青木氏氏 研究室
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  [No.351] Re:「青木氏の伝統 32」−「青木氏の歴史観−5」 
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/03/18(Sat) 09:42:15

伝統シリーズ 31の末尾

> (注釈 もう一つその理屈があった。
> 「青木氏の三つ発祥源」を継承した「武家貴族」の「賜姓源氏や桓武平氏」に与えた。
> 「徳川氏」は「姓族」である為にこの「資格継承」を有していない。
> それは「開幕の資格」の「武家の頭領」を、「征夷大将軍」だけは渋々認めたが、「朝廷」は頑として絶対に認めなかった。
> 朝廷は、徳川氏が「姓族」であり、且つ「武家の資格」も持たない事も含めて、「朝廷の伝統」を護った。
> 然し、その事で「朝廷の生活源」を押えられた事からその圧力に屈して、「武家の頭領」では無く、「武家の長者」として代替した。
> 「征夷大将軍」は平安期には既に全国統一を果たしているので、既に「有名無実」であり「飾り」にしか過ぎない。
> 要は「武家の頭領」である事が「開幕の根拠」である事に成る。
> 重要な事は、上記の様にこれを朝廷は認めなかったので、徳川幕府は「西の政権の認証」が無い事から、「正規の藩政制度」が採れなかったのである。
> 従って、そこで「朝廷の官位」で呼ぶ「何々氏・・之守の家来・・である」とさせていれば、例えば「松平伊豆守の家臣」であれば”「伊豆守」”とする「国の守護」の「家臣」で理屈は通る。
> 「66国の肩書」を朝廷より金品を渡して貰って「正当な家臣」と成れるようにした。
> 従って、江戸期には権威の無い金品で決まる為に何重にも重複する「・・守」が沢山出た。
> 中には、江戸中期以降は、「国主並み」でもないのに金品で「・・守」が生まれ乱立した。  
> これが、 「金品有無のステイタス」にも成った。)
>
>

「伝統シリーズ 32」

注釈として、ここで疑問が一つ残る。
それは、何故、紀州藩の大半の家臣が「伊勢藤氏」であったにも関わらず、この「四つの奇策」を実行したのかと云う事である。
この事は「青木氏の重要な歴史観」に通ずる。

本来であればしない。決して一族を裏切る事はしない筈である。
況してや、「解雇」の様な状態の「1/10俸禄策」である。
それどころの話ではなく、依って、一部の「上層部の家臣(家老職)」ではあるが、この「四つの奇策」を考え出し実行したが、これを証拠付ける確かな資料が何故か見つけられない。
然し乍ら、検証すれば判る筈である。

さて、この問題の「紀州藩」には、家老は「附家老」と「連綿家老」が居た。
「附家老」は、幕府から派遣された家老で、「旗本の身分」を持ち、「幕府の威光」を背景に権力を握っていた。
これには「安藤氏(3.8万石) 田辺藩」と「水野氏(3.5万石) 新宮」があった。
「安藤氏」は「幕府の高級官僚族」で、「御家人の武蔵藤氏」と、「水野氏」は老中にも成る「将軍家の縁籍族の末裔」である。
ところが、この「附家老二氏」は幕末に奇策の分散策一つに上手く乗じて事前に元々あった「田辺藩」と「新宮藩」を敢えて独立させて、そこに逃げ込んだのでこの策には参加していない。
仮に参加して居れば、「江戸」がこの策に関わっていた事に成り拙い。
「維新政府」からの「悶着」が必ずに出るし、むしろ、表に出ない方が「四つの奇策」の戦略上は「得策」である。
況して、そうでなければ「田辺藩」と「新宮藩」に独立した意味が無く成る。

次ぎに、紀州藩の「連綿族の家老」として、「三浦氏」「久野氏」「渡辺氏」「水野氏分家」が居た。
「三浦氏」と「久野氏」を除いて、「1/10俸禄」では300石に成り、且つ、「青木氏の殖産」にも参加できない立場であり、それどころの話ではない。
其れ故か、「連綿」を引き継ぐ「氏跡目の主系子孫」を明治期以降に遺していない。
「連綿族」であるので「跡目」が無ければ家老には成れないし、相当苦しかった筈である。

一方、「三浦氏 1.5万石」と「久野氏 1.0万石」は「伊勢藤氏」ではなく、「連綿族」で1/10俸禄策でも問題は無い。

後は、「城代家老、或は、その身分」としては、「8氏 (3000石」」いたが、その中に「津田氏(津田出)3000石」が居た。
これ等の身分の者は、「1/10俸禄策」では、「300石程度」と成って、生きる事の限界(250石)にあった。
この8氏の内、「伊勢藤氏」は「加納氏(吉宗の御側用人の家筋)」が一人である。
唯、この「加納氏」は、前段でも論じたが、「青木氏」と共に「二足の草鞋策」を執っている。
「青木氏の縁籍筋」でもあり、並びに「伊勢藤氏」であり、先ず裏切りは出来ないだろうし、「二足の草鞋策」に力を注いだことが判っている。
筆者の祖父の母親」はこの「伊勢加納氏」から来ている。

そうなると、恐らくは、「合議の原則」があるのでその指揮を執っていたのは、「三浦氏」と「久野氏」の二人であったが、此処で異変が起こった。
それは、室町期末期に「紀州根来衆(河内)」で、「楠木正成の末裔」で「津田城の城主」の「末裔津田氏 8氏」の「後裔 津田出」が「藩主の茂承」に登用された。
この「連綿族の二氏」を差し置いて「執政」と成って仕舞ったのである。

(注釈 津田氏は紀州藩の「布衣の頭」の家柄)

この「連綿族の二家の系譜」では、明治期以降に少なくとも四代にわたり子孫を遺しているし、「連綿族のトップ」ではあるが「伊勢藤氏」ではない。
唯、この「連綿族の二氏」が意見の違いから「藩主の茂承」から一時外されたが、津田出が「徴兵制の創設と世襲制の廃止」を敷いた後に、結局は「政争」で「永久追放」を受けて仕舞った。
ところが、「紀州藩」の出方に反対していた「維新政府」は、この「津田の考え方」に賛同した。
「維新政府」は、「津田出」を政府の陸軍省に招いて「軍制改革」を実行させたのである。

「四つの奇策」を実行したのは、結局、「伊勢藤氏」では無く、三河から連れて来た「連綿族」でもあり、この「連綿族の二氏」以外には考えにくいと云う事に成る。

以上の検証から、これで、「伊勢藤氏」が、仮に「四つの奇策」に関わっていれば、「青木氏」も「殖産救済策の対象」にはしなかった筈であり、“「青木氏の殖産策」で救助した”とある事と一致している。

「伊勢藤氏」が関わっていないとなると、これで「青木氏の心」は決まったと観られる。
流石に「青木氏の心魂」は「妥協の心魂」では収まりが着かなく成ったのである。
つまり、1200年もの間、護って来た「青木氏の氏是」を破る覚悟をした事に成る。
そもそも、相手が「誠意」で応じてこそ「青木氏の心魂」であって、これ程の騙す様な「四つの奇策」が仕掛けられたのでは黙っていられなかった。
「伊勢郷氏」としての立場が無く成る。
果たして、「立場」を無くしての「青木氏の氏是」か。
その程度の「青木氏の氏是」では無い。

況してや、前段でも論じた様に、徳川氏に積極的に協力し、「吉宗育て親」で「享保の改革」や「紀州藩の殖産」等の「最大の立役者」に対しての「仕打ち」である。
「紀州藩の勘定方指導」で「紀州藩」を「二度」に渡り建て直した「青木氏」に対してである。
「青木氏」には、最早、一矢を報いる「強かな青木氏の心魂」が芽を興した。
ところが、一矢を報いる以上は「青木氏等」も実に強かであった。
それが放って置けなかった“「伊勢暴動」”と成ったのである。

「紀州徳川氏、紀州家臣団」に執っては、この「青木氏の行動」は「青天霹靂」であった筈である。
「吉宗育て親」で「享保の改革」や「紀州藩の殖産」等の「最大の立役者」の「青木氏」が“「伊勢暴動」”を背後で操るとは思いも依らない事であった。

ところが、この時、「紀州藩」は、他にも「二つの民の不満」が起こる事を政策上執ったのである。

それは「藩士の1/10俸禄」は、不満に成ることは勿論の事であろうが、「藩軍の指揮権」と「藩士の解雇」と「藩士の副職容認」への「民の不満」であった。

注釈として、先ず「藩士俸禄の不満」の「不満の解消手段」として、“1/10”にした代わりに“「副職」”を認めたのである。
(認めなくても“「副職」“をしなければ生きて行けなかった。これも「制度上の奇策」である。)

副職を藩士に認めると云う事はそうすると何が起こるかである。

「1/10俸禄」で「副職」を認めれば、到底、「1/10俸禄」で生活は無理であり、家臣は必然的に「副職」に重点が傾く。
「副職」があれば良いが、無ければ、「餓死」である。

ここで、家臣には次ぎの事が起こる。
「紀州藩」は「1/10俸禄」にすれば残りの「藩収の石高は確かに「借金」に向けられるが向けなかった。

どうしたかと云うと、経理と藩から切り離された「元藩主の徳川氏」の「個人の土地と成った地権分」に廻されたのである。
確かに「自分の俸禄も1/10」にはしたが、それは「パフホーマンス」であって法で認める「地権分」には文句は着けようがない。
要は「私腹を肥やした事」に成る。
この事に対する不満が起こった。

次ぎは、「藩軍の指揮権」に付いては、「維新政府の忠告」を聞かず、上記した様に、「津田氏の執政」で「徴兵制の創設と世襲制の廃止」を敷いたのである。
従って、藩軍から何時かは県軍とは成るが、この時、「維新政府の指揮権」が、一時及ば無い事が起こった。

この時に、この「徴兵制の創設と世襲制の廃止」は、「士族」に限らずに、民から一家の跡目や親や長男など主に成る者を除いて、20歳以上の者の義務として、兵を集めた。
約7320人程度の兵が集まり、その内、「士族」は400人程度とされた。
後は、農民市民などから構成される「ドイツ式の軍」を作った。

これを聞いた「維新政府」は士族以外を兵にする事の禁止令を直ちに出した。
ところがこの「紀州藩」は令に従わなかった。
これは何か相当な理由があった事を意味する。

ここでも、元武士の「士族」は「職」を奪われる事が起こったのである。
「職」を奪われる事のみならず、「世襲制の廃止」で「身分」も「生活の基盤」も失った。
「徴兵制の創設と世襲制の廃止」は大混乱を紀州で招いて仕舞った。
況してや、「維新政府の反対の軍」であれば、軍政も違う事もあり「指揮権」も「維新政府」には無かった。

これ等の事で元藩士の「士族」と成った者等が、「職や身分を奪われる事の不満」、市民の「徴兵の義務への不満」が起こった事や、「農業への働き手の影響」が少なく成ったり、「税制も極端に変わった事」もあって、幕末からの積り積もった不満は頂点に達していた。
「世襲制の廃止」で「能力のない者」は「藩士の解雇」も受けたのである。

ここで、この「四つの奇策」は、兎も角もとしても、「徴兵制の創設と世襲制の廃止」は何故したのかと云う疑問が湧く。
其の侭でも済んでいた筈である。
それには、「茂承」には「恐怖」から来る「思惑」があった。
上記した様に、江戸期末期からの「武士と農民や庶民の不満」が「絶頂期」にあった事なのである。
この様に成れば、「維新」で「徳川氏」が弱っている中で、「全ての民(百姓)の暴動」が起これば、「徳川氏だけを相手にした暴動」が起こり、「紀州徳川氏」のみならず、全国に飛び火して「全徳川氏系列族」が「完全滅亡する恐怖」である。

そこで、この火元と成る「種火」を先ず防ぐ必要があり「独自の近代的な軍」が必要と成る。
それも藩士ではない庶民の編成軍にしなければ成らない。
従って、「維新政府の軍」には頼っていられない。
むしろ、頼れば「一氏への暴動(私闘)」としてあしらわれ放置される事は充分に考えられる。
「維新政府」にとっては、云う事の聞かない相手でもあるから、戦略的に「徳川氏」が無く成る事はむしろそれの方が都合がよい。
又、手を煩わせる事もなく潰せることに成ると、自分で護る以外には無い。

この様な目的を持った策だからこそこの「組頭の家柄」から引き揚げた「津田氏の人事」なのである。

もう一つの策は、「徴兵制の創設と世襲制の廃止」に依って、「元家臣の士族」が藩軍に入れない事が起こったのである。
藩軍は7320人、この内、士族は400人であったとすると、6920人は庶民と成った。
これはたった5%強である。

「幕府末の基準」では、500石以上に課せられたのは、一人/1000石で3人、3000石で10人とし、500以下は金納とするとしていた。
紀州藩全体では、55万石であるので、「兵賦」は約1900人−2000人であった。
これは「通常時の半数」であるので、3500人−4000人と成る。
戦時は、これに「500石以下の者の参加」と「500石以上の家臣の媒臣」の4人−5人が付くと成る。
そうすると「紀州藩」は「10000人程度の兵力」が求められた事に成る。

そうすると、「4000人/7320人」は、維新では逆にほぼ「倍の兵力」を持ったことに成る。
これは異常であり、本来であれば、少なくても「財政負担を少なくする手立て」に入る筈である。
ところが、そもそもこの「3500人−4000人」の兵力は、「武士」であるので、「400人の維新兵力」:「3500人−4000人の幕末兵力」と成り得る。
何と「維新兵力 1:幕末兵力 10」が成り立っていた
つまり、ほぼ「兵力」は倍に成りながらも、「士族の兵力10%」は逆に極端に削減されて仕舞った事に成る。

これは何を意味するかである。何かとんでもない理由がない限りこんなことはしないだろう。
それも「明治維新」で他藩から攻めて来ることなどはしないし、「維新政府」に近代的な軍隊がある。
「維新政府」に対抗しようとしたのかは兵力差で無理である。
明かに、これは紀州の「市民の暴動」を押えようとしたとしか考えられない。
仮に「全武士」が失職で暴動を起こして4000人:6000人では無理であろう。
仮に出来たとしてもその「軍資金の財源」をどうするかである。一時的なものに終わる。
それには、「武士を支援する豪商」が居るかである。
確かに居る。
其れは「伊勢藤氏」との関連を持つ「青木氏」である。
此処で、「青木氏の歴史観」に二つ目の左右する事が出て来るのである。

然し、この「青木氏」は、丁度、「伊勢暴動 1876年」に成る直前で不満を押えようとして関わっていた。
況して、あくまでも「伊勢の範囲」である。
紀州全域には「青木氏の氏是」で「戦い」には絶対に手を出さない。

さて、そうすると「士族の3000人」は「武士の本来の立場」を失った事に成る。
つまり、「士族」は「失職」であり、逆に「庶民」は「就職」に成る。
それも庶民は「7000人程度の者」が職に就けた。

和歌山の人口の中で、 明治初期の市民は 60000人(明治4年の65000人の1割は士族4000人−5500人)相当に成る。
仮に、上記の通り7000人/60000人が兵士に就職できたとして、「15%の庶民就職」が出来た事が凄い事である。
況して、「徴兵制」なので「市民60000人」が全員が対象者である訳ではないし、対象外の男女子供年寄りなどの人口があり、年齢制限47歳と成っている事をも差し引くと、「約30%から40%が対象」の「義務の男」である。
この内、失業は済状況が悪化期であったとしても、(60000/2)/3=10000人−7000人が「徴兵制の対象者」と成る。

丁度、計算通りの紀州の市民の者が「徴兵制」に成って「兵」と成ったのである。

これは何を意味するかである。
市中に若者が居ないと云う事である。
先ず、「市民暴動」は「若者が原動力」と成って起こすとすると、これを「兵で囲い込んだ」と云う事に成る。

幕末は「一地一作の令」で、次男三男が就職難であった事から、この不満も解消される事は確かである。
暴動の原因の一つはこれで消せた。

この「紀州での市民暴動」が起こると、全国に波及し徳川氏は末端まで滅亡する事を恐れた。
ところが、唯、これには「莫大な財源」が必要に成る。
無理してでもこれに財源を廻す必要が出て来る。
況してや、この時期は「財源処」の話しでは無い。
前段でも論じたし、上記する様に、念の為に「青木氏等への借財」は「建前上は4万5000両」(「4万両は借財」 「5千両は殖産の出資金」)とされている。
然し、これを払わずにこの紀州の一藩が「近代的なドイツ式の徴兵制」に注ぎ込んだ。
市中に若者が居ないと云う事に成るまでに注ぎ込んだのである。
「青木氏側」から観れば、確かに「異常」である。

(注釈 現実に「異常」であるとして、執政の津田出は、一年経過後に永久追放されたが、性懲りもなく「茂承」はその一年後には又呼び戻した。
然し、又、二年後に追放された。)


(注釈 「青木氏の当時の商い資料」では、「6万両の貸付契約」があって、その内の「4万両が貸付不良見込み」で、「2万5000両」がこの時期の「不当り」と成っていたらしい。
結果として、返納が無かったので「4万両」が「不当り」に成った事に成るらしい。)

その金が何と無謀にも「1/10俸禄の策(「無益高制 1873年)」で浮き出た金を全額注ぎ込んだのである。
今まで紀州藩に尽くして来た武士は不満爆発寸前に成った。その動きを見せていた。

普通なら「伊勢暴動」と同じ様に、他国でも「武士の暴動」が起こっていた様に、「伊勢藤氏の家臣団の反乱」も起こる筈である。
ところが不思議にここでも「家臣団の反乱」は起こらなかった。
ここに「青木氏に関わる意味」があって「青木氏の歴史観」の何故かである。

この「家臣の不満解消」と成ったのは、「藩士」の多くが、元は「伊勢藤氏の郷士衆」で、「伊勢青木氏」が行う「殖産」の「大きな担い手」と成っていたからである。

例えば、藩士の一族を集めて、又、中には周辺の民までも雇い、屋敷に「殖産の仕事場」を作って、俸禄より数段高い収入を得ていた事に依るのである。
それを知った上で見込んで騒がないだろうとして「俸禄1/10(無益高制)」と出来たのであろうことが判る。

ここでも、「伊勢青木氏」は騙されていた。
然し、「俸禄1/10(無益高制)」には、大きな「意味」を持っていた。
最早、「俸禄」が保障されないのであるから、これでは「家臣の領域」では無いが、紀州藩は「武士の暴動」は起こさないと云う事を読み込めていたのかもしれない。

筆者は、そうでは無かったと観ていて、この“「俸禄1/10(無益高制)」で「伊勢藤氏」は騒ぐ”と観て執って「青木氏」は素早く手を打った。
それは、彼等を「説得」と「新たな殖産」に誘い込む事にあった。
それには「青木氏側」に出来る根拠があった。

そもそも、9/10が「内職」ともなれば、最早、「意識」では「藩主」では無く、そちらの「殖産の主」が「雇用主」と成ろう。

この「雇用主」は「殖産」を興した「青木氏」であった。
ここに意味がある。

それは、その時には「青木氏」には、「不穏な動き」を見せていた「農民の暴動への支援」をする覚悟が既に出来ていた事だ。
そこで、「藩主以上」の「武士の雇用主」と成った以上は、「片方の武士」の方は「殖産」で対処して、「農民や庶民」の方は「騒ぎ」とする以上は、その後の始末策として「賜姓族」である限りは、「汚名の払拭策」と「暴動の名目策」に通じて思慮を深めていたのである。

そもそも、「雇用主」として、前段でも論じたが、上記の“「徳宗家」の「古式呼称」”は、「殖産と副職」が合致して“「伊勢の民」の生活を救った”とした事にあって、明治期に成っても「伊勢の全郷士衆や民」の中からより強く再び湧き出て来た事ではないかと観ている。
「郷土史や郷士の家の記録」に記載されている位である事からこの時の事が良く判る。

兎にも角にも、前段でも論じた様に、新たな「明治期の殖産」でより彼等を救う事に腹を決めたのである。

上記の「紀州藩との5千両の殖産投資分」に付いては「藩への貸付金」の一部を名目として引き取り、「全額出資の殖産」として「伊勢」に引き取ったのである。
別経理にして「藩」も「徳川氏」も成ったとしても、「殖産の資産は藩の資産」である以上は変わらないので、この分の「担保の返却」は可能であった事が判る。
其れが、享保期から始めた「薬剤用菜種」と、江戸期中期から幕末期に爆発的に進んだ食用文化が「食用菜種油」の需要を飛躍的に高めた事にあった。

この為に「担保貸付金の不当り」を理由に、「青木氏」は「紀州の蜜柑畑」でも行える様に認可を「取り付け」して、つまり、「殖産契約の条項」にし、大当たりの「菜種油の殖産」となったのである。
これが「貸付」に対する責めてもの「担保の返却」と成った。

(注釈 5千両の「殖産出資金の確保」と共に、「蜜柑畑の使用認可」で得られた効果と、「藩士の副職にする事の認可」と「菜種油の莫大な利益」とで「貸付不当り」は何とか一部を軽減された事が考えられる。
後に、上記した様に、「紙パッキンの殖産」も手掛けた。
「蜜柑畑の使用認可」は、「田方勝手作仕法」に準じた強かな賢い「青木氏の策」であった。)

これに彼等家臣団を「殖産の働き手」として新たに引き込んだのである。
何はともあれ、こうなれば「紀州家臣団」は何も「暴動」を起こす必要が無く成ると共に、彼等を支援し「青木氏側」も「殖産」をタイミングよく広げる事が出来るし、結果は市中は納まる。
騒げば、「罪人」を出し「殖産」どころの話では無く成るし、上記した様に飛び火して全国に広がる危険性を大きく現実味を帯びて持っていた。
然し、これも防げるし、「支援金」を出す限界にもあった。

「土地を提供する者」、「種まきから収穫までの労働力を提供する者」、「搬送等に従事する者」、「販売等を担当する者」、「搾りなどの生産に従事する者」は、「青木氏」が大阪堺に工場を立てて其処に「家臣の内子の奴等」が「働き手」として働いたとしている。
「営業」は「伊勢紙問屋の伊勢屋」が行う事に成ったと記されている。


実は、この結果として、反して「四つもの奇策」を講じて民を欺いた「紀州徳川氏」は、紀州伊勢では庶民から“「徳宗家」の称号等”は遂に得られなかった。
(注釈 最近では「町おこし」で美化して喧伝されている。)

「後勘の評価」では、現在も評判は、取り分け優れたものとは云えない。
特に南に下がる程に良くない。

この結果、潰れずに「紀州徳川氏(西条藩松平氏より養子)」は「侯爵」とも成り東京に移り乃がける。
(その後、企業倒産を繰り返し伊豆にて直系の子孫は絶える)
今後の人の上に立つ身分の者でありながらも「四つの秘策」の「斯くの如」であり、「青木氏」からすれば、“一矢を報いた”のであり、「青木氏の掟」として“上に立つ者は斯くあるべし”と観える様に忠告示唆した事に成るのである。

青木氏36代と37代の先祖は「善悪の条理相対の理」を身を以って忠告したのである。

(注釈 「青木氏の資料」によると、1871年頃前後から紀州藩の採った態度などから上記の農民不満で燻り始めている。
そして、決定的に農民や郷士衆が行動に移したのは、1874年後半の頃に集会などを重ねているのである。)

(注釈 紀州武士団の暴動はどうしても留める必要が戦略的にあった。
従って、これには「経済政策の殖産」で以て支援して留めた。
然し、一方、農民や市民の不満の爆発は「青木氏」に原因の一端があり、留める事は難しい状況にあった。
徳川氏に一矢報いる為にも「認めて支援して留める」には「上記した深謀」が必要であった。
「汚名の払拭」と「暴動の名目」の策は成功した。)

結局、「地租改正」を理由に本格的には「飯能郡」、現在の松阪市で立ち上がったのが1876年12月頃に始まった。
その勢いは松阪から一度南勢にも広がり北勢に向かって行進は進んだ。
この一部の「伊勢郷士衆」を巻き込んだ「農民暴動」は、「歴史上の記録」として始めて“成功した唯一の暴動”であった。
この時の事を多くの川柳に詠まれている。

前段でも論じた事ではあるが、その後に、「紀州徳川氏」とは大正14年まで親交を深めたが、この時の事を認めた多くの手紙が遺されている。
「紀州徳川氏」は、後に、これを恥じて東京に移動して「訳有の財産」を投入して民の為に成るとして日本で初めて「私設の職業紹介所(「職業安定所」」を設立した。

(注釈 後に、国に依ってこの制度は「職業安定所」として「公」のものと成るが、「徳川氏の私設」は潰れる。)

結局は、紀州徳川氏は第16代まで続くが、再び「借財」は嵩み「企業倒産」を繰り返す様に成り、最後は家系譜上では「空白断絶」の「憂き目」を伊豆で受けた。(ここでも奇策)

「青木氏側」で云えば「四つの奇策」に対して「如来の意志」が降りたと云う事であろう。
唯、第16代は、多くの「青木氏への手紙」の行から観て、この事を“「心得ていた」“と観られる。

その証拠に、そもそも「祖父の代の青木氏」を朝廷に進言して「天皇の感謝状」を「左大臣の祐筆」で「天皇家の菊紋入りの桐の文箱」に収められて「伊勢の青木氏」に送られている。

この時、「日本最古の藤白墨」等も「菊紋入り桐箱」に収められて「賜物」として授かっている。
「青木氏」からは「彩色南画の和歌浦の絵」を「返納品」として献上している。

この「賜物」と「返納品」のやり取りに重要な「青木氏の意味」がある。
前段でも論じて来たが、詳細はそちらを参照されたとして、「日本最古の藤白墨」と「紫石硯」は江戸初期までは「天皇家の専売品」で、紀州名産で全て天皇家に納入される貴重な特産品であった。
(江戸初期に徳川氏に占有される。)
従って、「天皇家の宝物」として扱われ、これが特定の格式ある家筋で無ければ賜らない。
何の趣味も持たない者に与えても猫に小判で決して与えられるものでは無い。
この「天皇家の宝物」をこの時に与えられると云う事は、それ相当の安定した評価の事で無くては賜るものでは無い。

奈良期から「朝廷の「紙屋院」であって、絵画等を扱う「文化院」でもあって、平安期には「春日真人族」として「志紀真人族」として「軍略処」を務めた事もある「賜姓臣下族の青木氏」の「伊勢の紙屋」を「二足の草鞋」で営む「氏」であったからこそ、それを知っての「与えられる賜物」と成る。
「華族制度」が敷かれたとしても、その家筋の者に誰彼なく無暗に与えられる宝物では決して無い。

そもそも、普通は「天皇家」に対しては「返納品」は行わないのが「臣下の仕来り」であったが、昔、「朝臣族の伊勢賜姓臣下族」と云う事もあって「返納品」は受けられた。
この間の明治維新期まで「献納金」を献上していた事もあって「返納品」が受けられたと考えられる。
況や、紀州松平氏に執っては、“「紀州に於ける功績」は、「青木氏」に在って自らの功績の所以では無い事”を暗示している行為である。
其れも一度では無く“二度”も受けている。

「紀州藩前貸金」+「維新政府献納金」+「暴動支援金」>=「青木氏の宿命金」
“「献納金者」”+“「協力推進者」”>=“「暴動の立役者」”

上記の数式論から来る「二度の褒賞」に成るものと考えられる。
それは「明治維新前の功績」と「明治維新後の功績」に分けられたと考えられる。

この事で重要な事は、“「伊勢暴動」”に付いての事があれば、朝廷から「感謝状」など出る事は絶対に無い。
然し、この「二度の事」は、「伊勢暴動」に対しては、朝廷に執って「伊勢」は格別のものとして扱われ、“伊勢の民の生活を護った”とする「考え方」に至っていて、それは「皇族賜姓臣下族の賜姓五役」を貫いたとする評価に至り、「当然の役」として認めていた事を示すものである。

恐らくは、「五年の長期間の伊勢暴動」が、“歴史上の初めての成功例であった”とすることが、「朝廷」を容易に思惑通りに動かせたと考えられる。

唯、未だ身分や格式を重んじる風潮が遺されている時期でもあり、これが一般の豪商や家筋であれば、この様には成らず、「二度の褒賞」とは成らなかった事と成ろう。
躊躇なく成り得たのは、「皇族賜姓臣下族」であったとする事が大きく影響していたと考えられる。
「二つの感謝状」を観れば明確に判るし、「祖父の口伝」でも解る。

況や、重要な事は、“「伊勢暴動」は「暴動」であって、「暴動」で無い「政治の悪弊」を改めた”と朝廷は決め付ける「大義」を得られたのであろう。
「伊勢暴動」を“伊勢の民の生活を護った”とするだけでは無く、「四つの秘策」の「家臣団の殖産の就職」で“「武士等の生活」も護った“として、合わせて評価した事に成る。

もし、そうでなければ、「郷士衆と農民の伊勢暴動」と「家臣団の暴動」が合わせて起こっていた事に成り得る。
事と次第では、「紀州藩」が「凡例の起点」と成って全国に暴動が拡がった事に成り、場合によっては「維新政府の存立」さえも危ぶまれた事をも意味している。

その証拠に、「紀州藩の四つの奇策」に対して反対していた「維新政府」が、2年後を以って全国に紀州藩と同じ「四つの奇策」を適合して、「暴動」を抑え込んだ。
従って、この全国展開で明治13年から14年を以って政情は収まりが着いた。

「藩軍の指揮権」の問題は、「紀州藩」は明治2年に全県民の「徴兵制度」を敷いて「武士」だけの「藩軍」は無くした。

この後、当初、この「紀州藩の提案」の「徴兵制」に反対していた「維新政府」は、明治4年に「紀州藩」に追随して「徴兵制」を採用したのである。
紀州藩の藩軍」は「国軍」に編入して問題は解消した。

上記して様に、「市民暴動と武士団の暴動」の危険性が無く成った事からも、「異常な策」とも観られる「藩軍」は必要無く成ったのである。

況や、これも「青木氏の歴史観」に遺すべき「青木氏の功績」の御蔭である。

(注釈 ところがこの県民から成る「編入の国軍」が皮肉にも直ぐに「伊勢暴動」に投入されたのである。)

これが他県からも派遣された事に依って「伊勢暴動の捕縛者」が多く成った原因でもある。
「捕縛者を開放する手立て」として「献納金の必要性」が増した原因とも考えられる。
暴動史上、最高数で釈放も含めて58000人(青木氏の情報)と云う「捕縛者」が出た。
前段でも論じたが、「青木氏」は釈放に必死に成った。

それでも「伊勢暴動」は収束しなかったので、直接に“「説得」“に当たらせる為に「国軍」では説得には成らない難しい面もあったので、懐柔策として「警視庁の警察」まで派遣投入した。
然し、逆に、この一部の警察までが暴動理由を租借して、この「暴動」を挑発すると云う事態と成って、更に拡大したのである。

「国軍」にしろ「警察」にしろ「農民や市民」から「徴兵や募集」により構成されてた組織である。
「同じ仲間」を武力制圧するのは、未だこの時期では心情的に難しい面があったし、背後に「青木氏」が暗躍していた事もあった。
「暴動」は、当初は「松阪」から南勢に移り、そこから北勢に移動中に一部に「火付け打ちこわし」(自首)が有った。

この時は、未だ江戸期の「一揆」の性格的判断や概念の領域にあった。
ところが、「青木氏」は、“時代は維新である事”を説き、「殖産」で藩主では無く、生き延びたのは「雇い主」でもあったこの“「青木氏の説得」”で「整然とした行動」とり始め、且つ、「理路整然とした訴状文の提出」の状態に変わった。

この「行動と訴状の状態」で、西には「摂津堺域」に、北勢域は美濃から信濃・甲斐まで伝播して行った。
この結果、正式な維新政府との交渉が可能に成り、「理路整然とした訴状文」にて理解を固めた維新政府は、税率を3%から2.5%に変更する事に導いて決着は着いた。

この初期の過程の「火付け打ちこわし」(自首)は「戸長」との交渉中に起こった。
実は、この「戸長」は農民の中からの選抜制で選ばれた者であった事から平穏を保とうとする「戸長」との間での一時的な「感情からの結末」であって、「経済援助をする青木氏」は指揮を執っていた「伊勢郷士衆」を説得した。
この「戸長との直接交渉」は止めさせて「正しい行動と論理づけた訴状の状態」を作り出して「維新政府との交渉」に入ったのである。

この様に“暴動を正常な行動に導いた”とする事も評価に成っていたと考えられる。
“「汚名の払拭」と「暴動の名目」の策”の上記で云う「手品」であった。
つまり、今で云う“「デモストレーション」”に導いたのであった。

この“「デモ」”は、“万機公論に決すべし”とする事から、最終は維新政府は“「暴動」”と云う定義では無く、「デモストレーション」と評価した事にある。
“「正当な市民の行為」であった“と評価したのである。
そもそも、「維新政府」が紀州から「国軍」が引いて「警察」が介入したのは“「正当な市民の行為」として扱う様に仕向けたこの事に依る。

一方で解放され楽に成った「紀州徳川氏」は、「伊勢青木氏の口伝情報」では、後に明治20年頃以降に、結局は「流浪の身」に成った下級武士の為に流石に責任を執ってか、「維新政府」から与えられた「莫大な地権」と「貴族院」と云う「特権の立場」を利用して「職業の斡旋組織」(職業安定所の前身)を立ち上げた様である。
紀州徳川氏は、東京で「数々の事業」を起こしたが失敗し、再び「財政上の影響(借財の負担)」を受けて、「跡目の系譜上」にも「空白断絶部」があるところから考えると再び「奇策?」で逃げたと観られる。
現実には伊豆に引きこもって断絶状態と成っている。

この時は、既に一切の「維新騒ぎ」は収まっていた。
藩主は完全に廃止され、政府から派遣された知事が政務を執った。

「青木氏の末裔」から観ると、「激動期の仕儀」としては仕方がないが、納得のいかない皮肉なものである。
維新期に於いても、この様な“危機存亡の際どい歴史観”も「青木氏」にはあったのである。

其れは殆どの藩は「酷い借財」に喘いでいた為に、「維新政府」は、御三家であった「紀州藩」が敢えて上記の様に先行して体現したのを観て、反対していたにも関わらず、これは見本中の見本として2年後にこれを全国的に見本として利用した。
これを上手く利用して「借財棒引きの理由」にして「地方自治の安定した体制(中央集権国家体制)」に持ち込む必要に迫られていたのである。

「改革」とは、そもそも四方八方悉く上手く納める事は至難の業で難しい。
取り分け、「国家体制」を変えなければならない時には、何処かに犠牲を負う事が必要であった。

つまりは、「享保の改革」にしても、「維新の改革」にしても、何れも「青木氏」はこの「犠牲を負う宿命」と成っていたのであろう。
これは「伊勢信濃」のみならず、「青木氏の定住地」では、大なり小なり「二足の草鞋策」で「殖産」を興し、「古式伝統」を維持し、「土地の地権者」で、「郷氏と云う身分の立場」にあれば、この「二つの改革の犠牲」を負っていた事は間違いがない。

取り分け、前段で論じた「六地域」では、この「犠牲を負う宿命」の状態にあった事が判っている。

幸か不幸かこの「六地域」には例外ではない大きな大名が居た。
それは、「青木氏」が大きく「二足の草鞋策」を敷いていた所以でもある。
この「二つの改革の犠牲」で、「伊勢、信濃」と同様に弱っていた事は否めない。
その証拠に、未だそんなに時代が過ぎていないにも関わらず、「資料の有無」のみならず「古式伝統」、「口伝の伝達」、「伝統品の保存」、「縁籍関係の情報」も完全な消失状態に近く減退している事は何よりの証拠である。

これは「第二次大戦の戦後の混乱期」も原因としてはあるが、「二つの改革の犠牲」の影響は無視できない。

結局は、「紀州藩の事例」を観て(動乱が起こらないかを見極めた。)、2年後に「維新政府」も正式に廃止してこれを認めた。

(注釈 この「紀州藩の解決の仕方」は、後に成って「維新政府」は反対していたにも関わらず「全国の模範」としたが、ところが九州域を始めとして「殖産」の進まない各地では「武士階級の不満」が、矢張り、爆発して「藩軍」が独立して反乱軍に成る等異なっていた。)

この事は、「伊勢暴動」と全く同じ時期なのであって、伊勢域は「庶民の暴動」で幸いにも終わったが、九州域等の殆どは、「武士階級の暴動」を超えて「反乱・戦争」となった。

この差は、紀州藩の「武士の副職」を認めた事と、「青木氏の殖産」と「青木氏の心魂」が上手く連動させた事の差に在った。

云い換えれば、「副職 殖産 心魂」の共通項、その基は、況や「悠久の歴史を持つ郷氏」(氏上と氏人の関係)に在ったと考えられる。

その意味で、「氏の存続」が危ぶまれる程の「金銭の犠牲」はあったが、「無駄な戦いの損出」を最低限で抑えた事の「社会的功績」が認められた様に、「伊勢と紀州」等の「立ち上がり」は流石に早かった。

この「青木氏での同族一族郎党」で「路線争い」を起こしたほどの「金銭の犠牲」と云う事は、この「立ち上がりの速さ」がもたらす効果を期待した「青木氏の戦略的展望の心魂」であったかも知れない。
所謂、此処でも“「青木氏の氏是」”が働いた気がする。

「青木氏の氏是」
”世に晒す事無かれ、何れ一利無し、然ども、世に憚る事無かれ、何れ一利無し”の意に通じ、就中ば、”「共生氏族」であれ”

この「氏是の概念」と上記の「心魂と成る掟」から来る行動であったのであろう。

(注釈 前段でも論じたが、「殖産の功績」や「献納金」や「前貸金の放棄」等で社会に貢献したとして、「維新・・年の天皇家からの感謝状 一木氏」と「徳川侯爵(徳川茂承 14代と16代)の仲介役による感謝状(大正初期)」とで、「天皇家」より「二度の拝謁と賜物」を受けている。
何れも「二つの感謝状」に付いては、「仏壇の引き出し」に保存していた為に[虫食い]による問題があって、「四年」か「九年」かの判別は尽き難いが資料の経緯から「九年」と判断している。

唯、仮に、これが「四年」とすると、そうすると、享保期に緩めていた「田畑勝手作仕法」から維新から「土地開放」を目的として「田畑勝手作の廃止 四年九月」を出したが、これに関する事に成るので、前段で論じた様に、「税制改革の地租改正」に伴って事前にも「土地開放の改革」が成されたが、この時の「青木氏」が率先して執った「自作農」の為の「土地の解放」に関する謝礼と云う事に成る。

実は、更に、「三つ目」もあって、「宮内庁からの文面 橘氏」は保存状態が酷く、現在解読中ではあるが、「維新初期頃の献納金」に対する「内大臣」からの「礼状」と判断しいる。

(注釈 「青木氏写真館」の8Pにこれらの一部ではあるが、墨の一部や硯等を掲示している。)

(注釈 上記した様に「青木氏の氏是」にも関わらず、この時の「書状と返礼品の現物」はあるが、何れもこの「献納金の返礼」や「殖産の功績」で、「宮内大臣(左大臣) 一木氏の祐筆の筆」で受けていて、「桐箱」に「菊紋の花文様」が「手書きで描かれた文箱)に収められている現物はある。
可成り丁重な扱いであった事は一目瞭然に判る。)

これが「青木氏の1200年の青木氏の心魂」と云われるもので、これも「青木氏の伝統」なのであった。

40代目の筆者からすれば、流石、「始祖祭り」は継承しても、「偏諱の論」からは「伝統の違和感」を感じ、先代たちは“度が過ぎている”と云う感覚にしかならない。
仮にこれ(古式伝統)で行けば、「信義と道義」が可成り廃れていて、且つ、「伝統」の少なく無く成った現在では生きて行けないであろうと考えるし、「氏存続」は「氏内に歪」が生まれて不可能であろう。

(注釈 何度も理解を頂く際にはお願いしている事ではあるが、幸いにして「伊勢」と云う特別で「古い環境」であった事から比較的幸いにして遺されていたので、「伊勢の伝統」を基にして論じてはいるが、全国の「青木氏」には、残念ながら「青木氏の伝統」を書き記す程の記録が遺されていないのが現状である。
又、昭和の終わり頃までは、兎も角も、「個人情報の保護」が壁とも成り資料を見出す事が難しい。
これが原因して残念ながら充分に各地の詳細を立体的に書き記せない。
然し、概しては、各なくとも「全国の青木氏」には、この様な類似の「古式伝統と由来」を持ち得ていた事を是非ともに知って頂きたい。
「近江の佐々木氏の記録」にも全国に多くの「佐々木氏」(二流)がおられるが同様の様であるらしい。)

明治期に成っても、「福家」は“走りに走った上に未ださらに走った”が、疲労困憊しながらも平成期にも分家に当たる「四家」は大阪と神戸で大いに走り続けている。
然し、流石に筆者の代では、「福家」の「青木氏の伝統」を引き継いで“走るのを止めて休息したい”と思い、「先祖への尊敬と誉」に対して応える為にも、又、「青木氏の伝統」を「未来のロマン」として伝える為に貢献したい。
故に、「青木氏の奈良期からの経緯」を記す“「由来書の復活」”にせめて取り組んだのである。

(注釈 管理人さんの絶大なご理解に依り「青木氏の歴史観」を知ってもらう為にこれをサイトに投稿している。)

「古い関係者」には大いに協力して貰えた。
その「きっかけ」は、親から渡された「青木氏だけの古い蔵書本」等と過去の関係者の家の資料等、それを更に研究して頂いて同じ事をした「佐々木氏の由来書」を観た事であった。



以下 「伝統シリーズ−33」に続く。



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