青木氏氏 研究室
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[研究室トップ(ツリー表示)] [新規順タイトル表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.289] Re:青木氏と守護神(神明社)−21
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/09/28(Fri) 06:46:09

「社名つき神社」

神社   ・新潟6・岩手5・佐賀1・徳島3
     ・計15/418=3.58%

     *山梨3*長野1*富山1*石川1
     *計6/148≧4.05%

     +宮崎3(皇祖神発祥の特別地)

     −鹿児島3−北海道1
     
     −印は虚偽地

・印に付いて、「新潟6」を除き、後の3県は特別賜姓族とは直接に移動定住地等の関係はありません。
本拠地周辺に神明社17、神明神社15を建設し、神明宮21を合せて53社も建設して呼称しているのにわざわざ「・・神社」系等を建てる、呼称する必要性があるのかと云う矛盾が起こります。
まして、周囲には220社も建立していて、「仕来り、決り事、規則慣習」で「神明宮」を支流一門に建立させているのです。この様にきっちりとした態度で「3つの神明」を建立している中で、果たして、「・・神社」にしなければ成らない理由があるのでしょうか。無い筈です。
あるとするならば、その地域独自の「政治的、地理的、宗教的な環境条件」が強く働いて、「仕来り、決り事、規則慣習」を凌ぐ事と成ったと考えられます。圏域内ではこれを押さえ込む力が働いていた事を物語ります。
この関係を数式に表すと次ぎの様に成ります。

「建設条件の数式」
A 圏域内→  「政治的、地理的、宗教的な環境条件」<「仕来り、決り事、規則慣習」
B 圏域外→  「政治的、地理的、宗教的な環境条件」>「仕来り、決り事、規則慣習」

そもそも、「皇族賜姓族」、「特別賜姓族」にしても全国組まなくこの、「仕来り、決り事、規則慣習」を押し通す事は不可能です。
せいぜい、「讃岐籐氏の讃岐青木氏」の圏域まででその広島付近までですから、従って、「佐賀」や「徳島」はこの「政治的、地理的、宗教的な環境条件」が強く働いた事は確実です。
それ以外に「神明系社」でありながら、一般呼称の「・・神社」にしなければ成らない理由が先ずは見付かりません。そこで地域毎に検証してみます。

「佐賀1」
先ず、・「佐賀1」に付いては、「大蔵氏の勢力範囲」の中心地です。「遠の朝廷」の自治区の「太宰大監」の大宰府の隣で有ります。隣と云っても現在の県域ですから、大宰府の中心と云っても過言ではありません。
確かに、長崎と佐賀域には秀郷一門が赴任地定住としていた地域があります。唯一、「北九州地域」として「青木村」があった事も確認出来ますし、末裔の存在も確認出来ます。
然し、 ”「大蔵氏勢力圏・産土神」と「小さい青木村」のことから「神明系の社の建立と呼称」は果たして可能なのか” との疑問が生まれます。
仮に「2つの青木氏」と「秀郷一門末裔と藤原北家筋」等が建立したとしても ”「神明社系」としては許可は出なかったのではないか” と考えられます。
鎌倉期、室町中期では、「平安期の自治」が無く成ったとしても、依然それに相当する勢力を張っていたのですし、まして「大蔵氏勢力圏・産土神」の真ん中では「大蔵氏の自治」や「勢力統治」の中では許可は、反対が各所から起こり出なかったと考えられます。
まして、出雲社と同じく宗教界の重鎮の「宗像神社」の社域圏でもあります。
それを押し通す勢力は先ず有り得ず、遠い地域のところに「神明社」としての「建立と呼称」は明らかに無理であります。
そこで、争いを避ける為に ”「一般呼称の神社」として「建立と呼称の許可」が下りたのではないか” と考えられ、 ”北九州の一門の関係族の独自の許可申請での建立であった” と観られます。
故に「・・神社」になったのです。
つまり、「心の問題」の領域であり「政治的、宗教的抗争」の所以ではない事が判ります。
従って、福岡ではなく隣の青木村のある{佐賀1社]なのです。
「政治的、宗教的抗争」であれば1社では抗争には成り得ませんし、継続して北九州に及ぶまでの圏域にも「建立と呼称」を続けてこそ目的は達成される筈です。
この「佐賀1」は明らかに秀郷一門の定住地九州末裔の「心の拠り所の建設」であり、それ故に一般的な「・・神社」としたのです。
然し、その「建設様式等の要件」では「神明形式」を維持しているのです。つまり、これは ”寺社匠を関東の本領から呼び寄せての建設であった”と考えられます。
一門だからと云って神明系の弱い地域に専門の「寺社匠の調達」は難しい筈ですから、上記の事に成るのです。
当時は「自由市場」の現在とは違うのです。低下したとは云え「賜姓族社会の領域」では「部経済」が半ば存在したのです。
前段で論じた様に、現に「自らの氏」が「自らの抱えている職人集団」で「自らの力」で「寺社建設」をすると云う社会の中では、尚更、「神明系社」と云う特異な環境では、前段でも論じた様に、未だ「2つの青木氏」が独自に職人家人との間に「2つの絆の社会」を構築し、「絆青木氏」名乗るなどの徒弟制度を構築する果ての建立であったのです。
故に、「・・神社」は上記の「建設条件の数式」(A、B)が成り立つのです。
依って、「佐賀1」の結論は、「環境タイプ」の「社名付き神社の呼称」であるのです。

「徳島3」
・「徳島3」は、確かに秀郷一門の主要一族の剣片喰族の阿波青木氏の移動定住地ですが、ここには秀郷流の遠戚の関東北と北陸東域に勢力張っていた「利仁流藤原氏」が大勢を占める地域でもあります。
実はこの「徳島3」は、この同族血縁の「二つの融合族」の多い所でもあります。
この「阿波青木氏」と「利仁流藤原氏」が「神明系社の建設」に及ぶには、その勢力は充分であり、四国と云う「地理的な独自性」を保有しながらも、「・・神社」はおろか「神明社、神明神社、神明宮」の「神明系3社」の建設でもその要件は充分であります。その建設要件は充分で欠ける事はありません。

この「剣片喰族」は「神明社と神明神社」の多い「愛知」にも同族を固めていて「建設条件」のみならず勢力的にも一門の主要8氏の一つなのです。
然し、問題は「特別賜姓族の青木氏」とその「利仁流大遠戚族」であるのですが、讃岐籐氏の「讃岐青木氏」と同じく、四国は「賜姓族系地域」としても当時は「別扱いの中」にあったのです。

兵庫以西には「讃岐青木氏」の「瀬戸内の広島」は考えられますが、前段でも論じた様に、広島と讃岐は充分な「別扱いの地域」です。原則、四国を含む兵庫以西は「指定された神明地域」とは「別扱い」と成ります。
因って、「神明社、神明神社、神明宮」の「神明系3社」としての「建立と呼称」は、「仕来り、決り事、規則慣習」が成り立たず、これを無視してまでも無理に建立する事をせず「・・神社」とする以外になかったと考えられます。
上記の「建設条件の数式」Bで云えば右辺が0という事に成るのです。
つまり、秀郷一門の「縁阻地」(指定外地域)には、元より「社名付き神社の呼称」が採用される「仕来り、決り事、規則慣習」があった事を物語ります。(「縁阻地」(決−38)
無視すれば、宗家からの厳しい処置が働きますし、現実に青木氏宗家からの「職人調達」は困難であります。それを押してまでもの独自性ではなかった筈です。
それだけに、「仕来り、決り事、規則慣習」を一族の者がこれを破られば「第2の宗家」たる「特別賜姓族」の立場はありませんし、強行すれば放置できずに糾弾される筈です。
そんなにまでして「同族争い」をしてまで護らない事はありません。それ程に「呼称」には重きを置いていた事を物語るものです。

「縁阻地」(指定外地域)の他に「神明系3社外」に適用する「呼称」であった事が判ります。
当然に数式の「右辺=0」以外にも、「縁阻地」(指定外地域)=0の条件で「建設条件の数式」のA、Bが共に「左右辺=0」と云う環境の時にも「・・神社」の「呼称」が適用されていたのです。
これは「神明系」である事の有無に拘らず平安期の朝廷に依って決められていたのです。」
(否神明地」(指定外地域) 決−39)
結論として、徳島3は「縁阻地」(指定外地域)タイプの呼称であったのです。

「岩手5」
・「岩手5」は、上記でも論じている地域ですが、「元広域陸奥圏」ですが、「神明社4」のみの地域であり「神明神社と神明宮」はありません。
合せて「9社」しかない地域で「4−6の規則」から「2社/県」で観ても少な過ぎます。
ただ、この地域には秀郷一門の主要族が定住していません。「支流血縁族」です。
要するに、Aタイプの「政治的、地理的、宗教的な環境条件」<「仕来り、決り事、規則慣習」が成立するものの、「支流血縁族」と云う形では、一種、「徳島」と同様の「縁阻地」の部類でもあります。
まして、「狭域陸奥域の末端圏」ですので「神明社、神明神社、神明宮」の「神明系3社建立と呼称」は困難で、この「神明社4」は、この地域の神社社歴から観て建立年代は明確ではありませんが、古い事を主張しているのが多い事なのです。
この事から、桓武天皇期の征夷征討期の「20社」の内の「国家事業の2」と「特別賜姓族の2/31」の合せて「4社の建立」であったと見られます。「社歴の古社」の主張はある程度納得出来ます。

そこで、社名付きの「・・神社」とするには、本来、補足する事は「支流族の勤め」としても、この地域にはそれを実行する充分な能力のある「支流族」は定住していません。当然に青木村も全く存在しません。
つまり、「Aタイプ」ではあるのですが、極めて、指定外地域ではない単なる「縁阻地」です。
そうすると、どの様にして「5社」も建てたのでしょうか。誰が何時、建てたのでしょうか。
実はこの「・・神社」は特定の他氏が建立できる権利を有する「普通一般の呼称」の「・・神社」ではないのです。

何とも聞き慣れない「天照御祖神社」呼称(あまてらすみおや神社)の5なのです。
本来であれば「其の他」に入れるところですが、ある種の意味を持つので社名付きの「・・神社」の呼称に入れました。
正式呼称に「天照大神宮」が有りますが、これに似せての呼称と成っていて、これは「岩手のみの呼称」です。
この「御租」(みおや)は「天照」の別呼称で、この名は摂社等123社の中にもあり使われています。
つまり、「天照」を2度重ねて呼称している事に成ります。「青木」であれば「青木青木」と呼称している事に成り馬鹿げています。
39もの「仕来り、決り事、規則慣習」の「権威や威厳」を重んじての呼称でありながら、これでは「権威、威厳」がありません。明らかに正規のものではない事は良く判ります。
「分霊の許可」が取れなかったか、何らかの理由で変名したか、青木氏外の建立なのか、等推測が立ちます。そもそも「血縁支流族」の無い「広域陸奥の南端域」です。
秀郷一門の建立するに必要とする「勢力圏外」ですし、その意味では「建設不可能な地域」です。
それが下記の5社ですので、これには何らかのシステムが働いています。
それは、この神社の中に「親社」があってその「子社」の系列社である事も考えられます。
そうすると、この「5社の建立維持管理」となると相当なこの地方の豪族と成ります。
ところが、この5社外に正規の「分霊社」2社が陸奥北端と南端に存在するのです。
これ等の重要な史実からは明らかに疑問です。

次ぎの「疑問社」があるのです。

「疑問5社」
天照御祖神社  大船渡市三陸町綾里田浜
天照御祖神社  釜石市唐丹町片岸
天照御祖神社  陸前高田市高田町松峰
天照御祖神社  気仙郡住田町世田米
伊勢両宮神社  遠野市上郷町細越   

「正規2社」
天照皇大神宮  岩手郡滝沢村鵜飼御庭田   広域陸奥北端域
天照皇大神社  大船渡市三陸町吉浜上中井  広域陸奥南端域

前の「疑問5社」は、岩手県の最南端太平洋側の宮城に隣接する「5地域」(リアス式沿岸部の北側)から「釜石、大船渡、陸前」が並び、この「3地域」の内側に隣接する「気仙、遠野」の「2地域」に集中しています。
戦国時代は、ここは次ぎの3氏が支配しています。
葛西氏、国分氏、大崎氏、 以上の3小藩の地です。
江戸時代は、次ぎの3氏が支配しています。
伊達氏、板倉氏、相馬氏  以上の3藩の地です。

明らかに、この室町期と観られる「疑問5社」は1氏が、建立は兎も角も、祭祀した事が云えます。
と云うのは、「伊勢両宮神社」と云う禁令を破る同じ「疑問名社」の遠野の「社」がある処から観ても、統一して何れかの1氏に依る祭祀と考えられます。

「禁令」を公然と破るだけの「異端児、異端氏」、そうなると、能力から観てこの3小藩では無い事が云えます。そうすると自然と答えは出ています。

この様な「5社」を建立、又は呼称する事が出来たのは、この「5地域」を支配した室町期から勃興した「江戸期」の大藩「伊達氏」だけです。
但し、”建立を伊達氏が行った” かは疑問で、「社歴と様式」からは上記した様に少なくとも「伊達氏」より古い事から、「広域陸奥域」の時に「特別賜姓族」によって建立されたと考えられ、その後に、”伊達氏がそれを政治的、戦略的目的の為に維持管理した” と成ります。

つまり、そのやり方に付いては次ぎの様に成ります。
先ず、その内1社を「親社」として「社名」を「伊達氏の建立」とし、社名を「変名」して「伊達氏」が「分祀」か「分社」により5社に広めたと考えられます。
要するにここの「正規社の親社の権威」を利用したのです。
ではその「親社」の「1社」とは何処にあるのでしょうか。実は確実で納得出来る地域に建立されているのです。
その内の「親社」が「正規2社」の内の広域陸奥最南端の「大船渡の正規社」であったと「社歴や様式」から判別する事が出来ます。

後の「正規社」、即ち「分霊社の2社」(正規2社)の内の1社は、青森に隣接する2地域(岩手町と葛巻町)岩手郡に存在します。
この地域は「支流血縁族」のある秀郷一門と「特別賜姓族」のぎりぎりの勢力圏内です。
この地域は平安期で観ると、秀郷一門が平安期から支配する「峡域陸奥域」の岩手側で確実な勢力圏にあります。

戦国時代前半からは、この地は「陸奥斯波氏」(信濃足利氏)と「南部氏」ですが、江戸時代まで支配したのは「南部氏」だけです。

(戦国時代−室町期末期の11国を支配する日本一最大の大名で室町幕府足利氏の本家の創健氏で「信濃足利氏」です。守護代の織田氏の主君で、この斯波氏を倒して尾張を獲得した)

当然に、この「分霊社の正規社」は秀郷一門の「特別賜姓族」の青木氏の平安期の建立である事が社歴からも判ります。
そもそも、この地域は江戸時代直前まで秀郷一門の本家筋の下総結城氏の長い間の支配地であったのです。
(末裔が陸奥白河の自領に移動して「白河結城氏」と成るが、前段でも論じた「有名な陸奥の戦い」で天正17年に豊臣秀吉に滅ぼされる)

結局、「秀郷流青木氏」、「信濃足利氏」の「陸奥斯波氏」、秀郷一門宗家筋の「永嶋族結城氏」、そして、戦国末期から江戸末期まで「南部氏」に引き継がれた地域です。
つまり、建立者の「特別賜姓族」から江戸時代末期までこの戦国大名に引き継がれた事に成ります。

もう一つの大船渡の南域の「分霊社の正規社」は、宮城の北地域に隣接する大船渡の太平洋側沿岸部の三陸町にあります。
これが上記「疑問5社」の親社と成ったと観られる分霊による「正規社」です。
ここに伊達氏による「疑問5社」と「正規社」との2社が存在していた事に成ります。

では、この「正規社」は誰が何時、建立したのでしょうか。
この地域は上記「岩手」でも論じた様に、「広域陸奥」の平安期末期以降は極めて「不安定地域」であった事から、「歴史的経緯による消失」や「3つの災難」を免れたとすると、秀郷一門と「特別賜姓族」の圏域外でありますので、その前に建立されていた事に成ります。
室町の時期と場所から観て、少なくとも「特別賜姓族」が落ち着いて建立する事は困難であった事を意味します。
そうすると「社歴」等を信用するとして「様式」から平安期初期から中期頃と成ります。
この時期には、「蝦夷征討」で「広域陸奥」の宮城の「多賀城」を基点として岩手の「担沢城」、「志波城」が建設され、ここを「政庁の拠点」として「広域陸奥域31郡」を統治していたのです。

然し、この時期の国司には、この「31郡の広域陸奥」には「100社」あると云われる低格式の「村社」を毎年巡る義務を負っていました。
ところが、これが国司に執って経済的にも時間的にも大変な事なのです。
この為に、陸奥国司はこの「多賀城」の近くに「総社宮」を造り、此処1ヶ所で「参拝祭祀の業務事」を済ましました。
ところが、この方式が各国の国司には爆発的に人気と成り、この「総社」方式が全国に一気一斉に広まってしまったのです。(記録に遺されている)
然し、この「100社の格式」は「村社」なので「神宮分霊社」とは「格式」が数段に異なっています。
「神明系3社」は「別扱い」で、上記で何度も論じた様に、要するに「御魂入れ」であり、元々「分霊社」は「神明系3社」の「総社的存在」でした。(決−39)

下記でこの事に付いて論じますが、要所の地域には必ず神宮の何れかの分霊地を建立していますが、「正規社」の此処が「総社的な役割」を荷っていたのです。
この「仕来り、決り事、規則慣習」を重んじた方式を、この地域の「陸奥国司」が、この「村社」の100社に真似て最初に適用しただけなのです。
その事で「参拝祭祀の業務事」を理由としていますが、何かと揉める「村社間争い」をこの方式で逃げ切ったのです。つまりは、「総社の威厳と権威」で押さえ込んだのです。

本来であれば、国司がこの様な勝手な事をすれば朝廷は黙っていない筈です。然し、「分霊」−「神明系3社」の格式上の「社」が行って効果を挙げていれば文句の附け様がありません。
むしろ、「広域陸奥域」であるが為に積極的に指導したと考えられます。

この「大船渡」に建立された「正規社の分霊社」は、この平安期初期から中期の時点では本来は「皇族賜姓族」の青木氏の建立によるものですが、「桓武天皇」に圧迫を受けていた青木氏は衰退期にあり建立は出来なかったのです。
そこで「桓武天皇」(光仁天皇の子で施基皇子の孫 伊勢青木氏の始祖)自らが「青木氏」に代わって、兄弟の様にしていた「征夷大将軍」の「坂上田村麻呂」(多賀城724年などの3柵城を建設 広域陸奥域を制圧)に命じて、建立した「20社の神明社」と共に、この「陸奥域の岩手」に「20社の神明社」の基点(総社)として「2分霊社」(岩手郡と大船渡に分霊地)を設けたのです。
「陸奥100社の村社」の幾つもの古株の「村社」と共に、この「2分霊社」も”「廃絶処理」を逃れた”とする意味合いで記録されています。
恐らくは、この古い「村社格」の「社」だけが一部に遺されたとしていますので、岩手の「担沢柵城」(802年)と「志波柵城」(803年 廃城)と共に最も古く権威のある「高位の有格社」としては「廃絶処理」は逃れられたと考えられます。
上記の「3柵城」と共にこの時期にこの「正規社の分霊社」が建立されたと観られます。
記録では広域陸奥域の最南端に「神明社」が白石市益岡町に807年に「坂上田村麻呂」に依って創建されていて、「分霊社」(”「伊勢の御魂」を移して祭祀・・”と表現)の創建も間接表現ながらも記録されているところから、この同時期前に2社が建立されたと観られます。

と云うのは、この神明社建立前の806年に桓武天皇が崩御しています。一説を採用すれば4年3月後に「坂上田村麻呂」が没しています。(上記の神明社建立後の3月後の807年没の説もある)
従って、この「広域陸奥域」の青木氏に代わって行った「平安初期の計画」は桓武天皇崩御により終わっている事に成ります。
この後、「柵城や城郭」等のなどの修理造営は860年代で終わっています。
一時、この「広域陸奥地域」の治安等の理由で「何らかの建造」は歴史的に「停止状態」に成っていた事と、「皇族賜姓族青木氏」に依る「神明社系5社」の建立も衰退期に入っています事から、「特別賜姓族」の援護(960年代後半)を受け、且つ、自らの「2足の草鞋策」による財力がつくまでの間の一定期間には、この地域の建立は「停止状態」でありました。
因って、この「正規社の2分霊地の建立」は上記の期間にのみ可能なのです。

結論として、「建設条件の数式」から岩手はAではありますが、左辺の政治的、地理的な環境条件の要素が大きく、右辺より僅かにレベルが低かった事によるもので、「偽呼称タイプ」と云えます。

つまり、「社名付き神社」は、上記の「建設条件の数式」の論理から、左辺と右辺のバランスが均衡するか、右辺が0に近くなるに従い「社名付きの神社」の呼称は高く成る事に成ります。
この数式論が明らかに働いているのです。
当然に、左辺が0に近くなるに従い神明社を始めとする「神明系3社」の「建設条件」は整う事に成ります。

・東京に付いて特記
実は、東京にも「其の他」の呼称に分類した「天祖神社」18もあり岩手とよく似ています。
この2つの「異質の呼称」は「岩手と東京」だけです。
ただ、東京は「建立と呼称の背景」(「神明系社」の確認と「時代性」がはっきりしません)が少し違いますので其の他の項に入れましたが、此処でも考察して観ます。

問題は伊勢神宮の「摂社関係」等は、上記した様に、凡そ「伊勢近隣に123社」(2市4郡 特令地除く)あるのですが、その確認ですが、東京の場合はその関連社である「神宮分霊社、支社関連」の建て物でもありません。

この18社の「建設の時期」ですが、色々な資料からは平安期及び鎌倉期にはこの「2つの呼称」は出て来ません。
恐らくは、鎌倉期は、平安期の「仕来り、決り事、規則慣習」を強く引きずっていましたので、「神明系3社」の「3つの神明」の呼称としては有り得ますが、然し、この「2種の神社 疑問社名」の「・・神社」は、少なくとも鎌倉末期から室町期初期以降の呼称である事が判ります。

実は「皇祖神−伊勢神宮」関係と「祖先神−神明社」の「3つの呼称」の社の一部は、大変重要な事ですが、一時「廃絶処理」を社会から受けた史実(A)があるのです。
古い神社関係社に取っては有名な事件です。
他に歴史的に観れば次ぎの様な事が起こっています。

B それに「下克上と戦乱」の「焼き討ち」にも会っています。
(「焼き討ち」と「廃絶処理」とは宗教的な行動として別扱いにする)
C 明治初期の「廃仏毀釈」「神仏併合」−「神仏分離令」の洗礼も受けています。
(「廃仏毀釈」と「神仏併合」とは目的が異なる行動として別扱いにする)
D 室町中期から明治の10年頃まで続いた「一揆」(農民・下級武士の反乱)などの拠点にも成っていますので「消失」の影響を受けています。

(神明系社の「消失」には、「戦乱反乱」での火事と「年数」から来る廃社と「経済的運営」の廃社がある。)

この室町期の「廃絶処理」に付いては、ほぼこれ等は「江戸幕府の政策」の「神明系3社の復元修復事業」として、「寛永年間から明治初期」までに多くは戻されているのですが、この災難の影響を受けている事は確実です。
この「2種の神社」の「建設様式」は筆者の調査から疑問ではあるのですが、「神明形式」である可能性が高いと判断しています。
そう成ると、問題はこの続け様に起った次ぎの「3つの災難」の影響を受けていた事に成ります。
「焼き討ち」(消失も含む)
「廃絶処理」
「廃仏毀釈」「神仏併合」
以上、「3つの災難」と呼びます。

この事から、”何故、遺したのか。残ったのか”疑問です。
この東京の「2種の神社」の「創建年代」も確定は困難で疑問でもあり不祥ですが、室町中期前後と観ています。様式の確認は取り合えず「神明系様式」として考察します。
実は、東京18に付いては、この「3つの災難」の内の前二つに対して「呼称変更」「社歴変更」「祭神変更」等の「対策処置」で逃げたのではないかと考えているのです。
それが「天祖神社」の呼称であったりしたのではないかと考えています。

この様に、「天照皇大神宮と豊受大神宮」に似せた社名を使う事で、上記の岩手の記録からも判る様に、この ”「特別の高位の有格式社」” で逃れられる事が世間では判っていたのです。
この逃れられた理由、原因としては次ぎの事であったと考えられます。
先ずは、「最高位の格式」の「威厳と尊厳」です。
これを無視する事は最早、「国のあり方」を変える「革命」に外成りません。そこまでは「廃絶処理」は行われたかの問題です。
それは次ぎの「皇大神宮と大神宮」の呼称の検証でも判るのですが、其処までではなく岩手の様に遺し得ているのは、この下の「格式社」に対する「廃絶処理」であって、主には「郷社、村社」の格式レベルのもので、中には、「神明系3社」も地域に依っては厳しい「廃絶処理」を受けた事が記録から確認出来ますが、受けたとしても「神明神社と神明宮」の2社系が被害を受けたのです。
現に、「神宮を含む伊勢の125社」と「遷宮85社」の全てと「神明社148社を含む180社」と「特令地の社数」は完全に遺し得ているのです。これが「3つの災難」を受けなかったとする証拠です。

その根拠を検証しますと、「神明社180、神明神社139社、神明宮125社」から観て、「4−6の規則」の中にありますので、「3つの災難」を受けたとして「神明神社」の10−15社、「神明宮」の20−25社程度ではないかと考えられます。
それは何故かと云う事ですが、次にこれを検証します。

「建立地」は、概ね「神明系3社」としての建立地は、27−29地域であります。
そうすると、次ぎの様な計算が成り立ちます。

神明社180/29=6.4 神明神社139/29=4.8 神明宮125/29=4.3
以上と成ります。

これを29の全地域に、上記の平均5.2以上の影響度を加算して5.5として観ると、次ぎの様に成ります。
「神明神社」は20社/(10-15社) 「神明宮」は35社/(20-25社)と成り、合せて55社と成ります。
これは真に全体比10%(55/556)です。

個々の3つの社の数字には、これは「単純平均」ですので、バイアスを持っています。
依って、(6.4 4.8 4.3)から観れば、実態はこれより何れも少なくなる事が考えられます。
それを考慮すれば、「神明神社:10−15社」 「神明宮:20−25社」は妥当な数字と云えます。

(「単純平均」は必ずしも「クラウドの中心」を表さない為、「積分係数」の計算で「クラウドの中心」は出る。
依って、この場合のクラウドの中心は低めに出る。)  

そこで、次ぎに全体で「神明系社 566社」として、果たして、これ以上の神明系社数を建立出来たかと云う問題です。

そこで、「歴史的な切目」としては、次ぎの様に成ります。

イ 「朝臣族の賜姓源氏」が建立したのは、上記で論じた様に、「八幡社」ですが、ところが記録から「国家鎮魂の八幡社」を「清和源氏の本家(頼光系)」が天皇に命じられて、先ずは支配地内に於ける「移設による修復建立」を命じられています。
つまり、「八幡社」を最初に手掛けたのが ”摂津の領国内に移設修復した” と記録があり、国司として赴任した信濃に於いても「信濃青木氏」に「神官職」を依頼している記録が遺されていて、現実に家紋分析からその末裔信濃青木氏は関東以北−陸奥域に現存するのです。

ロ そして、この計画は「摂津源氏」の「支配地内の修復」で計画は終わっているのです。
つまり、数は少ないですが本来の「神祇信仰の国家鎮魂の八幡社」(摂津源氏−神明族の信濃青木氏)と大半を占める「武神の八幡社」(河内源氏−未勘氏族)とがあるのです。

ハ しかし、河内源氏の分家頼信の孫の義家が「武運長久」「武家の神」の「八幡社」を河内に建立しています。(1100年頃 未勘氏族の建立  八幡社にはこの2流がある。)
この「武神の八幡社」は後に「未勘氏族」に依って「神仏習合」に偏して「八幡大菩薩」に変化したのです。

ニ 「たいら族」には「神社建立権」は身分家柄から与えられていません。
この「たいら族」は「朝臣族」では無いので、「太宰大監」として九州自治を司る一門の「大蔵氏」を除き、その権利を有しておらず、「京平氏の清盛」が「摂関家と朝廷の反発」を押し切って禁令外で、最初に「海の守護神」の「瀬戸内の厳島神社」を最初に修復拡大事業を手始めに神社建立を行いました。
(1170年頃 「たいら族」  平安期は青木氏や藤原氏等の高位の指定の家柄氏以外は神社は建立出来ない慣習があった。朝廷の許可が下りなかった。)

ホ この時、期前の1125年頃には、何とか「皇族賜姓族」も「2足の草鞋策」から勢力を盛り返し、「特別賜姓族」も「960年後半」には建立に参加しています。
この頃から徐々に「神明系5社建立」が再び始まり、室町期前半の室町文化の頃に建立の頂点と成ります。

ヘ 前段でも論じた様に、「紙文化」と呼ばれる「室町文化」で「伊勢、信濃、甲斐の皇族賜姓族の青木氏」と「特別賜姓族の伊勢青木氏」がどの守護にも遥かに勝る「莫大な財力」と「武力」とその背景と成る「シンジケートの抑止力」を確保しました。

ト そして、然し、「下克上戦乱」に入る中期頃には、建立能力が充分にありながらもその社会情勢から建立は難しく成り、各地で「3つの災難」が始まりますので、せいぜい「修復程度の範囲」に留まったと考えられます。

この事で検証すると、次ぎの様に成ります。
イからトまでのこの間、「皇族賜姓族」から「特別賜姓族」の発祥までの「衰退期の100年間程度」を除くと「500年間程度」と成り、平均的に観れば、566社/500年とすると「1年に2社程度の建立」と成ります。
1社の建立期間を3年から5年程度と観れば、丁度、無理の無い建立数である事が判ります

中には、記録によると長いので10年程度とありますが、財政的な問題は「2足の草鞋策」で問題は無いとしても、「2つの賜姓族」が「絆職人の関係要員」の手配等が他の維持管理作業等もありますので、難しいと考えられます。
それから観ると丁度よい社数建設です。

因みに、前段で論じた様に、「伊勢青木氏の記録」によると、奈良期からの古い絆で結ばれ、「絆青木氏」を名乗るほどの代々の内々の「徒弟制度」で引き継がれた「250人の専門職」と、その「関連要員」をシンジケートの中で確保していた事が判ります。
この要員で「148社建立」と成っています。

(伊勢丸山城の信長との戦いで「伊勢−信濃シンジケート」の大工要員が関わった事が記録されている。建築終了後に城に火付けした。)

恐らくは、信濃青木氏も同じ程度の能力を保持していた事が「神明系3社」の建設数から判断できます。
全国の賜姓族関係地域に「建立する能力の418社」から観ると、「宗家の特別賜姓族青木氏」と「特別賜姓族の伊勢青木氏」の「2つの能力」も総合的に勘案すると、4倍の「1000人程度の要員」を抱えていた事が判ります。

とすると、この能力から、「建立数 2社/年」 「建設期間5年」 「維持管理148社」 とすると、青木氏から配置する各職人の「頭要員」を、「50人/1社で100人」、「全国29地域」の建設地に「5人/1地域」に配置して「150人」、これを「シンジケートの各種の職人」で補い、「20職種」程度と云われる「工程を5年間」で回転して行けば成り立ちます。
昔のある資料から垣間見ると、一般の「武家屋敷建設」で「頭級で5人」と云われているので、その10倍として観れば、「50人」と成ります。
不足の時は「伊勢−信濃シンジケート力」から各地のシンジケートに呼びかけて「援護要員」を増やす事が柔軟に出来ます。

これを行える「財政力と政治力と運営力」があった事が「伊勢丸山城の戦い」の記録で判ります。

(「伊勢丸山城の戦い」 材料の調達の失敗や建設ミスを繰り返させて、なかなか進まない様に城の建設期間を引き延ばせ、挙句の果てに短期間で建設するように命じられますが、これに応じます。この時に信濃からシンジケートを通じて要員の職人を配置した事が記録されているのです。建設用材の調達は「2足の草鞋策」で本職、材料高騰策も行った。莫大な利益を挙げて信長の財力を押さえ込んだ。有名な信長烈火事件発生。歌舞伎にも成る。結局は、「信長の伊勢攻めの3戦」は5年も延びた。)  

「特別賜姓族」の方も上記で論じた様に「約4倍の社数」と前段で論じた様に「4倍の勢力」を保持しているのですから、同じ論理で証明する事か出来ます。
結論としては「4−6の規則」で「建設する能力」はぎりぎりのところであった事が云えます。

上記で論じて来た現存する「神明系3社」の「4−6の規則」はほぼ原則として建立したのですから、「3つの災難」に依る10%減でこれだけ護られている社数がある事は、上記の能力試算からこれを証明しています。

故に、「江戸幕府の神明系3社の修復復元処理」が「10%−55社」の範囲であった事から可能であったのであって、直しきれない社もあった事が記録されているので、この程度が江戸幕府の能力の限界であった事を示しています。566社に相当する社を「高位格式社」の「修復復元処理」は財政的に無理であった筈であります。

恐らくは「神明系3社」で論じた様に、上記の通り「10%程度以内」と考えられます。
これであれば上記の試算から江戸幕府の「250年間掛けて1社/年・5年」を「修復修理復元」は可能です。

この様に、「威厳と尊厳」から少なくとも「3つの災難」に付いては、「神明社」は殆ど影響を受けず、「神明神社」と「神明宮」に対して多少の影響は受けた事が云えます。

(上記した様に地域のバラツキはあるとしても、一般確率論から10%内は自然消失廃社率)
(「天照」の内宮に「みおや」と云う天照の別呼称で二重呼称と同じで この天照の天と皇祖の祖で「天祖」と呼称した。)

「創建年代」や「社歴」や「祭神」等に「不祥や疑問や矛盾」等が多く観られるのは、東京の18に付いてはこの事の影響ではないかと観られます。途中での歴史が途絶えたからです。
「焼き討ち」や「廃絶処理」は、要はある範囲の「権威や象徴」に対する「社会的な反抗」でしたので、この地域レベルの「権威と象徴」を一時、”消す事、隠す事”で難は逃れたのです。

問題は、”他の地域はどうであったのか”ですが、地理的にこの「3つの災難」の状況は、その「地理的要素」やその地域の「人の気質」から著しく異なっているのです。
殆ど「神社」が無く成ってしまった県(九州圏、東北圏、東京圏)等もあり、穏やかであった県(北陸圏、中部圏、)等があり、その中でも「岩手と東京」は真にこの「3つの災難」の厳しい地域に当り、且つ、何れも周囲の県に比べて「神明系3社」の社数が不思議に少ない県です。大きく「4−6の規則」外にあるのです。
この「岩手と東京」は、この影響を大きく受けた地域で、「高位格式社」を充分に遺し得なかったし、且つ、寛永年間以降明治期までに完全に戻し得なかった結果であり、何とか遺し得たのはこの「疑問社名」の「対策処置」であったと観られます。
まして、この東京は秀郷一門の武蔵の領国内の一部です。この領国の一部に集中した18社ものが到底「分霊社」とは考えられませんし、在り得ない事で、「分霊許可」も幾らなんでも「特別賜姓族」の青木氏でお膝元であったとしても下りる事はあり得ません。
自らがその様な厳しい39もの「仕来り、決り事、規則慣習」を護ってきたにも拘らず破る事等も在り得ません。
そうすると、遺されたのは岩手と同じく、「郷社格」「村社格」の神社一般の廃絶などに向けられた「3つの災難」から逃れる事への「神明系3社の対策」で在ったのです。
だから、「神宮の神明系2社」の「威厳と尊厳」を使っての「東京18社の社数」であって、「分霊社」に見せかけたものであったと考えられますし、故にこの「18の社歴」は不祥なのです。
そうすると、東京の「神明系3社」の ”「神明社」は6、神明神社は2 神明宮は3” は、主要国の新潟、愛知などと比べて本領でありながら少な過ぎる事を考えると、18は補える「社数」と成ります。

「神明社」は上記した様に「神宮の神明系分霊2社」と同じく「威厳と尊厳」で「3つの災難」の影響からある程度(10%)逃れられましたから、そうするとこの「東京18」は元は「神明神社」であった筈です。

「神明宮」は上記した様にその「呼称の仕来り」から、この広域武蔵域の本領の一部の東京には支流族は少なかった筈ですので、「神明神社」で「社名付き・・神社」の呼称と、「郷社格式」や「村社格式」の「一般神社」と「・・神社」で類似するところから間違われて「3つの災難」の影響を神明系でありながら大きく受けたと考えられます。
何れも秀郷一門の宗家のこの処置であって、故に「特別賜姓族」の暗黙の了解を得られ採った処置と考えられます。

結局は、「東京18」は、岩手と少し違い、政治性と地理性が余り働かない基からの神明系3社で「退避処置タイプ」なのです。

東京の「社名つき神社」も「・新潟6・岩手5・佐賀1・徳島3」の4県の様に、「東京1」で少ないのはこの事の影響を受けた事から来ていると考えられます。

・新潟に付いて
ところで、「佐賀と徳島」は別としても、「仕来り、決り事、規則慣習」の影響を強く受けている「岩手」は上記の通りなのですが、では果たして最大の難問の「新潟6」は何なのでしょうか。
「建設条件の数式」には全く問題がありません。代表的な地域圏です。
それは「新潟6」には地理的要素と秀郷一門の要素が大きく働いたのです。
上記数式の不等号が成立するも、Aの左辺の「地理条件」が大きく成り、右辺のレベルを越えたのです。
特に上記の「建立限界値」の問題が、ある一時の「時代的な影響」を大きく働いたのです。
「新潟6」は次ぎの通りです。

新潟
1  西奈弥神社  村上市羽里町
2  (能崎神社   西頚城郡能生町)
3  (羽森神社   柏崎市 1489年)
4  (船江神社   赤塚) 垂仁天皇期
5  (羽黒神社   村上市羽黒町 桃山)
6  (菅谷宮    新発田市)

先ず、この「6つの社」は北から南に分布し「地理的要素」が働いている訳ではありません。   
創建時代は「平安末期から室町中期前の建物」であり、その「創建年代」が「羽森神社1489年」を代表する様に、特別な歴史的な経緯を明確にしている状況でも有りません。
社歴からは確定するものは見付かりません。
創健者は「建設様式」から「西奈弥神社」以外は疑問もありますが、次ぎの「共通項」を持っています。

1に付いては、「神明社」であったが、「保食神」として、「日子刺肩別命」を祭祀
2に付いては、「神明社」であったが、「一般神社」に変更
3に付いては、「神明社」であったが、「産土神」を祭祀、合体祭祀
4に付いては、「神明社」であったが、「神明宮」を合体、垂仁天皇期と古さ記載 
5に付いては、「神明社」であったが、「保食神」を合体祭祀
6に付いては、「神明社」であったが、「神明系宮」に変更

全て、”「神明社」であった事、それが「何らかの理由」で「別の神」を祭祀する。” とする共通パターンです。
この共通の社歴から考察するに次ぎの様に成ります。

1と5は「保食神」を祭祀、「生活」「食料事情」を重視し変更
2は「特定の性格を持つ神明社」では運営が困難化し、特定性を除去し「一般神社」に変更
3は考え方の全く異なる「産土神」を祭祀、合体は矛盾 「柔軟性」、「一般性」を強調
4と6は「神明社」だけでは無く「神明系」を誇示して祭祀の対象を広げた。

全て、先ず共通な事として、”「神明社」では時期的な影響を受けて運営が困難、色々な「生き残り策」を模索している。”と成ります。
つまり、これは共通する室町期の時期から、”「下克上、戦乱期、3つの災難」に突入して、平安末期の北家摂関家の衰退が起り、その朝廷が崩壊し、「創建者の主権者青木氏」は「衰退と空白期間」に「弱体化」した為に、「神明系社」として何とか生き延びる為に、越後地域の「特別賜姓族」の神職の一部の青木氏は「主家の援助と支持」も侭ならず ”背に腹は代えられない”の事から「社名付き神社」に変身した” と云う事に成ります。
真に、これが「・・神社」の結論なのです。

本来は、「社名付きの・・神社」は、”「神明系3社」から変身した時に使う「呼称」”なのです。(決−40)

上記で論じた様に、「特別賜姓族の最大勢力圏」でさえも、何らかの理由や社会的な現象で「神明系3社」でも「消失、廃社」にまで至らなくても、例外では無かった事を物語ります。
主に「3つの災難」と云うよりは一時的な「財政的な困窮時期」が原因していた事を物語ります。
これは「2つの青木氏」の「2足の草鞋策」で財政的に強くなっても、室町中期頃を境に一時「566社」を維持するにはぎりぎりであった事を物語ります。
「社名付きの・・神社」はこの ”ギリギリ維持の現象” の象徴であった事に成ります。

上記の「建設条件の数式」はあくまでも「社名付き神社」に対する数式論ですが、「神明系3社」の「建設条件の数式論」は、A、Bに対して、左辺側に「戦略的」と「経済的」の2項目が入ってくるのです。
合せて「5項目の条件」が左右する事に成ります。

「神明系3社の建設条件の数式」
A 圏域内→  「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」<「仕来り、決り事、規則慣習」
B 圏域外→  「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」>「仕来り、決り事、規則慣習」

この5項目もの条件が絡んで来ると、色々な社会情勢が生まれます。
そうなれば必然的に右辺の強さとの関係がより敏感に成り崩れ易く成り、時にはABに拘らず右辺のレベルが左辺を超えてくる事もあり得ます。
その超える状況は、「時間的な速さ」に関り、急に起る事もあり得ますし、緩やかに起る事もあり得ます。
当然に、「人の強さと量」、「場所の良悪と距離」等も同じ事が起こり得る事に成ります。
この「人、時、場所の現象」が余計に「神明系社」に強く拘ってくる事に成ります。

(A、B)+「時間的な速さ」+「人の強さと量」+「場所の良悪と距離」

これが他氏と異なる「特異な立場」にあった「2つの血縁青木氏と2つの絆青木氏の歴史」であり、その「時代毎の生き様」として映し出されるのです。
従って、「青木氏の守護神」(神明社)を論じる事は、真に、この数式論によりその「生き様」を論じる事に成るのです。

この「5項目の条件」で次ぎの「皇族賜姓族地域」の「・・神社」の考察を続けます。
ここには根本的な基盤のような事が潜んでいるのです。

「*山梨3*長野1*富山1*石川1」も同様ですが、この4県にははっきりとした特長を示しています。
それは、次ぎの様に成ります。

「甲斐3と信濃1」の「皇族賜姓地」
「越中1と若狭1」の「移動末裔地」
以上の2分類と成ります。

この「2分類の地域」は、上記の「建設条件の数式論」から、真に「例外無のAタイプ」が存在する地域です。
そこで、「賜姓族地の伊勢」はお膝元で「神宮摂社125社」、その周囲地域は「85社の遷宮地」であり、そして「神明社の総社」が存在し、古代神明社の「神明社19社」が都を中心にびっしりと防御網を張り取り囲んでいたのです。
その為にこの地域には神明系社の「社名付き・・神社」等は存在し得ない「特別地域」でありますので、「神聖地域」の伊勢周辺には「社名付き神社」の「建立と呼称」は成り立ちませんし、その存在意義が成立する事はあり得ません。

残りの賜姓族地の「皇族賜姓族地」の「近江、美濃」は、前段でも論じた様に、「衰退滅亡地域」でありますので神明系社の「・・神社」はあり得ません。

・山梨3には、前段でも論じた様に、ある特徴を持っているのです。
「甲斐青木氏(花菱紋)」でも論じた様に、この地域の「寺社」に関しては極めて複雑であります。

「源光系の甲斐皇族賜姓族」と「時光系の皇族青木氏」の2流がありますが、下記のこの内の2つは「時光系」の「社名付き神社」ではないかと考えます。
「時光系青木氏」は「嵯峨期の詔勅」による「源氏系の青木氏」であると云う事で名乗った ”「河内源氏傍系支流末裔族」である” としていますので「神明系3社」の「建立と呼称」は出来ません。
因って、明らかに「・・神社」の呼称と成ったと考えられます。    

山梨3は次ぎの3社です。 
1  神明浅間神社
2 (伊勢神社  中巨摩郡田富町臼井阿原)     
3 (伊勢神社  北杜市)

 天照大神社   釜額
 天照大神社   伊沼

従って、残る1社に付いてはある程度納得出来るのです。
つまり、「神明」と「地名」付きの「・・神社」ですが、この不思議な社名が問題です。
「神明神社」なのか「浅間神社」なのかと云う疑問ですが、これには実は一つ根拠があるのです。
それは「浅間山」でその「山」に意味があって、それは「5つの守護神」の基神の「自然神」の「山信仰」なのです。
「神明系3社」は「自然神−鬼道−鬼神」を基とする「皇祖神」の子神の「祖先神」なのですから、「神明」と「浅間山信仰」とは「同一で同格の祖」を持つ表現であります。
この表現には理屈が通っている事から、「甲斐の源光系の皇族賜姓族」の建立と成ります。
これは「源の源光」が「甲斐の賜姓族青木氏」を引き継ぎますが、この建立と考えられます。

2付いては、問題で上記に論じた「呼称の禁令」を破っています。
「伊勢」は特定の賜姓族以外(下記)に使っては成らない厳令です。それを敢えて使ったのです。
「賜姓族」はこの厳令だけは絶対に破る事は何があっても出来ません。自らの出自を否定する事に成ります。
それを破った呼称は朝臣族では出来ない事であり、しかし、何とか建立は可能とする氏となれば「皇族青木氏」以外にはありません。
この甲斐の時光系の源氏系の「皇族青木氏」は4流があり、1流は無血縁族ですので建立は財力がありましたが出来ません。
荒廃した甲斐青木氏の菩提寺の常光寺を再建維持したのもこの無血縁族の青木氏(養子嫁取り)です。
そこで、建立が可能と成ると時光系本家の本流青木氏だけと成ります。残りの3家青木氏は貧困の中にありました。
この青木氏が「神明系社の建立権」は直系の朝臣族ではありませんので建立権は無く不可能です。

そこで、「伊勢」を使ったのです。そして、それを「神明系社」に見せかけながらも、「伊勢=神宮」の印象も与えようとした策謀です。
この「本家の甲斐の皇族青木氏」は、「公家ニ条氏」の末裔と清和源氏の本流であるかの様な「家柄誇張」の策謀を繰り返した氏なのです。事実は偽称の疑問である事は判っています。
その一環として神社建設も「誇張の呼称」をした事に成ります。一事が万事です。
この「建設地域」が一つは南信濃に隣接し、もう一つは国府に近い所です。
この「2つの建設地域」はこの本家氏の集落地域でありこれを物語っています。

後の2流は貧困を極めて武田氏からも冷遇され、山奥の奥巨摩山間部に半農武士として生活をしていました。菩提寺の常光寺さえも維持管理出来ずに放置したのです。この「2つの社建立」は元より建立は不可能です。
(「甲斐青木氏の研究」(花菱紋)の論文参照)
社歴などは不祥で疑問ですが、建設時期は建立に必要とする勢力を持った武田氏系青木氏の勢力は武田氏が勃興してきた室町中期前の頃です。
その後、このこの「時光系の青木氏」は始祖の時光の時から内部抗争をして弱体化しますのでその能力は全くありません。
見かねた宗家の武田氏がこの青木氏一族の為に別に菩提寺を建ててやると云う事まで起こっていますし、まして挙句は浄土宗から曹洞宗に宗派換えをすると云う武家に有るまじき前代未聞の争いを起こします。
最早、この4流の青木氏はガタガタで生活も侭成らない状況であった事が記録に遺されています。
従って、恐らくは「常光寺建設期」と同じ頃ではないかと考えられます。
この時期の前後以外に神社などの建設能力は全くありません。
この「伊勢神社の2社」は「時光系青木氏」の家柄誇張の「偽称行為」です。

ところが、対照的に次ぎの「長野の伊勢」とは別のものなのです。
甲斐にはこの「長野の伊勢」の環境はありませんでした。
対比する為に論じます。

・長野1に付いては、次ぎの社です。
「伊勢宮神社」 長野市伊勢宮町
「伊勢社」   長野市東之門町

信濃は前段でも論じた様に、「伊勢青木氏」との連携は「政治、軍事、経済」等の全ての面に於いて完璧なくらいに親密な関係保持をしていました。此処「信濃」には「伊勢村」と云う村まで造り「伊勢」と「信濃」の「青木氏の融合氏」が興り定住していた地域なのです。
この「社の伊勢」は「神宮」の呼称の「伊勢」では必ずしもなく、「信濃伊勢村の伊勢」でもあるのです。
むしろ、「信濃の伊勢、伊勢の信濃」の一族的な血縁関係をも含む「親族的関係」にあったのです。
そもそも、この「伊勢の呼称」を正規に使える氏は、ただ一つで「伊勢の守護」、「伊勢神宮」の「護り役・御師・総師」の「施基皇子」を始祖とする「皇族賜姓族の伊勢青木氏」だけです。
この「伊勢青木氏」と「伊勢村」を作り「融合族」を形成する「皇族賜姓族の信濃青木氏」は、この「伊勢の呼称」の使用は「準使用氏」と見なされますし、現に本来の「青木村」にせずに「伊勢村」の呼称を使っている程なのです。
(天智天皇による「第4世族神明王の19の守護王」を始祖とする「5家5流」の5地域の「信濃王の青木氏」 「氏名」を「村名」とする慣習は皇族賜姓青木氏にのみ許されたもので、他氏は全て「地名」とする習慣があったのです。これは「嵯峨期の詔勅」により「青木氏の氏名」の使用と、その尊厳と権威と格式を護る為に「氏名」を「地名」とする事を禁じた事に依ります。)
従って、「神宮=伊勢」の呼称の禁令から、この信濃の「伊勢の呼称」は他の呼称とは別なのです。
「青木村」を使わず一段格式高い「神宮=伊勢」の「伊勢」の呼称を「村名」としたのです。
勿論、「神明系3社」に匹敵する社でもあるのです。
故に、「伊勢宮」の呼称であろうと、「伊勢神社」の呼称であろうと問題はないのです。
つまりは、この「2つの社」は真に「神明神社」であって「神明社」なのです。
神宮の「伊勢の呼称」であろうと「村の名前」であろうと、この氏は何れも使用可能な氏なのです。
況や、「準使用氏」であり、「伊勢青木氏」=「信濃青木氏」であるのです。

敢えて、「伊勢青木氏」=「信濃青木氏」のこの事を論じる為に其の他の項目にこの一つを入れたのです。
ところがここで、「伊勢青木氏」=「信濃青木氏」に匹敵するもう一つの「準使用氏」があるのです。
それは、「特別賜姓族の伊勢青木氏」です。(決−41)

「皇族伊勢青木氏」とは伊勢四日市で融合氏の血縁関係を構築する事のみならず、両氏の「融合氏」も「信濃の伊勢村」と同様に形成し、「伊勢四日市」に「青木村」を形成して定住しているのです。
(信濃青木氏との3氏の血縁性も高い)
従って、この「伊勢の特別賜姓族の青木氏」は武蔵の「宗家の特別賜姓族青木氏」と並んで、「神明系社」に対する指揮権は大きかったのです。
故に、「特別賜姓族」は「神明系3社」の建立を厳しい「仕来り、決り事、規則慣習」40を護りながらも「418社」もの建立が可能となり、且つ、「皇族賜姓族」を支えながらも、「4−6規則」で計画的に行えたものなのです。
それを実行する「2つの絆青木氏」もその行為に対して尊敬しこれに従ったと考えるのです。
だから、前段と上記でも論じた様に、「神明系社:566社」なのであって、民は「3つの災難」等にも拘らず「神明系3社」を原則除外し「2つの青木氏」を崇めたのです。
もっと広く云えば、事程左様に「第2の宗家の青木氏」との「親族」であると云う事等からも家柄身分に拘わらず「青木氏族の秀郷一門の永嶋氏を始めとする主要5氏」も同時に、「民の為に566社」も立ててもらっている事から、民から「尊敬の念」を抱かれ崇められたと考えれるのです。
結局は、この「伊勢の社名付き神社」は特別な慣習(決−41)なのです。

さて、そうすると、次ぎの「伊勢・・社」は何なのかと云う事に成ります。
実は、信濃の「伊勢・社」と同じく大変に重要な「青木氏の生き様」を物語る特別な「伊勢呼称」なのです。

この事に付いて次ぎに論じます。

石川
「伊勢神社」 輪島市
富山
「伊勢玉神社」永見市伊勢町

この「2県の神社」(実態は福井が入る)は、「一部信濃青木氏」、「信濃足利氏系青木氏」、「近江青木氏」、「近江佐々木氏系青木氏」、「甲斐武田氏系青木氏」の末裔等が「室町期の戦乱期」を逃れる為に、或いは一部は「平安期の動乱」を逃れる為に「石川や富山や福井」の「日本海側3県」に、神奈川、栃木、新潟に逃亡した「諏訪族系青木氏」の様な「一族集団的な逃亡」ではなく、「混乱期」を避ける為に、或いは「子孫存続」を図る為に、「事前退避」した者の末裔(退避族・家族親族)が定住した地域なのです。

中には8万石(青木紀伊守)や4万石(青木伊賀守)の青木氏が「加賀の戦い」で秀吉に敗れ、「敗残兵」としてこの「退避族」を頼って逃れた者もいるのです。

では、”何故この3県(富山、石川、福井)を頼ったか”と云う疑問ですが、実はこの奈良期の「越国」は「皇族賜姓伊勢青木氏」(越道君)の「古代故郷」なのです。
実は「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は災難を受けている「賜姓青木氏一族」の「退避先」をここに誘導したのではないかと推理しているのです。その根拠があるのです。
その「2足の草鞋策の財力」や「シンジケート力」を使って ”「確実な安全地域」に誘導して護る” と云う義務が「氏家制度」としてあった筈で、その力を使って安全に退避させたと観ているのです。
それが青木氏族を護り生き残らせる「最大の義務」で、それがあってこそ「皇族賜姓族の務め」であり「3つの発祥源」の本来の基本の務めなのです。従って、「3つの発祥源の青木氏」が ”子孫が絶える” と云う事があってはそもそも「政治的」にも「国民の安定と安寧」を図る「象徴」として、又、「皇族一門を支える戦略的配慮」からも朝廷は困るのです。

(次段で論じる事として、ある「決定的な特別な根拠」が「伊勢と信濃の2つの賜姓青木氏」に課せられていたのです。 青木氏の守護神−22参照 最後の論点)

まして、”この程度の事が出来なければ青木氏なんておこがましい。と云う”「青木家家訓10訓」の全ての教えなのです。

と云うのは、幾ら退避するとしても安全な地域に届けるには移動中の危険が大きく潜んでいて戦乱の中では極めて困難です。
勝利者側が「掃討作戦」を必ず敷きますので、家族等に「武力の防備」がなければまず殆どは無理です。そして、幾つもの歴史的に異なる「混乱や戦乱」にも全てこの3県に集中しているのです。
そして全ての各地の「皇族賜姓族地」の賜姓族の末裔家族が、時代が異なるにも拘らず全てこの3県に移動している不思議な事なのです。
定住しても一人2人ではありません。そうするとその生活に必要とする「経済的裏付」が必要ですし、ある程度の保護力も必要です。これはそう簡単な事ではありません。
これは「何かの力」が大きく働いての事であります。
それを実行できる力量を持った「皇族賜姓族の一族」と云えば「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の連携であります。自らの「伊勢の3戦い」以外に一切の戦いに組しなかったのはこの「2つの氏」であります。
又、この目的、責務を達成させるには本音では ”出来なかった” と云うべき事だったのです。
ですから「誘導する全ての条件」が整っています。”整えた”とするのが正しいのです。
「皇族賜姓伊勢青木氏」の「母方ルーツ」はこの「越の国の3県」です。ここを選んだのです。
そして、「退避の家族の安全の情報」や「心の拠り所」を確保するには「神明系5社」、3県で42社 全体の28%/148 7%/566 32社/42が神明社 集中地域させているのです。
この為にもこの「神明系社の力」が必要であったのです。

全ての「神明系社の建立地」は「賜姓族地」だけですが、「賜姓族地」でもないのに、ただこの地域だけは例外地なのです。其処に「3割近い神明系社」を集中させて適切に分布させ建立しているのです。
「何か、特別な思惑」があった事を物語ります。それでなくては「2つの賜姓青木氏の勢力圏外」でこの日本海の片隅の地域に集中させる事はあり得ません。
148社もギリギリの建設戸数であった事は前記しましたが、そんな中での3割です。
そして、其処に「全ての青木氏の末裔子孫」がこの3県地域に不思議に混在しているのです。
そして、その末裔は主に「商家」として生き抜いているのです。 これ等の事に ”絶対に何かある” と思う筈です。
更に、これまで20段で論じて来た中で、一つ「大きな疑問」を感じませんか。
”賜姓族、賜姓族としつこく言いながら、 ”何か論じていない事が抜けている” と感じませんか。

「皇族賜姓族」は「第4世族内の第6位皇子」の「朝臣族」ですね。
では、「第4世族内の皇子王族の真人族」はどうしたのか。何もしなかったのか、末裔はどうなったのか、遺せたのか、彼等の守護神は何なのか、等の青木氏で論じた数々の事の問いが浮かんで来ますね。
実はこの全ての疑問に応える回答が此処にあったのです。
それが、この「地域と退避地」に答えがあったのです。
(長論と成る為に、次ぎの−22で「皇族と5家5流賜姓族との関係の検証 (19守護王地の意味する処)」で論じます。)

「皇族賜姓族」は「第4世族内の第6位皇子」の「朝臣族」でありますが、その「退避家族」が末裔を此処に遺し、此処に至るには「至難の技」それを成し得たのは”伊勢青木氏と信濃青木氏の力以外には絶対にない”と断言出来ます。
では”その退避方法は”と成りますが、陸路は各地のシンジケートの連携、海路は「伊勢青木氏」の伊勢店の大船と堺店と攝津店の大船だと思います。其処までシンジケートの保護であったと考えられ、途中の宿泊は神明系5社であったと考えられ、そして私は大船で運んだと観ているのです。
一番安全で確実です。だから日本海側の港の持つ3県なのです。
そして、故に、ここに「28%の神明社32社」と、「神明神社8社」と、この「・・神社」2社を「神明地」ではない「賜姓族地」ではないこの3県に故に集中させたのです。
無駄に「賜姓族地」ではない地域に42社もの神明系社を建立する理由はありません。
この為の布石なのです。
この「退避族」(家族)はその里を頼っての地域であったと考えられます。
他の地域を頼る事は反って小単位の家族集団には危険を孕んでいて、逆に旗頭に担ぎ挙げられる等の事が起り、戦乱に巻き込まれる可能性が高い事に成ります。(現実に滋賀等で起っている)

この3県の「広域越の国」の南域には上記の氏の祖先(天智天皇、天武天皇、持統天皇)の母方実家先の末裔族が住む地域なのです。この地域は[全青木氏の始祖の地]であり、平安期−鎌倉期−室町期にはその先祖の末裔が「広域に小豪族化した郷氏、郷士の地域」なのです。
従って、この「青木氏の基ルーツ」の「郷氏、郷士の里」を頼った事に成るのです。其処に退避族の安定定住地を社会的にシステムとして構築したのです。
退避した武力を持たない小集団の家族の末裔は地主などに成っていない事等もこの事を物語っているのです。「氏再興」を果たした栃木などと大きく異なる処です。

4万石、10万石の「大名の末裔」と「敗残兵」がここを頼ったという記録は、ここが「皇族賜姓族系の青木氏の逃げる地域」である事を口伝で知っていた事を示します。
そして、代々奈良期からそれが「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の「仕儀」であった事も知っていた事にも成ります。(敗残兵が本当に逃亡したのかの矛盾と疑問がある。)
「皇族賜姓青木氏の氏家制度」が室町期末期まで続いていた事を証明する事にも成ります。

因みに、これを証明する事として、実は明治9年までに続いた「隠れ浄土宗系の宗派の集団」が起した「伊勢周辺の武士と農民の大一揆」に背後で「経済的支援」をしていたのは「伊勢青木氏」と「伊勢加納氏(加納屋)」であった事も記録として残っている事からも、明治初期までこの「態勢力」を維持していたのです。

実は本論のこの調査で判った傾向として、”この「退避地の末裔」の多くは傾向として「商い」をしている”と云う事なのです。重要な事なのです。
この「3県の神明社42社」の「境内の碑」に記された内容を観ると「・・屋」とする「商人の寄付」が多いと言う事です。これは明らかに「伊勢と信濃の商いの影響」を受けていた事を示しているのです。

これは「退避地での自立」に向けて、「武」ではなく「和」の「商」を選んだとし、それを「伊勢と信濃の商い」がこれを誘導した事を物語るものです。「和紙」に限らず地場産業の殖産販売として「支店的な活動」をさせて自立を促したのです。

「5家5流25氏の青木氏外」にも「丹治氏系青木氏」等の「嵯峨期詔勅の皇族青木氏」も「夏冬の戦い」で退避しているのです。確認は取れないが、家紋群から「花菱紋の存在」が確認出来るので、「甲斐の武田氏系皇族青木氏」の一部末裔家族が事前退避している可能性があるのです。
敗退後の甲斐の皇族青木氏は、「埼玉鉢形に集団移転」させられているが、「青木氏の退避地」がある事は口伝で事前に承知していた筈なので、確実に子孫を遺す意味で、戦い前に事前に戻る事も承知で女子供の一部家族を「退避地」(保護地)に移動させている可能性が高いのです。

そもそも戦いで負けて逃げ込む場所の「敗退逃避地」ではなく、ここは「事前退避地」の意味が強かったのです。それは「敗退した兵や族」が逃げ込めば「敗残兵の掃討作戦」を勝利者側は確実に行いますので反って戦いに巻き込まれる事もあって「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」は許可しなかった筈です。
上記の「紀伊守と伊賀守の末裔と敗残兵」の「逃亡の記録内容」には問題があると観ていて、家族に付き従った「家人」では無かったかと観ていて、確認は出来ませんが「記録表現の誤り」と考えます。
先ず、この「逃避地3県」に安全に事前に移動させるにも「伊勢青木氏」「信濃青木氏」の了解が必要であり、且つ、退避する手段の「船や陸送」もシンジケートを使って頼らなければ成らない訳ですから、「兵」が付き添っていては「巻き添え」に会います。 ”勝って気侭に退避する” と云う事には成らない筈です。
退避後の「生活と安全」も看て貰わなくては成らない訳ですから、必ずお願いする立場からは「信義」を護る筈です。
戦いに勝利する事で、又、元に戻る手段もお願いしなければ成らない訳ですから、「決まりや信義」を必ず守った筈です。退避しての「当面の避難所」もこの「42社の神明系社」である訳ですから間違いはないと考えます。

ここで、前段からの情報として、間尺にあわない一つの疑問が湧きます。
この疑問の検証は、”この「退避地」が何時ごろから始まっていたのか” と言う事をも説明する事にも成ります。
それを物語るのは、平安中期に起った次ぎの信濃の事件です。
信濃には陸奥から秀郷一門との血縁族の「花房氏」が一門の赴任先の移動に伴ない移動し、勢力を得てここで豪族(土豪)となります。然し、ここには「信濃足利氏系本家」が定住していました。この二つの氏が血縁します。
ところが、秀郷一門は「内部争い」から一門の言う事の聞かない「信濃足利氏系本家」を潰しに掛かります。そして、この「血縁族の花房氏系の分家」に「秀郷一門から跡目」を入れて、こちらを本家として立てて援護します、そして挙句は「元の本家筋」を追い出します。この「元本家筋」は「皇族賜姓信濃青木氏」と血縁していて「信濃の賜姓族」の「足利氏系青木氏」が発祥しています。
そこで、この「元本家筋」は信濃から逃げ出します。この時、゜賜姓族の足利氏系青木氏」の一部が付き従います。そして、逃避して遂には、鳥取の「八頭と米子」に辿り付き定住します。
ここは「賜姓族地」では全く無く、むしろ「出雲大社族」の領域の所領境です。
諸々の勢力の「緩衝地帯」とも言うべき地域でした。
秀郷一門はこの「陸奥血縁族の花房氏」を「土地の豪族」として大きくし、「信濃足利氏」と血縁させて分家とし、其処に一門から「跡目」を入れて甲斐を挟む勢力圏を構築する狙いがあったのです。
そうする事で関東域と古代の東海道域圏を押さえ込む事が出来ます。
その覇権争いの前哨戦であったのです。
「信濃足利氏」にして観れば、まだ室町幕府の栃木の足利氏と共にまだ然程大きくなく、結局、この分家の足利氏が最終全国11国を制する程に大きくなります。
然し、「栃木足利氏」との勢力抗争も起り、遂には衰退を始め11国の尾張の守護代を頼り、その守護代の織田氏に乗っ取られて足利氏の斯波氏は滅亡します。
「足利幕府の基盤」を作ったのはそもそもこの「信濃足利氏」であったのです。
(11領国の一つ陸奥斯波の地名を採り斯波氏を名乗る)
この平安期の前身の本家筋の事件での逃避地です。
上記のデーターでも判る様に、ここは鳥取は全く「神明系社」が無い地域です。ここに逃げ込んだのです。
以上がこの事件の経緯ですが、この事、何か不思議ではありませんか。

先ず、何故、この「青木氏の退避地」に定住しなかったのでしょうか。
この「退避地」(保護地)とこの「足利氏本家」と「足利氏系青木氏」の元の定住地は、「信濃」と「美濃」と「越中」の「国境地域周辺」に元々住み分けし定住していたのです。
富山、石川、福井の3県とは直ぐ北西の隣接域です。
最も逃避しやすい地域ですのに、然し、「若狭の福井」を越して「因旛の鳥取」まで逃避しています。

この経緯の中には次ぎの重要な事が潜んでいます。
1 この退避地の設置時期とその完成度期(退避地の歴史的経緯)
2 この退避地に留まらなかった理由(退避地の受入条件)
3 この時期の3県の「神明社系」の建立社数の程度(退避地の保護能力)

では、この事に付いて、考察し検証します。
この事件の起った時期ですが、平安中期前後の1000年頃です。
この頃の「2つの青木氏」の状況は、先ず、「皇族賜姓族」はやっと大化期の頃から始まった「古代和紙」の「伊賀和紙」を信濃に移して900年前半代に「信濃和紙」が殖産出来ました。
「伊勢と信濃の青木氏」は守護としてこれを売りさばいていた頃ですが、「平安期の初期」に始まった「衰退期」から何とか脱しようとして、これを契機に1000年の前半初期に本格的な「商い」(1025年頃)としての販売に移り始めた時期の頃です。年代が一致しています。
この「2足の草鞋策」は、前段でも論じた様に、丁度100年後の頃の1125年頃に「豪商・大店」としても「本格的な力」を発揮し始めた時期に成ります。
「鎌倉文化」(1200年代頃)を経て「室町文化期の紙文化」(1340年代頃)と呼ばれ時期には「巨万の富」を獲得します。
記録によると、「地主」としての土地の大きさだけで換算すると、「50−60万石の以上の力」で、「商い分」を勘案すると「100万石以上 伊勢は58万石 最終は5万石の地主」(元は伊勢守護)を持っていた事が判ります。
一方「特別賜姓族」は、「千国の青木氏の賜姓」が940年代前半です。ここから「特別賜姓族」は急激に力を増します。
そうすると、力の付けた秀郷一門(秀郷958年没)が仕掛けたこの1000年前後のこの事件には、この「二つの青木氏」も共に再び「相当な力の持ち始めた時期」に成ります。
(この時代の状況判断から此処に逃げ込めた筈です。)

そこで、「神明系5社」の建設状況では、特にこの3県での「建設社数」ですが、「賜姓族地」ではないこの3県の「賜姓族退避地」(保護地)の「42社」の社歴を調べた範囲では、その「建立時期」を考察する事が結局は困難でした。
本質、これ等の「社」は、「古さ」から来る「威厳、尊厳、荘厳さ」等を重視される為に、敢えて「社歴の年代年数」を正確に明示しない傾向があります。
然し、この隣の「越後−信濃−美濃」域の「周囲の神明社」から状況判定すると、この1000年前の頃に既に建立されていた可能性のある「神明系社」は、県の国府に付近に集中している筈ですから、場所的要素から判断すると、未だ「20社程度/3県」であったと考えられます。

前段で論じた様に、「4−6規則」からと「平均4社/1郡」の事から判断すると、「1県4郡」と見ると、比較基準としては「平均16社/県」と成ります。
そうすると、当時の「6社/県」(「20社程度/3県」)と比較すると、この「賜姓族退避地」に対しては、「混乱、戦乱、騒乱、内乱、事件」等の「退避条件」からのその「必要性」から「1/3」程度と成り、この社数は妥当な処と観られます。
(受け入れ条件は一応整っていた事が判ります。)

確かに、この「6社/県」(「20社程度/3県」)の内には、明らかに奈良期から平安初期までのものと観られる「建設様式」と、「社歴」を信用するかしないかは別として、この2条件から観ると「半分程度強」と観られます。特にその傾向は「富山側」にあります。
この「富山の理由」は、「越後と信濃と美濃」の3国境を接していた事によるのではないかと考察されます。
特に、「古い」と観られる社が「石川」に離れて「2社」あり、これは前段でも論じた「主要な初期の19神明社建立地」(4世族王 下記付録)に記している「石川の王」の「天智天皇の19守護王」の時の「神明社」であると観ています。

(参考 福井県西の「若狭」には「守護王」として「雅狭の王」が配置されていたが、この「雅狭王」は北滋賀地域の王 奈良期−平安期の「近江国」は「北域」と「国府域」と「南域」との「3政庁区域」に分けられていた。)
(参考 「大化の守護王」は守護地の地名を名乗る慣習があった。
例えば、施基皇子 伊勢の施基: しき :後に施基の地名が色又は一色等に変わる。他に奈良の磯城:しきの磯城皇子 川島皇子:佐々木の川島:佐々木皇子 全てこの慣習に従う。)
(参考 「石川王」はこの後、「吉備」、更に「播磨」と赴任するが最初の王名が通名の慣習と成る。出自地が「王名」と成る)

そして、この「2社」が上記の「石川の2社」(神明社1含む)であると考えられます。
この事から、明らかに大化期から「賜姓族地」を離れていても、この地名の石川には高位の「4世族王」の「守護王」を置いていた事の意味が出て来ます。
つまり、「石川」はこの意味で「重視していた地域」であった事を意味するのです。
「神明社」「神明神社」がある事自体が重要度を物語るパラメータなのです。
つまり、「奈良期と平安期」では、「神明社の存在」は一つの「重要地」である事の証しなのです。
「3つの発祥源」の責務を担った「皇族賜姓族の青木氏」を政策上つぶす事は絶対に出来ません。
その為に、「皇族者の子孫存続」を目的として「事件や乱」等から守る為の天智、天武天皇が最初に考えた「退避地的な地域」(保護地域)であったのです。(決−42)

この為に3県に対して、北側に隣接する「近江」には、南北の縦に「3つの守護王」を置いて補足態勢を採っていたのです。
そして、この「近江」から南域に隣接する「伊勢」を基軸にして挟む様に左右の5地域に「高位の賜姓族王」(融合氏)を配置したのです。
そして、”イザ”と云う時の退避地(保護地)として最も「美濃−信濃」に近い「石川」を基軸に左右に「2つの地域(福井、富山)」をその範囲領として「退避地」(保護地)としたのです。
要するにより確実で安全な「防護戦術の鶴翼の陣形」を敷いたのです。
無意味に1つの国にこの様に3守護王を配置する事はあり得ません。

この「戦略的配置」とは別に、次ぎの様な事を実行しています。
1 それを「不入不倫の権と神宮」で固く護ります。
2 「青木氏の守護神」を「皇祖神の子神」と定めて権威を高めて保護します。
3 「祖先神」と云う「独善の神」を持たせ上で、この「保護システム」の采配を「祖先神−神明社建立」と云う手段を駆使します。
4 指揮に対する権威を高める為に「最高位の王」として「融合氏の祖」の「伊勢王 施基皇子」を初代「指揮王」として定めたのです。
(「主要な初期の19神明社建立地:4世族王」 下記付録参照)

(参考 奈良期から王は「4世族」(宿禰族まで)までとし、「八色の姓」制度で変革したのです。
それまでは「6世族王」であった。「伊勢王」は最高位の2世族の「第6位皇子」「朝臣族」「淨大正1位」 「王位」にも順位があり重要地に応じて順位通りに配置された。)

従って、この事件の1000年頃の「退避地の神明系社の数」は一応「22社」とします。
最初の建立期は、大化期の「石川王の2社」(吉備、播磨の「石川王」別)であります。
これを一応645年とします。
事件の1000年の前の950年として計算すると「250年間」、「古代和紙」の信濃は900年頃として、この間に前記した様に「最小の衰退期間100年(MAX150年)」として、「100年間」−「22社」とすると、建設能力は次ぎの様に成ります。
 [ (22社/100年)*5 ]で、 建設は5年に1社程度と成ります。

これは上記で論じた「建設能力」に類似します。
5年に1社程度で退避地(保護地)に神明社を建立し始めた事に成ります。
その最初が「19地域の守護王の神明社建設」であったのです。
(その中でも上記した特令地の神宮の遷宮遍座地の一つで滋賀の「神明社」がもっとも古い)

結論としては、これで1と3は解決しました。
この3県に建立されていた事件前の神明系社は22社と成ります。
退避地(防護地)の「受け入り態勢」は時代と共に進み、「1社/5年」のペースで充実させて行ったことを物語ります。

さて、2の検証を次ぎに進めます。
この22社もある退避地(防護地)に、”何故、この「足利氏系青木氏」が伴う「足利氏元本家の集団」は留まらなかったのか” と成ります。上記した様に、「退避地」としては留まられた筈です。

この事件は戦乱ではありませんので「掃討作戦」がある事の危険はありません。ただ逃避するだけです。荷駄を引っ張りながら一族の集団が山道を越えて米子・八頭に逃避し到達したのです。
明らかに「退避地の充実度」で留まらなかったわけではない事から、次ぎの事柄が考えられます。

「足利氏元本家」は ”皇族ではない” と云う立場があり、「賜姓族分家の足利氏系青木氏」の一部の薦めにも拘わらず「賜姓族地」と云う概念に拘ったのです。
それ程、この時代には未だ平安期である事から「賜姓族」と云う「権威、尊厳」があり、これに対して「一信濃の土豪の立場」から遠慮したと成ります。(理由の1)

秀郷一門から危険を感じてその「影響力」の及ばない所の「鳥取」のこの ”「緩衝地帯」に逃避したかった”とする推測も成り立ちます。
皇族賜姓青木氏と特別賜姓青木氏の関係からこの退避地は余りにも秀郷一門の影響力の及ぶところであったからでもあります。(理由の2)

”この鳥取の八頭の「緩衝地帯」であれば未開の山間部を開墾して、一族を護る事が出来る” と考えた事もあり得ます。
その他の土地では、「土地の豪族」との間で「受け入れ」を断わられる事もあり得ます。
故に、この未開の誰の圏域でもない様なこの「緩衝地帯の山間部」を選んだ事が考えられます。
(理由の3)

何れにしても、「3県の退避地」に留まらず、逃避行を続けた理由はこの「3つの状況」を配慮した筈なのです。

つまり、その配慮の根幹は、「再興」のことより「子孫存続」に重点を置いた生き方をした事を物語ります。
その証拠に、鳥取には神明社系は全くありません。本来であれば賜姓族の足利氏系青木氏が付き従っていますから、「神明社系社」を建立できる立場にはあった筈ですが、宗家に対して建立するに必要とする条件を揃える事が出来なかった事が考えられます。それ程に「衰退した環境」の中にあった事を物語ります。
この「賜姓足利系青木一族」はこの米子域から東西に南北に末裔を大きく広げていません。本来ならば「青木村」を作る権利も与えられている訳ですがありません。
信濃を立つ時の「賜姓足利氏系青木氏」の”宗家に対しての苦しい立場”が目に映ります。それだけに上記の「3つの配慮」をしたのです。

一部、宍道湖の右側に青木氏の子孫が点在存在している事は家紋群でも判りますが、これ以外にはありません。この事からかなり閉鎖的に氏を護った事に成ります。
この状況証拠から、「2の問題」は検証出来たと考えます。

「元本家筋の足利氏」に付いての研究は進んでいませんが、「信濃足利氏系青木氏」から考察すると、上記の「3つの理由」から留まらなかった事が判ります。むしろ”留まれなかった事”に成るでしょう。

結局、この事件の検証からは、この「3県の退避地」は奈良期からある程度の能力を保持していた事が判ります。 
「神明系社」が22社から42社に成ったのは、「室町期の下克上と戦乱期」の要素から青木氏はよりその退避地の受け入れ能力を高めた事が判ります。

奈良期から平安期では、「1社/5年」で構築し、鎌倉期からは戦乱期の直前まで1330年−1200年で130年間 これで42社−22社で20社→20社/130年から 「1社/5年」と成ります。

「時代の混乱性」を「奈良期−平安期」に比して「鎌倉期−室町期中期」は2倍として考察すると、2倍のハイペースで建設を進めた事が判ります。
この「20社」は、上記で論じた「建設の能力」から可能な範囲であります。

「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、懸命にこの「退避地の補足」を「時代の状況」に応じて「神明系社の建設」に邁進した事が判ります。そして、最終的には全国比3割を占めるまでに至ったのです。

「2足の草鞋策の財力」とその「抑止力のシンジケートの能力」には問題が無かった事は上記した明治期の「一揆のバックアップ」の史実の事からも判ります。
特に、この「シンジケートの能力」は鎌倉期−室町期中期間では極端に高まったと考えられます。
それは「シンジケートの母体」は、「戦乱で敗退した氏族」を「経済的に援護」してこの「組織」に組み入れて保護して、”イザ ”と云う時にその代償を発揮するシステムです。
この ”イザ ”は「抑止力」のみならず「諸々の経済活動」にも寄与したのです。
伊勢青木氏−信濃青木氏が企画する「全ての経済活動」に働いたのです。
大商いの「荷駄の輸送と安全確保」、「神明系社建設の職人や下働人」等のありとあらゆる仕事に対して適時適切に指揮してシステムを動かしたのです。
「室町期の戦乱期」には、真に「政治、経済、軍事」の三面に対して忙しく働いた事が記載されています。
「伊勢シンジケート」が効率よく働いた史実の「南北朝の楠木正成の働き」がこれを物語っています。
混乱期の「敗残兵」の多くは逃亡して「山間部や海沿い」に移り住み、「山族、野族、海族」の様な形で生活をしていました。
普通は、前段の「陸奥安倍氏」のところでも論じた様に、当時の戦いの慣習では、「敗残兵」が捕まると「俘囚」として奴隷となり、女子供の家族は人身売買と成ったのです。
資料から室町期までこの悪習は続づいていたのです。
その悪習の中で、青木氏はこれらの青木氏に関係する「敗残兵」のみに拘わらず、全ての氏の「敗残兵」を、「退避地」ではなく、「伊勢−信濃シンジケート」の中に組入れて保護し、「集団組員」として生活保護を含む様な経済的な支援をしたのです。
これには兵だけではなく被害を受けた「村の農民」や「全ての職種の職人」等も「影の姿」で吸収したのです。
「今宮社系の遠州シンジケート」の蜂須賀氏や、「神明社系の伊勢−信濃シンジケート」の楠木氏などはこの一員であったのです。
単に「抑止力」の言葉で表現していますが、実は「シンジケートの構成内容」はこの様な「一種の退避地」の役目も果たしていたのです。
「3県の退避地」は「一族の子孫存続」の為の策であり、「伊勢シンジケート」はそれらの「関係族の救済手段」の為の策でもあり、この「2つの策」を構築していたのです。

この様に、考えてみれば、全ての「青木氏の存在」を影で関わり支えた「伊勢−信濃シンジケート」はなくては成らない存在であった事が改めて判ります。
そして、この「2つの策」に関わった無くては成らない前段で論じた「伊勢シンジケート」と本段の「神明系社 556」は切っても切り離せない関係にあった事が判ります。
そして、「4−6規則」と「決−41」はこれ等の関係を維持すべく「最大の条件」であったのです。

(参考 「4−6規則」は1地域に於いて「4−6社の建立」とする根拠の一つには「退避屋社」の距離にもあって、一つの地域を「50キロ程度、15里」が「昔の国の距離」の単位ですが、これを4−6社で割ると(3里)〜4里で(12キロ)〜15キロと成り、「休憩−宿泊」の丁度よい範囲と成ります。
これは「退避地」だけに関らず「29の賜姓族地」に於いても”いざ”と云う時の要件でもあったのです。
「4里」は、資料から一旅の「平安期−室町期代の移動範囲」とする記載もある。)

結局、「賜姓族地」に無関係なこの3県のこの2社はこの「皇族賜姓族」の「伊勢青木氏と信濃青木氏の建立」と云う事に成るのです。
だから「32の神明社」と「8の神明神社」と、「分霊社」を招く事の出来ないこの地に「社名つきの神社2」なのであって、「伊勢の呼称」は特定しないこの「退避族の末裔」の為に建立された事を意味するのです。
だから、総じて「伊勢」なのです。故に、ここが「全皇族賜姓族のルーツ」(越道君)なのです。

「武と和」
そこで、この3県の「社名付き・・神社」で論じたのには、次ぎの特記すべき事があったからなのです。
それは、前段で論じた様に、「2つの賜姓青木氏」は「武」の「発祥源」でありながらも、その存続は「神明社」に関り、「武による存続」ではなく、総じて「和の存続」であった事なのです。
その証拠が「和の象徴」の「神明社」であって、それに纏わる此処に記する「退避地の存在」なのです。
そして、直接、「武」を使わず、「シンジケート」と云う「影の力」の「抑止力」を活用し「善或いは和」として子孫を確実に遺し生き延びて来たのです。
他氏が行っていない「青木氏の退避地の存在」の意味する処は真に此処にあると考えているのです。
真にこれは「3つの発祥源」を果たす為の戦略であったのです。
その戦略が「神明系社」と「シンジケート」と「特別賜姓族の抑止力」と「退避地」で有機的に働いていたのです。

因みに、この事に付いての次ぎの象徴的な事件があったのです。
「信長の伊勢攻め」に継いで、「豊臣秀吉」は「青木氏の生き様」のこの事を「今宮社系遠州シンジケート」の一員であった「蜂須賀小六」に教えられ充分に承知し、「伊勢攻め」の際は「武」に依らず、自らの兵を使って吉野から材木を切り出し、谷から流し、兵による大工をさせ、前線の拠点城を建てる事をしたのです。(青木氏の影響を避けた)
そして、この様に「丸山城戦」の様に、直接「武」により戦わず、学者で歌人で智略家であり、「伊勢の特別賜姓族」の「遠戚族」でもある「蒲生氏郷」を廻して「伊勢青木氏」と談合させ、戦わずして勝利させる為に、一時、「伊勢青木氏」を新宮に移動させて「勝利の形」を作り、無傷で1年後に戻し、「5万石の本領を安堵」させ、「2足の草鞋策」も促進させる為に「松阪城造り」後には「侍屋敷の2区画」をも与えて、「和」で「伊勢」を解決させたのです。

これは何故なのかであります。
真に、「退避地と神明社」と「シンジケートと2足の草鞋策」に観られる様に「和の生き方」であり、人の心を動かし、「秀吉」はこれを認め、この「青木氏の賜姓氏」を潰さず生かす形で処理をしたのです。
「秀吉の立場」からすると、この「権威の象徴」の様な「目障りな氏」を先ず最初に潰す筈です。
然し、そうしなかったのです。
故に、賜姓源氏を含む「皇族賜姓族」16代16流16氏の中で、唯一正規に直系子孫を純粋に現在に遺し得たのは「笹竜胆紋の綜紋」を家紋とする「伊勢青木氏と信濃青木氏」だけなのです。
前段で論じた「3つの発祥源」の役目は真に達成されたのです。
それがこの「青木氏の守護神」=「祖先神−神明社」の論で判るのです。そして、この「退避地の存在」がそれを大きく物語ると説いています。


「大神宮と皇大神宮」
さて、次ぎは大神宮と皇大神宮を二つにして考察して見ます。
何度も同じデータを比較として使います。

神明社
       ・秋田25・愛知21・新潟13・宮城10・千葉8 ・東京6・岩手4・神奈川4
       ・埼玉3 ・福島2 ・栃木2 ・茨城2 ・広島2 ・山形1・青森1・静岡1
神明神社
       ・秋田8 ・愛知4 ・新潟4 ・宮城2 ・千葉10・東京2  ◎ ・神奈川2
       ・埼玉9 ・福島2 ・栃木1 ・茨城1 ・岡山1 ・山形9  ◎ ・静岡7
       ・群馬3
大神宮
皇大神宮
       ・ ●  ・ ●  ・新潟2 ・宮城2 ・千葉1 ・東京2 ・岩手2・神奈川2
       ・埼玉1 ・福島2 ・栃木3 ・茨城1 ・広島1 ・山形5 ・青森1 ・静岡1
       ・熊本1−北海道1

上記の「神明系4社」を総合して観るとその「建立根拠」が良く判ります。     

神明系
4社総合
       ・秋田25・愛知21・新潟19・宮城14・千葉19・東京10・岩手6・神奈川8
       ・埼玉13・福島6 ・栃木6 ・茨城4 ・広島4 ・山形15・青森2 ・静岡9

「神明系4社」に神明宮を加えて総合的に観ると更にその「建立根拠」が歴然と証明されます。

神明宮
       ・ ●  ・愛知12・新潟34 ・ ●  ・千葉3 ・東京3 ・ ●   ・ ● 
       ・埼玉2 ・福島3 ・栃木8  ・茨城8 ・ ●  ・ ●  ・青森12 ・静岡9
       ・群馬9
神明系
5社総合
       ・秋田25・愛知33・新潟53・宮城14・千葉22・東京13・岩手6・神奈川8
       ・埼玉15・福島9 ・栃木14・茨城12・広島4 ・山形15・青森15・静岡18

先ず、「神明系4社総合」ですが「神明社+神明神社+大神宮+皇大神宮」を加算すると上記の通りの表と成ります。
この表の「大神宮+皇大神宮」の考察表で「秋田」と「愛知」が何故ないのでしょうか。この疑問が湧きます。これを解明すれば、「建立根拠」が浮き上がってくる筈です。

実は、これには「明確な根拠」があるのです。それを次ぎに論じます。
この表は先ず、次ぎの「4つの地域」に分けられます。これは地域としての分類ではなく秀郷ラインとしての分類です。(県別や国境別ではない。広島と岡山は同一とした)

1 青森2 →秋田25  −山形15 −岩手6 −宮城14    北陸ライン
2 新潟19→(山形)  −福島2  −栃木3           東北ライン
3 埼玉1 →茨城4   −東京2  −千葉19          関東ライン
4 神奈川8−静岡9  −愛知21 −広島15          東海ライン

前段で論じた様に、「特別賜姓族の勢力」の伸張方向で観るとこの様に見事に分類出来ます。
この「4つの地域」に沿って「建立の根拠」が配慮されたと考えられます。
この「建立の根拠」は「仕来り、決り事、規則慣習」と「威厳を尊ぶ格式」と「神明社と神明神社の建立数」とで「4つの地域」に依って配慮さられたと観られます。
問題は下記に考察する様に、この県域通りに勢力圏が成り立っていた訳ではなく、下記の注意に記した様に「県別」が昔の「国別」に成っていなかった事等の事から「秋田の様な事」に成ったと考えられます。

(注意 県別も然る事ながら、国別も、国境別にくっきりと判断されたわけではなく、何事も国境を越えた勢力圏で判断されていたのです。)

そもそも、この●印の秋田25と愛知21は社数としては段突です。
先ずは多い事も一つの「建立の根拠」ですが、多ければ必ず「大神宮と皇大神宮」が建立されると云う前提ではありません。何故ならば、其処には「皇祖神」の子神の「祖先神−神明社」と云う「社格」と云うものが働き、それに加えて上記で論じた厳しい賜姓族への「仕来り、決り事、規則慣習」があり、又、上記した「勢力圏」も大きく働きます。
「社」の事のみならず、何事にも「格式」を「社会の基準」として重んじた「氏家制度」です。
その中でも、特に厳格に守られていた「心の拠り所」の「社」に名をつけない格式等が厳格に守られていた環境なのです。
従って、其れなりに「高い権威」が「4つの地域」毎に保たれている地域に建立された筈です。
そうなると、「1の北陸ライン」であれば、このラインの主役、指令基地、つまり、最大の「権威と威厳と格式」の条件を保っているのは、「陸奥国の青森」と成ります。
前段で論じた様に、この陸奥は、秀郷一門の「鎮守府将軍」としての赴任地であり、関東以北の最大の血縁族を有し、秀郷一門の血筋の多くを占め、且つ、関東にはその陸奥の豪族末裔が「関東屋形」等と呼ばれる程の小田氏や小山氏や花房氏等の主要な関東豪族の出身地域でもあります。
況や「武蔵の本領」に対して陸奥は「準本領」と呼ばれる程の地域であり、この地域は江戸期まで一門の領国として維持された息の長い国でもあるのです。
ここに「大神宮と皇大神宮」を建立する事は最適で先ず一番に建立された地域と成ります。
この青森を基点として、ラインの国々に建立されて行った筈です。(神明社も同じであった)
そうすると、”秋田も”と云う事に成ります。この秋田の域の範囲は県別を前提した数字です。

然し、実はこの「秋田」が存在していた地域は、県別ではなく、「国境別の影響」を強く受けた地域なのであって、更には勢力圏が最も強く働いていた地域なのです。県別=国別ではないのです。
この勢力圏には「強い方向性」或いは「地理性」を持っています。(前段でも地域性を論じた。)
従って、この「秋田」は陸奥国(出羽の一部北側を含む国内)の勢力圏内であった事から、建立の適用除外された地域なのです。
既に、「青森」に建立されているとなると、「強い方向性」或いは「地理性」を持っている事から、陸奥の一部の「秋田」には建立は無理であります。

更に、前段で詳しく論じた様に、この地域は平安末期には「阿倍氏−安倍氏」と「内蔵氏」の阿多倍一門の「産土神の勢力圏」と成り、越後に近い「出羽の南部(山形)」と、「陸前の西側域」と「岩代の北側域」との「3つの地域」が支配していた地域でした。
この「3つの国」に挟まれた地域にはその影響力は当然に及びません。
この様に「支配地域外」と「守護神の違い」が強く働いていたのです。
上記した様に勢力圏にはこの様に「方向性・地理性」が働くのです。
当然に「建立の根拠」もこれによって支配されます。
この「秋田」はあらゆる面(国別、勢力圏、守護神、「立地地形」等)から影響を受けていた事に成るのです。それだけに、この「陸奥域」を後方から支援補足する必要性があり、それを実行する「新潟」に執っては「喉の刺」であったのです。
(別の意味で、故に秋田は大変に変動し苦労した歴史を持っているのです。)

この「広域陸奥域」を補足する立場の「新潟」は、「2のライン」の広域の「越国の根拠地」であった事から建立され、そこを基点としてその「2のライン」の他の地域に次第に建立されて行ったのです。
この「秋田」と同じくこの難しい位置にあった北陸域にも接するこの「山形」は、越後の支援を強く受け、「秋田」の他氏の支配域の伸張防止も含めて「陸奥の出羽国の根拠地」であった事から建立されたのです。

「県別、国別」以外にも要するに「勢力圏」とその「方向性」をも「建立の根拠」に影響を強く与えていたのです。
そして、「2のライン」は、武蔵の本領域を繋ぐ広域陸奥域の主要の国々、「3のライン」は広域武蔵国の本領域であった事から建立されたのです。

(現在の「県別」で考察しているので、昔は次ぎの「注意」の通りであった事から誤解を招き易い。下記の「注意」を特に本論には考慮が必要で、雑学としても是非お読みください。この「注意」に勢力圏が働きますのでその根拠で論じています。)

[注意1  「広域陸奥国」は、元は「磐城」(福島)、「岩代」(福島)、「陸前」(宮城)、「陸中」(岩手)と出羽の「羽前」(秋田)、「羽後」(山形)とで以上6域で構成される「陸奥国」であった。]

[注意2  「広域越後国」は、元は山形の一部を含む「越後」(新潟)、「越中」(富山)、「佐渡」、加賀(石川)、越前(福井)との4地域で構成される「越国」であった。]

[注意3  「広域武蔵国」は武蔵(埼玉)、武蔵(東京)、上野(群馬)、下野(栃木)と神奈川 (相模)の一部と千葉(下総)の一部との6地域で構成される「武蔵国」であった]

[注意4  「峡域陸奥国」は、現在の青森県をベースに、岩手県の北の30%を南に伸び、秋田県の30%を南に伸び、日本海側より60%、太平洋側より30%程度内側に入った地域を国境としていた。
つまり、秋田と岩手の国境を挟んで突出した形状であった。

[注意5  「峡域越後国(越国)は、現在の新潟県をベースに、北側の県境より山形県側に20%北に伸び、山形県の日本海側に糸状に秋田県に繋がっていて、福島県の県境に20%を東福島側に伸び、栃木県と群馬県の県境をそのままにし、富山県の西県境付近まで伸び、長野県と富山県との3県境の地域を長野県側に延びた地域を国境としていた。
山形県と秋田県に繋がる日本海沿岸沿いの糸状域は陸奥に繋がる補給通路として抑えていたと考えられる。]

[注意6  茨城県、岩手県、宮城県、福島県、千葉県も昔の国境とは大きく異なっている。
現在の県境は地理的要素に依って決められ、昔の国境は歴史的経緯(勢力)に依って決められていた。
国境を走る北陸道、中央の山道を走る東山道 茨城と福島の太平洋国境から発し中部地方との県境を走る東海道との幹線道路とは別に、福井西側より日本海沿岸沿いに陸奥まで走る古代の通路があった。茨城を発し太平洋沿岸沿いに陸奥まで走る古代通路があった。
何れも幹線道路ではなく生活道路や補給路的な通路的なものであった模様。
これを特別賜姓族は勢力的に抑えて戦略的なものに使った模様が記録から読み取れる。]

「4のライン」の愛知21は、隣国は伊勢神宮の摂社等123社の三重であり、ここに「大神宮と皇大神宮」を建立する根拠は薄く、又、「権威と威厳と格式」を重んじる「伊勢神宮」は分霊を直ぐ隣に移す事は許可しないと考えられます。
それよりは普通の判断配慮ならば、”「子神の神明社」を多く建立する「配慮の地域」である”と考える筈です。故に、秋田25と同じく愛知21と2番目に多いのです。
特に、伊勢は天領地として「不入不倫の権」を奈良期から与えられた「三重」であって、国境は不動であったのです。、それに依って「愛知の伊勢」との西側の国境は当然に不動と成ります。
その区別そのものは、現在感覚であって、昔は国別はあったとしても勢力争いから常に流動的であって、その地域は殆どは「勢力地域」に相当していたのです。
「愛知21」はその意味ではこの不動の勢力地域に合致していたのです。
この事から秋田と愛知は建立の適用は除外されたのです。

これ等の事は更に「神明系5社総合」の表が上記の考察を完全に証明しています。
この表は神明のパラメータのみならず「特別賜姓族」のあらゆるパラメータにも使えるのです。
改めて、重要なデータであるので再記します。
目的順に並べなおして使用すると便利でパラメータは発揮します、ここでは数値順(役目柄)に並べ直します。

神明系5社総合(数値順)
     ・新潟53・愛知33・秋田25・千葉22・静岡18・青森15・埼玉15
     ・山形15・宮城14・栃木14・東京13・茨城12・福島9 ・神奈川8 
     ・岩手6 ・広島4(岡山)

「神明系社域の役割」
筆者の感覚では見事に総合的な指標と成っています。
「一門の戦略上の主役新潟」53    −陸奥域の補給拠点 一門最大の拠点 賜姓族の保護基地
「主神無の伊勢補佐の愛知」33    −西域の前線基地 西域の守り玄関口 他氏との調整役地
「陸奥の西補給路の秋田」25     −陸奥から南域の前線基地 神明系社建立最大地域 
「宗家筋の結城一族の千葉」22    −本領東の拠点 補給基地 「京平氏」との競合地域 
「武蔵と京の中継地点の静岡」18   −東海圏の要 愛知−静岡−神奈川の戦略ラインの確保
「広域陸奥の勢力拠点の青森」15  −全北域圏の要 武蔵−陸奥間の南北2大戦略拠点
「北青森と西愛知の中心点の埼玉」15−本領−総作戦指揮本部 「振り子の原理」役
「陸奥基地と本領の西壁役の山形」15−南北の勢力圏の防護壁−他氏を挟撃壁の盾役
「陸奥基地と本領の東壁役の宮城」14−南北の勢力圏の防護壁−他氏を挟撃壁の盾役
「本領北の防御の栃木」14      −北域の伸張拠点 賜姓族の保護基地 勢力盛り返し地域
「本領周辺防御の東京」13      −青木氏の集約拠点−青木氏116氏の本家本領地域
「本領東の防御の茨城」12      −本領の補給基地 血縁豪族の集約地域
「前線基地の福島」9         −賜姓族の保護基地−北前線の戦闘部隊 不安定域
「本領西の防御の神奈川」8      −伊豆賜姓族との連携地域 関東勢力圏の入口
「陸奥の東補給路の岩手」6      −南の前線基地 不安定地域 一門の最大苦難地域
「讃岐籐氏の勢力圏」4        −軍事、経済の独立性を保持した西の最大勢力地域

全国24地域の特別賜姓族のそれぞれの役割は武蔵本領より与えられていたと考えられます。
又、その様に、戦略的に地理性に合せて勢力地を拡大し、その勢力をある目的方向に進駐させ全体の防御網を構築していたと考えられます。
その印として「戦略的拠点」と「政治的拠点」としても「神明系5社」を巧みに配置していたと観るのです。
その指揮を「第2の宗家」が行っていたのです。
何故ならば、「神明系5社の建立と呼称」と「仕来り、決り事、規則慣習」の実行権を「特別賜姓族」として天皇家から与えられていたからで、これだけの大権を与えられていたからこそ成し遂げられる勢力圏です。それを「神明系5社の呼称」と云う手段で証明している事を意味しています。

つまり、この”「役目柄」の範囲で「神明系の5社」は配慮され計画的に建立され、呼称が決められた。”と云う事に成ります。

(神社の呼称群とその他の群を入れると、その「建立と呼称の根拠」に濁りが出て真のパラメータは出ません。)

「分霊の根拠」
さて、此処で「皇族賜姓族」はどの様に貢献してこの「分霊」を行ったのかと云う問題です。
既に、「神明社と神明神社」で「147社」を建立しています。記録では148社と成っていますので、せいぜい「分霊」として建立したのは2社止まりと考えられます。
(一社は最古の神明社、もう一社は特令地京の神明社)

その「主神の建立」は下記表の*印は三重の本宮を除いて「8社」です。この内、特令地の「大阪1」と「京都4」を除くと「長野1と山梨3」と成ります。
「大阪1」と「京都4」は、「2つの青木氏」にとって建立し呼称する権利と義務はありません。
これは恐らくは「朝廷の命」による建立と観られます。
そこで、「京都4」の1/4は、「皇大神宮」です。
下記の遷宮10が存在しますが、Cの「大」の字を「太」に変えて建立し、敢えて「伊勢神宮の仕来り」に従い呼称したと観られます。

この建立期から判断すると、「平安期遷都」と同時に京の都に分霊したと見られ、「桓武天皇」による建立と考えられます。遷都していて皇祖神を祭祀しないのはおかしいものです。
先ず最初にする行為の筈で、当時の慣習では遷都に「御魂」を入れる事が「遷都の第一の行為」です。
まして、「桓武天皇」は上記し前段でも論じた様に、遷都後に自らも神明社を20社建立していますので間違いはないと考えられます。

残りの「京都4」の2/4は「豊受大神宮」です。
これも「桓武天皇」である筈で、「内宮 外宮」を対として分霊している筈ですので、下記の「京都4」のAと成ります。

「京都4」の3/4は一地域に2社は「威厳と権威」を厳格にこの仕来りを守っていた事から分霊と成る事はないと考えられますので下記の「遷宮の10」のものと成ります。

従って、下記の「遷宮の9と11と12」は、この建立が「伊勢神宮の遷宮」の時のものであり、社歴が古い事は確認出来るし、「社の記録」は平安期初期には特別に伊勢4郡外123社外に「摂社」格扱いと成っている処から神明系社とは別扱いと成ります。

「京都4」の4/4は下記の「京都4」のDであり、同地域に2社建立は仕来り外ですので、「皇大神宮」に「神明」を付けて仕来りを守ったのです。

現実に、奈良期には次ぎの遷宮が行われていて、結局は、下記の2つの表から、「京都全8社」の内、4社建立で「大神宮」1と「皇大神宮」3と成り、「皇大神宮」は遷宮1と分霊2に成ります。
これで一致し、「太」と「神明」を付けて奈良期の遷宮10に対応した事に成ります。
故に、この「遷宮と遷都」に因って建立された社は大変珍しい呼称も4つとなる訳です。

京都の遷宮地
9  真名井神社(摂社)  京都府宮津市江尻      
10 皇大神社        京都府福知山市大江町内宮
11 笑原神社 (摂社)   京都府舞鶴市紺屋
12 竹野神社 (摂社)   京都府丹後市丹後町

確かに、仕来りの「社名」の付いていますが、この遷宮中の奈良期では未だ決められていません。
従って、「京都4」の神明社は、本データ「祖先神−神明社」では次ぎの様に成っていますので下記の「京都4」のBに成ります。

「京都4」
A  日向大神宮   山科区  東山神明社 7大神明社・
B  朝日神明社   此花区・
C  天照皇太神社 京都市左京区原地町
D  神明皇大神宮 宇治市神明宮西

この京都の遷宮社(皇大神宮)の9〜12と神明系A〜Dの間には「社名と地名」が異なっています。
このAとBは後に「神明社」に成っています。
特異な社格として、Aは大神宮と共に後に「7代神明社」の一つと成りました。

「遷宮神明社」
実は、此処で大変な史実があるのです。
それは「祖先神−神明社」の発祥に関わる事が「遷宮の遍座地」85「社」の中にあったのです。
それは次ぎの「神明社」です。

・ 特令地 遷宮地 神明社  滋賀県湖南市三雲

つまり、「神明社」として「最も古い神明社」の位置付けに成るからです。
そもそも、前段でも縷々論じた様に、再度、概ねに書き記しますと「神明社の歴史的経緯」は、次ぎの通りです。
「皇祖神」として定める前には、「遷宮遍座地」として85社と90年の歳月を掛けて遍座します。
そして「天智天皇」の大化期には「伊勢」の現在の地を最終遍座地として定めます。
ここを「皇祖神の地」と定めます。
そして、それを「天武天皇」がこの「伊勢社」を「正式な神宮」として祭祀に伴なう「仕来り、決り事、規則慣習」等の「式目と格式」等を定め、「国神」としての位置付けを定めました。
この時、この祭祀を行わせる為に「皇女」に「伊勢神宮」などの「高位格式社」の「斎王」として任じます。
そして、「神宮を皇祖神」の「子神」として「祖先神」を定めます。
これを「第6位皇子」に賜姓し臣下させて、この「祖先神」を「賜姓族の守護神」と定めます。
この賜姓族に全国に「祖先神−神明社」の布教を図らせ、その為に「神明社」を建立をします。
この時、「第4世族」までを「王」とし、この王を19の主要地の守護王に任じます。
先ず、その守護王に「19の守護地」にこの「神明社建立」を命じます。
「この皇族賜姓臣下族」は、天皇を護る「親衛隊の任務」と共に、「賜姓族」の「初代伊勢青木氏」は「伊勢の守護王」として「伊勢神宮」を守護する役目を司ります。
施基皇子を天皇ノ補佐として働かせ、伊勢には「三宅連岩床」に伊勢国司代として派遣を命じます。
「天智天皇」はこの時、同時に「遷宮遍座地」85の中から、先ず、「特令地」として滋賀に「遷宮神明社」(滋賀県湖南市三雲)を最初に定めたのです。
この「滋賀の地」はこの「遷宮地」として最有力地、(遍歴数/県 下記データ・印)であったのですが、「伊勢」に定めた為に此処に「皇祖神の子神」としてこの「神明社」を建立します。
次いで「19の守護地」に「皇祖神の子神」の「祖先神」の「神明社建立」を命じました。
ここで天皇家に依って累代に「3つの発祥源」に関わる皇族子々孫々の一つの「政治的戦略」が展開されます。(−22で論じる。)
その後、累代の男系天皇の「第6位皇子」の「5家5流賜姓族青木氏」と共に、「特別賜姓族」として「藤原秀郷の第3子の千国」にこの「青木氏の氏」を与え、「皇族賜姓族」と共にこの任に当らせます。
この結果、最終は566社を建立します。
この中で神明社は148社と成りました。(詳細は本段)
その最も歴史的な経緯を持つ「古い神明社」がこの「遷宮の神明社」なのです。
「特令地」の此処から「神明社」は始まったのです。

「遷宮と19守護地」
そこで、「遷宮と19守護地の2つの資料」には「青木氏」にとって根幹を示す大変に重要な意味を持っていますので、これに付いては考察してみます。

遷宮の遍歴数/国
 伊勢23  大和21 ・「近江13」  伊賀10  吉備6  丹波4  尾張4  紀伊3  美濃3

国数 9
社数 85

「5主要地域」
(大和+紀伊)     24 「飛鳥域」
(伊勢+伊賀)     33 「伊勢域」
(近江+丹波)     17 「近江域」
(尾張+美濃)     7  「美濃域」
(吉備)          6  「吉備域」

「主要な初期の19神明社建立地」(4世族王)

5家5流皇族賜姓地
伊勢
  [伊勢王](三重県 ・国府 松阪市)         
近江
  [雅狭王](滋賀県 近江−若狭地方)
  [山部王](滋賀県 草津−東近江−守山地方)
  [近江王](滋賀県 ・国府)
  [栗隅王](京都府 宇治市 山城国−久世郡地方) 
  [武家王](京都府 但馬国 若狭側地方)
美濃
  [美濃王](岐阜県 ・国府)
  [広瀬王](岐阜県 大垣市地方 国分 国分寺)
信濃
  [三野王](長野県 ・国府 信濃)
  [高坂王](長野県 更級地方)
甲斐
  [甲斐王](山梨県 ・国府)

賜姓末裔地(賜姓族保護地)
  [石川王](石川県−福井県 加賀−能登地方 )

遷都地  (特令地)
  [竹田王](大阪府−京都府 竹田地方)      
  [難波王](大阪府 摂津地方)
  [宮処王](奈良県 桜井市 金屋地方 つばいち)
  [泊瀬王](奈良県 桜井市−朝倉地方 長谷寺)

特別賜姓地(広域美濃 広域信濃)
  [弥努王](愛知県 尾張−信濃側地方)
  [桑田王](愛知県 豊田市地方)

大宰府地 (遠の朝廷 自治区)
  [春日王](福岡県 春日市地方)

(注意1 [5家5流皇族賜姓地]
この・印の「5地域の守護王」が始祖と成り、5代の男系天皇が賜姓し、臣下させて「第6位皇子」をこの地に配置し継承した。
その後も「跡目」が欠けない様に「皇子の跡目」を入れた。累代天皇に「第6位皇子」が居ない場合は、平安期以降には「賜姓源氏」の「朝臣子」を跡目に入れて継承した。

(注意2 「三野」と「美濃」と「弥努」は他の書籍等では混同している)

(注意3 「遷宮地」では、「伊勢域」、「近江域」、「美濃域」、「飛鳥域」、「吉備域」
(注意4 「賜姓地」では、「伊勢域」、「近江域」、「美濃域」、「信濃域」、「甲斐域」
(注意5 注意3と注意4を比較すると大きな意味を持っています。)

(「注意1から注意5」と「19守護王地」の関係の意味に付いては−22で論じる)
以上19人/66国

そこで、この2つのデータを使って考察を進めます。
「長野1」は信濃青木氏の建立に因るものと観られます。ここには「特別賜姓族」は存在しません。148社に入りますので問題は他と同じく「調査諸条件の合致」では問題はありません。
此処までは問題はないのです。ところが、次ぎの4地域には問題を持っています。

「大阪1の問題」
(特筆)
大阪1に付いては、「皇大神宮」 大阪市城東区今福南にあります。
然し、この記録は不明確なのです。賜姓族とは無関係の地でありますので「分霊」は困難であります。
「伊勢青木氏」の圏域は奈良の名張までの領域ですし、伊勢から「分霊」を大阪にするには問題があり、大阪に「難波宮」があるとしてもその経緯から「分霊許可」が出ないと考えられます。(次段−22で論じる)
従って、室町期中期までに建立されたものとしてはなかなか難しいところであります。

又、「皇大神宮」としては「遷宮の地」でも有りませんし、東大阪は未だこの地は淀川と寝屋川に挟まれた砂地の湿地地帯でしたので建立は可能かは疑問です。
恐らく、そうなると青木氏による建立ではないとすると「分霊」ではない訳ですから、室町期中期は考え難く、少なくとも江戸期以後の社で「分霊」ではなく何処からか移設したと考えられます。
移設でなくては「地理」と「歴史」と「皇大神宮の呼称」の関係から困難であります。
移設する事の出来た権力者はこの地では一人「豊臣秀吉」と成りますが不確定不祥です。
そうすると、”何処から移設したのか。”と云う問題が出ます。
移設出来ると成ると、「関西圏の遷宮地」から移設する以外にありませんが、現在は不明です。

(参考 調査等に依れば、この「大阪1」は、”ある地域(匿名)に存在し、「平安時代末期」に摂津国の今福村が開発された時に、「天照皇大神」を祭祀したとする地元の言い伝えがある。大正末期には稲荷社を旧大和川堤から移設した”とする資料もある。
これを調査するが「社歴詳細不祥、社殿格式不祥、様式等不祥、建立者不祥」で「建立期も根拠無」、「地理環境に矛盾」 「建立理由の希薄」。
この本宮36社中、この大阪「皇大神宮」だけが調査内容の全てが不明確、不祥で、勝手に建立できない「仕来り」に対しても、「一農村開発」、又、「稲荷社」がある処からも威厳から矛盾多し。「仕来り、決り事、規則慣習」が霧消した明治以降の建設とも考えられる。本宮唯一の不祥社で記録が不思議に消されている。秀吉が「伊勢の慣例」から逃れる為に一切の記録を消したか)

「山梨2の問題」
「山梨2」の一つは「外宮の分霊の大神宮(大明神)」で、「甲斐青木氏」の建立に因るものと観られます。
ここにも「特別賜姓族」は存在しません。残りの「山梨1」は「皇大神宮の建立」と成ります。
最後の一つは甲斐には嵯峨期の詔勅に依る「皇族青木氏」が存在しますので、この一族の主家が建立したのではないかとも考えられます。
然し、「皇族賜姓甲斐青木氏」が「皇大神宮」を2社も同地域に建立する事は「威厳と権威」を重んじ、格式を尊ぶ「皇大神宮」を2つも建立する事は不遜に当り分霊不許可に成りますので無い筈です。
「皇族青木氏の建立」としても考え難いものですし、その権利は無い家がらです。
そもそも、この「皇族青木氏」は内輪もめして建立するに等しい力があったかと云うと問題ですし、その出自も疑問なのです。元々建立する呼称する力は無かったと観られます。(甲斐青木氏の論文参照)

更に大疑問なのは、次ぎの事です。
・「天照大神社」2の ・「天照」は「皇大神宮」の呼称でありながら 「大神宮」に重ねて使うと云う呼称が起こっています。「皇」を「天照」に変えた事も考えられます。これが「山梨2社」にあります。
因って、この一つは大阪1と同じかとも考えられますが、「分霊」による建立権利のない「皇族青木氏」が敢えてこの様な呼称を使ったとも考えられ、「時代性」「建立形式」などの諸条件は整っていますので「大阪型」とは異なると考えられます。
異なるは「呼称と2社」の問題があり、これに付いて確定出来ない状況である為に「皇族青木氏型」かは現在は判定出来ません。つまり、不祥の疑問社です。
実は甲斐は何事にもこの様な疑問点の多い所なのです。

「近江と美濃の問題」
ここで、何か不思議ではありませんか、「近江」と「美濃」のデータが「神明系5社」には出て来ません。
滋賀3の「神明社」としてありますが、この近江は昔は、「丹波、丹後の西域の近江」と、「美濃に接する東域の滋賀」との2域に成っていて、此処では「西域の近江の東域の滋賀」の地域にあります。

(注意 国別は現在の県別とは大きく異なる事に注意 更に平安期−鎌倉期の国数も異なる。
地域として記述すると次ぎの様に成ります。
A 兵庫−播磨、摂津域、        「2域」
B 滋賀−近江、滋賀、丹後、丹波域、「4域」
C 大阪−摂津、難波、和泉域     「3域」

この「近江と美濃」は平安末期に衰退し滅亡した事は前段で論じました。
もう一度簡単にお浚いして見ると、次ぎの様な敬意を辿っています。
「近江青木氏」は、「天智天皇」により「伊勢青木氏」と同期に第7位皇子も特別に佐々木の地名より近江佐々木氏が賜姓され臣下して発祥しました。
その後、「文武天皇期」には青木氏の無い近江に近江王として賜姓青木氏が継承発祥させたものです。
その後、直ぐにこの2氏の同族血縁が生まれ「佐々木氏系青木氏」が誕生したのです。
然し、「近江佐々木氏」と「近江青木氏」との「同族争い」が起り、戦いを避ける為に「近江青木氏」は赴任もあって一族挙って美濃に接する「東域の滋賀」に移住したのです。
「近江青木氏」は再び「西域の近江」に戻るのですが、「東域の滋賀」(地名域)には一部の娘だけの分家が残るが結局は絶えます。西域に戻った「近江青木氏」は更に兵庫摂津域に移動定住します。
然し、「近江青木氏」が衰退した事を狙いその断絶分家を乗っ取り、伊賀上山郷から出て来た上山氏が「滋賀青木氏」を名乗ります。
その後、、矢張り「佐々木氏系族」との軋轢が起り兵庫(摂津側)に移住したのです。
その後、「源平の戦い」で近江佐々木氏一族と共に賜姓近江源氏に味方して滅亡するのです。
残った「近江青木氏」は美濃に移動して「賜姓美濃青木氏」と賜姓族の「美濃土岐氏系青木氏」と共に美濃、尾張源氏の「美濃源平戦の富士側の戦い」に参加します。
「近江青木氏一族」と「美濃青木氏一族」は、近江、美濃、尾張の源氏と共に完全滅亡するのです。
平安末期の事であります。
桃山期に秀吉面前で、この「上山氏の滋賀青木氏」と摂津の「近江青木氏」の残存支流の「末裔集団」とが「青木氏の名籍」を奪ったとして決着を付ける為に何れも「250の兵力」で戦います。
結局、「上山氏の滋賀青木氏」が勝利して名乗る事を許されます。摂津の「近江青木氏の残存末裔」はますます衰退して仕舞います。

以上がお浚いの経緯ですが、この「皇族賜姓近江系の青木氏」と「皇族賜姓美濃系の青木氏」の2氏は、「皇族賜姓伊勢青木氏」と「皇族賜姓信濃青木氏」と「皇族賜姓甲斐青木氏」の3氏とはその生き方を異にしていたのです。
後者3氏は「源平戦」に参加せず、衰退を食い止める為に「古代和紙殖産」を商いする「2足の草鞋策」を採って生き延びて何とか「親政族の勢力」を保持したのです。
この為に、当の前者2氏のその一門は平安末期の滅亡はもとより「桓武天皇」の「平安遷都」とその「軋轢」により平安初期からその勢力は衰退傾向に既にあったのです。
恐らく、この「2つの皇族賜姓族」は「2足の草鞋策」を取る事に大きな抵抗を示したと考えられます。
要は、”その「使命」を果す事”への認識度とその態度が異なっていて上記する様に「武」と「和」の「生き様の差」と成っていたと考えられます。大議論が5家5流の賜姓族の間で起こりそれが元で疎遠に成っていた事も考えられます。1025年頃の事で古代和紙の殖産がこの5の地域に拡がっているが商いとしてのその扱い方が異なっている事から観ると、何かして経済的な裏打ちをしなくては成らないとする認識が有りながら「商い」のところの判断が異なっていたと考えられます。
特にその「2つの賜姓族」(「近江と美濃」)の「背景族(佐々木氏と土岐氏)の浮沈」を観ても、これ等の族を巻き込んだ大議論が起ったと観られます。そして背景族と共に衰退するのです。

「近江考察」
さて、この歴史的経緯から当然に「皇族賜姓族」としてその責務を果たす必要があり果たしたと考えられ、一部の記録にはその痕跡が遺されているのですが、実はその建造物はないのです。
何故ないのであろうか疑問が残ります。
それは平安初期からの衰退の原因もあるとは考えられますが、そもそも、その原因には前段で論じた寺社には別の面で大きな役割を持っていたのです。
それは、”いざ戦い” となるとその「前線基地の拠点」と成る役目を荷っていたのです。
また当時としては人が大勢に集まるところで「社交場」でもあった事から「全国の情報収集の拠点」でもあって、今と異なり「寺社」の持つ意味と役割は「心の拠り所」だけではなく、現在の多目的コミニティスホール以上のものであったのです。
それだけに、「勢力争いの拠点」と成り、先ず最初に叩かれ焼き討ちなどに会うのはこの寺社であったのです。そのために戦略的にその建立の位置や地理的な条件は山手に成り、国境や勢力の境界地点に頑強に建立されたのです。一種の「城的要素」を持っていて、「建て方」もそれに見合う城壁など巡らし「城郭的建築」と成っていましたし、長期の生活も可能な様に蔵群が要しての大勢を保有していたのです。
”いざ戦い”とも成れば、相手側は先ずはこの前線の「拠点潰し」にかかるは「戦略の常道」で、その為に消失が激しかったのです。
この「近江や美濃」は、「天智、天武、持統天皇」が主要拠点に配置した奈良期の「神明社19」にはこの地域(近江、美濃)も記録の通り含まれていたのであり、「祖先神−神明社」があれは当然に主神の内宮外宮の分霊もあったのです。然し、これ等はありません。
無い事は、当然の如くこの影響を大きく受けたのであって、「神明系5社の痕跡」がないのです。
記録があっても無い事は消失意外に何者でも有りません。
それを防ぐ「武力的な力」と「経済的な力」と最後に「戦略的な力(柔軟な知恵)」がこの「近江青木氏」等にに無かった事が大きな原因です。

筆者は上記の「大阪1の移設説」もこの弱体化した主権者の無くなった「近江」からのものではないかと考えているのです。移設が新しくても「社」本来は「古い社」であってここに記載したのであり、「大阪1の社歴」にも書かれている平安末期はこの「近江の歴史的な履歴」の時期と一致します。
何故ならば、「近江青木氏一部残存末裔」は兵庫摂津域に移動しますが、そこで嵯峨期詔勅による賜姓族「摂津源氏」の「後楯力」で、ある程度盛り返し「神明社」5社と「神明神社」6社も合わせて11社をも建立しているのです。
摂津に移動してからの期間で勢力盛り返したとは云え、この11社も建立し維持する能力(武力、経済力、職能力)は無かった筈です。特に建設する職能人の確保は出来なかった筈です。
例え、八幡社を信望しない「祖先神」を「守護神」としている「摂津源氏」に借りたととしても11社は多過ぎます。
神明系2社(神明社と神明神社)があれば当然に本宮の分霊を興して建立する筈です。それは現実には兵庫摂津域にはないのです。おかしいです。
”「社」を造り御魂入れず”のこの「有り様」は矛盾しています。
つまり、この近江は奈良期より格式から云っても伊勢に継ぐ地です。伊勢の本宮に継いで最大の「所縁の地」ですから、「神明社」はもとより「本宮分霊」が「いの一番」に行われるが必定です。
故に、「近江青木氏」と「近江佐々木氏」系列の一族が衰退し滅亡して、維持する主権者が無くなれば、この格式高い社を同族又は他氏は放置する事は有り得ず、西域「近江」から「本宮分霊」と共に移設したと考えているのです。その後に滅亡後その主権者が無くなり、結果として他氏が「本宮分霊」だけを兵庫の摂津、又は西域近江から摂津の国であった現在の大阪東域に移設したのではないかと考えているのです。(移設には攝津源氏の協力を得た)

上記大阪の「移設説の根拠」はここにあるのです。それを”実行できる摂津の人物は”と成ると「足利氏」か「豊臣秀吉」かに成り得ます。この城東地区は淀川と寝屋川に挟まれた河州であって安土桃山時代に埋め立てられたところですから、当然に「移設」に価する地理環境と其処に在する人口(農村を開拓したばかり)と元は少なかった事もあり豊臣秀吉に因って移設されたと観られます。
又、秀吉が大阪を政治の中心に据える以上は、「近江か兵庫摂津からの本宮の移設」は何としても行わなくては成らない政治課題の筈です。
上記した寺社の持つ意味からも政治の中心地として人口を集めるには最大の手段です。
人口のみならず政治に欠かせない情報収集の手段としても全国民の寺社の意味を持つ神明系社を移設建立するのが最初の課題であった筈です。
足利氏は京に政治拠点を置きましたが、逆に「近江」に集めなくては成らない政治手段で在った筈です。故に、その「移設者」は豊臣秀吉と考えられます。
稲荷神社併設は大正期ですので、その、歯止めとする「仕来り、決り事、規則慣習」は完全に緩んだ時期でもありますので問題ではありません。

「美濃考察」
これに必然的に絡んだ美濃も奈良期の天智天皇の神明社19の「所縁の地」です。
この地は、前段でも論じた様に、此処は「勢力バランスの緩衝地帯」であったのです。微妙な勢力関係が維持されていた地域であります。
ここには天智天皇は「美濃王」を置き「神明社建立19社」の一つを先ず最初に建立した地域であります。その後に於いて「特別賜姓族」はここに神明神社30社を建立しました。合せて神明系31社を建立した事に成ります。
然し、「滋賀3」と同様に「皇大神宮」と「大神宮」は建立されていないのです。
この近江(滋賀)にしても美濃(岐阜)にしてもこの二つの地域は「令制社域」であり、「天智天皇19社」(青木氏の守護神−19に記載)の国域でも奈良、京都に継ぐ「最大の令制国」であります。そもそも無い事そのものがおかしいのです。
「皇祖神の子神」の「神明系2社(神明社、神明神社)」を建立する以上は「親神の本宮」を建立するは上記の近江で書いた様に「仕来り」であります。
真に分霊の”魂入れず”の事に成って仕舞います。必ず建立した筈です。では何故、無いのでしょうか。
それは、「勢力バランスの緩衝地帯」であったからです。
「緩衝地帯」である以上、「歴史的なちょっとした遍歴」にも左右されるのです。
まして、近江で記した様に「社」は「戦略上の拠点」にも成り得るし、「城郭」でもある事からまず最初に影響を受けます。
「源平戦」を始めとして、下克上、戦国時代、土岐氏滅亡、美濃青木氏滅亡、美濃源氏と尾張源氏滅亡、岩手の様な「3つの災難」「長期間の各種の一揆」等、挙げれば暇が無い程であります。
微妙な「緩衝地帯」だからです。これでは遺し切れません。
江戸時代末期まで行った「廃絶処理」の「分霊の復元事業」があったにも関わらず遺し得なかったのです。「令制国の古参美濃」でありながらこの地域だけが外されています。
これは「長期間の各種の一揆」の影響であったからです。復元しても「一揆の拠点」として使われてしまえば政治的にも逆効果です。

そもそも上記した様に「南隣の愛知」にも有りません。此処は多少なりとも「緩衝地帯の影響」を受けていた事を物語りますが、ここは「特別賜姓族の地」です。その勢力の差は前段で論じた様に4倍以上の勢力を保持していた事から「神明系社33」を遺し得たのです。
岐阜は、三重と国境を接する地域でもありながら、皇族賜姓族の東隣の「信濃15」、「甲斐71」とし、何れも「分霊本宮」を持っているのに対し、美濃は存在しないのです。明らかに消失です。
少なくとも「地理性」から考察すれば、多少なりとも「信濃と甲斐」も影響を受けていたと考えられます。
然し、「信濃と甲斐」は「2足の草鞋策」と「シンジケート」と「特別賜姓族の抑止力」を「伊勢青木氏」と共に持っていた事から、この「緩衝地帯の影響」を排除出来たのです。
肝心な要因は「微妙な緩衝地帯の影響」に直接関与したかどうかの差です。
「信濃と甲斐」地域とは違いは、美濃は「2足の草鞋策の有無」「シンジケートの有無」「抑止力の有無」「直接間接の関与の差」が働いたのです。これだけ働けば「分霊本宮」どころか生存も侭成らない筈です。はっきりしています。(甲斐も「100年一揆」があったが遺し得ている)
「特別賜姓族」と「皇族賜姓族」の「建立と呼称問題」に付いて考察しましたが、かなりの「2つの青木氏」の「生き様」の「有り様」が出て来ます。     
そこで、更に詳細に考察し検証する為に、もう少し「建立分布の問題」を通じて続けて考察します。その表は上記の基データですが次ぎの通りです。

「神宮の基データ」
大神宮  ・青森1・新潟2・宮城2・栃木2・茨城1・埼玉1・東京2・広島1・熊本1
     ・計13/418=3.11%

     *三重1*長野1*山梨1
     *京都1(都の領有地 例外地)
     *大阪1(皇祖神遍歴の特別地)
     *計4/148≧2.70%

     −北海道1

皇大神宮 ・山形5・福島2・栃木1・神奈川2・岩手2・千葉1・静岡1
     ・計14/418=3.34%
     
     *三重1
     *山梨2
     *京都2(都の領有地 例外地)
     *計5/148≧3.37%

上記の神社のところで考察した伊勢神宮は合計125の全社宮を「神宮」と呼称する事は衆知の事ですが、この内、正宮を除く123社「摂社」等の所在地は三重県内の4市2郡に存在するのです。
例外として「奈良期の遷宮」の中に「摂社」の呼称を許された「神宮社」があります。
この「神宮社」には格式を守る為に「・・神宮」(神社)の・・の名が付かない「仕来り」があるのです。

(参考1 度会郡大紀町、玉城町・度会町、志摩市、松阪市、鳥羽市、多気郡多気町。)
(参考2 正宮2 別宮14 摂社43 末社24 所管社42 から成り立っています)  

従って、「皇大神宮」は「天照大神」、大神宮は「豊受大神」ですが、この「2つの呼称」は呼称の前に「・・大神宮」とか格式を守る為に「呼称名」を付けないのが威厳を守る為の「仕来り」です。
又、内宮の「皇大神宮」、外宮の「大神宮」の「皇祖神」は、前段で論じた様に、「祖先神」を「子神」としています。従って、その「社の建設様式」は「神明造り」の様式であり、「内宮外宮の呼称」の前に、矢張り、格式を守る為に「神明」をつける事は「仕来り」としてしないのです。
同様に、「伊勢の内宮」、「伊勢の外宮」の呼称にも「伊勢」を「固定の呼称」として指定し、他の社は「伊勢」の呼称をしては成らないとする「神宮仕来り」と成っています。
最も、大事な青木氏に関わる「神宮仕来り」が定められているのです。
それは上記した様に「神明社」等の「神明系5社」は「2つの青木氏」外にはその「建立と呼称の権利」を認めていないのです。
他にもその「威厳」を守る「仕来り」が複数あり、下記に都度説明します。
要するに、何れも「複数の呼称」を禁じていて厳格に「格式」を重んじている訳です。
(ここでは神社と神宮を同じとして扱う。)
そこで次ぎに一覧して考察して観る事とします。

大神宮19 皇大神宮17 合計36社

その結果は次ぎの様に成ります。
大神宮    格式−社名  有 15 無  4
皇大神宮  格式−社名  有  0 無 17

上記の格式の「社名の仕来り」から考察するに、「大神宮の外宮」に付いては、15/19と成り、正規の伊勢神宮系列に属さない神明系の「社」15もある事が判ります。殆どです。
「皇大神宮の内宮」に付いては、0/17と成り、全て系列の神明系の「社」である事が云えます。
つまり、これを判断するのには、「延喜式神名帳」と「延歴儀式帳」に依って、参考2の様に直径系列125社がありますが、実はもう一つの「神明族に与えられた特別の権利」があるのです。
それは、前段で論じた様に、「皇祖神」の子神は「祖先神」であり、その社は「神明社」で有ります。
依って、この関係から「分霊方式」と云う「伊勢神宮の霊」を分けて「神明族の関係の主要地域」のみに「豊受大神宮」と「皇大神宮」の分霊をして「分霊社」を建設する権利を有しています。
従って、上記の表の中にこの「分霊社」を見抜く事が必要です。
この為には、「伊勢神宮の格式の仕来り」をこの表に当て嵌めて選別する必要があります。

「豊受大神宮」の「格式・仕来り」を守った「分霊社の4社」は、「三重の本宮」を除いて、「青森1」 「山梨1」 「新潟1」 の「3地域の社」と成ります。「3地域の社」は大変に重要な意味を持っています。 

(新潟1は 大神宮に神明 「二重社名の呼称の問題」がありますが、この場合は問題は無し。)

とすると、「格式・仕来り」通りに呼称をしなかった「社名付きの15」に対して、先ず、”どの様に考察すれば
良いのか”と云う問題があります。
そもそも、この権利は、神明族外で建立する事は、上記でのデータでも判る様に当時の「仕来り、決り事、規則慣習」が徹底して守られていた事は判りますので、他氏が建てる事は社会慣習からその可能性が低く、仮に建てるとしても「社会の目」は「朝廷の逆賊」として社会はその「他氏を排除」する事は必定で、且つ、藤原秀郷一門の「第2の宗家」と呼ばれ、「特別賜姓族」でありながらも藤原氏の唯一の大武装勢力の護衛団を持った藤原一門を指揮する青木氏で、この「特別賜姓族の勢力」で以ってしても潰されるは必定です。
とても他氏はこの「仕来り、決り事、規則慣習」を破る事は先ず不可能です。
奈良時代から平安時代を通し室町期中期まで先ずは不可能です。
故に、「神明社、神明神社、神明宮」の「系列神社」の「建立地と呼称」には他氏と他地域は全く無かったのです。この「物語らずの圧力・暗黙の圧力」が社会全体に、「仕来り、決り事、規則慣習」を守らせていた事を明確に物語ります。
とすると、この15の「社名付きの大明神社」は、一体どの様な理由で分霊して建立したのでしょうか。それには実は前段で論じた様に「最大の根拠」があるのです。
「正規の純粋な分霊」と云うよりはこの根拠に因る建立であった事が15の地域を観れば直ぐに判ります。
「豊受大神宮」即ち、「豊受大明神」です。要するに、それは「生活の糧」の「物造りの神」なのです。
「物造りの神」として「分霊」を受けた為に、「仕来り」を重んじて「社名」をつけた事を意味します。
現に、同じ「分霊」でも「皇大神宮」17は全て「仕来り」を完全に重んじています。
内宮「皇大神宮」は全ての民の「心の拠り所の神」として崇められている「万人の唯一神」であります。
つまりは、「祖先神−神明社」の主神、「親神の内宮」の「皇大神宮」の「分霊」を先ず迎え、民の「心の拠り所」として据え、その上で、「物造りの神」として外宮の「豊受大神宮」「豊受大明神」の「分霊」を迎えた事に成ります。これも「建立と呼称」の「作法の仕来り」です
この「内宮と外宮」の「仕来り」を厳格に守り、「社名付きの大明神社」としたのです。
故に、「豊受大神宮」「豊受大明神」の「分霊地」の「仕来り」通りの「社」は「3社」(青森1 山梨1 新潟1)のみであったのです。
上記で考察したその「36の建立地」がこれを良く物語っています。
外宮の「豊受大神宮」「豊受大明神」の「分霊地」の方は、内宮「皇大神宮」の「分霊地」とは重複していません。つまり、必ず、どちらか一方にする「建立と呼称」の「仕来り」が存在した事を物語ります。

陸前域まで含む「広域の青森」は、前段で論じた様に、「陸奥の本域」で、秀郷一門の鎮守府将軍の地であり、一門の「最大血縁地」でもあり、最大移動定住地でもあります。この状況は江戸期まで続いた「準本領地」と云っても過言ではない地であります。
故に、北陸東北地域(広域陸奥域)の要として、先ずは青森に「格式・仕来り」通りに分霊地として建立と呼称を許可したのです。
其処に、15の「社名付きの大明神社」を「物造りの神」として配置したのです。

(明治2年まで広域陸奥は青森を基点として磐城、岩代、陸前、陸中、羽後、羽前の7つの国を呼称した。広域越後は越後を基点として越中、越前、加賀の4つの国に分割呼称した。奈良期では石川福井富山までを「越国」であったる。)

越前まで含む「広域の新潟」は、これも前段で論じた様に、陸奥域に続きその補給基地として存在した陸奥域を凌ぐ程に勢力を確保した地域であり、真に最大の「物造りの要の地」でもあったのです。


(皇族賜姓族地では下記参考の通りで、「皇大神宮」の「分霊」の「山梨2」には下記参考の「呼称問題」がある。後は「例外地の京都1」の3地域です。山梨は「偽称」で除外する)

では、「豊受大神宮」「豊受大明神」の「分霊地」のこの「仕来り」通りの「社」の「3社」(青森1 ・山梨1 新潟1)を ”15の「社名付きの大明神社」と同じとしても良いのでは。” と云う疑問が湧きます。(山梨2は除外する)

(偽称 参考 ・山梨2には、2つは次ぎの「呼称問題」がある。
・”「天照大神社」”の「内宮の天照」は「皇大神宮」の呼称であって、その呼称を「外宮の大神宮」に使う。両方の神宮を一つにした呼称とした。明らかに「偽称」である。
因って、山梨は、「豊受大神宮」「豊受大明神」の「分霊地」のみの1とする。因って、重複は「岩手」のみと成ります。)

(偽称 参考 ところがこの「岩手」は偽称等の問題等が多すぎるのです。 
・岩手には著しい「偽称問題」が存在する。それは「皇大神宮」の呼称です。
 「天照御祖神社 4」と「伊勢両宮神社 1」のこの「2つの偽称呼称」です。
然し、「御祖」(みおや)は「天照」の別呼称です。「二重重複」の呼称をしています。
完全に「分霊の仕来り」を無視しています。明らかに「偽称」です。

(偽称 参考、「伊勢両宮神社 1」の呼称です。
「伊勢」は「本宮2神」、「皇大神宮」、「豊受大神宮」の2つを以って「伊勢」とする事は前記した通り使用を禁じています。明らかに「分霊の仕来り」を無視しています。更には、威厳と格式を重んじる ”「両宮」”と云う「不遜な呼称」です。因って「神明系5社」から除外した。)

「偽称行為の持つ意味」
果たして、この「偽称行為」に付いて、”一体誰がやったのか” と云う疑問です。
「特別賜姓族」が、自ら全ての「皇大神宮」、「豊受大神宮」が持つ「仕来り、決り事、規則慣習」を重んじて建立を続ける事に、”自らが侮辱する様な事をするか”の疑問が湧きますが、これは絶対にあり得ない事です。真に、”自分の顔に唾”です。
そもそも、総じて、この「山梨」と「岐阜」と「岩手」と「群馬」と「大阪」は「神明系5社」の「建立根拠」と「呼称根拠」に問題が多いのです。

そこで、この「5つの地域」を観て見ると、一つ共通するものが有ります。
既に上記でも記述していますが、先ず、”歴史的に諸々の「不安定地域」である。”と云う事です。
「不安定地域」では「自らの優位性」を誇張しょうとしますからその結果、「偽称の経緯」が起こります。
地域が不安定に成った結果、建立された神明系社は「消失」の憂き目を受けます。
当然にその建立の「主権者」も滅亡の憂き目に会います。そうすると”何が起るか”です。
当然に、その後に勢力を得て豪族と成った者は、「民の支持」を獲得する為に、その「民の支持と信仰」を強く集めている ”「神明系社」を何とか作ろう”と動きます。
然し、その権利は「仕来り、決り事、規則慣習」上に縛られて出来ません。無理に作ろうとすれば「逆賊のそしり」を受けます。
その残された手段はただ一つで有ります。それは「神明系社」に似せて偽称の「社」を建立する以外にありません。それがこの「5つの地域」に起こっているのです。これが「偽称の経緯」と云う物なのです。

・問題の山梨は、前記した様に「皇大神宮」の「分霊の偽称問題」があり、70社に近い「神明系社2社」の「建立と呼称」が有りますが、”これだけの社数を建立する能力が「皇族賜姓甲斐青木氏」にあったか”と云うと、「不安定地域」であり、「三つ巴の同族争い」や「菩提寺の放棄問題」や「民の反発」を受けての「100年一揆」等が起れば神明系社の保存と維持と復元は難しかった為に”無かった”と明らかに判断できます。そもそも、「4倍の勢力」「最大勢力地」の「特別賜姓族の新潟」でさえ61です。
この社数から観れば、甲斐はせいぜい20社程度であり、「不安定地域」として観れば、「建立と維持」の能力は10社に満たない社数となる筈です。
それが70社、その70社の内訳は神明社33、神明神社29と大半を占めています。
この様な社数に成った理由が問題です。何かある筈です。
「特別賜姓族の新潟」に匹敵する勢力を保持していた室町中期までの「甲斐の勢力」とは、清和源氏の「河内源氏」の傍系と呼称する「武田氏」であります。
そして、ここには当の建立者の「皇族賜姓甲斐青木氏」の跡目を継いだ「河内源氏」系の「源の源光」の青木氏が存在し、その分家の賜姓族系の血縁族「武田氏系青木氏」が存在します。
更に、「源光」の兄の「源の時光」が「賜姓族の青木氏」を名乗る権利が無い為に「嵯峨期の詔勅」を使って「皇族青木氏」を名乗ります。
これが「河内源氏」を標榜する武田氏と血縁し末裔を広げます。この武田氏と3つのルートを持って深く血縁している「賜姓甲斐青木氏」は武田氏の援護を受けたのです。
ただ武田氏は前段でも論じた「河内源氏の八幡社」です。
武田氏は、”それを押してまで援護したか”の疑問が在りますが、同じ「清和源氏」とも成れば助けた可能性があります。現実に助けたのです。皇族青木氏に対して寺を建ててやると云う事もしています。
そうなると、どちらに重点を置いたかの問題です。
それを一つ補足する事が武田氏の行為にあるのです。それは上記の「寺」です。
武田氏は「時光系の皇族青木氏」を援護して彼等の2寺を建立してやっているのです。

(自ら建立した菩提寺の常光寺も同族争いを起こし維持管理がままならず挙句は宗派を曹洞宗に「宗派変え」しついには放置すると云う事が起こっていて、最後には無血縁の養子系青木氏常光寺を立て直すと云う事が起こっているのです。)

この事からすると、「源光系の賜姓青木氏」にも「神明系社の維持管理」に、或いは、「建立」に援護した可能性が在ります。この援護は「100年一揆」にも観られる様に、同時に混乱を極めていた「甲斐の民の支持」を得られ安定させ得る最大の政治課題でも戦略的課題でも在った筈です。
「不安定地域」ならではの事情が在った筈です。それが秀郷一門最大の補給基地で最大の勢力圏の「新潟」にも匹敵する「社数」と成って現れたのです。(「甲斐青木氏の研究(花菱紋)」の論文参照)

・岐阜の問題は前記でも論じた様に、同じ山梨と賜姓族地域であり、共に不安定地域で在りますが、やや政治的、戦略的な事情は異なります。他氏から甲斐武田氏に匹敵する程の「土岐氏」が存在しましたが、武田氏より早く滅亡しました。ただ、この岐阜は一つの逃げの対策を講じているのです。
それは”神明社1に対して、神明神社30”としています。その代わり分霊社はありません。消失した可能性が高いと考えられますが、この分家支流一族関連一統の力を借りて「神明神社」の呼称で成し遂げて「不安定要因」を交したと考えられます。神明社に対して消失は在ったにしても、”「下克上、戦国の戦火消失」からは多少は「神明神社」が免れた。”と考えられます。
そりは「神明神社」で論じた様に、一族一統とその郷氏まで含む「関連末端縁者一統」の力を借りていた事が、”下の者が上を潰す”と云う「下克上」から逃げられたからです。自ら下の者等が建てた神明神社を潰す事はしない筈です。自らを潰す事に成るからです。それを証明するのが「神明社1」なのです。少な過ぎます。この「神明社1」だけが彼等の力を借りた「社」であったのではないでしょうか。美濃青木氏は平安末期に滅亡しましたが、それは前記した様に、「生き様」の「有り様」で在ったのですから、その力はこれだけの社数を建立維持する能力は無かったのです。奈良期から賜姓族としての名籍の責務を果たすには、「一族一問一統の総力」を挙げての結果であったのです。
「神明社1」「分霊社なし」が全てを物語っています。

・岩手の問題は、上記で論じた通りで、陸奥の南の激しい「前線基地」としても、「3つの災難」のメッカとも云われる土地柄であって、当然に其処に上記した「偽称の経緯」が起こります。
この岩手の不安定地域は、その為に全ての「偽の発祥地」とも「偽の縮図」とも云われるところであったのです。そこに、昔からの「4つ目の災難」即ち、「地形上の変異の縮図地」でした。
常に緊張しながらの「前線基地」の「勢力の災難」と合せて、「5つの災難苦難」の地であったのです。これでは、その「維持管理」には「相当の力」を他地域と異なり必要です。鹿児島と同じく明治期の「廃仏毀釈」(神仏併合)の激しい様子から、筆者はこれに「土地の人柄」も左右したと観ているのです。前段で論じた「広域陸奥の俘囚事件の問題」等の「苦難の末の人柄土地柄」と成ったとも考えられます。
(この地は秀吉の蒲生氏郷に命じた「糞尿の戦い」で有名な城攻め、苦戦の「ごり攻め」をした「秀吉の最大の失敗攻め」と云われるこの戦いを最後に戦乱は終わります。)
先ずこれでは、”無理”と云う以外にはありません。”「神明社4」と「大神宮」1をよく遺し得た”と云えます。

・群馬の問題です。 上記でも何度も問題にして来ました「群馬」は「上野」ですので「下野」と合せて「秀郷一門の武蔵本領」の一つです。
此処には先ず、上記でも論じた様に、不思議なのは「神明社」が無いと云う事です。
その反面、逆に「神明宮」9と多いのです。「神明神社3」は納得出来るとしても、上記で論じた「神明宮」の位置付けです。
西には信濃、東には下野、北には越後と国境を接しています。この3つの隣接国は安定地域です。
確かに西の信濃には「信濃足利氏」の分家を立て跡目を入れて本家筋を弱体化させ、”米子に追い出す”と云う事をしましたから、この隣接国は領国並です。「不安定地域」とは成り得ません。
下野、上野には、神奈川の秀郷一門青木氏を頼って「信濃の諏訪族」が入り、この一部が下野の北側の「前線基地」に送り込みます。そして、下野を北側に伸張させた諏訪族はここを拠点に勢力を盛り返し、越後との連絡ルートを作り上げます。この為に上野は岩代との境界を強化したために結果として安定な地域に成るのです。この諏訪族は秀郷一門青木氏の後ろ盾で「上野−下野−岩代−磐城」の国境沿いに勢力圏を構築し子孫を拡げたのです。この「戦略配置図」から周囲は神明社がなくては成らない筈です。
現にこの栃木にも神明社と大神宮があるのです。諏訪社も多く建立されているのです。
”これは一体何故なのでしょうか。”
それは「群馬の歴史的経緯」から観て、県別、国別、勢力別、勢力伸張圏別の違いが起っているのです。
県別、国別では「無し」と成りますが、上記の賜姓系1氏を含む武田氏系諏訪族(2氏の合計3氏)などの「勢力別」と「勢力伸張別」(伸張方向)から判断して、「群馬の南側」には「神明社」は「武蔵の国範囲」として扱われ、後に建立されなかったと観られます。
北域はその意味で「諏訪族に与えた勢力圏」であった事から「産土神の諏訪社の圏域」とも成っているので、「神明社の存在」はあったとしても諏訪族伸張時の「戦い因る消失」で復元を結果として控えたと考えられます。
その代わりに下野と上野には特別に「神明宮」(8+9)の建立と呼称が多いのはその為であると考えられます。因みに新潟34、信濃7、常陸8の隣接国ライン状に多いのです。
前記した様に「神明宮の呼称の仕来り」による方法で明らかに処理したと観られます。
「産土神の諏訪族」であり、且つ、「信濃の神明族」でもある諏訪氏との調和を図ったのです。
信濃には「皇族賜姓諏訪族系青木氏」も存在する事から観ても、「仕来り、決り事、規則慣習」を守った全くバランスが採れた裁量であったと観ています。
諏訪族が秀郷一門の中に異質の氏が入って勢力を盛り返したとは云え、「やり方如何」に因っては極めて「不安定地域」で在ったのです。このライン上には実は「諏訪社」が大変多いのです。

この諏訪族を、”「賜姓族の分家筋、支流筋」等が独自に守護神を建立し、その呼称を「仕来り、決り事、規則慣習」から「宮」とした。”のことから、この分家、支流一族と見做し「宮」としたのです。
当然に庇護の下に在ったのですから、「社の呼称」を「宮」とするも「やり方如何」の最良方法は矢張り「血縁」であり、武蔵を青木家本家を中心に外に向けて分家、支流一族が「円状に囲む戦略」を採っていたのですから、群馬は「特別賜姓族」の分家、支流筋との血縁もあり、「分家、支流」として扱われるのには問題は両者に執って全く無い筈です。

・「大阪」の問題は、「皇大神宮の移設説」のところでも論じた様に、昔は難波、摂津の土地柄で、短期間ではあったが奈良期には「遷都」も一時あり、摂津は当時の最大の港でもあり清和源氏の本家の頼光系4家の土地柄でも有りました。然し、その後、この大阪の主役は兵庫摂津に移り、淀川の影響を受けて湿地帯が多く繁栄に問題を抱えていました。
此処には「賜姓族」、「特別賜姓族」とは「無縁の地」であり、因って、「神明系5社」には「無縁の地」であります。従って、「歴史的経緯」に於いても「神明系5社」に於いては皆無に等しいのです。
「近江−播磨−丹波−伊勢−紀州」に囲まれた中心の地でありながら、地理的環境(湿地帯でもあり河の氾濫)も多発する地域でもあったのです。それが原因で発展しなかったのです
決定的な事は、「近江−播磨−丹波−伊勢−紀州」の真ん中に囲まれていながら、それは「85地域−90年」の間に於いても「神宮の遷宮」にも入っていないのはこの為でしたし、「日本書紀」にもこの事が記録されている位です。それが室町中期まで続きます。
しかしこの反面、水に恵まれていた事から沿岸部は船の出入りが良く港が栄えていたのです。
後に「堺」が貿易港にも成るのです。その為に仮に「2つの賜姓族」の末裔がこの地に仮に住み着いたとしても「神明系5社」を建立するに相応しい土地が無く、あったとして「社」の持つ政治的、戦略的な目的を果す事は不可能でした。
そもそも、大阪とは「難波の象徴」であり、摂津は「兵庫の象徴」でした。
「難波」の語意の通り沿岸部の荒れる土地であり、裏意では難しいの”使えない土地”の語意を持っていました。
その証拠に「難の波」の地は、奈良期のある事件に使われました。
その中大兄皇子の「難波遷都」(孝徳天皇 失脚事件)はある政治的な目的を持って移し、宮廷も日本書紀には「荘厳な宮殿」とありますが、別の説では「草葺の板敷きの仮小屋的建造宮殿」(内裏・朝堂院・倉庫だけ)なものであった事も記録されています。
その目的が果された場合に、1夜の内に密かに直ぐに引き上げると云う離れ業を後の天智天皇は行ったのです。もとよりこの地の環境事情を知った上での計画行為であったのです。

(後に「聖武天皇」がこの悪い状況から此処を整備し、宮殿とした後期の「難波宮」がある位で、 前期宮殿は現在の大阪市中央区の大阪城の位置にあったのです。  大阪城は一部は津に近い湿地埋立地で、城東区今福とは湿地帯の隣接区ですから、後期の「遷都時の皇大神宮分霊説も」考えられるが記録は無いのです。)

「摂津」は「西端の津の港」とするだけに良港としての土地柄でした。歴史は名の通りこの「西端の摂津」に集中します。
歴史的には他の地域とは別に、大阪はこの様にある意味で「不安定地域」であったのです。
そもそもこの様な地域であった為に「神明系5社」と「遷宮社」が建立される事は無かったのです。
移設説は此処から来ていますし、故に、その移設元は歴史的経緯を踏まえ「難波」を中心に対比的に発展した「西の摂津」か「北の近江」かの2隣接国と成るのです。

「皇大神宮と大神宮」の分布表
北海道 1  (山上大神宮    函館市)          ・移設
青森1     大神宮       三戸郡三戸町        ・広域陸奥の拠点社    
岩手2     天照皇大神宮  岩手郡滝沢村鵜飼御庭田  ・皇大神宮 分霊2社/県
         天照皇大神社  大船渡市三陸町吉浜上中井山形
山形5     皇大神社     鶴岡市大淀川川端      ・皇大神社 同地域に分霊4社 疑問
         皇大神社     鶴岡市羽黒町町屋
         皇大神社     鶴岡市山田
         皇大神社     米沢市中央
         天照皇大神社  鶴岡市小淀川        ・「天照」の有無
宮城2     天照皇大神宮  仙台市宮城野区蒲生
         桜丘大神宮    仙台市青葉区
新潟2     神明大神宮    新潟市潟上         ・大神宮に神明 二重社名の呼称
         船江太神宮    新潟市東堀通一番町     ・大が太に変化
福島2     天照皇大神社  南相馬市鹿島区南柚木浅田 ・同地域に分霊2社 疑問
         天照皇大神社  南相馬市鹿島区南柚木宮前
栃木3     天照皇太神社  鹿沼市上永野        ・特別賜姓族の建立 
        (伊勢山大神宮  佐野市相生町        ・伊勢山の呼称は神奈川に、諏訪族建立
        (伊勢山大神宮  佐野市伊勢山町)      ・伊勢山の呼称は神奈川に、諏訪族建立
埼玉1     天照皇大神宮  久喜市上清久
茨城1     内外大神宮    筑西市小栗)
東京2     東京大神宮    千代田区富士見
       芝大神宮     港区            ・7大神明社
神奈川2   (伊勢山皇大神宮 横浜市西区宮崎町)     ・伊勢山の呼称は栃木に、諏訪族建立
         (伊勢山大神宮  海老名市国分南)      ・伊勢山の呼称は栃木に、諏訪族建立
静岡1     天照皇大神社   伊東市芝町
長野1     伊勢林大神宮   佐久市新子田        ・伊勢林の呼称は栃木に 諏訪族建立元
山梨3     ・天照大神社   釜額            ・天照は皇大神宮の呼称 大神宮に使う
         ・天照大神社   伊沼            ・天照は皇大神宮の呼称 大神宮に使う
         (大神宮      甲府市貢川本町)      ・

三重2 伊勢市宇治館町  正宮 内宮
          豊受大神宮    伊勢市豊川町    ・正宮 外宮・

京都3     日向大神宮    山科区 東山神明社      ・7大神明社 合祀
         朝日神明社    此花区  
         天照皇太神社   京都市左京区原地町     ・大が太に変化 (特令分霊地)
         神明皇大神宮   宇治市神明宮西        ・皇大神宮に神明 二重社名の呼称

大阪1     皇大神宮     大阪市城東区今福南     ・移設 西近江か西摂津
広島1     (伊勢大神宮    府中市府中町)      ・「伊勢呼称」は二重社名 伊勢使用禁
熊本県1    (伊勢大神宮    人吉市紺屋町)     ・「伊勢呼称」は二重社名 伊勢使用禁


「皇大神宮と大神宮」の分布表の考察

注記 1: 「伊勢山」は神奈川と栃木 「伊勢林」は長野と栃木の呼称の社名は何れも「諏訪族系青木氏」の移動に伴なって建立した。
注記 2: 「伊勢」呼称は「禁止の仕来り」 「広島」と「熊本」に関連は無し。 熊本には青木氏関係地域ではない。「禁令破り」の「広島」は前段でも論じた様に、「讃岐青木氏の勢力圏」で、「亀甲族の圏域」(出雲社氏子防衛集団)の中です。その国府に建立していますが疑問で更なる研究が必要です。

この表から多くの地域には呼称問題が潜んでいます。それは返して云えば、其処には「青木氏の生き様」として色々な意味の事が潜んでいる事を意味します。
先ず、前段でも論じた様に、注記1では、「諏訪族の武田氏系2氏」は、「信濃諏訪族青木氏」は武田氏に攻められた末に武田氏に組込まれ、その武田氏が信長に滅ぼされて、長野−甲斐−神奈川−栃木と移動しました。
上記では「栃木」の「苦難の生き様」を記述しましたが、この移動定住するまで故郷の「心の拠り所」を忘れずに勢力を盛り返し、何とか移動する毎の定住地に一族の祖先神の親神の「神宮」を建立し続けた事に成ります。そして、その呼称を神宮の「分霊の仕来り」を守り故郷の地名の「伊勢山」「伊勢林」として移し続けた事に成ります。
定住地毎に「特別賜姓族」の力を借りながらも、その地で建立出来る程度に力を盛り返した事を意味します。又「特別賜姓族」の配下に入り勲功を挙げた事をも意味しています。
前段でも論じた様に、「信濃」とは「伊勢青木氏」との極めて深い同族としての親交があり、その地名として「伊勢町」の地名がある位なのです。
恐らくは、そのルーツ故郷の「伊勢町の山や林」を忘れない様に、「三重伊勢との縁地」(血縁関係があった)としても、その末裔には「信濃から来た賜姓族系の諏訪族」である様に、諸々の先祖を思い出す様に、この「伊勢の呼称」を引き継いで来たものである事が判ります。そして苦難を乗り越えて建立を移動定住の都度続けて行った事に成ります。
さすればその「分霊の源」は「信濃1」から移した事に成ります。
そして、この5県の諏訪族の「住んでいた地域」が「建立地や所縁の地」から観ても良く判りますし、その「特別賜姓族」の背景を受けて「下野−上野の北域の国境域」を力で獲得して土地を切り開き、その力で復興したその苦難のレベルを物語っています。
この事は”「建立−維持−管理」(6社+神明系3社)の能力があった”事を物語ります。

・広島は、前段で論じた様に、「讃岐籐氏の瀬戸内」の勢力圏で、政治の柵と勢力争いに巻き込まれた地域です。この「広島」は「出雲社の亀甲族防衛集団」の膝元でありながらも、彼等を味方につけ、其処の国府に内宮か外宮の何れか判断の付かない呼称で分霊として禁令を破り建立しています。
「讃岐青木氏」は本領に対し独自性を発揮して勢力を高めていますし、「瀬戸内」を上手く利用して「2足の草鞋策」を採用する等の柔軟性を持っています。果たしてこの「讃岐青木氏」が禁令を破るかの問題です。
本領に対して極めて「独自論戦」を敷いていた「讃岐籐氏」「讃岐青木氏」が本領宗家から積極的な強力が得られたかは疑問です。そもそも香川には神明系社が一切無いと云う事から考えるとこの圏域の及んでいる地域の建立も疑問と考えるのが普通では無いかと考えられます。
(香川は伊勢−信濃青木氏との関係を使って「分祀」で建立した)

「どちらとも採れない神宮」や「呼称の禁令破り」から判断して、彼の「讃岐籐氏」が主体と成って「讃岐青木氏」の名を借りて(「香川の分祀方法」)で建立したとも考えれば成り立ちます。
”それは何故か”です。答えは、此処は ”出雲社の「亀甲族防衛集団」の膝元”だからです。
前段で論じた様に、この「瀬戸内の沿岸域」は武力に因って征圧している地域ではないのです。
「海族等の信頼」と「経済的な結びつき」で構築されている地域なのです。
其処に行き成り「分霊の神宮建立」は絶対に無理であります。
まして、4世紀の昔から「出雲社の社領域」でれっきとした「亀甲族の出雲族」であります。
前段で論じた「純友神社」建立の様に、直には無理であり、建てるとしても、「物造りの神」として建立する事以外にはあり得ません。
「海族」であり「廻船問屋」を営んでいる程の「各地との交易」と「海産物の瀬戸内」であり、昔から両沿岸部内陸には昔から「鈴と銅と鉄の鉱石採掘地」を保有している地域なのです。
明らかに「物造りの地域」でありそれを商いとする「2足の草鞋策」を採っているのです。
これだけ条件が揃えば、何れの人心もこの生活環境を維持させる為に「物造りの神」を求めます。
その発露が「社格」の権威付けから「伊勢大神宮」として「大明神」なのです。「豊受大明神」なのです。
「讃岐籐氏」の「北家藤原氏秀郷一門の政治力」(経済力を使った可能性大)で「伊勢の分霊」を赫々様になく行ったのです。これが「広島の神宮」の実態なのです。
故に、敢えて「禁令」を知り得ての建立と呼称なのです。

・熊本は、何れにしても此処は神明族には無関係な地域です。
「熊本」は ”「伊勢呼称」二重社名 伊勢使用禁”がある事から、 この「禁令」が緩んだ時期に建立したと観られますが古いとしているのです。
兎も角も、”では一体誰が建立したのでしょうか。” 建立するにしても伊勢の「分霊許可」が出ないとしても「相当な財力」を必要とします。
この記録を辿ると、此処には「日向青木氏末裔」が黒田藩や細川藩の「兵農」(「雇兵」 「五七の桐門」の使用許可 組頭はこの桐門の羽織袴で登城許可が与えられていた。)として一部に移動定住して「末裔の分布」を室町期中期以降に広げている地域です。
然し、この「歴史的経緯」(末裔現存)があるのですが、その「権利と建設能力」には疑問です。
”室町中期までの建立した”とする「歴史的な経緯」の記録はありません。
「傭兵」で建てられる事はありませんので、経済的には藩主以外に無いと考えられるのです。然し、神社建立の権利には問題があります。
あるとすれば、その問題を解決するには、何れかの廃社や荒廃社を見つけての「修復復元の方法」しかありません。この時期では戦乱の後ですので、各地に神明系社の廃社や荒廃社が多くその方法は充分に可能です。幕府は「廃絶処理の復元作業」を始めている時期ですから認可は直ぐに下りますし、職人も修理であれば集める事は可能です。
何れ2藩共に土地の豪族の大名ではありません。この江戸期前の時代は最早戦乱は納まり、戦略的意味合いは低下しています。従って、後は「人心」を集める意味で、全国民から崇められている「神宮」を建立する事で戦乱後の対策としたと考えられます。
その証拠にこの「五七の桐紋」には「歴史的な所以」があって、これを秀吉から与えられて、積極的に活用した代表的2大名です。

(そもそも「桐紋」は「天皇家の式紋」で「五三の桐」を類似紋として秀吉に与えたもので、それを更に勲功のあった大名に与えたもので、その大名が傭兵や農兵の勲功のあった者や家臣や農民に与え、使用を許したもので一種の手形として文様紋です。)

「桐−天皇−皇祖神−神宮」の印象を強くする政策を展開し、挙句は「登城許可」もこの桐紋付の羽織袴を手形として許可することを認めているのです。
そして、本来、「墓所」を持たない農民に「墓所」を許可しただけでは無く、更に、この「墓石」には「五七の桐紋」を入れる事をも許可しているのです。本来、明治初期まで墓所を持つ事を許されていない慣習の中で、この農民の各村の名主等には「氏子衆」を結成させ、藩が財政的な責任は持つとして「祭祀行事」と「社の維持管理」も特別に任したのです。
江戸時代には幕府が行う「廃絶処理の復元作業」とは別に、上記の大名に任せる方法を併用したのです。

「神明社系5社」は「2つの青木氏」が、「総師・御師・氏上様」と呼ばれ、「寺」で云う「菩提寺」と同じ様に、「社」の全て一切を取り仕切っていたのです。その為の一切の「部の匠職人」を家人として昔から抱えて566社に及ぶ社を維持管理していたのです。

この熊本は真にこのシステムによらず、「桐−天皇−皇祖神−神宮」の威厳、尊厳を利用する形で農民まで巻き込んだシステムを始めて構築し始めたのです。それが江戸期に入り全国的に広がりを示したのです。これが、江戸幕府の初期から始まった2つ目の「神明系社の復元修復作業」であって、この方式を採用した事から全国にこの黒田藩、細川藩の採った方式が広まったのです。
「2つの青木氏」が採っていた「寺」の菩提寺方式に似た「社」の「総師、御師、氏上様」のシステムは、少なくとも「伊勢丸山城の戦い」1687年頃の時には未だ「2つの青木氏」はこの方法を続けていた事が判ります。
それは、「丸山城の建築」は伊勢−信濃のシンジケートの資材一切の調達を含めて家人の職人が行っていた事が資料から判っているのです。

(安土桃山時代 丸山城が出来た瞬間、伊勢青木氏の長兵衛の命で火災で落城した。筆者の家資料から規模は小さく成っていたが明治中期までは未だ続いていた事が判る。)

この意味で、この新システムの「分霊に依らない大神宮」の見本が、この熊本1なのです。
(この事は「其の他」の処でも論じる。)
江戸期には規模は小さく成っていたが、援助を受けながらも「神明系5社」方式との2本立てで維持されていたのです。故に「総師、御師、氏上様」の呼称が生まれたのです。たいら族」清盛の宗貿易の様に、平安末期頃から始まった「青木氏の2足の草鞋策」もこのシステムを支える一つの手段であったのです。

この「2つの大神宮」の存在する地域は同一地域にはありません。
且つ、ある特定の地域に分けられます。この2つも「神宮の仕来り」です。
そこで、次ぎの表を作成して見ました。

「地方の分霊地」
・栃木3・茨城3・埼玉1・東京2・千葉1・神奈川2  関東    計12  2.0/県
・青森1・新潟2・岩手2・山形5・福島2・宮城2    東北北陸  計14  2.3/県
・静岡1*三重2*長野1*山梨3           中部    計 7  1.8/県
・広島1                        中国    計 1
・熊本1                        九州    計 1 
*京都4*大阪1                    関西    計 5  2.5/県 

「神宮分霊地」は、「平均2社/県」 程度と成ります。
「神明社」は、   「平均7社/県(」105+75/26)
「神明神社」は   「平均6社/県」(65+73/22)
「神明宮」は、  「平均9社/県」(103+22/15)

こ「の神明系3社」は凡そ6〜9社 概して、AVE8社とすると、約4倍と成ります。
「4−6の規則」が成り立っていますので納得出来ます。

これは、「皇族賜姓族と特別賜姓族」が、相互に連携をとりながら建立し、呼称別にし、管理されていた事が判ります。
「伊勢と武蔵間での連絡」を取り合っていた事を意味しますので、「寺社大工匠の職人」の「互いの連携」や「職人の融通」もあった事が、「建築様式」などの統一もありますので云えます。
この事から双方の職人の血縁も起り得たと解釈出来ます。
「2つの血縁青木氏」と「2つの絆青木氏」の元気な掛け声として、その「生き様」がまざまざと目に映ります。


ここから「神明系5社」に組み入れる事が疑問視されるものを「其の他」にしました。
神明系社の歴史的経緯がこの「其の他」から読み取る事が出来ます。
排除せずに歴史的経緯をより詳細に引き出す為に検証します。

其の他  ・福岡9・東京17・神奈川3・新潟2・群馬2・島根2・広島1・香川1
      ・計37/418=8.85%

      *長野2*富山1*三重1
      *計4/148≧2.70%
     
     +宮崎1(皇祖神発祥の特別地)
     −大分1(皇祖神発祥の隣接地)
     
(以上の・印と*印の合計41は「其の他%影響」と大神宮の「重複地域」がある為に100%を10%程度超える。)

先ず、この「其の他」は上記「神明系5社」に対して、組み入れる事はデータの純粋性から真の考察を引き出す事にはエラーを多く含み正しい答えを引き出す事が困難と考えられ、敢えてこの「其の他」に入れる事にしました。
それには次ぎの様な事があります。

A「神明系5社」を八幡社に変えた「社」
B「八幡社」から「神明系5社」に変えた「社」
C「時代性」に大きな疑問のある「社」
D「呼称」に問題がある「社」
E「他社」の可能性がある「社」
F「地理性」に疑問の「社」

以上の「疑問、問題の社」である事から「其の他」に組み入れたものです。
多くは「呼称」に対する「仕来り」を破っているものです。
ところが、この「其の他」を一つに纏めると、”ある「意味」”を持っているものがあるのです。
では、次ぎの13県−45社に付いて考察してみます。

三重  大宮神明社 四日市市日永
福岡
大分  「西寒多神社」  大分県大野郡
宮崎  鵜戸神宮   日南市宮浦
新潟  (菅谷宮  新発田市)
     (春日山神社 上越市西部)
群馬  (伊勢宮 吾妻郡中之条町伊勢町)
     (伊勢宮 吾妻郡中之条町)
長野  (伊勢宮神社 長野市伊勢宮)
     (伊勢社 長野市東之門町 )
富山  (伊勢玉神社 氷見市伊勢大町)
島根  (下の宮 出雲市大社町杵築北)
広島  (伊勢宮神社 東広島市西条)
     (伊勢両宮社 竹原市西野町)
     (伊勢大神宮 府中市府中町)
香川  (伊勢宮 さぬき市大川町田面)
東京  天祖神社  足立区小台
     天祖神社  板橋区南常盤台
     天祖神社  江戸川区平井
     天祖神社  江戸川区本一色
     天祖神社  葛飾区新小岩
     天祖神社  葛飾区東新小岩
     天祖神社  葛飾区高砂
     天祖神社  葛飾区堀切
     天祖神社  江東区亀戸
     天祖神社  新宿区西早稲田
     天祖神社  新宿区原町
     天祖神社  新宿区早稲田鶴巻町
     天祖神社  杉並区高円寺南
     天祖神社  墨田区業平
     天祖神社  目黒区上目黒
     天祖神社  港区六本木
     (上小松天祖神社 葛飾区奥戸)
     (奥戸天祖神社 葛飾区奥戸)

神奈川 明神社   川崎市川崎区塩浜
     明神社   川崎市幸区戸手本町
     神明大神  川崎市中原区中丸子


東京の18社に付い既に論じたので此処では除外します。

長野と富山に付いても退避地の処で論じましたので除外します。

では先ず、伊勢です。
大宮神明社 四日市市日永

この伊勢の「其の他」には根拠があります。
此処は、「伊勢の神域」ですから呼称の問題とするものは無い筈です。
神明社に社名を付けないのが慣習ですが、「大宮」が付いています。
実は、この四日市は「皇族賜姓伊勢青木氏」と「特別賜姓伊勢青木氏」の「血縁融合族」が定住してい地域なのです。
其処に建立したのが神明社であり問題はありませんが、何れも伊勢神宮を護る役目の氏です。
他の神明社と異なる事を主張する為に ”大神宮のお膝元の神明社” として「大宮」を付けたのです。
この三重には神明社1と神明神宮1があり、これと「融合青木氏」との区別を付ける為にも「大宮」を付けたものです。つまり、「融合青木氏」の建立である事を物語っています。

大分  「西寒多神社」  大分県大野郡
宮崎   鵜戸神宮    日南市宮浦

この二つの神明社と観られる社は前段で論じた処であります。
「天岩戸の神域」に建立された社で「祖先神」の祖とする神を祭祀するもので賜姓族が建立する「祖先神の神明社」では実質ありません。この主権者は時代により変化しています。
鎌倉以降は頼朝や時代の幕府や土地の豪族などの寄進ににより支えられていた記録が残っています。
この為に、明治の「全国の神社の社格決定」に際してはその主張を取り入れて一時は「社格」を神明社並に引き挙げ経緯があり、後に「社格「」は村社」並に引き下げられました。

新潟 (菅谷宮  新発田市)
    (春日山神社 上越市西部

何れも「神明造り」でありますが、上記のEに分類される「他社」であります。
1900年代に建てられたもので、神奈川等にある合祀系社の「菅谷神社系社」であります。
そもそも「春日山」の呼称は、上杉謙信を祭る神社で謙信に関わる地域に分霊されている神社です。

以「下は「信濃伊勢宮」の系列社の「分祀社」です。

長野 (伊勢宮神社 長野市伊勢宮)
    (伊勢社    長野市東之門町 )

群馬 (伊勢宮    吾妻郡中之条町伊勢町)
    (伊勢宮    吾妻郡中之条町)

広島 (伊勢宮神社 東広島市西条)
    (伊勢両宮社 竹原市西野町)
    (伊勢大神宮 府中市府中町)

香川 (伊勢宮    さぬき市大川町田面)

長野は前段で論じた通りで、歴史的経緯の中で起ったもので呼称には問題はありません。

長野と同じく、群馬は前段でも論じ、前記した様に、この「伊勢宮」は信長に滅ぼされた武田氏系諏訪族の青木氏末裔が逃亡先にて復興を遂げ故郷の守護神を建立したものです。

広島は前段でも論じたと同様に、伊勢青木氏と信濃青木氏のとの親密な関係から「信濃伊勢宮系社」を分祀して「讃岐籐氏の讃岐青木氏」が建立したものです。
香川も伊勢−信濃青木氏との関係から「信濃伊勢宮系社」の「分祀社」で、この讃岐籐氏の讃岐青木氏が建立したものです。
この讃岐青木氏は領国に並ぶ勢いを持ちその経済力は瀬戸内を利用した「2足の草鞋策」(廻船業)を背景に建立したものです。
これ等の「伊勢の呼称」を使った根拠は「長野の伊勢宮」にある「伊勢宮神社の分祀」を求めたものとです。
讃岐青木氏と信濃青木氏とは伊勢青木氏を介して互に「商い」に於いて繋がりを持っていた事に依ります。
実はこれには讃岐青木氏と伊勢青木氏は「商い」で互に廻船であった「讃岐青木氏の船」を運送に使っていた事が記録に遺されており、この関係から信濃青木氏との繋がりが強かったのです。

(前記した浅野家開城の際の財産買取の海上輸送の便宜を伊勢青木氏は依頼した事が記録されている。瀬戸内の圏域は讃岐青木氏の圏域)

(海を持たない信濃青木氏は商いの輸送に日本海ルートを利用してこの讃岐青木氏の廻船を利用して全国に輸送していた。讃岐青木氏は瀬戸内の産物を輸送販売し、伊勢と信濃青木氏とは互いの利点を生かしてはこの商いの面で強く結ばれていた事が「商い資料」から読み取れる。)

この関係から血縁関係も考えられ、又、神明系社の建設には「伊勢青木氏」の便宜は建前上難しく、「信濃青木氏」の便宜(分霊・分祀)を受けたと考えられます。
讃岐にはそもそも神明系5社は1社もないのです。この事の意味が”「讃岐」”の一門の中での立場を物語ります。
この事は普通の事ではありません。それには理由があるのです。
前段でも論じ、前記でも論じた様に「讃岐青木氏」を含む「讃岐藤氏」は、一門の中でも「独自の行動」を採りそれに見合う「財力と武力」を含む勢力を確保し、それに依って「本領の宗家」とは一線を画していたので、当然にそうなれば宗家との間に軋轢が生じます。
それは「讃岐籐氏一門」には当然の結果として、”「神明社建立の権限」を与えらないか、与えられてもなかなか認可が下りない” と云う事態も当然に起り得ます。

資料によると讃岐籐氏は直接摂関家との接触をしていた事が記載されていて、「純友の乱」に観られる様に同じ身内の摂関家からも「瀬戸内の利権]を剥奪するような行動も史実として遺されている位です。
中には、「讃岐籐氏」は ”藤原北家一門の単独の藤氏である” とする史実に反する独自の主張も遺されているのです。(「純友の乱」も同じ背景にある)
秀郷一門の特別賜姓族しか名乗れない「讃岐青木氏が」存在しているにも関わらず、「独自性」を強く主張したのです。
これが一つの軋轢の形と成って建立権が確保出来なかったのです。このままでは ”「讃岐青木氏」は秀郷流青木氏116氏の中でただ1氏建立権がない。” と成ると世間に対して全く立場がありません。
そこで、「商い」を通じて「伊勢−信濃青木氏」のパイプを構築し、この関係を通じて正式なルートとでは無く、又、正式な呼称ではなく「伊勢宮」や「伊勢宮神社」の「信濃伊勢宮系社」等や「3重複呼称の神明系社」を「讃岐青木氏の圏域」に建立したのです。
これでは、武蔵の青木氏宗家は何も云えません。
しかしながらも、幾らなんでも平安期の「仕来り、決り事、規則慣習」42で護られた中で、この時、伊勢や信濃からの「神明系社の正式」な「分霊」では出来ません。その為に「分祀」と云「う祭祀方式」で処理したのです。6つの社の中の資料には「分祀の表現」が成されているのです。

神奈川 明神社   川崎市川崎区塩浜
      明神社   川崎市幸区戸手本町
      神明大神  川崎市中原区中丸子

「神明」の呼称を「明神」と呼称した「社」でありますが、「みょうじん」と云う呼称は特に異常ではありません。関東域では一般の呼称、或いは愛称として「みょうじんさん」で呼ばれていたのです。
一方では「神明大神」として正式な呼称もあるのですから特段の理由があった訳ではありません。

「一般呼称」に社名を合わしたと考えられますが、厳しい「仕来り、決り事、規則慣習」42からすると呼称だけは時代的な緩みの起った時期ではないかと観られます。
資料からこの呼称が出て来るのは室町末期から江戸期初期頃です。
神奈川には「正式呼称」の神明社4と神明神社2と皇大神社2があります。
この3つは川崎に集中していますので、「分祀」と云う方法が一般に起った時期にこれ等の社がこの頃に分祀したものではないかと考察されます。
分祀の表現方法にはいくつものパターンがあります。社歴等からは確認出来ませんが、これも便宜系の「分祀表現」の一つなのです。格式を換える祭祀呼称方法です。
讃岐の分祀方法は資料から観て鎌倉期から室町期前期に観られます。

この他には便宜系の「分社」と云う方法もありますが、この場合は分祀と同じく呼称は格式に変化を及ぼしますので別のものと成ります。
更には、神明系社以外の「合体系」の色々な種類の神社を一つにまとめた「合祀」や「合社」や「併社」等と云うものもあり、「摂社、末社」等の「系列系」を表す呼称方法もあります。

神明系社には室町期中期以降はこの「合祀や合社や分社や末社」等が多く出てきます。これは室町中期以降の生き残りを掛けた神社の戦術であったのです。
この事は本論とは論じる論点が異なる事から信濃関連の「伊勢宮系」と神奈川の明「神社系」以外は原則除外しています。

別枠のの「福岡の8社」に付いては、神明系社である事は判っているのですが、後に八幡社に変更されている事が観られますので、その他に入れました。

「八幡社」は前段でも論じましたが、そもそもその前身は「神祇信仰」から発展したものです。
豊前宇佐郡から発祥したものです。奈良の大仏建立等でその信仰が大きく発展し朝廷もこれを取り入れて「国神」として一時取り入れ「国家鎮魂の神」として崇め祭祀していたのですが、次第にその勢いは低下して一時は荒廃をしました。
そこで清和源氏の宗家摂津源氏の頼光等に対して命じてこれを修復させる命令を発した記録が残っており、これに対して修復する際に、「荒廃の国家鎮魂の八幡社」の殆どが摂津源氏の宗家の守護地であったのです。
それまで神社建立の経緯が無かった事等から自らの「寺建立の職人」や自ら「神官職」を持っていなかったのです。伊勢青木氏や信濃青木氏の協力を得なければ成し得ない修復の勤めです。
そこで、「血縁融合族」の神明族「皇族賜姓信濃青木氏」の一族が「寺建立の職人」「神明系社の神官職」の能力を借用したのです。この事から、記録にも残っているし、神明社や守護神外の「八幡社神職の青木氏」が現存するのです。
この「国家鎮魂の八幡社の神職」を依頼して維持させたのです。

(三つ柏紋の神官職の神明族の信濃青木氏の一部がこの国家鎮魂の八幡社の神職を司る事と成ります。陸奥域までこの信濃青木氏の「国家鎮魂の八幡社」の神職が広がっています。)

神明系社地外の八幡社にもこ神明族の信濃青木氏の神官職の珍しいパターンが生まれたのです。

一方、前段で論じた様に、分家頼信系の「河内源氏」はこれを荘園制を利用して名義族の未勘氏族に八幡社を建立させて「武神としての八幡社」に換えてしまったのです。
従って、「八幡社」には「皇族賜姓族信濃青木氏」が維持管理した本来の摂津源氏の「国家鎮魂の神の八幡社」と、「武神」と変化させて「未勘氏族」に維持管理させた「八幡社」の2流の系列があるのです。
然し、時代の流れに押されて殆どは未勘氏族の維持管理させた「河内源氏の武神の八幡社」と成ってしまったのです。この「福岡の八幡社」は発祥地域であった事から元は神明系社の変化したものなのです。
この様な歴史的経緯の持った「神明系の八幡社」なのです。


「元伊勢の分布 遷宮地詳細」
(大化期前)
「元伊勢社」とは三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮の内外宮が伝承地に成る前に遍歴した各地に遺した鎮座地の神社を云う。

13の古代国に約80−85の地域に90年に掛けて遍歴した。

遍歴数/県
大和21 丹波4 紀伊3 吉備6 伊賀10 近江13 美濃3 尾張4 伊勢23

大和国
1 檜原神社(摂社)         奈良県桜井市三輪 
2 巻向坐若御魂神社        奈良県桜井市穴師
3 巻向坐若御魂神社       奈良県桜井茅原
4 笠縫神社(末社)         奈良県磯城郡田原本町秦庄
5 志基御県坐神社(末社)     奈良県桜井市金屋
6 笠山荒神宮            奈良県桜井市笠
7 天神社               奈良県桜井市小夫
8 飛鳥坐神社            奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
丹波国
9 真名井神社(摂社)       京都府宮津市江尻      
10 皇大神社             京都府福知山市大江町内宮
11 笑原神社             京都府舞鶴市紺屋
12 竹野神社             京都府丹後市丹後町
大和国
13 笠縫神社三輪山        奈良県桜井市三輪
14 伊豆加志本宮与喜神社    奈良県桜井市初瀬字与喜山
15 伊豆加志本宮長谷寺     奈良県桜井市初瀬
16 伊豆加志本宮          奈良県桜井市初瀬
紀伊国
17 奈久佐濱宮濱の宮神社    和歌山県和歌山市毛見
吉備国
18 名方濱宮伊勢神社      岡山県岡山市北区番町
19 名方濱宮内宮         岡山県岡山市南区浜野1丁目
20 名方濱宮穴門山神社     岡山県倉敷市真備町
21 名方濱宮穴門山神社     岡山県高梁市川上町高山
22 名方濱宮神明神社      岡山県総社市福井字神明
23 名方濱宮今伊勢内宮外宮  広島県福山市神村町
紀伊国
24 伊勢部柿本神社        和歌山県海南市日方
25 国主神社            和歌山県有田郡有田川町長田
大和国
26 弥和乃御室嶺上宮高宮神社    奈良県桜井市三輪字神峯
27 弥和乃御室嶺上宮三山       奈良県桜井市三輪
28 伊豆加志本宮           奈良県桜井市初瀬
29 弥和乃御室嶺上宮高宮神社    奈良県桜井市三輪
30 宇多秋宮阿紀神社         奈良県宇陀市大宇陀区迫間
31 佐佐波多宮篠畑神社        奈良県宇陀市山辺三字篠畑
32 佐佐波多宮葛神社         奈良県宇陀市山辺三
33 佐佐波多宮御杖神社        奈良県宇陀郡御杖神末
34 佐佐波多宮御杖神社        奈良県宇陀市室生区大野
伊賀国(伊勢国)
35 隠市守宮宇流冨志弥神社    三重県名張市平尾
36 隠市守宮三輪神社        三重県名張市箕輪中村(合祀)
37 隠市守宮蛭子神社        三重県名張市鍛冶町
38 隠市守宮田村大明神       三重県名張市東田原
39 隠市守宮名居神社        三重県名張市下比奈知
40 穴穂宮神戸神社          三重県伊賀市上神戸
41 穴穂宮常福神社         三重県伊賀市古郡
42 穴穂宮猪田神社          三重県伊賀市下郡
43 敢都美恵宮都美恵神社     三重県伊賀市拓殖町
44 敢都美恵宮敢国神社       三重県伊賀市一ノ宮
近江国
45 甲可日雲宮垂水頓宮       滋賀県甲賀市土山頓宮
46 甲可日雲宮大神宮社       滋賀県甲賀市土山町
47 甲可日雲宮皇大神宮       滋賀県甲賀市土山町大河原
48 甲可日雲宮高宮神社       滋賀県甲賀市信楽町多羅尾
49 甲可日雲宮桧尾神社       滋賀県甲賀市甲南町池田
50 ・神明社             滋賀県湖南市三雲
51 日雲神社             滋賀県甲賀市信楽町牧
52 日雲宮              滋賀県甲賀市水口町神明
53 甲可日雲五十鈴神社       滋賀県甲賀市水口町東林口
54 甲可日雲ほう山神社        滋賀県甲賀市水口町高山
55 甲可日雲川田神社         滋賀県甲賀市水口町北内貴
56 甲可日雲田村神社         滋賀県甲賀市土山町北土山
57 坂田神明宮            滋賀県米原市宇賀野                   
美濃国
58 伊久良河宮天神神社       岐阜県瑞穂市居倉
59 伊久良河宮名木林神社      岐阜県安八郡八町
60 伊久良河宮宇波刀神社      岐阜県安八郡八町
尾張国
61 中島宮酒見神社          愛知県一宮市今伊勢町
62 中島宮浜神社           愛知県一宮桜一丁目
63 中島宮御園神明社        愛知県清須市一場
64 中島宮坂手神社          愛知県一宮市佐千原
伊勢国
65 桑名野代宮野里神社        三重県桑名市多度町
66 桑名野代宮神戸神館神社      三重県桑名市大字
66 桑名野代宮尾野神社        三重県桑名市大字
67 奈既其波志忍山宮布気皇館太神社 三重県亀山市布気野尻
68 奈既其波志忍山宮忍山神社     三重県亀山市野村
安濃国(伊勢国安濃郡)
69 壱志藤方片樋宮加良比野神社    三重県津市藤方
70 藤方片樋宮阿射加神社       三重県松阪市小阿坂町
71 藤方片樋宮雲出神社        三重県津市雲出本郷町
72 飯野高宮神山神社         三重県松阪市山添町神山
73 飯野高宮神戸神社         三重県松阪市下村町
74 飯野高宮牛庭神社         三重県松阪市下 路町
75 飯野高宮久弥都神社        三重県松阪市郷津町
76 飯野高宮滝野神明社        三重県松阪市飯高町
77 飯野高宮花岡神社         三重県松阪市飯高町
78 佐佐牟江宮竹佐々夫江神社     三重県多気郡明和町
79 伊蘇宮磯神社           三重県伊勢市磯町
80 伊蘇宮相可上神社         三重県多岐郡多岐町
81 大河之滝原瀧原宮         三重県度会郡大紀町
82 矢田宮口矢田の森社        三重県伊勢市楠部町
83 家田々上宮神宮神田南の忌鍬山   三重県伊勢市楠部町
84 家田々上宮大土御祖神社      三重県伊勢市楠部町
85 奈尾之根宮皇大神宮末社      三重県伊勢市宇治中之切町
85 五十鈴宮皇大神宮         三重県伊勢市宇治館町     

青木氏と守護神(神明社)−22に続く
  
(基データの考察検証の段 2/2)

>   
> (基データの考察検証の段 2/2) 



- 関連一覧ツリー (◆ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー