青木氏氏 研究室
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  [No.283] Re:青木氏と守護神(神明社)−15
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/02/02(Thu) 11:13:16

「青木氏と守護神(神明社)」−15
>筆者は、”「特別賜姓青木氏」の「始祖千国」の末裔(子供)がこの伊勢の「藤成末裔」に跡目を入れて「青木氏」を興して配置した”と考えているのです。
>その”始祖千国の嗣子が誰なのか”研究中で、「賜姓族」に成った「千国」は恐らくは直ぐに天皇家の守護神の「伊勢大社」のある所に、「賜姓青木氏」と同格の身分を得た以上は、子供を直ぐに配置する筈です。否、「義務」として配置しなくてはならなかった筈で、伊勢には、「藤成の伊勢の末裔」が定住(四日市)している訳ですから、そこに跡目を入れるが常道です。
>この行動は「同格の役目と家柄」を与えられた以上は必定な絶対的職務です。先ず100%入れている筈です。末裔が居て定住地も判っているのですから後はその人物の特定だけです。
>「賜姓伊勢青木氏」の関係資料の中からこの事に付いて何らかの資料が出てくるのかとも研究しましたが、松阪の大火消失で確認出来なくなった事や、伊勢秀郷流青木氏等からもなかなか出て来ません。
>従って、”他の関係する処”からの研究を進めていますが「特別賜姓族青木氏」の「伊勢の祖」も確認出来るかは疑問です。この部分が現在の研究課題です。

 「賜姓源氏の祖先神の役目」
”他の関係する処”として、源氏があります。
「嵯峨天皇」(809〜823 52代)から11代続いた「花山天皇」(984〜986 65代)まで同族源氏がありますが、「祖先神」を祭祀した5代続いた「賜姓青木氏」の後に、”何故に「賜姓源氏」(八幡社)にはその「祖先神」を祭祀するこの役目を与えられなかったのか”と云う疑問が湧きます。
或いは、”「賜姓の役目」があった筈なのに何故実行しなかったのか”、反して云えば、”何故、秀郷流青木氏にこの役目を与えたのか”と云う疑問が湧きます。
この「2つの疑問」の解明に付いて青木氏として答えは出していません。そこで「神明社」を論じる処でこの疑問を解き明かす必要がありますが、実はこの事に付いては不合理な疑問・矛盾が実に多いのです。

既に前段で論じたその「背景と経緯」の様に、”実行しなかった、又はさせなかった”事の理由は上記しましたが、そもそも「源氏」と云えば一般的に「清和源氏」 (858〜876 56代)と思われがちです。
しかし「青木氏の賜姓」に続いて2代の天皇(桓武、平城)をあけて、再び嵯峨天皇(52代)から始まった11代の「賜姓源氏」が発祥します。中でもその源氏そのものと思われている56代の「清和天皇」の「朝臣族の源氏臣下」の「賜姓方法」にだけそもそも問題があって、この一部の「清和源氏の行動」が”皇族としてのあるべき行動(「3つの発祥源」の象徴)を採らなかった”と云う事に問題があるのです。
この事が「青木氏の生き様」と、又「神明社」「八幡社」にも大きく影響を与えたのです。
但し、この「清和源氏」筋でも主に「3つの源氏」があって、「宗家の頼光系源氏」(摂津源氏)と「分家の頼親系源氏」(大和源氏)と「分家の頼信系源氏」(河内源氏)があるのですが、その「宗家の頼光系源氏の四家」は「特別賜姓・賜姓青木氏」とほぼ同じ行動を採ったのです。採らなかったのは「分家頼信系の一門」だけなのです。
但し、「清和天皇」は「源氏の賜姓」に於いても「天智天皇」からの「令慣例」に従わずに「朝臣族・第6位皇子」を賜姓臣下させずにこれを無視し、子供の第11位と第12位の第2世族皇子の賜姓源氏を幾つも発祥させたのです。本来で有ればこの2人の第7位以降は「宗道」として比叡山に入山する仕来りです。
又、皇位継承権を保有する「清和天皇」の第3位皇子の子(孫)が源氏を名乗った事、「宗道」の位置に居た第9位皇子の子供(孫)が「源氏」を名乗った事があり、この二人の「賜姓の有無」は記録から明確ではないのですが、「嵯峨期の詔勅」を上手く運用して「青木氏」ではなく「源氏」にしたと観られます。
ですから、上記の「3つの清和源氏」以外に余り知られていない事なのですが「4つの清和源氏」もあるのです。
但し、問題の清和源氏の始祖の「経基王」は長い間賜姓を望んでいた事が資料でも見られるところで、「讒訴や讒言」とも録られる様な功績でその勲功を配慮されて「令外慣習」として特別に「清和天皇」から朝臣族ではないがやっと賜姓を受けた記録と成っています。
この経緯は次ぎの「陽成天皇」が暴君であった事からこれを忌み嫌い、これ等の上記の皇子が「経基王」に習い前の「清和天皇」の皇子として「賜姓族」ではない「源氏」を名乗った為と観られています。
(第3位の子、第9位の子と、第11位、第12位皇子が該当 「経基王」もこの一人との説あり)
「経基王」(しかし経基王だけは賜姓を受けている説もあるが逆説もあるが逆説が納得出来る)もこの皇子の中に居たと観られていて、「清和天皇」からすると「第5世王」と成る事から令外で「宗道の立場」にもあり、”皇族でない”とする説が生まれたのです。下記参考の令規定より強ち否定は仕切れない説であります。

(参考 第4世王以上は皇位継承権 皇子位と王位権者、守護職位、第6世王は賜姓臣下、第7世以下は単純に臣下し、第5世王はその中間の立場で継承者が少ない場合は継承権を持つ、現実の運営は第5世まで継承者が無かった事から第6世王が継承した事もある。第4世王以上で第6位皇子は六衛府軍親衛隊として賜姓臣下 第7位以下は令外賜姓 上記の2人の清和源氏と天智天皇の川島皇子の近江佐々木氏が例外賜姓有り)

そして、清和源氏の頼信系一門の守護神である事についてのこの「八幡社の根拠」は、後の「八幡社」の「石清水八幡宮」の神職の私氏資料の中にこの事が書かれている事を根拠としているのですが、しかし、250年以降の神官職の氏の私氏資料である事から「未勘氏族」の搾取偏纂の一物の可能性も高いのです。

(これは定説には成っていない−又、下記の「八幡社の守護神説」と「八幡神説」もこの「未勘氏族」の私氏資料を根拠としている。)

「青木氏」にもある様に「賜姓青木氏」と「嵯峨期の詔勅」の「皇族青木氏」と同じく、これらの「賜姓源氏族」又は「皇族源氏族」は特段に問題を起さなかったのですが、問題を起こした賜姓「基経王」は清和天皇第3世王皇子の「孫身分」(通説)であり、”子供の第2世族の朝臣族・第6位皇子(貞純親王)を賜姓臣下させずに「清和天皇の孫」(第6位皇子の子供の経基王)にさせた”と云う経緯なのです。

(第6位皇子の貞純親王は清和天皇に信頼され政治に欠かせない人物であったとして臣下しなかった事を理由にしている)

そもそもこの「経基王」の賜姓の実態は「第2世族の朝臣族」の「令外慣習」の「令外賜姓族」であったのです。
つまり、「令外賜姓族」の「孫身分」の末裔の「分家頼信系一族」の「義家一門」も「経基王」と同じ様に「政治的な問題」を起し、”皇族にあるまじき行動” として朝廷と天皇と上皇の「巧妙な策謀」に掛かり「源氏全体の滅亡の引き金」と成ったのです。
(頼光系は「源平の争い」が原因で青木氏に跡目を入れて滅亡する)
そしてこの研究が進み確定はしていませんが、現在では上記の経緯から”「経基王」は「第4世族皇子王」内ではなかった、皇族ではなかった。”と云う新しい資料からの研究説が生まれているのです。
確かに「令外賜姓」であり、”皇族で無い”と云えばそういう事にも成ります。
”天智天皇からの第6位皇子の賜姓臣下する慣例にも拘らず第6位皇子が賜姓臣下しなかった「貞純親王」の子供として第4世王外の「経基王」を第3世王として宛がい「貞純親王」の代理賜姓として明文を付けその為に天皇は渋った為に遅れて受けた”とし、この事から「経基王」は賜姓を”待ち焦がれた”とする説と”いやいやに賜姓を受けた”とする両方の研究説が生まれたのです。
(いやいや説は経基王の歴史的行動から矛盾がある。)
しかし、現実は「経基王」の史実の行動から”待ち焦がれた”が正しい事が定説に成っています。
(筆者もそのように判断している)

「清和源氏の経緯」
念の為に八幡社に繋がるこの事が神明社にとってどの様な影響を与えたか、又はどの様な経緯に成っていたのかを知る必要がある為に概要の筋目だけを述べて置きます。
それは2代目の「満仲」は荘園制を悪用して「名義荘園主(本領)」と成り、その代わりに「無血縁の源氏姓」を名乗らせる方式で、各地の豪族(未勘氏族)を組織化して平家に対抗する「武装集団」を形成したそもそもその張本人であり、その為に朝廷と天皇から疎んじられて一時河内に身を潜める行動を採った経歴を持ち主です。
後に開き直って無冠、無官、無位で攝津に戻ると云う反発行為を採っているのです。その後も「経基王」と同じ様に2代続いて疎んじられるのです。
この事で衰退した清和源氏の3代目は発奮し、先ず長男の宗家頼光は摂関家の実力者藤原道長に仕官し出世して各地の守護、国司を歴任し、資質剛健で皇族としての立場を重んじ宗家としての「清和源氏の立場」を高めたが、反対に弟の頼信は真逆の行動を採り、矢張り父の築いた[荘園制の武装集団の組織力」を使って勢力圏を河内から伊豆を経て関東に武力に依って奪い取りその勢力を拡大させたのです。
これを孫の「義家」が継承して更に「荘園制の拡大」を図り陸奥勢力を争奪して、その行き過ぎに遂には天皇や院から「排斥の令文」を発せられて嫌われる以上の政治的な処置を受けてしまい、挙句は4代続いて再び疎んじられる羽目に成った経緯なのです。
この様に世を乱す「争奪戦」を繰り返せば国は不安定に成り、民の不満はつのり朝廷側の立場は無くなるし、「荘園制行き過ぎ」に対し、「後三条天皇」の時からも既に「禁令」も出ているのにそれを無視して拡大させる行為を犯せば誰で「排斥の令文」を発せられるのは必定です。
此処にも「経基王」の「異端児的行動」から始まり「満仲」と続き、「頼信」と「義家」の「不名誉な仕儀」と成り「氏の不尊名」は4代と続きます。:
結局は「皇族に与えられた責務」を全うせずに「破天荒な行動」を取らなければ成らなかった「経緯と背景」の一端が継続して見え隠れしています。
これ等の事柄は「祖先神−神明社」や「八幡社」の検証に大きく影響して来るのです。

次ぎにデータで論じますが、本文では「源氏・八幡社」に対して上記の「背景・理由と経緯」が判っていますので大きく論じる事はしません。
ただ「源氏の守護神」は通説は「八幡社」と成っていますが、筆者にはこの「八幡社説と八幡神の通説」には多少疑問があるのです。
この疑問については下記に論じますが、何しろ上記の行動もさる事ながら「疑問と矛盾」が多過ぎるのです。ところが最近の各研究家の間でやっとその疑問の学問的解明が進み始めたのですが、まだ社会の中では「祖先神-神明社」の義務も放置し、挙句の果ては八幡社を建立する等の行為を繰り返しながらの根強く「義家贔屓説」として通っているのです。
ところで、では「源氏」11代はどの程度の「祖先神の八幡社普及」に取り組んだのか、そのデータから先ず論じます。(「八幡神」の説もあるが後付け行為)
その「八幡社」も調査すると下記にその内容を論じますが、結局は既に青木氏等に依って建立された「神明社」そのものを利用しているだけで「純粋な八幡社」と観られる多くは彼らの「未勘氏族」に依って建立維持されているのです。

そこでそもそも「賜姓青木氏」に続く「賜姓源氏」の11代は次ぎの通りです。
嵯峨源氏、 純和源氏、 仁明源氏、 文徳源氏、 清和源氏(上記経緯)、 陽成源氏、 水考源氏、  宇多源氏(滋賀佐々木氏)、 醍醐源氏、 村上源氏、 (円融特別賜姓青木氏)、 花山源氏

(注釈 これ以外に「平城源氏」や花山天皇以降に5代の源氏があるとして徳川氏が征夷大将軍の称号を獲得し幕府開幕する為に造り挙げたものがある。
「清和天皇」と「陽成天皇」の間は賜姓が大きく乱れた。
「平城源氏」はそもそも皇族に賜姓する事を辞め阿多倍一門に「たいら族」の賜姓をしこの事で嵯峨天皇と醜い政争をした経緯がありますが、「嵯峨天皇」後にその事を忘れた様に源氏を名乗った。
「円融天皇」は清和源氏の皇族としてのあるまじき行為に反発をして「賜姓源氏」とせずにその皇族としての義務を果たさせる為に藤原秀郷の一門に「特別賜姓族青木氏」(秀郷流青木氏)賜姓した。)

「八幡社と弓矢の根拠」
その前にそもそも「八幡社」の呼称は、「筑前宇佐神宮」が「譽田天皇廣幡八幡麻呂」、即ち、実質飛鳥の「ヤマト王権」(5族の連合政府)の初代「応神大王」の事で、つまりは実質の初代の「応神天皇」の事ですが、「護国霊験の大菩薩」と「御託宣」があったとして「八幡の麻呂」(ヤハタ)から後に「八幡社」と別名呼称されるように成ったとされています。
「神明社」は前段でも記しましたが、実質4代目「雄略天皇」が、夢の中で「天照大御神」の「御託宣」を受け建立したものですが、その「豊受大御神」(外宮)を「丹波」の国から、ほど近い伊勢の「山田の原」に「天智天皇」が迎えたとされるものです。
これが「神明社」の「豊受神」、「豊かさを受けられる神」、即ち「生活の神」「物造りの神」の所以ですが、「八幡社」は「応神天皇」、「神明社」は「雄略天皇」とし何れも「夢の御託宣」です。
そして遅くともこの筑前の宇佐の地の「八幡社」の社殿建立は和銅元年(708年)頃とされ、「社」としての正式な建立は728年とされています。
この頃は「弓矢の神」ではまだ無かったのですが 「石清水八幡社」が860年頃に建立されたとします。
その年に「清和源氏」は860年に発祥されています。
後に「宇佐のヤハタ社」が支社と区別する為に後に「宇佐八幡社」として変名した事から、その後下記の考察から1010年頃の時代の背景を受けて「弓矢の神」として徐々に凡そ50年くらいを掛けて各地の「未勘氏族」に信仰される様に成って行ったと観られます。

源経基  *  −961
源満仲 912 −997   
源頼信 968 −1048 
源頼義 988 −1075
源義家 1039−1104

そもそも全国の荘園を営む武士団を「源氏の名義貸し」の基に「組織集団化」させた「源満仲」は「住吉大社」を信心していた事が資料より判っていますので、この頃は「八幡社」はまだ清和源氏の守護神とは成っていません。勿論、「祖先神の神明社」も守護神とはしていないのです。
次ぎの代の三男の分家を興した「源頼信」の頃は「大神氏」から引き継いだ「姓氏」の土豪宇佐氏が神職を務めて膨大な社領を有していて、「自前の力」で運営されていてまだ「清和源氏の勢力」の範囲にはありませんでした。つまりまだこの頃は「源氏の守護神」とは成っていません。
次ぎの「源頼義」は「頼信」が1048没とすると60歳と成り、まだ「頼信の世」ですので1048年以前には「清和源氏の守護神」には成り得ていません。「頼信」は西ではなく東の関東に進出したのですから西にある「八幡社の勢力」との関わりは強く無かったのです。
また「頼信」は上記した「満仲的戦略」を父「満仲」から託されて踏襲し、本家の「兄の頼光」の援護を受けて関東の手前の「兄の頼光の所領」の伊豆を拠点に伸張してゆきますので、「八幡社」とは無関係でそもそも「住吉大社」を信望していたのです。
「満仲」の長男宗家の跡継ぎの「頼光」は父の「満仲的戦略」に乗らず摂関家の実力者の「藤原道長」に仕えて「祖先神-神明社」を信望しています。(勅命で神明社の再生を命じられている)
飛鳥の大神一族(下記神明社で論じる)が大和朝廷より筑前宇佐の地に赴任し定住し「神仏習合」を行い「八幡神の創出」を行ったされていて、後の平安中期頃に肥前に定着した大神一族は衰退しやや後に神職を土豪の宇佐氏に代わる事と成ります。
この時(980−1000年)、豊前、豊後、日向の「3国7郡640反」を社領とし、「18荘園」を保有していたのです。

ここ筑前の地を「源頼義」(短期間「源義家」も務める)が定住して「筑前の守護職」を務めています。
又、この影響で「頼義」は「義家元服 7歳」(1046年頃)の地を京の「石清水八幡神社」(3大八幡社の一つ)で行います。この事から”後に「八幡太郎」と呼称されるように成った”とされています。
頼信1048年没と義家1046年の元服が一致しますので、この時期より境に「住吉社」から「八幡社」に移行して行った事が判ります。
つまり、「住吉社」を信仰の神社とするならば、この時、「住吉社」で「義家7歳の元服」が行われても不思議はありません。
この「義家元服」の前に「肥前の役務」を務めていますので、この時に「住吉社」から「八幡社」の切り替えのチャンスがあった事に成ります。
恐らく「頼信」から「頼義」に「代代わり」を契機に全国的に「荘園の名義主(本領)」が拡がり「未勘氏族」を集結させ統率する為にも「八幡社」に切り替えた事が判ります。

この時期が「没後の1回忌の法事」等が済んだ「1050年」が「当時の社会習慣」から判断できます。
実は「神社の習慣」には先ず ”80日過ぎるまで関係者は神門に入っては成らないし、「3年-2年以内」の法事が過ぎるまで全ての「新しい行動」を「氏」として起こしては成らない” と云う「神社の仕来り」があります。現在でも神社に限らず「武家の伝統ある旧家」でもこれらの「仕来り」は護られています。

「1046年の義家元服」は15歳にせず7歳の早い「元服行事」を執り行い、それに限らず、「清和源氏の分家」としての「頼義」のその「意思表示」を「未勘氏族」に対しても「全国の武士団」に対しても「宣告の行事」として行ったのです。
「神社と皇族家の仕来り」により正式にはこの「元服の時」は「頼信」が未だ生きていた事から、それを見計らって行った「前倒しの祝辞」であり、故に丸3年後の「没後の1050年」が「河内源氏-八幡社」の「行動開始の年」に成ったと観られます。
その正式な宣告は「義家の元服」と「頼信の1周忌法事」の2つの行事を利用したと考えられます。
周囲の「未勘氏族と武家集団」は氏家制度の中では、この「古来からの仕来り」は充分に承知していて「暗黙の了解」があったと考えられます。(1周忌は3年であるが1年以内の前倒しは可能)

この宇佐神社の神領は「1410戸」と「18の荘園」と「640反の社領」と「24000の支社」であったとされ、この神域は1190年から1199年頃に掛けて殆ど周囲の土豪に一挙に侵食されて無く成っています。
この間、「社の運営」がままならず荒廃した時期が50年ほど続きそれを観て周囲の土豪から侵食され始めたのです。(社説)

とすると、1180年が頼政の「以仁王の乱」、1180年の「富士川の戦い」、1185年が「頼朝勝利」、1192年が「開幕」、で1199年−50年=1149年と成り、1050年から100年間が「河内源氏−八幡社−未勘氏族」の関係は隆盛期を先ず迎えていた事に成ります。
その後は1149年頃からは「後白河院の院政」、「荘園整理」、「皇室権力の強化」、「保元平治の乱」、「源氏の衰退」等が起こり、「源氏と未勘氏族」の著しい衰退と「組織の崩壊」が起こり始めた時期であります。
1050年はこの事から「河内源氏−八幡社-未勘氏族」の関係式は間違いない時期と成ります。

(その後、中世に掛けて黒田氏1601、細川氏1632、松平氏、徳川3代将軍家光に依って寄進があり、宇佐八幡社は3000石に再復活します。これを期に全国の主要八幡社は徳川幕府の再建策で復活する)

つまり、清和源氏の「荘園の本領の保護」(1050)があってこれらの神域を保っていて、義家の勢力が低下してそれが最終(1199)切れた為に侵食されて無くなるという現象が起こったのです。
(河内源氏滅亡-頼朝没1195年)

その後、再び中世から江戸の初期に掛けて上記した様に全国の多くの八幡社は「徳川幕府の梃入れ策」で地元の大名等の寄進で復活したのです。

これらを時系列的に観れば、「清和源氏」の「源頼義」が「筑前の守護職」になった事をきっかけに「18の荘園」の「名義貸し」の「本領」とその「他の神域の保護」をしたと観られます。
そして、この「頼義-義家」の没後の1140年頃からこれを守り切れなく成り、50年程度の間に徐々に侵食が起こり始め、遂には1190年頃から雪崩の様に1199年に掛けて「侵食崩壊」が起こった事に成ります。
従って、この経緯から、「弓矢の神の八幡社」と「清和源氏の守護神」の「2つの風説」は24000社を通じて一挙に広がり、”全国の「八幡社」が清和源氏の頼義等の勢力に依って護られている”と云う風説と成って1010年後の頃から起こった事に成ります。

(むしろ24000社の八幡社の支社を護る為に広めたと観られます。但し、24000社は室町期中期では調査からこの1/5程度であったと観られます。)

この説からすると、実質は「八幡神」は「清和源氏分家頼信系4代目義家一門」の「守護神」とされている事に成りますが、「皇族賜姓族青木氏」の「祖先神−神明社」と同族である上記11代の源氏も「皇族第6位皇子」の「臣下族」である事から、「祖先神の一族」である事には令の定めるところでは変わりは無いのです。
だから同じ下記参考の「守護神」の「令義」からすると彼等も「祖先神」と成る筈です。
この「令義と風説」との”ずれ”が起こったと考えられ、結局は清和源氏の「満仲の戦略的路線」を引き継いだ「頼信-頼義-義家」はむしろこれ(風説)を利用した事が考えられます。
この根拠は全国にその「荘園制」を利用して作った「未勘氏族の武装集団」を組織化した事で、その勢力をひとつに取りまとめる為にも、その「集団の守護神としての象徴」をこの「宇佐の八幡社」に求めたものと考えられます。
同時にこの「八幡社の持つ組織力」も手中に収めた勢力拡大を図ったと考えられます。
そうすると結局は、「八幡社」の「守護神」は「未勘氏族の集団の守護神」であって、清和源氏頼信系一門の「本来の守護神」では無かった事を経緯の時系列分析からそれを物語ります。
すべての八幡社に関するこれに伴う要素の組み合わせは符号一致します。
故に、この「象徴」として「祖先神-神明社」を使うことは、「他の同族の青木氏」や「他の源氏」や「特別賜姓族の青木氏」等に対して迷惑が掛り、そもそもその路線が異なる事から賛同を得られることは無く、神明社の圏域を全く戦略的に使えなかった事を意味します。
それは「八幡社」=「荘園制」であって、「神明社」≠「荘園制」である事を社会の中では成っていたし、賜姓族全ては「令慣習」に従っていた事を物語るものです。
これに逆らう事は既に「後三条天皇・白河天皇期に禁令」(1069-荘園整理令等 前段で論じた)が出ている事でもあり、それを無視して無理に推し進めて「荘園制で勢力拡大」を図る手前上も出来なかった事にも成ります。

「八幡社の守護神」=「未勘氏族の武装集団の守護神」→「清和源氏頼信系一門の名義上の守護神」

そもそも「満仲-頼信」はその守護神を本来あるべき「祖先神-神明社」では無く、まったく別の「住吉社]であったのですから、これは ”本来走るべき軌道外の事を追い求める癖” で頼信等一門の「家の伝統」とでも云えます。
これは当初、「満仲」は関西範囲の「未勘氏族の武装集団」の組織化を行った為に、その「象徴とする守護神」を地元の「住吉大社」に求め、且つその神域を利用する為にもこの戦略に求めたと考えられます。
そして、未だ拡大途中であった頼信の頃もこの「住吉大社」の「象徴戦略」を継承したと考えられます。
しかし、「肥前の赴任」の頃をきっかけに「荘園制の未勘氏族」の組織化が全国的に拡大し、それに伴い同じ路線を採る「頼義-義家」は 河内は基より相模守、伊予守、出羽守、下野守、陸奥守、越中守、筑前守等を務めた事から ”「全国的な八幡社の神域」に切れ変えた” と考えられます。

(頼信は常陸守、伊勢守、甲斐守、信濃守、美濃守、相模守を務めた。これ以外に国司、介、追捕使、押領使等の令外官等の為政権を持つ赴任先は多くある。 神明社から調べた赴任先は上記の赴任先以外にも添書などに見られる。 義家は圏域を拡げる為に主要国の美濃守の任官を強く望んだ経緯もある位である。それが荘園の名義主の領家・本領に成れる事に繋がる。)

(参考 2「祖先神(祖霊)」(そせんしん)「自分または氏族の神」であり、「自分の固有神」でもあり、「自分の集合」である「一族一門の子孫」(皇族・朝臣族)の「守護神」であり「人と氏の重複性も持つ神」)

しかし通説として「祖先神−八幡社」又は「八幡神−八幡社」の「守護神の形」が現実に出来上がっているのです。
この「八幡説」からすると「清和源氏分家頼信系義家」からの「八幡社」ですから「清和源氏宗家頼光系四家」は「八幡社」では無く「祖先神−神明社」と成る事に成ります。また他の源氏も「八幡社」ではない事に成ります。
これは文献から観れば、「清和源氏分家頼信系義家」からの「八幡太郎」の「義家」の呼称がある事から「八幡社」を「守護神」とした事は間違いない訳であり、更には「筑前赴任の経緯」「元服地の経緯」からも明確には「義家」からと成ります。
まして「八幡神」の「守護神」まで出来上がっています。
仮に「分家頼信系義家一門」(河内源氏)が「八幡神」だとすると、上記参考の一行の「皇族の令慣習」から明らかに ”第6位皇子の朝臣族の皇族でない”と云う事に成ります。
中には「河内源氏の守護神」と書き記した説もありますが、本来は賜姓族には(皇族系には)「上記の令慣習」に縛られて居ます。
且つ、身分は「天智期の正令」と「嵯峨期の詔勅」で決められていますから、ですからこの令外の皇族以外の「氏と姓」族は ”その氏の信じる考え方を守護神に求めて独自に創設する”と云う自由な仕来りです。
それと同扱いの説は「時代考証」がよく取れていない説と看做されます。(通説にはこれが多い)
例えば、藤原氏であれば「鎮守神」、「大蔵氏」であれば「産土神」の様に決める事が出来ますが、「第6位皇子の朝臣族」である限りでは「青木氏」と「特別賜姓族」と同様にその「由来経緯の考え方」から「祖先神」である事に成る筈です。
とすると、この「河内の八幡神」はこの「令慣習」を知らないで藤原氏等と同じ感覚で「八幡神」を創設した事を意味します。つまり、この事から,この「八幡神」のみならず「八幡社」は「後付け」であると云う事に成ります。
言い換えれば、少なくとも「跡付けの時期」までは、恐らくは義家前(1046年)までは、「世の中の常識」は本来は、又は形式上は「祖先神−神明社」であった事に成ります。

(現実は満仲-頼信は住吉大社ですので、知っていた上で敢えて逆らった事を意味します。そして、社会が「武家の棟梁の風潮」が高まるに連れて次第に「世の中の常識」は薄らぎ変化して「八幡社」へと変化して行ったし、むしろその風潮を「未勘氏族」も「頼義ー義家」も利用し「既成の事実」としてこの際敢えて振舞った事に成ります。)

(この義家の終末段階では「令慣習」等”どこ吹く風”で開き直った。−ここで白河院は耐えかねて{権謀術策}を労して潰しに懸った。− その後は源氏は潰れ支えが無くなった実質の荘園主の「未勘氏族」によって煽られて”一人歩きした経緯”と観られる。)

結局は荘園も無くなり、上記した状況は次の様な事に成ります。
A ”「八幡社」=「荘園制」であって、「神明社」≠「荘園制」”の関係式
B ”「八幡社」=「未勘氏族」であって、「神明社」=「賜姓族」の関係式
A→Bに戻った事に成ります。

他の「賜姓源氏」と「皇族源氏」も含めて賜姓・特別賜姓族は「祖先神−神明社」と成りますし、現実に資料よりその経緯を辿っています。
そうすると、「八幡神」等はこの決め手は「跡付けの時期」と云う事に成ります。
実は、この疑問から「経基王」は「皇族の範疇」に無かったとする最近の研究説が生まれているのです。「第6位皇子の臣下」では無かったと云う説です。
確かに上記した様に「清和天皇」の「第6位皇子」は「父親の貞純親王」で「経基王」はその孫であり「陽成天皇」の皇子との説もあるくらいですから、孫が臣下して賜姓族の源氏を名乗る事の事態が特異であり、ある事情から「貞純親王」の賜姓の権利を”子供に譲った”とする経緯と観られます。
それならば前提と成っているその皇孫が6人居て”「六孫王」と呼ばれた”とされていますが、この「六孫王」の呼称の記述は当時の何処の文献にも出て来ないのです。これも明らかに「未勘氏族」による「跡付け」です。
ここら辺が天皇や朝廷からその出自とそのあるべき行為の反意を咎められての疎んじられる根拠に成っていたとも考えられます。
兎角、何事も「白河院の横暴」と決め付けられていますが、もしそれであれば「賜姓青木氏」を潰す事にも走っている筈ですし、わざわざは「白河院」を含む「累代の天皇や朝廷」がこの時期に天皇家が「秀郷一門」に対しこの「賜姓青木氏」の跡目の「特別賜姓青木氏の行動」はそもそも無かった筈です。
現実に潰されていませんし、むしろ前段でもその活躍を期待され源平の時代に明確に果たしているし、下記に示すデータから「神明社建立」は更に進んでいるのです。つまり国策に対して大貢献しているのです。

「白河院」は「清和源氏分家頼信系義家一門」に対する「圧迫」と「同族で戦わせて」の巧妙で戦略的な「源氏潰しの策謀」をも実行しなかった筈です。

(注釈 世間の「白河院の悪名」の通説らしきものは、この「皇族としての道」を正そうとした「権謀術策の所以」であろうが「日本人の忌み嫌う所作の所以」から来ていると、源氏に対して青木氏から観るとこの様に考えられる。)
(義家10年の蟄居期間後、許して北面に任じるがこれは「院への世間の叱責」から逃れる一つの戦術であって、その立場において「同族の行状の悪さ」を理由に「掃討の命令」を下して「同族潰合」をさせた。
その原因は上記した様に「河内源氏の皇族にあるまじきの行動」にある。)

そもそも仮に「白河院の横暴」であるならば「清和源氏宗家頼光系四家」も他の「10代の源氏」も「潰される憂き目」にあっていた筈ですがそうではなかったのです。
それは何度も論じていますが、上記の「祖先神−神明社」の「皇族としての伝統」と「3つの発祥源の責務」を護っていたからです。
この上記の「八幡社」が象徴する様に義家以降の義家一門の行動が、上記の「祖先神−神明社」の「皇族としての伝統」と「3つの発祥源の責務」を護っていなかったからで全てこの一点に集約されているのです。
”皇族の者にあるまじき態度” ”荘園制で国策を乱した”と判断されて潰される羽目に陥ったものであり、”「白河院の横暴」”と「未勘氏族」が作り上げたむしろ策謀である事が伺えます。

(為政者がこの事を許せば皇族としての自らの立場をも人民から信用も脅かす事に成る事は必定です。)

この事から考えると”「義家の立場」を改善しよう”とした「後付けの意味合い」が判る気がします。
世間が思っている様に「清和源氏」だけが源氏であるとするならば「白河院の横暴」説もある面では理解も出来ますが、ここでもう一度確認していただきたい事は、源氏は上記他に10代に、賜姓青木氏は5代29氏に、特別賜姓族青木氏は116氏もあるのです。これ等は全てその立場を守ったのです。

「八幡社」や「八幡神」や「八幡太郎」や「八幡義家」は間違いなく「後付け」の「搾取偏纂の行為」と見做されます。では”誰がこの「後付け」の搾取を実行したのか、何故実行したのか”疑問です。
これ等は後の八幡社から発見された私氏資料の中の記述を正としての前提での全て説なのです。
この私氏資料が間違いとすれば前提は崩れて「祖先神−神明社」になる筈です。
ところが未だそこまでは研究は進んでいないので「八幡社説」が通説に成っているのです。
しかし、上記した様に漠然と判ります。
この論調は少なくとも清和源氏のみの事であり、皇族としての令慣習を無視していて、他の源氏の守護神とする根拠も全くありません。源氏は清和源氏のみとする酷い思い違いの風説のみであります。
「河内源氏の守護神」などの説は「皇族外の氏と姓の扱い」と同じにしていますので青木氏などが護ってきた「令慣習の存在」を無視していますので論外です。

そこで、更にこれらをデータ分析で以って検証を進めます。
そもそも「八幡社」の建立期の728年頃には未だ源氏は発祥していません。
1代目の52代嵯峨源氏発祥は809年頃以降であり、56代清和源氏の元祖の経基は858年頃 義家は7歳で「石清水神社」(八幡社3社)で元服したとして1046年頃以降に「八幡太郎義家」と成ったとされていますが、諸説があるので1050年頃が妥当な「呼称の開始年数」となりますと、322年後と成ります。
しかし、筆者はこの呼称は「跡付け」と観ていて、義家が「武家の棟梁」として祭り上げられた時期に「後付け」として呼称されたと観ています。
この「後付け」は「後三年の役」の後と観ていて現実には1087年頃では無いかとも考察しています。
「360年後の後付けの呼称」となると「八幡社」が「源氏の守護神」であるとする事に問題があります。
だから、「清和源氏宗家頼光系四家」とは「祖先神−神明社」として「3つの発祥源」として行動が違っているのです。
つまり「満仲-頼信」までの行動は範疇内ぎりぎりの行動と見做され、「義家」の父「頼義」の頃からはっきりと「道」が外れた事を意味し、遂には”皇族としての「令慣習の限界」を超えた”として朝廷から疎んじられる羽目に成って行ったと観られます。
もし仮に「祖先神−神明社」で無いとするならば、第3世族の孫、或いは第4世王外の者における令外慣習による賜姓と成ればこれは別に守護神を求めても問題は無い事に成ります。
「祖先神−神明社」は上記の経緯より「朝臣族」で「第6位皇子」による「臣下族」の「守護神」として「皇祖神」に代わってその務めを果たす「生活の神」「物造りの神」とされています。
この厳密な定義からすれば異なる事を意味します。
「弓矢の神」「八幡社」でその「守護神」は「八幡神」でも問題は無い事に成ります。
つまり、青木氏の「嵯峨期の詔勅」により発祥した「皇族青木氏」と同じ扱いと成り得ます。
上記に述べた様に所為を「清和天皇」の「第6位皇子」外の5人の源氏は守護神は「八幡社」で「八幡神」でも問題はない事に成ります。
但し、この5人外の他10代の源氏は「祖先神−神明社」の枠組みの中に伝統はあります。
「経基王」の末裔の「清和源氏宗家頼光系四家」と「分家頼親系の清和源氏」が先祖の伝統に従い「元来の皇族孫」としての「祖先神−神明社」を採用した事に成ります。
それは「八幡社」が4代目からの仕儀であった事から「元来の皇族孫」としての伝統を守った事に成ります。
「経基王」から観れば「義家」まで丁度100年位経過していますから「八幡社」が義家からとすると100年の期間がある為に「祖先神−神明社の守護神の伝統」は護られていた事に成りますし、継続されていた事にも成ります。
つまり「乱世の時代の背景」も受けての”「義家の末裔」の守護神であるかの様に成って行った”事に成ります。
武士である事は事実であるので「氏の守護神」であるかは別にして「弓矢の神」「八幡社」は必然的に「武士の守護神」である事には間違いはありません。
ただ ”義家から直ぐに「氏の守護神」の伝統を「八幡社」に変えたのか”は下記の「八幡社の建立状況」からやや先の「未勘氏族」によるものではないかと考えているのです。
恐らくは、この時期に「六孫王」の呼称も「未勘氏族」によって搾取され「八幡社」の記録に書き込んだと考えられます。
「朝廷の記録」にも無くこの「八幡社」に「六孫王」の呼称や「八幡神」等の「義家」に関する記述が遺されているのも不自然です。
後に「武家の棟梁」などと持て囃された時期に「弓矢の神」の「八幡社」を「荘園名義主」の「本領・義家」に宛がい、その根拠を「六孫王」として作り上げて祭り上げたと観られます。
これを正当化する為に「八幡社」に「氏資料」として恣意的に記録を残したもので、それを正しいとして根拠に論理立てたその立場にいた研究者が「八幡社」と「八幡神」と「六孫王」を装具立てたものと考えられ、そうでなければ360年のタイムラグは大き過ぎます。
「疎んじられた義家」を主とする「未勘氏族」に取って観れば、「名義借りの行く末」が利害に大きく関わってくる事から、有利に成る事柄を記録として「八幡社」に遺し後世の末裔に遺したのではないかと考えられます。
「未勘氏族」の圏域を周囲から護り誇る為にもこの「義家」を宛がい「八幡社」「八幡神」を装具立てたと見られます。
上記した様に ”「源氏義家系の「未勘氏族」の守護神の八幡社”であって、必ずしも”源氏そのものの守護神であると云う定義ではない”と云う事です。
結果、遺した「八幡社の氏資料」で後に”「源氏の守護神」と決め付けられてしまった”、又は”勢力保持の為にも決め付けられる事を一門は期待した” と云う経緯と観ています。

「八幡社」=源氏頼信系義家一門の守護神=「未勘氏族の守護神」=「武家の棟梁」=「八幡神」

これ等の経緯を念頭に次ぎの検証をお読みください。これ等の上記内容をデータで下記に論処します。

その八幡社の分布域を次ぎの7つに分けて観て見ます。
但し、これらは神明社と同じく室町中期までのものとして選別したものです。

八幡社の分布順位(地域分布)
1 関東域      7県−94−26.5%(全体比)−平均13/県  清和源氏勢力圏域
2 九州域      8県−70−19.8%(全体比)−平均 9/県  未勘氏族の圏域
3 関西域      6県−52−14.7%(全体比)−平均 7/県  源氏の出自元の圏域
4 中部域      8県−52−14.4%(全体比)−平均 7/県  清和源氏・秀郷一門圏域
5 東北北陸域   8県−38−10.7%(全体比)−平均 5/県  反河内源氏の圏域
6 中国域      5県−24− 7.9%(全体比)−平均 5/県  源氏空白域・讃岐藤氏の圏域
7 四国域      4県−21− 5.9%(全体比)−平均 5/県  讃岐藤氏の圏域・源氏空白域

「1の関東域」
・「1の関東域」の八幡社が最も多いのは、源頼信が平安期末期に信濃−伊豆を拠点に「京平氏」の平族が勢力を張っていた関東にその勢力圏を拡げた事が原因しています。
故に京平氏の平族との争いが上記の「源経基」から起ったのですが、だから他の域と比べて一番多い事に成ります。当然にこの事に依って「特別賜姓族」の「秀郷流青木氏」との摩擦も起る事が考えられますが、「分布の内容」から観てこの領域はある程度の「墨分け」をしていてた模様です。
その「墨分け」は次ぎの様に成っています。、
特に「武蔵、下野」域、次ぎに「上野、常陸」域、多い所で「神奈川、下総」域、「甲斐、駿河」域
と成っています。
これは一見すると、「秀郷一門の圏域の強い地域の強弱」、逆に云えば「清和源氏の頼信系の所縁の地域の大小」に依って分布している傾向を持っている様に観えます。
ところがむしろ「秀郷圏」−「頼信圏」の「圏域の分布」と云うよりは、その「圏域の境」が重複している処を観ると、これは「神明社+春日社」−「八幡社」の「社領域の分布」であろうと考えるのが妥当と観られます。
そもそも神社を考察する場合は、「圏域」のみならず「荘園と社領」の関係を考える必要が有ります。
この平安期から室町期には「荘園制の影響」を大きく受けて「社領」が大きく認められていてこの影響を見逃す訳には行きません。
どちらかと云うと、その「社領」を保護する土豪の「未勘氏族」か「氏子衆団」に依ってその圏域は守られていた時代です。
つまり、「荘園−本所−未勘氏族−「神社」−社領」の緊密な相互関係を保持していてこれをばらばらにして無視して論じる事は出来ないのです。中でも「神明社」と「八幡社」に限っては「皇祖神」に結び付く「祖先神の神社」であり、他社と異なり「荘園の名義主」(本所・本領・領家)とも結び付く「社会構造」であったのです。
当初は「荘園の名義主」と成った源氏は幾つかの荘園を固めその一つの大きい領域は1国から2国になる程の大きさを持ち、その圏域の領域に幾つかの「八幡社」を建立して「圏域の誇示」を図ったのです。
その「八幡社」に広大な社領を与えて「未勘氏族」に護らせたのです。

(本論末尾のデータに記載してる様に「熊野古道」の世界遺産の「熊野神社」は和歌山県の殆どの主な領域を社領[海南市から熊野市]としていた事でも判ります。研究室の「鈴木氏と青木氏の関係論文」でも記載)

しかし、「実質荘園主」の「未勘氏族の勃興」に左右され、その後は「未勘氏族」の大小の「氏子衆団」に取って代わったものまで生まれたのです。
この「社領」が縮小される江戸期から禁止される明治初期の「寺社領上知令」までは大きな力を持っていたのです。
先ずその経緯は、平安期は主に「清和源氏の力」に依って建立され、末期以降頃は「荘園制」を利用して「未勘氏族」に「源氏の圏域」を誇示させ、そこを「戦略拠点」を主眼としてそれを護る為にも「八幡社」を建立させたのでは無いかと考えられます。
そこで関東域の「94の八幡社」を分類すると、これを「家紋分析」や「神紋分析」や「未勘士族の家紋分類」や「氏子集団の神紋系家紋」から総合的に分析すると次ぎの様に成ります。
先ず「家紋分析」から観ると、平安中期から「源義家」が天皇から疎んじられた時期までの平安末期直前までは「源氏力」に依って建立され、源氏衰退と滅亡の後の鎌倉期以降はこの力の持った「未勘氏族と氏子衆団」に依って建立が進められて行った事が良く判ります。

(源義家の主な朝廷の処罰:「義家に対して関係族と兵の入京禁止令」「義家への土地の全面寄進禁止」等 殆ど身動きが取れない令で10年間押さえ込まれるが、その後、「院政の横槍」で一時許されるが「同族争い」を仕向けられ衰退する)

「未勘氏族」と「氏子衆団」の形態は、当初は「実質荘園主」の「未勘氏族」で建立されたと観られ、時代が下克上・戦国時代の室町期に入ると互いに「未勘氏族」の潰しあいが起こり細分化した結果、大小の生き残りの「未勘氏族」や土豪達の「氏子衆団」がこれを護ると云う形に変化して行きました。

(参考 名義荘園主(本所・本領・領家):源氏などの名家に名義を借りて「開拓荘園主」に成ってもらい名義料を支払い見返りに名家の名籍を名乗る事を許され武士団を形成する方式でその基と成る名義上の荘園所有者と成って保護する。実質荘園主(庄司):実際に開拓した土地の豪族で名義を借りてその名籍の氏を名乗る事を許された武士団であり、これを「名籍族」と分けて「未勘氏族」(庄司等)と呼ばれる。「氏子衆団」:これ等の「未勘氏族」が戦国に依って細分化して、その結果、再編成が起こりその荘園内に建立された各社の「氏子衆」の集団が集まり「氏子衆団」を形成して「社領の圏域」と「身の安全」を護った。室町期末期では「未勘氏族」が「氏子衆団」と「戦国豪族」との入れ替えが起こった。)

「圏域の分布」<「社領の分布」⇒「荘園制」
「名義荘園主」⇒「未勘氏族」⇒「氏子衆団」
「平安期−源氏建立」⇒「鎌倉期−未勘氏族」⇒「室町期−氏子衆団」

これ等(分布域や建立者)の事は「未勘氏族の家紋」や「八幡社の神紋」に依ってその変化が良く判ります。「八幡社」神紋は「皇族賜姓族」である為には本来は「笹竜胆紋」と成りますが、源氏自ら建立したとなれば「神紋」は「笹竜胆紋」ですが、そもそもその「神紋」とは必ずしも「寺の紋」では無く主に建立した氏(氏上)の家紋を「神紋」とする傾向がある為に、その「家紋・神紋」の出自分析をすれば「分布域・土地柄・変化・経緯」が判別できるのです。
「家紋・神紋の分析」から観ると、先ず検証できる事は秀郷一門(春日社・神明社)と大きな争いに成らない様にその建立地域は分布していて見事であります。恐らくは秀郷一門との関係もありますが、殆どは”「未勘氏族」が建立して管理していた事から併設を避けた事によるものと考えられ、この傾向はその「神紋」が具に物語ります。「笹竜胆紋の神紋」は極めて稀であります。
ところが、この判別で解釈の判断が付き難い地域があるのですが、秀郷圏の中に居る「土豪」つまりは「未勘氏族・氏子衆団・武蔵7党等」の土地柄であって、秀郷一門としても血縁関係等もありなかなか文句を付けるところまでには成らなかった事が観えて来ます。
(秀郷一門の中ではこれ等との問題の関係調整役は主に進藤氏の役目柄である)
次ぎに「笹竜胆紋」を神紋としているのは平安期のものだけで室町期には無い事ですが、中には疑問のものもあり鎌倉期と室町期の建立で有りながら「笹竜胆紋」を神紋としている「八幡社」があります。
「地理的な条件」」から観て荘園制に絡む「未勘氏族」による建立である事は確実であるのですが、果たして神紋を正当に使用しているかは疑問で、江戸期の神社間の競争激化で搾取変更したのではないかと考えられます。
そもそも関東域の秀郷一門の圏域の中では故意に変更する事はいくら名義を借りているとしても「未勘氏族」でも不可能であった筈です。
「源氏自力建立」(未勘氏に命じた社も含む)と見なされる神紋を含む「笹竜胆紋」の「八幡社」は全体の3割弱程度で頼信系源氏が根拠地としていた「武蔵の北東一部」と「甲斐や駿河」や「神奈川西域」と「下総の一部」(神紋の疑問社は除く)に限定して観られます。

もとよりこの様な背景と経緯の中で、この秀郷一門は元来の彼等の「人生訓」に対して観ても、この事柄に於いても「柔軟性を保有する氏」で有った様で、彼等の圏域の中でも「弓矢の神」の「八幡社」に対して頑なに拒んだ姿勢を示さなかった模様です。
当然に「弓矢」と成れば秀郷一門の「護衛軍団の青木氏」(武家)との摩擦とも成りますし、一方では「特別賜姓族」としての「神明社建立の責務」をも負っているのですから少なくとも放置出来るレベルではない筈で利害関係は有った筈です。
多くの一門との軋轢も生まれていた事が覗えます。しかも、最も多い94もの「八幡社」をも建立しているのです。下記のデータがそれを物語ります。

総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
2.7倍    4.6     1.8

関東域は「八幡社94+神明社115」=209   

関東全域 八幡社 7県− 94−26.5%(全体比)−平均13/県
関東全域 神明社 7県−115−20.3%(全体比)−平均16/県 本家域

八幡社 東京29 千葉23 栃木11 神奈川12 埼玉9 茨城7 群馬3
神明社 東京30 千葉22 栃木14 神奈川11 埼玉15 茨城9 群馬14
 
その勢いとしては、「神明社」は115社−20.3%(全国比)です。「八幡社」も「神明社」共に最高値です。この数字から観ても拒まなかった事や受け入れに柔軟であった事が証明出来ます。
これは圏域内をうまく収める為に一門とも多少の血縁性のある「未勘氏族」と「進藤氏」と「青木氏」との充分な調整が取れていたと考えられます。

(進藤氏は未勘氏族に限らず細部の土豪の領域まで何らかの血縁性を張り巡らしていた事が進藤氏の系譜添書に詳細に出ています。それが原因してか自らの跡目は連続して一門からの養子跡目と成っているのです。それだけ与えられた一門の「氏としての調整役」の役目を全うした事を物語ります。その添書の中に書かれている血縁氏と姓の地理的な分布を観ると、「坂東八平氏」や「武蔵7党」や「関東屋形族]等の大小の土豪集団等との関係を持っていて「関東域」にかなり集中していますが、北の陸奥から西の近江までに及んでいます。これほどの事は他の主要5氏一門の中には見られないのです。このデータの八幡社の所以は進藤氏の功績に依って成されたものです。これが秀郷一門の長く生き残れた基盤に成っていたと考えられます。その役目の為に自らの氏は可也綻びの多い系譜と成っているのが「氏の定め」の物悲しさを誘う。対比して上記の八幡社に代表される「河内源氏の生き様」は同じ賜姓族の青木氏から観ると賛成できないのです。故に敢えてここに進藤氏の生き様を記す。)

この”柔軟さと云うか戦略的と云うか”のこの秀郷一門の「生き様」が「生き残り」を果した要因にも成っているのですが、平安末期に鎌倉幕府が興り秀郷一門は失職しながらも室町期には勢力を盛り返し関東一円の大豪族と成り得ているのです。
この根幹を見失わずに”柔軟さと云うか戦略的と云うか”の生き様があっての事であります。このデータが河内源氏の八幡社に対比してこれを顕著に表しています。
因みにその勢いとしては、八幡社の94に付いては、平均13/県と云う事は郡には2社/郡の割合で建立している事になります。
上記した印象からすると、「弓矢の神・八幡社」としては郡に1社有り無しの程度とも思えますが多く建てている方です。
「弓矢の神・八幡社」は「弓矢の神」である限りは”多くて良い”と言う訳ではありません。これは取り敢えず”「墨分け」はしている”と云っても普通の感覚では秀郷一門側としては無視出来ない数の建立と成ります。
当然にこれに対して、「神明社」115で平均16/県で郡では3/郡の割合と成ると郡に5社とも成れば1社/村となり、ここに「八幡社」と「春日社」が加わるのですから3〜4社/村に成ります。

これでは村のいたる所に神社があった事に成ります。「八幡社/神明社」の信者獲得合戦も起こり得る数字と成りますが、この数字は信心とは別に当然に上記した「戦略的意味合い」が色濃く出ていた事が挙げられます。
平安期では2〜1/社と成り妥当とも思える状況であったと観られ、この傾向は鎌倉期から室町期に掛けて「戦乱の世」に成るに連れて「未勘氏族・氏子衆団」に依って建立されて次第に増えて行った事に成ります。

「生活の神」「物造りの神」の「神明社」はいざ知らず「民」に取っては「弓矢の神」の「八幡社」は直接は無縁であります。
この事が、”「八幡社/神明社」の争い事を避けられていた”と考えられ「神明社」に匹敵する「八幡社」が建てられた事に成ります。
平安期末期から室町期中期に掛けては「八幡社」は「民」に取っては「弓矢の神」としてだけでは無く、関東域に於いては「清和源氏の勢力拡大圏」である事から、特別に「神明社」の「祖先神」としての「補助的な信仰対象」と成り得ていた可能性があります。
”それは何故なのか”の疑問ですが、特に前段で論じた”「民の農兵制度」が「補助的な信仰対象」と成り得ていた”と考えられます。
平安期末期に於いては「末端兵」は「農兵制度」に依って調達され一つの「徴兵の慣習システム」と成っていたのですから、「八幡社の建立」は「源氏力」(総合的な意)に依って成され、「民」に取っても充分に「補助的な信仰対象」と成り得ていたと考えられます。
しかし、鎌倉期に入り「立役者の源氏」が滅亡しながらも、「武家の世」と成り皮肉にも「武家」の「平家や源氏」が全て衰退し「未勘氏族・氏子衆団」を除く「八幡社建立」の主は無くなった事に成ります。
又、民の「農兵制度」も「武家」の世と成った事から「農兵」が「兵」として身を興す傾向が生まれます。
そしてそれは遂には「下克上」のところまでこれまた到達する変化を起したのですから、「補助的な信仰対象」は「2分化」して行く事に成ります。

「八幡社」は次ぎの様な2分化を起こします。
1 「平安期中期から末期の変化」
「高位の武家」の「守護神・弓矢の神」 →「源氏の力」

2 「鎌倉期以降の変化」
「武家」の「弓矢の神」(侍としての守護神) →「未勘氏族の力」
「農兵と兵」の「弓矢の神」(戦いから「身の安全を護る神」) →「氏子衆団の力」

以上の2分化を起したのです。

平安期の「建立の目的」と鎌倉期−室町期の「建立の目的」とは異なり、前者は「源氏族」が、後者は「未勘氏族」が主体と成って建立していった事に成ります。
関東域ではこの二つの「2分化の胎動」が起ったのです。
確定は困難ですが、関東の94の「八幡社」の内、初期の大半は「清和源氏の建立」(河内源氏)と見なされます。未だ「未勘氏族」が建立を充分に成す力と環境は、勃興する氏の家紋分析から観て充分に無かったと観られ、その力のある「未勘氏族」は数は多くなかったのです
主に鎌倉期以降に世の乱れ行く状況に沿って「未勘氏族」が台頭し依って建立(神明社合祀・守護神替え)が進み、再び「農兵制度」が更に活発に成り故に円滑に受け入れられたのです。
特に秀郷一門の勢力圏の関東に於いては”顕著に成り得ていた”と云う事が云えます。
それは各地に「青木村」を形成しての環境下です。つまり「青木氏-進藤氏」の調整下でその「受け入れ状態」が「4つの青木氏」の「共存共生」の「生き様」の土壌がこのデータの状態94を成し得たのです。

「青木氏-進藤氏の調整」+「受け入れ状態の環境下」→「八幡社94の建立]
豊臣秀吉がこの「農兵制度」を禁止するまでは充分にこの環境下にあったと考えられます。

(「農兵制度」に付いて  「武家」とは「公家」に対しての身分呼称で、江戸期の「武家」の総称とは異なる。平安期は「武士」(侍)と「兵」の身分階級があった。
「武士」は「組織の上下」を持つが、「兵」は「職能集団」で「組織の上下」の関係を持たない。
鎌倉期以降はこれが無くなった。 関東域は平安期は藤原秀郷と清和源氏頼信系の勢力圏域で、「たいら族」は後退し美濃域に引き下がる 前論記述)

「2の九州域」
・「2の九州域」は「基八幡社の発祥地」でもあり北九州が殆どで、福岡の総社宇佐八幡社の圏域から分社が拡がったので多く成っているのです。この地域は「民族氏」の「産土神」の地域柄でそもそも「神明社」の少ないところでもありますが、「3国地域」の「神明社」が「一社分布」と成っていますのでその争い(産土神と祖先神)は無かったと観られます。
ただ源義家は筑前に赴任していますので「八幡太郎」の呼称もありますが、この筑前(福岡)の数字を観ても全体の6割近い八幡社が建立されています。明らかにこの影響を受けての事でありますが、この地域は関東域のこの時代の影響を全て受けた複雑な「経緯と背景」と異なり比較的簡単な「経緯と背景」を持っている事が判ります。
先ずは何と云っても大蔵氏等の絶対的な「民族氏の圏域」であり、前段で論じて来た様に一言で云えば「遠い朝廷」「錦の御旗」「太宰府」の真にその地域です。
丁度、有名な大蔵氏の「春實」から「種材−種輔」まで著しい勢力拡大を九州域に図った丁度その時期でもあります。
この場所、この時期、この氏、の所に「源氏自力」による「八幡社の建立」は難しい筈です。その中に70もの八幡社は何故かの疑問であります。そして、この時期に問題の人物の八幡太郎源の義家が筑前に赴任しているのです。何か匂うものがあります。
九州域は、”「関東域の藤原秀郷の氏」と「清和源氏」の掛け合い”があった様に、同じく”「大蔵氏」と「清和源氏」のこの二つの氏の掛け合い”に成ります。この面では極めて類似しています。
更に、藤原氏の「春日社の氏神」があったと同じくここには「宗像神社」や「阿蘇神社」等の「氏子衆団」の豪族がひしめく地域でもあります。藤原秀郷一門主要5氏が鎌倉期以降にやや遅れて大蔵氏と血縁して勢力拡大をして九州に食い込んで来た時期でもあります。
ただ違う点は下記の通りで「神明社の数」が絶対的に異なる事です。(詳細は下記の神明社で論じる)
それは「関東域の経緯と背景」から観て「八幡社に関わる事件性」や「源氏に対する事件性」がここにも存在し、且つ、この地域は奈良期の早い時期からの「神明社の神域」(詳細下記)であった事が挙げられます。
1と2の地域を比較して観ると次の様に成ります。

2の九州域は「八幡社70+神明社13」=83

総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
1.1倍    0.5     1.3

関東全域 八幡社 7県− 94−26.5%(全体比)−平均13/県
関東全域 神明社 7県−115−20.3%(全体比)−平均16/県 本家域

九州全域 八幡社 8県− 70−19.8%(全体比)−平均 9/県 沖縄含み
九州全域 神明社 7県− 13− 0.2%(全体比)−平均 2/県 西海道

八幡社 福岡39 鹿児島9 大分7 宮崎6 長崎3 熊本3 佐賀2 沖縄1
神明社 福岡9  鹿児島3 大分1 宮崎4 長崎3 熊本1 佐賀1 沖縄1
  
九州域の源氏中でも清和源氏のそのものの勢力がこの地域に大きく及んだ事は「義家と足利氏」の巻き返しの基盤地域と成った地域でありますし、返して云えばその基盤は「荘園制の名義主(本領)」の土地柄でもあります。つまり清和源氏の「未勘氏族」の地域でもあります。
この「未勘氏族」の数を示すデータでもあります。
1番目の関東域は「清和源氏の数」であります。
2番目の九州域は「未勘氏族の数」と成ります。
これは「清和源氏」は西に大きく「荘園名義主」を伸ばした事を示していて、当然に「未勘氏族」の多い事に成ります。関東の足利氏が南北朝の時に一度北九州に敗退して退きますが、この時の「未勘氏族」の勢力に依って勢力を持ち返し再び勝利して幕府を開きます。
この事からも「未勘氏族」の地域である事は理解できます。
筆者はこの地域の「未勘氏族」が”後の「義家の偶像」を作り上げた”と判断していて、上記した様に彼等の守護神の「八幡社」を少し後に「義家の八幡社」と装具立てたのでは無いかと観て居ます。
清和源氏の足利氏が返り咲く根拠もこの「義家の八幡社」の下に「未勘氏族」を参集させたと観ています。兵騎を参集させるには呼びかけだけでは兵騎は集まらない訳で何かの「共通する旗」の下に参集するのはこの「世の常道」であり「戦いの基本戦術」であります。
従って”清和源氏そのものが建立した”と云うよりは「清和源氏の未勘氏族」が自らの集団の纏まりを「八幡社」に求め、その「八幡社」を「各未勘氏族の圏域」に建立して行ったと考えられます。
ここが関東域と違う所ではないかと考えられます。
この風潮が源氏の中でも最大勢力を誇った清和源氏の「分家頼信系義家一門」の「守護神」と思われて行った原因であると考えられます。むしろ”思わせて行った”と考えるべきです。
「源氏の棟梁・武家の棟梁」と持て囃された風潮の所以の一物です。
対比して「神明社」がこの地域に極めて少ないのもこの大きな風潮の中に入り込めなかった原因であろう事が判ります。
何はともあれこの地は「八幡社」にしても「基八幡社」の北九州宇佐神宮大社の地域、「神明社」にしても日向の「天岩戸神社・高千穂神社」の基社であり何れも「総社」であります。
この事から日向が神明社の基社でありながらも建立は殆ど無いわけであり、「八幡社の総社」であるから建立は多いと云う訳だけではない事が判ります。
それを立て様とした必要とした者の数である事に成ります。
つまりその立場に居たのが「未勘氏族」であります。
しかしながらこの九州行きに於いて「総社」である「神明社」は風潮にならず、総社の「八幡社」が風潮に成った如何は、その違いは”「八幡社」と「神明社」の「未勘氏族」の有無の違い”にあったからです。
言い換えれば「未勘氏族」を造らなかった賜姓族と、「未勘氏族」を造った賜姓族の違いであり、皇族としての「立場とその役目」を護ったかどうかの違いであり、「旗頭」に成ったかどうかの違いであり、究極は氏の「生き様」の如何に拠ります。
このデータはこの事を顕著に証明しているデータであると観ているのです。
その意味でこの九州域は八幡社の「持つ意味」や「全容」や「有り様」を示す地域なのです。

「3の関西域」
・「3の関西域」は11代の源氏の「出自元の集積する地域」でありますが、「神明社」との建立地の混合はありません。”「天皇家の神域」を「弓矢の神」を主神としている為に避けた”とも考えられ、「神明社−八幡社」の争いを避けたとも考えられます。「同族としての争い」を避ける事を一応は配慮していたと考えられます。もしこの争いが起る事も考えられますが、最悪の信義は護った事を意味します。
そもそもこの地域は860年の「石清水八幡社」の関係八幡社が殆どで比較的古い建立と成っていますので、その「八幡社の存在意義の有様」を検証するのに重要な地域です。
下記のデーターでも判る様に思いの外少ない事が判ります。
関西域の京都の「石清水八幡社」が九州の宇佐の「宇佐八幡社」より格上であるとする説もあり、八幡社には三大八幡社のもう一つの「鶴岡八幡社」がありますが、「鶴岡八幡社」は時代性と建立の由来から別にして内容を精査するとどうも「2局の系統」に八幡社は判別されると考えられます。
それは上記した「宇佐八幡社」を中心とする「未勘氏族の八幡社」系列と、「石清水八幡社」の「河内源氏一門の八幡社」系列とに分類出来るのです。だからこの「二つの八幡社の格上論」が出てくるのです。
確かに時代性から云って宇佐八幡社が僅かに先であり、それを都の京に分霊して天皇家が祭祀しやすくした事は経緯は否めません。
「清和天皇が「石清水八幡社」を建立したのを慌てて宇佐の八幡社は「ヤハタ神社」から「宇佐八幡宮」と名称を変更したのもこの「系統の本筋」を争っていたからで、宇佐は朝廷が飛鳥からわざわざ赴任させた「神職官僚の大神氏」と後に引き継いだ「土豪の宇佐氏」の氏神的扱いの「ヤハタ神社」で、一方は「石清水八幡社(ハチマンシャ)」は「天皇家の国家鎮魂の祭神」と定められ、その八幡社から下記に示す「関西域の分霊社」が天皇家に依って増設されて行った為に系統の本筋が関西域となる経緯は当然の事であります。
この事が後に「国家鎮魂」から「弓矢の神」へと、「天皇家の守護神」であったものが「河内源氏の守護神」と観られる様に、或いは利用される様に成っていた起点に成るのです。
そしてその経緯の副産物が「鶴岡八幡宮」であり、鎌倉期以降の「未勘氏族」と云うよりは「武士の神」(武神)としての守護神の八幡社とはっきりと変化して行った象徴の八幡社と考えられるのです。

この3大八幡社は次ぎの変化を起こします。
「石清水八幡社」→「国家鎮魂の八幡社」→「天皇家の守護神」⇒「河内源氏の守護神」・「弓矢の守護神」

「宇佐八幡社」→「氏神の八幡社」→「未勘氏族の守護神」⇒「九州武士の守護神」・「「弓矢の守護神」

「鶴岡八幡社」→「弓矢の八幡社」→「河内源氏の守護神」⇒「関東武士の守護神」」・「弓矢の守護神」

(注:「氏神」は下記に定義する枝葉の広い関係族の氏姓の護り本尊の意味)

源氏滅亡の鎌倉期直前からこの3つの八幡社の系列は「未勘氏族の弓矢の八幡社」で結びついて行くのです。(地域に依っては「弓矢の八幡社」→「家内安全の守護神」と変化を遂げます。)

この関西域の八幡社は「石清水八幡社系列」である事は勿論ですが、「河内源氏」と関わっている事から「弓矢の八幡社」と考えられがちですが、実は上記で論じた様に歴史的に860年を起点に祭祀されていますので、「八幡社の本来の初期の守護神の形(存在意義)」が判るのです。
「神明社」の「豊受・五穀豊穣」(生活の神・物造りの神)の守護神」であった様に、当初は「八幡社」はそれは「国家鎮魂の守護神」であったのです。
それが時代背景から八幡社は変化して行った事なのです。
「国家鎮魂」は、飛鳥の「ヤマト王権」の日本の国を始めて一応の「5族連合」の「統一政権」を造ったのは「応仁大王」で、「天皇制」から観ては初代の「国家生誕の統一国家の王」を天皇として定めそれを祭祀する社である事から「国家鎮魂の守護神」と崇められたのです。
平安期に京に都を置く事により「石清水八幡社」は「国家鎮魂の守護神」として累代の天皇から天皇家が祭祀する守護神として扱われてきたのです。

3の関西域  「八幡社52+神明社25」=77

 総合倍率   神明社倍率  八幡社倍率
基準 1-77  基準 1-25  基準 1-52

この地域の「八幡社」と「神明社」のを比較してみると次ぎの様に成ります。
関西域  八幡社  7県−52−14.7%(全体比)−平均7/県    源氏の出自元の集積圏域
関西域  神明社  7県−25− 4.4%(全体比)−平均4/県

この「八幡社の数」は1或いは2の地域と異なり「未勘氏族」ではなく真に「源氏の力」(主に河内源氏)による建立と観られ、その「源氏の定住地」に建立されている事であり、「戦略的要素」のある「八幡社建立地」は少ない事が挙げられ比較的に平地に建立されているものが多いのです。
しかし、上記した11代の源氏が各自建立したと云うよりは次ぎの県別で観ると殆どは清和源氏の「摂津地域」、「河内地域」、「大和地域」、に主に建立されているのです。

八幡社  兵庫24 大阪11 和歌山8 京都4 奈良2 滋賀2 三重1
神明社  兵庫11 大阪1  和歌山2 京都2 奈良1 滋賀3 三重5
(大和は和歌山と奈良に跨る地域)

この事から観ると清和源氏外の源氏10家は「弓矢の八幡社」に深く関わっていなかった事がこれでも判ります。「武家」であっても弓矢に直接関わらない「武家貴族」であった事が伺えます。
10代の源氏の「武家貴族」はそもそも「皇祖神」に繋がる「祖先神−神明社」であって「武家貴族」である事から積極的に「弓矢の八幡社」の方に帰依し変更する根拠は無い筈です。

しかし滋賀2は佐々木氏系宇多源氏 三重1は北畠氏系村上源氏、京都4は「石清水八幡宮」に代表する様に上記した背景から一門に依って源平期に「義家系の一門」に依ってその勢力誇示から建立されたものと観られます。(近江には賜姓佐々木氏がある)
そうすると京都4と滋賀2の数は、次ぎの様な事を物語っています。
上記した八幡社の定義として、”「源氏義家系の未勘氏族の守護神の八幡社」”であって、必ずしも”源氏そのものの「守護神」であると云う定義ではない”と云う事です。
結果、「未勘氏族」が遺した「八幡社の氏資料」で、後に”「源氏の守護神」と決め付けられてしまった”、又は”勢力保持の為にも決め付けられる事を一門は期待し利用した”と云う経緯”とすると、上記した様に此処でも矢張り次ぎの関係式が成り立ちます。

「八幡社」=「源氏頼信系義家一門の守護神」=「未勘氏族の守護神」=「武家の棟梁」=「八幡神」

この京都4・滋賀2には主な「未勘氏族」が存在しない事から「義家一門」が建立して”利用した”を物語る数字です。但し、自分の意思で建立したかは検証を要する事と成ります。
そこで、先ず歴史的に観て、殆どが「清和天皇」が860年に建立したとされる「石清水八幡社」の関連社(離宮八幡社等)の由来のある八幡社ある事です。
中でも、「河内源氏」の問題の「源頼義」が「後冷泉天皇」(1045-1068)からの勅命にて「石清水八幡社」からの霊験を自邸に移して建立したとされる「若宮八幡社」があり、又、同じくこれを河内に勧請した「壺井八幡社」があります。
この記録の通りこの頃(860年〜1000年-1045)は未だ「天皇の勅命」による建立であって、その目的は何れも「国家鎮魂の為」とする記録がありその「存在意義」であって、それを勅命により「河内源氏」が積極的に建立した事がこの「京都4と滋賀2の八幡社」である事が判明するのです。
実は諸々の資料から1010−1050年の間の50年程度には、「天皇家の勅命」とは別に社会にはこの経緯から如何にも「河内源氏の守護神」であるかの様な漸次の風評期間があった事が確認できるのです。
結局は、1000年直後までは「弓矢の神の八幡社」では無く「国家鎮魂」の「天皇家の祭祀神」として存在していたのです。
それまでは「弓矢の神」の存在意義は全く無く、その後の上記した様に”この経緯を利用してこれを発展させた義家”の行為と見做されるのです。そして、それに大きく関わったのが河内源氏の「頼義-義家」であった事に成ります。
この「経緯と記録」からも明確で、「勅命」に依って建立された「石清水八幡社関連の八幡社」でそれを「清和源氏」(河内源氏)が「勅命」を受けてその守護地に建立したものが殆どなのです。

「摂津地域」と「大和地域」は「宗家頼光一門」と「分家頼親一門」が「勅命」で「国家鎮魂」の目的で建立したもので「氏の守護神」とした建立では無かった事がこの関西域の考察で良く判ります。

そうするとこの「八幡社の環境下」の中で果たして「神明社」がどの様な事に成っていたのか気に成ります。恐らく建立には何らかの関係があった事が考えられます。つまり直接八幡社として新規に建立したのかどうかの検証です。
「神明社」に付いて三重5は「皇祖神」の地元であり前記「19の神明社」を建立した経緯からこの数字は納得できるものですが、しかし、兵庫11は「近江青木氏」が建立したとするには問題があります。
何故ならばそれは”神明社を建立するには近江青木氏の経緯”に問題があるのです。
そもそも平安初期に「近江青木氏」は近江にて「近江佐々木氏」やその系列の「佐々木氏系青木氏」との同地域内での「勢力争い」のような事が起こり、その為それを避ける目的で近江青木氏は一時滋賀に移動していて、後に近江に戻ると云う経緯があるのです。その後、「摂津源氏」の保護の下に摂津に移動定住します。この背景があり「源平の戦い」で合力して潰され、その後、美濃に逃亡し同族の「美濃青木氏」と共に「富士川の激戦」で敗退して滅亡し一部末裔が攝津に逃げ延びた経緯を持っています。

この様に源氏と共に最も早く滅亡に近い衰退を起した事から、この兵庫11を興す勢力は無かったと考えられます。
これは「摂津源氏」の「清和源氏の宗家頼光系四家」により建立されたか、或いは「近江佐々木氏」かその「佐々木氏系青木氏」かが何らかの事由(勅命)で建立した可能性が高いのです。そしてその神社は「神明社」の可能性が高いのです。
現在ではその判別は、社遺が古すぎる事から「初期の創健者」が不明な神明社が多く困難なのですが、ただ「八幡社」としては共に頼光系宗家筋が建立していた事を示すデーターが6〜8の八幡社と成ります。
実はこれ等は記録があるもので観ると、極めて古く750〜1025年までのもので、「創建」と云うよりは「朝廷の命」により「管理・維持・建て直し」を命じられたものが多いのです。
その多くは「摂津源氏」の「荘園」、或いは「領地」の中に存在するものが多いのです。

前段で論じた大化改新の「19の神明社」と共に、
奈良期から平安初期に建立された[自然神の祭祀社屋」や、「産土神の祭祀社屋」や、日本書紀にも書かれている「風神雷神の祭祀社屋」を、平安期初期から平安中期には「神明社」に変換し、その後の平安末期から平安後期には更に神明社から「国家鎮魂の八幡社」に変換させる事の勅命がこの2つの氏の何れかに下されそれを護ったものと観られます。
これは時代背景が大きく左右したと考えられますが、記録が一部を除いて完全に消滅しているのです。
ただ古くて幾つかの遍歴を遂げている事が「断片的に遺されている社資料」などや「伝統行事の内容の検証」など「地域内の他の社殿」とその「社殿の配置関係」を対比考察すると判る範囲です。
この平安期には社殿の建立は全て中国から伝来した「方位学や陰陽学」等を使って建立されているのです。ある程度の条理を以って無秩序には建立されていないのです。それから観ると、「地域内の他の社殿」とその「社殿の配置関係」は重要な要素なのです。
記録が消失していると観られる他の社殿にはこの「方位学や陰陽学」の何がしかの関係がある事が伺えるのです。
そうすると、次ぎの遍歴がある事が判ります。
「祭祀社屋から神明社」に
「祭祀社屋から八幡社」に
「神明社から八幡社」に、
この「3つのパターン」がある事が判ります。
しかし、何がしかの条理があった歴史的な祭祀社屋からのもので、新規に「八幡社の建立」は室町期中期前には確認できません。
又,この「3つのパターン」がどの神社に当てはまるかは古くて資料記録が無く断定できる程に確認が取れません。
しかし、その証拠としてこの中には「地域内の他の社殿」として明らかにこの「経緯」を辿り「勅命」で修復や再建した事の記録が残されているのです。

因みに「八幡社」と成ったものとして「魚吹八幡社」、「宗佐厄神八幡社」、「多井畑八幡社」、「柏原八幡社」、「松原八幡社」、「波豆八幡社」等があり、これ等は上記の「勅命・条件・経緯」を持っている事が記録から出て来ます。(詳細は論外の為別途)
従って、他の八幡社も多くは古くありながらもその経歴が消滅しているものが多く、形式上は現在は「村社、県社」扱いに成っているのです。つまり「氏社」は全く確認出来ないのです。一般の「氏の守護神」では無かった事を意味します。記録が無いだけで「村社や県社扱い」に成っていると云う事です。

とすると、この関西域の「八幡社の兵庫24」と「神明社の兵庫11」は、少し違う事と成ります。
そもそもこれ等の「弓矢の八幡社」は「義家」後の「八幡社」である事から、この「八幡社の兵庫24」は主に当初は「神明社」として建立されていたのではないかと考えられます。
併せて「神明社35」であった可能性が考えられます。
その意味で「兵庫の八幡社」は、その後、朝廷はもとより「戦国の世」と成って行って「建立者」や「維持管理する氏」が滅亡していった事から、当時の幕府は時代の背景から一部「神明社」を「弓矢の八幡社」に変更して行ったと考えられます。
その根拠としているのは、「八幡社」の3大八幡宮の「宇佐八幡宮」、「石清水八幡宮」、「鶴岡八幡宮」と共に、これ等の35の社は「合祀−八幡神」の経緯の中で変更された可能性が充分あり、「関西域の八幡社」には他の地域には少ない「合祀」が多いのはこの傾向があった事を物語ります。
「合祀」に依って「生活の神」「物造りの神」と「弓矢の神」の2つが合祀される事で全ての民からの信仰を集める事が出来る事に成り、「建立主」と成っていた「清和源氏」の衰退滅亡後の寄進による神社経営を救ったと考えられます。
ここが「未勘氏族」が主体と成った建立地域ではなかった「特別な神社経営の事情」がこの地域にはあったのです。
そうなると、「源平合戦」の初戦「以仁王の乱」(1180年)の主謀者の「頼光系宗家4代目源三位頼政」までの期間の建立・再建と成ります。
「八幡社」としては「1050年頃」からとすると、「乱後の130年間」と「乱前の200年間」で「合計330年間の神明社の建立期間」と成り、「兵庫の神明社35社」は1社/10年とすると充分に建立は可能と成ります。

「大和源氏」の頼親系は兄の頼光に慕っていて同一歩調を採ったとされているので、大阪11、和歌山8、滋賀2の八幡社は神明社では無かった可能性が高く、52の内の21は八幡社で有った事に成ります。

依って、この関西域に於いての31(52−21)の「八幡社」は元は「神明社」であり、純粋な「神明社25」と併せて56/77は「八幡社1050年」を基準として基準前の「250年間の神明社」(嵯峨期809年 前期2)と「大化期から嵯峨期までの150年間の神明社」(前期1)の「400年間の神明社」−この2期間を「前期」とすると神明社は「前期25の建立」と成ります。

「150年間の神明社」(前期1)−「250年間の神明社」(前期2)-・「八幡社1050年」→「神明社-25」

・「八幡社1050年」−室町期中期までの400年間(後期)→「神明社−31」

「八幡社1000年」→「守護神」の風評開始  
「八幡社1050年」→「守護神」の風評定着→「弓矢神」の風評→「河内源氏」
「八幡社1090年」→「弓矢神」の風評開始
「八幡社1099年」→「弓矢神」の風評定着


そうすると「八幡社1050年」の基準後から室町期中期までの400年間を後期とすると、この後期は神明社は31/52に分けられる事に成ります。つまり純然とした「八幡社は21/52」と成ります。
関西域に於いては「八幡社は21」であり、清和源氏分家頼信系義家一門の「勅命」による「自前の建立」と成ります。
従って、「神明社」はこの地域では頼信系を除く「源氏」や「2つの青木氏」の「賜姓族」による「56の建立」(25+31)と成ります。
「神明社」はこの関西地域では全体の丁度1割を占める建立をした事に成ります。
この関西域の検証は時系列的に観ても上記の経緯を辿った事が充分に証明できます。

「4の中部域」
・「4の中部域」は関西域とは少し違った経緯を辿って言います。
この「4の中部域」は「賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」の重要拠点でありますが、ここは「清和源氏宗家」の「頼光系四家の国司代の圏域」でもあり、この宗家筋は「3つの発祥源」として”同歩調を採っていた事”や「濃い同族の血縁関係」がある為に「神明社−八幡社の競合」は起らなかった土地柄です。
むしろ”起らなかった”と云うよりは”起る事はなかった”と云った方か正しい事でしょう。

総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
3.5倍    8.5     1.3

この4の中部域の状況は次ぎの様に成っています。
4 中部域 八幡社 8県−52 −14.4%(全体比)−平均7/県
  中部域 神明社 8県−212−37.5%(全体比)−平均27/県

八幡社 愛知14 静岡12 岐阜12 富山5  福井3 山梨3  長野2  石川1
神明社 愛知33 静岡18 岐阜31 富山33 福井8 山梨72 長野15 石川2

この中部地域の「八幡社」と「神明社」のデータを比較すると、上記1、2、3の「3つの地域」とはその比率が完全に逆転しています。八幡社<神明社の状況です。その差も大きいのです。その大きい理由がこの中部域にあるのです。
この地域は先ず「皇族賜姓族」と「特別別賜姓族」の「2つの青木氏」の勢力圏であり、尚且つ秀郷一門の勢力圏であったのです。その中で全ての「頼光系四家の国司代の圏域」でもありました。
しかしながらこの地域の「八幡社の数」を観てみると左程に「源氏の勢力圏」では無かった事を物語ります。
更に云えば、前記した様に「頼光系四家」は「八幡族」では無かった事を述べてきましたが、清和源氏力が最も強かったところです。「八幡義家の祖」である「頼信」は兄の「頼光」からこの地域の勢力を借りて坂東に伸張していって伊豆に第2の拠点を設けて勢力を拡大した基拠点となったところです。
摂津を発祥拠点として「藤原道長」の四天王と呼ばれた程にその勢力を背景に中部地域に清和源氏の勢力拠点を築いていた所です。その守護職はこの圏域の11の地域を務めた地域でもあるのです。
しかし、その割には「八幡社の数」が少な過ぎます。
真に「源氏の勢力圏」ではなかったと観られる程度にそれを物語ります。
頼信系が「八幡族」として勢力を持ちえたと云えどもその勢力を遥かに凌ぐ清和源氏の宗家の「最大の拠点と成る地域」であります。此処なくして頼信系の関東の勢力圏は軍事戦略上、「摂津拠点」から関東の間の中間を抜かれた戦略形態と成り「伊豆拠点」と「関東拠点」は成立しません。
(伊豆は頼光系四家宗家の最大所領地 この東隣に頼信の伊豆前線拠点を設けた)
それ程の戦略上の最重要拠点地域でもあります。
”では果たしてこの「八幡社」は何なのか”と云う事に成ります。
この中部地域は「神明社」に於いて全体の4割に近い勢力を誇っており、県内平均27とすると郡内に5前後の「神明社」が存在し、村には1社必ず存在する地域と成ります。
そこに「八幡族」でない「八幡社」が郡に2社程度とすると2村に1社がある事に成りますので、この2つを合わせると1郡に7社で1村では2社程度の勢力圏と成ります。
ここに秀郷一門の春日社が建立されていますので1村で3社〜4社は必ずある事に成ります。
1村に3社〜4社の守護神がある事は、当時の人口が現在の1/4とすると守護神が過飽和状態に近い状況であった事を物語ります。とすると、この状況からそもそも「弓矢の八幡社」の「存在意義」は「村民」に採って意味を成さない筈です。
兎も角も、そもそもこの地域は、飛鳥から奈良時代に掛けて日本書紀にも書かれている様に、後漢の阿多倍王が率いてきた職能集団が入植した最大の地域なのです。
従って、「生活の神」「物造りの神」に対する「心の拠り所」としての「守護神の意義」は他の地域とは比べ物にならない程に高い意識があったのです。その様な環境の中に「弓矢の八幡社」が平安末期に入り込む余地は少なかった筈で、あったとしても「弓矢の意味」では無かった事を意味します。
その証拠にこの地域は「神明社」が全国比4割を占めている環境なのです。
民は「生活の神」「物造りの神」の意識が特別強かった事からこの「日本一の数字」を示しているのです。

そこで「上記の環境下」ではこの212の4割は少ないと考えられ、5割程度前後の神明社が集中していなければならない筈です。(下記の「圏域の勢力数」の表から計算できる 計算では神明社47%が妥当)
この状況の中で、上記データでは「生活の神」「物造りの神」が主導し「弓矢の神」は1/4程度と極めて勢いは無かった事を証明しています。
では”この「八幡社」は一体何なのか”の疑問は、そうなると”八幡社であって八幡社でなかった”と云う事に成ります。”「八幡社」の形を整えていたが「八幡社」ではなかった”と云う事に成ります。
では、”どの様な「八幡社」なのか”と云う事に発展します。
この地域の「八幡社」は「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」と「頼光系源氏」と10源氏の内の「4つの源氏末裔」の勢力圏の中にあり、「弓矢の頼信系源氏」とその「未勘氏族」が「弓矢の神」としての「八幡社の守護神」を公然と建立する事は出来たかは大いに疑問で、論理的に不可能と考えられます。
従って、結論はこの地域の「八幡社」は”弓矢の特徴を下ろしていた”と云う事に成ります。
故に、この中部域の「八幡社」は、「弓矢の神の守護神」だけではなく、全体化していた環境の「生活の神」と「物造りの神」の「守護神」の中では、「中間の曖昧な機能」を果たしていたと考えられるのです。
つまり、「合祀」乃至は”「神明社化した八幡社」”であった筈です。
何故そうなったかは上記する環境下にあった事は勿論の事、それは多少は”「民の必然性」がそれを後押しした”と考えています。
つまり、平安末期以降(1023年以降 農奴と部曲の開放)に前段で論じて来た「民」とりわけ「農民の役割」にあったのです。それは”「農兵」が新たに出来上がって行った時代”であったのです。
それまでは、「戦いの担い手」には「2つの身分階級」があったのです。

それは「武家」の呼称と「兵」の呼称とに依って構成されていたのです。
「武家」を構成する「武士」は、組織化して上下の関係を保有した武装集団。
「兵」は上下関係を有さず組織化せず職能集団化した「武装兵団」
以上2つに分けられていたのです。

「源家勢力」は「武家」軍団側で「融合氏」集団で「未勘氏族」を従えた組織集団です。(祖先神)
一方は「平家勢力」は奈良期から阿多倍一門が率いてきた「兵の職能集団」(漢氏、東漢氏、物部氏等)を配下に従えた側で「たいら族」や「大蔵氏」等の「民族氏」集団であったのです。(「産土神」)
「源平」は外見から同じ様な「武装集団」と見られがちですが、実は前段でも論じてきました様にそもそもその「基盤構成」は異なっているのです。
然し、時代は次第に乱世へと突入し何時しか世は「下克上 戦国時代」へと突入して行くに従い、この「武士」と「兵」の「2つの集団」では間に合わなくなり「農兵」が生まれて来たのです。
この半職業化した「農兵」は「弓矢の場」に赴くに従い彼等の「心の拠り所」の「生活の神」と「物造りの神」の「日常の神」に、”「弓矢」から身を護ってもらえる「神明社」”を要求して行ったのです。

そこで、「神明社」は次ぎの何れかの守護神の形を採る様に成ったのです。
”「八幡社」を合祀する形を採る「八幡社」(合祀八幡社)”
”「神明社的な形を採る八幡社」(神明化八幡社)”
以上の形として変異させたかの何れかの守護神の形を採ったのです。

これがこの中部域の「37%程度を占める神明社」と「15%程度を占める八幡社」の実態なのです。

そこで地域8県を検証すると次ぎの様に成ります。
1 愛知14と静岡12は特別賜姓族の「専圏区域」、
2 岐阜12と長野2と山梨3は皇族賜姓族系列と頼光系源氏の「融合区域」、
3 福井3と富山5と石川1は4つの源氏末裔族と皇族賜姓族の「共存区域」
以上の様に中部域の小地域(県)に依っては「八幡社の分布」は「3つの区域」に分類出来るのです。

当然に、この特色の持った「3つの区域」の「八幡社」は上記する「合祀八幡社」か「神明化八幡社」の傾向が明確で全てとは云い難い所はあるが一つの傾向を示しているのです。
A 「1の専圏区域」−「合祀八幡社」      
B 「2の融合区域」−「神明化八幡社」
C 「3の共存区域」−「合祀八幡社+神明化八幡社」

Aは富士川の激戦地で「美濃賜姓青木氏と土岐氏系青木氏」、「近江源氏と近江賜姓青木氏」、「美濃源氏」、「駿河源氏」、「木曽源氏」等の「賜姓源氏」と「賜姓青木氏」が終結して敗退し滅びた区域でもあります。
この地域には「秀郷一門」と「特別賜姓青木氏」が残りその勢力は最大勢力を誇っていた場所である事から「神明社」を建立すると共に、秀郷一門の「春日社」も共存する柔軟な圏域でもあった事から「八幡社」をも公然と建立し、その運営を柔軟にする事から「生活の神」と「弓矢から護る神」のどちらかのご利益が働く「合祀」の形の「八幡社」が多く観られるのです。

Bは奈良期から平安中期(800年頃−桓武期)まで「賜姓青木氏」の守護地であった事と、その後に「清和源氏宗家頼光」が各地(11)の守護代、国司を務めた政治的、戦略的な重要な区域であったところです。
「3つの国」の「賜姓青木氏」と同族血縁して「清和源氏宗家」と、奈良期から居た「賜姓青木氏3家3流」が融合した区域であって、此処には「特別賜姓青木氏」も「秀郷一門」も強く勢力圏を保持しなかった中間区域でもある事から、「神明社化した八幡社」の融合の形を採っていた区域であります。
特に「弓矢」そのものより戦乱の世から「家族身内の身」を護ってもらえる「守護神」でもあり「生活の神」「物造りの神」の守護神でもある形を採っていたのです。
その後のこの「地域の形」が室町末期から江戸期には「八幡社」は「神明化八幡社」が共通の形と成って行ったのです。
「世の中の安定」と他の「守護神との競合激化」も合わさって一種の「総合神社」の様相を呈して行ったのです。

Cは他の賜姓源氏と嵯峨期の詔勅に基づく源氏族が「源平の争い」から逃避して定住した地域でもあり、「賜姓族青木氏」の「足利系青木氏」や「武田氏系青木氏」や「諏訪氏系青木氏」等が平安中期から室町中期にかけて「争い」から遠ざかる為や「戦い」により逃亡して来た地域の「移動定住地」でもあったのです。
この「移動賜姓族」と目される末裔は「融合」を起さず「自然衰退」や「断絶」や「滅亡」が起った地域でもあるのです。
中にはこの区域から鳥取米子から島根東へ移動した一部の「賜姓族青木氏」や「讃岐籐氏の青木氏」を頼って高知に移動する等の流れが起りました。又、北には更に越後の「秀郷流青木氏」を頼って逃げ延びている通過経路とも成っていたのです。
ここに定住した賜姓源氏の逃亡末裔や嵯峨期詔勅の皇族源氏が「地元の血縁性のある未勘氏族の力」も得て「神明化八幡社」か「合祀八幡社」を建立して生き残りを図ったと観られます。
実はこの地域の「神明社」や「八幡社」の神職には青木氏と佐々木氏が実に多いのです。
実はABCの判別にはこの「神職のルーツ」が判別要素の一つとして用いたのですが、この区域は特にこの傾向が顕著であったのです。
この「Cの区域」は他と異なる点は「地元の血縁性のある未勘氏族の力」を利用した形跡があり、恐らくはこの力を利用し切れなかった一部の青木氏や源氏の賜姓族が西と北に更に定住先を求めて移動して行ったと考えられます。

問題はこの「地元の血縁性のある未勘氏族の力」なのです。
1000以上もあると云うか数え切れないと云うか、この「未勘氏族」と観られる族を全国各地に振り分けて、これに家紋群で貼り付けそれを「賜姓源氏」と「皇族源氏」と其の他の本領と成った豪族毎に分けて行く作業を行い研究し考察すると、その全体の傾向が掴めてきます。
その内、清和源氏の占める割合は全体の8割弱を占めますが、この研究(何時か論文で発表)からこの「Cの区域」の「未勘氏族」を観ると、次ぎの様に分けられます。
「清和源氏外の源氏の未勘氏族」(A)
「賜姓青木氏族の未勘氏族」(B)
前段で論じた「2つの絆族」の「薄い外縁未勘氏族」(C)
或いは「家臣による青木氏未勘氏族」(D)
以上4つで占められているのです。

然し、これ等(A)(B)(C)(D)の「未勘氏族」は平安末期の源平の戦いと、室町期の「下克上と戦乱」で滅亡衰退して行き、或いは裏切り、結局はこの「Cの区域」に逃げ込んだ賜姓族は西と北に再び移動せざるを得なかった事が判ります。

この事からもこの区域の「八幡社」は殆ど”「合祀八幡社」”や”「神明化八幡社」”と云うよりは、”「八幡化神明社」”と最終は流動的で室町中期から室町末期には成ったと考えられるのです。
恐らくはこの区域での傾向として
賜姓源氏系は佐々木氏で「合祀八幡社」、
賜姓青木氏系は「神明化八幡社」
以上にとに判別できるのです。
それはこの神職青木氏が越後−陸奥にまで大きく血縁して全国的にも「神職青木氏」の多い所だからでそれを証明しているのです。
全体としてもこの傾向は観られるのですが、この「中部域の神職」は相互に重層な血縁関係を結んでいる事が上げられます。
この意味からもこの「中部域の八幡社」は全国最大の「神明社帯」とも云える神明社群の中で「合祀八幡社」と「神明化八幡社」の成行きは納得出来るものと成ります。
この事は前段でも論じた「青木氏の職能集団」との関わりも大きく影響していた事が云えます。
この事は下記の神明社の処でも論じる事に成る重要な事柄です。
(前段の論説には大きく関わる領域ですので想起して下さい)

結局は、このこの中部域は「神明社地域」と観ていて、元来は「神明社」と「八幡社」を合体合計した「264の神明社域」であったと考えています。
中部域の「神明社の数」が「神明社」と「八幡社」のこの合体合計264とすると、上記する「5割域の分布」の自説は「46.6%の計算値」と成り予測とほぼ一致して納得出来る論説に成ります。

この地域では「弓矢八幡社」系の「頼信系源氏」とその「未勘氏族」は全て平安末期の「源平の初戦」の「富士川の激戦」で滅亡衰退している事から「弓矢八幡社」の意味合いはそもそも著しく無く成っているのです。
前段で「平家織田氏の処域」で論じた様に、後に室町中期以降の勃興した武田氏が通説と成っている「頼信系源氏の河内源氏」の傍系を主張しているがその自説由来の経緯は疑問です。
つまり、「頼光系源氏」と「4つの賜姓源氏末裔」と「皇族賜姓青木氏3家3流の勢力」と、藤原秀郷一門の「第2の宗家」の「特別賜姓族の勢力圏」であった事が良く判ります。
依って、筆者は”264(212+52)が中部地域の神明社の実質の勢力である”と観ているのです。

鎌倉期から室町期中期には「源氏力」、又は「未勘氏族の力」がここまで及んでいなかった事が判り、「関東の戦略的前線」としての地域には「頼朝の源氏幕府」が元来より「浮き草」の上にあった事も良く判ります。
その意味で「美濃」での「源平の初戦」は大きな意味を持ち、「近江源氏」と「美濃源氏」と「駿河源氏」と「木曽源氏」等の周辺の源氏主力が此処に終結して、敗退して滅亡した事は大きな意味を持っています。
つまり「源平の勢力圏」の丁度、「間」に合ったことに成り、その「間」は同時に「神明社」の最大勢力圏であった為に平家側には富士川で大乱と成り、源平共に崩れて行った地域であったのです。
「八幡社の勢力」と「神明社の勢力」が合体して戦ったとしたら互角の勝負に成る事は良く判ります。
「八幡社族の源氏」と「其の他の源氏」と「3つの地域の神明族」がこの時に史実として参戦しているのです。その「八幡族」と引きずり込まれた「3つの神明族」は滅亡してしまったのです
それを証明するこれが「八幡社と神明社」の対比データです。
しかし、それにしても「神明社212」に対して「52の八幡社」は少ないのですが、「関西域の52」と同じ規模の「八幡社」をこの地域で有しているのです。
この「地域の規模」を「八幡社+神明社」の「数」をパラメータとするならば、「源氏11家」と「皇族賜姓族、特別賜姓族」の本拠地でもあった「関西域77」に対して、「中部域」は何と264と成り、「約4倍の勢力圏」であった事に成ります。
「都地域の約4倍」にも成る如何に大きな力を秀郷一門は持っていたかが判ります。

そこで「神明社と八幡社」を全体で観てみると、「関西域の77」(都域)を1として観て見ると次ぎの「勢力分布」を観る事が出来ます。
関西域は「神明社と八幡社」の「成立ちや有り様」が標準的な要素として存在していた事からそれを基準として全国のデータを観て観ると事は客観的な判断に成ります。

そうする事により「2つの青木氏」の「全ての姿」を物語る極めて重要な結果が出るのです。

圏域の勢力数                        総合倍率 神明社倍率 八幡社倍率
1の関東域は 「八幡社94+神明社115」=209    2.7倍   4.6    1.8
2の九州域は 「八幡社70+神明社13」=83      1.1倍   0.5    1.3
3の関西域は 「八幡社52+神明社25」=77       1      1      1
4の中部域は 「八幡社52+神明社212」=264    3.5倍   8.5    1.3
5の東北北陸域は「八幡社38+神明社97」=135   1.8倍   3.9    0.7
6の中国域は 「八幡社24+神明社9」=33       0.4倍   0.4    0.5
7の四国域は 「八幡社21+神明社10」=31      0.4倍   0.4    0.4

(この神明社の詳細分析は下記に論じる)
前段で論じて来た青木氏に関する内容の根拠はこのデーターを引用するところが大きいのです。
そして、この「最大の勢力圏」を誇る中部域は、更にはこれに留まらず東の後側に本拠地の「1の関東域」2.7倍を控えているのです。更には「5の東北北陸域」1.8倍を控えていて、都に比べて約合計8倍の如何に「絶大な勢力圏」を保持していたかが判ります。

「神明社」だけでその勢力圏を観た場合に、都に対して矢張り中部域に8から9倍の主力があり、その後ろに本拠地の4倍の勢力を控え、東北北陸域には4倍の勢力圏を保持していた事が判ります。
これは何を物語っているかという事ですが、この分布は「2つの青木氏」の「勢力分布」にも成り、青木氏の勢力外の「末裔分布」の状況・在様をも示している事に成ります。
この傾向は八幡社を加えた総合倍率から観ても全く同じ倍率分布を示しているのです。

次ぎの関係式が成り立ちます。
総合倍率≒神明社倍率=「青木氏の勢力分布」=「青木氏の末裔分布」

「神明社の勢力分布」は「青木氏の末裔分布」に完全に合致し、更にはその「青木氏の勢力分布」をも示し如何に正しい事かを意味します。

「八幡社倍率」から「八幡社」だけで観た場合に都に対して大きく差が無く、ほぼ均等に勢力圏を広げ、その力は「神明社」の力に対して25%(1/4以上)以下の差があった事に成ります。
「八幡社の分布力」は「頼信系清和源氏」の「勢力分布」であり「末裔分布」をも示しています。
それは九州域−(中国域)−関西域−中部域−関東域が1〜2の中に在りここに「清和源氏頼光系四家」の勢力圏が入っていない事が判ります。八幡社を守護神にはしていなかつた事を証明しています。
仮に入っていたとすればその勢力圏であった基圏域の関西域の1とする「基数字77」は高くなり最大の勢力圏域の中部域はもっと1.3から1以下に低くなる筈ですし、北陸域も一部勢力圏であった為に0.7より0.4程度にそもそも成っている筈ですがそうでは無く、「義家の歴史の行動史実」と数字は一致します。
つまり「清和源氏頼光系四家」は「八幡社」を守護神にしていなかった事を示します。
その分「神明社倍率」の数字は「賜姓族と特別賜姓族」の「2つの青木氏」の成す倍率以上のものがあるのは「清和源氏頼光系四家」の神明社の分が組み込まれているからです。
これは次ぎに論じる「神明社の処」の論処で更に詳しく物語ります。

「頼信系清和源氏源氏」とその「未勘氏族」の勢力と、「2つの青木氏」と「他の源氏力」の勢力には4倍の差があった事を物語ります。

「頼信系清和源氏源氏力」+「未勘氏族の勢力」<「2つの青木氏力」+「他の源氏力」=1<4
「八幡社」<「神明社」

しかし、この神明社の勢力には弱点が在った事を示しています。
中国と四国と九州域(0.4〜0.5域)には殆ど勢力は無かった事が示されています。
「青木氏」、つまり「神明社」は”勢力が東に偏っていた事”を物語ります。これが弱点です。
この0.4を勢力と観る場合、四国の讃岐籐氏の「讃岐青木氏」と「阿波青木氏」と一部「土佐青木氏」の勢力と観る事が出来ます。
同じく、0.4の中国は讃岐籐氏の「出雲青木氏」と鳥取米子の「足利氏系青木氏」の勢力と観る事が出来ます。
0.5の九州は北九州3県の分布の秀郷一門の「肥前青木氏」の「末裔の勢力」と見る事が出来ます。(下記に論じる)
又、「青木村」を形成した「日向青木氏」は下記に論じますが「神明社」を建立する勢力は無かった事が判っています。
以上「2つの青木氏」が分布する地域がこのデータに漏れる事無く完全に合致し、その「末裔分布力」、又は「勢力分布」として数字的に表現出来るのです。

この結果、「八幡社の役割」は、「清和源氏分家頼信系義家一門」の「八幡社」であった事で、地域的にも、勢力的にも、期間的にも、「神明社」のそれに比べて1/4程度に小さく、元より大きな働きは無かった事が云えます。
明らかに「弓矢の八幡」としての役割に終わった事が云えます。
源氏滅亡以降は各地の武士、特に九州域と関東の南域による「未勘氏族」により支えられていた事を物語ります。

「中部地域の八幡社」は、結論として「合祀八幡」乃至は「神明化八幡」であった事に成ります。
「八幡社」のその「存在意義」は次ぎの様な変異を地域的に遂げている事が判ります。
これは次ぎに論じる「神明社の論処」でも証明する事が出来るのです。
西から北に掛けて次ぎの変異の存在意義であったのです。

地域に於ける「存在意義の変異」
「八幡社」(九州域)→「混在社」(中国域・四国域)→「合祀八幡社」(関西域)→「神明化八幡社」(中部域)→「八幡化神明社」(関東域)→「神明社」(東北北陸域)

注:「混在社」とは「八幡社」と「神明社」が同率で変異せずに低率で混在していた事を示す。

上記のフローから「九州域の八幡社」から「東北北陸域の神明社」へとその「有様」が次第に「地域変化」を起こしています。真にその中間が「関西域の有様」であったのです。
そして、「九州域の未勘氏族」から「北陸東北域の民衆」の「有様」で合った事なのです。
これは「地理的要素」と「歴史的要素」の「2つの違い」から来ているのです。
上記の「存在意義の変異」を参考に殆ど「神明化した北陸東北の八幡社」に付いて次ぎに論じます。

「5の北陸東北域」
・「5の東北北陸地域」の状況は次ぎの様に成っています。
そもそもこの地域は歴史的経緯として「親神明社」と云うだけでは無く、更に強烈な「反八幡社」の土地柄なのです。
この「民の心情」は歴史が長く古くは奈良期から始まり「蘇我馬子」の攻められ「蝦夷」と蔑まれ、その平安期初期(802)には「アテルイ騙し討ち事件」が起り、平安初期に掛けては「国家戦略」としてこの地域を征討し、その安定化の為に「朝廷の威信」を掛けて「神明社建立」を推し進めた地域でもあります。
この「未開の蝦夷地の征討」とそれに合わせた「安定政策」が実行された苦い経験を持つ土地柄です。
前記した様に「皇族賜姓族の神明社建立」から代わって「桓武天皇」による「皇祖神」に変わる「神明社建立」がこの地に推し進められ、「征夷大将軍の坂上田村麻呂」(806年)の丹沢城建設と共に勅命による「神明社」を20社程度も建立した特定の地域なのです。
平安中期に入りこの地域は「阿多倍一門」の「内蔵氏一門」と「阿多倍」の末孫の「阿倍氏」の末裔圏域であって、その安定した地域を八幡太郎と呼ばれる「源義家」が未勘氏族発祥の基と成った「荘園制」を利用して、これ等の末裔子孫の「安倍氏」や「阿倍氏」や「清原氏」等の末裔子孫を制圧して、そこから「敗残兵」や「土地の農民」を集めて「奴婢」として各地の「未勘氏族」の「義家の荘園」の「働き手」として送り込んだのです。
これ等の「やり過ぎ事」が原因で「朝廷」や「北陸東北の民」からも「源義家」が疎んじられ排斥された経緯を持っている土地柄です。
この事が全国的な暴動に発展した度重なる苦い経験を持った地域なのです。(この経緯は前段で論じた)
この様な「反清和源氏」に対する激しい反発感情の土地に「弓矢の神」八幡太郎の「八幡社」などは到底建立する事等不可能です。
弓矢の「武士や兵」は勿論「民」までが700年に近い苦い経験の下に興った「反八幡社」なのです。
しかし、「神明社」は「桓武天皇」の征討後の「政治的で戦略的な神明社建立の目的」ではあったが、「神明社」から主導する「生活の神」「物造りの神」としての働きが「民の心」の中にやがて浸透し「心の拠り所」として受け入れられたのです。
そしてその立役者がこの地の為政を任された「藤原秀郷一門の鎮守府将軍」としての「政治的な働き」が有って「親神明社」へと傾いて行ったのです。
その主役が「秀郷流青木氏」であり、「第2の宗家」でもあり、即ち「特別賜姓青木氏」としての「3つの立場」が「神明社の役目」を全うし民の心を安寧に導いた地域でもあるのです。
そもそも「特別賜姓族」はその「土地の豪族」(小田氏、小山氏、花房氏等)との「重層な血縁関係」を作り、その「血縁族の一部末裔」が青木氏と共に関東に移動し足利や武田の土豪族と成り、遂には大勢力を誇り、それが室町期には「関東屋形」族と呼ばれる程の秀郷一門として関東から中部全域に掛けての大豪族にも成っているのです。
これは全て「特別賜姓族の主導」(神明社建立)によるものであって、故郷の末裔は反旗を翻すどころか「親神明社」の領域を超えて「神明社」そのものとなったのです。
この地域には関西域の「賜姓青木氏」も神職として赴き「神明社建立」の「職能集団」の定住も起こった位なのです。室町期末期には「関東屋形」の永嶋氏(結城)が陸奥域に移り住むと云う事まで起こったのです。この北陸東北域は関東域との深い関係を持つ神明社であって、この地域における八幡社は関東域の関係の背景を無視して論じることは出来ないです。八幡社=神明社としての論処に成ります。


青木氏と守護神(神明社)−15の北陸東北域は次ぎに続く。

「青木氏と守護神(神明社)」−16 に続く。



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