青木氏氏 研究室
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  [No.380] Re:「青木氏の伝統 56−3」−青木氏の歴史観−29−3」
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/04/01(Wed) 09:21:17


> 「青木氏の伝統 56−2」−「青木氏の歴史観−29−2」の末尾
>
> (注釈 尚、記録に依れば、「滋賀県近江」と「滋賀県日野」で「火縄銃」は造られていたと論じているが、この何れにも「厳浄寺」があって、その所縁から「彼等の菩提寺」としてこの寺が遺されている。
> 琵琶湖の中央部に位置して直ぐ東横にこの「滋賀県近江の厳浄寺」があり、此処から「滋賀県日野の厳浄寺」が南東方向に22k、この「日野厳浄寺」から北東に10k、「日野厳浄寺」から「近江厳浄寺」まで北西に20kのほぼ「二等辺三角形の位置」にある。
> ここで、「近江銃、即ち、厳浄寺銃」が造られていたのだ。
> 「厳浄寺銃の説」はこれでも信用できる。)
>
>
> (注釈 即ち、鉄には「フェーライト」と「パーライト」と「オーステナイト」と云う「結晶組織の違う鉄」があり、これらは「加熱温度」に依って「炭素の結晶構造」が異なる事に依って起こる。
> これをある程度の速さで冷やすと常温でもその結晶構造が得られる。
> この「炭素量の多くしたパーライト状態」に「硫黄」を多く加えると「黄鉄鉱」と呼ばれる「極めて脆い金属」が出来て、叩くと簡単に「酸化火花」が出る。
> 「硫黄」は「鉄」に執っては「不純物」であり、「結晶の間」に食い込んで来る為に弱く、打つと結晶が破壊されて「空気中の酸素」と反応して酸化して「火花」が飛び散るのである。
> 「黄色の色」をしていて摩耗する。
> これを「火打ち石の代わり」にして「硝煙」に火をつけ爆発させる仕組みである。
> 従って、「専門的で進んだ論理的な銃」と云う事に成る。
> これは「火縄銃の仕組み」としては疑問である。)
>
> 要するに、「資料不足」の“「美化の2年の誤差」”を無視しての論説と成る。
> 「青木氏の歴史観」から観ても「長篠の戦記」には問題が多い。
> これも「江戸期の書き換え」であろう。


「青木氏の伝統 56−3」−青木氏の歴史観−29−3」


(注釈 「武田軍の読み取れる史実」
さて、前段に続いて、これは次の事も云えるのだ。

この「研究資料」には、“「織田軍後方陣地」に遺っていた「鉛玉」は変形が激しく「四角」に成っていた”としているのだ。
本論は此処に着目している。
これ等の判断に至った多くの「資料や記録の見直し」の「前提」に付いて「注釈論」として論じて置く。

(注釈 「銃弾の変形から読み取れる史実」
これは、つまり、「弾丸の変形」に付いては、“「武田軍」が「僅かな火縄銃」での「接近戦」でも果敢に死ぬ覚悟の突進応戦した事”を示しているのだ。
この事に大きな意味を持っている。
恐らくは、「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」の事は情報戦で武田軍は既に知っていたと考えられる。
それでも、「僅かな火縄銃」で応戦したと云う事は、一つは”未だ「火縄銃の効果」を低く観ていた”か、或いは、”調達出来なかったか”であり、筆者はこの両方であったと観ている。
何故ならば、「赤兜の騎馬軍団への信頼」と「風林火山の概念の強さ」にあったろう。
戦いは、要は、”風林火山にあると云う概念”が余りに強すぎたのであろう。
だから、一発撃つのに15分も所要する火縄銃である以上は「固定して戦果を揚げる火縄銃兵」でありながら、何と突撃すると云う事が興ったのであろう。
弓であればこれでも何とかなるだろうが、「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」が目の前にあるのに何かの戦いの概念が間違えていた事を示すものである。
これは「銃兵」に対して「騎馬軍団」と同じ考え方にあったと観ているのだ。
且つ、これは同時に“「数少ない銃であっても風林火山でやれば戦果を掲げられる”と真剣に考えていた事」を示すものである。
況して、この「変形具合」の意味は、体では無く何かの“「堅い織田軍の防護壁」”に当たった事を意味している。
“「堅い織田軍の防護壁」”のこれを物語る資料が遺されていない。
「櫓と防護柵」を設置したとする事は記録されているが、これは騎馬軍団の突撃の防止と最前線にいる銃兵の保護にあった。
これは“「堅い織田軍の防護壁」”には成らない。
「石柵か鉄板」以外に無いだろう。
防護柵以外に「銃兵」の前にこの二つの何れかを「盾」にして置いていた事に成る。
この事は「織田軍」の「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」が「武田軍の銃」を事前に予想していた事に成る。
筆者はこれは「製鉄の地の雑賀地域」を重視して「鉄板」であったと観ている。
「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」だからこそ「近江と日野の銃」の「裏ルートの移動先」に付いて「情報」を得ていて「武田軍が僅かながらも銃を持っていた事」を事前認識していた事を示している。
「武田軍の少ない銃」でも「常識」を破って突撃をしてくれば、「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」に「木の馬防柵」を貫いて超えて当たるから、これを防ぐには鉄板の盾の様な物を前に置く必要があった筈である。
「武田軍」はこの「銃の固定式の常識」を戦術的に敢えて超えて使ったのでは無いか。
何故ならば、下記の様に「三つの起伏の丘」が間に有りその「距離が約2kある」とすると、「銃の固定式の常識」は使えない。
「織田軍」は西で動かないと成れば、東の武田軍がこの「2kの間」を詰めなければ成らなくなる。
この「睨み合い」の中の期間を利用して後ろに酒井軍を廻して弓と少ない銃で前に進む様に仕向けたと考えられ、故に、これ等の行動を執ったと考えられる。
そもそも、然し、だとすると「武田軍側の三カ所の銃弾跡」は、「織田軍の1000丁の銃」の数にしてはそもそも少なすぎる。
これは「弾丸」は「馬や人」に食い込んだ事を意味するのか。
「二万軍の7割」が「銃撃で死んだと云う事」はこの事を意味するのであろう。
将又、「織田軍前戦」の「弾丸」は、「赤兜の騎馬兵」より前に前進していた「武田軍」の「数少ない銃隊」に当たった事を意味していて、それは「決死の抵抗戦」があった事を示している事にも成り得る。
そこで、そもそも戦場と成った「設楽地域」は「起伏の多い地形」であった事から、「武田軍」を「銃弾の確実に届く位置」まで引き出そうとする戦略を駆使していたのかである。
つまり、何故に、「戦い難い地形」のこの「波打ち地形」を態々選んだかである。
それは別の資料で「信長」は進んだ「西洋の事」を知る為に宣教師から講義を受けていたとする記録があり、その「講義の資料」の中に、この中で「イタリアの戦いの史実」を宣教師から教えられていたとする記録がある。
それによると、「起伏地形を利用する戦術の事」が欧州であったらしく、当時の日本の戦い方の中にはこの考え方は全く無く、前段でも論じた様に「魚鱗陣形」や「鶴翼陣形」等の寧ろ河原などの「平坦な地形」で戦う戦法であった。
そこで「信長」がこれに驚いて「宣教師」に執拗に詳細に聞いたとする記録である。
そこで「地形」は東西に先に来て配置し、西には織田軍、東には武田軍で配置し、この間の1.5kには小山が3つあり、「信長軍の本陣」は「戦地本陣」より西寄りの大きな平地1.9kに置いていた。
そして、「戦い」と成った位置は「信長ー勝頼の陣地」より織田軍方西より7割の位置の南寄り0.5kの小山と小山の間で決戦した。
かなり「織田側」は引き付けた事がこれで判る。
銃弾が確実に届く600mまで引き付けていた事に成る。
そうすれば、後ろに回った東三河の酒井別動隊の効果も出るし、この効果も出たのであろう。
要するに「武田軍側の銃」は前に出るしかなく無くなった事に成る。
この「二つの記録」を合わせると「長篠の戦い」は、「なだらかな起伏の多い地形」を選んで待ち受けた事では符号一致する。
然し、史実では「少ない銃隊」の後ろに控えていたされるその「赤兜の騎馬兵」が、記録に依れば“「後詰め」で有りながらもほぼ全滅であった”としている事から、「武田軍本隊15000」の内の「僅かな突撃銃隊」は、間違いなく「全滅であった事・武田軍1万の戦死」に成る。
とすれば「弾丸」は余り戦地に遺らない事に成るが、この作戦は、「東三河の酒井軍の銃に長けた者2000隊」に「織田軍自身の500の銃」を加えた「別動隊・酒井軍」を「武田軍」を挟み撃ちにする様にして攻撃したとされている。
「東三河の酒井軍の弓銃に長けた者2000隊・イ」に「織田軍自身の500の銃兵・ロ」に付いての記載では、イには「銃兵」とは書いていない。
これは「吉田城での経験」から始めて「銃撃戦」を経験した「銃経験者の事」を意味しているのだろう。
この時、既に「額田青木氏の銃隊」は三河の国衆を辞していた。
イに付いては、要するに“銃を持っていた”とする前提の記載では無く、「弓と経験」を意味しているのであろう。
ロに付いては、「織田軍の500」なのか、「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」を割いたのかは書いていない。
前段でも仮に「織田軍の500」があるのなら「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」はいらない筈で、そもそも、「近江・日野」からそんな数の銃を裏ルートで調達どころか生産能力も無かったので先ず無かった。
更に「火縄銃」はそもそも高度の経験を要するので、簡単に出来るものでは無く、「貿易」で獲得できる数では無いし、経験も得られない。
だとすると、「1000丁の雑賀、根来の銃傭兵軍団」を二つに分けたと考えられる。
これで以て「銃による挟み撃ちにした作戦」であった事に成る。
つまり、二つに割くと云う事は,”武田軍側の銃の数が多くない”との「情報」を得ていた事に成る。
多ければ二つには割けないし、だから、割いたのであり、これが「弾丸の数」に表れているのだ。
これに付いて興味ある記載があって、「信長」は「武田側の銃の数」から判断して徹底して「兵の死傷者」を無くす作戦に出たとする記載があり、「無防備の銃兵」の死傷は著しい戦力の低下を招く為に、取り分け、発言として“銃兵の死傷者を出すな”と命じたとある。
それは、「長篠・設楽の波打つ地形」を利用して、この「へこみの地形部」を「掘り」に見立て何重にも「柵・馬防柵」を巡らし、「へこみ部」には兵を隠し分散させて、ここの最前線に「無防備の銃兵・雑賀は製鉄」を幾つかに分けて配置して護ったとある。
この最前線に「無防備の銃兵」の為に、それ故に「柵・馬防柵」に「鉄板・雑賀族の所以」を設けたのであろう。
これが「変形の弾丸」と成ったと考えられる。
極めて合理性が出ていて理解が出来るし、恐らくは「史実」であろう。)

(注釈 「龍源寺銃・厳浄寺銃の火縄銃」
この説では、この時に使われた「火縄銃・マッチロック式」は、「長篠1575年」の後の「8年後の銃物・1583年」であって、この銃は歴史的に遺されたものとしては、“使用された最古であるとする研究結果”がある。
これは要するに「龍源寺銃」・又は「厳浄寺銃・近江日野の菩提寺」と呼ばれるものであるとしている。
つまり、「時系列が違う」と云う説である。
そうすると、この研究説によれば、「松平軍」は「長篠の戦い」の時には、未だ「火縄銃」は持ち得ていなかった事を示していて、持ち得たのはそれが「8年後の銃物・1583年」の“「龍源寺銃・龍源院銃」”であったとしているのだ。
理窟上は、この時に両軍が使った銃は、「武田軍」は兎も角も「松平軍」が「長篠で使った銃」は、持っていなかったか、将又、日本製では無かったと云う事に成るか、後に入れ替えたかである。
つまり、「松平軍の銃」は日本製でこれが要するに「近江・日野の銃」と呼ばれるものであった事に成る。
この“「龍源寺銃・龍源院銃」”とは、要するに「近江銃の事・厳浄寺銃」であるのだ。
この「厳浄寺」は、「二か所・近江と日野」にあって、共に「近江と日野」で「銃」を造っていた地域にある寺である。
ここが「彼等の菩提寺」であった事も資料から判っていて現存する。
室町期に「近江」には「生産地・連携」が「二か所」にあって、且つ、「菩提寺」であった事は、彼等は「血縁族であった事」を意味し、「近江郷士衆であった事」の「職人族」に成る。
この「生産地」は「別の資料」では、「近江と日野」は「独立した生産地」では無く、一族の「分業生産」であったとしている。
「菩提寺」が同じならこの説が正しい事に成る。
そもそも、「独立した生産地」であるだけの「財源力と資材の供給力」は元から無く、「堺」からの「資材と財源の供給の態勢」であった事が記録から判っている。
更に、「重要な事」は、この「龍源寺の方」は、関西地区の特定の地域には「11カ所」あって、当然に全て歴史的に「室町期」の“「火縄銃の生産関連地」”であって、その寺は現存するのだ。
それは、次の「四地域」に分類されるのである。
A 「雑賀」、「堺」、「伊勢」
B 「田原」、「渥美」、「豊橋」、「豊川」
C 「近江」、「日野」
D 「姫路・摂津」、「松江」
以上の「A〜Dの四地域」である。)

(注釈 「A〜Dの四地域の持つ意味」
これは結局は、前段でも論じた様に、「銃のシンジケート」を意味し、この「シンジケート」に依って見張らてブロックされていて、従って、前段でも論じた様に「近江・日野」からしか「銃」は「抜け穴」として得られなかったと云う事になるのだ。
前段でも少し触れたが、この「近江・日野」を「伊賀青木氏の伊賀忍者・香具師」で見張っていた事が判っていて、最後には実力行使した様である。
この「龍源寺」とは、抑々、当時、室町期には“「寺」”と云うよりは、寧ろ、“「銃シンジケート拠点」”の「役割」の為に存在していた事を意味するものなのだ。
筆者は、この「近江・日野の銃」を“「龍源寺銃」”と名付けられていた説には「大賛成」であるし、その中でも「近江・日野銃」を“「厳浄寺銃」”としている「青木氏の資料」を採用している。
「青木氏の中」では、彼らの独自の呼称として呼ばれていた「火縄銃」を採用して、資料には態々その様に呼称して遺していた事に成ろう。
「龍源寺銃」の中でも「厳浄寺銃」を別に何らかの理由で呼称を使い分けていた事を示す。
この呼称は、「伊賀青木氏の伊賀忍者・香具師」の影響が強かったと考えられる。
恐らくは、これだけの「拠点作り・龍源寺」は、「財源的」に観ても、将又、全国に張り巡らされた「神明社的」に観ても、これを成し得るのは「伊勢屋・伊勢青木氏」しか出来なかった筈である。
取り分け、「AとBとD」がそれを如実に示している。
Dに付いては、「搬入港・伊勢屋の支店」であった事は間違いない事で、Bは前段からも論じている「額田青木氏の国衆」での「渥美湾の搬入搬出港」であった事に成る。
Bは銃を生産していないのだが、何か「銃に関する役割」を「伊勢」を通して果たしていた事を示している。)

(注釈 龍源寺の役割」
この寺の「詳細な役割」を現在より調べてはいるが、判っている範囲では、そもそも、「銃に関する龍源寺が情報拠点であった事」だけは判っている。
然し、Cを除いて「厳浄寺」が無い処を観ると、「情報」のみならず密かな「補充材の供給の拠点」でもあったと考えられる。
前段でも論じた様に、「青木氏仕様の改良」の為に「秀郷流青木氏」にも「試作銃」を「当面の抑止力」として渡している以上は、此処を利用したと考えられる。
その「証拠」に、前段での「伊豆の論」でも論じた様に、実は次の拠点にも「龍源寺」はあったのだ。
1 「伊豆青木氏の拠点」の近くの「伊豆・2カ所・神明社近隣・梅木」
2 「神奈川・藤沢・2カ所・神明社近隣」
以上の2カ所にもある。
何とこの他に3と4としても存在する。
3 「伊勢名張青木氏の館の清蓮寺」の「4k東」に所にある。
ここは他と違って、特徴としてまさしく“「神明社」に取り囲まれる様”に「龍源寺」が存在するのだ。
4 全く同様に前段で論じた「神奈川」の「秀郷流青木氏の拠点」のある所にも「神明社・4カ所」に囲まれて同様に「近隣2カ所・隣接」に存在するのだ。
これは単なる偶然で無く、「恣意的な必然」である。
そもそも、前段でも論じている様に、「青木氏の菩提寺名」の「本寺」は「密教清光寺・院・せいこうじ」であり、別に「分寺」として「来迎寺」がある。
「秀郷流青木氏」は「西光寺・せいこうじ」である。
「上記の事」から勘案すると、この「厳龍寺」は、何か“「特別な目的」”を持って配置していた事に成る。
其れも特徴として全て「神明社の近隣」にであり、且つ、「神明社二社」に依って囲まれているのだ。
筆者は研究した状況証拠の分析の結果から、これは「表向き」の“信仰の対象の寺”と云う事よりは、「裏の役目」は「室町期の情報と供給の拠点」であった事に成るだろう。
そして、その近隣に「神明社の二社」があると云う事は、これは“神明社と厳龍寺は補完し合っていた事”に成る。)

(注釈 「龍源寺である理由」
では、そこで、「表向き」のこの「神明社の補完寺」とすれば「龍源寺」は、普通なら「密教浄土宗」と成ろう。
然し、全てが違っていた。
「密教浄土宗」と考え方を類似する「永平寺」を「禅宗総本山」とする“「曹洞宗」”であり、中には同系の「臨済宗」もある。
つまり、“これは何故なのか”である。
そもそも、この「曹洞宗の裏の活躍」は、歴史的にも有名でそれは“「役行者・修験道の僧侶」”などに表現される様に、全国各地を廻って心を鍛える修行をしながら「情報を基にする諜報活動」をも行っていた宗派でもある。
この事から、「伊勢」はこの「龍源寺」を「神明社や清光寺の役務」とはし難く、「曹洞宗の寺」としての「表向き」を造り上げていて、同時に「曹洞宗を補完していた事」が考えられる。
現実に、この“補完を証明する物”として存在するのだ。
前段でも論じた様に、「伊勢青木氏」では鎌倉期から伊勢に「曹洞宗の高僧」の多くを長く逗留させていた実績があり、この状況は昭和20年まで続いていた。
この「鎌倉期から昭和期」までの間の「曹洞宗僧侶達」が遺した「書画彫刻陶器」が今でも多く遺されている。
中には「室町期の永平寺貫主の書・額」もある。
これは、前段でも論じた様に、「密教浄土宗の白旗派」の「律宗族」として「室町幕府」から“特別に原理主義を浄土宗とする認定”を受けたが、この時から、「密教浄土宗・律宗族」で在り乍らも、“「永平寺の曹洞宗」”を支援していた事を意味しているのだ。
これがその「名残・補完」を証明する上記で論じた“「龍源寺」”でもあったと考えられるのだ。)

(注釈 「二か所の龍源寺の存在理由」
そこで、“何故、傾向として「隣接二か所・2k〜6k」の隣接域に存在させたのか”である。
現存している「龍源寺」もそう成っている。
この事に「大きな意味」を持っている。
確かに“特定した地域である”と云う事もあるが、そもそも「寺の目的」であるのなら「建造」は1寺でもよい筈であるが、上記の通り不思議に「隣接2寺」なのである。
この「隣接2寺」は「宗教的役目」の“「信者の囲い込み」”にもあったと観ている。
「座禅や修験道」で“心を鍛え悟りを得て「大日如来」に導かれる”と云う概念は、そもそも農民などには取り入れ難い概念であって、主に、「郷士や原士等の武士階級」に取り入れやすい概念と成る。
従って、「信者獲得」には、「地域限定の囲い込み」が必要があったのだ。
現実に、「中国生まれの儒教の影響を受けた概念」であって歴史的にも信者はそうであった。
この事はそもそも、「地域性が強く出た結果」と判断できる。
この傾向が、“伊勢青木氏に執っては都合が良かった”と考えられる。
故に、積極的に「伊勢青木氏」は「補完目的」として建造したのであろう。
仏教伝来以降は「密教浄土宗」は「高位族の対象」であった事もあって「曹洞宗」を補完したと考えられる。
取り分け、Bに付いては、「情報・供給」は元より「郷士や原士等の武士階級の信者獲得」のその意味合いも強かったと考えられる。
これに依って“「地域との絆関係」を高める手段”ともしていたと考えられる。
そして、ここから出される「貿易」によって得られる「黄鉄鉱や硝煙」を含む「火縄銃の事」を以て「龍源寺銃」と呼ばれたのであろう。
必死に成って「近江・日野から出される裏の銃」や「外国から持ち込まれる火縄銃」を、“無秩序に社会に使われる状況に成る事”を牽制したのであろう。)

(注釈 「近江・日野の掟破りの背景」
上記した様に、この様な「シンジケート」で固められた「龍源寺銃の組織」のある中でも、「火縄銃の掟・龍源寺銃・厳浄寺銃」に反して、「社会に悲惨な結果を招く様な武器」を「横流し」してでも、況して香具師に見張られていながらもこの様な「勝手な行動」を敢えて執ったのだ。
それは富に目が眩み無秩序にした「金銭の取得」であった。
「厳浄寺と云う組織」が「龍源寺と云う組織」に見張られながらも「銃の堅い掟」を破ったのだ。
その結果、この「近江・日野」も「堺」に「財源や資材」をブロックされて飛散する結果と成ったのだ。
兎に角にも、論点は逸れるが、「銃のシンジケートのブロック・龍源寺銃」は「戦乱」を拡大させ「被害」を拡大させる「銃の武器」を統制していた事では賛成出来る。
且つ、この組織は「武器を持たない青木氏族」に執っては「抑止力を最大に高める手段」でもあった。
これが世間に広まつた場合は「青木氏族の抑止力」は無くなる。
故に、「銃のシンジケートのブロック」に「巨万の富の全財産」を注ぎ込んでも必死で「最新の貿易情報」を掴み取り組んだと考えられる。
その意味では。「額田青木氏の国衆に与えた近代銃」は飽く迄も「武力」では無く、伊勢の裔系の「額田青木氏」を護る牽制銃であった事に成り、「額田青木氏の300の銃」に付いては「歴史的経緯」もそうなっているのだ。
筆者は、「青木氏の抑止力」を無くす“「室町期の貿易」”に依って無秩序に持ち込まれる「火縄銃」を、この「龍源寺の力・シンジケート」で何とか抑え込んだのではないかと考えている。
況してや、「銃を持ち込まれる事」は、中国の例に観られる様に、外国に侵略される前提であった。
それ故に、「水軍や伊勢シンジケート」と補完し合った「龍源寺シンジケート」で威圧して「貿易」を側面から抑制し牽制したと観ている。
それ故に、「財力」で横から買い取る意外にも、密かに、「水軍」で外国船や密貿易船を攻撃する、又は、「陸揚げされた銃」を「香具師」等で攻撃する程度の事はしたと考えられる。
「奪い買い取った銃」は廃棄する等の事もしたと考えられる。
「近江・日野」から約35年後の「秀吉の刀狩り・1588年」と、「江戸期」では「銃規制・1605年」で「禁令」と成って「抑制」は、更に働いて「抑止力」は護れたのだ。青木氏の抑止利欲はま)

(注釈 「堺の近江への戒め」
資料の読み取る範囲では、“100年弱程も前から「情報」を掴み何時しか「見本」を取り寄せて事前に「抑止力」の為の「銃の研究開発」を進めていたと考えられる。
故に、その様な「戦国や下剋上の乱世」の中で、「青木氏の抑止力」を弱める「銃の武器」を敢えて「松平氏」には渡す様な「矛盾した判断と行動」はしないと成るだろう。
「平安期の源氏化」と「奈良期の額田部氏の干拓灌漑」に反して、又しても「勝手な行動」を執った「近江族」を“「堺・支店」”を拠点として「伊賀青木氏・香具師」を使って戒めたのである。
結果としては、この「伊勢青木氏の背景」とした“「堺の戒め」”が「近江・日野の崩壊解散」と成り、各地に「銃職人」が飛び散る結果と成って仕舞ったのだ。
ところが、「堺の戒め」に対して、この事で恐れていた“「危険な状態」”と成って仕舞った。
この「近江・日野の鍛冶職人」を「伊勢に引き取る事」で解決できると観ていたし、その様に事は進んだ。
ところが、又しても「日野から裏切り」が出たのだ。
この「日野」は、「青木氏の存在した近江の域」より「北東に20k」の位置にあり、更に「甲賀青木氏の域」より「10kの北東」にある。
つまり、「日野」は「青木氏域の域・定住地で在った所」にないと云う事である。
「近江・日野」が離散した時、殆どの「銃職人・鍛冶職人」が「伊勢」の「伊賀・香具師」に護られて逃げ込んで来た。
そして「青木氏部」に組み込まれて「殖産の機械」を造ったのだ。
この「近江たけの事」は、平安期で滅亡したが「何らかの支流傍系」が生き残り、「銃職人」として「堺・摂津」から支援を受けて僅かながら生き延びていた事を意味する。
その「絆」を頼って「伊勢」に庇護を求めて来た事に成り、「青木氏部」の中に庇護したとしているのだ。
取り分け、「伊賀青木氏・香具師集団」が「支配頭」と成って「殖産・和紙等」の「青木氏部の服部」に組み込まれたのだ。
然し、この「近江」と「日野」との“「厳浄寺・菩提寺」”で示す様に、相互に「繋がり」があったとしても「伊勢」とは繋がりはなかった。
これが先ず「日野からの裏切り」と成ったのだ。
前段でも論じた様に、「伊賀青木氏」は、この為に「香具師・情報や諜報を行う忍者・露天商に変身」を近江に廻して抑え込みを図ったのだ。
当時の慣習では、止むを得ない仕儀であったかも知れないが、「日野の職人」は薩摩等の四か所に散ったのだ。
これが世に旧式の火縄銃が拡散する結果と成って仕舞った。)

(注釈 「銃のシンジケートの縛力」
「雑賀・根来の銃のシンジケート」が、「近江・日野の行動」に依って、「火縄銃」を無制限に販売放出する事は、「雑賀根来の防御のブロック・銃の傭兵軍団」が効かなく成る事をも意味した。
その意味でも、絆を維持する為にも「放置」は出来なかった。
今度は、この事に依って逆にその「為政者等に依る反動」が、“危険極まりない集団”として「名目」を着けられて「雑賀・根来・堺の傭兵軍団」に向かって、「弾」が飛んで来る事に成ったのだ。
「伊勢」も同じでその「抑止力が無くなる事」を意味したのだ。
史実は「信長との争い・1577年」から「秀吉の紀州征伐・1588年」としてそう成って仕舞ったのだ。
そこで、「雑賀・根来の連合郷士集団」はこれに対して自らが自らの「銃武力と集団力」で護ろうとした。
それが出過ぎた為に「雑賀・根来」は耐えられ無く成ったのだ。
弱点であった絆も弱さが「裏切り」として出たのだ。
これが何と「長篠の戦い・1575年」から「2年後」に始まり「13年後」にはこの決着が着いてしまったのだ。
この“「2年後とする事」”は、織田側に執っては「長篠の始末」が着けば、次は危険極まりない恐ろしい惣国集団の「雑賀根来を抑え込む事」にあって始めから考えていた事に成る。
結局は「雑賀・根来」は、信長は「武力」では犠牲が大きいと判断して、「瓦解させ時」は始めは弱点を突く「調略」に依るものであった。
「忍者系の要素」を持った南部の「鈴木派・2派」では無く、北部の「土橋派」を調略した。
「鈴木派2派」は更に2派に分かれていた。
この1派が其の後に「紀州藩の忍者・諜報」と成って其の後活躍した。)

(注釈 「雑賀根来の銃生産の経緯」
「雑賀・根来の銃生産」は、元より「彼等のシンジケート」の持っていた「火縄銃」、或いは「生産した火縄銃」は、最低でも「1000丁」と云われいて、最大でも「1500丁」と成ると記されている。
前段の検証でも「生産力」から「最大1500丁」は超えないであろう。
記録や郷土史の論などから観て観ると、「種子島」に渡り「1543年から2年弱の期間」で学んだ「津田監物」が持ち帰ったとする「銃技能」とその為の「資材と投資」を得てから「生産」までに到達させ使い熟すのに「計4年掛かった」とされている。
そうすると、「堺の鍛冶職人」に「模倣品」を作らせ「1547年」に根来で分業生産開始と成り、その後、当時の「大製鉄地の貿易港」を持つ「堺と雑賀」にもこれが広がり「量産」に至ったのだ。
この時が「本格生産・1549年頃」と成るとしている。
2年後であるが、これが「1552年頃」には、「堺・近江」と「雑賀・根来」で年間で「最大で100〜200丁程度」で在ったとされている。
「堺の生産分」は、その後に「別枠・フリントロック式改良試作銃」で全て「伊勢」が引き取ったとしているので、「近江・日野域と根来・雑賀域」が「火縄銃の主な生産地」に成る。
恐らくは、それまでの「堺の火縄銃」とされるのは「堺からの資材と財源」の供給をし、「近江」に生産を委ね、「近江」は「日野との連携」で分業生産したと観られる。
ある郷土史ではその様に書かれている。
従って、結局は、未だ圧力の受けていない「長篠の戦い」の時までには、「火縄銃の総合生産量」は、「23年の期間」を得ているので、単純計算では、2年後の「1577年」で「雑賀の火縄銃」だけと成る。
この時は、既に「根来」は、「信長」より間接的に「強い宗教圧迫」を受けていて、且つ、「仲間割れ」に依り弱り、況して「北紀の奈良に近い寺町」でもあった事から「生産」はしていないので、結局は半減している筈で最大でも「50丁程度」と観られる。
そうすると「23年・50丁≒1150丁」と成る。
注釈として、前記した様に勝手な振る舞いをした「近江・日野の銃生産」は「堺の圧力・伊勢の圧力」を受けて衰退に近く数は計算に入れない。
とすると、「長篠の戦い・1575年」では「雑賀・根来の銃傭兵集団の1000≒1150」は数的な検証から納得できる。
結局、「信長との争い・1577年」、「秀吉の紀州征伐・1588年」と「1588年頃・刀狩り〜1605年頃・銃規制」に依って、この「銃の経緯」は、全国に「1000丁銃とその傭兵」は飛散したとされている事に成る。
「公的記録」では、「近江」と同じ様に、“一端、「伊勢・伊勢屋青木氏」に移動した”とある。
郷土史等では、「雑賀根来の火縄銃」は没収されているので、「1500丁」は無い筈なのだが、「約500丁の火縄銃」を「雑賀の鈴木派の1派」が紀伊山脈に逃れて持っていたとされ、これで忍者活動や猟銃に使用されていたと記されているのだ。
そして、この1派が「紀州藩の忍者」と成ったと地元では云われていて、「吉宗の伝記」でも「雑賀忍者」は「甲賀忍者」と競り合いをしたと伝えられている。
そして、「伊賀青木氏の伊賀忍者・香具師」も「幕府の甲賀の情報収集」に対抗して「紀州藩」に着いたとされているのだ。)

(注釈 「雑賀の経緯・松平氏の銃の検証」
そして、その後、滅ぼされた「雑賀氏の一部」は、元の「忍者集団・雑賀忍者」に戻り、山に入り、更には、“紀州徳川氏」に「忍者・銃兵」として仕官した”とある。
この史実からすれば、上記から論じている様に「徳川氏の火縄銃」は、“この銃であった事”にも成るがこれに付いての確認は状況証拠しか取れない。
つまり、この事は「長篠の戦い」の後の「2年後・1577年」には「紀州藩」を通じて密かに“徳川氏に流れた事”を示しているのだが、然し、御三家で在り乍らも幕府から「謀反の嫌疑」を掛けられる等してこのような関係には少なくとも無かった筈で500丁の銃を渡せば益々嫌疑は高まる事に成る。
この事では、“「紀州徳川氏が持ち続けていなかった事」”に成るが、史実は紀州藩に火縄銃は秘匿して留まつていた事に成る。
これが密かに漏れて「謀反の嫌疑」に成っていた事も考えられる。
「謀反嫌疑の表向き理由」は、「伊勢藤氏の大量の家臣」として雇いこんだ事と成っている。
果たして、「初代藩主頼宜」が「水戸藩主・1603年、駿府藩主・1608年、紀州藩主・1619年」と云う経過から、仮に、「雑賀忍者の銃500丁」が准仕官して血かとして「紀州藩」に渡った事としても、そもそも「1577年」とは年代が違う事に成る。
これはどういう事なのかである。
「徳川氏の火縄銃の銃力」は、別の資料の史実では「計500」とあり、「200」が「東三河の酒井軍の奇襲隊」にあり、「300」が「本隊」に配置したとしているのだ。
多分、「後付けのシナリオ」であろうがその様に記載がある。
ところが、「松平軍の銃のタイプ」は、ある説では「1588年厳龍寺銃」とされている。
では、「織田軍」が獲得したとする「雑賀・根来の1000丁」は、「本能寺の変・1582年」から「小牧長久手の戦い・1584年」で権力を握ったとすると、この「織田軍の1000丁の銃」は「徳川氏」には未だ渡っていず、殆どは「秀吉側」にあった事に成る。
この「1000丁の銃」を「織田軍の中」でどの様に分けたかにも依るが、少なくとも「徳川氏」には未だ渡っていない事に成る。
「小牧長久手の戦い」の後の「4年後」の「刀狩り・1588年」の中で密かに「密貿易」で「火縄銃」を獲得したとする考えもあるが、「500丁の火縄銃」を果たして獲得できるかにある。
「絶頂期の秀吉」がこんな松平氏の「大量な火縄銃の獲得」のこれを認めるかにあるが先ず無いであろう。
其れこそ、秀吉から家康は謀反わ掛けられる破目になるだろう。
この様な「大量の火縄銃」の「密貿易の銃の限界値量」が「刀狩りの警戒」の中で“「松平軍」に全ては行く事は先ず無く”、そもそも、これだけの量では疑われ警戒される。
史実としてその様な「事件」は無い。
それこそこれは「秀吉の基盤が崩れる事」を意味する。
そうすると、「松平氏・徳川氏の500丁」は、何なのかと成る。
「1000丁の行方・織田」と「残りの500丁の行方・雑賀」である事は判っているとすると「密貿易説」は無いとして、“何処から調達したのか、将又、殆どの「徳川氏に関わる記録」が「修正脚色」された現実から「江戸期の修正」なのかに成る。
第一、「17年後」に「銃規制・1605年」が「徳川氏」に依って行われているのだ。
筆者は「銃規制後頃」に、直ちに「徳川氏に関わる記録」が「修正脚色」が行われたと考えている。
この事に依って、幕府は“各大名を牽制した”と観ている。
そこで、次の疑問は「織田軍の1000丁」が「秀吉」に全て渡ったのかである。
「本能寺の変・1582年」から「長久手の戦い・1584年」までの「2年間の戦記」では「火縄銃の使用」は「山崎の戦い・1582年・明智」と「賎ケ岳の戦い・1583年」の二つであるが、「戦記」では何れも銃は使われている事に成っている。
特に、「明智軍」は「銃の使い方」が上手かったと記されていて、軍勢で倍の勢力を持っいたが「秀吉」は、この“「光秀の銃」”を警戒していたと記されている。
この「二つの戦記」が正しいとすると、「信長」は「織田軍の中で分けたと云う事」に成るだろうが、どの様な形で分けたかは判らない。
「長久手と山崎の二つの戦い」で、結局は“「火縄銃」が「戦利品」として全て秀吉に渡った”と云う事に成る。
凡そ、「雑賀・根来の保有の1000丁」、つまりは、「2年間の間隔」で矢張り「織田軍」から「秀吉」の手元に渡った事に成るだろう。
「自然の流れ」は、つまりは、「長篠後」は、“傭兵軍団を雇っていた織田軍”から「秀吉」に渡ったと云う事に成ろうから、この“「銃の威力」”で「秀吉」は天下を取り「家康」はこれを恐れたと云う事の原因説が生まれる。
この「銃の威力」を高める為に、「秀吉の天下」をより確実にさせる為に「刀狩り・1588年・刀や銃などの許可なく武器の保持の禁止」を行ったと観ていて、家康もこの「銃の威力の自然低下」を待つしかなかったと読み取れる。
それが、「銃の威力を上手く使い熟す光秀」と同様に、これを観ていた「家康」は、又、「秀吉」に対しても「銃の威力」を上手く使い熟す為に、最後の策は「秀吉の死」であったろう。
唯、ところが、「記録類」をよく精査すると、どれも「織田軍1000」と成っていて、それが「秀吉」に渡ったとして、残りの1/2に当たる「500の銃」は何処へ行ったのかと云う恐怖感が「秀吉」にも「家康」にもあった筈である。
「刀狩り・1588年」では、集まった「火縄銃」は「100丁程度」であった事が記されている。
その前に、「第1次・1570年・信長」から「第4次・1591年・秀吉」まで行われた「紀州惣国の討伐」で、この「500丁の火縄銃の存在」を徹底的に掃討したのであろう。
「刀狩り」で「100丁もの火縄銃」が出て来る事が証明された以上は、「紀州惣国衆」が持っていたと判断されて、徹底的に潰されたと考えられる。
戦利品としてこの「火縄銃」が凡そ確認されたのであろう。
何処に潜んでいるか判らない為にその証拠に高野山も攻められているのである。
然し、結果は歴史的に後で判った事であるが「雑賀衆の一部」が密かに山中で隠し持っていた事に成るのだ。
これが上記した様に後で判った事ではあるが、その行方は「紀州藩」に組した「雑賀忍者の銃の根源」であったのだ。
歴史は、全てを秀吉は探し切れなかった事に成るのだ。)

(注釈 「500の銃の行方と松平氏の銃の根拠」
上記の検証でも、「生産状態」に入った段階での最大で「3年間1150」と成っているので、それまでの銃を勘案すると、銃は「1500」と成り得る。
この「500の差の銃」である。
そこで、更に「郷土史等の記録」から観てみる。
紀州は「惣国性が極めて強かった事」から「郷土史等の地元の資料」から読み取れる筈である。
「紀州討伐」では、結局、「雑賀衆」が全員潰された訳では無く、「鈴木系の雑賀衆の北部一派」は“山に逃げ込んだ”とされていて、地元でも「ゲリラ作戦」で「山の戦い」を挑んだと伝えられている。
筆者も地元の口伝で聞いた事があるし、現実に「雑賀氏の子孫」は現在の「鈴木氏の発祥地」でもあり、且つ、この「雑賀氏」は今でも「宗家・藤白」のある「海南市」に多く住んでいる。
筆者には「雑賀さん」の「知り合い」もいるし、学校の旧友の中にも居る。
口伝では、“紀州征伐後に山から下りて来た”とされている。
地元の山の真言宗高野山本山にも逃げ込んだと伝わる。
恐らくは、この「鈴木氏系の裔系の雑賀衆」と「宗教集団の根来衆」が団結してこの「500丁の銃」を持って山に逃げ込んだと考えられる。
要するに、「紀州藩の銃」は、江戸期初期では「紀州藩」に組したこの「鈴木氏系の雑賀氏の忍者集団の500の銃」と成るのだ。
つまり、「信長」が「雑賀根来」を潰した時は、「紀伊山脈」に逃げ込んだ「雑賀氏・鈴木氏」が保有していた事に成る。
そもそも、「紀伊山脈」は、元より歴史的に「鈴木氏」、即ち、その裔系の元と成っている「日高氏・熊野宮司六氏」の許下にあるし、平安期には「紀伊山脈」に逃げ込んだ「京平家の末裔」の「原士化した十津川郷士や龍神郷士等の住か」でもあって、「長い間に血縁族」と成っていたのだ。
地元でも、この「原士族」を江戸期に活躍した有名な“「雑賀忍者」”と呼ばれていたのだ。
「紀州藩」は「幕府の伊賀・甲賀忍者」に対してこの“「雑賀忍者」”を使って対抗した事は有名であるのだ。
「元紀州藩主の吉宗の逸話」の中にも「雑賀忍者」は出て来る。
「享保期の事件」として、「吉宗の地元の紀州藩」での「事件」が起こった。
その「事件」は、この「雑賀忍者・監視役」が「准家臣・家臣扱い」として「土地の土豪や郷士等の動き・惣国性質が強い土豪」の「監視役」をしていた。
ところが、「紀州藩の家老職の家臣」が「不正・癒着」を働き、「雑賀忍者」に見つかったが「藩主」が凡庸であった為に改められなかった。
そこで「雑賀の組頭」は危険を犯して「江戸」まで出て「目安箱」に直訴した。
これを知った「吉宗」は、「自ら仕上げた組織」が機能しなく成っていた事を知り、直接密偵を差し向けて調べたところ事実が発覚した。
そこで、「雑賀忍者の組頭」に「お墨付き」を託して「藩主」に改めて報告する様に命じた。
結局、藩主は退き、家老は切腹して「紀州藩の騒ぎ」が治まったとある。
これは当に「ドラマの様」であるが地名や人物も明確に成っている「享保期の史実」でもある。
「残存の雑賀衆」とすれば、「火縄銃」が有っても「硝煙と鉛玉」は簡単に入手出来なければ「宝の持ち腐れ」であり機能しない。
その意味で、この「雑賀地域」は江戸期までは「貿易の地域」であって、前段でも論じた様に潤沢に手に入つたのだ。
「残存の雑賀衆」の「雑賀族」は享保期まで「雑賀屋・長兵衛」を営んでいたとされ、「吉宗」に付き従い「江戸」に移り、その後に「浦賀」に移り、「明治30年頃」に倒産した事は史実として判っているので、これで、「伊勢青木氏の伊勢屋」の「歴史の史実」と間尺は合うのだ。
実は、この「雑賀屋の実態」は明らかに成っていないのだ。
筆者は「雑賀屋」は和歌山に置いた要するに支店の「伊勢青木氏の伊勢屋の事」では無いかと観ている。
その根拠は、「松阪伊勢屋本店」は江戸初期「前後に於いて「各地・15地域」に「出店・支店・商業組合」を持っていたが、その内の「摂津」は平安期より本店並みの別格の「摂津支店の伊勢屋・独立」としてを「店」を構えていて、この「支店」が「堺」にも店を出していた事は判っているし、そこから「紀州藩との殖産連携」の為にも江戸初期には既に「和歌山店」等を出していたとある。
実は、この「出店の仕方」に特徴があって、「伊勢青木氏の商いの特徴」は、享保期の江戸の伊勢屋を除いて先ず「松阪の伊勢屋」を直に名乗らない事なのだ。
それは、前段でも何度も論じている様に、何かが起こった時に連座する事を恐れての「平安期からの仕来り」で、この事は逃れ得ない「悠久の歴史を持つ由縁の宿命」であったのであろう。
その為に、「地域の地名・15地域」を「店名」としていた事が判っている。
唯、「共通な点」は前段でも論じた様に、「平安期からの役名」の「近衛軍の差配頭」から「長兵衛・・宮廷の衛兵の長・宮廷を護る衛兵・近衛兵」から名乗る「格式名」があって、これを「襲名」として着ける「仕来り」であった。
この「仕来り」を各店舗にはこの「四家の福家の長兵衛の襲名」を着ける習慣があったのだ。
「伊勢本店」との「繋がり」が判らない様にしながらも、唯、「地名店」の店長を長兵衛としたのだ。
悠久の歴史を持つ摂津店も同じである。
室町期にはその史実として「信長の伊勢攻め」の時の「松ケ島城消失」の大阪商人としてシンジケートを使った活躍がある。
享保期の江戸に広めた「200以上の伊勢屋の店舗」にはこの「・・・店・・・屋長兵衛」が着けられていたので明治期まで江戸には伊勢屋が遺った。
唯、これが「吉宗との軋轢」で江戸に一切遺して来た事から「商いの象徴」として「伊勢屋」と「長兵衛・・・・兵衛」は爆発的に全国に広まる結果と成ったのだ。
従って、この「・・・兵衛」を除いて概ね「嵯峨期の勅令の禁令」で「青木氏の慣習仕来り掟」を一切使っては成らないとする令は、原則は「明治3年」まで概ね護られたとしているのだ。
前段でも詳しく論じたが、唯、護られた「伝統」としては「青木氏の伝統の慣習仕来り掟」で存命中は敢えて仕来りとして「名」を変更させて「幼名、俗名、字名、通名、諱名、襲名、戒名、諡号」と替えて行く習慣を持っていた。
総合的に成人に成るとこの全てを持っている事に成る。場合に依って使い分けていたのだ。
この襲名の名で諡号の名の「長兵衛」は店名の後に敢えて着けられていたのだ。
享保期以降の江戸期にはその効果は低減したが護られていた。
「神明社の神道」でもあったので決められた年代で「諡号・諡」も替える習慣も持っていて、これを前提で調べればその「店の成り行き」が判るのである。
従って、上記の「戒名・仏教と諡・神道」等は生きている内で持つ「仕来りと習慣」であった。
ところがこれが「・・・衛」とか云う「奈良期と平安期の官職名」が「江戸享保期の伊勢屋の事・200店舗」の事で、世間に知れ渡り拡がり、遂には江戸期中期以降からこれを無視して「庶民の店」でも使う名として広がってしまったのだ。
唯、結論としては、これ等の「慣習」から調べると同時に、恐らくは、「雑賀屋」は、「雑賀の店・雑賀屋・長兵衛」として「番頭を置いていた和歌山店・摂津の支店」では無いかと観ているのだ。
それは、「上記の慣習仕来りの事」と合わせて、次の事が云えるのだ。
「慣習の実態」と「襲名の長兵衛」である事
「吉宗に江戸同行」している事
「失火明治35年倒産」させている事
「伊豆」と「浦賀」にも支店を置いていたとする事
「安田の姓と木村の姓」と関わっている事
「雑賀店」は「江戸中期以降の店」として「紀州藩の殖産」に関わっていた事
以上のこれ等の事は「伊勢青木氏の記録」にも一致し、そもそも「火縄銃の雑賀」で無く、「忍者の雑賀」で無く、時代も大きく異なっているし、況してや「雑賀衆」は既に衰退しているし、この頃は鈴木氏は「大きく店」を出す程の土豪では無く、且つ、「・・衆」と云えるものでは最早無かった。
従って、和歌山・海南のこの「雑賀屋」は「紀州藩との殖産」に依る「伊勢の伊勢屋の支店」として遺されたと考えられる。)

(注釈 「近江の逃げ込み先の伊勢」
さて、ここで、「近江の鍛冶職人」が、“一端、「伊勢・伊勢屋青木氏」に移動した”とする記録には、重要な見逃す事の出来ない「伊勢青木氏」の「歴史的な意味」を持っているのだ。
当然に、先ず「史実」の通りに「近江の事」も同じで、「七割株の支配先・投資先」の「伊勢屋に逃げ込む事」は必然である。
其処からが、この「史実」に隠されている問題で、彼等を“どの様に誰に「伊勢屋・伊勢青木氏」は振り向けたか”に成る。
“それを任された事”に結果として成る難しい問題であろう。
「戦乱」の最も激しい時の事であり、「事の次第」に依っては今までの「1000年以上の苦労」は水泡に期す事にも成る。
この様な「難しい立場に成る事」を予想出来ていたかは疑問である。
確かに、前回の平安期の「近江の事」は「伊賀青木氏の香具師・忍者」を派遣して「圧力」を掛けたのであるから予想していただろうから、上手く配置したし、「平安期の古来」より「近江」とは「犬猿の仲」と云うか「堺の間接的支援・摂津支店の支援」の中にあった。
従って、“彼等の一部が各地に散ってくれると云う事”では難は逃れられたし、左程の戦線では無かった。
平安末期の「近江の事件」は、「青木氏部」の「殖産機械を造る集団」、即ち、「伊賀青木氏の支配下の服部」に配置し、「彼等の鍛冶職人」の残りは「堺」に廻したとある。
然し、ところが、「室町期の事件」の今回は、前回と違っていて、そもそも「銃」であった事に対して“周囲には事実は公然としていた”としていたのだ。
矢張り、今回も「伊賀青木氏の香具師・忍者」を派遣して「圧力」を掛けたとある。
室町末期の今回は、この「圧力」は「強力」で要するに「近江と日野」を実力で潰したのだ。
「近江」は、「近江青木氏の支流傍系」の生き残りの地域であり、何らかの因縁はあったと観られが、「日野」に関しては何もない。
然し、彼らの「近江と日野」の「菩提寺・厳浄寺」は同じと成っている。
恐らくは「日野」は「近江」のその後の室町期に何らかの゜関係性・血縁性」を持っていたのであろうが近江の詳細は判らない。
何れにしても「伊賀青木氏の香具師・忍者」を派遣して掟を破つた為に「圧力」を掛けて潰したのだ。
そもそも、江戸初期前後にも前段で論じた様に、「秀吉の紀州征伐」で「伊勢」に逃げ込んだ「紀州門徒衆」を匿った史実もある。
この時は、「殖産」に密かに従事させたが、「伊勢」が「匿った事」に付いては利害の一致するその後の「紀州藩初代藩主頼宜の黙認」で事は「伊勢」だけでは済んだ。
これには「紀州藩の家臣」と成った「伊勢藤氏の後押し」もあった事で「伊勢」では事は上手く運んだ。
兎も角も、「近江・日野の件」は「伊賀青木氏の香具師・忍者」が事の次第を救った事に成ったのだ。
前段でも触れたが、「伊賀青木氏の香具師」とは、そもそも「露天商の事」で全国を露店商に身を替え乍らで廻りながら、「情報や諜報の活動」を行う「忍者の事」で、各地にある「神明社組織」や「伊勢屋の支店」を通じて廻り、「露天の品」を調達すると共に「伊勢」に情報を送り、又、命令を受けて実行する「青木氏」の「影の集団の事」である。
取り分け、「吉宗」の「江戸向行」で「青木氏」は、江戸に「伊勢屋の店・200」を敷いたが、この「青木氏」を影で護る為に歴史上に出て来る位に活躍し有名に成った。
取り分け、従って「甲賀忍者」とは対抗した事であろう事は判っている。
「紀州藩の青木氏を通じた伊賀忍者」と「幕府の甲賀忍者」とは激しい戦いを裏で繰り広げたのだ。
其処に間に入って「紀州藩」に味方する「伊賀青木氏の香具師の忍者」が活躍したのだ。
「激しい鍔迫り合い」が影で行われた事が記されている。
「甲賀」にも「甲賀青木氏の伊勢の裔系」が存在し、依って「甲賀忍者」も目に見えて直接的には攻撃は出来なかったであろう。
従ってこの様な背景があって「伊勢屋の店・200」を「伊賀青木氏の香具師の忍者」が護ったのである。
「享保期末期の吉宗の裏切り・信濃の件」は当にこの「伊賀青木氏の香具師の忍者」の活躍で情報が齎されて、江戸から伊勢に引き上げる際も「伊賀青木氏の香具師の忍者」が甲賀から護ったとある。)

(注釈 「500の火縄銃の行方の検証」
“「織田氏」とは室町期の「神明社遮断」で「犬猿の仲」”であったが今回は違った。
「三河徳川氏」とは、「額田青木氏の国衆の事」と、その後の「渥美、田原、吉田、豊橋、豊川、豊田、岡崎の開発業と殖産」と、「縦の陸路の保全」と「陸運業の根拠地」と「蒲郡の拠点等」では実に「世話」に成っている。
絶対に「三河国衆・1573年」から、つまり、“「旗本」とのいざこざ”から外れたと云っても、「家康との関係」は記録では「商い」では正常で繋がっていたのだ。
「家康」と云うよりは「三河」と云った方が良いだろう。
「三河国」に「開発業と殖産」を広げた。
結果としては、「三河での商い」は「家康の承認を得る事」に成るのだが両者利得相まって同じ事ではある。
これは「権威保全」から「伊勢の格式を護る事」も然る事乍ら、史実にある様に「本能寺の変の逃亡に関する伊賀者での支援」や、「一言坂や三方ヶ原の貢献」等を含めて、更には江戸初期には直ぐに、“伊勢の事お構いなし”の“「御定め書」”が「伊勢青木氏」に出されている事もあって、これが「伊勢と家康との関係性の証」と成るのだ。
これが何よりの証拠であろう。
紀州藩の家康に信頼されていた「頼宜との関係」や「伊勢藤氏の仕官」や「紀州藩との連携殖産」も証である。
これ等を護る為にも、本来であれば「三河」には”「陸運業や開発業や殖産業」”を始めたのであるが、その「頼宜に繋がる関係性」から云えば、この「銃300丁と銃兵」を先ずは普通は廻すであろうが実際は廻さなかった事が判っている。
恐らくは、確かに「上記の事」もあるが、「天下安定」には“実に優秀な戦略家の家康を見込んでの支援の事”ではあったとは観ているが、上記の通りの資料検証から仮に「松平氏の火縄銃500丁と銃兵」が存在したとしても、「額田青木氏」のものとは「銃の形式・フリントロック改良型」が違っていたのだ。
「徳川氏の火縄銃・厳龍寺銃・マッチロック式」と「青木氏の銃・フリントロック式改良銃」で根本的に異なっている。
この事は「家康への見込み」は其処まででは無かった事に成る。
つまり、歴史的には観て観ると、初代藩主の「頼宜の雑賀衆の扱い」と「伊賀衆の支援」から紀伊山脈に潜んでいた「残存の雑賀衆」のものであった事に成って来るが、史実の流れは違っている。
つまり、これが直接に「江戸幕府」に対してでは無く、“「紀州藩に対する伊勢の行動」”として出たのだ。
何故ならば、これは「家康自身」は「青木氏の氏是」に近い「主観の持主」であったからであろうが、「旗本」とは全く違っていたからだ。
これが「江戸幕府」と「紀州藩」との差に出た。
そして、その「姿勢」は引き継がれ「御三家」でありながらも「明治維新の慶喜の行動」とは全く違う行動を執ったのだ。
それが紀州藩家臣の「陸奥宗光の行動」と成る。
実は、「其の後の事」とは成るが、「信長の本能寺の変」の時も前段で論じた様に「家康逃亡一行の警護衆五人」の中に「伊賀との繋がり」のある「三河国衆の青木氏長三郎」の「家臣・国衆仕官」が居たのだ。
これは史実と成っているこの「所縁」を持って「伊賀者」が支援し、家康は「三河」まで辿り着けたのだ。
「供回り34人」の「警護衆五人」の中の一人が「青木氏・長三郎」であった事で「伊賀との繋がり」で救ったのだ。
従って、「額田青木氏の近代銃の引き上げ」の「代わり」とは云い難いが、「残存雑賀衆の火縄銃500丁と銃兵」を「紀州徳川氏に廻したと云う事」は、「幕府」と隣の「伊勢伊賀との利害」が出たと考えている。恐らくは幕府の命で「甲賀」に睨まれたと考えられる。
問題は、ところがこの「鈴木氏系雑賀衆の火縄銃500」は「三河」へなのか、少し後の「紀州藩」なのかの「時代確定」を表現したものが郷土史以外に読み取る資料は無いのだ。
然し、「郷土史類の研究書」では「本能寺後」に直ぐに後に「鈴木氏系雑賀衆」が山を下りてきている事は史実であるので、これを前提とすれば、「紀州徳川氏に渡った事」、「鈴木氏系雑賀衆」が「紀州徳川氏の500の銃隊・秘匿していた」として組み込まれた事に成る。
そうすると、「紀州藩の雑賀忍者衆」と成った史実は、この「秘匿500の銃隊」であった事に成る。
だから、「明治維新の紀州藩士・陸奥宗光」が、「維新政府」に先駆けて最初に採った処置が、「兵の銃に依るイギリス式軍制式」であった事がこの事を物語るのだ。)

(注釈 「雑賀衆の検証」
では、その「雑賀衆」の“何処の雑賀衆なのか”である。
実は、「雑賀衆」は、「鈴木派」と「土橋派」が先ずあって、前者は紀の川を境に北部側と、後者は南部側があった。
更に、この「鈴木派」は更に二つに分かれていた。
その内の一派は地元でも伝えられている様に紀伊山脈に「火縄銃」を持って逃げ込んだと成っている。
その住んでいた地域も地元でも有名であり、今では「雑賀さん」は多い。
その紀伊山脈には先ず「紀州藩の忍者衆」には、前段でも論じた様に、別に「平安期の落人・京平家」の山岳部で生きて来た「平家郷士衆・龍神衆・十津川衆・北山衆」も住んでいたし、現在も住んでいる。
「紀伊山脈」はそもそもその様な「歴史的な事件」の「歴史的な巣窟の山」であり、今でも「・・・村」と云えば、「奈良期からの族の巣窟」と云えるのだ。
元々、江戸期前・奈良期からの「紀州」は「惣国」と呼ばれ、「惣国衆」と云われ有名で、伊勢の伊賀と同じで何処の藩にも所属せず、決して「家臣など」に成らなかったのだ。
その中でも、「鈴木氏系の子孫の雑賀衆」は有名な“「惣国者」”と云われていた。
ところが、江戸初期に「紀州藩の准家臣」と成ったのだ。
この事は「1000年以上の霹靂」であるのだ。
先ず、「信長」に完全に潰された「殲滅の根来衆」と共にこの滅亡した「雑賀衆」であったが、ところが遺った「雑賀衆」には、それには「江戸幕府に仕えた雑賀衆銃隊・a」と、「紀州藩に仕えた雑賀忍者衆・b」があったのだ。
この「a」と「b」が何処が違うのかである。
先ず、「b」が「紀伊山脈」に逃げ込んだ「鈴木氏本筋系の海南の雑賀衆」で、次の「a」は「鈴木氏系の分家筋の和歌山の雑賀衆」と云える。
「a」が「信長の掃討」でも一時的に山に逃げ込んだ生き延びた「生き残り」である。
「b」が元々、「藤白神社の宮司」であった「鈴木氏」の「発祥の地付近・海南市藤白」に住み、「鈴木氏の伝統」を護りながらそれ程に戦闘的ではない「亀井氏や日高氏」らも含む一族であって、「雑賀衆のと党首」であった「鈴木孫一」に引きずられて「雑賀衆」で括られた族であった。
この「b」は「熊野神社の宮司六氏」と繋がる族であるので、それ故に「紀伊山脈・熊野山系」で生き抜く事が出来たのだ。
念の為に、これ等の判断に大きく関わる「鈴木氏」に付いて論じて置く。
そもそも「鈴木氏発祥」は、「熊野詣」で「後醍醐天皇」が、この「熊野権現の第一の藤白神社・熊野古道」の「第一の鳥居・社領の端」にある「藤白神社」に到達して宿泊し、歌会を催した。
この時、「宮司」は「日高氏・熊野権現宮司六氏の一つ」で神社の直ぐ横を流れる「谷川・紫川」の歌を詠んだ。
この歌の出来が良く歌会の一位を獲得し、天皇から「鈴木氏の賜姓」を授かった。
ところが「宮司日高氏」には子が無く、近隣の農家の氏子の家から「養子・三男」を迎えてこの「鈴木氏」を継承させた。
この後、「日高氏の鈴木氏」が「宮司」と成って122代継承したが、平安期に平家に追われて「弁慶」と共に「義経」は、この「熊野神社」に保護を求める為にこの「熊野神社の藤白神社」に立ち寄りここで「義経」は逗留した。
「弁慶」は「日高の宮司日高氏の出自」であった。
この「所縁」で「熊野権現」に「義経保護」を求めて「熊野・1月」に旅に出た。
この間、「神社の邸・鈴木屋敷」で「養子・鈴木氏」と「養子の弟の六男」とで「身の回りの面倒」を看た。
義経に魅了された「二人・三男と六男」は家臣にしてもらった。
その血縁で繋がる神社の氏人衆が鈴木氏衆を形成した。
「六男」は「義経」から「神社」の境内の真中にある「井戸の青石蓋の形」が亀の形に似ていた事から「亀井氏の賜姓」を授かった。
ところが、義経保護は熊野神社から断られた。
そこで、熊野から戻つた「弁慶」と共にこの「鈴木三郎と亀井六郎」の兄弟は鈴木氏子孫を置いて「義経」と共に「北陸の旅・平泉」と成った。
其の後、源平合戦で義経は活躍し平家を破つたが兄頼朝に疎んじられ、再び奥州の逃亡と成るのである。
この「紀州藤白」の「二人の子孫」と「鈴木氏氏人衆」が爆発的な広がりみせ、最後は、戦国の世を生き抜く為に「鈴木孫一」が「紀州惣国衆・土豪集団」を纏め「雑賀衆」を結成する。
従って、この「雑賀衆の鈴木派」には、紀伊山脈から紀の川南側までに「本家と分家筋尊属派」と「支流族卑属派」に分かれていたのだ。
故に、「雑賀衆」の窮した「最後の行動」は、先ずこの二派に分かれ、更には本家派と分家派の二派に分かれたのだ。
「鈴木派」が急激に子孫を拡大させたのは、上記した様にその「出自」にあり、「氏子の農家・現在の姓は秘匿・A」の周囲の繋がりがあり、Aは亀井氏の様に兄弟姉妹親戚縁者の「氏人の幅広い血縁関係」があり、これらが「鈴木氏と亀井氏で繋がつた由緒ある姓の賜姓鈴木氏である。
この「爆発的な血縁の輪」は当然に全国に「鈴木氏」で広がる事に成ったのだ。
そもそも、その「伝統継承の概念の差」を基本に分かれたと考えられる。
この事は、この「紀伊山脈」の村々には「鈴木氏系の姓」と「惣国衆の雑賀の姓」が遺つていないかで判る。
つまり、史実は、「三好勢に味方した雑賀衆・鈴木氏系・a」と「足利氏を押した信長勢に味方した雑賀衆・南郷と宮郷・土橋系・b」がいた。
結局は、「雑賀衆同士」で何度も戦い、「土橋氏系・b」と「鈴木氏系・a」は何度も勝負を分け合い戦ったが、最後にはこの「鈴木氏系雑賀」も潰された経緯を持つのだ。
“「雑賀衆」”と呼ばれ乍らも、歴史的に観ればその体を成していなかったのだ。
一体化して「雑賀衆」と呼称されていたのは「長篠の戦いの銃の傭兵軍団」の期間だけであった。
では、そこで疑問なのは、“「雑賀衆」の全てが「銃」を持っていたか”と云えば、そうでは無かったのだ。
つまり、「銃を持たない雑賀衆」が他に「南郷と宮郷域・紀の川の南」に居た事に成るのだ。
そもそも、「雑賀衆」とは当に「惣国土豪」が住む地域で、「五郷衆・十ケ郷、中郷、雑賀郷、南郷、宮郷」に住む土豪の事である。
前2つは紀の川沿いの北側、後3つは紀の川沿いの南側にあった。
現在もある。
前2つは「土橋派」、後3つは「鈴木派」である。
元々、後3つは上記した様に「鈴木氏発祥の地域」である。
現在の地元でも矢張り、“雑賀”と云えば後3つの事である。
現在も、“雑賀崎の地名・雑賀崎港”として遺っている。
前2つは“「雑賀」”とは現在でも云わない。
さて、この「銃の持たない雑賀衆」は、「雑賀郷の内部」の「派」にあり、上記した熊野権現の“藤白地区の鈴木氏発祥地域の派”に成るのだ。
これを証明するのが、現地に現在でもこの藤白地区に「雑賀姓」が現在も遺されているかにあり、実は確かに遺されているのだ。
そもそも、“雑賀”は「鈴木孫一」が住んでいた「雑賀郷」を採って「土豪惣国衆団の呼称」としたのだ。
「雑賀郷」は「紀の川」を渡った直ぐ西側の「海沿いの地域・漁村」である。
ここに「鈴木孫一」は住んでいた事に成るとすると、「藤白鈴木派の本家筋」の者では無かったと云う事に成る。
その意味で「鈴木氏」を「統制する力」は弱かった事に成る。
要するに、単なる「統治力」が前提と成っていた事に成る。
つまり、その力は一時は「鈴木孫一の雑賀党の支配力」が「紀の川」を超えて「北側域・前2つ・土橋派」まで及んでいた事を示すものである。
上記した様に、従って、この「鈴木派」と「土橋派」は数え切れない程に何度も敵味方に成って戦って「主導権を奪い合う集団」であったのだ。
この意味からすると、「雑賀族・雑賀党・雑賀衆」と云えるのかである。
そもそも、先ず、「血縁性」がないので「族」とは云えないだろうし,「概念」を統一している「衆」とも云えず、「利害」を一致させる「党」ではないか。
故に、地元では「雑賀党」と呼ばれているのだ。
そして、「銃の持たない集団」とも成れば、「由緒ある伝統」を重んじる「藤白の鈴木氏派」と成る。
この「銃の持たない雑賀衆・b・鈴木派の藤白派」は、「信長―秀吉」後に「紀伊山脈」に逃げ込んで姿を替えて「原士化」して生き残ったのだ。
中には、「藤白神社の氏子」の侭で遺った「藤白派」と、山に逃げ込んだ「藤白派」と連携をしていたとする説もある。
確かに、この県道の「山道R18」と「山道R424」の村々には、「藤白神社」の「鈴木氏」の出自元の「氏子の裔姓」が現在も多くあるし、そもそも現在もこの「藤白神社の宮司」はこの村から赴任した姓の人・鈴木氏系である。
この様な複雑な形態を持つ「雑賀衆の鈴木派」であったが、その後の「紀州藩の雑賀衆忍者」に成ったのである。
「江戸幕府の銃隊に成った雑賀衆・紀の川南域・2派の城域・和歌山域」と、「紀州藩の忍者と成った雑賀衆・海南域2派の藤白派」は、元々、「雑賀衆」の中でも「系列と定住地」が違っていたのである。
これは同時にこの「鈴木派」の中でも“「出自元」が違うと云う事”なのである。
これは「3つの家紋」で見分けが着くのである。
「前者」が「銃」を持ち、「後者」は「銃を持つ派」と「持たない派」があったと云う事で「2派」に成ったと云う事である。
「平安期の鈴木氏」の「全国の活動」と、上記の「雑賀衆の室町期の活動」と、「江戸期の活動」とに分かれる。
平安期は「鈴木一族」は集団で、「熊野詣の宣伝」を名目に「全国行脚」をして「各地の情報」を集めていて、「忍者の原型」を構築していた事は有名である。
中には「紀伊山脈の長峰山」の様な「険しい山道」で修行して「役行者の姿」で全国旅をしたとしていて、元々、その「忍者の原型」と「役行者の原型」であったとする説があるがこれは確かであろう。)

(注釈 「紀州雑賀忍者と伊勢伊賀忍者」
この「左右の忍者衆」による「勢力争い」が無かったのかである。
上記の注釈の通り、「紀州雑賀忍者・紀州藩」が「紀の川の紀北域・伊勢神宮の最後の遷宮社の日前宮社の宮前地区・南地区・中地区の郷」に居て、「紀伊山脈」を境にして伊勢側の全く「反対の位置・100k・北東30度」に「伊勢伊賀忍者・幕府」が居たのだ。
つまり、「紀伊山脈北部域の山陵」を隔てて左右に「忍者勢力」が活躍していた事に成る。
そして、「紀伊山脈の南部域」には「平家の原士衆」が勢力圏としていた事に成る。
この「南部域の左・西域」は「紀州藩」が抑え、「北部域の左・西域」も「紀州藩」が抑えていた事に成る。
右域は「伊勢伊賀忍者・幕府」であった。
そして、前段でも論じた様に「伊勢青木氏」は古来よりこの「伊賀との関係」を深く持っていた。
更に、これも前段で論じた様に、「京平家の落人」は「桓武平家」であり、「伊勢青木氏との関係」を古来より持っていた。
「伊賀」は、この「桓武平家の里・桓武天皇の母・光仁天皇の妃高野新笠の里」である。
だから、「紀伊山脈南部域」に住んでいた「平家落人の郷士衆」は「北部伊賀衆」との「繋がり・絆」もあったのだ。
江戸初期の殖産には大いに貢献した。
それ故に、「江戸期前の紀伊半島」も「江戸期の紀伊半島」も「京平家の落人」を基軸として「繋がり」を持っていて、一声出せば「彼等の三つ衆」の「郷士衆・忍者衆・原士衆」は「伊勢シンジケート」して動いたのである。
要するに、北部の左に「雑賀」、右に「伊賀」、南部の左に「平家落人郷士」、右には「伊勢郷士」、そして最南端は「熊野六宮司勢力」で「惣国」を固めていたのだ。
それには、この「五つの惣国衆」を固めていたのは、矢張り、「伊勢青木氏の財政的支援」があったのだ。
前段でも論じた様に、故に、「近江職人を匿った事」は当然の事して、「京平家の落人の支援」や「信長の伊賀攻めの救出」や「紀州門徒衆を匿った事」や、最後は「明治初期に掛けての伊勢騒動を支援した事」等を挙げれば暇がない位である。
「紀伊半島」は全てこの「五つの何らかの絆」で繋がっていたのだ。)

詳細の検証は更に次段に続く。


「青木氏の伝統 57」−「青木氏の歴史観−30」に続く。



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