青木氏氏 研究室
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  [No.385] Re:「青木氏の伝統 60」−「青木氏の歴史観−33」
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/09/19(Sat) 14:53:31

「青木氏の伝統 59」−「青木氏の歴史観−32」の末尾

結局、「三方ヶ原」に到着するに必要とした時間は、「青木氏の銃隊の偵察隊と追尾」が「所要4時間」であり、「松平軍の浜松城から出陣」が「所要2時間」であり、その「2時間差」が結果に出た事に成った。
「武田軍本隊」は「前日」から手こずり「一夜後の朝」に落城した「堀江城」から、そこから「軍態勢」を整えて「昼前」に出発したとあり、「三方ヶ原」に向かって到着したのは、“「夕方の時間・昼4時頃」とあり、遅れた”と記されている事から、計画と違って合計「5時間位所要していた事」に成ったが「陣形と山県軍の遅れ」から勝利を得たのだ。
そして、「三方ヶ原の戦い」の「戦闘時間」が「2時間・昼6時頃」で終わったとある。
「別動隊・山県軍」が「浜松城・夜8時前頃」に到着した時は、「浜松城」には“「篝火」”が焚かれていたとある。
この「篝火」に意味があった。
そうすると、以下の検証は次ぎの様に成る。


「青木氏の伝統 60」−「青木氏の歴史観−33」

「伝統シリーズ」で、「注釈」として論じて来た「伝統56−3〜59」までの事が、実は「研究」が進むと「青木氏の歴史観」として、別に論じ切れない事、又は、論じ得ない事が多いのだ。
これをここで分けて更に続ける。

(注釈 「二軍の経緯」
「全ての資料」からの「読み取り」で、“「時系列」”から検証して観ると色々な事が判って来る。
この「美濃の額田青木氏の歴史観」を解く事で他に観えて来るものがあるのだ。
開戦時、直ぐに「二俣城の戦後始末」を完了し「武田軍の本隊」に合流する為に「西の三方ヶ原合流地点・計画は宿営地」に向かって急いでいた「山県軍の別動隊・5000」は、「当初の作戦計画」とは「様子」が違う事に「情報」を得ていたので、東沿いに南下する案もあったらしいが、然し、「北の山際」から先ず西に向かい「松平軍の鶴翼右側面」に着こうとしていた。
「武田軍本隊」に合流する作戦が二俣城で決めた「元の作戦」であった。
ところが、「作戦のずれ」と「松平軍の行動のズレ」が起こって仕舞ったのだ。
そこでこの「二つの作戦ズレ」で「別動隊」として「独自の行動作戦」により有利に臨機応変に出るしかなかったのだ。
「当初の計画通り」に「武田軍の本隊・魚鱗の陣形に入り込むのは危険」に合流せず、山際で様子を見ようとした事もあり得るが、然し、「経緯」から観て「合流する充分な時間的余裕」がそもそも無かった事が判る。
結果として「北山際の鶴翼右側面」の少し離れた位置に着いたのだ。到着したのだ。
ところが「時系列」から観て、「東の街道沿い」を直に南下して「松平軍の背後」に着き「武田軍本隊との挟み撃ちの態勢を執る事」も時間的には出来た筈であるし、その案も実際には出ていたのだ。
此れの方が軍を動かす上では確かに円滑である。
それは「天竜川沿い」に「二俣街道−飛龍街道・16.8k−5.5h」を経て「三方ヶ原」に入る事は出来るのだ。
確かに「北の山際」に沿って「三方ヶ原」に入るには、「15.2k−5h」を所要する。
要するに、これを考察すると、余りこの差が無い筈で、そこで、「判断の分かれ目」は「情報」による「鶴翼の陣形」にあった事が判る。
この「松平軍の鶴翼の陣形」であれば「右側面を突いた方」が良いか、「背後を突いた方」が良いかに関わる。
「選択の理由」では、「時間差」と共に「地理地形」には問題差が無い。
そこで「背後を突く事」には、「武田軍の本隊」と「山県軍の別働隊」での“「挟み撃ち」”に成るが、これでは「両方のタイミング差」が起こる。
「タイミング」が狂えば「武田軍側の2軍」のどちらかに「大被害」を興す。
少なくとも、この場合は「武田軍の本隊」が先ず「戦闘態勢」に入り、「山県軍・徳川軍と同勢」が「背後」を突けば成功する。現実には「二つの作戦ズレ」でそんな「打ち合わせの時間」は無かったのだ。
「武田軍の本隊」は「魚鱗」、「松平軍」は「鶴翼」とすると下手をすれば、先ず「武田軍本隊」に犠牲が大きくなる。
其処に「山県軍の別働隊」が「背後」を突けば、確かに最終は「武田軍本隊」と「山県軍本隊」での「挟み撃ち」で勝利するだろうし、「山県軍の別動隊」より「武田軍の本隊」の「犠牲」の方が大きくなる。
これは「別動隊としての使命」から「逆戦法」である。
然し、「北の山際」から「タイミング」を見計らって南に向けて準備の無い弱点の「鶴翼の右側面」を突けば「鶴翼の陣形」は先ずは本隊に犠牲無く時間差に問題なく崩せる。
其処に「武田軍の本隊」が攻め込めば「武田軍の本隊」には犠牲は少ないし、「山県軍の“別動隊”」の「本来の目的・使命」は達成される。
然し、そこで青木氏の歴史観に関わって来るのだ。
この「作戦」には「南下国衆の銃隊」の配慮は無いのだ。
“右鶴翼の側面を突いて成功した”と「山県軍の“別働隊”」は瞬間は思ったと考えられる。
ところが、違った。
突然に突撃の瞬間に「突撃の前面」に観た事も無い「凄い弾幕の銃力」が迫って来たのだ。
最早、突撃し始めた”「山県軍の別動隊」”の「突撃の勢い」を止める事は出来なかった。
それは「敵中に留まる事」に成り、左の松平軍の本陣の攻撃を受け、且つ、防御しようもない遠方から「銃弾」を浴びせられる事に成り、下手をすれば「全滅の憂き目」を受ける。
最早、より早く突っ込む以外に無かった筈である。
「凄い弾幕の銃力」の前には全くの“「無防備の戦い」”と成ったと観られる。
故に、「両軍の全戦記」には統一して短い戦闘の時間で「2000の犠牲・程度・少な目」が出たと記されているのだ。
結果としては、然し乍ら、突撃し「鶴翼の横腹」を突かれ「総崩れ」に成って「松平軍の敗戦」は一瞬で決定的と成ったのだ。
不思議な光景である。
「大将の家康」が時間的に観て「右側面」を突かれた時点で早くも「戦線離脱」していたのだ。
そして、「家康の本陣」が楠ずれたのを横目で見ながら、ところが一方で「山県軍の別動隊」は、この思い掛けない「弾幕の大きな犠牲」を負いながらも、その侭に“「浜松城」に目がけて突進した”とある。
筆者は、「青木氏の歴史観」として、この“「浜松城」に目がけて突進した”事には「意味、疑問」があったと考えている。
「浜松城」に目がけて突進した“「山県軍の別動隊の面目」”が働いたと観ているのだ。
勿論、再び向きを替えて南から「波状攻撃」を「南下国衆の銃隊」に向けて何度もかけて「自らの別動隊の使命」として「全滅」に至る作戦を実行すると云う手もあった。
それは、「武田軍の本隊」の「犠牲」を少なくする為でもあって、又は、「救う」と云う「別動隊の本来の使命」もあった筈で、それをもせずに、且つ、「波状攻撃・全滅」もせずに、「浜松城」に向かったのは「別動隊の使命」の全てをそもそも逸脱している。
「命のやり取りの作戦」を実行する戦場で「全滅覚悟」で「使命」を果たすのが通常である。
これは勝利した後、「戦後処理」で“「誹り」”を受けるは必定で、それを敢えて“浜松城”に目がけて「計画の無い作戦」として南下したのだ。
南下したのは、勝利を確認する目的」で、そうでなければ「城」を落とすのが「別動隊としての使命」である。
もし、ここで、“「南下国衆の銃隊」が追尾して来る”とした場合でも「銃力の戦力の違い」で近づかずして別動隊は全滅に至るは必至である。
これは「別動隊の使命」でもあるが、「臨機応変」に「計画の無い作戦の形」を執る事で本隊を補完するが、其れから考えると、”「体裁」”を整えた事となろう。
又、その時、「南下国衆の銃隊」が思いがけずも「追尾してこない様子」が見えたので城検視するだけ引き上げで「体裁」を執ったのではないか。
それだけに「別動隊の被害」が大きかった事も云えるのだが。
否、然し、地形と距離から「南下国衆の銃隊の行動」は観えていた筈であるので採れた行動であったとも観える。
これを観て、それ故に「体裁」を整えたし、「もぬけの殻の浜松城」を攻めずに引き上げて仕舞ったと云う「不思議な行動・判断ミス」を執ったと観ているのだ。
「もぬけの殻の浜松城」であってさえも「山県軍の残兵」を「当面の守備兵」として置き、「別動隊の使命」には「掃討作戦」が待っていた筈で、「本隊の到着」を待って残しておくのが「戦いの常道」である。
其れさえしていない。
この一説では、“浜松城に「隠し兵力」が未だ居るかも知れないとする事で引き上げた”とする擁護説もあるが、つまり、これが「定説」にも成っているが、それでも「別動隊の使命」は、「本隊」に対して「全滅覚悟」でその「障害」と成るものを「取り除く事」が「本来の使命」である。
そもそも、「石高」で凡その「兵力」は決まるし、「戦場」を観れば馬鹿で無ければ「兵力数の限界」は直ぐに読み取れるし、「情報」も得ている筈である。
それが「武田軍唯一の軍師の将軍」であれば100%そんな事は無いだろう。
「都合よく江戸期に間尺を合わした擁護説・脚色」としか観られない。
仮に、「2000の兵力」が無く成っても、未だ「3000の兵」はあるし、「別動隊の使命」としては「城兵」が同程度の「3000もの兵」がある事は無い。
「織田軍の援軍」の3人の「軍目付・軍監」は、「織田氏の狙い」である「時間を稼ぐ籠城戦」から、家康が突如、「開戦」に作戦を変換した事で3人が持つ援軍は引いた。
従って、「松平軍の5000」だけで「無謀な野戦」を仕掛けたのに、そもそも「3000も城に残す事」は絶対に無い。
そもそも、「野戦」とは「勝負の決戦」であり「前哨戦」ではないのだ。
であれば「城」に詰めているのだから直ぐに判るし、「8000もの兵力」を国衆をかき集めても確保する能力は松平氏には無かったし、そんな力は無かった事は後勘で無くても解った筈である。
他に「織田軍の援軍説」が、「後付けの多説」ではあるが、筆者は「織田軍」は況や”「西の信長包囲網」”で西に逼迫した戦況下にあり、元々負けると思われる勝負に「多くの援軍を送る事」は100%無い。
故に、「織田軍」に執っては「東での時間稼ぎ」であった筈で、それには「籠城」が最適で「籠城戦の城」の中に多くの「援軍を送る事」は無い。援軍を結果として廻さなかったとするこの説を論じている説もある。
ところが、「野戦」を遣って仕舞ったので、それを止められなかった3人の「軍目付・軍監」の「援軍の将」はそれでも後に「信長」に「無能者」として叱責を受けている史実がある。
「佐久間、平手、水野」が「多くの軍記」に記されている「者・織田家の旧重臣・3人衆」ではあるが、実際は「尾張美濃への配置」に遺していた軍とする説が主流であり、状況に応じて判断する立場にあつてこの「三者の援軍」は明らかに形の上でのものであった事が云える。
要するに、言葉の通り”「軍目付・軍監」であった事が判り、状況次第で援軍を送るかを決める立場にあって、「時間稼ぎの籠城戦」では無く、「開戦」を選んだと成れば「軍目付・軍監」としては「援軍」は送くる馬鹿はいないと観ているのだ。
筆者は、現実には送らなかったと観ていて、敗戦状況から観てこの「軍目付・軍監」の三者も命は危なかった筈で、現実には無傷であった処を観ると代理を送り、意見が通らなかった「野戦」と成った時点で3人の「軍目付・軍監」も引いたという事であろう。
当然に「軍目付・軍監」の「代理」や僅かな「援軍」も意見の違う「戦い」に合力する事は無く引き上げたと成る。
織田側の「一つの戦記」の「尾張美濃への配置説」の「軍目付・軍監の説」は正しい。
故に、「軍目付・軍監」は「旧重臣」であったのだ。
故に、、この「軍目付・軍監」とも成ればその「意味」は違って来て、「戦記」ではここの「知識のずれ」で多説の生まれる処の所以と成ったのである。
従って、故に此処で論じ着れていない「一つ青木氏の歴史観の疑問」が生まれるのだ。
それは「時系列の記録」では、「家康」は既に「浜松城」に逃げ帰って「篝火」をたかせ疲れから茶漬けを食した後に寝たとある。
さて、本論でも一部論じているが、とするとそこで“家康は何時逃げたか”であり、その「逃げる時間・タイムラグ」は「戦いの状況・経緯」から無かった筈である。
少なくとも「山県軍の別動隊の方」が「南下国衆の銃隊」に対して「武田軍の本隊」を護り引き付ける為に、「波状攻撃」をしなかった事は判っているので、先に「浜松城」に到着している筈である。
“開戦開始から2時間で戦い”は完全に終わったとある事からすると、連続的に観て「山県軍の別動隊」の「右側面の突撃」から「左側面」に到達して、更に、そこから「浜松城」に到達するには「徒歩・徒士」でほぼ「2時間」である。
そして「右から左りに突き抜ける」には、少なくとも「5000の鶴翼の軍幅」は地形からどう考えても「750m〜800mの最大範囲」にあり、「勢い」を着けて「戦い」ながら「前進」するとすれば、「徒歩」を基準として「最低でも15分程度」で抜ける事は出来る。
そうすると「浜松城」まで「2.3h〜2.4h」と成り、先に「家康」が「浜松城」に逃げ帰っていたとすると、「戦い開始」のこの「15分の間のタイムラグ」の間にしかなく、考えられるシナリオは「山県軍の別動隊が突撃する前に既に逃げ始めていた事」に成る。
つまり、城に着いて「篝火と茶漬けと寝る」と云う時間は少なくとも無かった事に成る。
仮に、“「家康」は既に「浜松城」に逃げ帰って”とすれば、「山県軍の別動隊」が右側面を突く勝敗の決まらない相当前に逃げ帰らねばこの説は成り立たない。
「鶴翼の陣形の横腹を突かれると云う事」は、そもそも「負けると云う事」であり、戦う前にそれを知って逃げた事に成る。
それ以外に「時間的余裕」は生まれない。
つまり、この事から「二俣城」からの「山県軍の別動隊の情報」が全くなかった事に成る。
然し、記録では「二俣城の戦闘と落城」は知っていた記録と成っているのだ。
「開戦の前」から北の山際に「山県軍の別動隊」が居た事は山手の地形からして観えていた筈である。
それも「別動隊である事」、且つ、「山県軍である事」は「二俣城の敗戦の情報」からも知っていた筈である。
開戦直前には合流せずに「武田軍の本隊」とは違う事をすると云う事は認識していた筈である。
又、「一言坂の偵察隊・南下国衆の銃隊」からの情報もあった筈である。
そもそも、「戦い」の場合は「情報の獲得」が戦いを左右し制すると云われている。
そうと成れば「忍者」を含む“「幌者”と呼ばれる者」を各地に配置して「情報」を獲得し、又、命令等を伝え戦うのが普通であり、これはあり得ない事である。
事前に間違いなく知っていた筈であり、そうでなければ「籠城戦」として「野戦」には出ない。
だとすると、「戦闘時間」が何れの戦記でも「2時間」であったとし、「三方ヶ原」から「浜松城」まで「徒歩2時間」とすると、「山県軍の別動隊」が「鶴翼の右横腹を突いた瞬間」の直前の更に前で逃げ始めた事に成る。
既に知っていたのに開戦すると逃げた事に成る。
この「タイムラグ」では、「山県軍の別動隊」が「左横腹・鶴翼の軍幅」を突き抜けるまでの時間と成り、つまり、「指揮官の山県」は横目で「家康」が逃げ始めた事を知っていた事に成る。
だとすると、「山県軍の別動隊」が「額田青木氏の銃隊」に「波状攻撃を加えて来る事」は、既に「勝利が決まっている事」に成り、無く成っている事に成り無理はしない事に成る。
「南下国衆の銃隊」が「戦線離脱していた」としても、少なくとも「波状攻撃」は別としても「武田軍本隊に掃討作戦の使命で合流する策」もあった筈である。
「額田青木氏の銃隊」も「波状攻撃の考え」は同じで無かったと考えられるのだ。
現実のには史実では、そもそも「兵の居ない篝火の浜松城」を攻めずに”検視”しただけで、「使命の掃討作戦」もせずに「本隊」に戻っているのだ。
だとすると、“疑問は何故攻め落とさなかったのか”が「大問題」であろう。
筆者は、「青木氏の歴史観」として、先ずは「精神的なダメージ」として“「額田青木氏の銃隊」から受けた「犠牲」にあった”と観ているのだ。
要するに、余りの犠牲の大きさに質と量で「空城」に対して“戦え無かった”と云う事だ。要するに「戦意喪失」である。
そして、それには「精神的ダメージを加わったという事・判断ミス」になろう。
「武田軍の戦記」には「犠牲2000/5000」とあるが、「戦場」を整理始末するのは「勝利した側の役目」である。
そうすると、「味方の銃による犠牲」は正しく確認出来た筈で、この「額田青木氏の銃隊」の前にあった「犠牲2000」は少なくとも記録を残す心理として少な目に記録するだろう。
筆者は、到底、「犠牲2000」では無かったと観ているのだ。
「武田軍本隊の犠牲」は、殆どの「松平軍の大将」の無くした「崩れた中」に攻め込んでいるので僅かと観られ、「山県軍の別動隊の余りの犠牲」の多さに驚いた筈である。
だとすると、「750m〜800m」ではそもそも「フリントロック式改良銃」では「射程距離内」にあり、その「飛距離」と「命中率の良さ」から「鶴翼の右横腹」に突撃した時から撃ち始めているので、命中率100%として時間的に考察から「3000」は遥かに超えていたであろうし、それも「相当な訓練」を要する「改良銃」であった事に依り、「火縄銃」に比べる事の出来ない程の「銃の特別な威力」で「ケガ」では無く「戦死」であった筈である。
「南下国衆の銃隊」が遅れて陣形の敷いた後の「鶴翼陣形の左側面」に着いたとされているが、恐らくは「鶴翼」は開け閉めして動く事から、「銃隊」が「移動式」と云っても鶴翼と同時に様に動く事は無理で、故に「南下国衆の銃隊」が着くとした場合は「付け根部分」に位置した事が考えられる。
其れで無くては“銃は味方を打つ事”に成り論理的に「付け根部分」で無くてはならない。
と云う事は、「南下国衆の銃隊」が記録では、僅かに“右に向きを替えた”としているので、「山県軍の別動隊」が「鶴翼の右側面の山際」から突撃して来たとされているので、「付け根部分」より更に右という事は「松平軍の鶴翼」の「頭部分」と云う事に成る。
つまり、“旗本が護る本陣の先端”を目がけてやや斜めに突撃した形と成る。
「付け根部分」と「旗本が護る本陣の先端」とは完全に右向く程度の大きな距離差は無い事に成る。
だから、「旗本」は崩れ「本陣」に居る「家康」は少なくとも「突撃」と同時程度に逃げ出した事は符号一致するし、「15分の差」で「命拾い」をして逃げだした事に一致する。
では、どの方向に逃げたかと云う事に成るが、「山県軍の別動隊」が向かう同じ南に向かう事は不可能であり、先ず「東の天竜川の飛龍街道」に向かって逃げ、其処から南下して更に西の城に戻る算段と成る。
そうすれば、最も敵から離れられ安全で、其処から城に戻るとすると、完全に「山県軍の別動隊」の方が先に城に到着する事に成るし、引き上げた後を見計らって「城に入ったという事」に成る。
従って、「篝火策の説」は「山県軍の別動隊」が「城」を攻めずに「本隊」に合流した後という事に成る。
この「篝火策の説」はその後の「武田軍本隊の城攻め」を警戒してのものであった事に成る。
ところがここで意見が分かれる。
「武田軍本隊の城攻め」をしたとする「江戸期の説」と、其の侭に「三方ヶ原」から「甲斐」に向かって引き上げたとする説があり、途中で信玄は死亡したとある。
経緯から「後の説」が正しい。
さて、そうするとこの「15分の差」は、「山県軍の別動隊」にも言える事であるので、この侭に「浜松城」に「家康」と「山県軍」が向かえば「家康」が既に城に入り、「篝火」と「茶漬け」と「寝る」という事は、城の前に「山県軍が居たとすると時間的余裕」では無理な事である。
要するに「直前説」はあり得ないと成れば、「山県軍」が城前から引き上げたのを見計らって入り、「武田軍の本隊」が「詰め」として攻めて来る事を予想しての為の「篝火」と「茶漬け」と「寝る」で「諦めの策」であったと考えられ、これであれば「時間的なタイムラグ」は一致する。
だとすれば、「城引き上げ後」の“敗残兵が城に入り込んでいる”とする「思わせの篝火」であった事は頷ける。
「家康」に執っては、“傷ついた山県軍の別動隊の使命を果たさずに引き上げた事”が幸運であった事に成り、それは偶然にも、「家康」が重視しなかった「戦力の“南下国衆の銃力の御蔭」である”と説いているのだ。
更には、「南下国衆の銃力」が「山県軍の別動隊」を目がけて「追尾作戦」をしていれば更には「家康」には「幸運」を招いたであろう。
「山県軍の全滅」と、「南下国衆の銃隊」が「城」に入り「籠城戦」とも成れば、「兵力差」は無く成り、「籠城戦」を選んだ方が勝利する事もあり得て、場合に依っては全面勝利して「武田軍」は撤退していた可能性もあったと云う事に成り、「家康最大の幸運」と成ろう。
何故なら「籠城戦」で時間を稼げば、西で戦っていた「織田軍の援軍」が来て外と城とで「挟み撃ち」にして勝利出来ているし、「武田軍の兵糧」は底を突く事になり、「長期戦」は無理である状況にあった。
又、その心配をして「武田軍の長期戦」は絶対に避けるであろう。
現実には、西の「信長討伐軍との戦い」は解決せずに、恣意的に援軍を向けなかったとも観ているが、要するに「援軍」は来なかったが、「山県軍の別動隊の使命」を果たさずの「判断ミス」が、再び、西の「信長討伐軍との戦い」に織田軍は勝利して、更に伸長した事で結果として2年半後の「長篠」まで待ち込むまでに「松平軍」を急に大きくさせて仕舞ったのだ。
「急に・2年半」という処に意味がある。
敗戦している中でこれには「大きくなる為の財力・軍力」が必要であった筈で、それは其の後の「額田青木氏の陸運業と開発業と殖産業と渥美湾の制海権料」の「冥加金」にあったと観ているのだ。
「伊勢青木氏・伊勢屋」は「相当な支援・財力」をしたと考えられる。
其れで、近隣の国衆を集め兵力を高め、「輸入の火縄銃を含む武器」を買い求め勢力を高めたと考えられる。
況してや、「南下国衆の銃力の脅威・2度の経験」もあったので、「青木氏等」に良い方向に傾いた元と成る「判断ミス」としては、その考える事は人間はこの方向に走るは必定である。
つまり、「信玄死亡」が原因では無いと観ているのだ。
「武田軍」としては、「第一次吉田城の経験」もあるのだから、先ずは「城攻め」を諦めて「甲斐」に引き上げると云う判断となったのであろうが、戦略的に観た場合はこの行動は違い戦い時での判断が要求されるだろう。
其処にも「判断ミス」があったのだ。
「南下国衆の銃力」が姿を変えて「松平氏の財力」の面で支援して逆に大きくしてしまったのだ。
後ろに「伊勢青木氏の伊勢屋」が控えていた事が忘却していた山県であったのだ。
“「山県軍の大犠牲」”があり「武田軍の本隊」も「200の死傷者」を出しているとすると、引き上げは兎も角も、「武田軍の全軍」は「信玄死亡」であっても”「戦略的」”には「浜松城の集結」は常道であろう。
現実に「信玄死亡」は「2年間」は伏せていたのだし、戦略的に観て秘匿して戦場から甲斐に戻せばよい事に成るだけで要するに「戦略」は完遂するのだ。
実際には信用できる「武田軍の戦記」の殆どは「引き上げ説」が主流で、「松平軍の戦記」は「浜松城集結説」で「追い払いの勝利説」を唱え江戸期にこれを脚色している。
実際は「引き上げ説」が正しいが、後勘から「素人」が考えても、「松平軍も武田軍もその戦術」には疑問であるのだ。
これを「信玄病気説」でこれ等の「戦場行動の疑問」を霧消させていて「辻褄」を合わせているが反論はし難い。
この「信玄病気説の検証の確定要素」は調査したが「可能性」があるが上記で論じた様に「平時の事」では兎も角も「戦時の戦略」としては無い。
だとしたら「15分のタイムラグ」しかなかったにも関わらず「家康」は逃げ込んだとする「浜松城」の可能性の低い説は、兎も角も、輪を掛けて、“浜松城に逃げ帰った徳川軍”が、“崖に布の橋を掛け、「武田軍」をあざむき追い落とした”とある説は「後付けの脚色」の何物でも無い。
動物的反応で生き死にを掛けた緊縛した中ではそんなものに騙される者は居ない。
この説では、そもそも、“山県軍の別動隊の右鶴翼から突撃の戦歴”も無く成っている事にも成り得る。
これでは、“「武田軍」は引き上げていない”し、“「山県軍の別動隊」の軍より早く城に入った”と成るし、“「布の橋」を掛ける時間があった”のかも、ここまで来ると「田舎芝居」がかっていて「後付けの脚色美化」をし「物語風」にして楽しんでいる感がある。
実は注釈として、「歴史観」として、「江戸期」とは、そもそも「真実探求書」と云うより、「面白く物語風の歴史書」を好む傾向があって、「史実の探求」よりも、”これを「社会」が求めたのだ”という事を決して忘れてはならなく、「現在の感覚」では正しく推し量れないのだし、通常は時代が進めば歴史は美化されるものなのだ。
ところが、如何せん「後勘・現在」でも、「面白く物語風の歴史書」をこれを前提に「史実」として論じているものが多いのだ。
それだけに、大変な時間を掛けてより「多くの歴史観」を以て「矛盾を探し出す力」が無駄ではあるが必要であるのだ。
さて“「布の橋」を掛ける時間があった”のかも、ここまで来ると「田舎芝居」では、「2時間」と云う極めて短い戦い時間で「総崩れ・大将逃げた」の説では、“大将が逃げたが全滅は無かった”と云う事にも成るのだ。
そもそも、これも“「15分のタイムラグ」”は「南下国衆の銃力が造り出した戦歴」であるのだ。
そして、「山県軍の別動隊の使命」の「波状攻撃」もせず、「南下国衆の追尾」もせずの異変行動は、「南下国衆の銃隊」が「戦線離脱した結果」が齎したものだったのだ。
「織田軍の雑賀根来の傭兵」の「火縄銃の長篠での結果」では、「全滅の20000」と記録されている事から考察すると、筆者は「三方ヶ原の戦い」は「完全全滅」に近かったと観ているのだ。
兎も角も、この「事象」は其れこそ「家康の大将の戦線離脱」であるが、「鶴翼の陣形の横腹を突かれると云う事」で逃げた事は確実である。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」にはその国衆と成った目的から「山県軍とのやり取り」も有ったし、敗戦の決まった戦場に遺る義理も無かったし、もう一つの決め手は、「家康の速い戦線離脱」を鶴翼の着け根部分にいて「右に向きを替えた事」で知ったのでは無いかと考えられるのだ。
そこで、「武田軍本隊と山県軍の別動隊の行動経緯」を追って観れば完全に判る。
「時系列」
 9/29 本隊より「別動隊の行動開始」
 9/29 「山県・秋山・馬場隊の3隊」 出陣−諏訪−東三河−武節−長篠−遠江
 9/31 「馬場隊 分離」 犬居−高遠−吉村−三河
 11/3 「馬場隊」 二俣城 到着 

 10/3 「武田軍本隊」 出陣−「諏訪・・・遠江」−犬居(馬場隊合流)−三河
 10/16 二俣城 到着

 10/9 「馬場別動隊」 武田軍本隊に合流
 10/13 「武田軍本隊」から「馬場隊 再別動隊」 犬居−只来
 10/13 「武田軍本隊」 「二俣城」 到着
 10/18 「二俣城」 「戦場状況見分」
 10/18 「武田軍本隊に馬場隊」 到着 開戦
 11/3 「山県・秋山隊」 二俣城 到着
 11/4 「全軍合流 開戦」
 12/19 落城 開城
 12/21 本隊 朝頃一言坂発進 銃隊到着−額田青木氏の銃撃戦
 12/21 17時半頃浜松城通過
 12/21 20時頃堀江城到着・開戦
 12/22 堀江昼前頃開城
 12/22 昼過ぎ(15時頃)三方ヶ原に出発
 12/22 昼4時頃到着・開戦

 12/21 「額田青木氏銃隊」
 12/21 早朝・5時頃に「浜松城」を出る
 12/21 「一言坂・3時間半」で9時頃に到着
 12/21 早朝 「額田青木氏偵察隊」は「遭遇戦・4時間以上(14時頃終了)」
 12/21 17時過ぎ頃に「浜松城の北東横近く」に再入場せず戻り陣取りする

 12/21 「武田軍本隊・馬場隊」
 12/21 13時半頃昼過ぎ 「一言坂通過(無抵抗)」
 12/21 17時半頃「浜松城」通過
 12/21 浜松城牽制後、「堀江城」へ出発・到着20時頃・開戦
 12/21 一言坂遭遇戦後、「額田青木氏偵察隊」の追尾受ける
 12/21 堀江城に夕方到着−開戦

 12/21 「武田軍本隊・馬場隊」 堀江城 包囲 調略・開城開始
 12/21 「包囲 夜半から作戦開始」
 12/22」 「堀江城 朝に落城・開城」
 12/22 「堀江城の結果」を朝に全体把握」 「三方ヶ原」に出陣する。
 12/22 「三方ヶ原」に「昼過前出発・2時間」で到着
 12/22 「情報で陣形を選択」し整え行軍

 12/22 「松平軍の出陣」 「浜松城 早朝出陣・2時間」で到着
 12/22 「松平軍 三方ヶ原西に移動」 「野戦陣形・4時間・12時頃」を整え待つ。

 10/13 「馬場隊 只来城」を落す
 10/13 「武田軍本隊」 「天方城・一宮城・飯田城・格和城・向笠城」落とす
 10/15 匂坂城を攻略
 10/15 掛川城や高天神城 孤立

 10/14 「松平軍 浜松城孤立」
 10/14 「一言坂の戦い・松平軍」 野戦で敗戦
 10/16 「武田軍別動隊・山県軍」 朝から「二俣城」攻める
 12/19 「武田軍別動隊・山県軍」 二俣城落城させる
 12/20 「二俣城で掃討作戦と三方ヶ原に向けて補給路確保」

 12/22 「武田軍別動隊」 昼12時過ぎ 西に向けて移動
 12/22 「別動隊 三方ヶ原・15時過ぎ」 山際北側に到着
 12/22 「武田軍全軍」 「三方ヶ原」 「16時 集結」 「魚鱗陣形」で構える。
 12/22 「16時頃 開戦」 「18時過ぎ松平軍崩壊始まる」 勝利決定
 12/22 「16時過半頃」 「青木氏銃隊」と「武田軍別動隊 突撃」「肉白戦の激戦」
 12/22 「17時前頃 「青木氏銃隊」 戦線離脱 伊川津に向かう
 12/22 「17時過ぎ頃」 「武田軍山県隊」 波動攻撃せず其の侭「浜松城」に直進
 12/22 「20時頃を浜松城検視」 ・確認し城攻めずに「本隊」に引き上げる。

(注釈 「・印の疑問 銃隊の威力と篝火の策」
上記の「時系列」に「全ゆる戦記」などの信頼出来る「状況証拠の情報」を組み合わせれば「正しい歴史観」が生まれる。
「武田軍の別動隊・山県軍」は北の「二俣城」より「旧道(391号)」を移動したと考えられる。
当初、「籠城戦」を予想していた「武田軍の宿営地」としていた「三方ヶ原」に到着してより「戦いの陣形・配置」を整えるのに「大軍の場合」は歴史資料に依ると「2〜4時間」を所要したとする記録がある。
そうすると「戦場」には、「三方ヶ原」に向かう途中で事前に齎された情報により、急遽、「魚鱗の編成」をしながらとあるので「2時半頃〜3時頃」には到着していた事に成る。
史実は「三方ヶ原の戦い」は「所要2時間」とあり、「4時頃」から突然に「山県軍の別動隊」の「右側面」を突破して突撃する事から始まり、その時、「敵大将・家康」が逃げ出す事で「指揮系統」が無くなり、一瞬で「総崩れ」が起こり「夕暮時」で終結したとある。
「松平軍の戦記」から戦死者は、真偽は別として「武田軍200程度・本隊」で、10倍の「松平軍2000程度/5000」とある。
これは疑問であるが、「家康」は「数人の供回り」で「敗戦前に浜松城」に単独で逃げ帰ったとある。
「勝った方」が「戦場清掃をする紳士協定」があり、「兵の死者」などは敵味方に分けて引き渡した。
その他のものは農民などに請け負わさせて始末したとしている。
「松平軍の敗残兵」と「負傷兵・3000/5000」は「浜松城」に夜半に「城篝火」を頼りに都度逃げ帰るとあり、「山県の別動隊の城検視」とには、「時間差」があったか黙認したかであるが、直ぐに城から引き上げたとある。この事から、だとすると後から「戦意を失った者や負傷者」がぞろぞろと来る者を「山県昌景」はこれを黙認していた事に成り得る。
これを観ていれば、「城に戦える程の守備兵」が居たかは「一目瞭然」で落とせるか落とせないかは直ぐに判断は着くし、右側面から突破しているのであるから「松平軍の戦闘能力」も判断は着く筈であり、これは「完全な判断ミス」であり、寧ろ、「判断ミス」と云うよりは筆者は大変珍しい「勝者の敵前逃亡・戦線離脱」であったと厳しく見ている。
「家康と敗残兵」が、「山県軍の別動隊」が「鶴翼の右側面」から入り左側面で犠牲を負いながら通り抜け、その侭に「浜松城」に到着した事に成っているが、其れより前に入ったとする「説・とんでも無い脚色説」もあるが、「時系列分析」からこれは100%あり得ない。
最終の「戦場の細かい清掃と処置」は「農民」に金を渡して行ったとされているが、普通は慣例としてそうするの事に成っていたので「武田氏の資料」が信用性がある事に成る。
唯、この「山県軍の部動態の行動」が不思議の一つで、「敵将の首実検」をせずに城を攻めないで本隊に引き上げた事に大疑問が残る。
唯、「山県軍の別動隊」も「武田氏の別の戦記」では「2000」としている事から「青木氏の銃隊」に依って「犠牲」が大きかったと云われ、「城攻めの余力」は最早、無かったと考えられる事も出来るが、それでも「城」に向かって走ったとすれば、未だ「余力」はあった事に成り、「城」を落とす戦力があった事に成る。
「別動隊としての使命」を果たす事が出来ない程の全く「余力」が無ければ「城」には行かないで本隊に合流するだろう。
どう考えても「城」は完全に落とせた筈だ。
「本隊」は「犠牲200」と納得する記録もあり定説の様に扱われているが、「山県軍の犠牲」は何れの資料にも「2000以上の記録」は「遺された資料」からは散見出来ない。
そもそも、弓矢では無く、「四連発の銃弾」で、且つ、「1k手前から命中率」が90%としている事から、これを受けたとすれば少なくとも「10倍の犠牲」はあったと考えられ、結局は「負傷兵」も含み少なくとも「残兵1000程度以下」と成り、故にこれに「疲労している事」を考えるとせめて「城攻め」は無理だったと考えたとも云えるが、確かにこの「疲労説」もあるが、右から左に「突破しただけの時間」と、「城までの距離・2h」とするとこの説はあり得ない。
「篝火説」では無いが、何も無理して「城」に入らずとも「城」に戻って来る「敗残兵を掃討する事で「城」は簡単に落とせるのだ。
そもそも、戦い後、必ず行われる「掃討作戦」は本隊では無く「別動隊の使命」でもあるのにこれもしなかったのだ。
「別動隊の使命」から観れば、「残り」で「裸の城」を攻めておく必要が戦略上あった筈で、ここを拠点に周囲の出城を落としているので、「三河の西・尾張」に向かって進軍する事が出来た筈である。
筆者は「軍師の山県」は「信玄病気説」でも全滅覚悟で「後の事」を考えても「浜松城」を確保して、その後の事は「後者に託す事」の「判断ミス」をしたと考えている。
「信玄病気説」は“人間死のうが一定”が「武士の定め」であり、「信玄病気説」は記録では「甲斐」を出陣する際にも資料から「病気説」はあったのだ。
とすると、これは予想出来ていた事であって、「浜松城」を確保して「山県昌景」も命を捧げる「本来の使命」で覚悟するべきであった。
それを、後に「勝頼の出陣」の際に、“死を覚悟して酒を仲間と密かに躱す”等の史実は女々しく「三方ヶ原の判断ミス」“に対して「いいわけ」をしている”としか見えない。
唯、だとしてもこの時、この敗戦後の「浜松城」には「50人程度以下の守備兵・一説」しか居ず、「山県軍の別動隊」の「残兵」で攻めれば勝てる可能性は充分にあった。
場合に依っては、「青木氏の銃兵」を幾らか城に遺していたと考えたのでは無いかとも考える事も出来るが、目の前で「戦線離脱」して早々と「伊川津」に戻る態勢を採っているのを観ている筈で、仲間を置いて伊川津に引き上げる事等あり得ない。
だから「波状攻撃」を掛けなかったのだ。
そうすれば、残るは「判断ミス」で無いとするならば、「山県軍の戦況」は後勘から観ても最悪であった筈で、残すは、“諸々に「山県昌景」は城に2時間もかけて行っていながら「戦える状況では無かった事」”に成り、「引き上げ」を「別動隊」に命じた事だけに成る。
上記の通り少なくとも「残兵1000程度」の計算は、後の「長篠の戦い」の「織田軍の傭兵の銃隊3000」の「結果・12000戦死・火縄銃」を考慮しても未だ多い方であったと考えられる。
そもそも「火縄銃」では、当時の資料から「兵力」に直すと最低でも「10倍」とされている事から観ても、「戦い方の状況」に依っては「20倍以上」にも成ると記され、「兵力・火縄銃」に相当するとした場合でも、「不思議なフリントロック式改良銃の威力」を直前に観ているので、これを「20倍の兵力以上」とすると、「少なくとも残兵1000程度以下」では、「城守備」として「50人の銃兵」を残して置けば「1000の以上の兵力」と成る。
然し、現実には遺していない事は早々と戦線離脱して伊川津に向かっているので、「山県軍」はこれを観ていて確認しているのでこの説は成り立たない。
だとするも、仮に、「銃」を配置していたとしても、ここでも「山県軍の残兵」で「籠城戦」で戦うとすると、「別動隊の使命」としても少なくとも「全滅に近い事」とは成るが、何も「守備兵」と戦わなくても「城」は落とせる。
それは、要は「落したと云う形」}を作れば「流れ」として勝利しているので必然的に堕ちる。
上記した様に、それは「三方ヶ原の敗残兵」が「城」に戻って来る時を以て「山県軍の別動隊」が「掃討作戦」を展開すれば、「本隊」も到着するか「本隊」からの「掃討作戦の支援の援軍」を待って簡単に勝利出来る。
何れにしても絶対に“命を賭して「浜松城」を全滅覚悟で落とすべき”であったのだ。
つまり、何れの考察でも、「別動隊の使命」を無視して、「判断ミスの汚名」を避ける「口実」として、“全滅を避けたかった”とする「言い分」としたと観るしかない。
筆者は、そもそも、“武田軍は甲斐に引き上げる”と云う「選択」に対しても、感情的に成り過ぎて「戦略的」に観て疑問であると考えているのだ。
三河の隣の駿府まで支城全てを抑えたのであれば、「拠点の浜松城」を抑えて居れば西に対して勢力を確保でき、且つ、「指揮官の信玄病気死亡説」が仮に起こったとしても、後は「勝頼」なりを据えて構えた方が、「甲斐軍の勢力」は保全出来る。
“京に上る”と云う「大戦略上」を前提とすれば、「信玄そのものの病気・死」は「位置づけ」としては小さい。
何せ、“信長が天下をとり幕府を開く”と云う「名目の苦労」より、「甲斐源氏の幕府」は容易であるのだ。
「鎌倉幕府」と「室町幕府」は全て「河内源氏の支流」であり、例え甲斐が末端の支流であっても「甲斐源氏」としてはその「前例はある事」であって、「信長の様に全国制覇」をしなくても、「足利源氏」に代わって「甲斐源氏」が東側勢力を抑えたのであるから、「朝廷の宣下」は得られやすく「幕府」は簡単に開ける。
後は、その後の行動で逆らうものは滅ぼせば幕府は樹立出来る。
先ずは、世の常として「源氏と云う格式・格式問題はある」を前面に押し出せば豪族は“靡く筈”である。
何故ならば、豪族や信長は自らは「幕府の名目のお墨付き」は「朝廷・宣下」から得られないのであるから、「豪族の勢力」をそれなりに認めてやれば天下は落ち着く。
これが「尾張の信長の弱点」であったのだから。
各所の拠点に山県等の将を配置する事で「次の尾張」を潰せば、これで「天下の幕府」は開けるのだ。
筆者は「山県昌景」は「最大の判断ミスをした事」を説いている。
要は「大戦略の流れを造り出す事」であった。
それが「南下国衆の銃隊」で「大犠牲を負った事」で「正常な判断」が出来なく成ったと説いている。
それに反して「南下国衆の戦線離脱の判断」は逆に“実に正しかった”と説いている。
だから「武田氏」と違って生き遺れたのだ。
その“「判断ミスの山県」”が存在する「長篠」では「武田氏を潰す源」を造っていたと云う事なのだ。
「青木氏の歴史観」を正しく理解して遺すには、この様な深く関わっていた処を解明して置く必要があるのだ。
何故ならば、“「歴史」”は時代が進むと“美化され都合よく偏纂される”のが常道であるからだ。
それは「歴史」には、時代ごとに、氏ごとに、地域ごとに「慣習仕来り掟等の伝統知識」があるのにそれを把握しないで論じる者が多くなるからである。
そこで、もう一つ論じて置く必要がある。
「青木氏の銃隊の数」が「300丁」とは、「吉田城の籠城戦」と「一言坂遭遇戦」と「三方ヶ原での経験」をしていたとしても、概略でしか知らず、「正確な数」は「武田軍側」は、況して、遅れて来た「山県軍側」は正確には知っていなかったであろう。
この事による「判断ミスの可能性」である。
当時、「火縄銃で10倍」と評価されていた事が記録から読み取れる。
「青木氏の遺された訓練の手紙や商記録の出費や堺の生産力や南下国衆の数」から割り出した数の「秘密裏の数」は「300丁」である。
ほぼ「3度の失火」で「正式な記録」は消失してはいるが、「遺る資料」を継ぎ足して行けば間違いは無いだろう。
もう一つの推論として、「武田軍本隊」は「南下国衆の銃隊」がこれを「松平軍の銃隊」と観ていた事の可能性である。
「山県軍の別動隊」の右側面からの突撃時に「300丁の銃」を、仮に精々、「50丁前後の読み違い」はあったとすれば、「五つの三河戦記の記録」でも、「山県軍の別動隊」も「「50丁前後=1000人の兵力」が「浜松城」に居ると考えた可能性があって否定は出来ないのだ。
然し、史実は「南下国衆の銃隊」は「戦線離脱」しているので、これは成り立たないが、そもそも、「第一次吉田城の籠城戦」や「一言坂の遭遇戦」で「松平軍」として戦っているとすればその様に理解した事は否めない。
その様に「渥美湾の制海権を獲得する条件」として「伊川津の国衆」と成って合力している「詳細な経緯」を知っていたかは疑問の方が大きいので、この「推論」も成り立つが、知る必要も無かったかも知れない。
そもそもこちら側の事である。
但し、「総崩れ」と成った「松平軍」を尻目に「戦線離脱」している処を「山県軍の別動隊」や銃声の「しなくなった戦場」を「武田軍の本隊」は観ている以上は、例え「松平軍の銃隊」と観られていた「南下国衆の銃兵の仲間」を「城」に放置して見殺しにして「伊川津」に逃げないであろう事くらいは直ぐに判断できる。
そうすると、この推論は低いが余りの犠牲の大きさに“「山県昌景の判断力」は低下していた”とする上で成り立つ推論ではある。
そもそも、“戦略的に城を落とすべき”と云う“別動隊としての使命感”も無くしているのだから戦線離脱したとしても「松平軍の銃兵」かは論外であった事にも成る。
そして、尚悪いのは未だこの「判断力の低下」は続き、史実にある「甲斐」に帰って“「最後の盃」を躱す“などは「武将」としては言語道断であり、「勝頼」に「無能の責任」を押し付けて、「自己の判断ミス」に薄々気づきながらも「大義の立つ死に場所」を考えたと成る。
その「死に場所」と成った「長篠での戦い」の銃弾の前では、「火縄銃の時代」に旧態依然として「先陣を切った騎馬隊」は全員戦死し、その後に無謀にも突っ込んで来て戦死した「“山県隊”・馬場隊・内藤隊・真田兄弟隊・土屋隊」や、撤退し乍ら傷を得た「穴山隊、武田信廉隊、武田信豊隊」が全滅に近い状態であったとすると、最早、論外で「銃の威力」をどれ程のものであるかをそもそも経験していながら、未だ旧態依然として「山県昌景の判断ミス・死滅」しても「浜松城を落とす事・別動隊の使命」は続き、大きく「武田氏」を潰したと云わざるをえない。
ここには「美濃の額田青木氏」のみならず「青木氏族」の「時光系甲斐青木氏」が居たのだ。
そして滅亡に近い状態にさせているのだ。
況して、「南下国衆の銃隊」が追尾していれば兎も角も、掃討作戦もせずに早々と“戦線離脱”して甲斐に向かっているのだ。
確かに被害は大きかったかも知れないが、例え「信玄」が戦死・死亡していたとしても“絶対にどの様な場面を考えても、「当初の戦略の目的」の通り「浜松城」を陥落させる必要があった”のだ。
後勘の「歴史の説」は時代が進むと共に殆どは「美化論」に左右されて行くが、筆者は「正しい歴史観」を獲得する為には、少なくとも「青木氏の歴史観」に関わって来る事に対しては、「山県昌景」を美化する訳には行かないのだ。
況してや其れが、“「籠城戦」”とも成れば、「第一次吉田城の経験」の通りに、“より「銃力」は「無限の兵力」と成ろうとする時代に成っていた”のだ。
将としてのあるべき「時代の読みと経験」をしていながら其れさえも読み間違えていたのだ。
故に、この「判断ミス」に依って“「山県軍の別動隊」は「城」から引き上げた”と充分に考えられるのだ。
つまり実際には、“城には戦えるほどの「守備兵」は居なかった”のだ。
「三方ヶ原」から「勝敗」が決まる直前で「額田青木氏の南下国衆」が“戦線離脱している事”は、「城」には「南下国衆の額田青木氏」の「銃1丁」も遺してはいなかった事の証拠であるのだ。
そもそも、「山県昌景」は有名な「武田軍の緻密な近習軍師」でもあったとされるが、「緻密」ならその「緻密な判断の情報」を獲得し成し得ているし、「上記の事」を最も気にしなければ成らない人間であった筈である。
何故ならば、実は此処にもう一つ江戸期での「後付け・脚色説」ではあるが、その説には「山県軍の別動隊」の「引き上げ判断」に傾いたものがあったとする説がある。
一応、参考として論じて置く。
それは“城の門には明々と「篝火をともしていた事」”は「史実」であって、実は、これは唯単に「篝火を焚いていた」と云う訳では無いのだ。
つまり、「後付け脚色説」では、この“城には家康が居た事にも成る。”のだ。
そもそも、これは「中国三国志の軍師」の“「諸葛孔明の篝火の策」”であるのだ。
大軍の「敵将の仲達」はこれを観て何かの策を警戒して引き上げたのだ。
この「中国故事の戦略に習った事」を何と「家康」は窮地に知ってか知らずか実行したとも考えられる説なのだ。
恐らくは、城に入っても安全だとする「敗残兵への合図の印」であった事
「山県軍の別動隊」が浜松城に到着した時に城には「家康」がいた事を示す事
以上の二つにも成るが、「15分のタイムラグ」に「山県軍」より「家康」が先に城に到着する可能性が低いのにこの「篝火の策説」がいまだ定説として成っている。
つまり、この説だと上記の通り先に入るには、「タイムラグ」からして「山県軍」が「鶴翼の右側面」を突く直前に、戦わずして先に逃げた事に成るのだ。
裏を返せば「後付け脚色説」にした事は、「山県軍」が「浜松城」を落とさず引き上げた直ぐ後に、「家康と敗残兵」が「城」に入って「篝火」を焚いて「残りの兵」に安全を合図告知した事と成り、故に安心して茶漬けと就寝がて来た事に成り得る。
「城引き上げの判断ミスの行動」が「美化の隙間」を与えこの様な多くの脚色説を生み出す結果と成っているのだ。
つまり、何を云うかと云えば、この「篝火の策」が直前に「山県昌景」が経験した「銃の威力・隠銃力」を連想させたと成るのだ。
本来であるのなら、「青木氏の南下国衆の銃隊」が「戦線離脱した事」は確認しているが、追尾してくる事もあった筈で、それを恐れていた事もあるが史実はこれを否定している。
そもそも、逆に「山県軍の別動隊が城を落とせた事」を示す証でもあるのだ。
一時的であっても証としては成り立つ。
これらに関する「史実」は今も無い。
そこで検証して観る。
実際は「浜松城」からは、この“「三方ヶ原」”は、南の海から少しくぼんだ「丘陵の窪みの位置・標高50m・18mの段差上」にあり、「戦線離脱した事」が観えなかった事もあるが、「山県軍の別動隊の残兵」を1000としてこれを並べた場合の「最後尾」が南下国衆の戦線離脱が見えていた筈であり、「戦線離脱の報告」は充分に出来ていた事に成り、且つ、だから「波状攻撃」もしなかったのだ。
唯、この「篝火策の説」は、「松平氏側の戦記」のもので「武田氏」のものでは無い。
あったとすれば少なくとも多少成田も行で読み取れる範囲で戦記として書かれていたであろう。
先ずは、「山県軍の別動隊が城を落とした事」を示す証説を別にして、仮に、この説が有ったとして、これは「敵」を「油断させる策」である事は「軍師の山県」も充分に承知である事は疑わない。
突撃中、「家康が戦線離脱した事」は左に見えているので、寧ろ、筆者は直前の印象から“「城に隠銃隊」を配置しているのでは”と考えさせて仕舞った事とも成ると観ていたのだが、然し、「南下国衆の銃隊の戦線離脱」ではこの説は成り立たない事に後で知ったのだ。
これは別の意味で正しく“「篝火の策の延長」”であるのだ。
この「篝火」が「敗残兵の道案内」として事前に点灯させていたとして、「直前の銃撃」で死傷者を多く出した「山県昌景の理性」を無くした感情から、“「篝火策」”に合わせて「銃」を連想させたと説く事も出来る。
四時から始まり2時間で終わったとする多くの戦記から判断して割り出すと、「山県軍の別動隊」が「浜松城」に到達した時刻は、鶴翼右側面から左側面までの突撃時間は約0.2〜0.4hで、「三方ヶ原」から城まで徒士で2.2〜2.3hとして、合わせて2.4h〜2.7hと成り、「負傷者」を運ぶ「タイムロス」を考えた場合、「合計3h」は要する事に成ると、1月の7時頃となり、「篝火」は策でろうが何であろうが必然的に必要である。
浜松城の所在地は明白に成っているので、殊更に「篝火策と云う程の事」は無かったと考えられる。
この説はやせ我慢の「後付けの脚色」である事は否めない。
そもそも「篝火」を灯す灯さないではなく、「城」を確認できれば大方は研ぎ澄まされた「戦いの野生本能」として判るし、その場で調べる事さえも出来る。
視点を替えて「青木氏の歴史観」から検証すると、この様に「江戸期の作文・脚色」とは、検証では「史実として違う事」が相当に見えて来るのだ。
一般から観れば其処に「歴史の伝統の面白み」が生み出させ夢が引き起こされるのだが。
但し、「額田青木氏」にとっての結果としては、「青木氏の歴史観」を構成する上で「山県昌景の浜松城の判断ミス」は、その後の「渥美湾の制海権の確保」や「陸運業の転身」や「開発業・殖産業への路」を開けた事で実に都合は良かったのだ。
“松平氏の生き延びられた事が良い方向に働いた”と云う事である。
それ故に検証している。
況や、この事らは「青木氏の氏是」として「良い事」なのだが、それ他家にろんじてはいるが、「一部の記録以外」に表立って「歴史上の記録」には載って来ないが、その全てを決めた行動は、「三方ヶ原の早期戦線離脱」が左右したのだ。)

(注釈 「上記の経緯の追加再考察」
これ等の「経緯」から更に次の事が読み解ける。
「堀江城・朝より開戦・調略・激戦」とで、全体の計画より相当時間が掛かった事が読み解ける。
もう一つは、「武田軍4軍が揃う」のを待って「三方ヶ原」を「宿営地・当初の目的」にして北から南に向かって「浜松城を攻める計画」であった事も読み解ける。
結果として思い掛けなく「野戦」を選んだ「家康」に依って「宿営地であった三方ヶ原での戦い」には成ったが、その「集結場所」が偶然にも「宿営地」とする処の「三方ヶ原」であった事も読み解ける。
何れの軍を動かすにも必ず「食事や武器」などの「補給隊の荷駄隊」が最後尾に伴う。
取り分け、松平氏にはこれが無かったと考えられるが、「武田軍の本隊」には史実として確認されている。
それ故に「宿営地」が「戦場と成る事」には、「武田軍の本隊」には「多くの計画の崩れ」が生まれた筈であるし、「武田軍の本隊」に執っては「若干の弱み」とも成った事であろう。
然し、この「若干の弱み」は直ぐに解決された。
それは「松平軍」は「鶴翼の陣形」であった事で、「魚鱗」の様な「移動型の陣形」では無かった事なのだ。
「最後尾」に詰めていれば安全であったので、勝負は実戦に至らずとも既に此処で決まっていたとも考えられる。
参考として、「武田軍の本隊の計画」では、「一言坂の遭遇戦」に依って「軍の行動」が一時止まり、軍が大きい程に時間が掛かるので「編成立て直し」で、“予定より「4時間〜6時間程度の計画」は先ずは「ずれ」て居る”事に成る。
「武田軍の戦記」と「三河の戦記の五つの戦記」と「伊勢青木氏の資料・手紙等」を総合するとその経緯は次の様に成る。
「青木氏の銃隊」の「一言坂の偵察遭遇戦」では、前段でも詳しく論じたが、「武田軍の本隊」は「北の二俣城」から南下して、東から「堀江の西」に向かって「一言坂」を東から上って坂上に到着した。
一方、「吉田城」から「呼び出し」で到着して、「浜松城」で「命令」を受けて「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「浜松城」から出て「東の見晴らし」が良く、必ず「武田軍本隊」が通過する「一言坂」に西から向かい「西の坂下」に入り「坂上」に上った少し東で遭遇したとある。
此処で初めての「敵対の実戦」の「銃による遭遇戦」が始まるのだ。
そこで、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、実戦のしない「偵察隊」ではあったが、「西の坂下」に逃げると東から西に向かっている「武田軍本隊の騎馬隊」に背後を追撃され全滅と成る。
そこで、「偵察隊の使命」と異なり「東の坂途中の武田軍」に目がけて前段で論じた「銃撃戦」を開始し、果敢にも徐々に「銃弾幕」で「武田軍の本隊」に近づいたと戦記である。
そして、この「武田軍の本隊」は「弾幕」で押し込まれ止まるとある。
そこで、「武田軍の本隊」が更に徐々に東坂下に押し帰されると、逆に「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は尚に「東の坂下」に向けて降りる事に成り、其の侭では地形上では「坂の左右の道幅」が狭い所に達する為に、且つ、「大軍の後退」は難しい為に、「武田軍の本隊」は次第に前面に「崩れ・乱れ」が起こり始めた。
結果としてこれでは「離れた遠く・300m」から連続的に撃ち掛けて来る為に手の施しようが無く全滅して行く事に成り得ると判断したとある。
そこで、「武田軍の本隊2万」の内、「3000」を「坂の土手下」を通り、先回りして「西の坂下」に配置させて「僅かな火縄銃」で挟撃しようとしたとあり、これが「南下国衆の銃力」が勝り「効き目」が無く、そこで「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「東の前進」を止めたとある。
そこで「東の武田軍の本隊」と「西の3000」に左右に向けて「南下国衆の銃隊」を二つに分けて当に「坂上頂上」から「西の坂下」にも「弾幕」を浴びせたとある。
そこで「西の坂下の分隊3000」は余りの「銃隊の威力」で戦う事を中止したとあり。”道を開けた”とある。
これを観た「武田軍の本隊」は、更に「坂の中腹の左右」に土手を通り向けて「3000の兵」を追加してこの「坂下分隊」を救おうとした。
要するに「物量作戦・弓兵力」で囲んだつもりであつたらしい。
ところが「余りの弾幕」は止まる事無く激しく、犠牲が多く出ることを懸念した「中腹分隊」も戦う事を遂に中止して仕舞ったのだ。
これは「フリントロック式改良銃」で「黄鉄鉱」で「4回転シリンダ」であるこの事から、「火縄銃の様に10〜15分の間隔」では無く「弾幕間」は空かないのである。
この時の記録として「300の銃」の「銃身に熱」を持った為に「三段式・銃身に熱」に分け、冷やしながら「前後左右の銃兵」に、「弾を用意する補足兵・50と荷駄兵」が付いての編成で打ちかけたとある。
この時、「荷駄兵50」は「疲れた銃兵」に代わって入れ替わりながら撃ち掛けたとある。
この事の意味が重要で、要するに「50の荷駄兵」は「高い経験・熟練度」を要する「フリントロック式改良銃」であった事から、「試射打ち」を経験している「伊賀青木氏と伊勢秀郷流青木氏の混成隊」であった事が考えられるし、熱を持つほどの激しい連続射撃であった事が判る。
これであれば、全く間隔の無い弾幕の雨嵐であったし、「命中率と飛距離と破壊力」は「火縄銃の10倍以上・約20倍」であった事から、驚いた「東の武田軍の本隊」も編成を崩して「東坂下通り」に徐々に後退し始めていた。
この「遭遇戦」は飛距離に問題が無い為に「命中率」は100%であったと伊勢の資料では記されている。
この結果、「武田軍の本隊」は「軍編成」を崩し、「凸状の坂道の下両方向」に崩れたとある。
「赤兜の騎馬隊・6000」が「武田軍の本隊」に存在していたがどの戦記にもこの事に一切触れていない。
何故ならば、この「赤兜の騎馬隊」が先頭に居た場合には後退するにはこの「赤兜騎馬隊」は馬は「後ずさり」が最も難しい筈である。

この事に付いて何も書いていないと云う事は「軍の最後尾」に位置していた事に成る。
この「遭遇戦」に「二時・4時間」が掛かり、「西の堀江」に向かう為には「坂上で本隊の態勢立て直し」に「一時・2時間」を要したと記されている。
この事には「赤兜の騎馬隊」が原因していた事が云える。
恐らくは、記されている事の事実は、別としてもその程度の事に成る事は充分に予想できる。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」はこの結果から何とか「無傷・無抵抗」で徐々に「西の坂下」に降りたとある。
そこで、其の後、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の判断として、“これは「浜松城の戦い・籠城戦」に成る”として、西に走り「西の坂下の北東側・城の北東付近」の一か所に潜んで「銃」を構え密かに陣取ったとある。
これはこの行動から観て、「武田軍の本隊が浜松城の城攻めの有無」を確認していた事に成る。
然し、「城攻め」をせずに「城の門前」を悠々と牽制しながら「武田軍の本隊」は先に「堀江城の方向」に向かって悠々と進軍したとある。
従って、結果として「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、この後ろから徐々に西に向けて「武田軍の殿軍・荷駄」を「追尾する形」を採った事に成ったとある。
これは、もし、「浜松城の戦い」と成ると、城に入らずに小高い丘の“「北東の後ろ」”から再び「弾幕を浴びせる作戦」に出る計画であったと観られる。
「大軍」である為に「地形的な面」から「陣取り」をしないと「主城・浜松城」を無暗に攻める事は先ず無い。
この「武田軍本隊の移動の状況」を把握する為にも、「浜松城北東」の「銃隊」に執って良好な「近くの場所・地形的な良好な場所」に先回りして「偵察隊としての使命」から隠れていたのだ。
これは、仮に「浜松城を攻める様子・牽制の攻撃」が伺えれば「使命」を超えて坂の上での様に「丘から銃弾」を浴びせる予定であったと観られる。
故に、この事で「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「浜松城」に入ら無かった事が判る。
ところが、この上記の「時系列」から観て、未だ、この時は「松平軍」は「浜松城」に居たのだ。
この時まで“籠城戦を覚悟していた”と「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は判断していた事に成るのだが、「武田軍本隊」も「籠城戦と観ていた事」に成る。
そこで堀江城を潰して「三方ヶ原で宿営する予定の行動」であった事に成る。
つまり、恐らくは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、この為の「武田軍の牽制攻撃程度」の行動が城に向かってあると観ていたのだ。
暫くして,故に、何事も無く「浜松城」を通過して「堀江城」に向かう事が解ったので、確認の為に「陽動作戦」を警戒して追尾したのだ。
これは、「武田軍の本隊」は攻める事も無しに、唯、「後ろ・殿軍」を追尾し来て備えている一方では、「武田軍の本隊」は「追尾している事」を知っていたので、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「300の銃力の威力」を以て、“何時銃撃してくるか”を恐れたと考えられる。
何事も無く「堀江」に到着したが、この時、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「追尾」を「西と東の街道の交差際・湖東町付近」で武田軍の本隊が戻る事が無いとして「追尾」を止めたとある。
ここから「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、結局は城に戻らずに「東の路」を採り「三方ヶ原」に向かっているのだ。
宿営地に事前に向かったのか、将又、松平軍の野戦の情報を掴んだのかであるが、後者であった事が経緯で判る。
ここが「野戦のタイミング」と「浜松城出陣のタイミング」の狭間であろう。
そこで、「武田軍の本隊」は「西の端の堀江城」に向かい「堀江城」を潰して、「別動隊」を待つ為に遅れて慌てて「三方ケ原」に向かったと成った考えられる。
この時、既に「松平軍」は城を出て「野戦」を選んで「三方ケ原」に向かっていた事に成る。
「三方ヶ原への到着のどの程度の時間差」があったかは、正確には判らないが「堀江城」から「三方ヶ原」と「浜松城」から「三方ヶ原への差」があった事は考察できる。
問題に成るのはそれは「野戦を選んだタイミング」である。
「松平軍」からすると「家康」は「情報」を受けて「最後の砦」の「堀江城の陥落時期」を観て「冷静さ」を失い「野戦」を選んだと考えられるからだ。
仮に先ず相互の出発点に「タイムラグ」が無いとして、距離的にほぼ同じ程度であるが記録では「松平軍の方」が記録ではやや早く着いたとされている。
後から遅れて到着した場合は陣形を整える前に襲い掛かられて負ける。
然し、ここで武田軍に味方する「三つの事」が起こった。
それは、一つ目は、「三方ヶ原」に向かう行軍の途中で、後ろにいた「赤兜の騎馬兵」を前に出して、且つ、「魚鱗の陣形」の「三角形の編成」をしながら進んだとある。
二つ目は、「移動型ではない鶴翼の陣形」を松平軍は敷いたのだ。
この「二つの事」で遅れて到着した「武田軍の本隊」は「三方ヶ原」で攻められずに無事であったのだ。
「出発点のタイムラグ」は最低で0.5h、最高でも1hであろう。
主説と成っている経緯では、城を「未明・夜明け前」に早く出て、早くに「三方ヶ原」に「到着・バイアス8時頃〜9時頃」したと記している。
この事に付いては「早く出ている事」は確実であるが、未明に関しての判断の意見の分かれる処で「松平軍」は「未明・朝方・夜明け前」に「城」を出たとしている説が通説と成っている。
これ等の説は「鶴翼陣形は時間が掛かる事」を理由にしている。
「上記の経緯欄」からそんな「時間差」は無かった事が判る。
三つ目は、「山県軍の別動隊」の「三方ヶ原への到着の遅れ」である。
この「遅れ」で「鶴翼の側面を突けると云う利点」が起こった事である。
当然に「鶴翼の陣形最大の弱点」である。
この「三つの事」が二つ欠けたとしても「三つ目」がこれを救い「相互補完の形」が出来ていた事に成るのだ。
「山県軍の別動隊」が先に着けば「本隊」が後からだと、中央に位置するべき「本隊の置く場所」を何処にするかで定め難く成り、「陣形の組み方」が難しく成る筈であった。
止む無く、合流できず右側面に着く形と成った。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「松平軍の動向の情報」からその事を見極める為にも、「堀江と向かう街道」と「三方ヶ原に向かう街道」の「交差点」で追尾を中止した事に成る。
因みに、この「青木氏の手紙の資料」から読み取れる記述には、「情報と云う言葉」が入っている事に意味を持っている。
つまり、「伊賀青木氏の集団」がこの「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に寄り添って「独自の諜報活動」を側面からしていた事を意味する。
更に云えば、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「荷駄隊の50」は少なくとも「伊賀青木氏の伊賀者・香具師・日用品を全国に販売しながら情報を集め諜報活動をする役目」であった事を意味するのだ。
「伊勢青木氏の一族」で「額田青木氏の南下国衆の銃隊」を補完していた事に成り得る。
その事で「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「三方ヶ原・当初は城に向かう予定」に着くのが相当に遅れる結果と成ったのである。
速く到着していれば「鶴翼の頭」の所の中央に据えられ「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の威力で「武田軍の本隊」のみならず「山県軍の別動隊」を少なくとも全滅に至らしめるまでには成っていた事に成り得る。
そうなれば、「全国の目」が「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に向けられて必要以上に警戒される事に成って「松平軍が勝利の形を得る事」に成り、歴史は替わり「渥美湾の制海権」どころの話ではなく成っていただろう。
この「遅れた事」が歴史に記録を遺さない「施基皇子の遺訓意」の「青木氏の氏是」の結果を引き寄せたのだ。
ところが、「12/22・早朝過ぎ」には、「松平隊」は、何と“「野戦」”を選んで既に「浜松城」を出て「三方ヶ原」で迎え撃つ為に「陣取り行動・鶴翼の陣形」に出ていたのである。
この情報を掴んだ「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、「武田軍の本隊の行動」と「松平軍の行動」を知った事で、予想外の“「野戦」”と成れば「城」に戻らずに慌てて「三方ヶ原」に向かったのだ。
「国衆としての当初の目的」から「三方ヶ原」に向かう必要が無かった筈であるのに、向かったのだ。
この理由を「青木氏の色々な資料の行」から読み解くと、「松平軍の戦闘の結果」に依っては、“渥美湾の制海権の夢は潰える”と云う「危機感」が「指揮官の脳裏」に走ったのである。
元々はその為の「偵察行動」であった様で、故に戦うのではなく、「戦いの行方の偵察」の為に左側面に着いたのだ。
ところが、突然、思い掛けなく右側面から「山県軍の別動隊」が北の山際から突撃して来た。
応戦するしかなく右側面に入った時に「火蓋」を切った。
右側面の突撃時は射程距離内であった事から「山県軍」も驚き兵はバタバタと倒れ、最早、動きの流れからブレーキが効かず引き上げる事も出来ずに「額田青木氏の南下国衆の銃隊」のいる「左側面」を突き抜けたのだ。
「松平軍の状況」を偵察する行動であった事から直ぐ様に「戦線離脱」して「伊川津」に戻ったのだ。
そして、「武田軍の三河攻め・伊川津攻め」が起こる事を予測してこれら対処する為に戻ったという事に成る。
然し、「伊賀の香具師の情報」から南下した「山県昌景の残軍」は「城を攻め落とさなかった事」を知ったのだ。これで先ずは救われた。
次の「武田軍の三河攻め」に対処する為に「三河の国衆」を止め「陸運業」に転身して「攻撃の対象」から逃れる準備を「伊勢」と共に急いで張ったと云う事に成ろう。
「東の秀郷一門」と全国24カ所に点在する「秀郷流青木氏116氏」と共にシンジケートを張りこの「抑止力」の為にもこの「銃」は保持していたのだ。
後勘から観ると、一切の対応に理する処があり、その根拠は「青木氏の氏是」に通じているのだ。
当然に「魚鱗の陣形」を予想していた「額田青木氏の南下国衆の銃隊」も、又、これを観て更に驚いた。
「魚鱗の陣形」であれば、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は「陣形の先頭」に出れば陣形は整い「銃の効果」は出る。
「20倍の戦力」と成り無勢でも「武田軍」に勝利出来る事と成るが、“然し史実は違ったのだ。”
「松平軍」は「東の戦況・悉く支城が潰された事」で戦況が悪化していた。
そもそも、急遽、「額田青木氏」を「伊川津」から出て「吉田城」に入り、そこから「東の浜松城」に呼び出されたのであるから、これは否を観るより明らかで誰が観ても「軍力」は低下しているし、この事に対して「情報」を得ていて、「武田軍の本隊」も「見誤る事」は100%無かっただろう。
そもそも、「最後の砦」の「西端の堀江城」が攻められているのに、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」を使って「背後を襲う事の行動作戦」を採るのは「当然の戦略」であろう。
然し、其れさえもしなかったのである。
筆者は、この様に緊急策として浜松城から呼び出しはあったとしても、この事から、「国衆としての位置づけの違い」が「家康」に執っても「銃の信頼」はそれなりにあったとしていても、違約状況であった事から「遠慮があった」とも考えているのだ。
筆者は、「偵察隊と云う目的」には「銃の威力」のみならず、この「銃隊」に寄り添う「香具師・忍者・伊賀青木氏の忍者」の能力も期待していたのではないかと観ているのだ。
そうすると、この「銃隊」に寄り添う「香具師・忍者・伊賀青木氏の忍者」のみならず「伊賀者全体」をこの「戦い」に注いで強力化していた事が云えるのだ。
だから“「浜松城に隠し軍」を残すような事はしなかったし、それをする訳がない“と観られ、「額田青木氏の銃隊」が動いている事を「一言坂」で知って、当然にこれに伴い「伊勢」が動き「伊勢者」が動いている事は、「武田軍の本隊」は先ずは思うのが普通であろう。
然し、「別働隊の山県昌景」は浜松城では「軍師であった事」もあって違っていたのだ。
要するに、“余りの思い掛けない「銃の攻撃」と「その被害の大きさ」”に「冷静さ」も失っていて「篝火の計」に却って翻弄されたと云う事もあろうが、然し、そもそも戦っていてどの程度の軍力を持っているかは判っていた筈であり、「織田軍の援軍・説が錯綜」もどの程度で在るかは「関西の戦況」から観て判る筈で、其の隙を突いての「駿河三河攻撃の戦略」であって読めていたし、且つ、何は兎も角も「別動隊の基本中の基本」の「使命感」さえも失っていた事にもなる。
「使命感の喪失と判断ミス」が、「青木氏の氏是」に沿う行動が取れ「青木氏」を救ったのだ。
故に「江戸期の作文」では、「別動隊の山県昌景」は城から引き上げたのは“「信玄病状悪化説」”が主流と成っているが、そもそも、故にこの説は「青木氏」から観れば大いに疑問なのだ。
何故ならば、「三方ヶ原の戦い」でどれだけの「連合軍の軍勢」であったかは観て判っている筈で、況してや「軍師」であってこの事は“見誤る事”は先ず無いだろう。
「開戦」は「2時間」であったと「武田軍側の戦記」と「松平軍側の戦記」でもこの事では一致している。
「浜松城の守備隊」が“「銃隊」”でない限りは、「別動隊の余力」でも充分に攻め落とせる範囲であり、仮に「後付け」の「信玄病状悪化」であったとしても、死んだとしても少なくとも「1時間程度」で簡単に落とせるだろうし、“そんな時間が無かったとは云い難い”し、「今後の事・尾張織田氏決戦」を充分に予測出来ていた筈で、「青木氏の歴史観」からすると逆ではある。
この事を考えると“落としていた事の方が絶対的に得策”であったろう。
「家康の首を落としていた方」が、つまり、「今川勢力」が衰退している中では「東三河」を完全に落としていた方が、「武田軍」に執っては簡単に「西三河と尾張」に掛かれるだろう。
背後から上杉から牽制されてはいたとする説があったが、「駿河と三河」を手に入れ東から西に向かって「織田勢との戦い」に成っていた事も考えられ、北たから南に向かって通して治める事で「莫大な財」を得た「武田勢」に対しては、「上杉」もそう簡単には手は出せなくなるし、「向後の憂い」を無くして有利であった筈である。
「海の幸と陸の幸」の「財を得る事」は要するに「銃を得る事」に繋がるのだ。
この様に後勘で検証して観ても、現も実にも「長篠」に至るまでの「勝頼の行動」はそうなっている。
唯、「山県の判断ミス」が「武田氏」を二派に分けてしまったと云う事で「勝頼・武田氏の行動」は狂ったのだ。
「松平氏の勢力如何」に関わらず「伸長し始めた織田氏勢力」を“間断なく東・西三河」で抑えて置く必要”が戦略上は絶対に必要であった筈であろう。
「浜松城」を起点に「三河を制圧する拠点」であった事は「甲斐の複数の戦記」にも統一して記されているし、現実にも「武田氏の一連の南下政策の戦い方」はその様に行動していた。
そもそも「松平軍の採った行動」が、「堀江城支援無し」と「銃隊を使わなかった事」から考えれば、“「大軍の城守備隊」が「浜松城」にあった”とは実に考え難いし、「三方ヶ原」が一瞬で壊滅状態に成っているのに、仮に守備兵の中に銃隊の一部が居たとしても「城守備隊」が「援軍」として向かわなかった事もおかしい。
「城」は負けては元も子も無しである。
なのに「山県昌景」はこの「基礎的な誰でも知っている戦略」からも逸脱して「判断ミス」をしていたのだ。
そもそも、「額田青木氏の南下国衆」と「伊勢青木氏」からすると、当初の「国衆に成る条件」からして「守備隊」と云う「国衆の立場・家臣化」には無かった。
「国衆に成る条件」を知らない「銃保持の守備隊説」は「青木氏の歴史観」からすると無いのだ。
仮に居たとして「三方ヶ原」が「完全敗退」に成り掛けているのに「城」から出て「武田軍の背後」に廻れば未だ崩せていた事も考えられる。
だとすると「額田青木氏の南下国衆の銃隊」も引き上げてはいなかった筈である。
「引き上げ」そのものが難かった事になろう。
況してや、「青木氏の銃隊」が「城守備隊」として「城」に残していたとすれば、早めに「城」から出て「背後」に廻れば充分に勝てていた事は考えられるが史実は遺していなかった。
「南下国衆の銃隊」にこの「役目を負わす事」の範囲が約束上出来ていなかったと観られる。
「青木氏の資料の行」から観て、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」とは「渥美湾の制海権の補償」と「三河の商いに於ける補償」を前提としての「契約」であり、「家臣と成る契約」では無かった。
だから本来は“「吉田城の守備の範囲」”が限界であって、それを超えての「一言坂の偵察隊」であり、「三方ヶ原の目的外の働き」であって、その後はすぐさま「戦線離脱」して「伊川津」に戻り「陸運業の準備」に入ったのだ。
“「城」に残してほしい”との話はあったのかも知れないが「城などに入る事等」は元々無かったし、あったとしても拒否していたであろう。
筆者は軍議の中で「城に一部を遺す事」の「松平側からの話」はあったと観ているのだ。
「三方ヶ原」に長時間に戦場に遺るのでは無く、思わず面前に現れた敵の「山県軍の別動隊の突撃隊」を打ち壊したが、この“「開戦」”と同時の「戦線離脱の行為」はそれを裏で証明している。
恐らくは、兎も角も、「南下国衆の銃隊」みならず「伊勢」も“「建前」”だけを執り“勝敗には関わりが無かった”のではと考えられる。
唯、先ずは「渥美湾の制海権の獲得」にあって、最低限に「松平氏の三河域の保全」にあったのであろう。
「駿河の浜松城」の次は誰でも判る事だが「東三河と来る事」は読み込んでいただろう。
その為にも、逸早く、「伊川津」に戻り「伊勢の得意の情報網・香具師」を張り“「防備」”を整えようとしたと考えられる。
その「防備の方法」にはいろいろあると思うが、先ず、「三河国衆」を辞して「陸運業」に転身して、「武田氏」とは「戦歴」を造っている以上は、「攻撃の対象」から免れる「戦術」を執った。
それ故に、「土豪3氏の分家」の「陸運業への参加」は「疑いを招く事」が強い事もあって、且つ、「内部問題も招く事」として「問題」と成ったのだ。
そこで、「商い」でありながらも万が一の場合として、社会が安定せず盗賊や山賊などが頻繁に横行する中で、この「銃で抑止力」を高めたのだ。
「籠城戦」から「野戦」に作戦変化した事で「一言坂の遭遇戦」で、一応は「目的・命令」は終わっていて、故に、“堀江の近くまで追尾した”のであって、「三方ヶ原の鶴翼の左側面」に着いたのは「将来の事・渥美湾の制海権獲得」を考えれば「様子見の建前」を果たしていたのだ。
筆者は当初、「追尾」は「使命が果たされた事」で「「伊川津に戻る過程」にあったのかとも推測したが、資料を読み込む過程で「三方ヶ原」に向かっている事が判ったのだ。
ところが、「二俣城」からの「山県軍の別動隊」の「鶴翼右側面」からの思い掛けない突撃にあい、取り敢えずは「目の前の敵」に「応戦」に及んだと成ったと観ている。
「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に執っては「一言坂と三方ヶ原」は「初めての交戦経験」であった。
これを「戦線離脱」と云えるかは別として、故に、「今後の事」を考えて「戦況」を確認して「交戦」を終えると、行き過ぎの無い様に直ぐ様に“「踵」”を返し、必要のない場から「戦線離脱」をしたのだ。
確かに“「戦線離脱」は恥ではある”が、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」に執っては「当然の行動」であったのだ。
故に、「山県昌景の判断ミス」で「浜松城」で生き延びられた「松平軍」が再び拡大しても咎められる事なく、「伊川津」に其の侭に居られたのはこの所以でもある。
寧ろ、「咎められる処」ではなく、「伊勢の青木氏・伊勢屋」を背景にして「陸運業、開発業、殖産業」と経済で「三河」を大いに替え豊かにする事に成り、それに伴て「子孫」は拡大し、それでこの「三河の財力」を以てしてその後の「長篠」から「甲斐」へと迎えたのだ。
筆者はこれは過言では無いと観ている。
それ以後、「家康」とは、その後の紀州藩とは幕末まで“「水魚の交わり」”が続いた事が何よりの証拠である。
「伊川津」のみならず、それ故に、一部は「桑名」に帰したとしても「額田青木氏の主家の蒲郡青木氏」の「蒲郡」に「事務所」を構えて遺る所以と成ったと考えている。
それだけにこれ等から判断すると、「額田青木氏の南下国衆の銃隊・銃力」には、当初から“「軍に与える影響の威力」”には「密かな自信」を持っていたのだ。
現実には、「城」には「山県昌景の恐怖感」だけあって、「銃隊」は無かったが、将又、「別動隊の背後」から猛追して来る可能性の事も考えたかも知れないが、現実にはその様な立場には無ったのだ。
寧ろ、「別動隊の使命感達成」では、「浜松城を攻める事」以外に「武田軍の本隊」を護る為にも、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」を「別動隊に引き付ける事」の考え方もあったが、この為にも、逆に死に物狂いでの「別動隊の波動攻撃」を受ける事を「南下国衆の銃隊」は予想覚悟していた事にも成る。
故に、「南下国衆」から観れば、逸早く、「戦線離脱する方」が得策と観たのだ。
然し、「波状攻撃」をしようとして偵察すると、「伊川津」に向けて「戦線離脱している事」は確認できているので、結局は「向後の憂い」を無くして「城」に向かったのであるし、然し、城を落とさなかったのだ。
どの様に考えても「別動隊」と云うよりは、“百々の詰まり”は「山県昌景の行動」が可笑しいのである。
“信玄の病状悪化説”としても「勝頼・後継者」等もいると考えれば「城も落として置く方」がどう考えても良い。
兎に角もどの様に可笑しいのかと云えば、良い方に観たとして、“落とさずにいた”のは、筆者は、“敢えて家康を遺した”とも「一つの考え方」としては考えられるが、其れならば「三方ヶ原」で突撃しなければ良く、当初の予定通りに先に「武田軍の本隊」に合流する手は疑われずに済む事にも成る。
「陣形の採り方」から観て「勝敗」は「時間差」に依るもので勝利している。
「城を落とさずに引き上げた事・判断ミス」には、後刻、「甲斐・武田氏」の中で議論が分かれた筈である。
「勝頼」は、戦略上最も重要な「別動隊と云う使命」を果たさなかった「原理主義」を以て「山県昌景」を間違いなく信用しなかったのであろう。
其れなりの「知恵・判断力」は「勝頼」には充分に有った筈で、故に武田氏は二分したのだ。
筆者はこの説を採っている。
「使命」を果たさなければ各自思い思いの行動を執れば「軍略の意味」はそもそも無いだろう。
故に、その後の「武田氏の中」で「長篠」に対して「軍勢」を纏めるのに「国衆・豪族・史実」は割れたのだ。
この様に江戸期の「家康擁護説」もあるが面白おかしくして物語にした脚色説である。
何度も云うが「青木氏の歴史観」から観ると「山県昌景の判断ミス」が全てを左右したのだ。
その「判断ミス」を起こさせたのは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」であった。
更に、その「判断ミス」を助長させたのは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の「戦線離脱」であったと説いている。
事程左様に、幾つかの歴史史観は、この「額田青木氏の南下国衆の銃隊」の歴史観を考察の中に配慮していない事で起こる「後付けの搾取や偏纂説」で「誤り」を起こしているのだ。
取り敢えずは「後勘説」とはなるが、一応、検証して観る。
それは、信玄死亡後、「織田勢の伸長」が益々著しく成り、西三河は元より「東三河」も完全に手中に納め、「駿河」も手中に収める可能性があった。
だとすると、「武田氏側」は「織田勢を抑える」には「家康を生かす事」で“歯止めに成る”と「山県昌景」は考えたていたのではないかと云う「江戸期の説」もある。
要するに、興味本位の「後付けの我田引水説」ではあるが、其れならば“浜松城を攻め落としていた方がより確実”であろう。
つまり、「武田氏の中」で「三方ヶ原の後」に「山県昌景の判断ミス」を隠して、そうすれば、「今後の勝頼の東三河攻め」が容易に成るとする説を考え出したとしたのではないか。
「勝頼の能力」にも、“山県昌景等の重臣等は疑問を持っていた事”は「戦記」でも書かれていて、同時に勝頼からも重臣たちへの「信頼・判断ミス」が薄らいでいた環境の中で、「長篠の戦い」を避けて撤退を進言したが、「決戦に傾いた」としたとする説である。
この時、旧来からの旧臣達は“「織田の勢力の伸長」を憂いて、最早、「勝ち目」がない”として「別杯」を交わしたとある。
この「別れ杯」は実際に躱された事は史実であり、これに其れなりの意味がある。
つまり、「苦戦して負ける事」を覚悟していた事を意味する。
「武田氏の戦記」の幾つかでは、この時に「松平氏の調略」を進言したが「勝頼」は聞き入れなかったとしているので、上記の「山県昌景の戦略・判断ミスを隠す」は崩れたのであり、これ等が何よりの証拠と成るであろう。
それには、「山県昌景の軍師の脳裏」には、「三方ヶ原の苦い経験・判断ミス」があり、そもそも、自信のある軍師の”戦い方の善悪の勝敗・判断ミス”では無く、「軍略」に関わらない“銃の有無の勝敗”だとして「軍議の争点・山県派」を逸らしていたと云う事に成ろう
確かにそうであり、既に、「武田軍」は「三度」も銃に経験しているのだから、この事を意味するのは当然である事は否めないが、“「山県昌景の判断ミス」”は“「銃の威力」”から来ている事を軍議で示し、この様な「判断ミス」を犯さない様にするには、「責任転嫁」か「非難覚悟」で“銃の有無の勝敗”を主張した事に成ろう。
「銃の有無論」としても、そもそも、「三方ヶ原」のは「松平氏の銃」では無く「南下国衆の限定した戦いの銃」であった。
武田氏が三方ケ原後に「火縄銃」を獲得しようとしても「信濃甲斐」に於ける「税に対する国衆の不満」が高く、「高額な銃の獲得」は「銃生産量」は元より「銃シンジケート」で仕切られていたルートでは根本的に無理であった。
そもそも「織田氏」でさえも「火縄銃」は「雑賀根来の傭兵軍団の銃」に頼っていて、信長は「長篠後・1575年」に「雑賀根来との関係性・発言力を増した」は「悪化・1570年〜1576年」して調略や戦いを開始し、「1577年・長篠2年後」に遂には「信長」に依る「雑賀根来潰し」が本格的に起こったのだ。
要するに、「三方ヶ原の3年前」から既に獲得の為の「調略作戦・7年間」が展開していたのだ。
呉越同舟で兎も角も「傭兵」としていたが極度に警戒していた事が判る。
そして遂には、これに決着をつける為に「秀吉」に依る「銃獲得作戦・1585年」が開始された。
結局、15年間で完全に「銃とその銃組織」は手中に収めたのだが、既に「三方ヶ原の傭兵銃の威力」も裏では「銃獲得の戦い」が行われていた史実なのだ。
この「雑賀根来の傭兵軍団の銃」の獲得に向けて大きな犠牲を払って「紀州征伐」を行ったくらいである。
その程度の事は情報で武田氏が掴んでいただろう。
この環境の中で裏ルートで多少の銃が入手出来ていたかも知れないが戦力には成らなかったし、「銃獲得」が容易ではない事位は、「税の問題」に依らずとも「無理の判断」は武田氏側では出来ていただろう。
そこで、この事から考えれば何せ「戦線離脱している事」は知っていれば、この「国衆の力は違う」の位の情報は掴めていたと考えられるし、2年5月後の「武田氏」にも「情報網の存在」は当然にあって、「三方ヶ原後」に「陸運業に転身している事」はこの期間であれば噂では無く「情報」として充分に掴めていた筈である。
故に、其の後の状況証拠から“責任転嫁であった”と筆者は観ているのだ。
だから「甲斐・武田氏と甲斐の国衆」は「三方ヶ原後」に二つに割れていたのだ。
つまり、「武田軍」には三河以上に「旧態依然の古い感覚」があり、「銃の認識」に極めて低いものがあり、「銃の数」にも「戦うだけの数」は到底無かったし、例え、「調達の充分な財」があり、且つ、「銃の認識」が強くあったとしても「生産量とシンジケート」から無理であったのだ。
この「当時の外国製」は「銃身の爆発」が多くあり、高額ばかりで信頼されていなかったし、「貿易」は限定されていたのだ。
「外国製の火縄銃」は、そもそも「西洋で新しい軍用銃」が開発され、そこで不要と成った「中古の火縄銃」を高額で最初に種子島に持ち込んだのだし、「貿易」で新しい幾つかの「軍用銃の見本」も秘密裏に入っていた事も史実である。
従って、それ等の「全ての諸事情」を憂いた「別れの杯・杓別杯」であったとし、これを美化であろうが、「戦記」ではこの様に定説化にしているのだ。
「山県昌景・判断ミス」を裏返しする程に、反省し恥てそれほどに「強い銃の感覚」を「三方ヶ原」で持ったし、「武田軍本隊」に居て「吉田城や一言坂」で経験した多くの他の将も「長良川の情報」や「自らの三度の経験」を通して、「強い銃の威力感覚」を持っていたから、「憂いの別れ杯」と成ったしているのだ。
然し、そもそも「長良川・1556年」で初めて使った事で「自信や確信」を持った「伸長する信長の感覚・雑賀根来の銃傭兵軍団」は全く反対であった。
「長篠」では“それが決め手と成る”と感じ執っていた事を「憂いの別れ杯」は意味するのだたろうか。
それは、「三方ヶ原等の戦い」等で経験していたので、、「山県昌景の軍師の脳裏」にはこの事が走馬灯の様に浮かび、矢張り「雑賀根来の銃傭兵」が「決め手」と成ったのだ。
「長篠」では「織田軍の火縄銃の威力」が統一して記録されているが、「松平軍の銃力」は全く記録されていないのは、「額田青木氏の南下国衆の銃隊」は、既に、「三方ヶ原」で逸早く「戦線離脱」して「伊川津」に戻り、「陸運業」に入った事で、「フリントロック式改良銃」は「青木氏の記録通り」に「松平軍」に渡していない事に成る。
これを使うには、「高度な熟練」と「弾丸や黄鉄鋼の入手」等の「貿易による調達」が必要であつて、且つ、「手紙の行を読み取る事」でも判るが、未だ「安定しない社会」では「陸運業の護身用」として「伊川津」で生き延びて行くには、“「抑止力」”として持っておく必要があったのだ。
仮に「松平軍」にこれを渡して入れば、「織田軍の火縄銃以上」に記録に成っていたであったろう。
現実には、「危険極まりない銃の勢力」が隣にいると成れば「織田氏」はこれを許さなかったであろうし、当然に戦いと成っていただろう。
そうでなくても現実にはこの方向に動いたのだ。
「三方ヶ原の戦い」とは別に、この「改良銃」を「松平軍に渡す事」で、「織田軍の火縄銃の傭兵銃・1000丁・10倍」と「松平軍のフリントロック式改良銃・300丁・20倍」の「対決」と成っていただろう。
因みにこの仮説では、「勝負」は「火縄銃の非移動式と弾幕の間隔差」と、「可動式」で「連射弾幕の差」と「命中率と被弾距離」で、「松平軍」は近づく事なく勝利していたであろう。
要するに、最早、其の後の「南下国衆の銃」を「松平氏に渡さなかった理由」は、「唯単なる撤退・判断ミスの経緯」だけでは無かった事が判るのだ。
「渡す事」で戦略的に何が起こるかであり、それが「青木氏」に於いての「利」にあったのだ。
渡して「松平氏」が「銃による兵力」を拡大させて伸長する事を良しとしては居なかったと観ている。
「織田氏との勢力争い」を起こし「渥美湾の制海権の獲得」が成し得なくなる危険性があったからだ。
現実にはそう成って行ったのだ。
筆者は、「武田軍の銃の感覚」が「経験」から強く成って行った時期の過程にあって、ところが逆に「武田軍・勝頼一派」にはこの「銃の感覚」は未だ薄く「山県昌景への判断ミスの不信感」と共に増幅し、家中ではこの「感覚差」とで争う中にあったのだ。
従って、共に「戦力と成り得る保有数」も無かったのだ。
「武田氏の中」では故に「三方ヶ原後の軍議」では激しい議論があったと予想できるし、「武田氏側の戦記」もこれを記している。
「信濃も獲得していた武田氏」には、信長の様に金に糸目を着けず「銃の獲得」は出来ずとも、「生産地の雑賀根来のシンジケートの傭兵」を「高額の金銭」を払って雇ってでも、「勝利」と云う一点に焦点を合わせ戦った事に違いが出たのだ。
勝利さえすれば元は取り戻せると云う「合理主義」にあった。
故に、直前の「信長」も「長良川の一件」が無ければ、ここまでは「銃への信頼」は無かったと考えられるのだ。
この様に、“「銃の存在」が「戦いの勝利を左右する事」”から「銃の戦記」として江戸期に書き添えると云う事が頻繁に起こり、その為に「松平氏の銃」は要するに「額田青木氏の銃」であったと誤解された。
「江戸期の戦記」では上記したような銃の環境下にあって「銃を獲得する高い経済力」も無かったにも関わらず、これを「松平氏の銃」と見間違えて描いた事に成る。
「1573年」に既に「南下国衆」が引き上げて離脱して銃力は無くなっているのに、未だ“保有している”と勘違いしていた事に成る。
念の為に史実は、次の様に成っている。
「銃の最大生産力」とその「一丁当たりの金額」と銃を外に漏れない様にして「銃のシンジケート」を構築して「傭兵需要」を保全していたので、「入手」そのものが難しかったのだし、「2000両/1丁と云う高額・初期は4000両」でもあって、「輸入」も同然で「秀吉の刀狩り」までの事であるし、「織田氏」でも「生産地の雑賀根来の傭兵」であったのだ。
仮に、戦記の意味の様に獲得できても「銃隊」を編成出来る程はそもそも無く、「近江からの横流し」からの獲得量が関の山で少量あったのだ。
後にこの事が「伊勢青木氏」に発覚し、「堺」を経由して近江には「資材の供給」を停止している。
この為に、「近江銃・龍源寺銃」は崩壊し、「真面な鍛冶師」は殆どは「伊勢青木氏・青木氏部」に引き取り、「横流しをした一部の者」は史実として「薩摩」に逃げ込んでいるのだ。
「殆どの戦記」は、この事の史実に間違えていて、入手出来たのは「信長の紀州攻め後の事・織田氏が獲得」である。
そう云う意味で、「三河戦記の五戦記」には、「額田青木氏の事」が「戦死者や戦場や伊川津の事」も含めて記されてはいるが、江戸期初期には「幕府の銃規制」があって「戦記」に書かれている程に「大量の銃の期間・刀狩りまで」は極めて短く、「銃の意味」が無ければ態々「書き足す事」は無かった筈である。
故に、江戸期に成って「多くの戦記」には「後付けの銃の事」を書き足したものであるが、「額田青木氏の事・南下国衆の銃」は「書き足される事」は無かったのだ。
これが「青木氏の資料」には遺されているとしてもである。
「長篠の戦い」がこの期間内であって、その後に「雑賀と根来の傭兵軍団」は上記した様に「銃の持つ惣国」の集団として「紀州征伐・信長と秀吉」で潰され、直ぐ後の“「秀吉の刀狩り」”で「銃」は「法度」に成ったのだ。
更に、「家康」が江戸初期初期に“「銃規制」”をして封じ込めて全く意味が無く成り、「銃の価値と値段」は底を突き無く成って仕舞ったのだ。
仮に持ったとしても貿易に関わる程の勢力との繋がりがなけれは銃は使えなかったのだ。
丁度、この“狭間”に「武田氏の銃事情」は置かれていたのだ。
故に、「入手の事情」と云うよりは当時は“「傭兵への事情」”として扱われ、「武田氏の中」では「議論が別れる処」と成ったのだ。
「信長の長良川の印象・火縄銃」と「3度の実質経験・南下国衆の銃」が「武田氏」を二分し、その基は「山県昌影の判断ミス」が引き起こしたものであったと「青木氏の歴史観」としてはどうしても成り残しておく必要があるのだ。
然し、これが「額田青木氏と青木氏族」に執って「良い方向」に事は運び「永遠の運」を掴んだのだ。
因みに、この時、「南下国衆の銃の陸運業」は、完全放棄せずに実質に使われる事は無かった様だが、「護身用・抑止力」として一部を密かに保持し、残りを「伊賀」や「秀郷一門」に「大量の備品・弾、黄鉄鉱」と共に「下げ渡している事」が読み取れる。
この「南下国衆の銃の陸運業」の「戦歴の持つ威力の事」は瞬く間に全国に密かに拡がり襲うものは居なかったであろう。
資料の陸運業の事の行には、「国と国を渡る運送」には「宿」で密かに隣のシンジケートと交渉をしていた事が記されている。
この経緯に依って「伊豆や信濃との道」は出来て「青木氏族」は生き延びられたのだ。
此れさえ出来れば「下げ渡す事」をしても「効果」は認められ、生き遺っている「全青木氏族」は護られるのだ。
「青木氏の歴史観」として「三方ヶ原の経験」は無駄ではなく「良い方向」に向いたのだ。
何を兎も角も、躊躇なく直ぐ様に執った「戦線離脱の行動」が効果を奏したのだ。
同じ「一瞬の判断」でも「銃」に頼らない「青木氏族」は、生き延びて子孫を拡大させ、疎遠であった「甲斐青木氏」を含む「武田氏」は滅亡したのだが、この「山県昌景の判断ミス」とは相対的であるのだ。
これが「青木氏族」に遺した「始祖の施基皇子の教訓」の「青木氏の氏是」の意味する処なのである。
躊躇なく直ぐ様に執った「戦線離脱の行動」では無く、其の侭に「山県軍の別動隊の追尾」や「武田軍の本隊」に向けてこの「銃口」を向けた場合は、間違いなく「歴史」に名を遺し、周囲から警戒されて其の侭では済まなかった筈で、泥沼化していた事は間違いは無いのだ。
これは「青木氏の氏是」の「発祥以来の伝統」に反するのだ。)

「青木氏の伝統 61」−「青木氏の歴史観−34」に続く。



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