青木氏氏 研究室
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[研究室トップ(ツリー表示)] [新規順タイトル表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.337] Re:「青木氏の伝統 19」−「商業組合と提携商人」(「青木氏と郷士衆との関係」)」 
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/12/30(Wed) 08:27:51

>「青木氏の伝統ー18」の末尾

> これから察すると、江戸時代では、“「氏の背景力」”と成ったが、この「荷駄頭」と「物見頭」の繋がりで、その「シンジケートの首魁」に連絡を通して、その首魁から、土地の「領主」に話が通り、組織を必要な様に動かした事に成ったらしい。
> 「伊勢シンジケート」の出自は、多くは、「室町期の豪族」や「土豪族」や「郷士族」が戦いに敗れ、海山に逃亡して「裏の社会」で生き延びた者達であり、これらに「経済的支援」をしてその見返りに警備や運送屋や廻船業や殖産や営業等の手助けを請け負って貰い定期報酬とは別に、その都度の報酬を渡し連携をしていた。
> 次第に血縁関係も結ばれ、何時しか「青木氏族」の一員化して生き延びた者と、その配下や農民やあらゆる職能の人たちで、江戸期には、「ある程度の経済的潤い」と「必要な力」を持ち合わせて「表の社会」の一員の立場も持ち合わせ乍ら「二つの顔」を以っても働くように成った。
> この「組織の範囲」(「松阪組」と「射和組」)は、明治期の初めまでの結果として観てみると、美濃から信濃を経由して、諏訪から甲斐の領域までを範囲としていた事か判る。
>
> これは「和紙」と「神明社」と「青木氏菩提寺」の関係からは元より、各地に起こった「農民一揆」の「経済的支援」をしていた事の記録からも頷ける。
> 取り分け、「宗教絡み」の「甲斐百年一揆」と呼ばれる一揆にも「伊勢シンジケート」を通して「経済的支援」をしていた記録からでも判る。
> 傾向として可成り「中部東域」にそのルートを伸ばしていた事も判る。
>
> 中には、「伊豆勢力」(伊勢信濃青木氏族の末裔集団)と、滅亡した「駿河源氏の末裔族」が編成していた「駿河水軍」との連携を持っていた事も記録から読み取れる。
> これは「伊勢水軍」が、「伊勢シンジケート」の一員であった事からの平安期からの連携が遺ったものと観られる。
> 連携で云えば、多くの「商い記録」が遺る“「瀬戸内の支配権」”の持つ廻船業を中心とした「秀郷流讃岐青木氏」との連携が目立つ。
> 「伊勢シンジケート」を全網羅するには、「別の論文」が充分に成り立つのでここでは、下記に「松阪商人」の「(射和商人) 射和組」に付いて触れて置いてこの程度の範囲とする。


伝統―19

・「商業組合と提携商人」(「青木氏と郷士衆との関係」)
この「商業組合」と「郷士衆との関係」(「射和商人」)に付いては、前段で論じた経緯から観ても、江戸期からの「二つの青木氏」の「生き様」を説くには決して欠かす事の出来ない要素なのである。
(唯、前段までの「伝統シリーズ」をお読み頂く事がより理解を深められ事に成りますので是非先ずはそちらからお読みください。)

取り分け「伊勢域」のみならず、「美濃」を除いて「信濃」、「甲斐」、「摂津(近江系)」(美濃と近江は平安末期滅亡)域に定住する「二つの青木氏」と、「武蔵国域」を始めとする「秀郷流青木氏の主要な15地域の青木氏」に執っては、「欠かす事の出来ない要素」又は「伝統」であった。
江戸初期からこの「射和商人(伝統シリーズ−20)」と同じ立場を持つ「関係商人の集団」が主要な「青木氏定住地」には「青木氏」と連携しながら必ず存在して居たのである。
他にこの事に付いて「青木氏」の何らかの記録に遺る地域では、この記録から観ると、「連携地域」は「15地域」も在った。
その下記する「青木氏」が始めた「商業組合」とその「連携商人」は、次ぎの通りである。

「15地域」
讃岐、伊予、安芸、尾張、駿河、伊豆、相模、越前、若狭、越後、米子、阿波、筑前、肥前、陸奥(伊勢 紀州は除く)

以上の「青木氏」に関わる「15地域(A)」に、「青木氏」が自ら「商人」と成ったものも含めて、この“「提携商人」(関係商人の集団)”が存在して居た。

そもそも、この「15地域」に付いては、”アッそうか“と云う事に成るかも知れないが、それはとんで無い勘違いなのである。
では、「青木氏」を語る上で “どれだけの意味を持つのか”と疑問を持つが、当時としては他を圧倒する“「大変な地域数」”とその“「大変な地域力」”と「地権力」であった。
その“「地域数」と「地域力」「地権力」”と云うものに付いて下記に論じて行くが、「商業組合の提携商人と青木氏」とが「地域に与える影響力」は相当なものであったのだ。
それが、江戸期初期の前後の社会に大きな影響を与えたのであって、これを「青木氏の者」は決して見逃してはならない事なのであり、当に“「江戸期の決定的な伝統」“と云えるのだ。

あくまでも、これ(「15地域」)の設定は、発見された“何らかの資料・記録を遺している”とする事を前提としているので、遺していない地域もあったので、推測では、「青木氏の出自構成」から観て、「20地域程度(B)」には成ると観られる。
更に、他の論文でも論じた“「主要青木氏族 8氏の地域」“として観れば、「提携商人」は、全て「8地域」にも在って、計23地域(A−1)、28地域(B−1) と成る考察である。

そうすると、兎も角も、先ずはこの「15地域」を前提とすると、「特別賜姓族」の「秀郷流青木氏116氏」が大きく定住する“「24地域」“と、「皇族賜姓族五家五流24氏」の”「19地域」“(室町期 最終19地域)とである。
合わせて43地域中、現在、記録に遺る地域として、「約30%−15地域」に、この“「提携商人」(関係商人の集団)”が確実に存在して居た事に成る。

この「30%−15地域」の「提携商人」が、「青木氏」と共に“地域に対して“「経済的背景」”と成っていたのである。
とすると、これを下記に示す通りに、同じ様に地域(21)に対して“「経済的背景」”と成っていた「青木氏」が関わる“「一揆地域」(下記)”と重ねて考察すると、更に「証拠力」が増すだろう。

そこで、詳細は下記に論じるが、明治期までの”「一揆」”と云う観点からで観ると、「21地域」と成る。

何故、この”「一揆」”と云うものが「15地域」と同じ様にパラメータに成り得るのかと云うと、”「一揆」”には、”「一揆」”と云うと「空腹」では無し得ない。
それを実行するには、必ず「経済的背景」が無くては無し得ない。
つまり、従って、この”「一揆」”も「青木氏」が「経済的背景」と成って援護していた環境下にあって、上記の「提携商人」で観ると「15地域」、「一揆」で観ると「21地域」と成る。(下記)

これらも「同じ地域環境」で「何らかの形」で強く“「経済的背景」“と成って”「民の行動」を援護していた“のであるから、”この差は一体どうなのか”と云う事に成る。
依って、これに「青木氏」が関わっていたのであるから、本来であれば数字的には同じ程度である筈である。
然し、同じ様にこの地域に対して「経済的背景」と成って居乍ら、この差の「6地域」(21−15)は、何で起こっているのかである。
本来であるならば同じ程度である筈だ。

結論から云うと、この「6の地域差」は、“「提携商人の定義」の差”であって、つまり、「定義外の形」(下記)で提携していた「商人」が居た事に成る。
所謂、「定義外の形」,これが他氏には観られない「青木氏」だけに関わる「提携商人の特徴」なのであって、「重要な伝統」の「一つの差」なのである。

何はともあれ、この「21地域の一揆」とは、上記の「推測の20地域」≒「一揆の21地域」とほぼ既に一致している。

従って、この「推測とした地域」(定義外の地域)は、上記の通り「5地域」である事に成る。
つまり、「推測していた地域」が含んでいた事に成る。

要するに、「推測5地域≒地域差6地域」の「関係差」と成っている。

恐らくは、この「関係差」が出ていると観られる。

そうすると、次ぎに、この“「推測とした地域 5地域」”とは、“一体何か”という事に成る。

その前に、15地域には、「青木氏定住地、即ち、青木村」がある事を述べて置く必要がある。

然し、この“「青木村」”は、何度も論じているが、そもそも「嵯峨期の詔勅」と、「青木氏」の50程に成る「慣習仕来り掟の使用の禁令」で、この「慣習」の一つと成る「地名」に対して、一般に対して使用を禁じた。
且つ、「氏名」を元とする「地名の使用」も禁じられていた。
そして、共に「青木氏の氏名の使用」も禁じられていて、明治3年までこの原則は護られた。

従って、“「青木村」”があるところには、“「真の青木氏」”が必ず存在し、且つ、この“「商業組合」と「提携商人」”も存在して居たのである。

この「青木村」の詳細は、「地名地形データベース参照」としては次ぎの様に成る。

「古史資料ベース」としては、「青木村」は「75地域」、「現地図の地名ベース」では「109地域」である。

この内訳は次ぎの通りである。

(注意 現在の都道府県名で呼称するので「地名」が分断している事がある。
「数字」は必ずしも大きさを示さない。
「複数」は「青木村」が本家地域と分家地域で「複数の村」があった事を示す。
「1の数」には、複数地域よりも「広さ」では大きい事もある。)

青森 1、岩手 2、宮城 17、福島 2、茨城 2、栃木 1、群馬 1、埼玉 3、千葉 3、
神奈川 1、新潟 5、・富山 1、・長野 8、岐阜 2、静岡 3、愛知 21、滋賀 1、京都 2、
・兵庫 3、和歌山 1、鳥取 1、岡山 1、広島 3、山口 1、徳島 4、香川 2、高知 長崎 1、 福岡 4、熊本 1、・宮崎 1、鹿児島 1 

以上の「101の青木村」が「現在の地名」で在る。

(注意 「三重 6(地名含む)」と「南和歌山 2」は除く。・印は、「皇族賜姓族青木氏」の「伊勢と信濃と近江」の「商人 2」を含む。 計「全109村」)

「秀郷流青木氏の特別賜姓族116氏」に、「皇族賜姓族青木氏の19氏」で、「二つの青木氏」とは、そもそも「135氏」である。
然し、現実には「二つの青木氏」は、室町期末期では最終「121氏」であった事から 現在地名の「全109村」(三重南紀含む)とすると、「青木氏」では「氏=村の関係」があったので、室町期末期では「12の差(121氏−109村)」が出ている。

平安末期から観ると、「26の差(135−109)」、 古地名では「60の差(135−75)」であるので、「嵯峨期の詔勅と禁令」に依り「青木氏」にだけ限られる「氏=村の関係」から「消滅」が「最大 26村」があったと観る事が出来る。
この主原因には、「源平合戦」にて「青木氏氏是」に従わず、二度も「戦い」に参加して「近江と美濃と滋賀と駿河の青木村」が消滅した事に在るだろう。

「青木氏]と云う「特定の氏の共通する村」が全国にこれだけある事の事態が稀を超えて特異である。先ずは無いだろう
それだけに、この「109村、或は、75村」の持つ意味は計り知れなく大きい。

兎も角も、現在地名では「青木村」は、正式に「109村」で、江戸期前の地名では「75村」、現在の地名で、「青木氏族」を含めた形で観ると、上記した様に、計23地域(A−1)、28地域(B−1) に成る。
従って、平安期末期と江戸期初期の両方から観ても、「村の地域」と云う点から少なくとも「26地域」には「青木村」があった事に成る。

計23地域(A−1)<「村 26地域」<28地域(B−1) 

唯、考察での問題は、「永嶋氏」の様に、この「青木氏族の絡み」が、“「109村」、或は、「75村」にどれだけ組み込んでいるのか”は,なかなか判定が難しいのである。
と云うのも、「秀郷流青木氏」の「青木氏族」は、「商業の関係」でも可成り「親密な関係」にあって、分離して判別する事が難しいのである。
中でも、前段でも論じた様に、「伊勢の長嶋氏」、「薩摩の肝付氏系長嶋氏」等では明らかに「青木氏」と「商業の関係」を持っていた事が資料から判っている。
そもそも、他の論文でも論じた様に、「青木氏」が「第二の宗家」で「青木氏族」を取り仕切って居た事にあるからである。
取り分け、筆者が観る処では、「永嶋氏」が最大に「青木氏」と関わっていた事に依ると観ている。

資料にしても「青木氏と永嶋氏の関係資料」が最も多く在り、且つ、「親密度」も互いに出自が同じで「兼行系」であった事から親交が高かった。
又、「青木村」の存在する処には、必ず「永嶋氏」が定住している史実が在る事から、更には、主要5氏の中でも「子孫拡大」でも最大である事からで、本論の「提携商人の関係」にしても「商い」で繋がっていたのである。

(注釈 「永嶋氏」はその意味でも「関東屋形」と呼ばれていた。)

(注釈 事例として前段でも論じた様に、秀吉から攻められた「結城氏(永嶋氏)」の「陸奥の戦い」にも「伊勢秀郷流青木氏」が、「伊勢長嶋氏」と共に参加して、背後から攻め立てて「永嶋氏系白河結城氏」を秀吉から救っている。
この戦いは「秀吉最大の失敗」と呼ばれた。)

前段で論じた様に、その「典型的な証拠」に「伊勢」があり、全ての上記の要素を持っている。
「佐々木氏の資料」を観ても、「青木氏と永嶋氏の関係」に付いても論じている位である。

最南端の鹿児島でも「氏」として「二つの青木氏と永嶋氏の関係」があって、「大蔵氏族肝付氏系永嶋氏」が「薩摩藩の御用商人」としても働いていて、「材木商」や「雑貨関係」としても「二つの青木氏」とは“「横の関係」”で繋がっていた事が判って居る。
関西と中部域で「青木氏との商い関係」でその行動記録がある。
唯、内容から薩摩側では、「御用商人」が大手を振って「商い」をしているのではなく、特別に配置された、所謂、“「永嶋氏の者」(要するに「本論の提携商人」に成り済ました)”が動き、「姓」(長嶌姓)等を変えても「隠密行動の様な商いの仕方」をしていたと観られる。
それだけに事態は掴みにくい記録であった。

(注意 ここでは、兎も角も「青木氏の提携商人」として単独で論じているが、お読み頂く場合は是非に重層してこの“「横の関係」”があったとして幅広く想起しながらご判断頂きたい。)

(注意 依って,現地名「109村」には、「市町村合併」や「歴史的変化」にても「青木村」、或は、「青木の地名」が、残念ながら少なくとも”「12の消滅」”をさしている事が確認できる。
これが、上記の「近江と美濃と滋賀と駿河の青木村の消滅」と成るだろう。)

但し、現在の47度道府県として、この「26地域」(135−109)には、「青木氏」に関わりの無い「青木村」があり、「村」では無い「単なる地名」もあり、明治後の「第三青木氏」の「青木村」もある。
依って,これ以上の結果とは成らず、「26地域−地域差6地域」と成る。

この「三つの要素」を取り除くと、江戸期の「66国」中では「75村」と成るから、これも同じ“「26地域の村」”と成る。
この「26地域」は、「青木氏族」を加味した数字の「28地域」に一致する。
依って、この「青木村の数」は、明らかにこの「28地域」を超えない事が判る。
「一揆の地域差6」を勘案すると、「22地域の村」と成る。

つまり、「26地域から22地域」と成り、この中間として「秀郷流青木氏の定住地」の「青木村」の「24地域」は定まる事に成る。
これに「皇族賜姓族青木氏」の「青木村 6地域」を加算しても「28地域」を超えない事が判る。
このデータの信憑性は極めて高い事に成る。

この「26地域から22地域」の「青木村」には、それぞれの“「青木村の由緒」”があるので、一概には言えない。

然し、但し、次ぎの6県は「15地域」の中でも特別である。

愛知 21、宮城 17、長野 8、新潟 5、福島 2、埼玉 3

以上の6県は、確かに「青木氏の主要地」であることもあって、「複数村/県」で、「多数」あって、大きさも「広大」(地権力)であった。

この「6県」の「青木村」の持つ「地域力」、又は,「地権力」というものが如何に大きかったかが判る。
つまりは、「商業組合」「提携商人」の「存在と活動」が半端では無かった事を意味する。

その「大きさ」の持つ意味を一つの形に表すならば、一種の“「青木氏聖地」の様相を呈していた“と云っても過言では無い模様であった。

そうすると、これだけ大きければ、「正規の藩主」では無いが、軍事的に、経済的に、政治的にも握っていたのである。
この「青木氏」が“「民」を援護した”と成ると、伊勢域の「射和商人」の様な「商業集団」を作り、これが「商業組合」を作ったと成ると、「為政者」にとっては「最大の脅威」であった筈である。

この6県の「江戸初期の藩数」で観て見ると次ぎの様に成る。

6県の江戸初期の藩数
愛知 5(尾張藩)
宮城 2(仙台藩)
長野 18
新潟 18
福島 9
埼玉 20

如何に小藩がひしめいているかが判る。
因みに、御三家の「尾張藩」と、伊達氏の「仙台藩」を除き、6県の「江戸期初期の藩」は以上の様に「小藩」がひしめき合って配置されていた。
これでは、「青木村の青木氏の地域力」、又は、「地権力」を凌ぐ程の藩は無かった事に成る事は明らかである。

そこで問題は、「愛知の尾張藩」と成る。
検証して観ると次ぎの様に成る。

そもそも、御三家の「紀州藩」と対抗したのは「尾張藩」であった事は有名で、「伊勢青木氏」が吉宗に同行して「享保改革の政策」を押し進めたが、これに異議を唱えたのは「尾張藩」で明治維新まで「伝統的な関係」にあった事は有名である。
その関係に在りながらも、それでも「地域力」や「地権力」を示す「青木村」は「5村」も在った。

では、その「5村」とは、1郡に相当し、1郡は1国5郡とすると、「1/5の面積=地権」に「地域力」「地権力」を持っていた事にも成る。
この「地域力」「地権力」は、例え「藩主」であってもこの“「地権」(地主)”を持つ地域に対しては「治外法権的な意味合い」を持ち、この「地権」に対する税を納めれば「自由な差配」できなかった制度であって、現在の「固定資産税」に近いものであった。
多くは「青木氏」の様に江戸初期で観れば、平安期からの歴史を持つ「20弱程度の氏族の郷氏」にあった。
「地権料」を支払う代わりに「土地」に対する「自由権」を補償されていた。
要するに、民から観れば、先ずは「藩主様」より「地主様」であった。

この「地権」の無い所は役所に届けて承認を得なければならない。
そうすると、果たして、この「尾張藩」は、この「1/5の面積=地権」で占められていた事に成る。
例え藩主であっても自由にはならない地域が1/5あったのである。
ここに、「商業」から得られる「莫大な経済力」も持ち得ていると成ると、これでは明らかに「藩主以上」と云う事に成る。
民に執っては、心情的には「経済的」に何だかんだと面倒を看てくれ援助してくれる「地主様」の方が親近感が湧くが、税を採られる「藩主様」では無かった事に成る。
それが「御三家尾張藩」である。(紀州藩と藩政が違う)
「自尊心」と「権勢欲」が強い藩主であれば、夜も眠れない事に成るだろう。
「尾張藩」を除いては最早問題では無い。

「埼玉の20」は、秀郷一門一族の武蔵の地元である。論外であり、当然の結果であり、「地主様」である。

これで、他の9県もどの様な状況であったかは推して知るべしで判る筈である。

では、「紀州藩」が推し進める「商業組合−提携商人策」に対して「藩主側」が反抗し得る立場を持っていたかは疑問である。
とすると、「反抗勢力の吟味」と云うよりは、下記する「家康のお墨付き」「地士制度策」にどの程度の「効き目」があったかの「検証問題」だけは残る。
然し、現実には推し進めたところを観ると、矢張り黙認せざるを得なかった事に成る。
下記する「7年」から推し量ると「最大効果の効き目」があった事に成る。

況して、「尾張地域の周囲」は、他県と異なり「秀郷一族一門」と「片喰族と州浜族の秀郷流青木氏」で固めていたのであって、「家臣の大半」はこの一族であった事から、なかなか難しかったと考えられる。
「尾張藩」としても「金子借料の件」もあって「青木氏の豪商」に文句を附ける事などは難しかったと観られる。

(注釈 「吉宗の経済政策」に尾張藩は異議を唱えたが無謀が過ぎて、結局は「藩主退陣」に追い込まれている。)

因みに、この「6県の範囲」で観て見ると、「尾張藩」を含めて「72の各藩主」が、これを無理に抑え込もうとした場合は次ぎの様な事が起こる。
果たして、この様な事をするであろうか。
それこそ「藩政未了」として幕府から潰されるが落ちであったであろう。

その「典型的な最大事件」が、同じ江戸期初期に讃岐伊予域の「青木氏の定住地」で起こっていたのである。

その「典型的な事件」が、「山内一豊の土佐事件」である。歴史的にも有名である。
「伝統シリーズ」でも論じたが、土佐に平安期の古くから住む「讃岐藤氏の青木氏等」の「郷士や郷氏」が此処に定住している。
その「地権」や「商業」などの「地域力」「地権力」を持つ「郷氏や郷士」を、思うが侭に「支配権」を獲得しようとして藩主と成った「山内氏」は、これらに対して「武力に依る攻撃態勢」を採った。「自尊心と権勢欲」が強くて夜も眠れなかったのであろう。
そこで「激しい抵抗戦」が長く起こり、結局は、「最終談合」と云う形で城に一族を含む「郷士と郷氏」の全員を招き入れて、そして何と閉門して「騙し討ちの殲滅作戦」を採り全滅させた事件が起こった。
これに依り土佐に「抵抗勢力」は無く成ったが,本拠の讃岐域では「讃岐青木氏」は健在であった。
この遺恨は「讃岐青木氏」に遺った。

この様に、「移封藩主」と主に「地権を大きく持つ郷氏」との間は「犬猿の仲」であった。
何処でも例外なくその原因は、藩主に取っては「地権と商業と結びついた地域力や地権力」が邪魔であったのである。
この「15地域」でも例外では無く、上記の「主要6域」(6県)は当に特別であった。
この様な事件は「15地域の青木氏」でも例外では無かった。
むしろ、「地権力と地域力」のみならず、更には、もう一つあった。
それは“「氏の格式」”には「格段の差」があった為に,「移封藩主」にとっては手の出し様が無かったのである。

(注釈 この「格式差」が物語る事としては、前段でも論じたが、「伊勢青木氏の口伝」で伝わっている様に、紀州徳川氏の頼宣さえも面談時は、上段の座)を外した作法を採ったくらいのものであったのである。)

下手をすれば、特に、上記した愛知 21、宮城 17、長野 8、新潟 5、福島 2、埼玉 3の6国では、江戸期初期であっても、藩主側は、未だ「賜姓族」としての「不倫の大権」をかざされて「朝敵の汚名」を被る恐れもあった。

そこで、その「移封藩主の脅威のレベル」では、「秀郷一門」は,前段でも論じたが、家康が一目置くほどに全国規模で展開する「軍事力」を持っていた中で、「秀郷流青木氏」はその「第二の宗家」と呼ばれる様に「一門の指揮権」を備えながら、「二足の草鞋策」としても「商業」にもその「地域力と地権力の勢力」を振り向けていたのである。

これに、平安期から「古氏」であった事から、その「広大な土地利権」をも持っている“「郷氏」”でもあったのである。
そして、それが“「商業組合」”として、“「提携商人」”を作り出して、「軍事力」は元より「経済力」にも「途轍もない幅」を利かせていた事に成る。
「単なる大名」や「豪族」が、例え「為政者」として「藩主」と成ったとしても、これでは到底、力の及ぶところでは無かった。
その「青木氏」が幅を絶大に利かした地域が「15地域」もあったと云う事に成る。
但し、全国の30%程度に、この「勢力」、即ち“「地域力」「地権力」”を誇示して居た事に成る。

中でも「最大の地域力と地権力」を示しているのが下記の県である。

愛知 21、宮城 17、長野 8、新潟 5、福島 2、埼玉 3

その以上の6県は、次ぎの様に成る。

「尾張(三河)」、「 陸奥(陸前)」、・「信濃」、・[越後]、 「下野(岩代)」・「武蔵の国」

以上とは成るが、元よりここは「秀郷流青木氏の主要国」でもある。

如何にこの地域にその“「地域力」「地権力」”が及んでいた事かが判る。

これで、前段の「秀吉−家康の関係」から関東に移封された「家康」が、採った秀郷一門に敷いた施策の妥当性が良く判り、「武力」では無く、「青木氏の提案」の「商業組合の提携商人の創設」を戦略的にも目論んだ事でも判る。
山内氏の様に「武力」に依らず、前段でも論じたが、この“「地域力」「地権力」“を利用する”「懐柔策」“に出たのである。
然し、この“「地域力」「地権力」”に対して、これに対してどんなに大きな「藩主」であっても、公然と軋轢を掛けて潰そうとしても出来ない事であり無理であった。
この事は、“「商業組合」”の基と成る“「提携商人の創設」”は、「伊勢紀州」から「15地域」に「短期間」で広がった理由でもあった。
資料の範囲では、最大で観て見ると何と“「7年間」”である。

この“「7年間」”を吟味すると、先ず「商業組合」を伊勢で始めたのは、「蒲生氏郷」が嵯峨期から禁令で有った地域の松阪に禁令を敢えて破り、先ず「政庁の松阪城」(1588年)を作り、その城下を商業都市化した時に、「青木氏の本領安堵」と共に「屋敷町の3区画」をも与えられた時からである。
先ず、ここで「商業組合の基礎作り」が始まり、この城郭を引き継いだ「家康」が、この「頼宣」(1619年)に「紀州と伊勢」の統治を任せる直前に、「青木氏との談合」を数度重ねている。

前々段でも論じた「青木氏の商業年譜」から観て見ると次ぎの様に成っている

1612年に「合力談合」。
1614年に「伊勢衆談合」。
1615年に「伊勢衆動員」。
1615年に「堺摂津盛況」。
1619年に「松阪会談」。

1612年に「夏冬の陣」で「家康の要請」に応じて「談合」で徳川氏に合力する事を決めている。
既に、「家康」とは既に1603年と1605年にも「談合」があった。
「頼宣」が紀州藩に正式に入城したのは1619年で、その前から既に「浅野氏の紀州の政情」を調査するなどの“「事前行動」”を、家臣を秘密裏に送って数年前から探って採っている。
つまり、この事から、「家康」は「夏冬の陣」の頃から「頼宣」にここを任す事を密かに決めていた事に成る。
勝利したから決めたと云う事では無い事が良く判る。
つまり、「戦略的地域の要衝」であった事に成る。

五大老に成り「征夷大将軍」に成った時点で、「徳川氏盤石の礎」を築く為に、「地理性と環境性」(青木氏等の地域力)から判断して、この「紀州伊勢域」に一族を置く事を企てていて、「事前調査」(政情調査)をした事に成る。

だとすると、この結果から観て、従って、1615年までには「青木氏の提案」を受けている筈である。
この直前(1613年頃)の時前に、この「青木氏の提案」があったと観られる。

その後に「家康」が没する1616年までに,この計画は既に進められていた事が年譜から判っている。

1603年に「伊勢談合」。
1605年に「松阪面談」。
1606年に「伊勢談合」。
1607年に「四家安定」。
1612年に「合力談合」。

依って、「初期計画」は1588年頃に始まり、1603年に「伊勢談合」により、1605年「松坂面談」の頃には「暗黙の了解」が得られ、1606年に「伊勢談合」で、伊勢紀州域の郷士衆や商人や農民や職能者に説得工作を開始して、1607年に「四家安定」で氏内が混乱していたが、説得が効を奏して、上記の1612年の「合力談合」では、「伊勢紀州の態勢」は「商業組合」を暗黙で容認する「徳川氏」に決まり、この結果として、家康没直前の1613年後半期には本格稼働させ、「頼宣入城」の1619年で、15地域に「頒布稼働」させ終わって居た頃に成る。
従って、1612年から1619年の“「7年間」”で大方広め終わっていた事に成る。

つまり、この期間から観て、“「頼宣入城」までには、整えておく”と云う「密談事項」が家康と在ったと観られる。
それが、資料からすると、これ以外には談合は無い所から「1612年の時」の「合力談合」で行われていた事に成る。
「合力」と同時に行われたとすると、「家康」は豊臣側に勝つ事を前提にして事前に打ち合わせていた事に成る。
「青木氏側」にしても、「合力の見返り」が、“何もない”では周囲を説得し押えられなかったと観られる。

だから、「1607年の四家安定」とある事に成るから、四家が急激に安定する事は無い筈で、徐々に1612年に向けて「安定」と云う方向に向かって繋がっていったのではないかと観られる。
これは、明らかに「提案」が、「商いに繋がる事」として、“「合力の見返り」”に在ったと考えられる。

この「初期計画」から観て、その期間は31年で、「中期計画」までは14年とは成るが、この時期では「商業組合の体制」が、”充実した状態で完全に整った”とは云い難く、それはこの「商業組合の提携商人」の「関わり方」に未だ問題があった様な印象である。

つまり、“充分では無かった”と関係する各種の資料、取り分け、「越前からの手紙」からの判読で読み取れる。
“「1619年頼宣入城」までに間に合わす”と云う「大前提」があった事から、「7年」と云う形である程度の上記した様な読みもあったが、それにしても“いざという時の「怪我」”を覚悟で急いだと観られる。
可成り急いでいるが、この時の「青木氏や郷士衆等の生き様」が読み取れる。

其れの決定的な証拠としては,下記に論じる“「江戸初期の一揆の様子」”である。

「江戸初期頃の青木氏」が関わった「一揆」(下記)を抜き出すと次ぎの通りである。
・1603年滝山一揆
・1608年山代一揆
・1614年北山一揆
・1615年紀州一揆
・1677年郡上一揆

先ず、1603年の土佐で起きた「滝山一揆」で、上記した「讃岐藤氏の末裔郷士」と「讃岐青木氏」が関わった「郷氏 郷士連」と伊予讃岐を挟み「土佐の農民の一揆」が在った。
要するにその最終は、上記した「山内一豊の事件」である。
この「一揆」で「讃岐青木氏」は大きな痛手を負った。
そして、後々にまでこの遺恨は遺ったのであり、その後に「小競り合いの問題」も伊予と讃岐で起こしている。

ところが、この後、続いて「讃岐青木氏」に影響を与えたのが年を置かずに起こった1608年の「山代一揆」である。
そもそも、この1608年の「山代一揆」は、安芸国の国境で起こった「農民の一揆」で、毛利氏の農民に対する重税率(73% 本来は40%程度 四公六民)が異常であった事から3年間も起こったもので、「讃岐青木氏の勢力」が安芸に延び,その「末裔の商人」とその関連する「地域の住民」に影響を与えた。
結果として、これが「商業的な地盤」に影響を与えるとして重視して、経済的に背後に居たと云われている。

次ぎには、少し開けて3年後に起こった紀州南紀の1614年の「北山一揆」は,特に「南紀の熊野全域」で起こった「一揆」であり、結局は南紀から南伊勢の全般に拡がった農民を巻き込んだ地域の土豪の「一揆」(乱)であった。
要するに、「秀吉の紀州征伐の反動」である。
この反動は「頼宣入城」の直前の何と1619年頃まで続いたのである。

起こった地域が一般には「南紀」としているが、現実には紀州全域と伊勢全域に影響を及ぼしていた。
それは、この「一揆」を制圧しようとして派遣された「秀長の掃討軍」(紀州領主)が、伊勢紀州の地場産の「材木の販売」に加担して莫大な利益を上げていた事から事件が拡がったのである。
「一揆軍討伐」どころか「商い」をしてしまったのである。
それも最初に派遣された「秀長(秀吉の弟)の討伐軍」、そして、天正の二度目に派遣された秀長家臣の吉川の「紀州征伐の討伐軍」も何と共にである。
この事で結局は「一揆討伐」はひとまず放置された。
この不思議な“「猶予期間」”が起こり、更には後に、秀長から改めて討伐を命じられた家臣で「紀州湊の領主」も同じ事に成ってしまった。

(注釈 この天正末期の行為が「秀吉」に伝わり「弟秀長」は「蟄居」、家臣の吉川は「打ち首」(さらし首)と成って、一揆は一応は挫折した。
この後の慶長期にも燻り続けていて「北山域山岳部」で直ぐに紀州一揆が再発し起こる。天正期からこの一帯で起こり続けた一揆は「北山一揆」と仮称されてはいるが正式な呼称では無く、総じて「紀州一揆」であり各地に継続して飛び火して行ったものである。)

これは、“材木販売等が二度も何度もある”というのは“何かおかしい”。何か策略を感じる。

そこで、この“何かおかしい”を説く為には、前段でも論じたが、次ぎの事を思いだす必要がある。
この一帯は、そもそも「伊勢青木氏の遠祖地」でもあり、「和紙の素材」等を栽培している地域でもあって、且つ、その地の「南勢の郷士衆」は「伊勢青木氏」に大きく関わっていた事からも、又、所謂、「青木氏部の郷」でもあって、「一揆に加担した南勢郷士衆」が「青木氏」に大きく関わっていた事から「伊勢青木氏」は絶対に放置できなかった。

一方では、青木氏は「商業組合の問題」も抱えていて“てんてこ舞い”であったが、「一揆」を“後回し”と云う事には成らない出来事であった。
それだけに、「一揆の経済援助」だけでは済まなかったと考えられる。
先ず足元を固める事が専決事項であった。
「青木氏」は、先ず「伊勢シンジケート」を熊野山岳部に動かし牽制して、この「紀州の一揆」を側面から援護しながら「討伐軍」を牽制して一計を案じたと観られる。

そもそも、これは、最早、紀州で起こった全てこの一連の「一揆」は“「一揆」”と云うレベルでは無かったのである。
最初は秀長や吉川等の重臣等が多く討ち死にすると云う程のもので、「伊勢シンジケート」に依る山岳部や河川域で起こる「ゲリラ戦」も含めて「完全な軍と軍との戦闘」であった。

それが、地域を限定した「反抗の一揆」ならば、「伊勢シンジケート」で牽制してまでは行わないだろう。
要するに、そもそも戦い方が一揆では無い。当に「乱」であった事から、「青木氏」が採るべき事は決まっている。
それは「否戦闘の常套戦術」である。
この「常套戦術」が、この「伊勢紀州の地場産」の「材木の販売」等が「青木氏の戦術」であったと観ている。

当時、記録で観て見ると、「一揆」と時を同じくして、世の中は安定化に向かっていて、材木等の資材が“「大阪堺摂津」“で高騰し始めたのである。
取り分け、不思議に「紀州の檜の材木」が一挙に高騰し始めたのである。
当時では、未だ、武士や市民の住宅建設」までの安定期には至っていない。
にも拘らず「堺摂津域」では高騰している。

これは「信長の伊勢攻め」の「丸山城の焼失作戦」と明らかに同じ手口である。
つまり、前段でも論じたが、「伊勢青木氏の商業記録」に遺る史実であるが、「堺摂津の紙屋」が資材を織田軍に調達する役目を請け負ったが、この時に採った「丸山城築城に伴う資材高騰の作戦」があった。
同じ様に、この時も「信長」の息子の「信雄」が、「信長」に重臣面前で罵倒され蟄居を命じられている。
つまり、「掃討軍」に「商い」に誘い込み「利益」を挙げさせて、遂には「表沙汰」にして「失脚させる戦法」に出たと観られる。
両方は全くそっくりである。

この「青木氏の常套戦術」の其れに依って、起こった「一揆」(乱)に対して「青木氏」としては「短期にして最小限度の被害」に留めようとしたものであったと考えられる。

これは、1603年から始まり長引いた“「天正の紀州討伐」”に続いて、燻り続け「小競り合い」の続く中で、この1614年に再燃した“「北山一揆」”に続き、再び続いて起こった同じ紀州で別の1615年の「北山域」を含む“「紀州全域の一揆」(紀州一揆と呼称)”は,未だ「紀州征伐」の「憤懣の爆発」が解消せず、「各地の郷士から農民全般」に紀州から伊勢の一部に掛けて全土に拡がった「大一揆」(乱であった)であった。

そもそも、この「南紀州域と南伊勢域」は、前段でも論じた様に、「龍神域」から「戸津川域」、そして、「北山域」等の「紀伊山脈山岳部」は、「平家落人の里」として鎌倉期からも「有名な山岳地域」で、ここに“「紀州郷士衆」”が住んでいた処である。
この「地域の農民」と云えども元はれっきとした“「平安鎌倉武士」”である。
寄せ集めで武士に成った「豊臣家の武士」では無い。
戦えば、当時も「一騎当千の力を持つ戦闘集団」であった。
時には常に鍛錬して「傭兵軍団」に成った経歴を持つ。
(現在でも「戸津川郷士の剣道」と云えば全国優勝する程である。)

この「一揆側」には、上記の「郷士集団」が結集し「3千の兵力」で当たり、これに「農兵軍 一千」が加わり、更には「「伊勢シンジケートのゲリラ戦闘員 一千」が加わったとされている。

これは「一揆の戦力」を理解する上で、どれ程の「郷士」が集まったかと云えば、「一人の郷士」に「20人の家人」が居たとして、「150人の郷士」が集まったと云う事に成る。
前段でも論じたが、この「伊勢紀州域」は、奈良期からの悠久の歴史を持ち、「遷宮のお膝元」として「不倫」で保護されていた事もあって、「争い」は少なく、「郷士衆」も少ないのである。
他国の平均が500強と論じたが、それから観ると少ない伊勢紀州域ではほとんどの「郷士衆」が参加した事に成る。

それに、元は「平家家人」であった「元武士の者」等が「農兵」として参加した数が一千とすると、一郷士の下に6人が加勢している事に成る。
「郷士」も「農業の環境下」にあって、「青木氏に依る殖産」に中心と成って従事していたのであるから、「農兵と成る6人」は、「村の農民」の戸主半数が参加した事に成る。
「農兵の村の農民」は「村を護る事」から全員が加勢する事は出来ない。

この「二つの吟味」から、伊勢南域と紀州域とすると、要するに、“「総掛かり」”であった事に成る。
これに、「伊勢シンジケート」が伊勢紀州域から非常事態として集合した「常時戦闘要員の一千戦力」とすると、「伊勢シンジケート」は、信濃域を除いて、「7軍団」居たとされている。
各地に配置している「一軍団」に「200人から250人のプロの戦闘員」(伊賀忍者の様な集団)が居たと成っているので、5軍団/7軍団の相当で集合した事に成る。
「留守居」を置いて「伊勢紀州域の全軍団」がこの時とばかりに集合した事に成る。

恐らくは、最近、「郷士の家」から発見された手紙に依れば、「信濃域」からも合力している事は確実である。

(注釈 これらの「物資補給」や「シンジケートの特別手当」などの「賄い」は「青木氏の資力」からの援護に依る。)

「青木氏」は、片手に「15地域の商業組合の推進」、一方ではこれを覆す程の事が起こったのだが、これを観ると、「500万両と云われる総力」を掛けた事に成る。
「伊勢水軍」と「熊野水軍」が海部域から牽制して動いたと成っている。
何れ「一揆掃討軍」とすれば、山岳域と海部域から挟みこまれれば、補給は陸部だけと成る。
この「陸部の補給」だけでは1万と云われる具の補給は困難で、それを「ゲリラ戦」に持ち込まれれば、「戦費」は嵩み、「掃討」と云う事までは行かないだろう。

況してや、例え、「一万弱の討伐軍」であったとされているが、“「戦力」”としては「平家落人の一騎当千」から“一揆側の方”が遥かに上であったと観られる。
(戦い場所を選ば無くてはならない程に切迫し、「河原の野戦」に持ち込もうとしたと書かれている。)
この事から、秀長の家臣の「湊の住人吉川の戦力」では到底力の及ぶところでは無かったのであって、それだけに出来るだけ「直接的な戦い」を避け,何とか時間を掛けたと観られる。
そこで、秀吉より督促され焦りを見せた秀長が援軍を出し無理押しを強いたのである。
それだけに、記録に遺されている様に、重臣とその家臣が多く討ち死にすると云う「天正末期の一揆」にしては前代未聞の“豊臣側に大きな犠牲”が出した事に成っている。

これを観た「青木氏」は、当然に長期戦になれば遠征側の秀長側に「戦費に対する心配」が必ず起こるとして、この市場で「材木の高騰」を故意的に起こさせて置いて、紙屋が「材木の販売」を持ちかけたと観られる。
「一揆掃討の作戦中」でありながら、その時に何と膨大な”「数万本(2万本)もの材木」”を売れば、罰せられることぐらいは誰でも判る筈なのに、売却したのである。

これはどう見てもおかしいし、「掃討軍の戦費」であって明らかに「青木氏が採った戦略」であった事が判る。
これに載った「秀長と吉川」は、結局は、この件が発覚し秀吉に罰せられたのである。
こうなれば、「一揆処の話」では無い。

そもそも、秀長側は、この仮称「北山一揆」の「上記した様な経歴と背景」は既に知っていた筈で、有名な事である以上知ら無い訳は無い。
何故ならば、上段で論じた様に、この様な事は、既に「秀吉」は「青木氏」との間で「伊勢長嶋の戦い」でも経験しているのであるし、「信雄の丸山城建設の資材暴騰と消失」を目の当たりに経験している事でもある。
未だ、35年前の話でもある。そう忘れる程の昔では無い。

それだけに「持久戦」に成る事は承知して居た事で「戦費」が気に成っていたし、「犠牲」も普通の「一揆の範囲」では無い事ぐらいは判って居た筈である。
秀長は浅野氏の前の紀州領主である。知り過ぎていた筈である。
そして、この地域が「伊勢青木氏の遠祖地」で「関連地域」である事も重々承知していた筈である。
背後には「伊勢青木氏」が居る事ぐらいは知っていた筈である。

同じように「一揆側」にも「戦費の問題」が発生している。
然し、これを誰かが背後で援護している事ぐらいは判る。だから一揆は続く。
又、「相当な財力」を持った者である事も判るし、それを出来るのは「地権者」でもあるし、「伊勢青木氏」である事も当然に判る。
そうすると、ここで“何が起こるか”は予想できた筈で、上記した様に、況して、「青木氏」が持つ「伊勢シンジケート」が動くと「山岳部の補給路」は塞がれる事で犠牲は続出する事ぐらいは判って居た事に成る。
又、「海部域」も「青木氏」は「二つの水軍」を持っている事ぐらいは判っていた筈で、補給路に問題出る事も判る。
だから、「一揆側」を積極的には討伐せずに「九州征伐」に出て一時放置したのであって、秀吉の再三の催促に「三度の遠征」と成り、一時は「首謀者の犠牲」で納まったかの様に観えた。

ところが、放置して「根本的な掃討」としなかった事から、「小競り合い」は永遠と続き、結局は再び大きく成った四度目の1614年と1615年の「紀州一揆」までの「紀州討伐の結果」は長引いて仕舞ったのである。
これは直接戦に成った処か、前哨戦に成った処からの何処からの状況で観るかに依るが、最大で27年 最小で11年と成る。

「青木氏側」から観れば、「小競り合い」が続く範囲で治められていたが、結局は、“長引かせてしまった”と観る方が正しいと観られる。
それは次ぎの年譜でも判る。

「青木氏の商業年譜」では次ぎの様に成っている。

1614年に「伊勢衆談合」。
1615年に「伊勢衆動員」。
1615年に「堺摂津盛況」。
1619年に「松阪会談」。
1620年に「伊勢藤氏談合」。

上記でも論じたが、“1614年に「伊勢衆談合」”でも判る様に、紀州で起こる先の「三つの一揆」でも判る様に、何とか引き伸ばし「一揆不問」の様な形を採ったと思われたが、結局は、又、「一揆」が起こった事に対してどうするかを一堂に集まって「談合」を進めている。
当然に、これは「商業組合と一揆」に付いてどうするかを議論したと観られる。
そして、「一揆の事態」が「小競り合い]から更に拡大した。
そこで、「商業組合」にも直接影響すると観られた事から、1615年に「伊勢衆動員」が行われた。

「天正の一揆」で採った「長引かせる戦略」に対して、1614年の「談合の予想」に反して、「商業組合」と「一揆」に、特に「商業組合」の方に何か「事態悪化」が起こったと観られる。
そこで、兎にも角にも、これらの「一揆」も過激さを増して来た事から、早急に解決する必要に迫られ、「伊勢紀州の伊勢衆の郷士」に「南勢南紀の処置」に、“より援護をする様に”と直接関わる様に督促したのである。
この時に、「一揆」を主導していた首謀者に対し、「伊勢郷士衆」を動かして不満と成っていた検地に依って起こった「環境悪化」に対して、「青木氏」としては「生活環境の改善」などの事を約束しながら「周囲環境」を整えて置いて、「事態の収拾」と「首謀者自首」を説得したと観られる
従って、当然に相手側にも引くように圧力を掛ける為に、奥の手の「伊勢シンジケート」も積極的に強力に動かしたのである。
これで動く事は間違いは無いと観て採った。

それは「南北朝の足利軍に執った2万の飢餓作戦」でも「戦歴史実」が遺っている様に、この「掃討軍」がどう成るかは直ぐに判る。
それを実行したのは当にこの「伊勢シンジケート」である。経験者である。
これで、相手側も、これ(伊勢シンジケート)が動く事は、「補給路」を断たれ、「ゲリラ戦」に持ち込まれるし、事は収拾が着かず「戦費」は莫大に成り、自滅する事は充分に判る。

つまり、“「伊勢は総力」を上げた“と云う事を相手に示したのである。

これに依って、“1615年に「堺摂津盛況」“にもある様に、上記でも論じた様に、それが「青木氏の拠点」の「伊勢松阪」では無く、紀州の下津港等で「物資補給」なども行っていた「水軍」など紀州各地に配置して紀州域を管轄する拠点の「堺摂津」で“「盛況」”が起こった事に成ったのである。
これで「一揆」が終結して、懸念していた「商業組合」にも方向性が戻った事から、再び“「盛況」“を戻した事に成る。

「平家落人の郷士衆(紀伊山脈の山岳部)」の「一揆場所」と、「門徒衆」が中心と成った日高、有田,名草の郡域の平地域での「一揆場所」に参加していた「門徒衆」等と、これを支援していた「北紀州域」と「北伊勢域」をも含む「伊勢と紀州の全郷士衆」が関わった戦いであった。

これで上記で論じた様に、「伊勢の商業組合」の「射和域」で生き延びて行くことが本格的に出来る様に成ったのである。

この間の1603年から1615年まで「上記の戦略」で「紀州の一連の一揆」は何とか下火にさせられたので、「商業組合の推進」は「頼宣入城までの約束」を護る為に進められて行った。

この「紀州一連」の一揆を無理に区切るとすれば、「計五度の一揆」は、天正期から観ると、何と「31年間と云う期間」を経たのである。

これは当に“「青木氏の戦略」”であって、結局は、「1619年の頼宣入城」までの直前まで燻り続けたが、「戦略の目的通り」に結局はぎりぎり解決させて、「地域の民」を護り、「最低限の犠牲」で終わらせて、“「商業組合の推進」に本腰を入れられる結果と成った“のである。

これで「豊臣―徳川の決着」も就き、「家康の目論見」の通りに「筋書き」は動き始めたのである。

(注釈 この31年の間には、最終局面で、一揆側に「利害に違い」の出た「海側の一揆一団」が調略に会い、「裏切り行為」をし、それが「山岳部の一揆一団」に被害が及ばない様に、この事態を納める為に「山岳部側の一揆側の首謀者」が自首する形で処罰され終わる。
この時、「一揆の門徒衆」たちは伊勢松阪に救い出す。この時に海側の集団に参加した漁民らが騙し内に会い大きな犠牲を負った。
然し、「青木氏」の力の及ぶ地域の「全郷士の門徒衆」を保護する為に一時伊勢に移動させて護った。
この護った「門徒衆の一部」は、頑固に1619年直前まで燻り続けたが、結局は「商業組合の効果」と、当に上記した「頼宣の地士制度」で収まったのである。

この様に、既に記録にもある様に、根本的には「戦い方」が普通の「反抗勢力の一揆」とは異なっていたのである。

「伊勢青木氏」は「正式な商業記録」や「郷士家に遺る資料」に遺こされている程に「経済的背景」と成っているのはこの事から来ているのである。

ところが、これから「伊勢青木氏の関わった地域」には、不思議にも「一揆」としては「62年の間」に「一揆・事件」が起こっていないのである。
“何故なのか”である。

それは、「伊勢青木氏」が始めた室町期末期からの「商業組合の効果」が徐々に出始め、「一揆」に関わった「紀州と伊勢の全郷士衆」が、この「商業組合」に参加して、この「商い」に依って潤い始め、これに伴って「殖産」と「興業」が進み、強いては「農民」を始めとして「庶民」までその「潤い」が浸透して行ったのである。
「青木氏」と深い関係を持っている「伊勢郷士衆」が、故郷に戻った「紀州全域の郷士衆」にこの「商業組合」に参加する様に約束通りに働きかけたと観られる。

この事、即ち、「商業組合の効果」を「一揆首謀者」に「伊勢郷士衆」は苦汁を呑んで説得したと観られる。当初は「収拾の提案」が画期的であった事からなかなか納得されず、一部の「門徒衆」は1619年まで燻ったが、他の者が潤い始めたのを観て、「頼宣」も「地士制度」でこれを支援していることを観て、参加し始めたので「一揆」は遂に収束したのである。)

「伊勢郷士の家」に「紀州郷士との手紙のやり取り」の記録が遺されている事から先ず間違いは無い。

「頼宣入城前」の前には、この様に、「青木氏の存続の成否」が掛かる事が直前で起こり、上記の「青木氏の大決断」の「取り組み」で、解決して、この結果として、何とか「7年と云う短期間」で「商業組合」は進み「効果」を出し始めたのである。

前段でも論じたが、取り分け、当時、「国外不出の慣例」のあった「米栽培の新技術」を一族の者を特別に派遣して一族の「信濃青木氏」から学び、それを「伊勢紀州域」に広め,「青木氏の投資」の下で研究して、日本で最初に「新品種」と「早場米」を作り出して、これを「商業組合と提携商人のシステム」を活用して「15地域」に広め、年間を通じて農民は潤う事に成った。

(国外不出の「信濃栽培法の習得」は、その前提に伊勢での「品種改良と早場米の研究」があって、その成果を戻す事で了解が得られたと観られる。)

又、「紙箱」や「紙用紙」等の「紙製品の殖産と興業」を進めた事に依って、家内工業的に副職として農民は元より庶民までも広く潤う事に成った。
例えば、前段でも論じたが、「伊勢青木氏」は同族の「信濃青木氏」から進んだ「養蚕や米栽培の技術」を習得して、これを「商業組合の組織」に結び付けた事に依って「15全域」に広まった原因となったのである。
然し、これを広めるだけでは、この“「潤い」”に繋がらないのは必定で、“「商いの組織」”に結び付ける事があって潤うものである。
更にはこれでもダメであり、これではその「潤い」は偏る。
そこで、この「偏り方」を取り除いてこそ,そこに「真の潤い」と「民の安寧」が生まれるのである。
それがこの「青木氏の目的」とする「商業組合の(イ)(ロ)(ハ)」であって、この目的とする「商業組合の効果」で「民の信頼」が生まれ「底堅い商い」の為に急激に頒布して行ったのである。

その為に、「青木氏の提案」と「頼宣の事前調査」でと、その後の「商業組合」と合わせて行った「頼宣の地士制度」で「一揆」が起こら無く成る策が、この「商業組合」にある事を頼宣はより深く知ったのである。

(注釈 この「頼宣からの伝統」が「育て親の青木氏」から「吉宗」は学び「享保の改革」へと結びつく事に成ったのである。「吉宗」が将軍に成った背景はここに在ったと筆者は観ている。
だから、江戸に同行し、且つ、「紀州藩の勘定方指導の立場」もここに在ったと観ている。)

つまり、「1619年頼宣入城」より「談合」が進められ、これを契機に“「家康の暗黙の了解」”から“「頼宣の周知の了解」”へと変化して行ったのである。

その証拠に、“1615年の「堺摂津盛況」”とする「商業記録の年譜」は、何事に付けても、この時の「経済活動の活況ぶり」を表していると観られる。
因みに、前段でも論じているが、「事前調査」の後、1619年に「頼宣入城」に伴い「伊勢青木氏」は「紀州藩の勘定方指導の役」をも同時に務めたのはこの事から来ている。
「青木氏と紀州藩」は、敢えて、当時の世間で「禁策」として考えられていた「政経分離策」を採らずに、「政経合併策」を敢えて採ったのである。

さて、そこで視点を変えてみる事にする。
これは、「商業組合」を押し通すと、必ず、「為政者」との対立は生まれる事は必定で、地域救済策として、「危険を承知して採った策」で有る以上は、この「政経合併策」は「合理的手法」であった事に成る。
「デフレーション策」と「インフレーション策」の中間の一種の「リフレーション策」に近い策を採った事に成る。
多分、「商業システム」としては、「イノベーション策」と成るだろう。

(注釈 その後も紀州藩では代々この手法を取り続けた。「青木氏」は幕末の「紀州藩の財政立て直し」にも「伊勢郷氏」として「勘定方指導役」を務めた。)

この時、前段でも論じたが、「伊勢域と紀州域の秀郷流青木氏」とそれに関わる「伊勢郷士衆」「伊賀郷士衆」から「紀州郷士衆」までを含めて家臣に「丸抱え」(幕府から謀反の嫌疑)したのもこの時である。
この新しい「リフレーション策」を実行する為に大きく観れば「青木氏」に関わる一族を「丸抱え」したともとれる。筆者はそう見ている。

この様に「伝統シリーズ」の前段等で論じた「個々の要素」に付いての「事柄の関係性」を一つにしてまとめるのは「至難の業」ではあるが、ここに全て通じているのである。

筆者は、上記したが、そこで「1615年までの伊勢―紀州域で起こった一揆」の裏には、先ず最初の「一揆掃討」が「掃討軍の賄賂問題」で潰れたのは、「二つの伊勢青木氏の裏工作」では無かったかと観ていると論じた。

前段で論じた様に、これは当に「信長の伊勢攻め」の「信雄の丸山城消失の事件」と同じ手口であるが、「信長の織田―秀吉の豊臣」とは、何と二度に渡り、“「青木氏」の「商い」“に依る同じ手口」に載せられていた事に成る。これは先ず間違いは無いだろう。

そこで、当然に、下記に論じる様に「商業組合」を推し進め、それと「提携商人を作る事」に対して、これは「リフレーション策」の「イノベーション」と成る(イ)(ロ)(ハ)に繋がる事を述べていた事に成る。

これを事前に説明をした上で、1603年頃から“「影の要請」(暗黙の了解)”が、「家康」から受けていたとする事は、影で「15地域の各藩主」は、この「噂の情報」は耳に入っていた事である。
「15地域の藩主」は“「手の出し様」が無かった“が「本音」であったと観られる。
結局は長く続いていた「一揆」が納まり、「納まった要因」が、この「商業組合」に在ったと「15地域の藩主」は周知した上で、「1619年頼宣入城」で「暗黙」から少し進んで“「商業組合衆知」”と成ったのである。
全国に先駆けて紀州藩は、これらの事に関連した藩政の“「地士制度」(下記)”と云うものを敷いた事でも証明は充分である。
これを遣られては、「青木氏の地権力と地域力と不倫権」に、この「商業組合と提携商人策」が加われば、最早、「手の出し様のレベル」では無く、黙認以外には無い筈である。

この様に、「商業組合を創設した経済力」では、例えば、「伊勢青木氏」は「500万両以上」と云われていた事から考えると、「為政者の勢力」は、たった1/100にも過ぎない事に成る。
それに度々効果を挙げる「伊勢と信濃のシンジケート」を独自に持っているのであるし、「15地域」の「同族の結束」があり、「青木氏族との横の関係」が密であるとすると、歯を剥いて戦う馬鹿はいないであろう。
故に、7年と云う“「短期間」“で創設されたのである。

況して、「室町期末期の戦乱」で「経済的な余裕」は豪族大名には無かったし、むしろ、「重税」で「農民」や地域の「郷士衆」を苦しめていた。
下手をすると、「一揆」である。
「一揆」が頻繁に起これば「治政の責任」を幕府から問われる。
つまり、更には、{藩の財政}を維持するには「青木氏の様な豪商」に借金をせねばならない「絶対的環境」にあって、文句を附ける等の事は到底出来なかった筈である。
どちらかと云うと、“体制にそぐわないとか、どうのこう“のではなく、兎も角も、何でも好いから「商業組合」で潤って貰って「地域の安定」と「地権から来る税の収入増」を期待するのが「当面の策」であった筈である。

(注釈 結局は、「権勢」を無理に押し出せば「山内氏の様な事件」に成り、「治政」に怨念が遺る結果と成る。)

では、“この「15地域」ではどうなっていたのか”と云うと、話しを戻して、そこで、特記すべき地域がある。
それは先ず、「青木村」の「福岡 4」には、この「要素」が多分に在った。
領民には、取り分け「商業組合」「提携商人」には深い理解を示し、安定した治政を施した代表的な地域である。
所謂、「模範的要素」を持っていたのである。
筑前黒田藩は「如水の軍師」の家筋で、「質素倹約策」「柔軟対応策」を「治政の根幹」に置いていた事、況して、前段でも論じている様に、「近江佐々木氏の支流末裔」で「近江青木氏」とは縁籍関係にあって、更には「黒田氏」は、伊勢神宮の「神職の御師の立場」にもあって「伊勢青木氏」とも「浅からぬ関係」を保持していた。

(注釈 如水の父の一族末裔は、「二足の草鞋策」を敷いた家柄であったし、「伊勢シンジケート」とも繋がっていた。)

その事から「摂津店」とも繋がりを持っていて、遠からず“「青木氏族」とも云える縁籍関係”にあった。
況して、この縁籍関係から「日向青木氏」は、「黒田藩の傭兵軍団(陸海に渡る旗本に近い黒田藩常用傭兵軍団)」を務めていた。

(注釈 「日向青木氏」は「日向肝付氏」の血筋を持つ「伊勢青木氏京綱」の兄弟末裔である。)

然し乍ら、「定住地名」が、「江戸期初期の氏姓令の禁令」により、これに従った「筑前」には「青木氏外」の「姓族の青木姓」には、「青城や青樹」(「商業組合から関係族」と観られる。)などに名乗り変える事を命じた事から多いのである。
従って、筑前には必ずしも「青木村」を使っていない村もある。
然し又、明治3年と8年の苗字令でも「青木村」(青木氏の「職能の関係族」と観られる。)を付けた「村 3」も存在していた。

正規には、本来は無いが、「日向青木氏の傭兵軍団」が、江戸時代には「黒田藩の常用傭兵軍団」として働いた事から、その「事務所的な土地、又は館屋敷」に「青木村 1」を付けた事が判って居る。
この黒田藩は「商業組合 提携商人」には「積極的な治政」を実施した。
この様に、「黒田氏」は「山内氏」とは「真逆の施政」を敷いた事でも特記に値するのである。

従って、「遠い九州の頒布」には、7年の間に「商業組合の頒布」が難しい筈であるが、上記の様な事から、本来は「準村扱い」としては、「福岡 1」と成る状況にあったのである。

この様に、この「109村」の中には、その“「歴史的な由緒」”を充分に検証して判断する必要があって、この様な判別が難しい「青木村」もあるが、結論としては明確に次の事が云える。

“上記の「推測の20地域」≒「一揆の21地域」とほぼ一致する“に対して、この「青木村 23地域の村」を考察すると、上記の関係式は、次ぎの様に成る。

「推測の20地域」≒「一揆の21地域」≒「青木村の23地域」

以上の関係式が成立する。

以上で、ほぼ一致する事が云え、これで上記の「5地域」と「6地域差」は論じる事は出来る。

つまり、従って、「青木村」=「青木氏」=「提携商人」と云う完全定義の上に成り立っていた事が出来る。
そこで、この“「青木村」”を定義の一つとして据えて本論を研究していた。

然し、その“「青木村」”には、下記に示す様に、重要な「二つの定義外域」があるのである。
「定義外」としても、「青木氏」に執っては“「氏の特徴を示す伝統」”であるからで、これを度外視出来ないのである。

定義外域−A

そもそも、「伝統シリーズ」や「他のテーマ」の論文でも論じている様に、「青木氏の定住地」の基と成る“「青木村」”が在りながら、然し、その「青木村」に「青木氏」が正規に定住しない地域があるのである。
所謂、この「青木村」に永住定住せずに、「青木村」=「青木氏」=「提携商人」と云う定義の下に、「本領に戻る制度」を持っていた地域に住した「青木氏」が居て、そこに「商人の青木氏」か「提携商人」が在ると云うことである。
つまり、「準定住地」と云える地域での「別の商人」が在ると云う事である。

例えば、これに相当する地域とすれば、「肥前−筑前」、「阿波−淡路」、「広域陸奥」、(「紀州」−「伊勢」)の「3地域」などがある。

但し、「紀州北部の有田区域の「青木村」には、この「青木氏」は最終的に南北朝後に戻らなかった。
前段で論じた「近江秀郷流脩行系青木氏」で、「南北朝の戦い」で、「青木氏氏是」に従わずにこの「青木氏」は意見が「交戦主戦派」と「消極的派」の二派に分かれ、「青木氏氏是」を破った「主戦派」が敗退して、「讃岐藤氏秀郷流青木氏」を頼って四国に逃避すると云う事が起こった経歴があって、「紀州伊勢の青木村」の一村内でありながらも、「有田の青木村」を捨てたのである。
然し、一方、「紀州南部域」の「青木村」は、旧来より「青木氏の遠祖地」としてあった事から、「伊勢域」として定義している。

定義外域−B

もう一つは、「青木氏」と何らかの関係を持った“「縁者関係」”で、正規の制度に則って「青木氏」を名乗って、後に「準定住地の青木村」の外側の「外郭域」に村を形成して永住した「商人の青木氏」が多く在る。
これは「否定住地」ではあるが、「職能集団の制度」で「青木氏」を名乗ることを許された「商人の青木氏」が在る。(第三青木氏とは別)
これは「伝統シリーズ」等でも論じて来た「神明社等の各種の職能集団の差配頭」や、土地の「郷士衆を差配する郷士頭」や、「各地域に出店している商人の差配頭」等は「青木氏」を名乗る事を許可する事を定めていた。
この中には許可だけでは無く「女系で繋ぐ事」もあって「青木氏組織」を固めていた。
これらの「差配頭の青木氏」が、その「職能の立場」で「各種の商人」と成っていて、これが「商業組合」を編成してこれらが「経済的背景」と成っていた。

例えば、これも相当地域とすれば、「安芸−蝦夷」、「讃岐−伊予」、「筑前−筑後」,(「紀州−伊勢」)などの「3地域」がある。

但し、「紀州と伊勢域」は、上記の「定義と定義外」の2つの何れにも存在して居るので定義の範囲で論じる。
それだけにこの「紀州と伊勢域」は一つに成って「全ての面」で体制が固まっていた。

以上の二つの定義外域のAとBは、合わせて結局は「地域差の6域」と成る。

この定義外域ABの「6域」が、「推測5地域≒地域差6地域」と成っているのである。

つまりは、「推測の20地域」≒「一揆の21地域」≒「青木村の23地域」
以上の関係式が成り立つ。

「推測の20地域」≒「一揆の21地域」)とほぼ一致するとして、故に、上記の「提携商人」で観ると「15地域」、「一揆」で観ると「21地域」と成るとすると、間違いなく「青木氏」は、「提携商人」と共に「経済的背景」として「民の側」に立ち動いていた事を示す事に成る。
「青木氏」が「二足の草鞋策」を敷いた平安期初期から明治期まで一貫して護り通した「定型の生き様」であり、“「定型の伝統」”なのである。

この「民」を中心とする”「定型の生き様」と「定型の伝統」”があったからこそ、稀に見る「大きな氏」として、「大きな伝統」を持つ「特異な氏」として、一千有余年を生き遺れたのである。

これは、そもそも「一種の青木氏が存在し得た定型パターン」と云って良いものであった。
況や、この「定型パターン」は、「二つの青木氏」がより力を発揮出来る態勢でもあった。
ここでは、この様な要素の“「商人」”に焦点を当ている。

「15地域」の「全ての地域」のこの「定型パタンの商人集団」との関係を論じるのは難しいので、「江戸期に観られる定型パターン」の「伊勢の射和商人」を例に次段の下記に取り上げて論じるが、上記の地域でも同じ様に働いていたのである。(何時か詳しく論じる事とする。)

恐らくは、前段でも論じたが、「伊勢の二つの青木氏」が、江戸初期に「徳川氏との関係」から伊勢で始めた「伊勢松阪の商人組合」(会合衆から新組織を発展)を「原点」として、上記の各地域の「青木氏」にもこの「新しい組織形態」を作り上げた。

「推測の20地域」≒「一揆の21地域」≒「青木村の23地域」の関係式で、”「7年の短期間」”で広めたと観られる。

前段で論じた様に、むしろ“広めた”と云うよりは、(「青木氏の形態維持」と云うよりは)、「新しい経済機構の形態維持発展」の為として、「青木氏発案」に依るものではあるが、“「徳川氏の指導要請」(協力要請)”が基盤にあったと観られる。
その様に、資料から読み取れる。

この“「徳川氏の指導要請」(協力要請)があった“とした事に付いては、下記で論じるが、これは考えられない程の「画期的な事」であって、「青木氏」に遺されている資料から読み取ると、この資料は、「紀州徳川氏からの手紙」である事から考えると、「紀州藩との内談」で進めたと考えられる。
つまり,「内談」とは云え、「家臣と成った伊勢秀郷流青木氏等」と「商業組合」を松阪で推進する「賜姓族青木氏」の“一族内々の打ち合わせの形”に成ったと観られる。
この「1619年の入城予定」の「頼宣」は、事が事だけに「家康からの内諾」を得ていた筈である。
故に、数年も前の早くから「事前調査」や「地域査定等」を行い、入城後は直ちにこれに関連した「藩政の地士制度」の構築に掛かっている。
「家康の了解」無くしてこれだけの事は到底無理である。

と云うのは、何故ならば、この事は「幕府の施政の根本方針」から観て、「公的に指導要請」を出し難い内容であった。
然し、江戸期初期から暫くして紀州藩が管轄した「伊勢紀州」は、上段でも論じたが、「室町期末期からの「著しい混乱地域」であった。
(伊勢の多くの地域は「天皇家天領地」であった。)
取り分け、その理由から「伊勢松阪」は、「紀州藩飛び地領」と成った。
「地権力と地域力と提携商人」の「郷士郷氏の状況」と、「信長−秀吉の圧政」があった事から、又,「山内氏の事例」もある事から、「事前調査」を綿密に、「頼宣」は紀州と伊勢に対して行っていた。
普通であるならば、これを解決するには、上記した様に、「信長秀吉の武力に依る強硬策」や「山内氏の様な対抗策」に頼らねば出来ない事と成る。

この態々「事前調査」をすると云う事は、「反抗の連鎖の繰り返し」と成ると判断した事に成る。

この「事前調査」は、「青木氏の商業年譜」から観て、「1615年の伊勢談合」があって、その後の1年後の1616年家康没があり、それから「頼宣入城1619年」があって、この1619年に、「1615年の提案」を下に行った「事前調査」を踏まえて、1619年の「松阪会談」として最終的に会談が行われているので、この1年前の1618年の間である事に成る。
結果として「1617年」と成り、最低、“頼宣入城 「2年前」”と成る。
この“「2年前」”に、この問題の「事前調査」が行われた事に成る。

恐らくは、「青木氏の商業年譜」の「伊勢衆動員」(上記の一揆処置や事前調査の協力の事もあって総動員を掛けて事に当った。)はこの事も示しているのではないかと考えられる。

1615年に「伊勢衆動員」。
改めて、上記の「二つの事」で「事態の急激な変化」に対応して、改めて事に当たる為に「郷士衆の役割」や「日程や調査」の「家臣団との調整」「作戦調整」等などを綿密に決め計画を進めたと観られる。

1615年に「堺摂津盛況」。
前段で論じた様に、「紀州討伐」での「堺摂津の行動」は元より、「討伐軍の賄賂事件」で紀州産の材木などの売買利益の不当獲得(二度の討伐軍の指揮官の秀吉弟秀長と家臣の吉川氏の二人の指揮官が不正利得)で、取引は繁盛した事は盛況原因でもあるが、下記に論じる「商業組合」が動き出した事でも盛況と成った。
既に進められていた「青木氏の提案」に対して「事前調査」に依って「最終的な紀州藩の協力体制」(1619年に「松阪会談」に向けて)などを打ち合わせたと観られる。

つまり、「青木氏商業年譜」の年代から観て、「青木氏}から事前に知らされ提案されていた状況を、再確認する事も含めて、「紀州藩」としてそれを解決する方法が無いかとして、「事前調査」を行った。
ところがこの直前で、紀州域全域に思わぬ「激しい一揆」が再燃し拡大した。
この事も含めて、事前に改めて「調整談合」を行ったのではある。

この時、既に「家康との談合」で進めていた「新しい商業組合」を「青木氏の提案」で、先ずはこの「伊勢紀州域」に模索したと観られる。

そこで、2年前の事前に伊勢紀州の一揆等の混乱状況を調査する家臣は、これを目前に観たと考えられる。
それが、「頼宣の事前調査」の結果で、「全域の郷士衆」を引き込んで、上記の「(イ)(ロ)(ハ)の商業組合」と組み合わせて、これと連動させる「施策」として導き出したとされるのが、紀州藩の“「地士制度」“と云うものであると考えられる。

一つは、この紀州藩の“「地士制度」“には、他にも幾つかの施策が組み込まれていて、”「地士制度」“として前段でも論じたもので、一つは「伊勢の青木氏」等を含む全ての「郷士や郷氏」を家臣にして「官僚の中心」に据えた事であり、これを以って「紀州討伐」まであった「武士の不満問題」は解消させたのである。

二つは、論理的には「庶民の中にあった不満問題」を解決するものとして、これに関わる「本論の青木氏の提案」(商業組合)があった事に成る。

前段でも論じたこの”「地士制度と商業組合」”は、「武士と庶民の相互間に潜む問題」も補完する「優れもの」であって、「紀州伊勢の混乱」を見事に鎮めた「頼宣の最大の功績」と呼ばれていた。

「伊勢紀州の秀郷流青木氏等の郷士衆」は、「紀州藩家臣」に殆ど全員据えられたが、「郷氏の賜姓族伊勢青木氏」は、「紀州藩勘定方の指導役」として「地士制度と商業組合」を推進する為に内政面から支えたのである。

「青木氏の定住地」として資料から確認できる「15地域」、即ち、「推測の20地域」≒「一揆の21地域」≒「青木村の23地域」の関係式には、必ず、この「定型パターン」の「提携商人」の存在が観られる。

下記に論じる“「独特の関係」(射和商人)”が出来ていた事からも充分にこの事は考えられる。

この事は、上記の主だった「15地域」の「青木氏の定住地」に在るとすると、この「青木氏の提案」が、伊勢で効果があるとして、江戸初期の混乱期の後の施策として“「地域安定策」”を狙って、各地に「商業組合の頒布」を“暗黙(下記(イ)(ロ)(ハ)が在って公認はできない)”で容認された事に成る。

下記に示す「江戸期初期の一揆」からも多発していた事が判り、これを「武力」で抑圧させるのでは無く、「青木氏提案に依る奇策」の「安定策」で乗り越えようとした事が良く判る。
「紀州徳川氏」からの「伊勢青木氏の福家」に出された「数通の手紙」からそれが読み取れるが、それで無ければ、当時としては、各地にこの「商業組合の組織」が拡がる事は、体制上からはこの下記説明の(イ)(ロ)(ハ)“は全く好ましくない事”に成る。

況して、幕府の御家人や旗本に据えられて、官僚の中心と全国各地に豪族として定住する「秀郷流青木氏」の「二つの青木氏」の地域に対して“頒布”と成ると、誰が考えても余計に危険であった事に成る。

この時の事を物語るものとして先に例を述べて置く。
この「複数の手紙」の中には、この“「青木氏の貢献」”に対して「天皇家」に対して紀州藩より「伊勢青木氏」に対して「格式授与の提案」をしていて、これを「青木氏」が「青木氏の氏是」に依って体よく断っている。
その紀州徳川氏一通目の手紙には、「青木氏の貢献」に付いて、前段で論じた「射和商人」などを例に挙げて“「地域貢献」(前段の殖産と興業)“に付いて書かれている。
そして、その後の手紙で、朝廷の「賜姓族の役処」の「紙屋院の青木氏」の管轄下にあった「絵師処」としても、自らが描いた「和歌浦と那智熊野を描いた墨絵の南画の絵」を献上する事で解決して献上している。

天皇家に献上すると云う事はそもそも「素人の絵」は献上する事は無い。
従って、この事から「紙屋院の紙屋」であった事から、その和紙を扱う関係上で、本職では無かったが、本職に類する程の絵師(土佐派)でもあった事を物語っている。
口伝では、代々、「紙屋」としての義務資質に相当する「伝統的な役処」であった。

前段でも論じたが、後に、江戸期末期に土佐に移動した「脩行系青木氏の末裔」でもあった「朝廷絵師の土佐光信」(公家系の青木氏族)に師事して江戸末期には正式に本職とした。
この頃、「墨絵の南画」は、衰退し朝廷の中でのみ存続していた。

この事は、「紙屋院の管轄下」としての「絵師処の朝廷絵師」に直接に「青木氏」が務めていた事が判る。
この「近江脩行系青木氏」は「紀州有田の青木村」にその祖は住していた。

(注釈 「南北朝の乱」に参加して敗退して移動、「末裔の光信」は、土佐村の「土佐氏の養子」として入った。)

この為の「天皇家からの返礼」(大臣の内右大臣代書)が紀州徳川氏経由で届いている。
この時の「複製画」と共に、この「箱入りの返礼書 二通」と「賜品の藤白墨と紫硯石」が遺されている。

恐らくは、この「絵の献上」の意味する処は、「国策氏の賜姓族」である事の上に、“「青木氏の貢献」”を、“「朝廷」”と云う「権威の象徴」を重ねて使う事で更に権威化させて、「幕府の保守勢力」を抑え込んだと観られる。
故に、「近江脩行系青木氏」の「土佐光信」の様に「伊勢青木氏」が「絵師処」では無いにしても、「国策氏」としての「紙屋院の伊勢青木氏」が献上する事が出来たのである。

そこで、先ず、この「商業組合」と「提携商人」と云うものが、“幕府体制上好ましくない“としているのはどの様な事であるかを明確にする。

本論を理解するには欠かす事の出来ない大変重要な予備知識である。

「商業組合の内容」
従って、この「射和商人の背景」と成っている“「伊勢衆の郷士」と「松阪商人」の関係”に付いては、他の「定住地地域の状況」を理解する上でも、是非、ここで明確にしておく必要がある。

そもそも、その大元は、前段でも論じた様に、「1619年の頼宣入城」の前から「紀州伊勢域の門徒衆」に対して、「青木氏の説得」に応じた者等とを救済し政権から保護した。
然し、そして、この「救済保護した門徒衆」と「伊勢郷士衆」との「連携や連帯」を興し、これで以てこの「二つの関係」(商業組合と連携商人のシステム)を発展させたものであった。

そして、その上で彼等(反抗勢力の門徒衆)を“「政権側の圧力」(1619年まで)“から保護する為にも「青木氏」が主導して国内で初めての全く「新しい形態」の”「商業組合」“が構築された事から来ている。

勿論、「室町期の戦乱期」から「江戸期の安定期」に入る時代に即応した態勢であった事は云うまでも無い。

要するに、下記で詳細に論じる「一揆」(孟子論の中の漢語:ある勢力から互いに「政治的結社」をして、ある条件の下に一つに成り、我が身を護る集団の事)、即ち、要するに、本来の意味の「鎌倉期に存在した一揆」であり、これを室町期末期から江戸期初期に掛けて新たに改善を加えて創設したものである。
この「商業組合」は、即ち、この「反抗勢力」を意味しない“「本来の一揆」”の一つの形である。
これが出来たのは、「青木氏」ならではの事であり、「青木氏」で無ければ出来なかった事である。
その根拠は下記で瑠々論じるが、「鎌倉期の一揆」と、「江戸初期の一揆」(商業組合)とには、そもそも大きな違いがあった。

それは下記でも論じるが、“「鎌倉期の一揆」“は、”「階級と身分」“を股が無い「武士だけの軍事的結社」であって、この結社は、「軍事勢力と政治勢力」に対抗したものであった。

それに比べ、「青木氏」の「江戸初期の一揆」の「青木氏の結社」(商業組合)は、この「階級」や「身分」や「氏」や「姓」や「職業」や「宗教」などの一切の「出自格」(イ)を一切取り除いた事であって、それを“「商業」(ロ)”と云う「経済的結社の自由勢力」(ハ)を使って、「軍事勢力と政治勢力」に対抗したところにあった。

この“(イ)、(ロ)、(ハ)”が後の「徳川幕府態勢」(氏家制度と封建制度の社会)に執っては“「真逆の体制」“であった。

「鎌倉期の一揆」には、未だこの(イ)、(ロ)、(ハ)の概念は無かった。
「諸法度」を定めて、それまでの平安期からの“「氏家制度」”を完成させ、徹底した「身分格式」による“「封建制度」”を敷いた「格式社会」の江戸期としては、この“「商業組合の組織」“は、当に”「逆行する体制」の組織“であって、到底、江戸期としては考える事が出来ないほどの「画期的な事」であった。

逆に「幕府」に執っては絶対に許す事が出来ない「危険極まりない組織体制」に成る。
この組織が「力」を持つと、丁度、「明治期の維新勢力」と同じ様相を呈する事に成り得る。
ところが、これが、江戸期初期に何と「15地域」まで広がったのである。(根拠−1)

本来なら、これでは放置できない事で、保守派に執っては「幕末の新選組の行動」とも成る事でもあったし、丁度、「反動の象徴」の「一向一揆」が「15地域」に一機に拡がった事にも成り得るので「初期の幕府」は慌てた筈である。
田舎の一地域の「一向一揆」でも放置しなかった幕府は、体制に影響する(イ)、(ロ)、(ハ)の「商業組合組織」が「15地域」に拡がったと成ると、絶対に放置していなかった事に成る。
然し、黙認したのである。

然し乍ら、この「立役者の家康」は、上記した様に、何とこれを、況や「(イ)、(ロ)、(ハ)の「商業組合」を「青木氏」に「暗黙の内」で認めたと云う事なのである。(根拠−2)
普通で考えればあり得ない事である。

その頃、未だ、1600年頃からの“「会合衆」”は、20年程度しか経っていない組織で、「大店の商人」(A)に限定していて、「政治勢力」(B)と結託していた組織であった。
だが、「青木氏の商業組合」(イ)、(ロ),(ハ)は、“結社する商業組合の関係する職能者”までも含めたもので、「青木氏部の職能集団」や「末端の殖産者」(農民や庶民)までも囲い込んだのであった。(根拠−3)

唯、違う処が実は一つあった。
それは、「青木氏」が持つ“「シンジケート」”であった。(根拠−4)
前段でも論じたが、この「シンジケート」は、記録から読み取ると、江戸期では「青木氏部の職能集団」に組していた。(前段の「伊賀の郷士衆」にも話が通ずる事)
従って、「表向き」は、その主務は、「荷駄護送の職能集団」と「保守勢力」から「青木氏」を初めとして「全組合員」を護る「組合組織の警護役」であった。
「商業組合」と成った事から「広範囲の職能部」に対する「商品の流通」と「荷駄の搬送」は活発化する。
これ、即ち、「組合組織の警護役」無くして成り立たないであろう。

故に、何人も持ち得ない“「シンジケート」”を持つ「青木氏以外」には無し得ない“「商業組合」”であった事も明白である。
この「職能集団」は、仮に武力で攻撃された場合には、これを「排除する力」を組織的に充分に持ち得ていたのである。

前段で論じた内容の様に、極めて恐れられていた。
狙撃以外には武力で対抗してくる組織は無かった筈である。例え幕府でもある。
その意味で、幕府と保守勢力の体制側は、“「政治的な力」”で阻止する以外には無かった。
その為には、この遺された手段の“「政治的な力」“を阻害させる為には、推進側(頼宣と青木氏)は、上記した様に”「権威」(絵の献上などに依る「朝廷権威」と上記した様な「家康のお墨付き」)“を使ったと観られる。(根拠−5)

周囲は、上記した様に、この「新しい商業組合」に対して、「保守的な抵抗勢力」の存在は当然に否定できない。
ところが世の中の事は一筋縄では行かない。
例え、「家康や紀州藩」の「暗黙の了解と要請」があったとしても、この「保守的な抵抗勢力」には公然と対処は出来ないであろう。
先ず、聞く耳を持たないであろう。
「商業組合の良し悪しの問題」では無く,あくまでも「目的」は「出る杭は討つの保守」なのである。
事件等が起こって「公の問題」と成った時には、「青木氏」が勝手にやった事だと処理されるが結末だろう。
それには、何事にも何時の世も初期には、“自らを護る強力な抑止力を持つ警護集団”が必要である。

況して、大阪では、依然として「会合衆と云う組織」が存在して居るのである。
この「会合衆」に執ってみれば、明らかにのこの「保守的な抵抗勢力」と云えるし、保守的な周囲も、体制に大きく違っていない「会合衆」の方が容認するであろうし、「幕府の官僚」も政治勢力と組する「会合衆」の方が何かと利得があって都合は良い筈である。
これは、「(イ)、(ロ),(ハ)の要素」を持っている限りは、絶対に「青木氏」に執っては「公の問題」とは仕難い事に成る。

丁度、平安期初期の「賜姓五役の国策氏」として“「紙屋院」”をしながら、暗にこれを認めていた「朝廷」と同じであり、況や「青木氏」の「二足の草鞋策」と同じあり、江戸期も「伊勢郷氏」で在って「二足の草鞋策」を続けていた事から起こった「類似現象」と云う事に成る。
それだけにそれまでの「難しい伝統」は生きて来ている筈である。
当に、「平安期の紙屋院」と、この「江戸期の商業組合」とは、「新しい事」、即ち、「改革」(イノベーション)に通じて同じである。
「青木氏の本質」の「伝統」は、ここに在って、依然として遺されていた事に成る。。(根拠−6)

とすれば、平安期にも在った様に、況や、「幕府官僚」も「保守的な抵抗勢力」と云える。
ただ違う処は、「天皇の発言の絶対性」と「和紙と云う未開の産物の開発」に携わった事から、官僚に於ける「保守勢力の抵抗勢力の強弱」は比較すれば在った筈である。
況してや、官僚より数段上位の立場と格式にあった「賜姓五役の国策氏」であった事から大義が青木氏側に在り、当然の事として官僚は黙る事しか無かった事に成る。
「違う処」とすれば、それは「平安期の社会性の強弱の差」にあった。(根拠−7)

江戸期は、「会合衆と幕府官僚」が最大の「保守的な抵抗勢力」であった筈である。
唯、「幕府官僚」に付いては、前段でも論じた様に、官僚の中は「秀郷流青木氏」等が「御家人と上位の旗本衆」で占めていた。
中々、他の官僚や大名は、大拡げに問題視する事は出来なかったであろう。
この「歯止め」は効いていたかも知れない。(根拠−9)

少なくとも、「紀州藩」に於いては、前段の通り、「藩主頼宣」は「伊勢紀州の秀郷流青木氏と伊賀の郷士衆」と、「青木氏が導いた門徒衆」(「仕官」と「商い」に別れた)を「まる抱え」で家臣にして、それを公の形の“「地士制度」”に採用しているのであるから、これが「謀反」と疑われ位であった事から、「紀州藩の官僚」からの「抵抗勢力」は無かったと観られる。
むしろ、「紀州藩の官僚」は、別の「二つの青木氏の同族同門」の一族が行っている事である以上は、裏で「推進していた行動」を採っていた事は間違いは無い筈である。(根拠−8)
況して、“「紀州藩勘定方指導」”と云う立場にあったとすれば、「抵抗」どころの話では無く「謀反」と観られるのが落ちであった。

その証拠に、“「地士制度」”と関連付けた「吉宗の伊勢親代わり」、「紀州藩の勘定方指導役」、「享保改革の立役者」であったのであるから、とすると、ただ一人“「光国の抵抗勢力」と「江戸商人」”であったと考えられる。
「頼宣謀反の嫌疑」は、「秀郷流青木氏の家臣丸抱え」だけでは無く、筆者は、この各地の「青木氏の定住地」に広がる“「商業組合」”にも確実にあったと観ている。

然し、「家康の内示」と「頼宣の要請」が陰にあって、これを理由に「直接の攻撃」は出来なかったのであったと観ている。
これでは「青木氏」も公的に、“「家康」や「紀州藩のお墨付き」がある”とは言い難い事に成る。
従って、上記した地域には、少なくとも室町期末期からの各地で起こった「顕如の煽動」による「門徒衆の動乱」から来る“「門徒衆」”の事とか、「青木氏と連携を図っていた郷士衆」の事とかの同じ様な“「事件」と「連携関係」“が、各地(「15地域」)の「青木氏定住地」で江戸初期にはあった事が認められる。

後は、「地域環境に持つ抵抗勢力」であった。
「商業組合」を浸透させるには、その土壌と成る「地域環境の整備」が必要であって、その先ずやらねばならないのは、「地域の混乱の平癒」であった筈である。
「伊勢紀州」は、上記の通り、「地域の混乱」は極めていた。
それ(「地域の混乱」)が、取り分け、“伊勢紀州人は独自性が強い”と云われている原因となっていた“「門徒衆」”であると論じている。

つまり、判り易く云い切れば、先ずは「青木氏の採った采配」は、「反動性の強い門徒衆」をこの「商業組合」に抱え込んだと云う事なのである。
明らかに紀州藩に執っては、この事は「体制の弊害処の話」では無く、“「地士制度」”に伴う重要な施策であった筈である。
場合に依っては、「青木氏の商業組合の(イ)(ロ)(ハ)の反体制性」については、確証は発見されないが、この“「地士制度」の中の「一環政策」”と云う事にして、「幕府の追求」を「頼宣謀反の範囲」で留めてこれを逃れたとも考えられる。

この「門徒衆」を抱え込んで「地域の混乱を治めた策」としての「商業組合」を創設した形を採り追求をかわしたともとれる。

唯、一つこの“「地士制度」”に付いて、それら上記で論じた様な事を証明する、或は、物語る「意味合い」がこの呼称に持っている事が判る。

それは、「地」と「士」と[制度」の字句の意味である。
先ず、紀州藩の官僚は、“「制度」”と云う風に言葉を選んだことである。
普通は「策」であろう。
「制度」と成れば、可成り広域の範囲での複数の政策から成り立つ組織制度で、その体制の根幹を指し示す言葉と成る。
例えば、「封建制度」と云う風に、然し、「武家諸法度」とかに成れば「策」であり、つまり、政策の範囲である。
この“「地士制度」”は、そもそも紀州藩での位置づけは「政策」であって、「制度」での定義では必ずしも無い。
然し、あくまでも“「制度」“と呼称しているのである。
何かこれに「特別な思惑」が介在している事は明明白白である。

次に、もっと不思議な事は、「地」と「士」の言葉の使い方である。
「地」は「地域」「土地」を意味する「環境域の言葉」である。
「士」は「武士階級」を指し示す「身分域の言葉」である。
つまり、この「地士」は、“環境域と身分域に付いての制度だ”と云っている事に成る。
然し、紀州藩は、この「環境域と身分域の事」に付いて全く触れていない。
“触れてない“と云うよりは、そもそも限定して確定してはっきりとさせていないのである。
なんの説明も何もない。
あるのは「地士制度」と云う政策の「言葉の存在」だけである。

ところがそれには、この「地士制度」には「大きな矛盾」が潜んでいた。
「環境域と身分域」に付いては、江戸幕府(1600年 征夷大将軍)に「士農工商」の制度(1603年)があって、その詳細を「武家諸法度」(1615年)等で決めている。
これでは、頼宣(1619年)ははっきりとさせられないであろう。
況して、この「地士制度」には(イ)(ロ)(ハ)が在る。

筆者は、上記の論より、これは、先ず「地」は「紀州藩領」、そして「士」は「その紀州藩の環境」の中にいる「定住する武士」、即ち、「郷士、郷氏」を指していると観ている。
そうすると、この「地士制度」の「士」が、幕府では、そもそも“「士」”は、孔子論に沿って、本来は“定義上は「官僚」”を意味している。(孔子論の定義である。)
ここには、「郷士 郷氏」と「官僚」との「格式差」、「言葉」の定義の異議が起こっていた。
ところが、正しくは「士]は、元来、”「領地を持つ大夫」の下で働く職能者”と云う定義であって、そこで、日本の慣習に充てると、この「中国の周時代の大夫階級」に相当するのが「地域の地権」を有していた「郷氏」に当たる。
そして、この「郷氏」のその下で働く「家人階級」を「士」と云う事に成る。

そもそも、「士」が「武士域」を指し示す様に成ったのは、「江戸期の前半」(1630年〜1640年頃)であって、未だ、この時期までは”「官僚」に従事する者”だけを指し示していたのである。

(注釈 この定義は孔子論に基づいているが、日本では平安時代にこの職能の職域の者を「部人」と呼んでいた。)

(注釈 決して、「幕府]が云うのは、定義上の「地権」を持つ土地の「郷士や郷氏」を差し示すものでは無かった。下剋上で「氏族を含む対象族」が激減した事に依っている。
中国の周では、「小領主の大夫階級]が「官僚]と成り、その下に「士」が所属して位置していたが、これを無視して「士」が「官僚」と無理に位置付けたのである。)

そもそも、江戸期では定義を「官僚」としなければ成らない理由があった。
「姓族」の「士」クラスが台頭して武人(具人)に成り、逆に「氏族の郷氏」が衰退して激減したので、この「士族」(姓族)と呼ばれる者が大半を占めた事から起こったのである。

(注釈 日本の最初の姓族は室町期初期の安芸の海部姓が最初と観られている。海産物等を作る職能人であった。)

それを「士」を幕府が定めていない階級の「郷士郷氏の領域」まで、「紀州藩の地士制度」で定めようとしたのであるから、四角四面の「保守派」は黙って居られないであろう。
「保守派の抵抗」は、この「商業組合(イ)(ロ)(ハ)と、「地士制度」の「士」に付いても追及に及んだのは間違いは無い事である。
この事からも「謀反の嫌疑」も充分に掛けられたと考えられる。

前段で論じた「紀州藩の家臣」は、「伊勢紀州の郷士衆」を全て殆ど家臣に仕立てた経緯を説明した。
ところがここに問題があったのである。

その問題と云うのは、幕府では「士」は「官僚の定義」と成っている。
云い換えれば、この「官僚」は元々は「士」である事に成るのに、紀州藩は「士」を家臣にせずに幕府が定める「士」の範囲では未だ定めていない「郷士や郷氏」を大量に家臣にして「官僚」にした事からも「矛盾の問題」が起こったのである。
況して、その「郷士や郷氏」が「(イ)(ロ)(ハ)の商業組合」を創設し、尚の事、「携帯商人」を仕立てて連携したと成ると看過できないとして「幕府の保守勢力」は騒いだのである。

ところが、幕府は、1615年に「武家諸法度」を定めた際の数年後に「士農工商」に入らない「郷士郷氏」をどうするのかと云う「矛盾問題」が矢張り勃発してしまった。

そもそも、「郷士郷氏」は、「悠久の歴史」を持ち「格式、家柄、身分」は奈良期と平安期に定めた身分制度に依って、「士」より遥かに高いと成っていて、朝廷が認証する”「公家」”の“氏を構成する「家」”と共に、本来の”「武家」”は「公家」と「同格の家」であって、平安期より「士」(姓族)では無く“「侍」”の「呼称と格付け」の「身分で氏族」であると成っていた。
そして、この「侍」は“「天皇にさぶろう者」”として位置づけられ「付き従う=さぶろう」の身分階級として位置付けられていた。

そもそも、上段で論じたが、「宮廷警護」と共に、「天皇を警護する皇族の賜姓族」が専属で務める権威ある「北面武士の立場」にもあった。
そもそも、この「士」は、奈良期の「八色制度の階級」や、「表彰や俸給や官位」を与える制度や平安期の「官位格式制度」の範囲には全くは入って来なかった階級であった。

「侍」は「従五位下」(即ち武家)の身分に最低でもあった。
「士」には、「官位官職の授与」のみならず「天皇にさぶろう位置」には全く遥かに無かったのである。
そして、そもそも「士」とは,「侍」(さぶろう者)の下で手足と成って働く”「戦闘員」”の意味を持っていた。
「侍」(さむらい)が「天皇」に「武」を以って”さぶろう事”から”武の家”であって、”「武家」”と成り得て、「士」には「家」を作る事を認めていなかった。
「士」はあくまでも”侍の武の代行者”の位置づけに在った。

「士」とは、そもそも、「阿多倍」が引き連れて来た200万人の「後漢の職能集団」が奈良期に帰化し、その”「職能」”を務めたが、この時に、”朝廷の中で「職能士」”としての”「士」の位置づけ”を行ったものであった。
故に、「朝廷に詰める士」を以って「孔子論の官僚」と位置づけ、皇族出自の多い「侍」は、そもそも「官僚」では無く、「身分格式の位置づけ 氏家」であった。

その後、平安初期に阿多倍の「長男の坂上田村麿」が、「桓武天皇の背景」を下に「征夷大将軍」と成った事に依って、「士」が「職能士」だけでは無く、”「武家」にも成り得る者”としての概念が広まったのである。
その後に、室町期初期に成って「下剋上」が起こり、「士」が「武」に執って代る事を世間に示した事から来ている。
この時から、「武の立場」と「士の立場」の二つからなる造語の”「武士」”という言葉が生まれた。
次第に「武」と「士」の融合の階級が起こった結果、「氏族」の「武を持つ武」と、「姓族」の「具を持つ士」との「役務の統一化」が起こったのである。

ところが、江戸期に「武家諸法度」を決めた際に、“そもそもの「武家」”の持つ意味が、「公家」に准ずる階級であって、「士」が対象とは成り得ていないものであった。
つまり、正しくは「幕府]が云う”「士」”では無いと云う矛盾で問題視された。

結局は、この「矛盾」を解決する為に、数年後に「郷士郷氏の武家」を含む「士」をも以って“「武家」”と呼ぶと云う事に成り、“「士」”も“「侍」(さむらい)”とも成ったのである。
要するに、「武の家」と「士の家」の「身分の区切り」を取り除く「融合策」を採った。
結果として、「氏族」と「姓族」の融合も起こった。
つまり、況や「朝廷が認定した氏族」(武家)と、「幕府が黒印状で認定した姓族」(士家)を区分けせずに統一化したのである。

其処から、江戸期で呼称される「士」の通称の“サムライ”はこの時(1630年代)から呼称される事に成った。
これは「頼宣入城1619年」の後に見直された事に成って、結局は「整合性]がとれた事に成ったのである。

「天皇」と「公家」の「公家諸法度」(1615年)を定めるに当たって、この「融合策」を採るしか無かった事に成る。
そして、これらの「矛盾」もを更に見直して新しい矛盾や問題を抱えていた「公家諸法度」(1632年)と、上記の「武家諸法度の整合性」も含めて密かに見直して制定した。
これ以後、「整合性」が取れた事から「保守派の抵抗の根拠」の一つは無く成った。

従って、この間に、この「幕府の保守派」から問題視され警戒された「地士制度」は、従って、燻って議論に成っていた期間を含めて約6年間程度以上(最長12年間)の間に文句を言い続けられた事に成った。
つまり、この時期を経て「商業組合の頒布」が佳境を呈した時期にあった。

これが、この見直しによる「融合策」が確立した時期の頃から「保守派の抵抗」に大義が消滅して、「15地域」の「商業組合」も佳境に入ったのである。
そこで、結局は、「士」は家臣に成った「郷士衆の連」を含む「伊勢紀州の全域」の「郷士衆」を指している事に成って「整合性」が採れて進んだと考えられる。

「紀州藩の地士制度」の方が正しいと成って,その「妥当性」が認められる事に成った事に対して「士」に対する嫌疑も無く成った。

然し、未だ保守派は完全に「無駄な抵抗」を諦めなかったのである。
この時の「抵抗」は,遺された資料では特定はしていないが、青木氏の手紙関係に遺されている文面から読み取ると明らかに関西域では無い事は判るが、これは「幕府の官僚」では無く成り,「江戸域の商業関係の商人」であった様である。
そもそも、前段で論じた様に、「幕府官僚」の多くは、一族の「関東の秀郷流青木氏」である事から、この「執拗な抵抗」を続けるのは、それ以外の利害に関する官僚族であって、それに「関連する関東域の商人」である事は,「手紙の絡み(抵抗しているとは書いていない)」の中に出て来る「商人名」から判る。
要するに、関東域の「抵抗の目的」は、「地士制度に基づく関西発祥の新しい商業組合」が関東域の各地に拡大すると、「関東域の商いの商慣習」に「悪い影響」を与えるとする「懸念と嫉妬」に近いものであった。

これに依って、「士」は、当然に「紀州藩の家臣(官僚)」に成った者も含む事に成り、「地士制度」はある程度の大義を獲得するに至ったのである。
然し、(イ)(ロ)(ハ)の事があって「商業組合との連動」では完全に疑念は拭えなかった。

そうすると、その「郷士衆」が持っているあらゆる問題を政策的に解決する上記で説明した様な「総括的な制度」として敷いた事に依る策と成り得た。
然し、「地士制度の正当性」は、(イ)(ロ)(ハ)の事は除いて明確にしていない以上は「士の定義上」では意味を持った事に成った。

そして、この「地士制度」は,「限定した形」の採れない「個々の問題の政策」では無い、融通の利く、その都度、追加で定める「政策の手段」であった事から、より抵抗する方向性を変えて来たと考えられる。

この「地士制度」は、「頼宣の事前調査」や「青木氏の提案等」で「混乱する伊勢紀州と云う環境域」を、何らかの制度、或は、条令に依る「決まり」や、新たな「掟や仕来りや慣習」を以って安定させるシステムを敷くとしたもので、試行して効果あるとした時には、都度、決まり次第に、この「地士制度」の中に組み込んでいった制度として行ったものであったと考えられる。

これで、「幕府の追求」を逃れたと云うよりは、「余計な口出し」を出させなかったと云う事の方が正しいと考えられる。

上記に論じた様に、場合に依っては効果的であれば、「商業組合」の様に「幕府体制に反する事」も出て来る事もある筈で、一々紀州藩のする事に“「口出し」”されては伊勢紀州は納まらない筈である。
全てこの“「地士制度」の中の事である“としておけば、これでこの「地士制度」は”「家康の了解」“を得ていたとして突き跳ねれば、引き下がる事に成る。
要するに、俗に云えば、“無礼者 下がれ。これが目に入らぬか。”の“「水戸黄門の印籠」”である。
“権現様の成せる事に口出しするのか”と一括すれば引き下がるのである。
「家康」に特段で可愛がられた「頼宣」であったからこそ、このゼスチャーで納められたのである。
其れには、関連する確立した政策が必要で、それを“「地士制度」(印籠)”と名付けて示唆したと考えられる。

さて、話を戻して、然りながらも、”完全に安定していたか”と云うと、そうでは無く、ある一定期間を経て、下記に記する様に、この「紀州藩」にも例外なく「反抗一揆」はある時期より多発した。
この“「地士制度」”で、江戸期初期から何とか57年間(1603年からすると73年間)は納められたが、再び、半世紀後に再発したのである。
では、「地士制度」で「色々の決まり」を作り上げたが、「印籠の効き目」が無く成って来たのかと云う事に成るがそうでは無かった。

この「地士制度」の効果を発揮している「商業組合」があり、「提携商人」がある「15地域」には、1680年以降では、「7つの一揆」と、関連性の高い一揆が「9つの一揆」が発生した。
これには、「共通する特徴」があった。
その特徴が、「時代の変化」で、”ある事”に依って「効き目」が阻害され低く成った事だと観られる。
果たして、“それは何なのかである。”
答えから先に云えば、それは、「宗教」である。

「青木氏」が、「商業組合」を「15地域」に浸透させ、効果を挙げ、約半世紀以上は確かに民に潤いを与えた。
然し、此処で、如何なることをしてもこの「商業組合の潤い」では解決できない事がある。
それは”「民の心」”である。
この「民の心」を「経済的な潤い」で一時的に平癒させても、”「宗教力」”と云うものが強く成れば、”「民の心」”は変化を興す。
これは「世の常」である。
”「宗教力」は強く成った”のである。

それは、マンネリから来る「支配側の施政の悪さ」からも来ている。
社会が戦乱から安定すると、支配側には、「利に対する欲」が、「政に対する慣れ」が出てそれが「庶民の生活環境」に圧迫を加える。
これに対して、「民の心の支えと不満」を「宗教」に求め、「宗教側」もこれに乗じてこれを扇動する環境が起こる。
「宗教側」は民を救うとしての大義で以て「支配側の悪政」を云い募る。
結局、この煽動で民は「反抗」と云う形で集団で訴える。
これが、上記で論じた「一向宗」(浄土真宗系)が大きく動いた事なのである。

「下級武士」も伴って「民の心」が叶えられるとして「一向宗」は爆発的に拡大した。
それが、「頼宣入城後」から約60年後の所謂、江戸期の1680年頃からの現象と成って現れたのである。

そこで、これらの事を理解するには、先ず“「一揆」”と云うものにより理解を深める必要がある。

そもそも、“「一揆」”とは、現在、一般的に「言葉の意味」として云われているものとは根本的に異なっていたのである。
それは下記に論じる「一揆」の事からも判る。
元より、「伊勢と紀州」では、特別に“「門徒衆」”と呼ばれ、この宗徒が恐れられる位に多いところであった。
それ故に、特別に「門徒勢力」の強かった地域でもあったが、上記した「15地域」の「浄土真宗の布教の強い地域」では、強弱はあるにしてもこの現象(“「事件」と「連携関係」“)が必ず認められる。
特に、「加賀一揆、越前一揆、鯖江一揆」等の有名な「大小の反抗」は、数えれば限りがないが、全て「青木氏の定住地」の域で起こっている事である。
「15地域」とは、云い換えれば、「門徒衆の何らかの強い行動」が認められる地域でもある。

「信長」から引き継いで「秀吉の時代」も、有名な「鯖江の誠照寺の事件」を初め、下記の「紀州勢力」のこの組織化された「門徒衆の勢力」を「根絶やし」にしようとしたものであった。
取り分け、紀州の北部域では、“「紀州討伐」”と云う形で“「門徒衆」の背景”と成っていた「雑賀衆」と、これと連携していた“「根来衆」”にも攻撃を加えて、歴史上に遺る庶民を巻込んだ「熾烈な作戦」を展開した。
この「雑賀衆と根来衆と高野山真言宗」とは、下記に論じる一種の「二期の一揆」で結ばれていた。(高野山は僧兵を初め早々と脱退した。)

この様な事が主要な「青木氏定住地」で起こっていて、「二つの青木氏」の様に、「密教系浄土宗の家」では、反抗勢力の「門徒衆」に陰陽に「経済的な背景」を与えながらも、敢えて、“「密教」”と云う事を表に出さない様にして“憚っていた事”が伝えられている。
信長後の「門徒衆の勢い」は依然として強く、これを徹底的に削ぐために採った「秀吉の数度の紀州討伐」はあったにせよ、要するに“「門徒衆の反抗」“は、その後(1620年頃まで)も続いていた事を物語っている。

結局は「門徒衆の反抗」が納まったのは、それまでの政権が採って来た「武力」では無く、「青木氏の提案」、つまり、「飛散した門徒衆」に徒党を組まさずに「商業組合」に囲い込んで「射和商人」と云う「独り立ちの商人」に仕立て上げた事に依って納まり、末端の社会も「徒党の争い」を排除する社会へと変化した事に在った。

(注釈 「15地域の青木氏定住地」でも、「門徒衆 浄土真宗」と「一向衆の一向宗」の強い反抗があった。)

伊勢紀州は、「高野山の真言宗」と「伊勢神宮」のお膝元でありながら、又、「根来寺の宗教僧兵」の地域でありながらも、「紀州と伊勢と奈良の土豪集団」は、殆どが「門徒衆」であって、それほどに“「門徒衆」“は強かった「不思議な地域」なのである。

そもそも、“何が強かったか“と云うと、それは「揉め事などの事件」が起こると、この「門徒衆」の性癖は、”「集団」“で事に当たった事にあってそれが怖かったのである。
それは、「浄土真宗の最大の教義」にあった事に依る。

「青木氏」は、「御師様」や「氏上様」と慕われて呼ばれ、「信長−秀吉」から「門徒衆」を保護したりするなど「地域の民」の為に貢献して居た事もあって、“先ずは攻撃はされない”とは観ていた様であったが、それでもその“「集団」“で仕掛けられる事に、「権威を重視する象徴族」であった事から「必要以上の摩擦」を避けていた事がこれでよく判る。

ところが、こんな中で在りながらも、「伊勢青木氏の四家」の中でも、「四日市殿の末裔」は、何故か特に気にしていた事が伝わっていて、筆者の「福家の家」のみならず「四日市殿」の最近までの口伝にもはっきりと遺っている。
“密教と発言や慣習を表には出して成らない”とする「口伝」とでも云うか、要するに「戒め」であって、両家や「郷士衆」の家筋にまで伝わっているところを観て見ると、何か激しい「宗教的な揉め事」が江戸中期頃にあったと観られる。(下記)
不思議にこの「口伝や戒め」の多くは、「員弁殿」や「桑名殿」の伊勢北部域には無く、「名張殿」の西部域と紀州域を含む南部域に観られる現象である。

ある大きな「二つの事件」から考察して、“これは何か変である。”
そこで、確実に確証とれるものとしては判ってはいないが、江戸初期からこの期を通じて長い間に“何かの事件”が発生し、つまり、気にしなければ成らないほどの事が起こっていた。
「門徒衆」を救った側からすると、主に“「四日市殿」の南部域にあった”と観られる。
ただ「門徒衆側」の方では、「浄土真宗の宗教教義」に没頭している事からすると、当たり前の事であったかも知れない。
この“没頭する事“、これが「門徒衆」の「最大の教義」であったからである。

そもそも、この「四日市地域」というのは、この「射和商人」の「家族が住む集合住宅」が集まっていた地域(青木氏の地権地域)でもあった事から、共に同じ所で生活し仕事をする事に成った「門徒衆の商人」も住む事に成った地域でもあった。
彼等を刺激しない様に、「伊勢郷士衆」から密かに言い渡されていたのではないかとも観られる。
この口伝が必要以上に明治期まで遺されていると云う事は、その「配慮不足」で、“拗れて折角囲い込んだ「門徒衆」が、再び離散して反動に出るのではないか“と云う懸念が初期の頃に充満していたと観られる。
そもそも、それは「浄土宗」の「伊勢青木氏」に関わった「20程度の浄土宗徒」の「伊勢郷士衆」からすると、「浄土真宗」は「異教徒」と云う事に成るが、それだけに昔からの「伝説的な事」もあって気にしていたのであろう。

室町期中期から江戸期初期頃までは、少なくとも「異教徒」は,「身分格式家柄の差」で判別されるので、現在感覚の「異教徒」では無かった。
この「異教徒」では、歴史観として必要な知識では、本来は、「宗教的な慣習差」で「不必要な争い」を避ける為にある程度の「棲み分け」をしていた。
正規の慣習の“「棲み分け」”をしていたと云うよりは、一地域にその宗派の布教が広範囲に頒布する事に成る事から、況して、一族で固まる「棲み分け」から、結果として、「宗派の棲み分け」が起こった形に成ったと云う事に成る。


要するに、民は領主に所属するものとしての概念が確立していて、「国抜け」と云って[自由移住」は認められていなかった事から起こる現象である。
そこで、この「異教徒」(門徒衆)が玉城地域中心に川を隔てて“「混在する事」”になった事態そのものが江戸初期には「新しい事」であった事からそれだけに気を配っていたのである。
これは“「混在する事」”が無ければ、「商業組合の(イ)(ロ)(ハ)」と云う組織を成し得ない「商業組合の原則」でもある。
これは、「異教徒」に対して「青木氏の氏家制度の慣習仕来り」に従わず、この「棲み分けの概念」を無くし、「商業組合」として「同じ域」に囲い込んだ事から起こる「慣習仕来りの摩擦」であったと観られる。

「一人前の商人」に仕立てようとすれば「異なる域」に住しては、その域や氏や姓の持つ慣習や仕来りや掟に縛られて、自由にその知識やノウハウを教える事は不可能である。
「青木氏と伊勢郷士衆」に執っては、絶対に乗り越えなければならない「最大の課題」であった事に成る。
それだけに“「苦しみの口伝」”として長く遺されて来たのであろう。
当にこれは「青木氏の生き様」の所以が伝わるものである。
それが「門徒衆の性癖」が、せめて「穏健」であったならば問題も無かったのであろうが、彼らは「最大教義」でもあった「一念一途」から来る「集団抗議」であった事から収まりが着かない事に成っていた事なのである。

確証は得られないが、調査から観て見ると、更に「浄土真宗」には、下記に示す「浄土宗」との間には、“歴史的なある謂れ”があったと観られる。
恐らくは、この事も大きく影響していたのではないかと読み取れる。

それは、そもそも「浄土真宗」には、江戸初期に当時世間を騒がせていた「一向俊聖」が率いる「一向宗」と云う別派が在って、この「一向宗」は、その「教義の所以」から「反抗性」と云うか、世の「理不尽性」に対する姿勢が強くて、各地で集団で「一向一揆」を多発さしていた。
この門徒は、「浄土宗徒」でありながら、「浄土真宗」の「親鸞の教義」を慕う“「一向衆」”と呼ばれる別派の一派があって、この信徒は「下級武士と農民」に広まり、それ故に本来の「浄土宗信徒」とは違う行動を採っていた。
この“「一向衆」”に対しては、本来の「門徒衆」とは、この“ある謂れ”があって区別されていた。
どちらかと云うと、ドラマ的に捉えると、「門徒衆」から云えば、この親鸞を慕う「一向衆」は「異端児」と云う関係にあった。
「浄土宗徒」からすると「裏切者」であった。
ところが、この上記の“ある謂れ“を説くには、先に次ぎの事を述べて置かねばならない事に成る。


そもそも、この「一向宗」には、「二つの流れ」があって、「浄土宗」を発祥源とした「一向宗」と、上記した「浄土真宗」から出自した「一向宗」とがあった。
この“ある謂れ“には、この経緯が影響したと読み取れる。
この「一向宗」の本元は、「浄土宗の別派時宗の一向宗」ではあるが、この「一向宗の門徒」には「法然の浄土宗」でありながら、“ある教義”を信じて「親鸞」を慕う「門徒衆」(一向衆)が多く、そこで「浄土宗」からは、この「親鸞信仰」の「浄土宗一向門徒」とは区別して“「一向衆」”と呼ばれ差別していた。
この呼称を嫌う親鸞の「浄土真宗側」からは、“「一向」”と云う言葉さえも使わず、これを禁句として当初は相手にしなかった。
この「浄土真宗側」では、“使うと破門する”とまで書かれた文章が遺されているのである。
この「一向宗」を、「浄土真宗側」の一派は、「信徒」に入れると“「親鸞の教義」を歪める”として嫌ったのである。
「浄土真宗側」からすると、教義布教の「浄土宗の浸食作戦」であると疑って観て採ったのであろう。
この思いが手紙としての記録に遺されている。

元々、「浄土真宗」と、この「浄土宗教義」の「本宗争い」が長く在って、江戸期初期に「家康」は、「密教浄土宗の顕教令」を発する際に、この問題があっては困るので、この「争い」に裁定を下し、この「一向宗」を全体像からは正式な宗派とは認めずに“「浄土真宗一派」”と定めた。
「顕教令」の為には、「親鸞崇拝の一向衆の信徒」を「浄土宗の信徒」とは認めなかったのである。

ところが、この「家康裁定」でも、「浄土真宗派の一部」(門徒衆派と一向衆派の両派)は、納得しなかったので明治期までこの「争い」は燻っていたのである。
この「顕教令」と共に出された「家康裁定」で両方の宗派では一応は騒ぎは収めたが、ところが、「浄土真宗側」の「一向衆」は、浄土真宗の一派の「一向宗」としては認めて貰えなかった事から納得せずに、信徒の下級武士も含んで各地での「農民に対する税に対する圧政」も重なる事にも成って、反発して、要するに、「反抗」を意味する“「一揆」”を各地で起こす様に成ったのである。
この頃から、“「一揆」”と云う意味合いは、「反抗を意味する一揆」へと変わって行ったのである。

そこで歴史的に注意しなければ成らないのは、この“「一揆」”が元々の「浄土真宗」の「門徒衆」と、「浄土真宗系」の「一向衆」の二つによる「一揆」が起こっていた事である。
上記の“何か変だ”とするのはここに在った。
つまりは、伊勢を始めとする「15地域の青木氏」は、“一体,「どちらの衆の一揆」を援護していたのか”と云う事である。

江戸期初期の「家康裁定」では、「浄土真宗の信徒」であるが、室町期末期頃からはこの信徒に依る「農民一揆」が各地で起こっていた。
その為に長く引きずったこの問題に対して、今度は「明治政府」は、この「一向宗」を宥める為に、この「一向衆の浄土真宗」を単なる“「真宗」”としての呼称で認めて、妥協案の「真宗」と呼称する様に裁定を下した。

要するに、「密教」を含む「法然の教え」を護る「浄土宗」と、「親鸞の教え」に傾注する「浄土真宗」との「宗教派閥の争い」であって、そこにはその「教えの差」の違いがあった。
法然の「浄土宗」からすると、親鸞の「浄土真宗側」に走った信徒に憤懣があって圧力を掛ける為に、差別した事にも成る。
況して、その信徒が全国で“「反抗の一揆」”を起こしたのである。

この様な行動に出る教義では無い「浄土宗派の密教」は、この「一向宗の行為」を許される事では無かった。
「浄土宗派側」からすると、“親鸞に傾く裏切り行為”の上に、且つ、“反抗の一揆”までを起こすと云う信じられない事が起こったのである。
そもそも、「浄土宗」は、江戸初期の家康の「浄土宗の密教」を改宗して誰でもが信心できる「顕教令」を発した事から、爆発的に不満が噴出して起こった事からの事件である。
その所属には基本的には「江戸期の以前」は、若干の動きはあったが、未だ「浄土宗派の一向宗」であった。
ところが「浄土真宗」の信徒の一部が、「浄土宗の信徒」に不満を爆発させて「布教戦争」を仕掛けた事から起こったのである。
そこで、上記した様に、家康の一向宗を「浄土真宗」と裁定をした経緯に発展したのである。
その事は“「教えの差」”にあるとして、これを嫌う「浄土宗」からは、「浄土真宗」に対する「差別待遇の呼称」として扱った事にあった。

つまり、そもそも、この“「教えの差」”の“「一向」”とは、一体、“何か”である。
この“「一向」”と云う言葉には、”一筋に、一途に、一念に“の意味があり、これを「主たる教義」としていたことから起こった事ではある。

(注釈 教組の「一向俊聖」は、「越後国の草野氏」の末裔の「草野俊聖」の事であり、後に、「一向俊聖」と名乗った。)


これは、浄土真宗の「一念発起の教義」にある様に、“「集団」「一途」“で事に当たる「浄土真宗の最大教義」に一致していた事から起こったのである。
「親鸞の教え」の「阿弥陀経」の一節の“「南無阿弥陀仏」と一途に念ずれば、汝は救われる。”の所以である。
「浄土宗の一向宗の教え」と、「浄土真宗の親鸞の教え」が一致している事から来ているので、「一向衆と云う信徒」が興った事に成ったのである。
「江戸初期の顕教令」に依って、「密教」から「顕教」に成った事から、この「一向」「一途」「一筋」「一念」が、「庶民の信心の心」を掴んだ事から起こったのである。

ところが、「浄土宗」は、“全ては「自らの悟り」に通じる“としていて、「顕教」に成って新たに「浄土宗信徒」と成ったが、農兵(半農下級武士)や農民には、この教義は、その生活環境からは現実には生活環境に直結せず、且つ「悟りの教え」は難しいことでもあった。
然し、そこで、“唯、念仏を一念に念ずる事で幸せが来て極楽浄土に行ける“とするとこんな楽は無いし判り易い。

元を質せば、前段でも論じたが、「密教」は「大日如来仏」を「宇宙仏」とし、直接、如来が下界に降りて来て民に「教え」を伝え悟らせると云うもので、「顕教」は「盧舎那仏」を「宇宙仏」として、直接下界には降りず、「下界仏の釈迦」を通じて直接、言葉で教えを伝え導くとするものである。
先ずは上記するここに大きな“「教義の原理の差」”があった。
「顕教」で「浄土宗信徒」になったものの、結局は「民衆」は、「判り易さ」とこの「安易さ」に引かれた「浄土宗」から離れて行ったと云う処であったと観られる。
この事から、「浄土宗」は、「顕教」に成ったものの「新しい信徒」は完全に離れて行って衰退の一途と成って、寺は荒れ果てた。
幕府は寺の修理令を出すが進まなかった。
残るは、青木氏等の密教を続ける寺のみの現状と成った。
そこで、高級武士階級に入信を進めて浄土宗は何とか生き残れたのである。

ところが、その「青木氏の密教」では、「般若心経」を前提として、その「青木氏氏是」や「青木氏家訓10訓」にもその考え方を反映さしている。
「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」は、「密教の主教義(概説:「拘りの否定」と「悟りの前提))」として従っている事から、「浄土真宗」と「一向宗」は、到底相容れるものでは無かったのである。
「時宗派の一向宗」は、「浄土宗系」とするも浄土宗の中では異端扱いと成っていた。

この為に、江戸期には「顕教」に成っても続けていた「密教派」の「浄土宗の青木氏」には、「浄土真宗」の元来の「門徒衆」からは、「浄土宗」である事と「密教」である事に付いて敵視されたのである。
当然に、この様な考え方の持たない「密教の青木氏」は、「一向衆」からも「密教」の有り様が「一向宗派の敵」として逆に敵視されたのである。
各地の「二つの青木氏」は、室町期から「浄土宗派の一向宗の一揆」には「経済的支援」をし、室町末期からの「門徒衆の一揆」や明治期の「一向衆の一揆」(民としての前提)にも「経済的支援」をしながらも、“「密教」”と云う事では、「一向、一途、一筋、一念」で苦しめられたものと考えられる。

果たして、”「浄土宗派の一向宗の一揆」には「経済的支援」”と「ある手紙の資料」では成っているが、疑問である。
要するに、”「支援の仕方」”に大きな違いがあったのではないかと考えられる。
その「支援の違い」が未だ判って居ない。
「警戒していた宗派」であった事から、「積極性援助」は先ずは考え難いとすると、依頼されるが侭に「周囲との関係上」から「寄付的行為の範囲」で留まったと観られる。

唯、この「強い懸念」が、「四日市殿の末裔」に強く伝えられていたと観られる。
つまり、「四日市殿」は、立場上から「一向衆」にしても「門徒衆」にしても「反抗する宗教勢力」には「反対姿勢」を鮮明にしていた事も考えられる。
どう考えても、確かに「青木氏」に執っては、実に、“間尺に合わない事”ではあった。

前段でも、又、上記した様に、「地域の民」からは“「氏上様」”と呼称され敬われ、「郷士衆や職能部の人」からは“「御師様」”と呼称され敬われていたが、江戸初期から明治期まで地域や宗派を超えて“「近い存在」”と成ったにも関わらず“「門徒衆」”からは、この「敬いの呼称」は無かったのである。
本来であれば、有ったと考えられるが、口伝から観て無かった事は、相当に“「密教」”と云う事に対する「懸念の心」や上記した「歴史的な拘り」が「門徒衆」にあった事に成る。

昭和の初め頃までは、結局、「地域の指導者の所以」として、この「門徒衆」に対しては「密教の発言と慣習や仕来り」には気を使い、出来るだけはその様に振舞ったと「伊勢青木氏の口伝」では伝わっている。

江戸期に於いては伊勢紀州では門徒衆に対しては明確であったが、「一向衆」に対してはどうであったかは定かでは無い。
唯、伊勢紀州では前段でも論じた様に「一向衆」が出る土地柄では本来は無く少ない。

「宗教的な経緯」が経緯だけに幾ら「青木氏」でも「民の為」としても資料を残す程の事は出来なかったと考えられ、依って「資料口伝の類」は見つからないのであろう。
その前に、上段でも論じた様に、「青木氏」は「郷氏」であり、「地域の地権者」であって、且つ、唯一「氏の青木村」を形成出来る立場にあった事から、独自に「浄土宗の菩提寺」を持つ「氏村」には、「青木氏に関わる郷士衆」やその「職能部の民」は、この菩提寺の下で導かれる事に成っていて、「一向宗の布教」は起こる事は必然的に無かった。

(注釈 前段に論じた様に「僧侶」は「青木氏」で、祭祀は福家を中心に「達親方式」に依る「青木氏形式」を以って行われていたので、入る余地そのものが無かった。)

従って、宗徒に関する資料や口伝は勿論の事として無い事に成る。
「門徒衆」の事に付いては、上記の「特段の経緯」から起こった事であるから、「青木氏」も間尺に合わないとしても大変に気を使った事に成ったのである。

唯、他に考えられる事として、「江戸初期の顕教令」に従わずに「密教の慣習と伝統」を維持して居た事への配慮に付いては、「紀州徳川氏との親交」から配慮しなければならないが、特段で意識している資料は見つからないのである。
依って、「門徒衆への配慮」だけと云う事に成る。

実は、この事に付いて、「江戸初期の浄土宗の顕教令」では、結局は,「浄土宗」は誰でも信心できるとしたが、実際は、“「誰でも」”は、確かに“「誰でも」”ではあったが、「氏族」に限らず「姓族」にも門徒を開いて「特定された高級武士」に限定して入信出来る宗派と結果として成ったのである。
従って、この「特定される高級武士」の間では、完全とは云わずとも“ある程度の密教性のある浄土宗の教義”が維持された事に成っていたのである。(「達親方式」等)
この事が、「青木氏の密教の慣習仕来り掟の伝統」に付いては、特段で問題視されなかった事に成った。
況してや、紀州藩とは上記する「商業組合」や「勘定方指導」や「地士制度」などの連携した関係からも問題視されなかったと考えられる。

ところが、「四日市殿の末裔の青木氏」には、この事に付いての事が多く伝わっている事から考えると、江戸期初期前後からの出来事では、“何か事件性があったのではないか”と考えられる。
江戸期初期前後では、「四日市殿」が、前段でも論じた様に、「立葵紋の使用」や「勝姫との血縁」などでも判る様に、「紀州徳川氏との親交」も取り分け深かった事もあって、出来るだけ「密教性」を表に出さない様に「摩擦」を避けていたと観られる。
取り分け、「門徒衆との事」で「諍い」が起こると、“集団性で動かれる事”があるので、それが表に出て仕舞う結果と成る事に気にしていたのである。
ここでは、四日市殿に関しては「紀州徳川氏への配慮」は否定できない。
況して、一筋縄では行かない「門徒衆」の集まった地域の「四日市地域」であるから、他の四家とはこの面では、上記の通り異なった事に成っていたのであろう。

そもそも、それが、「信長と秀吉の締め付け」で「顕如」が例の如く裏切った事から、「門徒衆」は背景を失い、結局は「青木氏」と「郷士衆」に縋って来た事にあっても、然りながら、伊勢紀州に多い「生粋の門徒衆」には、唯一つ気に入らない事では無かったかと観られる。

この「口伝の伝わり方」(宗教行事から密教性を覆する態度)から観て、「青木氏」の下に共に仕事をする中で、この“「立場の差」”が表に出て揉め事に成って、“集団で抗議された事”が原因していたかと観られる。
恐らくは、記録が見つからない程度の事件性であった事で、場合に依っては遺さなかった事も考える。
実は、この「四日市殿の末裔」のお二人の女性の方が信濃に定住していて、その方の情報では「事件性の事」が家に伝えられていたと聞いているので、筆者は、敢えて“遺さなかった”と観ている。(ルーツ掲示板にもお便りがある。)

“何も斟酌せずに毅然として「伝統の密教」を表に出して行動すれば“とする考え方もあるが、これは地域住民をリードする「青木氏の立場の所以」とも観られる。
これも、「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」、即ち「密教の主教義(概説:拘りの否定)」に繋がったことでもあった事から、「伝統の密教」を必要以上に出さなかった事にあったと観られる。

(注釈 筆者の家には、この様な事に関する事を書いた鎌倉期末期の「古い長文の漢詩の掛け軸」が遺されている。)

江戸期には、時代も異なり「500にも上る守護神の神明社」も幕府に引き渡した等もあって、「賜姓族としての立場の緩み」が出ていたのであろう。
“「緩み」”と云うよりは、“時代性に即した行動“と云う事であったと考えられ、「正しい判断」であったと筆者は考える。
それが「青木氏の生き様」の一つとして「潜在的な意識」に成っていたのであろう。(今も調べている。)
しかし、この後も、この「門徒衆の慣習」は、江戸期を通して大正期まで引き継がれていた。
それだけに、逆に云えば、この「門徒衆と郷士衆」から成る「商業組合」は栄えたのである。
結局は、上記した様に、この「商業組合」に依って江戸期の初期前後頃には、「一揆の反動」は、一時は80年間近く低下したが、「門徒衆」の「商人化」で「門徒衆の勢い」は戻し、この「勢い」からその「門徒の慣習」も維持されたものと観られる。
この「門徒衆の商人化」に関わった「青木氏」や「郷士衆」でさえも、“「密教」である事”を憚った模様で手紙と口伝の記録に遺されている。

そこで、上記した様に、“何か変だ“に付いてであるが、室町期末期に起こった「一向一揆」、明治初期に起こった「一向一揆」に付いて、果たして、全国で起こった「全国の青木氏」が経済的に援護したのは、”どちらの「一向信徒の一揆」であったのか“である。
要するに検証する上で「三種の一向衆」がある事に成る。
この何れなのかである。解明して置かないとそうしないと「矛盾」が生まれる。

その前に、先ず、「一揆」と云う言葉は、中国の孟子論の中に使われている言葉から、平安期に入り、これを鎌倉期に使われた言葉であった。

第一期
その言葉は、本来は、武士の小土豪が政治的に結集して[政治連合体]を作って契約した上で互いに護り合う「連合結社」に使われるものであった。
これを「士一揆」や「徳政一揆」と呼ばれた。
これには「出雲大社の下に纏まった亀甲集団」などがある。

第二期
ところが、室町期に入ると、「戦乱」で「下剋上」が起こり、この「結社の内容」が変化して行って、言葉の内容は,下級武士の政治体制に対する「契約した上での反抗勢力」の言葉として使われる様に成った。
この時期は「国一揆」や「荘家一揆」と呼ばれた。
有名な処で「1465年の額田郡一揆」がある。

第三期
室町期末期に成ると、下級武士の不満や農民の不満を訴える不契約の烏合集団化した「不満勢力」の言葉として使われた。
この時期は「百姓一揆」と呼ばれた
有名な処で、「加賀一向一揆」が在る。

第四期
そして、江戸初期になると、更に、この結社が、社会が安定して「武士の結社」の必要性が無く成り、上記した様に、ある「影の大勢力」が背景と成って、「農民や宗徒」に関わる不満から集団化した「不満勢力」の言葉として使われる様に成った。
この時期は主に「百姓一揆」や「一向一揆」と呼ばれた。
要するに、上記で論じている一揆である。

第五期
最後に、「明治維新の政治体制」が変わり、「社会体制の変化」も起こり、これを嫌う「保守勢力」として結集して、ある「政治的主張」を実現させようとして、士族を失った者や農民らの重租税の改善の集団化したものに使われた。
「伊勢騒動」などがある。
この時期は、「地租一揆」や「世直一揆」と呼ばれた。

この「五つ期の一揆」に付いては、殆ど各地に定住する「二つの青木氏」が関わっている。
そこで、「青木氏」に何らかの関係で関わった各地の主な一揆を下記すると次ぎの様に成る。

鎌倉期
青木氏が関わった主な一揆
1368年武蔵平一揆、相模平一揆、白旗一揆

室町期前半期(徳政一揆)
青木氏が関わった主な一揆
・1418年上総本一揆・1465年額田郡一揆・1485年山城国一揆

その他の一揆
1428年正長の土一揆・1441年嘉吉の徳政一揆・1462年寛正の土一揆
1400年大文字一揆・1429年播磨国一揆

室町期後半期
青木氏が関わった主な一揆
・加賀一向一揆・法華一揆・雑賀一揆・伊賀惣国一揆
・1563年三河一向一揆・1587年肥後国人一揆・1585年祖谷山一揆・1586年北山一揆

その他の一揆
・1589年天草国人一揆・1589年葛西大崎一揆
・1590年和賀一揆・1590年仙北一揆・1592年梅北一揆・1600年岩崎一揆
・1600年浦戸一揆

江戸期
青木氏が関わった主な一揆
・1603年滝山一揆・1608年山代一揆・1614年北山一揆・1615年紀州一揆
・1677年郡上一揆・1722年越後騒動・1761年上田騒動・1768年新潟騒動
・1836年天保騒動(郡内騒動、甲斐一国騒動)・1814年北越騒動
・1842年近江天保一揆

関わった可能性のある一揆
(殆どは重税による農民一揆)
・1652年小浜一揆・1686年加助騒動・1690年坪谷一揆
・1726年津山暴動・1729年岩代農民暴動・1761年伝馬騒動
・1781年絹一揆・・1786年宿毛一揆
・1842年山城谷一揆

その他の一揆
・1739年元文一揆・1753年摺騒動
・1771年虹の松原一揆・1771年虹の松原一揆
・1771年大原騒動1793年武左衛門一揆
・1804年牛久助郷一揆・1825年赤蓑騒動・1831年長州藩天保一揆
・1838年佐渡一国一揆・1847年三閉伊一揆・1856年渋染一揆

明治期
青木氏が関わった主な一揆
・1869年ばんどり騒動(富山県)
・1872年悌輔騒動(新潟県)
・1876年伊勢暴動(三重県)

その他の一揆
・1873年筑前竹槍一揆

この「五期の一揆」から、「青木氏が関わった一揆」は、次ぎの通りである。
鎌倉期は第一期である。
室町期前半では第二期である。
室町期後半では原則は第三期である。
但し、室町期後半の前期では、第三期で、後期の第四期に移行する時期と成る。
江戸期では原則は第四期である。
但し、江戸期の前期では、第四期で、後期から第五期に移行する時期と成る。
明治期では初期の第五期である。

つまり、“何か変だ”とした疑問は、「青木氏」が「経済的背景」として援護したのは、果たしてどの「信徒」であったのかである。

「浄土真宗の門徒衆」・・・・・・・・鎌倉期・・・・・・・・・・・・・・・・・主に武士階級
「浄土宗の一向宗の信徒」・・・・室町期前半 室町期後半・・主に武士階級
「浄土真宗の一向宗の信徒」・・室町期後半・・・・・・・・・・・・・農民階級
「浄土真宗の門徒衆」・・・・・・・・室町期後半 江戸期前期・・武士階級と農民階級
「真宗の一向衆」・・・・・・・・・・・・江戸期後半 明治期・・・・・・農民階級

この記録から完全に判別する事は困難だが、「関わり方」には多く在って、地域に依って異なっているが、“「経済的援護」”としては大方は以上と成っている。

唯、「江戸期の一揆」に付いては、「家康の顕教令」もあって、「家康裁定」もあって、「商業組合」があって、紀州藩から「商業組合」と共に「15地域の青木氏の定住地」に広がりを見せた「地士制度」などもあった事から、「宗派」に関係なく、“「地域の民衆」を支える為の「経済的行動」”であった事に成る。
“「地域の民衆」を支える為の「経済的行動」”とは、上記で論じた様に“「商業組合」「提携商人」の考え方”に一致し、この「考え方」が「根底にある理念」であった事に成る。
これが、長い歴史を持つ継続された「青木氏の理念」であって、継続された「生き様」であった。
それを顕著に表しているのが,「青木氏」(伊勢青木氏と信濃青木氏)がそれまでの関わり方と違い公然と直接的に関わった明治初期から長く続いて起こった、最後の「1869年ばんどり騒動(富山県)」と「1876年の伊勢暴動」の二つの一揆が大いに物語っていると云える。
「越後の秀郷流青木氏」が関わった「1872年の悌輔騒動(新潟県)」も同様である。

他には「武力的な援護」、「政治的な援護」と成るのだが、「青木氏の氏是」に依って「歯止め」が掛かっていて、直接の「武力的な援護」は無く、「経済的援護」の他に、「青木氏」が持つ「シンジケートに関わる援護」が多い傾向である。
この「シンジケートの援護」であるが、「直接的な武力衝突」では無く、平穏時は「家族の身辺警護や食料の安全輸送」等に関わっていた模様である。
「一揆」を先ず根絶やしするには、為政者側の採る最初の作戦は、先ずは、「補給食料の断絶」や「家族への脅迫」や「調略作戦」から始まり、「武力に依る掃討作戦」は最後の手段であった。
その前のこの作戦に「援護の対応していた役目」は、「郷士頭の家に遺る手紙」の資料から読み取ると、「青木氏」からの指示に基づき、その役目が危険であった事からこの「シンジケート」が手足と成って大いに働いていた様である。

「政治的な援護」の関りでは、「シンジケート」と関係していて、“「一揆後の立て直し援護」”と云った「援護の関り具合」に徹していた事が判る。
特に、「江戸期末期のシンジケート」は、時代と共に変化して「抑止力」と云うよりは「職能集団」と云った様変わりした「重要な役目柄」を演じていた事が判って居て、支配下に置いていた「伊勢水軍」の「職能集団」は、「海上輸送」で働き、各地域に配置していた武装集団は、「陸送輸送と警備担当」で働き、「大工等の職能部」は、神明社等を江戸幕府に引き渡した後は幕府から「関連企業」として受注を受けてこれを修理管理する事に働いていた。

そして、明治期中期には、伊勢に於ける「青木氏のシンジケート」は、これら全てを解散して「企業」として独立させる手段を採った。
伊勢以外にも、例えば、「讃岐青木氏」の様に、本体は「商い部門」を瀬戸内に遺しながらも、「廻船業」として「新規航路」を作り、最終、蝦夷地にも支店を置いて大いに栄え、昭和20年まで続いていた。

この様な例の様に、時代と共に体質変化させて生き延びていて、「青木氏の15地域」では、「伊勢、信濃,讃岐」は、勿論の事、有名な処では「新潟」や「富山」や「鳥取」等、多くは少なくとも昭和の初め頃まで「商業組合と提携商人」と共に存続した事が判っている。

要するに、江戸期末期に成っても依然として「賜姓族」として頑なに「地域の住民」を「賜姓五役」の「殖産や興業」に導いて、「商業組合と提携商人」は「本来の一揆の意味合い」としての貢献をしている。

これらは前段の「伝統シリーズ」でも「関わり具合」を論じてはいるが、本論は「商業組合と提携商人」としての「15地域の青木氏の生き様」を「伊勢の例」を下に焦点を当てて論じた。
これらの事は、決して、伊勢域だけの事では無く、「15地域」では、「商業組合と提携商人の組織」を形成する以上は、ほぼ同じ様な事が起こっていたのである。
それを前提にご理解頂きたい。

次段は、矢張り、伊勢を以って、この「提携型商人」の「射和商人」に付いて例として詳しく論じる。


「伝統―20」に続く。



- 関連一覧ツリー (◆ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー