもそも問題があって、この一部の「清和源氏の行動」が”皇族としてのあるべき行動(「3つの発祥源」の象徴)を採らなかった”と云う事に問題があるのです。
この事が「青木氏の生き様」と、又「神明社」「八幡社」にも大きく影響を与えたのです。
但し、この「清和源氏」筋でも主に「3つの源氏」があって、「宗家の頼光系源氏」(摂津源氏)と「分家の頼親系源氏」(大和源氏)と「分家の頼信系源氏」(河内源氏)があるのですが、その「宗家の頼光系源氏の四家」は「特別賜姓・賜姓青木氏」とほぼ同じ行動を採ったのです。採らなかったのは「分家頼信系の一門」だけなのです。
但し、「清和天皇」は「源氏の賜姓」に於いても「天智天皇」からの「令慣例」に従わずに「朝臣族・第6位皇子」を賜姓臣下させずにこれを無視し、子供の第11位と第12位の第2世族皇子の賜姓源氏を幾つも発祥させたのです。本来で有ればこの2人の第7位以降は「宗道」として比叡山に入山する仕来りです。
又、皇位継承権を保有する「清和天皇」の第3位皇子の子(孫)が源氏を名乗った事、「宗道」の位置に居た第9位皇子の子供(孫)が「源氏」を名乗った事があり、この二人の「賜姓の有無」は記録から明確ではないのですが、「嵯峨期の詔勅」を上手く運用して「青木氏」ではなく「源氏」にしたと観られます。
ですから、上記の「3つの清和源氏」以外に余り知られていない事なのですが「4つの清和源氏」もあるのです。
但し、問題の清和源氏の始祖の「経基王」は長い間賜姓を望んでいた事が資料でも見られるところで、「讒訴や讒言」とも録られる様な功績でその勲功を配慮されて「令外慣習」として特別に「清和天皇」から朝臣族ではないがやっと賜姓を受けた記録と成っています。
この経緯は次ぎの「陽成天皇」が暴君であった事からこれを忌み嫌い、これ等の上記の皇子が「経基王」に習い前の「清和天皇」の皇子として「賜姓族」ではない「源氏」を名乗った為と観られています。
(第3位の子、第9位の子と、第11位、第12位皇子が該当 「経基王」もこの一人との説あり)
「経基王」(しかし経基王だけは賜姓を受けている説もあるが逆説もあるが逆説が納得出来る)もこの皇子の中に居たと観られていて、「清和天皇」からすると「第5世王」と成る事から令外で「宗道の立場」にもあり、”皇族でない”とする説が生まれたのです。下記参考の令規定より強ち否定は仕切れない説であります。

(参考 第4世王以上は皇位継承権 皇子位と王位権者、守護職位、第6世王は賜姓臣下、第7世以下は単純に臣下し、第5世王はその中間の立場で継承者が少ない場合は継承権を持つ、現実の運営は第5世まで継承者が無かった事から第6世王が継承した事もある。第4世王以上で第6位皇子は六衛府軍親衛隊として賜姓臣下 第7位以下は令外賜姓 上記の2人の清和源氏と天智天皇の川島皇子の近江佐々木氏が例外賜姓有り)

そして、清和源氏の頼信系一門の守護神である事についてのこの「八幡社の根拠」は、後の「八幡社」の「石清水八幡宮」の神職の私氏資料の中にこの事が書かれている事を根拠としているのですが、しかし、250年以降の神官職の氏の私氏資料である事から「未勘氏族」の搾取偏纂の一物の可能性も高いのです。

(これは定説には成っていない−又、下記の「八幡社の守護神説」と「八幡神説」もこの「未勘氏族」の私氏資料を根拠としている。)

「青木氏」にもある様に「賜姓青木氏」と「嵯峨期の詔勅」の「皇族青木氏」と同じく、これらの「賜姓源氏族」又は「皇族源氏族」は特段に問題を起さなかったのですが、問題を起こした賜姓「基経王」は清和天皇第3世王皇子の「孫身分」(通説)であり、”子供の第2世族の朝臣族・第6位皇子(貞純親王)を賜姓臣下させずに「清和天皇の孫」(第6位皇子の子供の経基王)にさせた”と云う経緯なのです。

(第6位皇子の貞純親王は清和天皇に信頼され政治に欠かせない人物であったとして臣下しなかった事を理由にしている)

そもそもこの「経基王」の賜姓の実態は「第2世族の朝臣族」の「令外慣習」の「令外賜姓族」であったのです。
つまり、「令外賜姓族」の「孫身分」の末裔の「分家頼信系一族」の「義家一門」も「経基王」と同じ様に「政治的な問題」を起し、”皇族にあるまじき行動” として朝廷と天皇と上皇の「巧妙な策謀」に掛かり「源氏全体の滅亡の引き金」と成ったのです。
(頼光系は「源平の争い」が原因で青木氏に跡目を入れて滅亡する)
そしてこの研究が進み確定はしていませんが、現在では上記の経緯から”「経基王」は「第4世族皇子王」内ではなかった、皇族ではなかった。”と云う新しい資料からの研究説が生まれているのです。
確かに「令外賜姓」であり、”皇族で無い”と云えばそういう事にも成ります。
”天智天皇からの第6位皇子の賜姓臣下する慣例にも拘らず第6位皇子が賜姓臣下しなかった「貞純親王」の子供として第4世王外の「経基王」を第3世王として宛がい「貞純親王」の代理賜姓として明文を付けその為に天皇は渋った為に遅れて受けた”とし、この事から「経基王」は賜姓を”待ち焦がれた”とする説と”いやいやに賜姓を受けた”とする両方の研究説が生まれたのです。
(いやいや説は経基王の歴史的行動から矛盾がある。)
しかし、現実は「経基王」の史実の行動から”待ち焦がれた”が正しい事が定説に成っています。
(筆者もそのように判断している)

「清和源氏の経緯」
念の為に八幡社に繋がるこの事が神明社にとってどの様な影響を与えたか、又はどの様な経緯に成っていたのかを知る必要がある為に概要の筋目だけを述べて置きます。
それは2代目の「満仲」は荘園制を悪用して「名義荘園主(本領)」と成り、その代わりに「無血縁の源氏姓」を名乗らせる方式で、各地の豪族(未勘氏族)を組織化して平家に対抗する「武装集団」を形成したそもそもその張本人であり、その為に朝廷と天皇から疎んじられて一時河内に身を潜める行動を採った経歴を持ち主です。
後に開き直って無冠、無官、無位で攝津に戻ると云う反発行為を採っているのです。その後も「経基王」と同じ様に2代続いて疎んじられるのです。
この事で衰退した清和源氏の3代目は発奮し、先ず長男の宗家頼光は摂関家の実力者藤原道長に仕官し出世して各地の守護、国司を歴任し、資質剛健で皇族としての立場を重んじ宗家としての「清和源氏の立場」を高めたが、反対に弟の頼信は真逆の行動を採り、矢張り父の築いた[荘園制の武装集団の組織力」を使って勢力圏を河内から伊豆を経て関東に武力に依って奪い取りその勢力を拡大させたのです。
これを孫の「義家」が継承して更に「荘園制の拡大」を図り陸奥勢力を争奪して、その行き過ぎに遂には天皇や院から「排斥の令文」を発せられて嫌われる以上の政治的な処置を受けてしまい、挙句は4代続いて再び疎んじられる羽目に成った経緯なのです。
この様に世を乱す「争奪戦」を繰り返せば国は不安定に成り、民の不満はつのり朝廷側の立場は無くなるし、「荘園制行き過ぎ」に対し、「後三条天皇」の時からも既に「禁令」も出ているのにそれを無視して拡大させる行為を犯せば誰で「排斥の令文」を発せられるのは必定です。
此処にも「経基王」の「異端児的行動」から始まり「満仲」と続き、「頼信」と「義家」の「不名誉な仕儀」と成り「氏の不尊名」は4代と続きます。:
結局は「皇族に与えられた責務」を全うせずに「破天荒な行動」を取らなければ成らなかった「経緯と背景」の一端が継続して見え隠れしています。
これ等の事柄は「祖先神−神明社」や「八幡社」の検証に大きく影響して来るのです。

次ぎにデータで論じますが、本文では「源氏・八幡社」に対して上記の「背景・理由と経緯」が判っていますので大きく論じる事はしません。
ただ「源氏の守護神」は通説は「八幡社」と成っていますが、筆者にはこの「八幡社説と八幡神の通説」には多少疑問があるのです。
この疑問については下記に論じますが、何しろ上記の行動もさる事ながら「疑問と矛盾」が多過ぎるのです。ところが最近の各研究家の間でやっとその疑問の学問的解明が進み始めたのですが、まだ社会の中では「祖先神-神明社」の義務も放置し、挙句の果ては八幡社を建立する等の行為を繰り返しながらの根強く「義家贔屓説」として通っているのです。
ところで、では「源氏」11代はどの程度の「祖先神の八幡社普及」に取り組んだのか、そのデータから先ず論じます。(「八幡神」の説もあるが後付け行為)
その「八幡社」も調査すると下記にその内容を論じますが、結局は既に青木氏等に依って建立された「神明社」そのものを利用しているだけで「純粋な八幡社」と観られる多くは彼らの「未勘氏族」に依って建立維持されているのです。

そこでそもそも「賜姓青木氏」に続く「賜姓源氏」の11代は次ぎの通りです。
嵯峨源氏、 純和源氏、 仁明源氏、 文徳源氏、 清和源氏(上記経緯)、 陽成源氏、 水考源氏、  宇多源氏(滋賀佐々木氏)、 醍醐源氏、 村上源氏、 (円融特別賜姓青木氏)、 花山源氏

(注釈 これ以外に「平城源氏」や花山天皇以降に5代の源氏があるとして徳川氏が征夷大将軍の称号を獲得し幕府開幕する為に造り挙げたものがある。
「清和天皇」と「陽成天皇」の間は賜姓が大きく乱れた。
「平城源氏」はそもそも皇族に賜姓する事を辞め阿多倍一門に「たいら族」の賜姓をしこの事で嵯峨天皇と醜い政争をした経緯がありますが、「嵯峨天皇」後にその事を忘れた様に源氏を名乗った。
「円融天皇」は清和源氏の皇族としてのあるまじき行為に反発をして「賜姓源氏」とせずにその皇族としての義務を果たさせる為に藤原秀郷の一門に「特別賜姓族青木氏」(秀郷流青木氏)賜姓した。)

「八幡社と弓矢の根拠」
その前にそもそも「八幡社」の呼称は、「筑前宇佐神宮」が「譽田天皇廣幡八幡麻呂」、即ち、実質飛鳥の「ヤマト王権」(5族の連合政府)の初代「応神大王」の事で、つまりは実質の初代の「応神天皇」の事ですが、「護国霊験の大菩薩」と「御託宣」があったとして「八幡の麻呂」(ヤハタ)から後に「八幡社」と別名呼称されるように成ったとされています。
「神明社」は前段でも記しましたが、実質4代目「雄略天皇」が、夢の中で「天照大御神」の「御託宣」を受け建立したものですが、その「豊受大御神」(外宮)を「丹波」の国から、ほど近い伊勢の「山田の原」に「天智天皇」が迎えたとされるものです。
これが「神明社」の「豊受神」、「豊かさを受けられる神」、即ち「生活の神」「物造りの神」の所以ですが、「八幡社」は「応神天皇」、「神明社」は「雄略天皇」とし何れも「夢の御託宣」です。
そして遅くともこの筑前の宇佐の地の「八幡社」の社殿建立は和銅元年(708年)頃とされ、「社」としての正式な建立は728年とされています。
この頃は「弓矢の神」ではまだ無かったのですが 「石清水八幡社」が860年頃に建立されたとします。
その年に「清和源氏」は860年に発祥されています。
後に「宇佐のヤハタ社」が支社と区別する為に後に「宇佐八幡社」として変名した事から、その後下記の考察から1010年頃の時代の背景を受けて「弓矢の神」として徐々に凡そ50年くらいを掛けて各地の「未勘氏族」に信仰される様に成って行ったと観られます。

源経基  *  −961
源満仲 912 −997   
源頼信 968 −1048 
源頼義 988 −1075
源義家 1039−1104

そもそも全国の荘園を営む武士団を「源氏の名義貸し」の基に「組織集団化」させた「源満仲」は「住吉大社」を信心していた事が資料より判っていますので、この頃は「八幡社」はまだ清和源氏の守護神とは成っていません。勿論、「祖先神の神明社」も守護神とはしていないのです。
次ぎの代の三男の分家を興した「源頼信」の頃は「大神氏」から引き継いだ「姓氏」の土豪宇佐氏が神職を務めて膨大な社領を有していて、「自前の力」で運営されていてまだ「清和源氏の勢力」の範囲にはありませんでした。つまりまだこの頃は「源氏の守護神」とは成っていません。
次ぎの「源頼義」は「頼信」が1048没とすると60歳と成り、まだ「頼信の世」ですので1048年以前には「清和源氏の守護神」には成り得ていません。「頼信」は西ではなく東の関東に進出したのですから西にある「八幡社の勢力」との関わりは強く無かったのです。
また「頼信」は上記した「満仲的戦略」を父「満仲」から託されて踏襲し、本家の「兄の頼光」の援護を受けて関東の手前の「兄の頼光の所領」の伊豆を拠点に伸張してゆきますので、「八幡社」とは無関係でそもそも「住吉大社」を信望していたのです。
「満仲」の長男宗家の跡継ぎの「頼光」は父の「満仲的戦略」に乗らず摂関家の実力者の「藤原道長」に仕えて「祖先神-神明社」を信望しています。(勅命で神明社の再生を命じられている)
飛鳥の大神一族(下記神明社で論じる)が大和朝廷より筑前宇佐の地に赴任し定住し「神仏習合」を行い「八幡神の創出」を行ったされていて、後の平安中期頃に肥前に定着した大神一族は衰退しやや後に神職を土豪の宇佐氏に代わる事と成ります。
この時(980−1000年)、豊前、豊後、日向の「3国7郡640反」を社領とし、「18荘園」を保有していたのです。

ここ筑前の地を「源頼義」(短期間「源義家」も務める)が定住して「筑前の守護職」を務めています。
又、この影響で「頼義」は「義家元服 7歳」(1046年頃)の地を京の「石清水八幡神社」(3大八幡社の一つ)で行います。この事から”後に「八幡太郎」と呼称されるように成った”とされています。
頼信1048年没と義家1046年の元服が一致しますので、この時期より境に「住吉社」から「八幡社」に移行して行った事が判ります。
つまり、「住吉社」を信仰の神社とするならば、この時、「住吉社」で「義家7歳の元服」が行われても不思議はありません。
この「義家元服」の前に「肥前の役務」を務めていますので、この時に「住吉社」から「八幡社」の切り替えのチャンスがあった事に成ります。
恐らく「頼信」から「頼義」に「代代わり」を契機に全国的に「荘園の名義主(本領)」が拡がり「未勘氏族」を集結させ統率する為にも「八幡社」に切り替えた事が判ります。

この時期が「没後の1回忌の法事」等が済んだ「1050年」が「当時の社会習慣」から判断できます。
実は「神社の習慣」には先ず ”80日過ぎるまで関係者は神門に入っては成らないし、「3年-2年以内」の法事が過ぎるまで全ての「新しい行動」を「氏」として起こしては成らない” と云う「神社の仕来り」があります。現在でも神社に限らず「武家の伝統ある旧家」でもこれらの「仕来り」は護られています。

「1046年の義家元服」は15歳にせず7歳の早い「元服行事」を執り行い、それに限らず、「清和源氏の分家」としての「頼義」のその「意思表示」を「未勘氏族」に対しても「全国の武士団」に対しても「宣告の行事」として行ったのです。
「神社と皇族家の仕来り」により正式にはこの「元服の時」は「頼信」が未だ生きていた事から、それを見計らって行った「前倒しの祝辞」であり、故に丸3年後の「没後の1050年」が「河内源氏-八幡社」の「行動開始の年」に成ったと観られます。
その正式な宣告は「義家の元服」と「頼信の1周忌法事」の2つの行事を利用したと考えられます。
周囲の「未勘氏族と武家集団」は氏家制度の中では、この「古来からの仕来り」は充分に承知していて「暗黙の了解」があったと考えられます。(1周忌は3年であるが1年以内の前倒しは可能)

この宇佐神社の神領は「1410戸」と「18の荘園」と「640反の社領」と「24000の支社」であったとされ、この神域は1190年から1199年頃に掛けて殆ど周囲の土豪に一挙に侵食されて無く成っています。
この間、「社の運営」がままならず荒廃した時期が50年ほど続きそれを観て周囲の土豪から侵食され始めたのです。(社説)

とすると、1180年が頼政の「以仁王の乱」、1180年の「富士川の戦い」、1185年が「頼朝勝利」、1192年が「開幕」、で1199年−50年=1149年と成り、1050年から100年間が「河内源氏−八幡社−未勘氏族」の関係は隆盛期を先ず迎えていた事に成ります。
その後は1149年頃からは「後白河院の院政」、「荘園整理」、「皇室権力の強化」、「保元平治の乱」、「源氏の衰退」等が起こり、「源氏と未勘氏族」の著しい衰退と「組織の崩壊」が起こり始めた時期であります。
1050年はこの事から「河内源氏−八幡社-未勘氏族」の関係式は間違いない時期と成ります。

(その後、中世に掛けて黒田氏1601、細川氏1632、松平氏、徳川3代将軍家光に依って寄進があり、宇佐八幡社は3000石に再復活します。これを期に全国の主要八幡社は徳川幕府の再建策で復活する)

つまり、清和源氏の「荘園の本領の保護」(1050)があってこれらの神域を保っていて、義家の勢力が低下してそれが最終(1199)切れた為に侵食されて無くなるという現象が起こったのです。
(河内源氏滅亡-頼朝没1195年)

その後、再び中世から江戸の初期に掛けて上記した様に全国の多くの八幡社は「徳川幕府の梃入れ策」で地元の大名等の寄進で復活したのです。

これらを時系列的に観れば、「清和源氏」の「源頼義」が「筑前の守護職」になった事をきっかけに「18の荘園」の「名義貸し」の「本領」とその「他の神域の保護」をしたと観られます。
そして、この「頼義-義家」の没後の1140年頃からこれを守り切れなく成り、50年程度の間に徐々に侵食が起こり始め、遂には1190年頃から雪崩の様に1199年に掛けて「侵食崩壊」が起こった事に成ります。
従って、この経緯から、「弓矢の神の八幡社」と「清和源氏の守護神」の「2つの風説」は24000社を通じて一挙に広がり、”全国の「八幡社」が清和源氏の頼義等の勢力に依って護られている”と云う風説と成って1010年後の頃から起こった事に成ります。

(むしろ24000社の八幡社の支社を護る為に広めたと観られます。但し、24000社は室町期中期では調査からこの1/5程度であったと観られます。)

この説からすると、実質は「八幡神」は「清和源氏分家頼信系4代目義家一門」の「守護神」とされている事に成りますが、「皇族賜姓族青木氏」の「祖先神−神明社」と同族である上記11代の源氏も「皇族第6位皇子」の「臣下族」である事から、「祖先神の一族」である事には令の定めるところでは変わりは無いのです。
だから同じ下記参考の「守護神」の「令義」からすると彼等も「祖先神」と成る筈です。
この「令義と風説」との”ずれ”が起こったと考えられ、結局は清和源氏の「満仲の戦略的路線」を引き継いだ「頼信-頼義-義家」はむしろこれ(風説)を利用した事が考えられます。
この根拠は全国にその「荘園制」を利用して作った「未勘氏族の武装集団」を組織化した事で、その勢力をひとつに取りまとめる為にも、その「集団の守護神としての象徴」をこの「宇佐の八幡社」に求めたものと考えられます。
同時にこの「八幡社の持つ組織力」も手中に収めた勢力拡大を図ったと考えられます。
そうすると結局は、「八幡社」の「守護神」は「未勘氏族の集団の守護神」であって、清和源氏頼信系一門の「本来の守護神」では無かった事を経緯の時系列分析からそれを物語ります。
すべての八幡社に関するこれに伴う要素の組み合わせは符号一致します。
故に、この「象徴」として「祖先神-神明社」を使うことは、「他の同族の青木氏」や「他の源氏」や「特別賜姓族の青木氏」等に対して迷惑が掛り、そもそもその路線が異なる事から賛同を得られることは無く、神明社の圏域を全く戦略的に使えなかった事を意味します。
それは「八幡社」=「荘園制」であって、「神明社」≠「荘園制」である事を社会の中では成っていたし、賜姓族全ては「令慣習」に従っていた事を物語るものです。
これに逆らう事は既に「後三条天皇・白河天皇期に禁令」(1069-荘園整理令等 前段で論じた)が出ている事でもあり、それを無視して無理に推し進めて「荘園制で勢力拡大」を図る手前上も出来なかった事にも成ります。

「八幡社の守護神」=「未勘氏族の武装集団の守護神」→「清和源氏頼信系一門の名義上の守護神」

そもそも「満仲-頼信」はその守護神を本来あるべき「祖先神-神明社」では無く、まったく別の「住吉社]であったのですから、これは ”本来走るべき軌道外の事を追い求める癖” で頼信等一門の「家の伝統」とでも云えます。
これは当初、「満仲」は関西範囲の「未勘氏族の武装集団」の組織化を行った為に、その「象徴とする守護神」を地元の「住吉大社」に求め、且つその神域を利用する為にもこの戦略に求めたと考えられます。
そして、未だ拡大途中であった頼信の頃もこの「住吉大社」の「象徴戦略」を継承したと考えられます。
しかし、「肥前の赴任」の頃をきっかけに「荘園制の未勘氏族」の組織化が全国的に拡大し、それに伴い同じ路線を採る「頼義-義家」は 河内は基より相模守、伊予守、出羽守、下野守、陸奥守、越中守、筑前守等を務めた事から ”「全国的な八幡社の神域」に切れ変えた” と考えられます。

(頼信は常陸守、伊勢守、甲斐守、信濃守、美濃守、相模守を務めた。これ以外に国司、介、追捕使、押領使等の令外官等の為政権を持つ赴任先は多くある。 神明社から調べた赴任先は上記の赴任先以外にも添書などに見られる。 義家は圏域を拡げる為に主要国の美濃守の任官を強く望んだ経緯もある位である。それが荘園の名義主の領家・本領に成れる事に繋がる。)

(参考 2「祖先神(祖霊)」(そせんしん)「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、「自分の集合」である「一族一門の子孫」(皇族・朝臣族)の「守護神」であり「人と氏の重複性も持つ神」)

しかし通説として「祖先神−八幡社」又は「八幡神−八幡社」の「守護神の形」が現実に出来上がっているのです。
この「八幡説」からすると「清和源氏分家頼信系義家」からの「八幡社」ですから「清和源氏宗家頼光系四家」は「八幡社」では無く「祖先神−神明社」と成る事に成ります。また他の源氏も「八幡社」ではない事に成ります。
これは文献から観れば、「清和源氏分家頼信系義家」からの「八幡太郎」の「義家」の呼称がある事から「八幡社」を「守護神」とした事は間違いない訳であり、更には「筑前赴任の経緯」「元服地の経緯」からも明確には「義家」からと成ります。
まして「八幡神」の「守護神」まで出来上がっています。
仮に「分家頼信系義家一門」(河内源氏)が「八幡神」だとすると、上記参考の一行の「皇族の令慣習」から明らかに ”第6位皇子の朝臣族の皇族でない”と云う事に成ります。
中には「河内源氏の守護神」と書き記した説もありますが、本来は賜姓族には(皇族系には)「上記の令慣習」に縛られて居ます。
且つ、身分は「天智期の正令」と「嵯峨期の詔勅」で決められていますから、ですからこの令外の皇族以外の「氏と姓」族は ”その氏の信じる考え方を守護神に求めて独自に創設する”と云う自由な仕来りです。
それと同扱いの説は「時代考証」がよく取れていない説と看做されます。(通説にはこれが多い)
例えば、藤原氏であれば「鎮守神」、「大蔵氏」であれば「産土神」の様に決める事が出来ますが、「第6位皇子の朝臣族」である限りでは「青木氏」と「特別賜姓族」と同様にその「由来経緯の考え方」から「祖先神」である事に成る筈です。
とすると、この「河内の八幡神」はこの「令慣習」を知らないで藤原氏等と同じ感覚で「八幡神」を創設した事を意味します。つまり、この事から,この「八幡神」のみならず「八幡社」は「後付け」であると云う事に成ります。
言い換えれば、少なくとも「跡付けの時期」までは、恐らくは義家前(1046年)までは、「世の中の常識」は本来は、又は形式上は「祖先神−神明社」であった事に成ります。

(現実は満仲-頼信は住吉大社ですので、知っていた上で敢えて逆らった事を意味します。そして、社会が「武家の棟梁の風潮」が高まるに連れて次第に「世の中の常識」は薄らぎ変化して「八幡社」へと変化して行ったし、むしろその風潮を「未勘氏族」も「頼義ー義家」も利用し「既成の事実」としてこの際敢えて振舞った事に成ります。)

(この義家の終末段階では「令慣習」等”どこ吹く風”で開き直った。−ここで白河院は耐えかねて{権謀術策}を労して潰しに懸った。− その後は源氏は潰れ支えが無くなった実質の荘園主の「未勘氏族」によって煽られて”一人歩きした経緯”と観られる。)

結局は荘園も無くなり、上記した状況は次の様な事に成ります。
A ”「八幡社」=「荘園制」であって、「神明社」≠「荘園制」”の関係式
B ”「八幡社」=「未勘氏族」であって、「神明社」=「賜姓族」の関係式
A→Bに戻った事に成ります。

他の「賜姓源氏」と「皇族源氏」も含めて賜姓・特別賜姓族は「祖先神−神明社」と成りますし、現実に資料よりその経緯を辿っています。
そうすると、「八幡神」等はこの決め手は「跡付けの時期」と云う事に成ります。
実は、この疑問から「経基王」は「皇族の範疇」に無かったとする最近の研究説が生まれているのです。「第6位皇子の臣下」では無かったと云う説です。
確かに上記した様に「清和天皇」の「第6位皇子」は「父親の貞純親王」で「経基王」はその孫であり「陽成天皇」の皇子との説もあるくらいですから、孫が臣下して賜姓族の源氏を名乗る事の事態が特異であり、ある事情から「貞純親王」の賜姓の権利を”子供に譲った”とする経緯と観られます。
それならば前提と成っているその皇孫が6人居て”「六孫王」と呼ばれた”とされていますが、この「六孫王」の呼称の記述は当時の何処の文献にも出て来ないのです。これも明らかに「未勘氏族」による「跡付け」です。
ここら辺が天皇や朝廷からその出自とそのあるべき行為の反意を咎められての疎んじられる根拠に成っていたとも考えられます。
兎角、何事も「白河院の横暴」と決め付けられていますが、もしそれであれば「賜姓青木氏」を潰す事にも走っている筈ですし、わざわざは「白河院」を含む「累代の天皇や朝廷」がこの時期に天皇家が「秀郷一門」に対しこの「賜姓青木氏」の跡目の「特別賜姓青木氏の行動」はそもそも無かった筈です。
現実に潰されていませんし、むしろ前段でもその活躍を期待され源平の時代に明確に果たしているし、下記に示すデータから「神明社建立」は更に進んでいるのです。つまり国策に対して大貢献しているのです。

「白河院」は「清和源氏分家頼信系義家一門」に対する「圧迫」と「同族で戦わせて」の巧妙で戦略的な「源氏潰しの策謀」をも実行しなかった筈です。

(注釈 世間の「白河院の悪名」の通説らしきものは、この「皇族としての道」を正そうとした「権謀術策の所以」であろうが「日本人の忌み嫌う所作の所以」から来ていると、源氏に対して青木氏から観るとこの様に考えられる。)
(義家10年の蟄居期間後、許して北面に任じるがこれは「院への世間の叱責」から逃れる一つの戦術であって、その立場において「同族の行状の悪さ」を理由に「掃討の命令」を下して「同族潰合」をさせた。
その原因は上記した様に「河内源氏の皇族にあるまじきの行動」にある。)

そもそも仮に「白河院の横暴」であるならば「清和源氏宗家頼光系四家」も他の「10代の源氏」も「潰される憂き目」にあっていた筈ですがそうではなかったのです。
それは何度も論じていますが、上記の「祖先神−神明社」の「皇族としての伝統」と「3つの発祥源の責務」を護っていたからです。
この上記の「八幡社」が象徴する様に義家以降の義家一門の行動が、上記の「祖先神−神明社」の「皇族としての伝統」と「3つの発祥源の責務」を護っていなかったからで全てこの一点に集約されているのです。
”皇族の者にあるまじき態度” ”荘園制で国策を乱した”と判断されて潰される羽目に陥ったものであり、”「白河院の横暴」”と「未勘氏族」が作り上げたむしろ策謀である事が伺えます。

(為政者がこの事を許せば皇族としての自らの立場をも人民から信用も脅かす事に成る事は必定です。)

この事から考えると”「義家の立場」を改善しよう”とした「後付けの意味合い」が判る気がします。
世間が思っている様に「清和源氏」だけが源氏であるとするならば「白河院の横暴」説もある面では理解も出来ますが、ここでもう一度確認していただきたい事は、源氏は上記他に10代に、賜姓青木氏は5代29氏に、特別賜姓族青木氏は116氏もあるのです。これ等は全てその立場を守ったのです。

「八幡社」や「八幡神」や「八幡太郎」や「八幡義家」は間違いなく「後付け」の「搾取偏纂の行為」と見做されます。では”誰がこの「後付け」の搾取を実行したのか、何故実行したのか”疑問です。
これ等は後の八幡社から発見された私氏資料の中の記述を正としての前提での全て説なのです。
この私氏資料が間違いとすれば前提は崩れて「祖先神−神明社」になる筈です。
ところが未だそこまでは研究は進んでいないので「八幡社説」が通説に成っているのです。
しかし、上記した様に漠然と判ります。
この論調は少なくとも清和源氏のみの事であり、皇族としての令慣習を無視していて、他の源氏の守護神とする根拠も全くありません。源氏は清和源氏のみとする酷い思い違いの風説のみであります。
「河内源氏の守護神」などの説は「皇族外の氏と姓の扱い」と同じにしていますので青木氏などが護ってきた「令慣習の存在」を無視していますので論外です。

そこで、更にこれらをデータ分析で以って検証を進めます。
そもそも「八幡社」の建立期の728年頃には未だ源氏は発祥していません。
1代目の52代嵯峨源氏発祥は809年頃以降であり、56代清和源氏の元祖の経基は858年頃 義家は7歳で「石清水神社」(八幡社3社)で元服したとして1046年頃以降に「八幡太郎義家」と成ったとされていますが、諸説があるので1050年頃が妥当な「呼称の開始年数」となりますと、322年後と成ります。
しかし、筆者はこの呼称は「跡付け」と観ていて、義家が「武家の棟梁」として祭り上げられた時期に「後付け」として呼称されたと観ています。
この「後付け」は「後三年の役」の後と観ていて現実には1087年頃では無いかとも考察しています。
「360年後の後付けの呼称」となると「八幡社」が「源氏の守護神」であるとする事に問題があります。
だから、「清和源氏宗家頼光系四家」とは「祖先神−神明社」として「3つの発祥源」として行動が違っているのです。
つまり「満仲-頼信」までの行動は範疇内ぎりぎりの行動と見做され、「義家」の父「頼義」の頃からはっきりと「道」が外れた事を意味し、遂には”皇族としての「令慣習の限界」を超えた”として朝廷から疎んじられる羽目に成って行ったと観られます。
もし仮に「祖先神−神明社」で無いとするならば、第3世族の孫、或いは第4世王外の者における令外慣習による賜姓と成ればこれは別に守護神を求めても問題は無い事に成ります。
「祖先神−神明社」は上記の経緯より「朝臣族」で「第6位皇子」による「臣下族」の「守護神」として「皇祖神」に代わってその務めを果たす「生活の神」「物造りの神」とされています。
この厳密な定義からすれば異なる事を意味します。
「弓矢の神」「八幡社」でその「守護神」は「八幡神」でも問題は無い事に成ります。
つまり、青木氏の「嵯峨期の詔勅」により発祥した「皇族青木氏」と同じ扱いと成り得ます。
上記に述べた様に所為を「清和天皇」の「第6位皇子」外の5人の源氏は守護神は「八幡社」で「八幡神」でも問題はない事に成ります。
但し、この5人外の他10代の源氏は「祖先神−神明社」の枠組みの中に伝統はあります。
「経基王」の末裔の「清和源氏宗家頼光系四家」と「分家頼親系の清和源氏」が先祖の伝統に従い「元来の皇族孫」としての「祖先神−神明社」を採用した事に成ります。
それは「八幡社」が4代目からの仕儀であった事から「元来の皇族孫」としての伝統を守った事に成ります。
「経基王」から観れば「義家」まで丁度100年位経過していますから「八幡社」が義家からとすると100年の期間がある為に「祖先神−神明社の守護神の伝統」は護られていた事に成りますし、継続されていた事にも成ります。
つまり「乱世の時代の背景」も受けての”「義家の末裔」の守護神であるかの様に成って行った”事に成ります。
武士である事は事実であるので「氏の守護神」であるかは別にして「弓矢の神」「八幡社」は必然的に「武士の守護神」である事には間違いはありません。
ただ ”義家から直ぐに「氏の守護神」の伝統を「八幡社」に変えたのか”は下記の「八幡社の建立状況」からやや先の「未勘氏族」によるものではないかと考えているのです。
恐らくは、この時期に「六孫王」の呼称も「未勘氏族」によって搾取され「八幡社」の記録に書き込んだと考えられます。
「朝廷の記録」にも無くこの「八幡社」に「六孫王」の呼称や「八幡神」等の「義家」に関する記述が遺されているのも不自然です。
後に「武家の棟梁」などと持て囃された時期に「弓矢の神」の「八幡社」を「荘園名義主」の「本領・義家」に宛がい、その根拠を「六孫王」として作り上げて祭り上げたと観られます。
これを正当化する為に「八幡社」に「氏資料」として恣意的に記録を残したもので、それを正しいとして根拠に論理立てたその立場にいた研究者が「八幡社」と「八幡神」と「六孫王」を装具立てたものと考えられ、そうでなければ360年のタイムラグは大き過ぎます。
「疎んじられた義家」を主とする「未勘氏族」に取って観れば、「名義借りの行く末」が利害に大きく関わってくる事から、有利に成る事柄を記録として「八幡社」に遺し後世の末裔に遺したのではないかと考えられます。
「未勘氏族」の圏域を周囲から護り誇る為にもこの「義家」を宛がい「八幡社」「八幡神」を装具立てたと見られます。
上記した様に ”「源氏義家系の「未勘氏族」の守護神の八幡社”であって、必ずしも”源氏そのものの守護神であると云う定義ではない”と云う事です。
結果、遺した「八幡社の氏資料」で後に”「源氏の守護神」と決め付けられてしまった”、又は”勢力保持の為にも決め付けられる事を一門は期待した” と云う経緯と観ています。

「八幡社」=源氏頼信系義家一門の守護神=「未勘氏族の守護神」=「武家の棟梁」=「八幡神」

これ等の経緯を念頭に次ぎの検証をお読みください。これ等の上記内容をデータで下記に論処します。

その八幡社の分布域を次ぎの7つに分けて観て見ます。
但し、これらは神明社と同じく室町中期までのものとして選別したものです。

八幡社の分布順位(地域分布)
1 関東域      7県−94−26.5%(全体比)−平均13/県  清和源氏勢力圏域
2 九州域      8県−70−19.8%(全体比)−平均 9/県  未勘氏族の圏域
3 関西域      6県−52−14.7%(全体比)−平均 7/県  源氏の出自元の圏域
4 中部域      8県−52−14.4%(全体比)−平均 7/県  清和源氏・秀郷一門圏域
5 東北北陸域   8県−38−10.7%(全体比)−平均 5/県  反河内源氏の圏域
6 中国域      5県−24− 7.9%(全体比)−平均 5/県  源氏空白域・讃岐藤氏の圏域
7 四国域      4県−21− 5.9%(全体比)−平均 5/県  讃岐藤氏の圏域・源氏空白域

「1の関東域」
・「1の関東域」の八幡社が最も多いのは、源頼信が平安期末期に信濃−伊豆を拠点に「京平氏」の平族が勢力を張っていた関東にその勢力圏を拡げた事が原因しています。
故に京平氏の平族との争いが上記の「源経基」から起ったのですが、だから他の域と比べて一番多い事に成ります。当然にこの事に依って「特別賜姓族」の「秀郷流青木氏」との摩擦も起る事が考えられますが、「分布の内容」から観てこの領域はある程度の「墨分け」をしていてた模様です。
その「墨分け」は次ぎの様に成っています。、
特に「武蔵、下野」域、次ぎに「上野、常陸」域、多い所で「神奈川、下総」域、「甲斐、駿河」域
と成っています。
これは一見すると、「秀郷一門の圏域の強い地域の強弱」、逆に云えば「清和源氏の頼信系の所縁の地域の大小」に依って分布している傾向を持っている様に観えます。
ところがむしろ「秀郷圏」−「頼信圏」の「圏域の分布」と云うよりは、その「圏域の境」が重複している処を観ると、これは「神明社+春日社」−「八幡社」の「社領域の分布」であろうと考えるのが妥当と観られます。
そもそも神社を考察する場合は、「圏域」のみならず「荘園と社領」の関係を考える必要が有ります。
この平安期から室町期には「荘園制の影響」を大きく受けて「社領」が大きく認められていてこの影響を見逃す訳には行きません。
どちらかと云うと、その「社領」を保護する土豪の「未勘氏族」か「氏子衆団」に依ってその圏域は守られていた時代です。
つまり、「荘園−本所−未勘氏族−「神社」−社領」の緊密な相互関係を保持していてこれをばらばらにして無視して論じる事は出来ないのです。中でも「神明社」と「八幡社」に限っては「皇祖神」に結び付く「祖先神の神社」であり、他社と異なり「荘園の名義主」(本所・本領・領家)とも結び付く「社会構造」であったのです。
当初は「荘園の名義主」と成った源氏は幾つかの荘園を固めその一つの大きい領域は1国から2国になる程の大きさを持ち、その圏域の領域に幾つかの「八幡社」を建立して「圏域の誇示」を図ったのです。
その「八幡社」に広大な社領を与えて「未勘氏族」に護らせたのです。

(本論末尾のデータに記載してる様に「熊野古道」の世界遺産の「熊野神社」は和歌山県の殆どの主な領域を社領[海南市から熊野市]としていた事でも判ります。研究室の「鈴木氏と青木氏の関係論文」でも記載)

しかし、「実質荘園主」の「未勘氏族の勃興」に左右され、その後は「未勘氏族」の大小の「氏子衆団」に取って代わったものまで生まれたのです。
この「社領」が縮小される江戸期から禁止される明治初期の「寺社領上知令」までは大きな力を持っていたのです。
先ずその経緯は、平安期は主に「清和源氏の力」に依って建立され、末期以降頃は「荘園制」を利用して「未勘氏族」に「源氏の圏域」を誇示させ、そこを「戦略拠点」を主眼としてそれを護る為にも「八幡社」を建立させたのでは無いかと考えられます。
そこで関東域の「94の八幡社」を分類すると、これを「家紋分析」や「神紋分析」や「未勘士族の家紋分類」や「氏子集団の神紋系家紋」から総合的に分析すると次ぎの様に成ります。
先ず「家紋分析」から観ると、平安中期から「源義家」が天皇から疎んじられた時期までの平安末期直前までは「源氏力」に依って建立され、源氏衰退と滅亡の後の鎌倉期以降はこの力の持った「未勘氏族と氏子衆団」に依って建立が進められて行った事が良く判ります。

(源義家の主な朝廷の処罰:「義家に対して関係族と兵の入京禁止令」「義家への土地の全面寄進禁止」等 殆ど身動きが取れない令で10年間押さえ込まれるが、その後、「院政の横槍」で一時許されるが「同族争い」を仕向けられ衰退する)

「未勘氏族」と「氏子衆団」の形態は、当初は「実質荘園主」の「未勘氏族」で建立されたと観られ、時代が下克上・戦国時代の室町期に入ると互いに「未勘氏族」の潰しあいが起こり細分化した結果、大小の生き残りの「未勘氏族」や土豪達の「氏子衆団」がこれを護ると云う形に変化して行きました。

(参考 名義荘園主(本所・本領・領家):源氏などの名家に名義を借りて「開拓荘園主」に成ってもらい名義料を支払い見返りに名家の名籍を名乗る事を許され武士団を形成する方式でその基と成る名義上の荘園所有者と成って保護する。実質荘園主(庄司):実際に開拓した土地の豪族で名義を借りてその名籍の氏を名乗る事を許された武士団であり、これを「名籍族」と分けて「未勘氏族」(庄司等)と呼ばれる。「氏子衆団」:これ等の「未勘氏族」が戦国に依って細分化して、その結果、再編成が起こりその荘園内に建立された各社の「氏子衆」の集団が集まり「氏子衆団」を形成して「社領の圏域」と「身の安全」を護った。室町期末期では「未勘氏族」が「氏子衆団」と「戦国豪族」との入れ替えが起こった。)

「圏域の分布」<「社領の分布」⇒「荘園制」
「名義荘園主」⇒「未勘氏族」⇒「氏子衆団」
「平安期−源氏建立」⇒「鎌倉期−未勘氏族」⇒「室町期−氏子衆団」

これ等(分布域や建立者)の事は「未勘氏族の家紋」や「八幡社の神紋」に依ってその変化が良く判ります。「八幡社」神紋は「皇族賜姓族」である為には本来は「笹竜胆紋」と成りますが、源氏自ら建立したとなれば「神紋」は「笹竜胆紋」ですが、そもそもその「神紋」とは必ずしも「寺の紋」では無く主に建立した氏(氏上)の家紋を「神紋」とする傾向がある為に、その「家紋・神紋」の出自分析をすれば「分布域・土地柄・変化・経緯」が判別できるのです。
「家紋・神紋の分析」から観ると、先ず検証できる事は秀郷一門(春日社・神明社)と大きな争いに成らない様にその建立地域は分布していて見事であります。恐らくは秀郷一門との関係もありますが、殆どは”「未勘氏族」が建立して管理していた事から併設を避けた事によるものと考えられ、この傾向はその「神紋」が具に物語ります。「笹竜胆紋の神紋」は極めて稀であります。
ところが、この判別で解釈の判断が付き難い地域があるのですが、秀郷圏の中に居る「土豪」つまりは「未勘氏族・氏子衆団・武蔵7党等」の土地柄であって、秀郷一門としても血縁関係等もありなかなか文句を付けるところまでには成らなかった事が観えて来ます。
(秀郷一門の中ではこれ等との問題の関係調整役は主に進藤氏の役目柄である)
次ぎに「笹竜胆紋」を神紋としているのは平安期のものだけで室町期には無い事ですが、中には疑問のものもあり鎌倉期と室町期の建立で有りながら「笹竜胆紋」を神紋としている「八幡社」があります。
「地理的な条件」」から観て荘園制に絡む「未勘氏族」による建立である事は確実であるのですが、果たして神紋を正当に使用しているかは疑問で、江戸期の神社間の競争激化で搾取変更したのではないかと考えられます。
そもそも関東域の秀郷一門の圏域の中では故意に変更する事はいくら名義を借りているとしても「未勘氏族」でも不可能であった筈です。
「源氏自力建立」(未勘氏に命じた社も含む)と見なされる神紋を含む「笹竜胆紋」の「八幡社」は全体の3割弱程度で頼信系源氏が根拠地としていた「武蔵の北東一部」と「甲斐や駿河」や「神奈川西域」と「下総の一部」(神紋の疑問社は除く)に限定して観られます。

もとよりこの様な背景と経緯の中で、この秀郷一門は元来の彼等の「人生訓」に対して観ても、この事柄に於いても「柔軟性を保有する氏」で有った様で、彼等の圏域の中でも「弓矢の神」の「八幡社」に対して頑なに拒んだ姿勢を示さなかった模様です。
当然に「弓矢」と成れば秀郷一門の「護衛軍団の青木氏」(武家)との摩擦とも成りますし、一方では「特別賜姓族」としての「神明社建立の責務」をも負っているのですから少なくとも放置出来るレベルではない筈で利害関係は有った筈です。
多くの一門との軋轢も生まれていた事が覗えます。しかも、最も多い94もの「八幡社」をも建立しているのです。下記のデータがそれを物語ります。

総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
2.7倍    4.6     1.8

関東域は「八幡社94+神明社115」=209   

関東全域 八幡社 7県− 94−26.5%(全体比)−平均13/県
関東全域 神明社 7県−115−20.3%(全体比)−平均16/県 本家域

八幡社 東京29 千葉23 栃木11 神奈川12 埼玉9 茨城7 群馬3
神明社 東京30 千葉22 栃木14 神奈川11 埼玉15 茨城9 群馬14
 
その勢いとしては、「神明社」は115社−20.3%(全国比)です。「八幡社」も「神明社」共に最高値です。この数字から観ても拒まなかった事や受け入れに柔軟であった事が証明出来ます。
これは圏域内をうまく収める為に一門とも多少の血縁性のある「未勘氏族」と「進藤氏」と「青木氏」との充分な調整が取れていたと考えられます。

(進藤氏は未勘氏族に限らず細部の土豪の領域まで何らかの血縁性を張り巡らしていた事が進藤氏の系譜添書に詳細に出ています。それが原因してか自らの跡目は連続して一門からの養子跡目と成っているのです。それだけ与えられた一門の「氏としての調整役」の役目を全うした事を物語ります。その添書の中に書かれている血縁氏と姓の地理的な分布を観ると、「坂東八平氏」や「武蔵7党」や「関東屋形族]等の大小の土豪集団等との関係を持っていて「関東域」にかなり集中していますが、北の陸奥から西の近江までに及んでいます。これほどの事は他の主要5氏一門の中には見られないのです。このデータの八幡社の所以は進藤氏の功績に依って成されたものです。これが秀郷一門の長く生き残れた基盤に成っていたと考えられます。その役目の為に自らの氏は可也綻びの多い系譜と成っているのが「氏の定め」の物悲しさを誘う。対比して上記の八幡社に代表される「河内源氏の生き様」は同じ賜姓族の青木氏から観ると賛成できないのです。故に敢えてここに進藤氏の生き様を記す。)

この”柔軟さと云うか戦略的と云うか”のこの秀郷一門の「生き様」が「生き残り」を果した要因にも成っているのですが、平安末期に鎌倉幕府が興り秀郷一門は失職しながらも室町期には勢力を盛り返し関東一円の大豪族と成り得ているのです。
この根幹を見失わずに”柔軟さと云うか戦略的と云うか”の生き様があっての事であります。このデータが河内源氏の八幡社に対比してこれを顕著に表しています。
因みにその勢いとしては、八幡社の94に付いては、平均13/県と云う事は郡には2社/郡の割合で建立している事になります。
上記した印象からすると、「弓矢の神・八幡社」としては郡に1社有り無しの程度とも思えますが多く建てている方です。
「弓矢の神・八幡社」は「弓矢の神」である限りは”多くて良い”と言う訳ではありません。これは取り敢えず”「墨分け」はしている”と云っても普通の感覚では秀郷一門側としては無視出来ない数の建立と成ります。
当然にこれに対して、「神明社」115で平均16/県で郡では3/郡の割合と成ると郡に5社とも成れば1社/村となり、ここに「八幡社」と「春日社」が加わるのですから3〜4社/村に成ります。

これでは村のいたる所に神社があった事に成ります。「八幡社/神明社」の信者獲得合戦も起こり得る数字と成りますが、この数字は信心とは別に当然に上記した「戦略的意味合い」が色濃く出ていた事が挙げられます。
平安期では2〜1/社と成り妥当とも思える状況であったと観られ、この傾向は鎌倉期から室町期に掛けて「戦乱の世」に成るに連れて「未勘氏族・氏子衆団」に依って建立されて次第に増えて行った事に成ります。

「生活の神」「物造りの神」の「神明社」はいざ知らず「民」に取っては「弓矢の神」の「八幡社」は直接は無縁であります。
この事が、”「八幡社/神明社」の争い事を避けられていた”と考えられ「神明社」に匹敵する「八幡社」が建てられた事に成ります。
平安期末期から室町期中期に掛けては「八幡社」は「民」に取っては「弓矢の神」としてだけでは無く、関東域に於いては「清和源氏の勢力拡大圏」である事から、特別に「神明社」の「祖先神」としての「補助的な信仰対象」と成り得ていた可能性があります。
”それは何故なのか”の疑問ですが、特に前段で論じた”「民の農兵制度」が「補助的な信仰対象」と成り得ていた”と考えられます。
平安期末期に於いては「末端兵」は「農兵制度」に依って調達され一つの「徴兵の慣習システム」と成っていたのですから、「八幡社の建立」は「源氏力」(総合的な意)に依って成され、「民」に取っても充分に「補助的な信仰対象」と成り得ていたと考えられます。
しかし、鎌倉期に入り「立役者の源氏」が滅亡しながらも、「武家の世」と成り皮肉にも「武家」の「平家や源氏」が全て衰退し「未勘氏族・氏子衆団」を除く「八幡社建立」の主は無くなった事に成ります。
又、民の「農兵制度」も「武家」の世と成った事から「農兵」が「兵」として身を興す傾向が生まれます。
そしてそれは遂には「下克上」のところまでこれまた到達する変化を起したのですから、「補助的な信仰対象」は「2分化」して行く事に成ります。

「八幡社」は次ぎの様な2分化を起こします。
1 「平安期中期から末期の変化」
「高位の武家」の「守護神・弓矢の神」 →「源氏の力」

2 「鎌倉期以降の変化」
「武家」の「弓矢の神」(侍としての守護神) →「未勘氏族の力」
「農兵と兵」の「弓矢の神」(戦いから「身の安全を護る神」) →「氏子衆団の力」

以上の2分化を起したのです。

平安期の「建立の目的」と鎌倉期−室町期の「建立の目的」とは異なり、前者は「源氏族」が、後者は「未勘氏族」が主体と成って建立していった事に成ります。
関東域ではこの二つの「2分化の胎動」が起ったのです。
確定は困難ですが、関東の94の「八幡社」の内、初期の大半は「清和源氏の建立」(河内源氏)と見なされます。未だ「未勘氏族」が建立を充分に成す力と環境は、勃興する氏の家紋分析から観て充分に無かったと観られ、その力のある「未勘氏族」は数は多くなかったのです
主に鎌倉期以降に世の乱れ行く状況に沿って「未勘氏族」が台頭し依って建立(神明社合祀・守護神替え)が進み、再び「農兵制度」が更に活発に成り故に円滑に受け入れられたのです。
特に秀郷一門の勢力圏の関東に於いては”顕著に成り得ていた”と云う事が云えます。
それは各地に「青木村」を形成しての環境下です。つまり「青木氏-進藤氏」の調整下でその「受け入れ状態」が「4つの青木氏」の「共存共生」の「生き様」の土壌がこのデータの状態94を成し得たのです。

「青木氏-進藤氏の調整」+「受け入れ状態の環境下」→「八幡社94の建立]
豊臣秀吉がこの「農兵制度」を禁止するまでは充分にこの環境下にあったと考えられます。

(「農兵制度」に付いて  「武家」とは「公家」に対しての身分呼称で、江戸期の「武家」の総称とは異なる。平安期は「武士」(侍)と「兵」の身分階級があった。
「武士」は「組織の上下」を持つが、「兵」は「職能集団」で「組織の上下」の関係を持たない。
鎌倉期以降はこれが無くなった。 関東域は平安期は藤原秀郷と清和源氏頼信系の勢力圏域で、「たいら族」は後退し美濃域に引き下がる 前論記述)

「2の九州域」
・「2の九州域」は「基八幡社の発祥地」でもあり北九州が殆どで、福岡の総社宇佐八幡社の圏域から分社が拡がったので多く成っているのです。この地域は「民族氏」の「産土神」の地域柄でそもそも「神明社」の少ないところでもありますが、「3国地域」の「神明社」が「一社分布」と成っていますのでその争い(産土神と祖先神)は無かったと観られます。
ただ源義家は筑前に赴任していますので「八幡太郎」の呼称もありますが、この筑前(福岡)の数字を観ても全体の6割近い八幡社が建立されています。明らかにこの影響を受けての事でありますが、この地域は関東域のこの時代の影響を全て受けた複雑な「経緯と背景」と異なり比較的簡単な「経緯と背景」を持っている事が判ります。
先ずは何と云っても大蔵氏等の絶対的な「民族氏の圏域」であり、前段で論じて来た様に一言で云えば「遠い朝廷」「錦の御旗」「太宰府」の真にその地域です。
丁度、有名な大蔵氏の「春實」から「種材−種輔」まで著しい勢力拡大を九州域に図った丁度その時期でもあります。
この場所、この時期、この氏、の所に「源氏自力」による「八幡社の建立」は難しい筈です。その中に70もの八幡社は何故かの疑問であります。そして、この時期に問題の人物の八幡太郎源の義家が筑前に赴任しているのです。何か匂うものがあります。
九州域は、”「関東域の藤原秀郷の氏」と「清和源氏」の掛け合い”があった様に、同じく”「大蔵氏」と「清和源氏」のこの二つの氏の掛け合い”に成ります。この面では極めて類似しています。
更に、藤原氏の「春日社の氏神」があったと同じくここには「宗像神社」や「阿蘇神社」等の「氏子衆団」の豪族がひしめく地域でもあります。藤原秀郷一門主要5氏が鎌倉期以降にやや遅れて大蔵氏と血縁して勢力拡大をして九州に食い込んで来た時期でもあります。
ただ違う点は下記の通りで「神明社の数」が絶対的に異なる事です。(詳細は下記の神明社で論じる)
それは「関東域の経緯と背景」から観て「八幡社に関わる事件性」や「源氏に対する事件性」がここにも存在し、且つ、この地域は奈良期の早い時期からの「神明社の神域」(詳細下記)であった事が挙げられます。
1と2の地域を比較して観ると次の様に成ります。

2の九州域は「八幡社70+神明社13」=83

総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
1.1倍    0.5     1.3

関東全域 八幡社 7県− 94−26.5%(全体比)−平均13/県
関東全域 神明社 7県−115−20.3%(全体比)−平均16/県 本家域

九州全域 八幡社 8県− 70−19.8%(全体比)−平均 9/県 沖縄含み
九州全域 神明社 7県− 13− 0.2%(全体比)−平均 2/県 西海道

八幡社 福岡39 鹿児島9 大分7 宮崎6 長崎3 熊本3 佐賀2 沖縄1
神明社 福岡9  鹿児島3 大分1 宮崎4 長崎3 熊本1 佐賀1 沖縄1
  
九州域の源氏中でも清和源氏のそのものの勢力がこの地域に大きく及んだ事は「義家と足利氏」の巻き返しの基盤地域と成った地域でありますし、返して云えばその基盤は「荘園制の名義主(本領)」の土地柄でもあります。つまり清和源氏の「未勘氏族」の地域でもあります。
この「未勘氏族」の数を示すデータでもあります。
1番目の関東域は「清和源氏の数」であります。
2番目の九州域は「未勘氏族の数」と成ります。
これは「清和源氏」は西に大きく「荘園名義主」を伸ばした事を示していて、当然に「未勘氏族」の多い事に成ります。関東の足利氏が南北朝の時に一度北九州に敗退して退きますが、この時の「未勘氏族」の勢力に依って勢力を持ち返し再び勝利して幕府を開きます。
この事からも「未勘氏族」の地域である事は理解できます。
筆者はこの地域の「未勘氏族」が”後の「義家の偶像」を作り上げた”と判断していて、上記した様に彼等の守護神の「八幡社」を少し後に「義家の八幡社」と装具立てたのでは無いかと観て居ます。
清和源氏の足利氏が返り咲く根拠もこの「義家の八幡社」の下に「未勘氏族」を参集させたと観ています。兵騎を参集させるには呼びかけだけでは兵騎は集まらない訳で何かの「共通する旗」の下に参集するのはこの「世の常道」であり「戦いの基本戦術」であります。
従って”清和源氏そのものが建立した”と云うよりは「清和源氏の未勘氏族」が自らの集団の纏まりを「八幡社」に求め、その「八幡社」を「各未勘氏族の圏域」に建立して行ったと考えられます。
ここが関東域と違う所ではないかと考えられます。
この風潮が源氏の中でも最大勢力を誇った清和源氏の「分家頼信系義家一門」の「守護神」と思われて行った原因であると考えられます。むしろ”思わせて行った”と考えるべきです。
「源氏の棟梁・武家の棟梁」と持て囃された風潮の所以の一物です。
対比して「神明社」がこの地域に極めて少ないのもこの大きな風潮の中に入り込めなかった原因であろう事が判ります。
何はともあれこの地は「八幡社」にしても「基八幡社」の北九州宇佐神宮大社の地域、「神明社」にしても日向の「天岩戸神社・高千穂神社」の基社であり何れも「総社」であります。
この事から日向が神明社の基社でありながらも建立は殆ど無いわけであり、「八幡社の総社」であるから建立は多いと云う訳だけではない事が判ります。
それを立て様とした必要とした者の数である事に成ります。
つまりその立場に居たのが「未勘氏族」であります。
しかしながらこの九州行きに於いて「総社」である「神明社」は風潮にならず、総社の「八幡社」が風潮に成った如何は、その違いは”「八幡社」と「神明社」の「未勘氏族」の有無の違い”にあったからです。
言い換えれば「未勘氏族」を造らなかった賜姓族と、「未勘氏族」を造った賜姓族の違いであり、皇族としての「立場とその役目」を護ったかどうかの違いであり、「旗頭」に成ったかどうかの違いであり、究極は氏の「生き様」の如何に拠ります。
このデータはこの事を顕著に証明しているデータであると観ているのです。
その意味でこの九州域は八幡社の「持つ意味」や「全容」や「有り様」を示す地域なのです。

「3の関西域」
・「3の関西域」は11代の源氏の「出自元の集積する地域」でありますが、「神明社」との建立地の混合はありません。”「天皇家の神域」を「弓矢の神」を主神としている為に避けた”とも考えられ、「神明社−八幡社」の争いを避けたとも考えられます。「同族としての争い」を避ける事を一応は配慮していたと考えられます。もしこの争いが起る事も考えられますが、最悪の信義は護った事を意味します。
そもそもこの地域は860年の「石清水八幡社」の関係八幡社が殆どで比較的古い建立と成っていますので、その「八幡社の存在意義の有様」を検証するのに重要な地域です。
下記のデーターでも判る様に思いの外少ない事が判ります。
関西域の京都の「石清水八幡社」が九州の宇佐の「宇佐八幡社」より格上であるとする説もあり、八幡社には三大八幡社のもう一つの「鶴岡八幡社」がありますが、「鶴岡八幡社」は時代性と建立の由来から別にして内容を精査するとどうも「2局の系統」に八幡社は判別されると考えられます。
それは上記した「宇佐八幡社」を中心とする「未勘氏族の八幡社」系列と、「石清水八幡社」の「河内源氏一門の八幡社」系列とに分類出来るのです。だからこの「二つの八幡社の格上論」が出てくるのです。
確かに時代性から云って宇佐八幡社が僅かに先であり、それを都の京に分霊して天皇家が祭祀しやすくした事は経緯は否めません。
「清和天皇が「石清水八幡社」を建立したのを慌てて宇佐の八幡社は「ヤハタ神社」から「宇佐八幡宮」と名称を変更したのもこの「系統の本筋」を争っていたからで、宇佐は朝廷が飛鳥からわざわざ赴任させた「神職官僚の大神氏」と後に引き継いだ「土豪の宇佐氏」の氏神的扱いの「ヤハタ神社」で、一方は「石清水八幡社(ハチマンシャ)」は「天皇家の国家鎮魂の祭神」と定められ、その八幡社から下記に示す「関西域の分霊社」が天皇家に依って増設されて行った為に系統の本筋が関西域となる経緯は当然の事であります。
この事が後に「国家鎮魂」から「弓矢の神」へと、「天皇家の守護神」であったものが「河内源氏の守護神」と観られる様に、或いは利用される様に成っていた起点に成るのです。
そしてその経緯の副産物が「鶴岡八幡宮」であり、鎌倉期以降の「未勘氏族」と云うよりは「武士の神」(武神)としての守護神の八幡社とはっきりと変化して行った象徴の八幡社と考えられるのです。

この3大八幡社は次ぎの変化を起こします。
「石清水八幡社」→「国家鎮魂の八幡社」→「天皇家の守護神」⇒「河内源氏の守護神」・「弓矢の守護神」

「宇佐八幡社」→「氏神の八幡社」→「未勘氏族の守護神」⇒「九州武士の守護神」・「「弓矢の守護神」

「鶴岡八幡社」→「弓矢の八幡社」→「河内源氏の守護神」⇒「関東武士の守護神」」・「弓矢の守護神」

(注:「氏神」は下記に定義する枝葉の広い関係族の氏姓の護り本尊の意味)

源氏滅亡の鎌倉期直前からこの3つの八幡社の系列は「未勘氏族の弓矢の八幡社」で結びついて行くのです。(地域に依っては「弓矢の八幡社」→「家内安全の守護神」と変化を遂げます。)

この関西域の八幡社は「石清水八幡社系列」である事は勿論ですが、「河内源氏」と関わっている事から「弓矢の八幡社」と考えられがちですが、実は上記で論じた様に歴史的に860年を起点に祭祀されていますので、「八幡社の本来の初期の守護神の形(存在意義)」が判るのです。
「神明社」の「豊受・五穀豊穣」(生活の神・物造りの神)の守護神」であった様に、当初は「八幡社」はそれは「国家鎮魂の守護神」であったのです。
それが時代背景から八幡社は変化して行った事なのです。
「国家鎮魂」は、飛鳥の「ヤマト王権」の日本の国を始めて一応の「5族連合」の「統一政権」を造ったのは「応仁大王」で、「天皇制」から観ては初代の「国家生誕の統一国家の王」を天皇として定めそれを祭祀する社である事から「国家鎮魂の守護神」と崇められたのです。
平安期に京に都を置く事により「石清水八幡社」は「国家鎮魂の守護神」として累代の天皇から天皇家が祭祀する守護神として扱われてきたのです。

3の関西域  「八幡社52+神明社25」=77

 総合倍率   神明社倍率  八幡社倍率
基準 1-77  基準 1-25  基準 1-52

この地域の「八幡社」と「神明社」のを比較してみると次ぎの様に成ります。
関西域  八幡社  7県−52−14.7%(全体比)−平均7/県    源氏の出自元の集積圏域
関西域  神明社  7県−25− 4.4%(全体比)−平均4/県

この「八幡社の数」は1或いは2の地域と異なり「未勘氏族」ではなく真に「源氏の力」(主に河内源氏)による建立と観られ、その「源氏の定住地」に建立されている事であり、「戦略的要素」のある「八幡社建立地」は少ない事が挙げられ比較的に平地に建立されているものが多いのです。
しかし、上記した11代の源氏が各自建立したと云うよりは次ぎの県別で観ると殆どは清和源氏の「摂津地域」、「河内地域」、「大和地域」、に主に建立されているのです。

八幡社  兵庫24 大阪11 和歌山8 京都4 奈良2 滋賀2 三重1
神明社  兵庫11 大阪1  和歌山2 京都2 奈良1 滋賀3 三重5
(大和は和歌山と奈良に跨る地域)

この事から観ると清和源氏外の源氏10家は「弓矢の八幡社」に深く関わっていなかった事がこれでも判ります。「武家」であっても弓矢に直接関わらない「武家貴族」であった事が伺えます。
10代の源氏の「武家貴族」はそもそも「皇祖神」に繋がる「祖先神−神明社」であって「武家貴族」である事から積極的に「弓矢の八幡社」の方に帰依し変更する根拠は無い筈です。

しかし滋賀2は佐々木氏系宇多源氏 三重1は北畠氏系村上源氏、京都4は「石清水八幡宮」に代表する様に上記した背景から一門に依って源平期に「義家系の一門」に依ってその勢力誇示から建立されたものと観られます。(近江には賜姓佐々木氏がある)
そうすると京都4と滋賀2の数は、次ぎの様な事を物語っています。
上記した八幡社の定義として、”「源氏義家系の未勘氏族の守護神の八幡社」”であって、必ずしも”源氏そのものの「守護神」であると云う定義ではない”と云う事です。
結果、「未勘氏族」が遺した「八幡社の氏資料」で、後に”「源氏の守護神」と決め付けられてしまった”、又は”勢力保持の為にも決め付けられる事を一門は期待し利用した”と云う経緯”とすると、上記した様に此処でも矢張り次ぎの関係式が成り立ちます。

「八幡社」=「源氏頼信系義家一門の守護神」=「未勘氏族の守護神」=「武家の棟梁」=「八幡神」

この京都4・滋賀2には主な「未勘氏族」が存在しない事から「義家一門」が建立して”利用した”を物語る数字です。但し、自分の意思で建立したかは検証を要する事と成ります。
そこで、先ず歴史的に観て、殆どが「清和天皇」が860年に建立したとされる「石清水八幡社」の関連社(離宮八幡社等)の由来のある八幡社ある事です。
中でも、「河内源氏」の問題の「源頼義」が「後冷泉天皇」(1045-1068)からの勅命にて「石清水八幡社」からの霊験を自邸に移して建立したとされる「若宮八幡社」があり、又、同じくこれを河内に勧請した「壺井八幡社」があります。
この記録の通りこの頃(860年〜1000年-1045)は未だ「天皇の勅命」による建立であって、その目的は何れも「国家鎮魂の為」とする記録がありその「存在意義」であって、それを勅命により「河内源氏」が積極的に建立した事がこの「京都4と滋賀2の八幡社」である事が判明するのです。
実は諸々の資料から1010−1050年の間の50年程度には、「天皇家の勅命」とは別に社会にはこの経緯から如何にも「河内源氏の守護神」であるかの様な漸次の風評期間があった事が確認できるのです。
結局は、1000年直後までは「弓矢の神の八幡社」では無く「国家鎮魂」の「天皇家の祭祀神」として存在していたのです。
それまでは「弓矢の神」の存在意義は全く無く、その後の上記した様に”この経緯を利用してこれを発展させた義家”の行為と見做されるのです。そして、それに大きく関わったのが河内源氏の「頼義-義家」であった事に成ります。
この「経緯と記録」からも明確で、「勅命」に依って建立された「石清水八幡社関連の八幡社」でそれを「清和源氏」(河内源氏)が「勅命」を受けてその守護地に建立したものが殆どなのです。

「摂津地域」と「大和地域」は「宗家頼光一門」と「分家頼親一門」が「勅命」で「国家鎮魂」の目的で建立したもので「氏の守護神」とした建立では無かった事がこの関西域の考察で良く判ります。

そうするとこの「八幡社の環境下」の中で果たして「神明社」がどの様な事に成っていたのか気に成ります。恐らく建立には何らかの関係があった事が考えられます。つまり直接八幡社として新規に建立したのかどうかの検証です。
「神明社」に付いて三重5は「皇祖神」の地元であり前記「19の神明社」を建立した経緯からこの数字は納得できるものですが、しかし、兵庫11は「近江青木氏」が建立したとするには問題があります。
何故ならばそれは”神明社を建立するには近江青木氏の経緯”に問題があるのです。
そもそも平安初期に「近江青木氏」は近江にて「近江佐々木氏」やその系列の「佐々木氏系青木氏」との同地域内での「勢力争い」のような事が起こり、その為それを避ける目的で近江青木氏は一時滋賀に移動していて、後に近江に戻ると云う経緯があるのです。その後、「摂津源氏」の保護の下に摂津に移動定住します。この背景があり「源平の戦い」で合力して潰され、その後、美濃に逃亡し同族の「美濃青木氏」と共に「富士川の激戦」で敗退して滅亡し一部末裔が攝津に逃げ延びた経緯を持っています。

この様に源氏と共に最も早く滅亡に近い衰退を起した事から、この兵庫11を興す勢力は無かったと考えられます。
これは「摂津源氏」の「清和源氏の宗家頼光系四家」により建立されたか、或いは「近江佐々木氏」かその「佐々木氏系青木氏」かが何らかの事由(勅命)で建立した可能性が高いのです。そしてその神社は「神明社」の可能性が高いのです。
現在ではその判別は、社遺が古すぎる事から「初期の創健者」が不明な神明社が多く困難なのですが、ただ「八幡社」としては共に頼光系宗家筋が建立していた事を示すデーターが6〜8の八幡社と成ります。
実はこれ等は記録があるもので観ると、極めて古く750〜1025年までのもので、「創建」と云うよりは「朝廷の命」により「管理・維持・建て直し」を命じられたものが多いのです。
その多くは「摂津源氏」の「荘園」、或いは「領地」の中に存在するものが多いのです。

前段で論じた大化改新の「19の神明社」と共に、
奈良期から平安初期に建立された[自然神の祭祀社屋」や、「産土神の祭祀社屋」や、日本書紀にも書かれている「風神雷神の祭祀社屋」を、平安期初期から平安中期には「神明社」に変換し、その後の平安末期から平安後期には更に神明社から「国家鎮魂の八幡社」に変換させる事の勅命がこの2つの氏の何れかに下されそれを護ったものと観られます。
これは時代背景が大きく左右したと考えられますが、記録が一部を除いて完全に消滅しているのです。
ただ古くて幾つかの遍歴を遂げている事が「断片的に遺されている社資料」などや「伝統行事の内容の検証」など「地域内の他の社殿」とその「社殿の配置関係」を対比考察すると判る範囲です。
この平安期には社殿の建立は全て中国から伝来した「方位学や陰陽学」等を使って建立されているのです。ある程度の条理を以って無秩序には建立されていないのです。それから観ると、「地域内の他の社殿」とその「社殿の配置関係」は重要な要素なのです。
記録が消失していると観られる他の社殿にはこの「方位学や陰陽学」の何がしかの関係がある事が伺えるのです。
そうすると、次ぎの遍歴がある事が判ります。
「祭祀社屋から神明社」に
「祭祀社屋から八幡社」に
「神明社から八幡社」に、
この「3つのパターン」がある事が判ります。
しかし、何がしかの条理があった歴史的な祭祀社屋からのもので、新規に「八幡社の建立」は室町期中期前には確認できません。
又,この「3つのパターン」がどの神社に当てはまるかは古くて資料記録が無く断定できる程に確認が取れません。
しかし、その証拠としてこの中には「地域内の他の社殿」として明らかにこの「経緯」を辿り「勅命」で修復や再建した事の記録が残されているのです。

因みに「八幡社」と成ったものとして「魚吹八幡社」、「宗佐厄神八幡社」、「多井畑八幡社」、「柏原八幡社」、「松原八幡社」、「波豆八幡社」等があり、これ等は上記の「勅命・条件・経緯」を持っている事が記録から出て来ます。(詳細は論外の為別途)
従って、他の八幡社も多くは古くありながらもその経歴が消滅しているものが多く、形式上は現在は「村社、県社」扱いに成っているのです。つまり「氏社」は全く確認出来ないのです。一般の「氏の守護神」では無かった事を意味します。記録が無いだけで「村社や県社扱い」に成っていると云う事です。

とすると、この関西域の「八幡社の兵庫24」と「神明社の兵庫11」は、少し違う事と成ります。
そもそもこれ等の「弓矢の八幡社」は「義家」後の「八幡社」である事から、この「八幡社の兵庫24」は主に当初は「神明社」として建立されていたのではないかと考えられます。
併せて「神明社35」であった可能性が考えられます。
その意味で「兵庫の八幡社」は、その後、朝廷はもとより「戦国の世」と成って行って「建立者」や「維持管理する氏」が滅亡していった事から、当時の幕府は時代の背景から一部「神明社」を「弓矢の八幡社」に変更して行ったと考えられます。
その根拠としているのは、「八幡社」の3大八幡宮の「宇佐八幡宮」、「石清水八幡宮」、「鶴岡八幡宮」と共に、これ等の35の社は「合祀−八幡神」の経緯の中で変更された可能性が充分あり、「関西域の八幡社」には他の地域には少ない「合祀」が多いのはこの傾向があった事を物語ります。
「合祀」に依って「生活の神」「物造りの神」と「弓矢の神」の2つが合祀される事で全ての民からの信仰を集める事が出来る事に成り、「建立主」と成っていた「清和源氏」の衰退滅亡後の寄進による神社経営を救ったと考えられます。
ここが「未勘氏族」が主体と成った建立地域ではなかった「特別な神社経営の事情」がこの地域にはあったのです。
そうなると、「源平合戦」の初戦「以仁王の乱」(1180年)の主謀者の「頼光系宗家4代目源三位頼政」までの期間の建立・再建と成ります。
「八幡社」としては「1050年頃」からとすると、「乱後の130年間」と「乱前の200年間」で「合計330年間の神明社の建立期間」と成り、「兵庫の神明社35社」は1社/10年とすると充分に建立は可能と成ります。

「大和源氏」の頼親系は兄の頼光に慕っていて同一歩調を採ったとされているので、大阪11、和歌山8、滋賀2の八幡社は神明社では無かった可能性が高く、52の内の21は八幡社で有った事に成ります。

依って、この関西域に於いての31(52−21)の「八幡社」は元は「神明社」であり、純粋な「神明社25」と併せて56/77は「八幡社1050年」を基準として基準前の「250年間の神明社」(嵯峨期809年 前期2)と「大化期から嵯峨期までの150年間の神明社」(前期1)の「400年間の神明社」−この2期間を「前期」とすると神明社は「前期25の建立」と成ります。

「150年間の神明社」(前期1)−「250年間の神明社」(前期2)-・「八幡社1050年」→「神明社-25」

・「八幡社1050年」−室町期中期までの400年間(後期)→「神明社−31」

「八幡社1000年」→「守護神」の風評開始  
「八幡社1050年」→「守護神」の風評定着→「弓矢神」の風評→「河内源氏」
「八幡社1090年」→「弓矢神」の風評開始
「八幡社1099年」→「弓矢神」の風評定着


そうすると「八幡社1050年」の基準後から室町期中期までの400年間を後期とすると、この後期は神明社は31/52に分けられる事に成ります。つまり純然とした「八幡社は21/52」と成ります。
関西域に於いては「八幡社は21」であり、清和源氏分家頼信系義家一門の「勅命」による「自前の建立」と成ります。
従って、「神明社」はこの地域では頼信系を除く「源氏」や「2つの青木氏」の「賜姓族」による「56の建立」(25+31)と成ります。
「神明社」はこの関西地域では全体の丁度1割を占める建立をした事に成ります。
この関西域の検証は時系列的に観ても上記の経緯を辿った事が充分に証明できます。

「4の中部域」
・「4の中部域」は関西域とは少し違った経緯を辿って言います。
この「4の中部域」は「賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」の重要拠点でありますが、ここは「清和源氏宗家」の「頼光系四家の国司代の圏域」でもあり、この宗家筋は「3つの発祥源」として”同歩調を採っていた事”や「濃い同族の血縁関係」がある為に「神明社−八幡社の競合」は起らなかった土地柄です。
むしろ”起らなかった”と云うよりは”起る事はなかった”と云った方か正しい事でしょう。

総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
3.5倍    8.5     1.3

この4の中部域の状況は次ぎの様に成っています。
4 中部域 八幡社 8県−52 −14.4%(全体比)−平均7/県
  中部域 神明社 8県−212−37.5%(全体比)−平均27/県

八幡社 愛知14 静岡12 岐阜12 富山5  福井3 山梨3  長野2  石川1
神明社 愛知33 静岡18 岐阜31 富山33 福井8 山梨72 長野15 石川2

この中部地域の「八幡社」と「神明社」のデータを比較すると、上記1、2、3の「3つの地域」とはその比率が完全に逆転しています。八幡社<神明社の状況です。その差も大きいのです。その大きい理由がこの中部域にあるのです。
この地域は先ず「皇族賜姓族」と「特別別賜姓族」の「2つの青木氏」の勢力圏であり、尚且つ秀郷一門の勢力圏であったのです。その中で全ての「頼光系四家の国司代の圏域」でもありました。
しかしながらこの地域の「八幡社の数」を観てみると左程に「源氏の勢力圏」では無かった事を物語ります。
更に云えば、前記した様に「頼光系四家」は「八幡族」では無かった事を述べてきましたが、清和源氏力が最も強かったところです。「八幡義家の祖」である「頼信」は兄の「頼光」からこの地域の勢力を借りて坂東に伸張していって伊豆に第2の拠点を設けて勢力を拡大した基拠点となったところです。
摂津を発祥拠点として「藤原道長」の四天王と呼ばれた程にその勢力を背景に中部地域に清和源氏の勢力拠点を築いていた所です。その守護職はこの圏域の11の地域を務めた地域でもあるのです。
しかし、その割には「八幡社の数」が少な過ぎます。
真に「源氏の勢力圏」ではなかったと観られる程度にそれを物語ります。
頼信系が「八幡族」として勢力を持ちえたと云えどもその勢力を遥かに凌ぐ清和源氏の宗家の「最大の拠点と成る地域」であります。此処なくして頼信系の関東の勢力圏は軍事戦略上、「摂津拠点」から関東の間の中間を抜かれた戦略形態と成り「伊豆拠点」と「関東拠点」は成立しません。
(伊豆は頼光系四家宗家の最大所領地 この東隣に頼信の伊豆前線拠点を設けた)
それ程の戦略上の最重要拠点地域でもあります。
”では果たしてこの「八幡社」は何なのか”と云う事に成ります。
この中部地域は「神明社」に於いて全体の4割に近い勢力を誇っており、県内平均27とすると郡内に5前後の「神明社」が存在し、村には1社必ず存在する地域と成ります。
そこに「八幡族」でない「八幡社」が郡に2社程度とすると2村に1社がある事に成りますので、この2つを合わせると1郡に7社で1村では2社程度の勢力圏と成ります。
ここに秀郷一門の春日社が建立されていますので1村で3社〜4社は必ずある事に成ります。
1村に3社〜4社の守護神がある事は、当時の人口が現在の1/4とすると守護神が過飽和状態に近い状況であった事を物語ります。とすると、この状況からそもそも「弓矢の八幡社」の「存在意義」は「村民」に採って意味を成さない筈です。
兎も角も、そもそもこの地域は、飛鳥から奈良時代に掛けて日本書紀にも書かれている様に、後漢の阿多倍王が率いてきた職能集団が入植した最大の地域なのです。
従って、「生活の神」「物造りの神」に対する「心の拠り所」としての「守護神の意義」は他の地域とは比べ物にならない程に高い意識があったのです。その様な環境の中に「弓矢の八幡社」が平安末期に入り込む余地は少なかった筈で、あったとしても「弓矢の意味」では無かった事を意味します。
その証拠にこの地域は「神明社」が全国比4割を占めている環境なのです。
民は「生活の神」「物造りの神」の意識が特別強かった事からこの「日本一の数字」を示しているのです。

そこで「上記の環境下」ではこの212の4割は少ないと考えられ、5割程度前後の神明社が集中していなければならない筈です。(下記の「圏域の勢力数」の表から計算できる 計算では神明社47%が妥当)
この状況の中で、上記データでは「生活の神」「物造りの神」が主導し「弓矢の神」は1/4程度と極めて勢いは無かった事を証明しています。
では”この「八幡社」は一体何なのか”の疑問は、そうなると”八幡社であって八幡社でなかった”と云う事に成ります。”「八幡社」の形を整えていたが「八幡社」ではなかった”と云う事に成ります。
では、”どの様な「八幡社」なのか”と云う事に発展します。
この地域の「八幡社」は「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」と「頼光系源氏」と10源氏の内の「4つの源氏末裔」の勢力圏の中にあり、「弓矢の頼信系源氏」とその「未勘氏族」が「弓矢の神」としての「八幡社の守護神」を公然と建立する事は出来たかは大いに疑問で、論理的に不可能と考えられます。
従って、結論はこの地域の「八幡社」は”弓矢の特徴を下ろしていた”と云う事に成ります。
故に、この中部域の「八幡社」は、「弓矢の神の守護神」だけではなく、全体化していた環境の「生活の神」と「物造りの神」の「守護神」の中では、「中間の曖昧な機能」を果たしていたと考えられるのです。
つまり、「合祀」乃至は”「神明社化した八幡社」”であった筈です。
何故そうなったかは上記する環境下にあった事は勿論の事、それは多少は”「民の必然性」がそれを後押しした”と考えています。
つまり、平安末期以降(1023年以降 農奴と部曲の開放)に前段で論じて来た「民」とりわけ「農民の役割」にあったのです。それは”「農兵」が新たに出来上がって行った時代”であったのです。
それまでは、「戦いの担い手」には「2つの身分階級」があったのです。

それは「武家」の呼称と「兵」の呼称とに依って構成されていたのです。
「武家」を構成する「武士」は、組織化して上下の関係を保有した武装集団。
「兵」は上下関係を有さず組織化せず職能集団化した「武装兵団」
以上2つに分けられていたのです。

「源家勢力」は「武家」軍団側で「融合氏」集団で「未勘氏族」を従えた組織集団です。(祖先神)
一方は「平家勢力」は奈良期から阿多倍一門が率いてきた「兵の職能集団」(漢氏、東漢氏、物部氏等)を配下に従えた側で「たいら族」や「大蔵氏」等の「民族氏」集団であったのです。(「産土神」)
「源平」は外見から同じ様な「武装集団」と見られがちですが、実は前段でも論じてきました様にそもそもその「基盤構成」は異なっているのです。
然し、時代は次第に乱世へと突入し何時しか世は「下克上 戦国時代」へと突入して行くに従い、この「武士」と「兵」の「2つの集団」では間に合わなくなり「農兵」が生まれて来たのです。
この半職業化した「農兵」は「弓矢の場」に赴くに従い彼等の「心の拠り所」の「生活の神」と「物造りの神」の「日常の神」に、”「弓矢」から身を護ってもらえる「神明社」”を要求して行ったのです。

そこで、「神明社」は次ぎの何れかの守護神の形を採る様に成ったのです。
”「八幡社」を合祀する形を採る「八幡社」(合祀八幡社)”
”「神明社的な形を採る八幡社」(神明化八幡社)”
以上の形として変異させたかの何れかの守護神の形を採ったのです。

これがこの中部域の「37%程度を占める神明社」と「15%程度を占める八幡社」の実態なのです。

そこで地域8県を検証すると次ぎの様に成ります。
1 愛知14と静岡12は特別賜姓族の「専圏区域」、
2 岐阜12と長野2と山梨3は皇族賜姓族系列と頼光系源氏の「融合区域」、
3 福井3と富山5と石川1は4つの源氏末裔族と皇族賜姓族の「共存区域」
以上の様に中部域の小地域(県)に依っては「八幡社の分布」は「3つの区域」に分類出来るのです。

当然に、この特色の持った「3つの区域」の「八幡社」は上記する「合祀八幡社」か「神明化八幡社」の傾向が明確で全てとは云い難い所はあるが一つの傾向を示しているのです。
A 「1の専圏区域」−「合祀八幡社」      
B 「2の融合区域」−「神明化八幡社」
C 「3の共存区域」−「合祀八幡社+神明化八幡社」

Aは富士川の激戦地で「美濃賜姓青木氏と土岐氏系青木氏」、「近江源氏と近江賜姓青木氏」、「美濃源氏」、「駿河源氏」、「木曽源氏」等の「賜姓源氏」と「賜姓青木氏」が終結して敗退し滅びた区域でもあります。
この地域には「秀郷一門」と「特別賜姓青木氏」が残りその勢力は最大勢力を誇っていた場所である事から「神明社」を建立すると共に、秀郷一門の「春日社」も共存する柔軟な圏域でもあった事から「八幡社」をも公然と建立し、その運営を柔軟にする事から「生活の神」と「弓矢から護る神」のどちらかのご利益が働く「合祀」の形の「八幡社」が多く観られるのです。

Bは奈良期から平安中期(800年頃−桓武期)まで「賜姓青木氏」の守護地であった事と、その後に「清和源氏宗家頼光」が各地(11)の守護代、国司を務めた政治的、戦略的な重要な区域であったところです。
「3つの国」の「賜姓青木氏」と同族血縁して「清和源氏宗家」と、奈良期から居た「賜姓青木氏3家3流」が融合した区域であって、此処には「特別賜姓青木氏」も「秀郷一門」も強く勢力圏を保持しなかった中間区域でもある事から、「神明社化した八幡社」の融合の形を採っていた区域であります。
特に「弓矢」そのものより戦乱の世から「家族身内の身」を護ってもらえる「守護神」でもあり「生活の神」「物造りの神」の守護神でもある形を採っていたのです。
その後のこの「地域の形」が室町末期から江戸期には「八幡社」は「神明化八幡社」が共通の形と成って行ったのです。
「世の中の安定」と他の「守護神との競合激化」も合わさって一種の「総合神社」の様相を呈して行ったのです。

Cは他の賜姓源氏と嵯峨期の詔勅に基づく源氏族が「源平の争い」から逃避して定住した地域でもあり、「賜姓族青木氏」の「足利系青木氏」や「武田氏系青木氏」や「諏訪氏系青木氏」等が平安中期から室町中期にかけて「争い」から遠ざかる為や「戦い」により逃亡して来た地域の「移動定住地」でもあったのです。
この「移動賜姓族」と目される末裔は「融合」を起さず「自然衰退」や「断絶」や「滅亡」が起った地域でもあるのです。
中にはこの区域から鳥取米子から島根東へ移動した一部の「賜姓族青木氏」や「讃岐籐氏の青木氏」を頼って高知に移動する等の流れが起りました。又、北には更に越後の「秀郷流青木氏」を頼って逃げ延びている通過経路とも成っていたのです。
ここに定住した賜姓源氏の逃亡末裔や嵯峨期詔勅の皇族源氏が「地元の血縁性のある未勘氏族の力」も得て「神明化八幡社」か「合祀八幡社」を建立して生き残りを図ったと観られます。
実はこの地域の「神明社」や「八幡社」の神職には青木氏と佐々木氏が実に多いのです。
実はABCの判別にはこの「神職のルーツ」が判別要素の一つとして用いたのですが、この区域は特にこの傾向が顕著であったのです。
この「Cの区域」は他と異なる点は「地元の血縁性のある未勘氏族の力」を利用した形跡があり、恐らくはこの力を利用し切れなかった一部の青木氏や源氏の賜姓族が西と北に更に定住先を求めて移動して行ったと考えられます。

問題はこの「地元の血縁性のある未勘氏族の力」なのです。
1000以上もあると云うか数え切れないと云うか、この「未勘氏族」と観られる族を全国各地に振り分けて、これに家紋群で貼り付けそれを「賜姓源氏」と「皇族源氏」と其の他の本領と成った豪族毎に分けて行く作業を行い研究し考察すると、その全体の傾向が掴めてきます。
その内、清和源氏の占める割合は全体の8割弱を占めますが、この研究(何時か論文で発表)からこの「Cの区域」の「未勘氏族」を観ると、次ぎの様に分けられます。
「清和源氏外の源氏の未勘氏族」(A)
「賜姓青木氏族の未勘氏族」(B)
前段で論じた「2つの絆族」の「薄い外縁未勘氏族」(C)
或いは「家臣による青木氏未勘氏族」(D)
以上4つで占められているのです。

然し、これ等(A)(B)(C)(D)の「未勘氏族」は平安末期の源平の戦いと、室町期の「下克上と戦乱」で滅亡衰退して行き、或いは裏切り、結局はこの「Cの区域」に逃げ込んだ賜姓族は西と北に再び移動せざるを得なかった事が判ります。

この事からもこの区域の「八幡社」は殆ど”「合祀八幡社」”や”「神明化八幡社」”と云うよりは、”「八幡化神明社」”と最終は流動的で室町中期から室町末期には成ったと考えられるのです。
恐らくはこの区域での傾向として
賜姓源氏系は佐々木氏で「合祀八幡社」、
賜姓青木氏系は「神明化八幡社」
以上にとに判別できるのです。
それはこの神職青木氏が越後−陸奥にまで大きく血縁して全国的にも「神職青木氏」の多い所だからでそれを証明しているのです。
全体としてもこの傾向は観られるのですが、この「中部域の神職」は相互に重層な血縁関係を結んでいる事が上げられます。
この意味からもこの「中部域の八幡社」は全国最大の「神明社帯」とも云える神明社群の中で「合祀八幡社」と「神明化八幡社」の成行きは納得出来るものと成ります。
この事は前段でも論じた「青木氏の職能集団」との関わりも大きく影響していた事が云えます。
この事は下記の神明社の処でも論じる事に成る重要な事柄です。
(前段の論説には大きく関わる領域ですので想起して下さい)

結局は、このこの中部域は「神明社地域」と観ていて、元来は「神明社」と「八幡社」を合体合計した「264の神明社域」であったと考えています。
中部域の「神明社の数」が「神明社」と「八幡社」のこの合体合計264とすると、上記する「5割域の分布」の自説は「46.6%の計算値」と成り予測とほぼ一致して納得出来る論説に成ります。

この地域では「弓矢八幡社」系の「頼信系源氏」とその「未勘氏族」は全て平安末期の「源平の初戦」の「富士川の激戦」で滅亡衰退している事から「弓矢八幡社」の意味合いはそもそも著しく無く成っているのです。
前段で「平家織田氏の処域」で論じた様に、後に室町中期以降の勃興した武田氏が通説と成っている「頼信系源氏の河内源氏」の傍系を主張しているがその自説由来の経緯は疑問です。
つまり、「頼光系源氏」と「4つの賜姓源氏末裔」と「皇族賜姓青木氏3家3流の勢力」と、藤原秀郷一門の「第2の宗家」の「特別賜姓族の勢力圏」であった事が良く判ります。
依って、筆者は”264(212+52)が中部地域の神明社の実質の勢力である”と観ているのです。

鎌倉期から室町期中期には「源氏力」、又は「未勘氏族の力」がここまで及んでいなかった事が判り、「関東の戦略的前線」としての地域には「頼朝の源氏幕府」が元来より「浮き草」の上にあった事も良く判ります。
その意味で「美濃」での「源平の初戦」は大きな意味を持ち、「近江源氏」と「美濃源氏」と「駿河源氏」と「木曽源氏」等の周辺の源氏主力が此処に終結して、敗退して滅亡した事は大きな意味を持っています。
つまり「源平の勢力圏」の丁度、「間」に合ったことに成り、その「間」は同時に「神明社」の最大勢力圏であった為に平家側には富士川で大乱と成り、源平共に崩れて行った地域であったのです。
「八幡社の勢力」と「神明社の勢力」が合体して戦ったとしたら互角の勝負に成る事は良く判ります。
「八幡社族の源氏」と「其の他の源氏」と「3つの地域の神明族」がこの時に史実として参戦しているのです。その「八幡族」と引きずり込まれた「3つの神明族」は滅亡してしまったのです
それを証明するこれが「八幡社と神明社」の対比データです。
しかし、それにしても「神明社212」に対して「52の八幡社」は少ないのですが、「関西域の52」と同じ規模の「八幡社」をこの地域で有しているのです。
この「地域の規模」を「八幡社+神明社」の「数」をパラメータとするならば、「源氏11家」と「皇族賜姓族、特別賜姓族」の本拠地でもあった「関西域77」に対して、「中部域」は何と264と成り、「約4倍の勢力圏」であった事に成ります。
「都地域の約4倍」にも成る如何に大きな力を秀郷一門は持っていたかが判ります。

そこで「神明社と八幡社」を全体で観てみると、「関西域の77」(都域)を1として観て見ると次ぎの「勢力分布」を観る事が出来ます。
関西域は「神明社と八幡社」の「成立ちや有り様」が標準的な要素として存在していた事からそれを基準として全国のデータを観て観ると事は客観的な判断に成ります。

そうする事により「2つの青木氏」の「全ての姿」を物語る極めて重要な結果が出るのです。

圏域の勢力数                        総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
1の関東域は 「八幡社94+神明社115」=209    2.7倍   4.6    1.8
2の九州域は 「八幡社70+神明社13」=83      1.1倍   0.5    1.3
3の関西域は 「八幡社52+神明社25」=77       1      1      1
4の中部域は 「八幡社52+神明社212」=264    3.5倍   8.5    1.3
5の東北北陸域は「八幡社38+神明社97」=135   1.8倍   3.9    0.7
6の中国域は 「八幡社24+神明社9」=33       0.4倍   0.4    0.5
7の四国域は 「八幡社21+神明社10」=31      0.4倍   0.4    0.4

(この神明社の詳細分析は下記に論じる)
前段で論じて来た青木氏に関する内容の根拠はこのデーターを引用するところが大きいのです。
そして、この「最大の勢力圏」を誇る中部域は、更にはこれに留まらず東の後側に本拠地の「1の関東域」2.7倍を控えているのです。更には「5の東北北陸域」1.8倍を控えていて、都に比べて約合計8倍の如何に「絶大な勢力圏」を保持していたかが判ります。

「神明社」だけでその勢力圏を観た場合に、都に対して矢張り中部域に8から9倍の主力があり、その後ろに本拠地の4倍の勢力を控え、東北北陸域には4倍の勢力圏を保持していた事が判ります。
これは何を物語っているかという事ですが、この分布は「2つの青木氏」の「勢力分布」にも成り、青木氏の勢力外の「末裔分布」の状況・在様をも示している事に成ります。
この傾向は八幡社を加えた総合倍率から観ても全く同じ倍率分布を示しているのです。

次ぎの関係式が成り立ちます。
総合倍率≒神明社倍率=「青木氏の勢力分布」=「青木氏の末裔分布」

「神明社の勢力分布」は「青木氏の末裔分布」に完全に合致し、更にはその「青木氏の勢力分布」をも示し如何に正しい事かを意味します。

「八幡社倍率」から「八幡社」だけで観た場合に都に対して大きく差が無く、ほぼ均等に勢力圏を広げ、その力は「神明社」の力に対して25%(1/4以上)以下の差があった事に成ります。
「八幡社の分布力」は「頼信系清和源氏」の「勢力分布」であり「末裔分布」をも示しています。
それは九州域−(中国域)−関西域−中部域−関東域が1〜2の中に在りここに「清和源氏頼光系四家」の勢力圏が入っていない事が判ります。八幡社を守護神にはしていなかつた事を証明しています。
仮に入っていたとすればその勢力圏であった基圏域の関西域の1とする「基数字77」は高くなり最大の勢力圏域の中部域はもっと1.3から1以下に低くなる筈ですし、北陸域も一部勢力圏であった為に0.7より0.4程度にそもそも成っている筈ですがそうでは無く、「義家の歴史の行動史実」と数字は一致します。
つまり「清和源氏頼光系四家」は「八幡社」を守護神にしていなかった事を示します。
その分「神明社倍率」の数字は「賜姓族と特別賜姓族」の「2つの青木氏」の成す倍率以上のものがあるのは「清和源氏頼光系四家」の神明社の分が組み込まれているからです。
これは次ぎに論じる「神明社の処」の論処で更に詳しく物語ります。

「頼信系清和源氏源氏」とその「未勘氏族」の勢力と、「2つの青木氏」と「他の源氏力」の勢力には4倍の差があった事を物語ります。

「頼信系清和源氏源氏力」+「未勘氏族の勢力」<「2つの青木氏力」+「他の源氏力」=1<4
「八幡社」<「神明社」

しかし、この神明社の勢力には弱点が在った事を示しています。
中国と四国と九州域(0.4〜0.5域)には殆ど勢力は無かった事が示されています。
「青木氏」、つまり「神明社」は”勢力が東に偏っていた事”を物語ります。これが弱点です。
この0.4を勢力と観る場合、四国の讃岐籐氏の「讃岐青木氏」と「阿波青木氏」と一部「土佐青木氏」の勢力と観る事が出来ます。
同じく、0.4の中国は讃岐籐氏の「出雲青木氏」と鳥取米子の「足利氏系青木氏」の勢力と観る事が出来ます。
0.5の九州は北九州3県の分布の秀郷一門の「肥前青木氏」の「末裔の勢力」と見る事が出来ます。(下記に論じる)
又、「青木村」を形成した「日向青木氏」は下記に論じますが「神明社」を建立する勢力は無かった事が判っています。
以上「2つの青木氏」が分布する地域がこのデータに漏れる事無く完全に合致し、その「末裔分布力」、又は「勢力分布」として数字的に表現出来るのです。

この結果、「八幡社の役割」は、「清和源氏分家頼信系義家一門」の「八幡社」であった事で、地域的にも、勢力的にも、期間的にも、「神明社」のそれに比べて1/4程度に小さく、元より大きな働きは無かった事が云えます。
明らかに「弓矢の八幡」としての役割に終わった事が云えます。
源氏滅亡以降は各地の武士、特に九州域と関東の南域による「未勘氏族」により支えられていた事を物語ります。

「中部地域の八幡社」は、結論として「合祀八幡」乃至は「神明化八幡」であった事に成ります。
「八幡社」のその「存在意義」は次ぎの様な変異を地域的に遂げている事が判ります。
これは次ぎに論じる「神明社の論処」でも証明する事が出来るのです。
西から北に掛けて次ぎの変異の存在意義であったのです。

地域に於ける「存在意義の変異」
「八幡社」(九州域)→「混在社」(中国域・四国域)→「合祀八幡社」(関西域)→「神明化八幡社」(中部域)→「八幡化神明社」(関東域)→「神明社」(東北北陸域)

注:「混在社」とは「八幡社」と「神明社」が同率で変異せずに低率で混在していた事を示す。

上記のフローから「九州域の八幡社」から「東北北陸域の神明社」へとその「有様」が次第に「地域変化」を起こしています。真にその中間が「関西域の有様」であったのです。
そして、「九州域の未勘氏族」から「北陸東北域の民衆」の「有様」で合った事なのです。
これは「地理的要素」と「歴史的要素」の「2つの違い」から来ているのです。
上記の「存在意義の変異」を参考に殆ど「神明化した北陸東北の八幡社」に付いて次ぎに論じます。

「5の北陸東北域」
・「5の東北北陸地域」の状況は次ぎの様に成っています。
そもそもこの地域は歴史的経緯として「親神明社」と云うだけでは無く、更に強烈な「反八幡社」の土地柄なのです。
この「民の心情」は歴史が長く古くは奈良期から始まり「蘇我馬子」の攻められ「蝦夷」と蔑まれ、その平安期初期(802)には「アテルイ騙し討ち事件」が起り、平安初期に掛けては「国家戦略」としてこの地域を征討し、その安定化の為に「朝廷の威信」を掛けて「神明社建立」を推し進めた地域でもあります。
この「未開の蝦夷地の征討」とそれに合わせた「安定政策」が実行された苦い経験を持つ土地柄です。
前記した様に「皇族賜姓族の神明社建立」から代わって「桓武天皇」による「皇祖神」に変わる「神明社建立」がこの地に推し進められ、「征夷大将軍の坂上田村麻呂」(806年)の丹沢城建設と共に勅命による「神明社」を20社程度も建立した特定の地域なのです。
平安中期に入りこの地域は「阿多倍一門」の「内蔵氏一門」と「阿多倍」の末孫の「阿倍氏」の末裔圏域であって、その安定した地域を八幡太郎と呼ばれる「源義家」が未勘氏族発祥の基と成った「荘園制」を利用して、これ等の末裔子孫の「安倍氏」や「阿倍氏」や「清原氏」等の末裔子孫を制圧して、そこから「敗残兵」や「土地の農民」を集めて「奴婢」として各地の「未勘氏族」の「義家の荘園」の「働き手」として送り込んだのです。
これ等の「やり過ぎ事」が原因で「朝廷」や「北陸東北の民」からも「源義家」が疎んじられ排斥された経緯を持っている土地柄です。
この事が全国的な暴動に発展した度重なる苦い経験を持った地域なのです。(この経緯は前段で論じた)
この様な「反清和源氏」に対する激しい反発感情の土地に「弓矢の神」八幡太郎の「八幡社」などは到底建立する事等不可能です。
弓矢の「武士や兵」は勿論「民」までが700年に近い苦い経験の下に興った「反八幡社」なのです。
しかし、「神明社」は「桓武天皇」の征討後の「政治的で戦略的な神明社建立の目的」ではあったが、「神明社」から主導する「生活の神」「物造りの神」としての働きが「民の心」の中にやがて浸透し「心の拠り所」として受け入れられたのです。
そしてその立役者がこの地の為政を任された「藤原秀郷一門の鎮守府将軍」としての「政治的な働き」が有って「親神明社」へと傾いて行ったのです。
その主役が「秀郷流青木氏」であり、「第2の宗家」でもあり、即ち「特別賜姓青木氏」としての「3つの立場」が「神明社の役目」を全うし民の心を安寧に導いた地域でもあるのです。
そもそも「特別賜姓族」はその「土地の豪族」(小田氏、小山氏、花房氏等)との「重層な血縁関係」を作り、その「血縁族の一部末裔」が青木氏と共に関東に移動し足利や武田の土豪族と成り、遂には大勢力を誇り、それが室町期には「関東屋形」族と呼ばれる程の秀郷一門として関東から中部全域に掛けての大豪族にも成っているのです。
これは全て「特別賜姓族の主導」(神明社建立)によるものであって、故郷の末裔は反旗を翻すどころか「親神明社」の領域を超えて「神明社」そのものとなったのです。
この地域には関西域の「賜姓青木氏」も神職として赴き「神明社建立」の「職能集団」の定住も起こった位なのです。室町期末期には「関東屋形」の永嶋氏(結城)が陸奥域に移り住むと云う事まで起こったのです。この北陸東北域は関東域との深い関係を持つ神明社であって、この地域における八幡社は関東域の関係の背景を無視して論じることは出来ないです。八幡社=神明社としての論処に成ります。


青木氏と守護神(神明社)−15の北陸東北域は次ぎに続く。

「青木氏と守護神(神明社)」−16 に続く。


  [No.284] Re:青木氏と守護神(神明社)−16
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/03/02(Fri) 08:10:36

:「北陸東北域」の続き
>八幡社の分布順位(地域分布・重複)
>1 関東域    7県−94−26.5%(全体比)−平均13/県 清和源氏勢力圏域
>2 九州域    8県−70−19.8%(全体比)−平均 9/県 未氏族の圏域
>3 関西域    6県−52−14.7%(全体比)−平均 7/県 氏の出自元の圏域
>4 中部域    8県−52−14.4%(全体比)−平均 7/県 清和源氏・秀郷一門圏域
>5 東北北陸域 8県−38−10.7%(全体比)−平均 5/県 反河内源氏の圏域
>6 中国域    5県−24− 7.9%(全体比)−平均 5/県 源氏空白域・讃岐藤氏圏域
>7 四国域    4県−21− 5.9%(全体比)−平均 5/県 讃岐藤氏圏域・源氏空白域
>(詳細データは本論末尾添付)

「3つの守護神の神明社」
前段で論じてきた論処の通り、この「八幡社38+神明社97」=135と成る数字は疑う事無く「神明社」そのものなのです。しかし、では”何故に「八幡社」としているのか”についての疑問です。
それは「4の中部域」では「神明化八幡社」と発展させてましたが、この「北陸東北域」では「八幡化神明社」と成り得たのです。そしてこの八幡化した「八幡社」はこの地域では最早「弓矢の神」では無く、「4の中部域」の「農兵」の「身の安全を護る神」から、更に発展させて「家内安全の神」の守護神として考えられていたのです。
それは、「神明社」の「生活の神」「物造りの神」は勿論の事、前段で論じた様に「400年に及ぶ苦難」の末にこの地域では弓矢に変えて民は「家内安全の神」を求めたのです。
それは「合祀」ではなく「神明社」そのものに「3つの守護神」を求めたのです。
この「3つの守護神」を持った神明社の一部が鎌倉期に成って「家内安全の神」を強く主張する「神明社」が現れ、その「神明社」が室町期に入っての「下克上と戦乱」を背景に「創建主の勢力」が衰退し「管理維持」が困難に成り、「神社経営」の為に「神明社」と区別して「八幡社」と呼称されるように成ったものなのです。
これは呼称の範囲のものであってその元は「3つの守護神の神明社」であり続けたものなのです。

「3つの守護神」
>神明社の存在意義=「生活の神」「物造りの神」+「身の安全を護る神」→「家内安全の神」→「万能の神」

「八幡社呼称の経緯」
地域の「八幡社」の現在の呼称の経緯としては、鳥居の形や社屋の形状は多くは「神明造り」であり、元は「神明社」としての建立であった傾向が有り、室町期に入ってからの呼称と観られるのです。
その結果、「3つの守護神」の傾向が更に進み「家内安全の神」をそのものを求めたのです。
この地域は「生活の神」「物造りの神」として上記したように古くから神明域であった事から、当然の事として「時代の背景」が影響して武士も民も全ての民が「生活の神」を発展させて「家内安全の神」を「主の守護神」として民は求めたのです。
その為に「神明社」が一部「八幡社」に単純に変名したと云う事なのです。
「八幡社」と云っても此処では「弓矢の八幡社」で無い「神明社的な家内安全の八幡社」であった事から変名の抵抗は最早無かったと観られます。
「生活の神」「物造りの神」に、そして「家内安全の神」に、遂には八幡社の本来の「国家鎮魂」を加えた神を創造したのです。そしてそれは「神明社」のみならず「八幡社」との距離感を殆ど無くし、何れも「民の守護神」として崇める風習が生まれたのです。
その証拠に次ぎのような事がこの地域に限って起こったのです。
そして、そもそもこの地域の「神明」とする呼称は、「3つの守護神」の意味を持ち、それを単純に”「神様」を「神明」”と古くから呼称されていて、”神明”と云えば”神様”の総称の事であったのです。
それには「雄略天皇の八幡社」の意味合いも含んでいて、一応は「八幡社」の呼称はあるとしても根本的に「応神天皇」の「神明」であったのです。
>「民の”神様”」=「民の守護神」=「”神明”の呼称」
つまり、全ての守護神の総称を”「神明」”と呼称したのです。
「神明社」「八幡社」に分ける事に大した意味は無く全て大まかに”「神明」”であって、その”「神明」”は「神明社」なのです。
神社の経営的な意味のみであるのであって「民の心の区分け」を意味するものでは無かったのです。

北陸東北域の「神明社-八幡社の関係式」
>「神明社」≒「八幡社」→「神明社」+「八幡社」→「神様」=「神明」=「民の守護神」
>「生活の神」+「物造りの神」+「家内安全の神」+「国家鎮魂」+「身の安全神」=「八幡社+神明社」

実は「神明社」には「2つの通説」があるのですが、この中の一つの「神明=神の説」は此処から来ているのです。強ち、関東以北ではこの「神明=神の説」は間違いないのです。

ところが関西以西では八幡社、神明社、鎮守社、春日社、住吉社、出雲社等の前段で論じた自然神に繋がる「5つの守護神」を祭祀する社はその存在意義は又明らかに別なのです。
特に「氏の神」の神に代表される春日社等は区別化は当然の事として、上記した様に以西に行くに従い「八幡社の区別化」は明確に成って行くのです。
それは「荘園と未勘氏族」のあり方に起因しているのです。
「荘園に依って酷い苦しみを受けた地域と未勘氏族」と、「荘園に依って利益を受けた地域と未勘氏族」との「パラメータの差」が「八幡社と神明社の区別化」を促しているのです。
そして、その「荘園と未勘氏族」の有様は、平安期中期、平安後期、鎌倉期、室町期初期、室町期中期、室町期後期の「6つの期」になって現れ、それは「政治的な施策」と「戦乱の影響」に依って変化して行くのです。それが関西を中心に「以西と以北との変化」に差として生まれて来たのです。
この「八幡社と神明社の区別化」の差が次ぎの様な関係を示しているのです。

>”「以西・大>関西>以北・小」の関係”
が生まれて行ったのです。

この事は「4の中部域」で論じた様に、「圏域の勢力数」の関西を基準にした関係表(冒頭の表 上記の重複表)でもこの傾向を顕著に示しています。

実はこの事が次ぎの数にも表れているのです。

「北陸東北域のデータの検証」
「4の中部域の論説」の通りこの「北陸東北域」はそもそもそれ以上の地域であり、それからするとこの下の数は更に少な過ぎるのです。

関西域に対して1.8倍は低すぎるし、神明社3.9も低すぎると考えられます。
つまり、「関西域の八幡社」が概ね15%であるとすると、この地域の八幡社38は多すぎ、全国比1割を占める事は考えられずもっと低い筈です。
当然に神明社は「関東域115」に対してこの地域での「神明社97」は少なすぎ、「関東域の全国比20%」に比べて「北陸東北域の全国比17%」は低すぎると考えられます。
もし、このままの数字であるとするならば前段で論じた様な事件が ”歴史的に何も無かった”と云う事に成ってしまいます。
既に関西から関東に掛けて「八幡社」は勿論の事、「神明社」もその「歴史的な経緯」による変化を起こして来ていて、その様にデーターの変化を起こしています。”何も無かった”はあり得ずそんな事は絶対に無い筈です。
この「北陸東北域」に於いて現実に厳然と「特異な歴史的な経緯」を持っているのに ”何も無かった”と云う事をこのデータは示している事に成ります。「八幡社」だけならいざ知らず「神明社」も歴史的な状況に一致しないデータなのです。

”現世は移ろい去り行く”の例えの通りの如く歴史につれて「人の営み」は変化するものです。
つまりは「八幡社」の数は(+)であり「神明社」の数は(−)である事から、これは明らかに「時間の経過」に伴い「神明社→八幡社の変化」を起こした事を意味します。

そこで、では、どの様なデータならこの地域のデータに成り得るのかを検証します。
次ぎの表を参照して下さい。

>総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
>1.8倍    3.9     0.7

>八幡社 7県−38−10.7%(全体比)−平均5/県
>神明社 7県−97−17.1%(全体比)−平均14/県 

>関西域八幡社 6県−52−14.7%(全体比)−平均 7/県  源氏の出自元の圏域
>関西域神明社 6県−14− 0.2%(全体比)

>八幡社 秋田3  山形7  宮城7  青森3  岩手4  福島2 北海道9
>神明社 秋田33 山形15 宮城14 青森13 岩手11 福島9 北海道2

上記する経緯から、「以西・大>関西>以北・小」の関係から考えると、”中部域の「5割域の分布」の自説は「46.6%の計算値」”に匹敵する位の「神明社の数」である筈です。
この「八幡社38」を加えて135として観ると24%となり、関西域を基準として観ると5.4倍と成ります。
「関西域25」を基準としたこの地域の神明社の97の倍率3.9ですので、5.4はそれなりの比率と観られます。
しかし、「地理的要素」と上記の「歴史的要素」を考慮した場合、少なくとも秀郷一門の「関東域の数字」位は少なくとも保有していると考えられますので、因って「関東域の倍率4.6」に対し「5.4」は納得出来る倍率と考えられます。
そうすると、比較すると次ぎの様に成ります。

>関東全域 神明社 7県−115−20%(全体比)−平均16/県 本家域
>北陸東北 神明社 7県−135−24%(全体比)−平均19/県

神明社の全体比として考えれば20%/24%は、遜色なく相当として納得出来る数字と成ります。
それに「関東域」と「北陸東北域」の人口比(1/2と試算)から考えれば、48%程度と成り「中部域46%」に匹敵することに成ります。
これを下の表の通り「県分布」で考察すると、この地は”越後域から陸奥域に掛けて神明社の勢力圏が移動し構築されている事”が良く判ります。
他の6県域ではほぼ一定で変化が無い事等は、真に「歴史的な青木氏の経緯」と一致します。
つまり、この地域の「八幡社」は全て「神明社」と観て検証する必要があるのです。
そうすると次ぎの様な「北陸東北域の総合分布」に成ります。.

「北陸東北域の総合分布」
>神明社 秋田36 山形22 宮城21 青森16 岩手15 福島11 北海道2

以上と成ります。

「統治経路と末裔分布経路」
上記の事は秀郷一門のこの域の「統治経路」か「末裔分布の経路」を調べる事で判る筈です。
これはこの域の「八幡社」を「神明社」として観てしまうと、明らかに「青木氏の末裔分布、又は勢力分布」に極めて酷似しています。
前段で論じたこの地域の立役者である「特別賜姓族」の「越後青木氏」は、歴史的な幾つもの戦乱から「賜姓青木氏を保護」し受け入れて護り、且つ陸奥への「戦略的ルートを構築」し、陸奥域の「青木氏の基盤」を護った地域でもあり、越後はその拠点と成った所であります。
そして、その陸奥より南下の岩手に勢力圏を伸張して同門の「進藤氏などの力」を借りて「山形の勢力圏」を築いたのです。つまり、次ぎの表の経路を示しているのです。

>「新潟の拠点」→「青森域」→「岩手域」→「山形域」→「秋田域」→「宮城域」

以上の順で勢力圏を拡大しそれに伴って「神明社の分布」は拡大したのです。

本来であれば、「北陸ライン」を北に採って、統治経路を造るのが戦略上では理想的です。

>「新潟の拠点」→「山形域」→「秋田域」→「青森域」→「岩手域」→「宮城域」

以上と成る筈です。

しかし、この圏域全般は阿多倍一門の「産土神」の「内蔵氏」や「阿倍氏」の「末裔の勢力分布域」であった地域です。この域を抜くのは大戦闘を意味しますので戦略上得策ではありません。

この事から「鎮守府将軍」として秀郷一門が先ず「陸奥域」に赴任して、その地を統治するには「越後」を拠点とするも「出羽の山形域と秋田域」は直ぐには「越後域の一門」と結ぶ事(北陸ライン)は困難であったのです。
そこで先ず「陸奥域」の「東北ライン」の「岩手域」を統治し、そこから左隣国の「山形域」を「越後域」の拠点と結んで統治し、その勢いで上の領域に伸張して「秋田域」を制圧して、最終には「宮城域」の北側を統治する勢力圏と成ったのです。それに伴い「神明社」が分布するのです。
この経路で「神明社」が分布する事は、前段でも論じた神明社の第2の別の目的の「戦略拠点」なのですから、この「分布経路」に沿って「統治経路」の戦略を採った事を意味します。
つまり、これには平安初期からのこの地域は阿多倍一門の「内蔵氏」等の勢力圏でも在った事から、未だこの地には「産土神の地盤」でもあったのです。「敵対地域」だけではなかったのです。
それが200年の間に秀郷一門の統治により阿多倍一門の末裔は、思考の根底には「産土神」の考え方も在っても次第にこれを変化させ、「秀郷一門の青木氏」の影響を受けて「祖先神−神明社」へと変化させて行ったのです。
返して云えば、「産土神」から「祖先神−神明社」に変化させるだけの「秀郷流青木氏の影響力」が実に大きかったかを物語るものです。少なくとも大なり小成りに ”思考の根源を変えさせた”と云う事を意味します。これはある条件が揃わなくては成し得る事ではありません。少なくとも争いの連鎖を生む「武力」ではない筈です。
本来ならば、上記した「統治経路」は進藤氏や一部長谷川氏等の協力を得ているのですから、間違いなく「春日社」と成る筈です。
ところが、それどころか「春日社」勢力圏に成らず、のみならず「産土神」さえ殆ど消え去り「祖先神の神明社」と成って行ったのです。そうなると人の思考を変え得るのは唯一つです。考えられるのは「血縁力」と成ります。

(参考 明治2年 陸奥→磐城、岩代、陸前、陸中の東北圏に分ける 出羽→羽前、雨後の北陸圏に分ける それまでは北陸東北域は陸奥と出羽であった)

「進藤氏の活動経緯」
特にこの地域の「神明社の分布」の発展は、真にこの「進藤氏の活動経緯」と一致しているのです。
前段で論じたこの”進藤氏の歴史に残る秀郷一門の中での活動行動”が無くして「神明社の分布発展」は無かったのです。
これは”神明