青木氏氏 研究室
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  [No.378] Re:「青木氏の伝統 56−1」−「青木氏の歴史観−29−1」
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/01/23(Thu) 08:55:20

「青木氏の伝統 55」−「青木氏の歴史観−28」の末尾

> これ等の好機に付いては次の「裏の段取り」が在ったと考えられる。
> 「地元と松平氏への裏の交渉・情報の取得など」が在った事に依るだろう。
> 「地元の土豪郷士・4土豪」に執っても安全は保たれる事にも成る。
> これは「地元の郷士と松平氏と額田青木氏」の「三方両得の策」であっただろう。
> 「松平氏」に執っては「豊橋の東三河の不安定地域」を安定化させる一つの拠点と成った。
>
> (注釈 「伊勢青木氏」から「軍資金等の協力金名目・冥加金」での「三河」に対してそれなりの処置は在ったと考えられる。
> 何故か「名目」を替えての其れらしきものがこの期間内には「商記録」には見つけられない。)
>
> つまり、「水路の戦略(1540年〜1545年)・第1期」と「陸路(1560年〜1568年)・第2期」とは「ある期間・15年・第1期の準備と第2期の南下の重複」を置いて同時並行して続行していた事になるのだ。
> それでも「伊豆−美濃」の関係性から「戦闘的な復興戦略」を実行した。
>
> (注釈 この「戦闘的な復興戦略」を「後段の伝統 56−1」で詳細に論じる。
> 「三河と伊勢」に「青木氏に関わる多くの資料と記録」が遺るので詳細に再現してみる。)
>
> その前に、前段でも実戦状況に就いて詳細に論じたが、別の面から「予備知識」を次の段に論じて置く。

「青木氏の伝統 56−1」−「青木氏の歴史観−29−1」

さて、「戦闘的な復興戦略」を論じる前に、その背景を前段に続き少し論じて置く。
その事で「準備期間の戦略」の実行(第1期・第2期)も含めてこの「戦闘的な復興戦略」が大変なものであったかが判る。

「額田青木氏の存在経緯」に大きく関わるこの「一色の検証」は、「足利氏傍系の者(斯波氏)」が「三河の西域(西尾・上杉氏)」の「地頭守護」と成り、約通算80年の期間、ここに住み、「地名の一色・本貫名」を、“「格式の印象」”を挙げる為に名乗ったと云う結果と成る。

現実には「縛り」を護らなかった「河内源氏系の傍系族」で、且つ、その「傍系支流」が、元は「皇族系であると云う事」だけで如何にも「伊勢の青木氏族との所縁」であるかの様に「見せかけ」を以て“「一色」”を名乗ったと云う事なのである。
それを基準に「上記の検証」と成っている。

ところが、もう一つ「一色の地名・伊勢の本貫名」が、現在の豊田市の「真南の14kの位置」の「岡崎地区」に「一色・額田一色系の青木氏」の地名があるのだ。
これには上記の「西尾一色(権威利用)」と「端浪の一色(本命)」の「二つ以外」にこの様に「もう一つの一色」があるのだ。

これを先に上記の“「二つの一色」”と誤解を招かぬ様に解明して置く事が必要だ。
これから論じる「国衆南下」の後の「青木氏」に大きく関わって来る事なのだ。

さて、この「岡崎の一色(額田一色・青木氏)・本貫」が「戦闘的復興戦略の論」に関わるので更に検証を続けて置く。

そもそも、前段でも論じているこの「額田の一色」は、「伊勢の施基皇子の所縁・追尊春日宮天皇」・「追尊50年後」にこれを由縁に着けられた地名であるのだが、それは「伊勢の二世族・額田裔系」の「浄橋と飽浪」が嫁いだ「美濃青木氏の本庄」に嫁いだ所縁から「伊勢の本貫名」を付けられたものである。

ここ「岡崎の一色」の地名は「額田―蒲郡」の「間」の「丘陵・山沿い」の直線上にあり、真南の湾間地域の「蒲郡」とは直線で「20キロの位置」にある。
「額田」から真南14kで「蒲郡」から真北の位置にある。
要するに、この「一色」は「額田と蒲郡」の真南の線状の丁度、「中間の位置」にある。
これは余りにも恣意的である。
これは何なのかである。
答えから先に云う。

それは前段でも論じた「渥美湾から信濃までの縦の陸路」の跡なのである。
つまり、「中継地とした所」であろう。
「国衆」として「南下を果たして跡」のその「縦の南下陸路・陵道」であり、「信濃」を護る為に「一つの固定ルート」の「中間点」に「人」を置いて、そこを「一色」と名付け造った「山際の陵の拠点」である。
そして、「渥美」からも「豊橋−豊川−豊田」から「R1」で北に上ればこの「山稜線」に交差し、これを辿れば、後は「旧中仙道・R19」を「塩尻」まで上れば「信濃青木村」に達するのである。
現地調査でも現在も可能であった。
このルート上に入れば前段でも論じた様に、「土地開発(伊勢秀郷流青木氏)」と「殖産開発(伊勢裔系の青木氏)」とで入った「開発地域の真中」を通れる事に成る。
ここが「信濃」までの「縦の陸路」として造り上げた「固定ルート」なのである。
その為の「中継点」である。

さて、そこで「西尾の一色」とは、「岡崎の一色」へ斜線で東に30キロの位置にあり、「岡崎の一色・額田一色系」から知多湾に向けて「真西に18キロの位置」にある。
「西尾の一色」と「岡崎の一色」と「額田の一色・端浪一色」は、真西に10キロ、真南に21キロ、斜線で30キロの“「直角三角形の位置」”にある。

この「土岐域」から直線で「真東に45キロ」の「丘陵・山沿いの位置」にある“「岡崎の一色」”は、「圷の問題」は全くない地域である。
上記した「土岐―大垣―揖斐」の「三角洲の野」に“「三野王」”の「本庄」はあったとする「古書の記録」からは、可成り距離的に近い事が云える。
直ぐにでも「岡崎の一色」の「伊勢本貫名の地名」を着けられる位置にあった事が云える。

そうすると、愛知県の「西尾の一色(本巣郡)」と、同じ愛知県の「岡崎の一色(額田郡)」とには、“どんな違いがあるのか”である。
「斯波氏系足利氏の地頭」の「一色」との明らかな違いがあるとしても、他にもこれを知って於く必要がある。

北部の「土岐」から直線で真南に愛知県境まで7キロ、この県境から「岡崎一色」まで33キロ、 合わせて「40キロ(10里)」と成る。
「当時の生活圏」としては「丁度良い位置にある事」に成る。

先ず、地理的に観れば、次の様に成る。
「岡崎の一色(額田郡)」は、39キロから40キロの「丘陵山沿いの域」にあり、「三野の土岐―大垣のライン」から「40キロ」として「10里の真南の位置」に在る。
要するに、ここは「古書記録の三野王の本庄」があったとする位置には「古来の生活圏内」に在った事に成る。

「古来の生活圏」は、「9里(36キロ)から10里半(46キロ)」がその限界であって、この範囲で「宿」を取るのが普通であった。
これに合わして宿場があった。
従って、「三野王の本庄・美濃青木氏」と「額田青木氏・端浪一色」との「ずれ問題」は「許容の範囲」では問題は無かった事に成る。
「本庄の位置」と「端浪一色」は嫁いだ直ぐ後から、“丁度良い位置”に離れて生活をしていた事を暗示している。
この“丁度良い位置”に意味を持っているのだ。

(注釈 古来はこの「10里・40k」が「生活環境」における「考え方の基準」であった。)

つまり、ここの二か所に滅亡する前の「美濃青木氏」が「隣合わせ」に定住していた事に成る。
「伊勢の二世族」の「浄橋と飽浪」の嫁いだ地であるが、この「隣合わせ・距離観」の持つ意味は、「浄橋と飽波の源氏化での抵抗」の「距離観」であり、「源平戦の前」に既に「別行動」を起こしていた事を意味する。

そして、「40k東の離れた位置」のここに「伊勢の本貫名の一色と名付けた事」に成ると前段でも論じたが、この様な説が生まれた所以である。

次に「西尾の一色(本巣郡)」は、「三野の土岐―大垣のライン」から「71キロの位置」にあって、「18里の位置」にあって、ほぼ「二倍の生活圏の位置」にあった。

これは「古来の生活圏」としては、「この距離」は「円滑な意思疎通」は絶対に無理であり、「三野王の本庄・美濃青木氏」の可能性は無い事に成る。
当然に、この「二つの一色」では、「圷の有無の問題」があって、「西尾の一色(本巣郡)」には決定的な「圷のハンディ」があり、「古書記録」の「三野王の本庄の一色」では更にない事にも成る。

従って、鎌倉期の「西尾の一色(本巣郡)」は以後、前段でも論じた様に論外とする。

歴史的に観れば、この「圷の検証」から、ここには、「三野王の時代」から最低でも「150年〜200年後」までは“「本庄」”と云えるものは、この「西尾の一色(本巣郡)の地域」には無かった事が云える。

「三河の事」を書いた遺る「古書」には、「西尾の一色(本巣郡)」の「圷の野」を埋め立てたとする記録が見える事から、鎌倉幕府の正式な「地頭職設置令(1195年〜1232年)」までの間に、「荘園の埋立権」が「地頭のみ」に許されていて、盛んに行われ「地頭荘園の呼称」の「圏域」を当に広げていた事に成る。
つまり、それが「西尾の一色(本巣郡)」と云う事に成る。
そもそも、「西尾の一色」と「時代性」が「額田一色・岡崎の一色」とは異なるのだ。

これの「圷野の埋立」を行ったのが、記録から当時の「初代地頭」と成った「西尾一色の祖」の「足利公深」である事が判っている。

(注釈 室町幕府の時代には遂には、「嵯峨期の縛り」が無視され外れて、この「一色」を姓にして名乗る家臣まで出て来た事が起こった。注意する必要がある。)

其の内にこれ等は先ず全て共通して「清和河内源氏支流」にその系を求め搾取して、その上で「6つ」の「伊勢の施基皇子の本貫名」の「一色」を何と「姓」としているのだ。
そして、その「本人」では無く、「要領」を得て上手く「搾取者の裔系」が名乗っているのだ。

前段でも論じたが、調べ上げれば「主種の記録」から以下の通りである。

「斉藤義龍の裔」 「土岐頼栄の裔」 「吉良有義の裔」 「吉良定監の裔」 「上杉教朝の裔」 「唐橋左通の裔」
名乗ったのは全てこの裔系の以上の6姓である。

「本人」は世に憚るが「裔系」は信じて仕舞うであろう。

(注釈 但し、この姓を「明治3年の苗字令」でも名乗ったのだが、これは「第三の姓」と観られる姓は除く。
これだけに「伊勢」に無関係のそれも「第二の姓」が使うまでに「嵯峨期の仕来り・9つの縛り」が「室町期」では最早無視されて護られなく成っていた。
誰も彼もが例外なくこの「9つの縛り」を護らなかった源氏姓を名乗った。
名乗っている数だけに、「皇族」としての「縛り」を護れなかった「源氏族」にはそれ程に「子孫」を遺してはいないのだが。)

さて、「西尾の一色(“本巣郡”)」は、「30キロ以上」も離れた「岡崎の一色(額田郡)」の地名を使ったのだが、「三野王の本庄」、又は、「額田端浪の一色」の「権威と象徴」を連想させるこの「一色名」の「地名」を、勝手に「地頭所在地」のここに移した事に成るのかである。
或いは、「斯波氏系足利氏の目的」は、「地頭の所在地」に「統治」の為に「権威と象徴の一色名」を「本巣一色・鎌倉期初期」と、「額田端浪一色・平安期初期」との二つに態々分けたのか何れかである。
要は当時の呼称がどうであったかであるが、郷土史などでは、“西尾の一色”と記されている。
恐らくは、分けて読んでいた事を示すものである。
然し、「額田端浪一色・平安期初期」には無い。
「岡田一色」は室町期の中期後であるので別枠である。

余計な事かも知れないが、前段でも各所で論じたが、改めて「青木氏の歴史観」として釈然としないので、これを検証としては先に解決しなければならないだろう。

実は、この「疑問」を解決するものがある。

それは、「権威と象徴の一色名」を判別する「西尾の一色(本巣郡・鎌倉期初期)」と「岡崎の一色(額田郡・室町期末期)」には、それぞれ、「古来の状況」の物語を遺す“「字」”を持っているのだ。
前段でも詳しく論じた「字・あざ」が持つ意味からすると、“「地名」が全てを物語る”と云う事である。

当時は、「字の使い方」に於いてこれを「見抜く慣習」を庶民は知っていて何方が「本庄」とするかは知っていた筈である。

「岡崎の一色(額田郡)」には、「27の字・あざ」があって、「字名・あざな」は、例えば、「池神(1)、大神田(3)、神谷、奥添、入洞(各2)」等の全て“「神」”に纏わる「字名・あざの名」が殆どである。
「神に纏わる字名」は、当然に美濃では「始祖の三野王」を指す事に成る。

ところが、「西尾の一色(本巣郡)」には、「26の字」があって、「字名・あざな」は、例えば、「新田(3)、船入(1)、塩浜(2)、浜田(1)」等の全て“「圷野の埋立」”に関わる「字名・あざな」が殆どである。

これは「初代の地頭」がここを「荘園」とする為に「圷」を「野」にする為に埋め立てた所以でもある。

従って、この「字名・あざな」が遺る状況は、「岡崎の一色」と「端浪の一色」と、「西尾の一色(本巣郡)」の「三つの地名」を遺した事に成る。
間違い無く「古来より在る名」は「本巣一色・鎌倉期」よりは「端浪一色・平安初期」の方を「本当の本貫名一色」と“地元民”は字の存在で使い分けの呼称をしていたと考えられる。

そもそも、つまり、「平安期の頃」では庶民は、未だ「語源の意」が遺り、この「語源」からでも判別出来ていたと考えられ字名で意味合いを充分に知っていたと事に成る。
従って、「西尾の一色」には左程の興味を示さなかった状況であったと考えれ、故に足利氏も平気で使ったのではないか。
つまり、何を云わんかと云うと、“民に「守護の在所」を慣習として「権威付け」の為に「一色」とするものだ”と思い込ませた可能性があると云う事だ。

それは、先ず「額田端浪の一色」はその様な「守護的な高位の者」が居る処を民は「一色」とすると思い込んでいた事にも成る。
見方に依れば、「伊勢の一色も志紀も色も一志」の「字」も間違いなくそうであったし、「美濃の額田端浪の一色」もそうであったからであろう。

(注釈 前段や上記で検証した様に、「三野王の在所」から「浄橋飽波の在所・額田端浪一色」までは「40k真東の位置・10里」にあって、この「位置」は源平戦後は「当然の事」として「室町期の1560年の南下」までは厳然とここに定住しているのである。
年数にすれば、「800年近く」にこの「高位の立場」にあった「浄橋・飽波」の「在所・額田端浪一色」は、「守護的な高位の者が居る処」を指すものと成っていた事を考えると、寧ろ、それが自然であろう。)


さて、ここでこの「美濃や三河」に関わらず、そもそも「本巣」とは、“「元は洲」”と云う言葉から「新田開発の代表の言葉」とされて来た経緯があるのだ。
この「呼称」でも証明できる。

平安時代より各地の荘園等の「河洲の圷」を埋め立て、そして「野」にした「新田開発」の地には、必ず「‥洲」や「‥巣」とか使われている。
この“「巣」”も「洲」に繋がり「小鳥の住処・巣」の意味も含まれて使われていた。
「本」は「元」と同意である事から、「元の巣(元洲)」や「本の巣(本洲)」等の多くの形で「もとす」と各地では呼称されていた。

そこで次に「額田一色」に付いてでも証明できる。
「岡崎の一色(額田郡)」が「伊勢の裔系の室町期中期の本庄」とする「決定的根拠」が未だ他にも在るのだ。

(注釈 「三野王の本所」は前段でも上記でも検証した様に、「西尾の一色」の斜め右北側に在り、其処より東に「端浪の一色」の西側の「額田の40kの位置」にあった。)

実は、「伊勢の桑名」に「額田」の「大字の地名」が奈良期中期の古来より在るのだ。
これは「平安末期の美濃青木氏」が滅亡するまでに「桑名の額田大字」があった事は「伊勢青木氏の資料」でも判っている。

これは、然し、これはどちらが先かで変わって来る。
「三野王の本庄の額田」が先か
「桑名の額田」が先か
実は以上を決定づけるものがある。

その前に、「呼称の語源」として導き出した証が在る事を知って置く事がある。
古来より「額田の語源」は、「ぬかるんだ田(額るんだ田)」、又は、米の「糠の田」と云う意味で、要するに当時は“水利の良い土壌の良い「肥沃な田」”と云う意味を以て使われていた。

そこで、先ず「桑名の額田」は、「揖斐川の入江口」の直ぐ西(6.6キロ)に位置し、「員弁川(0.3キロ)」に沿い、その「揖斐川沿い」の「桑名(0.3キロ)」の直ぐ西に位置する。
前段でも論じたが奈良時代よりこの「額田の名」が遺す通り元から「良好な圷の野」であったのだ。
要するに「額田の意味」としては「良い意味」を持っていたのだ。

そこで、どちらが先かの問題を解決する為にこの“「額田」”を更に掘り下げる。

この「額田の諱号」を使っていた歴史的人物の「額田王」は、「鏡王の女」で、「天武天皇」の寵愛を受け、その子は「十市皇女」、この「十市皇女」は「天智天皇の後宮」である。
そして、更にその子は「大友皇子の妃」と成る。
「有名な歌人」でもある。

この地には「額田王」を祭る「額田神社」がある。
この「額田神社」は、一説では「額田部氏の祭神」(五世紀・允恭天皇期創建)であるとしているのだ。

そもそも、この「額田王生誕とその地」には諸説があるが、一概に「桑名」がその「生誕地」とは決められないのだ。

実は、「新撰姓氏禄」によれば、「彼女」を始祖とするこの「額田部氏の子孫」とは、この地の「桑名額田」の「守護社」とするとある。

唯、そもそもこの「額田の地名」は、“「額田王」に関係するか”は奈良期初期である為に古すぎてそれを証明する記録がない。(後付け説)

この為に、「史実」は別として、この「桑名王」の「伊勢青木氏」との「額田部氏との血縁」は否定できないのだ。

つまり、どういう事かと云えば、上記の通り「施基皇子」と「額田王の孫大友皇子」とは「異母兄弟」にあって、歴史的史実では“「吉野盟約」”で関係があった。
この事から、「額田王」と「桑名王」の関係性が見つかれば”「同門の高位族」”である事から関係性は否定は出来ない。
そうすれば、「額田神社」が「額田部氏の祭神」とする事には論理的道筋が生まれる。
前段でも論じたが、施基皇子との関係があって平安遷都に同行しなかった事から罰せられ、特別しゅせの与えられた「平群の額田神社」は廃社とされる。
そこから平群村から「伊勢青木氏の手配」で「桑名の額田」に匿った。
この時の廃社の額田神社は一時、御神体を桑名の鎮守社で嫁していた。
こういう経緯がある。

要するに、従って、この「額田」の「額田神社」が「桑名」の「額田部氏の額田神社」と「同神」と成れば、大きく「青木氏」と繋がって来る事に成り、美濃の額田青木氏と繋がる。
つまり、「青木氏の始祖」の「施基皇子」も同時代に生きた「同じ都の高位の歌人」でもある事からも、この「伊勢の桑名」は「美濃の額田」とこの経緯の下で重複的に繋がる事に成る。

では、そこで、検証の一つとして「桑名の額田神社」の他に、もう一つ「額田神社」がある。
「桑名の額田」、「美濃の額田」、「岡崎の額田」が在る事に成り、各々、「額田神社」が存在する。
この「三つの額田」には「伊勢青木氏」が深く関わっている。
これを検証して観る。

つまり、「岡崎地域一色近く」にもこの「額田神社」があるのだ。
この事で「古来の慣習」から鑑みれば大方は解決する。

そこで、この“存在の有無の問題”であるが、実は答えは、「桑名の額田」は別として、「両方の額田神社」には、後勘から観て、形の上では“「歴史的なズレ」”があって無かった事に成るのである。

とすると、この「岡崎の額田」の「一色」は奈良期から平安期に架けて、その「所縁」が存在していた事に成る。

そもそも、前段でも論じている様に、仮に「青木氏の重要な歴史的年代」である“「800年頃」”を設定して観て、この「岡崎」に既に何らかの形で“「一色の地名」”があったとすれば、当然に「古来の慣習」に依って「額田の地名」も同時に着いていた筈である。

「施基皇子の没年」が716年であるので、何らかの所縁が在れば「本貫名」の“「一色の地名」”を「岡崎」でも使え得る。
問題は、「岡崎」にその「所縁の有無」にある。
「浄橋や飽波」の様に「端浪一色」と「額田一色」の様に「根拠」が見つかれば問題はないが、現在はその「所縁」は室町期中期依然のもの依然とし見つかっていない。
「額田」の「額田神社」が「桑名」の「額田部氏の額田神社」と「同神」あるとして、それは「伊勢側」からのものか、「額田や端浪」のものかである事に成る。

現在の筆者の推測では、“あった”としてその可能性から「伊勢側」では無いかと考えている。

当時、古来より肥沃の地でここは藤原氏が治めていた。
ここを元に「藤原氏」は「勢力」を拡大したとする程に、“藤原荘園”とも呼ばれ、「藤原氏の土地」で奈良期以前からの「古墳群地」で、ここに「一色」なる「地名や名乗り」をする事は普通では出来ない。
出来るとすれば、ここの「藤原氏」に嫁して、その裔系が「一色、一志、色、志紀」の「4字名」の何れかを名乗る事以外にはない。

そして、それが「伊勢」とすると、「桑名殿の裔系」か、「員弁殿の裔系」かに成る。
「肥沃な美濃域」には「浄橋と飽波」が「美濃青木氏」に嫁した。
当然に、「肥沃な岡崎域」にも青木氏が無いがあり得る事であろう。
当時としては、未だ「四掟の範囲」で定まるので、嫁家先は「藤原氏」である。
其の後、「美濃の様」には成らず、「伊勢本貫名」が「岡崎」に遺らず「子孫の滅亡の憂き目」を受けたと考える事が出来る。

(注釈 当時の「四掟」は前段でも論じた様に、「妻嫁制度と嫁家先制度の掟」により嫁家先で優秀な者がいれば「青木氏」を興し「家人」として務める事が出来る。
それだけの格式を「女(むすめ)」には持つていた。)

然し、何らかの形で地元岡崎に記憶されていて、それを室町期に呼び興したとも考える事も出来る。
然し、それを物語る資料が見つからない。
従って、前段と本段では「下記注釈の後者のロ」として論じているが、最早、室町期中期に幾ら何でも「格式」を誇示して「額田青木氏」が、態々、”一色の地名”を着けるかにある。
無いであろうし、仮に着けるとしたら“元あった事からの所縁”に依るだろう。

その「所縁」とは次の通りである。
この「岡崎の一色」には、その町の中央には“「神明社」”が現在もあり、元は「額田郡」に所属し、この“「一色町・3里」”より「真西の13kの位置」に岩津地区の“「青木町」”があるのだ。
そして、上記で論じた“「額田の額田神社」”もあるのだ。
これで室町期や江戸期のものでない事は良く判る。
恐らくは、「神明社関係」で「神職青木氏の関係」が「一色の地名」を遺した「所縁」では無いかとし、ここが後の室町期に「地名」を引き興したものでは無いかと観ている。

(注釈 「額田」は、「額田部氏の額田」と、「額田王の額田」と、「青木氏の所縁の額田」のあり、「青木氏の所縁の額田」を仲介して他の二つと関係性が認められる。
但し、「額田部氏の額田」と、「額田王の額田」の間の直接的な関係性が、現在では「状況証拠」でしか証明できない。古来にはあってねそれが両者ともに子孫拡大が大きくなかった事で消えたと観ている。)

(注釈 三河東端の「山稜沿いの縦の陸路 イ」と、三河中央の「岡崎一色を中心に結ぶ縦の陸路 ロ」を論じている。
「前者のイ」は、「初期段階」、「後者のロ」は、「後期段階」と成る。
それは前段や上記でも論じている様に、「戦況の変化」により切り替えざるを得なかった。
前者は、第一次の武田氏の攻撃と第二次の攻撃で奪われ使えなくなった。
後者は、「陸運業」に転向してからの「縦の陸路」と成る。
最終は、両方を使った事が記されている。)

そもそも、この「額田端浪一色の地名」は「追尊春日宮天皇・施基皇子の二世族」の「桑名王の子」の「浄橋と飽浪」とが嫁いだ「美濃青木氏の本庄の地」から「10里東の位置」にあった。
それが「830年頃」に既に名付けられている。

従って、“何らかの所縁”があったとして、これが歴史的に消えたとすれば「鎌倉期までの事」に成るだろう。
「額田」には、少なくとも「天智期むからの「額田王、額田部氏、青木氏との三者関係性」があった事が読み取れる。

そもそも、「額田部氏」は飛鳥時代に遡るほどの「伊勢青木氏」より「古い職能族で官僚族・当時は連」であった。
そうすると、時代は異なるが、“共に何で「額田の地名(桑名と岡崎)」が着いたか”である。

考えられる事として、次の「三つの事」が考えられる。
イ 「伊勢青木氏(桑名殿)」(「一志・一色の地名」)との所縁。
ロ 「額田の語源」の「肥沃な土地(ぬかるんだ地・湿んだ土地)」から呼称されただけ。
ハ 「職能集団の連」の「額田部氏末裔」が額田に移住した。

先ず、判り易いので「ハ」に付いて解決する。
彼らは次の様な経緯を持っている。

「穂積氏の臣」と「額田部氏の連」を祖とした同族である事
「穂積の語源」は、「額田の語源」と同じである事
「額田部の連(後に破格の昇格・宿禰に成る)」は、その「額田の役目」、つまり、「米」を作る為の「技能」を専門とした事
そして、共にその「役目」を負う「官僚族」であった事
同じく「穂積氏(額田部氏の分家)」は「部」が無い事から「米」の収穫と、その一切の管理を任された「事務官僚族」であった事
以上と成る。

(注釈 「穂積」が有っても「穂積部」は無いのだ。これは穂積氏が「連」の「姓・かばね」として認められていなかった事を意味する。)

つまり、「額田部氏」の許に共に、一族の「一連の米収穫の為の官僚族(本家分家の関係)」であった事と成る。
故に、史実は、これを以て“「祖」として「同族」である”としている所以でもあろう。
つまり、これは「額田部氏」からの末裔が「穂積氏」が出自したと考えられる。
要するに、「分家」である「穂積氏」も「連族」であったのだ。
後に、その功績を認められて、この「額田部氏一族一門」は「朝臣族」に継ぐ「宿禰族」に破格の昇格するのだ。

故に、「宿禰・連」としての「高い役目の官僚族であった事」から「額田部氏」は、その「役目の神社を持つ事」を「朝廷(天武天皇)」から特別に許された「唯一の高位の官僚族」であったと考えられる。

「桑名」の「額田神社」が「豊作を願う神社」として「最高格式の国幣社」として許可され、それ故に、それを「伊勢神宮」の「伊勢・桑名」に平群(廃社)から置く事を許可した事が考えられる。
これは歴史的に観れば見逃す事の出来ない歴史的な「相当な所以」である。

「伊勢神宮外宮」の「豊受大御神」(五穀豊穣の神)と共に「伊勢桑名」に設置を許され、それも古来より最も「肥沃な土地」の「現地」に置いた事に成る。

従って、この論理から、これ程の「高い神格のある神社・額田神社」が「三野域」に二か所に建立される事は先ず無かった筈である。
それは「伊勢」であるからこそ認められたのである。

ここで「重要な事」で、当時の慣習から「不思議な事」は、“「額田部神社では無い事」”であり、“「社格では無く神社格」”である事だ。
「個人の村格式」と成る「額田部氏の神社」で在り乍ら、「公的な額田神社」の扱いに成っている事であるのだ。

そして、その結果、「額田部神社」は「額田部氏の分家」の「穂積氏」に依って「美濃西域」に「村格式の神社」として相当後に建設された事に成るのだ。

要するに、「額田部氏」は「格式の高い特例の国幣社」を名誉高く与えられ事の由縁を以て村格式社の「額田部神社」は掟上で最早、建てられない事に成るのだ。
故に、分家の「穂積氏」が「氏神社」の「額田部神社」を建てたと云う事に成る。

(注釈 「穂積氏の身分格式」が低いので、恐らくは、この「縛り」が緩んだ室町期では無いかと考えられる。)

(注釈 「朝臣族」か少なくとも「宿禰族」までの高位でなくては「氏神社」でも許可なく建てられない。)

「額田神社の額田部氏」は、「神明社の青木氏」にも劣らない各式を有する事を意味したのである。
この「違い差」は「社格式」と「神社格式」の差だけと成り得えたのである。

(注釈 その後、事件が起こった。
実はこの「額田神社」は当初から「桑名」に建立されたものでは無かったのである。
これは後段で記述する。)

次はロである。
「額田の語源」の「肥沃な土地(ぬかるんだ地・湿んだ土地)」は、各地にこの意を持つ「古地名」では、殆どは“「糠田」”としている。
つまり、これは「宿禰・連」としての「高い役目の官僚族であった事」であった事から「額田」を使っていないのである。
つまり、「奈良期の禁令の範疇」にあった。

この事も重要である。
そもそも、「糠」は「米糠」で「糠」が良く出る事は「豊作」を意味し肥沃な土地である事をする。
つまり、「糠の良く出る田」として余りにも「格式の高い額田」に替えて「糠田」としたのである。
これには、理由があって奈良期からの「慣習仕来り掟」で、前段でも論じたが、「神、天皇、神社,高尊族」等の「高位の品格を持つ名」を勝手に使用する事を禁じていた。
「嵯峨期の詔勅」でもこれを追認して徹底させた。

従って、前段と上記で論じている「一色」と同様に、この「額田」そのものも勝手には使えないのである。
そこで「同意の糠田」として使用したとされ、全国に多いのである。
そもそも、そこでこの「高位の格式」を持つ「額田の地名」があるのは、「桑名」と「岡崎」と「美濃」を除いて、次の通りである。

「奈良平群郡」
「近江野洲郡」
「出雲一意宇郡」

以上の「三地域」である。

これには「歴史的な意味」があるのだ。

これには「ある事件」が含んでいたのだ。
極めて限定されている。
そして、この「事件」の関わりで、「伊勢青木氏との深い繋がり」に成り、強いては「美濃の事」にも関わってくるのだ。
避けて通れない事件なのである。

上記の「三つの郡」は何れも「高位の格式」の何物でもない。
この何れもが合わせて「額田部氏の末裔の分布域」でもある。
且つ、「伊勢神宮」に関わる「神の品格の地」でもあるのだ。

これで、「額田の地名」の「存在有無」はこれで「決め手」に成るのだ。
そもそも、「桑名」は、上記の通り当然の事として、取り分け「岡崎の額田」は「三野王の地」として、又、「天武天皇」の「五都計画の朝廷の天領地」でもあった。
従って、「三野の米」の「五穀豊穣の管理」が必要であり、「豊穣の祭司」が伴う場所でもあった筈である。
これで、「額田の地名の存在有無」は、この「官僚族の額田部氏と穂積氏」が派遣されて、そこに「現地孫」を少なくとも遺したと考える事が出来るのだ。

唯、「特別高位の宿禰族」である限り「青木氏」と同じく「額田部氏」は「現地孫を遺す事」は許されなかった。
遺したのは故に「穂積の形」で遺したのである。

故に、ここに「額田神社」が無いのは、「五穀豊穣の祭司」を「伊勢神宮の子神」として「桑名」に古くから建立されている以上は、「二つもの同格式の神社」を「三野の天領地」と云えども創建は出来ない事に成る。

(注釈として、後は「呼称」を変えているので「嵯峨期の禁令」から「後付け」である事が判る。
ところが、実は歴史的にその様な時期があったのだ。
元禄期に神社経営を良くする策として盛んに禁令を無視して命名した史実がある。
「神明社」も「神明神社」として、又、神明社の前に地名を着けたもの等のものが出た。
これ等の「社格式」は「国幣社」では無く、何れも最低の「無資格社」である。
正式なものでは無く、商い的な格式でのものである。)

では、そこで最終的に検証して置かなれればならない事は、他の主要な「信濃と甲斐の天領地」にはどうなのかである。
答えは“無い。”である。

唯、何か「額田神社」に「替わる神格の持つ神社」が存在するかの疑問がある。
結論から云えば、答えは簡単である。

「五都」の二つの「信濃と甲斐」の「二つの天領地」には「額田の地名」と「額田神社」は“無い”である。

有りそうなものであるが無いのだ。
然し、ところが「五都」の一つ「美濃」には、「額田の地名」と「額田神社(額田地区 額田杜 本命」)」があったのだ。
この事は意味が大きい。
この事は「古書」より判っている。

その現在では、ここは「西美濃」」に当たるが、「平安期」までは「三重桑名の近接地区」にも、「本命の他」にも「額田神社(増田地区 員弁川沿い・「後付け」)」があるので問題は無いのだ。
これは古来は美濃と伊勢の線引きの位置が西側に寄っていたのだ。

「伊勢桑名」と現在名の「美濃増田」にと二つ並んで在るのだ。

この「美濃増田」が上記した「ある事件」を解決してくれるのだ。

(注釈 この「後付けの神社」に付いては「江戸初期の神社経営難期」があったが、この時、「増田」のある「村格式の神社」が、この「額田の格式権威」を使って呼称を変更した可能性がある。
これはある程度の何らかの「地名などの所縁」があっての事ではないかと考えられる。
これは後に解明する。
現在は「三重県の桑名」域であるが、古来は「美濃の西端域」であった。
その為に、この「額田地区と増田地区」の「二つの神社」の間は、“「1km程度 真南北の位置」”にある。
然し、愛知県に「三河額田地名」があるが、ここには「氏格と神格を示す神社」は一切無いのだ。)

唯、「美濃と甲斐」には、前段でも論じた様に、「石橋山の戦い」と「富士川の戦い」で巻き込まれて「額田部氏の子孫・穂積氏」は壊滅したとも考えられる。(源氏方に味方した。)

「美濃」はその意味で、後の「増田地区の額田神社」が「圷野の干拓灌漑」の感謝から祭司した「鎮守神社」であろう。
その意味で「古来の慣習」に従った「神社の位置づけ・北側」に「杜」を祭祀し、その麓に「社」を構えた形式に適合している。

そもそも、本来であれば「員弁川」から北の「128mの圷野」に「社」を構える事は先ずは無い。
従って、「額田神社(額田地区・桑名)」にある「額田の杜」にある「社」が「古書記載」の通り「本命」と目される。

(注釈 「増田地区の額田神社」との関係については後述する。ある事件の解明の処で論じる。)

然し、そこで「信濃と甲斐」に「額田の地名」と「額田神社」が無いのは不思議である。

これは、この「五都」の二つに「額田部氏が関与しなかった事」を示す事に成る。

然し、「信濃」には、「南佐久郡」に「額田部氏の子孫」である“「穂積村」”が存在しているのだ。
この“「穂積村」”は、「青木村」とは、直線で北西に「40キロの位置」にある事は、「額田部氏」に代わる「穂積氏」の「官僚族・米の管理」が明らかに配置されていた事が判る史実である。

但し、「役務」を“マンツーマンで行う同僚族”で、尚且つ、「穂積氏」は「額田部氏」とは「分家の同族」であるので、従って、次の様な分布を示している。

「伊勢の額田と穂積」
「近江の額田と穂積」
「美濃・三河の額田と穂積」

「信濃の穂積」(額田部氏無し)
「甲斐の穂積」(額田部氏無し)

以上である。

依って、「五都計画の天領地」は、結果として「伊勢、近江、美濃」を除いて、当時は「信濃と甲斐」(盆地)は「穂積氏」だけで管理されていたと云う事に成る。

では、そうすると「伊勢の額田と穂積」、「近江の額田と穂積」は当然の事として考えられる。
然し乍ら、「美濃・三河の額田と穂積」に、「額田部氏と穂積氏の同族官僚」の両氏が存在していたかと云うと疑問である。

それは、上記でも論じた様に、「四つの河(揖斐、長良、木曽、土岐)」に恵まれた無限に近い「圷の野」にあった。

上記の検証で論じた様に、この「四つの河」に依って「圷・あくつ」はどんどんと広がる。
当然に、この「圷」が出来てそれを「埋め立て」て行けば「四つの河」から運ばれる栄養のある「肥沃な五穀豊穣の野」が出来る。

従って、「圷」の「埋立」と、これを適切な「野」にして、「田」にする「灌漑技術」と、「豊穣の田」にする「経験と技術」、土壌に適合した「米種の選定」等をするには、当時としてはどうしても「総合的な専門技術」を持つ“「額田部氏」”が無くてはならい「絶対的要件」と成る。

そして、これだけでは未だ「米」には成らない。
「額田部氏が創った野田」から「稲穂」を収穫して、それを「米糠」を取り、使える様に「保存庫」に納め、「収穫量の管理」と、これを管理して「農民の分配とその手配」と、それを「都に搬送する手配と管理」の一切等も、これ又、「穂積氏の官僚の力」が試され無くてはならない存在と成る。
両者相まって成し得る「大事業」と成るのだ。

当時は、「職能部の者」が成り得ない「宿禰族」に「破格の昇格」を果たした事は、「額田部氏」では無くては無し得ない環境にあった事を示すものである。(後にこれが崩れる。)
「墳墓増築」や「干拓開墾」に関しては「独占的な部」であった事を示している。

其れも短期間ではない。上記で検証した様に、「100年―20キロ」として「揖斐川西域」までの「圷」は、東西90キロ、南北70キロの範囲が「圷」で次第に広がる。
計算では縦の南北で350年、横の東西で450年と云う年月を要する。

然し、これは、「100年―20キロ」としての「干拓灌漑事業」であって、「縦横の面積」が絡んでくる計算と成ると、そう簡単ではない。

この事は「額田部氏と穂積氏」が同時進行と成ると、「800年頃」から始めたとして、「干拓灌漑」が終わるには、「1250年頃以上」と成り得るのだ。(この時期が重要である。)

現実に、上記した様に、「本巣の一色氏」は、その後、地頭として鎌倉幕府に命じられて「圷の灌漑の埋め立て・鎌倉期・結城氏が開墾」をしたとある。
「足利氏系斯波氏・西尾氏・一色氏」が「地頭」として派遣され、ここに住み着いた(80年間)が、上記した様に「鎌倉期初期に地頭」を任じられた事から考えると、ほぼ一致している。

「朝廷の守護制度」とは別に「地頭制度」を朝廷に認めさせての「初めての地頭(「圷の干拓灌漑」の)」であった事が書かれている。
それだけにこの地は「重要な地」であった事を示していて、この時でもまだ「圷の干拓灌漑」はより進めていた事に成る。

参照
80年/縦の南北で350年、横の東西で450年≒1/(4〜6)
「100年―20キロ」/80年≒16キロ

故に、「額田氏部と穂積氏」の末裔を、「桑名」から近く「圷」に繋がる「美濃・三河」のこの地に子孫は遺した所以であり、「地名」の「額田」(一色)も同然でもある。

上記した様に、何れの「額田の地名」と「一色の地名」の「遺る位置」も、「北の土岐域」から「東の額田」の「丘陵線」にあるのも充分に頷ける事である。
つまり、「東の丘陵・山沿い」のここに「管理施設の事務所の館」を設けていた事に成る。

これで「干拓灌漑」は、「東の額田域」から「桑名の西」に向かって進行した事が伺える。

ここで重要なのは、上記で記した様に、「額田の地名」と「一色の地名」と“「飽波の名」と「端浪の一色」(端浪は飽浪の変意語)”も含めて史実を観るように検証される。

「伊勢桑名側の干拓灌漑」は、5世紀頃に「揖斐川沿いの300mの域」に「額田神社」が建立されている事から、「縦の干拓灌漑」では無く、「揖斐川沿い」から「員弁の北側の圷」を横方向に「青木氏の財力」と「額田部氏の技術」で「野」にして行ったと考えられる。

「五都計画の天領地」が拡大する事は、「朝廷」に執っては都合は良かった事から許可は出たのであろうし、当時としては「賜姓五役しての役務」から「当然の事」と考えていた筈である。
当然に、ここは現在の「濃尾平野の西域」である。

「額田前域」の「木曽川河岸の丘陵体」
「各務原」等の「三野の扇状体」
「圷野の本巣域」の「中央原地」
「伊勢湾三角州」

以上の「四つ圷野」で出来ているのだが、「伊勢の三角洲側」は「木曽川丘陵体」の域よりは「高い位置」にある。

従って、この「地理的要素」としての「伊勢三角州の野」は、「干拓灌漑」が容易で「氾濫性」が低く、「肥沃性の濃度」が高く、「東の圷」より古来より見込まれていた事が「史実の通り・額田神社の存在の所以」と成り得るのである。
ここは共に「桑名」から近く「圷で繋がる地域帯」であった。

それ故に、ここには、「額田部氏と穂積氏」が早くから配置されていた所以なのである。

更に、伊勢の「不入不倫の権」で安定して居た事から、安定して職務に取り組める環境があった。
これらは「伊勢神宮の遷宮地」である事も含めて、「額田神社」が「存在する大きな所以」とも成っていたのである。

然し、「穂積氏」も、「額田部氏の“額田神社”」と共に、古来より“「穂積神社(伊勢四日市・桑名南近隣・村格社)」”が祭司され、且つ、「額田神社」の真西の「16キロ(4里)」の「近隣の地(三重郡菰野 現在社跡)」に在る事も見逃す事の出来ない所以でもある。

但し、記録から“「穂積神社(村郷社格)」”に付いては「相当後の時代」に創建されたものであろう事に成る。
「1250年頃の干拓灌漑」が終わった後の室町期に「穂積氏の子孫」がこの「所縁の地」に創建したのであろう。

(注釈 「穂積氏」は「額田部氏」と違って「分家格」である為に、「朝廷」から正式に「氏神の神社建設」を認められる「管理族の格式」を有していない。
これは上記の検証の通りで、ここは「長期間の工事」の為に必要とする「館等の事務所」であった可能性が高いのだ。)

当時の「生活圏10里」とすると、「連絡の範囲(4里)」として「穂積氏と額田部氏」の間の同族が「事業の連絡の距離感」としては「社跡位置」は充分に納得できる。

この時期は、ここを「差配の基点」にして「天領地等の事業」を朝廷に代わって差配をしていたと考えられる。
それにはこの「距離感」は遠くも無く近くも無く絶対に必要であっただろう。

以上で、「額田部氏」が関わった「史実経緯」と「三つの額田神社」、「青木氏」と繋がる「額田王」との関わりが青木氏を経由して「状況証拠」では間接的には繋がる。

(注釈 一説にある上記で説明した様に、“「額田王」”が“美濃の「額田神社」で祭司される”と云う説があるが、それほどの「尊厳と権威」を持ち得ていたかは疑問である。
そもそも、「額田神社」とは、「伊勢神宮」の「外宮・大豊受神・五穀豊穣」の祭祀する「額田の神社」であって、これを、大きく「務め」としてなす「額田部氏」に「祭司」を専門に任したとする考え方であろう。
故に「宿禰族扱い」であって、それを成した五都の内の「伊勢と美濃と近江」に存在する故である。
「信濃と甲斐」には無い所以である。
「額田神社」は「額田部氏」であると云う事に成る。
丁度、「青木氏の神明社」に同義する事と成ろう。
又、「伊勢神宮の外宮の祭司」の経緯と成った「庶民」が淀川で祭祀する「稲荷明神社」も子神としては同義である。
その役目を果たす「額田神社」と「稲荷明神社」であって「奈良期初期からの時代性」も変わらないのだ。)


さて、「伊勢の計画の許」で進められている「額田部氏と穂積氏」が関わる中で、ここから、次にこの「美濃」の「浄橋・飽波の時期」に入り、「美濃青木氏の源氏化」で「浄橋・飽波の裔」は「別行動」を執って、その「拠点」を要するに前段で論じた様に、「額田部氏」に依って新たに「開拓された土地」”を「一色」”と名付け、「三野王の本庄」から真東に「10里の位置」に“「拠点・一色」”を置いた事を論じた。

(注釈 「出自元の伊勢」の「開拓地」である事から「一色」としたとも執れる。
新しい土地とすれば、これでは「三野王系」も文句は付けられないであろう。)

然し、ここで一つ解決して置かなければならない事がある。
それは、当時、ここは未だ「圷」であった史実である。
この「拠点」とするには、「干拓灌漑」をしなければ住む事は出来ないし「野」にする事も出来ない。
そんな「財力と技術」は「浄橋・飽波の裔」には当然に無い。
先ず、この事を解決しなければ「浄橋・飽波の裔」の”「別行動」”は出来ない筈である。

そこは、「伊勢の裔系」である以上、「桑名の東横」の「圷」を「干拓灌漑」した様に、「伊勢の力」を借りる以外には無い。
又、源氏化が進む以上は「伊勢」もそうするであろう事は判る。
上記した様に、この「伊勢」と深く関わっていたのが「額田部氏」である。

つまり、上記でも論じた様に「額田の地名」と「穂積の地名」が物語る様に「額田部氏と穂積氏」がここに入った事に成るのだ。
これは「穂積氏の裔」と「穂積神社」がこの地域に遺った事で示しているのだ。

更に、「室町期」に入り「額田青木氏の国衆」が南下して戦い、そして「三河国衆」から離れ、後に「陸運業」を始め、且つ、その後に子孫は「豊田・岡田の開拓業」と「豊川と豊橋の殖産業」を始めた。

未だ、この域も、「河川の圷」を埋め立て「野」にして全て「本格的な干拓灌漑工事」が伴うのだ。
然し、これにも「額田部氏」が関わらないと成し得る事ではないのだ。
故に、室町期末期迄には、「信濃までの縦の陸路 1と2」を確立させる為も含めて、ここには「伊勢の裔系」と血縁族である「伊勢秀郷流青木氏」の子孫が多く定住している由縁でもあるのだ。

「信濃の青木村」と同様に、「縦の陸路 2」に「青木氏の諸条件」を揃えて「三河の青木町・青木村」がその中間地点に現在でもあるのだ。
「神明社、一色、青木村、山神、額田等の諸条件」である。
現在も山間部で過疎地であり、此処に「古来の由緒」を求めて室町期に改めて「拠点」として住み着いたと考えられる。

「端浪と岡田の二つの一色」の持つ意味には、この「額田部氏の所縁」が含んでいるのだ。
この事を逃して決して語れないのである。

この「三野王・美濃」に関する「予備知識」を前提に、「準備期間」と「予備戦」が終わり、遂に前段でも論じた様に「本戦」と成って行ったのだ。

「額田部氏の詳細」は前段でも論じたが後段でも詳しく論じるが、この時期でも活躍していた事に成るのだ。
「国衆南下」に対して「額田部氏」がどの様に動いたかは未だ詳しくは解っていない。
恐らくは、「蒲郡と伊川津の埋め立て」に移動した可能性がある。
現実に、多くの移動に伴う糧確保の為に「記録」からも「蒲郡も渥美の伊川津」も干拓灌漑されている。
「伊勢の裔系」が住み着くのに額田部氏以外に頼む事は無いだろう。
其れも前段で論じた様に、移動の前では無いかと考えている。
それは「家族・1500人」が伊勢に移動した後に船で渥美伊川津に移動したと成れば、筆者ならそうする。
現実に埋め立てしているのである。



注釈として、ここで敢えて「額田と端浪の一色の地名」の「そもそもの成り行き」を論じる。

果たして、先ず「額田」や「一色」と名付けた「本貫名の字の大きさ」はどの様なものであつたかを記して置く。
「施基皇子」は「古書」に依れば、最終的に、その功績の大きさは「500戸」であった。

この「500戸の基準」は、次の基準で「税と格式」は計算される。

7世紀中の「口分田・班田収綬法」では「一里―50戸の基準」であった。
「6年1造戸籍」から、その後、申請方式の「1年1計帳戸籍」に替わった。
1戸は「15〜20人」とし、「3〜5人の男子」の基準であった。
そうすると、「500戸」は、「10里で40k」と成り、「民は1万人」居た事に成る。
そうすると、「一色の字」は「10里四方・40k四方」の面積と成る。
これを「伊勢」には、「一色」に相当する大字を「志紀、壱志、色、一色」の四つを待っていた事に成る。
つまり、{「10里四方・40k四方」の面積}・4倍と成る。
これに依って、凡そ「青木氏の地積」は「1616162反」・4=「6464648反」である。

そこで「伊勢の全面積」は古書の記録では「6034875反」である。
「6464648反」≒「6034875反」で明らかに「伊勢国一国相当」を示している。
故に奈良期には「伊勢守護王」であった事に成る。

奈良時代の「伊勢国の人口」は「幾つかの古書」の集積から研究計算された人口は「37300人」であったとされ、725年頃には「103200人」や「92600人」と成っていたとされる記録もある。

ここでも「伊勢人口」が「圷の干拓灌漑埋立工事の成果・額田部氏と青木氏」の貢献で、徐々に人口を増やしていた事がこれでも物語る。

故に、「額田部氏」は前段から論じている「宿禰の特別昇格を授かった事」がここでも判る。
逆に、「11100人」とした記録もあるが、「志摩域と熊野域を除く・青木氏の旧領地」とあるので、問題視しなくても良いであろう。

そうすると、上記から「一色の大字」の「500戸・1万人」で「伊勢」では「4つの大字」を持つていた事から、「4万人近い民」を有していた事に成る。
「40000人/37300人」は正しい事に成る。

(注釈 「伊勢の人口」が少ない理由は「不入不倫の権」で抑制されていた事から来ている。
然し、平安末期にはこれが緩み「約92600人」と増加させている。
前段で論じた様に、「伊勢青木氏と額田部氏による連携」で「桑名域の干拓灌漑開墾」によって「米策の生産量」と「殖産」とで「糧」がより生まれ増えた事に依る。)

因みに、「美濃」は725年頃には「163900人」で、奈良期初期は「103400人」で、次第に「115000人」から「126900人」と増加している。
そうすると、約100年で50000人増加した事に成る。

明らかに、これは「圷の干拓灌漑埋立工事の成果・額田部氏と青木氏」を「和紙殖産」から始まり、「源氏化阻止の対策」に切り替えて「伊勢一国並みの人口」を増やすだけの事をした事の証明に成る。
つまり、上記で論じた「500戸・1万人」で「大字の4つ分」に相当する。

故に、「美濃」の「伊勢の裔系」の頃、つまり、「伊勢青木氏と額田部氏の連携」に依って、「50年後頃の奈良期末期」には「25000人の人口」を増やし、「188900人」に迄に増やしていた事に成る。

これは、「糧=人口の自然摂理」から「圷の干拓灌漑埋立工事の成果・額田部氏と青木氏」以外には成しえず考えられない事を意味する。

さて、参考に「近江」であるが、前段でも論じた様に、当然に「額田部氏」を入れて難しい「真砂」の「圷の干拓灌漑の工事」を期間を架けて行って、「和紙の楮対策」を苦労して成功させたと論じた。
然し、その後に離反して源氏化に邁進して行った。
当然に、この「人口」は増加している筈であるが、実は増加していないのだ。

奈良期初期には比較的多い「112800人」であったが、平安期直前には「85700人」に次第に減少させているのだ。
何と「100年」で「27100人」もである。

この原因は、折角、「額田部氏の管理の手」が引き上げて「手入れ」を施さないままで「時間経過」と共に進む「真砂土壌の悪化」で「圷土壌」が悪化したのである。
そして、これは「米生産」では無く、「楮生産」での「和紙の生産と販売」であったからであった。

然し、これでも依然として「源氏化」を中止せず、何と「同族に近い血縁関係」で在り乍らも恩義を忘れ「伊勢」とは一線を企して仕舞ったのである。

逆に、この事が原因で「源氏化に走った事」もあり得る。
この事での「和紙の専売権」は当初より一手に“「紙屋院の称号」”を得ている「伊勢青木氏」だけにあった。
又、「造部支配・穀物等の販売権」と共に、「朝廷の商社権」をも授かっている「伊勢青木氏」から離反すれば「糧を失う破目」と成るは必定であった。
これが「人口」を減らす原因と成ったのである。

(注釈 前段でも論じた様に「屋の称号」と「院の称号」を与えられたのは「伊勢青木氏」が歴史上始めてであったし、歴史上無い。)

「美濃」は「浄橋・飽波の伊勢の裔系・桑名殿」の存在があった。
恐らくは、「三野王系」も「近江と同じ憂き目」を直接に受けていた可能性があるのだ。

故に、前段でも論じたが、「美濃西域(米原東域の隣接域)」で和紙生産されていた。
然し、矢張り、「源氏化」を中止しなかった事から、必然的に「近江」と同じ様に販売権を持たない以上は「生産」を中止せざるを得なかった。

そして、その「源氏化」が完全瓦解した事から、前段から論じて来た経緯から、室町期中期頃の後に「美濃北域の山間部」の”「長尾の域」”で「和紙生産」が再び起こった事もこの事から来ている。
これは「準備段階の経済的裏打ち」の「伊勢の策」であったと考えられる。
この直前に、この事にも乗じて「美濃の伊勢の裔系家族」を「額田」から下ろして「渥美」に移したと考えられる。

そもそも、「美濃人口」が増やせたのは、「前期・伊勢裔系」と「後期・国衆」の「額田部氏の干拓灌漑の長期間の結果」に及ぶのだ。
「東山間部の開墾」は、「楮生産」で、「西南の圷の干拓」は「穂積氏の存在」が示す様に「米策」であった事が記されている。
「信濃までの縦の陸路・初期路・1」に沿って「東西の地形」に合わせて「干拓灌漑開墾」が進められた事が判る。

これから判断すると、「額田端浪の一色の地積」は、「本貫名の字名」が「地名」と成った事から考えると、凡そ、これに「近い地積」を有していて、「一色」の一つの「字名」であるので、この約1/4程度であった事に成る。
上記の系さんの通り如何に大きかったかを示している。

然し、これが「元からあった野」を「一色の地積」としたのでは無く、当然にこれだけの大きさの地積を生み出すには「圷の干拓灌漑開墾の面積」で生み出したものである事が良く解る。

「源氏化の方針の違い」から「別行動」を執った訳であるから、これだけの「地積の分部」を「三野王の本裔」から貰える事は無い。
寧ろ逆であったろう。
それを「浄橋・飽波」が無し得る「力も技術」も無いとすれば、「出自元の伊勢」にして貰う事以外に無いし、そもそも「出自元伊勢」も当初より「源氏化阻止」を目論んでの嫁家であった事から「充分な計画」を準備していた可能性が高い。

恐らくは、その「名目」は「持参金」成らずとも「持参地」として「圷の干拓灌漑開墾」を手掛けていた可能性がある。
この「名目」には「持参地」のみならず「和紙生産の楮生産地」としていた可能性がある。
(然し、美濃西域の米沢東の楮生産地は別行動で消える。)

この時期、矢張り、「源氏化阻止」を目論んで「近江」にも「圷の干拓灌漑開墾」を進めていた事を考えれば、「美濃」だけの「圷の干拓灌漑開墾」では無かった事に成る。
これの為に「伊勢」から「額田部氏」を指し向けたと考えるのが普通であろう。
故に、「地名」だけが記録に遺ったのである。(現在は消えている。)

「上記検証」での「圷野」にする為の「圷の干拓灌漑開墾」は年数が掛かる事は論じたが、故に「工事中の額田」と「工事後の一色」の地名が遺され、所縁のある象徴の「神社」と「本貫名」が遺された所以とも成る。

古代の「額田の地名」には、「額田部神社と穂積神社・室町期」があって、「一色の地名」には「清光院と神明社」という事であったと云う事は史実であるのでこの事に成ろう。
「当時の慣習仕来り」からすれば「地名と神社」は同時に遺すのが「普通の習わし」であった。

「地名」では無く、現在の愛知県の「額田郡・字・50戸1里・4k」は、「岡崎」から真南に3k、「蒲郡」から真西に2kの位置にある。

ここは「歴史的な経緯」から考察すれば、「昔の圷の地域」であった地域を室町期末期に「干拓灌漑を行った地域」である。
それ故に、それが前段でも論じた「国衆南下独立後」の「圷の干拓灌漑開墾」を行った事から古来の由来を以て名付けられた「額田の郡域の広さ」である。

因みに、この「額田郡域の地積」は「約57平方キロメートル・(57500石・50000人/1年)である。
これで「100年50000人の理屈」は成り立つ。

上記の経緯より、この事から「端浪や岡崎の一色」は「伊勢の出自元」が「当初よりの計画」により「額田部氏」に依って「圷の干拓灌漑開墾」が先に並行して行われていた事が判る。


注釈として、更に追論すれば、この「額田部氏」が“何故に「美濃伊勢近江」の「三つの地域」に関わる事に成った”かには、「朝廷内の職能部官僚族の勢力争い」があったのだ。

そもそも、奈良期と平安期には「土木職能部の官僚族」には「3氏」があった。
先ず初期は、最も古い族としては「天智天皇」に重用された「結城族」で、「道路や築城」を専門としていた。
ところが、「天武天皇」には「額田部氏」が重用された。
「墳墓や干拓灌漑」を専門としていた。
そして、「桓武天皇」に重用されたのが「和気氏」である。
「水利事業」を専門としていた。

この三氏相まって「一つの土木事業」が成り立つ事に成っていた。

ところが、此処で衝撃的な「ある事件」が起こった。
それまで重用されていた「額田部氏」が、この「勢力争い」の中で「飛鳥」からの「遷都」に同行して行かなかったのだ。

この為に、「朝廷」より厳しく罰せられて「平群の里」にあった「額田神社」を廃社された。
管理していた額田部氏を罰して管理手が無くなり、朝廷は結局見せしめの為に廃社したのだ。
つまり、“額田部氏を認めない”と云う「厳しい罰」を受けて仕舞ったのだ。
この結果、「結城氏と和気氏」が遷都事業を熟す事と成って伸びた。

これを観ていた「伊勢青木氏」は、「皇親族」と「賜姓五役」と「令外官」の役目を名目にして、この「額田部氏」を救い上げた。
天武天皇と持統天皇期の葬儀に合わせて額田部氏は墳墓を創建したが、この時の「葬儀」で“「施基皇子」と「額田部氏」が会った”とする記録が「日本書紀」や帝紀や他の古書一冊に遺されている。

この結果、飛鳥の「平群の里」を追い出された「額田部氏一族」と密かに「平群の額田神社の御神体」を持ち出し、共に「桑名」に移して「伊勢青木氏」は擁護した。
そして、この「御神体」を「桑名の地元」の「鎮守社」に隠したのである。(後に判った史実)
そして、「伊勢青木氏の職能部」の「青木氏部」に「額田部氏」を組み込んで護った。

その「五都の干拓灌漑の働き」が上記の論であるが、その後、この働きの「伊勢青木氏との連携」が高く評価を受けて、「伊勢青木氏」を出自元とする「仁明天皇」に依り「額田部氏」に与えられていた「社格式」が戻されると云う事に成った。
つまり、「額田部氏の存在」が復帰し、「額田神社」は「桑名の鎮守社」から戻して「桑名の額田」に建立祭祀する事が認められたのである。
この事から大手を振って「伊勢青木氏」と共に働いた。
ただ、この時には最早朝廷には戻らず「伊勢青木氏」と連携して「民間の土建業」として独立した。

「官僚族の和気氏や結城氏」と違って、この時に正式に日本の初代の「造部の民間の土木業者」として独立したのだ。
「伊勢青木氏」と「同じ生き方」を選んだ事に成る。

そもそも、「造部」は「朝廷の中」にあり、「伊勢青木氏の統括(造・伴の二つの諱の号を持つ)」で「青木氏の殖産事業」と共に働いたのである。
この関係は明治期35年まで続いたとされる。

其の後の栄枯盛衰は、「和気氏」に付いては鎌倉期に衰退し、結局、「藤原秀郷流の永嶋一族」としての「結城氏」が残り「民間事業者」としても明治政府まで続いた。

尚、前段でも論じたが「伊勢青木氏」は、「鎌倉幕府期」には「旧領地の部分と北勢域」は「本領安堵」され、残りは「地権域」として獲得している。
ところが、「室町幕府期」には「本領安堵域」は「旧領地の多い南勢域」に限られ、「大字のある北勢域」は「全て地権域」と成っている。
これで「額田部氏」も「民間の土建業」の地位も確立する事に成った。
「信濃」は前段で論じた通り「伊勢青木氏」と共に生きたのである。

何れにしても、この「青木氏の在様」を示している「地権域」に付いては、「幕府の政治的施策」に依り「金銭の支払い」で「地権域を買い取った形」を示した事を意味する。
江戸期は殆どが「地権域」と成っている。
江戸期には「尾鷲の旧領地」だけが遺されていたと伝わる。

その意味で、「額田部氏」は「信濃」も含む「総合商社の形態」を執り、その三氏の内の「構成氏」と成って生き残ったのだ。

余談とは成るが、余り「額田部氏の活動」に対して意外に「子孫」を増やしていないのはこの変の事が影響してると考えられる。
且つ、「遷都時の行動」にも観られる様に「天皇家より古い格式伝統」を重んじ過ぎた所以では無いかとも考えられる。
当然に、「宿禰族」でもあり「四掟」としては問題は無いし、「青木氏部」に組していたとすれば「伊勢や信濃や額田」との間には、「嫁家制度に基づく女系に依る血縁関係」があったと考えられる。
然し、何故か「表」には出て来ないのだ。
「氏人の伊勢衆の郷士衆」との間にも確認は出来ないのだ。
「子孫」を大きく拡大させられなかったと云う事もあるが、「戦国時代下剋上」も「青木氏」と同様に組していないし、「抑止力」で護られていた事なので、”表に出ないと云う事に何かがある”様に思える。

「額田神社の神道・神職」に関わる「宗教」なのかも一つの疑問で研究を続けている。
それだけにその「伊勢信濃の青木氏」と共にする「行動」は徹底していたと云う事でもあるだろう。
その「伝統に類する氏」は「天皇家」までも含んで周囲には居なかった事に左右したのであろうか。
それだけに上記で論じた事は「五都に関わる地域」の「美濃域や三河域」への関わりは頷ける。

(注釈 尚、「施基皇子と額田部氏との付き合い」に付いては、「天武天皇崩御の葬儀祭司総裁に「施基皇子」が選ばれた時からの事である。
この時、「額田部氏」は「臣の造の身分」から本来は昇格は「造部・みやつこ」は「臣」まである。
この「仕来り」からあり得ない「三階級昇格で、且つ特別計らい」で「宿禰族・朝臣族相当」に引き上げて貰った「天武天皇へのその恩義と寵愛」から「墳墓築造一切」を任された。
この事を観ていた「二人天皇の葬儀主宰」の「施基皇子」から特別に命じられて、そこからの「付き合い」と成ったと書記にある。
「編者の舎人親王」がこの事を態々特筆しているのだし、「帝紀」にも記載がある。
「天武天皇墓」は「野口王墓 明日香村」である。)

「額田部氏」が「遷都」に同行しなかったのは、「天武天皇への恩義」と、それへの「墳墓の護り」にあって、「明日香の平群」から離れたくなかったとされる説もあり、更には、その「平群」には「彼等の守護神」とも云える唯一の「額田神社」が別に在ったとする「合体説」があるのだ。
「後付け説」であろう。

恐らくは、「額田部氏の伝統や格式」から考えて「付き合い」の深かった「伊勢青木氏」も確定資料も無いが、この「合体説」が正しいと考えている様だ。
唯一つ、前段でも論じたが、「桑名額田」には、現存するが「宮大工の会社」が二つあり、幾つかの土木業の会社を「額田」で営んでいたとする史実が「伊勢青木氏側」にもある。
“「青木氏部」も明治35年に解体したが、その後、員弁や桑名で「宮大工業」を営んでいた”とする「確実な言い伝え」が「口伝」で遺されている。祖父からも聞かされていた。
然し、「額田の姓名」は何故か「額田部氏」ではない。

「穂積氏」は大きく子孫を各地に遺したが、この事から考えると、その差は主家と分家の掟の差と云う事に成る。
「額田神社」は格式は高いが対象神社が三つとする範囲であり、最終は「江戸期の統制」の対象外と成って「額田部氏が護るべき神社」と成った。
従って、つまり、“「額田神社」を永久に主家が護る”と云う義務があり、これに「縛られての差」であって、「神道の宗教・神職・神道」に関わる事と成った。
それ故に、「子孫」は本家分家共に「姓違い」で遺せたが、「主家の神職」としての「由緒ある筋目の額田部氏」は正統に遺せなかったと云う説が生まれる。

「青木氏」と同様に、主家が「神職族」であると云う格式から、つまり、高い「宿禰族」であると云う格式から、本来は「姓」は広げられない。
従って、「額田部氏」だけを何とか護ろうとしたが、結果として「神社」は遺せたが「氏名」は遺す事は出来なかったと云う説が頷ける。
「青木氏」は、「神明社」が有りながらも「由緒ある柏紋の神職・青木氏」を別に作り、これを徹底して「女系の四家制度」で切り抜けたのだ。
故に「神職青木氏」は各地で遺ったのである。

恐らくは「神職と云う事」から長い年代を「男系」だけでは難しかったと考えられる。
ここに差が出たのではと考えられる。
筆者は全国に広がる“穂積氏で繋ぐ”と云う選択肢もあった筈なのに其れもしていない。
それだけに「伝統を重んじた氏」であった事に成る。

(注釈 江戸初期の「神社の統制令」の内に入り「で500社程度を有する神明社」を幕府に引き渡した。
江戸幕府は財政的にも管理し切れず荒廃は極端に進んだ。
但し、「伊勢と信濃と美濃と伊豆」では密かに「祠」で隠して護り通した。)

「額田部氏の系譜」の中まで入れないので、この「推測論」に成るが恐らくは間違いは無いだろう。
それの遍歴が、現在は姓名が違うが「伝統」を護った「額田の宮大工」として遺ったとしているのだ。

だから「施基皇子の裔の青木氏」には,当に、“「墳墓からの付き合い」”と記されているのは、“この事を察して護った”とする暗示の「青木氏の説」があるのだ。


> 「青木氏の伝統 56−2」−「青木氏の歴史観−29−2」に続く。



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