青木氏氏 研究室
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  [No.275] Re:青木氏と守護神(神明社)−8
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/06/10(Fri) 10:22:12

 「美濃秀郷流青木氏の系列」

では”この美濃の秀郷流青木氏はどの系列の青木氏か”と云う問題がでます。
9系列116氏の青木氏が各地に定住していますが、116氏の中で「五つ木瓜紋」の青木氏ですから先ず美濃の中では9つ系列のどの青木氏かを確定します。
この青木氏は答えから「長沼氏系列−中沼氏系青木氏」(地理分布の詳細下記)です。
A 美濃の地理的条件と時代性の一致度
B 116氏中の「五つ木瓜紋」の位置付け
C 上記した伊勢「たいら族」と「秀郷流青木氏」
以上の3つの関係からも可能性は極めて高い事に成ります。

美濃で伊勢より側と成りますと、下記に詳細を記述しますが、現在の地名で云いますと次ぎの2つです。
一つ目は「愛知県清須市春日中沼」と云う地名があります。
もう一つは「愛知県名古屋市西区中沼町」とあります。(現在と昔との国県域は異なる)

この美濃の伊勢より西側域一帯では、この2地域に「長沼氏系列−中沼氏系青木氏」の秀郷流青木氏が幾つかの家紋を異にして集中して定住しているのです。
この場合は「五つ木瓜紋」とすると主に前者の地域と成ります。
2地域共に近接していますが、家紋での領域が異なっているのです。
この事を証明するものとして実は家紋では無く系譜から次ぎの2氏がこの「越前−美濃−尾張−伊勢東ライン上」に存在するのです。
イ 「織田氏族長沼氏」
ロ 「桓武平氏系長沼氏」

先ず、イの氏はこの「美濃−尾張地域一帯」には長沼氏族主要9氏の一つ「織田氏族長沼氏」が定住しているのです。(長沼氏に付いては研究室レポート参照)
この長沼氏は家紋を異にしていますが織田氏の血筋の入った長沼氏です。
この「織田氏族長沼氏」は「美濃平氏系長沼氏」が正しい表現と成ります。
この氏は織田氏系図に記載があります。
この「織田氏族長沼氏」は後の織田氏が系図を作った時にこの一族の事を織田氏側から命名した事によって呼称されています。
学術的には内容から「美濃平氏系長沼氏」とするべきところですが、織田氏は「越前の清盛-重盛系列」の本筋を元祖として主張している事から、一段下げた弟の教盛系列の通盛の「美濃平氏系長沼氏」とする訳には行かなかったのです。
そこで「織田氏族長沼氏」として虚勢を張ったのです。それも「系」とはせずに「族」とした自己中心的な表現にしたのです。
そして、それもこの「長沼氏」は「永沼氏」と表現されていたのですが、研究に依って「飯尾定宗」の孫「宗康」成る者が「永沼左馬進」と同一人物と学説的に判明したのです。
この者が過去の先祖の血縁した長沼氏(永承の頃1050年頃)を継承して部屋住みから脱して独立し名乗ったもので美濃に定住する一族であった事が判ります。
この者は信長の祖父信定と兄弟定宗の孫に当たります。
ところが秀郷流長沼氏はこの「永沼」を使用していないのです。
後にこの長沼氏系である「飯尾宗康」が「永沼左馬進」を名乗る際に織田氏側がある種の虚勢で敢えて「永沼氏」とした事になります。この事から学術的には「美濃平氏系長沼氏」と成るのです。

次ぎはロの氏の「伊勢平氏系長沼氏」或いは「桓武平氏系長沼氏」です。
これは諸に「氏と地域性」を明確に指定しています。
つまり、明らかに「美濃平氏系長沼氏」なのです。
この長沼氏は「新撰会津風土記」に記述されています。
会津地域一帯に分布していた長沼氏です。
呼称は「たいら族」、「京平氏」を指定し中立的に学術的な呼称を採用しています。
地域を指定していませんが、会津から判断して長沼氏と血縁できる「たいら族」は美濃平氏と成ります。
この血縁の時期は明記していませんが、この長沼氏は鎌倉期直後に会津に来たと記述されていて、その前に”何処かの「たいら族」と血縁して赴任して来て土地の豪族と成った”と成っています。
さて、その”何処か”ですが、下野国結城長沼地区(元祖は長沼五郎家政と解明)である事が文脈から判ります。
この時期に「たいら族」の血筋を得ていた事を意味し、この家政の先祖は伊勢東-美濃-尾張の地域一帯の住人である事が判明します。つまり、この地域の「たいら族」は前記した様に「美濃平氏」だけです。
この2つの「織田氏族長沼氏」と「桓武平氏長沼氏」は結局は「美濃平氏長沼氏」なのです。

前記した様に伊勢北部伊賀地方の「たいら族」の宗家は「北-東域」に勢力を伸ばそうとしていた事がよく判ります。
つまり、「長沼氏系列−中沼氏系青木氏」の秀郷流青木氏の考証は「家紋」と「地理性」と「2系図」から長沼氏本家が率先して長沼氏系列の美濃域の青木氏を援護して美濃平氏との関係を維持しようとしていた事が良く判るのです。
家紋から観て、この2系列の長沼氏からは出て来ないのは徳大寺氏の「四つ木瓜紋」との血縁をしていない事からです。依って織田氏の「五つ木瓜紋」と繋がらないのです。
恐らくこの2系列の家紋は「揚羽蝶紋」を綜紋とする平家一族の家紋群と成ります。
何れも男系継承に依って長沼氏の歴史を持ちながらも平氏族の系列に入った長沼氏であるからです。

「美濃平氏の実態」
ではこの2系列の”この「美濃平氏」とは一体何者”と成ります。
前記した様に滅亡前の「平教盛-通盛系列」の支流平氏である事を論じましたが、更に詳しくは、つまり、織田氏の「美濃平氏」には上記した様に最近判別した資料からは次ぎの「3流」ある事が判っています。

織田氏が主張する搾取偏纂の資料ではなく別の信頼できる資料から観ると次ぎの様に成ります。
「美濃平氏の3つの流れ」
1 清須地域による平家一族 (Aの地域 平常昌)
2 岩倉地域による平家一族 (Bの地域)
3 平左馬頭敏隆を祖とする平家一族(地域不明 平敏隆)

この1、2、3の内、信長は2の系列と云われています。
この「3つの集団」が個別に活動し農兵となり仕官口を求めて越前まで次第に移動し、そして遂に1の集団の「平常昌」なる人物が首領として働き先に仕官口を切り開いたのです。

重要: 常昌は斯波義重の家臣に成る−常昌の子常勝が尾張守護代に成る。

これに伴い2および3がこの配下に入った事に成ります。
1、2、3を加えれば150年間の末裔の枝葉の拡大で大変大きな集団になった筈です。
彼等の末裔数で最低は500とその近隣村の農兵を加えれば最大1000人の兵と成る可能性はありますから、凡そ騎馬将20と云う凄い集団であった筈です。
仕官叶えば「即戦力」があり任せられ直ぐに上級家臣団に成れる力を持っていた筈です。
足利氏の斯波氏であっても勢力拡大期の時期ですから喉から手が出るほどの集団であった筈です。
「兵数」はもちろんの事、「即戦力」に大いに魅力があったと考えられます。
事の次第によっては全国の「たいら族」の残兵に号令を掛けて集めれば一戦国大名の力はあった事に成ります。
この勢力拡大中の斯波氏の家臣に成った人物は「美濃平氏」の初代と観られる人物から9代目の「平次郎四郎常昌」と成っています。
(1300年頃)恐らくは尾張の守護代(常勝)に成った1339年には全てそれだけの家臣団を養える力が付いた訳ですから西国から集めたと考えられます。
(他に後述する尾張尾藤氏系長谷川氏の系譜から証明できる)
この人物(常昌)は信長より10代前の人物であり、この1の美濃宗家は代々隣の総宗本家筋の伊勢守(伊勢北部伊賀地方の守護防御を命じられていた事を示す 清盛の弟教盛の系列子孫であったから信頼があった)であったことが記述されていますので「美濃平氏」であった事を裏付けます。
この人物から9から10代前は丁度1150−70年頃で「平家の最盛期」で150年間程度前と成りますので、それより少し前の時代(1025)の人物まで読み取れます。
上記の検証と150年は一致します。

(参考 長沼氏はこの美濃で青木氏と共に懸命に「美濃平氏」と「美濃源氏」とのバランスを取ろうとして「美濃土岐氏系流長沼氏」が同時期に発祥しています。この美濃地域は如何に微妙な関係地域にあった事が物語ります。)

(参考 この地域の分布 伊勢−美濃-尾張の伊勢よりにも秀郷流青木氏が、美濃三河より東側にも4地域に秀郷流青木氏が、中央部域にも秀郷流青木氏が家紋を異にして存在します。当然に尾張−三河−駿府域にも秀郷流青木氏の定住地があります。 片喰紋など7-8の家紋類群)

この美濃の木瓜紋類の秀郷流青木氏は7つ青木氏が家紋から観て、徳大寺氏一門との血縁関係を持っているので、普通ではないかなり親密な重複で同族血縁・縁者関係にあった事を物語ります。
(氏家制度の中では特に珍しい事ではない。)
この家紋から観て徳大寺氏と秀郷流青木氏とは親密な親族関係にあった事が判りますから、「四つ木瓜紋」か「五つ木瓜紋」の秀郷流青木氏と「たいら族」(京平氏・桓武平氏・伊勢平氏)の「美濃平氏」との血縁があった可能性がここでも極めて高い事に成ります。
しかし、「美濃平氏」側はどの程度の支流分流分派であるかは判別できませんが、「阿多倍一族一門」「たいら族」の東側の最前線ともなれば分派では済まない筈です。
一族の命運に関わる地域であり、清盛の弟教盛の末裔通盛に委ねた事から観て、恐らくは支流の範囲であろう事が判りますし、美濃源氏とのバランスの中で東側前線を護るには弟しかないでしょう。
もしここが破られたら伊勢伊賀の本拠地が前線に成ってしまい、又伊勢神宮のお膝元で争い事の問題を起こす訳には行かない筈です。
源氏、藤原氏、青木氏を巻き込んだ大事に繋がって行く筈です。越前からのライン上にあるこの美濃は護らなければならない一線であった筈です。戦略上要衝の地であります。
だから、美濃がバランスを崩して美濃源氏が動いた時、すぐさま大軍(富士川の戦い等)を動かして騒ぎの源氏を大きな犠牲を犯してでも潰しにかかったのです。そして支流(教盛-通盛)を護る為にもそれを清盛の弟(教盛)の子供(通盛)にやらせたのです。
(越前南-美濃・尾張西一帯の平氏は通常は「美濃平氏」と呼称される 地名も遺されている)

そこで美濃の秀郷流青木氏が現在の愛知県清須市春日中沼地域に定住していた事にと成りますが、その理由はこの木瓜紋の家紋13を観てみると判ります。
使用しているこの文様の地理性は越前(南)−美濃−尾張−伊勢東のライン上域に分布しています。
これは室町守護大名の足利氏系斯波氏の勢力圏(11国)と重複します。
つまり、鎌倉期末期ごろから斯波氏は足利氏の為に勢力拡大で各地に奔走します。
1339年頃が斯波氏の勢力の絶頂期で尾張など2国が転がり込んで来ます。当然に急に守護兵が必要となります。その結果、実力、即戦力のある織田氏を取り立てて尾張守護代に据えたのですが、ところが斯波氏の領国運営の欠点は、一族は京に居て陸奥を始めとする11国に守護代を置いて任し放しにしたのです。この事が原因して最終それが実力が付き主家の云う事を聞かなくなり「下克上」が起こり滅亡したのです。
斯波氏はつまりこの「守護代方式」の欠点に気がついた時にはもう遅かったのです。必死に奪回しようとしますが事は遅し、結局、一番可愛がっていた織田氏に逃げ込み最後は尾張の織田氏に面倒看て貰っていたのです。しかしその織田氏も1554年に謀反します。
織田氏も守護代に成った事から当然に急激に拡大した為に兵を揃えなくてはなりません。
越前(南)−美濃−尾張−伊勢東のライン上域に分布している「美濃平氏」の末裔(3集団)を早急に呼び集めなくてはなりません。
本家、分家、支流、分派、縁者とそれぞれのその村の農兵等も含めて集めて尾張国を戦国時代から護らねばなりません。
一国を護るには常備兵として50騎は最低必要と云われていて、戦い時はその戦いにもよりますが国に依っては100騎は必要とされていてこれは周囲から農兵を集めて来るのです。

この様にして、「美濃平氏」の末裔は、越前−美濃−尾張−伊勢東域に「五つ木瓜紋類」が分布している事は斯波氏の動向に合わせて参戦しながら、仕官口を求めて同じく奔走して仕官口を得て来たことを示す事になります。その中の一つのグループが越前織田郷で(1の常昌)仕官が叶った事を意味します。
その時が丁度1300+30年代となります。このグループが尾張の守護代になるまでに織田一族はこの経路を辿って来た事を示しています。
その為に本家と分家と支庶流のこの3家紋類が分布したのです。現実に織田氏は大別すると3流、細分すると5流と成っています。
そもそも「五つ木瓜紋」の類似紋の元と成る藤原秀郷流青木氏の場合はこの移動経路を辿っていないのです。
秀郷一門は平安期の旧来からの勢力圏が鎌倉幕府や室町幕府に拠って一時は混乱しますが、多くほとんどは「本領安堵」されていたので、仕官口を探して参戦して奔走すると云う経緯を辿らなかったのです。
依ってこの越前から伊勢東までのライン域での分布は「美濃平氏」の末裔等の織田氏3流等の行動分布に一致するのです。この木瓜紋の分布が織田氏の移動経路と成るのです。
( 参考 伊勢の秀郷一門伊藤氏もこの文様です。)
つまり、そもそも藤原氏等の「融合氏」族の出世形態と、織田氏等の「姓氏族」等の出世形態が根本から異なっているのです。
秀郷一門は鎌倉期には失職しますが、戦いに依って失職の憂き目を受けた訳では無く、依然として24地方の勢力は保全されていますし本領安堵されています。
仮に失職したとしてもその土地に新たに守護・地頭として赴任して来た姓氏等の家臣に積極的に勧奨されて成ると云う云わば「勧奨固定型」で、ところが「姓氏」は「移動行動型」と云う事に成ります。当然に家紋も前者は「枝葉伝播」と成り、後者は「移動伝播」が主流と成るのです。

ここで恐らく、確かに150年間の「伝統継承」で「五つ木瓜紋類」(藤原北家筋)である事は確かであるので、織田氏は上記1の藤原説と当初はしたものの上記の様にこの搾取偏纂には無理があるとして、今度は「美濃平氏」側の2の平氏本筋論を引き出して来たが、当時の社会の「家紋考証力」が低く始祖を特定出来ずにこれも1と同じく搾取偏纂をしてしまった事に成ります。
要するに織田氏が主張する1と2の説は論理的に間違いは無いのですが、始祖とする人物特定に搾取偏纂をしてしまった事に成るのです。
上記する様に美濃−尾張の木瓜紋類の秀郷流長沼氏-中沼氏系の秀郷流青木氏(青木氏116氏主要9氏の一つ)であり特定する事が出来るので間違い無い所です。
一方、又、「美濃平氏」支流として、且つ始祖も上記する様に時代考証と家紋考証から通盛系の支流末裔である事も特定出来るのです。
「長沼氏−中沼氏系青木氏」には他に片喰紋と剣片喰紋と沢瀉紋の秀郷流青木氏が定住して居ます。
愛知県清須市春日中沼と愛知県名古屋市西区中沼町の地域に存在します。
この両氏の人物特定はどの年代のところを以って始祖とするかの問題もありますが、1150−70年代の系譜人物で特定が可能と考えますが本論の目的が異なる為に個人情報となり敢えて指定しません。

  「類似7文様の存在」
さて、次ぎの問題は「五つ木瓜」の文様の判別困難な「類似7文様」が何故存在するかです。一部上記しましたが、これを念の為に付加して説明して置く事で確実な考証は観えて来ます。(下記)

B 長谷川氏と美濃平家(織田氏)
Bの説から、直接に「織田木瓜紋」との血縁族を持っている事に成りますが、問題は何時血縁したかその時期が問題です。
”a「織田木瓜紋」と成ってから長谷川氏と血縁時期なのか”
”b「織田木瓜紋」とした長谷川氏の家紋の呼称の時期は何時なのか”
以上と成ります。
平家の支流「美濃平氏」系(尾張)織田氏が「織田木瓜紋」とした後に血縁したとなれば室町期であり本論から除外となります。
しかし、この家紋が「後呼称」の系譜とすれば、青木氏を長谷川氏に置き換えての経緯とすれば青木氏よりより高い可能性が出て来ます。ただ青木氏も「五つ木瓜」紋と血縁していますのでこの「五つ木瓜」紋が「織田木瓜」紋とするかしないか問題はありません。青木氏の可能性は美濃と云う地理性で1150−70代の仲介の史実でも確定していますし上記した事の様に男系継承跡目により家紋変異が起こりますので一致します。
しかし、「たいら族」との関係では長谷川氏の「美濃」と云う地理的要素が青木氏に比べて可能性が低い事が揚げられます、その他は青木氏と同等です。依って長谷川氏の血縁性の必然性が無く成ります。
そこで、念の為に「後呼称」の件を検証しますと、実は後世の「織田木瓜」又は「織田瓜」紋は「後呼称」なのです。これには特別な事情があります。

「織田木瓜の後呼称」
正式にはこの家紋は上記した様に総じて「5瓜に唐花線陵紋」が正しいのです。
ところが、この「五瓜に唐花紋」には素人で判別困難な紋が7文様もあるのです。正直殆ど判別は出来ません。
そこで、その「7つの家紋」(五つ木瓜紋)を使っている氏名をその家紋の前に付けて後で呼称するように成ったのです。
その判別はその「線陵の太さ」と「背景の黒の多さ」に依ります。と云われても直ぐに見分けられない判らない範囲です。
依って、徳大寺氏の家紋も「木瓜」紋とはせずに正式呼称は「四瓜に唐花線陵紋」と呼称します。
そもそも上記した様に瓜や木瓜(ぼけ)を紋様化したものではないので、「唐花紋」が正しい呼称なのです。依って、長谷川氏に付いては「織田木瓜紋」は後呼称なので地理的要素だけの問題です。

美濃には秀郷一門の戦略的な住み分けに依って長谷川氏が少なく、この辺域一帯は上記した様に兼光系3氏(青木氏、長沼氏、永嶋氏)主体ですので、文行系進藤氏と同様に長谷川氏は関東北陸東北域が主体と成ります。従って、長谷川氏との関係は美濃平氏(織田氏)の行動域から判断すると血縁の必然性は無く可能性が低い事に成ります。
平安期「たいら族」の圏域は、当初は関東の常陸と下総域まででしたが、上記した事件より西の美濃域まで引き下がったのです。この地域に定住していた平氏を「美濃平氏」と呼ばれます。
まあ、血縁ともなれば文行系の権域まで伸びる事は問題はないと考えられますが、”平安期末期30年の間にそれがあり得たのか。”と云う疑問が湧きますが先ずはその必然性が無いと考えます。
ところが、ただ一つ大きい当時の可能性が認められるのは「京域での血縁」とすればこの30年の間には充分に考えられます。
秀郷流文行系長谷川氏は北家族秀郷一門の主要5氏の一つですので一門は秀郷流青木氏と同様に「京」に赴任して詰めています。
「圏域の安定や拡大」を目途として地理的に血縁するのではなく、「権力の安定」を図る目的で行った京域での血縁であると考えられるのです。
経緯としては次ぎの様に成ります。
京に居た長谷川氏が「美濃平氏」と養子縁組で血縁をした。しかし、嫡子が生まれず男系跡目が叶わず男系の養子先の家紋の「五つ木瓜紋」「美濃平氏(後の織田郷の土豪美濃平氏支流末裔の氏)」の長谷川氏が新たに発祥した。ところが「美濃平氏」が滅亡して飛散し越前-美濃山岳部に逃げ込み「物造りの技能職」で糧を凌いだが、時期を得て再び美濃−越前域ライン上の土豪となり勢力を盛り返して尾張守護代と成って家紋を上記した経緯で一部修正して類似変紋で「織田木瓜紋」を独自に作り上げた。織田氏の天下統一期に乗じて長谷川氏のこの末裔が「織田木瓜紋」に戻したと考えられます。だから13の家紋のある中で長谷川氏だけ「後呼称」に成っているのです。
但し、この場合は「五つ木瓜紋」の「美濃平氏」が既に発祥していた事に成りますので、青木氏と同じく長谷川氏の中で「四つ木瓜紋」から「五つ木瓜紋」が発祥していた事に成りますが、長谷川氏の中に「四つ木瓜紋」は有りませんので、この仮説は地理的要素と合わせて無く成ります。
結局は青木氏との血縁以外に必然性は無く成ります。

 「美濃での生き延びられた背景」(「美濃秀郷流青木氏の背景力」)
ここで問題なのは、この「たいら族の一部の平氏」が紀州、四国、北九州の地域にに逃げ込まずに、”何故、美濃と云う主要衝の土地で残り無事に生き延びられたのか”が疑問です。
何らかの「背景の力」が働いていなければ少なくとも鎌倉幕府からは逃れて「美濃」で生き延びる事は不可能です。

だとすると、その「背景の力」は血縁した鎌倉幕府の家臣の中でも厳然として幕府に対する威圧勢力を保持していたのは藤原秀郷一門と言う事に成ります。ではこの地域にその勢力を持っていたのは紛れも無く長谷川氏では無く青木氏と云う事に成ります。矢張り地理性を見逃す事は不可能です。
秀郷流青木氏であれば全く問題はありません。
この美濃−尾張に勢力を張っていた秀郷流青木氏は、「系列9氏を持つ中の長沼氏」の血筋を引き継いでいる「秀郷流兼光系長沼氏系−中沼氏青木氏」と、更に東側域にその「支流中沢氏系青木氏」とが主流と成ります。
この青木氏の縁者一族の保護が有ったからこそ「美濃平氏」の支流の「織田氏3集団」が1300年までの間150年間を戦略的に生き延びられたのです。
他の逃亡域では3集団も終結していればいくら山間部に隠遁していても追及の手はめだっ事で免れぬ筈です。つまり背景力を意識して事が彼等の行動が幕府に対して大きくならなければ”この美濃に付いては戦略上鎌倉幕府は観て見ぬ振りをした”と成ります。幕府としても他の逃亡地域と違い藤原秀郷一門の「袋の鼠戦略」にはまる事は避けたいところです。
つまり追求の手を緩めて「坂東八平氏」は藤原氏北家一門の目色を伺ったと成ります。まして秀郷一門の「第2の宗家」ですから指令一つで動きます。まして「116氏護衛軍団の武力専門集団」を相手にするのです。一豪族の武力と桁が違うのです。
家紋から観れば「四つ木瓜紋-五つ木瓜紋の政治的背景とその戦略」(13家紋の威力)がちらついていた筈です。もしそれを鎌倉が犯して強行突破した場合何が起こるかです。それは当然に前記した「袋の鼠戦略」に引き込まれる可能性があったからです。他はこの「袋の鼠戦略」と「藤原秀郷一門の勢力圏」から外れていて鎌倉はつぶれる可能性は無かったのです。
その意味でもこの秀郷一門の青木氏と長沼氏の血縁戦略は利いていたのです。美濃の源平籐と勢力バランスと共に後の鎌倉幕府に対しても、源氏は滅びて立ち上がれなくなりましたが美濃平氏の生き残りには大きく影響していたのです。その証拠があります。
それは「伊勢北部伊賀地方」の「たいら族」の本拠地です。この地域の平氏は逃亡をしなかったのです。
その理由は恐らく次ぎの事に成ります。
一つはここは藤原秀郷一門の袋の鼠戦略の圏域末端のところです。
二つは伊勢の「不入不倫の権」の国で朝廷を重視していた鎌倉幕府は手が出し難かった事。
三つは賜姓青木氏の武力は無視できる範囲だがその「青木氏の経済力」と「伊勢シンジケートの影響力」が大きかった事。
「参考 シンジケートの威力」
(現に鎌倉幕府軍と楠正成の伊勢シンジケート作戦で対10万軍の勝利がある。この時に伊賀兼光は楠正成に合力している。「元弘の役」)
(天正の乱の丸山城の戦いでは2つの伊勢青木氏が率いる伊勢シンジケート作戦でも織田軍に勝利する。)

結局は、伊賀地方は伊賀和紙と伊賀忍者で知られ生き残り、美濃は殖産と織田氏で生き残った事で知られる事に成ります。
そして、皮肉にもこの生き残った2つの「たいら族」は最後は「天正の乱」の戦いで相い戦うことに成るのです。この時、更に皮肉にも伊勢賜姓青木氏と伊勢秀郷流青木氏は共に伊賀を助けます。
この段階で美濃と伊勢の秀郷流青木氏は最早一人歩きした制御の利かなくなった血縁族の「美濃平氏」の織田氏を見放したのです。
しかし、行き着くところは”伊賀は負け生き残り、織田氏は勝ち滅びる”の宿命を負っていたことに成ります。(青木氏と戦った時の大将織田信雄だけは負けた為に信長から追放されて子孫を残す)

この「2つのたいら族」は「2つの青木氏」と大いに関わりその資は「生きる糧」を「殖産物造り」に求めたからなのです。方や和紙であり、方や陶器・家具(家紋から判断 仕官するまで期間150年)であったのです。

他の地域での「たいら族」掃討作戦は執拗に行われた事が歴史史実と逃げ込んでいる山間部から判りますが、伊勢ではこの3つが働き動かず、美濃では越前−美濃間では隠遁逃亡はしたが逃れられ上記する秀郷一門青木氏の「背景力」が作用していたと考えられるのです。

先ず美濃平氏論が間違いはないと云う事と成りますと、後の信長が過去の恩義を忘れて秀郷流青木氏と繋がりを持つ皇族賜姓青木氏を「権威への挑戦」として倒しにかかった事に信長の序しきれない性格(共和性への信念)が垣間見えてきます。
どうしても「3つの発祥源」の「権威の象徴」の「青木氏の存在」と「伊勢神宮の政治的権威」の存在は比叡山と同じく見逃す事が出来ない「挑戦」であった事に成ります。
「4つの青木氏」の関係を持つ側からすると”「伊勢伊賀の戦い」で「たいら族の宗家」を縁浅からずの隣人として助けたのに、更には昔の宗家を攻めるとは恩知らずめ”となりますが、そこがこの世の諸行無常です。
まぁこれが前記した「後漢の民」の阿多倍一族一門の「民族氏」の持つ遺伝子的な潜在的思考原理です。
この家紋考証から「藤原秀郷一門とした経緯」と「美濃平氏とした経緯」の2つが観えて来ます。
秀郷一門とする経緯は論理的にありえませんが、家紋とする「五つ木瓜紋」の「7つの文様」の経緯から観れば関わり具合は否定出来ません。しかし「秀郷一門とした経緯」は「第2の宗家」青木氏として室町期までも一族管理されていますので有り得ません。
家紋から観て関わっている事は事実ですが要は「人物考証」と「時代考証」に矛盾が生まれるのです。また、織田氏系譜から観てその時期の人物を「某」として記し、その後の人物は一門の中に無くその人物の出自は「遺子」(系譜外の不明落子)と成っています。
出来るとすると「美濃平氏とした経緯」の方が可能性があります。確かに「出自」には無理があり「人物」は間違えているが「時代考証」、「地理考証」には間違いはありません。
「人物考証」は恣意的、作為的に違えたのでは無く、設定する際の「考証力」の不足から錯誤したものと考えられます。この部分を修正すれば矛盾は完全に払拭されますので、「美濃平氏とした経緯」は正しいことに成ります。藤原説から平氏説に変更した事には問題は無い事に成ります。
要は「錯誤修正」で収まるのです。

 「類似7文様」
そこで「五つ木瓜の7文様」の件ですが、この元は長谷川氏のところで書きましたが、四つ木瓜の徳大寺氏の支流紋として「五つ木瓜紋」が生まれたものなのです。これが「何らかの理由」(下記)にてその支流関係を表現する為に線陵の太さと黒の領域差で区別したものです。
それが7つ産まれたことに成ります。その一つが上記の経緯から織田氏はこの支流紋「五つ木瓜紋」の線陵違いを付けて「織田木瓜紋」を案じた事に成ります。
元の徳大寺氏の「四つ木瓜紋」から秀郷流青木氏支流の「五つ木瓜紋」は次ぎの家紋と成ります。
1「五瓜に唐花」紋」(主紋)
2「変わり五瓜に唐花紋」
3「陰五瓜に唐花紋」
4「中陰五瓜に唐花紋」
5「石持ち地抜き五瓜唐花紋」
6「丸に五瓜に唐花紋」
7「織田木瓜紋(五瓜)」
別枠「五瓜に桔梗文」

1と2と7は判別困難でこれが更に変化している
3と4は陰紋ですが2つは判別困難
5は丸付き紋で判別が出来ますが1と2と7にも丸付き紋があり判別は困難
別枠は気が付かなければ1と2と7と判別はやや困難

結局、織田氏は室町期の初期に1に対して「美濃平氏」として藤原氏の家紋系列から離れて独自性を出す為に7の文様としたと観られます。
しかし、この様に検証を深く進めると意外なところに「青木氏との関係」が出てくるものです。
故に通説の検証には疑問が多くあるのです。
この様に検証を多面的に進めると青木氏と関わった「信長の生き様」即ち「たいら族」がより鮮明に見えてきます。

この徳大寺氏は下記の経歴から策謀家として有名な一族で、平家との権力保全の為に近づいて行動した史実が多く残っているのです。この事から可能性から観て地理的要件ではなく、京に於ける長谷川氏との血縁の可能性やあの手この手を使い策謀していた事がよく判る様に成ります。
筆者は「秀郷流青木氏」(五つ木瓜紋)と「長谷川氏」との間での養子縁組の血縁が行われ「五つ木瓜紋」に成ったと観ていて、その「五つ木瓜紋」に成った長谷川氏が今度は「たいら族」(美濃平氏)との血縁をしたと観ているのです。徳大寺氏などを介してかなり政略的な血縁を早期に合作したと観ています。
本来の家紋掟に拘らずに”長谷川氏に遠縁の養子の分家を「美濃」に作りそれを更に養子に出す”と云う事を実行したのです。当時には良くある政略結婚方式です。

つまり藤原氏北家秀郷一門の兼光系と文行系から主要氏が代表して「たいら族」との血縁を図ったと観ていて、特に「たいら族」支流末裔の織田信長に関するルーツは文行系長谷川氏にも家紋考証通りにあったと観ています。
青木氏に付いては検証通りで兼光系中でも長沼氏が猛烈に青木氏を補足していた事でもより明白に成ります。

「参考特記 長谷川氏の仮説と検証」
徳大寺氏の経歴を記録して置きますが、政治を自らの手で動かしている事が判ります。
この人物と同族と云えど秀郷一門の「第2の宗家」として繋がり平氏とのバランス関係を美濃で保つには絶対不可欠な人物であった事が云えます。この事から既に先に起こる「源平の戦い」を予想していていてトップの政治家として藤原氏を介在させて何とか防ごうとしていたのです。
ただ地元美濃の平家と血縁する事のみで争いの無いバランス関係を保持する事は無理で、その大元のところ「政治の場」との関係(清盛のたいら族との関係)を血縁保持してこそ成せる業であります。
下記の経歴から明らかに為政者の徳大寺氏はこの「美濃の状況」に対して何かを合策した事は十分伺えます。関東下総から引き上げてきた時から美濃は乱れる争いが起こると見込んでいて何とかおさめる手立てを講じる様に考えて行動している事は読み取れます。又、為政者トップにいる者としてしなくては成らなかった筈です。それが既に青木氏と長沼氏といちぶ永嶋氏もは動いている中でより新たな関係を敷く為にも長谷川氏の血縁の策であったと観ているのです。
つまり、藤原秀郷一門が美濃の周囲を固めている中で、長谷川氏とも血縁関係を作り関東東北関係にも押さえの網を張ったのではないでしょうか。それが、家紋掟による「五つ木瓜紋」では無く「織田木瓜紋」と明確に後呼称で血縁の深さを印象付けたのではないでしょうか。
「後呼称の時期」
そうすると問題は「後呼称の時期」が何時なのかです。
「織田木瓜紋」を作り上げた時期は1300年の斯波氏仕官が叶った時期から織田氏が尾張守護代に成った1339年までの少なくとも40年間の間と成ります。それまで滅亡逃亡期より150年は家紋に関する必要性そのものが無かったのですから、又逃亡中に血縁する事は無い訳ですのでこの期間は外すとして、この40年間に果たして血縁する必要性があるかの問題ですが無い筈ですし京に於いて徳大寺氏の政略はない訳であり鎌倉幕府に成っているのでそのものは起こりません。
そうすると、「滅亡前の平安末期」か「40年後の後呼称」と成ります。
「滅亡前の平安末期」では「織田木瓜紋」が存在しない筈です
下記の経歴から「四つ木瓜紋」から「五つ木瓜紋」の分家が発祥する程度が限界ですので「織田木瓜紋」は有り得ません。この段階では未だ美濃平氏(織田氏)の家紋は「五つ木瓜紋」の範囲です。。(織田姓は1300年まで未だ存在しない) 従って、「40年後の後呼称」と成ります。

「美濃平氏」が再び行きを吹き返して斯波氏に仕官し家紋を必要と成り守護代に成った時期に類似紋として織田木瓜紋を作り上げた。これを観て、美濃平氏と血縁(養子)した長谷川氏の「五つ木瓜紋」の一族は天下を取りそうな勢いの血縁先の縁者の「美濃平氏の織田氏」に合わして一族である事を誇示する為に「織田木瓜紋」に修正したと見られます。そして、後日にその末裔が呼称を織田木瓜紋と呼称するようにしたと考えます。
上記した様に徳大寺氏の政略に依って「五つ木瓜紋」の美濃平氏に跡目養子に入った長谷川氏の者が平氏滅亡を期に実家先を頼り長谷川氏に匿われ一時150年程度を長谷川氏として生き延びるが、「美濃平氏」の宗家が斯波氏に仕官し織田氏を名乗り息を吹き返した事から、「美濃平氏」の跡目養子の末裔一族は再び織田氏に合流したのです。つまり、守護代とも成れば縁戚関係を呼び集めて信頼できる縁戚家臣団をつくる必要性が出ますので、この時、縁戚の長谷川氏は旗下に入ったのではないかと考えます。各地から生き残った平家一族一門を呼び寄せたと考えられます。この中の一つが「美濃平氏織田氏族長谷川氏」の一団ではなかったかと考えられます。そして合わせて「織田木瓜紋」にして一族縁戚である事を誇示したのではないでしょうか。

111氏もある膨大な長谷川氏の資料の中から次ぎのこの仮説を立ててこれと同じと観られる織田木瓜紋とする系譜が必ずある筈として忍耐強く調べた結果、これを発見する事が出来ました。
(「調査」はより「現実性のある仮説」を立てる事が発見に結びつく秘訣なのです。)
この仮説とする長谷川氏は尾張の尾藤氏族長谷川氏である事になります。この「流れ」は秀郷7代目左衛門尉公澄ルーツの末裔となります。この公澄の孫の知昌−知忠より10代目宗重の時に長谷川氏を別にこの宗重長谷川氏を発祥させたものです。
この宗重の枝葉庶流(丹後)15代目宗茂にも別流長谷川氏を発祥させているのです。
この様に長谷川氏は各枝葉のところから何らかの事由により長谷川氏を発祥させている一門の中では特長を持っているのです。
その長谷川氏概流としては7つになるものと観られます。
織田氏、或いは美濃に繋がる長谷川氏は下記の流れのみです。
この流れの末裔守知よりの後は枝葉国であり、矢張り美濃の東隣の尾張(尾藤氏)からの宗重の長谷川氏を美濃に作り発祥させ、上記する「美濃平氏の政略跡目養子」を図ったと考えられます。

実はこの流れに仮説を考証する現象が起こっているのです。
この尾藤氏族長谷川氏系譜には「宗重」から「宗的」までの間の世系が本図から消えているのです。この間年代的に19−20代程度以内と成ります。"消える"というよりは"外す"が表現としては適切で、この尾張尾藤氏の系譜の本ルーツより外し、「宗重」の前の「宗継」で止め、別書で「宗重」を記しそこからこの流れを別に沿えているのです。
この「世系中断」は秀郷一門361氏の中に比較的観られる現象です。恐らく一門はこの仮説の様な「政略血縁」の手法を多く用いていたと観られます。
氏家制度の氏の武家での世襲の仕来りで「嫡子」外は「部屋住み」と成り、分家を興すか、養子に出るか、跡目養子に出るか、別家を興すか、部屋住みで終わるか、僧侶に成るか、武士を捨てるか等に迫られます。当然、藤原氏の場合は家柄が良い為に「政略的な血縁」と云う「道具」に使われる可能性が高い事に成ります。
この「宗重」は次男「部屋住み」で美濃域(場所不明)で藤原秀郷一門の尾藤氏から長谷川氏を継承して興すと成っています。
添書に特定年代が明記している「秀仁」(1312)より7代目前です。つまりこの間(175-196年間)とすると(1137-1116)年頃と成り、消えているのはこの10-20年前の頃に成りますので15として設定すると、1131−1151年頃から「世系中断」と成ります。
この「美濃平氏の政略跡目養子」と成った仮説時期との時代考証が年代一致しますので「美濃平氏の政略跡目養子」の長谷川氏を興したのは「宗重」であると観られます。経緯が完全一致します。
そして上記した徳大寺氏の政略の分家を作った初代は「宗重」で、養子本人は「宗重本人」かその子供の「宗有」が「美濃平氏の政略跡目養子」と成った事に成ります。筆者は「宗有」と観ています。
平氏滅亡後、長谷川氏を頼って逃げこの「系譜の有様」の長谷川氏を遺す形式を採っている事からその長谷川氏は「宗重」のところであるのが自然です。あくまでもこの長谷川氏は美濃の「平氏」族なのですから本来は「平氏」を名乗るが順当ですが、現実、あくまで逃亡なのですから名乗れる事は有り得ません。「長谷川氏」としているのはこの地域では美濃の実家の「宗重」のところしかありません。尾張の尾藤氏と成っていません。
(系譜は本家筋の尾藤氏の中にありますが 尾藤氏族長谷川氏系譜)
依って、「宗有」と状況判断から自然に成り得ます。
完全に時代・地理・経緯状況から系譜はこの仮説に一致します。

又、この流れの長谷川氏の「添書」にある年代からも織田氏の斯波氏への仕官年代とも一致します。
この「宗重」・・「宗的」の世系を本図から外している事は事実なのですが、しかしこの事の表示は系譜上には別書きし「添書」に"宗重―宗的まで世系から中絶し外す"と記されているのです。
これは「美濃平氏の政略跡目養子」に成った事から来ていると考えます。
もし「宗有」が養子であれば「宗重」の長谷川氏は「中絶」と成ります。
故に添書の文と成ったと考えます。
しかし平家滅亡により「宗有」か「有経」が再び藤原一門に帰って来た事で元の長谷川氏を継承した事に成ります。この時「宗重」が存続していたかは不明ですが、この間30−50年ですので「宗重」長谷川氏は生きていたことは充分に考えられます。当然に「宗有」も存命であった可能性があります。そして後、「美濃平氏」が仕官するまでの150年間は長谷川氏で生きた事に成ります。
添書の如く「秀仁」が織田氏本家に1312年に今度は「美濃平氏」として仕官した事に成ります。

平家滅亡からこの上記の「美濃平氏の政略跡目養子」の一族は本家尾藤氏-長谷川氏(駿河−尾張 下記移動経路)を頼って150年間生き延びたとしていますが、この間、尾藤氏族の長谷川氏の系譜の中にこの一族を「一つの流れ」として扱い追加され、その後の末裔は150年間も生活を共にして来た経緯から「美濃平氏族」として扱うのではなく「長谷川氏」として扱われたのだと考えられます。
その時に形式上平氏である事からこの「宗重」・・「宗的」を一応は系譜から消してその系譜の位置に添書で遺したと考えます。
つまり、この「宗重」から「宗的」までが「美濃平氏の政略跡目養子」の一族の系譜と言うことに成りますが、平家滅亡により長谷川氏に逃げ延びて難を逃れた。その後、「秀仁」−「宗仁」の信長仕官まで別系譜の形を保護した尾藤氏族長谷川氏側では採ったものと考えます。
故にこの「美濃平氏の政略跡目養子」の「流れ」の末裔の「宗忠」が1340年頃(尾張の守護代)尾張織田氏本家に仕官しています。これも仮説と一致しますし、「宗仁」も信長に仕えています。
系譜の添書にありませんが、「秀仁」(1312)も美濃平氏が斯波氏に仕官した時期に一致していますので織田氏を名乗った際に戻ったのではないでしょうか。それが以後「守知」も信長に仕えています。その後はこの末裔(秀真)は秀吉の家臣に成っています。

「宗重長谷川氏系譜」
秀郷−・7・−公澄−・?・−知昌−知忠−・10・−「宗重」−・?・−宗有−・6a・−秀仁(1312)−「宗忠」−満兼(1368)−・6b・−宗的−宗仁(1578)−守知−正尚−守俊・

(・・)は添書に明記
・6a・有経−秀光−秀宗−宗昌−宗郷−秀久−
・6b・秀知−基昭−知経−宗茂−宗常−宗的−

秀郷より19代目に当たる宗重なる者がこの流れの長谷川氏を名乗る。
宗有は美濃平氏に跡目養子となる(1131-1151)
秀仁は元弘の役後に越前の織田氏に仕える(1312)
宗忠−満兼は尾張織田氏本家に最初に仕える。(1339-1368)
宗仁−守知は尾張織田信長に最初に仕える。(1578)

「長谷川氏の主家筋尾藤氏の移動経路」
尾張−丹後−下総−駿河−大和−駿河−尾張
尾張は最初と最後に、駿河が2度戻っている事が仮説として重要です。
尾張で尾藤氏を興し、後に赴任により各国守を歴任し最後故郷に戻る。
この間下記の枝葉の末裔国が広がっています。

枝葉国(尾藤氏族長谷川氏を含む全長谷川氏の分布地域 17地域)
丹後、美濃、下総、大和、岩代、越後、上野、常陸、羽後、武蔵、相模、駿河、尾張、越中、紀伊、肥前、越前、
長谷川氏の主要氏 7氏-111氏

この様に織田木瓜紋の家紋考証が同時に美濃平氏の時代考証をも証明するものと成ります。
その意味でも特筆しましたが、ここで「青木氏の生き様」、「平氏の生き様」、この「二つの氏の関わり具合」、対比して「源氏の生き様の欠点」を描き、そこに存在する「生き残れた絶対的条件」を浮き彫りにしたいのです。
それは前回まで論じてきた「物造り」「心の拠り所」「融合氏」の「3つの有様」が左右しているのですが、更に検証を進めます。

参考 徳大寺氏の経歴(政略家を示す経歴具合)
長治元年(1104年)従五位下。
元永元年(1118年:娘璋子が鳥羽天皇の中宮)中宮権亮。
天治元年(1124年:璋子院号宣下)待賢門院別当。
保安3年(1122年)権中納言。
同年に左兵衛督・右衛門督・検非違使別当。
長承2年(1133年:長女・幸子(22歳)を藤原頼長14歳と結婚)、摂関家と関係を強めた。
保延2年(1136年)正二位権大納言。
永治元年(1141年)の崇徳天皇の退位
康治元年(1142年)の待賢門院の出家、閑院流は低迷期。閑院流は異母兄の三条実行。
頼長と親交の実能は、実行を名誉職である太政大臣に棚上げして空席にする。
久安6年(1150年)に内大臣。
久寿2年(1155年:幸子が逝去 頼長から離れて美福門院に接近。
皇太子・守仁(後の二条天皇)の東宮傅。
保元元年(1156年)9月、左大臣。
保元2年1157年正月、従一位。7月に出家して法名を真理。9月に仁和寺の小堂(徳大寺)で薨去。
歌人、家人の西行と親交があった。

「木瓜文様の全般的なルーツ傾向」
実はこの文様を使うルーツには、この衣服や車や家財道具に入れる文様職人に多いのです。そのルーツを調べると綜紋を平家綜紋の「揚羽蝶紋」とする姓氏に多いのです。真偽は別として”昔は平家一門であった”とする氏が多い事に成ります。
つまり、平家一族落人がその技能を活かして平家滅亡後、この技能職人として生き延びたと観られるのです。これは和紙などの殖産物の職人にも観られる傾向です。
そもそも元を正せばその技能は阿多倍が後漢から率いてきた200万人の技能集団が持ち込んだものであり、その宗家の6或いは7代末裔の清盛はこの事を承知していて「たいら族」一族一統の配下の者にまでその伝承を指示していたと観ているのです。
清盛が朝廷内の反対を押し切って「宋貿易」を行った背景には一族一門の配下に荘園時代からのこの昔からの技能集団を抱えていた事を示すものです。
この事のその御蔭でその「技能伝承」が効を奏して滅亡を免れたのです。
ここでも「青木氏」や「たいら族」と比較して、明らかに「11家の源氏の生き様」の拙さが如何に悪かった事が頷けます。清盛は極めて聡明な人物であってこの程度の気配りは出来ていたと考えているのです。
上記した美濃平氏は生き延びられたのであり、全く同時期に生き残っていた3つもの源氏が滅亡してしまうのです。
滅亡しても「美濃平氏」の様に生き延びた氏、滅亡しても「美濃源氏」の様に死に絶えた氏、これは偶然では無い大きな違いなのです。
「美濃平氏」に比べて「美濃源氏」の方が周囲状況から観て殺されると云う事は無かったのですから生き残れる確率は高かったと考えられます。
その差は清盛から絶やさず築かれていた「美濃平氏の技能集団」にあったのです。それは力説する「物造り」なのです。「自力、自立の精神」なのです。
それは阿多倍が定住していた清盛の実家の「伊勢伊賀和紙」の青木氏と関った殖産がそれを物語ります。
5家5流の賜姓青木氏の定住地は全て「5大古代和紙」の産地で、「伊賀の伊勢和紙」を含む「近江和紙」、「美濃和紙」、「信濃和紙」、「甲斐和紙」は夫々特徴ある紙質を持ち1千年の歴史を持つ古代和紙の殖産地です。現在でもこの紙に関る職業の人なら誰でもが知ることです。
これを5家5流の賜姓青木氏に依って「2足の草鞋策」として引き継がれて来たのです。
青木氏は「物造りと2足の草鞋策」が結びついた結果です。
”物を作って売り捌く”の経済理論が成り立っていたからなのです。
全く同じ事が云える「たいら族」一門も滅亡から生き返ったのは、家紋から観ると矢張り「殖産(物造り)と交易」が氏の基本にあったのです。
中でも織田氏と云うキーワードでそれが「現実の生き様」として証明できるのです。
仕官後もこの「殖産(物造り)と交易」が無ければ「家臣の知行」だけでは天下統一まで成し遂げられなかった筈です。普通の見聞きする歴史からするとあまり知られていない事柄なのですが、もう一段歴史を掘り下げると、この「たいら族」配下一門の家紋から見るとこの「殖産(物造り)と交易」の努力があったからなのです。
「信長の派手なドラマティクな行動にスポットライトが当たり過ぎて、この美濃平氏配下の「殖産(物造り)と交易」に当たっていませんが、別の面の「家紋考証」から観るとドラマティクな面が消えて現実の姿が観えて来るのです。
(通説は兎角このドラマティクなストーリーが前提に成っている傾向が強いが現実はもっと泥臭いものです)
「たいら族」には「自力・自立」の精神が一門の末端まで浸透していたのです。矢張り後漢の帰化人の所以です。源氏11家にはなかなか観られない「自力、自立」の精神なのです。
其の証拠には、「義家の荘園拡大」を利用した様に「氏存続」を図ったとしても、この「自力・自立」精神が無くしては鎌倉−室町期には、結局は「坂東八平氏」に滅ぼされるまでもなく、「自然」に或いは「下克上」で滅亡していたのではないかと考えられます。
そして「たいら族」の様に再び各地で末裔が草の根からよみがえる事も無かったのです。

「自力、自立の精神」
考えて観れば、室町期初期の「下克上」の乱世では「自力・自立の精神」無くしては「悠久の絆の青木氏」であったとしても、その結末は「下克上」が起こって無血縁の家臣や民に取って代わられていた事も有り得た筈です。
しかし、「4つの青木氏」の中には「下克上」は起こらなかったのは、この「自力・自立の精神」が原因していたと考えているのです。「自力・自立の精神」(物造り殖産)は生き延びる事の糧、のみならず「下克上」も起さず、更にはより「絆結合」は強くして他氏には絶対に観られない何と「1千年の歴史」を刻む「4つの青木氏」の根幹を構築したのです。
「下克上」は下が上を廃して「氏」または「姓」を維持しようとする事件です。
「上」が長として確固たる「氏姓」を維持する能力があれば「下」はその「氏姓」の傘下で安寧に生き延びて行く事が出来ます。要は「戦国」と云う「姓氏乱立」と「潰し合い」の中での自分の「氏姓がどうなるのかと云う事に対する不安感」に基づいている訳です。
従って、「氏長」が「氏姓」を「自力」で「自立」させられる資質を有している事がその「基本の要件」であり、「2足の草鞋策」はそれを叶えている事に成ります。
故に賜姓青木氏には起こらなかったのであり、「伊勢青木氏 家訓10訓」の「長のあるべき戒め」をくどくどと詳細に解き求めているのです。
その証拠に源氏では僅かに遺されていた最後の支流末孫と観られる村上源氏では「下克上」が起こって室町期に滅亡しています。それは室町期に成っても荘園に頼り「氏の長」としての「自立・自力の資質」が無く「下」が不安となり取って代わったのです。その弱点を信長が見抜いていてそこ突いて滅ぼしてしまいます。美濃平氏の末裔の織田信長はこの「自力、自立の精神」が阿多倍からの「先祖伝来の精神」として遺伝子的に継がれていて、信長に滅ぼされた氏姓にはそこを突かれたのだと考えます。最後に残った伊勢「村上源氏の北畠氏」はその典型的な氏であったのです。学問を主とする貴族型源氏であったのです。この様にこの「自力、自立の精神」の無い「上」の氏も「下」の姓氏も結局は乱世に飲み込まれて滅亡します。

「自力、自立の精神」=「物造り」「心の拠り所」「融合氏」
「物造り」=「2足の草鞋策」 「心の拠り所」=「神明社」 「融合氏」=「祖先神」

この様に「下克上」が起こった社会の中では、平安期では「源氏の実力」と見せていた「未勘氏」が蟻の子散らす様に源氏から離れて行き、遂には「荘園の未勘氏族の反動」が起こり争いで雌雄を決する以外には無く成っていたと考えられます。
義家一門の力は権威に包まれた「名義上の力」であり、現に「たいら族」を破った義経の2万の軍でさえ「頼朝との争い」で御旗を失えば「くもの巣」を散らす様に2000を遺して飛散してしまっているのです。
1198年には源氏11家もあった同族の源氏は「氏の運営」の悪さで全て滅亡しています。1氏も蘇る事も無く完全滅亡です。
支流と見られた僅かな掃討作戦で逃れられた支流傍系末裔も上記する「下克上」で滅亡して「氏」は当然「姓」も滅亡してしまったのです。
残るのは前回までに論じた「荘園制」での血縁性の無い「未勘氏」と血縁性の薄い「傍系氏」です。
現在、ドラマ等で通説と成っている「源氏」と呼ばれている足利氏や新田氏や武田氏や多田氏や太田氏等はこの「未勘氏」か「傍系氏」であり、室町期の混乱期に名乗った氏で少なくとも家紋が異なり宗派や系譜にも疑問があり正式な源氏ではないのです。足利氏や武田氏は間違いなく傍系です。
上記した様に織田氏等の「たいら族」の例に観る様には源氏に「生残れる術}=「自力、自立の精神」=「物造り」「心の拠り所」「融合氏」は無かったのです。
少なくとも平安期の氏家制度の中では「総宗本家」から認められる必要があるのですが、上記の氏源氏と目される一族にはこれが現実にはありません。つまり、家紋の異なる勝手かわずかな縁で名乗った氏なのです。徳川氏等はその最たるもので見え見えで甚だしいのです。

因みに徳川幕府開府の際に朝廷から認められなかった明確な経緯があるのです。
朝廷は経済的圧力に屈し取り敢えずは「征夷大将軍」の呼称は渋々認めはしたものの義家から名乗る事に成った「武家の棟梁・頭領」は認めませんでした。結局、「武家の長者」で妥協したのです。
又源氏を名乗っていますが、足利氏も同様の事が起こり認めはしたものの正式には、そのルーツには2流あって本流の宗家は陸奥の花房氏で秀郷一門と血縁した血縁族で、その後、信濃足利の土豪となり土豪足利氏を名乗り勢力拡大したのですが、この「陸奥花房氏の姓氏」の足利氏が云う事を聞かない為を理由に藤原秀郷一門がこの宗家を難癖をつけて廃嫡して、断絶した分家筋を持ち出し其処に秀郷一門より跡目を入れて立てたのが後の足利氏で藤原氏の秀郷血筋を受けた所に後に源氏頼光系の跡目を入れ足利氏の元を作り出したのです。直系源氏子孫では仕来り外の氏と成り宗家認証は無く当然に家紋も異なる事に成ります。(元の花房氏系足利氏は米子、八頭に逃げて定住します。)


青木氏と守護神(神明社)−9に続く。



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