青木氏氏 研究室
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  [No.71] 飛鳥京の防備と賜姓族氏
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/18(Sun) 17:10:35

飛鳥京の防備と賜姓族氏
青木研究員 さん 2005/09/02 (金) 20:31
奈良時代の都は聖徳太子の飛鳥から天智天皇の近江大津宮、そして天武天皇の飛鳥浄御原宮と藤原宮と変化するが、この都に対する防備がどうであつたか、そしてその防備にあたたった者はだれであつたのかが気になる。
天智天皇の前は蘇我氏がこの防備に責任を持っていた。その防備は蘇我氏が自ら行っていた訳では有りません。
この防備を担当していた者の実力が余りにも大きかったことが、中大兄皇子の大化の改新の原因の一つなのです。
この集団は以前のレポートにも再三に出て来る一族、渡来系の阿多倍の引き連れてきた集団なのです。

この集団の事に付いてもう一度概略を述べて置くと、中国の後漢の光武帝の21代の末帝の献帝の石秋王の子供の阿智使王とその子の阿多倍王が後漢の滅亡で大和の国に帰化して来ました。そして、17県の人民200万人の多種多彩な高度な能力を持つた集団でした。
その集団は現代の日本の第1、2次産業に貢献し、この集団に依って殆どがもたらされたものであります。それは政治の知識、経済の知識、軍事の知識、生産の知識、加工の知識、などあらゆる面での貢献をしました。
この集団の軍事の知識の武装集団がいて、この集団を蘇我氏が管理管轄していたのです。だから、蘇我氏が天皇を凌ぐ勢力を持つた理由の一つなのです。
その集団を使って蘇我氏(馬子)が命じて崇峻天皇を暗殺させたのも、蘇我入鹿が命じて山背大兄王を滅ぼしたのもこの実行集団なのです。
その集団は周囲からの批判に対して、日本名を作り、漢(あや)氏と名乗りました。その後、更に非難を避ける為に、東漢(やまとのあや)氏と名乗りました。これでも危険視された一団は今度は文直氏と名乗りました。
この集団が飛鳥の宮を守っていたのです。
この集団を配下にして天皇までも暗殺する蘇我氏勢力に対して中大兄皇子の大化の改新劇なのです。
もう一つの大きな原因はこの集団のうちの生産と加工の集団を蘇我氏が管理管轄していたのです。
その集団は仕事種に応じて分団化してこの分団を「部」(べ)と呼称していました。服部、海部、磯部、織部、綾部、陶部、山部、馬部、鞍作部、鍛冶部などの沢山の「部」があります。
現代の姓に成っているのもこの渡来系の人たちなのです。

当時は市場経済ではなく「部」経済なのです。
一度この集団が作った物を、先ず、朝廷にいれて必要な分をとり、後は市場に出して利益を上げる方式なのです。これを担当していた官僚を「国造」(くにのみやつこ)と呼びました。
この集団を一手に管理管轄していたのは蘇我氏なのです。従って、膨大な財力を握られていたのです。

これを解決することも大化の改新の理由の一つなのです。
この理由の解決の一つの答えとして、中大兄皇子即ち、天智天皇が考え出したのが「皇族賜姓青木氏」の出現という事なのです。

第4世皇位第6世王臣下方式では、一族維持のために朝廷の財源を大きく左右するほどに圧迫をしていました。それが天皇家と朝廷の弱体の原因と中大兄皇子が考えたのです。
そこで、これを第2世皇位第6位皇子王臣下方式に変更しました。

これで34皇子皇女もいた親王皇子が著しく減り、第7位以降は臣下したので、財源の軽減を大きく図りました。其れだけではなく、
それに、この第6位の皇子に天皇自ら氏を与えて臣下させたのです。当時としては社会慣習から観ても画期的な断行です。朝廷内では大きな問題となったと推測されます。

そして、この身内の賜姓族に天皇を護衛させ身を守りました。
当時の社会慣習は、天皇は武力に関わらないと云う掟のようなものがありました。その慣習を破って天皇の指揮で動かせる武力集団を自分の周囲に置くということは考えられない事であった筈です。
だから、「大きく変化する新しい改革」、即ち「大化の改新」なのです。
現代から考えると、当然と見えるのですが。

又、各地の主要な土地にはこの一族を配置し防備体制を作り上げたのです。そして、宮の周囲を囲むように配置したのです。
これで、軍事的安定とに穀倉地の防御とで朝廷と天皇家の安定をはかりました。この役目を担ったのが皇族賜姓青木氏なのです。
この事も、皇子が侍になり、天皇の直接指示で、天領地を護る、と言う体制すら、周囲にとっては飛び上がらんばかりの出来事であった筈です。なにせ、社会慣習を破ったのですから。現代でさえ国会で慣習を破る改革をすると、反対が出てきて、国会の解散まで起こるのです。
このことを考えると、大変なことなのです。
信長の「楽市楽座」も今考えれば当然だけれど、社会はもめました。
この最初が天智天皇から伊勢国に配置した伊勢王なのです。そして、特別に第7位の皇子にも地名を賜姓して近江の佐々木村の佐々木氏を臣下させました。
(賜姓外の皇子や王は身分を失い比叡山とか門跡寺院に入山した)

飛鳥を中心に東の伊勢に伊勢王の賜姓青木氏を、西に近江の近江王の賜姓佐々木氏を配置したのです。
天智天武期の第6位皇子は施基皇子、第7位皇子は川島皇子です。
しかし、ここで疑問が残ります。
では、改新前は都は漢氏か東漢氏が守っていましたが、改新後は
一体どうなったのかという事です。
確かに東西に賜姓青木氏と賜姓佐々木氏に配置はしましたが。
中央の防備は戦略的、軍事的には絶対に必要です。
このことに付いて研究してみる事にしたい。
続く。



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