青木氏氏 研究室
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  [No.323] Re:「青木氏の伝統 6」−「毘沙門天の影響 2」
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/09/26(Fri) 09:22:05

> 前回の末尾

>因みに、その盛大さは、「超大地主」であったことから、奈良や紀州や伊勢の各地の農民等の代表者等が泊りがけで集まったと伝えられている。
>その為の宿泊の準備では、「菩提寺と関係寺の解放」、「各地神明社の解放」と「全ての居宅や旅館」を確保したとされる。
>「土産物」「引き出物」などは、地元の家々の分も大八車に載せて列を組んで運んだと聞かされている。
>明治35年以降は、「端午、雛の節会」は、形式的に終わらせ、「盆彼岸の節会」は普通に内家で行った。
>現在は、「盆彼岸の節会」「暮正の節会」は「毘沙門天荒神節会」と合わせて家内で形式的に消えない範囲で行っている程度である。実際のところ”文書に遺せる範囲の維持”と成っている。




> 伝統−6


・「注釈6」
ヘに付いて、「仏壇の作法」は「密教作法」に関わっている。
ただ、現在は「密教浄土宗」は何処にも無く、伊勢菩提寺も知恩院系の顕教と成っている。
(江戸期の禁止令)
従って、「密教部分」は、「青木氏」に伝えられている「密教作法」のみと成っている模様である。
「青木氏」には、これに「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」の部分の「伝承範囲」が習合と成っている。
ただ、「仏壇祭祀の飾り立て」は、他の浄土宗の祭祀とは違っていて盛大と云えば盛大である。
(筆者が他の葬儀に参列した時の作法でその違い差が出て来る)
「仏壇供え物」は、専用の高瓶盆、専用の器類、専用の机、専用の台、専用の経机、・・等、古来からの「武家の慣習」に従った「歴史的な専用の物」に備えて祭る。
全て、「漆金」と「漆朱」を中心としてと一部「漆黒」で出来ている。
これを仏壇前の一畳の中に治めて先ず供る。
例えば、盆類は、公家は低盆で庇は少ないし漆黒であるが、「武家」は高く庇は大きく朱色である。
盆以外にも「武家」の専用具には全て象徴紋が大きく金色で書き込まれている。

「密教」の「両界曼荼羅絵」を仏壇の左右壁に並べて下げる。(古来慣習 下記)
「釈迦天女像」が仏壇上正面壁に飾られる。(古来慣習 下記)
「青木氏の三象徴物」の「笹竜胆紋」「神木のあおきの絵」が仏間正面に掲げられる。(古来慣習)
本来、「大日如来坐像」と「毘沙門天像」が、仏壇の左側の間に、仏壇と同じ作法で鎮座して別に祀られていた。

(ところが、ある時期から、盗難の危険が迫った事と成った事から、現在は、或ところに依頼して別に祭祀している。毘沙門天像は消失)
それに代わって、左間側に「大日如来坐像絵」と「毘沙門天像絵」が祀られている。(古来慣習)
ここに、節会の毎の像・器・具(義経ー弁慶像 雛人形、・・・)が飾られる。
(筆者は、大変なので始めから隣の一つの部屋に「飾り部屋」としてこれらを飾っている。)
祭祀の間は、左右に二畳ずつの間、その二つの前には六畳仏間があり、合わせて十畳の間と成っている。ここの仏間の両脇に「廻り灯篭」の一対の「行燈」と、「武家・侍」としての「印」の「密教の三昧耶形」が飾られる経机を設置する。

「達親の論文」でも論じたが、仏壇の内容には「細かい作法」で「密教性」が出ている。
「線香、蝋燭の用い方」、「木魚・鐘鈴の用い方」、「座り方」、「仏壇御簾の使い方」等が、「浄土宗作法」と違っている。「密教性」が出ている。
確かに、「違い差」がある事が、「月節会」の知恩院系住職との会話から判った事であるが、「密教性」と云うよりは、「古代性」である様である。
典型的な違いのあった例事は、「座り方」であった。全てこの考え方に尽きる。
男性は「胡坐」、女性は「立膝座り」である。(室町期ー江戸期の武士の座り方作法である。)
「月節会」では、住職の後ろには座らず左右に別れて座る。(中央は「仏の道」との考え方にある。)
家長と姑 嫡男と嫁は左側、その他は右側に座る。
この様に上記の違い差は全て「古代仏教の仕来り」に習っている作法が遺されている。
これは、古来より「三宝荒神信仰と毘沙門信仰」の「古い信仰体の作法」が引き継がれて祭祀して来ていた事が、これが「作法の違い差」に成って出ている事に成る。
つまりは、「古来作法」が介在していた為に ”俗化されなかった事”に成る。
この「古い信仰体の作法」がある事が、千三百年以上の長い間、「新しい信仰体」の作法が入る余地は無かった事に成る。
これは当然の事でもある。”先祖との会する場”の「密教概念」が、実際にはもっと遺されていたのではと考えられる。
「江戸期の密教が禁令」と成る前の室町期前には、当たり前の形で遺っていたと観ている。
例えば、
「仏の道」「仏の座」を作る事     「道座」
「仏壇の開閉」はせず「御簾」を使う事 「御簾」
「住職」は「専用の椅子」に座る事   「椅座」

(「道座」は仏教にもあるが、「神道」にも”神が通る道”と云うものがあって、「本殿に通ずる参道」なる道がある。つまり、”「憚られる道」と云う概念”が「神道」にもある。)

以上等は、「道座作法」「御簾作法」「椅座作法」と呼ばれる。
その部屋に仏が通る道を設けたり座る場所を設けたり、仏壇を開閉せずに仏が居るので神道で使う御簾を設けて常に仏壇を開けて置いたり、住職が座る椅子を準備して仏が動座して和する様にしたりする所作は、これらは、当に、そこに ”仏が居る”とする前提にある所作である。
奈良期の頃は板の間であって、上級階級の「生活の場」や「政治の場」や「祭祀儀式の場」では、人が集まって輪座する時は、「床几」と呼ばれる椅子の様なものを使った。
「神道」では、現在でも ”「神が坐処」”としてこの「三つの所作」が遺されているが、「御簾」と「椅座」は、「神道」のみならず「天皇家の儀式」にもはっきりと遺されている。
然りながら、現在の仏教に遺されていないで、「神道」等の所作に遺されている事は、それは元は、古来の「和魂荒魂の宗教」(自然神)の「仕来り所作」から来ている事を示すものである。
つまり ”先祖との会する場”と云う事で生まれた作法である。
これらは、江戸期の禁令に対して「明確な排他的密教作法」とする前提に無い事から、 ”他に弊害が無い”として遺された作法であろう。

参考
古来の宗教の「邪馬台国の卑弥呼」の「自然神の占術」は、祈祷する事に依って、この”先祖との会する場””神・仏が居る”を作り出し、その”先祖の知恵と経験”を聞き出して、”神のお告げ”として「占い」をした事を意味する。


”先祖との会する場””仏が居る”の「密教概念」に付いて、上記の様に、追求すると「古来宗教の仕来り所作」が基本になっているのである。
仏教伝来後に「密教概念の作法」に成っていた事には間違いはないが、ただ、注釈3の「伝家作法」、注釈4の「賜姓五役」、注釈5の「白幔幕、青幔幕」、本注釈6の「道座」「御簾」「椅座」等は、全て「神道の所作」に通ずる事であって、必ずしも「密教仏教作法」だけではない。
多くは「神道の所作」が「密教仏教作法」の中に組み込まれたものとして一体化したものである。
それだけに、「古来仏教の勢い」が「古来神道の勢い」(和魂・荒魂)より大きかったことを物語る。

これらの「一部の所作」が、現在の「神道の祭祀」や「天皇家の儀式」の中に観られる所作ではあるが、”「個人としての伝承」”では、奈良期からの「賜姓族の青木氏」だけであった。
これは「賜姓五役の所以」であった。
つまり、注釈2の古来宗教の「和魂 荒魂」から来た所作であって、これが「神仏習合の所作」である。従って、”「古来の宗教所作」の伝承”と云えるのである。
言い換えれば、当に、”「三宝荒神信仰と毘沙門信仰」の合体”が、「青木氏の所作」と云える。

・「注釈7」
トに付いて、”「三昧耶形」”として祀られているが、つまり、密教の「三宝荒神信仰」と「毘沙門天信仰」に使われる仏具と云う事である。
筆者には、この”「三昧耶形」として祀る事”は ”少し変だ”と観ている。
何故ならば、確かに「二つの信仰体の仏具」である事は事実ではあるが、それならば、敢えて”改めて何故祀るのか”疑問がある。

「三昧耶形」を指し示す事は「密教」であり、「賜姓族」で「武家」である事の証である。
しかし、それならば何も「三昧耶形」の仏具でなくても証明は出来ている。
取り分けに「仏具」をわざわざ誇示する必要は無い筈である。
筆者は、この「三昧耶形の仏具」は、「毘沙門天像」が「明治の出火」で消失したが、この「毘沙門天像」が燃えた後に遺された「鉄製の装飾品」、つまり、像に飾られていた「三昧耶形」の「装飾仏具」であったと観ている。
何故ならば、古来にこれらが作られた時に鉄製であった事から、錆びない様に”黒染め”と云う処理を施していた。
他の古い仏像の金具には必ずこの”黒染め処理”が施されていて、既に、この技術は大化期の初期の古来からあった。
それは「後漢」からの「職能集団の鍛治部」が持ち込んだ技術である。  

つまり、鉄を350度くらいで熱すると、表面が空気と触れて酸化する。
この酸化は、錆びの酸化とは異なり、錆びない酸化膜なのである。
鉄には、温度を上げて行くと4段階で4種類の酸化膜が出来る。
第2段階のこの酸化膜はその中を拡大すると、空気が入り込めないほどに緻密に成っていて逆に錆びなくなるのである。

「毘沙門天像」が燻り燃えた時、この鉄の仏具もある程度の温度になり、黒染めに成っている処に、更に黒染めが働いて更に強く成って錆びなかった。この為に遺されたのである。
つまり、明治35年消失の「毘沙門天像の遺品」と云う事に成る。
これが”錆びない”とすると、この「毘沙門天像」は、「青木氏の発祥期647年頃」のものである事に成る。

つまり、天智天皇から命じられて「大日如来坐像のお仏像様」を作った「司馬達等」かその孫の「鞍作部止利」の仏師の作と成る。
そこで、この「三昧耶形の仏具装飾品」の大きさから像の大きさを算出した。
その結果、菩提寺から室町期末期に居宅に運び込まれたとされていることから、一間以下であった筈で、台座を入れて室内で祭祀するには、1500Cm以下であった筈である。
「金剛棒の長さ」からみて、宝棒や宝塔等の大きさから、台座の高さを少なくとも30Cmとすると、像は1200Cmと成る。
金剛棒(1000Cm程度)が、これを超えない範囲で製作されている筈であるから、「毘沙門天像」は1200Cm程度であった事に成り、この像のものであった事が判る。
他の「三昧耶形」もこのサイズに対して一致する。
「像木」が管理された環境の中に無いにも関わらず、ここまで朽ちないで遺っていた事から、「楠の巨木」からの像であった観ている。別の三昧耶形の仏具の中に鉄製では無い「木製仏具」は「楠製」で出来ていて黒光りしている。

これらの仏具は、「毘沙門天像」に付随する「三昧耶形」として整えられたものであろう。
一つは50Cm位の「大蛙の彫り物」(現存)、二つ目は12Cm程度の太さで65Cm程度の「釈迦立像」(現存)も楠で彫られている。

(古来には「大蛙」は「神仏の使い」として扱われていた。この事から「毘沙門天像」の「三昧耶形の仏具」として扱われていた可能性が高い。)

この「釈迦立像」(下記)は、口伝では元々から菩提寺では無く居宅に安置されていた仏像であったらしい。
室町期の大火で「大日如来坐像」と「毘沙門天像」が居宅に安置されてから、この「釈迦立像」とはどの様な形で安置し祭祀されていたかは不明である。(下記)
明らかに、容像は、「浄土宗仏像」形式で、「天上天下唯我独尊」の構えの像である。
この容像から観て、この崇拝偶像は、「本仏壇(平安中期頃の持仏堂型仏壇形式)」の前に用いられていた仏間で中央に祭祀されていた「本尊の仏像」の一つではないかと考えられる。
この「釈迦立像」は、元々何かの台座の上に据えられていた事が像の底の形から判る。
「雲の形」をした台座の上に据えられていたらしいが、この「台座」は、端部が朽ちていて中央は角型に抜けている。サイズバランスからして適切なものである。
しかし、楠の材質では無く檜で、楠の様な樹液による”黒くすみ”は無く赤白い。
推定だが、この台座の上に金糸絹布が載せられていた可能性がある。
現在は大花瓶の台座に成っている。

お恐らくは、この事は、奈良期の「大日如来坐像」と「毘沙門天像(三宝荒神信仰)」への「偶像への祭祀」と、「先祖を祭祀する仏壇」の「偶像の祭祀(釈迦立像)」とは、「別の信仰体」として祭祀されていた事を意味する。(奈良期から室町期末期での祭祀は異なっていた。下記)
「賜姓五役」を達成し維持出来る様にする為の祭祀と、「先祖への祭祀」とは概念として区別して祭祀していた事に成る。

そもそも、「毘沙門天像」は、足元に多くの「三昧耶形の仏具」が多く添えられている仏具で有名で、その足元には、鬼を踏みつける容像等、足元にその特徴があって、その密教に依っても異なる。
「青木氏の毘沙門天像」は、「鬼相台座」の横に、「神仏の使い」として「大蛙」を引き連れた容像であった事に成る。
この事は、「青木氏の密教」の概念を物語る。
その概念とは次の様に成る。

「青木氏の密教概念」
古来宗教の「和魂荒魂」から、「荒魂の荒神」の「悪神」として時には荒れると見做されていた「鬼」を、「毘沙門天」は足で押し潰し、「悪」を祓い守護される。

(「鬼」は、この時期、未だ「悪」とは必ずしも考えられておらず、「神の使い」としての扱いであった。ただ、「神の使い」として、時には、奢り、豊満、怠惰、強情、遍情等の「戒め」の為に「世」を懲らしめるとしたが、人間の勝手な理屈で嫌われた。
9世紀半頃の何時しか鬼は「悪神」と成った。下記の「方相氏」の論を参照)

「和魂の和神」の「仏神の使い」としての「大蛙」に依って「和魂」の「大日如来」の「ご利益」に導かれる。

以上の様な「青木氏独自」の「密教概念」を持っていた事に成る。
この「密教概念」は次ぎの様にまとめられる。

青木氏の「守護神の密教数式論」
A 「和魂の和神」=「大日如来坐像」+「大蛙の仏神の使い」
B 「荒魂の荒神」=「毘沙門天像」+「三宝荒神」
C 「仏教の守護神」+「神道の守護神」=「青木氏の守護神」

これで、「青木氏の密教概念」の論理性は成り立っている。

しかし、「青木氏の密教概念」だけでは、「仏教」だけの守護となり、「青木氏の賜姓五役」は成り立たない。(仏教の守護神 神仏習合神)
その為に、「神道」の「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の守護があってこそ、「青木氏の賜姓五役」は成り立つ。(神道の守護神)

(研究室「青木氏の守護神の神明社」の論文参照)

結局は、上記の”「守護神の密教数式論」”が「賜姓青木氏」に成り立っていた事に成る。
本来、如何なる他氏でもこの様な「守護神の密教数式論」が成り立つ事は無かった。
それは「賜姓五役」と云うべき”「氏」に課せられたもの”が無かったからで、同じ「朝臣族」であった「賜姓源氏」にはこの務めは無かった。
如何に大変な宿命を負っていた事かが判る。
しかし、それだけに、「氏の行動」は「慎重な行動」に成らざるを得ず、「賜姓源氏」の様に「自由な行動」に出て、結局は11氏もありながら全て「滅亡の憂き目」を受けてしまった事を鑑みると、「賜姓青木氏」は幸せであった事に成る。
当に、”世に晒す事無かれ 何れに一利無し”である。

言い換えれば、この「守護神の密教数式論」の御蔭である。


そこで、この「青木氏」の「慎重な行動」は、上記で執拗に論じた「密教節会所作」と云う行動を作り出し、そこからはみ出さぬ様に、「自らの概念」に、”箍を填めて作り出していた”事に成る。

(何故、二月に一回程度に「節会所作」を繰り返していたかは、「氏の者の思考」の中に徹底して浸み込ませていた事でも判る。)

「青木氏の慎重な行動」=「密教節会所作」=”世に晒す事無かれ 何れにも一利無し。”


ところが、青木氏の「密教数式論」はこれだけでは終わらなかった。

それは上記した「釈迦立像」の「仏壇の本尊」があった事である。
更に進めた調査で次の事が判った。

本来の他の氏であれば、この「仏壇の本尊」への「祈願とその所作」の範囲で留まる。
「賜姓青木氏」は、この「仏壇の本尊」も偶像化して、その所作を上記の「守護神の所作」と重ねていたのである。
上記の「九度節会所作」にもある様に「賜姓五役」の「守護神の密教数式論」に伴う「節会所作」と連動させていた事に成る。
では、どの様に、連動させていたのかである。

普通は、「浄土宗仏壇形式」の「持仏堂型仏壇の様式」で諸々の仏具を整えての祭祀となるであろう。
しかし、ここでも「賜姓青木氏」は他と違っていた。
恐らくは、奈良期647年に賜姓を受けてからの「古来の奈良期の仏壇」と成った筈である。
その頃は、未だ、時代的に「持仏堂型仏壇」は無かった。
「持仏堂型仏壇」は、仏教伝来後、寺の中に「持仏堂」と云う建物を建てた事から、この”仏を祭祀していた堂”の形をそっくり真似て、小型化したものが現在の「持仏堂型仏壇」の元となった。
従って、その「持仏堂」の初期の代表的なものは、平安期の「平等院鳳凰堂」の「持仏堂」であり、これが”「仏壇の起源」”であると云われている。
この「持仏堂型仏壇形式」の前までの祭祀方法は、上記した古来宗教の”「和魂荒魂」の「祭祀の方法」”に従っていた事に成る。
この”「和魂荒魂」の「祭祀の方法」”では、”何時頃からのものになるか”と云うと、これには記録があった。
最も古い記録から、この古来の「和魂 荒魂」の「祭祀の方法」として、何と、当にこの事に付いて、684年3月に「天武天皇の詔勅」を発している。

この「詔勅」から、未だ当時、「仏の祭祀方法」に定まったものが無く、新たにその祭祀そのものを命じ、且つ、その祭祀方法等をも禁令で命じた事に成る。
この「天武天皇の詔勅」では、次ぎの様に命じている。

”「諸国の家毎に「仏舎」を作り、「仏像」及び「経」を置きて、以て「礼拝」し「供養」せよ」”

以上と明記している。

この”「仏舎」”とは、上記した平安期の「持仏堂型仏壇形式」に相当するもので、古来の「和魂荒魂の祭祀の方法」である。
その”「仏舎」”(現在の仏壇に相当)の作り方も明記している。
その内容を現在文に要約すると次ぎの通りである。

そもそも、「仏の祭祀」は、その都度、四隅には、「木又は竹の支柱」を建て、これに板を渡した「舎」を造り、その中央に「本尊(仏像)」を造り安置し、その「葬儀」には、ここに「仏」を安置する方法として祭祀する。
この「舎」の形状は、箱型にした上部には、斜めに「板」を渡し、「庇」を設け、側面の一方を開いて正面とし、内部の底には「台」を設けて、そこに「本尊なる物」を設けて「仏舎」とすべし。

以上としていて、更に記録を観ると、この”「仏舎」”の形では、「天武天皇の詔勅」に基づいた「仕来り」に従った事を、更に発展させた事を明示している。
それは、次ぎの発展内容の通りである。

しかし、この「仏舎」で祭祀するに従って、その頻度が高く成り、「上級階層の祭祀」では、これを繰り返したが、遂には、それを定型化して「台」と「仏像」を安置する「仏舎型」なるものを作り上げた。(「台」と記されている遺品は遺っている。下記)
そして、それを「小型化」して、「家屋」の中に治めた。と記録にある。

これらの経緯としては、最初は外にあった「仏舎」を屋内に治めたのか、外と中にも設ける仕来りにしたのかはこれでは判らないが、しかし、”両方に設けた仕来り”であったと判断できる。
そして、外の「仏舎」は「墓」と進化したと考えられる。
「墓」は何時しか「仏舎」の形造る板が朽ちる事から「砂岩」で表現したと観られる。
墓石の「砂岩」に付いては、平安期の仏教の記録資料があって、”風雨で自然に朽ち果て自然に戻る事”を「仏説作法」で求めている。
と云う事は、この資料から「外の仏舎」が「墓」に変化した時期は、奈良末期から平安期初期の頃と成る。(「外仏舎」と呼称されていた模様)

古墳時代の末期に位置していて、この時期の墓としては次ぎの様なものがある。
(「仏舎」の形に影響を与えた「古代インドの墓」の形に相似させた古墳時代の円墳丘)

持統天皇陵の奈良県高市郡明日香村の野口王墓、(686年 697年)
文武天皇陵の明日香村の中尾山古墳、(707年)
天智天皇陵の御廟野古墳 (672年)
[施基皇子の陵墓」(「春日宮天皇陵」)高円山東古墳:「後付墳墓」(716年)
「光仁天皇の陵墓」の奈良県奈良市日笠町の田原東古墳 (781年)
などが墳丘を持っている。

日本では、初めて以上の皇族王の「固有型式の陵墓」が出現した。
この事から、684年に「天武天皇の詔勅」が出て、王族では無く、上級階層の「仏舎」は、「施基皇子の墓」(高円山東の「春日宮天皇陵」)として「後付墳墓」があるので、後716年以降と云う事に成る。
近くには、「子供の光仁天皇の陵墓」があるが、「伊勢青木氏の菩提寺」には「施基皇子」「白壁王」までを祭祀している。
「春日宮天皇陵墓」と「光仁天皇陵墓」は、「公式の墓所」として祭祀されていたので、別として、「賜姓氏」の「個人の墓所」は「青木氏菩提寺(」匿名)にあったが、「墓形式」は「仏舎型」で、当初は「木仏舎」から、平安期直前(716年頃−810年頃)に墓石に変え、この墓石は当初は「砂岩」であった事が判っていて、その証拠に隣の「女墓」の一部の墓石は未だ「砂岩」のものが遺されている。
始祖「施基皇子王」と元祖「白壁王」の「氏墓」も青木氏菩提寺に祭祀されていた。
(松阪大火で菩提寺消失 明治初期に大理石の墓石に変えた。)

この事で、次ぎの事が判る。
”790年頃以降”に「青木氏」がその「賜姓族立場」の頂点にあった事から率先して見本を示し、「上級階層」から「仏舎型石墓」を採用したと考えられる。
この「石墓」に成るには、上記した「後漢の職能集団の石作部」が「大和川流域」に住んでいた渡来人にて可能に成った。
「木製内仏舎」や「木製外仏舎」は「玉作部」が、後の「石墓」は「石作部」が作っていた。
この「玉作部」や「石作部」等職能に関する後漢から渡来した「部民」は、直接、朝廷の管理下に置かれていて、官吏「伴造」が仕切っていた。
この官吏「伴造」は殆どは「氏上」の中から選ばれた。しかし、「人」がいない時は「部民」の中から選ばれる事もあった。
「伴造」は「民部省の配下」にあったが、「始祖施基皇子」の「青木氏」は、この”「大和川流域の部民」(技能集団)”(「青木部」と呼称 名張拠点)を「氏上」(伴造として選出)として直接統括していたのである。

注釈
(「青木氏」が ”氏上様”と呼ばれていた所以であり、”御師様”とも呼ばれていた所以である。
「御師」は職能集団の総括者の事、 江戸時代には「徳川吉宗」に依って幕府にもこの「御師制度」を伊勢から持ち込んだ。以後幕末まで維持された。)

注釈
(「青木部」:民部 かきべ 後漢渡来人の職能集団の総称 後に「守護神神明社建立」や「菩提寺建立」等に関わり「賜姓族青木氏」の「2つの絆青木氏」に成る。「三つ発祥源」「国策氏」「神明社建立」の為に、永代の「民部大輔」にも成っている。この役職には、実質、下記の”「民部四権」”と云う国策に直接関わる大権を持っていた為に、「正四位下」以上の上位の位官級の者で中納言か上位公家等が任官した。「命令権者」であった。実務者は「民部大丞」と「民部少丞」(秀郷一門の役)であった。大蔵省よりも権限は強く、その為に「太政官府」の譜と併用して発給していた超重要な朝廷の機関であった。「民部部門」を実質制する者は、”朝廷の真の権力者”であった。「皇親政治の根幹部」であった為に「光仁天皇期」(施基皇子第六子)まで維持された。桓武期の「律令政治」に成った事から「民部四権」の大権は律令に取って代わったが、「青木部」は遺された。この段階から、「二つの絆青木氏」は発祥した。「嵯峨期」では「民部大輔」は「永代官位」と認定された。)

注釈
(民部省:「税政権」を主幹とし、その「具納組織の管理権」と、それに伴う一切の「問題解決権」と、その「管理内の警察権」(「民部四権」と呼ばれるもので、「私有荘園内」にも認めた。)

従って、「青木氏」がこの立場を利用して、この身内の官吏「伴造」を通じて命じて、全体を動かし、「青木部」をして、「仏舎や石墓」等を率先して作り、見本的にも ”作り易い環境”に成っていたと観られる。
その「青木氏」が作ったので「上級階層」は、”我先に競って作った”と云う事が起こったと考えられる。
何故ならば、「日本人の国民性」で、”自分が先んじると周囲の批判を受ける”と云う懸念する習性が働いたと考えられる。
実行するのは「上層階級」なので、批判は「公家や天皇」から直接受ける事に成る。
ところが、そもそも、「上層階層」は、自ら「民部(品部)」を持っていなかった為に、「青木氏」に頼む事に成り「批判の心配」もなく見習ったと考えられる。
元より「賜姓族氏」として「見習れる立場」にあった。

その「石墓の原型」は、「砂岩石」の高さ1M程度幅40Cm程度の四支柱板を組み立て箱にし、その上に石板の「屋根型の箱蓋」をした形であった事が伝わっている。
(仏舎型石墓)
その後に、下の四支柱板を設けそれの一方を開いた箱型を立てた形にし、「仏舎型の屋根」を載せた形にした。
(箱型仏舎石墓)
更に、この箱型が1角柱に変化して、その上に小さく仏舎型を載せた形となった事に成っている。(角柱型仏舎石墓)
角柱に変化してから、ここで、更に次ぎの様な差別化が起こった。
この様に、三段階の「外仏舎の石墓」”(灯篭型仏舎石墓)”の変化を来した事が判っている。
(灯篭型外仏舎)
江戸期には下級武士も墓所を持つ様に成って汎用化して、より安く簡単にした形が好まれて屋根部が省かれ始めた。
(角柱型石墓)

明治期の苗字令で、庶民も墓を持つ様に成った事から、「角柱型」のものと成って行った。
この時期を境に「材質」も汎用で長持ちさせる為に変えられた。(花崗岩)
「角柱型石墓」の多くは室町期末期から江戸期に入って起こった形である。

その身分さ家柄さを表現する為に、次ぎの様な工夫が凝らされた。
角柱の上に元の様に、「五輪の塔」の様なものをした石物を載せた様にしたが、これも差別化と当時に、「仏教の教え」を表現する仕来りが出て来た。
多宝塔、層塔等の物が石墓の横に添えられた。
50年経つと、この「五輪の塔」を設ける者が現れ、何時しかそれが「仕来り」と成った。
しかし、これも上級階層の誰しもが設ける様に成ってからは、「先祖の仏」が50年経過毎にこの塔に移す仕来りに代ったのであった。要するに「50年祭」である。

「現在の石墓」はこの角柱の上に置かれた屋根型のものを省いたものと成った。
しかし、「平安初期の古石墓」は何れも「仏舎型の石墓」の形を呈している。
調査したところによれば、比叡山や高野山や知恩院の浄土寺の古い寺や墓所からこの様子が観て取れる。

現在でも、地方の古来の歴史的遍歴を持っている墓所の「墓の形」には、未だ、初期の平安期の石墓の形を遺している地域がある。
この様に「内仏舎の原型様式」や「外仏舎の原型の石墓様式」も「インド墓」の流れの「円古墳」を汲んでいたのである。
それが、日本式に「環境や仕来り」(「和魂荒魂」と「古代仏教」)に合して改良した事に成る。
丁度、「灯篭の形」に成っている。
そして、はっきりとした記録に観ると、平安期800年過ぎ頃から石墓の「灯篭型外仏舎」に蝋燭を灯して先祖を導く行燈とした。
「木製外仏舎」には「天武天皇の詔勅」が出た直ぐ後の690年頃から使われた模様である。
現在の「庭灯篭」はこの「外仏舎型石墓」(灯篭型石墓)が変化したものと考えられている。
この「庭灯篭」の汎用は1360年頃から絵画にも観られる様に成った。
実は、この「庭灯篭」が、更に「密教の内仏舎」の上記の”「迎え行燈」の役目”に発展を成していたらしい。

”灯を点灯して、先祖を迎え入れる”と云う行為は、「古代仏教の概念」としては強いものがあり、「仏舎の時代変化」は、調べると「蝋燭の時代変化」にも合致している。



> 終わり。

「伝統」−7に続く。



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