青木氏氏 研究室
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  [No.329] Re:「青木氏の伝統 12」− 「青木氏の四家訓戒 1」
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/03/13(Fri) 05:55:43

「伝統 12」

> >前回の末尾

> 故に、(g)(h)から(i)
> (i) 「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」
>
> 故に、(a)(g)から(j)
> (a)「伝統」≒「理」」+「利」
>
> (j)「伝統の本質」≒{「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」}≒「理に叶う事」≒「利に叶う事」
>
> 故に、(a)(e)(f)(g)(h)(i)(j)から(k)
> (k)「伝統」≒「二足の草鞋策の氏族」≒「賜姓の氏族」≒「商いの氏族]≒「伝統の本質」
>
> 結果として、以上の論理が働くからだ。
>
> そもそも、即ち、この「数式論の関係式」は、普通の武家社会では起こらない事を示している。
> それは,「賜姓の氏族」(理)と「商いの氏族」(利)であると云う[特質な環境」を保有していた事に成るからこそ成り立っていた事であり、且つ、上記の”「伝統の原理]”が成り立つ”「不思議な環境」”を持ち合わせた「青木氏」”で在ったからこそ、”「伝統」は保障され維持されて来たのである。
>
> 故に、上記の数式論は、”「青木氏]”のみであり、「平安期−鎌倉期の48氏ある氏族」でも成り立たず、況してや「一般武家」では、決して成り立たない。
>
> 何れにしても、この「世の事」が、将又、「青木氏」にも、数式論通りに、”論理的に全てが働く”とは言い難いが、凡そ、その「流れ」は、この数式論での様に、確保出来ている事は証明出来る。
> 個々の末梢事は、兎も角も、”「流れ」の確保”がこの世に於いて重要な事なのである。
> ”「流れの確保」”のその「前提」は、少なくとも、最低限にも、”論理的に状況の骨組みを作り上げて置く事”にある。
> 「青木氏」のみならず、この世の全ての「事の流れ」には、この「前提」が必要なのである。



「青木氏の四家訓戒」

この「前提」の無いところには決して「河の流れ」は生まれない。
「河の流れ」が無いところには、「事の成就」(田畑の恵み)は生まれないのが、この「自然摂理」であり、「人の世」も例外なく「世の常理」である。

要は、”奈良期から進めて来た「二足の草鞋策」”が全てを物語る事である。
「青木氏密教の三相の理」の「時人場」(流れの確保)の何れもが大きく働いたと考えられるが、中でも、「流れの要」は、「時」ではなかったかと観ている。
奈良期から室町期までの「生存競争の激しい乱世」で「時の云々」が大きく左右した。
この「時の云々」を「機を観て敏」に導き働く「指導者と氏族」であってこそ生き延びられたのであり、「伝統」を護り通せたのである。
その「対照的存在」が、「青木氏」と比較対象に成る「源平橘」であった事に成る。
つまり、「源平橘」は、「上記の数式論」の「流れ」を無視した事に成り、依って、「伝統」が成し得なかったのである。特に、源氏は、上記した様に、「嵯峨期の詔勅」を無視して、「武」の身を押し通した事に「伝統」の破滅は勿論に滅亡の原因があった。
然りながら、「亡びた平家」は「宋貿易」を行い「二足の草鞋策」を採っていたが、伊賀本家を中心とする「宗家筋」は亡びた。その原因は、上記の数式論が成り立っていなかった事に在り、「青木氏」の「四家」に相当する「一族の統制システム」が上手く採れていなく、ただ一人の「個人の能力」に委ねていた事が原因していた。
しかし、大蔵氏等の同門一族は、上記の数式論が成り立ち、博多を中心に貿易を盛んにして「大蔵氏」を遺し得た。
一時、「同族の清盛」にその富を奪われて抑え込まれたが、その後、「九州自治」を前提に「子孫拡大性」を採り「九州全土」を網の目の様な「血縁の筋」で固めた。
秀郷一門とも血縁する等をし、「武」に頼らず、”広く薄く固める戦略”を採ったし、「後漢の末裔」「遠の朝廷」「錦の御旗」等の”「権威と象徴」”を保ち、「皇族の血縁」をも護った。
更には「博多貿易」とは別に、国内の「瀬戸内の富の権利」をも獲得して生き延びた。
同族の「平家」との違いは、「青木氏」と同じ「布位共生」を重んじ、「平家や源氏」の「布武」に頼らなかった事にある。
上記の「青木氏の数式論」に当てはめても、「四家方式」とは異なる「統制方式」を採用していて合致するのである。
「青木氏」の「祖先神 神明社」に対しても、北九州の「宗像神社」や「阿蘇神社」や「霧島神社」等ほとんどの「主要な神社」との関係を持ち「神社系氏族」を作り上げ、「神職」を入れて「一族一門」を固めた。現実に大蔵氏は「神職系氏族」が、幅を利かした。
更には、「後漢」からの「強力な職能集団の大蔵部」を従え、「大蔵種材」の様な「民の憧れの的」(「毘沙門天」のモデルにも成ったとされる”「民の味方」”の「豪傑の首魁」が出る等、「青木氏の御師」に相当する立場も持った。全く何れの面を捉えても「青木氏」との大きな違いは、「純潔性の維持」を除いては無かった。
むしろ、この点では氏子の領域までを血縁の範囲にする等全く「逆」であった。
元々、後漢から帰化した経緯が、「無戦」と民との「供生共存・技能供与」で「共生族の立場」を採っていた。
「平安期の氏族」の「48氏」の中で「子孫」を大きく遺したのは、「大蔵氏」だけである。

況や、上記の他氏との比較評価に於いても、”「伝統」”の無い処に”「子孫存続」”は成し得ないの条理であった。

その「共生共存」を旨とする「子孫存続」「伝統」を示す「上記の数式論」が「前提」と成り得ている。
この”「二足の草鞋策」”が成り立たなかった場合は、「青木氏」に執っては、この「数式論の環境」は「水泡]と成り得ていたのである。

この「数式論の流れの立場」を確保したからこそ、「商いの顔」と、「三つの発祥源の顔」と「賜姓五役の顔」を務めて来た「賜姓族の顔」(「五つの面」 「20の顔」)として「二流の顔」から ”「青木氏の伝統」”が生まれ護られて来た。

明らかに、”「二足の草鞋策」”が、”「伝統」”を生み出したものであり、その”「二足の草鞋策」”を実行するに必要と成る”「子孫存続」”を維持し護った。この為に、”「四家制度」”が敷かれたのである。
況や、「二足の草鞋策」=[四家制度」=「子孫存続」=「伝統」とも云える。

これは、古来より「青木氏」の中で容認されて来た「根本の概念」である以上、就中、現代でもこの数式論が成り立つ事が出来得れば”「伝統」”は保たれるとも考えられる。
但し、あくまでも、この”「子孫存続」=「伝統」”の上記の「数式論の環境」が維持されていればの事である。

(注釈 「青木氏」を調べている中で、”何で「青木氏」にだけこの”「古来の伝統」”が継承され続けて来たのか”に大いなる疑問を持った。
何かある筈で、 それを「紐解け」ば、”青木氏は判る”と考えた。
当然に、「血縁関係」を保持していた「布位共生」の「佐々木氏等の氏族」と「布武」の「源平藤橘」等の比較対象があって、この「生き様の差」を研究した。
その過程である”方程式の様なもの”がある事に気が付いた。
その研究の経緯を経て、生き残るに必要なこの方程式の数式論を導き出した。
つまり、「青木氏」とは、「多少の違い」はあるにしても、「佐々木氏」や「大蔵氏」や「藤原秀郷流一門」等、生き残った「氏族」の「共通項」があると考えた。
この「共通項」を調べるのに大変に苦労をした。この結果上記の様な数式論に辿り着いた。
例えば、”「商い」”とする場合、この「商い」そのものの「確証」探しや、それに類する”何かの糧類”などを見つけ出す事の「資料探し」が大変であった。
この様な研究は現在では「個人情報保護」や「著作権」等で縛りが出来て無理であろう。
現在、各地域の宗家筋の「青木氏の現状」を全て把握している訳ではないが、筆者のルーツも明治35年の松阪大火の出火元で950年以上続いた「福家の商家」も「倒産の憂き目」を受けた。
しかし、他の「四家の子孫」は、この「商家」と「家」を各地で引き継いでいるし、筆者の親族も「商い」をしている。
しかし、”「子孫拡大」”は果たされていて、ある程度の数式論の環境は保全されているが、”「伝統」”は、「時代の変化要素」の方が大きく、上記する”「合理性」=「継続」=「信念」=2”を失い「縮小する見込み」である。他氏も同じであろう事が調査の過程で判った。
果たして、「伊勢の秀郷流青木氏」は、兎も角も、「入間の秀郷流青木氏」も、この「伝統」を継承し得ているかは、一時は把握していたが、残念ながら、最早、判らなくなった。
「信濃青木氏の福家筋」は、未だこの”「伝統」”を何とか維持しているらしい事が確認できている。)

・「青木氏の四家訓戒」(氏是)
さて、そこで,「伝統の本質」の「合理性の血の質」と成り得た「四家方式」の上記の「子の定義」を護るには、”「氏の根本的な概念」”が必要であった事が判る。
況や、それが、”「氏是」とも云える概念” 況や、「血の質」である。
即ち、「氏是」=「血の質」である。
そもそも、”「お仏像様」の掌で育てよ”の「氏是」と成っている「訓戒」が、「大化期の発祥期」の頃から言い伝えられていたのである。
「氏是」の”世に晒す事無かれ、何れ一利無し”の「青木氏の訓戒 氏是」と共に、長く「子孫」に伝えられて来たこの「訓戒」もあったのである。
この「お仏像様」は「青木氏の護り本尊」である。
この「訓戒の意味」は極めて深いが、ここで、この”「青木氏の四家訓戒」”が、”お釈迦様の掌で・・云々”の言葉が世間でも云われている。
 ”何故にこの「氏是の言葉」が世間に出たのか”と云う一つの疑問がある。
そもそも、「青木氏密教の訓戒」で「氏是」と成っているものが、”世間に出たのか”には何か意味を、或は、”「青木氏の生き様」に関わる事が起こったいたのではないか”と云う疑問である。
「密教」なので外に出ると云う事がどうしても考え難い。
そもそも、「顕教」の”「宇宙仏の盧舎那仏」からの「教え」を、「お釈迦様」が伝える”とする”「顕教」の「お釈迦様の説」”である事から、”お釈迦様の掌で”の言葉は、「密教」では無く、「顕教」である。
明らかに「顕教」である以上は、「時代性」から観て、もっと後の「鎌倉期の時代」に最初に広まったと考えられる。
そうすると、伝えられる手段には、次ぎの事が考えられる。
”鎌倉時代の「浄土真宗」”に依って,「仏説」を「庶民」に判り易く伝える為に、”一般化して世間で使われた言葉”である筈である。
この「時代性」と、世間に伝わる「伝達手段」から観て間違いはないだろう。
「法然−親鸞の関係」と「親鸞の苦悩」の「歴史観」から観て、「民の領域」まで伝わるには、「浄土真宗」しか無い筈である。

(注釈 浄土真宗はその路線の考え方の違いから、四派に分裂した。しかし、この部分に於いては、「共通の仏説の説法手段」であり、路線には関係が無い。だとすると、鎌倉初期前後であり、親鸞そのものが伝えた可能性が考えられる。
だとすれば、「青木氏の浄土密教」−「密教浄土宗の法然」−「法然弟子 浄土真宗の親鸞」の流れの中での関係から伝わったものと考えれば、「密教の門外不出の掟」は開ける。
「奈良期」から「平安期」に掛けて、そもそも、「僧侶」は、「国家機関と朝廷が認める者」以外には成れなかったし、「僧侶」から自由に「仏教の教え」が「民」に伝われば、「国家の安寧」が脅かされるとして、「仏教の民への布教」を禁じていたのである。
況や、「密教」のみとした経緯がある。
然し乍ら、基本的には、この禁令の傾向は社会の中では、平安期末期まで続いたが、これに対して「民への布教」を実行したのは「行基」−「親鸞」であった。
ここで、「法然との軋轢」が生まれて、「真宗の宗派」を構築した。
従って、「法然と親鸞の軋轢」が起こらない前とすれば、この「言葉の伝承」は起こる。
ただ、「行基」(660−749)はこれを破って布教を続け、遂には、「行基」と「民の賛同」を得なければ一切の社会の工事も進まない状況と成った事から、「聖武天皇」は「行基」を許して大僧正の最高位の位を与え、「興福寺建立」等の責任者に指定し、これを成し遂げた経緯が在って、禁令の中でも「仏教」は民の中に浸透して行った経緯を持っている。
伝わった時期とすれば、730年頃の行基か、1180年頃の親鸞かに依る。
この環境の中で、「禁じられた仏説」の「青木氏密教」が民の中に浸透した事は異例なのである。
その意味で、”何かが青木氏との間であった”から伝わったのである。
”「青木氏と親鸞の親交関係」が在ったか”は、資料不足で不明であるが、「古来の和魂荒魂の宗教」と「古来仏教」とを融合させた「青木氏密教」と、後に、「浄土宗密教」をも取り込んだ「青木氏」とは、「法然」は深い関係があった筈である。
前段で論じた平安期に「仏舎や仏画や三昧耶形や毘沙門天像の関係」での事でも親交がない方がおかしいと考える。)

(注釈 宗教論争時に伊勢に移動している経緯がある事から、青木菩提寺で親交している筈である。
「親鸞の布教」にも伊勢にも旅している事からも、仏説に付いての議論もあったのではないかと推測できる。
何れ、「二人の逗留」の証拠は、残念ながら「菩提寺の消失」で資料は見つからない。
しかし、奈良期から平安期まで間に「伊勢の菩提寺」に「高僧の行基」を始として「複数の高僧の逗留」はあった事は判っている。
それは、「青木氏の口伝」でも、「紀州徳川氏の資料」の中からも認められるので、充分に考えられる。
「紀州徳川氏」の資料の中に「青木氏菩提寺建立」に「行基」が関わった事が書かれている。
筆者は、「本尊仏像」を根本的に嫌い、「釈迦如来像」や「大日如来像」や「毘沙門天像」の「本尊仏画」を採用した「親鸞の伝達説」を採っている。上段で論じた様に、この時の仏画は多くは「青木氏の僧侶」が多く書いていた関係から、”伝わり方が平準である事”から伝わったと観ている。
「青木氏」は「布位共生」を旨としての氏であった事から行基にしても親鸞にしても平易に親交があった可能性が観られる。)

「青木氏の密教浄土宗」の中で使われていたこの「四家三様の言葉」が、何らかの事から、この”「訓戒」”が「親鸞」に伝わり、そこで、布教の中で、顕教であるが故に ”「仏説」を判り易く伝える言葉”として用いられたと観ている。
その証拠は、特に「親鸞」は、その特定の階級に布教した「密教であった浄土宗」の「難しい説法」を、「顕教」として「庶民」に判り易い言葉で多くの事を云い換えて伝えている。
この「氏是」も、”「青木氏の「お仏像様」(密教)”が、”「お釈迦様」(顕教)”に変えて伝えられたと観られる。

その前に、既に、「青木氏」では、「密教」の「大日如来のお仏像様」は、”奈良期の賜姓時の賜物”であった事から、その時より”「お仏像様」(鞍作部止利の作)”を祭祀していて、「密教の考え方」を基本とした「平安期の家訓」までの間には、この”「訓戒の言葉」”は既にあった事が判る。
そもそも、「青木氏」で、この”訓戒として使われていた言葉”が、”浄土宗が「密教」から「顕教」に成った時点(鎌倉期初期)”で、「浄土真宗」から庶民に”「仏教の教え」”を判り易く布教する為の一つの「説法手段」に使われて伝わったものと観られる。
「密教浄土宗」が、正式に「顕教浄土宗」となり「密教」を解除したのは、家康に依る「江戸初期の浄土宗督奨令」からである。
しかし、この時も、”上級武士の宗派”として定められた為に、庶民に一般化したのは、矢張り、鎌倉期の「真宗」であると考えられる。
「浄土宗」は、「密教」であった事から、”何かと説法は判りにくい漢文の言葉”で伝えられている。
しかし、他宗、特に「真宗」は、この言葉以外にも、”多くの訓戒”を、庶民に”「仏説」を布教伝道する「云い換えの判り易い言葉」”を多く作り上げていた。
又、”「本尊とする仏像」も持たない戒律”の「浄土真宗」では、当然に、「判り易い言葉」を使ったと観ている。
有名な「真宗の教え」の”唯念仏をただ唱え信じよ。然れば汝は救われる。”は、当に、この”お釈迦様の掌の中で”の ”「換え言葉」”であった。

この事から、従って、「密教の訓戒]であったものが、”「お仏像様(大日如来)」”が、「顕教の訓戒」として ”「釈迦如来」の「お釈迦様」”に変えられて伝わったと筆者は観ている。
”「密教の訓戒」”が、”「顕教の訓戒」”に成った例は、”浄土宗系の宗派”には他にも多いのである。

話を戻して。「四家の嫁」は この”お仏像様の掌で育てよ”以下の通り育てるのである。
従って、「四家方式」の”「嫁」(養女)”は、「自分の子供」と、更に、「夫に成った息子」の「子」を育てる訳であるから、「祖父の親」から観れば、この、”「嫁」(養女)”は、最早、”「嫁」”では無く、「実娘」に相当する”「娘」”としての位置づけが必然的に起こる。
つまり、その「娘」と成った、”「嫁」(養女)”は、”「実娘」の扱い”と成った時点で、”「息子の親」に育てられる”とする考え方を採る事に成る。

この前提には、”「嫁」(養女)”は、「基本的な処置」として、”「女子の曾孫域」以上の縁籍の者”を幼少期より「氏の家」に迎えて”「養女」”として育てる。
この事から、”他氏から来た嫁”、”曾孫域(遠縁)から来た嫁(養女)”の二通り”「嫁」”が生まれる。
しかし、そもそも、”他氏から来た嫁”は、「青木氏」は「純血主義」(同族血縁)を前提とする為に、無理に「養女の形式」を採ら無い限り、原則はあり得ない事に成る。

「四階妻の制」と「四家妻の制度」
従って、「他氏の血」を入れる為に、次ぎの方式を採用した。
それは、「妻の定義(嫁)」に関わる。
この場合は、「一夫多妻の形式」を本来は採用している事に成る。
しかし、”「多妻」”と云っても、「賜姓族の範囲」では、ハーレムを作る程のイメージでは無く、「妾」を置く事の前提と成る。
上記するこのシステムを健全に進め維持する為に、奈良期から平安期に掛けて、「賜姓族」には「三つの発祥源」の「象徴氏」の責務宿命が在った。
「責務宿命」である事から、「象徴氏」を消滅させる事は国策上好ましくないとする政治上の判断理由があった。
そこで、それを護る為に、”絶対的子孫存続の使命”が課せられていた。
その事から、青木氏には、本来、「四階妻」(后、妃、嬪、妾)」の制」として認められていた。

(注釈 現実には、「青木氏」の「系譜添書の資料」から観ると、一人の先祖に対して、子の母の名前が、四人としては出て来ない。確かに「妾子」の記載はあるが、記録からは”四人”は無いので、「賜姓族」としては、現実は、実質は採用されていなかった事が云える。)

この注釈から観て、ではどの様にして、”「子孫」”を生み出していたのかが重大な疑問である。
この事に付いて次ぎに検証する。

・「四家の原則」と[福家方式」
それは、「四家の原則」にあったと観られる。
特に、「藤原秀郷流青木氏」の「特別賜姓族青木氏」は116氏に及んでいる。
従って、系譜から観て「伊勢の特別賜姓族青木氏」を除いては、この「四家の原則」は採用していなかった事が判る。
つまり、「皇族賜姓族青木氏」の場合は、この「四家の原則」を採用していた事に成る。
つまり、「青木氏」は「本家分家方式」を採用せず、上記に述べた様に「福家方式」を採用していた。

(注釈 「嵯峨期の詔勅」で、「皇族の配流孫」であるとして名乗った「青木氏」も在ったが、この氏は全く、「皇族配流孫」としての名跡を利用しての出自であった事から、一般の姓氏の国衆の武士として生き延びた。依って、本論の”「伝統」”と云うものとは違い、「武士の家の伝統」と成っている。 )

この「福家方式」は「四家制度」で構成していた。
そもそも、”「純血性」”を確保するには、”「本家分家方式」”では、事の次第に依っては、無制限に広がる「拡大性」を持っている。
しかし、この「拡大性」には、「純血の度合い」が薄く成ると云う欠点を持っている。
それでも、「吊り合いの取れた血縁」に依っては、”ある程度の純血”を保てれば、「賜姓族」としての対面は保てる。
依って、関東の「特別賜姓族青木氏」は、止む無く”「純血」より「拡大性」”を重視していた事に成る。
その「役務の大きさ」と「24地域」と「116氏」から観て、これを維持するには、「四家方式(20家)」では、論理的(下記)に無理であろう。
この”「特別賜姓族」の考え方の概念”は、歴史的に観て、その「行動の発想基準」は、総じて、次ぎの様であった。

「子孫存続」=「純血性」<「拡大性」
以上の数式に従っていたのであった。

上記の「四階妻の制」を捉えて地道で行けば、確かに、この「拡大性」は担保できる。
これには、「経済性の保障」が前提と成るが、この条件をクリヤー出来得れば、戦乱期の室町期までは”「子孫存続」”の点では合理的である。
”「特別賜姓族青木氏」”の場合は、”宗家の護衛団の役目柄”で各地に子孫を送り、役目を果たさなくては成らなかった為に、”「子孫」”を確保する必要が絶対的にあった。
又、「祖先神 神明社」の建立の補完義務もあった。
従って、この「四階妻の制」を積極的に採用したと観られる。
(その意味では、「特別賜姓族の秀郷流伊勢青木氏」は入間宗家とは異なっていた。)
更には、「特別賜姓族」が「補佐役」としても、その責務(神明社建立)を果たさなくては成らなかった為にも、「子孫確保」は、”無制限”とも云っていい程に必要であった。
又、赴任先の現地に、政治的な戦略からも、”「現地末裔」”を発祥させている事からも、この「116氏」にも及んだ事にも成る。
しかし、ここで、「四階妻の制」には、「高位の氏」として注意しなければならない問題があった。
この為に、この事を認知していた為に、「四階妻の制度」を朝廷は、恣意的にも容認して、”反乱等の疑い”を取り除く為にも公認したのである。
「天皇家」が率先して、この制度を奈良期から敷いていた。
これらの事もあって、「拡大性」を含んだ「四階妻の制」は、「賜姓族」などの”国策実行の「認証氏」”に躊躇なく公認したのである。

ところが、「皇族賜姓族」でのこの”「四家」”では、「特別賜姓族」の様に、「四階妻の制」は敢えて採らなかったのである。
それは、当然の事として、”「子孫存続」=「純血性」>「拡大性]の概念”が在ったからである。
ここが、同じ身分、家柄、官位、官職を持つ「特別賜姓族」との”大きな概念の違い”として出て来る。
但し、”伊勢の「秀郷流青木氏の特別賜姓族」には、どの資料から観ても、この傾向を強く見られない。
この原因は、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」との血縁関係を強く持った所以であると考えられる。
何故ならば、親交血縁を進めば、”「子孫存続」=「純血性」>「拡大性]の概念”に関わって仕舞うからである。
「同地域」に於いて、「同一行動」を採り、深く「親族関係」を保っている立場に於いては、「子孫存続」=「純血性」<「拡大性」の概念は、極めて取り難いからであった。
この”取り難い”の範囲からは、時と場合に依っては”争い”の範囲にも成り得る。
現実には難しい差である。
「地域外」であれば、この「概念の差」は、”調整、仲介”と云う手段も取れるが、「地域内」では無理である。
それを象徴するのが、「伊勢四日市の融合青木氏」である。
「皇族賜姓族の伊勢青木氏」と「特別賜姓族の伊勢青木氏」の”「融合青木氏」”が存在する事である。
「跡目養子」、「婿養子」の何れにも「血縁混合」して「融合」を成し遂げた「青木氏」である。
又、一方で、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」と「特別賜姓族の伊勢青木氏」は、平安期よりの「女系での濃厚な血縁族」が存在するのである。
しかし、この”「融合青木氏」”は、「女系」のみならず「男系」の「血縁族」でもあって、両方の血筋を等しく持ち、尚且つ、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」の”「四家」”の一つに位置づけられているのである。
本論の”「跡目の子の定義」”が両方に働くと云う極めて有利な「氏族」が発祥していたのであった。
この「融合青木氏」と、「伊勢の血縁青木氏」(秀郷流伊勢青木氏)とが、「皇族賜姓青木氏の五家五流」と「入間の武蔵青木氏の宗家」との間での問題で、この「調整仲介の役目」を果たしていたのである。
取り分け、この「融合青木氏」が”「四家」”に位置する事は、この重要な「調整仲介役」の為に発祥させたと考えられる。
そして、「女系での濃厚な血縁族」の「秀郷流伊勢青木氏」(特別賜姓族伊勢青木氏)と共に、「武蔵の入間の秀郷流青木氏」の「宗家との調整」を図ったと観られる。

(「神明社建立の問題」や「同族血縁の仲介」等で数多くの問題があり、この調整仲介して進める大きな役目があった。)

この事で”「概念差の問題」”は解決した。

・「四家」「福家」「家人」
「四家制度」のシステムでは、[福家]の当主は、「子供」(息子域)の領域では、「四つの家」を構築出来る。
これ以上の家は構築出来ない。
仮に「子の嗣子」が、四人以上と成った場合は、「余人」(選抜された四人以外の子)は、”「家人」”と成るが、「新たな家」を興す事は出来ない。
「余人」の「家人」に成った「嗣子」であった「子」は、「家」をお興す事が出来た者の下の四家に配属される。

「嗣子の余人」が「家人」と成った以上は、「他氏」との血縁は自由に可能と成り、ここで「他氏の血」が入る事に成る。
この「嗣子の余人]であった家人と成った「家人の男子(息子)」が、四家に嗣子が不足する場合は、「四家副役の養子」と成り得る。
ここで、初めて四家の中に他氏の血筋が入る事に成る。
ここで云う「他氏」とは、「シンジケート」の事で、「家人の男子(息子)」は「伊勢シンジケートとの連携の血縁」に良く使われた。

この「嗣子の余人」の「家人(家臣に相当)」に成った者は、「家族」を持つ事は出来るが、この一族は永代で「家人の立場」で終わる。
そもそも、「家人」には、この「血縁のある家人」と「血縁の無い家人」(普通の家臣)とに分けられる。
この「血縁のある家人」は、「血縁の無い家人」の「格式下の跡目養子」として入る事が出来る。
この「格式下への養子縁組」は、最早、”「養子」”とは「賜姓族」である為に認めない。
「賜姓族」では、その”「純血性」が低下する”と云う事を前提に、”「賜姓族」より格式下への家柄”に男子が入る場合の縁組は、「賜姓族側」では”養子”としての呼称は採らず、”「家人」に成った”として呼称として扱われる。
つまり、「親族の範囲」から外れ、「他人の範囲」に入る事に成る。
しかし、この「格下の跡目」に入った[血縁の無い家人」の家は、この事に依って次ぎの氏を発祥させる事に成る。

”「絆青木氏」(1 男系)”
として発祥する事に成り得る。

この”「絆青木氏」”には、「五家五流の賜姓族青木氏」から「娘」が嫁いで、血縁氏を発祥させる。
”「絆青木氏」(2 女系)”
以上の2氏が発祥する事に成り得る。

以上の「二流の絆青木氏 A」(「絆青木氏 1」 「絆青木氏 2」)
”「血縁のある筋目」の氏”が在る。

更に、この「絆青木氏」には、”「家臣」に相当する「家人の氏」(侍)”がある。
「武士部」の「絆青木氏」(3)

「青木部の職能集団」(商人含む)「部人」に相当する「家人の氏」(部)がある。
「青木部」の「絆青木氏」(4)

以上の「二流の絆青木氏 B」(「絆青木氏 3」 「絆青木氏 4」)
”(血縁の無い筋目)が氏”が在る。

このAとBの「二つの絆青木氏」の「四流」は、「格下の跡目養子」を認めていない以上は、差別なく格式は同じとして扱われる。
「格下の跡目養子」として入る「4つの絆青木氏」は、「四流」の何れを問わない。

これを「賜姓族側」では、”「格下養子」”と呼称するが、元は「嗣子」であった者が、「格下の家人」と成る事に対する「一族の位置づけ」である。
「四家方式」の組織の運営上は極めて重要ではある。

しかし、ここで「青木氏」の「氏内の子供」と定義される者の意識の中には、ある程度の”自由意識”があって、次ぎの様に成っていた。
つまり、口伝とかでも判るのだが、「福家」がガチガチに命令で決めていた様では無かった模様であった。。

”「侍」として生きたい者(「氏人」)”と、”「家人」「職人]として生きたい者”の「嗣子」があって、多様であって、この何れにも”「特別の傾向」”は無かった模様で在った。
当然に、この「嗣子の意識」から、”「四家」に成る事”を敢えて断る者、「家人」や「職人」に臨んで成る事を好む者、があった模様で、比較的に自由意識が伝統的には認められていた。
恐らくは、好きこそものの上手成れ”の通り、「適材適所」を認めていた。
この事は、家訓にも述べられているので、積極的に認められた制度でもあった事に成る。
家訓にあると云う事は、”本人に才能が有る”からとして強制的に配置すると、本人にその「気概」がないと、”「四家の統制」が取れず良い結果を産まない”とした考え方を採用して居た事に成る。

最終は、”「福家」と「四家」の「最終判断」”で決められて ”「適材適所」”に配置されていた。
上記した「5つ面」「20の顔」があり、上記する「4つの絆青木氏」もあり、配置先としては多種多様があり、問題は無かった模様であった。
そもそも、「伊勢青木氏」の範囲で観ると、特に、”青木氏の遺伝による特質”か、むしろ、積極的に「職人」「商人」に成りたがる傾向を持っていた。
その「青木氏の遺伝傾向」は、「技術関係の者」と「商業関係の者」の特質に分けられる。
現在も伊勢ではこの傾向を持っている。
青木氏始祖を始めとして、奈良期では「軍略氏の血筋の家柄」ではあったが、不思議に政治家は出ていない。

(余談ではあるが、筆者は、兄弟親族の中でも、「技術者系の血筋」を引いているらしい。技術者の「先祖の逸話」が多く遺されている。
「機械」などを良く作り、「鉄砲」などを上手く操る名人が居て、紀州藩に依頼されて家臣に指導した事も伝わっている。現代の機械家電の大メーカーの初代の工場長を請け負った人物もいた。)
これらは口伝逸話でも多く伝えられている。)

「四つの環境」
そもそも、歴史的に次ぎの環境が物語る。

(1) 奈良期から「三つの発祥源」(武家、侍、氏)として位置づけられるも、”「猛猛しい武士の環境」”には無かった事
(2) 平安中期からの「二足の草鞋策」の長い間の「商いの環境」があった事
(3) 奈良期からの「国策氏」としての「青木部の職能集団」を独自に持った「技能の環境」があった事
(4) 奈良期から明治期まで「武家の環境」にはあったが、「戦い」を是としなかった「氏の環境」があった事

以上の「四つの環境」が、1300年程度の間に、「氏内の遺伝的傾向」が生まれていたと考えられる。

因みに、筆者は「技術系」の遺伝であるが、兄弟を含む親族には、「商業系」に分けられるが、「商才」を強く持つ「商業系の者」が一族には実に多いし、長く続けられた”950年続いた「伊勢紙屋長兵衛」”がそれを強く物語っている。
上記の数式論から、「二つの青木氏」には、この傾向が強かった事が判る。
「秀郷流青木氏」は、一族の「護衛団の役目」を担っていたが、各地24地域で殆どと云って良いほどに”「豪商」”が実に多く出ているのもこの事を物語っている。
(青木氏の守護神 神明社」の論文でも論じている)
深く同族血縁関係を持ち、明治35年までその関係を持ち続けた「信濃青木氏」に付いても同じ事が云える。
この事から、「甲斐青木氏」や「摂津青木氏」にも相当の血縁を始めとする親族関係を維持して来た事、当然に、少なくとも「伊勢秀郷流青木氏」との関係は、「融合青木氏」が発祥している事から観ても、”親族以上であった事からも”同じ傾向の伝統”を持ち得ていた事が云えるのである。

ここには、明治期まで続いた”「神明社建立や一族の菩提寺建立」”等の「職能集団の青木部」の「技能の遺伝」も見逃せない。
一族にこの「遺伝的潜在能力」を持ち得ていないと、”950年”は無理であろう。
これは何の保証もないが、「始祖の施基皇子」の「日本書紀」に記載されている活動から観る極めて”高い能力”が基礎と成って”遺伝している”と観られる。
況や、これは、最早、”「伝統」”の一つと成り得ているのである。
これらは、本論で論じている事を総括的に証明している。

・「主役(しゅえき)と副役(ふくえき)」
更に「四家方式」に付いて続ける。
「子の定義」が「孫域」までとしているので、「四家」は、”「家」を興した者”の下に、その子(孫)にも四家までを認める。
従って、「子域の四家」(嫡子四人 主役)と、「孫域の四家」(嫡子四人 副役)が生まれる。
結局は、最大「16の家」が興る。この範囲を超えない。
この「16の家」で、「5つの面」「20の顔」を熟す事に成る。

「福家」の「当主の親」(A)が没するか、病気や老化等の何らかの理由でその能力が低下すると退役すると、「子域の四家」から「四家の合議」によって「福家の当主」(B)を決める。
この時、「孫域の四家(副役)」が、「子域の四家(主役)」に昇格する。
所謂、「世代交代」が積極的に行われる。
「当主の親」(A)であった他の四家の三人は、一族の「子の定義」の域の中から選択されて「跡目継承」が可能に成り次第に主役を退役する。
代々これを繰り返す。

この様に、「福家」が何らかの理由で潰れても、一族は衰退しない事に成る。
このシステムを採用する事で、「拡大性」は制御され、「子孫数」も一定に保たれる。
又、「血縁の度合い」も一定に保たれる。
この「四家方式」では、当時の時代の寿命や医療環境から観て、「子孫数」を無理なく保てる事が出来る方式と成っていた。
「氏」の一族で「孫域」までを「子」として、男の「子域」を最低二人にし、女子を最低二人とし、その嫁ぎ先の子域までを二人とするとして、そこに平均25年経過後の「孫域の子」を加えた子孫数を「16人」と見込めば確保できる事に成る。

・「妻+妾」の前提
男子2 女子2の子
±2の許容範囲
男子15、女子10を出産最低限度
以上を前提にして「系統図」を作れば、次ぎの結果と成る。

最速20年、最遅32年で、平均26年の結果が得られる。

つまり、「福家の当主」と成った時点で、妻子で、25年後(最低20年−最高32年)には、最低でも16人(MAX24)以上の「子の定義」の子孫が生まれる事に成る。
これに「妾子」を同じ条件で加えれば、平均13年後(最低10年−最高16年)には、最低16人以上の「子の定義」の子孫が生まれる事に成り、無理なく確保出来得る。

この数式論は、次ぎの様に成る。

{(男子2±2)×4+(女子2±2)×4}+{(孫2×4)}>16

この「四家方式」で行けば、当時の「子の生存率」を考慮しても、16は、最低で「8の範囲(50%)」で確保できる事に成る。
これに、「養女方式」と「家人方式」から補完される事に成るので、上記の数式論は「8の範囲」は「2の範囲」で確保できる事に成る。
そこで、「±2」の「+2の範囲」で数式論が働けば、「2の範囲」は消えて、100%問題は無い事に成る。

注釈
資料から平均的に「高位の氏の生存率」を考察しても、最悪であった室町期の生存率(30%−35%)から観ても、確実に”安全領域”である。
しかし、「青木氏」は、そもそも”「氏是」”としても、「室町期の戦い」には”激しい戦乱の状況”はしなかった。
記録での”戦い”の全てを観ると、「シンジケートのゲリラ戦(撹乱戦法)」を展開した事が判っている。

この「四家方式」は、この「計算の前提」で敷かれたシステムである事がよく判る。
論理的に、逆説的には、「武家」では成り立たない事に成る。
そして、この「四家方式」が継続して始まったとすれば、最初の10年は削除されて、「15年の軌道」に乗る事に成るので、「妾子」無くしても、「妻の範囲」で、この「四家方式」は成立し続ける事に成る。
しかし、実際は、「継続中での継承」と成るので、「15年の軌道」は、殆ど、「0年の軌道」と成る。つまり、見習い中だった「四家副役の後継者」が代替わりして引き継ぐ事に成るので、「0年の軌道」は保障される。
更には、この安全率として、「四家方式」の継続中は、「妾子」に「子の定義」の範囲を拡げれば、「跡目継承の問題」は完全に霧消する。

(「妾子」を設けるかどうかは、四家のみならず、家人の跡目の問題も考え合わせて、状況に応じて判断する事に成る。)

これで、仮に、「氏是」外の範囲で、室町末期の「戦い」の様な事が起こったとしても、問題は無い事が判る。

要するに、この「四家方式」では、”「子孫存続」=「純血性」>「拡大性]の概念 ”は安定して保たれる事に成る。

逆に、「秀郷流青木氏」や「11流の源氏」では、”「氏是」”が違っていた事も含めて、「四家方式」は無理である事が判る。
「秀郷流青木氏」の存続は、「特別賜姓族」である事から、「源氏」の様に「戦いの氏是」は採らなかったし、「賜姓族」であった事から、上記する「子の定義」も含めて ”「青木氏」と類似する行動を採った事”に所以する。
故に、”「子孫」”を確実に現在までも遺し得たのである。


・「源氏の衰退理由」
では、”何故、全く「皇族系の同族」である「賜姓源氏」が、「滅亡の憂き目」を受けたのか”対比する意味で考察して観る。

(但し、ここでは「賜姓族でない源氏」、「同族でない源氏」もあるので、同族の”「賜姓源氏」”と表記して論じる。)

”「源氏」”と称するものには、そもそも次ぎの三つがある。
(イ)「嵯峨期詔勅」を受けて、「賜姓」を受けないで、「源氏」を名乗った「皇族」
(ロ)「荘園名義貸し」で名乗った、皇族でない地方豪族の「未勘氏の名義源氏族」
(ハ)「荘園制」で「遠縁の女系」と血縁して勝手に「源氏を名乗った地方豪族」

(ニ)正規の賜姓の手続きから外れて、特別に「賜姓の源氏」を強引に受けた「清和源氏」

但し、最も勢力を持ち、滅亡の引き金を引いた”「清和源氏」”も厳密に云えば「賜姓源氏」とは云い難い。

その理由を論じる。
「清和源氏」を名乗った「経基王」は、「清和天皇」の「第六位皇子」では無く、次ぎの陽成天皇の皇子である。この「陽成天皇」は、同族血縁の障害で、性格が破綻していて、皇子順位も低く、正規の「陽成源氏」が賜姓がされていて、既に、その「賜姓資格」が「経基王」には現実に無かった。
そこで、「経基王」は、先代の清和院の第六位皇子の貞純皇子の系列に入って、特別に賜姓を懇願した。この時、既に、清和天皇の正規の皇子の「賜姓源氏」が賜姓されていた。(二流)
祖父の位に当たる「清和院」は賜姓を嫌がった。
そこで、「武蔵介の役人」として終わる事を嫌って、何とか「賜姓の権威」を受けて、この”権威”を持ち伸し上がろうとして”野心”を掻き立てた。
そこで、手柄を立てる事で認めさせる様にして、「将門の乱」と「純友の乱」に対して、2度も讒言で事件を起こし、清和天皇に直訴して事件として取り上げさせて、手柄を作り上げた。
そこで、止む無く清和院は、渋々に「嵯峨期詔勅の意」を述べて、「賜姓」をした。
この時、既に、清和天皇の第六位皇子が賜姓を受けて源氏に成っていた。
しかし、「経基王」が清和天皇の第六位皇子として賜姓を受けて仕舞っていたので、結局、実皇子は、”賜姓の無い源氏”を名乗る事と成った。「清和天皇」の実皇子のこの二人は、結局、「賜姓の無い源氏」を名乗った。この二人には防御の背景が全くなかったことから、この「経基王」の勢力の圧迫を受けて衰退して滅亡する事に成った。

・「清和源氏の内情」
「大化期の詔勅」の「皇位継承の改革」で、「天智天皇」が定めた「賜姓族の規定」に外れた「清和源氏」は、この様な特異な経緯を持っていた。
「賜姓を受けられる定め」としては、次ぎの規定が在った。
a「第六位皇子」である事。
b「当代の天皇の皇子」である事
c「皇子」として「品行方正な人格」を有する事
d「皇子」は嬪までの者とし「妾子」の皇子でない事

「経基王」は、「嵯峨期の詔勅・禁令」に鑑みて、更に、この「四つの定」に適合していなかった為に「清和院の賜姓」を一時、拒まれた。

(「経基王」には、「賜姓の権威」を獲得して、この「権威」で「荘園制度」を利用して、「莫大な財力」を獲得を狙った思惑や野心が在った。暴君の悪名高い「陽成天皇」の皇子では、せいぜい「国司下」の「介の役柄」で終わる事を嫌う思いがあった。)

つまり、「四つの定」に対して、外れた「特別な賜姓」であった。(普通では賜姓は先ず無い。)
この事があって、野心旺盛な「経基王」も、その子の「満仲」も、賜姓後は、河内で色々「争い事」を起こしたり、他国の「土地を奪う」などの「過激な行動」を起こし、更には「民事の問題」を起こしたりして、「嵯峨期の詔勅・禁令」に反して、”「賜姓族」にあるまじき振舞い”として、「天皇の怒り」を受けて蟄居を命じられたりした。

(恐らくは、”「賜姓族の伝統」”を重んじ、”「三つの発祥源」の立場”を護り、”「民の模範」”としている”「皇族賜姓青木氏」”との比較をされたと観られる。同じ「清和源氏」ながらも「皇族賜姓青木氏」と同じ行動を採る「宗家頼光系摂津清和源氏四家」との比較もあったと充分に観られる。)

その後も、全く逆の行動を採った「義家」を始めとする「子孫」(頼宣系河内清和源氏系列)も、矢張り、”強引な行動(私闘)”を起こして、遂には、「源氏の幕府」を樹立したものの「頼朝」のところで、結局は、短期間で裏切られて、利用された「坂東の北条氏等」に依って滅亡に至たらされた。

(この「坂東八平氏」とは、桓武天皇が母方の一族に賜姓して発祥させた「桓武平氏:たいら族 阿多倍一門」である。 天皇家より出る代々の「第七世族」の「臣下族」で、同じ関東に配置された「皇族系第七世族のひら族」とは出自は全く異なる。
この「桓武平氏:伊勢平氏と京平氏の支流族」には、「千葉,上総,三浦,土肥,秩父,大庭,梶原,長尾」の八豪族があり、幕府樹立に貢献した「北条氏」や「熊谷氏」はこの支流族である。
「国衙官僚,荘園開発主,荘園官」として坂東西域の在地を支配した。)

結局は、通説では小説的に構成されて描かれて、”「源氏」が勢力を盛り返し幕府を開いた”の様に観えているが、結局は、百々の詰まりは、同じ同族の「清盛の京平氏の支流族」に、”5年後に奪い返された形”に成っているのである。

(筆者は、「清和源氏」が開いたとは観ていない。何故ならば、この”開幕”で、”他の源氏は潤ってはいない。「源平の決戦の場」では、この「坂東八平氏」は、「合戦」では”軍監として”として動いただけである。
当然の事として、同族として「坂東の支流」が、直接に「本流の一族」に”戦い”を挑む事はしない。「事前承知の戦略」で在った。だから、「5年後」の「平氏政権の蘇り」なのである。
結局、「義経」が全国からかき集めた「源氏の未勘氏族」らの集団と、伊勢、熊野、紀州、摂津の「水軍の合力」と、「大島源氏の水軍」とに依って主に合戦に勝っている。)

・「源氏の流れ」
矢張り、取り分け、上記の様に、「清和源氏」の「人時場の要素」を配慮して「行動パターン」を考え合わせると、「四段階の妻方式」を採りながら、”無制限に子孫を増やす事”が明らかに必要であった事が判る。
「11流11家」も在り1流がこの四段階の妻方式を採ったとすれば、11流ともなれば相当な子孫数に成る筈である。
しかし、源氏全て滅亡に至ったともなれば11流全てがこの方式を採っていなかった事が判る。
調べた範囲では、確実に「6流」は、「嵯峨期の詔勅禁令の趣旨」を確実に護っていた事が判り、やや疑問の状態が「3流]あった。

平安末期から鎌倉期までの状況から考察すると、この5流の中には、次ぎの様な流れで在った。
「農業」をしながら民と共に生活をした「村主」(すぐり)の源氏の流れ(A)
「山伏や神職」などをして「郷氏の生活」をしていた源氏の流れ(B)
「皇族賜姓青木氏」(5流)と関連して生活を営んでいた源氏の流れ(C)
「漁業関連の長役」をしていた源氏の流れ(D)、
「治承・保元の乱」以降の源平の戦いで衰退した源氏の流れ(E)

後の3流は、強弱はあるが、次ぎの様な流れで在った。
(B)の傾向を持った「荘園制」(神社系荘園)に絡む生き方をしていた源氏の流れ(F)

結局は、「11流の源氏」の殆どは、「嵯峨期の詔勅・禁令の趣旨」を護った[賜姓族」で、「清和源氏」の様な過激な動きをしていなかった。
この「清和源氏」の中でも、各地に飛散した源氏は、上記の(E)で、その生活の状況は(B)(D)であった。
これから観ると、”「源平の戦い」”と云っても、”「11流の総合の力」”と云うよりは、「2流の戦力」が中心と成って動いたと事が判る。
その「初期の主戦力」は、「義経」が全国から集めた「荘園制」に伴う「源氏の未勘氏族」と、「義経の説得」に応じた「各地の水軍」(5水軍)と、家臣と成った豪族の「関連氏族」で主に構成されていたのである。
そして、僅かであるが全国に飛散していた源氏(E)が率いて来た「合力の戦力」が加えられた状況であった。義経が頼朝と坂東八平氏に排斥されてからは、この義経が構成した軍団は、坂東八平氏のを警戒して飛散した。
結局、最終決戦時の頼朝が集めた戦力は、日和見的な各地の豪族の烏合集団で在った。

この様にあるインターバルで観ると、源氏には、上記した「青木氏」の様に、細部までも”「氏を纏める為のルール」”を定めて子孫を遺そうとする”「氏間の調整」”が採れていなかった事が判る。
況や、「嵯峨期の詔勅・禁令の趣旨」は、「青木氏」の様に積極的には護られていなかった事に成る。
「清和源氏」の「河内の頼宣系」の末裔が、結局は、「朝廷の調略」に載せられて、”走り過ぎた結果”であって、更には、これを承知で動いた「たいら族」の「桓武平氏」の「関西以西の本流族」と「坂東の支流族」の「タッグでの謀略」でもあった事に成る。
ただ、桓武平氏の「本流族」には大きな計算違いが、3つ興った事に成る。
一つは、「義経の能力」の読み違いで初戦をおとした事
二つは、「支流族の裏切り」とその「戦力の読み違い」が起こった事
三つは、「清盛」を失って「統率」を失った事

この三つの内、後二つは、「伝統」を基盤とする「氏是」から来る「慣習仕来り掟の規則」の有無の如何に依っている事に成る。
源氏も平家も、子孫存続の氏是の弱さにあった事が物語っている。
その根本は「戦い」に対する氏是の違いにあった。
その”「戦い」”は、朝廷が”「社会規律の弊害」を起こす”として嫌う「荘園制」に起因していた事である。

(注釈 一方で、この「荘園制の弊害」と、「源平藤橘の氏の勢力」を削ごうとして、最初に手掛けた「後三条天皇」は、この「荘園制から来る権力基盤」を護ろうとした藤原氏や源氏族の子孫ではなかったのである。それだけ、「命の危険」が極めて迫っていたにも関わらず、1068年に果敢にもこの策謀に取り掛かったのであって、その後、5代の天皇に依って成し遂げられた。
この事で、「経済的基盤の低下」で焦った「清和源氏頼光系一族」は、基盤獲得の為に、益々、「戦い」へと突き進むここと成り、20年後には、「源平の合戦(1185年)」へと突き進んだのである。
この為、「後鳥羽上皇の策謀の院政政治」が始まるが,「朝廷−京平家−坂東平氏−源氏−藤原氏」の何れ五者共に、その「思惑」は外れ、遂には「策謀合戦」が始まったのである。)

この様な、”策謀渦巻く周囲”の真直中にあっても、「二つの賜姓族青木氏」は、「氏是」を前提に一族を固め、この環境に加担しなかったのである。
これは、なかなか難しい事である。
単なる「氏是の信念」だけでは決して成し得ない。現世には、”「流れ」”と云う不可思議なものがあって,この”流れに抗する事”が出来るものは誰一人いない。「神仏」のみである。
況してや、「賜姓族青木氏」には、「悠久の歴史」を持ち、且つ、”「賜姓族」と云う稀なる権威”を持ち続けて来た「氏族」である。
況して、「二足の草鞋策」で”絶大なる経済的な財力”を持っている。

「戦う側」にとっては、この”「賜姓族青木氏の権威」”を獲得する事に依って、これは「戦いの大義」が絶対的に獲得できる。これは”流れを作る最大の要素”でもある。
最早、源氏は(A)から(E)の立場に既に追いやられている中で、「賜姓族」で在っても、その「権威」は明らかに低下している。
だとすると、「賜姓族青木氏の権威」を利用しようとして策謀する筈である。
しかし、「二つの賜姓族青木氏」は、この「策謀」に、加担しなかった。
”「策謀の流れ」”から逃れられたのは何故なのか疑問である。
それは、次ぎの条件にあった。
(a)”「四家と云う小範囲」”
(b)”「純血の濃い血縁範囲」”
(c)”「絆青木氏で家人末端まで組織化」
以上で、成し得た「一族の一致団結」にあったと考えられる。

”小さい組織”にして「意思の疎通」を徹底し、”濃い血縁度”で「離散」を防ぎ、それを”絆”で「結束」させたのである。
”千の石垣も一つの石から”の例えの通り、”一つの離反や裏切り”は、全てを壊す。
「二つの賜姓青木氏の権威」を獲得するには、並大抵の事では無理であり、そこには「策略、謀略、調略」が渦巻いて働いていたのである。
これには、”「一人の軽薄」が全てを壊す”は、この「世の定め」であり、現代も過去の世界も同じである。
これには、上記した様に「青木氏の氏是」(イ)とそれを実行する「システムの充実度」(ロ)に関わる。
筆者は、上記に論じた”「賜姓族」の「シンジケートの存在」”がこの二つ(イとロ)を基盤として支えて大きくこれに関わっていたと観ている。
つまり、”「情報と抑止力」の要素”が上手く働いたのである。

当時、未だ、”「シンジケート」(情報と抑止力)”を維持出来得る程の能力を持っていた「氏」はいなかったし,組織を維持させる為の確固とした確立化した概念も無かった筈である。
何故ならば,鎌倉期までとして、「朝廷が認可した歴史を持つ80氏程度」の氏”には「二足の草鞋策」は「禁じ手」であった事から、この「経済力」を必要とする「影の力」の「シンジケート」は持ち得ない。又、当時としては、”「忍者」程度の様なもの”はあった事が、資料から伺える範囲では確認できない。
奈良期から活躍していた「青木氏のシンジケート」は、「組織的な総合力」を持った「新しい考え方」であった。

注釈
(そもそも、「影の力」の「シンジケート」が,”「伝統」”に関わっていないと考えるのが、普通であるが、[青木氏」に取ってはそうでは無いのだ。”「青木氏の伝統」”は、この”「シンジケート」”に依って支えられたのだ。それは”「青木氏の役目柄」”にあった。
この「役目=賜姓五役」が、なければ、シンジケートは「二足の草鞋策」の為には必要であったが、しかし、”「成熟」はしなかった”と考えられる。
「賜姓五役」と「二足の草鞋策」が進むに連れて、時代と共に進化して、その「役目」も増え、それを構成する「組織体制」も整備された。
それは、先ず、「奈良期」から始まった「青木氏の二足の草鞋策」が、平安初期には大きく発展し、「和紙」に依り「他の賜姓族青木氏」にも広がり、それと共に平安中期には、「特別賜姓族青木氏の補完」もあって、「守護神の神明社建立」もが進むに連れて、これを利用して確固とした「組織体制」が確立して広範囲に広がったのである。「5家5流賜姓族」の「独自のシンジケート」が互いに連携して大きく成ったが、「源平の戦い」で、結局は、衰退した「3つのシンジケート」は「伊勢−信濃シンジケート」に吸収された。
この「影の力」の「伊勢−信濃シンジケート=神明社シンジケート」の存在と「青木氏との関連」は、室町期末期の頃で、「伊賀丸山城の戦い」から、社会的に知られる様に成った。
(第一次丸山城の前線基地の築城は失敗に終わり信雄らは敗退)
これは「信長逆鱗−信雄蟄居(蟄居は二回 信長逆鱗と秀吉不仲)」で「有名な事件」で、公に成った。
その時、秀吉が、世の中に、”「シンジケートの存在」”を信長に強く進言した事は有名で、次ぎの「長嶋攻め」を命じられた秀吉は、この失敗は繰り返さなかった。
この時、この「シンジケートの存在」と「高位の氏族」の関連の事を知った「信長」は、”鉄砲獲得”の為には、”「今宮神社シンジケート 皇族系神職 愛知」”を通さなくては確保できない事をも知り「秀吉−蜂須賀氏の斡旋:今宮シンジケート一員の山族土豪 河並衆」で、ここから入手した経緯の史実がある。

注釈 
(資料から垣間見れるはっきりとした「本格的なシンジケート」は、鎌倉中期頃から「姓族」が出て来た室町期中期頃である。
最初は,「青木氏」が、国策として極秘裏に、「神明社建設」を通じて、奈良期からの「皇族逃避地」を構築する為に、現在の福井との間にこの組織を作り上げた事が最初であると観られる。)
「小さい姓族」が乱世で各地に発祥して、この「姓族」が浮沈を繰り返し、生き延びる為に、青木氏等が作り上げたこの組織の中に入って互いに連携して生き延びた。「姓族」はこれを機に成長を遂げ、遂には、「姓武士集団」を構築したのである。南北朝には大きな「影の力」として働いた。
その例として、有名な「南北朝の楠正成」は、河内千早赤坂村に住んでいて、「10万の軍」に「シンジケートの影の戦力」で挑んだ事は、歴史的に有名で、「ゲリラ作戦」で餓死させる直前までに痛めつけて勝利したのである。
この地域には、「伊勢青木氏のシンジケート」があった事から、この組織に入っていたと観られる。
江戸期初期には、これらの武士は「氏族」からこの「姓族」に取って代わられ、「旗本」「御家人]や「各地の豪族」や「大名」に伸し上がって世の中を席巻してしまった。
その各地に発祥した「姓族」と「青木氏」は繋がっていて、江戸期には情報を獲得していた事が判っている。)

しかし、この様な「青木氏」に比べて、「源氏一族」は、総じて、同じ「宗家の頼光系」の様に、「青木氏」と同じ方式を採用して、子孫を「四家」に定めて身を固めたのでは無かった。

”「賜姓族」で在りながら「万民の範」”とする「賜姓族」で無かった事が、「累代の天皇」の反発を招いた結果である。
「他の源氏」は、この”「戦う源氏の流れ」”に引き込まれて滅亡した。
それだけに、「他の源氏」には、本論の様な「青木氏の様な備え」(伝統 家訓 慣習仕来り掟)が無かったことに所以する。
要するに、歴史上では”「戦う賜姓族」(戦う源氏)”を演じた事に成る。
「青木氏の氏是」にある様に、”世に晒す事無かれ、何れ一利無し、世に憚る事無かれ、何れ一利無し。”の「不戦の賜姓族」(伝統重視)では無かったのである。

”「戦う」”は、”「氏の伝統」”と、それを護ろうとする”「氏のルール」”を壊すが、”「不戦」”は、”「氏の伝統」と「氏のルール」”を維持させる事が出来る。
”「戦う」”は、一時的には「氏の発展」を示すが、その程度では、”「氏の伝統」”は生まれないし、”「子孫」”と云う長い「見方」では、「衰退の道」を進む。
ただ、「青木氏」だけが「不戦」を「氏是」として唱えたとしても、周囲が「不戦」でなければ成り立たない。
「自らの長い努力の積み重ね」があったとしても、「棚の上の牡丹餅、絵に描いた餅」に成る。
そこで、「青木氏」には、「不入不倫の権」が認められていた事も大いにあったが、それを有効的に働かせたのは、「影の力」の「シンジケートの抑止力」にあった。
表に観えない、彼の権威に対して抵抗した「織田信長」でも潰せなかった「影の力」(政治経済軍事の力)である。
この「影の力」=「シンジケート抑止力」を支えたのが、奈良期から殖産を進めて「民の力」と共に生きた「青木氏」で在ったからこそ、成し得た「氏是の戦略」であった。
「源氏の生き方」として選んだ「戦いの発展」は、「人間の最大の目的の子孫存続」としては不要で危険なのである。
その「民と共に生きた組織」には、”「氏の伝統」”と云う”「氏のルール」”が絶対条件として必要であるのだ。
「氏の存続」の為の”「必要不可欠な抑止力」”を構築するのは、先ずは ”「氏の伝統」”である事が云える。

その意味から考えると、つまり、”「氏の命題」の「子孫存続」”と云う事から考えると、その「生き様」は明らかに間違っていた事に成る。
結局は、”「賜姓族」”としての”「氏の伝統」”を護っていた”「摂津の頼光系四家」”も、「四代目の頼政」が「異端行動」を採った事から、「不入不倫の権」が無い「賜姓族」は、引き込まれて「潰れる憂き目」を受けた。
その意味で一族の中に、”「大きな流れ」”を作られては、”飲み込まれる事”に成る。これは「世の習い」として必定である。
一時は、「河内源氏頼信系の頼朝」と共に成功したかの様に観えて、”各地の源氏の同族の勢力争い”を起こさせて、結局は、たった”5年の短期間”で「源氏」は、「四段階の妻方式」で作られた「数多い子孫」をも”「戦い」”で少なくして、遂には、毒殺や暗殺などの策謀で滅亡した。
その”11家の源氏”の最終は、僅かに4氏に成った「末裔」までも、室町期末期に信長に依って、完全抹殺されてしまった。(一部に1氏の「傍系の配流孫の現地末孫」が生き延びている。)

しかし、ここで大きな”「救い」”が一つあった。
この事を戦前に察知し熟知していた「摂津頼光系四家の福家の頼政」は、「以仁王の乱」の直前に、「子孫の一人(京綱)」を「伊勢青木氏の跡目」に入れて最悪を避けるべく策を講じていた。
これは、「同族である青木氏」が、「不入不倫の権」に護られながらも、「賜姓族の氏是」を頑なに護り、それに基づき、且つ、「四家方式」に依って、「源平の戦い」でも、”必ず「子孫」を累代まで遺す”と理解しての配慮の事であった。
故に、”「跡目」”であった為に、「源氏」が「青木氏」の中に流れている事に成る。
「信濃青木氏」にも、”戦い”の直前に、「跡目」か「跡目」に類する形で「青木氏」に入れている。

「信濃青木氏」には「源光国−血縁」と「源実国−跡目」を、滅亡した「土岐青木氏」には、「源光国」の子の「源光信−跡目」を、「甲斐青木氏」には、「源源光−跡目」を跡目等に入れている。
甲斐武田氏系青木氏には、「源源光」の兄の「源時光」が跡目に入っている。

故に、”源氏11家”は、完全な「滅亡の憂き目」を辿ったのであるが、「清和源氏宗家の四家」からだけ、「血筋」としては、「青木氏」の中に遺した事に成る。

取り分け、”滅亡した源氏”そのものは、当然に滅亡する”宿命のシステム”を敷いていた事に成る。



「伝統 13」に続く。



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