青木氏氏 研究室
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  [No.368] 「青木氏の伝統 48」−「青木氏の歴史観−21」
     投稿者:副管理人   投稿日:2019/04/21(Sun) 14:47:28

「青木氏の伝統 47」−「青木氏の歴史観−20」の末尾

「青木氏と云う立場」から敢えて”記録が残せない仕儀”であるから論じえないのであって、「表」を論じれば、「裏」も論じる事で「表」が明らかに成る。
然し、これが出来ない。
だから、上記の様に「読み取る事」の以外にないのだ。

如何に「生き遺る事」や、「呼称」一つ採っても「希釈な伝統の維持」が世間に晒されて来たかが判る。
故に、「青木氏の氏是」の所以なのであり、「商い」を表にした所以の一つでもある。
この「氏是」は時代が変わろうと人の世である限りは生きていると信じる。
これが、遺品の額にされて漢詩で書かれた書の意味の所以であろう。


「青木氏の伝統 48」−「青木氏の歴史観−21」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」



「時系列」から観ても、「資料の一節に遺る言葉」から観ても、「言葉の事件性」から観ても、この「歴史に遺る言葉の後家」も、寧ろ、「青木氏族」から出たとも云える呼称や制度であった事に成ろう。
そして、不幸にしてか、この「後家」を始めとして、「比丘尼や支女や物忌や馬爪や入妻や出妻や斎女や斎院や比売さまや妃御さま」等も、本論で論じている多くの「歴史的な呼称用語」は無念にも消されて行った。

これを証明する言葉としての注釈は、最も古い言語として「斎」の字は、その読み方は、「青木氏族」では“「さい」”では無く、「いつき」と呼称していた記録がある。
つまり、「斎王」は、「公の記録」の「さいおう」では無く、「青木氏」では「いつきのおう」と「いつきのきみ」の「二つの呼称」が出て来る。
恐らくは、これは「青木氏」が「神明社に依る影響」から独自に使っていた「古来読み」と観られるが、事程左様に、前段からの「女系の妻嫁制度」などに始り、全ての「制度」や「慣習仕来り掟」に至るまでは、兎も角も、「呼称」も斯くの如しで「重要な歴史観」なのである。

(注釈 そもそも、これは「家人や執事」が「青木氏の伝記」として遺したものであるが故に、「漢文形式の内容」でもあり、全部の「古来読み」を解明する事は筆者の能力では最早難しい。
関東の「宗家筋の秀郷流青木氏」にも「資料関係」が多く遺されていないのは「大戦の火災」よりも明治期から昭和期までの“「攻撃」”が主因と観ている。
これは「首都の関東」であるが故の「伊勢信濃等以上の災禍」と云える。)

ところで「光仁期の中期頃」から、「未婚を押し通した女性」を「行ず後家 イ」と呼んだ。
「嫁家先」から戻された「後家」の事を「戻り後家 ロ」と呼んでいたと論じたが、時代と共に世間にも都合が良かったのか広まって意味が少し異なって行った。

この「行ず後家 イ」は、この「後家制度」の「本来の意味」と成るが、実際は、室町期以降では上記した様に「青木氏族の制度」では、「物忌、支女」か「尼僧」に成るのが「掟」であって、問題は無く必ずこの務めに入った。

ところが注釈として、この「後家」に対しては青木氏の中では「分別する呼称」は無かった。
依って、江戸期の「行ず後家 ハ」とは少し違い、「青木氏制度」では一度、形式上で嫁ぎ「生女」で戻る「女(むすめ)」の事を云っていた。

確かに上記の「イとロの後家」は、「仕来り」では「後家の範疇」であるが、ところが、「イの後家」は解るが、この「戻り後家 ロとハ」は「女(むすめ)」では制度上では最早ない。
結果として、「尼僧として扱う事」には成るが、「周囲の尼僧」は「女(むすめ)」の「イの後家」であるので、「尼僧」として生きて行くには、元は「女(むすめ)」であったとしても、生きて「人を説き」、「導きをする事」は至難であったらしい事が読み取れる。
然し、この様な事も当然にあり得る事として、「尼僧の中に組み込む制度」として何らかの方法で確立させて置く事が「青木氏」では必要であったらしい。

取り分け、室町期は「乱世」で、室町期初期から「下剋上」が起こり、そもそも、「位階の持つ上位との血縁」である以上、「嫁家先の家」が滅亡する事は充分に予測され、事前に返される事は一般的な事として充分にあった。
そして、「嫁家の子孫」を「伊勢青木氏」に保護し遺す為にも「子連れでの事」が多かったらしい。
「四掟範疇の公家」などの「嫁家先」では、「家を遺す武力や充分な抑止力」が無かった為に「滅亡の憂き目」は予想でき、「後家と成る事」は充分に予想できた筈である。
従って、自らが「青木氏」に戻り、敢えて「後家」と成って保護下に入った事もあり得た。
例えば、衰退した「近江佐々木氏」、「近江青木氏」、「美濃青木氏」、「美濃土岐氏系青木氏」、や「四掟の青木氏に近い公家」の「後家」を引き取る事は充分にあった筈である。

云うまでも無いが「青木氏」には恐れられる「強大な影の抑止力」があって「嫁家先の子孫」を護る意味でも戻る事があったらしいが、但し、「秀郷一門の嫁家先」には「361氏と云う日本一の武力集団」があって、「馬爪後家」はあってもこのパターンによる「後家」は無かった。

そこで、「女子」に就いては、「後家」と成り得ても「青木氏の「女(むすめ)」のこの「制度の範疇」にあり、「女系の妻嫁制度の概念」がある限り戻し得る事には何の問題も無かった。
然し、問題は「後家」とその「後家」が引き連れて来る「連れ子の女子」には「女(むすめ)の範疇」にはあるが、ところが「男子」にはこの「制度の範疇」には原則無い。
そこで、「後家」は「子供の有無」は別として、「女(むすめ)の範疇」に合ったとしても其処には“「生女」”ではないと云う基準がある。
従って、「尼僧」としての「受け入れの態勢」に入る事に成るのだ。

前段でも論じた様に、「嫁家先制度」に依って、「優秀な男子」の場合は、一度、「青木氏」を興し、「四家」の「嗣子」に戻す「特例の制度」があった。
この制度を使って、「後家」が引き連れて来た「男子の場合」には、前段で論じた「嫁家先制度」を適用されたらしいが、この範疇は、そもそも、「四家20家」に入るのではなく「氏人の範疇」と決められていた。
従って、元々、「嫁家先」の多くは、「四掟」に基づく「高位の位階」の持つ「秀郷流青木氏」を含む「青木氏族」であるので問題は少ないが、「位階の先」が「四掟の範囲」として、取り分け、「下剋上の危険」に於いて「お家乗っ取り」等に強く晒された「青木氏族外」であった場合も多くあった。
この場合の処置が難しかった事が読み取れる。

それは「相手」がこの「連れ子の男子」を潰しにかかる危険は絶対であったからである。
この「男子を連れ戻すと云う事」は、「保護」を「四家」に求めている事に成る。
「嫁家先」もそのつもりの行為であった。
資料の僅かに記録から読み取れる範囲では、「四家」に入れずに、「菩提寺」に「小坊主」として保護し、その行く末は「僧侶」として匿ったと読み取れる。
これであれば、「当時の青木氏族の慣習」では、「寺に入る事」はその意味を持ち、例えその事が露見したとしても「社会的慣習」で下俗した「僧侶」には「相手」は手を出せない。
この「社会慣習」のみならず、例え手を出したとして「青木氏族のシンジケート」に護られている故に、むしろ「相手」は手を出せば逆に「自分の身」が危ない事に陥る。
「影の抑止力」に依って「影の世界」(青木氏の名が外に出ない事)の中で手を出した一族が潰されてしまう事が発生する。

(注釈 これは前段でも何度も例を以て論じた様に、世間から観れば「記録」から垣間見れる「恐怖の青木氏の抑止力」であった。
それ程に恐れられていたのだ。
故に、「政争やお家政争」に巻き込まれない“「保護」”が絶対に可能と成っていた。
尚、「室町期」までは「神明社」も「伊勢神宮に繋がる祖先神」であるので「保護の隠れ蓑策」であった筈だが記録が見つからない。無かったと云う事は少なくとも無いだろう。
「恐怖の抑止力」もあるが、“「不吉」”として記録しなかったと観られる。
但し、「江戸期」は「神明社」を全社を幕府に託した為に無い。それ故に幕府に依って消されたと観ている。)

況して、最後には「伊勢」であれば、「不入不倫の権」、「信濃」であれば「菩提寺」は勿論の事、「高い位階を持つ事」である故に、前段でも論じた「善光寺」の「浄土宗系院内」にも「保護施設」として入れる事も出来た。この施設は江戸期末期まで続いた。
従って、資料よりの「読み取り」では、「女子、男子」共に「四家の制度内」に保護できた事に成る。

そこで問題なのは、“「戻り後家の本人」”である。
「子供」がいなければ、「氏人の出生先」に戻す事は出来たが、そもそも“「戻り」”は“「子連れ」”のその「意味」を強く含んでいた。
多くは、戦乱などや下剋上などで武力を持たない故の衰退と潰されての仕儀であって、「嫁家先の子孫存続」の「子供連れ」であった。(四掟の一族で秀郷流青木氏は別)
然れば、少なくとも「手出し」の出来ない処に「匿う事」が前提と成る。
「確実に匿う事」が出来るのは、後は唯一つである。
それは、「斎王の里の館」にである。
そこには、「斎王」等の生活を看る「支女」に近い“「女人(女官)制度」”があった。
凡そ、光仁期後の平安期初期の最盛期には、「約200人程度の女官(青木氏の歴史観 下記)」が「伊勢青木氏」に居た事が記録にある。
この里は「青木氏族の経済的支え」の中で成り立っていた。

況して、そもそも、「平安期」には「皇族の経費」を極力軽減する為に、「嵯峨期の詔勅と禁令の文面」の通り「源氏賜姓」にもある様に保護せずに突き放した。
「四掟の範疇」の「四家の家」にも「朝廷の保護」は無く同然であった。
更には、元より、「武家社会」と成った「鎌倉期」から始まり、「室町期」には、最早、「朝廷」には「伊勢神宮」に関わるこの里の様な「設備等」をも支える「その力」が既に無かった。
当然に、「膨大な費用」が掛かる「斎王制度」も「衰退」を余儀なくせざるを得ず、細々とそれに近い「祭司」が行われるに伴って衰退した。

(注釈 「天智系青木氏」の「直系尊属の仁明期後」は「斎王に関わる事」の「祭司」さえも無く成った。)

前段でも論じた様に「嵯峨期」からは、「皇親族、令外官」(表向きは、「賜姓」を外れた事で「賜姓五役」等も)を外される結果と成るに従い、「青木氏族」に執つては対抗として「献納」もある程度抑えた。

(注釈 これが「嵯峨期の詔勅」の文面の元と成った。)

これを最低限にして、「女系の妻嫁制度」の所以を以って、一族の「女(むすめ)」の多くがいる「多気の里」の「館や分寺」で保護した。

「斎王」と云うよりは、寧ろ、「青木氏族」に執っては「女系の妻嫁制度の一環」、つまり、「斎宮、斎院、物忌、支女、女官」としての「多気の里の設備」と捉えていた事に成るだろう。
この“「多気の里(青木氏の呼称)」”は、“「斎王の里(郷土史の呼称)」”と云うよりは「青木氏族」に執っては無くてはならない「青木氏族の有効な設備」と成り得ていたのである。
この段階(嵯峨期以降)では、最早、“「斎王」の云々”では全く無かった。

(注釈 「斎王」を強調するは「郷土歴史」によくある「後付けの美化」であろう。)

だから、「家人」がこの「戻り後家の始末」を担当していたと観るのが正しいと考えられる。

「青木氏族」からは、故に、上記のこの経緯から、「斎王」では無くこの「斎王」に成るに近い、或いは、「斎王」に代わって「祭司王の女官(後家等、采女ではない)」を出していた。
従って、「青木氏の概念」としては「光仁期から仁明期前の斎王」は「祭司王」(後家)に切り替わっていた事に成ろう。

(注釈 そもそも、「斎王」は、「王族」やそれに準ずる者から嫌われて「仁明期以降(青木氏の直系尊属)」から成る者は少なく成っていた。
筆者は、故に、「光仁期前後から桓武期−嵯峨期」までの“「政争没」”と成っている「内親王」(後宮)や「王女」や「宣下外の女」、「采女の女」の多く「女(むすめ)」は、“「斎王逃れ」”からこの“「後家」”に成ったと観ている。
記録的にも、この「政争没」は「光仁期から仁明期(伊勢青木氏出自の四代目)」の「四家」の「女(むすめ)」に実に多い。
そもそも、「政争没の記録」は、一度、「後家(後宮)」として扱われ、政争の中の世俗から外された「斎王や祭司王や物忌」等と成った事から、“「世にでない記録」”として遺さない様にする為の「奇策」であったらしい。)

(注釈 此処で云う「後宮」とは「后妃の事」を指すが、「后妃が住む宮」を云う事もある。
皇室では、「后妃」と「嬪妾」には「ある身分格差」があり、「嬪」は「ひ」と「ひん」と「ひめ」の「三つの呼称」で分けられる「格差」があり、「ひ」と「ひめ」は皇族内の「「女(むすめ)」:娘の位置」にあった。
「ひん」は「純潔制度の同族血縁」の中で生まれた中間の位置にあった。)

従って、これらの「斎王逃れ」からその「世俗の役目」の終わった「四家」の「女(むすめ)」(後家を含む)から派遣された“「祭司王(いつきつかさのきみ)」”は、「青木氏族」の定められた「一定の過程」を経て、この「慣例」に従い「斎王の里の館」に住まわせて保護していたのである。
当然に、これは最早、「青木氏族の女系の妻嫁制度」の「保護一環策(奇策)」であった事に成る。

つまり、ここに、この「戻り後家」を匿い、“「女官(呼称:十二女司)・「女(むすめ)」ではない)」”として働かせていたらしい。(「青木氏の歴史観」)
松阪の「家人の家」に「遺された手紙の資料」の一節に、次の様な「行」が遺されている。
“「・・・の御手配・・小夜の仕儀の事・・多気に使わさせ、此の故を以って・・済ませ候の段・・」”とあるは、この「行の経緯」から読み取ればこの意味であろう。
「小夜」とは、この「戻り後家」の幼名で隠したのであろう。
「福家」からこの件が表に出ない様に・・・と云う「隠語」(暗号)を使って、この隠語の「細かい指示」があって、「小夜の保護」を頼みその結果の報告と観られる。

ここで、上記の「後家」に於いては、“「青木氏族の女系の妻嫁制度の一環策」だった”と論じたが、実は、これを証明する言語があるのだ。
それは、この“「後家」”そのものなのである。
前段までに、論じてきた事を、一度、思い起こして頂きたい。

この“「言葉(後家)」”が最初に出て来るのは、「光仁期の青木氏族」が執った“皇族から逃れようとする事件”が「青木氏族」に多く起こった。
この事は「伝統―14等」にも詳しく論じてはいるが、そもそも、“「家」”と云う言葉にある。
その前に当時として、“「家」”とは、「公家(公の家)」に対して「武家(武の家)」に使う事を許された「家の言語(格式の言語)」である。
当時は“「家」”は「高い格式を持っていた言語」であった。
要するに「氏族」に与えられた「格式を表現する言語」であった。

ところが、江戸期に「姓族」が「武家」と間違えて呼称される資料が多いが、「姓族」は「氏族」ではないので、正しくは「武士」である。
唯、現実には、「氏族(武の家)」と成り得る“「家」”とは、江戸初期には最早、「数族」に限られる社会と成り得た事から無視して、「江戸幕府」は、「姓族の武の集団」を遠慮なく「武家」と呼称して「権威付け」として鼓舞した。
その「発端」と成ったのが、「公家諸法度」に対して「武士」に課せた「武家諸法度」として決めつけた事にある。

(注釈 「西の政権」、即ち、「冠位や位階」などを与え「歴史的な慣習仕来り掟」を改めさせる役を負っていた「京の朝廷(西の政権)」は、この事に異議を申し立てたが無視された経緯がある。)

“「家」”とは、そもそも「青木氏族等」や「近江佐々木氏族等」の「皇位の冠位や位階を持つ氏族」に限定されて使われる「家柄の格式を示す用語」であった。
当然に「家」に着く“「侍」”も同然である。
「藤原氏」の「斎蔵」を担う「官僚族の公家」とは、元より、当に「斎(いつき)に関わる族の家」を云う。
「公・きみ」の「斎・いつき」の「立場や役務を表現する言語」である。

前段でも何度も論じた様に、「斎」は、朝廷を構成する「三つの政治体制」の「三蔵」の「大蔵・内蔵・斎蔵」の「斎」であって「祭事」を意味し、即ち、「政治」の位置にあった。
この「政治の位置」を司る「朝廷の集団」を「公(く・きみ)」として「公」の「集団(家)」で「公家」と称した。
この奈良期に於いては、「軍事を司る集団」は「政治体制」の「三つの中」に無かった。
「大化の改新」で信頼できる「皇族」より「賜姓」され「臣下」して「近衛の親衛隊」を構築した。これを「朝臣族」と称した。
この「武」を以て「近衛」の「賜姓臣下朝臣の族の集団」を「武の家」と称し、「公家」に対して「武家」とした。
後に、「大蔵氏」から出自した「坂上田村麻呂(桓武天皇)」の「征夷大将軍」と「近衛軍団」を「三つの政治体制」に加えて、「三蔵」に「武家」の「軍事集団」を加えた。
この時、「斎蔵の家の公家」には「蘇我氏の事」を顧みて安全を期する為に個々にこの「軍事集団を持つ事」を厳禁した。
この「近衛軍団(武家)」と共に「軍事集団」を「天皇」に帰属させて互いに牽制させて「政治の安定」を図った。
これが「武の家」の由来であり、「武の家」とはその「立場の格式」を意味する。
「家」とはその意味で使われたが、「姓化」が進んだ室町期中期から江戸期ではこれを無視した。


「施基皇子」を始めに「賜姓臣下朝臣族」と新たに成った族に許した「朝臣族の武」を以って「朝廷」に仕える「貴族」を「武家貴族」として呼称を許し、これを「氏族」とした。
そして、この「呼称の許される範囲」を、「宿禰以上の冠位」があり、且つ、ある一定の以上の位階、つまり、「従四位下の以上を持つ者」の「族」を「家」とされた。
この「氏の構成を許された族」には、“「家」”を興す事を許した。

「幾つかの家」を興し構成してこの「家の全体」を「氏の族」の「集団」として認めたのが、要するに“「武家」”なのであり、「伊勢の青木氏族」は、それが「四家」、即ち「20家」と「郷士族50(氏族)」で構成していたと云う事に成る。
従って、ここには論理的に上記の様な「姓の論理」は働かないのである。
「近江佐々木氏」を含む「近江から甲斐」までが、この「家」を興して「血縁族の郷士集団
(氏人)」を持つ「氏族」として朝廷に認められた事に成るのである。

唯、ここで「武家貴族」を認められながらも「家」を興す以上は「公家の禁令」に従って「武の朝臣族」であっても「賜姓族臣下族」ある事を前提に「表向き」には「武」を持たなかった。
但し、「影の抑止力」を持った。
ここが「補完役との違い」(「姓」と「武力」の「保有の容認」と、「身分格式の同格扱い」を)としたと成る。
そうでなければ「補完役」は務まらないであろうし「当然の朝廷の認知」である。

当然に、これは「四六の古式概念」の中にいて「20家の四家」と成る所以でもある。
従って、「家」の無い「氏族」は存在しない理屈と成り同然に「姓族イ」と成る。
当然に、同様に「氏人」が存在しなければ「氏」とは云えない事に成る。
つまり、「氏人」が「氏族」を構成するからである。この逆の論理も成り立つ。

「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」=「郷士」=「家人」

以上の関係式が出来る事に成る。

(注釈「嵯峨天皇の新撰姓氏禄」に依れば、「嵯峨源氏」は「単なる朝臣族」の「姓族イ」に所属し「皇別」の中でも「皇別の真人系48氏」に組み込まれていない事は興味深い。
「嵯峨期の詔勅の文言」を厳しく実直に反映している事に成る。
この「嵯峨源氏」を含む「賜姓源氏族11流」はこれに従う以外になかった。
従って、この厳しさから「源氏」には「賜姓を受けない源氏」が多かった事に留意が必要である。
つまり、「上記皇別の48氏」に組み込まれるには相当厳しいものがあって、「賜姓」を受けられない侭に「源氏」を名乗つても「賜姓源氏」に成っても全て滅亡した。
「清和源氏の満仲−頼信系河内源氏」だけが「一切の朝臣族の柵」を排除し、「姓」と「武力」の「保有」と、「身分格式の同格扱い」の「欲望」を捨てて「姓と武力で生きる事」を選択したと成る。
上記の関係式を捨てたのである。)

「秀郷流青木氏」は、「青木氏の補完役の策」として「特別賜姓」を受け「武家貴族」として認められたが、これを以って「氏族」としても認められた。
その「氏族」には、「永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏、遠藤氏、結城氏、工藤氏等の「361氏」の“「家」“が認められた。
そして、尚且つ「冠位と官位」でそれを補填して証明するに至り、「補完役」である以上は、これを前提に、「摂関家の公家」ではないが、「青木氏族」に近い「氏族」に等しい「高位の位階(貴族)」と「格式身分」とを与えられたのである。
つまりは、「賜姓源氏」を超えた扱いを受けた事に成りその意味は大きいし、「補完役」と云う「意味合い」も大きいし、「賜姓青木氏五家五流への配慮」が高かった事に成る。

(注釈 然し、結果として観方に依れば平安末期には「近江」「美濃」「甲斐」はこれを裏切り源氏化した事に成るのである。)

従って、「氏人構成」の無い「姓族」には、「氏族」でない限りは、この「氏人と家の論理」は成り立たないのである。
「氏族」の「氏上―氏人」の「血縁の関係」とで構成される集団と、「姓族」の主君と「無縁の契約関係」で構成され集団とは、根本的には全くその「構成条件」が異なるのである。
つまり、上記の「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」=「郷士」=「家人」の「関係式」が姓族には成り立たないのである。

そもそも、そこで「姓族」には、前段でも論じたが、次の「二つ」がある事を知って於く必要がある。
(a)平安期初期の「新撰姓氏禄」に記されている「姓族(新別に分類)」
(b)「室町期中期から「下剋上で勃興した姓族(諸潘)」

(a)は、正式に「四段階の格式の姓」の位を表す「姓族」として認められているので、「姓族=分家=武家=家臣」となる。
天武期の「八色の姓制度」に基づく「格式位の姓の意」である。
但し、「本家―分家」は、「縦の関係」にある。
この「家臣」は、「主従」の「縦の契約関係」にある。

「氏族」の「福家と四家の関係」は、「横の関係」にあり、「氏上、氏人、家人の関係」も上記の関係数式の通り「横の関係」にあって、「契約の関係」では無く「血縁の関係」にあった事である。
故に、「横の関係」と「血縁の関係」にあったからこそ、「青木氏族」に起こった「後家」は、「氏族」にのみ適用される「言語」と成り得ていたのである。
これがその論理的証拠である。

つまり、上記の「氏族」の「家」に起こる「血縁制度」であるからこそ「後の宮(高位の人)」の「家」であるのだ。
前段でも何度も論じてはいるが、「嵯峨期」の「新撰姓氏禄」に記載の「48氏の氏族」がこれに当たる。
この論理的には「48氏」が「家を興す権利」を朝廷から認められていた事に成る。

注釈として、結局は「bの姓」は、朝廷から「家を興す権利(氏族)」のそのものを認められていないから、従って、残るは「分家」として発展せざるを得ず、つまりは、「一つの家」を“「分身の様」に分ける“と云う理屈と成る。
故に「分ける家」なのであって「家・氏」を別段に興していない理屈に成る。
“「分家」”ではない「独立した四つの家」の独立する「20家」も「横の関係」として成立する故なのである。
依って、「分家」にしろ、「家臣」にしろ、「縦の関係」で成り立つ以外には無く、「縦の関係」である以上は「主従の雇用契約の関係」に成るは必定である。
「主君−家臣」を何れが「契約関係」を破棄すれば「主君−家臣」では無く成るが、「血縁関係」が存在する以上は「氏人・家人・郷士」から離れる事は永遠に出来ない所以である。

「氏族」=「家」=「武家」=「氏上」=「氏人」=「郷士」=「家人」の関係数式は付いて廻る事に成るのだ。

従って、この独立した「四つの家」の独立する「20家」も「横の関係」に起こる「後家」は「姓族」には論理的には「起こらない言葉」と成るのだ。

そもそも、“「後家」”は、皇室の“「後宮」”に通ずる言葉であり、皇室の「宮(高位の人)」、即ち、「皇別の氏族」の“「家」”であり、この“「家」”は「青木氏族」の様な「氏族」のみに“「後家の言葉」”(後の家)と同じく使われる切っても切れない言葉であった。

(注釈 「公家」は「斎に位置する家」であるので「政治的」には力はあっても「経済的」にも「武力的」にも力は無く、「斎に関わる権威を貸す荘園制」に頼っていた為に本質は弱体であった。
「氏族」としてでは生きて行けない為にこの「公家」には「姓族化する傾向」は大変に多かった。
「荘園」を下に「姓化」して禁に反して「武」を持って生きた「公家」は殆どは100年未満で潰された。)

この結果として「姓」を興している事は、「氏族」では無い事に成り、「朝廷の宣下に反する事」に成る。
この場合は、上記の関係数式は無く成り「氏族」を朝廷より外される事に成った。公家も同然であった。

(注釈 但し、例外はあった。それは「補完役」であり、「特別賜姓族」で「円融天皇の賜姓」あると云う「高位の特別の格式」を有する事により「公家の関係族」にありながらも「北家藤原氏」と云う「氏族(秀郷流)」が成り立つのである。
そして「361氏」と云う「姓化した族(現地孫末裔)」には「分家」が特別に認められた。
依って、「家紋」も「総紋」を「下り藤紋」とし乍らも”「二つ副紋方式」”と云う「姓族」には無い「特別な方式」を採用する事を許されたのである。)

従って、「五家の青木氏族」には「分家」は無いのであって、「四家の構成」なのであって「姓」は無いのである。
当然に「家紋」は無く、「氏族」を示す一つの「象徴紋(笹竜胆の文様:特別に「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の「青木氏の神職」には「神紋の柏紋」の使用を許された)」だけなのである。

(注釈 現実に、「皇族」と多少の「血縁関係」を有する「嵯峨期の姓族(新撰姓氏禄)」とは異なる。
庶民から興した「姓族現象(b 最初は安芸国の渡来系海部氏)」が本格的に起こった「室町期」には、この力を借りる事が多く起こったのである。
庶民から興した「姓族(b)」も、主従の間には懸命に「氏族の様な血縁関係」を構築しようとしたが、これは「血縁の歴史の期間」が異なるし、元より前段でも論じた「数々の氏」と「家を構成する制度」が異なっている。)

故に、「乱世の戦乱」や「下剋上」での事のみならず、「生き残りの為」に「氏族の条件」を外して「姓族(a)」に頼って生きた為に「氏族」を外された例も多く、結局は、「20氏位」から室町期末期には滅亡して仕舞い、遂には「正規の氏族」は「5氏程度」/「4000家紋」に成り得たのである。

この“「家」”とは、そもそもこの様な「構成条件の意味」を持っていたのである。
当然に“「後家」”もである。

(注釈 決して「江戸期の武家」との混同は留意されて間違われる事の無いように「本伝統」では理解して頂きたい。
少なくとも本サイトでは理解に苦しむ事が起こる事を避けたい。
明治期には家紋と称される文様は8000と成った。)

「光仁期」で、初めて、「朝臣族の武家(施基皇子の伊勢青木氏)」の「天皇家」が出た事に依る謂れから、「青木氏族」がその時、「救済策」として「四家制度」の中に、この「政争」の多い「王族」から逃れられる制度を敷いて護った。
これが“「四つ」の「家」”、即ち、「四家」の「空き」のある「母」と成っている「家」に、その「後目」の「家」に入る「王女」(「女(むすめ)」:無理やり宣下)として、「皇室の後宮」に因んで、皇室は「宮を興す事」に相当する「家を興す」の故を以て“「後家」“と云う呼称を使って「皇室」に対して「公然」とした「逃避の救済の制度化」を施したのである。

(注釈 記録の一部に、全ての「青木氏族」に対して「神明社」(巫女役として)を通じて越前域にても行った事も散見できる。
「青木氏の守護神の神明社」では「皇祖神の子神」である事から「朝廷の仕来り」を引き継いで「穢れ」を「お祓いする役」として「巫女の事」を”「巫・かんなぎ」“と呼んでいた事が判っている。
この役は「女(むすめ)」であってもよいし婚姻後も務められる役でもあった。
当然に「後家」も務められた。
どの程度の「後家」や「女(むすめ)」が務めたかは判っていない。)

そこで、上記の注釈に関して、だとすると、「500社弱の神明社」等に対して「女(むすめ)」の数では賄いきれる数ではない。
「斎院、斎宮、物忌、支女」等に成る「女(むすめ)」であり、「神明社のかんなぎ」までは果たして全てを賄えていたかは疑問である。

この注釈に関して「五家五流青木氏」は、勿論の事、24地域に分布する「116氏の秀郷流青木氏」の「補完役の力」も借りていた可能性が充分にある。
「116氏の秀郷流青木氏」にも「宗家筋(四掟の範囲)」では「同様の制度」を敷いていた以上は、一族一門の「女(むすめ)に対する処置」も同様に起こっていた事があり補完されていた事は解るが、この事に就いての補完は“どの程度のレベルでの補完であったか”は定かではない。

唯、「116氏の秀郷流青木氏の24地域」にも「宗家筋(四掟の範囲)」で「春日社」が「守護神」であった事も考えると、「かんなぎ」は存在し得ていたので、実質は「協力関係の程度」かと観られる。
筆者は、「361氏の秀郷一門」が当初は「春日社」を主幹していたので、「第二の宗家」としては算数的表現とすれば「361/116の義務範囲」であったと観ている。
後に、前段でも論じたが、「興福寺事件以来」は「361氏の守護神」は「春日神社」に変革したので、「116氏の「宗家筋(四掟の範囲)」(宗家筋(四掟の範囲)」は「春日社」を主幹する経緯と成った。

それでも何しろ、「平安期」では、「家的」には「116/5」と観れば、「地域的」には「24/5」と観れば、「500の神明社」だけでも運営するには難しい事は歴然としていた。
「室町期」では、殆どは「伊勢と信濃」と成り得ていたので「宗家筋(四掟の範囲)」の補完無くしては無理であった筈である。
但し、「伊豆」は独自運営し、衰退した「近江と甲斐(美濃は暫くは伊勢と信濃青木氏が支援を出来なかった)」ではその力を無くし停止していた。

(注釈 「美濃青木氏」は室町期末期に「別の形」で「伊勢と信濃の力」が隠れていた「美濃青木氏」を引き興した。
「一色域」に隠れていた「美濃青木氏の末裔一族」を「経済力」と「強力な武力」の支援で引き興して「蒲郡青木氏」として、「伊川津七党の青木氏」の「田原青木氏」として興す事に支援し「徳川氏の国衆」として成功した。)

「江戸期初期」には、「幕府へ神明社の引き渡し」と「菩提寺の顕教令」で全て「青木氏」からの「かんなぎ」等は停止したとある故に、「116氏の秀郷流青木氏」からの「補完の必要性」は無く成った事が判っている。


注釈から話を戻して、それが最初の“「後家」の呼称”であった。
正式名は、「光仁期」では、一応、天皇家の中にいた場合に於いては“「後宮」”として呼称されていたが、同じ出自の「青木氏族」では、「家を興す謂れ」から“「後家」”であった。
(言語的に「宮」と「家」は同意で格式的意味合いが異なる。)

そもそも、「四家内の妻嫁制度」、又は、「四家内の嫁家先制度」として、あり得ない「叔父や兄」の二親等、三親等の「妻」として入る事はあり得ない事で、明らかに「救済策(逃避の便宜策)」であった事が判る。
これで一応は「醜い政争」から逃れられ、その後は、再び「妻嫁制度」と「嫁家先制度」に依って嫁ぐ事が出来て、「青木氏族」の中で生きる事は出来たのである。
将又、「女系の妻嫁制度」の上記の「尼僧、比丘尼僧、斎王、物忌、支女、斎王、斎院、斎宮」と、“「十二女司役」の「女官」”とそれを支える“「采女(上記)」“として生きて行く事かの、この“「三つの選択肢」”が広げられて行った。

奈良期の「朝廷の制度」に見習い「青木氏」には当初の頃から「十二女司(じよし)」と云う「女官」がいた事も”「後家」“と伴ってその存在は判っている。
「女系の妻嫁制度」の「全体の事務や雑務」を支える「女官の事」である。
これには「女(むすめ)」と成らなかった「氏人の郷士」の「他の女」の多くが務めたらしい。
そして、ここから「福家の支援」に依って「郷士・氏人」に「嫁」に向かったのであろう。
これらの「独特の青木氏の呼称」から観ても「四家の政所の制度」の多くは「女系」で占められていた事が明らかに判る。「女系族」であった事が判る。

恐らくは、「氏人の郷士の娘の救済策」として、「十二女司」を務める事でここでも同じく「女(むすめ)」としての「教養」を身に着けさせたのであろう。
これは「氏人の底上げ策」であろうし、「強力な絆構築策」であったし、「第二の女(むすめ)策」でもあったと観られる。
上記の通りの氏族全体の「数多くの女の力」で以て、これも「男系」では成し得ない「女系の妻嫁制度」ならではの「堅い絆」が構築されていた事が判る。

注釈 青木氏の中での「十二女司(十二司女と書かれているのもある)」は、次の様な役目であった。
「内司」、「蔵司」、「書司」、「薬司」、「侍司」、「単司」、「殿司」、「掃司」、「水司」、「膳司」、「酒司」、「縫司」の「12の役目」を指し、「青木氏の保護施設」の「日常の雑務・庶務」を12に分けていた。
「意味」は読んで字の如くであり、「奈良期の天皇家の伝統の継承」であったと観られるが、取り分け、「伝統」と云うよりは「雑務」を分ければこの様に成るのは当然で、そもそも「皇室の伝統継承」と云う感覚は無かったと考えられる。
「斎王の館」などでのこの様に分けていたと考えられる。
「多気の家人の家の資料」に遺された損傷激しい読み難い資料から公的資料と査照して再現した。
これを要約すると、次の様に成る。

1「内司」は「妃嬪妾」の「入妻や後家」等の女系制度の人の「内回り」の仕事、
2「蔵司」は「金銭の財務関係」の仕事、
3「書司」は「手紙代筆」や「文書の保管管理」の仕事、
4「薬司」は「薬医回り」の仕事、
5「侍司」は「身辺警護」の仕事、
6「単司」は「簡単な雑務」や「外回り」の仕事、
7「殿司」は「寝所回り」や「便所回り」の仕事、
8「掃司」は「掃除」などの「清掃」に関わる仕事、
9「水司」は「水回り」の仕事、
10「膳司」は「食事の準備」とその手配の仕事、
11「酒司」は「酒宴」やその手配の仕事、
12「縫司」は「衣服回り」の仕事

以上と成る。

この「十二の役務」には、更に「実務の下働き」をする者がいて、例えば、記録に遺る者としては、6には「下働き」の「仕女(しめ・かがりめ)」と、10には「下働き」の「炊女(かしきめ)」が別にあった事判っていて、これには「階級」は無く、「青木氏」と関係する「地域の民」がこれを務めていたらしい。
この「二つ」は、“務めていた”と云うよりは「通いのパート」の様な契約にあったらしい。
必ずしも、「女」に限らず中には「男」も居た様な表現である。
前段でも論じたが、総じて彼等を「男子衆:おとごし」と「女子衆:おなごし」と呼ばれていた様である。
この「呼称の語源」は、「男子:おとこ」の「おとこ衆(おとこしゅう)」から変化して「おとこし」、「女子:おなこ」の「おなこ衆(おんなしゅう)」から変化して「おなこし」と成り、これが昭和の頃まで「伊勢」から「奈良や紀州」に遺る方言として紀州では「こし」が「ごし」と呼称した。
筆者の子供頃には使われていた方言で、筆者の家にも二人の「おとごし」と「おなごし」と呼ばれる人が雑務全般を担っていた。

この「伊勢青木氏の伝統」が強く地域に根付いていた為に「方言」と成って遺されている所以である。

(注釈 筆者はこの「おとごし」の人から「植木の手解き」を受けた記憶が事がある。
明治期の鎌倉の縁者の家では「支女」に当たる人が10人いた事が判っていて、この頃までこの「伝統」は何とか引き継がれていた事が判る。)

上記で論じている様に、“「皇室の後宮」”に仕える「女官」に対して、これに相当するのが“「青木氏の後家」”等であって、従ってそれに仕える「青木氏の女」に関わる「役目柄」である事に成る。
訳して、“「皇室の後宮」”≒“「青木氏の後家」”の関係式が成立する。
故に、「皇室の十二女司」≒「青木氏の十二司女」と成る。

元々、「中国の王朝」の「宦官制度(男子の官僚)」に対しての制度を、「奈良期の朝廷」に持ち込み天「皇家の後宮」の制度として敷いた。
この制度は変化して、「平安中期」から「後宮制度」の「身分格式の立場」を持たして「内の政所」の「女性の発言権」が整い、「外の斎蔵(政治)」に対しても「発言力」を増した。
更に「10世紀初期頃」から整理され充実した「後宮制度」が出来た事に依り改めて「後宮以外」にも「女官」にもこの制度を敷いて力を発揮させた。

ところが、ここに目を着けたのが「摂関家」であって、この「摂関家」が「斎蔵の外政」に対して「勢力拡大」の為に「内の政所」を掌握する事で「内外の両方」に触手を伸ばした。
「内の政所」と成った「後宮」を引き受けて「政治の斎蔵」の「一つの仕事」して掌握し「内外の政治の権力」を広げた。
この為には、「内の政所」の内容を「摂関家」に都合の良い様に変更し、「内の政所」の「格式や身分」を下げて「内の発言力」を弱めて「摂関家の発言力」をより完全に確立させたのである。
この為にも「天皇家」に対して「内の政所の発言力」に及ばず“「血縁」”を入れて「摂関家の血縁の浸透(例えば、上記の許嫁等)」を図った。
この段階で、「十二女司の内容」は「原型」を留めない程に完全に権力に浸潤する様に変化したのである。

この「歴史的経緯」から観ると、「青木氏側」は「光仁期の前頃」からの事であるので「青木氏の十二司女」の方が早く「原型」を保持していた事が判る。
「青木氏」では、この「原型」が上記した様に「五家五流青木氏」に「妻嫁制度」や「後家制度」が確立して行く過程で生まれた時期に採用されていた事が判っている。
この「古い制度」の「采女・うねめの呼称」が「多気」に遺っていた事がこれを証明している。
青木氏の資料の一部に「十二女司の内容」の変化に伴って“「十二司女」”の違いの呼称があるのはこの事の証明に成る。
この事から「青木氏」は「十二女司の内容の変化」で敢えて変更したのでは無いかと考えられる。

注釈として、前段で「支女(ささえめ)」が「多気」にあったと記したが、これは「十二女司の内容の変化」に依って、「青木氏の制度」では「内容の変化」と共に概念上も異なり「司女」では無く成る。
故に、“「司女」”を「青木氏の概念」に沿った“「支女」”として“「采女・うねめ」”と共に関連付けた「資料の記載」であったのではないかと観ている。
そうすれば確認が取れないが、論理的に「合理性」が認められる。
そうするとこの「合理性」から「司女」=「支女」の位置にある事は勿論の事、「支女」は「采女」との間には、「十二女司」の様に「階級的立場」の概念、或いは、「格式位置付け」の概念が強く存在しなかった事を意味する。
これは「単なる職務の概念」であって「女系の妻嫁制度」の所以と観る事が出来、“「共生を旨とする氏族」”ならではの事と考えられる。

時代的には、「摂関家の十二女司」>「青木氏の十二司女」=「古式制度の原型」
内容的には、「摂関家の十二女司」≠「青木氏の十二司女」

∴ “「皇室の後宮」”>“「青木氏の後家」”=「真の古式伝統」

以上の論理が成り立つと観ている。

更に、論じると、「摂関家の十二女司の制度」は次第に権力に侵され「自然疲労劣化」して、その「劣化」は「三条天皇」から始まり、遂には「後三条天皇期」では「天皇家の血筋」の中には制度の崩壊に依って「摂関家の血縁」が無く成ったのである。
この結果、「摂関家の衰退」と共に「十二女司」=「後宮」の「摂関家の伝統」が「天皇家」の中に薄れ、結果として「青木氏の後家制度」が「古式伝統」として遺されたと云う事に成るのだ。
云うまでも無いが、「摂関家」が衰退すれば同じ「藤原氏北家の秀郷流一門」は勢力を依り拡大させる事に成る。
当然に「第二の宗家」であった「秀郷流青木氏族の補完役」はより勢力を伸ばした事に成る。
この「女系の妻嫁制度」と「嫁家制度の血縁」で繋がる「二つの青木氏」にはこれらの「古式伝統」は上記の論調により遺る所以と成って行った事を意味する。

故に、この「経緯の中」の制度の“「後の家」“なのであって、この様に歴史に関わったそれなりの「青木氏族」の「意味」を持っているのである。

この「後家等の言葉」の「構成と表現」が如何に「青木氏族の所以」を示すものであって独自の「青木氏の歴史観」であったかが判る。
故に、添えて「同族」で「四掟」で繋がる「近江佐々木氏」も敢えて「縁者の青木氏族」を「青木氏の研究」と共に研究して遺す事に努力していたかもこれで判る。
これだけの「歴史観」を有する「縁者の青木氏の伝統」を放置して消す事の無い様に共に努力した事と成る。
これも「青木氏族」であるからこそ解明できる遺すべき「日本の古来の歴史観」であるからだ。

> 「青木氏の伝統 49」−「青木氏の歴史観−23」に続く。



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