青木氏氏 研究室
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  [No.305] 青木氏の分布と子孫力−1
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/03/25(Tue) 09:10:26

「青木氏の分布と伝統力」



「伝統」とは、”そもそも何なのか”と云う事に気が進む。
「伝統」の”原動力”と云うものに着目すると判るかも知れない。
その「原動力」を維持させるものは、その「伝統」を持っている「集団の存在」と、その「集団の動向」に左右されている筈だ。
その「集団」が消えればその「集団」が持つ「伝統」も消えるが常道である。
「集団の如何」に左右されるは必定である。
「伝統」のシリーズを進めて「青木氏」を更に解明するには、先ずはこの「集団の如何」を解明しなければならない。そこで、問題はどの様に解明するかである。
それをこれまでの論文を基本として、それに対比する「集団の如何」の「現在の動向」を論じれば可能に成る筈である。
そこで、次ぎのデータを使いそれをパラメータにする事で「伝統」の”何なのか”が判ると考えた。
主に次ぎの三つのデータを使った。
当初、それを試みる為に、「家紋分析」を使って家紋を分類化してその数を地域ごとに把握する方式を採った。この「家紋の分類化」は「青木氏の家紋群」は別の目的の研究で判っているので、その「家紋群」が各県毎にどの程度の数を持っているかを調べた。
先に「青木氏の歴史上の分布域」が判っているのでそこを調べて、その隣接する地域にも拡大分布していると判断して広げていった。
凡そは掴めたが問題が出た。その問題は予想はしていたが、「虚偽に家紋」を使っている事でデータの信頼度が低くなる事であった。
虚偽の家紋は平安末期、室町期末期、江戸初期、江戸末期、明治初期に行われた。
夫々、状況が違った形で使われた。平安末期から特定の氏に使われ始め、当初は「象徴紋」としてであったが、その後に武士の台頭で家紋化していった。
特に、「荘園制」で「名義貸しの行為」からその内には「家紋」も勝手に使われるようになった。
室町末期は下剋上の終末で勃興した家臣が主の家紋を盗用する事が起こった。
江戸初期は旗本御家人が競って家柄を誇張する目的からすべての家臣は家紋を持つ様に成った。
この時も元主の「家紋」を偽って使った。
明治初期は「苗字令」に基づくもので全て「家紋」に関係の無かった9割の庶民は「家紋」を持ったが、「家紋」を考える余裕が無かったことから便宜的に周囲の気が付いた家紋を使用した。
何れの時期も「類似家紋]か[丸付き紋]を使うのが良心的行為ではあった。
殆どは「虚偽の家柄」を誇張する目的から使った「家紋」が多かった。
これは「家紋」は「氏と姓」、「宗派」、「地域」などと関連している為に矛盾が出てすぐに判別できるが、結局は”矛盾の持ったデータ”が出来上がってしまった。
結局、「家紋分析」から最後にこの「虚偽の洗い出し」をしたが、矢張り信頼度が低下した。
最も多かったのは「宗派の判別」の虚偽、次ぎは「氏姓ー族の判別」の虚偽、次ぎは「地域、国別の判別」の虚偽、等であった。
江戸期を含む以前は、原則「国抜け制度」で「自由移動定住」が「斬罪の禁令」であったにも関わらず、現代風の「自由移動」に考えて、それの「過去の慣習の知識」を忘れて他県、他氏、他家の家紋を使っている虚偽であった。
そもそも江戸期前の「氏家制度」では、「慣習と仕来りと掟」に依って成り立っているものであるにも関わらず、これを無視した様なこの様な「搾取による虚偽」が横行していた。
この状況は完全に見抜けるのだが、無視して使っている。
筆者は、この「虚偽」は明治後のかなり後の時期にその末裔が書き改めたものが多かったと観ている。
殆ど、この「慣習仕来り掟」の「縛り」が民衆の中に消え去った後の書き改めによるものである。
特に「家譜」などはほとんどが「虚偽」である。
第一、「家譜」をどの様にして作るのかと考えればすぐに判る筈だ。
家譜を作るには、その記録の保管と継承が必要で、そもそも江戸期前には下級武士以下の者にはこの”先祖を手繰る慣習”と概念もなかったし、それを行うのは「密教の菩提寺」で行われていた。
菩提寺を持つ事が出来る氏であれば可能であるが「姓族」にはこの習慣は元々無かった。
にも拘らず、「系譜」を作り上げている。
先祖が一人ひとり死ぬごとに書き足していったのか、書き足していったとするとそのようなシステムを敷いているくらいの「相当な家」(守護や大名クラス)であったのか、歴史家でもないのにそのデーターをどこで調べたのか、殆どが同じ筆跡で書いていると云う事は誰か一人が作ったのであって、そのデータをどこから持ってきたのか、唯一、江戸期以前は全て氏の運営する「菩提寺」で”限定された身分の氏”が管理されていたのである。「檀家寺」はあったとしても「人別帳」で代々の累計はない。一代限りである。その「菩提寺」も判らないし「過去帳」もない状況でどの様にして作ったのか甚だ疑問である。
江戸期初期に「家康の宗教改革」では、「浄土宗」は「密教」であった事から、その慣習は厳しく、これを改めたのが「家康の浄土宗督奨令」であって、特定の「上級武士」だけに認められた「菩提寺」であった。
それも「密教」では無く、「一氏一寺」のでは無く、全て「檀家方式」による「浄土宗寺」でもあった。
この様な慣習などがあったにも関わらず「家譜」を堂々と前面にして家柄を誇張する「姓名」が多い。
「家譜」と連動して「家紋分析」にも、最もこの「虚偽」のものが多いのだ。

注記
(注記 筆者は「姓族」が全体の9割を占める状況の中で、室町期以前に「家譜」を持つ事は100%あり得ないと考えていて、それなのにそれを公然と「家譜」として公表するなどの行為は納得できず殆ど信用していない。
もし、これらの「家譜」を「家譜」として認めたら日本は古来から9割の人が武士で武家であった事に成ってしまう。そんな論調はわざわざ採り得ない。
そもそも、参考の為に、江戸時代には「武士」を「武家」と呼称しているが、学問的には「武家」とは「公家」に対して朝廷が認めた呼称であって、原則は僅かに認可された「48氏」がこれに相当した。広げたとして鎌倉期に准認可の形式を採っている「180氏」の範囲に留まる。
その筆頭が奈良期に賜姓族が「三つの発祥源」として認められて最初に臣下した「青木氏」が、「武家」と呼称する事を許された最初のもので、この後に「48氏」が認められている。
この「48氏」の多くは、「藤原氏北家一門」(公家)から武家に成った「氏族」と、阿多倍一族の「氏族」が大半であり、この根源から出自した180氏に成る。
「源平藤橘」の他の族は多くは滅亡している。
そもそも日本は「二つの族」に分けられる。
「姓族」(かばね 姓名:せいめい)と「氏族」(うじ 氏名:しめい)とに分けられているし、日本語もその様に分けられてこの「二つの言葉」が未だ遺されている。この事を考えれば自分がこの二つの内のどちらの族であったかは判る筈である。搾取・偏纂・虚偽しても判る筈なのに判らない人にだけ騙す行為である。
そもそも「氏族」と「姓族」とは同じ系譜等を持つ事は絶対にないのだ。
「姓族」は最初に発祥したのは、瀬戸内の某寺の記録に出て来る範囲では、室町期末期の”「海部族」”と”「塩飽族」”であり、その多くは瀬戸内から出ている。
その後に室町期の勃興で立身出世した者が「姓」を名乗ったのが最初である。
この「姓族」には「職能集団の姓族」と「立身出世の姓族」(農民)との2流がある。
「姓族の姓名」を持つ家が「氏族の氏名」のルーツを持つ事は原則無いのである。
よく搾取・偏纂・虚偽として用いられているのは、端的なのは「源氏」であろう。
判り易い例は、「姓名の家」が「氏名の源氏」では絶対に無いと云う事だ。
筆者は歴史を論じる時、この編のところを明確に正確にする事に務めているので、他氏の事は兎も角もそのつもりで「青木氏論」をお読みいただきたい。

(下記「馳走の説」等でも世に論じる事を憚れる事を当時の「生の慣習」として用いられていたので、「歴史の真の意」として論じたのもこの為にある。違うと思うのであれば放念放棄されたい。)

データ採取
そこで、「守護神の神明社の研究」の存在分布と歴史的経緯の記録データを使ってこれを補正した。
しかし、確かに信頼度は向上したが、論文にするには問題があるとして、別の方法を用いて補正する事を考えてデータを集めた。
疑問や問題が出た時は、現地の歴史等のマニア仲間に依頼して調べた。約10年かけた。それが次ぎのデータであった。
このデータを統計学でパラメータ化してエラーとバイアスを抑える事に務めた。(CP=1程度)
(末尾 参照)
この様に「来場記帳」のデータと、「ルーツ掲示板」のデータに記録されているデータと、筆者が過去に研究した古い時代の青木氏の「定住地論」と「守護神論」や「家紋分析論」等を基本にして比較勘案して分析する事にした。(投稿済)
何と結局、「分布図」、「伝統力」、「子孫力」「子孫拡大力」としての論文に30年かかった事に成る。
出来て仕舞うと、大した論文ではない気もするが、「青木氏の伝統の解明」では一つのやるべき研究が出来た気がする。
その結果、次ぎの様な結果が出た。本論末尾に記載する。

結論から云うと、明治以降では、基本的に ”青木氏はあまり移動していない。”が云える。
では、”何故、他氏と同じ様に自由に拡大分布しないのか”が疑問と成る。
筆者は、「清和源氏頼信系の源の義経」の家来と成って、全国津々浦々に子孫を拡大させ、日本一の氏となっている「鈴木氏」を研究した事があり、研究室にも論文を載せている。
その「分布状況の原理」とは大きく異なっている事が判る。
それは「分布の範囲」と「分布の仕方」に違いが出ている。

そこで、主にこの「二つの事」(「分布の範囲」と「分布の仕方」)に焦点を当てて、「青木氏」を炙りだ出す事にする。
そこから、「青木氏の伝統」の”「土台」と成っている「物事」が何であるか”が観えて来る筈だ。
そこで、”青木氏の子孫の分布力”に、先ず、”変わった事”が起こっているので、判り易くする為にそれを先に論じる事とする。

それは次ぎの事である。
”パラメータが妥当に取れなかった地域が存在する事”である。
「青木氏」が歴史的に見て存在し得ない地域にはデータは採れないのは当然だ。しかし、”存在し得ていた地域にも関わらずデータが採れない”と云う現象はおかしいのである。
つまり、”何かがあった”から採れなかった訳であるから、”それが何であるか”を浮き出させる必要がある。
本題の「分布図」、或は「子孫力」「伝統力」「子孫拡大力」云う意味で重要である。

「三つの現象」
それは次ぎの「三つの現象」に分けられる。
A 歴史的に確実に存在している筈であるのに確認できない地域
B 存在しなかった地域に存在している地域
C 存在しても多すぎるか又は少なすぎる地域

この「三つの現象」を先ず分析すれば、「青木氏」の全体の「子孫力」「子孫拡大」の状況が把握できる。
この「子孫拡大の状況」とは、「分布図」「分布力」「伝統力」に絞って論じる。
これらの分析に用いる情報は、「研究室」「ルーツ掲示板」「家紋掲示板」「地名地形データベース」等の殆どの論文に記載しているものを用いる。
既に、これを読んで頂いている場合はよりこの論文の理解が深まると確信している。
それを前提にしている。依って、若干、これらの情報は本論では改めて理解を深める為に各所で重複するところがある。
詳細は、これらを参照して頂く事とする。

それではABCに付いて論じる。
このABCは連携している。何らかの原因があったからABCが生まれているのだから、Aを中心にBとCを関連付けて論じる事とする。

A パラメータが採れなかった地域
筆者の研究データやルーツ掲示板や家紋分析等では、「青木氏の分布」は確認出来るが、10年間でのデータ採集では不思議に採れなかった県である。
「現在の状況」を「来場記帳」と「ルーツ掲示板」の二つの内容と「家紋分析」等を用いて数値化(パラメータ)したもので、表したものであり、「来場記帳」は10年間の「200件」、「ルーツ掲示板」で10年間での「1千件」のデーターを使用している。
これに「家紋分析や守護神や定住地論」等で調整する。
では、次ぎの県からの直接の記帳はない事である。
「他の地域」から観て、「下記の地域」のルーツとしてのデータはあるが、地元からのデータは確認できない地域である。
しかし、「過去の状況」は「定住地論」や「守護神論」や「家紋分析」などで数値化を出来るものでは、”確認できない”と云う事ではない。「現在の状況」である。
この「パラメータの有無」は、”存在しない”と云う必ずしも前提ではなく、「過去の状況」に比べて、「有無」を含めた”何かの異変がある”と云う事である。

[地域別分布力]
「地域別」では「青木氏」は次の様な「分布力」になっている。
全国平均(全国単位 % 表ー1)
地域      異変の県        分布力
九州地方   長崎、大分       5%
四国地方   高知          2.5% 
中国地方   山口、岡山      2.5%
関西地方   三重(筆者ルーツ) 14%
東北地方   秋田           7%
中部地方                15%
関東地方                45%
北海道・沖縄               6%
その他                   3%

地域平均(地域単位 /県 パラメータ 表ー2)
九州地方  1.3
四国地方  1.3
中国地方  1.3
関西地方  4.7
中部地方  4.3
関東地方  11.3
東北地方  2.0
その他   11.0

「青木氏」は現在も以上の様に分布している。

修正地域(表ー3)
長崎 4 宮崎 6 岡山 4 香川 8 徳島 1−7 三重 12 福井 4 愛知 13−7
秋田 1

「青木氏の分布力図と伝統力図」(表ー4)
九州地方(5%) 中国地方(2.5%)四国地方(2.5%)関西地方(14%)中部地方(15%)
福岡  2   山口  0   愛媛  3     兵庫  3    三重  1
長崎  0     島根  2   香川  1     大阪  14   石川  2
佐賀  1     広島  3   高知  0     京都  5    福井  1
大分  0     岡山  0   徳島  1     奈良  1    岐阜  3
熊本  4                        和歌山 4    愛知  13   
宮崎  2                        滋賀  1    長野  9
鹿児島 1                                  山梨  1

域平均 1.25 平均  1.25  平均  1.25  平均  4.7  平均  4.3        

関東地方(45%)東北北陸地方(7%)沖縄、北海道地方(17.5%)
静岡  5    青森  1     沖縄  1
神奈川 21   山形  2     北海道 11
東京  18    岩手  1
埼玉  17    新潟  4
群馬  6    秋田  0
千葉  11   福島  4
茨木  4    宮城  2
栃木  8                                     

域平均 11.3  平均  2.0   平均  11.0  


ところが、この「異変の県」Aの7県は意外な県ばかりである。

「長崎」
先ず、「長崎」は「藤原秀郷流青木氏」で、鎌倉期に赴任後に定住して「青木村」を形成する程の「子孫拡大地」である。「家紋分析」から「116氏ー24地方」もの「子孫拡大」である。
この勢いは現在も確認できる。この「異変の県」は「116氏ー24地方」の一つである。
絶対に0と云う事ではない。九州地方は全体で5%で、九州地方のAVE1.5であるとすると、少なくとも「九州と云う地域性」から観て、パラメータは2−5の中にあり、これに「定住地論」と「守護神論」や「家紋分析論」等から勘案すると、6は超えない。
恐らくは「青木村の形成力」から観て「長崎」はパラメータは本来は5であろう。
しかし、異変は0を示している。(下記)
そこで、この異変の県「長崎」のパラメータを推測するには、九州の他の歴史的な繋がりのある地域のパラメータを先ず吟味する必要がある。

「大分」「山口」
次ぎはBに属する「大分」と「山口」である。
確かに歴史上は何れも「青木氏」としては直接関係のある地域ではない事は確かである。
しかし、この2県には「藤原秀郷流青木氏」が鎌倉期と室町中期に一部に移動している史実があるが、「子孫拡大」がされていない事が云える。
特に、「山口」は「2つの青木氏」にとっては移動しにくい条件が鎌倉期ー室町期中期までにあった。
ここは藤原氏北家外の「皇族系の公家衆」が逃げ込んだ地域でもある事から、平安初期から観て「青木氏」の「皇族賜姓族」としての立場上では難しい地域であった。ここは毛利の前は室町期は「陶氏」が中国全土を抑えていた。
この「陶氏」は、後漢帰化人の阿多倍王の首魁が引き連れて来た職能集団で、その中でも勢力を持った「姓族」であり、「朝廷の官僚族」を牛耳っていた一門でもあり、平安期の平族の支配下にあって平族が滅亡した後も勢力を伸張させた。
「賜姓族青木氏」からするとこの勢力範囲は「親地域」では無かった。
依って、官僚の「公家の逃避地域」でもあったことから、今も然ることながら室町期まで定住分布に至る状況は観られなかった。パラメータが0である事には問題ではない。
むしろ、「分布できない地域」であったのである方がおかしい地域である。

特に、ところが一方「大分」は特別賜姓族の「藤原秀郷流青木氏」との関係が深く、「大分の豪族」が関係強化の為に室町期に武蔵と常陸にまで往来して関係を保っていたほどの地域でもある。
直接、「青木氏」が定住移動した記録はないが、関東に大分の「佐伯氏」が存在している等から観ても、ここに室町期の豪族の支流末裔の「青木氏」が無かった事は考え難い。
逆に、関東の酒井氏(青木氏族永嶋氏)が大分に存在する事からも「青木氏」が存在していた筈である。
(九州進藤氏も極少数ではあるが永嶋氏と同じ分布力があった。)
この大分の分布が「九州の地域性」から観て、「大分」と同じ状況であった「佐賀の1」に相当していて、結局は小で支流化して「氏か姓」として維持できなかった事に成る。
即ち、青木氏の子孫を遺せなかった可能性が大である。

そもそも、北九州としては、鎌倉期末期に藤原秀郷一門の「青木氏」と「長谷川氏」や「永嶋氏」等と、北九州と云うよりは九州全体を支配下に置いていた元「太宰大監」として自治を認められていた「大蔵氏族」との血縁を結んでいる記録がある。
その末裔が現存している事から、「菊池氏」や「酒井氏」や「宗像氏」等との支流族が確実に生まれていた。
この事は「家紋分析」からも「神職一族」との血縁が生まれていた事が確認できる。
しかし、「長谷川氏」や「永嶋氏」が子孫を大きく残しているにも関わらず、「秀郷流青木氏」との末裔は遺されていない。
この「秀郷流青木氏」は絶えた又は子孫を遺せなかったのでは無く、「武蔵の本領地」に戻った可能性が高い。「家紋分析」に表れて来ないのである。
それは「秀郷流青木氏」には「秀郷一門の護衛」と云う職務と、「本領の守護」の責務もあり、「朝廷の護衛」との官職の守らなければならない「三つの役職」があった。
更には、「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」との連携による定住関係地に「守護神の神明社の建立」と「青木氏族菩提寺の建立」の役職もあった。
従って、この為には、「子孫」と「血縁関係族」を絶対的に増やす必要があったにせよ、「子孫」を必要以上に拡散させる事が出来なかった絡みがあった。
これは一面では、秀郷一門の「赴任地の子孫定住の戒律方針」と矛盾するところがあったが、九州域に「青木氏」を定着させて子孫を増やしたとしても、維持費にばかり経費が掛かり役目を果たす上での利点が少なかった事が云える。
特に、上記の表でも、関西以北の定住地に比べ、九州地域は「疎遠の地」でもあった事から「長谷川氏」や「永嶋氏」などと異なり、必要以上に「護衛力として残す必要性」はなかったと考えられる。
それは、「大蔵氏」と云う九州全土を有形無形に「支配する背景力」が厳然としてあって、それに頼ったと云う向きも大きかったのである。
むしろ、筆者は、「青木氏」と「進藤氏」は積極的に戦略的に”引いた”とする判断をしている。
何故ならば、この「大蔵氏」と「秀郷一門」との間の血縁を取り持った「進藤氏」も北九州では血縁をしながら引き揚げているのである。
この「進藤氏」は家譜や添書などから観ても「子孫拡大力」が非常に弱く、「一門の仲介役」を担っていた為に各地に分散させるより関東以北の拠点を固める必要があった。
これは一門の「第二の宗家」と呼ばれた「青木氏との連携」による結果であった事が判る。
両氏が共にその「氏の持っている事情」から引き揚げた事が判る。
九州に子孫を遺さなかったのである。

注釈
(進藤氏は鎌倉期末期とは別に「定住の時代性」は不詳ながら僅かに北九州の東域に確認できるが、室町末期か明治初期の「第三の進藤氏」である可能性が高い。
そもそも、「青木氏族」の「秀郷流進藤氏」は関東以北に支流一族を拡大させている。
あるとしても「阿波国」に赴任していた「北家藤原利仁流進藤氏」であるかも知れない。)

この様に、九州には血縁しても「一族末孫」に至るまで一切本領に戻さなければならない「秀郷流青木氏族」には厳しい内なる「環境条件」があったのである。
尚、この「内の環境条件」のみならず、更には「外の環境条件」にも厳しい「一族の賜姓族の戒律」で縛られていた。
「青木氏と進藤氏」は、共に”「大蔵氏との強い背景」”が無ければ「疎遠の地」として子孫存続に関わる「三つの条件」が成立せず、生き延びる事が出来なかった。
この「強い背景」とは、”「大蔵氏」の中に溶け込む事”を意味する。
つまり、端的には”「大蔵氏系永嶋氏」に成る事”である。
「秀郷流青木氏」は皇族系に絡む「賜姓族」である以上、その立場上の絡みから、「大蔵氏系青木氏」は元来成り立たなかったのである。
「氏家制度」の中で「身分、家柄、官職、官位」から「青木氏系大蔵氏」は成り立つにしても「青木氏の戒律」からこれを許される事ではなかった。
その根拠は、南北に大きく子孫を拡大させた「九州大蔵氏系永嶋氏」の「生き様の経緯」が物語る。(ルーツ掲示板参照)
この背景から、しかし、ここ「大分」には「青木村」はない事から数字的に観て、0或は1であろう。
パラメータの0はこの様な由来はあったにせよ納得できるものである。

「宮崎」
ところが、因みに、その由来として、近隣には、「宮崎の2」については次ぎの様な経緯がある。
理解を深める為に特記する。(上記「長崎」を評価するには大変に重要)
「宮崎の廻村」から「鹿児島の大口市」にかけて「清和源氏」の「宗家頼光系四家」の「頼政の孫(仲綱の子)」で、「宗綱」と「有綱」、それに叔父の「高綱」が「以仁王の乱」(源の頼政首謀)で「伊勢青木氏の助命嘆願」で許されて、特例を以って「宮崎廻村」に配流となった。
この時、世話を受けた土豪の「廻氏」との血縁による「配流孫」が生まれ、この土地の豪族の廻氏と周辺の土豪勢力等を使って、再び、北九州を守護していた「日向平軍団」を攻めた。
しかし、敗戦して懸命にこの「配流孫」を護って「薩摩大口村」まで何とか辿り着いたが、ここも攻められた時、大口村の住職の忠告でこの「配流孫」は、「嵯峨期詔勅」に基づいて、伊勢の「青木氏」の末孫を名乗った。
「伊勢青木氏」は「不入不倫の権」で護られていた為に、この時「配流孫」は一命を取り留めた。
ここには許される訳があった。
実は「頼光」の孫(「仲綱」の子)の三男で、乱に参加していなかった「京綱」は「伊勢青木氏の跡目」に入っていた。「清和源氏の四家」を「源平の戦い」で絶やさない為にも、事前に仕来りに従い同族跡目に入っていた。

(頼政の領国の伊豆国は「伊勢青木氏」を中心に「信濃青木氏」も加わり護っていた。頼光の経済的背景はこの伊勢と信濃の「二足の草鞋策」があった。)
上記の「助命嘆願」もこの「伊勢青木氏」からであった。その理由は、「伊勢北部伊賀地方」を「半国割譲」して「平族の領国」としていた「伊勢平衆」と、「伊勢青木氏」とは「伊賀和紙の殖産」を通じて隣国外にも繋がって強い親交があった。)
この経緯で「平族」は手が出せず「伊勢青木氏系日向末孫」として生き残った。
(不入不倫の権で保護する義務もあった。)

この「伊勢青木氏の配流孫」は、その後、「大口村」を山岳地を開墾しながら「黒田藩の傭兵の農兵」として働き、勲功を立て「苗字帯刀」、「五七桐紋の家紋」と「布衣着用」と「登城の権利」と「墓所の許可」を与えられ、「郷士の身分」(政治的背景)を獲得して、「三つの条件」の「経済的背景」(傭兵・開墾地)を得て明治期まで子孫を大いに拡大させた。
これが「日向青木氏」である。
この「日向青木氏」の「子孫拡大」は、「パラメータ2」に相当する程度に九州に初めて正規に「青木氏」を定住させた。これが「日向青木氏」であるが超有名人も現存している。
この九州に、独自に初めから「日向青木氏」の2のパラメータの「分布力」で発祥させた事から勘案すると、「大分、山口」のパラメータ0としても、上記する「日向青木氏」の経緯から見て、その「分布力の根拠」はないのでパラメータ0であろう。
逆に、「日向青木氏」のパラメータから観れば、「長崎」は現在はパラメータが0ではあるが、「長崎の推定 0−5」は妥当であろう。

さて、そうすると、上記の経緯から観て、「日向青木氏の2のパラメタ」は妥当なのかと云う疑問がある。これを確定させれば、上記の「長崎」はこの推定パラメータを確定できる。

そこで、確定させるには九州地域にはもう一つCの異変があるのだ。

「熊本」
それは、「熊本の4」のパラメータは「大分、山口」以上に全く「青木氏の根拠」がない地域である。Bである。
従って、この「日向青木氏の2」と「熊本の4」とを分離して考察することには問題がある。

恐らくは、この「日向青木氏の子孫拡大の方向」は「熊本域の横方向」にも広がったのではないか。
「熊本の4」は、ここには「青木氏の歴史」は全くない。
それにも関わらず全国平均の4のパラメータを確保している。
「パラメータの4」を得るには「歴史的な発祥根拠の定住」があって得られるものである。
元々、九州全土は、”何れの青木氏”に於いても「青木氏の歴史的発祥根拠」が本来は無い地域である。
あるとしても、上記した様に「日向青木氏」だけであり、「長崎」は「藤原秀郷一門の赴任」による「青木氏の護衛同行」が原因としての鎌倉末期から室町期初期の「移動定住」である。
「子孫拡大」には、現在と違い放って置いても単純に拡大すると云う生易しいものではない。
戦乱に近い状況の中では、主にその「経済的背景」(三つの条件)があってこそ拡大する。
要するに、「子孫拡大」=「経済的背景」+「武力的背景」+「政治的背景」にある。
この「三つの条件」のどれを主体にして「子孫拡大」を図るかにある。
その「氏」のこの「三つの条件」をどの様に生かすかによるが、「藤原秀郷流青木氏」(116氏)の様に、この「三つの条件」を平均的に高いレベルを保持して「子孫拡大」を果たした氏もある。
では「皇族賜姓青木氏」はどうであろうか。

1に「経済的背景」、2に「政治的背景」、3に「武力的背景」で「経済的背景」(1 「二足の草鞋策」)を基に「シンジケート力」(3)が補完していた。
「政治的背景」(2)は「皇族賜姓族」と云う保護された優位な背景があった事は他氏に比べると有利であったが、それなりにその立場を生活の中で生かさなければならないと云う責務と苦悩があった筈で、一概には有利とは云えない。
特に「子孫拡大」と云う点では制約が働いていた。
他氏と比べて著しい「慣習仕来り掟」の「厳しい戒律」に縛られていたのである。
特に「子孫拡大」に於いてこの「慣習仕来り掟」の「戒律」は大きな障害に成っていた筈である。
その為には「家訓10訓」等で「一族の行動」を制約されていた。
特に「血縁」を”「純潔」の「古来から戒律」(無形の伝統)”があった中では、”「一族の子孫拡大」がなされなければ「純潔の子孫拡大」はない”と云う何とも理解できない矛盾する条理に縛られていた。
兎に角は、依って、「子孫拡大」はこの「三つの条件」を何れにしても全て大なり小なりに持ち得ていなければ成し得ない事になる。
従って、「ねずみ算」の様に「子孫拡大」は望めない事が判るし、それ故に、「福井越前などの保護地」などの政策を採ったのである。
しかし、この「日向青木氏」には「伊勢青木氏族」とは云え、この「厳しい縛り」は全く無かったが、逆に、「発祥の基盤」(子孫を生み出す慣習)も何一つも無かったのである。
この「熊本の4」の「青木氏」には「三つの条件」を保持している歴史的経緯は全くない。
従って、「熊本の子孫拡大」は4であろうが何であろうが、本来は成し得ない筈である。
しかし、パラメータは「全国平均の4」である。
急に拡大して得られるパラメータではなく無視できない地域であるとすると、では、何なのかである。
「定住地論」や「守護神論」や「家紋分析論」をベースに考察吟味して勘案すると、答えは確実に出る。特に「家紋分析論」が大きく判定を加速させる。

その前に、上記に論じた様に、「氏族」の「上級武士」の「子孫拡大」は「子孫を生み出す慣習」の如何に左右される。この事に付いて先に論じて置く。

・「子孫を生み出す慣習」
この九州では「青木氏の歴史的経緯」の無いところから、「子孫を生み出す慣習」は「厳しい戒律」に縛られた「賜姓族」としては、唯一、血縁外に「子孫力」を高める手段として社会的に認められたものがあった。それは下記の慣習であった。
つまり、「現地の土豪」からの嫁取り等の「傍系支流の末孫」である。
「子孫を生み出す慣習」として、平安期末期から起こった「皇族などの氏族」にはそもそも許された「戦地妻の制度」があった。
赴いた地方の「現地の土豪」に「支流末孫」を故意的に作り上げて一族一門の勢力を拡大させる手段である。
この手段の「婚姻外」で現地の土豪の娘(娘が無ければ縁者の娘 更になければ家臣の娘で子供が出来れば「養女」として迎える。)、或は、中には妻を宛がってその氏族に子供を作らせ「現地の末孫」を作り、認知してイザと云う時には一族として”馳せ参じる”事とし、その勢力を維持する「正式な制度」であった。
この時、現地妻に「末裔」が出来れば、その傘下に正式に組み入れられる仕組みである。
俗に云う「馳走」の語源は、一般的には、「馳せ」は、”「馬の状態」を云い「馬」を駆けずり走りまわして食材を集めて食事する事”となっている。
しかし、これだけの意味だけではなく、語源の平安期の時期から観て元々この慣習から来ていると云われている。
食事からこの行為までの”遇し”を古来では”「馳走」”として常識化していた。
「馬の食事説」では、平安期では”お相伴に與かる”と成っていて、”馳走に與かる”とは異なっていたが、その内に明治期に社会制度が変わった事から「馬の食事説」に成ってしまった。
高い身分家柄の者が土地の土豪勢力などの”遇し”には、必ずと言ってもよいほどに慣習事として採用されていた。特に、平安末期から室町期中期まで採用されていた。
況や、「荘園制」との絡みの中で積極的に用いられた。
これは、現在からすると、”不道徳”と見なされる行為であるが、社会制度の異なる「氏家制度」の中では、「氏の構成」を”最高目的とする社会”では異常と見なされる事ではなく、「氏の構成」を目的とする限りに於いて当然の範囲の行為であった。
「氏の構成」即ち「子孫拡大と存続」は「最大の命題」であったし、その為の「一夫多妻の環境」の中の「習慣」では当然の行為であり、両者が進んでこの行為を容認していた社会であった。
ある「勢力の傘下」に入って「氏」を護らねば生きてゆけない社会であったからこそ認められた行為であった。
つまり、「御相伴」と「御馳走」とは持つ意味が違っていたのである。
そもそも、”走り”の深意(裔から族に至るまでの経緯を”走”とした意)と、”馳せ参じて”の”傘下に入る”の意味なのである。
これを清和源氏などが主に「荘園制度」を通じて積極的に用いた「戦地妻の制度」で、要するに、この「二つの制度」を通じて生まれた族が「未勘氏族」である。
現地の大小の土豪の荘園開発主に、この「戦地妻の制度」で子供が生まれなくても「名義借り」をして「源氏族」などを名乗った。

”源氏、源氏”と騒いで書き記して誇張する系譜は、殆どが「姓族」でありながら「氏族」ではないのに偽っているものである。多くはこの「戦地妻の制度」にて生まれたこの「未勘氏族」である。(荘園制度にもこの制度を併用した)
特に「藤原秀郷一門」はこの制度を「24の地域」に掟として積極的に採用した。
上記「長崎」もこの「赴任地発祥」の「24の地域」の一つである。
「藤原秀郷流青木氏116氏」の「24の地域」には、全てに「青木村」を形成していないが、「長崎」には「青木村」、「日向青木氏」にも「青木村」があり、この「青木村」がある事は「戦地妻の制度」よりも、別の方法として「赴任地」に「嫡子外の嗣子」(妾子扱い)を残して、「土豪との血縁」を進めた地域である事を示す。(「戦地妻の嗣子」の場合は「青木村」は形成出来ない。)
この「赴任地の嗣子制度」は「藤原氏の男系継承」を前提として子孫を遺した事を意味する正式な慣習であった。
「子孫を生み出す慣習」にはこの「二つの慣習」(戦地妻 赴任地)が多く利用された。
しかし、この「熊本の4」はこの何れにも適合した履歴はない。
つまり、そうすると「長崎」か「日向」からの「拡大分布」による事に成る。
そうなると、既に「長崎の青木村」を形成している以上は藤原秀郷一門では無くなる。

・「青木村」と「五七の桐紋」
その理由は、そもそも、”「氏名」を使った村名”は、「朝廷の許可」を得て「賜姓族」にしか許されていなかった。同じ「賜姓族」でも許されなかった氏もある。
例えば、「天智天皇」の「第6位皇子の施基皇子(青木氏)」の弟の「第7位皇子」の「川島皇子」も特別に賜姓を受けていながら地名の佐々木から近江の「佐々木氏」の賜姓を受けた。
「嵯峨期詔勅」では、更にこれの使用を禁じて正式に強化した。
従って、故に「青木村の存在」は一つの「青木氏の判断材料」と成る。
「地名」から「氏名」や「姓名」としたものはあるが、「賜姓の氏名」からの「村名」は青木氏外に無い。

この様に「青木村」が存在すると云う事はルーツの大きな決め手になるのだ。
それは「家紋分析」と「家柄身分」と「宗派」と「職能」で判断できる。

そこで、この「熊本の青木氏」の家紋を調べると、多くは「五七の桐紋」である。
後は、中には”「丸付き紋」”の明治期の家紋もあり、「墓所」には、この家紋を入れた墓所もある。これは明治以後に使用されるように成った花崗岩(ミカゲ石)が墓石である。(それ以前は仏説にて砂岩が仕来り)
「丸付き紋と花崗岩」のこの慣習事は「子孫拡大」が大きく起こっていた事を示すものである。
そもそも、「桐紋」は「天皇家の式紋」であって、「丸付き紋」共に禁令紋であったが、それに「丸付き紋」を付けた事は、独自に「丸付き紋」にしなければならない「子孫拡大」があった事を示す。
江戸期前に、この禁令を当時まだ破る事は出来ない筈で、資料としては出来て確認していない事から「桐紋の丸付き紋」の使用の物語るものは、元来「子孫拡大の多様性」があった事に成る。
そもそも、「象徴紋」系には「丸付き紋」は用いない。武家が用いる「本家分家の慣習」もない事から、当然に「丸付き紋の慣習」もなかった。
つまり、その慣習の無かった中で、この様に「禁紋の家紋」の「多様性」”があった事は、”「子孫拡大」が大きかった”事を示す。
「青木村」に集中する墓所のこの様な「家紋状況」を観る事で、その一族の子孫拡大の状況は掴める。
本来の「墓所の石」は古来の仏説により「砂岩」を”土に帰る”を基に由としていた。
しかし、それを砂岩から花崗岩にした事は、明治期の行為であって、その氏の「子孫拡大の証」に成る。

・「熊本」「宮崎」の吟味
先ず、「熊本の4」では次の事が判断要素となる。
一つ目は「墓所の桐紋」が使用されている。
二つ目は「青木村」は形成されていない。
三つ目は宗派は日蓮宗が多い。
四つ目は明治以後の履歴と過去帳は持たない。
五つ目は黒田藩の農民か傭兵の農兵である。
六つ目は「熊本の4」の発祥地域が南の鹿児島よりの熊本の「球磨郡」領域である。

考察すると、「熊本の八代郡」を境にして北部の阿蘇郡と菊池郡には分布は無い。
地理的条件と豪族が間に存在していた事から、そこを貫いて北九州側に出る事は出来なかった。
貫いていたら「戦いの渦」に巻き込まれ4のパラメータが得られない。
先ず、この阿蘇郡や菊池郡などの豪族には大蔵氏との血縁をしている。
その大蔵氏の背景を貫く力は無かった筈で、この地域に限定していた事に成る。
この事から”縦の南端の大口村”を起点として、そこから「山岳部の西」に真直ぐに拡大した事が判る。
北部には「大蔵氏」をはじめとして「菊池氏」「宗像市」「酒井氏」などの「神職系の大豪族」があって壁を作り、北部には伸びる事は絶対に出来なかったと観られる。
従って、「農兵や傭兵」として上記した様に伸びる為の「三つの条件」が何であったのかと云う問題であるが、この何れにも無く、それは次ぎの二つにあった。

一つは「山岳部の開墾」で「移動定住」
二つは「傭兵」にて「移動定着」
以上この二つにある。

(何れの領主にも属さない民は、「山岳部の開墾」で生き延びた。「源平の戦い」で敗れた平氏はこの「山岳部の開墾」で生き延びた。俗に云う「山族」である。)

さて、ここで問題なのは四つの国と神職系の豪族の壁がありながら、”「黒田藩との関わり」は何処で起こったのか”と云う事に成る。
「日向青木氏」が「傭兵」として働いた黒田藩は筑前福岡である。
「日向」にしても、「肥後」にしても間には豊後、筑後、肥前、豊前の「四つの国」が存在している。自然発生的に関係保持の「子孫拡大」は到底に無理である。
従って、明らかにこの「藤原氏北家の条件」に合致しない。
依って、上記の様に全て「日向青木氏の経緯」に合致する事から、「日向青木氏」が鎌倉期以降に「宮崎廻村ー鹿児島大口村」の「日向灘の縦方向の拡大」と、横に分布して行った事を示す。
それは「山岳地開墾」を行った事により、「傭兵、農兵」として横にも移動していった事を示す。
つまり、「山岳開墾」はこれを積極的に行ったのは「黒田藩」であるが、”黒田藩の傭兵と農兵をしていて保護された「日向青木氏」”と成る。
記録では「黒田藩の農兵」とする意味の事が記されている
しかし、この「四つの国」が介在して西に伸長したとしても、”北域の黒田藩の「傭兵や農兵」は成り立つのか”と云う疑問が起こる。

・「桐紋の考察」
それを解く鍵があるのだ。
一つは、「墓所の五七桐紋」である。
(一部に間違って明治後に書き込まれたと思われる「五三の桐紋」(花崗岩)が使われているが、これは間違いである。
「五三の桐紋」は「天皇家の正式な式紋」で天皇家が室町期に財政難に陥らされた時に太閤秀吉に対して、妥協してこの「五三の桐紋の式紋」の変紋の「五七の桐紋」の使用を渋々認めて財政難を救った経緯である。
これを豊臣秀吉は、更にこの「五七の桐紋」を勲功のあった家臣に使用を勝手に許した。
この「五七の桐紋」は与えられた藩主が、更には、特に”勲功のあった限られた家臣”にも与えたものである。その一藩が豊臣秀吉の最大の信頼を置いた軍師の「黒田藩」である。
この「黒田藩」も同じ手口で、積極的に勲功のあった「家臣や傭兵」に与えた記録がある。
この家紋の使用と共に併用して「特別扱いの権利」も認可した。
「日向青木氏」がこの「家紋の使用」と「特別扱いの権利」を与えられた事は記録から史実であるから、間に「四つの国」が存在していても「傭兵」として黒田藩に参加出来た事を意味する。
問題はこの「傭兵の有り様」である。
「農兵」とも伝えられているが、「戦いの下働き」をする「農兵」は四つ国を越えての行為は「国抜けの斬罪」の適用を受ける事からこれを超える事は不可能である。
しかし、国を持たない「私的軍事集団」の「傭兵」は自由に動くことができる為に可能である。
「国境の山岳地の開墾」で「糧」を得ながら、時には「傭兵」に成る「軍事集団」で、四つ国を越えてこれを採用していた「黒田藩」で勲功を挙げたのである。
況して、この「黒田藩」は、”兵庫の姫路の頃の薬売り”から出世した小寺氏の頃から、この「傭兵」を盛んに用いた事は有名である。
「傭兵」を戦いに初めて積極的に用いた織田信長と共に有名な氏である。
(黒田氏はこの「織田氏の戦い方」を研究し踏襲した。)
「織田信長」は「紀州雑賀氏」と「紀州根来氏」の「傭兵集団」の「鉄砲技能集団」を用いて「浅井ー朝倉」の連合軍を攻め落とした事は有名で、これを習って豊臣秀吉と共に黒田藩は「傭兵」を盛んに用いた記録がある。
(「雑賀氏」は「鉄砲鍛冶の技能集団」でもあり、「紀伊水道の海族」で、更に「諜報活動」を職務とする「雑賀忍者」でもあった。)
(源の義経が平氏の船団を先頭に立って打ち破ったのはこの雑賀氏の海族である。「根来衆」は根来神社の僧兵軍団で「忍者系の軍団」である。この様に各地にある「傭兵集団」には夫々「専門職の職能」を以て合戦等に傭兵として合力する。)

この「傭兵」が九州では「日向青木氏」であった事が、墓所にこの黒田藩との繋がりで「桐紋」の変紋を用いている事で判る。
どの様な職能を専門とする「傭兵」であったかと云う事であるが、「日向青木氏」に黒田藩から与えられた上記した特典から観て、まさに「戦う兵の軍団」であった事に成る。
限定した「傭兵」の「職能集団」には、この「歴史上の記録」からも雇側はこの特典を与えていない事で判る。
後に「徳川氏に傭兵」となった「雑賀氏、根来氏」にはこの特典はない事からも判る。
「柳生氏」は最終は家臣と成ったが「諜報軍団」を専門としていて徳川氏の軍師の家臣と成った事からも判る。
紀州真田軍団は諜報と実戦の軍団で、豊臣側の家臣団と成って味方して家康を窮地に追い込んだ事で有名で、”実際に戦う軍団”に上記する様な特典を与えている。

そこで、農民のみならず庶民が「墓所の使用」と、それにこの墓所の「墓石に家紋」を用いる事は法度であったが、「郷士扱い」の「墓所 苗字帯刀、登城、布衣着用」などのこれら「特権」を黒田藩から明治前に許されていた事はこれを証明する。
「登城権」と「布衣着用」までを許されたとする事は「相当の扱い」で普通ではない。
「登城権」は「家臣扱い」で、「布衣着用」は殿様に会え意見を述べられる権利で、「上級武士」が持つ権利である。「日向青木氏」はこれに「布衣に家紋の使用」を合わせて認めている。
「傭兵」としては考えられない「破格の扱い」である。
この扱いは「傭兵の勲功」とは別に「日向青木氏」のルーツにあったと考えられる。
「郷士」ではなく江戸期に与えられた「青木氏」などの「特別の氏」の「郷氏」と観られていた事を示す。
黒田藩の間に介在する四つ国には「日向青木氏の記録」は発見できない。
この事から、「日向青木氏」は次ぎの行動を採った事が判る。
”縦の北の発祥地の廻村から大口村の子孫拡大”
”大口村を起点に西の横に山岳部の球磨郡へ子孫拡大”
以上を起こした事に成る。

それは「傭兵」てして、「日向灘の沿岸部」と「球磨郡への山岳部」の開墾で土地を確保して糧として生き残った事に成る。
その起点と成っている地域の大口村の山岳付近に「青木村」がある事からここに定住している「青木氏の本家」が現存する事も考えると、「沿岸部の日向青木氏」は「兵や物資」を輸送する「日向灘の沿岸部の総戦術・軍船」で活躍し、「山岳部の日向青木氏」は球磨郡の山岳技能を使って「陸送」を中心とする軍団と、何れでも実戦を伴う「戦闘軍団」をも形成して傭兵と成っていたと観られる。
これを指揮していたのは大口市の「薩摩の青木村」からであったと観られる。

依って、「熊本の4」と「宮崎の2」と合わせて「日向青木氏」は「6のパラメータ」を持ち合わせていた事に成る。

・「パラメータ 6」の吟味
では、このパラメータの6は妥当なのかと云う問題である。吟味して観る。
「以仁王の乱」から約500年間で、全国平均以上の「パラメータの6」の子孫拡大を図った事に成る。
「皇族賜姓族青木氏」は別格としても、「他の秀郷流青木氏の歴史期間」平安中期960年からの1000年間から観ても、500/1000で約半分とすると、関東地域の平均11.3のパラメータの丁度半分5.6であり、「日向青木氏」の「パラメータの6」は充分に納得出来る。
むしろ、上記の経緯から「パラメータの6」でなくては成らない筈である。
相当に「日向青木氏」は上記した様な背景から「子孫拡大力」は大きかった事を物語る。
ただ、この「日向青木氏」には「子孫拡大力」の「分布力」に比例する”「伝統力」は必ずしもあるか”と云う事であるが、残念ながら「傭兵」と云う事もあって、殆ど消失しているので必ずしもそうではない。
「伊勢青木氏族日向青木氏」と成るが、「伊勢青木氏」の様に戒律に縛られる事なく、「子孫拡大」が吐かれた結果である。
そこで、「日向青木氏」のパラメータは6とすると、そうなると、上記「長崎」は同程度の0から6としていた上記の推論は当たる。
上記の「長崎」は6以下であろう。「日向青木氏」から観れば6は超えない。


長崎に続く



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