青木氏氏 研究室
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  [No.320] Re:「青木氏の伝統 3」−「女紋」
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/07/29(Tue) 11:11:00

「青木氏の分布と子孫力」−12に関連投稿済



「伝統 3」

「女紋」

さて、「家の家紋」には、一般に使われない「女紋」「女墓」等の”女系に関する「慣習や仕来り」”があって、「青木氏」は、この「女紋」や「女墓」等の「女系のステイタス」も継承する慣習を持っていて、それに多くの「慣習仕来りや掟」が付随していた。
この「女紋」や「女墓」の事を知識として持ち配慮して検証しないと、ルーツなどには判明しない事が度々に起こるし、間違える事が出る。
そこで、今回の「摂津青木氏の検証」には、次ぎの「女紋」として家紋が大きく左右した。
以下は、この情報提供を受けて、「摂津青木氏の判定」がより確実となった。
なかなか、現在では、この「女紋」「女墓」等の習慣を継承している青木氏でさえ少なくなった。
「青木氏の慣習」に習って、勃興した上級武家もこの慣習に習って継承した経緯がある。
この「女の慣習」と云うべき「慣習仕来りや掟」は、主に江戸初期まで維持されたもので、江戸期に入って「女性の立場」は社会の中で抑え込まれた様な環境に成って行った。
その為に、これらの慣習は、「特定な家柄筋」の中で維持されてきた。
特に、青木氏には、「女紋」は主に「儀式祭祀」の中で昭和の中頃まで遺されていた。

そもそも、「皇族賜姓青木氏」は、家紋は「象徴紋」の扱いである事から、支流傍系等の事を表す手段として「丸付き紋」は一切使用していない。
但し、「象徴紋=総紋=家紋」となるが、この為に、「副紋」は使わず「女紋」を慣習として用いた。
他氏には観られない「女墓」も同じ考え方である。
この事は本論の上記でも論じたが、「特別賜姓族青木氏」は次ぎの様なこの慣習を家紋に直接反映させる方法採っていた。
特別賜姓族は「副紋」を使う代わりに、原則として、「丸付き紋」は使用しない仕来りと成っていた。
文様が元より「丸付き」の文様として出来た家紋の場合は例外とした。

先ず、大別すると次の様に成る。
A 氏一族一門全体を示す「総紋」がある。
B 家のルーツを個々に示す「家紋」がある。
C 家の副ルーツを示す「副紋」がある。
D 家の女系ルーツを示す「女紋」がある。
F CとDを兼ねた「副紋」=「女紋」がある。

Aは、「下がり藤紋」となるが、「総紋」をそのものを「家紋」とする事は、「総宗本家」と、それぞれの「流れ」の「宗家」「本家」までが「家紋」として継承する仕来りである。
従って、「総紋」を「分家」は家紋とは出来ない。同様に同じ目的の「藤原氏の氏名」もこの「仕来りの内容」に従っている。

Bは、「総紋」だけではその子細なルーツを示す事が出来ない為に、先ず「家紋」を用いて判別させる仕組みで「流れ」を示す仕来りである。
この場合は「総紋」の中に文様として組み込んで使う手法と別に分けて使う場合がある。
特に、枝葉から観て、判別要領は次ぎの様に成る。
イ ”「幹部」に位置する独立性の高い「流れ」の「青木氏」の場合”は、「組み込み方式」を採用する仕来りである。(本家筋)
ロ 逆に、”「抹枝」に位置する流れの青木氏の場合”は、別に分けて使う「分離併用方式」を採用する仕来りである。「併用紋」である。

特に、イの「組み込み方式」の家紋は、”独立性の高い「宗家筋」(本家筋)の流れの家柄”を示す。
例えば、「組み込み方式」では
「讃岐藤氏の青木氏」の「下り藤紋に雁金紋」
「武蔵藤氏の加藤氏」の「下り藤紋に巴紋」
「尾張藤氏の柴田氏」の「下り藤紋に一文字紋」
「結城藤氏の結城氏」の「下り藤紋に左三巴紋」
等がある。
「分離併用方式」では、
「下り藤紋 違鷹羽紋」がある。
「下り藤紋 州浜紋」
等がある。

Cは、藤原氏の様に全体で361氏にも枝葉末孫が拡大している場合、その青木氏が116氏にも拡大している場合は、B方式では未だ子細は充分でない。
そこで、更に、この「流れ」を更に判別する方法として、Cの「副紋」を用いた。

例えば、次ぎの様なものがある。
秀郷一門の「主要家紋8氏」の中の家紋で「家紋主要8氏」が用いたものである
「違鷹羽紋に一文字と開き蛤紋」の様に、「一文字紋」と「開き蛤紋」を「副紋」として用いた。
これは、「分離併用方式」の”併用する方法”とは違い、これは、別の「第二家紋」扱いで使用した。
「左三巴紋に釘抜紋」「左三巴紋に三角藤」
「左三巴紋に上藤丸紋」「左三巴紋に蛇目紋」
「檜扇紋に隻雁と五三の桐と丸に三引紋」
以上等が「第二家紋」扱いの副紋である。

依って、「一般の氏」には、この「Cの副紋」(第二家紋)は原則的に用いられていない。

a 「北家藤原秀郷一門一族」の361氏に成る様な「子孫力・子孫拡大」を起こしていない事
b 「高い格式」と「同族血縁」が無い事
c 「青木村」の様な「権威村」を構築出来ない事
以上等が原因して「Cの副紋」は用いていないし、用いられない。

(「氏族」では無理に誇示する為に用いたものもあるが、「姓族」そもそもない。)

このBの「分離方式併用方式」の「副紋」は、「家紋掟」に依って、「跡目継承の問題」で「変紋」を余儀なくされた”本家筋が用いた手法”である。
従って、”分家、支流、傍系”には、この「Bの副紋」の「分離併用方式」の「副紋」は原則ない。
そもそも、重要な事は、”「副紋」を持つと云う事”は、その「流れ」の”「本家筋」以上の格式の家筋を示す事”を意味する事に成る。
要するに、「Cの副紋」は「第二家紋扱い」の家紋である。
AとBとCの家紋方式を以って秀郷流青木氏の家筋は解明できるのである。

Dは、AとBとCの家紋に対しての「男系ルーツ」に対して、「女系ルーツ」を明示して、その「ルーツの正統性」を誇示する慣習である。
一見して、「Cの副紋」と間違いやすいが、違う所は、この家紋は「女が使う家紋」で、跡目と成る嫡子嗣子は用いない。
この「女系のルーツ」を誇示する為に、「女系側の家紋」を用いる。
しかし、これにはある「一定の仕来り」があって、”どの段階の女系のルーツの家紋”を「女紋」にするかの要領がある。

「女紋要領」を下記に説明する。
「女紋」は先ず、その家の跡目の「嫁のルーツ」の家紋を、その嫁が「実家先の家紋」を用いる。
跡目を譲った後のその家の姑には、下記の「2通りの慣習」がある。
要するに「女紋掟」と呼ばれるものである。

「女紋掟」
1の方法は、その姑の実家先の家紋を用い続ける。
2の方法は、その姑は夫の家紋に戻る。この場合は、孫の跡目が出来た事が条件と成る。

「2の方法」
これには、重要な「青木氏族の賜姓族の役の考え方」が存在する。
それは、”子孫を遺す”と云う定義が、”「孫」の跡目が出来た事”を以って、”子孫を遺した”とされる。
「息子の段階」では、”子孫を遺した”と云う考え方を採らないのである。
息子の跡目の段階では、まだ ”子孫を遺した”とは云わない考え方である。
何故ならば、これは、”子孫を遺した”とする「考え方の根拠」は、「分身説」を採っているからである。
これは、「古代密教浄土宗」の考え方にあり、「過去ー現在ー未来」の「3世」を「一つの世界」として捉えている。
この「三世の考え方」では、この「3つの完成」を成し得て、初めて”分身を遺した”とする考え方なのである。
つまり、子供が出来た段階で、「自分の位置」は、「現在の位置」に居て、子供は「未来の位置」にいる事に成り、「現在ー未来」のプロセスが完成する。
しかし、更にその子供に「孫」が出来たとすると、「自分の位置」は、「過去の位置」に移動して、子供は「現在の位置」に、孫が「未来の位置」になり、遂に「過去ー現在ー未来」の「三世の形」が出来上がる事に成る。
この時、初めて、”子孫を遺した”、”分身を遺した”、とする考え方である。
「三世慣習」と呼ばれるもので、「青木氏」に於いては全て、この「世の事」はこの「三世慣習」に沿って考えられる。

この「三世慣習」の根拠は次ぎの様に成る。
例えば、「自分の子供」が結婚して、「孫」が出来たとすると、「自分の子供」は「嫁」に引き渡して、「子供」を引き続き ”次ぎの段階の養育の役”をこの「嫁」に任す事を意味する。
息子の「第一段階の養育」は終わり、次ぎの「第二段階の養育」に移る。
この息子の「第二段階の養育」を「嫁」が引き継ぐ。
「孫」が出来れば、「未来の子供」(孫)と「現在の子供」(息子)の”二つの子供”を「嫁」に育ててもらうと云う考え方をする。
従って、「孫」は「嫁の者」では無く、未だ「姑の者」として考えて、”「育てて貰う」”と云う考え方をする。
従って、「嫁」の位置づけは、「嫁」では無く、「娘」の考え方に位置する。
これは、上記した様に、「同族血縁の仕来り」から来る考え方に成る。
「家の子供」は「氏の子供」であって、「同族」であるが為に、取り分け、「嫁の位置」づけは「外者の感覚」より「内者の感覚」「同族の感覚」「縁者の感覚」の方が強かった事に依る。
「娘の感覚」の方が強かった事になるのである。
結局は、つまり、「子供の養育」の「バトンタッチ方式」である。
「親の姑」から「娘の嫁」へのバトンタッチである。
当然に、故に、この「バトンタッチ」は”「段階の変化」を来した事”だけを意味する。
「自分の子供」の段階では、「子供」の「基礎養育段階」(第一段階)であり、「嫁」に引き渡した「子供の養育」は、子供を遺す為の「成長養育段階」(第二段階)と考える。
この時、「孫」が出来れば、その「孫」と子供(息子)とは、「嫁」に依って「家の子供」として育てられる。
そして、その「孫」に子供が出来れば、「嫁」は「人の目的」、即ち、「2つの養育段階」の目的は、”果たした”と云われる事に成る。
この時、祖祖母に成った自分は、”「人生の目的」を果たした”と云われることに成る。
「家」の取り仕切りは、「姑」から「嫁」に一切引き渡されるのである。
「嫁」は、「人の目的、」「2つの養育段階」の達成を以って、「家の人」と成った事に成り、「氏の家紋」を引き継ぐ事に成る。
この時、「姑の自分」と「嫁」は「氏の家紋」を使う。
その前は「嫁の段階」では、未だ「実家の家紋」なのである。
「嫁」は「過去の位置」に成った時、「2つの養育段階の役目」を果たした事を以って、「氏の人」と成ったと評価される。故に「氏の家紋」の使用を許される。

これは、「孫」もその「家の子供」とする考え方であり、「嫁」もその「家の娘」に成ったとする考え方である。従って、「青木氏」には、「嫁」という概念が低いのである。
この「嫁の概念」の低さは、「同族血縁」を主体としていた為である。
他氏から来た「嫁」でないからで、その差から来て来るのである。
子供は、同族の「氏の子供」の感覚であるから、「嫁」も「氏の一族一門や縁者」から来ているので、「姑」にとっては「嫁」と云うよりは「子供」の域の感覚にある。
「嫁」は、”「家の娘」化の感覚”が起こるのである。
「青木氏」では、「子供」(現在の子供)も「孫」(未来の子供)も含めた「子供の定義」の中にあり、要するに「子供」と成る。
「孫」の位置は、あるにしても「子供」の概念の中にある。
従って、「青木氏」では、「跡目」や「嫡子」は、この孫も含めた「子供」の中から選ばれる事に成る。
更には、「青木氏の賜姓族」は、子供は「家の子供」では無く、「氏の子供」として考える。
「各家の跡目」は、「各家の子供」を直接に「跡目」とする考え方では無く、「氏の跡目」として「跡目」が無い家には、「氏」の「他の子供」を「別の家」に廻して「跡目を継承する方式」を採用する考え方である。
「氏の子供」は、「自分の家の子供」であるとする考え方を採る。
これは「血筋の純血度」を一定に高めて、それを広域な範囲にして置く「血縁戦略」である。
こうする事で、「家の断絶」や「氏の衰退」は無くなるとしたのである。
この様にして、如何なる事由が在ろうとも、絶対に、「氏の継承」と、「氏の純血の血筋」と、「氏の名の継承」と、「氏の役の継承」とを守り通す為に、「古代密教浄土宗の考え方」を「青木氏子孫存続」の「システムの考え方」に取り入れたのである。
これには、「3つの発祥源の立場」を守り通さなければならない「絶対的な役の戒律」があった事に由来する。
この「跡目となる子供」は、上記の「三世慣習」の考え方に従ったのである。
この「三世慣習」から、氏の「家間の差」が無く成り、「分家、支流、傍流」の感覚は無く成ったのである。
当然、その「家間の差」が無い為に「家紋」は無く、「家紋」の元と成った「象徴紋」の侭にあるのである。
ここには、その「システムの維持」に絶対的に不可欠な事は、「女系の血縁維持」も同じ様に保つことが必要と成る。「男系」だけでは成し得ない。
この「三世慣習」は、むしろ「女系システム」と云っても良い。
「青木氏の家訓10訓」の「家訓1」と「家訓2」にある様に、これを重視している。
「女系」が「三世慣習」を作り出しているから「女紋」が生まれているのである。
「三世慣習」からすると、つまり「家訓1」「家訓2」からすると、「男系」はあくまでも「あらゆる面に使われる一種の道具」である。
それを使っているのは「姑ー嫁ー娘」の「女系」であり、「2つの養育段階」は「女系」によって左右される。
「氏の発展如何」は「三世慣習」の「女系」によって決まる。
故に、「女」への考え方も異なるが、「女紋の存在」そのものが他氏とは違って存在する。

もう一つの「女紋の存在」を決定付ける慣習がある。

「家紋の存在」の慣習
「娘」が藤原氏等の同族の他氏に嫁ぐが、「同族血縁」で嫁ぐかの如何に関わらず、その娘の「第一嫡子」は、「実家の跡目継承の資格」を有している。
これは、天皇家や皇族の継承の仕来りと同じである。
「女系天皇」があるのはこの「仕来り」に従っている。
つまり、これは当時の「血縁の概念」は、”「娘」は男子と同様に「半分の血筋」を有している”と考えられていたからである。

そもそも、現在では、「遺伝学」が発達して、父と血液型を同じくする場合は、その父の遺伝子の85%も子供は維持している事になる。明らかに殆ど”分身”である。
「青木氏」は、上記する様に、早くからこの「分身説」を採用している。
但し、「女子」である事から、父の「男子の遺伝部分」は無いので、80%前後には下がるが、血液型を同じくとする場合は、「息子の血液型」が「母型」に成っていた時よりも、遺伝部分は多く遺伝している事になる。
古来は、半分と考えられていて、男女同じと考えられていた。
そして、血筋として、特に娘の「第一嫡子」が高い継承率を持っていると考えられていた。
この為に、この嫁ぎ先の娘の「第一嫡子」は「実家の跡目継承の資格」を持っていると考えられていた。これは「遺伝学的には合理性」を持っていた慣習である。
この場合、正当な男子の「実家の跡目継承」が成立出来ないとした場合に、「嫁ぎ先の娘の第一嫡子」を「実家の跡目」に入れる事は可能としていたのである。
この場合には、「第一嫡子」は「嫁ぎ先の跡目」でもある。
これでは、「嫁ぎ先」の方でも「跡目の問題」も生まれる。
そこで、室町期までは、嗣子の中から跡目にするには、「優秀な嗣子」を選んで継がせる事が優先されていた。

しかし、江戸期では、「血筋」と云うよりは、「跡目騒動」を無くす目的から「長男が跡目」を優先する事に成る事が決められていた。
これを「家康」が「家光の跡目騒動」で決めたことである。その後、これに習って社会は長男が跡目を継ぐ仕来りと成った。
「嗣子」の中から、優秀な者を「嫡子」にする制度は次第に消えて行った。
これは、
1 江戸期の安定した社会変化で、「同族血縁」を制度として取り入れている氏が少なく成った事。
2 戦乱の世に嗣子が戦いなどで減少する中、嫡子を長男とすると跡目が無く成り騒動の下になる   が、この必要性が無く成った事。
3 戦乱で家を維持する為には、嗣子の中から沈着冷静、勇猛果敢、剛勇豪胆な人物を選ぶ必要が   あったが、安定社会ではその必要性は無く成った事。
4 安定した社会では寿命が延びて嗣子を多く設ける必要性が低下した事。
5 特定階級を除き「妾」による嗣子の必要性が低下し一夫多妻の制度は衰退した事。
6 俸禄制度に代わって、嗣子を多く設ける事の負担が増した事。
7 30年に一度の大飢饉多発発生で経済が疲弊し、嗣子を多くする事が出来なくなった。

ところが、「青木氏」は、「二足の草鞋策」で経済的に潤い、この「江戸慣習」に従わずに、上記の「独自の伝承」をまだ護っていた。
それは、むしろ、「商いと殖産」を手広くし、前段に論じた様に、江戸幕府に貢献し、交易を盛んにした為に、むしろ、嗣子を多く必要としていたのである。
前段−5、6で論じた「青木氏」の「2つの新しい氏の発祥」もこの辺の事も影響していたのではとも考えられる。
これらを維持する為には、氏の家間の差をより無くし、跡目を確実に家間に振り分けて、「氏の跡目」を確実にしなくてはならない状況と成っていた。
つまり、江戸期に於いても、社会とは「逆の現象」が起こっていたのである。
上記の様な、「同族血縁」や「慣習仕来り掟」をより厳しく護る必要が出ていたのである。

「青木氏」は、「男系」のみならず「女系」に於いても、可能な限りに「同族内の血縁」を「従兄弟の段階」まで優先させていた。
依って、”他氏に嫁ぐ”と云うよりは”「遠縁に嫁ぐ」”を優先していた。
その意味では、娘の「第一嫡子」には、抵抗感は少なく、「同族血縁の範囲」として「氏の子供」を前提として、盛んに用いられていた。

そもそも、現代の生物学では、人間の元は、「男女の一対」が存在した訳では無く、「ミトコンドリヤ」から、4回の進化を遂げたが、元は「雌」であった。
「4回目の進化」の最終は、「雌の機能」の中の「雄の機能」を分離して、「雌の存続」を優先して図る為に、天敵から身を護る役割として「雄機能」を分離させた進化を遂げた。
より多くの「雌」を遺す事に依って、「雄」が仮に1でも子孫は繁殖してより多く遺せるのである。
しかし、この逆は成り立たない。
(この事も「雌」であった事を示す証拠である。「雄雌一対論」では同じ「生存能力」を持たした筈である。)
この方式が最も子孫を多く遺せる事と成って、「人族」が最も繁殖したのである。
当然に、故に「人遺伝情報」はオスには無くメスに持っているのである。
そのオスが元メスであったとする「名残」がオスには、4か所遺されている。
それは「乳首」と「へそ」である。
この二つは在っても全く機能していない。(後二つは不適切用語になるのでここで論じない。)
当然に、逆にメスにはあるが、オスには無いものが多くある。
ところが、逆に、オスには有るが、メスには無いとするものは無い。
オスだけには確かに有る様に見えるが、それは「雌の生理機能具」が全て「オスの能力」を充分に発揮させる為に、「オス様」に変化させたものなのである。
元の原型は全て「雌の機能」なのである。

因みに、「雄」が「雌」から分離したとする典型的な例を敢えて述べるとして、子孫を遺そうとする「人間族の性欲・生理機能」がある。
「雄の性欲」は、”元の「雌」の母体に戻ろうとする本能の変化”であると云われていて、その「性欲の行動」の全ては、この元の雌の体の中に戻ろうとする行動パターンに分類される表現である。
ところが、「雌の性欲」は、あくまでも、”子孫を遺そうとする本能の変化”であると云われ、分離させた雄機能を雌の中に戻そうとする本能の変化である。
この「行動パターン」の全ては分類される表現であって、この原理から外れる行為は一切無い。
つまり、この「性欲の原理機能」からも、元は「雌」なのであって、「雄」は、雌のその”分身”で、「子孫存続の道具」である事にすぎない事に成る。
これは「体の機能」のみならず「脳の機能」に於いても云える事である。
因みに、「人族」に必要とする同時に二つの事を考えられる能力の「女性の連想能力」(子孫存続に必要とする母性本能に由来する)は男性には無い。元は雌であった事を物語る機能である。
右脳を積極的に使う機能を持ち、「ベータ波」を高めて察知する機能は雌に持っているが、雄は低い。これも元は「雌」であった事を物語る機能である。
又、「複眼機能」は女子には遺されているが、訓練すればこの機能を復元できる状況にある。
しかし、男子には僅かに遺されてはいるが、最早、乳首やへそに類していて訓練如何に関わらず働かない。
これも元は「雌」であった事を物語る機能である。
他にも多く説明できるものがある。ただ、これでは人族の男子は生き残れない。そこで、これらの女子が持つ機能に匹敵する様な「脳」を”脳の一部””を変化させて進化させたのである。
例えば、「左脳の情報脳」の一部を進化させて、複眼機能と連想機能に匹敵する様に、「左脳の情報」を基に「予知する能力」の脳を作り上げたのである。これを左耳の上に「中紀帯」と云う「進化脳」を作り上げたのである。

ここでも、「青木氏」の「子供の分身説」「三世慣習説」は合理性を持っている。

とするとなれば、「雄の機能」と「雌の機能」を保全した形の上で、”「雌」が跡目を継承して行く事”が道理であろう。
その意味で、上記した様に、「女系の第一嫡子」が”実家の跡目の有資格”は、実に合理性が高い事に成る。
「人族」の発祥地の「アフリカの民族」には、「女系家族」を主体とした民族が未だ多く存在するのは、上記した原理に従っている。自然摂理に従った合理形態とも云える。
しかし、余り近代化の進んでいない社会の中で成り立つ制度である事は間違いない。
「人の社会」が進むにつれて、「雌」から分離した「雄の機能」を使わなくては「子孫存続」が難しくなった。
「雄の力」「雄の知恵」でなくては維持されない社会構造と成ってしまった。
必然的に「雄」が主体と成る社会が出来上がったのである。
故に、人間社会の中では、「男系の跡目」として引き継がなければ成らない社会構造が出来上がったのである。
これはあくまで「社会構造維持の範疇」であり、事「子孫存続の世界」とも成れば、「力」「知恵」は無用で「女系の範疇」と成る。(「戦乱の社会」ともなれば尚更の事である。)

「子孫存続の世界」の「跡目」ともなれば、況して、「青木氏」の様に「3つの発祥源」の役目を「賜姓族」として守り通そうとすれば、「純血性を維持する同族血縁」は「古代の条理」とは云え、必然的に絶対的に「必要な条理」と成る。
「屯」(みやけ)を形成した時代からの「古代の条理」ではあっても、古来の一部の社会の中では全てこの「青木氏の慣習仕来り掟」に類していたと考えれる。
それを「古代密教と云う概念」の中で維持されて来たものであると観られる。

そうすると、そこで問題が生まれる。
「同族血縁の弊害」である。
血縁すると成れば、先ずは「第一段階」として「跡目の家紋」でそのルーツを判別し、更に重ねて詳しく判別する為に、当代の「女系」の家紋、即ち、「嫁の実家先」の家紋を知る必要がある。
その為に、「嫁の実家先の家紋」を「嫁ぎ先の慣習」に出過ぎない範囲で何らかの形で表示する必要が出て来る。
これが、「女紋」で、祭祀などの正式行事には羽織の袖や背中や、箪笥や長持ち高級食器などの正式な諸具には表示したのである。
この「二つの家紋」で、「同族血縁の濃さの度合い」を判断する術とした。
この「類似の慣習」として、「祭祀」などに先祖の墓所には参るが、ここに「累代の女系」を碑にして連ねて「俗名、戒名」と共に「出自」を表記して「女墓」として用いた。
この「女紋の表示の仕方」が、上記した要領に基づいたのである。
この「二つの家紋」をみて「同族血縁」を進めた。
基本は、「3親等」(従兄弟等)からであった。
奈良期から平安期頃までは2親等の範囲(叔父、叔母等)でも積極的に行われていた。

一般の他氏は、本家筋は兎も角も、分家筋は大いに「他族血縁」を積極的にすすめた為に、むしろそのルーツの確認が必要無く成ったので、「女紋」「女墓」等の習慣は必然的に生まれなかった。
本家筋は、この混血の分家筋から抹消の同族血縁をした事で、「新しい血」が入って行った。
依って、この慣習は一切生まれなかったのである。
ただ、この場合は、「本家ー分家の関係」では、その「習慣や仕来りや掟」の縛りは大きな差があった。
従って、「自分の家」が、 ”「本家筋の末梢」に当たるのか”、”「分家筋に当たるのか”で、判定は大いに異なってくるのである。
しかし、「皇族賜姓族青木氏5家5流」のみは、上記した様に、この「本家ー分家の関係」を「同族血縁」を「仕来り」としていた為に採らなかった。
(ただ、「3つの発祥源の役」を護る為に「厳しい戒律」が伴った。)
その見極めとして、上記したAからFの「家紋システム」を採用して表示したのである。
これは、「格式の誇示」と「血筋の如何」に関わっていたのである。

さて、果たして、この「3つの発祥源の役」が無ければ、どうなったのか疑問である。
何故、上記の「家紋の要領」を採らなかったのか、何故、「本家ー分家等の方法」を採らなかったのか、と云う点は、これらの要領は「古代密教浄土宗」の影響であった事が大きく、必ずしも「3つの発祥源の役」だけでは無かったと考えられる。

1の方法
1の方法は、その「姑」の実家先の家紋を用い続ける方法である。
通常は「2の方法」を採用する。
しかし、この「仕来り」は「地域」によって異なる。
その異なる理由は、「地域の環境」にあり、大まかに分けるとすると、「田舎」か「都会」の環境下によって分けられる。
何故ならば、「都会」であれば血縁関係が多様化しているが、「田舎」は縁者関係で繋がっているし多くは面識がある。
「都会」は、従って、この「面識」が薄らいでいるから「2の方法」で「確実性」を求めて判別する。
都会は何れにしても、”多様化している”から、「家の誇示」も強くなるが、「田舎」ではよく似た家柄である事から必要以上の誇示は無く成る。
結局は、「1の方法」と「2の方法」は、この差に従って使用された。
元々は「仕来り」としては、「1の方法」であったが、「多様化」が進むに連れて「2の方法」に成ったのである。
基本的には、「都会」であろうが「田舎」であろうが「2の方法」であれば確実性は高まる。
「1の方法」は、”「封建制」が強い仕来り”である。
これは”「田舎」”と云う事から来ている。
後は、その使用の選択は ”時代性が働く”と云う事に成る。
”時代性が働く”ことは、「多様化」が進む条理に従う訳であるから「2の方法」に収斂されて行く。
では、どの様な方法かを説明する。
「家」は「家族制度」があって、「家長」が存在する。
その「家長」は「伝統の家」の「ステイタス」を「家紋」として引き継ぐ事に成る。
この「家紋」は、上記した「家紋制度」の中で保たれる。
しかし、ここに「格式」と云うものが働くと、”よりステイタスを強調する事”に成る。
そうすると、「2の方法」の様に、その「家長の妻」の「実家先の家紋」をも用いる事に成る。
つまり、これが「女紋」である。
さて、そうすると、「家長」は、「家族制度」の中で、”どの位置の者が成るか”の問題で、「祖祖父ー祖父ー父ー子ー孫」であるとすると、「祖父」が成っているとすれば、「姑」の「実家先の家紋」を「女紋」として用いられる事に成る。
当然に、この「女紋」を使うのは、「祭祀と儀式」の時等に用いられる。
当然に、そうなると、「家」の「姑」が「家内の実権」を握っている事に成る。
その「姑」も「夫の家長」が亡く成れば、「家長」は「息子」に移る事に成り、「家の実権」は「息子の妻」の「嫁」に移る。
この時に、「姑の女紋」は消え、「嫁の実家先の家紋」が用いられる事に成る。
従って、「姑」が用いる「紋」は「家長の家紋」と成る。
これを「世代交代」、「跡目相続」毎に変化して繰り返される。
しかし、血縁対象は「娘子」であるから、相手側からすると、「娘子」の「母親の女紋」は判らない事に成る。
これでは、「同族血縁の度合い」の判断は低くなる。
しかし、ここがポイントで、「田舎」と云う環境であるのだから、「母親ー嫁」の出自は、未だ人の面識の中で知り得ている。
依って、「人の記憶」に薄らいだ「姑の実家先の家紋」、即ち「女紋」で判断しても問題は無く成る。
ここに、”1の方法と2の方法の「仕来り」の違い”が、「面識」と云う点で生まれているし、「家長制度」に従っている。
結局、「1の方法」か「2の方法」かの使い方で、その「氏」のその「女紋」を観れば、出自は凡そ判る事に成り、更には「女紋」で完全に判別する事が出来るのである。

ただ、「賜姓族の青木氏」は、「同族血縁」を主体としている事から、「女紋の範囲」も限られて来るので、判別は「家紋」と「女紋」で充分に判るが、「家紋」は「象徴紋」である為に変わらない事になる傾向が強いので、「女紋」の判別の意味合いは強くなる。

ただ、同じ格式の範囲で行われる「母方の血縁」では、「家紋」も重要な意味を持って来る事に成る。
例えば、「母方」で繋がる「特別賜姓族の秀郷流青木氏」とは全く格式は同じである。
「116氏」にも成ると、家紋は116もの数に成ると、当然に判別は困難であるので、「家紋」と「女紋」とで判別が必要と成る。
ここに「秀郷宗家361氏」との血縁ともなれば、「格式」は多少の変化を来す。
益々、「家紋と女紋」の重要性は高まるし、「家紋」だけでは不足と成り、「副紋」も用いての判別と成るので必要と成る。
他氏では、「同族血縁」が成されない事から、結局は、「家柄」と「家のステイタス」の「誇示」に利用される。
「より低い氏姓」は「より高い氏姓」との血縁を望む事に成り、「家紋」一つに「判断の重要性」は高まる事に成る。
依って、「青木氏」は、「皇族賜姓族」にしろ、「特別賜姓族」にしろ、「同族血縁」をする為に「氏の地域性」は明確に成って居るし、「地方性(田舎)」は「青木村」を構成する事を許されている為に「1の方法」が主体と成る。
しかし、「夫々の賜姓族内」では、「1の方法」で、「賜姓族」が跨げば「2の方法」に従う事と成る。

この「慣習仕来り掟」の範囲で同族は護られる事に成る。
兎も角も、以上の事全ては、”「氏家制度」”の中での「慣習仕来り掟」である。
なので、この様な「血縁関係」は「氏全体」で管理されている事に成る。
つまり、その作業が「密教の菩提寺」に求められ、その「菩提寺」の「過去帳」に記される事に成るのである。
これが、何度も論じている「菩提寺と過去帳」の位置づけなのである。
上記に論じた「青木氏の家紋に関する事」や「青木氏の考え方の如何」は、この「密教の菩提寺」と「過去帳」の所に繋がる事に成るのである。


上記の事を承知した上で、情報提供のあった下記の例を検証してみる。

そこで、「福岡の第3氏」を入れた「7組の青木氏」が、入り組んだこの「特殊な地域」で、且つ、「青木氏」を判別する場合は、次の様な事に成る。
「特殊性」が出て来て、この「青木氏」が持つ「家紋」などを含む全ての「慣習仕来り掟」の「熟知の度合い」が大きく左右する事に成る。
情報提供の下記の例は次ぎの様に成る。


先ず、「女紋」は「五瓜に唐花紋」である。
そもそも、この「家紋」には次の様な情報を持っているのである。
「家紋」には、全国8000の家紋があるが、その内で豪族として大きなルーツを持つ”「主要家紋200選」”と云うものがあり、この家紋はその中の一つである。
歴史的に日本の「主要氏の家紋」と云う事に成る。
この「家紋の文様」は、元は、「唐の官僚の階級」を示す袖に記した「官僚階級紋」である。
これを「大和朝廷の官僚」の「象徴の印」としたのである。
専門家ではこれを「官僚紋」と通称は云う。
そして、この「官僚紋」の「文様紋」を使えるのが、「大和朝廷」の当時の「五大官僚」と云われる「氏」が独占したのである。
「瓜の切口」とか「ボケの花の断面」とも言われているが、これは大きな間違いである。

注釈
この辺のところが「郷土史」では間違いを起こす。
「俗説」を用いてしまった事からこの説が全国に広まった。間違いの大きな事例である。

この「五大官僚」の「高級官僚」は、「唐花の文様」を少しつずつ変えたものを「象徴紋」とし、誇示する為に牛車などの道具に使用した。
室町期末期から江戸初期の後に多くの「姓」が使ったこの文様の「類似家紋」は190程度もある。

そこで、何故この家紋が「九州福岡」と云う地域にあるのかと云う疑問を考えると、ここには「明確な根拠」がある。
ここには、奈良期には、その「五大官僚」の一つの「伴氏」が、この「九州地域一帯」を任されていた。
その「伴氏の職務」は、主に「弁済使」であった。
つまり、この「伴氏」は「税務監」を主務としていたのである。
そうすれば、「税」であるので多くの豪族などとの親交が生まれる。
この結果、「九州一帯」の殆どの「豪族」はこの「血縁関係の血筋」を受けている。
「北九州の豪族」では例外は殆どない。
最も大きい氏で、殆ど「大蔵氏」に依って制圧されるまでは、九州全土を支配下にしていた有名な「肝付氏」がある。
後に「大隅の肝付氏」は、薩摩藩の勢いに押されて敗戦して薩摩藩の家老と成った。
ところが、この「伴氏と肝付氏」の勢力の中に「大蔵氏」と云う別の大勢力が入って来た。

そこで、その「大蔵氏」の事に付いて少し説明して置く。(研究室などに何度も論じている。)
大化期に中国の「後漢国」が亡び、その国の17県民の200万人の「職能集団」が、福岡に難民として上陸してきて、瞬く間に九州全土を無戦で制圧してしまった。
日本の第一次産業の基礎は、この「技能集団」の進んだ技能によってもたらされ築かれたものである。
在来民も挙ってその配下に入って生活程度をあげた。
この時、この集団を首魁として率いていたのが「光武帝」より21代献帝の孫子の「阿智使王」とその子の「阿多倍王」であった。
(”阿多”の地名は鹿児島にある。大隅の隼人に居を構えた。)
更に、この集団は中国地方も無戦制圧し、”いざ都の制圧”と云う所で立ち止まり、朝廷と和睦を選び争いを避けて帰化する。大化期である。
この中国地方には、首魁の「阿多倍王」が引き連れて来た多くの部の職能集団が定住して在来民の生活を豊かにした。
その「部の職能集団」の中で、「陶器を作る技能集団」が勢力を持ち、室町末期まで中国地方の全土を制圧して勢力下に治めた。
その中には多くの「部の職能集団」がこの同じ部の勢力を持った「陶族」に従ったのである。

そして、首魁の「阿多倍王」は「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の娘を娶り、准大臣に任じられ、3人の子供を作った。
そして、この「部の職能集団」は、「大和朝廷の官僚組織」の6割を占めて大勢力を握った。
上記の「五大官僚」もこの勢力に飲み込まれた。
この「部の職能集団」が進んだ中国の政治手法を大和朝廷の中に導入した。
この職能集団を「・・・部」と呼び、例えば「服部」や「織部」等180程度の「部」から成り立つ組織を作り上げた。
依って、大和朝廷から政治と経済システムとしてこの「部制度」を採用しました。
この政治機構の改善を主導したのが、首魁の阿多倍王の父の「阿智使王」であった。
「史部」と呼ばれた。
この時に作り上げた「政治機構」の「官僚の象徴紋」として、この「五瓜に唐花紋」を使用したのである。
この3人の子供の長男は「坂上氏」の賜姓を受け朝廷軍を担う。
次男は、当時の政治機構は「三蔵」と云われ、朝廷の財政を担う「大蔵」を担当し、「大蔵氏」の賜姓を受ける。
三男は天皇家の財政を担当する「内蔵」を担当し、「内蔵氏」の賜姓を受る。
この次男の「大蔵氏」が九州全土の自治を任されたである。900年から940年頃の事である。
「遠の朝廷」と呼ばれ「錦の御旗」を与えられ「太宰府の大監」と成る。
首魁「阿多倍王」は、大隅国にも半国割譲を受け、更には伊勢北部伊賀地方の国を半国割譲を受けて実家はここに住み着いたのである。
この時、半国割譲したのは伊勢守護王の伊勢青木氏である。
この隣の伊賀の阿多倍(高尊王 平望王)の実家は「たいら族」の賜姓を受ける。
この「たいら族」の「伊勢平氏」が五代後の「平清盛」である。
この支流の血筋を受けたのが「織田氏」である。
この織田信長の家紋も「五瓜に唐花紋」の「織田木瓜紋」である。
つまり、「伊勢平氏」と「大蔵氏」、「内蔵氏」、「坂上氏」の「3氏」の同族で「官僚の6割」を占める事から、この傍系末裔と観られる織田氏(可能性がある)も、この末裔だとして由緒ある「官僚紋」を採用したのである。
これが、有名な類似家紋として、「織田木瓜紋」である。
この「伴氏」と「大蔵氏」は血縁して、「2つの官僚氏」が九州全土を血縁の輪で固めたのである。
従って、「九州の大蔵氏系豪族」と「九州の鎮守神の神官族」はこの家紋を使用しているのである。

さて、「福岡の青木氏」の1氏が、この家紋である事から、「大蔵氏」の血筋を持つ「伴氏系の姓族」である事になる。
恐らくは、早くて室町中期、遅くて室町期末期に、「姓の家」を福岡筑前のこの地域で興している事に成る。
これを「女紋」としている事は、このルーツから出自した”歴史性の持った家柄”である事を示す。
当然に、この「五瓜に唐花紋」を上記した末裔と成る「家柄筋」が保持しているとすると、この「家筋との血縁相手」は、「家柄と格式」を重んじた社会の中では、必然と決まってくる。
この「五瓜に唐花文様」が「女紋」である事から、「嫁ぎ先の家柄格式」は、「同位」かわずかに「上位の家柄筋」に成る。
そうなると、この地域に、それに相当する氏ともなれば、歴史上から確認できる「青木氏」は、次ぎの様に成る。
平安期から鎌倉期までに筑前に遺した青木氏の末裔氏は、「筑前では2氏」と成り、江戸初期には「筑前の1氏」の青木氏と成る。
先ずは、この「3氏」で、他の要素を組み入れて検証を進めれば、その青木氏は判別できる事に成る。
「検証の櫛田神社」
ここで、「検証の要素」として、筑前にある”「櫛田神社」”が出て来る。
この「神社の由来」を調べれば、この「五瓜に唐花紋」に絡んで来る事に成る筈である。
そこで、更に検証を続けると、次ぎの様に成る。
そもそも、「櫛田神社」は「鎮守系の神社」(大蔵氏の守護神)であるから、「九州神官族の家紋」の「五瓜に唐花紋」となる。先ずここで繋がる。

その家紋の分布は、神社のある地元(内原)でよく使われている。
その背景から、この「神官族の末裔」が、後に地名を採って「内原姓」と名乗った。
この「鎮守系の櫛田神社」の元の「神官族名」は、何であったかが判れば更にはっきりする。

そこで、櫛田神社の由来を調査する。
そもそも、この「櫛田神社」の「大幡大神(大幡主命)」は、「伊勢国松坂」の「櫛田神社」から霊位を勧請した事は有名である。
この事から、この「鎮守系神社」と云っても、その「祭神」は、「皇祖神」の子神の「神明社系神社」とは同じ事に成る。
つまり”兄弟社の様な社格”を持っている事に成る。
実際にも祭祀している「大幡大神」はその格式にある。
櫛田神社がどんな理由で移したのかが問題に成る。
「伊勢松阪」の「櫛田神社」から「大蔵氏」が、”ある事情”で「霊位」を移している事から、初代は松坂の「伊勢青木氏の神官」であった可能性極めて高い。
しかし、あくまでも「筑前の櫛田神社」は「大蔵氏の鎮守神」であるので、「神明社の青木氏」を移したからと云って其の儘に続ける事は出来ない筈である。
何時か変更しなければならない筈であるし、この時の「伊勢青木氏の神官」が筑前に末裔を遺した可能性も否定できない。
しかし、遺したとすると、この場合は、「笹竜胆紋」を維持している「青木氏」と成る。
「源為朝の配流孫の笹竜胆紋」は別として、この「笹竜胆の家紋の青木氏」は1氏が江戸期に移動定住している事が確認できる。
即ち、黒田氏の家臣と成った「摂津青木氏」である。
ところで、「神社の格式」には、”「霊位の有無」”が大きな意味を持つ事に成る。
要するに、「神明社」は「青木氏の守護神」であるから櫛田神社は、所謂「兄弟社」と成る。
故に、祭祀する櫛田神社の「大幡大神」は、「伊勢神宮」の「天照大御神」に仕える「一族神」と成る。

従って、この「博多の櫛田神社」だけは、「大蔵氏の鎮守神」と云いながらも、全国にある「櫛田神社」とは、その「祭神の格式」のレベルが元々違うのである。
それは「筑前の櫛田神社の由来」に関わる。

その「由来、ある事情」とは、次ぎの様に成る。
平安末期に「瀬戸内」で起こった「讃岐藤氏」の「藤原純友の乱」を鎮めるために「伊勢松阪の伊勢神宮」の「皇祖神」の子神の「櫛田神社」と「京都八坂神社」に「乱の鎮静」を命じられた。
朝廷より鎮圧を命じられたのは九州最大豪族の大蔵氏である。大蔵氏はこの二つの神社に祈願をした。
そして、鎮静のその結果を以って、その時に祈願した大蔵氏が、その礼に応じて、筑前に”松阪の櫛田神社の霊位”を遷移して「筑前櫛田神社」を建立したのである。
要するに「分霊」をしたのである。
そして、この「純友の乱」を鎮圧したのは、「阿多倍王」より10代目の「九州太宰府大監」の「大蔵春実」である。
「分霊の筑前櫛田神社」と「本霊の伊勢櫛田神社」も「伊勢青木氏」とこの様に思いがけないところで繋がっている。
更に「青木氏」と繋がった事から、最早、筑前には「青木氏の存在」は否定できない。

そうすると、「櫛田神社」の要素から次の「2つの青木氏」が浮かび上がる。
この「櫛田神社」の位置する地域性から、次ぎの事が判る。
(イ) 黒田氏の家臣と成って移動定住した「摂津青木氏」の末裔
(ロ) 櫛田神社の初代の神官の「伊勢青木氏」の末裔

そうすると、この「女紋側」の「五瓜に唐花紋」を「女紋」として使っているとすると、九州地域では、この文様は「鎮守神の神官族」が使用している文様である事から、この「地域性」が出ている。
この「神官」が、”地域の地名を名乗った”と成る訳であるから、「女紋側」(神官側)に地名の「内原姓」の要素があるので、(イ)の「摂津青木氏」の説に成る。

「五瓜に唐花紋」(女紋)を持つ「鎮守神の神官」の末裔(内原姓)が(イ)の「摂津青木氏」に嫁いだ事に成る。

何故ならば、(ロ)の「初代神官の伊勢青木氏」は、そもそも「笹竜胆紋」で、「神官」であっても「五瓜に唐花紋」では無い。
そして、尚更、神社在所の地名の「内原姓」を、「青木氏」であるにも関わらず、態々と名乗る事が無い訳で、そもそも「青木氏の戒律」から不可能である。
依って「伊勢青木氏」の説は消えるので、「摂津青木氏の説」と成る。

これで、「九州の鎮守神の神官族」の「五瓜に唐花紋」を「女紋」としている筑前の内原地域に定住している「青木氏」は、結局、「黒田藩家臣の摂津青木氏」であった事に成る。

さても、問題は、この「黒田藩家臣の摂津青木氏」の家紋が、「笹竜胆紋」を維持出来ていたかは検証しなければならない疑問である。
そもそも、「摂津青木氏」は、「源平の争い」で、近江で、滋賀で、美濃で滅亡している。

福井に逃避して庇護され僅かに遺した支流の末裔が、摂津に移り「伊勢青木氏」の大店に庇護されて再興を遂げた賜姓族の一族である。
元々、「近江青木氏」の一団の「摂津水軍」の名残を持つ事から、「伊勢青木氏」等の大船に従事して糧を得て来て生き延びて来た。
従って、「笹竜胆紋」を維持するだけの「血縁力」「子孫力」は持ち得ていなかった筈で、「家紋掟」に依り「変紋」を余儀なく成って居た可能性が高い事が充分に考えられる。
実際に、現在の「摂津域の青木氏」には「笹竜胆紋」は1家しか確認できない。
しかし、調査でこの1家は、「伊勢青木氏」の大店を維持した「絆青木氏」(養子縁組制度)ではないかと考えられる。
「黒田藩家臣の摂津青木氏」の家紋が、情報提供によると ”何であったか”は「現在の末裔」は掴み切れていないのが現状である。

情報提供の内容
「黒田藩家臣の摂津青木氏」の再興後、筑前の祖は「青木氏理兵衛」である事。
この家に別のルーツの「青木市左衛門」が跡目に入った事。
この「青木市左衛門」は「日向青木氏」で遠祖は「伊勢青木氏」である事。
「摂津青木氏の近江青木氏」と「伊勢青木氏」は「皇族賜姓族5家5流青木氏」の「同族血縁族」と成る。

そこで、「青木市左衛門」のルーツに関する検証は必要となる。
その内容を下記に記述する。
つまり、この血縁の意味する事は、「青木理兵衛側」は、「青木市左衛門の青木氏」とは、”「同族の青木氏」である”と認識していた事に成る。
「青木氏の慣習仕来り掟」に従い、且つ、当時の「氏家制度」の中で、「同族血縁」を戒律とする「跡目継承」には、「青木理兵衛側」が、「青木市左衛門側」から「跡目養子」を求め入れて、「青木氏」を守ろうとした事が判る。

尚、「青木氏」には、「藤原秀郷流青木氏の特別賜姓族の青木氏」が、隣の長崎に「青木村」を形成して住んでいた。

(「氏名」を「村名」にして村を構築する事は、正式には「嵯峨期の詔勅」で禁じられていて、許可なく構築できない。依って、正式な「村名」があると云う事はそれなりに意味が大きいのである。
「日向青木氏」には、「正式な青木村」を鹿児島の大口市に構築しているし、筑前南国境にも青木字が構築されている。)

「5家5流の賜姓族青木氏」と母方で繋がる「特別賜姓族の秀郷流青木氏」とは「純血性」を守る為に盛んに「同族血縁」を主体としていた。
当時は、この「二つの賜姓族青木氏」にはこの「厳しい戒律」があった。
どんな事があろうとも、跡目は絶対に守ると云う「絶対的な氏の戒律」があった。
それには、「11家11流」の「賜姓源氏一族」を含む「皇族系一族一門29氏」と「特別賜姓族の秀郷流青木氏116氏」と、その「女系の縁者一門」のどこからでも持って来てでも継承すると云う「青木氏」を継ぐべき厳しい「同族血縁の戒律」があった。

つまり、「近江青木氏ー摂津青木氏」の「青木理兵衛」はこの戒律を守ったという事である。

念の為に、「摂津青木氏」は「総紋」は、「笹竜胆紋」(変紋している可能性が高い)、「日向青木氏」は「五七の桐紋」と、配流孫の為に「丸に笹竜胆紋」が家紋と成る。
ところが下記に記する事があって「日向青木氏」は「五七の桐紋」を使用している。

次ぎは「女紋」の事で検証する。
さて、「青木市左衛門」ルーツの「女紋」は「三連鎧揚羽蝶紋」である。
この家紋は、信長に贈られた「池田氏の家紋」で有名である。
この「池田氏」は「岡山ー鳥取」地域と、「福岡ー豊後」地域に分布する「氏の家紋」である。
同時に、この文様は、「平家末裔の織田氏」も上記するCの「副紋」(第二家紋)として使っていた家紋である。
これを織田氏が同じ「平氏末裔族」の「池田氏」に送った家紋である。(一部を変更した)
結局、「青木市左衛門」の家の「女系」の方に「九州池田氏」の流れを持っている事を示している事に成る。

「黒田藩の家臣」で「摂津青木氏」の「女系」(「鎮守神の神官職」)の内原姓は「五瓜に唐花紋」、更にその女系には「三連鎧揚羽蝶紋」、この何れもが「平氏系の主要家紋群」である。
「黒田藩の摂津青木氏」の「女系側」には、何れも「平家一門の血筋」で維持されて来た事が判る。
上記した様に九州の「大蔵氏」も平氏とは同族である。
「平家一門の血筋の中」に、「黒田藩の摂津青木氏」が存在して居た事を物語る。
そうなると、「黒田藩の摂津青木氏」は、「同族血縁の戒律」もある事も含めて、「平家一門の女系血筋」に対抗して、何とかして九州にある「青木氏一門との血縁」を求めようとしていた事が判る。
それを物語るのが、つまり「青木市左衛門」である。
この「青木市左衛門」は、周囲の「筑前近隣の青木氏」か、「筑前外の周囲の青木氏3氏」かの何れかから血縁を求めた事に成る。
後は、「青木理兵衛」の「青木氏の家紋」と、「青木市左衛門の青木氏の家紋」が、”何であるか”が判ればルーツは明確になるが、この検証には答えは出る。

その前に、「上記の平家一門の血筋」の「女系側」に付いて検証をする。
何かが観えて来る筈である。

平安末期、「大蔵氏」に代わって、一時、同族の「伊勢平氏の清盛」が「太宰府大監尉」(大監の上司)に成ります。
ここに「平清盛の所領」が、この「肥前国神埼」にあり、そして、上記の「櫛田神社」を、「日宋貿易の拠点」とした事は有名である。
一時、「平清盛」がこの「太宰大監」の上司にも成った事がある。
従って、同族の大蔵氏の居る所に、ここにも平氏は「九州護衛平氏軍団」を送った。
この平氏で九州域を守っていた「平氏軍団」である。
故に、「青木氏の女系側」には、この「平氏の血筋」が流れていて、その「九州池田氏」の流れを持っている事に成る。


この「平氏軍団」が北九州の地域の氏構成に大きな影響を与えた。
「日向廻氏」に守られた「日向青木氏」と成った「宗綱ー有綱」の”清和源氏の配流軍”と、この九州の「平氏軍団」とが再興を期して戦いました。
平氏に配流された「宗綱ー有綱」等が、周囲の小豪族を集めて、再びこの「平氏軍団」と戦ったのである。
結局は、再び敗退して薩摩大口村まで南下して落ち延びて、最後は追撃に窮して大口村の寺で「伊勢の青木氏」を名乗ったのです。(寺の住職の勧めにて名乗る。)
何故ならば、「宗綱と有綱と京綱」は3兄弟で、その「三男の京綱」は「伊勢青木氏の跡目」に入り戦いで一族が亡びる事の無い様に「摂津源氏の安泰」を「伊勢青木氏」の中に図ったのである。
「伊勢青木氏」は、「不入不倫の大権」で護られていた為に、この「京綱の伊勢青木氏」を名乗ったのである。

「日向青木氏」は、況して、「以仁王の乱」の敗退で「助命嘆願」をしたのが、この「伊勢青木氏の京綱」ですので、「日向青木氏」と成って生き延びる為にも、その「伊勢青木氏」を名乗ったのである。
「伊勢青木氏」は、上記する様に、朝廷より特別に「不入不倫の権」で護られ、且つ、隣の伊賀に住む「清盛の実家」とは、「伊勢和紙の殖産と販売」で共に利を得ていた深い付き合いの関係もあり、討ち滅ぼす事が「九州の平氏軍団」は出来なかったのである。
それが「日向青木氏」の発祥の由来なのである。
それが「黒田藩の家臣の摂津青木氏の「青木市左衛門」のルーツに成る。(市左衛門の棲み分け地域から判別)
ここでも、「青木市左衛門」も「伊勢青木氏」と思いがけないところで繋がっているのです。
そもそも、この「青木市左衛門」の出所は、「筑後と筑前の国境」に住していた事が判っている。
上記に記した様に、「7つの青木氏」の内、「第3の青木氏」を除いて、「近隣の青木氏」も含めて「6つの青木氏」は、上記した青木氏の慣習から「棲み分け」をする慣習があった。
従って、その「棲み分け」でどの「青木氏」であるかは判るのである。
依って、「青木市左衛門」は「日向青木氏」と判定できるのである。
「黒田藩の家臣の摂津青木氏」は、「日向青木氏」の「養子跡目」に入った事を物語る。

そこで、「家紋掟」から、「摂津青木氏」は、上記した様に、「家紋の変紋」は起こっている筈である。
更には、「日向青木氏」は、本来は「笹竜胆紋」ですが、「配流孫」であるので、「丸に笹竜胆紋」と成る。
しかし、この「日向青木氏」も「丸に笹竜胆紋」では無く、長い間の「半農と傭兵の生活」から家紋を失った。
「黒田藩の傭兵」の下記の勲功で与えられた「家紋使用の特別許可」で、「五七の桐紋」を使用していた。
「青木市左衛門」の段階では、「五七の桐紋」が使われていた事が判断できる。
問題は、「同族血縁」をこの九州域で続けられたかは疑問である。
そもそも、「跡目養子の事」が2度続けば家紋は変紋する。
但し、この「五七の桐紋」は「跡目継承」に依って起こった家紋では無い事から、この勲功の「五七の桐紋」は江戸初期前から永続的に継承されていた事に成る。
「大口郷の青木村」の家紋は、従って、「五七の桐紋」を継承している。
(一族の明治初期の墓所の紋と形式で判明する。)
幕末から現在までの間の150年に市民化して、”伝統不継承の状態”が起こっていない限りは、「五七の桐紋」と「丸に笹竜胆紋」の「2つの家紋継承」が可能に成って居た筈であるが、現在までこの「二つの伝統」は明確に継承されている事が確認された。
この「青木市左衛門」の時までは、家紋から観て、前回の「跡目継承の原則」が守られていた事を物語る。

では、次ぎに、”何時頃からこの正式な伝統を継承し始めたのか”を確認する必要がある。
それには ”何で、この「養子跡目の縁組」が出来たか”の疑問を先に検証する必要がある。

そもそも、実は、この「青木市左衛門」ルーツの「日向青木氏」は、「黒田藩」に「傭兵」として働いていた。
「傭兵」であって家臣ではないながら、黒田藩から特別に「苗字帯刀、家紋、登城権、布衣着用等」を許可され上級家臣(郷氏)なみの資格を与えられていた。
従って、「日向青木氏」は黒田藩から特別に使用を許された「五七の桐紋」を使用していた。

注釈
そもそも、この元「桐紋」は、「天皇家の式紋」で「五三の桐紋」が元紋に成る。
天皇家は、室町期からの極度の財政難から、秀吉にこの由緒ある「五三の桐紋」の使用と変紋の「五七の桐紋」を使わせて財政を賄いました。
秀吉は、今度は勲功のあった大名に対して、変紋してこの「五七の桐紋」にしたこの家紋の使用を「権威紋」として認めました。
出自に対して格式の無かった秀吉には、この「権威」が必要であった。
朝廷に対して、その格式の一つの天皇家で使う祭祀や儀式に使用する「式紋」を金銭を対価にして「五三の桐紋」の使用を要求して得た文様であった。
これをベースに家臣に対して与える「権威を示す褒美」として「五七の桐紋」を与える様にしたのである。
この「特別な勲功」で「権威紋」の「五七の桐紋」の使用を許された大名は、今度は家臣などにもこの「五七の桐紋」の使用を同じ目的で許可したのである。
その与えられた代表的な大名が「黒田藩」なのです。
「黒田藩」は、「傭兵」として「黒田藩に合力した事」を理由に、上記した特権と共に、この「名誉の式紋の桐紋」を永代使用として「日向青木氏」に与えたのである。
「青木理兵衛」が居る黒田藩では、「傭兵」の「日向青木氏」の事は知っていた筈ですし、一族の「青木市左衛門」の事も知っていた筈である。

実は、繋がりはこれだけではないである。
この「日向青木氏」は、平常時は農業や漁業をしながら、「戦い」となると「日向灘での操船戦術」と「陸の山岳戦闘術」の2面から「傭兵」として黒田藩に合力していたのである。
この「青木理兵衛」は、「摂津水軍」時に「操船術」を任務としていたと観られ事から、”仕事”の上でも「青木市左衛門」との付き合いは充分にあったと考えらる。
その上での同族としての認識の上で、「跡目継承」に「青木市左衛門のルーツ」と繋がったと考えられる。

実は、「青木理兵衛」の青木氏は「黒田藩の家臣」、「青木市左衛門」の「日向青木氏」も「黒田藩の家臣扱い」であったのである。
つまり、「青木理兵衛ルーツ」は、この認識に立っていた事と、何れの青木氏も「伊勢青木氏」に繋がった同族であると云う事の認識にあった事を物語っているのである。
この為に、”黒田藩の働き”の中で互いに親睦を深めていた事を充分に物語る。

従って、「青木理兵衛ルーツ」の「摂津青木氏」と「摂津」に大店と大船をもっていた「伊勢青木氏」とには、何かの記録が遺されているのではないかと観ている。調査中。

以上の三つの事を合わせると、このルーツに関係する状況は次の様に成る。
A 黒田氏ー近江佐々木氏系末裔ー摂津青木氏(理兵衛)ー近江青木氏ー伊勢青木氏ー日向青木  氏(市左衛門)
B 九州博多の櫛田神社ー伊勢松阪の櫛田神社ー皇祖神子神の神明社ー伊勢青木氏の守護神
C 鎮守系神社(大蔵氏と平氏の守護神)ー神明社系神社(青木氏の守護神)
D 櫛田神社の神紋(五瓜に唐花紋)ー内原氏の家紋(五瓜に唐花紋)ー伊勢平氏の家紋(織田木瓜  紋)
E 青木氏女系の家紋ー「三連鎧揚羽蝶紋」ー伊勢平氏紋ー九州池田氏

以上の様に関係が不思議に繋がっている。
これは、格式を重んじて「九州の2つの青木氏」は縁組を構築していた事が判る。

移動定住した九州でも「青木氏」を継承する上で、”血縁上で採った考え方”をしていた事が観えて来る。

「独特の慣習」の”「女紋」”を使っているところを観ると、「男紋」も含めて、「紋」即ち、「青木氏ルーツ」と云うものに”拘り”を持っていた事を物語っている。

そもそも、「女紋」を使われている慣習を続けていた事であるのなら、「女墓」の慣習も続けられていたと観られる。
「女墓」も女紋と同様に、「青木氏等の賜姓族」が継承してきた慣習である。
代々の女御の俗名と戒名を記載した大きな墓碑で、系統的に維持し、単独に先祖墓の横に別の墓所を設けているものである。

この事は、「男側の継承」にも「賜姓族青木氏」として、「女側の継承」にも「賜姓族平氏」として、”拘り”があった事を想像出来る。
これらの情報の詳細な事は研究室に全て網羅している。

そうすると、日向青木氏が、”何時頃からこの正式な伝統を継承し始めたのか”の検証であるが、少なくとも、「日向青木氏の青木市左衛門」と「黒田家臣の青木理兵衛」の「跡目の血縁」が成された時期より少なくとも前に成る。
つまり、既に、「青木氏の跡目の伝統」と「女紋」などの慣習を持っていた事に成るのであるから、その前に成る。
と云う事は、「黒田藩の傭兵」と成って、青木市左衛門が黒田藩に関わり、黒田藩の青木理兵衛が博多に来て両者が知り合った時の前に成る。
黒田藩から、”勲功として「特権」を与えられ、「郷氏」に成った時”と云う事に成る。
最終的な勲功と成れば、1615年から1618年の間と成る。
この時に、改めて正式に「家筋の伊勢青木氏系」の「氏族としての条件」を整えた事に成る。
黒田藩から「五七の桐紋」、伊勢青木氏の配流孫としての「丸に笹竜胆」を一族に示した事に成る。
無冠の「土着の民」から、始祖の青木氏の格式を持つ「郷氏」に成った時に、世間に対して「家筋の正統性」を誇示したのである。


参考
「三連鎧揚羽蝶紋」は「揚羽蝶紋」を調べて、その羽の右上の二つの尾びれの様なところが鳥の羽の様に成っている家紋で、羽の筋文様が黒線になり、その上の文様が黒点に成った文様である。
この文様の羽が三つ連なっているところから「三連鎧揚羽蝶紋」と云う。


最後に、画して、「福岡の分布と子孫力」に付いては、上記した様に、複雑な経緯を持っている。
それが故に、これを紐解く為に、かなりの調査と検証が必要と成り研究には時間が掛かった。
この「福岡の青木氏」を論じる場合は、他の定住地の事や歴史性などの知識も考慮に入れて読み込まなくてはならない。
それでなくては、正しい理解は進まない。重要な「情報提供」を得て、事例を用いた。
故に、敢えて、最後に論じたものである。
未だ、多くの歴史マニア等にお願いしての「情報提供」を待っている状況でもある。それだけに時間が掛かる。判り次第追記する。

本論を読まれる際には、ルーツ掲示板と研究室などの論文も是非にお読み頂けると、筆者の論じる翻意は誤解なく通ずるのではないかと考える。是非お読み頂く事をお願いしたい。

更に、続けて、「伝統シリーズ」を仕上げる為に、現在、「論文の見直し」を続けている。
ご期待頂きたい。


伝統−4に続く。

> 終わり



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