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  [No.302] 「青木氏の伝統 1」−「達親」
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/08/09(Fri) 12:36:31

「達親」


さて、この言葉を聞いた事がありますか。
“たっしん“と呼びます。実は「青木氏」に大いに関係のある言葉なのです。
然し、この言葉は「歴史的な宗教の変化」で殆ど消えてしまったのです。
当然に「青木氏の慣習、仕来り、掟」の中からも消えてしまったのです。
そもそも、「青木氏と守護神(神明社)」の論文で「青木氏の慣習、仕来り、掟」が多くあって、それが何とか引き継がれて来た事を論じました。
その中の一つですが、今回から、その「青木氏の伝統」のシリーズで、この様な事柄を紹介して行きます。
その最初に紹介するのが、この聞き慣れない言葉「達親」(たっしん)です。
(この「達親」には、鎌倉期中期前にはその意味合いから両方に口辺が付いていた。投稿欄に中国の古い漢字登録が無いため受け付けない)

「青木氏」には切っても切れない言葉で、“「青木氏」を物語る言葉“なのです。
筆者は「青木氏の言葉」として位置づけています。

では、早速、“それは何故なのか“と云う事ですが、そもそも「青木氏」は、奈良期の頃から「皇祖神」の子神−「祖先神の神明社」と共に、仏道は「古代密教浄土宗」でした。
この「古代密教浄土宗」と共に、1400年もの長きに渡り伝えられて来た「伝統」の「仕来り」の多くは、その「密教」から来る「仏教作法」が多くあり、又、それに関連する「慣習」からも成り立っていました。
従って、殆どの文献には遺されていない言葉で、下記に示す様に僅かに鎌倉期の文書に見られるものです。
そこで、忘れ去られているこの「仕来り」ですので、先ず、その理解を深める為に、この忘れ去られた「達親」の「経緯と背景」に付いて説明します。

「言葉の経緯と背景」
そもそも、この「達親」と云う言葉は、インドを経由して中国から伝わった「仏教経典」の中にある「仏教用語」で、鎌倉時代に書き写された「節用文字」の書物の中にある言葉です。(中国では「梵語」にあります。)
その大意は、俗説として、「追善法要」の時に経を詠む数人の僧の中の「導師」に、「諷誦」(ふうしょう 暗誦して詠み唱える事)して貰ったことに対して、その「仏教作法」としての“お返し”をする事の「行為」を示す言葉でした。
その「行為」とは、普通は、作法としては「三宝」の高台瓶に載せた「布施物」を僧侶に渡しますが、それに対して僧侶は、「布施の趣旨」に代わる事物として、「仏の霊」を慰める「諷誦」の「読経・詠経」を行なった「仏教行為の事」を意味します。

(「達親」の「御導料」や後の「布施物」にも「渡し方の仏法作法」があって、「手渡し」は禁じられ、仏前に供えられた「三宝」に載せておく作法だけで、後は「仏前の供え物」を自らの意思で僧侶が「御裾分け」を戴くと云う形を採用していました。これは「青木氏」の「達親」の「御導きの意味合い」を、「御布施」にも”お返し”と云う形を打ち消す作法として引き継がれていた証拠です。筆者の家では現在でもこの作法に従っている。)

然し、この作法の「初期の趣旨」は、僧侶の「諷誦」に対しての「お布施」では無く、「お布施」に対しての「僧侶の諷誦」とする「仕来り」でした。
今の慣習は、この逆に成っていますが、この「布施行為」が始まった鎌倉中期以降の頃は「在家の者のお布施」に対する「出家僧侶の諷誦」でした。
「在家の布施」→「出家の諷誦」

この鎌倉期中期から始まった「布施」−「諷誦」の関係に対比して、然し、この奈良期から始まっていた「古代密教」の「仏法作法」の「達親」は、この様な「相対の関係」にはありませんでした。
「達親」と「布施行為」は、類似する「仏法作法」ではありますが、下記に述べる様に、「時代の経緯」と「仏法の背景」が異なっているのです。

そもそも、「達親」は、「青木氏」の「氏の中」の純然とした単なる「密教の仕来り」であって、身内の「僧侶の導師」、又は「僧侶の「諷儀」(ふぎ)に対する「お導き」の「返礼」と云う意味合いが強かったのです。
(慣習の中で「御導」と呼ばれる事もあった事から「諷誦」だけへの返礼ではなかった。)
「導師の御導」→「福家の返礼」

それは下記に説明する「達親」の「語源、語意」から判ります。

そして、鎌倉期中期以降に発祥した「在家−出家」の相対関係の「布施」に対して、奈良期から平安期末期までに発達したこの「青木氏」との関係は、「氏家制度」の中ですから、出家していない「身内の僧侶」である事と、「相対の関係」に無い事から、「福家」(ふけ)として呼ばれる者から渡される「達親」として位置づけられていました。
つまり、この「達親」の持っている位置づけは、「氏家制度」とその慣習下での「密教」である為に、「福家(ふけ)」と云う純粋無垢な「敬意の言葉」に対応しているのです。

「施主」と云う一般の位置付けでは無く、「福」を用いた「家」として上位の表現を採っているのです。
この「家」は、「氏家制度」下の「宗家的意味合い」を持っていたのです。
「仏法作法」から出たと考えられる事から、俗界の武家の呼称の「宗家の言葉」を使えなかったと考えられます。

奈良期−鎌倉期中期 「密教」 →菩提寺
「青木−福家」(身内)→「達親」→「導師」・「諷儀」→「追善法要」→「御導」+「諷誦」

鎌倉期中期−現在至 「顕教」→檀家寺
「施主−在家」(他人)→「布施」→「出家・僧侶」→「全仏教的行事」→「諷誦」 
 
参考
:(「福家」(ふけ)の持つ意味は、「裕福な家」とする意味では無く、「青木氏の守護神」のところでも論じた様に、「青木氏」は、「賜姓族」である為に「本家−分家方式」を採用していませんでした。「特別賜姓族」の「藤原秀郷流青木氏」でも、原則的には「本家−分家方式」を採用していましたが、基本的には「2つの青木氏」での組織の中では、家は「横並びの関係」であり、上下関係を表す呼称は取れませんでした。
そうかと云って「リーダ役の家」を何らかの形で呼ばねばなりません。
そこで、自らの氏の一族一門の「リーダ役」を「福家」(ふけ)と呼んだのです。
後に、この呼称が歴史を持つ「高級武士階級」にも伝わり、「宗家」に対して別の呼称として「福家」と呼んでいた記録があります。)

上記する関係相関図の共通する点として、その「仏教的行為」では、「諷誦の行為」と成りますが、つまり、暗誦した経文を声をあげて詠む事を「代償」とした「仏教の仕来り」でした。

ところが、当初は、この「密教の仏教的行為」は、主に、「密教の追善法要」の時の僧侶の「導師、又は「諷儀」(布儀)」に対しての「仏教作法」だけでした。
この「達親」には、「布施行為」の様に、「経済的関係」の背景は無かったのです。
これは、「密教の教義」と「氏家制度の仕来り」から来る制約で、「経済的関係」は生まれなかったのです。

然し、その後、この行為は、室町時代中期以後には、在家(主な檀家の意)の上記した「布施物」や「布施の趣旨」に対しても使われる様に成りました。

その理由は、一つは鎌倉期中期頃から「密教」を維持していた「特定の氏」が衰退し消滅して行った事と、二つ目は「密教の菩提寺方式」ではない「出家の僧」と「在家の民」の「布施行為」に依って維持される「檀家方式の寺」(顕教)が各地に多く興った事の、この2つが理由でした。
(「密教の達親」は「地域限定」でした)
この「2つ事」の為に、この「達親」の「仕来り」とそれに伴う「習慣」は衰退して行ったのです。
取り分け、「密教浄土宗」に於いては一部の「特定の氏」にのみに遺された「仕来り」となりました。
これが室町期中期頃に入ると、一部の氏を除き主に経済的理由で「達親」から「布施」に全体に変化させて行ったのです。

奈良期から平安期に懸けては40から50程度の数の「特定の氏」に依って「達親」は維持されていたものですが、ところが平安末期には「3大密教(天台宗、浄土宗、真言宗)」の「密教論争」が起こり、この「密教のあり方」に付いて一部修正されて行ったのです。

(他の2つの密教は密教性を緩めたが、密教浄土宗は古代密教浄土宗があった為に緩めなかった。)

つまり、その密教性は最も「密教浄土宗」が最も強かったのです。
中でも、この時、「青木氏」は「古代密教浄土宗」の「担い手」であった事から、「密教浄土宗」の他氏と異なり、宗教論争後も頑なにこの「仕来り」を守ったのです。
然し、この「青木氏の仕来り」も、鎌倉中期以降からは、「民衆」を巻き込んだ「布施行為」に依って維持される「檀家方式の寺」に圧倒され全体的に変化して行ったのです。
この「達親」は、細々と「古代密教浄土宗」の「青木氏」等に依って維持される「仕来り」と成りましたが、ところが、この「布施行為」に依る「仕来り」は、中級武士も含む民衆に依って維持される「慣習」へと変わって行ったのです。
「特定の氏」の「仕来り」から「民衆」の「慣習」へと変化したのです。
つまり、「在家」の「布施」に対して、返す「僧の(読経・詠経)」の「法施」の行為に成ったのです。

「密教と顕教」
そもそも、鎌倉期中期以前の「宗教の入信」は、ある「特定の身分階級」が入信できる「宗教」でした。
これを「顕教」に対比して「密教」と云いますが、従って、この時代の寺は朝廷の許可を得て、この「特定の身分階級の氏」が「独自の力」で「独自の寺」を創建して維持し、「独自の氏」から「身内の住職」を出し運営していました。この氏の「独善の寺」として存在したのがこれを「菩提寺」といいます。

(「氏の僧侶」のみならず寺を建造し管理維持するために必要とする「部:技能職人」までも氏内に抱え、その「技能頭」には「青木氏」を与えて「氏全体」を「密教集団」としていたのです。
「青木氏の守護神」で論じた様に、「血縁による2つの青木氏」と「絆による2つの青木氏」に依って構成していたのです。
従って、「血縁青木氏」だけではない事から「宗家的存在」を「福家」(ふけ)と呼ばれた所以でもあるのです。これは「氏内の呼称」であり、「氏外」からは「御師さま、(氏上さま)」と呼称されていたのです。)

特に、「古代密教浄土宗」は、仏説の「教義の秘密性」のみに至らず、上記した様に「寺の建立」などの一切の「仏法作法」を完全に独善化したのです。
当初は、「達親」は、この「菩提寺」の「特定階級」と「僧階級」の間の「仏教的慣習」であったのです。
その氏の「追善法要」では、その氏の者が務める「導師」は「身内の僧侶」ですが、周囲の寺からも集まってもらった「僧侶の諷儀」に対しては、儀礼上、「仏法作法」の慣習では ”「お礼」” と云う「作法」にはならない事から、「御導:(御導料)」の意味を持った「達親」(語意は下記に説明)と云う言葉を使ったのです。

この「密教−顕教」の関係は、本来は「教義の秘密性の有無」にあったのですが、これは主に「古代密教浄土宗」と「密教浄土宗」の「仏法作法」として独善的に強く引き継がれていました。
これは、「自然神」に繋がる「皇祖神−子神−祖先神−神明社」と、「古代密教」の「仕来り−慣習」の2つが融合していた事と、この「仕来り−慣習」を守る立場にあった「賜姓族」としての立場が大きく左右したのです。

ところが、その土台からの変化が起こったのです。
鎌倉期中期から室町期になって「下克上」が起こり、下級の身分の者も宗教に入信する事に成り、又、密教以外の宗教、つまり、「顕教」が勃興し、この時に、これらの身分の者と民衆たちの集団が集まって寺を建てて、集団の「檀家寺」を創り、一般の者が「出家」して僧侶に成り、これに対してそれを取り仕切る「在家」(総代)と云う者たちが現れました。
そして、彼等は、その「檀家寺」を「3つの布施」(法施、財施、無畏施)で維持し管理運営する様にしたのです。

この結果、「達親」は、当初は、「特定の身分階級」の「氏の菩提寺」の「仏教的な行為」でしたが、この「顕教」によるあらゆる宗派の「檀家寺」が生まれて来た為に、この「達親の作法」は一般化して大きく変化し、変質し、「達親の仏法作法」は、「達親」から「布施」としての質的な変化を起こしたのです。
この「3つの布施」は、同じ身分階級の中にある「在家の信者」と「出家の僧」との関係を保つ一つの手段となったのです。
当然に、「密教の達親」は、本来の「導師」への「仏教的行為」としても、「福家(ふけ)」の家柄では、未だ細々と遺されていたのです。
特に、現在でも稀に江戸以降の「顕教の浄土宗」において「「諷儀」に対する「御導:御導料(みどうりょう)」と云う形で遺されています。

注釈
この「仕来り」が遺されているのは少ない中でも関西地区に集中しています
ところで現在では、後の一般宗派の「顕教の檀家寺」では、「追善法要」時の「諷誦」に、「諷儀」を一段、二段と付けますが、この「諷儀」に対する”返礼作法”は「御布施」、又は個別に「諷儀料」と呼ばれています。
普通一般には「布施」で通っていますが、現在、一般の「民衆の葬儀・法要」では「諷儀」を付けない場合が多いのです。
況して、「顕教」であったとして、「下級武士」や「民衆」の「追善法要」や「葬儀」では、経済的理由から「諷儀」をつける事は先ず有り得ません。つまり、そもそも「風儀の慣習」(明治後、”風”を使っている)そのものが原則的には無かったのです。
川原や路傍の砂岩石を積み上げて土葬する民衆の習慣の中では、民衆には「墓石」を作る事そのものの慣習の概念が無かった時代に、「諷儀」を一段二段と付けて「追善法要」や「葬儀」を行なう事等有り得ません。
「墓所」を設けて「ルーツ継承の概念」が元々無く、「檀家寺」を持っていたとしてもその「檀家寺」には「先祖継承の過去帳」の習慣は無く、有ったとしても「檀家寺」ではその時に生きた人の「人別帳」しか無かったのです。
そんな「顕教の檀家寺」の概念の時代に、「諷儀」の「慣習の存在」はそもそも矛盾しています。
有り得る時代としては、江戸初期の家康の顕教の「浄土宗督奨令」からの事に成ります。
その時も、「上級武士階級」に限定していましたから、元々ルーツ継承の「過去帳の概念」の持っていた階級です。時代考証としては庶民では有り得ない慣習です。
乱世で功績を立てて、突然に出世して「上級武士階級」に仲間入りした者が多かった為に、この者等が過去帳を「浄土宗督奨令」に基づいて作った事に成ります。
まあ、出来たとして元は武士であった「庄屋、名主、豪農、豪商、郷氏」の範囲であり、もし、強引にやったとしたら、先ず周囲で「身分不相応」で周囲から阻害されて生きて行く事が出来なかった筈です。
例え、有ったとしても一般に「布施」の慣習に含めての行為であり、その中から「諷儀料」を分けて支払う事が多かったのです。
この様に、「諷儀」(風儀)とする慣習が、元々「顕教」の中に存在している事に疑問が残ります。
恐らくは、これらの「路傍の石」の言葉通り、この慣習が解けた明治以降の慣習かせいぜい江戸末期で出来上がった言葉ではないかと考えられます。
そこで 上記した事を配慮して、この「諷儀」の呼称には、「密教」の「古い地域」では、「ふぎ」と呼称し、又は、「顕教」の「新しい地域」では、「ふうぎ」と呼称する地域に分かれているのです。
そして、”ふぎ”と”ふうぎ”の呼称には時代のブランクと差が有ります。
とすると、ここで”一つの何かを物語る特質”を持っています。
「密教浄土宗」では、全て法要は「身内・氏内の作法」である為に、そもそも「諷儀料」の概念が無かったのです。だとすると、筆者は、この事に疑問を持っているのです。
”ふぎ”と”ふうぎ”の呼称の違いは何故に起こったのかであります。
そもそも、「密教」であるが故に、「導師」も「諷儀」も氏内の「身内の僧侶」である事。
とすると、”ふぎ”とする呼称があるのは、本来は、「布儀」であったのではないかと考えられます。
”「儀」を以って「布」する”と考えれば、「氏内の作法」と成り、「言葉の構成」では納得できます。
これが「顕教」に成った事に依って、仏法の根本的な状況が変わったのだから、この「布儀」が「布施」と云う言葉に変化したと考えられます。
つまり、「儀」と云う意味合いが、「顕教」に成った事により、「施」と云う意味合いに変えたと考えられるのです。「顕教」の他人が集まった「檀家方式」の作法の中では、「儀」の意は成り立ちません。
「儀」に依って「顕教方式」が成立っていたのではなく、他人の檀家の「施」(ほどこし)で成立っていたのですから、「儀」では無く「施」と成ります。依って、「布儀」から「布施」に変えたと考えられます。
「密教」では、「福家」が中心と成って「追善法要」や「葬儀」を取り仕切る仕来りで、「氏内の身内の作法」ですから、「儀」に従ったとする事で納得できます。(故に、檀家寺には「福家」の呼称は無い)
「達親」−「布儀」→「布施」−「諷儀」  (達親と布施には「密教−顕教」の仏法作法の違いがある)
「諷儀」の”ふうぎ”では、そもそも「言葉の構成」に無理があります。
”「諷誦」する事で以って「儀」する”とすることでは、「諷誦」の意味と「儀」の意味が合わないのです。
「顕教」では、「密教」の「布儀」が「布施」に変化したので、又、元々「密教」では「身内の僧侶」であるので、更には、「諷儀」の概念が無かった事から、この3つの理由から、「導師」の後ろで「諷誦」する「僧侶」に対しては、「顕教」では「諷儀」(ふうぎ)として呼称する様に新たに成ったと観られます。
「顕教」では、「他の寺」から同座して「諷誦」して貰っている「出家の諷儀僧」には、身内で無い事から、”「返礼」”をする必要が生まれます。
この時は、明らかに”「諷誦」を目的として同座して貰って輪唱”しているのであるから、合成語として「「諷儀」(ふうぎ)の呼称が生まれたと観られるのです。
従って、「密教」の総意の”「布儀」のふぎ”に対して、「顕教」の”「諷儀」のふうぎ”との、「2つの呼称」の違いが地域に依って生まれたと観られるのです。
故に、上記の様に、「密教」の浄土宗が存在した地域には、”ふぎ”、と成り、「顕教」の浄土宗の存在した地域には、”ふうぎ”と成っていると観られるのです。
筆者の家では、「布施」では無く、「達親」であった様に、勿論、「布儀」の”ふぎ”の呼称で伝えられています。
「古代密教」の「仕来り」の特異な「領域の言葉」である事から、この「経緯を確定する研究資料」が発見できないのです。


この「顕教の浄土宗」の中でも、元は「特定の氏の菩提寺」であったものが、特定の氏の衰退による経済的理由で「維持管理の背景」を失い、「密教」を早くから解き、「顕教」の「檀家寺」に成った浄土宗寺には、細々と「達親」の作法は遺されていました。
多くの「密教浄土宗」が経済的な支えを無くした為に「顕教の浄土宗」と成って行きました。

(筆者の調べた範囲では、因みに、平安期に勃興した源氏方の武士で、例えば、日本全国に大きく氏を広げた義経の家来であった鈴木氏等の菩提寺(浄土宗-明治後、「顕教の檀家寺」に成っている)等にも、調べるとこの「達親の作法」が細々と観られます。この様に「特定の氏」に細々と守られていた事を物語ります。然し、住職が世襲制がなくなった現在では、最早、伝統維持の時間はなくなっています。)

この「達親の作法」は、特に、「密教浄土宗」が「家康の宗教改革」で江戸期に廃止されて無くなり、複数の「高級武士」だけが入信できる「顕教」の「檀家形式」の「顕教浄土宗」に引き継がれたのです。
「福家」の役割を経済力のある「高級武士」の「武家」に特化(変化)させたのです。

(書物から観ると、この時に、「口辺のある達親」から「口辺の無い達親」に変わった模様です。
それは「密教」から「顕教」に変化した事により、「諷誦」の「仏法作法」の意味合いが少し異なったこと事から、口辺が取れたと観られます。この「口辺の有無」が「達親の意味合い」を物語っています。
「福家」(ふけ)の呼称も、「密教の仏法作法」に拘らず、この時に「高級武家階級」へ伝わり、それから「2足の草鞋策」の「大店の商人階級」へと深く浸透して行ったものと観られます。)

つまり、「密教の菩提寺」の言葉が、「顕教の檀家寺」と区別が無くなり、一般化した様に、この「密教」から「顕教」へ変化した「達親」も質を換えて一般化したのです。

「寺の創建権」
そもそも、江戸期まで、「寺の創建」は、誰でもが出来る行為では無く、時の権力者の許可を得た「特定の氏の特権」(青木氏等)でした。
従って、この「顕教」として「遺された達親」も再び芽を吹き出し、本格的になったのは江戸時代になってからの事でした。
「密教の浄土宗寺」が衰退して壊滅状態に成ってからで、江戸初期にこれを憂いた家康に依って、これをある「密教の慣習や仕来りや掟」をある程度緩めて、それに条件を付けて、「顕教による浄土宗」の「督奨令」を発したのです。
その条件とは、「特定の氏の財力」では無く、幾つかの「一般の高級武士の財力」を集めて管理し維持させようとしたのです。
更に、明治維新にも「苗字令」を出すと同時に、明治初期の「宗教改革」に因って、この一切の特権を完全撤廃したのです。
遂には、だれてもが入信できる「顕教」の「檀家形式の浄土宗」と成ったのです。
従って、この「達親の言葉」が使われない様になりました。
(「古代密教浄土宗」の「青木氏」だけは使っていた)
この様な経緯と背景を持った「達親」は、鎌倉期中期以前では上記した様に「御導料」の意味合いの「導師と「諷儀僧」に対する「特別の仏教的行為」での言葉でした。

「達親」の言葉の変化
そこで、因みに、この「達親」の言葉は、実は現在は、「普通の言葉」に変化しているのです。
それは、よく使われる “「達者」” と云う言葉がありますが、この語源と語意は「達親」にあって、上記の様に時代と共に、「達士」に変わり、「達者」に変わり、”「達者」”の様に何時しか別の意味に変化していったのです。
“あの人は何事にも達者だ“と云う風に使われる様に成りました。
変化した原因は、「達親」の「伝統的な諷誦」にあって、この「仏教行為」の、“暗誦した経文を声をあげて詠む事“から、人の前で僧の様に、 ”匠に朗々と歌ったり演説したり説法を講ずる者“を「達・者」(匠)と呼ぶように成ったのです。
そして、その「諷誦」を「法施」に見立てて、その者への何がしかの「報酬」としてお金(財施)を紙に包み、”おひねり”として、つまり、「布施行為」(財施)を提供した行為から、現在の意味に変化していったのです。

「達親」は、この「達者」の「達」の「匠」(たくみ)の意味と、「親」→「士」→「者」(導く者・導師・僧)の意味の「組合語」と成るのです。
そもそも、「親」(しん)の “おや“は、本来の語意はこの「士」の「導く者」の意から来ています。
この「組合語」が、この「仏教的行為・慣習」を「達親」と呼ぶ様になったのです。
口辺の有無は、“暗誦した経文を声をあげて詠む事”から来ています。
(口辺の無い昔の仏教書物もあります。室町期中期以降)
この様に、「言葉の変化」には、一つのが定型があり、取り分け、「仏教用語」が一般化したものには次ぎの様な規則性を持っています。

言葉の「4変遷パターン」
特別な階級に使われた言葉 -「特別な階級層の仏法作法」 -「原語」 -「奈良期から平安期」
武士階級に使われた言葉  -「上級武家層の習慣」      -「士」  -「鎌倉期から室町期中期」
富裕層に使われた言葉    -「中級武士と富裕層の習慣」  -「士・者」-「室町後期から江戸初期」
庶民に使われた言葉     -「庶民層の習慣」         -「者」  -「江戸期中期から明治期初期」
この様に:、「仏教原語」から「・・士」−「・・者」に一般化して変遷したものが多いのは、「時代の変化」を顕著に伝えています。

「青木氏の仕来り言葉の一般化」
さて、そこで、この「達親」が、庶民の中に「達士」に成り、「達者」と云う言葉に成り、に変化したと云う事は、この「密教の言葉」の「達親」が庶民の中に受け入れられる程の「言葉の力」を持っていた事を示します。
本来の言葉は「古代密教浄土宗」の「慣習、仕来り、掟」として継承する「青木氏」に依って細々と引き継がれている中で、一方では「高級武士階級」に引き継がれた「顕教の浄土宗」の中にもこの「習慣と仕来り」が引き継がれていて、それを江戸期の「高級武士階級」が「芸能文化」の中で、「諷誦」する「庶民の匠」に対しても「達士」と褒め讃えて経済的な支援や保護をした事から、更には、一般化した「庶民の技能」に対しても庶民がこれを真似て「達者」と云う言葉にして賛美して “おひねり“(財施)で支援した事から遣った言葉なのです。
因みに、他に「青木氏」の「仕来りや慣習」が、「達親」と同じ様に遺されている言葉があるのです。
次ぎに、青木氏の「達親」から起こる慣習として関わる言葉を紹介します。

・「御師」の浸透
それは先ず一つ目です。「青木氏」は、“「御師」(おんし)と呼ばれていた”と「青木氏の守護神(神明社)」の処で論じましたが、この「御師」の言葉は、江戸時代には、江戸幕府のいろいろな「技術や技能」を取り締まる役人の親方の「総括の最高幹部」を「御師 おし(御士もある)」と呼んでいた事が幕府の記録に遺されています。
この「総括の最高幹部」は「高級武士階級」でありましたから、これは「顕教浄土宗」の「慣習や仕来り」を引継ぎ、「顕教浄土宗の祖」の「古代密教浄土宗」の「青木氏」から学んでいた事を顕著に意味します。

恐らくは、「八代将軍 吉宗」の時に、この呼称が導入されたと観られます。
他の二人の兄弟に押しやられて、伊勢に流されて遠ざけられた吉宗は、幼少の頃、伊勢の「加納氏」と「青木氏」とが「親代わり」に成って育て、後に莫大な経済的支援をして「将軍の座」に押し上げたのですが、この時の経験を通して、この「御師システム」の「慣習と仕来り」を江戸に持ち込み採用したと考えられます。
「2足の草鞋策」を採用していた「伊勢加納氏」(伊勢青木氏と何度も血縁関係を結んだ)は、吉宗の「お側用人」と成り、この「伊勢加納氏」と共に「伊勢青木氏」は、大名扱いの「布衣の着用」を許され、財政面から「享保の改革」と「紀州藩の藩政改革」を依頼されて行なったのです。
この経緯から改革の基と成る「御師システム」が採用されて言葉が幕府のシステムの中に遺されたのです。

更に、この「御師」の言葉には、次ぎの様な形で庶民の中に浸透しているのです。
実は、「紀州の方言」には、純粋な「万葉言葉」が大変多く遺されているのですが、「万葉言葉」を研究する場合は、歴史研究者は「紀州の方言」を研究する事からはじめるのです。
それは「万葉言葉」の「方言」の中には歴史を証明する内容の言葉が多く遺されているからなのです。
そのひとつが、「紀州の方言」で、相手を最大限に尊敬して呼ぶ時は、“おんし 御師”と呼びます。
(後に、”口辺の達親→達親→達士→達者”の様に、 ”御師→御士→御者 おんしゃ”に変化して庶民化した。)
普通では“お前”に成る言葉ですが、平安時代の「万葉言葉」として、“お前”よりは、更に上の「尊敬の言葉」として、“おんし”と成るのです。(伊勢から南紀州を経由して北紀州間まで伝えられた)
現在では、かなり田舎に行かなければ聞くことは出来ない方言ですが、昭和30年頃までは一般に使われていた方言です。

この次ぎに上記した青木氏の宗家を意味する「福家」(ふけ)の言葉ですが、関西の江戸時代の言葉として使われていた言葉で、特に、商業関係の大店の店主に対して「福家」(ふけ)と云う言葉が使われていた事が判っています。
この時代の殆どと云って好いほど大店は、「2足の草鞋策」の高級武士階級の「裏の顔」であったのです。
これは、伊勢や信濃を中心として、甲斐や近江や美濃の青木氏が、「古代和紙」を殖産から販売までを大店として手がけていて、「2足の草鞋策」を採っていたし、「総合商社」をも経営していたのです。
その為に、「賜姓族」として明治3年まで、その立場と家柄が維持されていた為に、「本家−分家」の区別を採らず、その呼称を青木氏は周囲から「福家」(ふけ)として呼称されていた事が判っています。
その呼称の根拠は、大店から来るものなのか、上記した様に「仏教的呼称」から来るものかは未だ確定していませんが、恐らくは、その大元は「仏教的呼称」からまず浸透し、次ぎに商業で深く浸透したのではないかと観ています。
これが、江戸時代の資料から判断すると、関西地域で一般の商業の大店の呼称に商業関係者に多く依って使われていた事が資料から観て判っています。
「青木氏」に使われた事から「総宗本家」的な意味合いで、あらゆる階級に浸透して行った事から「商業」だけではなく、武士も含めた全体として指導的立場にある家のトップクラスの家に対してより敬意を表す総称として使われていたと観られます。
「25氏の青木氏」と「361氏の青木氏族」を通じて、「5+4地域」と「24地域」の大きな媒体から、先ずは慣習として広く伝播して行ったと観られます。
現在でも、関西の田舎の山村などには、昔の村の庄屋や名主や豪農方をこの様に呼んでいる様ですが、最早、この言葉も時間の問題で老齢化して消えてしまうでしょう。
現在は確認出来ない状況になっています。
大元は「仏教的呼称」からの浸透であった事から確認出来なくなっているのではないかと観られます。
そのきっかけは明治維新の宗教改革と庶民化が原因していると考えられます。


「達親」の言葉と「仕来り」とそれに伴う「慣習」は、「伊勢青木氏」に於いて明治35年頃まで遺されていたことが判っています。
筆者の祖父と父から「達親」と「布施」の違いに付いて教わった事があり、伊勢では明治35年まで確かに「達親」であったと云う事から、「伊勢青木氏の菩提寺消失」の時期を境に家での伝統は消えたのです。
従って、「2つの青木氏」に於いてもこの程度の頃まで継承されていた事が判ります。
入間の「総宗本家の青木氏」の存在が今も確認されている事から、この「達親の仕来り」が未だ遺されている可能性が高い事が考えられます。
関東各地の「菩提寺の西光寺」には、何がしかの記録がある事を期待したいのですが、「個人情報保護」で研究はこれ以上難しくなっています。

(全国の「西光寺の研究中」では「3つの種類」」に分けられ、この内の一つが「菩提寺」と観られる。後日解れば研究結果を披露したい。)

それだけに、筆者の「伊勢青木氏」に遺されているこの様な「青木氏の伝統」を記録として吐き出して遺して貴重な情報を広めて置きたいと考えます。

この様に「達親」の様に、「青木氏」の「仕来りの言葉」が、慣習化して一般化した言葉と成っている事の意味は大きいと思います。
「青木氏」が「民衆との達親の繋がり」をこの様な「仕来り」を通じて持っていて、その「仕来り」から興るあらゆる「慣習」が民衆に浸透していた事の証明にも成ります。
又、逆に「御師さま」や「氏上さま」と呼ばれていた様に、「青木氏」を民衆が親しく見ていた事をも意味します。
江戸末期や明治初期9年頃までに起こった「民衆の一揆や暴動」には、その裏に「伊勢や信濃の連携」や「近江」や「越前」や「甲斐」の「大店の青木氏」が経済的に関わっていた事実から、「民衆との達親との繋がり」は「青木氏の慣習と仕来り」を通じての証にも成り、これらの「言葉−慣習」で民衆にも引き継がれていた事にも成ります。
この様な「青木氏の仕来りと慣習」が、何らかの形で社会に深く浸透していた事が頷けます。
この様に、「青木氏の言葉」の研究は、「青木氏の伝統」を明らかにする事が出来るのです。

「達親」、「布儀」、「福家」、「御師」、「「諷儀」、等の「青木氏の言葉」の研究と、それに伴う「慣習、仕来り、掟」の研究を通じて、何か心がほのかに温かくなる気がします。

「青木氏の伝統」-「達親」

終わり


  [No.319] Re:「青木氏の伝統 2」−「仏説作法」
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/07/29(Tue) 10:37:48

「青木氏の分布と子孫力」−8の末尾に投稿済み分

「青木氏の伝統」−「仏説作法」として再投稿する。


(伝統 2)

「仏説作法」
(密教作法)

筆者の「伊勢青木氏」の生活の中にも、何気なく行ってる「慣習仕来り掟」は、外から観れば、”古来のもの”と観られる。
筆者はそれを当たり前だと「無意識」に受け取っていた。
子供の頃から、”何か違うな”と思いながらも、その「無意識の感覚」が強く打ち消していた傾向があった。
今、思えば、「部屋の間取り」や「構え」や「大きさ」や「家具」や「調度品」や「装飾品」や「作法」等は確かに違う事が判る。
例えば、「達親の論文」で論じた様に、「祭祀の作法」の”「達親」”等はよく調べると、「古代慣習の継承」であったりする。
この様な事が、未だ、沢山ある筈で、「無意識」を「有意識」にして、これから「伝統」を掘り起こして行く計画である。
何せ、相当伝授されたが、その”有意識の持った人”が居なくなっている現状である。
何とか「違い差」を見つける事と認識している。そこから検証を進めて投稿する。

後に、詳しく伝統の論文として、投稿する予定だが、「無意識」を「有意識」にして、因みに一つ簡単な例を挙げる。

祭祀で、仏様に、線香を捧げる。
この時の”「仏法作法」”が異なっていて、”「古来の密教浄土宗の作法」”が遺り継承されている事がある。

「仏説作法」
それは、先ず「仏」に向かって挨拶をする。
「数珠」は、親指に賭ける。ところが一般は親指以外の4本の手に賭ける。
そして、「粉の線香」を、先ず、一摘みして、一般ではそのままに香炉に入れる。
ところが、この時、その一摘みの線香を、香炉に入れずに、「額中央」に当てる。
その後、に香炉に入れる。
これを、3度繰り返す。

これを他の宗派では日蓮宗は一度で、真宗は2度にして、額に当てずに、直ぐに香炉に入れる作法である。
ここで、重要な異なる作法が2つある。

”「親指に数珠」”を掛けるのは、「親指」の持つ意味から来ている。
この”「数珠作法」”は、他の宗派にもあり、「自然神」をも崇め、「神仏合体」で信仰する「修験道師」にも、一部作法として遺されている。
これも「古来の作法」であったと観られる。
古来は「現在の数珠のサイズ」の様では無く、現在は小さくなかった。
古来は「108の球」を連ねた「長い数珠繋ぎ」であったのです。それを両方の親指に賭ける。
そして、その「長い数珠」を両手で擦り合わせて、”「擬音」”を出す作法であった。
この”「擬音」”で、「仏への合図」とした。
これは現在では無く成って居る。
青木氏の中でも無く成って居るが、”親指に賭ける作法”だけは遺されている。
ところが次の作法では異なっている。

「作法の相違点」
A 一つは、回数が3度にする作法
B 二つは、額に当てる作法

これらには、2つの作法には、「古代密教浄土宗」のみ「本来古来の姿」が「仏説根拠」を伴って遺されている。

先に、Bに付いて、この「額に当てる」とは、何なのかである。
それは、古来より、「額中央」に、人間には、「瘤」の様に膨らんだ「複眼機能」と云うものがあった。
現在は、その機能は退化して、大脳の下に10ミリ程度の大きさで押し込まれている。
これは「前頭葉」が進化して大きく成った事により退化して、更に、存在場所が圧迫されて奥に引きこもった様に成って居る。

ここで、この「複眼機能」は、ここに「無我無心」にして「全神経」を集中させると、右脳より「ベータ波」を飛ばす事が出来る。
これは、「未来」を予見し、「過去」を悟り、「現在」を見据える事、の出来る「予知機能」を有している。
この「予知機能」を使って、「過去の人」と成った「仏」に対して、「未来」に生まれ変わってくる「仏」に対して、「現在」の世に未だ居る「仏」に対して、「信号」を送る事が出来る。
(現在、中国では、現実性を以って研究が進んでいる。「中国山岳民族」に、未だ、この「複眼機能」を有している「少数民族」がある。)
この「信号」の「ベータ波」で、「三世の仏」に対して、”「会話」をする事が出来る、”と信じられている仏説である。
この「仏との会話」は、例えば、”生前中は大変にお世話に成りました。ありがとうございます。”との事が出来るとして、この「仏説作法」が遺されているのである。

この「3度」とは、「過去、未来、現在」の「仏」に対する「三度」と成っている。
これが、「古代密教浄土宗の仏説作法」である。
これは、一概に、”迷信”では無く、実は、”生態学的に根拠のある現象”なのである。
この「複眼機能」は、現在も「動物の本能」として持っているもので、人間には退化している。
ところが、未だ、人間の元と成る「女性」には、「母性本能」の一輪として遺されている。
そして、この”「機能」”を鍛える事で、「予知能力」は高まる事が判っている。
特に、「男性」は全く働かないが、「女性」には未だ現実に持っている。
現実に、右脳から発する「ベータ波」が「母性本能」の中で高く成ることが判っている。
「女性」が子供を育てる時には、現在も、この機能の一部を使っている。

これが「古代仏説」として、その「作法」が、「三世の仏」に「話しかける手段」として、未だ「青木氏」の中で遺されているのである。
これは、「古来の仏説」では、”「仏」が死する事は、「肉体の消滅」 を意味し、「霊威」は一定期間遺る”とする「仏法」である。
従って、この遺された「霊威」に対して、上記する”「古来の仏説作法」でのみ話しかける事が出来る”とした説法である。
その”「霊威」の存在する期間”が、”「現在過去未来」の何れにか存在する”として、「3度」と成って居るのだ。
その「祭祀の目的」、例えば、「葬式」では、「現在」に存在するとして「現在」を、「法事」であれば、「過去」に存在するとして「過去」をと成る。
「常の祭祀・お勉め」では、「未来」(「仏」が生まれ変わる)に存在するとして「未来」に向かって、「仏との会話」をするとした仏説である。
一切の「祭祀の作法」として、「密教浄土宗」では、総括して「三界の3度の動作」を繰り返す作法と成っている。
これを、この「動作の回数」と「額の所作」を省いて、その「宗派の考え方」で、「過去現在未来」の何れかの「三界」に対して1度、2度とした。
これが、「顕教の浄土宗」では無く、「密教の浄土宗」の中に遺されている「密教の古来作法」の一つである。
以上の事を「根拠」とした、上記した「古来作法」なのである。

以上、「達親」に続き、「伝統」の一つを披露した。

「伝統」−3に続く。

>終わり


「青木氏の伝統」-「道標行燈」に続く。


  [No.320] Re:「青木氏の伝統 3」−「女紋」
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/07/29(Tue) 11:11:00

「青木氏の分布と子孫力」−12に関連投稿済



「伝統 3」

「女紋」

さて、「家の家紋」には、一般に使われない「女紋」「女墓」等の”女系に関する「慣習や仕来り」”があって、「青木氏」は、この「女紋」や「女墓」等の「女系のステイタス」も継承する慣習を持っていて、それに多くの「慣習仕来りや掟」が付随していた。
この「女紋」や「女墓」の事を知識として持ち配慮して検証しないと、ルーツなどには判明しない事が度々に起こるし、間違える事が出る。
そこで、今回の「摂津青木氏の検証」には、次ぎの「女紋」として家紋が大きく左右した。
以下は、この情報提供を受けて、「摂津青木氏の判定」がより確実となった。
なかなか、現在では、この「女紋」「女墓」等の習慣を継承している青木氏でさえ少なくなった。
「青木氏の慣習」に習って、勃興した上級武家もこの慣習に習って継承した経緯がある。
この「女の慣習」と云うべき「慣習仕来りや掟」は、主に江戸初期まで維持されたもので、江戸期に入って「女性の立場」は社会の中で抑え込まれた様な環境に成って行った。
その為に、これらの慣習は、「特定な家柄筋」の中で維持されてきた。
特に、青木氏には、「女紋」は主に「儀式祭祀」の中で昭和の中頃まで遺されていた。

そもそも、「皇族賜姓青木氏」は、家紋は「象徴紋」の扱いである事から、支流傍系等の事を表す手段として「丸付き紋」は一切使用していない。
但し、「象徴紋=総紋=家紋」となるが、この為に、「副紋」は使わず「女紋」を慣習として用いた。
他氏には観られない「女墓」も同じ考え方である。
この事は本論の上記でも論じたが、「特別賜姓族青木氏」は次ぎの様なこの慣習を家紋に直接反映させる方法採っていた。
特別賜姓族は「副紋」を使う代わりに、原則として、「丸付き紋」は使用しない仕来りと成っていた。
文様が元より「丸付き」の文様として出来た家紋の場合は例外とした。

先ず、大別すると次の様に成る。
A 氏一族一門全体を示す「総紋」がある。
B 家のルーツを個々に示す「家紋」がある。
C 家の副ルーツを示す「副紋」がある。
D 家の女系ルーツを示す「女紋」がある。
F CとDを兼ねた「副紋」=「女紋」がある。

Aは、「下がり藤紋」となるが、「総紋」をそのものを「家紋」とする事は、「総宗本家」と、それぞれの「流れ」の「宗家」「本家」までが「家紋」として継承する仕来りである。
従って、「総紋」を「分家」は家紋とは出来ない。同様に同じ目的の「藤原氏の氏名」もこの「仕来りの内容」に従っている。

Bは、「総紋」だけではその子細なルーツを示す事が出来ない為に、先ず「家紋」を用いて判別させる仕組みで「流れ」を示す仕来りである。
この場合は「総紋」の中に文様として組み込んで使う手法と別に分けて使う場合がある。
特に、枝葉から観て、判別要領は次ぎの様に成る。
イ ”「幹部」に位置する独立性の高い「流れ」の「青木氏」の場合”は、「組み込み方式」を採用する仕来りである。(本家筋)
ロ 逆に、”「抹枝」に位置する流れの青木氏の場合”は、別に分けて使う「分離併用方式」を採用する仕来りである。「併用紋」である。

特に、イの「組み込み方式」の家紋は、”独立性の高い「宗家筋」(本家筋)の流れの家柄”を示す。
例えば、「組み込み方式」では
「讃岐藤氏の青木氏」の「下り藤紋に雁金紋」
「武蔵藤氏の加藤氏」の「下り藤紋に巴紋」
「尾張藤氏の柴田氏」の「下り藤紋に一文字紋」
「結城藤氏の結城氏」の「下り藤紋に左三巴紋」
等がある。
「分離併用方式」では、
「下り藤紋 違鷹羽紋」がある。
「下り藤紋 州浜紋」
等がある。

Cは、藤原氏の様に全体で361氏にも枝葉末孫が拡大している場合、その青木氏が116氏にも拡大している場合は、B方式では未だ子細は充分でない。
そこで、更に、この「流れ」を更に判別する方法として、Cの「副紋」を用いた。

例えば、次ぎの様なものがある。
秀郷一門の「主要家紋8氏」の中の家紋で「家紋主要8氏」が用いたものである
「違鷹羽紋に一文字と開き蛤紋」の様に、「一文字紋」と「開き蛤紋」を「副紋」として用いた。
これは、「分離併用方式」の”併用する方法”とは違い、これは、別の「第二家紋」扱いで使用した。
「左三巴紋に釘抜紋」「左三巴紋に三角藤」
「左三巴紋に上藤丸紋」「左三巴紋に蛇目紋」
「檜扇紋に隻雁と五三の桐と丸に三引紋」
以上等が「第二家紋」扱いの副紋である。

依って、「一般の氏」には、この「Cの副紋」(第二家紋)は原則的に用いられていない。

a 「北家藤原秀郷一門一族」の361氏に成る様な「子孫力・子孫拡大」を起こしていない事
b 「高い格式」と「同族血縁」が無い事
c 「青木村」の様な「権威村」を構築出来ない事
以上等が原因して「Cの副紋」は用いていないし、用いられない。

(「氏族」では無理に誇示する為に用いたものもあるが、「姓族」そもそもない。)

このBの「分離方式併用方式」の「副紋」は、「家紋掟」に依って、「跡目継承の問題」で「変紋」を余儀なくされた”本家筋が用いた手法”である。
従って、”分家、支流、傍系”には、この「Bの副紋」の「分離併用方式」の「副紋」は原則ない。
そもそも、重要な事は、”「副紋」を持つと云う事”は、その「流れ」の”「本家筋」以上の格式の家筋を示す事”を意味する事に成る。
要するに、「Cの副紋」は「第二家紋扱い」の家紋である。
AとBとCの家紋方式を以って秀郷流青木氏の家筋は解明できるのである。

Dは、AとBとCの家紋に対しての「男系ルーツ」に対して、「女系ルーツ」を明示して、その「ルーツの正統性」を誇示する慣習である。
一見して、「Cの副紋」と間違いやすいが、違う所は、この家紋は「女が使う家紋」で、跡目と成る嫡子嗣子は用いない。
この「女系のルーツ」を誇示する為に、「女系側の家紋」を用いる。
しかし、これにはある「一定の仕来り」があって、”どの段階の女系のルーツの家紋”を「女紋」にするかの要領がある。

「女紋要領」を下記に説明する。
「女紋」は先ず、その家の跡目の「嫁のルーツ」の家紋を、その嫁が「実家先の家紋」を用いる。
跡目を譲った後のその家の姑には、下記の「2通りの慣習」がある。
要するに「女紋掟」と呼ばれるものである。

「女紋掟」
1の方法は、その姑の実家先の家紋を用い続ける。
2の方法は、その姑は夫の家紋に戻る。この場合は、孫の跡目が出来た事が条件と成る。

「2の方法」
これには、重要な「青木氏族の賜姓族の役の考え方」が存在する。
それは、”子孫を遺す”と云う定義が、”「孫」の跡目が出来た事”を以って、”子孫を遺した”とされる。
「息子の段階」では、”子孫を遺した”と云う考え方を採らないのである。
息子の跡目の段階では、まだ ”子孫を遺した”とは云わない考え方である。
何故ならば、これは、”子孫を遺した”とする「考え方の根拠」は、「分身説」を採っているからである。
これは、「古代密教浄土宗」の考え方にあり、「過去ー現在ー未来」の「3世」を「一つの世界」として捉えている。
この「三世の考え方」では、この「3つの完成」を成し得て、初めて”分身を遺した”とする考え方なのである。
つまり、子供が出来た段階で、「自分の位置」は、「現在の位置」に居て、子供は「未来の位置」にいる事に成り、「現在ー未来」のプロセスが完成する。
しかし、更にその子供に「孫」が出来たとすると、「自分の位置」は、「過去の位置」に移動して、子供は「現在の位置」に、孫が「未来の位置」になり、遂に「過去ー現在ー未来」の「三世の形」が出来上がる事に成る。
この時、初めて、”子孫を遺した”、”分身を遺した”、とする考え方である。
「三世慣習」と呼ばれるもので、「青木氏」に於いては全て、この「世の事」はこの「三世慣習」に沿って考えられる。

この「三世慣習」の根拠は次ぎの様に成る。
例えば、「自分の子供」が結婚して、「孫」が出来たとすると、「自分の子供」は「嫁」に引き渡して、「子供」を引き続き ”次ぎの段階の養育の役”をこの「嫁」に任す事を意味する。
息子の「第一段階の養育」は終わり、次ぎの「第二段階の養育」に移る。
この息子の「第二段階の養育」を「嫁」が引き継ぐ。
「孫」が出来れば、「未来の子供」(孫)と「現在の子供」(息子)の”二つの子供”を「嫁」に育ててもらうと云う考え方をする。
従って、「孫」は「嫁の者」では無く、未だ「姑の者」として考えて、”「育てて貰う」”と云う考え方をする。
従って、「嫁」の位置づけは、「嫁」では無く、「娘」の考え方に位置する。
これは、上記した様に、「同族血縁の仕来り」から来る考え方に成る。
「家の子供」は「氏の子供」であって、「同族」であるが為に、取り分け、「嫁の位置」づけは「外者の感覚」より「内者の感覚」「同族の感覚」「縁者の感覚」の方が強かった事に依る。
「娘の感覚」の方が強かった事になるのである。
結局は、つまり、「子供の養育」の「バトンタッチ方式」である。
「親の姑」から「娘の嫁」へのバトンタッチである。
当然に、故に、この「バトンタッチ」は”「段階の変化」を来した事”だけを意味する。
「自分の子供」の段階では、「子供」の「基礎養育段階」(第一段階)であり、「嫁」に引き渡した「子供の養育」は、子供を遺す為の「成長養育段階」(第二段階)と考える。
この時、「孫」が出来れば、その「孫」と子供(息子)とは、「嫁」に依って「家の子供」として育てられる。
そして、その「孫」に子供が出来れば、「嫁」は「人の目的」、即ち、「2つの養育段階」の目的は、”果たした”と云われる事に成る。
この時、祖祖母に成った自分は、”「人生の目的」を果たした”と云われることに成る。
「家」の取り仕切りは、「姑」から「嫁」に一切引き渡されるのである。
「嫁」は、「人の目的、」「2つの養育段階」の達成を以って、「家の人」と成った事に成り、「氏の家紋」を引き継ぐ事に成る。
この時、「姑の自分」と「嫁」は「氏の家紋」を使う。
その前は「嫁の段階」では、未だ「実家の家紋」なのである。
「嫁」は「過去の位置」に成った時、「2つの養育段階の役目」を果たした事を以って、「氏の人」と成ったと評価される。故に「氏の家紋」の使用を許される。

これは、「孫」もその「家の子供」とする考え方であり、「嫁」もその「家の娘」に成ったとする考え方である。従って、「青木氏」には、「嫁」という概念が低いのである。
この「嫁の概念」の低さは、「同族血縁」を主体としていた為である。
他氏から来た「嫁」でないからで、その差から来て来るのである。
子供は、同族の「氏の子供」の感覚であるから、「嫁」も「氏の一族一門や縁者」から来ているので、「姑」にとっては「嫁」と云うよりは「子供」の域の感覚にある。
「嫁」は、”「家の娘」化の感覚”が起こるのである。
「青木氏」では、「子供」(現在の子供)も「孫」(未来の子供)も含めた「子供の定義」の中にあり、要するに「子供」と成る。
「孫」の位置は、あるにしても「子供」の概念の中にある。
従って、「青木氏」では、「跡目」や「嫡子」は、この孫も含めた「子供」の中から選ばれる事に成る。
更には、「青木氏の賜姓族」は、子供は「家の子供」では無く、「氏の子供」として考える。
「各家の跡目」は、「各家の子供」を直接に「跡目」とする考え方では無く、「氏の跡目」として「跡目」が無い家には、「氏」の「他の子供」を「別の家」に廻して「跡目を継承する方式」を採用する考え方である。
「氏の子供」は、「自分の家の子供」であるとする考え方を採る。
これは「血筋の純血度」を一定に高めて、それを広域な範囲にして置く「血縁戦略」である。
こうする事で、「家の断絶」や「氏の衰退」は無くなるとしたのである。
この様にして、如何なる事由が在ろうとも、絶対に、「氏の継承」と、「氏の純血の血筋」と、「氏の名の継承」と、「氏の役の継承」とを守り通す為に、「古代密教浄土宗の考え方」を「青木氏子孫存続」の「システムの考え方」に取り入れたのである。
これには、「3つの発祥源の立場」を守り通さなければならない「絶対的な役の戒律」があった事に由来する。
この「跡目となる子供」は、上記の「三世慣習」の考え方に従ったのである。
この「三世慣習」から、氏の「家間の差」が無く成り、「分家、支流、傍流」の感覚は無く成ったのである。
当然、その「家間の差」が無い為に「家紋」は無く、「家紋」の元と成った「象徴紋」の侭にあるのである。
ここには、その「システムの維持」に絶対的に不可欠な事は、「女系の血縁維持」も同じ様に保つことが必要と成る。「男系」だけでは成し得ない。
この「三世慣習」は、むしろ「女系システム」と云っても良い。
「青木氏の家訓10訓」の「家訓1」と「家訓2」にある様に、これを重視している。
「女系」が「三世慣習」を作り出しているから「女紋」が生まれているのである。
「三世慣習」からすると、つまり「家訓1」「家訓2」からすると、「男系」はあくまでも「あらゆる面に使われる一種の道具」である。
それを使っているのは「姑ー嫁ー娘」の「女系」であり、「2つの養育段階」は「女系」によって左右される。
「氏の発展如何」は「三世慣習」の「女系」によって決まる。
故に、「女」への考え方も異なるが、「女紋の存在」そのものが他氏とは違って存在する。

もう一つの「女紋の存在」を決定付ける慣習がある。

「家紋の存在」の慣習
「娘」が藤原氏等の同族の他氏に嫁ぐが、「同族血縁」で嫁ぐかの如何に関わらず、その娘の「第一嫡子」は、「実家の跡目継承の資格」を有している。
これは、天皇家や皇族の継承の仕来りと同じである。
「女系天皇」があるのはこの「仕来り」に従っている。
つまり、これは当時の「血縁の概念」は、”「娘」は男子と同様に「半分の血筋」を有している”と考えられていたからである。

そもそも、現在では、「遺伝学」が発達して、父と血液型を同じくする場合は、その父の遺伝子の85%も子供は維持している事になる。明らかに殆ど”分身”である。
「青木氏」は、上記する様に、早くからこの「分身説」を採用している。
但し、「女子」である事から、父の「男子の遺伝部分」は無いので、80%前後には下がるが、血液型を同じくとする場合は、「息子の血液型」が「母型」に成っていた時よりも、遺伝部分は多く遺伝している事になる。
古来は、半分と考えられていて、男女同じと考えられていた。
そして、血筋として、特に娘の「第一嫡子」が高い継承率を持っていると考えられていた。
この為に、この嫁ぎ先の娘の「第一嫡子」は「実家の跡目継承の資格」を持っていると考えられていた。これは「遺伝学的には合理性」を持っていた慣習である。
この場合、正当な男子の「実家の跡目継承」が成立出来ないとした場合に、「嫁ぎ先の娘の第一嫡子」を「実家の跡目」に入れる事は可能としていたのである。
この場合には、「第一嫡子」は「嫁ぎ先の跡目」でもある。
これでは、「嫁ぎ先」の方でも「跡目の問題」も生まれる。
そこで、室町期までは、嗣子の中から跡目にするには、「優秀な嗣子」を選んで継がせる事が優先されていた。

しかし、江戸期では、「血筋」と云うよりは、「跡目騒動」を無くす目的から「長男が跡目」を優先する事に成る事が決められていた。
これを「家康」が「家光の跡目騒動」で決めたことである。その後、これに習って社会は長男が跡目を継ぐ仕来りと成った。
「嗣子」の中から、優秀な者を「嫡子」にする制度は次第に消えて行った。
これは、
1 江戸期の安定した社会変化で、「同族血縁」を制度として取り入れている氏が少なく成った事。
2 戦乱の世に嗣子が戦いなどで減少する中、嫡子を長男とすると跡目が無く成り騒動の下になる   が、この必要性が無く成った事。
3 戦乱で家を維持する為には、嗣子の中から沈着冷静、勇猛果敢、剛勇豪胆な人物を選ぶ必要が   あったが、安定社会ではその必要性は無く成った事。
4 安定した社会では寿命が延びて嗣子を多く設ける必要性が低下した事。
5 特定階級を除き「妾」による嗣子の必要性が低下し一夫多妻の制度は衰退した事。
6 俸禄制度に代わって、嗣子を多く設ける事の負担が増した事。
7 30年に一度の大飢饉多発発生で経済が疲弊し、嗣子を多くする事が出来なくなった。

ところが、「青木氏」は、「二足の草鞋策」で経済的に潤い、この「江戸慣習」に従わずに、上記の「独自の伝承」をまだ護っていた。
それは、むしろ、「商いと殖産」を手広くし、前段に論じた様に、江戸幕府に貢献し、交易を盛んにした為に、むしろ、嗣子を多く必要としていたのである。
前段−5、6で論じた「青木氏」の「2つの新しい氏の発祥」もこの辺の事も影響していたのではとも考えられる。
これらを維持する為には、氏の家間の差をより無くし、跡目を確実に家間に振り分けて、「氏の跡目」を確実にしなくてはならない状況と成っていた。
つまり、江戸期に於いても、社会とは「逆の現象」が起こっていたのである。
上記の様な、「同族血縁」や「慣習仕来り掟」をより厳しく護る必要が出ていたのである。

「青木氏」は、「男系」のみならず「女系」に於いても、可能な限りに「同族内の血縁」を「従兄弟の段階」まで優先させていた。
依って、”他氏に嫁ぐ”と云うよりは”「遠縁に嫁ぐ」”を優先していた。
その意味では、娘の「第一嫡子」には、抵抗感は少なく、「同族血縁の範囲」として「氏の子供」を前提として、盛んに用いられていた。

そもそも、現代の生物学では、人間の元は、「男女の一対」が存在した訳では無く、「ミトコンドリヤ」から、4回の進化を遂げたが、元は「雌」であった。
「4回目の進化」の最終は、「雌の機能」の中の「雄の機能」を分離して、「雌の存続」を優先して図る為に、天敵から身を護る役割として「雄機能」を分離させた進化を遂げた。
より多くの「雌」を遺す事に依って、「雄」が仮に1でも子孫は繁殖してより多く遺せるのである。
しかし、この逆は成り立たない。
(この事も「雌」であった事を示す証拠である。「雄雌一対論」では同じ「生存能力」を持たした筈である。)
この方式が最も子孫を多く遺せる事と成って、「人族」が最も繁殖したのである。
当然に、故に「人遺伝情報」はオスには無くメスに持っているのである。
そのオスが元メスであったとする「名残」がオスには、4か所遺されている。
それは「乳首」と「へそ」である。
この二つは在っても全く機能していない。(後二つは不適切用語になるのでここで論じない。)
当然に、逆にメスにはあるが、オスには無いものが多くある。
ところが、逆に、オスには有るが、メスには無いとするものは無い。
オスだけには確かに有る様に見えるが、それは「雌の生理機能具」が全て「オスの能力」を充分に発揮させる為に、「オス様」に変化させたものなのである。
元の原型は全て「雌の機能」なのである。

因みに、「雄」が「雌」から分離したとする典型的な例を敢えて述べるとして、子孫を遺そうとする「人間族の性欲・生理機能」がある。
「雄の性欲」は、”元の「雌」の母体に戻ろうとする本能の変化”であると云われていて、その「性欲の行動」の全ては、この元の雌の体の中に戻ろうとする行動パターンに分類される表現である。
ところが、「雌の性欲」は、あくまでも、”子孫を遺そうとする本能の変化”であると云われ、分離させた雄機能を雌の中に戻そうとする本能の変化である。
この「行動パターン」の全ては分類される表現であって、この原理から外れる行為は一切無い。
つまり、この「性欲の原理機能」からも、元は「雌」なのであって、「雄」は、雌のその”分身”で、「子孫存続の道具」である事にすぎない事に成る。
これは「体の機能」のみならず「脳の機能」に於いても云える事である。
因みに、「人族」に必要とする同時に二つの事を考えられる能力の「女性の連想能力」(子孫存続に必要とする母性本能に由来する)は男性には無い。元は雌であった事を物語る機能である。
右脳を積極的に使う機能を持ち、「ベータ波」を高めて察知する機能は雌に持っているが、雄は低い。これも元は「雌」であった事を物語る機能である。
又、「複眼機能」は女子には遺されているが、訓練すればこの機能を復元できる状況にある。
しかし、男子には僅かに遺されてはいるが、最早、乳首やへそに類していて訓練如何に関わらず働かない。
これも元は「雌」であった事を物語る機能である。
他にも多く説明できるものがある。ただ、これでは人族の男子は生き残れない。そこで、これらの女子が持つ機能に匹敵する様な「脳」を”脳の一部””を変化させて進化させたのである。
例えば、「左脳の情報脳」の一部を進化させて、複眼機能と連想機能に匹敵する様に、「左脳の情報」を基に「予知する能力」の脳を作り上げたのである。これを左耳の上に「中紀帯」と云う「進化脳」を作り上げたのである。

ここでも、「青木氏」の「子供の分身説」「三世慣習説」は合理性を持っている。

とするとなれば、「雄の機能」と「雌の機能」を保全した形の上で、”「雌」が跡目を継承して行く事”が道理であろう。
その意味で、上記した様に、「女系の第一嫡子」が”実家の跡目の有資格”は、実に合理性が高い事に成る。
「人族」の発祥地の「アフリカの民族」には、「女系家族」を主体とした民族が未だ多く存在するのは、上記した原理に従っている。自然摂理に従った合理形態とも云える。
しかし、余り近代化の進んでいない社会の中で成り立つ制度である事は間違いない。
「人の社会」が進むにつれて、「雌」から分離した「雄の機能」を使わなくては「子孫存続」が難しくなった。
「雄の力」「雄の知恵」でなくては維持されない社会構造と成ってしまった。
必然的に「雄」が主体と成る社会が出来上がったのである。
故に、人間社会の中では、「男系の跡目」として引き継がなければ成らない社会構造が出来上がったのである。
これはあくまで「社会構造維持の範疇」であり、事「子孫存続の世界」とも成れば、「力」「知恵」は無用で「女系の範疇」と成る。(「戦乱の社会」ともなれば尚更の事である。)

「子孫存続の世界」の「跡目」ともなれば、況して、「青木氏」の様に「3つの発祥源」の役目を「賜姓族」として守り通そうとすれば、「純血性を維持する同族血縁」は「古代の条理」とは云え、必然的に絶対的に「必要な条理」と成る。
「屯」(みやけ)を形成した時代からの「古代の条理」ではあっても、古来の一部の社会の中では全てこの「青木氏の慣習仕来り掟」に類していたと考えれる。
それを「古代密教と云う概念」の中で維持されて来たものであると観られる。

そうすると、そこで問題が生まれる。
「同族血縁の弊害」である。
血縁すると成れば、先ずは「第一段階」として「跡目の家紋」でそのルーツを判別し、更に重ねて詳しく判別する為に、当代の「女系」の家紋、即ち、「嫁の実家先」の家紋を知る必要がある。
その為に、「嫁の実家先の家紋」を「嫁ぎ先の慣習」に出過ぎない範囲で何らかの形で表示する必要が出て来る。
これが、「女紋」で、祭祀などの正式行事には羽織の袖や背中や、箪笥や長持ち高級食器などの正式な諸具には表示したのである。
この「二つの家紋」で、「同族血縁の濃さの度合い」を判断する術とした。
この「類似の慣習」として、「祭祀」などに先祖の墓所には参るが、ここに「累代の女系」を碑にして連ねて「俗名、戒名」と共に「出自」を表記して「女墓」として用いた。
この「女紋の表示の仕方」が、上記した要領に基づいたのである。
この「二つの家紋」をみて「同族血縁」を進めた。
基本は、「3親等」(従兄弟等)からであった。
奈良期から平安期頃までは2親等の範囲(叔父、叔母等)でも積極的に行われていた。

一般の他氏は、本家筋は兎も角も、分家筋は大いに「他族血縁」を積極的にすすめた為に、むしろそのルーツの確認が必要無く成ったので、「女紋」「女墓」等の習慣は必然的に生まれなかった。
本家筋は、この混血の分家筋から抹消の同族血縁をした事で、「新しい血」が入って行った。
依って、この慣習は一切生まれなかったのである。
ただ、この場合は、「本家ー分家の関係」では、その「習慣や仕来りや掟」の縛りは大きな差があった。
従って、「自分の家」が、 ”「本家筋の末梢」に当たるのか”、”「分家筋に当たるのか”で、判定は大いに異なってくるのである。
しかし、「皇族賜姓族青木氏5家5流」のみは、上記した様に、この「本家ー分家の関係」を「同族血縁」を「仕来り」としていた為に採らなかった。
(ただ、「3つの発祥源の役」を護る為に「厳しい戒律」が伴った。)
その見極めとして、上記したAからFの「家紋システム」を採用して表示したのである。
これは、「格式の誇示」と「血筋の如何」に関わっていたのである。

さて、果たして、この「3つの発祥源の役」が無ければ、どうなったのか疑問である。
何故、上記の「家紋の要領」を採らなかったのか、何故、「本家ー分家等の方法」を採らなかったのか、と云う点は、これらの要領は「古代密教浄土宗」の影響であった事が大きく、必ずしも「3つの発祥源の役」だけでは無かったと考えられる。

1の方法
1の方法は、その「姑」の実家先の家紋を用い続ける方法である。
通常は「2の方法」を採用する。
しかし、この「仕来り」は「地域」によって異なる。
その異なる理由は、「地域の環境」にあり、大まかに分けるとすると、「田舎」か「都会」の環境下によって分けられる。
何故ならば、「都会」であれば血縁関係が多様化しているが、「田舎」は縁者関係で繋がっているし多くは面識がある。
「都会」は、従って、この「面識」が薄らいでいるから「2の方法」で「確実性」を求めて判別する。
都会は何れにしても、”多様化している”から、「家の誇示」も強くなるが、「田舎」ではよく似た家柄である事から必要以上の誇示は無く成る。
結局は、「1の方法」と「2の方法」は、この差に従って使用された。
元々は「仕来り」としては、「1の方法」であったが、「多様化」が進むに連れて「2の方法」に成ったのである。
基本的には、「都会」であろうが「田舎」であろうが「2の方法」であれば確実性は高まる。
「1の方法」は、”「封建制」が強い仕来り”である。
これは”「田舎」”と云う事から来ている。
後は、その使用の選択は ”時代性が働く”と云う事に成る。
”時代性が働く”ことは、「多様化」が進む条理に従う訳であるから「2の方法」に収斂されて行く。
では、どの様な方法かを説明する。
「家」は「家族制度」があって、「家長」が存在する。
その「家長」は「伝統の家」の「ステイタス」を「家紋」として引き継ぐ事に成る。
この「家紋」は、上記した「家紋制度」の中で保たれる。
しかし、ここに「格式」と云うものが働くと、”よりステイタスを強調する事”に成る。
そうすると、「2の方法」の様に、その「家長の妻」の「実家先の家紋」をも用いる事に成る。
つまり、これが「女紋」である。
さて、そうすると、「家長」は、「家族制度」の中で、”どの位置の者が成るか”の問題で、「祖祖父ー祖父ー父ー子ー孫」であるとすると、「祖父」が成っているとすれば、「姑」の「実家先の家紋」を「女紋」として用いられる事に成る。
当然に、この「女紋」を使うのは、「祭祀と儀式」の時等に用いられる。
当然に、そうなると、「家」の「姑」が「家内の実権」を握っている事に成る。
その「姑」も「夫の家長」が亡く成れば、「家長」は「息子」に移る事に成り、「家の実権」は「息子の妻」の「嫁」に移る。
この時に、「姑の女紋」は消え、「嫁の実家先の家紋」が用いられる事に成る。
従って、「姑」が用いる「紋」は「家長の家紋」と成る。
これを「世代交代」、「跡目相続」毎に変化して繰り返される。
しかし、血縁対象は「娘子」であるから、相手側からすると、「娘子」の「母親の女紋」は判らない事に成る。
これでは、「同族血縁の度合い」の判断は低くなる。
しかし、ここがポイントで、「田舎」と云う環境であるのだから、「母親ー嫁」の出自は、未だ人の面識の中で知り得ている。
依って、「人の記憶」に薄らいだ「姑の実家先の家紋」、即ち「女紋」で判断しても問題は無く成る。
ここに、”1の方法と2の方法の「仕来り」の違い”が、「面識」と云う点で生まれているし、「家長制度」に従っている。
結局、「1の方法」か「2の方法」かの使い方で、その「氏」のその「女紋」を観れば、出自は凡そ判る事に成り、更には「女紋」で完全に判別する事が出来るのである。

ただ、「賜姓族の青木氏」は、「同族血縁」を主体としている事から、「女紋の範囲」も限られて来るので、判別は「家紋」と「女紋」で充分に判るが、「家紋」は「象徴紋」である為に変わらない事になる傾向が強いので、「女紋」の判別の意味合いは強くなる。

ただ、同じ格式の範囲で行われる「母方の血縁」では、「家紋」も重要な意味を持って来る事に成る。
例えば、「母方」で繋がる「特別賜姓族の秀郷流青木氏」とは全く格式は同じである。
「116氏」にも成ると、家紋は116もの数に成ると、当然に判別は困難であるので、「家紋」と「女紋」とで判別が必要と成る。
ここに「秀郷宗家361氏」との血縁ともなれば、「格式」は多少の変化を来す。
益々、「家紋と女紋」の重要性は高まるし、「家紋」だけでは不足と成り、「副紋」も用いての判別と成るので必要と成る。
他氏では、「同族血縁」が成されない事から、結局は、「家柄」と「家のステイタス」の「誇示」に利用される。
「より低い氏姓」は「より高い氏姓」との血縁を望む事に成り、「家紋」一つに「判断の重要性」は高まる事に成る。
依って、「青木氏」は、「皇族賜姓族」にしろ、「特別賜姓族」にしろ、「同族血縁」をする為に「氏の地域性」は明確に成って居るし、「地方性(田舎)」は「青木村」を構成する事を許されている為に「1の方法」が主体と成る。
しかし、「夫々の賜姓族内」では、「1の方法」で、「賜姓族」が跨げば「2の方法」に従う事と成る。

この「慣習仕来り掟」の範囲で同族は護られる事に成る。
兎も角も、以上の事全ては、”「氏家制度」”の中での「慣習仕来り掟」である。
なので、この様な「血縁関係」は「氏全体」で管理されている事に成る。
つまり、その作業が「密教の菩提寺」に求められ、その「菩提寺」の「過去帳」に記される事に成るのである。
これが、何度も論じている「菩提寺と過去帳」の位置づけなのである。
上記に論じた「青木氏の家紋に関する事」や「青木氏の考え方の如何」は、この「密教の菩提寺」と「過去帳」の所に繋がる事に成るのである。


上記の事を承知した上で、情報提供のあった下記の例を検証してみる。

そこで、「福岡の第3氏」を入れた「7組の青木氏」が、入り組んだこの「特殊な地域」で、且つ、「青木氏」を判別する場合は、次の様な事に成る。
「特殊性」が出て来て、この「青木氏」が持つ「家紋」などを含む全ての「慣習仕来り掟」の「熟知の度合い」が大きく左右する事に成る。
情報提供の下記の例は次ぎの様に成る。


先ず、「女紋」は「五瓜に唐花紋」である。
そもそも、この「家紋」には次の様な情報を持っているのである。
「家紋」には、全国8000の家紋があるが、その内で豪族として大きなルーツを持つ”「主要家紋200選」”と云うものがあり、この家紋はその中の一つである。
歴史的に日本の「主要氏の家紋」と云う事に成る。
この「家紋の文様」は、元は、「唐の官僚の階級」を示す袖に記した「官僚階級紋」である。
これを「大和朝廷の官僚」の「象徴の印」としたのである。
専門家ではこれを「官僚紋」と通称は云う。
そして、この「官僚紋」の「文様紋」を使えるのが、「大和朝廷」の当時の「五大官僚」と云われる「氏」が独占したのである。
「瓜の切口」とか「ボケの花の断面」とも言われているが、これは大きな間違いである。

注釈
この辺のところが「郷土史」では間違いを起こす。
「俗説」を用いてしまった事からこの説が全国に広まった。間違いの大きな事例である。

この「五大官僚」の「高級官僚」は、「唐花の文様」を少しつずつ変えたものを「象徴紋」とし、誇示する為に牛車などの道具に使用した。
室町期末期から江戸初期の後に多くの「姓」が使ったこの文様の「類似家紋」は190程度もある。

そこで、何故この家紋が「九州福岡」と云う地域にあるのかと云う疑問を考えると、ここには「明確な根拠」がある。
ここには、奈良期には、その「五大官僚」の一つの「伴氏」が、この「九州地域一帯」を任されていた。
その「伴氏の職務」は、主に「弁済使」であった。
つまり、この「伴氏」は「税務監」を主務としていたのである。
そうすれば、「税」であるので多くの豪族などとの親交が生まれる。
この結果、「九州一帯」の殆どの「豪族」はこの「血縁関係の血筋」を受けている。
「北九州の豪族」では例外は殆どない。
最も大きい氏で、殆ど「大蔵氏」に依って制圧されるまでは、九州全土を支配下にしていた有名な「肝付氏」がある。
後に「大隅の肝付氏」は、薩摩藩の勢いに押されて敗戦して薩摩藩の家老と成った。
ところが、この「伴氏と肝付氏」の勢力の中に「大蔵氏」と云う別の大勢力が入って来た。

そこで、その「大蔵氏」の事に付いて少し説明して置く。(研究室などに何度も論じている。)
大化期に中国の「後漢国」が亡び、その国の17県民の200万人の「職能集団」が、福岡に難民として上陸してきて、瞬く間に九州全土を無戦で制圧してしまった。
日本の第一次産業の基礎は、この「技能集団」の進んだ技能によってもたらされ築かれたものである。
在来民も挙ってその配下に入って生活程度をあげた。
この時、この集団を首魁として率いていたのが「光武帝」より21代献帝の孫子の「阿智使王」とその子の「阿多倍王」であった。
(”阿多”の地名は鹿児島にある。大隅の隼人に居を構えた。)
更に、この集団は中国地方も無戦制圧し、”いざ都の制圧”と云う所で立ち止まり、朝廷と和睦を選び争いを避けて帰化する。大化期である。
この中国地方には、首魁の「阿多倍王」が引き連れて来た多くの部の職能集団が定住して在来民の生活を豊かにした。
その「部の職能集団」の中で、「陶器を作る技能集団」が勢力を持ち、室町末期まで中国地方の全土を制圧して勢力下に治めた。
その中には多くの「部の職能集団」がこの同じ部の勢力を持った「陶族」に従ったのである。

そして、首魁の「阿多倍王」は「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の娘を娶り、准大臣に任じられ、3人の子供を作った。
そして、この「部の職能集団」は、「大和朝廷の官僚組織」の6割を占めて大勢力を握った。
上記の「五大官僚」もこの勢力に飲み込まれた。
この「部の職能集団」が進んだ中国の政治手法を大和朝廷の中に導入した。
この職能集団を「・・・部」と呼び、例えば「服部」や「織部」等180程度の「部」から成り立つ組織を作り上げた。
依って、大和朝廷から政治と経済システムとしてこの「部制度」を採用しました。
この政治機構の改善を主導したのが、首魁の阿多倍王の父の「阿智使王」であった。
「史部」と呼ばれた。
この時に作り上げた「政治機構」の「官僚の象徴紋」として、この「五瓜に唐花紋」を使用したのである。
この3人の子供の長男は「坂上氏」の賜姓を受け朝廷軍を担う。
次男は、当時の政治機構は「三蔵」と云われ、朝廷の財政を担う「大蔵」を担当し、「大蔵氏」の賜姓を受ける。
三男は天皇家の財政を担当する「内蔵」を担当し、「内蔵氏」の賜姓を受る。
この次男の「大蔵氏」が九州全土の自治を任されたである。900年から940年頃の事である。
「遠の朝廷」と呼ばれ「錦の御旗」を与えられ「太宰府の大監」と成る。
首魁「阿多倍王」は、大隅国にも半国割譲を受け、更には伊勢北部伊賀地方の国を半国割譲を受けて実家はここに住み着いたのである。
この時、半国割譲したのは伊勢守護王の伊勢青木氏である。
この隣の伊賀の阿多倍(高尊王 平望王)の実家は「たいら族」の賜姓を受ける。
この「たいら族」の「伊勢平氏」が五代後の「平清盛」である。
この支流の血筋を受けたのが「織田氏」である。
この織田信長の家紋も「五瓜に唐花紋」の「織田木瓜紋」である。
つまり、「伊勢平氏」と「大蔵氏」、「内蔵氏」、「坂上氏」の「3氏」の同族で「官僚の6割」を占める事から、この傍系末裔と観られる織田氏(可能性がある)も、この末裔だとして由緒ある「官僚紋」を採用したのである。
これが、有名な類似家紋として、「織田木瓜紋」である。
この「伴氏」と「大蔵氏」は血縁して、「2つの官僚氏」が九州全土を血縁の輪で固めたのである。
従って、「九州の大蔵氏系豪族」と「九州の鎮守神の神官族」はこの家紋を使用しているのである。

さて、「福岡の青木氏」の1氏が、この家紋である事から、「大蔵氏」の血筋を持つ「伴氏系の姓族」である事になる。
恐らくは、早くて室町中期、遅くて室町期末期に、「姓の家」を福岡筑前のこの地域で興している事に成る。
これを「女紋」としている事は、このルーツから出自した”歴史性の持った家柄”である事を示す。
当然に、この「五瓜に唐花紋」を上記した末裔と成る「家柄筋」が保持しているとすると、この「家筋との血縁相手」は、「家柄と格式」を重んじた社会の中では、必然と決まってくる。
この「五瓜に唐花文様」が「女紋」である事から、「嫁ぎ先の家柄格式」は、「同位」かわずかに「上位の家柄筋」に成る。
そうなると、この地域に、それに相当する氏ともなれば、歴史上から確認できる「青木氏」は、次ぎの様に成る。
平安期から鎌倉期までに筑前に遺した青木氏の末裔氏は、「筑前では2氏」と成り、江戸初期には「筑前の1氏」の青木氏と成る。
先ずは、この「3氏」で、他の要素を組み入れて検証を進めれば、その青木氏は判別できる事に成る。
「検証の櫛田神社」
ここで、「検証の要素」として、筑前にある”「櫛田神社」”が出て来る。
この「神社の由来」を調べれば、この「五瓜に唐花紋」に絡んで来る事に成る筈である。
そこで、更に検証を続けると、次ぎの様に成る。
そもそも、「櫛田神社」は「鎮守系の神社」(大蔵氏の守護神)であるから、「九州神官族の家紋」の「五瓜に唐花紋」となる。先ずここで繋がる。

その家紋の分布は、神社のある地元(内原)でよく使われている。
その背景から、この「神官族の末裔」が、後に地名を採って「内原姓」と名乗った。
この「鎮守系の櫛田神社」の元の「神官族名」は、何であったかが判れば更にはっきりする。

そこで、櫛田神社の由来を調査する。
そもそも、この「櫛田神社」の「大幡大神(大幡主命)」は、「伊勢国松坂」の「櫛田神社」から霊位を勧請した事は有名である。
この事から、この「鎮守系神社」と云っても、その「祭神」は、「皇祖神」の子神の「神明社系神社」とは同じ事に成る。
つまり”兄弟社の様な社格”を持っている事に成る。
実際にも祭祀している「大幡大神」はその格式にある。
櫛田神社がどんな理由で移したのかが問題に成る。
「伊勢松阪」の「櫛田神社」から「大蔵氏」が、”ある事情”で「霊位」を移している事から、初代は松坂の「伊勢青木氏の神官」であった可能性極めて高い。
しかし、あくまでも「筑前の櫛田神社」は「大蔵氏の鎮守神」であるので、「神明社の青木氏」を移したからと云って其の儘に続ける事は出来ない筈である。
何時か変更しなければならない筈であるし、この時の「伊勢青木氏の神官」が筑前に末裔を遺した可能性も否定できない。
しかし、遺したとすると、この場合は、「笹竜胆紋」を維持している「青木氏」と成る。
「源為朝の配流孫の笹竜胆紋」は別として、この「笹竜胆の家紋の青木氏」は1氏が江戸期に移動定住している事が確認できる。
即ち、黒田氏の家臣と成った「摂津青木氏」である。
ところで、「神社の格式」には、”「霊位の有無」”が大きな意味を持つ事に成る。
要するに、「神明社」は「青木氏の守護神」であるから櫛田神社は、所謂「兄弟社」と成る。
故に、祭祀する櫛田神社の「大幡大神」は、「伊勢神宮」の「天照大御神」に仕える「一族神」と成る。

従って、この「博多の櫛田神社」だけは、「大蔵氏の鎮守神」と云いながらも、全国にある「櫛田神社」とは、その「祭神の格式」のレベルが元々違うのである。
それは「筑前の櫛田神社の由来」に関わる。

その「由来、ある事情」とは、次ぎの様に成る。
平安末期に「瀬戸内」で起こった「讃岐藤氏」の「藤原純友の乱」を鎮めるために「伊勢松阪の伊勢神宮」の「皇祖神」の子神の「櫛田神社」と「京都八坂神社」に「乱の鎮静」を命じられた。
朝廷より鎮圧を命じられたのは九州最大豪族の大蔵氏である。大蔵氏はこの二つの神社に祈願をした。
そして、鎮静のその結果を以って、その時に祈願した大蔵氏が、その礼に応じて、筑前に”松阪の櫛田神社の霊位”を遷移して「筑前櫛田神社」を建立したのである。
要するに「分霊」をしたのである。
そして、この「純友の乱」を鎮圧したのは、「阿多倍王」より10代目の「九州太宰府大監」の「大蔵春実」である。
「分霊の筑前櫛田神社」と「本霊の伊勢櫛田神社」も「伊勢青木氏」とこの様に思いがけないところで繋がっている。
更に「青木氏」と繋がった事から、最早、筑前には「青木氏の存在」は否定できない。

そうすると、「櫛田神社」の要素から次の「2つの青木氏」が浮かび上がる。
この「櫛田神社」の位置する地域性から、次ぎの事が判る。
(イ) 黒田氏の家臣と成って移動定住した「摂津青木氏」の末裔
(ロ) 櫛田神社の初代の神官の「伊勢青木氏」の末裔

そうすると、この「女紋側」の「五瓜に唐花紋」を「女紋」として使っているとすると、九州地域では、この文様は「鎮守神の神官族」が使用している文様である事から、この「地域性」が出ている。
この「神官」が、”地域の地名を名乗った”と成る訳であるから、「女紋側」(神官側)に地名の「内原姓」の要素があるので、(イ)の「摂津青木氏」の説に成る。

「五瓜に唐花紋」(女紋)を持つ「鎮守神の神官」の末裔(内原姓)が(イ)の「摂津青木氏」に嫁いだ事に成る。

何故ならば、(ロ)の「初代神官の伊勢青木氏」は、そもそも「笹竜胆紋」で、「神官」であっても「五瓜に唐花紋」では無い。
そして、尚更、神社在所の地名の「内原姓」を、「青木氏」であるにも関わらず、態々と名乗る事が無い訳で、そもそも「青木氏の戒律」から不可能である。
依って「伊勢青木氏」の説は消えるので、「摂津青木氏の説」と成る。

これで、「九州の鎮守神の神官族」の「五瓜に唐花紋」を「女紋」としている筑前の内原地域に定住している「青木氏」は、結局、「黒田藩家臣の摂津青木氏」であった事に成る。

さても、問題は、この「黒田藩家臣の摂津青木氏」の家紋が、「笹竜胆紋」を維持出来ていたかは検証しなければならない疑問である。
そもそも、「摂津青木氏」は、「源平の争い」で、近江で、滋賀で、美濃で滅亡している。

福井に逃避して庇護され僅かに遺した支流の末裔が、摂津に移り「伊勢青木氏」の大店に庇護されて再興を遂げた賜姓族の一族である。
元々、「近江青木氏」の一団の「摂津水軍」の名残を持つ事から、「伊勢青木氏」等の大船に従事して糧を得て来て生き延びて来た。
従って、「笹竜胆紋」を維持するだけの「血縁力」「子孫力」は持ち得ていなかった筈で、「家紋掟」に依り「変紋」を余儀なく成って居た可能性が高い事が充分に考えられる。
実際に、現在の「摂津域の青木氏」には「笹竜胆紋」は1家しか確認できない。
しかし、調査でこの1家は、「伊勢青木氏」の大店を維持した「絆青木氏」(養子縁組制度)ではないかと考えられる。
「黒田藩家臣の摂津青木氏」の家紋が、情報提供によると ”何であったか”は「現在の末裔」は掴み切れていないのが現状である。

情報提供の内容
「黒田藩家臣の摂津青木氏」の再興後、筑前の祖は「青木氏理兵衛」である事。
この家に別のルーツの「青木市左衛門」が跡目に入った事。
この「青木市左衛門」は「日向青木氏」で遠祖は「伊勢青木氏」である事。
「摂津青木氏の近江青木氏」と「伊勢青木氏」は「皇族賜姓族5家5流青木氏」の「同族血縁族」と成る。

そこで、「青木市左衛門」のルーツに関する検証は必要となる。
その内容を下記に記述する。
つまり、この血縁の意味する事は、「青木理兵衛側」は、「青木市左衛門の青木氏」とは、”「同族の青木氏」である”と認識していた事に成る。
「青木氏の慣習仕来り掟」に従い、且つ、当時の「氏家制度」の中で、「同族血縁」を戒律とする「跡目継承」には、「青木理兵衛側」が、「青木市左衛門側」から「跡目養子」を求め入れて、「青木氏」を守ろうとした事が判る。

尚、「青木氏」には、「藤原秀郷流青木氏の特別賜姓族の青木氏」が、隣の長崎に「青木村」を形成して住んでいた。

(「氏名」を「村名」にして村を構築する事は、正式には「嵯峨期の詔勅」で禁じられていて、許可なく構築できない。依って、正式な「村名」があると云う事はそれなりに意味が大きいのである。
「日向青木氏」には、「正式な青木村」を鹿児島の大口市に構築しているし、筑前南国境にも青木字が構築されている。)

「5家5流の賜姓族青木氏」と母方で繋がる「特別賜姓族の秀郷流青木氏」とは「純血性」を守る為に盛んに「同族血縁」を主体としていた。
当時は、この「二つの賜姓族青木氏」にはこの「厳しい戒律」があった。
どんな事があろうとも、跡目は絶対に守ると云う「絶対的な氏の戒律」があった。
それには、「11家11流」の「賜姓源氏一族」を含む「皇族系一族一門29氏」と「特別賜姓族の秀郷流青木氏116氏」と、その「女系の縁者一門」のどこからでも持って来てでも継承すると云う「青木氏」を継ぐべき厳しい「同族血縁の戒律」があった。

つまり、「近江青木氏ー摂津青木氏」の「青木理兵衛」はこの戒律を守ったという事である。

念の為に、「摂津青木氏」は「総紋」は、「笹竜胆紋」(変紋している可能性が高い)、「日向青木氏」は「五七の桐紋」と、配流孫の為に「丸に笹竜胆紋」が家紋と成る。
ところが下記に記する事があって「日向青木氏」は「五七の桐紋」を使用している。

次ぎは「女紋」の事で検証する。
さて、「青木市左衛門」ルーツの「女紋」は「三連鎧揚羽蝶紋」である。
この家紋は、信長に贈られた「池田氏の家紋」で有名である。
この「池田氏」は「岡山ー鳥取」地域と、「福岡ー豊後」地域に分布する「氏の家紋」である。
同時に、この文様は、「平家末裔の織田氏」も上記するCの「副紋」(第二家紋)として使っていた家紋である。
これを織田氏が同じ「平氏末裔族」の「池田氏」に送った家紋である。(一部を変更した)
結局、「青木市左衛門」の家の「女系」の方に「九州池田氏」の流れを持っている事を示している事に成る。

「黒田藩の家臣」で「摂津青木氏」の「女系」(「鎮守神の神官職」)の内原姓は「五瓜に唐花紋」、更にその女系には「三連鎧揚羽蝶紋」、この何れもが「平氏系の主要家紋群」である。
「黒田藩の摂津青木氏」の「女系側」には、何れも「平家一門の血筋」で維持されて来た事が判る。
上記した様に九州の「大蔵氏」も平氏とは同族である。
「平家一門の血筋の中」に、「黒田藩の摂津青木氏」が存在して居た事を物語る。
そうなると、「黒田藩の摂津青木氏」は、「同族血縁の戒律」もある事も含めて、「平家一門の女系血筋」に対抗して、何とかして九州にある「青木氏一門との血縁」を求めようとしていた事が判る。
それを物語るのが、つまり「青木市左衛門」である。
この「青木市左衛門」は、周囲の「筑前近隣の青木氏」か、「筑前外の周囲の青木氏3氏」かの何れかから血縁を求めた事に成る。
後は、「青木理兵衛」の「青木氏の家紋」と、「青木市左衛門の青木氏の家紋」が、”何であるか”が判ればルーツは明確になるが、この検証には答えは出る。

その前に、「上記の平家一門の血筋」の「女系側」に付いて検証をする。
何かが観えて来る筈である。

平安末期、「大蔵氏」に代わって、一時、同族の「伊勢平氏の清盛」が「太宰府大監尉」(大監の上司)に成ります。
ここに「平清盛の所領」が、この「肥前国神埼」にあり、そして、上記の「櫛田神社」を、「日宋貿易の拠点」とした事は有名である。
一時、「平清盛」がこの「太宰大監」の上司にも成った事がある。
従って、同族の大蔵氏の居る所に、ここにも平氏は「九州護衛平氏軍団」を送った。
この平氏で九州域を守っていた「平氏軍団」である。
故に、「青木氏の女系側」には、この「平氏の血筋」が流れていて、その「九州池田氏」の流れを持っている事に成る。


この「平氏軍団」が北九州の地域の氏構成に大きな影響を与えた。
「日向廻氏」に守られた「日向青木氏」と成った「宗綱ー有綱」の”清和源氏の配流軍”と、この九州の「平氏軍団」とが再興を期して戦いました。
平氏に配流された「宗綱ー有綱」等が、周囲の小豪族を集めて、再びこの「平氏軍団」と戦ったのである。
結局は、再び敗退して薩摩大口村まで南下して落ち延びて、最後は追撃に窮して大口村の寺で「伊勢の青木氏」を名乗ったのです。(寺の住職の勧めにて名乗る。)
何故ならば、「宗綱と有綱と京綱」は3兄弟で、その「三男の京綱」は「伊勢青木氏の跡目」に入り戦いで一族が亡びる事の無い様に「摂津源氏の安泰」を「伊勢青木氏」の中に図ったのである。
「伊勢青木氏」は、「不入不倫の大権」で護られていた為に、この「京綱の伊勢青木氏」を名乗ったのである。

「日向青木氏」は、況して、「以仁王の乱」の敗退で「助命嘆願」をしたのが、この「伊勢青木氏の京綱」ですので、「日向青木氏」と成って生き延びる為にも、その「伊勢青木氏」を名乗ったのである。
「伊勢青木氏」は、上記する様に、朝廷より特別に「不入不倫の権」で護られ、且つ、隣の伊賀に住む「清盛の実家」とは、「伊勢和紙の殖産と販売」で共に利を得ていた深い付き合いの関係もあり、討ち滅ぼす事が「九州の平氏軍団」は出来なかったのである。
それが「日向青木氏」の発祥の由来なのである。
それが「黒田藩の家臣の摂津青木氏の「青木市左衛門」のルーツに成る。(市左衛門の棲み分け地域から判別)
ここでも、「青木市左衛門」も「伊勢青木氏」と思いがけないところで繋がっているのです。
そもそも、この「青木市左衛門」の出所は、「筑後と筑前の国境」に住していた事が判っている。
上記に記した様に、「7つの青木氏」の内、「第3の青木氏」を除いて、「近隣の青木氏」も含めて「6つの青木氏」は、上記した青木氏の慣習から「棲み分け」をする慣習があった。
従って、その「棲み分け」でどの「青木氏」であるかは判るのである。
依って、「青木市左衛門」は「日向青木氏」と判定できるのである。
「黒田藩の家臣の摂津青木氏」は、「日向青木氏」の「養子跡目」に入った事を物語る。

そこで、「家紋掟」から、「摂津青木氏」は、上記した様に、「家紋の変紋」は起こっている筈である。
更には、「日向青木氏」は、本来は「笹竜胆紋」ですが、「配流孫」であるので、「丸に笹竜胆紋」と成る。
しかし、この「日向青木氏」も「丸に笹竜胆紋」では無く、長い間の「半農と傭兵の生活」から家紋を失った。
「黒田藩の傭兵」の下記の勲功で与えられた「家紋使用の特別許可」で、「五七の桐紋」を使用していた。
「青木市左衛門」の段階では、「五七の桐紋」が使われていた事が判断できる。
問題は、「同族血縁」をこの九州域で続けられたかは疑問である。
そもそも、「跡目養子の事」が2度続けば家紋は変紋する。
但し、この「五七の桐紋」は「跡目継承」に依って起こった家紋では無い事から、この勲功の「五七の桐紋」は江戸初期前から永続的に継承されていた事に成る。
「大口郷の青木村」の家紋は、従って、「五七の桐紋」を継承している。
(一族の明治初期の墓所の紋と形式で判明する。)
幕末から現在までの間の150年に市民化して、”伝統不継承の状態”が起こっていない限りは、「五七の桐紋」と「丸に笹竜胆紋」の「2つの家紋継承」が可能に成って居た筈であるが、現在までこの「二つの伝統」は明確に継承されている事が確認された。
この「青木市左衛門」の時までは、家紋から観て、前回の「跡目継承の原則」が守られていた事を物語る。

では、次ぎに、”何時頃からこの正式な伝統を継承し始めたのか”を確認する必要がある。
それには ”何で、この「養子跡目の縁組」が出来たか”の疑問を先に検証する必要がある。

そもそも、実は、この「青木市左衛門」ルーツの「日向青木氏」は、「黒田藩」に「傭兵」として働いていた。
「傭兵」であって家臣ではないながら、黒田藩から特別に「苗字帯刀、家紋、登城権、布衣着用等」を許可され上級家臣(郷氏)なみの資格を与えられていた。
従って、「日向青木氏」は黒田藩から特別に使用を許された「五七の桐紋」を使用していた。

注釈
そもそも、この元「桐紋」は、「天皇家の式紋」で「五三の桐紋」が元紋に成る。
天皇家は、室町期からの極度の財政難から、秀吉にこの由緒ある「五三の桐紋」の使用と変紋の「五七の桐紋」を使わせて財政を賄いました。
秀吉は、今度は勲功のあった大名に対して、変紋してこの「五七の桐紋」にしたこの家紋の使用を「権威紋」として認めました。
出自に対して格式の無かった秀吉には、この「権威」が必要であった。
朝廷に対して、その格式の一つの天皇家で使う祭祀や儀式に使用する「式紋」を金銭を対価にして「五三の桐紋」の使用を要求して得た文様であった。
これをベースに家臣に対して与える「権威を示す褒美」として「五七の桐紋」を与える様にしたのである。
この「特別な勲功」で「権威紋」の「五七の桐紋」の使用を許された大名は、今度は家臣などにもこの「五七の桐紋」の使用を同じ目的で許可したのである。
その与えられた代表的な大名が「黒田藩」なのです。
「黒田藩」は、「傭兵」として「黒田藩に合力した事」を理由に、上記した特権と共に、この「名誉の式紋の桐紋」を永代使用として「日向青木氏」に与えたのである。
「青木理兵衛」が居る黒田藩では、「傭兵」の「日向青木氏」の事は知っていた筈ですし、一族の「青木市左衛門」の事も知っていた筈である。

実は、繋がりはこれだけではないである。
この「日向青木氏」は、平常時は農業や漁業をしながら、「戦い」となると「日向灘での操船戦術」と「陸の山岳戦闘術」の2面から「傭兵」として黒田藩に合力していたのである。
この「青木理兵衛」は、「摂津水軍」時に「操船術」を任務としていたと観られ事から、”仕事”の上でも「青木市左衛門」との付き合いは充分にあったと考えらる。
その上での同族としての認識の上で、「跡目継承」に「青木市左衛門のルーツ」と繋がったと考えられる。

実は、「青木理兵衛」の青木氏は「黒田藩の家臣」、「青木市左衛門」の「日向青木氏」も「黒田藩の家臣扱い」であったのである。
つまり、「青木理兵衛ルーツ」は、この認識に立っていた事と、何れの青木氏も「伊勢青木氏」に繋がった同族であると云う事の認識にあった事を物語っているのである。
この為に、”黒田藩の働き”の中で互いに親睦を深めていた事を充分に物語る。

従って、「青木理兵衛ルーツ」の「摂津青木氏」と「摂津」に大店と大船をもっていた「伊勢青木氏」とには、何かの記録が遺されているのではないかと観ている。調査中。

以上の三つの事を合わせると、このルーツに関係する状況は次の様に成る。
A 黒田氏ー近江佐々木氏系末裔ー摂津青木氏(理兵衛)ー近江青木氏ー伊勢青木氏ー日向青木  氏(市左衛門)
B 九州博多の櫛田神社ー伊勢松阪の櫛田神社ー皇祖神子神の神明社ー伊勢青木氏の守護神
C 鎮守系神社(大蔵氏と平氏の守護神)ー神明社系神社(青木氏の守護神)
D 櫛田神社の神紋(五瓜に唐花紋)ー内原氏の家紋(五瓜に唐花紋)ー伊勢平氏の家紋(織田木瓜  紋)
E 青木氏女系の家紋ー「三連鎧揚羽蝶紋」ー伊勢平氏紋ー九州池田氏

以上の様に関係が不思議に繋がっている。
これは、格式を重んじて「九州の2つの青木氏」は縁組を構築していた事が判る。

移動定住した九州でも「青木氏」を継承する上で、”血縁上で採った考え方”をしていた事が観えて来る。

「独特の慣習」の”「女紋」”を使っているところを観ると、「男紋」も含めて、「紋」即ち、「青木氏ルーツ」と云うものに”拘り”を持っていた事を物語っている。

そもそも、「女紋」を使われている慣習を続けていた事であるのなら、「女墓」の慣習も続けられていたと観られる。
「女墓」も女紋と同様に、「青木氏等の賜姓族」が継承してきた慣習である。
代々の女御の俗名と戒名を記載した大きな墓碑で、系統的に維持し、単独に先祖墓の横に別の墓所を設けているものである。

この事は、「男側の継承」にも「賜姓族青木氏」として、「女側の継承」にも「賜姓族平氏」として、”拘り”があった事を想像出来る。
これらの情報の詳細な事は研究室に全て網羅している。

そうすると、日向青木氏が、”何時頃からこの正式な伝統を継承し始めたのか”の検証であるが、少なくとも、「日向青木氏の青木市左衛門」と「黒田家臣の青木理兵衛」の「跡目の血縁」が成された時期より少なくとも前に成る。
つまり、既に、「青木氏の跡目の伝統」と「女紋」などの慣習を持っていた事に成るのであるから、その前に成る。
と云う事は、「黒田藩の傭兵」と成って、青木市左衛門が黒田藩に関わり、黒田藩の青木理兵衛が博多に来て両者が知り合った時の前に成る。
黒田藩から、”勲功として「特権」を与えられ、「郷氏」に成った時”と云う事に成る。
最終的な勲功と成れば、1615年から1618年の間と成る。
この時に、改めて正式に「家筋の伊勢青木氏系」の「氏族としての条件」を整えた事に成る。
黒田藩から「五七の桐紋」、伊勢青木氏の配流孫としての「丸に笹竜胆」を一族に示した事に成る。
無冠の「土着の民」から、始祖の青木氏の格式を持つ「郷氏」に成った時に、世間に対して「家筋の正統性」を誇示したのである。


参考
「三連鎧揚羽蝶紋」は「揚羽蝶紋」を調べて、その羽の右上の二つの尾びれの様なところが鳥の羽の様に成っている家紋で、羽の筋文様が黒線になり、その上の文様が黒点に成った文様である。
この文様の羽が三つ連なっているところから「三連鎧揚羽蝶紋」と云う。


最後に、画して、「福岡の分布と子孫力」に付いては、上記した様に、複雑な経緯を持っている。
それが故に、これを紐解く為に、かなりの調査と検証が必要と成り研究には時間が掛かった。
この「福岡の青木氏」を論じる場合は、他の定住地の事や歴史性などの知識も考慮に入れて読み込まなくてはならない。
それでなくては、正しい理解は進まない。重要な「情報提供」を得て、事例を用いた。
故に、敢えて、最後に論じたものである。
未だ、多くの歴史マニア等にお願いしての「情報提供」を待っている状況でもある。それだけに時間が掛かる。判り次第追記する。

本論を読まれる際には、ルーツ掲示板と研究室などの論文も是非にお読み頂けると、筆者の論じる翻意は誤解なく通ずるのではないかと考える。是非お読み頂く事をお願いしたい。

更に、続けて、「伝統シリーズ」を仕上げる為に、現在、「論文の見直し」を続けている。
ご期待頂きたい。


伝統−4に続く。

> 終わり


  [No.321] Re:「青木氏の伝統 4」−「道標行燈」
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/07/29(Tue) 11:15:23

伝統−4

「道標行燈」



青木氏には何気なく行っている作法がある。
それを良く調べると、奥が深く膨大な歴史を持っている事が判り、他氏とは異なっている事がある。
今回は、祭祀の際に置く「行燈」等の作法に付いて論じる。
この行燈作法には計り知れないほどに意味を持ち、歴史をもっている。
この「行燈」は、普通より大きめで、真ん丸で直径70センチ位あり、高さが1メートルはある。
この「行燈」は、華やかに蓮や桔梗の花などが書かれている。
真ん中に氏の象徴の「笹竜胆紋」が書かれている。
行燈の中には、周り灯篭が仕組まれている。
先祖代々が引き継いできた物である事は一目瞭然で判る。
修理手直ししながら使い込んできている事が判る代物で、筆者も何度も手直しをした。
金銭的な節約事で「古い物」を使っているのではなく、”「先祖伝来物」”と云う感覚が強いし、手直しの跡が愛おしくその様にさせている。
この「古い行燈」そのものには現在のものと同じで何の意味もない。
”その行燈を使う作法”に異質の歴史が浸み込んでいるのである。
この歴史が浸み込んだ「行燈」は、”「迎え行燈」”と呼ばれていて、「仏壇」に添えるものでは無い。
家の祝い事、不幸事、法事などの所謂、”祭祀”に使う。
その為に、青木氏の多くの「喜怒哀楽の歴史」を観て来た行燈なのである。
果たしてどのような歴史を持っていて、無言で我々に何かを語っている様な気がする。
それだけに、この無言の歴史を解明したいと云う気がするのである。
そこで、又、筆者の癖が出た。

「迎え行燈の意味」
この「迎え行燈」のその目的は、”先祖の仏を家の中に迎え入れる道標”であるとされている。
これが、”最大の異質の歴史”である。
”先祖の仏を家の中に迎え入れる”と云う事自体がおかしい。”「仏」を擬人化している。”
この概念が先ず最初に大きく違っている。
「仏」をただ単純に「仏」として迎え入れるのであれば、何処でもお盆にはしている作法である。
しかし、ここが違っている。”「仏」を「人」として迎え入れる”と云う概念なのである。
それは、「道標」としての「行燈」を設けて”ある作法”で迎えるのである。
「仏」ならば、「道標」はいらないし、「ある迎える作法」もいらない。
「人」として迎えるから「道標」が必要であって、”お帰りなさい”と「迎える作法」が必要に成る。
つまり、「人」から「仏」に代った「彼世の仏」を「現世の人」としてこの世に迎えると云う作法である。
つまり、「有形の人」が「無形の人」に成って、現世に戻って来ると云う事に成る。
其処には、”「有」から「無」に代っただけ”で、”「人は人」”と云う概念である。
彼世にいる「無の人」を「仏」と呼んでいるに過ぎない。
依って、結局は、「有」と「無」の持つ意味の差によるだけの事に成る。
この概念でこの作法は構成されている。

夜に成ると、「周囲の灯り」を消して、この「迎え行燈」を窓際に据える。
この時、一通りの「仏法作法」がある。
この「行燈」の前に、「机経台」を据えて花を生ける。
「燭台」と「香炉」を据える。
夜7時に成ると「迎え行燈」の灯りで、「般若心経」の経典を読む。
この時、経典は三代前までのご先祖の数だけ経典を諷誦する。
家族全員が集まり、その家の女主(妻)が導師と成る。
この「仏法作法」によって”仏の人”を家の中に導いたとされる。
これにて、「現世の者」と「彼世の者」が集う事で「一切の祭祀」が行われる考え方である。
祭祀が終わると、「送り行燈」として同じ作法で送りだす。
お盆の時は、「迎え火」「送り火」も併せて行うが、この務めは家長が行う。

この「作法のポイント」は、”現世と彼世の者が集う”と云う事にある。
”祭祀は「現世の者」だけが行うのではなく、「彼世の者」も共に行う”と云う概念である。
これが、「密教」であり、「青木氏」が、「古代宗教」と「古代仏教」の中で作り上げた概念である。

「密教の考え方」
「密教浄土宗」では、要約すれば、「現世と彼世」とは、「有の世界」と「無の世界」とにのみ「差」があるとする考え方で、それ以外には、”特段無い”とする考え方である。
「人の死」とは、”その「有無の境界」を単に超える事”に外ならないとしている。
「般若心経」の密教仏説の文言を忠実に守っている。

そして、その「現世と彼世」との間には、何がしかの「接着剤」か「橋渡し」の役目のものが必要に成る。
これは「自然の摂理」である。
この世の万物には、必ずあるものとあるものを繋ぐ”「つなぎ」”と云うものが必要で、これなくして、「有の物質」は成り立たない。
「原子分子の世界」にも、この”「つなぎ」”とする「中間子」や「中性子」なるものが存在する。
宇宙もこの原理に従っている。もっと平たく言えば料理でも「つなぎ」が左右する。
要するに、論文的表現としては”「媒体」”である。
それが、「伝統2」でも論じた様に、”「香」を額に当てて香炉に焼香する事で繋がる”としているものである。
現在的に、「科学的な根拠」で云えば、「右脳」から発する「ベータ波」による「媒体」で「複眼」からそれを発して、彼世の人に通ずるとしているのである。
何度も他の論文で論じた様に、これは一概に無根拠では無い。
また平たく云えば、「母性本能」は、当に、この「ベーター波」を無意識の範囲で使って子供を育てる本能を遺している。
”心頭滅却すれば火もまた涼し。”の通り、”人は心頭を鍛え雑念を除く事さえできれば、「有の世界」にあっても、「有の世界」から「無の世界」に移行出来得るのだ。”としている。
要するに、「無の世界」は、「有の世界」と”乖離された世界では無いのだ。”としている。
(科学的根拠の無い作法では必ずしもない)
”これを強調する教派が、況や、「密教」である。”としている。
その”無に到達する手段(作法)”が、「三大密教の教義」の差に成って表れている。
中には、その「到達手段」に主眼を置いた「禅宗」というのもある。

この「古代仏教の概念」に依れば、「有の人」「現世の人」の「有」とは、”「雑念」”と云う事に成る。
「有」=「雑念」と云う事に成り、「雑念の世界」「雑念の人」と云う考え方である。
従って、その「雑念」を一時的に取り外せば「無」に成るのであるから、「現世の人」は、「無の人」に成り得て「彼世の人」と同じ位置にいる事に成る。
同じ位置に居る事に成れば、”話は通ずる”と云う概念と成る。

さて、ここまで、「有と無の媒体」と「無の到達手段」があれば、後は、「有の世界」に欠けていて必要なものがある。

「偶像の神格化」
それは、「有の世界」の「有の人」は、その「雑念」を取り除いたとしても、「虚空」に向かって、「無」に成って話しかけても、広すぎて通じない。
これも例外の無い「自然の摂理」である。
それには、”「有の世界」と「無の世界」からも一か所に集中させて、それに向かって「べーター波」で話し合えば通ずる”とする概念が生まれる。
つまり、それには、何事も ”一か所に集中させる物”が必要である。
それが、世にいう ”「偶像」”である。
そして、その「偶像」を神格化して祭祀しすれば、”「有と無の世界の連携」”は成り立つとしている。
従って、その「祭祀」は、その「有の世界」にある「偶像」にまきわり着く「有の雑念」を常に取り除いて置く事である。
その事で”偶像は神格化する”とした「仏教の密教概念」である。

実は、このこの「仏教の密教概念」(下記)には、ただ単に「仏教の密教概念」だけでは無く、「日本古来の宗教概念」(下記)が習合しているのである。

それが、本論下記の「毘沙門天」の「神格化の偶像」と成る。
(伝統−5で論じる。)

さて、「無の世界」から迎え入れた「先祖(仏)の居所」は、「仏間の仏壇」(仏舎)にあるとして、祭祀では、必ず「仏壇」(仏舎)は飾り立てる。そして、迎える。
しかし、この”「仏壇」”(「仏舎」 ここでは「仏壇」と云う呼称を使う)に、上記の「神格化の偶像」が無ければ成らない。
特段に、「仏舎」には無くてはならないと云う事ではない。
この考え方は、奈良期の大化期前には未だ無かった概念である。(下記)
「仏教思想」が伝来して起こった概念である。
その前の「日本古来の宗教概念」では、「自然神」に依る概念が全体を占めていた。

「日本古来の宗教概念」とは、「和魂荒魂」の「宗教概念」であり、”「人」は自然の一物 依って「人」は自然に帰る”と云う事が主要な概念であった。(下記)
全ての思考原理は、この主要な概念の基に従う。
”「付加価値」”の就かない「原子思考の原理」である。
現在の「日本人の思考原理」には、多くの「付加価値思考」が付加されて、”現在思考の原理”が出来上がっている。
しかし、それを”玉葱”の様に、その”付加価値の思考原理”の皮を外して行くと、最終、この「原子思考原理」に辿り着く。
それが、この、”「人」は自然の一物 依って「人」は自然に帰る”に成るのである。

取り分け、日本人は、「古代仏教の影響」を強く受けたが、「純粋な仏教」では無いものを造上げている。
それは、我々は、”「仏教」”と思っている「仏教」は、これも”玉葱”の様に、紐解けば ”「神仏習合の仏教」”というものである。
この「付加価値」が付いて、結局は”「神仏習合仏教」”というものに出来上がっている事に成る。

では、”「神仏習合」のその片方の「神」(和魂荒魂)とは、一体どの様なものであったか”は余り知られていない。
それは「日本古来」からある「日本の土壌」から生まれた「宗教概念」で、”「和魂荒魂の概念」”と云う「聞きなれない概念」で構成されている。
要するに、これが「玉葱の芯」ともいうべきものである。
その「玉葱の芯」とも云うべき概念が発展して、「自然神」が確立化されて遍歴して、遂には「古代神道」と云う概念を作り上げた。
この「古代神道」が「仏教」と習合したのである。
従って、「日本人」は、「和魂荒魂の宗教概念」から出来た「自然神」に通ずる思考原理が、「他の民族」よりも強いのである。
つまり、”「人」は自然の一物 依って「人」は自然に帰る”の「原子思考」が、「無意識の根底」にあって、「他の民族」よりも強いのである。
これが、「国民性」と成って遺されているのである。
依って、根底であるが為に、”グローバル化”に成る為として、強い「国民性」となっている「仏教原理」を外しても、この「原子思考」は外せない事に成る。

つまり、本論は、この影響を同じ「日本人」でも、”「青木氏」は最も強く影響を受けた氏である”と云う事を論じる事と成っている。
我々「青木氏」は、その「遺産」を強く「伝統」と云う形で持っていた事に成る。
何故ならば、「賜姓族」と云う立場の柵(賜姓五役)があって ”それを引き継ぐ立場に置かれていた”からである。
その引き継いだ「原子思考」と成っている概念が、況や「密教」と云う形で引き継いで来たのである。
「原子思考原理の概念」=「青木氏の密教」
簡単に云えば、”「人」は自然の一物 依って「人」は自然に帰る”の考え方が一番強い氏と云う事に成る。
では、その「青木氏の密教論」を下記に論じ事に成る。

注釈
(余談であるが、筆者は、何故か子供の頃から、「自然物理」が大好きで、その道に入った。
しかし、そうなれば、”理屈を唱える者”に成っていた筈である。
ところが、一面では理屈の根本と成る「宗教の様な概念」も好きで、子供のころから”歴史大好き”の若者であった。
取り分け、筆者の頭の中には、「物理」+「歴史」=「自然」の考え方が構築されていた。
何れも共通項は”「自然」”に通じている。
これは、無意識の生活の中で、この「青木氏の密教概念」で育った為か、或は、”遺伝子的”に継承されて来たものかも判らない。
然し、親からは、”不思議な子”と云われ、”先祖の誰々によく似ている”と云われていた。
先祖の中に4代目や7代目位前にもそのような人物がいたらしく、「青木氏」に良く出る隔世遺伝らしいことは判っている。
故に、「青木氏の由来の復元」が出来るのではないかとも考えていて、親も故に私に「復元」を依頼したと考えている。
それは「理屈と歴史と自然」の性格を持っている事を見抜いたからで、親は「家の伝統」の事を、私だけに口伝し資料や記録でも渡されていた。
この「家の伝統」の一つで「密教所作」から論じる。)


「密教作法」
そこで、「道標行燈」の「密教所作」では、「普通の日」は、据えないが「祭祀の日」には「一対の周り灯篭」を”「仏壇」”(仏舎)の左右に据える。
次ぎに、「客間に据えられた囲炉裏」に大きな黒い「南部鉄瓶の茶釜」が据えられて湯煙を上げる。
普通は、作法として「密教」を主教派とする家には、南向けた客間の右隅下に必ずこの囲炉裏があった。
昔は、この「茶道用」の「囲炉裏端」には、それなりの家筋に行けば必ず据えられて居り、直ぐに作法が出来る様に、それなりの「諸道具一式」が治められた「茶箪笥」なるものがあった。
(現在も筆者の家にはこの伝来の竹で出来た物と黒檀で出来た茶箪笥が遺されている。「囲炉裏端」もある。)
「密教寺」の「浄土宗寺」には、現在でもセットになって本殿仏間にこの様式のものがある。
この「湯煙」は、”部屋の空気を清める”と云う作法が先ずあって、その「清める内容」としては、「空気と雑音」である。
「空気」は「湯煙」で浄化させ、「雑音」は「余韻」にとする。
これは、上記の”「雑念」を取り除く為のよりよい環境(空気と音)”を作り出そうとする決められた「密教作法」である。

先ずは、その「韻」は次の様にして起こす。
筆者の家では「茶釜の作法」と呼んでいた。
先ず、水の入った「南部黒鉄茶釜」が沸騰すると、茶釜の中で「二つの韻」が起こる。
一つは”キンキンと鳴る韻”と、この”キンキン音”が先ず出始めると、部屋を静かにして置くと空気の揺らぎが無く成る。
そうすると、部屋の湿度がある一定に保たれ、茶釜の中の水分量があるところまで減少すると、この事から起こる茶釜の中で共鳴音が出る。
「湯の沸騰」による振動が、茶釜の中で響いて、膨張した茶釜の中の空気が振動して共鳴音が起こるのである。
締め切った部屋の中が加湿されてより音は伝わる事に成る。
蓋を僅かに開くと、この為に茶釜の中が片方が開いた状況と成り、「閉管」と云う「笛の原理」が成り立ち、 ”ブオーン ブオーン””キンキン”と茶釜の中で不思議な音が鳴り始める。
成り始めると、この茶釜の鉄蓋の外して、桐箱の様な形状の物を代わりに置くと、”共鳴音”は更に大きく部屋のなかで大きく共鳴する。
これで仏を ”迎える部屋の態勢”が出来上がった事になる。
つまり、”迎える環境”の中に、「雑念」が取り除かれた事に成る。
「仏間」にこの環境を作り出す事に成る。

参考
これにはある一定の広さが必要で、あまり小さすぎても加湿と室温が高く成りすぎても良くなく、広すぎてもその環境を作り出す調整が難しく出来ない。 
筆者も物理屋として試みたが、常温で常湿の範囲で周囲が板壁か土壁の部屋が良い事が判った。
これは”部屋の環境調節”が良く出来ると云う事である。

そう考えれば、室町期から江戸期に流行した「千利久の茶道」としての「茶室の造」が最適である事が判る。
恐らくは、「千利休の茶道」は、この「環境」を部屋の中に作り出す様に作られていたと考える。
つまり、「千の利休」は、恐らく、この”「古来からの密教の作法」”を知っていたと考えられる。
「千利久」の地元は堺であり、上記の大和川の湿地流域で興った「古来稲荷信仰」の地元でもある。
実は、「大和川流域系」の「古代稲荷信仰体」はこの「茶釜作法」を奈良期の古来より継承しているのである。
そこで、この「信仰の作法」から伝わった事か、或は、「伊勢青木氏」の「二束草鞋の商人」を通じて「密教浄土宗」から伝わった事かも知れない。
何れにしても、「千利休」の「茶道」は、間違いなくこの青木氏に伝わっていた「密教作法」の「茶釜の作法(環境と作法)」を採用したと考えられる。
「茶道」の「外の環境」も、周囲は樹木で囲み、湿度と酸素で温度を一定に保ち、中は上記の「茶釜の環境」を作り出した部屋にしたと観られる。
「堺商人」も小西行長の様に「二束の草鞋の商人」で「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」とも接触はあった。
この”「茶釜作法」の環境”は、人間が最も心癒される静寂、且つ、次元が異なる様な「不思議な心根」になる「環境」である。
恐らく、室町期末期から江戸期に発展して「茶道」は、この「茶釜作法の環境」をそっくり真似たものであると考えられる。
この「青木氏」や「稲荷信仰体」に伝わる「茶道の原理」は、「千利休の茶道」よりも、遥かに前から「青木氏」は、奈良期から延々と祭祀に用いて来た作法である。

「茶釜作法の謂れ」
さて、では ”何故、この作法が行われるか”の疑問ではある。
そこで、「無の世界への環境」が整えられて、「余韻と共鳴音」は、”無の世界への連絡”を意味しているのではないかと考えられる。
そして、”空気の揺らぎの無い加湿された静かな空間”が「無の世界の先祖」が居られる”「有の世界」の環境”としていると考えられる。
これが古来から伝わる「茶釜作法」が作り出す環境なのである。

恐らくは、「古来の人」は、「無の世界」の先祖は、この様な”「静かで良質な空間」にこそ存在し得る”と考えられていたのであろう。
従って、儀式毎には、この作法(「茶釜の作法」)を用いていたのである。
では、この「茶釜の作法」が「古代仏教」から来た作法なのか、古来の「和魂荒魂」から来る「古代神道」の作法なのか疑問が湧く。
「神仏習合」している環境であるが、敢えてこの歴史を調べた。(下記)

確かに、筆者から観てもこの作法の科学的論理には「論理的矛盾」はない。
人間が作り出し奏でた音では無い。「自然の原理」によって奏でられた音である。
古代にこの様な「自然の原理」を把握していたとは驚きである。
故に、”進んだインドー中国の文化の影響”を受けていたとも思える。
しかし、実は、この「密教作法」のところを調査研究していると、4世紀頃の古来より既に発祥した全く同じ作法を強調する信仰体がある事が判った。
それが、大和川流域に発祥した「稲荷信仰体」である。

「稲荷信仰体」
この「稲荷信仰体」は、自然の生活の中から生まれて来たもので、仏教の様に、概念の論理化された中での作法ものではない。
依って、「3世紀の卑弥呼の時代」から既に存在して居たと筆者はみている。
出雲から出た「弥生信仰の作法」では無く、「縄文信仰に近い作法」であるからだ。
つまり、土壌から這い出て来た「庶民信仰」と云うか「農民信仰」があった。
それは、「古代仏教」より少し前の古来より受け継がれて来た「古い信仰体」で、後に「伊勢神宮の外宮」の「豊受大御神」からの影響をも受け継がれてきた「民の信仰体」である。
むしろ、この「古い信仰体」は時代性から観て、「豊受大御神」よりやや早い時期に発祥している。
実は、この事に付いて書かれた「豊受大御神の定説」によれば、次ぎの様に成っている。

「雄略天皇」の時に、天皇の夢に「天照大御神(内宮祭神)」が現れ、”「自分一人では食事が安らかにできない。”
その夢の中で、”丹波国の「等由気大神(とようけのおおかみ)」を近くに呼び寄せるように”と神託した”とある。
そこで、同年、”内宮に近い山田の地に「豊受大御神」を迎えた。”とある。

そもそも、この説は”神代の時代の話”で「後付」の話である。
ここで、矛盾が一つある。
そもそも、伏見の神社系「稲荷信仰」は、「豊宇気毘売命(とようけびめ)」等の五主神格としている。
この「稲荷の豊宇気毘売命」と「稲荷の等由気大神」とは同神である。
「等由気大神」を勧請したのであるから、「稲荷神」の方が先と成る。

そもそも、信用できるのは、歴史論では「継体大王」からの話である。(現在の定説)
「伊勢神宮」ともなれば「天智天皇」と「天武天皇」と「持統天皇」の事である。
正式に「伊勢神宮の正式な体制」が出来上がったのは、「天武天皇期」の685年である。
全てが正式に動き出したのは「持統天皇」の690年である。
そもそも、元の「内宮」に対して「外宮」を設けての「祭祀の形」は685年と成る。
一方「稲荷信仰」は、地形上から観ると、大和川流域に広がった信仰体とすれば、「ヤマト王権」期の初期には既に、この流域の湿地帯には稲作をする民が定住していた事が判っている。
そして、堺付近の港に大船団で韓から来て上陸し、大和川の流域を制圧後、更に南の「紀族」を制圧して紀伊半島の南端から大和盆地に攻め入ったとある。
しかし、食糧調達が困難と成り、この地域を統治していた「五族」と和平して、この「五族」と共に「政治連合体」をつくった。
これが「ヤマト王権の樹立」である。
「継体大王」(507年から531年)として君臨した。
この時には、既に古来の「民の信仰体」は大和川流域には出来ていた。
何故ならば、「継体王」が、先ず最初にこの「穀倉地帯の重要な流域」を戦略的に制圧したからこそ、「連合体の大王」と成り得たのである。
つまり、この時期には、既に「民の信仰体」(少し後に「稲荷」と呼称)が出来ていた事に成る。
とすると、「稲荷信仰体の原型」は、480年頃から500年までの事に成る。
そうすると、185年から200年前の事である。
「稲荷信仰体」として、流域に「飛鳥期の石塚」が多く見つかった時から考えても、「天智天皇期」の「豊受大御神」を考えても、どんなに考えても100年程度以上前と成る。

更に「日本書紀」では次のように書かれている。
要約すると、次ぎの様に成る。
「稲荷大神」は、「欽明天皇」が即位(539年)する前に、”渡来人の「秦の大津父」という者を登用すれば「天下」をうまく治めることができる”とお告げがあった。
結局711年に、”「秦伊呂巨」が、この「稲荷大神」を「氏神」として納めて国を治めた”とある。
(この頃には、丹波の淀川流域にも「稲荷信仰体」は広がりを見せていた。)

既に、「稲荷信仰」は、539年には、正式には「神道の伏見稲荷」があった事に成る。
この事から、上記の”「稲荷信仰体」が外宮より先だ”とする説は成り立つ。

依って、「豊受大御神」は、この”民の原型の様な「稲荷信仰体」の影響” を受けてのものであると観ていて、通説の逆の経緯を辿ったと観られる。

”民のこの信仰体”が余りにも大きく、且つ、「五穀豊穣」を民から願う信仰体であった。
この事から、”追随して遷宮したばかりの「伊勢神宮」に「外宮」を設けて、「五穀豊穣の神」の「豊受大御神」として受け入れて、「民の信仰体」を追認する形を採った”と考えられる。

その「稲荷信仰体」は、「東大阪の淀川沿いの南域の湿地帯付近」に発祥した全ての「民の古代信仰体」である。
(この湿地帯は3世紀頃は「大和川沿いの奈良域西域の広域」にも広がっていた。)
これは「五穀豊穣」を「民の願い」として発展した自然発生的に広がった”「稲荷信仰」”である。
後の「秦氏の氏神 伏見稲荷大社」の「稲荷信仰体の原型」と成った「古代信仰体」である。
(この事は「青木氏の守護神と神明社」で詳細に論じている)
この「民の稲荷信仰」は、節句毎にこの上記した様な儀式を行っていたと記録されている。
現在も”お稲荷さん”として行われている事が判っている。
この「稲荷信仰の発祥地域」の近くでは、有名な「仁徳天皇陵」等の「古墳群地域」でもある
又、古くからこの近隣には「遷宮の社殿」が多くあった地域帯でもある。
更には、記録にもある様に、「飛鳥の桜井」の地域まで広がる「稲作の環境」であった。
「稲荷」、又は「稲成」と云う字を使ったものも多い通り、”「稲」が成る”の意味を持っていたのである。
この”稲が成る”の”民が集まっていた地域帯”にこの「信仰体の遺跡」が多く分布している。

一般的には、「古代密教」にも、この「儀式の作法」も頻繁に行われているので、それが「庶民の稲荷信仰」にも受け継がれたと考えられるが、その逆なのである。
何故ならば、更には、大和に私伝として最初に普及させた地域は、鞍作部の「司馬達等」が「古代仏教」を伝えたのも、この「河内岸和田域」から「奈良高市郡」に掛けての作業場庵等があった地域である。
この地域には、 ”渡来人の「部民」の在った地域”でもある。
古来より、この「湿地帯の付近」に集まって生活し、そこで自然発生的に生まれた「稲の恵みの神」の信仰体のある地域に何と異教の「私伝仏教」が広まったのである。
兎も角も、この環境からこの「密教作法」が受け継がれて来たと考えられる。

実は、この「稲荷信仰体」には「仏教の稲荷信仰体」もあるのだ。
その有名な信仰体が、実は大阪の「豊川稲荷」なのである。
上記の「伏見の稲荷信仰体」と異なるのである。
つまり、この「豊川の稲荷信仰体」は「神仏習合の信仰体」である。

元々、日本古来の「民の信仰体」の「稲荷信仰体」が、大和川流域に広がりを見せていた中に、司馬達等らの渡来人の技能集団が住み着居た。
ここに、この「司馬達等」の私伝の「古代仏教」が、自然発生的に広がり、ここで、「民の稲荷信仰体」との「習合」が起こったのである。
これが、「豊川稲荷寺院」なのである。

この「茶釜作法」は「民の古来信仰体」の「稲荷信仰」が生み出したものではある。
然し、「神仏習合」の結果から、伝来の「古代仏教」にもこの「茶釜作法」が伝わったのである。

この現象は次ぎの様にまとめられる。

ア 「上位の古来信仰体」の「和魂荒魂の信仰体」 ー公伝の古代仏教との習合 552年頃
イ 「民の古来信仰体」の「稲荷信仰体」       ー私伝の古代仏教との習合 522年頃

奈良期にはこの「二分化の流れ」が起こっていた事に成る。

この「上位の古来信仰体」(「和魂荒魂の信仰体」:天照大神の内宮)は、「豊受大御神」として、この「民の古来信仰体」の「稲荷信仰体の概念]を「外宮」として取り込んだ事に成るのである。
依って、「伊勢神宮」の中の行事でも、この「茶釜作法」に近いものが、現在も引き継がれているのではないだろうか。

(伊勢神宮の守護も任されていた奈良期の「伊勢青木氏」にも引き継がれ、奈良期末期からもこの「茶釜作法」は引き継がれている事から考えると、必ず近い形で遺されている筈である。)


「伊勢青木氏」が「古代密教」として細々とここまで引き継いできている事を考えると、「神仏習合」から、「伊勢神宮」にも何らかの祭事の中に引き継がれていると考えられる。
そもそも、朝廷では古来より「八節会の祭祀」が行われていた。現在も行われている。
従って、その中にこの作法として近いものが遺されている筈である。

さて、そこで「青木氏」は、普通に考えれば、当然に「ア」と云う事に成る。
ア 「上位の古来信仰体」の「和魂荒魂の信仰体」 ー公伝の古代仏教との習合 552年頃

果たして、そうであろうか。確かに、「イ」からでは無い事は判る。
しかし、「朝廷」とすると、上記の「豊受大御神」の源説により、「ア」と「イ」の両方からと云う事に成る。
「朝廷」は「ア」と「イ」の両方と成ると、「賜姓青木氏」が「ア」だけと云うシナリオは成り立つのか”と云う疑問が起こる。
これは検証してみる必要がある。
検証
そもそも、「天皇の夢」だけでその様にする事は先ずない。
朝廷が「イ」を「豊受大御神」として「外宮」で祭祀する様に成った経緯(上記説論)から考えて、それを”その様に仕向けたのは一体誰か”、或は、”発案したのは一体誰か”と云う事に成る。
この時の「執政」は、草壁皇太子に代って「施基皇子」が執っていた。
「伊勢神宮の遷宮」に関わった「天智、天武、持統に仕えた人物」と成れば、「施基皇子」だけである。
全国の政治に必要とする事柄を調査して、「善選言集」(善事撰集)にまとめて具申奏上した人物となれば、「施基皇子」だけである。
「伊勢国」と「伊勢神宮」を国司「三宅岩床連」に守護させていた人物は「施基皇子」である。
何れを採っても「施基皇子」だけである。
ここで、疑問が解ける。

「施基皇子」がこれだけの立場にありながら、他の者が執ったとは考え難いし、先ず立場上は取れないであろう。
然すれば、施基皇子が提案し実行したのに、地元の自分の「賜姓青木氏」が、”「イ」との関係を持たない”と云う事はむしろ矛盾である。
決して、”「ア」だけであった”とは考えられない。
結論は、「朝廷」と同じく「ア」と「イ」であった筈である。

故に、両方に持つ作法の「茶釜作法」であったのであって、「ア」と「イ」の両方の持つ「神仏習合の作法」であったのである。

実は、別の面からここにも証明する事柄があるのである。
そもそも、「稲荷信仰体」は、元より「五穀豊穣」である。
しかし、これをより進める為には、「殖産興業」も必要と成り、「商業」も必要に成る。
「稲荷信仰体」は、実は、この「二つの神格」も持っているのである。
この「二つの神格」は、「秦氏の氏神」として祭祀された頃(711年頃)から、この「二つの神格」を持った事が記録から判っている。

「施基皇子」の没年716年とすると、「日本書紀」を引用すれば、次ぎの様に成る。
妹の「持統天皇」から依頼されて「律令の根幹」にする為にと、全国を天皇に代って飛び廻った経験からも、終年「善選言集」の編集に取り組んだ時期714年頃と一致する。
恐らくは、「農業」を主体としての「五穀豊穣」に加えて、この「稲荷信仰体」に対して、「殖産興業・商業」を推進する様に上奏した。
それを神格化して、”「伊勢神宮」の「外宮の豊受大御神」の「ご加護」として進めようとした”と観られる。
その「青木氏の証拠」に、「伊勢青木氏」には、古くから「伏見稲荷神社の祠」と「朱鳥居」を持っていた事が伝えられていた。
そして、その「仕来り」では、現在まで「稲荷朱鳥居」を建立して祭祀していた。
口伝では、鎌倉期末には松阪の居宅には、「初代の稲荷朱鳥居」は未だあった様である。

「皇族賜姓族5家5流の青木氏」は、日本の「五大古代和紙」を「伊勢青木氏の奨励」で殖産した。
この「古代和紙」としての時期は、6世紀後半から7世紀前半と何れの五地域の記録にも遺されている。
「伊勢和紙」は「伊賀和紙」が主体と成っている事から、それを「他の賜姓族」に奨励した。

年代的には次ぎの様に成る。
この事から、そうすると、「賜姓」を受けた直後647年頃から地元の殖産を強化する為に始めた事に成る。
「大化改新」645年直後と云う事に成る。
外宮の「豊受大御神」は685年・690年の50年前に成る。
「伏見稲荷大社」711年の前に成る。
「古代仏教」の私伝522年と公伝552年の後に成る。

「五穀豊穣」は「当初発祥の神格」としては判る。
しかし、「殖産興業・商業の神格化」は、かなり早い時期であり、「古代仏教」の伝来後に成る。
そうすると、「大化期の直前」と成ると、古来の「稲荷信仰体」が、「古代仏教」の「伝来の影響」を受けた。
そして、「後漢の職能集団」の進んだ技量で、”「古代和紙を殖産態勢」にすること”を習得した事に成る。
当然に、その「殖産」のみならず「興業」には「財源等の基盤作り」が絶対に必要に成る。
その基盤には、「伊勢の守護の青木氏」が関わった事に成り、そうすると、早くて650年頃と成る。
それを「施基皇子」は、その「和紙殖産」への取り組みの経験を通じて、「殖産の奨励」を天皇に奏上した事に成る。
そして、自らも積極的に進め、子孫は950年頃には「余剰販売」まで漕ぎ着けた事に成る。
1025年には「大商いの総合商社」に発展させたのである。

(伊勢北部伊賀を実家とする「平清盛」がこの殖産に共同体として大いに関わった。清盛も「宋貿易」に関わった。)


結局は、「青木氏」は、朝廷と同じく「ア」と「イ」の両方の影響を以てして、「稲荷信仰との関係」もあった事に成る。
故に、伝わる「茶釜作法」は両方からのものである事に成る。
それだけに、この「茶釜作法」は、”単なる作法では無く”、”青木氏の歴史を物語る作法”であったからこそ、ここまで引き継がれて来た事に成る。
「単なる儀礼上の作法」ではここまで伝わらない。
当に、「茶釜作法」は「青木氏作法」であった。

「民の稲荷信仰」=「茶釜作法」=「青木氏作法」=「密教作法」

同時に、「民の稲荷信仰」は「青木氏の稲荷信仰」とも云えるのである。
「賜姓族と国策氏の立場」にある「伊勢青木氏」に取って不相応に見える「稲荷信仰体」は、ただ単に、「二足の草鞋策」の為の「ご利益の稲荷信仰」では無く、そのもの「青木氏の稲荷信仰」でもあった。

この背景には、「古代和紙の殖産能力」を高める為に、その殖産を「近江、美濃、信濃、甲斐」の「5家5流の青木氏」に奨励した事が上記関係式が広域に出来上がったのである。
その朝廷には、「豊受大御神の加護」を誓願して、「民の稲荷信仰体」を大きくする為にも、古来からの「五穀豊穣の神格」のみならず、そこに加えて「殖産・興業・販売の神格」を付加させる様に「民と朝廷」に働きかけたのである。

この為には、その「殖産・興業・販売」を成し遂げる「財力と技量と政治力と販売力」が必要であった。

(上申に依って、朝廷は「紙屋院」と云う役所を創設した。これが伊勢青木氏の「紙屋」の称号の元と成った。)

そもそもこの計画は、急に出来るものではない。
「財力」と「政治力」は「青木氏」が受け持ち支える事で可能である。
問題は、その「古代和紙の生産」の「技量」を高めなくては成り立たない。
そこで、この大和川流域には、「後漢の職能集団」が庵を構えて住んでいた。
そこで、彼らの高い進んだ「製紙の技量」を持ち込みむ事で成り立つし、「殖産」も彼らの知識を受け入れば可能に成る。
問題は、「販売力」である。
しかし、この時代は、未だ完全な「自由市場」では無く、「半市場の部経済」を敷いたばかりであった。
つまり、全ての「職能集団」から、その物を先ずは一度朝廷に治め、必要な分を税として取得し、その他を市場に放出する制度を取っていた。
結局は、「古代和紙」に関しては、「和紙の余剰」の販売は、「青木氏」が自らその市場を獲得して、売り捌く事に成る。
「半市場経済」とは云え、”売り捌く事 そのものの行為”を確立する事の難しさがあった。
更には、この時代は未だ「紙」では無く、「記録材」としては「木簡」が全てであった。
そこに、この「古代和紙」を生産し、殖産し、販売して、興業しようとしているのである。
当時としては、今までに無い ”全く新しい産業” を興そうとしている事に成る。
現在で云えば、パソコンか携帯電話に等しい革命である。
それも現在では無い、当に「大化期」である。
この時から「青木氏」は、”相当な覚悟を以てして奏上した”だろう事が判る。
奏上だけでは済まない。
「伊勢神宮の豊受大御神の加護」として「伊勢神宮」にも協力を仰がねばならない。
「民の稲荷信仰体」の庶民にも、その必要性を解き、生産してもらわなくてはならない。
彼らにしても初めての未だ経験もした事のない仕事である。
何れもなかなか納得はしなかったと考えられる。
しかし、”「氏」を掛けての挑戦”であった事が判る。
ここから「青木氏の商いの基礎」が敷かれて行った事に成る。

結局は、記録では、興業としての「商い」は、青木氏の記録では「古代和紙の販売」は950年頃と成っている。(正規の生産開始は730頃)
とすると、「殖産」を始めてから”300年”と成っているが、次ぎの経過を辿ったと考えられる。

A  和紙の良質な生産開始に50年   (730年頃 正倉院 紙屋院 白鳳文化 記録)
B  和紙の殖産を始めて余剰品を作り出すには50年    (770年頃 平城消費文化)
C1 商い態勢に50年            (810年頃 平安初期文化 摂関文化初期 記録)
C2 販売能力に50年            (890年頃 平安中期文化 摂関文化中期 記録)
D  興業として50年             (950年頃 国風文化前期 摂関文化後期 記録)
以上として観れば成り立つ。

S(初期)
初期の段階では「原材料の調査」、「生産する農民」の養成、適切な「耕作面積の獲得」、
それを和紙にする「技量の習得」と「職人の養成」等で、思考錯誤しながら基盤を作った。
とすると、次ぎの様に成る。
以上には、一期毎に50年程度の相当な期間が掛かったと考えられると、納得出来る。
「本格商い開始− 50年− 「950年」

E(完成)
「総合商社」として75年           (1025年 国風文化後期」 記録)

この期間に関しては、「紙」は「文化のパラメータ」である。
以上の様に、この「古代和紙」の「紙」を日本最初に作る事に挑戦したのが、「5家5流皇族賜姓青木氏」なのである。
日本のこの「紙文化」には必ず「宗教文化」が伴っている。
従って、青木氏の一面の”「紙屋」の歴史の変遷”は、この「紙文化」に左右されている事に成るのである。
そして、その紙の多くを消費していた「宗教文化」にも左右されていたのである。
下記に詳しく論じるその「宗教文化」の「仏舎」の「仏画」の歴史も、この「青木氏の紙の変遷」が大きく関わっているのである。
当然に、次ぎに論じる「節会」もこの「宗教文化」と「紙文化」に左右されているのである。
「宗教文化」→「節会」←「紙文化」
その「文化のパラメータ」の「紙の使用」が、Aの様に、「東大寺の写経会」に観られる。
この様に、初期の「紙文化」として遺されている「文化資産」は、「経典」と「仏画」の類が殆どである。

しかし、「後期の紙文化」としては、「鎌倉文化と室町文化」は、初期の「経典仏画」類に関わらず、全ての書籍等の「紙材」に利用されている。

中には、Bの様に、未だ一般に「紙市場」が無かったにも関わらず、「平城京」で起こった「消費経済」で「紙」が初めて大きく「消費される現象」が起こったのである。
余剰品が消費される環境が出来て来た。

そして、遂に、遷都に依って、紙の使用は庶民の中にも浸透し始めた初期の現象が起こった。
要するに、「公家文化」と「武家文化」の開始で「紙」が盛んに使われ始めた。
特に、世に「摂関家の文化」とも云われる文化であった
最早、余剰品の販売の領域を超え始めたのである。
本格的な「販売体制」に入らなくてはならなくなった。(C1)

結局、「初期の販売体制」は、区切る事無く続き、本格的な全国的な販売体制が必要に成った。
そして、「輸送」「安全」「全国的な組織体制の確立」の必要性に迫られた。
「輸送」には、大量に運ぶには「船」「陸送」が使われるが、これらを安全に輸送できる全国的な「護衛組織の確立」(シンジケート)が要求された。(C2)

C1+C2=Dの数式が完成した事から、今度はこの組織を使って「紙屋の商い」の組織と「賜姓族」の組織とを分離した。
そして、本格的な「二足の草鞋策」が始まった。
現在で云う「興業組織」の「紙屋」に成長したのであった。
各地に「守護神の神明社」などを使って「支店」などを設けた。
「紙屋」と「青木氏」との関係が世間では判らない状況となった。
恐らくは、当初は殆ど「紙」は「伝来紙」で賄われ、「朝廷や上級階級」が使う超高価品であったことから、朝廷に治めるものでいっぱいで、市場に出まわるまでにはなかなか至らなかったと考えられる。
当然に、ここまで到達するには、この期間が相当長かったと考えられる。
「紙の変遷」として、「何らかの文化」が起こらない限りは、より多く作り続ける前に、「限定生産」の状況であった筈であろう。
しかし、「日本の文化」は違っていた。
上記の様に、ほぼ、40年から50年程度で、「日本文化の変遷」が起こっているのである。
従って、「紙の文化」もこれに連動していたのであり、「青木氏の変遷」もこれに左右されていたのである。

「日本文化の変遷」=「紙の文化の変遷」=「青木氏の変遷」=「7期の変遷」

記録によれば、その大きな先鞭になったのは、矢張り「天平文化」である。
記録では「写経」「絵画」「仏画」「記録」に使われたとある。
そして、何れもの変遷は、”夫々特徴の持った進化のある上記の「7期の変遷」”を持っていた事になる。
云い換えれば、「青木氏の変遷」も、”夫々特徴の持った進化のある上記の「7期の変遷」”と云う事に成る。

記録
日本に、最初に「紙」が伝来したのは、296年と成っている。(「写経本」で西山本願寺蔵)
初めて日本で「伝来紙」で使われたのが、513年であった。(日本書紀に記載)
初めて、日本に「紙生産技術」が「後漢」から入ったのは、610年であった。(僧侶兼職能者)
「古代和紙」を使って書かれたものとして遺されているのは、739年である。(正倉院蔵)

この年代から判断して、650年から初めたとすると、上記のEからAに達していた事に成る。
何とか739年には既に「伊勢和紙の生産開始」できる態勢に入っていた事を意味する。

この739年(施基皇子没年716年の23年後)の直前に、「伊勢青木氏」は、「古代和紙の生産」に取り掛かった事を踏まえて本腰を入れる為に敢えて”「紙屋」”の商号を名乗った。
それを以て支援していた朝廷では、その仕事をし得る「役所」を定め”「紙屋院」”としたと考えられる。
これが「二足草鞋策」の「青木氏の紙屋」の始まりである。

この「正倉院の紙」は、「日本初の紙」として「伊勢青木氏」が朝廷に献納したものである可能性が高い。この時期に「古代和紙」を生産していたのは青木氏だけである。
故に青木氏の商号「紙屋」である所以である。
「仏画」にしても同様に、「青木氏」以外に上記の通りのSからEを成し得る氏は無かった筈である。
750年に行われた「東大寺写経」のものを調査した結果では、使われた紙は「伊賀和紙」の「楮和紙」である事が判っている。
つまり、「生産開始」から10年経っていることから、既に、「楮和紙」が普通に成っていた。
従って、敢えて使う事が無い筈で、況して、恒例の「写経会」で本格的に使う事は無いだろう。

その中の「写経紙」の中に「異質の紙」の粗目で「茶褐色の紙」が混入している事が判っているが、この事で多くの説があって定まっていない。

「延喜式格」に記載されている説としては、この「粗目紙」は「マメ科の紙」と記載されているが、この和紙は普及しなかった事が判っている。
筆者は、739年の後の750年である事から、「楮の紙」で生産開始の成功した時期から観れば、「テスト中の紙」も「日本古代和紙の歴史」の記録を遺す意味で敢えて使った事では無いかと観ている。
(「マメ科の古代和紙」は結局は「紙質不良」で直ぐに消えた。)

後漢の僧侶で職能者でもあった者が、自ら「民」の前で紙を作る程の器用さを持ち合わせ何でも作った僧侶であったと記録されている。

当時の記録を辿れば、大和川流域には、「古代和紙」に使える材料は、次ぎの四つであった。
1 麻    美濃産  中部  美濃古代和紙
2 楮    伊勢産  関西  伊賀古代和紙   信濃古代和紙
3 雁皮  近江産   中国  近江古代和紙  鳥の子紙 782年
4 三椏  甲斐産   関東  甲斐古代和紙  和紙としては 1600年に伐採 家康許可

恐らく、この「古代和紙」に使える原材料を見つけるだけでも、相当な時間を要したと考えられる。
夫々に紙質には特徴があり、使用に値するものにするには、「相当な技量」を要し、「研究の期間」もかかったと考えられる。
記録では、何とか「紙」にしたものの、紙質そのものが悪かったとされ、「滲み解消」等の研究に相当な時間を要した事が書かれている。
上記の様に、真面に使え遺し得る紙に成るまでには100年かかっている事に成る。
「伝来紙」は「粗悪」で大和での「紙の普及」には繋がらなかったとされている。
聖徳太子が挑戦したと云われる「福井の和紙」も市場や記録には結局は出て来なかったことがその大変さを物語っている。
研究室に「藤白墨の論文」を掲載しているが、全く同じ経緯を持っていた事に成る。

a 「伊勢青木氏」が、先ずこの「後漢の僧侶」に「紙の生産の仕方」を学んだ事
b 時代の変化と共に「改新の火種」にするには、「紙」だと認識した事
c 地元の「民の協力」を「大和川流域」に求めた事、「稲荷信仰体」に求めた事
d 良質な紙にする為に「稲荷信仰体の協力」を得て発見した事
e 紙質の改善や開発に「住民の協力」が主体に成っていた事
f 楮の土壌として、大和川流域の湿地帯の適地に求めた事
以上の事が良く判る。

特に上記のSの事が証明されている。
全てを細かく説明は出来ないが、「紙の材料」を発見する為に、面白い事が書かれている。
これだけを紹介する。
先ず最初に手に付けたのが麻であった。その麻は民が着ていた衣服を脱いで、煮沸したり、他の植物を混ぜたり、不要になった漁網を細かく切って混ぜたりして試行錯誤した。
然し、上手く行かず、最後に辿り着いたのは、それを”石臼”で細かくして試みたとある。
出来た事は出来たが、それでも色が悪く、厚すぎたり、書き難くかったり、墨を弾いたり、滲んだりして、普及しなかった。
そこで、粘土なども使ったが上手く行かなかった。
ある時、間違えて窯の「灰」の着いた材料を入れて仕舞った。
ところが、これが、「色」と「書き難さ」と「弾き」と「滲み」を無くしたのである。
「灰」はアルカリ性で色を還元して白くし、不純物を溶かし、表面を溶かして滑らかにし、紙の間に灰の粉が入り「弾き」と「滲み」を無くしたのである。
当時としては画期的な科学的な発見であった。
後は、問題は「厚み」と「平均化」であったらしい。
良く煮沸して、柔らかくして、最後は”臼”で細かくして、漉く温度を保ち、後は出来るだけ薄くする道具を考え出したとある。
”臼”が決定的な革新であったらしい。
未だ大和には、”「臼」”そのものの概念は無かった。
更に、この”臼”を「川の水」で「水車」を使って廻すと云う「機械概念」は全く無く、その伝来の後漢の技術が画期的に紙の発展に寄与したのである。

この「紙の文化の変遷」は、”「臼に依る技術革新」”が無ければ、量産を伴う殖産は、更に、200年は確実に遅れていただろう。
「紙」は「文化のバラメータ」ではあるが、この「紙の臼の技術革新」は紙以外にも画期的な革新をもたらした。
最後はまとめあげる為の全ての「経験」であった事が筆者の家の資料によると詳しく書かれている。
他の外部文献にも同じような事が書かれている。
その結果を以て「楮」や「雁皮」や「三椏」を試した事に成り、この四つが紙に成った。
中でも、”2の「楮」”が最も生産や紙質に適していた事に成った。
「雁皮」は「鳥の子」と呼ばれ、「近江産の古代和紙」として有名で「画紙」として良質である。
事ほど左様に、Sが解決すれば、AからDの改革に取り組む事に成る。


上記した様に、「紙の文化」の「7つの変遷」と共に、「宗教文化」も下記に論じる「節会作法」も同じ経緯を持っている。
これら「紙文化」が「宗教文化」(節会文化)に強く影響を与えたが、「青木氏の変遷」も、”夫々特徴の持った進化のある「7期の変遷」”の大きな基盤に成長して行ったのである。
この「青木氏の変遷」が「青木氏の密教文化」を支えたのである。

当に、この「青木氏の変遷」=「紙文化」=「密教文化」=「宗教文化」=「節会文化」であった。

以上の数式論が成り立つ相互関係を維持していたのである。
その為には、「密教作法」に繋がるこの「節会」に付いて更に深く論じて置く必要がある。

「節会と節句」(「青木氏の変遷」)
例えば、兎も角も、3月の「節句」の「雛祭り」や5月の「節句」や「彼岸」などには、祭祀の内容が、”夫々特徴の持った進化”の為に、世間とは違っている。

「三月の節句の雛祭り」には、伝来の大きな80センチの「一対の雛人形」を居宅に飾る。
しかし、筆者の家では「雛段」は無い。
明確な意味合いは不明ではあるが、これはそもそも「雛祭り」と云う意味合いでは無かったのではないかと判断できる。
「平安時代」の「遊び雛」や「厄除け雛」、「江戸時代」の「祭り」を主体とした「雛祭り」のもので無い事は明らかで有る。
恐らくは、「青木氏の子孫繁栄」を願っての正に「祭祀」であったと考えられ雛人形と云うよりは「像」に当たる。
それは平安期の「遊び」や「厄除け」、江戸時代の飾り立てた「祭り性」は全く感じられない。
そもそも、青木氏には、「遊び、厄除け、祭り」の様な「伝統的な性格性」は無い。
要するに「堅物」であろう。
(この「雛人形像」なるものは、後に桐箱に入れられて居た。更に、明治期には像をガラス箱に収められて保存性を高めた。依って「雛人形」の様に観えるのであろう。)

「賜姓族」として、室町期末期より菩提寺から居宅に移されているが、自然の生物が芽吹く時期の三月にこの「一対人形」を持ち出して祭祀したところから「子孫繁栄」を祈願したと観られる。
これは、「大日如来像」や「毘沙門天像」と同じ祭祀の意味合いを持っていたと考えられる。


確かに「五月の節句 端午の節句」にも、明治期以前の江戸初期頃には、大きな「毘沙門天像(人形)」(120センチ程度)を”祭っていた”と伝えられている。
否、”飾った”では無かった筈である。
この祭祀は「居宅」では無く、当初は直ぐ近隣にあった「菩提寺」での祭祀であったと聞かされていた。(平安期初期頃)
「三月の節句」「五月の節句」の祭祀も、世間の”子供の節句”と云う意味合いの祭祀では無かった。
「菩提寺」で行う以上は ”別の意味”があったと観られる。
仮に、「雛祭りや端午の節句」等の「子供の節句」であれば、その意味合いから「居宅」で行われる筈である。
「菩提寺」では無い筈である。つまり、「仏教行事」では無い事に成る。
然し、「青木氏の菩提寺」であった事は、「古来宗教の概念」を持った何らかの「密教的行事」であった事に成る。
つまり、「節句」では無い事に成る。
世間と異なる”夫々特徴の持った進化”が、「青木氏の変遷」の中で、この様に起こっているのである。

と云うのは、この時、つまり、鎌倉期頃から「菩提寺」では、「大日如来坐像」の「お仏像様」と合わせて「護り本尊」と呼ばれていた「毘沙門天像」(下記)の一対で祭祀していた事が判っている。

毘沙門天像の出現
この頃の経緯としては次ぎの様に成る。
平安期初期に桓武天皇から「皇親族」としての「青木氏」を排除した。
この為に一時衰退したので、菩提寺に移した事が考えられる。
その後に、子供の「嵯峨天皇」は、再び「皇親族」で行う「皇親政治」を敷いた。
この為に、「青木氏」は再び勢力を盛り返した。
この間、約50年程度、「毘沙門天像」等の祭祀は菩提寺に移した。
ところが、鎌倉期から室町期には「紙文化」が徐々に起こる。
遂には「室町文化」で華が咲いた。
その結果を受けて、平安中期頃(殖産950年頃)から「5家5流青木氏」の「殖産・量産・販売の興業」に成功した。
「二足の草鞋策」(商い1025年)で「紙問屋と総合商社」(「二束草鞋策」)を全国的に営む氏として復興した。
この直ぐ後の10年後に、「特別賜姓族の藤原秀郷流青木氏」が発祥し、「賜姓族青木氏」を補完する態勢が出来た。
再び、これを受けて「950年頃」に菩提寺に預けていた「毘沙門天像等」を居宅に引き上げて祭祀したとある。
150年間 「青木氏菩提寺」で「毘沙門天像」と「雛人形等」は祭祀していた事に成る。
ところが、当初は「菩提寺」での”正式な祭祀”(150年)であった。
上記した様に、再び、室町末期の戦乱と大火(信長ー秀吉の伊勢攻め 1567−1574年)で避難して「紀州新宮の居宅」に移した。
この頃から、その”祭祀の意味合い”が若干俗化して異なって来たのではないかとも観られる。
新宮の居宅での祭祀は10年程度で松阪の居宅に戻した。
秀吉家臣の蒲生氏郷から「本領の安堵」と、松坂に居宅(「侍屋敷」9から11番付与)を与えられる。
(超大地主250万石以上の有資産があった。)

古来より、季節の節々に、「伊勢神宮」は兎も角も「宮廷」においては、”「節会」(せつえ せちえ)”と呼ばれる宴会が奈良期より恒例で開かれていた。
これを江戸時代には、”「節句」”として称し、「祝日行事」と定めたことから、”「節句」”と云う行事と世間では成った。

様々な異変に左右されながら以上の経緯を経ている。

そもそも、奈良期から、宮廷では「節会」(せつえ・せちえ)として「皇族一族」が介して「宴会」を催した。
然し、この「節会」では、”奈良期からの「神仏習合の影響」”を受けて、「現世の者」ばかりが集う場だけでは無く”、先祖との会する場”として設けられた行事であった。
故に、言葉が「節の会」と「節の句」とに分けられているのである。
「伊勢青木氏」も”「節会」(せちえ)”と呼称されていた事から考えると、「宮廷」も「密教」と「古来宗教」の影響を受けて、”先祖との会する場”の概念が継承されていた事を物語る。
元々は、「古代密教の仏教」では、この場を「仏教用語」として「節会」(宮廷は”せつえ” 青木氏は”せちえ”)としていたものであり、”先祖との会する場”としての「迎える古代密教作法」があった。
(古来は”せちえ”の「節会」と呼称されていた。)

これが上記した「道標行燈」と「茶釜所作」の関連する「密教作法」であった。

九度所作(節会所作)
この「仕来り」は、江戸時代の様に、庶民化して「祝日」としての「節句行事」では元来なかった。
「居宅」で行われていた「雛人形像」などの祭祀は、この様に「祝日行事」としてでは無かった。
この「節句:せっく」と「節会:せちえ」の言葉の違いでも判る。 
「伊勢青木氏」に引き継がれて来た「密教作法の節会」は、この「古代密教の作法」にて ”先祖との会する場”であったのである。
年を経て繰り返す神仏を祭祀・行事を意味する”「節」”に、仏に会う事の意味として”「会」”と合成語の言葉の所以である。
「青木氏節会」は、「先祖との”会”する場」の密教作法であるのだ。
従って、「伊勢青木氏」では、「お盆の節会」と「彼岸の節会」が、その最も ”先祖との会する場”が重要な場であった。
この為に、他の節会よりも「道標行燈」と「茶釜所作」の「密教作法」以外にも、”「仏壇」”(仏舎)などの「迎え所作」が徹底していた。
(「青木氏」は、顕教の「仏壇」では無く、密教である為に「仏舎」と呼称していた。)
故に、上記した様な、「密教作法」が採られた上で、下記の”「九度所作」(節会所作)”と呼ばれるものが伴ったのである。

江戸時代には、民間には年間にわたり様々な「節句」が存在しており、その内の5つを江戸時代に幕府が公的な行事・祝日として定めた。
しかし、”、先祖との会する場”とするものでは無かった事から、「お盆」と「お彼岸」と「年暮」は「節会」である。
次ぎの様に庶民では「節句」では無かった。

それが次ぎの”「五節句」”(庶民の節句)である。
1 人日の節句 おせち料理 七草粥
2 上巳の節句 雛祭 菱餅 白酒
3 端午の節句 菖蒲酒 関東は柏餅、関西はちまき 菖蒲湯
4 七夕の節句 素麺
5 重陽の節句 菊酒

以上が江戸期に定められ「祝日」の「五節句」である。

次ぎは「密教青木氏」の”「三節会」”である。
A 「入盆」
B 「彼岸」
C 「暮年」

以上の”「五節句」”は、何れもその元は「重陽の節句」にしろ、「七夕の節句」にしろ、”先祖に思いを馳せた祭り”であった。
「端午の節句」、「雛祭りの節句」にしても、”「子供の成長」を一族が集まって喜ぶ祭り”である。
要するに「先祖への子孫繁栄」を伝えるものである。

「正月の節句」は、年の始めを祝詞する他の四つを纏めた様な ”総合節句の意味合い”が古来よりあった。
しかし、時代と共に「民の文化」の方は変化を来したのである。
この様に元を質せば、「青木氏の密教作法の節会」は「先祖」とは切り離せない祭り事であった。

「道標行燈」と「茶釜所作」はこの「青木氏の密教作法の節会」の中の一つの作法で在った。

系統概念の有無
伝統を継承するには、系統的概念が必要と成る。
然し、そもそも、江戸時代には、庶民には、”ルーツを系統的に遺す概念”そのものが無かった。
上級武士を除き、依って、”系統的に祭祀する墓、” そのものが未だ無く、当然に、無墓では「節会」では無く成る。
(その「伝統」や「系統性」に関わる「墓の起源」は下記に論じる。)
仮に、「毘沙門天信仰」が、庶民の中に発展したとしても、「戎神」、「勝負神」、「無病息災神」の範囲に留まった。
この「三つの神格」、即ち「庶民の神格化」が示す様に、”特段の概念の無さ”を顕示しているのである。
ところが、江戸期も含めて、近年次第に、より益々 ”「先祖」の意味合い”が低下して、単なる「祝日」「祭り」に更に成りつつある。
むしろ、「先祖の概念」は、論外として認識されていない状況であろう。
明治以降、「先祖の概念」は、「先祖の概念」として ”「別扱いとする合理的判断」”に依ったものと考えられる。

”先祖との会する場”と云う「密教概念」が無い事を示している江戸初期の「五節句」では、250年も経過すれば、民衆からは必然的に「先祖を尊ぶ概念」は無く成るであろう。
しかし、そんな中で、”先祖との会する場”の「青木氏の密教の概念」が、「青木氏の生活の作法」として1500年も遺し得ていた。
だからこそ、又、「先祖の概念」が系統的に『維持されて来たからこそ、「伝統」として強く遺されて来たのである。
ここに「根本的な大きな違い」がある。

何故ならば、全ての庶民は、明治3年を境にして、一挙にして「姓」を特定する「苗字」を持つ事に成った。
”「系統性」を持ったと云う事”である。”「伝統」を維持する事が出来る様に成ったと云う事である。
その結果として、”未だ、系統化された「ルーツ」の無いまま”に、”漠然とした先祖への思い”として「墓所」を持ち始めたのである。
況して、その「墓所」は、それまでの「仏教の慣習」の「砂岩の墓」(下記)では無く、「花崗岩の墓」を設け、それまで無かった「家紋」まで仕立てての墓所と成った。
「苗字」も8年間もなかなか進まなかった中、「系統性の持つ苗字」が出来ると成ると、今度は一夜にして「前の概念」を捨て、新たに「先祖の概念」を持つ”変わり身の早さ”に至ったのである。
これは、幕府が定める恒例の「江戸期の5節句」として250年続いた祭祀の中である。
上記した様に、「5節句」は、元を質せば、”先祖への思いを馳せていた事”が、「休日・祝日」の中で、意識の何れかに遺されていたのであろう。
それが、「苗字取得」に依って ”今後、先祖を特定できる” として「一挙の行動」に出たと観られる。
庶民には「休日・祝日」であった「五節句」を祝う中で、且つ、「ルーツの探究」が出来ない慣習の中でも、”根底の意識”の何処かに「先祖の概念」の思いと要求があった事を示す現象である。

これには、調べると、面白い事が出て来る。
「幕府の5節句の休日・祝日・祭日」とした「指導の仕方」にあったのである。
例えば、幕府自らが 、”「働く日」に休む馬鹿 「休みの日」に休まぬ馬鹿”等の狂歌や川柳を多くを出して、「社会のムード」を作り上げて、苦労して初めての「国家的祝日」を作り上げた事が判っている。
従って、この「5節句」は、到底、”先祖へ思いを馳せる祭り”とする事などは到底に無理であったのである。
あくまでも、「休日、祝日、祭日」の節句であった。
それも、”有史来の画期的な行政策”である。
その職場職場で適時適切に決めていた「慣習の休み」で、”暗黙の内にこの日は「休み」”と云う社会体制であった。
それを全国統一して、何が何でも”休め”としたのである。
それが、朝廷が祭祀として行っていた「八節会の儀」の中から ”民衆が休みやすい節会”を五つ選んだのである。
しかし、それの根拠が、”先祖との会する場” 又は、少し緩めて、”先祖へ思いを馳せる祭り”にしてでも、上記した様に、”未だ系統化された「ルーツ概念」”の無いままであった。
庶民にしてみればこれは、 ”ピントボケの施策”と成る。

「青木氏の三節会」のABCは、江戸期の記録から観ると、「朝廷の八節会」が行われていて、それに合わせて、”「系統化されたルーツ」を持つ上級武士を含む上級階層の間”でも、それなりに祭祀として行われていた。
「青木氏」の様に、「密教」であるかは別として、「顕教の慣習」でも兎も角も行われていた。
「朝廷の八節会」は、「伝統を護る為の行事」であり、「先祖を敬う行事」でもあった。
この事から、それなりの有る階層では、「八節会」はこの「二つの事」を護る「社会的ムード」が在った。
そこで、それに関わる家人や下僕や出入りする職人・商人・農民にも、その祭祀に順応して「主家の祭祀」に従ってお参りした。
その上で「義理」を表すために無理にでも「休日」として”1日を念じる姿勢”を示した慣習であった。
(江戸期は「義を重んじる社会」であったから成り立つ慣習であった。)
恐らく、この事もあって、幕府は敢えてこのABCは外したと観られる。

然しながら、筆者の家では、代々「人日の節会」(正月:人の日)の言葉通り、「年暮の節会」から一族が一堂に集い ”「人」に思い馳せる場”としての「節会」であった。
決して「休日、祝日、祭日の節会」では無かった。
上記した様に、「密教の青木氏」は、「年暮」から「道標行燈」を設け、「仏壇」(仏舎)には、吸い物や精進料理を伝来の「高瓶朱盆」に載せて祭祀し、一夜通しで「人日(正月)の節会」に入る作法が引き継がれる。
この「人日節会」(正月 人の日)には、「朝昼晩」には夫々決められた精進料理が供えられる。
二日目にも、「昼晩」には同じ所作が繰り返される。
三日目には「晩の所作」のみで「道標行燈」の「送り行燈」を灯明し、一族うち揃って「般若心経」を「女主」が中心に三代前までの先祖の数だけ唱えて終わる仕来りである。
これが「青木氏密教の作法」であり、元々正月は、むしろ「不作法の日」とする「民衆作法」と成っていて大きく異なる。
民衆の「人の日の節句」は、江戸幕府の川柳などの宣伝もあって、結局は”休ませる事”に重点が置かれ、”人を休ませる日の節句”と解釈されたのである。

事ほど左様に、他の四節句も、”休ませる事”に重点が置かれ、「人日の節句」の通りに考え方が、上巳、端午、七夕、重陽にしても、全てこの”休ませる事”の解釈であった。(別記)

”何故、この様に成ったか”と云う論調には、上記の「稲荷信仰体」と同じく、次ぎの「庶民信仰体」の影響が左右されていたのである。

終わり。

「伝統」−5に続く。

「毘沙門天の影響」


  [No.322] Re:「青木氏の伝統 5」−「毘沙門天の影響 1」
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/08/29(Fri) 15:14:16

前回の末尾

>事ほど左様に、他の四節句も、”休ませる事”に重点が置かれ、「人日の節句」の通りに考え方が、上巳、端午、七夕、重陽にしても、全てこの”休ませる事”の解釈であった。(別記)

>”何故、この様に成ったか”と云う論調には、上記の「稲荷信仰体」と同じく、次ぎの「庶民信仰体」の影響が左右されていたのである。


伝統−5


「毘沙門天の影響」
この「庶民の五節句」の「祝日祭りの影響」は、江戸期からの”民衆化した「3つの毘沙門天の神格化」(「戎神」「勝負神」「無病息災神」)”に大きく影響された事もあったと観られる。(下記)

何故、この特定階級の中でも、「上級階層の密教」そのものの「毘沙門信仰」が浸透したかと云う疑問がある。

それは、江戸期250年の間に、何と全国的に起こる「気候変動の大飢饉」が8回も起こっているのである。30年に1回である。
地方の小さい飢饉にすると数えられない位で、「小さい飢饉」は殆どが「河川反乱」であった。
この為に「土木事業」が盛んであった。
「薩摩藩」や「紀州藩」は、その「最先端の技術」を持っていて、幕府に請われて他藩に主張して「河川改修」を命を掛けて盛んに行った記録がある。

江戸期の庶民は、これは「日本古来の和魂と荒魂」の考え方が蘇り、「荒魂の悪神の悪神」が暴れていて、これを鎮める「毘沙門天」や「荒神」が働かず、「庶民の無信心」で勝手気儘に暴れているのだと考えたのである。

それまでは、当に、「密教範囲の信仰体」であったのに、民衆は藁をも掴む思いで、この信仰体に再び飛びついた。
「古来の荒神信仰」が「武士」の間で信仰されていた事を知ったのである。
其れが元は「庶民信仰の地荒神信仰」(道祖神や産土神)であった事を知ったのである。

そこで「神社仏閣」は、いち早く、民衆を呼び止める為に、「毘沙門天像」や「不動明王」や「荒神像」を祭祀した。

ところが、毘沙門天像と不動王像の神格に対して、新たに「戎神」「勝負神」「無病息災神」を求めたが、「武神」「守護神」「財神」の「3神格」は求めなかったのである。

その代わりに、「地荒神」を発展させて「万能神の様」にしてまったのである。
この「地荒神」と「毘沙門天の神格」の「無病息災」等に”願いを込める休む日”とする節句をつくりだしたのである。

この様な経緯から、「節会」が「節句」に変わった事も、庶民の「毘沙門天の神格」が「戎」「勝」「無」の「現世の生活観」に特化した為に、「会」に持つ”彼世の仏の意味”が消え失せて、「句」の”現世の人の息遣いの意味”に変化したものである事が判る。
庶民の中では、最早、”「武」「守」「財」の3神格”は影形も全くなく成ったのである。
(武士階級の中で護られた)
ところが、その後に、「本来の3神格」を維持して来た「伊勢青木氏」にも、これを維持することが難しくなった時期が発生したのである。
室町期末期に戦乱と大火で、「菩提寺」が消失して、「本来の密教作法」に依る祭祀が充分に行えなく成った。
そこで、「大日如来坐像」も居宅に安置されて「毘沙門天像」と共に祭祀を何とか維持していたにも関わらず、今度も「明治の大火」に依って「毘沙門天像」そのものの偶像を消失しまった。
完全な意気消沈状態であった事か伝わっている。
暫くは、祭祀そのものが危ぶまれた時期があったとされる。

当然に、この時期から、青木氏には、「本来の目的」(「武神」「守護神」「財福神」)の概念が低下して行ったと観られる。
大正期に入り何とか祭祀は盛り返されたが、この時、「護り本尊」の「毘沙門天像」の代わりに「節句」に使っていた「義経ー弁慶像」を使う事で「密教作法」は何とか遺されたのである。

従って、「青木氏」のこの「義経ー弁慶像」(二代目)は、江戸期の庶民が用いた偶像の「義経ー弁慶像」では無かったのである。
「毘沙門天像の身代わり像」であった事に成る。
”消失による概念の低下”を防ぐ目的の為に、むしろ「庶民文化の偶像」を上手く利用した事に成る。
奈良の発祥期から観ると、「伊勢青木氏」には、「氏存続」に関わったものとして、「一度の衰退」「3度の戦禍」「2度の災難」が起こった。

毘沙門天像等の遍歴(三昧耶形仏具)
大化期初期ー居宅 ー・・・  賜像「毘沙門天像」・「大日如来座像」
平安期初期ー菩提寺ー150年 桓武天皇 皇親族排除
平安期中期ー居宅 ー50年  秀郷流青木氏賜姓 商い開始
鎌倉期初期ー菩提寺ー125年 源平合戦 以仁王の乱 孫京綱跡目
室町期初期ー居宅 ー175年 紙文化 室町文化開始 巨万の富 「大日如来座像の移転」
室町期末期ー新宮 ー350年 信長の伊勢三乱 商い中断 「大日如来座像の移転」
江戸期初期ー松阪 ー10年  本領安堵 商い再開 「大日如来座像の移転」
明治期初期ー鎌倉 ー275年 伊勢動乱 一揆支援 家勢再興 「大日如来座像の移転」
明治期中期ー松阪 ー25年  松阪大火・毘沙門天像消失 商い倒産 「大日如来座像の移転」
大正期初期ー松阪 ー20年  家勢再興 仏具整理


その事から「縁起」を担ぐ事で一族の中にその意識が遠退いたのであろう。
その証拠として、幸いにも遺された「お仏像様」にも、この「縁起」を担ぐ事が在って、”その「お仏像様」を祭祀するに、それに「見合う人物」でないと、その人物に「不祥事」が起こる”と云われていて、厳しく戒められていた。
現実に、筆者もその人物で無い為にあるところに安置して頂き祭祀している。
二度とこの様な事が起こらない様にする「訓戒」であろう。
事ほど左様に、この「毘沙門天像」(「護り本尊様」)にも同じ事の戒めが課せられていたが、「松坂大火」で消失して仕舞う仕儀と成った。
この為に、”この「戒めの咎目」を受けた”として祖父は、そけを祭祀する人物でないと自若し「毘沙門天の事件」で「祭祀」には口を固く閉ざしたものと観られる。
(祖父は当時、伊勢ー紀州ー奈良ー大阪ー京都圏域では誰でも知る有名な人物で、紀州徳川家や天皇家との付き合いもあった。しかし、「咎目」を受けた。)
結局は、900年以上続いた「伊勢の紙屋長兵衛」を倒産さした事への祖父の痛恨の反省なのであった。
しかし、晩年、再び祖父は、何とかこの「毘沙門天の祭祀」を甦らせ、父を経由して筆者の代まで引き継いで来た。
筆者以後は、先ずこの継承事全ては、文章にして遺す以外に最早、完全に無理な状況と成って居るのである。子孫は多く遺したが、何れの者も持って生まれた意識がそれを成し得る意識に到達していないのでは致し方無しである。仏説の当に”縁無き衆生 動し難し”である。
恐らくは,”[伝統]”と云うものはこの様にして消え去って行くものである事が判る。
消したくなくても「自然の力」はそれを超えていて、古来から伝わる「密教」の様々な「伝統」は完全に消える。何とか文章にまとめて記録して、全国の青木氏の末裔が「ロマン追求」の役に立つ為に出来るだけ詳しくして遺そうとしている。
恐らくは、全国の青木さんも殆どは伝統があるにしてもこの様な事で消えて仕舞ったと観ている。
最早、伝統そのものよりも「ルーツ探究」も侭ならない状況に成っている筈である。

事ほど左様に、以下に遺すべき歴史の史実をより詳しく解析して論じ続ける。

さて、この「義経ー弁慶像」(二代目)は、「人形」と云うよりは、”彫刻に彩色粉飾を施した木仏像”のものであたと伝えられている。
この事は、”何とか「毘沙門天像」に似せてのものに”と考えてのことであったらしい。
祖父の意識感覚が伝わって来る。
新たに「毘沙門天像」を作る財力は、「紙屋」は倒産したとは云え、未だ充分にあったと考えられるが、何故なのかは判らない。恐らくは、毘沙門天像に似せようとしたと考えられる。
当初は「毘沙門天像」は、上記した様に平安初期には「菩提寺」に保存されていたと聞かされている事から、その後、「室町末期の戦乱・大火」から「お仏像様」と共に居宅に移した。
しかし、この「毘沙門天像」(護り本尊様)は、上記の配慮から ”古く成った”との理由づけになってはいるが、正しくは「明治期の松阪大火」で消失したのである。
「毘沙門天像(護り本尊様)」の代わりかは不明であるが、上記した様に、一般文化を取り入れてか「義経ー弁慶像」(二代目)に変わった模様なのか、「毘沙門天像」に何故しなかったのか、調査したが、「菩提寺の消失」で「建立する力 維持する力」に総力を上げようとした事があって、「毘沙門天像の復元」には至らず、結局、「義経ー弁慶像」(二代目)で我慢したと云う事であったらしい。
つまりは、「偶像」は変わったが、”「祭祀の密教所作」は遺こす事で治めた”と云うことであった。

(「2度の大火の災難」から”「縁起」を担いではっきりさせていないの”が原因で、恐らくは「消失」である。ところが、この「消失の過失」を認めると、未来に「祖父の名誉の禍根」を遺すと判断したと観られる。この消失は「類焼」では無く「出火元」であった事から余計に意識したと観られる。)

現在の「義経ー弁慶像」(二代目)の人形は、明治35年(2度目の松阪大火 出火元)で「毘沙門天像」と共に「義経ー弁慶像(一代目)は消失して、その以後のものである。
後世には、悠久の歴史を持つ伝来の「毘沙門天像」であった事を明確にせず、「義経ー弁慶像」で繋ごうとしたのである。
昔は、この人形に色々な装飾物があった様であるが、現在は無いが、何とか「毘沙門天像」に近づける努力はした様である。
消失するまでの居宅での「毘沙門天像(護り本尊)」と「お仏像様」の祭祀では、色々な「仏法作法」があった。
以下の所作が伴う「密教所作」は、「義経ー弁慶像」(二代目)であるにしても、「江戸の節句行事」では無かった事が良く判る。

「密教所作 (九度作法・節会所作)」
遺されているのは「道標行燈の作法」と「茶釜の作法」の他に次ぎの「作法事」がある。
この祭祀には、次の様な作法が遺されている。
イ 「家伝の宝刀」を幼児に背負わす作法が遺されている。  (武家訓魂)
ロ 「武神」と云う事からの「武の基本所作」が遺されている。(軍配挙手、馬杯酒飲、刀剣手掛)
ハ 「紅白の角餅」を供る作法が行われいる。        (白は賜姓族の象徴色)
ニ 「幔幕」(家紋入り)を張る作法が行われている。    (福家象徴)
ホ 「方位」は北に向けての物であり、その祭祀には「方位の障害物」等を清浄する。(邪気払い)
ヘ 「回り行燈一対」を左右に据えて「仏壇」を飾り立てる作法が行われる。    (法華経典)
ト 「仏壇」は「古来の武具」の合わせた「小型金具の黒武具」の仏具が添えられる。(三昧耶形)

この様に、「青木氏の節会」は ”先祖との会する場”ではあるが、この”会する事”は「賜姓族(3つの発祥源)」を頑なに護る事の意を持っていたのである。
其処には、「護る意」のみならず「歴史的な意味」が語りつくせないほどにあった。
恐らくは、これらの「密教所作や仏具」は、仏法の「戟」「宝塔」「法棒」等の「三昧耶形の一式」であり、「九度作法」(節会作法)と呼ばれ、れぞれの「節会所作」にはそれなりの意味があった。
それを次ぎに注釈として論じて置く。
兎に角、「道標行燈」にしろ、「毘沙門天信仰」にしろ、「茶釜の作法」にしろその理解の前提と成る予備知識がないと「青木氏の密教所作」は充分な理解が得られないであろう。

・「注釈1」
ハに付いて、「紅白の配色」には、通説は「源平合戦の色分け」とされているが、元より「賜姓族青木氏の象徴色」として、且つ、奈良期から「3つの発祥源」として「色の源元」の「白」が用いられた。要するに ”「青木氏の賜姓色」”である。
他に”「あおき木の賜姓木」””「象徴紋の笹竜胆の賜姓紋」””「大日如来坐像の賜姓像」””「毘沙門天像の賜姓像」”等と共に「白色」は「青木氏の氏色」であった。
これに対して、同じ「賜姓族源氏」が、「源平の戦い」に際して、「賜姓青木氏の賜姓白」を用いた。それに対応して「賜姓平氏」は、「紅」を用いたものである。
本来であれば、「賜姓平氏」は対象色は「赤」と成るが、「中国の故事」に習い「紅」を用いたものである。
「青木氏の象徴紋の笹竜胆紋」も源氏がこれに習って使用したものであるが、そもそも、「嵯峨期の詔勅と禁令」には、「源氏」には「象徴紋や白」などの「賜物の規定」は元より何もない。
むしろ、「嵯峨天皇の詔勅」には、反対の意味合いの内容(”「朝臣族の身分」のみを与えるが、「民への負担」を考えると何事も自ら切り開け”)が記されている。
従って、「賜姓源氏」は「同族の賜姓青木氏の賜物」を用いたのである。
昭和の終わりころまで「紅白角餅」と「紅白饅頭」を配った。


・「注釈2」
ホに付いて、家の中の南北の位置に「護り神棚」があり、これを清浄にして、且つ、南北の屋敷内に不浄なものがが無いかの清掃を行う。
この「護り神棚」は「荒神様」と呼称されて、古来より毎日一族がお神酒を捧げて祭る慣習が続けられた。
そもそも、「仏教」が伝来する前は、日本古来には、信仰するものを分けると、「和魂 にぎみたま」と「荒魂 あらみたま」とがあった。
特に、「民間の伝承」としては「和魂」が信仰された。
ところが「荒魂」は悪外を成すとして民衆は祀る事はしなかった。
ところが、「賜姓青木氏」は、民衆とは異なり、発祥時より、この「和魂」と「荒魂」を祭祀していたのである。
ところが、そこに「仏教伝来」があった。
古来より「荒魂」に当たる「荒神」なるものがあったが、ところが、この「荒神」の「悪神」を、逆に祀り、この「荒神」の「神通力」を利用して「守護神」にすると云う考え方を持っていた。
ところが、ここに「仏教の密教」が持ち込まれたのである。
そもそも、上記した様に、インド伝来の「密教の神格」には「毘沙門天」や「不動明王」などもこの「荒神」であった。
そこで、この「密教」では、その「荒魂」の「荒神」の「悪神」の「神通力」を使って「守護神」とする考え方があると説かれたのである。
元よりの考え方にこの密教説が一致し、「日本の風土」にもこの考え方が根付いたである。
つまり、どう云う説かと云うと、古来からいう「荒魂」を祀って、それを「荒神」として祀ることで「悪神」の部分を取り除くことが出来ると説いたのである。
言い換えれば、”祀らないと「荒魂」の「荒神の悪神部分」は消えず悪さを起こす。”と「陰陽師」や「占師」は説いた。祀る事で逆に「荒神」と成るとしたのである。
そして、その「荒神」は、ある特定の「荒魂」に宿るとしたのである。
「荒の魂」には「武の魂」「守護の魂」「財福の魂」があり、この「荒魂」に「荒の神」が宿り、「荒神」はその「荒の神通力」を発揮して「魂」を護ると説いた。
この「守護神」が「荒神様」なのであって、神格化した「毘沙門天」や「不動明王」なのである。
「青木氏」は、元来からあった「神道の和魂と荒魂」の中に融合して、この考え方を「青木氏密教」として取り入れたのである。
要するに、「神仏習合」を「仏教伝来」と共に古来に成し得たのである。

上記した様に、「密教の神格」の「毘沙門天」は、北方十二域を守護すると云う「密教説」に従い「毘沙門天」の神を、南北の「家の中」の位置に「青木氏」は古来から祭っていたのである。
これが「荒神信仰」と云うものに発展した。
しかし、この「荒神信仰」には大別すると「二通りの系統」があった。

「屋内」の「三宝荒神」 「守護神」を持つ青木氏等が祭祀する「荒神信仰」の事
「屋外」の「地荒神」  庶民等が祭祀する「自然物」を祭祀する「荒神信仰」の事
以上とがある。

・「屋内の荒神」は、「中世の神仏習合」に依って「神社や修験者等の関与」により、「火神」「竈神」の「荒神信仰」に、「密教仏教」や「修験道」等が伝道した「三宝信仰」(下記)が結びついたものである。
これらの「屋内荒神」は、密教を宗派としている青木氏等の「特定階級の荒神信仰」であった。

・「屋外の地荒神」は、山神、屋敷神、氏神、村落神の「神格」があり、「樹木や塚」の様な自然物をも「地荒神」と呼んだ。「自然=地」から「地荒神」と呼んだ。
中には飛躍させて、民は「牛馬の守護神」として「荒神信仰」も創出した。
これらの「地荒神」は全て「庶民の荒神信仰」であった。

有名な祭神には次の様なものがある。
「道祖神」「産土神」がある。火神系を「荒神」として祀っている。
「神道系」にもこれら「火神系」と「竈神系」の「荒神信仰」がある。
「密教」「道教」「陰陽道」等が習合した独特の「スサノオ信仰」がある。
「祇園社」(八坂神社)でも、「三宝荒神」を祭祀している。

「三宝」
さて、この「三宝」とは何なのかである。
その前に、次ぎの注意事を知っておく必要がある。
平安中期頃に密教側の中で、屋内の「三宝荒神」には次の様なものがあるとされていた。
如来荒神(にょらいこうじん)
麁乱荒神(そらんこうじん)
忿怒荒神(ふんぬこうじん)
の三神を指す。
ところがこれらは「偽経」とされる説でもあった。
(「偽経」とは中国で作成されたお経の事。)
「仏教の如来」の扱いは、日本古来宗教側から観れば、「和魂」である。
其れなのに「荒魂」とは矛盾している。
この事から、大和には根付かない「妥協の産物」として排除された。
後の二つの荒神は、至るところに”「乱怒の諍い」を起こす”と批判され、当に、荒れ狂う「荒の神」の「悪神」である。
この「悪神」を「仏教の三宝の力」で沈められるとしながらも、「悪神」も「神」としてそのものが存在すると云う偽経の説は大和には受け入れられなかった。
それは、この「悪神」そのものを「沈め治める力」は、最早、「人」には無いとして「偽経の神」と扱われた。
インドの「釈迦仏教」では無く、「中国仏教の説」で、中国の「最古の道教」の影響を受けた「中国仏教」と観られ「虚偽の荒神」として大和では排除された。
中国の”石も薬”から来る思考原理で ”矛盾も又真成り”の論調の中国宗教であった。

「伝承解決者」
では、この様な国家的問題を一体誰が解決したのであろうか。
放って置いて解決する問題でも無く、国家的問題を古来の占者が、時代考証的にも平安期の陰陽師でも無い事は判る。果たして誰なのか。
この様に、文学は兎も角も、中国宗教に関しては、「中国儒教」と共に、不思議に日本には古来より根付かない歴史を持っていた。
”矛盾も又真成り”の「中国特有の論調」が「大和の人民」には素直に受け入れられない歴史を持っているのである。ここが、決定的な ”漢人と倭人との違い”である。
丁度、この「和魂」「荒魂」の古来宗教の奈良期の頃に、後漢の阿多倍王が率いる「200万人の職能集団の帰化」と「古代仏教」が持ち込まれたのである。
恐らくは、”漢人と倭人との違い”大きく出て、大変な騒ぎと成った事が容易に判る。
そこで、考えられたのが、両者の繋がりの「妥協の産物」として、「和魂」は兎も角も、「荒魂」に「三宝」を結び附ける事で、「荒魂」の「悪神」は消え、荒々しい「武魂」は、「武神」に成るとした仏説を創造した。
そして、その「武魂」が「神」と成った事で、「武魂の守護」も「神」と成り、「武魂」に依って得られる「財」も「福神」に代わるのだとする密教説を造出した。
そこで、この「武神」を密教仏教の「毘沙門天像」に偶像として求めた。
この「荒魂」に類する密教の「武神」と成った「毘沙門天像」と、古来の「荒魂」の「荒神の偶像」とを結び付けたのである。
この時に、上記する様に、幾つかの結び付け方が現れたが、取捨選別されて、「武神と成った毘沙門天」と「荒神と成った悪神の荒神」が結びついたのである。

さて、この時、最初に新しい「密教仏教説」を受け入れ、且つ、「和魂と荒魂」を護っていたのは、他でも無い「賜姓族青木氏」であって、「三つの発祥源」として、「国策氏」としてその役を担わされたのである。
当に、寸分も違わない同時期である。
これは偶然でも無く、朝廷はあらゆることを鑑みて、「国策氏」としてこの問題の解決に取り組む様に役付されたのである。
その為には、これらの問題に直面していた「天智天皇」と「天武天皇」は、「自らの子孫」をその役務に付ける事が必要に成り、最も信頼していた「施基皇子」と「川島皇子」にその役目を与えたのである。
その為には、「天皇」に継ぐ「家柄と身分官位官職」などの一切の「高位公職」を皇太子を超えて与える必要があった。それを、「第四世族内の朝臣族」にして「第六位皇子」にして「賜姓」したのが、この所以なのであった。
(補佐として第七位皇子の「川島皇子」にした。後には、「藤原秀郷」に対して特別に「青木氏」を賜姓して更に補佐させた。)
つまり、「国策氏」として、最初にこの問題に取り組んだのが「5家5流賜姓青木氏」であった。
言い換えれば、上記の様に「違い差」が出ていた「和魂ー荒魂の古来宗教」+「密教仏説」の”結びつきの解決”を図ったのが、歴史的にこの「2つの青木氏」であった事になるのである。
この「2つの賜姓青木氏」以外に、この時期に両者に関わっていて、古代密教を継承して、解決に必要とする「特権」を持ち得ていたのは、「青木氏」に於いて有史来他に無い。
これが、「毘沙門天信仰」と「三宝荒神信仰」とを悠久の歴史を以て継承して来た所以なのであった。


この「三宝荒神」の三神は、後世、「僧や陰陽師や占師」の「生活援助」の為に、この「三宝荒神」を信仰(帰依)するよう考え出されて説いた稚拙仏法のものであって、陰陽師が政治に絡んだ時期を境に平安期中頃には消え去った。
これらの「荒神」は、結局は「インド由来の仏教尊像」では無かったのである。
結局は、この論調を採る「密教の氏」は出ず排除されたのである。
本来の「三宝荒神」は、日本古来から存在する宗教(「和魂」「荒魂」)に、「古代密教仏教の信仰」が加わって独自に「習合発展した尊像」である。
本来の「三宝荒神」はその代表的な物である。

「仏・法・僧」の「三宝」”
では、その「三宝」とは、そもそも「仏教」を維持する上で、最も「大事な宝」とするものであり、それは「仏・法・僧」であるとした。
”密教仏教での「仏・法・僧」の「三宝」”とは、”日本古来宗教の「荒魂の荒神」を沈める”との「神仏習合」を成し得た「仏説」の「密教具」とされる。
ところが、この「三宝荒神」には三神があるとされるが、ここで云う「三宝」とは何れのもの何なのか。
1「同体三宝」の説
2「別体三宝」の説
3「連携三宝」の説
以上があるが、通説の「三宝」とは、3の”仏教を維持し伝えて行く上の「三宝」で、「仏像」と「経巻」と「出家僧」の三つを言う説”が一般である。

つまり、次ぎの密教説である。
a「仏」=悟った仏
b「法」=仏説真理
c「僧」=釈迦伝道師
と説かれていた。
ところが、この「abc」の「同体説」と「別体説」の「二つの三宝」は、大和には馴染まなかった。
この「abc」の「3つの連携」で以って、”ここに特徴を生かしてその力を発揮して「大和古来の荒魂」の「荒神の悪神の神通力」を沈め治める”としたものである。
この事に依って、「荒神の悪神」は鎮まるとしたのである。
これらの「三宝荒神信仰」は、「荒魂」の「武神」や「守護神」を神格としている事から、「密教」を宗派とする「武家の氏」(青木氏)の「信仰体」として大きく発展した。
この「三宝荒神信仰体」は、江戸期に入っては、「三代密教」のみならず「密教系を基とした顕教の宗派」(真宗や曹洞宗)の武士にも一部信仰される様になった。

(江戸初期には「密教作法」は禁止されたし、全て宗教は顕教とした。「密教作法」が禁止された事に依って「三宝荒神の作法」は一部無く成った。)

この様にして、江戸期に成って、上記した「上級武家屋敷」には、「荒神の神棚」が設けられ、これを「荒神棚」と云った。
結局、江戸期に成って「密教作法」が無く成った事に依って、「青木氏」が行う「密教の毘沙門天信仰」との連動は、「上級武家屋敷」では無く成り、「上級武士屋敷」の”「年暮節会」の「荒神祓い」”のみに成ってしまった。
この「荒神棚」は、南北の位置に配置し、毎月には「晦日(みそか)の祭り」を行い、「荒神祓(はらい)」と云う祭祀を行った。
「伊勢青木氏」は、兎も角も、他の数少ない「密教氏」であった家でも、「毘沙門天の節会作法」(九度作法 )との連動は殆ど無く成り、”先祖との会する場”の「概念の伝達」は残念ながら消え去り、「荒神祓い」のみの祭祀になったのである。
従って、今や、頑なにもその立場を守り通して来た「伊勢青木氏」にしか「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」の「密教作法」は遺されなかった。

「地荒神信仰」としても、民衆の中には「大きな伝道」を興したが、矢張り、元々、何れも古来よりの「密教所作」である事から、「伝道の力」は極めて弱かったものであろう。

去りとて一方、”「不浄や災難」を除去する神(荒神力)”とされることから、逆に、江戸中期には庶民には見直され、「火と竈の神」として信仰され、台所の”「かまど神」”として祭られた。
日本では、”「台所やかまど」が最も清浄なる場所である”とする事から、庶民の「地荒神信仰」と共に、密教氏の「三宝荒神信仰」でも、江戸期に成って、次第に庶民の間でも、「密教の三宝」とは関わらず、単なる信仰として ”「限定された場所」”で信仰される様になった。

因みに、その良い例が、次ぎの事で証明される。
現在は ”かまど”は全く無く成ったが、現在でもその習慣が一部遺されている。
この「竈荒神」によると、「幼児の額」に「荒神墨」を塗る習慣が江戸中期から起こった。
それは、「竈墨」を”額の中央に塗る”と、”「荒神様の神通力」に依って「子供の難」を逃れられる”と云う習慣である。
庶民は「墨」の×印、武士は「朱」の丸印を点けた。
これは、京都から以西に広く広がった”「あやつこ」”と呼ばれる習慣で、現在でも、「祖先神の神明社」等の神明系神社では盛んに引き継がれている。
これは「青木氏」の「皇祖神ー子神の祖先神の神明社」の500社程の建立に明治期初めまで携わった事から江戸期に成ってもすたれずに遺されて引き継がれて来ているものと観られる。

平安期の「古文献」によると、この「あやつこ(綾子)」は”元は「紅」で書いた”とある。
だが「紅」は、上流階級でのみ使われたことから、一般の庶民は「すみ」、それも「なべずみ」で書くのが決まりであった。
この庶民の「なべずみ」を額に付けることは、「家の神」としての「荒神の庇護」を受けていることの印であった。
東北地方でも、この印を書く事を”「やすこ」”を呼ばれていた。
関東以北にも、この「荒神信仰」の「かまど信仰」は伝わった事を物語る。
ここには「一切の密教性」が無く、「仏教性」さえも無く成っている。
「密教性」、「仏教性」が無く成れば、最早、それは、元の「和魂」「荒魂」の「古来の宗教」に戻っている筈である。
然り乍ら、「荒魂」の「荒神」の「悪神」は消えているのである。
「庶民の消化力」は、”時には「仏教力」を超え、時にはその「仏教力」に頼る。”と云う能力を発揮する。
ここが、「密教力に頼った氏」青木氏とは、その柔軟性には大差がある。

一方、全国的に「御宮参り」のみではなく、一切の「神事」に参列する「稚児(ちご)」が、同様の「朱印」を付ける慣習が関西には未だあるが、これらは上記した「武家の習慣」(あやつこ)が逆に庶民に同化したものである。
庶民は、”自らに利あり”とすると、”貪欲に余計なものを取り除いて、「自らの神」として同化させる。”のである。
古来より、「武家」の「朱印」の「あやつこ(綾子)」を付けたものは、「神の保護」を受けたものであることを明示し、それに触れることを禁じたのであった。
これが庶民に一部同化した「三宝荒神信仰」の名残である。

遺された「古来の絵」には、「奈良時代の宮女」には、「あやつこ(綾子)」の影響を受けたと思われる「化粧の絵」と、又、「象徴する物品」にもこの「朱印」を付ける習慣もあった「絵」が遺されている。
これらは「古来」の「伝統的」な「宗教」の「荒神祭り」の所以である。

参考
「あやつこ」とは、その語源は、”あや”は「言葉の綾」と云う風に、言葉と言葉の間の微妙な意味合いを指す。つまり、現世と彼世の間を取り持つ事を指し、「荒神」や「毘沙門天神」がその働きをすることから ”あや”成る言葉が使われた。
”つこ”の語源は、”やっこ”の「奴」に通じ、その「綾」を伝える物体を指す。
関西の一部では”やっこ”と呼称する地域もある。
つまり、「綾奴」の意味を成す。
東北の ”やすこ”は、”やっこ”(奴:荒神や毘沙門天)が訛った形で変化したものである。
「奴の顔」が「毘沙門天像」に似せて描くのもこの事から来ている。

参考
逆に、「地荒神」では、江戸期に入って「庄屋、名主、豪農、村主、豪商 郷士 郷氏 元武士」の屋外に、”「屋敷神」「同族神」”等として祀る「荒神」があった。
各地方で大きく祭祀の方法が異なるので、一概には言えないが、「名主や庄屋や豪農や郷士や郷氏」などの「旧家武家」では、「屋敷」かその周辺に「屋敷荒神」を祀る例があった
庶民の「地荒神」も、密教系の武家階級の「三宝荒神」と同様に、上記した様に、節句には、「荒神祭り」を、「稲作の収穫祭」のような感じを以って行われた。
これらは「頭屋制(とうや)」で、「同族や集落の家々」が「輪番」で祭を主宰する古い祭りの形式を伝えている。
これらは、”古来より土地に根付いた武士達”が、古来の「和魂」「荒魂」の概念を受け継ぎ、「密教の影響」をあまり受けなかった「郷士や郷氏」に受け継がれて来た。
逆の現象として「地荒神」が遺された。
未だ、地方の田舎に行けばこの慣習は細々と維持されている。


そもそも、この「荒神」の「像」は、「毘沙門天」や「不動明王」に通じた「怒りの形相」である。
「持ち物」は、一般には 右手…独鈷・蓮華・宝塔(五鈷杵・金剛剣・矢)。左手…金剛鈴・宝珠・羯磨(金剛鈴・弓・戟または槍)のような形がとられている。
これは上記した様に「毘沙門天像」と全く同じである。

つまり、「日本古来の荒魂の荒神」と「密教仏教伝来の神」とが融合して「荒神」=「毘沙門天」と成った事を意味しているのである。
古来の奈良期に起こった「初期の神仏習合現象」であって、「賜姓青木氏」はいち早くこの現象を捉えた事を意味するのである。
「毘沙門天信仰」=「三宝荒神信仰」であった。
それが、現在まで「伊勢青木氏」の「個人の家間」の中で、「古来の伝統」として頑なに維持されて来た事を物語る「密教作法」(節会作法)なのである。

(正直な処、もう少し早く筆者が「伝統の研究」に気が付けば、更に貴重な復元が成されていたとも感じられる作法である。何か違うなとは思ってはいたが、残念ながら、「有形の物品」では無く、「無形の作法」であったところが落とし穴であった。)


・「注釈3]
イに付いて、「家伝宝刀」は、現在は法律にて所持出来ないので、模型が使われているが、昭和25年までは、「伝家の名刀」(大小10振り)であった。
「武神」である事から、先ず「刀類」は祭祀には欠かせない。
「3つの発祥源」の「第四世族 第6位皇子」から「皇族」を臣下して初めて「公家」とは異なる生き方をする「武家」を発祥させた。
そして、この「武家」が「公家」とは異なり、初めて天皇を護衛する「武力」を持った身分の「侍」を発祥させた。
それまでは、”天皇を直接護衛する「親衛隊」”と云う組織は無かった。
「天皇」に四六時中、着きつ離れずに「さぶらう役」から”さむらい”(侍)と呼称される様に成った。平安期には”「武家」の「さむらい」”が護る事から、「武士」と呼ばれた。
この「武士」が宮廷の北門を護ることから「北面武士」と呼ばれた。

この最も有名な侍としての歴史上の人物は「源の頼光」であろう。
「藤原道長」に終身仕えこの「武家」ー「侍」としてその「典型的な役」を全うした人物である。
この「武家ー侍」は、下記に述べる「武人」「防人」「鎮兵」の「兵士」とは別であった。

因みに、この「武家出自の侍」の位置づけがどの様な所にあったのかを論じて置く。
それまでには、次ぎの「3つの武装集団」が奈良期から室町期末期まであった。
1 中央の豪族や地方豪族が「従者と隷者」に武器を持たせた軍があった。これを「国造軍」と呼ばれた。評や郡の地方組織が独自に編成していた。
2 阿多倍王に率いられた後漢からの「職能軍団」が存在した。「漢氏」と「東漢氏」と呼ばれ蘇我氏等がこの職能軍団を雇っていた。
3 奈良期の「大宝期」に「国家統一」の為と、沿岸部が他国から侵略される事が多く成った為に、国による軍団が編成された。
税に対する目的から初めて戸籍(庚午年籍)が天智天皇に依って編成された事を踏まえて「徴兵制」が敷かれた。これを兵では「防人」や「鎮兵」と呼ばれ、将では「武人」と呼ばれた。

これらは「武装集団」であって、個人としては「一般人」であって、「個人」がある「特定の人物」等を「武」を以って護りさぶらう役目の「武士」即ち「侍」は、「武家の賜姓青木氏」が初めてである。
この”「武家」”は、江戸期に「一般武士」を以って”「武家=武士」”を呼称されたものとはその意味が異なる。
この「武家」は「公家」に対する呼称で、氏家制度の中で「氏」を大きく構成する家筋の「身分家柄」を意味するのであって、「立場」のみを意味しない。

上記123は、3に集約されて平安期は朝廷軍、鎌倉期は幕府軍に成り、この軍団の編成は、指揮する上位5階級までは「侍」の「武士」が全てを担う様に成った。
その5階級の「武士」の配下にそれぞれの従者や隷者(家来、家臣と呼称した)が編成して軍団を編成する様に変わったのである。

その軍団の指揮に当たるのは上位5階級の軍階級であった。
大毅(だいき) 大軍団 小毅2名 
小毅(しょうき)小軍団 500人
校尉(こうい) 200人
旅帥(ろそち) 100人
隊長(たいちょう)50人(一騎 最低単位の指揮官)

以上が兵士を統率した。
軍団は百人単位の編制である。

主帳(さかん)主計局
火長 炊事斑 10人

奈良期からの一騎の隊長は、自ら50人の兵士を何らかの形で集めなくてはならない。
この兵士には、上記2の傭兵も含めて、常時、家臣として確保しておく事が義務づけられる必要があった。
実際は、平時はこの6割程度の範囲で治めていた。
この常時の一代限りの傭兵の俸禄は家臣の約半分120石程度が相場であった。
武器具は、原則手弁であった。大型具などは軍団の指定支給であった。
鎧兜等の特殊具はその軍団の経済力に左右した。
戦いの時は4割の兵を「鑑札をもった者」(仲介人)に頼んで近隣の村から農兵等を集めて貰う。
「上記2の末裔」は、地方で細分化した「傭兵軍団」を編成し「・・党」を形成して、各地に”「国衆」”として転戦してはその勢力を拡大させて行った。
勢力と転戦の経験に依ってその「傭兵の契約金」が変わる仕組みであった。
この制度は、室町期末期まで続いた。

以上の軍人に対比して、「賜姓青木氏」は「3つの発祥源」の立場にあった。
「軍人」≠「侍」で、「侍」は「武家」を構成した。
奈良期から、「技能官人」と呼ばれ、その官人は二つに分類されていて異なった世界を持っていた。「武術の技能官人」
「単なる技能官人」
とがあった。
前者は、「侍」として「武家を構成する高級官人」で、公家の上級官僚の「侍」を務める。
後者は、「武人」として、「家柄、身分、位階等を有しない下級官人」で軍団に所属する。
大化期前までは、後者の「武人」と徴兵制で集めた「防人」に依って編成されていた。
「武人」は従者や隷者を集めて兵士を構成した。

大化期後は、「青木氏」の様に、特定の賜姓により「武家」を新たに構築して、「特定の人」をその技能を以て護衛する官人を新たに作り上げた。これをその役職から「侍」と呼称した。
そもそも「侍」とは、”天皇を含む上級の特定の人にさぶらう事”で、この”「特定の上級の人」”は、「仏教の作法」で、生きている時から、「法名」としての戒名の”「寺・院」”を持っていた。
この「寺院の人」に”「さぶらう人」”で、この「寺と人」の造語として「侍」として、これを”さむらい”と呼称する様に成った。
(天皇等の人が位階在位を退いた時に、この自分の”「門跡寺院」”に入る。)
これが、最初に「賜姓」を受けて成ったのが、当に ”「青木氏」”であった。
この「武家、侍」の「二つの発祥源」に続き、「天皇」は「万民の象徴」として「民族の頂点の人」として位置づけられ、これに従って、その子は「真人族、朝臣族」として、賜姓して下族臣下すれば、「民の発祥子の元」として位置づけられた。
”「民は天皇の子」(朝臣子)”であるとする「万民一計の図」から、況や、”その「子の発祥源」と成り、その「子」の範たる位置を成す”とされた。
この”「賜姓五役」”を与える代わりに「不入、不倫の権」の大権を与えた。

参考
(平安末期には、「源氏」の様に「武家」を構成しても、必ずしも「侍」に成れるかは保証は無かった。特に分家筋には「侍」に成る為の就職活動や縁故が必要であった。嵯峨期詔勅で、”朝臣の身分を与えるから自ら切り開け”と明記。 強いて”幾つもの難しく重要な役目”を与えられた「青木氏の賜姓」とは異なった。嵯峨天皇は、”これは民に負担を掛けない事による”と明記した。従って、天智天皇から光仁天皇までの「青木氏の賜姓」と、嵯峨天皇から花山天皇までの「源氏の賜姓」とは意味が異なっていた。「青木氏の賜姓」は「役を与える賜姓」、「源氏の賜姓」は上記の「朝臣子のみの賜姓」であった。 況や、「皇室の負担減らし」であった。これが、社会に「戦乱の前兆」と「荘園制の弊害」を生んだ。)

・「注釈4」
ロに付いて、「武の基本所作」の「軍配挙手」では「伝来の扇軍配」を持ち、伝来の馬杯に酒を注ぎ、「馬杯酒飲」を行い、「刀剣手掛」では鹿の角で出来た「伝来刀掛け」に刀を掛ける所作の3つを行う。
結局、次ぎの所作が成される。
一 「武家」には「伝家の宝刀」
二 「侍」には「将騎」として「伝家の軍杯」
三 「朝臣子」には「伝家の馬杯」
四 「国策氏」には、「永代正二位青木朝臣左衛門上佐」として「伝家の家紋刀掛け」
五 「融合氏」には 「陣笠」と「黒瓢箪」(江戸期は鎧兜着用)
以上は、「賜姓五役」と呼ばれた
紋付袴の正装でこの儀式を嫡子が行う。
(「鎧兜具足類一式装」は明治35年に消失した。)
「三つの発祥源」の「三つの役目」には、夫々の「伝統の武具」があって、それを使って、「武の所作」を指し示す事に成っていた。
ところが、江戸時代中期までは、この「所作」にも”正式なもの”があった様で、現在では伝わっていない。
一族一門が集まっての「盛大な儀式」であったらしく、「一族一門の者」から次ぎの時代を担う若者が選ばれていた。
青木氏は、慣習仕来りから一族の者は全て子供であり、「福家」のみの子供とは限らない。
15歳程度の若者が複数選ばれてこの役目を果たしたとある。

参考
一人とは限らず、主な5人がこの「5つの役割」に分けて務めたとある。選ばれる事に誇りを持っていたとされ、何時しか、「青木氏」をリードする役目を担わされる事が約束された儀式でもあった。
世間への”お目見え儀式、お披露目の儀式”の”意味合いも兼ねていた”とされている。
古来よりこの「賜姓五役」には、細分化すると「多くの役」を持っていた事があって、「守護神」、「神明社」、「菩提寺」、「絆青木氏」、「殖産事業」、「二足の草鞋策」、「伊勢藤原秀郷流青木氏」・・等に分けて、その「若者の長所」を見抜いて若い時から指定して、「部の長」等が彼等を教育し指導する体制であった。その為に、一門化する為に女系の「2つの絆青木氏」(「部の長」)を広く構成した。「武家」の「賜姓五役」と「二足の草鞋策」(殖産・総合商社)であった事から、現在の会社組織に類似していた。
若者が足りない時は、「信濃」から「甲斐」から一族の若者を養子として子供の時から養育していた。
この「賜姓五役」の達成の為の「神格偶像」を求めて、「五つの儀式の所作」には、「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」が組み込まれていた。


・「注釈5」
ニに付いて、これらの「所作伝統」は「福家」が行うが、「笹竜胆紋入りの幔幕」がその「象徴物」として用いられた。
然し、現実には、現在では「幕」の家紋部の一部を見せるだけで「幕」としての事はしない。
「幔幕」を張る事への世間への余りにも違和感が、現在ではあって実行しない。
大正の終わりまで行われていた。むしろ、明治期までは、「嵯峨期の詔勅と禁令」が明治期まで護られた事もあって、「賜姓族」として誇示をしていた傾向があった。
大組織を維持する「青木一族と長の判断」だけでは無く、組織そのものが、その様に押し上げる傾向があったらしく、「幔幕」は、その「誇示する象徴物」で「家紋」と同じ意味を持っていた。
むしろ、「家紋」そのものを”誇張する道具”でもあった。
「伊勢青木氏」は、「四家」と呼ばれる家が伊勢の各地にあって、松坂を中心に、員弁、桑名、名張、四日市に「一つの流れ」を持っている。
しかし、家の優先順位は無い。ただ、全体のリード役としての家を「福家」と呼称し、「・・殿」と着けて呼称する。「松阪殿」が「福家」である。
武士で云えば「本家ー分家」の組織に成るが、氏家制度の「絶対的権利」を持っていない。
従って、「本家ー分家」の家紋では無く、「氏の象徴紋」である。
従って、「家紋」では無い為に「副紋」や「丸付き紋」は使用しない。

この「幔幕」の中央より左右に大きな「笹竜胆紋」の文様が染め込まれていた。
一族一門とそれに連なる関係者(氏関係者と商業関係者)が羽織袴で挙って集まり祝いする。
この「主な儀式」(四大節会)には次ぎのものがあった。
「氏に関係する儀式」は「端午節会」
「女系の氏に関係する儀式」は「雛節会」
「伊勢族に関係する儀式」は「盆節会・彼岸節会」
「伊勢四家族に関係する儀式」は「暮節会・正節会」、
後は、「親族の内家」で、「荒神毘沙門信仰」として「月節会」が簡単に行われた。
(実は、「稲荷信仰」も、「古来の和魂宗教」と「祖先神の神明社守護神」の「伊勢神宮 豊受大御神」の関係から、「賜姓五役」の副役として細々と行われていた。)
以上が盛大に行われた。

参考
相当の経済力が無いとこの節会は行えず、「信濃青木氏」は、「伊勢青木氏」との親交が深かった為にいざ知らず、「甲斐青木氏」は、その「二足の草鞋策」への取り組みがあまり積極的に無かったことから、独自に以上の様な「密教の儀式」を行えたかどうか、将又、「節会の作法」等を遺し得たかは疑問である。
室町期中期頃からは「甲斐青木氏」には家勢から無理であったと観られるし、何がしかの記録に突き当たらない。
普通の江戸期の「五節句」程度の事の祝事は営まれていた事は考えられるが、「密教性作法」のものは考え難い。

中でも「端午節会」は、信濃、甲斐、近江、美濃一族と関係者を集めての儀式であった。
菩提寺と居宅に幔幕を張って行われた。
幔幕には「賜姓族」を表す「白幕」と「青幕」があった。
「白幕」は、「嵯峨期の禁令」にて「賜姓族青木氏」以外には一般には使えない事に成っていた。
この禁令も明治期まで護られていた。
「笹竜胆の家紋入白幕」は青木氏に関わる上記の「四節会」には使われた。
一般では「黒幕か濃紺幕」であるが、「青木氏」は、葬儀、法事でも「白幕」を使った事が判っている。
これは、その「使用する目的」によって分けるのでは無く、上記した様に「紅白角餅」等と同じく、「白」は「氏色」であった為に用いた。この事はよく聞かされていた。
「白色」の中に、「黒色の笹竜胆紋」が染め込まれている。
「青幕」(緑系青)は、「氏木」の「あおきの木」の色であった事から、独自の「副氏色」として使用していた模様で、婚姻、祝事等の「密教性作法」に関わらない諸事に用いられた。
何事にも「白幕」ばかりを使う事には、朝廷や他の賜姓族(秀郷流青木氏一門)に憚られたと考える。
青の幕の中に「対の白の笹竜胆紋」が染め抜かれている。
(現在も伝来品が遺されている。筆者の息子の結婚式に使ったところ質問攻めにあった。)

参考
因みに、その盛大さは、「超大地主」であったことから、奈良や紀州や伊勢の各地の農民等の代表者等が泊りがけで集まったと伝えられている。
その為の宿泊の準備では、「菩提寺と関係寺の解放」、「各地神明社の解放」と「全ての居宅や旅館」を確保したとされる。
「土産物」「引き出物」などは、地元の家々の分も大八車に載せて列を組んで運んだと聞かされている。
明治35年以降は、「端午、雛の節会」は、形式的に終わらせ、「盆彼岸の節会」は普通に内家で行った。
現在は、「盆彼岸の節会」「暮正の節会」は「毘沙門天荒神節会」と合わせて家内で形式的に消えない範囲で行っている程度である。実際のところ”文書に遺せる範囲の維持”と成っている。



> 終わり。
>
> 「伝統」−6に続く。
>


  [No.323] Re:「青木氏の伝統 6」−「毘沙門天の影響 2」
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/09/26(Fri) 09:22:05

> 前回の末尾

>因みに、その盛大さは、「超大地主」であったことから、奈良や紀州や伊勢の各地の農民等の代表者等が泊りがけで集まったと伝えられている。
>その為の宿泊の準備では、「菩提寺と関係寺の解放」、「各地神明社の解放」と「全ての居宅や旅館」を確保したとされる。
>「土産物」「引き出物」などは、地元の家々の分も大八車に載せて列を組んで運んだと聞かされている。
>明治35年以降は、「端午、雛の節会」は、形式的に終わらせ、「盆彼岸の節会」は普通に内家で行った。
>現在は、「盆彼岸の節会」「暮正の節会」は「毘沙門天荒神節会」と合わせて家内で形式的に消えない範囲で行っている程度である。実際のところ”文書に遺せる範囲の維持”と成っている。




> 伝統−6


・「注釈6」
ヘに付いて、「仏壇の作法」は「密教作法」に関わっている。
ただ、現在は「密教浄土宗」は何処にも無く、伊勢菩提寺も知恩院系の顕教と成っている。
(江戸期の禁止令)
従って、「密教部分」は、「青木氏」に伝えられている「密教作法」のみと成っている模様である。
「青木氏」には、これに「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」の部分の「伝承範囲」が習合と成っている。
ただ、「仏壇祭祀の飾り立て」は、他の浄土宗の祭祀とは違っていて盛大と云えば盛大である。
(筆者が他の葬儀に参列した時の作法でその違い差が出て来る)
「仏壇供え物」は、専用の高瓶盆、専用の器類、専用の机、専用の台、専用の経机、・・等、古来からの「武家の慣習」に従った「歴史的な専用の物」に備えて祭る。
全て、「漆金」と「漆朱」を中心としてと一部「漆黒」で出来ている。
これを仏壇前の一畳の中に治めて先ず供る。
例えば、盆類は、公家は低盆で庇は少ないし漆黒であるが、「武家」は高く庇は大きく朱色である。
盆以外にも「武家」の専用具には全て象徴紋が大きく金色で書き込まれている。

「密教」の「両界曼荼羅絵」を仏壇の左右壁に並べて下げる。(古来慣習 下記)
「釈迦天女像」が仏壇上正面壁に飾られる。(古来慣習 下記)
「青木氏の三象徴物」の「笹竜胆紋」「神木のあおきの絵」が仏間正面に掲げられる。(古来慣習)
本来、「大日如来坐像」と「毘沙門天像」が、仏壇の左側の間に、仏壇と同じ作法で鎮座して別に祀られていた。

(ところが、ある時期から、盗難の危険が迫った事と成った事から、現在は、或ところに依頼して別に祭祀している。毘沙門天像は消失)
それに代わって、左間側に「大日如来坐像絵」と「毘沙門天像絵」が祀られている。(古来慣習)
ここに、節会の毎の像・器・具(義経ー弁慶像 雛人形、・・・)が飾られる。
(筆者は、大変なので始めから隣の一つの部屋に「飾り部屋」としてこれらを飾っている。)
祭祀の間は、左右に二畳ずつの間、その二つの前には六畳仏間があり、合わせて十畳の間と成っている。ここの仏間の両脇に「廻り灯篭」の一対の「行燈」と、「武家・侍」としての「印」の「密教の三昧耶形」が飾られる経机を設置する。

「達親の論文」でも論じたが、仏壇の内容には「細かい作法」で「密教性」が出ている。
「線香、蝋燭の用い方」、「木魚・鐘鈴の用い方」、「座り方」、「仏壇御簾の使い方」等が、「浄土宗作法」と違っている。「密教性」が出ている。
確かに、「違い差」がある事が、「月節会」の知恩院系住職との会話から判った事であるが、「密教性」と云うよりは、「古代性」である様である。
典型的な違いのあった例事は、「座り方」であった。全てこの考え方に尽きる。
男性は「胡坐」、女性は「立膝座り」である。(室町期ー江戸期の武士の座り方作法である。)
「月節会」では、住職の後ろには座らず左右に別れて座る。(中央は「仏の道」との考え方にある。)
家長と姑 嫡男と嫁は左側、その他は右側に座る。
この様に上記の違い差は全て「古代仏教の仕来り」に習っている作法が遺されている。
これは、古来より「三宝荒神信仰と毘沙門信仰」の「古い信仰体の作法」が引き継がれて祭祀して来ていた事が、これが「作法の違い差」に成って出ている事に成る。
つまりは、「古来作法」が介在していた為に ”俗化されなかった事”に成る。
この「古い信仰体の作法」がある事が、千三百年以上の長い間、「新しい信仰体」の作法が入る余地は無かった事に成る。
これは当然の事でもある。”先祖との会する場”の「密教概念」が、実際にはもっと遺されていたのではと考えられる。
「江戸期の密教が禁令」と成る前の室町期前には、当たり前の形で遺っていたと観ている。
例えば、
「仏の道」「仏の座」を作る事     「道座」
「仏壇の開閉」はせず「御簾」を使う事 「御簾」
「住職」は「専用の椅子」に座る事   「椅座」

(「道座」は仏教にもあるが、「神道」にも”神が通る道”と云うものがあって、「本殿に通ずる参道」なる道がある。つまり、”「憚られる道」と云う概念”が「神道」にもある。)

以上等は、「道座作法」「御簾作法」「椅座作法」と呼ばれる。
その部屋に仏が通る道を設けたり座る場所を設けたり、仏壇を開閉せずに仏が居るので神道で使う御簾を設けて常に仏壇を開けて置いたり、住職が座る椅子を準備して仏が動座して和する様にしたりする所作は、これらは、当に、そこに ”仏が居る”とする前提にある所作である。
奈良期の頃は板の間であって、上級階級の「生活の場」や「政治の場」や「祭祀儀式の場」では、人が集まって輪座する時は、「床几」と呼ばれる椅子の様なものを使った。
「神道」では、現在でも ”「神が坐処」”としてこの「三つの所作」が遺されているが、「御簾」と「椅座」は、「神道」のみならず「天皇家の儀式」にもはっきりと遺されている。
然りながら、現在の仏教に遺されていないで、「神道」等の所作に遺されている事は、それは元は、古来の「和魂荒魂の宗教」(自然神)の「仕来り所作」から来ている事を示すものである。
つまり ”先祖との会する場”と云う事で生まれた作法である。
これらは、江戸期の禁令に対して「明確な排他的密教作法」とする前提に無い事から、 ”他に弊害が無い”として遺された作法であろう。

参考
古来の宗教の「邪馬台国の卑弥呼」の「自然神の占術」は、祈祷する事に依って、この”先祖との会する場””神・仏が居る”を作り出し、その”先祖の知恵と経験”を聞き出して、”神のお告げ”として「占い」をした事を意味する。


”先祖との会する場””仏が居る”の「密教概念」に付いて、上記の様に、追求すると「古来宗教の仕来り所作」が基本になっているのである。
仏教伝来後に「密教概念の作法」に成っていた事には間違いはないが、ただ、注釈3の「伝家作法」、注釈4の「賜姓五役」、注釈5の「白幔幕、青幔幕」、本注釈6の「道座」「御簾」「椅座」等は、全て「神道の所作」に通ずる事であって、必ずしも「密教仏教作法」だけではない。
多くは「神道の所作」が「密教仏教作法」の中に組み込まれたものとして一体化したものである。
それだけに、「古来仏教の勢い」が「古来神道の勢い」(和魂・荒魂)より大きかったことを物語る。

これらの「一部の所作」が、現在の「神道の祭祀」や「天皇家の儀式」の中に観られる所作ではあるが、”「個人としての伝承」”では、奈良期からの「賜姓族の青木氏」だけであった。
これは「賜姓五役の所以」であった。
つまり、注釈2の古来宗教の「和魂 荒魂」から来た所作であって、これが「神仏習合の所作」である。従って、”「古来の宗教所作」の伝承”と云えるのである。
言い換えれば、当に、”「三宝荒神信仰と毘沙門信仰」の合体”が、「青木氏の所作」と云える。

・「注釈7」
トに付いて、”「三昧耶形」”として祀られているが、つまり、密教の「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」に使われる仏具と云う事である。
筆者には、この”「三昧耶形」として祀る事”は ”少し変だ”と観ている。
何故ならば、確かに「二つの信仰体の仏具」である事は事実ではあるが、それならば、敢えて”改めて何故祀るのか”疑問がある。

「三昧耶形」を指し示す事は「密教」であり、「賜姓族」で「武家」である事の証である。
しかし、それならば何も「三昧耶形」の仏具でなくても証明は出来ている。
取り分けに「仏具」をわざわざ誇示する必要は無い筈である。
筆者は、この「三昧耶形の仏具」は、「毘沙門天像」が「明治の出火」で消失したが、この「毘沙門天像」が燃えた後に遺された「鉄製の装飾品」、つまり、像に飾られていた「三昧耶形」の「装飾仏具」であったと観ている。
何故ならば、古来にこれらが作られた時に鉄製であった事から、錆びない様に”黒染め”と云う処理を施していた。
他の古い仏像の金具には必ずこの”黒染め処理”が施されていて、既に、この技術は大化期の初期の古来からあった。
それは「後漢」からの「職能集団の鍛治部」が持ち込んだ技術である。  

つまり、鉄を350度くらいで熱すると、表面が空気と触れて酸化する。
この酸化は、錆びの酸化とは異なり、錆びない酸化膜なのである。
鉄には、温度を上げて行くと4段階で4種類の酸化膜が出来る。
第2段階のこの酸化膜はその中を拡大すると、空気が入り込めないほどに緻密に成っていて逆に錆びなくなるのである。

「毘沙門天像」が燻り燃えた時、この鉄の仏具もある程度の温度になり、黒染めに成っている処に、更に黒染めが働いて更に強く成って錆びなかった。この為に遺されたのである。
つまり、明治35年消失の「毘沙門天像の遺品」と云う事に成る。
これが”錆びない”とすると、この「毘沙門天像」は、「青木氏の発祥期647年頃」のものである事に成る。

つまり、天智天皇から命じられて「大日如来坐像のお仏像様」を作った「司馬達等」かその孫の「鞍作部止利」の仏師の作と成る。
そこで、この「三昧耶形の仏具装飾品」の大きさから像の大きさを算出した。
その結果、菩提寺から室町期末期に居宅に運び込まれたとされていることから、一間以下であった筈で、台座を入れて室内で祭祀するには、1500Cm以下であった筈である。
「金剛棒の長さ」からみて、宝棒や宝塔等の大きさから、台座の高さを少なくとも30Cmとすると、像は1200Cmと成る。
金剛棒(1000Cm程度)が、これを超えない範囲で製作されている筈であるから、「毘沙門天像」は1200Cm程度であった事に成り、この像のものであった事が判る。
他の「三昧耶形」もこのサイズに対して一致する。
「像木」が管理された環境の中に無いにも関わらず、ここまで朽ちないで遺っていた事から、「楠の巨木」からの像であった観ている。別の三昧耶形の仏具の中に鉄製では無い「木製仏具」は「楠製」で出来ていて黒光りしている。

これらの仏具は、「毘沙門天像」に付随する「三昧耶形」として整えられたものであろう。
一つは50Cm位の「大蛙の彫り物」(現存)、二つ目は12Cm程度の太さで65Cm程度の「釈迦立像」(現存)も楠で彫られている。

(古来には「大蛙」は「神仏の使い」として扱われていた。この事から「毘沙門天像」の「三昧耶形の仏具」として扱われていた可能性が高い。)

この「釈迦立像」(下記)は、口伝では元々から菩提寺では無く居宅に安置されていた仏像であったらしい。
室町期の大火で「大日如来坐像」と「毘沙門天像」が居宅に安置されてから、この「釈迦立像」とはどの様な形で安置し祭祀されていたかは不明である。(下記)
明らかに、容像は、「浄土宗仏像」形式で、「天上天下唯我独尊」の構えの像である。
この容像から観て、この崇拝偶像は、「本仏壇(平安中期頃の持仏堂型仏壇形式)」の前に用いられていた仏間で中央に祭祀されていた「本尊の仏像」の一つではないかと考えられる。
この「釈迦立像」は、元々何かの台座の上に据えられていた事が像の底の形から判る。
「雲の形」をした台座の上に据えられていたらしいが、この「台座」は、端部が朽ちていて中央は角型に抜けている。サイズバランスからして適切なものである。
しかし、楠の材質では無く檜で、楠の様な樹液による”黒くすみ”は無く赤白い。
推定だが、この台座の上に金糸絹布が載せられていた可能性がある。
現在は大花瓶の台座に成っている。

お恐らくは、この事は、奈良期の「大日如来坐像」と「毘沙門天像(三宝荒神信仰)」への「偶像への祭祀」と、「先祖を祭祀する仏壇」の「偶像の祭祀(釈迦立像)」とは、「別の信仰体」として祭祀されていた事を意味する。(奈良期から室町期末期での祭祀は異なっていた。下記)
「賜姓五役」を達成し維持出来る様にする為の祭祀と、「先祖への祭祀」とは概念として区別して祭祀していた事に成る。

そもそも、「毘沙門天像」は、足元に多くの「三昧耶形の仏具」が多く添えられている仏具で有名で、その足元には、鬼を踏みつける容像等、足元にその特徴があって、その密教に依っても異なる。
「青木氏の毘沙門天像」は、「鬼相台座」の横に、「神仏の使い」として「大蛙」を引き連れた容像であった事に成る。
この事は、「青木氏の密教」の概念を物語る。
その概念とは次の様に成る。

「青木氏の密教概念」
古来宗教の「和魂荒魂」から、「荒魂の荒神」の「悪神」として時には荒れると見做されていた「鬼」を、「毘沙門天」は足で押し潰し、「悪」を祓い守護される。

(「鬼」は、この時期、未だ「悪」とは必ずしも考えられておらず、「神の使い」としての扱いであった。ただ、「神の使い」として、時には、奢り、豊満、怠惰、強情、遍情等の「戒め」の為に「世」を懲らしめるとしたが、人間の勝手な理屈で嫌われた。
9世紀半頃の何時しか鬼は「悪神」と成った。下記の「方相氏」の論を参照)

「和魂の和神」の「仏神の使い」としての「大蛙」に依って「和魂」の「大日如来」の「ご利益」に導かれる。

以上の様な「青木氏独自」の「密教概念」を持っていた事に成る。
この「密教概念」は次ぎの様にまとめられる。

青木氏の「守護神の密教数式論」
A 「和魂の和神」=「大日如来坐像」+「大蛙の仏神の使い」
B 「荒魂の荒神」=「毘沙門天像」+「三宝荒神」
C 「仏教の守護神」+「神道の守護神」=「青木氏の守護神」

これで、「青木氏の密教概念」の論理性は成り立っている。

しかし、「青木氏の密教概念」だけでは、「仏教」だけの守護となり、「青木氏の賜姓五役」は成り立たない。(仏教の守護神 神仏習合神)
その為に、「神道」の「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の守護があってこそ、「青木氏の賜姓五役」は成り立つ。(神道の守護神)

(研究室「青木氏の守護神の神明社」の論文参照)

結局は、上記の”「守護神の密教数式論」”が「賜姓青木氏」に成り立っていた事に成る。
本来、如何なる他氏でもこの様な「守護神の密教数式論」が成り立つ事は無かった。
それは「賜姓五役」と云うべき”「氏」に課せられたもの”が無かったからで、同じ「朝臣族」であった「賜姓源氏」にはこの務めは無かった。
如何に大変な宿命を負っていた事かが判る。
しかし、それだけに、「氏の行動」は「慎重な行動」に成らざるを得ず、「賜姓源氏」の様に「自由な行動」に出て、結局は11氏もありながら全て「滅亡の憂き目」を受けてしまった事を鑑みると、「賜姓青木氏」は幸せであった事に成る。
当に、”世に晒す事無かれ 何れに一利無し”である。

言い換えれば、この「守護神の密教数式論」の御蔭である。


そこで、この「青木氏」の「慎重な行動」は、上記で執拗に論じた「密教節会所作」と云う行動を作り出し、そこからはみ出さぬ様に、「自らの概念」に、”箍を填めて作り出していた”事に成る。

(何故、二月に一回程度に「節会所作」を繰り返していたかは、「氏の者の思考」の中に徹底して浸み込ませていた事でも判る。)

「青木氏の慎重な行動」=「密教節会所作」=”世に晒す事無かれ 何れにも一利無し。”


ところが、青木氏の「密教数式論」はこれだけでは終わらなかった。

それは上記した「釈迦立像」の「仏壇の本尊」があった事である。
更に進めた調査で次の事が判った。

本来の他の氏であれば、この「仏壇の本尊」への「祈願とその所作」の範囲で留まる。
「賜姓青木氏」は、この「仏壇の本尊」も偶像化して、その所作を上記の「守護神の所作」と重ねていたのである。
上記の「九度節会所作」にもある様に「賜姓五役」の「守護神の密教数式論」に伴う「節会所作」と連動させていた事に成る。
では、どの様に、連動させていたのかである。

普通は、「浄土宗仏壇形式」の「持仏堂型仏壇の様式」で諸々の仏具を整えての祭祀となるであろう。
しかし、ここでも「賜姓青木氏」は他と違っていた。
恐らくは、奈良期647年に賜姓を受けてからの「古来の奈良期の仏壇」と成った筈である。
その頃は、未だ、時代的に「持仏堂型仏壇」は無かった。
「持仏堂型仏壇」は、仏教伝来後、寺の中に「持仏堂」と云う建物を建てた事から、この”仏を祭祀していた堂”の形をそっくり真似て、小型化したものが現在の「持仏堂型仏壇」の元となった。
従って、その「持仏堂」の初期の代表的なものは、平安期の「平等院鳳凰堂」の「持仏堂」であり、これが”「仏壇の起源」”であると云われている。
この「持仏堂型仏壇形式」の前までの祭祀方法は、上記した古来宗教の”「和魂荒魂」の「祭祀の方法」”に従っていた事に成る。
この”「和魂荒魂」の「祭祀の方法」”では、”何時頃からのものになるか”と云うと、これには記録があった。
最も古い記録から、この古来の「和魂 荒魂」の「祭祀の方法」として、何と、当にこの事に付いて、684年3月に「天武天皇の詔勅」を発している。

この「詔勅」から、未だ当時、「仏の祭祀方法」に定まったものが無く、新たにその祭祀そのものを命じ、且つ、その祭祀方法等をも禁令で命じた事に成る。
この「天武天皇の詔勅」では、次ぎの様に命じている。

”「諸国の家毎に「仏舎」を作り、「仏像」及び「経」を置きて、以て「礼拝」し「供養」せよ」”

以上と明記している。

この”「仏舎」”とは、上記した平安期の「持仏堂型仏壇形式」に相当するもので、古来の「和魂荒魂の祭祀の方法」である。
その”「仏舎」”(現在の仏壇に相当)の作り方も明記している。
その内容を現在文に要約すると次ぎの通りである。

そもそも、「仏の祭祀」は、その都度、四隅には、「木又は竹の支柱」を建て、これに板を渡した「舎」を造り、その中央に「本尊(仏像)」を造り安置し、その「葬儀」には、ここに「仏」を安置する方法として祭祀する。
この「舎」の形状は、箱型にした上部には、斜めに「板」を渡し、「庇」を設け、側面の一方を開いて正面とし、内部の底には「台」を設けて、そこに「本尊なる物」を設けて「仏舎」とすべし。

以上としていて、更に記録を観ると、この”「仏舎」”の形では、「天武天皇の詔勅」に基づいた「仕来り」に従った事を、更に発展させた事を明示している。
それは、次ぎの発展内容の通りである。

しかし、この「仏舎」で祭祀するに従って、その頻度が高く成り、「上級階層の祭祀」では、これを繰り返したが、遂には、それを定型化して「台」と「仏像」を安置する「仏舎型」なるものを作り上げた。(「台」と記されている遺品は遺っている。下記)
そして、それを「小型化」して、「家屋」の中に治めた。と記録にある。

これらの経緯としては、最初は外にあった「仏舎」を屋内に治めたのか、外と中にも設ける仕来りにしたのかはこれでは判らないが、しかし、”両方に設けた仕来り”であったと判断できる。
そして、外の「仏舎」は「墓」と進化したと考えられる。
「墓」は何時しか「仏舎」の形造る板が朽ちる事から「砂岩」で表現したと観られる。
墓石の「砂岩」に付いては、平安期の仏教の記録資料があって、”風雨で自然に朽ち果て自然に戻る事”を「仏説作法」で求めている。
と云う事は、この資料から「外の仏舎」が「墓」に変化した時期は、奈良末期から平安期初期の頃と成る。(「外仏舎」と呼称されていた模様)

古墳時代の末期に位置していて、この時期の墓としては次ぎの様なものがある。
(「仏舎」の形に影響を与えた「古代インドの墓」の形に相似させた古墳時代の円墳丘)

持統天皇陵の奈良県高市郡明日香村の野口王墓、(686年 697年)
文武天皇陵の明日香村の中尾山古墳、(707年)
天智天皇陵の御廟野古墳 (672年)
[施基皇子の陵墓」(「春日宮天皇陵」)高円山東古墳:「後付墳墓」(716年)
「光仁天皇の陵墓」の奈良県奈良市日笠町の田原東古墳 (781年)
などが墳丘を持っている。

日本では、初めて以上の皇族王の「固有型式の陵墓」が出現した。
この事から、684年に「天武天皇の詔勅」が出て、王族では無く、上級階層の「仏舎」は、「施基皇子の墓」(高円山東の「春日宮天皇陵」)として「後付墳墓」があるので、後716年以降と云う事に成る。
近くには、「子供の光仁天皇の陵墓」があるが、「伊勢青木氏の菩提寺」には「施基皇子」「白壁王」までを祭祀している。
「春日宮天皇陵墓」と「光仁天皇陵墓」は、「公式の墓所」として祭祀されていたので、別として、「賜姓氏」の「個人の墓所」は「青木氏菩提寺(」匿名)にあったが、「墓形式」は「仏舎型」で、当初は「木仏舎」から、平安期直前(716年頃−810年頃)に墓石に変え、この墓石は当初は「砂岩」であった事が判っていて、その証拠に隣の「女墓」の一部の墓石は未だ「砂岩」のものが遺されている。
始祖「施基皇子王」と元祖「白壁王」の「氏墓」も青木氏菩提寺に祭祀されていた。
(松阪大火で菩提寺消失 明治初期に大理石の墓石に変えた。)

この事で、次ぎの事が判る。
”790年頃以降”に「青木氏」がその「賜姓族立場」の頂点にあった事から率先して見本を示し、「上級階層」から「仏舎型石墓」を採用したと考えられる。
この「石墓」に成るには、上記した「後漢の職能集団の石作部」が「大和川流域」に住んでいた渡来人にて可能に成った。
「木製内仏舎」や「木製外仏舎」は「玉作部」が、後の「石墓」は「石作部」が作っていた。
この「玉作部」や「石作部」等職能に関する後漢から渡来した「部民」は、直接、朝廷の管理下に置かれていて、官吏「伴造」が仕切っていた。
この官吏「伴造」は殆どは「氏上」の中から選ばれた。しかし、「人」がいない時は「部民」の中から選ばれる事もあった。
「伴造」は「民部省の配下」にあったが、「始祖施基皇子」の「青木氏」は、この”「大和川流域の部民」(技能集団)”(「青木部」と呼称 名張拠点)を「氏上」(伴造として選出)として直接統括していたのである。

注釈
(「青木氏」が ”氏上様”と呼ばれていた所以であり、”御師様”とも呼ばれていた所以である。
「御師」は職能集団の総括者の事、 江戸時代には「徳川吉宗」に依って幕府にもこの「御師制度」を伊勢から持ち込んだ。以後幕末まで維持された。)

注釈
(「青木部」:民部 かきべ 後漢渡来人の職能集団の総称 後に「守護神神明社建立」や「菩提寺建立」等に関わり「賜姓族青木氏」の「2つの絆青木氏」に成る。「三つ発祥源」「国策氏」「神明社建立」の為に、永代の「民部大輔」にも成っている。この役職には、実質、下記の”「民部四権」”と云う国策に直接関わる大権を持っていた為に、「正四位下」以上の上位の位官級の者で中納言か上位公家等が任官した。「命令権者」であった。実務者は「民部大丞」と「民部少丞」(秀郷一門の役)であった。大蔵省よりも権限は強く、その為に「太政官府」の譜と併用して発給していた超重要な朝廷の機関であった。「民部部門」を実質制する者は、”朝廷の真の権力者”であった。「皇親政治の根幹部」であった為に「光仁天皇期」(施基皇子第六子)まで維持された。桓武期の「律令政治」に成った事から「民部四権」の大権は律令に取って代わったが、「青木部」は遺された。この段階から、「二つの絆青木氏」は発祥した。「嵯峨期」では「民部大輔」は「永代官位」と認定された。)

注釈
(民部省:「税政権」を主幹とし、その「具納組織の管理権」と、それに伴う一切の「問題解決権」と、その「管理内の警察権」(「民部四権」と呼ばれるもので、「私有荘園内」にも認めた。)

従って、「青木氏」がこの立場を利用して、この身内の官吏「伴造」を通じて命じて、全体を動かし、「青木部」をして、「仏舎や石墓」等を率先して作り、見本的にも ”作り易い環境”に成っていたと観られる。
その「青木氏」が作ったので「上級階層」は、”我先に競って作った”と云う事が起こったと考えられる。
何故ならば、「日本人の国民性」で、”自分が先んじると周囲の批判を受ける”と云う懸念する習性が働いたと考えられる。
実行するのは「上層階級」なので、批判は「公家や天皇」から直接受ける事に成る。
ところが、そもそも、「上層階層」は、自ら「民部(品部)」を持っていなかった為に、「青木氏」に頼む事に成り「批判の心配」もなく見習ったと考えられる。
元より「賜姓族氏」として「見習れる立場」にあった。

その「石墓の原型」は、「砂岩石」の高さ1M程度幅40Cm程度の四支柱板を組み立て箱にし、その上に石板の「屋根型の箱蓋」をした形であった事が伝わっている。
(仏舎型石墓)
その後に、下の四支柱板を設けそれの一方を開いた箱型を立てた形にし、「仏舎型の屋根」を載せた形にした。
(箱型仏舎石墓)
更に、この箱型が1角柱に変化して、その上に小さく仏舎型を載せた形となった事に成っている。(角柱型仏舎石墓)
角柱に変化してから、ここで、更に次ぎの様な差別化が起こった。
この様に、三段階の「外仏舎の石墓」”(灯篭型仏舎石墓)”の変化を来した事が判っている。
(灯篭型外仏舎)
江戸期には下級武士も墓所を持つ様に成って汎用化して、より安く簡単にした形が好まれて屋根部が省かれ始めた。
(角柱型石墓)

明治期の苗字令で、庶民も墓を持つ様に成った事から、「角柱型」のものと成って行った。
この時期を境に「材質」も汎用で長持ちさせる為に変えられた。(花崗岩)
「角柱型石墓」の多くは室町期末期から江戸期に入って起こった形である。

その身分さ家柄さを表現する為に、次ぎの様な工夫が凝らされた。
角柱の上に元の様に、「五輪の塔」の様なものをした石物を載せた様にしたが、これも差別化と当時に、「仏教の教え」を表現する仕来りが出て来た。
多宝塔、層塔等の物が石墓の横に添えられた。
50年経つと、この「五輪の塔」を設ける者が現れ、何時しかそれが「仕来り」と成った。
しかし、これも上級階層の誰しもが設ける様に成ってからは、「先祖の仏」が50年経過毎にこの塔に移す仕来りに代ったのであった。要するに「50年祭」である。

「現在の石墓」はこの角柱の上に置かれた屋根型のものを省いたものと成った。
しかし、「平安初期の古石墓」は何れも「仏舎型の石墓」の形を呈している。
調査したところによれば、比叡山や高野山や知恩院の浄土寺の古い寺や墓所からこの様子が観て取れる。

現在でも、地方の古来の歴史的遍歴を持っている墓所の「墓の形」には、未だ、初期の平安期の石墓の形を遺している地域がある。
この様に「内仏舎の原型様式」や「外仏舎の原型の石墓様式」も「インド墓」の流れの「円古墳」を汲んでいたのである。
それが、日本式に「環境や仕来り」(「和魂荒魂」と「古代仏教」)に合して改良した事に成る。
丁度、「灯篭の形」に成っている。
そして、はっきりとした記録に観ると、平安期800年過ぎ頃から石墓の「灯篭型外仏舎」に蝋燭を灯して先祖を導く行燈とした。
「木製外仏舎」には「天武天皇の詔勅」が出た直ぐ後の690年頃から使われた模様である。
現在の「庭灯篭」はこの「外仏舎型石墓」(灯篭型石墓)が変化したものと考えられている。
この「庭灯篭」の汎用は1360年頃から絵画にも観られる様に成った。
実は、この「庭灯篭」が、更に「密教の内仏舎」の上記の”「迎え行燈」の役目”に発展を成していたらしい。

”灯を点灯して、先祖を迎え入れる”と云う行為は、「古代仏教の概念」としては強いものがあり、「仏舎の時代変化」は、調べると「蝋燭の時代変化」にも合致している。



> 終わり。

「伝統」−7に続く。


  [No.324] Re:「青木氏の伝統 7」−「仏舎と仏壇」
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/10/22(Wed) 09:08:52

> 前回の末尾

>この様に「内仏舎の原型様式」や「外仏舎の原型の石墓様式」も「インド墓」の流れの「円古墳」を汲んでいたのである。
>それが、日本式に「環境や仕来り」(「和魂荒魂」と「古代仏教」)に合して改良した事に成る。
>丁度、「灯篭の形」に成っている。
>そして、はっきりとした記録に観ると、平安期800年過ぎ頃から石墓の「灯篭型外仏舎」に蝋燭を灯して先祖を導く行燈とした。
>「木製外仏舎」には「天武天皇の詔勅」が出た直ぐ後の690年頃から使われた模様である。
>現在の「庭灯篭」はこの「外仏舎型石墓」(灯篭型石墓)が変化したものと考えられている。
>この「庭灯篭」の汎用は1360年頃から絵画にも観られる様に成った。
>実は、この「庭灯篭」が、更に「密教の内仏舎」の上記の”「迎え行燈」の役目”に発展を成していたらしい。

>”灯を点灯して、先祖を迎え入れる”と云う行為は、「古代仏教の概念」としては強いものがあり、「仏舎の時代変化」は、調べると「蝋燭の時代変化」にも合致している。



・「仏舎の時代変化」
「仏舎型の木製墓」は、”684年から790年頃まで”の約100年間は保たれていた事に成る。
仏舎の箱の空間部位に、”「蝋燭と線香」を点灯する仕来り”と成って行った。

注釈
(「線香」は紀元前から使われていた。日本には「仏教伝来」と共に大量に持ち込まれた。
「焼香」として使われていた。「香木」(沈丁花の古木)として「日本古来」にもあった事から、「祭祀や占い等」にも用いられた模様で、これが「線香」に成って行った。
この「線香」と同じく「蝋燭」も良く似た経緯を持つ。日本古来には「蜜蝋」「松蝋」が使われていた。
飛鳥の「和魂荒魂の宗教概念」の時代にも蝋燭や香は使われていた。
香の習慣からの「香・線香の時代経緯」と、「蝋燭」の時代経緯]と、「仏舎の経緯」とは一致する。)

(仏舎木製墓・内仏舎)  「線香と蝋燭」 684年(520年)
   ・・       ・・・
(仏舎型石墓) 「蝋燭」の点灯 石質に   790年頃 
(箱型仏舎石墓)「蝋燭」を箱型の部位に点灯 895年頃
(角柱型仏舎石墓)「持仏堂型仏壇」が出現と共に大量に使用 950年頃
(灯篭型外仏舎)「蝋燭」が国産化に成功して普及  1000年
(角柱型石墓) 「蝋燭立て」が別に設けられて祭祀 1350年

そもそも、この灯篭の蝋は、次ぎの様な歴史を持っている。
・「蝋燭の時代変化」
648年に中国晋にて本格生産、
747年に大和に輸入
894年に国産を検討(量産化・実用化に至らず)
1000年に国産化品成功、(ハゼ実、松脂製で成功 特定階級に出まわる。紀州や奈良で生産されていた。)
1350年に補充(中国製・一般階級でも使用)

747年頃には特定階級の上層部で使われた。
「灯篭型外仏舎」への「蝋燭」は、”894年頃に国産品”と合わせて使われる様に成り,大量使用の引き金に成った.
しかし、「庭灯篭」を始めとして、国産品の量産と輸入品の量で広範囲に使われる様に成るには、蝋は1350年頃から用いられた。
900年頃から、中には、余裕から「蝋燭」で飯を炊く等の事が一部で優雅な遊びとして使われる程度になった。

”810年から850年頃前”には、「持仏堂型仏壇」が上級階層に採用された。
そうすると、この頃の墓所は、「仏舎型」の「天武天皇の詔勅」に示す「木製の墓」であった事は考え難い。
「青木氏の古代和紙」に観られる上記した「7つの変遷」(重複)比較すると良く判る。

A  和紙の良質な生産開始に50年   (730年頃 正倉院 紙屋院 白鳳文化 記録)
B  和紙の殖産を始めて余剰品を作り出すには50年    (770年頃 平城消費文化)
C1 商い態勢に50年   (810年頃 平安初期文化 摂関文化初期)
C2 販売能力に50年   (890年頃 平安中期文化 摂関文化中期 記録)
D  興業として50年   (950年頃 国風文化前期 摂関文化後期 記録)

丁度、「仏舎型石墓」(790年)は、Bの時期か、C1の「商い態勢」の時期に出来上がっていた事に成る。

更に、「持仏堂型仏壇」(810−850年)は、C1の「商い態勢」の時期に出来上がっていた事に成る。

つまり、C1の「商い態勢」期に「仏の祭祀方法」も整えられた事に成る。
Sの時期の頃は、684−690年の「内仏舎」

C1の「初期の頃」は、「外仏舎」の「仏舎型石墓」
C1の「後期の頃」は、「持仏堂型仏壇」

青木氏は、”商いの態勢確立の変遷”で苦労していて、何とかその芽が出て来た時にも、「仏舎の問題の解決」に当たっていた事に成る。
「商いの7つの変遷」「蝋燭の経緯」「古代和紙の経緯」「仏舎の経緯」等と「青木氏の変遷」が不思議に時代性が一致している。
「青木氏」が文化に大きく影響を受けて変遷して居た事を物語る。
何故そうなるかは、発祥期から「古代和紙」と共に生きた事が原因していると考える。
そして、その流れに逆らう事無く、「密教の慣習」に従ったからである。
その「密教の慣習」は「仏舎」と云うものに注ぎ込まれた。
そして、「仏舎」が「商い」ともに形が出来上がって来た「変遷時期」であった事が判る。
つまり、何れにもこの期間には、”「和紙」”が連動していた事が判る。
平安期までの「青木氏」を数式論で表現するならば次ぎの様に成るだろう。

810年>「商い」=「古代和紙」=「仏舎」>684年

そこで、平安初期の上級階層の万葉歌人の墓所を調べると全て何らかの形で「砂岩の墓石」である事が判った。
但し、後付で観光名物化の為に、原型を留めず現在風にアレンジして「平安期の墓石」としているものも多く、これを除くと、810年頃の平安遷都期前後と成る。

「仏舎墓石型」に成った上限は810年頃と成る。

さて、下限はどの位の年代かに成る。
そもそも、「青木氏」は、「国策氏」として、「国政」の最先端を何にしても走らねばならない宿命がある。
従って、他氏の状況を調べて、”「青木氏の事」”を読み込むのは無理に成る事が多い。
苦労する点である。
本論も、全てこの宿命に左右されている。

故に、「天武天皇の詔勅 684年」に率先して、”「氏墓」”として”「仏舎」”を屋内外に作った筈である。
その時は未だ詔勅に従って「木製」であった筈である。
しかし、この「木製墓」の「外仏舎」は、風雨に晒されれば、幾ら良い材質を作ったとしても20年もすれば風化して朽ちる。
とすると、「700年」頃に「石質の仏舎」にする必要に一度迫られた事に成るが、「天武天皇の詔勅」が出て間が無い時期である事から、無理であった事が考えられる。
700年以降と成れば、「天武、持統天皇没後」である事から、この柵は消えている。
しかし、未だ、発案者の施基皇子は存命である事から、716年没期に契機も訪れるし、次ぎの修理期も訪れる。
この期に「石墓」を選んだ可能性がある。
まして、始祖は後付「春日宮天皇陵」、元祖の二代目「白壁王」は「光仁天皇陵」として、石室の墳墓で祭祀されている。
と成れば、つまり「公式墓」は「石質の仏舎型の円墳」と成れば、この「二人の先祖の氏墓」は必然的に「石質」の「仏舎型墓」と成るだろう。
そうしなければ、周りが「石墓」にしているのに、後から遅れて「石墓」とは、その「賜姓氏」や「国策氏」の立場は成り立たない。
あくまでも”率先して範”としなければ成らなかった筈である。
結局は、686年に、叔父の「天武天皇」 698年に妹の「持統天皇」 甥の「文武天皇」の707年期は、未だ「施基皇子」は長生きして存命中である。
その716年、息子の「白壁王」の「光仁天皇」は781年の「年代経緯」を以てして、率先して「石墓」にするには、次ぎの経緯が働く。
つまり、684+木質寿命20年=704年となり、持統天皇の698年を超え、且つ、直ぐに文武天皇の707年以降と成る。
この707年は、「仏教の仕来り」上から「上位の裳」に服する必要から賜姓族としては避けねばならない。
だとすると、上記の経緯年数では710年には裳が明ける。
しかし、この時、未だ、始祖の施基皇子は存命中であるから、石墓にするにはこの716年のみしか無く成る。
「春日宮陵」は「後造り」であるので、問題は無い。
「光仁天皇の781年」は喪主身内であり、これまでに「仏舎石墓」にしている事に成る。

「仏舎型石墓」は、716年が下限域と成る。

仏舎石墓の下限716年ー上限810年と成る。


ここで、再度、上限の810年に付いて検証する。
光仁天皇の子供の桓武天皇は施基皇子の孫に当たる。
しかし、この様な一切の政治的柵を排除する為に、平安遷都をし、「皇親政治族」を排除し、「青木氏の賜姓」を中止し、阿多倍の「平族」を賜姓して、「青木氏」を政治の場から排除した。
「青木氏」は、「賜姓族」でありながらもこの時期に一時著しく衰退した時期でもある。
「国策氏」としての「宿命と義務」は、一時抑えられた時期でもあって、勝手な事は出来なかった。
従って、810年以上の上限はあり得ない。
この後は、「持仏堂型仏壇」に成った為に、一切の古来密教性は低下したので、尚あり得ない。

従って、「施基皇子」の息子「白壁王」の「光仁天皇期」が最高の隆盛域であった。
(桓武天皇は施基皇子の孫)
「白壁王」が皇位継承した770年頃が上限と成り、恐らく、この716年から770年に施基皇子の墓を「仏舎石墓」の墓にした事に成る。
上級階層は「平安遷都」で「墓」どころの話では無い筈で、遷都すれば墓も移す事に成るし、「青木氏」が一切の事を最早、請け負う事は無く成る。

「仏舎石墓」は「770年前」までと決められる。

この年以外には無い。
実は、この裏付けと成る理由がある。
「伊勢青木氏」の始祖「施基皇子」の嫡男の「白壁王」は全くの皇位継承外である。
第四世族内でも無く、「第四位皇子」でもない。
確かに、大化期では、父が「第四世族」で「第六位皇子」ではあったが、「皇位継承権」のある「真人族」でも無く、典型的な継承外の「朝臣族」であった。
しかし、ところが両者共に「天皇」と成った。
「施基皇子」はその勲功から、子供の「光仁天皇」が父を「春日宮天皇」として「後付した」のである。
これは、その前に、奈良期末期には男系継承者が無く、「女系天皇」が四代続いた事から更に皇室には子孫が発生せず、「皇位継承者」が無く成ってしまったのである。
そこで、困ったので、無理やりに請われて「伊勢青木氏」の「二代目の第六子の白壁王 66歳」を引っ張り出し天皇にしたのである。
この為に、天皇家の女系の末孫皇女(井上内親王 36歳)を「白壁王」に嫁がせた。
むしろ、女性の「孝謙天皇」の「女の戦い」から逃れる様に、”逃げた 嫁いだ”と云う事の方が適切であろう。
この皇女に、結局、嫡子が生まれるが(天武天皇系の女系親王の誕生)、それを理由に父の「白壁王」が「光仁天皇」として即位した。
その後、皇后と成った「井上内親王」とその子皇太子は毒殺される。
結局、「阿多倍王(高尊王 平望王)」の孫の「高野笠人の嬪」に子供が生まれて、これが後に「桓武天皇」と成った。
その為に、光仁天皇期は青木氏等の「皇親政治」を敷き絶大な権限を持ち政治を断行した。
ところが、その身内の「桓武天皇」は、反転して、「律令政治の断行」を理由に「皇親族」を排除したのである。
この事に反発して、政治抗争が起こりして、その抗争を制し潰した「嵯峨天皇」は、逆転して、政治を「第二期皇親政治」を断行した。
これが、「賜姓源氏」であり、「嵯峨期詔勅」に至った理由なのである。
しかし、この”賜姓した源氏”には、「賜姓族の身分」と「国策氏の役目」を与えず保護もしなかった。
「青木氏」は、約30年で、ここで再び息を吹き返した事に成る。

この背景から、この「仏舎石墓」等の改革の実行は、”710年から760年”の50年間を於いて行われた事に成る。
この「慣習仕来り掟」を重視する「上級階層」では、この時にしかないと考えられ、裏付けられるのである。

つまり、これが大化期の「簡素な仏壇化」をした最初の「詔勅による仕来り」である。
「簡単な家の形をした仏の舎」を家の中に治めた事に成る。

これは「上級階層の詔勅の仕来り」のみであったが、その階層の程度に依っては、次ぎの現象が更に起こった。
それは、次ぎの内容であった。
「仏舎」の中に安置される「本尊の仏像」より前は、「毘沙門天像」などや「釈迦立像」やその「曼荼羅絵の掛け軸」を「仏舎」の中央奥に掛けたものであった。

ところが、これは、平安期の「三大密教の考え方」に左右した。
特に、この考え方は「天台密教」と「浄土密教」の2宗に限られた。
平安期中期前(900年頃前)には、この”「違い」を殊更に披瀝するのは拙い”と考え、敢えて「上級階層の氏」が「建立した寺院」には、「密教宗派」を限定せず、両派の社殿を建立配置する現象が起こったのである。
この為に、「内部の本尊」の造像では、「仏像」や「三昧耶形」だけでは、その「宗派の特徴」を充分に表現できないと考え、「仏画」でその「密教性」を強く表現しようとした。
この流れで、「本尊」は「仏画」とする現象が上級階層に広く起こった。
中でも、「嵯峨期の嵯峨源氏」の別荘として建立された「平等院」は、その典型的なもので、院内には数多くの殿、堂、塔、蔵、所が建てられたが、これらの中には、「仏画」を以てその「二つの密教性」を競う様に表現している。
これは当時の「和魂荒魂」の「古来の宗教」と「伝来の密教」の融合、或は「習合過程の状況」を物語る現象である。
特に、「古来の宗教」(和魂荒魂)を堅持しながらも、「三つの発祥源」と「国策氏の立場」から「青木氏の密教浄土宗」の「受け入れ状況」は、この傾向が強かった筈である。
それを最も引き継いだのは、後に庶民から判り易いと信頼され台頭して来たその系列の「顕教の浄土真宗」であった。
この「顕教の浄土真宗」は「仕来り」として、「仏画」を「本尊」として、厳しくその「仏画の内容」を定めて、各地に建てられる寺には ”仏画を本山から手渡す仕組み”を採っていた程であった。
この傾向は室町期中期まで長く続き、現在でも地域によっては、この仏画を本尊としているところがある。
一般の「武家階級」には、この「天武天皇の詔勅」による「仕来り・慣習」は未だ無かった。
810年から850年頃に掛けて「持仏堂型仏壇」が一般化してから移行の普及であった。
この平安末期頃までは、公家と上級官吏と上級技能官吏(青木氏)の範囲に留まった。

「青木氏の仏舎」
そこで、上記した様に、「青木氏」は何時頃からこの「仏舎」で祭祀し始めたかと云う問題である。
「青木氏」は、最初に「仏」となった先祖の始祖は、「天智天皇第6位皇子」の「施基皇子」であり、その最初に正式祭祀したのは716年である。
この時に、理屈上では、少なくとも「最初の仏舎」を持った事に成る筈である。
但し、この時前には、賜仏の「大日如来坐像」と「毘沙門天像」と「大蛙像」等のこれに付随する”「三昧耶形」の仏具”があって、祭祀されていた。
しかし、「仏舎」としてのものは、正式にはこの時に設けられた事に成る。
従って、「釈迦立像の本尊」はこの「仏舎設置」の少し前か直前のものと成る。
そして、恐らくは、上記した様には、「天武天皇の詔勅の仕来り」で、「密教浄土宗」では、既に「仏画」が「本尊」としていた事にも成っているので、「青木氏」が持っていた「二つの仏画」がこの時のものであった事に成る。
この「二つの仏画」が、「釈迦立像」と同時期か、その前の「大日如来坐像」「毘沙門天像」の信仰の祭祀時に使用されていたものかである。
この間、長くて50年程度差のものと成る。
何れの祭祀に使われていたかは確定は困難であるが、家内の事であるので検証出来ない事は無い。
要するに、兎も角も、上記の「青木氏」が持つ「二つの仏画」はこの時期50年時のものであった事に成る。
それから押し出せば判る筈である。

丁度、その直前に「古代仏教」が伝来していた。私伝で522年 公伝で552年である。
「青木氏」が発祥したのは647年であるので、最大で100年前と云う事に成る。
「仏舎の天武天皇の詔勅」が出たのは684年で、「皇祖神の伊勢神宮の遷宮」では、「天智天皇」が伊勢に定め、正式に定めたのは、詔勅の1年後の天武期685年である。
そして、初回式年宮は690年の「持統天皇」のその時であった。

そうすると、「青木氏」が、最初に「仏舎」を持ったのは、論理的には式年宮後の26年後の716年と成る。
この時は、未だ、現在で”「仏壇」”と云われるものは、古来の「和魂荒魂の祭祀方法」であって、「天武天皇の詔勅」に基づく「仏舎」であった事に成る。
当然に、この「仏舎」には、既に「密教」は伝来していた事に成るので、その影響を強く受けていた事に成る。
この時の「密教の青木氏」には、「大日如来坐像」、「毘沙門天像」、「大蛙像」、「釈迦立像」と「三昧耶形の仏具」や「仏画」等の一切の「密教具」はあった事に成る。

つまり、後に、”「仏壇」(持仏堂型仏壇)”と成るが、この時は、「仏舎」の「中央の本尊」には、「釈迦立像」が安置されていた事に成る。

さて、そこで「施基皇子没716年」に正式な「仏舎」が設けられたとする年以前には、既には、「青木氏」には上記の「密教仏具」一切は備わっていた可能性がないのかと云う疑問である。
普通は仏があって「仏舎」があると云う慣習に成る事は高い。
しかし、”当時の慣習仕来りはそうであったのか”と云う疑問が先に来る。
筆者は、”「仏の有無」如何に関わらず「仏舎」と云うものを備えた”と考えている。

例えば、この当時の円墳等を観ると、”死後の円墳建立”では無く、事前工事に入っていて前もって作って置くと云う形式を採っていた事が判っている。
天武天皇の「仏舎の詔勅文」から観ても、”死後に作れ”とは勅令していない。
下記でも詳しく論じるが、次ぎの様な概念であった。
平安期に出て来た「持仏堂型の仏壇」は、”「衆生の意志を繋ぐ場」”が概念である。
奈良期の詔勅の「仏舎」は、”「先祖と会する場」”が概念である。
「仏壇」は「仏の墳」であるの比して、「仏舎]は「仏の家」であった。
この概念から、我々は”人が没しての仏壇”の感覚に支配されているが、当時の平安期までの「仏舎」に対する感覚は、”「先祖と会する場」”としての感覚が強かった。
そもそも、現在感覚に引き継がれている”没してからの「仏壇」”でなく、且つ、”「先祖の意志繋ぐ場」”ではなかった事に成る。

依って、「仏の有無」如何に関わらず、”先祖を祭祀する場、” ”先祖の尊厳を伝える場”であった事に成る。

従って、この考え方から、「天武天皇の詔勅」が発せられた時に、直ちに「仏舎」を建立した事が判る。

(「施基皇子墓」は「高円山」の東に「後附け」の「春日宮天皇陵」がある)

つまり、「天武天皇の詔勅期684年の詔勅」に合わせて先に準備していたと観られる。

何故ならば、「大日如来坐像」や「毘沙門天像」などの「密教具等」を祭祀する前から用意され、「和魂荒魂信仰」と「神明社信仰」をしていたのである。
依って、敢えて”準備せよ”と命令が出ているのに、”仏が無いから”として、”「仏舎」だけは別にする”と云うことは「賜姓族の慣習」としては考え難い。

そもそも、この詔勅の「政策発案者」は、最も信頼されていた「施基皇子」本人である。

(注釈 仏舎への保釈: それまでの中国の律令の模擬では無く、”独自の律令を作る事”を目途として、天皇に代って全国を飛び回った経験から、全国の実情に合った事柄を規範に、勅命に従い全国にある善い「習慣仕来り掟」等を取りまとめ集めて「善事撰集」を偏纂して「持統天皇」に報告奏上した。これが「仏舎」や後の平安期の「律令政治」の根幹と成った。)

「草壁皇太子」に代わって施政を採っていたのは、「日本書紀」にも書かれている「青木氏始祖」である事を忘れてはいけない。
”詔勅を発する”と云う事は、その前に「仏教の影響」を受けて、王族の円墳墓等には、一部でこの「仏舎方式」の基礎的な方法で祭祀が行われていた。
この事から、全体にこの祭祀を早く及ぼす為に、「仏舎の命令」を詔勅を使って発した事に成る。
その一部とは、王族とは別に、「上級階層」では、「仏教伝来 522年」に応じて、いち早く取り入れたのは「青木氏」であった筈である。
何故ならば、「青木氏」はそもそも「三つの発祥源」で「国策氏」である。
民によりも、務めとして最も早く率先して採用する必要に迫られていた筈である。
上記した様に、率先して「神仏」を習合させて、「密教」も取り入れたのも「賜姓青木氏」である。
其れなのに「仏舎」だけは”「別だ」”と云うのはどう考えてもおかしい。
「仏」や「先祖」の有無に関わらず、先ず、国政上、「青木氏」が範を示さねばならない立場にあった。
位の一番に、大化期の賜姓時の当初は,まだ「菩提寺形式の慣習仕来り」は、未だ社会の中(720年頃建立完成)には無かった。
依って、居宅に安置されていた「大日如来坐像」と「毘沙門天像」の横の部屋に「内仏舎」を設けた筈である。

(菩提寺完成後に「大日如来坐像」は菩提寺に安置された。「毘沙門天像」と「大蛙像」は居宅の「内仏舎」に安置する形式を採った。 下記の「釈迦立像」で論じる。)

果たして、「青木氏」が「内仏舎」「外仏舎」の両方を同時に設けたかの疑問であるが、「天武期の詔勅」は、先ずは「外仏舎」から念頭に於いて述べている事から、「外仏舎」と「内仏舎」を同時に設けたと観ている。
「外仏舎」は、「墓」と変化して、終局、その「墓」を祭祀する「菩提寺」へと「一対の形式」に発展したが、この時点での「外仏舎」は「寺形式の建立と完成」までに至っていなかった。
この時点では、「天武天皇の詔勅」に従った「簡素な仏舎」で、その周囲にはこの「外仏舎」を保護する様に「仮屋社」の様なものを建設して、周囲を樹木で覆う「墳丘」の様なものにしていたと観られる。
その後、「施基皇子」没後(716年)頃には、「外仏舎墳丘形式」から「墓所」(下記)に合わせた「菩提寺形式」に仕上げ直したと考えられる。
これも「外仏舎」の”見本的な最終的な完成行為”であったと考えられる。
恐らくは、「内仏舎」も「釈迦立像」を本尊に、左右には「脇侍」の造像を安置し、側面には「密教仏画」を配置した「一連の造形」(下記)を作り上げて見本的なものとしたと考えられる。

あくまでも、「賜姓族」である為に、この時点では、「内仏舎」も「外仏舎」も青木氏がその見本的なのを示しす事に目的があった。

「外仏舎」では、「仏舎形ー墓ー菩提寺」
「内仏舎」では、「仏舎形ー本尊ー脇侍造像ー仏画」
以上の一連の形式と作法の見本を示したのである。

それは上記の青木氏の「二つの仏像の祭祀」が既にあり、「釈迦立像」と「二つの仏画」がある処を考え合わせると、同時でなければならない事に成る。

そもそも、「内仏舎」と成っているが、この形は ”庇を持つ小さい家の形”であった。
これを「大日如来坐像」と「毘沙門天像」の右隣に設けると成ると、”付け足しの建て増し”と云う事には成り、”周囲の目線”からも「模範」とするには無理であったと考えられる。
建てる以上は、目立つ様にもする為にも、”専用の「大きな仏間殿」(仏舎殿)を設える事に成った”と考えられる。
何しろ、周囲に追随して建てるのでは無く、”恣意的にも大々的にも目立つ様に、”これぞ青木氏の仏舎殿”を建設したと考えられる。
明治期の消失の家と現在の古家の仏間内容からも、小規模成れど「仏舎殿」の形を遺しているので、これ以上の形式を持っていたと考えられる。
当に、伊勢の松阪町の9番から11番までの「侍屋敷」(後に本領安堵で蒲生氏郷より与えられた。)に、平等院の様な「仏舎殿」(菩提寺の原型)を建設したと考えられる。
この頃(850年頃まで)の「仏舎」は、「持仏堂型仏壇」(下記)の様に量産されて定型的なものでは無く、都度、”依頼主の意向で外形と内部の装飾まで建設する仕様”であった事が記録から読み取れる。(その証拠が二つ遺っている。 下記)
「青木氏」に類じて上級階層は、競争する様に、”誇示する意向”も大いに働いたと考えられる。
その様に仕向けた事が考えられる。
それ故に、その「氏の密教性」も働き、より普及させる為にも、「内外の仏舎」は「自由仕様型」であった事に成る。

「持仏堂型仏壇」
それに比して、現在の「仏壇」となるものは、寺の中の「持仏堂」をそっくり模擬したもので、この手本と成った「持仏堂」が現れたのは嵯峨期頃である。
その後、少なくとも850年頃前後に、現在の「仏壇化」がうまれ、1000年に向けて次第に中流階級にも一般化したものである。それまでは、上記の「庇付きの仏舎」であった。

その前に、念の為に「仏・舎」が「仏・壇」と成ったには、一つの経緯があった。
仏教の発祥地の「インドの記録」では、次ぎの様に書かれている。
上記の事は ”インドの仏の壇の経緯”をみると頷ける。

”土の上に枠を組み、丸く盛土して、そこに仏を埋め、その上に仏具を載せて祭祀した。とあり、
その後、この土が雨風で流される事から、上に”「箱」”を被せたとある。
円墳の原型と成ったのであるが、”土の上に枠を組み”は「仏舎」の形に発展し、”仏具を載せ・・箱を被せた”は「寺社」と「杜」に発展した考えられている。

この事から、平安期以後の「持仏堂型仏壇」には、土辺の「壇」と云う字を用いる様に成った。
「仏・舎」から「仏・壇」となった所以である。
これが、上記した日本の「円古墳の原型」であるとされている。

「仏舎」と「仏壇」の違いが出ている事は、”「舎」と「壇」の違い”と成る。
そもそも、「舎」は”木の「家」”、「壇」は”土の「墳」”と云う事に成る。
「家」は ”人の居る場”、「墳」は ”死者の埋する場” と云う事に成る。

故に、「青木氏」は、「和魂荒魂の概念」と「密教の概念」の「神仏習合」から ”先祖と会する場”の概念が強いのである。 
つまり、「持仏堂型仏壇」の”死者の埋する場”と云う概念は無いのである。
この点が大きく違うのである。
これが「青木氏の伝統」の「根幹」なのである。

・「釈迦立像」と「二つの仏画」
そこで、「仏壇」には「仏像」は、本来は必要無い訳であるから、この遺された「釈迦立像」は、上記の事から ”「仏舎」”の中央に安置されていた「本尊」であった事が判った。
しかし、上記した様に、「曼荼羅絵等」を含めて、「釈迦天女像」などもあった事が記録に遺されている。上記した「二つの仏画」である。

では、”この「二つの仏画」が、何故、「持仏堂型仏壇」に掲げられていたのか”
この疑問を解く鍵がある。
最早、”平等院の持仏堂”の中をそっくり模擬しているから、一切の仏教が説く仏具は小型にして揃っていて、敢えて他に飾り立てる必要性が無い事に成る。
況して、”死者の埋する場”には必要が無い。
なのに、”何故、「二つの仏画」を飾り立てたのか”である。
当然に、ある「宗教的意味」があるから敢えて飾った事に成る。
特に、「密教浄土宗」と「顕教浄土真宗」が拘ったのかである。
拘らなくてはならない「大きな理由」があったからである。

それは、上記に論じた「壇」に関する「意味合い」である。
イ 一つは、「死者の埋する場」の意味(墳の意味)
ロ 二つは、「量産仕様」の仏壇の意味(持仏堂模擬型)

宗派に関係なく量産的に「持仏堂型仏壇」が出来て仕舞えば、宗派が主張する「宗教概念」は薄らぐ事に成り拙い。
宗派を表現しなかった「平等院の持仏堂」を模擬したのであれば尚更である。
古くからあった「公家衆」を信者とした「天台宗密教」や、古代密教仏教をベースとして上級階層の武家宗を信者とした「浄土宗密教」にとってみれば、「持仏堂型仏壇」は更に一般化して信者を増やす事に繋がるとして歓迎された。
しかし、反面、「量産仕様」は、「宗派概念」や「独自の密教性」が、強く仏壇に表せない事には問題があった。
そこで、再び脚光を浴びたのは、「仏舎」に使われた上記の「仏画本尊」であった。
この「仏舎」の「仏画本尊」を「持仏堂型仏壇」に掲げる事であった。
これで、先ず上記の二つ目(ロ)の問題は解決した。

ところが、もう一つの問題であった。
「死者を埋する場」或は、「死者を祭祀する場」に対する考え方である。
「先祖と会する場」とは異なる。

「仏壇の概念」
「持仏堂型仏壇」には、「墳」とする問題があった。
この「仏壇」には、「密教性の基本概念」である仏舎の”先祖と会する場”は無く、単に、”「仏先祖」との間を取り持つ「道具=仏具」”とする考え方が強かった。
つまり、「インド仏教」の「外来的な原型概念」が「壇」と成って、「持仏堂型仏壇の構え」と成っている。
そもそも、この「仏壇」には中央に釈迦像があり、その左右にその弟子たちが居並び、その前には天上を表現する「仏具」(三昧耶形)が揃えられている。
つまり、「天上」にいる「仏」に対して、その「現世にいる導師」が”「衆生の意志」を繋ぐ”と云う、洗練され簡素化された”新しい仏教概念”が構築されていたのであった。

「衆生の意志を繋ぐ場」≠「先祖と会する場」
「仏の墳」≠「仏の家」

「仏舎の概念」として「仏舎」の字が表す様に、「仏の家」とは根底から違っていた。
「仏壇」: ”先祖が天上でお釈迦様に導かれて成仏して、「仏」と成り現世と彼世を往来する。”
「仏舎」: ”現世に、その来世の為の空間を造り、そこに「本尊」を置き、その本尊に仏の先祖が下りて来て会話する。”
と云う二つの概念の差である。

上記で論じた様に、「仏舎」と云う「密教概念」は覆される事に成ったのである。

この二つは根底から異なる概念である。

そこで、困った「浄土宗密教」は、「密教概念」を表す事が出来る「仏画」を描き記して、「持仏堂型仏壇」の左右に掲げた。
その事で、”概念の中和が起こる”と考えたのである。
鎌倉期初期には、この対策を更に強く主張したのが「親鸞の浄土真宗」(親鸞の孫覚如)であった。
最早、「真宗」は「持仏堂型仏壇」そのものを取り除き「本来の仏舎」の形に近い形に戻したのである。
(この為に、路線争いからこの浄土真宗は三派に分離する事に成った。)

結局、そこで、鎌倉時代初期からこの「持仏堂型仏壇」は、宗派毎に「仏壇」そのものの「形式」を変える様に成った。
特に、「密教浄土宗」は”「浄土宗仏壇」”と呼ばれる「仏舎」を表現した融合型の「持仏堂形式の仏壇」を作った。
従って、「青木氏」には、この「浄土宗仏壇」をどの様な形で保有しているかが5家5流で違っていた。

主に採った方法は次ぎの方法であった。
1 位牌の形を「庇付き仏舎型」にする。
2 別台座を設けて「本尊の釈迦如来の仏像」を中央に据える。
3 仏壇の上部を「庇付き仏舎型」にする。

以上三つの方法を組した方法や単独で用いた方法等様々であるが、地域によってほぼ統一されている。
恐らくは、「時代の変化」に左右され、「伝統の継承性」の低下が起こり、「密教性の強弱」が異なる、「持仏堂型仏壇」に対する拒絶度の差違等によるものと考えられる。
筆者の家は、この「三つの複合型」であった。立場上の所以ではないかと考えられる。
(この様な伝統を一つでも維持して行くことはなかなか簡単な様で難しいのだ。)

一方、「法然浄土宗系」の「親鸞の浄土真宗」は、先ず「密教の概念」を外し、更に「本造像」は使わず、「三昧耶形」として”「仏画」”を特に厳格に用いた。

「衆生の意志を繋ぐ場」≠「先祖と会する場」
「仏の墳」≠「仏の家」

上記の”「持仏堂型仏壇」の概念”が根底から違うとして徹底的に排除したのである。
更に、密教も排除したのである。

その為に、民衆や下級武士等は、「密教の独特な概念」や「面倒な作法」に縛られる事なく、高価な「持仏堂型仏壇」を持たなくても入信出来るとして真宗は信者を多く獲得した。

(親鸞は、この「3つの差違」が起こり、この事で「師匠 法然」を裏切るとして悩んで、「浄土宗」を憚って名乗らず”真宗”と呼称した。
しかし、法然に疎遠の親鸞の弟子たちは、それでも強硬に「浄土真宗」と呼称した。)

結局、浄土宗は「法然派」と「親鸞派」の二つに分かれ、更に、この二つは法然派は、密教派と顕教派の浄土宗に、親鸞派は顕教として三派に分離してしまったのである。

以上の事が記録から判っているが、現在でも、この「伝統」を頑なに護っている宗派と地域があるのは、上記の”「仏舎」と「仏壇」の違い”がこの現象に成って表れたのである。

「皇族賜姓青木氏5家5流」は、「古来宗教ー古代密教ー密教浄土宗」とし、「仏舎」を維持して来てこの「作法」を堅持して来た。
ここに「伝統の差」が維持されて来たのである。

「衆生の意志を繋ぐ場」≠「先祖と会する場」
「仏の墳」≠「仏の家」

しかし、「特別賜姓族秀郷流青木氏」は、960年平安期の発祥とする為に、「持仏堂型仏壇」の時代の作法に従った。主に顕教浄土宗に成った。
しかし、「仏壇」は然ることながら、立場上は「密教浄土宗の概念」を職務としていた「藤原秀郷流青木氏」の地方に定住した「末孫の青木氏」等は、密教概念を堅持した事から、この「仏画の伝統」を護った事が判っている。
その根拠に成ったのは、そこで、「秀郷宗家」が地方に赴任する「青木氏」に対し、「浄土宗」が無い地域が殆どであった事から、秀郷宗家の場合は、その都度、「赴任者」に「仏画」を渡した事が記録されている。
この宗家から渡された「仏画」を以て「本尊」として、仏舎を建て一時的にも「浄土宗の信心」を続けさせる事を考えて渡したのである。
恐らくは、これをしなかった場合は一門の宗派の統一が出来ないと判断した事に依るものと考えられる。一門の「宗派統一」が成され無い事は、”一門の統一は乱れる”と考えたからに過ぎない。
特に、秀郷一門は、「第二の宗家」と呼ばれる「青木氏」を中心に厳しくこの辺を取り締まった氏である。
中でも「皇族賜姓族」と同格として補佐する立場にあった事から、「秀郷流青木氏」は、「密教性概念」を強く求められた事が所以している。
そこで「仏像」であれば、大量に生産して一門に渡す事の困難さや、搬送には嵩張る事や損傷の危険が高かったので、「仏画」を渡したのである。その上で、真宗を仮宗派とする事を認めたのである。
ところが、上記した様に、一方で、「浄土真宗」もこの「仏画」を「本尊」とする事を「宗派概念を判り易く表現できる事の本願」として推し進めていた。
この「両者の考え方」が一致した事で、相互に「協力体制」を採った。
「秀郷流青木氏116氏」の中で、赴任し地元に残った「青木氏」が「浄土真宗」を宗派としている家筋があるのは、この事に依る。
従って、この「一族の青木氏」には、「古い仏画の掛け軸」が遺されている事に成る。
確かに、「仏画」としてそれまで「本尊」として使われていたが、「持仏堂型仏壇」が、上級階層に使わられる様に成った嵯峨期頃(810年頃)に採用される様に成って、「伊勢青木氏」には、「持仏堂型仏壇」の側面に飾られて遺されてたと考えられる。

「ステイタスの絵」
そもそも、”何故、「仏画」に成って行ったのか”その経緯が問題で解明しなければならない。

「皇族伊勢青木氏」は、その後に損傷の激しくなった仏画を保存したとあるが、これは、その後の「復画」である可能性があり、現在の「仏画」も「三度目の復画」であるとの口伝がある。
その口伝から、古来よりの「密教から来る作法」として、代々 ”絵を描く”と云う事は、その”賜姓氏のステイタスでもあった”と伝えられている。
(累代の全ての先祖は、「技術官吏」で「紙屋」でもあった事から、「絵の心得」をステイタスとして会得していた。)
これも、上記の「仏舎の本尊」として「仏画」を用いた事から来ているのである。
むしろ、この「賜姓族の教養」として求められたものが、先ずは「ステイタス」と成り、その「ステイタス」が、結局は「密教の作法」と成り、それが更に ”「仏舎」の「本尊の仏画」へと発展した”と考えられる。
恐らくは、「天武期の詔勅」に依って作った「仏舎」の初期に、先祖がこの「ステイタス」を以って仏画を描いた。
そして、それを「仏舎」に掲げたところ「上級階層」から”絶大な賛美”を受け、それが、率先して「仏舎」を普及させる立場にあった為に、遂には、”周囲はこの「仏画」をも「詔勅の仏舎」の「取り決め」と解釈されたのではないか”と考えている。
そして、それが平安初期には、遂には”密教である事の影響”を強く受けて、「仏像の本尊」より上記した真宗の動きが重なり、「仏画の本尊」へと考え方が発展して行ったと考えられる。
それは、終局は、一寸した青木氏のステイタスを用いた発想が、より”その「密教性」をより表現できる”としたところと一致した事に繋がった事に意味があった事に依る。
況して、「浄土宗系宗派」だけが、この影響が強かったのも、”「賜姓族青木氏」が「密教浄土宗」であった事に依る”と考えていて、故に、「天台宗」と「真言宗」は、「仏舎の仏画」にあまり反応しなかった所以と判断している。
ただ、後発の密教真言宗は、この「仏画」には、特定の反応を示した。
それは、「両界曼荼羅絵」を信者に積極的に与えたのは、この後発の「密教真言宗」であるからだ。
現在も、積極的に「真言宗信者」のみならず「浄土宗信者」にも与えている。
ただ、「天台宗」は、「独特の立場」と「独特の密教性」と、その「世界観」を築いた為に、信者も特定者が多く、結局、”独自で仏画を与えている”と観られるし、”本尊化”は無かったのもこの事に依る。
これも「天台宗密教の作法」であったらしい。

そもそも、何故、「伊勢青木氏」の先祖代々のその「福家」の全ての長は、”絵を描く事”の教養を持っていた事の不思議さがあった。
それは、当初は、広域の伊勢国で、伊勢古代和紙(伊賀和紙)の殖産を地元に求め、税として集め、それを販売していた。
ところが、平安期初期から徐々に殖産を強め、「税の換金」の為に販売強化し、1025年頃には、「余剰品」を正式に「二足の草鞋策」として「本格的な商い」に発展させた。
この事により、「紙」に関わっていたから、”「仏画」を描いていた”と考えていた。
それでは「趣味の範囲」で留まり”代々必ず”と云う事には成らない筈である。
ところが、趣味では無く違ったのである。

平安初期以前の相当以前にも、先祖は絵を描いていた証拠が一族一門の資料から数多く発見された。突き詰めると、「天武期の詔勅(684年)」後の700年から750年までの「絵画の遺品」と、それを物語る遺品の仏具や絵具が発見されたのである。
更に、「青木氏菩提寺」に、消失する以前のものが、遺されていて、菩提寺の青木氏住職を含めて類型的に整理してみると、代々の青木氏に洩れなく、矢張り、「何らかの絵」を相当な能力で描いていた事が判ったのである。
明らかに”「教養」”として、”「ステイタス」”として「絵を描く事」を長や住職は求められていた事を物語り、間違いなく”趣味の領域の事”では無い事が判った。
当時としては、”「絵を描くこと」”が、”最大の賜姓族としてのステイタスを表す手段”であった事が判る。

実は、江戸期に成って、先祖代々が「賜姓族ステイタス」として「絵の才」を会得したのは、”「朝廷画派」であった「土佐派」(大和絵)に師事していた事”による事が判ったのである。
そして、筆者の直前まで「曾祖父」と「祖父」と「父」は、「賜姓族」であった過去からの関係で、続けて「朝廷絵師」の「土佐光信」に師事して、遂には、二人は本職として独立して一世を風靡した。
更には、遡って、調べ上げて判った範囲では、”12代前までの累代の先祖”が、”「巨勢派」の「大和絵」”の「藤原氏朝」等の「朝廷絵師」から代々師事していた事が判った。
この室町期まで「累代の先祖」が、描いた「先祖の絵」が一族一門の中に何らかの形で遺されている。

「土佐派大和絵」
そもそも、上記の師事した師匠は、次ぎの通りである。
A 平安期には、「巨勢派」の「巨勢公望」に師事したとある。
B 鎌倉期には、「巨勢派」の門人「春日基光」に師事したとある。
C 室町期初期には「巨勢派」の「大和絵」”の「朝廷絵師」の「藤原氏朝」等に師事したとある。
D 南北朝時代の頃には、「巨勢派」の「師匠」として、「朝廷絵師」として「藤原行光」に師事し  たとある。
E 江戸期には、「巨勢派」の別派の「土佐派」が「大和絵」を復興させるのに貢献し師事したとあ  る。
F 江戸末期には、大和絵の「土佐光信」に師事したとある。

この「巨勢派」は「大和絵」として「朝廷の絵」を専門に描いた流派である。
この関係から「青木氏」は代々この派に師事した。
「青木氏」等が、この「流派の画家」を後援し、この関係から「朝廷」からも強く支持された。
「大和絵の巨勢派」は、室町時代から200年間を、正式な「朝廷の絵所」(朝廷絵師)を世襲した。しかし、室町時代末期には、一時、朝廷の「絵所領職」を失った。
その理由は、室町幕府衰退と、一時、戦乱期で朝廷も衰退した為に、更には、この流派の後継者が次々と戦乱で死するなどして「大和絵の流派」は全く途絶えたのである。
この後に、この「巨勢派」は、別流派として江戸期に成って、「土佐派」」を創設して、純日本的な「大和絵の伝法」を再び樹立した。
江戸末期には、「末裔の土佐光信」は、宮廷や将軍家と密接な関係を再び持ち、再び最盛期を築いた。
「伊勢青木氏」は、続けてこの「土佐光信」にも、「曾祖父」、「祖父」、「父」と師事した。

我が家の遺品から観れば、一族一門、更には、「信濃青木氏」や「近江青木氏等」や「近江佐々木氏」までを調べれば、又、更には、それらの家や菩提寺までのものも調べれば、その繋がりから、”奈良期までの遺品”に辿り着けると考えられる。
既に、「近江佐々木氏」の研究論文からも読み取れる様に、書画から「賜姓青木氏」の事にもかなり辿り着けると考えられるが、現在は最早難しい。
この事から、”「ステイタス」”であった事は確かであるので、上記の奈良期での「仏画の推論」は上記した様に、「大和絵の巨勢派」に師事していた事が、何よりの証拠であり、当たっていると考えている。
平安期以降からの「仏画の状況」は遺品から充分に説明出来る。
「平安期の状況」と「奈良期の状況」が全く違うと云うシナリオは考え難い。
平安初期の「桓武天皇期」には、確かに状況変化を一時的に起こした。
しかし、「嵯峨天皇期」で、又元の「皇親族」の状態に戻した。
確かに「仏舎」は、「仏壇」に成ったが、逆に上記した様に、「仏画の本尊化」は逆に進んでいるので、一時に低迷はしたが、平安期後にも仏画に関して盛り返したと考えるのが、相当と考えられる。

奈良期のものとして遺されている「二つの仏画」の検証では、次ぎの様な違いが出て来る。
「古さ」  日光の紫外線や風化で材質の劣化レベルでの判断
「絵構図」 密教の初期の為に、筆運が異なる。
「絵具」  岩絵具は中国製の良質で劣化具合が異なる。
「表具」  表具は中国の影響が顕著に出て異なる。
「糊」   表具糊が悪いと茶色く変化して絵は観えなくなる。

専門的に「絵の下地」は「特殊な糊」を使う。絵の保存関係はこの表具の下地に使う「糊」の如何によって決まる。
この「糊」は何年も掛けて醸したものでなくては、絵具の下地になる為に最終絵が剥がれ朽ちて遺す事は出来なくなるのである。又、絵が「茶化」して観えなくなるのである。
専門的には絵構図以外は専門性の判断力が左右するが、他は、材質論に左右する。
平安期直前の絵と室町期後期の絵には、「材質の差」が出る。
以上から遺されている「二つの仏画」は「原図」であろうと観ている。

しかし、確認できるのは、筆者が観て「復画」らしい遺品は、祖父の「2つ目の復画」である。
祖父は35歳までは「伊勢の紙問屋」の後継として働いていたが、「松阪大火」で紙問屋は倒産し、その時の「絵の能力」を以てそれまでの師匠に改めて弟子入りして本職とした事が判っている。
この時に、保存していた傷んだ原画を”「復画した」”と考えられる。
それともう一つ「現在の仏画」と観る復画は、「2つ目の復画」は「父の復画」である。
この違いは、絵具には膠を使うがこれには問題はない。
問題は、「表具」取り分け「表具の糊」による。これで「時代の見分け」が就く。
この見分けの方法には別の方法がある。

「氏の象徴印」
奈良期からの上級階層には、その「氏の印」が定められていた。
「家紋」と成る「氏」を示す象徴文様がこの階層にあった。
殆ど食器の類から牛車の類までにこの象徴文様を記した。
当然に、書類や絵画や書にも、この現在では「実印」に当たる「氏の印」の「烙印」や「落款」があった。
当然に、これらの「仏画」等には、「青木氏」が”書いた、或は、発行した”とする「烙印」や「落款」が押印している事に成る。其れを確認すれば証明できる事に成る。

これは「青木氏」が代々使っていた ”先祖の落款”(「5Cm角の黄玉」で出来ている落款。)は保有していて判っている。
当時の「上級階層の落款」は、”氏を象徴するもの”であるので、その印は、”「黄玉」”と云う超宝石と云われる中国でしか出土が無く、稀に出土されるのでダイヤモンドより遥かに高価な宝石である。
掘り尽くされて現在では稀である。
この「黄玉」を使う仕来りであった。
江戸時代でも、大名でも、超大名か将軍家位の身分の者が持てる「黄玉印」である。
高価で持てる持てないでは無く、持つ事を禁じられていた「黄玉印」であった。
印を押す押さないとは関係なく見せるだけでその立場が判るものであった。
「伊勢青木氏」の「福家」はこれを持っていた。

この事からも、この事を少なくとも物語っている。
「原図」の「落款」は、この「黄玉の落款」を使っている筈であるが、かなり古く成っていて判りにくいが、まず間違いない。
落款から検証すると、”奈良期の先祖の仏画”である事に成る。
この落款で一族一門の家の遺品、守護神神明社や菩提寺の遺品、を調査する際にはこの落款での検証と成った。
この結果、殆ど、「青木氏の落款」を押印していた。
”何らかのシステム”を作って、「福家」に持って来て押印していた事に成る。
この事は、平安初期の「仏画や書」には、上記した事を物語るもので、「上級階層の依頼」に対して、丁寧に対応していた事を示すものである。

平安期前では ”「賜姓族青木氏」”と云うものを証明していた事を示している事。
”福家”が受けた「依頼」に対して、”福家”から手渡すと云う契約を護った事になる事。

数は少ないが、もう一つ落款があった。
この落款は何なのかは何時のものなのかは判らない。

そもそも、筆者の家には、古来から「紙に関わる家」であった事から、昔から全国のあらゆる画家が家に逗留していた事が在って、多くの「画家の絵」が遺されている。
「画家」のみならずあらゆる芸術家や僧侶達が、宿屋の様に無償で長く逗留して居た事が判っている。その様な別宅があった程で、中には、生活苦で長逗留して勉強する芸術家もいて、生活支援しながら画家を育てていたらしい。
江戸時代の有名な美人画の画家が長逗留して居た事も判っている。
その為に、室町期からの凄い量の絵画が遺されている。
中には有名に成った芸術家の若い頃の絵が遺されている。
これらは全て「逗留者」が謝礼として遺して行った絵との事である。
絵は表具されずに原図の侭に一か所に保管されていた。
口伝では、この画家を育てる事は、”大昔からの当たり前の事 ”であった事らしい。
その大昔とは、”何時の時代を指すのか”を本論に大きく関わる事であるので調べると、鎌倉期末期の頃の「僧侶の絵」が多くあった。
「書」に関しては、平安期末期の矢張り有名な「寺の僧侶」の書がある。
何とか奈良期か平安期初期までに到達しないかを調べたが、この頃に成ると画家や書家の氏名が著名な人しか先ず判らない事、専門的に「落款の相関」が判らなく成る事、落款資料が無い事等で確定が難しく成る。
平安期初期は、画家は僧侶や神職が多く、治外法権的な領域に入るので菩提寺か守護神の領域しか判らない。

「支援と技量の習得」
この調査で「奈良期」にまで到達すれば、上記で論じた様に、「上級階層の賛美」で依頼を受けて、「青木氏の神職や住職」が「神格像や仏画」を描いたと判っている。
では、”その絵の技量は何処で習得したのか”と云う事を判明させる必要がある。
「平安期の巨勢派」から「江戸期の土佐派」までの「大和絵の一派」を「朝廷絵師」であった事から「朝廷」に代って「賜姓族」として、「紙問屋」として幅広く「生活支援」をし、且つ、絵に付いても師事していた。
上記した様に、遺された数多くの絵や書、それに伴う一族一門資料や菩提寺守護神の遺された資料から、この事に深く「福家」が関わっていた事は明確に判っている。
恐らくは、この「青木氏の神職住職」等は、この「大和絵の一派」に「福家」と共に師事していた事は間違いはないと考えられる。
「室町期の書画」が「福家」以外にも多く遺されている事から、「平安期前」も同様であったと考えられる。
「福家」の「絵」に関わる「紙問屋」としての「生活支援」のみならず、各地の多くの「青木氏の神職や住職」も「大和絵」を習う事でも「巨勢派の画家」の「生活支援」をしていたと考えられる。
そもそも、鎌倉期以降は、朝廷も彼等を「朝廷絵師」としての ”「絵所領職」”だけでは一派を維持させられる事は絶対に出来なかった筈で、況してや、「朝廷」自らの生活も侭ならなかった時期に、無理であった。
従って、”「大和絵」”を遺す上でも、この立場上、「賜姓族」としても「青木氏」は、「福家と神職住職」共に「生活支援」を積極的にしていた事が判る。
それは、上記で論じた様に、多くの画家を逗留させて「絵の修業」をさせていた事、「紙問屋」でありながら「総合商社」でもあった事から、”大和絵の画家の絵”を上級階層に積極的に斡旋して居た事も判る。
上記した様に、遺された”「画家の表具されない多くの絵」”が保存されている中には、「大和絵師」の絵も多く遺されている。

注釈
(「特別な絵箪笥」があって、その箪笥は「絵箪笥」として専用に何段にも作られ、「油紙」を敷いた「桐の子引出し」があって、それに扉が付いて、それを全体の引き出しで保存する様に成っている。更に、この引き出しの外側に二重に扉があって、外側は黒檀で出来ている。実に密閉度が良く、扉と引き出しを開くとオルガンの様に音がする「絵箪笥」で、代々大事に使われて来たものであることが判る。・・小さい頃はこのオルガンの様に音がするので開いて閉めての繰り返しで音楽を引くようにして遊んでは叱られた思い出がある。・・
実に密閉度が良く、湿度は桐の材質で吸収され調節されて、中のものは全く傷んでいないし、変色も無い。ここには、表具されたものは別の絵箪笥があって入っていない。)

この様な”原図そのものの「専用の絵箪笥」”があると云う事は、「販売目的」では無く、「生活支援」の為に、”引き取った絵”も多くあった事を示すものである。
上記した様に、「逗留画家の謝礼」としての「絵」もこの中に入っていた。
室町期から江戸幕末までには、何としても、「日本古来の大和絵」を絶やさない為にも、「若い画家」を無償で受け入れ育て、世に出し、生活が成り立つ様に、「原図」を買い取り保存し、何時しか「表具」して、「販売斡旋」して、「紙問屋」として「生活支援」していたのである。

上記した様に、これは、上記検証の通り、平安期前には、「賜姓族青木氏」として「初期の朝廷絵師」(「絵所領職」)を務めた事を縁に、「大和絵巨勢派」から、その流れを継承した幕末の「大和絵土佐派」への「青木氏の支援」であった。


その前に青木氏は、平安初期には「桓武天皇」から「皇親族として排除」をうけて30年の衰退期があった事、中期以降は「源平の争い」が起こって受け入れ態勢が出来なかった事から、この期間の絵画や書などは、「先祖の絵」(一族一門と関係族で調べられた)を除いて少なかった。
少なくとも、”賜姓族としての青木氏の経済力”は、「二足の草鞋策」を営みだした950年頃前後以降の事に成る筈で、その意味で、鎌倉期から再び出て来るのは妥当であろう。
鎌倉期から室町期は、戦乱期でありながらも、徐々に「紙文化」と呼ばれる文化が進み、遂には、有名な「室町文化」が起こって、これを機に、再び「巨万の富」を得たので、ここからは書画骨董は多く成っているのは納得出来る。

筆者は、平安期前は、福井の逃避地で賜姓族を保護する事に精一杯で余裕は無く、”画家などを逗留させる”と云う事は、未だ客人的な範囲に留まり少なかったと考える。
室町期の様に「別宅」を構えて支援する体制までには至っていなかった。
その「組織的な態勢」が、「賜姓青木氏」には、上記した様に「巨勢派」に対する「支援体制」に総力を注ぎ、未だ「全般的な支援体制」は出来ていなかったと考えられる。
それよりも、「5家5流賜姓族」の菩提寺や、全国の「神明社の守護神」で、多くの「青木氏住職」の「仏画」、多くの「青木氏の神職」の「神格像画」が主に描かれた事と考える。
筆者の家も「賜姓族の役」からの「ステイタス」として描いていた事は、当然ではあるが、これだけでは「仏画の本尊化」は、センセーションの的には成ったにしても、起こせなかったと考えられる。

「上級階層の賛美」が起こっても、”では誰に描いてもらうか”は問題と成る。
「賜姓族の青木氏」の「福家の役」は「上層階級の賛美」だけで良かった筈である。
「賜姓族の青木氏」の「福家の長」が「頼み」に応じて全てを書くと云う事には成らないだろう。

そもそも、その当時は、古代仏教の伝来時の「密教」であった事から、未だ描ける者は、阿多倍の渡来人職能集団の「舎人部」か「史部」以外には少ない筈で、「密教画」として知識を持ち、それを正しく描ける者は、未だこの時期には無い筈である。
「賜姓族青木氏」の「職能集団の民部(かきべ)・曲部(まがり部)」の中に、「青木部」と称する仏画を描く「絵師の部集団」を構築しようとして、先ずは、「密教の知識」を持つ「青木氏の神職住職」が、既に持つ「書の才」をベースに、その「仏画の能力」を付させようとした。
その為には、その基礎力を「巨勢派」に求め、上記の様に、「大和絵の巨勢派」を引き出して育成にも総力を注いでいた事に成る。
「神職や住職の描く仏画」は、最終的には、これらの「青木部の絵師」が指示に従い分担作業で書き上げたと観ている。
何故ならば、「青木氏の守護神の神明社」でも論じたが、神明社や菩提寺の建立と共にここに安置する像もこれらの「青木部」が行っていた。
「天武天皇の詔勅」の「仏舎の建立」では、筆者は問題は無かったと観ている。
何故ならば、「青木部」の「大舎人部」(詔勅の仏舎等を建築する職能集団)がその技量を充分に持ち得ていた。
従って、「神職や住職の者」が、先ず、「青木氏の密教」のその「仏画の技量」を獲得して、「青木部」にも「仏画の作成能力」も整えようと働いた筈である。

「賜姓青木氏」の「職能集団」を総称して、氏名を採って「青木部」と称した。
この「仏画」は、単なる仏画では無い。「青木氏の密教の仏画」である。
その「青木氏の密教」は、「和魂荒魂の古来宗教概念」と「古代伝来仏教」との「神仏習合の密教」である。
従って、根本的にこの「青木氏の密教概念」と「青木氏の守護神と菩提寺の様な組織」と「青木部を有する職能集団」を持たない他氏では到底描けるものではそもそも無かった。

そもそも、上記した様に、「密教」は何事にも初代は「青木氏」なのであるから、「青木氏」に頼るしか無かった筈である。
又、その「国策氏」と「賜姓族」と云う立場もあり、他に進んで受ける氏は無かった事に成る。
周囲の上級階層もこの事に付いては成す術がない”と云った処であったと観られる。
筆者は、周囲の上級階層は、「天武天皇の詔勅」の「仏舎」等に関する「勅令」にも、「勅令」が出たものの充分に対応出来なかったと観ている。
だとすると、頼まれたものを断る事は立場上、出来なかったと成れば、況して、金銭に糸目をつけない力だけは持っていた「上級階層」(下記)である。

当時の上級階層の氏族に付いて書いた記録がある。
それには、次ぎの様に書かれている。要約する。
・・・殆どの「氏族」は、多数の「部民」を「隷属民」として支配していた。・・この「部民」は農村に家を成し、農耕の傍ら主家の氏族の要求に応じて、世襲的に同一の産業的労務やその他の労働に従事させた。・・「氏族」とは別に住み、血縁関係は一切無く、部民間にも血縁関係は持たなかった。
”個々に浮浪する民”を集めて編成したものが殆どであった。
・・「農耕」にのみ従事させる隷民であった。
(朝廷の直属の農民以外は原則私有民は認めていなかった)
その「氏族の氏名」を「部の名称」とする「特技の技能」を持った「部組織」を持つ「氏族」は少なかった。・・・その殆どは政策上、「特定の氏族」を除き、主に朝廷に所属させた。・・
と記録されている。

以上の記録の通り、「上級階層」は、「青木氏」の様に「青木部」を持つ事を許されていなかった事に成る。この「特定の氏族」とは、「三つの発祥源」と「国策氏」の立場を持つ「5家5流の賜姓青木氏」に許された「特権の事」であって、後は、”朝廷の管轄下に置かれていた”事を示す。

依って、「天武天皇の詔勅」が出た以上は、これを断れば反発を招くし、「密教の詔勅」の「仏舎の翻意」は果たせない事に成る。
そもそも、その「詔勅の案件」は「施基皇子」が奏上したものである。
奏上する以上は責任を果たさねば成らなくなる。

「賜姓族青木氏」には、残す手立ては、一族の青木氏の神職(500社)と住職(15寺)に指示する事に成った筈であり、可成り、「仏画構築」に急いでいたと考えられる。
この能力を以てすれば十分に対応できたと考えられる。しかし、ここで問題が生まれた。
それは、元々、「神職 住職」は「書」への高い技量を持っていた。
しかし、「絵画への技量」は無い。
そこで、「賜姓族の青木氏」は、その「絵画の技量の基礎」を会得しなければならない。
「仏画」と成れば、「中国画」が主体を占めていたが、「青木氏の密教仏画」を表現すると成れば、古来からあった”「大和絵」”から”「青木氏の密教仏画」”を新たに創造する必要性に迫られた事に成る。



以下は伝統 8に続く


  [No.325] Re:「青木氏の伝統 8」−「大和絵と絵所領職と朝廷絵師の経緯」
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/11/17(Mon) 10:47:49

>前回の末尾

>「賜姓族青木氏」には、残す手立ては、一族の青木氏の神職(500社)と住職(15寺)に指示する事に成った筈であり、可成り、「仏画構築」に急いでいたと考えられる。
>この能力を以てすれば十分に対応できたと考えられる。しかし、ここで問題が生まれた。
>それは、元々、「神職 住職」は「書」への高い技量を持っていた。
>しかし、「絵画への技量」は無い。
>そこで、「賜姓族の青木氏」は、その「絵画の技量の基礎」を会得しなければならない。
>「仏画」と成れば、「中国画」が主体を占めていたが、「青木氏の密教仏画」を表現すると成れば、古来からあった”「大和絵」”から”「青木氏の密教仏画」”を新たに創造する必要性に迫られた事に成る。


伝統8


「大和絵と絵所領職と朝廷絵師の経緯」
この事に付いて次ぎの様な事があった。
ここで、先に以下の事を事前に知っておく必要がある。
そこで、奈良期の朝廷の「絵所領職」(絵等を管理する役目)を務めていた「巨勢氏」が、その役目からこの「大和絵」の伝統を「傍職」として細々と個人的に継承していた。
「賜姓族の青木氏」は、この「絵所領職」の「巨勢氏」に援助して、「大和絵の絵を描いていた者」を招いて、「青木氏の神職住職」の優れた才のある者に師事させたのである。
そもそも、この「巨勢氏」(こせ)は、「大和朝廷」の元の飛鳥時代の「大和政権」を構成する「五大豪族」の一つであった。
「ヤマト政権」から「大和朝廷」に成長したことから、「蘇我氏」が勢力を拡大させ、「物部氏」と共に「前政権の豪族」は衰退し、蘇我氏に依って掃討された。
この衰退した「巨勢氏の末裔」が、「大和朝廷の絵所領職」を務めていた。
この衰退した「巨勢氏」(紀州北部東域に勢力圏)を「賜姓族の青木氏」(施基皇子から白壁王の光仁天皇まで)は支援して「朝廷絵師」と云う形にして引き揚げた。
そして、「絵所領職」と「朝廷絵師」としての「役付け」を朝廷内に構築し、「大和絵」を「国の絵技法」として確立させるように支援した。
遂に、その努力は実り、父の意向を鑑み「光仁天皇」は、「絵所領職」の中に、正式に「朝廷絵師」として「朝廷の支持」を取り付けたのである。
これで、結局、「大和絵」と云う技法は確立し遺されるに至ったのである。
この「大和絵を興した巨勢氏」の初代は上記した様に「巨勢公望」であった。

この様な「青木氏の神職住職」の技量獲得の背景から、この「大和絵」は、「賜姓族青木氏」の「仏画」の中に引き継がれて行って、「大和絵の裾野」を広めたのである。
それは、その「大和絵」から発展した「神仏習合」の「神格像」や「密教仏画」であるのであるから、尚更、「三つの発祥源」で「密教青木氏」の「氏寺社」と成れば文句の附け様が無かった筈である。
其処の神社や寺で、その”「宗教画」のお祓い”を受けての事と成れば仏画の依頼側は尚更に充分であった筈である。
つまり、頼むとしても”他に頼めないところまでの環境に至っていた”と観られる。
これで「青木氏の福家」としては、目的通りの「賜姓族」、況や、「国策氏」の「役目」を果たしている事に成る。
特段で云えば、その状況は、恐らくは”描くに描いた”と云う表現であった筈である。
彼らに取っても、「宗教概念」を心を込めて描くことで、”「本尊」”として扱われるには全く異論は無かった筈で、この上ない幸せであったであろう。
当に、”役目の冥利に尽きる”であったと考えられる。
むしろ「本道」を忘れる程に積極的に取り組んだと思われる。
一部の資料に、その様な手紙の表現が遺っているが、むしろ、この文面から考察するに、むしろ”「本道」=「仏画」”と考えていたと思われる。

(上記の事柄は、守護神や菩提寺に遺されているあらゆる資料からのもので、この推論で調査した結果の判断である。)

「賜姓青木氏と賜姓源氏の仏画の違い」
ここで「賜姓族青木氏」の上記する「仏画の現象」であったが、かっと云って、特記するべき点は、「賜姓源氏」にはこの現象は起こっていないのである。
この現象が起こっていた奈良期末期の後は、丁度、この時、「嵯峨期の詔勅」に依って、「青木氏の賜姓」は「賜姓源氏」と変名と成って、「青木氏」は皇族出身者が下族する際に名乗る「氏名」と成った。
この「賜姓源氏」の初代の「嵯峨源氏」の「源の融」が、”天上を表す平等院と持仏堂”を作り、それを小型にしたものを室内の祭祀殿として「持仏堂型仏壇」を作り採用した。
従って、時代が異なっている為に、「賜姓源氏」は、「賜姓青木氏」が継承していた「和魂荒魂」が持つ「宗教概念」と「密教性」は持っていない。
つまり、同じ「賜姓族の青木氏」と「賜姓族の源氏」は、根本的に「その立場」と「その氏の概念」に大きな”「氏差」”があったのである。
その証拠として、上記した事の様に、「嵯峨天皇」は、源氏には、「賜姓五役」としての「密教所作」等は元より付加しなかった為に「賜姓源氏」には全くない事に成る。
(むしろ詔勅の文面を考察すると、”「賜姓五役の役」”を否定している。)
つまり、上記で論じた下記の数式論は、全く成立していない事に成る。
この事、つまり,”「密教仏画」”と云う点では、「賜姓族青木氏」と「賜姓族源氏」との比較に於いて、最も、”歴史論”としては重要な点である。
依って、「賜姓源氏」には、上記する”「密教仏画」”と云う概念が無く、その代わり彼らには「八幡大菩薩」の「書」と「菩薩像」に限定していた。
つまり、”「賜姓青木氏の如来」”に対して、”「賜姓源氏の菩薩」”と云う仕訳に成るだろう。
それは次ぎの数式論でもあきらかである。
この数式論が「賜姓源氏」には成り立たなかったからである。

青木氏の「守護神の密教数式論」
A 「和魂の和神」=「大日如来坐像」+「大蛙の仏神の使い」
B 「荒魂の荒神」=「毘沙門天像」+「三宝荒神」
C 「仏教の守護神」+「神道の守護神」=「青木氏の守護神」


「釈迦立像」
そこで、先ず、この「二つの仏画」の前に、上記の事を理解を深める為に「釈迦立像」に付いて論じる。
上記した様に、”「仏舎の本尊」”として使われていたこの「青木氏の釈迦立像」が、何かの上に載っていたのではないかと観られる。
「仏教伝来」の早いこの時期の歴史的に遺されている「仏像」の大抵は、朽ち無い様にする為の「環境設備」が無かった為に、多くは「楠の巨木」が使われている。
(楠にはナフタールと云う成分が含んでいて「除虫」や「酸化」から来る「風化」を防げる木質を持っている。)
「大日如来坐像」の「お仏像様」の右横間に安置していた「本尊の像」としてもマッチングしていて納得出来る。

「仏舎」の中央に安置していたこの「釈迦立像」には「台座」があって、その「台座」が乗っている「台」が上記した”「天武期の詔勅」”で定められていた事は上記の詔勅文でも判る。
つまり、「仏舎」の床に、この「釈迦立像」とその「台座」と共に直に置いていた事では無い事が判る。
そうするとその内容から想像できるのは、床の上に、”宗教的な理念の基”に、それを形採った広い台の様なものがあった事に成る。
先ずは、その”理念とは、何なのか”の研究が必要である。
つまり、「仏教と仏像の関係」である。
その結果、「仏像」を作る際には、次の理念が生かされねばならない事が判る。
つまり、「仏像」とは、そもそも「天上に上った釈迦やその弟子たちの”神格化した偶像”」である。
その為には、この”「天上」”を表す表現が必要であって、その「天上表現」の一つには「雲海の表現」がある。
更には、「大蓮の花の上」、或は、「平等院の様な社殿景観」等が用いられる事が判る。
従って、上記した様に、”何かの様な形をした台座”に金糸絹布が被せられて据えられていた「釈迦立像」であった事が論じた。
この”「台座」”は仏教的意味を持ったものである事だけは、仏壇の他の物の形から、「仏具」である事が判る。
家の中に相当大きなものとして、保管されている筈であったが、何時も生活の中で接して居乍ら筆者はこの事に付いて暫く判らなかった。
ところが、ある時、”特異なテーブル”の代わりに敷布を掛けて使われていたものを調べると、実はこのものがこの”「台座」”そのものであることに気が付いたのである。
筆者から観れば、無造作に置かれているこの台が、「歴史の知識」が未だ未熟で在った事からそんな物であるとは考えも付かなかった。
(父親はそんな環境の中で育っていた事からこの台座そのものである事に左程の意識は無かった様であったが、後で確認するとお仏像様のものである事は知って居た事は知っていた。)
それは、ほぼ畳一条程度の大きさで、厚みが15Cm程度で、中はそっくりくり抜かれていて、中は彫刻されている。
結果として、厚みは4Cm程度で、「台縁」は雲の様に波打って形採られている。
その彫刻は、明らかに「蓮の葉と花」を形採ったもので、明らかに「宗教性の要件」に嵌る。
その彫刻のある側の裏側は、前面に平に削られて仕上げられている。
材質は「一枚板の黒檀」である。相当な価値を持つものである。
見るからに古く、何かの宗教的な三昧仏具である事は気が付けば理解できる。
普通の家では、先ず無いし、この様な使い方はしていないのではないかと思うものである。
余りに無造作過ぎる位であって、何でこの「台座」が「お仏像様」に使われていなかったのかは、父親の言い分で判った。
明治35年に伊勢松阪大火で消失した際に、このお仏像様を何とか助け出したが、この際に、”この「台座の影響」で災いが一部にあった”との事で、その後には使われなかったらしい。
(この災いは何であるかを論じるのは別にする。)
しかし、先ずこれだけの大きさの「黒檀の樹」は先ずは無い。大変珍しい代物である。
これだけの「黒檀」そのものが「歴史的遺産」であろう。奈良期の青木氏の位置関係が良く判る代物である。
また、その「黒檀」のみならず、「彫刻の粋」も歴史的な遺産であろう。
彫刻面の真ん中は「蓮の一枚葉」で葉の部分は40Cm角で平らで立体的に彫刻されているものである。
何かの宗教的な意味を込めて彫刻され、蓮は宗教的な花で仏教的な何かをここに載せる様に彫刻されたものと観られる。
その中央の「蓮の葉」の両側には又やや小さめの「蓮の葉」の平な部分がある。
左右対称に彫刻されていてその前後左右の周囲は「蓮の花」で形採られている。
この彫刻のある窪んだ部分は表に成るのであろう。
その台そのものの縁が、「蓮の葉」の立体性を持たすように細かく彫刻されている。
わざわざ、この様な彫刻を施す事は、”テーブル”には明らかに不適切である。
何かの目的で彫刻したと思われる台座である。
(実はこの台座と全く同じ形をした1/4程度の「黒檀の台座」が見つかった。「副台座」であろう。)
これが、本台は「内仏舎」の床部に置く台で、ここに上記した「釈迦立像」とその「台座」を本尊として中央部に安置した事は間違いはないと考えられる。
更に、問題は、お仏像様の大きさから中央に安置したとして大きすぎるが、この両方のスペースは何なのかと成る。
何か置いていた事に成る。
そこで、調べると次ぎの様に成る。

実は奈良期と平安期の「釈迦三尊像」には次ぎの様な仏説の決まりがあった。

奈良時代の仏舎形式には、右に「薬王菩薩」と左に「薬上菩薩」
平安時代の仏壇形式には、右に「文殊菩薩」と左に「普賢菩薩」

以上の「菩薩像」の配置が一般的と成り、当然に中央に「釈迦如来立像」と成る。
ところが中央の「釈迦立像」は、上記した様に筆者の家には存在するが、「脇侍」の何れも全く見当たらないが、松阪大火で消失したのかも知れない。
処で、この「釈迦三尊像の決まり」には、”「自由性」”が認められていて、その証拠に「他の宗派」では次ぎの様に成る。

「梵天」と「帝釈天」、
「金剛手菩薩」と「蓮華手菩薩」

などの例がある。

この「宗派の概念」に依って、”「脇侍」”は、その概念に沿った像にする事には問題が無い事が判る。
むしろ、”その概念の仏説の表現する手段”として認められた「決まり」である事が判った。
要するに、「密教」である事なのだ。つまり、”その氏の考える様に決められる事”であった。
「青木氏の古代密教仏教」の概念に従った「脇侍像」を安置する事が「正しい決まり」である事に成る。
つまり、その左右に安置する「脇侍の仏像」は、奈良時代であるので、一般的には「薬王菩薩」と「薬上菩薩」とは成るが、”仏像”そのものより、それを物語るものが祭祀されている事が重要である。
依って、”その何かが遺されていないか”を調べる結果となった。
結果は、”全く何も無い”となった。つまり、当然に無い筈であった。
そもそも、”「薬王菩薩」「薬上菩薩」”は、一般的仏教の”「後期の概念」”である。
この事を前提としているから見つからないのかも知れない。

「伊勢青木氏」には、そもそも、この「密教」とは別に、「和魂荒魂の古来宗教」と「古代仏教の神仏習合の概念」の中に成り立っている。
つまり、「大日如来坐像信仰」と「毘沙門天像信仰」と「三宝荒神信仰」の”「習合概念」”の中にあった。
”上記の配置の「一般概念」と、「青木氏の密教の宗教概念」とには大きな相違があったのではないか”と云う発想が生まれた。

・ 「青木氏の神仏習合概念」
「大日如来坐像信仰」
「毘沙門天像信仰」
「三宝荒神信仰」

「釈迦三尊像」と云えば、上記に論じた配置に成る。
しかし、「時代と宗派」の要素で、この「配置」が変化して、その「概念の表現」で違っている事は判っている。
とすれば、「梵天と帝釈天」の様に、「三仏格」の「如来像」、「菩薩像」に限らず、「王像」も、概念の表現では問題ない事に成る。
「賜姓族の青木氏」は、”「毘沙門天像信仰」と「三宝荒神信仰」の「習合概念」の中にあった。”のであるから、そこで、この「神仏習合概念の表現」を採っても問題は無い筈である。
むしろ、筆者は、この方が、「賜姓青木氏」には適切ではないかと考える。
何せ、「古代仏教」、「初期の詔勅に依る仏舎」、「初期の青木氏密教」としてみれば、「仏教の安定期の慣習概念」では、むしろ、「時代性と初期概念」の点から逆に矛盾が出る事に成る。

そこで、そうなると、「内仏舎の配置」として、中央には「釈迦立像」が、右に「毘沙門天像」、左に「三宝荒神像」を配置していた事に成る。
(本来の「大日如来坐像」は「青木氏の菩提寺」にあった。)
何れも”「密教」”の”「守護神」”であって、「青木氏」にふさわしい「脇侍像」と成る。
本来は「大日如来坐像」を中央にあって、右に「毘沙門天像」、左に「三宝荒神像」の脇侍であった筈で、一時「釈迦立像」と成っていたのは、「大日如来坐像」の賜物の「お仏像様]と一族一門の象徴とする為に「青木氏の菩提寺」に安置祭祀していた為である。

(この「釈迦立像」は、上記した主台座に対して二つ目の「副台座」の上に安置していたと考えられる。
「釈迦立像の存在」と「副台座の存在」はこれで解ける。)

しかし、「薬王菩薩」「薬上菩薩」の「脇侍像」となると、「顕教の定義」による「宇宙仏の盧舎那仏」から「釈迦」を仲介する構図と成り、「密教の教義」に矛盾する。
「青木氏の密教」のみならず「密教」そのものは、「宇宙仏の大日如来仏」から「直接の構図」を採るものであって、「釈迦」を仲介しない。
この「薬王菩薩」「薬上菩薩」の「脇侍像」は「釈迦の弟子」であり、「顕教」による構図である。

「三宝荒神像」は南北の位置に対で配置していた”北側の荒神像”と云う事に成る。
この”「北側の荒神像」”は、「主神像」と云われていたもので、30Cm程度の大きさで「毘沙門天像」によく似ている。
何れも「造像の構え」の「容像」と「三昧耶形」もが違うが、「密教像」である。

左に「三宝荒神像」を配置していた。
右に「毘沙門天像」を配置していた。
中央に「釈迦立像」を配置していた(顕教の定義 矛盾)
と考えれば納得出来る。

(但し、「密教の定義」では、本来は保有する「大日如来座像」でなければならない。)

”南側の荒神像”は「小さい像」で、「仏舎」の時は、本来は、北側に配置していたものである。、
”明治期の松坂の火事”で、長い間の”「密教の仏舎」”は止めて、”「顕教の持仏堂型仏壇」”に替えた。
しかし、何とか”「密教形式」の「浄土宗仏壇」”とする為に、”中央に「釈迦立像」”を配置する事に変えた。
この時、「毘沙門天像」たけは消失し、結局は、その後、「三宝荒神像」(家の南北側隅に)は別々に祭祀した。
以上の「祭祀の構え」と成っていたと考えられる。

室町期末期から菩提寺より引き揚げた「大日如来座像」は、松坂大火までは居宅の「仏間の右側」に、「仏舎」は「仏間の右側」に安置したと考えられる。
本来は、「大日如来座像」は「密教の決まり」からすると、「仏舎」の中央に安置されていた筈の像であった事に成る。
それが、明治35年の大火消失までは、「顕教の決まり」と成る「釈迦立像」が、「密教の決まり」に反して、「仏舎の本尊」として中央に安置されていた事に成る。

(「大日如来座像」は室町期末期まで「青木氏菩提寺」に安置祭祀されていた。)

そこで、この「密教の決まり」の矛盾は、”何故起こったのか”である。
「大日如来座像」と「毘沙門天像」は、「天智天皇から賜物」(647年)であることから、大化期の当初は、居宅の「仏間」(647年)に安置し、その後、「天武期の詔勅」(684年)に従って「仏舎」」(684年)に安置し、少し後の「菩提寺建立」(716年頃)の時に「密教菩提寺の本尊と脇侍像」として治めた。
その後の「室町期の末期の混乱期:伊勢攻め」(1567年)まで、約850年間程度を菩提寺に祭祀し続けた事に成る。
この後、「二つの密教像」は、一時的に和歌山の新宮に退避、 11年後の1588年に松阪の居宅に戻る。(家人は1年間退避)

参考
(秀吉の命で「蒲生氏郷」は1588年には、飯高郡矢川庄四五百森に松坂城を築城。松阪の武士には本領安堵をし、商人を強制的に移住させて、城を中心に屋敷町と商業町の城下町を作り上げた。)

要するに、次ぎの様に成る。
・ 室町期末期以前は、居宅の「仏舎」は、顕教の「釈迦立像」を中央に配置し、「三宝荒神像」の一対を左右に配置していた事に成る。
その「顕教の矛盾」を消すために「二つの仏画」を掲げたものと成る。

・ 室町期末期以降は、居宅の仏間の右の「仏舎」には次ぎの形で治められていた。
(「信長の伊勢攻め三乱」を避ける為に、一時新宮に避難し、その後の「本領安堵」に依って「密教菩提寺の本尊と脇侍像」が居宅に帰って来た。)
「左の仏舎」には、「大日如来座像」と「毘沙門天像」と「大蛙像」の「密教像」
「右の仏舎」には、「釈迦立像」と一対の「三宝荒神像」と「二つの仏画」の「顕教像」
以上に見立てて配置していた事に成る。
(この状態を室町期末期から明治35年まで維持保全した。)

これで、発見された「黒檀の副台座」の上に、中央に遺された「釈迦如来立像」を、左右に「三宝荒神像」、仏間の左には、「主台座」には「大日如来座像」と「毘沙門天像」、その「毘沙門天像」と台座の上に、「大蛙像」を配置して居た事に成る。
これが明治35年まで、「仏間」の「青木氏の内仏舎」の中に治められていた事に成る。

そして、明治35年以降から大正4年までは、「持仏堂型仏壇」を「浄土宗仏壇」にして、中央に「釈迦立像」を本尊として備えた形であった事に成る。
合わせて「二つの密教仏画」を「副本尊」として掲げた形であった。

(現在は「大日如来座像」は特定の保管所で祭祀している。又、「釈迦立像」と「三宝荒神像」とその他の「三昧耶形の仏具一切」は当家に保管されている。)

ところで、何故、ばらばらにされていたのか、疑問ではあった。
ここで”「伝統」”と云うものを理解する上で、後世に対して敢えてこの事を記録して置く。

松阪大火(失火元)後、それなりに復興を成し遂げたにも関わらず元に戻していない。
これは云うまでもなく”「明治35年の松阪の大火」”とその「消失事件」による後遺症と思われる。
(「持仏堂型仏壇」:「浄土宗仏壇」は、明治35年以後に据えられた。)
つまり、どういう事かと云えば、伝統の”「遺品」”に対して、この”消失した事”の汚名を後世に遺さない為に、”古くなった事”を理由にして通すつもりであった。
しかし、「像の消失遺品」を捨てる事に忍びない為に、「三昧耶形の密教仏具」として敢えて飾る事を考えたのであろう。
況して、この時、「密教の態」を成していない「顕教の仏壇」でもあった事から、”尚更に解体した”と観られる。
最早、「密教」は、既に江戸初期には「家康の督励」で終わり、大正末期までの320年過ぎた時代になっても、「毘沙門天像の密教」に意識し、未だ「三昧耶形の密教仏具」等の「密教の伝統継承」に拘っていたかが良く判る。

(密教に”拘っている事”は、当時としては、”特異な身分”の中にあった事から、簡単に”「拘り=伝統」の関係”から、その習慣から抜け出す事は出来ない事は理解できる。
伝統とはその様なものと理解する。)

”「顕教の仏壇」”と、「伝統」で遺された”「釈迦立像」”には、青木氏は、又”違った伝統意識”を持っていた事に成る。
それが、つまり、「迎え行燈の密教作法」の様な「伝統行事」に成って遺されて来たものと考えられる。
「顕教の作法」の中には、この「迎え行燈の密教作法」は正式には無い。
既に、「顕教仏壇」に切り替わって居ながらも「仏教作法」は、矢張り”、「密教作法」”の侭であったのである。
これには「青木氏1367年間の歴史」を物語る”「大日如来座像」が現存する”と云う事が、「伝統」の意識の中に大きく左右していたのであろう。
それだけに「密教の伝統」の強い意識の中での消失であった。
この「精神的な後遺症」が遺品関係をばらばらにして、何とか一部の「密教の伝統」を抑え込んでいたのである。
「顕教」で行くのか、「密教」で行くのかの”狭間”に立たされていたのであろう。
先ず考えられる事は氏家制度の中で、一般の「本家ー分家の仕来り」を採らない「青木氏の仕来り」(福家方式)から、一族四家一門からの異論もあってこの様な結果と成ったのではないか。
代々維持して来た「密教の仏舎形式」の中で、江戸初期の「浄土宗顕教令」も在って、取り分け”徳川氏との付き合い”もあって、この様に成ったのであろう。

念の為に、”「伝統」”に大きく関わって来る事として、その”「付き合い」”とは、「伊勢青木氏の菩提寺」は、「紀州徳川氏の菩提寺」に成り、「寺跡」も「寺名」も同じくして「紀州徳川氏」に依って維持されて継承された。
そこに「青木氏の菩提」も合祀している関係からも「顕教」への切り替えは、立場上は少なくとも「必要条件」であった筈である。
この”「付き合い」”は、記録によると、1600年頃の関ヶ原の決戦準備で名古屋城で家康が秀忠を待つ傍ら、周囲の豪族に「調略」を進めていた事からの「付き合い」であり、大正14年まで親交があった。
故に、「青木氏の伝統」を護らねばならない事から、多くの「密教作法」だけは、密かに継承されて来ているのである。

注釈
とまあ、この柵の中で、兎も角も”余り目立たない様にした”のであろう。
結果としては、「古来の遺品」が遺っている事であるので先ずは良かった事に成るが、当に”「伝統」の維持”とは、その当時の当事者に成ってみなければその継承の意識は判りにくいものである。
この様に本論で論じてはいるが、現在から観れば、”「青木氏の伝統」”を理解するのもなかなか難しいものと成ろう。
この様な背景があって「青木氏の伝統」には、「伝統の継承」<「伝統への無理解」=時代の変化」の関係式が働いて、何時しか消える宿命にある。
故に、”「史実」”と云う事に必要以上に拘らず、先ずは、”未来の青木氏のロマン”として、筆者は判る範囲の末端の事まで必死に書き遺している。
幕末から徐々に起こり始め、一時、明治維新期の直ぐ後の5年から15年頃には、「地租改正」や「廃仏毀釈」などの「社会の反動」で、”家が「密教」”である事に気兼ねする時期が続いた。
「身分への庶民の反動の表れ」として”「密教」”がそれを指し示す事に成っていた。
この頃、「地主」から小作人への「土地の下渡令」が起こり、地主と小作人との「摩擦騒動」が各地で起こったし、「廃仏」で仏教の最たる信者としての「青木氏」の様な「密教の家」は肩身が狭かった。
(青木氏は各地では名主や庄屋や豪農や郷氏と成っていた為に極めて地主が多かった。この為に「密教」である事も含めて、「土地の下渡令」では厳しい対応が様られた。)
この様に、”社会に毛嫌われた時期”が続き、昭和の初期頃まで庶民の中に渦巻いていた時期があった。
この事に依って「青木氏」の一部には、それまで維持して来た「密教の伝統」を敢えて「顕教」に変えた家が多かったのである。
下手をすると、”打ちこわし”などもあったとされる事件もあって、”社会からいじられてはみ出される ”事より、苦しみながらも”「伝統」を捨てる事”を選んだのである。
しかし、この時、明治6年から9年まで続いた「地租改正]の「農民一揆」が起こった。
中でも「青木氏」の多い「伊勢」、「愛知」、「岐阜」、「茨木]、「栃木」では、一揆は特段に大きく、且つ、多い地域であった。
これには、”特別な意味”が在った。
「青木氏」が陰でこの「農民一揆」を経済的に援護をしていた事は記録からも判っており、上記の環境から考えると”不思議な事”である。
そもそも、”「一揆」に類するもの”とは言え、長期に続けてその「主張」を聞かせるには、単なるただの「主張」だけでは長くは続かず、殆ど潰されて失敗に終わる。
しかし、この一揆の”経済的裏付け”と「主張」を実現させる交渉力、つまり、政治力が必要である。
がなり立てるだけでは主張は成立しない。

この長期に続き全国的に広がった「維新期の一揆」は、この背景が陰にあった。
この「背景」が、「青木氏」であった。特に関西域が大きく、更に「青木氏の存在地域」に起こり、且つ、長く続いた事が判っている。
「豪商としての二足の草鞋の商い」と、「郷氏としての政治力」の二つが備わって居た事がこの傾向を生んだと思われる。
他の氏が背景に成っても、この「二つの条件」が両方に備わっている事は先ずは無い。多くは政治力に偏る。
何故、この様な態度に全国の「青木氏」は出たのであろう。
「青木氏」には、他の氏と全く異なり、「密教の伝統」を維持している限り、上記する「伝統への危険性」と「氏の社会的存立の危険性」はあった筈である。
ところが、他の氏は、配下に「武家の家臣団]だけを持っていたに過ぎない。
しかし、「青木氏」には「家臣団」より、むしろ、多く「民の職能集団」を配下に持っていた。
その「職能集団の裾野」は、「和紙」に依る「殖産産業」を支えていた「農民」を含めて、「庶民の末端」までの配下で支えられていた。
その例として挙げると、「青木氏の守護神ー神明社の論文」で論じたが、「伊勢青木氏」の場合は、伊勢松坂は元より隣の玉城村の全域(現在の玉城市)が、青木氏の「殖産農民」と「職能集団」の配下と、その裾野の庶民の居住地として提供され、且つ、その「蔵群]であった事が当時を生きた祖父からの口伝と記録で判っている。
つまり、この事から、切っても切れない環境下で、且つ、「一蓮托生の柵関係」の中にあった。
この関係は、今、始まったものでは無い。ゆうまでも無く「悠久の歴史」の中にあった。他氏とはこの点でも異なる点である。
この”「配下組織」”は、この関係から大なり小なり、祭祀などで”「密教の伝統」”の影響を強く受けていた筈である。
この事から、恐らくは、「伝統の密教」で反動されながらも、庶民や農民とは「対立関係」に持ち込まず、「共存関係」に持ち込んで、”地主としての存立”を謀ったと観られる。
当然にも「配下組織」の態勢も「対立関係」に持ち込みたくは無かった筈である。
むしろ、青木氏関連者に執っては、「悠久の歴史を持つ共存関係」を続けて図る事以外に、「庶民」を主役で中心とする「維新の社会」に成ったとは云え、「他の選択肢」は無かった筈である。
(ここで論じている事は、「他氏」には全く観られない環境で、日本全国広しと云えども、「青木氏」のみの「独特の環境」にあり、特筆すべき事なのである。)
一部には、「土地の下渡令」に対する「政府への反動」と、「大地主」としての「米の税率」(3%石高から通貨換算)に対する反対もあった事は頷けるが、”経済的な援護まではするか”は疑問である。
それは解決後の ”維新政府からの軋轢のリスク”の方が遥かに大きい事から観れば、矢張り、「共存関係」を重視したとも思える。
(既に、維新改革で江戸期前の「不入不倫の権」は解消されている事から軋轢は当然の事としてあった。)
特に、「伊勢の一揆」は「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の援護で、全国のこの「地租一揆」では、最大の規模で政治性を帯びていた事であった。
結局、長く続いた激しい一揆は、「維新政府」は妥協して3%から2.5%に下げて妥協して概ね解決した。
この様に 青木氏が裏で”政府と交渉力”を持っていた事から、全国各地の「青木氏の背後の勢力」の政治力、交渉力が働いた事に成る。
この事で、農民等の信任をより厚くしての結果と成った。
この意味で、農民や庶民が動いた「廃仏毀釈」の「密教のリスク」は、この為に遥かに軽減したと観られる。
それほどに、「密教への反動」は極めて大きかった事が判る。
下手をすると、「青木氏」と配下との関係を打ち壊して新たな「庶民の関係」を存立させる動きさえあった事が記録されている。
”農民庶民の打ちこわしの憂き目”を受けていた事が充分に予想できた。
「全国の青木氏」の中に、大なり小なり「明治維新期の下剋上の現象」が起こる可能性を大きく秘めていたのである。
「全国の青木氏」はこの事を特に内心で意識していた。
この「密教リスク」は、この事から”氏存続の生死”を分けたものであった事が遺された一族の手紙(配下の動向)などの表現からも、又資料からでも判る。

そもそも”「伝統」”を維持して行く為には、生易しい事では無いが、この「密教リスクの現象」を事前に危険視していた事が判る。
それ故に、上記した「青木氏」の中では、”諸々の諸条件のリスク”から逃れる為に、上記した様に氏内で「密教仏像」などの”「伝統」”に対する「やり繰り」が起こっていたのである。
場合に依っては、これらの”仏像などの伝統品”も打ち壊される危険性を極めて帯びていた事に成る。
誰にも止められない”事の流れ”に依っては、打ち壊されれば、「密教」と連動していた「悠久の歴史」を持つ「青木氏の慣習や仕来りや掟」は霧消する。
これは、結局は、「青木氏の象徴」=「伝統」を失った事に依り、”豪商としての経済的能力”を維持していても、何時しか”「青木氏の氏存続の生死」”にも関わって来る問題であると捉えられていたのである。
「生きて行く上での精神の根幹」=「伝統」と捉えられていたのである。
一千年後に招いた「氏の危機」であった。
”上記の環境”の中でも、それ故に、「像の形」は消えたが、その「伝来の像遺品」の「三昧耶形の仏具」は何とか遺された事に成る。
この環境下にあった曾祖父と祖父は兎も角も、これらの事を父は充分に承知していたと観ていて、充分に対応して護り通したのであるが、親であった事から敢えて未来に口を閉ざしていたと観ている。
筆者は、”長い歴史の中では、消失する事も充分にあり得る”と考えいて、解明した今では、その柵も無く成っている事から、筆者はこの時の史実を明かした事に成る。
そもそも、それが目的で親に頼まれて、大化期の同族の「近江佐々木氏」の様に、「青木氏の由来」などを纏め上げたのである。
(全く同じ環境を持っていた「近江佐々木氏」も、”「伝統」”を紐解く歴史の解明に同じ事をしている。)

兎も角も、現在では「密教仏具」は「三昧耶形」と成っているが、元は「密教所作 (九度作法・節会所作)」の一つとして、「毘沙門天像と三宝荒神」を祭祀する「密教の作法事」のものであった。
本来であれば、「三つの発祥源」「賜姓五役」の立場にあって、その「伝統」を頑なに護って来た。
しかし、室町期から江戸期には「鎧兜具足」等を飾って”何がしかの作法”を興したと普通は考えられる。
又、「武家と侍の発祥源」であれば尚そう成る。
しかし、この「青木氏」は、この「鎧兜具足」等を用いての「武」を誇張する事は敢えて避けていた。
そもそも、「賜姓五役」を護り通すには、「戦い」を旨とする考え方を採っていず、”「和魂」の中で、「荒魂」を「三宝」で鎮めて護る”と云う考え方を採っていた。
しかし、上記した様に、古来からあった事に所以する。
その為の「神仏格偶像」として、更に、その鎮める道具と成る「三宝の有り様」を、「古代浄土宗」に求め、これを「青木氏の密教」にして、「毘沙門天像」に求めた所以でもある。
つまり、上記する経緯が古来よりあった事が、「鎧兜具足」が持つ”武しい感覚概念”には明らかに元より組していなかった事に成る。
故に、この”先祖と会する場”の「密教概念」が、”武しい感覚概念”を抑え込んだのであろう。
”武しい感覚概念”側からすれば、”先祖と会する場”の概念は ”女々しい”と云う事になり、矛盾する概念とも成り得る。
その意味で、「三昧耶形」を敢えて「青木氏の密教所作」としている事には、上記の様に、大きな意味を持っているのだ。
全青木氏には、「三つの発祥源」でありながらも、「武しい感覚概念」は、先祖代々持ち得ていないのである。
これは、頑なにも”「密教の伝統」の所以”である。
先代まで持ち得ていた確実な「青木氏の概念」と云える。
これが、明治維新の難問にも適合したのである。
当に”世に晒す事無かれ 何れに一利無しである。
”その精神は「青木家家訓10訓」に遺されている。
「青木氏の立ち位置の概念」そのものが違っていたのである。


では、”「伝統」”とは、そもそも何なのか、どの様な要素に依って成り立つのか、考えて観た。
それは、結論から云えば、次ぎの数式の関係で成り立っていた。

「伝統」=「概念力」+「経済力」+「社会力」+「子孫力」+「象徴力」

以上5つの要素を持ち合わせている必要がある。
何れ、一つを掛けるとその「伝統」は弱まり、次第に「伝統」は、何らかの問題を起こし霧消して行く。
この「欠ける要素」が多ければ多い程に、その「伝統」の「霧消速度」は速まる。
その上記した「要素の内容」に依っては、起こる霧消して行く問題の「質」は異なる。
全てが無く成れば、「伝統」は即座に消え去る。

逆に、この要素が成り立ち次第に、「伝統」は逆に創出されて行く。

そこで、「青木氏の伝統の基盤」がどの様にして出来上がったのかをその経緯を先ず検証する。
この「5つの要素」が出来上がって行く過程を歴史を知る上で理解して置くことが重要である。
それ無くして”「伝統」”を理解し知る上で何の意味をも持たない。
そこで、全青木氏に取っては、次ぎの事からこの「伝統」が始まった。
それは、次ぎの「賜姓五役」である。

「賜姓五役」
さて、そこで、「青木氏」に関わっている”「密教」”が、この「賜姓五役」を護るために、周囲から観れば「特殊な概念」をもたらしたと云う事は判る。
果たしてどのようなものであるのかをもう少し検証してみる必要がある。
”「密教性」を以て合法としているもの”には次の様なものがある。
青木氏外に次ぎの教派に依って長く引き継がれている。

「密教合法」(7つの合法体)
1「毘沙門天信仰」
2「三宝荒神信仰」
3「古代密教仏教」
4「三大密教」
5「神仏習合体」
6「大乗仏教」
7「修験道」
以上、「7つが合法体」である。

この為に、この様な「密教の作法」の事に成っているのである。
以上の「7つの合法体」は、夫々信仰体としての概念が異なっている。

さて、ここで改めて、そもそも”密教とは何なのか”を要約して記述して置くと次ぎの様に成る。

「密教六義」
定義1 「密教」とは、宇宙には「宇宙仏」があって支配されている。
定義2 この「宇宙仏」には唯一「大日如来仏」が存在する。
定義3 この「大日如来仏」は直接、人に向かって説法をして導く。「雄弁の仏」と呼ばれる。
定義4 しかし人には「煩悩」があって、この「煩悩」を取り除かないと「説法」を聞き取れない。
定義5 「煩悩」を取り除けば取り除くほどに「説法」は聞き取れて悟れて導かれて幸せに成る。
定義6 依って、”なかなか聞こえる事の出来ない「秘密の教え」”とされる。

これを「密教六義」と呼ばれるものである。

(参考 「如」とは宇宙の真理の事、その宇宙から”来た”宇宙仏の事を「如と来」で「如来」と云う。)
(三大仏格 如来、菩薩、王)
この「密教六義」に対して相対の位置にある「顕教」は次ぎの様に成る。

「顕教」
「宇宙仏」には「毘盧舎那仏」が存在する。
「毘盧舎那仏」は人に直接語りかけない。「沈黙の仏」と呼ばれる。
「御釈迦様」がこの仲介をして言葉にして何人にも説法する。
「釈迦の言葉」は「書物」に換えられる
「煩悩有無」には無関係の教えと成る。

つまり、”「盧舎那仏の宇宙仏からの意志」”の伝達者である”「お釈迦様」を介して”の全ての事が成り立つ概念である。

釈迦を介さない法然の「密教浄土宗」に対して、弟子の親鸞は「顕教浄土宗」を唱えた。
その概念の大きく異なる教義は、上記で論じた「現世の人」は、「肉体と魂」とを持ち合わた人とし、「彼世の人」は、「魂だけの人」と定義づける。
つまり、単なる肉体が無い変化に過ぎないとした。
依って、”現世と彼世の行来”では、”先祖と会する場”として、「仏」を擬人化していた教義と成る。
しかし、「親鸞の顕教」は、「現世と彼世の往来」のこの”「先祖との会する場」”の概念は認めるも、そっくり其の侭の「擬人化」の概念だけは採らなかった。
「密教浄土宗」と「顕教浄土真宗」との概念の大きな違いは、それは、「浄土真宗」の”「釈」”に有る。
そもそも、”「釈」”の「字句の語源」は、”薄める、弱める、副する、解かす、属するの意”を持っていて、”元の物より、やや若干「異]にしていながら、依然としてその「体」を成し、その「体」は変異するが、「同類」であるとする語源である。
従って、「親鸞の顕教の浄土真宗」は、現世で「先祖と会する場」も、その「会」は、「副する人との会する場」と教義した。
判り易く言えば、「人の定義」に、現世と彼世の間に、「釈」と云う概念を加える事に依って、”ほんの少し違うのだ”としたのである。
この為に、「顕教の浄土真宗」の戒名には”「釈」”が着けられるのである。
しかし、「顕教」で在りながらも、当初は「釈迦の概念」を持ち込まなかった。どちらかと云えば、釈の概念を加え入れた「浄土宗の密教系」に属していた。
「普通の顕教」は、”「盧舎那仏」の意を介する[釈迦」”を定義としているが、古代の「顕教浄土真宗」は、必ずしも「釈迦」を定義としてはいなかった。
ところが、結局、浄土真宗の内部での「教義の考え方の差違」で、4派に分離する事で,室町期中頃には、派に依って釈迦を重視する派閥も出て来て、結局は、親鸞死後に、この「釈迦の定義」も異なって来た。
この為に一宗派間での争いが興った。この状態は現在でも続いている。

以上の様に「密教系」は、信じる「氏」に依ってはその教義は異なり判断に柔軟性を持つ。
しかし、”現世で会する”とする以上は、”自らを鍛えなくては悟る事は出来ない。”とし、この”悟り”で「先祖と会する事」が出来る定義付けられた。
時代は、この様に「密教浄土宗」を変化させた。
「悟り」は、より「煩悩」を取り除いて成長すれば、”先祖と会話が出来る”と云う教義に成る。
「仏や先祖」に対する考え方は、その「煩悩の除去」に依って成し得る「心の心経」として、”「先祖と会する場」”はこの教義から定義される。
この「心の心経」の如何で、”先祖と会話が出来る事に成る教義”である。
この事で、「先祖との会話」が可能に成り、「伝統」は護られるとしたのである。
つまり、「伝統」=「先祖との会話」と定義付けた。その為には「先祖と会する場」が必要であるとしたのである。
況や、故に、「青木氏家訓10訓」は、この「古代密教仏教の教義」に従って出来ている事に成る。

「密教合法の3」の「古代密教仏教」は、「青木氏の伝来宗派」である。
「密教合法の5」の「祖先神ー神明社」は、「青木氏の守護神」(「神仏習合」)である。
「密教合法の1」の「毘沙門天信仰」は、「青木氏だけの信仰体」と云っても良いほどである。、
「密教合法の2」の「三宝荒神信仰」も「密教合法の1」と同様に青木氏だけである。
以上と云っても良い「信仰体」である。
最終は、「密教合法の4」の密教浄土宗となった。

以上「7つの合法」の信仰体の内、「5つの信仰体」に「青木氏」は関わっていた事に成る。
上記の「密教合法の6と7」は、この「定義4」と「定義5」を極める事に主眼を置いての合法である。
依って「密教合法の6」の「合法」と「密教合法の7」の「合法」は青木氏には馴染みが無い。

むしろ、”主眼を置く事に馴染む事が、「賜姓5役」としては出来なかった”と云う事に成ろう。

先ず、この様な「氏」は日本には他にない。
間違いなく”密教の世界””特異な世界”で生きて来た事を立証している。
皇族から臣下した初めての法令に基づく役柄を持った「賜姓族」であり、且つ、「国策」を側面から執行推進する「国策氏」であった。
”「完全な密教氏」”と云っても過言では無い。
「古代の概念」を抱えた珍しい「宗教氏」と云える。
然りながら、「二足の草鞋策」を手広く採用する「商い氏」でもある。
これは全て、「賜姓五役」を護ろうとして来た「賜姓氏」であった。

果たして、本来の「国策氏」を含むこの「四つの氏の役柄」を持つ事は成り立つのか疑問が湧く。
「賜姓族」(国策氏含む)
「宗教氏」
「密教氏」
「商い氏」

この「四つの氏」は一度に以てしたものでは無い。
ある経緯の中での苦闘の結果、成し得た「氏の存立」である。
「普通の論理」では成し得ないであろう。
これが”「密教」の所以”であろう。
先ずは、「賜姓族」が「存立の根幹」である。議論の余地はない。
この根幹を補完する為に、第一義に「宗教氏」が存立する。
この「宗教氏」には、上記した様に、「和魂荒魂」の「古代概念」を有している。
これは、むしろ「宗教」と云う「区分け」の中にあるのでは無く、「飛鳥人の考え方」そのものに匹敵するものであったと考えられる。
「現代感覚での言葉の区分け」は危険である。
筆者は、「宗教」=「生活」であって、「生活の考え方」つまり、”「思考原理」は「宗教の概念」に従っていた”と云う事であって、”現代感覚の精神的な悩みの解決”の「思考原理」では無かったと考えている。
「宗教」=「生活」で「完全密着」していたのである。
そして、その「根幹」が単純明快に「和魂」と「荒魂」に区分けされたものであった。
ところが、飛鳥から100年経って、ここに「古代仏教」成る物が突然にもたらされた。
「宗教」=「生活」の「完全密着」がここで少しずつ離れて行った。
本来なら、他国で観られる様に、「宗教」は「分離の最大要素」と成っている。
つまり、”「宗教」≠「生活」の原則”が働く。
ところが、日本では、「和魂荒魂」の「神道の古代概念」に「古代仏教の概念」が食い込んで来た。
「青木氏」は、当初は「和魂荒魂」の「神道の古代概念」を「民の先頭」に立って護ろうとした氏であった。むしろ当初は「賜姓族の役目」であった。
しかし、伝来50年を経過した頃から「古代仏教の概念」が「民の生活」に不思議に静寂にして浸透し始めた。
確かに伝来当初は、「宗教」≠「生活」であった筈なのに、伝来50年後には、再び「宗教」=「生活」の実に「不思議な現象」が起こり始めたのである。
丁度、「賜姓族」に成り、臣下した時期650年頃には、この「不思議な現象」が佳境に入った時期であったのである。
「青木氏」は「賜姓五役の役目柄」の遂行で苦しんでいた。
「和魂荒魂」の「神道の古代概念」が低下して、「概念の混乱」が起こり、「民の生活」は乱れる恐れがあった。
果たして、”過去の「宗教」=「生活」の環境”を守るべきなのか、”現在の、「宗教」=「生活」の環境”を守るべきなのか、悩んだ。

しかし、この「浸透現象の原因」は、「古代仏教の概念」をもたらした「彼らの技能」(後漢の職能部)が、「民の生活の豊かさ」を根底から静寂に無理なく変えた事にあった。
”「宗教」=「生活」の環境”は護られていて、「生活」は”「宗教」<=「生活」の環境”であって、”「神道の古代概念」>=<「仏教の古代概念」の環境”にあるのなら、「青木氏」は抗らう根拠は無く成る。
「青木氏」は、この環境が長く続くかの様子を観た。「宗教」≠「生活」に成らないかを観た。
この「静寂の浸透の環境」は、遂には、次ぎの様な環境を作り上げ始めた。

”「神道の古代概念」の環境>+<「仏教の古代概念」の環境”
”「宗教」=「生活」の環境”

ここで、「青木氏」はこの環境を促進させる策を講じた。「融合安定策」であった。

注釈
(上記で「和魂と荒魂」の関係で、民は”「荒魂」は「悪」を成すもの”として恐れていた。
ところが、”この「荒魂」の「悪神」を鎮めて味方に引き入れる事が出来る”として仏教伝道師は説いた。
それには、”「荒魂」の「悪神」の部分を祭祀する事で、むしろ「守護神」と成り得る”と説いた。
その祭祀では、”「自分の煩悩」を取り除いて祭祀すれば「悪心」=「悪神」は消える”と説いた。
ところがこの説に対して「民」には違和感は無かった。むしろ「荒魂」を積極的に祭祀し始めたのである。
荒れ狂う自然現象やそれによってもたらされる疫病等は、この「悪神の現れ」として”「風神や雷神」”として祭祀したのである。)

これで「賜姓氏」「宗教氏」は成り立った。
後は、「青木氏」の中に「密教氏」を定着させる必要が生まれた。
それが、35年後の「仏舎の詔勅と令」であった。

以下の事を民に政治的にも肯定する姿勢を「青木氏」は率先して示したのである。
上記で論じた様に、「仏舎」を設けて祭祀する事で「荒魂」の「全ての悪神」は消え、「仏舎」を設けて、”先祖と会う場”を設けて会話し、”「煩悩」を取り除く知恵”を授かる事が出来るとして考えたのである。
その為の「仏舎の詔勅と令」を発した。
そして、「荒魂」→「仏教の毘沙門天」=「荒神」の構図を作り上げたのである。

この構図は自然発生的に生まれたものでは無く、「青木氏」が、”融合させる手段”として、朝廷より令を発して置いて、積極的に「構図の概念」を浸透させたと観られる。

この「仏教の古代概念」は、”「宗教」<=「生活」の環境”であった為に、「民の生活」の中に育ったものである。
「自然の融合」が起こる様に仕向けたのである。
しかし、”「宗教」<=「生活」の環境”の「恩恵」を受けていない階層が出来上がった。
この「否恩恵階層」は「支配層」であった。
その「支配層」にも「仏教の古代概念」の環境”の浸透が必要であった。
「賜姓族」としては、大きな課題で難題であった。
この難題を解決しないと、「支配層」である限りは、社会に「二重構造」が起こり、「民の生活」にその圧力は掛かる。
又、他国の様に、”「宗教」≠「生活」の環境”に呼び込んで仕舞う事に成る。
この解決策は、ただ一つ支配層に「恩恵」を与えること以外には無い。
そして、その「恩恵」が、”「宗教」<=「生活」の環境に繋がっている事である。
「賜姓五役」の「青木氏」はそこで考えた。

「紙」をベースとした「改革条件」を作り出す事であった。
その「改革条件」は次ぎの通りであった。

「第一条件」
進む大化期に欠けている物
文化を発展させる物
国を発展させる物
中国から全面輸入を受けている物
仏教に関わる物

以上の全ての条件に関わる物は、”「紙と墨と硯と筆」”であると考えた。
(豪商 「紙問屋の”紙屋”」の所以である。)

「第二条件」
これには、「中国の渡来人」の「職能集団の部」から「技能の享受」が受けられる事。

彼らは、同時に仏教を伝えた「伝道師」でもあった。
「技能の享受」=「仏教の伝道」の関係にあった。
「自然神」をベースとする「古代宗教の和魂荒魂」の「神道の社会の中に、「仏教」を浸透させるには「技能の享受」≠「仏教の伝道」の関係はあり得なかった。
それだけの「仏教浸透力」は神道社会の中に未だ無かった。
そこで、「技能の享受」を受ける事で生活は潤い、それは「仏のご利益」として説き、「仏教伝道」の根幹と置いて、古代宗教の和魂荒魂の固い扉を開かせたのである。

つまり、”「宗教」<=「生活」の環境”の中で、この関係の協調が図られば、「紙の改革」の実行に支障が生まれない。
そして、庶民は、自らその部組織の中に飛び込んだのである。

「紙」は「紙作部」
「墨」は「墨作部」
「硯」は「硯作部」
「筆」は「筆作部」 

以上の「技能集団」からその「技能の伝授」を容易に受けられる事であった。

(「紙」は上記で論じたし研究室の論文にも論じている。)

兎も角も、歴史的には、紙の生産は、”後漢から「職能集団」に依って、朝鮮半島を経由して610年頃に僧侶に依って伝えられた”と「日本書紀」に記されている。
ところが、この100年前の頃には既に国内でも試行されていた事が判っている。(使用には至らなかった。)
特に「日本書紀」には、その事に付いて詳しく記録されていて要約すると、次ぎの様に書かれている。

注釈(日本書紀)
高句麗から来た僧侶の後漢の「曇徴」は、「紙漉き」と「墨」を上手に作る事が出来た。
僧侶でありながら、そう云う「万能な特技」を持った渡来人がやって来た。
又、「横型の水車」の「動力」を使った特殊な「石臼」も造れて、それを民の前で作って見せた。
この「石臼の製造」は大和の国で初めて観るものであった。
特記する程に最新の技術を観たとされている位に民は驚いた。
”自動”である事や、”「生産」”する事や ”「機械」”と云う物を観た”「天地驚愕」の境地”であった。
「自動概念」、「生産概念」、「機械概念」の無かった社会の中に持ち込んだ。
特に、この、「横型の水車」の「動力」を使った特殊な「石臼」は、「紙の漉」に「f飛躍的発展」を遂げた。
特に「石臼」とその「原理]は、全ての技能に飛躍的に貢献した。
以上と記されている。


しかし、30年間も経過した時点の大化期でも、「殖産」は愚か「紙の生産」としての形は未だ無かった。
歴史的に観ても、「聖徳太子」が福井で試行を試みた記録があるが、大化期に成っても殖産は愚かその「仕様」に耐えられるものは依然として出来ていなかった事に成る。
其処に、”後漢で生産された紙が輸入されていた”ところに、後漢からその技能集団が続々と渡来したのである。
その中に、更には、この輸入の「良質な紙」の「生産技術」と「技能」をもそっくり持ち得ていた「高能力の僧侶」が既に渡来していたのである。
そこで、「時代革命」を起こしたとされる「水力に依る石臼」は、”紙の繊維を粉にする高い生産技術”までも持ち込んだのである。
画期的な技術導入である。

「産業革命」では無く、時代を変えて仕舞う「時代革命」であった。

それをこの僧侶は、”自ら作って”、それを”使って見せる”まで考えられない事までも伝えた。
全ての民は、この”僧侶”に完全に心服してしまった。
こおなれば、最早、”僧侶”では無く、「生き仏」とまで崇拝された。

”「技能=紙=僧侶=仏教」の関係”
”「技能の享受」=「仏教の伝道」の関係”
”「宗教」<=「生活」の環境”

以上の「三つの関係」は揺るぎないものと成って行った。

「青木氏の始祖」の「施基皇子」は、この「時代革命」を起こし始めた「技術と技能の伝来」は、未来の「産業」と云う形を起こす事が出来ると考えた。
彼は、”進まなかった紙の使用”を憂慮していたが躍り上がって喜んだ。
これで、「生産」のみならず「殖産」まで成し遂げられるとして生き込んだ。
そこで、648年頃に、「紙の環境条件の樹立」(上記三つの関係)が整った事を天皇に上申した。
先ず、そこで「朝廷の内部」に「紙の改革」を推し進める”「紙屋院」”を創設した。
合わせて官僚の「伴造」を付けて正式な「朝廷の部民」(紙品部)も創設もした。
これとは別に「青木氏」も「殖産」までを睨んで、独自にこの「技能者の養成」に取り掛かって「紙作部の青木部」を作り上げた。
朝廷は、「青木部」が殖産に入った時点で、”朝廷内部の需要を先ず賄う体制”を試行的に創設した。
その一つとして朝廷は、”「図書院」”を創設して、40人程度で「紙の生産」に入ったのである。
(朝廷内部の需要を満たす範囲で試行生産に入った。)
ところが、一方、「青木氏」に取っては、上申して朝廷はこれを実行したがここで問題が起こった。
”「賜姓族」が「商い」は「絶対法度」である。”要するに禁じ手である。
この事から、「朝廷」の動き共に、「青木氏」にも ”「紙屋」”の呼称で、「商い戦略」を進める部門を「青木部」の「氏」の中に密かに作り上げた。
ところが、当時は、未だ社会は「木簡」が中心であって、30年程度経っても「紙への慣習」へ動か無かったのはこの「木簡の原因」であった。

この30年間、「青木氏」は、「青木部」と共に、上記の「革命新技術」を使って、「紙材」と成る「植物の選定」と、その「植物に適合した製造法」の研究を進めていた。
上記の通り、「5家5流の賜姓地」での近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐で、夫々「特徴ある紙質」(楮)を作りだした。
「伊勢和紙(伊賀和紙)」を中心にその技術と技能を「近江和紙」に広げ、次ぎに「美濃和紙」、引き続いて「信濃和紙」、最後に「甲斐和紙」と広げて行った。


そこで、「朝廷」は「丹波国」にその拠点を移した。所謂、紙材が異なる「山城和紙・丹波和紙」である。
「 苦参 」を原料にしたものを作り出した。

しかし、ここで、この「古い慣習」を打ち破る事が起こったのである。
それは次ぎの二つの事で在った。

一つは、改新による国策法規の「大宝律令」等である。
二つは、仏教の伝道布教による「教典の写経」等である。

それは、先ず一つの代表的なものは「大宝律令」(701年)であった。
更には、それによって遺すべき「日本の歴史」が遺される必要が起こった。
この結果、「古事記」や「日本書紀」等の歴史書偏纂には、大量の「良質な紙の必要性」が生まれて、結局、量産には向かない「木簡の慣習」を徐々に押しのける事件と結果が起こったのである。
そこで、「大宝律令」の結果を指し示す「事務記録」や「歴史」を編纂して遺す役所の”「図書寮(院)」”が創設設置された。
最早、[木簡]では、量と整理方法に問題が生まれ間に合わなくなって来たのである。
当然に、それに必要とする「紙の製造」と「紙の調達」もこの役所が管掌したのである。
朝廷内で必要とする絶対量の「年間の生産量」までを定めて、朝廷の”「丹波の紙屋院」”では、「紙の生産の必要性」を図ったのである。

ここまでに「施基皇子」が上申した時(648年頃)から、既に50年も経過していた。、

「施基皇子」の妹で「天武天皇」の皇后であって、その後、天武天皇崩御後に天皇と成ったごの「持統天皇」から次ぎの特命を命じられた。
全国を天智ー天武天皇の時代に「皇太子」に代って「執政」として飛び廻って得た「知識と経験」(日本書紀に記述)をより政治に反映させる様に ”「善事撰集司」の「政治の大役」(689年)に任じられたのである。
この「日本人」にと、「日本社会」に合った「律令の基」を作る事を命じられたのである。
一応のこの態勢が整うまでに12年経過した。
和紙は、最早、朝廷内部で生産されるものでは既に間に合わなくなっていた。
「青木部」らの「殖産和紙」が活気づいた。
益々、その量と共に、「和紙の品質」が求められた。
朝廷の「丹波の和紙」は、「苦参」で作られ、紙色は茶褐色で、表面はザラ質であった。(正倉院と東大寺)
「紙質と量産」に合う様に改良を求められていた。
その「2つの要求」に応えたのが、「青木部の楮和紙」に依る「伊勢和紙・伊賀和紙の殖産方式」であった。

「紙伝来」(610年)からは91年経過している。
如何にその「古い慣習」を打破するのに大変であった事が伺える。
しかし、これでも「古い慣習の打破開始」である。

更に、「本格的使用開始」までには、次ぎの様な経緯があったのである。

739年頃に律令によって、別に”「写経司」”が設置された。
この「国の写経事業」で「本格的な紙の需要」が喚起された。
その為に、上記の”「図書寮(院)」”では、34人の定員で、歴史を記録する”「写書手」”は20人。「紙漉き」を行う”「造紙手」”は4人の態勢で挑んだ。
更に、”「図書寮」”の要請を下に、山城国に「朝廷」の”「紙屋院」”を別院として置き、その下に”「紙戸」”と呼ばれる「50戸の紙漉き専業者」の「部民」を置いて管理した。
「朝廷」は、「年間の造紙量」を「二万張」と規定し、”「朝廷の紙屋院」”とは別に、「青木氏」の「青木部」等に公に「紙漉権利」を与え、「租税」を免除して「官用の紙」を専門に漉かせた。
この他にも、各地(福井)で民に紙を漉かせ、これを「調」として徴収した。
しかし、”研究の不足”と”殖産との結び付き”が悪い事で、民間は”「苦参」”を使ったものの為に「紙質」が悪かった。

そもそも、「朝廷」では、「施基皇子」の上申で、所謂、準備庁に当たる”「紙屋院」”を650年頃に中央に初めて設置した。
それでも、上記の経緯の様に、739年頃から本格的に朝廷内に体制は整えられた。
しかし、これでも、本格的に「紙」に代った時期は774年頃に切り替わったのである。
何と「紙屋院の上申」から124年も経過している。
これでも未だ殆どは「朝廷内の紙の使用」に留まっていた。

それでも、125年程度から155年もかかった事に成る。原因は”「安価な木簡」”にあった。

参考
「善事撰集司」(689年 施基皇子)とは、現在で云えば、「行政改革庁長官」兼「総理」と云う役処である。
政治、経済、軍事の三権の全てに長じ、その「経験と知識」の豊富な事を意味し、税や政治や軍事の改革に反映させる事を纏めて上申するトップの役処で在った。
そして、それを「政治の策」にして人脈を通じて「政令や律令」に反映して施行する「実務の役目」も持つものであった。
率先して、”その策を民に見せる役目”も負っていた。
これが「皇親政治の立役者」である。

筆者は、「紙伝来の610年」から「本格使用774年」まで164年も掛かったとする事から鑑みると、余りに掛かり過ぎたと観ていている。
恐らくは、朝廷は「上申650年」を受けてから考えると、執政の「施基皇子」と「持統天皇」は、その「紙の改革」が”遅すぎる”と観たと考察している。
その原因には、「需要の問題」が「木簡」を超えない事と、それを率先して作り出す”「政治体制の未熟さ」が在る”と判断したと観ている。
恐らくは、利害に絡む「内部的な抵抗」も在ったのであろう。
この膠着した「政治体制」を動かすには、「行政改革」を断行する事だと考えたと観る。
その証拠に、この「施基皇子」と「持統天皇」の二人は、全権を一か所に掌握させて、「細部の改革」まで手を入れる必要があるとして、「施基皇子」を「執政」とは別に、特命して「善事撰集司」(善撰言集司 689年)に任じて動かそうとしたの事である
この事がそれを証明している。

現実に、上記の様に、この時を契機に「朝廷内部」が動き、且つ、それによって紙の「朝廷需要」が先ず生まれ動き始めた事である。
この紙の需要が証明している。
「施基皇子」の没年は716年で、天武、持統、文部の崩御の葬儀委員長を、当時の皇太子を差し置いても「執政」を務めている人物である。

(「施基皇子」は、「浄大1位の身分:天皇に継身分」を授与された。
本来の「執政の皇太子」とは、身分上でも3階級上の身分差と成っていた。
皇族や官僚などの「周囲の軋轢」を排除して、「政治の執行権」を強くする狙いが、天武天皇と持統天皇にはあった。
それだけに、これは「改革」を強力に推し進める意志の現れであった。本来、皇太子が行うべきところを二人の葬儀委員長を実行している事からも、朝廷では慣例を重んじる中でそれを破っての「執政の異例の立場」は判る。)

「日本最初の法令」と云われる「大宝律令701年」の前には、「近江令」や「飛鳥浄御原令」の”「民事法」”をも作っている。
(これらの法令を日本全土に伝達し、且つ、それを各所で遺しするには、最早、そこに「紙」と云う便利なものが出来て来ているのなら、「木簡」を超えて「紙の需要」が必要と成っていた。)
これらの制定に、「執政」としても、「善事撰集司」(689年 施基皇子)としても、全てに関わった指揮者の人物であった。
全体を指揮するに充分な立場にあった。
この二人は、「善事撰集の事例」をこの「令」などに反映させながら、「法令」を作る事でそれを記する手段として推奨し、「朝廷内の紙の使用の喚起」を促し、「間接的効果」として「需要」を呼び込み、逆に「木簡」の抑え込みを図ったのではないか”と観ている。

(記録から観ると、各地方に発する「政令」や「行政令等の執行」には、「文書」を発行させ、各地方の別府に通達を出し、”「紙書」”を創設し、そこには実務上の役所の”「紙屋院」”や”「図書院」”を併設させて、”「紙の需要喚起」を強制的に図った”と観られる。
現実に、この頃から「善事撰集」で得た内容を地方機関に「政令」や「行政文書」の形で文書を発刊している。)

「民間の需要」
では「民間の需要」はどの様に成って居たのか。
「紙の殖産」を起こさない限りは民間では「紙の安価」は興せない。
「朝廷」では、以上の経緯があって「需要の喚起」を起こさせる事は出来たが、この範囲では「安価な紙」は起こらない。
前提は「民間の需要の喚起」=「紙の殖産」である。
この経緯に入る前に、「青木部の努力」の「紙の活動」は上記648年に開始されていた。
「一般の紙の使用」に至るまでには、「紙の生産技術の確立」と「青木氏の殖産化」の準備に懸命に関わっていた。
朝廷内では需要の絶対量は把握出来る。
しかし、民間では「需要の絶対量」は把握出来ない。
その為に、「供給」を「需要の変化」に応えられる体制にすることが必要である。
これは「民間使用の絶対条件」である。
それには、先ず「殖産態勢」を作る事である。
次ぎには、民間である以上は、「利益態勢」の確立を成さなければ続かない。
況や「興業」である。

「朝廷」では、774年に成っても「殖産化」は行われなかった。
ただ単なる「朝廷内の需要」に対する「供給」だけであった。
「民間の需要」を喚起させるには先ずは「必要な策」ではあったが、記録されていない。
しかし、ここで、経済の「需要と供給の原則」に関わらない事が起こったのである。
それは、「仏教伝来」によって布教するに必要とする「教典の複製」が必要と成っていたのである。
最早、この段階では、「木簡」は使えない。
そこで、「東大寺等の寺」では、盛んに「写経」と云う行事を催し、「経典複製」を作った。
この「教典複製」は、上記した様に、「朝廷」でも”「写経司」”を設けて確かに「紙の需要」を喚起する為の施策を講じていた。
しかし、それでは最早、「爆発的布教伝道の波が起こり、紙の生産は間に合わなくなって行った。
(しかし、盛んに行われた「東大寺の写経会」では、この「紙質の問題」について記録されている。)
それには、先ず「紙の市場性」を高める事が、先ず一般化にするには「絶対的条件」であった。
それなくして、「紙の需要性」が生まれて来ない為に、「生産」のみならず到底「殖産」までには達しない事であった。
最大の「紙改革の戦略課題」であった。
それには、「木簡」から「紙に替える革命」にはその「品質」に大きく関わっていた。
そこで、一般市場に受け入れられる「品質」にするには次ぎ数式が成り立つ。

「紙の品質」=「素材の探索」」+「紙漉の技術」+「紙漉の技能」+「殖産態勢」

注釈
ところが、この問題には、「墨と硯」の問題があったのである。
(この「紙の質」は「墨と硯」に大きく影響していた。)
「墨」は、中国から帰化して中国人の「墨作部」の「方氏」が、「硯」は同じく「硯作部」の「硯氏」が携わった事が記録で判っている。

(両者、何れも、朝廷が中国から態々招請した「氏部」である。それだけに”紙の質の問題を重視していた証拠”である。)

しかし、当時の輸入墨は、松根油の「松煙煤」から作る煤炭で、墨の「粉」は荒く、「ムラ」が出来て、「墨色」が悪く、「沁み」が起こり、「滲み」も大きく変質し易かった。
資料に依れば、「飛鳥」にその試験場を作り進めていた。合わせて、各地に方氏の「墨作部」を出して「良い煤炭」を探した。

(現在、この墨方の末裔子孫は、和歌山に現存し、その姓も同じで、地名も遺されている。筆者は、不思議にもこの末裔の方を極めてよく存じ上げている。)

この事に付いては、既に研究室などにもこの「古代墨」と「古代硯」の写真を掲示して論じている。
(写真館メニュー参照)

筆者は、この「古代和紙」と共に、関わったと観ているが、諸説は時代性でずれている。
しかし、筆者の家には掲示写真の様に共に保有しているが、時代性が「紙の経緯」と一致しているのである。
「紙」だけで、「上記の経緯」が、「諸説」の様に動くとは考え難い。
「墨」と「硯」と共に、「筆」もあると観られるが、未だそこまでの研究に至っていない。
少なくとも、墨と硯は古書からの資料で解明されている。
確かに、筆者の家では、「古代の筆」は可成りの量で収集し保有しているが、未だ現在では正しく判別出ていない。
「古代の墨と硯」は保有しているので、この時の「筆」でも有る事には間違いはない。
何時か研究結果を投稿する。
必ず、「墨と硯と筆の経緯」が伴って「紙の経緯」が起こっている筈であるが、ここで「紙の経緯」で論じる。
(「良質な墨と硯の生産」は、結局、平安中期まで解決されなかった。「熊野古道」の「熊野神社詣」に関わって解決した。研究室の「鈴木氏と青木氏」の論文参照)
この「和紙」に関わる「産業」を大々的に「殖産事業」として興す事、そして、それを販売する「商業態勢」を興す事が必要であると「青木氏」は判断していたのである。

恐らくは、上記した様に、500年頃にはその「技術」は思考され、610年頃には中国製に頼っている。
これは「庶民の生活の糧」に成るまでのものに成っていなかった事を意味する。
恐らくは、「支配者階級」がこれに本腰を入れる者は居なかった事を意味している。
輸入に完全に頼っていた事に成る。
これでは「殖産」どころか「文化」は愚か「国」そのものは発展しない。

そこで、「賜姓族」として、「青木氏」として、上記した「下記の事の解決策」を展開したのである

「宗教」≠「生活」の環境に呼び込んで仕舞う事を防ぐ事。
「解決策」は、「支配層」に「恩恵」を与える事。
「恩恵」が、”「宗教」<=「生活」の環境に繋げる事。

それが、「殖産事業」と「興業態勢」を「青木氏」自らも整え、それを支配層に財源的投資させ、そこから得られる利益を享受して貰うシステムを構築したのである。
そして、それを政治的に裏付けられる様に、「青木氏(施基皇子)」は再び「持統天皇」に上申して「殖産事業と興業態勢に関する令」を発したのである。
朝廷内にも、”「紙屋院」と「図書院(寮)」”を設置し、「本格的な体制」を整えて推進させたのである。
「善事撰集司」として力を発揮し、”官民が需要を喚起出来る様に”全体を動かしたのである。

「青木氏」としても「青木部」の「紙屋」として推進した。
「5家5流の青木氏」に対して30年間の間に得られたノウハウを伝え殖産を促した。
そして、それが687年に叶えられた。

「年代検証」(青木氏の紙の態勢の準備が整った時期)
750年には正倉院に保管されている「写経会の和紙」が確認されている事、739年の「写経司」の態勢が出来ていることからこの以前である筈である。
そうすると、叶えられた時期は650年の「紙の上申」が出来る状態であった。
従って、701年の律令で朝廷内部に専門機関が出来るまでの間で、689年「善事撰集司」と成って進められる状況に入った時期の少し前である。
とすると、685年の「仏舎の詔勅」が発布された間で、「青木氏」が「五大和紙」の態勢が出来てこそ民間への紙の供給は可能に成る筈である。
従って、685年から689年の間の3年間の間と成る。
「687年」には次ぎの「五大古代和紙」は供給できる態勢にあった事に成る。

それが、「青木部」の「五大古代和紙」(687年:「青木古代和紙」)と呼称されるものである。
「伊賀古代和紙」
「近江古代和紙」
「美濃古代和紙」
「信濃古代和紙」
「甲斐古代和紙」

五大古代和紙の市場への供給の準備態勢が整った事で、この事に依って、「支配層の不満反発」は、「財源的投資」に依って潤い、無く成る事に成った。
後は、これを契機に支配層に対する「古代仏教の普及」を同時に解決する事が必要に成った。

これは、上記した、「684年の仏舎の詔勅と令」と「690年の第一式年宮令」で「支配層」を政治的に拘束し、後は、上記した「密教としての戦略的手法」で調和させ融合させ習合させる事であった。
「上級階層」を「仏教の慣習と仕来りと掟」の中に取り込んだのである。
彼らは、好むと好まざるとこの戦略から離脱する事は、最早、出来なくなった。
それは、「朝廷の詔勅と財源的投資の潤い」から「離脱反発の理由」を失わせたのである。
後は、上記の論調の様に、この「仏舎の流れ」に載る以外には彼等には無く成っていたのである。
それを「青木氏」に最早、委ねる以外には無く成って居たのである。

この事で、「青木氏」が考えた「神仏習合策」は、上層階層の支配層の中にも、「密教氏」として無理にでも根付く事に成ったのである。

これが奈良期から平安中期までの「青木氏の賜姓五役」の「前半の生き様」(「300年苦闘」)であった。「紙の革命」と共に苦闘した前半期であった。

注釈
筆者は「青木氏の生き様」を分けるとしたら、これを”「300年苦闘」*4”と呼んでいる。
「青木氏の生き様」は、この「300年苦闘」の周期が4回繰り返されている。
そして、この「300年の切目」のところに「転換期」が訪れている。
その「4つの転換期」を乗り越えて来たのである。

この初回の「300年苦闘」は次ぎの二つに分けられる。
前半の150年間は、「施基皇子と白壁王」が成した「政治力」での全盛期」−797年
後半の150年間は、「政治力」を無くした青木氏の「経済的な基盤の構築期」−950年

間には「桓武天皇」からの排除で厳しい「30年の空白期」はあったが、これも「950年の商い開始」までの苦闘であった。

この「300年苦闘」が、上記の「4氏」を融合させて成り立つ事に成ったのである。
当に「青木氏」と「青木部」の「賜姓五役の生き様」であった。
共に生きて来た「青木部」は、女系の血筋を引き継ぐ「二つの絆青木氏」と成って「一心同体の青木氏」に成って居た。

以上の様に、「紙の経緯」から「商い氏」が「青木氏の別の顔」として成立した。
「賜姓氏」が「商い氏」は禁令である。最も似つかぬ「氏」である。
流石、この「紙の商い氏」(「紙屋」)だけは「別面の影の青木氏」として明治初期9年頃まで「影の青木氏」であった。
知らない様で、知っている「既成事実の青木氏」であった模様である。

注釈
「墨作部と硯作部」
「墨部と硯部」の領域までは研究が及んでいないが、必ず「青木氏と青木部」との関係性を持っていた筈である。
「青木氏の商い」は1025年には「総合商社」に成長している
「和紙」を「殖産と興業」として扱ってきたのなら、他の三点も扱う筈である。
青木氏が関わった「殖産の形跡」には、何故かこの「墨と硯」の痕跡が見つからない。
恐らくは、「墨と硯」は「適切な地域性」を持っている事に起因している事で記録が消えていると観て調べている。
ただ、「墨」は室町期から時の政権が「専売品」として幕府に治めた上で「余剰品」を放出する方式を採っていた。
これは、江戸幕府末まで続けられた。依って、「青木氏」にはこの痕跡が消えて仕舞ったと観ている。
平安期では朝廷が「墨部」を「伴造」に基本的に管理させていたが、特定の「青木部」の様な氏にも「墨部」を持つ事を許されていた。
しかし、「中国輸入品」に勝る「墨」がなかなか出来なかった。
北から南まで全国に「専門の部民」を送って探していた事が判っている。
「近江や信濃」にも力を入れて探した事が記録として残っている。
(これは「青木部」か「佐々木部」が関わった可能性を示す)
その時点では取り敢えず、三流品として奈良の松根油の煤からの墨を使っていた。
その「煤」を集める「良い木」と「煤の粒度」と「墨の色」が良くなかったと記録されている。
その為に平安期には、「青木部」等の「特定の氏」にも許可して「良い墨」を作る事に施策を傾けていた。
結局、”紀州北部藤白”の地域で生産していた「姥樫」(うばめかし)から作る炭(備長炭)の煤が良い事が判った。
そして、平安末期から本格生産を始めた。
これを見つけたのが、何と「熊野詣」の「後醍醐天皇」であった。
30年間で33回参詣した実績があって、この回数から観ても尋常ではない。
「熊野詣」のみならず、”「熊野詣」に託けたこの「墨の視察」の目的もあった”と観られる。
それだけに、この「墨の発掘」は、””国家の発展の根幹”を占めていたと判断されていた事”が判る。
この「藤白墨」の生産現場のすぐ横にある「熊野神社」の第一の「藤白神社」に長く逗留して居た事が判っている。

(この神社宮司は日高氏で、「弁慶の親族」に当たり、この熊野宮司の一氏の「宮司日高氏」が養子に「氏子の者」を取り、その者が義経の家来と成って、姓を後醍醐天皇から賜姓を受けて「鈴木」と名乗った。
「義経と弁慶」は良くここに逗留し、家来と成った事から「全国の鈴木氏」が広まった「発祥の地」である。

(この「藤白墨」は「時の政権の専売品」として大正末期まで生産されていた。)
研究室の鈴木氏の論文の「周辺の環境写真(墨部・硯部・方部の行方)を参照)

この時に、平安期には「青木部」は関わっていたと観ている。この時の事を浮き上がらせたい。
その証拠に、この「二つの部」は、「伊勢ー奈良ー紀州」の{青木氏の活動範囲}に存在し、その資料が「青木氏」だけにのみ保有しているのが何よりの証拠である。

「古代宗教」と「古代和紙」と「古代仏教」の経緯の下に、「青木氏の四つの氏」は構成されて行ったのである。
本論の遺された「伝統と遺品」は、この「三つの時代要素」と「四つの氏」に関わっているものなのである。
それは「賜姓五役」に関わったものと成って居る。

この相入れない「賜姓五役」は、この様な経緯に依って、上記の様な「融合過程」を遂げて、一つの「密教青木氏の伝統」は稀に見て生まれ、継承されて行ったのである。
この範疇で、「青木氏」を考える必要があるのだ。



> 以下は伝統 9に続く


  [No.326] Re:「青木氏の伝統 9」−「古代宗教」
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/12/18(Thu) 08:36:49

>前回の末尾
>
>「古代宗教」と「古代和紙」と「古代仏教」の経緯の下に、「青木氏の四つの氏」は構成されて行ったのである。
>本論の遺された「伝統と遺品」は、この「三つの時代要素」と「四つの氏」に関わっているものなのである。それは「賜姓五役」に関わったものと成って居る。
>この範疇で青木氏を考える必要があるのだ。



「伝統 9」

古代宗教に付いて、もう少し検証して観る。

「毘沙門天の経緯」
そもそも、密教の「毘沙門天像」とは、どう云うものかを検証して観る。
インドより中国を経由して、「武神」又は「守護神」として扱われて奈良時代の日本に入った。
この時に「賜姓青木氏」は、この「毘沙門天」を神格化して祭祀したとある。
この「毘沙門天」は、梵語のその字句の意から”よく聞く者”と理解され、別に「多聞天」とも呼称される。これは上記の「密教の定義」に合致する。
「青木氏」の様に、”「独尊像」”で祭祀する場合は、”「毘沙門天」”である。

「伊勢青木氏」のは、”「独尊像」”であった。

この”「毘沙門天」”は、「仏の住む世界」を支える「須弥山」に住み、「密教」として「十二天の北方」を守護すると云われている。

そこで、日本では、”「四天王」”の一尊として造像安置する場合は、”「多聞天」”と呼称したが、「青木氏」の様には、”「独尊像」”として造像安置する場合は、”「毘沙門天」”と呼ぶのが通例であった。
そして、「青木氏」とは別に、”「毘沙門天」”は”「密教」”でありながら、ところが、この”庶民における「毘沙門信仰」の発祥”もあるのだ。

・「庶民の毘沙門天」
それは、”「平安時代の鞍馬寺」”からであるとされている。
”何故、鞍馬山なのか”である。
それは「鞍馬山」にも「密教の毘沙門天」が祭祀されていたからであった。
ただ「密教的な扱い」とは強いてせずにいた。

その前に、密教「毘沙門天」の時代的な経緯に付いて先ず検証して観ると、この「密教仏像」が、”「密教でない仏像」”とする成り立ちが良く判る。
「密教」の反意は、「顕教」ではあるが、”そうでは無い「信仰体」”と成って居たのである。

・飛鳥時代
「鞍馬寺」は、当時は、北陸若狭と山陰丹波とを京都で結ぶ「交通の要衝」でもあった。
その為に、古くからここには市が栄え、「宗教文化」が育ち、民から自然と、”「鞍馬寺の毘沙門天」”と称される様に成り、慕われるに至った。

・平安初期
この「庶民信仰化」によって、「本来の神格」である

本来の「財福の神」(3)

(3)という面が、他の神格から変化した。

この「他の神格」が庶民信仰の中に加えられた。

「武神」(1)
「守護神」(2)

(3)>(1,2)

以上の現象が庶民の中に起こり、よりも平安期初期には先ず強まったのである。

・平安中期
又、9世紀頃からは、庶民の間では、「正月のお祓い行事」が行われたが、この”「疫病を祓う役」”が決められていた。

”官吏「方相氏」”
以上が専門に「朝廷の役」として司って来た。

しかし、その役目は、その後に「毘沙門天と竜天」が行うと成った事から、次ぎの役目が加わった。

「無病息災の神」(4)

(3)>(1,2)+(4)
という事に成り一面も加わって複雑な神と成って仕舞った。

・平安末期
平安時代末期には、庶民は、”悪を祓い睨みを利かす”として、都合よく考えた。

「戎の本仏」(5)

結局のところが、「市民化」が起こって、次ぎの様に成って仕舞った。


(3)+(4)+(5)>(1)+(2)

・鎌倉期
鎌倉期には、時代を反映して、再び元の「武神」(3)が見直された。
日本では、その後、この(3)の”「毘沙門天」”には、”甲冑をつけた姿”が主流となった。
結局は、この姿は、最終、庶民の「戎神の古い形態」ともなったのである。
この事は鞍馬寺の「民の市場」で祀られたこととも関係があった。

(3)<(1)+(2)+(4)+(5)

・室町期初期
こうして、”「密教の神格」”であったにも関わらず、「庶民信仰」に依って、何時しか(3)「福財神」と、(1)「武神」とに加え、(5)「戎神」と、(7)「生活神」と、甲冑を着した(2)「守護神」しての ”「毘沙門天」”と成ったのである。

「生活の神」(7)

(3)<(1)+(2)+(4)+(5)+(7)

・室町期末期
そして、室町時代末期には日本独自の信仰として発展し「七福神の一尊」に組み込まれた。

(1)+(2)+(3)+(4)+(5)+(7)=「七福神」

・江戸期初期
こおなれば、江戸時代以降には、更に進んで、特に、”「勝負事」”にご利益あるとして崇められた。

”「勝負神」(6)”

の通称羽、”「尚武様」”として祭られた。

(1)+(2)+(3)+(4)+(5)+(6)+(7)=「毘沙門天」の神格

最早、「万能の神格化」してしまったのである。

この頃から、”「毘沙門信仰」”は、本来の「密教」から離れ、独り歩きして各地には「密教外の宗派」も、この「毘沙門像」の造像を施して、信者獲得に走った。

・江戸期中期
その結果、「義経ー弁慶像」と「毘沙門天像」と重ね合わせて身近な者で「信仰対象」を同化させてしまったのである。

「義経−弁慶像」=「毘沙門天像」

何時しか、この「毘沙門天像」も消え、極端な”「判官贔屓」”が起こり、「義経ー弁慶像」を祭祀に使う様に成ったのである。

(1)+(2)+(3)+(4)+(5)+(6)+(7)>「義経−弁慶像」=(「毘沙門天」の神格)

以上が、「毘沙門信仰の経緯」である。

注釈
上記した”「方相氏」”とは、次ぎの事である。

方相氏(ほうそうし)と呼ばれる”鬼を払う役目を負った官吏”がいた。
役職は「大舎人(おおとねり)」と呼ばれた。
この”「方相氏」”の脇に仕える”「振子(しんし)」”と呼ばれる{無役の官吏の20人}で、大内裏の中を掛け声を掛けつつ「厄払い」をしたとの記録がある。
この「方相氏」の「技能役人」は、「節分」の時には、特に「玄衣朱裳の袍(ほう)」を着て、金色の目4つ持った面をつけて、右手に矛、左手に大きな楯を持った形相をした「方相氏」が大内裏を警護して回った。
その時、「公卿衆」は、清涼殿の階から弓矢をもって「方相氏」を援護として弓をひき、「殿上人」は「振鼓(でんでん太鼓)」を振って「厄」を払ったと記録にある。
ところが、歴史的に更に良く調べると、9世紀中頃に入ると、「毘沙門天像」が一般にも出て来て、「鬼を払う役目」を担い、「鬼を追う側の役目」であった「方相氏」が、逆に「鬼の役回り」に成って追われるように慣習が変わってしまったのである。

つまり、これが「宮廷の節分の行事」であった。

つまり、”「古来の宗教の和魂荒魂」”の「荒魂」の「悪神部分」を祭祀に依って取り除けば、”「荒魂」”も逆に”「荒神」”を追い払い、”「守護神」”に成れるとする概念に変わったのである。

これは「神仏習合の結果」であった。
この「神仏習合」は、”「庶民の顕教でも無い信仰体」を作り上げた結果”が招いたものであった。
「密教」でありながら”「密教」”でも無く、且つ”「顕教」”でも無い、”「古来宗教」”でも無い”「庶民信仰体」”が作り上げられたのである。

この結果、この「庶民信仰」が、「朝廷の儀式」の中にまで浸透して行って、「方相氏」が「荒魂の悪神の厄払い」を務めていたのに、今度はこの影響で、”「毘沙門天」”が守護神と成って「悪神」を追い祓う役を担う事になってしまった。
「方相氏」が、その「悪信の役」を務めると云う奇妙な事が起こったのである。

百々の詰まりは、これが、

”「朝廷の節会」”

以上と成った。
融合して再び、次ぎの様に変わった。

”「庶民の節分」”

以上と成った。

つまりは、庶民の元へ戻って来たと云う事である。

これが「神仏習合」で突然に現れた”「密教の毘沙門天」”であり、この「毘沙門天」は、この様な家系で以って「上層階級」と「庶民」の間に瞬く間に広がりを見せたのである。

その「広がりの仕方」が、次ぎの様なものであった。

上層階級には、”「武神、財福の神、守護神」”の「三神」として、
庶民階級には、”「戎神、生活神、勝負神」”の「三神」として

以上の様な奇妙な広がりを見せたのである。

そもそも、”「密教寺の仏格」”であるのに”「神社の神格」”なのである。

「密教寺の仏閣=「神社の神格」

ところが、「青木氏」は、そもそも、”賜姓族の「三つの発祥源」”として、”「密教の武神」”を祭祀する役は主務である事から、この”「毘沙門天」”を奈良期より独自に祭祀して来たものである。

”「密教」の「宇宙仏の大日如来仏」”を祭祀しながら、”「毘沙門天」”だけは、”「密教」”では無い”「神格の毘沙門天」”が出て来て、周囲との間には、「違和感」が生まれたのである。

「青木氏の守護神」である”「祖先神の本尊」”とした。
「賜姓族の役」としての ”「武神」”とした。
「平安期」からは「二足の草鞋策」としての ”「戎神」”とした。
「氏存続」としての”「財福神」”とした

以上の四状況でも祭祀されていた。

「大日如来坐像」と「祖先神ー神明社」の「神仏習合」であった事も加え、「密教の毘沙門天像」は、「本尊」は元より、この「三つの神格」を以って積極的に祭祀されたのである。
上記した様に、「四つの氏」の顔を持つ「青木氏」に取っては、この”「毘沙門天の変遷」”は、考え方に依っては ”「四つの顔」を一つの形に融合させる”のに返って都合が良かったと観られる。

この”「毘沙門天」”も、その意味で”「賜姓五役」”を果たせた所以でもある。

しかし、その「庶民の発祥元」が、「鞍馬山」からであった事から、”「戎神」「生活神」「勝負神」”が付け加えられて行ったのである。
この”「庶民の三格神」”は、「青木氏」に取っては直接的なものでは無かった。
しかし、”「賜姓五役」”を果たす上での”「四つの氏の立場」”を演じるには、直接「庶民との関係」を持つ事からすると、極めて都合が良かったと考えられる。
特に、上記した”「和紙の改革」”では、”無くてはならない要素”であったと位置づけられる。

筆者は、「毘沙門天」を「青木氏」が祭祀している事が、”強く受け入れられる要素”と成ったと評価していて、”なくてはならないものであった”と位置づけている。
「青木氏菩提寺」に安置されていたこの”「毘沙門天」”が、「鞍馬寺」の様に、”「庶民の願い」(「戎神」「生活神」「勝負神」)”を受け止める役割を果たして、より「庶民との接点」を強く持てるものであったと評価している。
単純に、「密教」だから「青木氏」だからとして、この”「毘沙門天」”をただ祭祀していたのでは無い事を物語っている。

それは、上記した様に、次ぎの数式論の中にあったからである。

”「宗教」<=「生活」の環境”

以上にあったからである。

これが、以下の数式論で成り立っていた場合は違っていたであろう。

”「宗教」≠「生活」の環境”

以上であったなら、むしろ逆効果であっただろう。

ところが、江戸時代には、むしろ「庶民の文化」として、「鞍馬山」から発展して、”「武神としての義経の神格化」”と”「弁慶の尚武様見立て」”の現象が起こった。
そして、次第に”「毘沙門天」”から離れて、江戸期には身近な「義経ー弁慶像」に特化して発展した。

丁度、この直前に、青木氏の”「毘沙門天像」”等は、青木氏菩提寺から伊勢松阪の居宅を経由して新宮の別宅に移されている。

「信長の伊勢三乱の攻め」の「戦乱の災禍」を避ける為ではあったとされているが、その原因もあったろう。
むしろ、”「庶民との繋がりの「毘沙門天の役割」”も、低下した事も原因しているとも観ているのである。
長らく「青木氏菩提寺」に祭祀して、、”「宗教」<=「生活」の環境”の「庶民との繋がりの源」として”鞍馬山の様に”安置されていたが、「義経ー弁慶の特化現象」もあって、最早、”「青木氏の毘沙門天」に戻した”と観ている。

その証拠には、「義経ー弁慶の特化」とは別に、青木氏の「毘沙門天」に対する状況は大きく変化しているのである。
それは、実は、庶民の間で、「義経ー弁慶の特化」と共に、”「古来の宗教」から生まれた「和魂荒魂」”の習合信仰体の”「三宝荒神様」”と、庶民が習合した”「地荒神様」”が「毘沙門天」と習合して、”「荒神さん」成る信仰体”が、江戸期に入って見直されたのである。

「道祖神」や「産土神」として庶民の中に”「庶民の護り本尊」”であるかの様に、生活に密着して爆発的に広まった。

これは「義経ー弁慶の特化」が原因していると観ている。

この「特化現象」には「特別な現象」が起こったのである。
「特化現象」が起こる位であるから、それなりにその「特化エネルギー」が必要である。
その「エネルギー源」として「顕教の武士集団」が、「毘沙門天信仰」に食い込んで来たのである。
そして、その「神格偶像」が、何時しか「毘沙門天」ではなく、自分たちの身近な「理想的偶像」を「仏格」に置いたのである。
それが「義経ー弁慶」であった。

結局、「武士の信仰体」として席巻した為に、「密教、顕教」の何れにも属さない「庶民の無派閥な信仰体」のイメージが薄らいだのであろう。
”薄らいだ”と云うよりも、”排除排斥した”と云うのが正しいのではないだろうか。
そもそも、「密教」で在った時は「武家の守護神」であった。
それが、”全て「仏教」は「顕教」とする”とした「家康の宗教令」で、「特定の氏」のものでは無く成った。

「一般武士の守護神」と成った事で、「密教の毘沙門像」は「顕教の毘沙門像」と変化した。

「神格化像」としてはそのままに、より”「義経ー弁慶像」”を身近に”「武士の崇拝偶像」”として引き出して、”新しい現実味のある「崇拝偶像」”を作り出したのである。
”「義経ー弁慶像」”=”「武士の崇拝偶像」”

これに、「別の三神格」で庶民が関わる事に、武士は抵抗した。
封建社会がより強く成った社会でもあって、共有する事に嫌ったのである。
自らの「武士の崇拝偶像」が薄らぎ穢れると考えた。

毘沙門天から発展した「武士の崇拝偶像」の「悪神」を取り除いた「地荒神信仰」を復活させたのである。
「毘沙門天」>「武士の崇拝偶像」(悪神)<「地荒神信仰」
今度こそ、”「庶民の守護神」”として位置づけたのである。

これが江戸初期頃から興った”「毘沙門天の変遷」”であった。

「青木氏」は、この「二つの現象」を横目で見ながら頑なに、”「密教の毘沙門天の信仰」”を続けたのである。


「毘沙門天像の3信仰集団」
そもそも、「毘沙門天像」の信仰集団には次ぎの様なものがあった。

イ 「三大密教宗派」を「信仰する限られた氏族」の「武神ー財福神ー守護神」の信仰集団
ロ 「庶民の信仰対象」の「戎神ー無病息災神ー勝負神」の信仰集団

以上の「二つの毘沙門信仰の流れ」が同時に起こっていたのである。

ハ 特に、ロには、「勝負神」を信仰体として密教外の武士階級の別派の信仰集団

以上のイとロに、ハが加わった。

然し、「現世と彼世の連携概念」と「道標行燈」等の青木氏が継承して来た「密教所作」は、ロとハの集団には流布し伝わらなかった。
筆者の家の「毘沙門天像」は、 「木彫刻」のものであった事が、明治期35年に消失した事が伝えられている。
ところが、「義経ー弁慶像」を身近にした「武士の崇拝偶像」の「節句の人形像」は、上記のロとハの「逆の流布」が起こっていた。
江戸期に成って、武士の「顕教の武神、守護神、財福神」の「崇拝偶像」が、「密教の毘沙門天」を祭祀する青木氏にも、「義経ー弁慶像」の形として伝わっていた事が判っている。
故に、「義経ー弁慶像」が江戸期から居宅側にも存在したのである。

この事は”一体何を意味するのか”「伝統の変遷」として検証して置く必要がある。

「青木氏の崇拝偶像」
「義経ー弁慶像」は、「節句の人形像」と云う扱いよりは、「護り本尊」、即ち、”「神仏合体」の「青木氏の守護神」”として祭祀されていたのである。
実は、伊勢と信濃の「青木氏」には、1180年代前後に、「清和源氏の宗家」の四家から、跡目が入っている。
「伊勢青木氏」には、清和源氏(摂津源氏 頼光系)の「源頼政」の孫(仲綱の子)三男の京綱が跡目に入っている。
この事から、「密教の毘沙門天」だけに拘る事が出来ず、武士が「義経ー弁慶」を「顕教の崇拝偶像」とする以上は、祭祀する以外には収まらなかったと考えられる。
そこで、この事は、「伊勢の氏上様 御師様」としての立場があった事から周知であった。
その為に、「世間の非難」を受ける事になると考えたのではないか観られる。
況して、菩提寺から引き揚げて居宅で「大日如来座像」と「毘沙門天像」を祭祀している。
「賜姓五役」の「武家の発祥源」の立場を持っていれば、「義経」は「河内源氏」だからと「内家の理由」を付けても納得が得られるものでは無かった筈で在る。
従って、「顕教の義経ー弁慶像」も祭祀せざるを得なかったのである。

ただ、問題は”どの様に祭祀するか”であった事に成る。
「護り本尊」は避けられるものでは無い。
しかし、遺された文書には、”「節句の人形像」”と云う表現を採っている。
つまり、「節句の意味」と「人形像の意味」をどの様に理解するかにある。
「密教の毘沙門天像」と全く同じ扱いとする事は出来なかった筈である。
これは、”節句の時に祭祀する慣習”であり、「密教」である限り、”「顕教の人形像」の扱い”として、”それなりに祭祀せよ”との「間接的な言い伝え事項」としたと判断できる。


もう一つは、「戎神ー無病息災神ー勝負神」は、別の顔の「商いの青木氏」に取っても見逃す事の出来ない「神格信仰体」であったからであろう。
この扱いは”一体どのような扱い”であったのであろう。
当然に、[別の顔の商いの青木氏」の中での扱いとなろう。
兎も角も、「賜姓族」での扱いでは無かった筈である。
これは、口伝であるが、「庶民の毘沙門天の三格神」には、1月と4月には、商いの関係者や一族や縁者や家人や小作人や近隣の住人を招いて盛大に、「毘沙門天像」を公開し、「祝いの宴」を開いたとされ、「甘酒」を振る舞い「紅白の餅」を配り、最後には花火を上げたと伝えられている。
(この「花火」は、「紙屋」が「松阪の花火大会」で上げていた。「花火庫」があった。)
「五月の節句の祭祀」にも同様の「祝いの宴」を催したと伝えられていて、近隣では有名であったと事が伝えられている。
松阪は元より玉城町は、町全体が青木氏の関係者の長屋と蔵群であったので、大変な宴で庶民は楽しみにしていたと伝えられている。
これは、堅苦しいものでは無く、現在で云えば、「町内の運動会」の様で、ゲームをし、景品を出しする雰囲気で在ったらしい。


恐らくは、正式には、江戸期前の菩提寺には「独尊像」(「武神」他の弁天像等の伴像は無かった)として安置され祭祀していた。
「毘沙門天像」は「青木氏のお仏像様」と対の「脇侍扱い」であった。

そうすると、室町期の「菩提寺」では、未だ正式に「毘沙門天像」が祭祀されていたので、江戸期の「居宅」では、「義経ー弁慶像」の人形が置かれていて、「節会」に取りだされていて祭祀に利用されていた事に成る。
この「義経ー弁慶像」の人形の初代は、江戸初期頃の家物であったのであろう。
江戸期には「居宅」には「お仏像様」が遺されていて、現在、「毘沙門天像」が遺されていないのは、元々何れも安置場所が、室町期末期の戦禍の時には、「菩提寺」に安置されていたからである。
その時に、「お仏像様」と共に運び出して「、居宅」に移して以後、新宮に移して再び戦禍が収まると居宅で祭祀したとされている。
従って、この江戸期前後頃から、「武士の崇拝偶像」としての「義経ー弁慶像」の初代があって、「菩提寺の毘沙門天像」も居宅に移した事から同時に祭祀されていた事に成る。
ただ、「祭祀の仕方」に同じでは無く差違はあった事が判る。

注釈
(「青木氏菩提寺」は、室町期末期と明治35年の2度の戦禍の大火を受けて消失している。
現在の菩提寺は3度目の建立と成る。
この「毘沙門天像」は「明治期の消失」によるが、「お仏像様」だけは消失を免れた。
「伊勢青木氏」に取っては、「大日如来座像のお仏像様」と「毘沙門天像」は、「絶対的な信仰の対象」であった。
何故、「毘沙門天像」だけが消失したのかは、疑問であるが、これには、祖父と父の口伝によると、一度、外の道路に家人が運び出したが、家長の長兵衛が、”自分の家の物だけが助かるのは忍びない”として、家の中に戻したとと伝えられている。
「お仏像様」は別の所に運び置かれていて消失は免れたと伝えられている。
この明治期に共に消失した「毘沙門天像」と「義経ー弁慶像」(初代)に代わって、用いた「義経ー弁慶像」(二代目)の造像物と成るが、「毘沙門天像」の様に祭祀されていなく、「端午の節会」にのみ飾ったとされている。
現在もこの二代目は保有している。)

上記の「伝統3」(青木氏の分布と子孫力−12)に論じた作法は、この時に「菩提寺」で行っていた祭祀方法を「居宅」でそっくり踏襲したものである。
ただ、口伝によると、「灯明」は「菩提寺」から家に運び入れて、代々「道標行燈」に点けていた事が伝えられている。
中でも、「五月の節会」と「盆と彼岸と正月の節会」には、「菩提寺」から「導師」が来訪して祭祀していたと伝えられている。
この正式には、平成10年10月15日まで続いた。
その後、筆者がこの祭祀を引き継いでいた。
つまり、その「祭祀の名残」(下記)が現在に何とかその「最低限の作法」で遺されているのである。
忘れ去られる前にこの様にして文書にして遺している。
「茶釜の作法」は、「囲炉裏」をしまい込んでいる為に、諸道具は遺されているが、「実際の擬音」を出すまでには至っておらず、形式的な諸道具の仏前に供えるだけに終わっている。

それまでは、次ぎの通りの祭祀である。
青木氏の役の「武神」、
賜姓族の「守護神」、
青木氏の「財福神」

以上の「三神格」として、「伊勢青木氏」が祭る儀式に「毘沙門天像」が用いられていたのである。

そして、この祭祀には、「現世の者」、「彼世の者」が一堂に集い、その道標としての「道標行燈」が用いられたものである。

この”「道標行燈」”が、象徴的な形で遺された”「古代密教的な仏教作法」”なのである。
恐らくは、鞍馬山を拠点として「毘沙門天」が平安期から江戸期までも民にも神格化されて慕われ続いた。

一方、この密教の”「道標行燈」の風習”には次ぎの事があった。

(流布−1)
”「青木氏」が「古代密教浄土宗」であった事”
”「毘沙門天」そのものが「古代密教の信仰体」であった事”

以上の事から、青木氏外には一般的には用いられていないと考えられる。 

(流布−2)
「嵯峨期の詔勅」に伴う「禁令」にて、その「青木氏の一連の習慣」が、明治初期まで禁じられ護られていた事から、「毘沙門天の神格化」が、平安期から徐々に庶民化しても、この「青木氏の道標行燈の習慣」は伝わらなかったと観られる。
それは、「毘沙門天」の「6つの神格化」の内、3つは本来の「青木氏の神格化」であり、残りの3つの神格化は庶民のものであった事から、前者の「道標行燈の習慣」は移動しなかったと考えられる。

(流布−3)
それと、室町期末期には、遂には毘沙門天も「七福神の一尊」に加えられた事もあり、更には、江戸期には、庶民の発想の鞍馬山と、一般武士から「義経ー弁慶像」に特化した事が原因しているのではないかと考えられる。
故に、「義経ー弁慶像の神格化」も原因して、一般には、「毘沙門天」に依る祭祀の「現世の者、彼世の者」の一堂に会する”とする「考え方」(密教概念)は生まれず、且つ、その「道標行燈の作法」も生まれなかったのである。

(流布−4)
「青木氏の祭祀」には、”「現世の者、彼世の者」の一堂に会する”とする「考え方の概念」は、「節句、盆、暮、彼岸等の祭祀」以外には表現する事が無かった事が、一般にも広がる概念とは成らなかったのであろう。
(むしろ、逆に青木氏の方に流布が起こって融合したと観る方が正しい。)
仮に流布して広まったとしても、一般にこの「密教の所作」は同化する事は出来なかったと考えられる。

(流布−0)
それは、矢張り、何をともあれ、根本的には”「密教の考え方」「密教の習慣」”が大きく左右したのである。
そもそも、「密教仏像」である事が根本的な流布に至らなかった原因であろう
江戸期に興った「顕教仏像」であれば、「考え方の概念」と「毘沙門天の神格化」は違った形を見せたであろう。


そこで、次ぎにこの「毘沙門天」の「密教仏教性」を論じて観る。
「青木氏の古代仏教の密教性」(浄土宗密教までの間)がどの様なものであったのかを検証する。

参考
そもそも「密教の毘沙門天像の姿」には、次ぎの「四つの条件」が伴う。

第一に、「三昧耶形」(「密教仏教」を表すが道具)
第二に、「宝棒」(仏敵を打ち据える護法の棍棒)
第三に、「宝塔」(珍宝を納めて置く仏舎 魔除塔)
第四に、「密教氏」独自の表現(悪神を祓う仏具)

これ以外に、はっきりした規定はなく、様々な表現があるとされている。

これは、「毘沙門天像」は「密教仏像」であったことから、「3大密教の考え方」が色濃く出たものである。

3大密教の考え方

A 浄土宗密教は「大日如来仏」の「雄弁の仏」 極めて密教性が強い概念ー密教の母体
B 天台宗密教は「毘盧舎那仏」の「無言の仏」 殆どは顕教性が強い概念ー顕教の母体
C 真言宗密教は「大乗仏教」の「教義」    「波羅蜜の顕教」と「真言の密教」の合体

注釈
(「平安期の密教論争」では、BとCは、そもそも「顕教の宇宙仏の毘盧舎那仏」を基本にして釈迦の法華経を仲介に「密教の教義」を作り上げている。
しかし、Aは完全な「密教の宇宙仏の大日如来仏」を基本にしていて、”密教そのものの教義”を作り上げている。
ここが根本的に異なっている。
従って、BとCは、Aの「古代仏教」を根幹とする浄土宗を「密教」と認めない論調を採る。
「古代仏教」を背負うAはその概念やその慣習の中に顕教性が全くない。
当に「伝統ー達親」で論じた内容がその典型的な概念の見本である。

BとCは、「顕教性の概念と習慣」の上に「密教性」を採ると云うものである。 
平安期に起こった「密教論争」は当にこの点の論争であった。
真言宗の外来性の強い「大乗仏教」に対比して「小乗仏教」もある。)

「密教の毘沙門天」を、このAとBとCの「密教の概念」で観た場合は、当然に大きく異なる。
我々、「青木氏」は、「密教の宇宙仏の大日如来仏」を祭祀して、この「Aの密教の毘沙門天」の考え方を採っている。

日本では、「毘沙門天像」は、一般に「革製の甲冑」を身に着けた唐代の「武将風の姿」で表されている事が多い。
(九州自治を納めた「大蔵種材」をモデルにした影響が形に成っている。)
また、「荒魂」の「悪神」(浄土密教では「邪鬼」と呼ばれる「鬼形の像」の上に乗る)を足で抑え込む形を採る事が多い。

この辺は、”何にするかはどうするか”は、第四の「密教氏の裁量の範囲」である。

「青木氏密教」では、「最良の範囲」として「大蛙の彫刻物」が添えられている。
これは、「大蛙」は「神の使い」であるとの「古来の伝説」に従ったものである。

又、第一の「三昧耶形」でも「密教氏の裁量」が表現される。
この様な「裁量の範囲」の内容を具に観れば、それによって、その「密教氏」が、”どの様な考え方や概念を持っていたか”が判るのである。

上記で論じて来た「青木氏の密教の概念」、況や、”この様に生きたい”とする「青木氏の生き様」が、この「毘沙門天像の第一から第四」までの事を租借すれば理解できる。
否、”この様に「青木氏」は在りたい、生き続けたい”とする考えを表す「仏具」を添えて、それに願いを込め念じて祭祀していた事に成る。
「毘沙門天」とは、その様な「氏の願い」を聞き入れ叶え護る「神格仏」である。

第一の「三昧耶形」の「複数の仏具」を観れば、「累代の先祖」が、”その時代にどの様なその思いを込めて願って祭祀していたか”が良く判るのである。
この「仏具」には、一度に「三昧耶形としての仏具」としたのではなく、”青木氏に起こったある事柄”を、その都度に表現したと観られ、”時代性のある事”を感じられる。

因みに、「青木氏密教」には、”どの様な仏具があるか”例を挙げて観る。
(写真転付が一枚に限られているので、何時か改めてまとめて投稿する。)

これらは「仏具飾棚」があってそこに祭祀展示している。
「武神」には、「刀掛」
「守護神」には、「馬杯」
「財福神」には、「宝塔」(玉)
「戎神」には、「薬籠」
「無病息災神」には、「六瓢箪」
「勝負神」には、「軍配」

何れも古代の先祖が使った「伝来の実物」である。

この内容を観る事に依って、青木氏が ”どの様な「密教概念」を持っていたか”が判るのである。

参考
「鎧兜」は「青木氏の戒律」の「禁手」で祭祀し飾る事は敢えてしていない。
以上の「六神格の内容」を観ても判るが、「賜姓五役」「密教青木氏」を護る上で、「戦い」を前提とする「解決方法」を好しとせず、下記の「象徴言」にて解決する事を「氏の戒律」としていた。
依って、「鎧兜」は「戦いの象徴」であるによって祭祀や飾る事は禁止していた。
上記の「六仏具」の「密教の三昧耶形」は、その立場から判断すれば、それなりに意味を以て納得出来る。
例えば、「刀掛」には刀はない。伝来の刀は10振りあった。刀は鎧兜と類を同じくする。
しかし、「武家の発祥源」、「侍の発祥源」ではある。
「刀掛」と「刀」は一対、しかし、「戦い」は「賜姓族」としては法度とする。
つまり「武」とは「刀掛」であると諭している。
「刀」を「殺傷の刀」に頼って常に振り回しているのは「武家としての立場」では無いとしたのであろう。
大事なのはその基と成るものが大事な事であると諭しているのである。
刀は「武士」であってもそれは「武家」では無いとする諭しである。
「武家」は「刀」だけで解決するものでは無く、”「知略」を以って事を成すべきだ”と諭しているのである。
「刀」は「刀掛」なくしては治め処が無くは成り立たない。
「刀の解決」も「知略」の上に成り立つ”としているのである。
”「武士」”である事の前に”「武家」”である事を”肝に銘じよ”としているのである。
この事は「家訓10訓」に色濃く出ている。
後の「三昧耶形」も、事ほど左様に、物語っている。


注釈
(筆者は、「子孫存続」を危ぶまれる程の、可成り”波乱万丈の生き様であった”と観ている。
その「密教の生き様の戒め」には、”世に晒す事無かれ、何れ一利無し” 然すれども ”世に憚る事無かれ、何れ一利無し”に込められていると理解している。
これは、現代に於いても云える事であると考える。
これが当に「密教青木氏の伝統」の「象徴言」であろう。
後世に遺したい「伝統の戒言」である。)

それは、「密教氏青木氏」としては、「賜姓五役の遂行」と「子孫存続」であったと理解している。
それが「毘沙門天」の「三神格の武神、守護神、財福神」であって、別の顔の「商いの氏」としては、「戎神、無病息災神、勝負神の三神格」であった事に成る。
「毘沙門天」にこの願いを込めたのであろう事が判る。

「毘沙門天像」には、この様な「酌量の余地」を残しているのは、「密教性を自由に表現できる余地」を残している事に成る。
これは、「毘沙門天像」が「和魂荒魂の古代宗教」との「習合性」を持たす事に依って「仏教の浸透力」を高めようとした所以であろう。
(現実に「三宝荒神像」と同化した。)



「伝統10」に続く


  [No.327] Re:「青木氏の伝統 10」−「密教概念」(毘沙門天から観る概念)
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/01/13(Tue) 09:14:13

> 前回の末尾

>「密教氏青木氏」としては、「賜姓五役の遂行」と「子孫存続」であったと理解している。
>それが「毘沙門天」の「三神格の武神、守護神、財福神」であって、別の顔の「商いの氏」としては、「戎神、無病息災神、勝負神の三神格」であった事に成る。
>「毘沙門天」にこの願いを込めたのであろう事が判る。

>「毘沙門天像」には、この様な「酌量の余地」を残しているのは、「密教性を自由に表現できる余地」を残している事に成る。
>これは、「毘沙門天像」が「和魂荒魂の古代宗教」との「習合性」を持たす事に依って「仏教の浸透力」を高めようとした所以であろう。(現実に「三宝荒神像」と同化した。)






「伝統 10」


「密教概念」(毘沙門天から観る概念)
記録によると、「阿多倍王」の子孫の九州の太宰大監の「大蔵種材」は、当代の豪傑であった事からこの”「毘沙門天像」のモデル”と成ったと記録されている。
又、実質にもそのような人物であったとして、朝廷と歴代天皇は、「錦の御旗」と「遠の朝廷」を個人に与えた唯一の人物でもあった。
古今東西で、正式に個人と団体にこの称号を賜ったものは現在までいないのである。

例えば、仏教の「両界曼荼羅」の絵では、の「大蔵種材」がモデルと成って、甲冑に身を固めて、右手は宝棒、左手は宝塔を捧げ持つ姿で描かれている。
これは「古代密教浄土宗の様式」である。
然し、ところが「東大寺」(戒壇堂)の「四天王像」では、逆に右手に宝塔を捧げ持ち、左手で宝棒を握る姿で造像されている。
これは「古代密教浄土宗」と異なる宗教概念であった事を物語る。

奈良の「當麻寺」でも同様に右手で宝塔を捧げ持っている。
他に、西洋の影響を受けて「三叉戟」を持つ造形例もある。

例えば、京都の「三室戸寺像」などは、「宝塔」を持たず片手を腰に当て片手に「三叉戟」を持つ姿である。
これは明らかに外来の「大乗仏教」の影響を受けている事が判る。

これらは、「密教像」であったことが、「3大密教の考え方」を受けて、その表現方法が大きく変わったと観られる。
中でも真言宗高野山の「毘沙門天像」は外来の「大乗仏教」のその宗派の影響を強く受けている。

ここで、これらの「密教の考え方」をはっきりさせる事がある。
それは「宝塔」の意義である。
そもそも、「宝塔」とは、本来は「経典」を納める塔で、円筒の塔に一重庇の持つ塔で、BとCでは、この円筒の中に「釈迦の法華経典」が納められる。
(Aは異なる)
これは、「宇宙仏の毘盧舎那仏の教え」を「釈迦」が仲介して教え伝えると云う事から、「釈迦の法華法典」を「宝塔」に納めると云う教義を採っていて、これは殆ど「顕教」である。
しかし、これが「天台密教」だとしている。
しかし、「天台宗」は「宇宙仏」の「毘盧舎那仏」を本尊としている限りは「顕教」である。
「顕教」だけれど、「密教」だとする中間説であろう。
当時、平安期には、「天台宗」は「顕教」では「高位の信者」を集められないところから、「密教の考え方の概念」も交えて「門跡者」や「公家衆の信者」を多く獲得していた。

一方、「Aの密教浄土宗」では、「宝塔」には「仏教に関わる珍物」を入れた。
「宝塔」には、Aでは「仏舎」を形採ったとして”「仏教の珍物」”即ち、その氏が指し示す概念の物を入れた。
多くは「密教氏の武家」が入信したのである。
「青木氏」等「密教氏」では、「宇宙仏」の「大日如来仏」である事から、「自然物としての宝」即ち「玉」(青木氏は黄玉石)」を入れた。(現有)
そして「達親の論文」でも論じた様に、完全な「密教概念のシステム」を採った。

「Aの密教浄土宗」では、この「宝塔」を形採ったものをこれを”「左」”に持つ。
「左」と云う字句に意味を強く持ち、その「宝塔」の中味にも意味を強く持たしたのである。
この「宝塔の作法」として現在も遺されているのは、法事などに戒名等を書き示される「塔婆」はこの作法の一つである。
「塔婆」に書き記された「戒名」を”「密教の毘沙門天」が守護する”と云う意味合いを持っている。
(顕教に成った現在でも、この塔婆の仕来りは護られている)
従って、この「宝塔」は、その氏が「主張する概念」を指し示す。
これが「密教」である。”主張出来る得る仏教概念”と云える。

更に、「宝棒」は「悪」を打ち据える「棒」を意味する。
これを「右の手」に持つ事は「右」の意味を重視しているに関わる。

つまり、概して次の様な論説に成る。
仏教では、「左右」は、「左」を優位とし、「右」をその「相対の位」にあるとする。
つまり、「天台宗密教」では、左に「法華経典」を持つ事は、「法華経典」で以って優位して「現世」を治め、左に持つ「法棒」(宝棒)で以って「現世の悪」を打ち砕くと説いている事に成る。
その「神格」が「毘沙門天」であるとする考え方である。
この様に、「宝棒」や「宝塔」の持つ方が左右の何れにか依って治める優位が変わる。
「左右」のみならず「持つ物」と「持つ物の有無」に依っても、「その意味の度合い」が変わってくる。
要するに、「法華経」の「法」(宝塔)を以って「令」を成し、世を治め、「罰」(宝棒)を以って「律」する。と云う概念である。

事ほど左様に、別論文の「伝統2」で論じた様な「密教の仏法作法」が遺されている所以なのである。

故に、「賜姓青木氏」では、「古代密教浄土宗」であった事から、「大日如来坐像」の「お仏像様」を「護り本尊」の主尊(法華)として、「毘沙門天像」を「武神・守護神」の側尊(悪を罰する武)の「独尊像」として一対としていたのである。

「青木氏の密教概念」は、次ぎの通りである。
左に「宝塔」、右に「宝棒」、足元には「邪鬼」を踏みつけ、「大蛙」を「使い」として仕えている「造像」である。
そして、この「宝塔」には「玉」を納めている。
要するに、「地上の玉」(宝塔)を以って世を治め、「罰」(宝棒)を以って「悪」を捉え律し、「如来の使い」を通して「法華」を指し示す。と云う概念である。

つまり、「地上の玉」(宝塔)、即ち「天皇の威徳光」を以つて世を治め、「罰」(宝棒)を以って「邪悪」を抑え込み、依って律する世を作り、「如来使」(大蛙)の法華(「令」)で「現世」を作る。
そして、その「法華の世」は「現世の者」と「彼世の者」とに依って治められる。

これが「青木氏の毘沙門天像」が指し示す「青木氏の密教概念」であると「古代密教」は説いているのである。

況や、「古代宗教」の「習合化の影響」が働いて「自然神の概念」に近い。
これが「古代密教浄土宗の概念」でもある。

既に、他の密教との差違はお判りと思うが、上記した様に、これに比して、天台宗系列の「毘沙門天像」が指し示す「天台宗密教の概念」とは、現世を治める概念が著しく異なっている。
ここには、次ぎの違いがある。
「古代宗教」(自然神と和魂荒魂との習合)が他二つの密教には無い事。
「法華経」が存在するが、「玉」としての「天皇の位置づけ」は無い事。
「律と令」の「律の処し方」と「令の治め方」も異なっている事。
「令」には「如来の万能神の使い」の有無が異なる事。

要するに、「天台密教の概念」は、「法華経」の「法」(宝塔)を以って「令」を成し、世を治め、「罰」(宝棒)を以って律する。と云う概念である。
これは、「釈迦」が説く「法華経」を下に単純な「律令の世の概念」である。
「外来の概念の影響」を受けて合理的に成った概念に近く、最早、「顕教」でもある。

ここで、疑問点がある。
「天台密教」が指し示す概念には、次ぎの様な事の違和感の差違がある。
”「天皇の威徳」が概念の中に無い事。”
”且つ、顕教的密教である事。”
しかし、この”信者の多くは「公家」と「門跡者」である事。
当に、体制側を構成している者達である。

「天皇の威徳」のを概念の中央に据えていない天台宗密教である。
その密教の信者とは納得がいかない。自らの立場を”密教と云う立場”で否定している事に成る。
本来であるのなら、「真人族」と「公家」と「門跡者」等は、自らの体制派側にある筈である。
そうであるとするならば、”宝塔に玉”の「浄土宗密教」に入信する筈である。
ところが、「釈迦側・顕教側」に付き、「玉・密教側」の天皇側に入信していない。
これはおかしい現象である。
確かに、「朝臣族」は、「浄土宗密教」、「真人族」でも、皇位継承から外れ臣下した「青木氏族」は「浄土宗密教」に入信している。
もっと分けるとして、体制の「護り側」は「浄土宗密教」、「護らせ側」は「天台宗密教」と成る。
密教では逆の現象が起こっていた事に成る。一種の矛盾である。
確かに、この現象が起こっていたが在る。
例えば、「平等院」は「天台宗」と「浄土宗」の何れの密教宗派も院殿の形で取り入れている。
「信濃善光寺」も「天台宗」と「浄土宗」の密教宗派も院殿の形で取り入れている。
僧侶もこの比で抱えているのである。その僧侶もはっきりと分けられていて「公家や門跡者」は「天台宗側の僧侶」に、「朝臣族や真人族や宿禰族」からは「浄土宗側の僧侶」と成っている。
遺された記録からこの事が読み取れる。

では、何故に、密教の中で、この現象が明確に起こるのであろうか。
概念の中で何かがあるから起こっている。
この矛盾を解くとするならば次ぎの様に成る。

天台宗密教側から観た優位点
イ 「法華経」と云う物: ”「生きる道標」”を 文書で明文化して指し示していた事。
ロ 「釈迦像」と云う人: 現実にこの世に生きた神格仏の”「現実の崇拝偶像」”があった事。

天台宗観密教から観た劣位点
ハ 「天皇の威徳」:現実には天皇の象徴性が”「不完全な人間性」”を暴露している事。
ニ 「自然理」:自然の中から自らの切磋琢磨で”「理を悟る事」”には不安がある事。

「天台密教側を信じる者」には、「イとロの導き」があり、「ハとニには疑問と不安」が残る。
とすると、人は「天台密教」に傾くは必定であろう。
況や、「生きる道標」に ”自ら努力して苦労して悟れ”の「浄土密教」より、それの全てを「経」の文書として書き記されれる「天台密教」の方に傾くは「人の性」である。


ところが人の中には少ないが、「浄土密教側を信じる者」には、”「不完全な象徴」でもそれを盛り立て、「理想を描く文書」では無い「現実の社会」を見据えて、自らを磨き、「理」を悟り高めてこそ成し得る現世である”として「密教」を信じたとされる者もいる。

元より、”この世は、諸行無常、不完全、不条理である”とする前提を考える者が、信じる「浄土密教概念」である。況や、「積極的な概念」であろう。

元より、”この世は諸行無常、不完全、不条理である”からこそ、より確かな世を求めて「釈迦の法華経」を信じた「天台密教」である。況や、「消極的な概念」であろう。

この「世の態勢」は、「積極的概念」<「消極的概念」 であることは否めない。
突き詰めれば、「密教概念」<「顕教概念」である事にも成る。

「公家」「門跡者」も「人の子]右側に傾くはこの「世の常理」である。
況して、突き詰めて云えば、「門跡院」は天皇に成った者でもあるにせよ、将又、「公家」も「世の荒波」に「揉まれていない者」の「成れの果て」であろう。
何れの者であろうと、揉まれていない者達の辿る道は右辺側になるは必定である。

何れの側に生きようともそれは良し悪しでは無く「個人の裁量の範疇」であろう。
故に、「個人の裁量」を許してそれを概念とした「密教の所以」でもある。
ここが、”経典で人はこうであるべきだ”と諭す「顕教」とは異なる所以でもある。

我々青木氏は、上記数式の左辺側に居て生き延びて来た事を意味する。
その「個人の裁量の考え方、即ち、「密教概念の生き方」では大きく間違っていなかった事を指し示す。
そして、多くの殆どの氏族が完全滅亡した中で、その貴重な「子孫と伝統」を遺し得たのである。

「伊勢青木氏」に遺された「両界密教曼荼羅絵」から「密教曼荼羅絵の毘沙門天像」は「本来の密教の造像」である。
「伊勢青木氏」に遺された「両界密教曼荼羅絵」の中には、「真言宗高野山の曼荼羅絵」も遺されている。
「曼荼羅絵」は矢張り違っている。
仏画では「仏教の世界観」のその違いがはっきりと判る。
江戸期には高野山との付き合いがあり、その時に入手した「真言曼荼羅絵」で江戸中期から末期のものであろう。(先代まで総長との深い付き合いがあった)

多くの場合、「各仏の持物」がそのままその仏を象徴する「三昧耶形」となる。
「宝塔」の様に、意味を持っている。
例えば、次ぎの様に成る。
「不動明王」なら利剣(倶利伽羅剣)
「聖観音」なら蓮華、
「虚空蔵菩薩」なら如意宝珠
などの持意味のある持ち物の「仏具」(三昧耶形)を持っている。

また、「密教浄土宗」の「曼荼羅絵」では、通常、”持物を持たないとされる如来像”の場合は、特別の象徴物が「三昧耶形」とされる場合もある。
「大日如来仏」が「宝塔」を持つこともあるし、「印相」を以て「三昧耶形」とする場合もある。
何れの「密教の曼荼羅」などの「仏画」では、この様に「仏の絵姿」の代わりに「三昧耶形」(密教仏具)で描く事が多い。
つまり、「描く三昧耶形」でその「仏説」は異なるのである。
「密教曼荼羅絵の仏画」は、その「宗派の仏説」を良く表現出来るとして、上記した様に、「両界曼荼羅絵」が盛んに用いられる様に成った。
特に、上記で論じた様に、「浄土真宗」は、「密教」に拘らずその概念を最大限に表現でき自由に表現できるとして、この「曼荼羅絵」を全面的に用いた。
「仏画」が描く「仏像」が持つ「三昧耶形」にはそれなりの意味を持っている。
(しかし、これを全て説明していては文面に際限が無く成る。)
因みに、有名な処では次ぎの様なものがある。

安置形態
A 「毘沙門天」を中尊とし「吉祥天」と「善膩師童子」を脇侍とする「三尊形式の像」がある。
例えば、次ぎの様なものがある。
  奈良の「朝護孫子寺」、
  日本最初の毘沙門天の出現霊場の「信貴山奥の院」
  京都の「鞍馬寺」
  六甲山の「多聞寺」
  高知の「雪蹊寺」
以上がある。
B 毘沙門天と吉祥天を一対で安置するもの
  奈良の「法隆寺金堂像」
C 毘沙門天と不動明王を一対として安置するもの
  高野山の「金剛峯寺像」
などがある。
D 天台宗密教系の寺院では、「千手観音」を中尊として、両脇に「毘沙門天・不動明王」を安置す  る事も多い。
  明王院像、京都の「峰定寺像」
などがある。
E 但し、真言宗系寺院でもDの傾向が強い。

個々に解説する事は敢えて割愛するが、夫々の像の構成に依ってその宗派の「仏説概念」を持っている。

「青木氏の造像」は上記でも論じたが、次ぎの様に成る。
「伊勢青木氏」の「毘沙門天像」は、”「大日如来座像」と同時に一対”として、成り立っている。
これは「賜姓族の役」として、その意味を込めて「天智天皇」より賜姓時に賜ったものである。
「鞍作部止利」作の「大日如来座像」は、賜姓時に賜った事が記録されている。
恐らくは、この記録に付いての後の時代に描かれた「解説添書」(青木氏の事を知るに必要とする添書)には、「毘沙門天像」の事が書かれていない事への短い添え書きがある。
ここには「先祖の判断間違い」があったことが判っている。
この記録の文面の前後の文脈からよく見ると、「毘沙門天像」に付いての「単独記録」としてでは明確に成っていない事を懸念している内容であった。
しかし、これは上記の様に、各宗派の各寺の「仏像の保存の形態」から観ても判る様に、”その宗派の「仏説概念」を表すもの”である。
そうすると、 必ず”一対像”としての「仏説判断」から、当然の事として「青木氏の記録」が成されているのであって、「毘沙門天像」としての”単独の記録”は本来決して無いのである。
(世間では「毘沙門天像」が変遷の中で平安期には「独尊像」としての扱いを一時受けていた事が判る)

そもそも、「青木氏」は、「賜姓五役を果たす立場」にあって、「古代宗教(和魂荒魂)」と「古代仏教」とを習合させた「古代密教を形成する唯一の氏族」である。
従って、「独自の密教概念」を持つ「氏族」として、
イ 「青木氏密教」の「宇宙仏の大日如来仏」の造像
ロ 「青木氏密教」を守護する「代表的守護神の毘沙門天像」の造像、
このイとロの二つが「完全一対」である事が前提と成る。
ハ これに「邪鬼像」と「大蛙像」が付添する構成である。

(「密教概念の全体造像」としては「独尊像」としては構成しないのである。
但し、「守護神類の造像」としては「独尊像の形態」を採っている。
青木氏以外の多くは吉祥天像等の7天像と組んで安置構成するのが普通。)

況や、上記で論じた様に、「顕教の釈迦三尊像」の様に、その「宗派の概念」はセットで構成されるものである。
後刻「解説添書」に追記した「先祖」の「判断間違い」はここにあったのである。

(但し「判断間違い」かは定かでは無い。”「毘沙門天像」に特記するものは無い”として記しているのみである。)

「大日如来座像」は、「宇宙密教仏」である限りは論理的に「本来独尊像」は無いのである。
「青木氏」では、判り易く云えば、「毘沙門天像」が「顕教が構成する脇侍像」の役割として、同じ意味で祭祀されているものである。
同時に賜ったものを累代の先祖の誰かが、後に{独尊}として租借錯誤したとも観られる。

重複させるが、「青木氏密教」は、上記の通り、「大日如来座像」「毘沙門天像」「邪鬼像」「大蛙像]の「四つの造像」がセットになって成り立つ「密教概念」である。
「青木氏の密教」は「独尊」は成り立たないのである。

平安末期から「古代仏教の密教性」は「法然」によって普通の「密教」に変えられた。
鎌倉期に入って「密教氏」が滅亡衰退する中で「密教浄土宗」も当然に衰退して、「親鸞」によって顕教化されて「浄土真宗」に変化して布教がやっと広まった。
しかし、その時は、最早、「顕教」であった。

「青木氏の毘沙門天像」は「古代密教仏教」の「造像」であって、「甲冑」と、右手は「宝棒」、左手は「宝塔」の「古式の三昧耶形の造像」であった。

この事から、この「様式の造像」は、少なくとも「法然」の前の「古代密教」の「仏教の造像」であった事に成る。
とすれば、時期的には平安期前と成り、「大日如来座像」と同じく奈良期の「鞍作部止利」の作と成る。
つまり「3つの発祥源」として、その「三役」に合して「武神」:(侍)」「守護神」:(武家)」「財福神」:(臣下族)」の象徴としての同時に送られた「賜像物」と成る。
更には、「神仏習合の三宝荒神信仰」が、「青木氏」に成されている事は、奈良期から平安初期までの間となる。
従って、この「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」が、「神仏合体の象徴」として「重複習合」している事は、同時期である事が極めて高い事に成る。

注釈
「三宝荒神信仰」は、”「自然発生的に生まれた宗教概念」”とは思え無い。
筆者は、その「宗教の概念」の「合理性」や、「古代宗教」に合わせた「古代仏教」の「習合性」、などから観て、誰かがそれを主導して生まれ、上級階層の中に取り入れられたものと解釈している。
とすれば、その「主導役」を成せたのは明らかに”「賜姓五役」の「青木氏」”であったと観ている。
むしろ、「国策氏」として「その役」にあった。
「国策氏」として青木氏が存在するのに、「別の氏」が主導するとは、考え難い。
況してや、「朝廷機関」が公に「古代宗教」に新しく入った「古代仏教」を集合させる事を主導する事などあり得ない。
然りとて、「国家戦略」としては当面の「政情の事態」を安定化させる為には、「青木氏」をして「習合」を裏で画策する以外には無い。
だとすれば、「習合の大元」にあった「青木氏の毘沙門天像」は極めて重要な位置にあった事に成る。
「毘沙門天像」をも持ち得ていない氏がこの習合策を主導する事は先ずはあり得ない。
依って、「大日如来坐像」は「象徴像」であって、その意を戴して「毘沙門天像」が概念の実行を促す「尊像」であったと解している。
当に、この事は、「雄弁の仏」の「密教論理」が構成されていた事に成る。
つまり、「対の造像」なのである。
この「対の造像」を「賜姓物」として持ち得ていたからこそ、「錦の御旗」の様にして、「習合の主導役」を成し得たと考えられる。
平安期から起こり始めた「毘沙門天信仰の変遷」に対して、危機感を強く抱き、「古代宗教の和魂荒魂」から「三宝荒神信仰」を習合させて改めて興したのは、矢張りこれも「青木氏」であった事に成る。

「古代仏教に古代宗教」の「習合」の産物=「毘沙門天信仰」
「古代宗教に古代仏教」の「習合」の産物=「三宝荒神信仰」
「毘沙門天信仰」>=<「毘沙門天信仰」←「密教青木氏]

以上の数式論が成り立っていたと考えられる。

注釈
何故、この上記の注釈事項が極めて重要であるのに、これを「添書」などにどこも遺さなかったのかが疑問であった。

何かの形か書物や記録資料で遺されてはいたが、消失した可能性が高い。「密教性の高い慣習と仕来り」は遺されていたが、現在は判らない。
ただ、「仏画の曼荼羅絵」にその意味を認めている可能性があると観ている。
その理由は、注釈の通り、”「毘沙門天信仰」と「三宝荒神信仰」は「青木氏」が主導した”とは描き難い事で在ったのかなとも思える。
”先導した”又は、”扇動した”の立場は「当然の役」であった事に成るし、”扇動した”とも書き難かったとも思える。
恐らくは、この感覚は否定できないだろうから、だとすると、「仏画の曼荼羅絵」に表現したとするのが”順当の流れ”と成るだろう。
上記した様に「仏画曼荼羅絵」は、そもそも、青木氏は得意とするところであった。

その場合に描き込むとした場合は,”どうするであろうか。

役割からすると、”主導、先導、扇動の表現方法”は、絵では「起点」や「基盤」や「土台」の表現に、「青木氏の象徴」を絡めるものと成るのではないだろうか。
その目で、遺された二つの「両界曼荼羅絵」を観てみると、この密教の二つの絵に共通するものがある筈である。
「荒神像」と「毘沙門天像」とには、共通する画像には、”足元に雲海を漂せている事。”
もう一つは、「青木氏の象徴」を意味するものは何か。先ずは「笹竜胆紋」であろう。
その「雲海」の横には、鮮やかな水色の「竜胆の花葉」が掛かれている事。

以上、この2共通点である。

確かに、青木氏の描いた数多い「仏画の曼荼羅絵」を調べると、「淡雲」と「桔梗の花」か「水色竜胆の花」は描かれている事が多い。
これが、”青木氏の「主導」「先導」「扇動」の表現”ではないかと考える。

筆者は、”「左の宝塔に宝玉或は宝珠」の様な物を書き記しているのでは”と観ていたが、ところが、「青木氏の描いた多くの仏画曼荼羅絵」には出て来ない。

書き記し遺したとするならば、この「2共通点」であろう。
この「竜胆の花葉」が強く物語っていると観ている。
全体が、「薄茶色の色調」の中に、「水色の竜胆の花葉」は際立っている印象である。
「雲海」は、「両界」を描き表す時の画法でもあるが、敢えて「色調」が故意的に違う。

そもそも、この「曼荼羅絵」には、上記でも論じたが、「曼荼羅絵」には酌量の範囲が大きく認められている。

(a) 「三昧耶形の曼荼羅絵」 概念を仏具に表して描き込んでいる。(三宗の手法で表現)
(b) 「密教曼荼羅絵」     概念を立体的絵画的に概念の描き込み方をする。(浄土宗の手法)
(c) 「神道曼荼羅絵」     概念を風景や植物なども使って風景画の様に描き込んでいる。
(d) 「法曼荼羅絵」       概念を代表する文字等に特化し図案化している。(天台宗の手法)
(e) 「羯磨曼荼羅絵」     概念を平面に図案化せず彫刻化する。(真言宗の手法)

「天台宗密教や顕教系の曼荼羅絵は、釈迦と弟子達の図案化が主に描かれる。
しかし、「釈迦」を描かない「大日如来仏の密教」、中でも「浄土密教曼荼羅絵」には、「三次元的な空間」、或は、「立体的」に表現するのが特徴で、「絵画的表現性」を強く持っている。

ところが、「古代宗教」と「古代仏教」の影響を持つ「青木氏の浄土密教曼荼羅絵」には、ある特徴がある。

それは、「古代宗教の影響」を習合として受けているので、風景と植物を描く「神道曼荼羅絵」の(c)を加え、(a)も表現され、(b)で「立体的」に「絵画的」に表現されている。
従って、「青木氏の曼荼羅絵」は、「宝塔・宝玉」とか「風景」を描く様に、「雲海」とか「竜胆の花葉」が「立体的」に描かれているのである。

この様に「浄土宗曼荼羅絵」には、他の宗派の「曼荼羅絵」とは根本的に異なり、且つ、「神道曼荼羅絵」の影響を描かれる事に成るのである。

つまり、他の宗派の「曼荼羅絵」には、「雲海と竜胆の花葉」を描かれる事は根本的に無いのである。

「浄土宗曼荼羅絵」でも、普通は何時も「雲海と竜胆の花葉」を基本的に描かれると云う事は無意。
「桔梗の花」とか密教氏(青木氏)に関わる「風景」等も「立体的」に「絵画的」に描く事にも成る。

依って、「青木氏」が現有している遺された「二つの曼荼羅絵」(毘沙門天像と三宝荒神像)には、「雲海と竜胆の花葉」には「特別な意味」を持っている事に成るのだ。
「密教概念」のみならず先祖が伝える”「隠し言葉」”をも含んでいるのである。

これを子孫が、この「隠し言葉」をどの様に読み取るかの度量が試されるのだ。
当に、”判らなければそれは其れまで”、”自らが悟り真理を会得する事”が「密教の所以」そのものである。
これは、千利休が説く「茶道の境地」でもあり、これは「浄土密教」から引き出した「密教の概念の極意」でもある。
上記でも記述したが、筆者の家の唯広い客間の片隅に「茶道具一式」が常にいつでも使える様にし、「香]を漂わせていたのは、この「浄土密教の作法の所以」でもあったのである。
千利休が「茶道」を導いたのは、「伊勢信濃青木氏」らの「商い」は、平安初期から「摂津」や「堺]にも支店を設けていたが、そこでの青木氏の古式豊かな「浄土密教の作法の所以」を観ていて、それの所作の一つの茶所作を「茶道」として引き出したものであると観ている。

注釈
(時代性から観ても、「茶道の根幹」は、下記の数式論の通り「浄土密教の概念の根幹」でもあり、その歴史は900年も古く延々と受け継がれて来たものである。
当然に、その「所作」も、「所作」の全てから得られる「情緒」も、その「情緒」からそこから獲得する「自然の悟り」も「青木氏の浄土密教」から受け継がれて来たものである。
他の宗派には「曼荼羅絵」を観てもこの概念は無い。
「隠し言葉」の様なものは一切なく、あくまでも「宗派の概念」のみを訴える「曼荼羅絵」と成る。
「他の宗派の曼荼羅絵」には、「密教」と唱えていながら、この「密教性を表現する裁量」は無いのである。
要するに、「顕教」に外ならない。)

平安初期から、「客間の茶の所作」からも、又「仏間の浄土曼荼羅絵」を眺めては、”累代の先祖は何かを会得しょうとしていた”事が理解できる。

「密教概念の極意」=「浄土密教の作法の所以」=「浄土曼荼羅絵」→「累代先祖の悟り」

「青木氏の家訓10訓」はその結実の一端と云う所では無いだろうか。

筆者は、この様に受け取っている。

これは、曾祖父と祖父には 明治期に”氏を象徴するこれを消失させたとするショック”は大きかったのではないかと察せられる。
故に、恣意的に添書等の記録には、縁起上からもあやふやに敢えて伏せたとも観られる。
”伏せた”と云うよりは、消失時は賠償に依って「老舗紙屋の倒産」も伴った事から、その「添書」などに改めて記録する余裕も無かったもと考えられる。
ただ、「毘沙門天像」の代わりか「義経ー弁慶像」(二代目 現有)に依って何とか祭祀されて「密教作法」だけが遺されたのである。

この「伝統3」(青木氏の分布と子孫力−12)の調査で、「毘沙門天の経緯」が明確に成った事から、この部分に付いては、曾祖父、又は祖父が「詳細記録」は成されていなかった。
「歴史的な詳細な経緯の伝承」等までには至らず「節会作法の伝承」で留まった。
父と祖父は「大火の後遺症」もあって、「添書、由来書」などの完全な復元までに至らず、「節会作法の伝承」さえ判れば、後は調べられるであろうとの計算があったのであろう。

筆者は、これをあらゆる資料から読み解き、あらゆることへの知識化を図り、その総合力を以て系統化して長くは掛かったがまとめあげられた。
殆どは「知識の不足」と「理解力の不足」に依る行き詰まりの連続であった。
痛感するは、若い頃の判断には、「略」が不足していた。
若い頃にまとめた論文には、この「略」が不足していて、歳をとってから見直すと、この「略」で判った事も多くあり、書き直す部分も多かった。
上記で記した「武」ではなく、「青木氏の密教」が諭す”「知略」の如何”を痛感した。
「青木氏の密教曼荼羅絵」にも「隠し言葉」として描き込まれている可能性が有る。
若い頃には、「毘沙門天像]、「三宝荒神像」も像として、「曼荼羅絵」も単なる「密教の宗教画」で書き方が違う程度の差としか見ていなかった。
しかし、見方を「略」にして見てみると「違った筋道」が観え来る。
そして、その「筋道」から「人の生き様」が”立体的に創造出来て”、その「生き様の証拠」を見つけようとした。
見つかれば、更に「人の生き様」が、今度は「静止の状態」から「動の状態」として描き出せてくる。
観えていない事も、見えない事も観えて来る事に成る。
「人の生き様」を描くには、「検証」ー「装具立て」ー「検証]ー「装具立て」の工程の繰り返しである。

(大変で時間のかかる作業ではあるが、「装具立てー推理」が当たると実に愉快である。
実のところは、この「愉快さの経験」が「楽しみ」で続けられる。)

この最も注意しなければならない点は、「検証」の工程には、多くの資料に基づく「歴史史実」が使われるが、大抵は諸説紛々である。
中でも「郷土史」などを使うと、殆どは、”郷土に有利な様に説”を拡大させて作り上げているので苦労するし、その前提とする資料に疑問が湧く。
その作者が「略」を配慮せずに一説の自説に信じ込んでいるので、筆者は「搾取偏纂の延長資料」として観て余り使わないし、「青木氏」には本論の様に「特異性」が有る為に「略の配慮」がなされない限りは使えない。

しかし、そもそも、この「二つの工程」には「略]が伴わないと、「真のルーツ」は元より「先祖の生き様」も好く描く事は出来ない。(若い頃はこれが希薄であった。)
「略]が無いと単なる「歴史の記録の羅列」に終わる。
ある程度のところまで描くと、後は「先祖の生き様」が、”恐らくはこの様な考え方や悩みや苦悩や哀楽が在ったのであろうな”と、頭の中で立体的に「夢の想像」が出来る様に成る。
ここまで来れば、”先ずは「成功」である”と考えている。
何とか、この「夢の想像」が出来るところまで描ければと何時も思って論じている。

(しかし、現実には、頭の中では「夢の想像」の「創造」でいっぱいなのだが、筆者の「文章力」がそれを阻害している。)

依って、「青木氏の生き様」から観て、「毘沙門天像」と「三宝荒神像」の神格の「武神」「守護神」「財福神」の「武・”つよい”」の「裏意」には、”「知略」”の「隠し言葉」が「二つの曼荼羅絵」に必ず描き込まれている筈である。

「知略」は、当に「青木氏の訓戒」である。
この「訓戒」を「浄土曼荼羅絵」には必ず読み込んでいる筈である。

それは何なのか判らない。
”「強さ」”を極端に「絵の表情」に表現する事に依って、その「反意」として裏に「知略」を匂わしているのではないだろうかとも考えている。
然し「訓戒の知略」とすれば、「青木氏の浄土曼荼羅絵」としては、”何を以て表しているのか”を模索しているが、判らない。
しかし、ただ傍に「本尊の大日如来座像」が、逆に、”瞑想して静かに鎮座している事”での”「聡」”でもあるのかも知れない。

ここで「二つの工程」の内の「装具立て」で考えて観るとする。
そもそも、「曼荼羅絵」は「密教の概念」を表現する手法の一つである。
この「密教」とは、「宇宙仏の大日如来仏」の「雄弁の仏」である。
この「雄弁の仏」が直接説く事が「知」を説いている事である。
「現世と彼世の知」を説いている事に成る。
この「二つの世」を生きて行く上での[知」は、「密教仏説」の「人、時、場所の三相」が絡む「知」であるとすると、この「知」は三相に於いて使える「知」と成る。
そうなのであるから、「人の知」と「時の知」と「場所の知」との「三相」が絡めば、これは「立体的事象と成り、要するに「三略」と成り、「知略」と成り得る。
「大日如来仏」の「雄弁の仏」が発する「教え」、即ち、「知」は、この世が三相で成り立っている限りは、それは「知略」である。
云い換えれば、論理的には「大日如来仏像」そのものが「知略」である事に成る。
「大日如来座像の造像」が「知略」を物語っているとするならば、「大日如来坐像」の「浄土宗密教の曼荼羅絵」が在って然るべきである。
然し、無い。消失したのかも知れない。
「大日如来坐像」の「造像の存在」が「知略」そのものを物語るが、依って「酌量」を許された「浄土曼荼羅絵」としても存在しなくてはならない。
「毘沙門天信仰」と「三宝荒神信仰」の”青木氏の「主導」「先導」「扇動」の表現が ”「曼荼羅絵」はある事が確認できたとすれば、当然に、青木氏には、ある筈である。
「青木氏」の「大日如来座像」の「曼荼羅絵」が無い事が、「訓戒の知略の表現」が無い事に成ってはいるのではと考えている。
「青木氏一族」の何処かに、この「大日如来坐像の曼荼羅絵」がある筈である。
宗家が大火で消失させたとしても、必ず何処かにある筈である。

何故ならば、そもそも、上記した様に、「青木氏一門」が仏画での「密教概念の表現」を主導したのである。
自らが描いたのであるから、「一族一門」に宗家が祭祀する「大日如来座像」の造像の代わりに、「仏画」にして121氏の一族一門に配布していた事は間違いはない。
ところが、今のところ、「伊勢青木氏」の一門には見つからない。
”見つからない”と云うよりは、流石に、「伊勢青木氏」でも、「昭和の戦後」の「時代の荒波」に押し寄せられた感が高い。
筆者の家もかなりの「伝統品」が、「我らの教育費」として金銭に替えられたので例外では無かった。
恐らくは、「青木一族一門」もこの「大日如来坐像の曼荼羅絵」を処分した可能性が高い。
金銭に替えやすい事もあり、殆どは寺関係に売却された事が伺える。
実は、他の「伝統品」も、この「骨董品の売買」を副業とする京都在住の”知り合いの寺関係者”から各地の各寺関係に渡った事が判っている。
特に、「悠久の歴史を持つ青木氏」の「密教浄土宗の曼荼羅絵」であるから、支障の無い各地の「浄土宗関係の寺」に移動したと観られる。
それは其れで、「曼荼羅絵」を含む売却した骨董品にとっては、大した意味も理解されない無関係のマニアに渡るよりは、「最上の条件」であり良かったと考えている。
先祖に対して申し訳が立つ。
今後も、”「曼荼羅絵」に依る「知略」の実証”は恐らくは無理であろう。
最近、存在が漏れると極めて危険な状態に成り、窃盗団が横行していて、親から聞いていたある予想される「寺関係者」に確認を依頼したが警戒されて体よく断られた。
他の「大日如来坐像の曼荼羅絵」の存在の確認も諦めた。
筆者の代では、親の「知古」の繋がりは、最早、効かないし、相手も代わりしていて無理である。
”断られた事”は”ある事”を意味しているし、「絵の落款」からも「青木氏の出物」である事も住職は知っていて否定しない事からも、存在の確認は充分である。
「青木氏の大日如来坐像の曼荼羅絵」には、独特の「青木氏の落款」もあり、証明は就くし、「写真」でも撮れる事を期待していたが、「写真」で未来には残せなかった。
「青木氏の守護神 祖先神の神明社」の全国の500社程の神社にも、「神道曼荼羅絵」がある筈である。
しかし、この「神明社」の所属は、江戸初期に江戸幕府に引き渡したことから、全くの縁故は無く、「神道曼荼羅絵の確認」は元より存在すらもより難しい事であった。
そこで、「歴史鉄道マニアの団体」に各地にあると観られるところの「掘り出し」を依頼したが、無理であった。
そもそも、「神道曼荼羅絵」は、存在そのものが少なく、且つ、「神道曼荼羅絵」は、「神明社関係」にしか使用した形跡か無意。
況して、一般に遺されていない事もあって、貴重品中の貴重品で表には出て来ない歴史遺産であろう。

特に「神道曼荼羅絵」は、その「在所の特徴」を風景に収めるている事もあって、移動も無い筈である。
特に、「神仏併合の動き」が歴史的に2度も起こっている事からも歴史価値も考えず無暗に取り壊しなどを行った形跡からも消失している可能性が極めて高い。

依って、”「曼荼羅絵」に依る「知略」の実証”は、間接的に成された事には成るが、最早、この範囲が限界であろう。

参考
(この様に、最近は公的なネット上に写真など載せると、窃盗団により狙われて遺品のみならず身の危険も伴うので極めて危険である。
筆者の家も昭和から考えると、詐欺師の範囲も含めて過去五度も災禍を受けている。
日本最古の「藤白墨」も詐欺師に依る実に巧妙な手口で盗難に会った。
そもそも、保管場所のみならず、保管している事も限られた人にしか知られていないのに盗難に会っている。
盗難であれば売買で表に出て来る筈であるが出て来ないし、証拠と成る写真は持っているので、その物を見極める者・筆者の存在がカギを握っているので待っている可能性が有る。
調査には、「郷土史」を使う手もあるが、ここまでの研究は「郷土史]には無く、最近は、郷土を売り込む為に、歴史史実を「歪曲」し、「拡大解釈」をし、「他説創設」までして、「歴史ロマン」を作り上げて売り込もうとする「郷土史」も極めて多く成っている。
「歴史の検証」も充分しない”「諸説手法」”が横行していて、それも準備周到で、それを護ろうとする「郷土史万能」の”洗脳されたマニアグループ”が構築されていて、この「組織バリャー」があって、「諸説」を真実化させて、何とか護ろうとして近づく事も出来ない現状である。
「青木氏氏」でも九州のある「郷土史」のこのグループに、「時代考証」はどこ吹く風で、「諸説を作り上げる手法」で攻撃されたことがある。今でも続いている。
「膨大な情報力」を持つ「青木氏」に「歴史上の矛盾」を突かれない様にバリャーを張るのである。
故に、研究資料には値しないのが現状である。)

この様に「伝統の維持」の為の研究は、「物心両面」で極めて難しく成っている。

兎も角も、「青木氏の密教浄土曼荼羅絵」は、何かを「青木氏」にだけ今も教えてくれている。
然し、「青木氏関係一族121氏」の情報が保護法で入らない現状では、「伊勢青木氏や信濃青木氏」と、[近江佐々木氏と近江青木氏」の資料以外には最早、困難である。
故に、遺された遺品は何としてでも護らねばならない。
そして、それを「自らの範囲」で何とかして、研究し解析して「伝統」を掘り出し、子孫のロマンの為に「記録」に替えて置きたいと云う思いは募る。

「ルーツ掲示板」に御投稿される方の「歴史情報」が殆ど消失しているのも、この”「現状」”から来ているものと考えられる。
ご先祖が「武士」とか、「・・の家臣」とかであれば、本家筋では ”何がしかの遺産が遺されている”筈なのに、”口伝だけ”と云うのも不思議な話である。
そのくらいに、「伝統や遺産の伝承」は無く成っているのである。
故に、上記の様な、ある思惑を込めた「郷土史」が、その間隙を突いて誰も異議や抗議が出ない事を好い事に、郷土売り込みの為の「歴史ロマン」を「大義名分」に「驚くべき他説」が生まれて来るのである。
そう云う事を仕掛ける職業の歴史家も存在すると云う。
「青木氏」は、そもそも、数少ない認証の「氏族」である。
「郷土史」は、室町期中期からの「姓族」の事を記載しているので、元々「時代考証」は室町期中期前のものである事を認識すれば無関係と成る。
今や、歴史を調べるには、自己の範囲の記録が無く成り、怪しい「郷土史」しか無く成っているのも現実で、頼ろうとする気持ちは判るし、信じるのも自由である。
ただ、狂信的に成る事だけは避ける事を忠告したい。

上記の事もあって「真の答え」は出ないし、特に、「青木氏の訓戒」 ”世に晒す事無かれ、何れ一利無し”とされていて、”郷土史に遺る事”は本来はないのである。
そもそも、この事も含めて我々「青木氏」は”「氏族」”である事を認識しておく必要がある。

本論は「密教の道標行燈」に関わる「密教作法]の処から「毘沙門天像」と「三宝荒神像」の処までの「密教性のある伝統所作」を論じて来た。
これだけの範囲ではあるが、「可成りの伝統」が未だ「青木氏」には遺されている。
更に続けて、既に若い頃の論文原稿が有るので、修正を加えて生活に密着した「草の根の密教の伝統」を論じる計画である。

”「密教性のある伝統所作」”としては、次ぎの事も大きく作用していると考えられる。
それは、”「血縁の伝統」”と位置付けられる。


> 「伝統1」に続く


  [No.328] Re:「青木氏の伝統 11」−「血縁の伝統と概念」
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/02/14(Sat) 07:40:49

「伝統 11」

>前回の末尾

>論は「密教の道標行燈」に関わる「密教作法]の処から「毘沙門天像」と「三宝荒神像」の処までの「密教性のある伝統所作」を論じて来た。
>これだけの範囲ではあるが、「可成りの伝統」が未だ「青木氏」には遺されている。
>更に続けて、既に若い頃の論文原稿が有るので、修正を加えて生活に密着した「草の根の密教の伝統」を論じる計画である。

>”「密教性のある伝統所作」”としては、次ぎの事も大きく作用していると考えられる。
>それは、”「血縁の伝統」”と位置付けられる。



・「血縁の伝統と概念」
「青木氏の跡目」に関する「子孫定義」として論じる。

そもそも、「青木氏」には、”「子孫」に対する考え方”の定義が、古来より特別に持っていた。
これには、”「高位の家筋」”を継承する為の「慣習仕来り掟」(純血主義の概念)から来る”「特別な条件」”が在った。
この”「子孫概念」”では、その定められた”「氏の慣習仕来り掟」”により異なるが、「二つの賜姓族青木氏」では、ほぼ同じ「慣習仕来り掟」を用いていた。
(特に,「特別賜姓族伊勢青木氏」は、同等の慣習仕来り掟を敷いていた事が判る。)
特に、「青木氏」と「藤原氏北家秀郷一門」(特に本家筋での仕来)には、次ぎの様な「慣習仕来り掟」を持っていた。
現在から観れば、”特別な血族維持の概念”である。
従って、各地の秀郷一門の関東の秀郷一族一門等を含む「青木氏族」も異なるところもあるが応分にこれに従っていた。
少なくとも、室町期の「下剋上」や「戦乱期」があって、”「悠久の伝統」を持った氏”が、次々と消滅し衰退し、逆に、「姓氏」(農民庶民の武士 かばね)や、「勃興氏」(下級の武士)が発祥するまでの室町期末期までは、この”血縁に関する伝統”(奈良期からの「氏の純血性」の保全システム)はほぼ保たれていた。
ところが、江戸初期の時点では、ほぼ200氏程度あったこの「伝統」を誇る”「氏族」”も、遂には「青木氏]や「藤原氏」や[佐々木氏」等を除く20氏にも満たない「氏族」に成って仕舞っていたのである。

この”20氏にも満たない「氏族」”のこの”「根本的な氏の純血性」”を頑なに保全しようとする考え方は、次ぎの通りと成っている。

(注釈 平安初期に「公家」に対して、「侍」として発祥し、”「家」”を興した事から、”「武家」”として発祥した。
しかし、「一族の子供」は、”「孫の領域」”までを、全て”「子供」”として定義して扱うが、本来は、江戸期に云う”全ての武士の家”を”武家”と呼称する”「家」”の意味では無い。
平安期の”「公家の身分」を呼称する家柄”に対して、同じ身分と家柄を持つ”「氏族」”の”「侍の家柄]”を呼称したものである。
況や、ある”「子孫存続のルール」”を持ち、且つ、それに依って「伝統を興した氏族」として区分けするのが妥当であろう。
これが江戸期には”「武士の家」”から”「武家」”として呼称した。即ち、”「姓族」”を一般化した呼称と成ったのである。
資料から観て、室町期初期に瀬戸内から発祥した「海部氏」が「最初の姓氏」と成っている。
そもそも、「武家」を構成したこの”「氏族」”とは、「平安期の朝廷」と、「鎌倉期の幕府」の認可を得て、「氏」と「家」を構成したものの呼称で、所謂、「江戸期の呼称」とは質的に異なる。)

・「子の定義」
先ず、この「武家」の「氏族」の「子の定義」は、次ぎの通りと成っていたのである。
家には三代あるとして、「祖父母の親」から観て、「子供」とは、”「子」と「孫」”をこの範囲のものとする。
純然として ”跡目の権利”を持った前提として、「子と孫」は、”「氏の子供」”として扱われる。
況や、室町期からの「姓族」が敷いた ”本家−分家の「独占的な家の子供」”を定義しない。
そして、区別して”「孫」”を敢えて「孫扱い」とはしない。
つまり、「孫」を「孫」として、”特別な扱い”はせず、「跡目の権利」を持った「氏の子の範囲」として扱われる。「孫」=[子」「孫」≠「孫」と云う事である。
つまり、「跡目の可能性」が、当初から「孫域の者」までに無ければ、つまり、「跡目」を継ぐ必要性が無ければ、それは ”現在と同じ意味の「本来の孫」”の範囲にあるとするのである。
つまり、「孫」=「孫」と成り得る。
しかし、”跡目を継ぐ必要性が無い”と云う事のその様な現象は、”「氏家制度」”の中では、”大きな「氏族=武家」”である程に絶対に無い。
つまり、”「跡目継承の必要性」が無い”と云う事は、”「氏の滅亡」”を意味するので、あり得ないのである。
これが「氏家制度の社会」であり、この社会の中で生きている限りは、「跡目」の「数と質の確保」に徹する社会である。
それを成し得る手段として、「青木氏」であれば、表記した「四家制度」であり、「福家制度」であり、「氏是 訓戒」「慣習仕来り掟」の類の「伝統」なのである。
未だ、これでも、現実には、室町期以降の「氏族」と「姓族」には、実質は、「必要とする跡目数と質」では、”足りない位”の社会環境であった。
そこで、”「氏族=武家」”の範囲では、定義範囲の「孫域」では無く、”「曾孫域」”までに、「子の定義」は及び、「曾孫域の子孫」を ”「養子や養女」”としての定義を取り付けて、”「跡目の権利」”を、更に拡大させたのである。
しかし、”定義づけた”とは云え、「曾孫域」まで、その定義を広げる事は、当時の氏家制度の社会で、且つ、何時潰されるかわからない乱世の世の中では、並大抵の事では出来ない。
其処には、「氏の権力」や「氏の制度」を充分に及ばすことは難しく成る。
「氏家制度」とは云え、関係する氏の末端までに完全に制度は届かない。
むしろ、逆に、「遠縁」に成れば成る程に、多くの氏が「横の血縁」で関わり、「氏の独立」の感覚は必然的に強く成り、「賜姓族」としての「権威」を中心とした「青木氏の発言力」が届かなくなる。
しかし、更に、”「曾孫域」まで「青木氏の養女養子」”としても、そう簡単ではない。
せいぜい「孫域」までの「青木氏の発言力」「青木氏の統制力」であろう。
では、”「青木氏」としてはどうすればよいのか”と云う事に成る。
上記した「青木氏」の「賜姓族の権威力」だけでは最早、無理である。
”武力で抑え込む”とする方法もあるが、「青木氏」には、正式な表向きの”「武力」”は持ち得ていない。
謂わば、総じては「賜姓族」としての「権威」だけである。
「特別賜姓族」にしても、”「賜姓族」”と云う立場に於いては、「絶大な武力」は持ち得ていても、「賜姓族の氏の範囲」に於いては、「権威と力」を”表向きに放れ課す事”は無理である。
後は、「残された力」は、「経済力」にある。
この「経済力」は、「武力の行使の弊害」(力の連鎖)の様な事を無くする事が出来る。
しかし、「税に依る経済力」の範囲では到底無理である。
「民」に「税」として「負担」を強いるだけで、「永代」に続けなければならない制度であれば有るほどに、後に「弊害」を生む。
況してや、「青木氏」は「賜姓族」であり、「二つの絆青木氏」とも強く関係を持つ立場に於いては、”民の反感反発を買う事”は絶対に避けなければならない事でもある。
むしろ、絶対に使ってはならない「禁じ手」である。

(注釈 明治9年まで何度も「一揆等の支援」をしての「経済的背景」に成ったし、一族に「二つの絆青木氏」を持ち、「民」を含む「シンジケートの首魁」でもあった。
「民」と共に生きる、当に”「共生氏族」”であった。)

注釈として、 この”「共生氏族」”である事は、”世に晒す事無かれ 何れ一利無し 世に憚る事無かれ 何れ一利無し”の意に通じ、結果として、”「共生氏族」であれ”と宣言している事にも成る。
この「青木氏の氏是」は、「共生」を宣言している事を物語る。
 ”晒せて”世に積極的に「青木氏」が出る事は、社会に”阿る事”に成り、去りとて”憚ればれば”社会に萎縮する。
これは「賜姓族としての範たる姿勢」を失い、”民との間の解離”を生み出す。
依って、共生して生きる事が必要であった。
これは”「賜姓族」である”とする「宿命の所以」である。
この「氏家制度」の中で、この”「青木氏の氏是]を持つと云う事”を理解される「氏」はいなかった筈である。
有るとすれば、「共生族の民」であった筈である。故に、”民が作る和紙の殖産業”であった。

・「青木氏の発言力」
では、どうしたのかである。
終局は、「氏存続」の為にも、「共生」の為にも、この”「曾孫域の定義」を押し通さなければならない”と成れば、後は、残された手段は、”「二足の草鞋策」の「経済力」”と成り得る。
この他に「定義を押し通す力」と成り得るものは無い。
”「曾孫域」や「遠縁域」”とは言え、未だ薄い血縁の”「青木氏に関わる縁続き」”でもある。
この「経済力」をこの範囲に浸透され得れば、この”「発言力」”は、「縁続き+経済力」の関係で無理が無く、”「弊害」”を取り除いて達成させることは可能に成る。
従って、後は、”この数式論をを如何に浸透させるか”に関わる。


「定義を押し通す力」=「氏の発言力」=「経済力」


要は、上記の「力」そのものより、その”「浸透方法」”であったであろう。
恐らくは、”馬の鼻に人参”のやり方で”金品を放れ課す事”では、一時的な効果に終わる。
つまり、ギブアンドテイクに終わり、”「永代の発言力の浸透」”は無理である。

そこで、重要な事で有るので、”どの様な方式を採っていたのか”を調べて観た。

つまり、「二足の草鞋策」の「商いの範囲」が、”どの辺まで「組織力」を使っていたのか”を調べた。
(比較的、「商いの資料」は残されている。)
その結果から観て、「曾孫域」から「夜叉孫」までの領域の”「縁者」”と見做される家が、「商いの末端」までに充分に関わっている事が判る。
そうすれば、後は、その”家筋”を特定すればよい事に成る。

(注釈 「青木氏」は、そもそも、奈良期から「役務」から始まって、「商い」とした平安初期から、 ”「和紙」”を中心として”「殖産興業」を持つ「総合商社」”であった。 
それ故に、数多く出て来る「特定の氏名、姓名」と「屋号」の出自の調査研究をした。)


即ち、”「四家の副役」”の範囲を超えて、”大きく関わっている「氏名」、或は「姓名」と「屋号」”が、「遠縁筋」に当たる事から、この範囲に絞り込めば、実質の「商いの青木氏の組織力」は広がっている事に成るし、その”「組織力の浸透範囲」”が判る筈である。。
つまり、「商い」を通じて、これに依って、「青木氏の発言力」は浸透していた事に成る筈である。
既に、明らかに「広域の和紙殖産の商い」が、「悠久の歴史」を以って成り立っている事である事からも、間違いなく「発言力」は浸透していた事に成る。
この「青木氏の発言力」無くして遠縁までに「商い」が成り立つ道理はない。
つまり、間違いなく、”「遠縁」とする領域までの「適切な発言力」”は確かにあった事に成る。
そうすれば、後は、”「商い」”を通じての”「経済力との関係」”を強化すればよかった筈である。
”「経済力」”をベースとして深く繋がれば、「遠縁の者」に取っても、「縁続き」が深く成り、且つ、永代に「家」は潤い成り立つ事に成り、両者に執っても間違いなく「利得」である。
恐らくは、むしろ、「遠縁」の方から”「青木氏」の「跡目の状況」”を具に分析して、「福家」に「積極的な働き」を事前に示していたと考えられる。
(「特別賜姓族の伊勢青木氏」もこの「商い」と「伊勢シンジケート」に大きく関わっていた。)

この結果、中には、調べると、「青木氏との関わり」が想定できない”不思議な「姓名」”が、「商いの譜」の中に出て来る。
この「姓名」は、”歴史的に他の事変”でも時々出て来る「姓名」でもあった。
そうすると、この”「不思議な姓名」”とは、これは、恐らくは、「シンジケートの組織」の中との ”「氏外の縁組」”をして、”「養女での血縁力」”を高めていた事を物語る”「姓名」”である筈である。
つまり、「四家」や「家人」 (「商い」に従事し、「青木氏の嗣子」が「家人」と成った家筋) の中に、この”「姓名の血筋」”を入れて、「血筋のある遠縁の縁組」を積極的に作り上げて、所謂、”「曾孫域」(養女養子)”を敷いていたと観られる。
この事は、この様に、「曾孫域」までとする「養子養女システム」は、「縁続き+経済力」で、充分に成り立っていた事を物語っているものである事が判る。

・「曾孫域 遠縁組の組織化」
これらの”「遠縁組」”が、「四家」や「家人」と繋がって、「二つの血縁青木氏」と「二つの絆青木氏」と ”どの様に組織化されていたか”の調査をして見たが、判らないと云うよりは、”判別が就かない”であった。
そもそも、”判別が就かないと云う事”は、普通は「商社」であればおかしい。
逆に、”「商社」だからこそ「判別」を就き難くしている事”も考えられる。
”「賜姓族の商社」であるから、”強いて隠しておかねばならない事”と云う事が、「紙屋の青木長兵衛」に在ったのか”と云う事に成る。
在った筈である。
何故ならば、そもそも、根本的に「青木氏」には、”「賜姓族」と云う「民」の範たる立場”の保全の宿命を負っている。
世間から観て、”範としておかしい”とされる事は、”表向きにする事”は無理であり、常に配慮しなければならない立場にあった。
では、その”隠しておかねばならない事”とは何なのかである。
”隠す”と云う事は、陰鬱である。要は、世間に対して”公然”と云う事に成らなければよい事である。
そもそも、”「賜姓族」と「商い」の関係”は、”隠す”と云うよりは、”公に出来ない「既成の史実」と云った処であろう。
これは「悠久の歴史」を持った「公然の史実」で問題とは成らない。
故に、これ以外にあった事に成る。

”「青木氏」にだけ”に在ったものとして、次ぎの二つが出て来る。
考えられるのは、”「影の組織」”とそれを”「補完し合った組織」”である。

一つ目は、「影の組織」の「青木氏」に良く資料の範囲に出て来る「伊勢シンジケート」である。
二つ目は、各地に建立し続けた500社以上の「祖先神 神明社」である。

・「戦略上の手段」
そもそも、「祖先神 神明社」は、”「国策氏」としての役務”でもありながら、「青木氏の守護神」でもあり、「青木氏の諸々の戦略上の手段」でもあった。
「戦略上の手段」であるのなら、何等かのものとは繋がっていた筈である。
態々、500社にも成る程の「膨大な神明社」を、幾ら「国策」であるからと云って、全国に「自前の財力」で建立する事は先ず無い。
その”「財力投資」に見合った利得”が無ければ、建立する事は無いし、朝廷も”「特別賜姓族」を以ってして補完させる事”もしない筈である。
その「膨大な財力」を「商い」で賄っていたのであるから、「青木氏の最大の目的」(子孫存続の手段)に関わらさせない事は先ずあり得ない。

(注釈 「三つの発祥源」、「賜姓五役」など極めて難しい立場を熟さなければならない「青木氏」の「福家」と成り得る者は、多くの子孫の嗣子の中から ”「氏存続」の目的を成し得る能力がある”と見込まれた者が、選択されて成り得ている。
ここを見逃す「愚鈍な者」は成り得ていない。況して、累代の「福家」と成る者が”愚鈍であれば”ここまで子孫を遺さずに滅亡している。
”商才や一芸に長ける者”では無く、「指導力」のみならず、「指導」に必要とする”「権謀術策の才」”を持ち得ている大組織を動かし得る”「総合力のある者」”が「福家」に成り得ているのである。
世間が好む”通り一遍の綺麗事だけの指導者”では成し得ない難しさであった。
「青木氏の訓戒」に出て来る”「知略」に長ける事”が、”要求される「福家」”であったと考えられる。
これは、「総合力の在った者」かどうかは、「氏是」や「慣習仕来り掟の書」や「家訓添書等」の内容の意を読み取り観れば良く判る。
当に、「天地、天武、持統」の「天皇三代」に仕えた始祖”執政「施基皇子」の所以”でもある。
況や、その為の「四家制度」や「子の定義」が構築されている所以でもある。

(注釈 これだけの多くの「重要な役目」を同時に果たさなくてはならない「福家」は「一人顔」で社会に対して押し通す事が出来るかは実に疑問である。
幾ら「絆青木氏」を持ち、「共生氏族」であって、”「民」との繋がり”を強く持っていたとしても”理解し得ない「矛盾」”が生まれる。

「二つの絆青木氏」=「共生氏族」の数式論が成り立っていたのである。

これを理解してくれる程に社会は甘くはない。
従って、「一人の福家」が「幾つかの顔」を持っていたと考えられる。
その端的な証拠として有名な「歴史的に記録」として遺されている。
それは、室町期末期の「伊勢三乱」である。
「伊賀丸山城の戦い」は、一面では「豪商の紙屋長兵衛の出番」であった。武力は一切使わず出城築城の資材の手配商人として表に出て交渉し、資材調達の期間を遅延させ挙句は暴利を獲得して相手を弱らせると云う手段に出た。
更に、継続して二面では、裏で築城を大工組等で請負、「シンジケート」の「ゲリラの大工」を大量に潜入させて築城の邪魔をした。
三面では、時には、「織田信雄軍」に山岳部で正体不明の「シンジケート」の「ゲリラ戦」と食糧調達の邪魔を仕掛け疲れさせて、遂には、築城完成間近で、潜入した大工組が焼き討ちを掛けて燃やしてしまうと云う「三面の陽動作戦」を展開して勝利した。
この乱には、一切、指揮は執っていたが、「伊勢青木氏」の顔は表に出て来ないのである。

名張の「清蓮寺城の戦い」と「伊賀城の戦い」では、恣意的に態と「伊勢青木氏の顔」を表に出して、中立を保っている事を見せ、落城寸前に織田軍を油断させて清蓮寺側の側面の弱点を付いて突いて、敗走させた上で清蓮寺城の戦略上の拠点を護った。
更には、「伊勢北部の伊賀氏」を援助して、「シンジケート」を使って山岳部や平地のゲリラ戦で長期戦に持ち込み、一時的に「伊賀氏」を逃がす時間稼ぎの作戦を採ったのである。
これは「伊勢青木氏の長兵衛の顔」を表に、「シンジケートの顔」を裏にして使い分けたのである。
「丸山城の戦い」とは「逆の陽動作戦」であった。
信長軍は、「押せ押せの戦い」は強かったが、「商い」を駆使した戦いや「シンジケート」を使った「ゲリラ戦」には弱かった。

(注釈 後を引き継いだ秀吉はこの事を良く承知していた。伊勢の秀郷一門の「伊勢青木氏」と「伊勢伊藤氏」の協力を得ていたが、「青木氏」は、唯一遺された「村上源氏の支流北畠氏」を救う事が出来ず、「永嶋の戦い」では、この「陽動作戦」に持ち込めず早期に敗退し新宮に後退した。
「詰め」として、秀郷一門の「近江の蒲生氏郷」に「伊勢の後始末」を命じたが、「伊勢秀郷流青木氏」や秀郷の遠祖の「伊勢伊藤氏」との繋がりを持つ事から、「青木氏の伊勢」を本領安堵して松阪に戻した。)

結局は、奈良期−平安期−鎌倉期−室町期−江戸期の五つの期を通じて次ぎの様な「数多い顔」が「二つの青木氏」には出来上がっていた。

・「5つの面」「20の顔」
次ぎの「5つの面」と「20の顔」を持っていて、これを使い分けなければならなかった。

・権威
「賜姓族の顔」−「権威と象徴」を「民」の前で「範」として通さねばならない立場
「衣冠の顔」−「最上の位階」の立場
「朝臣族の顔」−「天皇を護る身分家柄」の立場
「三つの発祥源の顔」−「武家、護衛侍、氏族」として「権威と象徴の範」としての立場
「賜姓五役の顔」−「国策氏」として政策を実行する立場

・家柄
「青木氏の顔」−「二つの青木氏」との連携を図る立場
「四家の顔」−「青木氏一族一門の福家」としての立場
「郷氏の顔」−「地域の村主地主」の立場
「氏族の顔」−「姓族と民」の範と成る「氏上」の立場
「共生族の顔」−「民」側に位置して共生する立場

・宗教
「祖先神の顔」−「青木氏の守護神 祖先神」を護り通す立場
「神職の顔」−「神明社」を維持する立場
「住職の顔」−「氏の菩提寺」を護る立場
「密教の顔」−「慣習仕来り掟」の伝統を守る立場

・首魁
「御師の顔」−「皇祖神(伊勢神宮)の職能集団」を統率指揮する立場
「職能の顔」−「青木部の首魁」の立場
「商いの顔」−「紙屋長兵衛」として商いを統率指揮する立場
「首魁の顔」−「伊勢シンジケート」を統率指揮する立場

・血縁
「同族の顔」−「血縁関係」(佐々木氏等)を繋ぐ立場
「氏外の顔」−「他氏との関係」を繋ぐ立場

以上の様に、「20の顔」を使い分けなければならない「青木氏」に執っては、一人で成し得ていたかは疑問で、「主役の四家の福家」に全てを頼らず、「主役の四家の当主」が、「5つの面」を事と次第で「福家」に成り切って、代役を演じていたのではないかと考えている。
結果として、「主役の四家の福家」の差配で動いていたが、「氏存続」と云う目的からは、”知略”
が「氏是の概念」の様にしていた事から、相手と成る周囲は、「主役の四家の当主」を「主役の福家」と思い込ませていたと考えられる。
これの方が、「福家」に何らかの「異変」が在ったとしても、「組織」は乱れず、「身内」や「周囲」に対しても”「組織の安定感」”として印象付ける事が可能である。即座に、異変なく「継承」が進む事に成る。

(注釈 室町期の中頃に、「長兵衛」、「次左衛門」、「作左衛門」、「高右衛門」、の「四家の当主」の四人が重要な処に名の記述が同時に出て来る。これは”「福家の長兵衛」”の代役で、上記の「四つ面」で「福家長兵衛」として務めていた事を物語る。
ある「神宮の寄付帳」には、「紙屋」と「青木氏」と「御師」と「青木部」の名で、この「四人の名」が記されている。又、「伊勢神宮の大灯篭」にも、本来は「青木氏」として一つとして寄付する処を、この四人の名で、「四灯篭」が別個に「青木氏」として寄付がされている。
奈良期から伊勢神宮の守護は青木氏が務めていた。”「伊勢神宮」の「御師」”は、その「称号」。
世間の殆どは、”「福家襲名の長兵衛」”が”「四家の福家」”とは承知していなかった事を物語る。)

・「二つの組織と範囲」
事ほど左様の環境下に於いて、この「二つの組織」は、互いにそれぞれの「役目・目的」を持ちながらも繋がっていたのである。
故に、”「遠縁組の組織化」”にも、この「二つの組織」が大きく関わっていた事に成る。
(「青木氏の守護神 祖先神 神明社」の論文参照)
つまり、”「青木氏の組織」”と”「シンジケート組織+神明社の組織」”とが、”横で繋がっていた”のである。
ここから、「孫域」とは別に、”「養女(養子)」”と成る ”「曾孫域+遠縁域」の「組織化」”が、案にして出来ていた事に成る。

・・「シンジケートの範囲」
そこで、参考として、”「シンジケート」”の「範囲」を明確にする為に、「青木氏の資料」に出て来る「氏名」「姓名」から、その「定住地」を押えて観ると、その分布は次ぎの様に成っている。

「伊勢シンジケート」は若干東域に外れる傾向はある。
・「分布が集中している地域」
東西に、播磨・摂津−美濃・尾張
南北に、和泉・紀州−若狭・但馬
以上に「集中」して分布している。

外れるものとして、次ぎの様に成っている。
・「分布が点在している地域」
西域に、因幡、北域に、越前、
南域に、尾張、東域に、信濃
以上に「点在」するものがあった。

これが、「伊勢シンジケートの活動範囲」と成る。
この事から、凡そ横に長い「関西域」で、一部突出の「中部域]と成っている。

この分布から、次ぎの事が云える。

(1)「神明社」の分布域 45%
(2)「青木氏」の定住域 25%
(3)「関連した姓族」の分布域 15%
(4)「佐々木氏」の分布域 8%
(5)「源氏(郷士)」の逃亡分布域 5%
(6)「平家(郷士)」の逃亡分布域 2% 

以上の順での比率で分けられる。

(2)の「青木氏の定住地」は、当然の事として、5家5流賜姓族地は勿論の処、特別賜姓族地の青木氏の24の定住地の中でも次ぎの地域では連携していたと観られる記録がある。

・・「特別賜姓族関連地」
「5家5流の青木氏」が戦乱での逃亡地 「越後」「越前」「相模」「下野」「土佐」
時の朝廷幕府より役務等で配置転換された土地 「広域陸奥」「上野」
特別賜姓族の定住地 「讃岐」「土佐」「尾張」「常陸」 

・・「賜姓族外の関連地」
源氏の守備隊として移動定住した土地 「伊豆」
勢力争いで逃亡した土地 「因幡」「安芸」「美作」
役務や住職等の移動関連地 「陸奥」「紀州」「但馬」「摂津」

以上の地域での活動が観られるが、上記外の「24赴任地定住地」との連携では特段に記録が見つからない。

矢張り、(1)の「神明社」が、分布量から観て、最も関係が深かった事が判る。
恐らくは,「神明社の組織力」を使っての「情報拠点と保護役割」を果たしていたと観られる。

(4)の「佐々木氏」は、「近江」を中心にして、その「子孫」は全国各地、主に北の「陸奥域」までに、殆ど「神職」(八幡宮と神明社)として分布している事から、”「佐々木氏一門の組織力」との連携”を広域に図っていた事が判る。

(注釈 「近江佐々木」の始祖は、「天智天皇第七位皇子の「川島皇子」で、特別に賜姓を受け地名から佐々木氏を賜った正式な氏族 「青木氏」とは、血縁関係も深く「佐々木氏系青木氏」が発祥している。「特別賜姓族伊勢青木氏」も「近江佐々木氏」とは血縁関係が深く、秀郷一門とも近江国司守護であった関係から血縁関係を持っている。「近江秀郷流藤原氏」も出ている。)

(注釈 「陸奥域」には、信濃から、「青木氏」は数は少ないが、平安期初期に「坂之上田村麿の陸奥域制圧」後の「現地守備隊」の僧侶(住職)として役目を命じられて移動し定住した。この「浄土宗の菩提寺住職」の末裔が子孫をある程度に拡げ現存する。
これと共に、「桓武天皇」が「神明社」を「青木氏」に代わって「20社程度」建立した。
そこに「信濃青木氏」と「近江佐々木氏」の「神明社の神職」も移動している。
ここが「佐々木氏」との「情報伝達の中継点」に成っていたのであろう。)

「天智天皇」時の同族の「佐々木氏」は、「陸奥域」までその勢力は及んで子孫を拡大させて遺している事から、「伊勢シンジケート」外の「影響力」の及ばない「他の地域」に対しては、
主に次ぎの通りである。
1 「各地の神明社経由」
2 「伊勢から直接経由」
以上の「二つのルート」で、「佐々木氏]の「八幡宮の組織」を使ったと観られる。

取り分け、「摂津」(紙屋支店と摂津青木氏定住)に「八幡宮本宮」があった関係から、次ぎのルートがあった。
3 「伊勢からの近江摂津経由」
以上の「ルート」もあって、内容に依って三つのルートを使い分けしていた事が判る。
つまり、このルートは「広域ルートの拠点」として働いていた事が判る。

(5)の「源氏」では、全て滅亡したが、その「傍系流の逃亡末孫」は、「関西東域から中部の山間部」で僅かに生き延びたが、これらの者が「影の組織」を形成して「姓族」と成り、「伊勢シンジケート」で関わり「経済的な糧」を得ていた事が判っている。

(注釈 近江源氏、美濃源氏、木曽源氏、新宮源氏、駿河源氏の「傍系末孫」が、「源平富士川の戦い」で敗退滅亡し、山岳部に逃げんで生き延びた。平家と同じ末路。)

「青木氏」は、これらに対して「商い」を通じて陰で手を差し伸べて支援していたのであって、「商い」に関わる援護と、”いざ”と云う時には、「伊勢シンジケートの一員」として働いたのである。

(注釈 「福井」は、その意味で、元々、奈良期からの「皇族系の避難地」を「青木氏」は形成していた。従って、「神明社の建立数」も「最多の地域むであり、これらの「避難者」には「商い」を営ませ、ここに「避難者」を集めた上で「連絡の拠点」としていた。)

(注釈 ここで、特筆すべき事が沢山ある。「滅亡した京平家」が、主に「紀州山間部」と「四国山間部」に逃げ込んで、山を切り開いて生き延びたが、これらは、土地の「郷士」と成って「地域集団」を形成し、下界との関係を持つ為に、「シンジケート」に入り、”「経済的な繋がり」と「情報獲得」”の為に働いた。
時には、「室町期の戦乱期」には、山から下りて来て「雇兵」として活躍し、「地域の豪族」の配下に入って参加した。
平常時は「伊勢シンジケート」の一員として連絡を受けて働いて「生計の糧」を立てた。
この「伊勢シンジケート」での「面白い事件」があって,「紀州の北側」には「平家方落人」が、「紀州南側」では「源氏方落人」が、山間部で「郷士」として住み分けて生活していた。
これらの「二つの郷士集団」が、「伊勢シンジケート」として活躍していて、「秀吉」は、[伊勢−長嶋攻め三乱」で、戦いを有利にする為に、これらの「郷士集団」を味方に引き入れようとして働きかけたが失敗し、結局は、自らの家臣を使って「吉野−熊野の材木」を「シンジケートのゲリラ戦」に耐えながらも運んで山から降ろし、やっと「出城の建築」に成功し戦いに勝利した歴史上の有名な戦いがあった。)

特に、(3)の「姓族の分布域」には、特徴が観られる。
鎌倉期から室町期末期に掛けて亡びたとされる元は「氏族」で、「姓族」として土地の名に変えて名乗った土豪や、その「家臣で在った姓族」の地域が殆どである。
これらの多くの「姓族」は、次ぎの限定地域に散在して「小族」を形成して住み着いていた。
集中すると警戒されて潰される為に散在して、”いざ”と云う時には集会して事に当たった。

・「姓族の定住地」
山間部に住みついた「山族」
漁村に住み着いた「海族」
平地山際の過疎地域の「野武士族」
特定の寺の周辺地域の「山伏集団」
鉱山地域の「土豪」

以上の順での比率で分けられる。

この「二つの組織」が、「祖先神 神明社」は、「民」に+に捉えられるであろうし、「心の支え」としても民に働く。
しかし、”「シンジケート」は、戦乱などの事変で社会の隅に追いやられていた小さい組織が、この組織に入って「経済的な糧」を得て、再び生きて行く事が出来ているのである。
本来は、+に働いているのであるが、”「影の力」”と云う印象から、民にとっては、”得体の知れない組織”と捉えられいて、その組織を構築している「賜姓族の青木氏」には、”「民の範」”としての印象を低下させる結果と成る。

・「氏族=武家」の「純血性保全」
従って、「曾孫域と遠縁の組織」として存在したとしても”「影の力の抑止力」の範囲”であり、これを「諸々の弊害」を「抑え込む手段」としては「表向き」には使えない。
あくまでも、「影の力」である。
「影の力の組織」で「表向き」には、「使えない組織」である限り、この”組織との「縁組」”の一切は表には出せない事に成る。
その為に、「皇祖神の子神」の「位置づけのある権威」を誇る”「祖先神 神明社」”との「横の繋がり」を持たす事で、「シンジケート」の「影の−の印象」を相殺させていると観られる。
「シンジケート」を「商いの手段」や「周囲への抑止力」などとして使う限りは、完全に「影」だけでは成り立たない筈である。「表」に出る事は充分にあり得る。
そこを、「横の関係」を保ちながらも補うのが、”「祖先神 神明社」の「権威と善意」”なのである。
仮に知ったとしても、「利」に成る事に聡い「民」はむしろ黙認する。
そもそも、「青木氏」には、”「民の二つの絆青木氏」”が存在することから、表に出る事は必然である。

(注釈 筆者は、むしろ「隠す」と云うよりも、公然と「表に出る事」を狙っていた事もあったと考えている。ただ、あまり「記録」は残したくないとしていたのであろう。それの方が「リスク」は少ないし、”「四家」”から「嗣子や娘」をこの組織に入れて、”「組織力」”を強化した方がやり易い筈である。
その証拠がある。江戸末期から明治9年まで続いた「伊勢一揆」と、それに連動した「信濃、岐阜、栃木、茨木」等の「大農民一揆」や、室町期の「甲斐100年一揆」と呼ばれる一揆の背後に、各地の「青木氏」が「シンジケート」と「経済的支援」を使って関わって居た事が記録でも残されていて有名な事である。)

依って、「曾孫域」「遠縁域」の「養女養子制度」の「青木氏の発言力」は成り立っていたのである。(「養女」が基本に成っていた。)

故に、「氏族=武家」の範囲では、”「嗣子や嫡子」”に充分に恵まれながらも、敢えて、「曾孫域」「遠縁域」での”「養女養子」”が盛んに行われた理由なのである。
これには、”「氏族=武家」の「純血性保全」”の為に、積極的に並行して行われた”絶対条件の慣行”なのである。
「青木氏」に執っては、この「曾孫域」「遠縁域」の「養女(養子)」は、”「世間との接着剤の役割」”を果たしていたもので、極めて重要であった。

・「養女の定義」
そこで、「子の定義」の説明を更に進める。
この「養女養子の制度」が「絶対条件の慣行」として在ったとしても、従って、そこで、”「祖父に位置する者の親」”は、”「子の定義」”である以上は、最低限に”「孫の領域」”までの「養育の総括責任」を負う事に成る。
それならば,「孫域」とするなら、「曾孫遠縁」に位置する”「養女養子」”をどの様に「制度」として扱うかの疑問である。
つまり、「親の責任の範囲」なのか、「息子の責任の範囲」なのかの”「位置の問題」”がある。
「曾孫遠縁」とすれば、「親の責任の範囲」である。
しかし、「養女養子」とすれば「息子の責任の範囲」である。

幼少からの”「養女」”としてすれば、「子の嫁」として将来扱われる事に成る。
この事からすると、”「嫁」を迎える事”は、「氏家制度」では、”「親の責任の範囲」”と成る。
そうすると、「青木氏」は、「孫域」までを”「子」”として定義して二段階を一段階として扱う以上は、次ぎの様に成る。
「子」の”「子」”としては、「養女」は「息子の位置」に成る。
「孫」の”「子」”としては、「養女」は「息子の子の位置」に成る。
つまり、”「養女」の「迎え方の如何」”に左右される事に成る。

「四家方式」を次ぎの方式を採用している。
「主役の四家」(4)
「副役の四家」(16)
以上の「二つの四家」(20家)で構成している。

「副役の四家」は、「主役の四家」の「予備軍的存在]で、「見習い的な位置」であり、「世代交代」で「主役の四家」に成る仕組みである。
その仕事は、原則として、「主役の四家」が「全体の差配」を仕切り,その仕事の「下部の差配」を実行する位置にある。時には、「上部の差配」を「見習い」として任されて成長する。
その「仕事の種類」は、上記の「5面−20の顔」に関わる。

その「主役の親」に位置する「福家」は、一族の”「四家」”を纏めて行く以上は、出来るだけ早くこの制度を完成させなければならない責任を負っている。
”「一族存亡の責任」”と云っても良い筈である。
(4+16)=「20家」を見渡して、「ブランク(空白)」に成っている部分(家)を早めに埋めて体制を確立させなければ成らなくなる。
この時に、「ブランク部分」を埋めるのが、”「養子」”なのか、将又、”「養女」”なのかに依って決まって来る。
この時、”「養子」”の場合は,「子の実娘」又は、「孫の実娘」のこの「遠縁の養子」として入るが、多くは、「子・孫の娘」の婿養子は、「四家」の中に「女系」が発生してしまう可能性がある事に成り得る。
その為にも、一族の「四家20家」の「孫域」までを”「子」”として定義して、このブランクの出た家の跡目に、四家の子の中から入れる事に成る。
これに依って「女系」に成る事が防げるのである。
其れは、「四家方式」としては「弱点」であって、この「曾孫、遠縁の養子」は「四家の組織」を弱め、或いは、壊す事にも成りかねないので、「子の実娘」「孫の実娘」は「他氏に嫁ぐ事」が原則に成る。その「嫁ぎ先」の男児・女児(孫)は、「子の定義」で、実家に「跡目に成り得る子」(男児)として、「跡目に嫁ぐ子(女児)として、扱われる事に成る。
従って、”「跡目の非常事態」”を除いては、この「曾孫と遠縁の縁組」は、主には ”「養女」”であるのだが、「四家」(主役)の「ブランク」に入れる「養女」なのか、「四家(副役)」の「ブランク」に入れる”「養女」”なのかに依って、変わる事に成る。

(注釈 「跡目の非常事態」は「戦禍」に依る事が殆どの原因である事から、”「遠縁の養子」”を避ける為に、”「氏是」「慣習仕来り掟」「訓戒」等”に依って、この「戦禍の原因」を作らさせない策の一つとしているのである。)

”「子」と「孫」”を”「一つの子」”にして、扱う以上は、次ぎの「二つの事」に成る。

「四家の主役」の「ブランク」の場合は、「親の責任の範囲」
「四家の副役」の「ブランク」の場合は、「息子の責任の範囲」
以上と成る。

「四家の主役」の「福家]が中心と成って仕切り、「四家の副役」の「福家」と「親」とで合議してこの事を進める事に成る。
「四家制度」(方式)を敷く以上は、この”「ブランク」”を埋めて支障の無い様に進めなければならない。
この”「ブランク」”は、”「20家の範囲」”では常時に起こる。
従って、”「ブランク」が出来たから”と云って動くようでは間に合わない。
故に、「幼少の頃」から「養女の子」を引き取り、何れかの「四家」の「福家」で事前に養育する事に成る。
「跡目」が「成人」と成っていれば、「養女」が「成人」すれば、直ちに「20の四家」の何れかの当主に成る前にも、”先に結婚させる事”と成る。
依って、「四家の戦略上の観点」から、傾向としては、必然的に”「早婚」”を前提と成る。
この”「早婚」”は、より”「青木氏」”の”「氏是」「慣習仕来り掟」「訓戒」「伝統」”に充分に「馴染ませる事」が可能に成り、「嗣子の特性や能力」を図り、育成する事の長所が逆に生まれる。
”「四家の弱点」”の”「遠縁の養子」”を避ける様に原因を除いて、”「早婚」”を促せば、逆に”「四家の長所」”と成り得るのである。
それには、上記した様に、 ”「幼少期」を前提とした「養女」”と成るのである。
百々の詰まりは、「幼少期」を外せば、「四家の戦略上の効果」は半減して、全体の「子孫存続」の「青木氏の態勢」は、弱体化に進むのである。
「幼少期の養女」は、「青木氏の要」なのであった。

この「四家制度」(方式)に依って、早めに「青木氏」に馴染み、且つ、「嗣子」として「優秀な者」を見極めて、この中から、適材適所に「四家」に選ばれる事に成る。

(注意 ”「四家」”の意味は大きいので、「制度」の字句は”全体”、「方式」は”各所”と定義して使い分ける。)

・「養育の責任」
但し、「四家の戦略上の効果」だけでは事は済まない。
ここで、”「養育方法の責任の問題」”が生まれる。
”放置しておけば育つ”と云う事では済まない。
”「四家方式」”を敷く以上は、つまり、”「養育の仕方」”によって左右されてはならない訳である。
この”「養育の仕方」で左右すると云う”事は、”「四家の一致団結」”が成されない事に成る。
そもそも、「四家方式」は、”「四家」”と云う小範囲に留めて、”「血縁性」”を高めて、”遺伝的に思考概念の統一”を狙ったもので、その結果、”「同じ方向性」”を獲得して「一致団結」が図られるとしたものである。更には、「福家方式」で「子の範囲の定義」を行って、「四家」から”はみ出す危険性”を排除したのである。
そこで、この危険性を排除した上は、この”「養育責任」”に対する範囲の”「歯止め」”を設けたのである。
つまり、その範囲は、”養育に関する「抹消的な養育発言」”と、”その「養育の基本行動」”には、「親」は、”「基本的な口出し」を「法度」とする”と成っていたのである。
「青木氏」の養育に関する「伝統的な訓戒」であった。
あくまでも、「跡目継承の範囲」で ”「総括責任」に徹する事”に成る。

つまり、”「息子」と「孫」までを子供”としての「子の定義」として「位置づけ」をした。

 ・「四家訓戒と法度」
”息子である子供”は、「成人期」までを ”「祖父母の親」”が育てる。
「成人後」の”息子である子”は、その”息子の嫁”が育てる”

以上とする「養育の思考概念」である。
世間から観れば異質の概念であろう。
つまり、”「養育の概念」”を分離したのである。
守るか守らないかとする「訓戒」のみならず”「四家の法度」”としてより厳しくしたのである。
これは一種、「20家」を[家族制度」にまとめた「四家方式」だからこそ出来る事であろう。
”「賜姓族」と云う特異な立場”にあるからこそ、”納得して守られる方式”である。
”「子と孫」を「子の定義」として「四家」が育てる”とするからこそ、この「訓戒法度」は成り立つ事である。

”「息子の嫁」”に依って、”「息子である子供」”が育てられるとする「養育の定義」である以上は、「養育権」は、「息子」即ち、「子」でありながらも、「祖父母の親」に無く、当然に”嫁側にある”としたのである。

この様な、”「跡目の歯止め」”として、「賜姓族」には、”特別な仕来り”を持っていたのである。
従って、「祖父母の親」は、家に「嫁」を娶ると、”息子に口出しならぬ”とする家訓が生まれたのである。
世間から観て、”「祖父母の親」の行動”は、一種の”息子に対して「放任主義」の育て方”と観られがちである。
そこで「青木氏」では、この所謂、この一種の「放任主義」は、「良し悪しの問題」では無いとしている。
「家訓十訓」を観れば、そうで無い事は一目瞭然である様に、下記の「家訓の考え方」に従っているのである。

  ・「四家訓戒」
”自らの「経験」を通じて「才」を獲得して成長を得させる。”

これは、”「経験=才能」”としての ”「経験重視」の「養育方針」”である。

世間では”「放任」”と観えるけれども、”「四家」”と云う範囲で、「20の顔の範囲」で、むしろ、”徹底して幼少期から嗣子として鍛えられる”「養育方針」なのである。
この世間には無い ”厳しい「行動範囲の歯止め」”が効いているのである。
況して、”「嫁」に養育を委ねる”としているのであるから、世間が観える「放任」では無い事が判る。
何もしなければ「放任」とは成るが、”嫁に養育を委ねる”としている事は、これは正当な「一つの養育の考え方」なのである。
何も、”嫁も放任して育てる”としていないのである。
其処には、青木氏は、下記に示す様に、”「育て方の概念」”を指し示しているのである。
むしろ、この方が考え方としては難しいのではないだろうか。

故に、”「経験=才能」とする概念”を重視した結果であって、「親」に執っては「放任」と観られる育て方に成るのだが、むしろ、「青木氏」に執っては、正当に次ぎの様に捉えているのである。

  ・「四家訓戒」
”「放任」は「豊かな経験」を産み「豊かな才能」を開花させる”

そもそも、この訓戒の”「放任」”とは、”[四家の範囲で」”とする「四家の伝統の考え方」なのである。
恐らくは、この”「四家の伝統の考え方」”は、”「青木氏密教の所以」”であろう。

この”「四家の放任」”には、「育て方の概念」(下記)が付加されている。

そうで無ければ、この「子の定義」の方式(システム)は上手く行かない。
世間から観ると、この「概念の影響」から”「日常の生活慣習」”も一般と異なり、一般から観れば、”異質”或は、”特別”と観られる事に成る。
つまり、この”「息子の養育」”の、その後は、”結婚の段階”の契機を経て、”「嫁」に引き渡す”と云う考え方を採る事に成るのである。

この場合、”「嫁」(殆どは、「曾孫域の養女」、或は、「遠縁の養女」)”に対して、必ず、この”「嫁(養女)」”に言い渡さなくてはならない一つの”伝統的な申し伝え”があった。

・「育て方の概念」
それは、次ぎの事である。

  ・訓戒
”「お仏像様」の掌で育てよ”

以上とする考え方を伝達する事にある。

そもそも、”育てよ”とは、「息子」とその「息子の子供」(孫)までの「養育の事」であって、取り分け、”「息子の夫」”としての「成人後の養育の事」を意味するのであろう。
(当時は寿命の関係から「早婚」であった。)
”掌”とは、実に意味が深い。
当然に、「妻−夫の関係」にありながら、相対的な関係に置くよりも、広く長く穏やかに優しく厳しくして「心」を保ち、 ”「女」として操れ”。 ”如何にも「母性愛」を以って「子」に接する様に操れ”と云う意味であろう。
家訓などにこの様な「添え書きの解説書」は無い。
決して、”「対立的な相対関係」に持ち込んではならない。とする意味合いが存在するのであろう。”故に、「子供の定義」になっているのである。
あくまでも、「概念の扱い」は、”「子」”なのである。
”全ての扱いは、「子の域」を一切脱してはならないと捉えよ”と成る。
そして、この「訓戒」は、次ぎの事と成る。

  ・「四家訓戒」
”「人の継承」、就中、「家の継承」は、本来は「女」にある”

以上とする「青木氏の考え方」に由来している事を告げていると観られる。
(この考え方は、「青木氏家訓十訓」の「家訓一」と「家訓二」に表れている。)

”「お仏像様」”とは、「氏の護り本尊」であり、「氏の象徴仏」であり、「氏の権威」であれ、それを支える「氏の賜仏像」である。
依って、そもそも、「お仏像様」は、「青木氏」の「単なる仏像」では無く、「擬人化した人」、つまり「絶対的な人」なのであった。
つまり、”「氏」そのものの「有り様」”を一つにして物語るものであった。
この”「擬人化した人」の「絶対的な人」の掌”とは、次ぎの様に成るだろう。

  ・「四家訓戒」
況や、”「氏の環境」に身を委ねて、「氏是」や「家訓」を信じて、その「氏の心」に従って、その範囲で育てよ”としているとも考えられる。

・「青木氏三様」
つまり、次ぎの「青木氏の三様」を物語っている。
”お仏像様”とは、考え方の「基準の様」
”掌で”とは、考え方の「持ち方の様」
”育てよ”とは、考え方の「扱い方の様」

確かに、この「三つの様」を以ってすれば「世の事」「氏の事」は成せる事は判る。
何れの世界にしてもこれは当に「条理」であろう。
「青木氏」は、これを「青木氏密教の教え」として”「青木氏三様」”としての「四家訓戒」の一つとしている。「青木氏の家訓」にも記述されている訓戒である。
取り分け、”「賜姓五役」を務める「賜姓族」”に執っては、「世間の普通の考え方」では、何事も成し得なかったであろう。
恐らくは、「子孫存続」の為の”「四家」や「福家」の制度”を敷く”「賜姓族」”であるとし、その”「模範」”と成るに「必要な環境」は、周囲には極めて少なかった事が挙げられる。
従って、”「三様」「三相」の提示”が、「必要条件」として、「息子の養育」を任した”「嫁」”に、「何かの規準と成る考え方」を、是非に「申し伝える事」は必要であった筈である。
そうで無ければ、この「訓戒」を以ってしなければ、この難しい環境では”「嫁の位置」”は明らかに果たし得ない事が判る。
況して、”「賜姓族の四家」”である。この「難しい環境下」で、所謂、”「夫と成る子」”を育てなければならないのである。
それ故に、”幼少期からの「養女」「養子」の制度”を敷いて、”「氏家の環境」”に馴染ませる必要性もあった筈であり、その”「馴染んだ上での訓戒」”として申し伝える様にした「四家制度」の「特異なシステム」であった事が云える。

注釈 これは、現在感覚から観ればであるが、当時は、社会は「氏家制度」の中での事であった為に、周囲や氏内も当然の事と納得していた筈である。況して、その当時でも”「賜姓族」”と云う立場であった事から、「一族一門」と「縁者遠縁」と「家人郎党」は、”「当たり前の事」”と認識していたと考えられる。
即ち、”「当たり前の事」=「伝統」”である。
そもそも、”「伝統」”とは”「当たり前」”として認識して納得しての事だからこそ、 ”長く歴史を経て「継承できる事」”であろう。
”特異”として認識していた「娘」や「嫁」は、既に「氏内」に存在する事さえも出来ない事であった筈で、況して、そのような者が「嫁」には成り得なかった事であろうし、一族郎党は認める事さえなかった筈である。むしろ、”特異”と考える事自体が”特異”と見做される「四家の社会」であった事に成る。
故に、「幼少期」からの「養女」であり、「娘」であり、「嫁」であったのである。
結果としては、”早婚中の早婚”であった事に成る。
恐らくは、筆者は、”「嫁」”と云う感覚は、”無い”とは言い難いが、最早、極めて薄かった意識であったと観ている。要するに、”「娘」で「子」”の概念の中にあった方が強かったと考えている。
この方が、”「四家方式」の[子の定義]の趣旨”を逸脱していないだろう。

その意味で、この「早婚」と成り得る”「早婚方式」(「幼少期の養女」)”は四家の中では”理に叶う事”に成っていたと考えられる。
そうすれば、「深い理解」は可能と成ろう。
そして、「氏の純血の目的」”もあったが、より”「氏の環境」”が多少なりとも理解できている”事に成り、依って、”「縁者」”の”「娘の範囲」”を画したと観られる。
そもそも、全くの ”「他氏の嫁」”では、”「物心」の就かない「幼少期の養女」”とする事は、青木氏に「謙る事の印象」を与えかねず「社会的立場」から難しく成る。
しかし、上記した様な「四家方式」の背景から「青木氏」に執っては、100%と”「幼少期の養女」”としなければ成し得ない環境事であった。
それ故に根本的に「四家」の中では無理な事であった筈である。
つまり、”血縁の無い「他氏の娘」の「嫁」”では、この「娘域の血縁」からでは成し得ず無理と成っていた事に成る。
況や、「四家の概念」としては、”「無血縁」<「四家方式」の感覚”の方が優先されていた事であっただろう。
(4)については下記に論じる処ではあるが、「概念」としては次ぎの様に成るだろう。

(1)「無血縁」<「四家方式」>「血縁弊害」
(2)「純血性」=「四家方式」>[無血縁]

故に、(1)(2)から(3)
(3)「無血縁性」<「純血性」>「血縁弊害」
(4)「子孫存続」=「純血性」>「氏拡大性」

故に、(3)(4)から(5)(6)
(5)「無血縁性」<「子孫存続」>「血縁障害」
(6)「無血縁性」<「子孫存続」>「氏拡大性」

故に、(2)(4)(6)から(7)(8)(9)
(7)「四家方式」=「子孫存続」>「無血縁性」
(8)「四家方式」=「子孫存続」>「血縁障害」
(9)「四家方式」>「氏拡大性」

故に、(7)(8)(9)から(10)
(10)「無血縁性」≒「血縁障害」≒「氏拡大性」

「3リスク」 
  「無血縁性」で起こるリスク 
  「血縁障害」で起こるリスク
  「氏拡大性」で起こるリスク
 即ち、「青木氏」には、この「3リスク」を持っている事に成る。

∴ 「四家方式」に依って、この「3リスク」は克服できる事に成る。
  
以上の様に、「社会との接点」に必ず発生する「3リスク」には、「青木氏」が採っている「四家方式」は論理的に矛盾は無く打ち勝つ事が出来る事が判る。
故に、矛盾が無くして、「賜姓族」として生き延びて来られたのである。

・「理と利の融合」
この「3リスク」を克服できる「四家方式」を更に次ぎに検証する。

”他氏の娘の嫁”を入れて「同族血縁の障害」を取り除く事には問題はない。
しかし、上記の数式論で説明できる様に、確かに ”理は叶ってはいる”が、敢えて、”「四家の制度」”として選ばなかった理由の一つには、ここにもあったのである。
特筆して、この「四家方式」の”「縁者 遠縁の養女方式」”には、強い”「氏の合理性の環境」”が青木氏の氏の中に働いていた事が読み取れる。
可成り強かった事が読み取れる。
先ず、何はともあれこの「四家制度」を考え出した事そのものに驚く。

(注釈 実は、平成に成っても、筆者も、この事は、現在の感覚や医学的な遺伝子の判断からも、”理に叶っている”として、この「伝統」の「訓戒の二つ」を「ある家の祝宴」に祝辞の中で申し上げたことがあった。
しかし、その”「嫁」”は、始めは ”きょとん”としていたが、上記の「子の定義」の事を、後に、”「青木の伝統の考え方」”として説明してからは、ある時間を経て経験して理解される様に成った。理に叶っていると納得したと観られる。
今は、この「青木氏の訓戒」を”「笑い話」”の様にして何とか馴染んでいる。
生活の中で、成程と「合理性」を感じたのではないかと観られる。
何時しか「孫」にも「曾孫」等にも、この”「笑い話」”成るものを伝えてくれるものと思って、うれしく成っている。意外に、現在では、家族関係では希薄に成っている中で、”理解されやすい感覚”であるのかも知れないと思った。これが長く続けられる”「伝統の本質」”なのではないかと考えられる。何時しか「子孫」も、その「時期」、その「心根」が来れば「ロマン」を感じてくれると信じている。)

実は、筆者は、そもそも、”「伝統の本質」=「理に叶う合理性」”だと判断している。
所詮、”「理の無い伝統」”は消えるのであろう。
依って、最早、筆者が、この様な”「伝統」”を後世に伝えられるのも限界であろうと考えている。
この”「伝統」”は、何度も書くが ”ロマン”でも良いのであるが、この”「伝統の不継承」”が「現代社会の歪」を生み出しているとも観ている。
”「理に叶う事」”がなかなか難しく成った社会に於いては、現代風に”「利に叶う事」”でも敢えて良いと観ている。
一挙に、現代社会を、”「理に叶う事」>「利に叶う事」”に変える事は、幾ら、”「伝統」は大事だ”と云ってもそれは無理な事である。
「利に叶う事」の社会には、それなりの「理由と根拠」とが在って、その様に成っているのであるからして、無理に換える事は反って問題を生み出す。
”「伝統」”を少なからしめる”「利に叶う事」”であるとは云え、決して、”「利に叶う事」は短絡的に悪い”と云う事では決して無い。むしろ正しい。
逆に、”「理に叶う事」”が、”何事に付いても正しい”と云う事でもないし、「理に叶う事」が逆に弊害や問題を産む事もある。
それの「理と利の境」は、「青木氏密教の氏是」とも云える「仏説」である[三相の理」(人、時、場)に従っていると教えられているのである。(家訓に記載)
({家訓]にあると云う事は、先祖は、「理に叶う事」「利に叶う事」に付いて、全てを知り得ていた事を証明する。)

「理」より「利」に聡く成った「現代社会」であるならばこそ、ここで、この数式論で、”「伝統」”をもう一回生み出して行く事も必要であろう。
ただ、この”「伝統」”とは、青木氏の賜姓族が継承して来た「慣習仕来り掟」を云う物では決して無く、”人間の本来のこの世に存在している根拠”、即ち、次ぎの事であると考える。

この「世の万物の目的」である”「子孫存続」”に対して、この世に生を得た「生きる者」の「尊敬の念」の「表現と行動」を云う。

この結果、”この念が継続的に維持されたもの”を”「伝統」”と云うのであろう。

これが、「希薄」に成っていると云う現象であろう。
つまり、現在社会の構成の中では、本来は、次ぎの数式論が働く筈である。

「理に叶う事」≒「利に叶う事」
この環境の中にあると考える。

しかし、この数式論が、次ぎの様に成っていると考えられる。

「理に叶う事」<「利に叶う事」
この環境に成っている事だと考える。

依って、この数式論では、次ぎの様に成るだろう。

(X) ”「伝統の本質」=「理に叶う合理性」」+「利に叶う合理性」”

そもそも、”「伝統の本質」”とは、何なのか。
この世に”「伝統]”と云うものが存在するには、”「理」”だけでは成り立たず、”「利」”が在ってこそ成り立つ。
何故ならば、”「伝統」”は、「生活」の中に存在する限り、”「利」”が無くては困難である。
従って、丁度、「理と利」は、”「骨と肉」の「一対の関係」”で成り立ち、”「理と利の和の相乗効果」”で以って成り立つと考えられる。
その”「伝統」”が持つ”「本質」”とは、何で構成されているかと云う問題である。
それは”「合理性」”であると考えられる。
”意味を持たず、無理の絡むもの”には、人は反応しないは常理であり、従って「継続性」も無い。
在っても一時的にものに終わる。それは、最早、”「伝統」”では無い。一時の”形式ばった戯れ”に過ぎない。
そこに、”納得出来得るもの”、即ち、”「合理性」”が求められる。
この”「合理性」”は,[骨と肉」に対して「血の質」に相当する。
故に、[骨と肉」それに「血の質」が相まってこそ”「伝統」”の「本質」は生まれる。
これを、数式論に置き換えたとして、次ぎの様に成るだろう。

「合理性」=(「理」+「利」)・「継続」=(骨+肉)・「血の質」

「継続」とは、「理と利」を「力強い信念」を以って進める事にある。
だとすれば、数式論は次ぎの様に成る。

「継続」=(理+利)・「信念」

そうすると、「継続」は、「理と利」に対して、その”「信念」=「2倍の力」”程度を発揮する事で達成される事に成る。

「信念」=「継続」=2

故に、次ぎの数式論の関係式が成立する

「合理性」=(「理」+「利])・2

依って、以上の数式論の関係式が成立する筈である。

「過去の青木氏」の「四家」の中では、この「数式論の環境(状態)」が、既に、当然の様に成り立っていたのではないかと考えられる。
その根拠は、”「奈良期からの生き様」”がこの数式論の環境(状態)を裏付けている。

(X)「伝統の本質」=「理に叶う合理性」」+「利に叶う合理性」
   「合理性」=(「理」+「利])・2
(A)「商いの氏族」+「賜姓族の氏族」=「二足の草鞋策の氏族」

この”「二つ環境」(4つの状態)”の数式論の中にあったからである。

即ち、”「二足の草鞋策の氏族」の形”が、奇しくも、”「伝統の本来の環境」”を作り上げていた事に成る。

(a)「伝統」≒「理」+「利」

(b)「理に叶う事」≒「伝統」≒「利に叶う事」

(c)「商いの氏族」=「利に叶う事」
(d)「賜姓の氏族」=「理に叶う事」
(X)「伝統の本質」=「理に叶う合理性」」+「利に叶う合理性」
   「合理性」=(「理」+「利])・2
(A)「商いの氏族」+「賜姓の氏族」=「二足の草鞋策の氏族」

以上であるから、従って、次の数式論が成立する。

故に、(b)(c)(d)から(e)
(e)「商いの氏族」≒「伝統」≒「賜姓の氏族」
   「商いの氏族」≒「賜姓の氏族」

故に、(A)(c)(d)から(f)
(f)「理に叶う事」+「利に叶う事」=「二足の草鞋策の氏族」

故に、(A)(X)(e)から(g)
(g) 2×「理に叶う事」≒「伝統の本質」≒2×「利に叶う事」

(2×「理に叶う事」と2×「利に叶う事」は、(「理」+「利])・2=「合理性」を表す。)

故に、(A)(f)から(h)
(h) 2×「理に叶う事」≒「二足の草鞋策の氏族」≒2×「利に叶う事」
   (2×「理に叶う事」≒2×「利に叶う事」→「理に叶う事」」≒「利に叶う事」)

(現在まで伝統が継承された事は、「信念」があった事に成る。依って[2]は数式論として削除)
   

故に、(g)(h)から(i)
(i) 「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」

故に、(a)(g)から(j)
(a)「伝統」≒「理」」+「利」

(j)「伝統の本質」≒{「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」}≒「理に叶う事」≒「利に叶う事」

故に、(a)(e)(f)(g)(h)(i)(j)から(k)
(k)「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」≒「賜姓の氏族」≒「商いの氏族]≒「伝統の本質」

結果として、以上の論理が働くからだ。

そもそも、即ち、この「数式論の関係式」は、普通の武家社会では起こらない事を示している。
それは,「賜姓の氏族」(理)と「商いの氏族」(利)であると云う[特質な環境」を保有していた事に成るからこそ成り立っていた事であり、且つ、上記の”「伝統の原理]”が成り立つ”「不思議な環境」”を持ち合わせた「青木氏」”で在ったからこそ、”「伝統」は保障され維持されて来たのである。

故に、上記の数式論は、”「青木氏]”のみであり、「平安期−鎌倉期の48氏ある氏族」でも成り立たず、況してや「一般武家」では、決して成り立たない。

何れにしても、この「世の事」が、将又、「青木氏」にも、数式論通りに、”論理的に全てが働く”とは言い難いが、凡そ、その「流れ」は、この数式論での様に、確保出来ている事は証明出来る。
個々の末梢事は、兎も角も、”「流れ」の確保”がこの世に於いて重要な事なのである。
”「流れの確保」”のその「前提」は、少なくとも、最低限にも、”論理的に状況の骨組みを作り上げて置く事”にある。
「青木氏」のみならず、この世の全ての「事の流れ」には、この「前提」が必要なのである。




「伝統 12」に続く。


  [No.329] Re:「青木氏の伝統 12」− 「青木氏の四家訓戒 1」
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/03/13(Fri) 05:55:43

「伝統 12」

> >前回の末尾

> 故に、(g)(h)から(i)
> (i) 「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」
>
> 故に、(a)(g)から(j)
> (a)「伝統」≒「理」」+「利」
>
> (j)「伝統の本質」≒{「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」}≒「理に叶う事」≒「利に叶う事」
>
> 故に、(a)(e)(f)(g)(h)(i)(j)から(k)
> (k)「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」≒「賜姓の氏族」≒「商いの氏族]≒「伝統の本質」
>
> 結果として、以上の論理が働くからだ。
>
> そもそも、即ち、この「数式論の関係式」は、普通の武家社会では起こらない事を示している。
> それは,「賜姓の氏族」(理)と「商いの氏族」(利)であると云う[特質な環境」を保有していた事に成るからこそ成り立っていた事であり、且つ、上記の”「伝統の原理]”が成り立つ”「不思議な環境」”を持ち合わせた「青木氏」”で在ったからこそ、”「伝統」は保障され維持されて来たのである。
>
> 故に、上記の数式論は、”「青木氏]”のみであり、「平安期−鎌倉期の48氏ある氏族」でも成り立たず、況してや「一般武家」では、決して成り立たない。
>
> 何れにしても、この「世の事」が、将又、「青木氏」にも、数式論通りに、”論理的に全てが働く”とは言い難いが、凡そ、その「流れ」は、この数式論での様に、確保出来ている事は証明出来る。
> 個々の末梢事は、兎も角も、”「流れ」の確保”がこの世に於いて重要な事なのである。
> ”「流れの確保」”のその「前提」は、少なくとも、最低限にも、”論理的に状況の骨組みを作り上げて置く事”にある。
> 「青木氏」のみならず、この世の全ての「事の流れ」には、この「前提」が必要なのである。



「青木氏の四家訓戒」

この「前提」の無いところには決して「河の流れ」は生まれない。
「河の流れ」が無いところには、「事の成就」(田畑の恵み)は生まれないのが、この「自然摂理」であり、「人の世」も例外なく「世の常理」である。

要は、”奈良期から進めて来た「二足の草鞋策」”が全てを物語る事である。
「青木氏密教の三相の理」の「時人場」(流れの確保)の何れもが大きく働いたと考えられるが、中でも、「流れの要」は、「時」ではなかったかと観ている。
奈良期から室町期までの「生存競争の激しい乱世」で「時の云々」が大きく左右した。
この「時の云々」を「機を観て敏」に導き働く「指導者と氏族」であってこそ生き延びられたのであり、「伝統」を護り通せたのである。
その「対照的存在」が、「青木氏」と比較対象に成る「源平橘」であった事に成る。
つまり、「源平橘」は、「上記の数式論」の「流れ」を無視した事に成り、依って、「伝統」が成し得なかったのである。特に、源氏は、上記した様に、「嵯峨期の詔勅」を無視して、「武」の身を押し通した事に「伝統」の破滅は勿論に滅亡の原因があった。
然りながら、「亡びた平家」は「宋貿易」を行い「二足の草鞋策」を採っていたが、伊賀本家を中心とする「宗家筋」は亡びた。その原因は、上記の数式論が成り立っていなかった事に在り、「青木氏」の「四家」に相当する「一族の統制システム」が上手く採れていなく、ただ一人の「個人の能力」に委ねていた事が原因していた。
しかし、大蔵氏等の同門一族は、上記の数式論が成り立ち、博多を中心に貿易を盛んにして「大蔵氏」を遺し得た。
一時、「同族の清盛」にその富を奪われて抑え込まれたが、その後、「九州自治」を前提に「子孫拡大性」を採り「九州全土」を網の目の様な「血縁の筋」で固めた。
秀郷一門とも血縁する等をし、「武」に頼らず、”広く薄く固める戦略”を採ったし、「後漢の末裔」「遠の朝廷」「錦の御旗」等の”「権威と象徴」”を保ち、「皇族の血縁」をも護った。
更には「博多貿易」とは別に、国内の「瀬戸内の富の権利」をも獲得して生き延びた。
同族の「平家」との違いは、「青木氏」と同じ「布位共生」を重んじ、「平家や源氏」の「布武」に頼らなかった事にある。
上記の「青木氏の数式論」に当てはめても、「四家方式」とは異なる「統制方式」を採用していて合致するのである。
「青木氏」の「祖先神 神明社」に対しても、北九州の「宗像神社」や「阿蘇神社」や「霧島神社」等ほとんどの「主要な神社」との関係を持ち「神社系氏族」を作り上げ、「神職」を入れて「一族一門」を固めた。現実に大蔵氏は「神職系氏族」が、幅を利かした。
更には、「後漢」からの「強力な職能集団の大蔵部」を従え、「大蔵種材」の様な「民の憧れの的」(「毘沙門天」のモデルにも成ったとされる”「民の味方」”の「豪傑の首魁」が出る等、「青木氏の御師」に相当する立場も持った。全く何れの面を捉えても「青木氏」との大きな違いは、「純潔性の維持」を除いては無かった。
むしろ、この点では氏子の領域までを血縁の範囲にする等全く「逆」であった。
元々、後漢から帰化した経緯が、「無戦」と民との「供生共存・技能供与」で「共生族の立場」を採っていた。
「平安期の氏族」の「48氏」の中で「子孫」を大きく遺したのは、「大蔵氏」だけである。

況や、上記の他氏との比較評価に於いても、”「伝統」”の無い処に”「子孫存続」”は成し得ないの条理であった。

その「共生共存」を旨とする「子孫存続」「伝統」を示す「上記の数式論」が「前提」と成り得ている。
この”「二足の草鞋策」”が成り立たなかった場合は、「青木氏」に執っては、この「数式論の環境」は「水泡]と成り得ていたのである。

この「数式論の流れの立場」を確保したからこそ、「商いの顔」と、「三つの発祥源の顔」と「賜姓五役の顔」を務めて来た「賜姓族の顔」(「五つの面」 「20の顔」)として「二流の顔」から ”「青木氏の伝統」”が生まれ護られて来た。

明らかに、”「二足の草鞋策」”が、”「伝統」”を生み出したものであり、その”「二足の草鞋策」”を実行するに必要と成る”「子孫存続」”を維持し護った。この為に、”「四家制度」”が敷かれたのである。
況や、「二足の草鞋策」=[四家制度」=「子孫存続」=「伝統」とも云える。

これは、古来より「青木氏」の中で容認されて来た「根本の概念」である以上、就中、現代でもこの数式論が成り立つ事が出来得れば”「伝統」”は保たれるとも考えられる。
但し、あくまでも、この”「子孫存続」=「伝統」”の上記の「数式論の環境」が維持されていればの事である。

(注釈 「青木氏」を調べている中で、”何で「青木氏」にだけこの”「古来の伝統」”が継承され続けて来たのか”に大いなる疑問を持った。
何かある筈で、 それを「紐解け」ば、”青木氏は判る”と考えた。
当然に、「血縁関係」を保持していた「布位共生」の「佐々木氏等の氏族」と「布武」の「源平藤橘」等の比較対象があって、この「生き様の差」を研究した。
その過程である”方程式の様なもの”がある事に気が付いた。
その研究の経緯を経て、生き残るに必要なこの方程式の数式論を導き出した。
つまり、「青木氏」とは、「多少の違い」はあるにしても、「佐々木氏」や「大蔵氏」や「藤原秀郷流一門」等、生き残った「氏族」の「共通項」があると考えた。
この「共通項」を調べるのに大変に苦労をした。この結果上記の様な数式論に辿り着いた。
例えば、”「商い」”とする場合、この「商い」そのものの「確証」探しや、それに類する”何かの糧類”などを見つけ出す事の「資料探し」が大変であった。
この様な研究は現在では「個人情報保護」や「著作権」等で縛りが出来て無理であろう。
現在、各地域の宗家筋の「青木氏の現状」を全て把握している訳ではないが、筆者のルーツも明治35年の松阪大火の出火元で950年以上続いた「福家の商家」も「倒産の憂き目」を受けた。
しかし、他の「四家の子孫」は、この「商家」と「家」を各地で引き継いでいるし、筆者の親族も「商い」をしている。
しかし、”「子孫拡大」”は果たされていて、ある程度の数式論の環境は保全されているが、”「伝統」”は、「時代の変化要素」の方が大きく、上記する”「合理性」=「継続」=「信念」=2”を失い「縮小する見込み」である。他氏も同じであろう事が調査の過程で判った。
果たして、「伊勢の秀郷流青木氏」は、兎も角も、「入間の秀郷流青木氏」も、この「伝統」を継承し得ているかは、一時は把握していたが、残念ながら、最早、判らなくなった。
「信濃青木氏の福家筋」は、未だこの”「伝統」”を何とか維持しているらしい事が確認できている。)

・「青木氏の四家訓戒」(氏是)
さて、そこで,「伝統の本質」の「合理性の血の質」と成り得た「四家方式」の上記の「子の定義」を護るには、”「氏の根本的な概念」”が必要であった事が判る。
況や、それが、”「氏是」とも云える概念” 況や、「血の質」である。
即ち、「氏是」=「血の質」である。
そもそも、”「お仏像様」の掌で育てよ”の「氏是」と成っている「訓戒」が、「大化期の発祥期」の頃から言い伝えられていたのである。
「氏是」の”世に晒す事無かれ、何れ一利無し”の「青木氏の訓戒 氏是」と共に、長く「子孫」に伝えられて来たこの「訓戒」もあったのである。
この「お仏像様」は「青木氏の護り本尊」である。
この「訓戒の意味」は極めて深いが、ここで、この”「青木氏の四家訓戒」”が、”お釈迦様の掌で・・云々”の言葉が世間でも云われている。
 ”何故にこの「氏是の言葉」が世間に出たのか”と云う一つの疑問がある。
そもそも、「青木氏密教の訓戒」で「氏是」と成っているものが、”世間に出たのか”には何か意味を、或は、”「青木氏の生き様」に関わる事が起こったいたのではないか”と云う疑問である。
「密教」なので外に出ると云う事がどうしても考え難い。
そもそも、「顕教」の”「宇宙仏の盧舎那仏」からの「教え」を、「お釈迦様」が伝える”とする”「顕教」の「お釈迦様の説」”である事から、”お釈迦様の掌で”の言葉は、「密教」では無く、「顕教」である。
明らかに「顕教」である以上は、「時代性」から観て、もっと後の「鎌倉期の時代」に最初に広まったと考えられる。
そうすると、伝えられる手段には、次ぎの事が考えられる。
”鎌倉時代の「浄土真宗」”に依って,「仏説」を「庶民」に判り易く伝える為に、”一般化して世間で使われた言葉”である筈である。
この「時代性」と、世間に伝わる「伝達手段」から観て間違いはないだろう。
「法然−親鸞の関係」と「親鸞の苦悩」の「歴史観」から観て、「民の領域」まで伝わるには、「浄土真宗」しか無い筈である。

(注釈 浄土真宗はその路線の考え方の違いから、四派に分裂した。しかし、この部分に於いては、「共通の仏説の説法手段」であり、路線には関係が無い。だとすると、鎌倉初期前後であり、親鸞そのものが伝えた可能性が考えられる。
だとすれば、「青木氏の浄土密教」−「密教浄土宗の法然」−「法然弟子 浄土真宗の親鸞」の流れの中での関係から伝わったものと考えれば、「密教の門外不出の掟」は開ける。
「奈良期」から「平安期」に掛けて、そもそも、「僧侶」は、「国家機関と朝廷が認める者」以外には成れなかったし、「僧侶」から自由に「仏教の教え」が「民」に伝われば、「国家の安寧」が脅かされるとして、「仏教の民への布教」を禁じていたのである。
況や、「密教」のみとした経緯がある。
然し乍ら、基本的には、この禁令の傾向は社会の中では、平安期末期まで続いたが、これに対して「民への布教」を実行したのは「行基」−「親鸞」であった。
ここで、「法然との軋轢」が生まれて、「真宗の宗派」を構築した。
従って、「法然と親鸞の軋轢」が起こらない前とすれば、この「言葉の伝承」は起こる。
ただ、「行基」(660−749)はこれを破って布教を続け、遂には、「行基」と「民の賛同」を得なければ一切の社会の工事も進まない状況と成った事から、「聖武天皇」は「行基」を許して大僧正の最高位の位を与え、「興福寺建立」等の責任者に指定し、これを成し遂げた経緯が在って、禁令の中でも「仏教」は民の中に浸透して行った経緯を持っている。
伝わった時期とすれば、730年頃の行基か、1180年頃の親鸞かに依る。
この環境の中で、「禁じられた仏説」の「青木氏密教」が民の中に浸透した事は異例なのである。
その意味で、”何かが青木氏との間であった”から伝わったのである。
”「青木氏と親鸞の親交関係」が在ったか”は、資料不足で不明であるが、「古来の和魂荒魂の宗教」と「古来仏教」とを融合させた「青木氏密教」と、後に、「浄土宗密教」をも取り込んだ「青木氏」とは、「法然」は深い関係があった筈である。
前段で論じた平安期に「仏舎や仏画や三昧耶形や毘沙門天像の関係」での事でも親交がない方がおかしいと考える。)

(注釈 宗教論争時に伊勢に移動している経緯がある事から、青木菩提寺で親交している筈である。
「親鸞の布教」にも伊勢にも旅している事からも、仏説に付いての議論もあったのではないかと推測できる。
何れ、「二人の逗留」の証拠は、残念ながら「菩提寺の消失」で資料は見つからない。
しかし、奈良期から平安期まで間に「伊勢の菩提寺」に「高僧の行基」を始として「複数の高僧の逗留」はあった事は判っている。
それは、「青木氏の口伝」でも、「紀州徳川氏の資料」の中からも認められるので、充分に考えられる。
「紀州徳川氏」の資料の中に「青木氏菩提寺建立」に「行基」が関わった事が書かれている。
筆者は、「本尊仏像」を根本的に嫌い、「釈迦如来像」や「大日如来像」や「毘沙門天像」の「本尊仏画」を採用した「親鸞の伝達説」を採っている。上段で論じた様に、この時の仏画は多くは「青木氏の僧侶」が多く書いていた関係から、”伝わり方が平準である事”から伝わったと観ている。
「青木氏」は「布位共生」を旨としての氏であった事から行基にしても親鸞にしても平易に親交があった可能性が観られる。)

「青木氏の密教浄土宗」の中で使われていたこの「四家三様の言葉」が、何らかの事から、この”「訓戒」”が「親鸞」に伝わり、そこで、布教の中で、顕教であるが故に ”「仏説」を判り易く伝える言葉”として用いられたと観ている。
その証拠は、特に「親鸞」は、その特定の階級に布教した「密教であった浄土宗」の「難しい説法」を、「顕教」として「庶民」に判り易い言葉で多くの事を云い換えて伝えている。
この「氏是」も、”「青木氏の「お仏像様」(密教)”が、”「お釈迦様」(顕教)”に変えて伝えられたと観られる。

その前に、既に、「青木氏」では、「密教」の「大日如来のお仏像様」は、”奈良期の賜姓時の賜物”であった事から、その時より”「お仏像様」(鞍作部止利の作)”を祭祀していて、「密教の考え方」を基本とした「平安期の家訓」までの間には、この”「訓戒の言葉」”は既にあった事が判る。
そもそも、「青木氏」で、この”訓戒として使われていた言葉”が、”浄土宗が「密教」から「顕教」に成った時点(鎌倉期初期)”で、「浄土真宗」から庶民に”「仏教の教え」”を判り易く布教する為の一つの「説法手段」に使われて伝わったものと観られる。
「密教浄土宗」が、正式に「顕教浄土宗」となり「密教」を解除したのは、家康に依る「江戸初期の浄土宗督奨令」からである。
しかし、この時も、”上級武士の宗派”として定められた為に、庶民に一般化したのは、矢張り、鎌倉期の「真宗」であると考えられる。
「浄土宗」は、「密教」であった事から、”何かと説法は判りにくい漢文の言葉”で伝えられている。
しかし、他宗、特に「真宗」は、この言葉以外にも、”多くの訓戒”を、庶民に”「仏説」を布教伝道する「云い換えの判り易い言葉」”を多く作り上げていた。
又、”「本尊とする仏像」も持たない戒律”の「浄土真宗」では、当然に、「判り易い言葉」を使ったと観ている。
有名な「真宗の教え」の”唯念仏をただ唱え信じよ。然れば汝は救われる。”は、当に、この”お釈迦様の掌の中で”の ”「換え言葉」”であった。

この事から、従って、「密教の訓戒]であったものが、”「お仏像様(大日如来)」”が、「顕教の訓戒」として ”「釈迦如来」の「お釈迦様」”に変えられて伝わったと筆者は観ている。
”「密教の訓戒」”が、”「顕教の訓戒」”に成った例は、”浄土宗系の宗派”には他にも多いのである。

話を戻して。「四家の嫁」は この”お仏像様の掌で育てよ”以下の通り育てるのである。
従って、「四家方式」の”「嫁」(養女)”は、「自分の子供」と、更に、「夫に成った息子」の「子」を育てる訳であるから、「祖父の親」から観れば、この、”「嫁」(養女)”は、最早、”「嫁」”では無く、「実娘」に相当する”「娘」”としての位置づけが必然的に起こる。
つまり、その「娘」と成った、”「嫁」(養女)”は、”「実娘」の扱い”と成った時点で、”「息子の親」に育てられる”とする考え方を採る事に成る。

この前提には、”「嫁」(養女)”は、「基本的な処置」として、”「女子の曾孫域」以上の縁籍の者”を幼少期より「氏の家」に迎えて”「養女」”として育てる。
この事から、”他氏から来た嫁”、”曾孫域(遠縁)から来た嫁(養女)”の二通り”「嫁」”が生まれる。
しかし、そもそも、”他氏から来た嫁”は、「青木氏」は「純血主義」(同族血縁)を前提とする為に、無理に「養女の形式」を採ら無い限り、原則はあり得ない事に成る。

「四階妻の制」と「四家妻の制度」
従って、「他氏の血」を入れる為に、次ぎの方式を採用した。
それは、「妻の定義(嫁)」に関わる。
この場合は、「一夫多妻の形式」を本来は採用している事に成る。
しかし、”「多妻」”と云っても、「賜姓族の範囲」では、ハーレムを作る程のイメージでは無く、「妾」を置く事の前提と成る。
上記するこのシステムを健全に進め維持する為に、奈良期から平安期に掛けて、「賜姓族」には「三つの発祥源」の「象徴氏」の責務宿命が在った。
「責務宿命」である事から、「象徴氏」を消滅させる事は国策上好ましくないとする政治上の判断理由があった。
そこで、それを護る為に、”絶対的子孫存続の使命”が課せられていた。
その事から、青木氏には、本来、「四階妻」(后、妃、嬪、妾)」の制」として認められていた。

(注釈 現実には、「青木氏」の「系譜添書の資料」から観ると、一人の先祖に対して、子の母の名前が、四人としては出て来ない。確かに「妾子」の記載はあるが、記録からは”四人”は無いので、「賜姓族」としては、現実は、実質は採用されていなかった事が云える。)

この注釈から観て、ではどの様にして、”「子孫」”を生み出していたのかが重大な疑問である。
この事に付いて次ぎに検証する。

・「四家の原則」と[福家方式」
それは、「四家の原則」にあったと観られる。
特に、「藤原秀郷流青木氏」の「特別賜姓族青木氏」は116氏に及んでいる。
従って、系譜から観て「伊勢の特別賜姓族青木氏」を除いては、この「四家の原則」は採用していなかった事が判る。
つまり、「皇族賜姓族青木氏」の場合は、この「四家の原則」を採用していた事に成る。
つまり、「青木氏」は「本家分家方式」を採用せず、上記に述べた様に「福家方式」を採用していた。

(注釈 「嵯峨期の詔勅」で、「皇族の配流孫」であるとして名乗った「青木氏」も在ったが、この氏は全く、「皇族配流孫」としての名跡を利用しての出自であった事から、一般の姓氏の国衆の武士として生き延びた。依って、本論の”「伝統」”と云うものとは違い、「武士の家の伝統」と成っている。 )

この「福家方式」は「四家制度」で構成していた。
そもそも、”「純血性」”を確保するには、”「本家分家方式」”では、事の次第に依っては、無制限に広がる「拡大性」を持っている。
しかし、この「拡大性」には、「純血の度合い」が薄く成ると云う欠点を持っている。
それでも、「吊り合いの取れた血縁」に依っては、”ある程度の純血”を保てれば、「賜姓族」としての対面は保てる。
依って、関東の「特別賜姓族青木氏」は、止む無く”「純血」より「拡大性」”を重視していた事に成る。
その「役務の大きさ」と「24地域」と「116氏」から観て、これを維持するには、「四家方式(20家)」では、論理的(下記)に無理であろう。
この”「特別賜姓族」の考え方の概念”は、歴史的に観て、その「行動の発想基準」は、総じて、次ぎの様であった。

「子孫存続」=「純血性」<「拡大性」
以上の数式に従っていたのであった。

上記の「四階妻の制」を捉えて地道で行けば、確かに、この「拡大性」は担保できる。
これには、「経済性の保障」が前提と成るが、この条件をクリヤー出来得れば、戦乱期の室町期までは”「子孫存続」”の点では合理的である。
”「特別賜姓族青木氏」”の場合は、”宗家の護衛団の役目柄”で各地に子孫を送り、役目を果たさなくては成らなかった為に、”「子孫」”を確保する必要が絶対的にあった。
又、「祖先神 神明社」の建立の補完義務もあった。
従って、この「四階妻の制」を積極的に採用したと観られる。
(その意味では、「特別賜姓族の秀郷流伊勢青木氏」は入間宗家とは異なっていた。)
更には、「特別賜姓族」が「補佐役」としても、その責務(神明社建立)を果たさなくては成らなかった為にも、「子孫確保」は、”無制限”とも云っていい程に必要であった。
又、赴任先の現地に、政治的な戦略からも、”「現地末裔」”を発祥させている事からも、この「116氏」にも及んだ事にも成る。
しかし、ここで、「四階妻の制」には、「高位の氏」として注意しなければならない問題があった。
この為に、この事を認知していた為に、「四階妻の制度」を朝廷は、恣意的にも容認して、”反乱等の疑い”を取り除く為にも公認したのである。
「天皇家」が率先して、この制度を奈良期から敷いていた。
これらの事もあって、「拡大性」を含んだ「四階妻の制」は、「賜姓族」などの”国策実行の「認証氏」”に躊躇なく公認したのである。

ところが、「皇族賜姓族」でのこの”「四家」”では、「特別賜姓族」の様に、「四階妻の制」は敢えて採らなかったのである。
それは、当然の事として、”「子孫存続」=「純血性」>「拡大性]の概念”が在ったからである。
ここが、同じ身分、家柄、官位、官職を持つ「特別賜姓族」との”大きな概念の違い”として出て来る。
但し、”伊勢の「秀郷流青木氏の特別賜姓族」には、どの資料から観ても、この傾向を強く見られない。
この原因は、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」との血縁関係を強く持った所以であると考えられる。
何故ならば、親交血縁を進めば、”「子孫存続」=「純血性」>「拡大性]の概念”に関わって仕舞うからである。
「同地域」に於いて、「同一行動」を採り、深く「親族関係」を保っている立場に於いては、「子孫存続」=「純血性」<「拡大性」の概念は、極めて取り難いからであった。
この”取り難い”の範囲からは、時と場合に依っては”争い”の範囲にも成り得る。
現実には難しい差である。
「地域外」であれば、この「概念の差」は、”調整、仲介”と云う手段も取れるが、「地域内」では無理である。
それを象徴するのが、「伊勢四日市の融合青木氏」である。
「皇族賜姓族の伊勢青木氏」と「特別賜姓族の伊勢青木氏」の”「融合青木氏」”が存在する事である。
「跡目養子」、「婿養子」の何れにも「血縁混合」して「融合」を成し遂げた「青木氏」である。
又、一方で、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」と「特別賜姓族の伊勢青木氏」は、平安期よりの「女系での濃厚な血縁族」が存在するのである。
しかし、この”「融合青木氏」”は、「女系」のみならず「男系」の「血縁族」でもあって、両方の血筋を等しく持ち、尚且つ、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」の”「四家」”の一つに位置づけられているのである。
本論の”「跡目の子の定義」”が両方に働くと云う極めて有利な「氏族」が発祥していたのであった。
この「融合青木氏」と、「伊勢の血縁青木氏」(秀郷流伊勢青木氏)とが、「皇族賜姓青木氏の五家五流」と「入間の武蔵青木氏の宗家」との間での問題で、この「調整仲介の役目」を果たしていたのである。
取り分け、この「融合青木氏」が”「四家」”に位置する事は、この重要な「調整仲介役」の為に発祥させたと考えられる。
そして、「女系での濃厚な血縁族」の「秀郷流伊勢青木氏」(特別賜姓族伊勢青木氏)と共に、「武蔵の入間の秀郷流青木氏」の「宗家との調整」を図ったと観られる。

(「神明社建立の問題」や「同族血縁の仲介」等で数多くの問題があり、この調整仲介して進める大きな役目があった。)

この事で”「概念差の問題」”は解決した。

・「四家」「福家」「家人」
「四家制度」のシステムでは、[福家]の当主は、「子供」(息子域)の領域では、「四つの家」を構築出来る。
これ以上の家は構築出来ない。
仮に「子の嗣子」が、四人以上と成った場合は、「余人」(選抜された四人以外の子)は、”「家人」”と成るが、「新たな家」を興す事は出来ない。
「余人」の「家人」に成った「嗣子」であった「子」は、「家」をお興す事が出来た者の下の四家に配属される。

「嗣子の余人」が「家人」と成った以上は、「他氏」との血縁は自由に可能と成り、ここで「他氏の血」が入る事に成る。
この「嗣子の余人]であった家人と成った「家人の男子(息子)」が、四家に嗣子が不足する場合は、「四家副役の養子」と成り得る。
ここで、初めて四家の中に他氏の血筋が入る事に成る。
ここで云う「他氏」とは、「シンジケート」の事で、「家人の男子(息子)」は「伊勢シンジケートとの連携の血縁」に良く使われた。

この「嗣子の余人」の「家人(家臣に相当)」に成った者は、「家族」を持つ事は出来るが、この一族は永代で「家人の立場」で終わる。
そもそも、「家人」には、この「血縁のある家人」と「血縁の無い家人」(普通の家臣)とに分けられる。
この「血縁のある家人」は、「血縁の無い家人」の「格式下の跡目養子」として入る事が出来る。
この「格式下への養子縁組」は、最早、”「養子」”とは「賜姓族」である為に認めない。
「賜姓族」では、その”「純血性」が低下する”と云う事を前提に、”「賜姓族」より格式下への家柄”に男子が入る場合の縁組は、「賜姓族側」では”養子”としての呼称は採らず、”「家人」に成った”として呼称として扱われる。
つまり、「親族の範囲」から外れ、「他人の範囲」に入る事に成る。
しかし、この「格下の跡目」に入った[血縁の無い家人」の家は、この事に依って次ぎの氏を発祥させる事に成る。

”「絆青木氏」(1 男系)”
として発祥する事に成り得る。

この”「絆青木氏」”には、「五家五流の賜姓族青木氏」から「娘」が嫁いで、血縁氏を発祥させる。
”「絆青木氏」(2 女系)”
以上の2氏が発祥する事に成り得る。

以上の「二流の絆青木氏 A」(「絆青木氏 1」 「絆青木氏 2」)
”「血縁のある筋目」の氏”が在る。

更に、この「絆青木氏」には、”「家臣」に相当する「家人の氏」(侍)”がある。
「武士部」の「絆青木氏」(3)

「青木部の職能集団」(商人含む)「部人」に相当する「家人の氏」(部)がある。
「青木部」の「絆青木氏」(4)

以上の「二流の絆青木氏 B」(「絆青木氏 3」 「絆青木氏 4」)
”(血縁の無い筋目)が氏”が在る。

このAとBの「二つの絆青木氏」の「四流」は、「格下の跡目養子」を認めていない以上は、差別なく格式は同じとして扱われる。
「格下の跡目養子」として入る「4つの絆青木氏」は、「四流」の何れを問わない。

これを「賜姓族側」では、”「格下養子」”と呼称するが、元は「嗣子」であった者が、「格下の家人」と成る事に対する「一族の位置づけ」である。
「四家方式」の組織の運営上は極めて重要ではある。

しかし、ここで「青木氏」の「氏内の子供」と定義される者の意識の中には、ある程度の”自由意識”があって、次ぎの様に成っていた。
つまり、口伝とかでも判るのだが、「福家」がガチガチに命令で決めていた様では無かった模様であった。。

”「侍」として生きたい者(「氏人」)”と、”「家人」「職人]として生きたい者”の「嗣子」があって、多様であって、この何れにも”「特別の傾向」”は無かった模様で在った。
当然に、この「嗣子の意識」から、”「四家」に成る事”を敢えて断る者、「家人」や「職人」に臨んで成る事を好む者、があった模様で、比較的に自由意識が伝統的には認められていた。
恐らくは、好きこそものの上手成れ”の通り、「適材適所」を認めていた。
この事は、家訓にも述べられているので、積極的に認められた制度でもあった事に成る。
家訓にあると云う事は、”本人に才能が有る”からとして強制的に配置すると、本人にその「気概」がないと、”「四家の統制」が取れず良い結果を産まない”とした考え方を採用して居た事に成る。

最終は、”「福家」と「四家」の「最終判断」”で決められて ”「適材適所」”に配置されていた。
上記した「5つ面」「20の顔」があり、上記する「4つの絆青木氏」もあり、配置先としては多種多様があり、問題は無かった模様であった。
そもそも、「伊勢青木氏」の範囲で観ると、特に、”青木氏の遺伝による特質”か、むしろ、積極的に「職人」「商人」に成りたがる傾向を持っていた。
その「青木氏の遺伝傾向」は、「技術関係の者」と「商業関係の者」の特質に分けられる。
現在も伊勢ではこの傾向を持っている。
青木氏始祖を始めとして、奈良期では「軍略氏の血筋の家柄」ではあったが、不思議に政治家は出ていない。

(余談ではあるが、筆者は、兄弟親族の中でも、「技術者系の血筋」を引いているらしい。技術者の「先祖の逸話」が多く遺されている。
「機械」などを良く作り、「鉄砲」などを上手く操る名人が居て、紀州藩に依頼されて家臣に指導した事も伝わっている。現代の機械家電の大メーカーの初代の工場長を請け負った人物もいた。)
これらは口伝逸話でも多く伝えられている。)

「四つの環境」
そもそも、歴史的に次ぎの環境が物語る。

(1) 奈良期から「三つの発祥源」(武家、侍、氏)として位置づけられるも、”「猛猛しい武士の環境」”には無かった事
(2) 平安中期からの「二足の草鞋策」の長い間の「商いの環境」があった事
(3) 奈良期からの「国策氏」としての「青木部の職能集団」を独自に持った「技能の環境」があった事
(4) 奈良期から明治期まで「武家の環境」にはあったが、「戦い」を是としなかった「氏の環境」があった事

以上の「四つの環境」が、1300年程度の間に、「氏内の遺伝的傾向」が生まれていたと考えられる。

因みに、筆者は「技術系」の遺伝であるが、兄弟を含む親族には、「商業系」に分けられるが、「商才」を強く持つ「商業系の者」が一族には実に多いし、長く続けられた”950年続いた「伊勢紙屋長兵衛」”がそれを強く物語っている。
上記の数式論から、「二つの青木氏」には、この傾向が強かった事が判る。
「秀郷流青木氏」は、一族の「護衛団の役目」を担っていたが、各地24地域で殆どと云って良いほどに”「豪商」”が実に多く出ているのもこの事を物語っている。
(青木氏の守護神 神明社」の論文でも論じている)
深く同族血縁関係を持ち、明治35年までその関係を持ち続けた「信濃青木氏」に付いても同じ事が云える。
この事から、「甲斐青木氏」や「摂津青木氏」にも相当の血縁を始めとする親族関係を維持して来た事、当然に、少なくとも「伊勢秀郷流青木氏」との関係は、「融合青木氏」が発祥している事から観ても、”親族以上であった事からも”同じ傾向の伝統”を持ち得ていた事が云えるのである。

ここには、明治期まで続いた”「神明社建立や一族の菩提寺建立」”等の「職能集団の青木部」の「技能の遺伝」も見逃せない。
一族にこの「遺伝的潜在能力」を持ち得ていないと、”950年”は無理であろう。
これは何の保証もないが、「始祖の施基皇子」の「日本書紀」に記載されている活動から観る極めて”高い能力”が基礎と成って”遺伝している”と観られる。
況や、これは、最早、”「伝統」”の一つと成り得ているのである。
これらは、本論で論じている事を総括的に証明している。

・「主役(しゅえき)と副役(ふくえき)」
更に「四家方式」に付いて続ける。
「子の定義」が「孫域」までとしているので、「四家」は、”「家」を興した者”の下に、その子(孫)にも四家までを認める。
従って、「子域の四家」(嫡子四人 主役)と、「孫域の四家」(嫡子四人 副役)が生まれる。
結局は、最大「16の家」が興る。この範囲を超えない。
この「16の家」で、「5つの面」「20の顔」を熟す事に成る。

「福家」の「当主の親」(A)が没するか、病気や老化等の何らかの理由でその能力が低下すると退役すると、「子域の四家」から「四家の合議」によって「福家の当主」(B)を決める。
この時、「孫域の四家(副役)」が、「子域の四家(主役)」に昇格する。
所謂、「世代交代」が積極的に行われる。
「当主の親」(A)であった他の四家の三人は、一族の「子の定義」の域の中から選択されて「跡目継承」が可能に成り次第に主役を退役する。
代々これを繰り返す。

この様に、「福家」が何らかの理由で潰れても、一族は衰退しない事に成る。
このシステムを採用する事で、「拡大性」は制御され、「子孫数」も一定に保たれる。
又、「血縁の度合い」も一定に保たれる。
この「四家方式」では、当時の時代の寿命や医療環境から観て、「子孫数」を無理なく保てる事が出来る方式と成っていた。
「氏」の一族で「孫域」までを「子」として、男の「子域」を最低二人にし、女子を最低二人とし、その嫁ぎ先の子域までを二人とするとして、そこに平均25年経過後の「孫域の子」を加えた子孫数を「16人」と見込めば確保できる事に成る。

・「妻+妾」の前提
男子2 女子2の子
±2の許容範囲
男子15、女子10を出産最低限度
以上を前提にして「系統図」を作れば、次ぎの結果と成る。

最速20年、最遅32年で、平均26年の結果が得られる。

つまり、「福家の当主」と成った時点で、妻子で、25年後(最低20年−最高32年)には、最低でも16人(MAX24)以上の「子の定義」の子孫が生まれる事に成る。
これに「妾子」を同じ条件で加えれば、平均13年後(最低10年−最高16年)には、最低16人以上の「子の定義」の子孫が生まれる事に成り、無理なく確保出来得る。

この数式論は、次ぎの様に成る。

{(男子2±2)×4+(女子2±2)×4}+{(孫2×4)}>16

この「四家方式」で行けば、当時の「子の生存率」を考慮しても、16は、最低で「8の範囲(50%)」で確保できる事に成る。
これに、「養女方式」と「家人方式」から補完される事に成るので、上記の数式論は「8の範囲」は「2の範囲」で確保できる事に成る。
そこで、「±2」の「+2の範囲」で数式論が働けば、「2の範囲」は消えて、100%問題は無い事に成る。

注釈
資料から平均的に「高位の氏の生存率」を考察しても、最悪であった室町期の生存率(30%−35%)から観ても、確実に”安全領域”である。
しかし、「青木氏」は、そもそも”「氏是」”としても、「室町期の戦い」には”激しい戦乱の状況”はしなかった。
記録での”戦い”の全てを観ると、「シンジケートのゲリラ戦(撹乱戦法)」を展開した事が判っている。

この「四家方式」は、この「計算の前提」で敷かれたシステムである事がよく判る。
論理的に、逆説的には、「武家」では成り立たない事に成る。
そして、この「四家方式」が継続して始まったとすれば、最初の10年は削除されて、「15年の軌道」に乗る事に成るので、「妾子」無くしても、「妻の範囲」で、この「四家方式」は成立し続ける事に成る。
しかし、実際は、「継続中での継承」と成るので、「15年の軌道」は、殆ど、「0年の軌道」と成る。つまり、見習い中だった「四家副役の後継者」が代替わりして引き継ぐ事に成るので、「0年の軌道」は保障される。
更には、この安全率として、「四家方式」の継続中は、「妾子」に「子の定義」の範囲を拡げれば、「跡目継承の問題」は完全に霧消する。

(「妾子」を設けるかどうかは、四家のみならず、家人の跡目の問題も考え合わせて、状況に応じて判断する事に成る。)

これで、仮に、「氏是」外の範囲で、室町末期の「戦い」の様な事が起こったとしても、問題は無い事が判る。

要するに、この「四家方式」では、”「子孫存続」=「純血性」>「拡大性]の概念 ”は安定して保たれる事に成る。

逆に、「秀郷流青木氏」や「11流の源氏」では、”「氏是」”が違っていた事も含めて、「四家方式」は無理である事が判る。
「秀郷流青木氏」の存続は、「特別賜姓族」である事から、「源氏」の様に「戦いの氏是」は採らなかったし、「賜姓族」であった事から、上記する「子の定義」も含めて ”「青木氏」と類似する行動を採った事”に所以する。
故に、”「子孫」”を確実に現在までも遺し得たのである。


・「源氏の衰退理由」
では、”何故、全く「皇族系の同族」である「賜姓源氏」が、「滅亡の憂き目」を受けたのか”対比する意味で考察して観る。

(但し、ここでは「賜姓族でない源氏」、「同族でない源氏」もあるので、同族の”「賜姓源氏」”と表記して論じる。)

”「源氏」”と称するものには、そもそも次ぎの三つがある。
(イ)「嵯峨期詔勅」を受けて、「賜姓」を受けないで、「源氏」を名乗った「皇族」
(ロ)「荘園名義貸し」で名乗った、皇族でない地方豪族の「未勘氏の名義源氏族」
(ハ)「荘園制」で「遠縁の女系」と血縁して勝手に「源氏を名乗った地方豪族」

(ニ)正規の賜姓の手続きから外れて、特別に「賜姓の源氏」を強引に受けた「清和源氏」

但し、最も勢力を持ち、滅亡の引き金を引いた”「清和源氏」”も厳密に云えば「賜姓源氏」とは云い難い。

その理由を論じる。
「清和源氏」を名乗った「経基王」は、「清和天皇」の「第六位皇子」では無く、次ぎの陽成天皇の皇子である。この「陽成天皇」は、同族血縁の障害で、性格が破綻していて、皇子順位も低く、正規の「陽成源氏」が賜姓がされていて、既に、その「賜姓資格」が「経基王」には現実に無かった。
そこで、「経基王」は、先代の清和院の第六位皇子の貞純皇子の系列に入って、特別に賜姓を懇願した。この時、既に、清和天皇の正規の皇子の「賜姓源氏」が賜姓されていた。(二流)
祖父の位に当たる「清和院」は賜姓を嫌がった。
そこで、「武蔵介の役人」として終わる事を嫌って、何とか「賜姓の権威」を受けて、この”権威”を持ち伸し上がろうとして”野心”を掻き立てた。
そこで、手柄を立てる事で認めさせる様にして、「将門の乱」と「純友の乱」に対して、2度も讒言で事件を起こし、清和天皇に直訴して事件として取り上げさせて、手柄を作り上げた。
そこで、止む無く清和院は、渋々に「嵯峨期詔勅の意」を述べて、「賜姓」をした。
この時、既に、清和天皇の第六位皇子が賜姓を受けて源氏に成っていた。
しかし、「経基王」が清和天皇の第六位皇子として賜姓を受けて仕舞っていたので、結局、実皇子は、”賜姓の無い源氏”を名乗る事と成った。「清和天皇」の実皇子のこの二人は、結局、「賜姓の無い源氏」を名乗った。この二人には防御の背景が全くなかったことから、この「経基王」の勢力の圧迫を受けて衰退して滅亡する事に成った。

・「清和源氏の内情」
「大化期の詔勅」の「皇位継承の改革」で、「天智天皇」が定めた「賜姓族の規定」に外れた「清和源氏」は、この様な特異な経緯を持っていた。
「賜姓を受けられる定め」としては、次ぎの規定が在った。
a「第六位皇子」である事。
b「当代の天皇の皇子」である事
c「皇子」として「品行方正な人格」を有する事
d「皇子」は嬪までの者とし「妾子」の皇子でない事

「経基王」は、「嵯峨期の詔勅・禁令」に鑑みて、更に、この「四つの定」に適合していなかった為に「清和院の賜姓」を一時、拒まれた。

(「経基王」には、「賜姓の権威」を獲得して、この「権威」で「荘園制度」を利用して、「莫大な財力」を獲得を狙った思惑や野心が在った。暴君の悪名高い「陽成天皇」の皇子では、せいぜい「国司下」の「介の役柄」で終わる事を嫌う思いがあった。)

つまり、「四つの定」に対して、外れた「特別な賜姓」であった。(普通では賜姓は先ず無い。)
この事があって、野心旺盛な「経基王」も、その子の「満仲」も、賜姓後は、河内で色々「争い事」を起こしたり、他国の「土地を奪う」などの「過激な行動」を起こし、更には「民事の問題」を起こしたりして、「嵯峨期の詔勅・禁令」に反して、”「賜姓族」にあるまじき振舞い”として、「天皇の怒り」を受けて蟄居を命じられたりした。

(恐らくは、”「賜姓族の伝統」”を重んじ、”「三つの発祥源」の立場”を護り、”「民の模範」”としている”「皇族賜姓青木氏」”との比較をされたと観られる。同じ「清和源氏」ながらも「皇族賜姓青木氏」と同じ行動を採る「宗家頼光系摂津清和源氏四家」との比較もあったと充分に観られる。)

その後も、全く逆の行動を採った「義家」を始めとする「子孫」(頼宣系河内清和源氏系列)も、矢張り、”強引な行動(私闘)”を起こして、遂には、「源氏の幕府」を樹立したものの「頼朝」のところで、結局は、短期間で裏切られて、利用された「坂東の北条氏等」に依って滅亡に至たらされた。

(この「坂東八平氏」とは、桓武天皇が母方の一族に賜姓して発祥させた「桓武平氏:たいら族 阿多倍一門」である。 天皇家より出る代々の「第七世族」の「臣下族」で、同じ関東に配置された「皇族系第七世族のひら族」とは出自は全く異なる。
この「桓武平氏:伊勢平氏と京平氏の支流族」には、「千葉,上総,三浦,土肥,秩父,大庭,梶原,長尾」の八豪族があり、幕府樹立に貢献した「北条氏」や「熊谷氏」はこの支流族である。
「国衙官僚,荘園開発主,荘園官」として坂東西域の在地を支配した。)

結局は、通説では小説的に構成されて描かれて、”「源氏」が勢力を盛り返し幕府を開いた”の様に観えているが、結局は、百々の詰まりは、同じ同族の「清盛の京平氏の支流族」に、”5年後に奪い返された形”に成っているのである。

(筆者は、「清和源氏」が開いたとは観ていない。何故ならば、この”開幕”で、”他の源氏は潤ってはいない。「源平の決戦の場」では、この「坂東八平氏」は、「合戦」では”軍監として”として動いただけである。
当然の事として、同族として「坂東の支流」が、直接に「本流の一族」に”戦い”を挑む事はしない。「事前承知の戦略」で在った。だから、「5年後」の「平氏政権の蘇り」なのである。
結局、「義経」が全国からかき集めた「源氏の未勘氏族」らの集団と、伊勢、熊野、紀州、摂津の「水軍の合力」と、「大島源氏の水軍」とに依って主に合戦に勝っている。)

・「源氏の流れ」
矢張り、取り分け、上記の様に、「清和源氏」の「人時場の要素」を配慮して「行動パターン」を考え合わせると、「四段階の妻方式」を採りながら、”無制限に子孫を増やす事”が明らかに必要であった事が判る。
「11流11家」も在り1流がこの四段階の妻方式を採ったとすれば、11流ともなれば相当な子孫数に成る筈である。
しかし、源氏全て滅亡に至ったともなれば11流全てがこの方式を採っていなかった事が判る。
調べた範囲では、確実に「6流」は、「嵯峨期の詔勅禁令の趣旨」を確実に護っていた事が判り、やや疑問の状態が「3流]あった。

平安末期から鎌倉期までの状況から考察すると、この5流の中には、次ぎの様な流れで在った。
「農業」をしながら民と共に生活をした「村主」(すぐり)の源氏の流れ(A)
「山伏や神職」などをして「郷氏の生活」をしていた源氏の流れ(B)
「皇族賜姓青木氏」(5流)と関連して生活を営んでいた源氏の流れ(C)
「漁業関連の長役」をしていた源氏の流れ(D)、
「治承・保元の乱」以降の源平の戦いで衰退した源氏の流れ(E)

後の3流は、強弱はあるが、次ぎの様な流れで在った。
(B)の傾向を持った「荘園制」(神社系荘園)に絡む生き方をしていた源氏の流れ(F)

結局は、「11流の源氏」の殆どは、「嵯峨期の詔勅・禁令の趣旨」を護った[賜姓族」で、「清和源氏」の様な過激な動きをしていなかった。
この「清和源氏」の中でも、各地に飛散した源氏は、上記の(E)で、その生活の状況は(B)(D)であった。
これから観ると、”「源平の戦い」”と云っても、”「11流の総合の力」”と云うよりは、「2流の戦力」が中心と成って動いたと事が判る。
その「初期の主戦力」は、「義経」が全国から集めた「荘園制」に伴う「源氏の未勘氏族」と、「義経の説得」に応じた「各地の水軍」(5水軍)と、家臣と成った豪族の「関連氏族」で主に構成されていたのである。
そして、僅かであるが全国に飛散していた源氏(E)が率いて来た「合力の戦力」が加えられた状況であった。義経が頼朝と坂東八平氏に排斥されてからは、この義経が構成した軍団は、坂東八平氏のを警戒して飛散した。
結局、最終決戦時の頼朝が集めた戦力は、日和見的な各地の豪族の烏合集団で在った。

この様にあるインターバルで観ると、源氏には、上記した「青木氏」の様に、細部までも”「氏を纏める為のルール」”を定めて子孫を遺そうとする”「氏間の調整」”が採れていなかった事が判る。
況や、「嵯峨期の詔勅・禁令の趣旨」は、「青木氏」の様に積極的には護られていなかった事に成る。
「清和源氏」の「河内の頼宣系」の末裔が、結局は、「朝廷の調略」に載せられて、”走り過ぎた結果”であって、更には、これを承知で動いた「たいら族」の「桓武平氏」の「関西以西の本流族」と「坂東の支流族」の「タッグでの謀略」でもあった事に成る。
ただ、桓武平氏の「本流族」には大きな計算違いが、3つ興った事に成る。
一つは、「義経の能力」の読み違いで初戦をおとした事
二つは、「支流族の裏切り」とその「戦力の読み違い」が起こった事
三つは、「清盛」を失って「統率」を失った事

この三つの内、後二つは、「伝統」を基盤とする「氏是」から来る「慣習仕来り掟の規則」の有無の如何に依っている事に成る。
源氏も平家も、子孫存続の氏是の弱さにあった事が物語っている。
その根本は「戦い」に対する氏是の違いにあった。
その”「戦い」”は、朝廷が”「社会規律の弊害」を起こす”として嫌う「荘園制」に起因していた事である。

(注釈 一方で、この「荘園制の弊害」と、「源平藤橘の氏の勢力」を削ごうとして、最初に手掛けた「後三条天皇」は、この「荘園制から来る権力基盤」を護ろうとした藤原氏や源氏族の子孫ではなかったのである。それだけ、「命の危険」が極めて迫っていたにも関わらず、1068年に果敢にもこの策謀に取り掛かったのであって、その後、5代の天皇に依って成し遂げられた。
この事で、「経済的基盤の低下」で焦った「清和源氏頼光系一族」は、基盤獲得の為に、益々、「戦い」へと突き進むここと成り、20年後には、「源平の合戦(1185年)」へと突き進んだのである。
この為、「後鳥羽上皇の策謀の院政政治」が始まるが,「朝廷−京平家−坂東平氏−源氏−藤原氏」の何れ五者共に、その「思惑」は外れ、遂には「策謀合戦」が始まったのである。)

この様な、”策謀渦巻く周囲”の真直中にあっても、「二つの賜姓族青木氏」は、「氏是」を前提に一族を固め、この環境に加担しなかったのである。
これは、なかなか難しい事である。
単なる「氏是の信念」だけでは決して成し得ない。現世には、”「流れ」”と云う不可思議なものがあって,この”流れに抗する事”が出来るものは誰一人いない。「神仏」のみである。
況してや、「賜姓族青木氏」には、「悠久の歴史」を持ち、且つ、”「賜姓族」と云う稀なる権威”を持ち続けて来た「氏族」である。
況して、「二足の草鞋策」で”絶大なる経済的な財力”を持っている。

「戦う側」にとっては、この”「賜姓族青木氏の権威」”を獲得する事に依って、これは「戦いの大義」が絶対的に獲得できる。これは”流れを作る最大の要素”でもある。
最早、源氏は(A)から(E)の立場に既に追いやられている中で、「賜姓族」で在っても、その「権威」は明らかに低下している。
だとすると、「賜姓族青木氏の権威」を利用しようとして策謀する筈である。
しかし、「二つの賜姓族青木氏」は、この「策謀」に、加担しなかった。
”「策謀の流れ」”から逃れられたのは何故なのか疑問である。
それは、次ぎの条件にあった。
(a)”「四家と云う小範囲」”
(b)”「純血の濃い血縁範囲」”
(c)”「絆青木氏で家人末端まで組織化」
以上で、成し得た「一族の一致団結」にあったと考えられる。

”小さい組織”にして「意思の疎通」を徹底し、”濃い血縁度”で「離散」を防ぎ、それを”絆”で「結束」させたのである。
”千の石垣も一つの石から”の例えの通り、”一つの離反や裏切り”は、全てを壊す。
「二つの賜姓青木氏の権威」を獲得するには、並大抵の事では無理であり、そこには「策略、謀略、調略」が渦巻いて働いていたのである。
これには、”「一人の軽薄」が全てを壊す”は、この「世の定め」であり、現代も過去の世界も同じである。
これには、上記した様に「青木氏の氏是」(イ)とそれを実行する「システムの充実度」(ロ)に関わる。
筆者は、上記に論じた”「賜姓族」の「シンジケートの存在」”がこの二つ(イとロ)を基盤として支えて大きくこれに関わっていたと観ている。
つまり、”「情報と抑止力」の要素”が上手く働いたのである。

当時、未だ、”「シンジケート」(情報と抑止力)”を維持出来得る程の能力を持っていた「氏」はいなかったし,組織を維持させる為の確固とした確立化した概念も無かった筈である。
何故ならば,鎌倉期までとして、「朝廷が認可した歴史を持つ80氏程度」の氏”には「二足の草鞋策」は「禁じ手」であった事から、この「経済力」を必要とする「影の力」の「シンジケート」は持ち得ない。又、当時としては、”「忍者」程度の様なもの”はあった事が、資料から伺える範囲では確認できない。
奈良期から活躍していた「青木氏のシンジケート」は、「組織的な総合力」を持った「新しい考え方」であった。

注釈
(そもそも、「影の力」の「シンジケート」が,”「伝統」”に関わっていないと考えるのが、普通であるが、[青木氏」に取ってはそうでは無いのだ。”「青木氏の伝統」”は、この”「シンジケート」”に依って支えられたのだ。それは”「青木氏の役目柄」”にあった。
この「役目=賜姓五役」が、なければ、シンジケートは「二足の草鞋策」の為には必要であったが、しかし、”「成熟」はしなかった”と考えられる。
「賜姓五役」と「二足の草鞋策」が進むに連れて、時代と共に進化して、その「役目」も増え、それを構成する「組織体制」も整備された。
それは、先ず、「奈良期」から始まった「青木氏の二足の草鞋策」が、平安初期には大きく発展し、「和紙」に依り「他の賜姓族青木氏」にも広がり、それと共に平安中期には、「特別賜姓族青木氏の補完」もあって、「守護神の神明社建立」もが進むに連れて、これを利用して確固とした「組織体制」が確立して広範囲に広がったのである。「5家5流賜姓族」の「独自のシンジケート」が互いに連携して大きく成ったが、「源平の戦い」で、結局は、衰退した「3つのシンジケート」は「伊勢−信濃シンジケート」に吸収された。
この「影の力」の「伊勢−信濃シンジケート=神明社シンジケート」の存在と「青木氏との関連」は、室町期末期の頃で、「伊賀丸山城の戦い」から、社会的に知られる様に成った。
(第一次丸山城の前線基地の築城は失敗に終わり信雄らは敗退)
これは「信長逆鱗−信雄蟄居(蟄居は二回 信長逆鱗と秀吉不仲)」で「有名な事件」で、公に成った。
その時、秀吉が、世の中に、”「シンジケートの存在」”を信長に強く進言した事は有名で、次ぎの「長嶋攻め」を命じられた秀吉は、この失敗は繰り返さなかった。
この時、この「シンジケートの存在」と「高位の氏族」の関連の事を知った「信長」は、”鉄砲獲得”の為には、”「今宮神社シンジケート 皇族系神職 愛知」”を通さなくては確保できない事をも知り「秀吉−蜂須賀氏の斡旋:今宮シンジケート一員の山族土豪 河並衆」で、ここから入手した経緯の史実がある。

注釈 
(資料から垣間見れるはっきりとした「本格的なシンジケート」は、鎌倉中期頃から「姓族」が出て来た室町期中期頃である。
最初は,「青木氏」が、国策として極秘裏に、「神明社建設」を通じて、奈良期からの「皇族逃避地」を構築する為に、現在の福井との間にこの組織を作り上げた事が最初であると観られる。)
「小さい姓族」が乱世で各地に発祥して、この「姓族」が浮沈を繰り返し、生き延びる為に、青木氏等が作り上げたこの組織の中に入って互いに連携して生き延びた。「姓族」はこれを機に成長を遂げ、遂には、「姓武士集団」を構築したのである。南北朝には大きな「影の力」として働いた。
その例として、有名な「南北朝の楠正成」は、河内千早赤坂村に住んでいて、「10万の軍」に「シンジケートの影の戦力」で挑んだ事は、歴史的に有名で、「ゲリラ作戦」で餓死させる直前までに痛めつけて勝利したのである。
この地域には、「伊勢青木氏のシンジケート」があった事から、この組織に入っていたと観られる。
江戸期初期には、これらの武士は「氏族」からこの「姓族」に取って代わられ、「旗本」「御家人]や「各地の豪族」や「大名」に伸し上がって世の中を席巻してしまった。
その各地に発祥した「姓族」と「青木氏」は繋がっていて、江戸期には情報を獲得していた事が判っている。)

しかし、この様な「青木氏」に比べて、「源氏一族」は、総じて、同じ「宗家の頼光系」の様に、「青木氏」と同じ方式を採用して、子孫を「四家」に定めて身を固めたのでは無かった。

”「賜姓族」で在りながら「万民の範」”とする「賜姓族」で無かった事が、「累代の天皇」の反発を招いた結果である。
「他の源氏」は、この”「戦う源氏の流れ」”に引き込まれて滅亡した。
それだけに、「他の源氏」には、本論の様な「青木氏の様な備え」(伝統 家訓 慣習仕来り掟)が無かったことに所以する。
要するに、歴史上では”「戦う賜姓族」(戦う源氏)”を演じた事に成る。
「青木氏の氏是」にある様に、”世に晒す事無かれ、何れ一利無し、世に憚る事無かれ、何れ一利無し。”の「不戦の賜姓族」(伝統重視)では無かったのである。

”「戦う」”は、”「氏の伝統」”と、それを護ろうとする”「氏のルール」”を壊すが、”「不戦」”は、”「氏の伝統」と「氏のルール」”を維持させる事が出来る。
”「戦う」”は、一時的には「氏の発展」を示すが、その程度では、”「氏の伝統」”は生まれないし、”「子孫」”と云う長い「見方」では、「衰退の道」を進む。
ただ、「青木氏」だけが「不戦」を「氏是」として唱えたとしても、周囲が「不戦」でなければ成り立たない。
「自らの長い努力の積み重ね」があったとしても、「棚の上の牡丹餅、絵に描いた餅」に成る。
そこで、「青木氏」には、「不入不倫の権」が認められていた事も大いにあったが、それを有効的に働かせたのは、「影の力」の「シンジケートの抑止力」にあった。
表に観えない、彼の権威に対して抵抗した「織田信長」でも潰せなかった「影の力」(政治経済軍事の力)である。
この「影の力」=「シンジケート抑止力」を支えたのが、奈良期から殖産を進めて「民の力」と共に生きた「青木氏」で在ったからこそ、成し得た「氏是の戦略」であった。
「源氏の生き方」として選んだ「戦いの発展」は、「人間の最大の目的の子孫存続」としては不要で危険なのである。
その「民と共に生きた組織」には、”「氏の伝統」”と云う”「氏のルール」”が絶対条件として必要であるのだ。
「氏の存続」の為の”「必要不可欠な抑止力」”を構築するのは、先ずは ”「氏の伝統」”である事が云える。

その意味から考えると、つまり、”「氏の命題」の「子孫存続」”と云う事から考えると、その「生き様」は明らかに間違っていた事に成る。
結局は、”「賜姓族」”としての”「氏の伝統」”を護っていた”「摂津の頼光系四家」”も、「四代目の頼政」が「異端行動」を採った事から、「不入不倫の権」が無い「賜姓族」は、引き込まれて「潰れる憂き目」を受けた。
その意味で一族の中に、”「大きな流れ」”を作られては、”飲み込まれる事”に成る。これは「世の習い」として必定である。
一時は、「河内源氏頼信系の頼朝」と共に成功したかの様に観えて、”各地の源氏の同族の勢力争い”を起こさせて、結局は、たった”5年の短期間”で「源氏」は、「四段階の妻方式」で作られた「数多い子孫」をも”「戦い」”で少なくして、遂には、毒殺や暗殺などの策謀で滅亡した。
その”11家の源氏”の最終は、僅かに4氏に成った「末裔」までも、室町期末期に信長に依って、完全抹殺されてしまった。(一部に1氏の「傍系の配流孫の現地末孫」が生き延びている。)

しかし、ここで大きな”「救い」”が一つあった。
この事を戦前に察知し熟知していた「摂津頼光系四家の福家の頼政」は、「以仁王の乱」の直前に、「子孫の一人(京綱)」を「伊勢青木氏の跡目」に入れて最悪を避けるべく策を講じていた。
これは、「同族である青木氏」が、「不入不倫の権」に護られながらも、「賜姓族の氏是」を頑なに護り、それに基づき、且つ、「四家方式」に依って、「源平の戦い」でも、”必ず「子孫」を累代まで遺す”と理解しての配慮の事であった。
故に、”「跡目」”であった為に、「源氏」が「青木氏」の中に流れている事に成る。
「信濃青木氏」にも、”戦い”の直前に、「跡目」か「跡目」に類する形で「青木氏」に入れている。

「信濃青木氏」には「源光国−血縁」と「源実国−跡目」を、滅亡した「土岐青木氏」には、「源光国」の子の「源光信−跡目」を、「甲斐青木氏」には、「源源光−跡目」を跡目等に入れている。
甲斐武田氏系青木氏には、「源源光」の兄の「源時光」が跡目に入っている。

故に、”源氏11家”は、完全な「滅亡の憂き目」を辿ったのであるが、「清和源氏宗家の四家」からだけ、「血筋」としては、「青木氏」の中に遺した事に成る。

取り分け、”滅亡した源氏”そのものは、当然に滅亡する”宿命のシステム”を敷いていた事に成る。



「伝統 13」に続く。


  [No.330] Re:「青木氏の伝統 13」− 「青木氏の四家訓戒 2」
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/04/16(Thu) 05:37:57

「伝統 13」


>前回の末尾
>
> しかし、ここで大きな”「救い」”が一つあった。
> この事を戦前に察知し熟知していた「摂津頼光系四家の福家の頼政」は、「以仁王の乱」の直前に、「子孫の一人(京綱)」を「伊勢青木氏の跡目」に入れて最悪を避けるべく策を講じていた。
> これは、「同族である青木氏」が、「不入不倫の権」に護られながらも、「賜姓族の氏是」を頑なに護り、それに基づき、且つ、「四家方式」に依って、「源平の戦い」でも、”必ず「子孫」を累代まで遺す”と理解しての配慮の事であった。
> 故に、”「跡目」”であった為に、「源氏」が「青木氏」の中に流れている事に成る。
> 「信濃青木氏」にも、”戦い”の直前に、「跡目」か「跡目」に類する形で「青木氏」に入れている。
>
> 「信濃青木氏」には「源光国−血縁」と「源実国−跡目」を、滅亡した「土岐青木氏」には、「源光国」の子の「源光信−跡目」を、「甲斐青木氏」には、「源源光−跡目」を跡目等に入れている。
> 甲斐武田氏系青木氏には、「源源光」の兄の「源時光」が跡目に入っている。
>
> 故に、”源氏11家”は、完全な「滅亡の憂き目」を辿ったのであるが、「清和源氏宗家の四家」からだけ、「血筋」としては、「青木氏」の中に遺した事に成る。
>
> 取り分け、”滅亡した源氏”そのものは、当然に滅亡する”宿命のシステム”を敷いていた事に成る。


「嵯峨期の詔勅・禁令の影響」
筆者は、この”「訓戒」”は、”「嵯峨天皇の嵯峨期の詔勅」”に表れていると観ている。

「嵯峨期の詔勅」を全体の当時の状況や環境を加味して要約すると、次ぎの様に成る。

「賜姓族青木氏」の様に、今後、天皇が保護し、役柄を付与し、領地を与え、税を免除する事はしない。ただ、「臣下」しても「朝臣族」だけの身分を与える。
後は”自らの粛清”に依って子孫を確保し、「賜姓族」としての名誉を保て。
これは、天皇家の財政が万民に負担を掛けない様にするための配慮である。

以上の様な意味合いの「詔勅」を態々発した上で、更には次ぎの発言を追加している。

この「賜姓」に依って、”「民の負担」”を軽減させる為にも、決して ”「一切の民」は、この”「賜姓族の慣習仕来り掟」”を不必要に真似てはならない。”

以上の意を込めて、この事を付随して、”「賜姓族」”としての「慣習仕来り掟」等の細かい「禁令」を発布したのである。

「嵯峨天皇」は、この「詔勅」に依って、それまでの「天智期」から進めて5代続いた”賜姓する氏名”の”「青木氏」”を、「別の皇族身分の賜姓」の氏名にし、上記の「詔勅と禁令」の内容の様に、”「賜姓の扱い」”を下げて、”賜姓する事”に改めた。
そこで、これを”「源氏」”と変名させたのである。
その代わり、「青木氏」は、「別の皇族身分の者(門跡僧を含む全ての皇族系出身者)」が、”何らかの理由で下族、還俗する場合に於いて、名乗る氏名”と定めた「嵯峨期禁令」を発して万民の使用を禁じたのである。

(注釈 ”経済的背景のない「賜姓源氏」”は、「荘園制」を利用して「名義貸し制度」を作って、「経済的背景」を構築した。”「皇族の権威」”を各地の豪族が成っている「荘園主」に与えて、”「荘園権威付け」”をさせた上で、「税の軽減」を発生させて、その見返りに「莫大な対価」を獲得した。
更に、”「源氏名」”までをその「姓氏」に貸し与えて、”「疑似同族」として名乗る事”を認めて、更に「名義料」として「莫大な対価」を獲得した。
これが原因で、全国に朝廷の許可を得ずに ”「源氏」”と勝手に名乗るの疑似の「姓族の源氏」が出た。
これを「未勘氏族」と云うが、結局は「賜姓族の権威」が低下した。
朝廷は、これに強烈に反発して、この「荘園手法」を盛んに行った頼宣系義家らの一族を、”朝廷の云う事を聞かず勝手な事をした事”を理由に、蟄居させて厳罰に罰して衰退させた。
この為、朝廷に執って”権威低下”を招く不都合な”「社会的弊害悪外」”が出た事を理由に、遂に、「後三条天皇」が発案し「白河天皇」「堀河天皇」「鳥羽天皇」まで四代続いて行い、「院政政治」と云われる時代まで、この「荘園制」を1068年頃から始まって、遂に、凡そ100年かけて廃止して弊害を無くしたのである。


これで、”「賜姓族」は、”「規律」”を失い、且つ、その”「立場」”を低下させて失い、更には ”「経済的背景を失った源氏」”は滅亡へと急速に走ったのである。)

この禁令も、全て、「詔勅の趣旨」の範囲で、「源氏と青木氏」の「二つの方法の賜姓」には、”民への経済的負担の軽減”を前提にしている。
従って、一切、”天智期からの「第六位皇子の賜姓」時の「不入不倫の権」を授与して保護する事”はせずに、あくまでも、「二つの賜姓」には、”保障の無い身分の「朝臣」を与える”のみで、”臣下させる”としたのである。

この[嵯峨天皇の心]を護ったのが、「嵯峨源氏」、「村上源氏」、「宇多源氏」、「多田源氏」で在ったが、「清和源氏の暴走」で引き込まれて結局は滅亡した。
この4氏は、「賜姓族青木氏」を模範として、同じ規律を作り、室町期まで生き延びる事が出来た。

(この三氏の末裔としている「氏」があるが、室町期中期からの全て歴史的な矛盾の多い「未勘氏」であると考えられる。)

以上が、「賜姓源氏」が、「子孫存続の規律」を失い、それに依って、”「賜姓族としての伝統」”を消失したその背景の経緯である。
つまり、”「伝統」”を作り上げられる「組織体制」を確立したかの如何である事が、上記の「賜姓源氏」の経緯で判る。

話を戻して、従って、「子」「孫」「曾孫」「遠縁」の「同族血縁」の「上記する弊害」は、この「賜姓源氏」等が採用した「四段階の妻」のシステムからでは”「妻方の血」”がより多く入り、つまり、「同じ血縁」と云う事の範囲では、実質上は、”「同族血縁の弊害」”は生まれ難い事に成る。
しかし、「四段階の妻方式」では、確かに子孫は増え、その子孫の「血縁障害」は興しにくく成るが、「組織間の心絆」、「組織間の繋がり」は低下し、「慣習仕来り掟」の「規律」も護られなくなり、「氏是」は希薄に成り、猪突猛進型の氏が出来上がって仕舞うのである。

鎌倉期から室町期までは、「四家方式」と共に、「二段階の妻(嫁)」(正妻 側室)としていた。
(実質は、平安期から継承していた事が判る。)
特に、”戦い”をしない事を”「氏是」(前提)”とした事から、”戦いに依る子の減少問題”は軽減して、「平安期の方式」は採用されていなかったのである。

(注釈 むしろ、「四段階」の場合は、逆に、「四段階]には当然に「身分格式」が起こり、その立場から、「順位の感覚」が強く成った。
その結果、”不必要な争い”が起こり、”良質な子孫”を遺す事の弊害と成って、”一族全ての「孫域」までを平等に「子」とする”とする範囲の定義は成り立たなかったと観られる。
その意味で、「賜姓族の立場」としては、「純潔保全の目的]から、形式上は朝廷より公的に認められてはいたが、実質は採用されていなかったと考えられる。)

話を戻して、そして、成人後には 今度は”嫁”として変身し、「氏の家」の”「我家の嗣子」”に嫁がせる手段を採る為に、”実娘”の子と同じ感情、感覚が親側に生まれるので、結果として、実娘に成り得るのである。
ここに、この考え方の「慣習仕来り掟」に対して無理は生まれなく成っている。
従って、この「考え方」は、早ければ早い程に良い事に成る。
”生まれた時点で、養女は決まる”と云うよりは、”生まれる前からその宿命は決まっている事”に成る。この仕組みとして臣下の中から選ばれて「母親代わり」の「乳母制度」が敷かれる。

つまり、”孫域までの子供”の「男子」の場合は、”区別のない「嗣子」”と成り得る。
合わせて、”孫域までの子供”の「女子」の場合は、”娘”として他氏に嫁がせる事に成る。
この場合は、”同族間での血縁”も「一族の結束」を固める為にあるが、”純血性の弊害”を無くす為に、”家柄、身分のつり合いの取れた他氏に嫁がせる事”が優先して多用される。
この場合は、「適時適切」を旨とされる。

この場合、上記した要領で、”「嫁ぎ先」で生まれた子供”は、”「実家先」の「嗣子」”と成り得て、”「跡目」”が可能に成る。
この場合は、”嫁ぎ先の跡目の事情”を考慮して、”嗣子の嫡子の位”を決めて、実行される場合が起こる。
「青木氏」では、”承認を得た氏”の「武家の立場」として、朝廷に届けて「権威付け」して ”「第三子」を原則とする”と定められている。
この事から、この「血縁のシステム」そのものが、「賜姓族の権威」を裏付ける為に、公的に認められたシステムと成っている事を物語る。
それだけに、「第三子跡目継承の定義」は、”「純血性を保全する宿命」”を作り上げて、その”厳しい責務”を負っている事に成る。

但し、「他氏の血筋」を入れる場合に於いては、「下位の家柄」との血縁と成り得る事から、「第一子」と成り得る事も起こる。
「下位の家柄」に執っては、”「上位の嫁の実家先」”の家を継承する事に成り、自らの勢力圏を拡げる事に成り得る事から、つまり、”血縁による利得”と成り得るからである。
”「下位の家筋」”は、その流れの中で、積極的に、この”「第一子の決まり」”を実行しようと働きかけれる事に成る。
又、要するに上記した一族の範囲内に於いてでも、どうしても「跡目の嗣子」が無い場合は、「孫娘」までの嫁ぎ先の範囲での”「遠縁の他氏」”から「養子」を迎える事に成る。
要するに、この”「孫娘]”と”「実娘」”は、”子の定義”の中にある為に、区別はなく、”他氏からの養子(遠縁)”は、正規の”娘の養子”として扱われる。
従って、「跡目」は、「養子」の”男子の子供(孫娘と実娘が生んだ子)”も「正規の跡目」としての「嗣子」に扱われる。
”本家分家”に関わらず、”氏”の中に生まれた”「子」”は、「氏の全体の子」として捉えられ、分家の”「子」”も、”「本家の跡目」を継承する”と云う事にも成るのである。
又、当然に逆の事も起こる。


この”「跡目の継承」”としては、”「嫡子」”は、この”「子」”の中から、その任に見合った者を選ぶ仕組みである。上記する「子の範囲」の中では順位の差は本来は無い。
これを宗家筋が、その順位をその能力を見定めて決定し、行う仕組みなのである。
結局、「孫」に位置する者が、「子」に位置する者を飛び越えて、「嫡子」に選ばれる事が起こるのである。
つまり、「賜姓族の氏」を絶対条件として維持して行く為に、”より良い嫡子”を遺す為に採られる仕組みである。
時には、この事に依って、必然的に人間の性から、其処に”「争いの種」”が必ず起こる。
これを乗り越えてこその”「氏家制度」の「嫡子」”であり、”一族一門の「頭領」”と成り得るのである。
「嫡子」としての「絶対条件」として、乗り越えなければ、それは「嫡子]では無い事に成る。
それには、「嗣子」と「嫡子」の”「子」”は、お付きの良い家臣を持つ事が必要に成るのである。

何故、この様な「慣習仕来り掟」に成るかと云うと、これは”「賜姓族」とする特別な立場”にあったのである。
”「賜姓族」”である限りは、「賜姓族」を護り続ける為には、”「純血」”を保ち、如何なる事が在っても、永代に「氏の保全(象徴紋の維持)」を保つ責務、宿命を負っていたのである。
況や、”「子孫」無くして伝統は護れず、「伝統」無くして子孫は護れず”の例えより、故に、「青木氏」では、本論の”「伝統」”を護っていたのである。

この”「争い」”を無くす為に、家康は、江戸初期に、”長男を嫡子”とする様に改めて、”争い”の無い様に決めた。
「一般武士」もこれに従ったが、しかし、現実には、「高位の武家」では、”「伝統」”と云う物を消してまでも、”「長男は嫡子」の制定”にはあまり護られなかった。
それは、「悠久の歴史」の持つ”「伝統」”の”「賜姓族」と云う「氏の存続」”そのものをも危うくして仕舞う恐れが高かったからである。
(江戸幕府は黙認した為に、数少ない”「武家とする氏族」”は、”「存続」”が可能と成り、少なくとも対面を維持出来る範囲で、江戸幕府末期まで「武家とする氏族」を遺し生きる事が出来た。)

しかし、この上記する「武家とする氏族」の跡目の継承の「慣習仕来り掟」は、「一般武士様」に形を簡素化して、伝承される事に成った。
それは、”「純血の血縁」”を前提とする歯止めを排除して、むしろ”「混血の血縁」”を重視する方向へと進んだ。
「純血の血縁」には、そもそも、「凡庸愚子武烈の危険性」(弊害)があり、「優劣の差」が極端に表れる。
これを取捨選択して「嫡子嗣子」を定める事でより子孫を遺せて、「悪しき癖質」の血を排除できる。
反面、「混血の血縁」には、「雑種融合の利点」の「優劣の差」が無く成る特質が生まれるが、「悪しき壁質」の混入(障害)で、「子孫」にその「壁質」を永遠に引き継いで仕舞うとする問題は排除出来ない。
前者は、戦乱期の「氏存続の危険性」の高い時代には、特段に優秀な子孫を取捨選択して、”存続の為の有利性”を求められる。平安期から室町期には求められる血縁方式であった。
一方、後者は、安定期の時代には、「氏存続の危険性」は低下するも、「優秀性」は兎も角も、平均化した子孫で、より「安定安全な子孫存続」は図れる有利性が求められる。
江戸期から明治期に求められた血縁方式であったと云える。
その意味で、両者ともに”適時適切な血縁方式”であって、何れにしても、「弊害と障害との問題」を持つが、ただ、本論の”「伝統」”とする点では、前者が、”より良く高質な伝統”を継承できるとする利点があったし、”「伝統の継承」の可能性”は高まる事も利点としてある。

これは、この「純血血縁の弊害」を排除し、「混血血縁の障害」を収得して、”「跡目」に於いて血縁を進める時代”と成り、「一般武士の時代」と成った事に所以由来する。
つまり、「子供の範囲」は排除され、「子は子、孫は孫」として定め、「本家分家の格式差」を明確にし、「養子養女」は”「子」”の範囲外として扱い、「血縁の有無]は問わずして積極的に迎えた。

この時より、”「一般武士」の家”では、僅かに伝播された慣習も含めて、上記する「慣習仕来り掟」に依る感覚は、必然的に薄れ、又は無く成った。
この結果、”「青木氏」等の世間からの「賜姓族の名跡」”の”言葉と認識”は、庶民の口から少しずつ消えて行った。

(参考 明治20年頃位を境に、「賜姓族の存在」も余り知られなくなった。
これに連れて、明治31年頃を最後に、「青木氏」としても、「同族血縁の慣習」は全く無く成った。
例えば、筆者の祖母(京都の公家の末裔の叶氏)までを最後と成る。
しかし、「賜姓族の家柄」としての「高位との付き合い」では、大正14年で終わっている。
「財産的」には、明治35年から始まり、昭和十年頃を境に極端に低下した。
「伝統の遺品」の関係では、未だ何とか保全しているが、先は短い可能性が有る。)





武家の跡目継承の良い例がある。
例えば、徳川吉宗は、地元郷士の「紀州巨勢氏」の娘の子で,「湯殿女」の身分の子供である。
「妾子」より更に、下の身分の子供で、本来は継承権は無かった。
継承に問題と成る特段の子である事から、他の嗣子からの”抹殺の憂き目の危険”もあってその命さえも危なかった。
そこで、藩主は伊勢の青木氏に養育依頼して家臣を付けて隠した。
しかし、吉宗はその素質を発揮してその頭領としての器に育てた事から、他の公家の子供らの「嗣子」を押しのけて紀州藩主になり、遂には将軍に成ったのである。
この吉宗を密かに育て、政治や経済の専門教育を施して器にしたのは、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「伊勢加納氏」である。
(紀州藩下級家臣でお付き家臣 後に「二足の草鞋策」を「青木氏」から受けて「加納屋を営み経済力をつけて嗣子に対抗できる様に勢力を蓄えた。歴史的に有名な「伊勢の加納屋」である。)
何れも「二足草鞋の豪商」でした。この二つの財力で藩主ー将軍に押し上げたのです。
「伊勢青木氏」は「伊勢加納家」と共に江戸に出て、「青木氏」は幕府勘定方に、「加納氏」は将軍側用人と成って吉宗を支えた。
この様な妾子外の更に妾子の例がある様に、この「跡目の継承手段」の領域の中では、江戸期の武家には、血縁の有無如何に関わらず、拘らず、「賜姓族の決まり」とは違って、「大きな手段」として有効的に「養子,養女」は、「最大の手段」として扱われたのである。

特に、違いとしては、「賜姓族」では、「女子」の場合は、他氏に嫁いだ「実娘」の「子」 つまり「外孫」までは「子供」として扱われる事に成る。
「江戸期の上級武家」では、相当な困窮な場合を除いてはこの概念は原則無かった。
女子の外孫までを引き取り「子」として育て、後に「養子」を縁者から採って「跡目」とする概念は無かった。
この様に、”嫁ぎ先での子供”までを「跡目」とするには、「男子」だけでは、「四家方式の範囲」では、「平均寿命」と「跡目争い」などによって継承しきれない事が起こるからである。
(互いに「跡目争い」の「戦い」も起こり、命を落とす事も多発した。)
それと、次ぎの”「浄土宗の密教概念」”に従っている事に依る影響が大きい。
それは、本来、”「人]は「女性」によって引き継がれる”とする「密教概念」から来ている。

(現実に「人遺伝子」は「女性」に依って引き継がれているが、奈良期から「家」=[子孫存続の為の生理的能力」と云う範囲に於いて、この生理学的な「女性の本質能力」を見抜いての「概念の形成」であった。 この概念は「家訓」に明確に伝えられている。)

この「二つの理由」から、”本来は「娘の子」が「実子」である”とする考え方を、「意識の根底」に”「氏の概念」”として強く持っていたのである。
これが室町期から「武家社会の生存に関する闘争意識」(子孫存続)が強く成った事から、「男性化」にますます成っただけの事なのである。

(因みに余計ではあるが、筆者もこの範囲での合理的な概念としては賛成している。「青木氏の家訓」は「世の理」を得ていると信じている。「青木氏の家訓10訓」参照)

つまり、実家一門に「男子の跡目」が無く成った時、「外孫]の[孫息子」と[孫娘」までを「氏の子供」として跡目を継げる事に成る。
今で云えば、従兄弟は、「氏の子供」で「嗣子」に成り得て、「分家本家」を問わず「跡目」にする事が出来るのである。
故に、「曾孫」は、従って「対象外]で、仮に迎える場合は、仕来り上は「養女形式」を採る以外にないのである。
この場合は、”従兄弟の範囲”では、”「養女」”としての扱いでは形式上は採用しない事に成る。
これは、”「孫」”までを”「氏の子供」”としているからである。
この何とか”血筋のある者”としての”「曾孫」”の”「養女」”ですあるから、”「養子]”を他氏から迎える事に成るのが殆どで有る。
しかし、中には、上記の従兄弟までの「嗣子」に、この”「養女」”を嫁がせる事にも成る。
「他氏の血筋」を入れて、”「同族血縁の弊害」”を無くしたのである。
態々この様な事をしてでも、幼少の頃から先に積極的に家にこの「養女」を採る事をしたのである。
全く、血縁関係の無い家筋からは、一般武士と異なり、養女として採る事はまずはありません。
これは「純潔」を守る事を前提にしていて、紋が変わる事を極力避けたのです。

(特に青木氏や秀郷一門は「賜姓族」と云う立場であった事から、この立場を止める事は氏の最大の命題として出来なかった。)

「縁者・遠縁の養子」は、「三世内の濃い血縁」と成るので、出来る限りは「他氏の血」を入れる事が必要であるが、この場合は、逆に[家紋」が、「氏の系列」が変わると云う懸念を持つ事に成る。

この様に、「家保全の安全策」として、「嗣子」に幼女のころから他家から”「養女」”として、先ず入れて、後に嫁(娘)にすると云う事も盛んに行われた。
そうする事で、[家紋・系列の懸念」を何とか外そうとしたのである。

但し、この関係は、”上位の家筋からの発想”に従う事に成る。

(注釈 江戸初期からは、「一般武士の家」では、異なる「慣習仕来り掟」の「青木氏」と違う事から、「子」は「子」であり、「孫」は「孫」であり、「養子養女」は、”血縁性の無い考え方”となった。「賜姓族」としての柵が無い事から、”純血性を画する血縁”では無く、”より異なる血筋を画する血縁”とする考え方を採用したのである。)

この「仕来り」より外れた場合は、”「曾孫」”からは、”「子供の定義」の「仕来り」”を外れるので、男女に関係なく”「養子・養女」としての扱いに成ります。
特に、女子の「養女」とする場合は、取り分け、”直系から外れた支流族や縁者族や遠縁族からの迎え入れ”には、明らかに「子供の定義」から外れる事に成るので、”「養女」”と成る。
この「養女方法」が青木氏では積極的に行われたのである。
この場合、”迎え入れた「養女」”の「嫁」は、[嫁」としてでは無く、「実娘」に相当する「娘」として組み入れられる。

この”「養女」の「嫁」”は、元は「養女」で迎え入れての事なので、上記した「慣習仕来り掟」から、長い間には両者ともに心情的にも繋がり、”「実子の子供」の扱い”に成る。
そこで、この”「娘の定義」”から考えて、上記の「青木氏の子供定義」が成り立つのである。


つまり、この「仕来り」より外れた場合は、”「曾孫」”からは、”「子供の定義」の「仕来り」”を外れるので、男女に関係なく”「養子・養女」としての扱いに成る。
特に、女子の「養女」とする場合は、取り分け、”直系から外れた支流族や縁者族や遠縁族からの迎え入れ”には、明らかに「子供の定義」から外れる事に成るので、”「養女」”と成る。
この「養女方法」が青木氏では積極的に行われたのである。
この場合、”迎え入れた「養女」”から成った「嫁」は、”[嫁」”としてでは無く、「実娘」に相当する「娘」として組み入れられる。

この”「養女」の「嫁」”は、元は「養女」で迎え入れての事なので、上記した「慣習仕来り掟」から、長い間には、「養親と養女」の両者共には、心情的にも繋がり、”「実子の子供」の扱い”に成る。
そこで、この”「娘の定義」”から考えて、上記の「青木氏の子供定義」が成り立つのである。

しかし、「養子」に付いては、積極的では無かった様で、これにはある「青木氏としての特別な事情」があった。
それは、「青木氏」には、「悠久の歴史」を持つ、(ア)「賜姓族の権威」と、(イ)「二足の草鞋策」としての「商い」の「経済的な魅力」とが在った。





>
>
>
「伝統 14」に続く。


  [No.331] Re:「青木氏の伝統 14」− 「青木氏の四家」
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/05/16(Sat) 10:29:15

:「青木氏の伝統 14」− 「青木氏の四家」




前回の末尾
>つまり、この「仕来り」より外れた場合は、”「曾孫」”からは、”「子供の定義」の「仕来り」”を外れるので、男女に関係なく”「養子・養女」としての扱いに成る。
>特に、女子の「養女」とする場合は、取り分け、”直系から外れた支流族や縁者族や遠縁族からの迎え入れ”には、明らかに「子供の定義」から外れる事に成るので、”「養女」”と成る。
>この「養女方法」が青木氏では積極的に行われたのである。
>この場合、”迎え入れた「養女」”から成った「嫁」は、”[嫁」”としてでは無く、「実娘」に相当する「娘」として組み入れられる。

>この”「養女」の「嫁」”は、元は「養女」で迎え入れての事なので、上記した「慣習仕来り掟」から、長い間には、「養親と養女」の両者共には、心情的にも繋がり、”「実子の子供」の扱い”に成る。
>そこで、この”「娘の定義」”から考えて、上記の「青木氏の子供定義」が成り立つのである。

>しかし、「養子」に付いては、積極的では無かった様で、これにはある「青木氏としての特別な事情」があった。
>それは、「青木氏」には、「悠久の歴史」を持つ、(ア)「賜姓族の権威」と、(イ)「二足の草鞋策」としての「商い」の「経済的な魅力」とが在った。



「四家の発祥源」
ここで、上記のアとイの事を理解するには、この“「四家」”とは、一体どの様な下で生まれたのかを説明して置く必要がある。
そもそも、奈良期の「天智天皇」の皇子で、「第四世族内の第六位皇子」が「天皇の命」に従い「皇族」から外れて「臣下族」(侍)に成り、「賜姓」を受けて「氏と家」を創設して独立し、「賜姓五役」を担う一つの「一族の在り方」を歴史上で「最初に構築した形」を云う。


・「賜姓の背景」
この「賜姓」が実行されるには、次ぎの様な背景が在った。
「大化改新」を実行した際に、概ね次ぎの様な事の問題を抱えていた事から「四家青木氏」は興ったのである。
(958年頃、特別に賜姓を受けた「秀郷流青木氏」が加わる。)
奈良期には「天皇家の財政」が、「皇位継承」に必要とする人数に対して、余りにも「皇子数」が多すぎて、「皇子家を維持する負担」で、内蔵を大きく圧迫していた事。この事に依って天皇家を弱体化させていた事があった。
更には、「皇位継承者」に成り得る資格が、それまでは「第六世族」までの出自と母方の身分に依る「皇位順」に沿っていたが、この事に依って「皇位継承争い」などの問題が多発する等の事があり、それが更に拍車を掛けて「天皇家の弱体化」を招き、それを防止し明確にする為の「身分制度」が決まっていなかった事。
「天皇家の防備」と「朝廷の軍の有り様」に問題があって、「武力」を持つ者等に依ってその「天皇の地位」が度々脅かされる事が起こった。
「自らの族」が「自らを守る」事の「本来の目的」が出来ていなかった事に反省して、身内に依る独自の「近衛軍の創設」と「朝廷軍の創設」を実行する必要性が増していた事。
「施政実行」に際して、それを主務として担当する「皇族の者」が無く、官僚に大きく委ね切っていた為に、「皇親政治の基盤」が作り上げられなかった。
「官僚基盤の勢力」が強過ぎて朝廷内にこれらの「勢力争い」が起こり、「施政」を敷くには大きな欠陥と成っていた事。
「国策」を定めてもそれを強力に推進実行する役目を豪族方等に任され、時には阻止されて、「国策効果」が低迷し低下していた。
依って、民に不満が噴出していた。
況や、「国策の主導者」、所謂、「天皇の意」を介する「国策氏」とその「執政者」が専門に無かった事から、「改新」が進み難かった事。
「朝廷と天皇家」の「財政の根幹」を成す「天領地の開発と経営」と、更には、その「安全保護」に問題があって、そこを豪族に付け入られて弱体化していた事。
それまでは、「第六世族」まで全てを「皇子身分」にし「皇子家」とする仕組みであって、「皇子家」には「特段の役目」が無かった。
その為に「皇子能力」に問題が起こり、「退廃的な環境」が皇族内に蔓延し起こり、そこを豪族に付け入られて「勢力争い」の基にも成っていた事。
等々があった。

(詳細は「大化改新」の論文参照)

上記のこれらの「欠点」を「大火改新」に依って換えて、夫々の「皇子に役目」を与え、それに見合った「身分」と「家柄」と「官位」と「官職」の対策を講じたのである。
そこで、改新に関わる中で、「四家」に関わる事として、先ず、上記の問題を「総合的に解決し得る対策手段」としての「最も意味の持つ対策」が打ち出された。
それが「皇族」の中で「第四世族内 朝臣族 第六位皇子」に当たる者が、この「役目の主務」に任ずると定めた事であった。
これが“「四家の賜姓族」”である。
この「賜姓族」が、「上記の事柄」を「主務」として、「身分と権威」(「三つの発祥源」 「国策氏」)を与えられて、その職務を“「賜姓五役」”と定めて、これに当たる事に成ったのである。

・「三つの発祥源と五つの役務」
そこで、「大化期の皇子順位」の「第六位皇子」には問題があって、「第七位皇子」であったが「第六位皇子」に位置していた「施基皇子」が、先ず、これに当たる事に成った。
そして、「皇族」から「朝臣族」にして、「臣下 (侍 1)」させてこれに当たらせた。

そして、その者に「天智天皇」は、「賜姓を授ける仕組み」を作り「青木氏」と賜姓した。
更に「主要な守護地の五国」を定め、その「皇位継承から外れた真人族と朝臣族の皇子」を配置し、夫々に「青木氏」を賜姓して「皇族系賜姓族」の「五家五流の青木氏」を発祥させる事に成った。
この「賜姓族」には、[公家]に習って「武家 (氏家 2)」を始めて創設させた。

「累代の天皇」が「この仕来り」に則り、「青木氏」を賜姓する事を定めて「主要守護地の五国(4)」に配置して護らせる事と成った。

更に、「改新」が進むに連れて起こる「反対勢力からの攻撃」に対処する為に、安全を期して「皇宮の三門守備と天皇警備(5)」を申し渡した。

これが後の平安期には「北面武士」と呼ばれたものである。
しかし、この時から、「賜姓族青木氏の四家の苦境」は始まったのである。

・「青木氏の象徴と権威」(1−5)(イ−ホ)(a−q)
更に、「改新の態勢」が整えられた上で、「天皇の政治補佐」を任じて、「近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐」の夫々の「主要守護国」には、信頼する「国司」や「守護代」を送り、これらの「賜姓族」を傍に置いて、天皇自らは「天皇補佐役の政治体制」の所謂、「皇親政治」を実行した。
この時、この「政治補佐」として、その主務を「賜姓五役(国策氏 3)」と定めたのである。

その「賜姓族」には、国策実行の為には“「権威」“が必要であり、「権威の象徴」として「三つの発祥源」(1と2と3)その「役務(4と5)」の位置にある事を宣下した。

その「宣下の証」として、次ぎのものを下げ渡し「権威の象徴」とした。

その「象徴物」として、次ぎのものを定めた。
「象徴の密教権威」として、「大日如来坐像(イ)」
「象徴の神木」として、「あおきの樹(ロ)」
「象徴の文様」として、「笹竜胆文様(ハ)」
「象徴の三宝神」として、「毘沙門天像(ニ)」
「象徴の守護神」として、「祖先神(ホ)」

以上を賜姓に伴って授けた。

これが「青木氏」では、“「賜姓五物」”と呼ばれるものである。

そして、その「五主要守護国」には、「皇祖神の子神」を「祖先神 (a)」と定め、その「祖先神の神明社(b)」を創建し、「賜姓族青木氏の守護神(c)」にする事を定めた。
これらを全国の大和朝廷が統治する地域に「創建して行く事(d)」を命じた。

(注釈 この奈良期から平安期に掛けては、この様な「国家的な創建事業」は、朝廷自らが行うと云うよりは、「豪族が担う事」に成っていて、それを受ける事がその「氏の名誉」と成すもので、それを実行したときは、それの「勲功」に見合って「官位・官職・領地」が授けられると云う名誉が在った。
その為に「寺や神社の創建修理」や「河川工事の改修」を命じられて行った。)

「賜姓青木氏」は「神明社の創建」を、「賜姓源氏や賜姓平家や藤原氏」が「寺社の修理」や「河川工事の改修」を命じられ請け負っている記録等がある。
特に、「賜姓源氏の宗家頼光系四家」は度重なる工事で悲鳴を上げていて、「播磨の寺の修理」を命じられたが財政難で暫く放置していたが督促されて渋々修理をした事が書かれている。
この様に、朝廷に執っては「主要豪族」に対しては「荘園制から得る利益」を吐かせて「ぎりぎりの状態」を保たせる狙いがあった。
その意味で、「五家五流賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」は「二足の草鞋策」を執り、これを「賜姓五役の一つの務め」として処理していたのである。

「賜姓平家」は、「宋貿易」と「荘園制」と「武力による領土の獲得」から上がる利益を確保して対応したが、「商い」をせず「賜姓源氏」の殆どは「荘園制」に頼る以外にこの対応力が無かった。
それ故に、「武力」で「弱小豪族」を潰して「領地」を確保して荘園に注ぎ込み「財力」を高めるしかなかったのである。

「伊勢」には、「天智天皇」は、その「皇祖神の伊勢大社」を遷宮して安置したが、そこを護る「主役(e)」を「伊勢王」の「施基皇子の青木氏」に任じた。
代々発生する「皇位継承外」と成った「第四世族内の真人族と朝臣族の皇子」は、この「主要五守護国」の「青木氏の跡目(f)」を継承する事を定めた.
且つ、その中でも「第六位皇子」は、優先的に「青木氏」の「主家の跡目(g)」を継承する事を定めた。
尚、代々「皇位継承外」と成って発生する「第六世族以上」は、全て「坂東の地」に配置して開拓させて臣下することを定めた。

(但し、付帯して、「第五世族」は、“何れの位置にも属する”として、「皇子数の数」により処置を換えるとした。)

但し、この時、「天智天皇」は、「第四世族内の第八位皇子(実質 「第七位皇子」)」であった「執政補佐役」の「川島皇子」には、「近江佐々木」の地名を採り、「佐々木氏」を特別に賜姓して「朝臣族」で臣下させた。
そして、「施基皇子の補佐(h)」を務めさせた上で、「青木氏」と同じく代々皇族外(第五世族)と成った皇子が「跡目(i)に入る事」を定めた。
その「身分と家柄」は「青木氏と同位(j)」として配置した。
又、「王位」はそれまでの「第六位皇子族」までとしていた「仕組み」から、大化期からは「第四世族(k)」までとして、それ以降の皇子は除籍して「王位」を外し、各地に臣下させて配置した。
しかし、この全ての「臣下族」は「三つ発祥源(123)の青木氏」の「配下(l)」に従うと定めた。
この時、「遷宮地伊勢」と「伊勢青木氏」には、「不入不倫の権(m)」の「絶対権」を永代に与え保護した。
そして、他の「四主要守護国の青木氏」にもこれに准ずる扱いとすると定められた。
そこで、「施基皇子」は「伊勢王(n)」として、国司「三宅連岩床」を伊勢に配置した。
晩年には「伊勢」に戻り、「七人の子供」を設けた。

即ち、次ぎの通りである。

「湯原王」、「榎井王」、「春日王」、[白壁王]、「海上女王」、「坂合部女王」、「難波女王」

以上の「四王子、三王女」を設けた。

彼らは「有名な万葉歌人」として才能を発揮した。

この「王女」には「伊勢神宮の斎王(o)」として、期間を定めて永代にその任に準じる事を定めた。
本来、「朝臣族で第四世族内の第六位皇子」ではあるが、「臣下族」である事から、「王位継承の権利」は「伊勢青木氏」には本来は無い。
しかし、「施基皇子」は「天地、天武、持統の三天皇」に「執政(浄大一位)」として務めた事から、その「家柄」から特別視されていて、その末裔には「王位(p)」を特別に名乗る事が許されていた。

(注釈 「青木氏の口伝」に依ると、「四家発祥期」には王位を叙位任官しなかったと成っている。
しかし、「白壁王」が即位してから孫まで叙位されたが、男子二人[湯原、榎井]は「政争」に巻き込まれ「四家」が潰れる事を恐れて「叙位」を拒んだ。
しかし、「形上の記録」では叙位した事に成っている。
他男子二人[春日、白壁]は、その血流から叙位を拒む事が出来なかった。)

奈良期末期の時、「女系天皇」が続き、「皇位継承族」の中に女系も含め「男系の継承者」が全く無く成って仕舞った。(「孝謙天皇期」)
そこで、「天皇家」に無ければ、“次ぎに準ずる継承者(q)”と定められていた事に従い、「川島皇子」([浄大三位])の「近江佐々木氏」を含む「五家五流青木氏」に焦点が当てられた。
その中でも、「三代の天皇」に仕え最も近親者であった「第四世族内第六位皇子」であった「施基皇子」([浄大一位] :天皇に継ぐ最高身分 「草壁皇太子」より二階級上)の「臣下族末裔」の「青木氏族の王」に「白羽の矢」が立った。

そこで、「第六子の白壁王」が、その血流から「天皇位」に即位して「光仁天皇」とは成ったが、この直前には、「四人の王」(四家)は、次ぎの様な態度を採った。
奈良末期は、「天皇家の皇位継承」で大荒れに荒れていて、「施基皇子」の「伊勢青木氏」は「臣下族」でありながらも「王位」も名乗る事が特別に出来きて、「皇位に準ずる位置」の「微妙な「特別の位」にあった。

(「特別位」とは、上記する(a)から(q)の位の事)

この事から、「皇位継承問題」に巻き込まれる事を恐れて、「青木氏の七人の王」は、「歌人」として振る舞い「愚人」を装ったと「青木氏口伝」ではされている。

(資料から観て明らかに装っている。)

この時の事が、「青木氏の四家の氏是」の基と成ったとする説も言い伝えられている。

「青木氏の氏是」の一節 
「世に晒す事無かれ、何れ一利無し。然れども、世に憚る事無かれ 何れ一利無し。」

この時の時代状況が良く物語っている。
自らが表に出る事に成って「天皇」に成っても何も氏にとっては好い事など無く、「賜姓族」であっても、むしろ「臣下族」だとして苦々しい事ばかり、かと云って、卑屈に成っても好い事などは無い。
最早、政争の明け暮れの始末である。
故に、決して、自ら進んで「猪突」に「利」を求めて「氏」を世に晒してはならない。
しかし、かと云って、縮み込んで「卑屈」に成っても良い事も無いから、毅然として、「誇り」を以って「賜姓族」(賜姓五役)と「臣下族」(三つの発祥源)の「立場」を「知略」で以って護り通さなくてはならない。
其れが「氏」に執って最も好い「利」に繋がる。

“「特別の位(a)−(q)」にある事の難しさ“を、以上として諭しているのである。

・「氏是の背景」
ところが、これを「四家の青木氏の氏是」として遺した人物は、“誰なのか”と云う事に成る。
それは次ぎの三人の誰かである。

その三人は、「施基皇子」か、「湯原王」か、「白壁王」かであるが、いまだ研究中であるが判らない。
「施基皇子」が「三人の天皇」に仕え「有能な執政」として「政争」の中で生きた。
その人物がその経験の中から「氏のあるべき姿」を書き記したとも考えられる。
又は、長兄であった有能な「湯原王」が、「王位継承問題」で揺れる中で、「四家青木氏」を護る中で、“「天皇家」と云うものに関わる事への懸念“が、「臣下族」であるとしても、この時に受けた「青木氏の氏存続」の「危険性の問題」に子孫に「戒め」として遺そうとしたとも取れる。

「賜姓族」であると云う事には変わらないのであるから、何時か、利用され引き出されて渦中の中に引き込まれる危険性があるのだから、“常に戒めよ“と諭したと観られる。

更には、結局は、「白壁王」が天皇に引き出され、「醜い政争」に明け暮れする経験の中で、殆どの子供を「政争の犠牲」にしてしまった。
その反省から「実家の青木氏」の者に「云い添えたもの」とも考えられる。

(注釈 「白壁王」の「9人の子供」は、父が天皇に即位した時に、「政争」に巻き込まれる事を恐れて「皇子」と成る「立太子」の儀式を拒んだが、無理であった。)

しかし、結局は、“「事の次第の流れ」“に巻き込まれ、「臣下族の青木氏」の「施基皇子の七人の子」が、「政情の場」に止む無く引き出され、“天皇家を男系に戻す事の目的”から、「男子末子」の「第六子の白壁王」が引き出されて天皇に成った。
成る時にも大変な醜い周囲の「政争の経緯」が在った。
この時までは、「皇位継承外と成った皇子族」は、本来は「門跡」に入る仕組みであったが、「伊勢の青木氏」は、「三つの発祥源」と「賜姓五役」の「臣下族」と「国策氏」であった事から、この「仕来り」を採らず、次ぎの「仕来り」を敷いた。

それが、上記する「特別の位(a)−(q)」持つ「生きる難しさ」から敷いた制度、況や、ここで論じる“「四家制度」”なのである。

「四家の創設者」
「施基皇子」の「四人の男子」は、750年頃以降 次ぎの「四家」を敷いた。

長男の松坂の「湯原王の家」 (松阪殿)− 3人の子
次男の名張の「榎井王の家」、(名張殿)− 2人の子
三男の員弁の「春日王の家」、(員弁殿)− 3人の子
四男の桑名の「白壁王の家」、(桑名殿)− 9人の子

以上の「四家」を創設して安定した「子孫拡大(約60年間)」を図っていた。

しかし、ここで予想外の事が青木氏に降りかかって来たのである。

・「白壁王即位の影響(空家)」
「施基皇子(716年没)」が没して、ほぼ10年後に「嗣子の四人の子供たち」が育ち、「青木氏の四家」(726年頃−734年頃)を夫々が興したとある。
この間 25年間程度は「四家」を継承していたが、突然、「桑名殿」の「白壁王」が54歳で即位した770年以降は「桑名殿」は「空家」と成って仕舞ったのである。
この事に付いて、青木氏では、次ぎの二つの説がある。
暫く「桑名殿」を除く「三家」が続いたとする説、所謂、“「空家説」”である。
「桑名殿」の「白壁王」が即位して、その「9人の王」が「天皇家の「継承外親王」と成った。

「白壁王」の子の「山部王」「早良王」と「稗田王」(31歳没)が、譲位後の781年に「桑名殿の再跡目」に戻ったとする説、所謂、「再興説」がある。

(注釈 「山部王」(母 高野新笠)は、781年に「桓武天皇」に成る。「早良王」(750年生 母 高野新笠)は、その後に早死の「政争没785年」と成る。)

平安中期には、“「四家」”は「四日市殿」を加えて「四家」が構成されていた事は確実なので、「空家説」が正しいとする考え方もある。
しかし、「継承外親王」に成った「白壁王」の「三人の王」(山部王 早良王 稗田王)は、「光仁天皇崩御後」は、「仕来り」に依って、「第五世族王」外は臣下する事には成るので、再び「青木氏」に戻れる事に成る事から、「再興説」も納得出来る。

(注釈 「継承外内親王」(能登王女752年生 母 高野新笠)も、崩御後に「四家」から「近江佐々木氏」の「市原王」に嫁している事から考察すると、「三人の親王」は明らかに戻っている事に成る。)

つまり、従って、後に四家の「四日市殿」と呼ばれていた。この事からすると五家に成る。これをどの様に考えるかに関わっている。
筆者は「再興説」を採っていて、その根拠は、“平安末期の先祖が「四家」の”「主役」“と、”「副役」“の違いに間違いを起こしていた”とも考える事が出来る。
つまり、「主役の位置」(四家)では、「四家」が継承されていて、下部の「副役の位置」(16家)で「松阪殿」の別れが「四日市殿」を創設した。その「四日市殿」が「秀郷流青木氏との融合族」であり、その「繋がり」もあり、「政治的に大きな働き」をした事に依り、“「四家並」”に扱われていた事に依るのではと考えている。

(注釈 奈良期781年までの12年間と、平安初期(806年)までの24年間の計37年間後には“「空家」”は収まっていたが、そこを間違って、“平安中期まで空家の侭”(200年間)であったとして、「鎌倉期初期の伊勢青木氏」の「四家の先祖(A)」が観ていた。
その理由は、ここに「四日市殿」が、“「有能で青木氏に大きく貢献していた」“処を観て、間違えて「主役の四家」として“「四日市殿」”を当て嵌めて“「四家」“として「由来書添書」に書き添えて仕舞ったと云う事に成る。
その「副役の四家」である事の間違いに気付いた「四代後の先祖(B」」が、鎌倉期の末期に”「由来書添書」を訂正したと云う事“ではないかと観られる。
つまり、「主役と副役の取り違え」が起こった事に成る。)

筆者は、先祖(A)の「取り違え」では無く、その「四家に対する勲功の大きさ」を伝えたかった事の表現方法に問題があって、其れに気づいた先祖(B)が「添書」を訂正したと云う事であった事と考えている。 
ただ、「桑名殿」は、確かに「皇族の仕来り」に縛られて、「光仁天皇崩御」の781年までの約12年間は「仕来り」により確かに「空家」であった事があり、崩御後は、「継承外親王」は「臣下する仕組み」であり、「青木氏」に入る「仕来り」である事から、間違いなく放って置いても「青木氏」に戻る事が出来る。
これが「12年間の空家説」と成ったと観ている。

現実には、「山部王」は、「桓武天皇(在位781年−806年)」に成っているので、「山部王」を除き、二人は、一度、「仕来り」に従い「桑名殿の青木氏」に戻ったものの、直後に「政争の犠牲」に成って没している。
しかし、「青木氏の口伝」では、「稗田王」(751年−782年)は「政争」から何とか生き残って、2年間、「早良王」は「政争没」に成る間の5年間は、一時的に「青木氏四家」を継承したと伝えられている。

「外部記録」では、更に、その後の2年後に「原因不詳」で没している「稗田王」は、2年後に「政争没」、「早良王」は、5年後に罪を着せられて「徳島の配流先」で「政争没」と成り、結局は、“「桑名殿」の「空家」(37年間)“は明らかに考えられる。
ただ、ここで、「青木氏口伝」からとの差が起こっている。筆者は次ぎの様に観ている。

「四家」の中で、「四家の仕来り」に従い「空家」を補ったと考えられる。他の「三家からの配置」か、或は、「四家四流青木氏からの配置」かの「何がしかの動き」が先ずはあったと考えられる。
しかし、何れの「青木氏からの配置」も、激しい「政争」に巻き込まれている最中であり、公的にするには難しかった筈である。
依って、「賜姓時の仕来り」に従い、2年後の「政争没の稗田王没」後の「空家」、又は、5年後の「早良王」の「空家」も、直ちには、「四家の仕来り」により伊勢外の“「四家四流青木氏から配置」が在ったのではないか“と普通は考えられる。
しかし、筆者は無かったと観ている。
”無かった“と云うよりは、”結局は取りやめた“とした方が適切な処置ではなかったかと考えている。

その根拠は、次ぎの様に成る
「青木氏」をルーツの実家とする「山部王」が、「桓武天皇」に成って、「五家五流全体」の「皇親族の青木氏」に圧力を掛けた事−(1)

「桑名殿の空家」を補う権利は、「四家の福家」にあるとしても、「政争没」で潰されんばかりの激しい軋轢」を掛けられている。
当に「火の油」と成る事−(2)

その[張本人]の「山部王の本人の意向」を聞く事は、「潰されようとしている四家の立場」としては先ずは不可能である事−(3)

「山部王の本人」は、“「天皇としての権威の低下」“が起こる事の懸念から軋轢を掛けている実家先を興す事の意志は無い事(−4)


以上「4つの事情」から鑑みて、「伊勢青木氏側」は、敢えて「四家の仕来り」を選ばずに、「稗田王の政争没(2年後)」の状況の展開を観て、暫くして「青木氏」を護る為に“「空家策」”を故意的に選んだ事に成ったと考えられる。
それでも、未だ、「早良王」が罪を着せられて「政争没(3年後 3年後に徳島配流処置後 正味5年後)」にされている。

“青木氏を潰す事“を目的に徹底していた事が明らかに判る。
「他の伊勢の三家」も罪を着せられない様に慎重にしていた事が判る。
信濃を始めとする「四家四流の賜姓族青木氏」も同じ状況であった事が判る。

(注釈 「商い」で常時移動するなどで身を隠したと観られる。)

「桓武天皇」は、806年没であるが、「阿多倍王」の長子の「征夷大将軍」の「坂上田村麿」(母は伊賀「阿多倍王」の孫「高野新笠」の父)とは、叔父に当たり兄弟の様にしていた事が記録にある。
陸奥域を制圧(805年)して、その地に「桓武天皇」が自ら指揮して「神明社」を25年の間に「20社」も「青木氏」に代わって建立している。
この事から、「神明社建立」は[青木氏の専業」であり、資材調達やその職能部は「青木氏」に委ねられている。
故に「商いの領域」で生活する分には、政治には無関係と成る事から軋轢を加えなかった事に成る。
「万葉歌人の愚人説」も外部記録にはあるが、「歌人」では同じで逃れる術には成らない。
生き残った「四家の二人」は、この「商人」に徹したと観られる。
この時期に集中してこの「陸奥域」に「20社−25年」も建立出来ているのは、この事(青木氏商人説)から来ていると判断できる。
むしろ、「四家の二人」を潰せば「神明社建立は不可能」に成るし、「叙位を拒んだ事」、「商人に成り切った事」などから、この「二人の叔父」を潰せなかったと観られる。
これが“「青木氏の商人説」”の「伝来の根拠」である。
これが上記した“「青木氏の氏是」”を護る為の“「知略を使う事」”に従ったと云う事である。
そうで無ければ、この「四家の二人」は、“「青木氏の氏是」を護らなかった事“に成る。

(注釈 とすると、口伝等で「遺された商人説」から鑑みれば、この「青木氏の氏是」は、“「施基皇子」が遺した言葉”であった事に成る。符合一致する。)

(注釈 「桓武天皇」{737年−806年 即位781年}も、「祖父の施基皇子{716没}」の「青木氏の氏是」は承知していた筈である。
この範囲であれば、幾らか「律令政治」に邪魔で有ったとしても、潰す事は出来なかった筈である。
要するに、“「政治」に「青木氏」が絡まなければ良い訳である“から、先祖の云う「商人説」は納得出る。
”「神明社建立」で25年間耐えた“と云う事であろう。
現実に、この「四家の二人」は長寿で直前まで生きている。)

依って、「四家の青木氏」では、一時(37年間)の「空家説」に成ったと考えられる。
つまり、「770年−781年間の在位中の12年間」は、「白壁王の桑名殿」は、敢えて、「実家先」であるとしても、“天皇に成った以上は「郷を創る事」は好ましくない“として、恣意的にその「天皇の権威」を護る事から「空家扱い」としたと考えられる。
更には、「山部王」の「桓武天皇期の軋轢期間25年間」は、「実家先」に軋轢を掛けられている以上は逆らう事は出来ず、合わせて「37年間」は「空家扱い」とせざるを得なかった事に成る。
この事から“「37年の空家説」”が生まれたと考えられる。

「山部王」の「桓武天皇」期では、未だ「皇族方」から「四家の青木氏」へ送り込む程の「継承外者」の「跡目」は無かった。
確かに「9人の皇子皇女と妾子」が在ったが、「伊勢青木氏の実家先」の「空家の跡目」を補うほどの「皇子皇女族」は無かった。
しかし、「嵯峨天皇期」からは、「詔勅」で、その「仕来り」は一変した。

・「嵯峨期詔勅の影響」
「桓武天皇期の軋轢」と、「嵯峨期の詔勅禁令」で、賜姓の無い“「皇族青木氏」”が別に発祥した為に、「青木氏への跡目継承」はないものと考えられるが、現実には行われている。
むしろ、「嵯峨天皇」から「花山天皇」までの「累代の天皇」は、「皇位継承外者」の「青木氏跡目への送り込み」を政治的に目論んでいた。

そもそも、「嵯峨天皇」は、”何で,「賜姓を青木氏」から突然に「賜姓族の源氏」に変更したのか、そして、態々、「詔勅」迄を発したのか。”疑問が残る。
これは、結論から云えば、上記で論じた”「軋轢と政争」”とから「青木氏」を護る事にあった事による”と考えられる。
それは、この「詔勅」に合わせて、其れも態々と「青木氏」に関する「賜姓族」としての「慣習仕来り掟」の「使用禁令の令」にある。
「青木氏の弱体化」に依って、そこに付け入り「他の皇族系氏族」がこれを真似て、この「賜姓族らしき族」が生まれる事に危惧を感じたからであろう。
それは、皇族の者の「跡目先」の「格式の低下」と「血縁性の低下」を身内として認める訳には行かなかったし、皇親政治を構築する上で好ましく無かった事によると考えられる。

現実に、その「政争の渦中」から救う為に「賜姓」を「源氏」にした事で、その代わり、「青木氏」を「正規に認定した皇族出自者」の「下族時の氏名」とした事でも判る。
そして、この「賜姓の源氏」には、「賜姓族の青木氏」と同じ[財産と権利と格式と特権」を一切与えなかった事でも判る。
それを態々、詔勅に書いた事でも判る。
何も書かなくてもその様にすれば良いだけの事でもあるのに、書いたのである。
この”書いた事に意味”を持たしたのである。
その証拠に、賜姓源氏から青木氏に跡目に入っているが、「賜姓青木氏」から賜姓源氏には入っていない。
況してや、「下族者の青木氏」からは何れも入っていないのである。
現実に、この「青木氏」は、男女合わせて「25人の対象者」が正規に居たが、「青木氏」として名乗ったのは記録から確認できる「青木氏]は二人で,記録の保障が無い「疑義の青木氏」は二氏に終わって居る。
「源氏」から[青木氏」を名乗ったのは正規に確認できるただ一氏である。
この事から、これは、「形式上の賜姓」である事に成る。要するに「賜姓青木氏」を護る為てある。


(注釈 取り分け、「嵯峨天皇」は、上記(a)から(q)の「役目の難しさ」からと、「桓武天皇の軋轢」からも、考え合わせて、五代続いた「天智期の仕来り」を敢えて換えたと観られる。)

故に、「詔勅」では、「第六位皇子の賜姓」には、「源氏」としても、この「源氏賜姓」には、「朝臣族」を認めるも「無位無官」と「一切の官位」と「財の贈与」と「不入不倫の権」等の特典は与えなかったし、「皇族還俗者」に「青木氏」を名乗る事を認めても「一切の特典権」も与えなかった。
“成りたければ成れ、しかし、一切は面倒を看ない。自分で切り開け。責任は採らない。”
簡単に云えば、この通りであった。

その上に、“「皇族者下族の祖を持つ」“とする「皇族者」を証明する「認知状書」だけで済ませたが、現実には、この「認知状書」は「有名無実の状況」で搾取が横行した。
其れだけでは無く、「搾取横行」の原因も関係して、「天智期」からの「賜姓族青木氏」が持つ「慣習仕来り掟の一切使用」と「青木氏呼称の使用」をも禁令で禁じて仕舞った。

(注釈 「五家五流青木氏」の「搾取偏纂」では、「青木氏」とは異なる「別姓の4つの姓」が子孫であると主張している。
しかし、「賜姓族青木氏」は「嵯峨期禁令」の通り「青木氏外の姓名」の「仕来り」は禁じていた為に採用していない。)

そもそも、「氏族」であって「姓族」では無い。
これらの「4つの姓」は、平安期の朝廷に届けられている「氏族」には無い。
又、これらの「4つの姓」は「浄土宗」では無い。
まして「密教」でも無い。
この「仕来り」の知らない甚だしい「搾取偏纂」である。
「四家制度」の「二つの絆青木氏」からも発祥させていない。

これでは、「何の身分保障」も「経済的裏付け」も「皇子の権威」も無いのでは、“独立して賜姓を受けて臣籍降下する者”は無く成る。
そうすれば、「五家五流青木氏」か「佐々木氏」の「受け入れ口」に事は流れ、「皇族の経済的負担」と「皇族者を利用した悪行の社会不安」は無く成るし安心である。
そして、”「賜姓リスク」は解消して、「天皇家、並びに朝廷」の「権威」は保たれる”と目論んだ。

・「嵯峨天皇の目論見の狂い」
ただ、この「目論見」は、次ぎの事で「多少の狂い」が起こったのである。

(注釈 経緯、ところが、「天皇の思惑」より外れて、「賜姓祖族の源氏」と「賜姓族でない源氏」に「成る者」が続々と出てしまった。その原因は「荘園制」にあった。
この「読み違え」をしていたのである。)

各地で「力の持った豪族」などが山などを切り開き「土地開拓」が始まっていた。
ところがこの「開拓の土地」に「税金」が掛かる。
「荘園主」は、これを軽減する方法として、「皇族者」、或は、「公家族」「源氏や平氏の賜姓族」から「名義」を借りる事で「税」が免れる。
そして、その「名義貸し料」を支払って利益を挙げた。
ところが次第に、「名義貸し」だけでは無く、荘園で力を得た「荘園主」は、次ぎには「名義主の氏名」の使用までも許可を得て獲得し、「名義使用料」を支払って「荘園防御の抑止力」も獲得した。
この為に「嵯峨期詔勅の賜姓族」は自立する事が可能に成った。
その財を以って「禁じ手」の「武力」をも獲得した。
その「武力」で各地の「弱小荘園」や「豪族の土地」を奪い取ったのである。
これが肥大化して「清和源氏」が生まれたのである。
その「清和源氏の分家の頼宣系」がこの方式を使って拡大した。
政界にも発言力を持った。
その結果、潰した豪族の「敗残兵」等を「奴隷」にし、「名義先の荘園」に送り込むなどして働き手にする等の社会問題が起こった。
(陸奥の安倍氏等はこの大きな犠牲に成った。)
この「伸長」を嫌った天皇は、「清和源氏の頼宣系の武家集団」を潰しに掛かった。
そして、最後に、「摂関家の藤原氏」をルーツに持たない「後三条天皇」から「後白河院政」まで、身の危険性を跳ね除けてこの「荘園制」そのものを「禁止」し、「源氏全体」の「武家集団」を弱体化させて、結局、「嵯峨天皇の思惑」まで戻す事が出来たのである。

(イ)「賜姓青木氏の跡目」がこれで一挙に埋まった事で、皇族からの「跡目の受け入れ」が過飽和と成って仕舞った事、
(ロ)皇子皇女は増える割合よりは、「四階制度」から生まれる「正規の継承者」よりも、「皇族の妾子制度」の「無位無官の嗣子」が多く発生して仕舞った事、
(ハ)一時、男系の「皇位継承者の激減」の反動が起こり、逆に、「継承者の純血性の低下」が起こって、「皇位継承者」の不足が起こって仕舞った事、

以上の(イ)(ロ)(ハ)の事から、当然に、「血流の保全」から「青木氏への跡目」の対象者も無く成ったのである。

・「詔勅禁令の目的」
では、果たして、“「嵯峨天皇」は何を目的としてこの「詔勅禁令」を発したか”云う事である。
「嵯峨天皇」は、以後の「賜姓」に関しては、“一切関知せずの立場”を採っていた事が、その「目的の翻意」であった。つまり、「天智天皇」から五代続いた「賜姓族青木氏」と「賜姓族佐々木氏」に、「皇族者の下族者」が「跡目」に入る事の[天智期からのシステム]を、「皇族」に執っては“「良いシステム」”として認識していて保護したのである。
これからも増える「皇族者」が、“「嵯峨期の青木氏」を名乗る事を選ぶ事“ よりは、”「天智期の賜姓族青木氏の跡目」に入る事“ の方が何もかも保証されているのであるから、「生きる術も知らない皇族者」が、なんの保障も無い”「嵯峨期の青木氏」を誰も名乗る事“は先ず無い筈と観ていたのである。

(注釈 結局は無かった。全て真偽の程は別として、“「配流孫」の「現地末裔」である”と主張しての四氏である。)

それは奈良期から、「青木氏を含む皇族者」が「何かあった時の事」として、「越前の逃避地」に「避難するシステム」が、「賜姓青木氏」に依って構築されていた。
この「青木氏」に依って運営されている事を承知していた「嵯峨天皇」は、これを“「皇位継承者の受け入れ先」としても使える”と読んでいたからである。
それは父の「桓武天皇の山部王の実家先 33年間在籍」でもあり、「自分のルーツ実家先」でもあった事により、その効能を充分知り得ていたからである。
「桓武天皇の律令政治」対「嵯峨天皇の皇親政治」の「政争」で勝ち取った以上は、「律令政治の持つリスク」を解決してこそ、その「天皇の主義」の「立場と権威」は保たれる。
依って、是非にも達成しなければならない「重要な政治課題」であった。
依って、「五家五流の賜姓青木氏」を護る事で、“今後の事態はより良好に成る”と読み込んでいたのである。更に、仮に「賜姓源氏」を名乗ったとしても、その「生計や権威や財力や武力」が無ければ、たとえ“「賜姓」“だけが有っても、「生きて行く事」は「権威」だけでは無理である。
故に、源氏族の生き様は何時かは崩壊する。
その時には、「皇族朝臣族」である事を最低限に認知しているだろうから、この事を「青木氏」に入る事を理由にするであろう。
(現実に源氏から青木氏に多く入っている。)

“「賜姓源氏」は「同位」であるから“として、「天智期からの五家五流の賜姓青木氏」の「跡目」に、「立場家柄の問題」が無い事から、簡単に入るであろうと「嵯峨天皇」は考えた。
その為には、「受け入れの経済的基盤」の「二足の草鞋策」を、「青木氏」に対して、“暗黙の内で容認して置く事”が必要であった筈である。

・「和紙の商いの意味」
其れには、中国から輸入していた「悪質の紙」を、「国産化」して、「量産化」する「良質の和紙」にして、これを社会に遍く行き渡らせる事で、“「国内の経済」は潤う事が出来る”と目論んでいたのである。
この事は「実家先の事」であるからその実情は承知の上であった。

(注釈 この時、「和紙」のみならず、「墨と硯」の「開発と殖産」も指示した模様である。「嵯峨天皇」自らが、信濃方面に足を運んで探究すると云う積極ぶりで有った。「後漢帰化人の職能部」の「墨作部と硯部」を自ら指揮して送り込んで、「大和、福井、丹波、越前、信濃」に出向いたりした記録がある。
そして、暫くは、この時に大和で採れる国産開発した「松根油」から取った「質の悪い墨」(粗目で墨色悪く掠れる)の侭で続いて放置されていた。

しかし、遂には、1320年頃に“「嵯峨天皇の意志」(政治方針)“を引き継いだ「後醍醐天皇」は、「熊野野詣」を理由に33回も調査を行うなどした。
この結果、「紀州熊野道」の「熊野神社の社領」の「第一神社」「藤白神社」の周辺域で、「墨の原材料」と成る「姥目樫の木から良質の墨の煤」が採れる事を自らが発見した事が記録されている。
この地域は、“奈良期からの「炭の生産地(墨屋谷」」(後の備長炭)”で有った。
其れに、“目を付けた”と云う事で、試行錯誤したとある。
この時、中国より「方氏と云う職能部」の「専門職人」の五人呼び寄せたと記録されている。

(注釈 この「墨の成功」での事で、宿泊先の「藤白神社」の「神職日高氏」より、「紀州」の紀北の「浜の宮」から紀南の「日高地方」には、古来より「良質で高級な砥石(紫石)」が採れると聞かされた。
それを「硯」にする事で「硯部」を紀州に呼び返して生産させたと記録されている。

更に、平安初期には「伊勢北部伊賀地方域から紀州南域の紀伊山脈」には、「良質な和紙の原材料」に適すると観られる“「紀州楮」”があることを発見した。
そして、平安中期には「賜姓青木氏の紙屋院」に依って「開発と殖産」にも入っていた。
「伊勢青木氏」と「信濃青木氏]が持つ「青木氏部」を配置した。

そこで、 「後醍醐天皇」は、「嵯峨天皇後の470年間」も放置されていたものを、わざわざ、“何故、これほどまでに「墨と硯」に拘ったのか”と云う疑問である。

「楮に依る和紙」は、開発されて「良質な和紙」として、既に生産し殖産し販売され、市場は「紙文化の始まりの直前期」であった。

恐らくは、「紙文化」への「需要の高まり」が顕著に成って来て、近くでも「良質な楮」の生産に適する地域を発見しようとしていた。
近隣で「青木氏の遠祖地の地」にその「良質和紙の楮」が発見され、これで “「青木氏を助ける事(「嵯峨天皇の目論見」)」が出来る“と考えていたとの推測が出来る。
其れと共に、この時期は「墨と硯」がこの「紙文化」に火が着いて、消費が伸びれば「開発途上の段階」では、「輸入品」である事には「財政的な問題」が出る。
この事から政策的に適切では無かった事から、これを「和紙」と共に「青木氏」に殖産させ「国内産」にして、「紙文化の前兆期」を利用して ”「青木氏」に売り捌かせようとした“と考えられる。
1320年頃の鎌倉期末期頃である。
その証拠に、奈良期から鎌倉期末期までは「和紙と墨と硯」は、“「西の公家政権」の「朝廷の専売品」”で、「部の市場制度」に依って、一度朝廷に納入しその上で、必要な物を確保した上で、市場に放出すると云う経済方式を採用していた。
「墨と紫石硯」も明治初期まで「専売品」であった。
室町期から「室町幕府と江戸幕府の専売品」に変わった。

重要な注釈
(”「西の公家政権」”とは、鎌倉期から室町期まで「正式な行政区画」は、「東の鎌倉政権」に対して「京の公家政権」としてその政権を一部を委ね、これに対して「東の武士政権」から「行政監」が派遣されていた。
この状態は室町幕府迄続いたが、実質は無力化して「有名無実」の状態と成っていた。
江戸幕府も正式には、この状態を認めていたが、要するに「公家諸法度」などを作り無力化させていた。
この「西の公家政権下」での管理品であった。
最終、江戸期初期には「徳川氏の専売品」と成って「朝廷の力」、況や、「西の公家政権」の力を削いだ。)

(注釈 「専売品」にする事がそれだけに「利益」が大きいと云う事である。)

鎌倉期は、「需要な注釈」の通り、「紙と墨と硯」の殖産は、“「西の公家政権」の財源”で有ったし、一部は室町期末期まで「西の公家政権」の「専売品」ともなっていた。
「武家政権」に成った鎌倉期には、この為に「二足の草鞋策」を敷く「皇族の受け入れ先の青木氏等」に、これらの「殖産」を認可して援護する目的もあったと観られる。
つまり、「後醍醐天皇」は、「西の公家政権の財源」と「皇族受け入れ先強化」を狙ったと観られる。
上記した様に、鎌倉期以降は、関東に「武家政権」が樹立した際には、西には「公家政権」を一応は置いて関西域を任した「二元体制の形」を採った。
しかし、丹波に「幕府支所」を置き「関東の西への発言権」を増して、「有名無実の状況」と成っていて、後の江戸幕府までも「公家諸法度」で縛ってこの状態が続いた。
この為に、鎌倉末期までは、「西の公家政権」は、「公家を含む皇族方」等の「財源確保」や「安定化策」の為に躍起と成っていた。
「関西の伊勢青木氏」の「二足の草鞋策」からの「税と援助」がその財源の一つの基と成っていた経緯から来ている。

この「後醍醐天皇の底入れの御蔭」で、「青木氏の二足の草鞋策」は、室町期は「紙文化の花」が咲き、「巨万の富」を得た。
この「青木氏」から上がる「専売品の税」が、所謂、「西の公家政権」と呼ばれた「強力な財源」に成っていたと観られる。
1025年頃から「本格商社」に成り、この時を契機に、益々、1320年頃に「総合商社化」へと進んだと観られる。

「賜姓族の五家五流青木氏」に執って関わった天皇は次ぎの様に成る。
1 「賜姓族の発祥」は、「天智天皇」  「賜姓族」で「皇親政治」を確立
2 「賜姓族の発展」は、「天武天皇」  甥の「施基皇子」を「執政」として重用
3 「賜姓族の拡大」は、「持統天皇」  兄を重用し「武家の青木氏」を確立
4 「青木氏の四家発展」は、「光仁天皇」 「実家先の青木氏の基盤(和紙)」の強化
5 「二足草鞋策の青木氏」は、「桓武天皇」  律令体制で軋轢衰退 「糧に二足の草鞋策」
6 「和紙商化の完成」は、「嵯峨天皇」  「青木氏の重用」と「二足の草鞋策の強化」
7 「青木氏の補強」は、「円融天皇」  「賜姓五役」拡大で「青木氏 補完策」(特別賜姓族)
8 「総合商社化の完成」は、「後醍醐天皇」  「商い策」の強化で「皇室安定と財源確保」

以上が主に「青木氏の発展」に大きな影響を与えたと観ている。

”「青木氏の商い」”に大きく関わった後半の「恩人の二人の天皇」は、“「嵯峨天皇」と「後醍醐天皇」”と「青木氏の口伝」で伝えられている。
筆者の家には、この時の「和紙と墨と紫硯」が、大事に「悠久の時」を経て「重要な遺産」として遺されている。
(HP左メニュー写真掲示板に一部掲載)
後には、この様に、“「後醍醐天皇の青木氏に関わる事」“が在ったが、その為にも、先ずは、「平安初期の嵯峨天皇」は、「朝廷内部」に、「使用販路」を広げて、丹波域に「紙屋院」等の「和紙の試験所」を設置し、「木簡から和紙への変換」に対して「朝廷内部の改革」を実行したのである。
「公家貴族」や「官僚族」や「社寺社会」から、その利害関係から「猛烈な抵抗」を受ける中、「青木氏」を側面から援護した。

この経緯は、詳細は 「青木氏の伝統 4と8」 参照の事として、次の様に成る。

(注釈 記録では、「興業」としての「商い」は、「青木氏の記録」では「古代和紙の販売」は、950年頃と成っている。
(正規の生産開始は730年頃)

とすると、「殖産」を始めてから”300年”と成っているが、「青木氏の基盤」を造ったのは、次ぎの「経過」を辿ったと考えられる。

・「和紙の経過」
A 「和紙の良質な生産開始」に50年  (730年頃 正倉院 紙屋院 白鳳文化 記録)
B 「和紙殖産」を始めて余剰品までを作り出すには50年  (770年頃 平城消費文化)
C1「商い態勢」に50年   810年頃 平安初期文化 摂関文化初期 記録)
C2「和紙販売能力」に50年  (890年頃 平安中期文化 摂関文化中期 記録)
D 「和紙興業能力」に50年  (850年頃 国風文化前期 摂関文化後期 記録)

E 「本格商い開始」- 50年- 「950年」
F 「完成期の総合商社」として75年 (1025年 国風文化後期」 記録)

以上として観れば成り立つ。

「初期の段階」では「原材料の調査」、「生産する農民」の養成、適切な「耕作面積の獲得」、
それを「和紙」にする「技量の習得」と「職人の養成」等で、思考錯誤しながら基盤を作った。
とすると、次ぎの様に成る。
以上には、“一期毎に50年程度の相当な期間が掛かった”と考えられる。

(註釈 この期間に関しては、「紙」は「文化のパラメ-タ」である。

以上の様に、この「古代和紙」の「紙」を日本最初に作る事に挑戦したのが、「5家5流皇族賜姓青木氏」なのである。
日本のこの「紙文化」には必ず「宗教文化」が伴っている。
従って、青木氏の一面の”「紙屋」の歴史の変遷”は、この「紙文化」に左右されている事に成るのである。
そして、その紙の多くを消費していた「宗教文化」にも左右されていたのである。
下記に詳しく論じるその「宗教文化」の「仏舎」の「仏画」の歴史も、この「青木氏の紙の変遷」が大きく関わっているのである。
当然に、次ぎに論じる「節会」もこの「宗教文化」と「紙文化」に左右されているのである。

「宗教文化」→「節会」←「紙文化」

その「文化のパラメ-タ」の「紙の使用」が、Aの様に、「東大寺の写経会」に観られる。
この様に、初期の「紙文化」として遺されている「文化資産」は、「経典」と「仏画」の類が殆どである。

しかし、「後期の紙文化」としては、「鎌倉文化と室町文化」は、初期の「経典仏画」類に関わらず、全ての書籍等の「紙材」に利用されている。

中には、Bの様に、未だ一般に「紙市場」が無かったにも関わらず、「平城京」で起こった「消費経済」で「紙」が初めて大きく「消費される現象」が起こったのである。
一般の市場にも「余剰品」が消費される環境が出来て来たのである。

そして、遂に、遷都に依って、[紙の使用」は庶民の中にも浸透し始めた初期の現象が起こった。
要するに、上記した[西の公家文化」と「東の武家文化」の開始で「紙」が盛んに使われ始めた。
特に、世に“「摂関家の文化」“とも云われる文化であった

最早、「余剰品の販売」の領域を超え始めたのである。

本格的な「販売体制」に入らなくてはならなくなった。(C1)

結局、「初期の販売体制」は、区切る事無く続き、本格的な全国的な販売体制が必要に成った。
そして、「輸送」と「安全」に関わる「全国的な組織体制の確立」の必要性に迫られた。

「輸送」には、大量に運ぶには「船」「陸送」が使われるが、これらを安全に輸送できる全国的な「護衛組織の確立」(シンジケ-ト)が要求された。(C2)

「C1+C2=D」の数式が完成した事から、今度はこの組織を使って「紙屋の商い」の組織と「賜姓族」の組織とを分離した。

そして、本格的な「二足の草鞋策」が始まった。

・上記した様に、「嵯峨天皇期」には、C1からC2に移行する時期、つまり、「商い態勢」に到達していた。

100年の「抵抗期間」からやっと脱出し、「木簡から和紙」への「最終の移行期間」に入っていた時期であった。
どうしても、「律令体制」が完成した時期でもあり、到底に木簡では間に合わず、是非にも「和紙」に切り換えなければならなくなった時期でもあった。

更には、つまり、「一般市場」に「和紙」を浸透させる為にも、先導して「朝廷内の和紙の使用量」を一層に高める手段に入るべき重要な時期でもあった。

「嵯峨天皇」は、「青木氏」のこの“「和紙」の「商い態勢」”が進むように、「朝廷内の改革」(和紙の使用)を始めたのである。
其れが、当然に「目論見の根幹」を成していたからである。

この為には、「律令の官僚政治」に任すより、「皇親による国策氏」(青木氏)を作り上げ事が必要であった。
そうする事で、「皇族方の継承や生計の安定」が図られ、「子孫存続」は保障される。
つまり、上記した天智期に反省した「皇族の欠点」の解決、況や、“「大火改新の目的」”は、確実に果たす事が出来ると見込んだのである。

「律令体制の改革」だけでは、「政治課題解決」と「更なる皇族の発展が成されなければ、「真の改革」には成らないとする「父桓武天皇との政争」でもあった。
其れには、矢張り、“天智期に敷いた「皇親政治(大化改新)」に戻さなくてはならない。”とし、“抵抗が少なく信頼でき「皇親政治」を敷かなければならない。”とする戦略で有った。
況や、「三つの発祥源 賜姓五役 国策氏」である。
尚且つ、「ルーツ実家先」(曾祖父 始祖 施基皇子没90年)では、“「四家制度」”を敷いていた絶好の「皇親族の賜姓族青木氏」がある。
この環境を政治的に使わない手は無い。
況して、「25年間と云う衰退期」を経ていて政争に巻き込まれていた「ルーツ実家先」(青木氏)を当然にも引き上げて戻さなければならない。

「政治」「経済」「軍事」、「親族」、「皇族」等の如何なる面から観ても、何れに執っても、「青木氏」を使わなくてはならない。
「政争」に打ち勝つだけの「有能な嵯峨天皇」なのである。先ず使わない手は無いだろう。

この事を読み込んだ上での「嵯峨期詔勅であり附則禁令」であったのである。

・「臣籍降下の証明」
その証拠は次ぎの事で証明できる。
これ以後、「嵯峨天皇」は、「6人の皇子と3人の皇女」、 その後の累代に、「17人の皇子と15人の皇女」が「朝臣族」で「臣籍降下」している。
合わせて、「23人の皇子」と「18人の皇女」には賜姓なく臣籍降下させている。

しかし、現実には、「嵯峨期詔勅」の賜姓の無い「皇族青木氏」の「名乗り」は僅か「4氏」である。
内訳は「皇族から二人」 「賜姓源氏から二人」である。

「賜姓源氏」は、「嵯峨天皇期」から「花山天皇期」まで「11家11流」が発祥した。
しかし、この「11家11流」から「賜姓」の「五家五流青木氏と佐々木氏」には、合わせて13人が跡目に入っている。
この「賜姓源氏」からの13人と、残りの「23人の皇子」と「18人の皇女」は、奈良期の「天智天皇の仕来り」に従い、「賜姓青木氏の五家五流青木氏」の「四家(20家×5)」の何れかの「空籍」に「跡目」として入った事に成っている。

この間の「高位の門跡僧」、或は、「低位の僧籍者」は、「比叡山」か「善光寺」か「平等院」等に入籍する「仕来り」もあった。
しかし、「僧籍数の確認」ができない為に、「佐々木氏」も含めて、全て何れかの「青木氏の四家跡目」等(平安期末期からでは確認できる)に入ったものと考えられる。
恐らくは記録に載らない「僧籍からの還俗者」を加えると、殆ど、「臣籍下族者」は男女合わせて「男50人,女25人」程度は受け入れている事に成る。

「青木氏」は、「四家制度」を敷いている為に、上記した様に、「女25人」は同族である事から、縁者として「女子」も上記した「養女の形」で入るか、「嫁」として直接入るかの形式を採ったと観られる。

しかし、この苦境から考え出された「青木氏」の”「四家制度」”に依って、殆どは、この“「嫁」”も、一度は「四家制度」の“「養女の形」”を採った上で、「跡目」を「四家一族」から迎え入れて一族化している事に成る。

“「直接の嫁」”は、相当上位の「皇族者」、つまり、「天皇の皇女」「内親王」と成るので、結局は“「直接の嫁」“は無かったと考えられる。
この「四家制度」は、「直接の嫁」は原則は採らない。
従って、下記に論じている様に、「継承外」の「内親王」(三人)と成った場合は、記録からの例で観ると、一度、除籍した上で、「佐々木氏」や「青木氏」に養女に成った上で嫁している。
又は、「斎王」と成った上でも、その後に役目が終わり次第、「還俗」して「養女」で入る場合が多く観られる。
「斎王」の「還俗」は、位階が無い為に「政争」に巻き込まれないからで、現実には「青木氏の入籍」には、この「二つの方式」が採られているのである。
この「二つの方式」は世の中の事を知らない「皇位継承外者」に「養女の過程」を課した上で嫁す事には、「賜姓臣下族の青木氏」に先ず馴染ませ「現実の生活」を知らしめる事の義務を課した事にあった。
しかし、[継承者]の「内親王」の場合は、「血流と継承権」を保持している為に、「還俗」できずに、そのままで嫁す「仕来り」を採っている。
仮に、継承権のある「内親王」を「養女化」すると、「天皇家」より「青木氏」の方が「上位」にある事に成り出来ない。
そこで、この場合は、「政争」に巻き込まれる事に成り得て、「青木氏の氏是」に反する事に成り、充分に警戒が必要と成る。
従って、「青木氏」は極力避けた事が系譜からも判る。
どうしても「政治的圧力」に抗する事は出来ない場合は、「四家の養女方式」は採用できず、其の侭で嫁しさせた上で、正式に「青木氏の福家からの処置」として、その「子供」には、“「王位」を申請せずに「無位無官」にして「叙位任官」を受けない”とする様に計らっている。
恐らくは、これが「跡目」を受入れる際の“「暗黙の条件」“であったと観られる。
「青木氏」自らが、「内親王」を「嫁」にと懇願する事は、「青木氏の氏是」から無い訳であるから、「天皇家側」からの「受け入れの臣籍降下」が前提であるので、この「嫁の権威」、即ち、「天皇家の権威」を護りつつも、「青木氏の氏是」を護ると云う「両立の仕組み」を考え出した事に成る。
現実に、天智期から江戸期までに、「四度の実績」がある。

因みに、「施基皇子」の子供の「春日王の母」は、「天武天皇の皇女」で「多紀皇女」である。
この皇女は一度、「伊勢神宮の斎王」に成った上で、還俗して「施基皇子」に嫁している。
「斎王」に成る事で「臣籍降下」して「下位の青木氏」に嫁した事に成る。
これで「天皇家との仕来り」は保たれた事に成っている。
従って、あくまでも「血流」としての「皇位継承権」を女系で持っている「多紀皇女」の子供の「春日王」と、その「三人の孫」には「皇位に準ずる継承権」を持っていた事に成る。
他にも、「聖武天皇」から「井上内親王」、「光仁天皇」から「能登内親王 弥努摩内親王」 等ある。
南北朝の時にも、「時代状況」を反映してか「五家五流青木氏」に二人が入っている。
「湯原王と榎井王の母」も皇族系の「内親王」であった模様である。

注釈として、 しかし、「叙位任官」の申請をしていない。現実には「王位」も除籍申請しているが「政争」から逃れる事に目的があった。
「春日王」も同じ行動を採ったが、「白壁王の即位」で、許されなかった。
「四家の誰」も「叙位任官」をしないと成れば、「白壁王の光仁天皇」に傷がつく事を問題視された。
然し、結果として、止む無く「施基皇子の孫」の全てに「王位の叙位」と「親王の任官」が義務付けられた。

口伝に依れば、「氏是」から「770年の即位」までは、「特別の位」にあった事から、「王位叙任の立場」にあったが「王位」は付けていなかったと伝えられている。
結果として、「白壁王と春日王の2人」と「皇孫王の全員17人」が叙位任官した事に成る。

更に注釈として、 「安貴王 高田王 香久王」には、その「祖母の位階」から「準ずる継承権」が成立していた。
依って、「春日王」本人と、子供の「三人の王」は政争に巻き込まれ、次男の「高田王」を遺して「早死」の「政争没」に成っている。

注釈 「白壁王」の時に「井上内親王」の侭で嫁している。
その後に、政争から逃れる為に嫁した「井上内親王の思惑」と違って、「天皇家」に「聖武天皇の血流直系者」として引き出されて、「元の皇后」と成った。
そして、それに伴い「白壁王」も天皇に祭り上げられて、政争の末に「皇后 井上内親王」は「政争没」している。

「皇族者」が「僧籍」に入る傾向は、現実には少なく、「僧籍」に入っても殆どは「還俗」し、「全国行脚」等をした後に、結局は、「青木氏」に「跡目入籍する傾向」が在った。

この「僧籍」−「還俗」−「跡目」の方法は、“「政争」から逃れられる一つの方法”として「皇族者」に良く用いられた。

この背景は、「青木氏に入籍する事」は、その「皇子に等しい立場の保全」と「経済的な裏付け」があり、この傾向は下記にも論じるが長く続けられた。

「伊勢青木氏」や「信濃青木氏」や「甲斐青木氏」や、平安中期からの母方族の「伊勢秀郷流青木氏」等には、かなりの数が皇子皇女に限らず室町期まで入っている。
一度、「賜姓の無い源氏」を名乗り、その後に「青木氏」を名乗って跡目に入っている「源氏系青木氏」も確認できるところでも「4氏」もある。
「戦乱や政争」などで「皇族系の者」が逃避する際の保護地があった。

即ち、次ぎのシステムであった。
前段で論じた「越前の逃避システム」(ア)
上記する「皇族の継承外者の受入先システム」(イ)

以上の二つとしても、「賜姓五役」の“「青木氏の四家」“は働いていたのである。

「嵯峨天皇」は、上記の(ア)(イ)を認めていたからこそ、「律令制度」の中でも、「第二期の皇親政治の制度」を採用した事は有名なのである。

況や、「避難システム」(ア)と「受入システム」(イ)が、「青木氏四家」を強く頑丈に構築させて行ったのである。

従って、それが故に、「白壁王期−光仁天皇期」の25年間には、「五家五流の青木氏四家」は一時、「皇族内部」の激しい「政争の殺戮」に巻き込まれて、「五家五流の青木一族」は、命を落とし「氏存亡の危機」に晒され続けた。
そして、更に、「桓武天皇期」の「青木氏軋轢の25年間」と合わせての「50年間」を除き、以上の「青木氏保護政策」で「嵯峨期」から、再び、「四家」は拡大して行く事に成ったのである。

・「四家の詳細」
青木氏内部の詳細は次ぎの通りである。

先ず、「施基皇子の生誕」は不詳と成っているが、これを明確にしておく必要がある。
「青木氏の資料」から演算すると、83歳位の高齢であったと成っている。
従って、生誕は632年頃 没年は716年と成る。

(余談 「伊勢青木氏の過去帳」を観ると、不思議に先祖は、「82歳前後2歳」の中で没している。
筆者の直前の先祖の享年を観てもこの条件の中にある。「遺伝的な特徴」があると観られる。
判る範囲で親族を調べると、「突然変異のAB型」で、中に隔世遺伝から0型が2代前に居た事から、AB型から分離したBとA型が出ている。)

傾向として、上記の余談から観て、この様に「伊勢青木氏」は、「過去帳」より観ると、多くの先祖が[高齢長寿]である。
その確率は高く、81歳から84歳で没している。
(当時の平均寿命50歳から観て極めて長寿である)
これは「伊勢青木氏」の中では「伝統的な事」として云われている。
恐らくは、これは「施基皇子」からの遺伝であろうか。
遺伝の傾向が高いとすれば、長い歴史の間、三つの発祥源として、その役目柄から”「純血性」”を護って来た事から確率高く、この評価は出来る。

・「湯原王」(松阪殿)の「福家」には、「二人の王と一人の王女」があり、「壱志濃王」と「市志王」は家を構成した。
王女の「尾張王女」は叔父の「光仁天皇後宮」と成る。
「推定生没」は「青木氏の資料・口伝」から読み取れば、「推定の最低生年」は706年頃とされる。
万葉集には、成人として扱われて、730年に「歌の記載」があり、その第1子の「壱志濃王」は733年に生まれている。
この事から、「推定の最低生年」は706年頃に成る。
「推定の最高没年」は789年頃とされる。
依って、この事から「資料・口伝」は、相当と見做される。

・「榎井王」(名張殿)には、「二人の王」があり、「神王」と「榎本王」は家を構成した。
「推定生没」は「青木氏の資料・口伝」から読み取れば、「推定の最低生年」は707年頃とされる。
737年に「万葉の歌会」で集まったとする記録があり、第1子の「神王」は737年に生まれている。
この事から、成年は、母は不明であるが、「湯原王」との母は違っている事から、次男とされる事から707年頃と成る。
そうすると「推定の最高没年」は790年頃とされる。

「外部記録」から、この「湯原王と榎井王」の二人は、「不詳 770年前没」と成っているが、これは政争没」があった事で推定したと観られる。
しかし、「伊勢青木氏」では、「光仁天皇の782年」から観れば、「施基皇子の始祖長寿」と合わせて、「推定の最高没年」は「789年」と「790年」は相当である。

・「春日王」(員弁殿)には、「三人の王」があり、「青木氏の口伝」では、「桑名殿」の「白壁王」の王より「員弁殿の跡目」に「開成王」が入ったとされている。
「春日王の母」は「皇位継承者」の「多紀皇女」である。
「推定生没」は「青木氏の資料・口伝」から読み取れば、「推定の最低生年」は706年頃とされる。
723年に叙位を受けている事から、第二子の「高岡王」は735年没であり、父「春日王」も「没年」は745年で早死である。
母が皇位継承権を持っている事から、「女系の皇位継承権」を持つ「春日王」と成る。
「他の皇位継承外」の「皇孫王」と成った者の殆どは「政争没」である。
この事から間違いなく「政争没」の可能性が極めて高い。
「春日王」の「政争没」によって、「跡目に問題」が出て、依って、王位の無い「開成」が跡目に入って「政争」から逃れて「四家」を護ったとされている。

(注釈 「開成王」は王位を得られていないとする説もある。その原因は「母方の身分」と観られる。
「湯原王」の「尾張王女」、つまり、「光仁天皇の後宮の子」とする説もある。

筆者は口伝を信じてこの二つ説を採っている。
故に、「後宮」と成るも、実家先の「春日王の四家」(員弁殿)に、「子の定義の仕来り」に従って入れたと観られる。
「政争」から逃れる為に子の「王位」を外して、実家の「員弁殿」の中に入れて子の命を護る為に敢えて「尾張王女」は除籍の方法を採った。
「安貴王」「高田王」「香久王」と、「開成王」は「副役の四家」を興した。

・「白壁王」(桑名殿 709−782 770年に即位 781年に譲位)には、「四人の王と二人の王女」がある。
その「光仁天皇」と成った事から、結局、一時、四家は「空家」となる。
「白壁王の母」は「紀氏の紀橡姫」 紀州の豪族 王女に「紀宮子」がある。
子供の「開成王」は、「春日王」の「員弁殿の跡目」に直に入った。
「桑名殿の白壁王」は、後に、再び、「稗田王」(751年生 母 高野新人、或は、「尾張内親王」は「四家の桑名殿の青木家」を再興した。
しかし、770年には、この「早良王」と「山部王」稗田王」の「三人」は、一応は「継承外親王」と成り、形式上は「青木氏」より外れる。

しかし、「天皇譲位後」(781年)は、「仕来り」に従い、再び、臣下して「稗田王」(31歳没)は「青木氏」に戻るが、2年後に「政争没」に成る。

(注釈 この三人は、譲位後に「青木氏」に戻ったと考えられ、その後にも、依然と「政争」に巻き込まれる。
遂に「早良王」は罪を着せられて配流先で「政争没 785年」と成った。)

ただ、「山部王」は、「青木氏」の「継承外親王」であったが、政争に勝利して依って「桓武天皇」に成った。
純然として「皇位継承者」の「他戸王」(771年生)と「酒人王女」(761年生)は、「皇后の井上内親王」(政争没)の子である。
依って、「聖武天皇家の血流」を持ち、唯一の「男系皇位継承者」と成り、正式に「青木氏」より完全に外れる。

その後に、「他戸親王」は「男系皇位継承者」であった事から「政争没」、 「酒人内親王」は「女系皇位継承者」と成るが、矢張り「政争没」と成る。

(注釈 「能登王女」(752年生 母 高野新笠)は、「継承外内親王」と成り、除籍を願い出て「市原王」(近江川島皇子の曾孫)に嫁し、政争から逃れられて「親族結婚」と成る。 )

他に、「弥努摩内親王」(母 「井上内親王」)は「皇位継承者」であったが 崩御後、除籍して「伊勢青木氏」に戻り、叔父の「榎井王」(名張殿)の子の従兄弟「神王」に嫁した。
この事から、政争から逃れられ、「四家の仕来り」に従い「同族結婚」と成り、「名張殿の子孫」を拡げる。

(注釈 「白壁王」の時、「采女」(県犬養男耳)との子で、「王位」は無く、「妾子」として生きる者が居た。
即位後、この「王位の無い者」であった事から「広根氏」の賜姓を「光仁天皇」から態々受けた。
これが”「広根諸勝」”とされるが詳細は不詳である。その後に、「広根氏」として子孫を遺した事が判っている。
この「広根氏」から上記の4氏の内の3氏は、この末裔ではないかと観られているが不詳である。)

夫々、「四家」は「松阪殿、名張殿、員弁殿、桑名殿 (四日市殿)」と呼ばれていて、「三つの発祥源の役」と「賜姓五役の任」を担当分けして任されていた。
「松阪殿」が“「福家」”と呼ばれて「氏全体の統率役」を任されて運営していた。
この「仕組み」を“「四家」”と呼ばれていた。

しかし、この「主役(賜姓五役等)」を実行する何れの「四家」にも、その「経済的裏付け」が「守護地の知行」では不足していた。
そこに、「平安初期の桓武天皇」の「律令政治の国家体制の確立」から、一時身を置いた「出自先・実家先」の「皇親族の青木氏の存在」が弊害と成り、「政治的な圧力」を掛けられて衰退した。
この時、「桓武天皇派」と、後の子供の「嵯峨天皇派」の間で、激しい「意見対立の政治的闘争」が起こった。
結局は、「嵯峨天皇側」が勝利を治め、再び、「青木氏」は「皇親族」の「国策氏」として命じられた。
(上記)
そこで、「国の経済立直し」をも含めて、「和紙生産とその殖産事業」を“「裏の副務」”として「松阪殿」を中心に「四家の青木氏」が、その「開発」(紙屋院)を手掛ける事に成った。
そして、「平安期の中頃」には、正式には「二足の草鞋策」の態勢(925年)までに持ち込んだのである。
これに依って、「三つの発祥源、賜姓五役、国策氏」と「福井逃避地」「下族者受け入れ役」の役務を遂行するに必要とする力が付居た。
この「四家」を護る「シンジケート態勢」も充実して、“「四家」”は何とか持ち堪えられ、且つ、ここに“「四家制度」”は確立を観たのである。

他の「主要守護地」の「四家四流の青木氏」も「同じ仕来り」に従って、「四家制度」を敷いていたが、矢張り同じ問題を抱えて苦しんでいた。
これを救う為に「伊勢青木氏」が「先導役」として他の「四家四流青木氏」にも、この「和紙の生産と殖産」に関わりさせて、再び、引っ張り上げた。

(上記した「嵯峨天皇の目論見」の後押しもあった。)

「奈良期末期の直前」では、この“「四家」”には、代々「皇位継承外」と成った「真人族、朝臣族の皇子」が、「他の四守護地青木氏」と共に「跡目」に入る仕組みに成っていた。
しかし、この時期には、上記の様に、「天皇家」そのものに「皇位継承の跡目」による「存亡の危機」が起こっていたのである。
然し、「五家五流青木氏」への「跡目継承者」は無かった。
それどころか「逆の現象」と成っていたのである。

(注釈 然りながら、「臣下族の施基皇子」の「第六子」の「光仁天皇」の子の「桓武天皇」(四家桑名殿の山部王)は、上記の様に、「天智天皇」が定めた「第四世族内第六位皇子」の「賜姓の仕来り」を全く破棄して、「四家制度」をも否定し、母方(伊賀住人の「高尊王の末裔」 「高野新笠」 「京平家の祖」)の氏族に「たいら氏 京平家」を賜姓した。
そして、「伊勢青木氏」が領する「伊勢北部伊賀地方」を「半国割譲」して与えて引き上げた。
依って、「五家五流青木氏」は平安初期の26年間程度は衰退した。)

(注釈 その後、「皇親族」を無視するこの「政治体制」に反発した「嵯峨天皇」が、再び、「天智天皇」が決めた「賜姓方式」とその「賜姓族の四家制度」を復活させた。)

この時、この「賜姓方式」は、「賜姓名」を改めて「源氏」とし、「皇族の臣下族」、又は、「下族する皇子族」に対しても「青木氏」を名乗る方式に変えたのである。
但し、この「賜姓源氏」と、賜姓ではない「皇族系青木氏」に対しては、「光仁天皇まで続いた賜姓青木氏」が持つ様な一切の同じ「利権」、「財産」、「主務」、「官位官職」、「権威」等を全く与えないとする「嵯峨期詔勅」を発した。
合わせて「賜姓青木氏の慣習仕来り掟」の一般の「使用の禁令」を発したのである。
(明治3年まで護られた。)
「五家五流青木氏」以外に、「百姓の民」が「青木氏」を名乗る事と、その「習慣仕来り掟の使用」を禁止して、「賜姓青木氏」を特別保護したのである。

(この「百姓」とは、元来、公家と武家を除く全ての民の事を表現した言葉で、室町期まで使われていたが、江戸期に成って、「士農工商」の身分制度に依り、「百姓」とは、「農民」を指す言葉に変化した。)






> 「伝統 15」に続く。


  [No.332] Re:「青木氏の伝統 15」−「秀郷流青木氏」と「融合族の発祥」 
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/06/13(Sat) 16:19:13

>「青木氏の伝統−14」の末尾

>この時、この「賜姓方式」は、「賜姓名」を改めて「源氏」とし、「皇族の臣下族」、又は、「下族する皇子族」に対しても「青木氏」を名乗る方式に変えたのである。
>但し、この「賜姓源氏」と、賜姓ではない「皇族系青木氏」に対しては、「光仁天皇まで続いた賜姓青木氏」が持つ様な一切の同じ「利権」、「財産」、「主務」、「官位官職」、「権威」等を全く与えないとする「嵯峨期詔勅」を発した。
>合わせて「賜姓青木氏の慣習仕来り掟」の一般の「使用の禁令」を発したのである。
>(明治3年まで護られた。)
>「五家五流青木氏」以外に、「百姓の民」が「青木氏」を名乗る事と、その「習慣仕来り掟の使用」を禁止して、「賜姓青木氏」を特別保護したのである。

>(この「百姓」とは、元来、公家と武家を除く全ての民の事を表現した言葉で、室町期まで使われていたが、江戸期に成って、「士農工商」の身分制度に依り、「百姓」とは、「農民」を指す言葉に変化した。)




>「青木氏の伝統−14」の続き

この「四家」は、つまり、「四つの家」に用いられている制度には、「朝廷の仕来り」(高い純血性を護る為)により、“「四、或は五」を超える家を構成できない仕来り事”に成っていた。
「近江、美濃、信濃、甲斐」の「賜姓青木氏」にも同様の「四家制度」を敷く事に定められていた。
「皇族賜姓族の近江佐々木氏」もこれに準じた。
(下記に論ずる「嶋崎殿の青木氏」と呼ばれていた「伊賀の青木氏」も用いていた。)

しかし、「平安末期の源平戦」で、「近江」と「美濃」は、「発祥時の禁令」を破り、結局は滅亡した。
「甲斐」は「内部騒動」と「武田氏の台頭」で「四家」は衰退し弱体化して仕舞った。
結局、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、「和紙の殖産と商い」を通じて、その力で「福井の逃避地」で何とか生き残った「傍系の末裔」を保護して「三地域の復興」を試みた。
しかし、大きく子孫拡大には至らず、「近江と甲斐」では、「青木氏守護神」の「祖先神の神明社」を通じて「シンジケート」の中で何とか江戸期まで生き延びられた。
特に、「近江」では「佐々木氏系青木氏」が発祥したものの生き延びは出来たが、室町期中期からは、「播磨と摂津」に移動して子孫を何とか伸ばした。
しかし、同族の「近江佐々木氏」そのものが「源平の戦乱」に巻き込まれて、一時、衰退して子孫を大きくする事は出来なかった。

「甲斐」も「武田氏系青木氏」が発祥して勢力を盛り返したものの、「内部分裂」と「武田氏滅亡」とで室町期末期には衰退して仕舞った。
「武田氏系青木氏」と「武田氏」に組み込まれた「諏訪族青木氏」は、逃亡して各地で「秀郷流青木氏」に保護されて武士として生き延びる事は何とか出来た。
しかし、何れも「三氏の四家制度」と、それに伴う「権威と富」も維持させる事は無く、「青木氏の四家の伝統」は殆ど消滅して仕舞ったのである。
結局は、この三氏は「四家制度」を構築する事は出来なかった。

従って、上記する「四家制度」は、「二足の草鞋策」を以って「巨万の富」との獲得と、「権威の象徴」を継承して、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」とは成長した。
そこで、少なく成った「皇族賜姓族]は、「賜姓五役」を維持する事が苦しく成っていた。
これに対して平安中期に、この「四家の青木氏」を補佐させる目的で、朝廷から特別に「皇族外の賜姓」を受けた「秀郷流青木氏」(伊勢 皇族母方族)の三氏に依って護られたのである。
(「二つの絆青木氏」含む 。「伝統」と云う意味で、この「発祥に関わった伝統である経緯」を本論で論じる。)

参考
 「光仁天皇」の妻 :

 「皇后 井上内親王」
 「妃 藤原産子 藤原曹司」
 「嬪 高野新笠 紀宮子」
 「後宮(后」 尾張女王」
 「妾 県犬養男耳」

「施基皇子」の二代目は、「白壁王」に観る様に、未だ、上記した「四家制度」の「血縁システム」は完全には敷かれていなかった。
そこで、周囲の「高位の族」から迎えて「子孫拡大の体制」を整えようとしているところであった。

(注釈 「白壁王」は天皇に成った事で公に成っているが、他の「四家の王」の妻の内容は不記載にする。)


「紀州」から「紀宮子」、
「公家」から「藤原産子と藤原曹司」
「伊賀」から「高野新笠」
「四家」から「後宮 尾張王女」(姪)
「天皇家」から「井上内親王」

以上と云う風に、「高位族」から「賜姓臣下族の青木氏」に「母方」として嫁している。

(注釈 「白壁王の母」は「紀橡姫」で、飛鳥期の「ヤマト政権」の主要五氏の一つの「紀氏」の豪族である。
「伊勢」に居て「紀橡姫」と「紀宮子」の存在は,「紀州」が当時、如何に「重要な位置」にあったかが判る。)

その中でも、作り上げたばかりの「四家」から「後宮」として、姪の「尾張王女」が入っているのは「四家制度」の「血縁システム」の「コンセンサス」が一族の中で出来ていた事を物語る。
そして、“朝廷の「公家」”、“周囲の「豪族」”と云う風に「血縁の態勢」を「賜姓族」として固め始めていることが判る。

更に、「氏家制度」が機能し始めたが、「妾子」には「王位」を与えていない事も「血縁システムの純血性」を定めていた事をも物語る。
既に、「血縁システム維持」の「四段階の妻制度」(皇后、后、妃、嬪 :妾)も採用されていた事がこれで良く判る。

「第六子の白壁王」が、天皇に成る前に、この内容である事から、次ぎの三人は「白壁王」と同じ立場に成った。
(”成った”と云うよりは、”された”と云う方が事実である。)

「湯原王」
「榎井王」
「春日王」

「白壁王」の他にこの三人も「同等の位置」に置かれ「同等の扱い」であった事が云える。
(「白壁王」含めて急遽訪れたこの事件から愚者を装って避けようとしていた記録が遺されている。)

この事から云うと、「青木氏」から観ると、積極的を論処とする中の ”「春日王」に子供が居なかった”としている説の前提には、疑問が残る。
これだけの「男系継承者」が無く成り互いに「政権の発言力」を獲得しようとしての「政争の渦中」にあった事から”「何らかの事情」”があったと考えられる。
(「青木氏」に執ってはこの事は重要 検証下記 詳細は他の論文を参照)

(注釈 「口伝」とは、明治35年の松阪大火失火消失により、「青木氏の由来書原本」が無く成った。
しかし、「曾祖父と祖父」が、「忘備録」と「記憶の範囲と遺産物と寺社の記録」を基に、「重要な範囲」の処の事を「青木氏の史実」として遺した。
それを、更に筆者が「寺関係の書籍」や「佐々木氏の史書」なども解析して駆使し、「外部記録との照合」も添え、「父からも断片的な口伝」も混えて「口伝」としてまとめあげたものである。
この時代の記録そのものが、「日本書紀」以外に信頼できる「青木氏」に関するものは少ない。
その後に表された記録、つまり、「三大史書」[累代類聚三代格]なども参考にしている。
「青木氏」には900年代頃からの「商業記録」が遺る。
これを「青木氏]では「青木氏年譜」と称している。)

以上の背景から、前段の「四家制度」では、世間にとっては、この(ア)と(イ)の二つは「大きな魅力(憧れ)」であった。

前段で論じた内容
「越前の逃避システム」(ア)
「皇族の継承外者の受入先システム」(イ)

その為に、「勃興の姓氏族」等は、”「自らの家の名声」”を高める為に、積極的に利用しようとした。

つまり、あの手この手を使って何らかの形で、この高い格式を持つ「四家青木氏」の中に入り込もうとしたのである。
それには、最適な方法は、周囲に執っては、所謂、“何らかの血縁関係を結ぶ事”にあった。
それは「上記の青木氏」に入り込むには、明らかに”「婿養子」”と云う手段であった。
記録で観ると、周囲は積極的に動いた事が判る。 

(注釈 この「動いたとする根拠」は、「青木氏の末裔」と主張する「姓族」が、伊勢と信濃と摂津と紀州南部地域には多い。
しかし、これらは家紋分析から明らかに全て「未勘氏族」である。
前段と重複するが、「皇族賜姓族の青木氏」には、奈良期より「笹竜胆文様」の「象徴紋」以外には、「家紋とする概念の仕来り」はそもそも現在まで無いのである。
「四家制度」に依って、「本家分家と云う区分けの概念」が無く、「族」の区別をする「家紋の概念」を持たなかったのである。
「皇族賜姓族の青木氏」は、この「未勘氏族」と成る[荘園制」等には全く関わっていない事から、後は「商いに依る関係」からか、「青木氏の関連族」と主張したと観られる。
「家紋」を使わない事を承知の上で、当初は、この「未勘氏族」は「商い関係だけの青木氏との繋がり」である事を示す為に、「故意に使わない家紋」を付けて、「青木氏に商いで関連する姓族」として恣意的に独立し呼称していた模様であった。
この現象は地域的に限定している事が云える。
然し、後に、この事をこの「未勘氏族の末裔」は、この事等の「伝統」を忘却して、「青木氏末裔」と名乗ったと観られる。
従って、「皇族賜姓族の青木氏」には、「四家制度」がある為に、「青木氏外の跡目継承」に依る「他の氏名」は元より「姓名」も生まれない仕組みに成っている。
当然に「家紋」も同じ事に成るのである。
この様な事象が多発した模様で、この事象を防ぐ目的で、「青木氏部」の「家人と職能集団」に対して正式に「絆青木氏制度」(職能紋授与)を採用していた。
と云う事は、この「未勘氏族」が多く出て「権威失墜の問題」が出た事を認識して対策を打っていた事を物語る。
従って、これらの「姓族」との「婿養子の記録」は「青木氏側」には観られないのである。)

しかし、「皇族賜姓族の青木氏」は、「賜姓族としての立場」を保つ為に、同じ「同族系の氏族」との血縁を進める”「純血性の概念」”を頑なに「氏是」として持っていた。
つまり、「賜姓五役」を護る為には”「吊り合いの取れた血縁」”であった。
この”「釣り合いのとれた血縁」”と云っても、実質、「血縁出来得る氏族」は、多くてもこの時代は周囲には50氏にも満たないの状況であった。
(高級武士の姓族との血縁は江戸期に入ってからである。)
この「氏族」の最大発生期は鎌倉期末期の200氏である。室町期初期の下剋上で激減した。

この「賜姓族」としての「権威の象徴」を護ろうとすれば、結果的には、”「同族血縁」”と云う事にも成って仕舞う。
この防御策が「四家制度」であった。
必然的に、ここで好む好まざるに関わらず”「純血性の概念」”が生まれるのだ。
その「隙間」を狙って、”「勃興の姓氏族」等は、上記の様に「血縁」を積極的に進めようとして来るのである。
その“「隙間」”とは、”「四家制度」”を敷き、50にも及ぶ「慣習仕来り掟」で護られたところには、普通では生まれない。
生まれるのは、「青木氏の弱点」の“「政略上の事」“に成る。
従って、対策として採った事は、この「政略上の事」に関わるが、その事を「青木氏の氏是」(家訓)で厳しく戒めてはいる。
然し、流石に、「謀計謀略」ともなれば、この世には”「事の流れ」”と云う物が在ってなかなか「皇族賜姓族の青木氏」に執っても防ぎ様がない。

その内容としては、確かに”「養女」”と云う形も在ろうが、「氏家制度の男系社会」である限り ”「養子の存在力」”が、「養女の存在力」に比べて格段に高く、「自らの家の名声」を飛躍的に高め様とする。
従って、「下心」があれば「養子の社会」であった。

その「家の後継」としての”「跡目養子」”もあるが、“「吊り合いの取れた血縁」”(純血性の血縁)からすれば、先ずは「継承如何」は問わない”「婿養子」”以外には無い。
「跡目」「婿」の何れにせよ、その「目的」は、“血縁したと云う結果”であって、彼らに取っては先ずは、「自らの家の名声」を獲得する事では「婿養子」でも充分なのである。

(青木氏は「四家制度」を採っているので「婿養子=跡目養子」の図式とは成らない。)

一度、「男系」で繋がれば、その「名声」を使って「血縁関係」を高めて行く事に成り得て、「氏族の関係族」として”「姓族の家譜」”に反映させられる事が出来る。
その為には、「自らの家の名声」を高めようとする者は、先ずは“何らかの関係”を作り上げねばならない。
これは「勃興姓氏」にとっては「生き残る手立て」としては「最大の命題」でもある。

(注釈 青木氏の「最高の格式と権威」、「絶大な抑止力」、「莫大な経済力」の「三つの陰」の下に入る事の命題)

「手取り早い」のは、先ずは、「四家制度」外の「女系縁者ルーツ(妾子系)」の”「青木氏の遠縁」”との関係を持とうとする事であった。
其の上で、この「遠縁の関係」を使って、次ぎには、「青木氏の婿養子」の中に食い込もさせ様としたのである。
(南紀州に個人記録あり)
現実に、そこに、“隙間”が生まれた。

何故ならば、それは「四家制度」を構成する上記した”「5つの面 20の顔」”の事である。(前段記載)

この”「5つの面 20の顔」”に、人材を潤滑に送り込もうとすれば、時には、長い間には,不足する可能性を生み出す事も考えられる。
この時、ここに、所謂、“「隙間」”と云う物を生み出す。

(注釈 現実に室町期初期頃には既に起こっている。後に、「青木氏家人」と「青木氏部の職能集団」の「二つの絆青木氏」で対応した。前段記載)

この室町期は“「紙文化」”とも云われ、「青木氏」に執っては、有史来、「巨万の富」を得た時期でもあった。
「青木氏の組織力」も一段と大きく成り、「賜姓五役」を実行するこの”「5つの面 20の顔」”の役割は、其れに伴って大きく成り、“「隙間」“を生み出す結果と成った。

その為には、先ずは、”「青木氏の遠縁」”との関係を持ち、其の上で、この「遠縁の関係」を使って、次ぎには、「青木氏の婿養子」の中に食い込もうとしたのである。

この「隙間」の出る状況と成るに至って、「賜姓五役」を潤滑に務めさせるにはいよいよ問題が出始めた。
それは「財政的問題」」では無く、「四家制度」を護る為の”「人様」を整える事”にあった。

上記した様に積極的に近寄って血縁の関係を持とうとして来る他氏と血縁をすれば、”「人様の問題」”は容易に解決する。
然し、「純血性の宿命」があって、それは絶対に出来ない。

ここに下記に論じる本論の種々の問題が出て来るのである。

そもそも、格式的には、これに比する同族は「皇位族」の中には最早、男系が切れた事で全く無かった。

(注釈 「光仁天皇期」以降は、「一族の皇族方」としては存在するが、「桓武天皇から円融天皇期」までは、未だ天皇家の中に「光仁天皇」から引き継いだ「青木氏のルーツ意識」があった模様である。
然し、直系外と成った平安末期からは資料としては無く成る。
何とか観るとすれば「後三条天皇期」が限界と観られる。)

しかし、「皇族賜姓族の青木氏」の「賜姓五役」を担ってもらえる一族の「皇族方」は、「男系不足」のみならず、その「意志や能力」を持った皇族方は無かった。
勿論、下記にも論じるが同族と見做される「賜姓源氏」(意志と能力)にも無かったのである。

これは、恐らくは「皇族賜姓族の青木氏の賜姓」から変わった「ルーツ意識」の低い「賜姓源氏11家の台頭」が原因している。
現実に、「円融天皇」の後の「花山天皇期」でこの「賜姓源氏」は正式に中止と成っている事でも判る。

最早、「賜姓臣下族」の「皇親政治的感覚」は無く成り、皮肉にも一族の「桓武天皇」が始めた「律令政治の感覚」が軌道に乗った事から「意識の低下」が起こったと観られる。
これだけの皮肉では無い。「桓武平氏の台頭」も影響したのである。

「皇族賜姓族の青木氏」の資料から観ると、一族であった「桓武天皇の評価」は低い所以でもある。
しかし、一族の「嵯峨天皇」はこの「賜姓源氏」を発祥させたのに評価は高いのである。
これは、主題として下記に論じる「円融天皇の目論見策の所以」ではないかと観ている。

又、ここで「格式的な繋がり」を無理に作り出そうとすれば、「嵯峨期の詔勅と禁令」が障害と成っていたのである。
且つ、それは「朝廷の政治と財政」を大きく揺さぶる結果とも成り得策では無かった。

(注釈 前段記載 念の為に記載するが、 「嵯峨期の詔勅」では、次ぎの様な概要であった。
「皇子族」を減らす為に、臣下させるが、財政的、軍事的、政治的な特権を与えない。
ただ、「朝臣族」にするだけである。後は自らが切り開けとして賜姓した。
「皇族者」としての[朝臣族の格式の身分」を与えるだけとしたのである。
嫌であれば比叡山僧侶に成れとした。
この為に「源氏」はその基盤が弱い事から各地に散ったが衰退を余儀なくされた。
ところが、「清和源氏の満仲−頼宣系」は[荘園制」に目を付け、「地方の土豪」が「開墾した土地」に対して策略を講じた。
「源氏の名義貸し」と「武力に依る保護」を与える代わりに莫大な「名義貸し料」と「保護料」を要求し獲得した。 
「皇族の名義貸し」では、「源氏の権威」を周囲に誇示させ、その皇族系では「荘園の税」も軽減される事に目を着けての事であった。
この「莫大な財力」を獲得できる様子を観た「全ての源氏」のみならず「摂関家」もこれに乗じたのである。
この事が行き過ぎて、「荘園から入る財」を大きくする為に、「武力」で他の荘園を奪い取ると云う現象が頻発した。
これが更に行き過ぎ、奪い取った豪族の荘園の人間を捕虜として連れて来て、「奴隷」として「荘園の人力」に使うまでに成って仕舞った。
「清和源氏の義家」は、この「戦闘の大義」を「朝廷からの勅命」を偽装して、攻め落として捕虜を獲得して荘園は益々大きく成った。
然し、「天皇」は見兼ねて「義家の行為」を「私闘」として罰し、「清和源氏頼信系」を悉く罰した。
結局は、「花山天皇」で、この「存在意味」が低く、「社会の弊害」と成った「源氏賜姓制度」を正式に中止した。
そして、遂に、摂関家外の「後三条天皇」はこの「荘園制」を禁止して解決した。
この問題を解決すべく最初に動き出した天皇が下記に論じる「円融天皇」であった。
この「円融天皇」の後が「花山天皇」で、その三代後が「後三条天皇」である。
ここに「上記の立場」に居て活躍した「青木氏」が出て来るのである。

この「青木氏の活躍の背景根拠」と成ったのが、上記の論として記載している事である。
「嵯峨期の詔勅」が「賜姓源氏」の「青木氏に対するルーツ意識」も低下させた原因でもある。

そもそも、皮肉にも、「青木氏」から「源氏]にその「氏名」を変えただけの「同族賜姓族」であるのだから、「皇族賜姓族の青木氏」に執っては「味方」を増やした事に成る筈であった。
「嵯峨天皇の賜姓制度の翻意」はそれが目的であった筈である。
しかし、この「翻意」とは真逆に「11代源氏」は全て逆転したのである。
安易な「荘園制」に走ったのである。
「荘園制」にのめり込んで「社会的な弊害」を出している多くの「賜姓源氏」には,「賜姓五役の補完」は,逆の事をしているのであるから最早、頼む事は絶対に出来ない。

そもそも、「青木氏」に代わって賜姓された「11代の源氏」は、「嵯峨期の詔勅」の歯止めが有って、その「財力」は殆どの源氏は無かった。
在ったとしても、「賜姓族」「臣下族」「朝臣族」の「掟」(格式慣習)が有って、自由には出来なかったのである。
結果として、彼等には暗黙の内で「荘園制」を悪用して勢力を高め財力を得るしかなかった。
これを形振り構わずに顕著に犯したのが、「清和源氏頼信系」である。
時には、朝廷も騙して突っ走ったのである。 

(唯、清和源氏の宗家の摂津の「頼光系」の「四家一族」は限度を超えたこれを避けた。「五家五流の地の守護代」を務めた。故に、「五家五流の青木氏跡目」に入る事が出来たのである。)

そもそも、注釈で述べた様に、この「荘園制」は、「奴隷制度」などを誘発して社会問題に成っていた。
しかし、天皇家は「摂関家」に丸め込まれて、周知の事実として「摂関家」自らもこの「荘園制」に手を染めていた。
そして、政治は「勢力争い」に走り大いに乱れていた。

そこで、嵯峨天皇の賜姓源氏に「皇族賜姓族の青木氏の補完の役目」(賜姓五役)を期待していた。
然し、上記の通りで、期待は裏切られた。
そこで、次ぎに論じる「円融天皇」は、この問題に命を掛けて取り組みだしたのである。
そして、「荘園制の弊害」(奴隷制)を無くす事の為に、この「荘園制」をも禁止しようとした。
先ずは、戦略的には「禁止する為の背景]を強化しようとしたのである。
つまり、「身の回り」をまず固める「朝廷の強化策」であった。

この事に付いて、本論は、前段や上記の様な「青木氏が持つ背景や経緯」が大きく影響するので、それを充分に理解した上で無くては納得が成されないテーマであるので次ぎに詳細に論じる事にした。


以下 「青木氏の伝統―15」

・「秀郷流青木氏」と「融合族の発祥」

この前に、「青木氏」には、「発祥期別」に分けると次ぎの様に成る。

(1) 「天智期の青木氏」
(2) 「円融期の青木氏」
(3) 「嵯峨期の青木氏」

この事を先に判り易くする為に記述する。

上記注釈の直前に次ぎの様な事が起こっていたのである。
奈良末期の社会変動の激しかったところに、伊勢の「四家桑名殿」の「白壁王の家」が「天皇家」と成った為に、“「四家」“は一時「空家 37年間」と成っていた.
しかし、平安中期には、下記に論じる伊勢の「秀郷流青木氏」との「融合族」が発祥した。
この青木氏同士の「融合族青木氏」が、「副役の空家」に入り、「四日市殿」と呼称されていた。
それによって,より一層、「伊勢青木氏四家の主役と副役」が再び強化されて構成されたのである。

この強化された「青木氏の四家制度」は、「嵯峨天皇の意」を汲んで、平安中期には「秀郷流青木氏」が「特別賜姓族」として「補完する役目」を「円融天皇の命」(968年頃)により負った。
この事に依り、更に、強化されて拡大したのである。
「賜姓」をした「円融天皇」が、「三つの発祥源、賜姓五役、国策氏」の主役と、「福井逃避地」「下族者受け入れ役」等の[副役」を、今後、安定して続けて行かねばならなかった。
それには、次から次へと朝廷から無秩序に与えられる「臣下族としての役務」に対し、その「財力」と「遂行力」が、上記した様に、最早、明らかに不足していた。
天皇は、当面の「政治的課題」を解決させる為には、「信頼できる青木氏」に「財力」は兎も角も、先ずは別の信頼できる氏族に「賜姓」を与えて補完させる以外には無かった。
その「役務遂行の財力」を天皇家が保障してやるだけの余力はこの時期には無かったのである。
「賜姓臣下族」は、「直接的な武力の保持」は兎も角としても、公家と並んで「商いに通じる直接的な財力」を持つ事は慣例としては禁じられていた。
これは、「二足草鞋策」を「青木氏」に”「紙屋院」”として新たな「特別な朝廷の役目」を与えて暗黙に承認して構築しさせて居た。
然し乍らも、この事は「強い財力的手段」での「遂行力」に対してだけの「役務の遂行力」に強い「不安感」を抱いていた事を物語るものである。

未だ、この時期にも、上記した様に、皇族には、「荘園制から来る弊害」が蔓延し、それを解決しなければならない課題が強く遺されていた。
最早、「賜姓族臣下族の青木氏」だけの「受け入れ能力」に限界があって、それを解決しなければならない問題があった事をも示すものである。
「公家」や「他の臣下族(連族)」は,その「財力」をこの「荘園制から上がる利益」に頼っていた。
然し、「1の天智期の青木氏」は、この弊害の産んでいる「荘園制から来る力」に頼る事は「賜姓臣下族」としては「賜姓源氏」の様に立場上出来なかった。
従って、この「青木氏」の「朝廷からの役目」(賜姓五役)を滞りなく果たす為の「受け入れ能力」に問題が出て来ていた。
これを拡大させるには、最早、「青木氏の四家制度」では限界にあった。

そこで、この「円融天皇」は、暗黙の内に認めていた「二足の草鞋策」(925年頃本格営業)では繁栄したが、次から次へと与えられるその役を遂行する為の「財力(総合的な遂行力)」を捻出するものとして認めていた。
しかし、それだけでは、最早、無理と観ていたのである。
つまり、それは「財力の問題」だけでは無かった。

そもそも、「朝廷官僚族」と違い「賜姓族」として「臣下族」として役務を忠実に果たす信頼できる「身内の氏族(朝臣族)」がいよいよ出現した。
それに乗じて次から次へと調子に載って役務を与えられる事が出来る事への便利さがあって、”その「財力」のみならず「遂行力全般」への配慮なしの勅命”が発せられていた。
それでは当然の結果として、「1の天智期の青木氏の能力」に限界が起こる事は必定であった。

(注釈 この円融期の少し前の時期の「清和源氏の摂津系」の資料には、朝廷からの「社殿修理の勅命」を受けた事に対し、不満を述べなかなか実行に移さなかった処、催促を受けて止む無く一つの「社殿の修理」を実行して一時を凌いだ事が書かれている資料等がある。)

(注釈 「朝廷統治」が成された地域に対する「皇祖神の子神の神明社建立」と云う「莫大な財力と実行力」を必要とする役務、それ一つ執っても「1の天智期の青木氏」には大きく圧し掛かっていた。)

そこで、最早、「皇族賜姓青木氏」だけに頼る事は無理であると「天皇」自らも考えていて、これを加速させるには、他に「補完する役目を担う氏族」が必要であると考え始めていた事に成る。
然し、それを請け負わせられる「信頼できる適当な氏族」を見つけ出し、それを命じるチャンスをなかなか見いだせなかった。

(注釈 上記した様に、嵯峨期から発祥した「賜姓源氏」に請け負わせる「11代の天皇翻意」であったが、上記した様に「荘園制」に走って仕舞った。)

丁度、その時前に、「平将門の乱」等の事件が多く起こり、時代は”「著しい混乱期」”に入っていた。
「社会の混乱期」だけでは無く、「朝廷内部、天皇家の存在意義」も問われる乱れ様であった。
この中で、誰一人積極的に進んでこの複雑な様相を呈する「乱」を鎮められ、且つ、「引き受けられる者」はいなかった。
「天皇」自らの身も危ない程に、「補完する氏の選出」が出来るその様な簡単な社会情勢ではそもそも無かった。

そこで、乱直前には、渋々、「関東の治安の責任者」でもあった「藤原秀郷」と「平貞盛」の二人が、”「条件付き」”で乱鎮圧に名乗り出たのである。

有史来、そもそも「天皇」に「与えられた役目」に対して、「条件」を付けるなどの事は「不敬不遜の極まり」として「臣下の不作法」と捉えられる行為であった。
しかし、この二人はやって仕舞ったのである。「前代未聞の出来事」であった。
それだけ乱れていた事を示す証拠である。
(飛鳥期の蘇我氏の上記の様と類似していた。)
むしろ、それまでは、”「役目を与えられる事」”が名誉な時代であって、その様な「社会体制」でもあった筈であった。
然し、この時期は、そうでは無かった。その「社会体制」を背景に、二人は”何と条件を付けた”のである。
それだけ「天皇家の政治と権威」は失墜し窮地に陥っていて乱れに乱れていたのである。

(この「朝廷内の構造」と「社会情勢」には”ある原因”があった。下記)

然し、ここで何もしなかった弱体と成っていた「村上天皇」−「冷泉天皇」の後を引き継いだ「円融天皇」は、「平の将門の独立国の乱」後の解決も然ること乍ら、ここで、”「上記の課題」を一挙に解決させられるチャンスでもある”と観て採った。
(この時を得て密かに「献策」があった。下記)
先ずは、この「前代未聞の条件」等から起こる「政治課題」を解決する為には、一時この条件を認める事にして、「円融天皇」は、”「密かな献策」”に応じて勇断してある方向に舵を切ったのである。
然し、ここで上記の”ある原因”に「対抗し得る勢力(決断するに必要とする背景)」が必要であった筈である。
これは”闇雲に出来る話”では無い。「献策する者」が居た以上は、その者がこの”ある原因”に「対抗する勢力」を当然に充分に保持して居なければならない。
もし、そうで無ければ、「天皇の命」は愚か「朝廷は崩壊」に等しい大混乱に陥る。

その背景がある事を信じて、この「決断」と同時に、転んでもただでは起きて来ない判断を更にしたのである。下記

結局、この「鎮圧」に成功し、「勲功」のあった関東の「押領使の藤原秀郷」には、この「青木氏の補完作業の役目」も付け加える「白羽の矢」を当てたのである。

「藤原秀郷」は、北家筋でありながらも摂関家筋では無かった事から、「下野武蔵の押領使」(警察と軍隊)と云う低い役目柄で長い間「冷飯」を食って居た。
其れが理由か歴史的に有名な事件の「受領家の乱行」を重ねていた。

この時の「下野押領使説」には、幾つかの他説があった。

乱の直前に任じたとする「乱直前説」
乱の直後に任じたとする「乱直後説」
乱の30年後に任じたとする「乱事後説」

以上の3説がある。
筆者は、「青木氏」の資料から観ると、「種々の考証」の結果に矛盾なく合致するのは、「30年後の乱事後説」と成りこの説を採っている。
つまり、「本論の経緯」に基づく「円融期説」である。
この説で無ければ、「円融期説」に矛盾が生まれ成立しない。
当然に、2の「円融期の青木氏」は生まれて来ない事に成る。
然し、現実にはこの時期に発祥しているのである。

何もしなければ、これだけの116氏にも「成った青木氏」が自然発生の様に発祥する事は無い。
「氏族」である限りは「朝廷の認可」を得て発祥した氏である事は明明白白である。
況して、「嵯峨期の詔勅の禁令」で他の者が青木氏を名乗ってはならないとする禁令を発しているのである。
従って、「乱事後説」]の「円融期説」が立証される。

又、記録より史実である「30説や46説等の根拠」と成っている事から「乱事後説」は立証される。

これを「円融期説」とすると、その背景にあった「秀郷」は、先ず「武蔵の領国化」と「貴族の位階」の「二つの要求」が「乱鎮圧の条件」として提示していた。
この時に、「下野国の云々の事」は何も無かった。記録的にも無い。
ただ事前は「乱行」の激しい罪人の「下野の受領家」(掾)であった事は史実である。
この事を捉えて「年数の根拠」なしに推論に近い「事前説」が出来たと観られる。
然し、正式には「乱後の朝廷」が行う「勲功」の為の「国の再配置」後に正式に決まるものである事に付いての「国の仕来り」には何も論じていない。
単なる乱前の「下野の受領家」(官僚家)に過ぎなかつたのである。
下野国を領化するものでは決して無かった。
そうすると、明らかに領化したのは「30年後の乱事後説」と成る。
正式には「乱事後」に「武蔵守」と「下野守」に任じられている。

然し、この結果に対しては、「守護守」に成るまでの30年後までは、史実として朝廷はこの「約束」を護らなかった事に成るのである。
そして、30年後には、「守護職」の「国司」では無く「武蔵国」は領国と定められたのである。
この事からも疑う事無く、「30年後の事後説」に成り得て、2の「円融期の青木氏」の発祥と成り得た事を証明している。

(注釈 依って、正式には約30年程度は恣意的に勲功を放置した。 46年と云う説もあるが考証的に若干これは合わない。)
恐らくは、「天皇」としては、前代未聞の「不敬不遜の至りの不作法」に対して、どんな愚者であっても「天皇」である以上黙っている事は無い。
そもそも、「天皇」とはこの「権威と尊厳」の上に依って成り立っている「立場」である。
それを犯され、不満を述べられ騒がれて駄々を捏ねられる事は「許容の範囲外の事」である。)

唯、乱後には、確かに貴族に成り得る”「従四位下」”に任じられただけであった。

(注釈 ところが「貞盛」は「従五位上」であった。そもそも、秀郷より一ランク下である。
この意味は大きい。そもそも、この「官位」は「公家身分]の最低クラスの格式である。
然し、「秀郷」は最低の公家の官職に付ける位で、且つ、四つから成る名誉ある「各種の勲功や幇助」を受けられる立場である。
大きく「勲功」が違った事を意味する。
つまり、「乱鎮圧の評価」が違った事に成る。
それは、「乱の首謀者」の「一門の将門」を「宗家」として統率できなかったとする「責め」と「乱鎮圧の不手際」の「責め」を受けた事にある。
故に、差を付けられた「貞盛」は敢えて「不満」を露骨にしなかった理由でもあるし、「不敬不遜の至りの不作法」を知っていた事を意味する。)

その事の「不満」も重なっての理由と成って、「秀郷」は「乱行」を繰り返していたのではないかと観られる。
然し、ある時期(970年前後頃以降)を境に、この「秀郷]に「落ち着き」が起こったのである。

(注釈 この時期を境に「乱行の事件性の記録」があらゆる資料からも不思議に消える。)

それは、上記の様に、事後評価の「上記の勲功差」のみならず、下記に論じる「円融天皇の目論見策の結果」と観られる。


その「目論見策」とは、一体どの様なものであったのかを最も「青木氏」に関わる「基本的な歴史史実」の事なので下記に詳細に論じる。

そこで、「円融天皇」は、出されていた「提示条件」を全て容認するだけでは無く、この”「貴族の位階授与」”に託けて、その上に課せて、次ぎの「付帯条件」を付けたのである。
それは、一ランク上の「条件の貴族」と成った以上は、”この「賜姓五役の役目」も受けなければならない”としたのである。
つまり、「賜姓五役」を務めている「青木氏」の「特別の賜姓族」に成ると云う事に成る。
遅れはしたが、これは「最高の勲功」と成る事を意味する。
「従四位下」と低いが、この官位とは裏腹に「1の天智期の青木氏」と「同格の格式」を持つと云う事に成る。
「破格の扱い」と成る事を意味する。
つまり、格式としては、「従四位下」ではあるが、「賜姓五役を補完する立場」に成ったのであるから、最高位の「浄大一位に匹敵する立場」を暗に獲得した事を意味する。
恐らくは、摂関家や外戚は、「政治、経済、軍事の三権」では、秀郷一門が突然に上位に位置する事に成って、驚愕した事は間違いは無い。

(注釈 後に「賜姓五役」のみならず、全66中の24の守護職、最終28職も獲得するに至るのである。)

そして、この「条件の立場」を認める事として、更に次ぎの「勅命」を下したのである。

後刻に上記の経緯を経て、「武蔵」を「領国」とし、「押領使であった下野」の「支配権」をも与えられる事に成った。(詳細下記)

以上として円融天皇は、先ずは「当面の事態」を解決したのである。譲位前には「戦略的な基礎固め」が出来た事に成る。

(注釈 「秀郷」には全く問題はないどころか、下野の「田舎の受領家」からとんでもない「破格の家柄」と成った事で、「摂関家」にも勝るとも劣らずの格式を持ったことに成ったのである。
況してや、「無役」では無く、「財」は掛かるかも知れないが、「最高格式」の「賜姓五役の役務」を与えられたのであるから、これ以上のものは無い。

「円融天皇の目論見策」に執ってみれば、これで先ずは「第一段階の念願」の「青木氏の補完の役務の問題」は解決する事になったのである。
後は、この勢力を使って朝廷内を「一発逆転の改革」に入る事であった。下記

現実に、この時期を境に「秀郷の乱行期」は完全に霧消して行った。

(注釈 重要 資料からは、「960年頃以降」は、「秀郷個人の記載した記録」や「事件性の記録」は見つからない事から、「落ち着き」を取り戻して来たと観られる。

乱後の「勲功」は、「二条件」の内の「貴族の条件」の「従四位下」の官位のみで済まされていた事に成る。
しかし、記録を辿ると、「約30年後の円融天皇期」には「他の条件」も大筋で認め、最終的には、983年までに処置している。
その代わりに、この時に、「秀郷」には「円融天皇の目論見策」に載ることを命じたと観られる。

(注釈 乱後の余りの「勲功の大きさ」の為に、秀郷死後に「贈正二位」に列せられている。
明らかに,その後の天皇は[1の天智期の青木氏」の「賜姓子役の補完役」を見事に熟し、将又、[朝廷」を改革した「2の円融期の青木氏」の「働き」を評価して居た事が判る。)

それは、次ぎの事からも判る。(「円融天皇の目論見策」に載ることを命じた事)

・ 「青木氏の商業記録」によると、「971年 津殿伊勢入る」と記載されている。
・ 「佐々木氏の資料」の「青木氏の処書」を読み解くと、「下野受領家の系譜添書」に「秀郷流青木氏」の発祥とされる記載が「970年頃」と成る。
・ 「藤原氏諸氏略系図」を観ると、「秀郷の第三子出自の青木氏」は、計算から「969年頃」と成る。
・ 「藤原秀郷流進藤氏の系譜」を観ると、「青木氏発祥」と成り得る「千国の烏帽子期」は添書より読み解くと、「969年頃」と成る。

この記録から、「円融天皇の目論見策」の「千国系青木氏の発祥期」は「970年」である事に成る。

つまり、正規に「二足草鞋策」を採った「925年頃からの記録」である「伊勢の記録」では、「青木氏の着任期」に成る。


この時の「勲功の有り様」に付いては、「秀郷」だけでは無く同じ事が「繁盛」にも起こっていた。

「貞盛」の弟の「繁盛の勲功」にも朝廷は全く同じ仕打ちをしたのである。
この「繁盛」の場合は、この「不満」に対して採った行動が、資料で多く遺っている。
「朝廷」に対して、「明確な不満行動」を採っていて疑われた事が記録として遺されている。
この時、「繁盛」は、それを打ち消す為に「写経」して「恭順の姿勢」を採ったのである。(記録)

ところが、「秀郷」の場合は、結局、この「不満」に対して、「朝廷」に直接訴える行動では無かった。
「乱行と云う不満行為」で多くの事件を起こして、度々、朝廷より罰せられ、遂には下野に引き籠ったのである。

「不満の繁盛」の場合には、下記に論じる様に、「世間」も揶揄して”「岡田殿」”から”「嶋崎殿」”に格下げして呼ばれたのである。

実は、この「不満の繁盛」の場合は、30年後の後に、上記した”「嶋崎殿の青木氏」”と呼ばれる処置で解決したのである。下記

そして、「不満の秀郷」の場合は、30年後の後に、”「武蔵殿の青木氏」”と呼ばれる処置で解決したのである。下記

何と、何れも「賜姓 青木氏」であった。

その前に、この「勲功の時期の遅れ」は、何で遅らしたのかの疑問を説いて置く。
そもそも、これは「故意的」に朝廷が遅らした事である。

(注釈 この「故意的遅延策」は、「二足の草鞋策」を始めた頃の事である事から、未だ摂関家等の「外戚の勢力」を抑え込む「抑止力」は充分に醸成されていなかった。
この事から、「青木氏の氏是の知略」から鑑みて「青木氏の献策」では無かった筈である。)

では、そもそも、この「故意的な遅延策」は、”何故、起こったか”と云えば、次ぎの事から起こったのである。

そもそも、”「天皇に対して前代未聞の条件提示」”をした「臣下の不敬不遜な行為」に対して、「天皇の威厳と権威」を護る為にも直ぐに応じない「対抗処置」であった。

それは、「臣下族」が絶対に採ってはいけない前代未聞の「最大の不敬不遜の行為」であったからで有る。
これが「有史来の事」である事から、「乱」が起こり世間がこの「乱の始末」を観ている時に、「天皇」からすると「立場」と「権威と尊厳」を著しく傷つけられて、煮え返る程に「腹立たしい行為」であった筈である。

(注釈 実はこの事を証明する記録が遺されている。

「繁盛」が「不満の発言と行動」を採った事に対して、約30年前後に、「繁盛」は反省して何度も朝廷の外戚に頼み込んで執り成しを得ようとした。
ところが、「天皇」に無視される始末で、遂に思い余って「嘆願書」まで出した。
然し、その後、「周囲の執り成し」にて、一度は形式的に許されるが、結局は天皇の強い反対で無効と成っている。
その後は、”一族の印象を落としている”と云う事で、一族から邪魔をする者も出て来る始末であった。
何度も「執り成し」を「却下」される等の「仕打ち」を受けていた。) 

「秀郷」も「繁盛」とほぼ同様であった。
ところが「貞盛」は左程の不満の態度を示さずにいた。
そこで調べると、この時期を利用して密かに本領の九州と堺で「港の整備」をして、中国との”「商い」”に邁進していたのである。
つまり、「隣人の青木氏」に感化されて、「荘園」では無く「商いに依る財の獲得」に重点を置いていた事に成る。

(注釈 五代後の清盛は、遂にこれを引き継ぎ、「禁令の慣習」を破り正式に宋貿易まで発展させた。
「1の天智期の青木氏」は、925年から「二足の草鞋策」で「[商い化」して、この「商い」を「総合商社化」した時期でもあった。
恐らくは、「先祖の生き様」と「隣人の生き様」を観ていた事の結果と観ている。
「生き残る」には、「武力」では無く「商い」であることを感じていたと観ている。
その証拠に「源の義経」に「清盛」は何と「商いの必要性」を解いている「記録」が遺されている。) 

兎も角も、しかし、天皇家は弱体化している現状ではやむ得ず、心を何とか治めて我慢しての対抗処置であった事に成る。
朝廷は、この「貞盛の行為」に対して、敢えて”観て見ぬ形振り”をしたと観られる。
何故ならば、この事を大きくする事は、「禁令の商い」を営む隣の「青木氏」に対しても罰する事にも成る。
況してや、その「商材」は主に「和紙」である。
伊賀の「たいら氏」と伊勢の「青木氏」らが中心と成って「国産化に成功したばかりの「和紙」である。
両氏は「伊勢和紙(伊賀和紙)」で一緒に殖産している隣人である。
両氏を「罰する事」は、「天皇」に執っては、折角、「補完の役務」を「秀郷」に負わせようとしているし、「繁盛」には、「青木氏」を与えて、「秀郷の補完の役務」の補佐の「特別の役務」(実務役 下記)を与えて何とか「目論見策」を実現しようとしている時でもある。
こんな時期にそんな事は絶対に出来ない。全てぶち壊しと成り得る。

その状況を鑑みて「一発逆転の策」に出たのは、そもそも、「円融天皇」(下記)であった。

そこで、「前天皇」には、二年程度で外戚から退位させられた事からもその能力は全く無かった。
そこで、引き継いだ「円融天皇」は、「30年後のチャンス」として捉えてこれを利用したのである。

然し、「円融天皇の優秀さ」は、「一発逆転策の目論見策」だけでは無く、「事の流れ」を創出する能力に長けていた事に在った。

(注釈 これが「秀郷」にしても「貞盛」や「繁盛」にしても「繁栄の基礎」と成る様に仕向けた処にあったのである。)


この”「事の流れ」”を創出する為に、その後、この状況を観たこの「円融天皇」は其れだけでは済まなかった。

この時の「円融天皇の政治手腕」は、「外戚」に「政治の場」を奪われていながら、若かったがその資質は極めて優れていた。
取り分け、「外戚」が多いと云う事は、「外戚の発言」が多いと云う事にも成り、その中でも、それを聞きわける「判断力」に優れていた。

先ず、この時、“「貴族は武力を持つ事が出来ない」”とする「朝廷(奈良期大化期)の仕来り」があった。
それに絡めて、「武力を持つ護衛団」を別に作る様に「秀郷」に要求したのである。

然し、更には、これにも「勲功のあった秀郷」に持たすのではなく、又、その子供の跡目嫡子の「千常」にも渡すのでもなく、何と「部屋住み身分」の「第三子」(「千国」)に代々継がせることを命じたのである。
当時の「慣習仕来り掟」からして、この処置はこれも「前代未聞」であった。
臣下の採った「前代未聞」は、天皇の採った「前代未聞」で返したのである。

恐らくは、当時としては、これは世間があっと騒ぐほどの「仰天覚知」であったであろう。
30年と云う期間を得て流石に大人しく成り始めていた「秀郷」は、この事に対して「若い円融天皇の能力」を見直すだけの驚きを示した筈である。

そして、この「仰天覚知」はこれだけでは済まなかったである。
何とその「氏名」を「藤原氏」では無く、大化期からの「由緒ある氏名」の「青木氏」を名乗らせる事にしたのである。
これは「嵯峨期の禁令」に反している。
最早、「仰天覚知」を通り越していた筈で、「煩い外戚」に囲まれていながら、「円融天皇の能力の優秀さ」を感じ採っていた筈である。

この「賜姓臣下族の青木氏」が、「朝臣族」と成って、間接的に秀郷一門の貴族を護衛する一団の「氏族」としたのである。
つまり、「青木氏と朝臣族の名誉」だけを与えるのでは無く、これまた、「仰天覚知」であった。
「円融天皇」自らが、”例外中の例外の「武力」”を公然と持つ事を「貴族の家柄」に命じたのである。

この「円融天皇」が採った根拠は、「補完する役目」を負う以上は「賜姓五役の天皇の護衛団」の考え方を発展させたのである。
この「賜姓五役の護衛団」を使って、「従四位下の貴族」と成った「秀郷一門宗家」を護る役目も負わしたのである。

この「護衛団」を使って、「外戚」を先ず威圧して「天皇の権威」を取り戻そうとしたのである。
これで、現実にこれで「煩い外戚」は黙り始めたのである。

普通は、むしろ、「武力は禁じ手」として命じる事が、「天皇本来の仕来り」であるにも関わらず、「逆の事」を命じたのである。
むしろ、この段階で、「秀郷」は、”「円融天皇」を恐れ慄いた”と観られる。
これは、例外中の例外を飛び越えたそれほどの「勅命」であった。

ところが、未だ、この「円融天皇」は、これだけでは済まなかった。

その為に、”特別に「皇族外の臣下族(朝臣族)」を作り、永代に「賜姓族」にする”と云う策に「円融天皇」は出たのである。
本来は、「あり得ない勅命」であった。
これだけ「例外中の例外の勅命」を、「煩い外戚連中の意見」を入れずに、「勅命]を下したのである。

(注釈 この時の「外戚」は、一人や二人の外戚では無く、何と「40人」と云う「外戚」が政治に関わっており、余りに多い為に「外戚に依る勢力争い」の時代と云って良い程の状況であった。
この為に「政治腐敗」と「天皇の権威」は極度に衰退していたのである。下記)

恐らくは、朝廷内は「蜂の巣」を突いた様に騒いだであろうことが良く判る。
むしろ、「身の危険」さえも感じる程であった事は充分に想像できる。
先ず、普通であれば、阻止されていた事が当然で、病気か何かを理由に託けて即座に退位させられていた筈である。
現実に、「円融天皇」の前後の二代の天皇は、「外戚」に逆らう事も無かったのに「外戚」から退位を迫られ極めて短期間で譲位していて、その史実が遺されている。
これだけの事をした「円融天皇]である。

普通は即座に退位させられていた筈であったが、次から次へと策を講じて「勅命」を発したのである。
これには、それを阻止できる何かが働いていたからこそ出来た事である事は上記した様に容易に想像できる。
何せ「摂関家」の40にも成る「藤原氏等の外戚」にも打ち勝つだけの「相当な力」「影の何かの勢力」が働いていた事は間違いは無い。

我々「青木氏」から観れば、大変興味の湧く処であって、「影の何かの勢力」、況や、”それは何なのか誰なのか”である。

(先に経緯を記述して観れば判る故に下記に論じる。)

そして、次ぎには、貴族に列せられた「秀郷一門」は、「宗家の第三子」を、この「青木氏の跡目」に必ず入れる事が定められた。
この策の「永代の継続性」を保証する為に、「青木氏」に跡目が切れた場合に限り、「秀郷一門の宗家」から「青木氏跡目」に入れる事を条件にした。
早速、「秀郷の第三子の千国」にこの役を任じて提示した。
所謂、「第三子跡目の制」と云われたものである。
「皇族賜姓族青木氏」に適用されている「第六位皇子の賜姓の制」に準えた制度である。

(注釈 最初は、一門一族筆頭の宗家筋と成る「佐野氏」(秀郷の出自地)から多く跡目に入っている。下記)

この時、未だ「円融天皇」のこの処置は終わらなかった。
続けて、矢継ぎ早に次ぎの策を講じたのである。

「藤原秀郷」と「平貞盛」の二人が、この鎮圧に関わったが、ここで、「円融天皇」は、何と「将来の事」までを予測していた。
それは、この「平の貞盛」の台頭(たいら族の始祖 清盛の5代前)であった。
この関東に「大掾」や「押領使」として配置赴任させられていた。
然し、「平貞盛」等の「現地末裔子孫」の「嶋崎」に住んでいたとされる”「たいら族」の「嶋崎殿」”と呼ばれた家から、この何と「千国」に嫁がせたのである。

(当初は「貞盛」は、「京の佐馬允」の役務であった。「不満の態度」を取らず,密かに「商い」に向かったところを見抜いたと観られる。)

そこで、この”「嶋崎殿」”とは、”一体誰なのか”である。
この”「嶋崎殿」”を解明する事で、大きく「青木氏」との関係が観えて来る筈である。
”単なる血縁妃の「たいら族の事」”とは云え、長年の歴史観の感ではこれは避けて通れないテーマである事を感じる。

「円融天皇の目論見策の経緯」を先に述べてからこれを下記に論じる。

当に、”「影の何かの勢力」は誰か”と共に、この疑問の答えも、”世は輪廻”で動く事である。

つまり、将来台頭してくるであろう「京平氏」の「たいら族」を、「特別賜姓族」とする限りは、この「秀郷流青木氏」の血筋に「たいら族の血筋」を入れて血縁関係を構築させる手立てまで講じたのである。
この事で、「特別賜姓族の立場」を将来に渡って確実にして安定化させる手立てをしたのである。

(注釈 現実に、「桓武天皇」の「賜姓族のたいら族(桓武平氏、京平氏)」は、後の「太政大臣平清盛」である。
この「桓武天皇」の母は、「伊勢青木氏の始祖施基皇子」の子供の「白壁王 光仁天皇」の妃「高野新笠」である。
この「高野新笠」は、「伊勢北部伊賀地方」の「阿多倍王」(高尊王 平望王 渡来人後漢の王)の孫娘に当たる。

(注釈  念の為に註釈する。「桓武平氏又は京平氏」の「たいら族」とし、累代天皇から発する「第七世族」を臣下させて「ひら族(平氏)」として坂東に配置した。
これが所謂、「坂東八平氏」である。
これに区別して「桓武天皇」は、「母方族」を賜姓する「賜姓時の根拠」として、「過去の賜姓族」の「第七世族」の「ひら族」に準えて「たいら族」と呼称させて賜姓した。
この「ひら族(平氏)」と、区別する為に通称、「桓武平氏(京平氏)と呼称されている。
この「桓武平氏」は、「後漢21代目献帝」の子で、「後漢渡来系族の阿多倍王」とその父親の「阿知使王」を始祖とする。
618年に後漢が亡び数度に渡り渡来して来たが、その主隊の「後漢17県−200万人の職能集団」は「孝徳天皇期」を中心に渡来して来た。
主に九州北部に上陸し、無戦の状態で瞬く間に九州全土を制圧し、その根拠地を薩摩の大隅隼人に置いた。
鹿児島の阿多地域と隼人地域に拠点を置いていた族である。
その後、中国地方に移動させ、66国中32国の関西圏直前までを無戦制圧した。
「無銭制圧」の理由は、「17県民200万人の職能集団」が土地の者と同化する事を前提に技能享受をした事に依る。
そして、「在来民」の全ては生活向上を果たし、「後漢の渡来人」に従った事に依る。
現在の関西以西の「第一次産業」は、これらの享受の結果であり、「・・・部」とする呼称はこの「渡来人技能集団」の呼称である。
これを捉えて、朝廷は経済方式には「部制度」を敷いた。
平安中期頃には、書物から「渡来人」と云う字句は出て来ないところから、帰化後に完全に同化した事を意味する。
多くは、その進んだ学問から「朝廷の官僚族」にも成り朝廷を主導した。
「阿多倍王」は、又の名を「高尊王」と「平望王]と呼ばれていて、「桓武天皇」は後に伊賀に定住したこの「阿多倍王」の死後に「平望王」として「たいら族」への王位を「大和王式の仕来り」で授与した。
この事から大変多く公的資料は混同している。
最近では、この「高尊王」と、「桓武天皇の記録」にある後に授与されたとする”「平望王」”とを結合させた上で、室町期の家柄誇張の搾取偏纂の資料説を持ち出した”「高望王」なる王命説”で論じられている。)


この事一つ捉えても、これだけの事は、「藤原氏摂関家外の勢力」に依るものである事は容易に判る。
「円融天皇」が、この差配に対して直接発言して主導して仕掛けたかは別として、「京平家への処置」は、何らかのルートを使って仕向けた事は疑う余地は無い。
何故ならば、「摂関家」には、「藤原氏]としての高い格式もあり、「官僚族」としての激しいライバル関係にもあった事から「秀郷の北家筋」から絶対に採り得ない差配である事は判る。

そこで、では、上記の疑問の一つを論じる。
この「平氏の嶋崎殿」(氏名)について検証して観ると観えて来るものが多くある。

この通称、この”「嶋崎殿」”は、元は別に「姓名」としては”岡田”と号していた。

この”岡田”は、常陸国(茨城県)にあり、昔、「岡田郡」と云う郡があって、ここに「嶋崎」と云う地名が存在した。
つまり、常陸の岡田の住人と云う事に成る。
「常陸」は、「貞盛」が赴任していた土地で、「常陸の大掾」(国司の次ぎの官職)と成っていた。
明らかに、「貞盛本人」では無い事は判るが、子供か従兄弟等のその関係者である事はこれで判る。

ところが、その後に、先ず「氏名」を「藤原氏」とし、そこで「氏名」を今度は直ぐに「青木氏」に名乗り変えた事に成っている。
従って、この通称、この”「嶋崎殿の青木氏」”は、これを証明する事として次ぎの様なものがある。

先ず、家紋は「揚羽蝶紋」を「主紋」としている。
次に、「丸に一文字」「稲丸の内一文字」の「二つの副紋」としている。

以上の氏を物語るものを持っている。

この家紋分析より、「特別賜姓族」と成った「千国」に自然の形でライバル関係にあった「京平氏との縁組」が起こったとは考えられ無い。
一度、先ずは、慣習上、「藤原氏」に「氏族」を改めた上で、「娘の嫁ぎ先」の「氏名」の「青木氏」を名乗っている。
と云う事は、先ず慣習上からは普通ではない。

ここに間違いなく”何かの大きな力”が働いた事に成る。

「家紋」から観れば、当時の慣習は、先ず、「主紋」を持つ事は、朝廷が認めた「格式高く大きい氏族」であれば「総紋」を持つ事は許されている。
果たして、この段階で「桓武平氏」は「総紋」(主紋)を持ち得ていたであろうか。
累代天皇から出自する「皇族第七世族」の臣下族の「ひら族」は「皇族系」である事から、「総紋と家紋」を持ち得ている。
然し、「たいら族」は、あくまでも「賜姓族」であるが直系列の「朝臣族」では無い。

(注釈 後に、「芽純王」の娘を娶る事で「朝臣族」に列せられた。)

取り敢えず、格式的には「桓武平氏」で「賜姓族」であるので問題はない。

血縁的としても、奈良末期には「敏達天皇」の孫の「芽純王」の実娘を娶って「准大臣」の称号を獲得している事からも問題はない。

「官僚族トツプの氏族」で「官僚の6割」を占めていた事を、「日本書紀」に「天武天皇の質問」に対して「施基皇子」が答えている。

(注釈 「倭人の官僚」を教育して増やす様に命じている。平安初期の時期まで未だ”「渡来人」”として呼称され扱われていた事が記録にある。)

奈良期の末期頃以降から平安中期までは、「朝廷官僚族(伴氏等の五大官僚族)」を押えて、「6割の勢力」を持ち得ていた事を物語る記述である。

この事からは、その「勢力」を素早く見分ける為にも「総紋」(揚羽蝶紋)を持ち得ていて、個々の家紋を「各枝葉の氏族」(25枝葉程度の氏族であった)に持たしていた事に成る事は充分に判る。

「副紋」としている家紋では、そもそも、この”「一文字文様」”とは、平安期初期頃には、一は事の始や根本と捉えられ、鎌倉期から室町期には武士の間では「勝(かつ)」と読んでいた事から「無敵の意」があった。
この事から、「尚武的なもの」として家紋として用いられた。
取り分け、武士でも”「たいら族一門」”に用いられた家紋である。
最も広く用いられ始めたのは、室町期初期前後である。
現在は、「伊勢北部」を含み「中部以東」に多く分布する家紋群である。
取り分け、「南北朝期」に多く活躍した「家紋群」であり、その地域には分布が観られる文様である。

この意味からも、この「岡田」、或は「嶋崎殿」が、平安期の中期前後頃には用いていた事が判る。
可成り、「たいら族」の「初期の段階の末裔族」であった事が判る。
「国香−貞盛」は主筋であるが、この「嶋崎殿の呼称」がある事から、「貞盛」等に続く「主筋の末裔」であった事がこの家紋で判る。
現在も、この「嶋崎殿」を始祖とした「青木氏を名乗る末裔」は、三氏ある。
その子孫は珍しく関東に於いて広げている。
この「一文字文様の氏族」は、「秀郷流青木氏」116氏の中でも、「異色のルーツ」を持っている事に成る。
この事は「搾取の多い揚羽蝶族」の中でも「家紋」に対しても全く矛盾は無い。
「一文字紋」は「時代性」も全く同時期である事に成る。
この事からも、「貞盛」に極めて近い筋の者であった事が判る。

仮に、この「円融天皇の目論見策」が、「貞盛」とした場合は、余りにも直接的と云うか、わざとらしいと云うか、疑問である。
恐らくは、一門の周囲が「ライバルの家」に”「本筋」が取り込まれた”として黙っている事は先ず無かろう。
とすると、「貞盛」に近い者とすると、兄弟かせいぜい従兄弟の範囲では無いだろうか。

この”「一文字文様」”が鍵に成る。
この文様の物語る範囲とすれば、この範囲は超えないであろう。
そして、「たいら族」が滅亡した後の南北朝期までこの文様を高めている。
これも「重要な判断要素」に成り得る。
つまり、「たいら族」は関西以西で滅亡し、各地に逃亡して支流末孫が生き延びた。
然し、「南北朝期」にも亡びずに「末孫]を拡げていると云う事は、「南北朝期」の「紀伊半島地域」に存在した「たいら族」である事に成る。

そうなると判別も比較的容易である。
この「一文字紋のたいら氏」が、亡びる事が無かったのは、「揚羽蝶紋」を「総紋」としながらも、「藤原氏」−「青木氏」の範囲の中に居た事からである筈と考えられる。
そこで、この紀伊半島にて生き延びた「たいら族の里」は明確に「六か所」ある。
現在では何れも有名な観光名所でもあるし、古くからの保養温泉地でもある。
歴史的にも”「平家郷士集団」”と呼ばれ、室町期の戦乱期には「傭兵集団]として活躍した。
見逃してはならないのは、現在でも、その「平家郷士」としての「伝統(慣習仕来り掟)」を護り続けている地域・集団でもある。

紀伊半島の「平家郷士集団」

一つ目の地域は、長嶋域
二つ目の地域は、伊賀域
三つ目の地域は、吉野域
四つ目の地域は、北山域
五つ目の地域は、高野域と龍神域
六つ目の地域は、十津川域

以上の六地域となる。

この「郷士の六地域」は、現在でも”「平氏郷士集団」”と呼ばれているが、普通は「平家落人」と成っているが、ここはしっかりと生き延びた。
特に、中でも”「十津川郷士」”は、現在でもその「伝統」が護られ、その精神の一端は,全国剣道大会で常時連覇優勝する程のものである。
この紀伊山脈の山深い頂上付近にあるこの村は、紀州では”「十津川郷士」”の言葉で遺されていて有名である。

(注釈 「紀伊半島の歴史」は、この”「郷士」”のキーワートで調べれば殆どは判る。奈良期からその歴史性が遺されている事に依るが、「古代言葉」を調べるには「紀州言葉」を調べれば判ると云うほどである。
紀伊半島は俳諧人には「万葉の地」と云われる所以である。)

この「六地域」は、江戸期までの「歴史上の舞台」でも何れも忘れられない地域でもある。
それだけに、確かに「落人」ではあるが「落人」としての「生き様」を見せなかったのであり、故に、「主紋・副紋」の家紋も遺し得た事に成る。
この「主紋と副紋の家紋」が遺されていると云う事が、その「たいら族の生き様」が、所謂、「落人」では無かった事を意味しているのである。
当然に、伝統も遺し得ている事に成る。
検証するには、最も熱の上がる「環境テーマ」である。


その検証として、更に,その「子孫を拡大する能力」を持ち得たのは、「秀郷宗家一門」か、「秀郷流青木氏」に関わっている地域と云う事に成る。
そうすると、その地域は、前二つの「長嶋地域」か「伊賀地域」かである。
後はこの条件に関わっていないし、「一文字紋の家紋分布」は全く無い。

従って、「長嶋地域」と「伊賀地域」と成り、何れも家紋分布は僅かであるが認められる。
(多くはないが一部甲賀地域にも観られる。)
「家紋分析」から、大きく分布が伸びたとされるこの”「南北朝域の地域」”としては、この「家紋分布の限界範囲域」にある。

ただ、この「伊賀地域」は、平安末期に「貞盛」の子供の「四男維衡」が、この伊勢域を引き継ぎ、「平清盛」が、奈良期に伊勢割譲に依って得たこの「伊賀地域」を返上した。
そして、「播磨の国」に移動した事実がある。

(重要な注釈  「日本書紀」に、700年前半に「薩摩」の「隼人地域」と「阿多地域」を初期に半国割譲を正式に受け、その後、朝廷より呼び出されて伊賀北部の半国割譲を受けた事が書かれている。
この時、後漢「阿多倍王」とその配下は、飛鳥の湖の銀杏の木の下で天皇に「相撲」を朝覧してみせたと書かれている。
薩摩の半国割譲は、その前に「朝廷軍の船団」が、この「後漢の阿多倍軍団」が朝廷の威光を無視した事に依る懲罰として二度に渡り攻めたが失敗に終わり、結局は「半国割譲の懐柔策」に出て成功し、更に飛鳥に呼び出す口実として「伊勢の半国割譲」で「奈良朝の威光」の中に入れた事が書かれている。
これが、「伊勢北部伊賀地方」の始まりであり、その後には、「伊勢青木氏の出自」の「山部王」の「桓武天皇」は、「母方の郷」を理由に「伊勢北部伊賀地方」に「阿多倍王の見舞い」と理由で出向き、その場で「平望王の称号」を与えたとする記録がある。
この記録は、「阿多倍王の年齢」が「92歳位の高齢」に成るが、「後付の記録」ではないかと云う説もある。
母方の阿多倍王には「准大臣の称号」もあるが、「大和の王位」は無かった事から、死後の直ぐ後に、「平望王の称号」を与えたと成っている。
この「王位獲得」に依って、兎も角も、「皇族第四世族」を獲得した事を意味する。
つまり、「桓武天皇」は、母方を皇族方に加えて、「天皇の権威」を強化した事の目的であった。
この「山部王]は、「天智天皇の第六位皇子」で「賜姓臣下族で朝臣族」であった事から、本来は「皇位継承権」は正統系では無かった。
しかし、「男系皇位継承者」が全く無かった事から、止む無く、”それに準ずる者”として「施基皇子」の家系゛を指定された。
「施基皇子」の子供で「白壁王」に「白羽の矢」が当たり、「光仁天皇」と成り、その「皇位の跡目」を「施基皇子」の孫の「山部王」が継承した経緯である。
この時、「光仁天皇の妃」が「高野新笠」で、この「伊賀北部」に住んだ「阿多倍王の孫娘」に当たる。
兎も角も、この「伊勢北部伊賀地域」は、この由緒を持っていて、「青木氏」とは、奈良期から「徒ならぬ関係」にあった事が云えるのである。
記録から、播磨に郷を移して、その「伊勢伊賀北部地域」を「5代後の清盛」が返却した事に成る。ほぼ正規の使用期間は460年の期間と成る。)

この事から、ところが、この時に、移動を拒否してこの地域に居遺ったグループが居た。
このグループが、後の室町期から江戸期の「伊賀忍者傭兵集団」である。
このグループには、当然の様に「生き延びる為の路線争い」が勃発した。
それが、次ぎの様に成る。

「氏本体の播磨移動組」
「居残り組本体の伊賀の組」
「甲賀に移動分裂した組」
「長嶋山岳部に移動した組」

以上の四組に成る。

「氏本体の播磨移動組」を除いた三組は、何れも「忍者傭兵集団」と成って室町期と江戸期には活躍した。
この残留組の中に、「伊賀青木氏」が組み込まれていた。

(本体の「播磨移動組」は、平家滅亡後は四国に落ち延びた。)

そうすると、この「嶋崎殿の青木氏末裔」は、最も、「たいら族の郷」であって、奈良期からの「伊賀地域」である事に成る。
つまり、「貞盛の子供の兄弟」か「従兄弟の三親等の親族」であった事に成る。
常陸岡田郡で ”「嶋崎殿」”と呼ばれていた人物は、年代的、年数的には養子を含む”「貞盛子供7人と兄弟の2人」”の誰かである事は確実である。

そうすると、兄弟と子供でも、四男までの範囲と成る。

貞盛の兄弟
繁盛
兼任

貞盛の子供
維叙、長男 藤原済時の子
維将、
維敏,
維衡、四男 嫡男 伊賀継承
維幹、
維茂、弟繁盛の子
維時


しかし、岡田郡で”「嶋崎殿」”として呼ばれていて、”「南北朝の一文字文様」”を持ち得る可能性が有る人物と成る。
先ずは、「四男の維衡」が伊勢伊賀を引き継いだ事から、伊賀地域に遺し得る人物と成る。
然し、この時期は、「青木氏の四家制度」と同じ考え方で、「従兄弟の範囲」でも「養子」が盛んに行われた。
現実にこの伊賀でも行われている。

「貞盛」の兄弟の「繁盛」からも、「貞盛の子供」が5人もいるのに、”「伊賀養子」”が入っている。
「青木氏の四家制度」と同じで、「子供の範囲」は区別せず「子供・従兄弟・孫」までとしていて、この中で、「優秀な者」を主家に据える考え方である。
ところが、「繁盛の養子」(維茂)が入って居乍ら、結局は「四男の維衡」が継いでいる。

筆者は、この「繁盛の子供」を「貞盛養子の扱い」にした事そのものの「行為」が、この”「嶋崎殿の子供」”に「白羽の矢を立てた恣意的な行為」であったと観ている。
揶揄的に呼ばれた”「嶋崎殿」”は、記録から、貞盛の弟の「繁盛」である事は明白である。
では、この「繁盛」が「円融天皇の目論見策の人物」と成り得たのかと云う問題が伴う。
何故ならば、天皇家からの「賜姓」ともなれば、「不敬不遜な行為」は避けなければならない「仕来り」が有り、分家とか支流とか「氏の権威を損なう不作法」が在ってはならない。

この場合は、「不敬不遜の至りの不作法」は次ぎの点にある。

「天皇」に不満をぶちまけた「繁盛」は「問題の人物」である。
「平繁盛」は「伊賀の分家」である。
「藤原氏」は最高の「名籍の公家族」である。
「青木氏」は「朝臣族」「賜姓族]「臣下族]で「浄大一位」の「権威族」である.
「京平族」は「従四位下」の二氏の「格式下族」である。

以上、この四つの事柄を「不敬不遜の至り」の不作法に成らない様に「仕来り」として仕切らねばならない。

この為には、つまり、「殿上人」の尊い「円融天皇の目論見策」であるが故に、「粗相や祖誤」の無い様に「最高の仕来り」で臨まねばならなかった。
それには、次ぎの「仕来り」を取らねばならない。

「主家」に「主家の跡目」を壊さず、「繁盛」をより権威付ける為に「繁盛の嗣子」を「分家」からでは無く、先ず「主家の養子」に仕立てる。
その上で、この養子(維茂)を「主家」からの出自させる「最高の慣習」を護ったのである。

そして、その上で、「天皇家」とも繋がる「大氏族の藤原氏」にしては、次ぎの「仕来り」を採らねばならない。
それは、その跡目先を先ずは「藤原氏」にした上で、直に名誉の「青木氏の出自事」にした事にある。

こうする事で、「天皇に対する最高の儀礼的手続き」が先ずは整う事に成る。

この事で、仮に「貞盛嫡子」をこれに立てたとすると、「貞盛の宗家の跡目の問題」に支障が生まれる。
その「支障の執念」が「天皇」に注がれる仕儀と成り得る。
これでは、「円融天皇の目論見策」に対して、「恩を痣で返す結果」として、「不敬不遜の至り」に成り得る。
この「目論見策」には、「一連の継続性」のある「幾つかの策」が有って、その中の一つに、この「貞盛の厚遇」に対する「繁盛の不遇」に配慮してやる「円融天皇の深い心遣い」があった。
それだけに、「繁盛」に対して「秀郷」や「貞盛」と同じく「家柄、格式、官位、官職」を与えてやらねばならない。
「貞盛」と同じく同じ「恩賞と勲功」を与えれば、簡単である。
然し、「主家の貞盛の立場」は保てない。
「秀郷」も片手落ちとして「不満」を言い立てる事に成る。「不敬不遜の至りの不作法」と成る。
そもそも「前代未聞の条件付き役目」を演じた位の人物である。何を言い出すかは判らない。
大いに「献策者」はこの事柄に注意を払った筈である。

これらの事を上手く納めるには、「秀郷に採った勲功」の一つとして採った「青木氏の格式」を「繁盛の子供」にも与える事で丸く納まる。
主家の「貞盛の養子」として「繁盛の子供」の「維茂」を入れて「主家からの出自」とする。

ただ、これには「直接的血縁」では無いが、次ぎに、「娘嫁」させて、「繁盛」にも「藤原氏」と「青木氏」を一時的にも名乗らせ、それを息子に「別流の青木氏の跡目」とさせる事で万事納まる。

後は、「二代目の維茂」と末裔の採る「出方次第」である。
その「扱い方」では、「秀郷」に与えた「勲功」と「同じ結果」を生み出す事に成り得る。
そこまでは、最早、「円融天皇や周囲の献策者の範疇では無い。
生かすも殺すも、当時の慣習の「吊りあいの作法」が整う事が必要である。
ここからは、先ずは「纏めの作法」と成る。
形式的な形として、初代「繁盛」と二代目「維茂」の形を先ず採った。
これは、両氏の「人間的な能力」に関わることに依る。

先ず、「受けた側の藤原氏」と「出した側の平氏」との間の「吊りあい」の「纏めの作法」である。

ここで、この「吊り合いの慣習」から、この「円融天皇の目論見策」の「お返しの養子」と観られる事が起こっている。

「藤原氏(済時)からの養子」が伊賀に「跡目の形」で出した。
「貞盛の長男」として命名された「維叙」を出し、先ず「嫡男」として通名を名乗らせた。
そして、元の長男を次男として受け入れた。
「維茂」を「藤原氏]に形式上でも入れた代わりに、形式上、この「貞盛の養子」に入れたのである。
これで「不作法と成る仕儀」は無く成る。
これで「互いの氏族」としては「不作法」に成らない様に「バランス(つり合い制度)」を採った事に成る。

注釈
(恐らくは、「貞盛」(20歳)で、「受領家(秀郷側)」から、上記の始末後の後刻に、娘(秀郷の姉)を上記の経緯を踏まえて嫁したと観られる。
ところが、上記の経緯前に、血縁していたとする説がある。
然し、この「事前血縁説」には疑問が多い。
この「事前婚姻説」を前提とすると、そもそも本論が下記に示す様に歴史的矛盾や論理的矛盾が生まれ成り立たなくなる。
従ってこの検証を充分にしなくてはなら無く成った。
例え゛例として次ぎの様な事が挙げられる。

(イ) 先ず、下記に示す様に、[年数的」に15−20年程度の無理が在る事。
(ロ) 更に、「地理性」が京都域と下野域の地域差がある事。
(ハ) 両氏のこの910−930年頃代の「家勢」は未だ極めて低く、互いの関係は希薄で未だ無かった事。
(ニ) 両氏の「役柄関係」にも差があり、秀郷の受領側は紛争を幾つも起こしていて、又、嫡子秀郷も乱行があり再三罪を受けるなど極めていて婚姻どころ環境では無かった事。
(ホ) 上記の「円融天皇の経緯」のこの政治環境中で、且つ、未だ乱も起こっていない時期に、「両氏の血縁」は無し得ない環境下であった事。
(ヘ) 両氏には、軍勢は低く、兵を集めるにも「周囲の軍団」に条件を付けて頼み込んでまとめる程度のもので、「事前説」の様に「自力勢力」は無かった事。

参考
当時の多くの資料から観ると、「平安期の戦闘」は、そもそも「殺戮」そのものの結果では無く、如何に大義を上手く唱え、賛同得て「他氏兵力」を集めるかにあった。
当時は「5千の兵力」がその戦いのパラメータと成っていた。
従って、如何に「諜報戦」をするかに掛かり、この結果、急に戦局が一挙に変化する等の事が起こる戦場であった。
当に、この「将門の乱」は、この「典型的な戦い」として有名である。
この意味でも「貞盛事前説」には「事後説」でなくては無理が在るのである。
(「貞盛派歴史家」の「後付」の誇張偏纂説の所以)

年代検証
「貞盛」は、生は不詳 没は989年 佐馬允935年 役職は最低15歳 生は920年 将門乱鎮圧940年−20歳 没69歳 )
「秀郷」は、生没不詳 流罪916年 乱行罰929年 刑罰は最低15歳 生は901年 将門乱鎮圧940年−29歳 没82歳 )

結論
将門乱前、つまり、「乱の混乱期初期」の「事前の婚姻説」は、最低930年頃には、貞盛は受領家側から嫁取は年齢的に出来ない。
将門乱後、つまり、[乱の混乱期後期」の「以後の婚姻説」の最低942年頃以降でなくては、歴史上の史実から観ても成り立たない。
又、「受領家側の妹娘」の低年齢からも成り立たない。

これは当時の慣習年齢(婚姻や役職)などの「最低の条件」から算出しても、この条件以上の範囲では、{事前婚姻説(親族説)}等は成り立たない。


この様に、上記した様に「円融天皇期の混乱期の政治情勢」や、その環境を一発逆転しようとして「一連の目論見」が働いている中での検証としては、当時の「氏家制度の慣習仕来り掟」は洩れなく護られている。
明らかに,「目論見の中での仕来り」が好く動いている事に成り、よくある「氏家制度の慣習仕来り掟」の「矛盾」は無い。

(「事前婚姻説」があったとすれば、上記の「目論見の経緯」は決して起こり得ていなかった可能性が有る。しかし、「歴史の史実」は起こっているし、「青木氏」で云えば現存するに至っている。)

岡田での”「嶋崎殿」”の年齢的にも納得出来る人物としてでは、「繁盛養子」がこの為のものであった事に成るのである。
この様に「弟繁盛の息子等」が「貞盛の養子」と成っており、そうすると、この”「嶋崎殿の養子と成った子供」”は次ぎの人物と成る。

それは、彼の有名な逸話の「戸隠の鬼女紅葉退治」の伝承で名高い”「余五将軍平維茂」”ではないかと観ている。

ここで注目すべき事が、歴史的史実として「貞盛と繁盛」の間で起こっていた。
「将門の乱」後の「繁盛」には、兄に続いて「常陸大掾」に成るが、上記した様に、「貞盛」に比べて恩賞はこれだけであって、「不遇の人」として見られていた。
その為に、”「大掾繁盛殿」”等と境遇を揶揄的な形で扱われた。
多くに、特別呼称されていて、その中の一つで、「厚遇の貞盛」に対して、「不遇繁盛」を揶揄する意も込めての”「嶋崎殿」”と呼ばれていた。
この”「嶋崎殿」”の「揶揄の意」には、”兄に比べて常陸国の岡田郡の誰も知らない様な「片田舎の嶋崎」の豪者”と、「都人の揶揄の呼称」で噂されていた。
当初資料では、”岡田を号していた”としている事から、事件前は普通に、岡田郡の人と云う意味で、”岡田殿”と呼ばれていた事は、その意味で判る。
然し、事件後の結果から、更に、”小さい片田舎の嶋崎殿”に替えられた事は、明らかに揶揄であろう。普通は小さくは成らない。
その”揶揄”の中には、更には、兄に比べられて「繁盛の性格」が朝廷に疑われた可能性もあった。
その為に、「繁盛の事」に付いての資料には,”寺に籠り写経をする”等の様な事の内容が多い。
一族の中にこの繁盛の不満行動に対して、一族の恥として反発をする者が多く出事が記録されている。
この反発した一族の者等が、揶揄的に大きい国の「岡田殿」から、”小さい田舎の住人”とする揶揄で、呼称を”「嶋崎殿」”と呼ぶようになったと観られる。
その事もあったか、後日に、「不遇の親」として「子供の事」を思い、別に子供を上記の様に貞盛等の親族の家等に「養子」に出すなどの処置が起こっている。


参考(重要)
この「繁盛」の”「嶋崎殿の呼称」”に付いては、「二つの青木氏の記録」と「佐々木氏の記録」と、この「三氏の末裔の家記録」に見えている。
中でも注目するのは、「佐々木氏の資料」にある。
この「佐々木氏の資料」には、同族である「近江佐々木氏」は、全国的に子孫を展開していて特に、「神職と住職」に大きく関わる「氏族」である。
「神職と住職」は当時の時代に於いては、「農民の庶民」から「皇位に至るのまでの高位族」迄実に深く関わっている「氏族」である。
それは、返して、「末端の情報」から、「天皇に至るまでの情報」を詳細に獲得できる位置に居た。
むしろ、当時は、「神社仏閣]は、「軍事,政治,経済の拠点」とも成って、その役柄を果たしていた時代でもあった。
「神仏に努める者」とは必ずしも成って居なかった。
そもそも、この傾向は室町期に成ってその役割は増した位であった。
その意味で、この「佐々木氏」は、全国ネットのその「佐々木シンジケート」を使って「時代を左右」させたのである。
「川島皇子」を始祖とするこの「近江の賜姓族佐々木氏」は、同じ同族の「賜姓族青木氏」も「神明社組織」を使って良く似た役割を果たしていた。
そして、その「氏族の組織体制」や「慣習仕来り掟」や「伝統」も「酷似の範囲」にあった。
従って、唯、違う処は、「佐々木氏の全国ネットの差」にあった。
筆者は、殆ど「佐々木氏資料」は「青木氏資料」と観ていて、補えるところはこの範疇にある。

本論も、参考にしていて、取り分け、この「嶋崎殿の検証」の考証には大いに参考に成った。
「佐々木」には、もう一つ「青木氏」と違うところがある。
それは、宗家の地理的な関係もあってか、「藤原氏北家筋」との「親交の深い繋がり」や「血縁の絆」を持っていた事にある。

その「資料」には、”何気なく書かれている事柄”が、「歴史的検証」には非常に役に立ち、当時の「慣習仕来り掟等事」や[時事評論」が記載されての資料である事であった。
その事から、この広域から得なければならないこの”「嶋崎殿」”の事も、最初はこの「佐々木氏の資料」から習得した事であった。

あらゆる「検証」に絶対的に必要とする「歴史観の参考書」とも云えるものとして評価していて、これは他氏には絶対に及ぶことが無い「青木氏」ならではのものである。
故に、「青木氏の由来・伝統の解明」は、搾取偏纂説や誇張説」に惑わされる事が無く、正当に引きずられる様に進んだ。


さて、その資料をベースにして次ぎの事を更に論じる。
「円融天皇の朝廷」に、この事で「繁盛」はこの不遇に対して何度も朝廷に具申するも無視された。
その事も有って、「献策者」等の周囲が見兼ねたか、この「円融天皇の目論見策」に「白羽の矢」が当てられた。
つまり、「貞盛」に匹敵する「家柄」を与え「格式」を高める手立てに出た。

(京平族の中には、逆に、繁盛の遣り過ぎに京平族の権威を落とし天皇から信頼を落とすとして反対者も多く出た。記録にある。)

異常とも考えられる「40にも上る外戚」の中では、この扱い方では「議論百出の結果」と成った。
繁盛擁護の「外戚の働きかけ」は少なかったと観られる。
そのような様子は資料には、一部が「執り成し」をしたとする記録があるが、一族からは出て来ない。

形式上の慣習として、上記の様に、当時の「仕来り」に依る「藤原氏ー青木氏の名乗り」は、当時の「高位の氏族」の良く採る「慣習仕来り掟」から「嫁ぎ先の氏名」を実家先が先ず名乗った事に成る。
しかし、この「実娘」(不詳)が、「千国の妃」に入って、”「青木氏」”を名乗って、その子供が「秀郷流青木氏の始祖」と成ったと観られる。

この「妃の実家先の青木氏」を、三代目(繁盛−維茂の子)から正式に継続的に引き継いで名乗ったのである。

これは、当時の「高位の氏族」が頻繁に執る「重要な仕来り」である。
この時、「初代の嶋崎殿」と呼ばれた「初代の繁盛」の「青木氏」は、子孫が出来得れば、或は、出来なくても親族より上記の様に、「養子」を取り、その者にこの「青木氏」の「二代目跡目」を先ず継承させる。
この場合は、二代目は「維茂」と成る。
そして、「初代の繁盛」は、自ら隠居して「元の平氏」に戻ると云う「仕来り」を敷く事に成る。
次いで、「二代目の維茂」が、暫くして子供(三代目)に引き継いだ事で、適時に「元の平氏」に戻す事に成る。
結局、この「二代目(維茂)」までは「形式上の継承者」として取り仕切りられる。
そして、「三代目」から継続して正式に青木氏を継承して行く事に成る。

(注釈 二代目までは、その出自は現存した「他氏の者」であった事から、其の侭では「不作法」と成る。
そこで、正式に「藤原族の青木氏」と成って誕生した「三代目」が「正規の跡目者」として「青木氏」を興した事を意味する。

(注釈 「二代目までの仕来り」は、「円融天皇の目論見策」であった事を物語ります。)

これは「賜姓族」等が必ず採らねばならない「仕来り」であり、”「賜姓」はしたが「跡目」が無く引き継げなかった”と云う風な「失礼な事(「不作法」 「不敬不遜の至り」)」が起こらない様にする「仕来り」である。
その為に、「二代後」から正規に継承するか、「三代目」から継承するかで、”明らかに継承した”としての形を、「天皇」に対して「儀礼上の仕来り」を採る事に成る。
この場合は、「二代目」までは「平氏」で、「純粋な藤原族の青木氏」と成り得ていないので、「三代目」から正式継承で答える事と成る。

この時の「正規の初代(三代目)」は、正規に「藤原姓」を名乗る事を許され「兵右衛門利澄」の姓を受けていて、直ちに「青木氏」に改めている。

この、この「兵右衛門利澄」は、三代目以降に引き継がれて、正式に「藤原族の青木兵右衛門利澄」と成る。
これが、この「嶋崎殿の青木氏」の「藤原族青木氏」の今後の「通名」となるのである。

この「嫡子四代目」は、”「兵右衛門利備」”と云う様に、「利」又は「澄」が引き継がれて行っている。

(注釈 検証 この「受領家の藤原氏」を引き継いだのであるから、「藤原族青木利澄」には、「何かの根拠」が有ったと考えられる。

そこで、この「藤原氏の系譜」を調べて観た。
そうすると、丁度、全く同時期頃に「秀郷流」の「藤原公澄」なる人物が居た。
この「人物」には、問題があったか正式な形で「跡目」が継承されず、「公澄」より三代を経てやっと継承されている。
つまり、故意的に「空籍]にされている部分がある。

(注釈 [不敬不遜の至り」に成らない様に「故意的に空籍」にしたと観られる。)

この事に付いては、確証は得られていないが、恐らくは、この「空籍」の「公澄の跡目」の形で”「澄の通名」”を「嶋崎度の青木氏の三代目」に与えたと観られる。
その「空籍の跡目」の形で”「利澄]”が与えられた可能性が高い。
その結果、「添書」には不詳で、理由が判らないが、何故か、この「公澄の三代後」には「跡目」が正規に引き継がれている。

(注釈 その引き継がれた人物が、”与えた”とする事を証明している。下記注釈)

この「空籍の系譜」と、「二代目維茂」の後の「三代目」が正式に「藤原族の青木氏」が引き継がれたのであるから、この事から”「三代後」”が符号一致している。

(注釈 この「藤原族の青木利澄」のこの「分家族」には、この「公澄の系列」に就かれている「秀の通名」と同じで「忠秀」(・秀)で継承されている事でも証拠だてられる。)

(注釈 この「藤原公澄」は、秀郷の七代目正没不詳であるが、計算から1030年前後頃の人物である。
この「公澄」は、同時に二代目後の「伊勢伊藤氏の始祖」の「基景の祖父」に当たる。
これは同時期に「伊藤氏]が発祥した事に成る。
この「伊藤氏」は伊勢を室町期に支配した北畠氏の家老の「尾藤氏族」でもあり、この事でも繋がる。)

(注釈 実は、この「公澄」の子の「知基」は、「秀郷流文行系長谷川氏」に跡目が切れたために跡目に入り継承している。
この時、丁度、「文行系の跡目」が”「空籍」と成った事”から、この「跡目」を「繁盛−維茂」の後の「三代目」に継承させたと観られる。
これを「利澄」としたと観られる。)

そもそも、この”空籍と成った事”に付いて、故意的に、「長谷川氏の跡目」にしたかは不詳であるが、可能性は否定できない。
その可能性の根拠は、そもそも、その「空籍の状況」そのものがおかしい。
故に、この間の「公澄」の次ぎの二代は「空籍」として「系譜」を扱っている。
先ず、”二代”と云う事が疑問である。普通なら一代で充分である。
その後の実質の「跡目系譜」を観て見ると、元の「公澄の曾孫の知廣」に継承させて纏めている。

これが”空籍と成った事”の”「故意的か」の事”に付いては、わざとらしいので、”「曾孫の知廣」”が継承している事から観て、”「故意的」”と観られる。
何も、”二代”にする必要は跡目が居たのであるから無い。
例え、嫡男が「長谷川氏」に跡目に入ったとしても、直ぐに「孫か曾孫」が居たのであるから跡目を継承させれば良い筈である。
「空籍」にする必要性は全く無い。況してや、”「二代の空籍」”の必要性は尚更に無い。
何故ならば、普通ならば、「公澄」の跡目に「知基」を据え、「長谷川氏に跡目」が欠けたとすれば、「通常の慣習」の通りで「孫の知昌」か「曾孫の知廣」に「長谷川氏」を継がせれば良い事であって、何も「系譜」を態々「空籍」にしなくても良い事に成る。
何も無ければ「空籍の根拠」の必要性は全く無い。

これは系譜を、”態々「空籍」にしなければ成らない”「相当な理由」”の何かがあったからこそ「空籍」とした”のである。
それを、「一代空籍」としても良い事に成る。
然し、「二代空籍の系譜」としなければ成らない”「絶対制のある抜き差しならない相当な理由」”があった事に成る。
そして、その「二代空籍の系譜」とする以上は、普通ならば「知基」の子供(孫)」で済ませられる筈である。
然し、「曾孫(知廣)」として「系譜」を作り上げている。
つまり、「孫」では無く「曾孫」として置くことで「二代空籍の系譜」を作り上げた事に成る。

では、その「孫」は一体誰かと成る。
「系譜」は「公澄」−「知基」−「・?・」−「知廣」となるが、「・?・」は不明で出て来ない。
年数的にも、”「曾孫までの時間的間隔」”はこの場合は生まれない。
つまり、そもそも、「公澄」−「知基」−「知廣」であって、「二代空籍の系譜」を形式的にも絶対的に作らねばならない理由があった事に成る。
「知廣」は「曾孫」では無く「孫」なのである。(「知昌」も孫である。)
あくまでも、形式上の理由で、「藤原秀郷流諸氏略系譜」では「曾孫」として整えた事に成る。

後は、そこで、「知基の跡目」を受けた「長谷川氏の系譜」では、知基−知昌−知忠−知宗−秀康・・・と続く。

(注釈 重要 「伊勢伊藤氏」は、この公澄−知基−基景と成っている。)

この「長谷川氏の系譜」の「知基−知昌−知忠」の横に「別系」として「曾孫の位置」に「知廣」を繋げているが略系譜の譜には無い。
この「長谷川氏の系譜」で「略系譜の辻褄」を合わした事で、上記の事が証明される。

(注釈 伊勢の「伊藤氏の始祖」と成った「基景」とは、「利澄」と全く同時期である。大きな意味がある。)

では、その相当な理由とは何なのかであるが、明らかに、「不敬不遜の至りの不作法」に成らない様に「略系譜」では仕上げたのである。
それには、次ぎの二つの方法(作法)がある。

「公澄の系譜」に「二代空籍の作法」とした跡目

(ア)「藤原氏の籍」を形式的にも継承した「一代目繁盛−二代目維茂」の「二代分」を入れる事で空籍とした。
(イ)「実質的に「嶋崎殿の青木氏」の「三代目利澄−四代目利備の譜」を仕立て上げて「二代分」の空籍とした。

以上の二つの何れかの作法で「ルーツが完全に繋がった形の作法」で臨んだ事が云える。

では、この(ア)(イ)のどちらにしたのかと云う事に成る。
つまり、(ア)の形式的か、(イ)の実質的かと成る。

ここで、この判別はこの「略系譜」の表現にある。

「空籍」とせずに何も書き込めば良い事で済む筈に成る。
然し、この「略系譜」は「空籍」の形を採っている。
そして、「添書」としては次ぎの様に成っている。
「空籍」にしながら、”「この間に二代の継承有・・」”と記述している。
「公澄より三代後の継承者」として、「知廣と知宗」の継承と成っている。
然し、「公澄」より「四代目の継承者」の後の跡目は「知」の「通名」を使っていない。

これで、はっきりしている。

答えは、(イ)の「実質の継承者」であった事に成る。
(ア)では、「知」の通名は使えないからである。

恐らくは、「2の円融期の青木氏宗家」が持つ「藤原族の略系譜」の原本には、(ア)が書かれている筈である。
何故ならば、(ア)(イ)とは「青木氏の系譜」の上では上記の様に明確に成っているからである。
然し、筆者が持つ「藤原氏の略系譜」には「添書」で外している。
それは、”「この間に二代の継承有・・」”と云う事は、この系譜作成に関わった藤原氏の者等は、この「継承者の事」を知っている事に成る。
そうで無ければ、「不詳」で済ます筈である。知って居なけれは「・・二代の継承有・・」とは書かない。

”「藤原氏の略系譜」”である事からこそ、この「氏外の継承者」を不記載として、「添書」にその旨を表記して済ました事に成る。

(注釈 むしろ、研究ではこの方が「当時の経緯」がより詳細に追及出来たとして良かった。「添書」にはその間の「経緯」が潜んでいてその意味で重視している。
尚、「青木氏宗家」が持つ筈の青木氏に関わる”「藤原族の略系譜」”は、「個々の系譜」は出ているが、「全体の系譜」としては出て来ない。
入間に現存する宗家筋が、「青木氏の氏是」に沿って出さないのかも知れない。筆者も出さない様に。)



そもそも、ここで更に重要な事が在る。
「千常」と「千国」のルーツを含めて「公澄の系譜」も、累代は、”「左衛門尉」(宮廷警護役)”の”「永代の家柄」”である。
特に、「秀郷一門」の中でも、この「公澄ルーツ」は、累代は「左衛門尉」(宮廷警護役)の家柄であった事から、”「嶋崎殿の青木氏」”の「出自の系譜」(役職)となったのである。

その事から、「三代目の利澄の氏家の役柄」は、永代で「宮廷警護」の「左衛門尉」の配下の”「大番役」の「実務役」”を担った根拠に成るのである。

(注釈 この「利澄系譜」の三氏はこの「大番役」を主務としている。下記)

つまり、これはどういう事かと云うと、”「同時期」”に次ぎの様な事が起こった。

1  藤原氏の「秀郷」の「二代目」の「千国の青木氏」を武蔵で発祥させた。
2  平氏の「繁盛−維茂」の後の「三代目」の「利澄」は「伊賀の青木氏」を正式に発祥させた。
3  藤原氏の「公澄」の「三代目」の「基景」の「伊勢の伊藤氏」を正式に発祥させた。
4  藤原氏の「千国の二代目」(成行)が伊勢で「秀郷流青木氏」の任に付き「伊勢の青木氏」を正規に発祥させた。

4の「伊勢ルーツ」の検証 
・ ・−・成行−・家綱−・有綱−・景綱−・基網−・国綱−宗綱−宗行−行春−為行−行久−行兼−右近−行信−行勝−行春・−・・・と続く。

個々の系譜を観ると、次ぎの様に成る。(「2の円融期の伊勢青木氏」の生き様が良く観える。)

先ず、「初期の頃」は、各地に「派遣される護衛団」としての人員不足から「秀郷出自先の佐野氏」より原則として跡目が入っている。(円融期の取り決めどおりである。)

然し、「跡目の入れ替え」が興って居て、「6代目位」頃からは「同族長沼氏」、「12代目」頃からは「同族永嶋氏」からも跡目を受けている。

更に、「公澄の頃」には「調整役の進藤氏」(文行系)からも「青木氏の跡目」を受けている。

然し、この現象は、上記の「国綱の頃」まで興している。粗方の体制は整った頃と成る。

これは「宗家の赴任地」が増えるに従い「護衛団」を派遣しなくてはならない事も重なって起った現象である。

その為に、一度入った「跡目」から抜けて「別の赴任地」の「青木氏の跡目」に入る等のやり繰りを繰り返している。

「24地域の護衛団」、「500社の神明社建立管理団」、「宮廷親衛隊」、「五地域天領地護衛団」等に「跡目」を送り込む必要があったからである。

その為に「子孫拡大策」が「行久の頃」まで「最大の課題」であった模様で有る。

従って、「四妻制」から嫡子嗣子妾子に関わらず15歳になると同時に配置されて、「早婚制度」が興った。

何れの嗣子にもこの為に差別なしに「四家制度」で孫域までを子供として扱い動員した。

この為に「跡目の入れ替え」が盛んに起ったのであり、「同名の跡目」が地域のルーツに起こるのはこの事から来ている。

そこで、「本所」の「伊勢ルーツ」と、「本家」の「武蔵ルーツ」とを比較すると、「同名の跡目」が最も多く観られる。
この事は、この「跡目の入れ替え」が盛んに起こっていた事を示す。

従って、与えられた「賜姓五役」の「役務上の本所」は、「伊勢」が「本所」であった事に依る。

秀郷一門の「護衛団の役目柄」は、「本家」であった事に依る。

その意味で、伊勢は「本所」と、武蔵は「本家」と呼ばれていた。これは「本所=本家の関係」にあった事を示す。

中には、「西の本所」,「東の本家」と書いたものがある。この意味は「本所=本家の関係」の中で、「役務]を「東西]である程度分けていた事を示す。

「長沼氏にある跡目名」が「本所と本家の青木氏」にも同時代にあり、「永嶋氏にある跡目名」が「本所と本家の青木氏」にも同時代にあると云う現象も起こっている。

同名でなくても「通名」から観ても、「長沼氏、永嶋氏」から「本所と本家の跡目」に入っている現象も興っている。

「本所」と「本家」の程ではないが、「主要の地域ルーツ」にも「跡目名の移動」は余り観られないが、「通名」や「添書の記載」で「跡目」が入っている事が判る。

これ等が116氏に拡がった所以の一つでもある。

(注釈 「青木氏116氏」に及ぶ事で、”「固定的な跡目の概念の制度」”を敷くと、互いのルーツとテリトリーを護ろうとして「青木氏同士での勢力争い」が起こる事は必定である。
この事も避ける目的もあって、「跡目」には「ある程度の移動性」を持たせた事も考えられる。
更には、「赴任期間」が完了すると、「現地末孫」は別として、「本家に戻すと云う方式」も採っていた事も、「固定的な跡目概念」を排除する目的があったからである。
「116氏」と成ると「枝葉末孫」の「夫々の本家筋」が生まれ、その「本家元」に返す事に成っていた。
「本家筋の更に本家」を「宗家」と呼称し、「宗家筋の更に宗家」を「総宗本家」(大元 武蔵入間)と呼称した。
従って、「赴任地」には「家族同伴は禁令」であった。)

(注釈 従って、「赴任」は長期間を避け原則は朝廷の命に沿って、4年或は5年を限度とした。
その代わりに、「現地末孫」を義務付け、時には跡目が無く成る等の事が起こると「現地末孫」を本家に連れ戻ると云う現象が観られた。
これも、「本家筋」が採っていた「四家制度の概念」に在った。
要するに「跡目の人員確保」である。)

例えば、「伊勢ルーツ」は「伊勢ルーツ」で終わると云う「固定的な跡目の概念」を必ずしも持ち得ていなかった事を意味する。

その地域に対する「護衛上の能力」と「子孫力の強弱」から観て、柔軟に対処して「跡目の入れ替え」をして図ったものと観られる。

その子孫をどの様に扱うかは「四家制度の概念」に従った。

(注釈 この「跡目の入れ替え」が「24地域の116氏」の全てに及んでいたかは調べ切れない。)

この制度は、「役務上と護衛上の重要地域の範囲」と観られる。
その証拠に、「讃岐秀郷流青木氏等」は「自己能力」が高かった事から「上記の仕来り」は当初から無かった。


(注釈 特徴的な事は、「秀郷一門の調整役」であった別系の「文行系の進藤氏」から跡目が入っている事は大きな意味を持っている。
「進藤氏系青木氏」(阿波北)であるが、又は、「秀郷流近江蒲生氏」と繋がる「秀郷流近江脩行系州浜紋の青木氏」(紀州 伊予 土佐、美濃)である。
他に、「利仁流青木氏」もあるが、「阿波南以外」には無いので「跡目の入れ替え」は無かった。)

上記の事は、如何に「跡目の人員確保」が大変であったかを物語る。


以上の事が殆ど同時期に興った事を意味している。
当に、この「四氏族」を発祥させた「円融天皇の目論見策」は、「一発逆転の策」で有る事が良く判る。

伊勢では、あっと驚いたのではないかと想像できる。
伊勢では、今後、”何かが起こる”と人々は観たと思われる。
それが、”これで朝廷の内部が変わる”と「百姓の人」は明らかに想像したと考えられる。

(注釈 一部の資料に、朝廷内部の「外戚の勢力争いの弊害」が将来に危惧する表現が遺っている。
特に、多くの人と多くの立場の人と接する寺関係者の表現に観られる。
この事から、朝廷を左右させている外戚の摂関家を除いた「全ての百姓の思い」があった事が判る。)

では、伊勢では、今後、”何かが起こる”と人々は観たが、それは何故なのか、である。
それは取り分け「伊勢」に於いてでは、その前に「皇族賜姓青木氏」が、「二足の草鞋策」で「民を巻き込んだ殖産」を興し、「伊勢の民の生活」を良い方向に変えたからである。
この事が「円融天皇を動かした所以」でもあり、「青木氏の献策奏上」の「根源の元]と成った事が読み取れる。

だから、「(1)の天智期の青木氏」(「皇族賜姓青木氏」)等は、遂に「優秀であると観た円融天皇」を動かし、「目論見策」を献策して奏上する事を決めたのである。

そして、行動は興された。
この「青木氏」と同じ格式、権威、官位、官職、の「青木氏系氏族」が四つも一度に伊勢に発祥したのである。
「伊勢の百姓」の民は、この事、”何かが起こる”を思わない方がおかしい。

(注釈 現実にはこの後には”何かが起こった”のである。
約80年間の間に徐々にではあるが改善されて行った。
三代後の「後三条天皇」は、この外戚の外の天皇である。
40もの外戚は排除され、その40もの外戚が巣を食う「荘園制」は禁止された。
この弊害は排除され、その結果、[百姓の民」から「政治の天皇権威」は取り戻された。)

以上の検証の事も含めて(注釈内容からも含めて)、「嶋崎殿の青木氏」の継承にも、「受領家の藤原氏の系譜」とも比較しても、何らかの「政治的作為」(搾取偏纂)が経緯の中に無かった事が判る。

故に、この「2の円融期の青木氏」の「二つの流れの末裔」は、「伊勢]にて生き延びられて、伊賀より後に移動して、所謂、「嶋崎殿の青木氏」が,関東で「公澄の家柄と役柄」を引き継ぎ、その「大番役」で働き続け、現存するに至るのである。
(「二つの流れの末裔」:「嶋崎殿の青木氏」と「受領家の青木氏」 下記)


ここで、これらの事を更に確実に裏付けられる事として,この「嶋崎殿の青木氏の事」に付いて、上記の事も配慮して、更に別の面から検証を続けて論じて置く。

この「三代目以降」の「嶋崎殿の青木氏」の「末裔」と観られる「氏族」は、現在では「三氏系列」があり、何れも東関東(茨城域)に現存するのである。

この「三氏族」には、先ず一つの系列には、次ぎの事が成されいる。

A系列(主家筋)
秀郷一門の「近江族の蒲生左衛門太夫高郷」の末子(玄蕃允梵純)が、室町中期頃に母方の「伊勢秀郷流青木氏」を引き継いだが、この血筋を入れた事の系譜に成っている。
この系列が、「主筋」と観られる。

何故ならば、この「主筋」と観られる家の「系譜と伝統」には、それを証明するものを持っている。
この”「嶋崎殿の青木氏」”は、当初は直接的には秀郷一門の「秀郷流青木氏の血筋」を持っていない事に成る。
そこで、この「主筋」とする一族は、「伊勢秀郷流青木氏」の血筋を入れて、直接、間接に関わらず、一門の中に入る手段を選んだ事に成る。
現実に、他の一系列は、この手段を講じて居ない。
この「主筋」には、先ず、「主筋としての伝統」を持っている。
それは、この「主筋の三代目」の始祖と成る者(本家 「左衛門利澄」 分家 「左衛門忠秀」)の分家(利澄の弟)は、「猿楽で有名な春藤源七郎」の弟子と成り、その技を磨き、「徳川幕府の猿楽師範処」を務めている。
結局、紀州藩士であったが、江戸に召し出され「御廊下番」として「150俵」で召抱えられている。
この「主筋」と観られる家紋は、当初は「一文字紋]であったが、後に二代続きに男系跡目に恵まれず、「主紋]は「揚羽蝶紋」とし、「副紋」は「養子先の家紋(二葉蔓柏紋)」と成っている。

唯、この「二葉蔓柏紋」の家紋には、実は「青木氏」として重要な見逃せない謂れがあるのだ。
ただ「養子」と云う事で済ませられない「秀郷流青木氏」に関わる「謂れ」なのである。
この「二葉文様」は、特別に「青木葉文様」と云われ、「秀郷一門」の中でも「秀郷流青木氏」だけが使っていた「特別の文様(役紋)」である。
つまり、「秀郷一門の第二の宗家」としての「役割」を示す文様なのである。
正式には、「青木葉二葉文様」と云う。

(注釈 この「青木葉二葉文様」は、上記する様に、「賜姓五役の立場」であるからこそ使える「権威紋」であり、他氏は絶対に使えない。)

つまり、この「二葉蔓柏紋」は、「秀郷流青木氏」の本家筋(下り藤紋)の「枝葉末孫」で、本家筋ではあるが、「下がり藤紋」を直接使えない等の家筋の者が使った、謂わば、”「便宜的文様」”でもある。

(注釈 この様な「役紋 便宜的文様」を使えるのは、特別な事であって、「天皇家の式紋や役紋(権威紋)」と匹敵する朝廷から容認された「仕来り」である。
「徳川氏」は、これを真似て、「立葵紋」を「権威紋]として用いた。
「伊勢秀郷流青木氏」の「立葵紋の青木氏」が千葉と四日市に現存する。
「立葵紋の青木氏」も然ること乍ら、「青木葉二葉紋の青木氏」を観る事で、どの様な役務と権威のある家柄であるかを即座に判る様にしていた。)

更に、この系列下にある「青木氏を含む秀郷一門の蔓柏紋」を家紋とした家との血縁族であることを示している事に成る。

この「嶋崎殿の青木氏」が伊勢で「伊勢秀郷流青木氏」と先ず血縁して、更に、江戸に出て、その家は、この「二葉蔓柏紋の家」と養子縁組をした。
そして、この系列下に入った事を示している事に成る。
伊勢と江戸の二度に渡り、「秀郷流青木氏の血流」を入れた事に成る。

特に、この「二葉蔓柏紋」は、通称、家紋分析では、「青木葉文様」と呼ばれる文様で、実際には「秀郷流青木氏の家紋群」には無く、上記した様に「秀郷流青木氏の特別別流紋」としての「別扱い」で用いられた文様である。

「何かの特別な事情」のあった「青木氏本家筋」の「下り藤紋」を敢えて使わない者が使った文様を意味する。
この「何か特別な事情」に当たる事が、この「一文字紋」の「直接に青木氏の血筋を受けていない青木氏」を意味して居た事に成る。
その為に、この「青木葉文様の二葉紋」を使用して血縁した「蔓柏紋系の家筋」とあらわした事に成る。

従って、この様な使い方を本家筋の一門の中で良く使われた「青木葉紋」と云われるものである。
これは「完全な証拠」である。

この「青木葉文様」がここまで遺し得ている事に「青木氏」として驚きを感じる。
「青木氏の伝統」を「子孫」と共に「家紋などの仕来り」を遺し得ていた事である。
この一族は、「猿楽師範」として江戸に出向した時に一族ともども江戸に定住した事に成っている。

実は、この「青木葉文様」の「青木葉二枚葉紋」の「秀郷流青木氏」が他に関東に存在する。
この家は[揚羽蝶紋の総紋」では無い。
「下り藤紋」を総紋とする「蔦紋系の秀郷流青木氏」である。
江戸期には、「小十人組頭」となり「御家人」である。

つまり、上記主筋が伊勢で、「伊勢秀郷流青木氏の血筋」を入れた事で、上記した様に、家紋の「一文字紋」から、後に「青木葉二枚葉紋」の「二葉蔓柏紋」に変紋した。
しかし、この末裔が、正式に「秀郷流青木氏」に組み入れられる事に成った事から、矛盾の起こる「たいら族」の「揚羽蝶紋」を総紋(主紋)としないで、「下がり藤紋」を「総紋」とする「正規の青木葉文様」の「青木葉二枚紋」を改に興して継承した事に成る。
関東に来て、「二葉蔓柏紋の青木氏]と成った家が、その「末裔の者」の別の者に「秀郷流青木氏の本流としての青木氏」を「宗家の許可」を得て継承させた事に成る。

それを、更に、深める為にも、母方より一門の「蔦紋の血筋」のある事を理由に、「丸付き紋」(分家分派分流等が用いる印紋)を用いて「蔦紋」を「副紋」としたのである。
返して云えば、「二つの流れ」を敢えて興したのである。
この「二つの流れの家紋の存在」が、この「主筋である事とその存在」をも証明するものである。


「伊賀系(一文字系)の青木氏」は総紋を、「揚羽蝶紋系」と、「下り藤紋系」の「二つの流れ」を恣意的に興した事に成る。

B系列
次に、他の二系列の一つ(B)は、確かに[伊勢秀郷流青木氏」と血縁している。
しかし、この前に、紀州藩の前藩の「紀州浅野家の家臣」と成っていて、「浅野氏の分家筋」と血縁した系譜と成っている。
「浅野藩の和泉領域」は、紀州までの領域として、「伊賀の左横」に位置する地域である。
そこで、その分家筋と血縁したと観られる。
そして、この家紋は「違い鷹羽下一文字紋」である。
つまり、「浅野家の系列」に連なる「嶋崎殿の青木氏」(一文字紋)の一族である事を示している。
従って、この系列は、元は「浅野氏分家」の「根村」を号していてた。
後に、末裔の一人を元の所謂、「嶋崎殿の青木氏」を継承させている。
そして、「浅野家移封」と成って、「徳川頼宣の紀州藩」と成った時に、安芸に移動せずに、「紀州藩」に仕官している。
家康の次男「初代頼宣の紀州藩」は、この時に「仕官募集」(謀反を疑われた)を大々的に行った。
然し、その「仕官募集」が大がかりであった事から、家康死後、妬みもあって「頼宣謀反の嫌疑」を江戸から掛けられた位のものであった。
つまり、「伊勢の秀郷流青木氏」の”「一族一門丸抱えの策」”に出たのである。
依って、この「一文字紋の嶋崎殿の青木氏」は、この時、「伊勢秀郷流青木氏」に組み込まれて仕官が叶っている。
恐らくは、「一文字紋」では、「円融天皇の目論見策」から発祥し、「直接の血筋」を引いていない事から、更に、確実にする為に、この為の「伊勢秀郷流青木氏との縁組」をこの時に興したと観られる。
従って、「伊勢秀郷流青木氏」に組み込まれて「紀州藩]に仕官できた事に成った。
「紀州藩」に仕官できた事が、男系女系に関わらず「伊勢秀郷流青木氏」と血縁した事を物語るものである。

紀州藩の頼宣が、この「一文字紋の青木氏」を単なる家臣として仕官させたとは思えない。
恐らくは、「紀州藩の役柄」として江戸初期の未だ不安定な社会状況の中で、この「大番役」の果たせる氏族に極めて魅力を持ち、全国各藩の動向を探る上で欠かせない役柄と観て仕官させた事であると観ている。
その証拠に、250俵と云う高い石高で雇っているし、後に旗本で組頭にしている。

この時、どの「秀郷流青木氏」の組に組み込まれたかは、この家の「系譜と添書」から読み取ると、「伊賀組」とされたのではないかと観られる。
それは、伊勢にはこの伊賀氏に関わった「伊勢郷士」は20(天正の乱で18に成る。)は、この「伊賀組]に入った事に成っている。
「伊勢」は、「紀州徳川氏の飛び地領」として特別に扱われ、「伊勢組」の中の「伊賀組」に組み込まれたのである。
その後、吉宗に同行し、一族は紀州から江戸に移動定住している。
この「一文字系列」は、幕府では、最終は「旗本大番組 組頭」(250俵)に列している。
この一族は多能であった様で、系譜と添書から、次ぎの役柄を務めている。

勘定方、御書院番与力、御勘定方無役、小普請方、納戸方、大番組頭

(江戸時代の大番役に類する役柄 :小姓組、書院番、新番、大番、小十人組)

以上「6つの役柄」を務めている。

「1の天智期の青木氏」の「伊勢青木氏」は、「吉宗の育ての親」であり、嫡男六兵衛が家臣では無いが、将軍と成った時に江戸に同行している。
そして、「二足の草鞋策」の商いを利用して、「布衣着用の立場(大名扱いで謁見できる)」で「勘定方」と「納戸役」を務め、「享保の改革」を主導した。
この時、このB系列の「伊賀青木氏の一部」が、「勘定方」「納戸役」に入って「実務役」として共に働いたと観られる。

「御書院番与力」は、「将軍の秘書役で警護役」であるが、これも、「大名扱いの六兵衛」の下で「秘書役の実務」を担った事を意味している。

「大番組」は、「伊勢青木氏」は「伊勢神宮の職能集団「(「青木氏部」)」の「御師頭」であったが、この「御師制度」を吉宗は江戸幕府の組織の中に導入した。
この事から、「職能集団の普請方」と「本領の大番役」と成って「伊勢青木氏の配下」で「実務の初期の組織作り」で働いたのである。

B系列は、この「六つの役柄」では、「青木六兵衛」と共に「吉宗の意」を継嗣して全て江戸幕府の「役務の新規立ち上げ」(組織作り)に関わったと考えられる。

C系列
三系列のもう一つ系列(C)は、何故か家紋が変化していない。
由緒を示す「一文字紋」のままである。
然し、「伊勢秀郷流青木氏」との血縁も系譜から無い。
独自路線を「伊賀者」で貫いたと観られるが、しかし、吉宗に従い江戸に移動定住している。
もう一つの特徴は、系譜の一部が、他の系列と異なり一部で途切れて不思議に明確では無い。
どうも「伊賀忍者」の務めから来ているらしい。
添書から読み取る事が出来るのは、「近隣の土豪」であった「傭兵集団の柳生氏」等の配下に入っていた模様である。
そして「諜報活動」に従事したと観られる。それ故に系譜が確実に成っていないのであろう。
役務の恨みから里を擁護する為に隠した可能性が有る。
系譜などから確たる記録は見つからない。
この系譜は、確かに普通の下級武士ではあるが、添書には他の系列の格式は全く無い。
ただ、もう一つ不思議な事は、何とB系列と同じく「250俵」を知行し、上記の系列と同じく、代々、江戸幕府の「大番役」や[大番頭等」を務めている。
石高としては、普通の下級藩士であるが、やや上位に位置して居た事が判る。
この事から、この「Cの系列」は、上記の系列(B)の様にでは無く、「柳生氏配下」に入り多くの役務を果たした事に成っている。
然し、この「Cの系列」は、代々末裔は欠ける事無く「伊賀の諜報役の大番役」を引き継いだ系列に成っている。
「柳生氏の配下」でも上位の位置に居た事が判る。
このBとCの系列は、Aの系列の「御廊下番役」と異なり、一時、系譜から同じ「大番組」に位置して共に働いていた事が判る。


この事で、この三系列は「伊賀者」として、「親族の意識」を持ちながら、共に「旗本」を務めていた「青木氏」である事が証明できる。
特に、BとCの系列は吉宗に同行しての「旗本」である。
この事から、系列Aは、「猿楽師範の御廊下番」は「綱吉の時」の事である事。
従って、先ず「主家」が先導して、初期の「江戸入り」を役務を果たしていた事に成る。
その後に、BとCの系列が吉宗に同行して江戸入りを果たしていた事に成る。


更に、このAの系列を探ってみると、次ぎの様に成っている。
この「三系列]、つまり、初期末裔の一族の行動の採った最初の行動が良く判る。

この「三代目以降の嫡子」は次ぎの様に成る。
これに依って、「伊賀の青木氏の生き方の慣習」(伝統の一端)が良く読み取れる。

三代目は、鎌倉期末期頃、「伊勢伊賀の土着郷士(「伊勢秀郷流青木氏の保護下」)(−1354年)
四代目は、室町期初期頃、不詳 藤原氏仕官 「伊勢秀郷流青木氏」に従う。(−1520年)
五代目は、室町期中期頃、「織田家の配下」。(1596年−)
六代目は、室町期末期頃、「山内一豊」に従う。(−1660年)
七代目は、江戸期初期頃、初代山内家の「松平土佐守に扶助」(猿楽師)。(1701年−)
八代目は、「松平和泉守の家臣」(信輝)と成る。(1725年−)
九代目は、「丹波近江守(織田氏)に仕官。(1733年−)
十代目は、「幕府の猿楽師範」として出仕。(1771年−)

(特徴) 長命一族 平均寿命76歳 跡目17歳 父子仕官 嗣子継承

この「嗣子継承」とは、三代目と四代目の間には「年数のズレ」があるが、これは系譜から「兄弟間の跡目」で繋いできている事から起こっている現象である。
「系譜の跡目代」は、普通の「嫡子方式」に成っていて、原則としては記載されているが、11代まではこの「嗣子継承方式」と成っている。
ところが、必ずしも、この「嫡子」が「系譜」を継承したと云う風には不思議に成っていなのである。
特に、その八代目では、その「特徴」が顕著で、「父子兄弟嗣子」の五人が別個に重複仕官している。
これは「小十人組」と「大番組」と[御廊下番」の特徴ある「三つの役柄」から来ている。
この状況が何と幕末まで続いている。

要するに、この系譜の「跡目」は、本来は武士では原則は「嫡子」であるが、世代交代は「父子の一世代方式」では無く、「兄弟従兄弟の範囲」で次々と継承する「嗣子継承方式」を採っている。
つまりは、嫡子外が「部屋住み」と云う「一般武家の慣習」では無い事を意味する。
例えば、「三代目の嫡子」が職に就くが、その「兄弟の嗣子」も同じ様に職に就く。
「三代目嫡子」が仮に没すると、その「兄弟の嗣子」の一人が「三代目跡目」として引き継ぐ。
「三代目の嫡子嗣子」が全て没して、初めて「四代目嫡子」が跡目を引き継ぐ。
この「原理の繰り返し」で「世代の跡目」は引き継がれている。

これは、「大番役と云う職務」が「諜報と警備警護」を主務とする事から来ているものである。
その根本は「職務の秘匿性と継続性」を重視しなければならない「重要な職務」であった事に所以する。
「嫡子方式」だけでは、次ぎの世代の嫡子に引き継ぐときには、その熟練度が必ず低下する。
この事で、この「秘匿性と継続性」が切れる事が起こることは、戦国期には「危機存亡の事態」を招く事に成る。
これを防ぐ為の手段として、「親の兄弟−子の兄弟−孫の兄弟」の「世代交代」で行う方式を採った。

その為には、世代交代を成し得る為の継続性の「ある兄弟の職の補償」が必要と成った事から敷かれた”「大番役の仕来り」”である。
つまり、「訓練に依る熟練度」とその「適正度」が左右される職であった事から取られた方式である。
故に、上記の「主家筋の六の役柄」に関わった所以である。
恐らくは、”「何らかの関係」”があって、「勘定方」や「猿楽師」の様な「職」も生まれたのであろう。
むしろ、「諜報」と云う職務からも必要とした事も云える。
そもそも、この「六つの役職」は全てこの「諜報・護衛」に関わる仕事である。


この系譜から読み取れる事は、上記の「仕来り」に「一族間の仕来り」も従っているのである。

「主家」が先ず仕官して主導して、「一族三系列」に「枝葉末裔」を拡げている事が判る。
その為に、「父子」ともども、「嫡子」のみならず他の「嗣子」も「部屋住み」に成らず各地に仕官して、「一族存続」を懸命に広げている事がこの系譜から読み取れる。
明らかに「氏家制度」の”「嫡子の慣習」”は採用していない事が判る。
四代目の頃には、「伊勢藤原氏」の「秀郷流青木氏」は、「紀州藩」に「一族一門」が仕官を遂げている。
この事から、この時には、この「伊勢の秀郷流青木氏」の配下に入っているので、「江戸城の大番役」にも一部派遣されている事が予想できる。
江戸前から、有名な事として、家康が「軍編成改革」をしたが,この時にこの”「大番役」”を改に採用して、「武家様に概要」を作ったとされている。
この一族は、”「家康の身辺警護」の「親衛隊」”として「秀郷流青木氏」の配下で関西で務めていた。
この時に、主家の四代目か五代目がこの任に当っていた事に成る。
そして、江戸幕府を江戸城に開幕した時に次ぎの様な事をしている。
家康は、この”「大番役」”を上記の様に「5つの組織」に改革した。
然し、この時に、この「主家の一部」が”「江戸城詰め」”として赴任した。

そして、更に、猿楽は、四代当たりから習得が始まり、七代目あたりから、「宗家の一部」が、”「猿楽師の家」”として仕官(綱吉)に繋げている。
そもそも、この「猿楽」は、江戸期では「大名の嗜み」として扱われた事から、「大名の動向」を直接に探る目的からも用いられた「役柄」と観られる。
この事から、その「芸で身を立てる家」としても、父子、嫡子、嗣子が同時期に広く他藩にも仕官している。
「主家」では、「芸」では身を立てない者は、「伊賀者」として、「大番組」や「小十人組」に列して仕官を遂げている。
この形で、他の二系列に子孫を拡げさせている。
この「BとCの系列」は、基本的には、「小十人組」か「大番組」で仕官を遂げている。


(注釈 「小十人組」とは、江戸幕府の「警備・軍事の役職」で将軍等を護衛する護衛隊を云う。
「軍先衛隊」、「先遣警備隊」、「城中警備隊」の三役として働く役目である。
先見役、先衛役で「事前に情報収集」して於いて「現実の警備や掃討]に役立てる。
又、状況を把握して常時の警備に役立て働く役目で諜報と警備を果たした。
当に、この「三系列」が、「伊賀者」の”「伊賀の青木氏」”と呼称される所以である。)

(注釈 そもそも、この”「大番役」”とは、本来は、奈良期末期を経て平安時代から正式に敷かれていた「宮廷警護の役柄」であった。
「大番組」とは、江戸時代には、これを「旗本」で編制し、本陣を 固める精兵であったが、その元は「大番役」と云う平安期の「朝廷の宮廷の役柄」から来ているものであった。
「武士の江戸幕府」が、これを踏襲したが、当初は「江戸城および大坂城・京都二条城の警固」をする役務に利用したものであった。
然し、これは、もとは大化期の「青木氏の賜姓五役」の一つで、「賜姓臣下族」として「天皇を警護する役柄」から発展した役務で、「左衛門上佐」の官位の通り「青木氏」はこの指揮官であった。
この下に、「大番役」を置いて、「実際の宮廷内の警備警護」の実務を行うの事を主務として呼称された。
これが奈良期を経て平安期から室町期末期まで宮廷で続けられたものである。)

(注釈 「伊勢神宮」も、「皇祖神」である事、「皇族方の参詣」が多くあった事からも、この「大番役」を「青木氏の職能集団(青木氏部)」で果たした。
江戸期には、「青木氏と家康と関係」(前段の論文記載)から承知して、この「青木氏の役柄」を参考にして「武家政権」の内部に「徳川氏様仕様」として踏襲し直したものである。)


ここで、先に、「伊賀守」の呼称は、「一体誰なのか、どの流れなのか」の疑問が起こるので、先にこれを説く。
この事は、「伊賀地域」が、”どの様な位置関係に民衆から思われていたのか”をはっきりさせられる。
その事で、「伊賀の青木氏」の当時の社会の中での「立ち位置」を物語れる。

そもそも、この「伊賀守」が、「朝廷」、或は、「時の幕府」の「正式な官位官職」とするならば、それは、この”「伊賀の青木氏」”がどれだけ「当時の社会」に認められたものであったかが判るパラメータと成り得る。
又、その「伊賀守」と成った”「流れ」”が掴めれば、どれだけの「職業的な立場」を得られていたかも判る。
つまり、「地位の認知度]と「職業の立場」を推し量れる。

ところが、実はこの「伊賀守」とは特別なものであったのである。
そもそも、鎌倉期以降の「青木氏」に関わる「伊賀守」(伊賀域の定住者)の正式な官位を得た人物で実質支配権を持った人物は「三人」いる。
後は、「青木氏」に関わらずとも、殆ど”「官位」のみの呼称”であり、「現地の支配」と「現地子孫」は遺していない。


唯、ここで、述べて置かなければならない「歴史観」がある。
平安期から江戸期まで、この”「伊賀守」を名乗った人物”は、次ぎの様に成っている。

A 「朝廷」より「正式認可」された実質支配権を持つ伊賀守」
B 「朝廷」より「正式認可」されても実質支配権の無い「名誉官位の伊賀守」
C 「朝廷」の認可を得ても1年限り、或は一代限りに実質支配権の無い「限定された伊賀守」
D 「搾取の名乗り」の「伊賀守」
E 「室町末期」から起こった「幕府推薦で朝廷認可」の「一代限り金品」にて獲得した支配権の無い「伊賀守」

以上で獲得したものも含めて、江戸期初期までに何と18人にも居る。実に多い官位である。
この内訳は次ぎの通りである。

朝廷の「正式な官位認可」では、AとBの6人である。
この18人の内で、実質支配権を獲得しているのは、Aの3人である。
正式認可の6人の内で、実質支配権の全く無い名だけの「名誉官位は、Cの3人である。
18人の内の、12人の内で、Dに位置するのは、9人である。
12人の内の、3人の内で、1人は職能を称えた「名誉官位]で別枠である。
12人の内の、3人の内の2人は、Eで「金品官位」で、「重複で日替わり官位」である。


如何にこの「伊賀守」の「官位官職」が「政治的」に使われ「家柄誇張」等に使われたかが伺える。

中には、同時期に名乗っている者も居る。この様な「守]は他には少ない。
つまり、この様に多いと云う事は、この「伊賀守の立場」と云うものが、「如何に重要な格式のある立場」として利用できるとして信じられていたかは判る。
同時に、それを「授与していた朝廷]や「推薦した時の幕府」も「格式のある立場」として上手く政治的に利用して用いていた事が判る。

この「伊賀守」には、「伊賀」に全く何の繋がりや絆や関係ない者、伊賀に赴任していない者、などが殆どである。
そもそも、本来なら、「伊賀守」に成り得るには、それに「相当する格式と立場と家柄」を持っていなければ成らない。
然し、全く無い者までも含んでいる。むしろ多い。
流石、平安期には無い。室町期末期から江戸期全般に掛けて多い。
この現象は「下剋上」の始まる室町期からと成る。
つまり、「下剋上]と「搾取」と「金品」によって名乗った「伊賀守」が殆どと云う事に成る。

中には、明治期に成って、分析から元は農民であったのに、「個人の系譜」に書き込まれたものまである。
これは、恐らくは、後に末孫が歴史的史実や慣習を忘却していて、判断するに必要とする「歴史観の学識」は無いと観て、敢えて子孫に信じさせて家柄を将来まで搾取して誇張させようとしたものである。
異常にして搾取して家柄を誇張させようとした「虚栄心の異常な人物」も居たのである。
勿論、この検証では「第三氏」である事は確認は出来ているが,実はこの件では「青木氏」を名乗っている。
他に良く似た類似のものは他に二件があった。

つまり、この事は、これらを含めて少なくとも「青木氏の伊賀守」は、「世間の社会」の中でや「青木関係族」の中では、「重要な位置づけ」であったかを物語っている。
比較的に容易に反発の出ないそれを表現する手段が「伊賀守」であった事に成る。

「青木氏」が歴史上で、「守護職」に正式に任官した官職は、これも18である。
(「伝統シリーズ前段」か「青木氏の子孫力と分布」を参照)
然し、この中でも「伊賀守」と「紀伊守」は高かった事が判る。

「紀伊守」も同じ様な手口で用いられた。伊勢域の範囲と見做されていた事に成る。
伊勢神宮遷宮の時に紀伊がその遷宮地が最も多いのもこの事から来ている。
つまり、「準聖域的な国」としてみられていたのである。
要するに、これは、「伊勢」と云う「地域的なもの」が左右していたのである。

「伊勢国」は、古来から普通の国は4から5郡制であるが、特別に「2郡制」を採って来た。
然し、680年に後漢の阿多倍王に半国割譲して与えた。
この為に、伊勢国は「4郡制」に編成した。

北二郡
「阿拝郡」
「山田郡」

南二郡
「伊賀郡」
「名張郡」

以上の4郡にした。

伊勢北部域の「阿拝郡」は「阿多倍王」から通称の「あばい」から来ている。
(南九州には「阿多」と云う地名も遺している。)
「伊勢北部の二郡」は、奈良期の古来より「神の宿る地域」の「特別な神聖域」として扱われて来た。
そこに、伊勢から割譲した「伊賀」は、その意味から”「名誉域」”として利用され考えられた。
これが「名誉官位」の生まれる所以と成ったのである。
特に、江戸期には,この[伊賀」には「実質支配」は、”「伊勢秀郷流青木氏(忠元とその末裔)」に任す”として、官位そのものは別にして、幕府は「名誉官位」として政治的に利用した。
この「名誉官位」は6人中一人を除き「幕府推薦と朝廷承認」に利用された。

(注釈 「秀郷流伊勢青木氏の宗家(忠元)」は、「室町期末期(1570年頃)」から「実質支配」も持ち合わせ乍らこの「伊賀守」に任じられていた。

依って、本論では、「Aの3人」を論じる事に成る。

従って、果たして、「2の円融期の青木氏」の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」が、この「何れの青木氏」と成り得るのか検証した。
しかし、大方の検証は可能であるが、完全にf資料不足で確定できない。

その前に「青木氏」に関わる”「伊賀守」”は、次ぎの通りである。

(あ)
「藤原秀郷流宗家の朝光」(結城氏の祖の祖でもあるが、鎌倉期に頼朝に認められて「伊賀守」を務めた。
この「朝光の末裔」が鎌倉幕府の北条氏と血縁して後に、この絡みからこの末裔は「伊賀氏」を名乗り、、晩年、伊賀に住み着いた。
但し、ただ定住しただけで国主では無く正式には「伊賀守」は名乗っていない。
ここに後に、この「末裔」が「伊賀守」を名乗る結果と成ったと観られる。

(い)
「青木伊賀守」(任官1577年 忠元)は、室町期に信長に味方して、後に徳川氏から除封を受けた。
「藤原族の青木伊賀守忠元」の「伊賀守」がある。
この「忠元」は信長より推薦され正式に任官している。「秀郷流伊勢青木氏」で「宗家の嫡子」である。
「伊勢三乱」の時に活躍した有名な人物である。
(あ)も(い)も元を質せば、「秀郷流青木氏」である事に成る。
「結城の秀郷流一門宗家筋」か、「第二の宗家筋の伊勢の秀郷流青木氏」かの違いではあるが、「宗家」としての格式は何れも劣らずである。
江戸初期は、この(い)の「忠元」が、信頼されて「家康」から伊賀を任され、官位は外されるも紀州藩の「頼宣」からも伊賀も「実質支配」を任される。

(う)
平安期に清盛の租の国香−貞盛の二代目から清盛まで「伊賀守の半国守護」と成っている。
「青木氏の伊勢国647年」から「半国割譲680年」に伊賀国(4郡)に成っている。
「平安末期」に清盛はこれを朝廷に返している。
鎌倉期初期のその後に(あ)が入った。
然し、「清盛残留組」が「伊賀」に「伊賀衆郷士20氏」(青木氏が擁護)として遺る。
「伊賀の青木氏」もこの「残留組」に入った。
(い)と(う)の何れの流れも持つ複雑な立場であった。
つまり、この伊賀地域は、(あ)と(い)と(う)の末裔が混在した地域と成った。


(あ)の「鎌倉期の伊賀守」と、(い)の「室町期の伊賀守」と成る。

唯、次ぎの伊勢の経緯に付いて、「青木氏の歴史]を知る上で,知っておく必要がある。

そもそも、この(あ)と(い)の間には、ただ一人、「伊賀守」の官位だけでは無く、「実質支配」も目論んで乗り込んで来た人物が居た。
この時、概ねは、室町期中期の一定の短期間は、この「三河の仁木氏」と云う者が「伊賀守」と成った。
この「概ね」に意味があって、然し、伊賀に乗り込んだは良いが、殆ど、”「形式上の官位」”であって,全く「実質の支配力」は得られず殆ど皆無であった。
それも、「伊賀全域」では無く、「伊賀の阿拝の一部」であったと記録されている。
この「伊賀の仁木氏」の存在史実はあるが、実はその「ルーツの継承」ははっきりしていないのである。

この「伊賀仁木氏」の事では判る範囲で、「史実」として云えられているところでは、次ぎの様に成る。
この「足利氏系仁木氏(頼章)」は、「足利尊氏」に認められたが、この時、官位で「伊賀守」に任じられた。
然し、この「仁木一族」は「尊氏没後」(1358年)には衰退し滅亡している。(第一説)

ところが、この「仁木氏」は、尊氏死後の乱世で追われ、[丹波伊勢伊賀」等の9地域の任官先に居た一族は各地に散った。
この時、室町期中期頃の1400年前頃に「三河国額田郡仁木」に居た者等が、「足利氏傍系族(二引き両紋)」と名乗り、元の「任官先」であった[伊勢伊賀」の「一部」に入ったと記録されている。
然し、この「仁木氏」の人物は詳細不明で、入国後(1410年頃)、間も無く単に”「戦死」(1429年没)”と記されている。
この時点で「正当な仁木氏」は完全に絶えた事に成る。(第二説)

そして、その後、この伊賀の一部に「仁木氏外」の「山名氏」と名乗る者の出自不明成る者が、「伊賀守」を継いだとされる。
然し、その後、”「伊賀不穏」(1433年)” を理由に自ら「官位」のみの「伊賀守」を辞退した事に成っている。(第三説)

ここで、「山名氏」の後に、「第四説」の「仁木氏」と称する「出所不明な者」が現れ、1440年前頃にこれも完全に滅亡した。(第四説)

以上の記録では、入国したが、ところが、次ぎの様に成っている。
先ず、1429年頃には、「南二郡」が「国人郷士軍団」「(あ)から(う)の元勢力」に奪還され支配された。
1440年前頃には、「北二郡」も完全取り戻し支配したとある。

故に、衰退していた「足利幕府の伊賀守任官」に付いても、且つ、「実質支配」の無かった「一期間の勢力」に付いては「仁木氏」に関しては論外とする。

この「第二説の不詳の仁木氏」は、足利幕府の開幕後の入国後に、間も無く”戦死”と成っている記録もある。
然し、その後の「仁木氏の確証」の「末裔記録」は全く無い。
「仁木氏の系譜」とするものには、この「第二説以降のルーツの系譜」は載っていない。
つまり、「第一説の仁木氏」の三氏が「衰退した段階]で、この「伊賀」に関わった「仁木氏」は断絶したした事を物語る。
この”「断絶した原因」”には、「伊勢国人の勢力」に潰されたのか、跡目が絶えたのか、は不明である。
「伊賀の一部」と云う地域での「生きて行ける勢力範囲」は極めて小さい。
況して、殆ど「実質支配権」の無い中での小さい「勢力範囲の子孫力」である。
この「判断の最大の要素」は、「伊勢国人の勢力」との「付き合い関係の在り方」に関わる。
記録では「南部二郡」と「北部二郡」共に「伊勢国人の勢力」に排除されたと成っている。
それに古来からのある面で閉鎖的な「伊勢と云う国柄」と合わせて租借すると、「潰された関係」であった事に成る。
この”「潰された関係」”とすると、”「武力的子孫力」”に対する”「限定的な排除」”であったと観られる。
”「伊勢の国柄」”には、古来より”「武力アレルギー」”成るものがある。
「青木氏の氏是」も突き詰めれば「武力による警戒」である。
返して云えば、「武力」を除けば「迎え入れる事」に成る。
故に、「第二説」は「戦死」の記録で済ました事に成るのだ。
”「潰された関係」”とは、「武力的子孫力」を排除した上で、「伊賀地域」の中に溶け込ましたと観られる。
この”「武力的子孫力の排除範囲」”がどの程度であったかは、上記した様に、「伊勢戦史」の中には出て来ない事から、”「事件性」”の範囲で留まった事が判る。

注釈として 室町期末期の1500年以降にも、この滅亡している筈のこの「仁木氏」には、上記した「正当な滅亡記録」がありながらも、「活躍説」もあって他説が多くて信用できない。
然し乍ら、何れも「実質支配権の説」には至っていない。
この「1500「年代の不明な勢力」も「伊勢国人勢力」に依って排除されている。
間違いなく、後付の「江戸期の搾取偏纂説」と観られる。(第五説)



何せ、室町期は「下剋上」の世の中であった事から、この「第五説」は、その後、傍系末裔や家臣等の一部が、この「仁木氏」を名乗った可能性が高い。
記録では、上記の様に「4郡の国人の集団:青木氏の郷氏を含む伊勢集団」が取り戻している。
そもそも、この「第五説」の「仁木氏の伊賀説」は搾取偏纂である事が判る。
何故ならば、伊賀守に成り得る格式は全く無く、「伊賀の一部」の「出自の判らない小勢力]に過ぎない。
「後付の家柄誇張説」に過ぎない。
そもそも、この時期は、既に、「伊勢秀郷流青木氏の忠元」の「官位と実質支配」の「伊賀守の時代」である。


依って、そもそも、これ等の史実があれば、少なくとも次の二氏の記録には出て来なければならない。

「仁木氏」に付いては、「1の天智期の伊勢青木氏」のこの期間の「商業記録」には出て来ない事。
「仁木氏」に付いては、「2の円融期の青木氏」の伊勢の記録にも無い事。

以上、然し、不思議に無い。
同時期、「伊勢南域」を一時、「勢力圏」に置いた「北畠氏の事」は記録にありながら、「仁木氏の事」は無い。

(注釈 筆者は上記の「第二説」で、「伊賀守」は別として、「入国」は1429年までの「短期間10年程度」で終わったと観ている。
一種の「騒ぎか事件程度の範囲」であったと観ていて、多くの説は「江戸期の誇張説」である。)

これには、記録に遺らない”何かが起こった事”が云える。

「伊賀」の一部の小地域で「事件らしきもの」が起こったと云える。
そもそも、伊勢の「1と2の二つの青木氏」は、「青木氏の氏是」により、「破格の武力」を持ち得ていても侵入者に対して「直接武力」では排除出来ない。
入国しても、平穏に暮らす事には問題はない。
しかし、「武力」を使って周囲を圧迫し「勢力圏」を拡大すれば「支配権」を持つ者としては放置は出来ない。
「武力」を使ったと成れば、「青木氏の抑止力」を使って「圧迫を加えて抑え込む手段」に出る事に成る。
それでも納まらなければ、「抑止力の実力行使」で「最少限にして最高効果策」で解決する事に成る。
要は、「抑止力」で「仁木氏の主格筋」を潰す事に成る。
これが、「第二説の戦死」とした事にあると観られる。

この「仁木氏の主格」を処罰する代わりに、「子孫の定住と保護」を認めるとして解決したと観られる。
これには、資料の「10年程度とする表現」が、この処置に至るまでに所要した年数であると観られる。
一族郎党を潰そうとすれば1日で済む。
平穏に暮らす分には定住させ保護が「氏是の前提]である。

恐らく、「額田郡の仁木氏」と名乗る者が、態々「三河国」から一族郎党を連れて入国したが、この「青木氏の保護」の中に入ろうとしたと観られる。
然し、その”「対応上に過激さがあった事 (「伊賀守の利権」を主張した)”から伊賀の周囲から不満が出たと観られる。

そもそも、この「三河国額田郡」のこの「関東足利氏系の実国の末裔」を名乗る「仁木氏」成る者は、何故、実国が築いた三河額田郡の仁木の土地を離れて「伊賀の小地域」に新たに来たのかが疑問である。
”「青木氏」とどの様関係があったのか”を検証する。

そうすると、この説から観ると、普通は、例え、「第一説の伊賀の関係」があったとしても、「過去の伊賀」である。
その過去も、実質支配はしていない。
その証拠に、「1355年から1400年」の間、つまり、「第一説から第二説」の間には、「伊勢や伊賀」周辺には「仁木氏の郷氏」はいなかった。
その事から考えると、「殴り込み説」に成る。
果たして、「殴り込み説」が可能かどうかは,既に判っていた筈である。
「伊勢」には、有史来、「実質支配力」の持った「強力な国人集団」が居たのである。
況して、足利氏である。普通の氏族では無い。
「仁木氏」が主張する事が正しいとすれば、由緒ある下野の「足利源氏の末裔」である。
「第一説の滅亡」を打ち消して、「末裔」とするならば、そんな強引な事はしないだろう。
そもそも、過去に於いて、「官位」と共に「実質支配」した「伊賀守」はいない。
それを知った上での「殴り込む」のか疑問である。
況してや、「長年の実国からの所縁の故郷」を放り出して、”態々、何故、「伊賀」に来るか”の疑問がある。


ところが、更に検証すると、そもそも、実は、この”「額田郡の美濃源氏」”と云うのは、奈良期の古来から「1の天智期の青木氏」の縁者(嫁ぎ先)でもあった。
「額田郡の仁木氏」が「下野足利氏末裔(足利源氏)」であるとするならば、無縁では無かった筈である。

この三河地域には、次ぎの青木村があった。

「額田郡の青木村」(伊勢の皇族賜姓族青木氏  摂津源氏)
「渥美郡の青木村」(美濃の藤原秀郷流青木氏  美濃源氏)

以上の二つの青木村が住み分けてあった。
何れも、「源氏の血筋」を受けている。

同じ「額田郡の住人」であるとするならば、知ら無い訳は無いだろう。


この様な経緯から、この様な何らかの「絆や繋りや紹介」があって「伊賀」に入った事も充分に考えられる。
とすると、”戦国で追いやられて伊賀に入った”と云う事が濃厚である。
この事から、「第二説の仁木氏」は大して大きい集団では無かった事が云える。
入国後に事件を起こして、主格は潰された。

その後に、この末裔子孫か家臣が、「仁木氏」を旗印に名乗り再び「伊賀守」を名乗ろうとしたが、今度は主格では済まず滅ぼされた事に成ろう。
これが「第四説」と云う事に成ろう。
その前に、「第三説」の「山名氏」が「伊賀守」として振舞ったが、”「伊賀不穏」”の理由の通り、「強い国人」が居て「実質支配の無い」ところでの「君臨の難しさ」を物語る理由と成っている。


それは、そもそも、「伊勢全域」が「2郡制」であった事による。
この”「2郡制」”に意味があった。何故、敢えて「2郡制」にしていたのかである。
普通は一国は「4乃至5郡制」である。
この「伊勢4郡」は、上記で論じている様に、「国人の勢力」の強い地域で、「実質支配」は到底無理であった。
ここはつまり、奈良期からの歴史の持つ一種の”「聖域」”と見做されていたのである。

上記の序盤で論じた様に、「伊勢域」が「伊勢郷士数」が他の国に比べて1/20と歴史的に少ないのもこの事はから来ているのである。

そもそも、「伊勢」は”「不入不倫の権」”で「伊勢神宮の聖域」として、元々長い間の「安定」を期す事を旨として「2郡制」を採っていたのである。
そして、より「支配権」を安定させる為に、「伊勢国」の「土地の使役権」(地役権 地主権)を「伊勢国人郷氏」に与える”「不入権」”を設定していたのである。
その為に、この「不入権」を以って「支配権安定策」として「北部南部の2郡」にしていたのである。

例え、「守護職」が伊勢域に入ったとしても、「国人」の「土地の使役権」(地役権 地主権)がある為に、全域に対して実質に税を採りたてる事は出来ないのである。
従って、伊賀守の「管理権」や「支配権(命令権)」も全域には及ばない事に成る。
この「管理権と支配権」を確保しようとすると、「国人」を攻め落とす事に成る。
これは”「不倫の権」”に触れて「朝敵」と成る為に出来ないのである。
そして、この「国人」の下に「朝廷」より「氏族」として認められた「伊勢郷士集団20氏」が組織されていたのである。
結局、強引に「支配権」を獲得しようとすれば、「伊勢全域」を相手にする事に成り、謀略さえも仕えず出来ないのである。

「伊賀守」は、「伊勢のシステム」上では、”「名誉官位」”と好むと好まざると必然的に成り得るのである。

これが、所謂、”「2郡制」”なのであった。
この事から観ても、例え、「4郡制」にして「南北域」を分けた処で、「人の絆やつながり」(実質支配権)等は変わらない。
「郡域」を増やせば、その「支配の圏域」は散在する為に、圏域集中を目的として「郡数」を二つにしたのである。


これを覆そうとして、伊勢に入ったのが、「仁木氏」であり、「北畠氏」であり、「六角氏」であった。
つまり、「室町期初期の足利勢力」である。

当然に、「名誉官位」に留まらずに、この「支配力」を強めようとすれば、「国人との戦い」、つまり、「伊勢勢力との戦い」と成るのである。
上記した「第二説」の”「仁木氏の戦死」”の記録は、恐らくはこの事から起こったと観られる。
何れ三氏ともこの「影の勢力」で短期間で滅亡したと云う事である。
(ゲリラ戦に近い形で掃討した。)

室町期は、「伊勢国人青木氏」は、「二足の草鞋策」で「巨万の富」と「影の勢力」を持っていた。
この事を配慮すれば、「武力だけを頼りにする三氏」が挑戦しても「青木氏の総合戦力」と「戦いの大義」の「極端の差」がある。
故に短期間で排除できた所以でもある。

(注釈 彼の信長も秀吉も知略を使って実質的に排除したのである。)

室町期から脱した江戸期の「伊勢の伊賀官位」は全て”「名誉官位」”と成り得た所以である。
「家康」や「頼宣」等との「青木氏との連携」があって、元から「官位のみの任官」と成ったのである。

況してや、下記の通り、(あ)から(お)の勢力があった処に「三河の額田郡」から入ったとしても、恐らく、この「5つの勢力」を排除出来ない筈である。
これは「伊勢の国人勢力」が「有史来の絆」により「一致団結」して強い事から来ているのである。
「入国後戦死」の記録は当然である。

何かが起こったとする事は次ぎの事が云える。
「国人の長」としての「青木氏」等の「二足の草鞋策」や「シンジケートの抑止力」や「古来からの朝廷との繋がり」があれば、「仁木氏」であろうが誰であろうが、「500万石以上の影陰の力」を持っていれば「蠅の範囲の事」であった。
故に、この組織で固められた地域である限りは、絶対に「実質支配」は起こらないのである。
依って、「仁木氏入国後戦死」の記録が正しいと観られる。

この「記録の有り様」では、「五つの勢力」の「国人とする在伊勢勢力」で潰されたとしても、「不入不倫の権」で保護されている。
「仁木氏」が攻め入ったとすると、「大権」を犯したのである事から、「攻め入った」と形作るとすると、足利氏と仁木氏は「朝敵」と見做される。
記録上は「別の理由」とする必要がある。
そもそも、彼の狂暴と見做されていた「信長」の「伊勢三乱」でも、この「大権」は犯さなかったのである。
間違いなく、「伊勢シンジケート」で影で潰されたと観られる。
後の「北二郡の奪還」とする記録は、この「下剋上家臣の残存の掃討」であったと観られる。


依って、「仁木氏の事」も含めて各の如しで、「弱体化した幕府や朝廷」の「官位」を得たとしても、「実質支配」は「地元の勢力」にあった。
「伊勢4郡」の「国人の地元勢力の支配無し」では、”「伊賀守」”とは成り得ず「守護」とは云えない。
「形式」であろうが、「形式」で無かろうが、「金品」であろうが、「名誉」であろうが、「どんな形」であろうが、遣ろうとすれば「官位だけの形」に成って仕舞うのである。

歴史上の「正式の任官者」の「六人」の内の「五人」は全て「官位」だけで「伊賀」は扱われたのである。
その様に「名誉の官職」としてに長い間を扱われ”「生きた聖域」”であった。

故に、実質の支配は、上記の(い)でなのである。


果たして、「2の円融期の青木氏」の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」が、上記の様に、「(う)の絆」はあるとしても、(い)の「伊賀守」に繋がる論処が見つからない。

(あ)は確かに「伊賀氏」を名乗ったが、必ずしも「青木氏」を名乗ってはいない。
秀郷一門の宗家の結城の「朝光の末裔」と成れば「青木氏」であった可能性は否定できない。
伊勢の「1と2の二つの青木氏」との「歴史的な親密な関係」があった事は否定できない。

つまり、(い)が(あ)に繋がっているのか、(う)に繋がっているのかによって決まる。

この確定するものが出て来ない。
然し、筆者は、(い)は、「2の円融期の青木氏」の中の(お)の「本流の本家秀郷流青木氏」であって、(え)の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」では無いと観ている。
但し、(え)の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」は、既に、室町期中期以降の事であるので、最早、その秀郷一族一門の中での「位置づけ」は、無く成っていたと観ている。

「本流の秀郷流青木氏」と「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」は、伊勢に於いては「本家分家の差」があるにしても、「流の筋差」は無く成って居た事を示している。
依って、「青木伊賀守」は、本家分家の「宗家の跡目者の官位]と成っていたと見做される。

「実質支配」は、以後、「(い)の忠元(1577年任官)の末裔の支配下」にあった。
その中でも、、(え)の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」が取り仕切っていたと観られる。

(注釈 「皇族賜姓族青木氏」も伊勢伊賀国の一部の地権を保持して、「和紙殖産の土地」としていた。)

この結果、1440年頃から、1577年までの間(137年間)は、この「伊賀」には「伊賀守」は存在しなかった事に成る。
(い)の実質支配の下に(え)が仕切っていた事に成る。

上記する「官位」だけで扱われた「伊賀守」には、室町期から江戸期全期に掛けて重複する事もあって「歴史上の意味合い」が無く青木氏に執っては論外である。

伊賀に関わる者としては、次ぎの様に成る。

(う)の「残存者」
(あ)の「移住者」
(え)の「伊賀の青木氏(嶋崎殿青木氏)」
(お)の「本流の本家秀郷流青木氏」

依って、「伊賀守の疑問」は、この様に成る。
この疑問を解いた歴史観を以て下記を論じる。

重要
”「伊賀者」と「伊賀の青木氏」”が、この「役柄」を仕事とした根拠は、ここから来ている。
つまり、「2の円融期の青木氏」の「秀郷流青木氏」が「1の天智期の青木氏」の補完役として役務が与えられた。
この役務には、「1の天智期の青木氏」と同じく「賜姓五役と護衛役」が与えられた。
しかし、この「2の円融期の青木氏」のもう一つの「嶋崎殿の青木氏」(「伊賀の青木氏」)には役務が無ければこの「氏存続」は成り立たない。
その「役務」を、”「公澄の左衛門尉」”を踏襲させて「護衛役の実務」を担う事に成ったのである。
その「実務]とは、上記した様に、この”「大番役」”であった。

初期の「伊賀の青木氏」(嶋崎殿の青木氏 三代目以降)の役務として「円融天皇の目論見策」で与えられた。
唯、「特別賜姓族」として「千国の妃の実家先」に、態々「青木氏」を名乗らせる目的には、上記した様に、確かに「目論見策の意」はあった。
上記で検証した様に、これらの事から、疑う余地は無い。

然し、かと言って、「伊勢神宮の大番役の実務」を、”本流の「秀郷流青木氏」に務めさせるのか”と云う疑問がある。
確かに、「(1)の天智期の青木氏の職務」は過多であって、「秀郷流青木氏」を「特別賜姓」して”「補完させる」”と云う「本来の策の目的」があった事は否めない。
だからと云って、この「役目の大番実務」も、「(2)の円融期の青木氏」に負担させるのかと云う率直な疑問も起こる。

「指揮官としての実務」も、「伊勢神宮」も然ること乍ら、「都の宮廷」などの警護などもあり明らかに繁多である。

「五家五流の地の天領地の警備」
「祖先神の神明社の建立とその500社に及ぶ管理保全」
「天皇警護を含む賜姓五役の務め」
「伊勢域と神宮警護」

以上の様に、指揮はするも、到底、「大番実務」(上記)までは無理である事が判る。
「家人」等が負担するのも「大番実務」までは無理である。
つまり、「手足で働く家人」では無く、「指揮の専門青木氏」と「大番の専門青木氏」が必要なのである。
そうすると、「青木氏」に執っては、「伊勢神宮」だけでも「大番実務」をさせる族も決めなくては「絵に描いた餅」である。
その意味でも、「伊賀の青木氏」(「嶋崎殿の青木氏」)の「諜報役の大番役」が「神宮の傍」に置く必要があったのであった。
そして、偶然に伊賀に「伊賀の青木氏」(「嶋崎殿の青木氏」)が生まれた訳では無いのである。

これを「2の円融期の青木氏」の中にして「嶋崎殿の青木氏」(「伊賀の青木氏」)に負わせる事で解決する。
然し、「繁盛」と「維茂」には、「たいら族」としての体面があり直接に負わせる事は出来ない。
上記した様に、「仕来り」から、一度は「藤原族の秀郷流青木氏」を継承するも「元のたいら族」に戻る慣習と成る。
だとして、「三代目」にこれを負わせる事で、「たいら族側」には異論は無く成り、血筋はあるとしても、最早、「氏族」が異なる事から口は出せなくなる。
従って、「伊勢神宮の大番役」は、三代目から負わせた筈である事は判る。
それは、三代目(四代目)が「伊勢秀郷流青木氏の支配下」に入って生きている事からも理解できる。


これが、(1)の天智期と(2)の円融期の「青木氏の主務」として、A系列(BとCの系列)に最初に勧めた事から「伊賀忍者」が「生まれた所以」である。
そもそも、主家の「猿楽師」は、その後の「嗜み」から「役柄」としたもので、「本来の仕事」は、この「大番役」から「小十人役」へと繋ぎ「伊賀の青木氏の役柄」に成ったのであった。

(注釈 平安期から江戸期に掛けて「高位の家柄筋の嗜み」として求められた。江戸期には茶道に変化した。)

所謂、この”「大番役」”は、大化期からの「賜姓五役」から発展した全ての「本来の青木氏の役柄」であって、その「実務」であったのである。

(注釈 この事を敢えて、”「青木氏の伝統」”として、その「大きな経緯」もあった事から、「円融天皇の目論見策」の一つとして論じる必要があった。

この「大番役と小十人役」の”「青木氏の伝統」”には、その元は”「青木氏の伝統」”から来ているのである。

そもそも、上記の「三系列の系譜」の列記は、これを良く表しているので記載である。

平たく云えば、「伊賀忍者の発祥元」は、「青木氏の大番役の実務」から来ているのである。


この事を念頭にして、次ぎの事をお読み願いたい。

以上で、この「貞盛の養子」と成った「繁盛の子」の”「平維茂」”を二代目の始祖とした「嶋崎氏の青木氏」は、秀郷一門の「秀郷流青木氏」の中でも異流ではあった。
しかし、この様に、平安末期から室町期末期頃までには、「賜姓五役」の一つとして、「大番役」として「秀郷一門の青木氏」に確実に組み込まれた事が判る。

これほどに検証は複雑であったが、完全に紐解けたと観られる。
この「嶋崎殿の青木氏の検証」は矛盾なく成り立つ事が判る。
これは「青木氏」ならではの検証で有って、他氏には100年経っても決して論じる事さえも、無し得ない「検証結果」なのである。
況や、これは「青木氏の伝統」なのである。
依って、「青木氏」が知っておかなければならない「伝統」であるのだ。


さて、更に次ぎの「テーマの検証」に入るとして、次ぎの事からも充分に考えられる”「献策による青木氏差配」”であった事が判る。

「伊勢青木氏」も「信濃青木氏」も、「隣の伊賀」に対して、”「知古の範囲」”での”「青木氏の献策差配」”をした事に成る。
如何に、「伊賀」とは親交を図っていたかは上記の事でも充分に理解できる。


(注釈 筆者は、上記した「繁盛等の処遇」も含めて、「伊賀のたいら族」も「伊勢秀郷流青木氏」も「献策の青木氏差配」の事は,この時の関係者は,この時、充分に承知していたと考えている。
当時の政治状況の解決の為の「総合的解決策」としての「円融天皇の目論見策」として進めたと観られる。
「青木氏からの献策」に付いて、”この事を必要だ”と適格に判断した若い「円融天皇」は、周囲が四面楚歌の中で、且つ、天皇と云えども命さえも危ぶまれる中で、良く出来たと観られる。
「普通の能力」では、「青木氏の献策」が必要だと思う事が、「天皇と云う環境」から充分な社会情報が与えられていず、且つ、得られていなかった事が普通である。
そんな中で、普通ならばこの様な「目論見策」は無理であろう事が明確に判る。)

(注釈 況してや、外戚が40もいれば,「自分たちの利益」の為に思う様に操ろうとして、「不都合な社会情報」等は遮断される筈である。
然し、現実に、”判断で出来た”と云う事は、矢張り、”「裏ルートからの情報」を得ていた”としか考えられない。
その「裏ルート源」とは、それを成し得るには、上記で論じた「献策」と同様に、「献策者青木氏」しか無かったと観られる。
後に、「後三条天皇期」には、”北面武士”と呼ばれた「賜姓五役」の一つであった「天皇護衛の役目」(「身辺警護の役目」)の時を利用したものであったと考えられる。)

表向きは、「円融天皇]は”愚者常人を装った事”もあって、「歴史上の評価」は低くかったが、実際は事の次第を判断してこの事態を改善したのである。
故に、青木氏では”優れていた”と判断している。

その優れていたとする証拠に、「円融天皇」系列の遺伝を引き継ぐ「一条天皇」と「三条天皇」と「後三条天皇」の末裔三天皇は、自己の意志で「歴史上の実績」を遺した”「優秀な天皇」”として評価されている。
そうであるとするならば、「先祖の円融天皇」も評価されるべきである。
この「三天皇」は、「円融天皇の目論見策」の意志を継ぎ次ぎの様な「役務」を天皇として担った。

最初の「一条天皇」から「下準備]を進めた。
中間の「三条天皇」では「外戚の反対勢力」を弱めた。
最後に、「後三条天皇」は、何と「40もの煩い外戚」を完全に外して、「藤原氏に外戚」を持たない「外籍天皇」として「荘園制を廃止」を敢行した。

以上の「政治的な課題」を果たしたのである。
最終的には、誰しも怖くて成し得なかった「荘園制」をタッグを組んで廃止した天皇達である。

(注釈 これには、筆者は、「円融天皇の後継者」の「花山天皇」をも評価している。
実は、「花山天皇」は、この「荘園制」に、”病魔の様に巣喰う虫”の「賜姓源氏制度」を最終として廃止した天皇である。。
この事に依って、「他の虫の外戚勢力」も「花山天皇」が「廃止の勅命」を下した以上、その意志を無視して続ける事は「不敬不遜の至り」と成り「朝敵」と見做される。
次第にその「収入」が無く成り、「財力」が低下して「発言力」が無く成り、衰退して子孫を遺せない様な「外戚」が出た。
これで「公家の藤原氏」や「11家の源氏]や「橘氏」等は結局は衰退したのであるが、中には、形振り構わず「公家武家」が現れる始末であった。
後の「一条天皇の為の環境整備」をした事に成った。

(注釈 「源氏16代とする説」は、「正式な賜姓の源氏(11流)」では無く、徳川氏等の家柄搾取(4家)の所以である。
この「源氏」には、「賜姓」で無い「源氏」は、実は多いのである。
判る範囲でも「公家源氏4家」もある。
この他に、数えきれない程の「源氏」では無い荘園制から来た荘園制源氏とも云うべき”「未勘氏源氏」”がある。)


平安末期のこの時には、”「北面武士」”と呼ばれた「宮廷警護制度」と「身辺警護」を正式に採用したのである。
(上記の「実務の大番役」)
「宮廷の三門」を警護すると共に、天皇の寝食の隣室に「警護室」を設け、天下に武勇に優れた「豪傑を常設待機」、交代で「24時間警護」、外出時は「即座警護」に当たったほどの態勢を執った。
天智期に新設した「天皇家を護る青木氏の親衛隊」は,平安期末期には、更に細かく成り、大番役等の上記のシステムが追加されたのである。
この時、平安期では、「1の天智期の青木氏」は「左衛門上佐・右衛門上佐」を始め、「源氏」や「藤原氏」(左衛門尉)がこれを務めた。

後に「平家(清盛時代)」も務める事に成ったが、この時は、出自が異なる事から、後に改めて”「西面武士」”と呼称された。

「円融期の平安期」の頃には、「賜姓五役としての青木氏」が務めていた事から、この「献策」と「情報提供」が「裏ルート」として可能と成っていたのである。

(注釈 「青木氏」は、「賜姓族」「臣下族」としての顔もあって、「表向き」は”「抑止力」”を前提としていたが、「臣下族」としては「軍事力」を保持出来た。
その軍の一部は、伊豆の国に配置されていた。
「清和源氏」「四家の宗家頼政」の「孫京綱」が、「伊勢青木氏跡目」に入った事から、この軍を伊豆領国に配置していたのである。
「青木氏の跡目と成った京綱」は「源氏との同族の融合」である。)

この「円融天皇の目論見策」に付いては、「貞盛、繁盛、秀郷」等の関係者等は、暗に周知の「献策の青木氏差配」と承知していた事であったと観られる。
これを周知だとすると、平安期末期の「源平の雌雄」を決した後に、この「伊賀地域」と「一部紀州南部域」は、「鎌倉幕府の頼朝」より北条氏等の反対を押し切って「奈良期からの青木氏遠祖地」として本領安堵されたのである。
この事後の事から鑑みても、この”「嶋崎殿の子孫末裔」”を「伊賀地域」で護る事が出来た。
且つ、「不入不倫の大権」で護られていた事もあって、少しでも浸食すれば「朝敵]と見做されてしまう結果と成った。
故に、「嶋崎殿の子孫末裔」を護る事が出来たのである。
依って、「他の勢力」が浸食出来ない事に成るし、「伊勢シンジケート」に組み込まれる為に、浸食すれば、「伊勢シンジケート」に逆襲される事と成って生き延びられたのである。

幾ら「円融天皇の目論見策」の「嶋崎殿の子孫末裔」だとしても、上記の様に、”「背後の抑止力」”が無ければ簡単には生き延びられる時代では決して無かった。
それこそ「絵に描いた餅」で「無駄骨」である。
そんな事は、「献策者の責任」に於いても、「青木氏の氏是」に沿っても絶対に「青木氏」はしない。
「知略」を「氏是」としている位である。

(注釈 前段の「伊勢商人の射和商人」や「天正三乱」の事でも、”「共に生きた事」”からも判る。)

この「青木氏の庇護」だけでは無く、「伊勢青木氏末裔」にも「嶋崎殿の末裔」にも、この事の「口伝」があったからこそ、明治期までその関係は続いたと観ている。
「一時期の歴史」は「一時期の歴史」で終わるかは、その中に「感謝と尊厳が存在するか」に関わる。
この様な「青木氏の献策差配」等の経緯が、平安期からあって、「周知の口伝」があったからこそ、江戸期までも互いに護り合った事に成る。

江戸期に限らず,明治期に成っても「商い」でも「伊勢商人」と「射和商人」と云う関係を互いに築き、共に「20郷士集団」で結束したのである。


話しを戻してより詳細に別の面から検証する。
そうする事で、「青木氏の伝統」と云うものがより浮かび上がらせる事が出来るだろう。

上記の論に続き、依って、そもそも、この伊賀の”「たいら族」”としては、この時期には、上記の様に「主紋と副紋」を持ち得ていた事は理解できる。
然し、普通であれば、「総紋」をも持ち得ていたとすると、「桓武平氏」の侭であっても良い筈である。
況して、「娘嫁ぎ先」の事である事も含めて、何も「実家先」が「藤原氏」を名乗り、更には、況して、「円融天皇」の肝いりの「特別賜姓族の青木氏」を名乗る事などあり得ない事である。
明らかに、この時の現状では、未だ他氏を抑え込めるだけのものは充分に無かった事が云える。
所謂、未だ、「官僚族の範囲の事」であった「桓武平氏」である事を歴史的(記録)にも認められている。
然しながらも、態々、先ず、その「慣習」を改めさ、覚悟をきめさせた上で、矢継ぎ早に、「氏名」を「藤原氏」にする事で、「吊り合い」を取らせた。
そして、巨大な「藤原一門」に組み込ませたのである。

つまり、より一段と勢力を持つ為には、現状の「官僚族の範囲から脱皮する機会」であったのだ。
その上で、直後に「円融天皇の差配」と成る「特別賜姓族の青木氏」を何と名乗らせた事に同意した事に成る。
何はともあれ、これは「娘の実家先」に対しての出来事である事なのだ。

これだけの事は、相当な覚悟が無ければ成らない。簡単にあっそうですかと云う事では済まない。
況してや、「氏家制度」の真ん中である。
下手をすると、「官僚族の範囲」も神威失墜で落とし兼ねない「賭け」とも成り得るのだ。
先ずは、「当時の慣習」としては、この「賭け」は考え難いが、然し、現実には興っている。

これは、「円融天皇の差配」であった事からこそ興った事であれ、これは「思い付きの事」では無い。
事前に相当周囲で調整した事で無ければ成し得ない。
つまり、「円融天皇の特別賜姓族」と云う「格式」を護るための「掟」を確実に踏んだ事を示す事に成る。
明らかに、この「血縁差配」は、「背後での献策の差配」であった事を示している。
「天皇」自らが、一氏族の中に入って、「仲人の様な血縁」を勅命する事は、到底に適わない事は明明白白である。
依って、「前代未聞の事」と成り得る為に、この「陰影の血縁差配」を以って、「円融天皇」は「特別の計らい」をした事が判る。

(注釈 「特別賜姓族」と呼ばれていた所以であろう。)

然し、そもそも、この「歴史的な事」として観られる「陰影の血縁差配」は、”誰が献策したか”が「青木氏」に執っては最も重要である。
従って、それは、上記した様に言わずもがなこれを解明するのは「青木氏」以外には無いのである。

「青木氏」が、この「円融天皇の一連の差配事」を、「歴史的事実」として解き明かさねば誰も解き明かしてはくれない。
恐らくは、当たり前の様に自然に起こったかの様な形で済まされて、関連する歴史的史実(伝統)は消滅していた筈である。
「青木氏」が、真面な形で生き残らせてもらった代わりに、これは、「献策期」から「射和商人」迄の明治期まで続いた「深い関係」である以上、「将来の子孫」に「青木氏全体の伝統」と云う形で遺しておかねばならないで事であろう。

「青木氏」には、「伊勢領国」を奈良期に半国割譲した地域の同じ「伊勢伊賀北部」に住んでいる「京平氏の実家先」とは、極めて深い親交のある”「隣人」”であった。
「隣人以上」に、「伊勢和紙(伊賀和紙)殖産」の「企業相手」でもあった。
後に、この「殖産」を通じてそれに関係する「物品の生産」の「興業」(1025年頃 二次産業 紙箱など 大正期まで続いた。)を共に興した相手でもある。

この事から、恐らくは、逆に歴史を遡ったとしても、「伊勢と信濃の青木氏」が調整して根回しをして献策した事は先ず間違いは無い事に成るだろう。
これで、「伊賀殿と伊勢殿の付き合い関係」がどの様なものであったかは想像しなくても判る。

「実家先の宗家貞盛」に「繁盛から養子維茂」を出したが、「嫡子」とはせずに「四男の維盛」が、結局、「伊賀」を継承して「五代後の清盛」に繋がった。
従って、当初よりこの「養子維茂」が直接に「跡目」として入った訳ではない。
つまり、「養子の目的」が別にあった事を物語る事である。
本来であれば、「養子の目的」は「跡目」を前提とする。
後の「貞盛の実子(4人)」には「跡目」に相応しくない何かの理由があった時に行われる「跡目の仕来り」である。
然し、この「4人の実子」にはその様な事は特段に無かった。
むしろ、「実子の維盛」は歴史上に名を遺す程に優れていた。
従って、「円融天皇の目論見策」に対する「形式上の仕来り」を採ったに過ぎない事に成る。
「長男とされる維叙」も「藤原氏の済時」からの養子である。
「養子」を採って跡目を良くした訳でも何でもない。

明らかに、「繁盛に対する差配」としての「伊勢信濃青木氏の調整と根回し」に依る「円融天皇への献策」であった事が読み取れる。
この事からも、「献策者は伊勢信濃の青木氏」であった事が判る。
又、後の「清盛の生誕の経緯」(下記)や「有綱宗綱助命嘆願」からも、”「献策者は伊勢信濃青木氏であった事」”が裏付けられる。


(注釈 「伊賀検証」  この後に、「京平家」は「清盛」に依って「巨大な勢力」を張り、終局、1185年(以仁王の乱1180年)に「摂津源氏の源頼政」が、この「京平氏」と雌雄を決する事に成った。
然し、この時、敗退した「頼政の孫」の「宗綱と有綱」と「弟の高綱」の「助命嘆願」を、この「京平家」の「伊賀の実家先」に頼み込みこんだ。
「清盛」は一変してこの三名に限り「日向廻村」に配流処置で済ませた。
これは、「頼政の孫」の三兄弟の「三男京綱」は事前に「伊勢青木氏の跡目」に入って居た事から、「兄の助命嘆願」を実家先の”「清盛の実母」”(下記検証)に願い出た事から特別に許された事であるとされている。)

(注釈 ”「清盛の実母」”には多説あり、「祇園女御」(又は妹説で養子説)、実父は白河院、「育て親」は忠盛の妻「池禅尼」である。
「清盛」は「伊勢の津」に生まれた。
「祇園女御」は立場上、祇園に住んでいたので「伊賀の里」には住んでいない。
従って、「白河院」から寵愛を受けた「舞子」の「女御」である立場から、「津」に宿下がりしてでの出産と成った。
然し、それが「津」とするとあり得ず、結局は”「女御妹説」”にと成る。)

(注釈 何れも育てる事は、侭ならない事から,「忠盛」に預け、この「伊賀の里」で(「池禅尼」は池と云う地名に住居)が育てた事に成る。
この時の「青木氏の記録」では「清盛の実母」と成っている。
然し、果たして、「育親」のこの「池禅尼」であった事に成るのか。
「池禅尼」は、「忠盛没後の1153年」に尼僧となるが、「頼朝の助命嘆願」に奔走した事は有名である。
「池禅尼」は、正妻で、「忠盛の妻」は多くいたが、1164年没前頃の時に、この伊賀に「池禅尼」が住する事があったのかである。
「1153年忠盛死後」に尼僧に成り、「六波羅の池の地」に住した事から「池禅尼」と呼称された事を是とすると、可能性としては低い。
結局は、ここで実はこの「忠盛の妻」には上記の「祇園女御の妹」が居た事は事実である。
とすると、つまり、「祇園女御」そのものが「一切不詳」である事から、「妹」は尚不詳と成っている。
従って、「忠盛の妾妃」の「妹の実母説」(つまり、「祇園女御の猶子の記録説」)が残る。
とすると、「清盛実母」、「津」、「忠盛妻説」、「伊賀居説」、「1180年宗綱助命嘆願説」、「青木氏記録の実母説」などでは符合一致する。
又、「伊勢津」には、「二つの青木氏の勢力域」で、「青木氏の菩提寺の分寺」(本寺は松坂)があった。
この事からも、「清盛津誕生説」は、この「分寺」(本寺共に現存)にて生誕した可能性が高い。)

(注釈 何故ならば、当時、「伊勢の津域」を「差配統治」して居た事から、「氏家制度の慣習」から観て、商いの関係から「相談」を受け、ここに「産屋」を提供し手配したのではないかと想像できる。
「伊賀での生誕」は、多くの忠盛妻が居た事から産屋は難しい。
この時は、既に、「青木氏」は「紙屋院」として「和紙の殖産」と「二足の草鞋策」の「商い」していた年代である事から、[伊賀殿」との「隣人親交」は「和紙企業の関係」からも深かった事に成る。
宗綱等の「助命嘆願」を受けて貰える関係は、充分に有った。
その関係にあった”「青木氏が云う実母」”とは、「池禅尼の没年の晩年説」か「祇園女御妹説」かのどちらかであった事に成る。
然し、上記の「注釈の検証」から、「祇園女御妹説」の可能性が極めて高い。)

(注釈 「1180年の助命嘆願」を受けた「人」は、「祇園女御と妹」の生没不詳から「女御妹の晩年の事」と成る。
「1181年清盛没の直前の嘆願」の直前と成り、「妹説74歳」は妥当と成り、何とか成り立つ。)

(注釈 更には、「桓武天皇の京平氏」の母は、「光仁天皇(伊勢青木氏始祖 施基皇子の子供白壁王)の妃の「高野新笠」である事、
つまり、「伊勢青木氏」とは「女系の縁者関係」にもあった事からも、この「献策の血縁差配」の検証は納得出来る。)

この注釈の検証等の様に、それが、「嵯峨期の詔勅禁令」の例外を次から次へと実施し、「天智期からの青木氏の賜姓」を上手く適用したのである。
では、「円融天皇」に献策が出来て、40もの外戚から成る煩い「摂関家を抑え込める勢力」は、果たして「何処の氏族」かと云う事に成る。
最早、一目瞭然で、導き出せる事は疑う余地は無く成る。

それには、「天皇に朝見」が出来て、且つ、「献策出来る格式を持つ氏族」は、数える程も無い。
先ず、「朝見]できるのは、「正三位」以上の永代格式を持つ事が必要で、「献策」か出来得るのは「浄高二位以上」である事が必要である。
この「浄高二位」は皇太子格に相当する。
「源氏族11家」は、「朝見の永代権」は持ち得ず、「嵯峨期詔勅」で「大権と土地を持たない朝臣族授与」を前提とした為に「従四位下」を限度としたので、朝見できない事に成る。

そこで、「皇太子以上の家筋」は、永代に持ち得ているのはたった二家しかない。
それは、「伊勢青木氏(浄大一位)」と「近江佐々木氏(浄大二位 後に一位に成る)」の二氏である。
つまり、”永代に天皇にこっそりと検索できる権利”を天智期から与えられている「二つの氏族」なのである。
例え、「斎蔵の藤原氏摂関家」に於いてでさえも、「摂関家の宗家」を引き継いだ「太政大臣と左大臣」成る者しかいない。
他の摂関家の者は「朝見」は出来ても「献策」は出来ないのである。
とすると、上記から記述して来た通りである。

「状況を変え得る能力」としては次ぎの条件が成り立たねばならない。

「献策」を裏付けられる「権利」としての事、
それを「実行し得る財力」としての事、
「40もの外戚」を問答無用で押えられる「勢力」の事、

以上の事からも、「五家五流賜姓族青木氏」しか無い事に成る。

中でも、「賜姓五役」を主導し実行している「伊勢と信濃の青木氏」と成る。

但し、政治に関する「実質の斎蔵権」を持っていない事から、あくまでも「陰からの献策権」と云う事に成る。
それは「賜姓五役」の「国策氏」とされている「青木氏」であれば、それは成り立つ。
つまり、この「陰からの献策権を公に認められている立場」(国策氏)であればこそ周囲から文句は出ることはない。
「斎蔵権を持つ藤原氏」(摂関家)に執って、「煩い存在」であったと観られる。
「立場」があるからと云って、そう頻繁にこの手は使えないだろう。
使いすぎれば、「影」では無く「表」の論理と成る。
それは、「争いの下」に成る。
「青木氏の氏是」が、”必要以上に表に出る事”をこれを固く禁じている。

そもそも、「1の天智期の青木氏」は、「親衛隊」の最高位の「左衛門上佐」でもあり、摂関家の「左衛門尉」とは、「摂関家」は「天皇の傍に常時居ると云う立場」に於いては、「四段階下の格式」とは違う。
故に、「青木氏」は格段にして、常に「天皇の傍」に居て身を護っている「青木氏」にしかできない「献策」と成る。


ここで、次ぎの内容を論じる前に、この「青木氏」は次ぎの様に成る事を改めて述べて置く。

この「青木氏」が、次ぎに「究極の策」に出たのである。
それは、今度は上記する「円融天皇の目論見策」から、これを確定させる為の「青木氏の策」である。
この下記に示す(1)と(2)の「青木氏」を最終的に「一つにする事(融合策)」で、その「円融天皇の目論見策」の「威力」は未来永劫に確定させ得る事が出来る。その手段に出たのである。


つまり、ここに、所謂、基本的には、本来の「賜姓族」としては、次ぎの様に成る。
(1) 「天智期の青木氏」
(2) 「円融期の青木氏」
(3) 「嵯峨期の青木氏」

以上の「三つの青木氏」が生まれる結果と成ったのである。

然し、(3)の「第三番目の青木氏」には、現実に「賜姓」は伴わなかったのであり、「賜姓族」である事、つまりは、その「皇族系」であるとする「出自の証明」があれば、「賜姓」を受ける事無く、「賜姓」を受けたと同じくして「青木氏」を名乗る事を許されたのである。

これが(3)では、「源氏系出自の青木氏」(3氏 「日向青木氏」等)と、「第四世王族系出自の青木氏」(丹治彦王:丹治氏系青木氏 1氏)の発祥と成ったのである。
然し、(3)の子孫を現実に遺し得たのはこの4氏の二氏に限られる。

最も、「子孫拡大」として果たしたのは、(2)の24地域の116氏に成った「円融期の青木氏」である。
次ぎに、(1)の10地域の10氏に成った「天智期の青木氏」と成る。
厳密には、両方に跨がっている所謂、この「融合族青木氏」を「天智期の青木氏」に加えるとすると、次ぎの地域と成る。

伊勢、信濃、甲斐、近江、越後、伊豆、相模、下野、因幡、土佐

以上で、20氏と成る。

(但し、近江の「佐々木氏系青木氏」は「天智期の青木氏」に加える。)

ここで、重要なのは、この”「融合青木氏」”である。

上記した様に、「円融天皇に依る一発逆転策」で、以上の「三つの青木氏」が発祥する事と成った。
夫々が独立して働けば、「嵯峨天皇」や「円融天皇」が目論んでいた「賜姓五役等の役務柄の仕事」は確実なものに成る事は間違いは無い。
ただ、より「大蔵氏」や[藤原摂関家」に匹敵して、”「青木氏としての役目柄」”を確実に未来永劫に果たすには、もう「一つの段階」を踏む必要があると考えられた。
当然に、「大蔵氏]や「摂関家」とは、「賜姓族」で「臣下族」であり「朝臣族」であると云う事は同じでも、「青木氏としての役目柄」、即ち、「賜姓五役」の果たし方だけは異なる。
「青木氏の生き方」も、その「賜姓五役」や「三つの発祥源」としての「役務」に必要とする護らねばならない「立場」、「生き方」ある。
そして、他の「青木氏の二つ氏族」に求められていない厳しい「慣習仕来り掟」に厳しく縛られている。
従って、「活躍の仕方」は決して「表立てる事」は出来ない。(これも「果たし方」の違いである。)
取り分け、”「氏族の純血性」”だけは「他氏の二つの氏族」とは決定的に異なる。
況や、”「氏族の純血性」”を護り通す徹底した”「四家制度」”である。(四家制度の「徹底の仕方」が異なる。)

この為には、(1)の「天智期の青木氏」と、(2)の「円融期の青木氏」の「母方」は同じにしても、「未来永劫の存続」はこれだけでは充分では無い。
この基本的に出自の異なる二つが、別々の路を歩む事は、「亀裂の基」にも成り得るし、「氏族の弱点」にも成り得て、そこを突かれる事は充分に考えられる。

では、どうするかである。人が考える事は同じである。難しい判断では無い。
「自然の流れ」の中で起こる事をすれば良いだけの事で有って、それは”一つにすれば良い事”である。
「円融天皇」は、格式、家柄、官位、官職、等の「氏家制度」の中で「生きて行くための条件」は同じにした。
そうすると、後は、(1)と(2)の「血縁融合」のみである。

その目的を果たしたのは、先ずは、「五家五流の地」で興った。
然し、その結果は、「近江と美濃」は、「青木氏の氏是の禁令」を破って、「源平合戦」に参加して近江で敗れ、美濃で敗れ、終局は「富士川の合戦」で「源氏」と共に滅亡した。
この時に、「近江と美濃」の「融合氏族」も滅亡した。
「氏是の禁令」を破る事さえしなければ存続は保障されていた筈である。

「伊勢」は、伊勢には、2の「円融期の秀郷流青木氏」が、発祥の初期の段階から定住していた事から「四日市」地域にて「融合族」は定住して子孫を拡げた。
そして、江戸期には「歴史的働き」をするに至る。

「信濃」は、元より2の「円融期の秀郷流青木氏」は定住していなかった。

しかし、秀郷一門は「足利氏の本家争い事件」などに関与して「主導権」を握ろうとしていて、初期より護衛団として「秀郷流青木氏」をここに派遣していた。
この駐屯していた2の「円融期の秀郷流青木氏」との間に「融合氏族」を発祥させた。
この「融合氏族」は、定住していない為に、その末裔は「信濃、三河、美濃の国境」に退いて「融合子孫」を拡大させている。

「甲斐」は、秀郷一門が定住していない。従って2の「円融期の秀郷流青木氏」も定住はしていない。
しかし、一門の本領の武蔵、上野との国境を広く持つ事から、武蔵と上野の国境に「融合氏族」は発祥させた。
ところが、この甲斐も室町末期の武田氏との戦いで敗退し、衰退した。
そして、結局、「甲斐青木氏」と共に「徳川氏の支配下」に入り、「武蔵鉢形」に移植させられて後に、武蔵下野の国境に定住した。
この国境には、2の「円融期の秀郷流青木氏」は、元よりの領国と、武田氏滅亡により逃避して来た「諏訪族青木氏」も定住したこともあって、この「三者の融合族」がこの地域に発祥した。
現在では「自然融合」が進み、判別が困難な状況と成っている。

「近江」には、僅かに生き延びた「抹消子孫」が戻り何とか「摂津域」に定住した。
1の「天智期の伊勢青木氏」が、摂津に大店を構えていた事もあって、この抹消子孫は保護され、ここに「融合族」も存在して居る。
しかし、現在では判別はつかない。

又、「美濃」には、生き残りと観られる「伊川津七党」と云う「郷士集団」があるが、ここに「美濃の伊川津青木氏」の「融合族」が存在する。
恐らくは、三河尾張の「州浜族」か「片喰族」の2の「円融期の秀郷流青木氏」との「融合族」と観られる。

ただ、「甲斐と近江と美濃の三融合族」は、室町期中期以降の戦乱の結果と成る。
この「三つの地域の融合族」は「恣意的融合」か「自然融合」かは判らない。
時期的には室町期末期から江戸期に掛けての事であるので、社会体制から、特別な「子孫安寧の融合目的」では無い。
互いに同族で理解し合え、「習慣仕来り掟」等の事が同じであると云う意味合いからの「多少の恣意的性」が合った事は認められる。
従って、室町中期までの「本来の目論見策」の結果に依る「融合血縁」では無い。

ところが、”1の「天智期の伊豆青木氏」”には、1の「皇族賜姓族」の「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が、「清和源氏四家摂津源頼光」から「源三位源頼政」まで「源氏の領国」であった。
この事から、ここに「青木氏大護衛団」として赴任していた。
この当然の結果として、この「伊勢−信濃青木氏の融合族」が同族で先ずは発祥し、更に、隣の相模には大きく2の「円融期「秀郷流青木氏」が定住して居た事から、伊豆相模国境には2の「円融期の秀郷流青木氏」との「総合融合血縁族」が平安期から極めて大きく発祥した。
従って、現在には「青木氏分布」としての「最大地域」に至っている。
その証拠に村全体が洩れなく「総紋の笹竜胆紋」である。

(注釈 1の「天智期の青木氏」は、「四家制度」に依って本家分家は無い事から奈良期から「象徴紋」であって家紋は無い。
これは前段で論じた様に「四家制度」に依って起こる。
当然にこの地域の「融合族」も2の「円融期の秀郷流青木氏」の「下り藤紋」の「総紋」をも合わせて持つ。
但し、2の「円融期の秀郷流青木氏」が持つ家紋は、「融合族」と成った時点で消える。
従って、「融合青木氏」は、何れの「総紋」も「総紋」とする事に成り、「使い分けの仕来り」が生まれる。
「ルーツ掲示板お便り」にこの「お便り」があったが、今でもこの使い分けは続いている模様である。)


この1と2の「青木氏」のみに関わる「究極の融合策」は、「平安期の本来」の「最高の目論見策の結果」であった。
そして、江戸期までその「目論見策」は大きく続いた。
関西で興った「伊勢信濃の融合青木氏」も、然ること乍ら、この関東の伊豆相模域で興った「総合融合青木氏」がある。

「中部以西」では、「伊勢−信濃域」の伊勢の「秀郷一門の定住地」の「四日市−松阪」に存在した。
「中部以東」では、「秀郷一門の定住地」でもある「伊豆−相模」に存在した。

以上の古来からの2の「円融期の秀郷流青木氏の定住地」の二地域に興った事に成る。

むしろ、「青木氏」に執っては、関西に拠点を大きく置く(1)の「天智期の青木氏」だけでの「一極集中型」に依らず、(1)と(2)の「二極分散型」で、”「総合融合族青木氏」”が関東に存在した事に成る。

これは「恣意的」であるのか、「自然の成り行き」なのは別として、この方が却って「江戸期までの目論見策」は、確実に伸ばし得たと観られる。
これは「恣意的な行為」であったかは、残念ながら資料が見つからないので確定し判別し得ないが、「自然の成り行き」も考えられるが、この「二地域」には、”「伊勢と信濃」”が何れにも関わっている事から「恣意的な差配」の方が強かったと観られる。

「1の天智期の伊勢青木氏」の「商業記録」には、この「中部以東の青木氏」とのやり取りが遺されている。
この事から完全な証明とは成らないが、「恣意的な融合」のその結果であると観られる。

何れも、この「二つの地域の拠点化した融合族」は、歴史的には江戸幕府に対して「青木氏」に執って「大きな役割」を果たしたのである。
(この事は前段でも各所で論じている。)
「関西での四日市]の「立葵紋の融合族青木氏」は、室町期末期1605年前後頃に「徳川氏との橋渡し」をした。
この時、「伊豆−相模の笹竜胆紋の融合族青木氏」は、「徳川幕府の主要官僚族の御家人」と成って、一族全てが「丸抱えの策」(御家人)で江戸幕府を支え動かした。

この「歴史的な事象」から鑑みても、「自然の融合」とは考え難い。
何はともあれ、この拠点と成った「二つの融合地域」には、何れも”「伊勢−信濃」”が関わっている。
この事からも”「自然の融合」”とは言い難い。

前段でも論じたが、室町期末期前後の「家康との話し合い」には、この「二つの融合拠点」が互いに連絡を取り合って、話し合いに臨んだ事が関東の個人の所有書面が遺っている。
この事から、この「融合策」は、「円融天皇の目論見策」を有効的に活かす為に採った、「青木氏生き残り策」の為の「恣意的な結果」と観ている。

この「円融天皇の目論見策」は、「伊勢信濃青木氏の献策」で、「秀郷流青木氏」が発祥したのであるから、両者に執っては、自然放置する事無くより確実にするための方策を講じる事は必然であったであろう。

上記した様に、人の採るべき本能的行為であり、「青木氏」を一つにする動きそもものは、「自然な行為」である。
唯、「一極集中型」にするか、「二極型」にするかは、本能では無く、判断の分かれるところであった筈である。

其れには、例え「融合」で有っても、「一極型」か「二極型」にしても、「極点」は一つにしておかねば繋がりは無く成る。
それが、1の「天智期の伊勢信濃青木氏」が「極点の元」にして、この「融合」が成されている事にあって、これには意味を持っていると観られる。

「極点は1の「天智期の伊勢信濃青木氏」と云う事は、都合よく図って遣ろうとしてもやれるものでは無い。
歴史的に、「両極」にその「子孫力」と云える「勢力」を「(1)の天智期の青木氏」が保持していた事が重要である。
そこに、(2)の「円融期の青木氏」が生まれたとすると、この「目論見策の主導」は、「献策者」でもある事も含めて、(1)側にあった事に成る。

とすると、この検証の論調からすると、この”「融合時期が問題」”に成る。

次ぎの融合の時期が考えられる。
イ 平安期の(2)の「発祥期」の「直前期」なのか。
ロ 鎌倉期の(2)の「子孫力」の「拡大期」なのか。
ハ 室町期の(1)と(2)の「成熟期」なのか。
ニ 江戸期の(1)と(2)の「安定期」なのか。

そうすると、「円融天皇の目論見策」をより効果的に働かせると云う前提では、「ハとニ」は意味を成さない。
そうすると、「イとロ」と成るが、果たして、「室町期の戦乱期」の入る前でなくては「目論見策の効果」は低減する。

唯、ロの「子孫力の拡大」が無ければ、成し得る事が出来るかの疑問もある。
(1)は兎も角として、(2)の「子孫力」は、概して「980年」を境にして増えて行くことに成る。

平安末期は1185年とすると、凡そ、「200年間」ある。
この間に(2)の「子孫力」は、”どの程度増やしたか”の問題に移る事に成る。

当時は,「人生50年」として、子孫を15歳−20歳で「世継ぎ」したとして、200年は、「10倍の枝葉」で「最低2の倍数」で拡大する事を前提とする。
そうすると、最低で「子孫力」は「1000人」と成る。
当時の婚姻制度は、「四妻制」であるので、最低である事は無く,最高でこの4倍と成る。
つまり、「4000人の子孫力]を作り上げている事に成る。
これを各地に配置するとすれば、充分に成し得る。

当時の「平安末期の戦いの記録」で観てみると、「秀郷一門の動員力」で観ると、「戦力」を「一族からの人集め」をしたとして、「最小1000人 最大5000人が限度」と成っている。
現実に「将門の乱」では、この5000人であった。
この事から、妥当と観て、「子孫力」から「融合族」を発祥させ得る事が出来得る。
現実に「秀郷一門」と「秀郷流青木氏」は、平安末期には「24地域」に赴任して「現地末孫」までを遺し得ている。
「現地末孫」までを加えると、「四妻制」以上と成るので、「4000人の子孫力」は充分にあった事を示す。

依って、答えは、”「イの時期」の「少し後」”と成る。

「源頼光」が「伊豆の領国」に1の「天智期の伊勢信濃青木氏」を配置した。
そして、平安末期の「四代目の源頼政」が1180年頃にこの護衛軍を動かした。
既に、この時には、伊豆には「青木村」が幾つも存在して居た。
領国であった「伊豆の国」は、「5郡制」であった事から、この全域に「五郡の指揮統制」を採る為に「村」を置いていた。
当時、この伊豆は「本領村」であったので、最大500人とすると、仮に1郡5村とすると、この内、200人を青木氏で、後は家人と村人として計算すると、5000人の「青木氏の子孫力」はあった事に成る。
この「伊豆の子孫力」と「相模の子孫力」のバランスは取れる。
充分な「融合族を興し得る土壌」があった事に成る。

依って、平安末期前に、1の「天智期の伊勢信濃青木氏」が主導して、既に「二極に融合族」を発祥させていた事が判る。


さて、領国から離れた「越後」には、2の「円融期の郷流青木氏」を頼って、1の「天智期の信濃の諏訪族青木氏」と1の「天智期の甲斐の諏訪族系青木氏」が逃避して「融合族」を形成した。
ここは「二つの相互の関係」に依る「自然の成り行きの融合」である。
先ず、「逃避保護と云う立場」から、両者に執っては「融合族」を必然的に興さなければ生きて行くことは不可能であった筈である。
その「融合族の分布」がその事を物語っている。
これらを判別する最も良い手段の「家紋分析」から観ると、2の「円融期の秀郷流青木氏」が定住する方向に沿って、「旧北陸山道沿い(商道)」に各一定間隔で「融合族」が均等に分布している。
この「越後」の2の「円融期の秀郷流青木氏」は、その地理的要素と近隣に進藤氏等の一門が分布する処から安定した「子孫力」を勝ち得ていた。
この地域の「経済的な勢力」もあって、2の「円融期の秀郷流青木氏一門の勢力」は、武蔵−相模−讃岐に継ぐ勢力を持っていた。
その事も有って、逃亡を受け入れたのである。
従って、多くの一族郎党を受け入れて貰って生活の庇護を受けているとすれば、”「族は族」”として突っ張ると云う事は許されない。
最も好い方法は、男系女系の如何を問わず血縁をする事と成ろう。
労働や戦い等の労力や戦力の応援等はあるにしても、血縁する事が「確実な絆」を醸成する。
従って、この地域は、「生きて行くための必然の融合」であった。

但し、ここで、別格とした事が在る。
そもそも、「越前」には、「皇族賜姓族の逃避地」として、朝廷が認めた奈良期から活躍した地域であった。
ここには、奈良期より「五家五流青木氏」と、平安末期の近江滋賀に定住した秀郷一門と共に、「秀郷流青木氏」も定住した。
しかし、ここは「何れの青木氏」の「歴史的な混在地域」であった。
依って、この「混在の青木融合族」がここにも発祥している。
然し、ここは「本来の目論見策」とは、別に起こった(1)と(2)の奈良期からの「全ての青木氏融合族」の発祥が興った地域であった。
「青木氏」に執っては、「地域的な目的」からの融合結果である。

これには、特徴的には”「祖先神の神明社」”が大きく関わっていた。
恐らくは、その様に、この「地域の目的」から「青木氏の神明社住職」が、全てを「商人」にして「融合」を恣意的に取り計らったと観られる。
後に、この事からこの「混在の青木融合族」は「越前商人」と呼ばれた。
この「神明社」を全総括していた「伊勢青木氏」は、「逃避地」と云う「苦しい状況」の中で、武力的庇護も無い中で、「互いに助け合う血縁族」としたと観られる。
ただ、全くの無防備と云う事には成らず、500社にも上る「神明社」を通じて「神明社シンジケート」が彼等を庇護していた。
「商い」も、この「神明社シンジケート」を通じて行っていた模様で、「神明社の記録」の中に、「彼らの商い」の為に社を定宿として宿泊をしていた事が読み取れる。
筆者は、「定宿」そのものだけでは無く、「商い」そのものに[神明社の社務」は関わっていたと観ている。
取り分け、この「越前の神明社」は、最も「全国分布の比率」の高い地域であった。
(1)の皇族賜姓族の「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の「二足の草鞋策」で、安定した「経済的支援」を背景に、網の目の様に配置された「多い神明社」は「社務」として安心して総合的な庇護に関われたと観られる。
端的に云うと、「青木氏」の”「村役場的寄合場所」”として活躍していたのである。

この様に、「青木氏」と云うよりは、「武士」から「商い」に変えて細く長く変えて生きて行かねばならない。
その為の”「人本来の融合」を求めた地域”でもあったと観られる。

上記する各地域での違う形の融合を成し遂げた氏家制度の中で、「商い人」と云う形でこの”「特色ある伝統」”の中で生き延びた「融合族の越前青木氏」である。


「因幡と土佐」の融合は、他の地域と比べ、又、共に違っていた。
共に、「因幡」は「信濃の足利氏」と「秀郷一門宗家」の「主導権争い」で逃亡した花房氏系の足利氏本家に一部同行した青木氏である。
この「信濃足利氏系青木氏」が米子と八頭に定住した地域である。
これに西域の宍道湖地域で、「秀郷流讃岐青木氏との血縁族」が発祥した地域である。
この「因幡の地域」には、ある「特異性」が有った。
それは、東西域に分けられていた。越前と違う生き方をした事が判る。

「西域」は、「商人域」、東域は「武士域」として「棲み分け]をしていた地域である。

これは、この「商人地域の商人」は、「二足の草鞋策」を採る武士で、「西域は商い地」、「東域は居住地」として「棲み分け」をしていた事から起こっている。
これには、「足利氏系青木氏」と「瀬戸内の讃岐秀郷流青木氏」との関係から生まれた模様である。
「讃岐秀郷流青木氏」は宍道湖より西域に進出した。
この因幡の足利系青木氏は宍道湖より東域に進出した。
この事から、互いに争いを避ける事を前提に、境界と成る因幡西域(宍道湖東域)はに線引きをした。
この東よりを「商人域」として定めた事から来ていると観られている。
つまり、「因幡」の「足利氏系青木氏」の古来からの「名誉ある武士」としての家柄を頑なに護った事から考え出されたものと観られている。
通常、多くは、商人化して仕舞うが、ここは所謂、”「米子商人」”として「厳格な商人」で有名である。
その「武士としての心」は捨てなかった事から来ている。

「土佐」は、「甲斐武田氏の滅亡」により、「甲斐青木氏」の末裔の「武田氏系青木氏」が「讃岐秀郷流青木氏」を頼って定住した地域である。
ここには「讃岐秀郷流青木氏」との「融合血縁族]が先ずは発祥している。
これらは、「生きる為の結果としての融合族」であり、「本来の目論見策」からのものでは無かった。
ただ、この「二つの地域」は、「青木氏」として、結果として融合する事で生き延びられた所以でもある。
ルーツ掲示板にも多くお便りが寄せられているが、恐らくは、この「融合」が無ければ生き延びられてはいないであろう。
戦国時代はそれほどに甘い時代ではなかった。
個々の伊予、讃岐、土佐、阿波の四地域には、「秀郷流青木氏116氏」にも成る中で、「秀郷流青木氏だけ」とこの[融合族」も含めると7氏に上る。
「目論見策の効果」は別として、「生き延びる」と云う基本の処は成し得ていた事に成ろう。
確かに、武田氏系青木氏と讃岐秀郷流青木氏との融合族が土佐では発祥したが、「秀郷流青木氏」でも「流れの異なる青木氏」が在った。

(1) 讃岐藤氏系の京公家族と讃岐秀郷流青木氏との「同族融合青木氏」
(2) 土佐に定着した花菱紋の「武田氏系青木氏」との「秀郷流融合族青木氏」
(3) 紀州から逃避し伊予土佐に分布した州浜紋の「近江脩行系青木氏」
(4) 阿波に赴任分布した下り藤紋の「利仁流青木氏」
(5) 讃岐に一期間(50年程度)定住した関東屋形系の「結城氏系秀郷流青木氏」
(6) 讃岐に一期間(50年程度)定住した関東屋形系の「宇都宮氏系秀郷流青木氏」
(7) 阿波南域に分布した「片喰紋の秀郷流青木氏」
(8) 阿波北域に小分布した「摂津近江青木氏融合族」
(9) 伊予に一期間定住し小分布した現地末孫の「豊臣氏族系青木氏」
(10) 伊予に一期間定住し小分布した現地末孫の「丹治氏系青木氏」

四国には、「讃岐秀郷流青木氏」をベースに、以上の青木氏が一時期を含めて定住した。
ここに、基本的には、「藤原氏」、又は、「秀郷流青木氏」との「同族青木氏融合族」が発祥している。
この「発祥の仕方」が特に「地域性」が強く、”どの青木氏と血縁”と云う事では無く、「棲み分けの境界での小融合」である。
従って、「家紋分析」でもなかなか判別が付かない。
全て「讃岐秀郷流青木氏の庇護」の下に生き延び、その結果の地理的な融合である。
唯、(4)は基本的には「本領」や「先祖の定住地」や「新たな赴任地」に戻ると云う現象を起こしていて、この「融合族」は、何らかの形で遺された土地の者の[現地の末孫」との血縁である。
あらゆる「融合の形の坩堝」と云える。

結局、土佐には(2)と(3)と「讃岐秀郷流青木の融合族」が観られる。
(4)と(7)は、現地末孫を遺す事は「一門の掟」ではあるが「現地定住」を原則とせず、「一門の掟」として交代制の「本領に帰省する形」を採っていた。
(5)からは勢力関係(移封と滅亡)から消滅した地域である。
(8)は「商業関係」と「摂津水運」による「支店の定住地」である。


これ等は「青木氏」に執っては、”「賜姓族」「臣下族」「朝臣族」「氏族」”であると云う事からの結果である。
そもそも、”「融合」”と云うキーワードは、他氏には決して生まれるものでは無く、無いものである。
つまり、”「青木氏の伝統」”の一つとして扱われるものであろう。
これは決して見逃してはならない事で、「円融天皇の青木氏目論見策」の「歴史的な所以」が誘引して興った事である。
決して、歴史的に見ても無関係では無く、故に、「青木氏」は生き延びられたと云える。

この様に、正しく言えているかは別として、「円融天皇の一発逆転の政策」で起こった事件は、当時の「氏家制度」の社会の中では、「融合」と云う事は、”「究極の象徴的な青木氏」”なのである。

そもそも、「天皇が行う政治」とは、一義的には ”「事の流れ」”を創り出す事にある。
「事の流れ」とは、「事象」の一つ一つを敢えて解決するものでは無く、この「事象」が起こす「事柄の結果」を、「目的の方向」に導く事にある。
”「目的」そのものを解決する事」”ではなく、”「解決出来得る方向性を決める事」にある。
「事象」の一つが良くても「事柄の結果」が良くないと云う事は、この「世の条理」である。
この世に、「善き流れ」を作り出すと云う事は、なかなか難しい事である。

だとすると、「円融天皇の目論見策」は、各の如しで、当に、江戸期にまでも、その「目論見の影響」を「好ましい方向」に及ぼした。
「青木氏」に執ってみれば、”「円融天皇」が優秀であった”とするは、この点にある。


ここで再び、検証を続ける。
「五家五流の賜姓青木氏」と「同位の叙位任官」を与え、「青木氏と同じ役目と立場」を与えて、「特別賜姓青木氏」を実施する事に成功したのである。
これは、「天智天皇と嵯峨天皇の意」を汲んだ「円融天皇」の「臨機応変、適時適切」の処置であった。
「秀郷」にしてみれば、母方で繋がる「青木氏」である事から、これを断る事は出来ない環境下でもあった。
然し、究極は「秀郷」にとってみれば,「貴族の立場」を獲得するのみならず、「青木氏と同格」の官位官職の「最高の格式]のある貴族に永代で成り得るのである。
且つ、「名誉ある役目」を与えられる事に成る訳である事から、「付加された役目」に対しては異論は無かった筈である。
この事で、結局は、「藤原氏の北家筋」の中でも、むしろ「摂関家」を遥かに凌ぐ「格式と勢力」を勝ち得て行くことに成った。
この事で領国も[武蔵」のみならず「下野」も「上野」も[下総]も[上総」も「陸奥」も獲得する事に成った。

この「円融天皇の目論見策」は、この「武力と権力と格式」を持たせた「秀郷」を利用する事で「摂関家の権勢」を牽制させる事が出来た。
且つ、「賜姓五役の国策」を実行する「国策氏」を拡大させて政治を安定させられる事が出来た。
そして、奈良期の蘇我氏の様にこれに勝る勢力を永代に排除できる事になった。

其れが「将門の乱」を利用して、「一局好転(一発逆転)策」で「当面の最大の政治課題」、のみならず、「先々の政治問題」もを解決して仕舞ったのである。

歴史的には、この時の「円融天皇」の採った「政治的戦略」は、余りこの時の事が評価されていない。
残念ながら、「歴史上の事」としては、しっかりと研究しないと出て来ない事に成っている。
それは、その「判断力」を評価される事よりは、”若い”と云う事や周囲の”「外戚の勢力争い」”が余りにも大きく多かった事が原因している。
故に、その事から、「低い評価」を受けたと観られる。
その為に、更には、結果として「天皇家の権威」は低下した事もあった事から、更に低く評価され、観る処を観られず仕舞に成った経緯であろう。
又、現在でも歴史家の間では、理解され得なかったのである。

(注釈 「青木氏」を研究した「歴史研究家、歴史小説家、歴史脚本家、歴史評論家」の筆者が知る範囲の8人は評価している。)

然し、「青木氏」が調べて観ると、「円融天皇本人の責任」では無く、その前の「冷泉天皇の政治」が、取り分け、「皇位継承の問題」で「藤原氏の外戚の勢力争い」が起こって居た事に依るものである事がよく判る。
因みに、その証拠として、在任期間15年の間に、その「外戚の入れ替え」は、何と40回に上り、その「外戚の人員」は何と41人にも上るのである。
この数字は、急に起こったものでは無く、前からの煩い「外戚の勢力争い」が持ち込まれた事に依る。
これでは真面な「継続性のある政治」等は出来ない。
この様な「人の入れ替え」と「外戚の人員」では、”共通ある政治”は保てない事は直ぐに判る。

現実に、結局は、この「政治腐敗の状況」から,意味の無い「荘園制から来る弊害」を生み出す原因を作り出した”「源氏の賜姓」”を終わらせ、「藤原氏の外戚力」を排除し始めた「花山天皇の政治結果」と成った。
その後の「三条天皇」からは徐々に「藤原氏摂関家の政治」は少なく成り変化して行った。
遂には、四代目後の「後三条天皇」からは、藤原摂関家を外戚に持つ天皇では無く成るのである。
遂に、「藤原氏の外戚争い」は「政治の場」では終わり、ここから、「天皇の身の安全」も侭ならない程に「藤原氏の強烈な抵抗」を受けた。
然し、「荘園制の禁令」を発する事が出来て、「政治腐敗」や「社会腐敗」の原因と成っていた「荘園制の弊害」も取り除く事ができたのである。

この時に、「天皇の身」と宮廷を直接に護ったのが、「賜姓五役」から「二つの青木氏」であって、これが”「北面武士」”と呼ばれた所以である。
それが、「左衛門上佐」、「右衛門上佐」の最高の位階を以って呼ばれた所以なのである。
(後に、室町期中期から一般化した「左衛門・・」、「右衛門・・」の「呼称の所以」なのである。)

この事は、明らかに「円融天皇」に「一発逆転の献策」を奏上した事を証明するものであって、これは、この「円融天皇」の「一発逆転の策」が働いて起こった結果である。
当に、これが「政治の所以たる所以」なのである。
「円融天皇」の「在位期間」の[権威衰退の原因」と成ったこの事をこれを取り除けば、”「適格に状況を正しく判断して答を出す素晴らしい能力」”を持っていた事が認められる。
「青木氏の献策」の必要性を適格に判断して、「身の危険」も顧みずに、「煩い外戚」の多い中で実行に移した事に依るものである。

そもそも、「摂関家外戚」はこの「青木氏の献策」を実行されれば、「摂関家の存続」は明らかに危惧される。
その結果、恐らくは激しい武力で抵抗した筈である。現実にはあった。
当然に、「青木氏」にも攻撃はあった事が容易に理解できる。
この証拠と成る資料と記録がないかを調べたが、確実な表現でのものは見つからない。
むしろ遺さないだろう。但し、「青木氏の菩提寺」には「小災禍の記録」がある。
恐らくは、「直接的な攻撃」は、「摂関家」も出来ずにいて、明らかに「伊勢松阪の青木氏」に対しては、「不倫の権」で護られていた事が判る。
況してや、「隠密裏に献策されていた事」に依る事からも、「表だっての攻撃」は採り得なかった筈である。
「表だっての攻撃」は、「青木氏のシンジケートの逆襲」を受ける事にも成り、むしろ危険であった筈であり躊躇した事が判る。
然し、あくまでも、「臣下族]である。「賜姓族」として表だって[武力」を使う事は「青木氏の氏是」で出来ないが、「五家五流の地域」の「天領地警護」以外にも、「宮廷警護」「伊勢警護」「伊豆警護」としての大軍事力を持っている。
それに、「500社もの神明社」を通じての「大伊勢信濃シンジケート」を影で持っている。
それを裏打ちする「二足の草鞋策の経済力」を持っている。
これを知っていれば、誰も手出しは出来なかった筈である。
この段階で「手出しする愚者」は現実にいないであろう。
其処に、「不入不倫の大権」で護られているともなれば、黙るしか無い筈である。
況して、そこに「円融天皇の目論見策の「(2)の円融期の青木氏」の発祥である。

(注釈 故に、青木氏はこの背景を敢えて誇示しなかった処に生き延びられた所以がある。
「青木氏の氏是」と成っている、”必要以上に「誇示」しなくても周囲は黙るだけでそれで良い。”
敢えて「恐怖」を与える事には意味が無い。” ”知略を使え”である。故に「円融天皇の目論見策」である。
「源氏」は、悉くにこの「概念の事」を間違えたから亡びたのである。 「花山天皇の意」である。
要するに、「嵯峨期の詔勅の意」の解釈を違えたのである。)

恐らくは、この程度の「事件性」しか無かったのではないかと考えられる。
恐らくは、何処にでも何時でもある「嫌がらせの範囲」に終わった筈である。

これが、「青木氏の氏是」の影響もあるが、「歴史性」に上って来ない事の理由にも成る。
何故ならば、「多くの外戚」が居ると云う事は、各外戚が、「政治勢力」や発言力」を高めようとして、色々な圧力を掛けて来た筈である。
しかし、「青木氏」は「政治の場」には、奈良期からの「賜姓族の氏是」(「臣下族」は政治には口は出せない掟)に依って「直接政界に出ない氏族」でもあったからである。
本来なら「皇親族」であり、「朝臣族]であり、「国策氏」である事から、”政治に発言力は持つ”と理解される。
然し、ここに”「臣下族」”と云う縛りがあったのである。

この「臣下族」とは、そもそも,「皇位の者」が「天皇の族の者」では無く成り、「臣」に成ったものなのである。
だから、「天皇が行う政治」の下の事を行う「臣族」であって、故に「朝臣族」と呼称される所以である。
その「朝臣族」とは、「皇位継承族の真人族」の次ぎに準じ位置する立場の者である。
故に、決して完全に「政治の場」から完全に排除された立場では無かった。
要するに”準ずる者”である。

(注釈 重複して論じているが、「聖武天皇」の後の「孝謙天皇期」では、女系天皇が続き「男系皇位継承者」は無かった。この時、この”準ずる者の仕来り”の考えが適用された。
「伊勢の施基皇子」の「子の白壁王」(光仁天皇)が継承し、その「孫の山部王」(桓武天皇)−「曾孫の嵯峨天皇」と続いた謂れの「準ずる者」である。)

「朝臣族」を獲得し「征夷大将軍」に成り得れば、「政治の場」、或は、「政治権力」は用いる事が出来る事に成るのはここから来ている。
これが鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の所以でもある。
「朝臣族」でも、「藤原氏」(摂関家)の様に「実質武力 (軍)」を持たない族もあり、更に「臣下族」となって「武力の持つ族」もある事にも成る。

「青木氏」は、次ぎの立場を得ていた。
(い)「皇親族」
(ろ)「朝臣族」

(は)「皇族賜姓族」
(に)「国策族」

(ほ)「臣下族」

(い)(ろ)の前者二つは「政治に準ずる立場」
(は)(に)の後者二つは「政治を補佐する立場」
(ほ)の「政治を護る立場」

以上、「三つの発祥源」と「賜姓五役」の内訳は、「五族」と「三立場」を保有している事に成る。

つまり、国家の政治体制の「四権の内」、「斎蔵権」を持ち得ない事から、(い)の「皇親族」と云えど「政治」を直接実行できない。
しかし、「他の三権を持つ族」である事に成る。
従って、「斎蔵権」を持つ「摂関家」からしてみれば、、「五族」と「三立場」であるので、時には自分の上にくる事もあり得る「煩い相手」と観えていた筈である。
「政治」に対して、陰影で、口を出しても誰も文句は言えない事に成るし、むしろ,陰影で積極的に口を出す義務のある立場でもあった。
それに上乗せて、「臣下族」として武力を持って好い事にも成っている。
これほど「煩くて厄介な氏族」は無いだろう。

唯、、「五族」と「三立場」の大権を、”どう云う使い方をするか”に関わる事に成る。
積極的に使うのか、消極的に使うのか、これが、大権であるが故に,「青木氏の氏是」でこの使い方を規制したのである。

逆に云えば、「天智天皇」は、「斎蔵権の藤原氏」を牽制する目的で、この任務を青木氏にして背負わしたと観られる。
「藤原氏の摂関家」が、政治で具申する事の善悪や正当性を見極める為に、「別ルートの情報」を獲得しようとしての思惑であった事に成る。

この為にも、この「要と成る氏族」を護る為にも、「賜姓族」を理由に最高の「権威と格式と官位と官職」を、時には「軍事力]も与えたのである。
それだけでは無かった。暗黙の内で禁じ手の「経済力」も与えた事に成る。
「周囲の氏族」から観れば、「半政治力、経済力、軍事力」の「基本的三権」を保有する「煩い氏族」である。
これに「(2)の円融期の青木氏」が加わったのである。
そして、「融合」したのである。
其れも「藤原氏北家族」である。

これで、無手勝流的に「最大の抵抗勢力の摂関家」も抑え込めて、「献策]は充分に出来る背景はあった事に成る。

(然し、「氏」を誇張する様な、「威圧的で積極的な使い方」はしなかった。かと言って、消極的であったかは疑問であって、「二足の草鞋策」に観る様に、「考え方」に依ってはこれほどの積極策は無い。
要は、「氏是」に基づく「家訓」にもある様に「知略」にあった。”挟みと刀は使い方如何”である。)

従って、「円融天皇の目論見策の結果]は、これは、「二つの青木氏」から観れば、「大きな論評」に値する「歴史的な転換期」であった筈である。

そもそも、この「円融天皇」は、10歳で即位(969年)し、譲位(984年)までの在任期間15年の間に、何と凡そ「40件の政変劇」が起こっている。
つまり、「藤原摂関家の中での勢力争い」が起こっていたのであり、歴代では政変劇は最多である。
この為に、「天皇家」は衰退していて、「外戚の争い」であった為に政治的には「権威失墜の状況下」にあった。

その結果から、「将門の乱」や「純友の乱」や「経基王の讒言」や「大蔵氏の九州独立騒ぎ」等乱れに乱れていた。

この時、本論序盤に論じた様に、「青木氏」は、925年頃から「和紙に依る二足の和草鞋策」が軌道に載った。
そして、遂には「最上格の格式」に加えて「巨万の富」と「影の抑止力」を獲得していた。
そして、1025年には「総合商社」を構えるまでに成っていた。
「氏族」では、「総合商社」として「宋貿易」まで発展させたのは「平氏」と「青木氏」だけである。
「桓武平氏」は1133年に貿易を本格化させていて、1158年には清盛は「博多」と「摂津」に港を整備し「宋貿易」を正式に開始している。
「将門の乱」を鎮めた一人「平貞盛」は、これを契機に勢いを増し、渡来人である事を強みに、密かに博多で中国との交易を始めていた形跡(記録)があって、この頃には既に「商い」はあった。

(注釈 繁盛りの様に不満を露骨にしなかったのは、「隣人」を見習ってこの「商い」に重点を置いていた可能性がある。)

その980年代前後では、丁度、その中間期であった。
「青木氏」は他氏には観られない「商いの富」を築いていた。
それだけに「円融天皇」には陰で充分な働きかけが出来た事は間違いない。
むしろ、それは「賜姓族の役目」であって、「表立っての事」は、”「青木氏の氏是の禁令」”でもあり、無かったと観られる。
然し、「賜姓五役」としての「国策氏」としての役柄から、裏から「藤原氏の外戚の勢力争い」を横目に見乍ら、「円融天皇」に”「献策」”を講じて居た事は間違いは無い。

そこで、そもそも筆者は、大化期か嵯峨期かに匹敵する「歴史的転換期」であり乍ら、”これだけの事が評価されていないのは何か変である”と観ている。
ここに”何か評価され得ないもの”があって、それが理由で、この「歴史的な転換期」を敢えて抑え込んだ節が観られると読んだ。

”それが何なのか”である。
この”何なのか”は上記する「青木氏」で無ければ解明は永久にされ得ないであろう。
この事に付いて下記で論じる。

”歴史上に遺されない事”、或は、”他氏に興味が注がれない事”があった事であろう。
そう云う、”何かが、この「将門の乱」の前後に働いていた”と観られる。
それは、ほぼ同時に起こった瀬戸内で起こった「純友の乱」も「一つの環境」として関わっていたと観られる。
この時の”「環境下」”を出来る限り掘り下げれば、”何か”が一つの「青木氏に関わる出来事」が出て来る筈である。
それは、「純友の乱」で観れば、「氏名]では、それは「大蔵氏」と成るであろう。
この大氏族には、「遠の朝廷」と呼ばれ、「錦の御旗」を与えられた。
そして、遂には”「九州自治」の「独立国騒ぎ」”等が、大きく関わっていた「氏族」である。

他には、この「二つの乱」に関わっていた人物には、後に、「清和天皇の孫」でありながら「賜姓」を無理やり受けた「経基王の讒言事件」があった。

この「環境下」の中で、「賜姓五役」を必死に務める上記する「青木氏」に執っては、何か試みようとする場合は、この時期やチャンスを利用する筈である。
それは「氏是の知略」である。
この「知略」は「人時場」に長じる事が「基本の領」(六稲三略の基)とされている。
「氏是」としている以上は、この「基本」に沿った筈である。
そして、”「ある戦略」”を献策したと観られる。
この頃の「青木氏」は、「青木氏始祖」の「施基皇子の曾孫」の「嵯峨天皇」の「第二期皇親政治」に引き上げられていた。
そして、「賜姓五役」は勿論の事、「朝廷の役職」の「紙屋院」等を務めると共に、それを「商い」にした「二足の草鞋策」も軌道に乗り始めた時期でもあった。

この事から、それは、”ある目的を以って「円融天皇」に「母方の藤原氏」の引き上げを献策していた”のではないかと観ている。
そして、この「献策」が、”上記する大蔵氏や九州の事の難題も解決し得る”と奏上していたと観ている。

つまり、「大蔵氏」や「内蔵氏」や[坂上氏」や「安倍氏」等の「六割を占める帰化人の官僚族」に仕切られる「朝廷」では無く、「天皇」と云うものを「身内で擁護する勢力」を絶大に大きくする事で解決すると云う事を裏で奏上したのである。
そうしなければ、結局は大化期の「蘇我氏の二の舞」に成ると観ていたのである。
そもそも、「青木氏」はこの「大化期の政変劇」によって発祥した氏族である。
この「氏族」として「大化期の根源の基」に戻る様な事は絶対に認められなかった筈である。
同じ「渡来系の豪族」の「蘇我氏」が「大蔵氏」に執って代った事だけに過ぎない事が起こってしまう。
「賜姓五役」の務めがあるとしても,これでは堪えられないであろうことが判る。

と観れば、では、それを解決する「献策」を奏上し、献策した以上はそれを実行に移すに値するか天皇が考えた場合、”それに対抗し得る万来の信頼を於ける勢力”と成り得るのは、矢張り上記した様に、その条件が整っているのは「青木氏」しか無い事に成る。
何故ならば、それは上記の事のみならず、「1の天智期の青木氏の末裔」の「嵯峨天皇」の子孫「円融天皇」であるからだ。

(注釈 筆者は、「円融天皇」は、「上記の立場」のみならず、若干、「ルーツ的感覚]を青木氏に抱いていたのではないかと観ている。)

改めて、何度も重複させるが、そもそも、「嵯峨天皇」は、「青木氏の始祖」の「施基皇子」(白壁王・光仁天皇ー山部王・桓武天皇)の曾孫である。
「円融天皇」が最も信頼のおける身内は「青木氏」だけと云う事に成る。
この「青木氏」が、序盤で論じた様に、「紙屋院」から発展した「二足の草鞋策」で蘇り「巨万の財力」を蓄えているし、「格式」は天皇家以外にはどんなにひっくり返っても何れの他氏も「浄大一位」の家筋には絶対に及ばない。
況してや、一臣下族に「不入不倫の権」の大権を与えた事は歴史上は無い。
「朝廷の組織」の「三蔵」の内の「斎蔵」で「摂関家」の「藤原北家」をも遥かに凌ぎ、「大蔵」と「内蔵」の「二役」を受け持つ「最大の勢力」を誇り、「錦の御旗」を賜り、「遠の朝廷」と呼ばれた「大蔵氏」でさえも、この「大権」は授けられていない。

この「三蔵」は、あくまでも「政治上の範囲」の事であって、「青木氏」が持つ「総合的な格式の範囲」では無い。

そうすると、「円融天皇」が「天皇の権威」を取り戻し、一発逆転で「天皇家」を安泰に先ずするには、後は、「軍事力と政治力」の持った別に「青木氏」を作り出せばよい事に成る。
この「献策」を、政治的に権威が失墜し苦しんでいる「身内系の円融天皇」に「一発逆転の策」を疑う事無く奏上した筈である。
献策奏上しなければならなかったし、献策したいと念じていた筈である。
この「献策」が、「上記の策」であり、これを「青木氏」により近い母方の秀郷一門に負わせる事で、「賜姓族の立場上」では、「格式と財力」による「影の抑止力」しか使えない「1の天智期の青木氏」が永代に持ち得ない「政治力」と、「より絶大な武力」を大見栄きって獲得できる事に成り得る。

(注釈 使うか使わないかは又別である。要は「氏是]の云う「知略」である。何れの「反抗勢力」に対して動きの採れない様な[抑止力」に成り得れば良いだけで充分である。)

そうなると、現実に、この時期では、「献策」を密かに奏上できる「氏族」は、上記(い)から(ほ)のあらゆる面から観ても「浄大一位の青木氏」しかなかった筈である。

そもそも、それでなければ、「秀郷宗家一門」と、その「青木氏護衛団」には、「全国66地域」の内で「24の地域」(36%)に赴任させる程の事はさせなかったと観ている。
「秀郷一門」に「青木氏」を作り出し、「大蔵氏」に匹敵する勢力を「血筋の分けた朝臣族」に仕上げる事で成り立つと成れば、「大蔵氏」とほぼ同じ赴任地数を与える事で簡単に解決する事が可能である。
故に、「24地域の赴任地」に上乗せて、「子孫力」をより拡大させ得る「現地末孫の定住策」をこの「青木氏」に義務付けたのである。

この時、「大蔵氏」は、「九州全域」を基盤として「中国域以西」と「奥域の一部」の「32国の勢力」にほぼ匹敵する事に成っていた。
其の「大蔵氏の聖域」に”「楔」”を打ち込む様に、「長崎域」と「陸奥域」(青森)を秀郷一門に任す事で、「円融天皇の目論見策」は成功する筈である。
そこで、「楔」に依ってこの「大蔵氏」に騒がれては元も子もない。
そこで、「大蔵氏」が騒がない様に、「秀郷一門の讃岐藤氏」が支配していた「瀬戸内域」を与える事で、収まりが着く。(純友の乱)
そして、その上で強化させる「秀郷一門」には、関東以北を聖域とさせ、そこをこの「献策」の「秀郷流青木氏」に護らせる事で、これまた「円融天皇の目論見策」、所謂、「青木氏の献策」は成立する。

(案の定、この直ぐ後に「大蔵氏」は、九州全土を支配下にして「独立」を目論んだ動きを示した。)

現実に、「内蔵氏系」の「北陸域の内蔵氏・阿倍一族」と「安倍氏の支配地域」の「広域陸奥」は、「征夷大将軍」として秀郷一門にその役柄を与えて「秀郷流青木氏」に護らせた。
一時、「安倍氏と阿倍氏の抵抗」はあったものの結果として問題は排除したのである。
そして、この代わりに、「独立騒ぎ」も含めて、収まりを漬ける為に「一族の大蔵氏」には、九州域の「鎮西大将軍」の称号(形式的な「自治権」 「遠の朝廷」と「錦の御旗」の権威授与)を与えて収めたのである。
(兄の「坂上氏」は平安初期には「征夷大将軍」であった。)

この結果として、これらの「一連の差配」は、この「献策の結果」を証明している。

然し、「大蔵氏系側」は32域国から28域と瀬戸内域(あらぬ嫌疑を掛けられた「純友の乱」の発端)を与える事で収めたのである。

「将門の乱」「純友の乱」の結果からの”前後の通常はあり得ない急激な差配”を検証すると、この”「青木氏の献策」”が裏で働いていた事が充分に考えられる。

(「瀬戸内」を制する者は国を制すると云われた経済地域、一方、同じ経済地域の佐渡金山を秀郷一門が支配させた。)

更には、その「赴任地の国」には、必ず、「秀郷宗家一門」と「護衛団青木氏」には「現地末孫」を置く事を義務付ける事をしなかった。
この他氏に認めていない事を朝廷は認める事は無かった筈であると観られる。

その証拠には、「他氏の赴任先」には、朝廷から認められた「正式な現地末孫」は見られない。
全て、「42地域」に赴任したの他氏の場合は、家紋分析から観ても”「遺したとされる族」”は殆ど例外ない。
有るとすると全て例外なく、所謂、”「未勘氏族」”である。

依って、「秀郷一門」の「特別賜姓族の青木氏」のこの”「正式な現地末孫」”は、一体、何を意味するかである。

それは、先ずは”「領国化した事」”を意味していて、ただ「単なる土豪」では無かった事を意味する。
つまり、「特別賜姓族青木氏」としては、「土地の利権」を持つ「郷氏」と成り得た事を意味する。
普通の赴任は、「土地の利権」では無く、「土地の管理権]である。
赴任が終わればこの管理権は無く成る。

平安期から「土地の利権を持つ氏族」の”「郷氏」”は、この「二つの青木氏」を除いて「佐々木氏」や「藤原氏」以外には遺っていない。
「橘氏族系氏族」にしても、「平氏族系氏族」にしても、この”遺されたとする氏族”は、「支流傍系族」であって、武力に依って勝ち得た土地であって、「平安期の正規の利権」を持ち得ていたものでは無い。

後に、”「郷氏」”と呼ばれた多くの所謂、「室町期の姓族」には元よりこの歴史性は無い。
つまり、何れの政権下にしても「本領安堵される立場」には無かった。
更には、「円融期の青木氏」である「秀郷流青木氏」は、秀郷一門より「青木氏」として独立した「臣下族」であり、「特別賜姓族」であるとして、朝廷からその様に扱われていた。
然しながら、室町期まで秀郷一門の”「第二の宗家」”とも呼ばれていた。

([藤原秀郷流青木氏」には、この[郷氏」が多いのはこの事から来ている。)

この事は、当に、”「何らかの力」”が”「側面から働いていた事」”を示すものと考えられる。
この「何らかの力」が、”「皇族賜姓族青木氏」では無かったか”と観ているのである。


その証拠として、ここで上記した様に、この”「青木氏融合族の発祥」”が挙げられるのである。

「五家五流皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族116氏の定住地」の関係した地域には、この「融合青木氏」が存在するのである。
この「二つの血縁青木氏」から発祥した「同族系」で有って、且つ、この「融合青木氏」が発祥している事は、上記の説を証明している。

何故ならば、当時の血縁は、「単なる結婚」では無く、「吊り合い」の取れた「氏家制度」の上での「氏族の存続の象徴の慣習」であったからである。
”「同族系」”と云う範囲に留まらず、「氏族」が一つに成る事の ”「究極の象徴的な出来事」” であったのである。

取り分け、その”「融合青木氏」”がはっきりと遺っているのは、伊勢の”「四日市の青木氏」”である。

そもそも、伊勢は、「五家五流賜姓族の伊勢青木氏」と、「秀郷」の「曾祖父の藤成」の赴任地でもあり、、後には、「秀郷一門宗家」の[基景の赴任地」であって、「伊勢の藤原氏」、つまり、「伊藤氏の発祥地」でもある。
室町期には、近江系の秀郷一門の「蒲生氏」(玄蕃允梵純)が「現地末孫」として定住していた母方の「秀郷流青木氏」の「伊勢青木氏跡目」を引き継いだ。

その「特別賜姓族」の「秀郷流伊勢青木氏」と「皇族賜姓族伊勢青木氏」とが血縁して発祥した「四日市融合青木氏」が現存している地域でもある。
この「伊勢四日市青木氏」には、後に「大きな歴史的役割」を「徳川氏」と結ぶが、「二つの血縁青木氏」に執っては、「融合族の発祥」は、”「究極の象徴的な青木氏」”であるのである。

この「大きな歴史的な役割」とは、「家康の徳川氏」が、この「融合青木氏」との血縁族(「立葵紋の青木氏」 「伝統シリーズ」等の研究室論文を参照)を発祥させたのは、この「象徴的青木氏」であった事に依るだろう。
そうする事で、(1)と(2)の全ての「血縁族」を血縁を結ぶ事無く、「伊勢の融合族青木氏」と血縁する事で、「青木氏の格式と権威」を獲得できる事に成るからである。

この事は、「融合族」の持つ意味は、単なる融合では無かった事を証明している。

これに依って、「五家五流青木氏」の能力は、「特別賜姓族」の強力な勢力も合わせて倍加して、「賜姓五役の役」は進んだのである。
この力を活かして、1025年には「総合商社」化して、「伊勢の秀郷流青木氏の特別賜姓族」と共に「宋貿易」にまで広げた事が書かれている。
「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の建設が、「二つの青木氏」に依って進められ、500社に上る「神明社」を建立した。

この事で、下記にも論じる「伊勢シンジケート」も確立して、「影の力の抑止力」は絶大のものと成った。
この事に依って、「神明社と青木氏」が、「御師様、氏上様」と民から慕われ信心されて、「朝廷の権威」も高まり、「三人の天皇の意」は果たされた。
「伊勢神宮」の「子神の神明社」、つまり、「神宮支社」が各地に建立されたのである。

(注釈 「青木氏の氏是」により、「武力」に偏ることなく、民に接した事が、慕われて「生き残り」に繋がったのである。)

室町期には、「戦乱」が続く中でも、「室町文化の紙文化」が起こり、「紙問屋と殖産」と共に「250万石以上の巨万の富」を築いたと記録されている。
ここに「貿易分」が加えられれば、500万石以上はあったと観られる。
この力は民と共に「殖産」をしていた事から「土地に資力」を全て注いだと観られる。

注釈 伊勢の資力域 

松坂域、
津域
玉城域 四日市域、
名張清蓮寺城域、
脇田域 上田域、
員弁域、
桑名域、
南紀州域、
南伊勢域、
伊賀一部域、
摂津域
堺域、
難波生駒域、
伊豆域

以上の地域が、「殖産」を基にした超大地主であった事が商業記録に記されている。

江戸初期に「徳川氏」に譲渡した「全国500社の神明社」も入れるとした場合の「室町期の財力」は想像は就かないレベルであった。
遂に、室町期末期では、「嵯峨天皇の目論見策」は、成功し安定化したのである。
下記にも続けて論じるが、「徳川氏との関係」からこれより以上のものと成った。

明治初期まで、この「血縁の仕来り」は、筆者祖母が「京公家の支流叶氏」である事から、続いたことが記録に書かれている事から判る。

この「四家の状態」は、江戸期からでも285年間続いたことに成る。
これが、況や、「四家の発祥源」である。

この様に、「円融天皇の目論見策」から、「嶋崎殿の青木氏の経緯」も含めて、江戸期まで遺った「融合族の経緯」まで、途切れることなく、縁は繋がっているのである。

これは「青木氏」で無ければ、「先祖の生き様」を強く感じ取る事が出来ない経緯である。
そして、所謂、これも極めて重要な”「伝統」”なのである。


さて、ここで注釈として下記の事に付いて追記して置く。

「貞盛と秀郷の経歴」には、そもそも信頼に値するかは別として、他説が実に多い。

先ず、「貞盛]から論じると、父は「国香」 母は「藤原村雄の娘」とある。
この「村雄」は「秀郷の父」であるが、そうすると「娘」は「秀郷の姉妹」と成る。
「村雄」の年齢は不詳であるが、記録から915年の「受領闘争の事件」を起こしている。
そうすると、当時の生活の慣習から、差配に立ち入れるのは15歳以上と成るので、「村雄」の生誕は最低でも895年と成る。
そこで、この娘を産むには、920年頃 娘を嫁すには935年頃と成る。

「貞盛」の父「国香」が「将門の事件」で没したのは935年である。
この時、既に「貞盛」は京で「左馬允の役職]に就いていた。
役職は15歳以上に成らないと任官できない。
この説で云えば、この「役職」どころか「貞盛」を産む事さえも論理的に無理である事に成る。
最低でも、「約20年程度以上の矛盾差」がある。

この論調では、「秀郷」は「貞盛」の母方の叔父に成る。
「将門の乱(独立国宣言の事件)」の終焉は940年である。
とすると、「秀郷」は、この時、「貞盛」の母方の叔父に年数的には成り得ない。
然し、現実には「秀郷と貞盛」が上記の経緯でこの乱を鎮めた。
つまり、そもそも「村雄説」には無理がある事に成る。
最低でも、この「娘嫁説」か「時期説」に問題を持っている事に成る。
この時期、925年頃から「秀郷」は、数々の記録から、この乱の直前まで「盗賊」と書かれ記録される位の「秀郷乱行期」に入っている。
「秀郷」は、960年代頃にやっと落ち着いている事が記録から読み取れる。
故に、「秀郷落着期」に入った事で、「円融天皇の目論見策」が滞りなく演じられたのであろう。
この事からも「村雄説」は「搾取説」か「後付説」に成る。

この「円融天皇の目論見策」により、整える為にも、「秀郷の実家」は”「下野受領家扱い」”であった事から、慌てて、後に「年代合わせの後付説」を採ったのであろう事は間違いは無い。
「年数的」にも無理である事のみならず、「慣習的」にも「当時の仕来り」を完全無視した形であり、且つ、この様な「時期的」にもあり得ない「血縁行為」である。
「後付説」である事は否めない。
(主に「後付説」は「江戸初期頃」の「後付」が多いのである。)

そもそも、「歴史記録の検証」では、「高位の氏族」では、「家柄」をよく見せる為に、当時は半ば周囲がそうであった様に、”正当化して行われた慣習事”で、歴史的にはよく見られた行為である。
取り分け、氏家制度の中の「常識的な慣習」では、むしろ、”「悪弊」”とは必ずしも考えられてはいなかった傾向があり、その様な記録が実に多いのである。殆どと云って良い程でもある。
故に、「周囲の出来事」との間に、この様に「年数の矛盾」等が生まれるのである。
当時は、年数の多少の矛盾が在っても「是」とした事が、一種の常識とも成り得ていた。
左程の厳格性が無かったのである。

恐らくは、乱後に、次々と打ち出される「円融天皇の目論見策」の影響を受け、「嶋崎殿の青木氏」の様な血縁策に習って、後刻の落ち着いた時期に両氏は「血筋を纏める策」に出た事が考えられる。
そこに、思いも寄らず「伝統ある青木氏」が発祥すると云う事が起こった事から、「藤原氏一門」と「たいら族」の「二つの勢力」の間でも、これを何とか整える為にも、「何らかの形で血縁を結んだ事」が云える。

仮にあったとして、「円融天皇期」には、「目論見策の実行中」である事から、この期間は「天皇に対して不敬不遜の不作法な行為」と成り、あり得ない行為である。
依って、984年以後の事に成る。そうすると、両者の関係からあり得る合致点は、「貞盛と嫡子四男維衡の前半期」(998年前頃)までの事に成る。
ただ、これ以後の「貞盛−維衡」とその族は、「同族争い」と「配流」を何度も繰り返し血縁は不可能である。

(注釈 以後の末裔にも年数的、経歴的にも無い。この14年の間の前半行為であり、上記の矛盾を打消し、且つ、「受領家側の経緯の関係」と考え合わせると、その前半期984年から988年に絞られて来る。)


「たいら族」と「ひら族」の「混同説の策」も含めて、「歴史的な矛盾」が多い説(後付説:1180年代頃)が生まれる事と同様である。
この事の結果を「後付説(氏姓の隆盛期に家系を作り上げる作業を行う)」で補おうとしたのである。

(注釈 当時は、この様な「後付説」は、通常化していて、特に江戸期には武家の命に値する”「黒印状」”を獲得する為に公然と行われ、幕府もこれを黙認した。
この事を放念してこれらの資料を「是」とした説が多い為に起こる「矛盾」なのである。
返して云えば、この「後付説」を「是]として「青木氏]を論ずると,「青木氏」は存在し得ない事に成り得る。)

故に、この説の様に「年数の矛盾」等の多説が生まれる所以なのである。
本論の様に、事実に即して「青木氏」では、これを無くすべく日々研鑚し「歴史観」を高めて検証している。

> :「青木氏の伝統ー16」の「四家の背景と経緯」に続く 


  [No.333] Re:「青木氏の伝統 16」−「「四家の背景と経緯」 
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/07/15(Wed) 10:20:03

>「青木氏の伝統ー15」の末尾

>仮にあったとして、「円融天皇期」には、「目論見策の実行中」である事から、この期間は「天皇に対して不敬不遜の不作法な行為」と成り、あり得ない行為である。
>依って、984年以後の事に成る。そうすると、両者の関係からあり得る合致点は、「貞盛と嫡子四男維衡の前半期」(998年前頃)までの事に成る。
>ただ、これ以後の「貞盛−維衡」とその族は、「同族争い」と「配流」を何度も繰り返し血縁は不可能である。

>(注釈 以後の末裔にも年数的、経歴的にも無い。この14年の間の前半行為であり、上記の矛盾を打消し、且つ、「受領家側の経緯の関係」と考え合わせると、その前半期984年から988年に絞られて来る。)


>「たいら族」と「ひら族」の「混同説の策」も含めて、「歴史的な矛盾」が多い説(後付説:1180年代頃)が生まれる事と同様である。
>この事の結果を「後付説(氏姓の隆盛期に家系を作り上げる作業を行う)」で補おうとしたのである。

>(注釈 当時は、この様な「後付説」は、通常化していて、特に江戸期には武家の命に値する”「黒印状」”を獲得する為に公然と行われ、幕府もこれを黙認した。
>この事を放念してこれらの資料を「是」とした説が多い為に起こる「矛盾」なのである。
>返して云えば、この「後付説」を「是]として「青木氏]を論ずると,「青木氏」は存在し得ない事に成り得る。)

>故に、この説の様に「年数の矛盾」等の多説が生まれる所以なのである。
>本論の様に、事実に即して「青木氏」では、これを無くすべく日々研鑚し「歴史観」を高めて検証している。

> 「青木氏の伝統ー16」の「四家の背景と経緯」に続く 




「四家の背景と経緯」

前段で、「1の天智期の青木氏」との絡みを観乍ら、「2の円融期の青木氏」の「青木氏の発祥」の経緯を室町期末期まで論じた。
(1と2の青木氏を、以後、「二つの青木氏」又は「二つの血縁青木氏」と表現する。)

この室町期の時期は、「二つの青木氏」は「商い」のみならず、「賜姓族としての役目」、取り分け「神明社建立」も活動期でもあった。
しかし、反面では、この社会は、同時に、「下剋上」と、生存競争の激しい「戦乱」の時代でもあった。
必然的にも、この「激動期」に対応するには、上記した様に、「青木氏」の「四家制度」による「5つの面 20の顔」には「人材」が不足してくる。
しかし、かと云って、「同族による血縁性の概念」は崩す訳には行かない。
そうなれば、終局は“「婿養子」”の手立てしか「青木氏」には無く成る。
ここに所謂、前段で述べた「四家制度」の“「弱みの隙」“が生まれたのである。

「二つの青木氏」に執っては、実に悩ましい時期であった。
「二つの青木氏」では、「本所」(伊勢松阪)では、「自由な商いの商業組合」を結成して「巨万の富」を築いていた時期でもあった。
「相互の血縁」を積極的に進めるにも、そこに「隙間」なるものがが起こり、そこから「四家制度の崩壊」に関わる「菌」が蔓延して仕舞う危険があり、其れには限度があった。
その対策として採った「四日市の融合青木氏」が発祥している。
その中でも、未どうしても「四家制度」の「5つの面と20の顔」を護りながらも、何とか「子孫力」を増大し確保しなければならないジレンマに陥っていた。
「本所の伊勢秀郷流青木氏」は,「四家制度」を「伊勢の秀郷流青木氏の氏内」に採用して側面から「本所役」として支える様にした。
それにしても、「武蔵の本家」との兼ね合いもあって、「難しい立場」に置かれていた。

(注釈 「本所」(伊勢 松阪)、「本家」(武蔵 入間)は,その「賜姓五役の役務」の「分けあい」をして、平安期からこの様に呼ばれていた。)

(注釈 平安時代の同時期から開かれ始めていた「公家や寺や神社や荘園等」で開かれた市の「特権の座」も後には「本所」(ほんじょ)と呼ばれた。
「青木氏」は自ら殖産と興業を興して、この「座」には組しなかった。)

(注釈 恐らくは、「伊勢青木氏の本所(ほんどころ)」の呼称は、「秀郷一門の青木氏」が、「武蔵」にでは無く「賜姓五役の役務柄」だけを「伊勢」に「根拠地」を置いた事から呼ばれる様に成った。
室町期には、この事からこれを真似て、この「特権の座」を”「本所」”と呼ぶように成ったと観られる。)

(注釈 当初の頃は、「・・・座」と単に呼ばれていたが、後に、室町期には「職能集団の組合」も「座」と呼ばれるものを創った事から「座の数」と「座の種」が拡がった。
その為に、その事務所等を置く「根拠地」を”「本所」”と呼ばれる様に成ったと観られる。)

(注釈 ”「本所」”と呼ばせる事やその印象を持たす事に依って「他の勢力」を旧来からの「本所の持つ権威」で排除しようとした。)

(注釈 「伊勢青木氏の本所」は、「伊勢不入不倫の権」で保護されていた特権を持ち、「国の為に働く五役」を果たす名誉の地域を”「本所」”と呼ばれていた事を物語る。
各地に「本所」の地名が大変多いが、元来、この「意味合い」を持っていたが、この「本所」も「青木氏の伝統」の形である。)

(注釈 本来は、「嵯峨期詔勅」に伴う禁令の中に「青木氏の慣習仕来り掟」を真似てはならないとする禁令があり、この禁令に反する事ではあったが、「呼称方法」を変えて護られなかった事に成る。)

(注釈 「公家や寺や神社や荘園」=「青木氏」と置き、 「楽市の特権の座」=「賜姓五役の役務」と位置付けて、”「本所」”と云う呼称を使った事に成る。
つまり、「座」は、「本所の呼称」を使う以上は、「公家や寺や神社や荘園」の”「本来の役務」”であると云う事を主張していた事に成る。)

(注釈 信長の自由な経済活動を奨励する「楽市楽座の令」やそれを推し進めた「秀吉の楽市令」により、旧来の「座の禁令」は実行されたが、「下記に論じる信長が嫌った社会風土」これに対する反発であったと観られる。
所謂、「座の勢力」は、”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”と映ったのである。
況や、”「平安時代の荘園制の再来」”と見做されて「禁令」が出たのである。)


ところが、同じ「自由な商業組合」を追い求めていた「青木氏」のこの“「隙」”に上手く就き行ったのが、“「権威への挑戦」”を標榜するもの「信長」であった。
これは、そもそも、「武」には「武」を以って応じ、「智」には「知略」を以って抗らう室町期の「信長の謀略」であった。

古来より伊勢の「二つの青木氏」は、「青木氏の氏是」に依って、“「武」には応じない姿勢”を採ってはいた。
そこで、「青木氏」は「知略のある武」や「絶大な抑止力」を持ちながらも、絶対に「武」に応じない姿勢を採っていた。
この応じて来ない相手(青木氏)に対して、「信長」側には「武」で応じる事は、「戦いの大義」が立たない事から、出来ない。
然し、、そこで、恐らくは、「信長」としては、「知略」を使ったのである。

この初期の段階(1550年頃)では、「伊勢」を「武」と「知」に依って支配下に入れようとし、未だ「北畠氏側」にあると疑われていたと考えられる。

先ず、“「婿養子」“で「間接的な撹乱戦法」の「初期戦」を「伊勢域の土豪」を使って味方に引き入れて仕掛けたと観られる。
その初戦として、「南伊賀」に入り込んだ「武」を用いた「貴族武家の北畠氏」を潰す事から始めた。

(注釈 青木氏には、周囲の土豪を取り込んで、前段で論じた”「婿養子の策謀」”で仕掛けて来た。
結果は「青木氏」が直前で見抜き事無きを得た。)

(注釈 「貴族武家」と成って室町期初期から京から伊勢に浸食して来た「北畠氏」がこの謀略に載せられた。)

本来、”「武」を禁令とする「貴族・公家」”が、その格式の立場で「武家」と成った[北畠氏」でありながらも、「武を標榜した氏族の弱点」を逆に突いたと云う事であろう。
その「伸長族の領域」と成って仕舞った「聖なる伊勢域」に対して、「信長」には、「伊勢の二つの青木氏」までもを果たして「潰す気持ち」があっての戦略であったのか興味の湧くところである。

この「信長の戦略上の深意」に付いて、そこで、それにいち早く、“「青木氏側」は気が付いた”と云う事であろう。

「青木氏側」にとっては、「子孫存続」の為にも、この「隙に付きいる障害」を早期にこの芽を摘んで置くことが必要であった筈である。

筆者は、「信長」は、「武には武、知には知の基本戦略」を採っている事から、「伊勢の二つの青木氏」を「潰す事」は考えていなかったと観ている。
それは、次ぎの事で証明できる。

「本所の青木氏」には、上記した様に、「信長」は「伊賀守」を「忠元」に任官して家臣にして取り込みを図ったのである。
「武より知を用いる青木氏」であれば「信長の天下布武の戦略」に害は無い。
むしろ、「楽市楽座」を敷く「信長」であるとすると、むしろ、既に、組織的に「殖産と興業」を以って「巨万の富」を持つ「二つの青木氏」には、生きて貰わねばならない「政治戦略」があった事に成る。
それでこそ、「天下布武の戦略」が生きて来る。
つまり、「信長」にとっては、そもそも、「楽市楽座」は、「天下布武」の”「車の両輪」”の様に”「相対の位置」”にあったのである。

「信長]の考えの中には、”「天下布武」(武)>=「楽市楽座」(知)の数式論”が成り立っていたと観られる。

この「忠元」は、「青木氏の氏是」を破ってでも、「二つの青木氏」を体して、この「信長の深意」に逸早く応じたと云う事であった。
そもそも、”「臣官に就く」”は、「三つの発祥源」と「国策氏」と「賜姓五役」の「役務柄」から護らねばならない宿命の「青木氏の氏是の禁令」である。
奈良期より「伊勢の郷氏 国人 地主」で有り続ける事が「賜姓五役の遂行の根幹」であった。
然し、「忠元」は、この”「信長の臣官」”に応じた。それは「禁令」を破ってでも応じなければ成らない「子孫存続の最大の危機」であったからだ。
「忠元」には、この”「危機感」”は完全に「信長の場合」(天下布武)にはあった。
然し、忠元は、”「危機感」”と云うよりは、「天下布武」と相対の位置にあった”「楽市楽座」の方に掛けた”のではないかと観ている。
それが、「二つの青木氏」のむしろ「氏是」であるからだ。況や、「生き残れる道」であったからだ。
何故ならば、「家訓」にも成っている”「知略」”に関わる事だからである。

「戦い」に依って起こる「氏のリスク」>「臣官」に成って起こる「氏のリスク」

以上の数式論をここでは考えた事に成る。

それは「信長」の上を行く「青木氏の知略」であったと観られる。
「信長」の”「相対の知略」”に載ったと云う事である。

何故、上記の数式論の思考をここで敢えて用いたかと云う事は、”「武」と「知」の両方の思考を持つ「信長」”を見抜いていたのである。

それは、どう云う事かと云えば、そもそも、「青木氏家訓10訓」が教える様に、次ぎの様に成る。

「武」は”「敵対」”に通じ、「知」は”「共合」”に通ずる。

以上と悠久の歴史を持つ「青木氏の家訓10の意」は教えている。

「武」は「武の差」によって相互に「敵対の心」を必然的に産む。
この「敵対」は、「命の危機」に繋がり、「不幸」に結びつく。

「知」は「利の差」によって相互に「利対の心」を必然的に産む。
この「利対」は、「生活の利得」に繋がり、「幸せ」に結びつく。

依って、「人」はこの「利]を求めようとしては”共に合する事”へと集約に至る。

然し、「知」は追い求める過ぎると、「武」を使って「大利」を得ようとして「武」に帰する。

「武と地」は、況や、「善悪」に依らず、「相対の位置」にある。

所謂、「人の世」は、「知」は「武」の上に立つ。

以上の事を「青木氏の家訓」は教えている。

これは、古来からの「青木氏の密教浄土宗の教義」に基づいているのである。

(注釈 「三つの発祥源」「賜姓五役」「国策氏」に対して、”「二足の草鞋策」の「商いを営む根拠」”に成っている。)

「二つの青木氏」は、この「青木氏の密教教義」に従って思考し、「信長」を考察したと観られる。

そこで、「信長の深意、或は翻意」は、「武家社会」であることから「基本戦略」は、「天下布武」としているが、むしろ、この”「知の共合」の考え方に重きを置いている”と見抜いたのである。

(注釈 通説の「信長評価」は、この「青木氏の様な密教教義」を持ち得ていない事から起こったものと観られる。)

そもそも、何れの時代にも、”「民族」”と云う単位で「国家や社会」を維持するには、”「武」の「敵対」に通じる社会”を先ず創る。
その上で、”「知の共合」の社会をより豊かに作り上げるか”に関わる。
これは”「民族」で構成される社会”である限りは、「人の性」から来る「生存への敵対本能」からは逃れる事は出来ないからである。
あくまでも、「理想社会」は、所詮、「りそう」なのである。
”「理想」”と云う「言葉」があるからこそ、その元には「敵対」があって生まれる言葉である。
この逆の事も云える。

つまり、「人の社会」に於いては、より良い、”「知の共合」の社会”を大きくするかに関わっているのであって、「理想の社会」では構成出来得無い。
”「理想」”は、あくまでも「良し悪しの判断の基準」とするに留まり、「良し悪しだけで決まる人の社会」では決して無い。
あくまでも「理想の範囲」で終わる。
より「「理想に近い社会」と感じるのは、「知の共合の社会」をより豊かに作り上げるかに関わり「理想の程度」では決して無い。

”「人の生きる社会」の「組織の主たる者」に成る者には、この「概念」を持ち得ている事が必要である”と説いている。


つまりは、「忠元」を含む「二つの青木氏」の「長」は、”「信長」も「長」としてのこの「基本的な概念」を持ち得ている”と観て採ったと云う事である。

(注釈 記録に遺されている「信長の発言」の中に、要約すると、”国が収まれば、世界に旅する”と発言している。
これは、「世界」の進んだ国には、”「武」<「知」の社会”がある事を知って居た事を意味していると観ている。)

注釈 
1576年 北畠氏は滅亡
1576年 伊勢国を信長支配
1577年 忠元伊賀守任官
1577年 伊賀一揆

前段で論じた様に、「伊賀」に侵入した「足利系の外部勢力」の三氏は、1576年を境に「信長」に依って放逐され滅亡した。
その後に「伊勢」を支配した時に、「信長」は「実質支配」していた上記の「伊勢秀郷流青木氏の忠元」に「伊賀守」を任官させて家臣として取り込んだ。

然し、その後に、「伊賀衆」は「伊賀の郷士11衆」と「伊賀住人衆」を巻き込んだ一揆で「ゲリラ戦」(第一次と二次)で反旗を翻した。
この時、「伊勢」の中では、特に「伊賀の国人衆」が「連合体」を結成して「伊賀域」を治めていた。
民や僧侶を巻き込んだ「伊賀一揆」が「第一次」で収まったとして「忠元」を任官させたが、「信長」が「燻り抵抗を見せる伊賀者」に見せしめとして激しい「第二次掃討作戦」を展開した。
この時は「忠元」は苦しい立場に陥った。

上記する、「武」より「知」に掛けた「忠元」を始めとした「伊勢衆」は、思いもよらぬ方向に流れが進展した”「伊賀」”では窮地に陥っていた。
「伊勢衆」は「伊賀衆」を説得に掛かったと観られる。
然し、「事の次第」は、感情的に進み収まりが着かなく成って仕舞った。
それは、この「伊賀衆」が起こした「感情論の原因」は、地獄の修羅戦と成った「石山本願寺の門徒衆」が、何とこの”「伊賀域」”には多かった事が云える。
紀伊半島と紀州全体も殆どこの”「門徒衆」”であって、現在でも「門徒衆が多くその慣習の強い地域」でもある。

この時、「伊勢皇族賜姓青木氏」が「伊勢の抑止力」を使って「援護」に入ったのである。
これが「丸山城の攪乱作戦」や「比自山城」や「上野城」の「伊勢衆が行った救出作戦」であった。

恐らくは、「信長」は「伊賀」に「支配権」を持っている「忠元」を「伊賀守」にして収めようとしたが、ところが、[忠元の翻意」に反して、”「忠元」が「織田方」に付いた”と受け取られて、逆に”「裏切り」”と捉えられたと観られる。
そこで、「門徒の事」もあり、それに煽られて”「伊賀者」”が収まりが着かなく成り、「燻り抵抗」を尚示す様に成ったと観られる。

(注釈 ”「門徒の事」”とは、「石山本願寺の事変」の3年程度前から起こっていた紀伊半島全域で「門徒衆の信長への抵抗」があった。)

その為に、其の侭に放置すると、全国で「門徒衆」が尚騒ぐ事と成ると観た「信長」は、見せしめの為に「第二次の殲滅作戦」に「信長」は出たと考えられる。
実際は、第一次、第二次共に、「伊賀衆」から「裏切者」が出て「織田軍道案内」等を申し出ている。

(注釈 当時、”「道案内」”とは、「裏切り」の「武士」が使う「換え言葉」であった。
ある意味で、当時の室町期は戦乱期であって、「裏切りと云う行為」は必ずしも「悪徳の見本」では無く、「生き残り」の為には「最低限の必要不可欠な手段」と認められていた。
然し、この「裏切りの悪の概念」は、主に「江戸期の安定期」に入ってからは、「武士魂」の「発露の規準」となったものである。)

これは、「伊勢衆」と「伊賀守」と成った”「忠元の説得」”から動いた事ではないかと観られる。
この事で場合に依っては、”「伊賀者滅亡」”と云うシナリオも描いていたとも考えられる。
現実には、第二次は其れに近い「修羅の状態」と成った。
あらゆる「門徒衆」の「抗した村民」やこれらを「庇護した僧侶」をも殲滅し、「伊賀」だけには収まらず「紀州全域」に及び、更には「堺」から「伊勢松阪」の「伊勢神宮手前」までにその「火の粉」は飛んで来た。
(寺等の記録あり)
その「殲滅の被害範囲」と「門徒の勢力域」とがラップする事から、矢張り、”「門徒勢力」”と観ての行為に及んだ事に成っている。

この事に付いて検証して置く。
通称、”「門徒勢力」”と現在まで云うが、この「宗教武装勢力」との争いは、1567年頃から1582年頃まで続いたのである。
もっと云えば、「秀吉の紀州攻め」の「掃討作戦」までの事と成る。

(参考 「伊賀の戦い」は、第一次は1578年−1579年 第二次は1580年−1581年)

「石山本願寺の戦い」は、あくまでもその「一本戦」であって、その期間は1570年から1580年と成ってはいるが、そうでは無い。
然し、比叡山を含む「宗教武装勢力」との戦いの一端であった。
多説の様には、「一戦い」では無かったのである。
つまり、上記した様に、「信長」が目指す「天下布武」にせよ、「天下布知」にせよ、この「宗教武装勢力」が二つを実行するには「大障害」と成っていたのである。
その戦いの中での「伊賀の戦い」と成った。
疑う事無く、「伊賀者」は、全て「下級武士の宗教」の「門徒信者」である。
これは、「民の門徒の宗徒」では無く、「忍者と云う武力の専門の勢力の宗徒」である。
「石山本願寺」の”「宗教武装勢力」”と云うよりは、「伊賀衆」は、一種の「宗教の武装の専門勢力」であった。

現実に紀州半島の「雑賀傭兵軍団」「根来傭兵軍団」「十津川傭兵軍団」「柳生傭兵軍団」と同じく、伊勢の「伊賀傭兵軍団」と呼称されたものであった。
「比叡山の僧兵」などと違い、プロ中のプロである。

「信長の目線」はここにあった。
依って、このプロ中のプロの「伊賀門徒勢力」への「象徴的戦い」なのである。
ここを叩いておかないと、「石山本願寺の比」では無いと観たのである。
「紀州の傭兵軍団」が「伊賀」と結びつけば、不得意な『ゲリラ戦の長期戦」は覚悟しなければなら無く成る。
「長期戦」は、「宗教との戦い」と成っている以上は、”評判の悪い信長”に執っては極めて不利である。

唯、「信長」は、この「プロ中プロの伊賀衆軍団」を「感情的敵視」をしていなかったのである。
「門徒勢力の撲滅」の「象徴的集団」と戦略的立場から観ていただけの事であった。
その証拠には、その「特殊技能の軍団」の「存在価値」を認めていた。
何故ならは、「第二次の殲滅作戦」後に、この「伊賀の特殊技能」を「織田軍団」に取り入れる為に、多くを「家臣」として仕官させているのである。
普通なら、徹底した「掃討作戦」で殲滅させている筈である。
況して、全国に散った「伊賀者の掃討作戦」もしていないのである。
1年後に徐々に「伊賀者」が戻ってきたが、これも掃討していない。
むしろ、戦後に「諜報役の家臣」として重用している。

何と、「信長」が直接家臣としたのは数名で、この一名が「伊賀の青木氏の五代目」が入っているのである。
家臣と成った者の殆どは、秀吉などの重臣に家臣として仕官させている。
中でも「秀吉」や「蒲生氏」とその配下の家臣に特に目立つ。

普通は「人」であれば、「修羅の戦い」と成って「恨みも憎みも骨髄に達する」に成った筈である。
にも関わらず、「信長側」は元より、「伊賀者」側も家臣に成ったとする現象には、”戦国時代の何かが働いていた”事を物語る。

(注釈 明らかに、上記の事は、”信長の伊賀に対する考え方”が現れている現象である。
以下に論ずる事もこの「歴史観」を以って「青木氏」の方だけはお読み頂きたい。)

ところが、この「注釈の歴史観」を「伊勢衆と忠元」は読み取っていたかは別として、この「事の流れ」に依っては、異なる方向に走ると観ていたと観られる。
これは「密教浄土宗」の「伊勢衆」のみならず、「伊賀」を治める「忠元」に執っては、単なる「伊賀の戦い」とは捉えていなかったのである。
場合に依っては、”「伊賀滅亡」”と云うシナリオも考えたのも当然であった。

(注釈 後の「青木氏の記録」から「信長の評価」が世間と違っていた事からすると、この段階では,注釈の事は考えていなかった事に成る。
後刻、戦後に「信長の態度」を観て、この事を理解したと観られる。)

筆者は、もっと「厳しい心構え」をしていたと考えている。
そうなった場合、「事の流れ」に抗して「青木氏の氏是の範囲」では収まらない事に成ると観ていたのである。
「二つの青木氏」と「伊勢衆全体」が、奈良期からの「青木氏の氏是の禁令」を破って、「500万石の勢力」と「伊勢の抑止力」のみならず、「関東の秀郷一門」と「秀郷流青木氏116氏」を巻き込んだ戦いをも覚悟していたと観ている。
上記した「忠元の伊賀守任官」も{伊賀の戦い」の際中の事である。
この「氏是」を破ってでも「伊賀守任官」を受けて、「最悪の流れ」(伊勢の伝統の崩壊と伊勢者の滅亡)に成る事を止めようとしたと考えられる。
逆に、「信長」も同じ事で起こる「最悪事態」を避けようとして、「忠元」を「臣官」させたと云う事も云える。
この事を考えると、少なくとも、「事の流れ」は[伊賀守任官」だけでは止められず、むしろ、逆に「第二次戦」に成った時に、「信長出方と解決具合」では、「本戦」も覚悟していたと観られる。

現実に、戦えば全国的な勢力の結集では上回る。
戦略上では確実に劣るところは無い。むしろ有利であった。
要は、「戦い方の如何」に関わる事に成る。
「ゲリラ戦」を駆使する事に成ろう。
当時の「信長の勢力範囲」は関西に限定され、その拠点は美濃に集中している。
周囲から「物資の供給」を止め、拠点に「ゲリラ戦」を掛ければ落ちる。
「信長の弱点」は水軍にある。「海と陸の供給」を止めれば攻略できる。
「水軍」は「伊勢衆の古来から所縁」から「三つの水軍」(伊勢水軍 駿河水軍 摂津水軍)を擁している。
従って、「水陸」の補給路をこれで押えれば、物資は「伊勢衆の商いの強み」でもある。

現に、「丸山の戦い」では、「信長六万の軍事力」では無く、この「物資」を止めて「物資高騰」を高め軍資金を枯渇させ上で、拠点を「ゲリラ戦」で抑えて勝った。

(注釈 「足利氏との戦い」も「伊勢シンジケート」が「ゲリラ戦」を展開して、10万の軍を枯渇させ2万と云う餓死者を出した。
この有名な戦史を信長は知っていた筈である。)

全国的に、これをすれば「信長の軍」は「内部崩壊」を起こす。
元より「信長軍」は「内部分裂の要因」を潜んだ「軍事力」であった。
現に、依って、「信長」は、「長期戦」と成り、「物資供給路」は絶たれる事に成る。
「伊勢シンジケート」は[美濃信濃の範囲」までを「連携の勢力圏」としていた。
依って、未だ弱かった関西以西から背後を突かれる恐れがある。
この事があって、「戦域」を関東に拡げる事は出来無い。
これは「信長」が、「秀郷一門の勢力」の強い関東以東には、実戦に依る手を出さなかった所以でもある。

恐らくは、「信長」もこの事を考えての範囲の「ギリギリの線」を選んだと観られる。
最後には、調停工作に応じて停戦したし、各地に散った「伊賀者の掃討作戦」もしなかった。
終戦後、これらの「伊賀者」は帰ったが、掃討はしなかった。
手っ取り早く言えば、その火元に成る「伊勢」には手を”出さなかった” 出したくなかったのである。
伊勢には、煩わしい「不入不倫の権」もあり、「戦いの大義」が採れず手を”出せなかった”のである。
故に、「伊賀と云う特異な門徒拠点」とも云うべきところだけを突いたのである。
然し、「伊勢」では、青木氏等が「影」で色々としていた事は其れなりに充分に情報活動で知っていた筈である。
況して「伊勢衆」は、「北畠氏」(1576年)の時には、明確に「合力」を表明している。
明らかに「準に抗する勢力」と観えていた筈である。

従って、「ギリギリの線」の「忠元」も含む「伊勢衆」(青木氏等)には決して手を出していない。
依って、「ギリギリの線」を護る「信長」に対して、「忠元」も「伊勢衆]も、「ギリギリの線」で直接交戦する姿勢は採らなかったのである。
明らかに、「信長」は、「忠元と伊勢衆」を除いた全て「抗する者の範囲」に留めたのは、「門徒衆の撲滅」と「伊勢衆の影の抑止力勢力」のこの二つの事から来ていると観られる。

そこで、それを証明する「伊賀の内情」は次ぎの通りであった。

第一次は、20郷士の内、18氏参戦 2氏が道案内 下山氏、他1氏
第二次は、18郷士の内、11氏参戦 4氏が道案内 福地氏、耳須氏、他1氏、滝野氏
調停役は、「猿楽師」(嶋崎殿の青木氏との関係)の仲介、大倉氏 他介添え役2氏

(1氏が不明 「調停役」に参加と観られる。)

この記録から観ると、少なくとも「忠元の言い分」を理解した者は、少なくとも当初9氏はあった事に成る。
自発的にこの9氏が戦いの裏付けと成る軍資金や物資の補償が無いのに動いたとは到底思えない。
全体の半分は「忠元の説得」に応じた事に成る。
結局は、記録にある様に、感情的に成って走り「籠城餓死寸前」と成って、「忠元」と「伊勢衆」が救いに入ったのである。
その後、「伊勢衆の援護」に伴って「忠元」に味方する者が殆どと成った事で「仲介の段階」に至った事が良く判る。

ところで、前段で論じた様に、矢張り、ここで「伊賀の青木氏」の”「猿楽師」”がこの記録に出て来るのである。
これは「青木氏」に執っては極めて重要な事である。
歴史上の有名な事(「猿楽師の調整役])として、記載されている史実に繋がっているのである。

実は、この「猿楽」に付いて調べると、そもそも,中国から入り遂には大和で広がり、「大和猿楽」と「近江猿楽」と成った。
この「大和猿楽」から有名な「観阿弥 世阿弥の時代」と成るが、「大和猿楽」には四座があった。
ここで、「嶋崎殿の青木氏 伊賀の青木氏」の「五代目」が最初に学んだ事が添書に書かれている。
「七代目」がこれを高めて「猿楽師範」と成って、「徳川氏の諜報役」として働いた。
しかし、この「五代目」が同座で「猿楽師の某氏(大倉氏)女系の血縁先」と学んでいた事が添書に記載が在って、後にこの者は「織田氏」に仕官している。
時を同じくする事から、この「某氏」が「この時の状況」に関わったと観られる。

前段でも記述したが、この「五代目」もこの少し後の1581年に「織田氏」に仕官している。

この「五代目」が「信長」に仕官した事にも大きな意味を持っている。
明らかに上記の事を物語っている。

「信長」に抗した「伊賀者」を家臣にしているのである。

この様に、これで明らかに、「伊勢衆」と「忠元」が動いた事が証明できる。


「嶋崎殿の青木氏」の「猿楽師の調停役」は、この様に「猿楽師の面識」を利用して「信長」に近づいたと観られる。

(注釈 その後は仕官したが、直接に「信長」に調停を申し出る事は無理であろう。
この間に「所縁の者」が関わっていたのである。)

以上の事から、この経緯の事に成っている処を観ると、「忠元」が「仕掛けた戦略」であった事は間違いはないと考えられる。

実は、この「調停役」と成った背景を更に調べると次ぎの様に成っている。

この「伊賀」の「嶋崎殿の青木氏(猿楽師範)」を通じて、直接に「信長」に面接してはいない。
確かに、奈良に住していた「猿楽師(大倉氏)の面識」で「信長への仲介役」を演じた。
然し、ここで、次ぎの人物が「大倉氏の仲介の意」を受けて「信長」に直接仲介した人物が何とあったのである。

前々段で論じた「秀吉と信長」に信任の厚かった二人の内の一人である。

その「仲介者」は、「青木紀伊守一矩」(従五位左衛門佐 越前北庄八万石 1598年)に列せられた者と成っている。

秀郷一門の伊勢の「青木忠元」は、全く同時期に「伊賀守」(1577年)に任じられていて、「越前坂井郡丸岡四万六千石」に列せられている。

「青木伊賀守忠元」と「青木紀伊守一矩」は共に「信長」に仕えた。

重要
実は、この後、「伊賀の青木氏」の主家の「五代目」の子供の娘(次女)が、この「紀伊守の嗣子の政寿の妻」と成っている。
更に、この100年後位宝暦九年にも両家は「伊賀青木氏」から「娘女の縁組」をしている。
然し、この時期は「紀伊守の一族」が、既に,福井に逃避し、「伊賀の青木氏」は江戸に移動していている事に成っている。

これはどの様な意味を成すのであろうか。

つまり、「前の血縁」で観ると、添書内容から考察するに、1581年に「伊賀青木氏の五代目」が「織田家」に仕官した後の事である様である。
この事から、「織田家仕官執り成し」は、この「紀伊守一矩」であった事が判る。
「信長の仲介役」もこの事で裏付けと成る。

然し、「後の血縁」で観ると、「伊賀の青木氏」の「主家の系譜枝葉」では、再び江戸(御家人)と越前(商人)との間の取り持ちとも考えられる。
唯、「奈良の六郷」に[青木一矩の一族子孫」が残留していて、その一族と、故郷の「伊賀の跡目」を再興した「戻り組」とが血縁したのかは詳細は判らない。

現実に、「主家」であるし、「伊賀の青木氏」は江戸期にも伊賀に定住している事、「大番役」でもある事からも江戸だけでは留まらない。
恐らくは、添書には”六郷に嫁す”あるところから、江戸からの支持の下で「大和と伊賀の地での縁組」が交わされたと観られる。

とすると、「伊賀」は,前段で論じた様に、「三氏」と成っていて江戸に移動している事に成っている。
然し、「伊賀本領」にも留守居役として一家を設けていた事を示す事に成る。
これで、現実には、現在も「伊賀の青木氏」が現存する事から、この事で証明できる。

唯、家紋が、前段で論じた様に、「伊賀の青木氏」の主紋の”「一文字紋」である。
果たして、「伊賀の青木氏の枝葉」の「伊賀」に定住した”「青木氏の立場」”はどの様に成っていたのかは不明である。
現実的には、”全て「三氏」を江戸に移してしまう”と云う「戦略」は採れないであろう。
況してや、「大番役」と云う役務から観ても、「本領の役務」も「伊賀」にもそのままに成っている事から、一族を遺すのが筋である。

とすると、この「系譜」は、「三氏の主家の系譜」から観ているのであるから、確かに「主家の一人」を遺したと考えられる。
唯、この「伊賀の主家枝葉の格式」には、「伊賀青木氏の格式」は江戸に集中していた事から、再度、格式を高める手段に出たと考えられる。
恐らくは、この「格式を高めた手段」として、この「主家の系譜」には分析未了であるが、この一つが「女系の嫁」で再び繋いだと観られる。

そうすると、越前に移動したと観られる「一矩系統(久矩)の一族」のこの”「六郷」”は、普通は「現地残留孫」と考えられる。
「大和と伊賀の地での縁組」との縁組と成るが、確定はし切れていない。

と云うのも、そもそも、この”「六郷」”とは、元々、”「一矩一族の呼称」であった”のではないかとも考えられる。
実際に、この「系譜」には、この”「六郷」”の使用が「三か所」に出て来る。
何れも、「六郷の十左衛門・・矩」と云う様に代名詞が付いている。
この事から、「一矩一族(久矩)」が「越前」に移動その後も残留して居た事も考えられる。

現在、この名張域の「大和 六郷」には、「一矩一族の青木氏の痕跡」は、その後に絶えたと観られて確認できない。

(注釈 「奈良の六郷地区」は、R25沿いの「名張」の直ぐ左横の地区である。
「名張」は「皇族賜姓族伊勢青木氏の拠点」であった。
ここに「清連寺城」の館城があった。「伊賀衆救出作戦の拠点」であった。
この一帯は「青木氏所縁地域」である。)

ただ、「大和の六郷」には”絶えた”としても、「六郷」に「一矩の子孫」が居た事は「青木氏の記録」の”「近江青木氏」を庇護した”と云う事が、「青木氏の記録」に明確に有る。
”絶えた”の説では無く、”庇護”の説であると考えている。
つまり、この二つの意味の選択は、「青木氏の商記録」と、「佐々木氏の研究記録」に”「庇護」”と記した意味にあると考えられる。

元々、この「大和 六郷」の地の持つ意味が大きく左右している筈である。

そうすると、この「庇護の経路」を検証して観ると次ぎの様な事が云える。

「庇護の経緯」は、先ず、「本流」は越前に庇護した。
そして、「残留組」は、「三河 額田」より集め、「大和 六郷」より集めて、最後に「摂津」に庇護した事に成る。

この「摂津庇護」は次ぎの様に成る。
先ず、「源平合戦時」に「美濃の富士川の戦い」で、「近江の戦い」で敗れて「美濃の地」に決戦を求めて移動した。
この「近江青木氏」は、結局、「美濃青木氏 土岐青木氏」と共に滅亡したが、この「生き残り」は「三河 額田」に逃避した。
この「子孫の家族」等は、「伊勢青木氏」は近江より摂津に庇護した。
その後、「三河 額田」に逃避した「一矩」が信長に仕官し、出世し「大和 六郷」に子孫を定住させた。
その後、「北の庄」の「八万石の大名」に成り移動した。
「関ヶ原の戦い」から続く「冬夏の大阪の陣の敗退」で、「一矩の孫の久矩」等は越前に逃避した。
その一部末裔を「大和 六郷」に遺した。
これらの「大和 六郷」に遺された子孫を「摂津」にそっくり「庇護」した事に成る。

そこで、「近江青木氏」は「源平近江の戦い」の時に敗退したが、一時、「伊勢青木氏」が、ここ「名張の勢力域」の「大和六郷」にその家族を匿った事も考えられる。
従って、「一矩」は、後に「三河 額田」より仕官後に「大和 六郷」に「三河 額田」で出来た子孫をここに移したと観られる。

その根拠として、「青木氏の記録」(商記録)では、”「近江青木氏庇護」”と簡単に記載されているだけである。
「伊勢の商記録」である事から、何も地名も書かずに”「庇護」”とだけ記する以上は「伊勢青木氏の勢力域」に「庇護した事」に成ろう。

尚、「近江佐々木氏の研究記録」に依れば、「同族縁者の近江青木氏」に付いては、共に戦った。
この近江での「源平合戦敗退時の庇護」には、”伊勢並びに越前に庇護した”と記されている。
恐らくは、この「二つの記録」の”「伊勢」”は「名張域」の「大和 六郷」であった事に成ろう。
故に、その関連から越前までの一連の”「一矩の行動」”に繋がったのである。

元々、この「大和 六郷」は「近江青木氏」に執っては、あくまでも”「逃避地」”であった事に成る。
「近江青木氏の定住地」では無かったのである。
「伊勢青木氏」が採り計らった「逃避地」であった。
近江は最早、他の勢力圏と成り、無理で「摂津の勢力圏内」に庇護した事に成る。
従って、”絶えた”のでは無く、全て”そっくり移して庇護”した事に成る。

「大和 六郷」に”痕跡”が無いのは、「伊勢青木氏」が、江戸期に成って「時勢」が落ち着いたところで、”一族郎党を摂津に移した”と云う事に成る。

そもそも、「青木氏商記録」や「佐々木氏の研究記録」にこの事が記されている。

では、この”「摂津」”とは、”どう云う処なのか”と云うと、改めて述べて置く。
元々、この”「摂津」”とは、「伊勢青木氏」の「大店の二店舗と屋敷」と「伊勢青木氏所有の三隻の千石船」の「堺港」と共に「主係留地」である。
且つ、「平安期からの遠祖地」で「大地主」である。
この”「摂津」”には、当然の事として「伊勢青木氏」が平安期から駐留していた。

「越前の逃避地」と同じく、この”「摂津」”は古来より水軍(伊勢水軍の第二係留地)も備えた”「青木氏の防御の拠点」”でもあった。

この意味からも「近江」に近い旧来の”「摂津」”に庇護したのである。

(注釈 歴史的に参考に成る記録によると、この「摂津(伊勢)の青木氏(駿河水軍と伊勢水軍)」と、近江北部から降りて来た「残存の佐々木氏」等が、摂津西の「渡辺水軍」と共に「摂津水軍」を形成して、「義経の壇ノ浦戦い」の時に側面から平家水軍を突いて「戦況」を変えたと記されている。
味方の「北条軍(梶原氏)の恣意的な邪魔(妬み 嫉み)」を受けて「不利な戦況」と成り得ていた矢先に、この「摂津水軍の側面攻撃」で義経側に形勢が傾いたとする有名な戦史である。
戦い前の「軍略会議」で義経と梶原氏等が切り合い寸前の激論を交わした。
この事から、事前に梶原氏等の邪魔が入る事で戦況が悪化する事を予想した義経は、戦略を変えて、「身内の摂津水軍」にこの作戦を命じていたのである。
これを契機に、義経専属自前の「熊野水軍 紀伊水軍 伊勢水軍 駿河水軍」が「ゲリラ戦の攻撃」に転じて勝利した。
その後、この「摂津水軍」はこの役目を終了後に戦場から直ちに引いたとされている。

その様な重要な「青木氏の商業拠点」であって「陸海の防御の拠点」でもあったのである。
常時は、貿易の「商船団の護衛船」として伊勢と摂津を拠点に働いていた専属の水軍である。

(注釈 この「ゲリラ戦」とは,「軍船と軍船の弓火矢の戦い」では無く、直接に「軍船」に横付けして「船上」で戦う当に虚を突いた「海賊戦の戦法」の事を云う。
この「海賊戦」を提案したのが、当時、蛮勇で有名な「紀伊灘の海賊」の「紀伊水軍」であった。
「義経」は「圧倒的な平家水軍の優勢]から観て、この「紀伊水軍」を味方にするかは「勝敗の決めて」と考えていて何度も説得を試みた事が記されている。
この「ゲリラ戦」が「紀伊水軍の条件」として味方する事に同意した経緯が記録されている。)

(注釈 「水軍船団の弱点」の”「側面攻撃」”が「予想外の戦略的な目的」であったと観られる。
そもそも、逆に船は後退できない為に一度側面攻撃で攻めた後は、自らが的中に突っ込む為に逆に「側面攻撃」を受ける事に成る為に危険度も大きい。)

(注釈 清和源氏の全青木氏と繋がりを持つ「頼光系四家」もこの「摂津」を拠点としていた。)

(注釈 「近江佐々木氏」も「源平近江の戦いの敗戦」で、「伊勢青木氏」は家族を近江から救い出して「摂津」に保護している。近江佐々木氏の軍は美濃に移動転戦し滅亡した。
この経緯が「佐々木氏の研究記録の資料」では詳しく研究されている。)

(注釈 一矩の長男の「俊矩」は東軍に味方した「前田氏の人質」になった。 越前に逃避した「一矩」は2月後に没する。)


恐らくは、「近江青木氏の出自」である事から、この”「摂津」”は元より「額田」にても、その後に、添書から読み取るところでは、未だ僅かに「一族残留組」が居て定住していたのではないかと観られる。

「氏家制度」の中で、「五家五流の宗家の役目」としては、「青木氏の記録 近江氏の庇護(近江,越前、摂津、額田)」の記録にある様に、これには明らかに「伊勢青木氏の仲介」があった。

(注釈 「大和 六郷」の事に付いては、「豊臣家の淀君に関する資料」の中に、”大和(六郷)よりいずる青木氏なる者(一矩−俊矩−久矩)・・”として面会して、大坂方に味方する事を約している。)

この事から、「一矩一族」は、この「大和 六郷」にも子孫を遺していた事が判る。

(注釈 この「大和」は、「家康」が「淀君」に対して「片桐案三案」の,「大阪城退去」を条件に「大和国55万石」を与えるので、そこで「豊臣家」を改に興す様に説得した経緯がある。)


ここで、この「系譜」に記されているこの事に関する「決定的な事」を記すると、次ぎの様に成る。

この「一矩一族」に嫁した「伊賀の青木氏」の「主家の子女(娘B)」の母は、「六郷 十左衛門正明の女」と成っている。
「主家の系譜」では、その夫は「政長」と成っている。つまり、五代目である。


その夫(政長)は、 十三歳で跡目に成っている。
その後、江戸初期に、前段で論じた通り、「小姓組」 「西ノ丸勤仕」等と大出世している。
この「系列の以後」には、他氏からの養子縁組で何代か跡目が継承されている。

その最初の「婿養子の政行」(六代目か)は、特記すべきは、この者は最高官位は「従五位下 豊前守」叙任と記されている。

つまり、上記の通り、「伊賀の青木氏」の「主家の子女」(娘B 伊賀の戦い後)が「一矩の一族の嗣子(久矩の子)」に嫁している。

ところが、その前に、この「娘Bの母親」は、何と「一矩の一族」(久矩かは判らない)から「伊賀の青木氏の主家」に入っているのである。

「一矩の嗣子」の「娘A」(伊賀の戦い前)が、「伊賀の青木氏の主家」に嫁し、その「娘A」の子の「娘B 次女」を「一矩の嗣子一族の妻」に嫁している事に成る。
要するに、「相互間に同族血縁」をしていた事に成る。

次ぎの驚きは、この「娘A」の子供と成った「婿養子の政行」は、「一矩の出自」の「近江青木氏」の「永代官位」を引き継ぎ、「従五位下 豊前守」の「叙任の栄」を受けている。
これは、”一体、どう云う事なのか”である。


そこで、この「近江青木氏の永代官位」を「伊賀の青木氏」は、「一矩一族」から、”何故、受け継いだのか”である。
普通は受け継げない家柄である。
この者は「六代目」と成るので、当に、江戸初期と成る。

「一矩一族」は、次ぎの様に判断したのではないかと考えられる。

越前に逃避した事
除封を受けた事
商人に成った事
五代目で「深い縁続き」に成った事

以上の事が起こり、”最早、奈良期からの「永代官位」を引き継ぐ格式の意味が消滅した”と考えたのではないかと観られる。

そこで、「五代目の努力」で「縁続き」と成った事から、この名誉ある「徳川氏の御家人」と成った「伊賀の青木氏」の将来の発展を期して永代官位を移したと考えられる。

何れも、「近江青木氏」も「四家制度」を敷く家柄、「伊賀青木氏」も秀郷一門下に成り「四家制度」を敷く家柄に成った事から、「青木氏跡目方式」は、男女孫域までの嗣子は差別無く「跡目」と成り得る仕来りである。
従って、「親子の女系」で「相互血縁」をした事で、「伊賀の青木氏」が「近江青木氏」に成り得る。

(注釈 婿養子の「政行」は「山角藤兵衛親詮の六男 義父政長の「娘C 長女」を妻としている。
「娘B]と[娘C」は姉妹である。)

この「四家制度」で、「娘C」の子は、「近江の青木氏」のみならず「伊賀の青木氏」の正当な「主家の跡目」と成り得る。

依って、この「青木氏の四家制度の仕来り」から「伊賀の青木氏」は「永代官位」を引き継ぐ事に成った事を意味する。

(注釈 「豊前守」は名誉官位であった。「永代官位」であるが、その後には「二代」で終わっていて、その後の系譜には官位は不思議に書かれていない。
恐らく、「大番役」で通した事から、”役柄にその官位そのものの必要性が無い”と末裔は判断して返還したと観られる。むしろ「大番役旗本」には邪魔と考えたのではないかと観られる。)

この「永代官位移行」で「近江の青木氏」=「伊賀の青木氏」の深い関係が生まれたのである。
その血縁の「象徴的な手段」としたと考えられる。

(注釈 「伊賀の青木氏」は、前段で論じた様に、「たいら族」の「貞盛の宗家の跡目」から出自した形を採っているが、[天皇への不敬不遜の至り」から作法的に採った繁盛ルーツである。
依って、その官位は正式には無い。)

この二人は「伝統シリーズ]等の論文で何度も論じている「青木氏の話題の人物」である。
この「青木紀伊守一矩」(従五位左衛門佐 越前北庄八万石)の「青木氏の出自」は確定していないが、近江青木氏である事は上記した様に「青木氏の資料」からは明らかである。

(注釈 この一族には他説が多く、上手く歴史の事柄を繋ぎ合わせた搾取説が殆どで矛盾だらけであり信用できない。
「青木氏の資料」から論じている。)

然し、「官位」や「官職」や「家紋」などから総合的に考察する処では、「1の天智期の近江青木氏」であると観られる。

この「青木氏」は、「源平合戦」の「美濃の富士川の戦い」の際に滅亡した「近江の皇族賜姓族青木氏」ではないかと考えられている。
この「青木氏」は、滅亡後、[伊勢の皇族賜姓族青木氏」の末裔とその血縁族が住む「三河国額田郡青木村」に逃避した。
現地近江に遺された一族の末裔の一部は、一度、近江で過ごし、その後に、摂津に移動して「伊勢青木氏の庇護」の下に入って生き延びた。

「源平合戦」で各地の「青木氏の庇護」の下に散った残党を「額田の青木氏」が呼び集めて、「信長」に若い頃に仕官(1559年頃)した事に成る。
その後、上記した様に、「奈良の六郷」と云う処に住まいを構えていたと観られる。

その時、「1598年前頃の青木氏の中での呼称」は「六郷の紀伊守殿」と上記した様に呼ばれていた模様である。(伊賀の青木氏の系譜)

(注釈 額田での「若い頃]の信長の「遊び友達」では無かったかと観られる。)

史実としても、確かに「信長」や「秀吉」にもに重用されて勲功を挙げている。

この「青木紀伊守一矩」と「青木伊賀守忠元」の二人は、その後、信長死後、「秀吉」にも仕えた。

ただ、この「青木紀伊守一矩とその子孫(俊矩−久矩)」は、「秀吉の家柄作り」に利用されて、「秀吉の青木氏」の発祥の元に使われた。
「秀吉」に「我が従兄弟」とも発言される等して、取り込まれ、その「母方末裔」と称して二代目(実質四代目)を秀吉の母方親族と観られる者に継承させて「秀吉の青木氏」を作った。
この「秀吉の青木氏」のその所領は、豊臣政権中は「伊予」や「土佐」の二郡を所領した。

然し、「豊臣政権滅亡」にて、この「青木紀伊守一矩」は、徳川氏に依り除封(「徳川除封禄」)され、「青木忠元」と異なり、その結果、その一族(久矩)は福井越前の「青木氏の庇護地」に逃げ込んで商いをして生き延びた事が「青木氏の資料」で判っている。
(現存している。)
「忠元」の様に「遠祖地の持ち主」であったならば、除封されたとしても、何らかの「遠祖地の支配権(地権持ち)」に戻されている筈である。
然し、福井越前に主流が逃避しているところから、「近江青木氏系」の「額田郡」に住していた「遠祖地」を失した「青木氏」である事が判る。

(注釈 他説は矛盾が多い。「従五位左衛門佐」のこの官位は、「賜姓五役」に役する「皇族賜姓族青木氏」にしか与えられない最高官位で永代官位である。
そもそも、一地方の土豪の「丹治氏系」には与えられる資格は無いし、「丹治氏系青木氏の説」ならば、越前に逃避する必要が無く、徳川方に味方した勲功で「摂津麻田藩」を家康から与えられている事から逃げる必要も無い。
そもそも、豊臣方に味方している。
他の説は,何れにせよ「宗派,家紋、官位、官職」の全てに完全矛盾する。
そもそも、この「永代官位」は勿論の事、丹治氏はその家柄では無い。)

(注釈 況して、「丹治氏」ならば麻田藩に加わる事が出来、「除封」は受けず、追われる事は無い。
他説は後付説で論外)

この青木氏に執っては忌まわしい「伊賀の戦い」は、結局は、「約3年の戦い」と成るが、「忠元」はこの様に懸命に説得工作に出たと考えられる。


「本所役の忠元」は、「皇族賜姓族の伊勢青木氏・信濃青木氏」に沿う以上は、「伊勢国人」として、「伊勢郷氏」として生きねばならない宿命に縛られている。
従って、この「仕来り」から、何れの家臣にも成れない柵があった。
しかし、「信長」に「抗う事」は「青木の氏是」に反して、”「戦い」”を仕掛けなければならない填めに成る。

第一次の「丸山の戦い」(1578年−1579年)では、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」の「青木氏の顔」を隠しての「ゲリラ戦」で応じて勝利した。
然し、何時までもこの姿勢を保つ事は出来ない。
「伊勢三乱」に発展する事の前に、そこで、「本所の宗家忠元」は、「皇族賜姓族の伊勢青木氏・信濃青木氏」に代わって止む無くこれを受けた。

つまり、出来る限り「伊勢の青木氏への衝撃」を押えたのである。

「名張戦、伊賀戦」では、「青木氏の記録」では、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」側は、名張城から「窮地に陥って伊賀者18郷士」を救い出す事に限定して「救出戦」(1581年)で応戦して救出した。
(この伊賀衆を青木氏の定住する地域の「神明社組織」で保護した事が判っている。)

「本所役の忠元」は、上記した様に”「紀伊守の仲介」”で何とか難を逃れた経緯があった。

この様な事もあって、江戸期に成って「家康」から「忠元」は”「除封」”は受けたが、「遠祖地の支配権」は安堵された。
この時、「伊勢の紙屋の青木氏」の「家康への執り成し」であったと観られ、共に「伊賀と伊勢と紀州と堺と摂津」の一部を「本領安堵」されたのである。
(前段等で論じた 参照)

(注釈 「紀伊守」は、平安期に「遠祖地」を失っている事と、”「秀吉との関り具合」”から”敵対した”と観られて許されなかった。
この「紀伊守の動向」を考察すると、特段に「徳川氏に対しての功罪」は無い。
「除封の憂き目」を受けるものとして唯一つあった。
それは、上記の”「秀吉の関り具合」”とは、”「秀吉の青木氏」の事”だが、それが”「豊臣家一族」”と見做されて許されなかったのである。)

そこで、この様な「秀吉の青木氏」に観られる様な典型的な「家柄格式の引き上げ」の為に利用された”「婿養子」”に類する縁組が「二つの青木氏」にあった。
これは、「姓族」をはじめとして、他氏の場合は、”「権力」”に裏付けされた”「家柄の吊り合い」”の「引き上げの為の縁組」は、常である。
然し、「二つの青木氏」の場合は違った。
それは、”「権威」”に基づく悠久の「歴史と伝統」を持つ”「格式の獲得」”にあった。

そこで、従って、「伊勢青木氏」を始めとして、他の「二つの青木氏」の調べられる範囲での「系譜添書の内容」から、果たして、どの様に成っていたのかを調べた。


ここで、その一つの例として、先に一つ疑問があるので、検証して観る。
それは、上記の様に「近江青木氏と伊賀の青木氏」との血縁は進んだ。
然し、”「近江青木氏」と「忠元一族」との血縁が何故起こらなかったのか”である。
実際は、「血縁」が起こっていない。
普通なら、上記の様に成っているのであれば、「忠元一族との関係」もあったと考えるのが普通であろう。
確かに、「織田側の重臣」に対し、一方は敵対する「伊賀側の支配者で指揮官」である。
大見栄きって出来ない事は判る。然し、「伊賀青木氏」とは出来ている。

何か出来ない理由があって出来なかったのか。「100年後の末裔」にも起こっていない。
その理由が調べるが記録に出て来ない。

唯一つ考えられる経緯の事が次ぎの経緯に在る。
「青木氏の柵具合」が判る出来事であると観られる。

上記に経緯として、「近江青木氏」の一部を論じたが、「近江の源平合戦」「美濃の源平合戦」の何れにも敗退して滅亡した。
辛うじて、「一矩の先祖の一族」は「伊勢青木氏」等に依って「額田の青木村」に救出された。
この時、「近江青木氏」の「滅亡の憂き目」の原因は、「秀郷流青木氏」が、”「近江や美濃」で助けに入らなかった事”が敗退したと受け取っていたと考えられる。
何れの地にも「秀郷流一族」は存在した。
況して、「賜姓五役補完」としての役目もある。

つまり、”「近江青木氏」が「存亡の危機」の時に、その役目を、何故、果たさなかったのか”と云う不満である。

確かに、その事は云える。
平家もこの事(出て来ないと云う事)を知った上での「戦い」であった筈である。
何故ならば、「二つの青木氏」には、「青木氏の氏是」がある事を知っていたからである。
主導役の「伊勢の皇族賜姓青木氏」が動かなければ、「特別賜姓族の青木氏」も動かないであろう事は誰が考えても判る。
況して、「近江青木氏系一族」と「美濃青木氏系一族」は「青木氏の氏是」の「奈良期からの禁令」を破った事でもある。
同族と云いながらも、「氏族」の生きる前提は、「嵯峨期の詔勅」に依って決まっている。
「賜姓五役」や「三つの発祥源」や「国策氏」等の「生きる目的の為の役務」は与えられていない「氏族」である。
この「異なる生き方をする源氏」に対して、「同族の賜姓源氏」に引きずられて禁令を破っている。
後勘の者として観ると、「近江青木氏等」は「氏の歴史的な事柄」を鑑みても、「思考原理」が短慮であり、根本的に間違っている。
「先祖の伊勢側」もこの様に受け取っていたと観られる。

これだけでも、当然に同じ考えに立つ「特別賜姓族秀郷流青木氏」も参戦する事は先ず無い事は判る。

然し、「近江青木氏側」は、”「五家五流]の内の「三家」(甲斐も行動を途中まで行動した)が動いたのだから助けるのは当然であろう”と考えた事に成る。
つまり、この事は、「近江青木氏」が、「二つの伊勢青木氏」に対して、奈良期から務めて来た”「主導役」”を素直に認めていなかった事に成る。
そもそも、「四家制度」に依っては、確かに「五家五流」は「平等の格式家柄」にある事は史実である。
何か特別に「二つの伊勢青木氏側」に「朝廷の賜姓のお墨付き」が在った訳では無い。
それは「647年の発祥時の経緯」の差だけであり、伊勢の「皇祖神の地の守護の経緯」の違いだけである。
後は同じである事も事実である。

「近江」にして見れば、”朝廷との直接の繋がりの場にいた自負”もあった事も事実であろう。
「青木氏の氏是」にしても、”「危機存亡」の折に「氏是」に拘るのか”と云う考え方もあった様でもある。
況してや、この”「青木氏の氏是」は、「施基皇子(伊勢青木氏)の遺言」でもあるだけではないか”と考えた事も事実である。
そもそも、「川島皇子の血筋(近江佐々木氏始祖)」も持つ「近江青木氏」に執っては、「青木氏の氏是」がある事は認めるも、「伊勢青木氏」が思うほどの「絶対性]は無かった事も否めない。
(資料にもそれと読み取れる一文もある。)
この点から考察した場合は、末裔としての「後勘の判断」としては、納得はしないにしても「近江青木氏の言い分」は排除でき得ない。
「二つの伊勢青木氏」もその分での配慮もあったと考えられる。

然し、雌雄を決して、最悪全ての「青木氏」が「滅亡の憂き目」を受ける事は避けなければならない。
役務である以上は、「近江青木氏」等の様に、”一か八か”は成り立たないと考えた筈である。
これは、”「青木氏の問題だけでは無い。事は朝廷まで及ぶ」”と租借していたと考えられる。
従って、「伊勢側」は、”「知略」を使って遣るだけの事はしよう”と考えた筈である。
現実に、上記した様に「知略」の限りの「援護と庇護」を行った。


現実に、記録にある様に、「平家軍」も「信濃域」に転戦していた「軍勢」をこの「美濃の戦い」に呼び寄せての戦いであった。
これで、場合に依っては「秀郷一門」が出て来る事も予測して「平家軍」も準備はしていた事が判る。
近江には、「近江の蒲生氏」(後の「伊賀の戦い」の指揮官 西の公家政権の監視役)、「美濃」には、「州浜紋類]と「片喰紋類」の「秀郷流青木氏」が定住地である。
この「秀郷軍(主軍は青木氏)」が動けば、「平家軍」は明らかに「挟み撃ち」に合う。
「持久戦」に持ち込まれれば、「平家軍の全軍餓死全滅」である事は間違いは無い。
故に、そこに至る前に慌てて「富士川合戦」に持ち込んだのである。
そして、形勢が決まると直ぐに軍を引いたのである。
当時の「三大組織的軍事力」は、「源氏力、平家力、秀郷流青木氏力」であった。

「近江青木氏」が考える事とすれば、”何故、「合力」は別としても、「滅亡」までに至らなくても手前での「援護なり救援」が無かったのかである。
”あれば、「滅亡」までには至らなかった”と考えていたのではないか。

況してや、歴史を通してみれば、「伊賀の件」でも、又しても、同僚の秀郷流「蒲生氏郷」が指揮官であった。
この釈然としないものが代々あったのではないかと考えられる。
然し、「伊勢側」から観れば、”何を勝手な事を”と成る。

「関ヶ原戦い」、「大阪の陣」共に助けは無かった事から、又しても「裏切られた感」を持っていたと観られる。
[富士川の戦い」の時にせよ、「伊賀の戦い]の時にせよ、「大阪三戦」の時にせよ、「徳川除封」の時にせよ、”「賜姓五役」で繋がる青木氏同族”でありながらも、何れも「秀郷一門の合力」は一切無かった。
「同族青木氏」と観れば、普通は合力程度はある。
現に、「伊勢の皇族賜姓族の青木氏」の賢明な側面からの「救援と庇護」はあった。
「人心」としては比較されるは常道である筈である。

(注釈 「青木氏の氏是」は、「賜姓五役と三つの発祥源と国策氏」の「役務」から、”「他氏への仕官」”は「最も厳しい禁じ手」である。
あくまでも、”朝廷が認める「永代地権」を持つ「郷士、国人の範囲]で留めなくてはならない。”
故に、「五家五流青木氏」は、永代の「不入不倫の権」に護られていたのである。 
この「掟」も「近江青木氏」は「信長秀吉の家臣」と成って破っている。
「伊勢青木側」から観れば、”何をか況や”である。
実際も、矢張り、「援護 支援 庇護」はするも、その範囲では一応の「付き合い」はするも、「血縁の範囲」では、出所進退ははっきりしている。
然し、室町期から江戸期には至っても何も無い事もあり、付き合い難ったのではないだろうか。)

「史実」として、この様に成るが、調査研究を進めているが、的確な資料は「青木氏」の中では「直接の血縁」と成るものは出て来ない。
恐らくは、筆者の観方は、「伊勢側」が後に末裔がこれらの歴史を恣意的に”隠した”のではないかと観ている。
当時の慣習としては、何らかのものがあるのが普通なのであるが無い。

唯、「忠元側」にして見れば、「賜姓五役の補完」としての「青木氏の氏是」に縛られていた事が在る。
非常に難しい立場であった事も判る。
然し、”「伊勢の皇族賜姓族の青木氏」の賢明な側面からの「救援と庇護」(知略)はあった” 程度の事は出来た筈と観られた事も考えられる。
逆に、この「救援と庇護」が目立った事も考えられる。


そこで、別の方向で次ぎの研究をした。
「皇族賜姓族」では、「伊勢青木氏」、「信濃青木氏」、「近江・摂津青木氏」の三氏と、「特別賜姓族」では、「伊勢秀郷流青木氏」、「関東秀郷流入間青木氏」、「讃岐秀郷流青木氏」の三氏に付いて調べた。
その結果、その「家柄格式」からして、一寸、”「不思議な血縁」”と観られるものがあった。

それは「本家、分家、支流」の如何に関わらず各所に存在していた。
特に、その傾向として、秀郷一門一族の中でも、「関東の秀郷流青木氏」に多く存在していたのである。

むしろ、「秀郷一門宗家」よりも「第二の宗家」と呼ばれていた「青木氏」に起こっている。
これは、「秀郷一門宗家の血流」を護る為に、防護していたと観られる。

唯、その中でも”「青木氏の分家筋」”が「青木氏宗家」に代って「他氏との血縁関係」を結び、その「政略的な働き」をしていたと云う事に成っている。
つまり、「他氏の血流」を入れていると云う事である。
その「血流の入れ方」には色々な方法があるが、特徴的な方法は、”「婿養子」”が断然に多い。
この”婿養子”は、「秀郷一門の主要八氏」までが採用している「類似の四家制度」を超えている。
「四家制度の範囲」に無いところからの”「婿養子」”に成っている。
添書に書かれている内容からではあるが、ただ、「氏名」からの判断で観ると、「藤原氏北家筋9氏」からは超えていない。


唯、「類似の四家制度」を厳格に採用している「秀郷一門主要五氏」も、”ある面”で「他氏との血縁関係」の血流を護りながらも適度に行っていた模様である。
しかし、それには、無規則に行われているのでは無く、ある歯止めの様なものがあった。
その中でも、その”「婿養子の血縁」”には、”「主要五氏の調整役の進藤氏」”が頻繁に関わっている事が判る。

この「秀郷一門の主要五氏」の「文行系の進藤氏」は、“他氏との血流を広く入れる役割”を果たしていたと考えられる。

ところが、その割には、「文行系の進藤氏の本家筋」が、目立って「跡目」に苦労している系譜に成っている。
矛盾している。これが「不思議の一つ」であるのだ。
ここには、”何か婿養子の血縁に隠された何があった事””が云える。

その”隠された何かあった”と云う事が判れば、重要な青木氏の生き様の判断要素に成り、当時の「青木氏が持つ歴史観」と成り得る。

”何か不思議”で、先天的に”「女系族」”なのかもしれないが、そもそも、この”「婿養子の跡目」”が頻発している。

するとこの結果、他氏から入る事に依って”「一族の血流性」”(純血性)が低下して、結果、「子孫力と組織力」が低下していたのであろう事が判る。

「女系性」が進藤氏の一族枝葉全般に起こる現象でも無い筈である。
依って、問題は「女系性」では無く、「一族枝葉全般に起こる確定的な現象」と成る。

それは、そもそも、「四家制度」の様には行かずに、「嗣子のやり繰り」が一族内で効かなくなる傾向があった事に成る。
その結果、挙句の果てには、「血流性」が三代内で低下する事に成って、「他人性」が増して、”「一族争い」”が起こる事に成った。
そして、益々、”「跡目継承者が少なく成る現象」“を起こす傾向が頻発して、それが常態化して仕舞った。

恐らくは、この現象が起こっていた事が判る。

この傾向は、「文行系の一族」にも観られる現象ではないかと判断できる。
添書には、娘の嫁子、他氏養子、婿養子、跡目養子、養女、養子等の形であるが、婿養子の血縁が多い事が云える。
「一族存続の在り方」に付いて一つの「文行系の考え方」が在ったと観られる。
それが、「文行系進藤氏」の様に、はっきりとして「秀郷一族一門の中での役目」であったかは判らない。

重要 これが”「婿養子の最大の欠点」”とされていた。

「調整役」を務めいた「進藤氏一族」が典型的な見本である。「青木氏」はこの「進藤氏」を観てこの事を
充分に承知していたと観られる。
その為にも、「主要八氏」内で採用した「伊勢の四家制度」に類似した「秀郷流青木氏の四家制度」の理由の一つと成ったと観られる。

(注釈 この「進藤氏」に付いては、前段でも「円融期の青木氏発祥」に大きく貢献を受けた事を書いた。)

そこで、この「秀郷一門」の「調整役の進藤氏」が、この「近江の青木氏」の事に関わっていないか調査した。

そうすると、この「近江青木氏の血筋」を受けた”「脩行系青木氏」の存在”が出て来たのである。

実は、この「脩行系青木氏」は、「秀郷一門の4代目文行の流れ」の「文行系の青木氏」である。
「伊賀の青木氏」と同じく「特別の青木氏」である。
「秀郷流青木氏」は「4代目兼行系の青木氏」である。
前段で論じた様に、本来は「青木氏」が出ない仕来りに成っている。
然し、出ている。
実は、この「脩行系青木氏」は、ある背景があった。
京に在し”「公家青木氏」”と云われ「公家の血筋」を引く「青木氏」である。
この「脩行系青木氏」は、「文行系の進藤氏」の系列に入る系である。
この「脩行系青木氏」は、「近江青木氏との血筋」を持つ事から、特別に「青木氏」を名乗ったとされる。

この「公家青木氏の脩行系青木氏」は、南北朝末期まで「紀州北部の大掾位」を務め、「若山3000町歩」を所有していた。
ところが、南朝に加担した事から「紀州掾の除役」と成った。

一部は「讃岐秀郷流青木氏」を頼り「伊予土佐域」に逃避、主流は本領の美濃に戻った。
美濃と三河域を勢域とする主要の「秀郷一門の州浜紋族」である。
現在も、「和歌山県有田市」にこの「青木村」の地名は残っている。
ここには「脩行系青木氏」の末裔子孫はある僧侶の一族末裔を除いて定住していない。
唯、紀州には女系で繋がる傍系土豪の玉置氏等が現存する。
室町期に在住した「藤原族青木明恵僧侶」が開いた「明恵温泉」で有名な地域である。
この「青木明恵上人」は、紀州の「藤原族の頭目」として地元の民から慕われ、後に剃髪して上人と成った紀州、伊勢、奈良域では有名な人物である。

これが、「調整役の進藤氏」の採った「仲介」ではないかと考えている。

唯、この「近江青木氏の血筋」の受けた「紀州の脩行系青木氏」の「明恵青木氏の発祥期」が「室町期の何時」であるかは確定する資料が無いので現在は判らない。
「脩行系青木氏」は平安末期である。
若干、時代性にズレの疑問もあるが、然し、「明恵上人」として存在し、その末裔は有田近隣に遺しているので、この時期の事である事には間違いは無い。

考えられる事は、この「明恵上人一族」と「忠元の一族」が女系で繋がったかは不明なのである。
この事が確定されれば、「近江青木氏」と「忠元の青木氏」との関係があった事が証明できる。
然し、、現在は判らない。

(注釈 近江青木氏の一矩」が「紀伊守」に任じられたのも、この上記する紀州との所縁から来ている。)

筆者は、資料有無は別としても,或は消去にしても、「両氏の何らかの血縁」は無かったと観ている。
上記した様な意識の違いの事も長い歴史の中ではあり得る。
「進藤氏の仲介」があったとしても近江側が「拘り続けた事」もあり得る。
何せ「商記録」に出て来ないと云う事は、「伊賀の事件」以後にしても、「一矩末裔一族」は「伊勢青木氏の庇護」の下に「商い」をしているのである。
共に「商い」をしている立場でもあり、何かがあって当然である。
ここまでの”「消去」”は無いであろうから、”無い”と云う事は無いのであろう。

それは、「伊勢青木氏と信濃青木氏」は血縁を繰り返し、「和紙や商い」は元より明治35年まで深い親族付き合いをしていた。
この事を鑑みると、「近江青木氏」とも”ある”のが当たり前であるが、これは無いのである。

不思議に、「青木氏の商記録」には「近江青木氏」の事は出て来ない。

上記に記した様に、「越前」で「商い」を紹介し庇護しているし、直ぐ近くの「商いと防御の拠点の摂津域」にも庇護している。
何も出て来ないのは「不思議な事」なのである。普通は何かしら出て来る。

(注釈 史実としては、平安期末期には、滋賀で伊勢の上田郷から出て来た「荒くれ者」が滋賀に残留した「近江青木氏の跡目」の途絶えた「老婆とその娘」の家を襲い、その家を奪い滋賀青木氏を名乗った。
この近江に帰った本筋の「近江青木氏」が、この搾取の「滋賀青木氏」と「[青木氏奪還戦」を繰り広げ敗退した。
更に、秀吉の時代に再び、秀吉立ち合いの下で、この「滋賀青木氏」と青木氏奪還戦」を展開し勝利した。
この時の「近江青木氏」とは、「近江の青木一矩」であった可能性がある。この二件がある。)

解き明かせない疑問なのである。何か変である。
越前で「神明社」を通じて「商い」を指導し、紹介して江戸期中期には「大店」を営むまでに成った事も判って居る。
「近江の青木氏の血筋」を受けている「仲介役の進藤氏系」の「脩行系青木氏」が伊勢近くに居たにも関わらず無いのは不思議なのである。


上記の様に、「一族一門の血縁」に関しては、その「氏の存続」に大きく関わっている事は判る。
然し、血縁で解決できない何かも働いている事も「青木氏」の中で起こっていたのである。
これらの事は、「自然の成り行き」で起こる事は先ず無い。

一族一門の誰かが、一族一門を繁栄させる為に、仲よく護り合う体制を作り上げる為にも、その役目を演じているのである。

それが、下記に論じる「秀郷流文行系進藤氏」がこの役目を演じていたのである。

依って、この「進藤氏の動き」を調べれば、何かが判って来るのである。
現に、「九州の永嶋氏等」この事から判った事でもある。
従って、ルーツを調べる時には「進藤氏の動きや系譜」などを調べるのが通例である。

現に、上記の「脩行系青木氏」はこの「進藤氏系の一族」である。
このことから多くの事が判るのである。
「青木氏のルーツ」を調べる時には、この「進藤氏の検証」は欠かせない。
それにこの「進藤氏の系譜」には,特徴があって、「系譜」よりも「添書」の方が大きいのである。
従って、一見「系譜」では無く「歴史本」と観える。
読み込むには漢文の技量も必要として大変である。
読むだけでも大変なのに、その上にその文章に持つ意味合いなども読み取らねばならないのである。
「秀郷一門の歴史」を知るには、「古い時代の歴史観」なども会得するには、「佐々木氏の研究資料」と共に「青木氏の参考書」なのである。
避けて通れない「進藤氏」なのである。


この「進藤氏の系譜」は、この典型的なパターンを起こしていて、結局、「進藤氏の本家」が二つもある様な現象が起こっている。
そもそも、血縁を進めるこの”「婿養子」や「嫁子女」“には、この問題が「潜在的」にあり、「四家制度」では、「婿養子」を他氏から積極的には採らない仕来りに成っていた。
この理由には、更に、”「本家割れ」”のこの事も懸念していたのである。

「信濃足利氏系青木氏」でも、「信濃足利氏」でも、「甲斐青木氏」でも、「甲斐武田氏系青木氏」でも、「美濃土岐系青木氏」でも起こっている。
「青木氏族の関係族」にはこの様に起こっているのであるから、一族を上手く取りまとめる役割の族が必要に成っていたのである。
これが進藤氏と云う事である。

この「調整役の進藤氏」が強い影響の受けたこの“「婿養子の弱点」”とも云うべき現象を無くす目的から、次ぎの様な手立てを講じていた。

前段で論じた「円融天皇の目論見策」から、「秀郷一門」の「青木氏宗家」には、“「秀郷一門宗家」の「第三子」を優先的に跡目に入れる事” を、朝廷から「賜姓時」に命じられていた。
その「跡目」は、“宗家並に守られる仕組み”の中にあったのである。
この「仕組み」が、「第二の宗家」と呼ばれる所以でもある。
これで、「婿養子の弱点」を防ぐ事をしていたのである。
と云う事は、当時の時代の皇位族でも起こっていた事を物語るものであり、「天皇」も知って居た事に成る。

この様に「氏家が割れる現象」が出れば、「宗家」から強引に跡目廃嫡をしても「跡目」を入れる事で、「氏族の筋目」は又基に戻る事に成る訳である。

(注釈 「秀郷宗家の出自」と成っている「佐野氏」から跡目を受けていた。佐野氏は秀郷出自氏であり、一門の中でも主要五氏の中でも最高位の位置にいた。)

「秀郷流青木氏」の「始祖の千国」は、「千常」を嫡子として「秀郷の嗣子の第三子」である。
この系譜で、四代目の「兼行系の青木氏」に限って、殆ど、「婿養子の跡目」は無い。
その為に、「116氏」からの「嗣子の跡目」で繋いできている。
その中に、「秀郷一門宗家筋」から平安期から江戸初期までに「4回程度の跡目」が入っている。

これは、恐らくは、次ぎの様に成る。

「母方」で繋がる「賜姓族の補完と云う立場」を護ろうとする意志が働いていた事。
「第三子の掟」もあり、“「四家」“と同じ様な”「何らかの仕組み」“を採って居た事。

以上で判る。

「家紋分析]で観ると、「116氏」と云っても「本家筋」を中心に「跡目」に据えている。
中には、一度、「本家筋の嗣子」にした上で「青木氏の跡目」に成っている。
この場合は、「跡目」は「青木氏の本家筋の跡目」に成っている。

この様に、「秀郷流青木氏の四家方式」は、次ぎの様に成っている。
「秀郷流青木氏の宗家(本家)」は、「伊勢」の「四家方式の二段方式」に類似していた。
「伊勢秀郷流青木氏(本所)」は、「本所役」として、「賜姓五役の補完遂行の役目」がある事から、「五家子流の皇族賜姓族青木氏」と同じ「四家方式」に従っていた。


先ず、「主役の四家」(宗家 主要五氏)がある事。
その下に繋がる「副役の四家」(本家 主要八氏)がある事。
以上の「13氏の役柄」は「主役と副役」から構成されている事
「副役」は「16家」(本来32家 本家筋)から構成される事。
「主役の四家」と合わせると「計20家」(45家)の範囲で構成される事。

以上として「四家制度」に「類似する方式」であった事が判る。
唯、五番目の「計20家」(45家)は実際は厳密に護られていない。

「秀郷流青木氏」は、この「類似の四家制度」に伊勢以外は一般の氏族と同じく「本家分家制度」を採用していた。
これが全体で116氏に成る。
秀郷一門宗家の赴任地に護衛団として同行する事から、赴任地の24地域には現地孫などの枝葉末裔が発祥する。
この事から、「末裔の枝葉」は拡大するので、「本家−分家−支流−傍系」が必然的に生まれる。
「45家」が厳密に護られていなかった理由は、「現地孫の枝葉末孫」が原因していた。
要するに、「現地孫」は「現地の土豪勢力」が主体であった。
この「現地孫」は、前段で論じた様に、朝廷の「青木氏賜姓の暗黙の条件」であった事から、避けて通れない仕来りであった。
その為には、必然的に護れないシステムであった事に成る。
「赴任地」の「土豪の影響」を強く受ける「現地孫」である事から、論理的にも現実に護る事が無理であった事が判る。

この、現地の役務上から発祥する「末裔枝葉」には「四家制度」は一切採用されていない。

類似制の「四家制度」は、武蔵入間の「総宗本家−宗家−本家」の範囲までで引き継がれていた。


この部分を綿密に調べると、類似制の「四家制度」が護れる範囲に於いては、明らかに“不釣り合いな「政略上の血縁」だな“と云う縁組が出て来る。

「総宗本家−宗家−本家」までは入間に定住する事に成るので、長い期間の「慣習仕来り掟」は護れる。
然し、これ「以下の枝葉」は現実には上記した様に難しく、この様な、「不釣り合い」の婚姻が生まれたと観られる。
既に、調べた範囲では、「45家の範囲の末端位」までは影響を受けていた事が判る。
家紋分析と主要八氏の系譜の添書からはっきりと分析できる。
恐らくは、時代が進めば、更に「45家」を超えて、「32家」、更には「13家」と進む可能性が有ったと観られる。
現実に「家紋や系譜」では、最早、辿れない処の江戸末期では、起こっていたのではないかと考えられる。

故に、116氏もありながら「あらゆる伝統」が不思議に遺されていないのはこの事から来ていると考えられる。
「ルーツ掲示板のお便り」にもよくこの事が現れている。
最早、殆どである。

比較対象として、「四家制度の伝統」を頑なに遺した「伊勢青木氏」と「信濃青木氏(諏訪族含)」と「近江佐々木」には、その”「伝統」”は比較的遺されているのはこの事から来ていると観ている。

(注釈 「甲斐青木氏」は僅かに子孫を遺したが、「甲斐賜姓族青木氏」は僅かに遺しているが、兎も角も、「武田氏系青木氏」は、「武蔵の鉢形」に家康に集団移住させられた事もあって遺されていない。)
この「四家制度」が「伝統のパラメータ」と成り得ている。
依って、この「上記三氏」も恐らくは同じと観られるが、伊勢は、最早、筆者の代で間違いなく「終わり」である。
「四家の背景」と成る「慣習仕来り掟」と相対の位置にある。
「伝統の価値観」が全く異なる。個人では支えきれない「事の流れ」の中では仕儀無き事と考える。

「秀郷流青木氏の系譜の状況」に話しを戻す。

例えば、この中には、「時の政権」の「京平家」との「直接血縁」に関わる「縁組」らしきものが、五代の内に四代も続けて起こっている事が読み取れる。

「平家一門からの婿養子の縁組」
一つは、「関東の京平家筋」(平氏の岡田氏 武蔵青木氏に)
二つは、「関西の伊勢域筋」(平氏の嶋崎氏 武蔵青木氏に)
三つは、「京平家の近江域筋」(平氏の本家 蒲生氏経由、伊勢青木氏に)
四つは、「武蔵の京平家筋」(平氏の本家 千常の宗家経由、武蔵青木氏に)


以上の四ルーツである。

ここで、興味深いのは、「三つ目の京平家」から秀郷一門の「近江蒲生氏」に入り、その末裔の一人が「秀郷流伊勢青木氏」に入ったとしている事である。
そうすると、この人物は下記する「青木玄審梵純」である事に成る。

先ず、その第一点が、その子孫が前段と上記で論じ、下記でも論じる”「青木忠元」”である事に成る。

次に、その第二点は、下記するが、「京平氏の支流末裔」の「信長」は、この「京平氏の血筋」を引く「蒲生氏郷」を特段に可愛がった理由がここで一つ観えた事に成る。
「京平家」の中の「同じ家筋の血筋」を引いていた事である。
信長の家紋は、総紋を「揚羽蝶紋」にして、美濃の地域に分布する「たいら族」の「織田木瓜紋」である事からも判る。
この二点が大きく働いていた事に成るのではないかと観られる。


とすると、この「忠元」は、次ぎの様な関係に成る。
「京平家A(女系)」−「青木玄審梵純」−「青木忠元」
「青木玄審梵純」−「蒲生氏郷」
「京平家A」−「織田信長」

この三つの式から、次ぎの関係式が生まれる。

「青木忠元」=「蒲生氏郷」=「織田信長」

以上の関係式が生まれる。

以上の系譜から観ると、「伊賀の戦い」の根底が読み取れる。

前段で論じた「信長」の「青木忠元の扱い方」と「伊賀の戦い方」が明確に読み取れる。

合わせてこの事で、上記で”「疑問」”と成った「近江青木一矩一族と青木忠元の一族との血縁」が難しかった事がこれで判る。

(注釈 これは、「調査資料の有無如何」にも左右されているので、四件に関わらず、他にも多く観られる筈である。)

この「血縁の現象」は、矢張り、主には、「鎌倉期末期から室町期初期」と、「室町期末期から江戸初期」の二期に集中している。

何れ二期ともに、例外なく”「勃興氏の発祥期」”である。
「青木氏側」では、「24地域」に定住した「青木氏の跡目」を護る必要から、より“隙間の出る時期”でもあった。
この事からも符合一致している。

実は、「青木氏の歴史観」から観て、この4つの”「不思議な血縁」”と観られるものは、次ぎの様に成る。

鎌倉期末期の「太平記」(1318−1368年)には三か所
平安末期の「東鑑」(1180−1266年)には二か所
平安期中期の「承久記」(1221年)には二か所

以上の事が、「青木氏の事」(生き様)に付いて書かれていて「何かの縁組」があった事が読み取れる。

他に、「地方の古書」(東作志 因幡志 伊川津志 額田志など)にも”何等かな形”での「青木氏の生き様」が描かれている。

特に、「伊川津志」や「額田志」は「青木氏の定住地」でもあり、且つ、歴史的にも「額田」は、「青木氏の生き様」の大きく有った処で、「有名な史実」が遺された地域でもある。

この事が「古書」に態々書かれていると云う事は、それだけに、“青木氏の血縁に掛かる関心”が、「氏家制度」であった為に一般社会にも強かった事を意味している。
つまり、周囲からは「青木氏」と血縁する事が、“将来を約束された様な「羨望の目」”で見られていた事に成る。

これらの読み取れる「生き様」から観ても、他氏は、“「青木氏」に何らかの形で取り入った血縁関係に関わるもの”である事が記録されている。

その多くは、「遠縁」と目される立場の要するに“「縁籍筋」”からである。
要するに「四家方式」、又は、「本家方式」の”「縁籍筋婿養子」”で入ったと観られる縁組で興った「青木氏」である。

つまり、「純血性の血縁」と「吊り合いの取れた血縁」を基本にして「縁籍筋の血縁筋」で子孫を繋いでいた事が判る。
そして、時々、「政略上の婿養子」を“他氏から入れる”と云う「仕来り」で運営されていた事に成る。

そもそも、「四家制度」とは、ただ恣意的に“「政略的な婿養子」‘を排除したところが異なるだけある。
そこで、「秀郷流青木氏」の本家筋までは、ほぼ同じ「子孫存続の方式」、況や、「慣習仕来り掟」で「氏」を運営していた事に成る。

実は、この「四家制度」を敷く「伊勢青木氏」でも、上記した様に、当に、この“サンプル”とも云うべき出来事が現実には系譜を調べると起こっているのである。

伊勢が混乱に巻き込まれた天正期に、「青木氏の遠縁」が持つ縁籍筋から、この“「政略的な婿養子」”が入っている。
つまり、「家紋分析」でも判るのだが、完全に「血縁性の無い他氏」で「東隣国の豪族」からである。
普通、本来は、「四家方式」では、明らかに「縁外」である。対象外の血縁と成り得る。

ただ、上記の様な「20の顔の問題」があって、この「縁籍外」の形で入ったこの“「婿養子」”は、「放蕩三昧」にて問題を起こした。
そして、「四家の福家」からの注意も聞かずに、遂には、「四家主役の福家」から「養子縁組」を早期に外されて「追放の処置」を受けている。
この者は、「青木氏部」を統括する「四家の5の面 20の顔」の一つに組み込まれていた。
どの「部の者」かは不明であるが、「青木氏部」は、そもそも「技能技術の必要性」から「長年の経験」を必要とし、「欠員」が起こる可能性が高かった事がある。
そこで、「遠縁」を通してここに付けいられた事に成る。

恐らくは、調べた範囲では、”「神明社建築」に関わる「絵画の部」”に問題が起こったものと考えられる。
この者は「職人」で「高い仕事知識を持つ者」が、「他氏]に居て、それが「遠縁筋の配下」に潜入した。
そして、主家に取り入り、その後に優秀であった事から「四家」に最初は「弟子入りの形」で入った。
後に“「婿養子の形」“で廻された事に成るらしい。
この者が放蕩三昧で外された後も、この「養子縁組の青木氏」は、「明治3年の苗字令」で、その末裔は引き続き「青木氏」を名乗っていて「子孫」を拡げている。
現在も、関西の和歌山南部と大阪のある地域で「伊勢青木氏の末裔」と名乗っている。(元は藤田姓)

矢張り、これは「自らの家の名声」を高めようとする行為であって、“除名追放された汚名”が在るにも関わらず、「姓名」を基に戻さなかった事が証明されていて、現在でも“末裔だ”とも吹聴している位である。
「当時の内容」から観て、「福家」も驚くほどの非常に才覚の訊く有能な人物であったらしく、“撹乱して跡目を乗っ取る手順”であったが、上記する“「四家制度」”の「チェック機能」が「四家の青木氏」に働いた。
そして、この時期に伊勢周囲の他氏の乗っ取り成功例の様には行かなかったと云う事であろう。

(注釈 9件も伊勢域で興っている。 主に「信長」が郷士や土豪に仕掛けた「伊勢謀略」の「北畠氏関係」で、 歴史上で有名な事件になったのが2件も起こっている。
この内の1件であった。)

これは、恐らくは、失敗に終わったのは、“「四家制度の中味」”が充分に理解されていなかった事に成る。
これは、史実でも明確に成っているが、“「信長の伊勢策謀」”の一つであった事ではあった。
しかし、失敗したにも関わらず、この除名追放の後、「青木氏」を「姓名」として名乗り続けたのは、その者が「信長の威光」を恐れて、その後も「最低限の策謀」を続けていたと観られる。
この「四家」に対して、この「策謀」を潰し続けていた事が、「南伊勢」」と、「桑名」と「脇坂」と「上田」の「青木氏」の「三つの出城のある地域等」で、「青木氏の土地の混乱」が同時期に起こされている。

「南伊勢地域」を含む土地(地主)には、「青木氏の和紙の楮の殖産地」が在った地域である。
この記録から観ると、「出城・寺城への直接攻撃」が記録の中には無い事から、「伊勢シンジケートの反撃」を恐れての事であった。
その「攻撃対象」は、「殖産地の畑地の破壊工作」などに向けられての「撹乱」が連発して起こされている。
「信長」からその様な指示を受けていたと観られる。

この様に、“「四家方式」”では成り立たない縁籍が、「東隣国」(家紋から信長の影響を受けた土豪)から組まれていてた。
この排除後も「小さい混乱」が続いているところから、明らかに何らかの「政略的な謀略」が働いていたと観られる。

「青木氏の四家制度」の中では、「婿養子の策謀失敗」でも判る様に、「乗っ取りに依る内部撹乱戦法」は通用しない事が判って、「乗っ取り」を止め、「家臣を含む北畠氏関係族」に仕向けた様に、「周囲の攪乱戦法」に出て来たと観られる。

(注釈 実は、先祖は、「信長」には理解を示しながらも、取り分け「秀吉」に対して余り良くない人物評価をしていた様である。
これが口伝にて良く伝わっている。)

(注釈 役無き事とは思うが、末裔の筆者の「織田信長」評は、「青木氏由来書」の再現を担った事から「様々な歴史観」が生まれてか、先祖とは異なっている。)

そもそも、「猪突猛進 直実激情型 無悲無情」と評価され通説化されているが、決してそうでは無意。
筆者は、元より口伝に依る先祖も、これほどでは無く、“極めて戦略家”であったと観ている。
その「信長が描く戦略」が、「人の数倍」もの領域までの“「読み計算」”が、頭の中に“絵に観る様”にまとめ描かれていて、これを「凡人」から観れば、それが「異常の領域」と映っていた事であろう。
「偉人賢人の信長」からすると、 “何でこんな程度の事が判らないか”と観ていた事の、その”「落差の行動」“が通説化したものと観ている。
「秀吉」はそれを理解していたのであろう。

通説化した「猪突猛進 直実激情型 無悲無情」の程度の人格を持つ人物が、室町期の戦国の中で、人を動かす事が出来なければ、一土豪の支流から天下を取るまでの者に成る事は不可能である。
これは現世においても同じである。“「社会の通説化」に論理矛盾”が生まれている。
その論理から観ると、「明智光秀の堅物」は、通説では逆に「賢者」の様に云われているが、「伊勢青木氏の論理」では”「愚者」“と成る。

(注釈 関西の言葉で、一々の事は”賢い”のだが、常に結果として良い結果が生み出されない人物の事を、”かしこあっぽ”と云う言葉で呼ばれる。)
 
故に、「信長」を理解していた”秀吉は天下が採れた“とする論調である。
確かに、「伊勢の信長仕儀」を具に観れば、通説では成し得ない事が良く判る。
「信長」に最も信頼された“「蒲生氏郷の治世」”からでも「信長」の考えていた事が良く判る。(下記)
依って、「二つの伊勢青木氏」は、この“「信長の仕掛け」”に早めに気が付いて手を打った事で難なく終わった。

この事は、先祖が「信長評」に対して、「稀にみる戦略家」と観ていた事を物語る。
それだけに「婿養子」を含め「伊勢衆の周囲に起こる事」に付いては、“警戒をしていた”と云う事であろう。
其れが「早目」と云う処置に出られたと観ている。
そもそも、「四家制度」から選ばれて、「伊勢シンジケート」から「信頼された福家」である。
それほどの「愚人」では無かった筈である。
「通説化の様な人物」ではなかった事を意味するし、もし「通説化の様な人物」であれば、“婿養子”は採らない程度の才覚は充分に持ち得ていた筈である。

然し、その後は、この「乗っ取り」に依る「撹乱戦法」の「初期戦」から、「名張の清蓮寺城」の「中期戦」に持ち込まれて、最早、手を引く事は出来ずにいた。
そして、この“「流れ」”に委ねる事以外には無く、「悠久の禁」を破ったのである。

(注釈 「伊勢シンジケート」を使った「ゲリラ撹乱戦法」を採った。)

この“「ゲリラ戦法」を採った“と云う事に大きな意味を持つ。
「通説化の様な人物」であるとすれば、「ゲリラ戦法」は、最早、適応する事は出来ないし通用しない。
もし、「通説化の様な人物」とすれば、「子孫存続」を前提とすれば、「商いの部」や「青木氏部」を遺したままで、一時、新宮に早急に、”「青木氏」“だけは引く以外には適用する方法は無かった。

そもそも、「二つの青木氏」は「賜姓族」として、「子孫存続」が「絶対命題での氏是」でもある。
確かに「三つの発祥源」ではあるが、「武士」の様な「武の仕儀」は採れない立場にある。
「ゲリラ戦」を採らずに必ず引いた筈である。
然し、「ゲリラ戦」を採った事は、「通説化の様な人物」ではないと観ていて、先祖は“「戦略家の評価」“を持っていた事に成る。

「戦略」、即ち、「知略」である。
「知略」には「知略」を以って応じるが「戦いの常道」である。
この「ゲリラ戦」には、この様な意味が含まれているのだ。

実は、この全く同時期に、「村上源氏」(「具平親王」の「公家源氏流」の支流末裔)の「伊勢北畠氏」に「織田信長」の次男の「信雄」が「跡目養子」(1569年)に入った。
然し、「北畠氏」の内部(1575年)を撹乱して、北畠氏(1576年)を潰している。
当に「武」では無く「知略」を以ってして応じている。
この事で、「通説化の人物」では無く、「戦略家」である事に間違いはない。
つまり、「先祖の判断」は正しかったと観ている。

そもそも、この「北畠氏の村上源氏」には、他に「致平親王」の正規の「賜姓村上源氏」がある。
つまり、「嵯峨期詔勅」による「第六位皇子による賜姓族」ではない「公家源氏」で「武家源氏」では無い。
「公家源氏」である。
この”「公家源氏」”には、そもそも大きな性質上の意味を持っているのだ。

この事の意味が、後に「大きな意味」を持つ事に成る。

「青木氏」はこの事を読み込んでいたと観られる。(下記)

その後、この「信雄」は「織田氏」に戻している「撹乱の戦法」の有名な事件である。
室町期末期には、「信長」の“「京の権威」に対する挑戦”、即ち、「比叡山焼き討ち」「石山本願寺攻め」等があった。
しかし、その前に、この「公家の北畠氏」は、「建武中興」にて伊勢が「不倫の権」で護られている「伊勢」に恣意的に移動した経緯があった。
そして、「他の土豪勢力」を排除して、遂には「南伊勢国司」(1555年以降 具房)として勢力を張っていた。

(注釈 当時、鎌倉期から室町期中期までは、西東に「政権」があり、西には「公家政権」、東には「武家政権」と云うものがあった。
夫々役割を決めて政権を維持していた。然し、実質は「東の武家政権」から人を廻し、監視していた。
江戸期まで現実にはあったが、「有名無実の状態」であって、上記した「名誉官位の授与」だけのもので、「武家諸法度」で縛られて無力と成った。)

この「西の公家政権」から「国司」に任じられた「北畠氏」は、この「政権力回復」を狙う「裏工作」と観られていた。

(注釈 他にも四国なども「武装勢力化した公家」が50年程度の間支配した期間があった。)

(注釈 鎌倉期から戦国に成って、益々、「天領地」が奪われ減少して行く中で、「聖地の伊勢」は唯一の「天領地」であった。

そこで、何とかこの「天領地」を護る事の為に、「朝廷の意向」を受けての伊勢移動であった可能性が高い。

この時期、全国各地で、「公家勢力」に依るこの様な「領地略奪の行動」が起こっていた。
殆どは、室町期に成って、平安末期に禁止された「荘園制度の名義貸し制度」を利用した「公家側」の無茶な「背任行為」であった。
室町期の末期に成って、「名義を貸した地方の荘園」であった土地は、「名義貸人」のものだとする一種の「略奪横領」であった。
この現象が「有力な公家族」によって「朝廷の権威と威光の力」を背景に全国各地で起こった。
多くは、平安期には天皇や公家等の「名義貸しの土地」も含む、所謂、“「天領地」”が殆どであった。

本来、「公家」は「武力を持つ事」は「天智期からの禁令」であるが、“室町幕府の統治力の低下“でこの様な現象が起こった。

そこで、「伊勢神宮の遷宮地」の「伊勢の聖地」は、「伊勢四衆」に依って護られていたが、朝廷は「最後の砦」の伊勢を護る為に、早々と鎌倉期末期に「公家源氏」(北畠氏と呼称)を差し向けた。

この様に「伊勢」に限らず、「武家社会」に成り、全国各地で「天領地」や「公家地」が益々奪われて行く中で、「天皇の権威」だけでも護れなく成った事から「天皇の意向」を受けた公家自らが武力化して「実質支配」を図ったのである。

(注釈 この時の潰された伊勢の土豪や郷士等の多くが、「青木氏」の「伊勢シンジケート」に入った。下記)

ところが、この「伊勢」には、この「北畠氏」とは「生き様」が異なり、且つ、「信長」が嫌うこの“「権威の象徴」”とされる数少ない「氏族」があった。
即ち、“「伊勢四衆」”が、古来より定住して「聖地」を護る為に集中して居た。
従って、「後口の衆」と成った「公家で武家を演じる北畠氏」が居る事で、伊勢域は、「紫の色」から「紅の色」に成った。
この現象を「信長」にも周囲の社会からも観られる事に成って仕舞った可能性が有る。

「紫の色」は、そもそも「最高権威を指し示す色」で、伊勢は奈良期より”「紫の聖地」”と定められていた。
その「紫の聖地」が「紅」に変化したと万葉歌にも詠まれ云われていた。
当時の様子を端的に物語る「色言葉」である。

其処に、室町末期には、この「特定の権威社会」を潰しに掛かった「信長」が、「伊勢の勢力」北畠氏や六角氏等の排除に掛かったのである。
その「標的」と見做されたのは、上記の背景で伊勢に入った「北畠氏」であった。

(注釈 「特定の権威社会」に付いて、“「布武」”を唱える「信長」は、そもそも、“「権威」”そのものを全面否定するのでは無かった。

それは「権威の支配」の中の“「絶対制」”だけを除き、“「武」を背景とする「共和制に近い支配体制」”を確立させたかったと観ている。

「朝廷」や「天皇」や「宗教階層」の“「権威」”そのものは認めるも、その「権威」が持つ“「絶対制」”の「排除」を狙ったものである。

況や、如何なる「共和制」も、結局は、“「上に立つ者の力の権威」”を少なくとも前提としているからで、“全く「権威」の無い処には「国家」は生まれない”が、「現世の条理」であるからだ。
「人の性:さが」はその様に出来ている。
この時代までの「社会の権威」は、「人の社会」、況してや「氏家制度」の中では、そもそも必要であっても良い。
しかし、その「権威」を以ってして “惹けらかし”、“「自らの利得の対象」“とする処に問題があった。

天正期までは、これを「当たり前の事としての概念」が社会にあった。
その「当たり前の概念」を良い事の様に利用する階層があった。
それが、“社会の発展に害を及ぼしている”と「信長」は受け取っていたのであろう。
(現在社会にも形は変わってはいるが未だ存在する。)

「信長」は、この事を嫌って、その対象を排除して、その代わりを以って“「布武の権威」”で統制して正しい社会構造を確立しようとしたのである。

結局は、「明治維新」には、この“「絶対制の権威」”を排除して、“天皇制に観る「形式上の権威」”は妥協として認めるも、上記する“「権威の弊害」”を排除した“「民主の共和制」”が敷かれた。
後勘からの事として、「信長の目指す社会体制」は正しかったと考えられる。

「信長」は、更に、これに「楽市楽座」の様に、“「交易社会」”を築こうとしたことが資料からも判る。
これは、まさしく「天正の300年後」に、“「信長の考え」”に近いもの“が出来上がったとは云える。
それだけに「300年前」の「凡人愚者」には、当に、“変人奇人の云う事“と受け取られものであって、”「理解の外」“であった事から起こった事であった。
その現象を短絡的に捉えて”間違った通説化“が起こったものであると考えられる。

そもそも、「伊勢」は、主に「奈良期からの氏族」である「伊勢青木氏」、「伊勢伊藤氏」、「伊勢秀郷流青木氏」の「伊勢三衆」にて収められていた。
そして、そこに平安期の「伊勢北畠氏」(天皇家の学問処の家柄)と、鎌倉期の「伊勢伊賀氏」(北条執権と血縁)と、新参の「伊勢長嶋氏」(室町期の「関東屋形」)が参入した構図であった。

そして、この「六つの氏」から「北畠氏」を除き、「五氏」は江戸期には“「伊勢藤氏」”と呼ばれた。
しかし、「伊賀氏」の前身を加えて、“「伊勢四衆」”とも云われた時期があった。
この「伊勢勢力」は、“「伊勢藤氏」”と“「伊勢四衆」”、そして、その配下に生きる「郷士や土豪」の“「伊勢衆」”が存在して居た。
しかし、この「北畠氏」は,そもそも「朝廷の学問処」でありながら、“「村上源氏の末裔」(実際の「源氏族」では無い)である事”を理由に、“「公家」”が事もあろうに「公家大名」を標榜した。
そして、あろうことか、「武」を以って伊勢の周囲の他の勢力(伊勢衆)を次々に排除して行ったのである。

ところが、その「勢いを背景」に、室町期末期には、この「村上源氏の傍系末裔」のこの「公家源氏」は、「伊勢」では「信長の伸長」に対し「武力」を更に伸ばし、それを背景に益々身を護ったのであった。
そこで、上記する考え方を持つ「武」には「武」で応じる「信長」は、これらの「伊勢藤氏」「伊勢四衆」と「伊勢衆」の「氏姓族」を潰しに掛かった。
これが有名な「天正の伊勢三乱 五戦」である。

「信長」の「所期の目的」は、この「武」に方より、「権威の悪弊」を生み出している「象徴たる北畠氏」を排除する事にあった。
ところが、この「権威の悪弊の北畠氏」に「伊勢四衆」の内の「伊賀氏と伊藤氏」が合力し「信長」に抗したのである。
そこで、「信長」はこの「伊勢四衆」に初期戦として、「撹乱戦法」で「圧力」を掛けたが、思いも寄らず「伊賀氏と伊藤氏」は引き下がらず「武力戦の激しい戦い」と成ったのである。
他の「伊勢四衆」の「二つの青木氏」と「新参長嶋氏」は、上記した「青木氏の基本戦略」に基づき徹して“表に顔を出さなかった”のである。

当に、奈良期からの「悠久の歴史」を持ち、「権威の象徴」の「氏族」であった「二つの青木氏」や、「伊勢藤氏」の過激に成った「伊藤氏」や「伊賀氏」等があった。
この事で、鎌倉期から伊勢は、「不倫の聖地」で有るにもかかわらず、下記する「招かざる者」の「武の北畠氏参入」に依って、“「策謀の渦」”の中に巻き込まれて行ったのである。

そもそも、「呼称北畠氏」は、京から移動して“伊勢の北畠に隠居所を設ける”と云う大義で、「不倫の伊勢」に移動して来た事から、「村上源氏の公家支流族」は、「公家」を標榜するも「武家の北畠氏」を名乗った。

「不倫の伊勢」にあって、乱世にあっても“「太平の地」”を築いて来た。
この「太平の地 伊勢」を「武」で以って「武家の勢力」を拡大させる事は、赤子の手を捩じるが如しで、極めて容易であると観た。
そして、ここに“「権威の公家」”から転身して“「富の武家」”の「氏」を興そうとした事が本音なのである。
そして、南北朝期に乗じて「伊勢全域」、特に、「青木氏」等の「伊勢四衆」か定住する「北伊勢」を極力避け、「南伊勢域」と「大和東域」に渡り「無戦」に近い形で平定して仕舞ったのである。


 「青木氏の本音」
この時に、多くの「土豪」と「郷士」等は排除された。
この時に「僧侶」や「修験道師」や「忍者」に身を変えて「伊勢シンジケート」に入り、「経済的背景」を確保して「生活の糧」を得て生き延びた。
後の「信長の伊勢三乱 五戦」でも生き残った「土豪」や「郷士」までも、又、土地を奪われた「農民や庶民」等までも、二度も「憂き目」を受けて「伊勢−紀州−奈良域」では「壊滅」に近い状態と成った。
「二つの青木氏」は、その立場から「元伊勢衆」と「悠久の長い付き合い」の「絆関係」にあったことから、「裏ルート」で「経済的支援」を行った。
そして“「伊勢シンジケート」”で“「元伊勢衆」“を保護した。
元々、「和紙や殖産」などでも繋がっていて、最早、「青木氏家人と青木氏部」との「血縁関係」でも繋がる”「徒ならぬ絆」“の関係にあった。
更に、「青木氏」に執っても、これらの「元伊勢衆」が消滅させられる事は「青木氏の衰退」を意味する事に成り、耐えられる事では決して無かった。

「信長と北畠氏」は、「聖地に住む伊勢衆」全てに執っては絶対に“「招かざる者」”と見做されていた。
「伊勢シンジケート」の「ゲリラ戦」で応じた「大きな背景」はここにもあった。(下記)
そして、室町期に成ると、事もあろうか、「招かざる者 北畠氏」は、「不入不倫の権」に守られた「伊勢の聖地」に、何と、ここに「京」に似せて、“「北畠三御所」”と呼称させて「館城」を建築した。
その結果、「南部の権勢」を誇っていて、遂には、その「財」を朝廷に注ぎ、その朝廷から「南伊勢の郡と大和二郡の五郡の半国司」に任じられる等したのである。
当に「公家族」が野心の侭に「戦国大名」化したのである。

ところが、全く「同じ時期」に、全く「同じ方法」で、「同じ理由」で、「同じ事」が、「讃岐秀郷流青木氏」が定住する「伊予、讃岐、土佐地域」にも起こっていた。
そこで、「京藤原氏」の「公家西園寺氏」が、平安末期から鎌倉期までの間、「伊予の名義荘園主」であったが、それを理由に伊予に乗り込み、強引に「讃岐藤氏」や「郷士」等の土地を押領し、挙句は「武力」を以って「土地」を奪い取って、遂には「伊予の戦国大名」と成った。
「北畠氏」と寸分違わずそっくりである。

(注釈 この時代の「京の公家族の背景」であった。西園寺氏、一条氏、二条氏等の「公家族」が各地でこのあらゆる形のこの行動を採った。
「朝廷」やこの「公家族」から云えば、「天領地とその関連地の奪還」と主張する筈で、室町幕府弱体の「武による権威の低下」で、この主張が表に行動として吹き出して来た現象と捉える事が出来る。
平安期の状況から観てみれば、その「主張と行動」にはある範囲では理解できる。
本論は“青木氏から観たもの”として論じている。)

(注釈 上記した様に、鎌倉時代の中頃から東に「武家政権」、西は「公家政権」が所轄する政治体制が採られた。
しかし、実際は、「武家」に、「公家族が支配する土地」が奪われる事が多発していた。
室町期に成っては、京都に置いた「幕府の守護職」や「土地の土豪」等によって、最早、「西域の公家政権」は「有名無実」の事と成った
それらに依って、公然と「荘園や天領地」とその「管理権」は次々と奪われて行った。)

室町期末期には、この事を理由にして「公家の力を持つ者」等は各地で「奪還作戦」が展開された。
「北畠氏」は、この鎌倉末期の変化に対して敏感に反応して、「伊勢地には持つ荘園を護る為に移動した。
そこに館城を建てて護ろうとし、それが結局は、管理地以外の伊勢域に勢力拡大としたものであった。
そこに「朝廷の意向:西域の公家政権」を反映する“「御所」”と呼称する「館城:政庁」を三か所も建設したのである。

この「西域の公家政権」は、江戸期には「幕府の公家諸法度」を作られて、無力化した。
その上で、形式上だけは江戸時代まで続けられた。
室町期には、この「有名無実」と成っていた「西域の公家政権」(京)を、「北畠氏の勢力拡大による武力」に依って、“「伊勢」にもう一度、再現復興しようと企てたものである。
そして、そこに”御所“なるものを造り、ここから”西域に勢力を伸ばそうとした“のである。
この為に、「北畠氏」は朝廷と連携を図った。
確定するに必要とする資料が見つからない為に出来ないが、鎌倉期にこの「西域の公家政権」の「監視役」として派遣されたのが秀郷一門の蒲生氏の祖であったことは間違いは無いと観られる。
「秀郷一門宗家」の「朝光]は、「頼朝」に合力して本領安堵(1192年)され、奈良期からの「遠祖地の結城」の地も戻る等し、自らも前段で『論じた様に「伊賀守」としても務めた。
この時に一門の者が「京の公家政権の監視役」(初代は脩行 近江掾)としてに配置されたのである。
(注釈 これが期に後に「秀郷流近江蒲生氏」の祖と成り、その役務柄から更に室町期に足利氏に仕え勢力を伸ばし蒲生[貞秀]氏を名乗る。)

しかし、そもそも、この「伊勢域」は、ここは奈良期から「皇祖神の聖地」であって、「政治や権力の場」には出来ない。
この事は、「伊勢の聖地」を護ろうとする「二つの青木氏」に執っては、到底、容認する事は出来なかった。
当然に、「布武」を標榜する「信長」も、上記する様に、“「権威を惹けら課す者」で「権威の利得を食む者」”としても認めなかった。

そして、この傾向は、四国にも起こったと云う事なのである。
この「西域の公家政権」の管轄域の特に四国には、「公家族」のこの「荘園や公領、天領地」が大変多くあった。
殆どは「土地の武家勢力」によって奪われていた。
そこで、公家の「一条氏」や「西園寺氏」等が奪還を図ったのである。
更には、これに便乗した「秀郷一門」の分家筋の“「関東屋形」”と呼ばれた「宇都宮氏」も、同族一門の「讃岐藤氏の讃岐青木氏」が支配する「讃岐」に入った。
「西園寺氏」と「宇都宮氏」は結託したが、その後に地元の豪族の「長曾我部氏」と「讃岐秀郷流青木氏」の抵抗にあい、攻められて排除され衰退した。
1584年には、「秀吉の四国攻め」で、何れも最後は掃討され潰される事が起こって50年程度で失敗した。

尚更、伊勢の「二つの青木氏」は、「信長の深意」がどうあろうと『布武』を唱える限りは警戒をしなくてはならないし、素直に容認する事は出来なかった。
「北畠氏の目的」は容易に判って居たが、この「聖地」を「政権の場」に引き込まれる事には容認できなかった。
では何れに味方するかにある。「青木氏]は悩んだ。
既に、「北畠氏」に関わらず伊勢は「新勢力の三氏」で浸食されている現実がある。
そもそも、「青木氏の役務と氏是」がある中でどうするかに関わる。

結局は、追い込まれて表向きは”「北畠氏に合力」(1569年)”と云う形を採ったのである。
かと云って、この「合力の形」に問題があった。
本来であれば、「軍」を所定の部署に廻し、「指揮官」が本陣に控える事に成る。
然し、記録では何れも処置していない。
然し、「商記録」には「合力した内容」となる事が書かれている。
「商記録」なので、「戦い準備」に関する「商いの内容」から記述されているとも考えられる。
この時の商記録の別の記録には、「福家」(指揮官)が新宮(1574年)に移動している事に成っている。
とすると、「指揮官」が本陣に詰めて控えていない事に成る。
つまり、「合力」が成り立っていない。

直前に「信雄の北畠氏の跡目入りの策謀」(1575年)が起こり敢えて控えた事も考えられるが、それにしてもおかしい。

「北畠氏」と「信長」との「戦いの初期」は、「具房との小競り合い」から観ると、1567年頃から始まっているので、福家が新宮に引く事は「信雄策謀」で引いた事には成らない。

そもそも、青木氏に執ってみれば、”「合力」”として仕舞えば、「近江青木氏」と同じに成る。
従って、「青木氏の氏是」に反する。
そこで、「反しない合力」の姿形を模索する必要があった。

然し、「抗する者」が、”如何なる者も容赦しない”とする「信長」に対し、どの様に対処するかに「氏是の知略」が当に必要とした。
”攻め滅ぼされる”と云う恐怖では無く、「整域」をどの様に護るかに心はあった。
戦えば、長期戦に持ち込めば先ず負ける事は無いし、この事は過去に「織田軍」に痛いほど示している。
後は「抑止力」を前面に見せつけた上で、幸いに「信長」が差し向けた「指揮官」が幸いに「青木氏」で繋がる「蒲生氏」であった事から、戦略は決まった。
「蒲生氏」を差し向けた「信長の翻意」を察した「二つの伊勢青木氏」は、「反しない合力」の姿の「戦略」は決まった。

それは、「合力」としながらも、一時、「遠祖地の紀伊」の「新宮の地」に「宗家の福家」だけ引く事にして、後は全てを残し、「敗退の体」を作り上げて時期を待つ事にした戦略であった。
この時に、戦いが本格化したした時(1576年頃)を見計らって「蒲生氏」との間で「裏話」が出来ていた。
そして、”数年後(1年後)に戻して、本領を安堵する”と云う「取り決め」であった事に成る。

(注釈 この経緯で考察すると、「商記録」は商上からのものである為に、年数に付いては公表されている「史実の年数」と比べると「緩やか」で記載されている傾向があるが、ほぼ一致して来る。)

指揮官の「蒲生氏」に執っても事が大事に成らなくて済み「伊勢での役務」は円満に片づけられる。

(注釈 「信長の思惑」以外に「蒲生氏郷の個人的な思惑」も働いていた。)

結局、その約束はそっくり護られ、且つ、それ以上に、松阪に城郭を築いた後には、「侍屋敷町(9町12町)」の上位武士が住む一画(9から11区画)を与えられた。

(注釈 可成り広大な土地に成る。「侍屋敷町(殿町)」である事から、ここには「店」は構えられないことから「屋敷」である。「屋敷」にしては大き過ぎる。)

「松阪城郭」は、「楽市楽座」に似せて「商業区画」も設けて、ここ松阪に巨万の富を持つ「青木氏の商い場」をも設けて、周囲の「青木氏の配下」の「旧来の商人の拠点 (伊勢商人と射和商人と伊勢伊賀の郷士衆」)とさせたのである。
ここに、後の「青木氏の動き」(射和商人などの事)を観ていると、「伊勢の商業組合」(「伊勢会合衆」)の様なものを最初に造ったのではないかと観ている。
これで、「青木氏と蒲生氏」は、経済で「伊勢の復興」を狙ったのである。

(注釈 「伊勢の商業組合」(「伊勢会合衆」)の歴史的な「創始者説」を証明する資料の発掘に取り組んでいるが、「状況証拠」だけの範囲に留まっている。
時代背景から考えても、「確定するキーワード」は「大豪商」に成る。
そうすると、これ以前にこの様な「商業組合的な組織」を「創設し得る古豪商」は数える程も無い。
この事から、歴史的に「会合衆」は伊勢から始まった事は確定している事も踏まえて、先ず間違いは無いと考えられる。
その前身と成る”「商業組合の組織作り」”は「蒲生氏郷の手配」で「侍屋敷町」を与えられ事務所を開設した事も青木氏の資料では証明出来ている事も合わせて、「青木氏」と成り得る。)
上記した様に「伊勢三乱の氏郷との裏工作」でも、松阪発展の為ににて「本領安堵」が約されていた事も証明されている事からも、間違いは無いと考えられる。)

平安期からの「摂津、堺」に大店を構えていた事から、安土桃山期からの「摂津堺の会合衆」にも参加している事から考えると、ここ「伊勢」に「青木氏」が最初に「伊勢会合衆」を創ったと観られる。

この「初期の商業組合の組織」は、前段でも論じたが、「伊勢の御師制度」から発想されたものである。

(注釈 平安期から起こった荘園内の商いの「座」があったが、寺や神社等で営業権を認めてもらって「本所」と云う場所を構築しそこで営む「限定された商い」があった。
然し、室町期にはこの「座」はあったが、「本所内での統制」を取る為の「組合」であった。
”「自由な商業組合 会合衆」”の記録は他に発見されない事から、「伊勢」が最初であると観られる。)

(註釈 実は、この時、秀吉に依って、実質の廃止令に成る「楽座令 1685年」が出された。
つまり、寺や神社や荘園を太らすだけの、即ち、「本所」による特権を持った「座」は禁止された。
この為に「自由な商業組合 会合衆」が見直され発展した。
この時に秀吉−氏郷の下に松阪でこの「新しい組合」を「青木氏」に依って始めさせたと観られる。)

その後に、桃山期には、「伊勢会合衆」は、地域を、「商人の出身地別」に二つに分けて、「山田会合衆」と「大湊会合衆(近江商人)」に分離したと観られる。
つまり、「松坂侍屋敷の三区画を与えられた史実」は、この「伊勢会合衆」を最初に創ったのは「青木氏」であった事を証明する。
「氏郷」は積極的に「楽市楽座」を築く為に、出身地の近江からも商人を大湊にも集めた。

その後、この「伊勢の商業組合」は次ぎの様に変化発展した。

イ 室町期末期(1578年頃)には、「松阪」に「青木氏」を中心とした地元の大小の「松阪商人」を集めて「松阪地区」には、初期に「松坂商人組合」を構築した。
ロ その後(1582年頃)には、松坂に「商人」に依る自治組織の「会合衆」を最初に構築した。
ハ 室町期末期(1583年頃)には、玉城の東横の内陸部の「山田地区」には、「青木氏部」から成る地元の「職人等の年寄り」による「自治組織」の「山田会合衆」が構築した。
ニ その後(1613年頃)には、「松坂会合衆」は、「玉城域」と「射和域」にも「射和商人」を養成して「商人」に依るによる「射和会合衆」を構築した。
ホ 安土桃山期には、玉城の東横の沿岸部の「大湊地区」には、この「元近江商人」に依る「自治組織」の「大湊会合衆」を構築した。
ヘ 安土桃山期には、「摂津堺域」にも「商人」による二つの「堺会合衆」を発展させた。

これらが発展して「伊勢商人」を始めとして、鎌倉期から興した「近江商人」「博多商人」「酒田商人」「伊予商人」「讃岐商人」「越前商人」「阿波商人」「米子商人」「松江商人」「摂津堺商人」等に依る多くの「会合衆」等が出来た。
これらは、江戸初期には、歴史的に「・・・商人」と呼称される地域には、全て「青木氏の定住地」と成っているのである。

この特徴には、戦略上の重要な意味があった。
「秀郷流青木氏の定住地24地域」には、例外なく「・・・商人」(豪商)と呼称されていた事実がある。
これは「赴任地の定住地」は、「重要域」でもあり、そこから「豪商」が出ていると云う事もあるが、そうでもないのである。
何故ならば、この「豪商」は全て出自が「武士」である事、多くは「二足の草鞋策」で「商い」を営んでいた。
室町期から、「豪商」に成るには、その背景を絶対的に必要とする。

一発勝負で「豪商」とも成り得るが、これは江戸期の安定期の話であり例外として、「商人」は別として[豪商」と成り得るには、この「室町期の戦乱期」では、殆どはその「資本力」や「商品力」や「調達力」や「運送力」や「安全力」等を必要とした。
これらを担保し得る「バック・背景力」を持っている事が「絶対条件」である。
それを獲得している事が必要があって、これ無しには「豪商」とは決して成り得なかった。
取り分け、「戦乱期」では、「運送の安全確保」が必須で、これなしには手広く「商い]は無し得ない社会状況であった。
「青木氏」は、その「安全確保手段」として、”「伊勢シンジケート」と「神明社組織」”の二つの手段を持ち得ていた。
これを有機的に使って「輸送の安全確保」を図っていた。

そもそも、「広域範囲」で「商品」を調達してそれを輸送しなければ「商い」は拡大しない。
即ち、「商人」には成り得ても”「豪商」”とは成り得ない。
故に、「安全確保手段」を広域に持ち得ているのは、特に室町期の「商人」の殆どは、「武家の氏族」の「二足の草鞋策」であった。
但し、「武家」であって、「武士」では無い。

「シンジケート」では、各地域にある”「シンジケートとの相互連携」”で「安全確保」をして行き、500社に上る「神明社」では、その「安全確保の情報確保」や「神明社間やシンジケート間の調整役」を演じた。
当然に、この「組織」を使って「商品の情報」も確保していたのである。

これは「陸送手段」であるが、「海上輸送」の場合の「安全輸送の手段」は、「伊勢水軍」が配下にあり、「青木氏」自らも「千石船の大船三艘」を以って海運し、この「護衛船役」として働いていた事が判っている。
記録には、”「駿河水軍」”の名が出て来るが、互いに連携して、「伊勢水軍の護衛船」で間に合わない場合は、「駿河水軍」が「護衛船」に入った事が書かれている。
時には、「荷駄運送」も務めていた模様である。
江戸期の初期の商記録の中に、「讃岐青木氏が営む廻船業との連携」もあった模様である。
この事から考えると、独自の「伊勢水軍の護衛船兼輸送船の必要性」が良く判る。

「青木氏の資料」には、この「輸送中の安全確保の手段(要領)」が実例として詳細に書かれた記録が遺されていて、この組織が有機的に活躍して居た事が判る。

「護衛役の人数」やその「役目柄の種目と配置」、「金銭のやり取り」の「取り決めや場所柄」まで実に詳細に書かれている。
「二つの青木氏の二つの組織」を有機的に動かせば「豪商」等何でも出来ると読み取れる。
本論で論じて来た事が、明らかに、大名ごときでは無いことが良く判る。
論を待たずとも遥かに超えている。
況や、「青木氏の実力の如何」が良く判る。
極論すれば、「佐々木氏」や「青木氏」や「秀郷一門」以外には無いのではないかとも思われる程である。
「豪商の出自」を調べれば、これを確定できるが、現在ある程度までは調査は進んでいるが論文には仕切れない。

(注釈 例えば、この輸送の大変さを物語る資料が「伊勢の青木氏の家人」であった家に遺されいる。
資料には、関東(江戸)に向けて荷駄搬送中、この荷駄には11人の警護の者が付き、6人が「警護頭役」を先頭に「荷駄警護」、5人が各役目を持ち「周辺警護」に関わっていた。
ところが、駿河山中で盗賊集団に襲われた。10人が戦闘に入り、1人が連携する警戒中のシンジケートに連絡、戦闘の結果、3人が負傷したが殲滅した。
その後このシンジケートは、この盗賊団根拠地を掃討したのだが、丁度、「シンジケート」と「シンジケート」の境目の地域で襲われたと成っている。
旅館一室で支払を済ました。とある。
この荷駄の「警護頭の家人」が「献務禄(報告書)」として書き記したものが遺されている。
良く、この状況を物語っている。
この「荷駄頭の名前」が普通では無く、”「俗称」(特別呼称名)”で書かれている。
この資料を遺した「伊賀武士」の家人は「伊賀青木氏」の配下の「伊賀者」ではないかと予想され、「青木氏家人」であった。
つまり、これは「伊賀青木氏」が「警護役」を一族として担っていた事を意味する。
この”「献務禄」”には、当時の事を物語る興味深い事が多く書かれている。
これ等を使って「室町期の伊勢商人の青木氏」の「豪商の程度」が読み取れる。)

(参考 豪商程度の概算
伊勢青木氏とそれに関わった関係族に遺された資料より算出
(  )内は各資料からの最大値を表す。
「商い」の関係部門を「四部門」にして限定して算出。

四家   20部門(青木氏の役数)
家人   数百人(最大 250人 直接の家人)
配下   数十名(最大 22人 支配の家人)
      小計a  最大 5500人

護衛役  数十組(最大 23組)
一組人  数十名(最大 20人)
      小計b  最大 4300人

他の役  19役(護衛役×19)
      小計A  最大 81700人

青木氏部 数十部(最大 12部)
一部人数 数百人(最大 250人)
      小計B  最大 3000人

水軍    3+数十隻(最大 24艘)  
      小計C  最大 1500人

神明社  488社(最大 500社)
      小計D  最大 2500人

「伊勢青木氏の豪商」=小計A+小計B+小計C+小計D=88700人

室町期の「青木氏の紙屋長兵衛」の「豪商」と云われる所以は、次ぎの「通りと成る。

「直接人容」から観ると、結局、最大で「88700人態勢」であった事に成る。

但し、これ以外に次ぎの部門も加算されるが、算出は出来ない。
イ 「伊勢シンジケートとの契約」
ロ 「秀郷流青木氏116氏」からの「本所の役柄の補完援護」
ハ 「菩提寺関係の人容」
ニ 「遠祖地の人容」
ホ 「殖産と興業の人容」

取り分け、イとロは計り知れない「人容と人様」と成り得る。

(注釈 何とか論じる事が出来ないかイからホに付いて研究したが、論じるだけの資料が出ない。)

唯、中でも最高と観られるロの「讃岐青木氏」の「瀬戸内の経済力」(主は廻船業)は比較的に資料が遺されている。
恐らくは概算では、1/5程度はあったと観られる。

ロの「関わり具合」を資料から物語るものとして、次ぎの様に成る。
「商い警護」と「商い情報」に「役目」として関わっていた事が記録されている。
つまり、「本所補完の範囲」を超えず、「商いの範囲」にも「補完」を上手く適用して運用していた事を示している。
「ロの青木氏の商人」の場合でも、この範囲を超えていない模様であった。
恐らくは、この事は資料から読み取るに、各地の「赴任地の護衛役」と云う”「威力」”を周囲に誇示させ、”「危険集団」”に対して「強い抑止力」を働かせていたと観られる。
その手段として、伊勢との「関連シンジケートの勢力」が届かない範囲では、敢えて何らかの形の「軍事行為」の”「デモンストレーション」”をしていたのであろう。
これが「資料の書かれていた内容」ではないかと考えると、文章表現と符号一致する。

(註釈 現在と違い「古文系の文章」は、「直接表現」は良しとせず「間接表現」によってその「文章の持つ意」を知らしめる文章方式であるだけに慣れないと難しい。)

故に、これが「豪商が生まれる地域=二つの青木氏定住地」と云う数式論が生まれた所以であろう。

”「豪商」 「500万石超」”と記されている事から、強ち、誇張では無い事が云える。

「88700人態勢」と「イからロ」を維持管理するには、逆に「500万石」は必要であろう。

「88700人態勢」=「500万石」と基準に観て、「研究室の論文」の「青木氏」を論じている。
(研究室論文の各所に記述 参照)


因みに、同時期の比較対象として、次ぎの事を参照。

全国の石高 「3000万石」
徳川氏の石高 「幕府直轄領 400万石]+「旗本領 400万石」=「800万石」

最裕福な「加賀藩」の石高 「102万石」(届出高)
「伊勢国」の石高 「55万石」

(米石高と産物を加算した石高)


(注釈 例えば、調査中の中で、「佐々木氏」の出自を持つ「豪商」には、全国的に不思議に「酒造業」が多い。
何故なのかは確定は出来ないが、恐らくは、”「灘酒」「近江酒」”の歴史(日本書紀等)を辿れば判る。
これは奈良期から「定住地の米」に関わる「租役と庸役と調役」の賦役を、「佐々木氏」が「守護」としてこれを「活用する役目」から生まれた「酒造」であったと考えられる。
それが末には「摂津商人」「近江商人」と成って行った。
これが「青木氏の和紙の経緯」のその「二足の草鞋策」から来ていて、古くから「佐々木氏の氏の組織力」を使って全国展開していたのではと観られる。

(注釈 そもそも「佐々木氏の研究」に「青木氏の部分」が、多く研究されているのは「同族である事」は元より、古来よりこの様な”「繋がり関係」”を深く持っていた証拠である。)

この様に、一発勝負や一朝一夜では無し得ない「これらを持ち動かし得る商人」を”「豪商」”と云う。

(注釈 前段の「伝統シリーズ]と「青木氏の分布と子孫力」の論文にも一端を論じた。)

これが、更には「赴任地の定住地」に”「豪商」”が生まれる所以なのであった。
つまり、其れ等は後に組織化されて連携して、「伊勢商人の青木氏」が「担保し得るバック・背景力」と成って行ったのである。

前段でも何度も論じている「博多商人」「越前商人」等を始として、上記に記述した「地域の商人」は、この「担保し得るバック・背景力」を持った「典型的な豪商」で当に「青木氏」である。
「商記録」に記載されている地域である。

つまり、伊勢の「二つの青木氏」が互いに連携しながら、「伊勢の本所」を中心にして、各地の「青木氏定住地の安定化」を謀る事を目的として、戦略的に「二足の草鞋策」を採用して安定化させたのである。
そして、この「24の商い組織」を使って、「相互間の商い」を発展させ、「青木氏の経済面」での「底上げ」と「氏力強化」を図った事に成る。

然し、かと云ってすべてが”「豪商」”とは成り得ていず、夫々、記録を観るに各地赴任地の「商人規模」には、大小がある。
この「商人規模の大小の原因」は、「特段の要因」は確認できない事から、矢張り、この様に「豪商に成り得る条件」が備わっていたとしても「商い力の如何」が影響してい事が観られる。

この「商い力の如何」とは、「商いに必要とする確固たる考え方」とか「横との繋がり」(立地条件)が必要とする。
所謂、「伊勢青木氏の和紙に関する殖産と興業」がそれを大きく物語っている。
これには,「讃岐青木氏」も”「瀬戸内”と云う海産物に関する同じ条件」を確立していた事が云える。
これらの「商い大小」には、上記する様に、「近江や越前や越後等の豪商」と成り得た「青木氏の共通する条件」であった。

前段でも論じたが、代表して特筆するは、当時の最大の経済拠点であった「瀬戸内」を中心とした「讃岐青木氏の松山・松江商人」は、「廻船業」等の総合商社を営んでいた。
それは「蝦夷地域の貿易」や「日本海の内回り船」に加え「太平洋の外回り船」をも始めて許可された江戸期最大の「総合商社」であった。

上記で論じた「近江青木氏」の「青木一矩と久矩」の子孫も「酒造業」等を手広く商ったこの「豪商」であり、”「越前商人」”と呼ばれる「豪商」と成った一人でもある。
恐らくは、上記した「近江佐々木氏の酒造業」に観られる様に、この同族の「近江佐々木氏ルーツの背景」を通じて営んだと観られる。

「青木氏の博多商人」も「ルーツ掲示板」にも論じている「大豪商」である。
「越後商人」でも歴史的に「秀郷流青木氏の豪商」が有名である。
中には、港では無い「内陸部の商人」として異色の「諏訪商人の青木氏」がある。
例を挙げれば、限が無いが、「長崎商人」として「長崎青木氏」からも「豪商」が出ている。
これ等は、決して自然の形で「豪商」に成ったのではない。
上記の「室町期からの豪商」等の研究でも判る事ではあるが、明らかに「室町期から江戸期の青木氏の戦略」として敷かれたものである。

そもそも、歴史を遡れば、「日本書紀」と「二つの歴史書」に次ぎの様な事が記載されている。
それは、奈良期に「信濃青木氏と諏訪族」は「租」を兌換する為に、「信濃の産物」を駿河の海側に運び、「海側の海産物」と物々交換して、「信濃に持ち帰る商い」をしていた事が書かれている。
この時に、「信濃側(諏訪)」は「馬部の職能集団」と、海側(駿河)の「磯部等の職能集団」がこれに関わったと記されている。(諏訪商人)
この奈良期から交易を始めていた事が「日本書紀」等の「歴史書」に書かれている。


今後、詳細に研究を進めて歴史的に観た「商人シリーズ」で論じられる位の興味深い充分なテーマでもある。

(注釈 そもそも、この様な「青木氏に関わる史実事」は、「史実」として「歴史上の表」には出て来ない。
依って、これらの情報を全ての「青木氏に知らしめる術」は生まれない。
「商業組合や会合衆」の「創始者としての青木氏の貢献」等の重要な事も、「青木氏」自らが研究して子孫に云い伝えなければならない。
「近江佐々木氏」も「膨大な氏の研究」を成しているが、「歴史上の表」(ネット)には出ていない。
ただ、「伊勢青木氏や紙屋院」の事で、研究されて脚本家で歴史研究家の某氏等が、「NHK大河ドラマ」の三つのドラマに「青木氏の商人の事」を表している。
「歴史研究の専門者向け単行本」でも5刊発表されてはいる。
又、「青木氏」とはルーツでは無縁の「5人の歴史研究家小説家」も「青木氏の研究論文」で公的にしている。

(注釈 全てこの5刊は、別の研究の過程で、この「青木氏に関わる事」が在って、その時の「青木氏に関わる研究」を別刊で「非買限定版」として「関係者」に有償で発刊したもの。
「佐々木氏の研究論文」の本体も同様の発刊である。「佐々木氏の青木氏に関する本」も別刊扱い。)

但し、「ネットに出る事」が「公的」とは決して思わない。
それは「ネットの根拠」の多くは、「江戸初期頃の搾取偏纂の資料」をベースにして「断定」している為に、「青木氏側」から観れば立ち位置が異なる為に信じ難い。
その意味で、「歴史研究家の単行本や発刊本」は、その説の論処を明確にした上で論じていて信じられる。
結局は、「単行本と発刊本」(非売品)は、「青木氏」に執っては極めて貴重である。
「ネット社会」とも成れば、真の「青木氏の伝統」に関して、そんなに簡単に発表される事はこれからは無いと考えられる。
依って、”「青木氏の伝統」”が霧消し資料が消失する中で、「青木氏」自らが研究して「青木氏用」に論じること以外には無く、これは宿命である。)


これ等の「経緯と背景」に依って、そして、この室町期からの「商業」が発展するに従って、江戸期に成って”「信長の楽市楽座」”が組織化され著しく変化したのである。
そして、「伊勢」を始めとして、全国各地に”「青木氏]が始めた「商業組合」”から発展して、遂には、「職人」や「商人」や「郷士」等のあらゆる階層から成る「自治組織の会合衆」が出来上がった。
この「自治組織」は、前段でも論じたが、「武家社会」にも発展した。

この「武家社会の組合的要素」は、「職能別」にその組織の中で発生する問題は組織内で解決させる”と云う制度が徳川幕府に創設された。
これが”「御師制度」”と云われるものであり、「武士階級」から成る「自治組織」が出来上がったのである。
これは「伊勢」から持ち込んだ「吉宗」によって「享保の改革」で制度化されたものである。

(注釈 筆者は、むしろ、この奈良期からある「青木氏の御師制度」が、「伊勢」に関わりの深い「徳川吉宗」によって「幕府の武家」に採用された。
この事がきっかけで、「武家出自の商人域」に浸透して行ったと観ている。)

(注釈 「伊勢青木氏」は、「幼少期の伊勢での吉宗の育ての親」で、「家臣」では無いが「享保改革や紀州藩の財政改革」に「布衣着用の身分」(主大名格)で大きく関わった。)

これ等が、当に「信長」の「天下布武」<「楽市楽座」、所謂、「布武」<「布知」で目指した「理想に近い社会」であった。
その「信長の思い」を最初に実現させ発展させたのは、何と「蒲生氏郷と二つの青木氏」であった事に成る。
これを更に発展させたのは「安土桃山期の秀吉−江戸期の家康」と云う事に成る。

「信長の理想」は、初期の構築段階は、皮肉にも、伊勢混乱の苦労の末に「二つの青木氏」に依って進められた事に成る。
これは、「信長の理想」を理解し、「青木氏の本音」がこれに一致していた事を物語るものである。

「会合衆までの経緯」ここに至るこの「生き残り戦略」が、当に”「青木氏の本音」”であった。

歴史は幸いにも当にその様に成った。

上記する”「室町期の苦しいトンネル」”を突き出て、「江戸期の青木氏の将来」をここで構築したのである。
これが、「苦境」を「青木氏の知略」で乗り越える事、況や、これが「二つの青木氏の本音」であった。

筆者が考察する”「青木氏の本音」”はなかなか言い尽くせないが、上の経緯も含めての事と成る。

纏めれば、”「武]では無く、 ”「知略」”を使った”「戦略」”に云い尽くせる。
「武」はあくまでも「抑止力」に留め、「知略」を「補完するツール」とした事にある。
これが、無傷で「生き残り」を果たした「本音」であったと考えている。

そもそも、「人時場所」が変われば「本音」も異なるが、変化する何時の世もこの一点だけは「普遍」であり変わらない事を示している。

然し乍ら、唯、別次元で「或る条件」が働けば、この「戦略の本音」も永代では無い。
その「或る条件」とは、”「伝統」”が消えると無く成る。
つまり、”「伝統」と云う土台の上に成り立っている事”に成る。
そして、この「伝統の内容」も時代毎に代わる。
従って、「青木氏の本音」を維持するには、”時代毎に代わる事”に対応しなければならない事に成る。
この「対応」とは、時代に対応した”「体質改善」”である。
この”「体質改善」”が、”「青木氏の本音」”に従う事に成る。
これが、上記した様に、「室町期の混乱期」に対応した「二つの青木氏の行動」であった。

然し、この「対応の変化」も「仕儀無きこと」であって、「変化する」としても少なくともその「伝統の基本」は変えてはならず是が非でも護らなければ、「生き残りの本音」は霧消し得る。

(注釈 現在の「青木氏の基本伝統」は、最早、護り切れていない。依って、明治期まで先祖が護って来た「青木氏の本音の概念」は霧消している。「伝統シリーズの記録」に遺すのみと成っている。)

上記で論じた「青木氏に関わった氏族」の「生き様」も、それは其れなりの「生き様」で「良し悪しの前提」とは成り得ない。
然し、”子孫を如何に遺せたか”は論じられても良い筈である。
「伊勢の二つの青木氏族」(伊賀の青木氏を含む)は「青木氏の氏是」を頑なに護った「生き様」を示した事は云える。
これに依って、与えられた「氏の役柄」を果たした事は、”「青木氏の誇り」”であり、”「誇れる伝統」”である。

そこで、この「時期の伝統」はどんなものであったろうかと云う事に成る。
それが、「上記の論」である。

そこで論じたのが「青木氏の経緯と背景」と成るが、続けて、「伝統−17」でも論じる事に成る。


次ぎに続ける事としても、「伝統−17」を論じる前に、先に述べておかねばならない事が在る。
そもそも、この時期は、「南北朝の影響」を受けて、「京公家族」の間に、次ぎの様な事が起こっていた。
この問題を解決しなければ「武」で抑えて掃討をしても何れにも解決には成らない。

「武による富の獲得の機運」
「朝廷の天領地の奪還と確保」
「西域公家政権の復興」

この時期には以上の反動が起こっていた事を物語るものである。

上記した様に、況や、「聖地伊勢」も「北畠氏」に依って “撹乱されていた”と観る事が出来るのである。
「信長」は、この「悪い機運」が広がると社会は、更に乱れるとして潰しに掛かり、その代表者を手厳しく潰す事で、社会に“見せしめ”として抑え込もうとしたとも判断できる。
況して、「信長」は「天下布武」を標榜していたが、「公家勢力の復興」は「信長」の目指すところと「真逆の行為」であった。

この“「権威を惹けら課す者」で、「権威の利得を食む者」”とは、「無力化した京の公家政権」と「結託した勢力」の事だと名指していた。
それだけに「信長の事の次第」は、“厳しく当たった”と云う事に成るたろう。


「信長の心の中」には、「青木氏の心の中」には、資料を通して具に鑑みるには、次ぎの様な「信念」があったと考えられる。
これは、何時の世も「天下を治める者」、或は「大きい組織を動かす者」、「指導者たる者」、「上に立つ者」の「孤独の苦しみ」であろう。

つまり、伊勢の「北畠氏等の横暴」を「信長」が観ていて、これは、当に”「権威の惹けらかし」”と”「その利得の食む勢力」”の何物でもないとした。
その「北畠氏等の伊勢三氏」(北畠氏と伊賀氏、伊藤氏)が「象徴族」として苦々しく観られていた事を物語るものであった。

(注釈 但し、「伊勢者C」は、他地域から伸長して来た勢力で”「伊勢者」”では正式には無い。資料には使い分けされず「伊勢者」として扱うものもある。)

但し、”「伊勢者」”と呼ばれた氏は、時代別に三つに分けられる。
「伊勢者A」の「青木氏」から観れば、資料から読み取ると「伊勢者BとC」は「別者の意識」があった。

「伊勢者A」は、「伊賀青木氏を含む二つの青木氏」     江戸初期まで 950年−650年間程度 
「伊勢者B」は、「北畠氏」「伊藤氏」「伊賀氏」「長嶋氏」   江戸初期まで 150年−100年間程度
「伊勢者C」は、「仁木氏」「六角氏」「山名氏」         江戸初期まで 100年−50年間程度 

(注釈 「伊勢者」 「伊勢衆」 「伊勢国人」 「伊勢郷氏」は「歴史的な呼称」(者、衆、人、氏)としてその「範囲差と格式差」により使い分けがされている。)
 

況して、その勢力が”「聖地の伊勢」”にいると成れば,「信長」は放置する訳には行かないとなった。

(注釈 筆者の考察では、 ”「信長」は「伊勢者BとC」を”「伊勢者」”としては観ていなかった” と考えている。
自分と同じ「室町期の伸長勢力」だが、「信長」には「たいら族」の「末裔の自負」があった。
故に、「名籍の桔梗紋の明智光秀」に対して「織田家の格式」は「上位」と観ていた事から起こる「家柄の確執葛藤」があったと観られる。)
況してや、この「伊賀域」は、元は祖先の「たいら族の故郷」であったし、「伊勢和紙の殖産」に従事する「残留族]もいる地域でもあった。
ここを、”「伸長族」に犯されたくなかった”と云う意識も内心あったと観られる。

「信長」は、上記の鎌倉期からの経緯を観て、当に、この「北畠氏」が、”「権威を惹けらかし利得を食む勢力」”(西域公家政権の復活)と映っていて、“その勢力を先ず潰しに掛かった“と云う所であった。

しかし、これに対して、”「権威を惹けらかし利得を食む勢力」”(西域公家政権の復活)であるにも関わらず、この事を理解せずに、これに対して、意外にも無暗に「武」で合力し、敵対して来た北伊勢の「伊賀氏」「伊藤氏」等があった。
「信長」に執っては、これは驚きであって、”間尺が合わない”と感じとったのである。
況して、世間では、「賢者 智者」としての”「伊勢者」”と云われながらも、何でこの事が判らないのかと悔しがっただろう。
結局は、恐らくは、”縁無き衆生動し難し”として、討伐に踏み切った。

結局は、「信長」は、彼等を”「抗する者」”として扱い、討伐する事に成り、拡大して”「伊勢四衆」“を纏めて排除するに掛かったのである。

然し、同じ”「伊勢者」”でありながらも、「伊勢の二つの青木氏」だけは動かなかったのである。
”それは何故なのか”である。
それは、後から侵入してきた彼等は、”「権威を惹けらかし利得を食む勢力」”(西域公家政権の復活)である事を承知して居た事を意味するものである。
それは古くから”「伊勢者」”として生きて来た「二つの青木氏」は、「青木氏の氏是」に基づきこの態度を取る事は無かったからである。

唯、「信長」が行う「抗する者への挑戦」には、一定の限度があった。
それは、”「無暗に挑戦」”では無く、その「前提」は次ぎの事にあったのだ。
それは「限度=前提」である。
「信長」の目指す「天下布武」には、この「前提」(限度)があったのだ。

 ”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”

唯、「単に抗する者としての討伐」をし続ければ、この世の人間は半減する。

何故ならば、「善悪の理」に関わらず、「賛同の結果」はこの理に従っていないのも又この世の条理である。
「善」であるからと云って、「万民全人」が「賛同すると云う条理」には、「仏教の説法」に云う様に、従ってはいない。
「人」には、仏説「四つのみ」が「人の性」としてあり、そして、この「人の性」はこの仏説「四つのみ」に惑わされる。
依って、「善」は必ずしも「賛」を得られる前提では無い。
それが、「人の世」では「仏説 四の理」に従うと成っている。
つまり、四割程度は何がしかの形で「善」は、「悪」としては兎も角も、「善」として扱わない条理の中にあるとしている。

それでは、「善」は「善」としてより多く扱われる世の中にするには、それは「人の悟り」にある。
それを得られるのは「仏教」だとしている。

その得られる「手段とされる仏教界」が、何のこの世の因果か、”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”の世界と成り果てている。
況してや、「宗教武装勢力」と成り果てている。

そもそも、「抗する者は全て討伐」とそんな事を考える人間はこの世にいない。
そもそも、不可能であろう事は誰でも判る。
然し、遣らねばならないと成れば、何処かに「規準」なり、「限界」なりを設けての事に成る。

従って、その「討伐」をしなければ成らない「細目の規準」は、「信長」に執っては、、”「権威を惹けらかし利得を食む勢力」”に規準を置いていたと云う事であろう。
それは、「人時場所」の「三相の理」によって異なるは、必然の事だが、この「必然と成る規準」は、「何時の世」もこれが「最低限の条理」であると考えられる。
この「三相」は、”「戦国」”と云うキーで括れる。
「人」は「過激]に成り、「時」は「短絡」に走り、「場」は「戦場」に成る。
其処から導き出される「規準」或は「限度」は、”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”と成り、「其れを阻む者」と成る。

それに、この「勢力」が”「事の解決に”武力”を以って立ち向かう」”と成ると、尋常では無い。
「国を治める志を持つ者」としては「信長」でなくても放置は出来ない。
この「勢力」が社会に蔓延れば当に「修羅」であろう。
何の信念も持たない「愚能な将軍」が頂点に立ちながらも「治世」するこの「修羅社会」を放置したのが「足利幕府の四代目以後の有様」であったのだ。

(注釈 幕府とは、本来は「将軍−御家人−守護」から成り立つが、鎌倉幕府は将軍と御家人の主従関係組織で難く維持されたが、ところが、室町幕府は当初この組織を敷いた。
然し次第に統制が効かなくなり、この「将軍−守護−御家人の関係式」が出来上がって仕舞った。
この為に内覧が多発して統制が効かなくなり「治政」は乱れ始めた。
この時期が4代目から顕著に成る。
鎌倉期の組織では、本来であれば、「御家人−家臣−守護−豪族」と成っていた。
然し、室町期は4代目五代目以降から乱れ、「直臣の御家人」を飛ばして「将軍と守護が主従関係」を結んでしまった。)

その「修羅」を救う「宗教]が、況してや「武家」にも勝るとも劣らない「絶大な宗教勢力」と成れば、最早、論外である。
云えばきりがない。その「宗教」が「城郭]を持つと云うのである。

「戦乱の社会」の中で、「盗賊や山族等の脅威」が散在する中では、”「宗教]が非暴力であれ”と云う事までは云わないにしても、「最低限の自己防衛の範囲」に留めるべきであろうことは疑う余地は無い。
超えれば、出る釘も打たれるは必定である。
況してや、その「信徒」を先導してその道具に使うは論外中の論外である。

(注釈 「青木氏]はそもそも戦乱で「糧を失った者」を「経済的範囲」に於いて救い、その「自発的行為」に依る歯止めの効いた「伊勢シンジケートの抑止力」に留めた「最低限の自己防衛の範囲」を越えなかった。)

「信長」は、他の国の討伐の如何は別として、”「伊勢」”に対しては、この「規準の考え方」を前提とした。

つまり、”「伊勢」”に対してである。この”「伊勢」”に意味があった。
況や、”「伊勢」”には、”「信長成りの思い入れ」”があった事を物語る。
その「信長の思い入れ」とは、どんなものかと云えば、次ぎの規準に持つ意味であろう。

(伊勢の事を含む「信長に付いて」を書いた信頼できる資料から物語るものは次ぎの事と観た。)

纏めると次ぎの様に成るだろう。

限度=前提

”「権威の惹けらかし」”と”「その利得を食む勢力」”

「伊勢」は、「万民の聖なる場所」である。その「聖なる場所」には”「権威」”が求められる。
その「権威の地に住する者」は、「権威」に溺れず、「謙虚」でなくてはならない。
その「権威]に託けて「利」を食んではならない。
「権威の利に縋る者」には「万民の信頼の範」と成れない。

「信長」に関する資料から読み取るに、”「信長思い入れ」”はこの様なものであった。

「比叡山焼き討ち」等に観る様に、「信長」は「武家勢力」を始として、「各地の戦い」には、各地ならではの「条件」を入れ替えて、この[四つの思入れ」に適合するかを確認したのではないかと観られる。
各地の戦いの「信長の発言」を考察すると、この傾向が読み取れる。

これは、まさしく、「青木氏の氏是」の意味する処でもある。

”何時の世も、「青木氏」を世に晒す事無かれ、何れにも一利無し、然しども「青木氏」を世に憚る事無かれ、何れにも一利無し。”

「信長」は、”「伊勢者」”の当初から出方を警戒(婿養子の策謀失敗)しながらも、元より”「悠久の歴史」を持つ「伊勢者」”の「伊勢の青木氏を攻める意志」は無かった事を意味する。

「この世」の「何事」も、排除されるのは突き詰めれば、「信長」も、「青木氏」もここに来る事を教えている。


これ等が、「伝統」を語る上で、「青木氏」に執って忘れてはならない「四家の背景と経緯」である。
何れにせよ「我々の先祖の青木氏」は、この中で生きて来たのである。
その「生き様」そのものが”「青木氏の伝統」”であった。

「近江佐々木氏」がした様に、「青木氏」も子孫にこの「伝統の如何」(先祖の生き様)を遺しておきたい。

> 「青木氏の伝統ー17」の「」に続く 


  [No.334] Re:「青木氏の伝統 17」−「伊勢衆の本音戦略」 
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/08/31(Mon) 11:11:14

>「青木氏の伝統ー16」の末尾


> 「比叡山焼き討ち」等に観る様に、「信長」は「武家勢力」を始として、「各地の戦い」には、各地ならではの「条件」を入れ替えて、この[四つの思入れ」に適合するかを確認したのではないかと観られる。
>各地の戦いの「信長の発言」を考察すると、この傾向が読み取れる。

>これは、まさしく、「青木氏の氏是」の意味する処でもある。

>”何時の世も、「青木氏」を世に晒す事無かれ、何れにも一利無し、然れども「青木氏」を世に憚る事無かれ、何れにも一利無し。”

>「信長」は、”「伊勢者」”の当初から出方を警戒(婿養子の策謀失敗)しながらも、元より”「悠久の歴史」を持つ「伊勢者」”の「伊勢の青木氏を攻める意志」は無かった事を意味する。

>「この世」の「何事」も、排除されるのは突き詰めれば、「信長」も、「青木氏」もここに来る事を教えている。


>これ等が、「伝統」を語る上で、「青木氏」に執って忘れてはならない「四家の背景と経緯」である。
>何れにせよ「我々の先祖の青木氏」は、この中で生きて来たのである。
>その「生き様」そのものが”「青木氏の伝統」”であった。



伝統―17


「伊勢衆の本音戦略」
そもそも、“何で「伊勢衆」と「伊勢四衆」が「招かざる北畠氏」のこの「行動」に合力したのか”と云う疑問が湧く。
「青木氏」として、“本気で合力したのか”と云う疑問が湧く。
「不倫の聖地」に「武」に変身した「公家の北畠氏」が入る事は、「聖地の存続」に「危機」を生じさせる事に成る。
この事は「武」を背景とする以上は、「争い」は目に見るより明らかであるのに、むしろ、「伊勢衆」「伊勢四衆」に執っては、「平穏な悠久の歴史」を続けて来ただけであった。

然し、唯単に「悠久の歴史」を続けて来て訳では無い。
「賜姓五役」として、「三つの発祥源」と「国策氏」としての”「伊勢国」”を作り上げて来た。
財源的補足としての「二足の草鞋策」や、伊勢国と民を豊かにする為に「和紙殖産」を作り上げ、抑止力としての「伊勢シンジケート」を構築して護って来た。
「青木氏」に執っては、この苦労を水の泡にする様に、「武」で乱されるのでは、“排除するに値した行為”であった筈ある。
況して、「悠久の氏是」も在った。

確かに、「源氏」と云う縁もあったが、それだけで「合力」はするか疑問である。
「聖地の存続の危機」と云う事に成れば、「縁如何」では解決できない。
況して、北畠氏が”「源氏」”とはいわれているものの、正規の「賜姓源氏」では無い。
何より、「悠久の絆」で結ばれた「伊勢衆」の「土地」とその「生活基盤」を「武」で奪った相手でもある。
「二つの青木氏」は「北畠氏」に対して真当に合力したとは到底思えない。
そんな「愚人の四家福家」はいないであろう。もし、そうであれば、とっくに滅亡している筈である。
そもそも、この現状事を認めて仕舞うと「自らの氏の立場」「子孫の行末」も危うく成るは必定である。
「家訓」もあり、其れ等を「無視する行動」を採るとは到底考えられない。

とすると、「青木氏」に執っては「抑止力」で対抗する方法もあった筈である。
然し、”「抑止力」を使った”とする記録が全く見つからない。
何か変である。「抑止力」を使えない”「何か」”があって、仕方なく”「何か」”が策謀された気配がする。

然し、現実には、「青木氏年譜」や「口伝」や「添書」や「商記録」などからも”「合力」”は明らかである。
この「合力の如何」は別として、疑い無く“「合力」”はしているのである。
ただ、反面、「武による合力」でも無い事も明らかである。
だとすると、考えられるのは、”「北畠氏の出方」に「青木氏の抑止力」を使えない「大義」があった”事に成る。

そこで、”どの様な「大義」であったのか、どの様な「合力」”であったのかを明らかにしたい。
そこから、「二つの青木氏」の「生き様」が観えて来る筈である。

問題は、「北畠氏」の伊勢での短い期間の「生き様の特徴」に在る。

鎌倉末期の「建武中興」にて「親房」が勢力拡大、その末裔の「顕房」は、戦国時代に無防備な伊勢の北畠に武力で進出し勢力拡大、遂には「国司」に成るとあるが、この室町期末期の戦国期に「国司」の意味がどけだけあるかは疑問である。
あるのであれば、室町期は「国守護」であり、「国司」では無い。如何に「天皇家の権威」を利用したかはこれ一つで判る。
況してや、最大時は「南伊勢五郡の勢力」で、「全伊勢」では無かったし、「勢力」だけが裏打ちされたものであった。
この「勢力頼み」を利用する事であった。

然し、「顕房」には、「朝廷との繋がり」は確認できない。
要するに、衰退している「天皇の権威」を利用した「戦国公家大名」である。

それは「北畠氏の態度」が次ぎの様な事にまとめられる。

「特徴 A」− 「御所」と云う館名を盛んに使っている。
「特徴 B」− 「朝廷」との連携を強くしている。

この「特徴 A」は、「御所」、即ち、「天皇の意」を戴して、”「伊勢国」を統治している”と云う「戦略」を採った事に成る。 
次ぎに「特徴 B」は、困窮していた「天皇家」に貢ぎして「パイプ」を作り上げ、「特徴 A」を補完した戦略を採った事に成る。
要するに、「天皇家」を利用して「伊勢」に侵入した「大義」を作り上げた事にある。

果たして、「天皇家」が、その様に「北畠氏」に、 ”「密命を出した」”と云う事もあり得るが、これは確認出来ないところである。
そもそも、「伊勢国」は「皇祖神の聖地」で数少ない「天領地」でもある以上は、その「天領地」から上がる「税」をより高くしようととして「北畠氏」を差し向けたと成る。
「税」だけで「天皇家]が「皇祖神の聖地」を危険に晒すかの無謀をするかの疑問がある。
「青木氏」も「税」は納めているが、これを無視する行為を天皇家がするかの疑問がある。
「巨万の富」で「税」は高く成っている状況の中で、「青木氏」を無視するは自らの首を態々絞める事にも成るがそうするかの疑問がある。
確かに「北畠氏」は、「村上源氏の流れを汲む源氏」で、「朝廷の学問処」の家柄に在ったが、この密命を下すかの疑問がある。

「青木氏」は、「特徴A」と「特徴 B」があった事で、これを「北畠氏の大義戦略」であった事から、直ちに「抑止力」などの手が使えなかった事にあったと観られる。

この為に、青木氏は、次ぎに論じる「青木氏の本音戦略」で対抗した事に成ったのである。

「北畠氏の大義戦略」><「青木氏の本音戦略」

「北畠氏の大義戦略」><「青木氏の本音戦略」であったとすると、「青木氏」は「天皇家」から罰せられていた筈であったが罰せられていない。
とすると、「皇祖神の聖地」を汚す様な「密命」では無かった事に成る事から、後は「合力の有り様」で解明できる。


「合力の有り様」から観た検証
“「ゲリラ」“と云う言葉は当時は無いが、資料にも依るが、「撹乱」「調略」「策謀」「知略」の4文字が出て来る。
そして、「商人の姿」は観えるが、四つも持っていた「四家」の「館城」「寺城」などの表現は「直接的表現」としては無い。
取り分け、「商記録」には、「伊勢シンジケート」からの情報と観られるものとして、「簡潔に要点を書き記した情報」からも総合すると、”「直接交戦歴」”も浮かんで来ない。

何よりも、一揆等の行動に「裏からの経済的支援」をしていた事は判り、記録から「紀州」、「伊勢」、「信濃」、「甲斐」の「四大一揆」の事が記載されている。
中には、この「一揆」に絡んで、「青木氏の密教浄土宗の菩提寺の存亡」に関わっている。
又、「信濃や甲斐」では、「曹洞宗との争い」に、又、「伊勢や美濃」では、「真言宗との宗教争い」の様な事もあった事が記されている。

これはつまり、「伊勢丸山城の戦い」や「名張清蓮寺の戦い」の「戦い方」がはっきりしていて明らかに“「ゲリラ戦」をした”と云う事が判る。
「一揆等の経済的支援」等の戦い方は、一体、”どの様に見るのか”で変わって来る。
唯、”単なる経済的支援”とは、一方に支援をしている以上は、行かないであろう。
問題は、後から来た「武力による支配者」に対して、「青木氏」等は苦々しく思っていた事は、長い間、悠久の歴史を伴にして来た「民」がそう簡単に納得したであろうか。
「悪政」を敷いていたのなら別にして、「悠久の歴史」を共にしていた事は、「悪政」では無かった事に成ろう。
「土地の権利」は「青木氏」が「地主」として持ち得ていたとしても、「政治の支配権」は「後からの支配者」にある。
「郷氏」としての地主で無いところは、支配を受ける事に成る以上、「民」は反発をする事は充分に考えられる。
「経済的支援」をしている事は、「民の生活困窮」では無かった事に成る。
況して、「地主」である事から、「直接の税」は「青木氏」にある。「税問題」であるのなら「青木氏」との問題である。
「政治的反発」であった事に成る。
”「伊勢に武に依る支配がもたらすリスク」”を嫌ったと云う事に成る。
従って、「一揆等の経済的支援」は、この「青木氏の背後からの突き上げ」であったと観ている。

その証拠には、明治9年までの伊勢で起こった一揆を含む一切の動乱には、「青木氏」は「商人の立場」から支援をしている。
北畠氏等は、背後に青木氏が見え隠れしている事は充分に知っていたと考えられる。
然し、”手は出せない”と云う柵に縛られていたのである。(「二面作戦」を採った。)
公然と青木氏として表に出れば又別であろうが、「商人の立場」を利用した事が「商記録」からも判る。
「長兵衛等の四家の名」を夫々に使っていた事が記録に残されている。

上記した様に、「招かざる北畠氏」が「採った行動」に対しては、「伊勢の聖地」を「護る役目」のある「青木氏」は、「武に化した北畠氏」を直ぐに排除出来なかった。
当然に、「武力」を使えない為に「悠久の絆」で結ばれた「土豪や郷士の伊勢衆」を充分に護れなかった。
それだけに「経済的支援」は伊勢には急務であった。

それは、次ぎの理由があった。
(イ)「北畠氏」が南北朝より「朝廷の意」を反映させている事(西の公家政権)
(ロ)「青木氏」が「氏是」に依って「武」を以って「北畠氏」を排除できない事
(ハ)悠久来に「賜姓族と云う立場」があり、「直接交戦」が採れない事
(ニ)「権威の象徴」は崩せない事

しかし、「二つの青木氏」に執っては、時間が掛かっても、何とかして排除するか弱める事が絶対的に必要である。
そうすると、「二つの青木氏」に執って考えられる手段は、「直接手段」は出来ないと成れば、取れる手段は、唯一つ「間接手段」しかない。

ではその「間接手段」と成れば、次ぎの「二つの戦略」に成る。

戦略1 「北畠氏」を煽り「武」に立たせ、悟られない様に「外部勢力」で弱めさせるか潰させる事
戦略2 そこで、室町末期の最大勢力の「信長勢力」を招き入れて、弱めさせるか潰させる事

「第一段階」
それには、「北畠氏」に「商い」などを通じて取りあえずは「経済的な利得」を得させて「勢い」を持たせる事が必要と成る。
「信長を引き込む」の戦略の為には、この「勢い」に依って「権威を惹けら課し、その利得を獲得する形」が出来れば、「信長」は必ず来ると判断した。
この“信長に遣らせる戦略”を第一段階とした。

その「信長」には「天下布武」で「天下号令の野心」があると踏んだ。そうすれば、「京」には「伊勢」は背後に位置すると「北畠氏」を叩く必要が必ず出て来る。
その為の「条件づくり」「環境づくり」をする事にあると見込んだ。
其れには「権威だけを惹けら課す北畠氏」に「経済的潤い」と「軍事的勢い」を付けさせる事が必要である。

「第二段階」
そこで、「元伊勢衆」と「伊勢四衆」が結束して、これに当たる方向性を付ける。
「伊勢青木氏(信定)」は「長野青木氏」等の「全国の青木氏」に呼び掛けて「ゲリラ戦」に応じる様に主に呼びかけると共に、「元伊勢衆」から成る「伊勢シンジケート」と共に、「ゲリラ戦の攪乱消耗戦」を仕掛ける。

「第三段階」
当然に、伊賀氏、伊藤氏、長嶋氏等は、領地を奪われる事から「独自の方法」で「信長」に戦いを挑む事に成る。
そこで“「信長の遣り過ぎ」“を制御する為に、「伊勢青木氏(忠元)」は、「伊勢青木氏(信定)」と共に「ゲリラ戦」を展開しながら、全国の「秀郷一門361氏」に援護を依頼して「信長」に「東の背後圧力」を掛ける事にする。

「第四段階」
「信長」は、この「伊勢青木氏(忠元)の行動」を観て、“「伊勢藤氏」”には手を出せない様に仕向ける。
この事で、「伊勢の戦い」は限定して拡大しない事に成る。

「第五段階」
この戦略で、「北畠氏と伊賀氏」が潰れる事で解決して、「信長」を以って、この二氏を弱めさせ潰させる事が出来る。
この段階で「伊勢シンジケート」の「ゲリラ戦」を引く事とする。
そこで、「伊勢衆の代表」として「信定と忠元の青木氏の二人」は「織田氏との談合」で決着をつける。

「第六段階」
これは、結果として、「本領安堵」を最終目的とする事であり、「元伊勢衆」の「北伊勢の土地」と、「伊賀氏」が支配していた「伊賀の土地」と、「北畠氏」が支配していた「南伊勢の土地」と「東奈良の土地」は帰って来る事に成る。
これで「所期の目的」は「伊勢者」に執って達成させられ、「伊勢の聖域」は護られる。

この「六段階の戦略」が、集めた記録から観ると、「元伊勢衆」と「二つの青木氏」の描いた「基本戦略」であった様だ。

ところが、ここで「戦略の見込み違い」が起こった。

この”「戦略ズレ」”は、何れにも起こるは必定の事であり、これを「臨機応変」で処理するのが「戦いの常套手段」である。
「基本戦略」以上を超える「戦略ずれ」は拙いがこの範囲であれば問題がない。

その「戦略ずれ」とは、「伊藤氏と伊賀氏」の「伊勢藤氏の二氏」が「自らの勢力」を超えて突っ込み過ぎたのである。
(長嶋氏は室町期の新参であった事から「基本戦略の範囲」を護って激しい交戦態度は避けた。)
結果として、「長嶋の戦い」が長引いてしまった。

そこで、止む無く、「二つの青木氏(信定と忠元)」は、”顔を出さない「ゲリラ戦」”で合力する事に成ったのである。
しかし、「戦略ズレ」を無くす事から、「談合」が進められ、結局、この「伊勢藤氏の両者」は、慌てて、子孫を遺す事を目的で、「伊藤氏」は尾鷲に、 「長嶋氏」(州浜族)は「尾張の秀郷一門」の「三勢力」(州浜族、片喰族、沢潟族)に、軍を引かせて早期に戦いを終わらせた。
この事で、「ゲリラ戦」が遺る程度に成った。
この時、「忠元の依頼」もあって、「武蔵の秀郷一門」が「救いの手」を打ったのである。
事を大きくしない為にも、「軍」を送らず、「名策の窮策」を講じた。

それは、「尾張三勢力」と「伊勢青木氏(忠元)」で、「信長の背後」を牽制した。
「信長」に、「信長子飼い」の「伊勢青木氏」と親族である「近江蒲生氏郷」を「伊勢戦域」に就かせる事にあった。

(注釈 上記した様に、「信長と氏郷」は、「京平家の同じ家筋(揚羽蝶紋)」の末裔で在る。
且つ、「信長」が其の優れた才覚を認め、家臣の中で最も信頼していた人物で、幼少期から信長の次女の梅姫を婚約させ嫁がせた関係にあった。
「信長」に執っては、「毛利攻め」の事も有って、「背後」を大きく混乱させ長引かせたく無く、事を穏便に始末したいと考えていた。
そして、現実には、”「策謀」”に依る各個攻撃に出ていた。

そこで、「二つの青木氏」は「背後牽制」をして、“早期から「氏郷」を伊勢に引き出す戦略“には成功した。
そもそも、「忠元の父」と「氏郷の祖父」は兄弟であった事から、この「作戦」は成功して、「伊勢藤氏」の「二勢力」は何とか生き延びたのである。

(注釈 そもそも、「信長」が、「北畠氏と伊賀氏」を潰せば、その目的は達成している事を物語る。
もし「伊勢藤氏」を潰す目的であれば、「信長の戦法」であれば、「同族の蒲生氏郷」を差し向ける事はしない筈である。
「徹底して潰す戦術」を採っている「信長」であれば、「伊勢藤氏の三勢力」を遺さなかった筈である。
これは、むしろ“潰せなくて”、且つ、“潰す目的が無かった事”を物語る。

”「信長の権威への挑戦」”にしても「闇雲の挑戦」では無い事くらいは判るであろう。
そもそも、「伊勢衆」と「伊勢藤氏」や「伊勢青木氏やシンジケート」には、「信長」に「敵対の意志」はそもそも無かった。
「後世の子孫」から観て、「信長の行動」に敵対するに値する根拠は何処を探しても見つからない。
「北畠氏や伊賀氏の行動」に「青木氏の命運」を掛ける程の根拠もなかった筈なのである。
むしろ、「招かざる者」として位置づけられていた。

(注釈 伊賀氏には長い歴史の中で幾つかの出自の異なるルーツが生まれた。
ここで云う「伊賀氏」とは、「藤原北家秀郷一門」の「宗家」で、鎌倉期に「頼朝」より「旧領地の結城の地」を本領安堵され、「結城氏の祖」と成った「朝光」が、その後、鎌倉期に、「伊賀の守護職」を務めた。
この「現地孫の末裔」が「伊賀氏」を名乗って、その後に鎌倉幕府の中枢に位置した。
その勢力を最大に伸ばした「氏族」で在る。
その後に、この末裔が「伊勢伊賀」に住し、伊勢の土豪、郷士を押え勢力を伸ばした。
厳密には、「伊勢藤氏の四氏」の内の一氏ではあるが、「他の三氏」とは、「秀郷一門」とは云えど、その血縁による「血流性」が低く、若干、その「生き様の方向性」に「武力性」が強く異なっていた。
時には、「傭兵軍団」等で生き延び、その氏は二派に分かれた。
その一派が「甲賀族」である。)

(注釈 従って、「伊勢藤氏四氏」と呼ばれるも「伊勢藤氏三氏」と呼ばれる事もあった。
この地の前身は、「伊勢京平氏の祖」の「後漢から帰化した阿多倍王」、又は「高尊王」、「平望王」で、朝廷より「伊勢青木氏の土地」の「伊勢北部伊賀地方」を「半国割譲」を受け定住した。
その子の「国香」と「貞盛」の親子から五代後の「平清盛」に繋がり、その後、清盛は「伊賀の地」を朝廷に返却して「播磨」に移動した。
然し、この時、一部末裔は、「平家滅亡後」にも「伊賀の地」に遺って、「伊勢青木氏」と共に「和紙」等の殖産を引き継ぎ、「伊賀郷士」等と成って生き延びた。
この「伊賀氏」には、この「平家の血」も流れているが、その主血流は「秀郷一門流」である。
主筋は秀郷一門で占められ、「家臣」には、この「平家の血筋」の持つ者、「民」には「後漢の職能部」を祖とする者等から成る。
「青木氏」とは、取り分け、室町期には、「伊賀氏」に成っても、「奈良期からの絆」で、「和紙殖産」を通じて、この「郷士の家臣や民」との繋がりの方が強かった。)

従って、この上記の注釈の経緯があるとすれば、「北畠氏や伊賀氏への合力」と云うよりは、“「流れ」の中で仕掛けられた「謀略」程度“と観える。
そもそも、「青木氏の基本戦略」の範囲では、「北畠氏や伊賀氏への合力」をしたとは云え、上記の「注釈の経緯」もある。
取り分け、この「二氏」とは「生きる方向性」の事もあり、「信長」を「伊勢」に呼び込む為の「誘導煽動策」に過ぎなかった。
(青木氏側からの見解)
そもそも、「伊勢藤氏 四氏」とは云え、鎌倉期の「武力に頼る毛色の違う伊賀氏」、平安期の「武に依る突っ込み過ぎた伊藤氏」、室町期の「武蔵の永嶋氏に頼る長嶋氏」とは違い、同族の「伊勢秀郷流青木氏」とは、血縁はあるにせよ、その「生き様」が根本から異なる。
又、「青木氏」は「賜姓族」である事も踏まえ、「三氏の顕教」では無く、「密教の概念」をも符合させて、「一族性」を完全一致させる事はそもそも難しかったのである。

ただ「北畠氏」(1569年没)だけは、「二つの青木氏」に執っては、「本音」では当に“「招かざる者」”であった。
この「本音」の「招かざる者」との「付き合い」は、結果として、1536年からの「30年間」に及んだ。
しかし、「実質の付き合い」は、「後半の10年程度」に過ぎ無い。
前半は、「悠久の絆」で結ばれた「伊勢衆の混乱」を観て、“「旧来の聖地の伊勢」を引っ掻きまわれた”と云う感覚でしか無く、”「付き合いの範囲」を超えていた”と考えられる。

北畠氏と「後半の10年」は、「過激な戦乱」を呼び込む衰退傾向にあった。
況や、「二つの青木氏」に執っては、当に、「招かざる者」への「基本戦略の範囲の行動」(上記)であった事に成る。

「青木氏年譜」によると、中盤の1549年頃に一度、「伊勢の衆」を集めた事が在って、後半の1559年頃に再び衆合している。
この後に、1560年に「堺支店」に船を廻す記録がある。

この「3つの記録」から、「北畠氏の動向」を観て、先に「伊勢衆との談合」を進めていて、「基本戦略の策」を講じている事が良く判る。

”堺港に船を廻す事”の意味は、恐らくは、“過激化する北畠氏”に悟られぬ様に危険に曝されている「伊勢衆」に「物資の供給」を試みたと観られる。

依って、この関係も勘案すれば、「四家」は、所謂、「伊勢シンジケート」を使った“顔の観えない「ゲリラ戦」”で応戦する「基本戦略の範囲」で事は進んで行った事に成る。
然りせば、“「青木氏」を前面に出して敵対していない“と成れば、「信長側」では、「潰しきれない背景」が生まれる。
且つ、織田側に、”「潰す大義」”も生まれないだろう事が判る。
況して、“「青木氏の商い」”は、「潰し対象」とは成っていないし、むしろ、織田氏の「軍需品調達」の大店とも成っていた。
一見して「商い」では「味方」である。
これが「青木氏の基本戦略の前提」なのである。

仮に、「賜姓族の青木氏」の正体が表に出て潰されるとしても、「商いの青木氏」が存続して居れば、「賜姓族の青木氏」は、当に「不死鳥」であった事に成る。
「商いの青木氏」には、其れだけの力は有り余る程に充分に有った。
況して、“「室町文化の紙文化」”と呼ばれる時代に「巨万の富」を築いていたのである。
この時には、「伊勢シンジケート」を組み入れれば、“「信長以上の総合力」”であったと観ている。
要するに、「表の勢力の信長」か「裏の勢力の青木氏」かの「勝負差」であった。
この「勝負差」では「二つの青木氏」は勝っていた事は明らかである。
その「勝負差」を以って、“顔の観えない「ゲリラ戦」で来る”と成ると、例え、「信長」でも、人より優れた「軍略家」であったればこそ、“「恐怖の対象」”そのものであった筈である。
それだけに、「顔の観えないゲリラ戦」に“「窮地発生」“とも成れば、「恐怖」から「過激」(パニック)に走る可能性は充分にあった事は認められる。
これは「信長」のみならず「青木氏」でも起こり得る「人間の性癖」であり、「上に立つ者の宿命」であろう。

そもそも、これが「不死鳥」と成るその為の「四家制度」(5つの面 20の顔)でもあった筈である。
「過激 パニック」を防ぐ「四家制度」(下記 ABCの態勢)であった。

「北畠氏や伊賀氏への合力」と伝えられる「口伝の戦況」と、「青木氏の商い記録の資料」からでは、次ぎの事が判る。
「北畠氏本家」が潰された後に「北畠氏の分家」が一族を結集し直した事である。
これに依れば、”「果敢に挑戦した」”と云う事に成っている。
勝敗は別として、これは「信長」に挑戦したものであったし、「伊賀氏」も「分家の残存兵力の結集」で最後に果敢に挑んだものであったらしい。
この「戦いの結末」は、“ゲリラ的に長引いた”とされているので、この事から観察すると、「青木氏の基本戦略」は兎も角も戦略ずれ等もあったが「成功裏」には終わっている。

兎に角、「青木氏の行動」は、“「徹底したゲリラ戦」”であった事が口伝や資料からでも判る。

結局は、「青木氏に残される大義」は唯一つである。
それは、奈良期より「不倫の聖地」とされているところに、不徳にも「不毛の騒ぎ」を持ち込んだ「北畠氏の如何」に在った。
この「北畠氏」だけに関わらず、“「不倫の聖地への挑戦」”に対する“「悠久の責務」”からの「最大の抵抗」であった事に成る。
故に、「如何なる場面」や「挑戦の流れ」の中に於いても、「四家制度」と「伊勢シンジケート」を駆使した“「徹底したゲリラ戦」の域を超えなかった”と云う事に成る。
故に、上記に論じる「基本戦略」を採った事に成る。

この事を後世から観ても、上記の前後の「戦略と戦況」から観ても、これを“「青木氏の大義」”として捉える事で納得し得る。
「村上源氏」や「学問処の公家」を標榜する「北畠氏」には、この“「大義」”に欠けていた事を物語る。
「青木氏」から観れば、”戦国”と云えばそれまでだが、無理やりに”「不倫の聖地」”に「武の勢力」を持ち込んで、「国司面」して「大義」を一時作り上げたに過ぎない。
故に、”「信長」を以てして「滅亡の憂き目」を受けた”と解釈できる。
そこで、この「青木氏側の基本戦略」の論調で行けば、“「信長」”は単なる「その使い」であった事に過ぎない事に成る。
依って、後付の「通説化」は論理的に符合しないのである。

「青木氏」の史実から観れば、当に次ぎの様に成る。(口伝でも同評価)

”「権威」を惹けら課し、「権威の利得」を食む「社会の悪弊」の「排除の使」”と捉えられる。

上記した様に、その経緯から「多少の過激さ」はあったにせよ、これは「人」が戦う「戦の如何」であり、“理想通り”には行かないのが「世の常道」である。
その行動に「事の平癒」を急ぐ余り、「若干の過激さ」が伴った事は否めないだろう。
故に、その“「若干の過激さ」“を以ってして、「通説」の様に「信長」を評価するは疑問である。
要するに、「青木氏」は、“「伊勢への挑戦」”の“「流れ」“に組み込まれたのである。
否、”青木氏の基本戦略“に組み込んだのである。

(注釈 この“「流れ」“には、その前に、次ぎの様な事が起こっていたのである。
然し、ここにも「石山本願寺の檄文」に依って火が付いた様に起こった「ゲリラ戦」と「一揆」が、「伊勢の三乱 五戦」にも、「上記の戦略」以上の”「思いがけない荒々しさの殺戮」”が、「信長側」にも「伊勢側」にも呼び込んで仕舞ったのである。
其処に、「秀吉の毛利攻め」にも「信長側」に「焦り」を起こした事が、この「荒々しさの殺戮」へと進んだ事も否めない。
この「檄文の存在」を通説化した歴史家が認知していれば、この「通説化」は作り得なかったと観られる。)

そもそも、実際には、1563年頃には、伊勢に動揺が起こり、実記録から観ると、1565年頃から、平定された「伊勢の北畠氏」の多くの「旗下」や「幕下」が、「信長」のこの「策謀の手」で乗っ取られて行った。
有名な伊勢の「神戸氏の乗っ取り事件」や「工藤氏の乗っ取り事件」等が起こり、次々と「武の伊勢勢力」は「信長」に乗っ取られて「内部崩壊」を起こし始めていたのである。
あくまでも、「信長」も、「伊勢勢力 北畠氏 西の公家政権再興」に対しては、初期には「撹乱戦法」で潰す事が「所期戦略」であった筈である。
その「所期戦略」は、全て内部に「内通者」を置き、「武力の攻め落し」では決して無かった。
上記した「入り婿策」で「乗っ取り」が起こって行ったのである。(青木氏もこの策謀に掛かった。)

そして、1569年頃を最後に、この「北畠家没落の仕上げ」として「信雄」に依って「北畠氏の内部撹乱戦法」の「初期戦」から始まった。
「所期の戦略の目的」よりも、「事の次第」が変化して、「氏郷」が指揮する次ぎの「中期戦」の「伊勢三乱」に突入して行ったのである。
つまり、「青木氏の基本戦略」での範囲ではあったが、「伊藤氏や伊賀氏」等の「伊勢藤氏の武の合力」の「始末戦」に突入したのである。

「伊勢長嶋攻め 伊藤氏」(1573年)
「伊勢北畠氏攻め 北畠氏」(1576年)
「伊勢丸山城攻め 青木氏」(1578年)
「伊勢伊賀氏攻め 伊賀氏」(1578年 1579年/9 1581年/9 1581年/10)
「名張清蓮寺攻め 青木氏」(1579年)
「石山本願寺攻め 顕如」(1578年−1579年−1580年一揆等)
「紀州征伐」(秀吉) (1585年)

この時に乗じて、伊勢外に起こっていた「石山本願寺の乱」が長引き、「伊勢−紀州の農民」の信徒に対して、石山側は「檄文」を飛ばした為に、“「城外でのゲリラ戦」”が「伊勢−紀州の周囲」の各地で起こって行った。

(注釈 この「石山問題」が、「青木氏のゲリラ戦」の「紀州域と東大和域と伊勢域」と重なった為に「青木氏の基本戦略」にも影響を与えて仕舞ったのである。)

「石山本願寺の乱」と称される「顕如の反抗」は、「毛利側の謀略」であったが、毛利軍が「高松城の支援」に失敗して、結局は、「顕如」に「檄文」を飛ばさて「城外戦」に持ち込んで「信長」を牽制した「長期戦」に持ち込む作戦でもあった。
これが「伊勢三乱」と重なった為に「三者」に激しさを助長させたのである。
ただ、「伊勢側」と「毛利側」とには“「連携」”の「実態記録」は発見されていない。

「城外の紀州信徒一揆」を支援する「河内シンジケート」と「伊勢シンシジケート)間の連携はあった事は、「青木氏年譜」の一部に其れらしき「堺港の配船記録」がある。
「青木氏の氏是」が有る事から「直接の連携」は無かった筈である。

「青木氏」は、“「不戦の禁」”を「氏是」としていたが、「上記の婿養子の事件」は、周囲でも「乗っ取り事件」が多発していた様に、実は「青木氏」にも仕掛けられた「記録がある。
「青木氏側」では、「信長の政略的謀略」として判断していたが、謀略の罠に陥ったのである。

この“「流れ」”の中で、そもそも、“「悠久の禁」”を破ったのである。
その意味で、最早、紀伊半島全体が「ゲリラ戦の戦場」と化して仕舞ったのである。

「青木氏側」では、「伊賀氏と伊藤氏の反抗・合力」、「毛利側と本願寺側」では「檄文に依る城外戦化」のこの「二つの事」が、「青木氏の基本戦略」と異なった事で、「予想外の戦場化」と成って仕舞った。
これは同時に「信長の基本戦略の狂い」でもあった。
「青木氏」も「信長」も、「伊賀氏と伊藤氏の反抗」は、「伊勢藤氏」を指揮していた「伊勢秀郷流青木氏」が動かない事から、「伊賀氏と伊藤氏の伊勢藤氏」も動かないだろうとする「読み間違い」がそもそも在った。

「青木氏年譜」(下記)から観ると、詳細は不詳ではあるが、「青木氏側」では北畠氏の前後に盛んに「談合の意味合い」の持つ“「会合、衆合、談合、衆議、不穏」等の文字が出て来る。
又、「青木氏」の「船等の廻船」にも活発な記述とも成っている。
「伊勢シンジケートの情報」で、“何らかの形”で盛んに「談合と準備」が進んでいたと観られる記述が何度も観られる。
しかし、結果としては、「何度の談合」にも拘らず、“動いてしまった”と云う事でないかと推測される。

この“動いてしまった“とする原因は、「伊勢藤氏の出自の差」が結果として出て仕舞ったと観られる。
その「出自の差」とは、「伊藤氏」は「秀郷より九代目基景」が始祖、「伊賀氏」は「秀郷より八代目朝光」が始祖であり、何れも分流族である。
「第二の宗家」と呼ばれる「秀郷流青木氏の直系族」と比べれば、「高い家柄の藤原氏」と云えども「家柄差」が格段に低いし、その”家柄から来る「生き様の柵」“は殆ど無い。
要するに、最早、この二氏は「柵の無い武家」であったとも云える。

恐らくは、何度も「談合」を重ねていた様ではあるが、柵の無い「主戦派・交戦派」と、柵を護ろうとする「保守派・知略派」に意見が分かれた。
結果として、この二氏は“突っ込み過ぎた“のである。
新参であった事もあり、「下総の永嶋宗家」の意向も配慮して「長嶋氏」は中間派を採ったと観られる。
依って、”「信長の権威の象徴への挑戦」”の“「流れ」“の中で、「伊勢四衆」に執っては、最早、避けて通れない事態に陥ったのである。
これが「青木氏の基本戦略の狂い」と成って、それが「青木氏存亡にかかわる事態」と成って仕舞ったと云う処である。

これは何も「青木氏側」だけでは無く、「信長側」に執っても、同じく「城外ゲリラ戦と一揆」が「基本戦略に狂い」を生じさせたのである。
「武」で抗する「北畠氏と伊賀氏」を潰す事で「伊勢の始末」は終わる事と成っていた。
取り分け、「謀略に依る各個攻撃」で「北畠氏の排除」で終わる筈であった。
そこに、「本願寺問題」と「伊賀氏の合力」、果てには「伊藤氏の合力」等が計画を狂わしたのである。

「何れの大義の良悪如何」は、別として、両者に執っては、”「流れ」“の中で、”決着を監る“しか無く成っていたのである。

(注釈 「四家」は、「信長の権威への挑戦」に対しては、「北畠氏」とは違った受け取り方をしていたのではないかと観ていて、元々「信長への敵対性」は低かったと考えられる。
それは、「賜姓族」であるとする“「権威の象徴」”では確かにあるにしても、片方では、「商いと云う立場」と云う、“「権威」”とは「真逆の立場」にも在り、それも、厳然と「悠久の歴史」を持つ「併合の立場」にもあったのである。)

況してや、そもそも、「青木氏の権威」は、「信長が嫌う権威」には無かった。

“「権威」を以って「惹けら課す事」はせず、「権威」を以って「利得」を獲得する概念“すら無い「氏族」であった。
当初より「利得の獲得」は、“「商い」と云う「正当な行為」を以って成す概念”を持っている「氏族」である。
正しく、それが“「賜姓族の権威」”そのものであって、それを構築しているのが「四家制度」で有った。

“「惹けら課す事」”に付いても、その“「惹ける」”と云う本質は、“「主張する」”の拡大語である。
だとすると、「商い」は“「品」を以って主張する行為“であり、”「自己」を以って主張する行為”の「惹けら課す事」に一部では確かに通ずる。

ただ、「氏家制度の社会」、或は、「信長の概念」の中では、”「自己」(権威)を以って主張する行為”の「惹けら課す事」には、強い「抵抗感、強いては罪悪感」があったのであろう。
「信長」のみならず、「二つの絆青木氏」、「二つの血縁青木氏」、「青木氏の職能部」、「伊勢シンジケート」、「御師 氏上」、「商い」の「四家制度」を敷く「青木氏」も全く「同じ概念」の中にあった。
「信長」は、特に、この行為が“社会発展に悪弊を及ぼす“、即ち、その「悪弊」とは”「閉鎖性」を誘発する“と考えていたのであった。

ただ、同時に、「閉鎖性の排除」の姿勢は、”「楽市楽座」“を容認し、推奨する「積極的立場」も採っていた事に通じていて、この姿勢は、「二足の草鞋策」の「青木氏の姿勢、概念」と一致しているのである。

「事の次第」は、「品」と「自己」にあり、間接的に「品」、直接的に「自己」の「主張の差」による事に成り得る。
「青木氏」としては、「商品」を以って間接的に「惹け行為」を「正当な行為の概念」として「悠久の時」の中で育まれていたのである。

「賜姓の権威」については、“「賜姓五役」の実行を熟す事”にあって、「権威」から「利得」を獲得する事には無かった。
それは、“「四家制度」”がそのものが、「惹けら課す事」と「利得の獲得する事」を阻止する機能(合議制度)を果たしていたのである。
「信長」も「楽市楽座」を推奨することは、「青木氏の商い」の「正当な行為の概念」に通ずる。

そもそも、この事から「信長」が標榜する「布武の共和政治」とは、むしろ、「商いの青木氏」とは符号一致する目標でもあったからで、特段に「氏存続に対しての信長への敵対性」は全く無かったと考えられる。
その意味でも、“氏を前面に押し出す敵対”は採らず、故に、“「流れ」“の範囲で有るが故に、下記に示す敢えて「青木氏」の観えない ”「ゲリラ戦」“を敷いたと観られる。

「信長の理解」
では、「招かざる北畠氏」(1569年)が亡びた後に、“「信長」には、何故に、この「青木氏の姿勢」が理解されていなかったのか“と云う率直な疑問が湧く。
筆者の答えは、残念ながら“理解されていなかった“である。

何故ならば、その答えは簡単である。
「商いの青木氏」と「賜姓族の青木氏」とは、悠久の中で結び付けていなかった事が原因であった。

敢えて、「青木氏」自らが,奈良期からの「悠久の時間」の間を、「商い」と「賜姓」は「別物」として、「公然の事実」とし乍らも演じて来ていた事にあった。
それは、朝廷から、”「紙屋院」”として「和紙の殖産」とその「普及の役」を命じられた事に在った。
従って、「商いと云う行為」が分離してのものでは無く、「賜姓五役」に同化して居た事に在った。

「商いと云う概念」の感覚が、「分離した感覚」に成ったのは江戸期に成ってからで、それまでは、「特定階級が行う職業」(武家)の概念が強かった。
取り分け、「青木氏」は、「賜姓五役の紙屋院」であった事から、全く「別感覚」は無かったと考えられる。
「二足の草鞋策」の感覚は、室町期末期までは「氏自体」としては、”薄かった”と考えられる。

幸か不幸か、「信長」は、その「二足草鞋策」を率先した氏の「平家末裔の出自」であるにも関わらず、残念ながら「理解外」であった事に由来する。
要するに、「初期の段階」では、「楽市楽座令」を敷くまでは「無知」で有った事に成る。

(注釈 信長自身は「平家出自の末裔」である事は承知していたと観られる。
それは、同じ「京平家の血筋」を引く家臣の「近江秀郷一門の末裔蒲生氏郷」を、未だ幼い信長の次女を婚約して於いて、嫁がせる等の「特段の扱い」をしたのは、この「京平家の同じ家」の流れの汲んでいた事にあった。)

それは、ただ「天正の時代」にしても、「織田氏分家の信長」には、詳細な“「伝統の継承」が途切れていた事”に在った。
“分家の所以”で有ったのかも知れない。
そもそも、「織田氏」の「出自氏」とされる先祖の「京平家の清盛」は、当に「三権の権威」と「宋貿易」の「二つの利得」を持ち、且つ、その全ての“「権威」”で以って周囲を威圧させた人物でもある。

「信長」自らの「出自の先祖」は、“「惹けら課す事」”の“自らが排除しようとしている考え方”を持った「最大の氏族」であった。
この事すらも放念して居た事に成る。

この時、同じく「賜姓族」として「青木氏」は、隣の伊勢の守護であって、半国割譲した「伊勢北部伊賀」(平氏実家)とは「隣国の付き合い」をしていた間柄でもあった。
「青木氏の商い」の「伊賀和紙の殖産」でも深く繋がっていた。
未だ室町期でも続いていたこの「歴史」さえも忘却していた事に成る。
依って、「以仁王の乱」の時は、「青木氏の跡目」の「京綱」の兄弟の「二名の助命嘆願」にも応じてくれた「氏族」でもある。
その“「家の伝統」“は、「清盛の末孫娘」の「高野新笠」は、「青木氏」の始祖の「施基皇子」の「第三男の白壁王」(光仁天皇)の妻でもあり、縁深き間柄にあった。
そして、「青木氏」と「二足の草鞋策」を採用していた所も同じであり、共に「氏が持つ概念」には極めて「類似性」を持った「縁深き氏族」でもあった。
しかし、「青木氏」には、この「伝統逸話」は「悠久の時」を経ても伝わっているにも関わらず、「織田氏」、取り分け「信長」には「伝統逸話」は伝承されていない知識なのであった。
(分家とはこの様なものであるのかと思い知らされる。)

もしあったとすれば、この様にどの「検証の面」から考えても、「北畠氏壊滅」の為に、「伊勢衆」の「青木氏を攻撃の対象」(内部撹乱)にする根拠はなかったであろう。
結局は、「青木氏」も「信長」も、「北畠氏や伊賀氏や伊藤氏の掃討」に連れては、この“「流れ」”に沿う以外には無かった事に成る。
ここに筆者の“「流れ説」”を採る所以でもある。

しかし、ここでただ一人、「織田側」であった「秀吉」は、伊勢東部に存在した「今宮シンジケート」の一員でもあった「土豪の蜂須賀小六」から、この事を聞いていて承知していたのである。

(注釈 「秀吉」は、若い頃に一時、「山族土豪の蜂須賀小六」の配下で働いた経歴を持つ。
「信長」にも後に「鉄砲入手」と、その「技能傭兵集団の雑賀族」にコンタクトするには、「今宮シンジケートの存在」を教え、この「今宮シンジケート」を通じなければ「鉄砲は入手」は出来ない専売品である事を教えた。
この記録が遺されている。)

この様に、「秀吉」が「信長」に「商い」には「今宮シンジケートの存在」を説明して居る記録がある。
その後に、認知して「楽市楽座令」を発したのであり、初期は、”知らなかった事”に成る。
とすれば、説明して居れば、”「伊勢シンジケートの存在」”をも説明していたとも充分に考えられる。
「秀吉」がもう少しこの事を信長に早く知らしめていれば「伊賀攻め」は変わっていたかも知れない。


「秀吉の青木氏出現」
実は、その証拠と観られる外部記録が在る。
1581年の末当初に「秀吉の紹介」で、「一名の青木氏」なる者が、「信長]に面会している。
1583年に秀吉に合力し、秀吉より1598年に厚遇 この「青木氏」が在る。
これが、この時の「伊勢での経緯」ではないかと推測できる。
これは「青木氏の経緯」(商記録の年譜)とほぼ一致する。

但し、「伊勢青木氏」が、「自らの意志」で、「自らが面談した」とする事では無く、記録も無い。(矛盾1)

これを基に「青木氏側」から検証すると、この”「伊勢攻め」全般に”於いては、“「秀吉執り成し」に依る面談“に依って「本能寺の直前」に解決に向かっていた事に成る。
これが「秀吉−氏郷」の「伊勢の本領安堵」に繋がったのである。
確かにこの時に、「紀州」と「伊賀」等の「旧領地」を受けたが、その後、「徳川氏」(1605年頃)に「青木氏の賜姓五役」(神明社等)などと共に「返納の経緯」を辿った。
この時の談合で、その代わりに、”「家臣扱い」”として「紀州藩初代頼宣」より「扶持米12人分」(1万石弱程度)が付加された事の経緯に成っている。

この”「秀吉執り成し」”とは、「外部記録」では成っているが、これは“「秀吉の搾取偏纂の行為」“であり、「青木氏」には記録はない(矛盾2)。

但し、「青木氏の記録」(下記)では、「伊賀の戦い」後に、「蒲生氏郷」との「数度の談合」によって、”「信長の伊賀査察」“の時に、「蒲生氏郷」と共に面談があった。
ところが、「佐々木氏の別の資料」では、外部記録では「一名」と成ってはいるが、この「二名の青木氏」に成っている(矛盾3)

夫々「越前北庄八万石」(1)と「丸岡四万石」(3)を受けたと成っている。
内一人(1)は「秀吉の家臣」と成るも、これも「1年間の俸禄」(1598年から1600年)と成っている。
この「越前の俸禄」は、1600年に徳川氏(徳川除封禄 巻の一)にて「除封]を受けている。(矛盾4)

この者の身内が家康の側室で後に本多氏の正室に成るとある。(実際は別の丹治氏系青木氏 )(矛盾5)

しかし、「もう一つの青木氏」(3)に付いては、外部記録では触れていない(矛盾6)。


「青木氏の記録」では、この「蒲生氏郷」と共に面談したと成っているのは、この二名(2)(3)である。
これは「佐々木氏記録」(2)(3)と一致する。
外部記録(豊臣家の記録)では、この内の「秀吉の家臣」で「縁者」と記録されている「紀伊守」で「越前北庄の人物の記録」(1)が「青木氏」には全く無い(矛盾7)。

確かに、「没年数」が類似する人物(2)は「青木氏福家」に居た。
これは「豊臣氏のある思惑」を込めた「形式上の内容」ではないかと観られる。
更に、実は、他にも極めてこの「人物(1)」の詐称には矛盾が多い。

何故ならば、「人物(1)」の与えられた「官職」は、確かに「紀伊守」であって、この地は、実際は「伊勢の乱」での「北畠氏の領地」で在る。
つまり、「北畠氏の南紀州」であった。

ここは、現実に明治期まで「青木氏」が「大地主」で有って、後に「紀州徳川氏」からも認知されていた。
確かに、「秀吉」に依って「伊勢の地」を「本領安堵」されたが、この「二つの地」は平安期までは「青木氏の旧領地」でもあり、「青木氏の家人」が「和紙殖産」の為に奈良期から元々代々住み続けていた土地柄でもあった。

この「南伊勢 南紀州」の地は、「青木氏」では、“「遠祖地」”と呼ばれていた土地でもあって、歴史上は、奈良期と平安期と鎌倉期の三期に伊勢を三分割したもので、平安期中期から朝廷から「半国割譲された土地」でもあった。
(日本書紀にも明記)
この「旧領地の遠祖地」も確かに「秀吉」に依って「本領安堵」されたのである。

この「人物(1)」には、この「紀伊守の官職」を与えて、「北庄藩」を与えたとする「豊臣家の記録」にある。

しかし、これには疑問がある。
その与えた時期は、1598年とあるが、この地が「豊臣家の領地」と成った「賤ケ岳の戦い」は1583年である。
与えたとしても少なくとも、1584年には与えている筈で、それも、15年後の豊臣政権の晩年5年前の「混乱時期」でもある。(矛盾8)。

更には、その2年後の1600年には、この「俸禄知行」は、たったまる1年で「徳川氏」に除封されて終わっている。
つまりは、其れも「1年限りの俸禄」であり現実にはあり得ない。(矛盾9)

仮に「人物(2)」が受けたとしても、この「秀吉の家臣」と成ったとされる「青木氏」(佐々木氏記録の1と2)には、「八万石」や「四万石」ものそれを維持する「武力」と「家臣」を元より持ち合わせていない。
無理なことである事ははっきり判る。(矛盾10)

況してや、「豊臣家の記録」には、「何処の青木氏」であるかも記されていない。(矛盾11)

この時期の「青木氏の出自」は明確である。

青木氏は、「悠久の歴史」を持っている「氏族」で、「姓族」の様に急に勃興して来た「姓」ではない。
現に、「伊勢」で戦っていたのである。
“何処の青木氏か判らない“と云う事は絶対に無い。

そこで、この「室町期の時期」では、「秀吉」と関係を持てたとする「青木氏」ともなれば、「伊勢の二氏」の 「二つの青木氏」と「信濃、甲斐、讃岐」の「三氏の青木氏」に限られる。

そこで、上記の「紀伊と伊賀」ともなれば、「紀伊」と「伊賀」に土地を持ち、本領安堵された「伊勢の二氏 青木氏」以外には無い事に成る。

「近江と美濃」は滅亡していて、「近江」は傍系が摂津で農業、美濃は、完全滅亡の体の状況にあったし、「他の秀郷流青木氏の116氏」は、伊勢を除いてはその対象とは成らない。
つまり、「豊臣家」が遺したとされるその地理的範囲を超えていてその対象にはならない。

「丹治氏系青木氏」が確かにあり、「信濃国衆」と成るが、関ヶ原で「徳川氏」に味方して摂津に1万石が与えられている。

「紀伊守」とする「秀吉の家臣」とされる「人物(1)」は、西軍に味方して除封を受けているので、摂津藩と成った「丹治氏系」では無い。
この様にこの「人物(1)」の「青木氏の出自」が明確に成らない。(矛盾12)

何故ならば、秀吉は、「自らの家筋」をよく見せる為に次ぎの様な搾取をしている。

この「紀伊守とする人物(1)」は、「豊臣家の記録」では「養父の竹阿弥」の「遠縁の青木氏」として記録されている。
そして、「従兄弟」であるとしていて”「偽系譜」”を作り上げている事に成る。

(実はこの事は、全くの無根拠ではないのである。下記)

「青木氏」と云う「賜姓族」の“「出自の権威」”を利用したのであろう。

この事を理由に、「豊臣家」が作り出した記録に依れば、次ぎの様に成る。
1578年頃に「秀吉の家臣」と成ったとしている。
1583年頃に勲功を挙げたとしている。
1587年頃に突然に引き揚げて、突然に「従五位上左衛門佐」とした事に成っている。

以上とする3記録が豊臣家に遺されている。

この事もおかしい。この3つに付いて検証する。

そもそも、「出自」も判らない人物に、「朝廷の格式式目」の定めでは、この「官位」は絶対に受けられる「官位」では無い。(矛盾13)

出自格式が良くても、最高でも、「従五位下」が与えられる最高官位であり,官職は「右衛門下尉」が限界と成る。(矛盾14)

「国家的勲功」が在り、その「勲功」を以って次第に「格式」が高められる様に厳しく定められいる。
その「身分」に依って「限界の格式」が定められている。
その「勲功」も「五段階」に定められていて、一足飛びに得られるものでは無い。(矛盾15)

(参考 「青木氏の守護神と神明社−4」と「古書 類聚三代格等参照」)

(注釈 因みに、「徳川家康」は、幕府を開くに必要とした官位官職が足りなく、天皇家に食事も出来ない位に貧させ圧力を掛けてやっと無理やりに「公家身分」より低い「従五位下」と、「武家の棟梁」(「武門之棟梁」)の呼称も与えずに、過去にあった「源氏長者」と云う身分を引用し作り出して「征夷大将軍」に成り得る格式がやっと与えられた経緯があった位である。)

それが、「氏素性」「出自」のはっきりしない「行きずり者」には、先ず「官位官職」はあり得ない。(矛盾16)

しかし、現実に記録されている事から、少なくとも、“「永代の官位官職を持つ青木氏」”でなくては無理な事に成るのである。
だとすると、「伊勢の二つの青木氏」と「信濃青木氏」の三氏に限られる。
「紀州」と「伊賀」と云う事から観ると、明らかに「伊勢の二つの青木氏」と成る。

しかし、「伊勢の二つの青木氏」か「信濃青木氏」には、永代の「浄大一位 正二位左衛門上佐」と「従四位上左衛門上佐」の家柄であり、既に「永代の官位」を持っている。
大きなあり得ない[矛盾」である。

この官位は、そもそも、本来”「宗家筋」”に与えられるもので、「分家筋」の他の地域の青木氏には与えられるものでは無い。
全く突然に受けられる立場には元来ない。
況して、「伊勢の乱」の後ともなれば、“「青木氏」”としては、「伊勢の二つの青木氏」以外には、「豊臣家の記録」を確定するに類する氏は無い。
然し、この事を完全に証明する記録は「二つの青木氏」側にはない。(矛盾17)

この事から、「豊臣家の家筋」を挙げる為に、それに見合う様に、画策した事に成る。
第一には、「形式上の官位官職」を作り上げた事
第二には、「形式上の藩主」とした事
第三には、「形式上の俸禄」として作り上げた事
第四には、「身内に家臣一人を仕立てた事

以上の矛盾だらけの「4つの事」で、「豊臣家」の中で「搾取偏纂の記録」としたものと観られる。

この「4つの事」で先ずは“権威づけた”と観られる。

そして、この「4つの事」に見合う類似する青木氏の「人物(2)」を、“家臣一人に仕立て上げた”事に成る。


「青木氏側の記録」との差は、”「形式上」”に作り上げられた「藩主」と「俸禄」と「竹阿弥」と「官位」と「官職」だけで偽飾したのである。
後は類似し、時期も伊勢の1565年頃から1600年までの事としての5年の範囲にあるに収めたのである。

“「繋ぎ」”による“「竹阿弥」”を除けば、四つ共に「青木氏の記録」に対する“「誇張」の範囲”で記録されている事に成る。
「藩主」は「伊勢衆」、「俸禄」は「大地主」、「官位」は「永代官位」、「官職」は「紀州伊賀の旧領地」から誇張したものである事に成る。


これで、矛盾は解ける。

さて、そこで、“「繋ぎ」の「竹阿弥」”の“「能楽師」”に付いては、ある意味を持っている。
上記した様に、「能楽」「猿楽」等の「楽師」は、古来より「公家」や「賜姓族」の「ステイタス」の趣向であった事から、”「直接の血筋」”とは云わずとも、“「遠縁」”として印象付けたのである。

つまり、“遠からずとも縁筋”に当たる事があったろうとしたのである。(矛盾18)

現実に、“遠からずとも縁筋”に当たると搾取した記録が、「二つの青木氏側」には確かに遺されている。

それは、「秀郷一門の末裔」で、近江の「蒲生左衛門佐大夫高郷」の末男の「青木玄審允梵純」(1548年頃で、母は伊勢青木氏)が居た。
この末裔で、「青木忠左衛門忠英」(松平氏扶助)なる者は、元は「猿楽」の「春藤源七郎」の弟子で、その「技」を学び、それを以って、一派を率いたと記録されている。

(「春藤氏」は「公家衆御馳走能組番」で「公家等の階層」の者に「能楽」を教える「楽師役職番」であった。)

この伝承の一派は、「伊勢秀郷流青木氏の末裔」が代々引き継いで、中には江戸時代の「四代将軍綱吉」に召し出され、「御廊下番」(百五十表)として正式に「徳川幕府の楽師指導方」と成った家柄でもある。

その意味で、「秀吉の養父」の“「楽師の竹阿弥」”が、「青木氏と遠縁」とする根拠は無いではない。
この経緯を利用したのである。

要するに、民衆を信用させる為に必要な信用させられる”「繋ぎ」”を作り上げたのである。


(注釈 伊勢の「青木長兵衛の四家」も「能楽」を古来より「賜姓族」として嗜む伝統があった。)

つまり、二人目の「伊勢秀郷流の青木伊賀守忠元」とする「青木玄審允梵純」の子の人物が、「秀吉家臣説」に利用された根拠は、ここにあるのである。


実は、「伊勢秀郷流青木氏」の「青木忠元」は、「蒲生左衛門佐大夫高郷」の末男の「青木玄審允梵純」(伊勢)の子である。
更に、その「二代後の末裔」で「青木忠左衛門忠英」は、代々青木氏の「楽師の指導方とその才」を以って、遂には「楽師の師匠」として「徳川氏の正式な楽師指導方」に成った経緯を持っていたのである。
この事を利用して、「秀吉」は、“養父の「竹阿弥」“と結び付けたのである。

これで「二人(紀伊守と伊賀守)」を形式上は「家臣」に仕立て、「紀伊守」と「伊賀守」を結び付ける事で「秀吉」が「青木氏との関わり」を搾取偏纂したのである。

この「身内の者」か「家来」か「青木氏」に仕立て上げられた者の一族が、伊予と讃岐と土佐の西国境に「ある村」(匿名)を与えて住まわせていた事が判って居る。
この者の一族は、その後の「徳川氏の除封」作業で、この「青木の土地」が没収されて、「青木の地名」と共にその後、一族は行方は判ら無く成っている。

恐らくは、「北の庄」は豊臣家の所領でダミーとして扱い、この「青木氏」を名乗らせた者には、実際は四国の伊予土佐の国境の西山間部に小さい村を与えて一族を住まわせていた事に成る。

結局は、「秀吉」は、伊勢の「青木氏の本領安堵」の時の状況に合わせて、「誇張」はするも、「類似性」を持っている事から、これをチャンスに乗じて間違いなく「豊臣家の権威付け」をしたと観られる。

以上の様に、“誇張に依る「豊臣家の記録」”である事から、「徳川除封禄」では、正式に関ヶ原の1600年の「除封」と云う形で、「徳川氏の力」で、「1年後」に明確にこの搾取の記録を抹消しているのだ。

そこで、この二人に類するものを「青木氏系譜」から追ってみると、“「紀伊守」”とする者の幾つかの俗名に関する対象者はない。
「俗名」は異なるが、「没年数と月と死因」が大体一致する者が、四家の中に現実に一人存在する。

上記 「青木氏の記録」の模擬にされた人物は、「信秀」、或は「信定」である。

記録の「中心人物」(1)の為に、“「後付」”で出自の無いこの「人物(1)」を正当化させる為に、その良く似た出自を、間違えての搾取偏纂で、後付で“「一矩」“に変えたと観られる。

ところが、ここで、又、「決定的な間違いの矛盾」を起こしたのである。

そもそも、この“「一矩」の名”は、「徳川氏」に味方して「家臣」に成り、その勲功で同時期に「摂津麻田藩」を与えられた「丹治氏系青木氏」の通名である。
本人の有形無形は別として、”豊臣に味方した”として、実際に徳川氏より除封された人物である事から、出自を明確にし良く見せる為に行った「後付」である事が明白である。

名前と出自を偽作する為に、”「豊臣家に味方」”と”「徳川氏に味方」”のとんでも無い間違いを起こしたのである。

注釈 「秀吉」が付けた「元々の俗名」は、別資料から「青木秀以(ひでもち)」である。

「伊勢青木氏」の「信定人物(2)」の最初の俗名「信秀」の「秀」を使って「類似の秀以」としたのではないかと観られる。
「秀吉」の“「秀」“を使ったとする説もある。

しかし、兎も角も、”「秀」“を使われた事から、伊勢の「青木氏側」では、”「秀吉の青木氏」“を否定する形を採る為にも、”「信秀」“から”「信定」“と改めたと観られる。

と云う事は、「秀吉の記録」時には、当初は、この「人物の俗名」が、はっきりとした記載には無かった事にも成る。
10もある名なので、何れが本当か判らなかった事に成る。

(注釈 本当は判っていたが、「一矩」とした通説化を謀った人物が、この「秀以の情報」を持っていなかった。)

依って、「一矩」にして、信憑性を高める為に、「麻田藩の丹治氏系青木氏」の「通名」を「後付」で付けた事に成る。(矛盾19)
 
(注釈 実は、この人物には「後付」と観られ俗名が何と10もある。詳細下記。これこそが搾取偏纂が行われた証拠である。)

そもそも、「嵯峨期詔勅」に依って、一般は「青木氏」を名乗る事は禁じられていた。
然し、この“「秀吉の青木氏」”の名は、出自が明確でなかった事から、この名を使って名乗る事は可能であった。
この事は「江戸寛政期の歴史書」にも記載されている。
各地で家柄身分をよく見せる為に江戸期と明治期に名乗った「第三の青木氏」と云われるものである。

「各地の郷土史」は、これを記載する事で「土地の知名度」と「歴史性」を上げる事と成る。
従って、この“青木氏の子孫だ”とする形で「俗名」が増えたと観られる。

更に、「秀郷流伊勢青木氏」の中に、「伊賀守」とする者の「俗名の類似」と「没年数に近い者」が矢張り一人存在する。

上記の「青木忠元」であるが、上記の“「竹阿弥」”を通じて「青木氏」との「繋ぎの役目」の為に其の侭に使用したと観られる。

この事から読み取れる事は、「伊勢青木氏の本領安堵の条件」に、“「豊臣家のこの搾取偏纂」を容認する事“が付加されていた事を物語る。

つまり、別に本領とする地外に、「南伊勢から南紀州の地」と「伊賀の地」の「旧領の本領安堵」した事を根拠に、「豊臣家」の為に「本領安堵の付加した土地」を「紀伊守」と「伊賀守」として、先ず、誇張して「権威づけた」のである。
ただ、この二名の内の「紀伊守(1)とする「伊勢青木氏の末裔子孫」が、奈良期からの“「福井の青木氏の逃避地」に移動した”とする記録が、後に付加されてある。

現実に、この「青木氏の子孫」が福井に現存し、「商い」を営んだとする記録が確かに青木氏側にもあり、末裔も現存する。

これには、「除封」にて、”福井に逃げ込んだとする説“と、”「氏是」を無視したと云う批判説”とが確かにある。
しかし、更に研究調査を進めた結果、実際には、上記した“「豊臣の記録の範囲」”であり、「青木氏側」では、「豊臣家の知行」を実際に受けていないし、「除封」の5年後にこの本人(信定)は病死にて紀州新宮で没している。(矛盾20)

上記した「室町期の紙文化」で「巨万の富」を得ていて、250万石以上とも云える「商財」を築き、且つ、「伊勢、紀州の大地主」(家人が奈良期から定住)にあって、「豊臣家の記録」が“「誘い」“であったとしても、”「誘い」“に乗る者は「青木氏」には居なかった筈である。
むしろ、この“「誘い」”が「青木氏」に「利得」と働くは、論外であって、「賜姓族」「御師様・氏上様」として「悠久の民からの信頼」を失い、「青木氏の悠久の氏是」がある中で、何れの事からも「全くの不利益」と成ろう。
そんな「愚者」は、そもそも“「四家制度」”の中に存在し得ない。
それが「四家制度の所以」の一つでもある。(矛盾21)

「四家福家の批判説」によると、この者が「福井移動説」の元となった。この元福家が福井に移動して商い(酒造業)をしたと観られる。
この者が「後付」で「出自の明確化」の為に利用されたのである。


故に、「出自」が出せない者で、除封された者の娘を「家康の側室」(蓮華院)にし、後に「本多氏の正妻」にするかの疑問が遺る。(矛盾22)

この様に、矛盾が22にも上り、可成りにして「通説化した説」には無理な無茶が目立つ。

「秀吉」は始めからの「家柄や権威の獲得」の為に、「伊勢青木氏」に関わるかの様な人物を家臣の中に作り出し、それに「伊勢の本領安堵」の時の処理に乗じて、似せて誇張させて「記録」で演じた事に成る。
その「搾取の人物の娘」を、秀吉から家康は政略的に側室として、後に家臣の本多氏に下げ渡したとする説にした事に成るだろう。
しかし、この娘は別ルートの「麻田藩の丹治氏系青木氏の娘」である。人質である。

故に、それに合わせる為に、俗名を「秀以」から丹治氏系の通名の「一矩」に変えたと観られる。(矛盾23)

そもそも、この「秀吉の家臣説」の「類似する人物」は、「二つの伊勢青木氏」には存在はするが、“この人物に似せた青木氏”を作り出した事に成る。
ただ、それが、“搾取偏纂した事に依る「無茶な矛盾」が、余りにも出てしまった”と云う事である。

「秀吉」自信が、初め、“この事に「青木氏」が載ると観ていた”と考える方がおかしく、“「青木氏の権威」“を主張するのであれば、”「青木氏の出自」“が最も大事であり、記録に”不明である事”にした事は、元々、秀吉は、“この事に青木氏は応じる”と観ていなかった事に成る。

「二つの伊勢青木氏」は、「四家の人物」を、“「家臣」とする事“には、「青木氏氏是」で応じなかった事に成る。
従って、「搾取偏纂の結末」として、説明の就かない「大矛盾の結果」が起こった。

故に、「徳川氏」もこの事を事前に充分に承知していて、速やかに1年後に「除封処置」を講じたのである。
そして、“如何にも血縁づけたかの様に見せかけた「娘」”も、その手には載らないとして速やかに本多氏に“下げ渡した”のである。

(注釈 「秀吉信望の歴史家」は、「福井逃避説」(下記 矛盾24)と同じく、「通説化」を是認する様に、別の「娘の偽工作話」を作り上げている。)

ただ、“世に晒す事無かれ、何れ一利無し“の「氏是」から、”前代未聞の事“であった為に、”豊臣家に乗じられた“とする”一族からの批判“が、「青木氏年譜」(商譜)でも、確かに「騒ぎ」が起こっている事でも判るであろう。
「伊勢青木氏」に執っては、この事態は止むを得ない仕儀ではあるが、この始末をした「福家の末裔」(信定)にしてみれば、「一族の非難」から、“福井に追いやられた”として受け取っている可能性は充分にある事も考えられる。
この“「隙」“に乗じられたものである。

これは、現実には、資料より「四家制度」にて、病死にて、制度上、上記した「四家の入れ替わり」が起こった。
この「利用された青木氏の人物 (信定」」は、「福家の人物」であったが、この「福家の家族」が、「福井への営業所に人事異動した事」が起こったのであった。
この人事に関する「添書書きの記録」は特段無いが、一族から“秀吉に乗じられた事への非難”から、遠ざけて「非難」から避けさせる為に配慮した事であったのであろう。(後付説の矛盾24)

この「歴史家の後付」と観られるこの「福井などへの逃避説」は、一部の歴史家の「豊臣家記録」を恣意的に肯定する為に乗じられた事に依る。
且つ、通説化する為に仕掛けられた搾取偏纂のものであると観られる。

(秀吉母の出自も信じられな程の脚色搾取偏纂が目立つ事例と同じ偏纂。)(外説 矛盾25)
これを「逃避説」にすり替える事で、より「家臣説」に深意性を仕立てて正当化しょうとした「後付の論調」と観られる。

(注釈 この説を読んだ「福井の青木氏末裔」、つまりは、「四家の福家の伊勢青木氏の末裔」が、この「後付説」を読んで「口伝」していたと観られる。
「福井定住」のこの末裔子孫は、「避難説の口伝」に成っている事を承知している。)

そもそも、この「福井逃避説」を「後付」するには、この“「福井」”と云う地が、“「青木氏の奈良期からの逃避場所」”であった事を歴史的に知っている者でなければ、作り出せない「後付説」である。(歴史家)

この関ヶ原後の「逃避場所」を、“「福井」”と云う場所に持ち込めば、「秀吉家臣説の人物(1)」をより「真実化」させられる。
“如何にも「伊勢青木氏」であるかの様に見せかけられる”として、「搾取偏纂」し「通説化」を謀ろうとしたと観られる。
「後付説」を脚色した人物は、ある程度の知識の歴史家であった事が云える。

ところが、「青木氏側の記録」では、上記の様に明確に成っている。
この「豊臣家」が記録する人物は、「伊勢青木氏等」に存在しない。
且つ、「避難」では無く、「後付」で「乗じられた人物」の家族に付いては、“「四家人事の移動」”と成っている。

豊臣政権崩壊後(下記 「青木氏年譜」 1619年)に、「紀州徳川氏の頼宣」と「家康」は、「青木氏の役務返納」(全国神明社や密教寺等の私財の返納事 縁籍問題等)に付いて、初期には家康と、後期には“「伊勢松阪での頼宣との交渉」“を行った事が記録されている。
この時に合わせて、「伊勢伊賀の本領の認知(大地主と村主)」と合わせて、上記の「除封分に相当する知行分」として、「特別扶持米12人分」と「南紀州の遠祖地」(計1万石弱相当程度)を付加した記録が遺されている。

(注釈 平安時の「旧領や遠祖地」も含めて「本領安堵」された「青木氏」は、その結果を以って次ぎに「伊勢青木氏」は、「伊勢シンジケート」を構成する「元伊勢衆」の「旧領地の地権」も認めて安堵して「平時の状態」に戻したとある。
もう一人「人物(3)」の「伊勢秀郷流青木氏」(伊賀守 :忠元)の方は、その後、「御家人」と成って、“「立葵紋の青木氏」”として紀州藩に代々仕えた。
この事に付いての詳細は、「青木氏の分布と子孫力の−5、16」等を参照の事。)

もし、豊臣家が記録する“「秀吉の青木氏二氏」“であるとするならば、「除封」も受けている事から、「紀州徳川氏の家臣」には成り得ない。
そして、況して、“「立葵紋の青木氏」”は到底にあり得ない事に成る。

通説化には一般には騙せても、歴史の有知識のある者には隠しても隠せない余りにも無理で多くの「論理矛盾」を起こしている。

(注釈 下記に論じるが、「紀州藩の家臣」は、「伊勢秀郷流青木氏」等を始めとして「伊勢藤氏」と呼ばれる「秀郷一門」をベースにして“「藤氏家臣団」”を「頼宣」は構築した。
そして、この事が「将軍家の嫉妬」に合い「在らぬ謀反説」で大変な事に成った有名な事件に成った位の事である。)

この事でも、「二名の青木氏」(紀州守と伊賀守)が記載されているにも関わらず、「豊臣家の記録」では、「紀伊守の人物」(1 :一矩)だけと成っている。
上記の様な「徳川氏の紀州藩の処置」から観ても、「秀吉家臣説」であればあり得ない事である。

現実には、二名で在り、[豊臣家の記録]に矛盾する。 
もう一人(3)の家臣説から観ても矛盾である。(矛盾25)

明らかに、“「伊勢の本領安堵」の時に、二名が乗じられた事である。
その経緯は次ぎの様に成るだろう。

「搾取偏纂の経緯」 
「秀吉」は、「二名」を家臣化して置いて、内一名(1)を縁籍化した形で家臣の中にその人物を作り上げた。
この「人物の出自」を「伊勢青木氏」から得られず、「出自不明の架空の青木氏」を、それに見合う「権威の誇張」を付帯して作り上げた上で記録化した。
ここまでは「秀吉の功罪」である。(矛盾23まで)

そこで、この「豊臣方の青木氏の人物(1)の娘」とする者を「徳川氏の側室」にした。
この側室は「梅殿」と呼ばれ、「蓮華院」と称したが、この「娘の出自」は、「丹治氏系青木氏」が、人質として差し出した「麻田藩丹治氏系青木氏の娘」である記録がある。
全く違う氏の「徳川方の青木氏」である。

ここからが、通説化為の秀吉信望の歴史家の「後付の説」の矛盾に成る。

ここで、「豊臣家の記録」に“「説明の就かない後付大矛盾」”が生まれたのである。

(A)この人物は「豊臣家の家臣」で、「越前北庄八万石大名」で、「徳川氏から除封」とされている。
(B)この「丹治氏系青木氏」は、逆に、「徳川氏の家臣」で「摂津麻田藩一万石大名」で「徳川氏から俸禄」と成っている。

明らかに史実が混同している。この「矛盾」は、最早、秀吉には問題はない。
明らかに「後付の通説化」を謀った時の「歴史家の矛盾」であり、「福井逃避説」と共に、「故意的な矛盾」と観られる。

この「人物の疑義」には、他に、上記した様に、“「俗名」”が沢山使われている事である。(矛盾26)

本名 −「秀以」、

麻田ルーツの偽名類  ー (一矩、一興、重治、重正)、
通名ルーツの偽名類  ー (勘兵衛、源右衛門)、
俗称ルーツの偽名類  ー (平輔、磨太)、

以上等がある。

前者の「秀以」がこの人物の本当の「俗名」で秀吉の搾取偏纂の結果である人名である。

先ず、次ぎの様に成る。
麻田ルーツの二つ目から五つ目までの四つは、「丹治氏系青木氏」(麻田藩)が使っている「通名」の「混同名」
その後の通名ルーツの二つは、「搾取名」と呼ばれるものである。
その後俗称ルーツの二つは、「騙名」(かたりな)と呼ばれるものである。

以上に分けられるのである。

後ろ四つは、「家柄」をよく見せようとして、非常に良く使われた「江戸初期」か「明治初期」の「騙りの名」の部類で論外である。

この二つの時期には、公然と「搾取偏纂」が行われた。

むしろ、幕府は黙認するどころか、武士と成った者は「権威」を持たない「立身出世の姓氏」である事から、「武士の権威付け」の為に、「知行俸禄」を定める「黒印状」を出す事を前提として、この「偏纂」を半強制した経緯があった。

従って、他にもこの「人物」に群がる様に「騙名」や「偽系譜等」が使われている。

この人物として見せかけて使ったのであるが、少なくとも「自らの出自」を「丹治系青木氏」と、この「秀吉の青木氏」に搾取した事は明らかである。

(注釈 江戸期の寛政、寛永期に書かれた「二つの資料」に記載されている「第三青木氏」と呼ばれる「青木氏」は、この「秀吉の青木氏」と、「麻田藩の藩主」と成った「丹治氏系青木氏」の「二つの出自」が多い。
中に酷いのが有って、この二つに、更に「秀郷流青木氏」と「藤原氏」と「皇族賜姓族青木氏」(二家分)に「江戸期の官位官職」を付けてのやりたい放題の「4つを組み合わせた青木氏」が「地方史書」(下記)に観られる。
その「地方史書」も流石、気が引けたか「注意の特記」をしているものもある。
これらの多くは、室町期以降には、取り分け江戸初期には「神社や寺社の秘密の副業」であった。)

「歴史観のある人」でも、判別が就かないほどに極めて多く酷似するのが、この「騙名」で、これも何れかに矛盾が出る。
この様に「秀吉の青木氏」には「搾取偏纂の俗名」も然ること乍ら“「騙名」”まで使われている。(外 矛盾27)

その「矛盾」の代表は宗派である。
宗派は長い慣習と仕来りと掟があり、「密教と顕教の違い」があり、「密教」でも「古代密教」と「平安密教」の違いがあり、顕教でも大乗仏教との違いもある事からその出自で判る。
「氏族」と「姓族」からでも、判別が可能で有る。
この宗派だけは明治以前では絶対に搾取出来ない。

この「二つの青木氏」であれば、確実に「古代密教」の「浄土宗密教」である。
しかし、一名(人物 1)の者は「浄土真宗」としている。
明らかに「後付の矛盾」である。(矛盾 28)

実は、室町期までは、未だ、「浄土宗」に入信するには、ある「特定の氏」しか入信出来なかった。
「出自分け」していた事から、認めて貰えない「仕来り」であった。
要するに、そもそも、「密教」を前提とし、その氏で寺を独自に自主運営していたのである。

従って、部外者や氏の宗家本家の「認定保障」の無い者には、自らの宗派と出来ない仕組みであった。
この「仕来り」が、江戸初期に密教の禁止令があって、全て「顕教」と成ったが、表向きは別として、依然として「氏族」と「高級武家」は、この慣習を護った。
従って、況して、「出自」もはっきりしないし、「青木氏の保障」が無ければ信徒には成れない仕組みであった。

従って、この氏(「人物 (1)」)が「浄土宗」を宗派とする事は出来なかったのである。
“出来なかったと云う事“は、「伊勢青木氏の出自」と出来なかった事を意味するのである。
つまり、「伊勢青木氏の出自」と認められれば、当時の「宗教社会」は、それを基に「浄土宗」に入信出来る仕組みであった。
つまり、「氏家制度の本家」の「意向の仕来りの所以」である。
平安期−鎌倉期−室町期から江戸期まで「氏家制度中心の社会」であった。

この事は、況や、「伊勢青木氏」は認めなかった事を意味する事に成るのである。

「二つの青木氏」の「361氏」に繋がる者として保障されれば、「浄土宗」に入信できる仕組み、況や「密教」であった。
これが、「氏家制度の所以」なのである。

新しく独立して家を興す末裔は、都度出るが、「宗家本家筋」に認めて貰えれば、その氏の一族一門が運営する菩提寺の「達親」と認められる仕組みであった。
認めて貰えなければ「宗派」のみならず「家紋」も「定住地」も定まらない事になる仕組みである。

この「二つの青木氏」には、奈良期から「青木氏が定住する地域」には「ある菩提寺名」で「青木氏の専用の寺」が建立されていた。(寺名は秘匿とする)
「寺名」が正規に伝承されていて達親族であれば「青木氏」を証明される事に成る。

(注釈 しかし、この仕組みの「密教の浄土宗」は、家康に依って江戸初期に解除され、「密教性の排除」を目的として禁令を発した。
但し、表向きは完全に解除したが、実態は、秀郷一門等の御家人や高級家臣団の事もあって、「高級武家」等が任意に入信出来る「顕教」で「檀家方式で運営する浄土宗」とした。
「一つの寺」に「幾つもの氏姓の檀家」が入る方式としたのである。)

これ以外は、「顕教の浄土真宗」に入信するか、庶民が自由に入信し得る日蓮宗などの宗派に入る事に成るのである。
従って、殆どの武士は真宗に入信しているのであり、下級武士は日蓮宗に、大きな末裔を持たない公家などは、結局、「顕教的密教」を標榜する「天台宗」か「真言宗」に入信する事に成ったのである。(前段の「伝統10」を参照)

この事からも、この「宗派の事」だけは変えられない事から「矛盾」は露出しているのである。

後は、その「偽名」が使われている経緯から、本人外が行った完全な「搾取偏纂の騙名」であると観られるので論外に成るのである。

この「人物(1)」に、これだけの「騙り」が起こる事は、この「人物の出自」が無い事の「架空」から起こっているものであり、全体としても「豊臣家の搾取偏纂」である事を物語る事でもある。

ここでも、この「人物の名」でも“(A)と(B)を強引に結び付けた「後付け矛盾」”が生まれているのである。

(注釈 「丹治氏系青木氏」は、「徳川方」に着き、その功で、「摂津麻田藩1万石」を受けていて、「別系の青木氏」である。
この「青木氏」は、武蔵の土豪集団の連合体の「武蔵七党」の「丹党」から出た「丹治氏」が、平安期に罪を得て朝廷より関東に配流された「丹治彦王」が、「現地の土豪」との間に生まれた「配流孫」だとしている。
「嵯峨期の詔勅」に従い、遅れて「室町期」に名乗りを上げた者で、立身出世を夢見て、一時、「信濃の国衆」と成り、その後、甲斐、美濃を経て、関ヶ原の戦いに参戦、関東武蔵を里としている為に、「徳川方」に味方して「摂津麻田」に「領地1万石」を家康より受ける。
弟に4000石を分けて「武蔵丹治氏系青木氏」と共に「三流の流れ」を作る。
この「磨田藩支流の弟系」には、上記した「秀吉の青木氏」の「伊予土佐の国境」の「青木の村」をこの磨田藩支流に後に下げ渡された。
この「丹治氏系青木氏」が「通名」として、「重、一、矩」が使われている。)

然し乍ら、「搾取人物策」を用いた「豊臣家」は、斯くの如しで「権威」を作り上げようとして、後勘から観ると、矛盾(28)だらけだ。

然し、ところが、反面、同じ「権威の持たない土豪」であった「松平氏・徳川氏」はその対応が異なった。
下記の「青木氏の年譜」にもある様に、既に1605年頃から、数度に渡り「青木氏」と談合していた様で在る。
1620年頃の後には、正式な「勝姫との政略血縁」(立葵紋青木氏)を以って「吊り合いの取れた縁続き」とした。
「正式な権威の獲得」を「青木氏」と成し得たものである。

この後、「伊勢の青木氏」(青木長兵衛 福家)は、この「知行付加」(家臣外の知行)を以って、「紙屋長兵衛の商いのノウハウ」を「紀州藩」と「将軍吉宗」に提供した。
そして、江戸初期から末期まで家臣では無かったが、「紀州藩の勘定指導方の役目」を務めた。
「初代頼宣の時」、「吉宗の時」、「江戸末期の時」の三期には、直接に人を送り出し、実務の「勘定方」を務めた。
「吉宗将軍時」には、「吉宗育親」として、「福家の長男六兵衛」は共に育った経緯から、江戸にも向行して「布衣着用の立場」(直接将軍に面談出来る「大名扱い」)で「享保の改革」を主導した。
この事からも、「徳川氏」は、この“「青木氏との向後の付き合い」“から観て、上記の「秀吉の搾取偏纂」を充分に承知していた事を物語るものである。


では、何故この様な「流れ」に成ったかと云う事であるが、それは次ぎの様な重大な事象が起こったからである。

(注釈 実は、上記の“「今宮神社」“には、「大きな意味」を持っていて、平安初期に「疫病平癒祈願の神社」として各地に創建されたが、「室町期の戦乱」に巻き込まれ衰退し荒廃した。
その為に生き延びる糧として、「全国の社の組織」を使って「シンジケート」を構築して生き延びた。
この事を知っていて政権獲得の時に、この「今宮シンジケート」の世話になった秀吉は、豊臣政権下に、この全国の「今宮神社の再建」を果たし、京に再び「総社本殿」を創建し保護した事は有名である。
そして、その更には「末社」としても、更に、”「若宮神社」“を全国の「天皇家の所縁の地」に創建して、”「皇族者の下族の保護地」“を名目に構築し強化した経緯を持っている。
この時の「今宮神社」は、「秀吉の権勢」を背景に相当な「社勢」を誇った事は有名である。)

(注釈 中部以西で、社勢を示す様に「今宮神社と若宮神社」は有名である。)

これは、「青木氏」の「500社に近い神明社組織」を使った「伊勢シンジケート」の「諜報活動」等に習って、秀吉は「今宮神社−若宮神社の組織」を構築して「諜報活動」の拠点ともしたのである。
この事は、「シンジケートの力」がどれだけのものであるかを「秀吉」は、「青木氏の事」でも「今宮シンジケート」の事でも、承知していた事を示すものである。
その「伊勢シンジケート」を「青木氏」が持ち、有効活用して「自分以上の陰の勢力」をも持っている事を承知して居た事を示すものである。
この事からも、この「秀吉の家臣云々の記録」は、“「矛盾の塊」の様であり、勝手なもので有る事を、秀吉自身が充分に承知していた事“を物語るものであるが判る。

参考として、 実は、「信長−秀吉」の「家臣」と「美濃・尾張」と云うキーワードから研究すると、次ぎの様な資料が「新編美濃志」の記録にある。
真偽は別として、この記録によると、美濃に「青木刑部卿法印浄憲」、或は、 「加賀右衛門尉藤原直重」なる人物が居て、「美濃安八郡青木村」に住し、土岐氏―斉藤氏―信長―秀吉に仕え、大阪城にて戦死したとある。
しかし、 この系譜には、“「出自」が混在し、「時代性」の矛盾がある”としているので、「江戸期の史書の青木氏」とは「異流の青木氏」と記されている。

これから観ると、「官位官職の持てない僧侶」や、「賜姓族の村」や、滅亡した「美濃土岐氏系青木氏」や、あり得ない「美濃の秀郷流青木氏」の末裔や、「北家筋の京藤原氏」や、室町期と江戸期にはあり得ない「二つの官位官職」等、を混合して組み合わせた「青木氏」を作り上げたと観られる。
「秀吉の青木氏の人物」に似せてはいるが別である。
この記録の真偽は「美濃志」そのものが云う様に“疑問”である。
混在が起こる「時代性経緯」から、この郷土史は江戸期初期に偏纂されたもので、この上記した所謂、「秀吉の青木氏」に類似させて家柄をよく見せる為に「偽書と系譜」を作り上げたものである。

上記した様に、各地の郷土史には、この様な「騙名」の様に「系譜」にも「偽譜」が起こっているのである。
「美濃志」が、これだけの「矛盾」が在るのに、“良く載せたものだ”と「地方史書」そのものにも驚くがこれが現実なのである。
それだけに地方に「歴史の所縁」を作りたかったのであろう。

この地方史や郷土史の編集期の江戸末期にも、これは”「氏家の家柄搾取」”から”「地域の地柄搾取」”も起こって居た事を示す事例である。

(注釈 「青木氏」と「同族血縁族の近江佐々木氏」の「傍系末裔の黒田氏」も、元は「近江佐々木氏の傍系末孫」で、「青木氏」の「祖先神の神明社」の「御師役の立場」にあった。
この「神明社」をベースとする「伊勢シンジケートの組織」を使って「独自の諜報活動」をした事も有名である。
その「黒田氏」を家臣としていた「秀吉」であれば尚更の事で、「青木氏と伊勢シンジケート」の事は充分に承知していた事に成る。 
更には、事前知識として、「南北朝の戦い」(赤坂千早村の山城戦い)で「多勢の幕府軍」が「伊勢河内シンジケートゲリラ戦」で餓死し敗走した事は、直前の歴史として、「秀吉」のみならず「信長」も事前に「歴史的な史実」として知っていた筈でもある。)

(注釈 「赤坂楠木氏」は「伊勢河内シンジケート」の一員で、「河内−伊勢−今宮」までの「三シンジケートの連合体」を構成して対抗した戦歴を持っている。)

その為に、「秀吉」は全て承知していたとすれば、「不承知の信長」生存中は、強力な連合組織から成る「伊勢シンジケート」を持つ「青木氏」の事は知っていたと考えるのが普通ではないか考えられる。
この「伊勢三乱 五戦」には、全て「合力」し、全て、「伊勢シンジケート」を前面に押し出しての「ゲリラ戦」で応じていたこの事に付いては、この「戦況」の成り行きに付いては、秀吉は、“非常に懸念していた事”であったと考えられる。


話しを元に戻して、

”1581年の末当初に「秀吉の紹介」で、「一名の青木氏」なる者が、「信長]に面会している。”

以上を論じた。

この結論として、上記した”「信長との面談の青木氏」”の人物は、誰かと云う事に成る。

上記した「秀吉の青木氏」論から、”逆説的”に検証すると、「人物(1)」は、「人物(2)」の「信定」であった事に成る。

何故、この様な「秀吉配慮」をしたのかと云う問題である。

そうなると、“「二つのシンジケートの連合組織」の「協力体制」”を得ていた時期があった。
その、「本能寺直前」の時期に「秀吉」は、この事を知らしめて、何とか「信長」にこの「伊勢青木氏」の「人物(2)」と合わせて、速やかに“「事態収拾」“を図ろうとした行為と先ずは考えられる。
即ち、「高松攻め」の「膠着状態」の時に「秀吉」は、再三に「信長」の元を訪れている。
つまり、通説では、「信長」に依る武田氏滅亡の直後に、「毛利討伐」に出陣依頼しているのである。
もし、この通説通りとして、この為にも 伊勢域での“「ゲリラ戦の長期化の伊勢」”を何とか解決しなくてはならない。
背後が危険と成るし、二兎は到底負えない現状であった。
依って、この時に「信長−青木氏面談」(1581年末頃 「青木氏の記録」では、1582年初と成る)を図ったと観られる。

そもそも、「青木氏」に降りかかった”「秀吉の青木氏」の事件”は、「伊勢国の事(紀州討伐)」が一段落して、その後の「豊臣政権樹立」に際し、この時の「所縁」を通じて「人物(1)」を用いて「秀吉の青木氏」を発祥させようとした事に依る。

この時の「秀吉紹介」に依る「信長面談」(信長−青木氏面談)には、次ぎの説が浮かぶ。
第1説の「人物(1)」で応じたのか、
第2説の「人物(2)」(信定)で応じたのか

第1説か第2説かは何れにしても”信長を納得させられる「面談理由」”が必要である。

この時は未だ、「秀吉の青木氏」は無い。
従って、実態は、「人物(1)」=「人物(2)」であるのだが、「青木氏」の”「信長面談」”には、”「何らかの工作」”をした事が「状況証拠」から充分に考察される。
その”何にか”が判らない。”判らない”と云うよりは、”確定できない”と云う事である。

考えられる事として、”信長の印象”を和らげる為に、”「秀吉の遠縁仕立て」の「人物(1)」で会した”と云うものである。

実は、「青木氏年譜(下記)」から次ぎの様な事が読み取れる事が出来る。
それは、”この時から、秀吉は「秀吉の青木氏」”を考えていた節が有る。
そもそも、秀吉は、「青木氏の存在」を「蜂須賀小六の配下」であった頃に「今宮シンジケート」の組織の中でいた事から、「シンジケートの横の繫がり」から接触が在った。
何故ならば、「今宮シンジケート」と「伊勢シンジケート」が連携していた時期がこの時期であった。
その為に「青木氏の存在」とその詳細を知り得た筈である。
当然に、それに合わせて「神明社との関係」もそれを通じて知っていた事は充分に考えられる。

「伊勢シンジケート」と「神明社組織」の「二つの組織の頭]、つまり、「御師」の「二つの伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が背後にいる事は充分に知っていたと考えられる。
知っていたからこそ、「鉄砲入手」の為には、「信長」に「今宮シンジケート」を紹介した記録があるのである。

この「シンジケートの存在」の「紹介記録」そのものが、「秀吉」の「青木氏の存在」」をも認知して居た事を証明するものである。

立身出世して行く秀吉に執っては、この時から”「出自誇張」”が必要である事は痛感していた筈である。
その「最高のシナリオ」は、この「シンジケートの青木氏」であった筈で、「出自の誇張」に選んだと観られる。

「青木氏」が持つ「悠久の伝統」と「家柄格式」と「民からの信頼」に繋がる事は、周囲に対して「武の権威」では得られない”「温厚な権威」”を獲得する事に成り得る。
「天皇家や公家や藤原氏」が持つ”「優雅で気高い権威」”とは異なる”「温厚な権威」”をこの時期の秀吉には好んだと観られる。
現実に、「天皇の落胤」「公家の姻戚」「藤原氏の末裔」の三出自は、後に「偽系譜」で搾取している事は有名である。
故に、太閤官位を奪取出来た所以でもある。
従って、何も青木氏との血縁関係を持つ必要は何も無く、要は「青木氏の氏名」を使えれば良い筈であった。
その”「青木氏の出自」が何処であるか”は系譜上に記載する等の必要性も関係が無い事に成る。
それが、上記した「長嶋の戦い」から始まって6度に渡る「青木氏との親交」の中から、「定信の青木氏」をモデルに自らが名乗るのではなく、一族の中に「ダミー青木氏」を創り上げられれば「出自誇張の目的」は達成されるのである。

(注釈 現実に、この”「ダミー青木氏」(遠縁の家臣)”を作り上げて、表向きには「北の庄8万石と紀伊守」を与えて置いて、「伊予今治南部」(青木の里)に小さな所領(寺二つ分程度の敷地)を与えている。1600年の「徳川除封処置」で「里」共々飛散した。)

これは、”「出自誇張」”のみならず、下記した様に、”「シンジケート確保の魅力」”にも「大きな興味」を持っていた筈である。

故に、「豊臣政権樹立」後に、「自らの守護神」として先ず「今宮神社」を全国に再興して「自らの守護神」であるかの様に保護した事は有名である。
そして、その「シンジケート」をも保護し、その「下部組織」として全国に「若宮神社組織」までを作り上げた。
「青木氏の神明社」の様に、「情報収集源」として大いに利用した事は「誰もが知る歴史記録」の示すところである。
中でも、この”「若宮神社」”には、多くの貴族を取り込み抱え込み保護して、如何にもルーツであるかの様に「見せ掛けの出自誇張」にも利用した。

明らかに、この時の「信長面談時頃」から「伊勢シンジケート連携」と「出自誇張の氏」として近づいていたと考えられる。

「青木氏」の「信長面談」に至るまでの「事前工作」では、どの様にして「青木氏と接触」を果たしたのかの疑問がある。

これは、実は「蒲生氏郷の記録」にある。
「蒲生氏郷」は、「伊勢の乱の指揮官」であった事から「伊勢の乱」に付いての「秀吉とのやり取り」が遺されている。
恐らくは、この時に、同族である「蒲生氏郷」から「青木氏」にコンタクトがあった事が伺える。
では、”「蒲生氏郷からのお膳立て」かとする”発想も考えられない事は無い。
然し、絶対に「信長面談のお膳立て」は出来ない。
それは指揮官と同族と云う立場が邪魔をして、「信長」に良い印象を与える事は無い。
「怠惰、身贔屓」と受け取られる事は間違いは無い。口を避けても云えない。
そうすると、「楽市楽座」を「引き合い」に出して、「秀吉」が考えて紹介した事に成る。


この時は、未だ無かった。「秀吉と青木氏の直接接触」は、1573年「第二次長嶋の戦い 9/26」が最初である。
「青木氏側」は、この「戦い」で出城建築の為に必要とする「材木」を「買い占め」した事で「掛け合い」に成った事があったが、これが最初である。
「青木氏の材木買い占め」に対抗して、「秀吉」は窮地に陥り、結局、兵が吉野より材木切り出して吉野谷から流して対抗した記録が遺っている。

(注釈 「青木氏の記録」にも在り、敵対はしたが既に認知している関係にはあった。)

以後7年間の「秀吉との接触関係」に付いては「商記録の資料」に次ぎの様な事が書かれている。
1580年頃に「紀州討伐」と「備中廻船」の2件記述が確実に発見出来る。
明らかに「接触があった事」を物語る。
(参考 他に2件関係あるのではと観られる「不明な記述」も在る。)
ところで、この2件はどの様な接触であったのかを調べた。

「紀州討伐」では、「伊勢−紀州」の最後の「始末掃討戦」であった。
「南紀州」には、「青木氏の遠祖地」(和紙楮生産地)が多くあり、「秀吉」と決着を就けた事が「別の資料」に詳細に記録されている。

(参考 「別の資料」とは、「伊勢青木氏」と関係の深かった「伊勢衆」の主家に「青木氏の手紙」が遺されていた。
この中の一節に書かれている内容である。「伊勢衆」と談合している事は「青木氏年譜」でも判るが、この時の結果を連絡して合意を求めている手紙である。)

「備中廻船」(1581年)は、直接表現は無いが「商記録の記述」から「備中攻め」の「資材搬送」であった。

1568年の「第二次長嶋戦い」では、「商いの形」では「伊勢国衆」に対し「合力の約束」を果たした。
「青木氏」として「表向き」には、織田勢とは敵対はしていないが、明らかに「商いの形」では敵対はしている。
堺店から長兵衛が、織田軍から資材調達を請け負い、伊勢に戦いが続いていた事を背景に高騰を理由に圧力を掛け続けた事が記録されている。
当然に「秀吉」ならば「青木氏の二つの顔」は経験者で知っている。

然し、その後に和解している。何故、和解に成ったのか不思議である。
「二つの顔」は知っている「秀吉」が、”何故に和解に応じたか”は解決しておかねばならない疑問である。
明らかに、秀吉側に何らかの「メリット」があった事に成る。
つまり、その「メリット」が判れば「和解の疑問」は解ける。

それは、上記した様に、”「出自誇張」”のみならず”「シンジケート確保の魅力」”に有ったからで在る。
其れを物語る事は下記に示す”「紀州討伐」”でも明らかに成っている。
「青木氏」としても、「秀吉の出自誇張」は、この時から感じ執っていた事を物語る。
直接、間接に関わらず、「何らか縁組」などの話があったのかの詳細は未だ判らない。
記録の資料が出るとすれば、恐らくは、「伊勢郷士」か「伊勢衆」からであるが資料がまだ見つからない。

この「秀吉側から観た和解」は、「青木氏の四家問題」となった数年後に発生した”「秀吉の青木氏」”以外には無い。

両者から観ると、次ぎの事が「和解の主因」であろう。
この「紀州討伐」は、1577年から1585年までの間に行われた三期に分かれたが、主に”「門徒衆の一揆掃討作戦」”であった。
相当に色々な複雑な勢力が入り組んでの反抗であって、その「掃討作戦」であった。
概して、一般には当時は、「門徒衆一揆の掃討作戦」と位置付けられた。

(注釈 伊勢紀州域では少なくともその様に観られていたのである。「紀州」では,これを「門徒一揆」と呼ばれていた。
その後、昭和20年頃までの浄土真宗の家筋を普通は、「真宗」と呼称される事が多いが、紀州では「特別な意味合い」を込めた呼称で”「門徒」”と呼ばれる様になった。)

この反抗は、「石山本願寺の影響」を受けた事が原因で、昔からある「独特の紀州気質」が表に出て来たとされている。
それは、「伊勢気質」と同様に、”「独立性」が強い気質”に有った。

この「門徒衆」の主の「石山本願寺の顕如」は、「自らが始めた戦い」から早々に勝手に身の危険から引いてしまった。
足元をすくわれた「門徒の紀州人」は怒って、この「紀州気質」を出して「反抗姿勢」を採った事が原因していた。
依って、その立場立場で”反抗”は複雑を極めたのである。

この「反抗した勢力」は「門徒衆に関係する反抗」であった事から”「門徒一揆」”と地元ではそう呼ばれていた。
これを整理すると、次ぎの様に整理される。

この「反抗地域」では、「北紀州」と「南紀州」に分けられる。
この「反抗内容」では、「織田氏への反抗勢力」と「門徒衆の生活不満勢力」に分けられる。
この「反抗勢力」では、更に「宗教武装集団」と「国人の武装集団」に分けられる。
この「国人武装勢集団」は「領国化」と「独立覇権」を狙った勢力に分けられる。
ところが、「反抗集団の指導者」を除き、全て「隠れ門徒」も含めて「門徒衆」が主で動いた。


「北紀州の掃討作戦」は次の通りである。
雑賀衆を中心とする反抗勢力、
畠山氏の領国化勢力、
高野山衆の反抗勢力、
根来衆と雑賀衆の傭兵軍団の反抗勢力、

「南紀州の掃討作戦」は次の通りである。
南紀州の農民の門徒衆一揆

これらは複雑に入り組んでいて、各勢力の反抗明文も多様であったが、「根底の共通点」は、矢張り、「門徒衆」であった。
ところが、「反抗集団の指導者の思惑」は、別にあり、要するに、”門徒”を利用して「反抗の勢力」を大きくしたのである。

「武装反抗勢力」の「雑賀衆,根来衆、畠山衆、高野山衆」は、当初は「信長」に傭兵軍団(鉄砲)として雇われ、「信長」の「天下の路」に大きく貢献した程のものであった。
然し、「石山の戦い」から波及しての「門徒衆」であった事から、1576年末頃から内部分裂で反抗し始めた。
(第一段階)

この混乱(1584年頃)を利用して「国衆」の「畠山氏」は、「独立性気質の意識」を表に出して混乱に乗じて紀州を「領国化」し始めた事が発端で、「家臣の門徒衆」もこれを利用して反抗した。
(第三段階)

第二段階となった「南紀州」は、「青木氏の遠祖地」であり、「和紙楮生産地」の南紀で散発する「門徒衆の最終掃討作戦」であった。
この為に、「青木氏」は民の一揆の「経済的な支援」をしていた事から、責任者の立場上、”ある条件”を下に、この何れにも利益の無い一揆を収束させる目的から「秀吉」と話し合った。
この事から、早期に一揆を収束させたが、この時(1580年)から「秀吉」と親交を深めた事に成っている。
この時は「伊勢青木氏の顔(信定)」と「紙屋長兵衛の顔」の「二つの顔」での面談であった。
この事が確かにより「秀吉と親交」を高めた事が「郷士の内資料」から伺える。
又、その後の「伊勢での青木氏に対する厚遇」でも充分に判る。

この第二段階の「青木氏との収束策(”ある条件”)」が、第三段階までの「全門徒衆」の一揆に大きく影響を与え収束した。

(注釈 「紙屋長兵衛」は、全力を挙げてこの「全門徒衆の経済的不満”「ある条件」”」を解決する策を講じたことが「郷士衆と国衆」の「家に遺された手紙」に遺されている。)

この時の「門徒衆との約束」として、多くの事(”「ある条件」”)が実行された事が記録されている。

主にその”「ある条件」”とは、次ぎの「四事業」と成っている。

その「約束一つ」として、”「家内生産」”が出来る様にと、”「各種の紙箱や紙袋」等の殖産”を進めた事が「青木氏の記録」や「郷土史」にも地域貢献した事が記載されている。
昭和20年代まで、「北伊勢の特産品」であった。

その「約束二つ」として、この室町期末期の時から、新たに、どの立場の門徒衆も家内工業的に出来る「櫨の実(ナナカマド・ハゼ科)」から作る「ローソク」の生産にも入った事が「商記録」を辿ると記述されているし、「口伝」にも「他記録」にもある。

その「約束三つ」として、「信濃青木氏」から「養蚕技術」を四家の者が留学して学び、その「養蚕と布衣品の生産」も伊勢紀州域に広めたと「伊勢の郷土史」と「商記録」にも口伝にも記されている。

”「ある条件」”の極めつけは、「約束四つ」として、室町期には、未だ「早場米」は無かった。
ところが、「門徒衆の農民」の為に、「青木氏の莫大な私財」を投入して研究して何とか「早場米」を作り上げる事に日本で最初に成功した。
この事に付いては、「郷土史」には詳細に記載されている。
この「早場米」は、「早稲光」、或は、「光稲」と呼ばれていて、「青木氏四家」の「光三郎」の「先祖名」が付けられて呼ばれいて、その後、全国的にこの、「早稲光」、或は、「光稲」は「全国の青木氏」を通じて広まった事が郷土史にも記録されている。
この事で、「伊勢紀州の門徒衆」のみならず「伊勢紀州の農民」からも大いに尊敬され、昭和初期まで「尊農家」としても郷土史にも記録されていた。

以上、「第二段階の約束」として、「和紙楮殖産の拡大」は元より、上記の「四事業」を私財を投じて実行した。
旧来より「御師様」「氏上様」と崇められていたが、更に「門徒衆」からも神の様に崇められ、不満は一掃されて納まったと記述されている。

(注釈 昭和30年頃まで「蝋燭の生産」は「紀州特産品」であった。
衰退した現在も紀伊山脈の山にはこの樹木が多く遺っていて、秋山は当に赤黄で一色である。)

(注釈 現在でも「北紀州域(奈良域から堺や若山までの地域)」には、「紙箱などの紙製品の特産品地域」として遺っている。
その中には、この時に最初に商人に転身した「門徒武士」の家筋の500年以上にもなる「紙箱の老舗」が現在も顕在して生産している。)

この流れに沿って、遂には、これを観た多くの「門徒武士」からも、雪崩を切る様に積極的に”「商人の路」”へと「転身」をした。
これの「受け皿」と成って彼等を導いたのである。
そして、「青木氏」は、彼らに「商いのイロハ」から教え、独立させて、この「四事業」を専門に扱う多くの「射和商人」に育って上げたのである。
そして、育った彼等の「四事業」に携わった人々を「商業組合」に入れて保護したのである。

そこで、筆者は、この「四事業」を成功裏に導く為に、前段で論じた様に、「伊勢松阪」にその「自由な商業組合」を主に創設した、と観ている。
「四事業の事業種」も然ること乍ら、「武士、民、農民」等の各層からの人々、「自由な立場」での参画、「生産から販売」までの「仕事の内容」を様々にも持つ事から、”「自由」”をモットーに組合を構成する必要に迫られたと観られる。
更には、恐らくは、「秀吉」手引きの「信長面談」での「楽市楽座の約束」でもあった事と考え合わせていて、”「伊勢復興の策」”としてこの新しい形の「商業組合組織」を構築したと判断している。

この「趣旨の事」を書いた「青木氏四家」から”「郷士頭」”に宛てた手紙も発見されている。

当初は、「会合衆」の組合として、伊勢松阪で発足させた形跡(青木氏の資料)があった。
ところが、「紀州討伐での影響」で、この「四事業」が思わぬ方向へと発展した事から、「伊勢の会合衆」の考え方から「伊勢の自由商業組合」へと舵を切ったと考えられる。
何れも「大商人だけの会の会合衆」の組織では、最早、成り立たなく成り、そこで「発想の転換」から、彼等を救う為にも上記の云う「全階層」の「自由商いの組合」の組織に変更したのである。
兎にも角にも、何れも「日本で最初である組織」と成ったのである。

実は、上記で、”「門徒衆論」”の中で、”「郷士頭」”と書いたが、この「郷士衆」(郷士頭)が、この「紀州討伐」と「四事業の推進」に大いに関わっていたのである。
決して、本論を解くときに見逃してはならない一点である。
唯、「伊勢紀州域」の「門徒衆論」に、「郷士衆論」の「絡み」を解くのが難しいのである。
(実は、当初、試みたが失敗した。整理して挑戦した。)

この組織以外にも、「青木氏」は、「青木氏」と共に「悠久の歴史」を労苦を共にして築いてきた「伊勢域と紀州域と奈良域」に存在した「20の郷士衆」との「連合組織」も新たに”結成している”のである。
”結成している”と云うよりは、「時代の変化」とこの「状況の変化」に合わせて、”結成し直した”と云う方が正しいだろう。

この組織は、遺された記録には、”「伊勢郷士衆」(「18郷士衆」)”と記載されていて、その原型は、「和紙殖産商い」を始めた925年頃の平安期から始まっている。
鎌倉期を経由して室町期の「紙文化」と成った頃からは、以前の「助合組織の郷士衆」から、「運命共同体組織の郷士衆」へと変身しているのである。
資料からは、前段でも論じたが、平安期から「20の郷士衆」から伊勢紀州域は成り立っていたが、前段でも論じた様に、「伊賀の乱」で「二郷士」が「裏切り行為」をした事から「18郷士衆」と成った。
この「18郷士衆」(中には「18人衆」と記録した資料もある)に「郷士頭」を置いて、一切を取りまとめていた事に成っている。
この「郷士頭」は、「持ち回り制」を採用していた様で、「郷士頭名」が資料年代で異なっている。

資料から観ると、この「郷士頭」と「青木氏」が互いに「縦の連絡」を取り合っていた様である。
然し、かと云って、時々、「頭外の郷士」との「やり取り」も観られるので、ある程度の「専門担当」を決めていたと観られる。
それを「郷士頭」が全般を取り仕切っていた組織に成る。

その前に、この「18郷士衆」と「青木氏四家」との関係に付いてもう一度論じて置く。
「青木氏四家制度」は、「三つの発祥源」と「賜姓五役」と「国策氏」と{皇族賜姓族}の家筋を護る為に、「純血性」を前提として、この「四家制度」を平安期初期の直前に敷いた。
この時、「四家の福家」から観て「孫域」までを「子供」として扱い、娘の嫁ぎ先の子供(孫)を「正式な跡目権利」を与えて、幼少期から引き取って育てると云う制度を敷いていた。
この「娘の嫁ぎ先」が、元々は、「伊勢紀州の20の郷士衆」であった。

従って、この「四家制度」が続く限りは、「「伊勢紀州の20の郷士衆」には、時代毎に「古い縁籍筋」から「新しい縁籍筋」の関係が出来上がる事に成る。
「古い縁籍筋」が「新しい縁籍筋」に成り得る事は、{四家制度}が「代替わり」する度に当然に起こり得る。
「伊勢紀州の20の郷士衆」の限られた範囲の中では、この縁籍関係は繰り返される事に成る。

この時、「超大地主の青木氏四家」から「20の四家」から嫁ぐ娘に対して「地権」を持たして嫁がせる事に成る。
逆に、「嫁ぎ先の孫」が「20の四家の跡目」に成る事も起こる事から、これを繰り返す事に依って、この「郷士衆の地権」は「重層化した地権」が起こる事に成る。
この「郷士衆の地権」では、その「地の殖産」を「仕事」として担う事に成る。

「青木氏四家」には、”「20の四家」”が生まれるが、「四家の地権」の範囲で、それには「四家に与えられた仕事」を直接担う事に成る。
この「下部組織」として「20の郷士衆」の与えられた「郷士の地権」の範囲で、「仕事」が熟される。
この「地権の範囲での仕事」は、その「仕事」に従事する「民までの差配」に「責任」を負う事に成る。

つまり、「青木氏四家」には、結局、「40の仕事」が、「四家地権」と「郷士地権」で動く事に成る。
但し、「20の郷士衆」の家筋範囲の事は、「青木氏四家」は関知しない。
その「郷士地権の範囲」の経済力で「子孫」は拡大する事に成る。

この自由を持つ「20の郷士衆」の「20系譜」から、「青木氏四家」に「新しい血筋」が入る事で「純血の弊害」を無くしていたのである。
従って、「時代の変化」と「四家の変化」で、「20の郷士衆」の「地権」には差が出て来る事に成る。
従って、この「20の郷士衆」に執っては、「青木氏四家との関わり具合」の如何は「男女の子孫」を如何に増やすかに関わって居た事に成る。
且つ、その発展は「四家からの娘嫁」にも大いに関わる事に成っていた。

この背景にある「20の郷士衆」は、その為には当然に、「紀州伊勢域」の「他家の家臣」と成っている「門徒衆武士」との血縁関係も大いに持つ事に成る。

前段で論じた様に、「20の郷士衆」が、「伊賀の乱」で合力したのは、主にこの「伊賀氏との血縁関係」が深かった事にあった事を物語る。
故に、「伊賀氏」が窮地に陥った時に、青木氏は約禁を破ってでも、「織田氏攻撃」に対してはそれまでは「中立姿勢」を保っていたが、「名張の清蓮寺城」から突然に「側面攻撃」で虚を突き一時を稼ぎ、この合力した「18の郷士衆」を”深夜に救い出す”と云う「離れ危険技」を遣ってのけたのである。
然し、織田軍は、この「二つの青木氏」に対しても、「18の郷士衆」に対しても、一切の「報復処置」は採らなかったのである。
「一切お構いなし」と成っている。

更には、「各地に離散した伊賀者追討」と「1年後に伊賀帰参者討伐」も「不問処置」としたのである。
「一切お構いなし」も「不問処置」になる理由は何も無い。
あるとすれば、つまり、これは上記した様に、「秀吉手引きによる信長面談」の「約束事にあった事」を物語るものである。

前段でも論じた「18の郷士衆の救い出し作戦」の根底には、「青木氏との深い繋がり」の所以があったのである。
この「18の郷士衆」の「伊賀合力」に対しては、上記した様に、「二つの青木氏」とは「運命共同体、一心同体の関係」にあった事から放置出来なかったのである。

従って、上記した「門徒衆の裏工作での説得」が、「20の個々の郷士」で、その「伊賀合力」に観られる様に、その「広い血縁関係」を利用して「懸命な説得」が行われたのであるし、この説得が効を奏した事に成ったのである。
そして、今度は、救出された2年後には「18の郷士衆」は、「青木氏援護」の下に立ち直り、何と「門徒衆救出」に出たのである。

この「門徒衆救出作戦」には、この「門徒衆の武家」と違って、「20郷士衆の武家」側には、「青木氏からの地権基盤」(経済的基盤)を持っていた事から、この「説得」には、暫定処置を講じて一時保護して説得を行い易い力が備わっていた事に成る。
そこに、「青木氏四家」からの「四事業の裏付け」があれば、「門徒衆武士」としても納得に応じ易い事に成る。
其の侭では、「秀吉」に殲滅される宿命があったとすれば、「20の郷士衆」との関係を持つ「門徒衆武士」は全て応じた様に記録から読み取れる。

これを観た血縁の持たない関係の無い「門徒衆武士」も説得に応じて来て、救助した事が判って居る。

この「紀州討伐」では、実は「門徒衆」と裏で折衝していたのは、この「18の郷士衆」(20から2氏脱退で正式には18に変化)であった。
この「紀州討伐」の時の「青木氏」が、この時、この「郷士頭」(前田氏)との「手紙のやり取り」(他一通)をしていて、これが詳細に遺っているのである。

(注釈 「2氏脱退」は「伊賀の乱の裏切り行為」、つまり、「織田軍道案内」からであるが、脱退は青木氏として容認した。
然し、その「2氏の地権」は青木氏に戻る事から、「青木氏の娘嫁先」のその子孫を保護して続けさせた事に成っている。
この「脱退2氏の跡目」は外したが、跡目が育つまでの間4年間は不籍にして維持させた事に成っている。
この「離反行為の2氏」には、「娘嫁関係」が暫く途絶えていて不満があった事が記されている。
昔は「郷士頭」も務めた家筋であったが、「地権」も小さく成り織田側に付いて「一挙逆転」を狙った事に成っている。)

この時、要するに、”「門徒衆組織」”を影で収めたのは、この”「18の郷士衆組織」”なのである。
実は、ここで、前段の補足として、論じて置く事が在って、それは「二つの青木氏」の”「御師制度」”である。

この「青木氏に関わる職能集団」の「御師制度」には、次ぎの「二つの組織」があった。
A 青木氏の内部に持つ職能集団−「内御師制度」
B 青木氏の外部に持つ職能集団−「外御師制度」

実は、全青木氏は、この二つの制度で構成されていたのである。今までは主に「内御師制度」の中味に付いて論じていたが、「外御師制度」もあったのである。
前段で、「青木氏の総陣容」は、「88700人」としてその規模を数値にして見て論じて来たが、これには、「外御師制度」を加えての論では無かった。
何故、論じなかったのかと云うと、下記で論じるが「外御師制度」は、この”「20の郷士衆」”に「差配」を委ねていた事による為で「別枠の論」として敢えてここで論じる。
「娘嫁先」と「地権」と「郷士頭」と「職能」と「民の集団」と云う「特別の論点」が別にあった事から、外の関係性が強く影響する事から、論が複雑に成る事を避けて、「郷士関係」の処で論じる事としていた。

(現実には、論じたが、モニターの方から”複雑すぎる”と云うNGが出て失敗した。”複雑”も然ること乍ら”詳細”過ぎる事もあって相当割愛した。ここから次ぎの「18の論」へと分別して随時に論じる事とする。)

さて、上記Aに付いては前々段で瑠々に論じた「神明社」などを始めとする「四家」が受け持つ”「内御師」”である。
そこで、問題なのは、このBの「外御師」の「御師制度」は何であったのかは敢えて論じなかった。

この「外御師制度」とは、実は、この「20の郷士衆」の事である。

「20の郷士衆」は上記した様に、「郷士頭」を置いて、その「20の郷士衆」の「地権の範囲」で行う仕事に従事する「民の職能集団」を差配していた。
この職能には、和紙に生産する漉職人、楮を生産する楮職人、紙製品を生産する紙職人、材木を生産する木職人、木製品を作る工職人、農製品を作る農職人等、資料から観ると、凡そ32の職人の集団から構成していた。
これらを差配するのが、要するに、地権の範囲で担当するのが「20の郷士衆」であったのである。
つまり、「20郷士衆」=「外御師」であった。
「地権の範囲」で耕作する農民も商人も含めて「民の職能集団」の「外御師」の中に全て置かれていた。

それぞれの職能には「外御師」の「御師頭」が置かれていて、その「御師頭」がこの「20郷士衆」が務めていた。
「御師頭」=「20の各郷士衆」で、この「御師頭」達を「郷士頭」が差配していたのである。

要するに、この組織は、「各職人のまとめ役」=「御師頭」=「職能集団の組合長」=「各郷士衆」 「各郷士衆の理事長」=「郷士頭」と云う構図に成っていた。

そして、この「郷士頭」は、「娘嫁先の20の郷士衆」の中で、次ぎの条件で選ばれていた様である。

最も青木氏との血縁度が高い事
最近の娘嫁の郷士の家筋である事
地権範囲と職能種を多く持つ家筋の事

以上のこの「三つの条件」に適う「郷士の家」から選ばれていた様である。

「外御師の職能種」が32程度にも及んでいた事から、「20の郷士衆」の範囲では、複数の職能を持つ家筋も起こっていた。
ここに、上記の「四事業種」の職能が加算されたのである。
この「四事業」から「職能種」は10程度は増える事に成り、1郷士は平均で2つの職能種を持つ事に成ったと観られる。

当然に、「外御師制度」を拡充して、この「20の郷士衆」で管理差配して行くことに成る。
従って、これに見合う「地権」が必要と成り、それを上記した様に、「本領安堵策」を用いて「青木氏の旧領地」が「秀吉」に依って加算加増された所以なのである。


この様に、伊勢に遺る資料から観ると、この「門徒衆」等が集まる新しい商いの組織の”「自由な商業組合」”の結成に付いては、この「18の郷士衆」と「青木氏」を中心に連携を採っていた事に成る。
この「門徒衆」などで構成された「自由な商業組合」は、「20の四家」(内御師制度)と「20の郷士衆」(外御師制度)に依って支えられ続けたのである。
故に、明治期 大正期に成っても遺ったのである。

「伊勢商人」の中に「新しい商業組合」が構築され、その下にこれらの「青木氏」が始めた”「四事業」”を専門に扱う”「射和商人」”を専門に育てたのである。
要するに、「計画(四家)から生産(郷士衆)そして販売(門徒衆)までの組織」を一連にして確立したのである。

「門徒衆」の多い「南紀州」には、「紙文化と云われる室町文化」と相まって、「北紀州地域の紙製品の殖産化」で、「紙文化」が一挙に進んだ事から「和紙の原料」と成る「南紀州での楮の増産」をも大いに進んだ事が記載されていて、我家の口伝にも伝わっている。

(参考 筆者幼少の頃、父に連れられて、南紀州の「和紙楮殖産」を営む「門徒衆の伊藤分家」に長く滞在宿泊した事があり、その生活雰囲気は今でも脳裏に蘇るし、又、「北紀州の紙製品」の「老舗の岡氏」等を始めとして、「古参門徒衆の家」や「古参郷士衆の家」の様子も、現在は代替わりで親交が途切れている「幼少期の記憶」がある。)

この為に殆どの「門徒武士」を含む「一般の民」の一揆は早期に収束した。
つまり、背後に「18の郷士衆」が存在していた事から収まりが着いたのではと考えている。
だから、盛んに”「郷士頭との手紙のやり取り」”をしていたと考えられる。
これは、取り分け、農民や民は兎も角も、「武装集団」と絡んでいる「門徒武士の説得」に苦労した事を物語る事に成る。
これには、日頃から「伊勢紀州武士」として行動する立場と絡から、「郷士衆の説得」がこの問題の解決に絶対的に必要であった事に成る。
故に、「説得」が、「彼らの矛を収める」だけでは無く、「転身」と云うところにまで突き進んだ事に動いたと云う事であろう。

「武力集団」側も、流石、この「門徒の家臣」の離反に驚いたは勿論の事、制裁をも加えられなかったのであろう。
本来なら、命に関わる離反転身である。勿論、説得する郷士側も危ない。
「門徒衆の家族」や「郷士衆の家族」も護らねばならない。
何せ相手は「プロの傭兵軍団」「忍者軍団」である。
相当に用意周到にして、”「手出し」は無いだろう”とする事を承知確認の上で、「説得」に掛かった事が記述されている。

この「制裁」に出られなかったのは、「戦域」を拡げると背後に「青木氏と18郷士衆」が持つ「伊勢シンジケート」の「同質同格の勢力」が控えていた事にあったからである。
この時、既に伊賀は滅亡し、浪人と成って各地に離散していた伊賀者は、「20の郷士衆」の手引きで、1年程度で伊賀に戻り、「伊勢シンジケート」の組織の中に加えられて保護されていたのである。
ところが、歴史では、”「離散した伊賀者」は再び集まって反抗を続けた”と成っているが、個々に集まって来たとしても、「生活の糧の補償」が無ければ、反抗など成し得ない筈である。
その「補償の裏付け」が、「20の郷士衆」が手引きして、「外御師集団の警護役」として補償としたと記録されているので、間違いは無い。

筆者は、この資料から、”「20の郷士衆」”の「郷士頭」が中心に成って下記の理由で呼び寄せたと観ている。

「青木氏の関係族」から見つかった「二つの資料」では、上記の「絡み」から「20の郷士衆」の「御師集団」に夫々組み込まれ、「職人を警護する職能」として働き、いざと云う時には、「伊勢シンジケート」の中でも働いて「糧」を得ると云う形式を採っていた模様である事が判る。
”「警護」”と云う「一つの職能集団」を、「青木氏]の中で形成していた様で、「軍」とは別の意味で、あくまでも「外御師組織」の一種の自治的な「警察機構的な組織体」を作っていたと観られる。
この「伊賀衆」等から成る”「警護職能集団」”が、「門徒衆の家族」や「郷士衆の家族」等を護っていた事が記述されいる。

「伊賀衆」を助けて保護し、その直ぐ3年後には、今度は「門徒衆救護」に出たのである。
「青木氏」が出した「郷士頭」の手紙の中には、「門徒衆救護」の為に、早急な手配方を「郷士頭」に依頼している事も書き込まれている。
如何に緊迫した中で、行われていたかが判る。

「郷士頭」は、「伊賀衆」と「門徒衆」と立て続けに救護したのであるから、如何に大変な仕事であったかは判る。
「伊賀衆」は、同じ助けられた者として「門徒衆救護」には大いに力を発揮したと観られる。
その意味でも、「武力集団側」は当然に知っている事であるので、”「伊賀衆」が背後にある事の「危険性」を大きく感じていた”と考えられる。
むしろ、”逆にゲリラ戦を仕掛けられる恐怖があった”と観られる。
その「伊賀者の底力」には、「背後の青木氏」が観えているのである。
「青木氏の経済力」は前段でも論じた通りで衆知であった。
「他の勢力族」とは、体質的に異なる当時としては「異質の絶大な勢力」であったからこそ、「武装集団側」には余計に警戒されたと観られる。
警戒しない方がおかしい事に成る。

この様に強力に動く「20の郷士衆」が、構成する「外御師」のこの「郷士頭の存在」は、「青木氏」の「外のまとめ役」として無くてはならないものであった事が判る。
「二足の草鞋策を採る青木氏」は、「外の事」は、この「20の郷士衆」の”「郷士頭」”に「伝言一つ」で済むと云う関係にあった事が判る。
最早、「20の郷士衆」=「青木氏四家」であった。


話しを戻して。
「秀吉」は、この「一連の統治組織」の中での事を観て、この「青木氏に対する信望」を更に高めたと考えられる。

「室町期の戦乱」の中で、「武力集団」の「大名や豪族」の上に立つ”「三つの発祥源」”であるなら、本来なら「武の威力」を「優先する立場」にあり、それを率先してでも祖の立場を護った筈である。
然し乍ら、「武」の上位に立ち、「武」を持ちながらも、「武」を使わない稀有な「高い統治組織の青木氏の存在」を改めて知った「秀吉」は、この「秀吉の青木氏発祥」へと突き進む「決定的要因」となったと観られる。

この事も含めて、後に「秀吉」に依る「旧領地の本領安堵」の決定要因とも成ったと観られる。
多くの「旧領の本領」を安堵しても、「武」に依らない高い「統治能力」を有する「青木氏」であれば、問題は無く、むしろ、「紀州伊勢域」により「大きな地権」を与えて「地域の繁栄」に貢献させるべきと考えた筈である。
然し、敢えて「旧領の範囲での本領安堵」だけを受けたのである。
仮に、「旧領地外に地権」を得たとして、その得た「地権」を前提として「事業」を拡大しても、それに伴う「より良い組織」と「統括統治能力」が育成しなければ、結局はこれを護ろうとして無理に「武」に頼る結果と成り得る。
これでは「青木氏氏是」に反する繁栄と成り得る。
「氏是の諭し」に従うは、序に記している「氏是」が求める”「抑止力」にあるとする考え方”にあったからである。

実際に、資料から観ると、摂津西域、近江一部、名張西域、伊賀北域、南紀西域に、旧領地外の新規領地の安堵の話があった事が読み取れる。
この「5地域」は、「旧領地のほぼ隣接地域」であるが、然し、現実は受けていない。
何故なのかは、確定した理由は判らないが、次ぎの事では無かったかと考えられる。

(イ) 「氏是」を護り「旧領地外の地権」を受ける意志が無かった事。
(ロ) 「20の郷士衆」の外域と成る事から避けた事。
(ハ) 「秀吉の思惑」が「旧領地から離れた隣接域(伊勢大和紀州の全域 約1.5倍/旧領地)」にも事業を拡大させて繁栄を図る事にあった事。

以上にあるとして、内々に断ったとする見方が出来る。

何れにしても、(ハ)を受けたとしても、(ロ)が届かない事に成ると、「新規の家人」を新たに差し向けねばなら無く成り、「内御師」の中で運営と成る。
結局、これは「外御師制度」では難しく成り、組織運営に無理と混乱が伴う事が、(イ)の氏是に関わって仕舞う。
「保守的な思考」が左右したのであろう。
「商記録の青木氏年譜」に、”1582年末に「伊勢安堵」”。”1584年の「伊勢解決」”。等の記述がある事から観ると、この結論は「青木氏」と「全関係者」で「伊勢の福家」で話し合った結果であろうと思われる。
その結果を観ると、”更に拡大させる「意志」”と云うよりは、”旧領安堵以上の「欲」”が無かった事に成る。
「難しい判断」であったと観られる。

”何故、「欲」が無かったのか”と云う素朴な疑問が浮かぶ。
その事で調べたのが、この加増される「地権範囲」が、3倍も4倍も拡大するのには確かに抵抗と成る。当然に「無理と混乱」が伴うし、「旧領地外」の加増される「地権の領民」との間には共有する「歴史と伝統」は無い。
その地権が「約1.5倍/旧領地 の地権が増える」は、筆者の感覚では、「無理と混乱」の「許容の範囲」であると考えられる。
その「旧領地外の加増地権」の範囲は、「隣接域」に相当し、「飛び地領]でも無い。
”「欲が無い」”は、「青木氏」「家人頭」「内御師衆」のみならず「20の郷士衆」や「外御師衆」や「職人衆」や「シンジケート頭」や「神明社権禰宜頭」にも無かった事に成る。
この「多くの関係衆」に執って、果たして「地権がより広まる」は、「生活が高まるの条件」なのかにある。
「衆合しての話し合い」は、結局は、「共通する議題」は、必然的に「地権拡大」=「生活向上」に関わる事に成るだろう。
と云う事は、取り分けこの談合は「二つの立場」に判れる。
「青木氏」や「内御師衆」や「20郷士衆」の立場と、「外御師衆」や「職人衆」の「長」の立場に成る。
この「二つの立場」が集まったのであるから、この「二つの立場の考え方」が、”それ以上の飛躍した生活を望まなかったまでに豊かであった”と云う事にも成る。
つまり、議論の末は、「地権拡大=生活向上」と云う結論に至らなかった事に成る。

「旧領地までの拡大」は、”妥当な豊かさである”として否定せずに、必要以上の欲を出さなかった事に成る。
「旧領地」は、共に1000年以上に生きて来た伝統を遺して来た土地でもあり、当然に否定する者は居ないであろう。
「旧領地」には、夫々立場で例外の無く「縁者や親籍の一族」が、帰属を希望して200年以上も我慢をして来て、これを否定する者はいない。
その「旧領地」には、「新たな四事業」が敷かれて、”「近隣の門徒衆」と共に、「旧領地の親族の生活」が潤うのであれば、充分だ”とする考えが支配したのであろう事が判る。
これは”「欲」が無い”と云うよりは、”「親族の帰属」への満足” 即ち「一族愛」であった。

その証拠と成ることが一つある。
それは、「四事業」の一つ未知の「早場米の開発」(早稲光)にある。
仮に、「旧領地の地権」が回復しても、そこには「青木氏地権全域」に及ぼす「豊かさ」を保つには「主食料の確保」(米の増産)を成し得なければならない必須の条件である。
それは、新たに必要と成る「門徒衆の食糧分」と、事業拡大に伴う他の地域からの「新たな人員の確保分」も賄ねばならない。
其の侭では、絶対量は不足する。互いに分けあえば苦しく成るは必定である。然し、「地権範囲」は限定されている。
と成れば、「二毛作が可能な稲の開発」と云う「未知の難題」に「衆議の議論」は陥ったと観られる。
そこで、宗家の「青木氏福家の責任」として、「和紙殖産」から未経験のこの開発に取り組んだのである。
現在の様な「農業試験所」がある訳でも無く、当時としては発想そのものが特異であったし、その様な経験者も無かった。
「稲の開発」だけでは済まない。「気候や土壌の解明」など全て「未知の世界」である。「青木氏」だけが未知である訳では無い。日本全国未知なのである。
況して、「戦乱期の中での開発」である。
「並外れた気力」と「莫大な財力」が無ければ成し得ない。
「青木氏の衆議」は、この「厳しい未知の選択」を選んだのである。

「旧領地外の地権拡大」は、「旧領地」と異なり、更にこの問題が伴う事に成り、その意味でも議題は進まなかったのであろう。
そもそも、「1000年の歴史と伝統」を共にしなかった人を動かす自由度が異なる。
「成功裏の裏付け」は取れないし、「独立性癖の強い風土癖」も重なって「反発」も覚悟をしなければ成らない。
「衆議の議論」が紛糾したと観られる。
「旧領地外の地権拡大」には、この「未知の難題」に議論が傾いたと云う事は、”「欲」が無い”では無く、”「余裕」が無い”と衆議は決まった事に成る。
それよりは、この”「早場米の開発」”に衆議が決まった事は、”「親族の帰属への満足」「一族愛」を優先するべき”と決まった事にも成る。
「青木氏福家の責任」を果たす「最大の課題」で「未知の難題」であったことが、「光三郎の家の資料」からも発見されているし、「青木氏の最大の誉れ」としての口伝が伝わっている。


さて、この様な経緯の中で、多くの「門徒衆」を救ったが、この「青木氏の誘い」に乗らなかった勢力がいた。
これが、「武装勢力」の「指導者衆」であった。

然し、唯、雑賀氏と根来氏と畠山氏の「国衆」の「武力集団」だけは完全には解決しなかった。
この領域の問題は、「青木氏」には無関係であった事から、この「武力集団」だけが浮き上がった形に成った。

然し、この配下にあった「門徒衆の家臣」等の多くは、「武力集団との争い」から身を引いたのである。
勇気の要った事であったと観られ、この浪人と成った「門徒衆の家臣集団」を「上記の四事業」へと導いたのである。
そして、独立させて「専属の商人」(射和商人)として教育して「店」を持たせたのである。

従って、「秀吉」は、この不満の異なる一揆では無い「武力の反抗集団」に対しては、あくまでも”「戦い」”で臨んだ。
その事があって「殲滅作戦の方針」で「根絶やし」を図った為に2年程度かかったのである。
結果は下記の状況で完全解決と成った。

「青木氏の勧誘」に乗らなかった全ての人々は、家臣を無くし、遂には窮地に陥り、内部で勢力争いが起った。
最後には「根来寺」に全て逃げ込んだのである。
そこでも依然と抵抗を緩めなかったのである。
そこで、「秀吉」は、この「根来寺」に対して民衆を解放する様に再三要求したが抵抗を緩めなかった。
挙句は、民衆を楯に立て籠ったのである。
結局、秀吉に依る「根来攻め」が起こり、歴史に遺る「殲滅作戦」が展開され、「反抗勢力」は紀州から完全に霧消した。

結局は、この「殲滅作戦」を観て恐れを成した高野山の「真言宗騒動」だけは、一時「浮き彫り」には成ったが、これを期に矛を収めた。


「豊臣政権樹立後」に「伊勢青木氏」に対して、「旧来の伊勢の土地」に加え追加の本領安堵された。
この地域の全て、奈良期に朝廷の命で半国割譲した土地柄である。日本書紀にも記述がある地域である。


「伊賀一部」
「南紀州の遠祖地」 
「北紀州一部」
「名張域一部」
「摂津堺地区一部」
「伊勢北部地域一部」

以上等が旧領地の本領安堵された地域で上記の「四事業地域」に匹敵する。

恐らくは、これは、「秀吉」が、上記の解決の発端は「青木氏」にあるとして、「二つの青木氏」に対して「特段の恩義」を感じて、「南紀州域」は、勿論の事として、「伊勢域」を始めとして「北紀州全域」の「門徒衆の不満」を更に解消する為に、「伊勢青木氏」を政治的に保護した。
「伊勢青木氏」に依って民衆に「職」を与えさせて、その「経済的安定」を図らせる為の素地を確定させる為にも、「秀吉からの旧来地の本領安堵策」であった事が書かれている。

「会合衆」から更に発展した日本で最初の「伊勢の自由な商業組合」は、上記したこの「四事業の経緯」からより、”自由さを持つ商業組合”と成って、この「自由商業組合」が発展したのである。
これが、象徴する”「射和商人」”と呼ばれるものである。

この為に、「秀吉」は、”「民の門徒騒ぎ」は「一切不問」”として、この「事業の推進」を政治的に図った事が「青木氏の資料」に書かれている。
前段でも論じたが、「徳川氏」もこの「本領安堵策」を踏襲した為に「伊勢商人」と「射和商人」は江戸末期まで遺ったのである。
(「徳川氏との談合」は、「500社に及ぶ神明社」と「その領地の返却」で決着した。)


「備中廻船」では、その結果、「高松攻め」では、「資材調達」を一手に引き受けた事が判る。
「二つの顔」を持つ「青木氏」は、「秀吉」に執っては、戦略上、極めて都合が良かったと観られる。
「紀州討伐」では、その[反乱の根本」に成っていた「門徒衆の説得」で事態が大きく進展した事で、個人的にも相当に意気投合していたと観られる。
「人たらしの秀吉」ならではの事である。
”「出自誇張」の腹積もり”は、これをきっかけに「秀吉本気モード」に成ったのはこの時期(「紀州討伐」「備中廻船」「信長面談」)からであろう。
「第二次長嶋の戦い」後には、未だ無かったが、この直後あたりから意識し出した感じがする。

そもそも、この為に瀬戸内海と中国道での「毛利氏による補給路断絶作戦」の動きが在った。
「商記録」(1581年に「摂津会合」。松阪記)によると、「神明社の御師組織」から「摂津の店」が、「毛利氏の動き」としてこの「重要情報(商情報)」を既に把握していた模様である。
この「事前情報」は「摂津水軍」と「伊勢水軍」にも伝えられていた様で、この為に、「補給の商い」を受けた時に、「摂津の店」で関係者が集まって「事前協議」していた事に成る。
「秀吉軍の補給」も然ること乍ら、瀬戸内が混乱する中で「商の運搬」も含めて「二つの水軍」が「海路の確保」の為に「抑え込み」に入っていたと観られる。
名目は「青木氏の商船保護」の「誇示行動」であったらしい。
この商記録の”「廻船」”の「言葉の意味合い」は、意味が深くこの事から来ていると観られる。
(「商記録」の「細かい取引内容」を更に詳細に分析すれば、よりはっきりとした「行動の答え」が出て来ると観られる。)

「秀吉」に執っては歴史上、「毛利進出」は「最大の命題」で「信長の督促」があった状況下で焦っていた。
然し、「高松攻め」に付いて「秀吉」に執っては、最大の課題は「軍事力」では無かった。
その危険で弱点であったのは、「中国域の毛利勢」に依る「補給路の断絶作戦」であった。
この「命題の補給」を「請け負える豪商」はそうは無い。

その為には、「秀吉」のみならず補給の「豪商」自らも「毛利に対抗できる抑止力」を持ち得ていなければならない。
又、敵対する「毛利氏」も”「伊勢青木氏と紙屋長兵衛」”を知り得ていなければ「抑止力の効果」は低い。
と成れば、「摂津や堺にも大店」と「海のシンジケート」と「陸のシンジケート」を持ち、「瀬戸内の讃岐青木氏」との関係を持ち得ていなければならない。
そうすると、「秀吉の弱点の補給路の弱み」を狙っている周囲勢力を押えられるのは「伊勢青木氏」しかない。
「毛利氏」が「紙屋長兵衛の実態」を知る得るには、取り分け「讃岐青木氏の存在」が大きく影響した。

何故ならば、「毛利氏」は強力な「瀬戸内水軍(「平家水軍」からの「陶水軍」を元にした「毛利水軍」、後の「村上水軍」)を保有している。
この事から、「毛利氏」は「讃岐水軍」(讃岐)も「伊勢水軍」(伊勢 摂津水軍)も古い歴史を持つ水軍である事から、「存在]は勿論の事、その「勢力や位置関係」は充分に承知していた。
この事からも、「伊勢青木氏、紙屋長兵衛、伊勢シンジケートの存在と実力」も充分に承知していたと考えられる。
この「二つの青木氏の水軍」がタッグを組まれる事は毛利水軍には辛い事に成る。
何故ならば、過去に一度戦っている様に、下記の「義経の敗戦の経験」を持っているからだ。

この「毛利勢を抑え込む目的」で、「戦略上の安全」から”摂津港から海送した”と記されている。
上記した様に、「瀬戸内の示威行動に依る事前準備」が働いたと考えられる。
この事は、「伊勢」からでは無く、瀬戸内海の「摂津」から出る事で、「毛利側」に敢えて「補給船団」の「出船」を知らしめる事で牽制する目的があった事に成る。
そして、「補給」が順調に出来ている事を認識させて、”「毛利の戦意」を低下させる狙い”があったと考えられる。

仮に、この「補給」を止めようすると、「讃岐青木氏」と「伊勢青木氏」を敵に廻す事に成り、結果として全国にその子孫を拡げ展開している「藤原秀郷軍団」を呼び込んで仕舞う事に成る。
これは、結果としては戦域が広まる事から「高松攻め」は成功させる事に成る。
従って、「毛利側」には「戦域拡大」は絶対に得策では無かった。

従って、この事を意味する事として、「毛利氏側」は「和解条件」として、安国恵瓊が「五国割譲案」を提示した位である。
「戦域拡大」は戦域拡大は絶対不利と考えていての和解条件であり、出来なかった。

その為には、「伊勢水軍の護衛船団」(摂津水軍は同族で弱小の商船団)は誇張する意味でも絶対に必要であった。
これは「水軍力」のみならず「水軍の背景」を誇示しているのである。

何故ならば、そもそも、「水軍」とは、元来、「横の組織」で出来ているのだ。
つまり、「伊勢水軍」は、「駿河水軍、熊野水軍、紀伊水軍、摂津水軍」の「横の組織」で構成されている。
血縁関係も「縦横」に結んでいて、海の上での互いに護り合う「連合軍団」をも構成しているのである。

(注釈 毛利水軍の前身の平家水軍と戦った義経は、この「五水軍の軍団」を使っての「独自の水軍編成」で戦った事で勝利した。
この時、義経に反抗的に出ていた「北条氏の相模水軍」を当てにしなかった。)


(注釈 中でも「紀伊水軍」は、全国の水軍仲間からも恐れられていて、その「尖鋭さ」は有名であって、通常の水軍戦闘方式を取らない事が恐れられ、「ゲリラ戦法」であった。
この「紀伊水軍」を引き出すと他の水軍は戦力を無くすとまで恐れられていた。)

”「伊勢水軍」”を見せる事で、「背後の連合軍団」を想起させる目的があり、更には、「讃岐青木氏」が率いる海部氏等から成る「瀬戸内の讃岐水軍」をも想起しなくてはならない事に成る。
「伊勢水軍