青木氏氏 研究室
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  [No.292] Re: 伊勢青木家 家訓10
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/04/30(Tue) 11:13:31

伊勢青木氏の家訓10訓

以下に夫々にその持つ「戒め」の意味するところを説明する。

家訓1 夫は夫足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。
家訓3 主は正しき行為を導く為、「三相」を得て成せ。(人、時、場)
家訓4 自らの「深層」の心理を悟るべし。(性の定)
家訓5 自らは「人」を見て「実相」を知るべし。(人を見て法を説け)
家訓6 自らの「教養」を培かうべし。(教の育 教の養)
家訓7 自らの「執着」を捨てるべし。(色即是空 空即是色)
家訓8 全てに於いて「創造」を忘れべからず。(技の術 技の能)
家訓9 自らの「煩悩」に勝るべし。(4つの煩)
家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

>家訓1は「夫婦の戒め」
>家訓2は「親子の戒め」
>家訓3は「行動の戒め」
>家訓4は「性(さが)の戒め」
>家訓5は「対人の戒め」
>家訓6は「人間形成の戒め」(長の戒め)
>家訓7は「品格の戒め」
>家訓8は「知識経験の戒め」
>家訓9は「和武の戒め」


>家訓10 人生は子孫を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に有らず。

さて、最後の戒めの「家訓10訓」(刹那の戒め)である。

この家訓に付いては、「家訓9」(和武の戒め)で一部触れた。
「家訓9」では、そもそも、”「拘る事」が「煩悩」の始まりだ”と云う事であった。
つまりは、「拘る」=「我 執」である。
「青木氏の古代密教の教え」では ”「煩悩」はあって良い。それに必要以上に縛られて「拘る事」に意味が無い。”と解いている事に成る。
そうすると、「現世の本質」とは、それは「現世」(この世)では、「煩悩」とは、 ”「人」としての「煩悩から起る喜怒哀楽」と云う事に成る”と説いた。

>「煩悩」=「現世の喜怒哀楽」
これを突き詰めれば、次ぎの様に成る。
「人」がこの「現世」(うつせ)から「彼世」(かのせ)に移る時に「現世」に遺されたものは、その個人としての「喜怒哀楽」の「過去の思い出」以外には無く、「個人の肉体」は焼却される事で「喜怒哀楽の過去の思い出」(煩悩の発露)は ”何も無く成る”を意味する。
つまり、その「個人の煩悩」は、”現世では無く成る事”を意味する。
故に、”「現世」から「彼世」に移る事は、「空」による移動にしか無い”とも受け取れる。
只、然し、此処で「万能の神」は、その「現世での証し」として、「人」つまり「子孫」を分身として遺す事を定めて、”現世と彼世の断絶”を ”[(色と空)即ち(白と黒)の摂理]”により無くした事に成る。そして、「分身の煩悩」が新たに生まれ遺される事にした事に成る。
これが ”「現世」から「彼世」の「移動」は、「断絶」では無く「継続」である”とした「青木氏の古代密教の教義」であった。

「阿弥陀仏の説」(青木氏の密教仏説)
「仏」の上位にある「神」は、”この「現世−彼世」(色と空 白と黒)には「繋がり」として絶える事の無い「分身」を置いた事に成る” と解いて、全体の論理性を仏説として用いた事に成る。
そして、この仏説の「分身の部分」は、「人の変化(へんげ)」の「仏」では無く、それを「仏」が云うのでは無く、上位の「神の仕儀」と説いた。
確かに、この「分身」無くして「現世と彼世」は断絶して「仏説の論理性」が崩れる。
だから、”「我が身」の「次ぎの分身」が「現世」に遺すのであるのだから、其処には「前の煩悩(喜怒哀楽)」は消え失せて、「分身の新しい煩悩の喜怒哀楽」が生まれる。要は何も変わっていないのだ。だから、事を事更に拘るな” と説いている事に成る。
結局は、「神」が云うのは、”拘るな 分身に任せよ”と成るのであろう。
これがまさしく「浄土宗の阿弥陀仏」を信心する「青木氏の古代密教の仏説」と成るであろう。
確かに、この世に於いて、この説が納得出来る事がある。(家訓10の意)

それは、”孫が生まれた時のあの不思議な喜び” は、”子供が生まれた時の喜び”に対して比べものに成らない様な「異質な喜び、嬉しさ、安堵感」に似たものが込み上げて来るが、この上記した ”子孫分身を遺した”とする「本能的な動物の安堵感」の感動であろう。
つまり、これは「神」が動物に組み込んだ本能 、”拘るな 分身に任せよ”からの感動であろう。
その代わりに「神」は ”現世の最大の喜び”即ち、この”「安堵感」”を与えたのであろう。
この「安堵感」は、その個人の経験した「現世の喜怒哀楽」とは異質の比べ物に成らない「喜び」として与えたと考えられる。その「喜び」には「対価の背景」は無い。ただ”子孫を遺した”とする”対価の無い””背景の無い”清らかな「喜び」を与えたのであろう。

故に、現世の「人生の最終目的」は ”分身を遺す事に一義あり、「喜怒哀楽」に無い。”として考え、”「喜怒哀楽」に無い”とするならば、そもそも、”「喜怒哀楽」から生まれる「煩悩」には必要以上に拘るな”と成る。
況や、”拘るな 先ず分身を遺し、分身に任せよ”とする説に成る。
故に、”分身を遺す事で全ては解決する”と解いている事に成る。
この「本能に組み込まれた達成感(安堵感)」が孫を見て噴出すのである。これが「異質な喜び、嬉しさ、安堵感」と成って込み上げて来るのである。
結局、これを突き詰めれば、問題は、人生に於いて、「人生観」を ”分身を遺す事に主義を置くか、「喜怒哀楽」に主義を置くか”の差の問題である事に成る。
それに依って、その人の「価値観」は変わるし、「人生観」も変わる。どちらを選ぶかに関わる。
然し、「青木氏の古代密教派の教え」は、 ”分身を遺す事に主義を置く”と説いている。

人生に於いて、「分身を遺す事」><「喜怒哀楽に置く」の関係式が成立つが、ここで、「古代密教」の仏教は「刹那主義」として、「分身を遺す事」<「喜怒哀楽に置く」の関係式を戒めている。
然し、「分身を遺す事」に全てを傾ける事は不可能であり、それはまさしく「拘り」である。
”「拘るな」”としている「古代密教の青木氏の仏説」である限り、必要以上に ”全てを傾ける事”は正しく無い事を意味する。
要するに、現世に生きている限りは、人は「喜怒哀楽」に左右される。
然し、可と云って「古代密教」では、”「分身を遺す事」<「喜怒哀楽に置く」であっては成らない” とし、”「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であるべきだ”と説いている事に成る。
>の不等号の持つ意味がこれを示唆している。

「刹那」の語意の通り、”今”に重点を置いた生き方は、「刹那主義」である。
”「今」を楽しむ そして、その「今」の連続を重ねる。そうすれば、最終は「安楽」に成るだろう” とする積み立ての「加算論」である。この「加算論」=「刹那主義」である事に成る。
”「人」はこの「刹那」に陥りやす「動物の思考原理」を持っている事が判るが、これでは、”「煩悩の連鎖の道」に陥る” としているのである。
つまり、「刹那」では、間違い無く「今」であるのだから「喜怒哀楽」に翻弄される。
翻弄されるから其処から逃れようとして「煩悩の芽」が吹き出す。そして、思うように成らない現世に於いて「煩悩の連鎖の輪廻」が起る事に成る。
故に、この「古代密教」では ”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”と説いているのだ。

(参考 筆者は、この「密教の教え 先祖の教え」にも充分に納得し、人生をこの論理で生きて来た。恐らくは1400年にも成る「悠久の歴史」を持つ「青木氏の累代の先祖」もこの教義に従ったからこそ、現在までに子孫を確実に遺し得たと観られる。極言すればこの「一点思考」に集約されると考えている。「喜怒哀楽の戒め」を物語る事として「伊勢青木氏の口伝」には「享楽の精神」と云う言葉で口癖の様に使われていたが、これも「密教の教え」として引き継がれて来たものであろう。全て口伝類はこの論理論調から生まれていると考えている。)

「一点思考の本論」(「3つの背景」)
ではどうすれば良いのかと成る。俗に云えば、”その割合はどの程度だ”と成るだろう。
そもそも、”「割合」は「拘りの初期発露」だから”、良くないとして、其処は、”人それぞれである。「人生の経験」で会得せよ。” とする「古代密教の仏説」(青木氏の教義 浄土宗系古代密教 家訓)ではしている。
この事は「密教の説法」である事の証しとして、「家訓8」でも戒めている。

以上が「家訓9」で先行して関連して論じ、ここにそれを改めて重複させてたが、「家訓10」を続けて論じる。

其処で、本論ではこれを更に掘り下げて論じる。
「青木氏の守護神(神明社)」(1−22段)で「青木氏の生き様」がどの様な考え方で創造されたかを網羅する事が出来た。そうしてもう一つの「生き様の根幹」と成ったのがこの「青木氏の家訓10訓」(1−10)であった事に成る。
真に、この「神仏の二つの考え方」が習合して「青木氏」即ち「青木氏の思考原理」を創り出したのである。

そもそも、この「家訓10」の ”子孫を遺す事に一義あり、喜怒哀楽にあらず”の「子孫を遺す事」には、”どの様な背景”が青木氏にあったのであろうか。それを先ず論じる。
それには次ぎの3つが考えられる。

背景1 人間を含む一切の生物の最大の本能である「子孫」を遺す事から起因している。
背景2 上記した「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」の「特異な立場」が起因している。
背景3 「神仏習合の思考原理」から起因している。

この「3つの背景」がこの「家訓10」を形成したと考えられるが、人間も自然の一物である事は間違い無いが、だとしたら、この事に依って判りきっている事であるのだから、何も家訓とする必要はない筈である。
つまり、”「上記1の起因の条理」に主体を置いていたのか”と云う疑問が残るが、そうでは無い事は直ぐに判る。

>「特異な立場」
では、「上記2の起因の条理」に付いて、この”「特異な立場」が「子孫云々」と成るのか”と云う事に成る。
この”青木氏に課せられた「特異な立場」”は、人間社会を構成する全て「事の起源(事の象徴)」である事を意味する。

>特記 「事の起源(事の象徴)」
「青木氏の守護神」や「家訓10訓」で論じた「武の象徴的立場」を此処では「事の起源(事の象徴)」と表現する。
同じ「賜姓族・朝臣族・臣下族」であり、「武の象徴」としての11累代から構成される「源氏」とは、「3つの発祥源」と「国策氏」と「融合氏」である「3つの立場」の存在が、同じ「賜姓族青木氏」とは異なる。
依って、「事の起源(事の象徴)」と表現しているのであって、この源氏等と異なるこの「3つの立場」(特異な立場)の違いは、上記する思考原理を大きく変えている事と成っている。
(源氏とは根本的な思考原理は異なる事に成る。それは、源氏発祥時の「嵯峨期の詔勅」に依って朝臣族の範囲を限定した事に因る。)
もとより、「官位官職」等の差もあるが、「2つの血縁青木氏」と「源氏」とには、”「青木氏」>「源氏」の関係式”が氏家制度の中では「慣習」としてあった。
この「慣習」は、原則、「明治3年」まで維持されいた事が「伊勢青木氏の資料」から判断出来る。

({嵯峨期の詔勅」で「青木氏の氏名使用」を「皇族関係者のみ」に永代に限定した。但し、皇族関係者ではない「秀郷一門」に対してのみ「特別賜姓族」として「青木氏の使用」とその一切の身分、家柄、官職、官位の「品位の資格」を与えた。)

因みに例として、既に論じた事ではあるが、理解を深めてもらう為に改めて記述すると、当時の最大権力者で為政者の徳川幕府・紀州藩初代から大正14年まで、その「上位の扱い」を受けていた事が「伊勢青木氏の記録と口伝類等で判っている。
(「藩主より上座の礼」等や、「藩主からの書状」や、「十二人扶持米の礼扶持給」等)
この事からも「事の起源・事の象徴」として区別して、本論をより正しく論じる必要がある為に敢えてこの語句を使用している。
「天皇家の国家の象徴」に対して大変非礼でおこがましいが、「武の象徴」であった過去の「特異な立場」をより本訓の為に”「事の起源(事の象徴)」”の語句を用いて以下も論じる。

>「青木氏の宿命」
この「事の起源(事の象徴)」の「青木氏の義務」を全うするには、論理的に付き詰めれば ”「子孫を遺す事」”が「最大の務め」、又は「目標」と成るだろう。
何故ならば、この「務め、目標」が仮に叶わなければ、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」の「特異な立場」は、「事物の起源と基点」が無く成る事に成るのであるから、必然的に「事の起源」なるものが霧消する。
「現世の事象」のみならず、物理で云えば「核」に相当するもので「自然の摂理」に於いても例外は無く、この全てこの条理が存在する。
依って、もともと霧消するものを「事の起源(事の象徴)」とはしない事に成る。
「事の起源(事の象徴)」とする以上は、永代に「事の起源(事の象徴)」であり続けねば意味を成さない。「3つの特異な立場」に依って発祥時より「青木氏」はこの宿命を負っているのである。

何故ならば、「家訓9」で論じた様に、そもそも「屯」を前提とした「人間社会」を構成する限りに於いて「起源と基点」は「絶対条件」である。(屯:たむろ)
「屯」もそもそも「基点」に類する。「動物」のみならず「一切の生物」はこの「自然の条理」に従っている例外の無い条理と成る。
因って、当然に、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」の「特異な立場」は、この「屯」に類する一つであるのだから、その「屯」の「基点」と成っている「氏」が、途中で霧消する事はあり得ない理である。
この「屯の原理」が働くこの現世の社会では、如何成る事が起ころうと「事の起源と基点」の役目を課せられている以上は、この具体的な務めとして「子孫を遺す事」は第1義と成るのである。
大化期から平安中期までは「青木氏の霧消」は、強いては最終は「天皇家の霧消」に結び付くと考えられていたのではないか。
その証拠に平安中期の「青木氏の衰退」から嵯峨期の「源氏の出現」は、この「事の起源(事の象徴)」の復元であったし、南北朝前には形骸化したけれど源氏は11代も発祥し続いた。
そして、「源氏形骸化」の後に「円融天皇」による「青木氏補完策」の「特別賜姓族の誕生」と成るのである。
あくまでも歴史は、「屯の原理」を護る為に ”「事の起源(事の象徴)」の復元”を図って絶対条件のこの条理を導いているのである。

故に、「家訓9」でも論じた様に、「子孫を遺す事」は絶対的な条理の「青木氏の宿命」であるのだ。
即ち、”青木氏の意思如何に依らない宿命”であるのだ。
この様に「青木氏の宿命」の「子孫を遺す事」は、他氏の「氏」を継承する目的の単純な「子孫を遺す事」とは全く意味が違うのである。
”「青木氏の子孫を遺す事」”は、「屯」を基盤とする人間社会を構成する「象徴的な目的」を持っているのである。
この条理の働く「現世の生物」には、「屯性に強弱」はあるが、取分け、人間社会の中のこの「7つの融合単一民族」の日本の中では、「融合」に依って形成されている以上は「屯性」は極めて強い事が判る。
況や、そこで、「融合」=「屯性」の完全な数式論が生まれる。
因って、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」の「特異な立場」の「青木氏の宿命」の「子孫を遺す事」の意味は格別なものを持っているのだ。
決して、先ずはこれで「上記1の起因の条理」だけではない事が判る。
とすると、「上記2の起因の条理」の追求は、結果として、「上記3の起因」が「家訓9」で論じた様に「屯性」を極める為、且つ、「上記3の起因」が「屯性」を高める為に発露されたものであって、これを補完している事に筋道として成るのである。

”背景3 「神仏習合の思考原理」から起因している。”とするこの上記の「背景3の起因」はまさしく「准条理」と云えるであろう。
何故ならば、「家訓9」で論じた様に、「神仏習合」の結果に依って「青木氏の密教の考え方」が構成されているのであるから、又、その考え方が「家訓10」の ”子孫を遺す事一義あり”を側面から補足補完しているとすると、「家訓10」を条理とすると「准条理」と位置付けられる。
故に、「家訓9」では「和武の戒め」として、「3つの発祥源」の「武の象徴」でありながらも「武の精神」を採れない立場にあり、「禁じ手の商い」による「和の精神」を構築せざるを得なかったのである。
この「神仏習合の考え方」が「准条理」の位置付けと成る以上は、「武の精神」ではあり得ない事が理解できる。そこで、「武」に付いて先ず論じる。

>「武の精神」
そもそも「武の精神」は、「武」である限りその立場を保てば、「武」を以って事の解決に当る事に成る。
そうすれば「戦い」を否定出来ず、より「子孫存続の危険性」は高まり、”子孫を遺す事の一義”を完全に全うする事の可能性が低く成るからである。
如何なる事があっても「屯」を構成する社会の「特異な立場」にある限りは、「子孫を遺す事の一義」は絶対なのである。
可と云って、「和の精神」だけではこの「絶対の子孫を遺す事の一義」は保てない。
「和」であるからと云って、”他から「武」で攻めらない”とする保証は全く無く、自らが「武」を以って他を攻める事は勿論無いにしても、この保証を自らが「和」で担保しなくては成らないのである。
「武の象徴」でありながら「和」で以って担保しなければ成らない矛盾を孕んでいるのである。

つまり、「特異な立場」とは単純に「特異」とするものでは無く、「矛盾」を持った「究極の立場」にある「特異な立場」なのである。
これは、氏家制度の中で「融合氏」が多く居れども、又”日本広し”と云えども、唯一「青木氏」にのみ課せられた一般に理解され難い「究極の立場」と云える。
然し、この「担保」の為にあからさまに「武の手段」を以ってしては出来ず、「抑止力」と云う手段を酷使しなければ成らないのである。(抑止力付いては{青木氏の守護神]で論じた)
例え、この「担保」の為に「武の象徴」の「親の象徴」である「天皇家」から「不入不倫の権」を与えられている「唯一の氏」であるとしても、あくまでもそれはただの「象徴の権威」であって、他氏がそれの「権威」を認めなければ何の意味も持たないものである。
この場合には、「不入不倫の権」は、他氏の青木氏に対する「信頼と尊厳」が裏打ちされている事が前提と成る。
然し、そもそも、その「信頼と尊厳」は、通常は決して「武」に因って裏打ちされるものでは無く、「和」に依って得られるものである。
然し、その「和」も「商い」だけで得られると云う決して生易しい前提では無く、むしろ、「青木氏の特異な立場」に執っては「商い」は「禁じ手」でもあるのだ。
「武」であって「和」の「道理の矛盾」と、「和」であって「禁じ手」とするこれも、あからさまに究極の「道理の矛盾」である。

では、この2つの”「究極の道理の矛盾」をどのようにして解決するか”と云う難題が横たわる。
これを解決するには、”他氏からの「信頼と尊厳」はどのようにして獲得されるのであろうか”と成る。
それは「上記3の起因」、即ち、「神仏習合の理念・考え方」と「その立場と生き様」に依って得られるものであった。決して、血なまぐさい「武に依る生き様」ではなかったのである。
故に、「上記2の起因の条理」の追求には、この「上記3の起因」の「准条理」が必要条件であったのだ。

(注意 「武の象徴で和」の「生き様」は、次ぎの投稿予定の「伝統品シリーズ」でこの辺を明確にする)

それは次ぎの数式論で表される。
>「1の起因」+[「2の起因」+「3の起因」(准条理)]=「信頼と尊厳」=「和の条理」
>「和の条理」=「禁じ手」=「絶対的な順手」←「道理の矛盾」

>「和の手段」
そして、「和」の禁じ手の「商い」はこの「准条理」を「下支えする手段」であって、直接的な「和の手段」では無いのである。
「禁じ手」でありながらも、これ以外に上記する「青木氏の和」(「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」)を達成させられる「合理的な手段」は無く、依って「絶対的な順手」でもあったのである。
「武の象徴」でありながらも、「和の精神と立場と生き様」を絶対的に守らなければ成らない事の「道理の矛盾」と同じく、「和の商いも禁じ手」でありながらも、「子孫を遺す事の一義」、即ち、”「信頼と尊厳」を守る為には、「絶対的な順手」でもある”と云うこれまた「道理の矛盾」を孕んでいたのである。
(3つの「道理の矛盾」と成る)
「家訓添書」には、この「家訓10」(刹那の戒め)に対しては、”「道理の矛盾」”とは明確に説明してはいないが、”この「現世の道理」には、何も全ての「道理」は全く「矛盾」を孕んでいない”とする「完全無欠論」では無く、”この「矛盾する道理」も存在するのだ” とする説を「青木氏の古代密教」として説いている様に読み取れる。
これこそが”「拘るな」”の教えであろう。

>「道理の矛盾」=「子孫を遺す事の一義」→「青木氏の古代密教の教示」←「拘るな」
>「道理の矛盾」=「武の象徴」><「和の精神」
>「道理の矛盾」→「禁じ手」=「和の商い」+「信頼と尊厳」=「絶対的な順手」

「道理の矛盾」(究極の立場)
「青木氏に課せられた究極の特異な立場」の様な事がこの「現世」には時には存在する。
その時、「完全無欠だけの考え方」に拘泥すれば事は成し得ない事が起る。
そのままの「完全無欠の考え方」では「喜怒哀楽」に左右され、苛まれて遂には「煩悩」は発露する。
その「煩悩」を排除するには「智慧」である。その「智慧」は ”「拘り」”からはその「善なる智慧」は生まれない。
そこにこそ「無意識」の中の「善なる智慧」から生まれた”許された「道理の矛盾」”が存在し得る。
”この究極の「道理の矛盾」を悟れ。!” と「家訓10の解決策」を読み取るには、「家訓9の教え」を以って解釈すればでこの様に成るだろう。
「先祖の意思と教え」とする「家訓10訓の添書」はこの事を暗示させているのであろう。
この事そのものを添書で直に教示してしまえば、”それは文書から得た「単なる知識」に終り生きない。
つまり、「無意識の脳」で思考して得た ”「拘り」のない「悟り」” は「経験」を得て「知識」と成り得て生きる。”としているのであろう。真に、この事は「家訓8」に教示している事である。
況や、”善なる無意識から発露した「智慧」”は、「知識」+「経験」=「智慧」と成り得る。
故に、事細かに何も添書で述べる必要は無いのである。
先祖が教示する「神仏習合の考え方」から得た「家訓10訓」(1-10)を充分に理解し認識して後に ”拘りの無い「智慧」”で発露し、深層思考すれば、この「現世の諸事」は全てを解決し得る事を教示している事になるのである。(況や、「家訓9」の「ミトコンドリヤの無意識の智慧」である)

筆者は、これを「道理の矛盾」と呼んでいて、「家訓9」で論じた様に、これが「般若心経」の「色不異空 空不異色」「色即是空 空即是色」の「拘るなの心経」=「道理の矛盾」 と信じている。
この「道理の矛盾」こそが、「累代の先祖」が伝える「子孫を遺す事」(家訓10)、即ち「生き残る為の心経」であると観ている。

>「道理の矛盾」=「古代密教の教示」
>「道理の矛盾」=「子孫存続策」=「現世の心経」(拘るなの心経)=「青木氏の秘伝」=「家訓」

この「家訓10」に示す「道理の矛盾」で、「家訓1」から「家訓9」を考え直して観ると「真の意」(深意)を読み取る事が出来る。
これこそが「悠久の伝統」のある「古代密教」の教えを組み込んだ上記の数式論に成るだろう。
「家訓9」に続けてこの「家訓10」を最終に配置した深意がより判る。

>「教示の弱点」
では、何故に「道理の矛盾」としているかは、この「家訓10(刹那の戒め)」の「刹那の戒め」とした事で判る。
この現世に於いてこの「道理の矛盾」を唯一にして破壊するものが存在する。
それは”「喜怒哀楽」に拘る事”である。 即ち、「心理の弱点」である。
「道理の矛盾」は、究極の位置にあるが為に、この「現世の条理」として相対する「心理の弱点」には脆弱なのであろう。

>「道理の矛盾」←「和の達成」→「心理の弱点」

「家訓9」でも説いたが、「刹那」即ち、「現世の喜怒哀楽」に拘ると、”「煩悩」に苛まれる”事が起る。 そして、”「煩悩」に苛まれる”と「青木氏の特異な立場」を全うする事の確率を低下させ、強いては「子孫を遺す事」に支障を来たす事に成る。
従って、「古代密教の先祖の教え」は、”この脆弱さを克服させる為に「刹那の戒め」とした”と考えられる。
だが、然し、「現世の人間社会」に於いて完全に「喜怒哀楽」から離脱する事は不可能であり、”「喜怒哀楽」から離脱する事”に拘泥する事は、それこそが「密教の仏説」の「拘り」に至る。

そこで、ではどうすれば良いのかと云う事に成る。
「家訓9」と「本論の序」で記述した ”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”と説いている通りの「心経」を持つ事にあるだろう。
この「刹那の戒め」とは、この事を意味している。
つまり、要は ”「刹那」に捉われては成らない”としているのだ。
これは普通に考えれば、 ”刹那に捉われては成らない”とするのであれば比較的簡単である。
判りやすく云えば、次ぎの2つの「思考の視点」の通りであろう。

視点 A 「今」だけに「思考の視点」を置いて生きる姿勢を採るのか、
視点 B 「先」を強く観て「思考の視点」を置いて生きる姿勢を採るのか、
以上のA−Bの「2つの差」である。

一般的に云えば、この程度の事であれば、ある程度の「長としての資質」を持っていて、それを磨く事が出来ればその度量は獲得できるだろう。
但し、その資質も「論理主観の範囲」に於いて成し得る。
然れども、この「資質」とする前提は、この「長」として事を果せる「論理主観の持ち主」であるかどうかに関わるのだろう。
然し、多くの「人様」で構成する「組織」(氏)には、この「論理主観の強い持ち主」では無くては弱い論理主観者が多い「現世の人様」の中では、「感情主観論」が横行するはこの世の常である、
個々に異なる「感情主観論」を「組織」(氏)として一つの考え方に取り纏める事は、「至難の業」であり、先ずは不可能である。
ところが、そもそも「感情主観」では「喜怒哀楽」に左右されやすい傾向があり、「喜怒哀楽」に傾けば必然的に「刹那主義」に成り安い。
依って、多くの「人様」で構成される陣容の「組織」(氏)は「刹那主義」と成る。
この「刹那主義の組織」では、「3つの道理の矛盾」を持つ「特異な立場」の「青木氏の組織・氏」を保つ事は不可能である。従って、「論理思考の組織」が必要と成る。
この「刹那主義の組織」を「論理思考の組織」に切り替えて維持するには、そして、その「組織」(氏)を導く「長」には、「相当な資質」を持ち得ていなくては成らない理屈と成る。
当然に、”相当な理路整然として整理された「論理主観」とその「説得力」” を持ち得ていなくては成らない事に成る。

>「論理的主観的な資質」
この様にそもそも単に組織に対応するにも「長」には誰でもが持ち得ていない相当な「論理的主観的な資質」を要求される。
況して、何度も繰り返すが上記する「特異な立場」にある「青木氏」では尚更の事であり、相当な「論理主観の資質」を有する「長」で無くては務まらない事に成るのである。
因って、故に、「長の資質」は少なくとも”「感情主観」で起る「喜怒哀楽」”に左右される「刹那主義」の者では駄目なのである。
言わずもがな、これは「家訓4」(性の定)で論じている「訓戒」でもある。
いずれにしても”「長]は前者Aでは駄目だ”と云う事である。
もし、これだと結局のところ行き着く所は、”「子孫を遺す事」に行き着けない”という事に成ると説いている。
要するに、「子孫を遺す事」には極めて確実性が低下する事に成り、それを戒めている事になろう。
つまり、”「子孫を遺す事」は、簡単である様に観えて決してそう簡単ではない” と云いたいのであろう。
その前提は、上記する「特異な立場」の組織であるからであって、「氏家制度」の中で「古代密教」に立地した「特異な立場を持つ組織」を抱えていたからであろう。
この事から、世間が普通に考える程以上に、「青木氏」の者達は、「子孫を遺す事」と云う事が如何に難しい事であるかを知っていた。
「累代先祖の経験」(a)と、「神仏習合からの教え」(b)を「家訓」とし、それを事前に認識して得た知識」(c)と、其処から得られた「子孫の自らの経験」(d) も通して認識していた事が判る。
決して、家訓にある以上は「青木氏の者達」は、上記した”「刹那」に捉われては成らないとするのであれば比較的簡単”と云う様には考えていなかった事に成る。
普通の「平安期までに認証された氏」に比べて、「青木氏」は ”大変で異質で特異な立場” であって、「青木氏の者達」に課せられた負担は如何に大きく難しかった事が判る。

勿論、「主導する者達」だけでは無く「一族郎党」までがこの事を認識し、「一族郎党」が露頭に迷う事の無い様に、故に「長の資質」に付いても上記する「家訓の深意」に示す様な「長の高い能力」を要求していたと考えられる。
そして、自らもその「家訓10訓」を理解し率先して実践したと考えられる。
況や、「訓」に「戒」を添えて「長の心得」も併記したと観られる。
この事に依って「長」と「一族郎党」が「同じ訓戒」の中で生きて行く道筋を明示させたのであろう。
ここが「青木氏の特長」(「長と一族郎党の習合」)と云える処だ。
普通の「氏」であるのならその「長」は、「特別な立場」にあるから「長の心得」の様なものを作るであろう。然し、この「特異な立場」で「特別な立場」の「長」が、この「家訓の書式」にも「青木氏特有の繊細な配慮」が成されていたのである。
真にこれも「青木氏の神仏習合」と同じく「長と一族郎党の習合」であろう。
「青木氏」を語る時、諸事事如く見事にこの論調である。感嘆する程に見事である。
況や、「神仏習合」から発した「古代密教の教示」を「家訓10訓」に収め、其処から発する思考原理である事に成る。
これは「青木氏一族郎党」は如何に結束していたかを物語るものであるし、他氏では決して成し得ない仕儀であろう。
何故ならば、他氏には比べものにならない程に、青木氏には「和」に基づく「特異な立場」の「悠久の歴史」を持っているからである。

>「精神的負担」
然し、この状態を維持する事は容易い事ではない。そこには、逆に他氏には理解出来ない何かが伸し掛かっていた筈である。
では、”どの様に考えていたのか、又、何が負担として感じていたのか”と云う疑問が生まれる。
それは、”「武の象徴」でありながら「道理の矛盾」で生きなければ成らない「和」の「商い」で、生きる事が大きな「精神的な負担」と成っていたのでは”と推測している。
そもそも、それは「禁じ手の商い」の「禁じ手」とする「社会の慣習」にあったと観ていて、その「禁じ手」とする「慣習」の出所は、次ぎの2つの場合が考えられる。

出所1 「氏や民からの発言」なのか
出所2 「公家衆などからの発言」なのか
と云う事であろう。

この2つ場合に依っては ”「禁じ手」から来る青木氏の「精神的な負担」”は変わる。
「禁じ手の商い」を採用している「青木氏の行動如何」を批判するのは、後者の「公家衆などからの非難発言」であった筈で、「青木氏」のちょっとした行動や組織運営や発言がそれを捉えて「非難発言の根拠」に成り、それが当時の社会では ”子孫存続に大きく左右していた”と考えられる。
故に、「家訓10訓」で上記する「特異な立場」に支障を来たさない様に、一族を「古代密教の教え」の方に導き管理していたのであって、”それを主導する「長」は「普通の資質」の者では成立たなかった”と考えられるのです。
そうなれば「長の資質」があったとしても「青木氏の特異な立場の国策」を果す実力と、それ以外に「相当な精神力」が必要とする事に成る筈で、「公家衆」を相手にする以上は、 「繊細で戦略的な先見眼」 をも持ち合わせていなければ成らない事に成る。
その要求されるこの「精神力」は、「公家衆」を威圧する位の>「度量と人格」 をも持ち合わせていなければ成らない事に成る。
そうで無ければ彼の有名を馳せた「公家衆の知力」に左右されてしまう事に成り、「絶対的子孫存続」は当然に成し得ない事に成る。これは組織云々の以前の問題であろう。
”「公家衆」を威圧する位の「度量と人格」”とも成れば、先ず若い者では経験が左右する事である為に無理である。
つまり、「公家衆のあらゆる癖」を見抜き把握しておかねば成らない事に成るからだ。
そして、その読み取った癖から先手を打って「緻密で戦略的な先見眼」で読み取った策を抗する事で機先を制する事が出来る。
この「繰り返しの経験」に依って「公家衆」を威圧する事が出来る様に成り、恐れさせて「青木氏」に対するが姿勢が変わる事に成る。
それが可能に成らしめる「長」に対して、その時”「度量と人格」は備わった”と云われる事に成る。
これは青木氏の特有の「陰の力」、即ち、「抑止力」が必要である。
これも「武の力」に依らずに ”相手を警戒させ威圧する強い印象力” 即ち、「抑止力」である。
当然に、「シンジケート」に依る「抑止力」も加わって「公家衆」に威圧を与えて、「子孫存続」に不必要な負担を排除するのである。
これ等の印象が「青木氏の時の長」に加わり、更に、「緻密で戦略的な先見眼」を持つ「繊細な長」に、この「2つの抑止力」に依って「造り上げられた人物像」が加わり、結果として「他者」に「警戒心」を連想させて「別の人物像」が造り上げられるのである。
「公家衆」等には、これに依って ”優れた「大者」”と感じ取らせるのである。
これが「青木氏」に許された「和の戦略」 なのである。

>「特記 家訓の経緯」
経緯A
上記した様な背景を持つこの「青木氏の家訓」には実はすごい歴史を持っている事が判る。
そこで、敢えて此処で「青木氏の家訓の経緯」を述べて理解を更に深める。
「青木氏」の始祖の「施基皇子」は、「天智天皇」(父)と「天武天皇」(伯父)と「持統天皇」(妹)のこの「前3人の天皇」の歴史上希に観る「優秀な宰相」を務めた「淨大一位の最高軍略の司」であった。
(「淨大一位」は天皇に継ぐ位である。)
「前3人の天皇」には極めて信任厚く時の「皇太子」より立場、身分、官職は上であった人物で、故に、大化期の「始祖の様な人物像」を「伝統的な資質」として求めている事がこの経緯から判る。
ところで、この家訓(原型)の「長像」を作ったのは、「始祖の施基皇子」自らか、或いは、その後の数代後までの末裔の「長」が「施基皇子」を「模範人物」として「長の姿」をここに求めたのでは無いかと考えられる。
それには次ぎに述べるある程度の根拠がある。
「始祖施基皇子」の子の「光仁天皇」や孫の「桓武天皇」や曾孫の「嵯峨天皇」のこの「後3人の天皇」は、この「繊細な人物」であった事が歴史史実として判っていて、3人に夫々その様な「繊細な性格」での問題処理の仕方や事件を起こしている史実がある。
(遺された歌詞からも「繊細な性格」であった事が評価されている)
此処では詳しくは述べないが「豪の者」では無かった事がはっきりと判る。
(この時代の政局は豪の者では八方に敵を作って務まらなかった筈)
歴史学会では「平安初期の研究」が最近富みに進みその全容が解明されて来た。
そこでこの3人に付いて少し検証してみるが、明らかに「繊細な資質」の持ち主であった事が判る。
事程左様に、この同じ血筋を持つ「青木氏」にもこの血筋が流れていた事が予想が付く。
そして、”この様な人物像を模範にした” と考えられるが、其処で、「青木氏とその家訓」を知る上で次ぎの様な歴史上の史実を最低は知って置く必要がある。

経緯B
先ず「光仁天皇」(709-782)は,「施基皇子の嫡子」(8歳で父と死別)として生まれていながら「皇位継承外」(朝臣族で賜姓族で臣下族)でありながら、「色々な背景」から天皇に推された人物(61歳即位)である。その天皇に成るまでの間の「前53年間」と、天皇に成った「後11年間」は実に波乱に満ちた人生経緯を持っている事が判る。
先ず伊勢に居た「前53年間」に、伊勢北部の隣人伊賀人の「高野新笠」を夫人としている。
その夫人は、「薩摩大隈」に定住していた住人の「後漢阿多倍王」が、その功績により朝廷より伊勢北部を更に半国割譲を受けて移り住んだが、その「帰化人の孫娘」である。
恐らくは、「白壁王」として伊勢にいた時に「隣人の阿多倍王の孫娘」と知り合っていたのではないかと予想できる。
この「伊勢青木氏の嫡子」であって8歳の時に施基皇子の跡目を継いだ「白壁王」は、「賜姓族」で「朝臣族」の「臣下族」の王位外であるが、「4人の伊勢青木氏嗣子」の中で特別に「施基皇子」(永代品位の資格保持)の嫡子として継承した為に、この継承者「白壁王」は、「春日王」と共に2人は王位に任じられた。

(参考 4世族までが王位に任じられるが、この5世族の「春日王」は「栗隈王」と共に九州に赴任定住した。後に両王一族は同族血縁している。
「施基皇子」には「四左京人」と呼ばれる4人の娘が居た。この4娘は歌に優れていた。「万葉集」にも歌が選句されている有名な歌人達である。)

後の兄弟2人は兄が「光仁天皇」に成るに従って、例外的に「特別な新王」(770年)に任じられた。

(「親王」と期されている書籍もあるが、正しくは「新王」である。この年に亡父「施基皇子」に「御春日宮天皇・田原天皇」の称号を送る。この天皇称号授受には意味があった。下記)

この「光仁天皇(白壁王)」には、正妻の「聖武天皇」の「井上内親王」との間に出来た「他戸親王」が居た。
ところが、この「井上内親王」と「他戸親王」が「ただ一人の遺子で女系皇族血縁者」であった事からそれを根拠に特別に「光仁天皇」に成り得た人物である。
(「下記に経緯を詳細に論じる。)
その経歴は極めて波乱万丈に満ちた生き方をした。
”61歳で即位した事”や”愚者を装った事”等から成りたくて成った天皇では無く、政変続きで殆どの親王や皇位後継者に類する者が粛清されると云う「恐怖政治」の状況の中で、酒をのみ愚者を装って粛清の渦中から逃げようとした人物であった。歴史上有名な事件であった。
この為に、在位中に正妻の「井上内親王」やその子「他戸親王」の2人が暗殺されるなど悲惨な在位であった。
この様に、明らかに”愚者を装うほどの繊細な人物” で攻撃的な性格の持ち主では無かった事が判っている。

経緯C
この時代は激しい政変劇を繰り返していた時代環境であったので、周囲をよく見渡して繊細にして戦略的に生きなければ成らない社会環境であった。

(「近江令」や「善事撰集」の例に観る様に、「素養・修養・人格・度量の低下」の社会環境がこの時代にも解決されずにこれが原因となっていた証拠である。下記に論じる。)

この様な環境の中での僅かに遺された歌から観る人物像も繊細である。
この様な乱れた政界の中で、10年も上手く戦略的に立ち回った「繊細な人物」であった事が記録として遺されているが、「繊細な人物」、且つ、「長としての資質」を有する人物で無くてはこの在位期間を保てなかった筈である。
歴史的には、”始祖の「施基皇子」に似ての資質を持つ人物であった” と評されている。
その子の「桓武天皇」の「平安遷都の前後の波乱に満ちた行動」や「律令国家の完成と公布の時の態度」からその「繊細な性格的な事」が歴史学的に「平安初期の研究」で解明されている。
「桓武天皇」は有名な天皇であった事からその人物を語る史実や歌が多く遺されている。
「青木氏の守護神(神明社)」のところで論じたが、実家先の青木氏を排斥する等の繊細で辛い事を敢えてしてこれに堪えてする事をしながらも、自らが「青木氏の職務の神明社の建設」を代行して神明社20社も建設した繊細さが覗える。
「嵯峨天皇」も「平安初期の父の施政」に対して異論を持ち、父兄に対しても「身内の戦い」をしてでも「繊細な感覚」で「施政や社会の有り様」を見抜いた意見を持っていて、天皇後に成った時にそれの実現に向けて歴史上最も多くの繊細な政治的な行動を採った人物でもある。
この時の状況を歴史学的に「最近の研究」で解明されている。

(「青木氏」に変えて「第6位皇子」の賜姓を「源氏」にし、その「源氏」に対して「賜姓族と朝臣族と臣下族」「3族の格式」を限定して落として、同族としての「青木氏の優位性」を保った。)

矢張り、この研究から平安初期前後の「施基皇子の末裔3者」とも「繊細な感覚の持ち主」であった事が判る。歌も遺されているが繊細な歌調と評されている。

経緯D
この様な環境の中で、少なくとも、「嵯峨天皇」は、「青木氏」に変えて第6位皇子を朝臣族として「嵯峨源氏」を始めて賜姓した天皇であるとすると、この時、祖父の実家先の「伊勢青木氏」と「4家4流の賜姓族青木氏」は、それまでが「青木氏」であった賜姓が、急に「源氏」と変名され、詔勅でこれまでの「朝臣族の扱い」と違っていた事を非常に警戒した。
(「桓武天皇の仕打ち」もあり、更に自分達も「特異な立場」の務めを外されるのではないかと警戒した)
況して、「光仁天皇」から続く「政変粛清」の中であるとすると、その時の「青木氏一族」は「粛清の荒波」を受けてその存続をさえも危ぶむ事に必ず成っていた筈である。
当然に「律令国家建設」を目指した「桓武天皇」は、実家先の親族を含む「皇親政治の5家5流の青木氏」を排斥した事もあって、「嵯峨天皇」はその「危機感」から何とかして「5家5流の一族」を救い纏める必要に迫られていた筈である。

(青木氏だけは「3族の格式の限定」をそのままにして置くべきと考えた。だから、「青木氏の氏名」は使用の禁令を発し、皇族の者が下俗する際に用いる氏名と限定したのである。況や「皇族青木氏」の5氏である。)

「近江令」や「善事撰集」の目的が「素養・修養訓」であった様に、この様な粛清が連鎖的に起る事には、「皇族・貴族・高位族」に連なる者の「素養や人格」に常習的な「社会的問題」としてあった事に成る。
その為にも、この問題を解決すべく「青木氏」としては、その「特異の立場」を護る為に何か「統一した行動指針」なるものを敷いて、「護り本尊」の「生仏像様」の下に結束を強めたと考えられる。
この時、その「行動指針」と成るものを「施基皇子」が全国を歩き回って集め各地の「慣習や仕来りや掟」等を集約編集した「善事撰集」を原案としたと考えられる。
ただ、「公布中止」と成っていた100年後に「善事撰集」を突然に引っ張り出して原案とするには無理がある。この原案とするには其れなりの過程があった筈だ。

経緯E
その「善事撰集」にはこれ等を裏付けるはっきりとした経緯がある。それを先ず検証する。
始祖の「施基皇子」の大化期の時に「公布中止(689年)」と成ったが、「5家5流の賜姓族(青木氏一族)」には「施基皇子の善事撰集」を無駄にする事無く、「青木氏の末裔」には「賜姓族としての生き様」(特異な立場)に「参考」程度にする様に「施基皇子」に依って「青木氏一族」に配布されていた事が考えられる。
「善事撰集」は689年廃止で「施基皇子」716年没からこの間28年間があった。

この間に上記した様に、「素養・修養・人格・度量の低下の社会環境」があって、その為に苦労して作った「善事撰集」を放り投げて、28年間の充分時間があっても何もしなかった事は考え難く、又、「国策氏」などの「特別な立場」を持っている「青木氏」が ”知らん顔”は通らない事からも、既に一族のものとして配布されていた事が充分に考えられる。
それが「訓戒」までに至らないとしても、「慣習・仕来り・掟」等として参考程度の経緯があったと充分に考えられる。「参考か要領程度」のものであったと考えられる。
(状況証拠より「要領」と観ている)
普通に考えれば「素養・修養・人格・度量の低下の社会環境」の中で、何とかしようとして苦労して作った「施基皇子の善事撰集」を、「大化期3代天皇」の「宰相」として務めた程の優秀で賢い繊細な資質の持ち主の「施基皇子」自らや、その血筋を引いた「5家5流の一族」が、絶対に放置する事は先ず無かったと考えられる。
「純血血縁の同族血縁」を繰り返している一族としては、むしろ、「持統天皇の指示」もあり、背後で積極的に自信を持って「公布運動」を起こしていたと考えられる。

実は、この事に付いて「歴史上の経緯」で証明出来る根拠がある。
「日本書紀」の記述に、「天智天皇」「天智天武」「持統天皇」の「大化期3代天皇」の施政代行者として各地に発生する諸問題を「施基皇子」に解決させていた事が詳細に記述されている処から、その経験を活かして「最後の仕事」して「善事撰集」の「司」として編集を妹の「持統天皇」に命じられた経緯が記録されている。
(注意 「善事撰司」は「撰善言司」と表記するものもある。「撰善言集」や「善言撰集」の表現とするものもあるが、筆者は添書からその中の一つ「善事撰」が内容から相応しいとして選択している。)

実は、その皇族や貴族の高位族の子弟に対して、その「素養・修養書物」として編集したとされる「善事撰集」(689年)の「取り扱い」では、正式に法令化はされなかったが、この結果、その文脈から臣下した「賜姓族の青木氏」の「素養・修養書物」として「要領か参考」にした事が読み取れる。
この直前に「天智天皇」に依る「近江令」(671年)が公布されている事を考えると、この「善事撰集」の存在の意味合いが疑問視されるが、「近江令」との間で何かあった筈である。
「近江令」も評判は良くなかった事は判っている事から、それから10年しか経過していないのである。
2つ重ねて「類似の法令」を出す事は社会も変化していないし、同じ結果を招く事に成り考え難い。
実は、この「近江令」の「令」としての内容には疑問視されていて、実際に公布しているものの実行されたかは異論異説のあるところで、その原因は「民事内容」の「令」で「刑罰」の「律」の内容が含んでいなかった事から実効性は無かった事が一つ挙げられる事、もう一つは「令」の民事の内容が修養を中心とした内容であった事から、公布したものの「実行性と実効性」とに欠けていた事が法学の歴史学的研究で判っている。

経緯F
恐らくは、「持統天皇」は、この反省から更に内容を高める為に実際の各地の民の中から集めたものを「善事撰集」として編集して「実行性」と「実効性」のあるものに仕上げようとして編集さられたものであろう。
「善事撰集」は一応「素養・修養内容」とされているが、「天武天皇」の子供の学者「舎人親王」が編集した歴史書の「日本書紀」の中の文脈から推測すると、「慣習、仕来り、掟」の内容も含まれていて「律」に近い内容(慣習・仕来り・掟の類)も存在していた事が判る。(下記)

つまり、10年前に公布した「日本初の法令」とされる「近江令の欠陥」を修正して、「令と律」を含めた「法令の形」を整えようとした事が「抵抗と反発」を受けたと見られる。
皇族や貴族や高位族の者等から、”始めての事であった事から” 又、”人を律令で制御する”と云う風な事に、「法より人 石く薬」の考え方に染まっていた為に、 ”猛烈な「抵抗や反発」”を強く受けたと観られる。
”人を法令で制御する事”、”始めての経験である事”では、現世では、何時の世も”当然の成行きである事”ではある。
別の面で、この「抵抗や反発」の真因は、編集者が「施基皇子」の「臣下した賜姓族の朝臣族」であった事も原因していた事も考えられる。
それは上記した「素養・修養・人格・度量の低下の社会環境」の中で、「公家衆の性癖」(口煩い公家衆の「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」”)が大きく働いていたと考えられる。

そこで「抵抗、反発」「社会環境の低下」の原因と成った事が実は歴史史実としてあるのだ。
ただ単の「抵抗 反発」を受けた訳ではない。それならば朝廷は公布を中止する様な事は無い。
そんな事としていたら施策は何時までも実行出来ない。何時の世も利害などが働きある程度の反対はある。
当然に、他にも「公布中止」に至った「抵抗 反発」の大きな原因があった事に成る。
そもそも、この時代は「中国の思想」が色濃く反映していた時代であったが、この時期の中国には、次ぎの
>「古今善言」(南朝宋の范泰著-30)  と云う同じ様な法令訓例があった。(近江令の原案説がある。)
この「中国的な思考原理」が日本にも伝えられて大きな影響を受けていたのである。
つまり、この「書籍の発刊」から読める事は、中国でも同じ様に「法と人の問題」に就いて社会問題として議論に成っていた事を意味する。
だから発刊してそれが日本にも伝わったのであり、多くの皇族や貴族や高位族等に読まれたのである。
この「古今善言」(南朝宋の范泰著-30)が飛鳥−平安初期に入っている事が史実として確認されている。
ただ、中国の場合はその「考え方の思考原理」が少し異なっていた。
その中国でも振り返れば、「三国志の時代」の中でも、「劉備」が、国を興す理由としたのは、民の「素養・修養・人格・度量の低下の社会環境」を憂いての事であった。
”何故低下していたのか。”である。それは「中国」と云う「国の体質」から来ている。
中国では「三国志」の昔から ”法より人”とする同様の社会風潮の独特の問題があった。
現在でも「中国の思考原理」には、この”「法より人」「石は薬」”の「二つの考え方」が色濃く残っている。
我々に本人には理解され難い思考原理である。これが「中国の国民性」というものであろう。

経緯G
そもそも、中国は多くの民族から成り立っているが、その「民族の融合化」と云うものは起こっていないと云っても良い程度ある。
その原因は、”国土が広い”と云う事があって、「民族」が重なって生活をすると云う必要性がない事に因る。従って、「広大な国土」と「多くの民族」と云う事に成ると、統一した「法」で縛って統制する事は不可能である。
「一民族」の「広い国」の中は全て同族である。因って、同じ風習、同環境の中で育った者には考え方や感覚が慣習に依って統一化されている為に、「法」で縛って統制するよりは「人」で纏めて維持する方が国は安定する事に成る。
(中国の一民族の国は廻りを城壁で囲ってその中で民族が生活をする。その事に因って同習慣や同じ思考原理を統一させて人で統制する方式を採って来た。)
その為に最早、長い歴史の中で遺伝的な思考原理が各種の民族の中で、この「2つの共通する思考原理」が育ったのである。
然し、統一政権が代わる度に国境間で雑種が増えた。そして中にはその一部には逆の考え方をするものも増えて来たのであった。
中国の >”「法より人」「石は薬」” の考え方の中に、この影響で”「人より法」 「石は石 薬は薬」”の考え方が社会の中に蔓延って、社会問題と成っていた時期の事を物語る書籍の発刊であった。
その .>”「法より人」「石は薬」”の思考原理で書かれた「古今善言」 である。

然し、これに反して、日本人は世界に希に成る独特の「7つの単一融合民族」から成り立っている。
(他の幾つかの論文でも詳細に論じた。青木氏の守護神(神明社)」も参照)
「狭い国土と島国」の中で「7つの民族」を纏めるには「民族毎」に考え方が異なっていては国は統制出来ない。統制するには、先ず「民族」を「融合化」させて、一つにした考え方に集約する必要性が起る。
その「融合化」に依って、考え方が一つに成った事から統一した「法」で縛り統制する方法と成る。
その上での「人」の考え方に成る。(日本はこのプロセスを歩んだ。)
つまり、”「法より人」「石は薬」”よりは、 ”「人より法」「石は石」「薬は薬」”の思考原理が働く。
ところが、「法」で統制した国には「人」の「心」を纏める方策が必要である。
それが「皇祖神−子神−祖先神−神明社」であって、それを行うのは「青木氏」であって、「民族の融合化」の基点と成ったのが「青木氏」であって、それを推進する「国策氏」が「青木氏」であって、「人」の「民」を束ねる象徴で「臣下族の基点」が「青木氏」であって、「民の模範」とする氏が「青木氏」であって、「国の象徴」の「天皇」に対して、「氏の象徴」の青木氏であった。
況や、真に「法と人」の「人の部分」を荷っていた「青木氏」で「国策氏」なのである。
要するにこれが>「特異な立場」 なのである。

従って、「青木氏」は一般より余計に「人より法」「石は石」「薬は薬」の考え方が強かった。
(これが「善事撰集」の根幹である。)
依って、この時代は ”「人より法」「石は石」「薬は薬」”の考え方の中に、中国の「古今善言」等の全く「真逆の思考原理」の「中国の影響」を色濃く受けて、”「法より人」「石は薬」”の考え方が細菌の様にも「奈良期−平安初期」の社会の中に蔓延った時代であった。
特に「素養と修養」の為に、この書物等を読んだ「皇族、貴族、高位族」の者が、この上記した中国の考え方に染まり、”「真逆の考え方」で思いがけない「抵抗と反発」を受けた”と考えられる。

経緯H
既に「別論文」や「青木氏の守護神」の論文でも詳しく論じたが、この時期は後漢200万人の渡来人の「帰化人」が、洪水の様に入国していた事もあり、同時に彼等の「進んだ技能」と「仏教の伝授」と「進んだ生活習慣」等の享受を受けて、生活が向上し、全ての国民は「彼等の中国文化」に対して疑う事無く「信頼と尊厳」を向けていた。
その結果、「阿多倍王」等は無戦で関西以西32/66を征圧すると云う勢いであった。
先ず、民では誰一人疑う者や敵視する者は無かった筈である。「日本書紀」にもその事が詳細に記述されている通りである。

(この勲功で薩摩大隈と伊勢北部伊賀の「2つの半国割譲」を正式に受けた。「人」の国策氏の始祖施基皇子の伊勢国の半国割譲であった。「青木氏」とはこの時からの隣人の親交が始まった。不思議な取り合わせであった。)

然し、この現象を危険視した者が2人居たのである。
「「青木氏と守護神(神明社)」で詳しく論じた様に、特に阿多倍一族一門の勢力に因って起こっていた「以西と以北の自治問題」と「守護神の考え方」や上記した「社会の思考原理」で”国が割れる”と警戒していた。
それは、第一次の初期には「大化期3代天皇」、第2次の中期には「平安初期3代天皇」、第3次の後期には「平安末期3代天皇」の「皇親政治」を行った「天皇」であり、その下に働いた皇親族の「人の国策氏」の「特異な立場」の「青木氏」であった。
この3期の何れもが危機感を持ち政策を実行したが、全てこの「後漢人の考え方」の違い事が原因であった。

(上記した様に、”「法より人」「石は薬」”の彼等に対して、”「人より法」「石は石」「薬は薬」”の「青木氏」はこの「帰化人の立場」と「真逆の立場」にあった事を意味する。
これまた「特異な立場」な立場を証明する事である。)

経緯I
其処に、この「日本書紀」に記述されている様に、「国政」を進める「官僚」の殆どは、この「進んだ知識の帰化人」で、その「知識」で仕切られていたのである。
「古今善言の影響」のみならず、それを「受け入れる体制」そのものが完全に漏れなく出来上がっていたのである。
この「古今善言」などの「中国の影響」は、「人格、度量」は別としても、「素養・修養の低下」として社会の中に当然の様に現れたと観られる。現れない方がおかしい位に当然の成行きであった。

この現象が「近江令」にも現れていると認識した一次の「持統天皇」は日本らしい考え方の「善事撰集」として造り上げる必要があると考え、「人の国策氏」で「大化期宰相」の兄の「施基皇子」にその経験を通して編集する様に命じたと解析される。(名称も類似している)
恐らくは、周囲を見渡しても、この事の全てを理解した信頼でき適材な人物は、「青木氏の始祖の施基皇子」しか居なかったと考えられる。
故に、況して、この「中国の影響」を受けて、上記した様に「精神的な負担」に成る「皇族」や「公家衆」の「素養・修養・人格・度量の低下」の中では、当然にその上記する「資質低下」に因って起る”「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」”が猛烈にあった筈である。
取分け「反発と抵抗」も熱に犯されたかの如く大きかったと考えられる。
(この現象が「人」の「国策氏青木氏」に取っては上記した様に除し難い「精神的負担」に成っていた。)

そこで「持統天皇」と「施基皇子」は、「古今善言」の影響も考慮して、この編集に当っては画期的な方策を講じたのである。
先ず「7人の編者・賢者」を集めての力の入れ様で、当時で云えば、その顔ぶれは文句無しの各界の「最高の有識者」(官吏一人含む)で構成され、「国策氏・青木氏」の「始祖施基皇子」が自ら集めたものを編集すると云う画期的な形式を採った。
現在の民主主義の「有識者会議の答申形式」であった。大化期社会にあって驚くほどに”極めて斬新な形式”で纏められたものであった。
「近江令」の様に多くは「帰化人の官僚」が作り編集したとするものでは決して無かったのである。
「古今善言」に負けない信頼される「善事撰集」に仕上げようとしたと考えられる。

(編集する「帰化人の官吏」の上記する「法より人 石は薬」の考え方が、「近江令」には強く働いていた事があってか、「有識者会議の答申形式」を採ったと観られる。)

「日本書紀」の記述によれば、丁度、この時期には、この「官僚の6割」は「後漢の帰化人」が占めていた事が書かれていて、「天武天皇」は、特別に ”速く倭人の官僚を育てる様に”と命じている記述がある位である。
これは「古今善言」に限らず、「中国の影響」が官僚の中にも深く浸透して広がっている事を認識していた証拠なのである。
上記した ”「中国の古今善言」”なのか、”「法より人」「石は薬」”の考え方が働いていたのかは確証する充分な史実が不祥であるが、上記した様に状況証拠で、確実に何かの影響を受けていた事が考えられ、故に、「日本書紀」の「天武天皇発言」があり、それを”匂わせる記述”(舎人親王)と成ったと観ている。
何も無ければわざわざ”日常茶飯事の発言”を書かない筈である。何かあるから書いたのである。
その「善事撰集」の「編集責任者」は、上記した様に、そもそも「大化期3代天皇」に渡る大化期の最高功労者の「施基皇子」であり、従兄の「施基皇子」が自ら集めたものであった事、そして公布中止と成った事から、その”悔しさ、残念さ”を何らかの方法で表現して、”公布中止”と成った「裏の史実」を記録として遺したかったのであろう事が読み取れる。

経緯J
この様に、先ず人物や編集形式等に誰一人文句の付け様がなかった筈である事、”文句の付けようがない上で編集されたものであった事”を史実として公に遺し、他に”中止の理由”があった事を匂わしたと状況証拠から読み取れる。

恐らくは、”文句の付けようがない上での編集”にして”「抵抗と反発」の論処の一つを押さえ込む戦術に出た”と考えられる。
然し、公布は中止されたのである。中止されたのには「日本書紀」が匂わす何か大きな他にも大きな理由があった筈である。「舎人親王」の表現したかった事を「官僚」と云うキーワードで表現したが、赤ら様に彼は言いきれていなかった筈である。むしろ、”書けなかった”が正しいと考えられる。
「日本書紀」の「編集スタッフ」は全て「後漢の帰化人の官吏」(史部:ふみべ 「部」の長は「阿多倍王」の父の「阿智使王」 その配下の十二人)であった事が判っている。
首魁の「阿多倍王」や「阿智使王」の卒いる後漢人や官吏等の考え方で中止に追い込まれたとでも書けば、それこそ「日本書紀」も中止に追い込まれる填めに成る。そんな事は出来なかった筈である。

「青木氏の守護神(神明社)」−22の段で論じた様に、「青木氏の由緒」は「皇族朝臣族の賜姓族」と成り「真人族」まで含めた「純血の同族血縁族の5家5流賜姓族」であった。
「朝臣族」で「臣下族」で「賜姓族」でありながらも、皇族、貴族、高位族等の一般に云う「公家衆」等には家柄・身分・官位・官職一切が上位の「5家5流族」であった。
時の「真人族」であっても、「賜姓族」「臣下族」は下位ではあるが、しかし上位であると云う「不思議な立場」(逆転現象)、即ち、上記する「特異な立場」にあった。

(参考 元々、「始祖施基皇子」は天武天皇の皇太子の「浄広2位」に対し「淨大1位」で3ランク上の立場にあった。このような「特異な立場」にあった為に、この「賜姓族の立場」の「施基皇子と川島皇子」の二人は「他14人の皇子」等と「皇位継承争い」をしない事を吉野で永代で盟約した事で有名である。 吉野盟約)

周囲はこの「特異な立場」を繊細に認識していた事を物語るものであり、その騒ぎを抑える為にも、向後の粛清の混乱を防ぐ為にも盟約した。
母違い弟の「第7位皇子の川島皇子」も特別にその勲功により「近江の地名佐々木」で天智天皇より朝臣族で賜姓を受け同立場にあった。日本書紀にも記述)

経緯K
この様な中で、この公布されなかった事には、当然に「特異な立場の青木氏」に関わる事にも何かがあった筈である。
其処で、”その何か”を探る必要がある。
この「近江令」にしろ「善事撰集」にしろ共通するところは、要は「皇族」「貴族」と「八色の姓」の「高位族」の者が対象者であって、特にその子弟に宛がわれる意味合いを持って編集されたと云う事である。ここに先ず一つの意味がある。
上記した様な原因で起った「素養・修養・人格・度量の低下」で、その後の「平安初期3代天皇期」は「政変劇化の粛清の嵐」に成っていた事でも判る様に、「純血血縁族の5家5流の青木氏」に於いても、「皇位継承外」で「朝臣族」で「臣下族」で「賜姓族」で「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」で、どれを取っても本来は継承外であった。
そもそも、「侍」の「臣下族」に成っている「氏」を構成する一族である。
「臣下族」は当然に継承外であっても論外の立場であった。
然し、「真人族を含む純血血縁族」であり、「不思議な立場」(逆転現象)の「特異な立場」であった事から、「政変劇化の粛清の嵐」は永代盟約を結んだ上でも例外とは見られて居なかったのである。
(男系皇位継承者が居ない状況の中で流れに牽きこまれて行った。)
むしろ、「白壁王」の例に観る様に、平安初期の「粛清の嵐」は「男系皇位継承者」が居なければ、次ぎは「逆転現象の青木氏」に向けられていた事は当然の事と考えられる。
”「臣下族」だ”等や”「吉野盟約」がある”等と言っていられない状況下にあった。
然し、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」である限り、その身元を保障する為に「真人族」より何を取っても上位の位置に居た。逃れられない宿命であった。

(口伝の厳しい戒め・絶対遺訓:「世に晒す事なかれ」この事から来ていると考えられる。)

上記した「白壁王」の経緯がそれを物語る。「白壁王」が駄目ならば「他の一族の者」をと成るは必定であるし、政敵に取っては、「男系皇位継承者」がいない中で、「真人族」より上位の「臣下族」が居ると成ると”目の上の瘤”であろう。そうなれば、政敵から粛清を受ける事は必定に成る。

(政敵とは女系継承論者の事 7代も続いた女系天皇の社会 女系天皇で利を大きく持っていた族の事で、匿名にして「有名で大きな有力な政敵団」がいた。)

其処で、「善事撰集」が公布中止されたものの、政界は兎も角も、「青木氏」にとっては「特異な立場の青木氏」(3つの発祥源、国策氏、融合氏)を何が起ころうが絶対に護らねば成らない宿命を永代に帯びている。

経緯L
とすると、これを護り抜くには、何かしなくては成らない。
そう成れば、上記した様に、先ずは「青木氏」の「法の立場」では無く「人の立場」である。
そこで、この「青木氏」は ”その「人」を形成する事で「特異な立場」は護れる”と考えるが普通である。
(「古代密教の教示の立場」にあった「青木氏」は別の考え方をした。)
然し、この時期は「中国の思想」を大きく影響を受けていたとすると、”「法より人]の考え方の中で「人」を育てて「法」を求める”とする一見して矛盾する計画であった事に成る。
そもそも、考えても根本からこの理屈はおかしい事に成る。
「素養・修養・人格・度量の低下」を防ぐ為に、「法より人」の考えを優先するのであれば、「法」を敷く為に「人」を育てても「法」は守られない事に成る。
完全な「論理矛盾」であった事が「青木氏」の中で間違い無く起こっていた事に成る。
然し、「人」を育てなくては「氏の資質」は上がらない。これは「国策氏青木氏」としての「長の命題」であった。(これが「長の有り様」を重視する「青木氏の所以」である。)
「青木氏の長」は上記した3つの「道理の矛盾」の立場にあって、尚且つ、この4つ目の「論理矛盾」を抱えた事に成る。
「善事撰集」は日本に適した「人より法 石は石 薬は薬」の考え方の下に纏められたものである。
その国が公布しなかった「善事撰集」は、「青木氏」に取っては、最早、「始祖の遺訓」である。
これを先ず「青木氏」は優先して護らねば成らない。
とすると、”「青木氏」だけは「古代密教の教示」に従っている” と成ると、周囲の「一般の思考原理」とは前提が異なる事と成る。
その「古代密教の教示」とは、”何事も次ぎの様に成せ”と説いている。

>・「2つの教示」
>「三相の理を得て成せ」
>「人を観て法を説け」

「遺訓」(「善事撰集」)には以上の「2つの教示」が働いたと考えられる。

(この2つは「家訓3」と「家訓5」に遺されている様に最も「伝統的な教示」であって、現在の末裔にまで代表的な考え方として”耳に蛸”の様に色濃く伝わっているが、この「2つの教示」は、「施基皇子の遺訓」(「善事撰集」)の中の一つであったと考えられる。)

経緯M
この「古代密教」の「2つの教示」を前提にすると成ると、”「法」を「氏」に敷いて「氏」を先ず固める必要があると成る。そして、「人」はその強いた環境の中で育てる”と成る。
つまり、「青木氏」は「法と人の関係」は、「古代密教の教示」の「三相の理」で先ず考えた筈である。
”「法より人」「石は薬」”と、”「人より法」「石は石」「薬は薬」”の考え方に付いては、「古代密教の教示」(2つの教示)から、”何れも正しい”と先ずはした筈である。
然し、それは、「古代密教の教示」から、先ず一つの”「人、時、場」の「三相の条件」に因って異なる”と考えた事に成る。
そこで、「法>人」=「法<人」とすると、次ぎの様に成る。

「人」の要素は、「抵抗と反発」の「素養・修養の低下」と「特異な立場の青木氏」
「時」の要素は、「政争と粛清」の「混乱期と危険な立場の青木氏」
「場」の要素は、「都」と「賜姓族地の5家5流地」

この三相で勘案すると、思考の優先順位は ”「時」>「場」>「人」である”と成る。

この「配列如何」に関わる結論と成り、これが「長」の判断する「資質の有無」の差に成って現れる。

(故に、「氏の行末」は、「古代密教の2つの教示」がある限りは、「長の資質の如何」に関わると「家訓」ではしつこく説いているのだ。そして、その「資質」を何度も論じるが「繊細な資質の人物」等と厳しく戒めている。)

「古代密教の青木氏の教義」として「青木氏の長」はこれを考える力を常に強く要求されている。
これには上記した様に、「繊細な資質」から来る「情報の取得能力」が要求され、「論理的思考」が要求され、これに「堪えうる精神力」が要求され、「戦略的な洞察力」が求められるのである。
この「2つの教示」に関っているのだ。
”「長」がこの「資質」を備え、この「三相の理」で事の判断を成せば「氏」は救われる。”とし、この「青木氏の長」は、この時に、「時」>「場」>「人」と判断したのである。
そうなれば、先ずは、「人の資質策」で云々の策ではなくて、同族で「純血血縁族」の「氏を固める策」を講じる必要がある。「同族血縁族」である「氏」を固めると成ると、「特異な立場」で共通し、同じ「義務と目的」に向かって邁進している以上は、「法」を以って統制して”身を固める”とする策に出る事が最も効果的である事に成る。
その策の「法」は、必然的に、「施基皇子の遺訓」の「善事撰集」であり、それ以外には無い事に成り、それを固めるに必要とする「氏に合った編集」に関わる事に成る。

・「時」の要素が、先ず優先的に解決する事が急務であり、「氏の存続」に大きく関わる「混乱期」では、先ず”身を固める”が道理、然すれば、身が固まれば ”「場」>「人」の対策に入る”が常道と成る。
そして、それが下記に示す”「施基皇子の遺訓」の「善事撰集」の編集経緯−1〜6”と成ったと考えられる。(家訓は詳細には次ぎの「6段階の経緯」を経た)

・「場」の要素としては 時の要素 で”「法」で統制して身を固めた”とすると、「法の適用する範囲」を要求される。
それは一次的な範囲の「5家5流の氏の範囲」で限定して効果的にする為に行う事と成り、他の「場」の要素としては「女系・縁者等の色々な範囲」に拡げて「法」を適用しても、「最優先する時の要素」に対応出来ない。
そこで「2次的な範囲」はその結果次第で、「漸次暫時」で対応する事の判断と成り、直ぐに今求めない事と成る。

・「人」の要素としては、「時」と「場」の要素の対応が叶えば、最後は「氏の資質」を高める事に成るが、但し、この際、「時」>「場」を優先した戦略と成っている以上は、「一族一門」と「一切の郎党」に至るまでに、この全てに同じ論調で資質を高めようとしても、”それは無理だ”とと説いている。無理だと成れば、ここが、「古代密教の教示」のもう一つの「人を観て法を説け」に従う事に成る。
そもそも、現世の「政治基本」は何時の世も「法と人の関係」に依って成立っている。
その「法」に対しては「青木氏の基本の思考原理」は「三相の理を得て成せ」であった。
そして、「人」に対しては「人を観て法を説け」であるのだ。

(「始祖施基皇子」は「政治の基本」の「法」の為に「善事撰集」を造ると共に、公布中止と成った暁には、「人」の「国策氏」として「2つの教示」の理念の下に「氏」に「善事撰集」を敷いたのである。)

経緯N
つまり、この「2つの教示」は、「青木氏」に執っては少なくとも、生きる為の「一対の教示」、況や、生きる為の「経道」である。「生きる」を「心」とすれば、「心経」と成る。
この「古代密教の仏説」の「2つの教示」は「政治の基本」である事のみ成らず、「青木氏の心経」であって、故に、政治の「人」に関する基本的な事を実行する「国策氏」と成るのである。

>(1)「2つの教示」=「青木氏の経道」
>(2)「青木氏の心経」=「青木氏の経道」=「国策氏」
>(3)「古代密教]=「2つの教示」=「政治の基本」
>∴「国策氏」=「2つの教示」
>(1)=(2)=(3)
以上の数式論が成り立っていたのである。

何故ならば、それはそもそも、>”「人を観て法を説け」の「古代密教の教示」” がある様に、”「法」を優先して説く以上は、「人の如何」(人の有り様)を考えよ”と成る。
この「三相の理」に従う事のみ成らず、この「人を観て法を説け」の教示でも、根本的な文の構成は、「法」を説く事を前提にしている構成である。
況や、 ”「法」をベースにして「人」の要素を考えよ”と成っている。
決して、「法を観て人に説け」ではない。
あくまでも、”「法」を優先して基本として、「人の有り様の如何」を考えて「智慧」を駆使して適応して「一律の法」を説け”と云っているのだ。
”「法の有り様]は普遍であるべきだ”と云う事に成る。
この様に「2つの教示」からも「青木氏」に執っては「法」が基本に置かれている事が判る。
決して、「法」<「人」では無い。

(上記した様に、日本のこの時代の「古代密教」でも、明らかに「人より法」の思考原理に従っている事が判る。当然に「古代密教の教示」に従っていた「始祖施基皇子」は「善事撰集」には「人より法の考え方」で編集していた事の証明でもある。この社会の考え方の中に「古今善言」は真逆の異質の考え方が蔓延った証明と成る。)

経緯O
其処で、そもそも、この考え方に付いて、普通に考えれば多少の疑問が起るであろう。
そもそも、”人を観て” は「普通の仏教」(他の仏教宗派)では、”民を低く観て、人を差別している事”と感情的に取られるであろう。
この様な「説法」を僧が説く事は先ずあり得ない。そんな「説法」をすれば、”私達信者を馬鹿にしている”と成り、人は集まらないし、信心そのもの等はあり得無く成る。その前に先ず宗派は成立たなく成るだろう。
僧が僧に説法するにしても、先ず説かれる未熟な僧が人である以上、説く人の人格に疑問を感じるであろう。先ず考えられない教示である。
故に、要するにこれが「密教の所以」なのである。「教示」そのものがこの「現世の真理」であっても「未熟な人」に説く以上「真理」として扱えないものがある。
そもそも、「説く」とは、その人が「未熟」であるから”説かれる”訳であり、「悟りの人」であればそれは「説く」とは成り得ない。
「未熟の人」に「説法の差」を付けて故意的、恣意的に接する事はあり得ない。
然し、これでは説法の「本当の意」を伝え得る事は出来ない。それは折角の「説法」の努力の効果が上がらない事に成る。

(「古代密教」を経た「浄土宗密教」から「密教」の部分を外して、「一般の人・民」に説いた「親鸞」等の説法は、”「念仏をただ唱えよ、ただ信じよ、信じれば成仏できる。然れば汝は救われん。」とした所以はここにあった。・「説法方式」の必要性を特段に意にしない「説話方式」での布教である。)

「特定の氏」では無く、「不特定多数の人」を相手にしての布教である場合とは、「密教」と云う前提とは自ずとその説法は異なり、「人を観て法を説け」や「縁無き衆上動し難し」の様な「現世の真理」も話せる事で、その「説法の深意」は伝わるし、理解が深まり、事に当りその応用は可能と成り、強いては「人の資質」は高まる事に成るは必定である。
これが「密教の利」と云われる所以である。「法」と「話」との「布教の違い」である。
(平安末期に起った密教論争と後の宗教戦争はこの事の「有り様」の如何を議論された。)

”「同族の氏」の中で「氏」を構成する為に、その「氏の人」の「素養と修養」を高めて、より「氏の資質」を高める為に、その人にあった説き方をして「適時適切 適材適所」に効果を上げよ。”としているのである。
これに比して「不特定多数」の「民」の「布教」の場合は、この「適時適切 適材適所」は無理であるし、先ず、時間的にも、振り分けも、出来ない事から不可能である。

この様に、「特定」と「不特定」とには、その「教示の如何」が左右されるのが「宗教の所以」であり、「有り様」である。
然し、此処では「氏の資質」を向上させる為の「説法」であり、仏法(「仏」が説く「法」=「現世の法則」)を理解させて応用させて「氏人」を育て「氏力」を高めなくては成らないのである。

”そもそも「人」夫々には、夫々の「資質、能力、性格」等を持っている。それに合わせて易しくか、難しくか、感情的にか、論理的にか、に「説」を考えて説き、導かなくては何事にも効果は成し得ない。”としているのである。真に、”智慧を使え”である。
そもそも、「法」は”のり”であり、あくまでも”決まりの理屈で事の筋道(法則)”であり、「智慧の発露」の結晶である。「話」には、それは無く短編的な「事象の例」である。
この様な「様々な人様」がある現世に、「人」を中心にして「纏まり」を求めても、「様々な人様」で「様々な判断」が起るから「社会」は纏まらない。
従って、最低の「法の理解」も様々と成り、意味を成さない事に成る。
つまり「法より人」の考え方は成立たない。終局は、”腐敗と無法治な社会と発展の無い社会”と成り得る。

”「人」それぞれには夫々の「資質、能力、性格」等を持っている”とする前提の現実社会である以上は「法より人」は成立たない。
少なくとも、特に日本では上記した様に、論理的に成立たない考え方である。
そこで、律令は「共通の慣習、仕来り、掟」 の中で編成した「取り決め」とする「基準の考え方」を「法」として敷き、その「編集した範囲」の中で護らなけれは成らない「最低の義務」とするものである。
故に、「氏」の者に、”「念仏をただ唱えよ、ただ信じよ、信じれば成仏出来る、然れば汝は救われん。」とする事はあり得ない事に成る。

「密教を前提としている氏」に説く以上は、「氏の総合力」を高める為に「資質の向上」の効果を期待しなくては成らない。
「人の国策氏」の「特異な立場」の「青木氏」には尚更であり、”決まりの理屈で事の筋道”の「法則」での効果を要求される立場にあった。決して、「話」ではなかった。

経緯P
ここで、では、現実には ”「氏」と云えども理解出来ない者”が一族郎党の中にどうしても初期の段階では生まれる。
”では、その者をどうすればよいのか”と成る単純な疑問が生まれる。
(念の為にその答えを余談として記述して置く。)
これに対しても、「古代密教」は、ある「教示」を出しているのだ。
その答えの「古代密教の教示」は、>”「縁無き衆上動し難し。」” である。
この「2つの教示」に繋がる大事な「密教の教示」である。
これを「低い意味」で受け取れば、”馬鹿にして”と成る。「高い意味」で受け取れば、”浮世の真理を突いている。”と成る。
(「氏」の中ではこの差を無くさなくてはならない宿命がある。)
上記する「人を観て法を説け」の教示も同じである。
解釈には、大変意味の持った教示であり、且つ、「解釈の幅」を変えれば大きな意味を持つ。
これまた、”「縁無き衆上動し難し。」の教示は、”なかなか「密教」では無い「他宗派の説法」にする事は不可能である。先ず無い。
”どの様に説いても理解出来ない者は、もとより無理である。必要以上に説く事を諦めよ。それ以上は「自らの努力」に期待せよ。必要以上に説く事は反って弊害を生むのだ。「説く事」で逆効果を避けよ。無駄に効果を下げるな。 ”と成る。
この現世は、「自らの努力」無くしては何事も成し得ないのだ。゜「自らの努力」は「氏」と「社会」の原動力の根幹だ。”と説いている事に成る。
感情的に受け取れば、”厳しすぎる。見捨てるのか。薄情な”と成る。
然し、「感情主観論」のこれでは「現世の真理」の追求は成し得ない。
故に、事程左様に、”「長」は「論理的主観の資質」を強く常に持ち得ていなくては成らない。”としているのだ。
これは、あくまでも「特定」の「氏」である以上は、ある「目的、義務、宿命」を持って生きている集団である。
「密教の氏の説法」であって「不特定の民の説話」ではないのであり、欺瞞的で偽善的な事を大風呂敷を広げて出来もしない事を言っている訳にはいかないのである。
現世はその様には理想的で感情主観的に出来てはいないのである。
”その様に在って欲しい”とする感情主観はあるにしても、「家訓9」の論では無いが、「煩悩から解脱し得ない者」が殆どであるこの現世では、現実的な「現世の真理」を会得して「長」は「氏」を絶対に守らねば成らないのである。
その中で、この「古代密教の教示」は、”「絶対に護らなくては成らない教示」であり、況や、「習慣」であり、「仕来り」であり、「掟」であり、要するに”「氏の法」なのである。「氏の律」なのだ。”と成る。
それを理解出来る者こそが「長の資質」を有する者として評価されるのである。
故に、上記した様に「論理主観」を要求されるのだ。

上記する「2つの教示」と”「縁無き衆上動し難し。」”等の「古代密教の教示」が「青木氏」に現在も遺されている事は、「善事撰集」にはこの様に厳しい「戒・律」もあった事を物語っている。
これらの「古代密教の教示」以外にも、「青木氏」の「慣習、仕来り、掟」も「律」と見なされる事からも証しと成るのだ。

実は、筆者の祖父の禅問答の遺品の中に発見されたものであるが、この、”「縁無き衆上動し難し。」”で真言密教の「高野山の僧」と問答した事があった様で、これを”正しく理解出来る者こそ悟りを得た”とする内容の問答であった。
つまり、表向きの「文意」そのものでは無く「深意」「真意」を理解できる事が、悟りを得た者、即ち、「氏の長」が求められる「模範の資質」である事が判る。これが「密教の所以」なのである。
禅宗の信者ではなかったが、「禅問答の師」の祖父は「古代浄土密教の継承者」であった。
”事の真理の悟りを図り合う問答方式”は、「禅宗」が坐禅と共に専門的に人を導く「僧の資質」を挙げる方法として用いたが、そもそも、この「問答」とは、元々、主に「三大密教」が学僧に用いていたものである。
これを禅宗が一般の信者にも坐禅と共に広めたものである。
この「禅宗の呼称」は、「坐禅の宗派」と云われるもので、曹洞宗・達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗の5宗から成り立っているが、本山永平寺で、「中国禅宗5山」の影響を強く受けた宗派である。
故に、ここで云う「問答」とは、大化期前後に中国から伝わり、その原型が”「古代密教」の手法”として用いられたものである。それが脈々として祖父の代まで「伝統」として引き継がれて来たものである。
ここにも「古代密教」の「青木氏の慣習」の一つとして伝わっているものである。
この「問答をする堂」があり、「青木氏」ではこれを「画禅堂」と呼ばれ、「青木氏の慣習」の「接客の作法」と共に「特別な解人」と話をする堂があった。この「青木氏の接客作法の形」が「茶道の武家様」に変化したものである。

この様に、上記の「密教の教示」に限らず、本論に記述していないが、青木氏には「古代密教の教示」と考えられる「慣習、仕来り、掟」が数多くある。(何時か機会を得て論じる)
恐らくは、初期の段階では「青木氏の古代密教の教示」として「書」に収められて「纏」められていて、それが後に、「時代の遍歴」を経て「慣習、仕来り、掟」の形で伝わった物であろう事が判る。

(明治35年の前まではこの作法等の要領を「書」の形で纏められていた事が口伝で伝えられている。
「菩提寺の焼失」が原因で「書物」は焼失したので現在は「口伝の形」に成っている。)

経緯Q
因みに、ここで例を一つ、「青木氏の家訓10訓」には無いが、”曙に成せ。” と云う口伝がある。
何とも簡単な「密教伝」であろうか。これも考え方に依れば「曙」に大きな意味があり、夜明けの「あさぼらけ」から「朝焼け」の中間に存在する”「曙」”をどのように理解するかで幾通りにも理解できる「意味の深い教え」である。
有史来、「曙」には数え切れない程の意味を持っているが、その意味毎に”成せ”の語句をあてがう事で沢山の意味が生まれる。簡単な「成せ」の動詞にも動詞だけに「理解の幅」が生まれる。
此処では一度発想を試みて頂くとして、「特異な立場の青木氏」を配慮してその意味の成す事を考えると、上記した事の様な事も理解出来る筈である。
恐らくは、これも「古代密教の教示」であったと考えられ、「善事撰集」にあったものであろう。
実は、この幅広い文意は「武田信玄の”風林火山”」に類似するもの考えられる。
筆者は、この「密教伝」は「皇族賜姓族の甲斐青木氏」の血縁族「武田氏系青木氏」を通じて「武田氏」に伝わり、その「文意の一部」を「武家様」に編集された可能性があると見ているが確証は無い。

>「政治のシナリオ」
話を元に戻すとして、大化期の時では、”社会は完全に「法>人」の傾向にあった”と成る。
「近江令、大宝律令、養老律令」等は、「中国の律令の模倣」である事は歴史学的に既に証明されていて、その模倣先の中国の律令も明確に成っている。
この事から明らかに「法より人」「石は薬」の考え方が蔓延していた事は明白である。
(下記の*印に詳細)
だとすると、一方の「危機感」を持っていた天皇の「国レベル」では、到底、この「論理矛盾」を吸収する事は不可能であった事に成る。
因って、「公布中止」と成ったとも考えられる。
だとしたら、「為政者」は考える事はただ一つである。
「近江令」の事が意識に残っている中で、次ぎの様な「政治的な判断」(シナリオ)をしたと考えられる。
それは ”先ずは試して見よう”と云う事に成る。
”では、誰に”にと成り、直ぐに浮かぶのは、”「国策氏の青木氏」に、況して、編者の「施基皇子」等の「朝臣賜姓族氏」に” と成る事は、危機感を共有する限りは間違いはない。
そして、”成果が上がり成功の暁には、「国レベル」でもやってもらおう”と成る。
当然、国レベルでやるには「天皇」に成ってもらう事に成る。
幸い「青木氏」は継承外だが、”その最低の品位体裁の資格は理屈を付ければ成し得る位置に居る”と考えて、そこで「臣下族の青木氏」の若い2代目の跡目に目を付けた。
この時、「国策氏」だから青木氏の「跡目と一族」等は手を打った。 ”ある程度観て試して見よう。”と成る。10年程も待つまでも無く完全に効果が出た。
そして、所期のシナリオの通り、若い2代目跡目「白壁王」も「長」として育った。
25年位経った頃合で 3代目跡目(井上内親王の子の他戸親王)も育った。
為政者側は、予定のシナリオ通りに「青木氏の2代目跡目」の ”「白壁王」にやらせて見よう”との機運と成った。その時、「青木氏の長」の「白壁王」はもう61歳であった。
「天皇」としては、”青木氏の「民からの信頼と尊厳」とその間の「法の経験」から「抵抗と反発」に抗する事が出来る”と考えた。
その為には、先ずは、この「青木氏推進派」は、出来るだけ反対を防ぐ為に ”他の親王の粛清をしなくては納まらない”と成る。
これは最早、50年も経っているから「国の存立」に関わるのだ。
「氏」より「国の存立」が優先されるから、これでも条件を整えたにも関らず抗する者は排除しなければ「国の存立」は成立たない。最早、猶予は無い。
然し、それでも”内親王の女系天皇の継続を推す反対者が出た。政局は混乱するだろう”と成る。
”最早、女系天皇は類代7代も続いた。女系直系族に成って一人しか居なく成って仕舞っている。”
”拙い、血筋は絶える。” と成る。
然し、残るは、”正規には ”「井上内親王」だけだ”と成る。
そして、「井上内親王」は「白壁王」の正妻である。
其処に「女系皇位継承者」の唯一人の「他戸親王」が居る。
どの様に考えても、”「白壁王」しか居ない。”と答えは出る。
其処で、「特異な立場」の ”青木氏は絶えしては成らない。2代目は弟の湯原新王と榎井新王に継がせよう。” と成る。(第4世族外で臣下族は対象外)
そして、”今は「臣下族」に成って居るが、新しい「王位」を与えて皇族系にして置こう。”と成る。
其処で、反対派の女系継承者側は、当然に「素養・修養・人格・度量の低下」なのだから、”親王粛清””内親王抹殺””白壁王暗殺”の粛清連鎖が起った。

以上、この様に「善事撰集」の公布中止の本波は、「皇位継承問題」と絡んで歴史的経緯で観て上記の様な「シナリオ」が生まれ続いた事に成る。

>「5家5流青木氏の危機」
このシナリオの余波は「5家5流青木氏」にも伝わり、上記した様に「粛清連鎖の波」が当然に押し寄せていた。
この時、「5家5流青木氏」も ”「白壁王」の事もある。”、”「特異な立場」にあるのだから引っ張り出される”、”危ない。何とかして護らねば「氏」は絶える。”と成り、そうなれば、”「生仏像様」の下に青木氏は一致結束しか無い。”と考えた。
(そこで、上記の「古代密教の教示」に従う事に成った。)
同様に低下していた同族の「純血血縁族」の「青木氏」に於いても、国が律令を公布して「素養修養の低下」を防がねば成らない筈であったが、然し、公布しないのなら、「国策氏」である限り、せめて「氏の単位」でも果さなければ成らない宿命を負った事に成る。
(然し、この後の息子の桓武天皇に排斥された為に絶体絶命に落ち至った)
そして、幸か不幸か始祖が編集したものであるとするならば、尚更の事であり、採用しない方がおかしい筈で、”「資質ある青木氏の長」はこれを「氏」に「遺訓」として必ず宛がえた”と考えるのが普通であろう。
だから、「善事撰集」を以って「氏の資質」を高めていて効果を上げている「施基皇子の嫡子」に「白羽の矢」が当てられたと考えられる。
そして、上記のシナリオの様に、その「青木氏一族」に、長年の願いであった「素養・修養・人格・度量の低下」の現象を食い止めさせて、”律令の本当の完成”を期待したと考えられる。

故に、「桓武天皇の律令国家の完成」であって、「神明社20社の建設」(青木氏の守護神に明記)であって、その模範と成った「青木氏」を、律令国家の中で放置する事は、「御師様」「氏上様」と民から慕われて「信頼と尊厳」をより勝ち取っていた処に、為政者は「民の反発」を受ける事に成る。放置出来ない筈である。
更に、無理に人気の挙がった青木氏を放置する事は、逆に「皇親政治」を助長し、真逆の「律令政治」の完成の障害と成る。(桓武天皇は考えた筈)
ところが、この事の逆の考えでの「桓武天皇の青木氏の排斥」に会った事に成る。
だから、「光仁天皇」は「青木氏」等を「新王」として造り上げて律令の体制を作りながらも「皇親政治」を敷いたが、この「路線の違い」が、次ぎの「桓武天皇」と子供の「嵯峨天皇」の身内の「路線争い」へと繋がった事に成る。
更には、この時、「氏社会」では「素養・修養・人格・度量の低下」が起こっている中で、人の「衆目の的」と成っている「青木氏」には、「善事撰集」を以って「氏の資質」を高めていて、そろそろ効果を上げていた時期でもあった。
況して、「天照大神」と民の主神とする「物造り神」の「豊受大神」を祭祀し、且つ「皇祖神−子神−祖先神」を護っている「氏」であるとすると、民の「信頼と尊厳」を勝ち得ない方がおかしい事に成る。
筆者は、むしろ、この状況を観て、平安初期の各天皇は、「国策氏」である事を理由にして、”青木氏を利用した”と考える。それが上記のシナリオと成ったと考えられる。
実家先でも有り、「3つの発祥源」でもあり、「国策氏」でもあり、「融合氏の源」でもあり、「武」より「和」を尊ぶ等の「青木氏の立場」を「為政者」であれば、むしろ、身内であればこそ利用しない方がおかしいと考えるし、「国策氏」として当然に利用される立場にもあった。
これは当然の自然の成行きシナリオであった事に成る。

「善事撰集」を国として公布するのでは無く、「大化期3代天皇」更には「文武、聖武、光仁の男系3代天皇」等は、変更して「試行氏」として、先ずは「青木氏」に敷いた事も考えられる。
そして、”時間を掛けてその成果を観た”とするのが普通ではないか。その上で、「近江令」の様に失敗する事は2度と出来ない事から ”将来の律令国家建設に向けよう”と考えたと観られる。
(この間、2つの律令が発せられた)
それを桓武天皇が引き継ぎ、大きく編集と修正を加えて「律令」を敷いて「法」を基本にする「律令国家」を初期段階として完成させた事に成る。

>*「注釈書」の「令解集」
上記するシナリオから完全な律令施行の桓武天皇期(781-806)までは、時間は約90年も掛けた事に成る。この間では「大宝律令」(701)や「養老律令」(718・757)が、公布されたが中国唐の律令「永微律令」を参考模倣にした程度のもので、矢張り「近江令」の域を脱せず「令」に付いて説明する「注釈書」程度の「令解集・令集解」であった。
上記した様に、中国の「法より人」「石は薬」の考え方から「人」の「令」を優先し、「法」の「律」は一部で終わっているものであった。
その「令」も一般に「令解集」と呼ばれるもので「注釈書」程度の様なものであった。
「養老律令」も「大宝律令」の注釈字句を改定した程度のもので、完成後40年間も施行されなかった。
内容は「近江令」(689)と殆ど変わらない状況で、「律」と「令」共に散逸していて、「令解」の一部を「令」に仕立てたものであった。
「3つの律令」があったにせよ、この時代は全て「令外法令」の形で「令解方式」(注釈書・説明書・添書)を基本にしてで進んだ。
桓武期に、これを何とか「律」を充実させ、「令」を「法令」の形にまとめ上げたもので、「律令国家の体裁」を整えたのであった。この「体裁」を作り出す元にしたのが、「国策氏青木氏の善事撰集の試行」のシナリオであった観ている。

>「訓戒の6経緯」
「第0次の訓戒」 「参考」
然し、この間、上記した様に「善事撰集」を導入した「青木氏」には「大きな成果」が出ていたが、その根拠は、衰退前後から「2足の草鞋策の商い」に中心に置いて立ち上がり直したのも、この「善事撰集」の御蔭で一族一致して「氏の資質」を高め頑張る事が出来た事でも判るのである。

「善事撰集」の試行は、「白壁王」を天皇に据える事もこの「国策氏」の者であった事も一因であったと観られるが、確かに粛清から逃れる為に「愚者」を装った事もあるが、「国策氏」であった事の方が原因は大きかったと考えられる。
故に、上記した様に「施基皇子」の「28年間」を(第0次の訓戒 「参考」)とする前提としている。
青木氏の「善事撰集」を基本とする「訓戒の経緯」は、状況証拠から、次ぎの「6つの遍歴」を遂げたと考えられる。

(第1次の訓戒 「心得」)
そもそも、国にまだ充分な律令が完成してい無かったものを、発祥して150年経ったばかりの「青木氏」に「行動指針」なるものが元よりある訳ではないし、始祖が作った優れた手本が手もとにあるとすれば、願っても叶っても無い事であり「青木氏」に限らず誰でもが原案としない筈はない。
むしろしない方がおかしい。
国に答申した「善事撰集」である以上はこれを原案とする意外に無いし、国も試行案として「特異な立場」にある「青木氏」に使わさせる事はむしろ育てる意味も込めて歓迎であった筈である。
それをいき成りは「家訓」とはせずに、ある程度の整理をして次には「参考」から「心得」にしたと考えられる。
恐らくは、国に既存の律令とする概念も充分に育っていない処で、「氏を取り纏めるの家訓」と云う概念は未だ育っていなかった。その時、曲りなりにも「令解集」を使って「令外法令」を敷き、国に次第に「律令の国家」の体裁を敷いた事をきっかけに「3つの発祥源」、「国策氏」、「融合氏」として、始めてその概念を氏に育てる為に合わせて敷いた事が考えられる。
(第1次の訓戒 「心得」)

(第2次の訓戒 「行動指針」)
この時に、第4世第4位皇子以内の「真人族」が持つ継承権に対して、「皇位継承順位外」であった第6位皇子の朝臣族・臣下族となった「施基皇子の家」(中大兄皇子の第3位王、孝徳−天智天皇下の第7位子、1皇子死亡下で第6位子、天智-天武天皇下では第6位皇子)に対して、「第4世族第6位皇子系族の伊勢青木氏」の「嫡子」であった「白壁王」を、奈良期に女系天皇が続いた事もあって天皇家継承者不足に落ち至った。そこで、依って「光仁天皇」として迎える事と成った。
(参考 第4世族で第6位皇子の第5世孫 光仁天皇即位に依って2人の兄弟は特別に新王・親王に任じられる。従4位下から従2位下に成る。)
この事で空席と成った「伊勢青木氏の嫡子」を引き継いだ者(湯原新王・榎井新王)等が、父の成した「善事撰集」(撰善言司)を「父の偉業・遺訓」として、これを遺す為にも、これを「統一した行動指針」として広く一族の「5家5流青木氏」に働きかけて遺したと考えるのが普通ではないか。
その為には拘束力の無い「心得」から、一族の「行動」を統一させる程度の拘束力を備えた形にし、一族全体に通ずる内容(指針)に修正し編集してより現実のものとして纏めたと考えられる。
(この二人は歌人で学者で書籍を遺した人物 湯原新王の娘の尾張女王は光仁天皇と純血婚)
(第2次の訓戒 「行動指針」)

(第3次の訓戒 「家訓原型」)
その時、「施基皇子の善事撰集」は「伊勢青木氏」に既に「心得」の様な形で敷かれていたと考えられる。これが次第に修正が加えられて「嵯峨天皇」に依って徐々に「第2期皇親政治」が始まり再び「青木氏」は蘇って来たのであるが、完全に再興を遂げたのは「特別賜姓族の補完策」であった事から、「嵯峨天皇から円融天皇」までの間には「氏の家訓」(原型)として体裁を整えたものに成っていたと考えられる。
(第3次の訓戒 「家訓原型」)

(第4次の訓戒 「訓戒完成」)
此処から既に「5家5流の青木氏」とは「母方血縁族」であった「特別賜姓族青木氏」が跡目に依る「同族血縁」を繰り返し116氏にも子孫は拡がる。
この段階で「5家5流賜姓青木氏」と「116氏の特別賜姓族青木氏」は最早、母方血縁族では無く完全な一族の血縁族に成り得ていた。
同族血縁的としては「1系族」と成っていたと考えられる。
「特別賜姓族青木氏」の発祥は960年頃であり、「5家5流青木氏」から観た「2足の草鞋策」は1025年頃とすると、少なくとも家訓内容からこの60年の間にこの同族の血縁関係は完成していた事に成る。如何に盛んに跡目血縁をして同族血縁を積極的に施策として推進していたかが判る。
この時は、家紋分析から116氏の内、既に約6割程度に拡大していた事が判る。
その地域は「特別賜姓族青木氏」の赴任地−末裔発祥地24地域の内、7割程度に成っていた。
この段階では「商いの記録」から観て、特に親交が強かったと観られるのは「7地域」で、ここには「融合青木氏」が発祥している。この事から「1系族」と成っていた証しであろう。
この段階で青木氏の家訓の全てが完成していたと考えられる。
(第4次の訓戒 「訓戒完成」)

(第5次の訓戒 「家訓完成」)
この時、「参考」−「心得」−「行動指針」−「家訓原型」−「訓戒完成」の経緯を辿ったと考えられるが、「家訓原型」に至る処では「行動指針」の内容を「訓」「戒」「慣習」「仕来り」「掟」等に分類されたと観られる。
「2つの添書」や「家紋掟」や「口伝」や「商記録」や「神明社記録」や「菩提寺遺記録」等を考察すると分類されていた事が判る。
そして、「訓」と「戒」が一つに成ったのはこれより100年程度後の頃では無いかと考えられ、現在の形に整えられたと観られる。
この段階で皇族賜姓族25氏、特別賜姓族116氏、末裔発祥地24地域は完了していた事が判る。
(第5次の訓戒 「家訓完成」)

(第6次の訓戒 「家訓編集 添書編集」)
「平易な表現」に編集されたのは室町期中期前ではないかと観られる。
何故ならば、「室町文化」の「紙文化」と呼ばれる時期にはその殖産から販売までを1手に担う紙問屋の「2足の草鞋策」で「巨万の富」を獲得して青木氏は最大の力を有していた。
この事から、「2つの血縁青木氏」のその「組織体が拡大」し、それに伴ない枝葉の末裔子孫の拡大が大きく成った事や、「神明社系建設」が一挙に進み、「氏や民」からの「信頼と尊厳」を更に維持しなければ成らなく成り、その事から一族全体隅々までその「特異な立場」を護る為に誰でもが理解できる様に表現を平易に編集したと考えられる。
「家庭の末端」が乱れていては「信頼と尊厳」は低下し、「特異な立場」は霧消に終わり、「青木氏の存続」は保証出来ない事と成ろう。”実った稲穂は頭を垂れる”の例えである。
「家庭」と「長」との「訓」と「戒」が「一つの繋がり表現」の中で同時に関連して認識させて理解させられる「家訓」に編集したと観られる。
その為に「訓」と「戒」を一体化にした為にその絡みを「添書」類に説明書の様な形で書き添えたと観られる。
その前の「添書」は「慣習」「仕来り」「掟」等に分類され「訓戒の設定経緯」等が主に書かれていた事が読み取れる。
(第6次の訓戒 「家訓編集 添書編集」)

>「律」の状況
「慣習、仕来り、掟」
上記の様に、「6つの遍歴」を経て今日に伝えられたと考えられる。その「家訓」(訓と戒)と「古代密教の教示」類や「慣習、仕来り、掟」類のこの「3つの内容」は、「善事撰集」の内容の一部と成っていたと考えられる。
ただ、この「3つの内容」にはどうも「律」に関する事がはっきりしない。
この「律」に関する事は、明治35年の「菩提寺焼失」までは何らかの形で青木氏に書籍化して保存されていたことが判っている。
そこで、この「律」に付いてどの様に「青木氏」では扱われていたかを遺された資料記録から検証して見る。
それは、生活に直接結び付いている「慣習、仕来り、掟」の中に潜んでいると考えられる。
何かを物語るものが必ずある筈で、その事を次ぎに論じる。
先ず、「慣習」に付いては、特段には、盆暮、正月、彼岸、命日、冠婚葬祭などがある。
これらに付いてはその「慣習」は現在遺されているものでも、これ等は明らかに周囲と異なっている事が判る。
その異なりに答えがあると考えられる。何故ならば、この「慣習、仕来り、掟」には、その時代性の中で問題無く円滑に進めて行くべき「規則的なあるべき姿」が必ず潜んでいる。
それでこそ「慣習、仕来り、掟」であって、「規則的なあるべき姿」を判りやすく生活の中に維持しているのであるのだ。
つまり、「規則的なあるべき姿」=「慣習、仕来り、掟」であって、伊達に特異な立場だからと云って形式張っている訳ではない。
況して、現在では最早ない慣習であり、”「氏家制度」の大化期からの社会構造と時代性”なのである。現在の様に、「律」と「令」が完全に法令化して完成している訳ではない。
上記した様に、「法より人 石は薬」の考え方が色濃く占めている社会の中では、「慣習、仕来り、掟」の中に潜ませて護る様にしているものであって、その「慣習、仕来り、掟」を犯せば社会からはみ出すのである。
つまり、少なくとも「武家社会」に入る前の「平安末期」までは次ぎの様な数式論に成るのだ。

>「慣習、仕来り、掟」=「律」
>「規則的なあるべき姿」=「慣習、仕来り、掟」
>∴「規則的なあるべき姿」=「律」
上記の数式論が成立つのである。

となれば、その数式論を的確に表現しているのは、縷々上記した様に「特異な立場」の「唯一の氏」の「青木氏」である事に成る。
青木氏以外に「慣習、仕来り、掟」の中に幅広く潜ませられる「氏」は他に無く、筆者の論理では、この青木氏の「慣習、仕来り、掟」が他氏へと広がって行ったと考えている。
何故ならば、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」が「慣習、仕来り、掟の源」であるからで、「青木氏」よりこの立場を持つ氏は他に無いし、「善事撰集」の氏に敷いたのは青木氏である。
この「慣習、仕来り、掟」は、その大元は上記した様に「善事撰集」にあるとしている。他にあるとするならば教えて欲しい。無い筈である。
逆に云えば、この「律令の歴史事の経緯」を網羅するには「青木氏の努力」以外には無い事に成る。
故に、難しいがその内容を牽き出して敢えて可能な範囲で先ずは「慣習」から例を以って網羅する。

・「慣習」
(「接客の要領」)
先ず、青木氏の「慣習、仕来り、掟」の中で、「日常の慣習」に付いても「接客の要領」(「面談の要領」)が格段に異なっているので先ずこれを紹介する。

「接客の要領」であるが、「客」が訪れた場合の「客を導く方法」では、先ず、客を3種に分けていた。
それは「常人、註人、解人」で、「人」の字句は「客」としている部分もある。
要するに「下中上」の事ではないかと観られ、「常人」はいつも来る人、「註人」は注意を要する人、「解人」は解する人、つまり、理解しなくては成らない人で、「重要な人」の扱いである。
先ずは、「接客する入口」では、「解人」は正門口から玄関、「註人」は正門横の戸口から横口玄関、「常人」は裏門から政処口(台所口)と成っていた。
「客に対応する人」では、「解人」は家人、「註人」は書生(執事)、「常人」は男仕と成っていた。(男仕はおとこし、女仕はおなごしと読む 商用客は女仕で別)
「接待の内容」もこの3種に依って原則異なっていたし、「茶」などの「持成し方」も違っていて、現在で云えば、「茶道の作法」に近い形に基づいていた。
むしろ、この「茶道」はこの「接待時の茶の出し方の慣習」が室町期中期頃から「茶道」と成ったと観ている。原型であったと考えている。(ただ、「武家様」に簡略化されていると観られる。)
「茶道」の「道」と成る前は、”上位階級の「接客の作法」”として存在していたのである。
室町期中期以降の「茶道」は「上記の内容」や「下記の内容」を加えたこの慣習から道化させたのでは無いかと考えられる。

(「千利休」は堺商人、堺には伊勢松阪の青木長兵衛の「紙屋長兵衛の3店舗」があり、何らかの繋がりはあった事から伝わったか、武家社会に成った事から無骨な武士の人間関係を解す為に、”上位階級の「接客の作法」”を「武家様」に改善してそれを一つの「社交マナー」に変身させたものであろう。つまりは、その大元は青木氏にあったと説いている。)

つまり、上記の内容に従い、「茶の種類」と「菓子の種類」と「茶器の種類」の違いを付けていた。

(この違いは残されて用具でも観られるが、この「古い茶器一切」は「遺品」として今も遺されている。茶と菓子には意味合いが大して無いので割愛する)

「茶器」には武家の様に「器」を直ぐに掌の上に載せて飲むのでは無く、「瓶」とする「器台」に載せてそれを持って「一回廻しの3回半」で飲む作法である。この「瓶」は「高瓶」と「低瓶」と「茶座」と「茶敷」の4つに分けられていた。「座卓」では無い。「茶敷」は客人ではない「歌会」などで用いていた。(歌会では全て同位として「解人」の扱い。 僧侶は解人)
この「3つの茶瓶」は上記の「客人の位種」に依って変えられていた。
「高瓶」(高さ5寸で二重に成った3寸の薄椀の下に一握りできる程度の湾曲の足柱が着いていて裾広がりに成った器)は高位族と武家に解人、「低瓶」(3寸)は公家に解人、「茶座」(茶台1寸)は中位に註人、「茶敷」は一般に常人で「使用別け」される。朱色と黒色の漆瓶器で朱色金入は冠婚、黒漆器は葬祭に使い分ける。通常は木肌色か朱色の漆瓶器である。

(公家は武家では無く慣習が「低瓶」が作法 低く観ていた訳ではない。)

又、「上がる室」も異なり「3段の部屋造」で、上段間は「解人」、中段間は「注人」、下段の間は「常人」に通していた。
「常人」は下段の「玄関間」止まりで床から2段で3尺(0.9M)の高さ、「注人」は中段の「控え間」止まりで玄関間より3寸の高さ、「解人」は上段の「本座敷」(座敷は正副があった)で更に3寸の高さにあった。

(玄関間は座って客人と挨拶する時の目の高さが同じ様に成る位置にあり、部屋の大きさは畳2畳−一坪に「飾り棚や仕舞棚」などがあり、「氏の象徴」に成る品が置いてあるので6畳あり、玄関床も6畳−3坪)

この接客には、順序があって、家の主人に面会する時は、「玄関間−控間−仏間−座敷」と何れも客間であるが、玄関間は「常人」、控間は「註人」、「解人」は玄関間から座敷へと次第に変化して進んで行く。ただ、この時は、必ず「仏間座敷」(北に位置し南向き)に通る事が前提で、ここで主人と話して終わる場合がある。
本座敷(10畳)には、床間が東に位置し西向きにあり、3寸高い位置にあって、この前には客は座らない。主人は西又は南向きに座る。従って、「解人」は北側に位置して南向きに座る。西隣りは副座敷(10畳−控間がある)があり西には一切座らない。「解人」は結局は仏間を背にする事に成るので、失礼の無い様に仏間(2坪)の仏壇(2坪−生仏像様 横に安置)に先ず手を合わせる事の慣習に成る。
北は「鬼門」と呼ばれ、決して犯しては成らない位置として決められていて、「神−天皇」の御住の方向として守られる。その為に、「解人」は北に向かって座らない事に成る。(全て廻りは襖)

(鬼は決して怖い者では無く、神を護る人として3世紀より「鬼道」と云う「自然神」の信仰対象であって、平安末期まで神の一種の「鬼神」として崇められていた。
「鬼」は悪い事をすれば神に代わって懲らしめる者であった為に、「人」は懲らしめられる鬼を怖がったものであり、それが今では「悪魔」の様に間違えられて考えられている。これも重要な慣習の一つである。日本書紀に雷神と風神と共に神として記述がある)

主人との面談の対話には、畳一枚分を離して話す。
(筆者の時代の記憶では毎日客列を成していた。過去の口伝もあった。)
「床間」は家の一番高い位置にあり、この ”神が位置する座処”としての習慣であって、「神座」或いは「上座」と呼ばれていた。
今では古い家でも無い所が殆どで、有っても飾り物を置く場所と成っている。室間が3段に成っているのはこの習慣からである。床間には家の者は絶対に背を向けては座らない。
上記の慣習は「武家様」とはかなり異なっている。この家の間取りや慣習で古い屋敷を観ればどの程度の氏の家であったかは判る様に成っていて一定の形式が定められていた。
上記の慣習には、家の「格式、身分、階層」等の内容を「儀礼、作法」等の「有り様」として定め、上記の「接客の慣習」に限らずその中の要領に潜ませたと考えられる。
「冠婚葬祭の慣習の要領」の中にも「青木氏の特異性」がある。(何時か披露の機会を得て投稿)

鎌倉期からはこれ等の慣習は、「武家の有り様」としても用いられて、この大化期からの「特異な立場」の「青木氏の慣習」が、「武家様」に変化させて採用され伝わったものであると考えられる。
現在に「古式豊か」として伝えられている様式は全て「武家様」である。
その大元は、「武の象徴の青木氏の慣習」から伝播したと考えられる。

>「善事撰集」(「注釈書形式」)
そもそも、この大元は「善事撰集」と「古代密教の教示」にあった。更に云えば、「古代密教の教示」の考え方から「善事撰集」の内容項目と成っていたと考えられる。
この上記した「接客の要領等の慣習」は、ただ単に「接客」と云うテーマでの「習慣の内容」と成っているが、恐らくは、「善事撰集」では、この要領の「青木氏の接客要領」とは無関係に「根本の考え方」を網羅させていたと考えられる。
(「格式、身分、階層」等の内容を「儀礼、作法」等の「有り様」として別の「具体的な表現」で以って書かれていた事が覗える。
「青木氏」ではそれを「接客慣習」と云う形で、この「根本の考え方」を教え伝えたと云うことである。
つまり、「国」を始めとして「組織」(氏家)を維持して事を処置するには、この「根本の考え方」が必要であった事を意味している。
何故ならば、上記した様に、奈良期に編集された「3つの律令」は、全て”「注釈書形式」”の”「令解集」”であった事でも判る。
何か一つの慣習に準えて、その「令」と少ない「律」を説明したものであるからだ。
例えば、「接客」に例を求めたとして、”接客ではこの様に成るから、何々に付いてはこの様に考えて処置せよ。もしこの要領・作法を違えた場合は、組織を維持し守るべく規則を守らない事に成るから一族から阻害される”とする注釈を付けて「解釈書」を造れば、「令」と”阻害”の意味を以って「律」と成る。
上記した様に、「養老律令」は、「大宝律令の表現内容」の「表現字句」を変更したとされる処から考えれば、例えば、”阻害”を「追放」に変更した等の「律」をより明確にさせて、増やしての「改訂」を実行したと云う事であろう。
この「3つの律令」はこの様なものであった事に成る。これが「注釈書の令解集」方式であった。

兎も角も、上記の「青木氏の慣習例」には「共通な事」として、全て、”「身分」と「格式」と「氏・家柄」と「品位」”が事の隅々まで組み込まれた扱いと成っている。
大化期から「八色の姓(天武天皇)」を始めとして、「社会を階級制度」で「令外法令」を定めて構築を開始した。(日本書紀にも明記)
この事から、「天武−持統期の善事撰集」にもこの「階級制度」を維持する内容が組み込まれていたと考えられる。
それを「特異な立場」の「国策氏」の”「青木氏の慣習」の中に編集した”ものであろう。
次にこの慣習よりも更に色濃く出ているのが「仕来り」である。
上記の事(善事撰集の表現)をより証明するものと成る。

(まさに「家訓10」を物語る慣習がある。それは「嫁取り」の考え方である。
「嫁」は「嫁」として扱わず「自分の娘」としての考え方が強く、その嫁の「愛娘」に息子を託す。その「託し方」の考え方が世間と異なっている。自分達が育てていた「息子」を、今度はこの「愛娘」に母代わりとして引き継いで育ててもらうと云う考え方が強く、要は”「バトンタッチ方式」を採るのだ”とする考え方である。
従って、息子達の子供、つまり、”孫と息子を子供”としての考え方で、孫が3人居るとすると、「4人の子供」として、この「嫁の愛娘」に育てる事を託す考え方で接すると云う慣習を採る。因って、孫は「子供」としての考え方をする。そして、この「4人の子供」の育て方は、”お釈迦さまの掌で育てる”と云う事を「愛娘」に教える。代々この考え方の継承を続けて現在まで伝えられている。
「嫁の愛娘」もほぼ同じ「古代密教」のこの考え方の環境の中で育てられていた事からも円滑に進んでいた筈である。同じ「神仏習合の青木氏」である事から「冠婚葬祭の慣習」に付いても違和感は無かったと考えられる。
明らかにこれらの考え方は「古代密教の考え方」で、「純血の血縁族」である所以から来ている「古代密教の古式慣習」である事が判る。
「跡目継承」や「婿養子」や「貰子」等の「同族間の慣習」と同じく、この「嫁取りの慣習」も遠縁から「嫁」として迎えても「純潔性」が高い事から「愛娘」としての感覚の方が強かったと観られる。むしろ、強い感覚も然る事ながら「家訓10」を浸透させる上でも、この「バトンタッチ方式」に成っていて、内部の細部の慣習も氏のみならず、「特異な立場を保つ考え方」に成っていた事を物語るものである。
「嫁の愛娘」に限らず「実娘の婿」に於いても、”「女・娘」が「夫」を「子供」として「釈迦の掌」で「家長」に育てる。「親」はそれを見守る” の慣習で、一見して「夫=子供」は矛盾するが、「釈迦の掌」の考え方がこの矛盾を解決する。
「芽淳王女」の様に「・・女」と書いて”むすめ”と読むのはこの慣習から来ている。「郎女 いらつめ」の語も同じ慣習から来ている。
この「釈迦の掌」をどのように理解するかはその「娘・女」の資質に関わるが、”これを補完するのが「親の守るべき立場・役目」であって、「娘・女」と「息子」に「直接の口出し」は「禁じ手」とする。” と成る。
因って、「家の如何」は、家訓で「息子の長」の資質如何を強調しているが、そうでは無くて、「裏の戒言」では、 ”女が家を潰す”と成っている。
この場合の「女:むすめ」とは、「親の女」と「愛娘の女」と「実娘の女」の事で、その「両者の出方如何」に関わるから ”女が家を潰す” 事の戒めに成っている。
普通なら、”女が家を育てる” と成る筈であるが、これでは「訓」に成るのであくまでも「戒め」として言い伝えられたものである。「訓」では無く「戒」である事に意味を持っている。
それは、「家訓1」と「家訓2」の言葉を置き換える事で、この両者のあるべき姿を説いている事に成る。
この考え方は現在も引き継いでいるが、当初、息子の「嫁の愛娘」は、この様な考え方にびっくりしていたが、何はともあれ ”「4人の子供」” の考える事に驚いていた。今はすっかり馴染んでいる。実母より義母に些細な事でも何でも相談するし、嫁の実母も驚いている。
一氏家の運営の事の真理を突いている慣習と考える。
「古代密教の古式慣習」ではあるが、これらの伝統を失った青木氏ももう一度この考え方を一考しては如何。)

”子孫を遺す事に一義あり” はこの様な考え方の上に成り立って子孫を遺そうとしていたのである。

・「仕来り」
「仕来り」に付いては、「慣習」よりより守らなくては成らない「規則」の意味合いを持っているが、従って、当然にその「規則」に故意的に違反すれば、「氏や家の秩序」を乱す事に成り、この様な事が頻繁に起これば、周囲に示しが付かなく成り放置出来無くなる。
当然に何らかの形で罰せられる事が起る。そう成れば、何度も重なれば罰則に不平等が起こる事から「律」を幾つかの程度に応じて決める事の次第に成る。
恐らくは「仕来り」には「罰則」がはっきりと設けられていたと考える。

実は、「青木氏の古い商記録」から「シンジケート」の一員に「経済支援の遅延策」を処置した様な記録が書き記されている。何か「仕来りの秩序」を乱す様な事件があったのであろう事が判る。
定められた「仕来り」に依って明らかに罰せられた事が判る。

上記した様に、「青木氏の慣習」の共通概念は、「身分、格式、品位」を汚す事が無い様にする為の「重要な要領(作法)」であったが、「青木氏の仕来り」の「共通概念」を調べると、結局は「特異な立場」(「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」)を維持する為の「重要な規則」に限定されていた事が読み解ける。
その内容から集約して読み取れる事は次ぎの様なものと成っている。
何れもその罰則の「律」に価するものは、「仕来り」>「慣習」の関係にあって、「仕来り」は「明確で具体的に表現」で、「慣習」は「大まかで抽象的な表現」である事に気付く。

>「律の4原則」

>「慣習」 →「要領」→「抽象的な表現」
>「仕来り」→「規則」→「具体的な表現」

>「家単位」→「合議制」←「全員一致の原則」
>「氏単位」→「衆議制」←「過半数一致の原則」

恐らくは、「善事撰集」には、先ず慣習として上記の様な事を定める事を促していたと考えられる。
「慣習」は、上記の様なルールで「衆議制」と「合議制」を採用していた模様で、記録は律に成るものとしては少ない。筆者伊勢青木氏は「四家と一家」で構成されていた事から集まって「合議制」で決していたのであろう。
「慣習」に付いては5家5流間の問題は夫々の「長」が集まって「衆議」で行われていた事が読み取れる。
かなり、今から観ても、「合理的で民主主義的」なものとして定めていた事に驚く。

(上記した「善事撰集」編集者7人の人選も「有識者会議での編集手法」で画期的であった)

大事な意味として、これは「武」でありながらも「和」で社会を構築しようと「善事撰集」では考えてその内容に強く反映させていた事を意味する。
況や、これぞ「始祖施基皇子」の「青木氏」の ”「武の象徴」は「和」を以って尊ぶ”に一致している。(この事は「掟」でも更に証明される)

平安末期以降の「特別賜姓族」も、何度も記述しているが、「格式、品位、官位、官職」等の一切を同じとして発祥した事から「伝統の慣習」も副ったが、藤原秀郷流一族一門との「横の関係」もあった事、「第2の宗家の立場」もあった事から「特別賜姓族」の中で「衆議制」を採り独自に行われていた模様で何かを物語る記録は発見されない。
(菩提寺焼失が無ければ明確に成った可能性もあるが)

(注釈 「特別賜姓族」は、当初は「皇族賜姓族」とは「母方血縁族」であったが、後には、「祖先神の守護神神明社建立」を通じて「跡目血縁」を盛んに積極的に続けた事から、最終は「完全な同族」に成っているし、「融合青木氏」も発祥する程に成っている。
この事から、「初期の流れ」が異なっていたと云う差異程度と成っている。ただ、「横の関係」に「特別賜姓族」116氏には「藤原秀郷一門」と云う日本一の超大豪族361氏が繋がっていて、「第2の宗家」でもある事から、「論じる時の違いの正確さ」を出す為に表現を区別して出している。故に、上記の「律の4原則」に従って、「慣習の処罰」は独自に行っていたと考えられる。)

然し、「仕来り」は青木氏全体に及ぼす問題であって、1家だけに及ぶ問題ではなかった事から、物語る資料記録が焼失で不明と成っているが、5家5流間での大化期からの「律」を「特別賜姓族」にも提示して調整していた事が考えられる。
それは「特別賜姓族の伊勢青木氏」には、特別賜姓族116氏の中では「特別な経緯」があるのだ。
それは「秀郷の祖父」の「藤成」が「青木氏衰退期」に「皇族賜姓伊勢青木氏」に代わって「伊勢の国司代」を数年務めた関係から、秀郷の「千国の青木氏」が正式に認められた時には、伊勢では既に藤原氏として繋がりを持っていて「残留族」を残していた。その直ぐ後の「特別賜姓族」を任じられて直後に伊勢に「千国の裔」を直に配置して、「特別賜姓族伊勢青木氏」を正式に発祥させた経緯がある。
この様な「特別な経緯」から、依って、「慣習」「仕来り」の引継ぎは、直に済んだと考えられる。
藤原氏の秀郷は北家公家に成り、「第3子千国」が父に代わって「藤原朝臣族で武家」を引継ぎ「宗家護衛団」(960)を担ったが、「朝臣族で臣下族」の「近衛護衛団」(647)の「青木氏」とは担うものは一切同じであった。
「「特異な立場」も「特別賜姓族」と成った時点で同じ立場を持った事になった。
これで「皇族賜姓族」が敷いていた「慣習、仕来り、掟」(313)の導入には、「同じ立場」を持った事により差した問題では無く成ったのである。
ただ、先ず「一つの問題」は、”「秀郷一族一門との横の関係」”を「第2の宗家」としてどの様に扱うかである。且つ、「二つ目の問題」は、「最古の藤原氏」であり、青木氏の「慣習、仕来り、掟」のものと類似するものを持っていた。
この「2つの問題」を「特別賜姓族青木氏」が解決しないと、同じ「慣習、仕来り、掟」を「同じ立場」を持っていたとしても敷く事は出来ない。
立場は同じであり「皇族賜姓青木氏の補完」を任務としている以上は、「皇族賜姓青木氏」の「慣習、仕来り、掟」に順ずるのが「物事の道理」である。
このどちらを優先するのかの問題と成る。
その答えが、「特別賜姓族」と成った「伊勢青木氏」であった。
そして、この「伊勢青木氏」は「武蔵入間の本家青木氏」(「第2の宗家の本家」)との「衆議制」(調整役)を敷いた事であった。
上記の「慣習」の中の「接客の要領」に観られる様に、取分け「茶瓶」の「高瓶」(武家)と「低瓶」(公家)の両方を採用している事から、この「調整事」が行われた事が顕著に現れている。
「特別賜姓族の伊勢青木氏」が懸命に本家との間を調整したと観られる。

(「特別賜姓族伊勢青木氏」は、「入間本家青木氏」とは上記した様に発祥期と「品位、官位、官職」等一切では、「特別賜姓族伊勢青木氏」の方が上であった。この事から調整は比較的に円滑に進んだのである。)

そもそも、元々「5家5流青木氏」とは「母方血縁族」であった事から「2つの伊勢青木氏」は「氏を構成する規則」を問題無く採用し遵守したと考えられる。
「四日市の融合青木氏」の発祥もこの事を証明する物である。
「本家入間青木氏との調整」が進ま無いで、”「慣習、仕来り、掟」を遵守しない”と云う事では「融合青木氏の発祥」はあり得ない事に成る。
「融合青木氏の存在」が「氏家制度」の中ではこの事を全てを物語る。
(「5家5流青木氏」には全て「融合青木氏」が発祥して入る事が証しである。)
「四日市殿」と呼ばれていて、「四家」と同等に「合議」を採っていた事が伊勢長嶋の北畠氏の戦いの時の記録でも判っている。
上記の「仕来り」より、次ぎの「掟」はその言葉の意味からも、更に、「律」に関して敏感に取り扱われていた筈である。

・「掟」
「掟」に付いては、その呼称の意味からも「刑罰の意」が強い事が判る。
「仕来り」の「規則(罰則)」に対しては、「罰則の律」が多く絡んでくる事はあったとしても、取り入れる事は比較的に容易であった。
それは、「仕来り」は、”違反者に罰を科する為の規則”である。
然し、「掟」は、”犯罪者に課せられる法律上の制裁”である。
以上の様に、「氏家制度」の中では法学の歴史文献から定義されていた模様である。
他の「仕来り」と「掟」の「内容の差」を観て見るとこの様に分類される。(現在でも同じ)

ただ、難題は「掟」(制裁)のところであった筈で、「法より人 石は薬」の蔓延の中に「善事撰集」では、「氏家制度の確立」の為に、この「規則と制裁の内容の差」を持ち込んだのである。
上記した様に、「法より人 石は薬」の考え方が蔓延する事による「社会構造の崩壊」に対する「朝廷の危機感」が在って、その対策として「氏家制度の構築」を促す事が「最優先の政治課題」であった。その為には、「律」を強化して、「規則と制裁の内容の差」を組み入れたのである。

「慣習」=「要領」
「仕来り」=「規則」=罰則
「掟」=「制裁」=刑罰

社会の傾向に反して、この事、即ち、「規則(罰則)+「制裁(刑罰)」が「善事撰集」に大きく反映していたから「公布中止」と成ったのである。
恐らくは、「慣習の要領」や「仕来りの規則(罰則)」ではある程度納得せざるを得なかったのでは無いかと考えられる。
然し、この「社会の根幹部の決り」を成す「掟」であるが為に、危機感を持つ「持統天皇と施基皇子」は、この「規則と制裁の内容の差」だけは譲れなかったのであろう事が判る。
そもそも、その「掟」とは、あらゆる「組織」を維持する上で絶対に犯しては成らない「原理原則の決り」である。
この「原理原則の決り」は、その「氏」に取って欠かす事の出来ない変える事の出来ないものである。
とすると、これを犯せば「制裁(刑罰)」を受けるは道理で、要は「掟」には必ずそれに伴なう「厳しい律」が伴なわなくては成り立つものではない。
即ち、「掟=律」の関係があってこそ組織は成立つ。
そこで、その「掟」の一例としては、「皇族賜姓伊勢青木氏」に遺されたものとして代表的なのは、「家紋掟」である。
要するに「氏の象徴」とする家紋には、”「氏」が何らかの影響を受けて変化”を余儀なくされる事が起る。「子孫の継承存続」に関する問題を円滑に進める為の「厳格な要領」を事細かく書いた要領書であり、当然に、それには「罰則」は元より「刑罰」に主眼を置いて定められたものである。
これを放置すれば「氏」は構築されない。

そもそも、「屯」を前提とする「氏家制度」の社会構造を構築しようとする時、これを守る「掟」が崩れれば社会構造は成立たない。況して、その初期段階であった。
(詳細は「家紋掟」参照)
恐らくは、その意味でこの事が「善事撰集」に最も重要な内容として、この「家紋掟の基本形」、即ち、「氏の継承掟」(掟=律)が書かれていたと考えられる。
然し、大化期には「家紋」の概念は未だ無かった。
「家紋掟」の名称は、「氏の象徴紋」として朝廷より許された「認証氏」が用いたものであり、従って、平安末期にその名称を変えたと考えられる。
その名称を変えなくては成らない問題が「青木氏」に起った事に成る。
(第5次頃の訓戒で呼称変更)
そもそも、当初は、「氏家の象徴」と観られる場所に明示したもので、門柱、嘉門柱、上記の瓶器、牛車等に用いられたものである。これが後に「家紋」と呼称された。

>「訓戒の編集」
「平安期の訓戒の編集」はこの事からも証明出来るが、それは次ぎの事であった。
「皇族賜姓青木氏」は、上記で論じた様に大化期から「純血血縁」を基本としていた事から、その「枝葉末孫」は全てその「血流の差」が無く、「宗家方式」採用であって「分家方式」は採用していなかった。依って、家紋は「賜姓紋の笹竜胆紋」に統一されていた。
然し、「特別賜姓族」との血縁により960年代から980年代に「融合青木氏」が5家5流に発祥した。この事でこの「融合青木氏」には、「特別賜姓族側」のこの「掟」の「氏の継承方式」を採用していた模様で家紋は多様と成っている。
ただ、「特別賜姓族」との間で「跡目、養子、貰いの継承方式」を「子孫存続」の為に多用して血縁関係を結んでいた為に、「笹竜胆紋」を採用せずに「皇族賜姓族の関係族」としても「綜紋」とはするものの秀郷一門の主要紋の継承が有った。
つまり、「氏」は「皇族賜姓族側」に入り、「掟」の「氏継承方式」は「特別賜姓族側」に従うものと成っていた事を物語る。
この事からも「掟」は、「特別賜姓族の伊勢青木氏」の調整の下で「2つの青木氏」の間で検討され、両氏に調和する内容に調整されていた事を示すものである。
「家紋掟」は、当初は「氏継承掟の内容」であったが、「特別賜姓族」の発祥に依って変化し、「皇族賜姓族側」と「特別賜姓族側」とに差異が僅かに出た。
「皇族賜姓族側」にもこの時期に「枝葉末孫」(傍系)に「宗家方式」だけでは除し難い事が起こっていた事を物語っていて、結局は、ある程度の修正を加える必要が生まれた事に成った事を示し、その呼称であった。
女系は兎も角も、「枝葉末孫の跡目継承」の判断に問題が生じたと考えられる。

結局、これを筆者の「伊勢青木氏」で観て見ると、「四家」の直系からの末裔は「笹竜胆紋」を継承する事に成っている。
「笹竜胆紋」ではないが、筆者の「伊勢青木氏」で信頼され、確認出来るところでは「傍系の5氏」が発祥している。(個人保護により氏名は匿名)
事程左様に、5家5流にも同じ事象が起こり、同じ程度の傍系氏が起っていると観られる。
筆者の「家紋掟」は、「5家5流青木氏」と「特別賜姓族青木氏」の主要氏に採用されて入る事がこれで確認出来る。
この事が記録の中の表現から「信濃や甲斐の青木氏」にも採用されて入る事が読み取れる。

(近江青木氏と美濃青木氏は平安の源平の2つの戦いで滅亡し、枝葉末孫がその後に「青木氏」を復興した。)
(「特別賜姓族」では、秀郷一門の論文で詳細に論じた氏名に「藤」の付かない主要豪族の「青木氏族4氏」がある)

>遍歴の補足:「歴史的な背景」
「参考」−「心得」−「行動指針」−「家訓原型」−「訓戒完成」−「家訓完成」−「家訓編集 添書編集」
以上の様な「家訓の遍歴」を持ち続け、「青木氏」を興し維持して来たこの関係した数人の「伝統的な人物像」を、「武の象徴」でありながらも「和」を追い求めなければ成らない「特異な立場」の「長」に、”「青木氏の理想像」として追い求めたのではないか”と想像出来る。
そもそも、大化期の「始祖施基皇子」からの引き継がれた「古代密教の教示」と「善事撰集」と「何らかの口伝類」と「慣習、仕来り、掟」の類が、上記の様に次第に遍歴を遂げ、数代後の桓武期の「青木氏衰退期」に「家訓」に反映したと考えられる。
それは「桓武天皇」は「律令国家」を建設すべく「平安遷都」をして人心を一新した。
この事に依って「律令国家」の真逆の「皇親政治」の一員であった「青木氏」は排斥されて衰退した。
この時、「青木氏」は「氏の律令」に匹敵する「家訓の原型」と成るものを興したのでは無いだろうか。
何故ならば、「青木氏と守護神(神明社)」、或いは「日本書紀と青木氏」でも詳細に論じた様に、「伊勢王の施基皇子」(この時の伊勢国司代は三宅連岩床) は、上記「3人の天皇」の下に「善事撰集司」(撰善言司)に任命されて、全国を飛びまわり日本に最初の「律令の基盤」の編集を行った人物である。
「日本書紀」や「類聚三代格」等にも明記されている。その「施基皇子」の国許伊勢にもこの「律令の基盤」としての現在の「家訓の原型」成るものを設定したと考えるのが妥当であろう。
ただ、「家訓」と表現したかは不祥であるが、伊勢の国許にも自分の造ったこの「善事撰集の原型」なるものを敷いたのではないかと考えている。
”国許と云う事だけでは無く、伊勢神宮を皇祖神とし、その遍座地として定めた時でもあり、そこを確実に安定した形で伊勢を護らなければ成らないと云う使命感から、自らが造った「善事撰集の原型」を敷いた”と考えるのが普通ではないかと考える。
「善事撰集の原型」を使って「小さい氏の律令国家」を試行的に構築して試したとも考えられる。
そして、後に「青木氏の守護神(神明社)−22」で論じた様な「青木氏の変化」と共に拡大する「氏の律令」として必要な物に編集し直したと考えられる。
それが「訓」では10、「戒」では10に纏められた物であろう。
これ以外にも「長の資質」等の上記する口伝類から推測すると、現在に伝わる口伝類の10類程度と50類程度の「氏の伝統」の「慣習や仕来りや掟」(「青木氏の守護神(神明社)に明記」が定められていたと考えられる。
「家紋や守護神や菩提寺等の類」を加えると、凡そ100程度の「善事撰集」に成っていたであろう。その中から「訓と戒」類を「家訓10訓」として引き出したと考えられる。
その時期は「特別賜姓族青木氏」(960年代頃)が誕生した事をきっかけに新たに一回目の再編集としたのであろう。
この後(50年後)、直ぐに正式に「和の商い」に入る事から現在のものに成ったと考えられる。
この頃から「特異な立場」は上記した「公家衆との経緯」論から厳しさは更に増したと考えられ、その厳しさから「2つの血縁青木氏」を「公家衆の攻撃」に対し遺漏無き様にする為に、その必要性は増したと考えられる。

>「長の資質の全様」
さて、話を元に戻して、上記の様に、「善事撰集と古代密教と慣習仕来り掟」を実行するこの様な(特記)の「歴史的な背景」を踏まえると、「長」という資質に大きく関わってくる。
「青木氏」が云う「大者」とは、もとより「大者」でなくては成らない事は決して無いのであって、むしろ”「大者」であっては成らない”としている事が良く判るのである。
この様に、何も”豪傑の様な大者”と云う意味合いでは決して無く、また必要無く、むしろ、”そうであっては成らない”と戒めているのである。
これは「家訓1」から「家訓6」までにきつく厳しく訓戒している事でもある。
何故ならば、「大者」とは、時にして ”自らを忘れて自らの枠を超えて暴走する性”を持っているからに過ぎず、”「和の姿勢」を忘れ「特異な立場」を永代に絶対的に守らねば成らない青木氏には相応しくない”と判断しているからである。
然し、他が思う事には問題は無いし、自らが「繊細な人物」であればこそ、この「枠」を超える事はないとしているのであろう。
ただ「神経質だけの者」でもあっては萎縮してしまう事に成る訳で、其処で”「緻密で戦略的な先見眼」の資質”を持ち合わせている事を求めているのである。

この様に「青木氏の長」には ”緻密で戦略的な思考原理の資質”と云う「繊細な気質」が求められていたのである。
この「繊細な気質」から発せられる事が、その結果として「公家衆」を威圧する位の「度量と人格」で良いのである。これは真に「家訓2」で訓じている事でもある。
「青木氏の長」には、何も”太っ腹の大物”と云う「長」を要求していない事に成る。
これが「特異な立場」から来ている考え方であり、重要な事は「相当な精神力」や「繊細で戦略的な先見眼」は、「繊細な気質」の者が会得出来うる資質なのである。
決して、「資質ある者」、即ち、「長」としてあるべき姿は、むしろ、決して「豪放な人物」「豪傑風」ではあっては成らない事を「家訓2」で戒めている。
これは、「武の象徴」で「武」を以ってするのなら「豪傑や大者」で良い筈だが、「武の象徴」で「和」を以って「特異な立場」を全うしょうとする場合には、上記の様に「繊細な気質」で以って「2つの抑止力」で威圧して、「大者」と印象を与える事で「家訓10訓」が導く「長」の姿と成る。
この事で「武の象徴」の役目は成立つし、「和の姿勢」も成立つ事で「公家衆」からの「非難の口実」を与えない事に成るのであり、家訓への矛盾は無く成る。

>「相当な精神力」=「繊細で戦略的な先見眼」+「2つの抑止力」=「青木氏の家訓の長」
>「青木氏の武の象徴」=「繊細な気質」+「2つの抑止力」=「青木氏の長の姿」

(参考 この「考え方」は現在でも口伝で伝っている。”豪傑の様な大者(大物)を善しない”とする「家風の考え方」がある。よく親から”大者ぶるな”と口癖で戒められた記憶があるが、この「家訓の名残」であろう。
「伊勢青木氏の家風」としては代々「大者」は禁句で、「善」とはしない考え方があったがこの伝統であろう。又、「刹那主義」「喜怒哀楽」を否定する「享楽ボケ」(刹那ボケ)の「伝統の言葉」も「家訓の名残」である。
これは「神仏習合」から来た考え方が口伝として遺されているのだ。
「善事撰集」と「古代密教」と「神仏習合」と「特異な立場」の「4つの考え方」の真に「習合思考原理」で培われたものであった事が判る。
この事は「2つの青木」氏以外には起り得ない思考原理である。これが脈々として、然し、時代遍歴しながら伝わって来た「伝統」である。)

上記の経緯から考えて、「口伝の様なもの」は何かの形で文書化されていた可能性があり、「慣習類」、「仕来り類」、「掟類等」の形で、今で云う「マニアル化」していた事が状況証拠で確認出来るが、残念ながら「松阪大火の菩提寺焼失」で不祥と成っている。

「2つの伊勢青木氏」に何とか上記する様な事を検証出来ている事から、他の「4家の賜姓族」や主要な「特別賜姓族」にも「何らかの形」で「宗家筋」には遺されている筈であるが、発掘は困難と成っている。
「冠婚葬祭」時の「3つの類の内容」が他氏と異なり過ぎている事から、これだけの事を口伝では無理であるので元はあった筈である。
同じ程度であればそれは口伝でも可能であるが、周囲とこれだけ違っていれば1300年以上の継承は困難であった事も考えられる。
気に成る一点は ”世に晒す事無かれ。 晒す事に一義無し。”の「伝統の戒め」である。
これを宗家筋が守っている事も考えられる。(確かに、現在のマスコミは危険である事は否めない。)

因みに、「青木氏の守護神」でも紹介したが、「丸山城の戦い」と「伊賀の戦い」で信長に勝利したが、この時の先祖はこの様な戦い方をしたが、この時の先祖の「従四位下青木民部左衛門上尉信忠」はこの様な人物であった事が口伝として伝わっている。
何故、「伊勢攻め」の「3つの戦い」が事細かく物語の様に口伝されているのかは、この上記した「長の人物像」を模範とする為に物語風にして口伝として伝えられているのであろう。

(参考 「丸山城の戦い」の様子では真に小説物語に成っていて、枝葉末孫の家から発見されたこの書籍は焼失から免れて遺されている。この事から他の戦いの様子を書籍で遺されていたが出火で焼失した)
(これも「家訓2」を教える口伝であろう事が判る。他にもこの様な口伝が多くあるが、次ぎの「伝統品シリーズ」で紹介する。)

何にも、上記する様な”比較的簡単”であったのなら、何もわざわざ「家訓の戒め」にする必要がない筈である。
「家訓の戒め」とした以上は「青木氏の氏存続」に大きく左右する事であったから家訓としたのであって、”それが何であったのか”を当時の「青木氏の者達」は知って置く必要があった筈である。
恐らくは、少なくとも公家社会が存在する頃までで、長くても南北朝の室町期中期頃までは、「家訓10の存在意義の原因」を認識して一族郎党に周知徹底されていた事が判る。
然し、それ以降は資料や記録の解析検証の信頼度が極めて低く成ることから不祥である。
ただ、江戸期から再び資料記録の信頼度は高まりつつあった事から、明治期初期の「商記録から読み取ると、この時期には「意識の形」を時代に合わせて変化させて、再びこの認識が蘇っていた事が判る。
依って、「家訓10」の宿命的で絶対的に求められる宿命の「子孫を遺す事」の支障にならない様に、職務の遂行とは別に、一族を懸命に固めていたと考えられる。」
(「商記録」は、「全国域の商い」と、この補完関係にあった「伊勢信濃シンジケート」と、各地の「豪商豪族の関係」の経緯等から記録としてのものが読み取れる。)
それには、「公家衆などからの非難発言」は、一つは公家が蔑む「禁じ手」なのにその「商い」で「大きな財力」を固め「親政族として権力」を握っていた「青木氏」に対しての”怨嗟や揶揄や嫉妬”が強かったのであったと考えられる。
この認識を青木氏に関わる全ての者は強く持っていたと考えられる。
況して、「臣下族」でありながら、公家よりも身分、家柄、官位官職、何れに取っても上位にあり、且つ、その「青木氏の務め」が長い歴史を持ち「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」であった。
とすれば、「公家衆」に執っては相当叶わぬ上位にあるからと云って、素直に「品位の礼」を以って退くよりは、陰で「嫉妬や嫉みや怨嗟や揶揄の声」の方に傾くはこの「現世の常」であろう。

これに比して、「氏や民からの発言」は「氏上様」「御師様」と呼ばれる程に「信頼と尊厳」を勝ち得ていたのである。
民が慕う「皇祖神-子神-祖先神−神明社」を建立し、”「氏上」として品位格式に違わない「青木氏」”であった事から広く民衆から「信頼と尊厳」を受けていた。
「青木氏の守護神(神明社)」論参照
その「禁じ手の商い」で得た財力は、「抑止力」としての「シンジケート」等を構築し、それが「氏や民」に還元し潤す構図に成っていたのである。
「氏や民」に執っては「商い」は「禁じ手」でも何でも無く、むしろ極めて正統な生活活動であった筈で、蔑む「禁じ手」は論外であった。
故に「商いをする青木氏」に対して「公家衆」の様に、「氏や民」からは ”嫉妬や嫉み怨嗟や揶揄”が起る筈が無かったのである。
その「氏と民」が仮に ”嫉妬と嫉みと怨嗟や揶揄”を起すとすれば、自らに唾を吐くに等しい事に成る。むしろ、「賛同の声」があったと考えられ、その声に応えて「青木氏の商い」に依って得た利益が「氏と民」に還元されていたのである。
又、この様な家訓で導かれていた「2つの血縁族青木氏」の結束や、「2つの絆青木氏」や「一族郎党」との親密な結束関係に対する「公家衆の嫉妬」もあった事は否めない。
「特別賜姓族」の「藤原秀郷流青木氏」が「藤原氏北家」の出自でありながら、品位は藤原氏の公家衆よりは上である事への「嫉妬や嫉み」もあったのでは無いかと考えられる。
同族であり摂関家でありながらも、会えば正式に儀礼として「品位の礼」を取らねば成らない悔しい立場にあった筈である。
この「品位や格式」のみならず「経済力や武力や抑止力等一切の「支配力」が叶わないのであるのだから、「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」の域は通り越していた筈で、警戒しなければ成らない「口性」であったと観られる。
その様な「氏と民」から「信頼と尊厳」を勝ち得ていた「2つの血縁青木氏」に対して”口煩い公家衆の「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」”が強かったのであろう。
その”「嫉妬と嫉みと怨嗟と揶揄」”から起る「公家の讒言」が朝廷内に広まり、それが「特別賜姓族青木氏−皇族賜姓族への補完策」で保護を受けていた「天皇家」に対しても迷惑を掛けない様な「特別の配慮」も必要であったのであろう。
結果に依っては、事と次第に依っては、この「讒言の流れ」が非常事態に陥る事は当時の平安期末期の社会では常であった。
例として、近似する立場にあった彼の「源義家の没落」でも判る様に、この「讒言の流れ」が変位して、いつ何時「天皇の誤裁断」に依っては「源氏の没落道」を歩む事はあり得ると青木氏の者は認識していたのである。(家訓の深意が物語る)
青木氏に執ってはこの「公家の讒言」でも「賜姓族」である以上は弱点の一つである事を認識していたと観られる。

(参考 「利益還元」では明治9年までも伊勢−信濃近域や甲斐の100年騒乱で起った一揆や騒乱等の数多く事件に、一揆側の背後で経済的支援をしていた記録が遺されている。明確な記録では4度
この等に対する「公家の讒言」が「氏や民への経済的支援」に大きく影響していたのであろう。)

筆者は、この様な判断力(「繊細で戦略的な先見眼」)は「氏家制度の社会」で無くても、「青木氏の特異な立場」で無くても、組織を構成する限りに於いて「長に求められる資質」であると云えると考えている。
その様な「長」に導かれている組織は安定し伸びる。これは「現世の条理」であろう。

>「添書の示唆」
ところで、”この難しい「戒め」が全ての子孫に宛がわれた事なのであろうか、”疑問が残る。
「添書」では何も論じてはいない。”肝心な事を書いて置け”と云いたく成る。現実に当初は思った。 然し、”勝手に考えよ”の突き離す意であろう。本添書の癖である。
然し、この「家訓10訓」の全体を通じて云える事ではあるが、それは「長」に対して特に求められる「戒め」である事が判る。
「長」に示す事を考えての「添書」であるとすると、当然に考えさせて諭させて理解させる手法と思われる。
特に、「家訓1」にしろ「家訓2」にしろ「深意」として考えれば「長」に求められるものと観られる。文章は平易であるが「家訓」の言葉や字句や語句の使い方の通りの「深意」では無い事は良く判る。
特に「家訓8」までの全体を通しても概して「長」に求められるものと考えられる。
例えば、”「家訓8」のような「戒め」を経に一族全ての者に求められるのか”と云えば、現実にはそれは無理であろう。それは「考えられる者」であるのであればそれはそれとして”尚善し”とするが、老若男女夫々に成し得る資質や能力や立場は異なっている。
全体を通して敢えて出来るだけ言葉や字句や語句は平易なものを使って表現している苦労は読み取れる。
従って、一族の指導する立場にある者が少なくとも「訓の深意」は兎も角も、この「戒め」に関しては「戒の意」を会得して悟り、一族を「子孫存続の道」に導けば良い事に成るのであろう。
だから、わざわざ「訓」に「戒」を附添しているのであろう。
普通なら「訓戒」という言葉がある様に「訓」は「訓」、「戒」は「戒」として扱うのが当り前と理解する。それを敢えて「訓」に関連する「戒」を添えているのは「長の義務」をも明確にする意思であったのであろう。
”「訓」は一族全ての者に、「戒」は「長」の者に、一族の者には「長の厳しい務め」を知らしめ理解させ、「長」には訓戒を悟らしめる”と云う工夫を長い歴史の中で凝らしたと考えられる。
当然に、この「家訓10訓の配置」もこの事(「一族の者と長の関係」)を物語っているものであろう。
真さしく「家訓1」であり「家訓2」であり、「家訓5」等であろう。
家訓1 夫は夫に足れども、妻は妻にして足れ。(親子にして同じ)
家訓2 父は賢なりて、その子必ずしも賢ならず。母は賢なりて、その子賢なり。

因みに、家訓1として、 「長」は「長」に足れども、一族の者は一族の者にして足れ。
家訓2として、「長」は賢なりて、その一族の者必ずしも賢ならず、「宰相」は賢なりてその一族の者賢なり。

「夫と妻、父母と子」等の字句を「一族の者」や「長」や「補佐役・重臣」に置き換えて考えれば、何事にも事ほど左様に足りる訓である。
故に、「訓」と「戒」を一つにし、「一族の者」と「長」の「心得や考え方」を統一させた事が判る。
この様に、この「置き換え」で「家訓10訓の考え方」が、「青木氏の考え方」が、「善事撰集」強いては「古代密教の教示」の原型の「思考原理」で全て理解出来るのである。

>「家訓10の発展」
元に戻して、そもそも、「喜怒哀楽」に重点を置いた生き方を採れば、その末は「刹那主義」と成り得て「家訓1から家訓9」までが求める「心域」「度量」「心得」即ち「心の余裕」を持ち得る事は先ずは困難であろう。
その前に「平易な深意」であっても「喜怒哀楽」程度の「刹那の理解」であれば「家訓の深意」の理解は困難と成ろう。
そこで、”困難である”と云う事では、”子孫を遺す事に一義あり”とせずに、”子孫を遺す事”とすれば長い歴史の中で途切れる事が起こる。これでは上記する「青木氏の特異な立場」は果し得ない事に成る。従って、「一義」の字句に大きな先祖が伝える「深意」を持っていると観られる。
この「平易な意」程度の心得では「青木氏」としては困るのである。
「長」としては「道理の矛盾」を理解出来ずに「長」を外されるが落ちである。
「家訓の添書」がある事がその事を物語っている。
「平易な意」であるのなら「添書」は要らない筈である。この「添書」があると云うことは「深意」があると云う事に成る。
故に、この様な ”長に足りず”の「廃嫡事」が青木氏の長い歴史の中では起る事から、「氏継承問題」では「本家分家方式」の格式を採らず、又、「純血血縁の弊害排除」と共に「一族宗家方式」を採っていた一つの理由であろう。

「家訓1」は長い歴史の中で「廃嫡事」が会った事から「訓」と「戒」を第1に据えているのであって、これに対して何も無いのならそもそも「訓」「戒」にする必要はなかった筈である。
何時でも広く一族からより上記する優秀な「資質」に富んだ者を一族を導く「長」に据える事が出来る様に、一族同位同格の「宗家方式」を採用していた理由の一つでもある。
その事を物語る事が系譜を具に調べて観ると判る。
その中で現実に頻繁に当り前の様に起こっている様である。
但し、ここで上記した「資質」に付いてもう一つ注意しなくては成らない事がある。
上記した「資質ある者」即ち「長」としてあるべき姿は「豪放な人物」「豪傑風」では無い事を「家訓2」で戒めているが、更にもう一つ読み取る事が出来る。
それは、筆者まで伝わる家の口伝の一つに ”頭が良い事=資質がある事”では必ずしも無いのである。つまり、”頭が良い事≠資質がある事”であって、ここでも「世間一般の考え方」とは必ずしも違うと云う事である。
若い頃は ”何事にも違う考え方をする”と何か「違和感」を感じていた。”ちょと変わっている家風かな”程度であった。
この時も「家訓の有無」もその程度ものであって”殆ど無い”に等しかった。
然し、後で家訓に意識をし始めてから、以前に親に依頼されていた「青木氏」を調べ始めた頃から、「自分の思考」が無意識のところで ”何かに無形のもので左右されている事”に気が付いたのである。
それが、次ぎの様に成る。
”頭が良い事≠資質がある事”
この思考で、”一時が万事が斯くの如し”であった。

他に上記に関連して次ぎの様な事がある。
”「頭が良い事」は「賢い事」とは違う”である。

>”「頭が良い事」≠「賢い事」”
>”「頭が良い事」≠「資質がある事」”
>∴ ”「賢い事」=「資質がある事」”
と云う考え方なのである。

これは「家訓2」でも云っている事であり、”何も頭が良い事”を求めていない事が判る。
「賢い」であれば良い事に成る。ではどの様に違うのかは「家訓8」で答えを出している。
それは「知識と経験」との事に関わり、”頭が良い”は「豊かな知識の習得」で成し得て、経験が無くても頭は良い事に成り得るが、”賢い”は”「豊かな知識の習得」があってもこれを基にした「豊かな経験の習得」が無ければ成り得ない”とする考え方である。

依って、次ぎの様に纏められる。
>”頭が良い”=知識>経験、”賢い”=知識+経験
以上の数式論である。

青木氏は斯くの如しで、諸論文で論じた「先祖伝来の考え方」が多く「名残」として遺されている。
これらの思考に限らず「諸事の慣習や仕来りや掟」も世間一般と違う事に気付き始めた。
(何でこの様に違う事に成るのかは、上記した通り「善事撰集」+「古代密教」+「神仏習合」+「特異な立場」に起因する。)
この様な違いに気付き始めてからは、”何でその様な考え方の違いが出るのか”と疑問と成り、それを解明するに至り、益々「青木氏の研究」に熱が入った。御蔭でこの様な疑問を糸口として予想の様相がある程度就き易く成り、その方向で限定した調査が進む事で「青木氏の解明」に繋がって行った。(因みに、先祖の血液型まで判る様に成った。主流は突然変異型の血液方ABである。)

「青木氏の守護神(神明社)」の研究で、次いで進めた「青木氏の家訓10訓」の最初の「2つの研究」で走馬灯の様に記憶が蘇り、”あーあの事がこの事から来ているのか”の様に無形の「古の慣習」に左右されていた事に気が付いたのである。

(参考 復元を依頼された時から意外と親父に填められたかも知れない。明治35年に出火させて「伊勢松阪の大火」に成ったが、この時、由来書などの書籍や記録と共に、これ等の事を物語るかなりの伝統品が焼失、記録保管している「青木氏菩提寺」も焼失した。)

その後、大戦などもあり、祖父後半の代、父の代では経済的な理由で「由来書等の復元作業」は成し得なかった。兄弟親族のある中で筆者に依頼があった。その為に遺された資料は筆者が保持、口伝も筆者が多く受けた。青木氏を物語る「生仏像様」の様な重要なものは伊勢青木氏四家に散在して幸い遺されている。

(「信頼出来る状況証拠」を積み上げての「答え」も後で資料が見付かる等が在った。これらは、後刻、伝統の本家訓投稿が完了した後に、「伝統品シリーズ」として投稿する準備を始めている。恐らくこの「伝統品シリーズ」でもよりこれらの事を証明出来ると考えている。)

>「家訓10の長の定義」
兎も角も、事程左様に、口伝や慣習と共に、「家訓6」にも訓じているが「長」の定義として、言い換えれば、次ぎの様に成る。
”人を導く「資質と度量」を先天的に備わっている者”である事。
その”素材を有する者”である事。
それを磨く事で「長と成り得る者」である事。
以上の3つが「長の定義」と云える。

現在で云えば、決して、”学業の成績が良い”と云う事では必ずしも無いのである。
”良い事に越した事”は無い。最低の条件でもあるが、常日頃、親などが口癖の様に云うのは、要は、”世の中の事は 「頭が良い」と云う事では上手く行か無い。” ”資質と度量の有無を優先する。即ち、「賢い事」”であった。
これが ”「伝統ある口癖の口伝」”であったらしい。
恐らくは、これは「家訓10訓」の意味合いを汲んだ、取分け「家訓10」の”子孫を遺す事に一義あり”に強く反映されたものが、”「伝統ある口癖口伝」”として引き継がれて来たのであろう。

因みに、筆者の父は、江戸時代に育った娘で、吉宗の育ての親でお側用人の伊勢加納家から若くして嫁いで来た祖母に厳しく育てられたが、この為に950年も続いた老舗の伊勢紙屋長兵衛の伝統的な影響を受けていた事からこの考え方が強かった。
(伊勢加納家も「2足の草鞋策」の老舗「加納屋」を営む)
筆者も「長」の定義の様に、「青木氏の家訓」と「青木家の口伝」の影響を受けているのか、「青木氏の遺伝」なのかこの考え方を強く持っているのは不思議である。
この様に、「青木氏」はこれらの「口伝」や「伝統ある口癖口伝」からも「長と成り得る者の資質」を磨く事に、悠久の歴史の中で、常日頃、「磨く事への努力」を怠って居なかった事が判る。
「心域」「度量」「心得」即ち「心の余裕」を持ち得る事への努力であった。

(注記 斯くも「伊勢青木氏」では幸いに散在して、資料、記録、口伝、伝統品、商記録、慣習、仕来り、掟類等が遺されていたので、上記する様に考え方が斯くの如しで判明する。
然し、この様な考え方は、取分け「信濃青木氏」と「甲斐青木氏」と、「特別賜姓族青木氏116氏」の中でも「伊勢、美濃、讃岐、越後、尾張」の青木氏には古来より深い親交があった事から、残念ながら「資料の発掘」が不思議に少なく未だ出来ていないが、上記する「青木氏の家訓に纏わる統一した考え方」が浸透して共有していた筈である。間違いは無い。
「特別賜姓族青木氏」の秀郷一門の主要5氏と成っている「青木氏族」(永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏である。又、「皇族賜姓族伊勢青木氏」は5氏の氏名の異なる「傍系の青木氏族」が発祥している。他4家4流の氏名の異なる「傍系の青木氏族」は一部不祥の資料と添書等からも存在していた事が覗える。
この「7つの地域」には、「宗家青木氏」が現存する事は判ってはいるが、現在に至っても発掘出来ない。依って、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」からの内容で推測するしか無い状況であるので、全青木氏は少なくとも”斯くの如し”であった筈として事細かに論じて披露している。)

(参考 、筆者の伊勢青木氏には、主家「松阪ルーツ」と「名張ルーツ」と「桑名ルーツ」と「員弁ルーツ」の四家の他に、「融合青木氏」の「四日市ルーツ」があった。
現実に、系譜と資料記録等から筆者より6代前頃には「長」の座から次々と廃嫡された様な事が起ったとみられる。結果は筆者の「松阪ルーツ」方の三男が最終に松阪主家を嫡子嫡男となって引き継いでいる史実が遺されている。原因は「長の資質」であった模様である事が判る。その時の口伝物語で遺されている。実は、その詳細は、天智天皇から賜姓時に拝領した「青木氏の象徴」の「生仏像様」を巡って「名張ルーツ」家内がその「祭祀の権」を巡って争った事が原因で、一族から「青木氏の長」として相応しくないとして廃嫡され、次いで「桑名ルーツ」でも起った模様である。
「祭祀権」は「長」が持つものであり、結局は「主導権争い」をした事を意味する訳であり、「長の資質無し」として外されたのである。
その結果、筆者方の「松阪ルーツ」に戻り、その中でも三男ルーツが「長」に推されて納まった経緯である。「伊勢青木氏」には「四家」があり、その2家内で争った事に成る。
この時の様子がその運送状況や罰を受けた事の様子などが物語り風で口伝で伝わっている。
更に遡れば何度か起こっている様子である。「家訓」に添った「長としての重要性」の伝統事件である。同じ様な事が上記の青木氏の中でも起こっている筈である。
この事から大化期からはこの様な事が何度もあった事が考えられる。それほどに「青木氏の宿命」の達成には「厳しい子孫の選択」が成されていたのである。)

それだけに冷徹とも観られる他氏とは異なる厳しい生き方を青木氏に求められていたのである。
その為にも、この「喜怒哀楽」に傾きすぎた「刹那主義」を「家訓10」で厳しく戒めているのである。
この考え方は「青木氏の特異な立場」と成り得た時から求められていた筈で、少なくとも「大化期からの戒め」であった筈で、これは「古代密教の教え」でもあった事に成る。
「青木氏の守護神(神明社)−22」でも論じた様に、本訓の”子孫を遺す事の一義”は、この大化期からの「真人族と朝臣族の単一融合族」(青木氏)と成り得た時からの守らなければ成らない「絶対的な宿命」であった事に成る。
況や「刹那の戒め」は「家訓9」で論じた様に「原始仏教」−「古代仏教」の教義であって、「古代密教の青木氏の教義」であった事に成ると考えられる。
故に、「青木氏の古代密教」に関わらず、その後の「三大密教の仏説」では、「刹那主義」の原型は否定されて来た所以であろう。

>「家訓10の理解」
この様に、「訓」を補足する様に「戒」として「刹那の否定」を添えたものであった筈で、”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”とする密教の考え方は、「今」に重点を置くのでは無く、”先を見据えた落ち着いた考え方”が採られていた事を物語る。
だとすると、その意味で、現代人とは「心域」「度量」「心得」即ち「心の余裕の差」があった事に成る。むしろ、現代では、”今に生きよ 今日は今日 今日を明日に繋げ”とする様な ”刹那主義が正しい生き方だ”とする傾向がある。
この「家訓10」の様に、「刹那の戒め」として ”子孫を遺す事に一義あり”と今に主張する事は真に「異端児」と成ってしまうだろう。
その「時代の背景」に依って、一個人一氏が大きく左右される現世では抗う事は不可能であり、況して「善悪の問題」ではなかろうが、筆者は、現世に於いて、”子孫を遺す事に一義あり”が何時の世も「絶対的な摂理」であると考えている。
「氏家制度」で無く成り「個人主義」の現代でも、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」のバランスを配慮すれば、現世の”「涅槃への道」”はより「煩悩」に苛まれる事無く、より善く生きられると考えられる。
筆者は、この「青木氏家訓」を遺していた「伊勢青木氏」の宗家の者である無しに関らず、この「家訓10訓」を「事の真理」を突いた「妥当で納得出来る訓」として信じている。矛盾の事象は無かった。
取分け、「家の大事」の判断に迷う時には、この「家訓10」の”子孫を遺す事に一義あり””刹那の戒め”から最初の「思考の基点原点」として思慮を巡らして事を決める事にして来た。
振り返れば「道」としては間違えて居なかったと自負している。

(参考 筆者は技術屋であるので論理性の強い性癖もあるが、論じているのは真逆の無形の抽象論である。これも私個人の「道理の矛盾」である。)

当然の事であろうと思う。何故ならば、”時代は変わる”は、これだけの家訓を遺して来たのであるから、我が「青木氏の先祖」が解らない訳は無いだろう。
それも「伊勢青木氏」を例に取って観れば、明治35年(大正14年までは何とかこの伝統を引き継いでいた模様)までは少なくとも大化期からの「悠久の伝統」を頑なに護って来た史実がある。
依って「氏家制度」が終り、既に60年も経った大正期でも「悠久の伝統」即ち、「古代密教」の影響を強く受けた「家訓10訓」と「守護神(神明社)」の「神仏習合」に裏打ちされた「特異な立場の伝統」は厳然として引き継がれていたのである。

(江戸時代も時の政権徳川氏の紀州藩は、幕末までと大正14年ま上記の「家訓に従った氏の存在」として「青木氏の扱い」を認めていた史実が幾つもある。何度も論じた。)
この事から考えれば、先祖は「時代の変化」の「具合や様子」は充分に理解し観て来ていた事に成る。それでもこの「家訓」は遺されているのだ。
そもそも、”時代に沿わなく成った”と判断していれば霧消している筈である。
累代の先祖や祖父は周囲からも、総称は”御師さん 氏上さん”、又は、個人別では、代々”梅岳さん”等の「雅号」でも呼ばれていた。この”「雅号」”も他氏には観られない「古式慣習」で、何れかで呼ばれ親しまれ尊敬されていた事から、それを理解出来ないほどの人物ではなかった筈である。「禅問答の師」でもあった。)

(大正期紀州徳川氏を付き添いに「天皇家に挨拶言上」に参上した事が記録されている。
歴史的に江戸初期にも「挨拶言上」があった事が伝えられている。江戸中期の吉宗の享保改革の財務担当として請われた時にも「挨拶言上」があった事が資料から判るし口伝でも伝えられている。
この「3つの挨拶言上」以外にも江戸期前にもあったと考えられる。
取分け、平安末期までは定期的な「参上昇殿」が成されていた可能性が読み取れる。
鎌倉期から室町期中期には「商い」を通じて得た利益の還元として経済的に困窮していた天皇家に対して秘密裏に救援していた事が判る。
数多く「一揆等への背後勢力」としてシンジケートを使って動いていたことが商記録から確認出来る事からも、「室町文化」の「紙文化」で巨万の富を得ていた事から、「永代の朝臣族、賜姓族、臣下族」である立場上、放置する事は先ずない筈で、裏で「天皇家救済」に動いていた事は確実である。
天皇家である以上は救援の記録は遺し得ないが、時の政権も限度を超えない範囲であれば、暗黙の了解と黙認の立場を採っていたと考えられる。)

>「家訓10の証」
この事から「家訓10訓」は生きていた事の証しであり、その「家訓10」の証しは次ぎの一字が家訓として活かす事に成っていたと考えられる。647年からの「歴史の遍歴」の風雨に堪えて現在にあるのはこの「字句」が活かしたのである。
それは、次ぎの遺訓である。

>”子孫を遺す事に一義あり”
この「一義」と云う字句にあったと考えられる。

この字句の有無で大きく意味が異なる。
上記した様に、”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”とする「密教の考え方」の中で、”子孫を遺す事”では断定的であるが、「一義」の字句が入る事で柔軟さが出る。
この”「一義」の字句の有無で「時代毎の遍歴」に対応したのではないか”と云う事なのだ。
この本論の「家訓10」を家訓とした先祖は、この「一義」を入れる事で、「子孫」とする「目的の定義の幅」と、「遺す」とする「行為の定義の幅」に、その大きさを持たしたのでは無いかと考えられる。
「子孫」とは、「特異な立場」の強い慣習に縛られていた事から、「特異」であるだけに押し潰されてこの幅が無ければ遺し得なかったと考えられる。
「時代の遍歴」では、先ずは「真人族や朝臣族」とする平安期の「同族血縁族」は少なくなり「子孫」をこの「純血による同族血縁族での慣習」で遺す事はかなり物理的に無理であった筈で、その「血縁族の幅」を広げる事でより可能に成る。
取分け、平安期末期からの「母方血縁族」の「特別賜姓族青木氏」が116氏に拡がった出現はその最大の一つであり、又、鎌倉期には全て滅亡したが「朝臣族の源氏」との「血縁の幅」もその一つであり、「近江佐々木氏一族」との血縁も神仏関係(佐々木氏の資料から)の「縁」であったことが判る。
室町期から江戸期に掛けてのこの「青木氏血縁族」は、「2つの血縁青木氏」の「融合青木氏」の存在が示す様に、「秀郷流青木氏」との「重複的な血縁」があり、更には、これ等の「特別賜姓族青木氏」の「秀郷流青木氏」と血縁を進めた各地の高位族の「連や宿禰豪族」の氏族の間接的な血縁も行われた。又、「青木氏の守護神(神明社)」で論じた様に、神職関係で繋がる「近江佐々木氏」との各地での「遠縁の血縁族」との子孫存続の血縁もあった。
この様に、「子孫の幅」が広げられた事がこの「家訓10」が守られた事に成る。

次ぎにはこの「遺す」とする行為の字句の定義の幅である。
「遺す」の定義の幅では、「血縁族を繋ぐ」と云う意味合いから「直接継承の存続策」と、上記した「同族間の子孫存続策」にて遺す事の「2つ存続策」がある。
それと、「男系継承」が困難に成った場合には ”「跡目継承策」で遺す”とする「第3の跡目方策」の事も可能に成りその定義の幅は広まる。
それには「嗣子」が多い場合は、通常は仏門や神門に入れるが、入れずに上記の血縁族に「跡目養子」や「婿養子」や「貰子」などで子孫を拡げて於いて、「自らの氏の跡目継承」が困難に成った場合には、「嗣子の血縁族」から「跡目養子」を迎えて継承させて行う等の行為の幅が拡大が成されいた。
「青木氏」からは「神仏職」を本職として入る事は、自らの「守護神と菩提寺」がある以上は別であり、この職業間の血縁も進んだが、世に云う単純な”仏門に入る”は無かった。
このルーツから跡目を取る事も充分に可能であった。(陸奥域まで広がっている。)
これには、「青木氏の守護神(神明社)−22」で論じた様に、他氏と異なり「本家−分家」は採らず一家一流族の全てに「宗家方式」を大化期から採ったし、これが5家5流に採用されていた事から「跡目継承の対象族」の純血度は高く、且つ、均一性を保っていた。

(この為に、「家紋」も一切の副紋等を採らず全て「笹竜胆紋の綜紋方式」である。特別賜姓族は附秀郷一門との関係があり「本家−分家方式」は採るものの、綜紋の「下がり藤紋」をベースとしてその家紋の藤の下部に副紋を組み合わせてそのルーツの出自を明確にしている。)

本家訓にある様に、「有能な長」に重点を置いた「跡目継承方式」であって、全て一族からの優秀な者を輩出させる「嫡子方式」を大化期から採用して、他氏の様に元々限定した「嫡男方式」を基本とするものでは無かった。
上記した「特別賜姓族」や「近江佐々木氏」の「子孫存続策」との血縁も相当に純血性が高く、日本最大を誇る「特別賜姓族青木氏116氏」に拡がったのも根本はこの事からであった。

「佐々木氏族」は兎も角も、そもそも「特別賜姓族青木氏」とは、「平将門の乱」の「平定の条件」として藤原秀郷が提示した「2つの条件」の内の一つで、”「貴族に列する身分の保障要求」から「従五位下の貴族」の最下位”の要求が認められた。
この時は、「皇族賜姓族青木氏5家5流の衰退」が懸念されていて、「国策氏」としても「融合氏」としても「3つの発祥源」としての存立も危ぶまれていた。
況して、この為に「皇祖神-子神−祖先神−神明社の建立の遅滞」もあり、これを復興させる為にも、朝廷は、元来、「藤原氏北家族」で「皇族賜姓青木氏」の「母方血縁族」であった事から、貴族に列した秀郷一門に、更に、この衰退し復興を始めて来た「青木氏の補完の任務」を背負わせて「皇族賜姓青木氏」を復興させた。
そして、それを永代で秀郷一門の「宗家の第3子」にこの任を与え、初代千国が秀郷一門の護衛軍と成る事を認めると共に、「皇族賜姓族青木氏」と身分、家柄、官位、官職等の一切の「蔭位の制」に基づきその任を追加して与えた。

(「永代」とは、青木氏が絶える事が無い様に、「青木氏の跡目」が万が一欠けた場合は一門宗家から、その時の「第3子」を跡目として入れる様に義務を与えた。この結果、「青木氏族−永嶋氏等」の4氏が発祥した。)

>「家訓10の定義の幅」
この時、「嵯峨期の詔勅」に基づき「皇族の第6位皇子」に対して与えられる「朝臣族」と「賜姓族青木氏」の身分を、「詔勅の例外」として皇族外の「母方血縁族の秀郷一門第3子」にも累代に「朝臣族と特別賜姓族」に「永代による品位と格式の権」を与えたのである。
結果として、秀郷一門宗家よりも「上位の格式」を持つ「従4位下」に列せられると云う事が起った。これが「第2の宗家」と呼ばれる所以である。
「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」の「2つの血縁青木氏」はこの「品位の制」を基盤として上記した様な血縁関係を強く結んだのである。
これでは、最早、「同族血縁族」の何ものでもないのである。
この様にして、「子孫」と「遺す」事の定義の幅を広げる「一義」の字句がこの家訓に附添されているのである。
この事に付いて、大化期の初期からこの「家訓10(刹那の戒め)」”子孫を遺す事に一義あり”の家訓が存在し、且つ、「2つの血縁青木氏」はこの家訓10に従って上記する様な色々な「子孫存続の方策」を打って来た事が判る。
のみならず、更には、朝廷もこの青木氏の「国策氏」を護る為に、この様な「縦横な血縁関係」の方
策を容認していた事が判る。
この様な方策を実行するには、「朝廷が認める氏」であるが為に「朝廷の認可」が必要とした。
従って、この様な「血縁関係の輪」を作れた事は、朝廷が後押しをしていた事を物語るもので、そもそも、「特別賜姓族青木氏」の「発祥とその任」からしても、そのものが「朝廷の公的な推進策」であった。

>「家訓10」の位置付け
つまり、「家訓10」は最早、「青木氏の家訓」の域を超えて「朝廷の推進策」と成っていた事を意味するものであり。況や、これまた「国策氏」の所以であり、「国策訓」と成っていた事に成る。
これは、「3つの発祥源」「国策氏」「融合氏」「皇祖神-子神−祖先神-神明社」「古代密教氏」等の事柄が「国策の基点原点」であり、「象徴」であったからであろう。
「朝廷」や後の「幕府」が、”「国家の天皇家」に継ぐこの「基点−原点−象徴」を無視し霧消させる事は「国家の尊厳」の軽視を招く事に成る”としたからである。
この「2つの血縁青木氏」に対してのみに「朝廷と幕府」は、「嵯峨期の詔勅」の「青木氏の永代禁令」や「大化期の詔勅」の「不入不倫の権の永代付与」「祖先神−神明社建立の永代権」(江戸期初期から幕府が補完)「密教菩提寺の建立の永代権」を明治初期まで与え続けた事がこれを明らかに物語るのである。
これ等は全て「家訓10」の「子孫を遺す事に一義あり」に起因する。
恐らくは、上記した様に「刹那の戒め」は、上記する様に「国家の策」の一つにも成っていた「青木氏の子孫を遺す事」に対する「最大弱点」を「青木氏側の戒」として付加えたと考えられる。
つまり、例え「訓」を理解したとしても ”この「戒め」が全てを左右する”と考えていた事を意味する。
その意味で、この「家訓10」は「他の家訓」(1〜9)に根本的に影響を与えるものであり、この「訓」と「戒」が異なれば「他の家訓」(1〜9)は崩壊する。

因みに、筆者の家に伝わる「口伝の伝統」は、この「訓」にでは無く多く「戒」にあった。
記憶に依れば、父と祖父は口癖の様に、”刹那ボケは駄目だ””もっと先を観て考えよ””考え方に余裕と落ち着きを持て””享楽の老けるな””先憂後楽で無くては駄目だ”等の「刹那」の意に共通する叱咤を受けた。
ところが若い時は ”何故この様に云うのか、一体意味が何なのか”は良く判らなかったが、子供を持ち子供が成長し孫を見るに連れて、ある時、ハッと気が付き「家訓10訓」との繋がりが良く判った。取分け「家訓10」の事に気が付いた。
良く考えて観れば、「家訓1」や「家訓2」や「家訓4」や「家訓6」は家族に纏わる事が多い事から息子に話す事が多かったし、「家訓5」や「家訓7」や「家訓8」や「家訓9」は会社務めの部下の指導や相談事にも善く述べていた事を思い出す。
然し、「子孫を遺す事」に対する「叱責や口伝や指導」は取り立てて無かったのである。
そして、何時か子供には「他の家訓」(1〜9)の事を口癖の様に云っている自分に気が付いたのである。
「子孫を遺す事」に対する発言が無かったのは、「他の家訓」(1〜9)の基本と成っている事から、”「結果として得られる目標」である”からと認識していた事に依る。

>「涅槃への道」の数式論
恐らくは、「家訓10」をそのままに直に説いたとしてもなかなか理解は得られない筈である。
それは ”若い者の勢い”で「喜怒哀楽」に大きく左右されていて、”「涅槃への道」には、「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」であらねば成らない。”とする「密教の考え方」の中では、受け入れる側の「心の収容力」の門の入り口が開かない筈である。
筆者もそうであったが、”何を馬鹿な事を 今時、年寄り臭い”で一蹴されるであろう。
実際に最初の頃に部下の相談に乗った時も一蹴であった。
真に「家訓5」の「人を観て 法を説け」である。
この様にして、考えて観ると、”「現世の生業生様」=”「涅槃への道」”は、全てこの「青木氏の家訓10訓」で説ける事が判る。
祖父が禅問答を高野山や永平寺の高僧としていた事の書籍や記録を多く遺している事を考え合わせると次ぎの関係がある事が判る。

>”「現世の生業生様」”=”「涅槃への道」”=「青木氏の家訓10訓」

この数式論は、祖父に依らずとも筆者でも理解できる。
筆者でも理解できるとすると、「氏家制度」の中での先祖は、その社会の真っ只中で居たのであるから、尚更の様に、”「現世の生業生様」”=”「涅槃への道」”=「青木氏の家訓10訓」の数式論は比較的抵抗無く受け入れられ進んでいたと考えられる。
日常茶飯事の様に事程左様に、「大化期」からの累代の先祖はこの様にして子々孫々に言い伝えて行った事を物語る。
「2つの血縁青木氏」と「2つの絆青木氏」と「一族郎党」の中ではこの様にして「青木氏の家訓10訓」を比較的簡単に伝えて行った事がまざまざと目に映る。
累代の先祖の時代性は、「武」による時代であった事から「分身を遺す事」>「喜怒哀楽に置く」の数式論を要求されるものであった。直に説いても直ぐに受け入れられたであろう。
上記した様に「青木氏」は「武の象徴」の「特異な立場」にありながらも、「分身を遺す事」の意味は違っていたが、別の意味でこの数式論は直に受け入れられた筈である。

然し、問題はこれからであろう事が疑う事無く判る。
「時代性」や「社会性」は余りにも異なる事はもとより、今は上記の数式論は消え失せ、0=「涅槃への道」<「喜怒哀楽」に近い。
然し、近代化や科学化が起こり人の現世がどの様に変われども”「涅槃への道」”の本質は人間である限りは普遍である筈だ。
人間の内部の構造がロボットの様に変わらない限りは普遍であり、普遍である以上は「家訓10訓」も普遍である筈だ。
然し、如何せん筆者の家に於いても説くにしても、残念ながら、0=「涅槃への道」<「喜怒哀楽」に左右されている事は否めない。
「家訓10訓」の意が伝わらない事の危険性を大きく孕んでいる。
然れば、少なくとも「文書にして遺す術」を選ぶ以外に無い事は判る。
未だ古式古風豊かな一面の習慣を遺している筆者の家でも、斯くの如くの有り様であるので、「青木氏族」に於いてはその術が霧消していて、それが「0=「涅槃への道」<「喜怒哀楽」と云う事に成るであろう。

>「投稿の現状」
実は、多くの「青木氏族の現状」を観ると、「皇族賜姓族青木氏25氏」と「特別賜姓族青木氏116氏」とこの「2つの絆青木氏」と「皇族青木氏5氏」の主要氏の殆どの「宗家本家の実情」は、「守護神神明社」等は当然の如く、「密教の宗派」も然る事ながら「密教菩提寺」等の言葉さえ失し、所在も資料記録をも勿論の事で、焼失させて完全に判らなくなっているのが現状である。
相当の宗家でありながらも、仏壇も戒名も判らないとする現状の様である。
この中ではあらゆる「伝統の継承」は、最早、不可能であろう。
筆者の調査した原因とその時期は、室町時代は第1期の戦乱の焼失期ではあるが、江戸時代にはかなり蘇る事が起ったが、これも主因となったのは第2次大戦の戦火と、その後の疲弊した生活にあったと考えられる。
確かに明治期初期には、混乱は室町期と同様にあったがある程度の蘇りがあったし、記録資料は移動したに過ぎなかった。
然し、大戦の戦火は「焼失」として起った為に消えた事と、その後のこれ等の宗家本家などが農地改正等の政治的な圧政で衰退してしまった事から伝統が完全に途絶えたのである。
何故、斯くも簡単に霧消する方向に進むかは、「青木氏族」はその伝統から「密教族」であった為に「守護神」と「菩提寺」に記録保存を委ねていた事が大きく原因している。
この「守護神」と「菩提寺」が焼失すれば消えるのみと成る。中でも特に藤原秀郷一族一門の菩提寺が不祥とする事がその典型的な事象であろう。(研究しているが確定は未了)

(研究で「2つの血縁青木氏」の菩提寺には、ある「特定の条件」が歴史的にあった事が判った事から、ある程度特定出来るまで至っているし確率は高い。)

この様に調査すると、この時期は昭和20年頃で完全に途絶えて前に進まない事が起る。
大勢力を誇った瀬戸内の青木氏族でも最高で昭和20年で終わっている。
筆者の家も何とか資料復元するに最低の資料が確保できても斯くの如しである。最早困難であろう。
出来るだけ研究して投稿して遺す事に努力する。
現在は、個人情報保護に基づき資料採掘や調査そのものが難しく成っていて消えるのみである。
(判断に用いた資料記録等を公表する事が個人情報と悪用の危険性から避けた。)

>最後に
筆者の伊勢青木氏関連の資料記録から出来る限り網羅して、その上で「状況証拠」を出来るだけ積み上げて、”他の青木氏も斯くの如しであろう”とする論調で説明した。その為に何度も同じ事象例を揚げてより正確に理解を深める様に努力した。

この様に、「青木氏の家訓10訓」は「悠久の歴史」を持つ伝統ある「青木氏の訓戒」である。
「全青木氏の先祖の生き様」を表してものとして未来の末裔に語り続けて欲しい事を願うのみである。


「青木氏の家訓10訓」 完



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