青木氏氏 研究室
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  [No.278] Re:青木氏と守護神(神明社)−11
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/09/10(Sat) 15:54:01

  「青木氏の利点」

>阿多倍等が九州に上陸し中国地方まで無戦征圧した原因は、その「高い後漢の技能」を吸収して生活を高められる事があった為に「土地の民」が進んでその配下に入った事から起こっている現象だからで、その為に「間接的な氏の融合」が起こったからなのです。
>つまり「平族」に於いては、阿多倍一族としては奈良期から平安期(600年)までの「間接的な氏の融合」の拡大でありますが、たいら族としてはこの5代(或いは7代)(国香−貞盛より)による短期間(165年)の「氏融合」(その前は「民族氏」と「部氏」)であるが為に「直接的な氏の融合」の基盤が平安期には充分に出来ていなかった事に原因しています。(前回の末尾)

逆に、その点で全青木氏390氏は朝廷の奈良期と平安初期の「2つの詔勅」で発祥しましたが、青木氏の古代密教に導かれた「菩提寺」や「心の拠り処」としての「祖先神の神明社」が遺された事に因って書物が残り、している事から比較的にルーツが明確に成っていて、後に於いても「氏族の発祥源」が管理されて引き継がれて行った事が「子孫存続」の「生き残りの団結」(伝統の継承)に結び付いたと考えられます。
これは真に前記した通りの「4つの青木氏」の存在が起因しての事であります。
これは言い換えれば「青木氏の伝統の継承」が成されて行った事にも成ります。
「3つ発祥源の古氏」であり「高位の氏」であるが為に、「直接的な氏の融合」を主体としては少ないけれども、「間接的な氏の融合」にも力を注がれていた事に成ります。
取分けこの「紙一重の乱世」の中で「融合氏」として生き残れたのは「賜姓青木氏」では「伊勢青木氏」が29氏を主導し、藤原秀郷一門では特別賜姓族の「秀郷流青木氏」が「第2の宗家」として361氏を主導して「氏の融合」を成した事です。
その「氏」を室町期末期まで「管理統括」し、この「氏家制度」の管理統括された「2つの青木氏」390氏が氏家制度の根幹を守り、強く「相互間の助け合い」をしていた事の差によります。
そして、その基点となったのは「心の拠り所」の「祖先神の神明社」であり、「行動規範の拠り所」の奈良期からの「古代密教(浄土宗)の教え」であった事は云うまでもありません。

「2つの青木氏」の「3つの拠り所」
1「心の拠り所」=「祖先神の神明社」
2「行動規範の拠り所」=「古代密教の教え」(浄土密教)
3「人生の使命感」=「3つの発祥源」

この「3つの拠り所」の下での「相互間の助け合い」(互助・絆・氏家制度)では、武田氏滅亡で武田氏系青木氏と諏訪族青木氏を武蔵入間を中心に神奈川横浜の半径上に接続する勢力圏内に保護した事や、四国讃岐籐氏の勢力圏に保護した事、新潟−陸奥で保護した事等の例から観てもこの「氏の管理統括」が確実に成されていた事が証明出来るのです。
他にも鎌倉末期に「元寇の乱」の時に秀郷主要一門の青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏等は北九州に赴き、そこで一族の連携を採り互いに助け合い大蔵氏や肝付氏や北九州の主要豪族の菊池氏、宗像氏、佐伯氏、酒井氏等と積極的に血縁して一族の末裔を阿多倍一族一門の根拠地に遺しているのです。其の時の青木氏が主導して血縁をした資料が残されています。
北九州に地域的には限定されて少ないのですが、青木氏や永嶋氏や長沼氏や進藤氏や長谷川氏が秀郷一族の末裔が存在するのです。中でも秀郷流青木氏と大蔵氏系永嶋氏が大きく末裔を遺しています。この事が何よりの証拠と成ります。
これが「元寇の役」を切り抜ける為の「第2の宗家」の「青木氏主導の戦略」であったのです。

では、この「氏の管理統括の有無」とはどう云う事かと考えると次ぎの結論が出て来ます。
上記(3)の ”争いを伴なう時の「氏の融合」の「第2の条件」”とは、それは「氏の民の心を一つに纏める政策」でした。
そして、次ぎの数式が成り立ったからこそ「3つの発祥源」(氏の発祥源、侍の発祥源、武家の発祥源)が成し得て江戸期までに氏は2000までに成り得たのです。
この数式条件を整えず「青木氏」が「平族」や源氏の様な「生き様」をしていた場合は、現在の様な「氏の融合」は有り得ず、「氏融合」が成されなければ「雑種の優秀性と融合性」は成し得ず、「物造り日本」も有り得なかったと考えます。
では、この「第2の条件」を時代を通して維持させたのは、全て「青木氏の家訓10訓」の「教え戒め」に他ならず、遂には次ぎの「数式条件」を成し得たと考えます。

「3つの発祥源」=「氏の発祥源」+「侍の発祥源」+「武家の発祥源」
「青木氏家訓10訓」=「氏融合の第2の条件」
「氏融合の第2の条件」=「氏の管理統括」=「氏の民の心を一つに纏める政策」

この「数式条件」が本論の核心部分と成りますので、本論1より前記した事柄を前提にここより次第に本文に入ります。


  「氏の民の心を一つに纏める政策」
そこで、ではこの政策を更に詳しく検証して見る事にします。
そもそも、青木氏にはその政策として次ぎのような事が採用されています。

1「氏神の創設と創建」(神明社・祖先神・皇祖神・守護神)
2「氏寺の創建」   (菩提寺・浄土宗古代密教)
3「氏象徴の創設」  (象徴紋・綜紋・お仏像様)
4「氏の神木」    (青木の木)
5「氏の掟」     (総則 掟 家訓・添書 累代忘備録)
6「宗家の設定」   (一族一門を管理 総括者)
7「経済的背景」   (2足の草鞋策 経済的繋がり 古代和紙)
8「軍事的独立」   (皇族:近衛府軍、衛門府、兵衛府の左右六衛府3軍と左右衛士府軍、民部府を統率)
以上の8つの「青木氏政策」がありました。

これだけ「纏める政策」を整えている融合氏は他には全く見当たりません。

・8つの「青木氏政策」
1に付いて、「氏の人心を集める象徴−1」 「氏神」「神明社」(皇祖神)
特別賜姓族を含め賜姓青木氏はその賜姓に依って伊勢「皇祖神」の守護として成り、「氏の発祥源」の象徴として「神明信仰の対象」を定め、「人心」を集めて、その後に発祥した「賜姓地」(「氏融合地」)の各地にこの「神明社」を建立し、普及させて「神の加護の象徴」(19地域)を定めました。
奈良期の当時は、現在と違い「宗教に対する認識」は「生きる事」=「宗教」程の意味合いを持ち「絶対」であったのです。
「氏」が安寧に融合し存続して行くには「神仏」に「人心を一つに纏める事」が必要でした。
青木氏には伊勢神宮から発祥したそれが青木氏の「氏神」の守護神・「祖先神の神明社」であったのです。
平安期には、各地の安定域に成った天領地を始めとして、陸奥域を征討し鎮圧する毎に「神明社」を建立し、そこに青木氏が守護神を護る為に住職として移動定住しています。
この「皇祖神」と「祖先神」の「神明社」があるところには「青木氏」が、「青木氏」が定住しているところには「神明社」があるのです。
特に北陸関係には同族の近江皇族賜姓佐々木氏(天智天皇第7位皇子川島皇子始祖)もこの「神明社」と共に住職として移動定住しています。
青木氏だけでは務めきれなかった事から賜姓近江佐々木氏も奈良期の慣例に従い平安期にも「同族祖」として務めたと観られます。
平安期の古い「皇祖神と祖先神」の神明社には「社木」として「青木氏の神木」があり、又「神紋・笹竜胆紋」の幕が多いのはこの事から来ています。
「神明社」の多くは1400年以降の「社」が多く、このものに付いては特に天皇家が建立したのではなく主に当時の幕府か主要豪族が建立したものが殆どです。
領国の民を安寧に導く為に「伊勢宮の分霊社」として建立されたもので、平安期の目的とはやや異なっています。
奈良期−平安期の「氏の融合」が達成された目的とは別に、祖先神の「神明信仰」の色合が強いものでした。
荘園制に依って大豪族と成った「融合氏」等が「神明社」の慣習に習って別に「土地の守護神」を建立して「氏神社」を立て自らを氏子として並行して進んだのです。
そして守護神はただ一つではなく次ぎのような特徴ある歴史を持っているのです。

守護神は次ぎの形式に分けられます。
1 「自然神」
2 「産土神」
3 「祖先神」
4 「氏神」
5 「鎮守神」
以上「5つの神」に分けられます。(本文で詳細記述)

この「5つの神」は「神に対する考え方」が異なります。「4つの青木氏」は3の「祖先神」です。
各氏はぞぞれの上記の「5つの神」の内その「氏の成立ち」によりどれかを「神」として信仰しているのです。
そもそも、守護神は次ぎの形式に分けられます。
1 「神明」
2 「大神」
3 「大社」
4 「住吉」
以上の「4つの形式」に分けられます。

夫々の形式には「時代」と「宗教性」と「氏子対象者」の異なる「3つ要素」を持っています。
従って、夫々の「融合氏」と「姓氏」に依ってこの「4つの形式」のどれに入るかが決まって来ます。
「青木氏」は「皇族・賜姓族関係」であり、奈良期からの時代性を持ちますので「神明形式の守護神」と成り「祖先神」と成ります。
秀郷流青木氏は4番目の「氏神」でありますがこの神は別名「春日神」とも呼称されます。
秀郷流青木氏は「嵯峨期の詔勅」により発祥した氏でもあり、同時に賜姓青木氏を受けた特別賜姓族でもある事から皇族賜姓族の「祖先神」と藤原氏の「春日神」の両方を有する立場にあります。
勿論、「絆結合」の「2つの無血縁青木氏」も家人として郎党として「氏上」の守護神を「神」とします。
皇族賜姓族のみに限られた「守護神」の「祖先神」と成ります。

特に青木氏に関しては上記した様な他氏には決して観られない「血縁融合」−「絆結合」の関係で出来上がっていますから、「氏上−氏人−氏子の関係」を保持し同祖先神の守護神と成るのです。
「神」に対する考え方も次ぎの様に成ります。

「祖先神」
”自分と氏族の先祖を神として祭祀し、累代子孫までの守護神の性格的教義を持つ”。
以上と成りますので「2つの絆結合」も同じ守護神と成るのです。

この考え方に沿う為に「2つの血縁結合」の青木氏と「2つの絆結合」の青木氏、即ち「4つの青木氏」は他氏とは全く別の「氏の結合構成」をもとより持っているのです。
青木氏とそれを構成する族民は共に「祖先神」を守護神として崇める事になるのです。

例えば阿多倍一族一門は「民族氏」でありますので、「神」に対する考え方は次ぎの様に成ります。
「産土神」(うぶすなかみ)
”其の個人の生まれた土地の神で一生その個人の守護神として持ち続け子孫に伝播しない性格的教義を持つ”。
以上と成ります。(但し、現在では「氏神」と混同されている)
「産土神」ですので上記の「大社」形式と成ります。
(出雲大社、阿蘇大社、熊野大社、宗像大社等これに類する)

「5つの神」の「自然神」、「道祖神」、「皇祖神」を「祖神」として、「祖先神」(青木氏)と「鎮守神」(血縁氏)が「4つの青木氏」を守護したのです。

・8つの「青木氏政策」
2に付いては、「氏の人心を集める象徴−2」「氏寺」(秘匿)
そもそも「氏」は現在では親族を構える者は氏として扱われますが、氏家制度の中では鎌倉期以前は「氏」と「姓」に家柄が分けられていて、「武家」を構成する身分の者が「氏」として扱われ、武家を構成しない者を「姓」と呼称されていました。
「武家」とは「公家」(有品5位以上の貴族)に対しての「侍の呼称」で限られた「身分家柄」を認められた「氏」を云うもので、「公家の社会」から「武家の社会」に移った事で室町期からは「武士」を一般に「武家」と呼称するようになったのです。
本来は「武家」とは「有品の5位」以上身分を永代保証された者の一族に与えられた家柄でした。
この「武家」にはその一族一門を祭祀する「独善・排他的自営の寺」を営む事を許されてたのですが、これを「菩提寺」と称し、「3大密教」の「古代密教」の3宗派に限定されていました。
(青木氏は奈良期より古代密教を崇拝し、その考え方を継承したの浄土宗に帰依)
後の江戸初期にこの「密教方式」を解除して一般に開放奨励したことから「独善・排他的自営の寺」が無くなり「菩提寺」の呼称は一般的に適用されるように成ったのです。
本来は、「3大密教」外は「檀家寺」と呼称されていました。
室町期の「下克上・戦国時代」に発祥した「姓氏」には「独善排他的自営の寺」は持ちませんので、全て「檀家寺」と成ります。
従って、「姓氏」の祭祀は江戸初期の「密教方式解除」と「奨励督促令」を含み3宗派外の宗派の「檀家寺」と成ります。
3大密教の天台宗は「公家貴族」を対象とし、浄土宗は「氏」を構成する「上級の有品の武家」を対象とし、真言宗は「中級の武家」を対象としていました。
これ等の身分家柄階級は平安時代の身分家柄を定める令に従います。

中でも「2つの血縁青木氏」の「神仏の加護」として、「氏の発祥源」に対して初めて「氏の象徴寺」(氏寺)と云うものを正式に定めました。
これが「氏寺」であり賜姓族は当初伊勢松阪に「菩提寺」を建立し、「仏の加護」の象徴を定めました。
天智天皇から賜姓時に「氏融合の発祥源の象徴」として授与された「生仏像様」と称される「氏寺」の「護り本尊」として仏像を祭祀したのです。
その後、「護り本尊」の「生仏像様」を伊勢に置き「菩提寺」は分霊されて「神明社」と共に5家5流の国府に建立されました。(「青木氏ステイタスと生仏像様」のレポート参照)
「2つの血縁青木氏」の一つの特別賜姓族の秀郷流青木氏は、「有品4位」であり、母方の特別朝臣族でありますから「古代密教浄土宗」の氏寺の「菩提寺」を有することに成ります。
依って、「藤成−基景」にて発祥させた「伊勢特別賜姓族の秀郷流青木氏」は4日市に「菩提寺」を有していましたが、後に「2つの血縁青木氏」の結合の「融合青木氏」が発祥し、「賜姓族青木氏」と同じ「松阪の菩提寺」にも祭祀されていました。

「氏の発祥源」=「氏の象徴寺」(菩提寺)=「氏の信仰対象仏像」
これが全青木氏の「守護仏像信仰」即ち「人心を集める象徴」だったのです。

(注 「青木氏の氏寺」(菩提寺)を”秘匿”としたのは、江戸初期から明治35年までの間、青木氏とある特定氏の2氏の排他的な「専属の氏寺」であった為に、現在は青木氏外の「特定の寺」と「一般の檀家寺」とも成っている為に迷惑が掛かる事を避ける為)
(信仰対象の「象徴仏」の「お仏像様」に付いての詳細は「青木氏ステイタスと生仏像様」レポートを参照)

・8つの「青木氏政策」
3に付いて、「氏の人心を集める象徴−3」「綜紋」「笹竜胆」
青木氏はそもそも大化期より「3つの発祥源」(融合氏、侍、武家)です。
それ故、「青木氏の氏名」「氏の証のお仏像様」(大日如来坐像 皇祖神天照大神)を始め「氏の象徴の紋」を天皇より賜紋を授かり「正式な象徴紋」として世に定められたです。
この「象徴紋」は後に公家も使用する様に成り、平安期末には限られた朝廷より認可された数少ない「融合氏」等には、その証として「武家の家紋」として使用を許されたのです。つまり「武家の綜紋」です。
(同族である源氏11氏もこの象徴紋に準じる)
平安初期の「象徴紋」から「公家」や「武家」の「家の象徴紋」、即ち後には「家紋」(平安末期)と成ったもので、「笹竜胆紋」は「融合氏」の「最初の家紋」として全青木氏(4つの青木氏)はこの家紋を敬い、この家紋で「姓族」等をまとめる「綜紋」として「3つの発祥源」の誇りを以て結束したのです。
「象徴紋」を有するのは全ての8000氏の中でも青木氏だけです。
「笹竜胆紋」は「家紋」とする扱いよりはむしろ「融合氏発祥源」の全武家の「象徴紋」としての扱いが強かったのです。
これは「皇族賜姓族青木氏の綜紋」でもありますが、且つ、「融合氏の武家の綜紋」「笹竜胆紋」でもあるこの「象徴紋」の下に、その「母方血縁族 藤原秀郷流青木氏」としても自らの「融合氏」の「藤原秀郷一門」の「下がり藤紋」をも「綜紋」としていました。
この「2つの綜紋」を持つのが「血縁族の藤原秀郷流青木氏」なのです。
(秀郷青木氏は守護神も春日社の「氏神」と神明社の「祖先神」の2つを有する)

この由来は「藤花」の形に囚われて一般には余り知られていない事なのですが、「2つ目の綜紋」の「藤花の色の紫」をその「象徴紋の基調」としているものなのです。
その所以は、平安期は「紫」は「色の最高位」でもあり、「公家、武家、僧家」の「身分の色分け」にも使われたものです。ですから「下がり藤紋」は藤の花そのものより、その「紫」を以って「笹竜胆紋」の権威に続く「藤原朝臣族」の「最高権威の象徴紋」でもあるのです。
「花形」よりも「紫色」に意味を強く持つものなのです。
「氏家制度」の中ではなくては成らない「象徴紋」として、この様に「一族一門の人心」を「綜紋」に求めたのです。
これは他氏には無い「4つの青木氏」の誇りであり、且つ「人心」を集める「拠り処」であったのです。

「象徴紋」=「綜紋」→「家紋」→「人心の拠り処」

・8つの「青木氏政策」
4に付いて、「氏の人心を集める象徴−3」「氏の神木」
「青木氏の神木」のその由来は樹木の「青木」の木の性質にあります。
「青木」の木は常緑樹で常にその幹も枝も葉も青く、その木の勢いは他の木に見られない常に強い勢いを持ち、青長枝は1年に50−100センチにも伸び、その実は真紅の10ミリ程度の大きな実を付けます。
その葉には色調豊かに白、黄色、緑を有し四季に変じてその色合いを変化させます。
この事から、常に常緑で四季に応じた「色変化の特質」は「長寿」を意味し、「青い木」は体躯を表し、その「枝葉の成長」は子孫繁栄を成し、その「実」は健康な体の血液を表すとして、古代飛鳥より「神木」として崇められてきました。この「神木」を「3つの発祥源」の象徴としてこの木の持つ象徴の意味から、青木氏の「氏名」を賜姓される時に天智天皇から「臣下名」として授けられたものなのです。
そして、この樹木を「青木氏の神木」とする事を定めたのです。
この事から、この青木の「神木」は「神社の神木」から「青木氏の神木」として使われ、平安期末には「神社の神木」は「榊」と変化して行ったのです。この神木は仏教の仏木「槇の木」に当たります。

この様に他氏には言い伝えの様なものがあったにせよその「融合氏」を護りする正式な「神木」と云う習慣が無く天皇が認める青木氏に関わるものだけなのです。
「氏家制度」の中では他氏には認められなかった習慣です。一種の飛鳥期からの「自然神」の「自然信仰」の楠の様な「唯心の樹木信仰」でありました。
それだけにこの樹木には伝統的な「人心」の思いが込められているのです。
(「氏の神木」の詳細はレポートを参照)

・8つの「青木氏政策」
5に付いて、「氏の人心を集める象徴−4」「氏訓」「家訓10」
1365年以上とする歴史を持ち、この中で全青木氏が乱世を一致して生残る為には、その「生き様」から遺された経験を生かす事のみにしかありません。
家訓の内容からその時代に刻まれた苦難を省みると、少なくとも平安初期頃からの戒めであったと考えられます。青木氏に於いて大きな試練毎に追加されてきたと考えられ、凡そ1100年前半(1125年頃までに)に完成されていたものと観られます。
この事は経済的とも取れる内容もあり「2足の草鞋策」を採った時期に符号一致していると考えられます。普通「3つの発祥源」の「融合氏の祖」とすればがちがちの「侍気質の家訓」と考えられるのですが、そうでない内容と考えられます。かなり柔軟で「人の本質(性:さが)」を求めています。
特に「3つの発祥源」であった事から全融合氏のその「模範氏の責任」が求められていたと観られますが「侍、武家」と云うよりは「人として、氏長として」の責任を追い求めたと考えられます。
「3つの発祥源」の青木氏が「2足の草鞋策」を採ると云うことは当時としては世間では「奇想天外」な事であった事が予想できますが、青木氏5家5流がほぼ同時期に同商いで全て「古代和紙」を営んだ事から観て家訓の様にかなり「柔軟な考え方」を伝統として持っていた事が云えます。
この「柔軟な考え方」が生き延びられた原因の一つで他氏とは全く違う体質であった事が云えます。
それを示す端的な事件として、「武家の祖」であるにも拘らず「不入不倫の権」で護られた「貴族侍」と観られていた青木氏が「天正伊勢の3乱」「丸山の戦い」「伊賀の戦い」で信長を打ち破った「天下布武」を唱える「信長ただ一度の敗戦」(戦わずして負ける)のその時の「青木氏の戦略戦術」がこれを証明するものです。(伊勢のシンジケート戦略:青木氏に関わる全ての民の活躍)
言い換えれば、上記した「4つの青木氏の結束」(家臣、村民)の強さはこの「家訓10訓」に観られる「柔軟な考え方」が原因している事を証明します。他氏には観られない家訓で結束されていたのです。

・8つの「青木氏政策」
6に付いて、「宗家の活躍・設定」(一族一門を管理 総括者)
初期の「民族氏」として肥大化した大集団が「融合氏」化して行く過程では、必ずこの世の「万物万象」に観られる様に、その集団の「核・中心」と成るものが相互の「連絡の不足・絆の薄れ」に依って忘れ去られて無くなるという現象が起こります。
「濃い血縁関係」に依って集団化するのでは無く、「民族」と云う広義で「薄い血縁関係」で結ばれていたとすると、必然的に余程のリーダーシップの勢いが無くてはなかなか「中心・核」と成るものが生まれるものではありません。つまり、「民族氏」が「核家族化」ならぬ「核民族氏化」を起こすのです。

この摂理で行くと結局は、「核民族氏化」した集団が拡大過程を採り、「中集団化」を起し、「大集団化」へと繋がり、再び、「核民族氏化」が起こり「大集団化」へと繰り返し、あくまでも再び「核民族氏化」が起こり一つの「超巨大集団化」でまとまることは無くなる事になります。

「核民族氏化」→「中集団化」→「大集団化」→「分裂破壊」→「核民族氏化」」→「中集団化」→「大集団化」=「民族」の「薄い血縁関係」
このサイクルを繰り返すことに成ります。

「民族氏」では、氏の「細胞」の増殖が起こるがその細胞間の「同胞性」が無くなって遂には成長が留まり、時には「同胞」が戦い死滅する恐れさえ起こるのです。
つまり、ある大きさで収まりその「相互間の絆の薄れ」が起こる現象を繰り返す事に成ります。
これが阿多倍一族一門と呼ばれる「民族氏」の典型的な「経過形態」なのです。
本来、「民族性」を持つ渡来人であって「小集団」の渡来であれば少なくともその「民族性」も周囲に感化されて「時代の経過」に依って「民族性」が薄れて遂には「融合氏化」への方向へと進むのですが、この点に進まない原因を有していたのです。

「阿多倍一族一門」は当初から後漢「光武帝」と云う滅亡した漢国の一将軍が逃亡中に中国東地域を制圧し新たに「後漢国」を創建し、21代後に16国に分散しその中の「滅びた隋」と「建国した唐」に圧迫されて遂には後漢の漢民族は崩壊して、その国の「全17県民 200万人」と云う「国レベルの集団」が大和に渡来しているのですから、もとより「民族性」を強く持っていた事は否めません。
そして、それらは「血縁と云う結び付き」が希薄で「組織的な命令系統」を中心に依って形成されていた集団であったのですから、その「組織または国の首魁」が「核・中心」と成る「集団構成」であったのです。
「民族の坩堝」と呼ばれる中国大陸に於いて「優秀果敢な漢民族」とは云えど、それは全て「漢民族」で成り立っていた訳ではなく、「洛陽・東中国人」「中国系朝鮮族」等の民族が多く主に3つの「民族の混成集団」からそもそも成り立っていたのです。
そして、それらが既に約400年が経ち「民族氏」の「経過形態」が既に終わった超大集団であったのです。
(民族氏は中国の構成形態 前漢29−220:後漢220-618年滅亡 隋581-618滅亡 隋唐に圧迫)
その「構成形態」を以って「国レベル」で渡来したのですから「民族意識」は変えられる事は無理であったと考えられます。
彼らが良いと信じていた「民族氏の概念とその組織形態」を”「大和国」を「融合」と云う手段で一つにまとめ「国の安寧と安定」を図るのだ”と聞かされても、直ぐに換えられる事もなく渡来したとして「帰化」−「独立」も考えるところであったとも考えられます。
故に「朝廷の国策」の「融合氏3策」には根本的に馴染まなかった事を意味します。真に”何かが起こる”の所以であります。(例 「大隈隼人の戦い」)
しかし、反面、青木氏の「融合氏」は「集団化」してもそこには「血縁」を中心にした「核・中心」と成るべき生き抜くべき形態を保持していたのです。

「生抜形態」=「総宗本家」-「宗家」-「本家」-「分家」-「支流」-「分流」-「分派」
以上の氏家制度の管理された「組織形態」を造り挙げていてたのです。

「部曲・品部」←「生活絆」→「生抜形態」←「絆」→「無血縁結合」
この組織に「無血縁結合」の「絆」を基とする「姓氏」が夫々の枝葉に結合すると言う網の目の様な「組織形態」を造り、これに殖産(物造り)を加えて「生活絆」で結ばれた「部曲・品部」が土壌を支えていたのです。

この細部までに結び付いた「生活環境」中で一族一門が生きて行くに必要とする事を「相互扶助」で「護り合う形態」を作り上げていたのです。要するに「氏家制度」の形態の完成であります
そして、この「核・中心」と成る「氏の長(氏上)」の指揮命令系統を定めて「氏人」−「家人」−「部曲」「品部」「雑戸」の「融合・結合の結びつき」で「支えあう社会」、末端の民に至るところまでの「相互扶助」の組織、即ち「氏家制度」(一族一門を管理し総括し扶助する社会形態)を構築していたのです。
阿多倍一族一門との間には、ここに大きな違いがあったのです。
とりわけ、青木氏はその「悠久の歴史」が「血縁の力」を超えてむしろ「絆の社会優先」で結ばれていた「融合氏」であったのです。
「3つの発祥源」として範たる形態を敷いていたのです。「氏家制度」の範と成っていたのです。

(例 明治35年まで続いた皇族賜姓族5家5流の「紙の殖産と販売網」の組織 昭和20年まで続いた讃岐特別賜姓族の「回船問屋と殖産業網」の組織がこれを物語る。)

・8つの「青木氏政策」
7に付いて、「経済的背景」(2足の草鞋策 経済的繋がり)
阿多倍一族一門はその配下には実質「180品部」の大集団を持ち「公地公民」と成りながらもその売却益を「経済的な支え」として成り経っていました。
「公地公民」に成ったとは云え、彼等の「民族性」、「旧来からの支配形態」を直ぐには壊すことは出来ません。そこで、一度朝廷に納める方式を採るにしてもその収益の一部を彼等の集団に納め、その「部民」に関する詳細な指示配命令形態は彼らを「伴造」(ともみやつこ)に任じて管理させていたのです。
この「伴造」を管理する為に地方の行政末端役所の「郷戸・房戸」と行政局の「国造」(くにのみやつこ)を置いていたのです。
ところが次第にこれ等(伴造)が独自の「墾田」を造成して私腹を肥やし「私有財産化」へと進んだのです。
阿多倍一族一門はこの様に莫大な「経済的背景」を持っていたのに対して、「融合氏」らの経済的背景が主に「土地からの収益」があったにせよ「氏勢力拡大」に相当するものでは無く、阿多倍一族一門の「民族氏」の勢力に圧迫を受ける状況と成っていたのでした。
そこで、集団化した主な「融合氏」は「三世一身法」「墾田永代私財法」を境に徐々にその「守護の立場」を利用して「殖産・土地の産物」を商いとする「2足の草鞋策」を実行して行ったのです。

1 「守護王」の「行政権」     :(阿多倍一族一門:「行政担当」の「官僚権」)
2 「国造」の「権益」       :(阿多倍一族一門:「伴造」の「権益」)
3 「2足の草鞋策」の「経済的背景」:(阿多倍一族一門:「品部」の「収益」)
以上の「3つの権益」を獲得して彼等の「民族氏」の勢力に対抗する事が出来たのです。

「3つの権益」1と2は「相当の力」を保持していますが、3の「品部の収益」に匹敵する力を初期には保持していなかったのです。
それを拡大する「民族氏の勢い」に押された朝廷は、止む無く「公地公民制度」を緩めて「三世一身法」「墾田永代私財法」を発布したものですが、「融合氏」の頂点に立っていた青木氏の様な氏の一門は、これを逆手に取って「土地の産物」の「殖産と増産」(物造り)を営みそれを「商い」とする対抗策に出たのです。
「5家5流賜姓青木氏」は全て「古代和紙」の土地の殖産産業を興してこれを商いとして相互間の連絡を取り、後の織田信長(2万)との戦いに観られるように「1、2、3の総合力」で勝つ程に「大商い」としていたのです。
これで「民族氏」=「融合氏」と勢力均衡のバランスが成り立ち生残れたのです。

この「3つの権益」がとりわけ「2足の草鞋策」の「経済的背景」の努力が無ければ現在の青木氏は生残る事は100%考えられず、同族の賜姓源氏の様に11家もありながら「滅亡の憂き目」を受けていた筈です。(阿多倍一族末裔の平族の清盛さえも「2の特権」を生かして「宗貿易」も行った事でも証明出来る)

同族血縁族の藤原秀郷流青木氏も赴任地24地方では「3の商い補完対策」を大いに構じています。
資料の中には昭和20年まで続いた「讃岐安芸土佐の土地の殖産」とそれと結びついた「大廻船問屋」の「讃岐青木氏」様な「融合氏」が存在します。
「讃岐青木氏」の分布状況を観るとその商いの大きさが判ります。
讃岐を出て関西以西中国地方全域に小さいながらも「讃岐青木氏」の末裔が存在しているのです。
家紋から観た分布でこれは支店を設けていた事を物語ります。

因みに筆者の伊勢青木氏の宗家の商いは外国貿易の堺に2大店舗、松阪に2大店舗 玉城町8割を占める蔵群 千石大船3隻を有して明治35年(祖父)まで営み分家の商いは大阪で現在も続いています。

当時の平安期の環境からすると「民族氏」勢力=<「融合氏」勢力の判別関係式が成り立たなければ「弱肉強食」の中では生残る事は絶対にあり得なかったのです。
「3つの発祥源」「皇族」「賜姓族」の置かれていた立場からは”商いする”と云う事は「奇想天外な発想」であった筈です。これを成し得たのは悠久の歴史を持つ事から生まれた「4つの青木氏(血縁+絆)」の環境が他氏と違うところを作り出していた事に他ならないのです。
これは「2つの青木氏」の「祖先神」の考え方を「心の拠り所」として、一致結束して他氏に観られない「青木村」を形成して「2つの絆結合社会」を構築していたからに他なりません。

・8つの「青木氏政策」
8に付いて、「軍事的独立」(皇族:近衛府、衛門府、兵衛府の左右六衛府3軍と左右衛士府軍を統率)
皇族賜姓青木氏の臣下の目的は、そもそも天皇家の問題にあったのです。
それまでに皇族を護る「親衛隊」が無かった事が「弱体化の問題」と成っていて、それを解決させる為に”皇族の者に「臣下」と云う形で「武力」を持たす”と云う事を、天智天皇が「政策大転換」をさせた事です。
当時は皇族、貴族は”「武力」を持たない”と云うのがステイタスでした。
従って周囲の「民族氏」の豪族が力を持つとこれを背景に「軍事力、経済力」を高め挙句は「政治力」をも獲得すると云う方向に進み、「権威」のみに依って保護されている「皇族、貴族」をも凌ぎ、その立場を脅かすと云うところまでに発展してしまいます。恐らくは「貴族武力保持政策」は仰天倒置の騒ぎで合った事でしょう。
(「臣下の仕来り」は皇位継承順位と供に天皇の皇子順位が第6位皇子に当る者に任じる事を定めた。)
蘇我氏の例に観る様にこの弊害を無くす事から、更にはそれまでの身分制度(臣、連、君、直、造、首、史、稲置)の姓を見直し、弊害と成っていた飛鳥時代の大王家(天皇家)に繋がる「民族氏」の「臣族(蘇我氏等)」やそれに相当する勢力を保持している「民族氏」の「連族」等を解体して「八色の姓」の制度に依って大変更しました。
そしてその制度に基づいて新たな「皇族臣下族」を作り上げて「氏」の姓を与え、「皇族、貴族」でありながらも「武力」を持たせ、前記した「5つの俸禄制度」(功田、賜田等)を制定し「爵位」と「冠位」と「職務」を与えたのです。
それが「朝臣族」の「浄位」であり、「左兵衛門尉佐」「右兵衛門尉佐」「民部尉佐」の冠位と、総括「近衛軍六衛府軍」の指揮官の職務と成ったのです。

これまでの「臣連」を指揮官とし全国から「伴の労役」に従事する民を集めての朝廷軍(後に阿多倍一族軍が加わる)を編成していましたが、それとは別に天皇の身辺を護り任す「近衛軍」を創設したのです。
これを任されたのが「皇親政治」」を担った初期の賜姓族5家5流の青木氏一族一門であり、900年ごろからは「同族賜姓源氏」と「同族母方血縁族」の「藤原秀郷一族一門の特別賜姓族青木氏」もこれに任じられたのです。
これに依って、それまでは「臣連」の「民族氏」の参政による「政治体制」から、彼らに揺さぶられる事無く、天皇家の身内による「独自の軍事力」を背景に身を護り、青木氏等による「皇族貴族」が主導する「皇親政治」を敷き、当時としては全く新しい「画期的な政治体制」を確立したのです。
今までに無かった「政治体制」が樹立したのです。
従って、恐らくは奈良期社会はこの時「天変地異」の出来事であったと観られ、周囲は相当に紛糾し、反対者も多く天皇と云えども身の危険は保証されていなかった筈です。
蘇我氏が潰れたとしても従兄弟の蘇我氏一族「蘇我仲麻呂」や「蘇我赤兄」の「民族氏」の豪族は温存されていて脅威の一つであったのです。
天皇家の中でも彼らと利害を一致し血縁性があり、その代弁者とする「反対皇族者」は居て、天皇の身内であっても事件後(日本書紀にも書かれている様に)これは粛清されて行きます。
当然に反対する「民族氏」の飛鳥時代の「臣」「連」の豪族等も「蘇我氏」と同様に潰されて衰退してゆきます。
歴史的には「皇位争い」を「通り一辺」と位置づけられていますが、この様に周囲の政治的な変化を考察すると、筆者は「皇位争い」はその「最終の始末の方便」であって、正味はこの「大化の異変の経過措置」としての「争い」と云う「決着の手段」であったと観ているのです。
この「決着の手段」の「捉え方」に依っては其処に起こる「見える画像」に対して著しく観方は違ってくる筈です。
「孝徳天皇」の皇子の「有間皇子」の例の様に、”「皇位争い」で抹殺する事”が、「中大兄皇子」から観れば”反対者には「抹殺の大義明分」に抗する大儀は無く程遠い”と考えていた筈だからです。
「中大兄皇子」はその順位からしてもトップであり何の問題も無く、まして蘇我氏を自らの刀で刺し自らの指揮下で蘇我氏の護衛雇い軍の東漢氏と交渉し蘇我氏の軍を解体させ、自ら「大化の政治改新」の具体策を発案し実行した唯一の人物なのです。
これだけの条件がそろっていれば、周囲の反対者がそれに取って代わると云う風に考える事そのものが異常とするものです。仮に取って代わったとしても他の周囲はそれを容認する事は100%有り得ず、「民」も天皇としてのそれを認めることは出来ない筈です。
まして、「中大兄皇子」が下した「抹殺を含む処置」をどうするかの問題もこれだけの条件が揃っていれば反対者が取って代わっても政治の実行は元々不可能です。
「有間皇子」(従者一人)は、家来一人を伴い同行し、蜜命を帯びた「蘇我赤兄」に直接後ろから熊野古道の藤白神社の直ぐ側の民家の横で考察されますが、その直前に(海の見える山越えが終わった実に神社横の一息つきたくなる様な景色の良い角の場所)座り民家から水を貰い飲み、そして読み遺したとされる「時世の句」から観ても「皇位継承争い」だけでは無いと観られます。
反対派の裏工作と知らずに会合に参加した事が原因(失敗)と観られます。
父の「孝徳天皇の弱体化」から観ても、「有間皇子」は皇位につける条件下に無い事ぐらい判って居た筈です。「天皇家の復権」を自らの力で成し遂げた「中大兄皇子の絶対優位の立場」から観ても取って代わる事が不可能である事くらい判る筈です。まして反対派も同様に「大儀」は失って居た筈です。
通説の「皇位継承争い」は立場を変えてみれば違う事に成ります。
「抹殺の殺意」とは別の”無意識に「事の流れ」に偶然に取り込まれていた”と成るのではないかと観られます。この世は意識、無意識に無関わらず「自然の流れ」に抗しきれない「流れ」に呑まれる事が有ります。

この様に大変厳しい政治環境の激動の「流れ」の中で、「生仏像様や神明社の加護」の下に巻き込まれることも無く護られ、平安中期には「2つの血縁青木氏」は天皇家の同族を護るために「自らの軍」を保持したのです。その「流れの自然渦」に巻き込まれる危険性は充分に有りながらも自立への道を歩んだのです。「融合氏の青木氏」が「3つの発祥源」を護り「氏」を育てる始めての持つ「自衛軍」であったのです。
そして、「天領地の守護王」として護る事も行ったのです。
ただ平安期にはこの「自衛軍」のみならず「4つの青木氏との絆結合」と「5家5流の連携」「4つの青木氏との絆結合」と「母方同族 特別賜姓族の藤原秀郷流青木氏」の力を背景に、「近江−伊勢−美濃−信濃−甲斐」の線上に存在する「融合氏の小集団との連携」、所謂「シンジケート」とが組合わさって「実数の軍事力」より遥かに大きい「巨大な相互防衛網」を構築して行ったのです。

1 「自衛軍」
2 「4つの青木氏との絆結合」
3 「5家5流の連携」
4 「4つの青木氏との絆結合」
5 「融合氏の小集団との連携」所謂「シンジケート」
この「5つの防衛線上」に途切れも無く「商いの経済力」が乗っているのです。

「5つの神」
「守護仏像信仰」
「象徴紋の基調」
「唯心の樹木信仰」
「4つの青木氏の結束」(家臣、村民)
「3つの発祥源」
「2つの絆結合社会」
「3つの権益」
「5つの防衛線上」

以上8つの「青木氏政策」の基に「9つの政策基調」を持ち得ていて、これ等が有機的に働いて生残れたのです。
これ等の「9つの政策基調」を「心と物」に分けて、「物」に付いてもう少し掘り下げて観ます。
とりわけ先ずは「物」の「防衛力」です。
その「防衛力」は次ぎの数式で成り立っています。

「青木氏の総合防衛力」
「近衛軍」+「4つの青木氏との絆結合」+「5家5流の連携」+「シンジケート」=「自衛力」
「自衛力」+「実数の軍事力」+「商いの経済力」=「巨大な相互防衛網」

そして、970年頃からは次ぎの防衛網のラインが構築されます。
1 伊勢青木氏−信濃青木氏の防衛網ライン
(伊勢秀郷流青木氏と信濃に隣接する美濃秀郷流青木氏が加わる)

2 「母方血縁族」の「藤原秀郷一族一門の青木氏」の「尾張−常陸」までの「東山道の防衛網ライン」
(武蔵入間を中心に片側相模の2幅)

3 「賜姓5家5流の青木氏」の「近江−甲斐の防衛網ライン」
以上3つラインが結合し「東山道」を常陸から近江の都まで繋いだ勢力圏を構築したのです。

4 「伊勢路防衛網ライン」
これに伊勢青木氏が奈良期から独自に持つ「近江−摂津−堺」までの「伊勢路防衛網ライン」が加わります。このラインは、「神明社」を伊勢神宮から近江まで円域の19の地域に建立し、そこに第4世族の「守護王」を置き、伊勢神宮からの神明社圏域を固める為に作り上げられた天皇家の独自の伊勢青木氏が護る防衛網ラインです。
そしてこの防衛網ラインに沿って平安期末期には「青木シンジケート」が敷かれているのです。

5 「瀬戸内防衛網ライン」(讃岐籐氏の秀郷流青木氏が独自に瀬戸内に構築した防衛網ラインで室町期には南北に日本海側まで延びたライン)

この事は青木氏の事以外にも歴史上ではなかなかこの「シンジケート」の事は扱われません。
しかし、平安期中期頃からでは戦いに敗れた「融合氏」や「姓族」や「民族氏」は生き延びなければ成りません。敗者は集団で家族共々逃亡する訳ですから、簡単に全て奴隷(「部曲や品部や賤民や俘囚や浮浪人」)には成り果てる事は出来ません。
当事(平安期から室町期末期までは)は有名な武田氏の有名な事件の様に打ち破った相手側の者を奴隷や戦利品として扱い売買すると言う歴然とした戦国の厳しい慣習があったのです。しかし、武田氏や上杉氏はこの慣習を禁止します。
これは室町期だけではなく平安期の安部氏の「前九年の役」「後三年の役」でも明らかの様に「俘囚民」(920年頃と1020年頃に公の仕組みは一時廃止される)と呼ばれ「奴隷」として「荘園の労働者」に送り込むという「陰」ではなく社会全体の正式な仕組みの一つに成っていたのです。
鎌倉期(豪族間の戦い)から江戸期中期(除封・移封)までにも「戦いや叙封」であふれ出た家臣や領民は下手をすると「醜民族」(明治末期まで残る)と呼ばれ「社会の陰の労働力」として扱われていたのです。
これから逃れる為に、敗退した氏や姓とその家臣領民は上記した様に山に逃げ込みこのシンジケートに入り生き延びると云う「陰の社会構造」が出来上がって行ったのです。
これが豪商などから経済的支援を受けて生き延びた「陰の力」の「シンジケート」なのです。
この様にそこで敗者は「海賊、山賊」、「山郷の隠れ土豪」、「兵の請負業」の様な事をやりながら、傍ら豪商からの「経済的支援」を受けて”いざ”と云う時には「互助の掟」で連携して役目を果す事をして生き延びたのです。(徳川家康はこの陰の力を戦略として大いに使った)
室町期の「下克上、戦国時代」には敗者が多く溢れ出て更にこの組織が拡大します。
鎌倉期の800あった融合氏は平安期の状態(80−200)まで減少するのですから、溢れ出た「融合氏」の家柄のある者等は家長・家人・郎党等が山を切り開き村を形成してこの組織に入ったのです。
「シンジケート」が山間部や山伝いにあるのはこの事から来ているのです。
(最たるものでは前回に記述した平家の落人がこの各地の「陰の仕組み」のシンジケートに入った)

平安期から江戸初期までの「氏家制度」の「陰の縮図」で、この「陰の縮図」が成り立たなかった場合は「氏家制度」も成り立っていなかったのです。
このシンジケートは「物心両面」の「陰の相互扶助」を「掟の旨」として存在し、況や、「氏家制度の縮図」で「陰の氏家制度」なのです。
「表の氏家制度」+「裏の氏家制度」=「社会構造」

「表の氏家制度」のみでは決して社会は成り立っていなかったのです。
そもそも論理的に成り立たないのです。
800あったものが80−200の1/4に成れば3/4は浮いてしまいます。
3/4は何らかの社会の「救済仕組み」が無くては社会が成り立ちません。
それが「俘囚民」、「醜民」の「悪い仕組み」であり、「良い仕組み」として「シンジケート」が「必然の理」に基づき「氏家制度」の社会の「救済の仕組み」「陰の仕組み」として公然として生まれてたのです。

因みに、南北朝の有名な楠木正成等は伊勢の集団の「青木シンジケート」の首魁の一人ですし、紀州九度山の真田氏も伊勢のこの「青木シンジケート」に組み込まれた一員で経済的な裏づけを採っていたのです。上田氏は信州上田郷の土豪が「夏冬の天下分け目の戦い」に生き延びる為に親子が二つに分けて両陣営に合力し親は九度山に配流され、生き延びる為に伊勢の「青木シンジケート」に加わります。しかし、真田幸村は豊臣側に付き「青木シンジケート」から外れ「滅亡」を選んだのです。
何れも軍師でありますが、「シンジケートの陰の力」を全面に受けての戦いに参加します。
結末も軍師を請われての同じ結末を辿ります。楠木正成は陰の力を背景にゲリラ戦を敷き10万の軍を餓死に追い込み勝利し、真田幸村は騎馬と軍馬を補助され、原野に配置した「陰の力」(シンジケートの野戦ゲリラ戦)2面の支援を受けて本陣の家康を完全孤立させる事に成功し討ち取る直前で止めて家康を生かして去りました。

この様に何れも本来外に出る事のない構成員が何れも表に出てしまった構成員です。表に出た以上は最早、構成員では無く成ります。何れ滅亡するしか無い事を意味します。表に出た構成員がシンジケートに戻ればシンジケートの「有り様」が変化してシンジケートは自然崩壊します。

この勢力圏は明治初期まで維持されたとする青木氏の記録と公開された史実が有り、「青木シンジケート」を使って各地に起こった殆どの一揆に対して「経済的支援」を行っていたと観られる記録が青木氏側の資料にも遺されています。

敗退した小集団の「融合氏」や「姓氏族」はこの様にして「シンジケートの陰の力」を背景に生き延びたのですが、これを用い保持しなかった大集団の源氏や平家は消え去ったのです。
しかし、阿多倍一族一門の平家(たいら族)の支流族は各地でこの真にこれを地で行く様にシンジケートの一員として生き延びたのです。

青木氏は次ぎの「4つのシンジケート」に関わっています。
「青木氏の3つの防衛網ライン」に構築されたシンジケート
1 「東山道の防衛網ライン」(藤原秀郷青木氏の勢力圏 東山道東側シンジケート)
2 「近江−甲斐の防衛網ライン」(皇族賜姓青木氏の勢力圏 東山道西側シンジケート)
3 「伊勢路防衛網ライン」(伊勢青木氏の勢力圏 伊勢路シンジケート)
4 「瀬戸内防衛網ライン」(讃岐籐氏秀郷流青木氏の勢力圏 瀬戸内海族シンジケート)

この「4つの青木シンジケート」に付いて歴史史実に残る証の事件が全てに有ります、表に出た主な有名な事件として次の様な事があります。
徳川家康は「天下分目の戦い」の為に甲斐武田氏系青木氏の3氏を殆ど家臣団に加えたのはこの1のラインの「勢力圏の確保」が目的であり関東とのその繋ぎ目を獲得します。
(柳沢氏もこの時の家臣団の一つです。「甲斐武田氏系青木氏]のレポート参照)
「関が原の戦い」を前にして家康は名古屋城にて本隊を待ちます。一方秀忠本隊は家臣と成った藤原氏秀郷一門の「防衛網ラインの東山道」を使い西に下りながら周囲の掃討作戦を展開している時、家康は名古屋で伊勢青木氏が抑える「伊勢路防衛網ライン」の獲得に動きます。
この時、伊勢青木氏は250の兵とシンジケートで護る伊勢−堺までの通行の保障作戦を展開することで約束します。
つまり、名古屋城に入る本隊の通行の安全を保障する「東山道西側ライン」は5家5流賜姓青木氏のシンジケートが保障したのです。
この「防衛網獲得作戦」でこれで大阪関西域の東は完全に押さえたのです。

又、武田氏が滅びた時、藤原秀郷流青木氏が諏訪族青木氏を含む甲斐武田氏系青木氏3氏の受け入れに成功したのは織田信長がこの「東山道防衛網ライン」に手を出せなかった事によります。
この時、甲斐のラインは一部崩れますがこの地に残る甲斐皇族賜姓青木氏が修復します。
他には次ぎの様な有名な事件がありますがこれ以外にも数え切れない記録が遺されています。
「壇ノ浦の源平合戦」、「楠木正成の南北朝の戦い」、「藤原純友の乱」、「甲斐の100年一揆」、「江戸末期から明治期の動乱一騎」、「信長の伊勢天正の3乱」等々。

それにはこれだけの「相互防衛網」を維持するには矢張り「経済的背景」が絶対に必要とします。
又、この様にどの場面から考察しても「奇想天外な近衛軍の政治改革」と「奇想天外な2足の草鞋策」の実行は歴史の必然として絶対的に必要であったのです。

「青木氏生き残り」→「3つの発祥源」→「シンジケート・防衛力」←「経済的裏づけ」←「2足の草鞋策」

「融合氏の青木氏の秘訣」
そこで源氏の様に「単一の軍事力」を必要以上に大きくするのではなく、「経済的背景」と「総合防衛力・軍事力」を組み合わせた「生き残り策」を構築する事であって、これが「融合氏」の「青木氏の秘訣」なのです。
その「青木氏の秘訣」を「戒め」として遺したのが、実に「柔軟性」に富みで「戦略的」な「青木氏家訓10訓」であると考えているのです。
何度も主張している様に「3つの発祥源」でありながらも、上記の様な「判別式の数式」から来た「侍、武家」らしくない家訓と成っている所以であると考えます。

多倍一族一門「6割統治」
この事から筆者の認識では「氏融合」と云う血縁で観ると、後漢の阿多倍王は、帰化以来、平安時代末までには遂にはその子孫を以って「政治(律令制度の完成)」、「経済(部経済制度)」、「軍事(朝廷軍制度の主力」)の3権の主要職の末端までを荷っていたのです。 (天皇近衛軍は青木氏と藤原氏)
実質、武力に依らず良い意味で他民族の「渡来人」が自らが民族の域を越えて積極的に「氏の融合」政策を推し進めて成功させ、「日本書紀」の”天武天皇の発言と舎人親王の編集に関わった官僚記述”にもある様に、少なくとも日本を「6割統治」し征圧していた事に実質成るのではないかと観ているのです。

「10割統治」では「革命・独立」か「謀反・乗っ取り」と成りますが、帰化後の早い時期に於いて阿多倍一族一門の「6割統治」では「反乱」とまでは行かなかったのではないでしょうか。
日本で生き延びる以上の「理解できる限界」であった事に成ります。
それ故に、阿多倍一族一門の「民族氏」の行動が、地域的に観て一族の「理解し難い行動」と成っているのではないでしょうか。
もしこれがどの地域で同じ行動を採っていて全て同じとした場合は「10割統治」の「革命・独立」か「謀反・乗っ取り」と成っていたと考えられます。
それを「民族氏」の主張をある程度通しながらも丁度良い所で押さえて「日本に融合」し「半自治」を勝ち取った事(1018年)に成ります。
故に「以西」−「中央」−「以北」の一族の行動に矛盾が生まれたと考えられます。

これは実に不思議な現象で、次ぎの様な現象が起こっているのです。
A 「九州の南北基地」の「南基地)(肝付氏)」では「融合氏」政策3策に「絶対服従せず」の態度
B 「北基地(賜姓大蔵氏)」では「自立」を主張した態度
C 「中国関西基地」は「本部基地に従う」という姿勢を採る態度
D 「伊勢本部基地」(賜姓平族)では官僚と成り「3策の立案推進する」の態度
E 「以東の関東」では「独立を主張」し「将門の乱」で終局引き上げる態度。
F 「以北の末裔(賜姓内蔵氏・阿倍・安倍・清原氏)では「犠牲に成る」と云う状況

以上、AからFと云う「シーソウの支点」を中心に「左高−右低」の傾きの「政治姿勢の戦略」を採っていたと成ります。日本人の「一族」と云う思考原理から見ると、実に理解し難いと云うか不思議な現象が起こっていたのです。真に「シーソウ」の「傾き程度の有利性」を表現しています。

筆者は「伊勢基地本部」から「都」を中心に「地理的要素」を配慮して帰化当事の方針の「6割統治」を執拗に成し遂げようとしていたのではないかと考えているのです。
EやFの様に多少の犠牲があったとしてもそれを切り捨てでも、”「目標達成」に拘った”のではないかと考えるのです。 「目標達成」>「義・大儀」 
日本人で有れば「義」「大儀」を重んじて「統一行動」して助けてでも”「目標達成」は二の次”とする行動に出る筈です。 「目標達成」<「義・大儀」
例えば、国家観に於いても同じ事が云えるのです。
阿多倍一門の「民族氏」は、「国家の目標達成」>「個人の目標達成」を重視する。
在来民の「融合氏」では、「国家の目標達成」<「個人の目標達成」であり、「個人の目標」の集約が「国家の目標」の集約となり行動する。
「民族氏」では、「国家の目標」又は「より大きい集団の目標」が成し得ない時は”「個人の目標」も成し得ず”と成ります。
「融合氏」では、「個人の目標の集約」が成し得ない時は”「国家の目標」も成し得ず”と成ります。
ここに「民族氏」と「融合氏」との「思考原理の違い」があり、尚且つ、それは「道教・儒教」と「仏教」の違いにあったのではないでしょうか。
更には、「産土神」と「祖先神」の「神様の有り様」の違いと観られます。

故に阿多倍一族一門と言う「大集団の目標」は、安部氏らの「小集団の目標」より多少の犠牲が出ても優先される事に成るのです。
その彼等の「民族氏の戦略」として「シーソウの原理」を採用したと見ているのです。
偶然にしては「民族氏」の「シーソウの原理(地理性戦略)」に一致し過ぎていると考えているのです。
この「考えの背景」には”「後漢系」の「民族氏」の「思考原理」にある”と決め付けているのです。

現在にも観られる彼等の姿勢、”カーと成るかと思いきや根気良く戦略戦術を実行する性癖・国民性”や、
 ”「三国志」にある様な゜中国人の姿勢」 ”や、”「六稲三略」の思考原理”、や”「法より人」「石は薬」”。
これは日本人に理解しがたい思考原理です。天智天皇が”「何かが起こる」”と観たのはここにあるのです。
筆者はこの「思考原理」に「彼等の行動原理」が加わり、彼らの行動を理解する上で大事な忘れてはならない「思考原理」と観ているのです。
それ故に、阿多倍一族一門の採った態度は”「これは偶然ではない」”としているのです。

彼等「民族氏」は朝廷内の「3蔵の政治機構」をも官僚の末端域まで、先ずは蘇我氏に代わって、「日本人」として牛耳り、取りも直さず、天皇家にも「桓武天皇」の母親の「高野新笠(阿多倍王の孫娘)」がは入り天皇を、そして「阿多倍王」の孫(曾孫)の「国香」と「貞盛」より始まって「清盛」までの「平氏(たいら族)の血縁」を天皇家の中に敷きます。蘇我氏以上の遥かな「専横の食込み状態」であったのです。
ただ彼等は「天皇の力」の「搾取や弱体化」を侵し脅かさなかった事にあります。
どちらかと云うと「協力体制」を確立したのです。
この2段階のルーツ(天皇ルーツと平族ルーツ)で「氏融合」をさせているのです。
これは「大集団の目標」の「帰化当初の目的達成」の為に行動していたものであって、「長期戦略」を執拗に採っていたのです。
これは別の面から観れば、真に”「後漢国」が日本に移動した”と観られるほどに、その200万人の末裔達の「氏の融合」は上から下まで完成させた事に相当するのです。
ただ問題は「九州南北の基地」(大蔵氏、肝付氏)の「民族氏」の「融合氏化」が900年頃から始まったが上記した様な背景(目標達成)で1018年頃まで100年間程度解決しなかったのです。
かなり腰の据わった粘り強い「目標達成」であった事が云えます。
「三国志」にもある様にこれも「民族氏の特徴」とも云える性質であります。
現在に於いてもこの中国と日本の「国家観の違い」如いては「思考原理の違い」による「摩擦」は歴然として発現しています。
これは別の面から観ると、阿多倍一族一門の200万人から拡大した融合末裔の3割近い人口の日本人は完全に「融合氏」と成り得ている事の証明でもあります。
この状況は、平安期中期950年頃から「渡来人」の言葉が書物より消え、その350年後の鎌倉期末期(元寇の役)では、最早、「民族氏」は完全に「融合氏」と成り得ていた事を物語ります。
その中間期が1020年頃(九州自治期)で、これを境にして「物心」の「心の部分」の「融合化」が起こり、上記した「考え方」の変革期でもあったと考えます。
「九州自治」を境にして彼等の「心の開放」が起こり、急速に「融合」が進み、故郷の中国から攻め込んできた「元寇の役」では、最早、生死を賭けて供に戦い、永嶋氏や青木氏や長谷川氏や進藤氏の大蔵氏との血縁に観られる様に、「心の開放」は頂点に達し爆発的な融合が進んだのです。
つまり、彼等の「心の開放」は「融合氏化」をも促進させたのです。
”何かが起こる”の天智天皇の645年の心配は1335年頃には霧散した事に成ります。

この意味で、筆者は「純友の乱」の時の自治約束の決断と1018年の大宰府の大蔵種材への自治決断は国家の存亡を救うに値する優秀な決断であったと見ているのです。
阿多倍一族一門の採った彼等の執拗な「民族氏」の「6割の目標達成」は「彼等の目標」だけではなく「日本の目標」と成り得た事を意味するのです。
同時に「民族氏と融合氏の軋轢」は間違っていなかった事をも意味します。
これは全て「産土神と祖先神」の「心の融合」を意味します。
大きく云えば、「祖先神」に導かれた「青木氏の生き残り策」は「物心両面」で「国家の進行方向」と合致していた事にも成り故に生残れたのです。

  「民の融合」(2階層の融合)
勿論、一方民「(民)品部」と観られる領域でも、彼等(阿多倍一族一門)の努力による「民の融合」は実は完全なのです。
「一般の民の領域」での「融合」(民の融合)は、2期に渡り入国した「後漢の民」の技能集団「部」が国内に広まります。これを朝廷は政治的に「部制度」政策(物造り政策)として主導して構築して行った為に、これらの配下に入り技能を享受した「国内の民」(在来民)は、「後漢の民」との障壁の無い「民の融合」が積極的に行われて行ったのです。
この為に「身分制度」を基調としていた朝廷は、慌てて「税や身分の混乱」を避けるために秩序ある融合を配慮して次ぎの3つの法を定めたのです。
1 「男女の法」
2 「五色の賤」
3 「良賤の制」
危機感を感じて以上「3つ身分法」等を定めたのですが、ところがこの法は次ぎに掲げる理由で902年で廃止されます。
この開放は一度に行ったのではなく混乱を避ける為に898-923年の25年間に徐々に行っています。
上記した様にこの点でも900年と云う一つの「荘園制の節目」や「融合の節目」が出てきます。

そして、平安期の「荘園制度」の確立に依って「朝廷の政策」のみならず「荘園内」での小単位の「部制度」が活発化して、「民の融合」は荘園に関わる「内外の民」の「2階層の融合」が起こったのです。
「民の域」では全ての「民の末端」まで行われましたが、その「部」単位(職能部の単位数 180)で起こった融合は、荘園に関わる「内外の民」の判別が困難な程に、「内外」を問わない緩やかな「完全融合」が起こりました。
「氏」としての構成では無いが「部の氏」と見なされる「単位集団」(日本の融合職能集団:「物造り集団」 「姓氏」)が誕生し構築されたのです。

「姓氏」の発祥
これが上記した初期に生まれた「海部氏」等の「姓氏」の「融合集団」なのです。
(丹後国 籠神社資料 海部氏の平安末期の「姓氏」の最古の記録 後に「融合氏」として拡大する)
この「融合職能集団」が室町時代初期から、この「民の集団」を背景に「部の姓氏」が正式に「姓氏」として乱立する結果(180−250)と成ったのです。

「組合職能集団化」の編成
これらの「民の融合」は当初は、「姓氏」として集団化したのではなく、室町文化(紙文化)発展によりその「職能域」をまとめるために「集団化」して行ったものなのです。
しかし、鎌倉期から室町期に成って「部制度」が解けて「部民」は自由開放と成り、この元の「部単位」での「組合」の様な「職能集団化」が起こり、その集団の内で「血縁融合」を繰り返す段階で有る程度の「緩い血縁性」が生まれます。
その「組合職能集団化」により実力のある者はその首魁と成り、鎌倉期−室町期の「文化の発展」に依って次第に「経済的潤い」を得て、「部」から発祥した彼等の呼称を「部民」として呼ばれ、集団化同士間の「無血縁の民」の「組織化」が起こりました。
「無血縁」で「異職能」の「集団」を取り纏めて行く必要からから「目標とルール」とを定めた「組織化」が起こったのです。
次第にそれが拡大化して勢力を持ちそれを背景に職能集団による「姓融合の集団化」(例:海部氏・陶氏)が起こったのです。
つまり、最終の形としては「氏融合」を主体としていた社会構造の中に職能集団の「姓融合」が食込んで行ったのです。この為に「既成の基盤」の上に胡座をかいていた「氏融合」と、新たな職能による「経済的潤い」を背景にした「姓融合」との間で「勢力争い」が起こります。
結局、”下が上を潰す” 「配下」であった「姓融合」は「主家」の「氏融合」を脅かし遂には乗っ取ると云う現象が起こったのです。
「氏融合」の「主家」に取って代わる事に因って「姓融合」は「融合氏化」への経緯を辿る事に成ったのです。この豪族となった「姓氏」を主体とする社会構造が出来上がり、「融合氏」は殆ど潰されて社会に対応出来得た数少ない「融合氏」のみが「姓氏社会」の中で「姓氏」と融合を繰り返す事で生き延びて行く結果と成ったのです。「融合氏」を主体とした「氏家制度」の中で上下逆転の社会が起こった事に因って「氏家制度」は「自然崩壊」へと進み、「姓氏」と「融合氏」とが入り乱れて「生存競争の戦い」へと突入して行く事に成ったのです。
況や「自然力」(流れの力)による「力と知恵」を駆使した「取捨選別の戦い」即ち「戦国時代の到来」が起こったのです。これは即ち「自然の摂理」(自然の流れ 時流)が起こった事なのです。

「融合氏の発祥源」(3つの発祥源)でもある「4つの青木氏」は、「知恵」は「2足の草鞋策」、「力」は上記した「陰の力と抑止力」と、それを支えるで「神明社・生仏像様」と供に、「自然の流れ」に逆らう事無く上手く「時流」に乗ったのです。その成し得た高度な英知は「青木氏家訓10訓」と秀郷流青木氏の上記して来た「戦略的知力」に有ったのです。

姓氏発祥の経緯(姓融合)
→「部制度」」[無血縁組織] (奈良期−平安期中期)
→「部民の開放」 (平安期末期)
→「職能集団化」[組合化] (鎌倉期初期)
→「血縁融合」[自由]→「経済的潤い」
→「部民」→「組合間の組織化」 (鎌倉期中期)
→「拡大勢力化」→「姓化」 (鎌倉期末期)
→「姓氏化」」[無欠縁組織]→「下克上」 (室町期初期)
→「融合氏化」」 (室町期中期)
→「融合氏の集団化」→「豪族」(「姓氏」)
→「戦国時代」
→「融合氏3」 (室町期末期)

「職能集団の青木氏」(無血縁)の誕生
この中には、前期の「4つの青木氏」以外に実はもう一つのこの「職能集団の青木氏」(無血縁)が存在しているのです。
前記まで「氏」は次ぎの様に論じて来ました。

「融合氏の種類」(鎌倉期以降の変化)
1「融合氏」−「融合氏間の血縁」→「血縁性を有する同族集団」(第1の融合氏) ⇒「融合氏1」
2「民族氏」−「血縁性の薄い民族集団」→(「融合氏1」と「姓氏」との血縁) ⇒「融合氏2」
3「姓氏」 −「無欠縁の部組織」→「血縁性の無い組合集団」 ⇒「融合氏3」

「部民」と同じ立場にあった「百姓」(おおみたから:部曲等)にとっては、「姓氏」に成る事は「下克上と戦国時代」の「立身出世による機会」によるもの以外には社会的に無かったのです。

これは次ぎの事によります。
1 「百姓の法制度・税制度」により土地に縛られそこから離れられない事
2 その基盤と成る「核・組織・集団」が無い事
3 「融合氏」「姓氏」に成る利点が無い事
4 更に「氏家制度」の「仕来り」や「仕組み」の中では反乱(一揆)と看做される仕儀となる事
以上から「4つの社会的拘束」により基本的には不可能であったのです。

しかし、「品部の民の解放と組織化」(898-923年)に感化されてその発展を観て、「百姓」(おおみたから)等は何とか「組織化」を図り、「意見の集約と主張」を前面に押し出そうとします。
この為に平安期の「元慶の動乱」に観られる様な「郡司」まで巻き込んだ事件が各地で頻繁に起こったのです。
そして、これが上記したシンジケートの経済的支援を受けた「百姓や賤民等の動乱」から、鎌倉期から室町期には今度は「一揆」と云う形に変化して起こします。
この一揆は、武士が起した゜乱や役や謀反や事件」と云った長くて5年程度の程度のものでは無く、100年間と云う途方もない「為政者に対する戦い」が甲斐や陸奥や美濃や伊勢や駿河に起こったのです。
中には”政治的権力を奪う”と云う所まで起こりました。
中でも「元慶の動乱」等は各地に飛び火して郡司等の地方の下級官僚の援護を得て組織化が起こったのですが、この一揆は「百姓」のみならず背後には「豪商や下級中級武士等」が控え援護して組織化を促していたのです。
どちらも「偶発的な動乱」「不満の爆発」等ではなく、援護関係が明確な「組織的な動乱」であったのです。
この動乱の目立ったものとして「徳政」、「播磨」、「正長」、「嘉吉」、「長禄」等の「百姓(商人・職人・武士等)」による「一揆動乱」がありますが、当初は資料や趣意書を調べると本来の目的は、「組織化(不満)」を目途としていたものが、通説と成っている「為政側」からは結果として「反乱・一揆」として扱われたものなのです。

上記の「部民」に認めたものが、”「部曲」(かきべ)には認めない”と云う不満から”おおみたから”達の「爆発的行動」と成ったのです。
地方行政官の「郡司(こおりつかさ)」が、中央行政官の「国司(くにつかさ)」に逆らってまでも「部曲」に賛同支持して動乱を起したのは、単に「賛同支持」と云う事だけでは命を賭けてまでの事には成らない筈です。
資料や趣意書などを具に調べると、其処にはその行動は「具体的信念」に基づいたものであり、其処には、「人間性の発露」が観られ、要約すれば”社会における部曲のあるべき姿”に疑問を抱き、”変革しなければ国の行く末は暗い”と考えての行動で有った事が云えます。
まして、豪商等が「商いの利益」の為に支援したのであれば100年など続きません。
動乱を100年も続けるには、其処には「豪商の理念」が存在していて、その「理念の実現」に経済的支援をした事を物語ります。
100年とも成れば、その経済的な支援額は彼等の生活を保護する事にも成りますので、天文学的な額に成る事は必定です。更に100年とも成れば、指導する人もされる人も3代も変わる事に成ります。
途中で頓挫する事も充分に有り得ます。しかし、続けたのです。これは「理念」の何物でもありません。
然し、歴史書の通説では「騒乱動乱」や「反発一揆」として「為政者側の言い分」をそのままに決め付けられています。(通説はこのパターンが大変多い事に注意)
然し、「騒乱動乱」と決め付けられても「2つの血縁青木氏」は歴史的に歴然として明確に「2足の草鞋策」を以って支援したのです。
特に「伊勢一揆や暴動」は上記した「4つのシンジケート網」を使って「戦術戦略」を指導し彼等の安全を護り、加納氏の「加納屋」と供に「青木長兵衛の紙問屋」は支援していた事が判っています。
(大きいもので6つ程度の事件が起こっている)

この事は”何を意味するのか”であります。
「3つの発祥源」の立場もある事も然ることながら、「家訓10訓」の「長」としての戒めを「為政者側」に着く事をせずに忠実に「戒めの真意」を悟っていた事を意味するのです。
上記した「時流」に押し流される事無く、冷静に「英知」を働かせたと同じく、ここでもその「英知」を働かせ本来あるべき「百姓」「部曲」の「社会に於けるあるべき正しい姿」を追い求めて支援した事を意味するのです。「利益追従」であれば「為政者」側に着く事が最大の効果を発揮します。
しかし、「郡司」と同じく「2つの血縁青木氏」は「為政者側」に居ながら「部曲側」にも居たのです。
上記した「陰の力」の「4つのシンジケート網」を使えば少なくとも「為政者側の無謀な行動」を抑える事は可能であった筈で、後は「経済的支援」を図る事で彼等を護る事が出来た筈なのです。
部曲の「組織化の要求」を実現させられるかは、革命を起さない限りその「決定権」は「為政者側」にあり、この点に対する青木氏には「決定力」は無くその「影響力」も無かったのです。
ここが「弱点」でもあり「青木氏の立ち位置」でもあったのです。
上記した「4つの社会的拘束」を開放し「組織化の要求」を実現するには其処に矛盾があったのです。
為政者側にとって観れば、「組織化の要求」だけを認める事は上記の「4つの社会的拘束」の秩序を崩壊させる事に成るからであります。
この事は「氏家制度」と「封建社会」や「身分家柄制度」等の「社会秩序」を変える事を意味するからです。
「部民の開放」はしたけれど「部曲の開放」までも認める事は「社会秩序の崩壊」と成るからであったのです。
果たして「4つの青木氏」は”この「時流」に正しく載り得ていたのか”の疑問と成ります。
平安期を経由して鎌倉期−室町期の「時流」は、「荘園時代−群雄割拠−下克上−戦国時代」の乱れた社会の中では、武家社会の「氏家制度の変異期・経過期間」であったのです。ですから本来であればこの「時流」は少なくともその「理念の根底」は「氏家制度の互助精神」であった筈です。
しかし、それは「武家」のみに対する「互助精神」であって「部民−部曲」のものではなかったものです。
それ故、其処に「品部」による上記した「姓氏の経緯」が起こった為にこの「社会構造」に矛盾が芽生えたのです。それは当然に「姓氏の経緯」が起これば必然的に「部曲の経緯」も起こる筈です。
しかし、偏向的に「武家社会の互助精神」はこれを許さなかったのです。大きな不平等な矛盾です。
そこで問題が起こったのですから、「時流」としては”「部曲の経緯」も認めるべきだ。”が社会の中に渦巻き始めたのではないでしょうか。
趣意書以外に確固たる確定する資料記録を見つける事は出来ませんが、「部曲の暴動」が「品部の開放」の経緯の期間中で現実に史実として連続して各地で起こっている訳ですから、この「時流」は渦巻いた事は確かなのです。
そして、この渦巻く現象を観て、「4つの青木氏」は「青木氏の理念・家訓」から”そうあるべきだ。それが正しいあるべき「時流」だ”と考えたのではないでしょうか。そして、”「4つの社会的拘束」は最早何らかの形で解くべき時代だ”と主張したのです。
しかし、それは100年も続く戦いと成ったのです。この「時流」は「時流」で正しかったのです。
この、”「4つの社会的拘束」は最早何らかの形で解くべき時代だ”の「流れ」は、最終的には、薩摩、土佐、長州に依る「明治維新」の「時流」に繋がって成功するのです。
しかし、その後「4つの社会的拘束」の社会は急激には変化を遂げられず、「2つの青木氏」と別に加わった伊勢の豪族の加納氏等の「2足の草鞋族」は、明治1−9年の近隣県を巻き込んだ「伊勢一揆」(櫛田川−真壁−小瀬−伊勢暴動 他3件)まで続ける事になり、遂にその「理念の暁」を見る事が出来たのです。
「2つの血縁青木氏」の観た「時流」は矢張り間違いなく「時流」であったのです。
(加納氏は吉宗の育ての親 紀州藩の家老 2つの伊勢青木氏と血縁)

「時流」
では、一体その”「時流」とは何なのか 「質的」なものは何なのか”と成りますが、筆者は”仏教が説く「三相の理」である。”と観るのです。
つまり、”「時、人、場所」の要素を複合的に一つにした形の流れ”を云うのだと考えているのです。
それには「時」の要素が強い場合、「人」、「場所」の要素が特質して強い場合があるが、それを見誤ること無く、事の「質と状況」を「見抜く力」が「長」には要求されたのです。
これ即ち「青木氏の家訓」の教えであります。故に青木氏は「時流」と見て利害を超え理念を信じ執拗に援護したのです。

さて話は戻してもう少し「時流の中味」を論じておきます。
その時代に起こる「時流」の「顕著な現れ」にはこの「3つの要素(3相)」が必ず持っているのです。
「部民の組織化」に対比して「部曲の組織化」は歴史の記録に載らないまでも明確になっていない地方動乱は数え切れません。ところが、通説では”単発的な一揆 不満の爆発”と云う形でしか論じられていないのです。平安期中期から底流に「時流」としての「部曲の組織化運動」が澱みなく流れていたのです。
中には甲斐の最長150年間も続いた百姓(おおみたから 商人・職人・下級武士の事)の「組織化した動乱」もあった位のものなのです。各地では短いものでも5年、長くて20−50年というものもありました。
この「150年動乱」と成ると最早一揆ではなく武田家の「偏狭・山岳の武士団」(武川12衆など)が参加する「政治体制」に対する反発の完全な「組織化集団」でした。
この「150年動乱」は「部曲」から「下級武士」まで「全ての身分の人」が参加する「人」の要素が大きく働いたもので、下地には「生活の困窮」などの事がありますが、この「時流」は「人」の「本来有るべき姿」即ち”人は皆等しく同じ扱いを受けるべし”とする理念を押し通そうとしたもので、この”特定階級に牛耳られる社会への反発”であったのです。
現在の完全な「平等論」とまで行かずとも、「身分制度」の社会の中でも最低限の「人としての扱いの等しさ」の「時流」は、この平安期から既に「明治維新」までの「流れの動き」の中に起こっていたのです。
上記した平安期中期の「男女の法」、「五色の賤」、「良賤の制」の「3つの身分法」の例に観られる様に、「天皇」から始まり「奴婢」の者までの幅広い階層に、その「人としての扱いの偏重」が余りにも大き過ぎたと考えられます。
これは根底に「仏教の教え」に影響していたのです。法然や親鸞の資料を観ると、この事に悩んだ事が書かれています。
特に「親鸞の悩み」は、庶民の中に入り余計に矛盾を感じて、その結果の彼の激しい遍歴を観ると判ります。
「宗教論争」で有名な法然、最澄、空海の3人による「密教論争」からも「密教の有るべき姿」の論争は、反して云えば「人の等しさ」を論じていることを意味します。
平安期から既に論争に成っていた事を物語ります。
”社会全体の体制の否定”ではなく、これを”もう少し緩やかにすべし”とする主張で有ったのです。
それの証拠に前回に論じた荘園制のところで「後三条天皇・後白河院」の頃に掛けてこの「身分法の見直し」が現実に危険を顧みずこの2人の天皇の決断で行われるのです。
「荘園制の行き過ぎ」に因ってこの問題が露見しそれに連動して1070年頃までに掛けて「法的修正」が行われています。

その一つが180にも及ぶ「大集団の階層」を持つ「品部の開放」の経緯なのです。
しかし、この時、「百姓」はこれでも納まらず「部曲の開放」「商職人の開放」「下級武士の開放」と次第に「全体の階層の偏り」(3つの開放/4つの開放)の修正も要求して行くのです。

(注意 「百姓」とは「おおみたから」と呼称され、その字の如く「百」は「全ての意」と「姓」の「民の意」から「全ての民」となり、「おおみ」は「百の古代語の意」、「たから」は「宝の意」となり、これも「全ての民」の意味に成り上級侍以上を除く民の事です。
現在の「百姓」とは江戸期の「士農工商」の身分制度から「百姓」は「農」の意味となった。)

(室町期までの「下級武士」とは、「農兵」の大意で「農業と兵」を兼ねた階層を云い、多くは氏姓、苗字、家紋等を持っていなかったのです。「甲斐武川12衆」は「氏姓、家紋」も持つ武士ではあったが「農」も兼ねていた「農兵」に近い身分として扱われていた。)

「富と扱いに対する不満」
これも「富と扱いに対する不満」の対象で弱者が集団化して子孫を護り対抗しょうとした現れです。
この様に鎌倉期から室町期末期まで「・・・衆」が全国的に拡大したのは「富と扱いに対する不満」の「流れ」を引き起こし始めた一つの現われなのです。
通説の様に、”「戦乱の世に身を護るだけの目的」”では無く、「富と扱いに対する不満」の表現であったのです。むしろ、「150年」も続いた「甲斐の騒乱」でも判る様に、甲斐の中での事であり他国から攻められてて「身を護るだけの目的」の必要性は無く、、「富と扱いに対する不満」の「150年間の表現」であったのです。
ですから各地の騒乱は長く50−100年というものが多かったのです。150年は例外ではないのです。
ただ、江戸期のものとは「時代」が「流れ」が進行して進化して年数は短くなる傾向にあって、その分「身を護るだけの目的」の必要性は無く成っている訳ですから、「富と扱いに対する不満」が増大し全てこの傾向にあったのです。この「流れ」の傾向が留まらずに結局は明治維新に繋がったと云う事に成るのです。

江戸期の時流=「身を護るだけの目的」→「富と扱いに対する不満」→(3つの開放)

「時流」=「身を護るだけの目的」+「富と扱いに対する不満」(平安期)→「身を護るだけの目的」(室町期)→「富と扱いに対する不満」(江戸期)→「明治維新」

鎌倉期から江戸初期までの集団化の形の一つの「・・・衆」を状況証拠から調べると、「身を護るだけの目的」よりは「富と扱いに対する不満」の方が8割を占めているのです。ただ室町期末期の「・・・衆」は「富と扱いに対する不満」は少ない事が認められますが、元々この時期の「・・・衆」の結束は最早事が遅く、数的には少ないのです。
上記する数式の武士階級の「身を護るだけの目的」の組織化に連動して、「氏や姓」を構成しない「農民−職人−商人」も集団を結成して、この2つが合体して「富と扱いに対する不満」のみのものとして主張した「時流」だったのです。

これを解決しようとしたのが江戸時代初期の身分制度「士農工商」なのであって、上記する「下級武士」(農兵)は「苗字、家紋、帯刀」の保持を正式に許されて、「武士」として正式に扱われて「家臣」として引き上げられたのです。身分が定められた結果、生活もある程度の範囲で確保され、その不満は解消されて行きます。
1 「品部の開放」(平安期末期)
2 「下級武士の安定化」(江戸期初期)
以下4つの内の2つが解決された訳です。

「品部の開放」
「部曲の開放」
「商職人の開放」
「下級武士の開放」

然し、百姓等の「富と扱いに対する不満」は結局は江戸に成っても解消されなかったのです。
(上記2に依って農兵は解消され江戸初期に多くの「家紋と苗字」が生まれた)

これを成したのが「明治維新」であり、「百姓問題」と「富と扱いに対する不満」」を解決し、且つ、一挙に「武」も解体したのです。平安中期から明治維新とすると凡そ「1000年の悲願」であった事が云えます。

「明治維新」は兎も角として、この「中間の経過処置」として、豊臣秀吉は、「兵農分離制度」を敷き、この「農兵制度」を禁止します。
然し、この禁止の目的は開放ではなく、「農兵」の主張を叶えたのではなく、「禁止する事」に依って各大名の勢力を削ぎ、「常設兵力」の削減と大名の「経済的な負担」を高めさせて弱体化を図ったのです。
然し、これも現実には殆ど護られず、「農民の命」を賭けた高額な「現金収入」が無くなる事に成ります。
むしろ、当然の結果として「陰の農兵制度」が生まれたのです。
この「陰の農兵制度」では、「農兵」を登録し集めて臨時に集団化して、終われば解体するシステムが陰で構築されて行くのです。それを職業とする集団や土豪が各地に生まれたのです。(雑賀族、根来族、柳生族、伊賀族、甲賀族、・・・)
そして、この一躍を担ったのが上記した青木氏の様な「2足の草鞋策」を敷く各地の豪商と繋がるシンジケートなのです。
本来は「戦いの負けた武士団の就職先」の様な「陰の集団」であったものに「農兵の臨時集団」が加わり更に拡大して行きます。
「2つの血縁青木氏」はこの「農兵の臨時集団の役目」と、「富と扱いに対する不満」とを結合させて「シンジケート」と云う手段を「時流」の上に載せたのです。

「敗戦の武士団の就職先」+「農兵の臨時集団の役目」=「シンジケート」(室町末期−江戸初期前)

現実の「農兵、農民の集団」に、別の「農兵の臨時集団」とを連結させ、これに「下級武士の集団」
と、「2足の草鞋策の殖産」と繋がる「職人商人の集団」の「4つの集団化」を促し、「時流」を更に勢いを付けさせて押し流そうとした「2つの賜姓青木氏」「2つの血縁青木氏」の「戦略」で有ったのです。
他氏の資料まで研究は及んでいないので正確には判りませんが、下記の数式の「4つの集団化」を成し遂げられる勢力図を持ち得ていて「シンジケート」を構築していたのは「2つの血縁青木氏」以外には無かったのではないかと考えられます。
それは「2足の草鞋策」を敷きその必要性から多少の「シンジケート」を持ち得ていた事は他の資料からも観られる事ですので否定はしません。然し、下記にも示す勢力(石高5万石)を有する「2足の草鞋策」の他氏とも成ると数的にも多くありませんし、青木氏の様に「3つの発祥源」程度の「社会的立場」を持つ武家とも成ると10本の指に入る程度でしょう。
その中でも、「陰の力」「シンジケート」に入る彼等の集団にとって観れば、「氏姓」を構成し「武士」である限りは「陰」とは云え、其処には「こころの支え」としての「大儀」が必要です。
「皇祖神と祖先真の神明社」と「3つの発祥源」の「2つの賜姓青木氏」が行う「富と扱いに対する不満」”下記で論じる「緩やかな富の分配」と「緩やかな人間の扱い」に挑戦する姿勢を観て、これに協力する事は彼等の最大の「大儀」と成ります。
故に平安期から明治期まで彼等はこの「2つの賜姓青木氏」が管理運営する「シンジケート」に加担していたのです。極端に云えば”「錦の御旗」を得た”とも思っていたのではないでしょうか。
この様な「大儀」を保持出来る得る「氏」ともなれば、「2つの賜姓族」の「2つの血縁青木氏」以外にはありません。
(故に同族縁戚の蒲生氏郷も徳川家康も「2つの賜姓青木氏」を上座に上げるほどに崇め擁護したのです。家柄身分が高い云うだけではなかったのです)

「農兵、農民の集団」+「農兵の臨時集団」+「下級武士の集団」+「職人商人の集団」=「4つの集団化」

「甲斐の騒乱」には源光の賜姓族青木氏が関わっていた資料は確認出来なません。甲斐の源光の賜姓青木氏の力が「甲斐の騒乱」を後押しするだけの勢力は無かったのです。
然し、無冠無位の皇族青木氏の時光系青木氏も困窮に喘ぎ農兵に近い状態であった「武川12衆」として自ら関わっていた事が資料からも判っています。

実は「甲斐の青木氏」に付いては、これまた通説には不思議に載らない甲斐らしい「複雑な問題」を持っていたのです。
甲斐青木氏は「青木蔵人別当」の冠位官職を持つ清和源氏 「源の源光」の「青木氏」が主流で、賜姓族に相当し、兄の時光系は無冠無位であったので武田氏の中では低く扱われたのです。
その石高も系譜添書より観ると、200−250石程度でありました。農業をしながら山間部に追い遣られ住まうと云う「極貧の生活」であったのです。”華やかに甲斐の青木氏の名家”と通説では囃し立てられていますが、これも武田氏の特質の資料に惑わされて信じて、通説は「源光の青木氏」と「時光の青木氏」と判別出来ていないのです。武田氏が書く嘘の多い資料をベースにして通説が造り上げられていて全く異なっています。
この虚偽の通説には留まらず、更には青木氏を名乗りながらも、且つ南北朝で山口や高知に逃げた貴族の公家一条氏をも”母方氏だ”として名乗ると云う家柄身分の搾取も公然として名乗られているのです。公然とした矛盾1です。それでいて山間部で農業をしていた「武川12衆」とて供に150年の「甲斐の騒乱」に加わっているのです。これも公然とした矛盾2なのです。
まだあるのです。上記した源光系賜姓甲斐青木氏は国府付近南に定住し本流として甲斐賜姓青木氏の子孫を拡大させているのに、兄の時光は弟の役職を使い「無位無官の青木氏」を勝手に届ける事も無く名乗っているのです。これも公然とした矛盾3なのです。
この様に下記にそれに必要とする勢力2.5万石等は到底無く、「後押しするだけの勢力」は時光系青木氏には元来から当然に無かったのです。
常光寺や源空寺や松源寺などの簡単な菩提寺を作りましたが、長く持たず室町末期には直ぐに維持に耐えられず荒廃し廃寺と成ってしまうのです。
(時光の子の常光が親との争いで獲得した常光寺は養子一族の青木氏が曹洞宗の力を借りて再建して維持した)
「富と扱いに対する不満」を実現させる為に「シンジケート」と云う手段の「時流」の上に載せるどころか自らが「時流」の中に入ってしまっている「自滅状態」であったのです。巻き込まれている状況です。

美濃の資料からは賜姓青木氏は出てくる事もなく、衰退していて「殖産と美濃和紙との関係」から僅かに資料に残る程度と成っています。(女子供の末裔は隣の桑名や員弁の伊勢青木氏の居留地に逃げ込んだ可能性が高い (ただ一つ「伊川津7党の青木氏」がある完全滅亡した土岐氏系青木氏か)
その分美濃は前回信長のところで論じた様に特別賜姓族の5つの秀郷流青木氏の独壇場です。ほぼ入間の「第2の宗家」の援護を受けて5万石程度の綜合勢力を以って一致結束して何とか「富と扱いに対する不満」を実現させ様として働きます。それだけに一揆などは国内で最も多かった地域でもあります。それ故に美濃から駿河の5つの秀郷流青木氏は地元の信任を得て大地主として明治期までその勢力維持させたのです。

近江も「近江和紙」で資料に出てくる程度の勢力であり甲斐との生活はほぼ同じですが、一時一族挙って滋賀に移動定住するなどして、再び近江に戻り、更には摂津に移動定住するという移動の遍歴を繰り返します。これは「源平の美濃の戦い」に源氏と供に参加して敗れ「完全滅亡の憂き目」を受けた事が原因しています。「完全滅亡の憂き目」から美濃と近江は「和紙の殖産」を通じて伊勢青木氏や信濃青木氏は賜姓族として何らかの血縁を通じて生き延びさせようとしたと観られます。(添書には美濃や近江の地域を示すものがある)

前回より論じている青木氏と源氏の歴史の歩調論が異なる事を論じましたが、その歩調の違う源氏と一時の判断ミスにより合わしてしまった事が大きなミスであります。
前回織田氏のところで論じた近江源氏滅亡後に伊勢−信濃の「2つの血縁青木氏」の援護(殖産和紙で支流援護)を受けながら何とか「完全滅亡」を避けられ、賜姓族ではなくて再び「和紙と殖産」の範囲で末裔を広げたのです。
(伊勢秀郷流青木氏は近江の日野の秀郷流蒲生氏の跡目が入っていて近江青木氏とは無関係でない)

下記に数式から解析している様に、伊勢−信濃の「2つの血縁青木氏」の綜合勢力は10−12万石を有する勢力を保持していますから、近江+美濃+甲斐の賜姓青木氏を援護し「殖産和紙」で支える勢力は充分にあり、「シンジケート」で護り「商いの利益」を補填すれば子孫を拡大させられる事は容易でったのです。武蔵入間の「第2の宗家」の支援を受けて、特に近江−美濃は秀郷一門の大居留地でありますのでその末裔を遺してきます。

信濃−伊勢間の一揆には「2つの血縁賜姓青木氏」はこの「4つの集団」との関係を保ちシンジケートを使って援護したのです。凡そ、この「時流」の初期の頃平安末期から観ると700年程度援護した事に成ります。
この年数から判る様に「氏」として25代以上援護している訳ですから、これは「理念の何物」でもありません。
「2つの血縁青木氏」は、、「3つの発祥源」の氏で有りながらも、片方ではほぼ近代の「平等主義」を意味する「富と扱いに対する不満」を援護すると云う一見して相矛盾する行動をとって来た事を意味します。
恐らくは、「平等主義」と云うよりは、”もっと「公平」とまで行かなくても「緩やかな富の分配」と「緩やかな人間の扱い」を求める”と云うものであったと観られます。”「体制破壊」までの考えは無かった”と観られます。
果たして、天智天皇や村上天皇はこの様に成るとは考えても居なかった筈です。
然し、天皇側にしてみれば3つの発祥源」の末裔であり潰す事は望んでいなかった筈です。しかし、源氏が”親の心子知らず”で独走してしまって「事の流れ」最早止める事も出来ずに11代も続いた賜姓源氏は滅亡の道を辿ります。
この源氏滅亡でも判る様に、「農兵、農民の集団」+「農兵の臨時集団」+「下級武士の集団」+「職人商人の集団」=「4つの集団化」=「時流」の数式を構築する努力をしなかったからなのです。
「3つの発祥源」の立場を護り子孫を生き延びさせるには「時流」を観て行動する以外にはそもそもなかったのです。これが「正しい青木氏に課せられた姿」であったのです。
決して、”「時流」に迎合する。利益を挙げる”と云う事では無いのです。
もしそうだとしたら、「時流」に載る事だけすれば。、最もリスクの少ない商いである筈で、「時流」に載り、、「時流」を支え、「時流」を押し上げ、「時流」を護るところまでする事は、余りにリスクが大きすぎ危険であり、且つ、経済的負担は「商いの利益の範疇」を超え母体そのものが持たない事に成っていた筈です。
700年も続ければ、幾ら「陰の力のシンジケート」を持っていたとしても、「体制側からの潰し」が働き、場合に依っては「直接の戦い」ともなり得た事もあった筈です。

(「楠木正成の戦い」(半間接)と「天正の3乱」(直接)と「伊勢大社移転反対運動」(直接)以外は記録から発見出来ない。)
然し、一揆に類するものとして古い記録の確認が出来ないが、各種の関係する添書類などの状況判断からすれば、「4つの集団化」=「時流」は「陰の力」に留めた全て「間接的な行動」であったと観られます。
”「緩やかな富の分配」と「緩やかな人間の扱い」を求める”であったから、「陰の力」に対する攻撃戦いは無かったと考えられます。
まして、一方ではその「陰の力」のシンジケートを使って同じ程度以上に”「殖産」を促進させる”と云う逆の行動もあったのですから、体制側からの直接攻撃は論理的に無い事も考えられます。
当時の体制側にとっても敗残兵の俘囚現象は好ましくなく、「4つの集団化」=「時流」は利益の上がることであり、「陰の力」は社会としての規制の事実とし承知した「救済手段」でもあったのですから、否定する事は不可能であった事に成ります。
もし、この「陰の力」を否定するとなれば、社会に3/4に相当するの「多くの難民・俘囚民」が生まれ、「国の崩壊」にまで繋がる国難と成って居た筈です。どの面から考えても有り得ない攻撃であったことに成ります。
筆者はむしろ、表彰される位の立場に置かれていたと考えています。
それを物語るものとして何度も記述してきましたが、伊勢3乱の「蒲生氏郷」からの特別厚遇や家康の次男頼宣との直接面接と300年間の親交、吉宗の「享保の改革」や「紀州藩の財政建て直し」に家臣ではない青木氏が請われて関わる事等は無かった筈です。
然し、一つ間違えば逆に成る事も有り得て「事の大儀」を無くし、かなり「難しい立場の操作」が必要であったと観られます。それだけに歴史を通して「長」の「有るべき姿と資質」を「家訓10訓」で青木氏に求めたと観られます。その「家訓10訓」の理念を守り通す力と成ったのが「祖先神」であり「神明社」であったのです。「陰の力」でありながらも「4つの集団化」=「時流」はこの「祖先神」・「神明社」の理念に護られていたのです。いわずもがな「賜姓源氏」と違うところであります。
”三相に依って時代時流の良悪は異なる”ので、[良悪]ではなく「利益」を追い求めた賜姓源氏と「人間の理念」を追い求めた「青木氏との差」によります。

(参考 後に武田氏が滅んだ時、現地の戦後処理の指揮官の家康は、この「山岳武士団」を武蔵国鉢形と八王子に移住させて解決します。この中に武田氏系皇族青木氏の支流一族が含まれます。
逆に、この事で武蔵領国の秀郷流青木氏とこの武田氏系皇族青木氏との「融合青木氏」がこの地域で発祥しています。 甲斐−武蔵の国境と下野−常陸−磐城の国境に発祥)

しかし、この様な厳しい状況の中でも、この様に着実に「融合」は進んで行きますが、実はこの百姓(商人・職人・下級武士等)の「組織化」が明治期まで「姓氏化」には進まなかったのです。(「部民」は集団化・組織化・姓氏化であった。)

この各地で開放された「部民集団」の「集団化」→「姓氏化」を起こるのを観て、「百姓集団」は「氏家制度」の中では「反体制の組織」となる為に「姓氏化」は起こらず衰退します。
これはその「集団化」が起こるには「経済的背景」が低かった事が原因しています。
体制側にとっては「経済的潤い」を常時獲得する事は好ましいことではない事から「政治的」に故意に低くさせられていた事の方が正しいと考えられます。
「部民集団」の「集団化」→「姓氏化」には「殖産物造り」と云う「経済活動」が背景にあり、その「経済活動の底流」に存在する事が、これが豪商等との繋がりを強く生み動乱を通じて「姓氏化」の融合が起こったのです。
しかし、この事から学習した「百姓の集団化」は室町期から明治期に掛けて豪商等の「経済的援護」と「シンジケート勢力」の2つを得て再び盛り返します。

ここで「百姓の集団化」と異なるのは、一方の「品部」の「姓族」が「姓氏化(集団化)」したのは、上記した「荘園の問題」が主因で有ります。898−923年の「身分の開放策」に依って「部組織」から「改めて職能集団」としての「組織化」を成し、繋がりのある豪商等の「経済的援護」に基づき、それが更に複合的に「姓氏化」→「融合氏化」へと繋がったのです。
この点が異なっているのです。つまり「部民の集団化」には「融合のサイクル」を興したのです。

つまり、この「2つの集団の融合化」の違いは次ぎの有無が異なりました。
第1は集団化の経緯の中での「身分の開放」の有無が大きく左右したのです。
第2は援護関係に「豪商とシンジケート」の有無が左右したのです。
これが江戸期までの「農と工商」の「自由性の違い」に繋がったのです。

そこで部民に付いて、家紋等から確認できる範囲として、この事(「組織化・集団化」)に依って興った青木氏は大別すると次ぎの様に成ります。
A 「宮大工の青木氏」(氏)
B 「仏具・彫物、襖絵・天井絵・仏画・絵画の青木氏」(氏・姓氏)
C 「紙殖産の青木氏」(姓氏)
以上の青木氏にかかわる職能集団の「絆融合」による「氏・姓氏」が現在も確認されて居ます。

これは「皇族賜姓青木氏」と「藤原秀郷流青木氏」の2氏が独自の「氏神」と「氏寺」を有する事を許され、「浄土密教宗」であった事から、「独自の氏」から「宮司、住職」を出して運営していたことに始まります。
その配下の職人を職能の跡継ぎとして指名し「青木氏」の「氏名」を与えたのです。(姓氏ではない。)
多くは「氏名」を与えるだけではなくて、正式に[別家養子縁組]をして一族の氏の中に取り入れたのです。
その為、「神社仏閣」の建設や彫り物、仏像等の内部の装飾品の類一切までを伝統的に保全する必要性が求められました。そこで自らの神社・寺社の青木氏に関わる集団が結束して(5家5流賜姓族、藤原秀郷流青木氏24地方)これ等の「職能者」を養成する為に「経済的援助」をし、その職能を継承する首魁には伝統ある「青木氏」を名乗らせ「4つの青木氏」の「氏の集団」に組み込んだのです。
(別家の養子縁組が基本であった模様 中には青木氏縁者娘と血縁させる事もあった。)。

上記した「品部の職能集団」による「姓氏」とは別に、青木氏には祖先神の「氏の神社」、密教の「氏の寺社」関係から、保全・管理・運営の為に独自の職能集団を抱えていた。この為にこれらは「物造りの神」でもある「祖先神」であるが為に「姓」ではなく氏上の「氏」を名乗ったのです。

「品部」の職能集団→「姓氏」→「融合氏」
「青木氏」の職能集団→(別家養子縁組・氏)→「融合氏」

つまり、上記した長い1000年以上に及ぶ他氏には決して観られない「祖先神の独自の考え方」に依って築かれた「歴史的な絆」があるからこそ生まれた「無血縁の絆結合」の青木氏の一つなのです。
この様に「祖先神の神明社の存在」が「4つの青木氏」の根幹に成っていて、「絆」を作り上げる強い「接着剤的働き」を果たし、「より良い融合」が興り生き残りを果たせたのです。
その「より良い融合の発展」は何と「4つの青木氏」同士の「融合青木氏」をも生み出すところまで発展したのです。
高位の身分家柄を持ちながらもこれを守る中で、これに拘ることなく更なる「融合」を果たしたのです。
これは全て「4つの青木氏」のみが持つ「祖先神の考え方」に由来するのです。
その「祖先神」の教義が「殖産・物造り」に基づいている事のそのものが、「4つの青木氏」の中で接着剤・潤滑済として働き、更なる発展を遂げたのです。
結局はその「4つの青木氏」の「集約する拠り所」は「祖先神」を祭祀する「神明社」にあったのです。
そして、更にはその「神明社」が「皇祖神」の「伊勢神宮」に直接に繋がっている事が「衰退することの無い推進力」を生み出していたのです。

「神明社」+「皇祖神」=「推進力」

(部の氏の類に付いては研究室に詳細レポート)
この外に、「2足の草鞋策」として「物造り」を「殖産」して、それを販売し商いとする為に、上記の同じ根拠で職人を養成してその者には「青木氏」を与えたとする記録も残っていて、特に先ず「古代和紙」から発祥した青木氏が確認できます。これも「無血縁の絆結合」の一つです。
これ等の「職能に関わる青木氏」は室町初期と江戸初期に多くが発祥しています。
何れの時代も「紙文化」が発展した時期であります。

「紙文化」+「殖産物造り」=「無血縁の絆結合・職能青木氏」

記録では、「神明社、氏神、氏寺」の「建設と保全」の為に必要とするこれらの青木氏の配下にある職能集団が、伊勢や信濃から陸奥や越後にまで「青木氏の神職・住職」と共に出かけて定住もしています。
(皇族系のこの様な「特定の民」を「民部」と云う)
各地の「天領地」にある「神明社」を含む神社仏閣の「建設・保全の職能集団」が「青木氏の配下」にあったのです。
この「職能集団の青木氏」の優秀な若い中心と成る配下等も、その集団の首魁から宗家の許可を得て「別家養子縁組」をさせて「青木氏」の襲名を許し名乗らせた事が記録されています。(孫襲名にまで)
氏上宗家筋の娘との縁組血縁と成ったその頂点にいる職能の頭領「大首魁の青木氏」が更に信頼できる配下にも「別家養子縁組」を行い、一つの職能によるピラミッド型の「青木氏の集団化」が興ったのです。
「添書や忘備禄」などから具に調べ辿ると、氏上宗家筋の遠縁の縁者からも娘を探し出して一度宗家筋に養子とし入れた後に、首魁・頭領に嫁がせて血縁関係を築き青木氏を襲名させる努力をしています。

(これ等の子孫の方からのお便りも「ルーツ掲示板」には多く寄せられています。 筆者の家にも職能による3氏の「別家養子縁組」の青木氏を承知し、宗家筋よりむしろ多く子孫を遺している 現在、筆者の家を本家と発言している。)

添書から辿ると「孫襲名」までの確認は何とか出来るのですが、恐らくは、曾孫・夜叉孫までも職能による「青木氏襲名」は興っていたと考えられます。

ここが他氏と大いに異なるところであります。
これは青木氏の排他的な「氏神・氏寺」と「祖先神」の考えに基づく「神明社」にあり、「氏神の管理保全」や「紙の殖産」の「職能集団」を保持していた事が長い歴史の間には極めて「強い絆」で結ばれた「4つの青木氏」が構築された得たのです。血縁以上のものがあったのではないかと考えられます。

何度か記述しましたが、因みに例として、青木氏の「表の規模(勢力)」に付いて、次ぎの通りです。
他の青木氏に付いては個人情報の領域に入りますので、筆者の伊勢松阪の紙問屋で見て観ます。
伊勢青木氏の「表の規模(勢力)」
250名の店子と、玉城町の8割を占める蔵群、2つの寺と1つの神社所有、3隻の大船、松阪、堺、攝津に5つの大店、5つの城館、装飾職人、専属の宮大工、紙職人等を有し、運送職人、保養地、これ等の職人・店子の住居群が玉城町にあって、これ等に全て各種の店子・職人が付いていたことが明治35年までの記録と口伝と祖父からの伝聞とで存在していた事が確認出来ます。また、松阪、名張、四日市、員弁、桑名の線上には一族一門が地主として青木村の居を構えていた事が判っています。
恐らくは商いに伴なう支店や大地主で土地管理などの施設があったものと考えられます。

伊勢賜姓青木氏の勢力の経緯
当初は平安期初期に56万石程度、寺社領で51万石 中期には北部伊賀割譲で41万石、名張西部域割譲で39万石 末期には志摩領割譲で37万石 伊勢東部長島地方割譲で19万石、室町期には伊勢南部地方割譲で8万石、他秀郷一門伊藤氏等の所領の割譲で5万石、と変化して行きます。合わせて51万石割譲と成っているので、江戸期初期には最終5から6万石弱が伊勢賜姓青木氏の石高・支配地と成り、大地主として活躍、明治7−9年の地租改正で2割程度に縮小、明治35年には「松阪の大火」の出火元として上記の資産権利等全財産の売却で賠償し解散、大店倒産 新宮の許容地のみと成った。
伊勢秀郷流青木氏は蒲生氏郷の跡目にて15万石の内12万石が氏郷支配下に成っている事から実質3万石程度有していた模様です。(2足の草鞋策の「経済的利益」と「シンジケートの力」は除く)
(徳川氏は伊勢賜姓青木氏が遣って行けるぎりぎりの石高を選んで決めたと観られる。)

「調査要素の項目」
(地主、豪商、郷氏、豪農、庄屋、名主の存在 系譜の添書、菩提寺の有無、神明社の数、鎮守神の数、城館、城郭寺、地名、家紋種、資料記録から調査 各地域性でその調査の項目が異なる 所有する資料は以上の項目毎で下記数式の条件を加味してそれを1として石高を割り出した 非公表の添書にも家臣としての石高は記述照合して判定 )

明治以降の履歴は兎も角として、この一つの例からも伊勢を含む5家5流の賜姓族青木氏と24地域の特別賜姓族の「2つの血縁青木氏」に就いても「添書や資料」を解析すると読み解く事が出来ても、、5家5流は天領地でありますので天皇家の室町期から江戸期に掛けての困窮状況から観て、少なくとも同じ割譲状況が大小起こっていた筈です。

信濃と甲斐は豪族足利氏と豪族武田氏が存在していましたので、添書や資料・記録では青木氏の勢力を読み取れませんが、1−2万石程度の融資産で有った模様です。

美濃と近江は源氏側に合力して「平族との戦い」で滅亡に近い勢力低下が起こりましたので、正味0.1から0.5万石程度のものであったと観られます。
特に美濃は激しい「源平の戦い」の場と成った事で(土岐氏の滅亡等が興った事で)賜姓族の石高は無いに等しいか低かった模様で、「大地主の青木氏」を確認する事は難しいのです。
この後、この地で勢力を高めた秀郷流青木氏が美濃の地盤を固めました。
美濃と駿河西域には主要5氏の系列の「5つの秀郷流青木氏」が住み分けています。
(然し、「2足の草鞋策」を採用していない青木氏も居て判定は難しい。採用していれば5氏の総合を1と見なす事が出来るが2氏が確実 豪商の家紋から判定可)
これ等の石高が(0.1)−0.5万石(1氏分)と観られます。当然、この程度の構成で存在していたのです。
5家5流近隣の秀郷流青木氏と24地域の秀郷流青木氏(116氏にも及んでいることから不明)も細分化していて判断が難しいが、判る範囲の歴史の史実として残っている秀郷一門の「豪族の石高」から観て伊勢秀郷流青木氏のは平均(0.5)−1万石程度の融資産であったと考えられます。

(当時の石高は米だけでは無く海産物などの産物も石高に換算して合わせて土地の石高を表現していた)

上記した様に、つまり、「2つの血縁青木氏」と「2つの絆結合青木氏」とには「首魁青木氏」を通じて結ばれていて「4つの青木氏」が「1つの青木氏」と成り得ていたのです。
これが生残れた団結力の「強い基盤」に成っていたのです。

余談ですが、研究の当初、忘備禄に簡潔に書かれていて何気なく読み過ごしていた事なのですが、調査しているある時、「4つの青木氏」の「系譜添書」に「通名」でない「異質の名」が出てきて疑問が湧き、ハッと気が付いて忘備禄の意味が判り調べて行く内に繋がり始めて、「職能による孫襲名」まで判明する事に成り、その仕組みを読み解く事が出来たのです。(伝聞では承知 強い意識化は無かった)
そして、これが特別賜姓族青木氏(秀郷流青木氏)にもあり、その「2つの血縁青木氏」を繋ぐ「融合青木氏」が存在する事までが判ったのです。丁度紐を解くように。
この傾向は「賜姓族の血縁関係」と「職能集団」と「和紙の殖産」と「シンジケートの存在」で通じた信濃、近江、甲斐、美濃にもこのシステムが及んでいる事が紐解けたのです。
何れにも其処には「特別賜姓族青木氏」と「融合青木氏」が「伊勢と同条件」で存在している事が判ったのです。
「神明社」+「建設・保全」=「無血縁の絆結合・職能青木氏」

青木氏の官職の一つ永代の「民部上尉・民部上佐」はこれ等の集団の統率者であったのです。
これは「伊勢神宮」の「皇祖神」、「祖先神」の「神明社」を「守護神」とする「融合氏・2つの賜姓族」であった事からこそ「永代民部府」の責任者になったのです。
(伊勢青木氏は他に永代「左兵衛門上佐・上尉」と永代「民部上佐・民部上尉」の官職名を持ってい
ます。其の為に「世襲名」として宗家は「長兵衛」を継承しています。
分家は「右兵衛門」・「次左兵衛門」、支流は「作左衛門」を世襲している。
信濃青木氏には「右兵衛門上佐・上尉」が観られる。同様に特別賜姓族秀郷流青木氏も「左・右兵衛門上佐・上尉」の官職を担っている)

( 注:江戸時代に朝廷の経済的裏づけとして家柄、身分、出自に無関係に一代限りのこれ等の官職名を金品と引き換えに朝廷から名目上の上で名乗る事を許された経緯がある事に注意。後に誰で無許可で使う様に成った。)

遺されている資料・記録の上では初期には次ぎの様な「姓氏」と成った族が確認できます。
阿多倍一族一門の品部の「姓族」
「九州地方」では「鍛冶族」「佐伯族」(和歌山に一部移る)
「中国関西地方」では「海部族」「陶族」「武部族」
「関東中部地方」では「服部族」「磯部族」
「関西地方」では「秦族」、「司馬族」、「土師族{設楽氏}」、「鍛冶族」、「綾部族」

以上等が早く平安期末期頃に遺された資料で「姓氏」として勢力を持った事が判ります。実際は記録で確認できない為に判断が付きませんが「小さい姓族」としては存在していたと観られます。

鉄鋼関係、海産物関係、衣料関係、食器関係の「姓族」が記録として残っているところを観ると、矢張り市場性から必需品の関係族に下記した数式条件を持つ大きな勢力が付き「集団化・融合化」が起こっていた事に成ります。
当然に、これ等には青木氏の様に「商い」を「2足の草鞋」としている「融合氏集団」が、「殖産」・「物造り」から来る「産物の安定供給」を目論む背景もあって、それらの後押しで「姓氏化」したものと考えられます。
「品部」が物を生産するだけでは経済力が着きません。販売してそれも大きく商い出来なければ成り立ちません。それには「商いの強力な背景」を持つ必要があり、これを搬送するにもある程度の「武力を持つ強力な背景」の「2つの背景」が絶対条件として「姓化」には必要となります。

「商いの強力な背景」+「武力を持つ強力な背景」=「姓氏化」

「氏族」と異なり単独で「姓氏」を構成する事は「経済的、武力的」に困難です。
恐らく「シンジケート」との繋がりが必要で、これ等を獲得した職能集団が「姓氏化」が出来たものと成ったのです。
「シンジケート」つまり、「氏族」の「2足の草鞋策」と繋がりに成るのです。

「2足の草鞋策と繋がり」+「シンジケートとの繋がり」=「姓氏化」

「姓族」+「氏族」(「2足の草鞋策」)=「姓氏」

ですから、この数式から「姓氏」が発祥している地域が特定できるのです。
「2足の草鞋策」を採った「氏族」を特定すればそこには必ず「姓氏」が存在するのです。
そうなると、平安期からの「氏族」で「2足の草鞋策」で室町期を乗り越えて生き残れた「氏族」と成れば限定されてきます。80-200の氏族の中からこの氏族を特定するのは簡単です。
「2足の草鞋策」には広域の「シンジケート」と「運送運搬」と「適度の武力」を持っているのですから、阿多倍一族一門の「2足の草鞋策」を採った「氏」の発祥している地域には、その配下の「姓氏」が発祥している事に成っているのです。その「姓氏」はその「職能種」に依って「地域性」が強く出ている事に成ります。
「姓氏から地域」、「地域から姓氏」、「姓氏から職能」、「職能から地域」、「地域から歴史」等の判別が可能に成ります。当然に「氏族」との関係もありますが、その「氏族」もほぼ同じ関係性を保持しているのです。
例えば、鍛冶部の様に鉄と水と港の所、綾部の様に染料と水の地域、土師部や陶部であれば良い粘土、と云う風にルーツ探求の判別には雑学として大変重要な要素と成ります。
180と言われる部でそのルーツや歴史や由来など判別が出来ます。
他に瀬戸内から起こった最も早く「姓氏」に成ったとされる「海部氏」が記録上で最初とされるのも「海産物の生活品」のものであったからと考えられます。

「青木氏と関係した部」
この様に「青木氏」で有れば「2つの血縁青木氏」の存在する近隣地域には必ずその特長を持った「姓氏」が発祥しているのです。
工部(くべ) 土木職人・建築職人  ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏  
紙梳部(かみすきべ) 紙職人  ・近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の青木氏
楮作部(こうぞべ) 楮職人・素材職人  ・近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の青木氏
土師部(しがらきべ) 素焼職人・土器職人  ・近江、伊勢の青木氏 秀郷流青木氏 
金作部(かねさくべ) 金工職人・金細工職人  ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
石作部(いしつくりべ) 石細工職人・造園職人  ・伊勢、信濃の青木氏
玉造部(たまつくりべ) 仏壇仏具職人・装飾職人  ・伊勢、信濃の青木氏
服部(はっとりべ) 職機・機械製作職人・機織機職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
錦織部(にしきごりべ) 錦織職人・錦職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏
倭文部(しどりべ) 文書職人・書物職人・印刷職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
史部(ふみべ) 文書職人・記録保管職人・事務職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
来米部(くめべ・くるめべ) 鉱山開発職人・情報伝達職人  ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
綾部(あやべ) 綾編職人・布織職人  ・近江、伊勢の青木氏
馬部・馬飼部(うまべ・まべ) 飼育馬職人・輸送職人  ・伊勢、信濃、甲斐の青木氏 秀郷流青木氏
麻績部(おみべ) 麻布紡績職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
衣縫部(いぬいべ) 衣服縫製職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏
赤染部(あかそめべ) 染色職人  ・近江、伊勢、甲斐の青木氏
茜部(あかねべ) 茜染職人・染色職人  ・近江、伊勢の青木氏
鞍造部(くらつくりべ) 馬鞍造職人・仏像職人・木工細工職人  ・近江、伊勢の青木氏 秀郷流青木氏
弓削部(ゆげべ) 弓製作職人・竹細工職人  ・近江、伊勢、信濃、甲斐の青木氏 秀郷流青木氏
矢作部(やはぎべ) 矢製作職人・竹細工職人  ・近江、伊勢、信濃、甲斐の青木氏 秀郷流青木氏
山部(やまべ) 山林職人・木材職人・山警備職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
鵜飼部(うかいべ) 鵜飼職人  ・近江、信濃の青木氏
舎人部(とねりべ) 付人・秘書・警護人・番頭職・代理人・御用人 ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏
佐伯部(さえきべ) 警備職人・警備兵・情報職人  ・伊勢、信濃の青木氏 秀郷流青木氏 
硯部(すずりべ) 硯石製作職人・砥石製作職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏
墨部(すみべ) 墨職人・砥職人・(方氏)  ・近江、伊勢、信濃の青木氏
作部(さくべ) 墨作職人・砥石職人  ・近江、伊勢、信濃の青木氏


以上が平安期から室町期までの遺された資料から発見できる青木氏の定住地で関わった職人集団で全てではありませんが確認出来る「部民」と成ります。
・印の職能集団が確認出来る地域です。
但し、近江、美濃は平安末期に衰退し滅亡していて記録は無く成っているが、佐々木氏の資料などから奈良期から平安期初期の各種資料から存在を判断したものと、室町期以降の伊勢青木氏との関係資料から判断したものです。甲斐の資料は少なく又搾取偏纂が多いので推測域を出ません。
秀郷流青木氏は各地の青木氏の系譜の添書からと、伊勢青木氏と信濃青木氏の親交からの繋がりからと、源氏の関係資料や佐々木氏の関係資料から割り出したものです。
藤原氏は荘園制度に大きく関わっていた事からこれ以外にも職能集団との関わりは最も大きく持っていたと考えられます。その中の青木氏に関するものを抜粋したものです。
伊勢青木氏と信濃青木氏と伊勢秀郷流青木氏とは共に深い連携をして生き残りましたので、同じ職能集団を持ち、且つ、中には共通する職能集団としていた事が覗えます。

「部」の本来の職が時代毎に少しづつ関係する職種に変化しているので上記した内容から広範囲な関係職種に成っているのです。
これ等は「5家5流の商関地域」と「秀郷流一門の24地域」に関わる地域と成ります。
これを観ると、青木氏の「2足の草鞋策」の「商い範囲」と「商い規模」と「商い組織」と「氏と姓」が観えて来ます。上記で論じた「4つの青木氏」の「絆の成り立ち」もなるほどと観えて来ます。
又、「3つの発祥源」としての役務を務めた奈良期からの舎人部、佐伯部、倭文部、史部もあり青木氏の旧来からの絆が観えます。
「神明社と菩提寺」を物語る職能集団が青木氏の部の多くを占めています。
これで観ると、奈良期からの「部」が「絆」と成って「青木氏の別家養子の徒弟制度」に繋がっている事等なるほどと理解できます。
未勘氏の青木氏の家臣団、姓化した青木氏の家臣団、室町期末期、江戸期初期、明治初期に発祥した「姓名」が良く判ります。
この内容を観ると、奈良期から江戸期までの「青木氏の総合的な立場」を物語る職人集団である事が良く判ります。又、奈良期と平安末期頃までの青木氏の置かれていた立場や勢力がよく観えて来ます。

(青木氏ルーツ雑学に大きく影響する基礎資料に成るので都度調査続行している。 「部」や「阿多倍一族一門」に関する資料と研究資料が殆どないので苦労している。最近では墨部の氏、硯部の氏、作部の氏と方氏のその所在と歴史上の史実が判明した。)

工部(くべ) 土木職人・建築職人
この職能集団の「工部」の存在は、青木氏にとって大変重要な歴史上の史実の判断要素に成るのです。特に、「神明社との関係」が密接に繋がっているので、その各地の5000にも及ぶ寺社の建設と維持管理にはこの職能集団が青木氏の神官や住職と供に移動しますのでその広がり状況を判断する事が出来るのです。
奈良期から平安初期に「古代密教と祖先神の神明社」を崇拝し、その後、平安中期の密教浄土宗と神明社を、青木氏に関わる地域に青木氏の自らの力で建て育てていた事を物語ります。、
その「神明社や菩提寺」の「建立と維持管理」に専門的に携わっていた事を意味しこれを物語る記録が多く遺されています。
この「部」は伊勢青木氏に記録されているので、全国各地の全ての青木氏には持ち得ていなかったと観られ、記録は信濃以外には見つけ出す事がまだ出来ないのです。
武蔵の秀郷一門宗家にもこの職能集団を持っていたと観られる記録があります。
伊勢青木氏と武蔵秀郷一門の宗家がこの集団を抱えていて要請に応じて派遣していたと考えられます。特に、武蔵では平安期末期から永嶋氏一門がこの集団を統括していて朝廷の官職も務めていました。
永嶋氏は兼光系3氏一族青木氏と長沼氏と永嶋氏ですが、その最初の氏を発祥させた「第2の宗家」と言われ千国を始祖とする特別賜姓族青木氏から、平安末期に朝廷の官職を譲って永嶋一門に委ねたと考えられます。それまでは添書から観ると「大工頭」」(木工寮・木工頭 こだくみのかみ・むくみのかみ)は青木氏に書かれていて、ある時期からこの官職を成長した永嶋氏に成っていますので譲ったと考えられます。永嶋氏は元は「結城氏」を名乗り「酒井氏」を名乗り、次に「永嶋氏」と名乗っています。
(青木氏発祥から結城氏は朝光7代目、長沼氏は考綱5代目 永嶋氏は行長12代目)
「結城」の字の通り、最初はこの役職を一族の青木氏から譲り受けてそれを「氏名」にした事が判ります。秀郷一族一門の組織が余りに大きくなり、且つ、「特別賜姓族青木氏」は、賜姓族と同じ「官職と身分家柄」と「3つの発祥源」の役目を与えられ、且つ、賜姓族青木氏を護る為にもそれを全うする目的から、戦略上担当域の整理を行ったと考えられます。時期がほぼ一致しています。
その後、鎌倉期の後もこの職域を護り、他氏との建設も請け負っていて九州の大蔵氏の末裔永嶋氏も土木建設業を営んでいた記録が残っています。
問題の未解決な点は、伊勢青木氏外に信濃の青木氏から東北北陸各地に神官、住職、工部を移動させている記録があります。この末裔が工部に関しては徒弟養子制度で青木氏を名乗って新潟、陸奥(青森、岩手)に定住している事が判っています。(この3つの末裔の方からもお便りがあります)
つまり、伊勢青木氏とはこの「工部」に就いてどの様な仕分けであったのかが明確ではないのです。
その記録の内容から読み取ると次ぎの様に成るのではと観られます。
”総元締めは伊勢青木氏、神社は伊勢大社分霊と神明社関係は伊勢青木氏、寺社の密教菩提寺浄土衆は信濃青木氏が主に担当し建築維持管理するシステムを採っていた。神官と住職の派遣は総元締めから移動辞令を各地の神社・寺社に命じていた。工部の管理は2つに分けていた”と読み取れます。
これ等の細部の事務管理は下記の舎人部と佐伯部が専門に行っていた事に成ります。
当時、記録保管管理は氏の神社、寺社が行っていた事から比較的に下記にあるような事が青木氏の場合はよく把握されているのです。

紙梳部(かみすきべ) 紙職人 
楮作部(こうぞべ) 楮職人・素材職人
紙関連職人の存在は、奈良期から楮や三叉の植物を育てて殖産し、それを加工して紙を梳き、紙製品としての一環した殖産事業を成し遂げ、平安期にはそれを販売し、商いとしていた事が証明出来ます。この事は5家5流の皇族賜姓青木氏が5古代和紙の生産地として殖産していた事を意味し、平安末期には「2足の草鞋策」を採用していた事をも意味します。
この職能地域は甲賀−伊賀−松阪であった事が記録から判断できます。
同時に伊勢の伊賀地方は奈良期末期に阿多倍に割譲しますが、その後も続けて殖産され続けていた事に成りますので、阿多倍一族「たいら族」との深い交流も有った事を意味します。
「紙屋青木長兵衛」としていますので、先ずは紙が主要製品・商品であった事と成ります。
5家5流の青木氏を繋ぐ和紙であった事に成ります。伊賀・伊勢和紙から信濃、近江、美濃、甲斐とこの職能集団を移動させて殖産を拡げて行き戦略的に青木氏の基盤を確立させて行った事に成ります。

土師部(しがらきべ) 素焼職人・土器職人
この職能集団は近江青木氏と美濃青木氏の資料から観られる事ですが、奈良期から器類の職能集団を抱えていた事は「2足の草鞋策」の商品に成っていたことを意味します。平安末期からはこの2つの青木氏の衰退滅亡で地元に根付いた産業(信楽焼きとして)として育って行ったと観られます。
ただ、神明社や菩提寺の仏具類には欠かせないものとして伊勢−信濃青木氏はこの集団を室町期まで抱えていたか援助していた事を物語ります。信濃にも焼き物や陶器類が現在も生産されていますが信濃青木氏が関わっていたかは不明です。それの元は奈良期から近江青木氏の土師部であったのです。「信楽」は元は「土師」なのですが、この土師部が源平の戦いで近江と美濃の青木氏が衰退滅亡した事等により土師部は主を失い「地元産業」として生き延びてきたと考えられます。

金作部(かねさくべ) 金工職人・金細工職人・金具職人
この職能集団は、「皇祖神の伊勢大社」と「神明社や菩提寺」の「神器・仏具類」には欠かせないものとしてその職能集団を抱えていた事に成ります。平安末期からは「2足の草鞋策」としての商品としても扱っていた事を物語ります。伊勢青木氏の資料と、越後(陸奥)の青木氏に遺された仏教資料から覗えます。

石作部(いしつくりべ) 石細工職人・造園職人
玉造部(たまつくりべ) 仏壇仏具職人・装飾職人
この職能集団は、「金作部」と同じ事で、伊勢青木氏と信濃青木氏と美濃秀郷流青木氏に観られる事です。55地域にも及ぶ各地の青木氏の定住地の神明社菩提寺の建立と維持管理に携わっていた事に成ります。

服部(はっとりべ) 職機・機械製作職人・機織機職人・(情報収集職人)
この職能集団は、神明社・菩提寺の建立と維持管理とその「神器・仏具類」の製作に必要とする事でかなり大量に生産していた事を物語ります。間違いなく、「2足の草鞋策」の商いの主用品としていた事を意味します。近江青木氏と伊勢伊賀地方と美濃秀郷青木氏の私有古文書や神社の古文書に観られる記述です。伊勢伊賀はルーツの服部氏の発祥地ですが、伊賀氏と伊勢青木氏との関係資料から観察できます。
下記の織物職人等の織機関係を担当していたのです。織機そのものを商品として扱っていたのです。
青木氏の部の職能集団の中で来米部の影響受けて情報収集職人(忍者)もかねていた事を意味します。
服部に関わらず部の相互間でも有機的に働いてい事を物語ます。
服部が何故情報収集の役目を担っていたかは不明ですが、織機器の販売輸送から各地を移動すると云う事から来米部の手助けをしたと考えられます。各地に平均的に服部の「姓氏」が多いのはこの事を物語ると考えます。(信濃が目立ちます)

錦織部(にしきごりべ) 錦織職人・錦職人
この職能集団は、近江に多い所で近江青木氏が抱えていた職能集団であったと見られ、この職能は「神器・仏具類」の製作・装飾に用いられるもので、伊勢青木氏が神明社・菩提寺の建立と維持管理の為には必要として平安期末期頃に移動させた物ではないかと考えられます。近江青木氏の平安末期の衰退滅亡に関わっていると考えられます。服部部に織機を作らせて「2足の草鞋策」の商いの一つに成っていたと考えられます。

倭文部(しどりべ) 文書職人・書物職人・印刷職人
史部(ふみべ) 文書職人・記録保管職人・事務職人
この職能集団は、奈良期から江戸期末期までの「神明社・菩提寺の建立と維持管理」の事務職・記録保存・家系図・祭祀等の職務に付いていたと観られます。製本や印刷技術や果てはお守り札類・暦までの一切を担当していたと考えます。全国の青木氏への「神明社・菩提寺」に関わる膨大な量の事務・雑務を担当していたと観られます。伊勢青木氏の資料に観られますが、「2足の草鞋策」の商いに関係していたかは不明です。無関係であったと観ます。

来米部(くめべ・くるめべ) 鉱山開発職人・情報伝達職人
この職能集団は、実は重要な内容なのです。本職は鉱山開発の山師ですが、全国を歩き回り鉱山を発見し開発する職人なのです。しかし、別の面で各地の「戦略上の情報」や「商いの情報」なども集めて逸早く対応する体制を採っていて青木氏の生き残りに重要な役割を果たしていたと見られます。
平安期初期より既にこの「2つの面」を持っていたと記録されています。
鉱山開発では、秀郷流青木氏の越後青木氏の職能集団として関わっていた事が記録されています。
伊勢青木氏や信濃青木氏にもそれらしき鉱山開発の表現が見られますので、鉱山開発はしていたとしても、むしろ、伊勢青木氏と信濃青木氏が鉱山に大きく関わる明確な資料が見つから無い事から、古くから主に「情報伝達収集」の職能として活躍していたと観られます。
この事等から秀郷流青木氏と伊勢・信濃青木氏との間で「情報伝達収集」のやり取りをしていたのではないかと考えられますが、それを物語る何らかの確実な記録が現在発見出来ていません。
「3つの発祥源」と「2足の草鞋策」の両面を支えていた「情報伝達収集」の職能集団で、職務上の役目履行の為に「忍者」の様な能力も持ち合わせていたものと考えます。これは鉱山開発に必要とする能力であったと考えられます。この「忍者的技能」は青木氏の「来米部」が始祖と考えられます。
伊勢青木氏の「来米部」は、日本書紀の中にも全青木氏の始祖施基皇子が天智天武から命じられて全国各地を争い事の調停や平定や国情調査で飛び回っていた時に、警護役や先行掃討役で動いていた事が書かれています。
平安初期と中期の古い資料からもそれなりの表現で警護役で動いていた記述が観られますが、伊勢の伊賀地方と隣接する滋賀の甲賀地方は、後にこの「忍者」でも有名なったのはこの青木氏の職能集団の「来米部」のところから来ていると観られます。これは鉱山開発で培った各地の地理を含む知識や技能や各地の豪族やシンジケートとの繋がりから、その上記する役目に合わせて任じたと考えられます。
その証拠に施基皇子は、持統天皇に命じられて「律令制度の基本」と成るものを作る為に、上記の経験から彼等からの話も聴集して全国各地の細かい国情から見た「人の行い」を纏めた「善事撰集」の編集をしています。これが日本最初の律令の「大宝律令」の基礎に成ったと云われています。
この時に陰で活躍したのが鉱山開発の「来米部」であった事が文面から観て判っています。
全国を駆け巡った「伊賀忍者の服部半蔵」は服部の織物器機製作職人の古来からの青木氏の「部」でありますが、同じ伊勢青木氏の職能集団の「来米部」の影響か血縁を受けてか「情報伝達収集」をも兼ねていた事と観られます。
そもそも忍者には3つの階層があり、上忍は「郷氏」と中忍は「郷士」であるので「来米部」より姓化した「姓氏」です。上忍の郷氏は青木氏の徒弟制度の別家養子制度の「来米部」の首魁の氏、中忍の郷士は農兵の地侍であるので姓化して姓氏を名乗った配下の中の来米部、下忍は農兵組の来米部と成ります。
忍者の階層から観ても伊勢青木氏−信濃青木氏の「来米部」は「情報伝達収集」の役目を荷っていたのです。この事は伊勢−信濃「シンジケート」との結びつきでも証明できます。
平安期末期から「2足の草鞋策」の一つとして「シンジケート」が考えられるのですが、筆者はこの「来米部」から考えると、既に奈良期から、近江青木氏、伊勢青木氏、美濃青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏の5家5流の間では各氏が抱える「来米部」の役目としてシンジケートに近い状態のものが存在していたと考えているのです。それが平安末期から「2足の草鞋策」となった事から「来米部」の役割は大きくなり「情報伝達収集」の役目に重点を置く様になって行ったと観ています。
奈良期末に滋賀の甲賀に接する伊勢北部は、阿多倍の伊賀割譲と室町期に室町幕府執事の所領となった経緯がありますが、その後も青木氏の「来米部」として続けられていました。
そして、室町末期からは「シンジケート」が戦乱で拡大し、その役目も激しさを増し、更に急激な「情報伝達収集」の役目が増して、所謂「忍者」成るものとして一部が活躍するように成ったのです。この時に服部が借り出されて忍者と成ったと観ています。甲賀、伊賀が後にこの影響で「忍者村」となったと考えられます。
伊勢青木氏の勢力圏域は室町期には名張−松阪−玉城−四日市−員弁−桑名のライン上(伊勢の中央より北部域)にあり、この「来米部」の末裔居住地は名張付近ではなかったかと観ています。
玉城の8割は蔵群と家臣や雇い人や職能集団の居住地と仕事場であった事は記録から判っています。
即ち、「来米部」の役割は青木氏にとって無くてはならない「抑止力」であり「商いの手段」の「シンジケート」の維持運営管理を担ったのです。

綾部(あやべ) 綾編職人・布織職人
この職能集団は、綾編職人・布織職人である事は事実でありますが、実はこの綾部(あやべ)の存在は歴史上である事を意味しているのです。それは「シンジケート」なのです。シンジケートの者はこの綾織の手作業をして綾紐などを「家内工業的」にしていたのです。勿論、伊勢−信濃青木氏の商いの一環として戦略上繋ぎの仕事なのです。シンジケートの一員で信濃甲斐の国境の真田郷より配流になった九度山の真田氏の「真田の綾織」でも有名ですが、「綾織」はその伊勢シンジケートの一員の証しなのです。
倭文部や史部や来米部等と連携しながら情報収集のシステムを構築していたのです。
忍者の来米部と供にこのシンジケート間を駆け巡っていたのです。

馬部・馬飼部(うまべ・まべ) 輸送職人・飼育馬職人
この職能集団は、当時の陸上の輸送手段として、戦いの騎馬として、移動手段として最も重要であったのですが、その大量の馬の飼育と管理を専門にしていた職能で、「戦い」には馬の貸し出しも行い、飼育も請け負うなどの商いと、その商いの物資の輸送手段にも用いました。当然にシンジケートのイザという時の戦力にもなったのです。この部は信濃青木氏、伊勢青木氏、近江青木氏に確認され、特に信濃青木氏の馬部は日本書紀の記述にも出て来ます。

麻績部(おみべ) 麻布紡績職人
衣縫部(いぬいべ) 衣服縫製職人
赤染部(あかそめべ) 染色職人
茜部(あかねべ) 茜染職人・染色職人
この4つの職能集団は神明社・菩提寺の建立と維持管理とその「神器・仏具類」の製作に関わっていたのですが、青木氏に大きく関わる事では無く、主に商いの殖産と産品の一つとしての意味合いもあったのです。もう一つはこの職能は伊勢−信濃シンジケートの殖産にも関わっていたのです。
シンジケートは経済的裏付とを受け、そして、それを商品化していたのです。
自らもこの職能集団の能力を受け生きる糧ともしていて、それを青木氏の商いの「4つの元締め」に収めると云う仕組みを持っていたのです。一種の家内工業の組織であったのです。縫い−染めるの連携組織です。表向きは「家内工業」で、裏は「シンジケートの一員」で構成されていたのです。

鞍造部(くらつくりべ) 馬鞍造職人・仏像職人・木工細工職人
弓削部(ゆげべ) 弓製作職人・竹細工職人
矢作部(やはぎべ) 矢製作職人・竹細工職人
この職能集団は、神明社・菩提寺の建立と維持管理とその「神器・仏具類」の製作に関わる根幹に成る職能で、その技量の範囲を生かして神社や仏閣の欄間や仏像等を彫る事をしていました。
弓削部や矢作部は武器を作る傍ら、鞍造部に協力して細工物を作り「神器・仏具類」の製作にも関わったのです。これ等のものは商いの商品としても扱われていた模様でその殖産は山部と供に連携していたのです。これ等も上記した麻績部等と同様にシンジケートの組織に載せて彼等の家内工業的な生産をし収め商いの商品として販売し経済的な潤いと糧としていました。

山部(やまべ) 山林職人・木材職人・山警備職人
この職能集団は、山や山林の維持管理が主体ですが、神明社・菩提寺の建立と維持管理とその「神器・仏具類」の製作に関わる素材を提供するのが目的です。上記した色々な殖産に関わる材料の育成管理も行います。青木氏は信長の伊勢攻めの際に材木の買占めなどをこの山部を使って行い丸山城の戦いを征しました。また楠木正成の南北朝の戦いにもこの山部の山を知り尽くした力を使って山の山道通過阻止や飲料水の阻止をし10万の軍に対して勝利を導き出しました。
山賊の排除などにも役立ちました。この山部を通じてシンジケートとの連絡を図る等の役目も荷っていたのです。山部そのものもシンジケートの一員でもあったのです。伊勢−信濃青木氏の天正の3乱でもこの働きがよく出てきます。

鵜飼部(うかいべ) 鵜飼職人
この職能集団は、信濃青木氏の関係資料の中に出てくる事ですが、鵜飼だけの職能ではなかったのではないかと観ています。それは「河川の輸送」に対する役と各河川の道案内役ではなかったかと観られるのです。単純に鵜飼では河川産品だけでは青木氏に執って大きな意味を持ちません。山部と同じ様な役目をも持たしていたと観ているのです。山部−鵜飼部の連携を構築していたと考えます。

舎人部(とねりべ) 付き人・秘書・警護人・番頭職・代理人・御用人
佐伯部(さえきべ) 警備職人・警備兵・情報職人
この職能集団は、上記した職人を抱えて有機的に「3つの発祥源」と「2足の草鞋策」と「氏神の祖先神 神明社」と「氏寺の菩提寺」を持つ「青木氏」を支えていたのですが、青木氏の氏上の長一人が全体を仕切る事はそもそも困難です。そこで参謀本部や司令部の様なシステムを構築し、其処から指揮する体制を敷いていたのです。それには多くの番頭が必要となりこれを専門的に行っていたのです。
指揮、作戦に関する専門的知識や情報収集分析能力を要求されますし、当然に長に対する身の危険も伴ないますのでそのガードマン的働きも併せ持つ警備本部の役割も果たしていたのです。
「2足の草鞋策」の両面に必要とする最も重要な能力です。
この本部の仕事を「舎人部」(指揮)と「佐伯部」(警備)に分けていたのです。この2つを複合的に青木氏は統括していたのです。全青木氏との連携なども此処から行っていたと考えられます。
上記した一揆などへの援護等もこの本部機構を動かしていたことに成ります。

硯部(すずりべ) 硯石製作職人・砥石製作職人
墨部(すみべ) 墨職人・砥職人・(方氏)
作部(さくべ) 墨作職人・砥石職人
この職能集団は、青木氏の商いの「和紙」に関わる職能種です。
この集団は近江と奈良と紀州と信濃に存在し、主に奈良から紀州に掛けての産品が良品とされ平安初期から生産していた事が判っています。当初は紀州の産品は累代の幕府の専売・販売品で紀州は徳川時代まで徳川氏に納めていました。この4つの地域は時代毎にその産出量が異なり、又品質も異なっていました。この3つ共にその職能の産地は紀州だけで後は墨だけでした。
伊勢青木氏紀州産品は累代の幕府から平安時代からの歴史もあり伊勢を中心に生産とその販売権を確保していたのです。奈良は松煙墨で荒く粒にばらつきがあり色合いが悪いとして、その品質から紀州に劣る事から途中で専売を解除されています。紀州産(藤白墨)は万葉集にも出てきます。
近江、奈良、信濃は専売から外れていて紙と合わせて商いの対象と成っていたのです。
紀州産の硯石や砥石は高級紫石として平安期は朝廷に納めた後に市場に出回るものとして重宝されていました。
当時墨は大和では生産できずに輸入に頼っていました。そこで朝廷は作氏・方氏を平安期にわざわざ中国から呼び寄せた専門の墨職人です。朝廷の資料にも出てきます。最初は近江、信濃、次ぎに奈良、そして最後に紀州となり輸入品より優れたものが生産できるように成りました。調査に依って、その定住地は紀州の「下津」という港の近くで「方」という地名にも成っています。姓氏として硯氏や(作氏)・方氏として現在でも末裔は村を形成しています。
実は伊勢青木氏には、平安時代の朝廷の専売品であったもので、明治の末期に天皇家よりその時代の「藤白墨」をその所縁で拝領していたのですが、然し、平成の世までこの3つの職能集団の末裔の行方が不明でした。青木氏の職能集団であるので、その責任上調査を進めていましたが、つい最近判明しました。(研究室にレポート済み)


青木氏の職能集団の疑問
以上の青木氏の職能集団に付いては記録から確認出来るのですが、凡そどの様な商い(商品や営業方法)をしていたかはこの部でも判ります。然し、幾つかの疑問点があり、先ず海の部が確認出来ないのです。(生活上の職能集団の膳部等は除いた)
つまり、「海部」・「船部」等です。「海上輸送」は伊勢青木氏では堺、摂津の港で4店舗を持ち貿易をし、輸送手段として千石船3艘を有していたことは判っていますし、越後、尾張、三河、陸奥には大きな港があります。「2足の草鞋策」を敷く以上は無くてはならない職能集団です。
ただ、瀬戸内の秀郷流青木氏には廻船問屋を営んでいるので「海部」・「船部」(海族・海人族)等が確認出来るのですが、5つの地域は港を持っていますのでなくては成らない筈です。
尾張と三河では「磯部」が確認出来ますが、歴史的な職能域が少し異なります。
考えられる事として、「海産物」の商いは別として、「海上輸送」は讃岐籐氏の秀郷流青木氏がその専門職の廻船問屋を営んでいる事から、「貿易」ともなればかなりの操船の専門域となり合わせて海利権の問題もある事からこの瀬戸内の青木氏に一切契約して任していた事が考えられます。確かに、江戸末期の浅野氏滅亡時に伊勢青木氏の3隻と瀬戸内の秀郷流青木氏とが連携して浅野氏等の骨董品などの買取をした事が記録で判っています。
連携していた事は確認は出来ますが、常設する程の連携であったかは不祥です。
そこで、不思議にこの記録が無い事に付いて、考えられる事として「2足の草鞋策」で殖産と商いをしたのが1125年頃ですから、部の職能集団は985年から1025年頃の身分制度は開放されています。しかし、法的な「身分制度の開放」であって部の職能集団を解体した訳ではありません。
部の職能集団はこれ以後集団化して行くのですが、その所属する氏での中での職業の継続は雇用人としてされているのです。この時に青木氏に所属する職能集団は雇用人として法的開放から丁度100年位立っています。これ等の集団の雇用を支えて行くにも「2足の草鞋策」でこの職能集団の生産する産品とその技能を保持し、且つ、乱れの生じてきた社会の中で逸早く「青木氏の衰退滅亡」を防ぐにも、「商い」以外には無かったのではないかと考えられます。
つまり、その時に抱えていたのが上記の集団であってその時には疑問点の海上に関する職能集団は抱えていなかったと考えられます。そもそも和紙を主体として始めた「商い」であった為に海上に関する職能集団は必要なかったと成るのです。それほどまでにこの商いが大きくなかったと考えられます。陸上輸送の範囲で事足りていたのです。
然し、鎌倉時代と室町時代には「紙文化」の花が咲き、真に「青木氏の商い」そのものの文化が開いたのです。そこで「商い」は大成功を遂げて拡大し、更に職能集団の体制をこれに合わせて「組織化」して確立させたと考えられます。その中には「氏の徒弟制度」もあって、「家臣による未勘氏」と「絆による第3氏」の「4つの青木氏」が出来上がって行ったのです。
(上記青木氏の部の職能集団では家臣に成った部、絆で結ばれた部に構成されて行ったのです。)
この時に拡大した「商い」の輸送手段に問題が生じ、海上手段として大船を保有したと考えられますので部としての職能集団が記録には出て来ないと観られます。
「神社と寺社」は青木氏の独自のものを保有していたのですから、各地55地域の青木氏の記録は遺されていた筈です。然し、見つからないのです。
当時は「神社と寺社」が「氏の記録と保管」の職能を荷っていたのですが、平安末期の「源平の戦い」から室町期の「下克上、戦国時代」によりその戦いの最前線となった「神社と寺社」の城郭としての役目の為に焼き討ちに真っ先に会うという憂き目もあり、記録の多くは消失してしまっているのです。
江戸期から明治期にあっても「一揆」の拠点として使われた為にも記録は消失と成った為に、特に海上に関する史料関係が発見出来ないのでは無いかと考えられます。
何か海上に関する「特別な慣習」があって遺し難かったのではないかと観られます。「海利権」と「独特な慣習」に有るのではと観られます。
「陸上のシンジケート」は旧来からの経緯で育て克服出来たとして、「海上のシンジケート」、つまり、各地に存在する「水軍」です。駿河、三河、大島、伊豆、伊勢、熊野、紀伊、瀬戸内、村上、陶、豊後、(青木氏が関わった水軍)等の主要な水道には水軍が存在していて「シンジケート」を構成していたのです。即ち、「海賊」までも抑えた「海族」(海人族)です。(源氏は前8つの水軍で、後3つの平家水軍に勝利した)
この「海族」に「繋がり」を持てたとしても支配に及ぶまでの力は勢力は無かった事を意味します。
(同族の源氏は平家との戦いの際に義経は前4つは源氏に味方し、中の4つは義経が再三出向いた味方する様に働きかけ最終的に味方した位で勢力圏に無かった記録がある事から全く青木氏も無かったと観られる。)
それ故に、「讃岐籐氏」の秀郷一門の讃岐青木氏はこの瀬戸内水軍を支配し、横の水軍にも「繋がり」を効かせられる事が出来、日本海側にも進出していた「廻船問屋」として「大商い」を営んでいた事から、他の「2足の草鞋策」を採る青木氏は大口の商いにはこの瀬戸内の青木氏に「海上輸送」を一括して委ねていたと観ているのです。


そこで、これ等の「青木氏の基盤の支え」になった青木氏が一体どのくらいの「勢力」を保持していたのかを検証して観ます。
これには次ぎの数式論が成立する筈です。

A(固定条件)=「殖産」+「地場(土地)」+「広域シンジケート」+「運送・運搬」+「適度の武力」
「2足の草鞋策」=「商い」+「A」
「神明社・菩提寺密教」=「職能集団」+「2足の草鞋策」+「A」

∴「神明社・菩提寺密教」=「職能集団」+「商い」+2「A」

「神明社・菩提寺密教の維持」
上記の数式から果たして「神明社・菩提寺密教」を維持しょうとすると、どの程度の力が必要に成るのかは疑問です。
それは上記の数式から判ります。
それは「商い」と「職能集団」を維持し、固定条件の2倍の力が必要という事に成ります。
独自の「守護神と氏寺」を所有する事は大変な勢力が必要である事が判ります。
では、”どの程度のものか”と成りますが、次ぎの様に成ります。
因みに、この数式論を展開すると、伊勢青木氏は「神明社・菩提寺密教」を持っていたのですから、2「A」以上に相当する「綜合的な力」を有していた事を意味し、これが上記する5万石程度と成ります。
2「A」ですので固定条件の「A」(固定必要経費に相当)は2.5万石程度は少なくとも最低で必要で、この程度の場合は「商いの利益」だけでは”「神明社・菩提寺密教」は維持出来ない”と云う事に成ります。
伊勢と信濃以外の美濃や甲斐や近江は、単独では室町期以降には「神明社・菩提寺密教」は持てない事に成ります。現実には単独では持っていなかったのです。
A=2.5万石として、”「商いによる利益」で「職能集団」を何とか維持する事が出来る”と云う判断も出来ます。
秀郷流青木氏は「地域の幾つかの同族の青木氏」を綜合することで持てる事に成りますので、現実にはその様に成っているのです。
又、「2足の草鞋策」=「商い」+「A」では、「商いの利益」と供に少なくとも2.5万石を保持する勢力を持っていれば「2足の草鞋策」を続ける事が出来ます。
「3つの発祥源」を護り、「A」(シンジケート等)を維持し、「商い」を維持するには2.5万石程度の勢力が必要という事にも成る訳です。
この様に「神明社・菩提寺密教」の有無を確認すればその石高を知り勢力を知る事も出来るのです。又逆の事も知る事にも成ります。菩提寺があり、神明社が近隣にありとすると2.5万石以上の勢力を持っていた事を示し、「2足の草鞋策」を採っていた事も判る事に成ります。
この雑学の判別式はルーツ解明に大変役立つものです。
この事から2.5万石は大名か大郷氏、大豪族・大地主・大庄屋の扱いと成りますから、その氏ではそれに見合う遺品が存在する事にも成ります。この勢力では一軍(4−5騎 1騎50人)を指揮する事に成りますので、「軍配」、「馬盃」、「床机」等の指揮官が持つ物が遺品としてある事にも成りますし、宗派、仏壇や墓形式、戒名、邸、館、門構え等も全て違ってきます。

推して知るベしで、この数式以外にも上記した幾つかの数式条件を満たす為にはある一定の「上記した勢力」が必要と成ります。これらの「数式論の解析」で色々な状況を判別検証する基準にも成ります。
奈良期から明治期までの筆者が論じて来た菩提寺など「青木氏の力」に付いての多くの判定要素はこの様な「数式論の解析」から「史実の数値」などとを照合し駆使して割り出しているのです。

資料が遺されているので判断基準にしている「伊勢青木氏の経緯」として、平安期初期には伊勢北部、平安期中期には伊勢東部、平安期末期には東南部、室町期末期には伊勢松阪の一部の割譲、江戸期初期には「青木氏の5万石」の土地を残して細部地域の割譲が起こりますが、江戸期中期の5万石でこれを維持するのに限界で有った事に成ります。
56万石から上記の様に「伊勢青木氏の勢力」の時代事の推移を観る事も出来ます。
各地の天領地の青木氏は、天領地割譲が天皇家の衰退の経緯を示しています。依ってほぼこの推移と類似していますので、各国の「特別な国情」を加味して全体の石高を当て嵌める事で判断が可能です。
伊勢国のみならず各地の史実からも(データーの少ない近江、美濃、甲斐等も)割り出せますし、判れば逆に判別して行く事も出来るのです。この数式解析論をよく採用して判断に用いています。
算数論の様に1+1=2には成らずとも、より多くの判定要素を組み入れて行けば感覚的に観るよりは史実と真実に近い「類似性の答え」が出て来ます。

(近江、美濃、は上記した「源平の戦乱の有名な激戦地」で滅亡状態になります。甲斐は戦国の戦乱で滅亡状態に有った事から消失や衰退で独自で保有する事は出来な区成っていました。
従って、和紙を通じて伊勢−信濃から経済的援助を受けていたと観られる)

「神明社・菩提寺密教」を基本として「和紙」と「職能」と云う事で繋がっていた「5家5流青木氏」と「秀郷流青木氏」にはそれなりの上記の「数式条件」の「神明社・菩提寺密教」=「職能集団」+「商い」+2「A」が備わっていなければ連携も成り立たない事を意味します。
筆者の計算では、室町期から江戸期の55に近い地域の青木氏各氏の勢力領を観て見ると、石高で表現すると少なくとも1万石程度の勢力を持ち得ていなければ「2つの血縁青木氏の関係」は成立しない事が云えます。

「青木氏のパラメータ」
つまり「2つの血縁青木氏」には青木氏の添書等の資料から平均的に次ぎのパラメータが出来るのです。
「姓氏の発祥地域」=1万石
「青木氏の地域」=1万石
「1万石の地域」=青木氏
「1万石の青木氏」=「2足の草鞋策」
「2足の草鞋策」の地域=「姓氏の発祥地域」
「姓氏の発祥地域」=「青木氏の地域」

(平均1万石:バイアスB=±0.2万石で、R=0.01〜5万石)
以上等の論調が成立する事に成ります。

(基準を1万石(0.5)の多くの氏の勢力を調べて平均化してそれを1として、「青木氏の勢力」を計算した。この数式論に「調査要素の項目」を照合して「青木氏の表の勢力」を検証調査した。)

大体青木氏1氏の1万石は「40人の家臣団」(常設期、 戦乱期は常設・5、 4−5騎)と成ります。
そうすると、勢力圏の程度を考察して観ると次ぎの様に成ります。

「美濃一帯」では5氏の同族の秀郷流青木氏がいましたから、5万石の勢力を保持していた事に成りますので、「200人の家臣団」で「1000人の集団」となります。

「伊勢」では秀郷流青木氏は3万石でしたから「120人の家臣団」で「600人の集団」と成ります。賜姓青木氏では1氏で5万石でしたから「200人の家臣団」(実際の記録は250の家臣団)で「1000人の集団」と成ります。伊勢では合わせて「320人の家臣団」で「1600人の集団」と成ります。

「信濃」では4氏から構成されていて5万石ですから、「200人の家臣団」で「1000人の集団」と成ります。
「近江」では3氏で構成されていて0.5万石程度でしたから「20人の家臣団」で「100人の集団」と成ります。

秀郷一門青木氏24地域の中では次ぎの様に成ります。
「関西−中国域」では「讃岐籐氏」の秀郷流青木氏は大勢力でしたので讃岐、瀬戸内・(土佐)、阿波、安芸、伯鰭の勢力(8)を合わせると10万石程度の勢力圏を有し、「400人の家臣団」で「2000人の集団」はあったものと考えられます。(8地域/8は「2足の草鞋策」の確認地)

「武蔵・関東域10と東北北陸3」では根拠地ですので、各地域毎に5〜8万石程度の勢力圏/地域(13)で「320の家臣団」(常設)で「1600の集団」であったと観られます。(8地域/13は「2足の草鞋策」の確認地)

九州は肥前、筑前、豊前の3地域では土地柄から資料は少ないし末裔の拡大は低いが、北九州の豪族の酒井氏、佐竹氏、菊地氏、佐伯氏等の武蔵・関東域との秀郷一門青木氏との度々の交流(荷駄等)の痕跡資料があり、この結果として、この4氏の末裔が関東の秀郷一門地域に認められjます。
この事から秀郷流青木氏の「2足の草鞋策」の痕跡が認められます。
石高は算出は困難であるが平均値に等しいと考えて3万石程度とすると、「120人家臣団」で「600人の集団」と成ります。

これに「商いの勢力」と「シンジケートの勢力」が加算されますので、上限は別として、この程度が「最低限の勢力圏」を常設保持していた事に成ります。
「シンジケートの勢力」は別として、「商いの勢力」を全額計算する事は出来ませんが、上記の「常設勢力」の「10倍位の勢力」を以って「非常時の勢力」と見なされます。

その根拠は「関が原の戦い」の時に家康より伊勢青木氏は(信濃青木氏と共に)合力を打診された時の資料として”250の兵(食料調達と安全確保)と信濃−伊勢−京都路の進路の安全確保を担保した”と記されていますので、「非常時兵力」(警備傭兵)の1000程度の兵(暗に示唆)と1万人程度以上の進路側面確保に「伊勢−信濃シンジケート」(暗に示唆)を動かしたことが判っています。(これにより伊勢と信濃は本領安堵された)
恐らくは、「信濃」と共に「近江」と「美濃」の青木氏はこれに加わり「援護兵」「1000の兵」としたのではないかと観られます。(上記Aの要員を加えていた可能性がある)
(ぴったり1000の兵としたかは当時の書き方として漠然とする習慣がありますので不明ですが2000は超えていなかったと考えられます。依ってほぼ8−10倍と見られます。250は記録にある)
一般の他氏の大名クラスも非常時は農兵の傭兵役10倍にしてを集める慣習が出来上がっていた事に成ります。

「武士の生活費」
そこで、その根幹の武士の生活し得る最低の石高が問題に成ります。
江戸時代初期前後の武士の生活は次ぎの様に云われています。
1石高/人/年で、一般諸経費はこの最低5倍/人され、家族5人の生活費は25石/年必要 雇人5人を要するとされ 150石。これに一般管理費に相当する維持費50石加算で最低の200石/年 その他の雑費の最低出費50石 総合の250石が江戸時代初期の限界石高ですので、これに多少なりとも余裕を持たせるには兼農となります。
故に上記した甲斐の武田氏系青木氏は巨摩郡山間部で農業を営んでいたのです。

これからすると、上記伊勢青木氏は250人の雇人があったので、「商い」では最低で2A=5万石以上の収入であった事が云えますので、少なくともこの10〜15倍の商いの実績がなくては成りません。
依って最低で50〜75万石以上の実質勢力があったと観られます。(上限は判らない)

上記した経緯から平安期末期(1125年)に「2足の草鞋策」を実行した立ち上がり時期にはこの程度の勢力が必要であった事に成りますので、この事からその時の実績46万石/56万石に相似します。
伊勢青木氏は割譲が続く状況の中で、41−46万石に成った衰退時点で不足分を補う事で和紙による「2足の草鞋策」に踏み切った事が伺えます。同様の運命が近江、美濃、信濃、甲斐にも起こっていた事に成ります。しかし、この過程で近江、美濃と甲斐に「時流」に押し流されてしまう判断ミスを起こしてしまった事を物語ります。
伊勢と信濃の賜姓青木氏は何とか助けようとして余力を作り出すために「2足の草鞋策」に連携して力を入れた一つの理由にも成ります。
それ以後、「鎌倉文化と室町文化」の「紙文化」の花が運良く開きましたので次第に大商いを拡大させています。遂には、室町期には「総合商社的な商い」も認められますので、充分に美濃、近江、甲斐を援護し、上記の数式は元より「理念追求の行動」は可能に成った事に成ります。
室町期にはいち早く火薬を扱っていた事が記録で判っています。

(実は伊勢の松阪の大火の火元になった原因はこの火薬庫の爆発によります。明治期には一応は「花火」とされていますが、鉄砲や発破の原材料の火薬であったと観られます。)

この事から、長く続く「紙文化」と「戦国鉄砲」の「大商い」は明治期まで続きますから、外国貿易とあわせるとこの利益は計り知れない利益であった事が予測できます。
伊勢−信濃の青木氏と伊勢の秀郷流青木氏の「3氏の青木氏連携」によって徳川氏に匹敵する位以上に「総合勢力」はあったと考えられます。
この「総合勢力」に近江、美濃、甲斐の「2つの血縁青木氏」は連動して生き延びたとする上記の「勢力説」から観た説を筆者は採っています。

(伊勢青木氏と同様に、瀬戸内は阿多倍一族一門の平族の根拠地であり、天下の平族でさえ「殖産」を推進し、それを「宗貿易」で大商いを推進していた。 矢張り「殖産・商い」無くしては平族を維持しその中で配下の「姓化」を起こさせるには困難である事を物語ります。これに依って「宗貿易」を行い富みを獲得し、それを背景に海産物を扱う海部氏の他に「姓氏」と成った陶器の陶部の「陶氏」が室町末期まで中国地方全土を制覇していたのです。 九州では大蔵氏の佐伯部の佐伯氏も同じです。「たいら族」の栄枯盛衰はこの商いのここから始まっていたのです。)

伊勢青木氏を例とすれば「信濃の青木氏」や秀郷一門の「2足の草鞋策」を採用した各地の「秀郷流青木氏」の勢力は上記した様に推して知るべしです。

その意味では、上記した勢力を持つ青木氏の「古代和紙」の「殖産・商い」は、「品部」ではなく「部曲・民部」(かきべ)の職能域でもあった事、勢力から観ても充分な環境でありながら現地では「姓化」は起こらず、又上記した「氏名の継承」の徒弟制度があった事の為に、更には天領地の「民部」の「かきべ」であった事、「神明社」で固く結ばれた4つの青木氏の集団があった事等からなかなかその中に溶け込めずにその各地の「青木氏の地」に発祥しなかったのです。
総じて「3つの発祥源」の「氏」の地には「姓」を発祥させる事に躊躇したと観られ、又、発祥そのものも少なく有ったとしても「館」ではなく「2足の草鞋策」の方の離れたこの商取引の関係地(主に港、主要宿)に発祥させているのです。
「嵯峨期の詔勅」と「祖先神の神明社と菩提寺」と「4つの青木氏」が護る整えられた領域の中に「姓化」が興し難くかったと観られます。
「2足の草鞋策」や「シンジケート」と云った「自由性を持つ組織」を保持しながらも、このスクラムは別の意味で「排他的環境」の傾向であった事も考えられます。この「氏」の青木氏も「姓化」をしようとする方も遠慮した事も考えられます。そもそも徒弟制度の中で「氏の継承」をしていた事もあって「姓化」は”「差別化に成る」”と考えたかも知れません。
これは「商い」のみならず「3つの発祥源」と云う立場の印象から来るものが強く出ていて「2面性」を持っていた事による弊害とも考えられますが、これは「家訓10訓」で誡めているので考え難いのです。

それはそれで当然に止む無き事として、これは「姓化」に依って起こる「商取引」が当時の「運搬・運送状況の環境」に影響して全体的に大きく関係している事から来ていると観ます。
全体的に観ても、例えば鍛冶族は「金属の搬送」が可能な港と云う様に。上記した様に、その職能種の「殖産」の特長を生かす「地理性(環境)」を先ず優先し、「商い」に必要とする「市場性」は現在と異なり第2次的要素と成っているのです。従って、其処にはこの「地理性(環境)」−「市場性」の「2つの要素を結ぶ線上」の「運搬・運送」に適する地域に「姓化」が起こっているのです。

青木氏と守護神(神明社)−12に続く。



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