青木氏氏 研究室
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  [No.326] Re:「青木氏の伝統 9」−「古代宗教」
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/12/18(Thu) 08:36:49

>前回の末尾
>
>「古代宗教」と「古代和紙」と「古代仏教」の経緯の下に、「青木氏の四つの氏」は構成されて行ったのである。
>本論の遺された「伝統と遺品」は、この「三つの時代要素」と「四つの氏」に関わっているものなのである。それは「賜姓五役」に関わったものと成って居る。
>この範疇で青木氏を考える必要があるのだ。



「伝統 9」

古代宗教に付いて、もう少し検証して観る。

「毘沙門天の経緯」
そもそも、密教の「毘沙門天像」とは、どう云うものかを検証して観る。
インドより中国を経由して、「武神」又は「守護神」として扱われて奈良時代の日本に入った。
この時に「賜姓青木氏」は、この「毘沙門天」を神格化して祭祀したとある。
この「毘沙門天」は、梵語のその字句の意から”よく聞く者”と理解され、別に「多聞天」とも呼称される。これは上記の「密教の定義」に合致する。
「青木氏」の様に、”「独尊像」”で祭祀する場合は、”「毘沙門天」”である。

「伊勢青木氏」のは、”「独尊像」”であった。

この”「毘沙門天」”は、「仏の住む世界」を支える「須弥山」に住み、「密教」として「十二天の北方」を守護すると云われている。

そこで、日本では、”「四天王」”の一尊として造像安置する場合は、”「多聞天」”と呼称したが、「青木氏」の様には、”「独尊像」”として造像安置する場合は、”「毘沙門天」”と呼ぶのが通例であった。
そして、「青木氏」とは別に、”「毘沙門天」”は”「密教」”でありながら、ところが、この”庶民における「毘沙門信仰」の発祥”もあるのだ。

・「庶民の毘沙門天」
それは、”「平安時代の鞍馬寺」”からであるとされている。
”何故、鞍馬山なのか”である。
それは「鞍馬山」にも「密教の毘沙門天」が祭祀されていたからであった。
ただ「密教的な扱い」とは強いてせずにいた。

その前に、密教「毘沙門天」の時代的な経緯に付いて先ず検証して観ると、この「密教仏像」が、”「密教でない仏像」”とする成り立ちが良く判る。
「密教」の反意は、「顕教」ではあるが、”そうでは無い「信仰体」”と成って居たのである。

・飛鳥時代
「鞍馬寺」は、当時は、北陸若狭と山陰丹波とを京都で結ぶ「交通の要衝」でもあった。
その為に、古くからここには市が栄え、「宗教文化」が育ち、民から自然と、”「鞍馬寺の毘沙門天」”と称される様に成り、慕われるに至った。

・平安初期
この「庶民信仰化」によって、「本来の神格」である

本来の「財福の神」(3)

(3)という面が、他の神格から変化した。

この「他の神格」が庶民信仰の中に加えられた。

「武神」(1)
「守護神」(2)

(3)>(1,2)

以上の現象が庶民の中に起こり、よりも平安期初期には先ず強まったのである。

・平安中期
又、9世紀頃からは、庶民の間では、「正月のお祓い行事」が行われたが、この”「疫病を祓う役」”が決められていた。

”官吏「方相氏」”
以上が専門に「朝廷の役」として司って来た。

しかし、その役目は、その後に「毘沙門天と竜天」が行うと成った事から、次ぎの役目が加わった。

「無病息災の神」(4)

(3)>(1,2)+(4)
という事に成り一面も加わって複雑な神と成って仕舞った。

・平安末期
平安時代末期には、庶民は、”悪を祓い睨みを利かす”として、都合よく考えた。

「戎の本仏」(5)

結局のところが、「市民化」が起こって、次ぎの様に成って仕舞った。


(3)+(4)+(5)>(1)+(2)

・鎌倉期
鎌倉期には、時代を反映して、再び元の「武神」(3)が見直された。
日本では、その後、この(3)の”「毘沙門天」”には、”甲冑をつけた姿”が主流となった。
結局は、この姿は、最終、庶民の「戎神の古い形態」ともなったのである。
この事は鞍馬寺の「民の市場」で祀られたこととも関係があった。

(3)<(1)+(2)+(4)+(5)

・室町期初期
こうして、”「密教の神格」”であったにも関わらず、「庶民信仰」に依って、何時しか(3)「福財神」と、(1)「武神」とに加え、(5)「戎神」と、(7)「生活神」と、甲冑を着した(2)「守護神」しての ”「毘沙門天」”と成ったのである。

「生活の神」(7)

(3)<(1)+(2)+(4)+(5)+(7)

・室町期末期
そして、室町時代末期には日本独自の信仰として発展し「七福神の一尊」に組み込まれた。

(1)+(2)+(3)+(4)+(5)+(7)=「七福神」

・江戸期初期
こおなれば、江戸時代以降には、更に進んで、特に、”「勝負事」”にご利益あるとして崇められた。

”「勝負神」(6)”

の通称羽、”「尚武様」”として祭られた。

(1)+(2)+(3)+(4)+(5)+(6)+(7)=「毘沙門天」の神格

最早、「万能の神格化」してしまったのである。

この頃から、”「毘沙門信仰」”は、本来の「密教」から離れ、独り歩きして各地には「密教外の宗派」も、この「毘沙門像」の造像を施して、信者獲得に走った。

・江戸期中期
その結果、「義経ー弁慶像」と「毘沙門天像」と重ね合わせて身近な者で「信仰対象」を同化させてしまったのである。

「義経−弁慶像」=「毘沙門天像」

何時しか、この「毘沙門天像」も消え、極端な”「判官贔屓」”が起こり、「義経ー弁慶像」を祭祀に使う様に成ったのである。

(1)+(2)+(3)+(4)+(5)+(6)+(7)>「義経−弁慶像」=(「毘沙門天」の神格)

以上が、「毘沙門信仰の経緯」である。

注釈
上記した”「方相氏」”とは、次ぎの事である。

方相氏(ほうそうし)と呼ばれる”鬼を払う役目を負った官吏”がいた。
役職は「大舎人(おおとねり)」と呼ばれた。
この”「方相氏」”の脇に仕える”「振子(しんし)」”と呼ばれる{無役の官吏の20人}で、大内裏の中を掛け声を掛けつつ「厄払い」をしたとの記録がある。
この「方相氏」の「技能役人」は、「節分」の時には、特に「玄衣朱裳の袍(ほう)」を着て、金色の目4つ持った面をつけて、右手に矛、左手に大きな楯を持った形相をした「方相氏」が大内裏を警護して回った。
その時、「公卿衆」は、清涼殿の階から弓矢をもって「方相氏」を援護として弓をひき、「殿上人」は「振鼓(でんでん太鼓)」を振って「厄」を払ったと記録にある。
ところが、歴史的に更に良く調べると、9世紀中頃に入ると、「毘沙門天像」が一般にも出て来て、「鬼を払う役目」を担い、「鬼を追う側の役目」であった「方相氏」が、逆に「鬼の役回り」に成って追われるように慣習が変わってしまったのである。

つまり、これが「宮廷の節分の行事」であった。

つまり、”「古来の宗教の和魂荒魂」”の「荒魂」の「悪神部分」を祭祀に依って取り除けば、”「荒魂」”も逆に”「荒神」”を追い払い、”「守護神」”に成れるとする概念に変わったのである。

これは「神仏習合の結果」であった。
この「神仏習合」は、”「庶民の顕教でも無い信仰体」を作り上げた結果”が招いたものであった。
「密教」でありながら”「密教」”でも無く、且つ”「顕教」”でも無い、”「古来宗教」”でも無い”「庶民信仰体」”が作り上げられたのである。

この結果、この「庶民信仰」が、「朝廷の儀式」の中にまで浸透して行って、「方相氏」が「荒魂の悪神の厄払い」を務めていたのに、今度はこの影響で、”「毘沙門天」”が守護神と成って「悪神」を追い祓う役を担う事になってしまった。
「方相氏」が、その「悪信の役」を務めると云う奇妙な事が起こったのである。

百々の詰まりは、これが、

”「朝廷の節会」”

以上と成った。
融合して再び、次ぎの様に変わった。

”「庶民の節分」”

以上と成った。

つまりは、庶民の元へ戻って来たと云う事である。

これが「神仏習合」で突然に現れた”「密教の毘沙門天」”であり、この「毘沙門天」は、この様な家系で以って「上層階級」と「庶民」の間に瞬く間に広がりを見せたのである。

その「広がりの仕方」が、次ぎの様なものであった。

上層階級には、”「武神、財福の神、守護神」”の「三神」として、
庶民階級には、”「戎神、生活神、勝負神」”の「三神」として

以上の様な奇妙な広がりを見せたのである。

そもそも、”「密教寺の仏格」”であるのに”「神社の神格」”なのである。

「密教寺の仏閣=「神社の神格」

ところが、「青木氏」は、そもそも、”賜姓族の「三つの発祥源」”として、”「密教の武神」”を祭祀する役は主務である事から、この”「毘沙門天」”を奈良期より独自に祭祀して来たものである。

”「密教」の「宇宙仏の大日如来仏」”を祭祀しながら、”「毘沙門天」”だけは、”「密教」”では無い”「神格の毘沙門天」”が出て来て、周囲との間には、「違和感」が生まれたのである。

「青木氏の守護神」である”「祖先神の本尊」”とした。
「賜姓族の役」としての ”「武神」”とした。
「平安期」からは「二足の草鞋策」としての ”「戎神」”とした。
「氏存続」としての”「財福神」”とした

以上の四状況でも祭祀されていた。

「大日如来坐像」と「祖先神ー神明社」の「神仏習合」であった事も加え、「密教の毘沙門天像」は、「本尊」は元より、この「三つの神格」を以って積極的に祭祀されたのである。
上記した様に、「四つの氏」の顔を持つ「青木氏」に取っては、この”「毘沙門天の変遷」”は、考え方に依っては ”「四つの顔」を一つの形に融合させる”のに返って都合が良かったと観られる。

この”「毘沙門天」”も、その意味で”「賜姓五役」”を果たせた所以でもある。

しかし、その「庶民の発祥元」が、「鞍馬山」からであった事から、”「戎神」「生活神」「勝負神」”が付け加えられて行ったのである。
この”「庶民の三格神」”は、「青木氏」に取っては直接的なものでは無かった。
しかし、”「賜姓五役」”を果たす上での”「四つの氏の立場」”を演じるには、直接「庶民との関係」を持つ事からすると、極めて都合が良かったと考えられる。
特に、上記した”「和紙の改革」”では、”無くてはならない要素”であったと位置づけられる。

筆者は、「毘沙門天」を「青木氏」が祭祀している事が、”強く受け入れられる要素”と成ったと評価していて、”なくてはならないものであった”と位置づけている。
「青木氏菩提寺」に安置されていたこの”「毘沙門天」”が、「鞍馬寺」の様に、”「庶民の願い」(「戎神」「生活神」「勝負神」)”を受け止める役割を果たして、より「庶民との接点」を強く持てるものであったと評価している。
単純に、「密教」だから「青木氏」だからとして、この”「毘沙門天」”をただ祭祀していたのでは無い事を物語っている。

それは、上記した様に、次ぎの数式論の中にあったからである。

”「宗教」<=「生活」の環境”

以上にあったからである。

これが、以下の数式論で成り立っていた場合は違っていたであろう。

”「宗教」≠「生活」の環境”

以上であったなら、むしろ逆効果であっただろう。

ところが、江戸時代には、むしろ「庶民の文化」として、「鞍馬山」から発展して、”「武神としての義経の神格化」”と”「弁慶の尚武様見立て」”の現象が起こった。
そして、次第に”「毘沙門天」”から離れて、江戸期には身近な「義経ー弁慶像」に特化して発展した。

丁度、この直前に、青木氏の”「毘沙門天像」”等は、青木氏菩提寺から伊勢松阪の居宅を経由して新宮の別宅に移されている。

「信長の伊勢三乱の攻め」の「戦乱の災禍」を避ける為ではあったとされているが、その原因もあったろう。
むしろ、”「庶民との繋がりの「毘沙門天の役割」”も、低下した事も原因しているとも観ているのである。
長らく「青木氏菩提寺」に祭祀して、、”「宗教」<=「生活」の環境”の「庶民との繋がりの源」として”鞍馬山の様に”安置されていたが、「義経ー弁慶の特化現象」もあって、最早、”「青木氏の毘沙門天」に戻した”と観ている。

その証拠には、「義経ー弁慶の特化」とは別に、青木氏の「毘沙門天」に対する状況は大きく変化しているのである。
それは、実は、庶民の間で、「義経ー弁慶の特化」と共に、”「古来の宗教」から生まれた「和魂荒魂」”の習合信仰体の”「三宝荒神様」”と、庶民が習合した”「地荒神様」”が「毘沙門天」と習合して、”「荒神さん」成る信仰体”が、江戸期に入って見直されたのである。

「道祖神」や「産土神」として庶民の中に”「庶民の護り本尊」”であるかの様に、生活に密着して爆発的に広まった。

これは「義経ー弁慶の特化」が原因していると観ている。

この「特化現象」には「特別な現象」が起こったのである。
「特化現象」が起こる位であるから、それなりにその「特化エネルギー」が必要である。
その「エネルギー源」として「顕教の武士集団」が、「毘沙門天信仰」に食い込んで来たのである。
そして、その「神格偶像」が、何時しか「毘沙門天」ではなく、自分たちの身近な「理想的偶像」を「仏格」に置いたのである。
それが「義経ー弁慶」であった。

結局、「武士の信仰体」として席巻した為に、「密教、顕教」の何れにも属さない「庶民の無派閥な信仰体」のイメージが薄らいだのであろう。
”薄らいだ”と云うよりも、”排除排斥した”と云うのが正しいのではないだろうか。
そもそも、「密教」で在った時は「武家の守護神」であった。
それが、”全て「仏教」は「顕教」とする”とした「家康の宗教令」で、「特定の氏」のものでは無く成った。

「一般武士の守護神」と成った事で、「密教の毘沙門像」は「顕教の毘沙門像」と変化した。

「神格化像」としてはそのままに、より”「義経ー弁慶像」”を身近に”「武士の崇拝偶像」”として引き出して、”新しい現実味のある「崇拝偶像」”を作り出したのである。
”「義経ー弁慶像」”=”「武士の崇拝偶像」”

これに、「別の三神格」で庶民が関わる事に、武士は抵抗した。
封建社会がより強く成った社会でもあって、共有する事に嫌ったのである。
自らの「武士の崇拝偶像」が薄らぎ穢れると考えた。

毘沙門天から発展した「武士の崇拝偶像」の「悪神」を取り除いた「地荒神信仰」を復活させたのである。
「毘沙門天」>「武士の崇拝偶像」(悪神)<「地荒神信仰」
今度こそ、”「庶民の守護神」”として位置づけたのである。

これが江戸初期頃から興った”「毘沙門天の変遷」”であった。

「青木氏」は、この「二つの現象」を横目で見ながら頑なに、”「密教の毘沙門天の信仰」”を続けたのである。


「毘沙門天像の3信仰集団」
そもそも、「毘沙門天像」の信仰集団には次ぎの様なものがあった。

イ 「三大密教宗派」を「信仰する限られた氏族」の「武神ー財福神ー守護神」の信仰集団
ロ 「庶民の信仰対象」の「戎神ー無病息災神ー勝負神」の信仰集団

以上の「二つの毘沙門信仰の流れ」が同時に起こっていたのである。

ハ 特に、ロには、「勝負神」を信仰体として密教外の武士階級の別派の信仰集団

以上のイとロに、ハが加わった。

然し、「現世と彼世の連携概念」と「道標行燈」等の青木氏が継承して来た「密教所作」は、ロとハの集団には流布し伝わらなかった。
筆者の家の「毘沙門天像」は、 「木彫刻」のものであった事が、明治期35年に消失した事が伝えられている。
ところが、「義経ー弁慶像」を身近にした「武士の崇拝偶像」の「節句の人形像」は、上記のロとハの「逆の流布」が起こっていた。
江戸期に成って、武士の「顕教の武神、守護神、財福神」の「崇拝偶像」が、「密教の毘沙門天」を祭祀する青木氏にも、「義経ー弁慶像」の形として伝わっていた事が判っている。
故に、「義経ー弁慶像」が江戸期から居宅側にも存在したのである。

この事は”一体何を意味するのか”「伝統の変遷」として検証して置く必要がある。

「青木氏の崇拝偶像」
「義経ー弁慶像」は、「節句の人形像」と云う扱いよりは、「護り本尊」、即ち、”「神仏合体」の「青木氏の守護神」”として祭祀されていたのである。
実は、伊勢と信濃の「青木氏」には、1180年代前後に、「清和源氏の宗家」の四家から、跡目が入っている。
「伊勢青木氏」には、清和源氏(摂津源氏 頼光系)の「源頼政」の孫(仲綱の子)三男の京綱が跡目に入っている。
この事から、「密教の毘沙門天」だけに拘る事が出来ず、武士が「義経ー弁慶」を「顕教の崇拝偶像」とする以上は、祭祀する以外には収まらなかったと考えられる。
そこで、この事は、「伊勢の氏上様 御師様」としての立場があった事から周知であった。
その為に、「世間の非難」を受ける事になると考えたのではないか観られる。
況して、菩提寺から引き揚げて居宅で「大日如来座像」と「毘沙門天像」を祭祀している。
「賜姓五役」の「武家の発祥源」の立場を持っていれば、「義経」は「河内源氏」だからと「内家の理由」を付けても納得が得られるものでは無かった筈で在る。
従って、「顕教の義経ー弁慶像」も祭祀せざるを得なかったのである。

ただ、問題は”どの様に祭祀するか”であった事に成る。
「護り本尊」は避けられるものでは無い。
しかし、遺された文書には、”「節句の人形像」”と云う表現を採っている。
つまり、「節句の意味」と「人形像の意味」をどの様に理解するかにある。
「密教の毘沙門天像」と全く同じ扱いとする事は出来なかった筈である。
これは、”節句の時に祭祀する慣習”であり、「密教」である限り、”「顕教の人形像」の扱い”として、”それなりに祭祀せよ”との「間接的な言い伝え事項」としたと判断できる。


もう一つは、「戎神ー無病息災神ー勝負神」は、別の顔の「商いの青木氏」に取っても見逃す事の出来ない「神格信仰体」であったからであろう。
この扱いは”一体どのような扱い”であったのであろう。
当然に、[別の顔の商いの青木氏」の中での扱いとなろう。
兎も角も、「賜姓族」での扱いでは無かった筈である。
これは、口伝であるが、「庶民の毘沙門天の三格神」には、1月と4月には、商いの関係者や一族や縁者や家人や小作人や近隣の住人を招いて盛大に、「毘沙門天像」を公開し、「祝いの宴」を開いたとされ、「甘酒」を振る舞い「紅白の餅」を配り、最後には花火を上げたと伝えられている。
(この「花火」は、「紙屋」が「松阪の花火大会」で上げていた。「花火庫」があった。)
「五月の節句の祭祀」にも同様の「祝いの宴」を催したと伝えられていて、近隣では有名であったと事が伝えられている。
松阪は元より玉城町は、町全体が青木氏の関係者の長屋と蔵群であったので、大変な宴で庶民は楽しみにしていたと伝えられている。
これは、堅苦しいものでは無く、現在で云えば、「町内の運動会」の様で、ゲームをし、景品を出しする雰囲気で在ったらしい。


恐らくは、正式には、江戸期前の菩提寺には「独尊像」(「武神」他の弁天像等の伴像は無かった)として安置され祭祀していた。
「毘沙門天像」は「青木氏のお仏像様」と対の「脇侍扱い」であった。

そうすると、室町期の「菩提寺」では、未だ正式に「毘沙門天像」が祭祀されていたので、江戸期の「居宅」では、「義経ー弁慶像」の人形が置かれていて、「節会」に取りだされていて祭祀に利用されていた事に成る。
この「義経ー弁慶像」の人形の初代は、江戸初期頃の家物であったのであろう。
江戸期には「居宅」には「お仏像様」が遺されていて、現在、「毘沙門天像」が遺されていないのは、元々何れも安置場所が、室町期末期の戦禍の時には、「菩提寺」に安置されていたからである。
その時に、「お仏像様」と共に運び出して「、居宅」に移して以後、新宮に移して再び戦禍が収まると居宅で祭祀したとされている。
従って、この江戸期前後頃から、「武士の崇拝偶像」としての「義経ー弁慶像」の初代があって、「菩提寺の毘沙門天像」も居宅に移した事から同時に祭祀されていた事に成る。
ただ、「祭祀の仕方」に同じでは無く差違はあった事が判る。

注釈
(「青木氏菩提寺」は、室町期末期と明治35年の2度の戦禍の大火を受けて消失している。
現在の菩提寺は3度目の建立と成る。
この「毘沙門天像」は「明治期の消失」によるが、「お仏像様」だけは消失を免れた。
「伊勢青木氏」に取っては、「大日如来座像のお仏像様」と「毘沙門天像」は、「絶対的な信仰の対象」であった。
何故、「毘沙門天像」だけが消失したのかは、疑問であるが、これには、祖父と父の口伝によると、一度、外の道路に家人が運び出したが、家長の長兵衛が、”自分の家の物だけが助かるのは忍びない”として、家の中に戻したとと伝えられている。
「お仏像様」は別の所に運び置かれていて消失は免れたと伝えられている。
この明治期に共に消失した「毘沙門天像」と「義経ー弁慶像」(初代)に代わって、用いた「義経ー弁慶像」(二代目)の造像物と成るが、「毘沙門天像」の様に祭祀されていなく、「端午の節会」にのみ飾ったとされている。
現在もこの二代目は保有している。)

上記の「伝統3」(青木氏の分布と子孫力−12)に論じた作法は、この時に「菩提寺」で行っていた祭祀方法を「居宅」でそっくり踏襲したものである。
ただ、口伝によると、「灯明」は「菩提寺」から家に運び入れて、代々「道標行燈」に点けていた事が伝えられている。
中でも、「五月の節会」と「盆と彼岸と正月の節会」には、「菩提寺」から「導師」が来訪して祭祀していたと伝えられている。
この正式には、平成10年10月15日まで続いた。
その後、筆者がこの祭祀を引き継いでいた。
つまり、その「祭祀の名残」(下記)が現在に何とかその「最低限の作法」で遺されているのである。
忘れ去られる前にこの様にして文書にして遺している。
「茶釜の作法」は、「囲炉裏」をしまい込んでいる為に、諸道具は遺されているが、「実際の擬音」を出すまでには至っておらず、形式的な諸道具の仏前に供えるだけに終わっている。

それまでは、次ぎの通りの祭祀である。
青木氏の役の「武神」、
賜姓族の「守護神」、
青木氏の「財福神」

以上の「三神格」として、「伊勢青木氏」が祭る儀式に「毘沙門天像」が用いられていたのである。

そして、この祭祀には、「現世の者」、「彼世の者」が一堂に集い、その道標としての「道標行燈」が用いられたものである。

この”「道標行燈」”が、象徴的な形で遺された”「古代密教的な仏教作法」”なのである。
恐らくは、鞍馬山を拠点として「毘沙門天」が平安期から江戸期までも民にも神格化されて慕われ続いた。

一方、この密教の”「道標行燈」の風習”には次ぎの事があった。

(流布−1)
”「青木氏」が「古代密教浄土宗」であった事”
”「毘沙門天」そのものが「古代密教の信仰体」であった事”

以上の事から、青木氏外には一般的には用いられていないと考えられる。 

(流布−2)
「嵯峨期の詔勅」に伴う「禁令」にて、その「青木氏の一連の習慣」が、明治初期まで禁じられ護られていた事から、「毘沙門天の神格化」が、平安期から徐々に庶民化しても、この「青木氏の道標行燈の習慣」は伝わらなかったと観られる。
それは、「毘沙門天」の「6つの神格化」の内、3つは本来の「青木氏の神格化」であり、残りの3つの神格化は庶民のものであった事から、前者の「道標行燈の習慣」は移動しなかったと考えられる。

(流布−3)
それと、室町期末期には、遂には毘沙門天も「七福神の一尊」に加えられた事もあり、更には、江戸期には、庶民の発想の鞍馬山と、一般武士から「義経ー弁慶像」に特化した事が原因しているのではないかと考えられる。
故に、「義経ー弁慶像の神格化」も原因して、一般には、「毘沙門天」に依る祭祀の「現世の者、彼世の者」の一堂に会する”とする「考え方」(密教概念)は生まれず、且つ、その「道標行燈の作法」も生まれなかったのである。

(流布−4)
「青木氏の祭祀」には、”「現世の者、彼世の者」の一堂に会する”とする「考え方の概念」は、「節句、盆、暮、彼岸等の祭祀」以外には表現する事が無かった事が、一般にも広がる概念とは成らなかったのであろう。
(むしろ、逆に青木氏の方に流布が起こって融合したと観る方が正しい。)
仮に流布して広まったとしても、一般にこの「密教の所作」は同化する事は出来なかったと考えられる。

(流布−0)
それは、矢張り、何をともあれ、根本的には”「密教の考え方」「密教の習慣」”が大きく左右したのである。
そもそも、「密教仏像」である事が根本的な流布に至らなかった原因であろう
江戸期に興った「顕教仏像」であれば、「考え方の概念」と「毘沙門天の神格化」は違った形を見せたであろう。


そこで、次ぎにこの「毘沙門天」の「密教仏教性」を論じて観る。
「青木氏の古代仏教の密教性」(浄土宗密教までの間)がどの様なものであったのかを検証する。

参考
そもそも「密教の毘沙門天像の姿」には、次ぎの「四つの条件」が伴う。

第一に、「三昧耶形」(「密教仏教」を表すが道具)
第二に、「宝棒」(仏敵を打ち据える護法の棍棒)
第三に、「宝塔」(珍宝を納めて置く仏舎 魔除塔)
第四に、「密教氏」独自の表現(悪神を祓う仏具)

これ以外に、はっきりした規定はなく、様々な表現があるとされている。

これは、「毘沙門天像」は「密教仏像」であったことから、「3大密教の考え方」が色濃く出たものである。

3大密教の考え方

A 浄土宗密教は「大日如来仏」の「雄弁の仏」 極めて密教性が強い概念ー密教の母体
B 天台宗密教は「毘盧舎那仏」の「無言の仏」 殆どは顕教性が強い概念ー顕教の母体
C 真言宗密教は「大乗仏教」の「教義」    「波羅蜜の顕教」と「真言の密教」の合体

注釈
(「平安期の密教論争」では、BとCは、そもそも「顕教の宇宙仏の毘盧舎那仏」を基本にして釈迦の法華経を仲介に「密教の教義」を作り上げている。
しかし、Aは完全な「密教の宇宙仏の大日如来仏」を基本にしていて、”密教そのものの教義”を作り上げている。
ここが根本的に異なっている。
従って、BとCは、Aの「古代仏教」を根幹とする浄土宗を「密教」と認めない論調を採る。
「古代仏教」を背負うAはその概念やその慣習の中に顕教性が全くない。
当に「伝統ー達親」で論じた内容がその典型的な概念の見本である。

BとCは、「顕教性の概念と習慣」の上に「密教性」を採ると云うものである。 
平安期に起こった「密教論争」は当にこの点の論争であった。
真言宗の外来性の強い「大乗仏教」に対比して「小乗仏教」もある。)

「密教の毘沙門天」を、このAとBとCの「密教の概念」で観た場合は、当然に大きく異なる。
我々、「青木氏」は、「密教の宇宙仏の大日如来仏」を祭祀して、この「Aの密教の毘沙門天」の考え方を採っている。

日本では、「毘沙門天像」は、一般に「革製の甲冑」を身に着けた唐代の「武将風の姿」で表されている事が多い。
(九州自治を納めた「大蔵種材」をモデルにした影響が形に成っている。)
また、「荒魂」の「悪神」(浄土密教では「邪鬼」と呼ばれる「鬼形の像」の上に乗る)を足で抑え込む形を採る事が多い。

この辺は、”何にするかはどうするか”は、第四の「密教氏の裁量の範囲」である。

「青木氏密教」では、「最良の範囲」として「大蛙の彫刻物」が添えられている。
これは、「大蛙」は「神の使い」であるとの「古来の伝説」に従ったものである。

又、第一の「三昧耶形」でも「密教氏の裁量」が表現される。
この様な「裁量の範囲」の内容を具に観れば、それによって、その「密教氏」が、”どの様な考え方や概念を持っていたか”が判るのである。

上記で論じて来た「青木氏の密教の概念」、況や、”この様に生きたい”とする「青木氏の生き様」が、この「毘沙門天像の第一から第四」までの事を租借すれば理解できる。
否、”この様に「青木氏」は在りたい、生き続けたい”とする考えを表す「仏具」を添えて、それに願いを込め念じて祭祀していた事に成る。
「毘沙門天」とは、その様な「氏の願い」を聞き入れ叶え護る「神格仏」である。

第一の「三昧耶形」の「複数の仏具」を観れば、「累代の先祖」が、”その時代にどの様なその思いを込めて願って祭祀していたか”が良く判るのである。
この「仏具」には、一度に「三昧耶形としての仏具」としたのではなく、”青木氏に起こったある事柄”を、その都度に表現したと観られ、”時代性のある事”を感じられる。

因みに、「青木氏密教」には、”どの様な仏具があるか”例を挙げて観る。
(写真転付が一枚に限られているので、何時か改めてまとめて投稿する。)

これらは「仏具飾棚」があってそこに祭祀展示している。
「武神」には、「刀掛」
「守護神」には、「馬杯」
「財福神」には、「宝塔」(玉)
「戎神」には、「薬籠」
「無病息災神」には、「六瓢箪」
「勝負神」には、「軍配」

何れも古代の先祖が使った「伝来の実物」である。

この内容を観る事に依って、青木氏が ”どの様な「密教概念」を持っていたか”が判るのである。

参考
「鎧兜」は「青木氏の戒律」の「禁手」で祭祀し飾る事は敢えてしていない。
以上の「六神格の内容」を観ても判るが、「賜姓五役」「密教青木氏」を護る上で、「戦い」を前提とする「解決方法」を好しとせず、下記の「象徴言」にて解決する事を「氏の戒律」としていた。
依って、「鎧兜」は「戦いの象徴」であるによって祭祀や飾る事は禁止していた。
上記の「六仏具」の「密教の三昧耶形」は、その立場から判断すれば、それなりに意味を以て納得出来る。
例えば、「刀掛」には刀はない。伝来の刀は10振りあった。刀は鎧兜と類を同じくする。
しかし、「武家の発祥源」、「侍の発祥源」ではある。
「刀掛」と「刀」は一対、しかし、「戦い」は「賜姓族」としては法度とする。
つまり「武」とは「刀掛」であると諭している。
「刀」を「殺傷の刀」に頼って常に振り回しているのは「武家としての立場」では無いとしたのであろう。
大事なのはその基と成るものが大事な事であると諭しているのである。
刀は「武士」であってもそれは「武家」では無いとする諭しである。
「武家」は「刀」だけで解決するものでは無く、”「知略」を以って事を成すべきだ”と諭しているのである。
「刀」は「刀掛」なくしては治め処が無くは成り立たない。
「刀の解決」も「知略」の上に成り立つ”としているのである。
”「武士」”である事の前に”「武家」”である事を”肝に銘じよ”としているのである。
この事は「家訓10訓」に色濃く出ている。
後の「三昧耶形」も、事ほど左様に、物語っている。


注釈
(筆者は、「子孫存続」を危ぶまれる程の、可成り”波乱万丈の生き様であった”と観ている。
その「密教の生き様の戒め」には、”世に晒す事無かれ、何れ一利無し” 然すれども ”世に憚る事無かれ、何れ一利無し”に込められていると理解している。
これは、現代に於いても云える事であると考える。
これが当に「密教青木氏の伝統」の「象徴言」であろう。
後世に遺したい「伝統の戒言」である。)

それは、「密教氏青木氏」としては、「賜姓五役の遂行」と「子孫存続」であったと理解している。
それが「毘沙門天」の「三神格の武神、守護神、財福神」であって、別の顔の「商いの氏」としては、「戎神、無病息災神、勝負神の三神格」であった事に成る。
「毘沙門天」にこの願いを込めたのであろう事が判る。

「毘沙門天像」には、この様な「酌量の余地」を残しているのは、「密教性を自由に表現できる余地」を残している事に成る。
これは、「毘沙門天像」が「和魂荒魂の古代宗教」との「習合性」を持たす事に依って「仏教の浸透力」を高めようとした所以であろう。
(現実に「三宝荒神像」と同化した。)



「伝統10」に続く



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