青木氏氏 研究室
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  [No.341] Re:「青木氏の伝統 23」−「伊勢屋の引揚げ」 
     投稿者:福管理人   投稿日:2016/06/01(Wed) 14:08:40

>伝統シリーズ22の末尾

> 「殖産」を興してそれを「システム化」して「経済」に結び付けて「藩政」が潤っていたのに、これを抑え込んで仕舞った事から、この影響を受けた「下級武士」は、「飢え」に喘いで仕舞った。
> その事から、田畑を耕し農業で産物を密かに売ると云う事で生き延びた。
>
> 「郷士の武士」も「仕官の武士」も「郷士」に真似て生きる事しか無く成り同じに成って仕舞った。
> むしろ、「殖産」を興した「郷士の方」が遥かに潤っていた事が記録されている。
>
> そして、今度は、享保期の「質流地禁止令」では、対象者が「仕官している下級武士」であった事から、幕府としては充分な対応は出来なくなっていたのである。
>
> ところが、「武士の農産物等の販売」には、各職能の「組合の壁」と云うものがあって、「自由」が利かず、結局、「農民の寄合」に入れて貰う等の事や、「農民の名義」を借りる等の事で対応した。
>
> 「幕府」のこの逆に跳ね返って来た思いも依らぬ「失政」に付いて、「藩」もただ観て見ぬ振りして黙認するのみであった。
> しかし、「紀州藩」の様に密かに裏で奨励した藩もあった位であった。
>
> この事から、「職能から販売までの商業組合」も「寄合組織」に変更して、自らも救い、地域の「下級武士や農民」らも救う事で「絆を基本とする寄合組織」に変更して生き延びた。
>
> 唯、この「寄合組織」では「発展」は望めないが「維持」は可能であった。
> それには、上記の「新−1から9までの副効果」までは幕府は潰しに掛かれなかった。
> 「新−2、3、5、7、9」は流石に「株権」を保障の前提としていた事もあって低迷した。
>
> 所謂、「新−1から9」の基本に成った幾つかの制度と組み合わせた「親商法」が、享保―宝暦―明和時代に掛けて「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」の「青木氏」が興した「商業組合」の「新しい改革商法」(1716年から1788年まで)へと繋がったのである。
>
> この経緯は、「伊勢の紙屋」が「伊勢の商業組合」を興してからは明和期(1788年頃)までの「185年間の悪戦苦闘の歴史」に成る。
>
> これ等の事は、「青木氏」だけの「重要な知っておくべき青木氏の歴史観」である。



「伝統シリーズ」−23に続く

唯、「青木氏の歴史観」として、更にここで追記して置きたいことがある。
それは1765年以降には、「商業組合」に入らない上記の「新しい改革商法」の先導者の一つ“「伊勢商人」(「松阪商人」とは別に)”と呼ばれる豪商が他にも出た。

この「豪商」に伸し上がった者等は「伊勢の商業組合」に加入していなかったのである。
そして、「享保の改革」が成功した1765年頃を境に江戸に出て、要するに上記の1から9の「新しい改革商法」に参入して成功を納めた者等である。

従って、この何人かの「豪商等」に付いても、「商業組合との絡み」と「青木氏との絡み」で論じたかったが、下記に考察する様に、この「豪商等」が主張する系譜や由来等の「歴史観」が史実と全く一致しないので中止した。

是非に、取り分け前段の“「江戸の商業組合」の「新しい改革商法」”との「絡み」が在る事から是非に論じたかったが、無理に論じると「史実との矛盾」が生まれる事に成るので割愛したものである。
取りあえずは概要を触れて置く事とする。

そもそも、「伊勢」は室町期末期には、前段でも論じた様に、「近江の秀郷流藤原氏の蒲生氏郷」が治めた。
「近江」は「蒲生氏郷の出自郷」であった事から、「近江から商人」を伊勢に呼び集めたが、この内、「豪商」と成り得た者等は、多くは「藤原氏末裔」を先祖と名乗っている。
然し、その根拠は全く無い。
端的に云えば、「蒲生氏郷」に呼び集められた事から、それをネタに家系を良く見せる為に「藤原氏末裔」としたと観られる。
そこで、彼等の「先祖の移動」に付いて調べて観たが、大方は次ぎの様な筋書きに従っている。
共通する「近江商人の移動経路」
『近江0−松阪0』−『京1』―『近江1』―『松阪1』―『江戸1』―『松阪2』−『京2』−『松阪3』−『江戸2』−『名古屋・京3』

これを観ると、何故か「京と松阪と江戸」を繰り返して移動している。
先ず、『京1』に付いては、「近江0」で「蒲生氏郷」に「松阪0」に招かれた後、「氏郷」が移封と成った後に、一度、「京」に出ている。
この事は歴史的に意味を持っていて重要である。
伊勢にある幾つかの「郷土の史」の記録に依れば、この「京」の記録の部分は無く、彼等の「系譜上」からの記録だけである。
其処の「京」から、更に元の「近江」に戻って、再び「松阪1」に戻っている。
この『京1』―『近江1』―『松阪1』が、先ず、「共通の系譜」と「郷土の史」と異なっている点である。

さて、注釈として此処に「筆者の疑問点」があって、下記に“「作為的な出来事」があった”としている「着眼点」である。

概して、以上として移動しているが、「近江から松阪」に当初は、系譜が主張する“「武士」”では無く間違いなく、“「商人」”として移動しているのである事から、ところが、何故か、「青木氏の商記録の年譜」には出て来ないと云う疑問点なのである。
『京1』―『近江1』―『松阪1』の移動の事と、「商記録年譜」に出て来ない事の「二つの事」から租借すると“「作為的なある出来事」“が浮かび上がる。

仮に主張する“「造られた由来書」”の通りとすると、「二つの青木氏」の何れかの記録には出て来なければならないが不思議に出て来ない。
「伊勢の青木氏」、或は「伊勢の紙屋」のミスに依るものかは調べたがそうでもないらしい。
何か、伊勢紀州の関係する全域に遺資料や口伝や逸話らしきものがあるかと観て調べたが何故か確証するものは無い。

そこで、取り分け、“「大名格の武士」”であったとしている「豪商」等の事に付いては、もしそうであるとすると、「伊勢の歴史の記録」の中にも出て来る筈であるが無い。
これらの「豪商系譜」に依れば、だとすると、殆どは「藤原秀郷流青木氏」との関わりは“「親族」”に当たる事に成るがその記録は無い。
「主張する内容」であれば、「伊勢藤氏」(青木氏、伊藤氏、長嶋氏、藤原氏の四氏)の中にも出て来なければならないし、室町期末期には「松阪の高級武士」であったとすれば、後に一族の者が「紀州藩」に抱えられていた可能性が高い筈なのに全くそうでは無い。
この「伊勢の史実」の「青木氏の歴史観」が完全に無視されている。

その中の「筆頭と見做される豪商の系譜」では、「親政族の伊勢青木氏」とも、「伊勢藤原氏との縁籍」とも主張している。
とすると、これまた「伊勢」に江戸期まで居るのであれば、「付き合い」は無い事は絶対に無い。
又、「伊勢の動乱」の時は、室町幕府の「主要な家臣」であったとしている事は、前段までに論じた「松阪の経緯」には全く合わない。
且つ、「藤原氏」と「源氏族」の“「二つの賜姓族」の「氏族の出自」を主張した系譜を持つ“としながらも、「商人」でもあったのであるから「二足の草鞋策」を採った以上は、その出自は「朝廷承認」に依る“「氏族」”で無ければならないが、記録には出て来ない。
況して、“態々、何で格式の低い方の「姓族名」にしたのか“と云うのも「青木氏の歴史観」に全く合わない。
むしろ、「姓名」は江戸初期前後の当時の「格式を求める社会慣習」から逆であった筈である。
当時の高位族の「慣習仕来り掟」に合致しない主張である。

更には、ある「豪商」の家の「家紋」が“「目結紋」”等としていて、“「近江佐々木氏族」と同じと主張している事”に付いて、主張の“「公家貴族の藤原氏(近江族)」で在る“としながらも、一方で”「賜姓族の源氏」(清和源氏 河内族)と主張する“共通する不思議さも目立つ。
そんな「二つの青木氏」以外に「完全皇族賜姓の氏族の系譜」は、この「伊勢地域」には他にあり得るのか。
然し、名は完全な「姓名」であり、上記の様に系譜では「氏族」だとすると、豪族の「伊勢郷氏」だったと成って仕舞っているのである。
考え着くのは、「北畠氏」ではあるが有名な歴史上の「室町期の氏族名」である。

だとすると、「清和源氏」の「家紋」が「象徴紋」の分類では無い「目結紋」とはおかしいし、貴族の斎蔵族が「目結紋」は全くあり得えず理解できない。

そして、その宗派が「真宗」であるとしているが、この「二つの氏族」とするならば「浄土宗」か少なくとも「天台宗」である筈である。
「宗派」も「家紋」も「格式」も何もかも「慣習仕来り掟」に合致しないし、門徒系の「真宗」は前段でも論じた様に明治初期であり、「時代性」が全く一致していない。
この様に「家紋と格式と宗派」等が一致しないし、「時代性」も一致しない。
この経緯から“「真宗」”としている事から、幕末か明治初期の「後付系譜」に成る。

そもそも、「近江佐々木氏」は、大化期の「伊勢の施基皇子」の弟の「近江の川島皇子」の「近江の賜姓族」であるので、「象徴紋」(賜姓紋)である以上は変紋をしない「笹竜胆紋」の筈である。
なのに「目結紋等の佐々木氏」は、「不詳の傍系支流族」(江戸期の氏姓譜の史書にある第三佐々木氏)の「家紋」となる事にも無理がある。

何にしても“「河内族」”であるとしていながら“「近江族」”と云うのも「歴史観」が理解できない程に矛盾だらけである。
又、「氏族と姓族の混同」が系譜で混在しているが、この「族の違い」の「歴史観の認識」が無かった事に成る。
「武士」として存在して居たのは、全て室町期中期から発祥した「姓族」のみであると認識していた事に成る。

これでは、“一体どうなっているのか”と云う疑問が湧き、江戸期中期頃から明治初期までに流行った「寄せ集めの後付系譜」の“「総花説」”に成っている事には「解決し得ない矛盾」が多いのも事実である。

これは、後に“「氏郷に伊勢に招かれた商人者」“であるとして、1765年以降頃に「豪商」に成った暁に、その流れを汲む一族一門で有るかの様に「蒲生氏郷一門の系譜」に肖り無理に真似たとも観られる。

(注釈 伊勢に同伴した「家臣の二足の草鞋策」か「近江商人」か。「氏郷」は源氏の血筋を母方に持つ「藤原秀郷一門の近江藤原氏」である。)

何はともあれ、「時期」は同じなので「伊勢」を「商業組合」で仕切っていた「青木氏の資料」の中には出て来ないのは何よりの不思議である。

(注釈 「伊勢紀州」は、取り分け伊勢松阪域は、前段でも論じている様に、そもそも「奈良の古来」より「悠久の歴史と絆」で深く結ばれた“「特殊な地域」”であり、上記の様な他の地域で起こる様な搾取の出自で飾る事の事態が難しい地域であった。
この地域は農民の末端まで知り尽くした“戸籍簿の様な地域”であった。
“何処の誰かわからない”と云う風な理屈が通る「場所柄」では全く無かったのである。
搾取偏纂するのであれば、江戸では通ずるかもしれない感覚で「歴史観の無視」で作られたものである事は一目瞭然で判る。)

何れにしても「近江から来た者」としても、少なくとも、最低で「伊勢の商業組合」の中には出て来ても良いと思うが無い。

この事に付いて筆者は、豪商等の「類似する系譜論」から観て、何かこの時にこの様にしなければ成らない“「作為的な出来事」があった“のではないかとも観ているのである。

では、その“「作為的な出来事」があった“とするのは何なのかである。
「上記の矛盾」を背景に、「京1」−「近江1」−「松阪1」の移動の事と、「商記録年譜」に出て来ない事の「二つの事」を解決でき得る「筋書き」は唯一つである。


「青木氏の資料」と「史実」と突き合わせて考察すると、江戸期末期に成った「豪商」等は、次ぎの様に成る。
そもそも、「蒲生氏郷」は、「近江日野城主」、次に「伊勢松阪城主」、最後に「陸奥黒川城主」(「会津鶴ヶ城主」42−92万石)で移封する事に成った。
この時、「伊勢の松阪城主」の時に、「近江」より”「日野の商人」”を確かに呼び寄せた。
そして、「陸奥の黒川城主」(会津鶴ヶ城主)に成った時に、この”「日野の商人」”と”「松阪の商人」”を引き連れて、或は「会津」に呼び寄せて「楽市楽座」を開設した事が有名で間違いなく記録されている史実である。

つまり、この事から、「松阪」に呼び寄せられた「近江の商人」は、その後、二派に分かれた事を意味する。
一つは、「氏郷」に従って「会津に移動した派」(会津派)と、二つは、「京」に移動し後に「近江日野に戻った商人の派」(日野派)があった事に成る。

問題は、この「近江日野に戻った商人」(日野派)が、「陸奥会津」に移動した可能性と、又、「伊勢松阪」(松阪派)に戻った可能性が有る事に成る。

筆者の検証では、次ぎの様に検証している。
直接、松阪から「氏郷の移封」に従って「会津」に移動したのでは無く、一端「京」に移動した後に「近江日野」に移動し、その後に、「会津に移動した派」(会津派)と「伊勢松阪に移動した派」(松阪派)に成ったと考えている。
つまり、「日野派」=「会津派」であって、これと「松阪派」の二派に別れた事に成る。

・1568年前の頃に「蒲生氏郷の政策」で「近江」より「商人」を呼び寄せて「伊勢」に移動させて「座の開設」をした。(実際は1588年)
・1590年過ぎ頃に「蒲生氏郷の移封」で一度「京」を経由して「近江日野に戻った商人」(日野派)を「会津」に呼び寄せて「楽市楽座」を開設した。(実際は1592年)
・1620年前頃(頼宣入城の頃)には、「松阪派」は「伊勢の松阪」で「松阪の楽市楽座」で「木綿等の加工品販売の小商い」をした。(実際は1630年)
・1635年前後頃に「江戸」に現在で云うと「小売業の店」を開いた模様とする。(実際は1675年頃)
然し、この時の開幕後の初期の江戸移動では失敗して「松阪」に戻る。
・1765年頃に再び「江戸」に出て「新副効果1−9」に参加してこの商法で「伊勢の殖産」の「木綿や酒」等を販売して大成功を納めてここで初めて「豪商」と成る。

(注釈 重複 前段末尾に論じた「江戸商業組合の新副効果」を見計らって参加(1765年頃)したのである。
新−1 “「店舗販売」”が起こる。
新−2 “「御師制度の徒弟制度」”が起こる。
新−3 “「暖簾分け制度」”が起こる。
新−4 “「関連店舗の連携店」”が起こる。
新−5 “「チェーンストア」”が生まれる。
新−6 “「バーゲンセール商法」”が起こる。
新−7 “「金銭を融通するシステム」”として「金融業の質屋制度」が起こる。
新−8 “「三貨制度」の「貨幣経済」”が進んだ。
新−9 “「商品の開発」”の機運が進んだ。
「享保の改革」の成功の「新副効果」に乗じて江戸に出て成功した豪商達である。)

(注釈 この時期は江戸の初期頃で、この様な商法は江戸では許されなかったし、そもそも無かった。それ故に、この「新副効果」に依って成功して「豪商」と成り得たとすると、その系譜は
“累々の系譜で作り上げた”と云うよりは、「極めて低質な周囲の者」等の相当の後の時代の時期の「後付行為」では無いかと観られる。
当時は「搾取の系譜」は「金のある者」が専門の「寺や神社等に頼み込んで作っていた為にこの様な余りの「ずれ込み」は無かった筈である。)

この説も「時代のずれ」があり、系譜に無理に合わしたと観られる。
現実には江戸での移動で成功を納めて豪商と成り得て、世間に知れ渡ったのは少なくとも1765年頃以降の事である。
その知れ渡った原因は、「上記の新副効果」に参加して“「換わった商法」で成功を納めた”とする事にあった。

とすると、上記の「系譜の事」は兎も角も、此処で“ある史実との整合性”を検証する必要がある。
それは、“「吉宗と継友」の「経済論争」”の時(1720年−1745年)の事である。
これには、彼等(「1765年豪商」とする)は、「継友側の経済論」に味方して「名古屋と京に商店」を出して移動したとする説が、系譜上では「有名な史実」として捉えられてこれが「一般説」に成っているのである。
然し、もし、この「有名な史実の一般説」が事実だとすると、「吉宗と継友」の「経済論争」時(1720年−1745年)には、既に江戸で成功して「豪商」であった事に成る。
未だ、「吉宗の享保の改革」を始めた頃には、既に「豪商」であった事に成る。
つまり、そうすると「享保前」(1716年)には「伊勢の豪商」であった事に成るので、「伊勢豪商」に成るには「何かの商い」に成功して財を成してそれから最低でも15年から20年は必要である。
とすると、逆算して既に1700年頃には「相当な商人」であって、江戸初期の頃(1665年頃)に既に「近江の商人」では無く、「一般説」が云う「伊勢商人」と成っていた事に成る。

つまり、「蒲生氏郷」が「近江」より「近江商人」を呼び寄せてから「70年後の頃」には「伊勢商人」であった事に成る。
然し、そうすると、この「70年後の頃」には、上記の「共通する近江商人の移動経路」の時系列では次ぎの様に成る。
『近江0−松阪0』−『京1』−『近江2』−『松阪1』−『江戸1』−『松阪2』−『京2』−『松阪3』−『江戸2』−『名古屋・京3』

『近江0−松阪0』 =1568年頃
『京1』−『近江1』−『松阪1』=1595年頃
『江戸1』=1615年頃
『松阪2』=1635年頃
『京2』−『松阪3』=1710年頃
『江戸2』=1765年頃
『名古屋・京3』=1775年頃

「享保の改革」の開始は1716年頃とすると、「吉宗と継友の経済論争」中に「名古屋出店」と、その後の「京出店」と成ると、『松阪1』=1590年頃か、『江戸1』=1615年頃に成る。
この時、「江戸」より「名古屋出店」と成っているので、『江戸1』=1615年頃と成り、この時は未だ論争前の事で「享保改革の100年前」と云う事に成り、時代性が明らかに一致しない。
少なくとも「名古屋出店」が成し得るには、『名古屋・京3』=1775年頃しか無く、それでも時代的に少なくとも“+120年位以上のずれ”が出る。
「松阪派の系譜」と「時系列」と「一般説」には修正出来ない「大きなずれ」がある。

「松阪派の系譜」の『京1』−『近江1』−『松阪1』=1595年頃に付いては恐らくは信憑性があり正しいと考えられる。
それは、「氏郷」に近江より呼ばれ、「氏郷移封」(1590年)で陸奥に移動する事に成った事で、彼等は「松阪」に居づらく成ったと考えられる。
それは、前段でも論じた様に、当然に地元には大和で最初と見做される「和紙の開発と殖産と販売」を職務として担った「商人の祖」でもあって、平安期には「宋貿易」まで手掛けた「青木氏等の松阪商人」でもあって、厳然として奈良期からの「悠久の歴史」を以って「商い」を納めて来ていたのである。
況してや、「伊勢秀郷流青木氏」で「藤原秀郷の末裔」の「蒲生左衛門太夫高郷」の末裔であり、この「高郷」は「氏郷の曾祖父」に当たり、この高郷末男が「青木玄蕃允梵純」であり血縁先の親族でもある。

そもそも、そこに、「氏郷」は「近江」から、態々、「近江の商人」(1588年)を招いたのである。
この“「松阪」“と云う「特殊な環境」に“「商人」を招いた“とする事が問題視とされる。
上記の様に、「招いた事」は事実でありながらも、又、これだけの関係に在りながらも、「記録」がそもそも遺されていない事はそれだけに「あまり良い関係」には無かった事を物語るものと見做される。
「1600以降の商業組合」にも参加していないのである事から少なくとも良い関係にあったとは言い難い。
そうなれば、「招かれた近江の商人」は「氏郷を頼り」に「商い」を広めていた事に成り、とすれば、「近江派」と「松阪派」の「派閥に近い勢力圏」が出来ていた筈で、「青木氏」が勢力圏を作らなくても「近江派」の“「彼ら」“が、それに応じて「松阪派」の“「周囲」“が作って仕舞う「事の流れ」と成るだろう。
1568年(1588年 +20年)から1590年ではあるが、「商人を招いた時」からは22年、その前の「伊勢三乱」からの関係を加えると30年、「秀郷流伊勢青木氏玄審」の頃からの関係で「氏郷」が認知していた頃からでは60年と成るので、“「派閥に近い勢力圏」”が充分に出来ていた事に成る。

(注釈 「松阪在留期間22年」としながらも充分に在り得る筈であるが、「招かれた近江の商人」との血縁関係を示す物さえも出て来ない。格式差からか判らないが不思議である。)

そうなれば“「頼りの氏郷」”が移封で「松阪」に居なくなるとすると、“近江に戻るか”、“氏郷に同行するか”、“松阪に残留するか”の選択が迫られる事と成る事は必定だろう。

「上記の系譜」で論じた様に、“「近江の商人との記録」が無い“ところを見ると、「松阪残留組」は無かった事を物語る事に成る。
「系譜の主張」の「近江帰参組」と、記録が示す「氏郷同行組」に成った事に成る。
「京」から「近江」までの経過は、「氏郷」が会津に城郭を決めて「楽市楽座の縄張り準備」が整うまでの「経過期間」と成るだろう。

結局は、「1590年の移封」からの「会津鶴ヶ城(黒川城の改名)」の増改築開始1592年の第一期完成3年間であって1595年、第二期工事までは1611年完で21年間である。
(徳川政権確立1615年の前の1611年には意味を持っている。)
「楽市楽座の縄張り準備」が整うまでには、最低で「3年」で最大でも「5年」は要するであろう。
従って、直ぐに呼び寄せられる状況では無かった事が判る。
これが『京1』−『近江1』の「経過期間」と見做されるが、従って、『京1』−『近江1』−『会津』=1595年頃から1597年頃と云う経緯が成立する。
(移封後の「氏郷没」の「会津の蒲生氏」は、「お家騒動」で結局は転封した1598年までと成る。)

場合に依っては、呼び寄せられる期間としては、完全に「徳川氏の勢力下」に傾くまでのものとしては、『京1』−『近江1』−『会津』=1598年頃と云う「経過期間 最大8年」までも成立する状況下にあったとは考えられない。
「蒲生氏の氏神」の「近江の若松森」に因んで「若松」と名付け「松阪」と同じく「商業に依る城郭」としたのだが、この事から、「松阪の近江の商人」は、大半は一時「近江」に戻ったと観られ、松阪からの「氏郷同行組」は「伊達氏」を排除しての上記の築城状況から観て無かったと観られる。

「氏郷の移封の目的」は、「広域陸奥の警戒」と「伊達氏の警戒」にあって、「築城」が完成するまでの期間は危険であった筈で、「秀吉」もこの時の状況を「氏郷」に諭す様に現地で語っている位である。
「氏郷の現地の記録」には、「近江」は勿論の事、“「松阪」からも呼び寄せた“と記されているのだが、「松阪の彼等の系譜」では、上記した様に、『京1』−『近江1』−『松阪1』の行から
この「近江」には、新たに「近江」から「会津」に呼び寄せた「近江商人0」と、『京1』−『近江1』の「近江商人1」があって、“「松阪」からも呼び寄せた“の「松阪」は「近江商人1」を指している事に成る。
そして、『京1』−『近江1』の「近江商人1」の全てが「会津」に行かず、一部再び「松阪」に戻った組があった事を指す事に成る。
「松阪」に戻った組が更に「会津」に出向いたとする考え方は、「松阪の彼等の系譜」の何れの中にも「会津の氏郷との行」には一切観られないし、次ぎの理由でも証明できる。

前段で論じた様に、1600年以降の松阪は商業組合を結成して頼宣入城の1619年には一応の成功を納め15地域に拡大していた時期でもあった。
この「商業組合」を観た「松阪派の系譜」の『京1』−『近江1』−『松阪1』=1595年頃は、「松阪」に再び戻ったのであり、一方では「会津」での新たな「楽市楽座」に期待して『京1』−『近江1』−『会津』=1595年頃に移動したと云う事に成ったのである。

この「江戸出店の商業組合」に入らなかったこの「松阪派の豪商」等は、その後に力を貯めて江戸での新副効果に期待して、再び、現実には1765年頃以降に江戸に出店したのである。
“+120年位以上のずれ”は、この豪商(「1765年豪商」)等の「搾取の系譜」に合わせて、“「史実」までを「系譜」に合わせた“と成っている事に成る。
そこで、この「一般説」が“「史実」までを「系譜」に合わせた事”と成っているが、それにしても”何かそれに見合うもの“が無ければならない。
「間違い」を起こしたのか、「恣意的」に設えたのかは判らないが何かあった筈である。
つまり、1716年から1720年頃に都合のよい何かがあったのではないかと云う事に成る。
この時、既にそれなりに「店を大きく構えられる商人」であった事に成るので、時代的には「1700年の頃の商人」と成る。
「豪商」とまでは行かなくとも利用できる業績を上げていた「商人連」が居た事に成る。
そうなれば、この元禄の政治と経済が極貧の状態で、江戸に出て来ていた豪商らは輸送費の低減と、江戸の薄利多売の過当競争を避けて、組合を創って「利益の確保」に躍起と成っていた。
そこで「荷積主」等は、経費の大半を占める輸送の統一化を図る為に“「江戸十組問屋」(1694年)”と呼ばれる「関西商人の積荷主の組合い」(10商家)が結成された。

それが次ぎの商人である。
泉屋平右衛門、大阪屋伊兵衛、小津屋清左衛門(小津氏)
桝屋源之助,井筒屋善治郎,大坂屋孫八,駿河屋長兵衛。絹川屋茂兵衛。三河屋長九郎,山崎屋勘兵衛,池田屋喜右衛門,笹屋豊次郎、岩出屋惣兵衛、井筒屋伝右衛門,枡屋喜右衛門
次ぎの組である
塗物店組(塗物類),内店組(絹布・太物・繰綿・小間物・雛人形)
通町組(小間物・太物・荒物・塗物・打物),薬種店組(薬種類),釘店組(釘・鉄・鍋物類)
綿店組(綿),表店組(畳表・青筵,河岸組(水油・繰綿)
紙店組(紙・蝋燭),酒店組(酒類)

他に、この時期に活動した商人
紀伊国屋、讃岐屋、越後屋、長谷川 長井
(注釈 この時「浅野家の問題」が勃発した。)

ところが、これに対抗して、前段で論じた政治と経済低迷の中で「元禄期の廻船問屋の商人」等は、経済低迷で「積荷の競合」に依る倒産を避ける為に、廻船問屋の大阪と江戸に「廻船二十四組」と呼称される「廻船問屋の組合」が組織された。
然し、この「廻船問屋の組合」は「享保の改革」までには10問屋に激減していたのである。

そもそも、「享保の改革」の直前までは各の如しで「極貧経済」で、そもそも「名古屋」に店を構える等の事の余裕は無く不可能な事であった。
「極貧の経済」であったから、この様な組を作って当面の利益を確保して「競合倒産」を避けたのである。
遠隔地に出店が可能とするほぼこれが江戸の当時の「豪商」と呼ばれる者等であった。

そこで、このリストから仮に「一般説」に該当する商人と成れば、「伊勢と江戸と綿・酒・紙」をキーワードとすると、「小津屋清左衛門」だけと云う事に成る。
この「小津屋清左衛門」のある系譜に依れば、「北畠家の媒臣」で北畠滅亡後、江戸に出て1653年頃に大伝馬町に「商い」を営み、伊勢の和紙と繰綿業で利益を挙げ豪商と成ったとある。

(注釈 この説は、1658年に伊勢松阪本町に住んだとする記録と矛盾する。)

一方の系譜では、松阪の近郊の小津村から「油屋源右衛門」という商人が松阪に移り住んで、小津姓を名乗って、 一族の者の中で「小津」を家名とする人が多く出たといわれている資料説もあるので、1765年代後と成る。
この説によれば、この「小津姓」を名乗った「初代の油屋源右衛門」より店子であった「清左衛門」は融通を受け、「商い」を始め1658年に衣料店を本町に構え、その後の44年後の1711年頃に「商い」の為に江戸に出たとしている。
その後に「商い」は「店前商法」で成功を納め、1755年に「紀州藩御用達」と成り、「15人扶持」を与えられる。
この時、「初代清左衛門」より四代目である。

「小津村」の町人の「油屋源右衛門」が最初に名乗り、その後の誼で清左衛門が小津姓を引き継ぎ名乗ったと成っていて、その出自が矛盾なく記述されている。
そうすると、先ず町人の身分で「小津姓」を名乗れるには、つまり、町人が「苗字帯刀」(15人扶持米)を許されるには、「紀州藩御用達」(1755年)の後に許される事(或は明治初期)に成った後の事と成るので、「北畠家媒臣説」の1716年代の江戸の「小津清左衛門」の呼称は時期的にずれて早すぎて矛盾する事に成る。
この段階では「小津屋清左衛門」が正しいのであって、時代的には「小津姓」は「清左衛門」の四代目後(1756年)が名乗れる姓であった事に成る。
従って、「商人」として成功を納めた時期が1755年前後と成り、1716年代には未だ豪商とは成っていない。

(注釈 この説では「一戸の商人」に成るまでの経緯に付いて謙虚に苦労した経緯が書かれていて、「由来」には通所に観られる「歴史観の誇張」が無い。)

「本説の町人説」は時代性と出所を明確にしているが、「北畠家媒臣説」は時代性等の根拠は薄く疑問である。
「町人説」では、「紀州藩 江戸御用達」と成った時の事と、紀州藩に依って「豪商」に成れた事が詳しく書かれていて、「享保の改革」後の1760年代後半に「商人」としてやっと成功を納めたが、紀州藩の度重なる「御用達の御用金拠出」には大店が成り立たない程に相当無理をしたと如実に書かれている。
唯、“「紀州藩の御用商人」として「大商い」が出来て、「商人」として成功したとして感謝している”としている。
この恩に報いる為にも「御用金」を無理して出したとした記述も観える。


つまり、「近江派」や「松阪派」では無い「松阪商人」は出店可能な「小津屋」であり、矢張り、この「小津屋」も享保後であり、「近江の商人」の「松阪派」が江戸に出た1765年頃とほぼ一致する。
従って、この「松阪出自の小津屋」も「名古屋出店」は「物理的」に起こり得ない事に成る。
記述から観ても、仮に時代性が一致したとしても世話に成ったとしている以上は紀州藩を裏切って、論争中の尾張藩の名古屋に出店する事は先ず無いだろう。

上記の「近江派」の「松阪派」に属していたとする「江戸の越後屋」では「時代性の疑問」があって論じ難いが、「1673年出店」で「店前売り・掛け値なし定価売り」の商法で成功している事から、成功時期を明確にしていないが、上記の「新副効果1−9」に依って成功しているので、この新商法が生まれたのは1760年代と成り、この後に「新副効果1−9」の「商業組合方式」に習って、「京」にあくまでも衣料呉服の“「仕入れ店」“を設けたのであって「販売店」ではなかった。
従って、「一般説」が強調する「吉宗−継友論争期」の「名古屋出店」は、「越後屋も含めての「近江の松阪派」では起こり得ないのである。

「伊勢」では資料からの読み取りでは、「伊勢商人」や「射和商人」としての「扱い」では良ければ何か出て来る筈であるが、「郷士の家に遺る手紙資料」等に依れば、「松阪派」は、“人の評判は確かに悪かった様”(「付き合い」が少ない。)で何も出て来ないのである。
又、何処かで「青木氏の商記録」と「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢藤氏」の資料の中にも出て来なければならないが出て来ない所以である。

“「作為的な出来事」”があった事と、「資料との突き合せ」が出来ない事のこの二つに付いて、これは一体、何故なのかであると云う疑問点の結論は、「松阪の商業組合」と「会津の楽市楽座」が共に興った事に依り、それに合わせての「出来事」と云う事に成る。

そこで、唯、一つ気に成る事が「郷士の家」の「手紙の資料」等の中にあって、「射和地区」の「射和商人」としての“「伊勢郷士衆」の「扱い」”で、「・・・郷士三井殿・・・」の表現で「郷士の姓名」が1件出て来る。
これとの確実な相関関係が取れないが、要するに、「近江人か伊勢人の出自なのかの判別」で「答え」は決まるが、これでは「近江人」としながらも「伊勢人の出自」と成っている。
そして「伊勢人の出自」では、その文面の行から「伊勢の松阪郷士衆」と成ると、下記の様に資料的にはっきりしている「伊勢郷士衆 20(18→11)衆」に、文面が正しいとすればこの「新たな郷士」が一つ加わる事に成り、「青木氏の記録」とも一致して来ない事に成る。

(注釈 「伊勢の出自」では、“訳が判らない”と云う事は、「不入不倫の権」で護られていて「変わらない悠久の歴史」を以っている為に先ず無い。)

「幾つかの説」で公に主張されている「豪商等の由来書」と成るものは、“果たして真実か“の疑問が湧くが、上記の様にそれも余りの矛盾で確認が出来ない。

従って、次ぎに考えられ事としては、「伊勢の松阪郷士衆」で無ければ、「射和商人の郷士」と成るが、この多くは「松阪の郷士頭」の中での「差配事」であるのでこの説は無理と成る。

そうすると残るは、その中でも「射和商人」に加わった“「門徒衆」”と云う事に成る。
“「射和商人」に加わった「門徒衆」”と成れば、前段で論じた様に、「室町期以前の歴史」では、「論理的矛盾」が土台的に在り過ぎて無理である。
然し、「江戸期初期からの歴史」では、上記した様に後に「豪商」と成り得た事は事実であるので「江戸期の遍歴」はほぼあり得るが、主張する「時代性」だけではとも多少のズレがあってもほぼ一致して来るが系譜姓を絡めると大きく差が出て仕舞う事に成る。
そこで、彼らがこの「江戸期初期からの歴史」での「射和商人」に加わった“「門徒衆」”とすれば、「射和の・・郷士三井殿・・・」も「時代性と系譜姓」での「歴史観」からある程度で納得出来る。
つまり、前段で論じた様に、系譜姓を無視すれば「射和商人と成った門徒衆」が、“「射和の郷士」に加えられる事と成った”としている事で一致させられる。
そこで、では果たして“「彼の頑な門徒衆」“に正式に加えられたかは別である。
この“加えられる”と云う事が、“一緒に仕事をする様に成った”とする意味なのか、“正式に「郷士衆」に加えられた”とする意味なのかは、この「射和の・・郷士三井殿・・・」の「書き様」では定かでは無い。
普通に考えれば、元々「門徒衆」は「北紀の郷士」である事から“郷士衆に加えられた”とする「書き様」には成るだろう。

従って、前段でも論じたが、この事を「悠久の歴史」を持つ「伊勢郷士衆」が、後に江戸期に生まれた“「伊勢の殖産事業の背景」”と成った「門徒衆」を、“「射和商人」として認めた“のであるから、これ以上は,「伊勢郷士衆」の中の“「射和郷士」としても彼等を認めていた“と云う事でも理解はできる。
「突き合せの記録」が見つからないのは、恐らくは、正式な“「射和郷士」”ではそもそも無く、「扱い上」を“「射和郷士並」”としたと観られる。

これは前段で論じた様に、「四日市殿の門徒衆との経緯」を論じたが、この事からも、「門徒衆」の“「扱い」”には充分に気を使っていた事からも、“「射和郷士並説」”としては良く判る。

さて、そうすると、“「作為的な出来事」”があった事と、“「資料との突き合せが出来ない事」”の関連する二つに付いての疑問であるが、筆者は現在、状況証拠から次ぎの様に推論している。

ところがこの「推論」を証明するものが未だ充分に発見されない。
その「推論」とは、先ず、“「作為的な出来事」”ではあるが、この事が原因して“「資料との突き合せが出来ない事」”に繋がっていると観ている。

では、その“「作為的な出来事」”とは、具体的には次ぎの様に分析できる。
(A)「青木氏」が始めた「商業組合」に参加しなかった「商人グループ」が居た事
(B)「商人グループ」とは「氏郷」が招いた「近江」から来た「商人グループ近江」であった事
(C)「通称 伊勢商人」には「商人グルーブ近江」と「商人グループ伊勢」に別れていた事
(D)「商人グループ近江」には「奈良、難波域」と「京、近江域」の「商人衆」が背景であった事
(E)「商人グループ伊勢」には「松阪域全域」と「伊勢紀州域」の「郷士衆」が背景であった事
(F)「商人グループ伊勢」>「商人グループ近江」のはっきりした関係にあった事
(G)「商人グループ近江」は「近江郷士」の「外様格式」で、1600年前豊臣政権時代の商人、
(H)「商人グループ伊勢」は「伊勢郷士」の「譜代格式」で、1600年後徳川政権時代の商人

以上の事から、「商人グループ近江」(近江派と松阪派)は、江戸初期に「商人グループ伊勢」が興した「商業組合」には参加せず、互いに「商い」に依る「近江−伊勢の勢力争い」が伊勢で起こっていたと観られる。
その結果、明らかに(D)(E)(F)の関係で、「商人グループ近江」は江戸期(1760年代まで)には衰退したと観られる。
(注釈 上記に論じた「氏郷の陸奥会津移封」に依る原因)

「商人グループ近江」は、上記でも論じたが、“「商業組合」に参加せず“と云うよりは、むしろ、この状況下では”参加出来なかった“と判断できる。
其処に、「吉宗と青木氏との関係」が更に構築された結果、上記の様に、『近江0−松阪0』−『京1』−『近江2』−『松阪1』−『江戸1』−『松阪2』−『京2』−『松阪3』−『江戸2』−『名古屋・京3』の様な「松阪−江戸」の「二度の遍歴」の経緯を「商人グループ近江」は共通して持つ事に成ったと観られる。

つまり、「越後屋」等を目標にしていたが、衰退して江戸には出たものの未だ江戸には充分に“自由”が受け入れられる商環境では無かった。
そこで、失敗して再び「江戸」から「松阪」に戻った時には、「三井氏等の記録」や「門徒衆の資料」では殆ど「商人」では無かった模様である。
「武士」を捨てて「松阪」でも大変苦しい貧困の生活状況で暫くして「小間物屋」等を営んだと成っている。
そもそも、1600年頃から1840年頃までの期間では、“郷士や浪人の「下級武士」等が「商い」を営む”には、前段でも論じたが、「座、組合、寄合、株、等の障壁」が在ってなかなか難しく、殆どは農産物で凌いだが、多くは“「名義借り」や「架空名義」“で「寄合」に入れて貰ったり、農民に助けて貰っていた。
簡単に店を構える事は難しかったので、その事から、「名義借り」や「架空名義」で「商い」をした事から、その「貸手の名義人」や「架空名義(実在)の系譜」を搾取や偏纂して系譜を作ったとするのが普通の事であった。

(注釈 「名義借り」は実在する商い等の「権力者」の名を賃貸借りする方法。
「架空名義」は商いとは直接無関係な実在する「世話人」等の名義を賃貸する方法。
1781年以降は、「商業組合」の組織に対して「幕府の抑圧策と解散令」が出た事から、何らかの形で殆どはこの何れかに入らないと難しく成っていた。
従って、「保護される組合」にはなかなか入れずに「農民の村郷寄合」に入れて貰う事が多く起こった。この為に結局は「半農民」に成る者が増えたのである。
「彼等の系譜」はこれを隠すための搾取偏纂であった。)

そこで、“「小間物屋」を営んだ”とした場合でも、「半農民」では無く、“「名義借り」(半商人)か「架空名義」(半武士)”で「寄合か組合」に入り、営んだ事に成る。
これが「極貧状況」でいた時の伊勢のみならず関西での現実であった。
この様な「半農民」「半商人」「半武士」の歴史観が構築される「特徴ある時代背景」があった事から、上記で論じている系譜は殆どは疑問視と成るのである。
それを押し通すだけの力が、『京1』−『近江2』−『松阪1』の「浮浪の日々」の「氏郷移封後の彼等」の中にあったとは到底考えられない。在れば『京1』−『近江2』−『松阪1』のこの「浮浪の日々」は起こり得ないのである。

そうすると、前段でも論じた様に、1765年代以降は「組合」への「幕府の抑圧策」が次第に強まり、「小間物屋」から大きくする事は相当に難しかった筈である。
彼等の系譜では、年代を伏せて簡単に主張しているが、何にしても大きな成功を納めるには“何かの準備されたチャンスに載ること”以外には無かった筈である。
それが「享保の改革」での「新副効果1−9」であると論じている。
1600年頃から1840年頃までの期間では、“「店」を構える“と云うよりは、普通では、殆どは”「行商」“と云う程度であった筈である。
故に、この「障壁の狭間」で生きようとすると、同じ「江戸−松阪への遍歴」を二度も繰り返したのではないかと考えられる。

(注釈 そもそも、何度も論じているが、「享保改革前」は、「政治と経済が極貧の状態」であって、「彼等の系譜」が主張している様には行かなかったのである。
「新副効果1−9」が「享保の改革」で敷かれたからこそ成し得た事で、だからこそそれを恐れて「冥加金制度」や「商業組合禁止令」で、勢いづく商人を観て抑えにかかったのである。)

ところが、これとは反対に、「商人グループ伊勢」が、「15地域でも商業組合」を拡げ、更には「吉宗」を「将軍」に仕立てた上に、「享保の改革」で「商人グループ伊勢」の「商業組合」は江戸に出て大活躍した。(1745年頃を頂点に活躍)

これを観た「商人グループ近江」の一部は、この時より「地場産業の青木氏が始めた殖産商い」で「伊勢」で再び潤い、15年−20年程近く後で、資金を貯めて再び、「商人グループ近江」として単独で江戸に出て行ったと成る。

注釈として、「伊勢の商業組合」とは別に、「青木氏の資産と差配」で興している伊勢の“「青木氏の殖産」”があったので、この「青木氏の殖産」に関わると、上記の「商障壁」は無いので「商業組合」とは別に成る。
「青木氏の認可」、つまり、「伊勢青木氏」の「伊勢の紙屋の販売」を手伝うと云う形(名義借り)で「商い」は出来た。(木綿、地酒、養蚕、豆等があった。)
「1600年−1899年」まで青木氏独自で数多くの新しい「伊勢殖産」を独自に興し続けていた。
要するに、これらは未だ「殖産」を興したばかりの物で興業化に至っていない産物で、伊勢で「商業組合化出来なかった殖産」が、“「青木氏の殖産」”として維持し続けたのである。
(後の幕末期には江戸に持ち込まれた物もある。)
取り分け、1781年以降の「抑圧策と解散令」で、全て「商業組合方式 1605年」から、再び、「1605年前の商形式」の「青木氏殖産方式」に切り替えている。

唯、この時(1760年前頃)、「商人グループ近江」は何れも「豪商」では無く、全てこれらの殖産品を扱う「貧困の小間物屋」等であった。
上記した様に、この時(1760年前頃)には、「享保の改革」の江戸では、「商人グループ伊勢」の努力に依って、「江戸の商業組合」で画期的に「環境変化」(「新副効果1−9」)を興していて、“「自由」”にして“「知恵」”を働かせば「商い」として成功する「柵の少ない土壌環境」が出来上がっていたのである。

この「自由な商いの環境」を観て、これを観た「松阪」に帰っていた元の「商人グループ近江」(松阪派)は、“「自由と知恵と商い」”を以て「江戸」に再び挑戦したと云う事に成ったと考えられる。

それが「直接販売」の「店頭販売(店前販売)」で、これに加えて「銭兌換」で「小間物屋」等の「路上販売」の「小売安売り商法」(木綿の衣類 地酒 豆粉)を展開したのである。
「商業組合の自由」をベースに、更に、当時としては「自由性を発揮した画期的な商法」(上記 「新副効果1−9」)で挑んだのである。
これが「江戸の庶民」に大当たりして成功を納めたが、これだけでは「商人グループ近江」の一部は納まらなかった。この成功を元手に次ぎの手を打った。
それが「商人グループ伊勢」が始めた“「江戸の暖簾商法」”を真似た“「チェーンストア商法」”であった。

ここで、この「商法」に失敗した「商人グループ近江」の一部は脱落し、伊勢からは「小津屋」(松阪町人)や「越後屋」(近江派の松阪派)を始めとする「数人の豪商」と成った。

この経緯から、上段で論じた様に、より発展して生き残る為には、上記する様に「商人グループ近江」の「数人の豪商等」は、「吉宗―継友の経済論争」に乗じて“「継友側に参画する」(インフレ策)“と云う「大掛け」をした。

(注釈 「チェーンストア商法」であった事から、この「商法」で拡大させるには「インフレ策を採る尾張側」に味方したと観られる。
つまり、「吉宗のリフレーション策」には同調しなかった。
元々、「商業組合」に参画しない「商人グループ近江」であったから、同調は無い事は判るが、「伊勢」では、「青木氏殖産」で生き延び、それを元手に江戸で成功を成したが、「義理≠商い」の「変わり目」は「青木氏」に執っては間尺に合わない。)

そして、「名古屋と京に出店する事の経緯」(尾張御三家の背景で)に繋がったのである。
故に、「総合の商業組合商法」に参画せずとも、これで「独自の商法」を構築して居て、この状況が成功する「商環境」は、「享保の改革」の後期(田沼の組合抑圧策期)の「1765年前後の時期」であって、故に、+「10−30年」の「タイムラグ」が起こっているのである。

ところが、「商業組合」に依って「格式」が保障されない事から、成功した暁の後刻に「暖簾」に合わせて「豪商の格式」を作り上げる環境が起こった。
結局、共通する様な上記(“「名義借り」か「架空名義」の系譜搾取”)の様な「商人グループ近江の系譜由来」を作り上げたと云う事だと観られる。
従って、“「作為的な出来事」”とは、上記の事(「名義借り」か「架空名義」の系譜搾取)であった。

この事が原因して「青木氏」の“「資料との突き合せが出来ない事」”に成ったと考えられる。
「商業組合」として江戸に出る120年後の時点での「商人グループ近江」は衰退期であった事から伊勢記録には出て来なかったのである。
その結果、この時、「江戸出店組商人」等の「出世頭」で「リーダー役の越後屋」(出店時期が異なる)の「由来書」に真似て作ったとも考えられる。
この様な「搾取の系譜」が出来る事には、「当時の社会風潮」であった事から全く疑問が無く、当然の結果として「氏郷」に招かれた「近江出自の者」である限りは起こる事は当然であって、上記する様に「矛盾」を大きく孕んだ「共通する様な系譜」が出来たと考えられる。
従って、「矛盾」を大きく孕んだ「共通する様な系譜」では論じられないのである。
何はともあれ、下記の共通する「近江商人の移動経路」である
『近江0−松阪0』−『京1』―『近江1』―『松阪1』―『江戸1』―『松阪2』−『京2』−『松阪3』−『江戸2』−『名古屋・京3』の様な共通する「複雑な移動経緯」がそれを大きく物語るものである。

この結果から、「吉宗−継友論争」で「商人グループ近江」は過去の(A)から(H)の背景があっての因縁(恨み辛みも含む)が、その「名古屋・京の出店」に指し向けたとも考えられる。
唯、前記でも論じたが彼らが主張する「享保期の名古屋の出店」は検証できなかったが、
「京の出店」は「商人グループ近江」である以上は元の故郷と成るので当然の事とも考えられ、呉服や酒等の「仕入先店」として是非に必要であって現実に検証で出店は記録されている。

この推論をベースとすると、上記で論じた“「射和商人」に加わった「門徒衆」”とすれば、「射和の・・郷士三井殿・・・」も「歴史観」からも納得出来る。
とするとこの一説は、上記の移動経緯の「松阪」―『江戸』の「直前の事」、つまり、「名義借り」や「架空名義」を語っている事に成る。
「商人グループ近江」が何とか生き残る為に、当時の「商慣習」から「射和衆」としての「名義借り」や「架空名義」で「商い」をしていた事から、「扱い」を「射和の・・郷士三井殿・・・」の「射和郷士並」にしていた事に成る。
そうしなければ「限られた範囲の生産量」の「仕入れ」である以上は勝手には領域を犯す事に成って出来ない慣習であった。
この感覚は、即ち、”「射和郷士並の扱い」“が「四日市殿の経緯」で明治期まで引きずられていた事を示す。

(注釈 当時は、生産をする「作り手集団」も「売り手集団」に依って「生活の保全」を約束されている限りは「飛び込みの買い手」は排除する慣習であった。
取り分け「伊勢」は奈良期より「作り手集団」も「売り手集団」の結束が強く、それが発展して江戸初期に「商業組合」に発展した日本で最も古い株組合で形成されていたのである。
特記として置くことは、前段からも論じている様に、「青木氏の歴史観」として「青木氏の伊勢の紙屋」はこの両方を「青木氏部」と云う形で奈良期から持っていた。)

この事に付いての一般説の問題は、「商人グループ近江」は、「近江人の商人」か「伊勢人の商人(門徒衆)」かの論議では、矢張り、この議論でも起こるが、良く区分けせずに「近江人の商人」(越後屋等)の中には「伊勢の商人」(小津屋等)が含まれて議論されていたと云う事である。
中には、「商業組合の商人」迄も同じ括りで「商人グループ近江」「近江人」(「松阪派)として喧伝して「松阪派」を必要以上に「伝統のある商人」であるかの様に誇張している説があって、「伊勢商人(松阪派)」と「松阪商人(商行組合)」と「射和商人(門徒衆含む)」を区別しないこの「一般説」もこの類である。

(注釈 「名義借り」や「架空名義」の慣習の中にあった為に、上記する「歴史観の問題」を起こしている「一般説」は、「伊勢商人(松阪派)」を「松阪商人(商行組合)」と「射和商人(門徒衆含む)」までを同じ「伊勢商人」と観て仕舞う間違いを起こしている可能性がある。)

そもそも、「商人グループ近江」とは、“全てが「近江人」(「松阪派))か”と云うと、“そうでは無かった事”は記録からでも判る。
先ずは、「伊勢の商業組合」には、“「近江人の商人」(「松阪派))”は、当然の事として、つまり、先ずは、“「門徒衆の商人」(射和衆の商人、小津屋等の商人)”も参加しなかったと云う事が判る。
この伊勢で救われ「青木氏の殖産商人」と成った「門徒衆」が参加しなかった事は、この「門徒衆」が「商人グループ近江」に加わっていた事は充分に考えられる。
それは、「門徒の宗派」での繋がりであったと考えられる。
要するに、“行動を共にする”と云う意味での「グループ」であって遺された記録を補完している。
“行動を共にする”と云う事は、“「伊勢の商業組合」に参加しない“と云う行動を選んだことに成る。 
この“参加しない”と云う事が、この「門徒衆」が組合化していない「殖産」に従事して居た事もあるが、「組合化の有無」とは別に、“江戸に向けての商業組合の行動に行動を共にしなかった”と云う事の方が主であろう。
「記録の意味合い」からすると、判り易く言えば、“参加に反対した”と云う事では無いかと考えられる。

(注釈 「射和の研究資料」の中に「江戸初期からの射和の商人の街並み」を頑なに遺したとある。「秀吉の圧政」から「紀州の門徒衆」を「青木氏と伊勢郷士衆」が救い出して射和に保護したものであるが、従って、「門徒衆」は「射和地区」では古くは無い。)

その後、“この射和域を護ったとする”には、論理的にこの射和での「定住年数」から無理があり、従って、「江戸への移動」は、一族全員が江戸に移動(国抜け)と云う事では無いので、未だ「近江人の子孫」や「門徒衆の子孫」を遺しきれるほどに拡大し充実していない事からも物理的ら江戸への移動は困難で不可能である。
従って、参加せずに残ったからこそ明治期まで射和の江戸初期からの「古い商店街」は遺されたのである。

それは,又、前段でも論じたが、「門徒衆の強い宗教的概念」にもあったからである。
「(イ)(ロ)(ハ)の自由を前提」とする「商業組合の概念」には,本来は「浄土真宗の概念」は一致しない事でもあった。
もし、「浄土宗密教の色即是空の解釈」の「拘り無くす事」では、「自由を前提とする商業組合の概念」は成り立つが、「門徒衆」の「浄土真宗の概念」の「一念発起」からすると、「拘りを持って意志を貫くとする考え方を優先するのであるから、未だ成功していない「射和での商いの成功」を先ずは選択するであろう。
従って、記録と一致して、“「近江人の商人」と観られていた「門徒衆」“は、商業組合に参加せず、且つ、「残留組」を間違いなく記録と一致して選択したと考えられる。

そもそも、「門徒衆」には、前段でも論じたが、彼らには「浄土真宗の概念」から特段に「集団性」を強く持っていて、この「集団性の概念」がある事で、「移動や移住」は避けられる「足枷」と成る。
彼らに執っては、この理由から結果として、“「江戸移動」”は先ず避ける事に成る。
更には、「江戸と云う土地柄」は彼らには「避ける地域」と成り得ただろう。

依って、彼等は“参加しなかった”のであり、「参加しなかった事」に依り、「松阪派の近江人」と同じ行動を採った事で、伊勢での「商人グループ近江」の「近江人」と「門徒衆」の「伊勢で繋がり」も生まれる事は必定となったのである。

これに依って“「近江人の商人」と観る「門徒衆」“の説が生まれたのである。
そもそも、「門徒衆」と同じ様に「商人グループ近江」の「近江人(松阪派)」は、「商業組合」に参加せず、「伊勢郷士衆」とも「深い馴染み」の「繫がり」が起こらず、「時代の変化」で衰退して仕舞って、「伊勢」では「苦難の生活」を送る事に現実には成って仕舞ったのである。
「射和の門徒衆」も「伊勢郷士衆」に救われたが、なかなか「馴染み」が起こらず、時々その生きる為の「概念の違い」から、或は「慣習差」から揉めることにも成っていた事は前段でも論じて事実でもある。

この様に「射和の門徒衆」と「近江人の商人」の両者は良く似た境遇にあった事から、“互いに助け合っていた”とも観られる。
それが、「射和の・・郷士三井殿・・・」の「互助」に関する“やや心情的な手紙の内容”に成っていたと観られる。(「手紙の内容」を個人情報により詳細に伝えられないが)
この「射和の・・郷士三井殿・・・」の文面に付いては、その意味で「射和の門徒衆」は「近江人の商人」を「同じ郷士」と認識していた事に成る。

因みに「松阪派」の江戸で豪族と成った「ある家の系譜、由来書」には、“近江より1568年に松阪に逃避した”とある。
1588年代に「蒲生氏郷」は「松阪」に「近江商人」を呼び寄せている。
つまり、「20年前の話」に成り年代がずれている。
普通はこの様な事は“「国抜け」“となつて「一族斬首の刑」で起こらない。
普通は届け出て許可を得て、移動後は「5年程度」で戻らなくてはならない事に成っている。
内容では、この許可の要る“移動”では無く、「国抜け」の“逃避”に近い引っ越しの様な表現に成っている。

最初の江戸にこのある一族の長兄と次男は1635年に出店(小間物屋)して、一時成功して、次男は1649年に母看護で松阪に戻るとある。
このある家は、この時、1649年に「松阪」で「武士」を捨て「町人」として「商い」(「名義借り」)をしたとしている。
次男病死後の同年に、三男も1649年に松阪に戻り、「母看護」と「松阪の商い(小間物)」を続ける。 (後に小銭貸業を営む)
この三男は「江戸に出て1673年に「長兄の跡」をとり、再び「江戸店」を継承(呉服屋)したとする。

この経緯からすると、次ぎの様に成る。
「武士であった事」
武士が「二足の草鞋策」を採る場合は、「名義借り」か「架空名義」で「商い」を始められるが、何の繋がりも面識もない他の国の伊勢では無理である。
・「1568年に松阪に出た事」
その松阪は、「伊勢三乱」が完了して統治できる状況に成って初めて1588年に「蒲生氏郷」が座を松阪に広める為に近江より「商人」を呼び寄せたが、その20年前と成ると、松阪に呼び寄せる前に松阪に来た事に成るし、この時は町中そのものが混乱中の混乱で到底、凡そ「商い」など無理な状況であって、「武士であった事」の「自由の行動」は不可能でこの疑問も含めてそもそも無理である。
況して、「北畠の家臣」であったとしている事なのに、この時、北畠氏は一時の勢力は低下するも1630年に正式に滅亡しているが、1568年頃は未だ健在であって「二足の草鞋策」は出来ない状況であった筈である。
要するに全く「歴史観」が成立していない。

・「1649年に松阪に戻った事」
1619年は「頼宣入城」で、松阪もやっと落ち着きを取り戻し始めた時期でもある。
その前の1590年に、『京1』−『近江1』−『松阪1』の行の事があるから1620年頃には既に江戸にいた事に成る。
こんな時期にそれだけに「金子を貯め込む程の商いに余裕」があったのかと云う事に成り、この時期に金子あったとするならば、何も『松阪1』に立ち寄らず『近江1』から「江戸」に出れば良い事である。
そもそも、「松阪」で金子が貯められたとしたら、それを放り投げて『京1』−『近江1』−『松阪1』の行は起こらないし、「商人」である限りはしない行為である。
『近江0−松阪0』は、「22年間の短期間」であって、金子を大きく貯める程の「近江人の商い」に大成功を納めた訳ではない。
逆算すると、『近江1』から『松阪1』に入ったらすぐに、又、江戸に出たと云う事に成る。
「松阪」に入った根拠は、そもそも「商業組合」に依る「松阪の活況」が魅力で「会津派」には参加せずに戻ったのに直ぐに江戸に出ると云う事が疑問である。
徳川氏が天下をとり正式に開幕した時の江戸は確かに「未知の期待」が広がっていた。
決して活況であったと云う事では無い。
「江戸」に出かけるとしても海千山千の「未知の期待」である以上は「大きな賭け」である。
「商人」が出かける以上は、江戸期の市場環境には「販売の仕入れ元」を確保した上での事で成り立つ話であり、『京1』−『近江1』−『松阪1』−『江戸』では、尚更、「繰綿業販売」であるので無理なのである。
この状況を捉えて「商いの系譜」も時代性に合わせて、“「長い伝統ある商い系譜」“を作り上げる為に「江戸の商い」を開始した事にして脚色偏纂したと観られる。
前段で論じた様に、幕府が「黒印状」を発効する条件とした事で「武士の系譜」にも起こった様に、この時期には権威と云う事が社会的なテーマと成っていた様に、どの「豪商の系譜」にも洩れなく観られる様に、「商い」を始めた「始祖」を“権威付ける脚色”から後付で偏纂したのである。
「商いの系譜」を「時代性」に合わせている事は、相当後の事では出来ないし、「自由の行動性」の概念をベースに「系譜」を作り上げている時代の二つからその時期と成れば、明治期の苗字令後の15年頃の中程に起こった「庶民の出自誇張の搾取」の現象期と観られる。

・「許可なく江戸に出た事」
現在の時代の様に、「自由行動性」が許されている充分に社会では無かったのに、「自由行動性」が許されている様に自由に出入りしている。
況してや、仕官しないで「土着の生業」で生計を立てているのに「郷士」と書かずに「武士」だとしているにも関わらず、更に自由に移動している。
江戸社会には武家や公家のみならず農民(慶安御触書)にも法度を定めて厳しく管理監視下に置いていたし、全ての庶民にも「共同体」(寄合制)を作らせて「行動指針の様な規則」を作りその中で管理監視下に置いていたのである。

(注釈 村には「庄屋」(名主−関東・肝煎−東北)の「村三役」を置き、街中には「町名主」(或は「家持」)を置いて奉行所の下で行政を行っていて、この「ある家の系譜」の様に主張する様な「自由」は決して無く、ある規則の範囲での自由であって厳しい管理下に置かれていたのである。罰則も命を落とす程の厳しいものであった。
取り分け、「国抜け」は「一族斬首の刑」とも取れる文脈で記されているし、現実には記録がある。
従って、この様な「系譜の主張」は先ず起こらないし、「商人」などの庶民は特に原則4−5年で先ず一度国元に戻らなければならなかった。
この様な主張は明治期に成らなければ出来なかった事である。
恐らくは、成功後に何度か偏纂され、やや後の「明治期の中程」に大きく偏纂されたと観られる。)

(注釈 農民の行動を規制する為に「1649年慶安御定書」が定められたが、この前にもそれの元と成る規範が各郷村に在って庄屋らに依って運営されていたが、これを慶安期にまとめて整理する事を幕府では行ったが、これが評判が良く各藩に広まって終局は正式に幕府の御定書と成った。)

・「江戸で勝手に呉服商を営んだ事」
町人にも上記の管理監視下にあり、「商い」だからと云って自由に観えて勝手に出来る事では無かった。
取り分け、「商人」は物を売ると成ると「製品」を「仕入れる」と云う事から始める必要がある。
然し、当時は生産体制があふれる程の量では無く、その為に組織を作って管理され、その手段として何重にも「卸問屋組織」を作り、安定して「商い」が出来る様に常に監視されていたのである。(この日本独特の問屋制度の組織は昭和期まで続いた。)
つまり、「生産力の絶対量」が在りその中から“「仕入れる」”と云うと先ずは組員に成る必要があり、「名義借り」や「架空名義貸し」等の処置をして株組員に成り、「信頼」を得て始めて「卸問屋」から「仕入れる事」が出来るのである。
中でも、「呉服や酒や繰綿」などの様に生産に加工を伴う商品は管理監視が厳しく、「仕入れ店」を設け「卸問屋」との固い信頼関係を構築する必要があった。
取り分け、江戸は「呉服や酒や繰綿」とかの「加工品」は他の国から運んでくる必要があって、前段でも論じたが、これに「輸送の利権」を獲得する必要があり、「廻船」を使っての「船輸送」では「組合」だけでは無く「幕府の管理監視」の中で運営されていたので、この組合にも「入り株権」を獲得し幕府の「認可」も受けなければならなかったのである。
これは武器輸送などにも使われる恐れの「謀反の懸念」や、市場の「製品の偏り」を無くして江戸の「市場バランス」を保つ事にも繋がる事にも成り、従って、政治性と連動していた事もあって幕府の目が光り厳しく管理されていたのである。
中には、これを護らなかった豪商が居て取り潰しに成った記録もある位であった。
従って、「豪商」と成り得るにはこの政治システムと経済システムに加入しなければ、最低限で「豪商」には成り得ない様に「政治的な枠」が填められていた。
享保期後の「執政田沼の抑制策」や「執政水野の禁止令」などの様に豪商が多く成って寡占状態に成る事を警戒されていたのである。
享保期前でも「質地流売買禁止令」の様に商人がこれを買い占めて土地の「地権」が商人に渡る事を恐れていたのである。
“呉服商を営んだ“とすると、この幕府に依って填められた「絶対的な難枠」を超える必要があって、系譜に主張する様に簡単に「商い」は出来なかった。
この「絶対的な難枠」を超えるには、『京1』−『近江1』−『松阪1』−『江戸1』から、『松阪1』が松阪派1611年頃であった事は、会津の「会津派の記録」から判るので、そこから蓄財して信頼を得て上記する数々の利権を獲得して江戸に出て江戸の利権を獲得して商いをするには最低でも100年は掛かる。
1711年頃以降の出店と成り、上記する様にその様な活動の記録も無いし、「伊勢の商業組合」にも享保期の江戸の商業組合にも参加していないで江戸に出る事は不可能である。
結局は、「伊勢側の記録」から「1765年頃の江戸出店」がやっと始まった事に成る。
つまり、120年が掛かっている事に成り極端な時代性のズレが有る事に成る。
それには、伊勢での「名義借り」か「架空名義」の「最大の課題」をクリヤーする必要が無ければこの120年でも成し得ない。
では、この「最大の課題」の「名義借り」か「架空名義」は、誰かと成れば、唯一人伊勢の「紙屋長兵衛(伊勢青木氏が保証人)」「総合商の問屋」の「お墨付き」以外には無い筈である。
これさえあれば「仕入先」と「各種利権」は獲得できる。
「総合商の問屋」の「お墨付き」で江戸でも「新副効果1−9」に参加すれば全て解決する。


以上等に詳細に見ると「歴史観」と一致しない事が起こり、この「ある家」の主張する系譜と時代性を合わせて検証すると「蒲生氏郷の近江商人」では無い事に成って仕舞う。
又、更には、「享保の改革」(1716年)の「商人グループ近江」、及び「商人グループ伊勢」の何れの「商家」でも無い事にも成る。
然し、「松阪から出ている事」は事実であるとすると、何処かに「後付の脚色の矛盾」があった事に成る。
この様に「総合商の問屋」の「お墨付き」で江戸でも「新副効果1−9」に参加して「商い」が成立したのだが、然し、これを明記しないで置く為には「松阪派」として戻った1611年頃から1765年までの江戸出店期までの空間期間を、「自立自助に依る商人としての努力」の系譜を作り上げる事が必要と成り、「ある家」の「主張する系譜」を後付でこの空間期間を無理に偏纂したと云う事に成る
其処には、上記の様に「誇張」も「時代性」も「慣習」も「記録」との整合性等の歴史観にも矛盾する事に成ったと云う事だ。
「主張する系譜」をどの様に作るかは、その「家」の自由であるが、「青木氏」側で折角の伊勢出との「繫がり」が確認できるのに真摯に論じようとすると、矛盾が露出して仕舞う事に成る。

そこでもう少し掘り下げて論じて観る。
そもそも、「商業組合」に参加しなかった組には、次ぎの様に成る。
a 「商人グループ近江」(「商人グループ近江」)
b 「射和商人の門徒衆」(「商人グループ伊勢」)
c 「単独の商人(小津屋等)」(「伊勢商業組合」に不参加組)

結局は、「射和の・・郷士三井殿・・・」の文面は、bとcの関係の中からのものと見做され、早期、つまり、1568年(正しくは1588年)に松阪に移動していると主張している事から、正式に「武士」を捨てた時期が共通する様な系譜から読み取ると、81年後の1649年頃であるので、1610年代の約50年後頃には、「門徒衆」からは、未だ「射和の郷士」と観られていた事に成る。
更に、依って、4代から5代後の150年後の1716年頃の江戸出店期には、既に、「代換わり」も著しい事から「武士」を完全に捨てていた事に成る。
現実に「射和の門徒衆」も江戸初期1640年代頃に武士を捨てていた。

唯、「ある家」の系譜に付いては、上記した様に“「伊勢郷士」の「正規の射和衆」であったか”は別問題ではある。
「伊勢青木氏と伊勢郷士衆」が興した「伊勢殖産」の“「白子湊の木綿(伊勢の殖産品)」”を江戸で扱った「越後屋」等(他10店)に関しては、「商人グループ近江」と同じ様な行動を採りながらも、「享保の改革」の活況(1765年)を利用して更に発展させた云う事に成る。

そこで、「吉宗―継友論争」は、別としても、本論とは別に論じる必要がある。
唯、「商業組合」を推進している「青木氏」に執っては、aとbとcが起こる事は何事にもこの世の条理ではあるが、「氏」を上げての「難儀な事」ではあった。
然し、江戸に「江戸店の伊勢屋」を出しながら、「江戸の拠点の伊勢屋」を経営する中で、「彼らとの付き合い」では非常に「苦労の種」であったと考えられる。
つまり、この「a、b、c」は、この時代では「15地域」を成功裏に収めていた事は事実でありながら、未だ、「商業組合」と云う概念に「賛成できない勢力」が相当あった事を物語るものであるからだ。

然し、実態は上記した様に、「賛成できない勢力」であっても,そこは「格式の青木氏」では無く「伊勢の紙屋」の「商人」ならではの事で、その「成功」に魅力を感じて「単独で参加する勢力」が現れたと解釈したのである。
何れにしても結局は,「失敗した商人」はあったにしても、「京に出た者」、「江戸に残った者」、「伊勢に残った者」が在って、「商人としての路」を歩めた事は「青木氏」に執っては良かったと考えられる。
普通ならば、戦略上大事業を成す上で「大きい障害」と成るのは必定で、「伊勢」を実質上で「経済的に導いていた力」を以ってすれば、これらの「賛成できない勢力」を何らかの形で潰していたとするのが、戦乱後100年程度しか経っていない当時の社会慣習からは常道であった筈である。

然し、「賛成できない勢力」に対する “「青木氏の姿勢」”が、古来からの持ち続けた、“排除するのではなく、「見守り、その流れに導く」“とする「姿勢」にあった事には、「青木氏としての誇り」を感じる。
結局は、当に、“「江戸の経済の改革の流れ」”に「伊勢のa、b、c」を導く事にあったのである。
「青木氏」自らは、「伊勢」に居て「紙屋問屋」の「商い」を営み、「伊勢郷士衆」と共に「商業組合」を推進しながら、江戸には「次男六兵衛」を送り、「幕内」では「享保の改革」を主導し、幕外では「青木氏」を伏せて「伊勢屋」を主導して「江戸の経済」を改革したのである。
その「伊勢」を拠点とする限りは、「伊勢残存組のa、b、c」に対しては「直接の感覚」で接しなければならない苦難が在った。

恐らくは、「伊勢残存組のa、b、c」だがらと云って「伊勢の紙屋(青木氏)」が「伊勢の郷氏」である限りは放置する訳には行かず“「説得」”を続けて試みたと考えられる。
場合に依っては、aの「江戸戻り組」に対しては、記録は消えているが、「商いの援助」をしたと観られる。
「伊勢」が「拠点」である以上は、「伊勢の商いの低下」は「江戸の伊勢屋の低下」に繋がり、「幕外の政策」は破綻する事も充分に懸念される事であった。
それ故に、「享保の改革」の1746年までの「改革中の間(1741年が活況期点)」では無く、「1756年以降の成功」が確定した時期を見計らっての「aとcの江戸再出店が集中した」と成っているのである。
この“集中”とは、下記にも論じるが、出店と成ればそう簡単な事では無いし一店ならいざ知らず“集中しているところ“を見ると、「保証人に成る事」や「名義貸し等」の便宜を図る事を提示して説得に掛かる以外に起こり得ないであろう。
況してや、更には、執政田沼等の「江戸商業組合への圧政」(冥加金の抑圧策)があって、彼らが嫌う組合に入らなくても冥加金を納められれば「単独で商い」が出来ると云う環境に成りつつある時期でもあった。(一商人でこの冥加金を納める事には未だ無理な状況であった。)

これは、何も「商業組合の享保の改革」に載らなくても、「改革成功後の江戸の商い」に参加する事でも成り立つ話であって、依って、辛抱強く“「説得をする事」”と“「流れに載せる事」”にあったのである。

それには、唯、「商い」をするには、先ずは“「資金」”が前提であって、「困窮する伊勢の小間物屋」では“「江戸出店」”は簡単に成り立つ事では決してない。
“「説得をする事」”と“「流れに載せる事」”だけではそれほどに生易しい事では無い。
「伊勢」から遠い活況している「江戸」に対して、「大商い」を成すには「土地、資材、店、資金、雇用、生活、運搬、情報」等の条件を満たす事を成すには「仕入先確保」や「名義借り」も含めて全て“「資金」“なしでは決して成り立たない。
それには、“「資金」“を供給するには”「金融」“に外ならない。
“「金融」”と云っても、「元手」が無い事では成り立たない。
(小津屋が江戸で成功したのは油屋源右衛門の融資を受けたと書いている。)
そこで、この「金融」をどうしたのかと云う問題がある。
これには「伊勢の殖産で資金を貯めた」とする説もあるが、確かに「資金」は貯めたのであろう事は資料からも否めない。
「江戸の伊勢屋」に対して指示して“「質屋」”に指導させて彼等の「金融手段」(「白子組の内店組)としたとも考えられるのであるが、それには先ず「組合」に入る必要があって無理であろう。

(注釈 伊勢では「商業組合」に入らなかった事から、「江戸の伊勢屋」の「AからFの指導」は拒絶する筈である)

“組合に入らないとか“、“名義借りしない“と成ると、そうすると残るは旧来からの「銭屋」か「土倉」を利用する事に成るしかない。
ここで、利用したとする「面白い史実」が江戸で起こっていたのである。
それは、江戸では「質素倹約令」で木綿が不足し、「木綿」、或は「木綿古着」が「銭屋」か「土倉」で「質草」として珍重され高値で引き取られる事が起こっていたのである。

因みに、高値で取り扱われる根拠があったのであるが、ここで「伊勢の紙屋」「江戸の伊勢屋」に関わる事に重要な“「青木氏の歴史観」”がこの「木綿の事」にあった。
それをここで論じて置く。
江戸初期(享保期初期)頃では、活況で関西圏から木綿を集める“「引請問屋」”と云うものが難波や伊勢にあって、それを江戸に送る“「江戸積問屋」”と云うものの二つの問屋があった。
伊勢から江戸に出た「木綿問屋」には、この二組があって、先ず初期には、“「江戸積問屋」”から集めた「木綿」を扱う「江戸の伝馬町」に、“「伝馬町組」”と云われる「伊勢青木氏」の「伊勢の紙屋」等が営む「商業組合の木綿問屋」があった。
「伝馬町」に「大の字」を付けて“「大伝馬町」”と呼ばれる程に「商業組合の木綿問屋街」を形成していた。
況や、“「伝馬町」”と云えば“「木綿問屋」”の問屋街の事であった。

その後の後期(1765年−1780年)頃には、上記した伊勢から出て来た“「十組問屋」”の一つで呼ばれる“「内店組の白子組」”と云う「江戸の木綿問屋」が出来た。
この「内店組の白子組」は1800年代に上記に論じた高額(年間1000両)の「冥加金」を幕府に納めて「商いの問屋権利」(内店方式)を買い取っていた

そこで、この「大伝馬町組」が「江戸の伊勢屋」等の「江戸の商業組合」の「木綿関係の問屋」(「御免株」を取得)であって、「内店組の白子組」が「伊勢の殖産の白子木綿」(「小伝馬町))を出した「江戸の木綿問屋」(10店)であった。
(この「商業組合」の「木綿地域」を「伝馬町組」と総称されていた。)

つまり、「殖産の白子組」の「内店組」とは、「商業組合員」(「御免株」「願株」)に入らない上記の「伊勢屋等の名義」を借りて出店する「名義借り商人」の「商人グループ近江」の「江戸出店組の事」である。
要するに、「御免株」「願株」以外にこれらの「店の権利」の“「名義借り」で出店する「支店扱い」”での店が1765年以降に起こった「第三の店」の事である。

取り分け、「伝馬町組」(「小伝馬町」と「大伝馬町」の総称)が扱う木綿以上に、「江戸社会の活況」で「木綿」が「需要と供給のバランス」と「幕府の質素倹約令」により、「木綿衣類」が多く使用される事に成り不足して「高値扱い」されていた。
「古着」を元に戻して綿糸にして再生すると云う職業(繰綿業)も江戸では活況した。
この綿糸類を「質草」にして集めて「土倉」も利益を挙げる程に成っていたのである。
これに「銭の兌換屋」の「銭屋」も参加すると云う現象が起こった程である。
そこで、上記のa−「商人グループ近江」は、関西圏でこの「木綿古着」を集めて江戸に送ったと云う事に成る。
現実に「商人グループ近江」の資料によると、「木綿古着」を送って「土倉」と「銭屋」で「資金」にしたとある事は史実である。
これが、「資金を貯めた」とする説の根拠に成っているのであろう。
然し、土倉であり銭屋である以上それ以上の資金は獲得は出来ない筈で店を興す資金には成り得ない。(伊勢屋の資金源をあくまで隠す為にも「こじつけた」と観られる。)

それには、この「綿古着」を「土倉」「銭屋」に入れて「質草」にして「当座の資金」を得ていた事は否めないが、この事のみならず未だ「伊勢殖産の産物」であった「白子湊木綿」(白子綿)も送る事で「販売での資金源」としていた事に成る。
つまり、唯、これでは“「当座資金源」”の程度である。
これでは「伊勢」から出て江戸で「大口商いの仕入金」は出来ないし、「冥加金」も納められないし、「名義借り賃」も払えないし、だとすると問題は“「運用資金源」”はどうするかである。

「運用資金源」の「資金」と「金融」は、「改革の司令塔の拠点」と成っている「伊勢の紙屋」が「江戸の伊勢屋」に供給し指示したとしても、他の「土地、資材、店、雇用、生活、運搬」はどうするかの問題もある。

(注釈 当時は「海運」に関しては幕府に依って統制されていて、大口の積荷や船便や船主を勝手に選ぶ事は出来ない「令による仕組み」で「届出」と「許可」を取る仕組みであった。下記)

これに付いては、下記に論じる「金融業務」に入る前提として、彼等の「運用資金源」として「江戸の伊勢屋」と「伊勢屋の質」が後口の江戸出店の彼等に「相談」に載っていた事が判って居る。
と云う事は、この上記の「当座資金の獲得」で取りあえず江戸に出たが、「土地、資材、店、雇用、生活、運搬の問題」と「運用資金の調達」で「江戸の伊勢屋」に掛け合っていた事に成り、「司令塔の拠点」と成っている「伊勢の紙屋」に指示を仰いだと云う事に成る。

(注釈 然し、上記の「第三の店」(「名義借り」)の「内店組・支店扱い」に対するものであって、「願株などの組合員」には成っていない。)

「土地、資材、店、雇用、生活、運搬」の「業務と資金」は、「幕府の許可」を得ていて、既に、「伊勢の紙屋」と「江戸の伊勢屋」がその権利を持っている事で、“「彼等の相談」”は、「第三の店」の「内店組・支店扱い」(「名義借り」)で処置する事が出来るので左程難しい事では無かった様である。

享保期の「改革期後半期」には、上記した様に、「商業組合の寡占」が「寡占不況」を招いていると云う幕府の判断もあって、「厳しい冥加金献納」等の抑制策で、「販売に依る商い」にも「届出と保証人」と、場合に依っては「冥加金前納の認可」が必要と成っていた事もあったのである。

「伊勢」では、「商人グループ近江(松阪派)」は「反組合の行動」を採ったにも拘らず、その彼等に対して「伊勢の紙屋」は「江戸の伊勢屋」に対して「相談を受ける事の指示」を出している。
この様に「商人グループ近江(松阪派)」に対しては、上記の様に、「小伝馬町の二つの問屋組」で出店前の(松阪派)には「伊勢の紙屋」と、出店後(松阪派)には「伊勢屋の本店」と、出店中(松阪派)には「伊勢屋の質屋」で対応していた事が判って居る。

これは「総司令の伊勢の紙屋」は、「商人グループ近江(松阪派)」の“「反組合の行動」”を超越して居た事に成る。
未だ、「殖産の木綿」や「殖産の地酒」や「殖産の豆粉」等が「組合化に至っていない殖産品」であって、それを「伊勢青木氏」としては、兎も角も、「伊勢の紙屋」の「商い」として観れば、彼らの努力に依って、“江戸に出せる事”での「利点の判断」を優先した事にも成る。

下記に論じる「江戸の伊勢屋」からの「伊勢の紙屋への報告書」では、「資金と金融の指示」に対しての“「経過報告の返書」”があった。
然し、この返書の中の一行には、上記の様にこの「相談業務と斡旋業務」に関する「簡単な業務報告」が成されている。
取り分け、“「資材と運搬」が難題”として取り上げている。
「江戸の伊勢屋」の「商業組合の資材」みならず「江戸出店」を説得し斡旋した組の分(「商人グループ近江」(松阪派))までの“「大量の資材」の「運搬能力」”とその“「過程の安全性の確保」”に苦慮している事が書かれている。

(注釈 この手紙の内容が既に在ると云う事は、その「流れ」からすると1765年頃には当面、「伊勢の紙屋」の「海運能力と陸運能力」と、「株権利」と「幕府許可」を初期の段階で当面の策として「商人グループ近江」(松阪派))用としても利用していた事を物語る事に成る。
1760年代には「海運と陸運」に関して未だ完全に解決に至っていない。
この時期に「江戸十組問屋」(1749)年が設立され、大阪で廻船二十四組問屋が設立されたが、この段階では「商人グループ近江(松阪派)」は十組問屋の中には系譜では既に連ねていなければならないが1749年では名は連ねていない。)

これを担当していたのが、陸運担当の「伊勢信濃シンジケート」ではあったが、確かにこの“「大量の資材」の「運搬能力」”に付いては、「伊勢の商業組合の範囲」と「江戸の伊勢屋と商業組合の範囲」での能力の限界の範囲にあった。
これが可成り難題であった様で、享保期の「初期段階1730年代」までは、社会には未だ相当の「運送の危険性」を大きく孕んでいた模様である。
「中期段階1745年頃」を経てから、「a、cの出店期」の「後半期の1760年代」では危険性に於いては可成り収まってはいた。

然し、この報告書は、「伊勢屋の質屋問題」などの事に付いて述べられていたのは1731年の頃であったが、この時のたった一行に指摘されていたのが、この「搬送問題」であった。
その頃には、「aとcの江戸出店問題」が未だ起こっていない時期(1765年前)にも,それでも既に「搬送人員と搬送危険性」には問題があった様である。
この時は、これに対する対策(堺摂津の三船の応急対応)は取られていた様であったが、この時に指摘されていた事が更に起こると成ると、「伊勢信濃域の中での事」では済まなく成ったらしい。

そこで、「伊勢の紙屋」では、どの様に対策したのかを調べると、この時期の「青木氏の商年譜」に「伊勢郷士頭と紀州郷士頭」(シンジケートの差配頭が参加か)全員を集めての「談合(1762年)」を行っている。
この年代は、「a、cの出店組の初期段階」、取り分け、「aに付いての初期段階」であった。
「商年譜」なので詳細は判らないが、これがその時の「搬送人員様と搬送危険性」の問題については、「江戸の伊勢屋」と「商業組合の搬送」だけの「工程能力」が限界に在ると云う事が判るが、これに「aの工程」が加わると無理である事は判っていて、その為に「工程能力の向上」に付いての解決策を模索していたのではないかと観られる。

(注釈 「伊勢郷士頭」等の家を含めて「江戸報告」が何か無いかを調べたが出て来ない。
何れかに在ったと思われる形跡(口伝)があったが、資料が三度消失しているので見つからない。)

大きくは「伊勢水軍の能力(大船21隻所有)」に、上記で論じた様に、頼っていた事が判るので、この「水運の能力」が限界に来ていたと云う事では無いかと考えられる。
1730年代までの「初期の運送能力」は、「商業組合の江戸出店」が、「将軍擁立」当初からの計画であった事から、事前に「水運能力の向上」を図った事が判って居る。

(注釈 「水運能力の向上」は、「造船と水夫の仕様」で数年の期間が必要である。
元禄期までには、「伊勢の紙屋」独自に「三隻の千石船(堺摂津港係留)」を所有していたが、享保初期には、「松阪係留の船二隻」の資料が発見されているが、この大きさは判らない。
計五隻である。
この船は主に「貿易」に使っていた様で、「江戸用」では無かったと考えられる。)

従って、“「水運能力」”だけではなく、より“「陸運の能力」”も早急に上げる必要があって、「郷士頭」に遺された手紙の資料によると“「伊勢衆」(この様に表現 「伊勢シンジケートの頭衆」の事か)“を集めて「談合」をしたと観られる。

ある文面からの推測ではあるが、陸運の「伊勢郷士の徒」は、上記でも論じたが、既に、「享保の江戸出店」の「初期の段階」から就労していた。
従って、「余裕な徒」は無かった筈である。
そこで、次ぎに頼れるのは「南伊勢の民」と繋がりを持つ「紀州郷士の徒」に「協力を仰ぐ算段」であったと観る。
それには「紀州藩の了解」が必要と成る。
故に、充分に「伊勢」で検討する必要があって、“それを「交渉する郷士頭」を誰にするか”を検討するに付いて集めたと考えられる。

ところが、この「aとcの出店期」には次ぎの事が起こっていて難題であった。
先ず、「吉宗が没した後(1751年没)」に成るし、「商業組合への圧政」が徐々に始まった時期でもあった。

(注釈 「吉宗の血縁族」は「没後二代続き」まで「三代目は水戸藩養子」である。)

従って、江戸同行で活躍していた「200人の家臣団」と「次男青木六兵衛」や「伊勢郷士衆」(別動隊)等が、伊勢に「帰参の検討」(1781年開始)を考え始めた時期でもあった。
1765年前後より15年程度の期間は、「江戸の伊勢屋」と「勘定方指導の青木氏」では難しい時期でもあった。






> 以下「伝統シリーズー24」



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