青木氏氏 研究室
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  [No.335] Re:写真技術と色の理論−続編
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/09/23(Wed) 10:53:50
Re:写真技術と色の理論−続編 (画像サイズ: 792×504 44kB)

以下は後編の末尾

>以上 ”目で観た自然美を如何にして綺麗に撮るか”をテーマとしてその影響する写真技術を解説してきました。
>最後に私は写真を撮る時は何時も「絵」として捉え、日本画、南画のような景観を思い浮かべ被写体を決めています。このポイントが写真が写真だけでは無く成る接点ではないかと思っているのです。
>「写真技術」と「色理論」が「絵」として変わる点である筈だと考えています。そして、そこに「芸術写真」との接合点が生まれると思うのです。その為には、日本画や南画の誇張の無い自然美溢れる絵を良く見る事も必要です。
>芸術絵画や芸術写真には、否定するものではありませんが、何かそのものの持つ「趣」と云うものが少ない気がするのです。
>写真が芸術写真でなければ、それは「趣」を表現して人にその「軽やかな印象」を与え「懐かしき思い出」を引き出すところに意味があると信じているのです。そして、それを最大限に引き出す技法が「自然の摂理」から来るこの「写真技術と色理論」にあるのだと思うのです。

>そこで、それが意外に多くの問題と云うか技術があるのかを知ってもらったと思います。技術ですので論理的である事は否めません。しかし、何とかより高いところを目指す意思をお持ちであるのなら、何とか繰り返し呼んで頂き少しづつ理解して「経験と訓練」で獲得して頂きたくレポートを致しました。

>折角ですので、この青木サイトには「一時の癒しの場」として写真館を解説していますから是非一度ご覧ください。
>最近ではこの館に訪れる人も多く成りましたので、敢えて「昔取った杵柄」で思い出してその資料を史料とすべく遺す事にしたのです。
>本文は理論を説いていますので難しいとされる方も居られますから、一度に全ての理論を記述するのではなく、何度も同じ論理を繰り返して少しづつ別の要素からの理論を書き足して行く方式を撮りました。従って、散文と成っている事は否めません。
>理論の言葉や用語も平易にして出来るだけ判りやすく配慮したつもりです。
>専門的な立場では多少の語弊はあると思いますが、あくまでも上記の趣旨の範囲での技術として頂きます様にお願いします。
>そうして、この技術を使って撮った写真を写真館に展示して頂ければ幸いです。
>そこで、その方法は次ぎの方法に依ります。




以下は続編です。

さて、問題は「人間の目」が、又は「人間の脳」が、”何故この様な現象を起こすのか”と云う事である。
それは、「人間の目の発生原因」にある。

(本論は筆者の専門学域に合わせて多くの関係する学術研究論文を参考にして論理立てたものである。本論域は未だ解明されていない領域が多く、他説もあるが筆者が論理的に納得出来得る研究論文を用いた。)

そもそも、初期の「ミトコンドリア」には「目と云う機能」は無かった。
「目」が無かったのではない。「目」のとなる機能の「光を取り込む機能」が「ミトコンドリア」には元より無かったのである。
(人間の元の生物体をここでは「ミトコンドリア」で表現する)
何故ならば、「目と云う機能」は、「光」を取り込んで、その「光の差の境界」を認識して「初期的な形」と云う現象を「脳」の中で作り出した事に依る。
従って、この事に成るには,「ミトコンドリア」に、”外から何かの「ある事件」”から偶然に起こった事に成る筈である。[事変 1]
そして、ところが、この「光の差の境界」には、上記に論じた様に、太陽から得られたものである以上は、当然に、”「色の差の変化」に置き換わる事”の何かが起こった事に成る筈である。[事変 2]
その”「色の差の変化」はどの様な範囲であったのか”と云う事も合わせて問題に成る。[事変 3]

何せ元々はミトコンドリアには無かったものである以上は、「目」として見えるまでの機能、「色」として認識して観えるまでの機能等は、全て新たに作り出さねばならない筈であった事に成る。
この「3つの事変」を解明するには可成り難しいテーマである。

そもそも、「他の生命体」とは、「ミトコントリア」から出来た「人間」の場合は、「全体の機能」が違っているところから、取り分け必要なのは、「ミトコンドリア」と云うよりは、「人間の場合」に於いての解明である。
「他の生命体」に付いても完全に解明されているものは現在でも極めて少ない。
「他の生命体」の判る範囲は、「人間の場合の解明」に必要とする範囲で解明されている程度のものであるのでこれを利用する。

現在は、「人間」としてでは無く、「人類」として観て見ると、日本人では、解明されて「7色」と云う事に成るが、果たして、”何故、7色だったのか”と云う事も問題である。
と云うのは、同じ「人類」でも、「7色」として”観えていない民族”も現実には多いからである。
”観えていない”と云う事より、”認識されていない”と云う表現が正しい事であろう。


では、”綺麗な写真を撮る”と云うテーマから、これらの疑問をより平易に解くとする。
当然に「人類」の中でも「日本人」と云う事で考える必要がある。

先ず、この「光」、或は、「色」は、どの様に「人間の脳」に届く事に成ったのかと云う事に成る。
そして、”何を以って「光」、或は、「色」として捉えて「脳」が認識する事に成ったのか”である。
上記した様に、「人類」は、兎も角として、元々は、その生命体の「ミトコンドリア」には無かったのである。
依って、元々無かったものである以上、”何かが外部からの「突然変異」(ある事変)で起こった事”に成る。
考え方によれば”「突然変異」”と云う表現は正しくは無いだろう。

それは下記に説く事で判るが、「ミトコンドリア]の中には、中に全く無かったものが入り込んだのであるから、「変異なるもの」を起こしていない。
”変異に繋がる進化であるのか”と云う事でも当然に無い。
つまりは、”ミトコンドリアが「順応」した”と云う表現が正しいであろう。
先ず、この”順応した”と云う概念を念頭にして解く事に成る。

そもそも、上記した様に、「太陽の振動磁波」が、外気の空気の「物質」に衝突して、その事に依って「燃焼光」が先ず発生する。
そして、遂には、それを「生命体」の「目と云う機能」が捉えて”「形」と「色」”として認識した事に始まる。
つまり、先ず、それには、「生命体」には「太陽の振動磁波」、即ち、「光を取り込む機能」が必要である。
”「目と云う機能」”の成り立ちに対する解明である。

そこで、”何かが入り込んだ”とする以上、「他の生命体」には、”この「機能の基」に成る機能が在った”と云う事に成る。
「空間」から入ったと云う事では無い。
では、この世の「自然物」の中で、この「機能」を持ち得ていた「生命体」がただ一つあった。
それは、「動物」では無く何と”「植物」”である。
ここが重要で、上記した「3つの事変」の機能を「植物」が持っていた事に成る。
「動物」から「動物」では無く、全く生体が異なる「植物」から「動物」にである。

原始の時代には、「植物」以外に「光」を物理的に取り込んで機能させて生きていたものは他には無かった。
この世の唯一のものであった。
況や、「太陽の振動磁波」、即ち、「光」を「取り込む機能」を「光合成」として存在した。
その「光合成の機能」は、周囲から「炭酸ガス」を取り込み、「葉緑素」を作り出し、「酸素」を放出する機能である。
唯一、この「光に関する直接的機能」を持ち得ていたのは「植物」なのである。
当にこれは「植物の原理機能」である。

この「植物の原理機能」が、「探索機能(或は、複眼機能)」を持った生命体」に入った事以外には無い事に成る。

そもそも、然し乍ら、かと言って、直接、”「光」”そのものを「生命体」に取り込む事は不可能である。
何故ならば、上記の通り、「太陽の振動磁波」である以上、「高エネルギーを持った振動波」である。
そして、且つ、「高電位性を持った磁波」でもある。
到底、「有機物」で出来た「ミトコンドリア」の「生命体」とは云え、飽くまで地球上に存在する限り「電位体」である。
この「電位体」に、、「高エネルギーを持った振動波」と、「高電位性を持った磁波」を直接簡単に受け入れる事は破壊に繋がることである。
この「ミトコンドリア」から成る「電位体」と云う観点からも、「光の衝突や燃焼」と「電位による分解」が強力に起こり、到底に耐えうる事は出来ない。
この「光」に依っては「放射性を強く持つ光」もあり得て”「光リスク」”と成る。

これらに耐えられ得る”「何らかの媒体」”があって初めて成し得る事である。
従って、論理的には、そもそも「ミトコンドリア」に入り込む為には、この「光リスク」を”「和らげる媒体」”が絶対に必要である。
その「媒体」が植物の”「葉緑素体」”と云う事に成る。

この「植物」が、この「光リスク」を直接に「取り込むリスク」を「和らげる媒体」として持っていたのである。
何も「ミトコンドリア」が態々「和らげる媒体」を作る必要は無かった。
”無かった”と云うよりは、「ミトコンドリア」では「葉緑素体」を作り得なかった。
そうなれば、「ミトコンドリア」はそれは最早「植物」である。
その「ミトコンドリア」の「生体の有り様」から観ても判る。
この”「光リスク」”は、この”地球上に存在する生命体”に執って、最大の”「生存リスク」”であり、これに耐えうる「媒体」は、又は、「器官」はいまだ生まれていない。
明らかに「ミトコンドリア」が、「自ら生み出した機能」では無い事は証明できる。
そして、況して、C(炭素)とN(窒素)で出来ている「有機体」である以上は、「高エネルギー」や「高電位」や時には「波長」で分解される事の”「光リスク」”が高く、到底,耐えうる機能や器官を生み出す事は論理的に出来ない筈である。

従って、”「光」が入った”と云う簡単な定義では無く、”「光」を取り込む為のリスク”を「和らげる媒体」を既に作り上げていた”「葉緑素体」”が、”間違って「ミトコントリア」の中に入った”とする定義に成る。
”恣意的に取り込んだ”と云うよりは、”思わずに入って仕舞った”の表現が正しい。
”恣意的でない”と云うことは、これ程に「光リスクの緩衝材」と成り得るのであれば、もっと取り込んで「ミトコンドリア」を強くして防御していた筈である。
”何らかの事で思わず入り込ん”で、生き延びて、遂には、機能化や器官化を成し遂げたと云う事に成る。

つまり、この事は「原因性の有無」が議論される事に成る。
唯一つ云える”「第一の原因」”は「水」である。

それは”「光のリスク」”を軽減出来て、「葉緑素体」が何らかの形(下記)で偶然に入り込む為には、「水」は「第一の原因」(絶対条件の原因)と成ったのである。
唯、其れも、”「入り込む」の工程から「光の差による造形」”と云うプロセスの範囲(プロセスA)までである事に成る。

「目の機能」に至るまでの”「全体の工程」「プロセスX」(プロセス全体)”を云えるものでは無い。
むしろ、「水」、或は「水中」が障害と成り得るものがある。
何故ならば、「水中」では「BGRの7色の複数色」と「YMCの光領域」の獲得は論理的に不可能である。
つまり、「目の機能」を確立した一つの条件、即ち、「脳に依る学習能力」の範囲は不可能と成る。

この事から、「プロセスX」は、”二段階”で起こった事に成る。
むしろ、「水中と陸上の変化」の「陸」が”「第二の原因」”とも云える。

然し、「目と云う機能」に至るまでには、未だこれでは「プロセスX」が余りにも足りない。
そもそも、「葉緑素体」は「光を吸収する生命体」であって”「目の機能」を持つ生命体”では無い。
ただ単に「光を取り込む生命体」であった。
「植物の機能」は、「葉緑素体」−「炭酸ガス」−「光合成」−「酸素」−「葉緑素体」の「プロセスA」を繰り返す事で成長を遂げるのみである。

この”「光のリスク」”を「和らげる媒体」を持った「プロセスA」が、単に「ミトコンドリア」に入ったと云う事に過ぎない。
これでは、「目の機能」等と云う「プロセスX」には到底に至らない。
はっきり言えば、”何かが間違えて「ミトコンドリア」に「異物成るもの」が入った事”に成るだけである。

問題は、当然に、そこで「ミトコンドリア側」には、”「異物排除の本能」”を発揮する筈である。
そして、「葉緑素体側」も異体の中で生き延びられる事が出来るのかの大きな疑問もある。

そもそも、「ミトコンドリアの本能」は、現在も人間の体の中で、「独自のミトコンドリア細胞」(真核細胞)成るものを構成して「人間」の「生命体の細胞」(本体細胞)を護る”「異物排除の働き」”をするものである。

そうすると、ここで、次ぎの「二つの疑問」が起こる。
「異物排除」が何故に起こらなかったのか(疑問1)、
「葉緑素体」が何故に死滅しなかったのか(疑問2)
以上の「プロセスA」の前の疑問がある。

この事から解明しなければ「ミトコンドリアの葉緑素体異入説」は成り立たない。

そこで、その前に、先に解決しておかなければならない事に付いて、次ぎの「大きな疑問」が二つ起こる。

先ず、一つ目の疑問(疑問3)は、”何故、この「植物の原理機能」の「光合成の機能」が「植物」から「生物」の「ミトコンドリア」の中に入り込んだのか”と云う事に成る。

次に、二つ目の疑問(疑問4)は、”「葉緑素体」が、何故、「ミトコンドリア」の中で「目」と云う機能に変異したのか”と云う事に成る。

先ず、「一つ目の疑問」(疑問3)」では、”「入り込む」”がなければ、「ミトコンドリア」には、元よりこの「光合成の機能」は無かった。
そこで「目の機能」の根本は「光」である事から,「光」と云うキーワードで考えられる事は、ただ一つしかない。
それは”「水中」”で生きていた「ミトコンドリア」が、何らかの事(「突然変異(ある事件)」)で「細胞」の中に、この「葉緑素体(緑虫)」の一部を”巻き込んで仕舞った”と云う事に成るのである。
この事に依って、普通の「生物を構成する細胞」では無く、「ミトコンドリアの真核細胞」の中で、当然に、この「(緑虫)の葉緑素体」が「光合成」を始めて仕舞った事と成る。
これが「疑問3の答え」に成るしか他にない。

然し、ここで(疑問2)を解決する答えが出て来る。
「葉緑素体」そのものが「ミトコンドリア」の「真核細胞」の中に”「入り込んだ」”のでは無く、”「葉緑素体」の「成長体」の「単細胞の形」の「緑虫」”で入り込んだと考えられる。
そうする事で「葉緑素体」は死滅しない。
何故ならば、「単細胞の緑虫」は、「ミトコンドリアの「真核細胞」と「外形」と[大きさ」と「細胞構成」と「細胞内部」が、何と”酷似している”のである。
「葉緑素体の死滅」(疑問2)は、同類と観て生きる環境条件が類似した事に依って、起こらなかったと云う事に成る。

簡単に云えば、殆ど、「ミトコンドリア真核細胞」=「葉緑素体の緑虫の単細胞」であった事に成る。

当然に、「疑問2」が解決すれば、「ミトコンドリア側」も、「ミトコンドリア真核細胞」=「葉緑素体の緑虫の単細胞」から「疑問1の拒絶反応」は起こらなかった事に成る。
「疑問1」と「疑問2」は、「疑問3の論理」に依って、同時に、この数式論から解決した事に成る。

依って、「プロセスA」は、”「単細胞の形」”と”「緑虫」”で成し得る。

この”「葉緑素体」”のみでは、この「プロセスA」の中のあくまでも「一つの働き」であって、未だ全体の「プロセスA」を起こし得ない。
其れも”継続して”起こし得ない。

下記に詳細を論じる事に成るが、この”継続して”が解決のキーワードである。
”継続して”は、(異物排除の疑問1)をも更に解決し得る。

「異物排除」が仮に起こったとしても、次ぎの条件が成立すれば、解決する。

その「異物排除の速度」と「プロセスA」の「継続の速度」に重要な関係がある事に成る。

「異物排除」=「異物排除の速度」<「プロセスA」の「継続の速度」

と成り得れば、”「異物排除」”は瞬時に終わる事に成る。

何故ならば、「異物排除の速度」は、細胞である限り”限界のある「定速」”である。

ところが、「プロセスA」の「光合成」、又は、「葉緑素体」の「継続の速度」は、「定速」では無く、「Nの2乗」の「相乗速」である。

「限界のある定速」<「Nの2乗」の「相乗速」

以上の数式論では比べものには成らない。

つまり、「ミトコンドリア」の中での「異物排除の行為」は、”無視できる範囲”として、「プロセスA」は、「Nの2乗」の「相乗速」で起こり続ける事に成る。
「異物排除の疑問1」と「葉緑素体の死滅の疑問2」はこれで無理なく解決し得る。

従って、「プロセスA」は、「単細胞の形」と「緑虫」で解決し得る事に成る。

筆者は、もう一つ大きな原因があったと考えている。

「疑問1と疑問2」には、「緑虫」の”「単細胞の形」”が大きく働いていたと観ている。

それは、「ミトコンドリア細胞の形」(真核細胞)と「葉緑素体の緑虫の単細胞の形」(原核細胞)とが極めて酷似している事が原因していると観ている。
つまり、平易に云えば、”細胞の仲間”と「ミトコンドリア」は観た。以上とする説を採る。
つまり、「真核細胞」=「原核細胞」である。

「ミトコンドリア」は、「生体の警察官」で「修理体」である以上は「生体の意志能力」を持っている。
この「ミトコンドリアの意志」は、「細胞の仲間」と観たのである。
上記の「真核細胞」=「原核細胞」等の論理が成立したとしても、「ミトコンドリアの意志」が異なれば成し得ない。


もっと云えば、「ミトコンドリアの生きる環境」と、「緑虫の単細胞の生きる環境」が一致したとも云える。

そもそも、この”「酷似」”は、「細胞の形」のみならず、”「細胞の内部」”までも酷似するのである。
”「細胞内部までも酷似」”が、「ミトコンドリアの意志」を”「細胞仲間」”と観た事に成る。

これは、”「単細胞」”に所以していると観られる。

「ミトコンドリア細胞」は、最近の分類では、「真核細胞(真核生物)」と分類されるが、最近の学問までは、「単細胞」の「原核細胞(原核生物)」としても考えられていた事からも明らかである。
平易に云えば、同類であったと云える。
つまり、「真核細胞」=「原核細胞」と考えられる。

「プロセスA」には、或は、「単細胞の形」と「緑虫」には、生存には周囲に「充分な水分」が必要である事から、合わせてこの条件は「ミトコンドリア」と全く同じである。
つまり、「ミトコンドリア細胞」と「緑虫の単細胞」は「生きる環境条件」が同じ条件であった事に成る。
(「細胞の形」も極めて類似する所以はここにある。)

従って、明らかにこの「二つの論理」から「異物排除」等の「ミトコンドリアの拒絶反応」は、比較的に弱かったと云える。
故に、「緑虫の葉緑素体」は、「ミトコンドリア」の中で定着したと云う事に成る。

これで、(疑問3)は、(疑問2)(疑問1)を解決する。

後は、(疑問4)を解明する事に成る。
この「葉緑素体」が、何故、「ミトコンドリア」の中で”「目」”と云う機能に変異したのか”と云う事に成る。

この解明は、可成り、複雑な「論理的なプロセス」(プロセスX)を踏んでいる事に成る。
この「論理的なプロセス」(プロセスX)を次ぎに解く。

そもそも、「疑問123」を解決し得れば、次ぎは、植物の「葉緑素体」に執っては「異体」である「ミトコンドリア」の中で、”本来無かった機能”の”「光合成」”が起これば、必然的に「葉緑素体」は増え続ける事に成る。
この事が、「ミトコンドリア」の中で、当然に、「ミトコンドリア細胞」(真核細胞)と、それに順じて”「本体細胞」”は、”「生体反応」”に依って必然的に反応して仕舞う事に成る。
最も重要なポイントと成る。

この「ミトコンドリア」は「相乗速」(「Nの2乗」)の「プロセスA」で増え続ける「葉緑素体」に対応して、「二つの細胞類」が増え続けるが、遂には、順応して「異物排除(疑問1)」は無く成り「葉緑素体の量」に比例して対応する事に成って仕舞ったのである。
つまりは、”「ミトコンドリア」の細胞が順応する”と云う「特異な進化」、或は「特異な変異」が起こったのである。
未だ、この段階では「進化」とは云えない。「変異」である。

では、何故、「ミトコンドリア」は、”細胞が順応する”と云う”「特異な変異」を起こしたか”と云う事である。
それは「ミトコンドリアの生体機能の基本的機能」にあった。

この「基本的機能」とは、この「葉緑素体」の反応に順応し増え続けた「ミトコンドリア」の中で「特殊な細胞」が、「生体の機能原理」で異物が混入すると、「生体」を護ろうとして、今度は、「生体細胞の異物排除」から、その「異物」を「本体細胞」が取り囲み、”「ミトコンドリア」の一か所に集中させる”と云う事が起こる。
つまり、「ミトコンドリア」で構成される”「生体の本能動作」”が起こった事と成った。

(現在の人間の体の中でも、この「独自のDNA」を持ち、「独自の細胞核」を持っている「ミトコンドリア」(真核細胞)は、「人間の細胞」に執って「如何なる細胞に対する異物」或は「如何なる細胞に対する過剰物」に対しても、この様な「防御の生体反応」を示している。)

平易に云えば,次の様に成る。
「細胞の情報機能」
「細胞の警察機能」
「細胞の消防機能」
「細胞の再生機能」

以上の様な働きをしている。

「細胞集合体」で出来ている「人間の体内」で「独自の真核細胞」としての立場を持ち、あらゆる方法で「細胞」そのものを護っている。

この4つの「防御の生体反応」に依って「ミトコンドリア」の中では、必然的に”集中させる”と云う事が必然的に起こる。
そうすると分散飛散する事では起こらないが、更に、”集中的”に成った事でより「増え続けた細胞」は、、遂には、その「葉緑素体の光の吸収過程」で、その”「光の差の違い」”を認識する様な機能を、集中し増える事で強く持つ様に成った。

この「光の差の違い」は、論理的には一つの「造形」を生み出すが、この時は、この”「造形」”を認識し得る程の「脳領域」は未だ形成し得ていなかった。
この事から、未だ暫くの期間は、”「造形」”と云えるまでには至ってはいなかったと考えられる。

「人類の脳の拡大」は、幾つかの段階に分類されるが、この「進化A+進化B」の「学習能力」までの「目の機能の獲得」に依って、最大にして飛躍的に関連的な拡大をしたと考えられている。

この「目の機能」が完成するまでには、人類が持つ”元来の「複眼機能」”が未だ働いていた。
この「複眼機能」は「原始脳」と連動していた。
この時の「脳」は現在の「同じ脳」を使っていたかの疑問は、「原始脳」と左の「中紀帯脳」と云う「脳」を使っていたとする論理もある。(下記)

そもそも、”「複眼機能」は「原始脳」の連動”と云う機能がメインであった事から、当初は、”「造形」と云う概念”ではなくて、”物質の存在する「光の方向性」と云う程度の概念”であったと推論されている。

実は、この様な機能で生存している「他の生命体」(下記)も現在ある事から論理づけられている。
「動物学」では、これを「原始機能」と云われるものである。
実は、人間も、現在も、この「原始機能の原始脳」を未だ働かずに脳内の隅に持っている。
恐らくは、従って、この「人間の原始機能の原始脳」を仮に働かせられれば、”「造形方向を指し示す働き」”をすると観られる。

但し、この「人間の原始脳」は、「人間の複眼機能」と連動していたと考えられていて、下記で論じるがその能力は、”「予知能力」”が主体であった事が考えられている。

つまり、”「原始脳」の「造形方向を指し示す働き」”と”「複眼機能」の「予知能力」”が連動していたと観られる。
この「予知能力」は充分ではないが、”「現在の目の機能」に近い働き”をしていたと考えられる。
この段階では、「脳の拡大」は未だ無かった事から、「色の認識」と「完全な造形の認識」は無かったと考えられている。

例えば、”何となく判るある造形(イ)”が、”ある方向に在る事(ロ)”を認識して、それが”何であるか(ハ)”を凡そで”予知して(ニ)”、”「個体の行動」(ホ)を起こしていた”と考える事が出来る。
このイロハから”「蝶の様な反応」”を起こしていたと考えられる。

「原始の環境」の中では、当初は、ある期間、この程度でも充分な環境であったと考えられる。
ところが、「生存の著しい環境変化」で、「目の機能」の確立の「プロセスX」では、それでは生存するには済まなく成った事に成る。
「生存の著しい環境変化」で、「複眼機能の退化」と「原始脳の退化」までの過程が急激に起こったと考えられる。

ところで、この”「光の差の違いの認識能力」(本来能力)”そのものは、「ミトコンドリア」に入った事で起こったのではなく、「植物」の時より「葉緑素体」には、元来より持ち得ていた機能である。
従って、「葉緑素体」に持ち得ていた「光の差の違いの認識能力」に対するもは,「ミトコンドリア」には、”「新しく働く機能」”であった事から、これを認識する”何らかの「脳の造成」”が必要と成った。
この”何等かの「脳の造成」”が、「目の機能の確立(プロセスX)」に大きく繋がった。

この”何らかの「脳の造成」”には、少なくとも論理的には、上記する「本来能力」以外に、”「三つの能力」に相当する「特殊な脳」に成るもの”が必要であった。

この「三つの能力」とは次ぎの能力である。

一つは、「光の差の違い」を受け取る脳 センサーのデータを収集する働き 網膜−「受光能力」

二つは、それを理解する脳       センサーのデータを理解する働き 右脳−「造形能力」

三つは、理解したものを整理する脳 理解した「脳データ」を貯蔵する働き 左脳−「学習能力」 

そもそも「植物の葉」は「光の強さと量」に順応して「光合成」を行っている。
当然に、「ミトコンドリア」に入った「葉緑素体」にも同じ機能を持つ事に成る。

そうすると、それに合わせて、上記した「ミトコンドリア」の機能には次ぎの数式論が働いた筈である。

「細胞の情報機能」(本来能力)+「細胞の警察機能」+「細胞の消防機能」+「細胞の再生機能」=「ミトコンドリア機能」

以上の「数式論の機能」等とで、当然に、これに次ぎに示す能力に「ミトコンドリア」は順応した。

順応能力−「順応した細胞」(「造形能力 イ」 「学習能力 ロ」)も持った。

本来能力−「葉緑素体」と「同じ機能(受光能力 ハ)」を持った。

この「二つの事(イロハ)」に成ったのである。
要するに、上記の”「三つの能力」(イロハ)”である。

この「本来能力」は、兎も角も、上記の「三つの能力」は、ある長い期間を経て、次ぎの変化を遂げた。

「複眼機能の退化」+「原始脳の退化」=「受光能力」+「造形能力」+「学習能力」

「受光能力」→「造形能力」→「学習能力」=「目の機能」

以上の「二つの数式論」の順序でより「高い進化」を遂げた事が考えられている。

その進化過程としては、次ぎの様に進んだと考えられている。

「受光能力」には、「光の方向性」の認識本能へと進んだ。 →「進化A」
「造形能力」には、「生存の為の糧」の認識能力へと進んだ。→「進化B」
「学習能力」には、「進化の拡充」の認識能力へと進んだ。 →「進化A+進化B」

上記の「進化の前提」は、何れも”生命体の「生存」”を前提とした「進化」であった。

その為に、爆発的に「増える細胞」に従って、その「光の差の違い」が”「おぼろげな造形」”として先ず認識する「脳細胞」が生まれた事に成った。

この休みなく相乗的に起こる「光合成」に合わせて増え続ける「脳細胞」は、「光の方向性の認識」(進化A)から発達して、更には、「造形の学習機能」(進化B)を持つ様に成ったのである。

この「造形の能力」は次ぎの「二つの細胞」を拡大させた。
a 「脳細胞(右脳の視葉野)の増加」
b 「光の差の違いを認識する細胞(目の網膜)の増加」

以上の「二つの細胞」(a b)で、「造形を受け取る機能」が専用に生まれたのである。

この「ミトコンドリア」の中で「光合成」を起こす「葉緑素体」と、それに対応し増え続ける「二つの細胞」でより「鮮明な造形」として次第に「右脳」が機能する様に成った。

遂には、その「二つの細胞の増加」に依って、「7つまでの範囲」の「光の差の違い」を認識するまでに至ったのである。
然し、これ以上は増え続ける事は起こらなかった。

何故ならば、元より「太陽の振動磁波」であり、「強力なエネルギー」を持ち、あくまでも「色」までに至るまでには、そこには「光の衝突に依り起こる現象」が発生する事に成る。
従って、必然的に「光を取り込む機能」には(「二つの細胞」には)限界が生まれる。

この「特異な二つの細胞」が増え続ければ、益々、「取り込む範囲」は「7つの範囲」を超えると云う範囲では無かった。
何故ならば、「高エネルギー」を持つ以上は、これを吸収する事に依って過剰と成り、”「有機物」”の「細胞の論理的な破壊」が起こる。

それは、”CとNで構成された「有機物」”に「論理的な破壊の原因」が必然的に起こるのである。
当初は、それを取り込み過ぎる事で「細胞の破壊」が続き、其の内に受け入れられる範囲の「ある限界」が出来上がったのである。
それが、「7色の色範囲」であった。

ところが、不思議な事に「人類、人種、民族」に依っては”「7色の色範囲」”では無かった。

(例えば、「白色の輝く環境」や「極寒の環境」で進化したアングロサクソン系の人は、「原則6色」を主張している。
「日本人」が誰しも認識する「藍色」を彼らは絶対に認識できない。

そこで、「熱帯の民族」では、その「生活環境」と「自然環境」から、「原色3色」に近く、何と、「赤系」から左に「4色の認識」の範囲と云う事もになっている。
それこそ、「YMCの光の領域」の認識は到底に無理である。

この様に人間であるのに、”「画一的で無かった事」”が、「有機物の破壊」が、「初期の色範囲」が決まる頃には既に起こっていた事が証明される。
依って、各地域の「光の強弱や量」によって、それなりの「有機物の破壊」が起こって「4から6色の認識」が起こったのである。

この様に「光の衝突に依り起こる現象」は、「地球の地域差」と「生活環境」で異なったのである。
「赤道域や南北極域」までの「日射量と温度差」は、論理的に「有機物の細胞の破壊差」は異なる。
「目の機能の細胞量」と、それに「順応した脳の細胞量」が異なっている事が云われている。
取り分け、「脳のシナプスの回路の量」が、この「目の機能の領域」で低かった事が云えると観られている。
結局、上記した「環境種」が変わって、遺伝的にこの領域が進化すれば、日本人と同じ様にシナプスは作られると観られている。
唯、要するに、「遺伝」に関わった検証であるので、時間的な経過は求められる。


それは、現在でも、「人間」には、「光のリスク」として、「紫外線」などに依るこの「細胞の破壊現象」は起こっている事でも明らかである。
「太陽光線」(紫外線領域と赤外線領域の光)を直視すれば起こる「光リスク」と同じ事が起こる。
所謂、「細胞の破壊」である。
その「他の光線」は、「人間の細胞」を透過して仕舞い、元来より「受け付ける能力」は「ミトコンドリアの細胞」には無かった事に成る。
結局は、結果として可能な範囲と成ったのは、そもそも「7つの範囲」であり、波長としては400から700ナノの範囲、「光範囲」にして「Y−M−C」、「色」に変換して「B−G−R」の範囲と成った。

(物質は上記の通りであるが、この”有機物の「細胞の破壊」は何故起こるか”に付いては下記で詳細に論じる。)

然し、理論的にはあり得ない筈なのに、不思議な事にこの「光領域」(YMC)を現実には獲得している。
本来は論理的には無理と評価できる範囲である。
これには「特別の現象」が起こった事が云えるのである。

論理的な詳細事項は下記で論じるが、「進化のAとB」の「プロセスX」としては先に述べて置くとして、この「Y−M−C」の「光の波長領域」は、兎も角も、当初より単純に取り込む事は出来なかった。
この事は、「生活環境の変化(水−陸)」に伴う「生存に関する進化」から「ミトコントリア」は、相当に「特別な進化」を遂げた事に成る。
上記の「進化A」と「進化B」は、勿論の事として、「学習能力(「進化A+進化B」に対する左悩の記憶判断)」とは、明らかに同時期では無い事が判る。
つまり、次ぎの様に「学習能力期」が二つに分けられる事が起こったと云える。

 「BGRの色域」(学習1)
 「YMCの領域」(学習2)

以上二つに分けられる。

詳細は下記に論じるが、先ず、「BGRの色域」(学習1)では、「左脳」を拡大させて「学習能力」を持つ事に先ずは進化した。
最早、この「光領域(BGRの色域)」は、「葉緑素体の受け得る域」を遥かに超えた結果と成って進化したと云える。
その証拠には、「左脳」の領域には、耳の直ぐ上の位置に元からあった「脳」と考えられる「中紀帯」と云う部位がある。
その「中紀帯」のそれ以外の「左脳」は、この「情報を処理」の「学習能力 (学習1)+(学習1)」が原因して拡大したものである。
少なくとも「BGRの色域」(学習1)の範囲では先ず起こった。

「ミトコンドリア」の「細胞膜(網膜)」に起こる「光の差の違い」によって起こる「造形情報」は、今度は、「脳細胞の増加」に依って連動した。
取り分け、「左脳」が起こした「学習能力」によって「7色と云う認識情報(BGR)」を、今度は「右脳」の「脳細胞」が「受け取る能力」を新規に拡大して、連動して構築した事に成った。

つまり、この時、この「光と色の増加する脳細胞」の機能を補完するものとして、これを「目から受け取った光」と、それに見合った「色にする相関機能」を、「脳の記憶と云う手段」で構築がなされる事が「左脳」で起こったのである。
直接に”「色」”として入っているものでは無く、「光情報」を「脳」が「色情報」に先ず変換してそれを「色」と云う「感覚意識」として認識していると云う事である。
長い「左脳」の「記憶の学習能力」に連動して、「入って来る光の差」を区別して、色と云う感覚的なものにした。
そうすると今度は「右脳」もこれに合わせた「色の判断能力」(識別判断能力)を作り上げた事に成る。
つまり、これが「左脳の学習能力」なのである。
ところが、この「左と右の悩の働き差」にある「微妙な領域」(錯覚現象)で「違い」が起こったのである。

この「左悩の学習能力」で処理された”「色に変換された情報」”を”「右脳」”の特別に作られた場所の”「視葉野」”に”「視神経」”と云う”「特別の伝達線」”を創って送られている事に成る。

所謂、この「記憶と云う機能」には、その送られて来る「記憶の僅かな差違」に依って、「左脳」には、それまでに無かったより「繊細な学習機能」(補完機能)と云うものを生み出す事が起こった。
この「学習機能」のそれが、「単なる光」を「色と云うものに変換する機能」と成ったその所以である。

この時に、起こった「学習のズレ(補完ずれ)」が「本論の問題1」と成るところである。
平易に云えば、次ぎの様に成る。

「学習能力」が未だ完ぺきでは無い。
「補完」が完ぺきでは無い。
「完璧に補完し得る脳量」を未だ持っていない。
「目から送る情報」が完ぺきでは無い。
「目の機能(網膜)」が完ぺきでは無い。

以上「五つの現象」等で例えられる。

現在の研究では、この「学習のズレ(補完ずれ)」は、「目の原因」か「脳の原因」かは解明されていない。
筆者は、「目の原因」<「脳の原因」の説を採っている。

これを観ると、左脳の「学習能力」を増やし、それに応じて「脳量」が増えれば解決しし得る様に観える。
然し、「目の機能」がこれに順応するかの問題もある。
難しいと考えている。
それは、「光→色→学習の変換」には、「色→学習の過程」は「進化」である事からあり得るだろう。
然し、「光→色の過程」は、「人間」が恣意的に進化的にも変える事は「不可能の領域」である。
「人間」がこれに「耐えうる細胞」を持ち得るかの問題に突き当たる。

「進化」では、これ以上は無理で、「有機物」で成り立つ「人間改造」を成さねば不可能と考えられる。
突き詰めると、論理的には「ロボット」と成るので、不可能であろう。
ロボットでもメモリー容量からも無理と成る。
何故ならば、この世の最大のメモリー容量は、「有機物の細胞」が最大と成っていて、現在、「細胞のメモリーチップ」が研究されている位である。

例えば、本論の「フェリア理論」とは別に、「目の機能」には次ぎの様な問題がある。

簡単に平易に論じるとして、目には、次の様な難解な問題を持っている。
「目」、又は、「左脳」には、次ぎの事が起こっている。

残像1−「時間残像」
残像2−「補完残像」
残像3−「補色残像」
残像4−「運動残像」

以上4つの残像と云う「学習のズレ(補完ずれ)」として、「目から入る情報」には論理的では無い”「残像」”と云う現象が起こる。
その「学習のズレ(補完ずれ)」は次ぎの事を起こす。

「撹乱1」 「入った情報」は、情報と異なる「逆の情報の現象」が約8秒から15秒位の間、直ぐに消えず情報は遺す現象が起こる事。

「撹乱2」 「入った情報」は、既に左脳から右脳まで送られて認識した後の現象で、「色の正逆」の「二つの逆の現象」が重複する事が起こる。

この”「撹乱現象」の「残像」”は、
「時間の差」(残像1)で
「色変換」(残像2)の補完で
「光変換」(残像3)の補色で
「運動の差」(残像4)で

以上が起こる事に成る。

この「撹乱1」と「撹乱2」の「2つの攪乱」は、以上の「4つの変化」(残像1234)の中で起こる事に成る。

以上、結果として、そうすると、合わせて”「8つの現象の攪乱」”が起こる事に成る。

これだけ起これば、”脳は不完全”と云える。

実は、これだけでは無いのである。

この「入って来る光」にも次ぎの種類がある。
次ぎの「5つの現象」にもこの「残像」は起こる事に成る。

透過
吸収
反射
屈折
干渉

この「5つの現象」が上記の「8つの現象の攪乱」に全てに関わる事に成る。
従って、何と、”「40もの撹乱」”が起こる事に成る。

「透過、吸収」の二つは「入光の変化」を起こしていない。
「反射、屈折、干渉」の「入光の変化」は「残像」では複雑な現象を起こしてより「人間の脳」を撹乱させる。

例えば、説明は、「40の撹乱」と云う現象は、”「感覚」”であるので困難であるが、「残像」の周囲には、次ぎの様な事を起こす。

「照輝現象」(現象1)を起こしたり、
「暗雲現象」(現象2)を起こしたり、
「フラシュ現象」(現象3)を起こしたり

以上の三つの現象が起こす。

(他にも専門的には幾つかの現象がある。)

最早、これでは幾ら「脳の学習」があるからと云っても、これでは「学習能力の1と2」では到底に解決できない事は判る。
然し、「学習能力」では解決できないこの「40の撹乱」は「悪いリスク」だけでは無い。

例えば、映画などの人間が作った映像は、1秒間で8コマであれば画面に「パラセーション」を起こすが、24コマでは繋がって観える。
これはこの「残像の時間」を利用したものである。

然し、「自然の状況」の中では、「40の撹乱現象」と成って表れる。

これを人間が作った写真やビデオ等には「40の攪乱」(+現象1+現象2+現象3)と成って表れる。
これでは、人間の脳は、左脳の学習能力が進んだとしても、この範疇では最早、理路整然と解明して修正して補完補足してと云う事は無理であろう事が判る。

そこで、脳以外の処で、人間の知恵で解析して出来る事がある。
それは、この中の”「補色残像」”と”「補完残像」”なのであって、可能で有るのなら、その要領を解き明かそうとするのがが本論の問題であるのだ。

然し、これは”「残像」”と云う範囲の事だけであり、他には、上記した様に、「左脳の学習能力」とは別の次元の問題として、人間には厄介な”「脳の習性」”と云う範囲の事も絡むのである。

「修正1」 「残像40の攪乱」の修正
「修正2」 「脳の習性」の修正
「修正3」 「映像技術」の修正

以上の「修正123」の事で、人間が作った写真やビデオやテレビ等の「機器映像」では、「脳」とは連動していない事から故意的に修正しなければ成らない事が起こるのである。

これでは、「芸術映像」では無い限り、”「綺麗」と云う感覚”や”「写実」と云う目的”を到底に解決し得ない。

その前に、「左右の脳事態」が、「習性」があるので「修正」できるかは疑問である。
答えは、現実に「学習能力」では、「修正」が出来ないのである。

故に、上記の「修正1」と「修正2」は、「脳の領域の修正」ではあるが、既に、「撹乱」でこの領域を超えている。
従って、超えているのであるから、「修正3」が恣意的に働かせる事が必要に成る。

「照輝現象」
「暗雲現象」
「フラッシュ現象」
「ハレーション現象」

以上等の「脳以外の処」で「修正3」を技術的に強引にしなければ成らない事に成る。

これらの「多くの攪乱」は、現在も「脳科学」ではまだその原因は解明されていないのである。

従って、「機器映像」では、この「修正123」を行うノウハウを獲得する必要がある。

そのノウハウを獲得する為に本論では、その「発生原因の基礎理論」を説いている。
然し、此処でも未だ「色領域の事」(BGRの色の範囲)であって、「光の領域の事」(YMC)までの「学習能力の発達」のものでは無い。

「YMCの光の領域の事」に付いては、「有機物」の「細胞の破壊」に至る「論理外の事」である事から、”「自然の成行き」から来る「学習能力」”の範囲では無かった。
無理にでも「左脳の学習能力」(学習B)に依って「色変換]を果たさなくてはなら無く成ったのである。

それは、”何か、生存に関する「特別な事変」”に対応する為に、取り分け「人類」の「ミトコンドリア」は無理と云う説破詰まった形で動いた事に成る。

そもそも、「BGRの色の領域」」(学習A)では、特に大きな「生存の危機」に関わるものでは無かった。
従って、時期的には、、「YMCの光の領域の事」(学習B)は、「ミトコンドリア」の「進化の後期」に当たる事変であった事が判る。
何故ならば、、「BGRの色の領域」のこの時期には,未だ「原始脳と複眼機能」の「連動期,又は、重複期」であった事から、無理にしても「YMCの光の領域の事」は、論理的には必要では無かった筈である。

従って、「BGRの色の領域」」(学習A)の段階では、”「脳の習性の修正」”と云う問題は生まれていなかった事に成る。

例えば、「左脳の学習能力」では、「前に記憶されたもの(R−1)」と、「後で記憶されたもの(R−2)」が全く同じ「記憶」であれば、「単一の記憶現象(R−1=R−2)」で「脳の働き」は(=)で終わる。
然し、(R−1≠R−2)であった場合、その「記憶」の一部の「環境条件の差」に依って「記憶の差違」が多数生まれた事になり、それが何度も繰り返される事で、「同一類系パターン」として認識されるも、その中で「記憶の整理」が行われる。
その「多くの類似性のある記憶」が整理されると、今度は、そこで「差違ある記憶の情報」が「独自の情報]として生まれる。
これが所謂、「学習能力」の「学習機能」と成るのである。

ところが、ここで無理に「光」を「色」に変換する「学習B」を作り上げたとすると、そこには「変換の複雑さ]から「脳の習性」に対応できていない事が起こって仕舞った。
当に、上記の「補色の攪乱」であった。
では、下記にこの”「補色の攪乱」”には主にどう云う事が起こるかと云う事を解く。

「補色の攪乱」
「脳」には、「目に入る全体の情報」を取りまとめて学習して「一つの色合い」を「右脳」に送るが、ところが「中央部」にこの「YMC」に関する「学習B」の「色合いの物」が存在したとすると、これまでを「一つのBGRの色合い」の中に入れて仕舞うと云う「補色の攪乱」を起こすのである。
この結果、「全体の色合い」が「中央部の色合い」に加色して「実際と異なる色合い」のものを表現して認識して仕舞うのである。
「全体部」を主にしていながら、「中央部」を観て判断して仕舞うと云う事は、人間の逃れ得ない「脳の習性」である。

例えば、今度は、全体が「YMCの光の領域」のもので、中央が「BGRの色領域」あるとすると、論理的にどう云う現象を起こすのかと云う当然の疑問がある。

実は、ここには、「ある現象理論」が起こっているのである。

「BGRの色の領域」の「変換感度A」、或は、「補色感度A」
「YMCの光の領域」の「変換感度B」、或は、「補色感度B」

この二つには、ある理論が成立する。

それは次ぎの通りの関係式で成り立つのである。

「変換感度A」、或は、「補色感度A」:「変換感度B」、或は、「補色感度B」=3:1

つまり、どう云う事かと云うと、次ぎの様に成る。
BGR
イ 「B−G」の色範囲に対して「YMC」は、1/3の影響力
ロ 「G−R」の色範囲に対して「YMC」は、1/3の影響力
ハ 「R−B」の色範囲に対して「YMC」は、1/3の影響力

例えば、イとして、BからGに色変化、或は、「混合色」であったとして、その「色の変化」に対して中央部の「YMCの光の領域」は、其れに対して3/1の程度の範囲でしか敏感に応じると云う事に成る。
B−Y G−M R−Cの「補色の関係」があるが、「B−G」だからと補色関係のある「Y−M」に対して変化すると云う事である。
つまりは、”3倍の広い範囲から影響を受ける”と云う事に成る。

”3/1で影響は出る”と云う事で、中央部が「Y」だけであるのなら補色の関係にあった「全体部B」の影響を強く受けて加色される事に成る。
「M」と「C」も同様である。
と云う事は、”中央部が補色関係に無ければ影響を受けない”と云う事に成る。

但し、全体の「BGRの色合い」は、中央部の「YMC」の上に”加色される事”は、大なり小なり「脳の習性」であるから避けられない。
加色されるが、「YMC事態の独自の変化」は、全体に引っ張られて殆ど起こさないと云う事である。

何故ならば、上記は「幅域の影響」から来る「補色による変化」であるが、、「YMC事態の独自の変化」の場合は、「BGR:YMCの比」の「強弱の影響」を受ける。
この「全体の影響」を受けた「加色分」を取り除けば、そのままの「Y」なら「Y」で居続けられる事に成る。
ロとハも同じ働きを起こす。

「色対色」の影響であれば、この様な事は起こらない。
「色対光」である所以である。

さて、そこで、「YMCの光の領域」は「BGRの色の変化」の様に、(1:3)「幅域」を持たない。

「Y−M−Cの変化」には、3つ合わせても「幅域」が3であり、「BGRの9」に比して変化しても狭い為に殆ど影響は起こらない事に成る。

この理屈が「綺麗な映像」を撮ろうとすると、利用すれば良い事に成る筈である。9:3で影響が少ないのだから。

仮に、中央部に「YMCの混合色」が来たとしても、これに対しては全体がBGRのB−Gとすると、YMCのY−Mにしか補色関係が無いから、混合色に対して補色反応を起こして、混合色のYとMに対してその能力の3/1の加色で影響を与える事に成るのである。
「混合色]であるとすると”変わったかな”と云う程度の事に成る。

簡単に云えば、扱いとしては、「YMC」は「単一」として扱える。
中央部付近に、補色であっても「YMC」の何が来ようと「単一」として扱えるのである。

そこで、この論理から、「上記の逆」の現象の事が起こったとすると、どの様に成るかと云う事に成る。

全体に「YMCの光の領域」であったとして、中央部に「BGRの色の領域」が来たとしても、「YMC」には「1/3の関係」にある事から、「中央部の色合い」BGRに対しては殆ど影響を及ぼさず変化しない様に観える。
機器映像からすると、「人間の目」には”観える”と云う事に成るのであろう。
日本人の様な目には、鋭い人では、1が観えている事に成るであろう。
現実には「日本人」には多いのである。
そして、「映像の専門家」であれば、この1が観えて取り除かねば、「専門家の映像」とは言え無い範疇であろう。
「映像マニア」であれば、むしろ、この1を残しておいた方が味わいがあって良いと一般的には評価される。
それは、「映像の使い道」の如何に関わるからである。

要するに、概して感覚的には、「1/3の関係」から「BGR」にはその様な「影響力」が出ないと云う事に成る。

つまり、「中央部のBGR」(3の影響力)に対して、「全体部のYMC」(1の影響力)の「加色現象」は起こさない程度なのである。

現実には、「1の影響」は持っているが変化には出て来ない。
「目」或は「脳」には認識できない程度の事に成る。(一般的に)
これは、「光から色」に無理に変換した「脳の学習能力」から来ているのである。(日本人の範囲)
この原理を表しているトップ記載の「色相関図」では、「BGR」は120度、「YMC]は90度の占有領域を占めている。

つまりは、”「綺麗」”は、上記のこの原理をどの様に使うかである。

当然に、この時にも、この「補色の攪乱」以外にも、「時の残像の攪乱」も起こっている事には成るが。
ここで、面倒な事に、この「時の残像」は、「全体の色合い」の「逆の色合い」で残存する事に成る。
従って、15秒程度は、明らかに「撹乱現象」は起こり続けるのである。

これは、映像を15秒以上に観る事で、「濁りの無い映像」を「左右の脳」が動作して作り出してくれる事に成り解決し得る。
従って、専門家とマニアは、「より正しい映像」を獲得する為に、”映像を暫く眺める動作”をするのだ。
我々も、この、”映像を暫く眺める動作”をすれば、「左右脳が起こす問題」を解決する事になり良い事に成る。

ここで、この事が理解できたとして、「BGRの色領域」に対して、「YMCの光領域」にはもう一つの理論があるのだ。

上記は「補色関係」の「幅域」で論じた。
然し、「BGR」にしても「YMC」にしても、「色」或は「光」にしても”「強弱域」”は持っている。
では、この関係はどの様な理屈で出来ているのかと云う問題を把握しておく必要がある重要な本論のテーマである。

中央部の「YMC」に対して、「幅域」では「補色関係」で「BGRの加色現象」を起こすが、「YMC」のそのものの「変換色」に対して、”何か変化を起こさないのか”と云う問題がある。

実は、この「強弱域」は「人種 民族」によって異なるのである。

「YMCの混合色」は、加色に依る「光域」なので完全な等比であれば「白」である。
「BGRの混合色」は、加色に依る「色域]なので完全な等比であれば「黒」である。
(減色はこの逆に成る)

厄介な事に、然し、「人種 民族」は、この様に論理的には無い。
ある程度の範囲で等比では無い。

そこで、先ず、「日本人」を観て見る。
元々、「YMC」それぞれの強弱のバイアスは殆ど無い。
然し、日本人は次ぎの様に、”「僅かにずらした混合色」”を無意識に作る。
「白」に対して「薄い肌色」を「混合色」として用いる「脳の学習」の「習性」があるのだ。

もっと云えば、「日本人」は、この「極めて薄い肌色を含む白色」を「白」と主張する「悩の習性」がある。
「純白」を学問的には「白」であるのにも関わらず「白」とは云わない。
「映像的」には、この「白色」は「極めて薄い肌色を含む白色」を白と認めるのである。
これは「趣向的」と云えば、事実、「趣向的」なのだが、上記の論理の通り、「学習機能」が発達している事に成る。
つまり、「全体と中央の関係」などの「補色能力と補完能力」が進化している事に成る。
そして、その結果として、「全体的に評価する能力」から「極めて薄い肌色を含む白色」を「白」と評価する事で、上記の問題を出来るだけ起こさない様に進化している事に成る。
「学問的な純白」は「白」と認めながらも、「目の機能」としての「白」は、「極めて薄い肌色を含む白色」を「白」としたのである。
「左右脳」が起こす「40の攪乱の解決」には、基本色の「白」を「極めて薄い肌色を含む白色」で解決しようとしたのである。

要するに、これは確かに「肌色」を含ませる事に依って、「目と脳が起こす上記の問題」を軽減できる。
上記の相関図では、肌色を含ませる事で、右側のBGRの色の相関域に近づき、Edを上側に引き上げるので、1/3から殆どは映像を感覚的には、綺麗の表現に近づけられる事に成る。
その意味で、相当に強い肌色を白とする日本人も地域差で起こっている。
筆者は、これは「進化」である限りは、「目に映る自然環境の差」に依って違っていると観ている。
それは、「雪の差」ではないかと考えられる。
「純白」である筈の「雪」を15秒以上直視していると、「肌色の雪」に観えて来るが、これがパラメータに成っていると観られる。
これは「論理的」である事から、日本人だけの「学習能力の進化」であろう。

この進化は次ぎの論理式でも証明できる。

この時、「YMC」は次ぎの関係にある。
C>M>Y=1.2>1.0>0.8=1
(Y>M>C=1.0>1.0>1.0=白 )

ところが、「BGR」は次ぎの関係にある。
B>G>R=4.2>4.0>3.8=4
(B>G>R=4.0>4.0>4.0=黒)

Cは白を、「より白らしく見せる光領域」で、その反対のYは、「より自然らしく見せる光領域」です。
とすると、MがそのCに近いか、Yに近いかに依って、その映像が「綺麗に目に映るかの変化」を起こす。

「1.0のM」を、Cに近づければ、白の「極めて薄い肌色を含む白色」に成るので、日本人の進化は論理的に一致している。
上記の相関図では、日本人の「極めて薄い肌色を含む白色」は、C−M−Yのバランスでは等比の1.0では無く、MがCよりに存在する事に成る。

「YMC」と「BGR」の上記数式論は共に「人種 民族」によって異なり、中には「YMC」の持ち得ない「人種 民族」もある。

但し、中には、その比は別として、R>G>Bとする人種民族もある。
日本人はどちらかと云うと、G>B>Rの傾向を示す。

これは、”「けばけばしい色合い」を好まない”と云う事であろう。

以上から、概して、YMC:BGR=1:4 の関係である。

上記の「色変換の幅域」では、YMC:BGR=1:3 であった。
この「色変換の強弱域」では、YMC:BGR=1:4 である。

従って、次ぎの様に働く。
「全体部BGR」に対して、「中央部YMC」は、全体部からの「加色現象」は中央部に「習性」として起こり得るが、「色の強弱の影響」は、「幅域」とは逆に影響を強く受ける事に成る。
立えば、全体部が”輝き目立ち”、中央部は”くすみ目立たない”と云う現象を示す事に成る。
例えば、全体部のBに対して、中央部に補色関係にある「Y」を含む物があったとすると、「B」の4に対して「Y」は1である事から、強く影響を受けて、その「Y」はその「色合いの印象」を激しく変える。

茂る夏の山々に囲まれて中央部の「紫陽花」は、”くすんで見える”と云う表現である。
依って、この理論を展開すると、「紫陽花」の様な「YMCの要素」を多く持った花は、バックを森等の「BGの要素体」を背景にしてはならない事に成る。
つまり、秋の紅葉した山々には、この「YMC」を多く含んでいる。
この秋の紅葉の山々を背景に、中央に置いた被写体は影響を受けにくい事から、”綺麗に撮れる”と云う事が起こり易い。

結局、この背景に「YMC」か「BGR」の「存在の如何」を素早く見抜く事にある。

「印象」と云う事からすると、例えば「明るいY」から「暗いY」に変わる「減色反応」が起こったとする印象を与える。
色々な印象の色合いを呈する。
混合も含めて単一のMもCも補色関係の中では同じ現象を示す。


従って、この逆の「全体部YMC(1)」「中央部 BGR(4)」の場合は、「中央部 BGR」は「全体部YMC」の影響を強弱の点でも受けないと云う現象を示す。
つまり、「中央部BGR」は、”輝き目立つ”と云う事が起こる。

”秋の紅葉の山々に中央部の緑は映える”と云う表現である。

つまり、この景色には、このBGR:YMC=1:4の関係が働いている事に成る。
これらは世界標準化された「CCカーブ」には反映されている。

以上の論理で、左脳は学習して記憶しているのである。
それが「目に入った情報」をこの様な論理で処理しているのである。

そこで、人間は、何度もこの撹乱が起こる事でこれを「学習」して、この「15秒の範囲内」で、中央部の加色された「実際と異なる色合い」を修正しようとして、「目の機能」を「中央部」に持って行こうとして脳がすばやく働こうとする。
その結果、「中央部」の「実際の色合い」の「YMC」に補正する「学習C」が働く様にした。
この時、「時の残像」も「逆の色合い」(補色)を示していた事から、「YMCの学習C」と一致する事に成り、「脳」は”「正しさ」”を認識する事に成る。
”逆に起こる「残像」”と云うことを、この「学習」によって既に認識している「脳」は、比較する対照が起こる事で、”「正しさ」”は認識出来た事に成る。

つまり、「時の残像の逆の色合い」とは、元は「全体の色合いのBGR」である事から、この「逆」と云う事は、「YMC」と云う事に成るので、結局は、次ぎの様に成る。

「YMCの学習C」=「時の残像の逆の色合い」

以上の数式が出来上がる事に成る。

「人間の脳」は長い期間を経てこの様に学習したのである。
否、そもそも、「YMCの領域」を認識しない「人種や民族」がある事から、取り分け”「日本人の脳」”が学習したのである。
但し、この「正しさの情報」が無い時は、「脳の習性」では「修正」は起こらない事に成る。

現実には、この「正しさの無い状況」は、「自然界」の条件では頻繁にあり得る。
「BGR」と「YMC」の判定が難しい場合であり、これも学習である限りは起こり得る。
(取り分け、日本人でなくても「YMCの判定」は難しい。)
この場合は、「残像の範囲」で「脳」が働けば良いが、そうで無い場合は、「故意的に修正」をしなければ成らない事に成る。

「環境条件」(温度と湿度等)と「脳の条件」(疲労性)に依っても、常に「残像の範囲8秒から15秒」で出来ない事が常に起こる。
そして、「人種」は、勿論の事、「人の感性力」に依っても著しく異なる。
上記した「透過や吸収」等の「光の有り様」の「5つの現象」に依っても異なるとされている。
結局は、「習性と学習」に大きく関わる事に成る。

殆どの日本人は、これが出来ると云う事は”早い方”と云う事に成る。
「学習」である以上、「無意識の中の認識と行為」であり、写真等を撮る場合は、この条件を整える事が恣意的に必要と成る。
さもなければ、「綺麗」は表現できないことを意味する。

当然に、人間が作った「映像機器」は、「人種や人類や民族」さえ認識し得ない能力であるので、ここまでの能力を持ち得ていない。
従って、「機器映像」とする限り故意的に修正しなければ、”「綺麗」”は表現できない事に成る。
例え、デジタルとしてもである。

(通常の「目の細胞能力」はデジタルの画素数に変換すると、一概には比較できませんが平均すると、「約400万画素から1200万画素数」とも云われている。
細胞の細かい部分を使えば数倍には成るでしょう。
現在は、「映像機器」ではこの5倍は超えている。
但し、「映像機器の画素数」が増える事は、「目の撹乱」から来る「照輝現象」等には本質は変わっていないから関係が無い。
然し、本論の問題は「学習能力」と「脳の習性」に関わる事である以上変わらない。)

恐らくは、現在も未だ未了でありながらも、この上記した難しい現象を学習で獲得している事を考えると、原始には「環境条件の差」が想像も付かない程に学習能力の構築や進化に執って大変に激しいものであったと考えられる。
勿論、「BGRの色範囲」では、「生存の危機の状態 A」が「普通の状態」であったと成る。
依って、「YMCの光の領域の事」の「生存の危機の状態 B」は、「生存の危機の状態 A」を遥かに超えた「天変地変」が、「左脳」に「特別な変化」を与える位に、「生存に関する特別な事変」が長期に起こっていた事に成る。

「YMC」は明らかに、「BGRの学習能力の期間」と異なり、長い進化の後に起こった現象であった事が云える。

結局は、先ずは、この左脳の「学習機能」により「適格な情報量」が増え「鮮明な造形」と、それに伴う「色の造形(色彩)」が連携して構築されるに至ったのである。
ところが、「学習能力の事」だけでは済まなかった。
この時、この「記憶」が飛躍的に相乗的に多く成る事に依って、「右脳」の「光の差の違い」の「光の造形」と、「左脳」での「記憶]で相関し補完する「色の造形」との間には、”「論理的な記憶」”の”「補完ずれ」”が起こる事に成った。(「BGRの色の領域」の補完)

これに「YMCの光の領域」の「学習能力」も加えられて時期がずれて起こる事に成ったと観られる。
恐らくは、「右左の脳」には「パニック状態」に成っていたと考えられる。

「人類」に現在も依然として、この「学習能力の有無と差違」が起こっている現状は、この時の「後遺症」と観られる。
(本論の結論)
そうで無ければ、「ミトコンドリア細胞」に「違いがあった事」に成って仕舞う理屈と成る。
「人類、人種、民族のミトコンドリア機能」としてのそのものは同じである。
異なるのは「学習能力の有無と差違」にある筈である。(そうで無いとする説もある。)
依って、この時の「後遺症」と云う事に成り、当然に「後遺症」とすれば、「人類、人種、民族」に依って異なる事が生まれる理屈と成る。

「左右の脳の細胞」には、「生きる環境」が、「進化AB」に左右する性質はあり得るが、「ミトコンドリア細胞」は人類は無く同じである。
現在でも、「人類、人種、民族」に依って差違のある現象は、「右左の脳」の「パニック状態」が引き起こした「遺伝的な後遺症」である。

これが、「脳の中」で起こるどちらとも捉えにくい「光の領域のYMC」の事に加え「色に変換されたBGR」の「補完関係」と「光の領域のYMC」の「補色関係」で起こる二つの現象(補完ずれ 補色ずれ)なのである。

つまり、先ず、「人類」には、「目で捉えた全体範囲」の像には、「全体」を捉えてその認識状況を全体の細部に宛がうと云う上記した様に厄介な”「脳の習性A」”がある。

要するに、「像の中央部分」が異なる事の如何に関わらず、「全体印象」で認識して仕舞う「像」と「色(BGR)」に関する習性である。
「全体」が「中央」と同じ印象とは必ずしも限らないにも拘らず起こす。

この「像と色」に付いて「実際との補完関係」が採れていない事に成る。
これは「補完関係」である事から、「事実に関する詳細情報」を、全体を観て、そして、更に中央を観る事(習性B)で左脳に送る事では”「融合現象」”を成して修正させられる事には成る。

ところが、ここで面倒にも「学習能力の現象」が「人類、人種、民族」に依って、全体を観て、そして、更に中央を観る事の”「習性B」”をしないと云う事があるのである。
むしろ、”遺伝的に起こさない”が正しい。
この差は、検証の研究論文では「後遺症の強弱」に左右していると観られる。
(日本人はこの「習性B」を遺伝的に無意識に起こす。)

ところが、「補完」は次ぎの習性から成り立っている。
「習性A] 「(全体を観る)BGR」
「習性B」 「(中央を観る)YMC」

「習性C」 「(中央を修正)YMC」習性Aの加色分を外す。
以上を行う事で「補完ずれの修正」は成立する。

これは「習性A」が「BGR」(補完関係)と限定しているし、「習性B」は「YMC」(補色関係)と限定している。
然し、、「YMCの光領域」の「補色関係」には、そもそも、無理に学習した事に依り「完全性」が担保されていないのである。
依って、”恣意的に別の処”で修正しなければ、「事実に関する詳細情報」は得られないのである。

それは、上記で論じて来た通り、「YMCの光領域」の「左脳の学習能力」によって「光領域」のものを無理に、「色領域の関係」に修正して送る情報である以上は、或は、其処には、”「補色」”と云う情報処理で行うものである以上は、無理が伴うのは必然である。

「補色と云う概念」上の事である以上は、決して、「事実に関する詳細情報」の「補完」では出来ない。
”「補色」の「色」を”補う”と云う「脳処理」(習性C)”なのである。
概念の事である以上は「人類、人種、民族」の影響は当然に避けられない。
「習性A」と「習性B」でも無し得ない事であるのに、到底は「習性C」は無し得ない。

(日本人はこの「習性C」を、「学習能力」が発達していて、一般的には遺伝的に無意識に起こすが、如何せん「個人差」が生まれる。)

「光」を無理に[色」に変換する作業に加え、「色」には主観が伴う。
依って「補完」とは成らず「補色」には無理が伴う。
「YMCの光の変換色」を、”どの様に脳で定義するか”と云う難しい問題が伴う。

例えば、「目で捉えた全体範囲(BGR−1)」の「中央付近 A」に、「光の領域の(YMC−1)」の「色合いの持つ物体 a」が来た時に、「記憶の脳」は、「学習機能」で、当然に全体色(BGR−1)の同系として捉えて、より(BGR−1)の「色」に近づけようとして、この(YMC−1)に(BGR−1)が加えられる。
その結果、この(YMC−1)には(BGR−1)が加えられて(YMC−1)でも無い(BGR−1)でも無い「とんでもない色合い」の「a」が出来て仕舞う事に成る。

ところが、次ぎに「人間の瞬時の動作」で、この「中央付近 A」を直視する反応を示す。(習性B)
(「時の残像」で入った情報を認識して、「中央部」が少し違っている事から動作に及ぶと考えられる。習性E)
そうする、全体範囲(BGR−1)の影響を受けない「中央附近 A」の「真の色合い(YMC−1)」が「認識」される。
この二つの「認識」を捉えて「脳の学習機能」は「修正」を掛けて、「全体範囲 B」と「中央附近 A」の二つを融合して正しい「真の色合い」の「画面の認識」(習性D)をする。

然し、上記した様に、これもこの「二つの認識」をした事に依って起こる事であって、「人間の全体の習性は基本的には「全体の認識」で終わる場合が多い。
これも原始の頃からの「生活環境]から来た「遺伝子化した学習能力」に左右される。
日本人はこの「二つの認識の習性ABCDE」を持っている。
恐らくは、春夏秋冬の著しく変化する景色等を観て、この「生活環境」を認識して生存を左右させていた事から来ている。

但し、全体範囲域を、上記の逆の場合の(YMC−1)に置く事では、この現象はBGR:YMC=1:3 or 1:4の関係が働きその変化を判定しにくい。
判定しにくい理由は、下記に記述するが、然し、これは未だ何とかなるが、「光領域」を「色領域」に変換する事には「主観」が伴うが、これは論理的に解決し得ない。
我々日本人は「異常な補色」の配色と捉えても、「人種」に依っては正常、或は、別の色を主張する事にも成る。
これは「左脳の学習能力」を超えている。

「補完」に付いても、人種同一と云う事にも成らず、「全体と中央との捉え方の如何」が左右する。

「左脳」が成し得る学習能力の如何の差
「左脳」が成し得る学習能力の「光領域の色変換」の如何の差
「人類の目」が起こす共通する習性癖

以上の現象を起こす。

この事から、「脳」は、先ずは「全体の傾向」を捉えて「全体評価して仕舞うと云う習性」を持っている事に成る。
逆に云えば、「目」に映る「中央附近」を捉えて「最終評価すると云う習性」を持ち得ている事にも成る。
”[中央→全体」の「→」のこの場合は、「脳の学習能力」はどうなるのか”と云う「疑問5」が起こる。

基本的にスタート点が「YMC」であれば、上記で説明した通り、「1:3或は1:4の論理的関係」を超える事はないので余り変化は示さない。

「全体がYMC」で、「中央がBGR」と云う事も起こるが、この場合は「脳の学習能力」はどうなるのかと云う「疑問6」が起こる。

然し、上記で説明した通り、「論理的関係の1:3、或は、1:4の関係」で余り変化は示さない。
唯、上記の場合は遠近感は無い物としての評価である。

ところが人間には、この「遠近」でも異なる習性があるのだ。

何故、この様な「二つの評価方法」を採る様に成ったかと云うと、これも高い「学習機能」の結果である。
これは「人間」には、「物体」を多種多様な見方をしているからであって、これを学習した事に成る。

それには、例えば次ぎの様な場合がある。

周囲体を「遠くの物」にして観た時の「遠くの中央の物」の色の評価
周囲体を「近くの物」にして観た時の「遠くの中央の物」の色の評価
周囲体を「近くの物」にして観た時の「近くの中央の物」の色の評価
周囲体を「遠くの物」にして観た時の「近くの中央の物」の色の評価
周囲体を「中位の物」にして観た時の「中央の物」の色の評価

原則的には、以上の「5つの場合」に分けられる。(但し、「人の感性」でその原則数は変わる。)

イ 周囲体が「遠くの物」とする場合は、通常は「周囲体の色合い」を「総合的に観る」、又は「漠然的に観る」と云う傾向にある。(習性E)
この為に、「遠くの中央の物」には、上記の「補色関係の現象」は起こる事は起こるが端的には出難い。
”出難い”と云うよりは、”出る”と云う意識が低い限り出ていても、”それはそんなもの”として認識していないのが普通である。
ところが、「近くの中央の物」には、周囲体は、「融合色」の「単一性の色合い」を示しているので、「単一色」として端的に出て目立つ。
これも上記の通りで、それはそんなものとして意識していないのが普通で、この「補色関係」はプロと成れば見抜くであろう。

取り分け、「YMC」はグレーの所(相関図横軸の中央域)までは、「Y」と「M」と「C」の間の縦の”「色間」”が実に狭い事が特徴である。
”「色間」”が狭いと云う事は、「YMCで構成された色合い」に”変化が起こり難い”と云う事で、或は、「色合いの変化」が”目立たない”と云う事にも成る。
”「色間」”が広いと云う事は、どれかが先んじて影響を受けて「色合い」が変わり易いと云う事に成る。

「強弱」がYMC:BGR=1:4であるが、この「色間」に付いては、1をCCカーブでは標準と成っているが、「学習能力」ではYMC:BGR=1:5位である。
従って、厄介な事に「人種や民族」によって、この「色間」は異なる。

例えば、赤(R)等の華やかな色を好む民族では、「学習能力」では、R>G>Bとして記憶されている。
この範囲が「CCカーブ」では1を標準としていても、学習の記憶では、Rを先頭にGでBとしてこの差を5程度の差を持つ様に学習記憶しているのである。
そうすると、目に映るものはRが先に強く印象に残る事に成る。
ことほど左様に、YMCは、「CCカーブ」では、標準の1であっても、「色間」はY>M>Cとして記憶されている。
ところが、1よりやや大きく1.5程度で、「学習記憶」されている事が多いのである。
そうすると、目に映るものとしての影響が先にYが影響を受ける。
「YMC」は、元々、この「色間」が低いので、影響は受け難いが、それでもYが受けると云う事に成る。

「学習能力」では次ぎの様に成る。
(CCカーブに対比して)

色間(縦の記憶)
YMC:BGR=1:5

色幅(横の記憶)
YMC:BGR=1:3

色E(縦横の記憶)
YMC:BGR=1:4

「人種 民族」等に依って異なる為に、均一には云えないが、「色間」では「YMC」は「BGR」に比べて論理的にも1/5程度しかない。

従って、「近くの中央物」にしても「遠くの中央物」にしても、”その影響は無い”とは云えないが少ない事が云える。
ただ、「YMCの関係」のその「色間」が、普通は、上からY>M>Cの順にある事が多い事から、「Y」に影響を受けている事に成る。

取り分け、日本人は、「YMCの混合色」を「薄い肌色(薄いピンク色)」を好む傾向がある事から、「Y」に必要以上に影響を受ける事はある意味では好ましくない。

唯、これは「薄い肌色」のベースに成る「M」と、「中間色のベース」と成る「C」を護らねばならない事からこの様な順序にしている。
「C」に影響を受けると、Cは[ベース自体」であることから、「修正」が「他の色合い」にも影響して仕舞う事が起こるので護っている。
「C」の影響は、質感に対して”「肌色系」のものでは無く成って仕舞う。
従って、「YMCの混合色」、つまり、この「縦の色合い」では”「中間色」”と云うが、この”「中間色」”には、”「単一として端的に目立つ」様”にしているのが、「Y」なのである。

その程度に依っては、「Y」は「薄い黄色系の日本」では、”「自然色」”に成るので、影響は受けても無い様に観えるのである。
”観える”と云うよりは、”そんなものだ”と思い込んでいる傾向が普通であり、「違和感」は余りない。
然し、影響を受けている事は受けているのだ。
それを知った上で撮影する事が必要である事に成る。

全体として、「白」を「極めて薄い肌色を含む白色」としている限り、「Y」の「自然色」には「薄いM」を求める「悩の習性」を持つ事に成る。

「景色」、即ち、「目に映る映像」を、”全体を観て、中央部を観て”、よく観察する事が必要で、これは「撮影の前のプランニング」である。

敢えて、距離感で云えば、「望遠レンズ域(普通レンズ域)」と成る。

ロ 周囲体が「近くの物」とする場合は、人間は、通常は「周囲体の色合い」を「単一的に観る」、又は、「具体的に観る」と云う傾向にある。(習性F)
この為に、次ぎの様に出る。

「遠くの中央の物」には、「可成りの色合い変化」で出る。
「近くの中央の物」には、「完全な色合い変化」で出る。

何れも写真性は極めて悪い。補正を掛けないと観られない程である。

これは、「習性F」が働いている以上は、逃れられない。
この場合は、どの様にして写真を撮るかは「充分な計画」が必要である。
周囲と中央をどの様に配置するかの「計画なし」では、花などの「綺麗な色合い」の真面な写真は撮れないだろう。
画面には大きく占めて来る被写体と成ることから”「目立ち」”から逃れられない。
下記の「CCカーブ」や「YMCの色間」等の知識を良く知らなくてはならない。

色間(縦の記憶)
YMC:BGR=1:5

色幅(横の記憶)
YMC:BGR=1:3

色E(縦横の記憶)
YMC:BGR=1:4

外部の「自然の映像」は、室内で上記の理論で整えたものと違い、好むと好まざるとも全て「脳の学習能力」に左右されるのである。
例えば、写真館は主に「グレー方式」(相関図の中央域を背景)で影響を無くして整えている。
この時の「グレーの程度」は、「コダック18%グレー」と定められている。
日本人には「やや濃いグレー」と観られていて、「仕上がり具合」が必然的に相関図の右側に来るので「BGRの色合い」を強くし、「西洋的な色合い」に出て仕舞うので、嫌われている。
そこで、日本では、主に、「YMC方式」を採用して元から「補色補完の影響」を無くそうとしているのである。
従って、相関図の完全な左域である事から、「日本人好みの柔らかい色合い」の「中間色」が出て来るし、「補色補完の影響」が少ない事から、綺麗さも表現される事に成る。
当然にこの時に、「極めて薄い肌色を含む白色」を求めているので、全体的にやや薄いマゼンタ傾向(M)には成る。

唯、この「YMC方式」で影響を無くして整えている場合は、ポスターなどの撮影である。
観衆の面前に晒すものである以上は、”衆目の批判を避けたい”とする心理が働いている。

テレビ画面では、相当に金を掛けている番組は、兎も角も、殆ど、フェリアーが出ている。
到底、綺麗と云う事は云えない。どちらかと云えば、”けばけばしい”であり、「色」より「人の印象に残る事」を目的としている傾向がある。
日本の「テレビ受像機」では,「高額の機器」は、「恣意的な映像」は別としても、この「CC相関図」をソフト化して修正を掛けてより「綺麗」に見せる様に開発されている。

距離感で云えば、「マクロレンズ域(普通レンズ域)」と成る。


ハ 周囲体が「中位の物」とする場合は、イ、又は、ロの何れかで観える傾向を持つ。(習性G)
傾向としては、「人間の目の視力(1)」に関わることから、何れも「ロの傾向」にある。
距離感で云えば、「普通レンズ域(マクロレンズでの撮影も含む域)」と成る。



もっと判り易く云うと、そもそも、「光の領域のYMC」が「学習機能」で起こらなければ、「補完ずれ」は起こらない理屈に成る。
もっと云うと、「学習機能」が無ければ「補完ずれ」は起こらない。
然し、如何せん左と右の脳の連携にはその様に動かない。必然的に「学習機能」は働く。
そもそも、「ミトコントリア」が、どうのこうの出来る事では無い。
これは「人間のミトコンドリア」だけが持ち得た範囲の「光までの範囲」のものの能力を持ち得て仕舞った事から起こる事なのである。
つまり、「人間のミトコンドリア」は「BGRの範囲」では終わらなかったのである。

これは、”何を意味するか”であるが、恐らくは、当初は、当然に「学習能力」の「低い時期」があった。
そして、先ずは進んだ初期段階はこの範囲であった筈である。
ところが、「陸」に上がる事が起こる事で、「光と色」の「強さと量の範囲」が格段と変化した事で、急激にこの「学習能力」が拡大した。
且つ、「水」を介しての「光」に対してであったが、「陸」では「直射光」をこの「目の機能」が受ける事に成った。
そこで、「光のYMCの領域」までを採り込んで仕舞った。

「学習能力」が完全に持つまでの間、「BGRの範囲」のみならず「光のYMCの領域」が入ってきて、「混乱状態」が「眼と右左の脳」に起こっていた時期があったと考えられる。
つまり、「目と右左の脳」に映し出される「視野」の「中央の色具合」は「自然色と異なる色具合」の現象が起こっていたと考えられる。
そもそも、その前に「白黒説」がある位である。

この証拠として、従って、「陸」に上がった動物の中でも、特に「節足動物」の様に「目の機能」の異なるものが生まれて、「原始の形」を遺したのではないかと考えられている。
取り分け、現在でも「複眼機能」を持つ生物は、「昆虫類」に多いのはこの事を説明している。
(現実に「白黒の色合い」を持った生物もあり多くは「原始生物」に多い。)
つまり、「節足動物」は、この「混乱状態」に対応した可能性があり、その「複眼機能」の働きは生物によってまちまちである。
この「複眼機能」には、普通は「単眼の集合体」を「複眼機能]としているが、その「単眼と複眼」の連携機能は殆ど別々の状況にある。
つまり、「陸」に上がった時の「対応性」が、その生物、取り分け、その「節足動物の生き方」に左右していた事から「複眼機能の違い」が起こっているのである。
千差万別と云って良い程であって、現在でも判ら無いところが多くある。
明らかに「生存に関する事変」が起こっている証拠である。
「人間」も当初は「複眼機能と原始脳」の生物であったし、現在もこの機能の原型を所有している。
ここで、この「節足動物」に関わらず、「人間」も、この”「複眼機能」”を「額の中央」にかなり長い期間持ち得ていた事が判っている。
現在も、この「複眼機能」が人間には存在しているのであり、未開の地の山岳民族にはこの機能を持ち合わせて使っている少数民族もある事が判って居る。
「未開の地」の人間でなくても、「複眼機能の動作」があるかどうかは判って居ないが、「幻覚症状を起こす精神疾患」の中には、この未だ持っているこの「原始脳」が動作している事が検査で判って居る。

この「複眼機能」は、上記の「三つの進化過程」の「進化A」から「進化B」に足るまで間、機能していたと考えられている。
「進化過程」のなかで「繋ぎの機能」(補助機能)であったとも考えられている。
この「複眼機能」の「重複使用の期間の影響」を受けていた事から、「習性A」から「習性F」までの事が脳に遺されてしまったと考えられる。

ところで、この「複眼機能」は、「前頭葉」の後ろで、「左右大脳の中央下」の「脳幹の上」で「原始脳の傍」にある。
「大脳」が発達し、「目の機能」の「学習能力」が発達した事で、その「使用の意味合い」が低下して、「左右の大脳」と「前頭葉」が大きく成った事で内側に追いやられた事が判っている。
現在でも完全に退化したと云う事では無く、「人種」に依っては、未だこの「複眼機能」(原始脳である為に予知能力として働く機能が遺されている)を働かせている。
このある「限定された地域」がある。

つまり、「陸」に上がる事に依って、当初は「直射光の悪影響」を、この「複眼機能」と「原始脳」で補完していたと考えられている。

研究に依って、その機能は「節足動物」の様なものでは無かったと考えられている。
人間としての生き方にあったと観られている。
それは、人間の場合は、「網膜」と「右脳の視葉」と「左の記憶脳」を発達させた「単眼機能」に特化している事から、主に「紫外線の左」と「赤外線の右」の「光のリスク」を「複眼機能」で補っていたと考えられている。

ところが、この「複眼機能」で補完していながら、”何故、面倒な「YMCの領域」を取り込んだのか”ははっきり判っていない。
無意味に取り込んだ事では無い筈である。
この世の生物と植物には、次ぎの様な二つの「進化の目的」があった。

一つは、「生存の防御本能」 敵からより安全に身を護る「進化目的(イ)」
二つは、「生存の食糧調達」 より適格に食糧調達する為の「進化目的(ロ)」

以上の二つに分けられる。

「YMCの領域」を敢えて取り込んでいる以上は、相当な生きる為の「リスク解消の理由」があった筈である。
「YMCの領域」は、「進化目的(イ)」では無い筈である。
「人間の敵」が全てこの「光領域の色合い」を持っていたとするならば「進化目的A」であったかも知れないが、そうでは無かった事は論を待つ値しない。

然し、この時期は、「進化A+進化B」の「学習能力」の後の話に成る。
従って、「進化目的(ロ)」であった事に成る。

実は、現在も、この「進化目的ロ」を遺して「基本機能」として持っている「節足動物」がある。
そして、それを「複眼機能のメイン機能」として持っているのである。
それは、「蝶類」と「蜂類」と「トンボ類」の全てに観られる機能である。

それぞれのものは僅か乍ら異なるが持つ「基本機能」は同じである。
そこで、典型的な類は「蝶類」である。

「蝶類」は、何と、完全に「光領域」の高エネルギの「紫外線域と赤外線域」までを観る事が出来る。

これは、”何故か”と云うと、次ぎの事にあった。
「BGRの色領域」の波長を持つ「花」の「付け根部分」に、実は、「紫外線」と「赤外線」を受け取れる「顎(ガク)」と云う部分がある。

そもそも、「花の構造」も次ぎの3つに分けられる。
1「雄しべ 雌しべ」
2「花弁 胚珠 顎」
3「花托 花柄」
以上から成り立っている。

この2の中の「胚珠 顎」の部分が、「紫外線の吸収」(進化目的ロ)と「赤外線の透過」(進化目的イ)で機能させている。
この「2の部分」に蜜を貯め込める部分がある。

「蝶」は、これを天候や光の強弱や遠近に関わらず、ここを適格に素早く観る事で「花の在処」を発見できる。
そして、その「花」の「糖質の蜜」(生きるに必要とする絶対的必須要素)を獲得できる様に進化しているのである。
これは蜂類もトンボ類もほぼ同じ進化をしている。

唯、「蜂」は「蝶」よりも、「赤外線」は元より「赤のR域の能力」さえも持っていないで、「緑のG域の能力」をより優先して持っている様に進化している。
実は、「蜂」には「赤外線の前後領域」には「大きなリスク」を持っているのである。

この様に、「複眼機能」を持っている「類」に依っても、その「進化目的ロ」の手段は違っている。

そうすると、人間の「YMCの領域」の獲得は、「進化目的ロ」の手段として獲得した事が判る。
つまり、「陸」に上がる事で、「BGRの領域」以上に「YMCの領域」の能力を「進化目的ロ」の為に絶対的に獲得する必要に迫られた事に成る。

どう云う事かと云うと、次ぎの様に成るだろう。
食料として「B(ブルー)野菜系類等」を認識する必要があるが、気候や天候や遠近に左右され難い「光領域側のY(イエロー)」を見通す事が出来得れば安定して「進化目的ロ」は達成される。
更に、「G(グリーン)森林系類等」を認識する必要があるが、同じ環境条件に左右されずに「光領域のM(マゼンタ)」を見通す事が出来得れば、そこには果物等の食糧(進化目的ロ)がより安定して獲得する事が出来得る。
同様に、「BやG」に比べて、その気候や天候や遠近等の環境条件に最も左右され難い「C(シアン)」を見通す事が出来得れば、絶対栄養素の「R(レッド) 花系類等(蜜 糖質類)」を蝶の様に確実に獲得する事が出来る。
更には、その「光領域側」の「C(シアン)」は「毒性」を顕示する「光」でもあり、「進化目的ロ」としては、他の二つに比べてこの見通す能力を持つ事は「絶対的な有利性」を有する事に成る。
より400ナノ附近としての「微細波長」であることからも、「BとG」に比べて比較に成らないほどの有利性が有る。

むしろ、この「C(シアン)」だけでも良いとも考えられる。
何故ならば、この「C(シアン:CN)」は、この世の「全ての物質」の「構成要素(C)(N)」に通じていて、この”「色合い」”を見通す事が強く出来得れば、他の「BやG」も見通す事に結び付くのである。
「生物の構成要素」の炭素(C)と窒素(N)から構成される「シアン:CN」はこの意味を持っている。
現実に、従って、上記した様に、「蝶」は、この「シアン領域」を通り越して「赤外線」を見通す事が出来るのはここから来ている。

この「二つの要素(炭素と窒素)」を見通す事が出来得れば、「生きる糧」を獲得できる事を保障されている事に成る所以である。
「蝶」は「進化目的ロ」で、究極の、何と”「赤外線」”までを「透視する能力」を「複眼機能」を使って獲得する進化を遂げたのである。
「進化目的ロ」の「典型的見本」とされているのである。

簡単に例を挙げると、銀杏の葉の黄葉(Y)は虫は食べない。
何故なのかである。観て判ると云う事である。
つまり、この(Y)のベースには(C)を強く有しているからで、虫はこれを透視しているのである。
未だある。「紫陽花の7月頃の葉」は虫は元より動物は愚か人間も「食せず」と云い伝えられている。
現実に人間も強力な腹痛を起こし危険な状態に至る。
大昔は、紫陽花の葉や銀杏の葉は、細菌が着かない事から食器として用いられたものであるし、神仏に捧げる食器としても用いられていました。

これは、「7月の葉」の真緑葉(G)のベースにはこの(C)を強く有している事から、虫はこれを透視しているからである。
最後の事例として、「キンポウ草」の(Y)の花は、毒性が強く虫は花のみならず葉も食さない。
これも同様に(Y)のベースには(C)を強く有している事に依る。
虫は複眼などの器官を発達させてこれを透視している事に成る。

これらの葉や花を写真にして、この(Y)や(G)の写真から(Cシアン)を抜いて行くと如何に「Cシアン」に左右されているかは良く判る。

須らく、論じている「写真性」に於いても、この「Cシアンの有り様」を確認する事で全ての「写真性の綺麗」と云う概念を見抜く事が出来るのです。
且つ、被写体にこれを構成出来得れば、「綺麗」と云う事の賛同は確実に得られる。

如何に被写体から”「Cシアンの有り様」”を見抜くか、或は、構成するかにかかっていると云っても過言では無い。
その様に、人間であれば、「記憶の領域」の「学習能力」にはインプットされてしまっている事に成る。
これは何人も逃れる事の出来ない「無意識領域のシアン概念」である。

但し、然し、この(YMCの領域)の「認識能力」や「透視能力」は極めて退化しているし、「芸術性」とは異なる事は云うまでもない。
逆に云えば、「芸術性」の被写体を作るとすれば、「シアン概念」をコントロールする事に成る。
況や、これは「進化A+進化B」の「学習能力」が如何に低下したかを意味する。
「学習能力の低下」は、無意識中の事である事から、所謂、退化である。
「進化目的ロの状況変化」で起こる「左脳の使わない情報」は「退化」へと進む所以である。

次ぎに、事程左様に、人間の”「複眼機能」”と”「YMCの領域(左脳の学習能力)」”の問題である。
この「二つの同じような機能」が存在する事は、重複期は別としても、完成期には「進化」からあり得ない。
そうすると、「左脳の学習能力」の”「退化と進化」”が人間に起こっていた事が判る。

「人間」に執っては、この”「退化と進化」”が起こったと云う事は、”「進化目的ロ」に何かが起こった事”を意味している事に成る。
では、それを解明するには、「陸に上がった時期」が、”何時頃であったのか”を読み取る必要がある。
ところが、この定説はない。「陸」に上ってからの何時頃に、この「YMCの領域]の「認識能力」を取得したのかも判らない。
然し、凡その事は判る。

先ず、上記した様に、「人間」には「蝶」と同じ様に「複眼機能」があった事は判っている。
「蝶]と同じ機能で働いていたかは別であるが、あった事、否、ある事は事実である。
元より「YMCの領域」を認識できるのであれば、そもそも論理的には「複眼機能」は不要である。
「複眼機能」が先で、「YMCの領域」が後であった事は「複眼機能」が退化している事実から確実である。

そうすると、”「YMCの領域」に進化し、「複眼機能」が退化した時期は何時か”と云う事に成る。
それまで、「進化目的ロ」の為に、「複眼機能」を作り上げて使っていた。
ところが、これは「退化」と云う意味から、論理的には、その「複眼機能」が「進化目的ロ」の為には徐々に役に立たなく成った事を意味する。

では、”何故、役立たなくなったのか”と云う事に成る。
それまでは、この「複眼機能」を使って「進化目的ロ」で「糧」を得ていた。
然し、この「糧」がこの「複眼機能」で得られにくく成った事に成る。

それは何故かである。
これは、上記した「進化目的」のもう一つの”「進化目的イ」”に”「何等かの変化」”を起こした事を意味する。
この”「何等かの変化」とは何か”である。

上陸後、次ぎの様な事が起こったと考えられる。
先ずは、「同じ様な種類の糧」を獲得する能力の持った「生命体」が多く出て来た事を意味する。
或は、「同じ様な種類の糧」が「気候変動等の要因」で獲得が難しく成った事も意味する。
或は、「同じ様な種類の糧」に「何らかの異常」が起こった事も意味する。

恐らくは、この原因が単一では無かった事が判る。

何故ならば、次ぎの理由が挙げられる。

「光の領域」の「YMCの領域」と云う「特殊な領域」に進化させた事。
「特殊な領域」と云う事から、単一では無く「相当な事」が起こっていた事を意味する事。
「通常の右脳」だけでは無く、「左脳」をも連動させ動作させてた事。
「連動と動作」だけでは無く、「記憶データ」を貯め、且つ、「学習機能」を作り上げた事。

これ等の事から、全ての事(「相当な事」)が起こったと考えられる。

では、”何故、「特殊な領域」に進化させたのか”と云う根拠、或は、理由である。
それは、「確実な根拠」が自然界に原理として存在した。
そもそも、人間にとって生命を維持するに「絶対的な要素」として必要なのは「糖質」である。

「進化目的イ」と「進化目的ロ」を獲得するには、「右脳」と「左脳」をより働かせる事に成ることから「必要糖質量」は大きく成る。
そうすると、この「右左脳を働かせるエネルギー源」が必要と成る。
生体的に左右に関わらず「脳」を働かせるには、「糖質」が必要である。
もっと云えば、この「糖質」を構成するNa(ナトリュウム)が必要と成る。
この「Naイオン(ナトリュウム)」は、「人間の脳」を動かす「神経細胞の中継点(シナプス)」にこの「Naイオン」を瞬時に飛散させて、その「Naイオン」を媒介して「電子信号」を送る仕組みに成っている。

そもそも、「脳」は「地球の電荷力」に依って、「人の頭部」の先端にある「脳幹」に「身長」に相当する「電位」を持たせ、それを「電極」にして、その電極から発する電子信号に依って「神経細胞」を刺激して「脳」を働かせる仕組みに成っている。

従って、この「Naイオン」が無ければ脳は動かない。
「脳」がより動くと云う事は、「糖質」(肉などの脂肪から分解される糖質 ケトン脂肪は適切)が、つまり、「Naイオン」が必要と成るのである。

「右脳のYMCの領域の認識」と「左脳の学習機能の蓄積」を起こすには、「絶対的」により「生体」を維持する事のみならず、「Naイオン」をより多く要求される事に成る。

他の動物よりも著しい「脳の拡大」を起こした人間にとっては、比較に成らないほどの「糖質」を要求される事に成る。
故に、「Naイオン」を絶対的に獲得しなければならない。
これには、直接に糖質と成っている「蜜の在処」を、他の動物などの生体以上に、どんな環境下に於いてもより速くより確実により多く「見抜く力(透視力)」を要求される事に成る。

「肉質」などの分解から得られる「脂肪分 ケトン体」を分解して糖質に変えて「Naイオン」を獲得する事では「脳の糖質」は獲得できるが、これには時間が掛かる。
「ケトン体の糖質獲得」は、「脳の働き」は遅れて「学習能力」の様な「素早い脳の働き」を賄う事は出来ない。
又は、ミネラルから「Naイオン」を獲得する方法もあるがこれも同様の理屈が働く。
この「肉質の脂肪」と「ミネラル」からの「Naイオン」の獲得は、「進化目的イ」に直接左右する事でも「獲得のリスク」は大き過ぎる。
且つ、「脳」に必要としている「速度と量」には、「進化目的イ」と「進化目的ロ」の「リスク環境」は「原始と現在」と違い「適応力」と云う点ては無理であった。

従って、この「蜜の在処」には、「進化目的ロ」は「絶対的な条件」であった。
ところが”「YMCの領域」”でなくては成せ得ない理由の絶対的条件がまたもや存在した。

それは、殆ど「蜜の在処」と成る「花の付け根」に「紫外線域を吸収させる部分」が在る。
これを適格にどんな場合でも確認でき得れば確実に「蜜」に在り付ける。
この「花の付け根部分」は、「紫外線」を「吸収させる事」では、「赤外線」も当然に「透過させる事」に成る。
結果として、その「付け根部位の色合い」は、必然的に「YMCの色合い」を呈する論理に成る。
この「部位のYMCの色合い」を逸早く確認出来れば、「他の生体」より先んじて「蜜」に在り付ける事に成る。
他の生体は、この能力を持ち得ていなければ、絶対的に有利である。
他の生体のみならず、動物、哺乳動物にも観られない機能であるのだ。
「YMC」は「人類」だけに観られる機能である。

この「糧」を得る為に態々、「危険な地域」に出て「命」を落とす危険性も低下する事に成る。
「進化目的イ」の解決にも成る。
恐らくは当初はこの目的にあったと観られる。
何故ならば、この能力を獲得出来る事で、「花の付け根部位の発見」と「蜜の在処」のみならず、「果実の在処」も合わせて発見出来る。
その「果実」に集まる小動物も狩猟する事が出来る等の「生きるに必要とする糧」をも獲得できる事に成る。
「進化目的イ」「進化目的ロ」の何れに執っても有利である。

何故、では,この「花の付け根の部位」に「赤外線」と「紫外線」の吸収し得る部分が在るのかと云う事に成る。
それは、何れの生体に執っても例外なくその「振動磁波のエネルギー」から受ける「紫外線のリスク」を持っているからである。
無制限に受ける「紫外線」は、「花などの生体」を破壊させる事にも成り、「花弁を持つ植物」などの防御反応に働いていた。
「赤外線」は、生体に必ずしも悪い事では無く、良い事もあるが、波長が短い事から受け過ぎると「熱」を必要以上に貯め込む事に成り得る。
従って、ある程度に透過させる様に働くが、これは「現在の環境」に於いて論じられる事であって、原始では、水中から陸に上がった事で、”「熱リスク」”を強く生体は持っていたと考えられる。
それは、空気中の「酸素量と粉塵量」に大きく影響していた事が判っている。
「酸素量」は多く、「粉塵量」は極めて少ない環境であった。

「酸素量」は、森林に入ると”冷たくヒンヤリする”のは、科学的に植物が出す酸素が酸化反応に依って熱を奪う事から「空気を冷やす能力」を強く持っている。
ところが「粉塵量」が低いと云う事は、振動磁波が小さいことから「赤外線」は透過して来る。
従って、この「赤外線」は、この多い「酸素量」に衝突してより高い熱を発するし、粉塵も少なければ衝突する事で消滅せずに透過してくることから「生体」に当たるとより高い熱を発する。

現在と異なり、水中と陸上との違いもあり、「熱」に対する感度はより敏感でもあり、「冷却性」のある森林の無いところでは、「糧の獲得」の為に「長期間の滞在」は「進化目的イ」も含めて不可能に近い状況であった事が云える。
これは「生体の生存環境」にも大きく影響していたのである。
その為には、多くの「陸上の生体」は「赤外線」を受けると透過させる様に働いていた。
その証拠がある。

「蝶類]は「赤外線」をむしろ利用して受け入れ、逆に「蜂類」は、この「赤外線」のみならず「赤領域」までも排除しているのである。
これは、「蜂の糧」の「蜜」に起因している。
「蜂類」は「蜜」と云う「限定した糧」であった事からより、この唯一の「糧の蜜」を獲得するには、この「赤外線に依る熱(リスク)」を嫌った事にある。
「蜂類の生態」はこの「熱」を最も嫌うのはこの事から来ている。
その「蜂類の生きられる熱の限界」は45度である。

「糖質」は、生体の中で直ぐに熱に代わるが、これを唯一の糧とする以上は、「他からの熱」、即ち「赤外線の熱」を必然的に排除しなければ「体温」は上昇し維持し得ない。
「蜂の巣箱」を観れば、羽で巣箱の中を冷やしている事からも一目瞭然であり、飛来中の羽の羽搏きにて「熱(赤外線に依る輻射熱)]を必要以上に持たない様にしている。

ところが「蝶類」は、逆に「赤外線」も観えているのは、特段に巣を持たない事と、その「羽」とその「羽の銀紛」にある。
「赤外線」を直接体に当たらない様に反射させてリスクを防いでいるのである。
「赤外線」を認識できる事から来る「糧の獲得」のメリットが大きくリスクは低く成る。

この「蜂蝶類]に付いては、兎も角も、「人類」はこのリスクの大きく成る領域を避けて、「YMCの領域の範囲」で留めた事に成る。
逆説的に論じるとすれば、もし、「紫外線」や「赤外線」までも「進化目的イ」+「進化目的ロ」の為に必要とした場合は、蜂類や蝶類の様な機能を持たなくてはなら無く成っていた事を物語る。

当然に、「複眼機能」も未だ退化させずに額中央に持ち得ていた事も充分に云える。
従って、「人類の形」ももっと変わっていて、場合に依っては「生存の環境条件の地域さ」で、「人種」でも違っていた事が考えられる。
現在でも、地域に依っては皮膚の色や頭形なども違っているくらいであるから、「体の皮膚機能」や「手足などの形」も充分に変わっていたことも云える。

然し、逆説でその様に成っていない事は「人類」は「紫外線 赤外線」は排除した事が云える。
然し、危険領域である事に変わりはないが、「進化目的ロ」の[糧」の為には、その「直前の光領域(YMCの領域)」を獲得する様に働いた事に成る。
可成り、「危険領域の光領域」を獲得した事は、「生存」に可成り逼迫していた事が云える。

筆者は、「危険領域の光領域」の「YMCの領域」を獲得出来た背景には、この”「複眼機能の存在」”が補完していた事があったと観ている。

唯、この人類の「複眼機能」のそれは「他の生体」の持つ「複眼機能」とは違っていたと考えられている。
元々、この「現在様」であったのか、変えたのかは判らない。
この「複眼機能」の持つ生体は、同一では無く千差万別と云われている。
この事から、「現在様」に変えた事も云えるが、筆者は「現在様の元々説」を採っている。

「人類」は、主に、「現在様]の”「予知能力」”が主であったと考えられている。

現在も遺されている「原始脳の機能」から観て、「原始脳」に近い”「予知」”に依って「人の感覚」を研ぎ澄まして、「糧の在処」を見定めていた事が云えるのである。

恐らくは、「複眼機能」が、この”「予知能力」だけ”であったとするには、「進化目的イ」と「進化目的ロ」が人類には到底に維持出来なくなっていた事が云える。

筆者は、「小さい人類」、或は、それに近い生体であった頃の「進化目的イ」と[進化目的ロ」を果たすには「予知能力」だけでは無理であって、”他にも在った”と考えている。
そもそも、人類には、主体は「原始脳」があった事から、「複眼機能」と連携していた事は「予知能力」であったと考えるが、ある程度の”「光の透視能力」も在った”と考えている。
この「光の透視能力」は、「予知能力」にも通ずるが、これを「予知」するには「何かの媒体」が必ず必要である。
この”「媒体」”が「光」或は「色」であったと観られる。
主に「BGRの色域」であったと考えられる。

つまり、この”「色の領域」をぎりぎりの領域まで広げる進化を遂げた”とする説と考えられる。
それが結果として、”「YMCの領域」”であった。
そして、それをより正しく適格に判断するには、”「学習能力」が要求された”と云う事に成る。
結局は、「人類の複眼機能」は、「色」で全て認識し予知していた事の説に成る。

「複眼機能」は、この事から「予知能力」であったとする説は納得出来る。
「光領域」の「YMCの領域」を「光]では無く、「学習能力」によって、”「YMC(イエロ マゼンタ シアン」と云う色域”に変換して獲得したと考えるのが、「進化A」+「進化B」から無理なく論理的と成る。

この「複眼機能」に頼る事無く、ある程度の「YMCの領域」の「学習能力」が達成された。
この事から、「複眼機能の予知能力」は、併用しながら退化して行ったと考えられる。

当然に、「学習能力の拡大」に伴いそれを処理する為に、「右脳」と「左脳」と連動する事に依って「色に関する感情感覚」と「生存の糧」をより確実に得られ多感情感覚が「前頭葉の脳」をも拡大させた。
その「情報量」より細胞が増大して拡大化した事に成る。

左右と前から三つの脳が拡大した事に伴い、額中央の複眼機能は中央部に押しやられ、後頭部の運動脳とに挟まれる位置に移動して次第に退化した事に成ったのである。

この「退化」は、「人種の生存の環境条件での差違い」に依って、異なり、「学習能力の差違」とも成って起った事に成る。

そうすると、「人種」に依って現在も「差違」がある事は、「複眼機能の退化」><「学習能力の進化」の過程にあるとも云える。

余談であるが、「Y(イエロ)」は、”黄色”と表現するも適格性には無理は少くない事は兎も角も、より右の光領域に近づく「M(マゼンタ) C(シアン)」は「色の表現」は難しいのはこの事からも判る。
「Y」は「薄い黄色ポイ」と成るのだが、人種、民族によっては、BGRの色の領域の「7色」の左から「3番目にある黄色」と見分けが付かない。
”「光る黄色」”とも表現する。
「Mのマゼンタ」は ”紫ポイ”と云うが「紫」では無い。
”ポイ”である。「薄い紫色ポイ」となるだろう。
日本人は位の最上位に置き「紫系統」が好きである故に、「共通の理解」がある。

唯、「M」に関しては、流石、”「光る紫」”は少く無い。
「紫」自身に「輝き性」が無く、これに”「光る」”は無理と考えられるが、”「輝く薄紫」”と表現する民族もある。
「光る」も「輝く」も何が違うと思うが、違うらしい。

然し、ところが、特に、「C(シアン)」は、”シアン”と簡単に表現するが、”ポイ”は無く、「適格表現」の色は無く無理である。
無理に云えば、”薄い水色ポイ”と成るが、決して「薄い水色」では無い。
人によって、「人種、民族」に依っては、”薄い水色ポイ”は、理解されず ”「光る白」”とも云う。
日本人には理解されないが、”「光る白」”の方が正しいかも知れない。

何故ならば、これらの「YMC」をCPで色補正する時に、「薄黄色ポイ」「薄紫色ポイ」「薄水色ポイ」で画面を観て「自然の色合い」に戻そうとすると、日本人はこの”ポイ”で色調節するのが上手いが、シアンに関しては、”「光る白」”は比較的適格性が有る事は否めない。

それには、次ぎの根拠が有る。
この様に、「科学用語」のそのものと同じ「Cシアン CN」に関しては、人種に依って誤解が起こらない様に”シアン”と呼ぶのが普通である。
須らく、猛毒の「NaCN」は「シアン化ナトリュウム」である。
「Y」「M」と「C]は異なっている。
事実、異なっているのである。
「C」は「BGRの色の領域」を含む全ての「色合いの基本」と成る。
この”「C」で「色」は何とでも成る。””印象は一度に変わる。”と云われる様に「加色 減色」の何れに於いてでも一変する。

「M」「Y」は確かにある方向に印象を持って行くが全体を変えるには至らない。
この”「印象」”は大きく好みに左右してくるので、使うには注意が必要である。
然し、「C」は違う。この存在を見逃したら「綺麗」は難しい。

因みに、良く画面には、どうしても「アスファルト道路」が大きく占めて来る事が多い。
この「アスファルト道路」の「色合い」が悪いと「全体の映像」の「印象」は変わる。
勿論、「綺麗」は大きく損なう事が多い。実際と違う「色合い」に成っている場合が多い。

これは、上記した様に、「周囲の色合い」がこの道路に「補完」が働き、持つ「YMC」に補色が掛かっているのである。
実に多い事例である。
「全体から来る加色」と「YMCの減色」が起こった事に成る。
この事例は実に起こり易い。
従って、「加色」の色を引き、「減色」の色を加える作業が必要に成る。
そうで無ければ、「綺麗」は不可能で、撮る前に、この補完と補色を良く観乍らアングルを計画する必要がある。
画面にアスファルト道路を入れる場合は注意が必要であり、Mが左右してくる。

これで、「YMCの領域」は「学習能力」に依って「左の記憶脳」が補完している事が明らかに判る。
これが、”光と色の中間色”と呼ばれる所以である。
故に、「脳の学習機能」の「能力限界」にある為に、本論のテーマの問題を引き起こすのである。

従って、これは「人類」にしか見られない事から、その時期は、「YMCの領域」と「学習能力」への「完全進化と特化」は、「人類に進化した時」から起こり始めた事に成る。
その人類でも「学習能力の未了」の「民族差」もある事からも云える。
そして、”その目的は何か”という上記の疑問は、答えは”「糧」”であって、”「花の蜜」”にあった事に成る。

この「学習能力」に付いて、現在も進化しているので更に論じる。

従って、「人間の脳での解決策」が必要である。
論理的にこれを解決するには、「脳」が起こす論理的な問題の解決する方法を、人間が考え出して、これを「左脳」に教えて記憶させる事で解決する事が出来る筈である。
あくまでも、「右左の脳の論理性」から来たものであるから、解決し得る事は判る。
それには、次ぎの「二つの方法」が考えられる事に成る。
この「二つの方法」を「左脳」に教える事に成る。
つまり、これが「人間工学」、或は、「光工学」で云う「フェリャー理論」である。

さて、この「フェリャー理論」をより判り易くより「脳の進化」を促す為に解く。
「進化目的イ」(生存の敵)や「進化目的ロ」(生存の糧)でも無い、新しい「進化目的ハ」として説く事に成る。
「進化目的ハ」は、「左脳の学習能力」の「情報の錯誤」として捉えられる事から、この「錯誤」を起こさないにする「より高い学習能力の脳の進化」と云える。
所謂、”「生存の進化」”と云える。
解決方法は次ぎの二つに成るだろう。

色間(縦の記憶)
YMC:BGR=1:5

色幅(横の記憶)
YMC:BGR=1:3

色E(縦横の記憶)
YMC:BGR=1:4

上記した以上の学習能力の論理式から、次ぎの方法が導き出される。

解決方法 A
一つは、「Y−M−C」の「光と色の領域」にある範囲に「背景体」を置き、その真ん中に「被写体」を置けば、「光と色の右左の脳の論理的補完現象」を解決する事に成る。

日本は四季に依って背景体が大きく変化する。
下記の「解決方法 B」は室内での事と成り、費用も掛かる事から現実的では無い。
専門のスタジオでの事と成る。

然し、この方法では、画面の要所要所にこの「YMCの色合い」のものを引き込むアングルを考えるなどすれば簡単に解決する。
それは景色であろうと、YMCの樹木や花であろうと、人物の服であろうと、白系の建物であろうと、背景体の中に一つ置くだけでも簡単に軽減される。
更に、これに遠近の差がつけられれば、より効果的である。

日本は、秋は紅葉で「YMCの色合い]が山全体にいっぱいに成るし、春も趣の違う「YMCの色合い」を示す。
写真が綺麗に取れるのは木々や花々だけでは無く、この理論に基づいていた環境条件であるのである。


解決方法 B
「光の集合体」は「白」、「色の集合体」は「黒」である。
とすると、この「光と色の補完現象」が「起こし難い色の範囲」に「背景体」を置けば良い事の理屈に成る。

「光と色の中間色」、即ち、YMCに対して、右側に進んだ「色と色の中間色」、即ち、「白と黒の中間色」とは”「灰色」”と云う事に成る。
つまり、上記の「論理式の2附近」に置くことで影響の少ない「灰色」は現出される事に成る。

「学習能力」が覚えている「CCカーブ」を再現してその「灰色」を作り出す事は簡単である。
これで、「完全」とは云えないが、「論理的補完現象」を最低限に解決する事に成る。
当然に、未だ、脳では起こらない。

「解決方法 B」の”「完全で無い」”と云う事はどの様な事かと云う事に成る。
つまり、”「灰色」とは、何を以って「灰色」とするか”に関わって来る。
それは「脳」に関わる「良悪を決めにくい人間の主観領域」であるからで、「白ポイ灰色、黒ポイ灰色」が起こるからである。
これは「主観での範囲」であって「国民性」に依って大きく異なる。
アジア人は、特に日本人は、「白ポイ灰色」を好む。
然し、西半球の人は「黒ポイ灰色」を好む。
そこで、「BGR(三つの原色)」の「色の領域」の「灰色とする範囲」の左(白ー黒)から「18%のポイント KODAC」を万国共通で「灰色」の中心とすると決めた。
(論理式では2附近)

この「灰色の中心」(18%グレー)には、「重要な意味」を持っていて「色の趣向」を決める「重要な要素」と成る。
「18%グレー」の右の「黒ポイ灰色」をより好む人は、従って「7色」の「赤色側」の「色合い」を好む事に成る。
つまり、そうすると、日本人は当然に「白ポイ灰色」をより好むので、「7色」の「紫色側」の「色合い」を好む事に成る。
だから、日本では「紫」は「最高位の色」と古来から定められているのである。
どちらかと云えば、「日本人」は「紫色の範囲」の薄めの「肌色」を好む傾向にある。
つまり、「綺麗」と云う難しい主観は、論理的にはこの領域で構成された「色合いの構図」のものと成る。

「綺麗」等に始まる「難しい主観」を色論理的に論理づけた事に成る。
この「色理論的情報」が好む好まざるに関わらず「右と左の脳の相関記憶情報」として持っている事に成る。
人は、取り分け日本人は持っている。
それが「色理論情報の理論」が人種に依ってその”「起点」”がずれている事を意味する。

この「色理論情報の理論」を「一つの図表」に表したのが、”「CCカーブ」”と云うもので表現されるが、当然に、これをCP化しようとすると、「CCカーブ」は同じにしても、その「カーブの起点」が人種に依って異なる。
つまり、簡単に云うと、「日本人バージョン」「アメリカ人バージョン」と云う事が生まれる。
従って、「人種」に依っては、人間であったとしても「目に起こる右脳と網膜の機能」には「強弱」の差と云う事は起こるが、「左脳の補完記憶情報」は、”「遺伝子情報」として入力されている事が少ない”と云う事も起こり得る。
場合に依っては、”「色理論情報の理論」が殆ど無い”と云う事も起こり得る。
その意味では、日本人は段突に進化している事に成る。
つまり、人類として進化している事に成る。
「学習能力の情報量」が多いと云える事に成る。

ここで、ところがそうすると、日本人は「解決方法 B」では無くて、主に「解決方法 A」での解決を好む事に成る。
「色合いの多い事」が原因と観られる。
日本人に執っては、共通して例外なく「Y−M−C」の「光の融合色」は、概して「薄い肌色系」なのである。
日本人は、自らの「薄い肌色系」を無意識に好む。
「極めて薄いピンク色」を好む。
好むと云うよりは最早、好みの良し悪しの判断基準とするばかりである。

もし、祖先と両親が日本人でありながら、「濃いピンク色」を好む場合は、それは「有意識」の中の趣向域である。
「光工学」からすると「拘りの趣向」と捉えられる。又、別の範疇の論議と成る。

最近は、欧米の影響を受けこの傾向が強く成ったと云われているが、「学習能力の情報域」までは到達していないと考えられ、米国等に感化された「拘りの趣向」と捉えられている。
「拘り性」が強いかどうかは「芸術性と個性」の「別の問題」である。
この「芸術性の部分」は排除して更に論じる。

ここで、”例外が起こらない”と云うのは、「無意識中の学習能力の脳」に支配されている事から起こっている。

論理的に「光領域と色領域」の中間にある”「光領域の色」”と云われる「Y−M−C」を捉えて「写真にするか」に関わって来る事に成る。
「写真」で無くても、「景色」でも、「絵」でも同じでこの「趣向」が必ず働く。
つまり、「無意識」の「右左の連携した脳」が働くのである。
あくまでも上記した様に逃れえない「遺伝子」にインプットされた「記憶の無意識の脳反応」である。

後は、その人の”「拘り」”から来る「有意識の趣向」の範囲で評価が起こる。

さて、「目から受け取る情報」を左右させる事柄は、この上記した原理機能に基づくものである。

この「原理機能」を打ち破るだけの「芸術性」を発揮しうる才能を持ち得ていれば論外である。
依って、この趣向は、「無意識の脳反応の趣向」を好むのか、将又、「有意識の趣向の範囲」を好むかに依って異なる。
写真とすれば、景色とすれば、絵とすればどちらを好むかによって決まる事に成る。

ここでは、”「綺麗」”とは、「無意識の脳反応」の「美意識」を説いている。
依って、これらの反映は、「背景体の範囲」と「被写体の範囲」の「二つの要素」の置き方如何(何れも量と位置に左右する関係)に関わって来る事に成る。

これは「人間の目の機能」であるが、例えば、「蝶」は全く異なっている。
多くの「単眼」が集まって「複眼機能」を働かしている。
然し、観えている範囲は、「6つの色域」と「赤外線」と「紫外線」までの完全に「光の領域」までも観えている。
上記した様に、これは「光を集める能力」に対応して発達した機能で、「花の付け根」の「底の部分」に「蜜庖の部分」に紫外線を吸収する部分がある。

これを確実に適格に早く安全に見分ける為に発達した「目の能力」である。
「赤外線」が観える事は、「花の色」をより強く遠くから見極める能力から発達したものと考えられている。

「蝶類」の「6色」は、より「赤色」に近い方に「見極め能力」が必要な事から「紫」を無くしている。
然し、人間の様に「YMCの認識能力」は無い様である。
「目を持つ生命体」は、全て人間と同じでは無く、その生命体の生きるに必要とする能力に限定されている。

同じ類の「蝶」と「蛾」でも異なり、同じ「複眼機能の持つ「蜂類」は「赤」は観えないし「緑」だけで全てを認識しているのである。

この様に、生命体の「目の発生原因」が、「光合成を行う葉緑素体」の「細胞への混入」から特別に「目の進化」を興した事から、個々にその生きる為に必要とする異なる機能の範囲を限定した事から特別の「進化の差」を作り上げたのである。

人間の場合は、他の動物の「目の機能」には無い”「綺麗」”と云う様な「主観の機能」(前頭葉)が融合しているのである。

これは、「目から得た情報」は、「左の脳」の「色に関する論理的情報」を蓄積して「視神経」を媒介として「右脳」の「視葉」と云う「脳領域」を「進化目的イ」と「進化目的ロ」に依って構築したのである。
ここに、この左脳の”「論理的情報のズレ」”を興した事に成る。

これが上記した様に同じ人間でもその能力に「人間差」が出た事に成る。

ところが上記した様に、この「人類」でも、持ち得ていないと云える程に「人種」に依っても差違がある。
それは、”「退化」”なのか、”「不進化」”なのかの議論が起こる。
恐らくは、「人類」としては、当初は「基本」は持ち得ていたが、生活環境の差違により「人種」に依ってその「学習能力の未了」で必要以上に進化しなかったと観られる。
その「地域性」を観ると、「自然環境」と「生活環境」に大きく左右されている事が判る。
我々日本人は、他の民族以上に「美的感覚」が優れているのは、この「YMCの領域の学習能力」が高かった事に依ると考えられる。

現在では、「進化目的イ」の「敵」と「進化目的ロ」の「糧」からの何れのものでも無く成っているが、「YMCの領域の学習能力」は、退化させる事無く、むしろ現在もより進化を遂げているのである。

最近、江戸時代の「浮世絵の評価」が外国人に高まっているのは、この「YMCの領域の色合い」を「奇異の感覚」で観られている事に外ならず、「YMCの領域の学習能力」の高さを評価されている所以でもある。

普通であるのなら、上記した様に、主に「進化目的ロの糧」から起因している為に、「退化の憂き目」にある筈の「YMCの領域の色合い」を未だ高く持ち続けている所以でもある。

筆者は、上記の理論より「日本食ブーム」も「健康食」のみならず、この「YMCの領域の学習能力」の「健康色」の「美的感覚」にもあると観ている。

「目と脳」は、「補完と補色の機能」を「学習能力」によって行うが、写真などの「機器映像」にはこの学習能力が無い為に「補完と補色」が付き物である。
これと同じ様に、「学習能力の補完ずれや補色ずれ」がある事からも未だ成し得ていない。
何時かは成し得る事は考えられる。
但し、この時は、カメラは人間の脳を超えた事に成る。
「人間の脳」が考えて作った「カメラの脳」は、論理的には「人間脳」>「カメラ脳」で超えるか疑問である。

「人間脳」=<「カメラ脳」が起こさせると云う事は、その前に、「人間脳」は「進化拡大した理屈」と成る。
「学習能力の補完ずれや補色ずれ」は論理的に難しいと考えられるが、「機会映像」は「論理的ずれ」が判っている以上はこれをソフト化出来得れば超える事は可能で有る。

可成り大きなものとは成ると考えられるが、「チップのメモリー容量」が発達すればソフト化は可能で有る。
然し、「PCの専用アプリケーション」で「デジタル画像の修正編成」が可能と成っている事からその方向に行くかは疑問である。

兎にも角にも、「目の機能」が、他の生物が持つ「光合成」からのもので構築されている以上は、「学習能力の補完と補色のずれ」は永久に起こる。

「左脳」は、次第に「論理ずれ」である以上は、この「学習能力」の「ずれ」を改善して行くことは間違いは無い。
然し、「目と脳の代理手段の映像機器」の場合は、恣意的にその論理性を理解して修正して行く限りはあり得ない。

芸術では無い「綺麗な映像」は、この修正に至るまでの「フェリアー理論の知識」をマスターすること以外には無いのである。

依って、ここに基礎的な事を論じた。後は「フェリーア理論図」を「読み取る事」にあろう。
なかなか「図の都度の解析」は、理系に秀でる人の範疇に入る事も心配はする。
文系はご質問頂ければ、可能な範囲で応じたい。



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