青木氏氏 研究室
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  [No.369] Re:「青木氏の伝統 49-1」−「青木氏の歴史観−22-1」
     投稿者:副管理人   投稿日:2019/04/22(Mon) 10:41:57

> > 「青木氏の伝統 48」−「青木氏の歴史観−21」の末尾。

> 注釈として、前段で「支女(ささえめ)」が「多気」にあったと記したが、これは「十二女司の内容の変化」に依って、「青木氏の制度」では「内容の変化」と共に概念上も異なり「司女」では無く成る。
> 故に、“「司女」”を「青木氏の概念」に沿った“「支女」”として“「采女・うねめ」”と共に関連付けた「資料の記載」であったのではないかと観ている。
> そうすれば確認が取れないが、論理的に「合理性」が認められる。
> そうするとこの「合理性」から「司女」=「支女」の位置にある事は勿論の事、「支女」は「采女」との間には、「十二女司」の様に「階級的立場」の概念、或いは、「格式位置付け」の概念が強く存在しなかった事を意味する。
> これは「単なる職務の概念」であって「女系の妻嫁制度」の所以と観る事が出来、“「共生を旨とする氏族」”ならではの事と考えられる。
>
> 時代的には、「摂関家の十二女司」>「青木氏の十二司女」=「古式制度の原型」
> 内容的には、「摂関家の十二女司」≠「青木氏の十二司女」
>
> ∴ “「皇室の後宮」”>“「青木氏の後家」”=「真の古式伝統」
>
> 以上の論理が成り立つと観ている。
>
> 更に、論じると、「摂関家の十二女司の制度」は次第に権力に侵され「自然疲労劣化」して、その「劣化」は「三条天皇」から始まり、遂には「後三条天皇期」では「天皇家の血筋」の中には制度の崩壊に依って「摂関家の血縁」が無く成ったのである。
> この結果、「摂関家の衰退」と共に「十二女司」=「後宮」の「摂関家の伝統」が「天皇家」の中に薄れ、結果として「青木氏の後家制度」が「古式伝統」として遺されたと云う事に成るのだ。
> 云うまでも無いが、「摂関家」が衰退すれば同じ「藤原氏北家の秀郷流一門」は勢力を依り拡大させる事に成る。
> 当然に「第二の宗家」であった「秀郷流青木氏族の補完役」はより勢力を伸ばした事に成る。
> この「女系の妻嫁制度」と「嫁家制度の血縁」で繋がる「二つの青木氏」にはこれらの「古式伝統」は上記の論調により遺る所以と成って行った事を意味する。
>
> 故に、この「経緯の中」の制度の“「後の家」“なのであって、この様に歴史に関わったそれなりの「青木氏族」の「意味」を持っているのである。
>
> この「後家等の言葉」の「構成と表現」が如何に「青木氏族の所以」を示すものであって独自の「青木氏の歴史観」であったかが判る。
> 故に、添えて「同族」で「四掟」で繋がる「近江佐々木氏」も敢えて「縁者の青木氏族」を「青木氏の研究」と共に研究して遺す事に努力していたかもこれで判る。
> これだけの「歴史観」を有する「縁者の青木氏の伝統」を放置して消す事の無い様に共に努力した事と成る。
> これも「青木氏族」であるからこそ解明できる遺すべき「日本の古来の歴史観」であるからだ。
>



「青木氏の伝統 49」−「青木氏の歴史観−22」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」

然し、ここで、先ずは一つ疑問がある。
それは、“この「後家の表現」を「青木氏族」が使っていたという事を、又、何処でその資料と成る物が世間に漏れたのであろうかである。”これが「疑問−1」である。

この疑問に触れて観る。
そもそも、これは上記した様に「青木氏族」の「四家の中だけの制度」であり、この事は当時の「ある書物の記録」(不記載とする)として記述されている。
この「後家の処置」は、元より、「青木氏族」としては知られたくない一種の「隠れ蓑の策」であった筈なのだ。
確かに、「光仁期(770年)」から「仁明期(847年)」の「約80年間程度」は、少なくとも「直系尊属の氏族」として前段でも論じたが「政争」に巻き込まれない様に「青木氏の氏是」を護って何とか遠ざかろうとしていた。
従って、「四掟の血縁」に依ってこの「政争」に引き込まれる可能性が高まるが、これを避けようとすればこの「後家の隠れ蓑の策」は是非に必要であった。
期間的に観てこの“「後家の隠れ蓑の策」”を使用するとした場合の期間を、検証すると長く観ても「天皇家とその周りの族の政治的混乱期」が続いた「清和期(960年代頃)」までの間の事であろう。

前段でも論じたが、歴史的には「清和源氏(経基―満仲)」そのものがその「張本人の一人」であった。
この時、歴史的に「秀郷一門(青木氏族の秀郷流青木氏を含む 960年頃)」が敵視され大きく影響を受けた。
注釈として、「関東での政争・将門の乱等」と「瀬戸内の純友の乱」が代表的である。
この様に、二つの「青木氏族」はこれらの「政争」から何とか逃れようとしたのである。
故に「関東の秀郷流青木氏」、「讃岐の秀郷流青木氏」は逃れられなかった事に成り巻き込まれた。

この「政争」に“何が起こったか”と云うと、取り分け、秀郷一門の「青木氏族」と成った「主要五氏」に対しては、「円融天皇の補完策(960年頃)」により「特別優遇」され「最高の位階や官位」を次々と与えられた。
然し、「清和源氏(経基―満仲)」にはこの特別優遇は無かった。(羨望と嫉妬)
それが故に、この「青木氏族」の「弱者の女性」(位階を持っている)は、「他の氏族」から「絶好の婚姻策の相手」と定められて“「政争の具」”と成って巻き込まれる事と成って行った。
この時、この結果、矢張り、光仁期の「五家五流青木氏」と同じく、この“「政争の具」”に使われる事を嫌って、上記の様に「女系の妻嫁制度」をより充実させてより確立させている縁戚の「伊勢や信濃の青木氏(救済策)」に逃げ込む事が多く成った。

ところが、未だ「伊勢の秀郷流青木氏」を除き「他の主要な青木氏族」にはこの制度は未完であった。
それには、「嫁家先制度」に関わらない場合には、「女(むすめ)」として入る事、将又、即座に「入妻」として入る事の二つは、「掟」の上では困難であった。
そこで、どうしたかと云えば、“「隠れ蓑の策」”として造り上げていた“「後家制度」”で隠れて、その制度の中で何とか“「青木氏族」”として生きようとしたのであった。

これは「源氏族の様な朝臣族」に執つては「羨望」と云うか、寧ろ「嫉妬」に近いものがあって、更にこれを「政争の具」と云うものにして引きずり込ませ様とする「煩わしい環境」の中にあった。
高い位階と官位を与えられる同じ賜姓朝臣族でありながらも、彼らは「嵯峨期の詔勅」で冷遇されていたのである。
だから当然と云えば当然なのだが。況してその「補完役」までも自分たちを超えて厚遇されていたのだ。

この為に「伊勢、信濃の青木氏」と血縁関係の深かった「位階の持つ嫁家先(四掟)」の「秀郷一門の主要五氏の青木氏族(青木氏、永嶋氏、長沼氏、長谷川氏、進藤氏)」は、「戦乱や政争」に明け暮れていた事から空かさずに「女系での子孫存続」に懸けて大いに救済を伊勢らに求めてきた。

(注釈 この事は、「青木氏の資料」は元より「佐々木氏の資料」にも、「純友の乱の研究記録」の一環として、「讃岐秀郷流青木氏等の青木氏族」の行でこの「混乱の様」が記載されている。
これは「秀郷流青木氏116氏24地域の分布」にも大きく影響を与えていた様である。
それは「現地孫の増加」と「家紋分布の変化」に顕著に観られる。)

事程左様に、「光仁期(770年頃)」から始まった「緊急策」であった「後家制度」は、90年間を経て「女系の妻嫁制度」に組み込まれた。
そして他の関係する「青木氏族」からも積極的に利用される“「正式な隠れ蓑策」”に替わって行った。
この経緯が「疑問−1の答え」である。
つまり、この様な環境から「秀郷一門」へと間口が広がりそれが更に一族一門に広がったと云う事に成る。
これが元で先ずは広まったのである。

ところが、この「疑問−1」にも「疑問−2」が伴う。

この「正式な隠れ蓑策」に付いて、「朝廷や摂関家などの権力者」が、この公然と行われる「青木氏族の隠れ蓑策(後家制度)」(第一段階 770年頃〜870年頃の100年間 更には第二段階960年代頃の100年間まで)に、“何故に政治的な権力や圧力を行使しなかったのかと云う疑問の「疑問−2」が湧く。

当然に何時の世も世の中の周囲では起こる”「反動」”であり“出る杭は打たれる”が世の例えである。

少なくとも、取り分け、「政治、政争」の中心にいて「利害」が伴った「北家で藤原摂関家」が、台頭する「秀郷流青木氏族」等に対して同じ「北家」でも少なくとも「口を出した筈」である。

(注釈 そのひとつの証明に成る事がある。
現実に「北家の摂関家」は衰退気味の中で「下がり藤紋」から「下がる」は忌み嫌うと云う事で「上り藤紋」に「総紋の家紋」を変えた。
この「先祖伝来の下がり藤紋」を急に替えるという処に意味を持つ。
然し、秀郷一門はこれに追随せずに「下がり藤紋」を貫いた。
これにも証拠と成る意味を持つ。)

必要以上に「宗家の勢力」より大きく成る事を「四家」で構成していた内の同じ藤原一族でも「南家藤原氏も西家も」の様に潰されて勢力拡大を嫌った筈である。
当然に「皇族賜姓臣下族の青木氏」に対しても、然し、記録上では「口出し」は全く無かった。

何故なのかである。
それは、次の「六つ事」にあったと考えられる。

「光仁天皇の尊属」であった事。
「朝廷の大献納者」であった事。
「抑止力の大氏族」であった事。
「経済力の大氏族」であった事。
「不入不倫の権の公的な保持者」であった事。
「摂関家藤原氏」を遥かに超える「身分、冠位、位階の氏」であった事。

他にも、前段でも論じたが、嵯峨期に「皇親族と賜姓族」を外されたにも関わらず「朝廷の役目(紙屋院、繪所院、絵預処、賜姓五役)」を務めた。
更には、「商い」を通じて「献納」の際に「天皇」に「巷の情報提供」をする“「戦略処(青木氏の表現)」“と云う「秘密裏の務め(令外官)」をも実行していた事が判っている。

これらの務めは、前段の通り、元からの「施基皇子の役目(「撰善言司」)」でもあった事から、「青木氏族」がこれらを“「戦略処」”の言葉として捉えていた事が「青木氏の資料」に記載されて遺されている。
これは「日本書紀の記載」の「施基皇子の編纂」の“「撰善言司」(「撰善言集」)”の「司」の「範疇(役目)」がそれに当たるだろう。
歴史的にも証明できる。
これ等の事も大いに働いて「疑問2」の答えとしては、「表向き」には簡単には「口出し」が出来なかったと観ている。

「疑問2」の「口出しの出来ない理由」に対して、「疑問1」はだから「裏向き」を使って「讒言」で「政争」に巻き込んだと云う事であろう。


そこで話が変わるが、そもそも、上記の「司・(つかさ)」に就いて「青木氏の歴史観(「撰善言司」)」として知って置く必要があるので先に特記する。
これが「口出しの記録」が遺らなかった事を理解する事に役立つ
その「言司」に込められている意味の“「司」”とは、これを咀嚼すると現在で云う「司の意味」と大部違っている。
つまり、当時の“「司」”とは、“「朝廷(天皇)の一つのプロジェクトの役目」“を云う定義で、その「権能」は「天皇から与えられる令外官的意味合い」を持っていたものと考えられる。

最低限、「室町期頃」までは、取り分け、記録から観るところでは少なくとも「鎌倉期の頃」までは「司」とは、「朝廷の仕事を務める下級の役人」の事を云っていた。
それ故に、更に後には、「朝廷」、或いは、「幕府」より依頼されて「ある物」を専門的(令外官=司=匠)に作り、納品する「庶民の匠(たくみ)」の事も指す様に成ったと考える。

これを「青木氏の歴史観」から観ると、筆者は“「朝廷(幕府)」の本来の「司の使用」”は「日本書紀」にも記載がある様に「施基皇子」の“「撰善言司」”の頃が始まりでは無いかと観ている。

この前提は奈良期頃から始まった「渡来人」に依って興した“「経済システム」”にあったと考えられる。
それは現在の様な「市場経済」ではなかった。
歴史を考える場合はこの前提を知って理解を深めるべきである。

その「古代の経済」は、何度も前段で論じているが“「部経済」“と呼ばれるものであった。
それは“「全ての物造り」”の者は「朝廷の管理下」に置かれ、そこで造られた一切の物は先ず朝廷に納められ、「必要量」を収納し、「余剰品」を庶民に放出すると云うシステムであった。

この「役目」を「朝廷の令外官」が担っていたのだが、つまり、これを「賜姓五役の一環」として共に「令外官の役目」として「皇親族の施基皇子とその子孫(青木氏)」が果たしていた。
ここに大きな意味がある。
この「各種の物造部の頭」の事を「匠(たくみ)」として呼称し「朝廷の末端の役人」として扱われていた。
この「匠頭の役人」が「朝廷内の呼称」として「司」(役目・役人)と成った。
つまり、「・・部司」(かきべのつかさ)である。
つまり、この「司」は「物造り部の頭」の事である。

(注釈 「青木氏の資料」によれば「物造りの人」を「部人(かきと)・部民(べみん)」)と書かれている。
これらを「匠司」を束ねていたのが「上級役人・官僚」の「造(みやつこ)」である。
「伴」、即ち、「束ねるの意」の「伴(とも)」に「造」で「伴造(とものみやつこ)」と呼ばれていたのである。
但し、「大豪族等の者」にも一部これを認め分けて「部曲(かきべ)、又は、部民」(かきべ)と呼んだ。

(注釈 そこで当然に、「青木氏」に執っては「民に放出する役目の立場」として全国の「伴造」を配下にして、これを「総合的に総括する立場」としても独自に”「青木氏部」”をも保有していた。
従って、「総合的に総括する立場」を使って「光仁期」から「仁明期」までの「青木氏出自系の天皇」はその本来の「諱号」は「伴・とも」に関わるものを名乗った。
故に、この経緯から、この時から元の支配下にあった「官僚の伴氏」は「大伴氏」と変名した事は歴史の有名な史実である。
平安初期は「諱号」により「伴氏」から「大伴氏」に、この「諱号」の影響が無くなった平安後期には地域的には「大伴氏」から「伴氏」に官僚の諡号姓名を変名した経緯がある。)

(注釈 この「部司(かきべのつかさ)」に繋がる後の朝廷官僚、即ち、「五大官僚族」としてこの「伴造」の「伴氏」は「物造り」の「立場の重要性」から朝廷内にその勢力を拡大させ力を得て、そしてその部が盛んであった九州各地に配置された。
九州各地に「大伴氏とその末裔族」が多い所以はここにある。
前段でも論じた様にここが「渡来人の定住地」である。
従って、多くの子孫の官僚族を九州各地に遺しているのだ。
この子孫が名乗った者の多くの地名(例・鹿児島の市来・市来氏)が遺されている。
九州全域に「物造りの匠(たくみ・つかさ)」と呼ばれる「司(つかさ)」が多い所以なのである。
これがこの「匠司」から「たくみ」が「つかさ」と呼ばれ、「司」の「つかさ」が「たくみ」と呼ばれる所以はここから来ている。)

(注釈 「青木氏」に神明社等の建造物を建造し管理維持する為に独自に「青木氏部」を持つていた事に成っているが、筆者はこれら「朝廷が抱える全ての部人」を青木氏部と呼んでいたのでは観ている。
それは、これらの「部人の統括」は元より「その物の処理」まで任されていたのだから「全体呼称」を「青木氏部」と呼称していたと考えている。
その証拠に市場放出権を任されこれを以て余剰品を一手に「商い」までに発展させられる「権利」を朝廷は認めているのであるから、その「総括権」から「青木氏部」としていたと考えられる。
これが嵯峨期から「単独の青木氏」の「青木氏部」と替わって行って約60年後に独立して行った事に成ろう。
何故ならば「60年と云う猶予期間」があるのは「祖先神の神明社」は依然として「青木氏」に委ねられているのであるからだ。
天皇家に「祖先神の神明社の維持」のそんな力は無かった筈である。嵯峨期の詔勅が徹底する程に青木氏には影響は直ぐには来ていなかった事が云える。)

この「部人(かきと)・部民(べみん)」の殆どは「後漢の阿多倍王」に引きつられて来た「職能集団の200万人の渡来人」である。
薩摩の「阿多」や「大隅」などがそれに当たる。
これが、本来の「司の語意」であり、「匠の語意」であるのだ。

ところが、この「部の経済」は「市場経済」が発達し「鎌倉期頃」から次第に崩壊し、一部の物を「専売品」として定め、後は全てを「民が営む市場」に放出し始めたのである。
そこに「貨幣経済」(中国から貨幣を輸入する)が浸透し、室町期中期には完全な「市場経済」へと移り始めたのである。

重要な事は立体的に観察すれば、「青木氏」も連動して「市場放出権」や「伴造」を支配下に治めたことから「商い」は拡大した事で「疑問1と疑問2に打ち勝つ力」を持ったのである。

(注釈 これに連れて次第に匠と司の語意の変化が起こった。)

前段でも何度も論じている様に、「嵯峨期」から、「皇親族や令外官や賜姓族」から外れた後も、注釈の通りで「朝廷の役目(紙屋院、繪所院、絵預処の実務)」と「賜姓五役」の「影の務め」を矢張り果たしていた事も解っている。

それ故に、「疑問−2」の答えとしては、「周囲の勢力」は、上記の「六つの事」は勿論の事、「青木氏族の隠れ蓑策(後家制度)」(770年頃〜870年頃)に対して、“何故に「政治的な権力」を行使しなかったのかと云う疑問には、天皇家も摂関家にしても“一切何も言えなかった”ではないかと云う事であろう。

依って、「司の役目」としても秘密裏に「令外官」を続けていた事を示す証拠等とも考えられる。
寧ろ、戦略的には「表向き」は兎も角も「裏」では積極的に利用していたと考えられる。

この“「匠司」”は“「言司」”と共に正確な知識の上に「青木氏の歴史観」として歴史の史実確定の上での見逃してはならない言葉なのである。

(注釈 「青木氏の伊勢と信濃」は、「皇族賜姓朝臣族」、「伊勢(伊勢王)」の「冠位」は永代浄大一位、「信濃(信濃王)」は浄高二位 伊勢の官位は永代正二位、唯、信濃の官位は従四位上であった。
何れも「皇族の四世族内の王位」に与えられる「冠位と官位と位階」である。
これは「大化の改新」で「王位の範囲」を「第六世族」から「第四世族内」に改められた事から来ている。
「伊勢」は、「孝謙天皇の白羽の矢」で「光仁天皇」を出した事から、同時に「敏達天皇の春日真人族の四世族(天智天皇)」の「同族、同門、同宗、同位」であった事から、「賜姓臣下族朝臣族」から、再び、「真人族」と成り得て、独自の「志紀真人族」を形成するまでの事と成る。
そして、遂には再び「最上級の冠位位階の氏族」と成った。
故に、「天皇」に「面会」が許され、且つ、「意見」までを述べる立場に永久に成っていた。)

この事を考えれば「疑問1と疑問2の答え」は鎌倉期には最早「無駄な抵抗」と成り得ていた事であろう。

(注釈 祖父の口伝では、祖父や曾祖父・先祖代々にはこれに関係する慣習が引き継がれ、「徳川時代の紀州藩藩主との接見」でも藩主より何時も上座に位置したと聞いている。
従って、「令外官」として「献納時の挨拶」では「巷の情報」を「天皇に対する提供」する事は異議なく可能であった。
これも前段でも別の面で論じたが、この「永代の冠位位階」を持ちながらも「朝廷の衰退」で、「慣習慣例仕来り」と成った「江戸期末」までは「将軍家」、「大正期」までは「紀州徳川氏」にも「上座」で面会が出来た事が「記録と口伝」と、又、実際に扱いを受けた「祖父の話」も聞けている。)

(注釈 筆者の祖父は、明治から大正期まで「紀州徳川氏の茶道や南画や歌や禅の師匠、況や「素養指導」を務めた。筆者も一部確認している。)


そこで話を初めの「後家制度」に戻して。
この様な“「普通の立場」”でなかった「背景」があった為に、要するに「摂関家」を始めとして他の氏族は“「口出し」”は「表向き」には出来なかったと考えられる。
従って、その結果から「公然とした隠れ蓑策」の「後家制度」と成り得ていた。
そして、後にこれが「秀郷一門」から「表」に出て広まったという事に成ろう。
「関東の秀郷一門」は挙って江戸初期に「徳川家の御家人」として、又、「官僚族」として活躍した事で「一般の姓族の武士」にまでに広まりを見せた事に由来しているのである。

其の内に、「他の氏族」にも、これは「都合の良い策」として、「後家」は一般化して行って、これが範囲を広げて、何時しか「多くの意味合い」を持つ「庶民手段」に成ったと考えられる。
故に、昭和中期頃まで使われたのであろう。
そもそも、「嵯峨期の詔勅禁令」で「青木氏の慣習仕来り掟」の一切の使用は禁じたが、この「後家」だけは早期に広まっている。
これは他家に都合の良い策であった事が由縁と云える。

注釈として、然し、庶民まで使われる様に成った事には、これらの「史実の事」を知り得ていた「青木氏族」の「伊勢、信濃の青木氏」も「秀郷流青木氏」も驚いていたと考えられる。
「世情の安定期」に入った「江戸期」には取り分け使われた。
これは、矢張り、「女系の妻嫁制度」の制度に付随するそのものの「隠れ蓑策」は別にしている。
「享保の改革」を実行する為に「吉宗に同行した伊勢青木氏」と、「幕府の家臣」と成っていた「武蔵の秀郷流青木氏」の“「二つの力の影響」”が世間に一度により広がりを見せたものでふろう。
取り分けに「武家諸法度」を護る為にも「武士の社会」に「都合が良く」、この“「影響」“を「社会慣習」として捉えて印象強く与えたと考えられる。
昭和期まで続いたのはその証明である。
逆に云えば、「便利な慣習」であったのであろう。
これは「後家の呼称」の多さを観れば判る。
「後家と云う言葉」を使う事に依って、それまでに無かった「社会慣習の区切り」が付けられたという事であろう。

広まりを論理的に観れば、伝わった当初は、それほどに“「差別的な悪い意味」”では用いられてはいなかったのであろう。
これは「江戸社会」が「享保の前後の頃」から社会は「安定期」に入り、「姓」から伸し上がった者にも「歴史や伝統」がそれなりに生まれ“「武士のお家感覚」”が広まった事に依るだろう。
これは、つまり、更に、「黒印状」に依って社会に「権威に依る差別化」が起こり、それを容認する「武家諸法度」が制定された事が起因し、「姓の武士」にも「氏族」と同じ様に“「家感覚」”が起った事に成るだろう。
この「家感覚」が起これば今度は必然的に「武士の家の慣習化」が起こりそれは複雑化する。
ここに、「青木氏族」等の「後の家」の「上記の便利な慣習」が真似られて用いられたと成る。

これは、明らかに他の「姓族」には無い「青木氏族」ならではの完全な「青木氏の歴史観」である。
注釈として、この時期には「大括り」には「青木氏族」である「近江佐々木氏」も遂には耐えきれず「姓化」が起こり「氏族」は「伊勢と信濃青木氏」のみと成っていた。
故に、「後家の伝統」の「青木氏の歴史観」である事さえも忘れ去られたのである。

(注釈 「近江佐々木氏の青木氏の研究」の中にはこの「後家の現状」の行が記述されている。
念の為に、これは「近江佐々木氏」も「青木氏族」であった事を説いている事に成る。
筆者は「青木氏族」であると考えている。
但し、全国に広まった「近江の宇多佐々木氏」は異なる。)

この「後家の言葉」の“「広がり」“が、最初は、「特定の身分を持つ階級」に使われた事から、その”「便利さ」“であったからだと考えられる。
「便利さ」を例えれば、「行ず後家」、「戻り後家」、「遺り後家」、「添え後家」、「妾け後家」、「隠し後家」、「不義後家」、・・・「後家倒し」、「酌婦後家」、「擦鉢後家」等、
以上、最早、全ての「女の人生縁」に繋がる事に宛がわれている。

この用語は、矢張り、関西に多く、北に向かうに従いその語意は限定されて使われて行く面白い傾向にある。
それは、何をか況や「伊勢から始まった言葉」であったからであろう。


さて、この事に付いて「青木氏の歴史観」として元に戻って少し詳しく「内部の事」を論じてみる。

当然に、「位階」などを持つ「入り先」も、この「四六の古式概念」に基づく「妻嫁制度」ではその「掟」に従わざるを得なかった。
又、古来の「古式の慣習仕来り掟」を持つ「入り先(高位の武家貴族)」である以上は、況してや、「神経を最大に働かせる血縁(公家階級)」に於いては、「大きな差異」は「伊勢」や「信濃」とはそんなに無かったであろう。
当然に歳を得た「熟女」は「嫁(行ず後家)」に出さないであろうし、「青木氏」も「入り嫁」としては受け付けなかったであろう。
ここが、双方に執って「妻嫁制度の掟」を納得させる為の「住職神職の腕の見せ所」であったであろう。

今から考えれば、これは「女の人権を無視した事」には成る。
然し、「子孫存続と云う大前提」を達成するには、「四六の古式概念」の基で執った「妻嫁制度」「嫁家制度」では「当然の仕儀」と成り得ていた。
それは「氏家制度」の中では社会と異なる特異な制度であった。

そこで、資料を見て行くと「面白い掟」の「伝統」の様なものが出て来る。

先ずこの事から論じる。
例えば、“嫁ぐ際に、その準備を誰がしていたのか”と云う事なのだが、これにも「女性の性」を抑え込んだ「掟」があった。

当然に、「嫁ぐ準備」は、「女(むすめ)」に対して「口出し厳禁の掟」と「養育平等の掟」と成ってはいる。
これが、その「母元」と「女(むすめ)」に執っては「見栄の性」としては気に成る事ではある。
これを、「平等」に扱う事を前提に「養育所の住職」に任していた。
“「養育の一切」”と“「出と入りの手配」”の「下計画」を当然に「福家」が決定していた。
これに対して「住職」が「実務」を務めていたが、「福家と母元」は「女(むすめ)」の事には「口出し厳禁」であった。


そこで「面白いもの」があって、これに触れて置く。

これも「女系の妻嫁制度」を「適正に守る方法」で確立されたものであろう事が判る。
何故ならば、これを司る「執事の差配」が「何らかの間違い」を興した場合、常に「6のパラメータ」であれば良いが、この「4のパラメータ」が狂い「3の領域」に入ったとすると、「血縁の弊害」を興す可能性が否定できなかった。

この時、「執事」は、常にこの「6のパラメータ」にあるかを確認して、「妻嫁制度と嫁家先制度」を管理していた。
従って、これで行くと、上記した「三つの血縁源」から「入妻」として入る「女」が「3のパラメータ」に成らないか先ず「確認注意する事」に成る。

(注釈 「出と入り」の「女系譜」、又は「女過去帳」の様な「一覧表」を作っていた可能性がある。
それでなくては「管理」は到底無理であろう。
故に、「女墓」が出来ている所以であろう。
この一覧表は明治35年の災禍で消失した。存在した事は確認できる。)

どう云う事かと云うと、解りやすい例が直近で起こっていたのである。
それは、上記した「冠位と位階」を持つ「近江佐々木氏(地名から賜姓)」は、「施基皇子」の弟(兄とする説もある)の「川島皇子」の出自であり、「佐々木郷(奈良期は斎々木の地名)」の「川島皇子(色夫古女)」は、「施基皇子(越道郎女)の息子の「白壁王(後の光仁天皇)」は「叔父」にあたる。(パラメータ1)
その「叔父の家」に、「光仁天皇の女(むすめ)」の「能登王女」が、「川島皇子の男子」の「市原王」に嫁す。(パラメータ1)

ここで「いとこの三親等の血縁」に成る。
且つ、この「市原王」は「川島皇子の曾孫」で「施基皇子の曾孫」にも当たる。
これは「伊勢青木氏の四家の桑原殿」の「女(むすめ)・能登王女」が「近江佐々木氏」に嫁していたのである。
既に、ここで「近江佐々木氏」では大きな「トランスポータ」が蓄積された。(青木氏族の所以)

ここから、更に、慣例上あり得た「嫁家先制度」であって、その「市原王」に嫁した「能登王女」の「女(むすめ)」が、今度は「伊勢青木氏」の「入妻」として、「伊勢青木氏・四家」に入った。

(注釈 「能登王女」も共に伊勢に戻る。これは要するに前段でも論じた様に「後家」として戻った事に成る。
正しくは離縁して娘を引き連れて戻った事に成る。
「能登王女」も「青木氏の四家」の叔父に嫁した形を採っている。)

この場合、「伊勢青木氏の四家の継承者」が、「近江佐々木氏」の「女」の「入妻の嗣子」であったとすると、これは「三親等の血縁」と成り、「青木氏」にも「トランスポータ」が蓄積される。(パラメータ2)

処が、更に重要な事は、この「市原王」は「川島皇子」と「施基皇子」の「曾孫」でもある。
既に、「曾孫」のここに更に「伊勢青木氏の四家の名張殿」の“「名張王女」”が嫁したのである。
この段階で、その“「名張王女」”の「近江佐々木氏」の「女(むすめ)」に「血縁弊害」が必ず起こっていた筈である。

つまりは「血縁弊害」の起こらなかった「女(むすめ)」が、再び、「伊勢青木氏に嫁した事」に成る。
これは可成り大きな「トランスポータ」が「伊勢青木氏の四家」にも蓄積されていた事は否めない。
女系で継承される「ミトコンドリヤの基本遺伝子」が元に戻ったと云う事である。
「女同士の近親婚」は生理上あり得ないので、これをどの様に考えていいか良く判らない。
この時期では、未だ、この様に相互に「女(むすめ)」の「交換の血縁」は常態化していた。

従って、この時の「執事の差配」は、この「嗣子」と「佐々木氏に嫁した能登王女」の「女(むすめ)」との「入妻」は既に絶対に避けなければならない事に成っていた筈である。(パラメータ3)
これは「女系」で引き継がれるこの「人の遺伝子」は、それも「二重」に元に戻って仕舞う事に成る。
これは最早、「近江佐々木氏=伊勢青木氏」と成って仕舞った事を意味する。(青木氏族である。)
況して、この「嗣子」が、当時の「相互血縁の仕来り」で「近江佐々木氏の女」(むすめ・いらつめ)の「入妻の男子」であった場合は「トランスポータの血縁弊害」は最悪と成る。

(注釈 不詳だが、あった可能性が充分にあった筈。)

これでは「男子」が母親から引き継いだ同じ「人の遺伝子(潜在性遺伝子)」が同じ家内で血縁すると云う「最悪の現象」が起こる。

(注釈 「人の遺伝子」は直接に女系に繋がれる。)

更に殆ど訳の分からない「近親婚」に近い事が起こる事に成る。
確実に、この時、「伊勢」にも「近江」にも「血縁弊害」が何かが起こっていた事に成る。
だから、一方でこの時期の「政治没」や「生誕不詳」や「消息不明」の記録が実に多い事の一つであろう。
故に、そしてそれは、「青木氏族」や「佐々木氏族」の「掟」のみならず「弊害子・嬰児」は「普通の仕来り」を超えた事として「抹殺される事」が「位階」の持つ「貴族社会」での「社会の掟」と成っていたのであった。

従って、この事があって、“「良い子孫存続」”の為の「女系の妻嫁制度」を敷く以上は、「伊勢青木氏」は、この時の経験を生かして「最悪の血縁」が生まれると云うどの様な「人の遺伝子」を持ち得ているか判らない「男子継承方法」を避けた。
そして、「人の遺伝子」を明確に引き継いでいる「女系」で管理して、「最悪の血縁」を避け「良い子孫存続」の方法をこの時に採ったと考えられる。

この時、「青木氏」には「女性」による「人の遺伝子」を引き継いでいるという「漠然として概念」に到達していたと観られる。
当然にこの当時では、「遺伝子と云う概念」は無かったが、“「経験」”から「女性の持つ特異性」を感じ執っていたのであろう。

それの経験とは、筆者は、「男女の両性」にあって「男性」のものが機能していないと云う事に気が付き、その次の「四つ事実」に着目していたと考えている。

大部前の前段でも論じたが、男性には「へそ」と「ちち」と「子宮」と「生殖器の一部」は保持しながらもそれが“機能していない”と云う現実に気づいたと云う事である。
当時、「子宮」の位置には未だ「男性」にも「親指程」のものが「なごり」として機能せずに遺されていた事が人類学の研究で判っている。
「交配の進む民族」にはこれが「進化の過程」で無く成ったとされ、未だアフリカや交配の進まない山岳民族に現在も観られる。

その「生殖器の一部」とは、「女性の膣」の「子宮の入り口」に“「ちんこう」”と云うものが現在人にもある。
これは「子宮の入り口」を閉めているもので同形の機能を持つ。
そもそも、「男性の生殖器」は「女性の生殖器」の単に外部に突き出たものに過ぎない。
この「進化の過程」で女性にある恥骨が男性には消滅した。
又、女性に無く男性に在る「喉仏」もこれを物語る一つである。
これらを「総合した能力」から「女性」が「人の継承の源」である事を外見から見抜いていた事に成ろう。

(注釈 人間で無くても虫や小動物の雌からの分離で雄が出来て生殖を行いその後死滅や母体に戻る等の変異を起こす。
これでも解る。
中には余談で海中や小動物に「ブルーの光」を雌に強く当て続けると雄に替わる等の事も解っている。)

(注釈 昭和の中頃まで、“娘は母親似、息子の娘は祖母似“と云う「言い伝え」があった。
つまり、「息子の娘」には、「祖母似(息子方・潜在型)」と「母親似(直系型)」の「二つの系統」が起こり引き継がれると云う事であるから、相当前にこの真実を既に分かっていた事を示す。
つまり、上記でも示す様に外見でもこれは現在の「ミトコンドリヤの遺伝子」の摂理を既に云い充てていた事に成る。)
 
即ち、前段でも論じている「女系の妻嫁制度」では、他の氏族とは異なり、上記の「社会の掟」に従うのではなく、この外見上の経験則の経緯からも最低でも“「パラメータ3」(四の法則)”に成る様に改善を加えて行ったのである。
そして、常時は「パラーメータ4」(「パラメータ5」)に成る様に「女系の妻嫁制度」を改めたのである。

この「血縁制度」は「氏族の命運」を左右する要素であって、それ故に、“「四の法則」”に従う必要があった。
かと云って、平安期は当然の事として、鎌倉期も未だ難しい状況下にあった。
「下剋上や戦乱」と云う中での室町期中期頃までは“「六の法則」”は、「三つの発祥源の役務」を崩す前提に成るので、先ず執れなかったというのが現実であった筈である。
執れ始めたとしても、「江戸初期過ぎの安定期」に入った頃からの話と成っていた事に成る。
唯、「パラメータ5」の「六の法則」を取り入れたかは別問題であろう。

(注釈 「青木氏の四六の古式概念」は、「資料」より読み取ると、「始り点」(原点)を「影響の出ない点」としてそれを「−」として計算、「パラメータ」は、影響の出る「開始点」を「1」として計算する。
数理学上は「パラメータ」は原点を「0」としている。
この原点を「0」とする処に「古代浄土宗」と「神明社の融合」の「宗教的概念」があった様である。)

この時、この「天皇家や公家族や氏族内」で起こるこの「血縁弊害の現象」を観て、「青木氏の執事」は、「四の古式概念」で防いでいた事が資料より読み取れる。
そして、防ぐ為にはその“「発生源の範囲」”を確実にする事により改善したとされる。

それが、如何なる理由があろうとも、「福家と四家制度(4+4*4=20)」の関係式を導き出し確立させて行った事に成る。
「福家と四家制度(4+4*4=20)」の関係式で、経験則で「パラメータ4」(五の法則)で差配すれば、「血縁弊害」は完全に解消される事に成ったのである。

(注釈 但し、これには一つの「特別な掟・前提」があった。それが“「嬰児」”と呼ばれる掟である。)

この「嬰児の掟」(別記)を護る事が大前提とした。
従って、この「関係式」を維持するには、相当に“「執事の管理に依る差配」“が左右したと考えられる。


ところが、上記の例に観られる様に、「パラメータ2」の内で「嫁家制度」を未だ敷いている「位階」の持つ「三つの血縁源(近江佐々木氏等)」があった。
ここから入る「伊勢の妻嫁制度」の限りに於いては、「福家と四家制度(4+4*4=20)」のこの「関係式」を敷いたとしても、「人の遺伝子の弊害」を持ち込まれる可能性は未だあった。
これには“「四掟を基準とする付き合い」”を続ける限りは防ぎきれないものが絶対に起こる。

さてそこで、考えたのが、「人の遺伝子」を直接引き継ぐ“「女(むすめ)」の範囲」を広げる事”にあった。
このシステムでは、「人の遺伝子」の“「種と量」“が「氏族内に増える事」に成る。

(注釈 男系の場合は、息子が引き継ぐ母親から「人の遺伝子」は隠れていて「息子の娘」にどの様に出るかは判らないし、娘を二代続きで生まれなかった場合は、「母系の人の遺伝子」は消える事に成る。
つまり「血縁濃度」は高く成る。
「重要な事」は論理的にも「男系嗣子の交配」は上記した様に「潜在型」である以上は外見からは管理する事は出来ない。
娘が二代続きで生まれなかった場合の確立弊害の防止は男系では出来ない。
その点では「女系」で管理すれば「直接型」であるので外見からは管理は可能である。)

これは前段や上記で何度も論じている事である。
「氏人からの血縁源の導入」と、それを補完する「女(むすめ)」の「養育制度」との二つであれば、例え「嫁家先制度の相手」が「位階の持つ三つの血縁源」であっても問題なく出来る。
それは「女(むすめ)」の範囲を広げた「女」を差し向ければ、どんな事があっても「パラメータ3(四の法則)」、或いは、「パラメータ4(五の法則)の数式論」は完全にクリヤー出来る。

何故ならば、この「三つの血縁源」から、再び、仮に「伊勢青木氏」に入ったとして、広がっている範囲で云えば次の様に成る。

それは既に、「パラメータ2」(三の法則)で嫁いでも、そこから、更に、「三つの発祥源」の「女(むすめ)」を「入妻」として迎えても、この過程では更に「パラメータ2」が加わり、最低でも、「バラメータ4」(五の法則)に成り得る。

直接、「自分の子供」の「女(むすめ)」を差し向ける事は、「名張王女の例の場合」でも「曾孫域」(パラメータ4)であったので、現実として、これを踏襲するとすれば、例え、「氏人との血縁性」があったとしても可能に成り、恐らくは、「パラメータ5」(六の法則)に成ったであろう。

それが「玄孫(「夜叉孫域」)」の「女(むすめ)」とも成れば、確実に「パラメータ5」(六の法則)に成る。血縁弊害の可能性は極めて低く成る。

つまり、恐らくは「女(むすめ)」の範囲を「玄孫」までとしたのは、「相手との血縁状況」が、何らかの「近い血縁」が結ばれる運びに成った可能性がある。そこで仮にあっても、「一つの方法」として「玄孫」を「嫁家先制度」に組入れておけば解決する事と成ると判断した事に成る。

では、そこでこの「嫁家先の相手」は、「何処の氏族」かと云う事に成る。相手次第だ。
これが、あり得るとしてら「伊勢秀郷流青木氏」か「秀郷一門の伊勢の伊藤氏(伊勢藤氏)」の範囲と成り得るだろう。

注釈として、 「信濃青木氏」は、既に「四掟の範囲」を超えた殆ど「同族(四親等内親族・直系尊属)」に等しく、「伊勢青木氏」と同じとして考える必要があった。
「信濃青木氏=伊勢青木氏」の関係式である。
上記の「近江佐々木氏の事」を考えれば、最早、その隙間は無く「伊勢青木氏」で論じる場合でも、それは何もかも「伊勢青木氏=信濃青木氏」と成るに等しい。
現実に「系譜」を観れば、又、「口伝」でも明治9年まで現実にそうであった。

然し乍ら、当然に「信濃青木氏との血縁」は、「伊豆の融合青木氏」に観られる様に、「他の青木氏族」とは異なり頻繁に行われていた。

では、だとするとこの「青木氏族の組み合わせ」の「信濃伊豆」との「血縁の弊害」はどうしていたのかである。

それが出来ていたのは、「伊勢青木氏=信濃青木氏」である事より、其処には、最早、“「位階」”と云う「バリヤー」の存在を超えていたもの何かの事があったからである。

この「位階」が、「四掟」が、「嫁家制度」の「バリヤー」が、存在しない氏族はどの様であったかである。
全く同様の「四家制度」と「女系に依る妻嫁制度」、や「後家制度」、「多気の里、神職、住職、物忌、支女、斎院、斎宮、」等の制度一切も、「伊勢青木氏=信濃青木氏」であると云う事に成っていた。
依って、「同じルートの中」にあった。

これを解決できるキーは「氏人の郷士の血縁源」であった筈である。
最早、「氏人―氏上」、「御師」も同じと成ると、「女(むすめ)の制度」も同じであれば、必然的に“「信濃の小県郡の郷士衆との繋がり」”も双方が血縁で結ばれていた事に成り得る。
これが血縁の弊害防止の策と成し得ていたとする答えである。


これを検証する。

注釈として、江戸期初期前は、「小県郡の青木村」は「六郷」に依って構成されていた。
後段でも詳細に論じる。

そうすると、「伊勢」の「女(むすめ)」を「信濃」に、「信濃」の「女(むすめ)」を「伊勢」にという事が興る。
「伊勢」の「女(むすめ)」の「氏人の郷士」の「自由な血縁源」と、「信濃「女(むすめ)」の「氏人」と成っている「限られた郷士」の「自由な血縁源」が交互に、「伊勢と信濃の青木氏」に入る「仕組み」と成り得ていた事に成る。

そもそも「信濃青木氏」の「氏人の郷士」は「小県郡青木村の郷士数」に限られていた。
「信濃」にも、初期には「移動する国衆」も含めて変動する中でも「500以上」はあったとされる。
ところが当初の平安期の頃と比べると「氏人の郷士衆」は1/10程度に激変化した。

注釈として、平安期末期頃までは、
現在の地名で云えば次の様に成る。

長野市 1郡
大町市 3郡
小県郡 2郡
上田市 1郡

以上の四か所の7郡までを「郷氏」としての「勢力圏」として治めていた。

「信濃国」は「10郡 67郷」にて構成されていて、当時としてはこの内の「4郡程度」を勢力圏にあった事に成り相当な勢力を保持していた事に成る。

昔は1郡に「平均50郷士」が存在し得る限界数であって、これ以上は面積的な事からも無理の様であったらしい。
この事から、当初は「200程度の郷士数」を支配下に治めての「巨大な郷氏」であったと考えられる。
然し、記録から実際はこの時の「氏人」と成り得た「郷士数」は「100に満たない数」であったと考えられる。

江戸期初期に成ってこの「勢力の支配地」は「殖産可能な肥沃な土地」であった事から「江戸幕府」に依って「幕府の財政確保」の観点から「幕領地」として接収された。
従って、この経緯から最終は住む域が分断された事に依って次第に衰退し「小県郡域の一郡域(青木村)」と成った。
「郷士数も50以下」と成ったのである。

然し、「信濃青木氏」は「接収の結果」として、この元の「聖域の4郡の連携域」では「7郷が確実な村範囲」として広く「地権」が認められていた。
結果として、この「地権域」まで含めると「合計12郷域」までにも分布している事に成った。

下段に論じる様に、ここに江戸期初期の主に享保期には「大変な出来事」が起こった。

(注釈 伊勢青木氏と吉宗との関係はこれで最悪と成った。)

この事に就いては小県郡の青木村の「青木村歴史館」にも記録が遺されているし、公に成っている研究論文にも詳細に論じられている。

さて、この上記の「注釈の範囲」に於いて、それが「玄孫(パラメータ4・五の法則)の範囲」として血縁すれば、既に、「玄孫域」では「パラメータ4」を超えている事に成り得る。

故に、「伊勢=信濃間の血縁」は、「玄孫の更なる目的」として先ずは「玄孫域を原則」と定めていた根拠に成る。
これが「郷士数」と「玄孫域」の「二つの防止策」で先ずは「血縁の弊害」を防いでいたのである。

この「玄孫域」を用いる疑問は、「研究の過程」で資料から読み解けた範囲である。

「資料」には、四度も「玄孫」の「女(むすめ)」が相互に時期は多少異なるが、「出と入」が起こっていた。
「伝統−40の末尾」に記した下記の「女(むすめ)」の範囲は、「玄孫域外」の次の域と成る。

5 来孫(らいそん)
6 昆孫(こんそん)
7 じゃく孫(じゃくそん)

以上は、資料から散見できる範囲では、何らかの“「特別な事情」”により養育した事が考えられる。

この「5〜7の範囲」の「女(むすめ)」が実際の「嫁家先制度」に乗せたかは定かではない。
然し、あった事は事実であろう。
因みに、「筆者の父」の従弟は「伊勢郷士」の出自であり、別の従兄は「信濃郷士」である。


そこで、検証の問題なのはこの“「特別な事情」“とは何であったかは定かではない。
唯、これは「青木氏側の事情」と云うよりは、「室町期末期の混乱期」の、前段での「伊賀の件」の様な「氏人の家」に「氏存続」の“「特別な事件」”が起こった事が主な事も一つとして考えられる。

「伊勢=信濃間の血縁」は上記した様に「玄孫域」で解決出来ているので、それ以上と云う事に成ると、論理的に「信濃」や「伊豆」と「秀郷流青木氏」の「伊勢や近江や武蔵」の「関係性の深い青木氏族」のところに「特別な事件」があった事と成る。
故に、「青木氏の資料」には確たるものとして多く散見できないのであろう。

それらの事が原因して「伊勢内」では、
先ず考えられる「一つ目」は、「青木氏の四家」では無く“「氏人の家の断絶や跡目」”が途切れて保護した等の事であろう。
考えられる「二つ目」としては、上記した様に江戸期初期の前後に「信濃の小県郡」等は「富裕な土地」として「幕府殖産地政策」の一環としてとして「幕府領」として接収されたがこの事に依るものであろう。

この二つの事に依って上記した様に、「信濃青木氏」が「4郡の連携域」が「7郷」から「12郷域」の5域に分散させられた。
そして、「自由な絆の血縁」が制限される結果と成った所以であろう。

この「5域」に対しては「地権」、つまり、「庄屋(郷氏)」が認められたかは定かではないが、「青木村付近」で興した「五つの大一揆」から観て「庄屋」ではなかった事が考えられる。
一揆の首謀者は全て村を藩から派遣された「組頭」であるからだ。

筆者の見解では、一揆の事も含めてこの「5地域の青木氏」を「家紋等や伝統」などで調べた範囲では広く認められていなかったと観ている。

「上田藩」に下げ渡された段階までは、「殖産の指導(和紙と養蚕と酒造り)」と云う範囲で認めてられていたが、「幕領地」から藩領に成った時点の頃から家紋が変化している。
「和紙と酒造り」は「7郷」でも主と成って殖産していたので「変化の境目」が出難い。

殖産をさせる為に分断された「青木氏の者」が「真田藩、上田藩、小諸藩、岩村田藩」の「四藩」に本来あり得ない筈の家臣化しているのである。
つまり、家臣化、即ち「姓の血縁化」が起こった事に成る。
この事は「庄屋」では無く成っていた事に成る。

故に、そうすると突き詰めるとした場合、信濃では分断されたことで「血縁」が「5、6、7の事」と成ったと考えられる。

(注釈 その後、「幕府の殖産政策」が「青木氏等の努力」で大量の生産態勢が立ち上がった事を契機に幕府は「上田藩」に下げ渡し、管理させて「殖産利益」をフィードバックさせていた。)

この時、「地権のあった土地」を奪われ、当然に貧した「信濃青木氏の氏人」の子孫を遺す為に、「伊勢の福家」は「7郷以外」の「女(むすめ)」を「伊勢の妻嫁制度」の「女(むすめ)」として引き取り、「伊勢」に保護したという事が充分に考えられる。
「信濃」は相当に貧していた。(全国唯一一か所に集中して五大一揆が頻発している。)
それが、農民では無く「組頭の武士」である。
これは大きな意味を持つ。
藩から派遣され「藩に味方する武士」が「一揆の首謀者」である。
如何に藩の治世が悪かったかは判る。
言い換えれば、「青木氏の氏族」は如何に貧していた事かを物語る。

(注釈 「正規な資料」が遺されていないが、その「経緯」が遺されていてその経緯からも充分に判る。
「幕領地としての接収」と「国衆の侵入」が大きい。)

「幕領地の接収根拠」は「4郡12郷」は「天領地」であった事が「接収の理由」と成っている。
江戸初期に全国の天領地の多くが幕領地として接収された。
「伊勢」も「青木氏の旧領地」と鎌倉期の「本領安堵地の地権」は江戸期でも認められたが、その「他の本領地」は「接収」と成り例外では無かった。
唯、前段でも何度も論じたが、「紀州藩との殖産共同体」や「勘定方指導」や「貸付金」や「朝廷への献納金」や「伊勢神宮の協賛」や「徳川氏との血縁族の四日市殿」や「莫大な財力」の等があった。
これで、「本領地地権を接収する事」は“却ってこの「ツケ」が自分に振り返って来る事”から幕府に「紀州藩」は働きかけたのである。
そもそも、「紀州藩の家臣」の殆どは、「伊勢青木氏」との血縁関係にある「伊勢藤氏」と「伊勢の秀郷流青木氏」等で占められていた事の経緯がある。
これが良い方向に動いたのである。
然し、周囲との手前から「接収無し」とは行かず「中伊勢域の接収」を形式上で行われた。
結果としては、その「管理元は紀州藩」と成り、「青木氏の財力」に依って結果として「殖産地・地権」として利用している事から実質は同じであった。

唯、ここに「山田奉行所管轄の幕府役所」が置かれていた事は事実であり、後にこれが「伊勢青木氏と揉める事」と成ったが、家康の“「伊勢の事お構いなし」”の「お定め書」で優位に立った。
つまり、「信濃」にはこの経緯が起こらなかった。

結局の処は、この「根本」は「伊勢」は奈良期からの「日本書紀」に書かれている「天智天皇の不入不倫の権」が伊勢では大きく左右したと考えられる。

これは「女系の妻嫁制度」のそのものの為に執られた範囲たけではないだろう。

この「5〜7の範囲の事」は、「執事」が専門的に判り得たとしても幾ら何でもそもそも「正式な記録」の中にこの様な事(「特別な事情」)は遺し得ないであろう。

注釈として 検証するとして論理的に「女(むすめ)」での「子孫の拡大力」と、男での「子孫の拡大力」はその比ではない。
前段の「人の遺伝論理」の通りで、「男性5」に対して「女性1」=「人の数1」であるが、「女性5」に対して「男性1」=「人の数5人」の以上と成り得る。

そもそも「人の形態」では、この摂理は「男性」は「女性の分離体」としてで出来ている所以でもある。
因みに、みみずは、雌が主体で、生殖時、メスが体を二つに分離し、雄を作り、生殖後は、その雄は再び雌に変化する。
この様に、「生物」に依りその生殖構造は異なる。

故に、注釈の通り、「5〜7の範囲の処置」は、「子孫拡大」には“「女(むすめ)」”を保護する所以であって、「女系の妻嫁制度」もその所以の一つでもあった。

そもそも、この「5〜7の範囲の事(特別な事情)」は、平安期から江戸期初期頃までの時代とは云え、そこまで解る範囲であったのかが疑問である。
然し、そこは伊勢も信濃も「執事の差配処」であったらしい。

(注釈 現在ではこの範囲は全く他人の範囲であって、精々、田舎では「口伝の範囲」であろう。
然し、平安期では「伝達手段」が低いにも関わらず少なくとも「5〜7の範囲の事」は「執事の範囲」では把握できていた事が「旧領地の家人の家の資料」の中に散見できる。
然し、それが「女(むすめ)」の範囲として「常時の範囲」では無かったであろう。)

そもそも、「時代の経緯」としては、平安期では上記の「尾張王女の例」の通り、確実には「伊勢の範囲」では「子域」、「孫域」、或いは、「曾孫域の範囲」で行われていた。
「玄孫域」は、「信濃」を除いては、当に、「5〜7の範囲の処置・「特別な事情域」」の事と成り得ていたのである。
それが、鎌倉期、室町期と時代の変化が進むに連れて、「玄孫域」までが、「通常の仕来り掟の範囲」として「女系の妻嫁制度」として採用される様に成ったのである。
当然に、「嫁家先」も、この「時代の経緯の環境」の中(四掟)にあった事は云うまでもない。
ところが「時代の経緯の環境」は、当初からの「5〜7の範囲」とは成らなかった。

然し、平安期では、「玄孫域」は、未だ“「特別な事情域」“で、室町期末期や江戸期初期では、それが変化して「5〜7の範囲」が“「特別な事情域」”と成ったとする経緯である。

当時は、「系譜」を「氏人の家」にも、当然に「青木氏」(菩提寺)にも備えてあって、それを突き合わせれば「容易な事」であり、全く問題は無かった。
「幼名、俗名、戒名、通名」などを読み込み書き記し、観るだけで大方は解る。
これはその証拠としてその「出自」等を読み込んだ「曼陀羅絵」や「過去帳」や「女墓」が出来る所以でもある。

(注釈 江戸期は、一般の系譜は何度も論じてはいるが「搾取偏纂の系譜」で信用は出来ない。)

唯、「玄孫」は筆者の代でも何とか確認できて知り得ていた。
故に、「玄孫域」では「専門に扱う住職の執事」は、「50の郷士の中の事」の域では、全て記憶の中にあって、即座に答えられ判断され全く問題は無かったと考えられる。


何故ならば、「伊勢青木氏」の「女系の妻嫁制度の権威」を、例え「女(むすめ)」の事に成るとしても、「位階」の持たない「伊勢郷士」の「氏人の男子の血筋」の入った「女(むすめ)」が嫁す事を容認したかである。
と成れば、「嫁家先の彼ら」はそれをそもそも「許容するか」である。
どんな理由で許容するかである。

その答えは、“「権威」”に関わらず、「伊勢」や「信濃」に“「根付いた範囲の氏族」と成り得る“と判断していたからに外ならない。
それは、郷士族であったとしても“「1千年と云う歴史」の「血縁の力」”に他ならない。
伊勢も信濃もである。

“「1千年と云う歴史」の「血縁の力」を”言い換えると、次の様な経緯と成る。

論理的には「女系の妻嫁制度」には、“「人の遺伝子」を引き継ぐという概念”があった。
これに対して、「四掟」で限定された「嫁家先」では、少なくとも“「ある程度の理解」(「1千年と云う歴史」の「血縁の力」)”を示していた事が云える。

そうで無ければ、「一方的な押し付け」と成り、幾ら「女系の妻嫁制度」を敷いているかと云って「押し付け」を可能ならしめるレベル状況では無かった筈である。
従って、その「理解の前提」は、上記の「外観差異の生態的な認識」の下にあって容認していた事に成ろう。

現実に、「四日市殿(秀郷流青木氏との融合族青木氏族)」が「四家外」に誕生している事がその証拠と成ろう。
又、幾つかの資料に依れば、この時の「四家の継承者の嗣子」には、「京の位階の低い公家」より「入妻」を配置している。

(注釈 公家の名は避ける。位階があったが、従五位下で「妻嫁制度と嫁家先」の「血縁頻度」は低い。
然し、光仁期から明治期初期まで三度もこの「公家族」と血縁をしている。
この「公家」の一つは、筆者の父方祖母の家で、その血縁の最後と成るのはこの祖母は血縁の三年後に明治33年災禍で死亡と成る。)

(注釈 「桓武期」から「嵯峨期」に掛けて「出自先の青木氏」の「取り扱い」に対して親子で政争と成る激しい論争が起こった。
然し、この時、「桓武天皇」の「青木氏賜姓」の「存続論」と、「嵯峨天皇」の「青木氏」を「賜姓族」から外す「除外論」が対立した。
この「論争の争点」の一つがこの「女系の妻嫁制度」にあった。

つまり、どう云う事かと云えば、“この青木氏が独自に執る「女系の妻嫁制度」を公に認めて仕舞えば、これが広まれば「国全体」が「男系継承」と成っている事の「国体体制」が崩壊に繋がる可能性がある”とする「嵯峨論説」である。
“否、寧ろ逆で、「皇親族」に依って「天皇家」は裏打ちされるのだ”と云う「桓武論説」との「激突政争」であった。
これには何れ何方も「合理的論処」はあった。
結局は、「嵯峨天皇」は「自分側よりの中間策」を執った事に成る。

然し、「桓武天皇の意」に反して「青木氏」は「白羽の矢」に対する時と同じく飽く迄も「政界に入る事」をそれ以後も嫌って拒否した。
結局は、「追尊」はされてしまったが、そこで「青木氏の方」で“「避難策」”を懸命に考えた。
子孫が政争で絶えるとしたのである。

歴史的に後勘として観れば、これは「令外官的(賜姓五役)」には上手く動いた事に成るだろう。
解決策の一つはこの「令外官」にあった。
「皇親族」を外されたのであるのだから「令外官」でない筈である。
然し、「皇親族」を外されたとしても「賜姓五役」は出自を前提としている事から外せない。
依って、「令外官」ではないが、然し「令外官」である事に成る。
つまり、「嵯峨天皇」は自らの出自元に対して「表と裏の原則」を使ったと云う事に成る。

此処には確かに歴史的に観れば「表」では「脱落家の氏族」であった。
そこでこれを160年後(円融天皇)は、「補完役の秀郷流青木氏」の御蔭で「表」も「青木氏存続」に繋がった事は見逃せない歴史観である。

つまり、「郷士の氏人」を前提とした「氏族の形」を形成する「女系の妻嫁制度」が左右している事と成っているを認識していたのである。
況や、これが唯一と成つた「氏族」の故であろう。
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「青木氏の伝統 49-2」−「青木氏の歴史観−22-2」



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