青木氏氏 研究室
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[研究室トップ(ツリー表示)] [新規順タイトル表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.270] Re:青木氏と守護神(神明社)−3
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/02/25(Fri) 10:06:47

青木氏と守護神(神明社)−3

  「経緯の考察」
彼等が入国して以来、上記した約280−300年間の独立性の経緯の事を留意して更に次ぎの検証を進めます。
終局は、彼等が「優秀な民族集団」であると云う事とは別の見方をすれば、150年後の900年頃(変化点)から「半自治の運用権確保」から始まり「遠の朝廷」「錦の御旗」「太宰大監」(大蔵種材)を確保して九州域を「半独立に近い自治区」にして彼等側も朝廷側も解決せざるを得なかったのでは無いかと観られます。
現在に至るまで誰一人として正式に授与されていない「遠の朝廷」「錦の御旗」と呼ばれる最大名誉の授与の所以は、彼等を誉めそやす事が目的ではなく、「半独立に近い自治区」に実質した事を意味するのではないかと観ています。歴史的経緯から観ても”その様にせざるを得なかった”と云った方が正しい答えである筈です。

 「阿多倍の一族一門の主観概念 儒教」
そもそも、「半独立に近い自治区」を勝ち取った彼等の主観概念は元々は「鬼道」から発した「道教と儒教」(5世紀中−6世紀)にあった筈です。
当時、「仏教」(司馬達等500−552)より早く日本にもたらされていた「道教と儒教」の「宗教観」と同じ概念を持っていたのですから、「鬼道」−「神道」の「神明の宗教観」の導入は彼等にはかなり受け入れ難い政策事であった事が伺えます。
「物造り」を背景とする彼等の集団には「唯物史観」への傾向も強くあり、「観念的」な「神道」の「神明の宗教観」の押し付けはむしろ「独立」に向かわせる事に成ったと考えられます。
そこを朝廷は”「宗教観の違いによる争い」”これを避ける為にも先ず地域を限定して推進したと観られます。
そもそも、阿多倍側は概ね「道教 儒教」、朝廷側は「鬼道」−「神道」と「政治弊害」を起す程の「仏教政治」「神仏併合策」を採っていたのですから、なかなか帰化の初期段階からでは彼等には「氏融合、民族融和政策」の押し付けは無理であったと考えられます。
これ等の史実から観ても、反論する史実が見つからず「氏融合」と連動する「神明」の「振興策」は結局は「関西以東、関東以西」に成らざるを得なかった事に成ります。
故に、中大兄皇子の「氏融合策」と「神明信仰」の初期の段階では、「皇族賜姓青木氏5家5流と19地域」と「第7世族」の「坂東八平氏」のみと成ったと観られます。
  「その後の経緯」
平安初期までには「公地公民」の制度領域外にあった「異民族(アテルイ)」等を「征夷大将軍」の「坂上田村麻呂」が制圧(791)、900年頃から「藤原秀郷一門」が関東域と以北を「鎮守府将軍」として最終的に鎮圧し、平安末期には「清和源氏義家」が「征夷大将軍」と成って「朝廷の勢力圏」として「清原氏等」の「強い民族性」を持つ以北の「民族氏」(征夷、蝦夷、俘囚などと呼ばれた)を武力で征討します。

この280年の期間で藤原一門と以北勢力との間で「氏の融合」が進み、その結果の証明として下記の「神明社」2社が建立されたのです。
この記録からは制圧と同時に「神明社」を「氏融合政策」の象徴として朝廷が積極的に建立した事に成ります。つまり、「3つの発祥源」の象徴「青木氏」から始まった上記した「氏融合策」は「神明社」とは切り離せない「政策手段」であった事を意味します。
言い換えれば、「全国統一のシンボル的政策」であった事を物語っています。

天智天武の両天皇が政策的に定めた「伊勢神宮」は「皇祖神」とする事のみならず、「氏」と云うキーワードでそれに関連する歴史的なワードを引き出し、史実により組み立て綜合的に検証すると、見えなかった姿が次ぎの関係数式として成り立っている事が判ります。

「神明社」=「天照大神」=「太陽神」
「神明社」=「伊勢神宮」=「皇祖神」=「氏融合策」=「全国統一のシンボル的政策」
「神明社」=「民の心の安寧」=「物造り 品部の象徴神」=「部曲の象徴神」=「五穀豊穣」
「神明社」=「青木氏」=「3つの発祥源」(氏、侍、武家)=「皇親政治の祖」=「3つ国策」
「神明社」=「民の象徴」=「氏の象徴」=「天皇」=「天皇家の守護神」
゜神明社」=「鬼道」=「自然神」=「祖先神」

つまり、天智、天武天皇の頭の中にはこの「国体の関係式」が思考されていた筈であります。

上記する「人の生き様」は「太陽の光の恵み」に依って生かされている。依ってその限りに於いて「神明社」を「皇祖神」だけのみならずその「全ての象徴」の手段と位置付けたのです。
この概念が代々受け継がれて行ったのです。少なくとも「氏融合の完成期」「1018年」を僅かに超える時期まで。
しかし、国内ではこの時期には大事件が13件から広義には25件以上発生していて、その「国政の乱れ」を抑えようとして発した有名な「乱発法令」から観ると、30年程度ずれて「1045年頃」が境になります。
そしてこの丁度この時期(「氏融合の完成期」)には、「源平対立」と「皇室内対立」と「朝廷内権力争い」もこの時期から全て起こっているのです。

何も知らないひ弱い皇族者が”発祥源の荷物を担いで足腰を鍛え苦労して来た。 何とか「坂」を登り切ったところで”やれやれ”と思った瞬間、その坂の上は「氏」で”ぎっしり”、坂の上に残ろうとして互いに三つ巴の”おしくら饅頭”が起こった。 場所を私物化する者、坂から転げ落ちる者、知恵を使う者、力を使う者、うろうろするだけの者、入り乱れての混戦と成った。 最早誰にも止められない。 ”はっ”と気がつくと”皇族系だ 3つの発祥源だ”なんていっている場合ではない。 ”何か考えなくては”。 落ち着いてよく周囲を観察すると天皇もお隣の仲のよい為政者も同じ新しい考え方で何かを模索している。 ”これだ”と気がつく。 周囲を説得出来るし環境条件が整っている。 ”立場も利用できるがそうも行かない立場もある”。 ”「2足の草鞋策」を採ろう”。 ”伊勢だけではなく全青木氏に呼びかけスクラムを組もう”。 ”「商い」は和紙だ” 朝廷の推し進める「貿易」政策に乗ろう。青木氏一族一門を養える。これで生残れる。

上記の数式の考え方は少なくとも「武家政治」が始まるまでは「国の運営の根幹」に据えていた事は間違いないのです。

朝廷政治では”「融合氏」を育てる 「武家」を育てる”と云う「親心」で気配りをされて来たが、「武家政治」では「自らの事」の故に失われると云うよりは疎かに成ったと考えられ、それ故に独り立ちしたかと思うと「氏融合の基点」の「箍」が外れて遂には崩れ果て勝手気侭に成り果て、乱世の「生存競争」に突入してしまったと解析出来ると考えます。
つまり、その「箍」を締めたのが青木氏であり「箍」を締めなかったのが源氏と成ります。(後述)

その「融合氏発展の象徴」としての「神明社」の建立を使った証拠として次ぎの様な事があるのです。

下記の通り「経緯のポイント期」の762年と807年には「制圧統一シンボル」として、それまでは関西19域にしか建立は無かった事なのに、突然に都から遠く離れた場所の以北に2度に渡って「神明社建立」を成し遂げているのです。「以北制圧の証」として、また「制圧後の氏融合の証」として実施した政策で在った事が良く判ります。

「伊勢神宮」を「皇祖神」として決め、且つ「青木氏の祖先神」としましたが、実はこの決定の前には「神宮の鎮座地」を遍歴させ13の国・地域に皇祖神80社を建立して移動させているのです。
松阪に決定後は直ぐに先ず天領地の19地域にも「祖先神の神明社」を建立したのです。
この時期にいっきに合わせて99社も建立しているのです。
神明社に「国統一・氏融合」の象徴の役目を与えて居た事がこの事でも良く判ります。 (本文 詳細後述)

1度目は光仁天皇の642−645年に阿多倍末裔の阿倍比羅夫が以北攻めに従いその経路中の以北勢力を先ず一掃制圧した。この時に白石に「神明社」を建立した。
(記録では762年に成っているが再建したのではないか)
2度目は桓武天皇期に阿多倍の子供の坂上田村麻呂が以北攻めで以北の根拠地を制圧した。この時に仙台の岩沼に「神明社」を建立した。806年に制圧した。

まとめると次ぎの数式が成り立ちます。

「氏融合策」=[神明社」=「全国統一の象徴」=「融合の基点」=「人心の集約」=「物造りの起点」

(「神明社」の建立記録:全国の詳細は下記資料)
 朝廷の命で坂上田村麻呂が仙台岩沼市(現)に「押分神明社」(807年)の建立
 宮城県白石区益岡町(現)に「神明社」(762年)の建立
 政庁として胆沢城802、志波城803を築く
「桓武天皇」806年没 「坂上田村麻呂」811年没 アテルイ802年没 
以上の記録あり。

参考知識
  (「侍」の前は「武人」で「武装職業集団」漢氏(あや)、東漢氏(やまとのあや)、物部氏等(5)がある。 後に氏と成る。「蘇我氏」はこの「漢氏」等を最大護衛軍として雇っていたが、事件後、味方せず丘の上から引き上げた事により「改新劇」は軍事的衝突なしで成功する。)

  (漢氏、東漢氏は阿多倍王の父阿智使王の末裔子孫:職能武力集団)

  「青木氏」→「氏の発祥源」 「侍の発祥源」、 公家に対して「武家の発祥源」」←「3発祥源」

  (「武家」とは「武士」の事を指す言葉として通常認識されていますが、これは室町期以降に呼ばれたもので、本来は「公家集団」に対して新しく発祥した「侍の氏」を構成している「武士集団」として「武家」と呼ばれたものです。これが青木氏であったのです。「家」とは「氏:融合氏」を指す。)

これ等の「国体関係式」の考え方は天智・天武天皇が「民族間の国体そのもののあり方の如何」を見直して「氏の融合策」を優先した施策を「国体の始め」とした事により、代々の天皇にも上記の考え方が引き継がれて「国の体制」が進み「律令国家」への足がかりを掴みます。

その「氏融合」「物造り」「神明社」の「3つの国策」はほぼ全国的に成し得たとしてそこで「成功の証」として次ぎの様な2つの事を発布しているのです。

「氏融合」+「物造り」+「神明社」=「3つの国策」

  「日本の呼称」
その一つ目はそもそも「日本」は多くの島から成り立っている事から、古くは「大八州」(おおやしま)とか「秋津島」(あきつしま)と呼ばれていました。その後「倭」と成り、聖徳太子が「日の本」と称した事に始まり、以北の蝦夷地方を制圧してこの「白石」にシンボルとして「神明社」を建立した頃の701年頃から「日本」(ひのもと)という言葉が多く使われる様に成りました。
これに伴い資料から確認できる範囲としては年号(「大宝」)も途中で停止時期がありましたがその後継続して使われる様に成って行きます。そして7世紀後半には数ある書物には明記される様に成って行きます。

この国の称号事は「国」としての「一民族の形」が基本的に一応構成された事を意味し、明らかに「民族氏」から「氏融合」策が進んで「融合氏」へと急激な変化を遂げた事を意味します。
「雑種の優位性」か発揮出来得る充分な融合が達成されていないにしても、その「初期的な形」が整えられたと当時としては判断されていたのではないかと観られます。
故に朝廷は「国の称号」を「民族氏」が多く存在した「大八州」−「秋津島」−「倭国」を使わず新たに「日本」(ひのもと)としたのです。

これは資料から観ると、この呼称に付いて外国では三国志の「魏国」が「倭国」として、その後、「日の本」では最も先には「唐」が630年頃に「認めた記録」(認識)があり、これが初期に認めた記録とされます。
律令制度の完成期の頃(桓武期800)には遂に「正式な呼称」として800年頃に「国の称号」の発布が成されたのです。
諸外国、特にアジアでは950年前後であり、西欧では書物資料から観ると1020年頃に音読で「にっぽん」として伝わり呼ばれる様になったのです。
これは阿多倍の子孫「大蔵種材の1018年」に九州を何とか「3つの国策」に従わせた時期に一致します。
西洋の外国でも「九州自治」により「融合氏」による「単一融合民族」が完成したと認めた事を意味します。逆に云えば九州地域はまだその頃外国からは「不安定地域」として見られていた事に成ります。

実は皮肉にもそれは「貿易」と云うキーワードが左右した事にあったのです。
「貿易・交易」に依って「外国人の目線」と「貿易が成せる国」とによる評価を受けたものと考えられます。
この懸命な努力に依って成し遂げられつつある「融合氏政策」に連動させていたこれらの「物造り政策」も飛躍的に進み、更に上記した「氏融合」の「3つの国策」とが整った事から、今度はそれを「貿易」と云う形に廻す余力で行われたのです。それが外国から観れば、これは”諸外国に廻すだけの「国力の安定とその余力」が生まれた事”と受け取られたから認められた事なのです。
現に、意外に知られていない事なのですが、阿多倍の末孫「伊勢平氏」の「太政大臣平清盛」は積極的に「日宗貿易(南宋)」を朝廷として正式に推し進めた始めての「歴史的人物」なのです。
この頃の政治環境として、一方では九州で阿多倍一族一門の「賜姓大蔵氏」等の「民族氏の自治」、他方では阿多倍一族一門の「賜姓平氏」の「貿易による開国」と何と同じ一族一門が関わっていたのです。
「民族氏の自治」と「貿易による開国」の2つは「相反する施策」が「同じ時期」で「同じ民族氏」に依って成されていたのです。
偶然ではないこの2つの政策関係があったという事は、この時の「政治の駆け引き環境」が存在していた事を意味します。その「天皇」側の考え方に対して阿多倍一族一門はタイミングを図っていたと考えられます。
天皇側の”貿易に依って国を富ます事”の考えを後一条天皇等が主張していて、阿多倍側はこの「九州の大蔵氏による自治容認」を”何時認めるか”を見計らっていたのです。
何れにしても「貿易」を成す「物造り」は彼等一門の配下にあり彼等の「協力同意」なしでは何も進まないのです。
天皇側にとって見れば「国体の関係式」(”貿易に依って国を富ます事”)を成立させるには「大蔵氏による九州自治容認」は呑まなければ成らない必須の条件であったのです。
当然に彼等に「協力同意」を得なければ成らないのですから、桓武天皇の賜姓から始まった「平族」を無理にでも引き上げねば成らない事に成ります。これが5代後と云う急激な速さの勢力拡大を成し遂げた「太政大臣平清盛」となるのです。歴史上「侍」が始めて「太政大臣」になるのだから、「清盛による正式な国の拡大宗貿易」となったのです。

「貿易=物造り=氏融合」の関係式が「氏融合→物造り→貿易」の関係式で成立すると考えていた天皇は阿多倍一族一門から交換条件として「大蔵氏による九州自治」を暗に示していた筈です。
以北問題等の後述する他の要件も整った為に天皇側が「自治容認」を呑んだ事から、この摂津からの「宗貿易」が始まり正式に「平清盛」に引き継がれて拡大し諸外国から「日本国」を容認させる結果と成ったのです。

この事は青木氏にとって無関係ではないのです。「融合氏」を始めとする 「3つの発祥源」の「賜姓青木氏」に取っても「商い」(「2足の草鞋策」)はこの時期直後に興っていますが、この事は天皇と阿多倍一族一門の狭間にあって「融合氏の発祥源としての立場」と「青木氏の趨勢」とこの「時代の変革期」を読んだ結果の「青木氏の決断」でもあったのです。

天皇家側  「融合氏」を含む「国体の成り立ち」は「国を富ます事」=「貿易」→「皇祖神」=「伊勢神宮」
青木氏側  「融合氏」としての「氏の成り立ち」は「氏を富ます事」=「商い」→「祖先神」=「伊勢神宮」

代々の天皇は、上記「国体の関係式」を念頭にして「氏融合」をより進めるには「国を富ます事」、それには「物造り策」が必要で、その「物造り」を富に変える「交易」を行う事、結果として「融合」が進み民の「感覚概念」が統一されて「国の安寧と安定」が図られるとした考え方を保持したのです。そしてその感覚概念の拠所を伊勢神宮に置いたのです。
これに対して青木氏は全く同じ考え方をして「殖産」(物造り)を進め「商い」(2足の草鞋策)を興し「氏の安寧と安定」(祖先神)を図ったのです。そして、個人と氏の感覚概念の拠所を伊勢神宮に置いたのです。
全く同じ考え方をしていたのです。

詳しい事は本文で後述しますが、その証拠に今までの古代の信仰概念は先ず「自然神」の考え方であったのです。それを「鬼道」と云う占術に変化し、それが「民族氏」の誕生と共に社会構造が変化して「産土神」の考え方に発展します。
そして、それが国策により「融合氏」へと再び社会構造が変化して「祖先神」と云う考え方に発展して行ったのです。青木氏を「融合氏」の発祥源として国策を進めたとき社会の信仰概念も新しい信仰概念に変化を遂げたのです。これが青木氏を始めとする皇族系融合氏が信仰する「祖先神」と呼称される概念なのです。
「青木氏・神明社」=「祖先神の信仰概念」=「氏の安寧と安定」
以上の関係式が成立するのです。

「祖先神」(詳細は本文後述) :「氏」と云う概念に変化した新しい考え方が誕生
「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、 「自分の集合」である一族一門の子孫の「守護神の重複性も持つ神」とする考え方

ところが一口に”皇族賜姓族・皇親族が「商い」(2足の草鞋策)を営む”という事はなかなか身分・家柄・伝統という観点から極めて難しい事であり、本来であれば天皇・皇族に理解・認可が得難い事でありますし、思い付いたから直ぐ出来ると云う程にそう簡単な事では決してありません。まして賜姓族・皇親族・融合氏発祥源の立場があるのです。
そもそも当時は皇族系の者が武器を持ち武力による勢力は卑しいとする考え方が一般的でした。青木氏は朝臣族で浄大1位の皇族から離れてわざわざ臣下して「侍」に成り天皇を護る力を保有したのです。
そこに、その天皇を護る役目の「侍」が「殖産」「商い」をすると云うのです。現在の概念では何の問題も有りませんが、「自然神」−「鬼道」−「産土神」の感覚概念の時代の中に「祖先神」の考え方を導いた社会構造を構築した中で「殖産」「商い」の領域に立ち入るのです。
何か「相当な政治的な環境」が整う以外に無い筈です。筆者はこの環境の如何を重視しているのです。

「殖産・商い・交易」は未だ大きく発達していない社会構造で「部制度」による「準市場経済」であり「物々交換」を主体とした「貨幣経済」での中で、「荘園制」が進み「私有化」が起こり「社会問題化」し始めて「整理令」「公領制」に戻された時期に「殖産・商い」を興したのです。相当反動的な決断であった筈です。
「殖産・商い」の点でも研究は進んでいませんが状況判断から相当フロンティアであったと考えています。

「相当な政治的な環境」とは次ぎの様なものであったと観ているのです。
青木氏からも光仁天皇・桓武天皇・嵯峨天皇系を出している縁戚の家柄とすると勝手に進めていれば恐らく非難轟々で在った事が予想できます。
しかし現実に「商い」(2足の草鞋策)が出来た事から観て、上記の様に同じ考え方をしていたから同意を得られたと見ているのです。むしろ指示があったと考えられます。
ましてその「宋貿易」を主導しているのは伊勢松阪の隣の伊賀の賜姓平氏なのです。
更にはその伊賀の和紙を商いの基本としているのです。(松阪を中心として摂津堺にも2店舗・大船3隻)
この様に条件が整っているのです。
11代の皇族賜姓源氏の同族はこの「商い」(2足の草鞋策)を採用していないのです。採用できなかったと云って過言ではない筈です。「賛成・同意」が得られる条件下に無かったからに依ります。
口伝より逆算すると1120−25年頃に「商い」(2足の草鞋策)を始めた可能性が高く「平清盛の宗貿易」の時期に一致しているのです。

その「相当な政治的な環境が整う事」とは「平清盛の宗貿易」が大きく作用したのではないかと観ています。
先ず「伊賀−松阪の隣国関係」と「伊賀和紙の関係」があった事から”「平族」と同意・同調した”のではと観ているのです。現にこの50年後では「以仁王の乱」で源頼政の孫の助命嘆願が伊賀から成されて日向に配流となった史実から見ても、「平族」の実家との深い付き合いに特別なものが在った事を示す出来事です。
更には「桓武天皇」の母は「平族」の阿多倍の孫娘、「桓武天皇」は「光仁天皇」の子供、「光仁天皇」は「伊勢王施基皇子」の子供、「施基皇子」は伊勢青木氏の始祖、源三位頼政の孫京綱が「青木氏の跡目」を考慮すると「同意・同調」が得られる「深い付き合い関係」が在った事が充分に伺えます。
「国体の関係式」の考え方を引き継いでいる「歴代の天皇」は勿論の事、「商い」(2足の草鞋策)では太政大臣「平族」にも同意が充分に得られたと観ているのです。筆者は同調説を採っているのです。
この「5家5流の青木氏の路線」と比較すると、全く同じ立場にあった「11代源氏」は「平族」と敵対関係を形成してしまった為に「商い」(2足の草鞋策)は成し得ず生き残りは果し得なかったと考えられます。
この源氏の事から観て上記の事は「軽視できない環境」としているのです。

「相当な環境」=「天皇の決断」+「青木氏の決断」+「平族の決断」+「平族との関係」→「殖産・商い」
「融合氏」+「殖産・商い」=「2足の草鞋策」→「物造り」→「貿易」

天皇が考えていた「国体の関係式」とこの「氏融合の3策」には無くては成らない決断であったのです。

「国体の関係式」+「氏融合の3策」=「民族氏の自治」+「貿易による開国」→「2足の草鞋策」

この「宗貿易」は阿多倍の子孫「大蔵種材」の1018年に依って国体が遂に整った頃から丁度100年後にも一致します。(1045年頃と観れば50年後と成ります。 しかし、この結果、荘園制の行き過ぎが起こる)
この事は「氏融合政策」が整った為に、100年で「物造り」に「国策的に余力」が生まれた事を意味します。

つまり、その1つ目は「中大兄皇子」(天智天皇)の26年間とそれを引き継いだ「天武天皇」と「持統天皇」が行った上記の政策、突き詰めると「氏融合策」と「物造り策」の2策が国体(国の称号)を成したことを意味します。そして、それが「氏融合・100年間隔の節目」と云う特徴を持っているのです。

「氏融合」の「3つ国策」の変化を観てみると、この様に700年直前、800年直前、900年直前、1000年直後、1100年直後と夫々「100年間隔の変革」の節目時期を持って進んで行っています。
(鎌倉期以降も「100年間隔の周期性」を持ち続けている)
不思議な現象で、当時の「朝廷の政治慣習」の中には「100年間隔の節目感覚」が有ったのではないかとも考えられます。或いはもっと云えば「日本の政治」にはこの「100年間隔の周期性」が遺伝子的なものとして潜在しているとも観られます。
これは紀元前から起こっている「日本の気候変動の周期」が凡そ「100年周期性」で起こっていて、その度に「大飢饉」が起こり「氏」の「生存競争」により国が乱れる事による原因ではないかと筆者は考えているのです。これを繰り返す事から起こったものと考えられます。(詳しくは論理的な解析は後述する)


  「皇祖神 神明社−祖先神・伊勢神宮」

そして、その二つ目は、何をか況やそれに伴ない本論の「皇祖神」即ち「神明社」−「祖先神」の考え方を朝廷は新たに採用したのです。
その考え方の具現化として「天領地」でもあり、「融合氏発祥源」の「皇族賜姓青木氏」が守護する伊勢松阪に、「天照大神」を祭祀する「伊勢神宮」を置き、そこを「氏融合と物造り」2策を根源とする「日本国」の「神の象徴源」(万民の心の象徴)の場所としたのです。
そして、この時期に下記19の地を定めそこにも第4世族までの守護王を置き、この「分霊を祭祀する政策」を天智天皇と天武天皇は積極的に実行したのです。(天智天皇が実行し天武天皇が正式に定める)
つまり、青木氏を代表とする「祖先神」の考え方が進んだのです。

上記の”「A=B」の検証と詳細な「経緯」”での疑問はこれで検証されるのです。

つまり、故に本論の神明社論では「氏融合」と「物造り」を語る事になるのです。
本論の基点はここにあるのです。つまり、言い換えれば「4つの青木氏」(下記)はこの「基点の氏」(三つの発祥源: 氏発祥源・侍発祥源・武家発祥源)であると云う事に成るのです。

「4つの青木氏」=「氏融合」+「物造り」の基点=「氏発祥源」+「侍発祥源」+「武家発祥源」

つまり、「氏の融合」は「雑種の優位性」を生み、それが更に「物造り」を助長させると云う循環の「国体の仕組み」政策だったのです。

「氏融合」=「雑種の優位性」=「物造り」

  「物造りの開始、終期」」と「帰化の定着、終期」
「日本の民」は先ずは中国の進んだ「知識や技能」を吸収したのです。
天智天皇期から桓武天皇期までの間(イ)では経済的、政治的な完成を成し遂げたのです。
経済的(工業的)には日本の「第一次産業」を飛躍的に発展させたのです。
政治的に国体のあり方として「律令国家」の「政治体制」を完成させ、更には朝廷の「政治機構」をも構築したのです。
軍事的にも、進んだ武器を使い「水城や烽火や山城」などの新戦術を使う「朝廷軍の創設」を完成させたのです。これ等は全て彼等の力(阿多倍一族一門)にあるのです。

(「日本書紀」にも「天武天皇」が”一般の優秀な民からも登用して学ばせる様に”とした発言が書かれている様に。 日本書紀の編纂は舎人親王が宰相となり彼等帰化人の官僚が主体となって作成した事も書かれている。)

「学ぶ終りの時期」(ロ)では800年過ぎ頃で、その頃の資料文献には「渡来人」の言葉が文字として出て来なくなります。「第1期の融合」が完了(80)したのです。

「渡来人に日本名が定着した時期」(ハ)では彼等から4世の子孫が出来て藤原氏を凌ぐ一大勢力が出来上がった頃でもある事。

「帰化の終わりの時期」(ニ)では、「阿多倍王」の末裔大蔵氏が「大宰大監」として「遠の朝廷」と呼ばれ、唯一個人に「錦の御旗」を与えられた人物の「種材」の時期(900年頃)で、この時には北九州や下関一帯から正式に外国からの移民を武力を使ってでも強制的に停止した時期でもあります。

この様に概ね(イ)から(ニ)の経過を通して文明的に顕著に観られる初期は、450−500年頃の大和政権の飛鳥末期から始まりますが、工業的には640年頃に始まり920年頃の間に「中国の進んだ技能と知識」の吸収は終わる事に成ります。
後は彼等から離れて更なる「氏融合」策により「雑種の優位性」が起こり日本人の「遺伝的特技」を生かした「独特で独自の発展」となるのです。

  「物造りの疑問点」
此処で疑問が起こります。何故、教えた中国はこの「進んだ技能と知識」の範囲で留まってしまったのかと云う点です。同じ様に日本と同じく「物造り立国」が進む筈ですが、日本は進み中国は進まなかったのです。
何れも国内の混乱は同じ程度にあったと考えられますが、「歴史的、政治的」な史実から筆者なりに考察すると、「移動、移民、難民、帰化」の点では次ぎの6分類に成ります。
日本では次ぎの様に成ります。

 「移動、移民、難民、帰化の経緯」
第0期(紀元前後頃)国境的な区切りの緩やかな状況下で各種の民族は日本各地に上陸
第1期(150-250年頃)の太平洋と大西洋からアジア全域と北方大陸からと世界的な民族大移動
第2期(300-550年頃 2期)に朝鮮半島南から倭人の帰国と南朝鮮人の大移動と西アジアからの難民
第3期(600-700年頃 2期)に中国が混乱し後漢と北韓から帰化大移民(経済的な発展)
第4期(750-850年頃)の各地に散発的に難民流入 (全土征圧 難民は朝廷の難題と成る)
第5期(900年頃)前後2次期に渡り大量の散発的な南中国と南朝鮮人の難民(移民難民の防止)
(研究室の詳細な関連レポート参照)

以上の第1期から第5期までのその年代の状況により異なり「移動、移民、難民、帰化人」により「7つの民族の融合」が完成される事により世界に珍しい「完全融合単一民族」が構成された事に依ると観られます。

0期から2期前半では国内で特に九州全域に於いて「民族的な集合体」を形成、各地で「民族間の争い」が起こる。
2期後半から「民族的な争い」が淘汰されて優劣が決まり、納まる。結果としてその優劣により「民族間融合」(「民族氏」の乱立)が始まる。
3期前半で小単位に成った「民族氏」間の争いへと変化して行く。
3期後半では「民族氏」は終局して、更に「融合政策」を実行して新たな「融合氏」は爆発的に変化する。これを以って目を外に向け「防人」「烽火制度」「水城」「山城」等の防御システムに観られる「国境警備体制」が整えられる。 
第4期前半では国内的に経済的、政治的な理由から「移動、移民、難民、帰化」が限界と成る。
第4期の後半では「氏融合」は進むが、新たな「他民族の難民」の流入は「氏融合」の弊害と成り処置が困難と成る。
第5期前半では主に九州全域を政治、経済の運営を一手に帰化人末裔の大蔵氏に「遠の朝廷」として「錦の御旗」を与え「太宰大監」にし全権委任して九州全土の安定化に大成功する。
第5期後半では「武力難民」が多発する中で軍事的な防御力で成功する。

国内的にも「氏融合」の結果「藤原氏」等の「源平籐橘」系列での「氏の優劣」が整い安定化する。それに合わせて「律令国家」に伴なう「氏家制度」の国体が整えられる。
この5期の成功で大蔵氏(個人的には種材なる人物)は”武人の誉れ”の氏として賞賛される。
その中でも「大蔵種材」は日本の守護神と崇められ多くの武人の模範とされた。そして、神を護る仁王像や四天王像の彫刻のモデルとも成った。

  「参考:氏数の変化」
家紋数と氏数の平均(資料に残る主要氏)
奈良期20位
平安初期40位 中期80位 末期200位 
鎌倉中期800位
室町初期1200位 中期80位 末期200位
江戸初期2000位
明治初期8000位  

(数字は氏の真偽判定が困難の為、室町期からバイアスが大きく計算で大きく変わる)
(氏姓制度が決まる前は「氏の概念」は無く5世紀中期では民族的な集団生活を基本としていた)

  「大蔵氏と坂上氏の勢力範囲」
この史実の事は、当時、国内ではこの第4期から起こった事に国民が心配し大政治課題に成っていた事を端的に物語るものです。それは「民族氏」ではなく「融合氏」単位に対する意識が大きかった事や、それが「渡来人の大蔵氏」であった事、国民が挙って賞賛する事が「渡来人意識」が無くなり「氏の融合」が完成に近い状態である事が検証出来る事件でもあります。
更に、これに加えて、この大蔵氏の兄は「坂上田村麻呂」であり日本一有名な人物で日本全土を初めて「征夷大将軍」として征圧させ、「日本の国」を統一(氏の融合を意味する)させたとして朝廷軍の「武家武人の頭領」と称号を与えられた人物です。後にこの事で「征夷大将軍」の称号と「武家の頭領」の身分は「幕府樹立の条件」に成った程の事なのです。
これらは「氏の融合」の完成と後の「政治体制」(民族氏では成立しない)を決めた要素となったことを物語ります。
つまり、何と渡来人の後漢の阿多倍王(日本名:高尊王 平望王)の末裔が、朝廷の命により自ら西に太宰大監「大蔵氏」、北に征夷大将軍「坂上氏」の兄弟が日本全土を制圧し、遂には天智天皇が「大化改新」で初めて採った「氏の融合政策」の実行は、彼等一門の主な努力で「氏の融合」の完成を成したと云えるのです。
  「以西と以北の融合勢力」
この事だけでは実は済まないのです。では平安時代には西と北の真ん中はどうなったかの疑問ですが、実は同じ渡来人の後漢の阿多倍王の支流末裔で「阿倍氏」の末裔子孫(阿部内麻呂や阿倍比羅夫で有名)と、中部東北に掛けて同じく三男の「内蔵氏」の末裔子孫の2つの親族が関西と中部域を勢力圏とし、その一族の筆頭末裔の平氏(たいら族 5代後の平清盛で有名)等で「氏の融合」を構築したのです。
  「中部関東域の融合勢力」
又、他氏ですが、東は「斎蔵」(斎藤氏)を担う藤原北家一族秀郷一門361氏が「日本一の氏」と成って中部関東域で、又、母方で「藤原氏」と「たいら族」の「2つの血縁」を引く天皇家第7世族の「坂東八平氏」らにより「氏の融合」は完成させていたのです。
そもそも、「桓武天皇」が母方の阿多倍一族を引き上げて賜姓するにはそれなりの家柄身分の裏づけが必要です。そこで、中央に於いて藤原氏の血縁を持ち、且つ、坂東に於いて赴任地に居た国香、貞盛ら阿多倍一族等との「血縁融合」が部分的に進んでいた皇族系の「第7世族」「ひら族」(坂東八平氏)の呼称に習って、この「2つの血縁」(藤原氏とひら族 融合氏)を間接的に受けている事を根拠に、賜姓時に「たいら族」:同じ漢字の「平氏」として呼称する氏を与えたのです。

(国香、貞盛の親子は下総、常陸の追捕使、押領使を務める 坂東八平氏と血縁 「独立国」(たいら族国家)を目指した仲間同僚の「平将門」の乱鎮圧)
  「桓武天皇の父方母方のジレンマ」
「桓武天皇」は彼等の努力に依って「律令」による「国家完成」が成し遂げられた事を考えて、「天智天皇」より始まった5代続いた「天皇家の賜姓慣習」がありながらも、それに反する「皇親政治」を標榜するの父方(光仁天皇)の「青木氏」(「天智天皇」の子供「施基皇子」の子供の「光仁天皇」)で賜姓せずに、母方でもあった「阿多倍一族」を賜姓してより「氏融合」を図ったのです。
このままで行けば「阿多倍一族の単独的な勢力化」に繋がり、反って「乱れ」に成り「融合」が果たせない事を懸念して、敢えて「父方派(青木氏と藤原氏)]と「母方派(阿多倍一族)]とを競わせる事を目指したと考えられます。(父方の青木氏は衰退する)
「桓武天皇」には「父方と母方」、「皇親政治と律令政治」、「氏の融合の可否」の「3つの選択」が伸し掛かりかなり苦しい選択であったと考えられます。
この時、朝廷では「桓武天皇と長男の平城天皇」派の「改革派」と、「次男の嵯峨天皇と青木氏」派の「保守派」とが「賜姓の路線争い」で「同族間の骨肉の争い」が「官僚と豪族」を巻き込んで起こったのです。
結局、「桓武天皇」が母方の上記した「政治、経済、軍事」を背景とした「強力な後押し」もあり、勝利の象徴として「賜姓」を「天智天皇」からの「第6位皇子」の「賜姓慣例」を廃止し、彼等に「たいら族」と賜姓したのです。これが後に「国香」と「貞盛」親子から5代後の太政大臣「平清盛」と発展したのです。”平氏に在らずんば人に在らず”と云われる程に旺盛を極めたのです。
つまり、桓武天皇の「政治目的」の「氏の融合」が反映されずに成ってしまったのです。
しかし、この間、保守派の「嵯峨天皇と青木氏」派は手をこまねいていた訳では無いのです。
「嵯峨天皇」は兄の反対派「平城天皇」(不思議に病気を理由に2年後に退位 退位後活動)に続いて「皇位」に着くと「天智天皇」が採った「氏の融合策」の「賜姓」策に戻し、「第6位皇子」を「源氏」と変えて賜姓したのです。
そして、5代続いた「青木氏」は皇族の者が臣下又は下族する際に名乗る氏名として詔を発したのです(対象者18人)。これが11代続き「花山天皇」まで「氏の融合策」の「賜姓」策は続いたのです。
この間、11代の天皇は「融合策」は採りつつも、「平族」は益々勢力を高めて「賜姓源氏」や「賜姓青木氏」を凌ぐ力を持つのです。
終局、5代続いたこの「平族」(たいら族)は「全国的」に「積極的」に「管理された融合策」を採らなかった為に1185年滅亡する事に成ります。
「全国的」に「管理された融合策」を「積極的」に採った「賜姓源氏」と「賜姓青木氏」は生き残ったのです。ここに大きな違いがあります。
「清和源氏」と「嵯峨源氏」と「村上源氏」と「宇多源氏」の4氏が生残ったのです。
しかし、「賜姓源氏」は11代続くにしても、結局、最大勢力を維持した「清和源氏」が鎌倉幕府3年後に第7世族の末裔「執権北条氏」と「坂東八平氏」に依って滅ぼされて子孫を遺せず滅亡します。「氏の融合」拡大とは裏腹に元を質せば天皇家の同族に潰されたのです。
結局、村上源氏(傍系北畠氏)と宇多源氏(滋賀佐々木氏)と清和源氏(清和源氏宗家 青木氏)が子孫を僅かに遺したのです。(北畠氏も結局織田信長に滅ぼされて滅亡する)

  「4つの青木氏の血縁と絆」(重要)
特に青木氏に於いて検証すると、青木氏は近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐で29氏、母方で、藤原秀郷流青木氏として24地方で361氏と拡がったのです。この29氏と361氏の390氏は清和源氏の宗家頼光系と分家頼信系で「氏の融合」を果たし血縁して遺しているのです。

 「血縁融合」
1「皇族賜姓青木氏」と「皇族青木氏」 29氏
2「藤原秀郷一門の青木氏」119と「青木氏血縁氏」 361氏

これ等は「2つの血縁融合」です。
青木氏には他方次ぎの様な「2つの無血縁融合」の氏が融合形式を採っているのです。

 「無血縁融合」
3「未勘氏結合」「社会的結合」(何らかの社会的な縁にて結合している氏 遠縁関係等)
4「第3氏結合」「生活圏結合」(限定する域内で生活を共にする氏 村民関係)

これ等が「2つの無血縁融合」です。
1から4までを「4つの青木氏」と呼ばれます。

参考
記録調査から分析分類すると、3の「未勘氏結合」の青木氏の中には、その割合は不確定ですが次ぎの「4つの青木氏」が観られます。
A 室町末期に立身出世した者の先祖が、次ぎに示す兵役に着いていた事の「口伝」をたよりに「絆」を基盤とした「絆氏」。
B この期に「皇族賜姓青木氏」や「秀郷流青木氏」と密接に網の様に繋がった家臣一族の末裔が青木氏との「絆縁」を基盤として名乗った「縁者氏」。
C 「2つの血縁」の青木氏が「青木村組織」「家臣組織」で「優秀な者」や「氏」に大きく「貢献した者」に「青木氏」の姓を名乗らせる「養子方式」の「養子氏」。
D 「2足の草鞋策」でその「職能組織」を支え貢献し職能を引き継ぐ優秀な者に青木氏を与えた「職能氏」

これ等AからDは、1から4の「4つの青木氏」を基盤から固める為に「より幅広い子孫を遺す目的」で行われたものです。
AからDの「絆氏」「縁者氏」「養子氏」「職能氏」の「未勘氏結合」の中でも「4つの未勘氏の青木氏」が鎌倉末期から室町中期に始まりあった。
この「無血縁」ではありますが、形式的な「養子方式」でもあり、一種の青木氏独自の「賜姓方式」でもあった事になります。
恐らくは、青木氏が歴史の厳しい中で「源平藤橘」がほぼ滅亡している中で、「2つの血縁」の青木氏390氏もの氏が生き残れた事から観て、下支え無くしては殆ど無理である事は明白であり、このことから判断しても「未勘氏結合」の少なくとも5割はこのAからDが占めていると観ています。

実は筆者の伊勢青木氏にも「養子氏」Cの青木氏が3氏確認できる範囲では知る事が出来ます。
その内の2氏の青木さんが「ルーツ掲示板」に投稿あり、残りの1氏は末裔の人(元は藤田氏 明治初期)を口伝で承知しているが、相手は筆者の特定の先祖の名前を始祖だと発言している。筆者がそのルーツの跡目者である事を知らない。「青角字紋」の青木氏はこの「職能方式」の一種の賜姓の青木氏であります。
以上の3つの傾向も「個人の由来書」などから強く観られます。

これの氏の占める割合がどの程度であるかは把握困難ですが、鎌倉期以降には乱世である事から、「血縁融合」だけではなく「優秀な者」を「青木氏」として育て「絆融合」でも「団結」により「青木氏」の生き残り策を構築したものと観られます。
これは平安末期から採った「2足の草鞋策」(経済的)には、特にこれらの「優秀な者の力」を必要とした事から起因していると考えられます。
又、源氏が滅亡する鎌倉期から始まった、青木氏に起こる「乱世」を生き抜くための手段としても又、武力的にも、下記の縁の繋がりの「絆融合」も必要であってその為にも「組織の上位」の「優秀な者」を賜姓して固めたと考えられます。
これは「皇族賜姓青木氏」と「母方血縁の秀郷流青木氏」と云う「2つの朝臣族の立場」が成せる業であった事によります。つまり、下記の官職から来ていると観られるのです。
  「青木氏の永代官職」
「六衛府」(左右近衛府、左右衛門府、左右兵衛府)と(左右衛士府)の宮廷軍があります。
この「宮廷軍の指揮官」が「皇族賜姓青木氏」で、後には平安中期には「源氏」と「藤原秀郷流青木氏」もこの「指揮官」の任に着いたのです。
この1と2の青木氏は「衛門」と「兵衛」の官職名の永代名が付いたのです。
賜姓臣下した青木氏のこの役目を「侍」と呼ばれたのです。そして、この「侍の氏」を「公家に対して同等の家柄として「武家」と呼ばれたのです。
この「侍」は「国侍」(真人侍)と「院侍」(貴族侍)と「家侍」(公家侍)に分けられます。
(江戸時代は「武士」は全て「侍」で「武家」と呼称される様に一般化した。その為に金品で一台限りの官職名が朝廷より授与されたが末期以降には誰でもが自由に付けた)

それぞれの兵は概ね次の役目を平時は担っていました。(左右の兼務含む)
「六衛府軍」」(左右の兼務含む)
1 近衛府軍は貴族など高位身分の者の子弟を集めて兵とし軍を編成 天皇の護衛軍 全般
2 衛門府軍は諸国の国司等の上級官僚の子弟を集めて兵とし軍を編成 主に左右宮廷門の警護軍
3 兵衛府軍は諸国の郡司等の中級官僚の子弟を集めて兵とし軍を編成 主に行幸等の警護軍
(平時はこの任に就く 非常時は天皇を直接護る護衛軍の任に就く)

「衛士府軍」(左右の兼務含む)
4 衛士府軍は諸国の役所の衛士を徴発して軍を編成 宮廷内各所の巡視をする警備軍。 
(明治期の庶民から成る近衛軍は元はこの衛士府軍であった。)

つまり3と4(「未勘氏結合」「社会的結合」、「第3氏結合」「生活圏結合」)に於いても「室町末期(1期)、江戸初期(2期)、明治初期(3期)の「3つの混乱期」で青木氏が大きく拡大しています。
「2つの血縁融合」の青木氏に対して、集団を形成して住む村(青木村)又は郡で生活をともにした家臣や農民や庶民の「絆」を基にした「生活圏結合」と、血縁先の縁者と間接的な血縁状態になる「未勘氏結合」がありますが、この「2つの無血縁融合」に依って他氏には観られない「幅広く重厚な青木氏」が大きく構成されているのです。
つまり、「血縁」を絆とする「2つの血縁融合」と「社会」「生活」を絆とする「2つの無血縁融合」で構成されているために子孫は上記した様に遺せたと観られます。

「血縁の絆」と「生活の絆」の何れもが「融合の優劣」に無関係であります。
筆者はこれを丁度、「鶏の卵関係」と呼んでいてこの事が子孫を遺せた条件と観ているのです。
数式にすると覚えやすく認識しやすいので何時も原稿にはこの様にまとめて記録します。

ここでそもそも「氏」の起源についてより理解を深めるために更に述べておきます。
そもそも、この氏と姓(かばね)付いては記録としては次ぎの様なものがあります。
  「氏と姓の書籍」
最古のものとしては、「日本書紀」には「氏」に関する事が書かれていて、「舎人親王」が編集の氏系図一巻が添えられていた事が「釈日本紀」にあります。
大化期の国策が「氏融合」を前提として進められていた事の証明です。
次ぎに「釈日本紀」の系図を前提とした「上宮紀」、「古事記」「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「文徳実録」「三大実録」
嵯峨期の「新選姓氏録」とその元と成った「氏族志」は体系的にも完成度が高く有名です。
個人の古い信頼される範囲では「和気系図」「海部系図」があります。
南北朝期には「尊卑分脈」があり公家武家の系図であります。
鎌倉期には個人の系譜として「中臣氏系図」「武蔵7党系図」
江戸期の各藩が競って編集したものでは「新編会津風土記」「上野国志」「新編常陸国志」「新編武蔵風土記」「尾張志」「丹波志」「芸藩通志」「防長風土記」などがありますが、その編集の前提がそれらの氏家の系譜を信用しての編纂であるので、家柄身分誇張の風潮下、搾取編纂、疑問点も多く概要を知る上ではその価値には配慮が必要なのです。
新しくは江戸期には「寛永諸家系図伝」「諸家系図纂」「寛政重修諸家譜」があります。

上記した限定された資料の中で、立身出世した者の個人の家の系譜まで詳細に記録されたものは無い訳であり、そこまで社会体制が整えられていなかったし、その系譜元としている平安期の氏は「皇別、神別、諸蕃」の主要な範囲のものであり、青木氏、藤原氏等と異なり「個別系譜」を造れる「資料環境」ではなかった筈です。この様な系譜資料には共通するある特徴とパターンが垣間見られるのです。ただ、特記するは研究過程でのその「系譜の使い方」ではそれなりの意味を持ちます。
室町末期より江戸初期に掛けての資料には歴史的な混乱期の3期が介在していて配慮が必要なのです。
そこでそれを効果的に使うとする次ぎのような歴史的な氏の編成拡大の経緯を把握しておく必要があるのです。
本文の参考となるのは「新撰姓氏録」です。これによると1282の「氏姓」があり、京畿内のもので「氏姓」は、4種から成り立っています。
「皇別」
「神別」
「諸蕃(民族氏の渡来人、部氏含む)」
「未定雑姓(末梢氏、枝葉氏)」
以上4種からなるものです。

これは815年編ですのでその編成過程は明確になっています。
この「1182」の数字は「本文の氏数(20−40−80−200)」とは算定の基準が異なり、本文は「象徴紋、家紋」からの算定とするもので、「部氏」と「未定雑姓」が含まれて居ないものです。
本文のものは論じるために確立した「氏」集団を構成する単独単位として計算されたものです。
依って、「諸蕃」の内「民族氏」の一部有力氏は含まれますが、これらの氏として確立したのは平安末期から室町期に掛けてと成ります。

「氏名、姓名の呼称」
そもそも、「氏」と「姓」に付いてその発祥経緯を把握しておく必要があります。
奈良期初期450年頃には朝鮮半島から応仁王が船を連ねて難波の港に攻め入ってきます。
この時戦いが起こり、古来から存在した5豪族との連合国軍と戦います。先ず「紀氏」が潰され紀州南紀から山伝いに奈良に入ります。葛城氏等の連合軍と戦いますが決着が付きません。そこで協和会議を開き、応神王を初代王として連合体形成による初期の「ヤマト(大和)王権」を成立させたのです。
この時まで「氏姓」は原則としてこの応神期までにはありませんでした。
この「氏姓」は次ぎのプロセスを経て成立するのです。

  「氏の構成形態」
当時の「氏」そのものの構成形態の経緯は次ぎの様に成ります。
地域の「民族的集団」が「一定地域枠内」で「集団生活」をし、その「最小集団」が相互に「血縁」を繰り返し、「血縁性」の「家族性集団」を先ず造ります。
次第に出来る「血縁が高い集団」毎に「小集団」、「中集団」、「大集団」が生まれその集団毎に結集して行きます。
このそれぞれの「血縁性集団」が互いに結束して他に出来た「血縁性集団」から自らの「血縁性集団」を護る為に「防衛」と云う「共通目標」が出来てその「集団防衛体制」が出来ます。
この「集団防衛体制」を敷いた事から、其処にその「集団」を指揮する「首魁」が生まれます。
この「大小集団の首魁」を中心に「集団防衛体制」と云う「共通目標」でまとまった事からこれを「氏」と呼ばれる様に成ったのです。
しかし、ここではまだ「民族性」が強い集団の「民族氏」を作り上げただけなのです。
「防衛」と云う「共通目標」の集団単位=「民族氏」
この「民族氏」には当然に集団の大小が生まれます。
その防衛集団の「首魁」を「氏上」とし、その「血縁者」を「氏人」と呼ばれる様に成ったのです。
ここから第2段階が起こります。
その集団には子孫末裔の「氏人」が増え、更にこれが血縁活動に依って「分散独立」して、新たな「民族氏」の小集団を構成します。この「終結 分散、独立」を繰り返します。
この「民族氏」は今度はより「血縁性」を基準としての他の「民族氏」との血縁を繰り返してゆきます。
多少の血縁性を持ちながらも「防衛」と云う「共通目標」で結びついていた形態から出来た「民族
氏」は、今度は発展して「血縁性」を主体にして「終結 分散、独立」を繰り返して行きます。
次第に「血縁関係」により集団が大きくなり、数も増して「結束力」も大きく成って行きます。
「枝葉の定理」で「血縁」と云う「共通性」の集団単位=「氏」の単位に再編成が起こります。
この「民族氏」の「氏集団」の「相互間の血縁」が進むにつれて「呼称」が必要となります。
臣勢族、葛城族、紀族、平群族、等と互いに「呼称」に伴い「族」を形成して行きます。
「血縁関係」を基準として「呼称」は「・・族」の「・・氏系列」の「枝葉の系列化」を生み出します。
最初はそれらの「民族氏」の「氏族」が「由来のある地名」で呼び合った事から大集団の「族名」が出来ます。
大集団の中は、その「集団生活」の「族名」の中の「一集団」を「氏」として呼称される様に成ります。この様に「大集団」の族の中に多数「氏名」が出来ます。
「民族」−「朝鮮族」−「百済氏系列」−「蘇我氏」

更にはその「一集団」を構成している「家族性」の「最小集団単位」にも呼称として地名等の「姓名」が付けられて呼ばれる様に成ったのです。
「民族」→「朝鮮族」−「百済氏系列」−「蘇我氏」→「姓名」
ただこの時、「大集団の首魁」だけがその集団の「民族名」を採って単独で「民族氏」として進んだのです。つまり、首魁が宗家として「民族氏」のままで「血縁」(純血性)を保ちます。
その族の氏の首魁が「氏上」と呼称される様に成ります。
  「首魁」初代「応神大王」
飛鳥期に於いてそれぞれの族の「民族性」を持つ「臣勢族」、「葛城族」、「紀族」、「平群族」、等「大民族氏」の元と成った「氏族」の「大連合体」(大和)があり、そこには「総合血縁氏の大和首魁王」(飛鳥前の大和地域の王:天皇家の祖 出雲など各地に大小の首魁王が居た)が居た。それに対して渡来した「朝鮮族の首魁:応神王」が血縁する事で「民族氏の連合体+朝鮮族」が完成し、「ヤマト王権」を樹立させた。初代「応神大王」が誕生する。
結局、「連合体+朝鮮族」により大勢力を得たこの「ヤマト王権」が次第に中部南−関西域を制圧した。中国地方と中部北北陸域の一部を聖域としていた「出雲首魁王権」を吸収し血縁してヤマト王権に統合した。
その系列(後の天皇家)末裔には「朝鮮族」の「物部氏系列」と「蘇我氏系列」の2系列があり、この2つの系列は上記「氏の構成形態」の循環作用で集約されて遺されました。
つまり、渡来人初代大王の末裔この二つは「朝鮮族」の「民族氏」の形態を持っている事に成ります。
この二つの「朝鮮族系列」は更に「神別派」と「皇別派」に上記する様に「集団分裂」して行ったのです。
そして、元から大和圏に古来より居た強く「民族性」を持つ「民族氏」形態の「大和4族」は「2つの朝鮮族系列」と「相互血縁」して「一つの政治大集団」を形成して速やかに「ヤマト王権」の「連合体の体制」を維持したのです。
参考
神別系・・・物部氏系列→ 血縁族・巨勢氏系列 葛城氏系列(にぎ速日命族)
皇別系・・・蘇我氏系列→ 血縁族・平群氏系列 紀氏系列(武内スクネ族)

 参考 「日本民族の体系」
(研究室 日本民族の構成と経緯 参照)
「中国系民族」、九州全域と中国全域 −関西西域
「朝鮮系民族」、九州北部域と中国西域−関西西域と関西北域
「太平洋系民族」、九州南部域と九州中部東域と紀州南部域−北海道南沿岸域
「北方系民族」、東北北陸全域と北海道域−中部北山間域
「東アジア系民族」、九州北部域と中国東域と北陸域沿岸域−中部西山間域
「南アジア系民族」、九州北部域と九州南部域と九州東域−紀州南部域
「在来族系民族」、日本全域沿岸域東西南域−関西中域 (縄文民族 弥生民族) 

 参考 「民族移動の手段、理由、条件」
これ等は入国場所の地域には次ぎの関係によりそれぞれ特徴ある分布をしました。
船、 移動できる手段
黒潮、海洋を渡る手段
温暖、定住できる環境地
海山物 食料を確保出来る地域
地形 集団が安全に住める土地環境
大陸 大陸との移動する距離関係
外国動乱 移動する理由
先住地 他民族地域外の土地

この「7つの民族」は「生存競争」により上記経緯形態で「集団形成」しながら「特長ある流れ」を示しながら「民族性」に依って分布しました。
「ヤマト王権」の「民族氏」がどの上記「7つの民族」のルーツを持っているかは資料が遺されているレベルでは無いので確実な判断が着かないのですが、「コルボックス」から始まり「民族移動の手段と条件と理由」を複合的に考慮すると大方の判断が出来ます。
取分け関西全域は初期からやや年数経過後の飛鳥時代には最終「7つの民族の坩堝」と成り、上記の「民族集団形成の経緯の形態」が顕著に現れた所です。
一方、九州全域は初期の段階から後期の1020年代まで民族流入が留まらず「民族移動の手段、理由、条件」が全て合致する要素が備わり、北方民族を除く全ての民族流入が起こった地域でありました。
それだけに、本文の様に「先住・移民族」−「民族」−「氏族」−「民族氏」−「融合氏」までの過程を検証する場合は上記したこの「2つの地域」の様子を比較しながら詳細に論じる必要があるのです。そこで本文は史実が明確になるところの大化期前後のこの「民族氏」から「融合氏」へと転じて行く過程を通じて「青木氏と神明社」を論じています。
その前の「民族氏」に変移する経緯経過の事前情報を提示しています。

参考
恐らくは、初期は九州の「邪馬台国」の卑弥呼時代前後3世紀初期から後期の4世紀後半の「ヤマト国」へと変化したのは「九州−関西」への押し出される様な大規模な「民族の移動過程」があったのではと考えています。現実に、史実が確認出来る大化期に成ってでもこの「押し出される現象」は止まってはいないのですから、この事を考慮すると、「卑弥呼問題」は「卑弥呼の墓の判別」の確定論に成るのではないでしょうか。
「九州−関西」への押し出される様な「民族の移動過程」がある限りは「奈良ヤマトに卑弥呼説」は「九州−関西」の民族の「流」の「自然の摂理」に逆らう事は困難である事から納得出来ないのです。この世の誰も除し難い「自然性」への考慮が欠如していると考えています。
あるとすれば、当然に「自然説」から離れて「事件説」以外には無い事に成ります。
「事件説」と成れば、卑弥呼は九州での死亡はほぼ確かですから、「ヤマト王権」から「大和政権」に以降前、「正統性」と「統一性」を確保させる目的を以て、「邪馬台国」が滅亡していて放置されていた「卑弥呼墓」を、また九州に「続々民族流入」が起こっていた事も含めて、応神大王」の子の「仁徳天皇」が九州討伐後に「ヤマト」に移したのではないかと考えられます。

(注 「応神大王」を「応神天皇」と呼称したのは後の事で正しくは次ぎの下の国の変移:経緯から「応神大王」が正しい。)
(「民族集団」−「ヤマト族連合体」−「ヤマト王権」−「大和政権」−「大和朝廷」:国体変移)

  「氏と姓の違い」
次ぎに「未定雑姓」と呼ばれるものがあった事は余り知られていないのですが、実はこの「最小単位」の「家族性小集団」の呼称名が「姓」(かばね)としてあるのです。
大集団から小集団の「氏」が出来、それを同等に扱うのではなく、更にランク付けする為に下の小集団は「氏名」で呼称されずに「姓名」で呼称されていたのです。

大集団の「氏」には臣(おみ)、連(むらじ)中央の大豪族

中集団の「姓」には君(きみ)、直(あたい)地方の中豪族
小集団の「姓」には造(みやつこ)、首(おびと)地方の小豪族

これ等の「氏」と「姓」の区別は、大小は区別されていたが、中に位置する豪族の血縁集団はむしろ明確にされていなくて「直」までを「氏」と見なす事もあり、逆の事もあったのです。
この考え方は当時の常識で「中間」は何れともせず何れともすると言う認識であったのです。

特に、大集団の「氏」で「執政官」の「氏」には更に「大」(おお)を付けて分別したのです。
中の集団から執政に関わった「姓」には「夫」として「大夫」(まえつきみ)と呼称したのです。
この役職には大化の国策を特別に監視する御使大夫(ごしたゆう)が在りました。
小の集団から執政に関わった「姓」には「史」(ふびと)と呼称したのです。
これには後漢阿多倍の一族一門(渡来人)が大きく関り、彼等の持つ進んだ「政治専門職」を生かしての事だった為に小集団であっても特別に「史部」(史:ふびと)と呼ばれたのです。これでも阿多倍一族一門が特別な扱いを受けていた事が判ります。
更には、これに属さない渡来系の「家族性集団」(村の長)には村主(すぐり)の「姓」で呼んだのです。阿多倍一族一門の180の「部」が日本の民を吸収して小集団の村を形成してその部の首魁が長を務めさせていた事を示すもので、その彼等の持つ「政治専門職」を積極的に活用して国策に生かした事がこれでもも判ります。
在来族の郡や県などの「中小の家族性集団」には「造主」(くにのみやつこ)や「県主」(あがたぬし)「郡司」(こおりつかさ)と呼称されました。
この「氏姓」は民族のランクにより国体を造っていた事が判りますが、この様に明確に「民族性」(「民族氏」)がまだ強く持っていたのです。
そこで「大化改新」でこの「民族性」を無くさなくては「国の安寧と安定と発展」が無いとして「国策」として「氏融合」を図り「民族性」を無くそうとしたのです。
これが、「氏」のランクを全て「姓」に依って統一して「八色の姓」制度に変更された理由なのです。
  「八色の姓」
真人(まさと)、朝臣(あそん)、宿禰(すくね)
忌寸(いみき)、道師(みちのし)
臣、連、稲置(いなぎ)

第4世第4位皇子までを「真人族」に。
皇族系血縁族で第6位皇子までを、「朝臣族」に。
前の王族血縁族の「連、臣」までを、「宿禰族」に。
前の「君、直」と「渡来系族」とを、「忌寸族」に。
前の「造、首」までを、「道師族」に。

実際には「道師」以下の「姓」は授与しなかったのですが、朝廷に帰属する「官僚」には別制度で対応したのです。 
これは大化期の「臣連」は前の「臣連」と連想させる事が起こるとして保留したのです。
現実には、制定当初は関西以西に定住する渡来族系の「枝葉の民族氏」が国策に従い「融合氏」に成ると予測していましたが、現実には上記に論じた様に「独立」と言う方向に動き始めていた事から保留したのです。しかし、大蔵氏にだけは「遠の朝廷」「錦の御旗」「太宰大監特」等の別な身分で応じました。
関西以西の阿多倍一族一門の「枝葉末裔族の氏」には姓は正式に与えられていない事から検証出来るのです。

これでも明らかに「時代の変化」に合わした「制度変更」である事が判ります。
「皇族系」と「臣族系」との2つに身分家柄の分離・・「皇室族」。
「阿多倍一族」の国策への著しい台頭が影響と「物造り」と「朝廷軍策」・・「渡来系族」
「氏融合」策「3つの発祥源」の賜姓策(皇親政治補佐青木氏) 自衛近衛軍・・「朝臣族」
「皇親政治」の「皇族」の重用・・「真人族」
「旧来の氏族」「臣連族」を上記3つの族の中間に据えた・・「宿禰族」
「旧来の姓族」「造首族」で「官僚体制」構築、即ち「律令政治」に向けた。・・「道師族」
以上にてこの制度でも「氏融合策」のその方向性が判ります。

これ等の制度の「姓」の集団には、「氏」と「姓」とに身分家柄を分けていましたが、大化後には「氏」に対して統一して全て「姓」として身分を定めその集団の呼称「姓名」を定めたのです。
其処で「氏融合策」から新たに出る青木氏を始めとする「融合氏」を大化期以後の新しい「氏」としたのです。つまり、それまでの「民族氏」から離脱して「融合氏」を「新氏」と定めたのです。
この制度をより身分家柄を明確にし「氏姓」に権威を与えて「融合氏」の拡大を促す為に、原則を越えて「柔軟な運用」で「姓」以外の村とか郡の「小集団の首魁」にもその勲功功績に応じては広範囲に与える「爵位制度を」定めます。所謂、「爵位制度」にも「やる気」を起こさせ「氏融合」策を末端根底から起こさせる試みを導入したのです。

  「爵位制度」
明位は二階、浄位は四階、これを「大」と「広」に分ける 合わせて十二階 王階級に授与
正位は四階、直位は四階、これを「大」と「広」に分ける 合わせて十六階 渡来系と重臣に授与
勤位は四階、務位は四階、追位は四階、進位は四階 これを「大」と「広」に分ける 合わせて三二階 諸臣の位として授与
以上が爵位制度です。

  「氏姓授与の実態」(運用実績)
一応は授与する位が定められているが、正位からに付いては「日本書紀」では授与された者はこの位に限らず「柔軟に運用」していて、「国内の郡や村の長」のみならず挙句は「百済等朝鮮から来た者達」にも十数人の単位で与えています。
問題は阿多倍一族末裔(部の首魁にも)には「直位」を授与している事で如何に重く扱っているかが判るところです。
第4世王までの王族にはその天皇に近い順に授与しているのですが、興味ある事は原則皇位順位であるのに、よく観ると天皇に実力的に如何に王族として貢献したかに依って異なっているのです。
例えば、天武天皇の皇太子が最も高い位になる筈ですが、天智天皇の子供の施基皇子(伊勢青木氏祖)が皇族の者の中で最も天皇に近い「浄大1位」次ぎに天智天皇の川島皇子(近江佐々木氏祖)、天武天皇の長兄の高市皇子が最終「浄大2位」に成っているのです。
これは日本書紀にも記録されているところですが、この3人が最も天皇に代わって働いている事でも判る様に「改新の国策」を推し進める為にも「実力主義」が徹底されていた事なのです。
皇太子草壁皇子が本来仕切る政治を施基皇子と高市皇子が仕切っているのです。
代表的な例として、天武天皇が死去した時の職務代行の仕切りとその葬儀まで施基皇子が行ったのです。その後も主に施基皇子と高市皇子と川島皇子が皇后を補佐しています。
我等全青木氏の始祖施基皇子がこの動乱期の「融合策の国策」に「3つの発祥源の祖」として全責任を持って取り組んでいる事を証明しているのです。
この事は、上位の「姓氏」だけではなく名もない末端の下位の小集団の「政」に関った勲功功績を残した首魁にもこの爵位を運用して与えたのです。

この「実力主義」を貫いた「柔軟な運用」の「2つの身分家柄制度」(八色と爵位)の相乗効果が大きく奏して、それの実績を証明する記録として、大化期から180年後の嵯峨期の「新撰姓氏録」に記録されているのです。
100にも満たない「姓氏数」が何と1182にも拡がったのです。
つまり、要はこの記録を”何の目的で作ったのか”です。
行き成りの「姓氏」の記録ですから、「嵯峨天皇」は「桓武天皇」と「路線争い」の戦いまでしてこの「記録」を造ったのは、「皇親政治」に戻した結果を証明したかったのではないでしょうか。
それは総合的に観ると、「阿多倍一族一門」の台頭が進む「桓武政治」の余波が依然続いている環境の中で、「国策」を「一つの形」に遺したかったと観ています。
どれたけ「国の安定と安寧」の国策(「民族氏」から「融合氏」 「物造り」)を観る上で最もそれを的確に表現する事が出来るのは「新撰姓氏録」(1182)であるでしょう。
わざわざ「新撰」と呼称している位ですし、「姓録」でよかった筈です。そこに「氏」を付けた呼称にしたのは「皇親政治の国策」「融合氏」の結果を求めたかったと考えられます。
「桓武天皇」の「法」に基づく「律令政治」に比較して「法」を定めるにしてもその運用に「皇親政治」が働く「国家体制」を標榜しての争いであった訳ですから、大化期からの第1期の皇親政治の功績を政治的には明確にして置く必要があったと考えられます。
皇親政治を否定し律令そのもので国家の基本運営を標榜する桓武天皇であったからこそ、皇親政治の基と成る賜姓制度では矛盾を孕む問題である為に、「政治と経済と軍事」中枢の官僚6割を占める民族氏集団(一般の阿多倍一族一門 母方族)から賜姓を行って、その「律令政策」を作り運営している彼ら一族を政治の根幹に据えたのです。
ただ、「物造り」策に付いては「桓武天皇」は推進しているのです。「財源論」は賛成していることを示すもので、「政治手法」(皇親政治−律令政治)が異なる議論が朝廷内で2分して争った事と成ります。
参考
本文は平安期までのものとして論じていますが、結局は、嵯峨天皇期の第2期の「皇親政治」(809-850)に続き、院政が始まる手前の後三条天皇期の第3期の「皇親政治」の終焉(1070年)まで続く事になりますが、この後末期は「伊勢北部伊賀基地」の「平族」や「大蔵氏」の台頭(112年間)は抑えられなかったのです。
後三条天皇は「大集団化の融合氏」象徴の「荘園制度」を見直して最大ピークに成った頃に「荘園整理令」を発して矢張り「皇親政治」を敷いてこの「大集団化」を押さえ込みました。これにより朝廷の政治は一時落ち着き経済的な潤いが生まれます。
この様に、何か大改革を天皇が成そうとすると、必ず「皇親政治」を強いています。
これは、官僚の6割が阿多倍一族一門末裔が占め「政治経済軍事」の3権を握っている事が原因していて強く反発を受け推し進められなかったのです。
この時は250年経っていても「律令政治」が完全に敷かれているのですが、矢張り無理であったことに成ります。それは「律令政治」は「官僚政治」でもあるからです。
それどころかこの「官僚政治」を推し進める彼等の利益集団化した「荘園制度」もこの結果彼等に牛耳られてのもので、天皇家は政治経済軍事の面で次第に弱体化して行ったのです。
まして「公地公民」であった「部の組織」も「軍事」もいつの間にか「荘園」に「大集団化した氏」が集中してその配下と成り、挙句は「天領地」までも脅かされ削がれる状況と成っ行ったのです。
そもそもこの「荘園制度」は、天智天皇から始まった「氏融合」の「国策3策」が一定の進展を遂げたと観て、それらを「安定化」させる目的と「経済的裏付」を目的として政策的に打ち出したものです。しかし、その経緯、過程を観ると、本来の目的を超えて次第に独立した形態を示し始めたのです。

以上

青木氏と守護神(神明社)−4に続く。



- 関連一覧ツリー (◆ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー