青木氏氏 研究室
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  [No.325] Re:「青木氏の伝統 8」−「大和絵と絵所領職と朝廷絵師の経緯」
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/11/17(Mon) 10:47:49

>前回の末尾

>「賜姓族青木氏」には、残す手立ては、一族の青木氏の神職(500社)と住職(15寺)に指示する事に成った筈であり、可成り、「仏画構築」に急いでいたと考えられる。
>この能力を以てすれば十分に対応できたと考えられる。しかし、ここで問題が生まれた。
>それは、元々、「神職 住職」は「書」への高い技量を持っていた。
>しかし、「絵画への技量」は無い。
>そこで、「賜姓族の青木氏」は、その「絵画の技量の基礎」を会得しなければならない。
>「仏画」と成れば、「中国画」が主体を占めていたが、「青木氏の密教仏画」を表現すると成れば、古来からあった”「大和絵」”から”「青木氏の密教仏画」”を新たに創造する必要性に迫られた事に成る。


伝統8


「大和絵と絵所領職と朝廷絵師の経緯」
この事に付いて次ぎの様な事があった。
ここで、先に以下の事を事前に知っておく必要がある。
そこで、奈良期の朝廷の「絵所領職」(絵等を管理する役目)を務めていた「巨勢氏」が、その役目からこの「大和絵」の伝統を「傍職」として細々と個人的に継承していた。
「賜姓族の青木氏」は、この「絵所領職」の「巨勢氏」に援助して、「大和絵の絵を描いていた者」を招いて、「青木氏の神職住職」の優れた才のある者に師事させたのである。
そもそも、この「巨勢氏」(こせ)は、「大和朝廷」の元の飛鳥時代の「大和政権」を構成する「五大豪族」の一つであった。
「ヤマト政権」から「大和朝廷」に成長したことから、「蘇我氏」が勢力を拡大させ、「物部氏」と共に「前政権の豪族」は衰退し、蘇我氏に依って掃討された。
この衰退した「巨勢氏の末裔」が、「大和朝廷の絵所領職」を務めていた。
この衰退した「巨勢氏」(紀州北部東域に勢力圏)を「賜姓族の青木氏」(施基皇子から白壁王の光仁天皇まで)は支援して「朝廷絵師」と云う形にして引き揚げた。
そして、「絵所領職」と「朝廷絵師」としての「役付け」を朝廷内に構築し、「大和絵」を「国の絵技法」として確立させるように支援した。
遂に、その努力は実り、父の意向を鑑み「光仁天皇」は、「絵所領職」の中に、正式に「朝廷絵師」として「朝廷の支持」を取り付けたのである。
これで、結局、「大和絵」と云う技法は確立し遺されるに至ったのである。
この「大和絵を興した巨勢氏」の初代は上記した様に「巨勢公望」であった。

この様な「青木氏の神職住職」の技量獲得の背景から、この「大和絵」は、「賜姓族青木氏」の「仏画」の中に引き継がれて行って、「大和絵の裾野」を広めたのである。
それは、その「大和絵」から発展した「神仏習合」の「神格像」や「密教仏画」であるのであるから、尚更、「三つの発祥源」で「密教青木氏」の「氏寺社」と成れば文句の附け様が無かった筈である。
其処の神社や寺で、その”「宗教画」のお祓い”を受けての事と成れば仏画の依頼側は尚更に充分であった筈である。
つまり、頼むとしても”他に頼めないところまでの環境に至っていた”と観られる。
これで「青木氏の福家」としては、目的通りの「賜姓族」、況や、「国策氏」の「役目」を果たしている事に成る。
特段で云えば、その状況は、恐らくは”描くに描いた”と云う表現であった筈である。
彼らに取っても、「宗教概念」を心を込めて描くことで、”「本尊」”として扱われるには全く異論は無かった筈で、この上ない幸せであったであろう。
当に、”役目の冥利に尽きる”であったと考えられる。
むしろ「本道」を忘れる程に積極的に取り組んだと思われる。
一部の資料に、その様な手紙の表現が遺っているが、むしろ、この文面から考察するに、むしろ”「本道」=「仏画」”と考えていたと思われる。

(上記の事柄は、守護神や菩提寺に遺されているあらゆる資料からのもので、この推論で調査した結果の判断である。)

「賜姓青木氏と賜姓源氏の仏画の違い」
ここで「賜姓族青木氏」の上記する「仏画の現象」であったが、かっと云って、特記するべき点は、「賜姓源氏」にはこの現象は起こっていないのである。
この現象が起こっていた奈良期末期の後は、丁度、この時、「嵯峨期の詔勅」に依って、「青木氏の賜姓」は「賜姓源氏」と変名と成って、「青木氏」は皇族出身者が下族する際に名乗る「氏名」と成った。
この「賜姓源氏」の初代の「嵯峨源氏」の「源の融」が、”天上を表す平等院と持仏堂”を作り、それを小型にしたものを室内の祭祀殿として「持仏堂型仏壇」を作り採用した。
従って、時代が異なっている為に、「賜姓源氏」は、「賜姓青木氏」が継承していた「和魂荒魂」が持つ「宗教概念」と「密教性」は持っていない。
つまり、同じ「賜姓族の青木氏」と「賜姓族の源氏」は、根本的に「その立場」と「その氏の概念」に大きな”「氏差」”があったのである。
その証拠として、上記した事の様に、「嵯峨天皇」は、源氏には、「賜姓五役」としての「密教所作」等は元より付加しなかった為に「賜姓源氏」には全くない事に成る。
(むしろ詔勅の文面を考察すると、”「賜姓五役の役」”を否定している。)
つまり、上記で論じた下記の数式論は、全く成立していない事に成る。
この事、つまり,”「密教仏画」”と云う点では、「賜姓族青木氏」と「賜姓族源氏」との比較に於いて、最も、”歴史論”としては重要な点である。
依って、「賜姓源氏」には、上記する”「密教仏画」”と云う概念が無く、その代わり彼らには「八幡大菩薩」の「書」と「菩薩像」に限定していた。
つまり、”「賜姓青木氏の如来」”に対して、”「賜姓源氏の菩薩」”と云う仕訳に成るだろう。
それは次ぎの数式論でもあきらかである。
この数式論が「賜姓源氏」には成り立たなかったからである。

青木氏の「守護神の密教数式論」
A 「和魂の和神」=「大日如来坐像」+「大蛙の仏神の使い」
B 「荒魂の荒神」=「毘沙門天像」+「三宝荒神」
C 「仏教の守護神」+「神道の守護神」=「青木氏の守護神」


「釈迦立像」
そこで、先ず、この「二つの仏画」の前に、上記の事を理解を深める為に「釈迦立像」に付いて論じる。
上記した様に、”「仏舎の本尊」”として使われていたこの「青木氏の釈迦立像」が、何かの上に載っていたのではないかと観られる。
「仏教伝来」の早いこの時期の歴史的に遺されている「仏像」の大抵は、朽ち無い様にする為の「環境設備」が無かった為に、多くは「楠の巨木」が使われている。
(楠にはナフタールと云う成分が含んでいて「除虫」や「酸化」から来る「風化」を防げる木質を持っている。)
「大日如来坐像」の「お仏像様」の右横間に安置していた「本尊の像」としてもマッチングしていて納得出来る。

「仏舎」の中央に安置していたこの「釈迦立像」には「台座」があって、その「台座」が乗っている「台」が上記した”「天武期の詔勅」”で定められていた事は上記の詔勅文でも判る。
つまり、「仏舎」の床に、この「釈迦立像」とその「台座」と共に直に置いていた事では無い事が判る。
そうするとその内容から想像できるのは、床の上に、”宗教的な理念の基”に、それを形採った広い台の様なものがあった事に成る。
先ずは、その”理念とは、何なのか”の研究が必要である。
つまり、「仏教と仏像の関係」である。
その結果、「仏像」を作る際には、次の理念が生かされねばならない事が判る。
つまり、「仏像」とは、そもそも「天上に上った釈迦やその弟子たちの”神格化した偶像”」である。
その為には、この”「天上」”を表す表現が必要であって、その「天上表現」の一つには「雲海の表現」がある。
更には、「大蓮の花の上」、或は、「平等院の様な社殿景観」等が用いられる事が判る。
従って、上記した様に、”何かの様な形をした台座”に金糸絹布が被せられて据えられていた「釈迦立像」であった事が論じた。
この”「台座」”は仏教的意味を持ったものである事だけは、仏壇の他の物の形から、「仏具」である事が判る。
家の中に相当大きなものとして、保管されている筈であったが、何時も生活の中で接して居乍ら筆者はこの事に付いて暫く判らなかった。
ところが、ある時、”特異なテーブル”の代わりに敷布を掛けて使われていたものを調べると、実はこのものがこの”「台座」”そのものであることに気が付いたのである。
筆者から観れば、無造作に置かれているこの台が、「歴史の知識」が未だ未熟で在った事からそんな物であるとは考えも付かなかった。
(父親はそんな環境の中で育っていた事からこの台座そのものである事に左程の意識は無かった様であったが、後で確認するとお仏像様のものである事は知って居た事は知っていた。)
それは、ほぼ畳一条程度の大きさで、厚みが15Cm程度で、中はそっくりくり抜かれていて、中は彫刻されている。
結果として、厚みは4Cm程度で、「台縁」は雲の様に波打って形採られている。
その彫刻は、明らかに「蓮の葉と花」を形採ったもので、明らかに「宗教性の要件」に嵌る。
その彫刻のある側の裏側は、前面に平に削られて仕上げられている。
材質は「一枚板の黒檀」である。相当な価値を持つものである。
見るからに古く、何かの宗教的な三昧仏具である事は気が付けば理解できる。
普通の家では、先ず無いし、この様な使い方はしていないのではないかと思うものである。
余りに無造作過ぎる位であって、何でこの「台座」が「お仏像様」に使われていなかったのかは、父親の言い分で判った。
明治35年に伊勢松阪大火で消失した際に、このお仏像様を何とか助け出したが、この際に、”この「台座の影響」で災いが一部にあった”との事で、その後には使われなかったらしい。
(この災いは何であるかを論じるのは別にする。)
しかし、先ずこれだけの大きさの「黒檀の樹」は先ずは無い。大変珍しい代物である。
これだけの「黒檀」そのものが「歴史的遺産」であろう。奈良期の青木氏の位置関係が良く判る代物である。
また、その「黒檀」のみならず、「彫刻の粋」も歴史的な遺産であろう。
彫刻面の真ん中は「蓮の一枚葉」で葉の部分は40Cm角で平らで立体的に彫刻されているものである。
何かの宗教的な意味を込めて彫刻され、蓮は宗教的な花で仏教的な何かをここに載せる様に彫刻されたものと観られる。
その中央の「蓮の葉」の両側には又やや小さめの「蓮の葉」の平な部分がある。
左右対称に彫刻されていてその前後左右の周囲は「蓮の花」で形採られている。
この彫刻のある窪んだ部分は表に成るのであろう。
その台そのものの縁が、「蓮の葉」の立体性を持たすように細かく彫刻されている。
わざわざ、この様な彫刻を施す事は、”テーブル”には明らかに不適切である。
何かの目的で彫刻したと思われる台座である。
(実はこの台座と全く同じ形をした1/4程度の「黒檀の台座」が見つかった。「副台座」であろう。)
これが、本台は「内仏舎」の床部に置く台で、ここに上記した「釈迦立像」とその「台座」を本尊として中央部に安置した事は間違いはないと考えられる。
更に、問題は、お仏像様の大きさから中央に安置したとして大きすぎるが、この両方のスペースは何なのかと成る。
何か置いていた事に成る。
そこで、調べると次ぎの様に成る。

実は奈良期と平安期の「釈迦三尊像」には次ぎの様な仏説の決まりがあった。

奈良時代の仏舎形式には、右に「薬王菩薩」と左に「薬上菩薩」
平安時代の仏壇形式には、右に「文殊菩薩」と左に「普賢菩薩」

以上の「菩薩像」の配置が一般的と成り、当然に中央に「釈迦如来立像」と成る。
ところが中央の「釈迦立像」は、上記した様に筆者の家には存在するが、「脇侍」の何れも全く見当たらないが、松阪大火で消失したのかも知れない。
処で、この「釈迦三尊像の決まり」には、”「自由性」”が認められていて、その証拠に「他の宗派」では次ぎの様に成る。

「梵天」と「帝釈天」、
「金剛手菩薩」と「蓮華手菩薩」

などの例がある。

この「宗派の概念」に依って、”「脇侍」”は、その概念に沿った像にする事には問題が無い事が判る。
むしろ、”その概念の仏説の表現する手段”として認められた「決まり」である事が判った。
要するに、「密教」である事なのだ。つまり、”その氏の考える様に決められる事”であった。
「青木氏の古代密教仏教」の概念に従った「脇侍像」を安置する事が「正しい決まり」である事に成る。
つまり、その左右に安置する「脇侍の仏像」は、奈良時代であるので、一般的には「薬王菩薩」と「薬上菩薩」とは成るが、”仏像”そのものより、それを物語るものが祭祀されている事が重要である。
依って、”その何かが遺されていないか”を調べる結果となった。
結果は、”全く何も無い”となった。つまり、当然に無い筈であった。
そもそも、”「薬王菩薩」「薬上菩薩」”は、一般的仏教の”「後期の概念」”である。
この事を前提としているから見つからないのかも知れない。

「伊勢青木氏」には、そもそも、この「密教」とは別に、「和魂荒魂の古来宗教」と「古代仏教の神仏習合の概念」の中に成り立っている。
つまり、「大日如来坐像信仰」と「毘沙門天像信仰」と「三宝荒神信仰」の”「習合概念」”の中にあった。
”上記の配置の「一般概念」と、「青木氏の密教の宗教概念」とには大きな相違があったのではないか”と云う発想が生まれた。

・ 「青木氏の神仏習合概念」
「大日如来坐像信仰」
「毘沙門天像信仰」
「三宝荒神信仰」

「釈迦三尊像」と云えば、上記に論じた配置に成る。
しかし、「時代と宗派」の要素で、この「配置」が変化して、その「概念の表現」で違っている事は判っている。
とすれば、「梵天と帝釈天」の様に、「三仏格」の「如来像」、「菩薩像」に限らず、「王像」も、概念の表現では問題ない事に成る。
「賜姓族の青木氏」は、”「毘沙門天像信仰」と「三宝荒神信仰」の「習合概念」の中にあった。”のであるから、そこで、この「神仏習合概念の表現」を採っても問題は無い筈である。
むしろ、筆者は、この方が、「賜姓青木氏」には適切ではないかと考える。
何せ、「古代仏教」、「初期の詔勅に依る仏舎」、「初期の青木氏密教」としてみれば、「仏教の安定期の慣習概念」では、むしろ、「時代性と初期概念」の点から逆に矛盾が出る事に成る。

そこで、そうなると、「内仏舎の配置」として、中央には「釈迦立像」が、右に「毘沙門天像」、左に「三宝荒神像」を配置していた事に成る。
(本来の「大日如来坐像」は「青木氏の菩提寺」にあった。)
何れも”「密教」”の”「守護神」”であって、「青木氏」にふさわしい「脇侍像」と成る。
本来は「大日如来坐像」を中央にあって、右に「毘沙門天像」、左に「三宝荒神像」の脇侍であった筈で、一時「釈迦立像」と成っていたのは、「大日如来坐像」の賜物の「お仏像様]と一族一門の象徴とする為に「青木氏の菩提寺」に安置祭祀していた為である。

(この「釈迦立像」は、上記した主台座に対して二つ目の「副台座」の上に安置していたと考えられる。
「釈迦立像の存在」と「副台座の存在」はこれで解ける。)

しかし、「薬王菩薩」「薬上菩薩」の「脇侍像」となると、「顕教の定義」による「宇宙仏の盧舎那仏」から「釈迦」を仲介する構図と成り、「密教の教義」に矛盾する。
「青木氏の密教」のみならず「密教」そのものは、「宇宙仏の大日如来仏」から「直接の構図」を採るものであって、「釈迦」を仲介しない。
この「薬王菩薩」「薬上菩薩」の「脇侍像」は「釈迦の弟子」であり、「顕教」による構図である。

「三宝荒神像」は南北の位置に対で配置していた”北側の荒神像”と云う事に成る。
この”「北側の荒神像」”は、「主神像」と云われていたもので、30Cm程度の大きさで「毘沙門天像」によく似ている。
何れも「造像の構え」の「容像」と「三昧耶形」もが違うが、「密教像」である。

左に「三宝荒神像」を配置していた。
右に「毘沙門天像」を配置していた。
中央に「釈迦立像」を配置していた(顕教の定義 矛盾)
と考えれば納得出来る。

(但し、「密教の定義」では、本来は保有する「大日如来座像」でなければならない。)

”南側の荒神像”は「小さい像」で、「仏舎」の時は、本来は、北側に配置していたものである。、
”明治期の松坂の火事”で、長い間の”「密教の仏舎」”は止めて、”「顕教の持仏堂型仏壇」”に替えた。
しかし、何とか”「密教形式」の「浄土宗仏壇」”とする為に、”中央に「釈迦立像」”を配置する事に変えた。
この時、「毘沙門天像」たけは消失し、結局は、その後、「三宝荒神像」(家の南北側隅に)は別々に祭祀した。
以上の「祭祀の構え」と成っていたと考えられる。

室町期末期から菩提寺より引き揚げた「大日如来座像」は、松坂大火までは居宅の「仏間の右側」に、「仏舎」は「仏間の右側」に安置したと考えられる。
本来は、「大日如来座像」は「密教の決まり」からすると、「仏舎」の中央に安置されていた筈の像であった事に成る。
それが、明治35年の大火消失までは、「顕教の決まり」と成る「釈迦立像」が、「密教の決まり」に反して、「仏舎の本尊」として中央に安置されていた事に成る。

(「大日如来座像」は室町期末期まで「青木氏菩提寺」に安置祭祀されていた。)

そこで、この「密教の決まり」の矛盾は、”何故起こったのか”である。
「大日如来座像」と「毘沙門天像」は、「天智天皇から賜物」(647年)であることから、大化期の当初は、居宅の「仏間」(647年)に安置し、その後、「天武期の詔勅」(684年)に従って「仏舎」」(684年)に安置し、少し後の「菩提寺建立」(716年頃)の時に「密教菩提寺の本尊と脇侍像」として治めた。
その後の「室町期の末期の混乱期:伊勢攻め」(1567年)まで、約850年間程度を菩提寺に祭祀し続けた事に成る。
この後、「二つの密教像」は、一時的に和歌山の新宮に退避、 11年後の1588年に松阪の居宅に戻る。(家人は1年間退避)

参考
(秀吉の命で「蒲生氏郷」は1588年には、飯高郡矢川庄四五百森に松坂城を築城。松阪の武士には本領安堵をし、商人を強制的に移住させて、城を中心に屋敷町と商業町の城下町を作り上げた。)

要するに、次ぎの様に成る。
・ 室町期末期以前は、居宅の「仏舎」は、顕教の「釈迦立像」を中央に配置し、「三宝荒神像」の一対を左右に配置していた事に成る。
その「顕教の矛盾」を消すために「二つの仏画」を掲げたものと成る。

・ 室町期末期以降は、居宅の仏間の右の「仏舎」には次ぎの形で治められていた。
(「信長の伊勢攻め三乱」を避ける為に、一時新宮に避難し、その後の「本領安堵」に依って「密教菩提寺の本尊と脇侍像」が居宅に帰って来た。)
「左の仏舎」には、「大日如来座像」と「毘沙門天像」と「大蛙像」の「密教像」
「右の仏舎」には、「釈迦立像」と一対の「三宝荒神像」と「二つの仏画」の「顕教像」
以上に見立てて配置していた事に成る。
(この状態を室町期末期から明治35年まで維持保全した。)

これで、発見された「黒檀の副台座」の上に、中央に遺された「釈迦如来立像」を、左右に「三宝荒神像」、仏間の左には、「主台座」には「大日如来座像」と「毘沙門天像」、その「毘沙門天像」と台座の上に、「大蛙像」を配置して居た事に成る。
これが明治35年まで、「仏間」の「青木氏の内仏舎」の中に治められていた事に成る。

そして、明治35年以降から大正4年までは、「持仏堂型仏壇」を「浄土宗仏壇」にして、中央に「釈迦立像」を本尊として備えた形であった事に成る。
合わせて「二つの密教仏画」を「副本尊」として掲げた形であった。

(現在は「大日如来座像」は特定の保管所で祭祀している。又、「釈迦立像」と「三宝荒神像」とその他の「三昧耶形の仏具一切」は当家に保管されている。)

ところで、何故、ばらばらにされていたのか、疑問ではあった。
ここで”「伝統」”と云うものを理解する上で、後世に対して敢えてこの事を記録して置く。

松阪大火(失火元)後、それなりに復興を成し遂げたにも関わらず元に戻していない。
これは云うまでもなく”「明治35年の松阪の大火」”とその「消失事件」による後遺症と思われる。
(「持仏堂型仏壇」:「浄土宗仏壇」は、明治35年以後に据えられた。)
つまり、どういう事かと云えば、伝統の”「遺品」”に対して、この”消失した事”の汚名を後世に遺さない為に、”古くなった事”を理由にして通すつもりであった。
しかし、「像の消失遺品」を捨てる事に忍びない為に、「三昧耶形の密教仏具」として敢えて飾る事を考えたのであろう。
況して、この時、「密教の態」を成していない「顕教の仏壇」でもあった事から、”尚更に解体した”と観られる。
最早、「密教」は、既に江戸初期には「家康の督励」で終わり、大正末期までの320年過ぎた時代になっても、「毘沙門天像の密教」に意識し、未だ「三昧耶形の密教仏具」等の「密教の伝統継承」に拘っていたかが良く判る。

(密教に”拘っている事”は、当時としては、”特異な身分”の中にあった事から、簡単に”「拘り=伝統」の関係”から、その習慣から抜け出す事は出来ない事は理解できる。
伝統とはその様なものと理解する。)

”「顕教の仏壇」”と、「伝統」で遺された”「釈迦立像」”には、青木氏は、又”違った伝統意識”を持っていた事に成る。
それが、つまり、「迎え行燈の密教作法」の様な「伝統行事」に成って遺されて来たものと考えられる。
「顕教の作法」の中には、この「迎え行燈の密教作法」は正式には無い。
既に、「顕教仏壇」に切り替わって居ながらも「仏教作法」は、矢張り”、「密教作法」”の侭であったのである。
これには「青木氏1367年間の歴史」を物語る”「大日如来座像」が現存する”と云う事が、「伝統」の意識の中に大きく左右していたのであろう。
それだけに「密教の伝統」の強い意識の中での消失であった。
この「精神的な後遺症」が遺品関係をばらばらにして、何とか一部の「密教の伝統」を抑え込んでいたのである。
「顕教」で行くのか、「密教」で行くのかの”狭間”に立たされていたのであろう。
先ず考えられる事は氏家制度の中で、一般の「本家ー分家の仕来り」を採らない「青木氏の仕来り」(福家方式)から、一族四家一門からの異論もあってこの様な結果と成ったのではないか。
代々維持して来た「密教の仏舎形式」の中で、江戸初期の「浄土宗顕教令」も在って、取り分け”徳川氏との付き合い”もあって、この様に成ったのであろう。

念の為に、”「伝統」”に大きく関わって来る事として、その”「付き合い」”とは、「伊勢青木氏の菩提寺」は、「紀州徳川氏の菩提寺」に成り、「寺跡」も「寺名」も同じくして「紀州徳川氏」に依って維持されて継承された。
そこに「青木氏の菩提」も合祀している関係からも「顕教」への切り替えは、立場上は少なくとも「必要条件」であった筈である。
この”「付き合い」”は、記録によると、1600年頃の関ヶ原の決戦準備で名古屋城で家康が秀忠を待つ傍ら、周囲の豪族に「調略」を進めていた事からの「付き合い」であり、大正14年まで親交があった。
故に、「青木氏の伝統」を護らねばならない事から、多くの「密教作法」だけは、密かに継承されて来ているのである。

注釈
とまあ、この柵の中で、兎も角も”余り目立たない様にした”のであろう。
結果としては、「古来の遺品」が遺っている事であるので先ずは良かった事に成るが、当に”「伝統」の維持”とは、その当時の当事者に成ってみなければその継承の意識は判りにくいものである。
この様に本論で論じてはいるが、現在から観れば、”「青木氏の伝統」”を理解するのもなかなか難しいものと成ろう。
この様な背景があって「青木氏の伝統」には、「伝統の継承」<「伝統への無理解」=時代の変化」の関係式が働いて、何時しか消える宿命にある。
故に、”「史実」”と云う事に必要以上に拘らず、先ずは、”未来の青木氏のロマン”として、筆者は判る範囲の末端の事まで必死に書き遺している。
幕末から徐々に起こり始め、一時、明治維新期の直ぐ後の5年から15年頃には、「地租改正」や「廃仏毀釈」などの「社会の反動」で、”家が「密教」”である事に気兼ねする時期が続いた。
「身分への庶民の反動の表れ」として”「密教」”がそれを指し示す事に成っていた。
この頃、「地主」から小作人への「土地の下渡令」が起こり、地主と小作人との「摩擦騒動」が各地で起こったし、「廃仏」で仏教の最たる信者としての「青木氏」の様な「密教の家」は肩身が狭かった。
(青木氏は各地では名主や庄屋や豪農や郷氏と成っていた為に極めて地主が多かった。この為に「密教」である事も含めて、「土地の下渡令」では厳しい対応が様られた。)
この様に、”社会に毛嫌われた時期”が続き、昭和の初期頃まで庶民の中に渦巻いていた時期があった。
この事に依って「青木氏」の一部には、それまで維持して来た「密教の伝統」を敢えて「顕教」に変えた家が多かったのである。
下手をすると、”打ちこわし”などもあったとされる事件もあって、”社会からいじられてはみ出される ”事より、苦しみながらも”「伝統」を捨てる事”を選んだのである。
しかし、この時、明治6年から9年まで続いた「地租改正]の「農民一揆」が起こった。
中でも「青木氏」の多い「伊勢」、「愛知」、「岐阜」、「茨木]、「栃木」では、一揆は特段に大きく、且つ、多い地域であった。
これには、”特別な意味”が在った。
「青木氏」が陰でこの「農民一揆」を経済的に援護をしていた事は記録からも判っており、上記の環境から考えると”不思議な事”である。
そもそも、”「一揆」に類するもの”とは言え、長期に続けてその「主張」を聞かせるには、単なるただの「主張」だけでは長くは続かず、殆ど潰されて失敗に終わる。
しかし、この一揆の”経済的裏付け”と「主張」を実現させる交渉力、つまり、政治力が必要である。
がなり立てるだけでは主張は成立しない。

この長期に続き全国的に広がった「維新期の一揆」は、この背景が陰にあった。
この「背景」が、「青木氏」であった。特に関西域が大きく、更に「青木氏の存在地域」に起こり、且つ、長く続いた事が判っている。
「豪商としての二足の草鞋の商い」と、「郷氏としての政治力」の二つが備わって居た事がこの傾向を生んだと思われる。
他の氏が背景に成っても、この「二つの条件」が両方に備わっている事は先ずは無い。多くは政治力に偏る。
何故、この様な態度に全国の「青木氏」は出たのであろう。
「青木氏」には、他の氏と全く異なり、「密教の伝統」を維持している限り、上記する「伝統への危険性」と「氏の社会的存立の危険性」はあった筈である。
ところが、他の氏は、配下に「武家の家臣団]だけを持っていたに過ぎない。
しかし、「青木氏」には「家臣団」より、むしろ、多く「民の職能集団」を配下に持っていた。
その「職能集団の裾野」は、「和紙」に依る「殖産産業」を支えていた「農民」を含めて、「庶民の末端」までの配下で支えられていた。
その例として挙げると、「青木氏の守護神ー神明社の論文」で論じたが、「伊勢青木氏」の場合は、伊勢松坂は元より隣の玉城村の全域(現在の玉城市)が、青木氏の「殖産農民」と「職能集団」の配下と、その裾野の庶民の居住地として提供され、且つ、その「蔵群]であった事が当時を生きた祖父からの口伝と記録で判っている。
つまり、この事から、切っても切れない環境下で、且つ、「一蓮托生の柵関係」の中にあった。
この関係は、今、始まったものでは無い。ゆうまでも無く「悠久の歴史」の中にあった。他氏とはこの点でも異なる点である。
この”「配下組織」”は、この関係から大なり小なり、祭祀などで”「密教の伝統」”の影響を強く受けていた筈である。
この事から、恐らくは、「伝統の密教」で反動されながらも、庶民や農民とは「対立関係」に持ち込まず、「共存関係」に持ち込んで、”地主としての存立”を謀ったと観られる。
当然にも「配下組織」の態勢も「対立関係」に持ち込みたくは無かった筈である。
むしろ、青木氏関連者に執っては、「悠久の歴史を持つ共存関係」を続けて図る事以外に、「庶民」を主役で中心とする「維新の社会」に成ったとは云え、「他の選択肢」は無かった筈である。
(ここで論じている事は、「他氏」には全く観られない環境で、日本全国広しと云えども、「青木氏」のみの「独特の環境」にあり、特筆すべき事なのである。)
一部には、「土地の下渡令」に対する「政府への反動」と、「大地主」としての「米の税率」(3%石高から通貨換算)に対する反対もあった事は頷けるが、”経済的な援護まではするか”は疑問である。
それは解決後の ”維新政府からの軋轢のリスク”の方が遥かに大きい事から観れば、矢張り、「共存関係」を重視したとも思える。
(既に、維新改革で江戸期前の「不入不倫の権」は解消されている事から軋轢は当然の事としてあった。)
特に、「伊勢の一揆」は「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の援護で、全国のこの「地租一揆」では、最大の規模で政治性を帯びていた事であった。
結局、長く続いた激しい一揆は、「維新政府」は妥協して3%から2.5%に下げて妥協して概ね解決した。
この様に 青木氏が裏で”政府と交渉力”を持っていた事から、全国各地の「青木氏の背後の勢力」の政治力、交渉力が働いた事に成る。
この事で、農民等の信任をより厚くしての結果と成った。
この意味で、農民や庶民が動いた「廃仏毀釈」の「密教のリスク」は、この為に遥かに軽減したと観られる。
それほどに、「密教への反動」は極めて大きかった事が判る。
下手をすると、「青木氏」と配下との関係を打ち壊して新たな「庶民の関係」を存立させる動きさえあった事が記録されている。
”農民庶民の打ちこわしの憂き目”を受けていた事が充分に予想できた。
「全国の青木氏」の中に、大なり小なり「明治維新期の下剋上の現象」が起こる可能性を大きく秘めていたのである。
「全国の青木氏」はこの事を特に内心で意識していた。
この「密教リスク」は、この事から”氏存続の生死”を分けたものであった事が遺された一族の手紙(配下の動向)などの表現からも、又資料からでも判る。

そもそも”「伝統」”を維持して行く為には、生易しい事では無いが、この「密教リスクの現象」を事前に危険視していた事が判る。
それ故に、上記した「青木氏」の中では、”諸々の諸条件のリスク”から逃れる為に、上記した様に氏内で「密教仏像」などの”「伝統」”に対する「やり繰り」が起こっていたのである。
場合に依っては、これらの”仏像などの伝統品”も打ち壊される危険性を極めて帯びていた事に成る。
誰にも止められない”事の流れ”に依っては、打ち壊されれば、「密教」と連動していた「悠久の歴史」を持つ「青木氏の慣習や仕来りや掟」は霧消する。
これは、結局は、「青木氏の象徴」=「伝統」を失った事に依り、”豪商としての経済的能力”を維持していても、何時しか”「青木氏の氏存続の生死」”にも関わって来る問題であると捉えられていたのである。
「生きて行く上での精神の根幹」=「伝統」と捉えられていたのである。
一千年後に招いた「氏の危機」であった。
”上記の環境”の中でも、それ故に、「像の形」は消えたが、その「伝来の像遺品」の「三昧耶形の仏具」は何とか遺された事に成る。
この環境下にあった曾祖父と祖父は兎も角も、これらの事を父は充分に承知していたと観ていて、充分に対応して護り通したのであるが、親であった事から敢えて未来に口を閉ざしていたと観ている。
筆者は、”長い歴史の中では、消失する事も充分にあり得る”と考えいて、解明した今では、その柵も無く成っている事から、筆者はこの時の史実を明かした事に成る。
そもそも、それが目的で親に頼まれて、大化期の同族の「近江佐々木氏」の様に、「青木氏の由来」などを纏め上げたのである。
(全く同じ環境を持っていた「近江佐々木氏」も、”「伝統」”を紐解く歴史の解明に同じ事をしている。)

兎も角も、現在では「密教仏具」は「三昧耶形」と成っているが、元は「密教所作 (九度作法・節会所作)」の一つとして、「毘沙門天像と三宝荒神」を祭祀する「密教の作法事」のものであった。
本来であれば、「三つの発祥源」「賜姓五役」の立場にあって、その「伝統」を頑なに護って来た。
しかし、室町期から江戸期には「鎧兜具足」等を飾って”何がしかの作法”を興したと普通は考えられる。
又、「武家と侍の発祥源」であれば尚そう成る。
しかし、この「青木氏」は、この「鎧兜具足」等を用いての「武」を誇張する事は敢えて避けていた。
そもそも、「賜姓五役」を護り通すには、「戦い」を旨とする考え方を採っていず、”「和魂」の中で、「荒魂」を「三宝」で鎮めて護る”と云う考え方を採っていた。
しかし、上記した様に、古来からあった事に所以する。
その為の「神仏格偶像」として、更に、その鎮める道具と成る「三宝の有り様」を、「古代浄土宗」に求め、これを「青木氏の密教」にして、「毘沙門天像」に求めた所以でもある。
つまり、上記する経緯が古来よりあった事が、「鎧兜具足」が持つ”武しい感覚概念”には明らかに元より組していなかった事に成る。
故に、この”先祖と会する場”の「密教概念」が、”武しい感覚概念”を抑え込んだのであろう。
”武しい感覚概念”側からすれば、”先祖と会する場”の概念は ”女々しい”と云う事になり、矛盾する概念とも成り得る。
その意味で、「三昧耶形」を敢えて「青木氏の密教所作」としている事には、上記の様に、大きな意味を持っているのだ。
全青木氏には、「三つの発祥源」でありながらも、「武しい感覚概念」は、先祖代々持ち得ていないのである。
これは、頑なにも”「密教の伝統」の所以”である。
先代まで持ち得ていた確実な「青木氏の概念」と云える。
これが、明治維新の難問にも適合したのである。
当に”世に晒す事無かれ 何れに一利無しである。
”その精神は「青木家家訓10訓」に遺されている。
「青木氏の立ち位置の概念」そのものが違っていたのである。


では、”「伝統」”とは、そもそも何なのか、どの様な要素に依って成り立つのか、考えて観た。
それは、結論から云えば、次ぎの数式の関係で成り立っていた。

「伝統」=「概念力」+「経済力」+「社会力」+「子孫力」+「象徴力」

以上5つの要素を持ち合わせている必要がある。
何れ、一つを掛けるとその「伝統」は弱まり、次第に「伝統」は、何らかの問題を起こし霧消して行く。
この「欠ける要素」が多ければ多い程に、その「伝統」の「霧消速度」は速まる。
その上記した「要素の内容」に依っては、起こる霧消して行く問題の「質」は異なる。
全てが無く成れば、「伝統」は即座に消え去る。

逆に、この要素が成り立ち次第に、「伝統」は逆に創出されて行く。

そこで、「青木氏の伝統の基盤」がどの様にして出来上がったのかをその経緯を先ず検証する。
この「5つの要素」が出来上がって行く過程を歴史を知る上で理解して置くことが重要である。
それ無くして”「伝統」”を理解し知る上で何の意味をも持たない。
そこで、全青木氏に取っては、次ぎの事からこの「伝統」が始まった。
それは、次ぎの「賜姓五役」である。

「賜姓五役」
さて、そこで、「青木氏」に関わっている”「密教」”が、この「賜姓五役」を護るために、周囲から観れば「特殊な概念」をもたらしたと云う事は判る。
果たしてどのようなものであるのかをもう少し検証してみる必要がある。
”「密教性」を以て合法としているもの”には次の様なものがある。
青木氏外に次ぎの教派に依って長く引き継がれている。

「密教合法」(7つの合法体)
1「毘沙門天信仰」
2「三宝荒神信仰」
3「古代密教仏教」
4「三大密教」
5「神仏習合体」
6「大乗仏教」
7「修験道」
以上、「7つが合法体」である。

この為に、この様な「密教の作法」の事に成っているのである。
以上の「7つの合法体」は、夫々信仰体としての概念が異なっている。

さて、ここで改めて、そもそも”密教とは何なのか”を要約して記述して置くと次ぎの様に成る。

「密教六義」
定義1 「密教」とは、宇宙には「宇宙仏」があって支配されている。
定義2 この「宇宙仏」には唯一「大日如来仏」が存在する。
定義3 この「大日如来仏」は直接、人に向かって説法をして導く。「雄弁の仏」と呼ばれる。
定義4 しかし人には「煩悩」があって、この「煩悩」を取り除かないと「説法」を聞き取れない。
定義5 「煩悩」を取り除けば取り除くほどに「説法」は聞き取れて悟れて導かれて幸せに成る。
定義6 依って、”なかなか聞こえる事の出来ない「秘密の教え」”とされる。

これを「密教六義」と呼ばれるものである。

(参考 「如」とは宇宙の真理の事、その宇宙から”来た”宇宙仏の事を「如と来」で「如来」と云う。)
(三大仏格 如来、菩薩、王)
この「密教六義」に対して相対の位置にある「顕教」は次ぎの様に成る。

「顕教」
「宇宙仏」には「毘盧舎那仏」が存在する。
「毘盧舎那仏」は人に直接語りかけない。「沈黙の仏」と呼ばれる。
「御釈迦様」がこの仲介をして言葉にして何人にも説法する。
「釈迦の言葉」は「書物」に換えられる
「煩悩有無」には無関係の教えと成る。

つまり、”「盧舎那仏の宇宙仏からの意志」”の伝達者である”「お釈迦様」を介して”の全ての事が成り立つ概念である。

釈迦を介さない法然の「密教浄土宗」に対して、弟子の親鸞は「顕教浄土宗」を唱えた。
その概念の大きく異なる教義は、上記で論じた「現世の人」は、「肉体と魂」とを持ち合わた人とし、「彼世の人」は、「魂だけの人」と定義づける。
つまり、単なる肉体が無い変化に過ぎないとした。
依って、”現世と彼世の行来”では、”先祖と会する場”として、「仏」を擬人化していた教義と成る。
しかし、「親鸞の顕教」は、「現世と彼世の往来」のこの”「先祖との会する場」”の概念は認めるも、そっくり其の侭の「擬人化」の概念だけは採らなかった。
「密教浄土宗」と「顕教浄土真宗」との概念の大きな違いは、それは、「浄土真宗」の”「釈」”に有る。
そもそも、”「釈」”の「字句の語源」は、”薄める、弱める、副する、解かす、属するの意”を持っていて、”元の物より、やや若干「異]にしていながら、依然としてその「体」を成し、その「体」は変異するが、「同類」であるとする語源である。
従って、「親鸞の顕教の浄土真宗」は、現世で「先祖と会する場」も、その「会」は、「副する人との会する場」と教義した。
判り易く言えば、「人の定義」に、現世と彼世の間に、「釈」と云う概念を加える事に依って、”ほんの少し違うのだ”としたのである。
この為に、「顕教の浄土真宗」の戒名には”「釈」”が着けられるのである。
しかし、「顕教」で在りながらも、当初は「釈迦の概念」を持ち込まなかった。どちらかと云えば、釈の概念を加え入れた「浄土宗の密教系」に属していた。
「普通の顕教」は、”「盧舎那仏」の意を介する[釈迦」”を定義としているが、古代の「顕教浄土真宗」は、必ずしも「釈迦」を定義としてはいなかった。
ところが、結局、浄土真宗の内部での「教義の考え方の差違」で、4派に分離する事で,室町期中頃には、派に依って釈迦を重視する派閥も出て来て、結局は、親鸞死後に、この「釈迦の定義」も異なって来た。
この為に一宗派間での争いが興った。この状態は現在でも続いている。

以上の様に「密教系」は、信じる「氏」に依ってはその教義は異なり判断に柔軟性を持つ。
しかし、”現世で会する”とする以上は、”自らを鍛えなくては悟る事は出来ない。”とし、この”悟り”で「先祖と会する事」が出来る定義付けられた。
時代は、この様に「密教浄土宗」を変化させた。
「悟り」は、より「煩悩」を取り除いて成長すれば、”先祖と会話が出来る”と云う教義に成る。
「仏や先祖」に対する考え方は、その「煩悩の除去」に依って成し得る「心の心経」として、”「先祖と会する場」”はこの教義から定義される。
この「心の心経」の如何で、”先祖と会話が出来る事に成る教義”である。
この事で、「先祖との会話」が可能に成り、「伝統」は護られるとしたのである。
つまり、「伝統」=「先祖との会話」と定義付けた。その為には「先祖と会する場」が必要であるとしたのである。
況や、故に、「青木氏家訓10訓」は、この「古代密教仏教の教義」に従って出来ている事に成る。

「密教合法の3」の「古代密教仏教」は、「青木氏の伝来宗派」である。
「密教合法の5」の「祖先神ー神明社」は、「青木氏の守護神」(「神仏習合」)である。
「密教合法の1」の「毘沙門天信仰」は、「青木氏だけの信仰体」と云っても良いほどである。、
「密教合法の2」の「三宝荒神信仰」も「密教合法の1」と同様に青木氏だけである。
以上と云っても良い「信仰体」である。
最終は、「密教合法の4」の密教浄土宗となった。

以上「7つの合法」の信仰体の内、「5つの信仰体」に「青木氏」は関わっていた事に成る。
上記の「密教合法の6と7」は、この「定義4」と「定義5」を極める事に主眼を置いての合法である。
依って「密教合法の6」の「合法」と「密教合法の7」の「合法」は青木氏には馴染みが無い。

むしろ、”主眼を置く事に馴染む事が、「賜姓5役」としては出来なかった”と云う事に成ろう。

先ず、この様な「氏」は日本には他にない。
間違いなく”密教の世界””特異な世界”で生きて来た事を立証している。
皇族から臣下した初めての法令に基づく役柄を持った「賜姓族」であり、且つ、「国策」を側面から執行推進する「国策氏」であった。
”「完全な密教氏」”と云っても過言では無い。
「古代の概念」を抱えた珍しい「宗教氏」と云える。
然りながら、「二足の草鞋策」を手広く採用する「商い氏」でもある。
これは全て、「賜姓五役」を護ろうとして来た「賜姓氏」であった。

果たして、本来の「国策氏」を含むこの「四つの氏の役柄」を持つ事は成り立つのか疑問が湧く。
「賜姓族」(国策氏含む)
「宗教氏」
「密教氏」
「商い氏」

この「四つの氏」は一度に以てしたものでは無い。
ある経緯の中での苦闘の結果、成し得た「氏の存立」である。
「普通の論理」では成し得ないであろう。
これが”「密教」の所以”であろう。
先ずは、「賜姓族」が「存立の根幹」である。議論の余地はない。
この根幹を補完する為に、第一義に「宗教氏」が存立する。
この「宗教氏」には、上記した様に、「和魂荒魂」の「古代概念」を有している。
これは、むしろ「宗教」と云う「区分け」の中にあるのでは無く、「飛鳥人の考え方」そのものに匹敵するものであったと考えられる。
「現代感覚での言葉の区分け」は危険である。
筆者は、「宗教」=「生活」であって、「生活の考え方」つまり、”「思考原理」は「宗教の概念」に従っていた”と云う事であって、”現代感覚の精神的な悩みの解決”の「思考原理」では無かったと考えている。
「宗教」=「生活」で「完全密着」していたのである。
そして、その「根幹」が単純明快に「和魂」と「荒魂」に区分けされたものであった。
ところが、飛鳥から100年経って、ここに「古代仏教」成る物が突然にもたらされた。
「宗教」=「生活」の「完全密着」がここで少しずつ離れて行った。
本来なら、他国で観られる様に、「宗教」は「分離の最大要素」と成っている。
つまり、”「宗教」≠「生活」の原則”が働く。
ところが、日本では、「和魂荒魂」の「神道の古代概念」に「古代仏教の概念」が食い込んで来た。
「青木氏」は、当初は「和魂荒魂」の「神道の古代概念」を「民の先頭」に立って護ろうとした氏であった。むしろ当初は「賜姓族の役目」であった。
しかし、伝来50年を経過した頃から「古代仏教の概念」が「民の生活」に不思議に静寂にして浸透し始めた。
確かに伝来当初は、「宗教」≠「生活」であった筈なのに、伝来50年後には、再び「宗教」=「生活」の実に「不思議な現象」が起こり始めたのである。
丁度、「賜姓族」に成り、臣下した時期650年頃には、この「不思議な現象」が佳境に入った時期であったのである。
「青木氏」は「賜姓五役の役目柄」の遂行で苦しんでいた。
「和魂荒魂」の「神道の古代概念」が低下して、「概念の混乱」が起こり、「民の生活」は乱れる恐れがあった。
果たして、”過去の「宗教」=「生活」の環境”を守るべきなのか、”現在の、「宗教」=「生活」の環境”を守るべきなのか、悩んだ。

しかし、この「浸透現象の原因」は、「古代仏教の概念」をもたらした「彼らの技能」(後漢の職能部)が、「民の生活の豊かさ」を根底から静寂に無理なく変えた事にあった。
”「宗教」=「生活」の環境”は護られていて、「生活」は”「宗教」<=「生活」の環境”であって、”「神道の古代概念」>=<「仏教の古代概念」の環境”にあるのなら、「青木氏」は抗らう根拠は無く成る。
「青木氏」は、この環境が長く続くかの様子を観た。「宗教」≠「生活」に成らないかを観た。
この「静寂の浸透の環境」は、遂には、次ぎの様な環境を作り上げ始めた。

”「神道の古代概念」の環境>+<「仏教の古代概念」の環境”
”「宗教」=「生活」の環境”

ここで、「青木氏」はこの環境を促進させる策を講じた。「融合安定策」であった。

注釈
(上記で「和魂と荒魂」の関係で、民は”「荒魂」は「悪」を成すもの”として恐れていた。
ところが、”この「荒魂」の「悪神」を鎮めて味方に引き入れる事が出来る”として仏教伝道師は説いた。
それには、”「荒魂」の「悪神」の部分を祭祀する事で、むしろ「守護神」と成り得る”と説いた。
その祭祀では、”「自分の煩悩」を取り除いて祭祀すれば「悪心」=「悪神」は消える”と説いた。
ところがこの説に対して「民」には違和感は無かった。むしろ「荒魂」を積極的に祭祀し始めたのである。
荒れ狂う自然現象やそれによってもたらされる疫病等は、この「悪神の現れ」として”「風神や雷神」”として祭祀したのである。)

これで「賜姓氏」「宗教氏」は成り立った。
後は、「青木氏」の中に「密教氏」を定着させる必要が生まれた。
それが、35年後の「仏舎の詔勅と令」であった。

以下の事を民に政治的にも肯定する姿勢を「青木氏」は率先して示したのである。
上記で論じた様に、「仏舎」を設けて祭祀する事で「荒魂」の「全ての悪神」は消え、「仏舎」を設けて、”先祖と会う場”を設けて会話し、”「煩悩」を取り除く知恵”を授かる事が出来るとして考えたのである。
その為の「仏舎の詔勅と令」を発した。
そして、「荒魂」→「仏教の毘沙門天」=「荒神」の構図を作り上げたのである。

この構図は自然発生的に生まれたものでは無く、「青木氏」が、”融合させる手段”として、朝廷より令を発して置いて、積極的に「構図の概念」を浸透させたと観られる。

この「仏教の古代概念」は、”「宗教」<=「生活」の環境”であった為に、「民の生活」の中に育ったものである。
「自然の融合」が起こる様に仕向けたのである。
しかし、”「宗教」<=「生活」の環境”の「恩恵」を受けていない階層が出来上がった。
この「否恩恵階層」は「支配層」であった。
その「支配層」にも「仏教の古代概念」の環境”の浸透が必要であった。
「賜姓族」としては、大きな課題で難題であった。
この難題を解決しないと、「支配層」である限りは、社会に「二重構造」が起こり、「民の生活」にその圧力は掛かる。
又、他国の様に、”「宗教」≠「生活」の環境”に呼び込んで仕舞う事に成る。
この解決策は、ただ一つ支配層に「恩恵」を与えること以外には無い。
そして、その「恩恵」が、”「宗教」<=「生活」の環境に繋がっている事である。
「賜姓五役」の「青木氏」はそこで考えた。

「紙」をベースとした「改革条件」を作り出す事であった。
その「改革条件」は次ぎの通りであった。

「第一条件」
進む大化期に欠けている物
文化を発展させる物
国を発展させる物
中国から全面輸入を受けている物
仏教に関わる物

以上の全ての条件に関わる物は、”「紙と墨と硯と筆」”であると考えた。
(豪商 「紙問屋の”紙屋”」の所以である。)

「第二条件」
これには、「中国の渡来人」の「職能集団の部」から「技能の享受」が受けられる事。

彼らは、同時に仏教を伝えた「伝道師」でもあった。
「技能の享受」=「仏教の伝道」の関係にあった。
「自然神」をベースとする「古代宗教の和魂荒魂」の「神道の社会の中に、「仏教」を浸透させるには「技能の享受」≠「仏教の伝道」の関係はあり得なかった。
それだけの「仏教浸透力」は神道社会の中に未だ無かった。
そこで、「技能の享受」を受ける事で生活は潤い、それは「仏のご利益」として説き、「仏教伝道」の根幹と置いて、古代宗教の和魂荒魂の固い扉を開かせたのである。

つまり、”「宗教」<=「生活」の環境”の中で、この関係の協調が図られば、「紙の改革」の実行に支障が生まれない。
そして、庶民は、自らその部組織の中に飛び込んだのである。

「紙」は「紙作部」
「墨」は「墨作部」
「硯」は「硯作部」
「筆」は「筆作部」 

以上の「技能集団」からその「技能の伝授」を容易に受けられる事であった。

(「紙」は上記で論じたし研究室の論文にも論じている。)

兎も角も、歴史的には、紙の生産は、”後漢から「職能集団」に依って、朝鮮半島を経由して610年頃に僧侶に依って伝えられた”と「日本書紀」に記されている。
ところが、この100年前の頃には既に国内でも試行されていた事が判っている。(使用には至らなかった。)
特に「日本書紀」には、その事に付いて詳しく記録されていて要約すると、次ぎの様に書かれている。

注釈(日本書紀)
高句麗から来た僧侶の後漢の「曇徴」は、「紙漉き」と「墨」を上手に作る事が出来た。
僧侶でありながら、そう云う「万能な特技」を持った渡来人がやって来た。
又、「横型の水車」の「動力」を使った特殊な「石臼」も造れて、それを民の前で作って見せた。
この「石臼の製造」は大和の国で初めて観るものであった。
特記する程に最新の技術を観たとされている位に民は驚いた。
”自動”である事や、”「生産」”する事や ”「機械」”と云う物を観た”「天地驚愕」の境地”であった。
「自動概念」、「生産概念」、「機械概念」の無かった社会の中に持ち込んだ。
特に、この、「横型の水車」の「動力」を使った特殊な「石臼」は、「紙の漉」に「f飛躍的発展」を遂げた。
特に「石臼」とその「原理]は、全ての技能に飛躍的に貢献した。
以上と記されている。


しかし、30年間も経過した時点の大化期でも、「殖産」は愚か「紙の生産」としての形は未だ無かった。
歴史的に観ても、「聖徳太子」が福井で試行を試みた記録があるが、大化期に成っても殖産は愚かその「仕様」に耐えられるものは依然として出来ていなかった事に成る。
其処に、”後漢で生産された紙が輸入されていた”ところに、後漢からその技能集団が続々と渡来したのである。
その中に、更には、この輸入の「良質な紙」の「生産技術」と「技能」をもそっくり持ち得ていた「高能力の僧侶」が既に渡来していたのである。
そこで、「時代革命」を起こしたとされる「水力に依る石臼」は、”紙の繊維を粉にする高い生産技術”までも持ち込んだのである。
画期的な技術導入である。

「産業革命」では無く、時代を変えて仕舞う「時代革命」であった。

それをこの僧侶は、”自ら作って”、それを”使って見せる”まで考えられない事までも伝えた。
全ての民は、この”僧侶”に完全に心服してしまった。
こおなれば、最早、”僧侶”では無く、「生き仏」とまで崇拝された。

”「技能=紙=僧侶=仏教」の関係”
”「技能の享受」=「仏教の伝道」の関係”
”「宗教」<=「生活」の環境”

以上の「三つの関係」は揺るぎないものと成って行った。

「青木氏の始祖」の「施基皇子」は、この「時代革命」を起こし始めた「技術と技能の伝来」は、未来の「産業」と云う形を起こす事が出来ると考えた。
彼は、”進まなかった紙の使用”を憂慮していたが躍り上がって喜んだ。
これで、「生産」のみならず「殖産」まで成し遂げられるとして生き込んだ。
そこで、648年頃に、「紙の環境条件の樹立」(上記三つの関係)が整った事を天皇に上申した。
先ず、そこで「朝廷の内部」に「紙の改革」を推し進める”「紙屋院」”を創設した。
合わせて官僚の「伴造」を付けて正式な「朝廷の部民」(紙品部)も創設もした。
これとは別に「青木氏」も「殖産」までを睨んで、独自にこの「技能者の養成」に取り掛かって「紙作部の青木部」を作り上げた。
朝廷は、「青木部」が殖産に入った時点で、”朝廷内部の需要を先ず賄う体制”を試行的に創設した。
その一つとして朝廷は、”「図書院」”を創設して、40人程度で「紙の生産」に入ったのである。
(朝廷内部の需要を満たす範囲で試行生産に入った。)
ところが、一方、「青木氏」に取っては、上申して朝廷はこれを実行したがここで問題が起こった。
”「賜姓族」が「商い」は「絶対法度」である。”要するに禁じ手である。
この事から、「朝廷」の動き共に、「青木氏」にも ”「紙屋」”の呼称で、「商い戦略」を進める部門を「青木部」の「氏」の中に密かに作り上げた。
ところが、当時は、未だ社会は「木簡」が中心であって、30年程度経っても「紙への慣習」へ動か無かったのはこの「木簡の原因」であった。

この30年間、「青木氏」は、「青木部」と共に、上記の「革命新技術」を使って、「紙材」と成る「植物の選定」と、その「植物に適合した製造法」の研究を進めていた。
上記の通り、「5家5流の賜姓地」での近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐で、夫々「特徴ある紙質」(楮)を作りだした。
「伊勢和紙(伊賀和紙)」を中心にその技術と技能を「近江和紙」に広げ、次ぎに「美濃和紙」、引き続いて「信濃和紙」、最後に「甲斐和紙」と広げて行った。


そこで、「朝廷」は「丹波国」にその拠点を移した。所謂、紙材が異なる「山城和紙・丹波和紙」である。
「 苦参 」を原料にしたものを作り出した。

しかし、ここで、この「古い慣習」を打ち破る事が起こったのである。
それは次ぎの二つの事で在った。

一つは、改新による国策法規の「大宝律令」等である。
二つは、仏教の伝道布教による「教典の写経」等である。

それは、先ず一つの代表的なものは「大宝律令」(701年)であった。
更には、それによって遺すべき「日本の歴史」が遺される必要が起こった。
この結果、「古事記」や「日本書紀」等の歴史書偏纂には、大量の「良質な紙の必要性」が生まれて、結局、量産には向かない「木簡の慣習」を徐々に押しのける事件と結果が起こったのである。
そこで、「大宝律令」の結果を指し示す「事務記録」や「歴史」を編纂して遺す役所の”「図書寮(院)」”が創設設置された。
最早、[木簡]では、量と整理方法に問題が生まれ間に合わなくなって来たのである。
当然に、それに必要とする「紙の製造」と「紙の調達」もこの役所が管掌したのである。
朝廷内で必要とする絶対量の「年間の生産量」までを定めて、朝廷の”「丹波の紙屋院」”では、「紙の生産の必要性」を図ったのである。

ここまでに「施基皇子」が上申した時(648年頃)から、既に50年も経過していた。、

「施基皇子」の妹で「天武天皇」の皇后であって、その後、天武天皇崩御後に天皇と成ったごの「持統天皇」から次ぎの特命を命じられた。
全国を天智ー天武天皇の時代に「皇太子」に代って「執政」として飛び廻って得た「知識と経験」(日本書紀に記述)をより政治に反映させる様に ”「善事撰集司」の「政治の大役」(689年)に任じられたのである。
この「日本人」にと、「日本社会」に合った「律令の基」を作る事を命じられたのである。
一応のこの態勢が整うまでに12年経過した。
和紙は、最早、朝廷内部で生産されるものでは既に間に合わなくなっていた。
「青木部」らの「殖産和紙」が活気づいた。
益々、その量と共に、「和紙の品質」が求められた。
朝廷の「丹波の和紙」は、「苦参」で作られ、紙色は茶褐色で、表面はザラ質であった。(正倉院と東大寺)
「紙質と量産」に合う様に改良を求められていた。
その「2つの要求」に応えたのが、「青木部の楮和紙」に依る「伊勢和紙・伊賀和紙の殖産方式」であった。

「紙伝来」(610年)からは91年経過している。
如何にその「古い慣習」を打破するのに大変であった事が伺える。
しかし、これでも「古い慣習の打破開始」である。

更に、「本格的使用開始」までには、次ぎの様な経緯があったのである。

739年頃に律令によって、別に”「写経司」”が設置された。
この「国の写経事業」で「本格的な紙の需要」が喚起された。
その為に、上記の”「図書寮(院)」”では、34人の定員で、歴史を記録する”「写書手」”は20人。「紙漉き」を行う”「造紙手」”は4人の態勢で挑んだ。
更に、”「図書寮」”の要請を下に、山城国に「朝廷」の”「紙屋院」”を別院として置き、その下に”「紙戸」”と呼ばれる「50戸の紙漉き専業者」の「部民」を置いて管理した。
「朝廷」は、「年間の造紙量」を「二万張」と規定し、”「朝廷の紙屋院」”とは別に、「青木氏」の「青木部」等に公に「紙漉権利」を与え、「租税」を免除して「官用の紙」を専門に漉かせた。
この他にも、各地(福井)で民に紙を漉かせ、これを「調」として徴収した。
しかし、”研究の不足”と”殖産との結び付き”が悪い事で、民間は”「苦参」”を使ったものの為に「紙質」が悪かった。

そもそも、「朝廷」では、「施基皇子」の上申で、所謂、準備庁に当たる”「紙屋院」”を650年頃に中央に初めて設置した。
それでも、上記の経緯の様に、739年頃から本格的に朝廷内に体制は整えられた。
しかし、これでも、本格的に「紙」に代った時期は774年頃に切り替わったのである。
何と「紙屋院の上申」から124年も経過している。
これでも未だ殆どは「朝廷内の紙の使用」に留まっていた。

それでも、125年程度から155年もかかった事に成る。原因は”「安価な木簡」”にあった。

参考
「善事撰集司」(689年 施基皇子)とは、現在で云えば、「行政改革庁長官」兼「総理」と云う役処である。
政治、経済、軍事の三権の全てに長じ、その「経験と知識」の豊富な事を意味し、税や政治や軍事の改革に反映させる事を纏めて上申するトップの役処で在った。
そして、それを「政治の策」にして人脈を通じて「政令や律令」に反映して施行する「実務の役目」も持つものであった。
率先して、”その策を民に見せる役目”も負っていた。
これが「皇親政治の立役者」である。

筆者は、「紙伝来の610年」から「本格使用774年」まで164年も掛かったとする事から鑑みると、余りに掛かり過ぎたと観ていている。
恐らくは、朝廷は「上申650年」を受けてから考えると、執政の「施基皇子」と「持統天皇」は、その「紙の改革」が”遅すぎる”と観たと考察している。
その原因には、「需要の問題」が「木簡」を超えない事と、それを率先して作り出す”「政治体制の未熟さ」が在る”と判断したと観ている。
恐らくは、利害に絡む「内部的な抵抗」も在ったのであろう。
この膠着した「政治体制」を動かすには、「行政改革」を断行する事だと考えたと観る。
その証拠に、この「施基皇子」と「持統天皇」の二人は、全権を一か所に掌握させて、「細部の改革」まで手を入れる必要があるとして、「施基皇子」を「執政」とは別に、特命して「善事撰集司」(善撰言集司 689年)に任じて動かそうとしたの事である
この事がそれを証明している。

現実に、上記の様に、この時を契機に「朝廷内部」が動き、且つ、それによって紙の「朝廷需要」が先ず生まれ動き始めた事である。
この紙の需要が証明している。
「施基皇子」の没年は716年で、天武、持統、文部の崩御の葬儀委員長を、当時の皇太子を差し置いても「執政」を務めている人物である。

(「施基皇子」は、「浄大1位の身分:天皇に継身分」を授与された。
本来の「執政の皇太子」とは、身分上でも3階級上の身分差と成っていた。
皇族や官僚などの「周囲の軋轢」を排除して、「政治の執行権」を強くする狙いが、天武天皇と持統天皇にはあった。
それだけに、これは「改革」を強力に推し進める意志の現れであった。本来、皇太子が行うべきところを二人の葬儀委員長を実行している事からも、朝廷では慣例を重んじる中でそれを破っての「執政の異例の立場」は判る。)

「日本最初の法令」と云われる「大宝律令701年」の前には、「近江令」や「飛鳥浄御原令」の”「民事法」”をも作っている。
(これらの法令を日本全土に伝達し、且つ、それを各所で遺しするには、最早、そこに「紙」と云う便利なものが出来て来ているのなら、「木簡」を超えて「紙の需要」が必要と成っていた。)
これらの制定に、「執政」としても、「善事撰集司」(689年 施基皇子)としても、全てに関わった指揮者の人物であった。
全体を指揮するに充分な立場にあった。
この二人は、「善事撰集の事例」をこの「令」などに反映させながら、「法令」を作る事でそれを記する手段として推奨し、「朝廷内の紙の使用の喚起」を促し、「間接的効果」として「需要」を呼び込み、逆に「木簡」の抑え込みを図ったのではないか”と観ている。

(記録から観ると、各地方に発する「政令」や「行政令等の執行」には、「文書」を発行させ、各地方の別府に通達を出し、”「紙書」”を創設し、そこには実務上の役所の”「紙屋院」”や”「図書院」”を併設させて、”「紙の需要喚起」を強制的に図った”と観られる。
現実に、この頃から「善事撰集」で得た内容を地方機関に「政令」や「行政文書」の形で文書を発刊している。)

「民間の需要」
では「民間の需要」はどの様に成って居たのか。
「紙の殖産」を起こさない限りは民間では「紙の安価」は興せない。
「朝廷」では、以上の経緯があって「需要の喚起」を起こさせる事は出来たが、この範囲では「安価な紙」は起こらない。
前提は「民間の需要の喚起」=「紙の殖産」である。
この経緯に入る前に、「青木部の努力」の「紙の活動」は上記648年に開始されていた。
「一般の紙の使用」に至るまでには、「紙の生産技術の確立」と「青木氏の殖産化」の準備に懸命に関わっていた。
朝廷内では需要の絶対量は把握出来る。
しかし、民間では「需要の絶対量」は把握出来ない。
その為に、「供給」を「需要の変化」に応えられる体制にすることが必要である。
これは「民間使用の絶対条件」である。
それには、先ず「殖産態勢」を作る事である。
次ぎには、民間である以上は、「利益態勢」の確立を成さなければ続かない。
況や「興業」である。

「朝廷」では、774年に成っても「殖産化」は行われなかった。
ただ単なる「朝廷内の需要」に対する「供給」だけであった。
「民間の需要」を喚起させるには先ずは「必要な策」ではあったが、記録されていない。
しかし、ここで、経済の「需要と供給の原則」に関わらない事が起こったのである。
それは、「仏教伝来」によって布教するに必要とする「教典の複製」が必要と成っていたのである。
最早、この段階では、「木簡」は使えない。
そこで、「東大寺等の寺」では、盛んに「写経」と云う行事を催し、「経典複製」を作った。
この「教典複製」は、上記した様に、「朝廷」でも”「写経司」”を設けて確かに「紙の需要」を喚起する為の施策を講じていた。
しかし、それでは最早、「爆発的布教伝道の波が起こり、紙の生産は間に合わなくなって行った。
(しかし、盛んに行われた「東大寺の写経会」では、この「紙質の問題」について記録されている。)
それには、先ず「紙の市場性」を高める事が、先ず一般化にするには「絶対的条件」であった。
それなくして、「紙の需要性」が生まれて来ない為に、「生産」のみならず到底「殖産」までには達しない事であった。
最大の「紙改革の戦略課題」であった。
それには、「木簡」から「紙に替える革命」にはその「品質」に大きく関わっていた。
そこで、一般市場に受け入れられる「品質」にするには次ぎ数式が成り立つ。

「紙の品質」=「素材の探索」」+「紙漉の技術」+「紙漉の技能」+「殖産態勢」

注釈
ところが、この問題には、「墨と硯」の問題があったのである。
(この「紙の質」は「墨と硯」に大きく影響していた。)
「墨」は、中国から帰化して中国人の「墨作部」の「方氏」が、「硯」は同じく「硯作部」の「硯氏」が携わった事が記録で判っている。

(両者、何れも、朝廷が中国から態々招請した「氏部」である。それだけに”紙の質の問題を重視していた証拠”である。)

しかし、当時の輸入墨は、松根油の「松煙煤」から作る煤炭で、墨の「粉」は荒く、「ムラ」が出来て、「墨色」が悪く、「沁み」が起こり、「滲み」も大きく変質し易かった。
資料に依れば、「飛鳥」にその試験場を作り進めていた。合わせて、各地に方氏の「墨作部」を出して「良い煤炭」を探した。

(現在、この墨方の末裔子孫は、和歌山に現存し、その姓も同じで、地名も遺されている。筆者は、不思議にもこの末裔の方を極めてよく存じ上げている。)

この事に付いては、既に研究室などにもこの「古代墨」と「古代硯」の写真を掲示して論じている。
(写真館メニュー参照)

筆者は、この「古代和紙」と共に、関わったと観ているが、諸説は時代性でずれている。
しかし、筆者の家には掲示写真の様に共に保有しているが、時代性が「紙の経緯」と一致しているのである。
「紙」だけで、「上記の経緯」が、「諸説」の様に動くとは考え難い。
「墨」と「硯」と共に、「筆」もあると観られるが、未だそこまでの研究に至っていない。
少なくとも、墨と硯は古書からの資料で解明されている。
確かに、筆者の家では、「古代の筆」は可成りの量で収集し保有しているが、未だ現在では正しく判別出ていない。
「古代の墨と硯」は保有しているので、この時の「筆」でも有る事には間違いはない。
何時か研究結果を投稿する。
必ず、「墨と硯と筆の経緯」が伴って「紙の経緯」が起こっている筈であるが、ここで「紙の経緯」で論じる。
(「良質な墨と硯の生産」は、結局、平安中期まで解決されなかった。「熊野古道」の「熊野神社詣」に関わって解決した。研究室の「鈴木氏と青木氏」の論文参照)
この「和紙」に関わる「産業」を大々的に「殖産事業」として興す事、そして、それを販売する「商業態勢」を興す事が必要であると「青木氏」は判断していたのである。

恐らくは、上記した様に、500年頃にはその「技術」は思考され、610年頃には中国製に頼っている。
これは「庶民の生活の糧」に成るまでのものに成っていなかった事を意味する。
恐らくは、「支配者階級」がこれに本腰を入れる者は居なかった事を意味している。
輸入に完全に頼っていた事に成る。
これでは「殖産」どころか「文化」は愚か「国」そのものは発展しない。

そこで、「賜姓族」として、「青木氏」として、上記した「下記の事の解決策」を展開したのである

「宗教」≠「生活」の環境に呼び込んで仕舞う事を防ぐ事。
「解決策」は、「支配層」に「恩恵」を与える事。
「恩恵」が、”「宗教」<=「生活」の環境に繋げる事。

それが、「殖産事業」と「興業態勢」を「青木氏」自らも整え、それを支配層に財源的投資させ、そこから得られる利益を享受して貰うシステムを構築したのである。
そして、それを政治的に裏付けられる様に、「青木氏(施基皇子)」は再び「持統天皇」に上申して「殖産事業と興業態勢に関する令」を発したのである。
朝廷内にも、”「紙屋院」と「図書院(寮)」”を設置し、「本格的な体制」を整えて推進させたのである。
「善事撰集司」として力を発揮し、”官民が需要を喚起出来る様に”全体を動かしたのである。

「青木氏」としても「青木部」の「紙屋」として推進した。
「5家5流の青木氏」に対して30年間の間に得られたノウハウを伝え殖産を促した。
そして、それが687年に叶えられた。

「年代検証」(青木氏の紙の態勢の準備が整った時期)
750年には正倉院に保管されている「写経会の和紙」が確認されている事、739年の「写経司」の態勢が出来ていることからこの以前である筈である。
そうすると、叶えられた時期は650年の「紙の上申」が出来る状態であった。
従って、701年の律令で朝廷内部に専門機関が出来るまでの間で、689年「善事撰集司」と成って進められる状況に入った時期の少し前である。
とすると、685年の「仏舎の詔勅」が発布された間で、「青木氏」が「五大和紙」の態勢が出来てこそ民間への紙の供給は可能に成る筈である。
従って、685年から689年の間の3年間の間と成る。
「687年」には次ぎの「五大古代和紙」は供給できる態勢にあった事に成る。

それが、「青木部」の「五大古代和紙」(687年:「青木古代和紙」)と呼称されるものである。
「伊賀古代和紙」
「近江古代和紙」
「美濃古代和紙」
「信濃古代和紙」
「甲斐古代和紙」

五大古代和紙の市場への供給の準備態勢が整った事で、この事に依って、「支配層の不満反発」は、「財源的投資」に依って潤い、無く成る事に成った。
後は、これを契機に支配層に対する「古代仏教の普及」を同時に解決する事が必要に成った。

これは、上記した、「684年の仏舎の詔勅と令」と「690年の第一式年宮令」で「支配層」を政治的に拘束し、後は、上記した「密教としての戦略的手法」で調和させ融合させ習合させる事であった。
「上級階層」を「仏教の慣習と仕来りと掟」の中に取り込んだのである。
彼らは、好むと好まざるとこの戦略から離脱する事は、最早、出来なくなった。
それは、「朝廷の詔勅と財源的投資の潤い」から「離脱反発の理由」を失わせたのである。
後は、上記の論調の様に、この「仏舎の流れ」に載る以外には彼等には無く成っていたのである。
それを「青木氏」に最早、委ねる以外には無く成って居たのである。

この事で、「青木氏」が考えた「神仏習合策」は、上層階層の支配層の中にも、「密教氏」として無理にでも根付く事に成ったのである。

これが奈良期から平安中期までの「青木氏の賜姓五役」の「前半の生き様」(「300年苦闘」)であった。「紙の革命」と共に苦闘した前半期であった。

注釈
筆者は「青木氏の生き様」を分けるとしたら、これを”「300年苦闘」*4”と呼んでいる。
「青木氏の生き様」は、この「300年苦闘」の周期が4回繰り返されている。
そして、この「300年の切目」のところに「転換期」が訪れている。
その「4つの転換期」を乗り越えて来たのである。

この初回の「300年苦闘」は次ぎの二つに分けられる。
前半の150年間は、「施基皇子と白壁王」が成した「政治力」での全盛期」−797年
後半の150年間は、「政治力」を無くした青木氏の「経済的な基盤の構築期」−950年

間には「桓武天皇」からの排除で厳しい「30年の空白期」はあったが、これも「950年の商い開始」までの苦闘であった。

この「300年苦闘」が、上記の「4氏」を融合させて成り立つ事に成ったのである。
当に「青木氏」と「青木部」の「賜姓五役の生き様」であった。
共に生きて来た「青木部」は、女系の血筋を引き継ぐ「二つの絆青木氏」と成って「一心同体の青木氏」に成って居た。

以上の様に、「紙の経緯」から「商い氏」が「青木氏の別の顔」として成立した。
「賜姓氏」が「商い氏」は禁令である。最も似つかぬ「氏」である。
流石、この「紙の商い氏」(「紙屋」)だけは「別面の影の青木氏」として明治初期9年頃まで「影の青木氏」であった。
知らない様で、知っている「既成事実の青木氏」であった模様である。

注釈
「墨作部と硯作部」
「墨部と硯部」の領域までは研究が及んでいないが、必ず「青木氏と青木部」との関係性を持っていた筈である。
「青木氏の商い」は1025年には「総合商社」に成長している
「和紙」を「殖産と興業」として扱ってきたのなら、他の三点も扱う筈である。
青木氏が関わった「殖産の形跡」には、何故かこの「墨と硯」の痕跡が見つからない。
恐らくは、「墨と硯」は「適切な地域性」を持っている事に起因している事で記録が消えていると観て調べている。
ただ、「墨」は室町期から時の政権が「専売品」として幕府に治めた上で「余剰品」を放出する方式を採っていた。
これは、江戸幕府末まで続けられた。依って、「青木氏」にはこの痕跡が消えて仕舞ったと観ている。
平安期では朝廷が「墨部」を「伴造」に基本的に管理させていたが、特定の「青木部」の様な氏にも「墨部」を持つ事を許されていた。
しかし、「中国輸入品」に勝る「墨」がなかなか出来なかった。
北から南まで全国に「専門の部民」を送って探していた事が判っている。
「近江や信濃」にも力を入れて探した事が記録として残っている。
(これは「青木部」か「佐々木部」が関わった可能性を示す)
その時点では取り敢えず、三流品として奈良の松根油の煤からの墨を使っていた。
その「煤」を集める「良い木」と「煤の粒度」と「墨の色」が良くなかったと記録されている。
その為に平安期には、「青木部」等の「特定の氏」にも許可して「良い墨」を作る事に施策を傾けていた。
結局、”紀州北部藤白”の地域で生産していた「姥樫」(うばめかし)から作る炭(備長炭)の煤が良い事が判った。
そして、平安末期から本格生産を始めた。
これを見つけたのが、何と「熊野詣」の「後醍醐天皇」であった。
30年間で33回参詣した実績があって、この回数から観ても尋常ではない。
「熊野詣」のみならず、”「熊野詣」に託けたこの「墨の視察」の目的もあった”と観られる。
それだけに、この「墨の発掘」は、””国家の発展の根幹”を占めていたと判断されていた事”が判る。
この「藤白墨」の生産現場のすぐ横にある「熊野神社」の第一の「藤白神社」に長く逗留して居た事が判っている。

(この神社宮司は日高氏で、「弁慶の親族」に当たり、この熊野宮司の一氏の「宮司日高氏」が養子に「氏子の者」を取り、その者が義経の家来と成って、姓を後醍醐天皇から賜姓を受けて「鈴木」と名乗った。
「義経と弁慶」は良くここに逗留し、家来と成った事から「全国の鈴木氏」が広まった「発祥の地」である。

(この「藤白墨」は「時の政権の専売品」として大正末期まで生産されていた。)
研究室の鈴木氏の論文の「周辺の環境写真(墨部・硯部・方部の行方)を参照)

この時に、平安期には「青木部」は関わっていたと観ている。この時の事を浮き上がらせたい。
その証拠に、この「二つの部」は、「伊勢ー奈良ー紀州」の{青木氏の活動範囲}に存在し、その資料が「青木氏」だけにのみ保有しているのが何よりの証拠である。

「古代宗教」と「古代和紙」と「古代仏教」の経緯の下に、「青木氏の四つの氏」は構成されて行ったのである。
本論の遺された「伝統と遺品」は、この「三つの時代要素」と「四つの氏」に関わっているものなのである。
それは「賜姓五役」に関わったものと成って居る。

この相入れない「賜姓五役」は、この様な経緯に依って、上記の様な「融合過程」を遂げて、一つの「密教青木氏の伝統」は稀に見て生まれ、継承されて行ったのである。
この範疇で、「青木氏」を考える必要があるのだ。



> 以下は伝統 9に続く



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