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  [No.84] 信濃の諏訪の旅
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/20(Tue) 16:48:34

信濃の諏訪の旅
青木研究員 さん 2006/11/23 (木) 20:57
11月初旬に信濃の旅に出ました。
この信濃には2度ほど旅をしていますが今度の旅は歴史探訪の旅として定年後の楽しみの一つとして出かけたものです。

この信濃には青木氏に関わることが大変多いところですが、この歴史的なことを探訪してその雰囲気をはっきりと印象に残したかつたのです。

既にこの研究室の青木氏のレポートをお読みに成っている方はご存知と思いますが、この信濃の国(長野県)には4つの青木氏が住み分けています。

その4つの青木氏とは次ぎの通りですが長野県東西南北の全域にすみ分かれて村を形勢しています。(詳細は研究室のレポートを参照)

先ずは、皇族賜姓青木氏です。
長野県のほぼ中央の信濃の国府のあったところ付近に青木村を形成していました。
この青木氏は天智天皇より5代の男性天皇の第6位皇子が臣下して賜姓を受けて(信濃王として)その国の守護を担う国主として赴任し定住して子孫を遺した5家5流(伊勢、近江、信濃、美濃、甲斐)の青木氏の一つです。
(皇族賜姓青木氏のレポート参照)

第二に、足利系青木氏です。
この青木氏は信濃国の北側の国境付近に同じく住み分けていました

この皇族賜姓青木氏と土地の豪族の足利氏との血縁にて発祥した足利系青木氏です。5家5流の24氏の支流族に成ります。
(皇族賜姓青木氏のレポート参照)

第三には藤原秀郷流青木氏です。
この一団の青木氏主要9氏と支流116氏の一つの青木氏は南側の美濃尾張付近に住み分けられていました。(藤原秀郷流青木氏のレポート参照)

第四には、諏訪族青木氏です。(抱き角紋)
今回の旅の地の諏訪地方の青木氏です。
(青木氏と血縁族の抱き角紋のレポート参照と家紋掲示板の抱き角紋を参照)

テーマであるこの諏訪族青木氏の先祖は、まだこの国が未開の地であつた頃の大化の改新時期にこの地に開拓民として派遣された渡来人の一団です。

この経緯を簡単に述べると次の様になります。
後漢の光武帝より21代目の献帝の子の阿智使王とその孫の阿多倍王が後漢が滅びると共に、孝徳天皇期前後ごろから中国17県民全てを引き連れて九州に上陸し、瞬く間に無戦に近い状態で制圧し、大和朝廷に帰化してきた渡来人です。約200万人と言われています。敏達天皇の曾孫の子供の娘を娶り勢力を伸ばし朝廷の3つの実権のうち2つまで担うまでに成ります。そして、ついにはこの子孫の平清盛の太政大臣までに成ります。桓武天王の母はこの渡来人の首魁である阿多倍王の孫娘に当ります。(研究室のレポート参照)
伊勢青木氏の本領地の伊勢を分轄して伊勢北部地方の伊賀地方を与えここに住まわせて「不入不倫の権」を与えました。
伊賀忍者はこの末裔です。

この阿智使王と阿多倍王に引き連れられた全能集団の一部がこの信濃国の開拓に廻されました。外来馬の飼育と農産物の加工を主体とした技能集団でした。
日本書紀にはこの一族のことが数度とが出てきます。

この末裔が諏訪族です。
この諏訪族の先祖と国主として彼らを保護し開拓を進める為に赴任した信濃王の子孫の青木氏と血縁をした事により生まれた諏訪族青木氏です。
日本書紀には開拓の成果の勲功を受けるために天皇に呼び出されてこの信濃王の青木氏と共に朝廷に向かいます。そして拝謁して天皇に具申して「不入不倫の権」を授かりますが、この時のことが詳しく述べられています。

後に、隣の甲斐の国には陸奥から藤原氏の護衛役して守護に付き従って来た陸奥の武田氏がこの地で勢力を得て土地の豪族に伸し上がります。
しかし、この甲斐の国を制圧するには上記した奈良時代からの古代から住み着いている隣の信濃の大豪族の連合体の諏訪族の勢力を排除する必要があります。しかし、朝廷から授かった「不入不倫の権」で武力による攻め落としは出来ませんし、勢力的にもこの諏訪族の強力武装集団(赤兜騎馬軍団)には武田氏は勝ち目は有りません
そこで、歴史上の有名な「由布姫の政略結婚」事件が起こり、武田氏は信濃の諏訪族と血縁してとりあえずこの甲斐の国の地の大豪族に伸し上がったのです。
この時にこの諏訪族青木氏は武田氏系青木氏の中に組み込まれたのです。

勿論、この甲斐の武田氏と甲斐の皇族賜姓青木氏との間でも血縁関係があり、武田氏系青木氏が発祥します。

武田氏系青木氏には武田氏系青木氏と諏訪族青木氏の二つの青木氏が存在します。

この皇族賜姓青木氏は5家5流の一つの青木氏です。
この青木氏は光仁天皇の第6位皇子が臣下して青木氏の賜姓を授けられたもので、この光仁天皇は天智天皇の第6位皇子の施基皇子の子供です。
よって、伊勢王の施基皇子の子の皇族賜姓伊勢青木氏とは親族関係にあります。

武田氏に依って組み入れられたこの諏訪族青木氏は武田氏が滅ぶと同時に一部が東に逃げ延びて、神奈川横浜付近と埼玉栃木付近に二手に分かれて逃げ延びて子孫を遺しています。
当然、この地は藤原秀郷流青木氏の根拠地です。

この信濃の足利氏系青木氏(越後地方の北側に逃げ延びる)も藤原秀郷一族の血筋を受けていますので、諏訪族青木氏も後に何らかの関係を持っていることは考えられます。

この経緯は信濃の元から居た足利氏の本家と、分家を乗っ取った藤原秀郷の一族とが本家争いをして藤原秀郷系の分家が勝ち本家を引き継ぎます。
この時、負けた本家は信濃より越前を経て美作の国に移動し定住します。

このような諏訪族の経緯を持つ諏訪族青木氏に付いて、今回の旅の収穫は4つありました。

先ず、カーナビにも出て来る「青木町」と「阿智」と「伊勢町」の地名と「諏訪族青木氏の町長」の存在です。
これには意味を持ちます。

つまり、「青木町」はもとより上記の皇族賜姓青木氏の存在する町名です。
地名地形のデータベースのところで明記しています。

「阿智」の地名は上記した諏訪族の元祖(渡来人の首魁の阿智使王または阿智王)の町名が存在することであります。
(研究室の渡来人の所のレポート参照)

この信濃の地の皇族賜姓青木氏の元祖の施基皇子と同じ施基皇子一族の伊勢王の青木氏の伊勢の町名がこの信濃諏訪路に存在した事です。
つまり、同族の伊勢の青木氏と信濃の青木氏との間で信濃に伊勢村を形成するほどに親交していた事を物語るものです。

そして、次にはこの諏訪町の村長町長は代々この諏訪族青木氏が務めていて現代にいたる事です。

ここに武田氏の滅んだ後に定住し続けた諏訪族青木氏が末裔を残し1200年以上この諏訪の名主であったことを物語ります。

つまり、全体として研究室のレポートが証明されていることを意味します。

これ等が旅の収穫なのですが、残念な事にこの地の人たちがこれ等のことを全く知らなかったこと、観光案内の人さえもです。
江戸期以降の事の認識しかなかつたのです。まして案内板と土地の観光資料の説明さえもです。
歴史観光を職業を糧としいるホテルの支配人たちもです。
諏訪大社でも江戸中期以降の説明しか見つけることが出来ませんでした。

日本の中でも最も古い数々のすばらしい歴史を持ち多くのこの末裔の氏名(磯部氏や山部氏や馬部や鞍部や阿倍氏など部の付く氏名)をもつ存在する信濃であるのに。

そもそも、これらの歴史、即ち先祖を知る事とが現在の自分を知ることであるのに。
先祖を知り敬う事は未来の子孫を慈しむ事の原点であるのに。

これが多くの規範を失われている現在の日本の現実的な原因の一つであろう事を思うと実に残念であると思った信濃の旅でありました。

念のために、先祖は過去の自分であり、子は現代の自分であり、孫は未来の自分であると考えます。

ちなみに、人の遺伝子の構造が完全に解明された現代の医学では子や孫の血液型が同じであれば85−95%は遺伝子が同じである事が証明されています。
(ほん前までは50%となっていたが)
此れだけ同じ遺伝子では、まさに自分のクローンである事を意味するのでは有りませんか。

だから、孫が生まれるとなんともいえない自然の力みない喜びがこみ上げてくるのはこの未来に自分を遺す事が出来た心の奥から出て来る本来動物の潜在的喜びであるのではありませんか。

それには過去の自分が子孫を残そうとする死にもの狂いの戦いを知ることであると思います。そして、そこに自分が現在あるはこの過去の自分の結果である事を知り先祖を敬うこころが生まれるのだと思います。
そして、その証の行為として先祖祭りを人は行うのだと思います。

人も他の植物や動物と同じ自然物の一物で有りませんか。だとすれば子孫を遺す事が人生の最大の目的で在る筈です。

その間にある事の喜怒哀楽は本来の人の目的では無い筈です。
人だけが幸い「高い知恵」を神から授かり文化を創り得た結果、付加価値がおこりこの方に目が向いてしまったことの間違いにより、喜怒哀楽が本来の目的として扱ってしまったのであろうと思います。

この青木氏のレポートが全国の青木氏の方々の参考になればと今後もレポート作成に励みたいと思います。


  [No.85] Re: 信濃の諏訪の旅
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/20(Tue) 16:50:28

Re: 信濃の諏訪の旅
かんりにん [本物] 2006/11/25 (土) 01:51
副管理人さん
お帰りなさい。返事が遅くなりました。

そして、旅行のレポートありがとうございました。

実地検分の旅だったのですね、研究室のレポートが正しかった事が証明され、
さぞかし有意義な旅だった事でしょう。

地元の人たちがほとんど知らず、江戸期以前の情報は皆無に等しかったのは寂しいですね。
ということは、ほとんど忘れ去られたり、記録にも無いことですので、
ますます、副管理人さんの研究内容が重要度を増してしまっているということになりますね。大変でしょうが、これからも頑張って下さい。