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  [No.75] 日本人の発祥
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/18(Sun) 17:15:56

日本人の発祥
青木研究員 さん 2005/09/17 (土) 16:19
今まで、青木氏の発祥に付いて記して来たが、ここではその大元となる日本人というテーマについて一体どうなっているのかを考えて見たい。そして、青木氏がどのルートの人の類から出たのかを検証してみたい。
人類の発祥は概ねまとめると次ぎの通りであろう。
そもそも、縄文以前は日本の国土はアジア大陸と繋がっていたとされる。そして、日本海は大きな湖であつたと云われている。
日本は朝鮮半島と陸続きでもう一箇所は樺太と北海道と繋がったいたそうである。

原始の時代は人間は暑い地域アフリカで2種類の猿から誕生したのだが、この地域はまだ全大陸は極寒の地域と赤道直下のアフリカの猛暑の地域とに分かれていた。今のように地球はまだ丸くはなく、地動が起こっており若干の歪を持っていて温和な地域としての部分は少なかったのである。

生物はこのアフリカに育ち、2種類の猿から脳の中にある種の菌が入り、突然変異を起して立ち上がった猿がいた。そして、立ち上がることに依って、行動のパターンが変化して、その猿が森から平野部に出現して直立に依る脳の発達と平野部での生活習慣からも脳と体が発達を遂げ、何時しかチンパンジーとなり、ゴリラに発達し、ボノボとなり、遂には類人猿となり人に進化を遂げて進化してそして新化するのである。

しかし、この猿の2種類は一つは途中で地球の自然と生活環境の変化にたえられず消えて行くが、残った一種の猿は更に進化を遂げ、体も大きく成りつつ体力もつき始めるし、生きる力即ち、自然に適応する能力も高まり、脳の知恵も進化して頭部は大きくなり、より生活環境の良い土地へと移動を始める。一団はヨーロッパ方面へと移動して行く。

しかし、この集団には同じ人類の流れの異なる2種類の人類が移動し、この大陸に二つの人の類がすみ分けて住み着いたのである。そして、いつかこの大陸に寒波が到来し、この対応の採り方で生死が決まって行った。滅亡した人の類の方は盆地や洞窟や窪地の多い地域(イタリヤ地域)に集団で住み着き、自然と肉食から離れて行き草食雑食化し、極寒から体を護る為に体毛を増やし、体を丸め頭部を保つ為に肩の筋肉を異常に大きくし、固形物を食するために顎の筋肉を異常に強く大きくしたが、その体力は環境に対応できずに低下し寒波の勢いに押されて滅亡した。

しかし、一部が住み分けの合理点の地域では同化が起こり、その何時しか集団となり、この集団に再び移動が起こり、ヨーロッパ大陸の北部地域へと住みかを換えたのである。
寒さに対応したもう一方の人の類は生活用品の改善を図り、寒波を凌ぐ技を美につけたのである。そして、その体形も変えたのであるし、皮膚の色も、血液の管も、顔面の骨格も変化させて対応したのである。体の機能を全て変えて寒さに対応した。

一部のヨーロッパ人を除き、天敵などから護る為に肉食に変化させ体は大きくし体温を上げて、口は横に広くして肉食にあわせ、顔の額は前面に押し出し、目を奥に入れて凍結を防ぎ、眉毛が濃くして目を保護し、体毛は多くして体温を保ち、皮膚を護るために血管は体の深くに入れて保護し、鼻は長くして冷たい空気を行きなり体に入れず、鼻の穴は下を向けてる様に寒さの進化を遂げて生き延びた。

窪地の世界に逃げた人の類の方は遂には寒さに対して体の機能の進化が全てが逆となり同化して生き延びた集団以外は遂に滅亡した。
従って、ヨーロッパ大陸にはこの同化種と元の人の類の子孫とが混在する地域となつたのである。この同化種と窪地の人の類との「二つの人の類」の違いは頭部と顎の付近の骨格が違うとされている。

さて、更に移動した人の類はアジア大陸に移動し、ここで二つのルートに移動を換えたのである。
一つは南アジアの付近に(1)、もう一つはシベリヤ付近に(2)一族の集団が分かれて移動した。
中央アジアの付近に(3)定着した集団と、更に移動して北アジア付近に住み着き(4)、更にさかのぼりこの集団の家族は二つに分かれたのである。一つはアラスカに移り(5)、もう一つは樺太から日本の土地に移動してきたのである(6)。一部はロシア付近のヨーロッパ系の人の類の移動も含まれる。(7)
南アジアから更に移動して陸続きの朝鮮半島から移動してきた集団と(8)、船で移動して北九州の地域に上陸移動してきた集団(9)、更には中央アジアからき朝鮮半島から入り(10)、又、日本海から渡ってきた集団(11)のコルボックス系の人類
続いて、南アジアから船で南太平洋諸島から移動してきた沖縄群島や南九州の人の類の集団(12)
ヨーロッパ大陸を経て船で移動を進めて南太平洋諸島を移動して沖縄群島に上陸した集団(13)太平洋民族系の人類

この様に、日本の人類は7つ又は8つのルートから移動してきた人の類の集団である。中には、先祖を辿れば遺伝子的に観ると元は兄弟であつたという事実も証明されているのである。(詳細後記)
此処までは縄文期前後の状況である。この人の類の変化が完全に無くなる時期は平安中期1100年くらいのところである。

この時期までの人類上に関わる歴史を述べます。続きは次回に。


  [No.76] Re: 日本人の発祥-1
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/18(Sun) 17:17:21

Re: 日本人の発祥-1
青木研究員 さん 2005/09/21 (水) 11:11
コルボックス系の人の類は上記した11のルートを経て日本列島(当時はまだ列島ではない)に色々な入り口から上陸したのである
この人の類の元を正せば厳密には5つの人の類となる。(後述)

2つは太平洋民族と一部白ロシア系民族の上陸であるが、これ等を合わせての13の人の類が各地にすみ分けて住み着いた。
夫々は時代のずれはあるが(本文ではテーマではないので概ねで記する)進化を遂げて大陸の変化とともに移動を繰り返しながら入ったものである。
当時は日本海が湖であり大変な温暖で過ごしやすい環境で移動してきた人の類は子孫を増やしヨーロッパのような滅亡の変化を起さなかったようである。

コルボックス系の人の類の移動経路は大別すると次の様になる。
中央アジアから中国や北朝鮮に移動した北京原人(A)や、南アジアに向かったジャワ原人(B)のように、北アジアに向かいシベリヤとアラスカに定住した人の類(C)と、更にはアメリカ大陸に移動し定住した人の類(D)、更に南に移動して南アメリカ大陸の北部に到達した人の類(E)の5経路になる。ここで面白い結論が出て来るのであるが後で記する。

コルボックス系外の異なる2つの人の類は、次の移動経路をとる。
一つはアフリカ大陸からヨーロッパ大陸に入り、そこから船などを使い沿岸と陸伝いに移動した人の類はヨーロッパ系の人の類との混血を造りながら、沿岸伝いの人の類と交えながら変化して行き、最後は太平洋に出て南陽群島やハワイ諸島を経てきた(アモイ族に象徴される)人の類か゛沖縄を経て南九州に上陸し定住したアジア大陸の外よりのコースを取った人の類。

二つにはヨーロッパ大陸を経てシベリヤ大陸を横断してきた2つのヨーロッパ系の人の種(前記した)がカラフトを経て内回りにコースを採り北海道に上陸して定住した小数の人の類

以上の色々な混血と進化を受けてきた合わせて7つの人の類がこの日本の列島に入ったとされている。
では、この7つの人の類は、どの様な「生き方」を採ったのか。
7つもの人の類がある以上は生きる為には戦いが起こるがどうであったのか現代の単一民族化した状況を見ると疑問は残る。

ヨーロッパ系の二つの人の類の様に戦いによりその勢力で住み分けると云う方式を採らなかったのである。
彼等は極寒の地(当時は気候変動が大きく起こりこの大陸は極寒が起こっていた)に生きる為には肉食を主として来ているし、その体格も前記した様に進化としてその様に出来ている。
肉食を主とする以上は住み分けは不可能である。動物を求めての移動を余儀なくされ、必然的に食を求めた戦いが起こる。草食は育たずの環境からは止む終えず、従って、全ての行動の原理思考は「戦いの原理」に従って「事の良し悪し」を決すると言う彼等の人の類の自然の掟を持っていた。
ヨーロッパ系の2つの人の種でも小さな進化した人の種の集合体であり、この「戦いの原理」によりて決していた。

それに比べて、もとより、ヨーロッパ系とは人の類の枝葉の異なるコルボックスである故に、草食を中心として進化の過程を遂げてきた人の類である事から、「戦いの原理」の前に「住み分け」の原理を先ずはを採ったのである。

その行動の原理を証明する証拠が古跡上に発見されている。
ジャワ原人や北京原人の死の埋葬に対する心理的行動はヨーロッパ系の「戦いの原理」を前提とする場合の死に対する定義は異なるは必定で、「死」は「戦いの前提」であり、戦いは死の大小によって決まること故に、「死」に対する観念は必然的に異なり、その行為として、この二つの原人(ジャワ、北京)の行動は異なったのである。

それが、「死者に対する埋葬の姿勢」として現れているのである。その一つが、「死者に花を手向ける行為と墓跡」が原人の中に見つけられているのである。ヨーロッパ系のその行為はかなり後の時期に見られるのである。

この様な背景から、日本列島に定住した7つの人の類は、当然に初期は争いを避ける為に「住み分け」をしたのである。その事実は次から次えと出て来る。(後述)
他のアジア系の全ての人の類とは異なるところは「住み分け」から「融合」へと発展させた事にある。
これが優秀な人種を作り上げた原因である。

(混血を繰り返す事で遺伝子的に単一血の交配より多種血の交配の方が優秀な人の類が生まれることは証明されている)

わが日本人の7つの人の類が「住み分け」から「融合」へと発展させて「単一の民族」の構成をどの様に図ったかを検証し、その「融合の過程」も表現したいと考えている。

次はこれ等のコルボックス系の7つの人の類の安住の原理の住み分け具合を記して、7世紀頃までの「住み分けの原理」から、次は
「融合の原理」へと移り変わる過程を論じることにしたい。
そうすることで、青木氏に付いて論じてきた内容へと結び付けることとしたいと考えている。
続く。


  [No.77] Re: 日本人の発祥-2
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/18(Sun) 17:18:36

Re: 日本人の発祥-2
青木研究員 さん 2005/09/23 (金) 21:16
13の人の類は夫々7つの入り口から入るが、この7つとはどこを指すのかと云う事であるが、それを北の方から記すると次の様になる。
先ず、北は2つのルートから入った。
一つは前記したシベリヤルートからカラフトを経て北海道の北の入り口付近まで移動してきた人の類である。(第1集団)

この人の類は余り奥までは浸透せず留まった。アラスカ大陸までは子孫を大きく遺すまでに浸透をしていないのである。つまり、此処とまりである。

彼等は体格もコルボックスと異なり、集団として固まり住み分けをした。原因は不明であるが、移動経路が余りにも厳しい環境であつた事が原因して余り大きい集団ではなかつたのであろう。故に子孫を遺すためにも第2集団との争いを避けたと見られる。
彼等は後には次のルート(第2集団)から移動してきた人の類と融合をするがこれも子孫の保全を考えた事からの行為であつたと見られるし、それ故に北海道以南には深くは移動しなかった。

この人の類の後の名前の例として、大楽氏(ダイラク)などの姓で呼ばれている。樺太から北海道北部に多い姓である。
(ダイラクはダイラックでロシア姓の日本呼び、筆者もこの姓の持つ生粋日本人の方と交友があるが体格や顔つき肌色など違いがある)

ちなみに、蘇我馬子がこの集団を征伐するために北上したとき(征夷大将軍)に、この集団の娘との間に出来たのが蘇我蝦夷(そがえみし)であり、その子供が蘇我入鹿(そがいるか)である。
(蝦夷は征夷から採った名 入鹿と共に体格ががっしりとして大男であつたと記されている)

更には、後にもある。源義家が征夷大将軍として北上して大敗を期した相手の名はアテルイである。このアテルイは非常に強く何度攻めても勝てなかった相手である。義家は遂には、和睦を理由に天皇に会うとの理由を立ててだまし討ちをして討ち取った経緯もある。このアテルイも北ルートの第2の人の類との混血でもあるこの人の類の子孫である。この人の類が青森付近まで進出し、1060年頃まで繁栄を遂げたが、アタルイが討たれてからは衰退し末裔は散在した。

その後には人の類が入れ替わり、後漢の末帝の子孫の阿多倍の末裔の阿倍氏(あべ 後には阿部に変化)が勢力を持つところである。
阿多倍の3男の子供の賜姓内蔵氏が7世紀頃に次第に勢力基盤を築き上げて、後には分流の阿倍氏に移行して行く。

次には、コルボックスの北アジアルートの人の類が2つに別れて、一つは更に北上してアラスカに移動して行った集団がある。
(第2集団-C)
(この集団が平成の大問題の解決に一役買うのである)

二つ目はここで分かれて、陸続きの北海道から日本海沿岸(この時期はまだ地殻変動が起こっていないときで湖である)伝いに北陸方面まで進出して生活圏を築いた人の類である。(第2集団-A)

この人の類は分かれて太平洋の東北6県の沿岸伝いに移動し生活圏を築いた人の類である。(第2集団-B)

この二つの人の類は生きる為に食の確保の容易な水辺を求めて沿岸伝いの移動と生活圏を築いたが。7世紀前後頃までは山伝いの生活圏は無かった。

この地域の山伝いの生活圏を築いたのが、他のレポートで記した後漢の末帝の子孫の阿多倍一族200万人の帰化集団の渡来系族で、高い生活技能の持った集団で成し遂げられたのである。紀元後700年間以上は未開の原始の山間部であつたのである。
ここでも、上記と同様に7世紀前後以降は阿多倍の末裔が活躍するのである。

この様に北陸と東北の紀元前から紀元後の人の類の変化は戦いの原理で一つの人の類が勝ち残る方式ではなく、他の人の類との融合で日本人が次第に構成されて行くのであるが、第三集団以降の所でもこの阿多倍の子孫の融合の結果が日本人の融合民族の構成に大きく関わって来るので特記する。

これが日本人を構成する北ルートを採った2つの人の類である。

この人の類は温暖な環境から子孫を大きく繁栄させても生きられる環境を保持し、戦いもなかったとされている。この後に地殻変動も起こり、湖に海水が入り黒潮暖流の分流が流れ込み、気候変動も起こり始めた。北部からの寒気の流れ込みも起こり生活環境も変化してこの子孫の西南への繁栄の移動は低下したのである。
そして、第3の集団、第4の集団、第5の集団の進化した人の類の異なる集団の進出と移動の影響を受ける様になるのである。




  [No.78] Re: 日本人の発祥-3
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/18(Sun) 17:19:57

Re: 日本人の発祥-3
青木研究員 さん 2005/09/26 (月) 20:55
単一民族の日本人を構成する北ルートは人の類の異なる2類とその2ルートによる移動であった。
第1集団は北海道の北部地域に定住し、第2集団のAとBが更に浸透して山間部を避けて日本海沿岸と太平洋沿岸に移動して定住したのであつた。山間部が本格的に定住開発したのは紀元後7世紀頃である。

第2集団と同じコルボックスの人の類は次の3つのルートから移動し上陸してきた。
中央アジアルートから朝鮮半島を経て直接陸伝いで入った人の類。
(第3集団)
この第3集団は現在の下関から長門市にかけて移動し上陸してきた集団である。
この集団は中国地方を経て日本海沿岸(湖)を移動し、現代の鳥取付近まで移動定住した。

中央アジアルートから中国を経て進化を遂げながら船で移動し上陸した人の類。
(第4集団)
この第4集団は現在の北九州市から福岡市の沿岸付近に上陸した集団である。
この集団は九州北部から中部地方の奥地まで次第に浸透した。

南アジアに到達した人の類は現代のベトナムからタイ付近から船で黒潮に乗り九州北部の現代の長崎付近の沿岸部に上陸した人の類。
(第5集団)
この第5集団は九州北部から西側の沿岸付近から南に移動浸透した。

この第5集団の一部は黒潮に乗って南九州の鹿児島湾岸付近に上陸した。
(第6集団)
この第6集団は北部に向かって東側の宮崎付近沿岸部まで浸透した。

ヨーロッパの南部の沿岸部を通じて移り渡り進化を通じて、太平洋に移動して次第に南陽群島からハワイ諸島から船で沖縄を通じて南九州の鹿児島の沿岸部に上陸した太平洋民族の人の類。
(第7集団)
この第7集団は西側部の沿岸部に北上定住し熊本南部まで到達して定住した。

上記した第2集団から第6集団はコルボックス系である。
これ等の5つの人の類の集団は中継点を経て進化しながら、よりよい生活環境を求めて移動を繰り返しながら日本に移動し上陸してきた人の類である。

第2集団のように一部はシベリヤからアラスカに入り、又、その一部は北アメリカ大陸に移動して定住した。更に、この集団は南アメリカの北部まで到達し、その住まいは山岳民族として発達し、遂にはインカ帝国を作り上げたのである。

この第2の集団には大変な話があるのでここで述べる。
日本の原住民騒動は、今から10年前程度に起こった。それは日本の学者や一部の政治団体の支援を得て大騒ぎとなり「原住民保護の大論争」が起こった。
”「日本の原住民はアイヌである。だから保護せよ」”という論調である。
しかし、この論調には政府と一部の歴史考古学の学者は反対した。
上記した様に”「日本の民族は7つの人の類からなりこの人の類の融合人種である」”という説である。
当時、遺伝子学が進歩しつつある時期でもあつた。
この為、政府はこの問題を解決するためにこの遺伝子学をもって証明しようとしたのである。
日本人の遺伝子を5年間程度にわたり大量に調査した。

その頃「7つの人の類説」を取っていた司馬遼太郎氏などがいた。
古代も古代の人の原始の時代の事に付いての大変な予言である。
それなりの根拠と研究がなされていたのである。私もこの論文を読んだことがあった。
この説から関係する外国の遺伝子も大調査したのである。

この結果、日本人には7つの種類の遺伝子を持つ人の類が存在する事が証明され、大まかにはその地方性も示されていた。
且つ、司馬遼太郎氏の「7つの人の類説」が完全な形で証明されたのである。

(7つの割合も証明され、この割合も大方に合っていた。 後述)
(注記 人の類の元になる情報遺伝子は女性の卵子に引き継がれて行くのである。そして、個々の人の情報遺伝子は男子の精子の尾の付け根の所にその元となるデータが書き込まれていて卵子と精子の遺伝子を詳しく調べると確定するのである。人の類が同じとするならば血液検査でも可能である。)

しかし、これでは原住民のまだ問題は解決していない。上記の第2集団のシベリヤアラスカ周りのインカ帝国の説がクローズアップしてきた。
そこで、このインカ帝国の皇帝の一族の者が存在する事を突き止めて、その者の遺伝子の調査を詳しく調べたところ決定的な結論が出たのである。司馬遼太郎氏の説の通りの答えがでたのである。

その答えとは、彼の幻のインカ帝国の一族の者の遺伝子とアイヌ
(第2集団)の北海道に定住した一部の者の遺伝子とは全く同じであったのである。
そして、全てのアイヌの人が同じ遺伝子を持っていた事ではなかったのである。
アイヌと云われる人の中でも異なる遺伝子をもつ人も居たと云う事を物語っているのである。

つまり、この意味は何を物語るのかという事である。
これには二つの事実が生まれる。
第1はシベリヤルートを採った一族と日本に第2集団として入った一族とは”「兄弟だった」”という事である。
そして、第2はアイヌの中でも異なる遺伝子を持つ融合の人の類がいたことを意味するのである。

先ず、第1の結論は、兄弟が二手に分かれてよりよい生活環境を求めて、北海道の手前のところで分かれたと言う事実である。そして、この遺伝子はアイヌの一部の人に引き継がれていたと言うことである。
これは明らかに二手に分かれた第2集団の人の類である。

では、もう一つの遺伝子が合わなかった「融合のアイヌ」はどういうことになるのかという疑問が湧く。

総合結論は、元から最初に居た原住民では無く7つの人の類の一つである事が証明されたのである。

では、”「この融合のアイヌはどこから来て、どの様な歴史を持ち、融合のもつ人の類なのか」”と言う問題である。
この問題も解決したのである。
この問題も私が知る範囲では二人の人が推論をたてており、事前に論文を発表しているのである。
司馬遼太郎氏と松本清長氏である。

次回はこの問題から記述し、第3から第7まで集団が遺した歴史と融合に付いて進める。続く。


  [No.79] Re: 日本人の発祥-4
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/18(Sun) 17:21:30

Re: 日本人の発祥-4
青木研究員 さん 2005/09/28 (水) 23:00
前記のこの7つのルートからはいつた人の類は良好な環境を得て子孫を増やし何時しか人の大いなる進化を遂げて、その生活文化は沿岸部での漁労文化と初歩的な農耕文化を築き上げて縄文時代へと進む。この時期が紀元前5から4世紀にまでで更に時代と共に進化と子孫の繁栄は進み、大まかには日本の沿岸部付近を中心として浸透は進む。
ここまでが、第1段階の人の類の移動である。

念の為に記述するが、この人の類は日本に於いては4段階の人の類の変化を起す。
此処までは、原人から縄文までの人の類の変化である。第1段階である。紀元前5-4世紀頃までである。

これからは古き中国の戦国時代の影響を受けたアジア民族の大移動である。これが紀元前2世紀頃までの日本にとつての第2段階の移動である。
この移動によって日本に入った7つの人の類は大きな影響を受けて列島の両端から入った人の類は圧迫を受けて中央部へと移動を余儀なくされて行くのである。

しかし、第2段階の移動に付いては、この付近の時代ではアジア大陸での民族の大変化が起こり、特に、中国付近を中心に起こり周辺の国々に影響を与えて、圧迫された事が原因で第2の人の類の移動が再び大きく起こるのである。

アジア大陸では次の時代の変化が起こっていた。
殷(紀元前15-10)、周(紀元前11-3)、春秋時代(紀元前8-4)、戦国時代(紀元前4-2)と時代は進み、人の進化とそれに伴う生活環境は飛躍的に進歩したのである。この事により、人の類はより良い環境を求めて拡大し、争いがおこり戦国時代へと突入して行く。

この影響を受けて周辺の人の類の集団、特に朝鮮半島から、南アジアの人の類と東アジアの人の類は追い出されて陸伝いで、又黒潮に乗って船でアジア各地から九州北部に上陸してきたのである
これが第2段階の人の類の移動である。
(この段階から人の類を進化と文化の進展により民族、又は人類と記する)

第2段階の移動、即ち、これが、弥生文化の出現である。
この第2段階の移動は元を質せば他の地で進化したコルボックス族の移動である。
同じ人の類である日本列島の7つの集団はより良い環境を得て人の進化と縄文文化の進展とを遂げていた。
此処により進んだ第2段階の文化を持った人類が移動進入して来たのである。
縄文人類と異なり、人類も顔形や背の高さや手の長さ等の体型が進化していたのである。
この人類が第3集団から第5集団に影響を与えたのである。

第3集団から第5集団が九州北部に陸伝いと沿岸部に定住し、時代の経過とどんどんと上陸する第2段階の移動に圧迫されて、大きな戦いもなく融合を重ねながら、共に次第に九州南部に向かって移動を遂げた。

第3集団の東に移動方向をとった一団はより東へと進み最先端は中部地方まで進み融合を重ねて行った。

第3集団と第4集団との間では住み分けの博多付近の境界部での争いがあつたが、この付近では融合が進んでいたのである。
そして、主にはこの第3集団は融合を重ねて主力部は関西部まで次第に移動した。
この地域には第2集団の最先端が日本海と太平洋の沿岸部に沿って進出して到達して来ていた。従って、中部地方付近ではラップ現象が起こり戦わず文化と人の大融合の領域を形勢していたのである。

第4集団も融合を重ねて九州南部に向かって中部付近まで移動し、第6集団との争いを避ける為に住み分けを選びこの付近で留まった。
特に、第6集団は第7集団との融合を既に起していたのであるが、この結果、後にもその集団の性格を示す出来事が起こるのであるが、この集団の影響もあり、戦いは避けたのである。
その境界部では文化と人の融合が進んでいた。

第5集団は西部の沿岸部に祖って南部に向かって移動したが、この集団は特に深くは移動をせず現在の熊本県の南部までにとどまったのである。
この集団は第3集団と第4集団の文化とは全く特異な文化と信仰を持つように成っていた。この特異な文化が第6集団との境界部では融合を進まなかったのである。
また、第2段階の人類の移動とも文化は勿論として人の融合をも拒否し遂げなかったのである。

その原因の一つは、第5集団のその特異な文化と、その特異さから来る集団の方針が影響していたのである。
その原因の二つは、第6、7集団の性格とが影響していたとされている。

更にこの第5集団と第4集団との境界部でも同じく融合は起こらなかった。
そして、九州南部の第6、7集団では第2段階の人類の移動との融合は南部よりの中部付近での部分的な融合で終わったのである。

第3集団は中国地方に数々の小国を作り、そして、その国の集団が出来上がるに至るのである。
(紀元後2-3世紀頃には出雲国となる)

第4集団は中央部に進出し周囲の小国が一つの集団国を作るが国主になる者が居なくて、結局は、神に奉仕しお告げを示す役目の巫女の女を主(多説あり)とする集団国が出来る。
(紀元後2-3世紀頃に邪馬台国となる)

第5集団はその特異な文化と信仰とで周囲の国との接触を絶ち融合せず、第5集団の範囲で子孫を増やし国を建国したのである。
この集団は熊を神の使いとして崇め、この文化を頑なに護り、邪馬台国との融和融合もせず、その国主は邪馬台国の卑弥呼とは断絶していたのである。

北部に於いては、この小国分立の統合体の邪馬台国が北部を統治し漢の国との国交も持っていたが、融和融合を国是としていたので軍事的な統治ではなかったのである。

隣には第5集団の狗奴国も存在し統治に服さなかったし、争いも試みたが依然として閉鎖国をも服させる事はできなかったのであつた。この巫女の国主の状態は長くは続かず、衰退を始めたのである
(紀元後2-3世紀頃には狗奴国となる)

この熊を心棒する狗奴国が次の記する戦いで逃亡し、その過程での融合は一切せず子孫を減らしながらも中国地方を経て関東、東北へと移動し、遂には、北海道へと追いやられて行くのである。
(参考、逃避行中のヤマトタケルの命と稲葉の白ウサギの伝説である)
そこに、第6と7の融合集団(第6、7集団は集団指導体制を確立し国を統治した。国主を「大隈の首魁」と称した)はこの時期を逃さず北上し、第4集団の邪馬台国と第5集団の狗奴国を瞬く間に滅ぼしたのである。
しかし、ここで、異変が起きた。
この大隈の首魁が率いる一団は狗奴国や邪馬台国を統治せずに引き上げるという行動を採ったのである。歴史学上この原因は解明されていない。
私は邪馬台国が漢の国との国交があり、駐在員も居たとの史実からこの事から漢が攻め入ってくるとの見方を採ったのではないか。
その為、民族保全を是としてた集団指導体制下では戦う事を避けたのではないかと推測する。
周囲には強国は無いし、朝鮮半島の沿岸部に住んでいた邪馬台国の人種の倭人も(漢の国に朝鮮半島は制圧されていたので)弱体化していた。この朝鮮半島の漢の国の攻め込みを恐れたと見る。

戦いの後は一時卑弥呼の弟が邪馬台国を護ったが直ぐに滅亡し、此れに従って上陸する第2段階の移動民が第4集団の邪馬台国の民との融合を図り、彼等に依って持ち込まれたより高い文化の花が咲いたのである。

特異文化と他の文化との接触を頑なに守った狗奴国の生き残った一族は北海道で自分達を向かえ入れてくれた第2集団の人との小さい範囲での融和を図り、局部の集団を構成し熊を代表する文化を守り、いまだ現在に於いても日本民族との融和を避けて独自の文化護り続けている。これが俗に云う別名「熊襲」である。

この姿を見てよくも調べず、原住民説を唱えた一団があつたのである。(しかし、遺伝子手法で原住民説は完全に否定された)

つまり、第5集団の狗奴族と第2集団の北海道に初期に定住した人の類との小融合の一団であったことが証明されたのである。

インカ帝国との遺伝子の完全合致はこの狗奴国との融合を図り、血縁化して文化を取り入れて、周囲との断絶を図った結果その血統の純潔さが保たれて第2集団の一部の者との遺伝子の合致が起こったのである。

ここで、小融合の集団の第2集団の一部の者がインカ族との同じ遺伝子を持つかという疑問に付いて次回に述べ、第3段階の民族移動へと移る。続く。

遺した歴史と融合に付いて進める。続く。


  [No.80] Re: 日本人の発祥-5
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/18(Sun) 17:22:59

Re: 日本人の発祥-5
青木研究員 さん 2005/09/29 (木) 21:32
アイヌつまり、熊襲の原住民騒動はこの遺伝子調査で解決しこの騒動は消え去った。若干政治性があつた様な感じがしたが、驚いたことは二人の歴史家がこのことを言い当てたことである。
その調査能力のすごさがすばらしい。

現代の遺伝子調査能力はすばらしく進んでいる。
少し前(10年)の時代では子供は両親の遺伝子の50%程度を分けて継承すると言われていた。
しかし、現在ではそれが根底から代わり、より詳しい内容が判明した。
それは、同じ血液型を持つ親の遺伝子の85%を最低は引き継ぐとされ、残りの15%は血液型の違う片方の親とその親の遺伝子を分け合うとのことである。
多い人では90%以上も引き継いでいる人も居るとのことである。
この数値は我々の持つ子供に対して持つ概念と理念が異なるのではないか。
これ程の高い数値の遺伝子が同じであれば、それはもう自分ではないかと考える。クローンは100だが、85%-90%も大して代わらない。
”自分の成長を自分が観ている”という事である。
これでは人生観や死生観も考え直す事が必要である。

余談であるが、私は元来次ぎのように考えていた。
人生観に付いては、
この世の万物と同じく、人も子孫を遺す事がこの世に出ることに選ばれた者の究極の目的である。
人はその知恵の発達により人の周りに付加価値がついた。
その時代の変化と共に高度化して変化する付加価値の結果、この世の万物とは違うのだと勘違いをしているのである。
もし、この付加価値を取り除いた場合、この人の類の縄文時代かその前の人の類の姿は他の動物とは大しては変わらないのである。
この時の人の類の目的は他の動物の目的とほぼ同じである。
人はその付加価値のために時代の進歩と連動して高まり、より究極の目的より遠ざかる傾向が起こり、それに伴って人生に起こる喜怒哀楽が変化し、あたかもその付加価値の高さのために、喜怒哀楽が人生の目的であるかの錯覚を起している。
子孫を遺す事が究極の目的であれば、人はその目的達成のために自己を磨き、苦労をして子孫を遺すだけの力を付けて目的達成する。
だから、子供が生まれたとき、特に、孫が生まれた時の喜びは無条件にうれしいのは、この人の目的の完全な達成感に裏打ちされているのでは無いか。
それは、90%の遺伝子を持つ次世代の自分を見ている事に過ぎないのである。その喜びであると考える。
言い換えれば、子供ではなくもう一人の自分を育て、もう二人目の自分を可愛がるという現象である。

子孫を遺すという目的を証明することがあるのである。其れに付いて述べる。
脳医学が最近富に発達を遂げて、この結果、次のことが解明されてきた。
子孫を遺す二つの人の類はその脳に持つ子孫を遺すという所でその内容が根本的なところでに異なるのである。
それは男性脳と女性脳とあり、その脳の機能は異なると言われている。人の脳は次のパターンで思考する。
それは企画し、判定し、実行する(学習する)脳の行動パターンである。脳は必ず人間の自覚思考の範囲外で無意識の内にこのように働く。

(最近このパターンの欠如の病気の人が多く、急激な時代の変化に伴い付加価値が多くなりすぎて喜怒哀楽の範疇を越えたストレスが溜り脳の基本的な動作の障害が起こる病気である)

その脳の深層心理思考が根本的に異なることが解明されているのである。
行動パターンでは次の様になる。
(深層心理思考とは人間が意識してコントロールできない基本の動作心理思考のこと)
男性の深層心理の思考原理は理想、合理、現実の思考パターンを示す。
女性の深層心理の思考原理は感情、勘定、妥協の思考パターンを示す。
これは良し悪しの問題ではなく、子孫を産み、育て、護るという本能から来るもである。
女性は子孫を産み、育てるには上記の思考パターンではなくては成り立たないし、男性の思考パターンでは子供は育てることは出来ない。
逆に男性は家族を養い、教育し、外敵から護るには、上記の思考パターンでなくては成り立たない。女性の思考原理では原始の世界では他の外敵や動物から殺されてしまう。
しかし、どちらにしても、その弊害がある。
それが「性」(さが)である。男性にはその原理から争いが起こる。女性には感情論が先行する。など。

この男女の思考原理から外れることの無い様に、脳の後ろの左上のところに親指くらいの大きさの「脳陵体」と言う所があり、此処で男は男らしく、女は女らしく保つ働きをする部分がある。
ここで上記の深層心理の思考原理が維持されているのである。これは絶対に変わることは無く、絶対に上記の思考原理から夫々は変わることは無いのである。
思考のみならず身体の機能もここで保持されているのである。

例えば、余談だが、人はその身長に見合った分の電位を持っている。
この電位差によって脳幹部との間に発生する電気(電流)が生まれる。人は概ね、身長の高さ分の電圧を持つ。依って地球との間との電圧の差即ち電位が生まれる。人は脳にしろ心臓にしろ全てこの電気信号に依って動作している。(例えば、心臓はナトリウムイオンにこの電気反応が働き、この時に反応を起すナトリウムの衝撃反応で心臓の筋肉が収縮するのである。よって塩化ナトリウムの塩が無ければ死ぬ。他には人間に電位が無ければ地球の回転に依って宇宙へと投げ出されるなど)

話を元に戻すと。
女性はその脳の働きを維持するために脳の伝達の信号方式がその思考を司る部分に於いて、回路と回路との間にはキャリパーというアルカリ性の液体が飛んで、その中を電気信号が走るのであるが、女性は本能であるその感情の保持を長く持たすために、キャリパーが長く飛び続けるのである。
(飛んでいる間だけはその感情が維持される)
(男子は瞬時にとび、瞬時に判断をしなければ他の外敵から殺されてしまう)
これなくして、母性本能等の女性の特性は生まれないのである。
他には、男性には起こり女性には余り起こらない脳の働き部分が二つある。
線状体という左の脳の耳の上の所にある部分である。この部分は未来とかを描くときに補助として働く部分である。つまり、脳の働きを立体的(3次元的に)に動作する働き機関部である。

他には中紀体という部分がある。この部分は理想と合理とを描くときに働く部分である。他の動物に無い脳である。この二つは時代の変化と共には発達した部分である。
それだけに男性の生きる社会が3次元的に多様化していることを意味する。

この様に、男女には脳の働きが部分的にその様に異なるのである。
上記のように一例であるが、これは明らかに、より厳しい環境の中でも子孫を遺すべく働きをする様に人体は構成され進化しているのである。
特に男性の頭型が大きく変化していると云われている。
つまり、脳の中が上記の様に古代人に無かった一部の脳が増え大きく成っている事からの影響であるとされている。
しかし、脳陵体がやや小さくなりつつあるとの事である。
時代の変化で男性的な働きの必要性がストレスで低下した事からなのか。

このように人の類は縄文以前からこの「変化」に対応してこの様に進化してきたのであろう。今も男性に対して少なくとも進化し続けている云うことである。
女性はその身体の持つ微妙な働きを維持するために必要とするそのエネルギーが大である事と、人遺伝子を引き継ぐ機能の保持のためにその進化をスローにしていると見られている。

人の類が融合するという事はこの遺伝子のこの思考原理の発達を遂げるのである。故に活発に脳が働き進化を遂げるのである。

熊襲、つまり、アイヌのように融合を拒否することは遺伝子又は血液的にこの進化が少なく、上記した繰り返しの融合による遺伝子の%の低下が起こらないことになり、且つ、古い遺伝子の%が高く残り、インカとのAGCT遺伝子の合致が起こるのである。両者共にその状況であつたと云えるのである。
人の類の遺伝子と脳の進化からの範囲から見た検証でもある。

次は第3段階への変化を記したい。


  [No.81] Re: 日本人の発祥-6
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/18(Sun) 17:24:34

Re: 日本人の発祥-6
青木研究員 さん 2005/10/04 (火) 22:20
第2段階の人の類の変化は7つの人の類の進化に大きな影響を与えたステップであつたと云える。
特に、コルボックスのアジア地方の沿岸部での大きく進化を遂げた人の類が、日本列島の進化の契機となつた。そして、列等の全ての沿岸部を中心として生活環境が確立して行き、それぞれの7つの集団が国を作り民族の形態が出来上がった世紀でもあつた。しかし、その実態はまだ確実なものではなく、小国の連合体でもあつた。故に脆い体質でもあつた。其処に融合を旨としていた7つの集団がその国境の利害の争いから戦いの幕が開かれて行った。(倭国の大乱)
そして3世紀には国化した邪馬台国も狗奴国と対峙した後に、南国の2つの融合の民族から攻められて崩壊した。この結果、九州を中心として、民族の拡散が起こり、融合が更に進む結果となつた。
其れまでは、国の境界部の付近の融合であったが本格的融合と発展したのである。
そして、4世紀頃には中国地方に強力な国の体制を整えつつある高い弥生文化を持つ第3集団の民族に依って成し遂げられていった。(出雲国)
また、関西地方にも第2と第3集団の融合体が小国を作り、この小国の連合体が国を治めていたのである。(大和国)
邪馬台国には多説があり確定できないが、日本列島を代表するものではなく、この一族の者らが朝鮮半島と北九州の沿岸部に住み着いて貿易などを営み、この集団(倭人)が、中国との貿易の過程で第3と第4集団の連合体の故郷の情報を伝えることにより、魏や漢や後漢国等が代表国の様に扱ったものであろうと考える。(倭人は朝鮮半島の最南端に彼等の集合体の貿易の拠点を作り、これが任那となる)
現に、邪馬台国の滅亡により、2つの国(出雲と大和の国)の存在が大きくなつていた。
そこに、第3段階の民族の移動が起こるのである。
そして、その移動の行き先は関西の摂津や堺の港であつたのである。

第3集団を従えた出雲国に対して、第2と第3の集団の融合体の大和国は5つの小国の連合体で出来ていた。そしてこの二つの国は覇権を狙って戦いを続け互いに対峙する状況と成っていたのである。

其処に、漢の国が滅びてこの民族は西へと追いやられて、又一部は朝鮮半島へと逃れて朝鮮半島の北部に定着したが、この地域にすんでいた中国系朝鮮民族の民(主は高句麗族)は追いやられて朝鮮半島の南まで到達し、更に船の集団で瀬戸内海を経て堺付近の港へと進出してきたのである。

西に移動した漢民族はその土地(ネパールやベトナム)の族を追いやった。
追いやられた2つの民族は海岸を経て海に逃亡し、一部は黒潮に乗って九州長崎付近に上陸したのである。そこは狗奴国と邪馬台国の滅亡した真空地帯であつたので、まったく第4集団の民とも争いも無く定住した。

これが第3段階の移動であり、弥生人の子孫の朝鮮の民族の関西地方への入国と、一部上記の2つの民族の北九州長崎への上陸であつた。

この朝鮮の一団は上陸して、先ずこの付近で連合していた5つの族(紀、巨勢、葛城、平群、物部)と戦いが始まり、当初はこの5つの族の抵抗を受けて苦戦となったが、各個攻撃へと戦術転換で葛城、平群、巨勢、紀族の制覇を果たしたが、政治の中心と成っていた奈良飛鳥を落とす事は出来なかった。
そこで、最後に和歌山の紀族と巨勢族(こせ)を落として、紀伊半島を進み、南から奈良の飛鳥盆地に進入したのである。

当時は、飛鳥の盆地は現代のように低地にはなく、かなり高い山岳部までのところまで湖であり、その湖の麓に国の中心を置き、上記の連合体による交代制の王制をとっていたのである。
(後に地殻変動にて湖は引き現代の盆地となつた)

この戦いは激戦となり、そこで滅亡を恐れたこの第3の移住民団を率いる応仁王はこの5つの連合体との和睦を図り、その5つの族との血縁関係を構築して初代の固定の王(初めは大王と呼称し、次に天皇と変名した 天皇の呼称は2-3代後につけたものであるとの説もある)となったのである。これが大和朝廷の始まりである。
連合体の国から初代は応仁大王となったのである。

この結果、朝鮮半島からは次から次ぎと上陸が起こり、100万の民がこの関西地方に上陸してきたと云われているのである。
そしてこの民との融合が行われて、第2、3の集団の族とこの朝鮮半島からの移動民との大融合が起こったのである。
安定した大和の国は列島制覇を果たすために、先ず、出雲の国との和睦を図ったとされている。しかし、他説があり、これはだまし討ちであつたと言う説が有力である。
これで、中国と関西地方の領域が制圧されたことになり、ここに大勢力の本格的な大和という国の誕生が起こるのである。

そして、邪馬台国の後の中空と成っていた九州地方北部の制圧に次の天皇の仁徳天皇が向かい解決することになる。本格的な大和朝廷の誕生である。
これが第3段階の移動である。

次は第4段階の移動へと移り、この時、皇族賜姓青木氏への誕生の時期となるのである。つまり、本研究室のレポートの時代へと突入するのである。続く


  [No.82] Re: 日本人の発祥-7
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/18(Sun) 17:26:04

Re: 日本人の発祥-7
青木研究員 さん 2005/10/10 (月) 19:24
第3段階が終わり、大和の関西より西はほぼ制圧して蘇我氏と聖徳太子の時代へと移り大和朝廷は次第に安定するが、依然として、中部から東国はまだ大和の朝廷に対して服しない族も多くあり、大和朝廷は苦しむ。
この反大和の集団は此処まで進出してきた第1と第2の集団の融和族による連合体である。
大和朝廷は征夷としてこの集団の反乱族を鎮圧するために出陣する。蘇我馬子は自ら出向き鎮圧に当るが成功しなかった。この時、一部の制圧した族の娘との間に出来た息子をつれて大和に戻る。
他に居た息子をさておき非常に肌は白く大男で蛮勇のこの息子が馬子の後継者になった。これが蝦夷(えみし)である。

この後、第4段階の優秀で高度な武力を持っていた民族の移動の子孫(下記)が、この第1、2の融合体の一団と戦い、この征夷は第一段階の制圧としては終了するのである。

ここまでは中国の漢の国が滅びて第3段階の民族の移動が起こったが、この時、高武帝が漢の国を盛り返し、中国より東側の領域と朝鮮半島を制圧して、後漢の国を樹立する。そして、この後漢も21代目の献帝の時滅びる。

この後漢の民族は朝鮮半島からの上陸を実行し、又、遼東半島から船に乗って17県民の200万の人民の全てが日本に上陸を開始したのである。大変な帰化団である。大和朝廷は国が滅ぼされると驚いたはずである。

この集団は献帝の孫の阿智使王とその子の阿多倍王(高尊王)が率いていた。
この集団は、軍事、政治、経済、あらゆる面の生産技能に付いて非常に高い能力を持ち進化していたのである。

この集団は先ず、北九州北部に拠点を置きひきりなしに移動してくる民を指揮した。この阿智使王と阿多倍は戦いをせず帰化を願い大和朝廷もこの優れた後漢の人民を引き入れた。そして、瞬く間に九州北部から最南端の大隈まで進出し大まかには不戦にて制圧した。

日本書紀には戦いらしき表現は無いどころか、”大隈の首魁阿多倍”と表現している。この「大隈の首魁阿多倍」は書紀には8回も出てくる。
この阿多倍の一団300名と記して踊りが大変上手く天皇に披露して喜ばれたと記している。
そして、度々祝賀の時に呼び出しては褒美を与えている。
度々の呼び出しは九州南部からは難しいことから、既に中国地方も傘下にいれて、この伊賀地方に拠点を置き関西に出てきていたと見られる。

その証拠に伊勢北東部にもこの集団の村があつたと見られ伊勢の永嶋の地名がある。この付近まで勢力を伸ばしていたのである。ここより以東は賜姓青木氏と藤原氏の領域であった。

「永嶋氏姓」は鎌倉期には存続をかけて藤原氏系結城氏と連携し共に結城氏から、大蔵氏から変名して名乗り直した氏である。
故に既成の事実を容認し、「大隈の首魁阿多倍」を呼び出して伊勢北部伊賀地方に半国伊賀の国を造り、その貢献度を評価して特権と共に褒美として与えている。
ここは京平氏の出身地でもあり、阿多倍又の中国王名は高尊王(高望王ともある)である。
この名は、桓武天皇の母の高野新笠(阿多倍の子孫)の祖祖父とみられるこの阿多倍の別名の「高望王」に桓武天皇が賜姓をしている名である。
(年数的に30年くらいのずれがあるが)阿多倍の年齢も非常に高齢でもあったとされ且つ、故意的にこの一族の引き上げを目睹としてこの賜姓のみだけは朝廷は桓武天皇の意を汲んで詳細不明の賜姓としたのであろう。

桓武天皇は律令国家の完成を成し遂げた天皇であり、律令の法体制で国体を維持しようとした為に大勢力の5家の青木氏の台頭は国体の法の維持は困難と見たのであろう。

このためにもこの主目的は賜姓青木氏の牽制にあつたのである。
桓武天皇から青木氏の各氏に対して原因のない叱責を受けて、守護職の短縮や交代、領国、土地の割愛、役職の罷免など受け衰退期にあつた。
次の天皇の嵯峨天皇はこの皇族一族の衰退を嫌い、元に戻す政策に出て、青木氏より変名して源氏と賜姓したのである。

青木氏はこの様に第4段階の渡来族の一団とは敵対関係にもあつた。
天皇を護衛する親衛隊の賜姓青木氏の武装集団と、桓武天皇の保護を受けた朝廷の軍事集団の阿多倍の長男の坂上氏との対抗がうまれており、賜姓青木氏にとって危機存亡の大変苦しい時期であつた。

又、母方の渡来人との遠慮と上記の皇族一族に対する遠慮もあり、既に存在する第7世以降の皇族外れの一族の(坂東に定住していた)平族(たいらぞく)とも掛け合わせて、この氏(ひらぞく)を採用して賜姓したとのである。
(史書によるとこの二つの氏をこの様に呼び分けていたとある)

九州南部薩摩の地方に”阿多”という地名がある。ここに初期の拠点を置いていた可能性がある。

この九州地域に居た第3、4集団と第6、7集団はこの移民の漢民族を積極的に引き入れ且つ融和を図った。
それは余りにも高度の生活能力を持つた民族に対して、その文明を取り入れて自らの生活能力を得ようとしてその配下に入ったのである。
この時、朝廷から派遣されていた官僚伴氏などはこの民族との融和を図り血縁的な結びつきを持ち、この民族を背景に勢力を伸ばし、土地の地名を採って肝付氏と名乗ったのである。(後に島津氏との勢力争い1450年頃に敗れる)

この民族には優れた軍事集団や高い生産技能の集団を引き連れていた。
その集団は「部」という集団で統制されていた。
この集団の子孫が各地に定着し、この民族は融和を積極的に図り、土地に根付いた勢力集団と成っていた。そして次から次えと入国する民を今度は中国地方へと移していった。
この中国地方も阿多倍の引き連れてきた技能集団の陶部の一団が大和へと進行するにつれて同様に融和を図り制圧して行った。
この地方を陶部の陶族が瀬戸内海と陸を長期に渡って統治した。(後に毛利氏に敗れる)
そして、阿多倍の一団は更に進み関西に至る。
朝廷は次から次えと入国する一団に対して、中部地方より以北の未開地の山間部に入植させた。

彼等には背の高い優秀な馬を飼育する馬部の特技と、それらを加工して食品にする技能や、渋のある山の産物を加工して保存して食品にする山部の特技や綿を繊維にして衣類を作る技能の織部など持っていた。この特技で加工し多くものを海辺に運び、海辺では磯部、海部、等の集団を配置し、高い技能で加工した海の産物を、この山の産物との交換を図りの生活が成り立つ様な新しい経済的な生活習慣システムを確立したのである。(詳しくは研究室レポート参照)
其れまでにはなかった経済システムである。
この後は部経済が確立し朝廷はこの部経済を管理管轄する官僚を国造(くにのみやつこ)として配置して管理した。
この当時の改新の一番大きな改革であった。

其れまで難しかった中部地方の美濃、信濃、甲斐国での山間部の開拓はこの様にして著しい速度で進んだ。
この移民のピークは、時代的に奈良時代の中大兄皇子(孝徳天皇期)の大化の改新の前後である。
大化の改新はこの第4段階の影響を大きく受けた。
大化の改新はこれ等の背景の中で行われたのである。

それまでは、蘇我氏はこの阿多倍の集団の軍事集団と技能集団と政治経済の官僚集団を管理管轄していたのである。この結果、軍事で他を威圧し、この集団から上がる利益を獲得し、朝廷をも官僚を操作する事で牛耳り、遂には第3集団の朝鮮系渡来族の応仁大王から始まった天皇家をも奪い採ろうとしていた。

皇族系の武内宿禰から出たといわれる蘇我氏という一族を通して、大化の改新の時代背景はこの第4段階の移動が後ろに大きく働いていたのである。
蘇我氏は崇淳天皇をこの阿多倍の武装集団の漢氏(東漢氏)に命じて殺害し、次には聖徳太子の一族をもこの集団によって根絶やしにし命じて抹殺させたのである。

中大兄皇子でなくても次はだれであるかは推測は大よそは付くものである。
私は中大兄皇子が23年間も天皇に付かなかった理由の主な事は、日本書紀では謙譲の美徳の委譲としているが、そんな生易しい時代の背景ではなかった。
この背景があり蘇我宗家は潰れたとは云えまだ依然として蘇我一族は生残っていた事と、この武装集団と阿多倍の一族の出方が明確に掴めかった事では無かったかと考える。

だから即位は確実に周囲の動向が明確に掴めて、又この反勢力を潰したことにより死の直前の3年前となつたのであろう。それだけに蘇我氏の血を引く兄の古人皇子を抹殺もしたほどに、非常に用心深く緻密に行動する人物であったと伝えられている。このことは日本書紀でも覗える。

孝徳天皇を前面におしだしての戦略であつた。
その証拠に都を移すことに付いて孝徳天皇を旧の宮に一人放置したことでもあきらかである。

しかし、朝廷はこの阿多倍には敏達天皇の曾孫の芽淳王の娘との婚姻を進め准大臣に任じ、政治経済の阿多倍の実務集団を官僚として使い、軍事集団は婚姻を結んだ阿多倍の長男(坂上氏)に任せ、朝廷の役務の3蔵のうちの2蔵までを任せ、阿多倍の3人の子供には賜姓を授けて、坂上氏、大蔵氏、内蔵氏とした。(3蔵とは斎蔵と大蔵と内蔵である)
歴史的には藤原氏の貢献といわれているがは比べ物にならない。藤原氏の政治的貢献の否定者はこの一族背景を判断してのことである。
確かに後には斎蔵の役務柄無いでの摂関家としては貢献したが、国を大きく変えるほどではない。
この阿多倍の一団の貢献は京平家の5代後の清盛までとすると鎌倉期直前までとなる。(1185年)
この鎌倉期では同じく藤原氏も同じく北家藤原氏の摂関家一族は衰退したのである。このことを考えれば確かに藤原氏貢献は小さい。

阿多倍集団は軍事と2蔵であるので朝廷の4職務の内、遂には3/4はこの阿多倍一族の手中に入れたのである。つまり、朝廷は懐柔策に出たと見る。

この長男の坂上氏が征夷大将軍となり、蘇我氏に出来なかったことを坂上田村麻呂として第1と2集団の蝦夷(えぞ)の征夷を果たし大和の国の覇権を遂に果たしたのである。

朝廷は、朝廷外では山間部でのこの阿多倍の一団の働きの結果で、財政的な根拠が高まり、国の安定は進みより強固になつたのである。

この状況を確実なものにする為もあり、信用の置ける第6位の皇子を賜姓して
臣籍し、青木氏による武装の親衛隊を造り、この開拓された山間部の3国に配置し護ったのである。(天皇5代に渡り続く)
この国は地形的にも都を護る防護線上にもあり、且つ、最早開拓にて主要な穀倉地ともなり、軍事経済の要ともなったのである。
伊勢国と近江国と合わせて、この朝廷の要とも言えるこの3国の土地を護る必要に迫られてのことで、これが賜姓青木氏と系列の青木氏(23氏程度に広がった)の中部地方以西に多く存在する理由と成ったのである。

日本書紀によると青木氏と阿多倍の技能集団を再三に呼び出し、この3国の者たちに調役の免と不輪、不入の権の申請を認めて保護している事が書かれている。

又、同時に、その国に大隈に居た首魁の阿多倍を呼び出して、この阿多倍の首魁には伊勢の国の北部を分割して伊賀国をつくり、ここに住まわせ立ち入り禁止区域にし不輪、不入の権を与えて半国守護扱いをしている。
(後に阿多倍の子孫の平の維衡に国司に任じている)

皮肉にも、この伊勢の国は伊勢王として第6位の施基皇子を配置し守護として護らせている国でもある。

この様な次ぎから次えと、朝廷内とこの集団にあらゆる懐柔策の手を打ち安定したところで即位して3年後に天武天皇に引き渡しているのである。
この朝廷の役務の3/4を獲得した阿多倍の一族は融和を図りながらも、更に勢力を増し、遂には平安初期には関西以西を殆ど制圧する32/66国の勢力となつたのである。
そしてこの勢いは1185年まで続くのであるが、此れ以後、国は富みて、依然として大量に進入する侵入者に対してこの阿多倍の一族が排除して許さなかったのである。

大和の国はこの辺が民族的に、人口的に、経済的に、外国との軍事的な背景も考慮して限界であったと見られる。その為に、そのことを成し遂げられるこの味方に引き入れた渡来系の一族に護らせるのが最適であると判断して九州全土を領国として与えたのであろう。

この第4段階の阿多倍の一団は、その後、九州全土の一切の政治、軍事、経済の3権限を任されて、「遠の朝廷」と呼ばれ、更に「錦の御旗」を受けたただ一つの一族であつた。あらゆる書物に出て来る「大蔵種材」と言う武勇日本一と謡われ、個人に「錦の御旗」を授かった歴史上のただ一人の人物を生み出し、九州を護っている。

この九州は大蔵氏が護り、鎌倉前まで太宰大監として大宰府に国府を置き護った。その後、永嶋氏と変名して依然として鎌倉以後も勢力を保つたのである。
この九州全土には融和して大蔵氏、永嶋氏一族の血筋を引きくまなく各地に殆どの人々といって良い程に存在する。

実は筆者の妻もこの一族の血を引く支流の末裔である。村全体が同姓である。
そして、皮肉にも筆者の祖先の伊勢の青木氏はこの過去平安期にはこの一族とは宿敵であつたのである。このことを思えば融和は判別が不可能なくらいに進み、日本の民族は7つの人の類の集団と後の3つの民族の移動によって融和による単一化民族となつたのである。今の筆者の家庭を見てもあきらかである。
未だ、21世紀になっても日本を除く中国朝鮮に及ばず殆どの国は種族の住み分けで未だ暮らしている始末である。

そして、この大和の国の7つの人の類の国は世界の第2の国力を持つに至っている。此れは7つの交配の優勢遺伝による民族の進化の証明でもある。
この進化の一躍を大きく担ったのは何をか云わんや誉れ高き我が2系列の青木氏である。

阿多倍一団とのこの過程の中では互いに敵対する大きな歴史の流れがあつたが融和で解決している事実を見逃してはならない。
そして、この青木氏一族は特に賜姓族の青木氏は直系5氏と直流5氏と支流と分流15氏の末裔が未だ一つ欠けること無く存在している事が確認出来ていることはすばらしきことである。
そして、藤原秀郷の青木氏は直系1氏と直流4氏と支流5氏と分流116氏の
末裔の存在が確認されている事も子孫繁栄のすばらしき証である。

この奈良の古から続くこの2系列の青木氏は日本民族の子孫繁栄のパラメーターである。
この様に日本民族の発祥は7つの人の類と4段階の移民とによって概して平和裏に融和が行われたのである。
この人の類の割合は上記のレポートでの内容から大よそ理解できるのではないかと考えて特記しない。
(司馬遼太郎氏らはこの割合を事前に言い当てているのである)
以上 終わり