青木氏氏 研究室
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  [No.371] Re:「青木氏の伝統 50」−「青木氏の歴史観−23」
     投稿者:副管理人   投稿日:2019/06/19(Wed) 14:35:58

> 「青木氏の伝統 49−2」−「青木氏の歴史観−22−2」の末尾。

(注釈 「伊勢」だけでは無く「江戸期中期以降」には「信濃青木氏」も「青木村」で”「共生共存共栄の伝統」を護るために何と「六つの一揆」を主導している事が判っている。
これは全国一位であり他にない。前段でも論じたが、恐らくは「伊勢」も受けた「享保期の吉宗の裏切り」が根・不信感にあると観られる。)

ここで本論の「四六の概念」を基に「後家制度」等を中心にしながらも「其れに関わる事」を事細かく論じて「青木氏の歴史観」を遺そうとしている。
ここでは「血縁に関して論じている事」は「青木氏族」にしか遺し得ない「絶対的歴史観」であるからだ。
「近江佐々木氏の研究記録」も一部では論じているが、矢張り「青木氏族」であろう。


「青木氏の伝統 50」−「青木氏の歴史観−23」
「女系族」の「四六の古式の概念の続き」


「氏族」として、「福家(氏上)」として、「四家」として、“「最低で3回周りの縁組、最多で5回周りの血縁」”を興していた「郷士の氏人」としての関係は、「完全な相互関係(共生共存共栄)」が確立していた事がこの事でも判るし、前段でも論じた種々の内容でも証明される。

(注釈 筆者が幼児期にこの「南紀の縁者の何軒かの家」を父に連れられて旅した事がある。
その時に、何が何だかよくは判らなかったが、未だ“「福家の・・・の若様」”とか呼ばれた「薄らいだ記憶」がある。
この時、「伊勢北部の伊藤氏本家」の「縁者」で、“格式ある様な家構えの家”に泊まった記憶もある。「家人」であった「南紀の周参見の家」にも泊まった記憶もある。
更には、「南紀湯川の家人」であった大きな旅館業を営む家にも何度か訪れた記憶がある。
又、「南勢の尾鷲」の父が育った「加納氏出の祖母」が住んでいた家にも薄らいだ記憶として幼少時に訪れた事がある。
この様に「南勢の遠祖地」との関係は父の代まで続いていた。)

北部から遠く紀州南部域に定住していた「伊勢青木氏」と関係していた「郷士筋の末裔の家」(氏人)であった事から、この事は「昭和の20年頃」までは、未だ「50」とは云わずとも「20位の郷士との親交」が未だあった事が云える。

「北伊勢に本家」があった「伊勢藤氏」の「伊藤の分家」の「南紀勢」の“「旅記憶」”が未だ筆者にあった等の事からすると、「伊勢郷士衆」と共に「伊勢北域」の「櫛田川付近」の「郷士の射和商人」等との「親交」は充分にあった事が、「数字の考察」以外にも記憶で証明できる。

この“「親交」”とは、そもそも「氏家制度」のある程度の「古い習慣」が未だ遺っていた地域であり、この事は“「縁組」”を半ば意味する。
この事からも、正式な譜系が消失して無く成ったとしても「血縁の有無」は多少とも証明できるだろう。

上記でも論じたが、「青木氏」で判っている「シンジケートの郷士」には、資料で分かる範囲としては「伊勢域」では「18程度の郷士」(「氏人」は除く)の名が遺されている。

「青木氏」と「経済的契約」に於いては「大小の郷士」で組織されていた。
これらは全体で次の様に成る。
「伊勢全域」から「南紀」−「伊賀甲賀域」―「員弁桑名域」―「美濃域」―「木曽域」―「諏訪域」―「信濃小県域(後段で詳細に論じる)」―「小諸域」
以上の「縦の線」で結ばれていたことが判っている。

注釈として、前段でも論じたが「戦国時代で潰された豪族」を山岳部に「避難村」を形成させて、「経済的契約」に基づき支援をした。
これに対して、彼らは「抑止力、荷駄の搬送と保護、他のシンジケート」の「横との関係」に従事した。

筆者は、この「縦の線の関係」を持っていた「伊勢−信濃シンジケート」は、実は、奈良期から平安期に「青木氏族」と血縁を含む何らかの関係を持ったと観られる(a−1 48氏)(a−2 101氏)、或いは(b 148氏)であったと考えている。
そして、その「直系族別と尊属族別と傍系族別」の「原士や郷士」であった可能性があると観ている。

前段でも論じた「伊賀原士衆」や「甲賀原士衆」との関係の様に、だから、「山岳部の民」と成り得ていたとしても「900年以上」の「経済的契約の関係」だけでは無かった”「特殊な行動」”を執ったのであろう。
実は、その論処は、「真人族48氏」の内の「敏達天皇の四世族内」の「同祖同門同宗同位」で「春日王系の皇子族」の「真人族の末裔」の多くは、前段でも論じた様に「五家五流の青木氏族」に逃げ込んだ歴史的史実がある。
「孝徳天皇との軋轢」や「斉明天皇重祚」や「壬申の乱」や「吉野の盟約」等で皇族内を含めて「政争」が起こった事で、彼らは「四掟の元先」の「五家五流の青木氏族」に逃げ込んだのだ。
それが「平安期の仁明期頃(青木氏出自の直系尊属の終)」まで起こった。
又、これに関連する「(a−1)と(a−2)の910族」は、この庇護下に逃げ込んで生き延びようとしたのだ。
中には、少数であるが「讃岐、安芸、淡路」等にも逃げ込んで土着したとする記録もある。

前段で論じた様に「五家五流青木氏」以外の「(a−1)」は「郷氏、又は郷士」に、土着化した(a−2)は「郷士」と成って生き延びたとする史実がある。
本流論では無いが、これが室町期初期の「下剋上と戦乱」で激減し、その都度、「血縁性」が低いが一部は「青木氏族」に救われたとする資料もある。
(江戸初期の搾取偏纂か)
「近江佐々木氏の研究記録」には一部は少数であるが密かに「伊勢信濃のシンジケート」の組織に加わり、その「経済的な保護下」で生き延びたとする真偽性が低いが記録もある。

前段でも論じている様に、「五家五流青木氏族」内の「四家」に「初期の皇子皇女」に入った者等は、間違いなく「(a−1)の48氏」中の一つ「敏達天皇の春日王系」の「同祖同門同宗同位の四世族内」にあった「末裔」という事に成る。
何故に彼らは「青木氏」の「家人化」しなかったかと云えば、(a−1)(a−2)であったからである。
唯、結局は平安末期に「近江と美濃(源氏化)」は滅亡し、その地の「郷士 (a−1)(a−2)の族」は共に消えた。
「甲斐」も衰退しその地の「郷士(a−1)(a−2)の族」の殆どは消えた。

又、「伊勢青木氏」は、「孝謙天皇の白羽の矢」で「光仁天皇(聖武天皇 井上内親王)」を輩出し、追尊で「志紀真人族」に戻った。
血縁関係をより深めていた「信濃」と共に、そして「拡大する経済力」と共に、この地の「氏人の郷士」と共に、「(a−1)(a−2)」の「影の郷士のシンジケート」と共に上記した「縦の線上」で存在し拡大させたのである。

これが、筆者が考える「伊勢−信濃の縦の線」に出来た「シンジケート説」の経緯である。
前段でも論じたが、疎遠であった「甲斐」で「(a−1)(a−2)の郷士説」を証明する事件があった。
「武田氏」を滅ぼした「信長の甲斐視察」である。
つまり、「象徴権威」を嫌う「信長事件」である。

因みに、「(a−1)(a−2)末裔」の“「古式伝統」”を守っていた源氏化した「甲斐の一郷氏」が「白衣着用と白馬乗馬での殴打事件」である。
実は、別の面から観れば、前段でも論じたが「源氏化と姓化」していた「甲斐」がそれほどの伝統を守っていなかったのに、何故、“「古式伝統」”を態々「信長」に見せたのかが疑問なのである。
取り分け、「甲斐」は殆ど「信長の先祖が持つ格式」と「甲斐の源氏化と姓化の格式」には差異は無いのである。

それはそもそも「信長」も元を正しく辿れば「平家傍系族」である事は解っている。
一般化している“「象徴権威」を嫌う信長”と云う説の公説で説いているが、「青木氏の歴史観」から観ると「甲斐の源氏化と姓化の格式」と差異が無ければ、この説は崩れる。
この説の「甲斐の源氏化と姓化の格式」の前提は「上位の格式の源氏」であると云う事から来ている。
この「源氏化と姓化」をし更に「郷士化」した「甲斐の源氏」は果たして「格式ある源氏」であるかのと云う事である。

前段で論じた様に「格式」を保障する「縛り」から逃避したそもそも「河内源氏の傍系族」である。
「甲斐の格式」の前提は、そもそも「五家五流の賜姓青木氏」であったとする前提であり、「後付けの源氏説」で論じれば違うという事に成る。
寧ろ、「出自先」を辿れば「信長の方」が搾取偏纂が多少はあったとしても「揚羽蝶紋で木瓜紋」である事の方が搾取は少なく、且つ判り易い。

公説は「青木氏」から観れば「信長」の方が上である。
況して、「摂津源氏」と違い”「縛り」”から外れた唯の豪族の「姓化の傍系源氏」では無いかと云う認識があっての事であったと観ている。
その意味ですれば「織田家」の方が「桓武平家」と云う正統性があると云う自負が在ったと観ている。
つまり、”格式は上だ”とすればここで”白馬から引きずり下ろす”が常道と成る。
故に、「甲斐青木氏の態度」を必要以上に誇張する態度に感情を高ぶらせたと観ている。

(注釈 話は逸れるが、{格式の論}として参考に論ずる。
又、南北朝で活躍した「楠木正成」も実はこの「(b〜e)の影の郷士説」と云われている。
何れ存在は認められるとしても、「彼等との何らかの関係」を証明する記録は「大阪府南河内郡千早赤坂村」の「楠木正成」が「影」であった事は史実であり、この限りでは否定は出来ない。
実はこれを解く鍵はこの“「楠木」の姓”にあるのだ。
別論なので詳細は論じないが、紀州一帯でのこの「楠木姓」は実に多い。
これは「熊野宮司六氏の支配下」にあった「熊野神社に由来する土豪」が使う姓である。
そして、「900年頃以降」からこの子孫は拡大した。
その「土豪」は前段で論じた「b〜eの810の中」の「第一の姓」の「宿禰族等の上位の官僚族」に従った「低位の官僚族・家臣」の派遣子孫である。
900年頃以降に此の「現地孫の末裔」が土着し、「熊野神社の神姓」を名乗ったものである。
要するに「熊野神社族」である。
この「熊野シンジケート」が「伊勢シンジケート」や「雑賀根来の紀州シンジケート」との連携であった事が判っている。
「熊野シンジケート」はそもそも紀伊山脈に逃げ込んだ「平家の落人族(史実)」である。)

(注釈 紀州では「高野村」、「大峰村」、「有馬村」、「龍神村」、「十津川村」、「北山村」等は有名な史実である。
「楠木姓」と共にこの「村の土豪姓」も多い。
後に彼らは「シンジケート忍者」と成って「紀州徳川氏の媒臣」と成って「伊賀」と共に働いた。史実
前段でも論じたがそれが「熊野神社」と連携して生き延びたのである。
「青木氏に関わる伊勢紀州一帯の研究」からは紀伊半島では「一般的に成っている説」とは異なる。
「影の郷士説・シンジケート」は「彼等の実際の戦歴(シンジケート戦術)」の史実で証明できる。
「ジンジケート」とはこの様な経緯から興る)

そこで、前段でも論じたが、筆者は、「郷士」には次の様に分類されると考えている。(原士も含む)

(a−1)に依って「土地の郷氏又は郷士」と成り得た族で、僅かながらも「氏人関係」が成立している。
(a−2)に依ってある地域の「影の郷士」と成り得た族で、「氏人関係」が充分に成立し得なかった。

何れも、後に郷士やシンジケートと成り得た「(a−2)」は系譜上では次の様に成る。
1 元は祖「敏達天皇」の孫「芽淳王」と、同孫「舒明天皇」は「異母弟:(母のロ)」
2 「敏達天皇」の妃「春日老女子:イ」の「第二皇子(異母:ロ)」が「春日皇子(王)」
3 「舒明天皇」の子で「妻不詳」の子が「宮処王」、即ち、「春日皇子(王)」

以上、「(a−2)」の「始祖」と考えられるのは以上の「3系」であると考えられている。
ここで、これは「伊賀との関係性」を考察する上で「重要な事」に成る事があるのでそれを先に論じる。

先ず、この系譜では難解であるが、「敏達天皇」の「妻のロ」が「舒明天皇の妻(妻のロ)」と成った。
従って、系譜では「舒明天皇の子」と成る。(妊娠期で何れの実子かは判らない。)
即ち、この系譜の「天皇家の純血の慣習」は、「后(母)」を除いて「妃嬪妾」が“「次の天皇の妻」として引き継がれる事”が通例であった。

(これは「純潔性の保持」の「天皇家の当時の「財産的仕来り」であった。)

この場合は多くは慣例に依るが、この場合は“「妻不詳」”と記されている。(記録上の当時の仕来りであった)
この様な場合、「医学的進歩」が無かった時期では、“「妊娠期」”が何時であったかが問題と成り、且つ、未だ「比丘尼制度」が充分に整っていなかった時代では「比丘尼」として「天皇家」から外れる仕来りは無かったしその概念も無かった。

(注釈 後に「比丘尼制度」でこの「仕来り」を上記の「財産的純血性の保持の「仕来り」は廃止した。
矢張り、「血縁弊害」が大きく響いたと考えられる。)

従って、当時としては官僚が行う事務的処理は「不詳の記載」は「当然の事」であって、「子」であったり「孫」であったり「兄弟」であったり、時には「親」と成り得る事もあった。

後勘としては、この古き時代の「記録の不足する事」を勘案すると、「記録一致」を証明する「複数記録」が無い限り、どの説を採るかに依って変わり「多説」が起こる所以でもある。

(注釈 その意味で”「比丘尼の概念」”を獲得する事は重要と成る。
そもそも、「比丘尼の概念」は「仏教伝来」によるもので、「公的」に扱われたその時期は「欽明天皇期頃」である。
唯、「日本書紀・720年」には“「天皇信仏法尊神道」”と記載がある。
“天皇は「仏法」を信じ「神道」を尊ぶ”と記載されている。
この頃には徐々に浸透している事が判る。
つまり、これは「敏達天皇」の前に成るが私的には「仏教」は「職能集団の渡来人」の「密教」として伝来している。
この経緯からすると、「尼僧の概念」が確立したのは「仏教概念」が確立した「平安期795年」に入ってからであるので、「仏教の戒律」から「妻のロの様な慣習」は直ぐに見直された。
然し、未だこの奈良期では「普通の事」であった。
ところが「尼僧」が「比丘尼の概念」に到達するのは「後の事」である。
直ぐに概念化したのでは無かったのであり「尼僧=比丘尼僧」では無かったのである。
この返還の「経過過程」では、「比丘尼」は「巫女」と同様に「神社の役務」を務めていたのである。)

「敏達天皇の孫」の「芽淳王(後勘の渡来人の阿多倍王はこの別娘を妾に迎える)」から観ると、「舒明天皇」と「異母弟」である。
この「芽淳王の女(吉備姫王)」が「舒明天皇(斉明天皇)の后」と成り、「天智天皇」が産まれるのである。
つまり「異母弟」の娘が「異母兄の后」と成って、「天智天皇」が産まれた事に成る。
「異母」とは云いながらも「姪」を嫁にした禁じ手の「二親等血縁」である。
これには当時の「皇族内の血縁の概念」があった事に成る。
それは“「女の財産」”と“「異母」”である。
父から譲りうけた「女の財産」は継嗣の「女の財産」であると云う「基本概念」である。
これを前提に「血縁弊害を無くす事」が出来る「親等」では無く、無くす事の出来ない“「異母」であれば問題は無い”と云う「基準概念」である。
もっと云えば、「血縁弊害」より「純血優先」であった事に成る。
「純血優先」にしても「優先」とはそもそも「血縁弊害の理屈」が判っていて「優先」と云う考え方に成るので、「血縁に依る弊害」は判っていなかった事に論理的に成ろう。

現在から観れば、この「基本概念」は“異常ではないか”と考えられるが、未だその様な概念は殆ど無かったのであろう。
それより、“「純血で系統を維持させる」”のが「正統であった事」と、「血縁弊害の出る原因」が判らない以上は「人間の生殖行為」では「血縁弊害が出る事」は「当然の出来事」と考えられていた様である。

そもそも、その「基本概念」を変えさせたのが「仏教の概念」が「天皇家(720年前後)」に浸透した事であろう。

前段でも論じたが、「仏教伝来」は「公伝(538年頃)」を境に「公伝前(513年頃)/3説」と「公伝後(571年頃/3説)」に分けられる。

概念の経緯は「蕃神・神道」から「仏神・仏道」へと「概念」が変わって行くのである。

「800年頃(平安期初期・天台宗・浄土宗・真言宗)」に「3つの仏道」が出来て「蕃神・神道の力」=「仏神・仏道の力」へと移動して行き浸透する。
この「800年頃」を境に人々は「仏神・仏道」を概念の中に取り入れて云って、例えば「血縁の概念」も大きく変わって行ったのである。

その大きなきっかけが、上記の”「比丘尼」”である。
つまり、「血縁の元と成る女性」の「概念の変化」であった。

これは前段でも論じたが、行き成り「比丘尼の概念」に移った訳では無い。
「蕃神・神道(巫女)」から「仏神・仏道(尼僧)」の経過期間に沿っているのである。
「約290年程度の経過期間」があった事に成る。

「800年頃」に“「比丘尼」”で「約290年程度の経過を経ながら次第に上記の「女の財産」は「倫理悪」として、「血縁弊害」も「道義悪」としの概念へ変化して行ったのである。
この「比丘尼の概念」が「蕃神・神道(巫女)」から「仏神・仏道(尼僧)」の「両方の経過」の中にあったからこそ「概念の変化」が起こったのである。
そして、「比丘尼が女」であったからである。
そもそも、「概念の変化」と云うが長年に渡る染み着いた「人間の思考基準」であるからこそ簡単には変わるものでは無い。
それが、この“「二つの条件」”が伴い何と「約290年程度」で変わったのである。
現在でも「日本文化の概念」が未だ延々と続いている事を思えば短期間である。

さて、この「800年頃」を考えて頂きたい。
「青木氏の光仁期」の後の「桓武期」である。
この期を境に「青木氏」も同時に大きく変化した事を前段でも論じた。
取り分け、「四家。四掟。女系の妻嫁制度」等の多くの制度を敷いて「氏族の尊厳」を守りながらも「皇族」と完全決別した。

つまり、「皇族」も「概念の変化」をさせた時期、つまり、「仏教の概念」、「純血性の血縁の概念」とそれに対する「比丘尼の概念」に変換した時期でもあるのだ。
「出自元」が同じでありながらも、「青木氏の決別概念」と「皇族の概念変化」があったからこそ、その差が広まつたし、決別出来た事が「青木氏の氏是」にも成った筆者は分析している。
故に、「800年頃」に「賜姓五役」や「令外官の役目」からも決別して行く過程を観えたからこそ「影の役目」は成し得たと考えられる。
近づいていればそれこそ「墓穴」である。
「決別」を「氏族の目標(氏是)」であるのなら幾ら何でも本来は何もしない筈であろうし、余計なそんな事はしなかったと観られる。
それだけに「青木氏の氏是」であったのかも知れない。


次の問題に移る。
先ず、それらを判断するに必要とする知識として前段でも何度も論じている事ではあるが、下記の「注釈」で改めて記する。

(注釈 「春日皇子(王)」は、「異母弟の舒明天皇の皇子」であるとすると、「芽淳王」とは「異母弟」に成る。
つまり、「従兄」であって、「芽淳王」の「女の吉備姫王」と「春日王の父の舒明天皇」が婚姻する事で「春日皇子」は「芽淳王の義嗣」と成り得た。
「春日皇子(宮処王)」の実母「妻のロ」が「芽淳王」に絡んだかは確定は出来ないが、あり得るとした説も観られる。
そうすると、ここで「義詞子説」と「義兄弟説」が生まれる。
ところが「芽淳王の子説」は、「義嗣」では無く、「妻のロ」が絡んでいたとして「子」と明記している。
然し、これは”「妊娠期」”を証明できない限り確定は無理である。)

(注釈 この一方で、「芽淳王の別の女(四世族内の王女)」と「阿多倍王」とが婚姻し上記の妃(妾の説もある)の正式な三子を産む。
これが半国割譲で「伊賀」に住み着いた「阿多倍王」の「嬪妾」が”子供を産す”の記載に結び付く。
人数不詳で、 坂上氏、大蔵氏、内蔵氏の賜姓三氏外に 伊賀に平国香を生むの。記載に成る。
この「子供の子(孫・貞盛かその子の維衡か不明)」が「高野新笠」であり、「白壁王(光仁天皇)の妃」と成り、その子「山部王」が「桓武天皇」と成る。
この「桓武天皇の孫説」の「平高望―国香―貞盛・維衡」と成るが、「高望王(平高望?高尊王)」から時代考証が入り乱れている。)

(注釈 「国香の父」の「高望の名」は「阿多倍王」に与えられた「追尊名」を名乗ったとする説もある。)
「伊賀」に居た「阿多倍王」は、別名では「高尊王、平望王、高望王」の三名を持つ。
後漢名の「阿多倍王」は、伊賀で100歳近い長寿であったし、「桓武天皇」は「曾祖父」に当たる「阿多倍王」に、記録では「伊賀」に行幸して追尊して「日本の王位」として「平望王」等の王位を与え、「平姓・たいら」を賜姓したとある。
正式には「追尊」である事から「平姓・たいら」は「宇多天皇の賜姓」とされる説が生まれる。
「長寿・95歳以上」であった事、
「妃嬪妾」の「上記の入り組んだ慣習」である事
「孫や曾孫」と云っても現在の「累代性の概念」の中には無い事
当時の平均寿命が55歳の事を勘案すると、追尊時にはぎりぎりで生存していた事
以上が通説と成ろう。
筆者は前段からもこの説を採って論じている。)

(注釈 始祖と成る「春日王」には同名の王が「二世族の王」と「四世族の王」と二人いるので注意、
他に「施基皇子の春日王皇子」があるが、これは上記の「2の春日皇子」の「四世族の青木氏」である事から名づけられた。)

(注釈 「芽淳王のルーツ」の「伊賀の平姓・たいら」と「春日皇子・王」の「四世族の青木氏」の関係から観ると、「芽淳王」と「高野新笠」と「桓武天皇」の「三つの要素」で由縁があった事に成る。
故に、この由縁を以て「以仁王の乱」の「青木京綱」から「伊賀」に求めた「宗綱らの助命嘆願」は聞き入れられたと考えている。)

(注釈 この「桓武平氏・たいら」の「清盛」は、「伊賀」から播磨に一族全て移動するが、「遺された者」等が「伊賀原士」と成って「伊賀郷士衆」を形成した。
そして、遂には「伊勢郷士衆」に組み入れられた。
そのご血縁して「伊賀青木氏」(甲賀青木氏含む・家人)まで輩出した。)

上記の「注釈」から考証すると次の疑問が出る。
それでは、“彼らは一体誰達だったのか”と云う疑問が湧く。

その「桓武平氏」が去った後の伊賀に「遺された者等の系譜」は何なのかである。

この「重要な点」の解く鍵は、「高野新笠・桓武天皇の実母」の里から“「伊賀青木氏」”が発祥しているという事である。

仮に、「桓武平氏」との「伊勢青木氏との血縁族・伊賀青木氏」は、当然に「桓武天皇の母」の伊賀の「高野新笠」の「由縁」を以て間違いなく起こるであろう。
然し、「伊勢青木氏」が「女系の妻嫁制度」を執る以上は、「男系の青木氏」で無い限りはこの「伊賀青木氏」も「平氏」として播磨に移る筈である。

では、「移らない者」としての説はあり得るのかである。
検証して観る。それの答えは、“ある”と成る。

日本書紀に依れば「九州全土」を無戦で平定後に「薩摩大隅」にいた「阿多倍王」に対して、「朝廷の軍船団」が「薩摩での数度の戦い」で敗戦した。
そこで「朝廷仲裁」が成り立ち、阿多倍王は「呼び出し」に応じたとある。
そもそも、「薩摩大隅」から「伊賀」に移り、都に遙任して、「芽淳王の女」を娶り「坂上氏、大蔵氏、内蔵氏」の「3氏」を発祥させた。
その後に「伊賀の里」に戻り移るが、「妃嬪妾」を娶り、平氏以外に「子孫」を設けている。
この「平氏・たいらの母」と成った「妃」以外に、そこで考証としては「複数の伊賀の嬪妾」は、「伊勢青木氏の女」や「伊勢郷士の女」であった筈である。
これが前段でも論じた様に「青木氏の家人制度」に依って発祥した「伊賀青木氏」であると成る。

そうすると、前段で論じた「女系の妻嫁制度」で観れば、「伊勢青木氏」からは「伊賀の阿多倍」の別和名「高尊王、平望王、高望王」は位階の「王位」を授かった。
そうすると「白壁王−桓武系」に相当するので、「四掟」に適合する事と成る。
従って、「嬪妾」は「妃族」の「平氏・清盛系」とは根本的に「伊賀青木氏」は「族系」が異なる事に成る。
故に、「播磨」に行かずにその子孫は「伊賀」に残留する事に成り得たと観られる。

(注釈 これが「伊勢青木氏」と血縁に依る連携をして「伊賀郷士の青木氏(伊賀原士)」として播磨以後に発祥する事に成ったのである。
つまり、「四家外」の「伊賀の青木氏(甲賀青木氏もある)」という事に成る。
前段でも論じた様に、「伊勢青木氏」より「伊賀郷士」に「女(むすめ)」が嫁ぎ、そこで「優秀な外孫嗣子」に「青木氏」を別に興させ、「家人」として受け入れる制度を使った。
そして「伊賀」を「氏族」として組み入れられたものである筈。)

(注釈A 上記した「春日皇子(560年頃)の族系」が、始めて「天武期の八色の姓制(684年)」で、年数からすると「120年後」に“「春日真人族」”を形成する事に成るのだ。
然し、ところがその間に「春日真人族」を形成したとする当時の記録は何処にも無い。
実質は、記録から「160年後」に「施基皇子(天智天皇の皇子)」に依ってこの「春日真人族」が発祥させた事と成る。
「天智天皇」はこのぎりぎりの「敏達天皇系」の「第四世族の春日真人族・2」であった事に成る。
恐らくは、既に、「四世族」から外れた「臣下族の朝臣族・賜姓青木氏」と成り得ていたにも関わらず、実質的には直前で絶えている。
この「春日真人族・2」を「元皇子」であった「施基皇子族」と云う形で形式上で興させたという事で成り得る。
筆者はこれは「孝謙天皇の策(白羽の矢)」であったと観ている。)

(注釈B、その後、この策で「孝謙天皇の白羽の矢」でこの「発祥の理屈」を造り上げて「光仁天皇(二代目の春日真人族の白壁王・朝臣族に)」が誕生したと成ったと観られる。
何故ならば「発祥の理屈」は、「大化の改新」の「定め」から外れる為に、これを無視する訳に行かず、既に「臣下族の朝臣族」と成り得ていた事に対する「定め」の「苦しい引き上げ策」を打ち出して於いてその上で「白羽の矢」と成ったと成るだろう。
更に「54年後(214年後)」に“「追尊」”で、この形式上(孝謙天皇の策)の「春日真人族」から新たに独自の追尊の“「志紀真人族」”を造り出して「正当化した事」に成ったと云う経緯と成ろう。
故に、追尊の「志紀真人族」と成った「青木氏の氏族」に「所属する者」等は、「八色の姓」に依って「真人族」以外の「姓」、つまり、別に「諡号の姓族」を発祥させてはならないと云う「皇族の掟」に組み込まれて仕舞ったのである。)

(注釈C 更に、この「二つの追尊(「春日宮天皇」と「志紀真人族」)」に依っての「天皇家の系に載った志紀真人族」に成って仕舞ったのである。
この事に依り、その「子孫」は本来はあり得ない「賜姓族」として授かっていた「青木氏(天智天皇)」だけが名乗れる所以と成って仕舞ったのである。
従って、同時に、これまで一時期まで「五地域」に散っていた「名の持たない皇族朝臣族(a−1 48氏)」であった者や、一時は「源氏(賜姓族ではない源氏)」に成った者等も「源氏」を外しても一斉に集結して「五家五流」に雪崩込み「青木氏」を「諡号」として公然として名乗って広まった経緯である。
「嵯峨期以降」の「源氏」には「賜姓の有無」の「源氏」がある事に注意。 
「11家/26家」と成っていて殆どは無賜姓である。この内15人が「五家五流」に流れ込んだとする経緯である。

(注釈D 記録に依れば「嵯峨期前」(施基皇子期)では「約240人と云われる皇子皇女」が当然の事として「五家五流」に流れ込んだとある。
「皇子族」は「近江美濃甲斐」(源氏化・姓化の原因)に、「皇女族」は「伊勢と信濃」(女系制が原因)に流れ込んだのである。
その後もこの傾向が続いた。)

以上の注釈に付いて「氏族の制度」以外に、「伊勢信濃」には前段でも論じたが次の理由があった。

市場放出権での経済力
都に近い地理的な優位性
「不入不倫の権」で護られての安全性
「祖先神の神明社」の救済策
「伊勢神宮」の膝下
「斎王や祭司」などに成った後の「館の救済策」(元々の役目)

以上の理由で流れ込んだ。但し、取り分け、「皇女」が一番多かったと考えられる。
この事は「青木氏の資料」と「近江佐々木氏の研究記録」から判る。

但し、「伊勢」では「四家」に入れずに僅かに入った「皇子等」は「500程度」の「神明社の宮司・家人」に成った事も書かれている。
この読み取り記録から完全に「皇女族」だけでは無かった様である。
唯、「扱い方」が違った事があるのだ。
つまり、「伊勢と信濃」は「源氏化するような扱い方」では無かった様である。
これが「第二の象徴紋」の「神木の神紋」の”「柏紋の使用」”を許されている所以なのである。
この「扱い方の所以」は「青木氏の守護神」の「神明社の神職」は「柏紋の青木氏」であった事に依るだろう。
要するに「賜姓五役の役目」がその全ての立場にあった事が理由であろう。

「皇子の逃避先」は「日本書紀」や「他の歴史書の三古書」から観て「美濃」が多かったと観ている。
「信濃」は伊勢と同制度にあった事から「皇子」は多くは無理で有ったと観ている。
最近、記録から判った事であるが、「信濃」は「不入不倫の権」に近い侵してはならない「広大な神明社の聖域」を持っていた事が判っている。
西は「現在の青木村域」から東は「佐久域」までの「東西距離25k 幅は45k」の面積の「聖域」のものであった事が判っている。
これは平安期は「五大天領地」の一つであった事に依ると考えられる。
そこの「聖域地」として、つまり、これを「神明社域の聖域」として「信濃青木氏」が護っていた事に依るものであろう。
「江戸期の享保期」まであった事が判っている。
(後段で論じる)

(注釈E 「近江」はそもそもその力が無かったし、「甲斐」は独自性が強く山間部と云う事もあって「皇女」は少なくとも嫌った事が判っている。
然し、「皇子」は「醜い政争」から逃げると云う意味では都合は良かった筈である。
何にしても男女の「救済策」は伊勢が整っていた。)

(注釈FE 前段でも何度も論じているが、復習として、尚、念の為に歴史の知識として知る必要のある事は、何らかの資料に「志紀真人族」から「姓発祥」があるとするは、それは、室町期末期か江戸初期の「系譜への継ぎ合わせ」での搾取偏纂に他ならないのである。
この時代に横行した「プロの搾取偏纂者(神職や住職の復職として)」に依る仕業である。)

(注釈G 復習として、そもそも、“「姓」”とは、“「身分の区分秩序を分離する単位」”の事。
その「複数化した単位」を更に“「諡号(縛りの条件付帯)」”を使って判り易くした。
この「諡号」が「区別の名」と成り得て“「固有名」“として使われたのが、要するに”「姓名」“である。
その”「固有名」“を持つ族を”「姓族・(第一の姓)」“と称する事と成った。
従って、「真人族48氏以外」の「朝臣族等の七色(色で身分階級を区別)」は、「固有名の諡号」を持つ事を公然と許されて“「第一姓族」”が正式に誕生した。)

これらの「注釈」を前提として、そして、“「身分の区分秩序」”の「第一の諡号」の「真人族」を構成した中で「朝廷」が示す一定の「特定条件」を叶えた者を「真人族」と認定した。
「朝廷の認定」を受けたこれを「諡号」して“「氏族」”と定めたのである。
これが“「我々の青木氏族」”なのである。
其れの「特定条件・縛」が前段までに論じているものである。
簡単に云えば、「真人族系」の「青木氏の氏族」である事から「氏名」以外にはその他の「諡号の姓(身分の区分秩序)」を持たない論理と成るのだ。
もつと云えば、この理屈からすれば「朝臣族系」の「特定条件」と「認可」を叶えた「氏族」は「諡号の姓(身分の区分秩序)」を持っても良い事に成る。

その典型が、例えば“「藤原氏の四家」”であり、遺った北家主流は「25流137家」と、「青木氏族」と関わった「秀郷流 8流361家」に成るのだ。
この様に「藤原氏の氏族名」と、その「氏族」の内の「判別用の姓名」を特別に持つ事が出来るのだ。

つまり、唯、ここには「真人族系の青木氏の氏族」と「朝臣族系の藤原氏の氏族」には全く違う点が一つある。
「真人族系の青木氏の氏族」は「氏人との構成族である事」である。
つまり、「郷士族との構成族」である事である。要するに「絆族」である。
「郷士族との構成」は、“その数を限定し増やさない”で「女系で血縁構成する族」であり、「血縁性」は「数度の血縁」で繰り返す族でありながら、氏人は「独自の姓名」を持つ構成族である。
この限定される中での血縁である為に「血縁性は高まる形態」と成る。
況や、「主家(福家と四家)」と「氏の人(家人・氏人)」との関係である。
つまり、当に、「氏の中の人」である。所謂、「共存・共生・共栄」の族である。

「朝臣族系の藤原氏の氏族」は「血縁性の薄れる一族」を最大限に増やし、更にその「主流族」に更に「薄い血縁性で繋がる支流族」の「姓族」との「二つの構成族」の「枝葉形態」で構成する。
この「支流族」は「独自の姓名」を持つ「構成族」ではあるが、「男系の主流族」には拘束されない。
この「支流族(男系・女系を問わず)」は、従って、「拘束性の低い事」から「他の族との血縁族」とも成り得る。
要するに「傘下族」と云える。
この「笠の人」は「他人の笠に入る事」もあると云う事に成る。
この「笠の人」が「氏族の氏人」と云う事に成る。

「真人族系」と「朝臣族系」とには「氏の人」となる「独自の姓名」には意味が違う事に成る。
「家人の姓名」と「族人の姓名」には「氏族の構成力」が異なるのである。

この「二つの種類」の“「特定条件」”の「氏人−氏上が物語る特定の血縁」で結ばれて固められた族を”「氏族」”と云う。
この「真人族系」と「朝臣族系」の「関係の氏の人」が、「(a)、(a−1)、(a−2)」の「何れの郷士」もこの中に入る。
これが「氏族」として朝廷より「特別条件」として認められた「重要な要素」なのである。

要するに、「時代の経緯」に依って、「真人族の衰退族」や「皇族系に分別される官僚族(位階族)」の「郷士」と成った「氏人族」である。
況や、(a)、(a−1)の多くは「真人族系」に入った。
そして、(a−2)以下の地方に多く分散していた「官僚族」は「官僚族」であった「朝臣族系」に入った。
物理的に立場的にも“入った”と云うよりは入り易かったのである。

この地方に分散していない「氏族、氏人と成り得る族」の殆どは、先ずはその系の基が「真人族(48氏)であった事」を前提とした。
そして、この「特定条件」を構築した「真人族系の氏族」にのみが氏族に入り得たのである。
唯、この事から、「真人族(48氏)(a)」の全てが成り得たという事には成らない。
「真人族」となった「皇子の者」等でさえも、「力」が無ければ、「諡号」、つまり、“「一人立ち」”が出来ない限りは、「権威と象徴」だけでは「氏族」は成し得ない。
当然に、「朝臣族」以下の「皇別系」の「諡号の姓」の保持も尚更に無理であり、且つ、「賜姓」を授からなければ尚難しい。
故に、この「特定条件」を構築した「真人族系の氏族・氏の人」に入るしか無かったのである。

上記の「青木氏の諡号」を、「真人族系」と「朝臣族系」の「二つの青木氏」の各地に散っていた彼らは、「注釈A〜Gの経緯」により公然とその根拠付けられた。
この事で、「青木氏を名乗る事」が出来たと云う事に成る。

「日本書紀」によれば、天智期以降から桓武期までには、多くが「青木氏外の賜姓」を受けているが、現実に平安期末期までに生き延びて「諡号」を獲得した「姓」は、「新撰姓氏禄」から観れば、1/20にも満たないし皆無に近いのである。
「室町期」では、最早、皆無であり、全てを捨てて奈良や京の都付近域の土地(土豪)に根付いたか、絶えたかである。

況して、「平安期末期」では、「新撰姓氏禄」に記載されている「真人族」が、「族」として「諡号の姓」を守った「族系」は、「春日真人族系の五家五流の青木氏族」を除いて、次の通りである。

「天智皇子族系」の「近江佐々木氏系族の2族」
「天武皇子族系の7族」
「春日族系の2族」

以上と成っている。

合わせて、「11族」で、「青木氏族」を加えると「16族」と成っている。

(注釈 「春日真人族系四世族の五家五流の青木氏族」は、「近江佐々木氏」と同じく本流では「天智皇子族系」と云える。
然し、上記に論じた様に、「初期の段階」で「賜姓五役の役目」を与えられた。
多くの「真人の皇子」を「族内」に抱え込んで「五家五流の青木氏族」が形成されているので、 「大括り」の「春日真人族」としている。)

さて、詳細にはこれから観ると、「新撰姓氏禄」の「真人族48氏」は、実際は“「16氏/48氏」”=1/3 と云う事に成る。

つまり、残りの”「32氏」”は、「五家五流の青木氏族」に入ったか、衰退し土地に根付いて「郷士」に成ったか絶えたかに依る。

そこで、「春日真人族系の五家五流の青木氏族」に入った「真人皇子の数」は、確定は出来ないが、論理的には次の様に成る。

「伊勢青木氏に入った数」の内、「四家」そのものに入った数は、「5〜7人程度」と読み取れる。
後は前段でも論じたが、「伊勢郷士」として関わった数が「11氏」であろう。
合わせて、最大でも「伊勢」では、前段でも論じたが、その「賜姓五役の役目柄」で基本的な数としては「18氏」と成る。

そうすると、「伊勢外の四家四流」には、1家で3〜4人程度として、゜12〜16氏/32氏」と成る。
「平安末期」では、「近江と美濃」と、「甲斐」が滅亡したので、「信濃の3〜4氏」だけと成る。


「真人族」は、「公表の記録」には全国に散ったと成っているが、彼らの「皇子」の生い立ちから全国に散る事は先ずない。
そもそも、そんな力は無かった筈である。
論理的に欠ける。
精々、奈良や京を中心にして近畿か中部域である。
現実に「新撰姓氏禄」も「近畿か中部域」として限定しているのはこの事から来ている筈で歴史的に証明される。

「坂東に移動したとする説」は間違いである。
当時、「坂東」は「流人や罪人の配流地」であった事から、自ら進んでそんな地には行かない。
間違いなく「新撰姓氏禄」から外れた「地方の土豪」の「家の格式」を高める為の「後付けの搾取偏纂」である。

(注釈 同じ「真人族の位階等」を持つ特定の「氏族」で、態々、「逃避の受け口」が、あればそこに入るが世の常である。
「青木氏」から観れば、「坂東に散ったとする説」は、殆どは、この「真人名の系譜」を使った「搾取偏纂の説」にする為に過ぎないと観ている。
そもそも、「多治彦王説」と「島王説」があるのだが、これを名乗っている「関東の豪族・武蔵七党系等」がある。
ところが、これには矛盾がある。
それは、「・・彦」とは「彦・ひこ」は「神道の諡仕来り」で10歳程度の「少年期」の命名に使われる。
未だ「彦の少年」が子供を造れる能力の無い者に使われる。
従って、3〜5年では子孫を現地には遺せないのである。
然し、「軽罪」を得て3年後に未だ少年だとして都に返されるのだ。
この「多治彦王」は正式な記録では3年後に罪を許されて都に戻っているのだ。
例え、「子供」であっても「現地孫」と成り「子孫」とは公的記録ではカウントされない仕来りでもある。
これを「嵯峨期の詔勅」に従って30年後に子孫だとして系を造り上げているのだ。
矛盾が多い。)

これが、室町期初期には、「賜姓臣下朝臣族」と成った「真人族」では、「伊勢と信濃青木氏」を除いた族は最早無い事に成る。
「皇子皇女の朝臣族」の「逃げ込み先」として存在していた「近江佐々木氏」は、「近江青木氏」と共に「平家」に敗退し少ない傍系を遺して滅亡に近く衰退した。

(注釈 「近江佐々木氏の研究記録」には「青木氏の逃げ込み策」の「人数やその形態」まで論じていながら「自らの族」にこの「皇子皇女の逃げ込み策」の記録の記載は無い。
これには明確な原因があって後に論じる事になるが、「近江の環境に依る財力」の低さにあった。
「伊勢青木氏」と「額田部氏」の連携で派遣して干拓灌漑工事で彼等を救済した。後に論じる。)

ここで、更に付け加えて論じたいのは、この「新撰姓氏禄」に記載された「48の真人族」である。
これを今は「正しい」の前提として論じてはいるが、実はこの「48の真人族」の中に、「飛鳥王朝初期の天皇の真人族」だとする族数が何と「9族」も記載されている。
況して、「真人の姓の諡号」は、そもそも、「684年制定」で、この「神代時代」のこの主張する「真人族」は、「450年頃の事」で、「235年後に真人族だと名乗った事」である。
つまり、「235年後」に“どの様な根拠でその「天皇系譜の真人族」だ“と云っているのかは甚だ疑問である。
そんな「日本書紀」よりも相当古い「神代の時代の系譜」を示す資料があったら示すべきだ。
これは、「新撰姓氏禄」が「紛失した時期」を利用しての「自らの出自」をよく見せる為の「大胆な系譜搾取偏纂」の「始末の所以」であろう。
従って、「嵯峨天皇期」に編集されていた「真人族数」は少なくとも「41氏以下」と成ろう。

そして、更には上記した様に、この「41氏」の中には「室町期の第二の姓」が「真人族」だとして侵入している事は確実である。
「810の第一の姓族」には入らないその数は調べても少なく観ても「4姓」、多くて「11姓」が散見できる。
厳密にはもっと多いと観られ「後付け」である事は明白である。
この差し引き「30〜37氏の真人族」は、「歴史的な考察」から充分に論理的には理解はできるが、まだ完全に納得は出来ない。

筆者は、もっと少ないと観ていて、「近江佐々木氏の研究録」による数は、男子では「17皇子(20以下 皇女で15)」と記載されていて筆者も同じ意見である。
何故ならば、大化期から嵯峨期までに朝廷が「41氏の真人族(家族を入れると200〜250人)」を養えるのであれば、「嵯峨天皇の詔勅禁令(類聚三代格にも記載)」を出す事は無かった筈である。
大化改新期でも「六世族」を「四世族内」に狭めて「皇子範囲と数」や「王族範囲と数」を態々、限定したりしなかった筈である。

(注釈 これを記載している「類聚三代格」は、そもそも、「律令の書」である。疑問である。
その「律令の書」の中に「皇子の範囲と数と経費の事」の「詔勅」を記載するはそもそも「範囲外の事」である。
何か変である。
これは「世間の評価」に対する「時代性の変化」を敏感に反映して恣意的に手を加えられたとも考えられる。
それだけに、「皇子の範囲と数と経費の事」を減らしたいとする「天皇家の当時の意思」が大きかった事を示している。
「嵯峨天皇」が「詔勅」で現実に書いてもいる「48」を、「41や31」にしたところで「内蔵の財政」にはそもそも何の意味も持たない。
少なくとも半分以下にしなければ、その「天皇家の当時の意思」は解決したとは成らないであろう。
現に、「春日真人族」から「志紀真人族」に替わった「青木氏」さえもが、「嵯峨期の詔勅」で「皇親族」と「真人の賜姓元族」が廃止されて外れているではないか。
何をか況やである。
そもそも「嵯峨天皇の出自元」であるのにも関わらず外したのである。
それだけの財政改革をしたのである。
だとしたら、「真人族 48(a−1)」の数字は多すぎる。
当然に、「朝臣族 101(a−2)」の数字も極端に多すぎる。)

(注釈 公表の“「皇子皇女(皇子17皇女15)」を「朝臣族」や「源氏族」にした”ところで「政務」に付ければ「大蔵内蔵の財政の負担」は変わらないではないか。
故に、「天皇家」が出来る唯一の「変える方法」はそれは次の一つである。
「出自元」を含めて「天領地」を守護領としている「五家五流(自活)」に入れる事であった筈だ。
つまり、上記で論じた「青木氏に吸収される機能」に入れる以外に無かつた筈である。
又、その為の「五家五流青木氏」に「嵯峨天皇」は、「政争の変」を起こしてまでも「桓武天皇との妥協案」の模索の上でそもそもしたのではないのか。
何度も云うが「近江佐々木氏の研究記録」は、故にその考証から“「皇子皇女(皇子17皇女15)」は「五家五流」に入った”としているのである。
但し、筆者は「伊勢」では「少数皇子説」は「家人」と成ったと観ている。
そもそも、「伊勢」では「四家制度や妻嫁制度等」を敷いていた事は、充分に「出自元」であるので知っていた筈である。
「出自元」でありながらも入り難い事に成ろう。
故に、「出自元」を根本して入った者は、“「家人覚悟」”で来ている筈であるし、「伊勢」も敢えて「家人制度」を敷いたと観ている。)

注釈からすると、殆どの皇子は「美濃と甲斐」に入って滅亡したと考えている。

そこで「出自元」ではない「美濃や甲斐」に入った理由は、次の事にある。

「嵯峨系」+「淳和系」+「仁明系」までは「出自元」ではある事は認める。
然し、「縛り」を護らずに「源氏族化」して行った為に、「伊勢と信濃」には入り辛く、結局は「美濃と甲斐」に救いを求めた事に成ろう。
その結果として、「美濃と甲斐の青木氏」は、「美濃源氏」と「甲斐源氏」と呼ばれた所以でもあるのだ。
故に、「以仁王の乱」から「源氏族化した美濃と甲斐」は「清和源氏主体の戦い」に参加した所以でもあるのだ。
これが理由と成る。
そもそも決して我々「青木氏族」は「源氏族」ではないのだ。

本来、「嵯峨系」+「淳和系」+「仁明系」 +「文徳系」+「光孝系」の「前の皇子族の集団」の「青木氏族」である。
「源氏族と称する集団」は嵯峨期からである事は云うまでない。

(注釈 下記に改めて検証するが、この「真人族の皇子皇女82」と「新撰姓氏禄の真人族48」との差の主因が、「美濃源氏」と「甲斐源氏」と呼ばれるはここにあると考えられる。
逆に云えば、「出自元」であって「前の皇子族」であっても、論理的にはそもそも「伊勢源氏と信濃源氏」はあり得ないのである。
将又、「光仁天皇」と「追尊の春日宮天皇」の「主家」と成っていたのであるからだ。
この「青木氏族」から観れば、論理的に「源氏族」は「分家族(分家の持つ意味が重要)」である。)

(注釈 仮に、上記の「注釈の論理」を無視して「源氏」と呼ぶとすれば、それは前段でも論じた様に「縛りの無い状態」の「格式、権威、象徴」の無い「賜姓源氏=天皇家の論理」が生まれ事に成る。
結果として「権威失墜」し“「天皇家」は「天皇家」だけで無くてはならない原理”は崩れる事に成る。
従って飽く迄も、どんな事があっても「伊勢と信濃」だけは「青木氏族」では無くてはならなかったのであった。
この“一線を如何なる理由があろうと超えてはならなかった”のである。
「賜姓五役の範囲」を超えてはならなかったのである。
故に、彼らを入れて「皇子族化」は執らなかったのである。
「嵯峨期前の事」であっても「皇子族化」をすればそれは「源氏族化への経緯」を辿ったであろう。
故にね「四家制度」や「妻嫁制度」や「嫁家制度」や「四掟制度」や「氏族の範囲」を護って一線を敷いたのであった。
そして、その上で頑なに「古式の伝統」を護ったのである。
この「根幹」が、「青木氏の氏是」とそれを補足する「家訓10訓」(行動指針)であった。
要するに「女系の妻嫁制度を執る事」に依って「天皇家からの白羽の矢」を受ける事は無く成った。
然し、「近江や美濃や甲斐」の様に「自らが崩れる事」はあり得たし、それは「概念の持様」から崩れたであろう。
それは簡単な事である。要するに「縛り」を護っている以上は「男系に戻す事」では充分にあり得た。
然し、この“一線の概念を如何なる理由があろうと超えてはならない”を護ったのであった。)

(注釈 それを物語る様に、そして以後、皇子等は「臣下の賜姓元族」の上記の経緯を持つ由縁の「青木氏」に移るのでは無くて、彼らは「源氏の姓」(朝臣族)の「諡号」に変更されて行ったのである。
そして11流も発祥している。
これは見方に依れば明らかに「伊勢と信濃の青木氏族のブロック」ではないか。
故に、二度と戻る事の無い様に朝廷もその「源氏の諡号」に「氏」が成り立たない程の”「縛り」””を掛けているではないか。
この「世間の批判」の高かった「厳しい縛り」は、「皇族」、つまり、「真人族末裔の乱立」により「権威の低下」を防ぐと共に、「権威の確立」を高める為に「源氏族の戻りの防止」を防いだ策の一つと考えられるのである。
もっと云えば、「孝謙天皇の白羽の矢の再現」を防いだのである。
「自らの縛り」を造り「青木氏族」の「伊勢と信濃」はこれを護り通したと云う事である。)


「青木氏の伝統 51」−「青木氏の歴史観−24」に続く。



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