青木氏氏 研究室
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  [No.290] Re:青木氏と守護神(神明社)−22
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/12/10(Mon) 11:32:56

「真人族と朝臣族」の血縁関係
序文
改めてこの「歴史的経緯」に付いて詳細に検証して本論の基本的な判断材料とします。
特に、「真人族と朝臣族」の血縁関係に付いては「一般の氏家の族」とは異なる慣習が敷かれていたのです。この事を事前に承知していなければ「青木氏の正しい氏発祥」を理解する事は出来ないのです。
当然にこの事が「青木氏の生き様」に大きく左右していたからです。
そうでなければ、前段で論じた「神明系社の建立の責務」を遂行する「真意」が判らない筈です。
それには取分け、”「血縁関係の慣習」がどの様なものであったのか” が大きく左右する知識と成ります。
そこで、この「血縁関係の慣習」の事柄に付いて、限定して各種の資料の文面内容から読み取る作業を長い期間続け研究しました。そして本論の様な「朝臣族と賜姓族の慣習」を纏め上げました。
この本論が「青木氏の生き様」(消えてゆく伝統)を描き直す前提に成っています。

そもそもこの様な「真人族」を含めて「朝臣族」又は「賜姓族」の「血縁関係の慣習」に付いては、充分に確立してまとめ上げた資料が無く、先ず、「古い事」や「特異な家柄」が原因していて、僅かに遺されたものとしては「日本書紀」以外には無く、万葉集などの歌集の歌詞や家紋文様関連の歴史雑学等からも引用して纏め上げるものでした。その意味で「青木氏の伝統」の一端を後世の為に再現出来たとも考えています。
結局、これは研究の別の目的で調査している中での作業であり、あらゆる「資料の文脈」から「論理的」に、或いは時には「主観的」に読み取る作業でした。

この「読み取り」とは、”この文脈や歌詞からすると、この時の「慣習」はこの様であった筈だ”と云う風に幾つかの「慣習パターン」(10パターン)に纏めて、それを積み上げて「一つの慣習群」に仕上げたものなのです。”その大元の「基慣習」は「血縁関係の慣習」から着ている筈”と観ているのです。
先ず、その基本と成るデータを「19守護地」と「85遷宮地」と「486社の神明系社」に定め、この「3つのデータ」に繋がる「読み取り文」の「慣習パターン群10」を、個々に合理的に宛がう事が出来るかの「査定の検証」の繰り返しで得られた結果です。宛がう事に論理的に無理がなければその「検証」はより正しい事を意味します。それが本論の結果なのです。
これ等の1から22までの内容を咀嚼して頂き「青木氏の伝統」を夫々の個人の中で作り上げて頂きたいのです。

この研究結果を次に論じます。
前段の「退避地」等の内容と合せてお読みください。

「基本データ1」
「主要な初期の19守護地」(4世族王)
(「神明社の初期建立地」)

5家5流皇族賜姓地
伊勢
・ [伊勢王](三重県 ・国府 松阪市)         
近江
  [雅狭王](滋賀県 近江−若狭地方)
  [山部王](滋賀県 草津−東近江−守山地方)
・ [近江王](滋賀県 ・国府)
  [栗隅王](京都府 宇治市 山城国−久世郡地方) 
  [武家王](京都府 但馬国 若狭側地方)
美濃
・ [美濃王](岐阜県 ・国府)
  [広瀬王](岐阜県 大垣市地方 国分 国分寺)
信濃
・ [三野王](長野県 ・国府 信濃)
  [高坂王](長野県 更級地方)
甲斐
・ [甲斐王](山梨県 ・国府)

賜姓末裔地(賜姓族保護地)
  [石川王](石川県−福井県 加賀−能登地方 )

遷都地  (特令地)
  [竹田王](大阪府−京都府 竹田地方)      
  [難波王](大阪府 摂津地方)
  [宮処王](奈良県 桜井市 金屋地方 つばいち)
  [泊瀬王](奈良県 桜井市−朝倉地方 長谷寺)

特別賜姓地(広域美濃 広域信濃)
  [弥努王](愛知県 尾張−信濃側地方)
  [桑田王](愛知県 豊田市地方)

大宰府地 (遠の朝廷 自治区)
  [春日王](福岡県 春日市地方)

 (・印は国府のあった地域所)

以上、「国数 10」と「社数 19」(守護数 19)から成り立っています。 
(全国数66国)

大化期の同時期に行われた「神宮の遷宮地の決定」と、この「第4世族王の19守護地」との「2つの政策」は無関係ではないのです。

そこで、前段でこの「2つの政策」に付いて論じて来ましたが、もう一度此処に列記します。
そうすると、この「2つの政策」には大きな事が潜んでいる事が解ります。
先ず、「神宮の遷宮地の決定」には次ぎの様な事が潜んでいます。

「基本データ2」
(前段−21 詳細資料 参照)

「地域別」から「国別」に別けて観ると、次ぎの様に成っています。
「遷宮の遍歴数/国」
 「伊勢23」 「大和21」 「近江13」 「伊賀10」 「吉備6」 「丹波4」
 「尾張4」  「紀伊3」  「美濃3」

「地域別85」から国別にすると以上の「9国」と成ります。

この「2つの基本データ」は何れも・「9国」で構成されています。

これを更に当時の「主要地域別」に別けて観ると次ぎの様に成ります。

「5主要地域」
(大和+紀伊)     24 「飛鳥域」
(伊勢+伊賀)     33 「伊勢域」
(近江+丹波)     17 「近江域」
(尾張+美濃)     7  「美濃域」
(広域の吉備)      6  「吉備域」

(注意 奈良期−平安期初期の「吉備国」は都に匹敵する位の勢力圏を張っていて、他の4主要国の範囲に匹敵する位のものであった。)

「国数 9」と「主要地域5」と「社数 85」から成り立っています。

(基本データ3は前段の「神明社の分布表」)

先ず、上記2つの「基本データ1、2」の分析からこれを「地域別」に分けると次ぎの様に成ります。

この何れも「9国」で一致し、「遷宮地の5主要地域」と「19守護地の5地域(・印)」とで一致し、それが「3つの地域」(伊勢域、近江域、美濃域)でも一致しています。
この「5地域」の「異なる地域」としては、それは「飛鳥域」と「吉備域」とですが、その歴史的な意味のある「2つの古の地域」が、「違い」として出ています。
この「2つの古の地域」に「違いの意味」があるのです。

つまり、次ぎの様に成ります。
A 「2つの古の地域」の「飛鳥域 吉備域」 24 6
B 「2つの賜姓族地」の「信濃域 甲斐域」
以上AとBの違いです。

飛鳥は古都域、その間の吉備は「朝廷−阿多倍」の境界域です。

A、B 共にほぼ同時期(大化期前後)に打ち出された政策なのに、この様に、”何故違うでしょうのか”、これには、”どのような意味があるのでしょうか” この事が重要な意味を持っている事に成ります。
これを下記に順を追って論じます。

このA、Bそれぞれに付いては前段で「地域性」で論じて来ました。
詳しくは前段を想い起しながら参照して頂くとして、概要としては次ぎの様に成ります。

A 「飛鳥域」24は衆知の旧都、「吉備域」6は奈良期から平安中期まで都に匹敵する位の国柄、「吉備真備」でも有名、共に「旧来の地域」

B 「信濃域」と「甲斐域」は共に「日本書紀」にも出てくる後漢の帰化人の「新規開拓の天領地」で開発に依って「主要国化した地域」、共に「新規の地域」

恐らくは、本来であれば、「5地域の賜姓族地」は「Aの形」だけと成る筈です。
ところが、「Bの形」が起こっているのです。

これには何かあった筈です。これを指数化として観てみると、「30/85 35%」も占めている地域であるのですから、本来であれば「賜姓族地」にするのが当り前の事です。
然し、これが「Bの形」と成ったのです。

この「35%の状態」を覆す事は「相当な政治力」が必要と成ります。
つまり、朝廷の中では何らかの「大きな要素」が働いた筈です。
その要素が何なのかと云う事です。

つまり、「Aの形」から「Bの形」に変化している訳ですから、大化期に於いては、「Aの形」は「旧来の地」として大化期の「天智、天武、持統の3天皇」に依って先ずはこれは判断された事に成ります。

これは、明らかに先ず一つは「旧来の地域」(A)と「新規の地域」(B)とを天秤に掛けた事を意味します。
そして、最終、「新規の地域」(B)を選択したのです。

では、”何故、「新規の地域」にしたのでしょうか。”
総じて云えば、これが「大化改新」なのですが、これでは論文に成りません。

当然に、前段で論じた様に、「賜姓族」には「3つの発祥源」の「諸々の責務」を負わしての「国策氏」であった以上、”「新規」(新しい語意)” だけを採って選択した訳では無い筈です。

最低限に上記の3天皇(「天智、天武、持統」)は「軍事、経済、政治的な判断」を下した結果である事は云うまでも有りません。

では、この「Aの形」と「Bの形」とに「軍事、経済、政治、地理、宗教的な判断」が働いた事に成りますが、下記の「神明系社の数式条件」(前段記述)と「同じ条件」がこの時も働いていたと考えられるのです。

「神明系3社の建設条件の数式」
圏域内→「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」<「仕来り、決り事、規則慣習」
圏域外→「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」>「仕来り、決り事、規則慣習」

そうすると、問題は「仕来り、決り事、規則慣習」が、「皇祖神の子神」の「祖先神−神明社」では働いていたのですが、”この「Aの形」と「Bと形」にも働いたのか”という事に成ります。

結論は、”全く働いていた”と観ているのです。

この「基本データ1と2」の間には「近江の最古の神明社」が「接着剤」の様に既に介在しているのです。
つまり、「基本データ1と2」の両方に ”「神明社」” 云う考え方が共通して継続して存在していた事に成ります。
そもそも「祖先神−神明社」の考え方が、「基本データ2」の処から起ったと考えがちですが、上記の事から「基本データ1」の大化期直前にも、既に”「神明社」”なる考え方があった事に成ります。
(末尾に「最古の神明社」に記述)

「基本データ1と2」の「実施時期の境界」の処で「大化改新」が起ったのですから、「真人族」と「朝臣族」の慣習の中には ”「仕来り、決り事、規則慣習」”が、強弱は別としても厳然と存在し介在していた事を物語り、ある程度の範囲で判断のこの「思考原理」が皇族の中では支配されていた事を意味します。

「圏域内」は、その”「圏域内」”に定住しているのは「朝臣族」と「真人族」ですから、これを「朝臣族と真人族内」、或いは「皇族第4世族内」と置き換えても同じ事に成ります。
つまり、上記の「神明系社の数式論」はまさしく主に「朝臣族の数式論」と置き換えてもよい事に成ります。

「真人族と朝臣族」は「八色の姓制」(684年)にて大化期の中期頃で正式に定められたのですが、この「制の根幹」は、大化期前(飛鳥期半頃)からも多少の違いはあったとしても既に存在していて「社会慣習」として定着していた事に成ります。
それを制度として「天智天皇」がまとめ造り上げ、「天武天皇」はこれを正式に是認した事に成ります。
「基本データ1」から観ても「朝臣族の賜姓族」の「賜姓地の周辺」には、「皇族第4世族内」の「朝臣族」と「真人族」が定住していましたから、「基本データ1、2」のこの数式論が成立していた事に成ります。

「朝臣族の社会慣習の数式論」
第4世族内→「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」<「仕来り、決り事、規則慣習」

第4世族外→「戦略的、経済的、政治的、地理的、宗教的な環境条件」>「仕来り、決り事、規則慣習」

とすると、、「基本データ1、2」の考察と検証は、この関係数式論を前提に論じる必要があります。
当然に、「旧来の地域」(A)と「新規の地域」(B)の「選択の結論」は、この関係数式論から導き出されなくては成らない事に成ります。
「青木氏」に取っては切っても切れない重要な関係式論と成ります。
他氏には観られない関係式論でこの慣習(環境)の中で賜姓族の国策氏の青木氏は生きていたのです。

この関係式論を導く以上は、この関係式の左辺の項の「5つの要素」に関わる全てを揺るがす様な大きな事が、この時期に歴史に残る史実が起っていなければ成りません。
朝廷では、「真人族や朝臣族」のみならず前段で論じた様に、「5つの要素」を何らかの良好な形で維持出来る様にと何とか右辺の諸々の「仕来り、決り事、規則慣習」をその都度定めて、それに依ってこの賜姓族の組織が維持されていたのです。
「時代の変化」に依って「5つの要素」の左辺の夫々のウエイトの組み合わせが大きく変化して来ます。
当然にそれに基づいて「後決め」で右辺が決められて来るのです。
時代が進めば進む程に、上記の数式論から引き出される「賜姓族の慣習(環境)」に取っては厳しく成って来るのです。
つまり、この「賜姓族の慣習(環境)」は「保守的な環境」と成っている事は必定で、「大化改新」の「改新」を行われたとしても、「天智天皇」の即位が23年後であり、そう関単に「改新」が進んだ訳では無かったし、その意思を継いで「天武天皇」に「改新」が引き継がれて50年と云う期間が掛かったのです。
「改新」は「変化」であって左辺の「5つの要素」の組み合わせが変わる事なのですから、”新たに右辺に「数多くの慣習」が継ぎ足されて行く事を意味します。

そもそも、そうなれば出来得る事ならば、賜姓族の立場にいたものは、 ”この立場から逃れたい”と思うのが普通であります。
然し、「賜姓族」にはそれが決して許されないのです。それを背負っての「賜姓族」であって、”「民」への「3つの発祥源」”の象徴としての最早「国策氏」なのであり、この事無くして「賜姓族」は「賜姓族」では無くなり成り立たないのです。
そもそも「賜姓族」とはこの様な意味を持っているのです。その「辛さ」を物語る上記の関係式論なのです。

つまり、「賜姓族」=「国策氏」であり、”「個人の意思」をも持ち得ない氏である” としても過言ではないのです。
これは「皇族賜姓族」として決して浮かれている立場ではなく、むしろ、子孫とすると「先祖の生き様」に対して同情し、尊敬し、むしろ、どちらかと言えば心の中では ”憂いている”のです。
当時としては、先祖は「賜姓族」に生まれた事に「宿命」として、「務め」として理解していたであろうが、「先祖の生き様の厳しさ」が如何ばかり重い馳せられます。
筆者としては、この場に居たとするならば、絶えられたかは疑問で恐らくは耐えられなかったと観ているのです。下記にする皇族としての慣習に縛られた厳しい慣習下での生き様であった事が想像できます。

(参考 この慣習(環境)から急転直下のごとく全てに開放されたのは、祖父の代の幕末からでは無いかと観られるだけに、筆者に取っては多少なりとも遺された長い慣習(環境)の中で培われた「人間性」や「性格的なもの」には「賜姓族」としての「隔世遺伝的なもの」が残っている感じがしており、それから逃れられずにいます。年を得て今想い起せば、”金銭に無頓着な貧乏”ではあったが、大屋敷の部屋には一輪花の香りと御香が常に漂う雰囲気で何となく格式高く、俳句会や歌会が常に行われていると云う高雅な生活慣習が遺されていてました。筆者の脳裏にはそれが浮かんでくるのです。それが”周りとどうも違う”と思い出したのは成人に成った相当後の事であったのです。
故に、未だ伝統が無く成る事に「憂いている」と成るのですが、然し、最早、次世代では、”そんなものだったのか”と成るでしょう。現に子孫では既に格段の差が生まれ、僅かに宗教的行事に僅かに遺されている程度で、それも筆者の代で終りとなるでしょう。全く「普通の慣習」に於いては既にそう成っています。
祖父の代には、950年続いた商いも明治35焼失倒産で、それまでの営々と引き継がれて来た伝統は、「生活行事や作法や宗教的行事や作法」にはかなりの慣習が残っていたとされ、それが父の代には家には上記の様な「生活の慣習」と共に、未だ典型的な伝統を物語る事として、昭和20年代には床の間には未だ「名刀」が「10刀」もあったのです。その「刀の目利き本」の様な室町期頃の本が未だ遺されているのです。父の代ではかなり通常化した様で、かなり長い間にたった2代でこの「大化期からの慣習」が著しく無く成っていって、丁度、平成の現在、周囲と異なる「異質な慣習」は無く成ったのです。
如何に「伝統や慣習」と云うものが無く成るのが早いか思い知らされています。父もその意味で宗家としての務めとして「総括した伝書もの」を筆者に託したのだと考えています。それだけに今が語り遺すべき時期と捉え、「未来のロマン」として語っています。)

その ”「改新」が行われている” と云う難しい「保守的な環境」の中で、「Aの形」から「Bの形」に変化するには ”「朝廷の存在」そのものを揺るがす程の出来事”が、この全ての「5つの要素」に関っている必要があった筈です。
もうお判りと思いますが、前段で何度も論じて来た次ぎの出来事があります。

それは「後漢の阿多倍王」、「200万人帰化」、「先進の職能集団」、「九州全土と関西以北の征圧32/66」、「朝廷官僚の6割占有」、「敏達天皇一族との血縁」、「准大臣」、「坂上氏」、「大蔵氏」、「内蔵氏」、「行政機構3蔵内2蔵を占有」、「九州全土自治」、「遠の朝廷」、「錦の御旗」、「太宰大監」、「瀬戸内大監」、「産土神」等の様に挙げれば限りない位の大化期前後を中心に起った事柄なのです。

前段で論じた様に、上記「5つの要素」の全てに大きく関わる事件が、この「国策氏」(賜姓族)に伸し掛かり起ったのです。
”AやBを揺るがす”と云う程度の事ではありません。”揺るがす”ではありません。”全てを変えた”のです。直前の「蘇我氏3代の専横」どころの程度ではありません。
上記の様に慣習毎に厳しい立場にあった「賜姓族」のみ成らず、「朝廷や天皇の存在」そのものを危うく無くす出来事が起ったのです。
とすると、”「朝廷や天皇」はどうするか”です。
これも、もうお判りです。
「打つ手」は必然的に決っています。この「打つ手」はどの様なものであったのでしょうか。これをこれから次ぎの「5つの要素」で検証して観ます。

・「5つの要素」の「戦略的要素」
先ず上記の関係式論の数式から「戦略的」には次ぎの様であった事が判ります。

「阿多倍一門の勢力圏」にある「吉備域」には「賜姓族」を配置する事は困難であり、配置してもそれなりの「賜姓族」としての「皇族への力」を発揮させる事は期待できないのは必定です。
それでなくても、「軍事力」を主体とした「賜姓族の態勢」を組まねば成りません。
戦略的に「人、時、場所」の「3つの条件」(三相)から観てもこれは到底不可能です。
そうなれば、摂津より以東に配置する必要が出て来ます。摂津以東に勢力を結集して「皇族朝臣族の力」を集中させて発揮させ、以東に「3つの発祥源」の国策を果させる必要が出て来ます。
そして、そこで「融合氏」を拡大させ以西勢力に対抗する「近衛の皇族力」を構築する必要が出て来ます。「天皇家の権威」だけでは到底に「彼等の勢力とその伸張する勢いと民の支持」には勝てず、行く末は「権威の低下か消失」が明確に見えています。
その為の「天皇家、あるいは朝廷の強化策の戦略」としては、「天皇家の権威の強化」の「一軸強化策」だでは最早、天皇家を超える「強者」が出現した以上は現状では成り立ちません。
さすれば、もう一つの「天皇家の軸」を別に作り、”「2軸による倒れ防止」の「門形体型の構え」”を構築する必要が出ます。そもそもこの策はこの流れは「自然の摂理」です。
”「2軸」にしなければ成らない” と云う事は、「蘇我氏の専横」で「1軸の天皇家の存在」が危くなり、「大化の改新の発端」と成った事件を起したのです。
「主軸」が倒れても「他軸」の「副軸」がこれに代わる事が戦略的に可能であり、「副軸」が「総合力」を持つ事で「主軸」を支えて「防御軸」(近衛軍)として成り得ます。

「弱者の条理」を持つ「ミトコンドリヤ動物」
これは生物や動物、況や人間、或いはその集合体での組織や集団は、先ずは最初に採る「姿勢と行動」としては ”身を竦めて硬くして身を護る” 事が本能です。
そもそも、この世の「全て動物、況や人間」は「ミトコンドリヤ」の生き延びる為のこの「4度の進化過程」を経て来ているのです。その「進化過程」の最終に辿り付いた「第4の進化」は次ぎの様な「進化の理」を達成させたのです。
況や、「強者側」では、”子孫を勢いのある木々の枝葉の様に放出拡大させる進化を採る”のが「自然の条理]であります。
ところが「弱者側」と成った限りは、”身の内を集中させて固め「陰陽の相対」の「姿勢と行動」を採るのがこれも「自然の条理」であったのです。
これが「ミトコンドリヤ」が作り出した最終の「生存の理・進化の理」なのです。
ある「姿勢と行動」の「意思」を持つ「意思の根源」、即ち、「ミトコンドリヤ」で成り立つ体躯を有する生物である限りは、「遺伝子の働き」以前のものである「無意識」の中で、この「防衛本能」として「弱者の姿勢と行動」を無意識的に起すのです。
ところが、この「弱者の条理」を持つ「ミトコンドリヤ動物」が、「無意識の姿勢と行動」を止め「有意識の姿勢と行動」を優先させて「自然の条理」を見失うと、その体躯は「衰退と消滅と滅亡の憂き目」を招き来たす「絶対的な宿命」を本来持っているのです。
これは「ミトコンドリヤ」で「生」を得ている事が「自然の条理」であってこの例外はないのです。
ところが、この「自然の条理」の続くあまりの「進化」の結果、「人族」は「知恵」という「自然の条理」を超えるものを獲得したのです。
つまり、ある限界を超えない「知恵」を有する動植物には「無意識の自然の条理」が組み込み与えられているのです。
ところがある限界を超えた「知恵」を得た「人族」は、「無意識の姿勢と行動」<「有意識の姿勢と行動」の異変を遂げてしまったのです。
其処に「自然の条理・摂理」に沿わない「知恵」による「憂き目」と云う現象を生み出してしまったのです。
この「知恵の人族」にのみ発生する「心の変化」、即ち、「喜怒哀楽の現象」が「有意識」の中で強く起るように成ったのです。
この「自然の条理」を見失った事に因って起る「衰退と消滅と滅亡の憂き目」は、「知恵」が「無意識の姿勢と行動」よりも「有意識の姿勢と行動」を優先させて、「見失う間違い」を起す為に引き起すのです。
そこで、この事を知った「知恵の人族」は意識を「無念無想」にして「無意識の自然の条理」に戻し従える様に試みたのです。
そして、この結果、「ミトコンドリヤ」の成す「無意識の自然の条理」に到達させてくれるものを「神」として思考し崇めたのです。
ところが、この過程で「思考し崇める方法」、即ち、「無意識の自然の条理に到達する方法」、況や「神に近ずく方法」に「人族」の間には「知恵の違い」が生まれたのです。

それが前段までに論じた「自然神」から発祥した「5つの守護神」であって、それが我々「青木氏族」にとっては、「皇祖神−子神−祖先神−神明社の守護神」であったのです。

強者側に立った「阿多倍一門」とその支配下は「産土神の守護神」を創造したのです。

そして、根幹と成った「ミトコンドリヤの無意識の自然の条理」に到達するものが、前段で論じた「無念無想」に到達出来る「自然神」であり、「鬼道」と云う「最初の根幹と成る手段」であったのです。

(参考 前段で論じた事ですが、「邪馬台国の卑弥呼」はこの「自然神の鬼道」を会得し、自らをこの「無意識の自然の条理」に到達すべく「占術」を行ったのです。この時、「卑弥呼」はその手段として「占術の部屋」を締め切り、其処に何千と云う「熟した桃の実」を敷き詰め、その中で「自らの脳」を「豊熟した桃の実」から発する「芳香性のガス」により陶酔させる事で「有意識」を抑え、「無意識状態」を引き出し、自らの体躯から発する自然の「ミトコンドリヤの意思」を受け取り、それを上記する「自然の条理を得た判断」として「神のお告げ」として「占術」を行ったのです。
ただ、この「占術」に付いては前段で論じた「卑弥呼の複眼機能」の所以も伴なっての事であります。
より「無意識状態」(無意識の自然の条理)に近づき「ミトコンドリヤの意思」を獲得し伝達するにはこの「複眼機能の予知能力」との連動が不可欠であったと考えられます。

[御告げの数式論]
「ミトコンドリヤの意思]=「無意識状態」+「複眼機能」=「御告げ」
「御告げ」=「有意識の知恵」<「複眼機能」
「ミトコンドリヤの意思」=「有意識の知恵」<「複眼機能」
∴「無意識状態」>「有意識の知恵」

故に、「知恵の人族」の本来あるべき数式論は次ぎの様になる筈です。
「姿勢と行動」=「無意識状態」(無意識の自然の条理)>有意識の知恵」
であるべきで、次ぎの様な数式

「姿勢と行動」=「無意識状態」(無意識の自然の条理)<有意識の知恵」
であっては成らない事を論理的な数式は示します。

この3世紀頃は未だ「人族の知恵の進化」は「有意識の姿勢と行動」には然程大きく影響を与えるものでは無かったと考えられます。
この「知恵の進化と複眼機能」は逆比例の相関にある事から、この時期の「人族」には「野生本能」である「複眼機能」は多少なりとも多くの民に遺されていて、現在も中国北方山岳少数民族の中にこの「複眼機能」を未だ強く持つ「原始の鬼道信仰」を「心の支え」としている女性が多い事が報じられた事が、中国の研究資料からも判っています。
従って、「卑弥呼」は取分け「複眼機能」を強く持っていた事が判ります。
この「卑弥呼の占術」が事如く当り、瞬く間に全国の評価を獲得し、それまでの「弥生信仰」を排除し、各地の「政治連合体」の招きを受けたのです。

(参考 「卑弥呼」の跡を親族が引き継ぎますが、同じ「鬼道の占術」を採っても当らず、結局は邪馬台国は民から信任を得られず滅亡します。)

現在医学では人間の体内に存在する「ミトコンドリヤ」が、人間の体躯に異常を来たすとこの「ミトコンドリヤ」が出て来て元の本来あるべき「自然の状態・条理」に戻そうとして働き、強い「異質の物」と戦う働きを持っているのです。そしてそれを脳を通じて体躯に伝える仕組みに成っているのです。
これが人間に「無意識」の内に備わった「治癒力」である事が判っていて、「ミトコンドリヤ」はその「体躯の状態」を観察し、元に戻そうとする「意思」を持っている事が判って来たのです。

例えば、判り易い例として、過剰と成った脂肪やコレステロールや糖分等などが体躯を蝕み始めると最後に出て来て、これ等を自ら食い尽くす様に働き始めるのです。しかし、この結果、過剰に働いた疲労したミトコンドリヤは、体躯に「警告信号」として「活性酸素」を発生させて「刺激信号」を「有意識」に発して警告します。
「過剰な有意識の知恵」は、これを無視した場合、体躯全体の機能を「活性酸素の酸化力」に依って破壊させる事を起こして体躯そのものも破壊するのです。

例えば、それが肺で云えば「膠原病」等で肺の酸素を取り込む粒を酸化させて蜂の巣の様に成って仕舞い短期間で滅亡させるのです。
従って、この様な病魔から逃れる為に、つまり、より敏感に「ミトコンドリヤの意思」の信号を早く獲得する為に、そこで「知恵の人族」は「無意識と有意識の思考のバランス」を取る事が求められる様に知恵の進化の過程で必然的に成ったのです。

「無神論者」がこのバランスを保持している限りは「ミトコンドリヤの意思」に依って体躯は維持され保障されるが、一度、「有意識」の方に傾くと直ちに奈落の底に陥させられるのです。
かと云って、逆に「有神論者」と成り過ぎると、即ち「ミトコンドリヤの意思」に頼り過ぎると「有意識の体躯の意思」(健康保全)が低下して、「他力本願」と成り「ミトコンドリヤの精力」を失い、これまた奈落の底に落ちる憂き目と成るのです。
即ち、この「知恵の人族」に課せられた「バランスを保つ事の行為」を受け持つのが「自律神経」であり、この「自律神経」を正常に保とうとする「心の動き」が「無意識の中に起るミトコンドリヤの意思」であり、そこに到達しようとする「心根」それが「宗教の本質」であります。
その「宗教の本質」の「場と機会」を与えようとする行為、それが本論の「守護神」の「祖先神の神明社」であるとしているのです。
故に「知恵の人族」が「弱者」と成り得た時には、「知恵の人族」は
「無意識と有意識の思考のバランス」=「宗教力の条理」
から絶対的に逃れることは出来ないのです。
(但し、ここで云う「宗教」とは「特定の宗教教団」等を意味するものではありません。)

故に、「場と機会」を与えるべく「政治の長」であり「自然神の祭祀」を司る天皇は、全ての「民」に対してこの「場と機会」を与える為に、「皇祖神の子神」としての「祖先神−神明社」の建立を「賜姓族:2つの青木氏」に義務付けたのです。
これが本論の核とする究極の論拠なのです。
その為には「天皇の務め」として、この義務を果す「賜姓族」(後に特別賜姓族策が加わる 2つの青木氏)の「子孫存続策」は揺るぎの無いものにしておかなければ成りません。
因って、「宗教の本質」の「場と機会」を作り出す「賜姓族」が「無神論の氏族」では有り得ない訳であり、その「賜姓族」も上記の数式論の論理の中におく必要が出て来るのです。

「子孫存続策の血縁」(「純血性の血縁」)
それが前段の論じた「退避地」等の論所でもあり、その手段としての「主な根幹策」は「子孫存続策の血縁」と云う事に成るのです。況や「純血性の血縁」であります。
そこで、この本論では、前段では「退避地対策で子孫存続策」を論じましたが、それと合せてこの「血縁テーマ」(「純血性の血縁」)では、”どの様な対策を講じたのか”と云う事を本段を論じています。

当時は「ミトコンドリヤの意思」の「無意識の姿勢と行動」の原理は知り得なかったにせよ、逆に「自然信仰」に対する信心は「有意識」の殆どを占めていた筈で、「卑弥呼の鬼道信仰の占術」が3世紀から4世紀半ばまで「政治の場」に於いて最優先されていた事そのものが証拠なのです。

・「5つの要素」の「政治的要素」
次ぎに「政治」とは、「有意識」の中で起る族間の問題を解決せんとする最たる行為であり、「宗教」が「政治の場」で使われる事こそが、真に「無意識の行為>「有意識の行為」の証しであります。
恐らくは時代を遡れば、「有意識」≒0 「無意識」>+「有意識」=100%の数式が成り立っていた筈で、この数式の中で生活が成されていたのです。
とすると、その「生活環境の根源」を成す「血縁」は、「長と成る立場の者」に於いては同じ「ミトコンドリヤの意思」を保持する為に、言い換えれば同じ体躯に近い物を獲得する為に、「一族の純血性」を選択するは道理であります。
そして、”混血に因る意識のブレ”をより少なくする為に、「純血によるより統一したミトコンドリヤの意識」を引き出す事が「自然の条理」として必要と成ります。
この「無意識」の中で「自然の条理」を「神」(ミトコンドリヤの意識)から得ようとするにしても「知恵を得た人族の姿勢と行動」は「純血が基本」となる事は「必然の理」と成り得ます。

この「政治の策」として発祥した「賜姓族」は「純血」を求められる事もこれもまた「必然の理」と成ります。
むしろ、逃れる事の出来ない「宿命」であります。
天皇は何も好き好んで単純な思慮で賜姓する事は有り得ない訳であり、わざわざ自らの分身である「第6位皇子」を「賜姓臣下」させる限りには、其処には「目的達成」の為の「幾つかの宿命」を課せている事は当然の事であります。
その一つは先ずは「純血」であるとしているのです。
その「純血の宿命」は、”皇族だから”と云う事では無く、”「無意識」の中で「自然の条理」を「神」(ミトコンドリヤの意識)から授かる役目(1)として、且つ、その「場と機会」の創建者(2)であり、前段で論じた「3つの発祥源」の「融合氏」(3)でもあったからであります。
つまり、「賜姓族」とは「皇族」だから「青木」と云う「氏」を単純に与えたと云う事では無く、ある一つの大きな「政治的な目的」の為に与えたものであります。
与えられない皇族が殆どでもあり、「比叡山や門跡寺院の僧侶」で終わるのが大方なのです。
この時、この「無意識の条理」の中で「天智、天武、持統」の3天皇が、「自然神」の占術で得た「ミトコンドリヤの意思」として下した幾つかの「子孫存続策」(下記)を打ち出したのです。
そして、この「弱者」と成った時の「根本戦略」を「光仁天皇」までの5人の累代天皇がくまなく継承したのです。

(注釈 現在、「無意識の意志」というものの実態の生理学上の解明が進み、多くの「無意識の意思」はこの「ミトコンドリヤの意思」の「総合意」ではないかと云われいて、その集中した「総合的な意思」が体躯を左右させていると観られています。)

「意識の数式論」
「ミトコンドリヤの無意識の意識」>−「知恵の有意識の思考のバランス」=「宗教力」の条理

況してや、「知恵」を授かった人間に於いても生き延びられる「宿命」を帯びている限りの「弱者」は、「無意識」の内にこの「自然の条理」に従って「姿勢と行動」を「無意識」の内で採って仕舞うものなのです。
これが基本的な「弱者の自然の戦略」とも云うべきものなのです。
ところが「強い有意識の知恵」を得た時の「弱者の長」である者は、「有意識」の中で「思考の歪み」を持つとこの限りでは無く成り、この「自然の摂理」に違う有意識の中で滅亡するのです。
依って「思考の歪み」は「知恵」が引き起す所以なのです。
故に、この「有意識」が引き起こす「思考の歪み」をより小さくする為に、人は「ミトコンドリヤの意識」即ち「自然の条理」即ち「宗教の条理」に従おとするのです。
この行為が「古の社会」には強かったのです。そして、極端に云えば、それは「知恵の有意識の思考」=0であったと云えるのです。この事の次第は「上記数式論に委ねた社会」でもあったのです。

そして、この「数式論で得た意識」を再び「有意識の思考」(自然の知恵)として蘇らせて認識する事を繰り返したのです。
「天皇家」はこの時、思考を「無意識の域」に到達させて、そこでこの「自然の条理の戦略」に従ったのです。
「この時」とは、「弱者」と成り得た時であり、「ミトコンドリヤの無意識の思考」として、”「副軸」を造らねば成らない”とした時であります。
「ミトコンドリヤ」が進化した過程の様に、「弱者の知恵」が生まれたのです。
況や上記の数式論が働いたのです。
「この時」の判断は、つまり、「弱者」と成った時の「長の知恵」は、”「有意識の姿勢と行動」を「無意識の姿勢と行動」より優先させて見失う” と云う現象を起こさなかったのです。

現在から検証して上記の「意識の数式論」に成っていた事は、況や「思考に歪みの無い長」であった事を示し、その「自然の条理」を会得した「長」であった事を物語るのです。
一見して当時の情景を思い浮かべると、現在風に観ると、如何にも「宗教的行事」に頼っていた様に観られがちですが、決してそうでは無く、上記の「意識の数式論」に到達する為の「環境作りの無念無想の業」であったのです。極めて人間として自然の「業」であったのです。

(特記 筆者は「本来あるべき宗教の姿」(数式で表す宗教論)とは、その「発生」に付いては上記の「意識の数式論」であると考えているのです。そして、その「環境」に付いては「朝臣族の社会慣習の数式論」で起こり、その「会得の姿」に付いては「御告げの数式論」であると考えているのです。
この後者の「2つの数式論」が「意識の数式論」を裏付けていると考えているのです。)

「意識の数式論」=「朝臣族の社会慣習の数式論」+「御告げの数式論」

以上が奈良期から平安期までの言い遺して置きたい「先祖の姿論」なのです。

これ等の「賜姓族青木氏」の初期の構築(平安期)に関わった「8人の天皇」の「無意識と有意識」は、「ミトコンドリヤの遺伝子的な潜在的意思」に従ったのです。

(特記 この様に同じ環境に居た筈の「賜姓源氏」との「生き残りの違い」は、上記「3つの関係数式論」を、「国策氏」として護ったかの違いであったのです。「賜姓源氏」の中でも上記した「真人族、朝臣族の融合」で「賜姓族の青木氏」に融合して生き残り、「国策氏の中で生き残り戦略」を採った賜姓源氏も居たのです。
だから、現に悠久の歴史を得ても我々「青木氏関係族」はここに生存しているのです。
「枝葉よる子孫存続策」と「融合賜姓族の子孫存続策」の2流が「朝臣族」の中に存在した事に成ります。結局は上記する関係式論の厳しい環境におかれた「国策氏」が生き延びたのです。)

これ全て「上記数式論」即ち、「意識の数式論」=「朝臣族の社会慣習の数式論」+「御告げの数式論」の過程の結果なのです。
「賜姓族」は「上記数式論」に救われたのです。

(況や「青木氏家訓10訓」は特に「長の戒め」としての内容に成っているのもこの事から来ていると観ているのです。)

戻して、更にそれには次ぎの「無意識と有意識」に沿った策として、次ぎの様な戦略を構築したのです。
先ず、「八色の姓制」として、「皇族」を二つに分離して身を固めたのです。、
「皇族」の「真人族」を継承する「主軸」、
「第4世族皇族」までの「朝臣族」を「副軸」
以上としたのです。
この「主軸と副軸」の「2軸」に依って「弱者」と成り得た末に於いてでも、「皇族の権威と強化」を目的として行動したのです。そして、更にはこの「朝臣族」の中にも「第3の本軸」(宗家・宗軸・賜姓族)を造ったのです。
この「主軸−副軸−本軸」の「3つの軸」を先ず構築したのです。

戦略1
その「第3の本軸」を「賜姓族」として、「子孫存続の補強策」の為に、王維継承の出来なかった「真人族」と、「本軸」と成らなかった「朝臣族」との「二つの族」を積極的に「賜姓族の跡目」に入れて「純血性」を高めたのです。
それが所謂、「本軸」の「賜姓族」の血縁状況であり、この「真人族」と「朝臣族」の「融合族」であるこの「賜姓族」を敢えて臣下させます。

戦略2
然し、此処で疑問があり、何もわざわざ「賜姓」だけで良い筈で、「臣下」させる必要性は本来は無い筈です。然し、「臣下」をさせたのです。否、臣下させなければ成らなかったのです
それは、”させるべく必然的な理由”が、上記の数式論の「ミトコンドリヤの意思」としてあったからです。
そして、それが「皇族の慣習」により「真人族」には成し得ない「子孫存続」のための「生き延びる力」(経済力と軍事力と政治力)を授ける理由があったからなのです。

更に「主軸」を護るように「副軸」の「本軸根拠地」、即ち、「賜姓族地」を定めました。
この「賜姓族地」を中心に、所謂、「19守護地」に配置したのです。

戦略3
そして「第6世族以下」を一般の「臣下族」(宿禰族)にして以東(坂東)に配置してその「主軸と副軸」の門構えを支える「土台仕組み」にしたのです。

この「3つの戦略」が大化期の「3人の天皇」により先ず構築されたのです。

・「5つの要素」の「経済的要素」
「賜姓族」の「姿勢と行動」
「主軸−副軸−本軸」の「3つの軸」と成った「皇族賜姓族」に取っては、「無意識のミトコンドリヤの意思」を示現するには、「経済的立場」を主体とした「姿勢と行動」が絶対に必要なのです。
ところが、この戦略が「皇族賜姓族」に取っては「最も厳しい戒律」なのです。
それは何かと云うと、「武力と利潤の追求」は「皇族関係族」には「禁じ手」だったのです。
その矛盾とも取れる「経済的戦略」でありながら、「本軸の賜姓族」には実行しなくては成らない「厳しい宿命」を及びていたのです。
ただ、仮に、この「禁じ手」の「経済力」を確保した「皇族としての力」だけでは「3つの発祥源」の責務を実行する勢力とは成り得ません。
そうなれば、「富裕の地」に「賜姓族」を定住させる必要性が出て来ます。
然し、どの様な「富裕の地」であるべきなのかと云う問題が出ます。
その問題を解決するには、上記する「3人の天皇」が考えた「無意識の意志」をより効果的に繁栄させられる地域であるべきで、”何処でも良い”と言う事には成りません。
この「富裕の地」であっても、現在が「富裕の地」であるべきなのか、これから新規に「富裕の地」にするべき地域でよいのかは検討を要する処です。

当初、「遷宮地85」の一つであった「吉備域」が、大化期に入り「強者の迫り来る地域」である事から危険であり、除外され事は必定であります。
この「吉備域」より以東の地で、「最近の地の富裕の近江」、「神宮の地の富裕の伊勢」、「中核の富裕の地の美濃」には、「賜姓族」を置く事には問題は無く規定の地であります。

とすると、他に戦略的にも「吉備域」に代わる「富裕の地」を定めて、そして、其処に「国難」とも成っていた余剰と成っている「帰化人」を投入してでも新たに作り出す必要に迫られます。(分散戦略)
当然、新たな決められた「天領地の重要な地」なる事から、其処には「賜姓族の守護王」を配置する必要が起こります。
そして、新規の「富裕の地」から「経済力の根源」の「税の収入」を確保する事にならなければ成りません。さて、そこで新規の「富裕の地」に付いてどの様にして進めるかが問題です。(下記記述)
仮に、其処が新規の「富裕の地」に成し得たとして、然し、この新規の「富裕な地」の「税による経済力」だけでは困難で、「周囲の変化」(責務の遂行と勢力的な環境変化)に追随して行く事が何時かは限界が来る事は必定です。そして、現実には限界が来て行き詰まったのです。
それだけでは無く「光仁天皇」までの「5人の天皇」は、奈良期の「3人の天皇の初期の意思」を継承していたにも関らず、9人目の「桓武天皇」と10人目の「平城天皇」はこの「初期の意思の賜姓族青木氏による継承」を拒んだのです。
予想通りに「周囲の変化」が起こり「政治的環境の変化」(政治抗争)を来たしたのです。
それどころではなく、「律令国家建設」を理由に「8人の天皇の初期の意思」を宿命として果たしていた「力」の持った「賜姓族の親政族」を排除したのです。
更に、抗争に打ち勝った11人目の「嵯峨天皇」は、「8人の天皇の初期の意思」で築き上げた「国策氏」で「融合氏」で「副軸」の「賜姓族青木氏」を止めて、何と「源氏」を賜姓してしまったのです。
(この時、「青木氏」は下俗する皇族者が名乗る氏として他に使用を禁じた)
ところが、その「賜姓源氏」が「8人の天皇の初期の意思」を、最早、継承せずに「荘園制の名義貸し」を利用して潤いを得て一人歩きしだしたのです。

厳しい環境の「意識の数式論」=「朝臣族の社会慣習の数式論」+「御告げの数式論」の中で「国策氏」として使命を果そうとする「青木氏」を横目に、「賜姓源氏」は「荘園制の名義貸しの潤い」の「楽な環境」を選択し、「朝臣族」としての「国策氏」の立場と氏名を放棄したのです。
この後、この「楽な環境」を「生き残り策」として選択した「賜姓源氏」は11代続きますが、10代目の「円融天皇」は、これでは皇族は立ち行かんとして「8人の天皇の初期の意思」に立ち戻り、「賜姓源氏」とは別に「特別賜姓族」として藤原秀郷一門に「青木氏」を発祥させたのです。

(現実に前段で詳しく論じた様に、「阿多倍一門」は更に力を付け強者として以西九州域と以北陸奥域に自治を迫ります。)

前段でも論じた様に、この皇族外から発祥させた「特別賜姓族青木氏」(朝臣族に指定)に「皇族賜姓族青木氏」と同じ「身分、家柄、権利、官職」等の一切の条件を揃えて「賜姓族」を補完させる役目を与えたのです。つまり、当時の「8人の天皇の初期の意思」を「藤原母系族」に継承させたのです。
そして、遂には、この「2つの青木氏」の「融合血縁」を果させた事で、再び「皇族賜姓族」は蘇り「元の力」を取り戻したのです。

この時、「賜姓族の空白期間」の反省からの「税に頼る経済力」や、彼の「賜姓源氏」が失敗した「荘園制の利用」を踏襲するのではなく、「自らの力で切り開く為の経済力」の方法、即ち、「禁じ手」の「2足の草鞋策」の「商い」を「特別賜姓族の後押し」をバネに正式に決断し採用したのです。

そして、自らの体躯を整える為に「過剰な軍事力」を排除し、「特別賜姓族の抑止力」に頼ったのです。
当面の最低限の「自らの間接的防御力」を獲得する為に「賜姓族」は、「商いから出る経済力」を使って「強力なシンジケート」を網目の様に構築して、空白期間を経て生き残った「3つの賜姓族」を護ったのです。
これに因って「3人の天皇の初期の意思」と成る「与えられた宿命」(前段)を果す事ができる様に成ります。
この様に「賜姓族」に「経済力」をつけさせる事に依って上記の「戦略」は動き出したのです。
この上記の戦略は、この「賜姓族」が「自らの力で切り開く経済力」に依って裏打ちされているのであって、決して「軍事的な事」に依って裏打ちされる「戦略の本質」ではありませんでした。

前段で論じた様に、この事を「近江と美濃」以外の「賜姓族の3氏」は決して間違わなかったのです。
この「禁じ手」を決断する事で、厳しい環境の「意識の数式論」=「朝臣族の社会慣習の数式論」+「御告げの数式論」から開放されたのです。
決してこの「開放」とは「放棄した事」では無く、その「賜姓族」としての「厳しい環境の立場を保ちながらも、「商い」と云う「別の顔」を持つ事で大息を就ける様に成ったのです。
最早、これは「特別賜姓族の御蔭」の何ものでもありません。この「2つの青木氏」は「融合青木氏」をも持った「一身胴体」の「青木氏」とこれ以降成り得たのです。
然し、室町末期までの生存競争が厳しい社会の中に於いて、決して「軍事力」は無視する事は不可能です。

(特記 賜姓源氏は荘園制を利用してこの軍事力に頼った。 「8人の天皇の初期の意思」は無視した。「朝臣族の賜姓族の役目と立場」を保全しなかった。「純血血縁」は「賜姓族」に「跡目」をいれたもののこれを軽視し「朝臣族の象徴と権威の保全」に集中させた。
選択された「近江と美濃」の「賜姓族」は「8人の天皇の初期の意思」を平安中期まで維持させたが平安末期には「賜姓源氏」と同じ立場を採った。
故に、上記の数式論に基づく「論理的矛盾」が起こり、「賜姓源氏」と「近江美濃の賜姓族」は共に滅亡した。)

そこで、「3家3流の賜姓族と特別賜姓族」は、「経済的」な事で裏打ちされた「軍事力」に取って変わる、前段でも詳しく論じた、上記の「2つの抑止力」を構築したのです。
これは「経済力」と「軍事力」の「2本建て戦力」ではなく、「生き延びる力」を「経済力」のみに絞って、より小さい弱体な「氏力」を集中させて効率を上げたのです。
然し、ここに問題が生まれたのです。
「皇族の朝臣族」が、”「自らの武力」も持たない”とする「皇族の慣習」の中で、「3家3流賜姓族」は「生き延びる手段」を「商い」に求めそれを全面に押し出したのです。
「皇族」と「商い」は「皇族社会の慣習」の中では決して寄り添う事の出来ない「真逆の生き方」で禁じ手であります。
恐らくは、その経緯は青木氏の資料・添書等から読み取れるものとして、この「商い」の「初期の段階」では、当初は「米や地元の産物の税(和紙)」を単純に裁く事から収入を確保していたのを、先ずその「税」をより高く裁く事に舵を切ったと考えられます。
次ぎにその「余剰利益」で「自ら産物」の「殖産」(和紙)にも廻して手掛け、遂には、これを一人立ちさせて、別の顔として「店舗を持つ商い」に発展させたのです。
ところがこの「店舗」を持つだけでは充分ではなく、より「賜姓族」を強化安定させるには「国策氏」としては不足であり、これを全国各地に展開する必要があります。
それには「大量で安全な輸送搬送」が求められ、これに「対応する組織」を確立する事が必然的に求められます。
それが「利益の効率的な運用と分配」であり、それを各地に溢れ出る「荘園制の戦い」に因って敗退し衰退し滅亡する「敗走氏」に援護して自立させ、その役目を与え契約して「伊勢−信濃シンジケート」を組織したのです。(明治九年まで続いた伊勢-信濃域一帯に起った騒乱にも活躍した事が判っている)

これが「3家3流賜姓族」の「強力な抑止力」とも成り、遠距離の「大量で安全な輸送搬送」を確実にし可能にしたのです。
この時、「3家3流の皇族賜姓族」を援護する「特別賜姓族の抑止力」も加わり、「2つの抑止力」が有機的に「2つの賜姓族青木氏」を保護したのです。

更には、これ等の態勢を維持する為には「大量の生産体制」を確立する必要が出て、他の「4家4流の賜姓族」に「殖産−製造−販売」を一手に手掛ける「古代和紙」を「本軸の伊勢青木氏」は完全始動したのです。(1025年頃)
然し、広域の「殖産−製造−販売」には危険が伴ないます。これを「広域性を持つ抑止力」が保護し安定した「広域体制」が保たれる事に成ったのです。
そして、遂には、「堺港」と「摂津港」に店舗を儲け「瀬戸内の讃岐青木氏の大廻船問屋」と連携して「アジア貿易」を展開したのです。
結局は、最終は「総合商社」(1125年頃)と成ったのです。
平安初期の806年頃には衰退し、段階を於いて経済力を主体に徐々に盛り返し、1025年頃から勢いを増し、1125年頃には「広域商い」を確立させたのです。
その証拠に、室町末期には「商いの主」と「守護の主」と別人にしていた「伊勢青木氏の記録」が遺されているのです。

(特記 「殖産和紙の技術の伝授」を授けた事も含めて「信濃青木氏」も「伊勢青木氏」との血縁関係から同じであったと考えられる。)

厳しい環境の「意識の数式論」=「朝臣族の社会慣習の数式論」+「御告げの数式論」を持つこの「賜姓族」は上記する経緯を辿ってこの関係式論を淘汰したのです。

そこで、この「商業基盤」を採用した時にどの様な事が起っていたのかが疑問です。
上記の戦略を発案した「3人の天皇の意思」は「賜姓族」のこの「商業基盤策」を驚天動地で、考えても観なかったのではないかと観られ、普通であるならば「3人の天皇」は皇族の禁じ手である限り、立場上からも猛反対したと考えられます。
ところがその後、継承した「5人の天皇」は「時代性の変化」に伴ないこれを「賜姓族の立場」と「商いの立場」とに2分割する事で黙認に近い形で容認したと見られます。

前段で論じた様に、その後の資料から読み取れる「正式な商業基盤」としては1025年頃に、そして 「豪商」としては1125年頃と成っているのです。
この状態が室町末期まで続き、その後はある範囲に於いて公にしていた事が読み取れます。

特記 
平安末期の「以仁王の乱」(1180年)の敗退時には主謀者の源頼政と仲綱は、経済力で裏打ちされ跡目に入った「京綱の伊勢青木氏」を頼り逃亡しますが、遂に力尽きて宇治の平等院で果てます。
この時の「伊勢青木氏」は隣りの「伊賀の平家の里」とも500年もの間「古代和紙の生産」で親交を深めていた事もあり、「経済力と抑止力」からも手が出せなかったと考えられます。
通説は信じ難く、青木氏から観ると、「逃亡の方向」と「道筋」から判断すると此処に逃げ込む戦略であったと考えられるのです。
もし伊勢に逃げ込んだとすると、「真人族との純血融合族」の「副軸」として存在する「3家3流賜姓族」を敵に回す事に成り「逆賊」と成りますし、そうなると「京平族」も一族の断絶も含めて全ての関係を放棄せざるを得なくなります。且つ、「特別賜姓族青木」(藤原秀郷一門)も相手にしなくては成らなくなり、「源平の戦い」から「国家騒乱」の様相を呈する事態とも成りかねません。
まして、「伊勢や信濃の賜姓族」に対する「不入不倫の権」や「副軸・主軸の立場」も無視する事に成り、結局は「京平族」であっても、下手をすると「逆族の汚名」を受けて「朝廷との戦い」を覚悟する事に成ります。
そうなれば、当然に「逆賊」は「民の賛同」も得られませんし、両極の武家の「源平の戦い」から意味の異なる事と成り、到底に伊勢を攻める事はあり得ません。
この事の意味する事は 「嵯峨期詔勅の賜姓族」である源氏に対しては、特に「河内源氏」に対しては 同じ「賜姓族」であったとしても ”「逆族となる事」”を考えていなかった事を示していて、”「大化期の賜姓族」とは違う” と観ていた事に成ります。
故に、清盛は伊賀隣人の伊勢松阪青木氏の京綱の祖父頼政を源氏の中で「三位」に推薦し引き上げたのです。源頼政は清和源氏宗家の摂津源氏四家の長でありますが、頼政を唯一「副軸の親族」として観ていた事を意味し、故に、頼政の孫の有綱や宗綱の助命嘆願に応じた根拠の一つに成ったのです。
その違いは「副軸」と「和の中立」である事に成ります。

この時、「3家3流賜姓族と特別賜姓族」の青木氏は、既に同じ「商業戦略」(宗貿易)を採る「伊賀和紙」で繋がる「500年の隣人 平清盛」に匹敵する位の「有形無形の総合力」を持っていたと考えられるのです。
この時、前段でも論じた様に、「平清盛」は「有綱と宗綱と高綱:[日向青木氏]」の「伊勢青木氏の助命嘆願」に応じたのですが、この史実からも「賜姓族の力」がどれほどのものであったかは理解できますし、どれほどの親交を維持していたかも判り、これは(助命に応じた事)内心で「国家騒乱」を避けたい気持ちがあった事をも示す行為でもあります。
因って、「平清盛」は「以仁王の乱」で、 ”頼政親子を伊勢に入れない事” を戦略の最大のテーマであった筈なのです。この段階で「伊勢と信濃と甲斐の賜姓族」は「武力を背景とする賜姓族の総合力」で無かった事が攻める事が出来ない大きな理由でもあった筈です。

(特記 この当時の武家の慣習として、「武」に対して「武」の精神が「武家の法度」であったのです。)

現に「近江と美濃の賜姓族」は武力を中心とする「賜姓源氏」と同じ「生きる態勢」を敷いていた事から”「武は武」の定め”の理屈から「平清盛」は攻め滅ぼす事が出来たのです。
この様な「伊勢−信濃−甲斐の皇族朝臣族の政治的スタンス」が「生き残りの秘訣」であったのです。
この「平清盛との関係」から観ても、ある程度の範囲で既に「商いは公」に成っていたと考えられます。

(特記 むしろ、筆者は、皮肉にも「賜姓族青木氏」に代わって「桓武天皇」の「皇族外賜姓族」に成った「たいら族」が「蘇った隣人」のこの「青木氏の生き様」を見て、「清盛の商いの宗貿易」はそれを参考にしたのではないかと見ているのです。「敵視」ではなくむしろ「隣人視」であったと観ているのです。
当然に、「賜姓族青木氏」に対しても当然な事として、乱の首魁の頼政親子に対しても伊勢青木氏との親族であるとして「敵視」<「隣人視」と観ていた可能性が強いと考えているのです。
青木氏側からの経緯から観ると、通説とはどうしても異なるのです。)

この時、「平清盛」は記録から「藤原摂関家」より「商い」を同じく揶揄された事が記録に遺されているのです。
然し、同じ北家筋の秀郷一門は一方では「特別賜姓族青木氏」を通じて「2足の草鞋策」を公然と敷いていたのです。

(「摂関家」として「荘園制」を最大に利用していた筆頭であったが「商い」の出来ない立場を僻み悔しさの発露として「揶揄」したと観られる。)

その証拠として、「信長との戦い」(丸山城の戦い等)で勝利した以降は、引き継いだ豊臣秀吉も「伊勢攻め」ではこの事を知って、「材木の自らの伐採と調達」の事、「蒲生氏郷の配置と差配」の事から観て、この時期には為政者には「青木氏の商い」は、「既成の事実」(背後関係)と成っていた事を物語ります。
江戸期には、家康が紀州藩に頼宣を配置し、松阪で伊勢青木氏と面会した時の対応、吉宗幼少の伊勢での養育親に成っていた事、請われて吉宗の「享保の改革の立役者」と成っていた事、同じ時期に請われて紀州藩の「勘定奉行として財政」を立て直した事、更に請われて「幕末の紀州藩の財政」を立て直し役を「商人の青木氏」として演じた史実から観ても、幕末まで「2本立て戦略」は強力に続いていた事が判ります。

(特記 明治9年までの「伊勢-信濃騒動」にも背後から縁者の伊勢加納氏と共に「商人」として「経済的支援」をしていた事が記録として遺されている。 明治35年松阪大火で焼失)

この様に詳細は前段で論じた通りですが、この「経済的基盤戦略」は、上記する「賜姓族」として務めを果たす為に、その根幹と成す「融合血縁の子孫存続策」の主軸に置いていた事を物語ります。

・「5つの要素」の「政治的要素」
次ぎに「政治的」には、以西と以東のバランスの取れた状態を作り出す事が必要です。そして、その「政治力」が朝廷との間に間断無く届くようにしなければ成りません。その為には余り距離的に離れず一定の距離の中に配置する必要があります。そして上記する「経済的基盤戦略」を確保した上で、この「5つの賜姓族地」を使って「親政政治」を敷き、勢いの強い「帰化人の以西勢力」に対抗する「有機的な政治体制」を構築する必要が出てきます。
当然にこれ等の「賜姓族」にはそれなりの「戦略的」にも「経済的」にも裏打ちされた「武力」或いは「抑止力」を伴わせなくては成りません。
「5つの賜姓族」の中でも一つでもこの力に掛ける「賜姓族」であっては対抗する「有機的な政治力」を発揮させる事は不可能です。
その為にも「伊勢賜姓族」を中心として指揮を統一させ「5つの賜姓族地」を統括する事が何よりの「戦略的政治力」を発揮させる事に成ります。
これには是非にも「5つの賜姓族間の血縁関係」を構築して「血縁による絆」を高める事が「必修の条件」と成ります。
「単なる枝葉を広げる血縁関係」だけでは無く「政治的に統制された血縁関係」が必要です。
それは「融合血縁」(純血性保持)による「氏家の構築」にあるべきであります。
ただ「枝葉末孫」を多く蔓延らせるものでは無く、「5つの賜姓族」の中に「強力な血縁の芯」を創造する事が必要です。
この「経済的基盤戦略」に裏打ちされた「政治力」は、以西勢力とは「朝臣族の利」を生かした「真逆の政治戦略」と成り、彼等に対抗する力を確保する事が出来て「潰されない対抗手段」を構築出来るのです。

(当然に彼等から観れば図りがたい「抑止力」を背後に散ら付かす事で「政治力」はより効果を発揮しますが、「賜姓族としての政治力」だけでは効果は期待できません。)

200万人の職能集団を抱えた勢力に対抗するには、「特別賜姓族の抑止力」を加えたとしても「賜姓族側」の「枝葉末孫策」で彼等に対抗する事は、天文学的な枝葉の抹消子孫を拡大させる事と成り不可能ですし、その為には必然的に上記の「経済力」とそれを護る「軍事力」が莫大に必要と成ります。到底太刀打ちできません。
その「経済力」を担保するには、まして「抑止力」ではなく「正規の軍事力」が必要と成り、その為に限られた領地を無理に拡大させなければ成らなくなります。この結果として「経済力−軍事力−政治力」の「無限の輪廻」が起こります。
これはまさしく「彼等の戦略」と同じです。短期間で出来得ない「同じ戦略」を取れば「弱者」の方が滅びるはこの世の条理です。又、「賜姓族」に持ち得ない彼等には民を引き付ける大職能集団を持っています。
これはあり得ない選択です。
既に、前段で論じた様に、彼等はこの「3つの力」と「進んだ職能能力」と「200万の武力」を持っているのです。今新たに発祥した「賜姓族」では到底対抗する事は論理的にも物理的にも明らかに不可能です。
「枝葉末孫策」は論外の対抗手段です。

それには、先ず、上記する天皇の「賜姓族の戦略」を造り、次ぎにそれを実行する「経済力」を付け、更にそれを裏打ちさせる「抑止力」を背景にし、最後に「親政族の政治力」で、「祖先神の守護神」を確立させて対抗する一翼を構築する必要があるのです。
これ以外の戦略は最早「賜姓族」には与えられていないのです。
この「対抗手段」の為にはこの「過程の順位と順序」を決して違えては成らないのです。
そして、これを実行するには一族一門が「結束する前提条件」があり、それが「ミトコンドリヤの意思」に統一させる為にも目的以前の問題として「純血血縁」が必要であったのです。

決して「皇族賜姓族の身分」や「皇族としての象徴」だけを確保する為の「純血手段」ではなかったのです。
必然的に「賜姓族としてその役目」を果すべく逃れ得ない「生き延びる為の宿命的な純血手段」の道筋であったのです。(家訓の論調でも判る)

前段でも論じた様に、彼等が支配する「200万人の職能集団」と「32/66国の無戦支配地の在来民の賛同」に対抗する何れの策もない筈です。
あるとすると「朝臣族」に課せられたその打つ手はただ一点に絞られます。
それは「天皇家」とは別の位置に「純血性」を保った「同族の結束力」を保持出来得る密度の高い「5つの融合血縁集団」を構築する事にあります。それはあくまでも「統制の取れた政治的行為」でその前提は「純血の血縁集団」であるべきであります。
この為には「朝臣族の族間範囲」では限界があり、返って「同族血縁の弊害」による「弱体化」が起る事にも成り得ます。
”では、どうすれば良いのか”です。それは ”「全ての真人族」をも巻き込んだ「血縁集団」”にするべきです。「賜姓族」を「一本の血縁芯」としての「骨格」を作り、それに「肉」を付ける体格の「血縁族」を造り上げればよい事に成ります。
これには「賜姓族の跡目」には「真人族と朝臣族」から「より優秀な能力の持った嗣子」を据える事が必要と成ります。
「賜姓族の子供」である事に関り無く「真人族と朝臣族」から「賜姓族の跡目」を据えて行く事が必要です。これにより「より高い純血性」が保たれ「天皇家」に代わるもう一つの「准天皇家」(副軸論)が構築され、それに依って「象徴としての権威と尊厳の敬い」を民から獲得する事が可能に成ります。
この事で「帰化人の民からの賛同」に対抗する事が可能と成ります。
先ずは、「賜姓族」も「民からの賛同」を獲得する事に成り、戦略的な一端はこれで解決する事が出来ます。
そして、その「象徴としての権威と尊厳の敬い」は、「民の心の拠り所」として「皇祖神の子神」の「祖先新−神明社」が裏打ちされるのです。
「祖先神-神明社」は政治的には彼等に対抗する唯一の「戦略的な手段」であったのです。
つまりは、これは、「強者側」から「技能の享受」を担保として「帰化人」は「民からの賛同」を獲得し、「弱者の賜姓族側」は「民の心の拠り所」としての「祖先新−神明社」との「2つの均等な競合」と成るのです。
これに加えて「賜姓族」は、「技能の享受」に対抗する為に「物造りの神」の「豊受大神宮」を据えて「民の願い」を一点に集めたのです。
これにより彼等との政治的な勢力関係が先ず維持出来るのです。

「技能の享受」で「民からの賛同」→「強者の帰化人」

「祖先神−神明社」で「民の拠り所」→「弱者の賜姓族」
「物造りの神」で「民の願い」」→「弱者の賜姓族」

「強者の帰化人」≒「弱者の賜姓族」

・「5つの要素」の「地理的要素」
話を原点に戻して、戦略的、経済的、政治的、軍事的な上記の事柄からは、遷宮地の「吉備と飛鳥」の「旧来の古の地」では上記の数式論の方程式は決して成し得ません。
絶対的に「新規の地」である必要に迫られます。
「旧来の古の地」でないとすると、その「地理的条件」には、この「新規の地」であるべきとして、「吉備と飛鳥」に代わる「信濃と甲斐」と云う「中部山間部」の「未開の地」をわざわざ選んだのです。
然し、わざわざ「未開の山間部の地」にしなくても「美濃」に続く東の「開発された沿岸部の坂東」の地でも成し得るのではないかと考えられます。
然し、「坂東の地」には、既に「皇族第6世族以下の臣下族(ひら族)」の定住地があります。
普通に考えれば、坂東域は「皇族関係族」として有機的に働く筈です。
この様に観れば「中部山間部」の「未開の地」の策は一見してかなり乱暴であるかの様に観えますが、実はそうではないのです。
そもそも、この「沿岸部坂東地」には「阿多倍の職能集団」が次ぎの様な集団が配置されています。
「磯部、海部」の海産物に従事する集団
「機部、鍛師部、金作部」の生産機械の製作に従事する集団、
「服部、織部、布部、麻績部」の織物に従事する集団
「秦部、絹部、桑部」の織物の殖産農業に従事する集団
(鍛冶部は北九州、播磨安芸域、紀州北にも分散)

以上の職能集団が関西と九州から移設して配置しました。(これは室町末期頃の「姓氏」の発祥から観て選択しました)
「海部」などは関西以西の瀬戸内地域が発祥地域としているのですが、この「海部」の一部をこの坂東地域に、「瀬戸内の海産物適地」からわざわざ「磯部」と合せて配置したのではないかと考えられます。

(特記 「海部」は前段でも論じた様に、「純友の乱」でも最大の職能集団としての力を持っていたし、姓氏に成ったのも最初はこの「海部族」でした。この事から観ても当時でもこの「海部族」は力を持っていてその職能集団の力をある程度削ぐ戦略もあった事が伺えます。
「技能の享受」で「民からの賛同」→「強者の帰化人」の関係式は強者の首魁が統括している事が前提条件と成ります。この「前提条件」を崩す事でこの数式は弱く成ります。それには彼等を関西より以東の各地に散在させる事で可能と成ります。又、彼等の「進んだ技能」を以東にも移す事で以東の民は「技能の享受」で豊かに成り、且つ、「民の賛同」を弱者側が獲得できます。「一挙両得の戦略」と成ります。)

この「4つの職能集団」が「坂東域」に配置されている事から観て、ある範囲に限定した関係集団を配置したのであって、必要以上にこの集団を移すとこれ等の集団も力を持ち、且つ、この集団を使って坂東の「第6世族臣下族」が力を付け過ぎる事も考えられるますし、「後漢の民」である限り彼等の首魁である阿多倍一門が再び最終的に支配する事も有り得ます。
どの様に観ても、「3人の天皇の初期の意思の戦略」を実現するにはこの「坂東域の地」は明らかに「不適合地」であります。

(然し、最終的に現実には矢張り予想通りに平安末期には首魁の一族の「桓武平氏」(「たいら族」)がここに国司として赴任して支配した。第6世族以下の皇族を祖とする「ひら族」と桓武平氏の「賜姓たいら族」が共存した地域。この事が通説では同族として誤解を招いている。)

ここに「賜姓族」を配置したとしても、「阿多倍一門」は兎も角も「第6世族臣下族」との軋轢を発生させる事にも成ります。
この「沿岸部坂東地」は関東からの美濃域までを通して「東海山道」(古代の街道は信濃−甲斐より接続山間部にあった)として主幹道路であります。
この地に「第4世族 朝臣族」と「第6世族以降のひら族」の2つの皇族方が存在する事は、「3人の天皇の初期の意思」を構築する事では、「第6世族」が排除された形に成り、反発して不可能であります。
況してや、「8人の天皇」が累代するに従い「ひら族」として皇族より切り捨てた「賜姓なしの臣下族」であります。”共に力を合わせよ”と命を下しても成り立つ話ではありません。
そうなると、関東は都より遠阻域でもあり、「3人の天皇の初期の意思」の実現は困難であり、論外域となります。
そうなれば「沿岸部の坂東域」と「関東域を結ぶ東海山道」より「北域の地域」が選択地となり、且つ、「阿多倍一族一門」や「既成の臣下族」の柵(しがらみ)の無い「中部山間部の未開の地」の「新規の地の選択」と云う事に成ります。

更に、「中部山間部の未開の地」には、この「3人の天皇の時代」は、都に通ずる主要な幹線道路が無く、「関東地域」はもとより「広域陸奥域」からの「東山道」に繋ぐこの「東海山道」か「北陸道」しかなく、それ故に「未開の地」であったのです。
元より「中部山間域」として果実などの農産物がよく育つ農業域帯でありながらも、幹線道路の不通が理由で未開で放置されていた地域でもあったのです。
この「中部山間部の未開の地」に朝廷は次ぎの様な職能集団を配置したのです。
馬部、鞍造部  山間部を利用した放牧飼育に従事する集団
山部、鵜飼部  山間部の山川の産物加工に従事する集団
弓部、矢作部  山間部の材木を利用する武器作り等に従事する集団
工部、石作部  山間部の石や材木を加工し家具生産に従事する集団
以上のような職能集団を関西以西から移動させて配置させたのです。

(以上、室町末期頃からの「家紋分類の分析」と「姓氏の地理的な分析」と「地理的な荘園分類」から判別分類)

この配置の事でも判る様に、「中部山間部の未開の地」にも坂東域と同じ戦略(「一挙両得の戦略」)で、この地に適した職能集団を配置しています。
これは明らかにある「政治的で地理的な戦略」に基づき計画的に配置した事であって、其処に「沿岸部坂東地」と比較してどちらが適切かは「賜姓族」を配置する事でも合せて検討された筈です。
この検討の結果、「中部山間部の未開の地」に「賜姓族」を配置する場合は、これらの「8つの職能集団」を関西以西から移設するのが適切であると考えたのです。
しかし、ところがこの「職能集団の配置」に問題があるのです。
それはこの「中部山間部の未開の地」には生き延びて行くには欠けているものがあるのです。
それは「海の幸」であり「ミネラル」であります。海で生息していた「ミトコンドリヤの環境」であります。
海から上陸した「人族」に取っては欠かせない「生命の源」です。
この「ミネラル」を獲得するには最も近接域としての「沿岸部坂東地の海産物」が必要に成ります。
故に「磯部と海部」が配置されているのです。

(特に「海部」はこの意味でも後から瀬戸内から補強するために移設した事が判ります。
「磯部」だけでは「沿岸部坂東地」の供給量しかなく「中部山間部の命」を維持させるだけの生産量に届かなかったと観られます。
「磯部」は海浜域、「海部」は海上域を主とする集団であった。「海部」と「磯部」は瀬戸内が発祥地)

この様に考察すると、「沿岸部坂東地」の「4つの集団 12部」と「中部山間部未開の地」の「4つの集団 8部」には生きて行く為の補完関係が出来ている事が判ります。
明らかに「政治的、地理的な恣意的に組まれた戦略」で「生きる事」のみならず「経済関係」が補完されている事なのです。
この補完関係を構築させて有望な「未開の地」を切り開き、此処を「天領地」として造り上げ、「柵の無い地域」にし、「賜姓族」を配置しようと決めたのです。
そして、これ等の補完関係を円滑にする為に、陸奥から近江までの「東山道」を切り開いたのです。
明らかに闇雲に決めた事では無い事が判ります。これ等は全て同時期に行われたのです。
「強力な賜姓族地」を構築しようとした事が明確に判ります。

(参考 初期の「東山道」:陸奥−羽前−羽後−陸中−陸前−磐城−岩代−下野−上野−「信濃−甲斐−飛騨−美濃−伊勢−近江」であり、「下野−上野」から「東海山道」に繋がる街道を「下野−上野」から新設の「信濃−甲斐−飛騨」ラインと伊勢街道の「美濃−伊勢−近江」ラインを繋いだ。)

この事から、これでも「賜姓族」が「3人の天皇の初期の意思」を実現させるには未だ不足であったとされ、「一つ別の策」が賜姓族独自で構築された事が判ります。

それは上記でも前段でも何度も論じた「伊勢青木氏」が殖産開発し、近江、美濃、信濃、甲斐に「伊賀の古代和紙」を移殖した事であります。
確かにこの職種は「沿岸部坂東地」の「4つの集団」と「中部山間部未開の地」の「4つの集団」にはありません。
これがより経済的に強くした事になるのです。「文化のパロメータ」と云われる「紙」は時代に合致していたのです。恐らくはこの「紙」を扱う事で、 ”「賜姓族」は「軍事力」に頼らない「強力な独自の力」を持つ事が出来る”と読んだ計画であったのです。
それを上記した様に、この「和紙」で、更に「より強大な経済力」を付ける事の為には、”「商い」が必要だ”と判断し、「賜姓族」は次第に恣意的に「皇族の禁じ手」でありながらも「殖産−商いの方向」に導いたのです。(詳細後述)

そもそも「皇族賜姓族」としては本来「商い」は「間逆の立場」にあり、当時としては「皇族」(朝臣族」)という「戒律の厳しい環境」の中では、最高の「禁じ手の慣習」であったのです。
「権威と権力」を支える「氏の生きる為の絶対力」の「軍事力」さえも「完全な禁じ手の慣習」にあったのですから、最早、「商い」は「民の生業」であり論外であったのです。
それなのに次第に「氏族の力」に組み入れて行く「副軸の賜姓族」に対して周囲から激しい揶揄が飛んだ筈です。
”何の為の副軸か! 恥知らずめ!”と揶揄された筈です。

(参考 「平清盛」でさえも「揶揄」は摂関家に限らず身内からも飛んだのです。)

この時、「賜姓族」は「四面楚歌」の苦しい環境にあった事は間違いなく、故に、遂には最終は「近江と美濃」はこの環境に絶えられず脱落したと考えられます。

(特記 5家5流賜姓族の中で、この「2つの賜姓族」には周囲に「複数の皇族関係族」が存在した事もあり、その軋轢は絶え難いものであった事は否めません。「伊勢」は「不入不倫の権」で守られ古来より室町中期まで「皇祖神 神宮」のお膝元と云う事かもら青木氏外の皇族関係族及び他氏の豪族は存在し得ない土地柄です。
「信濃」と「甲斐」は前記の通り環境下の「新規の地」であり、これまた揶揄される皇族関係者や公家の存在し難い土地柄であった。)

「賜姓族」に取っては、「3人の天皇の初期の意思」、況や「弱者に課せられた生き延びる為の戦略」としては絶対に避けられない「生業」の「商い」であったのです。
それには「賜姓族」が一氏では無理であり、一族一門の結集結束しての所業でなければ成りません。
それに耐えられる「唯一の手段」は「思考と意思」「姿勢と行動」を「血」と云う手段で根本から統一させて「血筋」を守り維持する事が「絶対条件」であり、況や、その「血」を更に「純血」まで持ち上げて血縁すると云う「二重の仕組み」なのであります。
「男系の純血」と「女系の皇族血縁」で賜姓族を小さく濃く固めたのです。

「弱者の戦略」=「朝臣族・真人族」+「副軸の賜姓族]=「純血血縁」
「純血血縁」=「経済力」+「抑止力」=「商い」
「抑止力」≠「軍事力」
「経済力の商い」≠「皇族の戒律・慣習」
「弱者の戦略」=「3人の天皇の初期の意思」=「副軸の賜姓族」=「土壌の地・信濃甲斐」

以上の5つの絶対的な逃れ得ない数式論が働くのです。

この一見矛盾する様な数式論を叶えるには、その「土壌の地(地理)」を無視する事は出来ないのです。
その「土壌の地」はこの”「信濃と甲斐」意外には無い”と云う事を意味しているのです。
「3人の天皇」はこの数式論が成り立つ施策を次から次えと打ち出し構築して行ったのです。
その一つが前段の「日本海側3県」の「退避地の設定」や「8部の職能集団の配置」や「不入不倫の権」でもあったのです。

・「5つの要素」の「宗教的要素」
さて、厄介なのは”「宗教的」にはどうであるか”です。
これはそもそも「宗教」は「民・氏族の心」に通ずるものであり、「思考原理=思想」に通ずるものであります。
「心、思考」である限り、それを違えての「賜姓族の配置」は根本的に危険であり、上記で論じた事が全ての「環境条件」が適切で整っていたとしても「3人の天皇の初期の意思」は叶うものではありません。
政治的にこれを抑圧しても古来より「強い抑圧」は「民・氏族の心」の反発を招き、遂には「政治的な反乱」が引き起こされるのが条理で、この例外は無いのです。
為政者は「賜姓族」を配置して最も避けなければ成らない事は「民・氏族の心の抑圧」なのです。
常に、「民・氏族の心」=「賜姓族の配置」=「3人の天皇の初期の意思」 の数式論であらねば成らないのです。

前段でも論じた様に、日本は古来より「自然神」を始めとして「5つの守護神」の考え方が存在し、それがある地域を限定する様に、「宗教(「心、思考」)」に対して「地理的要素」が働いていたのです。
「人族」はミトコンドリヤの時代から「心、思考、意思」を同じくするもの同士が集う「屯の習性」を持っています。それが「民・氏族」であり、その「民・氏族」には「民・氏族」=「宗教」の数式論が成り立つのです。
これは「宗教」として成立したのは、「5つの守護神」の発祥以前の「弥生信仰」の時期から始まっているのです。
(筆者は「民・氏族」=「宗教」=「屯」(たむろ)が前提に成っていると考えています。)

この「屯」が成立した頃の「弥生信仰」は、未だ「氏族」の無い頃で、その頃の「民」の「心、思考、意思」に反して(「食」に原因する「宗教手段の占術」が主体)、離反した為に(100年周期の異常気象で食料不足)先ずは「民の信頼」を失います。(占術は当らなかった)
そして、結局はそこに新たに発祥したこの「5つの守護神」の台頭で、更に「民の信頼」を失い、その為に「5つの守護神」の根源の「自然神」の「鬼道信仰」に取って代わられたのです。
この「弥生信仰」が排除された事を考慮しても、「賜姓族」で「皇族」と云えど「屯」を前提とする以上は「異質の信仰」の中には本来は存在し得ないのです。

「民・氏族」=「宗教」(占術)=(「心、思考、意思」)=「屯」

つまり、以上の数式論が成立しない環境の中以外には「賜姓族の配置」はあり得ないのです。

この現象期は、即ち、「弥生信仰の衰退期」は「7つの民族の融合過程」の中で起ったのです。
「7つの民族」が融合するには「上記する数式論の環境」のこの過程を経る事が必要であったのです。
その為には前段でも論じた様に、「3人の天皇の無意識の意思」は、この「7つの民族の融合過程」を読み取った上で、「皇祖神の子神の祖先神−神明社」に「最終の形」を導こうとしたのです。
この「7つの民族の融合過程」の進み具合如何に因ってはこの「最終の形」は不可能と成ります。
それを見極める要素は「5つの守護神」の「成り立ち」、或いは、「成熟度」であるのです。

「7つの民族の融合過程」=「5つの守護神」

(参考 「7つの民族の融合」に付いては「日本民族の構成と経緯」の論文で詳細参照)

そもそも、一つの国に「5つの守護神」の考え方が存在する事は「国乱」の元であり、その為には先ず、「初期段階」として、否定する事から入るのではなく、先ずは「5つの守護神」を認めて上で、その「5つの守護神」の頂上に「皇祖神」を定め、それを推し進めるべく役割として「子神」の「祖先神」を導いたのです。
そして、何時しか「皇祖神−祖先神−神明社」が「全体の守護神」に代わる事を期待したのです。
然し、当初は「弥生信仰」に変わる「鬼道信仰」がこの役割を荷っていたのですが、この「鬼道信仰」を「皇祖神」の基本に据える事で排除せずに存在させたのです。
その上で、「祖先神−神明社」に主体を置き換えて行ったのです。

(特記 「鬼道信仰の発祥地」北九州域には「神祇信仰」の「八幡信仰の原型」が生まれた)

然し、”主体を置き換えて行く” としても「鬼道信仰」を「皇祖神」に据えている限り、立場上「置き換え」は「天皇の権威」では成し得ず、且つ、命ずる事は出来ず、その「天皇」に代わり得る「氏族」にしなければ「他の守護神と民・氏族」は納得出来るものではあり得ません。
それが、前記する「主軸の天皇」に代わって「賜姓族」を「天皇の副軸」にしてこの役目を与えたのです。
この様に「副軸」は「賜姓族」に取って「必須の必要条件」であったのです。
特記すべきは、 この「副軸」を強くする為に「朝臣族や真人族」を「賜姓族の跡目」に入れて「純血性」を保持させ、同族で「芯」の周りを固めたのです。
この事が「重要な要素」なのであって、それを「純血」と云う手段で「主軸」に違わない「副軸」を構築したのです。
然し、「役目」と云えど「普通の役目」ではありません。その役目は「国の存続」「国の根幹」を成す役目なのです。この役目の失敗は「国の混乱と滅亡」に関わる事に成るのです。
この逃れ得ない「宿命の役目」を担った「賜姓族」であったのです。
この「宿命の役目」を担った「賜姓族」が「弱者の戦略」と「宗教」の上記の数式論の環境の中で生き延びて行かねば成らないのです。
「祖先神−神明社」の「建立の責務」と共に生きて行かねば成らないのです。
それの「行動源」(エネルギー源)と成るのが「絶対禁じ手」の究極「商いの活動」と成るのですから、実に難しい生き方なのであったのです。
まして、次ぎの様な数式論の中に生きているのです。

「宿命の役目」=「賜姓族」=「祖先神−神明社」≠「商い」
「賜姓族」≠「軍事力」

以上の矛盾点を持っているのです。

果たして、「他の守護神と民」は「天皇の意思」であったとしても、この有り得ない「矛盾点」を許す事ができるでしょうか。普通であれば決して出来ない筈です。
つまり、「主軸−副軸としての象徴感」が消失するのです。
ところが、あな不思議に、然し、許したのです。
「賜姓族」にあっては成らない「矛盾」を許したのは、”それは一体、何故なのでしょうか。”

「民の賛同と許容」
「賜姓族」が「祖先神−神明社」の務めを果す時、必ず行っていた事があります。
それは前段でも論じた様に、「皇祖神」の「天照大神」と「豊受大神」を分霊祭祀した事にあります。
「祖先神−神明社の建立祭祀」の中心にこの「2つの大神宮の分霊祭祀」を据えたのです。
決して「祖先神−神明社」だけの「単独の建立祭祀」では無かったのです。
恐らく、「単独の建立祭祀」では「民の賛同と許容」は得られなかった筈です。

(前段で論じた様に、「大神宮」24 「皇大神宮」17を「486社の核」として据えたのです。)

上記の懸念は、「486社の核」に据えたからと云って許される条件ではありえません。
「民・氏族の心」=「賜姓族の配置」=「3人の天皇の初期の意思」は、「天照大神」の「分霊祭祀」(17)で払拭されますが、中でもこの「民の賛同と許容」の「誘引の基」と成った問題は「豊受大神」を建立した事なのです。
それは、前段でも論じた様に、そもそも「豊受大神」(24)は「物造りの神」であります。
「物を造る」は、「物を造って得られる利得」に繋がります。
「物を造る事」に依ってそれを売り裁き、「生活の利得」即ち「食」を得るのです。
「物」を造って売り裁か無ければ造る事の意味は半減します。
「自給自足」でない限りは「物を造る」は「物を売る」を前提としています。
「物を売る」や「利得」は現代感覚では「金銭感覚」を想起しますが、決してそうでは無く金銭を主体とした「貨幣流通期」までの「平安末期」までは「物」=「食」を意味した社会であったのです。
「縄文時代の自給自足の社会」は既に通り過ぎて「弥生時代」も過ぎているのです。

既に、「後漢の民」(645前後頃)が職能を持ち込んだ時期から加速して「流通社会」が謳歌し始めたのです。つまり、「部制度の社会」が構築されていたのです。
この「部制度」とは前段でも論じた様に、「自由市場経済」の前段形式で、「職能集団の部」に依って生産された品は、一度、「税」として「朝廷」或いは「荘園主」に具納し、「税」の必要分を取り除いた上で、残りを市場に放出し物々交換を主体とした一部で換金する仕組みであり、間接的な市場経済であったのです。

「物を造る」=「売り裁く」=「商い」の循環が働くから「利得」
(食:御饌 ”ミケ” と呼称されていた)

以上の数式論が得られるのです。

「豊受大神の祭祀」=「物を造る→売り裁く→商いの循環]

以上の数式論が働きます。

ところが、この数式論だけでは未だ「民の許容と賛同」を獲得する事には成らないのです。
そもそも、この時代の社会感覚の「利得」は、「市場経済」と「貨幣経済」で無かった事から、全て「食の感覚」に通じて強く、その事を表す「御饌:ミケ」の言葉が「古代語」としてあったくらいなのです。

(特記 民の神は「ミケの神」「食の神」が主体であった。)

現在では消えているが平安末期までは使われていて「万葉集」にも「感謝の意味」を含む「日常用語」として出てくるのです。
況や、当然に奈良期からはこの「御饌:ミケ」を祭祀する「古代神」があったのです。
そして、「豊受大神の発想」の根幹はこの「古代神」にあったのです。
それが「豊受大神」の「基神」と成ったのです。

「民・氏族」はこの上記の数式論の中に生活していたのです。
だからと言って、”「賜姓族の商い」は認めない”はあり得ません。それは「皇族」に課せられた「戒律・慣習」の事であって、「賜姓族」とする限りは「公」に認める事は憚れる事であります。
それが、「民・氏族」が期待する「物造りの神」の「豊受大神」を祭祀する責務を果す為にあるとするならば、むしろ「民・氏族」に取っては「歓迎するべき行為」である筈です。
「民」にとっては、”「御饌:ミケ」を祭祀する「古代神」” の否定は不可能である筈です。

従って、結局は、”「揶揄」するのは、出来るのは「公家・摂関家」だけ”という事であります。
従って、その「揶揄」は何時までも続く事は無かったと考えられます。
何故ならば、北家筋で最も勢力と経済力を保持していたのは「秀郷一門」の方で、その「第2の宗家」である「特別賜姓族青木氏」が「皇族賜姓族」と共に「2足の草鞋策」を推進しているのです。
況して、その「牽引役」は「伊勢の特別賜姓族の青木氏」なのです。
そして、その「権威」は上記する様に「副軸」として位置付けられた「賜姓族」であって、その「副軸の賜姓族」に匹敵する全ての立場を与えられていた「特別賜姓族」なのです。
「揶揄する摂関家」を遥かに凌ぐ「皇族賜姓族」と同じ「官位、官職、身分、家柄、特権」を保持しているのです。況して、この「2つの青木氏」の「融合青木氏」も存在していたとすれば、これ程強いものはありません。
前段で論じた様に、平安末期の「後三条天皇の荘園制禁令」から「白河院政」まで摂関家は政治的にも経済的にも弱体化していたのですから、この「北家摂関家」と云えども何時までも「揶揄する事」は得策ではなく出来ない筈です。

(参考 荘園制禁令に因って藤原氏摂関家も荘園制から得る利得が激減し、賜姓源氏も名義貸しと利得が無くなり弱りつつあった。揶揄を続けるだけの意欲は阻害されていた。)

その否定を含む「揶揄」を続ければ、何時かは「北家一族」を揶揄する事に成り、自らに唾を投げかけるに等しい事に成ります。秀郷一門との激しい軋轢が生まれる事は確実です。
「揶揄の意味」が「軋轢から来る損失」より大きくない事は誰でも判る筈で、「一族北家の摂関家」がそれを判らない筈はありません。それこそが追い落とした「南家、式家、京家」の二の舞に成ります。
この様に考察すると、結局は、「物造りの神」を信望し、利害の一致する「民・氏族」の「許容と賛同」と、「揶揄」を得策としなく成る「摂関家」は認める事に成る訳ですから、「賜姓族の商い」は「戒律・慣習」であったとしても、終局は暗黙で認められた事に成ったのです。

(特記 「2足の草鞋策」として「賜姓族」である事を伏せた上で妥協の「暗黙の了解」が働いたと観られます。「織田信長」が「丸山城の戦い」で「松阪の紙屋長兵衛」が「伊勢青木氏」である事を知らなかったこの史実から、室町末期までは「暗黙の了解の秘密」であった事が判ります。「伊勢青木氏の記録」から、この後の「豊臣秀吉、蒲生氏郷、徳川家康」は知っていたのです。「丸山城」の時は「堺の店」から出没した。)

この様に、「賜姓族」の「祖先神」の「異質の宗教的要素」が働く中に於いてでも各地で認められ、「御師様、総師様、氏上様」と崇められ認められて行った事が何よりの証拠です。

当然に、この「宗教的な基盤」が「出来上がっている地域」よりも「無い地域」の方が別の意味で苦労は伴なうが適合している事は間違いありません。
だとすると、「既成の地」の「近江、伊勢、美濃」に「近い地域」で、且つ、戦略上の上記「5つの要素」に適合する地域と成れば、「未開」と云うリスクがあるにしても「中部未開の地の信濃と甲斐」の2国しかなくなる筈です。
むしろ、戦略上の「5つの要素」を叶えるのにはこの「未開リスク」を積極的に求めたのです。
況してや、「皇祖神の子神」としての「祖先神の神明社」は、「他の守護神」とは別格であり、「2つの青木氏」で「朝臣族と真人族」の守護神でありながらも、全ての「民の守護神」(「心の拠り所の天照大神」と「物造りの神の豊受大神」)としても位置付けられていたのですから、受け入れられる筈です。

そうなると、では、”「天照大神」は兎も角も「商い」に付いても「民・氏族の賛同」を獲得した「豊受大神」にはどの様な経緯があったのでしょうか。”気に成るところです。
実は「御饌:ミケ」を祭祀する「古代神」を引き継いだ「豊受大神」には次ぎの「由来」と云うか「経緯」と云うものがあったのです。

「豊受大神」の経緯
真偽の程は、神代に近い「伝説的要素」を「皇族の由来」付いては常に持っていますので、別にして、一説には、「止由気(トユケ)宮儀式帳」という「朝廷文書」があり、この中で ”「雄略天皇」の夢に現れた「天照大神」が、「豊受大神」を「御饌の神」としてそばに呼んでほしい」と告げ、そこで「雄略天皇」は、「丹波国(京都府)」から「豊受大神」を迎えて「伊勢の地」に祀った”とあります。
「夢の事」の真偽はさて置き、”何故「丹波国」なのか”という疑問があります。
その一説として考えられる事として、そもそも「豊受大神」は「天照大神の御饌の神」(ミケのカミ)として時期は別にして「伊勢」に祀られたのですが、朝廷はその由来を造り上げる為に、その「丹波国」には飛鳥の頃から「奈具社(ナグのヤシロ)」の様な「穀物の女神」(食の神)を祀る社が多かった事から、ここに由来として結びつけられたものと考えられます。
(他説には、「丹後国風土記」逸文にある「天女の話」等があり、「歴史資料説」として根拠とは成らない。)

地方で発祥した「地方神」の「民の神」の「奈具社の神」等と云うものがあって、その中の「自然神」として「民」の中で発展した「穀物の女神」(食の神)の「豊宇賀 能売神(トヨウカ ノメノ カミ)」とするものがありました。

(参考 豊:豊作を祝す 宇賀:自然を賀する 能売:物を能く売る 自然に賀して豊かに成り能く売却さしてくれる神。)

この「神名」が物語る様に、「古代の感覚」は ”この世の森羅万象の「全ての物」は自然から与えられるもの” ”つまり「農産物」や「加工品」にしろ「鉱物製品」にしろ、強いては「人の喜怒哀楽」も含めて、あらゆるものは「自然の神」から与えられるもの”とする「宗教概念」を主体としていたのです。 
この「古神」は、当時(奈良と飛鳥時代)の関西域の「民の信仰」を一心に集めた「古神」であったのです。
一説では、この「古神」が伊勢に迎えられて「豊受大神」として祀られる様に成ったと考えられるのです。
つまり、この「豊受大神の原像」は、「穀物の女神の豊宇賀能売神」の様な当時の「民の信仰体・主神」、 ”民の「農民信仰の食神」であった”と考えられます。
これを「伊勢」に迎え入れて「国」の公的なものにする為には、朝廷は「何らかの手だて」が必要です。
そこで「地方神」から「民の信仰」を伊勢に集め「天照大神」と共に祭祀し「全国神」にする事で成立します。そうなると、”迎え入れた”のでは無く、”伊勢にも造り上げた”が正しい事に成ります。
そもそも、神には厳格に「神格」と云うものがある為、「豊受大神」とする為には「民の地方神」の「豊宇賀能売神の迎え入れ」には「神格の差」「豊受」(トヨウケ)>「豊宇賀 能売」(トヨウカ ノメノ)が必ず起る筈で、”「丹波」にもあるのであれば名も類似させて「伊勢」にも造る”とした筈です。
”闇雲に創造した事では無かった”との理由付けの為に ”神代に近い「伝説的要素」を「皇族の由来」”として位置付けた「後付」であったと考えられます。
それが「天照大神」を祀る「伊勢信仰」の拡大と共に、「穀物の神」(食の神)から発展させて、”「食」に限らず「食」に通ずる全ての「物造り」の「物造りの神」(物造り総合神)としての「豊受大神」として確立させ、結果として「天照大神」の内宮に対して「神格式」を挙げて「外宮」としても広く祀られる様に様に成った。”と考えられます。

(特記 この頃、「阿多倍の職能集団」が到来し「在来民」は進んだ「職能」の享受を受け始め、「物造り」に目覚めた時期であったのです。食以外に生活を潤す糧、即ち、「物造り」がある事を知り、「食神」以外にも「物造りの神」をも創造し出したのです。)

その結果、「民の農民信仰の稲荷神」(食神)と並ぶ「国の大神」として発展させたとするのが、現在の「マニア通説」であり筆者の検証説にも成ります。

ところで問題なのは、この天皇豊受説には「時代性」が明確ではありません。その「時代性」、況や「豊受大神」の正確な時期が、上記した「賜姓族の宗教への合理的根拠の時期」であったと考えられます。
「賜姓族」の「民・氏族」からの容認」の頃に創始し、それに伴なう「商いの暗黙の了解の取り付け期に確立」した時期であったと考えられます。
つまり、「物造りの神」とした「豊受大神」の伊勢併合時期は、”「3人の天皇期」に伊勢に祭祀を始め、「5人の天皇期」に確立させた頃”と成るのです。
そんなに古くは無く、「647年から655年ころの間に創始」と考えられます。
結局、この「後付問題」は、「3人の天皇」(持統天皇まで)までの業績を纏め上げた「歴史書」「日本書紀」編纂(720年完)を実行した「文武天皇期」前である事は間違いないと少なくとも考えられます。

「天智、天武、持統」の「在位期間中の業績」を整理整頓する際に、この「豊受大神の祭祀の由来」の根拠も「天照大神」(高千穂の峰)と同様に「神代の事」として「後付」で造り上げたと考えられます。
まさか、「賜姓族の宗教への合理的根拠」として「朝廷文書」の記録として遺せなかった筈です。然し、「日本書紀」(下記)にはそれと読み取れる事件を間接的に公の記録したのです。

(参考 「日本書紀と青木氏」の論文参照 古代歴史書の六国史:日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三大実録)

「遷宮地85」の最終の「伊勢の地」の「正式な決定」は「大化の天智−天武天皇の時期」であり、「雄略天皇期」では決して無く、この時期は未だ「85地−90年」の「遷宮中の時期」であった筈です。
時期には「神代の伝説手法」が働いており矛盾が潜んでいるのです。
「朝廷の夢と雄略天皇の根拠説」が明らかに何時もの通りこれも「後付」である事が判ります。

では、”その時期は何時頃か”と云う事に成ります。
それが、上記の様に、「賜姓族」が「民・氏族の賛同」を獲得する必要性に迫られた頃からであると見られます。
「丹波」に発祥していた「民の信仰の神」(「豊宇賀能売神」:食の古神)を、「伊勢」にも「大神の全国神」(「豊受大神」)として創造した時期(大化期初期)と一致すると観られるのです。
そして、この事、即ち、「物造りの神」の豊受大神」に依って「民と氏族の許容と賛同」を取り付けた事であった筈で、この事が「宗教的課題の最大の問題」であったのです。
これがクリヤー出来た事からこそ、「3人の天皇の初期の意思」の「賜姓族」は進んだのです。
この事無しには「賜姓族の存在」と「皇祖神の子神で守護神の祖先神−神明社」の建立は有り得なかった筈です。
言い換えれば「2つの青木氏」の存在根拠は無かった事に成り、且つ、生まれていなかった事に成るのです。
「2つの青木氏の基点」は何処にあるのかと成れば ”此処にある”と云う事に成ります。

故に、実は「日本書紀」に、「信濃賜姓青木氏」と共に「信濃諏訪族の首魁」が破格の扱いで「施基皇子」等が列座する宮殿に於いて「天皇」に謁見し、更に「謁言」を許された事が詳細に書かれているのです。
(「日本書紀と青木氏」の研究論文参照)
その時、この「信濃の一豪族の首魁」(諏訪族)が、何と天皇に直接向かって、「未開の地の開拓の勲功」に免じて ”税をもう少し安くして欲しい”の旨を言上したのです。この時、「信濃賜姓青木氏」は共に「沿え言葉」を付加えた事が書かれています。天皇はこれを聞き入れた事が記載されています。
これは明らかに、上記の「賜姓族への配慮」が天皇にあった事を物語ります。
そもそも「天皇への謁見と謁言」は「正三位」以下は許されていません。「宮廷への昇殿」は正四位までとされていました。その事から観ると、「信濃賜姓族」は昇殿は許されたとしても「謁言」は出来ませんから、一地方の豪族の「信濃の首魁」の「謁見と謁言」は破格の扱いであった事が判り、更に、この「天皇の日常業務」の一つが「大きな出来事」として「日本書紀」に記載される事の事態が異例中の異例であったのです。
この事で「3人の天皇の初期の意思」の「賜姓族に対する配慮」は「政治の域」を既に越えていた事が判ります。
「日本書紀」への記載の意味は ”「民と氏族の許容と賛同」を取り付けた「宗教的課題の最大の問題」”の「賜姓族の歴史的苦労」を間接的に表現したと考えられます。
この事を成し遂げた「施基皇子」は天皇に継ぐ「最高位の勲功位」 「淨大正1位」を他の皇子連よりも数段上の誰も成し得ない勲功を受けたのです。
(故に、日本書紀にこの事が詳細に記載されているのです。「日本書紀と青木氏」参照)

この上記で論じて来た「5つの要素」の総合の結論は、「賜姓族態勢の構築」「3つの発祥源」「皇祖神の子神」「祖先神−神明社」「融合氏」等の前段で論じた様な「打つ手」と成ります。

そこで、上記に論じて来た「8人の天皇が推し進めて来た意思」の「賜姓族の根幹骨格」と成っている「純血血縁」がどの様な経緯を辿ったのかをもう少し検証する必要があります。

先ず、その前に「基本データ」をもう一度、観てから下記の(注意1〜5)を先にお読みください。
本論の冒頭の「基本データ1」と「基本データ2」を参照して下さい。
基本データ1は「主要な初期の19守護地」(4世族王)(「神明社の初期建立地」)
基本データ2は「遷宮地」85の詳細の表

(注意1 [5家5流皇族賜姓地]
この・印の国府に存在した「5地域の守護王」が始祖と成り、「5代の男系天皇」が累代で賜姓し、臣下させて「第6位皇子」をこの地に配置し継承させた。つまり、この時(光仁天皇までの8人の天皇)の「賜姓臣下」は「5地域の守護王」と成る事を意味したのです。

その後もこの「5つの守護王の氏族」には「跡目」が欠けない様に「皇子の跡目」を入れたのです。
花山天皇までの累代天皇に「第6位皇子」が居ない場合は、特に平安期以降には「賜姓源氏」の「朝臣子」を跡目に入れて継承したのです。

(注意2 「三野」と「美濃」と「弥努」の”みの”は他の書籍等では混同している為に史実が歪んでいて間違っている。)
(注意3 「遷宮地」85では、主要地域は次ぎの5地域の「伊勢域」、「近江域」、「美濃域」、「飛鳥域」、「吉備域」と成っている。
(注意4 「賜姓地」5では、「伊勢域」、「近江域」、「美濃域」、「信濃域」、「甲斐域」の5地域と成っている。
(注意5 注意3と注意4を比較するとここには歴史的な異変のある大きな意味を持っています。)

「皇族と5家5流賜姓族との関係の検証」
(19守護王地の意味する処)

「5家5流皇族賜姓地]
この・印の「5地域の守護王」が先ず「始祖」と成り、そこに5代の男系天皇が慣例に基づき「第6位皇子」を「賜姓」し「臣下」させて「第6位皇子」をこの地に配置し継承させたのが始まりです。
これが「5家5流の皇族賜姓族」の始まりであります。

然し、この5地域には「国府域」とそれを護る「守護域」とで構成されていて、1つの守護地には2から3の守護の「朝臣族」を配置しているのです。
1国1守護王ではない構成と成っているのです。当然に、史実の内容から政庁を置いていた「国府域」を「主庁」とし「守護域」を「副庁」としていたのです。

(特記 ところがこれが後の700年以降にはこの「守護王」にその「行政代理官」を派遣した。その階級には「中央官吏の国司」には「守」、「守代」、「介」、掾(じょう)、「目」(さかん)、「地方官の郡司」には大領、少領、主政、主帳、そして「村司」に里長[郷長]、村主と変化した。
唐の制度を模範に「国郡里制」から里は「郷里制」に変更し再びた「国郡郷制」に戻した。
「賜姓族地」の「5天領地」には上記した様に「賜姓族の国策遂行」の難しさからこの700年頃から770年頃に掛けてこの「代理行政官」を置いて「税等の一般行政」を強化し補完した。)

然し、「行政に依る安定」は図るにしても「賜姓族としての国策遂行」にはこれだけでは済まず、自らの「賜姓族としての足元の強化」も成し得なくては成りません。
前段の初段で論じた様に、大化期前の「朝臣族の配置」では朝廷が全てその裏打ちをしていたのです。
ところがその事が天皇家と朝廷の力を圧迫し弱体化させ、蘇我氏にそこを付入られた事から大化事件が起ったのです。そして、それを改革したのが「大化改新」であり、その目玉としての「賜姓−臣下」であって、その「賜姓族」には「大化改新」の「最大の改革」として「国家形成の国策の根幹部分」の「遂行責務」を背負わしたのです。
当然に、「大化改新の象徴」として民に誇示し宣言する為にも ”「自らの存立は自らの力で果す事」(野に放たれた野鳥の様に一人歩きの姿)”を課せたのですから逃避する事は不可能なのです。
大化期に発祥した「賜姓族と云う言葉」にはその様な意味を持っているのです。
「大化期賜姓族」=「自立自存」
「3人の天皇の初期の意思」として上記で論じた様な「5つの要素の基本的補完」(「税等の行政事業の基本的補完」等)の「道筋」は示したものの、この「道筋」だけでは事は進まないのが「現世」であります。
先ず根幹と成る事を「行動」(融合血縁)に移してこそ成し得るものであります。

それが次ぎの事であったのです。
特に、この「5天領地」の「第4世族内朝臣族の守護王」の「5家5流の皇族賜姓族」の地には、次の様な「跡目・養子・融合の血縁の歴史的な経緯」が起こっていたのです。

大化期の「守護王」として、上記した様に「賜姓族」として「厳しい国策遂行」を背負わして配置したその後も、配置するだけでは「国策遂行」は成し得ず、先ずは「賜姓族・守護王」として永代に確固として自ら「氏族」を存続させねば成りません。それには「副軸の本軸」の根幹を造り上げる為に先ず「融合血縁」が先行されます。「3つの発祥源の務め」の「融合族」でありながらも先ずはその根幹を強固なものにする為に「副軸−本軸」は固めて置かなければ成らないのです。自らが「融合末梢族」には成り得ないのです。
飽く迄も、真人族と朝臣族と宿禰族の皇族から齎される血流の融合の中で融合策を進めねば成らないのです。それには「賜姓族の母方族・女系族」が広く世間に対してその「融合氏の役割」を荷っていたのです。

(特記 その「融合氏の役割」を果す嫁に行く「女系族」と、嫁として入って来る「母方族」の為に、その大役から「通常の慣習」には無い「賜姓族」としての慣習があるのです。それは「女墓の慣習」なのです。
この「女墓慣習」は通常の「先祖墓」に対して別の墓所を隣に設け、其処に先祖代々の全ての「女系族」(娘)と「母方族」(嫁)の「俗名と戒名」を一列に書き記した「大型の碑石」を墓の中央上部に設け、その前に祭壇を敷設する形式です。賜姓族の独特の「祖墓と女墓」の慣習があるのです。
男は「純血による融合血縁」、女は「混血による融合氏」の「子孫拡大の務め」を共に果たしていたのです。この様な慣習から「呼称の慣習」では「娘」は”・・のひい様”と呼ばれ、「嫁」は”・・の妃様”と呼ばれていたのです。後に武家では「ひい様」は「姫様」と成ったのです。何れも「ひい様」も「妃様」(ひめさま)も語意の基の呼称は”ひめ”であり、女辺に家、己、臣、賓等の字句は「人の集合体の基本単位」を示し語源は「融と合」の語意を持っているのです。)

(特記 上記の「ミトコンドリヤ」のところで記述した様に「ミトコンドリヤ族」の基は「雌」であり、4段階目の進化で「雌」から「雄」の役目を分離したのです。その証拠に人間の人遺伝子は母方に引き継がれているのです。その外見から生態学上の一つの例として挙げると、男の「乳首と臍」は役には立っていません。これは基は雌であった証拠です。本来、「古来の賜姓族の慣習」では ”女子が枝葉子孫を拡げ、男子は血筋・血流を護る” 事が務めとされていたのです。これは「男子の血筋血流」の考え方から「母方の人遺伝子継承」の理から明らかに逆の慣習ですが、「融・合」と云う点では「女子の枝葉子孫拡大」は一致しています。
この特記の事から判る事は、「古代の賜姓族の慣習」として「融合として子孫拡大」の実質の務めは「女系」にあった事を意味します。
そもそも、前段でも論じましたが、他氏の様に、”男系も女系も両方で血筋・血流を融合させて混血させると云うのでは無く、男系だけは「純血」を守り、片側の女系で混血させて他の血筋を入れて行く” と云うと「賜姓族の慣習」であった事に成ります。皇位継承権を持つ「真人族の皇族」はこの両方の純血を原則として護ったことに成ります。これでは「子孫存続」が成り立たない事から「嗣子の内容」を見て「妥女の制」を採用していたのです。)

(特記 「男系の純血」でも多少の他の血筋が入る。現代生態学では血液型が同じであれば80−90%遺伝子が同じと云う事に成る。この事からすると、上段で論じた「男系の純血」の慣習は「血液型」が同じと云う前提が成立した筈ですが、当時は血液型は判らない事がロマンの慣習である。血液型は遺伝である事から確率としては2乗に比例して行く事に成ります。故に、「賜姓族の慣習」では「分家方式」を作らず「宗家方式」で継承さして行くので1/2の純血確率で継承させて行くのです。
これに上記の「真人族と朝臣族から跡目と婿養子と貰養子の制度」と、宗家外の一族からも「跡目、婿養子、貰養子の制度」も併用する事で更に純血確率を高めているのです。故に1/2を超えて同じ血液型が統一して維持される確率は非常に高く成ります。 本論の血縁論はこの前提に立っています。)

平安期初期までは「5家5流の皇族賜姓族」の「皇族系の跡目」が欠けない様に「皇子の跡目」(詳細下記)を入れました。然し、累代(天智天皇より平安期11代)の「男系天皇」(6代 女系5代)以降の平安期中期以降には、「第6位皇子」が居なかった場合には、「嵯峨期の詔勅」から始まった「賜姓源氏」(11代 嵯峨天皇から花山天皇)等の「各地」に定住する「朝臣族」を跡目に入れて継承したのです。

(特記 7代も女系天皇が続き皇子数が激減したことも大要因  嵯峨天皇はこの問題に着手した。)

この場合、”「跡目」が欠けた”と云う時のみならず、その後の系譜や添書等の資料から読み取ると、実は「嗣子」が存在しているにも関らず「真人族・朝臣族」を積極的に跡目に入れているのです。
ところがこの経緯の内容をよく検証すると、「伊勢」、「信濃」、「甲斐」、「近江」、「美濃」の全てに、近隣に定住していた「第4世族の真人族」や累代の「第6位皇子」と「賜姓源氏」の「朝臣族」が「跡目相続」しているのです。
そして、それには必ず上記する「真人族」が「跡目血縁」と云うよりは「跡目融合」の言葉が妥当な「融合血縁」をしているのです。
これは「融合氏の発祥源青木氏」である事を大きく物語っているのです。
つまり、”「真人族が形成する氏」と「賜姓族が形成する氏」が同族血縁した”と云うよりは、”「真人族」のある者が「賜姓族」の跡目に直に入った”と云う表現が適切なのです。

と云う事は、不思議な事として、先ず、一つ目は、この「5地域の賜姓族地」には、上記の表の通り「真人族」と「第4世族内朝臣族」が「国府外」に居たにも関らず、この「朝臣族の氏族の末裔」が近隣に不思議に存在しない事なのです。

(室町期末期から江戸初期に掛けて下克上と戦乱で伸し上った所謂「未勘氏族」なる者が「末裔」であると名乗っているが極めて矛盾を孕んでいる。)

更に、二つ目の不思議な事としては、”上記の「嗣子」が存在しているにも関らず「真人族・朝臣族」を積極的に跡目に入れている事” とであります。

この「2つの不思議な事」を考え合わせると、これはこの「5賜姓族」がこの地域の「真人族と朝臣族」を吸収した事(融合血縁)を意味します。
それが「平安期末期頃から鎌倉期頃の資料」ですが、「平安初期頃」まで行われていた可能性が高い事が論理的に読み取れます。
これは奈良期の「3人の天皇」か、或いは、後半の平安期前の「5人の天皇」の「初期の意思」であるとかとも考えられます。
実は、前段でも論じた様に、「平安遷都」や「京平氏賜姓」等を実行した「桓武天皇」を境に政治の態勢は急変します。前段で論じた様に「皇親政治」から「律令政治」に変革したのです。
「皇親政治」の「8人の天皇」の政治履歴を考察して分類して観ると、前半の大化改新「3人の天皇の政治改革」と、後の「5人の天皇の政治改革」には大きな違いがあり、概して「初期段階の政治改革断行」と「仕上げ段階の政治改革断行」に分類されます。

この傾向から観て、継続性は全体として存在するも、筆者は、”「3人の天皇」の「初期の意思」であった”と考えているのです。
恐らくは、この「桓武天皇」を境に「融合血縁」にも侭ならない程に大きな影響を与えたと考えられます。
これが「青木氏の衰退の空白期間」のきっかけと成ったのだと観ているのです。
「桓武天皇」が「国策である賜姓」を母方の族に対して「たいら族」を賜姓したのです。
これでは、到底、「皇族賜姓族青木氏」は「融合血縁」を推し進める事は不可能です。

当然に「融合血縁」のみならず「国策遂行」も否定された事に成った訳ですから、表向きに一時は何も出来なかったと考えられます。
「150年で8人の天皇」が継続して推し進めてきた「国策」が「律令」を理由に途絶える事に成る訳ですから、天皇家や朝廷内はおろか為政者や公家等は「驚天動地」であった事が覗えます。
史実、朝廷内はこの事で二分し争いが起こります。
「桓武天皇と皇太子派」と「第2皇子派」が対立して骨肉の争いが起ったのです。
結局、この為に「桓武天皇」は譲位して皇太子の「平城天皇」が即位して収拾を図りますが、この「平城天皇」も悩み病気(うつ病)に成り2年で退位して、第2皇子の「嵯峨天皇」が即位せざるを得ず争いの態勢は収束に向かったのです。
この収束過程でも前天皇の「平城天皇」は依然として抵抗したのです。結局、「嵯峨天皇」も妥協して「嵯峨期の詔勅と宣旨」を発し、「賜姓青木氏」から「賜姓源氏」と変名し、その「賜姓源氏」には「国策遂行の責務」を外し、ただの「賜姓臣下の氏族」とします。
この時、「青木氏」は「真人族」と「第4世族内」に限らず「全ての朝臣族」が「還俗や下俗」する際に用いる氏名として使用を禁じます。
先ず全皇子の内8人が臣籍し、その後には17皇子と15皇女が臣籍降下させたのです。
これで、「5家5流の賜姓族」は国策氏として復活するのです。

「累聚三大格」と「弘仁5年八月八日付けの詔勅」にこの事が記録されていて、その令を下記の様に記載されているのです。
「嵯峨期の詔勅」
「男女梢や衆く、未だ子の道を識らず、還って人の父の為に、辱く封色を累ね、空しく府庫を費す。朕、懐に傷み、親の号を除き朝臣の姓を賜い、編して同籍と成し、公に従事し、出身の初め、一に六位に叙せんと思う」

要約すると、「天皇には皇子皇女が多かったためにいちいち親王家を立てる事に成ると人民の負担が多く成るので、皇子には(源)朝臣の姓を賜って臣籍に降下し、公務に従事させて、その身分を六位に叙した。」

これからも判る様に、「弘仁の詔勅(嵯峨期の詔勅)」では「5家5流の賜姓族青木氏」の「国策氏」「3つの発祥源」「象徴の賜姓族」「皇祖神の子神の祖先神−神明社」等の役目などの事は一切書かれていないのです。
書かれていないと云うよりは「賜姓源氏」には与えていないのです。与える事によって「5家5流の賜姓族」の様に力を持ち、「親政族」として再び「律令政治体制」を壊し「皇親政治」に陥るとする反対者側の意見に妥協して与えなかったのです。
ここにある「公務」とあるのは、「5家5流の賜姓族」と同じく「親衛隊の民部上尉」「宮殿の護衛団の指揮官」で「本来の官職」であったのです。然し、現実には当然の様には与えられなかったのです。
それは何故かと云う事なのですが、文面にある様に「従六位下」だからです。
この「従六位下」の位には大きな意味を持っています。
本来通りに直ぐに与えられるには、上記に記述した様に「皇族第4世族内の朝臣族」の場合は、最低でも「従四位下」でなくては成らないのです。
平安中期の「藤原秀郷流青木氏」は、藤原北家一門の中でも1ランク上の上位を与えられたのですが、「皇族賜姓青木氏」の5家5流を特別に補佐する為に叙された「特別賜姓族青木氏」であるので、「従五位下」が与えられています。つまり公家上位と同じ位です。
朝廷では五位を境に扱いは全く異なるのです。
ここでは経済的な負担軽減を前提として詔勅に明記している様に、それでも、”六位を与えられた事を善し”としなければ成らないのですが、当時の皇族の朝臣族の扱いからは低すぎる扱いであった事が判ります。これでは皇族外の昇格で朝臣族に任じられた氏と同じです。

(参考 奈良期と平安期の「八色の姓制」の「朝臣族」と、「天皇の臣」であったので「朝臣」と誇示している室町期後期や江戸初期の「勃興氏」とは異なるので注意)

「守護神と神明社−4」の冒頭の表(位田、職田、功田、賜田、俸禄)を参照しても「六位」はこの食封田の対象にも掛からないのです。
この様にこの文面の一字一句を捕らえて考察すると、「平安期の慣習雑学」と比較すると多くの事が読み取れます。
更に続けて考察すると、当然にこうなれば「真人族」や他の「朝臣族」との「同族血縁」のみならず「純血による融合血縁」や「跡目血縁」すら不可能と成ります。

この文面では ”編して同籍と成す”とありますので、”特別に「同族血縁」や「純血血縁」等の慣習に縛られないのです。”要約すれば、”勝手にせよ”であります。
この様な血縁が不可能となれば到底に「国策遂行」や「祖先神の信望−神明社建立」さえも出来かねない立場に陥った事に成りますし、その経済的な裏打ちも当然に有り得ません。
まして、”公に従事し”とありますので、特に指定していませんし、”出身の初め”と繋いでいますので、特に初めから指定せずに ”自らの勤勉な努力に因って切り開け そして官職を得よ”と成ります。
「守護王」どころかその勤めさえも自らの努力次第で「国司」の「国守」も成り得ず、頑張ってもせいぜい「介」か「掾(じょう)」の官職しか与えられない事に成ります。
下手をすれば官職も与えられないか、能くしても「目(さかん)」の官職しか獲得できない事の意味を含めています。

(参考 清和源氏の始祖の経基王は努力の末に「介」に任じられた。昇官する為にかなり無理をして周囲と争いを起す)

史実から、「清和源氏 宗家」の当主「摂津源氏の源頼光」が「国司代」が最高位で「知行領主」に過ぎなく成ります。「自領や本領」は到底に覚束ない事を意味しています。
現実には例えば、「経基王」から発祥した「清和源氏」の場合、摂津と伊豆は本家筋の所領、河内が本家からの「分前部」(分封)として頼信に与えられた所領で、後の8つの地域は「本家頼光の知行地」であります。本家の努力次第で獲得しそれを本家の裁量で「分前部」(分封)としか与えられないのです。
(「分前部」(分封)は源平の平安末期頃から盛んに成った。)
現実に資料から、頼信は兄頼光から藤原道長の執り成しで河内と伊豆の一部を「分前部」(分封)として与える事を許されています。この両者の親の満仲(経基王の子)は、”これ等の扱い事を不満”として反発をして拗ねています。
こう成れば、清和源氏2代目の「満仲」が採った戦略は、朝廷から大きな非難を受け最後には阻害されましたが、結局は「武」に頼り「荘園制」を利用し、それをベースに各地に乱立する「武装土豪集団」を「賜姓の朝臣源氏」の旗の下に終結させて組織を構築して、その組織を使って他の土地を奪取して生き延びる以外には無い事に成ります。

(特記 組織化する為に源氏族に入る為の「名義貸し」をして引き付けた。その担保が「荘園制」から得られる税の利潤)

その結果、「天皇や朝廷」や、はたまた「民と氏族」からの受ける評価の宿命は決っています。
それは、「集結した武力集団」からは誉めそやされ、「奪い取られた土豪」たちからは「怨嗟の嵐」で、天皇や朝廷からは「国や地域」を乱した「氏族」となります。これは逃れ得ない負わねば成らない宿命です。

(参考 通説と云うよりは世間説では清和源氏の分家河内源氏は「武士の鏡」で「武神」で「源氏の棟梁」とも言われているが、青木氏側とマニアから観れば、「賜姓族の朝臣族の逆臣」と観えるのです。
現に源氏は11代もあるのです。源氏は皇族朝臣族であるので宗家方式で本来は上下関係はないのです。然し、分家方式を採用したのです。
まして、清和源氏の分家河内源氏とされる位置に居たのです。清和源氏の宗家の本家とされるのは「宗家の四家」と呼ばれる頼光系の本当の清和源氏の棟梁が厳然と居たのです。
この「河内源氏の棟梁の呼称」は「未勘氏族」が祭り上げた氏家制度の中では「搾取誇張の呼称」と成るのです。
「賜姓5家5流青木氏」と同じような生き方をした「宗家頼光系」と。武装組織を利用して争奪戦を展開した「分家頼信系」との差で、目立った方に「上手く利用された棟梁の呼称」であります。
「賜姓源氏」とすれば正式には第初代の「嵯峨源氏」が総宗本家と成る事に成りますので、本当の正規の棟梁である筈です。この「嵯峨源氏の末裔」は現存していてある財団運営で有名です。
そもそも、「賜姓」の有無に関らず、「源氏は16代」で、「賜姓源氏では11代」で、「賜姓族」は「青木氏」ともで「16代」ある事の世間の知識は殆ど無いのが現状です。
「青木氏の戒言」の”世に晒す事無かれ”はこの事からも来ている可能性があります。)

11代の「賜姓源氏」が発祥しても、この「詔勅」から飛び出て勢力を確保したのは、主に「清和源氏」(河内源氏)しかなかったのです。納得出来る結果です。それだけに「嵯峨期の詔勅」は厳しかった事を物語ります。
「軍事、政治」にはそれ程に厳しくは無かったにせよ「氏族」が生き延びるに絶対的に必要とする「経済力」が規制されていれば、河内源氏の様に、「経済力→軍事=武力」に向かうが必定です。
只、反面、「組織化と強奪」と「荘園制名義貸し」は「国情の安定」に混乱を招きますので「非難」を招く事も必定です。
他の源氏の様に「適度の武力」と「低位の適度の政治力(荘園制と税)」で穏やかに生き延びるもこれまた「非難」は免れますが、「生き延びる」には不安を伴ないます。
「11代の賜姓源氏」は、終局は「平族」との「武」の世界に”2軍の将相立たず”の喩えの通り、「河内源氏」に引きずられて滅亡しましたが、彼等にしても”2軍の将相立たずの喩え”を承知していた筈で、当初から「生き延びる」には「不安と疑問」を感じていた筈です。
これに対比して、上記前段で論じた「3つの発祥源の象徴の立場」と「国策遂行」と「祖先神−神明社建立」等を背負わされた「第4世族内朝臣族の5家5流賜姓族」が、如何に大変であって「嵯峨期の詔勅賜姓族」の比では無い事が判ります。
「禁じ手の商い」に走って「皇族方の謗り」を受けるか、国情を乱して「武」に走って「民・氏族の非難」を受けるかは、この「2種の賜姓族」(敢えて余りに異なる賜姓である為に表現)の上記した置かれている厳しさの「立場の差」から必然的に決まっていたのです。
最早、「2種の賜姓族」(大化改新期と嵯峨期詔勅の2賜姓族)には既定の逃れ得ない「完全な宿命」であったのです。

この「典型的な生き様」を呈した例が「河内源氏」の「源頼信」の孫の「義家」であります。
「義家の生涯の生き様」を「天皇や朝廷」からは「私闘」のレッテルを貼られてしまって、「武家集団や未勘氏族」等には”「武家の頭領」”(棟梁ではない)と持て囃されながらも、失意と喪失の内に没したのです。
”「武家の(棟梁)・頭領」”と持て囃されても、「総宗本家四家の清和源氏」が現存する本家を中心とする「氏家制度」の中では、分家義家に取っては実に空しい事であります。
そして、まして、その「総宗本家四家の清和源氏」は「5家5流の賜姓族」の中に穏やかに生き続けていると成れば「義家の失意と喪失」は図り得ないもので同情の極みと成ります。
これが「後世の武士」に同情を引き付けた所以謂れであります。

(特記 義家の私闘)
この様な事情を承知する当時の為政者から「義家の私闘」と何故決め付けられたのか疑問が浮かびます。
そもそも「私闘」とは、「私闘」の言葉が発する限り、その逆の「公の闘い」(公闘)があるから、それを基準に評価されてその差の悪さを非難されるのが常道の筈です。
天皇が何も感情的に成って「私闘」と世間に発表する事は「国の長」である限り先ずあり得ません。
「天皇の裁断」には周囲には分厚い摂関家があって協議しているのですから、「私闘」とする以上は当然にこの「私闘」に比する「公闘」に成るものが当時の環境の中に厳然として存在した筈です。

この「私闘」とした根拠は、そもそも上記の「河内源氏の義家」の ”「組織化と強奪」と「荘園制名義貸し」は、「国情の安定」に混乱を招く事”ですから、これに対する「公闘」は、「2種の賜姓族」「2つの立場の差」にあった「2つの青木氏」が採った行動と云う事に成ります。
身分家柄が違えば其れなりに「公闘」と扱えぬ事も起こります。そうではない同等の逆の「公闘」が存在したからこそ「公闘」が成立したのです。
この「賜姓族の行動」に対して、全く反対の「5家5流の賜姓族」は荘園制に因って敗退し離散する土豪を経済的に救い組織化して仕事を与え、「賜姓族の国策遂行」に従事させて「シンジケート」として確立させて安定化させたのです。
この様に全く正道な「真逆の行動」を採ったのですから、誰が見てもこれは「公闘」であり、それも「義家が犯した私闘の尻拭い」です。
この「公闘」が厳然と存在すれば「為政者」は、「義家」に対してどんな同情的な理由があろうと、「私闘」と断じる以外に無く、そうでなければ、「政治的な矛盾」が生じさせ「為政者の立場」は無くなる筈です。
天皇と朝廷はそんな単純なミスは犯さない筈です。
そもそも「政治の語意」とは、その言葉の意の通り「正しい方に至らしめる」が源語です。
如何なる理由があろうと「私闘」を容認すれば「政治」は「民の信頼」を失い成り立ちません。
「義家の私闘」を「公闘」とする、又は不問とするかによって、上記した様に「嵯峨期の詔勅」時の「賜姓のリスクの談合」があって、それを「国策」として遂行した「2つの青木氏の行動」を逆に否定する事にも成り、「向後の政治の信頼」を失い兼ねません。
「影の力」として働く「2つの賜姓青木氏」の「やる気」をも喪失させて「私闘」を容認させて仕舞います。
「容認」の其処に見えるのは「私闘の阿修羅の世界」と義家の朝廷をも犯しかねない「勢力増長の世界」です。現に、「蘇我氏の例」に見える通りで、為政者はこの事を知らない訳はありません。
同じ「賜姓族の立場」にいた者が「2種の賜姓族」「2つの立場の差」を世間に知らしめてしまえば、何時か「私闘側」は死滅させられる筈です。
この誰でもが判る条理を「河内源氏側」が何故理解しなかったのかであります。
当然、知っていて「武装組織化」したのですから、”朝廷を牛耳る事も有り得る”と猜疑が働く事も又必然であります。
朝廷の本音は各地に「散在する武装の土豪」の状態であった方が好ましい政治状況であり、これが組織化すればする程に朝廷の為政は武力を前面に押し出し云う事を聞かなく成りますので、政治には困難を極める事に成ります。
ところが土豪が散在している方が各地で揉める事は起るかも知れないけれど、朝廷を脅かす程には無い事からリスクはあるにしても都合が良いのです。
云う事が聞かなければ大儀の旗の下にこれを以って潰せば良いという事に成ります。為政はより安定します。
しかし、「集団化や組織化」は一見整理するという点では理想的ですが、一度間違えばそのリスクが大きすぎるのです。
それを統括する事はその「集団の長の資質」に関わるの事に左右されます。況して義家は「第4世族内の朝臣族」なのでから、朝廷に執って代わる事も有り得るのです。
(大化期からの「2つの青木氏」はこの事は十分に承知していた事であり、然し、この方向に走らなかったのです。走ろうとすれば上記の条件を持ち得ているのですから、義家の段ではありません。
「国策氏」として邁進する「賜姓族」であったからこそ「累代の天皇」と「朝廷」と「民と氏族」は青木氏を信頼し容認したのです。「義家の私闘」はこの経緯で断じられたのです。

現に「他の源氏」と「摂津源氏」はこの間違いを犯さなかったのです。この様に「相対の位置」に居た「2つの青木氏」の「歴史的な経緯」から断じると見えないものも観えて来ます。
前段で論じた様に、「源平の戦いや陸奥の私闘」は、「2つの源平の賜姓族」でありながら何れもよく似た「2種の賜姓族」「2つの立場の差」を持った「生き様」を示した事により、「共に相倒れる」の「私闘の運命」を背負って仕舞ったのです。逃れきれない宿命とでも云う以外にはありません。
更に云えば満仲−頼信−義家の持って生まれた「長としての資質」にあったと云えます。
「青木氏家訓10訓」がこの事を物語っているのです。

特記から話を戻します。では、「他の賜姓源氏」はこの詔勅を受けてどの様にしたかと云えば、上記した様に皇族朝臣族の「純血血縁」や「同族血縁」等の非一般的な厳しい慣習に縛られ、自然消滅するか、「5家5流賜姓族」に融合するか、低位の地方官吏族で小さく穏やかに生き延びるか、比叡山に逃げ出すかの「4つの選択」以外にはありません。
結局は、この「4つの選択」の「生き様」で大化期賜姓族の「5家5流青木氏」「近江源氏」と、嵯峨期詔勅の賜姓族の「嵯峨源氏」、「村上源氏」、「宇多源氏」、「清和源氏」が何とか氏族として単独で生き残ったのであります。
「清和源氏」の宗家の「摂津源氏」は国司代の官職を経て発展し最後には氏族を換えて「5家5流賜姓族に融合」し現存し、各地に分散した「河内源氏」は頼朝後に事如く滅亡し、「宇多源氏」は伊勢青木氏と同じ古代朝臣族で賜姓族の「佐々木氏」に融合し現存し、「村上源氏」は伊勢の北畠氏に融合し織田信長に調略されて滅亡し、「嵯峨源氏」は「5家5流賜姓族」と同族血縁して遺し、宗家は「始祖の意思」の「嵯峨天皇の詔勅」を守り室町中期までは穏やかに生き延びる事が出来たのです。

この「嵯峨期の詔勅」の一節等を見ても、同じ「第4世族内の朝臣族の賜姓族」であったとしても、「4史略」や「日本世記」等に書かれている「5家5流の賜姓族」との扱いは雲泥の差であります。

当然に、「親衛隊の民部上尉」「宮殿の護衛団の左衛門佐の指揮官」等は本来であればこの立場にあるのですが、現実には「摂津源氏」の「本家源頼光」 「分家源頼信の河内源氏」の「源義朝」等がやっと成り得たのです。然し、直ぐには任命がされなかったのです。
「嵯峨天皇」は同じ「賜姓族」でも、最早、源氏の場合は抗争相手に妥協して「親政族」から外していますし、むしろ、”辱く封色を累ね、空しく府庫を費す”とある様に「経済的な負担」を理由に臣下させる事が目的と成っています。
ところが、此処で嵯峨天皇は「政治的矛盾」をこの時犯しているのです。
この「嵯峨期の詔勅」では ”「経済的な負担」を理由”にしていながら、”「皇位継承者」が少なく成った事を理由に”皇子の王位を大化期前の第6世族に戻しているのです。
大化期からの8人の天皇には余りに厳しい改革を実行した為に女系天皇が5人も譲位し、桓武天皇の直前の「光仁天皇」は第4世族内の皇位継承外の第6位皇子の施基皇子の嫡子であり「第5世族の朝臣族」で「真人族」ではなかったのでした。特例例外天皇であったのです。
この事を憂いた「嵯峨天皇」は「天智天皇」の「大化期詔勅」の変更を余儀なくされ、元に戻す宣旨を発します。
この事に依って王数を増やしました。王数を増やせば、”辱く封色を累ね、空しく府庫を費す”事に成ります。”一方で増やし、他方で減らす”と云う手品師の様な「詔勅と宣旨」を発しているのです。
これでは「朝臣族の詔勅の賜姓族」は、王数が増えて競争相手が増え、王数が増えて「経済的な封食」は低下し、「分封の可能性」は無くなります。

事程左様に、この「詔勅」の扱いは厳しい為に「賜姓」を「朝臣族」は期待しなく成り、遂には、「朝臣族」から「宿禰族」に格下げして賜姓する様に成ったのです。
結局、この賜姓は「清和源氏の頃」がピークで上記した人数の「朝臣族」は比叡山の僧侶に成る者が殆どと成ったのです。
(上記する「悲哀の義家の生き様」から「5家5流賜姓族」に融合する事に漏れた殆どの「皇子」は「世捨て人」を選んだのです。)

然し、第4世族外の「ひら族」と成った者の中で「宿禰」の身分家柄を獲得しました。
その「宿禰族」に賜姓した特例として、朝臣族の「美努王」(敏達天皇5世の孫 第7世)の妻の「県犬養三千代」が和銅元年(708年)に「橘宿禰」の姓の賜姓を受けたのに始まりますが、天平8年(738年)にこの母方の姓を子供の「葛城王」と「佐為王」はこの橘氏を継承したのです。
(「葛城王」は「橘諸兄」として左大臣に昇格)
第4世族ではなく第7世族、本来王身分ではなく直系王孫ではない王、例外の女性の妻が賜姓を受け、「賜田」の既定外で、父系継承ではなく、論功のない者の賜姓で、「蔭位の制」に該当せず、「恩田の5制」を受けず、等の例外賜姓であったのです。
これを契機に80年前後の「たいら族」の賜姓があり、「嵯峨期の詔勅」では、最早、形骸化して左大臣等を初めとする官職を獲得する等の昇格手段としての「身分確保の賜姓」に成って行ったのです。

(特記 何とか「3人の天皇の初期の意思の賜姓」を維持したのは「8人の天皇」の最後の光仁天皇までであります。嵯峨天皇が元に戻そうとして厳しい詔勅を発するが、流れは変えられず逆に違う方に変質してしまったのです。 結局、賜姓のシステムや目的をきっぱりと換えて再び「特別賜姓族」として「青木氏」に戻し、「5家5流賜姓族」の「全ての資格、身分、官職」などの条件を与えた上で「5家5流賜姓族」を「補完する義務」を付与して、藤原秀郷一門に与えて完全に戻そうとしたのが「円融天皇」であったのです。
そして「3つの発祥源」である「5家5流賜姓族」との「融合青木氏の発祥」に誘導して「国策氏」に戻したのです。尚且つ、衰退していた「5家5流賜姓族」を復興させたのです。
これだけの事を変革して政治的に導くのは、朝廷の中では「形骸化の流れ」もありそれを留めて流れの方向を清正流に戻すのは「至難の業」であった筈です。「嵯峨天皇」と「円融天皇」は賜姓では功績を上げたのです。)

「嵯峨期の詔勅の賜姓源氏」は「国策」などを遂行する「朝臣族」では到底無く成って仕舞っていたのです。
そして、遂には「第6世族」までを王位として戻したものが、「第7世族」も王位を勝手に名乗る等の形骸化が起り始めていたのです。

(特記 この時期の王位には2つあって、嵯峨期の宣旨の正式な王位と、”宿禰族の末裔だ”と誇示して王を勝手に呼称している者が増え始め、全体に「賜姓」そのものが形骸化し変質したのです。この「橘氏」は上記の経緯(身分確保)で急に伸し上った事も、後に「嵯峨期の賜姓族」もあった事もあり、結局、血縁も拡がらず、勢力抗争の末に後に藤原氏北家に潰されます。丸なしの「橘紋」 丸付き紋は未勘氏族)

(注意 以上の此処までの事は、前段でも充分に論じましたが、改めてより詳細に嵯峨期以降の「賜姓族の違い」を浮き彫りにさせる為に重複して論じました。)

つまり、この様に、「第4世族内朝臣族の5家5流賜姓族」が、「嵯峨期以降の朝臣族の賜姓族」とが如何に違うかが判りますが、この事を考えると、「賜姓族への融合血縁」の意味が、単純に ”融合血縁した”と云うよりは ”重要な「国策」であった” 事が検証を進めると判って来ます。
前段で論じた様に、此処にその根拠があり、真にこれが「融合氏青木氏」なのです。
そして、これが上記の「注意5」の「違いの差」の原因に成っていたのです。

平安期の初期までは、「天智天皇」の上記の「5つの国府」に配置した「守護王」を始祖として、これを始めとして、この「5つの国府地」外の守護王(6王)も「融合血縁」を行います。

(特記 1国に2人か3人の守護王を「半国司」として置いた。)

更には、「天武、文武、聖武、光仁の5天皇」等が「第6位皇子」をこの守護王の跡目に入れています。
その後、平安期の嵯峨期からの「賜姓源氏11代」からもこの守護王の「5家5流の賜姓族」に跡目を入れました。特にその中でも、「清和源氏」の「摂津源氏の宗家四家」が徹底した「融合血縁」を「5つの守護地」の「賜姓族」に行ったのです。

ところが、この「源氏11代」をよく調べてみると、この「源氏11代」には、何と「賜姓源氏」と「無賜姓源氏」とがあるのです。
実は、この「無賜姓源氏」の場合の多くは「横滑りに跡目」だけに限らず、この上記の「5家5流の婿養子や貰養子」になる事が多かったのです。
この傾向は系譜添書を良く観ると判ります。
つまり、当時の賜姓族の慣習では、この「婿養子や貰養子」は生まれた「本系の系譜」には出てこず、「養子先の系譜」に子孫として出てくるのです。これは平安期の「皇族朝臣族の血縁慣習」から来ているのです。
「賜姓族」に入った「跡目養子」ではなく、「貰養子」や「婿養子」の場合は、「本系の系譜」から消えて「養子先の系譜」に残こす慣習があったのです。
この慣習の意味する処は、「賜姓族」が第4世族内の朝臣族の中でも上位である事を意味します。
「上位の朝臣族の賜姓族」である以上「下位の朝臣族」の系譜に存在させる事は「上位の朝臣族賜姓族」の方には立場が立ちません。
つまり、「下位から上位」と「上位から下位」とでは「系譜の扱い」が異なるのです。
特にこれは「同族血縁」を主体とし、尚且つ、「純血性」を保持する皇族の慣習の中では、他の「朝臣族」の子孫は殆ど他人ではなく「身内の子供」同然でもある事を意味しているのです。”「身内の子供同然」”が慣習の基本的な普通の考え方に成っていたのです。

(参考 この慣習は室町時代の上級武士の間でも採用されていたのです)

従って、系譜を上位に移す事の抵抗はないのです。故に、「同族純血慣習の朝臣族間」で付ける差は
「賜姓族と云う上位の立場」が先ずあるのです。その上で次ぎの事が重ねて存在するのです。

「皇族賜姓族16流16家」の中でも「5家5流の賜姓族」は「国策氏」である事
「国策遂行の役目と責務」を持つ「3つの発祥源」の「賜姓族」である事、
「奈良期からの真人族の融合血縁」も組み込まれている訳である事

上記の「賜姓族上位」と云う立場と共に、以上の「3つの差」から「系譜上の扱い」を変えている慣習があったのです。

(参考 この慣習は少なくとも皇族外を含む全朝臣族から伊勢と信濃の青木氏の記録資料から読み取れる範囲として江戸中期頃までは少なくとも存在していた模様で、口伝に依れば明治末期頃までその族環境の範囲では存在していたと観られます。特に目立つのは菩提寺等での扱いも異なっていた。)

逆に云えば、「系譜や添書の内容の変化」は「5家5流の賜姓族」の上記の事柄が引き出されるのです。前段で論じた様に、例えば「伊勢青木氏」の「源頼政の孫の京綱」が系譜上に入るのはこの慣習から来ているのです。
(清和源氏宗家の四家の本家の源の頼政系譜には出て来ません。然し、頼政の子供仲綱の子供としては出来ます。)
従って、「蔭位の制(有品の制)」に基づき「無又は有位の資格」のこの「朝臣族の2つの養子」の場合には、原則として実家先系譜上から消えている事が多いのです。
その様な「朝臣族の2つの養子」の場合は系譜を養子先に移す仕来り慣習であったのです。
ところが「賜姓源氏」の場合は「跡目養子」を主体としていたので系譜から消える事はありません。
「単なる養子」か「跡目養子」かの決定は、「氏の継承の有無」に関っています。
「単なる養子」の場合は、特にこの奈良期から平安期の養子は主に「成人」に成る前の「幼児」の頃からの場合が多くあり、然し、必ずしもこの「養子」が「嫡子」に成ると云う前提ではありませんでした。
それは前段で論じた様に、「4段階の夫人制度」の中でのその順位に沿って「同族血縁の仕来り」で純血を保つ為に「養子縁組」が行われたのです。
上位の夫人から嗣子に成る子供が生まれなかった場合に備えての「同族の養子縁組」が行われる事が主流であったのです。
上位の本流から正常な男子(嫡子・嗣子)が生まれると養子の身で終わる場合が多かったのです。
但し、それは「単なる養子」の場合には主に上記の純血を護る為の「同族血縁の弊害対策」でもあったのです。この「単なる養子」も親族関係からの養子ですが、同族血縁による「弊害子」(亜子)で無い事が幼児の頃から判別が出来る訳ですから、子供の多い親族から引き取る事に成るのです。
この「同族血縁の弊害対策」は「朝臣族」の氏全体で頻繁に相互に行われた慣習なのです。
そうでなかった場合には、「真人族や朝臣族」の嗣子は「比叡山」や「門跡院」や「菩提寺」の「僧侶」や神明社系5社の「神職」として預けて身を立てられる様にする慣習がありました。
娘の場合の多くは「同族血縁」として嫁入りするのが普通で、中には「神明系5社」の斎王として生きる慣習も存在しました。
「跡目養子」は明らかに本人のこの「弊害の有無の確認」が出来ての「跡目」である事から両方の系譜に載る事に成るのです。
「跡目養子」は当然に「当主」に成る事を前提ですが「跡目養子」の形で一旦入り、一定期間後に「正式跡目」と成ると云う事もあったのです。
従って、「養子」には「跡目養子」と「婿養子」と「貰子養子」の慣習が「賜姓朝臣族」には敷かれていたのです。
「跡目養子」の場合は、娘が居る場合と外から嫁を取る場合の2つの方法がありますが、主流は「娘の婿養子」の形が多かったのです。娘の無い場合は「跡目養子」の「嫁取り」には原則として「4段階の夫人制度」により他氏の血を入れる為に「嬪」(みめ)として族外から取る事が多かったのですが、上位の二階級(夫人や妃)は縁者(3親等外遠縁)から娘を「養女」に迎えて「跡目養子」を取る事も起こったのです。
この時は、「縁者の養女」は「純血性」をあくまでも主体としていた為に「第3親等」から「第4世族」までの娘を迎えた事に成っています。
「純血性の高い血縁」としては「第3親等」(従兄妹同士の血縁)であって、この平安期までは「従兄妹血縁」は慣習範囲の常識で問題は無かったのです。
(現在に於いても法的には認められているが弊害も確立的に起る事が解っている)
この場合は「跡目養子」や「婿養子」と云っても平安期までの「賜姓朝臣族」の中では「同族血縁」が主流で、殆どであるので必ずしも「跡目」とか「婿」「貰子」とか云う概念は低く当り前の「氏存続の慣習行為」であったのです。
「跡目養子」と「婿養子」と「貰子養子」と「4階級の夫人制度の子供」に依って先ず多くの「嗣子」を作り出し、その中から「氏」の「家」を継ぐ「嫡子」を決める慣習であったのです。
「より優秀な嗣子と嫡子」を選択し、且つ、「純血性の弊害除去」から考え出された「朝臣族の賜姓族」の慣習であったのです。当然に、この慣習の強さは「宗家、本家、分家、分流、分派」の枝葉順位によって異なっていたのです。

(特記 分家、分流、分派の慣習の本格化は、源平が実権を握った頃に勢力を広げた地域を守る為に嫡子外を「分封」して地方に移して護らせた事から「分家等」が盛んに作られた。又、「荘園制での名義貸し」で荘園に配置された事から、「分封」と「分家」と「地名から採る苗字(名字)」の慣習は、同じ時期の慣習で始まった。「大日本史」に例 )

ですから、「4階級の夫人制度」の直系孫であったとしても、元々「親」自体が「跡目養子」と「婿養子」と「貰子養子」かである事が多く、必ずしも「嫡子」に成れると云う事ではなかったのです。
この「4つの継承システム」は「純血性の高い同族の者」である事から”母が異なる子供”程度の感覚で、要するに、”兄弟感覚 ”の中にあったのです。
ただ、異なる事は其処には順位による「身分の差」だけであったのです。
「縁者の養女」と「縁者の嫁取り」と「縁者への嫁入り」の「3つの縁者血縁制度」に於いても同じ目的で行われ、「跡目養子」と「婿養子」と「貰子養子」と「4階級の夫人制度の子供」の「4つの継承システム」と合せて「強い純血性を保持」し、「より優秀な嗣子と嫡子」を作り出して「より強力な賜姓族」を構築し強化していたのです。

そもそも「跡目養子」や「婿養子」の「養子」の場合は、前段で論じた様に平安期の48氏程度から鎌倉期の200氏程度に「氏」が一度に増加した時期からの「社会概念」であって、それは鎌倉期末期からの「概念の進化」であったのです。この2つの「養子の慣習」は「氏」を増加させ、下克上と戦乱で伸し上った「高級武士」が「武家」の呼称を獲得し始めてからの「武士の慣習」へと変化して行ったのです。

(特記 上記の「荘園制」と「勢力拡大」により「氏家制度」の中で発展した「分家制」で子孫が各地に移動して所領を護ろうとして移動し新たに氏族を造った結果で増加した。後に室町期には「下克上と戦乱」での「勃興氏」と「職能集団の姓氏」の発祥でも「氏族」と「姓族」は増加した。)

当然の様にこの「養子の慣習」が武家社会の中に定着して行ったのは室町期末期からで最終は江戸期初期の事であったのです。これも前段で論じた様に「氏の拡大」と「武家の社会の確立」からの「社会慣習の変化で」あったのです。
この時には既に「朝臣族」と「賜姓族」と「公家に対する武家」の「慣習概念」は皇族の特定の一部の社会環境の中にのみ無く成っていたのです。
一部「伊勢」と「信濃」の賜姓族に対する幕府の認識の中にしか存在しない社会と成っていたのです。
一般庶民の中では「伊勢」と「信濃」の特定地域の中に、「氏上様、御師、総師」として親しみを込めた尊敬の呼称として慣習に成っていたのです。
それまでは「純血性」を優先する「朝臣族の賜姓族」の慣習の中では「跡目融合」と云う血縁形態ではあったのです。
この様に、その「氏の跡目」は分家、分流、分派、支流、母方縁者から取るので、「同族血縁」の為に殆ど息子、嫡子、嗣子は同然の扱いの概念に近い状況にあって、今の現在の概念とは異なるものであったのです。
「養子」にしてもこの上記の範囲から幼児や子供の頃から迎えて育てると云う嫡子同然のものであり、結局は養子に成るか成らないかはその母の順位に大きく左右される事に依って決っていたのです。
当然に養子先に於いても朝臣族である限りは、「4段階の身分夫人制度」が存在して其処の家にも子供が生まれ同じ嗣子の現象が起こっている訳ですから、「養子」が直ぐに「嫡子」と云う事には成らないのです。

そもそも、男系の嫡子が嫡男、又は長男とした慣習は江戸初期からで、それまでは、武家の中でも朝臣族の氏では嗣子の中からより優れた者を嫡子にすると云う慣習が強く存在したのです。
それは「家」と云う小単位の範囲ではなく「氏」と云うより大きい単位の中での範囲の概念の慣習であって、従って、「氏」をより強固なものにする為に相互に氏内の家の嫡子を「跡目養子」や「婿養子」や「貰養子」等の方法で配置して固めようとした慣習であったのです。
当然に「朝臣族」は他の氏と異なり「純血性」を保つ為に長い「同族血縁の慣習」を引き継いで来た為にもその欠点も補え、且つ欠点を避ける手段として当り前の事であったのです。
ここが他氏から観ると、「奇異な慣習」であったと観られていた筈です。
この「2つの目的」(「氏内の優秀な嫡子の配置」と「純血性保持の欠点退避行為」)の為に生活はこの一点に左右されていたのです。
これが「八色の姓制度」に裏打ちされた「氏家制度」の慣習の代表的な営みであったのです。
取分け「3つの発祥源」の立場に置かれていた「第4世族内の朝臣族の賜姓族」(5家5流賜姓族)に取っては、この「純血性同族血縁」の血縁は最大の目的であったのです。
そうしなければ一門を率いて「神明社の建立維持管理」などの「重要な国策の責務」を果す事等は不可能であった筈です。

特記 
筆者は、その意味で「青木家 家訓10訓」がこれを遂行するマニアルとして存在していた、と考えているのです。それは「5家5流賜姓族」は「純血による融合血縁の慣習制度」を持ち、その為に何れの一族も同じ立場に存在しなければ格式が生まれ「融合血縁」が終局成立たなくなります。
因って、一族同じ格式を持つ「宗家制度」を敷いていたので、「行動規範」を持ち統一させる必要があったのです。
そこで「行動規範」と成る「家訓」と「口伝」を含む「戒言」と上記する「独特の慣習」を持っていたのです。
中でも特記すべき事は、「特別賜姓族青木氏」は、秀郷一門の中では「分家方式」を採っていて「第2の宗家」と呼称されていたが、その「第2の宗家」の中では116氏に及ぶ中で「主要8氏」と呼ばれる「青木氏」は「5家5流賜姓族」と同じ「宗家方式」を採用していた事が添書等の文脈から判るのです。
何故ならば、一族の慣習等の特長を良く示す事として次ぎの様な事がその何よりもの証拠として挙げられます。

・秀郷一門「主要5氏」を361氏の中で「青木氏族」として特別に呼称されていた事
・「家紋」に付いては「綜紋を主紋としてた副紋方式」を採用している事
・「秀郷一門の361氏」も「本家−分家方式」に「宗家」を設けている事
・「5家5流賜姓族」との「親族関係、国策氏の関係」から、両家の接点部分は「宗家方式」を採用していなければ連携は不可能と成る事
・「特別賜姓族」の「宗家役(リーダ役)」と成ったのが、「5家5流賜姓族」の「宗家役伊勢青木氏」の連携の為にも「特別賜姓族伊勢青木氏」であったと云う事

以上の事が証拠に成るのです。そして、現在確認はとれませんが、この事から、この「2つの青木氏」のこの「行動規範」は同じであったと考えられるのです。
従って、「第4世族内の朝臣族の賜姓族」(5家5流賜姓族)を論じる場合は、この事(共通する行動規範の存在 慣習・家訓・口伝・戒言)が避けて通れない論点であって、この「慣習事」を前提に本論を論じる事に成ります。

特記 
本論の「皇族賜姓の青木氏」として論じている時は、特に960年以降では、「特別賜姓族青木氏」も合せて論じている事をご配慮下さい。それは論じる論処の遺されている慣習に関する資料が「皇族賜姓族の資料」を多く基盤として用いている為です。これは上記した様に一切の「家柄、身分、官位、官職等が全く同じ扱いと成っていた事に因ります。それは「融合青木氏」の発祥期からは全く同じと成っていたのです。
論じる点で判りやすくする為に、「2つの青木氏」や「皇族賜姓族・特別賜姓族」や「5家5流賜姓族」等の語句を使って敢えて分離して詳細にして判り易く論じています。
尚、前段で論じた「2つの絆青木氏」は、他氏とは異なりその「絆」は1000年という「悠久の歴史」を持ち強力なものであって、「2つの青木氏の基盤力」と成っていた事から本論を読む時には常に脳裏に納めておいて頂きたいのです。他に例を見ない「1000年の悠久の歴史」を持つ「2つの絆青木氏」は最早、「2つの青木氏」と「一心同体」なのです。況や、他の歴史上に上る大豪族のどの氏よりも2倍以上の歴史を持つ「2つの絆青木氏」以上の氏はそもそも存在しないのです。
本論の「青木氏の守護神(神明社)」の「社寺の建立維持管理」の実務はこの「2つの絆青木氏」の為す処と云っても過言ではないのです。
そして、その配下に居て延々と悠久の中でその職能を親子や徒弟制度で引き継いだ「2つの青木氏の部の職能集団」の「明治苗字令に基づく青木氏」は、前段で多少論じましたが、本論では資料が少なく詳細に論じる事は出来ないが、忘れては決していけない事なのです。他氏の家臣や職能群とはその生きている長の持つ特別の「生活環境」と上記する「慣習」が異なっていたので、それに合せて生きねば成らない宿命があり、その「上下の絆」は全く別な強いものであったのです。
そもそも、「長の一族」が「賜姓族の慣習」から上下関係に無「く宗家方式」で合ったのですから、当然に「青木氏の家臣団や職能集団」もそれに習い「身分・上」の関係」と云うよりは前段で論じた様に「徒弟制度の関係」であったのです。
恐らくは、「退避地」、「486社の神明系社」、「伊勢−信濃シンジケート」(抑止力)等の前段で論じた「組織形態」をも持ち「国策遂行」と成る事を考え合せると、「武力」を前提とする厳しい「本命虚脱の上下関係」では無く、「宗家方式」と「絆」を基盤とする「徒弟制度」で無くては維持出来なかったと考えられます。
その前提は「1000年の悠久の歴史」を保持していた事にあったと考えられます。
況して、「殖産」を基盤とする「商い」の「2足の草鞋策」を「経済基盤力」とする限りは「宗家方式」と「徒弟制度」でなければ論理的に見ても成り立ちません。
その上で、後発の「職能集団の明治期の青木氏」は、「2つの絆青木氏」と同じく他氏とは比較にならない程に固有の歴史を持つ「青木氏固有の慣習の中での姓氏」であって、ただ「姓」を持ったのが明治期と云う事だけなのであります。本論に於いては複雑すぎて総合的に論じる事が出来ない為に、この前提で血縁慣習等の論処をご理解ください。

(特記 「共通の行動規範」の「慣習内容」を取り纏めた書が伊勢青木氏に有った様で松阪大化焼失、「家訓」は復元して遺されている。「口伝・戒言」は一部生活慣習の中に遺されている。「賜姓族慣習」は本論の論ずる処で復元を本論としている。中でも「宗教的慣習」と「生活慣習」に付いて復元し纏められているので、家訓の投稿が完了した時点では何時か投稿用として整理し投稿したいと考えています。)

そうすると、上記の「主要な初期の19守護地」と「遷宮地」の「2つの表」から次ぎのある事が読み取れるのです。
当然に、そうなれば、「朝臣族間の慣習」のみならず、「真人族間の慣習」もあった筈です。
「真人族」と「朝臣族」はその皇子の順位が4位と6位の差のみであり、「賜姓族」に成ったか成らなかったの差でしかないのですから、上記する「同族の血縁慣習」だけではなくかなり積極的な「融合血縁」も当然にあった筈なのです。
何故ならば「真人族」は「子孫存続」に対しては ”「自らの力が卑弱」であった”のですから、その人間の本能として何らかの存続策が考えられ慣習事としてあった筈です。
当然に、「卑弱」とすれば必然的に強くなった「朝臣族の賜姓族」にその「融合血縁」の矛先を向ける筈です。その方法としては「真似る」か「融合するか」に掛かります。
「真似る事」はその「生き様の前提」が相当であれば可能です。しかし「卑弱」であるのですから、融合以外には論理的にも有り得ません。
例えば、枝葉を広げる「通常血縁」をしょうとしても「皇族の慣習」(純血血縁と同族血縁)に縛られ、更に、最上位の身分とも成れば下位に「枝葉の跡目血縁」をする事は不可能であります。
それは「自らの氏の終焉」を意味します。
そうなると、残されるは「第4世族内の朝臣族の賜姓族」(5家5流賜姓族)であり、「真人族」から観れば、「朝臣族の賜姓族」では下位であったとしても、元より「純血融合」を繰り返してきた「5家5流賜姓族」で、その「身分、家柄、官位」等は天皇に継ぐ2段階上の永代位を持っているのです。
(伊勢と近江の賜姓族は淨大1位 真人族の皇太子は淨広2位)
累代の「単体の未融合の真人族」からすれば、既に「真人族と朝臣族の融合複合体賜姓族」なのですから、この「5家5流賜姓族」は実質は上位に見えているのです。
況してや、「8人の天皇の初期の意思」を実行する「国策氏」であり、「民と氏族に賛同・容認された氏」であり、全ての「臣下族の象徴」の「3つの発祥源」でもあるのです。
その力は「武」に頼らない生臭味の無い「賜姓氏族」であり、第1期の「皇親政治」を司る程の「影の力」を持った「氏族」の「賜姓青木氏」なのです。
累代の「真人族」は躊躇無く「融合血縁」に臨む筈です。生き延びる為にはこの「融合血縁」しかなかった事が云えます。
平安期に入り「5家5流賜姓族」には衰退期があったとしても、「融合血縁の真人族」にとっては「天皇家」が続く限りは厳然として存在して行くのですから、「真人族」の生き延び先は変わらないのです。
それは間違い無く「5家5流賜姓族」なのです。

(参考 その上記した「家筋の伝統」は伊勢青木氏菩提寺にも現在でも伝わっていて認知されている事。大正14年まで紀州徳川家でも認知されていた記録が遺されている。)

前記した「嵯峨期の詔勅」から観ても、この「融合先の5家5流賜姓族」の扱いに付いては「宣旨」は別として触れていないのです。
それだけでは無くて、全ての向後を含めた「真人族」と「朝臣族」の「下俗」「還俗」に使用する「青木氏」の「氏名」として他に永代に使用を禁じたのです。(明治3年直前まで原則守られた)
この意味する処は、先ずは現存する「5家5流賜姓族」を容認し、その上で過去の「融合慣習」を認めている事に成ります。
つまり、暗に「全真人族と全朝臣族」に対して「嵯峨期詔勅の賜姓」や「比叡山入山 僧化」以外にも「5家5流賜姓族」への「積極的な融合」を「副軸強化策」として促しているのです。

「嵯峨天皇」は、「桓武天皇」と抗争する程に、「嵯峨期詔勅の賜姓」と「5家5流賜姓族への融合」の「二本立て策」を実行したのです。
これには、「嵯峨天皇」が詔勅で「5家5流賜姓族の存在」を否定しなかった事は、永代の「不入不倫の権」の容認と、前段で論じた「退避保護地の容認」と、「3つの発祥源」「国策氏」「皇祖神の子神の祖先神」の「容認と継続」を宣言した事にも成ります。
何はともあれ「5家5流の賜姓地」から全く追い出してはいないのです。
「詔勅の文脈」から判断すれば、賜姓臣下させる前に先ずは「5家5流賜姓族」を廃絶するか何らかの手を打つのが「政治の策」で常道です。

(特記 嵯峨天皇にとっては「祖父の家筋」であり、目の前に厳然として存在しているのです。それを源氏としてしまうのですから、意識しない方がおかしいのです。「嵯峨期の賜姓族」には「大化期の賜姓族」との間には「嵯峨期詔勅」の賜姓には大きな違いがあったからこそ、慣例慣習に倣って「賜姓青木氏」とはせず「に賜姓源氏」とした事を意味します。別であるからこそ「賜姓青木氏」を詔勅に触れずに暗黙で存続させたのです。それでなくては「特別賜姓族青木氏の出現」は無かった筈です。「特別賜姓族青木」の出現」が何よりの証拠なのです。)

況して「宣旨」ではなく「詔勅」なのです。「命令書」ではなく「宣言書」なのです。
これは明らかに暗にして「容認の宣言」の何ものでも有りません。
「桓武天皇の律令政治」には「皇親政治の5家5流の賜姓族」は邪魔であった為に「政治の場」から排除したのですが、この時、「嵯峨天皇」も一応はこの排除は認めます。
然し、これは「皇親政治のイメージの強い賜姓族」が政治に関わる事に依って「律令政治」を容認している姿勢に疑いを起こされる事を懸念しての事であって、しかしながらも、その「嵯峨天皇」は「律令政治」をベースとする「第2期皇親政治」を実行した張本人の天皇でもあるのです。
ただ、かと云って、「5家5流の賜姓族」を敢えてこの「第2期皇親政治」に引き込まなかったのです。

それは上記の「律令政治の継承」の件があった事と、「5家5流の賜姓族」を「政治の場」から外して「真人族」と「朝臣族」の「存続の融合先」に定めて「政治抗争」から外して温存し、上記した「8人の天皇の初期の意思」の「副軸としての立場」をより負担無く安全に構築させる狙いがあったのです。

然し、その後の経緯が「嵯峨天皇の思惑」の通りには進まず、「嵯峨期の詔勅」の「11代の別種の賜姓族の出現と政治抗争」と「5家5流賜姓族の衰退」とでなかなか元の状態に復興させる事が出来ず、神明系社建立などの「国策遂行」に支障をきたし始めたのです。

そして、結局はその流れを変えたのが前段と上記で論じた「特別賜姓族の補間策」であったのです。
この「5つの衰退期間」を通じて生き残った「3家3流賜姓族」は、この間に「禁じ手の商いの基盤」を確実に手に入れて、「特別賜姓族の補完策」で息を再び吹き返して来るのです。
「3家3流賜姓族」が「政治の場」に無かった事が、より比較的には「禁じ手の商い」は厳しい中でも、「民の容認と賛同」を獲得出来たのです。
そして、「11代の賜姓源氏」、取分け、「清和源氏」の荘園制をベースとした勢力拡大に因って、潰され敗退した土豪の武力集団を「3家3流賜姓族」の「商いに基づく経済力」でこれを吸収して組織化して救済したのです。

最も、重要な事として、「嵯峨期の詔勅」の賜姓族の源氏(清和源氏)が構築した「武力集団」に対して、その一方では「5家5流賜姓族」が構築した「影の武力抑止団」(シンジケート)が存在して行ったのです。
これは真に「影」の実質の「国策氏」であります。

「嵯峨天皇」は、「詔勅」と「宣旨」を発する時にこの事も予想して、「5家5流賜姓族の温存」の為に暗に容認する態度を採ったのです。

厳しい「嵯峨期詔勅」の「賜姓臣下策」を実行すれば、何時か ”溺れる者は藁をも掴む”の喩えの通り、「人間の窮地の本性」の上記の「屯」が起こります。
優秀で聡明な「嵯峨天皇」でなくてもこれは誰でもが判る事です。当然に、「宣旨」ではなく「詔勅」と成れば「民の長」である限りはこの為の「秘策」を講じて置かねば成りません。

(+)の「屯」は最大の「清和源氏」 「満仲が構築した武力集団」 
(−)の「屯」は「5家5流賜姓族」が構築した「影の武力抑止団」(シンジケート)
∴ (+)+(−)=0

元より「5家5流賜姓族の発祥源」は、「3つの発祥源の象徴」としての「国策遂行の氏」であり、「天皇を護る親衛隊」でもあります。
そうすると、(+)が発展して他に拡大する事は有り得て、国、又は天皇家を脅かす事にも成り得ます。
”東漢の軍を背景とした蘇我氏の例”に観ずとも、「民の長」である限りは、火の粉は小さい時に潰して置くが常道で「常套手段」であります。
況して、「大化期の反省」であります。
当然、そうなれば、これは元より「国策氏」としての「5家5流賜姓族の務め」でもあります。

然し、”「武」には「武」を以って制する” は「5家5流賜姓族」には法度であります。
とすれば、(+)*(+)=0の数式論は、「5家5流賜姓族の滅亡」を意味しますから、これよりは(+)+(−)=0の数式論の選択に迫られる筈です。
政治の「常套手段」としては、「「屯」と「屯」との戦い」に依って起こる「屯」が飛散しさせた「火の粉」を「一定の条件」で集め直す事が必要に成ります。その「一定の条件」を整えた上での「常套手段」と成ります。
それが、「商い」+「抑止力」=「影の力」の数式論にする事に成ります。
この様にすれば、「屯」の「火の粉」は散りません。

真に「空白期間の商い」に向かった目的は此処にあったのです。
だから、「禁じ手の商い」の「皇族の容認」と「民と氏族の容認と賛同」は、この数式論の背景を社会は充分に理解していたと考えているのです。
”何を論じたいのか”と云うと、「嵯峨天皇」は「嵯峨期の詔勅」を発する時、この「祖父の実家」の「伊勢青木氏」を通じて、事前に ”「5家5流賜姓族との談合」を行ったのではないか”と観ているのです。
そもそも、副軸の宗家の「祖父の実家」に対して何もしないで「詔勅や宣旨」を発する事は、「光仁天皇」や「施基皇子を」無視する事に成る訳ですし、余計に事を荒立てる事に成りますし、収拾が付かない事にもなって仕舞います。
そもそも、「嵯峨天皇」は「大化期の国策氏の賜姓族」を容認しているのです。その容認している「親族の賜姓族」に対して黙っている事は普通はないと考えられます。
「国策氏」として懸命に働いている「大化期の賜姓族」(5家5流賜姓族)に黙って無視する事は賢明なで聡明な「嵯峨天皇」がする事は先ず無い筈です。
もっと云えば、「桓武天皇との抗争」の時に、「5家5流賜姓族」が衰退に追い込まれて行く事を踏まえて、既に、談合が成されていて、抗争に勝利した時に「打つべき手段」(常道の常套手段)を話し合っていたと考えているのです。(中大兄皇子が蘇我氏打倒の談合寺の密談にある様に)
その ”「談合の内容」が「上記の数式論」であった。”と論じています。

談合策は、「一石五鳥の秘策」であったのです。それをその後の「賜姓の変質」で事態を憂慮した「円融天皇」がこれを読み取りこの秘策を蘇生させたのです。
この「一石五鳥の秘策」の中に「皇族存続の秘策」の「真人族と朝臣族の融合血縁策」が存在していたのです。要するに、「嵯峨期の詔勅」に因って引き起こされるマイナスのリスクの解決策の一つが「影の武力抑止団」(シンジケート)でもあり、もう一つは、詔勅に依ってはみ出されて弱体化するリスクの「真人族と朝臣族の融合血縁策」を「一石五鳥の秘策」の中に組み込んだと云う事なのです。

「5家5流賜姓族」は影に居たのではなく「皇親政治の場の一氏」として目立つところに存在したのです。
平安期前は小さく「影」に居たのではないのです。小さく「影」に居たとするなら無視も有り得る事ですが、むしろ、上記した様に副軸として段突に目立っていたのです。それも皇族の社会と民と氏族の社会の中に「和の氏」として目立った存在であったのです
そもそも「桓武天皇」の父は「伊勢の賜姓の始祖施基皇子の嫡子」なのです。「嵯峨天皇」には祖父の家なのです。要するに父方ルーツなのです。
これでは ”影で居て無視”はあり得ません。「嵯峨期の詔勅と宣旨」で触れなかった事は、真に真逆の賜姓制度を施行するにしても、秘策の為に敢えてその存在を「公に容認する事」では無く、「暗に黙認する事」にした事を意味するのです。
そして、それを強く印象付ける為に「青木氏」を皇族者が下俗する時に使う「氏名」として他に使用をわざわざ禁じたのです。
詔勅にて、”新たに源氏として賜姓するけれども” ”国策氏の賜姓族青木氏が既に存在しているのだよ” と「5家5流賜姓青木氏」が「民と氏族の賛同と容認」を得ている事を念頭に、「民と氏族」に向けてきっぱりと宣言したのです。

(特記 桓武天皇の「母方たいら族の賜姓」と「大化期の賜姓族の排斥」に対する「民の氏族の懸念払拭」に向けて宣言したのです。)

「3つの発祥源」「皇祖神子神の祖先神−神明社」等の「国策氏」を無視否定は、朝廷の国策を否定する事にも成るのです。桓武天皇の「行き過ぎ」を修正したのです。
その為の「政治抗争」でもあったのですから、「嵯峨天皇」の主張を取り入れ自ら「神明社の20社」を建立したのです。

(特記 実家先の務めとして、その嫡子として建立したのか、国の務めとして、その天皇として建立したのかは何れも確認出来ない。恐らくは両説併用説であろうと思いますが、筆者は希望的観測を入れて「実家先・嫡子の説」を採っている。)

「真人族と朝臣族の融合血縁策」はこの様な経緯の中での策であったのです。
これを更に詳しく論じると次ぎの様に進んだのです。

「真人族と朝臣族の融合複合体賜姓族」に付いては、次ぎの様な事に因って起っているのです。
それがこの場合、大化期の当初から上記の表の「国府」外の「14の守護王」からも跡目を入れる態勢を構築していたのです。
この事の表れの一つとして上記の「信濃 甲斐」と「飛鳥 吉備」との「国策の変更」が起ったと観ているのです。
その「真人族の血縁融合」と上記の「国策変更」とに付いて検証して観る事で判ります。
その結論から先に応えるとすると、”「5家5流皇族賜姓地」の・印外の「6守護王」からも「跡目」を入れていた。”と云う事なのです。

つまり、先ず、上記の表を良く観ると、「5家5流皇族賜姓地」の「近江」と「信濃」と「美濃」には国府外に「複数の守護王」が存在しているのです。
(1つの国に複数の守護王配置 主は政庁のある国府に定住する)
この「国府外の6守護王」の務めには、「守護範囲」を細かく分けて「統治性を高める目的」もあったのですが、「国府の守護王の異変」に臨機に対応する目的もあったのです。
何故、この様に一地域に「複数の守護王」を置いたのかと云う事ですが、これがポイントなのです。
ただ、複数にしたと云う事では無いのです。これには、この「2つの目的」、即ち、「氏内の優秀な嫡子の配置」と「純血性保持の欠点回避行為」が先ずあったのです。
この為にこの「2つの目的」を維持する為の態勢を維持する上で、「養子、跡目」を盛んに行って「融合血縁」を図ったのです。
”互いの「氏家」を「同族血縁」で維持する”と云う事でだけでは無く、”より強力な氏を維持している賜姓族に融合して行く”と云う体制を採用したのです。

上記で論じた様に、「朝臣族」は元より「真人族」もこの「3つの国府外の守護王」にとっても同じくその様にしなければ生き延びて行く事は、「賜姓族」の様に「独自力」を保持していない以上は困難であったのです。
むしろ、この行為は、単なる「血縁」と云う行為ではなく、”氏家ごと溶け込んで行く”と云う言葉が匹敵する「融合の形態」を採ったのです。又、採らねば成らない環境に生まれてから陥至っているのです。
それ程に、「真人族、朝臣族」の「氏家」として「政治的、経済的、軍事的な力」が不足していて、生き延びて行く事には難しい事を痛感していたのです。
「真人族」や「朝臣族」の皇族の中で育って、”モヤシの様な皇子”にはこの厳しい「下俗の環境」の中では到底無理で皇族保護無では無理であります。

(特記 累代の天皇が代わる度に第4世族は第6世族から7世族に成り、賜姓無に坂東に放り出される訳であり、厳しい嵯峨期の詔勅賜姓族よりもっと過酷な下俗と成ります。先ずまともに生き延びる事は無理であります。従って、融合族に成れなかった多くは比叡山に入り僧化して世捨て人と成る事を選んだのです。)

この「判断の根底」には「真人族、朝臣族」として逃れる事の絶対に出来ない慣習、即ち、「純血性の慣習」に宿命として強く縛られていたのです。
「賜姓族」を始めとする「真人族」と「朝臣族」の「絶対的な宿命」であったのです。
一人立ち出来ない者にこの「慣習の縛りが」あるのですから、そうなると「絶対的な宿命」の欠点が「氏家」を維持して行く以上は付いて廻ります。

この事を解消しなければ「氏家」そのものが論理的に成り立ちません。
これは「純血性」を保持する為の「同族血縁の弊害対策」の処置でもあった事は云うまでもありません。
「真人族 朝臣族」は「氏家の慣習」「純血性の慣習」「絶対的な宿命」「慣習の弊害」「融合血縁」と柵に囲まれ「賜姓族」に溶け込んで行かねば成らない「絶対的な環境」にあったのです。
その為にもその「受け皿」を造る必要があり、その複数の守護王がそれに成り得なかった場合は自らが「賜姓族」に溶け込む以外には無いのです。
元より成り得ない「第4世族内の王の生い立ち」なのですから、力の持った「第4世族内王の国府の賜姓族」に溶け込んで行くしかないのです。

「5賜姓族との関係王」
次ぎの「5賜姓族地」には次ぎの王の末裔が「跡目、養子」などで奈良期−平安初期に補足する形を採っていました。「皇族」と云う「血流の保全」(国策氏、副軸)の為に「必要不可欠な対策」でもあったのです。
ではこの守護地にはどの様な国府外の守護王が存在していたのかを検証してみますと次のように成ります。
「地理」と「王の経緯」から観て次ぎの状況にあったと考えられます。
伊勢は、奈良の[宮処王]の守護王の末裔が補足
近江は、滋賀の「雅狭王]の守護王の末裔が補足  平安期末に滅亡
信濃は、長野の[高坂王]の守護王の末裔が補足
美濃は、岐阜の[広瀬王]の守護王の末裔が補足  平安期末に滅亡 
甲斐は、愛知の[弥努王]の守護王の末裔が補足  (広域甲斐)

上記の「19の守護地」を地域別に分類すると地理的に賜姓地と完全に一致しています。
特に下記に状況を記しますが、「19の王の経緯」の中でこの「5王」に集約されます。
完全一致したと云う事は、はっきり云えばこの「5王」が上記で論じた様に「融合血縁」で生き延びた事を意味します。
そこで、この「5王」が融合したのか、或いは何処かに移動したのか、他に何かあったのかを歴史的に追跡可能な範囲で調査してみました。

「4世族内19守護王」の履歴
先ずこの「5王の履歴」は次ぎの4つに分けられます。
(これ等の大化期の王の詳細は不祥で他説が多い。)

A 滅亡したか B 末裔を遺し得たか、C その地で末裔が住み続けたか、D 除外
以上の様に本論では4つに分類出来ます。

経歴
1 雅狭王、山部王、高坂王
  山部王は壬申の乱で没(A)
  雅狭王と高坂王は生き延びた(BC)。
2 泊瀬王、広瀬王、竹田王、難波王
  泊瀬王は天皇没(A)、竹田王は没(A)、難波王(D)、
  広瀬王(春日真人族:BC)と竹田王と難波王は学者、官吏(BC)。
3 春日王、宮処王、弥努王、桑田王
  桑田王は長屋王事件没(A:B)、春日王(D)
  弥努王(中立:BC)、春日王と宮処王(春日真人族:BC)
4 栗隈王(D)、武家王(D)
  「栗隈王」(難波王の孫)、「武家王と美努王」は「栗隈王」と親子(B)

(注意 春日王、栗隈王、武家王 弥努王 4王は九州地域に勤務定住 除外)
(注意 難波王は栗隈王の祖父 除外)
(注意 春日王と栗隈王の末裔間で血縁 九州筑紫 除外)
(注意 竹田王は蘇我氏系 特令地遷都王 若没 竹田王も特令地遷都王 除外)
(注意 泊瀬王は崇峻天皇 厩戸皇子(聖徳太子)、難波王、春日王と同時代の同格 除外)

「4つの血流」
この1〜4の「4つの分類」には大きく分けて「3つの血流」があります。
A 春日王−広瀬王、宮処王、        (春日真人族)
B 難波王−栗隈王−武家王、美努王、高坂王 (特令5世族王 3世代一族)
C 長屋王−桑田王、弥努王         (長屋王:19王外 高市皇子の子)

  山部王 雅狭王             (不祥王 地理と履歴から一族の可能性大)
  泊瀬王(天皇)         
  竹田王(母方蘇我氏)

(注意 「山部王」は桓武天皇の別名 この「山部王」とは別人 同名の王が多い事に注意)

「関係外守護王」
以下は「4世族内19守護王」の内で「特令地の王」であり、「皇族賜姓族の関係外守護王」であります。
(京都の[栗隅王][武家王]は例外地の特令王 北九州に赴任)
(大阪の[竹田王][難波王]は特令地の遷都王  遷都により王位無し)
(愛知の[桑田王]は特令地王 美濃王の末裔に吸収)
(福岡の[春日王]は筑紫宰府王 例外地の特令王が引継)
(石川の[石川王]は吉備、播磨に移動赴任 伊勢−信濃に引継)

(注意 この事から「三地域の違い」はこの経緯があった為に「三野」と「美濃」、「弥努」と「美努」「御野王」は他の書籍等では混同している。  何れもこの5出自地と5王の人物は別である。)
(注意 筑紫宰府の「難波王」と「春日王」の関係族は「特令王外」として九州にて子孫を遺した。)

「存続王」の経緯
結局は、「4世族内19守護王」が生き延びて子孫を遺し得たのは以下の「5王」と成ります。
「雅狭王」と「高坂王」と「宮処王」と「広瀬王」と「弥努王」
以上の「5王−5地域」であります。
結局、この王と地域の検証ではこの「5王−5地域」に問題が無い事が判ります。

この事柄から、生き延びて周囲の「真人族」と「朝臣族」の「同族血縁の習慣」に従って皇族子孫を何とか遺そうとすると次ぎの様に成ります。

奈良期から平安期に掛けての全ての事件に巻き込まれず、確実に「氏存続」を強く推し進めたのは、上記「19守護地の王」の内、上記の5地域の「5家5流皇族賜姓族」のみであります。
つまり、5地域の国府外の周囲の王は子孫が遺していないのはこの「5家5流賜姓族」に融合して吸収した事を意味します。
そうすると、どの様に融合したのかと云う事は次ぎの様に成ります。

「5賜姓族」の守護王 「伊勢王」「近江王」「美濃王」「信濃王」「甲斐王」
「5存続王」の守護王 「宮処王」「雅狭王」「広瀬王」「高坂王」「弥努王」

この「朝臣族の5賜姓王」は奈良期から平安期までの歴史上の事件に一切関っていません。
「真人族の5存続王」は事件、乱にほぼ中立維持しました。
依って「5王−5地域」の検証には問題はありません。

問題が無い事が判ったとして、これを「地域毎」に組み合わせると必然的に次ぎの様に成ります。
伊勢は、奈良の[宮処王]
近江は、滋賀の「雅狭王]
信濃は、長野の[高坂王]
美濃は、岐阜の[広瀬王] 
甲斐は、愛知の[弥努王]

「皇族の同族血縁の慣習」
上記の「5地域−5王」の「真人族と朝臣族」の「皇族の同族血縁の慣習」を守り子孫を遺そうとすると、当然に先ずは直ぐ隣りの「地理性」が優先される事から、以上の組み合わせから血縁が進む事に成ります。

結局、結果として「5家5流の賜姓朝臣族」が「真人族の5王」の子孫を上記した「跡目・養子等の血縁方法」で吸収した事に成るのです。

(特記 「5王の真人族」の末裔子孫は確認出来る範囲で平安末期までに地域内に存在しない。)

つまり、この「4世族内19守護王」は「真人族と朝臣族」に分けられ、「5地域の朝臣族」は「賜姓」を受け「臣下」し「青木氏」を名乗り、これに「真人族」が吸収された「融合の氏化」が起った事に成ります。

それは「族制」「有品制」に無関係に「総合的に氏力の強い方」に吸収されて行くのが「自然の摂理」でありそれが働いた事に成ります。
それの大きな要因は「純血性を護る同族血縁の慣習」に因るものであります。
「真人族」と「朝臣族の賜姓族」との差は、まさしく「融合氏」の「3つの発祥源」の「有無の差に」因る事に成ります。
(注意 上記した様に実質は賜姓族が上位と成る)

故に「真人族」は「賜姓族」に融合して「直系子孫」を遺せなかったのです。
”遺せなかった”と云うよりは、「時代の厳しい背景」とこれに抗う「真人族5王の力」の差を強く認識し、積極的に力を獲得して行く「朝臣族の賜姓族の5王」に ”自らの方から融合して行って、「融合」と云う方法で子孫を遺そうとした” と考えられるのです。
これが「皇族内の自然の摂理」であります。
そして、この事の行為が、「純血性を護る同族血縁の慣習」の「思考規準」が、この時期にはむしろ「正当化」していたと考えられるのです。
これが「氏存続」に付いて「皇族と臣下族」との思考の大きな違いであったのです。

「八色の姓の制」の影響
その証拠としては、「八色の姓の制」の制定に現れているのです。
そもそも、この「皇族と一般の臣下族」との間に「大きな思考規準」の差が無ければ、「八色の姓の制」をわざわざ定める必要性はない筈です。
「身分の差」のみを定めるのであれば、「八色の姓の制」を定めても護られない筈です。
大別して「氏を構成」出来る範囲の民に存在する「八階級の身分」の間には、生きて行く上での「社会的な思考規準の差」が厳然としてあったからこそ、それが大きな「社会の隔たり」として表れたのです。
そして、この社会を秩序良く維持して行くには、「八色の姓の制」を定めて「氏姓や身分毎の行動規範」を社会の中に作り上げようとしたものです。
それは各身分間には「融合氏の発祥」が多く成っていた事を物語るものであり、その「行動規範」を「氏族」の中で常識として守らせる事で、「氏家制度の初期段階の構築」を目指したものであったのです。
その「構築の規範例」として、5つの地域に「3つの発祥源」を責務とする「皇族賜姓族」を作り上げたのです。
「社会の模範例」とする為に「賜姓」と云う方法で「氏族」を固めて発祥させたのが此処で云う「青木氏の賜姓族」であります。
つまり、「氏融合の初期段階」では、この「八色の姓制の行動規範」に基づく「氏家制度の社会構築」を目指したのであります。「八色の姓制」は此処に意味があったのであります。

「真人族」(まさと)、「朝臣族」(あそん)、「宿禰族」(すくね)
「忌寸族」(いみき)、「臣族」(おみ)、「連族」(むらじ)、「稲置族」(いなぎ)

(特記 宿禰族までの3族と、稲置族までの4族との間には実質の「行動規範の大溝」があり、結果として「融合化の溝」に成った。宿禰族は稲置族よりの中間族 政治思想の思惑を込めた「八色の姓制」を否定する説もある。)

「真人族と朝臣族」の融合化
「真人族と朝臣族」が「八色の姓制」に縛られているとすれば、「真人族」は独自色を高めて社会を引っ張って行くには全くの力不足であり、必然的にこの「社会の融合氏の規範例」となった「朝臣族の賜姓族」に「自らの存在」を融合させて行く事が「最良の生きて行く方策」と成り得たのであって、故に上記した経緯と成ったのです。

この「融合化し始めた社会」が「5つの思考規準」に分かれていたのですが、その根幹は「夫々の守護神の考え方」にあったのです。
その互いの「5つの考え方」を主張しあう事は、結果として「社会の混乱」を招く事に成り、「自ら神の考え方」を押し通そうとすると、必然的に「生存競争の争い」が起こる事に成ります。

これを解決しようとしたのが「八色の姓制」であって、その「考え方」と「行動規範」を定めて争い事に成る「思考の巾の領域」を封じ込んだのです。(現実に多発していた 「日本書紀」に記述)
そして、「5つの守護神の5つの考え方」を統一させたのが「皇祖神」であって、その統一した「皇祖神の考え方」を伝達させる為には「皇祖神」の「子神」を定めたのです。
その「子神」には「祖先神」を定め、その「祖先神」に「規範神の役目」を与えたのです。
その「規範神の社」を「神明社」として全国に普及し建立し続けたのです。
この建立を「国策氏」として存在する「5家5流皇族賜姓族」に命じたのです。(後に特別賜姓族に補完させた。)
つまり、その役目(「祖先神−神明社」)を上記する「朝臣族の賜姓族の5王」の「融合末裔子孫」に委ねたのです。その「真人族と朝臣族の融合氏」の統一化した「賜姓族」にその任務を与えた事に成るのです。
これであれば「皇祖神の子神」たる立場は完全に構築された事に成ります。
あらゆる民は異議を唱える事は有り得ず、自然と「5つの思考規準」(5つの守護神)は多少は存在しても混乱に繋がる事は無くなり、「皇祖神−祖先神−神明社」に導かれて行きます。

「皇族の純血性血縁」
前段でも論じた様に、この奈良期から平安初期の時期には、完全な「皇族の純血性血縁」を守る為に「3世族の従姉妹や叔母姪」と「4世族内での血縁慣習」を敷いていたのです。
この「皇族慣習」に従っているので間違い無く血縁をしていたのです。その為に他の血を入れる為に、「4段階の夫人制度」を敷いていたのです。

「夫人制度」 [皇后、后、妃(ひめ)、嬪(みめ)、妥女(うねめ:例外夫)]

(参考)
「3世族の従姉妹や叔母姪」の純血婚から外れて、原則、[嬪]域からやや「他流血」が入る。
「妃域」までは母方の地位により決められる。
「妥女」は地方豪族から人質として取り、一種の「奴隷女官」で完全な「他流血」である。
「妥女」の子供の王位は最も低い。
「奈良期の大化期頃」は「亜子」の誕生が多く「若没」であった為に「王」には「妥女」の子が多かった。

「同族血縁の弊害」には「亜子」等の子供が生まれる確立が高いので、「嫡子」としての基本的な能力に欠ける場合が多かったし、「隔世遺伝の影響」が強かったのです。
且つ、極めて死亡率も高かったのです。逆に極めて優秀な子供も生まれる事もあったのですが、その為にも「嗣子の有無」に関らず関係族から「跡目」や先行して積極的に皇族間で「養子」を取る「当り前の習慣」が皇族にはあったのです。
この習慣は「真人族」、「朝臣族」(記録では橘氏の様な「宿禰族」も一部含む事もあった)までの習慣であったのです。

この様な「5家5流の賜姓族地」には、殆どの近くの「王族の真人族」が「融合化」して行き、「賜姓族化」し、平安期初期には「力のある賜姓族で1流化」して行ったのです。
そして、平安時代中期には「賜姓源氏」がこの「5家5流賜姓族」に「跡目」を積極的に入れて子孫を移して遺して来たのです。

(参考 「嵯峨期の詔勅」の「賜姓源氏」には上記の様な厳しさがあった。皇族朝臣族の同じ賜姓族でありながらも「国策氏」等の重責の立場も無いところから、「国策氏」に融合して行く事で同じ立場を保全して行ったのです。ただ河内源氏はこの道を採らなかった。)

「嵯峨期の詔勅」により発祥した11代11家の「源氏」と、阿多倍一門の「賜姓たいら族」(桓武平家)との間には ”2軍の将相立たず”と成る事は必定であったのです。
この2氏ともに何時か雌雄を決して戦う事を事前に予測し、源氏は戦略として幼児の時から「跡目養子」を例外無く「5家5流の賜姓族青木氏」に移していたのです。
それは何故かと云うと、「5家5流賜姓族」は、「3つの発祥源」「皇祖神の子神」としての責務を保つ為にも、常に如何なる場合に於いても「和の中立」を保っていたからであります。

(注意 「武の中立」もあるが朝臣族である限り「武」は禁じ手慣習)

むしろ、「和の中立」を保たなければ成らない立場を宿命的に義務付けられていたのです。
従って、「和の中立」を保障する為に「5家5流皇族賜姓族」にのみ与えられていたのが「不入不倫の権」であり、それを物語ります。(賜姓源氏には無かった)
故に、「真人族」「賜姓源氏」は、如何なる場合にも子孫を遺す事を目的として、この「和の中立と安全」を保障され、その上で、先ず「商い」で「生存力」を持ち、「3つの発祥源」の立場を守り、「国策氏」として勤めもあり、「退避地」を持管理運営し、「祖先神−神明社」を建立し、民から「御師」等と呼ばれて「氏族」から慕われる象徴等の役目を持つ「5家5流賜姓族」には、「同族血縁の慣習」の下に「和の中立」を委ねたのです。むしろ委ねない方が異端であります。

「真人族」はその「非力」から、「源氏」は「武家の危険性」から「同族血縁の融合化の習慣」を事前に採用したのです。
この平安末期から始まった混乱期の時代では、「河内源氏」を除く源氏の多くは「自らの氏の存立と子孫存続」(枝葉末孫の拡大)と云う形だけを主体とはせずに、「3つの皇族の融合化」と云う形をも併用したのです。

(注意 「枝葉存続策」のみと考えられがちであるが、この説は朝臣族の前提を欠けている)

その「融合化の対象」と成ったのが「5家5流の皇族賜姓族」であったと云う事であります。
むしろ、「3つの発祥源」と「国策遂行」を完遂する責務を与えられていた事から起った「融合化の慣習」であったのです。
「5家5流賜姓族側」からすれば、むしろ「国策遂行」の為にも皇族が一本化する事で強固にも成り、子孫数の確保の面からも歓迎する事でもあったのです。

(特記 伊勢青木氏や信濃青木氏や伊勢特別賜姓青木氏の資料から観て見ると、平均的に1賜姓流では4から6流程度であった模様で、2次流まで観るとこの2倍程度と成っていた模様。 平安期の5行思想の「4−6の原理」を守ったと考えられそれに合せて「一族の統一性」を守ったのです。そこに「宗家方式」を敷いた。「純血融合を」守ったのです。)

それを証明する行為が「皇祖神の子神」「祖先神−神明社」の「建立の責務」であったのです。

「真人族」にしろ「11代賜姓源氏」にしろこの様な責務は、これらの氏には与えられていない事が逆にこれを証明します。
彼等には「皇祖神の子神」とする「独自の守護神」を持ち得て居なかったのです。
「源氏」が建てたとする「八幡社」は、「11代賜姓源氏」の中の9代目の「清和源氏」のその一部の「分家河内源氏」の「独自の行為」であって、11代の賜姓源氏全体の責務ではなかったし、その「八幡社建立」の主体は「名義貸し」の「荘園制」から来る「未勘氏族」の仕業であったのです。

(特記 そもそも、「八幡社の根源」は、北九州に発祥した「神祇信仰で」あって、その信義を大仏建立の「国家鎮魂の国神」とした事から始まったが、何時しか荒廃して「摂津源氏」に復興の任を命じた事が始まりであったのです。
それが「河内源氏の義家」の時に「未勘氏族」に依って「武神」に変えられて、源氏の守護神かの様に喧伝されてしまったのです。
従って、「八幡社」には「摂津源氏」等の和を求める多くの源氏が任とした「国神」としての「国家鎮魂の八幡社」と、「河内源氏」の未勘氏族の「武神の八幡社」の2流があるのです。 八幡社にはこの2種の社があるのですが、11代賜姓の源氏の守護神の様に誤解されている。)

(特記 賜姓を受ける事は、「荘園制の名義貸し」(未勘氏族)に「賜姓と云う権威」を背景に出来る事から「貸利益」に大きな効果があったし、それらの「未勘氏族」を集めての「武力集団」を最初に組織化した「清和源氏」[河内源氏]には「賜姓」は絶対的に必要であった。
元々、経基王は、「清和天皇」の皇子ではく、「陽成天皇」の子であったが父が愚能であった事から、祖父の賜姓を受けるべく長年懇願し続けた。始祖の経基王は長い間の念願を果した程であった。
「清和天皇」も外祖父の藤原良房が政務を執った初の「人臣摂政」で清和天皇の意思ではなかった。)

(例 「伊勢青木氏」には「清和源氏」の「源頼光系四家」の宗家「頼政−仲綱」の子の3男「京綱」を「跡目」に入れた。「以仁王の乱」前である。そして「11代の源氏」が全て滅亡して行く中、「源氏宗家」を「青木氏」の中に融合させて遺した。)

「特別賜姓」の補佐と任務
その結果、「融合化に」依って平安末期には最終的に「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「甲斐青木氏」の「皇族賜姓族の3家3流」に集約されたのです。
「滅亡した2家」は「近江域」と「美濃域」で「皇族融合化」を進めたにも拘らず、時代の荒波に抗する事が出来ず、あくまで「和の中立」を護らなかった「近江青木氏」と「美濃青木氏」が、結局は平安末期には平家に潰されて滅亡したのです。この時に坂東以西の「武の源氏」は事如く潰されて滅びたのです。

(注釈 近江青木氏の支流一部が戦いの場の美濃から逃げ遂せて摂津に戻り子孫を小さく遺した。)

この「2つの生き様の差」は「不入不倫の権」等で護られていたとは云え「生きる為の戦略上の違い」が「氏存続の差」と成って現れたのです。「和の中立の保持」
その「氏存続の差」とは、「嵯峨期の詔勅」によって起った「衰退時の蘇り策」から「武」に頼らない「和の抑止力」と「経済的な裏打ち」と成った「2足の草鞋策」であったのです。

(特記 この生き延びる為の上記の数式論の基は「商い」が前提条件にあって、「禁じ手の商い実行」と「5家5流の賜姓族の存続」と「国策氏の務め遂行」と「詔勅リスクの解決策の実行(シンジケート)」等を「嵯峨期の詔勅」前に、「総合的な経緯」から観て、”「嵯峨天皇」とは談合されていた” と考えられ、「暗黙の了解」があったとしているのです。大化期の中大兄皇子の談合に類似する。)

結局は、「16代の朝臣賜姓族」と「真人族の5守護王」の合せて「21代の皇族」が「融合血縁」に依って、最終は上記の「3つの発祥源」の「国策氏の賜姓族3氏3家の子孫存続」と成ったと云えるのです。

然し、平安中期には、「5家5流の皇族賜姓族」では、上記した数式論が成り立たなくなったのです。
つまり、「賜姓族力」<「国策遂行負担」=「国策の責務遂行の限界」の現象があらゆる面で起ります。
これを判断した「円融天皇」により、藤原氏北家から秀郷一門の第3子に「特別賜姓」して、皇族の融合血縁した「皇族賜姓青木氏」と同じ「全ての権限と権威と立場」を与えます。
「完全同格」としてこれを補佐する任務を与えたのです。(皇族外朝臣族の藤原氏北家一門 母方系族)

(特記 皇族賜姓の母方族を根拠に特別賜姓した。そして、同一族化させる為に「5家5流の賜姓族」の地に「融合青木氏」の血縁策を推し進めた。 従って、「真人族と朝臣族」−「5家5流賜姓青木氏」−「特別賜姓族青木氏」−「賜姓源氏」(河内源氏除く)]の5賜姓族地に「和の中立」の「完全総合の真人族・朝臣族賜姓族」の「融合青木氏」が誕生した。「和」の5賜姓族には「武家の分家方式」は採用されていない。)

この為にも、この「秀郷流青木氏」に対しての「跡目継承の断絶」を避ける為に「宗家一門から第3子」を常に補足する「決まり」を与えます。
「特別賜姓族」には、「真人族融合化」した「賜姓族」を含む「親衛防衛集団の義務」を与えたのです。

(参考 北面武士 親衛隊の右衛門佐上の最高位の指揮官の任を特別賜姓族青木氏宗家永代授与)

この「特別賜姓族の出現」で、それが「皇族賜姓族」の生き延びる為に必要とする「絶大な抑止力」に成り、「3家3流賜姓族」は他の「2家2流」と異なり生き延びられた源と成ったと云えるのです。
恐らくは、この「3家3流」と「2家2流」とは「特別賜姓族」との「付き合い方」が違っていたのではないかと観ています。

(特記 「和の中立」より「武の中立」に偏っていた為に、即ち、「生き延びる考え方」が違っていた為に特別賜姓族側は親交や血縁は避けていた事が考えられます。)

この世は「特別賜姓族」が補佐したとしても、あらゆる柵に依って必ずしも上手く行くとは限らない訳ですから、地理的に観ても「近江、美濃」には「特別賜姓族」が配置定住している訳ですし、疎遠であったとする事には成りません。
「地理的要素」から血縁でも充分に有り得た事でもあり、決定的な事は「河内源氏との付き合い方」にあったと観ています。

(特記 「和の中立」が保ちきれず、「武の中立」から遂には「武」に傾いてしまった。)

こ「の2つの青木氏」の任務は、上記した「皇祖神の子神」としての「神明系社の建立義務」を遂行するにしても、「宮司職」や古代密教の浄土宗の「菩提寺の住職」の配置も重要と成っていて、多くの子供「子孫の養育」が必要と成っていたのです。
その為にも、上記する「源氏、真人族の融合化」が急務と成っていた環境にもあったのです。
「同族血縁、純血血縁」を前提としたものであった為に、「第4世族内の5家5流賜姓族」には、武家の「本家概念」ではない「副軸」としての「宗家の概念」に基づいて「分家の概念」が無く、何れも「本家」なのです。
因って、「真人族、朝臣族との融合血縁」するにしても「家の格式の差」が無い事から何れの家にも「跡目養子」や「婿養子」や「貰子養子」の血縁を自由にする事が可能であったのです。

(特記 「伊勢青木氏」の資料から観ると、松阪殿、員弁殿、桑名殿、四日市殿、名張殿、脇坂殿、伊賀殿、青蓮寺殿等の定住地の地名を付けた呼称で区別していた事が資料から判ります。
分家などの「格式の差」が「宗家」を除いて無い事が判ります。
只、全体を協議するリード役があった事が記録されています。この「宗家を構成する慣習」は、藤原秀郷流青木氏は元より秀郷一門主要8氏にも適用されており、「役職と地名」の2通りの使い分けをしていて、役職を持つ宗家筋は藤の前に役職名をつけて呼称していたのです。
24地方に赴任し定住した家筋は藤の前に地名をつけて呼称する習慣であったのです。
その内に枝葉孫が拡大してこの慣習では成り立たなくなり、宗家−本家−分家−分流−分派−支流末孫まで361氏の「家の格式差」が生まれまたのです。
然し、秀郷流青木氏に於いては皇族賜姓族との融合氏を構成している事からこの「家の格式差の概念」が薄く家を構成していた事が判ります。)

そもそも「神明系社486社」とすると少なくとも3家3流賜姓族の単純な子孫量では成り立たなかったのです。

(特記 上記の通り、「第4世族内の皇族賜姓族」は慣習として「分家方式」を持たなかったのです。
従って、家紋は全て「綜紋の笹竜胆紋」であり、格式差が出る「副紋方式」や「丸付き文様」や「類似文様」の方式は持たなかったのです。然し、「臣下族」の「武」の「嵯峨期の詔勅の賜姓源氏」は持ったのです。この事でも生き様の違い差が判ります。家紋の此処にも大きな違いが出ています。)

因って、この為にも、「純血性の慣習」を前提とする「5家5流賜姓族」にしかない「夫人制度」と「真人族との融合化」を、この様な上記するあらゆる皇族慣習を持つ「国策氏」に問題が起こらない様にする為に、「少ない賜姓族」に対しこれらの「務め」を強いたのです。

(特記 上記する「特記の慣習」により厄介な「格式差」がないのですからに「国策氏としての勤め」を円滑に進められるが道理です。この「宗家方式は」「真人族と朝臣族からの融合血縁」を行うにしても、どの凡そ20から30から成る「5家5流賜姓族一族」とも格式無く平等に行う事ができます。「国策遂行」に於いても「融合血縁」で成立った20から30の一族が格式で争う事無く平等に務める事が出来ます。
この様に、「宗家方式」=「5家5流賜姓族」の数式論関係で無くては成らなかったのです。この数式論は絶対条件なのです。)

ところが、この「宗家方式に」は大きな欠点が合ったのです。
その欠点は国策遂行するには「子孫量の確保」と「維持管理」をする事が難しかったのです。
この「宗家方式」は、枝葉末孫を広げる事に因る欠点を避ける事に重点を置いて恣意的に採用されているのですが、この為にも「2つの絆青木氏」を創設したのです。
その為に、この建立を進める486社に宛がう「青木氏の代宮司・代住職」や「職能集団の長代行」等を増強したのです。
これは、「子孫存続の枝葉拡大」の為ではなく、「国策遂行」の為の「子孫拡大確保」の為の血縁であり、縁組であったのです。
そして、それらの為にはこの枝葉末孫拡大に因る「家の格式」が、担当した「国策の格式」に繋がる為に「氏家制度」の分家、分流、分派の「支流格付け」を行わなかったのです。
この様にどのような場面から観ても苦しいながらも「宗家方式」が絶対条件であったのです。
国策氏として課せられた「宿命」、課せられた「慣習」であって、上記した「血縁慣習」とこの「宗家方式」は連動し、これを保守する為に細部に至る多くの「慣習や戒律や仕来り」が生まれ、「氏と家の細部」に至るまで浸透していたのです。上記する様に、これがマニアル化していたのです。

(参考 その細部の慣習や戒律や仕来りが明治にその役目が終わったとしても、大正末期の頃まで引き継がれて来たのです。平成の現在で宗教行事の作法に僅かに遺されるのみで殆ど霧消しています。)

然し、この平安末期にはそれでも衰退も原因して、この「あらゆる力」と「子孫供給力」が「朝臣族」の「皇族賜姓族」に欠けて仕舞い、「特別賜姓族の誕生」の一原因にも成ったのです。

「近江佐々木氏」の縁故の援護
ここで「宗家方式の欠点」を補う一つとして、決して見逃しては成らない経緯があるのです。
ところが、これでも資料から観ると、この「特別賜姓族の補強」でも未だ「子孫量の補充の力」は欠けていたと観られます。それには「近江青木氏」と「美濃青木氏」の2氏滅亡により極端に低下して待った事が原因と見られます。
天下の北家藤原秀郷の「青木氏補強策」とは相当な補強であったにも関わらず、それでも「子孫量」が不足していた事は「神明社建立・維持・管理」には言語に絶する相当な欠点であった事が判ります。
それには「純血融合血縁」が「足枷」に成っていた事が原因で、その「足枷」は平安末期に真人族と朝臣族が少なく成った事と、「真人族と朝臣族」の多くが「世捨て人」を選んだ風潮が皇族内に蔓延していた事を物語ります。
「国策氏」と「3つの発祥源」の立場から、これを維持するには「宗家方式」が「絶対条件」であった為に絶対に「分家方式」に切り替える事は出来なかったのです。
勿論、「2つの絆青木氏」の策はそれを補うものでは基本的に無かった事を意味します。
「5家5流賜姓族」の「跡目継承の子孫量」は根幹であった為に「特別賜姓族の補強策」で一応は満足していたのですが、「486社にも成る神明系社」の「神職」と、「古代密教浄土宗の菩提寺」の「住職」とに配置する陣容が成立た無かった事に成ります。
ここで多少の疑問があるのですが、「古代密教浄土宗の菩提寺の住職」であればせいぜい5家5流で20寺程度で不足の原因となるには疑問であります。
とすると、「特別賜姓族青木氏」が一切の氏の格式や身分官位官職等を同じくする以上は、「古代密教浄土宗の菩提寺」も同じくする必要に迫られます。
最終、116氏にも成ると「特別賜姓族青木氏」に宛がう「菩提寺の住職」には子孫量的に困難であった筈で、ここに配置する能力に欠けてしまった事に成ります。
「神明系社」と合せると、寺社関係だけでも、何と最低630(486+116+20)人と云う「子孫量」が必要に成ります。
これに「跡目継承」の「子孫量」と成ると「2つの青木氏」で150人、計800人以上の「子孫量」を確保しなければ成りません。これでは論理的に横の縁者関係が生まれない「宗家方式」では物理的に困難です。
況してや、そこに、「純血血縁の仕組み」です。
そこで、考えられたのが大化期の旧縁の賜姓族「近江佐々木氏」の救援です。

天智・天武天皇の第7位皇子「川島皇子」を始祖とする「近江の賜姓族」の「近江佐々木氏」の旧来縁故の援護を受けた事が記録として遺されています。
その記録から推定すると、時期的には源平の争いの前の900年前頃ではないかと考えられます。

(特記 主に北域には神明系社のこの「近江の佐々木氏の宮司」が実は非常に多いのです。
これは平安期中期の頃からの対応と観られ、平安末期以降も続けられていたと観られます。
「摂津源氏」が「国家鎮魂」の荒廃した「八幡社復元」を命じられて、「神職」を「5家5流賜姓族」に求めて来た事も一因であったとも考えられます。
「摂津源氏」にはもとより「寺社建立の職能集団」を持っていなかった事から依頼して来たのです。
より一層不足したがこの「摂津源氏復元作業」は「基礎的な氏力」が欠けていた為に長続きしなかったのです。後は「河内源氏」が「武神」に変えて「未勘氏族」を使って「独自の八幡社」を復元していったのです。)

この「佐々木氏の援護」の事は重要で、天智期の「施基皇子」の弟の第7位皇子の近江の佐々木に住していた「川島皇子」の「賜姓近江佐々木氏」までも頼り、その「佐々木氏の子孫」が青木氏の「神明社」の宮司に成っている事は、如何に「皇族関係族間の融合化」が起こっていた事かを物語っているのです。

(特記 青木氏側からの佐々木氏の研究は残念ながら未だ進んでいないのです。近江佐々木氏の援護で885年前後頃に「近江佐々木氏自身の子孫量」が侭らなく成ったと観られ、「宇多天皇」は「滋賀佐々木氏」(北滋賀)を賜姓臣下してを発祥させました。この時、この「滋賀佐々木氏」には「近江佐々木氏」の同じ通名の「・・綱」(盛綱・高綱)を使っているのです。
この「宇多天皇」は在位が885年から888年と短いのですが、この間に賜姓している事は急務の策であった事を物語っています。「近江佐々木氏」から初代として跡目を取り、北近江域に子孫を拡大させる為に「宗家方式と純血主義」から離れた「滋賀佐々木」を急いで発祥させたと考えられます。
「嵯峨期の詔勅」からは賜姓は源氏、皇族者の下俗は青木氏と成っていますから、そこで「近江佐々木氏」から跡目を入れて「滋賀佐々木氏」を別に新たに賜姓する事で、「賜姓族慣習」からの縛りを外し「嵯峨期の詔勅」の源氏と同じ「分家方式の慣習」を採用する事が出来、且つ、直ちに「子孫量」を確保させて行く事が出来ると判断したと考えられます。これであれば「賜姓の原則」は守れます。
「宇多天皇」の在位期間3年の間に第6位皇子を賜姓する事は実質上は無理であります。
因みに、生867年、没897年、在位885年、退位889年であり、18歳で天皇。
この平安期では15歳で成人で婚姻が許される慣習ですが、在位期間中に皇子はいなかったのです。
30歳没ですので、この時の「跡目末裔」とするただ信頼し得る1族のみが存在し、これが「佐々木盛綱」であります。この者は源平の戦いには以北の神官職としていた為に生き延びる事が出来、1203年から1221年にかけて北陸と越後に子孫を多く遺したとされるのです。佐々木氏の研究と青木氏の研究とはこの点で一致します。因って、以北に配置された補強策の「佐々木氏」には「近江佐々木氏の神官」と「滋賀佐々木氏の神官」の2流が以北の佐々木氏と成ります。何れも神官系であるのでまったく判別は困難です。
基を質せば、大化期の「近江佐々木氏」と成りますが、「滋賀佐々木氏」は一度宇多天皇により賜姓を受けていますので形式上は別と成ります。
ただ、「近江佐々木」の「跡目継承」から「盛綱」までは源平の戦いで衰退した為に不明です。
この賜姓の遣り方であれば「近江佐々木氏の後押し」も可能となり、”安定しての子孫量の確保とその存続の目的” を果す事が出来ます。
本来であるのなら、源氏、或いは青木氏を賜姓するだけの皇子も居なかった事からも、急務としての策を講じたのです。故に、「滋賀佐々木氏」は「宇多源氏」と別名では呼ばれているのです。

(注意 この経緯から「近江佐々木氏」と北近江域の「滋賀佐々木氏」とを混同している書籍が多い。滋賀佐々木氏の不明の部分を突かれて名乗る「搾取氏」が実に多い。近江佐々木氏系青木氏からも検証出来る。恐らくは室町期の下克上から主君の氏を搾取したと観られる。不明の部分もこの事に因るとも考えられる。)

話を戻して、しかしながら、「出自不祥」とされる近江の「山部王と雅狭王」は、近江の「川島皇子の佐々木氏」の領域である事から「山部王と雅狭王」との「純血性の慣習」による「皇族間の融合血縁」をしていた事を物語っています。
「山部王と雅狭王」は事件等に依り歴史的に「没」に成っていないにも拘らず、「子孫存続」が明確でない事から、この「近江の川島皇子の佐々木氏」と「近江皇族賜姓族」と「融合血縁化」していたと考えられます。
その証しに、この近江地域には「近江の川島皇子の佐々木氏」と「近江皇族賜姓族青木氏」との血縁族の賜姓族の「佐々木氏系青木氏」が発祥して居るのです。
この2氏に「山部王と雅狭王」は必ず融合化した筈です。
同じ近江国の中に出自の異なる「4つの4世族の皇族」が居て「純血性の慣習」の中で血縁しない方が異常であります。
故に、「近江賜姓青木氏」と「佐々木氏系青木氏」と「佐々木氏」とには「2人の真人族」を含む「縁故血縁関係」にある為に、賜姓族同等である事を理由に「神明社宮司」に血縁族として「佐々木氏」を用いたのです。
「近江佐々木氏」と「佐々木氏系青木氏」は、「源氏の血筋」も入っていて「佐々木源氏」と呼ばれ家紋は綜紋の「笹竜胆紋」であり直系族であります。

(特記 「滋賀佐々木氏」の本家紋は「丸に揚羽蝶紋に木一文字紋」です。笹竜胆の綜紋ではないのです。基の始祖は同じであっても、皇族慣習に因って「氏族」が違う事を意味します。「たいら族」の支流族を物語ります。この家紋からも血筋の所以が読み取れます。宗家方式と賜姓族慣習と純血慣習等の慣習に束縛されていない事が判ります。当初の出自から「宇多源氏」と呼ばれていながら、家紋は真逆の平家の「揚羽蝶紋類」であり、副紋を「木一文字」としているのです。如何に一般の分家方式であり、それもかなり家紋200選」にも出て来ない姓族の家紋です。一方では賜姓族慣習を守りながら、他方では、この事で如何に急務に仕立てたのかであり、形振り構わず一挙に子孫量を増やし神職住職を宛がったかが判ります。)

(参考 佐々木氏には滋賀佐々木氏があるが上記特記の通り別氏で宇多天皇系であるが他氏と融合血縁している。)

将来の研究課題ですが、佐々木氏側からの青木氏の研究は進んでいて、その研究内容から読み取れる事は、「近江賜姓青木氏」を通じて天智天皇の皇子としての「伊勢青木氏との縁故関係」から前段で論じた「古代和紙の殖産」は兎も角としても、資料から読み取って目立つ事は、「寺社の職を通じての協力関係」があり、従って、「同族血縁」の関係にも「近江佐々木氏」とはあったと観ているのです。
史実、「寺社関係」には「神明社系社の神職」と「古代密教浄土宗の住職」には青木氏と共に佐々木氏が多いのです。それも「5家5流賜姓地」の寺社と、「特別賜姓族地」の北域の寺社に集中して多いのです。
これは「5家5流賜姓族」と「特別賜姓族」の「融合関係」が大いに進んでいた事を物語り、そのルーツを通して、「近江賜姓青木氏」−「近江佐々木氏」−「伊勢賜姓青木氏」−「特別賜姓族」との繋がりが「神明社建立」の事のみならず出来上がっていた事を示す事でもあります。

もう一つは、「佐々木氏の研究」から読み取れる事は、「5家5流賜姓族の横の連絡関係」はこの「寺社」を通じて基本的に行われていた事を物語ります。
前段でも論じた様に「神明系社486社」と「古代密教浄土宗の各地に存在する菩提寺」が、この「横関係での問題処理」に当っていた事がよく読み取れます。
「横の連絡関係」と云うよりは、「賜姓佐々木氏一族」と「5家5流賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」と「秀郷一族一門」、更には「賜姓源氏」と上記した「真人族や朝臣族」との全ての横関係が「寺社」を通じて執っていたと考えられるのです。
言い換えれば「真人族と朝臣族」が、皇族慣習に基づいて構成された「氏家制度」の中では、「寺社の存在」が大きな重要な位置役割を持っていた事なのです。
そこが他氏と大きく異なっていた点であります。
その意味で「祖先神−神明系社の役割」は絶大であった訳で、「2つの賜姓青木氏」の全てと云っても過言ではない程に、重要な位置を占めていたのです。

その重要な位置を「最古の神明社」が象徴していた事を意味します。
下記の「最古の神明社」を象徴に置く「2つの青木氏」にとって重要な位置を占めていた「寺社」を各々には全て「独自の寺社」を持っていますし、上記した様に「神職住職関係の融合血縁」も進んでいる訳ですから、これらの「寺社」をパイプ役に「連携関係」を保持していたと考えているのです。
この「寺社の存在」とその連携なくして「2つの青木氏の存在」は成り立たないものであったのです。
所謂、「人間の血管」の役割を持っていたのです。
そうであるとするならば、「皇族賜姓青木氏が構築した退避地の策」も「寺社」で成り立つものと考えられるからで、それが「佐々木氏の研究資料」(寺社)からも大いに読み取れるのです。

特記
「退避地運営」に付いての「佐々木一族の関り具合」がどの様であったのか気に成りますが現在は詳細は不祥です。近隣に「賜姓青木氏」の存在が無いところから佐々木氏の何らかの関わりもあったのでは無いかと推測できます。「賜姓近江佐々木一族」は「賜姓青木氏」と「賜姓源氏」(河内源氏)との非常に微妙な中間的な生き方を採った事が読み取れるからです。源平でも源氏方に味方しても生き残るのです但し、衰退したが上記した様に寺に大きく関っていた事が「子孫存続」で難を逃れ、鎌倉時代にはこの子孫が勢力を盛り返したが、戦乱の室町末期からが江戸期には衰退させるのです。
矢張り、寺社で宗家と共に子孫を復活させる特長を持っていたのです。恐らくは、宗家が生き延びたとするのは「寺社」を故意的に「隠れ蓑」にしていた戦略を採っていたと観らるれからです。
現在でも寺社に佐々木氏は多い。従って、佐々木氏の研究論文はこの論調基調に成っているのだと考えられます。「和の中立」と「武の中立」の「和武の中立」の生き方を採り、それの基調を寺社に置いていたのだと考えられます。恐らくは伊勢青木氏とは大化期の第7位皇子として特別に天智天皇より賜姓を受けた同族であり、「伊勢青木氏」の「皇祖神の子神の「祖先神族」としても同じである事から−伊勢青木氏の生き様を観ての寺社でなかったと推測しているのです。「神明社建立」には「神職としての役目」を果たしていたのではないかと観られます。

寺に関しても「古代密教浄土宗」は「5家5流賜姓族」と同じですから、住職としての役目を果たしていたと観られます。この点では「伊勢青木氏」とは同様の行き方を戦略として採ったと考えられます。
ただ判らないのは血縁関係が不祥と成っている事なのです。伊勢青木氏との繋がりがキーポイントではないかと観ていますが判りません。研究の論調から「特別賜姓族との関係までの青木氏」の論文資料と成っているのです。

前段でも論じた様に、「日本海側3県の退避地」の処で ”「寺社」が主軸に成っていた”と論じた事も、矢張り、近隣に居た「賜姓族の佐々木一族」を含むこの「寺社」が関わって「横関係での問題処理」が出来上がっていた事も、「寺社」と云うキーワードでは符合一致します。
つまり、「賜姓近江佐々木氏」もこの「退避地の管理運営」に寺社で関っていた可能性が高く成ります。

そうすると、「第4世族内の真人族と朝臣族」の事なのですが、「賜姓青木氏」を頼りこのルートを通じて直ぐには「退避地」に逃げ込める筈ですが、ところが平安末期から「真人族」は、上記の「融合化」よりも「比叡山の僧化」や「門跡院僧」と成って、子孫を遺す「融合化」による「氏化」はしなく成ったのです。

(注意 退避地に直接逃げ込こまず、その前に僧化したのです。)

「還俗、下俗」する際は3家の「皇族賜姓族」と24地方の「特別賜姓族」を頼り「世捨て人」と成った者が殆どであったのです。この時も直ぐにではなく「世捨て人」に成った後で、「伊勢−信濃青木氏」が管理運営する「富山、石川、福井の退避地」に入った事が判るのです。
前段でも論じ、又、上記の「賜姓佐々木氏一族」も加わった可能性もある「賜姓族退避地」(保護地)に「世捨て人で僧化した真人族」を保護した事が、「退避地等の表現」が無いにしても、「佐々木氏の研究資料」の文脈からも読み取れます。朝臣族の「還俗僧」がこの地域に一般氏化した表現が採られているのです。

(特記 「嵯峨期の詔勅」では「第4世族内の真人族と朝臣族」の「還俗僧」は青木氏を名乗れますが、「還俗僧の青木氏」は確認出来ないのです。名乗れる権利を有する者は全て把握している中で「嵯峨期の詔勅」を使って名乗った「皇族青木氏」は5氏でその中にはないのです。)

「佐々木氏」が「寺社と神職・住職の存在」からこの「皇族の退避地」を認識していた事が少なくとも読み取れます。
この「皇族者の世捨ての変化」は、先ずは、賜姓源氏、賜姓平家の「武家の台頭」が強くなり、次には逆に「真人族」の存在価値が低くなった事と、最後には「藤原摂関家」(北家)もその勢力を低下させ母方血縁による「真人族と朝臣族」が少なく成った事、この「3つの事」に因るのです。
その主な原因は、何よりも「真人族や朝臣族」が「賜姓」を受けて「武家」(公家に対する武家を意味する 室町末期からの武家の呼称ではない)に成るだけの気力を失っていた事に依ります。
それは「源平の軋轢」と、”それに抗して「生き延びる価値」を見出せなかった”と云う所ではないかと考えられます。
皇族者は、「源平の生き様」の「武家としての厳しさ」を観て「気力の喪失」を起したと観られます。
そして「僧化」を選んだのです。その僧化後には”「俗人」になる事の意味”を僧として悟ったのではないかと考えられます。
ところが、その為には、”何処でも何時でも俗人に”と云う訳には行きません。生きて行く為には「無力の僧」や「無力の真人族と朝臣族」が簡単に成し得る世間の事ではありません。
その為には、生きる為に世の中を知り何かを身につけなくては成りません。それに皇族者に限っては何かの「後ろ楯」が必要です。
最後はこの条件が備わっている「皇族者の退避地の存在」の有無であります。
そのパイプに成るのが「寺社」であるとすると、その同じ「住職(神職)の僧」であったのですから「寺社の関係」が大いに働く筈です。
これは明らかに「寺社」を通じて「退避地」に入った事を示しているのであって、「佐々木氏の資料」と共にこの状況が一致し、それを如実に物語っているのです。

特に、この時代は「藤原摂関家」との遠戚のない「後三条天皇」−「白河天皇」−「堀河天皇」と続き、「白河院政時代」と第3期の「親政時代」が続き、その事からその傾向は無くなったのです。
この時、社会には荘園制を維持し運営する為に他氏を攻め落とし、その敗残兵や住民を奴婢にして連れて来て荘園を開墾維持管理させる等して、荘園から来る弊害が生まれ、荘園制を禁止する等の締め付けをこの3人の天皇は遣って退けたのです。
結果として荘園制で「軍事的」と「経済的」に台頭する「武家」に対する締め付けが厳しく成ります。
これを実行した「3人の天皇等の寝室等の間近の身辺」も危く成って、わざわざ本当に信頼できる「皇族朝臣族の3家3流賜姓族」(一部源平含む)に身辺警護の役を再び命じたのです。
「身辺警護の護衛隊の北面武士」の制度(大化期にあったこの「本来の役目」)が再び始まります。

「蘇我氏の専横」から反省して大化期から平安初期まで続いた天皇を警護する「皇族賜姓族」が、再び平安末期に呼び出された事に成るのです。

(特記 平安初期から末期直前まで桓武天皇が賜姓した阿多倍一門の賜姓坂上氏が朝廷軍として君臨し天皇の警護も兼務した。その後は同じ一門の桓武平氏の「たいら族」と藤原氏が継続した。)

荘園制を利用していた源氏と平氏と藤原氏を信用できないとして遠ざけたのです。逆に「天皇護衛」が大化期からの本来の務めである「2つの賜姓青木氏」がこれに代わって呼び出され、「源平の影」で益々本来の「賜姓族の基礎力」を付けて、復興し回復して来たのです。

(特記 添書から主に29(24+5)の各地に定住する「2つの青木氏」の賜姓族が都に派遣されて果した事が判ります。添書から見えるこの時の賜姓族は、「左衛門上佐」と「民部上佐・民部上尉」の「2つの永代官職位」を持っていたのです。つまり「近衛護衛隊」と「近衛警察隊」の最高の指揮官位職であったのです。)

その為に「天皇の身辺」が危険に成っても何も出来ない、まして”自らの身も護れないの”では「真人族の存在価値」は低下し、更に荒波の中での「氏」としての存立は不可能と成ったのです。
(「2つの青木氏」の存在が逆に目立った)
更に、この直ぐ後の「鎌倉期」には「皇族の勢力」が天領地が奪われ生活もままならない程に弱まり、多くの子孫を遺す事は無くなり、「真人族、朝臣族」は現実は少なく無くなったのです。
当然に「真人族」と「朝臣族の源氏」からは「同族血縁による融合化」は無くなったのです。

(特記 「2つの氏賜姓青木氏」は空白期間を通じて「大商いの組織化」を進めていて弱体化の影響は小さかった。むしろ、「紙文化」が起こり「下克上と戦乱」が起こり「総合産業」としての「大商い」は更に益々その勢いを増したのです。「荘園制からでる敗残兵の吸収」から、今度は「戦乱により社会に溢れ出る敗残武士」を組織化した「大商い」は成功の上に成功を納めると云う「社会の乱れる流れ」とは逆の流れを掴んだのです。恐らくは、この時点で「平安期までの力」を遥かに凌ぐ力が増築された筈なのです。)

「最古の神明社」
上記の19の「第4世族の皇子王」が守護地に配置されたのですが、この時、守護地に「皇祖神の子神」として「祖先神の神明社」を建立しました。この時の神明社が最も古いとされるのですが、この直前に「遷宮遍座地」として各地に85社(90年)をも建立して「皇祖神の神宮」を建立したのです。
然し、この「85社」の中にただ「1社の神明社」があるのです。この「神明社」は現在の「滋賀県湖南市三雲」に存在します。
つまり、「19守護地」の「神明社」より「遷宮遍座地」は古い事に成る事から、「天智天皇」がこの「19守護王」の配置する直前に、此処に先ずこの「神明社」を「遷宮社」と「同位同格」を示す為にも「皇祖神の子神の祖先神の象徴」として建立したと考えられます。
その後に「19守護地」に「祖先神−神明社」を配置建立した事に成るのです。

「最古の神明社」の意味
前段で論じた様に、この事の意味する処として、どれほどに重要な主要地にも85社をも建立する事で「皇祖神の存在」を先ずは高めます。
次ぎはこの「皇祖神」を最終的に伊勢に定めたのですが、これでは終わらずに、これを征討した地域まで全国的に広めるには、朝廷としては「経済的な問題」、「軍事的な問題」、「政治的な問題」を考慮すると、大蔵として困難であったのです。
その為に、「3つの発祥源」として立身した「皇族賜姓族」に「国策氏」としてその役目を与えたのですが、与えた以上はこの「皇祖神」を何らかの形でこの役目柄を「国策氏」に遂行させる必要があります。
その為には、「皇族賜姓族」に「祖先神の守護神」を先ずは与え、一つの「融合氏」を構築させ、その「社」を「神明社」として扱い、これを「皇祖神の子神」としての「役目柄の最高格式」を与えて普及させる目的があったのです。これで「国策氏」は役目の上での目的は果たせます。
それには、「朝臣族」の「皇族賜姓族」に上記した様に「真人族の血流」を積極的に流す事で「家柄としての最高格式」も与える必要があったのです。
それは「血縁する事」ではのみだけでは無く、「朝臣族」に「非力な真人族」を「融合化」させる事でもあったのです。
その証拠に「皇族賜姓伊勢青木氏」の始祖の「伊勢王の施基皇子」には、前段で論じた様に大化期の改新に勲功が高く、天智天武天皇の14人の皇子中で皇太子よりも3階級も上で天皇に継ぐ位を与えたのです。永代の「淨大正一位」の位を与えたのです。
(近江川島皇子も賜姓佐々木氏を受けてその位は最終「浄大正2位」の家柄と成ります。)

A「役目柄の最高格式」
B「家柄の最高格式」
C「身分の格式」
以上の3つの最高格式に加えて、
D「蔭位の制」の「正一位の有品待遇の最高格式」
「4つの格式」を与えたのです。

この「4つの格式」に付加えて次ぎの事が力に成っているのです。
E「親衛隊最高指揮官の軍事力」
F「58万石の経済的背景」
(平安末期以降は「商い」にて復興 総合力は4〜6倍以上の力を保持)
以上の「2つの賜姓力」を持っていたのです。

この「6つの賜姓力・権威力」を保持していたのです。
その根底を支えていたのは次ぎの「無形の力」です。
G「不入不倫の権」
以上のどの氏族も持てない「特権」を持っていました。
「有形と無形の力」としては以上の「7つの賜姓力と権威力」と成ります。

この他に、無形の「特別賜姓族の抑止力」「神明系社の寺社力」等を加えると相並ぶ者は無かったと考えられます。全て天皇に継ぐ「最高位」の立場を保有していたのです。
然し、これだけの「力」を保有していながら「嵯峨期の詔勅の賜姓源氏」(義家など)の様に世に有名を馳せたのでは無く、一般的な見方からすれば、 ”知る人ぞ知る”の立場に居たのは何故かであります。
これは「皇族賜姓青木氏と特別賜姓族」の「2つの青木氏」に付いてであります。
それは以下の事柄があって「世に出る事の効果」や「世に出ることの大儀」を著しく損なうからで「和」の下には何事に於いても「清・静・正」であらねば成らない世界に居たからであります。

第1は「武」に頼らない「和の中立」の世界に居たからであります。
第2は「国策氏」として「影の役目」の世界に居たからであります。
第3は「3つの発祥源」の「象徴の立場」の世界に居たからであります。
第4は「商い」をする「2足の草鞋策」の立場に居たからであります。
第5は「御師・氏上・総師」として「慕われる立場」に居たからであります。
第6は「皇祖神子神の祖先神−神明社」の氏族に居たからであります。

どれを執ってしても「清・静・正」に居て初めてその「立場の保全」を全とう出来るのです。
これ等の事柄(賜姓力・権威力)を一つの言葉にして「伊勢青木氏の口伝」として引き継がれて来た「伝統的な言葉」に ”世に晒す事相成らず”の「戒言」があるのです。

”世に晒す事に全て何事にも善き事なし””世に晒す事に大儀なし”と戒められて来たのです。

これでは ”「清・静・正」だけで「動・活」が無いのか”と云うと、そうではないのかと云うと、”「清・静・正」の中に「動・活」があるのだ。”と説いていて、 ”「動・活」の中に真の「清・静・正」はない。”としているのです。この「真」と云う言葉に意味を持っています。
然し、”これも「善」とすればそれも善し”と説いているのです。と云う事は、それも ”その者の立場(氏家柄の如何)に関わる事柄”とあって、”その咎は自らが負う。”と結んでいます。

特記
「河内源氏」は、この”「動・活」の中の「清・静・正」。”を採った事に成ります。然し、”その者の立場(氏家柄の如何)に関わる事柄”とありますから、「河内源氏」は分家の立場にあるとしても、少なくとも「嵯峨期の詔勅の賜姓族」でありますから、「2つの青木氏」から観れば間違っていた事に成ります。
「満仲への怨嗟」や「義家への私闘・叱責」や「頼朝への軋轢」の政権側からの結論から観れば、「2つの青木氏」と同じ見解を当時は持っていた事を物語ります。
史実は、「源平の覇権争い」と成っていますが、実際は河内源氏の「頼朝の鎌倉幕府」が出来上がりますが2年後にトリカブトで毒殺され、一族は4年以内に全て抹殺されます。
通説では「源氏の幕府」とされていますが、青木氏側から観れば、行き詰まりにあった考えられます。
結局、利用されて滅亡の憂き目を受けたのですから、「真」の「清・静・正」では無かった事に成ります。
これは恐らくは「嵯峨期の賜姓の詔勅」は「経済的軽減の賜姓」のみにあった事を意味します。

「2つの青木氏]からすれば、”それでも朝臣族ではなかったのか”と、”「朝臣族]であるのなら賜姓如何に関らず、”「清・静・正」の中に「動・活」があるのだ。”と成る筈です。
この「戒言」はこの事を観ても、より子々孫々に伝える口伝としたのであると観られ、且つ又、「青木氏家訓10訓の精神」に成っているのです。
要は賜姓族の生き様は家訓に示すその一族をリードする「長の心得」で決るのです。

(参考 正直に若い時はこの意味が良く解らなかったし、逆の考えをしていた。青木氏を研究しだして次第に理解が進んだ。これは禅問答の域であるし、千利休の茶道の「侘、寂の極意」であろうし、「山川草木の枯れ山水の極意」であろう。)

兎にも角にも、これ以上(A〜G 第1〜第6)を与えられると、普通ではあり得ないし”「動・活」の中の「清・静・正」。”となるのは必定です。然しそれでは生き延びられないと誡めていたのです。
「朝臣族」で「賜姓族」であるとしても、最早、何れの「真人族」であろうとこれ以上の者はあり得ません。
あるとすると、それは「天皇」なのです。然し、「臣下族」であるのです。誡めに誡めなければ成りません。
然し、「国策氏としての宿命」として「真人族との融合化」を図らねば成らないのです。
この行為は上記の戒言からは矛盾です。
つまり、「真人族」にとっては、「賜姓族の朝臣族」(青木氏)であるとしても上記した様に実質は遥かに上位なのですから、上位(真人族)から下位(賜姓族)への血縁であっても「真人族から朝臣族への同族血縁の融合化」は正常なのです。皇族の慣習破りではないのです。

その証拠が一つあるのです。平安初期直前に「第6位皇子」の「伊勢王の施基皇子」の賜姓族の青木氏の嫡子(長男)である光仁天皇が誕生したのです。本来は「4世族内第6位皇子末裔」には「皇位継承権」はありません。
奈良期では大化期642年から始まった「女系天皇」が780年までの間に累代14代の天皇が生まれ、その内、重祚を含めて女系天皇7代も続いた事から、正規の「皇位継承者」は無く成り、歴史上唯一の「例外天皇」と成ったのです。
然し、ところが上記の通り実質例外ではないのです。どんな「皇位継承権者」でもこれ以上の家柄を持った「皇族の同族融合血縁族」の「皇族氏」は歴史上には出て来ません。
そして、この「賜姓伊勢青木氏」とタグを組む他の「4家4流皇族賜姓族」の青木氏は、「皇族の融合化」をも推し進めたのです。
この様な力の持った真に「皇族の副軸」と成った「賜姓族」に対して、つまり、その「皇族の統一融合族」の「血縁氏」と成った「青木氏」に、天智天皇から始まる歴代天皇は「皇祖神の子神」としてその責務を与え各地に「神明社」を建立させたのです。
その「象徴社」の「基点社」としたのが何とこの「最古の神明社」であったのです。
故に、神宮に相当する「遷宮社」85の一つなのです。
天智・天武天皇は上記の意味を込めて「遷宮社」でもある「最古の神明社」を以ってして「子神としての神明社」を先ずは世に強く宣言をしたのです。

(特記)
前段でも論じ前記でも論じたましたが、逆に、この勢力の持った「賜姓族」は、天皇を助け「皇親政治」の「親政族」としても活躍をしていたのですが、「賜姓族青木氏の象徴祖」の「光仁天皇」の子供の「桓武天皇」(青木氏の遠戚天皇)は、この「5家5流の皇族賜姓族」を「律令政治国家建設」を建前に排除し、「親政族」、即ち、[力を付けた賜姓族]は憂き目を受けたのです。
故に、「桓武天皇」はこの「青木氏」に代わり自らが「神明社建立」20を実行したのです。

とすると、”何故に父の実家の親族の伊勢青木氏に圧力を掛けたのか”と云う疑問です。
実家先だからこそ、”世に対して「律令政治国家建設」を宣言する”効果があって、且つ、逆の「親政政治」の主導者でもあった筆頭の実家先を追い落とす事で、天下にその姿勢・意思を強力に示したとも受け取れます。「律令政治国家建設」の為に”青木氏に犠牲を負って貰った”と成ります。
「実家先の親政族」をそのままにしておけば「律令国家建設実行」の民の印象は、””どっちにするのだ”と非難され低下し、「律令国家建設実行」を敷かなければ「国体の形成」は無く成り、「親政政治」を敷き続ける事になります。
「親政政治]≠「律令政治」と「青木氏」=「桓武天皇」の関係式論の柵からから起った宿命であって、「親政政治」≠「青木氏」≠「桓武天皇」であれば何の問題も無かった事に成ります。
「5家5流賜姓族」は、この時 ”身内から天皇が出た 更に発展するぞ” と喜ぶべきか、”最早、滅亡か衰退するぞ” と警戒すか、如何ばかりであったか想像すると先祖の生き様の様子が目に映ります。

筆者は、上記の様に、賜姓一族の「宗家主義」≠「子孫量」の大問題を抱えて苦悩している時に起った事件です。”これで解決するぞ” と一時思った瞬間に ”朝廷内の様子が変だ 争いが起こっているぞ” そして、”これは大変な事に成ったぞ 何とかしなくては” 反対派に八方手を尽くすが形成不利に成った。 
”生き延びる方法を考えなくては” と成って、”そうだ、「商い」だ 紙だ” と成ったと観ているのです。
”そうだ 隣りの帰化人の伊賀者に相談しよう” と云う本論で論じている経緯が起ったのです。
 
「8つ目の力」と「空白期間の意味」
この為に「3家の皇族賜姓族」は「8つ目の力」として生き延びる為に、下記の空白期間を利用して律令制度の中で「商いの基礎力」を培います。この「2足の草鞋策」は伊賀の「古代和紙の殖産」を採用したのです。そして、それを信濃と甲斐にもこの「古代和紙の殖産」を移したのです。

(参考 近江と美濃にも移植 和紙通では「近江和紙」は”トリノコ”の呼称で有名 「美濃和紙」は”ミノシ”で有名 近江・美濃和紙は平安末期衰退する。近江や美濃や信濃や甲斐の「古代和紙」の歴史には凡そ1000年とする記録がある。「古代和紙の伊賀和紙」1350年歴史とする記録と移殖時期と一致する。)

「近江」と「美濃」の2家は、「古代和紙の殖産」に同調するが、この平安期のこの時期には殖産するも「税」として扱う程度で、本格的に追随(商い)しなかったのです。

衰退の原因が「排除軋轢」とすれば、「桓武天皇20年後没」(806年)頃で賜姓青木氏は復興する筈であったのですが、その後、「賜姓青木氏」に代わって勢力を持った「賜姓源氏」(嵯峨天皇の政策方針・詔勅)が台頭し、難しく成ったのです。
その間、「神明社の建立」は止まり、期待していた代わりの11代の多くの「賜姓源氏」も「真人族化」し非力であり、前段でも論じた様に、挙句は神明社を建立せずに成長したと思った清和源氏(876年没)の河内源氏が「八幡社の建立」(国家鎮魂から武神に)の方向へと荘園制を利用して勝手に走ってしまったのです。(「私闘」と「公闘」の差)
朝廷としては「賜姓青木氏」に代えての「賜姓源氏」がとんだ思惑違いであった事に成ります。

(特記 「摂津源氏」の宗家に対して「国家鎮魂の荒廃した八幡社の修復」を命ずるが進まず。全ての面での「修復能力」は無かったと考えられる。)

「3つの発祥源」ではなく「賜姓族の本質」を忘れ「武の勢力」に走った事に成ります。これが、蘇れなかった「空白期間の原因−1」であります。

(特記 「八幡社」は豊前国の宇佐郡の「神祇信仰」(860年頃)から始まり、その後、奈良に移り、奈良では朝廷に取り入れられ、本来「国家鎮魂の神」として崇められたのです。(神仏習合)
これが後に「河内源氏」(義家の頃1106年没)の守護神となり、その荘園制による名義氏「未勘氏族」に依って「武の神」として換えられてしまったのです。
その後、賜姓有無に関らず源氏は復興し始めた頃(1125年代頃)の「5家5流の賜姓族青木氏」に跡目を入れた。)

(特記 数少なくなった荒廃した「国家鎮魂の八幡社」を朝廷は憂い「摂津源氏」に命じて修復させ、この「摂津源氏」の赴任先のこの「融合血縁族」でもある「神明族の皇族賜姓信濃青木氏」に「国家鎮魂の八幡社の神官職」を依頼し務めた。その後、「摂津清和源氏」衰退で「国家鎮魂の八幡社修復計画」も消滅した。経済力も然る事ながら、寺社建設の匠の職能集団も持っていなかった。特別賜姓族は一門の中に建設工事を専門とする工頭の結城氏が居た。)

しかし、その後、再び全国に「神明社」を建立する役目を更に遂行させる「政治的状況」が強く成ったのです。これを憂いた「円融天皇(984年没)の政治的な裁断」で「特別賜姓族」(970年頃)を発祥させて「皇族賜姓青木氏」を支えさせて再び引き上げます。
且つ、「2足の草鞋策」(1025年頃)で勢力を盛り返し始めるまでの間、衰退(786年)から動きだしまで(880年頃)には100年程度を経過したのです。
「特別賜姓族の援護」を得て少なくとも「元の勢力」(「7つの権威力」の程度)に戻るまでには年数としては、累計約200年(970年)を経過した事に成ります。

その上記した「7つの勢力」と「平安中期以降との衰退落差」は激しいものがあった事が判り、「桓武天皇(806年没)の青木氏締め出し」がどれほど厳しいものであったかは判ります。
その「締め出し策」は、その後の復興を勘案すると、E「親衛隊最高指揮官の軍事力」とF「58万石の経済的背景」を外された事の為に起った「経済的な締め出し」であった事が判ります。
これが「空白期間の原因−2」であります。
(返ってこれが立ち直りの起爆剤と成り「商い変革」を起した。)

「伊勢青木氏」と同様に「他の皇族賜姓族」も同じ仕打ちを受けたのです。
後の「5つの勢力」は「永代」であった事から外す事は出来ず、依然、その後も生かされていた事が記録から判ります。(上記)

(特記 その後の賜姓伊勢青木氏の祖先の官職名には室町末期まで(右衛門)・左衛門・兵衛・民部が付いている。永代官職名であったからである。「特別賜姓族伊勢青木氏」にも付いている。)

実は、筆者は「衰退期間 空白期間100年(786−880年)」は本来であるのなら長過ぎると考えていて、「皇族賜姓族」の中には、特に衰退中は「伊勢青木氏」の中にはこれを指揮するだけの「長の能力」と「職人数などの建設能力」に欠けていたとも見て居るのです。
せいぜい「桓武天皇20年後」の「第2期の親政政治」を採用した「嵯峨天皇」に代わってから20年程度で戻せる筈で、残りの50年程度は「経済力の低下」を含めて「賜姓青木氏側」にもこの「2つの問題」があったと考えられます。これが「空白期間の原因−3」であります。

実は、この「衰退期間」、或いは、「空白期間」100年の「後半の50年程度」の期間の「神明社建立」の記録が殆ど発見できないのです。「八幡社の時期」(1030年頃)でもありません。
その後の100年後の「後の50年の範囲」(150年)では、徐々に発見できるのですが、調査の神明社記録から100年−1社/15年程度(凡そ社数5社程度弱 維持管理か)での創建年数しか発見出来ないのです。(維持管理する程度の能力が限界か)
この時期は「紙文化」までの切り替え時期でもあった事から、先ず「紙文化」に大きく左右されていた事が覗えます。つまり「復興する基盤」が未だ充分に成熟していなかったのです。
”梃子と成るまでには「紙文化」は成熟していなかったか、文化に対応する「殖産能力」が未だ完成していなかったか”の何れかであります。筆者は両方であると観ています。
これが「空白期間の原因−4」であります。

この間は「青木氏の世代数」としては2代程度に成り、この間、「皇族賜姓族」から立場を変えて急に「商い」をする訳ですから、「2足の草鞋策」を遂行するだけの「商い能力」(「長としての商いの器量」 試行錯誤・孤軍奮闘の時期)が充分ではなかった事も伺えます。
当然に「大商い」とするだけの「紙の殖産態勢」の成熟が「伊勢と信濃」に於いて間に合わなかった事が覗えます。これが「空白期間の原因−5」であります。

「商い」に伴なう態勢の内、「輸送力とそれを護る態勢の構築」にも時間が掛かった事が覗えます。
つまり「シンジケートの構築」であります。これが最も時間が掛かったのではないかと考えられます。直ぐに構築しょうとしても出来る組織ではありません。
それには、まずそれを支えるには「充分な財力」と「シンジケート構成要員」が必要です。
この「2つの条件」と「時代の環境変化」とのマッチングが合わない事には構築する事は出来ない筈です。その「時代環境の充実」と「充分な財力」と「大量殖産態勢の構築」の「大商いの3つの条件」が合致してこそ「シンジケート構築」(嵯峨期の賜姓詔勅のリスク)が出来るのです。
財力が伴なうに連れて嵯峨期より少しづつ構築して行ったのです。(退避地の構築と維持管理等も伴なう)
「空白期間の原因」の内で最大に時間が掛かり難しい問題です。これが「空白期間の原因−6」であります。

確証出来る幾つかの資料の記録からはこの様な原因を読み取る事が出来ます。
何にしても”「100年の復興」は長過ぎた”と本来では考えますが、考え方に依れば、この「6つの空白期間の原因」からすると「未来の子々孫々の形」から考えればむしろ短いとも取れます。
考察してみますと、そもそも、この「100年の期間」の「当時の商い方法」は、未だ時代的に「殖産量産態勢」(一貫生産販売態勢)と云う形は青木氏が初めての記録ではないかと観ています。
現在で云う「総合商社」であったのです。それまでは「部制度による生産と市場経済」(計画生産と残余放出市場)であったのですから、「殖産−量産−販売の態勢化」は当時の社会の別の「新システム」であったのです。それだけに時間が掛かります。
恐らくは、「商い」を得て賜姓族を復興させるには普通の「商いの仕方」では賜姓族に与えられた「国策の責務」を遂行する事は不可能です。そのために考え試行し一つの形に確立させるには相当な時間が掛かります。この「商いの革命」とまで云える事が本来の考え方ではなく完成までの200年は短いと考えているのです。上記で”本来であれば”とした事は、”長くは無く短かった”のです。
当時としては、恐らくは、「殖産−量産−販売の態勢化」は発想外の「商いシステム」で社会の体制の全体が現在の様にその様に成っていないのです。取分け、「商いの安全」と云う面で考慮すれば雲泥の差で「不可能」の結論が出る筈です。
次第に「嵯峨期の賜姓詔勅リスク」を果す中で、この「シンジケート策」の「商いとの連動」を模索し確立させたのだと考えられます。シンジケートを確立させるだけでも「至難の業」であります。
それを成し遂げ、遂にはその新しい画期的な「殖産−量産−販売の態勢化」の「商い」に連動させると云う考えられない「離れ業」を成し遂げたのです。
そして、それに加えて、「総合商社的な大商い」に改革を進めたのです。

(特記 伊勢青木氏の記録に遺されている。この為に「海陸の運送改革」も実行されている。千石船3隻と瀬戸内の海鮮業と廻船問屋を営む讃岐青木氏との連携を構築する。)

「寺社建築」と「紙」を主としますが、記録によるとそれに伴なう関連品、火薬、武器、家具、骨董、絵画、食料、材木、建築材、リサイクル品、花火などの商品と「手配師」(口入業 青木氏が抱える職能集団の手配)をも扱っていた事が資料から判ります。「商い」の始めは神明社建設に伴う関連品と紙を主体としていたのですが、徐々に間口を広げていった事が判ります。真に貿易も行う「総合商社」でした。

(参考 因みに、中には面白いものとして資料から、”元禄の浅野家開城の際に瀬戸内に船を廻し、千石船三艘を出して、浅野家家財を買い取った”とする記録が遺されています。廻船業の讃岐青木氏の協力を得た。)

この後半の成熟期の頃の1160年代に隣の伊賀の「たいら族の清盛」が「宗貿易」を「瀬戸内の産物」で構築して巨万の富を得ています。
この事から、この時期には青木氏は「2足の草鞋策」(1125年 青木氏の記録)には既に成功している時ですから、清盛(1181年没)は隣りの伊賀和紙で繋がるこの青木氏からこの商法を間違い無く学んだと観ているのです。

(特記)
「伊賀和紙」は「清盛の実家」の産物でこれを扱うのは「青木氏」、和紙を作るのは阿多倍の職人伊賀人、伊賀は大化期に阿多倍に与えた「伊勢の半国割譲地」、「530年来の隣の住人」、「伊勢青木氏の跡目京綱」から「以仁王の乱」の兄弟の「源の有綱と宗綱の助命嘆願」に応じた事等の関係から、間違い無く、「青木氏の商い」を間違い無く学んだ筈で間近に観ていた筈です。これを「平清盛」は「源の義経」に教えたとする記録もあるのです。

(参考 摂津源氏四家宗家三位源頼政の子仲綱の子の有綱、宗綱は日向に配流 その配流孫は日向青木氏 伊勢青木氏京綱と兄弟)

この特記の史実からしても、凡そ「1025年」を境に「前半150年の復興期」と「後半の150年の成熟期」とに別けられます。そして、「前半の200年頃が衰退空白期」、「後半の200年頃が絶頂期」と成ります。

「200年」は「特別賜姓族」の援護を受け「紙文化」の進行で上記の6つの原因が解決され「2足の草鞋策」が軌道に乗り、「神明社建立(4社/5年)」を再び続けられる能力を復帰させた時期を意味します。
この期間と時期は納得出来るのです。その意味で、この「2足の草鞋策」がEとFを補った事から復興し、Eの力は無くしたものの「円融天皇」により再び本領安堵され、それをベースにこのFの数倍に代わる力を保持した事に依ります。
Eの力はその後、平安末期後の時代の変化と共に必要としなく成ったのです。
むしろ、必要としなく成った事の方が、「皇族賜姓族」に執っては幸いしたと云えるのです。
反って、「6つの問題」を解決し「子々孫々の形」が充分に整えられ、その結果、「生き様」に余裕が出てたのです。
そして、その「生き様の形」が「武」の勢力を捨て「和」の勢力へと「生き様」を完全に切り替えする機会を得た事に成ります。
それがあらゆる面での負担減と成り、それが益々「2足の草鞋策」を推進する「足場」と成ったのです。そしてこれ等の基盤が平安期を越えて「神明社建立」と云う形で室町期まで続いたのです。
これ等全ては、まさしく「特別賜姓族の援護」を得た事に因るのです。
そして、それを裁断した「円融天皇」の御蔭であると云えます。
これで平安末期以降の「新時代の神明社建立の責務」に邁進出来たのです。
この「神明社建立」が「民の賛同」を得て「氏上様、御師、総師」と崇められ、それが「青木氏の態勢」を勇気付けさせたのです。
この状態は明治35年まで続いたのです。

(参考 その後、室町期の混乱期を経て、「神明系5社」は江戸幕府の財産として引き継がれ、青木氏の浄土宗寺の保全」と「浄土宗督奨令」と共に、寛永の頃から神明系5社の「復元修復作業」が幕末まで続いたのです。)
(伊勢松阪の大火で出火元 全財産をなげうって賠償 菩提寺も焼失 この時点で「伊勢青木氏」の分家が大阪で紙商(現存)を営み、「信濃青木氏」(現存)も商いを縮小した事が記述されているのです。信濃青木氏とは明治35年を境に親交関係は途絶える。)

これ等は重複して何度も前段でも論じて来ましたが、この「最古の神明社」は現在の「滋賀県湖南市三雲」に存在しますが、この「最古の神明社」の持つ意味は青木氏そのものの始まりなのです。青木氏の象徴なのです。
その「青木氏」は冒頭の「基本デ−タ1」と「基本データ2」から始まったのです。
当時(平安期)の「皇族関係者の同族血縁慣習」に基づいて「副軸」として「氏家」は構築されて来たのです。
この様に「最古の神明社」と云う視点から其処から伸びる枝葉を改めて論じてみました。
現在も研究を続けていますが、なかなか難しくとりわけ資料の発見が個人情報の法的枠が働き困難と成っています。
本論の22までの中で更に巾を広げて研究しなくては成らない事がありましたが、青木氏に関する子孫に遺す事の出来る研究範囲は、”最早、この辺が限界かな”と感じています。
後は本段の様に、「存在する資料」に対して「別の視点」からの考察に成るのでは無いかと観ています。


参考資料等
日本書紀 古事記、六国史、氏族志、新撰姓氏録、尊卑分脈、寛永諸家系図、伝諸家系図纂、寛政重修諸家譜、中臣氏系譜、武蔵7党系図、大日本史、累聚三大格、 他20史録と地方史録と外国の研究資料、五大歴史小説家の資料と論文、伊勢青木氏信濃青木氏等の資料と添書と口伝、佐々木氏研究資料、国史資料等、 並びに関係協力者の知識と多くの資料と雑学の提供

  [青木氏の守護神(神明社)]  完



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