青木氏氏 研究室
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  [No.382] 「青木氏の伝統 57」−「青木氏の歴史観−30
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/05/24(Sun) 09:59:18

> 「青木氏の伝統 56−4」−「青木氏の歴史観−29−4」の末尾

> (注釈 「紀州藩との繋がりの効果」
詳細の検証は更に次段に続く。
その疑念は明治初期に消えた。
> その後、因みに「伊勢青木氏」は「紀州藩との繋がり」を「伊勢加納氏」と共に復興させて、「支援」をしながら、「大正14年」まで「紀州徳川氏」が「伊豆」で絶えるまで「親密な関係」は記録からも続いていた。
> その証拠に「明治期初期」からは、依頼されて「絵画、俳句、和歌、茶道、華道等の諸芸全般」の「人としての嗜み・上級な教養」の「特別教授」として務めた事が記録として遺され、「多くの逸話」などの「口伝」でも祖父から聞き及んでいる。
> 中でも幕中から幕末に掛けて恒例的に藩主と多くの紀州藩家臣を一同に集めてこれ等の会を催していた事も遺されていて、この「恒例企画」が「祖父の代」の明治期まで続いていたとされる。
> 紀州徳川氏は東京にも「邸宅・事務所」を設け「紀州との往来」をしていて、最終、「商い・財団」を興し、倒産して伊豆に一人籠もって子孫を遺さず紀州松平氏は絶えて恒例企画は中止したとある。
> この時、大正14年であったと祖父から口伝で伝えられている。
> この中には、取り分け「財務」に関して幕末まで「勘定方指導」をしていた関係もあって上記の明治維新政府に大活躍した元紀州藩主の「陸奥宗光とその父との二人続けての交流」の事も含まれていたとある。
> これで「江戸初期前後の事や享保期の事」に就いては「伊勢」では、最早、「疑念」には拘っていなかった事が判る。
> これは「青木氏一族の伝統」の「家訓10訓」で「拘り」は厳しく戒めているからだろう。
> この「拘りの前提」と成る「大きな疑念」や「土豪3氏の話し合い」の「解決の経緯のタイムラグ」は、確かに在ったが、その為にそもそも「伊川津七党の青木氏四家・吉田青木氏等」が脱退したり崩れりすれば、再び「伊豆陸路」は間違い無く崩れる事に成っていたであろう。
> そうした中での、「上記の注釈」で説明する「額田青木氏」であって、その「答え」は最後まで遺ったのである。
> 後勘から観れば、この時も「青木氏の路」を読み間違えていなかったのだ。
> 後世に遺る「青木氏の歴史観」が成立していたのである。)


「青木氏の伝統 57」−「青木氏の歴史観−30」

(注釈 「巨万の富と伊勢青木氏のその後」
それは奈良期から始まった。
「紙屋院の紙の製造・朝廷の認可・勅命」からこれを基に自ら氏力で開発した「和紙」の「余剰品の市場放出の権利・商い」を「925年頃・紙屋院伊勢屋の号」を与えられ認められ手始めた。
そして平安期の「1025年頃の総合商社・献納金」を設立し、遂には、「室町期の紙文化」で「巨万の富」を得た。
更にそこから「室町幕府」には「白旗派・原理主義」を「浄土宗」と認めさせ、結果として唯一の“「律宗族」”と呼ばれるまでに至った。
それを「源・大儀」に、これを「共存共栄共生の概念・青木氏の氏是」で確率させ、要するに室町期の戦乱の中で“「紀伊半島の民」”を護ったのである。
当に、これが既には「平安期末期・嵯峨天皇期」からは「高位族の務め・皇親族・令外官」では無く成っていたが、然し、「伊勢青木氏・信濃青木氏の協力」の範囲では、その概念を頑なに「伝統」として持ち続け、「明治9年」までのその「行動」は矢張り、“「賜姓五役」”であった。
つまりは、”「隠れた令外官」”に徹したと云えるのだ。
「明治期まで続いた天皇への献納」は何よりのその証拠であろう。
況や、「共存共栄共生の概念」に徹していたかは、「明治35年以降」の「富の蓄積」の有無に表される。
そもそも、この「明治35年以降」は既に「普通の富の範囲」にあり、決して最早、「巨万の富」と云えるものでは無かった様だ。
それは「幕末」から起こった「伊勢信濃の全域の庶民が興した伊勢騒動」が明治9年までの「11年間」も続き、これを背後で補完していた為にこれにより「巨額の富」を放出したのだ。
「何万と云う民の糧」を全額支援したし、その「後始末」に明治政府に対してあからさまに「巨額の献納」をし、「騒動の事・始末」の「処罰者」を「差配頭」だけにして「民全員」を穏便に済まさせた。
「地祖改正」で「伊勢の地権域の民」に全て「無償」で「地権」を譲り「富」は遂に底を突いたとされる。
更に、維新時の大名に貸し付けていた「債権放棄・計10万両・主に紀州藩」に合い、富の底の底を突いたとされる。
最後は、「明治35年の松阪の失火」で「松阪福家」は責任を取り、全てを売り払い賠償したとある。
この事から「松阪」より「福家」を「摂津・紙問屋伊勢屋・現存」に移し、「松阪」は「殖産・早場米の開発と酒米の開発」のみにして、「員弁と桑名の四家・現存」に営業の差配を移したとある。
そして、「青木氏部」は「大工職人・宮大工」として支援して独立させて「桑名額田」に夫々の会社・二社・現存」を設立させたとある。
祖父の代の「明治維新から昭和20年」までは、「四家との繋がり」は有りながらも、最早、「富」では無く、“「律宗族」”から“「徳宗家」”としての「呼称の名誉」だけが遺されていた事は事実であった。
「青木氏の資料」と「明治期の郷土史」にもこの記載が遺る。
最後の「福家」であった「祖父」は、後始末を着けた其の後「尾鷲の旧領地」に引き上げたが、「多気と熊野と田辺と海南の庵・一族氏人の保養地」だけが残った事と成った。
「祖父と父」はその間に得た「教養」を許に、これ等の「庵」で「多くの弟子や僧侶・禅宗」を養い、世間に輩出した。
江戸期に「廃れた南画の復興」や衰退していた「彫刻・華道・茶道・歌道・禅門道・俳句道の普及」にも努め、「職業弟子」を世に無限と云える程に送り出した。
現在もその弟子の子孫が受け継いでいる。
これが認められ、「明治期の華族制度」の推薦に続いて、二度目の大正期に徳川侯爵より「文化功労」により推薦され、政府より感謝状を贈られるとするが「氏是」に従い何れも再びこれを辞退した。
「共存共栄共生の概念」に従い関係者で築き上げた「巨万の富」の「分配・地租改正等」は全てこれで終わったのである。
筆者は、未だ、一部の「資料や遺品」と共に「口伝」でも伝わり、その「伝統」は「松阪」や「旧領地等の尾鷲」にも遺り、丁度、その「末尾の経緯」を具に観て来た事に成るのだ。
それ故に、未だ何とか興せるこの「伝統の経緯」を遺そうとしている。
「長野青木氏」でも興し始めたと聞く。)

「前段」で述べきれなかった事柄をここで少し話を元に戻して論じて置く。

(注釈 「雑賀根来を潰した後の銃の行方の印象」
さてそこで、最後は潰そうと思っていた「信長」の「松平氏」に対しての思惑である。
雑賀族等を潰した後、彼等が持っていた「雑賀根来の火縄銃」のその配分の問題」には、直接は「割分」として「松平氏には渡す事」は戦略上は不可能であったであろう。彼等の戦力を強くして仕舞う事になり「潰しの思惑」は難しく成る。
従って、長篠後の「信長―秀吉の紀州征伐・1577年〜1585年」には「松平氏」は参戦させていない。
つまり、思惑から敢えて参戦させなかったのではないか。
と成ると、要は「信長」が渡さねばならない「条件下」としてでは「参戦への義務責任」があるかである。
つまり、それは「雑賀討伐の貢献」に対して「家康の功績」があったかに対してであろう。
実は、この「第一次から二次と、最終の三次の雑賀攻め」に関して「松平氏」は参戦さしていないのだ。
「1570年の石山攻め」と、「1577年から始まり1582年までの雑賀攻め」には殆ど関西勢で攻撃している。
「三河の家康」に「信長」から「同数の火縄銃を渡す事」では簡単に済むが「雑賀の銃」は上記理由で渡っていないのであり、戦利品もである。
又、引き続いて「紀州全体の惣国勢力」を潰す為に起こした「秀吉の紀州征伐・1581年〜1585年」でも参加はしていないのだ。
現実に、確かに「信長」は「雑賀攻め」に梃子づった。
その「原因」を象徴するのが、「雑賀川の戦い・1572年2月」であった。
「寺山城・雑賀城」から「銃」で狙い撃ちされ、「3万の織田軍勢」は手も足も出ず「壊滅状態」で一度京に引き上げている。
然し、果たして、「信玄」によらずとも「信長」も、「三方ヶ原の戦い・1573年・ホ」の「直前・1572年・ニ」に「雑賀川」のこの「大量の銃の攻撃・威力」を体験して観て驚いているのだ。
又、その前の「1570年」にも「石山本願寺攻め」でも「雑賀衆門徒の銃攻撃・ハ」を受けていて失敗し「銃の威力」を知らない筈は無いのだ。
「長良川の戦い」で、現実に雑賀・根来族の銃の傭兵を雇っていて其れで九死に一生を得ている。
従って、「吉田城の戦い・イ」や「一言坂の遭遇戦・ロ」でも「銃の情報」は既に得ていた筈である。
信長は「5回の史実」として経験しているのにそれ程に疎かで無神経では無かった筈である。
結局、故に、これ等は止む無く「信長」は「兵糧攻めと凋落」で収束させて、最終は「雑賀銃」を「傭兵・1575年長篠の戦い」で獲得しているのだ。
この様にして゜雑賀根来の傭兵の火縄銃を「獲得した銃」を観ても、凡その「簡単な事」では無かったかを察するであろう。
そもそも、この様に「松平氏に銃が渡る歴史的経緯」は無いのだ。
寧ろ、「信長の性格」から“「銃を渡す事」は何を意味するか”を即座に察した筈である。
それは間違いなく「松平氏を強める事」に外ならない。
それ程に万来の信頼をする「和議・織田氏」と「松平氏」では無かった。
寧ろ、「弱める事に裏の狙い」は在った筈で、歴史的にもこれは史実で証明されている。
ところが、実は、「雑賀根来の銃」の「一部・500丁」を「松平氏」に渡したとする説が有るのだ。
筆者は、この説に反対で、この時の一部の火縄銃は、上記に論じた通りの「雑賀族の逃亡者・鈴木氏系・500丁・紀伊山脈」が山に持ち込んだものであると観ているのだ。
何故ならば「雑賀族」とは云えその内情は壱枚岩で無かったのだ。
元々、「鈴木氏の本家筋・藤白穏便派・藤白神社神職族」は「分家筋の鈴木孫六の行動」には反対していたのだ。
そのその住んでいる地域も違っていた。
それ故に、”いざ戦い”となった時、雑賀族と見做される事に警戒して、いち早く山に潜りこんで忍者的な生活したのだ。これが「雑賀忍者」と云われるものである。
地元ではこの時、持ち込んだ「武装兼猟銃用の物」と云われている。
「現地での雑賀族の情報の知らない者の説」の単なる推論に過ぎないと観ている。
恐らくは、これも間違いなく「江戸期の修正」で、“雑賀族の銃としたくない”とする「旗本の書き換え」であろう。
確かに、「織田氏との関係」に付いては美化した方がこの方が「犬猿の仲」を和らげる効果はあるし、「今後の事」では都合は良い筈であったし、「織田氏との長篠後の争い」では「織田氏への悪者の転嫁」としては、「松平氏」に執っては都合が良かった事になろう。
確かに「紀州攻め」をしている中での出来事としては、歴史を後勘から観ても「松平氏の印象」としては、一つの“「緩衝材」”には成る筈で納得が得られやすい「美化事」になろう。
「伊勢や紀州の歴史史実」を現地の詳細に掌握している「青木氏の歴史観」から観て、この事に付いてはこの様に見抜いて観ている。
「雑賀根来の銃」の「一部・500丁の説」に付いては、「現地の史実」を調べずその様に江戸期に成って「旗本」に依り都合の良い様に、“「徳川歴史を仕組んだ」”と観られる。)

(注釈 「江戸初期の銃の必要性」
そもそも、「1605年に銃規制」があったのに、江戸初期以降に「銃の必要性」があったのかと云う疑問が湧く。
確かに、“計算に入らない数の銃の残り”、つまり、「秘匿品の戦利品」の「約100丁〜150丁程度」は戦い時に少なくとも「単体」で獲得した筈である。
そうすると、「秀吉などの家臣」を含む「織田軍」が持ち得る「火縄銃の限界」は、どんなに見積もっても、「雑賀根来の傭兵銃隊」は「1000丁」と成っているとすると、「約500〜650丁程度」が限界に成る。
「紀州」では、兎も角も「保有量・生産量」は「1500丁・生産量限界」が最大であったとされている。
それは、これは「傭兵が持つ銃」だけでは無く、「雑賀族衆と根来族衆」の個々に生活に使い持つ銃が「500丁」であったと口伝ではされているのだ。
つまり、「傭兵用は1000丁限界と云う事」に成る。
現実に、「秀吉」が紀州征伐後の「紀州の刀狩り」で門徒衆も含めて庶民や農民や郷士等が持っていた「秘匿火縄銃」が郷土史等に依れば「100丁程度」を差し出されたとする記録もある。
これ等は表向き「紀伊族」からの「侵略防御」のみならず「イノシシやシカ等の猟銃」に使う銃であったとされているし、現実に「鈴木氏の本家裔」が持つ絵図にも遺されている。
従って、これは史実であろうし、そもそも、つまりはそれ以上に生産されていないのである。
「紀州征伐」の前後をして、「堺のブロック」に依って“「近江」には、最早、「生産能力」は殆ど無かった”筈で、「雑賀」が遣られれば、“今度は「近江・日野」である”として「伊勢」などに逃げ込んでいる始末であり、カウントには当たらない事に成る筈だ。
そうすると、正式に「生産」に及んでいたかは別として、「銃を生産する能力」を持ち得ていた「最後に残った堺」は、伊勢の資料に依れば、現実には実際は早めに「危険が迫った為」に「伊勢の指示」で中止しているのだ。
中には、「堺の銃生産・火縄銃」を“明治期まで続いたとする説”があるが、これに付いては「伊勢の資料」では、「元の鍛冶屋」に其の侭に転身しただけの事とされていて、「銃の生産の事」では絶対に無い。
そもそも、「1605年」に徳川幕府に依って「銃規制」が掛かり「生産」は無くなったので論理的に無い。
況してや、そもそも「伊勢・摂津・堺」が「財源や発注」を引挙げれば、そもそも、「銃生産を続けられる事」は100%無く、又、「商業組合」の「7割株の組合組織」の中にある事から「別の商人」が密かに入る事の「空き」もない筈である。
仮に、密かに「別の商人」が間に入れば、そんな「危険な事を許す事」は無く、そうなれば結果として間違いなく「別の商人」を「伊勢は潰す事・シンジケート」に成るし、そんな「組合人」も居ないであろう。
史実を無視した「無根拠の説」である。
つまり、江戸期では、残るは、「西洋」での無用と成った「旧式兵の用火縄銃」だけの売りつけで、「西洋の近代銃の発達」で、不用で古く成った「西洋の火縄銃」を「貿易」で秘密裏にオランダやポルトガル等から入った可能性が高く、前段でも論じた様にその「貿易量」で既に「銃規制範囲の基準量」を超えているのだ。
「青木氏」が持った「試作銃改良型の原型」は、所謂、「フリントロック式の近代銃・改良銃」は、その元は飽く迄も「フランスやイギリスやドイツ」の開発国での事であって、「周辺国・欧州」はこれに何とか切り替えていた時期である。
日本に古くなった「火縄銃」を高く売りつけて、その「資金」を獲得していた史実と成っていたのだ。
そもそも、「日本の火縄銃」の「最古」のものは”「1588年製の厳龍寺銃」”と成っているのだ。
その為に、この17年後の「江戸期頃の火縄銃」は、江戸期に入り「銃規制・1605年」も重なって極端に史実として低下しているのだ。
因みに、「総合的な資料の分析」に依れば、江戸期中期までは「火縄銃」の旧式の価格は、「35石〜80石」/丁に相当し、当時は1石=1両であって約35両〜80両に成っていた。
既に当初よりは約1/10程度以下と成ったと記されている。
これは「銃規制」に依って必要性が極端に低下した事に依る。
「一頭1200人に1銃の規制」の中では、「一万石以上の大名」には殆ど所持していなかった事に成り、「銃力に相当する火縄銃」はそもそも無かった筈であるし、そんな「財政的余力」は他の事でも既に限界で、世情安定期では「無意味な銃」ではあった。
その意味で、「価格の低下」が在って「抑止力」としても効果は無かったのである。
然し乍ら、室町期から「伊勢を含む青木氏族」は、現実に資料の中では、表現として明確にしていないが、「資料の行」から「読み取れる範囲」では、“いざと云う時の抑止力”としての為に秘匿に保持し続け、上記の様に「銃の価値の低下」は、逆に「青木氏族」に執っては、寧ろ、その「抑止力の無意味合い」が高まり、江戸期でも密かに確実に「改良銃」は持っていた様である。
因みに、前段でも論じている事ではあるが口伝でも、「紀州藩の藩主」が「尾鷲」で鷹狩りの際に「銃」を使って腕前を民に誇示披露したとある。
この時、「尾鷲」で保養中の「福家の先祖」が「自分の銃」を持ち出して「遠くの柿」を打ち落として見せたとあり、「家臣」が怒って先祖を叱責した。
その後、この「先祖」は「和歌山城」に呼び出され切腹かとして袴の下に白衣を着て出仕したが、逆で「上座」に導かれて座り、藩主は下座で挨拶をしたと伝えられている。
「元皇親族の伊勢松阪の青木氏福家」で紀州藩には「債権・2万両と勘定方指導・2度」をしていた事から格式が上であるとして上座を譲ったとある。
江戸末期には「紀州藩の財政危機の勘定方指導」として活躍した「伊勢松阪の青木氏の福家である事」や「吉宗育ての親であった事」等を知っての事であったとされるが、その後は、初代藩主に「水墨画」や「俳句」や「和歌」や「茶道」などの「素養指導」を大広間で家臣も交えて行ったとしていて、この「慣習」は「祖父の代の大正14年」までこの関係は続いたとしている。
これは「銃の密かな存在保持」を「裏付ける証拠」でもある。)

(注釈 「1500丁の検証」
さて、明治初期には、“「50万丁」と「世界最大の銃保有国」であった”とする公的な資料があるが、この事に就いて疑問が大いにあり触れて置く。
そもそも、日本にはこの「火縄銃用」の「発火薬の硝石」と「弾丸の鉛」の生産は極小で殆ど「貿易に頼る事」以外には無かったのだ。
確かに、西洋で不用と成った売りつけの「古式火縄銃」は多く「一般の商人」に依って密かに仕入れられていたが、これに伴って「硝石と鉛」も輸入しなければ使えず「飾り銃」であって、況してや、「銃規制・1605年」で持てば「お縄」であるし、安定化した世の中では「銃」は不要で「抑止力」にしか使えなかった筈である。
依って、攻撃用以外に「一般の大名や武士」や、況してや「民」には不要である。
「50万丁」とはそもそも一般の民も持たなくては成らない数である。
そもそも全国でそれ程に「武士」は居なかったのだ。
江戸期初期ではほとんどの記録では、一万石以上の大名264人、旗本5200人、御家人17000人、その他480人と武士の家臣だけで、「媒臣の数」は含まずの合計は実質は53900人であったとされる。
そうすると、平均204人/大名と成り、同じ「江戸初期の1605年の銃規制の基準」から53900/1200では単に「約45丁」と成る。
大名を大まかに「一頭として264人」で、これに「戦時の義務兵数の平均1200人」として計算して観ると、「総勢の兵・316800人」が集まる事に成る。
これと合わせると「家臣数」は「約37万人」と成る。
江戸初期の持っていても構わない「戦時の火縄銃」は、規制に関わらず持っていたとしても「媒臣数」は、「264人の大名」で「平均一騎の兵数50人」としているので、「最大一頭は4騎まで」が義務つけられていて、これが「媒臣の陪臣」と成るので、「264・4・50」と成り、最大で「52800人の数」に成る。
合わせると「約43万の兵」が、「50万丁の説」で計算すると「家臣と媒臣の全員の兵」が何と1丁ずつを持つていた事に成る。
あり得ない数に成る。
そもそもそんな「財力」を持っていなかった。
「銃規制」からすると、別の計算を元にすると、「264人の大名の媒臣数と陪臣数」は、江戸初期の人口は「平均2700万人」とされ、「家臣媒臣・陪臣の数・武士」は、国印状発行でこの「7%」であったと記され、これは明治期まで“抑制されていた”のである。
従って、この基準から観ても「385700人の計算」に成る。
この基準からの計算でも「上記の37万人」にも一致する。
記録に見る処では1割弱としているので、正しい数であろう。
「人口増加」を「食料生産量・米収穫・」以上、つまり「1反=1石=1人の原則」に超えない様に抑制していたのだ。
「火縄銃の持ち得る計算の数」は、故に「1500丁前後」と成るのだ。
この数は、故に「室町期の最大生産」の「1500丁の経緯」にも一致するのだ。
又、「戦」が起こらない限りは「武士」には「無用の長物」で「藩の持ち物」であった。
藩としての「最低限の幕府からの義務」に過ぎなかった。
本音では藩財政から「金のかかる物」は持ちたくない筈である。
この「驚くべき数字」が公的に資料としている江戸中期からの「火縄銃の量」としているが間違いである。
では検証して観る。
「銃規制」の「1頭=1200人=1丁の基準」からこれを護ったとしても、当時の人口が「4000万人」として「国印状を取得した正式な武士」は約7%であったとされる。
現実にはこれにも規制があった。
そうすると、「400万武士/1200≒3330丁」である。
これがこの「基準に適合する量」である。
上記で検証した「火縄銃の貿易で搬入した量」と加算したとしても、「規制の合法的な量」は「3330丁程度」は妥当であろう。
上記で論じた「火縄銃」の「生産地三カ所の経緯」から「国内最大生産量」は「1500丁〜2000丁」としても、「外国からの銃」は凡そ「1330丁〜1830丁」と成る。
検証の結果としては、「50万丁」は「刀狩りと銃規制」を配慮されていない飛んでも無い量と成る。
これでは「銃規制」など忘却して全くなかった事に成る。
これから割り出すと「三カ所の経緯」を無視して、且つ、「生産量の経緯」を無視して下記の様に「年数の単純計算」をした事に成る。
最大で「国内生産1000丁/年+輸入1500丁/年」・江戸期中期前・200年≒50万丁と成る。
こんな事は絶対にあり得ないのだ。
何故、この「50万丁」が一人歩きして公的数として成つたかにはそれなりの理由が見える。)

(注釈 「50万丁の行方の検証」
これは幕末からの維新にかけて紀州藩士であった「陸奥宗光・1844年〜1897年」は「明治維新の政治体制造り」に貢献した人物で、殆どは政策は「彼の発案と努力」に依るもので、版籍奉還、廃藩置県、地租改正等、数を挙げれば暇はない。
そして「徴兵令」もである。
中でも、本題の「徴兵令」では、彼の努力により「徳川幕府紀州藩」が他の二藩と行動を別にして「維新政府側」に着いた。
この時、「御三家の紀州藩」は「維新政府」がまだ実行していないのに率先して「近代軍制」を敷いて「維新政府の後ろ盾」と成った。
これを観て「維新政府」は彼を政府に招き、「維新政府軍制の構築」を任したのである。
この時、全ての古い刀等一切を捨てさせ、武士に関わらず「銃に依る西洋式軍制」を執った。
彼は、「坂本龍馬の下で海援隊」の一員としてとして働き、「彼・龍馬」を神髄していて、彼の進んだ教えを推し進めた。
この時の「兵力」が「陸軍力24万と海軍力25万」で「49万」であり、中でも「陸軍」は「村田銃・国家予算の20%」をかけて編成したものでこれを「主力」としたものであった。
恐らくは、「50万」とするは単純に推論的にこれから来ていると考えられる。
これ等は「1883年・明治16年」から「8年計画」で近代化を推し進め、この体制で「1877年の西南戦争・明治10年」の実戦で成果を上げ、其の後の「明治20年代・1887年」に完成した。
この事は「陸奥宗光の活動」で「薩摩との主導権を争い」が起こり、彼は何度も投獄や失脚に追いやられたが、「伊藤博文等の海援隊の仲間」が彼を何度も救い上げた。
結局は、「彼の造った軍事組織」で「西南戦争」で「薩摩」は「維新政府」から抹殺一掃されたのだ。
其の後、「日清戦争」で「弱いとされていた海軍」は、「陸奥宗光の造った軍事組織」で相手が「数段の兵力差」であっても「勝利」を得たのだ
この事は世界に有名を馳せたのだ。
実は、この「紀州陸奥家」とは「伊勢青木氏」とは無関係では無く、前段で論じたが「幕末の紀州藩勘定方指導」をしていたが、この時の「宗光の父」が「紀州藩の勘定奉行」であって親交が深かったと記されている。
幕末に「紀州藩が犯した操船ミス」で「海援隊の船の賠償金」の支援で、「伊勢屋・2万両・摂津支店・大阪豪商」が支援に動いたが、この時の「勘定奉行」であった。
これは「陸奥宗光の優れた交渉力」として「公的な記録」として遺っている。
資料にも「重要な逸話」として遺されている。
明治9年で「伊勢青木家」からの「天皇家への献納・925年開始」は「幕末から始まつた伊勢騒動の件・明治9年」で打ち切っている。
結局は、「伊勢屋」はこの為に「打ち壊し」や「火付け」等で長い間、維新政府から攻撃されたが、何とか残ったのは“「陸奥宗光の御影だ」”と「伊勢青木氏・伊勢屋」はしているのだ。
注釈として、余談であるが、「伊勢青木氏」はこの「打ち壊し」や「火付け」の「裏の組織」は上記の経緯から「薩摩藩」に依るものであったとも考えられる。
つまり、「陸奥宗光派」と「献納中止」と「武士に頼らない銃の軍組織改革」とそれに関連する「軍費支援・国家予算の20%・支援」と「伊勢騒動・明治9年終結」に在ったと観ていて、これは「薩摩藩」に執っては“「裏目に出る利害関係」が大きく働く”と観ての行為であったのであろう。
結局は、何とその「陸奥宗光の銃軍事組織」で「西南戦争」に持ち込まれて薩摩は敗退したのだ。
「西郷」が「第九回御前会議」で大声をあげ机を叩き席を蹴って勝手に退席し、「大久保の制止」に関わらず「薩摩」に勝手に帰り、その結果、11の身分は剥奪されたのもこの「明治9年の事」であった。
これを契機に維新政府内で「薩摩藩」は勢力を失い「西南戦争」へと突き進む経緯と成るのだ。
ここでも「紀州藩の家臣」の殆どは「伊勢藤氏」であり、「上記の仕儀」から「致し方無しの経緯」とは考えられるが、直接的では無いにしても「政治に関わる事」に対しては「青木氏の氏是」を間接的にも破っている。
唯、「紀州藩藩士の陸奥宗光」とその仲間の「海援隊の裏工作・維新政府の重鎮と成る」で「多少の被害」があったが無事に済んでいる。
この事は「伊勢青木氏」だけに及ばず「青木氏族全体の事」として「伊勢藤氏の力」を借りて成した事に過ぎない。
前段でも詳しく論じたが、「影の首謀者青木氏の伊勢騒動」は「伊勢」だけに及ばす「信濃青木氏」も背景と成っていた事は資料としても遺されている通りの事である。
「伊勢騒動」に対して「維新政府」の「罪に対しての寛大な対応」で応じたのは「紀州藩藩士の陸奥宗光等の働き」があったものと考えている。
「献納・明治9年」も中止し、この「1年後に西南戦争・明治10年」が起こり、している事から考察すると、“「青木氏族」としてはこれ以上の事は危険で出来ない”として「維新政府」から離別したと考えられる。)

(注釈 「近江への再支援の疑問」
飽く迄も、「生産者」でもあって「雑賀・根来の衆」を“「銃傭兵軍団」だとして存在させて置いて「銃の拡散」を抑えておく必要があったのだ。”
当然に「近江」に対しても「堺」からの資材や財源の支援供給で行動を抑制していた。
何故、又しても「難しい近江」に「財源と原材料と職能」を「堺・七割株」から提供したのか、又、当時の「伊勢青木氏の福家」は判断したのか不思議でならない。
これでは「和紙殖産の苦い経験・源氏化」が生かされていない。
筆者なら絶対にしない。
その意味で「銃」は「公的記録」としては、上記した様に「1543年に種子島」に入ったが、実際には、その「40年後」の「1583年頃の近江」から広まった事に成るのだ。
その「意味」では、余りにも「殺戮度の高い銃」は世に存在する事の危険度を察知した「秀吉の刀狩りの判断・1588年」と「家康の銃規制・1605年」は手早く正しかったのだ。
「家康の銃保持・1583年の説」としては正しかった事に成る。
上記した様に、「青木氏の堺銃」は「秘密裏・約100年弱前」に「1543年前からの試作段階・ホイールロック式」を経乍ら,随時適時にて一族一門に「生き残り抑止力・1545年頃」として渡して、最後は「フリントロック式銃・1560年・額田青木氏」に実際に「第一次吉田城・一言坂」で使用したのである。
合わせて「生産元の功罪」の「青木氏の銃」が「近代銃」で「高額」で使用に際しては黄鉄鉱や硝石等特殊な交易で無ければ手に入らない事、又、相当な「熟練」を要し、且つ、銃そのものがそれが漏れたとしても広まらず、最早飾りに過ぎない事に成り得て、故に「身内」で「抑止力の概念」を護り確実に秘匿出来た事も評価できる。
敢えて当初より「火縄銃で無かった事」は「広まらないこの事」を意味していたのだと観る。
惜しむらくは前段でも何度も論じたが、「火縄銃の乱れ」は又しても「近江の事」であったし、「江戸初期前後の松阪での近江商人との軋轢」でも苦労をしているのだ。
「青木氏の全ゆる資料」では、「その説明の一行」が無いが「子孫」としてここに敢えて筆者が遺す。
「青木氏の歴史観」としての後勘としては、矢張り、その原因は、又しても「近江・日野の無節操な行動・抑止力の無効化」にあったのだ。
結局、乱れを食い止める為にも「堺・支援供給」も「中止する破目」と成った。
故に、「火縄銃の銃の歴史」は遅れていて「近江の龍源院銃・1583年」が「銃の事の始まり」として正しいのだ。
「長篠の戦い・雑賀根来火縄銃」での「松平氏の銃保持説」は「誇張の何物」でも無いのだ。
公的に良く「絵巻」でも華々しく描かれている様なものでは決して無かったのだ。
これは「秀吉の刀狩り・1588年」の「5年前の事」に成る。
この事からは「松平軍」は未だ“「銃の調達」”は出来ていなかった事に成る。
恐らくは、上記した様に「銃シンジケート」がしっかりと未だ効いていた事に成るか、高額で手が出せなかった事にも成るが、「家康側近」の「西三河の旗本衆」が“極めて保守的”であった事かにも成る。
筆者はこの「注釈説」から「三河の保守説・嫉妬癖」を更に採用している。
念の為に論じて置くとすれば、この「三河の保守説・嫉妬癖」の性格が、前段で論じた様に「吉宗の頃」にまで続き現実に「史実問題」を起こしているのだ。
如何に「額田青木氏」の「国衆の300丁の近代銃・フリントロック式改良銃」が保持も含めて全ゆる面で如何に「考え方や行動力や判断力」が進んでいたかは判るのだ。
然し、「銃」は例え“「抑止力」”であったとは云え「青木氏の氏是」を超えている事は否定できない。
それだけに「下克上と戦乱」とで「子孫存続」が緊縛していた事にも成る。
「伊勢」のみならず「一族一門の血縁族」により「高い抑止力」を着けて全体で護ろうとしていたのだ。
実際にこの「抑止力」を「伊勢の梵純軍等」は「伊勢の梵純軍等の資料」で使った事は判っているが、青木氏側の確実な記録は見つからない。
「多少の牽制で使った事」もあろうが、全体としては「抑止力の情報力」を高める為に「抑止力・デモはしただろう」であったと観ている。
故に、前段や上記した様に「信長・秀吉・家康」はこれを“「噂」”で知っていたのだ。
つまり、抑止力は働いていたのだ。)

(注釈 「国衆南下の後半」
改めて「源平の戦いの石橋山」で潰されてから「三野王の裔の(aの族)」とその裔の「(a−1の一部)」は完全に滅亡した。
長い間潜んでいた「加茂・木曽の信濃シンジケート(信濃シンジケート)」の「美濃の青木氏の「浄橋・飽波」の「末裔(a−1)と(a−2)」の「一部・伊勢の裔系の集団」と、その血縁関係を持っていた「伊勢の裔系・美濃の者等(a−2)」と、それに追随した「官僚族等(bとc)・原士」等を集めた「血縁族集団」と、この「二つの集団」を「額田を拠点」に形成していた。
所謂、これが国衆南下の「後半の準備期間」であって、これが「美濃額田の所縁集団」であった。
そして、「渥美湾」を「額田」と「伊川津」で縦に結ぶ“「直線勢力圏・縦の陸路」”を「伊勢青木氏と信濃青木氏の背景」で、「超近代的な武力集団」として徐々に構築して支配しようとして「計画」を進めていた。
そこで、「下準備・前期」を終えてからの「室町期の末期」と成ってからは、上記した「美濃額田の所縁集団」の「二つの集団・国衆」を「額田一色」に一同に呼び寄せる機会を伺い実行した。
要するに、「歴史的な集結」であった。
取り分け、危険な「下剋上と戦乱の様子」の中を伺っていたのである。
これを資料から観ると、この時、ここが後期の「周囲の土豪」や「小国衆」との「小競り合い」の「予備戦」があったらしい。
この時の「額田の南下国衆」の行動は、「周囲の勢力」を全体的に抑え込むのでは無く「幅の狭い縦の陸路1・東山稜」の“「直線勢力圏」”の構築に限定していたのであった。
ここには当時にあったこの付近には、“「商業通路」”の様な「自由な通行券・注釈」の様な「山稜の道」があったらしい。
これは「一般道」では無く「一定の物資輸送」や「兵の移動路」等に使われる道で、この様な「土豪」が抑えていた「商業道の物・近道」であったらしい。
「記録」に依れば、前段でも論じて来た様に、その「美濃の国衆」の中では「戦力差・銃」に依って「戦い」には成らなかったのではないかと観られる。
寧ろ、「党の様な軽い連合体」の様な形で「合力を申し合わせた事」が書かれている。
彼らは、元々、別の面で美濃と信濃路間の「一種のシンジケート」であった事を知っていた。
近くにいた「周囲の土豪」や「小国衆」はこの事は既に知っていたらしい。
何せ武装している「美濃の額田の所縁集団」の「二つの集団・国衆」であったかららしい。
「額田の青木氏の国衆」には背後には「伊勢信濃の青木氏抑止力」と「秀郷流青木氏の青木氏族」を控えていたのだ。
これを噂なりに知つていたと云う事であろう。
従って、この「商業通路1」の「土豪集団」は一切戦わなかった。
寧ろ、彼らに執っては{南下国衆}に近づいていた方が全ての面で利得であった。
明らかに資料と戦記の「記録の通り」である事が判る。)

(注釈 「「商業通路の検証」
現在でもこの様な商業道が全国に多くあって、特に「北陸道」に沿って弘前から新潟を経由して富山まで「本道」とは別に「商業道」としての路が遺されているが、この道は歴史に名を遺す商業道であった。
因みにこれには「面白い実話」がある。
前段でも論じた様に室町時代末期に「秀吉」は、「奥州結城氏・永嶋氏」を攻めた時、内部混乱が起こりこれを「奥州結城」に養子に入った一族を護る為に、「背後」を一族の「伊勢の秀郷流青木氏」が「結城永嶋氏」と協力しながら追尾した。
「秀吉側」は家臣の多くを戦死させ無理攻めをして早く片付けようとしていたが間に合わず、慌てて「北陸道本道」を通ると周囲から攻められる事を恐れた。
「食料不足の危険」から密かにこの「商業道」を使って何とか大阪に逃げ延びたとする記録が遺されているのだ。
何故、「秀吉」が「伊勢の秀郷流青木氏」を恐れたかである。
それは、「改良銃による戦歴」を情報として入っていた事を示す証拠でもある。
「銃力」が「非接触による10倍力」を知っていた事に成る。
必死に「商業道」に隠れて逃げたと云う事であろう。
この様に、この頃、“「商業道」”なるものが土豪衆に依って密かに造られていたのである。
この「商業道」には常に「シンジケート」が抑えていた「専門道」であって、これには“「利権・通行料」”さえを払えば通れるのである。
この様な「避難道」の様な当に探訪によれば要するに“「野道」”であった。
この「探訪の印象」では、矢張り「山際の農道」である事から、「田の周囲」から攻められても直ぐに迎撃対応でき、「山からの攻撃」には「山岳側面防御」で護れる。
後は元住んでいた「山間部・R152R}は{2ルート}もあった様だから「伊那・茅野・信濃」までは「活動の地元」であったから、この「商業道・縦の陸路1」に付いては”問題は無い”と観察できた。
「美濃の額田青木氏の銃」があれば問題は全く無い。
ところが、この「予備戦の途中」でこの問題は起こったのだ。
それは「織田勢力」に依って益々“「神明社の破壊」”が起こされ、「伊勢」を含む「近江」でも関西の各地でも起こされた。
「宗教勢力の排除」が各地で徹底して開始されたのだ。
そこで、伊勢は全体青木氏族の事を考えて信濃との命綱である”縦の陸路を造ろう”と決断したのである。
これで、「幅の狭い縦の陸路1」の“「直線勢力圏の構築」が急務であって、この東南の「商業通路」の「利権を持つ東と南三河の土豪連」は、幸いに「信長方」に付かなかった為に何とか「命綱」は「伊勢湾と渥美湾間」の「船の航路」にしても繋がり、兎も角も、再び「信濃間ルーツ」を再構築できた。
後は資料に依れば、「銃の護衛」を着ければ東・南三河の山際の「商業通路」は信濃―三河間は容易に通れたらしい。
「今川氏の勢力圏」と「信長の勢力」圏の丁度狭間にあってここまでは及ばなかった。
従って、元の「一色域」に近い「額田・端浪」には「美濃の所縁集団・二つの集団・南下国衆」を終結させ、「額田青木氏とその一党」として結成させたのだ。
そして、この「額田青木氏・蒲郡青木氏」の中で「伊勢の裔系のa−2」と「血縁性を持つ官僚集団」を先ずは「田原の古跡の神明社」のある「渥美半島・伊川津」に差し向けたのだ。
そして、この奈良期から「古跡神明社の青木氏族の神職族」が住んでいた地域に「伊川津青木氏・吉田青木氏等の四家」として「渥美湾」に再興を成し遂げたのだ。
「渥美」にはそもそも、奈良期の古来より神明社があり、「伊勢青木氏」より「柏紋の神職青木氏」を派遣して定住していたが、ここに相当先に「額田の家族」をも移し、その後に「蒲郡と伊川津」に「国衆」が移動した経緯であった。
然し、この「二つの美濃族の勢力」、つまり、「額田青木氏」と「伊川津青木氏の四家」とにはある種の違う事が起こっていた。
この事もあって、「一つの勢力」としてまとめる事に努力しなければ成らなかった事が判ったのだ。
そこには明らかに次の事が違っていた。
この“「額田青木氏・蒲郡青木氏」”は、つまり「加茂木曽の山間部」に逃げ込んだ「元美濃族系」の「伊勢青木氏の裔系族・「(a−1)と(a−2)の一部の族」であった。
ところが、「額田青木氏」とその後の「蒲郡青木氏」との違いには、「二つの説」が有って記録的には、はっきりしないが、然し乍ら、筆者は、その一説の前記でも論じた様に、後で東・南の端の「商業通路」では無く、別の西三河の「額田」から「蒲郡」に「縦」に「ルート2」を新たに作って南下して「統一して国衆」として定住したものであると考えている。
この一部が「伊勢桑名」に帰り、残り「蒲郡青木氏」が残った。
さて、この「期間差」がどの程度であったかである。
この「信濃の青木村」から塩尻を経由し「縦の陸路2」の「ルート2上」には当に直線状に、丁度、真ん中に「青木村」があり、其処には「古跡の神明社」もあり「清光院」もあり現在もあるのだ。
この歴史を調べれば判るが、先ず「この古跡神明社」も田原と同じく奈良期からである。
この「縦の陸路2」の「神明社」が存在したとすれば、「古跡の田原の神明社」と同様に「神職」が定住していた事から、少し後の同時期に近いと考えられる。
何故ならば、この「西三河の神明社」には「古来の慣習」が遺されていて、「神明社の廻りの六方向」に「山神社」が「子神」として祭司されていて、現在は二方向と成っている。
これは完全な伝統の「奈良期の構え」である。
この事から、これは「神明社」と「青木」に執っては「証拠」と確定できる。
然し、この「清光院」は「浄橋と飽波後の時代」と成る為に完全な同時期とは確定できないが、少なくとも「平安期末期か鎌倉期」である事には間違い。
何故、「蒲郡」かに付いては「桑名の言い伝え」ではあって、資料的には何も物語るものはないが、何かを考えられるとしたら、「伊勢水軍の泊」か「伊勢屋の事務所」の様なものがあったと考えられる。
「蒲郡」の「桑名と伊川津の距離的な事」や「岡崎市の青木町の直線的距離的な事」かであるが、近くに「蒲郡の近隣2社の神明社」があり、「青木町の神明社」との「繋がり」を考えれば何も無かったとは考え難い。
少なくとも、「伊勢の柏紋の神職」が定住していた筈で、現在も「青木氏」はこの村と共に存在するのだ。
そうすると、この状況からも「蒲郡と伊川津の青木氏」は同時に移動したのでは無く、論理的にはこの「二か所」に向かって、別々に「渥美の伊川津青木氏・四家」の一団は東・南の山際の「商業通路1」を通じて移動していた事に成る。
そして、「蒲郡の額田青木氏」は「縦の陸路2」で南下したと考えられる。
「縦の陸路1」と「縦の陸路2」の多少の違いの「時間差」があった事に成る。
その後の「裔系の統一」が起こり、その経緯は次の様であった。
そうする事で、「蒲郡の青木氏」を「主家」として、「伊川津青木氏・四家」を支配下に置く形態を執ったと観ているのだ。
前者が「a−1族」で「額田端浪一色に居た主家」で、「浄橋と飽波の直系の裔系」とした。
後者が「前者の血縁族の裔系」の「a−2族」とした。
前者と後者に当時、「美濃の官僚族」であった「bとc族」が配置された。
この「bとc族」には「300年」と云う長い間に「家紋」から観て「血縁性」が認められる。
この「美濃の官僚族」であった「bとc族」は、この「血縁性と縁故の絆・源氏化」に依って滅亡した「三野王系・a」との二つに分かれたのだ。
そして、「後者の青木氏」にはその「血縁の系類」に合わせて「渥美の四家青木氏」を構築させた。
これには「伊勢」からの「指示成り発言」があったと考えられる。
以上と成る。
そうでなければ「後の史実」とは「時系列」で一致しないのだ。)

(注釈 「伊川津青木氏四家のその後」
其の後に、「美濃の南下国衆の二氏(額田青木氏の蒲郡青木氏・指揮)」と「(伊川津青木氏の吉田青木氏・四家)」には、「松平氏」と共に「国衆」として参加して共に戦う事に成ったのだが、「準備期間の後期」の「予備戦」と観られる「初戦」が「第一次吉田城の戦い」であって、ここから「国衆」が開始されたとされる。
これ以外に「定住地の吉田」が「武田軍」に攻められると云う理由が他に見つからない。
「三野王」に多少の所縁が、「額田青木氏・蒲郡青木氏」には少なくとも在ったとしても、取り分け、「伊川津青木氏四家の吉田青木氏等」にはそれが薄い筈である。
何れも奈良期に繋がる「青木氏」であるとしても、「350年の間」には「青木氏としての違い」は起こっている筈である。
その結果がここに出たのである。
それを物語る記録があって、この事から、一つは「室町期末期」には「額田青木氏の蒲郡青木氏」の一部が“危なく成った桑名”を護る為にも「三河」から「桑名」に向かったとする記録がある。
その二つは、先ず「蒲郡青木氏」は「松平国衆」から離れたとあり、続いて、「伊川津青木氏四家」も離れた形の「行の表現」と成っている。
どうも同時に、「三方ヶ原の戦い後」に直ちに離れた様では無かったらしい。
「多少のタイムラグ」があったと観える。
その「タイムラグ」は、「地元3土豪・国衆・四国」との「伊川津七党の絆」があった事からの「時間差」では無いかと観ている。
「3土豪間の絆」をどう処理するかであったろう。
この「時間差」はどれ位かは判らないが、そもそも「青木氏」の中では「伊勢の指揮の許・蒲郡青木氏」で決まるが、「地元土豪・3氏の間の説得」をどうするか「話し合いの時間差」が必要であったか、「蒲郡青木氏」が行う「陸運業の体制固めの時間差」なのかは判らない。
「蒲郡青木氏」には、「松平氏や土豪との絆」は全く無かった事から「伊川津七党の関係」の「解決待ちの時間差」であった筈である。
この「3土豪の戦い後の状況」から鑑みて「土豪間の話し合い・本家と分家」が着かなかった事が「読み取りの行」から読み取れる。
「資料の深読み込み」から「筆者の印象」では、“二つあった”のではと観ている。
それは、一つは「伊川津の土豪・3氏」を引き入れる事の賛否、二つは「bとc族の引き入れる事の賛否」にあって、「蒲郡青木氏の異論」があったと観ている。
それは「伊川津の地元土豪」は前段でも論じた様に元は4氏であった。
然し、参加しているのは「3氏/4」であるからだ。
“1氏が離れたと云う事・西郷氏・武蔵国衆”に成る。
恐らくは、この「1氏」は資料に全く出て来ない「西郷氏」であったと観られる。
因みに「西郷氏」は三河の戦いにも参加しなかった事が判るが「国衆の中」で何かあったと考えられるが判らない。
これに成し合いに時間が掛かったのであろう。
結果として、「青木氏側」から観て観ると、この「話し合い」に最初に出された「蒲郡青木氏の二つの意見」は引き下げられた事に成っている。
「青木氏だけの陸運業」と「七党の解消と早期決着」であった事は判っている。
この「土豪3氏の国衆の本家」は「松平氏の准家臣扱い」と成った。
この事から、この関係を陸運業の中に持ち込む事を嫌ったのだ。
だから、「武士を捨てた分家筋が加わる事」に成って引き下げたと成ったと考えられる。)

(注釈 「七党の脱党の西郷氏」
「伊川津七党」から逸早く抜けた気に成る「西郷氏」は、鎌倉幕府の相模の低い官吏族の一つで、室町期に三河に入りその後に勢力を伸ばし相模から各地の国衆として流れ、この一部が「三河の伊川津」に入った族である。
又、鎌倉期末期にはその一部はその主家と共に南九州に流れたとされている。
これが「鹿児島」で「勢力」を持っていた「薩摩の土豪・島津氏」の家臣として仕えて、その後、前段でも論じたが、「島津氏は次第に勢力」を持ち「南九州」を制していた「日向肝付氏」と戦い、更に次第に勢力を伸ばし、最終は肝付氏に一国を与え血縁して家老に迎えて決着を着けた島津氏である。
この中に「相模の西郷氏の末裔」が家臣として入り込み居たのである。
要するに、何故に不毛の地の「伊川津」に入り込んだかは判らないがこの「国衆」の一族である。
筆者は、ここから「世間の動き」を観ていたのでは無いかと考えていて、故に、「武田の動き」の活発さから「伊川津」を出たのでは無いかと考えられる。
「伊川津」から何処へ入ったかは判らない。
それは「国衆」をより良い条件で受け入れてくれる所に流れたと考えられ、そうなれば、当時、勢力を大きくさせる為に「国衆」を受け入れていたのは「伊川津の西の今川氏」の「東三河」と成ろう。
然し、この「東三河」から出て尾張全域を攻めた「今川氏・1560年」も織田信長に依って潰された。
恐らくは、この時に「伊川津の西郷国衆一族」は滅びたと観られる。
況や、「伊川津七党の3土豪の国衆」は非弱な三河は尾張と今川の中間に居て、未だそんなに長い間の国衆では無かったし、土地も不毛であって、「国衆としての特典」は固着する程に無かった筈である。
恐らくは、「別の目的」で南下移動してきた「美濃の国衆の青木氏」とは違って「他の3土豪」も「西郷氏」と同じでは無かったかと考えられる。
然し、「今川」が潰れた後は「三河松平氏」はその流れの中にあるこの「3土豪」に何とか「伊川津」に留め置く為にも“「准家臣扱い」”をしたと云う経緯の事に成るのであろう。
それが前段の論の経緯を経て、そして、答えから先に説いて置くと、全てが「准家臣扱い」に納得するかは何時の世も同じで、その「経緯」から嫌って逃れた者等の両者も一つと成って「陸運業」を始めたと云う事に成ったのだ。
だから、「二つの条件」を下げて「伊勢」は納得をしたのである。
これは歴史的に「氏是や慣習仕来り掟」から観て珍しい事であったが、納得わしたのである。
以後、明治期まで全く問題は起こらなかったのだ。
寧ろ、明治35年の松阪の伊勢屋の失火倒産解体時の少し後の時期に、この3つの内の二つは独立して「陸運業」を営んでいるのだ。
その「過去のシンジケートの繋がり」と「国衆の銃の武力」を使って「江戸期の初期」には「大陸運業」に成ったとあり、上記の様に現在も続いている。
「伊勢と信濃と伊豆の商い」を「陸」から支えたとある。
遡れば「江戸初期」は未だ「陸運」は未だ危険であって、各地には「盗賊や山賊や海賊」が散在していが、「彼らの力」に逆らう「盗賊や山賊や海賊」の輩は無かったらしい。
それは「シンジケートの横の繋がり」と「国衆の銃の武力」であって、「伊川津四家の青木氏の陸運」は「美濃忍者の原士」でもあった。
それだけに“仲間に入れて貰う”と云うのは在っても襲う馬鹿は居ないだろう。
故を以てか、益々、「組織」は大きく成っていたとしている。
「伊勢青木氏の資料と商記録添書」を総合的に読み解くと、「三河」より東が「吉田青木氏」、三河より西が「蒲郡青木氏」の領域として故意的かは判らないが分けられていた様である。
ところが、江戸期に入ると、これが“二つに成った”とあるのだ。
“二つにしたのか二つに分裂したのか”は判らないが、これも読み解くと、「昔の慣習」から上手く「割墨」をしていた事も観えて来る。
つまり、この事から、「巨大化した事」に依り「効率化を図る為」に、「西と東の陸運業」にした考えられる。
ここで、「上記の先答え」から次の「二つの疑問」が湧く。
前段でも論じた事ではあるが、次の様に成る。
「一つ目」は、何故に「蒲郡青木氏」の一部が、“危なく成った桑名”を護る為に「三河」から「桑名」に向かったのかであり、そして、その後どうしたのかである。
「二つ目」は、何故に「蒲郡青木氏」は、「松平国衆」から離れたが「吉田青木氏等」も離れたのかである。
この「二つの疑問」を解決していない。
上記の「疑問の答えの記録」が遺っているのだ。
「一つ目」は、「美濃額田の蒲郡青木氏」は、前段でも、且つ、上記でも論じた様に「桑名の額田」に大きく強く関わっていたからである。
つまり、「桑名殿の孫」の「美濃の額田の裔系の祖」の「浄橋と飽波」である。
つまり、「彼らの血筋」には「伊勢」のこの母の「二人の流れ」が強くあって、それが「記憶」「伝統」から「母方始祖」としていた「意識」が強く持ち得て在ったという事である。
「男系の祖」の「三野王の所縁」と云うよりは、「伊勢の所縁・女系」の方が強く在ったのであって、故に、「一色」なのである。
元より、奈良期末期から「妻嫁制度に依る女系氏族」として「四家」を構成していた。
「蒲郡青木氏」の一部は、その為に“伊勢を護るために帰った”という事に成る。
其の後は、彼らは「掟」に依り「桑名殿の四家の家人」と成った事に成っている。
この“「家人の立場」”で、密かに「江戸期初期の神明社引き渡し」を拒み、依然として荒廃した後の「元の位置」に密かに“「祠」”を遺して「桑名殿一族と氏族」で昭和期まで祭司していた事が記載されているし、「氏人」に依って現在も祭司されている。
“「家人の立場」”には、幾つかあるが「額田の裔としての立場」を利用してか、「家人の立場」を利用してかは判らないが、「幕府の目」を欺いたかは確実である。
江戸期は「殖産の関係」からも「家康のお定め書」からも「多くの事」は黙認されていて「紀州藩の黙認」があったと口伝で聞いている。
「一つ目」は、何れにしても「伊勢桑名の裔系」で「家内の掟の範囲」による「掟の事」に過ぎないのである。
「二つ目」は、前段でも論じている「青木氏格式の国衆の立場」と「松平氏の旗本との嫉妬怨嗟の軋轢」であった事が書かれている。
後に述べるが、「第一次吉田城の戦い」「一言坂の戦い」「二俣城の戦い」から「三方ヶ原の戦い」にこの「旗本との嫉妬怨嗟の軋轢」が諸に出ていて、記録にも明確に遺つている。)

(注釈 「二つの縦の陸路の創設」
では、先ず前段でも論じたが、もう少し追論すると、はっきり云える事は上記の「元美濃の額田と伊川津の二氏」は、「伊勢と信濃青木氏の要請・経済的支援」と共に、「伊勢秀郷流青木氏の背景」の“保護下にも入っていた”と云う事である。
注釈として、「1510年〜1570年」まで続いた「小峰氏と白川結城氏」の「一族内紛」に乗じて「信長・秀吉」が動き、最終は「秀吉」に依る「1590年の奥州仕置き」で事を治めた。
この時に、「伊勢秀郷流青木氏・梵純・銃」が「背後」を突いて「白川結城氏の裔」を救い出し「結城永嶋」に連れ戻した事件があった。
この前提で論を進める。
従って、この事から「額田青木氏」だけはその「国衆としての成った目的」を果たしている訳であるし、論理的に遺る理由は、元より三河そのものに“「国衆」”として遺る理由は無かったと云えるのだ。
そもそも、何れも「(a−1)(a−2)の族」であった事に依って、「桑名の浄橋飽波の伊勢の裔系」である以上は、「四掟での妻嫁制度に於ける女系」で深く繋がる「伊勢秀郷流青木氏の背景」の保護下に入る事が出来る所以でもある。
然し、「a−2の裔系」である以上は「渥美青木氏」と「伊川津青木氏」と「田原青木氏」と「吉田青木氏」の要するに“渥美四家”は“「伊勢桑名」に帰る”と云うその所以は元より薄い。
必然的に「蒲郡の額田青木氏」にはその「目的」が達すれば、その「松平氏の保護下」に入る必要性は最早全く無く、「伊勢青木氏の桑名殿」の膝下に先ずは帰る事になるだろう。
つまり、「母系出自元」の「伊勢桑名」の目指すその「目的」が達成されたのであれば、故に、最も早くて“「1560年頃」”に「今川弱体化の頃合い」を観て「伊勢青木氏の桑名殿」の膝下に先ずは帰る事には成っただろう。
だから、「蒲郡青木氏」の一部が「桑名に帰った事」に成っているのだ。
ところが再び、事を興し先ず「旧領地・一色地域」から縦に「蒲郡」までに直線的により強固な「勢力地・縦の陸路2」を張ったという事に成ろう。
これが、時系列から観て「三河国衆」に正式に成った間の無い頃の「1560年頃であった事」に成る。
これが「東の山際の商業陸路1」の後に成る。
そうすると「東の山際の商業陸路1」は元々土豪に依って作り上げられていた陸路であり、それを「東三河国衆」として無許可で使える短絡路として設定したのであろう。
東からは金銭で造り上げた既存の「商業陸路1」を、西からは新たに造り上げた勢力に依る「縦の陸路2」を少し遅れて設定した事に成る。
これは「信濃との関係を繋ぐ縦の陸路2」であって「当初の目的」の一つであった。
但し、この「縦の陸路2」は、資料の調査に依れば、「伊勢青木氏の神明社の古跡地」で「岡崎と蒲郡」はその「神職定住地」であってこれを改めて強化して繋いだとされているのだ。
「伊川津の田原の古跡神明社」と同じであったのだ。
故に、その史実を承知していれば「南下後1560の頃」の直ぐに出来る仕草であった様だ。
恐らくはこれは当初からの「伊勢の情報と作戦」であったと考えられる。
この「二つの縦の陸路の創設」は「国衆の銃と財力」に保障されたものであったろう。
だとすれば、「1573年」まで「国衆を続ける理由」は完全では無いが最早無く成っていた筈であるが、然し、「12年間」も続けた。
これは何故なのかである。
一つは松平氏と織田氏への牽制にあったのだ。
「縦の陸路2」は、西の「織田氏の勢力圏」の東末端重複部にあった。
「商業陸路1」は、東の東三河の「今川氏の勢力圏」の西末端の重複部にあった。
これには、両者に対する牽制として“「300丁の銃の脅威・抑止力」”を「国衆」として見せて置く必要があったのだ。
そうする事で戦国の世の中で「二つの陸路」を維持でき「信濃との連携」が取れていた。
さて、それに就いてであるが“「300丁の銃の脅威・抑止力」”だけでは済まなかった様だ。
それを裏打ちするだけのもっと“大きい背景”が必要でそれには問題があったのだ。
ところが、一方、「伊川津の七党」の彼らは、“「秀郷一門の背景下」には入っている”が、その“「保護下の入り方」”に問題があって完全では無かったのである。
それは「地元の土豪勢力」と「七党を形成した事」もあったのだが、「格式等の立場」の違う彼らには要するに「一つの文句・言い分」があった。
主に「額田青木氏(a−1)と、(a−2)」の中には「一部の配下」として、「加茂木曽の山間部」に潜み「シンジケート」を形成していて長い間働いていたが、その「原士の元・奈良期から平安期」は、そもそも「低位の官僚族(bとc)」であった。
これを「地元の土豪勢力」から観れば、この「保護下の入り方」に血縁性も低く間接的に「保護下」に入っていただけの事に結果として観えた事になっていたのであろう。
これを「伊川津四家として見做す事」に「不満をもっていた事」が「資料の行」から読み取れる。
要するに、「低位の官僚族(bとc)」を感覚的に別として捉えていた事に成る。
然し、「伊川津四家」の中の族として「青木氏側」では捉えていた。
ここに「地元の土豪勢力」の「感覚差」が出ていた事に成る。
この「感覚差」が“「秀郷一門の背景下」に「揺らぎ」が生まれたのだ。
この「行の事」から鑑みれば「地元の土豪勢力」に執っては、「伊川津青木氏四家」の先には「秀郷一門の背景下」がちらついていた事を意味する。
「伊川津青木氏四家」だけで信用せずに「伊川津7党」を構築していた訳では無く「影の一党」を後ろに描いていた事になる。
何故ならば、「4土豪」の内の「2党」は関東からの「国衆」であって、「秀郷一門の背景」を事前に承知していた筈である。
室町中期までは「伊勢長嶋」まで「関東屋形」として勢力を維持していたが、室町期中期以降は元の関東に勢力圏は押し込まれ桃山時代まで「秀郷一門の背景」は維持していた。
この時期の「伊勢秀郷流青木梵純」の「陸奥の結城氏救い出し」でもその勢力は未だ健在していた事に成る。
「伊勢青木氏の威力」は、飽く迄も「抑止力とその財力」であっても、「4土豪」には「武力の背景の感覚」を強く持ち続けていて、「彼等の感覚」の中には色濃くまだ残っていたのだ。
それ故に、”七党を組んでも若干心もとない”ものを持っていた事に成ろう。
「細かい歴史観」としては「伊勢青木氏の秀郷一門の背景」に何某かの魅力を感じていた事に成る。
そもそもこれは「額田青木氏・蒲郡青木氏」の「南下国衆の指揮官」であった事もあって無理のない処かも知れない。
更に遡れば、この地域まで「武蔵秀郷流主要五氏」の「青木氏族の永嶋氏の勢力圏」であったのだから「秀郷一門の背景下」を期待するのも「仕方のない事」かも知れない。
寧ろ、厳しく見れば「格式社会の中」では、「地元土豪」は時代が進んだ事に依って「国衆」と云うものが生まれ、彼等から観れば従って「同格程度の官僚族類」だと観ていた可能性もある。
逆に「元官僚族類」は格式からすれば「新撰姓氏禄」に記載にある様に「諸蕃」に類するのである。
平安期は「元官僚族類」の支配下にあった庶民である。
全国的に観れば「土豪の中」には「元官僚族類」から成った者も居たが、この渥美半島の室町期後半の最後まで生き残った4土豪の「戸田、牧野、馬場、西郷」はその多くはその出自を遡れば格式とすれば「下・農民」であった。
然し乍ら、狭い不毛の「伊川津」に住む以上は、この「地元4土豪」は、元を質せば、室町期中期では血縁性は別として「何らかの永嶋族との関係性」を持った「片喰州浜の永嶋系秀郷一門下」であった事には間違いはないだろう。
ところがこれは「家紋類」には、明治初期にも起こっているが、「江戸初期の国印状発行」の際には「公然とした虚偽搾取」が多く起こったので「史実」かどうかは判らないが、「伊川津七党」の地元の「片喰州浜系の家紋類」が多い事からでも判る。
「家紋=血縁と云う論理」に成るのでよく調べると実は一部が異なるのだ。
つまり似せていると云う事だ。
因みに、「片喰紋類」には125紋あり、「州浜紋類」には43紋ある。
三河に関わるこの「3土豪の家紋」はこの中には無く、あるのは渥美半島の田原藩主の本田氏の本田片喰と東三河の酒井氏の酒井片喰での二つであり、恐らくはこの「3土豪」は、二つは「本多片喰系の類似紋類」ともう一つが「酒井片喰系の類似紋類」と云える。
この事で「准家臣扱い」から「松平氏の譜代家臣」になり「大久保氏・本多氏・田原城」と「酒井氏・吉田城」に組み込まれた事に依って、最終は江戸期に「国印状発行」に際し「類似紋を使う事」を許可されたと考えられる。
尚、「州浜紋」はそもそも「秀郷一門」に従って陸奥から来た血縁を受けた「常陸小田氏系の家紋」と成っている。
鎌倉期に秀郷一門の勢力の西への伸長にともない「関東屋形」として三河域に一部の「支流子孫・卑属」を遺したものである。
江戸期の「戸田氏の家紋」は「国印状発行」で正式に決めた家紋は「六曜紋」で、「牧野氏」は「丸に三柏」と成っているが、室町期の家紋は上記の類似紋であった。
そうすると、この「本多氏と酒井氏」が「片喰州浜紋類」を使った事で「秀郷流一門への憧れ」を持っていた事に成り、その中でもこの「家紋類の傾向」としては「伊勢秀郷流青木氏と伊勢藤氏」の方が「関係性・憧れ」は高いと云う事に成るだろう。
この上記の事から、矢張り、「3土豪の本家筋」は「資料の読み取り」の通り「秀郷一門への背景」を強く意識していた事は否定できない。
この様な「資料」に基づけば何気なく読むと気が着かないが「文章の行」を注意深く読み解くと、“この時にこんな表現は使わないだろう”として観れば、故に、“憧れの様なもの”以上のものが強くあった事が伺える。
だとすると、この件で観ると、寧ろ、「土豪等の利害の考え方」が「本家筋」と「分家筋」の考え方が事に成り、「分家筋」に執っては“「抜け出す」”と云うよりは「秀郷流青木氏の背景」の持つ「伊川津青木氏四家の中」の“「保護下」”に入っていた方が得策であると考えたのであろう。
現実に、これがどのような経過であったかは確定はできないが、「下記の注釈」から「本家筋」は「松平氏の保護下に入って行った事」は判る。
この様に「伊川津青木氏」には「党」を形成する上で「以外な悩み」があった事に成る。
故に、「伊勢と蒲郡」は「陸運業」を立ち上げる時に、後々問題に成る事であったのでこの一点も気にしたのでは無いか。
現実に、前段でも論じたが「額田青木氏の南下国衆の指揮」を執った「伊勢秀郷流青木氏」は「岡崎」から「開発業」を手広く始めている。
これは「秀郷流一門の背景」が色濃く出て来た証拠でもある。
分家筋は「読み」の通り相当に「低禄の本家筋・准家臣扱い」より潤った事を意味する。
要するに、拒絶されずに「伊勢秀郷流青木氏が住む世界・地域」の地盤がこの三河にも「広げられる地盤」があった事に成る。
「秀郷一門」は平安期から鎌倉期を経て室町期中期頃まではより良い執政を敷いていた事に成ろうし、取り分け「永嶋氏」は貢献したのであろう。
「永嶋氏」は平安期と鎌倉期に四国徳島と淡路にも「片喰州浜の多くの子孫」を遺したのだ。
これが江戸期まで続いたと云う事なのだ。
そこで「牧野氏の出自説」には大まかには二説あり、共に四国で「阿波説」と「讃岐説」に基づいているが、「牧野の姓」の論処は、四国での「牧野・イ」と三河の「牧野・ロ」に分かれていて、前者は「室町期・応仁の乱」、後者は「鎌倉期・承久の乱」の事に成っている。
「前者・イ」は「讃岐」から出て来て「乱の功績」に基づかず「三河牧野村」に根付いたとする説であるので、元は「牧野」では無かった事に成る。
「後者・ロ」は「阿波」から出て来て「乱の功績」で三河宝飯郡の「牧野村の地頭」と成って「牧野の姓」を名乗ったとしているので、元は「牧野」では無かった事に成る。
何れも「牧野氏」では無かった事に成り、違いは「讃岐」と「阿波」の違い差にある。
「二つの姓」から「元の姓」が明確に成っていない事と、「武士」であったとすれば「家紋」を持つ事から、この「家紋」が明確に成っていないので、当時の殆どの「農民の立身出世」が起こった時期の「農民」であったと観られる。
「讃岐」か「阿波」かであるが、筆者は、豊橋に讃岐神社を造っている事から「讃岐」から一度「三河」に入つた国衆団であったと考えている。
「後者・ロ」は余りにも「史実」に合わせて矛盾なくしての後勘で「出自系」で造り上げていて、現実にこの様に上手く行かないし、上手く行けば「不毛の伊川津」には流れ着かないであろう。
間違いなく江戸期に成ってからの「後付け」であろう。
筆者の説は「前者のイ」であり、「姓の出自」は「農民」であり、三河の「牧野村の庄屋牧野氏」を「何らかの形」、即ち、当時横行した「血縁か奪剥」で名乗ったものであろう。
「農民の立身出世」で「応仁の乱時」の乱世の「流れ者説」を採っている。
因みに、公然としてその出自を公表している「当時の状況」を物語る有名な「土佐藩主の山内氏」も同然である。
「家紋」を観ても四国には無い「三柏紋」は可笑しいし、20に近い一族の家紋がそもそも統一されていないし、この一族の中には「前者・イ」を元としているものもある。
又、「三柏紋類系」には無いものもあり、且つ、「家紋200選」にも無いのだ。
明らかに「国印状発行と系譜」には何が何でも定めなければならないもので、そうでなければ「国印状」は出ず「武士」には成れない。
この「牧野氏」等は「新撰姓氏禄の諡号」の族系には無く、依ってその発祥は阿波の「農民であった事」に成る。
前段でも論じたが「後者・ロ」の現地は「四国」を東西に分けて、東に「秀郷流一門と藤原利仁流一門とその青木氏」、西は「讃岐青木氏と讃岐藤氏の定住地」である。
少なくとも其処の民であったのであろう。
それ故に、「秀郷一門に対する憧れ」が根底にあった筈である。
そこで念の為に、仮に秀郷一門に血縁的に関わっていれば「主要八氏」であれば、「361氏の家紋類」と、「青木氏」であれば「116氏の家紋類」が、「一定の規則」で江戸期の墓所に刻まれている筈である。
現実に「現地調査の問題1」では、江戸期前後のものと考えられる「墓所」を確認した。
「明治期の墓所」は、「苗字令・督促令」に依って掟が護られなくなったので、信用は出来ないし墓石も違うので容易に取捨選択できる。
それによれば「片喰・州浜の家紋類」の江戸初期頃の物と思われる「青木氏の墓紋」が確かに刻まれてはいるが、然し、完全な秀郷一門のものではない様だ。
流石に、この「美濃の一色の西域にある墓所」では、最早、「三野王族の(a)族」は滅亡して「笹竜胆紋」は無い。
「伊川津の青木氏」と名乗る以上は「(a−2)の族」の一部が、「(a−1)」と「尊属血縁性」を持ち「青木氏の掟」に依り「女系」で「青木氏」を興して名乗った事に成る。
従って、「尊属」であれば「笹竜胆紋」となるし、「女系」に依って「姓・卑属」を出さない掟である事から、伊川津では「賜紋の神紋の柏紋」以外には無い筈である。
結果は「伊川津の墓所」では、歴史的経緯から「古来の古跡神明社」を頼って移住した事もあって、「神明社の柏紋類」が殆どである。
つまり、「額田の一色」では「笹竜胆紋」の象徴の下で、「a−1族の裔」は兎も角も、「a−2の裔族」は敢えて「家紋」を「象徴紋」だけとして定め別に持つ事をしなかった事に成る。
然し、「南下国衆」として「a−1の裔系の蒲郡青木氏」と離れ「伊川津域」に移動し「伊川津四家・a−2」を構築した以上は、所縁の「賜紋の神紋の柏紋」を使う事には同じ伊勢の裔系である以上は何ら問題は無いし、奈良期の元から定住していた「伊勢の神職」との血縁も「四掟」から考えても興っていると考えられる。
次は「現地検証の問題2」は、「伊川津青木氏四家・a−2」に付き従った「bとcの官僚族」の墓所が「田原市加治町」に「真宗寺・匿名」としてある。
此処には、「18の真宗寺」があって、その内の二つと観られる。
この寺から真南1kの所に「真宗西光寺」があり、況や「秀郷流青木氏の所縁」の繋がりを物語っているが、恐らくは、この「二つの真宗寺」に江戸期前までは「彼等の菩提寺」として分散していたと考えられる。
美濃の「bとcの官僚族・諸蕃諡号雑姓・第1の姓族」に位置する族の「家紋」には、「過去のある特徴」があって「最大48種」の「草に関わる紋様と色」から出来ていて、これを基に最初は「家紋」と云うよりは「位階身分の判別紋」として扱われ次第にそれが「家紋」と成って行った。
この判別から「諡号では無い第二の姓族」と違って、「諡号を持つbとcの官僚族・諸蕃雑姓・第1の姓族・440族」にはこの“「判別紋」”を持っていたのである。
これを格を細かくは、「12類族」に分類でき、「大まかな格」には「8類族」に分けられ、「計20類族の格」でこの「分析」から確認できるのだ。
全体では「440の判別紋」がある。
これは「血縁性」に関わらず「位階身分格式」に依って分けられている。
念の為に「諡号」に含まない要するに「第二の姓族」にはこれは無い。
「伊川津青木氏四家」の近隣にこの「美濃の官僚族」であった「彼等の新たな菩提寺」は2寺存在するのだ。
奈良期では「五都計画」の一つであった事から「低位の官僚族」ではあるが、判別から観れば「中位下の判別紋」に成ろう。
中位格式以上は都に帰る事に成っていた。
この判別に含む家紋が刻まれているので確認できる。
この「現地検証の問題3」では、「上記の類似紋」が実に多いのだが、先ずは「3土豪の姓族の本家筋の家紋」にあるが、「伊勢の裔系の家紋」は元より「秀郷流青木氏の家紋類」には無く、仮にあっても墓石も江戸期前後の慣習のものと違っているので、明治以降のものであって俄かに信じ難い。
墓所の家紋から「片喰州浜紋の秀郷流一門」とは正式に明確に混じっていない事が判る。)

「青木氏の伝統 58」−「青木氏の歴史観−31」に続く。



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