青木氏氏 研究室
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  [No.339] Re:「青木氏の伝統 21」−「江戸の商業組合」 
     投稿者:福管理人   投稿日:2016/03/20(Sun) 11:46:43

>伝統シリーズ20の末尾


>それは、(イ)(ロ)(ハ)の「商業組合」とすると“「子孫の出店」”は、「自由」とする「発想外の事」と成り得て、兎も角も、全てとは言い難いが、「出店」として可能な「時代期間」と「江戸地区」を限定して考察すれば、「関係者の出店・暖簾分け」であった可能性が強く、現在で云う“「チェーンストア」”であった可能性が強い。

>(注釈 現実に「青木氏として氏名に関わる事」は、「享保の改革」を主導している理由から表に出せなかった。
>江戸に同行した「江戸の青木六兵衛」とその子供二代に渡りが「吉宗」に仕えたが、この「佐々木氏の資料」からこの事の注意が読み取れる。)

>特に「総合商社」から発展した”「伊勢屋の質屋」”が多いと云う事は、“「江戸の名物」”と云われた位に多いのはこの事を証明する。
>上記した「越後騒動の原因」と成ったのには、「質流地禁止令」が「江戸の金融問題」で出したのではあるが、「商業組合」として多く「江戸店」を出している越後国にも波及して、この「所以の事」から来ているものとも観ている。
>「伊勢屋の質屋」は、「享保の改革」を「商いや利益」と云うよりは金融面から支えた「金融システムの構築]に目的があった。


「青木氏の伝統 21」−「江戸の商業組合」


下記の「15地域」では、上記の確認の取れている「江戸出店」の「4店」(下記)の範囲に限らず、資料的に観ても少なくとも次の「15地域」の中からも動いたと考えられる。
その「経緯や所縁」から観て「吉宗や青木氏の呼びかけ」に動いたと観られる。

「江戸出店」の「4地域−2組」
「越前、若狭」(皇親族賜姓青木氏)
「越後、駿河」(秀郷流賜姓青木氏)
以上の「2氏―4地域」の「商業組合」が参加した。

「京出店」の「8地域−4組」
「讃岐」や「伊予」
「米子」や「安芸」
「尾張」や「阿波」
「伊豆」や「相模」

以上の「8地域−4組」からも江戸に出店している筈であるが“完全な確認”は取れない。
ところが、この「8地域−4組」は、どうも「特別な動き」をしている様である。
そこで、「8地域」を「地産型」で観て見ると、概ね、これも次ぎの様に分けられる。
「讃岐と伊予」
「米子と安芸」
「阿波と尾張」

「別枠組」
「伊豆と相模」
以上の「8地域−4組」は、“「地産型」”ではあるが、更に考察すると「別枠組」に分けられる。

兎も角も「地産型」で、且つ「特別な動き」をしたとして観ると、以上の「4組」に分けられる。
但し、「京出店」の事、「6地域−3組の出自」の事の「二つ事由」が異なる「伊豆と相模」(下記)はこの事由以外に特別に論じなくてはならない事柄があって「別枠」に成る。

ところが、この先ず「地産傾向」で観て見ると、「特別な動き」は「6地域−3組の出自」で「江戸」よりは「京」に出店している傾向にあった。

これには意味が存在している事に成る。
それは、“「吉宗の江戸出店の呼びかけ」“が「15地域」にあったにも関わらず、“「京に出店」をした“と云う事は、場合に依っては下手をすると「幕府反抗」と捉えられ兼ねない事に成る。
「幕府反抗」に及ぶ程の事は「吉宗や伊勢青木氏」との間には無かった筈である。
とするとこれは、“何を意味しているのか”疑問が残る。
又、「伊豆 相模」が江戸のお膝元であるにも関わらず“「別枠組」”に成っていると云う事には,“何かがあった事”にも成る。
つまり、この「京出店組」と「別枠組」には「吉宗−伊勢青木氏」との間で確実に何かがあった事に成る。
その何かを分析する事が出来れば、この時の“「15地域」がどの様な動きを示したか”が判る

そこで、その「出店の特徴」に付いて観て見ると、「6地域−3組」は、“「地元特産の出店」”であって、その最も多いのは“「地元特産品を加工した加工品」”であって、主に「和菓子」と「呉服」と「小間物」と「海産物」の“「加工品」”である。
つまり、“「原材料」”を持ち込むのでは無く、加工した“「完成品」”である事から、先ず、“「消費」”を目的とした”「販売戦略」であった事”が良く判る。
「否原材料−完成品」=「消費−販売−個人戦略」→「商店」の構図が描ける。

これは、明らかに全ての「職能集団」が動く「商業組合方式」での「江戸出店型」では無い事を意味している。
先ずは「商業組合の戦略」が根本的に違っていた事に成る。

ところが、一方のその対象と成る“「江戸出店型」”では、「原材料から加工」までのあらゆる「職種の統合的で総合的な出店」と成り、それに伴う「職能部(職人)の移動」であった事から、“「産業全体」“で“「商業組合」”を形成しての「出店」であった事に成る。
「原材料」−「加工」−「職能」−「組合」−「販売」=「組合戦略」→「商店」+「金融」の構図と成る。
上記の「個人戦略」に対して「組合戦略」であった事に成る。
「江戸出店型」=「組合戦略」=「経済機構戦略」であった事に成る。

ところが、この「8地域−4組」の「伊豆 相模」の一つを除いては、「6地域−3組」は“「加工品」で「京出店」”と成っている。

「江戸出店型」の全ての「職能集団」が動く「商業組合方式」ではなく、それをしないで済む「商い」であった事に成る。
明らかに違っているのであるから、「吉宗−伊勢青木氏」はそれで納得した事を意味している。
「享保の改革」の根幹を左右する「商業組合方式」であるのにも関わらず「大きな問題」に成らずに「納得した」と云う事は、「リフレーション政策」に執ってそれなりの「経済的な根拠」が他に有ったと云う事に成る。

それには、特徴として次ぎの「4つの要素」が働いている様だ。
つまり、「6地域−3組」の“「加工品」で「京出店」”の持つ次ぎの「共通点」である。
距離的な要素
出店先の要素
運送上の要素、
所縁の要素

以上の「共通点」の「4つの要素」が主な事に成り、それが“強く働いた”と云う事に成る。
この事は「職能集団」が動く「商業組合方式」を「押しのけるだけの力」が働いたと成るのだろう。
「商業組合方式」<「押しのけるだけの力」
と云う図式が出来上がっていた事に成る。
“これに納得した”と云う事に先ずは普通は成り得る。

前者の「江戸出店」の「4地域−2組」は、所謂、「職能集団」が動く「商業組合方式」の“「商業組合の江戸出店」”であったが、この「伊豆と相模」を除く「6地域−3組」は、上記の「江戸出店」とは明らかに根本的に異なっていた事に成る。

ところが、この後の「6地域−3組」(「伊豆と相模」除く)は、「吉宗の要請」でありながら、且つ、「商業組合」を持ちながら、“「商業組合」では無い「京出店」”であって、「商業組合の江戸出店」では無かったのである。
従って、「8地域−4組」の「6地域−3組」(「伊豆と相模」除く)には、“「商業組合」では無い「京出店」”には、“「吉宗の要請」”を跳ね除けるだけの共通する「相当な理由」があったと云う事に成る。
「幕府反抗」と成りかねない「6地域−3組」のそれが上記の「共通点」の「4つの要素」であった事に成る。
簡単に云えば,「吉宗」は次ぎの「4つの要素」の「理由」に“納得した”と云う事に成る。
この「納得」とは、「享保の改革」の根幹を左右する「商業組合方式」に反しないと考えた事に成る。
更に云えば、「リフレーション政策」に執ってそれなりの「経済的な根拠」があって、「4つの要素」の「理由」が「納得」と云う事に至ったのである。
では、どの様な理由なのかである。ここに付いて検証して観る。
「距離的な要素」に付いて
「6地域−3組」(「伊豆と相模」除く)の地域から江戸に出るには距離が在り過ぎる。
江戸までの「公道」を通ったとして、瀬戸内から京まで約233k 江戸まで692kである。
因みに、松阪から江戸まで441kと成る。
この「松阪から江戸」までの距離441kは、“「吉宗」に同行する”と云う絶対的な必然性があった。
そもそも、自発的意思により「松阪の青木氏」には「選択の余地」は無いが、ところが「讃岐青木氏」にはあったのである。
だとすると、江戸期のこの距離692kは「吉宗招請」と云えど「躊躇する距離」ではあった事に成る。
況して、瀬戸内から京は233kの1/3である。
先ず、先々江戸の経済が未だどの様に成るかは判らない状況にあったからこそ、当時の運輸環境から観てこの3倍は思考外にあってより躊躇することであろう。
「越後や越前」と違って、その途中には「摂津、京、難波」と云う「大経済圏」が控えている。
「越後や越前」には「江戸」に出る以外には周囲には「経済圏」と云う選択肢はないが彼等にはあった。

取り分け、前段でも論じたが、「讃岐藤氏」の「讃岐青木氏」には「純友の乱」の様に平安期より“政権に従わない”と云う「独立気風」があった。
この「独立気風」には、ただ単なる去勢では無く、古来からの「瀬戸内の経済力」と「地形的な軍事力」と「政治的な地域力」にある程度に「裏打ち」されていた事があった。
取り分け、「人の事」であり、「平安期の怨念」からも逃れられなくもあって更に躊躇する事であろう。
「具体的な理由」として、「選択しなかった要素」には次ぎの様な事が挙げられる。

「出店先の要素」に付いて
「出店先」は、平安期からの「最大消費地の京」であったとすると、「江戸リスク」を大きく負ってまで出るとする判断は、「相当な強制力」の無い限りは生まれないだろう。
“「摂津、京、難波」と云う「大経済圏」”で事は充分に足りる。
この事が、「リフレーション政策」に執ってそれなりの「経済的な根拠」に成っていたと考えられる。
「経済の解る吉宗」に執っては、“「江戸一極集中」“と云う事では無く、「摂津、京、難波」と云う「大経済圏」”の「二極構造の経済圏」を描いていた事に成る。
そもそも「吉宗」は、「将軍」に成った後にしても「幕府の権力や軍事力」を使っての「経済」に対して「強制力」を根本的には使わなかった。
況して、この事の「吉宗要請」は、「将軍」に成る前の「準備段階」であった事から、「吉宗要請」は根本的には元より「青木氏一族」に対する「協力要請」であった事に成る。
「強制力」を使えない「青木氏」に対して、「リフレーション政策」に執ってそれなりの「経済的な根拠」が成り立っていれば、「納得」どころかその様に要請して居た事も考えられる程である。
尚且つ、根本的には「伊勢青木氏」を通じての「吉宗要請」であったので、「讃岐気質の風習」から考えても「6地域−3組の讃岐側」では、「距離の要素」と共に「出先店」にも躊躇する事に成った事は間違いは無いであろう。

この様に「距離」と「出店先」の「二つの要素」からも、「江戸」(新参の消費地)か「京」(旧来の消費地)かと成れば疑う事無く「京」と成るであろう。
「江戸」に出て「伊勢や越前や越後の青木氏」と共に「新しい経済圏」を作る事には越した事は無いが、「一極集中政策」が「リフレーション政策」に合致するのかと云う事を考えた場合は、そうで無いと云う事は直ぐにでも解る事柄である。
そもそも、論理的には「リフレーション策」は、“「バランス」”を取る事に「経済政策の根本」が在る。
と成ると「江戸一極集中策」は「激しい経済格差」を生む欠点がある。
「激しい経済格差」は「バランス」を崩す。
この様な経済論は元より基本中の基本であり「吉宗−伊勢青木氏」は判って居た筈である。
当然の事として、「二極構造論」を取る方に舵を切る事に成る筈である。

「運送上の要素」については、
そもそも、瀬戸内の「讃岐青木氏」をベースとする「6地域−3組」であれば、「瀬戸内廻船」の外回りの「太平洋航路」を認可された「青木氏族」でもある。
運送上の防御等の「リスク」は少ないし、「コスト」は問題と成らないであろう。
唯、「リスクとコスト」に問題は無いとしてもその「商品の如何」に関わる事に成る。

ここは,要するに「瀬戸内」である。
江戸期のものとしては「海産物と酒」が主商品と成るだろう。
「讃岐と伊予」「米子と安芸」の「江戸期の産物」で出品出来るものには、「海産物と酒」を基本にして、当時、世間では、“「瀬戸内三白」“(讃岐、伊予、安芸の地域)と呼ばれていたものがあって、”「砂糖、綿、塩」”が主流であった。
それに二次的には「胡麻、大豆、煙草」の“「瀬戸内三品」”と呼ばれる物があって盛んに他国に売られていたのである。
“それを超えて敢えて江戸に”と云う発想は直ぐには生まれないであろう事は充分に判る。
それには、「江戸期の社会の慣習或は掟」として「特別な理由」があった。
それには「海陸の運送能力」が「幕府の政治的戦略」に大きく関わっていたからである。
阿波には、“「阿波味噌」”があって、尾張には、“「宮重大根」”があって、これらは、当時、関西では有名で“「江戸期の出品物」”であった事が記録されている。

そもそも、“「瀬戸内三白」”にしろ、“「瀬戸内三品」”にしろ、職能全体を「江戸には移せない商品」であって、「現地での加工品」に「仕上げての出荷」を余儀なくされるものであった。

「商業組合」として「職能部門から販売部門」までの「一連の移動」はその「藩経済の浮沈」に関わるものであって、「加工品」にして対価を獲得する事が当時の「当然の販売手法」であった。
元より“「人」は藩に所属するもの“であって”勝手な人の移動“は藩経済の低下を脅かす事にも成り、依って「国抜け罪」として極刑に処される掟があった。
従って、「瀬戸内三白」等の十八番の「物の移動」のみならず、「商業組合」としての「人の一連の移動」は原則としては一般的に無理な事であった。


「阿波と尾張」では、「江戸への出品」は下記の理由で無理であったのである。
“「阿波の味噌」”は、紀州人が阿波に移したものと考えられていて、阿波の生産は遅れて江戸期中期からのものであって、その「味噌と醤油」そのものは「開発元の紀州特産品」であって、それを「伊勢の商業組合」が「享保の改革」で「野田に殖産」していて、そこで生産され始めたものでもあった。
この様に「味噌と醤油」は、「享保期の典型的な商業組合の殖産」であったので、この事から後発の「阿波の味噌と醤油」は「関西圏商品」と成っていたのである。
そもそも、「味噌と醤油」は、当時の最大珍味で唯一の調味料として、需要に供給が追い付かず常態化していて、この様に必然的に「供給の塗り分け」が成されていたのである。
この事を度外視しての論調は成り立たない。

“「瀬戸内三白」”にしろ、“「瀬戸内三品」”にしても、急激な江戸の「享保の経済発展」に需要と供給が充分に追いつかず、更には、搬送能力にも廻船能力は元より、品物に依って廻船が限定されていて、どの廻船に積載しても良いと云う事では無く、更には過剰積載も船主側に拒否権が認められていて厳しく監視されていたのである。
「船主側」がこれを護らないと廻船権と株券も剥奪されると云う事が現実にも起こったのである。
“忙しい”からと云って、“勝手に別に船便を調達する事“も出来なかったのである。

そもそも、「水運」には「一種の統制経済の様なシステム」を採っていたのである。
それは、「市場の勢い」に任すと強い者が水運を独占して「江戸の経済」にバランスを大きく欠く事に成り混乱する。
且つ、これを押えれば幕府も倒せると云う手段とも成っていたのである。
それだけに「水運の権利」を株権で統制して「規制と制限」を掛けて安定を図っていたのである。

何度も前段や上記で論じている様に、「瀬戸内三白」等の十八番の「物の移動」のみならず、「商業組合」としての「人の一連の移動」は無理な事が出来たのは、「吉宗と伊勢青木氏」が江戸に「商業組合」を移すにしても、この「搬送能力」を「陸運と海運」を独自に持っていた事からこそ独自に出来た事でもあった。
堺摂津に三隻の大船と享保期には伊勢に三隻の新造船と伊勢水軍の株権、陸送は「伊勢信濃シンジケート」と独自持つ能力であったからこそ成し得た事であって、他地域の商業組合にはその能力は無かったのである。
野田に伊勢郷士の玉置氏等に依って「味噌と醤油の殖産」を移したのも「商業組合の殖産」と云う事のみならず、「需要と供給の問題解決の意図」もあったと考えられるし、更には「搬送能力」の「陸運と海運の独自能力」の所以があったからと考えるのが妥当であろう。

同然に「尾張大根」は、「現地生産」が基本であって、既に、江戸にも対抗する“「江戸三白」”と呼ばれるものがあって、それは「大根」、「米 」、「豆腐」であって、元より他国に積極的に販売されていた商品でもあった。
「江戸大根」は関東ローム層で培われる“「大蔵大根」”で有名であって、この為にこの「尾張大根」の競合先は矢張り関西方面での販売先とされていたのである。
この様に、「距離」と「出店先」の要素からも、「輸送上の要素」からも「江戸への主店」は不可能であった。
この「三つの要素」の「無理」を“押し出すだけの理由”は生まれていなかった。

「所縁の要素」の要素に付いて
「所縁」は、前段の「伝統シリーズ」で論じて来た事であって、最早、語るに値しないであろう。
「商業組合」としての「京主店」では,むしろ、江戸期初期の頃の社会構造からも「最大のメリット」と成るだろう。
「吉宗と伊勢青木氏」は「ごり押し」は出来なかったと観られる。
この要素一つ執ってしても,これを無視するだけの理由は無かった。
そもそも、この「所縁」は“「伝統」”そのものである。
「自らの過去」を示す「伝統」を壊してまで「京」に出る事は決して無い。
むしろ、逆に「京」を発展させて「伝統」を護ろうとするだろう。
「商業組合」が付いて来ない事でもあって、到底、「説得」は論外で、「説得」に依って逆効果を招いてしまう事に成る事は租借して承知している事でもある。
但し、「自由を前提」とするか限りの話である。
「伊勢の商業組合」は、上記の通り(イ)(ロ)(ハ)の自由を前提としての改革案である。
この事に依って,「伝統」は「犠牲」を負う。
「伊勢」では、この犠牲を負ってまでも立ち上がらなくてはならないのは、「破壊と荒廃」が室町期に起こされて仕舞ったからである。

勿論、「伊勢」は「京」に“勝るとも劣らない「伝統の国」”であった。
では、この「伝統」にしがみ付いて其の侭にしていれば戻るのかと云う「ジレンマ」があった。
何にせよ、その「伝統の先端」を走っていたのは「青木氏」で在る。
「伝統」を護ろうとするのが普通であった筈で、故にこの「伊勢を主導する青木氏」が「自由な商業組合」を発案して訴えたのである。
この「青木氏の発案」に対して「伊勢衆」は果たして反対をするだろうか。
当初は「伊勢衆」は疑心暗儀であった事は否めないであろう。
しかし、賛同をした。「家康」も「頼宣」も「吉宗」も共に賛同したのである。
故に「15地域」も動いたのであって、「讃岐青木氏」等も動く事は示したと観られる。
しかし、それを押し留める「4つの要素の理由」と次に論じる「五つ目の要素」に力が働いたのである。
何をか況や、それは、国内でのある程度の改革は成し得たとしても、「京と江戸の違い」に在った。

「四つの要素」の何れに執っても「江戸に押し出すに足りる要素」は無かったのである。

何れにしても「江戸出店」と成るには、「江戸の活況 1745年代頃」が確定的と成った処で、上記の「4つの要素」を乗り越えての出店と成るだろう。
現実に、1765年代末に単位で出店している。

「四つの要素」があったとしても、この「享保の改革開始の時」に合わせて、では、“「京出店」を何故に、この時に成しているのか”、これが疑問と成るであろう。
単に「四つの要素」だけで動いたとは思えない。
もし「京」を選ぶのであれば、普通は「享保の改革」(1788年終了)が全国に波及しての時期(1765年−1770年)を選ぶ事に成るだろう。

筆者は、「江戸出店」は、「吉宗と伊勢青木氏」等の伊勢組等には、上記の通り無理である事が理解されたが、「6地域−3組」(「伊豆と相模」除く)側としては、「吉宗と伊勢青木氏」等への縁者としての「義理と仁義」が在る。
これは、「当時の社会慣習」としては無視できなかったと観られる。
取り分け、この「6地域−3組」(「伊豆と相模」除く)をリードしていた「讃岐青木氏」は「伊勢青木氏」とは深い縁者関係にあった。
果たして「協力要請」を無下に無視できるか。
上記に論じた様に、「当時の社会概念」から絶対に出来なかったと考えている。

そこで、出店を「東の江戸」に対して「西の京」を選んだと考えられる。
この「二つの間」には「難波」を中心に「摂津堺」と「伊勢」の経済圏を持っている。
「東の江戸」と「西の京」の二つを発展させれば、一つのラインの「誘導経済圏」が生まれる。
「伊勢」と「江戸」の中間に一つの経済圏(「伊豆と相模」)を置くことで「東の江戸」と「西の京」の「経済ライン」は成立する。
そうする事には、「京出店」が必須条件として必要に成る。

この戦略からすると、「6地域−3組」(「伊豆と相模」)の「自発的意思」に依るものでは無く成る。
「4つの理由」を理解した上で、「吉宗と伊勢青木氏」が説得に掛かったと観る方が適切である。
或は、「談合」の中で「4つの理由」を知った上で、「時期」を「享保期」に合わせて「京出店」したとも考えられる。
そうすると、「伊勢の商年譜」には「何らかの談合の記録」があったと観られるが見つからない。
「堺摂津店」での事であったのかもと考えられる。
「堺摂津店」は、現在も何とか「紙問屋」として明治期の分家筋によって存在して居るが、「何らかの談合の記録」に相当するものが無いとの事であった。
(子孫の歴史的意識の低下で整理されて“無く成った“が正しい様である。)
「元禄期の浅野家の始末」(1703−5年)で前段でも論じた様に「廻船問屋の讃岐青木氏との協力」があった事から、それから、僅か10年近くの事である。
そもそも何らかのそれを物語る記録資料が無い事の方がおかしい。
「讃岐青木氏」は、そもそも「商い」と云うよりは「廻船問屋」が主体であった事もあるが、「紀州藩」が単独で進めたと云う事も無いし、「何かの形」である筈である。

唯、筆者の家には、この時代のものとされる「大きな京人形」(三月用と五月用の箱型二体)があって、恐らくは、この朽ちかけた「箱の添え書き」を観ると送られたと思える物である。

(注釈 「京人形」には「箱型と雛壇型」とがあるが、この「雛壇型」は享保の改革期に出て来たもので「享保雛」と呼ばれる人形が階段上に沢山並べられるタイプで、「箱型」は左右単体の大雛を単に飾る習慣があってそれ以前の古来からのタイプである。)

これで時代性等が解るので、従って、「讃岐青木氏」から享保期直前に送られたものである事が判る。
「箱型京人形二体」を送られる位の何らかの強い関係性を持っていた事は確実で、「商記録の年譜」には不思議に無いが、「青木氏要請」に応じて「京」に店を出した事は「京での店名」と共に「京人形」でも物語れる。

故に、「商業組合の江戸出店」は、その中心と成った「伊勢紙屋の青木氏」が「吉宗」と共に組んだ「改革戦略」であった事から、「江戸改革の中心」と成った「江戸の伊勢屋」(青木氏」)の「総合商・貿易商・金融業」が「商業組合の江戸出店」の全体を支えた事に成るのである。

だとすると、この「4つの要素の理由」に依って起こった「讃岐青木氏」等の「京出店」が、「4つの要素の理由」以外に「商業組合の出店形式」でも無かったのには、“「江戸での伊勢屋役」”を演じる位の「二足の草鞋策の氏」がいなかった事にも論理的には成る。
“果たして、そうであったのか”と云う疑問である。
否、“「氏」がいなかった事”では無い筈である。
「讃岐藤氏の讃岐青木氏」は「伊勢青木氏」とも「親密な氏の関係」と「商いの関係」を保っていて、その「保持勢力」は「伊勢青木氏」に「相当する程の勢力」を持っていた事は前段でも論じた。

では、「商業組合」として出る以上は、それを取りまとめる「氏の存在」はある筈で、それは「15地域の青木氏」にも同じ様に在った事は論じるまでも無い。
“では何であったのか”と云うと、前期の通り、“「原材料」では無く、加工した“「完成品」”である事から、先ず、“「消費」を目的とした「販売戦略」であった事。“が原因している。

地元で、「商業組合」を形成していながら、その「完成品」を出している以上は、「商業組合全体」を送り込む必要は無かった事に成る。
当然に距離的等の「四つの要素」でも無かった事に成る。
且つ、「京」が古来より主に「消費地」でもあったことから、「職能集団の移動」又は「商業組合全体」を受け付ける「土壌力」でも無かった事にも成る。

「土壌力・伝統」これは「絶対的な五つ目の要素」と成るだろう。
「絶対的な五つ目の要素」とは、これを出す事は,「京」と云うものをそもそも壊す事にも成って仕舞う。
「商業組合」が“「自由と云う前提」”に在る限りは、“「伝統」”と云うものに対して「根底からの破壊」に繋がる「悪の要素」とも成り得るし、避けなければならない「絶対の禁じ手」である。
「商業組合の出店」は、兎も角も、“「自由と云う前提」”が“「伝統と云う事」“では困るのである。

現実に、1470年代から存在した「京」に存在する“「会合衆」”も一種の商業組合の形である。
然し、「京の伝統」と云うものに馴染んだ形の「会合衆」であって、“「自由と云う前提」”では無かった。
「100年程度の歴史」しかない「江戸」との「根本的な大きな相違点」である。
“「伝統」”を活かしての“「京出店」”が必要であった。
この結果、“「京出店」”するとしても、元々は「伝統の消費地」である以上は、「商業組合」を取りまとめる「氏の必要性」は元より無く成る。

現実に出て来ない。
「京出店」の「6地域−3組」の「3組」(「伊豆と相模」除く)には、調べるが店名は出るとしても「氏名」がどうしても出て来ない。
但し、「江戸出店」の「2組」にも専門的には記録確認は出来るが、基本的には「江戸の地」にも「氏名」が出て来ないのである。
「江戸の伊勢屋」と屋号を明確にしながらも、敢えて、然し、「伊勢屋の青木氏」は表に出そうとしなかった。

この「氏名の疑問の答え」は、そもそも、「伊勢の紙屋」では無く「江戸の伊勢屋」を名乗ったのには、この「青木氏の氏是」と「改革の政治的配慮」が働いていたのである。
「青木氏の氏是」に付いては、前段で論じた通りで、根本的に何れの場合に於いても「氏名」を出さない事が「氏是」と定められている。
依って、この理由からも公に出さない事に成る。
もう一つの「改革の政治的配慮」に付いては、改革の背後で、“「青木氏が主導している」“と云う事が判れば、「江戸の民」は「青木氏の独善の利得」を疑って「改革」そのものは進まない事は必定である。

例えば、取り分け、「江戸の伊勢屋」は「青木氏」と成る事は絶対に避けなければならない。
「吉宗の勘定方指導は青木氏の六兵衛」であり、「伊勢屋も青木氏」と云う事に成ればどうしても「青木氏の為にある」と人は悪く観て仕舞う。
それは、況して、矢張り、「享保の改革の手段」の「商業組合」が「自由を前提としている事」から来ると成ると、“「青木氏」が政治と経済に介在する事は「自由」か、否、牛耳っている“と成るは必定である。
「単なる商い」と成れば、「自由を前提としている事」には異論は起こらないであろう。
何故ならば、「商い」は元来より「自由」である事に外ならないし、それでなくては発展しない。
ただ、「改革の手段」としての「商業組合」ともなれば、そこは充分な配慮が必要で異なる。
まして、「単なる社会」の中での改革を唱っている訳では無く、時の「幕府」が主導する主改革である。

ただ出すのは、唯一“「吉宗」”だけである。人々はこれは“吉宗が行う改革なのだ”と成る。
故に、「中興の祖 吉宗」と呼ばれた所以である。
これは、上記の事もあるが、「江戸ならではの事」(庶民混在の地)でもあって、「氏名」を出す事は「禁じ手中の禁じ手」であった。

然し、「佐々木氏の研究論文」の中には、「青木氏の遺された資料」よりも「享保の政治と経済の青木氏」が詳しく論じられている。又、「江戸の青木氏の論」の中でも述べられている。
これは、どう云う事なのか、ある部門には漏れていた事に成る。
その「ある部門」とは、「高級官僚」であった事に成る。
「藤原秀郷流一門一族」は江戸幕府に御家人と成って多く仕官した。
この中に、「縁籍の佐々木氏」が居たのである。その一族は「将軍の書記官」の役柄を務めていたのである。
この家に遺された資料等から主にまとめられて論じられた論文であった事が判ったのである。

因みに、将軍の書記官役には、次ぎの様な三役職が在る。
「奥祐筆」、「御小姓頭」、「小納戸役」が先ずある。
これらは「従五位下諸大夫の官位」を獲得できる「家柄身分の者」である事で、永代身分の家柄の者か、或は朝廷に金銭献納で幕府の認可を受けると、一代限りの一般の大名身分相当の扱いと成る。
旗本では最上位に成れ、同役としては「幕府の布衣の役」は六位相当の官位で旗本上位の家柄に成れる事にあった。
官位獲得は先ずは「幕府の推薦」もあり誰でもと云う事では無く中々認可は下りないが、何れも将軍と直接面談し、他の幕閣などとの調整役や記録や保管などの重要書類の事務役目を担っていた。将軍の密命で動く事が多く出張等の忙しい役柄であった。
「青木六兵衛」は「永代従三位上」の官位を持っていたが、六位に相当する勘定方指導の「布衣の役」を与えた。
「官位の届」を幕府に出す事で認められる仕組みであったことから、恐らくは、家臣では無かったが、「将軍」の「三役の立場」に居た事から、同族の多い周囲と合わせて敢えて「従五位下諸大夫の官位」の処遇で認められたと考えられる。
「加納氏の側用人」と同じ役柄でもあった事が判って居る。
この記録を遺した「佐々木氏」の縁籍は、「近江の佐々木氏の出自」で「永代従四位下」の官位を持ち「御家人」で「代々三役の家柄」(小姓、納戸、祐筆)であった事が書かれている。
その為に、記録が遺ったと観られる。
逆に「三役」(小姓、納戸、祐筆)であった事から「情報の秘匿」が護られたと観られる。
「青木六兵衛」(勘定方の布衣の役)とは同じ一族で同じ「三役の役職関係」の中にあった事から「青木氏」が持つ情報より詳細が記録されていたと考えられる。
「江戸の伊勢屋」との関係も有った事から「役務上から出入り」があった事が充分に考えられる。
実は、この「三役」(小姓、納戸、祐筆)には「江戸市中見廻り役の特権」が与えられ、「将軍外出」に同行したり、市中情報を「将軍」に伝えて特命を受けて秘密裏に処置する「露払いの役務権限」を有していた。
故に、「情報源」や「情報伝達」として「勘定方指導の布衣役の六兵衛」は元より「同役の佐々木氏縁籍の者」や「吉宗自身」も「江戸の伊勢屋への出入り」は充分にあった筈である。

この様に考察すると、「江戸」との「根本的な大きな相違点」があった事は頷けるが、次ぎの年譜を良く観て見ると「別の根本的な事」がある事が判る。
「前の4地域−2組」の「商業組合の江戸出店」と、「後の6地域−3組」の「京出店」とには、次ぎの様に「年譜」が物語っている様に、“「何かの影響」”が大きく働いていたのである。

注釈 「金融の年譜」
江戸初期1601年頃に「貨幣制度の整備」に着手
江戸で金座銀座で鋳造と貨幣制度開始
1609年に「三貨制度」の開始
1636年に「三貨制度」が完成
既存貨幣制度の併用の拡大 (本両替)
量替(1%)制度の開始と拡大 (脇両替)
1700年頃に「市場経済」の開始
1710年頃は、「本位貨幣制度」の拡大せず 概念なし。
「本両替」は「両替屋」― 「金銀兌換 大阪地域 大名・豪商の利用」
「脇両替」は「銭屋」― 「銭交換  江戸地域 農民・町人の利用」
1715年頃に、「併用の両替」が「京」に誕生。
1718年頃に、主に大阪で「両替組合」を形成して成長。
1730年頃に、両替屋は「両替株」として全国公認 600人に。
1736年頃に、江戸の「本両替組合」は僅か16人/600  「銭両替組(三組両替)」は27人
1755年頃に、「銭両替組」が「伊勢屋の質屋」の始めた「質屋」も兼務を開始。
1765年頃に、江戸と関東を始として「質屋」が全国に拡大

この「金融の年譜」で観る様に、確かに「享保の改革」で「新しい経済」が起こり始めた事が判るが、ところが、ここで“「不思議の事(“「何かの影響」”)」”が起こっていた事が判る。
それは、「金銀の両替制度」が、先ずは「江戸」に始まる筈であるが、“「何かの理由」”でそうは成らなかったのである。
この新しい「金銀の両替制度」が根付かなかったのは、それは何故なのかである。
この疑問が重要である。

「享保の江戸」は、未だ「既存の銭による経済」が一般的で、“「金座銀座の鋳造所」”が出来たにも関わらず、「金銀交換の貨幣経済」(両替経済)が江戸には余り根付かず、僅か16人と全体の2.5%と極めて低い状況であった。(江戸の人口比に比べて余りにも低すぎる。)
これは“「銭屋」”が行う「銭(銅銭)」による「既存の経済」が変わらなかったのだが、この理由は作為的に急に“「質屋経済」“が拡がった事にあった。

つまり、これには「享保の改革」の根幹の「商業組合」には「金融制度」が大きく左右する。
「リフレーション経済」には「需要と供給」を始めとして、“全て「バランス」を取る事を前提”とする為に、「金融」に於いても放置すると「デフレ」と「インフレ」の何れかに傾く事に成る。
そこで、“適量の管理された金融策”が求められる事に成る。
その必要性から「江戸の伊勢屋」が「質屋」というものを作為的に急いで敷いたのである。

「富裕層」だけでは無く、「銭」を使う「庶民層」までが使える「金融システム」が求められたのである。
従って、「江戸」には、この「商業組合」が入る事で、次ぎのシステムが構築されたのである。

「既存経済」+「質屋経済」=「金融システム」

以上の構造が新しく構築されたのである。
これが“「江戸の伊勢屋の質屋」”であって、「江戸の名物」と呼ばれて有名な事に成った所以なのであった。

筆者は、この図式の金融システムが、「江戸の社会」が“求めた“と云うよりは”論理的に必要“と求めて作為的に”敷いた”と云う方が正しかったのではないかと考えている。
「既存経済」=「金融システム」で放っておけば、上記の構造が出来るかと云う疑問である。
放置していると発展する方向に在れば「インフレーションの方向」に走るのが常道の経済論理で無理であろう。
それを押えて、「商業組合」で作意的に「リフレーション」に導こうとすれば、「自動車のハンドル操作」に匹敵する操作が必要である。
それが「質屋の特質」を生かした「金融操作」と成り、「両替屋の特質」では無理な論理と成る。

「単なる質屋の金融」では意味が無い筈で、未経験の「新しい商業組合」と云う経済行動で「リフレーション」を興そうとしているのであれば、要するに“「伊勢屋の質屋」”で無ければならない筈で、「江戸の伊勢屋」の「作為的な経済操作」であったとも考えられる。

(注釈 放置していた場合に果たして金融を充分に行える商家が出現したかと云う疑問があるが、享保前の江戸の経済状況からは商家は無かった。)

「二つ目の疑問」は、では、“何故、この「金融システム」が出来上がったのか”である。

それは、「難波と江戸と京都」の「経済状況の違い差」に依って起こった事に成る。
突き詰めれば、答えは“「商業組合の発展」”の差にあった。
「難波」は、「周囲の地域」から「産物」が入り、それを基に売買を前提とする“「商業経済」”を中心として発展した経済である。
「江戸」は、周囲全体を巻き込んだ「総合産業」を基にして、“「殖産経済」”を中心として発展した経済である。
「京」は、主に古来よりの「大消費地」で「消費経済」を中心に発展した経済である。

そもそも、「難波」は「会合衆」が発達した地域で、「自由な商業組合」が馴染まなかったし、大口の「大名と豪商」を相手としていた事から、「会合衆」から「三貨制度の両替屋」が発達した。
とすると、「江戸」には、論理的には「庶民」が作り上げた経済であって、それに適した「商業組合」が適した事に成る。
それが“「経済状況の違い差」”と成って表れた事に成る。
これが「銭屋と両替屋の数の差」と成って表れている。

そうなると、「江戸の銭屋だけの力」だけと成ると、「自由な商業組合」が発達すると、「庶民の金融」は遅れて成り立たなくなる。
そこで、下記で論じるが、「融資し物的担保を取る金融業」が必要に成る。
これが「江戸の伊勢屋の質屋」であった。

この論理からすると、論理的には金融業の「両替屋」は、「江戸」には「商業組合」が確立した以上は適しない事に成る。江戸には元より「銭屋の金融」であった。
「殖産に依る商業組合」に必要なのは、前記した様に「金融業」の“「質屋」”と云う事に成る。
これが、上記の「二つの疑問」の答えで、“「両替屋」”と“「質屋+銭屋」”の「金融業の違い」と成って表れたのである。
当然に、この「違い差」が「経済システム(土壌差)」に表れる事に成ったのである。

この「享保の江戸」には、本論の「商業組合方式」が、「総合産業と殖産産業」の中に組み込まれた事で、「士農工商の全ての民」が平均に使える「自由経済」が必要に成った。
この為には、「金銀銅の三貨の両替経済」は、「特定の金融システム」(豪商の手段)で有るので使えない。
それには、誰でもが使える「銭(銅銭)」に基づく「兌換の経済市場」が最適である事に成る。
そこに、この「商業組合の自由概念」が組み込まれたのであるから、「豪商」などが使う「三貨の両替屋」では無く、庶民誰でもが自由に直ぐ使える“「銭屋」”が必然的に発達する事に成る。
では“、「質屋」の金融業はどうであったのか“が疑問と成る。

そうすると、「金融のやり取り」には、“全ての民が自由で平等に使えるシステム”が必要であって、そうだとすると、これに合わせて「金銭を融通するシステム」の「質屋の金融」が経済的な論理としては必然的に発達する事に成り得る。
“必然的に発達する事に成り得る”のであれば、庶民がこの“「質屋」”をどう扱うかの発想が必要に成る。

「江戸」との「根本的な大きな相違点」(“「質屋」”をどう扱うかの発想)はここに出て来ていたのである。

さて、ところが、「商業組合」と云う観点から観ると、「伊豆と相模」、「讃岐と伊予」、「米子と安芸」、「阿波と尾張」の四組は地元には「商業組合」を構築したにも関わらず「商業組合の出店」では無かったのである。
当然に「商業組合」で無ければ、この“「質屋」”をどう扱うかの発想は生まれなかったのである。
「経済システムの発想」が違ったと云う事に成る。

上記の「四つの要素の理由」でも「商業組合の方式」が合わなかった事は判るし、「上記の金融年譜」でも明らかに「難波と江戸の経済の中間」を採っている。
そうすると「商業組合」としては合わない事は判るが、それでは“「出店の合意形成」”が整わなかったのか、或は、「商業組合」にその能力に未だ欠けていたのかと云う疑問点の事も念の為に検証しなれば成らない。

そこで、筆者は、その規模から考察すると、先ず「讃岐と伊予」に付いては、その「出店能力」は充分にあったと観ていて、前段でも何度も論じたが、“瀬戸内を制する者は国を制する”と云われた程の「経済的な宝庫の地域」である。
「讃岐と伊予」は「廻船業」を主体として「総合職種」を営んでいた事から、前段でも論じたが、「伊勢域以上の総合能力」を充分に持ち得ていたと考えられる。

然し、ここで「青木氏の歴史観」として、古来より「讃岐藤氏」は、「藤原純友の乱」以来より「関東域への嫌悪感」を潜在的に持っていた。
故に、その意味でも最も近く縁故のある「消費地の京」を積極的に選んだとも考えられる。
少なくとも「選択肢」の一つには位置づけられていた事は考えられる。

四国域は前段で論じた様に、そもそも、江戸よりは「京との関係」を古来より深く持っている地域でもあったことから、「京の消費地」は「第二次と第三次の消費地」であった。
然し、「江戸の消費地」は「第一次から第四次の総合の消費地」であった事から、「京」への「商業組合全体での出店」とは成らない論理に成る。
依って、「讃岐と伊予」と「米子と安芸」と「阿波と尾張」は、上記の「四つの要素の理由」とは別に、職能部門の含まない「単数の販売組合の出店」と成り、「消費地の特徴」から「加工完成品の出店」と成ったと考えられる。

上記の金融年譜の「京」は、難波と異なり平安期より「本両替(金銀 大阪 大名・豪商)」と、「脇両替(銭屋 銭 江戸 町人)」の古来からの「両方が併存する経済圏」であった事からも、明らかでそれを物語っているので、それに適合する「京」を選択したのである。
これは経済理論として大きな理由でもある。
これを無視した出店はあり得ないであろう。

当然に、この「讃岐藤氏の商法」の影響を受け、且つ、「讃岐と伊予」の一族一門の「米子と安芸」は、「京」に出て「讃岐と伊予」と“タッグ”を組んだと観られる。
つまりは、「伊勢の商業組合」の「江戸の庶民の商い」を中心とする「組み方」と、「讃岐」の「京の氏の商い」を中心とする「組み方」とが存在していた事に成る。
そして、この「二つの組み方」は根本的に異なっていた事に成る。

果たして、この関係を解消して押し切ってまで「総合の商業組合」として「江戸出店」を選んだろうか。そんなことは考え難い。
取り分け、この「京との所縁と柵」を破る前に、「地理的なハンディー」(運搬に関する無理 下記)が別に在る。
故に、江戸の「総合の商業組合商法」では無く、地域別(京・名古屋)の「単位の商業組合の商法」を採ったと云う事に成る。

当然に、「阿波と尾張」の組の「阿波」は,そもそも、「片喰族と剣片喰族の一族」であり、「尾張藤氏の出自族」の「青木氏」である。
前段でも論じた様に、「讃岐と伊予」と同じ様に、「京」との繋がりが強い地域であって、室町期には「公家武家の西園寺氏」等が席巻した地域でもあり、且つ、この地域は古来より「公家の血縁族の地域」でもあり、「政争の逃避地」でもあった。
この「繋がりの無い江戸」より、「繋がりの強い地域」を求めて「京」に動いたと観られる。
その地域別の「単位の商業組合の商法」は、「讃岐と伊予」や「米子と安芸」に並ぶ結果と成るは必定である。
恐らくは、「讃岐と伊予」や「米子と安芸」と、それに加えて「阿波と尾張」の3組は,地域別の「単位の商業組合の商法」で連携した事が充分に考えられる。

故に、「伊勢」「越後」「越前」「若狭」の“「江戸の出店の4地域−2組」”とは別に成ったのである。「讃岐と伊予」や「米子と安芸」や「阿波と尾張」とが、不思議に“「京の出店の6地域−3組」“と云う事に成って行って、「商法」も同じと成ったと考えられる。

「古来の縁故」からの考察でも“「京の出店の6地域−3組」”と成り、不思議にこの様に分けられるのである。
この当時の「訪問販売」と「付け制度」とその「金融制度」から考えると、「京出店」は「江戸出店」よりは数段に最適であった事に成る。
例え「吉宗と伊勢青木氏の要請」があったとしても、これではどんな無理をしてでも“「江戸出店」”はあり得ず考え難い。

ところが、ここで“「江戸の出店の4地域−2組」”とは、行動を共にしなかったこれまた不思議な「伊豆と相模」が在った。

この「伊豆と相模」は、「源の頼光」以来の本領地で、「伊豆」は「伊勢と信濃の青木氏」がここに子孫を廻して「護衛役」として配置した地域でもある。
(注釈 前段でも論じているが、「伊勢と信濃の青木氏」は「清和源氏」の「摂津の頼光系四家」とは母方で養子縁組もしている唯一血縁族で、その縁から「護衛役」を受け持った。)

そして、この「相模」は、「藤原秀郷流青木氏の定住地」で、ここに「諏訪族青木氏」と「武田氏系青木氏」と「武田氏系諏訪族青木氏」の三氏が、「甲斐の武田氏」が滅亡時に逃避して来て「藤原秀郷流青木氏」を頼って定住した各氏の「青木氏の集結の土地柄」でもあった。

この経緯から、江戸期のこの時期に於いては、この「伊豆の二つの同族の青木氏」(伊勢と信濃)と、「相模の四つの青木氏」の「六つの同族血縁」が成されていて、その長い所縁から「伊豆と相模の青木氏」は「地域」も同じで「所縁」も同じであった事に依り「同じ行動」を採った。
「江戸出店」と「京出店」があったにも関わらず何れにも参加しなかった。

ところが、「江戸」を中心とする「総合の商業組合商法」に参画せずに、「京」を代表する地域別の「単位の商業組合商法」にも参画していないのであるが、それどころではなく、「独自の方法」を採ったのである。
明らかに、“「江戸の出店の4地域−2組」”( 江戸の「総合の商業組合商法」)、 “「京の出店の6地域−3組」” (京の「単位の商業組合商法」)の二つに分けられる。
しかし、これとは「別の行動」を採った「伊豆と相模の青木氏」の1組があったと云う事に成る。

当然に、「15地域」の「伊豆と相模」は「主要な商いの二地域」でもあって、「商業組合」は成されていた。
「吉宗」の「江戸店の呼びかけ」に対して、「伊勢信濃との古の縁故」が厳然と在りながら、“何故、「伊勢」や「越後」の「組」に入る事をしなかったのかである。
「入る事」は、充分に可能で有ったし、何処から観ても、“入って当然”と見做される位置に在った。
「15地域」の中でも、“最もリスクが無くメリット”が多い「伊豆と相模」の筈であった。
筆者も懸命に研究したが証拠と成る資料があまり出て来ない。

江戸期に於いても「伊豆と相模」は、そもそも、「伊勢信濃」以上に「大青木村」を形成し、「笹竜胆紋」を厳然と護る「平安期」からの「純血性」に近い「青木氏」で在った。
“「伊豆と相模」の関係”は、当に“「伊勢と信濃」の関係”と同じであった。

その前に現実に、「伊勢」や「越後」等の「総合の商業組合商法」の「組」に、“何故か「信濃」が入っていない事”に気付くであろう。
これが「伊豆相模」に通ずる答えに成るのである。
つまり、「伊勢と信濃」は、前段でも論じた様に、「伊勢―信濃」の関係にあって“「一身一体」の関係”にあったからである。
「伊勢」より始めた「商業組合」は「伊勢―信濃」の関係で行われていたのである。
「信濃」は「伊勢の補完関係の役目」を、」伊勢」は「信濃の補完の役目」を奈良期の古来より務めていた。
「氏の存立」や「商業の発展」にしても古来より継続されていてその役目を長く担っていた。
何事も“助け助けられての親族関係”にあった。
従って、「四家制度」にも観られる様に、“「一体」”に成る事に依って「氏の存立条件」を高めていたのである。

要するに、「享保改革」の「商業組合」は、そもそも「江戸の伊勢屋」は「江戸の信濃屋」であっても良かったのである。
然し、「伊勢」が「吉宗」との関りから主導し、「信濃」が「護り役」に廻ったのである。
どちらか一方が「主導役」になれば、片方は「護り役」に徹する。
明治期までこの関係が続けられていて,明治9年から明治13年まで続いた「伊勢騒動」にも「信濃」が「護り役」に共に動いたと記録として遺されている。
「信濃」は何と奈良期より1360年間以上にこの役目に徹していたのである。
これと同じで、「伊豆と相模」の関係も、この「伊勢と信濃の関係」と同じ状況を江戸期まで維持していたのである。

そこで問題は、この「伊豆と相模」の関係が、江戸の「伊勢と信濃」の関係にどの様に繋がっていたのかである。
結論から先にはっきり云うと、“答えが出て来なかった“と云う事に成ろう。
唯、「繋がり」としては一つあった。
そもそも、「伊豆」は兎も角も、「相模」は既に江戸に近く、武蔵入間を中心に横浜神奈川を半径とする「秀郷流青木氏の宗家の圏内」に在った。
注釈として、「相模」は、単独の「相模」を意味するものでは無く、「宗家武蔵」でもあり、「宗家の二足の草鞋策」を「補完する役目」を負っていた事で、「武蔵と相模」の意味として表現している。「伊勢と信濃との関係」と同じであった。

現実に、この「4地域−2組」に地元の本元の「江戸」である所に、“「信濃」“と同じ様に、“「武蔵」”も出て来ない事に気づくであろう。
「相模の商業組合」は、「海産物とお茶」を主体とした「商いの商業組合」を古来より構築していた。
当然に、以前より他の論文でも論じている様に、「平安期の秀郷流一門」である限り、“江戸を中心としての「商い」“を鎌倉期初期から堅持していたのであった。
家康以前からの400年前に遡る話でもある。
この事は多くの記録に遺る事で、江戸が栄えてからもその栄に沿って拡大していたのである。

態々、江戸を中心とする「総合の商業組合の商法」に参画せずとも、元々「地元の江戸」に「地域別」の「単位の商業組合の商法」を構築して居て、全く、態々,江戸に移す事の必要性が無く、「武蔵の宗家」と共に既に出来ていたのである。

要するに簡単に云えば、当に、“「地元」”なのであって、「総合の商業組合の商法」は古来からの関係をむしろ壊す事に成り、「得策」ではそもそも無かったのである。
どちらかと云うと、「武蔵」にしても「伊豆と相模」にしても「総合の商業組合の商法」は、“明らかに迷惑”と云える立場にあった。
「メリットが多い」と云う話だけではそもそも無かった。
その逆で、「商業組合の江戸出店」が出て来る事の事態が「最悪のリスク」と成っていたのである。

「江戸」が、「総合の商業組合の商法」で発展すれば、仮に、「武蔵と伊豆と相模の領域範囲」に入って来なければ、それは其れでむしろ「得策」であるが、当初は大いに懸念される事であった。
故に、「伊勢の秀郷流青木氏」が共に「商業組合」を推し進めるべく江戸に出ようとしている中に於いても、更には「紀州藩家臣」と成っていたにも拘らず、「関係性」も特段に持った記録が無かったのである。
確かに、「江戸の家臣団の官僚族」は、「武蔵宗家の秀郷一門の親族」でもあった。
にも関わらず「大きな関係性」を物語るものが観えないのである。

これは何か相当に「苦い思い」を宗家側が持っていた事にも成る。
筆者は、これはこの「江戸出店に関わる事」であったと観ている。
「伊勢や15地域の商業組合」に留まっている範囲では問題が何も無かったが、「幕府の政策」として押し出されれば、確実に武蔵一帯の「既存の商形態」は確実に破壊される。
「武蔵の一族」にして見れば、「痛し痒し」で、場合に依っては、出方を間違えれば「氏存続の根幹」を揺るがしかねない事にも成る。

江戸の「総合の商業組合の商法」の組は、この「伊豆と武蔵の相模」の関係の領域の範囲を崩さなければ“「争い」を起こさないで済む“と云う”「暗黙の事前判断」“があったのである。
当然に、この様に成れば、“「談合」を持った”とする資料か何かがある筈であるが、直接的な確かなものは未だ見つからない。
唯、この享保前の1714年から1716年までの間に「談合」と云えないが、「江戸」に動いている資料が「二つ」ある。

「一つ目」は、「吉宗」が、「嫡子外」として冷たく扱われていながら、「父兄弟と将軍綱吉との面会」に同行し「家来の控えの間」に居た。(1697年)
これより「江戸参府」は「1710年後」まで四回行われていて、「紀州帰還」は三回行われている。江戸と紀州の在籍期間は各々3年と云う事に成って史実と一致している。
この事から「13年の間」には「3年に一回」は「帰還と参府」を繰り返していた事に成る。
「参府四回」と「帰還三回」の間に「1709年末−1710年後」に江戸に出向いている事に成る。
何故、未だ無視された「控えの間の人」でありながら、三回も何故に「江戸滞在」に出ていたのかである。
「葛野藩の藩主」であった事も考えられるが、「陣屋館の形式」で家臣が15人ほど出向いて納めていた形式上の藩主で「紀州藩の支藩扱い」であった。
要するに、「吉宗の食い扶持藩」と云うものであって、三万石乍ら無役である。
つまり、単なる参勤交代では無く「何かの目的」で「江戸」に出向いていた事が判る。

「二つ目」は、「伊勢の紙屋」から二人、「江戸」に出向いている。
(1711年前頃 資料の記載が「宝永」か「宝暦」かは一部朽ちて判別できないが流れから「宝永」と考える。)
恐らくは、一人目は、その表現から息子の「福家の青木六兵衛」と観られる。
二人目は、人物の詳しい表現が無いが、「四日市殿」であると観られる。
この二人は「吉宗」にこの時に同行したのかは良くは判らない。
合わせて、「吉宗の事の一つ目の資料」と「青木氏の二つ目の資料」の接点は有るのか無いのかは、確定する資料は見つからない。

唯、「一つ目(1710年後頃)」と「二つ目(1711年前頃)」には、何かの意味があつた事に成るが、「時期的には同じ」であったが、「同じ行動」であったかは判らない。

この「二つ目の資料」は、「伊勢郷士衆」で「郷士頭」を務めた「遠縁の家」に遺されたものである。
「青木氏の福家」との間で交わされたもので、虫に食われて朽ちかけた「連絡文の様な書類」である。
この「連絡文の様な書類」の一部に書かれている文面から何とか読み取ったものである。
この「縁籍のある郷士頭」も「何かの理由」で同行する事に成っていて、その「打ち合わせ」の「連絡文」ではないかと観られる。

可成り前から、「吉宗」の「藩主擁立」か「将軍擁立」に向けて「青木氏と紀州藩」は密かに動いていた事は論じたが、その時に「青木氏」の中で「談合している事」は小記録からも判っている。
この「談合の後」に、その前に、未だ「享保の改革」が始まっていない時期に、“江戸で何かが起こったか”、或は、密かに交わした「武蔵入間宗家」に向けた書類に対する「返書」が来て、それに対する説明をする必要に迫られていたとも考えられる。
筆者は後者であると観ている。

唯、検証して観ると、一つの鍵は、“「四日市殿」”が出向く事に成っている様なので、これを租借すると、単なる説明では無い事は判る。
“何で四日市殿?“と云う事に成る。
考えられる事は、それは“「四日市殿の家筋格式」”を利用して、同行する事に成って「郷士頭」に連絡をして来た文脈と観られる。

「四日市殿の家筋格式」は前段でも論じたが、「初代紀州藩頼宣」の時に「徳川氏」より「立葵紋の使用」と「水戸藩孫の勝姫娘との血縁」を結んだ「徳川氏の縁籍筋」の家柄と成ったのである。
前段でも論じたが、「立葵紋」は「徳川氏の格式紋」として、「信濃善光寺」と「伊勢青木氏の四日市殿」にしか使用を認めていない家紋で、徳川氏宗家以外は一切使用を禁じている「最高格式紋」である。
「格式」としては江戸期では、「笹竜胆紋」に匹敵させている「最高の立葵紋の青木氏」で在ることから、この「縁籍の格式」を「青木氏」が是が非でも「利用しなければならない状況」が起こった事を示すものと先ずは解釈できる。

次ぎに、「次男の六兵衛の同行」であるが、「六兵衛」は共に育った「吉宗の幼友達」である。
これから考えれば、「嫡子外吉宗」、「継の間の吉宗」に同行したとも考えられるが、一方で「商業組合」を最も説明できる者とも考えられる。

更に、上記の「二つの事」に合わせて、三つ目として「縁籍の郷士頭」をどの様に捉えるかである。
「伊勢の商業組合」と「職能集団の実態の状況」を最も把握している「郷士頭」が補佐として同行すると云う事に成ると、“「説得工作の戦略」”とも考えられる。

この「三つの事」をこの1710年前後の時期の「伊勢の状況」とを総合的に考え合わすと、次ぎの様に成るのではないかと判断される。

「四日市殿」の格式を使って「徳川氏宗家へのコンタクトと幕閣への裏工作」として働いた。
「青木六兵衛」に依って「吉宗代行として秀郷流宗家への裏工作と経済対策の説明」に出向いた。
その上で、「伊勢の商業組合」と「職能集団の実態の状況」を最も把握している「郷士頭」が補佐として同行すると云う「説得工作の戦略」を採ったのではと読み取れる。

この「四日市殿の裏工作」から、「立葵紋」を利用して、「吉宗の幕閣や大奥お目見え」と繋がったのではないかとも考えられるが、これは少し年代がずれていて後の5年程後に成る。

将軍綱吉は、没年1709年2月で、丁度、その1年後の将軍家宣(没年1712年11月)の少し前の時期と成る。
「三年の治政」で「綱吉の悪政の修正」に務めた。「三代急逝去の時」である。
1710年後から1711年前頃とすると、徳川宗や家幕閣の中で「政治」「経済]「世継ぎ」の問題で紛糾していた時期でもある。

別の資料からは2年前(1714年)からの「幕府への説得工作の戦略」を展開したと成っている。
ところがこの資料からだと、幕府への「説得工作の戦略」は4年前(1711年前)と成るので、少し早すぎる事に成る。(当初、この説を採っていた。)

とすると、残るは、「武蔵入間宗家」への「説得工作の戦略」の説に成る。
その内容は、「商業組合に対する参加」に関する「説得工作」であった事に成る。
「享保の改革」とは別に、その前の“「15地域の一員」”に加わる様に、「伊豆と相模と宗家」への「商業組合に対する参加」を要請した事に成る。
つまり、そうすると、この段階で、“「地元」”と云う事も含めて、上記した様に、「武蔵」を始め「伊豆相模」の「経済に対する特殊事情」を考慮していた事を示すものと成る。

「青木六兵衛」と「郷士頭」は「全体の説明役」と「伊豆の説得役」に、「四日市殿」は秀郷一門との「パイプ役」に働いた事に成る。
「四日市殿」は、「伊勢青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」との「融合血縁族」である。
取り分け、この「四日市殿」には「大きな役目」があって、「秀郷一門の説得」には、「江戸の経済」に大きく影響する事から「幕閣」と「幕府高級官僚族」と成っている「一族一門の説得」と、「秀郷一門宗家の説得」と、「相模の説得」に掛かったと考えられる。

結果として、一応の説得は出来たが、その範囲は、「相模と伊豆」に限定したものであった。
この時の事が、上記の「伊勢側」の“「暗黙の事前判断」“と成っていたと観られる。

つまり、「江戸」に出ていざ改革を開始しようとした時に,「江戸への進出」には応じていなかった事に成る。
「伊勢側」では、“説得に応じた”と受け取ったが、その後に「武蔵−伊豆相模」側か、「幕閣官僚」側に“「蒸し返しの反対論」”が出た事もあり得る。
“「伊勢側」の“「暗黙の事前判断」“があったとする説は、「二つ目の資料」が見つかった事で「武蔵宗家−伊豆相模の説得説」に成ったのであるが、仮に、”「伊勢側」の“「暗黙の事前判断」“が無かったと成ると、強引に「享保の改革」の為に「伊勢の青木氏」は「江戸」に出て行けないであろう。
それこそ、「争い」と成る。
確かに、後の「将軍吉宗擁立」では、“「幕閣官僚の反対」”があった事は明白である事からも、恐らくは、後日に異議を唱えたのは、「幕閣官僚の反対」であった事は直ぐに判る。
「立葵紋の四日市殿の説得」には、流石に「反対の声」を直ちに上げる事は難しかったのは判る。
「武蔵宗家−伊豆相模の説得」は出来たと観て、一行は伊勢に戻ったのであろう。
「説得失敗」であれば、「何らかの談合」が伊勢で成されていて、且つ、「何らかの資料」が遺されていてもおかしくは無い筈であるが無い。
「15地域の商業組合の確立」は成功したと判断していた事に成る。

然し、「武蔵宗家−伊豆相模」側では、「武蔵宗家−伊豆相模」の「後日の異議」が発覚して、結局は形式上は、「江戸」には直接持ち込まずに「伊豆相模の範囲」で「一応の最低限の形」は整えた事に成る。
故に、何の行動も無しで「伊勢側」もその心算でいた事に成る。
1716年に蓋を開けてびっくりと云う処であったと観られる。
恐らくは、いざ、1716年に江戸に出て見ると、上記の様に、「武蔵−伊豆相模」は“食い違っていた”と云う事であろう。
大いに慌てたと観られる。大きな誤算であった事に成る。
結局は、「融合政策」に切り換えるほかは無かったと成ろう。
「裏の実態」は、そこで、慌てて談合して、“争いに成らない様に要領を定めた”と云う事に成ったのでは無いかと考えられる。
それが少し後で「吉宗の幕府」が出した「質流れ禁止令」と成ったと考えられる。

江戸に出した“「江戸町方の質流れ禁止令」”から、全国に向けても“「質流地禁止令」”を発したが思わぬ騒動と成った。
そこで、1年後に廃止したが、その代わりに、当然に、「吉宗の経済学の博識」から、この影響が他国に伝播する事を恐れて「葛野藩の割譲地」は“越前返却”として治めたと観られる。
現実に、この騒動は「15地域」の「越後」から一員の「越前方向」にも伝播しつつあったし、近隣の丹波北域でも防ぎきれずに起こって仕舞った。
そこで、「吉宗」は、“否を認める事の姿勢“として、「葛野藩の割譲地の返却」(3万石から4万石に質流地で増額に成っていた)として「返却手段」で治めたと観られる。

実は、「葛野藩の石高」は、当初の扶持米としての割譲時は「3万石」であったが、前政権の「質地取扱の覚」の令で一時的に「質流れ」を緩和した。
これで「騒ぎ」が起こったのであるが、この為の緩和で地権が放出されて葛野藩は4万石に増額していた。

(注釈 当時は、各地に起こる改革も何もしないで増える「支藩等の石高」に対して、葛野藩も一種の「質流れの象徴」の様に観られてしまっていた。享保の改革推進を進める吉宗としては真逆の事に成る現象が各地で起こって仕舞ったし、我が身も疑われて慌てた。)

そこで、「吉宗」は「否の証拠」と成る「葛野藩」を「越前藩」に返却をし、「質地取扱の覚」(1695年発令)も、「質流地禁止令」(1722年発令 1723年廃止)も廃止したのである。
これで各地で起こり始めていた騒動は納まった。

確かに「騒動」は納まったが、「伊勢」−「伊豆相模との問題」は納まった訳では無かった。
この侭で行けば、間違いなく「争い」が起こっていた筈であった。
この「争い」ともなれば「伊勢」と「伊豆相模」の「醜い同族争い」とも成り得る。

そこで、「町方」に多く出現させ始めていた“「江戸の伊勢屋」”の多くは、「江戸の名物」の“「金融業の伊勢屋の質屋」”であった事からも、「質流れの禁止令」( 「元の裏の目的」 「町方対象) 「要領書的な通達」)は、「武蔵と伊豆−相模の領域」を犯さない為にも発行されたものであった事が判る。
(前段で論じた鎌倉期から江戸初期にまでの間を経て確立していた「商い地盤」を崩されたくなかった。)
つまり、元を質せば“「犯す」“のは、”「金融の領域」“からであって、その「質流れ」の「担保の権利買取」の事で起こる問題で、それを防止する「要領」であった。
「担保の権利買取」は、旧来からの「銭屋経済」で生き残ろうとしていたのであった事から確かに「伊豆、相模、武蔵」に執っては明らかに困る。

商取引上では、「自由を前提とする商業組合方式」である限りは、公然と「武蔵と伊豆−相模の領域」は保護できない。
そこで、その起こる寸前の手前で「取扱要領」を決めたと云う事に成る。

「伊豆や武蔵や相模」などからは影響を強く受けていて、その「改革の勢い」で「質流れ」「手形」等を発行する事は多発していた。
そこで、これらを「江戸の伊勢屋の質屋」が「質流れ」で買い取る事は、「伊豆や武蔵の相模」の「地権」等の財産を獲得する事に成り、この「領域の範囲」を明らかに超える事に成る。
「氏存続」も危うい事にも成る。
従って、「形振り構わない不必要な反発」を受けない様に、これを「伊勢側」に約束させる事を前提としていた「質流れの禁止令」の事に成って行ったのである。

これで「伊勢」−「伊豆相模との問題」は争わずに収まりが一応は着いた。
「享保の改革」が進む保証が採れた事に成った。
つまり、「質屋の金融経済の経済」と、「銭屋の既存金融の経済」の“「共存」“は一応は成立したのである。
突き詰めれば、江戸には「両替制度の経済機構」が入りにくい「新しい経済機構」(銭屋と質屋)が出来た事に成る。
然し、新しい経済構造が出来上がりつつあったが、未だ“「融合」”と云う処までには至っていなかった。
それには、“「質屋金融」“に伴って起こる“「担保」”と云う処に問題が未だ在った。

この「享保期の当初の担保」は、「新しい町方の金融」を育てると云う「当初の目的」があって、未だ「地権」のみならず多彩に及んでいた事が判っていて、その多くは、“育てる事を目的”とする「信用貸付」(町方貸付)が多かった事が書かれている。

ところが、“「暗黙の事前判断」“の「食い違いの事件」で、「伊勢側」と「伊豆相模側」との互いの「信用」は戻ってはいなかった。
「信用貸付」である以上は、「商業組合」の「組合人」としての「伊勢側の信用貸付」が「伊豆相模の側」には起こり難かったのである。
それ故に、「銭屋による既存金融」の中にも居た事もあって、尚更に“「江戸出店」”は起こらなかった。
この傾向は1788年までの「享保改革のリフレーション政策」が続いた間は、遂に戻らなかった事に成る。
「初期の信用貸付」から「物的担保」に移行しても結局は戻らなかったのである。
結論的には、“「共存」”は起こっても“「融合」”は起こらなかった。
「伊勢信濃側」と「伊豆相模側」の関係も親族でありながらも、“「心の融合」”は明治期までも起こらなかったのである。
「食い違いの事件」は「相当な不信感」を招いた事に成る。

“「共存」”に依って「一応の安定」が得られた事から、「幕府」は、後にこの様子を観た結果、この要領(ルール)が護られていると判断し、取り敢えずは、“問題が起こらない事”を確認した事で、5年後に「令」を撤廃した。
つまり、この「5年後」には、先ず「共存」が出来上がった事に成り、“「伊勢側」の“「暗黙の事前判断」“の「食い違いの事件」は、”「要領(ルール)」“に依って解決した事に成った。
これは「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」と「勘定方指導の青木氏」の三方で「情報のやり取り」があった事を示している。

(注釈 「伊勢青木氏側」にはこの事に関する限りの記録は六度の火災で全消失。 「伊勢側の関係者」には上記の「二つ目の資料」だけ在り。“「暗黙の事前判断」“の内容と、「食い違いの事件」の内容は「商記録」で無い事から無い。「伊豆相模」までの調査は充分に出来ていない。「武蔵入間」に関しては、先の戦争や大地震等の自然災禍に依る影響か不思議に資料記録は一切無く、「伝統」も「菩提寺」も無い様な状況下で、伊勢側と佐々木氏の資料に頼る状況下にある。)

しかし、ところが思いがけなく、「商業組合」の活発な「越後」に於いて、「町方」では無く、「農地」に対して出していた「令」に依って、「1722年の越後大騒動」(他二か所)が起こって仕舞った。

(注釈 この農地対象の「質流地禁止令」は1年後廃止した。 基に成った俗称「質流れの禁止令」は5年後廃止した。)
(注釈 元々は「質地取扱の覚」で「享保期前の1695年」に発し、「禁止」から一転して「質流れ」を認める「覚令」であった。
混乱を招いた根源である。
豪商や豪農や大名や高級武士が新たな地権者と成って益々利益を挙げた。
「騒動の混乱」は「大きな格差」を招いた事が根本の原因であった。)

注釈の通りにこの「令の経緯」は極めて複雑で、次ぎの様に成っていた。
江戸初期の「田畑永代売買禁止令」 →町方対象の「質流れの禁止令」 →農民対象の「質地取扱の覚」 →農民等の「質流地禁止令」 →「田畑永代売買禁止令の緩和令」

以上が概要の遍歴である。
全て、「享保前の失政、悪政,稚政の付け」である。

この「越後騒動」(1722年)は、発令当初に、「誤解に依る大騒動」が起こって仕舞ったと云う事であって、且つ、「江戸での状況」も改善された事で、その後の解決期間を経て、「令」は中止されたのである。
この「令の事」は、“「暗黙の事前判断」“の内容と、「食い違いの事件」で「醜い同族争い」が江戸でも初期の頃は起こり始めていた事を示している。
単純に円滑に「商業組合」が浸透して行ったと云う事で決して無かった。
「享保の改革」を全国の「青木氏」から観た形で検証はして何とか描いているが、「同族争い」までして相当に苦労した事が判る。

(注釈 「談合」に入った形跡資料は見つからない。相当な不信感があった事が判る。当然に「商業組合)に対する「妨害や邪魔な行為」があった事が考えられる。それを押し切ったのが「伊勢山の質屋」であって、それに対する「リスク」を最低限に抑える為の「質流れの禁止令」の「要領書」であった事に成る。「青木六兵衛」から聞いて「幕府の吉宗」もこの「争い」を承知して気にしていた事が判る。)

この苦労が我々末裔に執っては何の影響もなく、今やロマンに過ぎないが、これ程に苦労して改革を背中に背負って果たしてどれだけの意味が在るのか疑問にも成る。

1788年以後は「青木氏と郷士衆」は紀州に引き下がって江戸での「ギクシャク」は納まったが、結局は、「次政権のインフレ策の失政」で「青木氏の功績」は霧消してしまったのである。
たった、72年間の夢幻かと成る。当に「諸行無常の極まり」である。
筆者は、掘れ起こせば掘り起こす程強い「空虚感」を抱くばかりである。
研究すればする程に、深く入れば入る程に、解き明かしてもその意味合いを他氏には理解され得ない事で、たった一つに成って仕舞った孤独な「遺された氏族の悲哀」を噛み締める事もある。
取り分け、この江戸の「伊豆相模」での事では強く感じる。

然し、この「部分の事」を解き明かして「青木氏の歴史観」にして置くのは、「青木氏」しか無く、他氏はしないであろう。
「商業組合と享保の改革」をより詳しくして遺すのは「歴史家」には出来ない研究事で、資料の持つ「青木氏」にだけ出来る事である。

恐らくは、「江戸の伊勢屋」も「伊勢の紙屋」も「江戸の六兵衛」も「伊勢紀州の郷士衆」も1790年の頃には感じ取っていた感傷であったであろう事が判る。
「越後、越前の青木氏」も同じであった事であろう。

江戸期前には「各地の青木氏の家」にもっと資料が遺されていた事が考えられ、現在でも「伝統」を護り「青木村」を形成している「伊豆」と「越後」にも遺されているものと考えられる。
今後の課題ではあるが「資料」が多く見つかれば「青木氏の歴史観」はもっと広がる事が間違いは無い。

兎も角も、「伊勢」では、「祖父の話」では、詳しくした「先祖伝来の由来書」成るものが「福家の青木氏」に在って、累代で「追い書」されていた事が判って居るので、「伊豆」と「越後」と「越前」にも在る筈であるから、「青木氏の歴史観」は更に広がる筈である。(伊勢は松阪大火で消失)
然し、「時間と時代との競争」であろう。

(注釈 「近江佐々木氏」の「青木氏に関する研究論文」が大いに役立っている。)

取り分け、「勘定方指導」と「江戸の伊勢屋」で動いた「享保の改革」の詳細については、「青木氏族」にしかわからないの“「誉れ」”には成るが、「伊豆、越前、越後」にも在るとは思われるが、「伊勢信濃側」から兎も角も判る範囲でまとめて続けて投稿して置く。




>この詳細は、 「伝統―22」に続く。



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