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  [No.93] 大化改新の予備知識
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/20(Tue) 17:09:55

大化改新の予備知識
青木研究員 さん 2007/02/10 (土) 05:03
本日、NHKで「大化改新」で新説を発表しますが、この予備知識を若干レポートします。

大化改新は青木氏にとって全く無関係で有りません。
実は、日本最初の青木氏は伊勢青木氏として発祥したのです。つまり、皇族賜姓伊勢青木氏なのです。
この発祥の原因はこの「大化改新」そのものなのです。詳しくは研究室の主に「皇族賜姓青木氏」などに詳細をレポートしています。

大化の改新は645年ですが、この2年後に第6位皇子が伊勢王に任命されたと日本書紀に書かれています。
この任命の時、前の孝徳天皇の子供の伊勢王とその弟が突然、同日同時に病死します(暗殺?)。
この時、天智天皇と孝徳天皇との軋轢があり孝徳天皇系の子供の有間皇子ら殆どの皇子が抹殺されます。この有間皇子が蘇我赤兄に殺された所と墓が熊野古道の熊野神社の第一の神社の藤白神社より50メータ程度のところにあります。鈴木氏の発祥地でもあります。

直ぐに天智天皇の第6位皇子(施基皇子)が賜姓を受けて臣下し侍となり親衛隊を造り、先ず伊勢の天領地と守護神を護る役目を与えます。この時に伊勢王にして青木氏を与えて、仏像をステイタスとして与えたと書れています。これが伊勢青木氏の総本家です。

天智天皇は蘇我氏に政治、経済、軍事の3権を牛耳られていてもう少しで天皇の座も奪われる直前に改新劇です。この反省で 天皇を身内で護る親衛隊を造ったのです。これが第一幕の改新です。
これが伊勢を始めとして光仁天皇まで続いたのです。
この時の蘇我氏が握っていた軍隊は阿多倍がつれてきた
漢氏です。この漢氏の出方がこの改新劇のキーだつたのです。しかし、この蘇我氏に雇われた軍事集団は引き上げたのです。

経済は部制度を蘇我氏の管理から国の管理に引き取ります。「市場経済」ではなく技能集団が作ったものを一度朝廷に入れた後に市場に出す「部経済」でした。
これが、この官僚の国造(くにのみやつこ)を置き主要地5地の青木氏の配下に入ります。

第6位皇子のことは、天皇家の経済的負担は皇子が多くて負担になっていました。
天智天皇の皇子皇女で34人もいました。
他の皇族を数えたら50人程度もいましたので、第6番目の皇子皇女から僧侶や下族にすると言う方式を制定したのです。

政事は親皇政治に取り戻したのです。

伊勢青木氏は血縁関係のある藤原秀郷流青木氏も含めて全国の青木氏の元祖です。

伊勢青木氏は小説の「名張の小太郎」や「歌舞伎」にも出て来る伊勢豪商の紙屋(青木)長兵衛です。

実は、天皇家の宮廷と蘇我入鹿の館とは普通は丘の下側の家臣の館があるはずですが、宮廷より上で直ぐ目の届くところにあったのです。丘の上から宮廷が全て見下ろせる位置にあったのです。
このことから、入鹿を殺す状況は家来とその漢氏の軍は判って居た筈です。何故、直ぐにおりてこなかつたのか。?
当時は、貴族以上は自分で武力を使っては成らないと言う掟がありました。だから、なだれの如く降りてくればひとたまりも有りません。
つまり、このことは初めから判っていたはずです。でも、何故か、実行したのです。
つまり、軍事職能集団の漢氏との間で何かあったのでは?
事件後、暫くして上陸して帰化していたこの渡来系一族の阿多倍一族は瞬く間に出世して行きます。遂には、清盛の時代へと進むのです。

この後、漢氏は東漢氏(やまとあや)に更に文直氏と変名して改新後、阿多倍の長男の賜姓族坂上氏の朝廷の軍隊に組み込まれます。坂上田村麻呂です。そして、蝦夷地を征伐した征夷大将軍と成ります。後のことを考えると何かあったと考えるのが普通です。

これ等のことを次の家紋の笹竜胆の青木氏で詳しくレポートします。
これ等の事は研究室の皇族賜姓青木氏のレポートを見てください。


  [No.94] Re: 大化改新 1
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/20(Tue) 17:11:24

大化改新 1
青木研究員 さん 2007/02/10 (土) 05:04
NHK放映の新説「大化改新」に付いて。

この新説は次のような事でありました。

1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 後漢滅亡後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。

以上の内容であつたと思うが、少し新説は史実に偏りが見られる。

先ず綜合結論から言うと、蘇我氏側から見た見方と、天皇家から見た見方との違いである。
この違いはいまさら云う事ではない。以前から言われていたことなのである。

その意見の強いほうが「通説」と成っていた程度である。

そもそも、奈良期の大化前後の時代の状況から説明していくと判る。
先ず、聖徳太子の頃の主要5氏(葛城、巨勢、紀、物部、蘇我、平群)が天皇を中心にして運営されていて、親神主義と親仏主義の導入の争いがあり、親神主義の物部氏が負けて戦いの末滅びた。

その後、蘇我氏は全権力の3権を掌握し、第1度目の崇峻天皇を蘇我氏支配の武装集団の漢氏に暗殺させる。

天皇家の聖徳太子との軋轢の中で2大勢力時代になる。馬子との軋轢の中、聖徳太子は氏姓制度や憲法17条や冠位12階制度や官人制などの律令制の基礎をなんとか導入制定した。
何も天智天皇から始めたわけではない。そして、阿多倍一族の知識を基に桓武天皇のときに律令制度は完成する。(後述)

聖徳太子以後、2度目の天皇家の者を蘇我蝦夷や入鹿は聖徳太子の子供達一族(山背大兄王)を尽く抹殺した。天皇家のためであるなら何も殺す必要はない。
山背大兄王は蘇我氏に強く抵抗したわけではない。

その後、蘇我蝦夷と馬子は「東漢氏の軍事力」と、政治の「全3権(斎蔵、大蔵、内蔵)」と、経済の「部制度」を支配する。
これにより、女性の斉明天皇を操り、完全に全権を支配した。

このような状況から、2度の天皇家の者を抹殺し、全権を握られ傀儡政権となれば、天皇家の中大兄皇子にしてみれば次のような感情と猜疑心は生まれるが当然である。

天皇家側から見れば明らかに前の2度の暗殺を見ているので、前は未だ全権までは奪われていなかつたが、次は今度は次皇位継承者の自分が潰される。その事で全て奪われるという感情を持つは必定である。持たない方がおかしい。

現に、後に未だ安定しない状況の中で、直系の中大兄皇子は天皇に成らずに孝徳天皇に譲る懐柔策を採る。この時は未だ、蘇我氏分家は現存している。

しかし、蘇我氏側からすると天皇家のために国を護るという大義名分で全権を握ったというだろうが、其れまでの行動と殺戮に付いて、それを証明するには無理がある。
次々と権力のもたない飾りに過ぎない天皇などを暗殺する事はない筈。其の侭にしていても実質は同じである。
国内には天皇家を脅かす氏など何処にもないし、外国が攻めてくるとは言え、唐の前の隋政権は「来襲」は無かった。また、朝鮮半島にあったとは言え陸続きであり、海を隔てている事とは戦略上著しく異なる。
元寇の役の例にある様に同じで当時の軍事力では、そのリスクは大きすぎるのである。

実例を挙げてみると日本の歴史上で5度中4度外国軍が飛来しているが成功していない。
特にアジア系では成功していない。

先ず、1度目は応仁大王(天皇)の大船団が難波に上陸し大和朝廷と融和し、初代天皇となる。
2度目は鎌倉時代の元寇の役で殲滅して帰る。
3度目は江戸時代に英国とヨーロッパの軍船団が香港や遼東半島などを征圧して、日本に軍事圧力で開国を迫る。何とか不平等条約でくりぬける。
4度目はロシアが南下政策で朝鮮半島まで攻め込み後一歩のところで朝鮮に渡った日本軍が朝鮮より追い出し食い止める。日露戦争である。
5度目は「経済封鎖問題」で米国軍と戦い第2次大戦で敗戦し米国軍が占領した。

この5つを観ても4つは全て「朝鮮半島」が大きく関わっている。

特にアジア系は海を隔ててくるには軍事的リスクが大きすぎるからであり、そのリスク解消は朝鮮半島を経由する事で解消できるのである。日本はこのことに付いて戦略上理解しを知っている。
米国の件はこの軍事リスクを解消するもの(飛行機と戦艦)が出来た。(しかし硫黄島が関わる。)

だから、「中大兄皇子」は朝鮮に出向き出鼻を挫く為に「白村江の戦い」に決断したのである。

この時の事を追記するが、この軍の構成を見ると理解できる。
この軍は、後漢の帰化人の首魁の阿多倍の孫の阿倍氏(阿倍内麻呂、比羅夫)の配下で構成されていたのである。つまり、百済の救援を目的としているが本音は先制攻撃の印象を与える事である。

この時、阿倍は中国に戻り日本に帰ってこなかった事、 阿多倍の国の後漢は中国東部地区の遼東半島から朝鮮全域を支配していたが滅亡した。つまり、地元そのものである事、唐時代になっても東部地域国は充分には支配できなかった事。これ等の事を理解すると派遣した意味と目的が判るものである)

この阿多倍の子孫の阿倍氏は、この時代の歴史上人物には他に仲麻呂、比羅夫、内親王があるが、この人物を知ると、この阿多倍の子孫の朝廷内での基盤が判るので忠告は充分にあったはずである。

そして、その軍はこの目的の効果を出すために同じ要領の知る中国人をこの戦いに向けたのである。
結果は敗戦であったが、目的は「先制攻撃」としての強く効果は出ているのである。
だから、唐はそのリスクと「先制攻撃」の「強い印象」でその後に攻めて来なかったのである。

その理由として、都を攻めても、この長い列島である。左右前後から間違いなく挟撃される。食料は途絶える。結局、戦わずして全滅である。
応仁大王もこのことを判っていたから和睦し、融和政策(5氏での連合政府)で解決したのである。中大兄皇子も歴史を学んでいる。

戦いは感情では出来ない。要は戦略である。中大兄皇子はこの戦略を阿多倍らの忠告で実行して防いだのである。

これでは入鹿がいくら攻めてくると力説しても理解されないであろうし、なおさら天皇家側にすれば猜疑は更に生まれる。

現実には来ない。むしろ先制攻撃で百済を救援する事を名目にし白村江で戦った位である。

日露戦争も同じである。先制攻撃で負ける戦争が勝った理由があったのである。

史実として、先制攻撃を前提として、負ける筈の戦いに英国が仲裁に入り決着をつける外交手段を着けていたのである。
ところがこの時は二人の優秀な副官と司令官に恵まれた。
この二人の副官は徳島出身の秋山兄弟である。兄は陸軍、弟は海軍の参謀副官である。

兄は、有名なロシアの10万の騎馬軍を相手に、2万の騎馬軍と英国の指導での大砲と機関銃の近代戦と、「逆ハ作戦」で完全に追い返したのである。新しい戦法である。
(当時は騎馬軍には機関銃と大砲は使わない戦法であった)

参考として、 逆ハ作戦とは逆ハの形で軍を構える。敵は中央を突破してくる。そうすると逆ハが閉じる。再び開く。これを繰り返す。しかし、遂には大群であるので続かなくなり、敵は一団となつて突進する。そこで逆ハの中心に到達する。と突然、後ろに構えていた機関銃が火を開く。一団と成ってくるので敵の中心めがけて射掛ける。騎馬軍は中心には指揮官がいる。指揮官を失う。又指揮官が出来る。射掛ける倒す繰り返す。それでも中心は抜ける。中心の後ろには味方は居ない。中心の遠くに大砲隊が控えている。撃つ。殆ど指揮系統が崩れている。大砲で敵は戦う気力なくなる。逃走する。今度は、この時には味方の逆ハが集合している。逃走する敵を包み追走する。全滅になる。残った敵は馬を捨てる。列車でばらばら逃走する。昔の戦法の鶴翼戦法である。それに機関銃と大砲を組み入れた速度速い騎馬大群を相手の近代戦法である。
結果は10万の軍が3000人しか残っていなかつたのである。

弟は、3000メータも飛ぶ日本が開発した新式の黄銅(真鍮)の大砲を戦艦に取り付けて、砲弾は焔硝性の弾薬を開発し取り付けて、戦法はT字作戦で虚を突いた。ロシアの2500隻の戦艦が10隻にするまで勝利したのである。
(当時は砲弾で潰して鎮める戦法であったが、硝煙で船の中を高熱にして燃やして沈める戦法を編み出したのである)

参考として、 この海戦T字戦法は2500隻の大船団に対して、敵は大船団であるのでハの字型に船団を組む。先頭に指揮艦が来る。これに対して、逆ハで迎える。味方の戦艦は敵の中心をめがけて大砲を撃つ。次々と直線に並んだ戦艦が中心めがけて撃つ。撃てば敵に腹を見せて後ろに回る。T字になる。各艦はこれを繰り返す。敵の先端の旗艦は連続的に攻撃を受けるので沈む。又旗艦が出来る。これを繰り返す。味方も次の準備をして又元の位置に戻る。これを永遠に繰り返す。そうすると、あるところで敵が撃つ事が出来なくなる。先端の位置付近に沢山の戦艦が沈む。後ろが動けなくなり衝突して船隊が乱れる。大砲が飛んでくる。対馬の狭い海峡である。敵は無抵抗になる。味方は撃つ。
2500隻の戦艦が10隻になった。味方は損害が殆どない。体型は整っている。
しかし、ここで味方の弱点がある。敵の全ての艦に腹を見せる事になる。腹を見せることは戦艦の戦力が最も落ちる。味方が少ないと直ぐ終わる。ところが、この弱点を解決したのである。
それは敵の弾が届かない位置から腹を見せて問題はない事だ。それは上記の大砲の改良である。
敵からすると「遠い」し、「届かない」。船は大して壊れないが燃える。指揮が出来なくなる。火災になり沈む。この戦法である。逃げた10隻はロシア港に入る。港を封鎖する。撃つ。全滅したのである。

100%負けるといわれていた戦争である。

つまり、どちらも、「阿多倍」が連れてきた冶金の「鍛冶部」の技能集団(住金)の末裔が開発しそのなせる業なのである。
(当時の砲はせいぜい1500メータで、3000メータでは見えないところから飛んでくる程度である。)
このように、二つの戦いを見ても「先制攻撃」を加えることが効果があり、又地理的にも海峡を隔てている日本列島を奪うには難しいのである。天然の要塞なのである。一種の列島戦艦であるのである。
(真珠湾攻撃も先制攻撃であったが遠すぎた。空の戦いはこの戦法は効かない)

話を戻して。其れよりは、聖徳太子から始めた律令制度の完成を目指して後漢から帰化した阿多倍らの一団の力を借りて内政を立て直す事の方が先決とする見方の方が現実的である。
律令も出来ていない国情では長続きしない事は間違いない。

この感情からすると、蘇我入鹿が採った宮廷の周りの建物造りの行為は、丘の上下の位置や建物の軍事内容から察すると、天皇家から観ると「反逆行為」と観るのが普通であろう。

第一その程度で護れるはずはないし、既に博多付近から都まで登ってきた唐の軍隊の勢いを止められることは不可能である。
誰が考えても、もしその理屈を述べたとしたら普通は理解される事はないし、中大兄皇子は極めて聡明で用心深かったと言われている。
皇太子になったあとの孝徳天皇との軋轢の行動と周囲の粛清政策を観ても明らかであるし、成れる天皇にも成らなかった位である。

なにも、反逆するのであれば、大げさに絢爛的な館を作る必要はない。適度な軍事施設程度で充分である。まして、別に大宮殿があるのだから。
更に天皇の宮廷の上に立てる事はない。
外国が攻めてくるとは言え宮廷を固めても仕方がない。その時はもう遅い。天皇家を納得できる名文ではない。

もし、やるとすれば、天智天皇が採った九州地方までの要衝地を作る事の方が先ず必要があるし、中国の「万里の頂上」の様に、都を城壁で囲んだ方が現実的で良策である。天智天皇は後にこの二つを実行したのである。
入鹿は其れをしていない。

このところでも改新はなかつたとするのには無理が余りにもある。

中大兄皇子にしてみれば”そんな程度で護れるか”と思うはずである。

更に、この蘇我氏は、応仁大王(大和朝廷の初代の王)らが、難波に上陸してきた朝鮮系の百済王の枝葉末孫である。

応仁大王はこの大和の4氏(葛城、巨勢、紀、平群)と戦い、全てを制覇し大和の飛鳥に入国し結局争わずして5氏の上に立つ大王となつたのである。

この詳細は、上陸時は、この地を治めていた紀氏や葛城氏や巨勢氏ら3氏の連合軍の抵抗で飛鳥に侵入する事は出来ず、先ず、紀氏を「先制攻撃」して征圧して、紀伊路を南に回り、新宮から奈良には進入して征圧した。(各個攻撃)

この時代は、未だ奈良は盆地でも、中央には琵琶湖に並ぶ程度の湖があってその周りに生活圏をもち連合政治をしていた。それで各個攻撃された事で戦略上は堅く無かったので征圧された。

この時につれてきた、渡来人で物部氏(軍事)と共に百済王末孫系(鞍作)が蘇我氏であると成っている。

その証拠に、中大兄皇子が入鹿を暗殺したときに側に居た古人皇子はあわてて”渡来人が”と叫んで逃げている。当時は未だ、渡来人としてのイメージを持たれていたのであろう。

又、この蘇我氏の別の呼び名は日本書紀にも書かれている様に「鞍作りの入鹿」である。

「鞍作部」は馬の鞍などの馬具を作っていた技能集団で、朝鮮と中国からの渡来人で構成された集団
である。(鞍作は仏像も作った 奈良の大化期の「鞍作部止利」が日本最初の仏師である。)

この部集団に付いては、主には、後漢が潰れて後漢の末弟の献帝の子の石秋王の孫の阿多倍が引き連れてきた17県民の技能集団でもある。(蘇我氏はその前に入った応仁大王が引き連れて来たもの)

この様に渡来人がルーツである事が明らかに判る。

この子孫の蘇我入鹿らが勢力を持つたのであるから、聖徳太子の事もあり、当然に天皇家側は百済王の末孫が天皇家を乗っ取り、百済の国を大和の国に作ると言う戦略におびえていたはずである。

この様に、多分、NHKの新説には、この天皇家側からの客観的判断が不足している。

少なくとも、逆賊であるかどうかは別としても、全権を既に握った後の残る条件は中大兄皇子を暗殺する事で、客観的に観て、完全に牛耳ることが出来る一歩手前で、その実行は無力で飾りの皇子を潰すには何の努力も要らないところに来ていた筈である。
むしろ、それよりもその後に編成されるはずの朝廷側の「連合軍」の方が期になる。その備えが必要と考えるはずである。

潰さないという忠節心の精神が存在する根拠は薄く、反逆する根拠の方が状況判断から観て、高いし全てとの感がする。

新説根拠の武器庫でも入鹿が住む程度の館で充分である。相手が無力で飾りである。
私なら、そんな大それたものは作らない。攻めるに必要とする物を作り、そして住む体裁を繕う。

つまり、それよりは、天皇家を奪った後の国内の乱れと、天皇家を養護しようとするの「連合軍」の進入に気を配る。
現実に、入鹿は外国から侵略と見せかけての説として、この程度の防護でその配置をしていると説いているがおかしい。全体が飛躍しすぎている。多分この目的であった筈である。

実は、この2つから観た説は以前からあったもので何も新しい説でない。

以前からあつた韓国側の歴史認識の影響を大きく受けた国内グループの巻き返しであると観るのが適当ではないか。

その根拠には、最近、韓国で「日本世記」という資料が見つかったのであるが、この資料は大化改新の律令政治の指導に来ていた韓国人の者が朝廷内の事を日記にして遺したもので、この者が帰国する時に持ち帰ったとされるものです。

青木氏の仏像の件などもこの資料にも乗っているのです。細かいところが明らかになってきていることは事実ですが。
それだけに韓国側の蘇我氏に対する巻き返しグループが国内グループと共にこの新設を唱えています。

阿多倍の朝廷への律令政治完成の影響と東漢氏の行動のことも明らかに成っている事もNHKは以前(去年)に放送しているのです。

東漢氏が何故、攻めてこなかったのか。
何故、入鹿の父(蝦夷)が指揮せず、自殺したのか。
阿多倍はどうしたのか。

(日本書紀には、大隈の首魁として呼び寄せたり、伊勢北部伊賀に不入不倫の権の保護を与えて住まわしたりしているとか、何度も中大兄皇子と天武天皇にも会っている。これ等の勢力がどう動くかで決まる。)

とすると、中大兄皇子の暗殺で「連合軍が動いた時の備え」として今回の蘇我氏の施設を考えるとこの疑問も解ける。(少なくとも唐の来襲警戒ではない。)

つまり、この蘇我氏の最大の「頼り」の一つ軍事集団の阿多倍の支配下にある東漢氏が、阿多倍の指揮で動かず、抵抗しない旨を告げて去った事である。「戦う事」も出来ず、「連合軍の備え」も出来なくなった事による。
それ以後のこの阿多倍が率いる一団の動きを見れば理解できる。

この大化の改新の前後はこの一族の出方如何で決まるのである。
日本の平安後期までも政治、経済、軍事はこの一族の存在で決まるのである。(詳細は研究室の阿多倍関係、京平家などを参照)(この一族の末裔は日本人の15-20%を占めている)

蘇我氏にとっては、長い間の努力も「水の泡」で、言い訳が出来無かったのである。

これらを踏まえてこの新説を聞く必要がある。

これが、第1番目の実情である。

続きは第2番目の問題の解説です。史実から観て新説は矛盾が多く出ます。

続く。


  [No.95] Re: 大化改新2-1
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/20(Tue) 17:13:34

大化改新2-1
青木研究員 さん 2007/02/10 (土) 05:05
1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 漢の後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。

大化の改新のNHK新説に対して、前回は第1番目を検証した。結論的には新説の第1番目の説には「無理と飛躍と矛盾と情報不足」が目立つものであつた。

次は第2番目の「大化の改新」は無かったとの説である。
これは解説者の発言にあった。
このことに付いてはまったく史実を無視している。何故にあるものを無いというのであろうか。
言質の裏にある種の政治的イデオロギー的発言の感じがする。
以前からもこの種の歴史を否定する説を唱える政治グループがいた事は承知している。
ただ、NHKがこれに加担したことに大きな疑義が生まれる。昨年私はNHKモニターをしたがその内容から見て「受信料不払い」の原因の一つであろう。

兎も角も、大化の時代に改革が行われた史実とその内容などを述べる。

現代も同じ様に「平成の改革」が成されている。大正と昭和の時代の世の中のシステムが、生活方式を含めて全てものが替わり、変革し、加速的になったことから時代に合わなくなってきている。

聖徳太子の時代から大化の時代までにはも大きな変化が起こったのである。
時代を追ってその変化を述べる。

先ず、620頃から、漢の国が滅亡し漢民は南と東に逃げた。そうして、東に逃げた民の中に居た「光武帝将軍」が遼東半島と三韓を征圧して国を興して「後漢」が出来た。そして、21代末帝の「献帝」の時代に滅亡して「唐」が中国全土を制圧した。
この「後漢」の17の県民は「献帝」の孫で、「石秋王」の子供の「阿智使王」とその子供の「阿多倍王」と共に北九州に上陸した。
この漢民の17の県民の集団には国を形成する政治官僚を含む全ての職種の技能集団が同行していた。
当然に、軍事集団を先頭に博多、大宰府付近に入った。
しかし、進んだ先進国の漢の民である。戦いなどは当時の大和の民では相手にならない。
又、進んだ生活手段を持っていた為に民は、この集団との和合を図り、進んでこの漢民の技能を取り入れ生活のレベルを上げる事が出来た。

この阿多倍の集団は続々と上陸してくる。この渡来人の漢民は南下した。
この漢民の九州での状況を詳しく述べる。
当時、この地方では「肝付氏」と朝廷より派遣された「伴氏」とで統治されていた。
伴氏は「弁済使」で税の取り扱う官僚であるが、九州の北部に支配権を持っていた。
この高級官僚で朝廷の5氏の一つ「伴氏」と「肝付氏」が血縁し多くの末裔が広がっている。
更に「肝付氏」と「阿多倍」一族との血縁を結んだと成っている。
(九州地方での内容詳細に付いては別途レポートする。)

最終的には、この漢民は朝廷に対し帰化を申請する。

九州から中国地方へと上陸し同じく支配下に入れて進出し飛鳥に入る。朝廷はこの帰化した漢民の渡来人を更に未開地であった中部地方の信濃、甲斐国の開墾に送る。
これ等の民は200万とも言われている。

この漢民の首魁の阿智使王と阿多倍王は大隈付近に住み「大隈の首魁阿多倍」と呼ばれていた。
この事が日本書紀に詳しく書かれている。

この時代の唯一の歴史書である「日本書紀」にはこの「大隈の首魁」は4度出て来る。
そして、ここの「阿多倍王」に賜姓青木氏が守護する伊勢の国を分轄して、「伊勢北部伊賀地方」を与え「不入不倫の権」を付加して与えて保護した。
「阿多倍」はその九州から中国地方の民の生活向上に貢献した勲功で「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の娘を娶り3人の男子をもうけた。

「阿多倍」は「准大臣」の官職を与えられた。
この三人はの長男は賜姓を授かり、坂上氏を名乗り軍事担当を、次男は当時の朝廷の政治機構の3蔵の内、大蔵氏の賜姓を授かり、朝廷の財政担当を、三男は内蔵の賜姓を授かり、天皇家の財政担当を担った。もうひとつは斎蔵で祭祀を担い、これは賜姓族藤原の鎌足であった。

この進んだ「後漢の知識」で「阿多倍一族」を先頭に「大化の改新」の「政治改革」に臨んだである。

この末裔は代々九州の「太宰大監」を任命され、歴史上「錦の御旗」を個人に与えられた唯一の氏で大蔵氏である。
この大蔵氏は朝廷より「遠の朝廷」を任じられ、九州全土の「政治、経済、軍事」の全権を与えられたこれも歴史上の唯一の氏でもある。

これは遅れていた九州の未開地をこの一族に任して「3分野からの改革」を実行した証拠のひとつである。(この地には朝廷より当時の主要5氏の一つ「伴氏」が派遣されていた。)
其れも、現代までになかったすごい改革であった事は下記の進んだ後漢の民の集団の構成を見ても解る。
地域の生活生向上と、地域間の紛争がなくなり、軍事的安定が起こり、図りしえない変化のものであったことであろう。
日本書紀にも都に首魁を呼んで天皇の前で踊って祝ったとあり褒美を与えたとある。

昭和のバブルごとき変化ではない。

そして、この「阿多倍」の孫に当る伊勢北部の伊賀の「高野新笠」は「光仁天皇」の妃で「桓武天皇」の母である。
桓武天皇はこの母方の「大隈首魁の阿多倍」(別名 高尊王)一族で「伊賀の王」(高望王)を第6位皇子として賜姓し、「たいら族」(京平氏 桓武平氏、伊勢衆)とした。
これは、天皇家が代わるたびに発生する第7世族以降の皇族を「ひら族」(坂東平氏)として坂東に配置した八平氏になぞって、この「阿多倍」を「賜姓たいら族」としたものである。
この渡来族に対する当時の何らかの配慮があったものであろう。

伊勢伊賀には「高尊王」と「高望王」との違いと年数のずれがあるが、伊賀にはこの阿多倍の一族しか居ないのに「高尊王」と「高望王」の王が二人いることはない。何らかの理由(記述のミス)であろう。

この賜姓した「桓武天皇」は大化の改新1でレポートした「聖徳太子」の曽我氏の軋轢の中での改革からから始まり、「天智天皇」の「改新」を繋ぎ、最後に「律令政治」を完成した天皇である。
上記したその功績はこの阿多倍一族とその漢民の努力以外にない。

この漢民の民は「部制度」である技能集団の民「海部、磯部、鍛冶部、綾部、茜部、錦部、馬部、鞍作部、織部、弓削部、鵜飼部、山部、石作部、矢作部、土師部、陶部、舎人部、赤染部、依縫部、倭文部、麻績部、佐伯部、来米部、膳部、鏡作部、鍛師部、船部、物部、安部、漢部、工部、墨部....」など挙げればきりがないが、全てこの民は後漢の民で阿多倍の支配下にあった民である。

この進んだ技能を大和の民は指導を受けて会得したのである。
現代の北九州工業地帯の鉄鋼、造船、陶器、等の産業を考えればよくお判りと思う。
これで「改新」が無かったとの説は疑義の何物でもない。蘇我氏管理のもとではなかった事なのである。

この集団が作った物は一度朝廷に入れてそれから市場に出すと言う経済システムが当時の「部制度」であり、「市場経済」では無かった。

「朝廷」とは言え「蘇我氏」にである。これを「蘇我氏」から朝廷に「国造」(くにのみやつこ)という官吏を置き取り戻して経済システムを正常化したので動き始めたのである。
「改新」は「国の管理下」にした「行政改革」である。明治時代の改革と同じ「中央集権制度の導入」である。
これだけのことを実行する事態、未だ東北部地方の国が安定していない時期に、大変なことである。
これでも「改革」が無かったとの説はおかしい。

現代でもこの第一次産業はこの阿多倍率いる漢民の集団が引き継いできて現代の日本の主幹産業に成っている。この一団なくして現代の日本の全く地位はない。それほどである。

日本の国民の20%程度を占める漢民の末裔の方々に感謝申し上げたいくらいである。

この権利と管理を蘇我氏が握っていたのである。つまり、「朝廷の経済」は「蘇我氏」が握っていた事を意味し、国のため、民のために中大兄皇子は取り戻したとすればこれも「改革改新」である。
もし、これだけのことを今現在するとしたならば、果たしてできると思われるか?。無理と考える。

話戻して、上記にもある様に「阿倍氏」を頂点として、「物部、安部、漢部、鞍作部」等は軍事関係の集団である。
つまり、「朝廷の軍事」までも握っていたのである。

「朝廷の政治」はもとより、「大連」の蘇我氏であるから言うまでもない。
当然、この支配下に阿多倍も先ずは実力はあったが、蘇我氏に従う立場であつた。

これが大化改新1にレポートした「疑問点、キー」であった阿多倍の一団の出方が、「改新」の成功を握っていることは明らかである。
蘇我氏が全権を握っていたのは言うまでも無くこの漢民の17の県民の出方であった。

これだけの政治、経済、軍事の3権に能力のある集団を見方にすれば「改新」は充分に可能である事が理解できるし、出来ない方がおかしい。
「中大兄皇子」は味方にしたのである。つまり、味方にした事さえ改革改新である。これでも「改新はあった」事が筋道でさえも解る。

しかし、入鹿が暗殺されても未だ分家一族は沢山いるが、分家もこの反撃に出なかった訳はこの阿多倍の一団の後押しがなければ無理である事は明白である。

だから、首の蝦夷(えみし)は行き詰まり自殺したのである。阿多倍は裏切るとは計算していなかったはずである。

しかし、史実はこの阿多倍の一団は朝廷に一日後に去ることを伝えて出て来ず丘から去ったのである。

その後は上記した通りである。

これで、阿多倍一団の執った戦略は明らかにわかるし、「中大兄皇子」もこの阿多倍の集団の力の程度のことは知っていたはずである。孝徳天皇も含めて日本書紀にも書いている通り会っているのであるから。

蘇我氏の分家(蘇我石川麻呂:入鹿の従兄弟)に首謀者の中臣の鎌足が話をつけたことは史実でも証明されている。(改新後3年後に謀反の嫌疑がかけられ自殺)
暗殺のとき、この蘇我氏の分家は震えて動けなかったので、中大兄皇子と鎌足が自ら切って出て行ったのである。
この鎌足が蘇我氏の分家に話を通した事は「改新」の成功を計算した上である筈。
だとすれば、改新後のこの「進んだ知識と技能」を活かせれば成功すると見て、阿多倍一族にもこの話を通し、味方するように説得していると考える方が普通である。

阿多倍一族にとっても蘇我氏の管理下にいるよりは、政治の場に於いて進出して日本での基盤を築きたいとする考えは生まれたと見る。(後に現にその様にな成った。太政大臣までに成った。)
だから、東漢氏と蘇我氏分家は出て来なかったのである。

この改新のキーは「蘇我氏分家」と「後漢阿多倍一団」であったのである。
作戦、計画実行時はだれでもキーは何か、誰か、何処か、何時かを考えるのが普通である。
としたならば、この3つの事は先ず考えた事になる。
そう見るとこの要件即ちキーは入鹿暗殺前後の史実が納得できる。

蘇我氏の分家が味方したことの意味を理解すれば、NHK新説は矛盾する。
後は、阿多倍一人である。だから成功し、阿多倍は政治に関与し律令政治を完成させたのである。
後に、この「大蔵種材」という人物がでるが、九州の「太宰大監」となり、侍の神「麻利四天」のモデルにもなった豪傑が出て改革で国を安定させた有名な人物がこの阿多倍子孫からでている。

「孝徳天皇」と「中大兄皇子(天智天皇)」の改革に貢献した。これ等の事は日本書紀や多くの史書にも書かれている。

では、以上の事柄を念頭にして基礎理解を得た上で、阿多倍らの一団の働きにて行った天智天武期の大化期の改革の具体的な事柄を次に述べることとし、「大化改新」があったことを証明する。

予備知識の一端として一部拾い出して置くと次の様になる。
主だったことは次のレポートとする。
活躍した内容
参考として、仕事は次の様なものである
「全国の国領地の検地」    租税の安定した確保を図り朝廷の基盤を造る
「全国の武器の検査」     侍としての基本的な姿勢を確認する
「全国の税の見直し」     改新前の粗雑な税体制を改革する
「特定地への天皇からの特命」 治世などが乱れている各国に対する督励
「全国の争いの調停と平定」  改新前の勢力の修正
「全国の領地境目の確定」   領地争いの原因の見直しを実行
「重大行事の指揮」      朝廷内の神事や行事と国内外の使節団の指揮
「天武天皇の相談役」     政治の難題の相談と調査
「皇族間の調停役」      皇族間の勢力争いの調停
「斉明天皇への助言」     女性天皇の補佐役
以上が「日本書紀」から拾い出した内容である。仕事はこの内容の重複もある。
「日本書紀」であるからその信頼性から見て、この内容は半端ではない。
これは殆ど天智天武期の政治を動かしていたことを意味するのではないか。
編集者の「舎人皇子」も十分認めて信頼してこの働きを具体的に書き込んだものだと思う。

続く。


  [No.96] Re: 大化改新2-2
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/20(Tue) 17:16:53

Re: 大化改新2-2
青木研究員 さん 2007/02/10 (土) 05:06
大化改新2の続き

活躍した内容
参考として、仕事は次の様なものである
「全国の国領地の検地」    租税の安定した確保を図り朝廷の基盤を造る
「全国の武器の検査」     侍としての基本的な姿勢を確認する
「全国の税の見直し」     改新前の粗雑な税体制を改革する
「特定地への天皇からの特命」 治世などが乱れている各国に対する督励
「全国の争いの調停と平定」  改新前の勢力の修正
「全国の領地境目の確定」   領地争いの原因の見直しを実行
「重大行事の指揮」      朝廷内の神事や行事と国内外の使節団の指揮
「天武天皇の相談役」     政治の難題の相談と調査
「皇族間の調停役」      皇族間の勢力争いの調停
「斉明天皇への助言」     女性天皇の補佐役
以上が大化期の「日本書紀」から拾い出した内容である。仕事はこの内容の重複もある。

実は上記の内容は天智、天武期に渡り、第6位皇子(施基皇子)が行った「改新」の仕事である。
この皇子は、私が調べた範囲では18回出て来る人物で日本書紀の中では段突である。

伊勢王として伊勢の守護を務めながら、天智天皇の「改新政治」を助けて全国各地に飛び回っている。
つまり、伊勢青木氏の元祖の働き具合である。

「日本書紀」を見ると皇太子がいるが、其れ以上に信頼されている人物がいる事が判る。

1 「軍略所」としての役職である。
上記の内容通り、天智、天武の葬儀等も含めて本来皇太子が行うところを代わって代行するなど、新しく天皇の執政を機動性良くし、全ての指揮をとる事を天皇より依頼され実行する実務補佐役が設けられたのである。

これ以外に次の「改新政治」が行われている。具体的に述べる。

2 「国博士」を置いて天皇の政治の補佐をさせる。
隋などで留学し大化改新の為に呼び戻された「高向玄理」や「みん」がこれを務めた。

3 「内臣」を置く。
「改新」を行う天皇を補佐する政治相談役で、鎌足が勤めた。後の藤原氏の摂関政治の基となる。

4 「東国国司」を置く。
改新を進めるに当って東国が未開発であり、「改新」の大きな障害と成っていた。これを専門に行う国司である。美濃、信濃、甲斐などに後漢の技能の民の渡来人を送りこみ開墾を進めた。

5 「男女の法」を定める。
生まれた子供の所属を定めたもので、「公地公民」の政策を進めるうえでの身分制度である。
上記した阿多倍の配下の漢民の技能集団の「部制度」の組織改革である。後漢の集団の民と一般の民との融合が進み、「部制度」を修正した。 

6 「薄葬令」を定めて身分に基づいた葬儀や墓の規模などを定めた。公地公民の前提を作り上げた。

7 「冠位の制」を改善した。聖徳太子の冠位12階より7色13階、19階、26階、48階とし位階制を定めた。大宝期には30階に戻した。

8 「改新の詔」を定めた。「大化改新」の「行政方針」を4つとして定めたものである。

4方針は次の通りである。

現在の行政方針を新しく敷いて公表したのである。今までにない画期的なことである。
おそらく民は当時としは政治は「お上」が行うものとの認識して疑わなかったはずなのに、方針を出した事が驚きであったはずである。真に民主主義の原点であるのだから。

公地公民制 
土地や民は全て国に所属する制度で、土地の官吏は「国司」、「部制度」の官吏は「国造」とし行政を明確にした。現在の行政の原型を定めたのである。  

統一的地方行政制度
国と地方の行政を分割してよりきめ細かく施政する様にしたもので、現代の「三位一体」の行革である。豪族の施政に任していたものを国管理の下にし、指揮系統をより効率よくより平均化した。
交通、情報機関のない時代にこの制度を敷いたことを考えると不思議なくらいである。

戸籍と計帳と班田の収受制度
民の正確な把握の為に戸籍調査を断行し、土地の測量を行い租税の正確な把握を行った。
官僚制度を整えて国の国体形態の基礎を築いた。
現代では当り前であるが、もし無いところから制度が出来たら驚きのなにものでもない。
上の2つの方針も実行されて多分半分はパニック状態であったと思う。

統一的税制度
上記の3つのことで正確に把握した国情を下に弁済使を置き租税の統一と正確の管理を図った。
大雑把な税体制から確実な計測等のデータで税が徴収されるのであるから、民は驚き、緊張し、期待も生活がどう代わるかで大きかったのではないか。

この頃、阿多倍の漢民の進んだ技能で民の生活が一変して潤っていた頃の最中である。
だから、朝廷もこれだけの事ができたのである。何も変化していない古代の生活環境の中ではこの施策を敷いても効果どころか朝廷の転覆に当るほどである。
朝廷の姿勢も下記に書く財政の無駄をはぶき毅然とした態度で施政方針を示したのである。
現代の改革と殆ど代わらない事が1500年も前に急に行われたのである。

9 「食封」(じきふ)を定めて経費の無駄を省いた。
官僚の俸禄制度を定めたもので、上級官吏に一定の戸指定(50)し、戸の租税の1/2と調庸2/2を与えた。下級官吏には布帛(ふはく)を与えた。

10 「防人」(さきもり)を定めて、職業軍人とは別に現代にもある徴兵制度を敷いたのである。
九州北部の西海の防備を司る兵制度である。阿多倍の子孫大蔵氏が司る「太宰大監」(遠の朝廷)
に支援し、唐の来襲の警戒に当った。
坂上氏や阿倍氏が率いる朝廷の軍隊と青木氏が率いる親衛隊とは別に一般の民の者で対外国防軍隊を編成したのである。蘇我氏が訴える対外防備のとのレベルが違う。

11 「水城、山城、大野城、さい城、高安城」等の防備要塞を築いて防衛拠点を作った。
唐の来襲を警戒して全国各地と都の周辺に防壁と城を築いた。

12 「近江令」を定め律令政治の完成を目指して律令を発した。
鎌足らが作ったとされる22巻から成る法令であるが、体系的な法典マニュアルとして作ったものとされている。つまり、いきなり法を作っても官僚の執政施行は難しい。そこで、急劇に増えた官僚の種類と数のためにその行動マニュアル的な心得を書き印したものである。

13 「御史太夫」を定めて太政大臣などの補佐として特別に補佐役を設けた。
「改新」の大きさと繁忙さから補佐役を特別にこの天智期に特別の作ったものである。
天皇の2つの補佐役や重臣の補佐役を設けるなど如何に大改革であったかを物語るしその思考が柔軟である事が覗える。

14 「八色の姓制度」を定めて身分を8つに分けて氏姓制度の充実を図った。
皇族とその重臣の身分を定めた。真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置である。
そして、その身分にあった行動と責任の所在を明確にしたのである。

5家5流の青木氏と11家11流の源氏は第6位皇子であるのでこの「朝臣」に当るがその中でも青木氏は上位である。
この身分制度は後には更に細分化される。

15 「皇位継承制度の変更」
皇位継承は大変な財政的負担と成っていた(天智天武の子供は34人もいたし、他の皇子も合わせると50人程度にもなり、天皇家の財政を担う内蔵では破綻寸前であつた。このため、この原因と成っていた「皇位継承制度」の変更を経費節減のために改革を断行し実行した。
多分、皇族関係者からの第6位以下は平民化するのであるから反発は大変なものであつたはずである。
この「改革」で第6位皇子から臣下して賜姓を受けて、初代の青木氏(伊勢青木氏)が発祥したのである。

其れまでは、第4世皇位継承、第7世下族の「世」方式で第5世はこのどちらにも属するとし、第7世は代替わりにて「ひら族」とし、賜姓して「平氏族」を形成し、坂東の守護としてに配置した。
これが、「坂東八平氏」族である。
これと比較して阿多倍末裔の渡来人系の「京平氏」の「桓武平氏」(たいら族)とは混同されている。

「第4世」方式から、第2世第4位皇子皇位継承として第6位皇子を臣下させ、賜姓(青木氏)して、親衛隊とした。この賜姓青木氏であり、伊勢の青木氏としたのである。
即ち、「第6位」方式である。
青木氏には「鞍作止利」作の「大日如来坐像」(伊勢青木氏の宗家保有)の仏像与える事とした。そして、王位は4世までとした。

16 「親衛隊の創設」
蘇我氏に牛耳られていた反省から、天皇自ら護る軍隊を創設した。上記のこれが第6位皇子の青木氏である。この青木氏は伊勢神宮のある伊勢国の王として守護とした。「不入不倫」の天領地とした。(後に、天武天皇が伊勢神宮を護り本尊として正式に詔を出して定めた)

この後、15の改革と共に、天武、聖武、文武、光仁天皇までこの制度は維持された。伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の国の戦略上の主要地の守護としたのである。

この開拓には阿多倍の支配下の漢民の技能集団(馬部、山部、磯部、鞍部等)を遷して大きい外来馬を飼育し開墾した。(日本書紀に記述)

17 「飛鳥浄御原令」を定めて律令制度を2度にて進めた。(天武期)
大宝律令の基となった。光仁天皇の子供の桓武天皇が律令制度を完成させた。つまり、律令制度の完成は初代の聖徳太子から7代の天皇がその方針を貫き引き継ぎ完成させたのである。
その後、嵯峨天皇から5代に渡り見直しの改革が行われて「皇親政治」の全盛期を迎えるのである。

以上が大化期の「改新」の改革項目である。

これだけのことを「入鹿」の前の政情にはなかったもので、空前の改革項目と大変な内容である。
普通では成し得ない質と量である。

これはその専門的な知識が無ければ出来ないことである。
前記の通り、その知識と能力は阿倍氏、坂上氏、大蔵氏、内蔵氏などの阿多倍の子孫とその漢民の集団によるもの以外にないのである。

これ等列記した17項目のものを良く理解してみれば、その根底にあるものが見えてくる。

つまり、平たく言えば、聖徳太子から始まり蘇我氏の改新前の反省からである事が見える。

それは、「3権」を奪われていたものを律令を通して、軍事、経済、政治を見直して、他氏に委ねるのではなく、天皇を中心とする皇族の「皇親政治」の基礎を作ったのである。
そして、国体の基盤を更正し、外国からの侵略と国内の安寧の為に「改新」を断行したのが中大兄皇子の目指す政治であつた。
だから「中大兄皇子」は「国体を変革」しなければとの思いで蘇我氏の体制を打破する必要があったのである。「思考の原理」の前提レベルが違う事が上記のことで解る。
決して、蘇我氏の我が物顔の政治でなかったのである。

突き詰めれば、「律令制度」を中心とする「政治、経済、軍事」の安定した「皇親政治」を目指したのである。

これは、蘇我氏が目指したものとは異なる。
故に蘇我氏を倒して天皇家に取り戻した事件の目的は明らかに「皇親政治」での「改新」である。

これでは、到底に、蘇我氏が唐が攻めてくるからの説には説得力はない。誰が見ても「蘇我氏の言い分」では納得できないはずである。

つまり、「政治システム」事態も代えたかったのである。
根本的にレベルが異なる。

”大化の改新はなかつた”の発言にはこの点にも納得できない。
誰が見てもこれを”改新は無かった”と思うだろうか。

前記の第1の問題と第2の問題とあわせるとNHKの新説は他の意味する歴史を否定する政治的な大きな疑義を感じる。

次は第3番目の問題に付いて述べる。

続く。


  [No.97] Re: 大化改新 3
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/20(Tue) 17:18:59

大化改新 3
青木研究員 さん 2007/02/10 (土) 05:07
NHK大化改新の新説の第3番目の説である「蘇我氏館は実は兵舎と武器庫であつた」の問題である。

結論から言うと、大化改新1と大化改新2-1と2-2でもレポートした様にお判りと思うが、「兵舎と武器庫」で妥当なのである。

中国の軍略書には明確にこのことを明記しているのであり、正しいのである。

蘇我氏館の大豪邸は聖徳太子の頃から既にあり、その権威を示す館は2つも要らないし、私ならばむしろ、大御殿の館に武器庫や兵舎は似合わない事から、別の戦略上の土地に造営し、そこに適当な館を作り指揮する環境を設定する。
其れの方が「御殿館と兵舎」の目的を合理的に効率よく使えて当然のことである。

御殿は権威の象徴としての「行政所」として、兵舎武器庫は「軍事所」としての目的を果たす方が臨機応変に対応できる。

現に、現在に於いてまでも「行政所」と「軍事所」が一つに成っているところなどない。江戸時代までの城でも「城」を「行政拠点」にし、周囲に「山城や櫓」を築き「防衛網」を設けている。
この軍略書に付いてのこの場合の一角を述べる。

昔から戦いの基本を体系的に分けると、「六稲三略」(6つの戦術と3つの戦略)と言うものがあるが、この基本を実行する前提として「行政」と「防衛」の拠点に分けることを基本としている。

夫々個々に重要に成るのがこの2つを繋ぐ手段がポイントになるが、この「行政」と「防衛」の連絡方法を「烽火」と言う手段で行う事を定義されている。

現に、この大化期の時代には、「烽火」(とぶひ)と言う方式の情報伝達法が確立していた。

つまり、「行政拠点」からの指示を「防衛拠点」に伝える方法として、「煙火」により敵の襲来や命令を伝達する緊急通信施設(烽火所)を作るのが「戦いの構え」の「常道」とされていた。

「行政拠点」と幾つかの「防衛拠点」と幾つかの「烽火諸点」の設備を築き、そして、この3つの点から行動を起こす「六稲三略」を「三相」で「臨機応変」に行うと定義されているのである。

「三相」とは「人、時、場所」を適時適切に判断して指揮する事と説いている。

この時代の戦い方と言うか防衛システムというかは上記のシステムで行われていたが、これは江戸時代までも引き継がれたのである。そして、これ等のことを掌握していた者としてその国の将や軍師(軍略師、軍略所と呼ばれていた)が把握していた。

前記した「烽火」方式は「意思伝達」を充分に伝う行えるだけの「発信方法」と器具が完成していたのである。「のろし」は「煙火」と書く。

多分、NHKの大化改新を解説していた教授がこのことの知識を把握していなかつたのであろう。
考古学と歴史学とは専門域が異なるが、考古学者であつた事によるのではないか。

私は、この都の宮廷が地形の一番下の窪地にあり、臣下の館が前後左右の山手に4つ存在していたのであるので、少なくとも上記の定義から見ると、兵舎や武器庫や櫓や烽火の設備が無い事の方が不思議であった。

そこで未だ、発見されていないと見ると、定義から「兵舎、武器庫群」が周囲のどこかにあると見ていた。
都を作るのに、当時は全てこの軍略書を把握した上で専門的に造営されているはずである。

飛鳥、難波、近江、京の全ての都はこのシステムが働くように造営されている。
江戸時代までの主な城も同様である。
戦い方もその歴史書を見るとこの「六稲三略」に全てかなっているし、勝利した城より負けた方の城がこのシステムが弱い傾向があるのである。

歴史家やマニアは、この飛鳥の都のこれらの点の欠けている事象点を疑問視し、発掘は必ずこの「防衛拠点」の何らかのものが出ると予想されていた。

何故ならば、大化の改新には、この「防衛拠点」を飛鳥から博多までの瀬戸内を通る一線上に設けているし、「烽火」設備が設けられている。

また、前記の大化改新2-1、2-2の所でレポートした様に「防人や軍事設備」が定義通りにあり築城されている。このことから、この知識があった事が充分に解るのである。

だとすると、必ず、窪地にある宮廷であれば、周囲の山手には必ずこの防衛設備の兵舎や武器庫があるはずであると見ていたのである。(戦略上、窪地にある事が疑問だが)

歴史家までも行かずとも、マニア程度であればこのことは理解していたはずの程度ことである。

発掘の結果は矢張り「兵舎と武器庫程度」と指揮所の様な小さい館のものであった。
これでよいのである。
大して驚く程度の結果でなかったとの感想であった。

ただ、2つ疑問がある。
その一つ目は宮廷が下にある事(本来は上にある筈)
蘇我氏の牛耳る為の策と見られている

その二つ目は「改新」のキーの阿多倍(指揮下にある東漢氏)とのやり取りの事
(東漢氏が中大兄皇子に抵抗しない旨の木管端が見つかっているが、蘇我石川麻呂の様に「説得された」の証拠が見つからない事。つまり、この「無抵抗」とした「根拠」が見つからない)

(その三つ目は蘇我氏分家の出方に付いては、分家の長の蘇我石川麻呂が鎌足に説得されていた事が判明していた)
この二つの証が出てくれば完璧である。

実はあとはこの2つの何物かが出るのではとの期待をしていた。
その証拠が何か出るか?未だでない。

しかし、一つは確かに出た。しかし、未だ発掘すれば出て来るのではとの期待がある。

これで、第3番目の説は当然との結論が出る。

続く。


  [No.98] Re: 大化改新 4
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/20(Tue) 17:24:00

大化改新4
青木研究員 さん 2007/02/10 (土) 05:08
NHK放映の新説「大化改新」に付いて。

この新説は次のような事でありました。

1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 後漢滅亡後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。

次は第4番目の”蘇我氏が外敵から天皇を護った。”という説である。

この説は大化改新1から3までの説でのレポートでお判りであろうと思うが、これを大儀明文にして「反逆」の印象を弱める事に努力していたのではないか。

大化改新1で、朝廷の立場から見れば持つ印象は異なると説いた。
その時の前後の蘇我氏の天皇家に対しての行動を見れば誰でも、”反逆”と印象を持つ事であろう。

このことは蘇我氏でも充分に気が付いていたと思われる。
ましてや、二人の天皇とその一族家族を問答無用で自分の思通りにならない人物を暗殺して来たのであるから充分に知っている。

宮廷を窪地に、自分の館を周囲の丘に4つ作ったのであるから、宮廷に勝るとも劣らずの蘇我氏の館を当時の軍略の常識を破って造営したのであるから、この軍略知識は蘇我氏でも知っている。

このように、内側では天皇家を潰し、外側で護るという説は矛盾している。

だから、この二つの事を捉えてさえも、この新説の様に成るだろうか。又、心のそこから”外敵で天皇を護る”等を口にしていただろうか。

現に、蘇我入鹿を討って後に、中大兄皇子は都を移している。”何故移したのであるか”を考えれば理解が出来る。

もう一つは、この蘇我の入鹿と父の蝦夷という人物とその生い立ちを調べることで、どのような性格や人格を持っていたかはおおよそ判る。

この二つの事柄で検証してみる。

乙巳の変、即ち入鹿が討たれた事件であるが、この時の宮廷は、飛鳥板蓋宮である。
この後、皇極天皇(594-661)は孝徳天皇に譲位し、中大兄皇子は直ぐに難波長柄豊碕宮(難波宮)に移ったのである。

この遷宮した理由は、矢張り蘇我氏の旺盛を極めた飛鳥で変のあった土地から離れたいとする意思は納得できるが、その前にこの根拠に付いては、前記した軍略上まずい配置の形態は将来の戦略上、好ましくないとの配慮が働いていたことは否めない。

なぜなら、これには次の四つの事が言える。

先ずその第1番である。
未だ、戦いをした訳ではないのだから、蘇我氏分家は100%現存しているし、本家の勢力を吸収する事で同じ勢力が成立する。

確かに、蘇我石川麻呂は中臣の鎌足に説得された訳であるが、変の時は躊躇して振るえて動かなかったのである。
だとすると、中大兄皇子の成功した直ぐ後の行動は決まっている。

それは、この軍略上逆転した地形と配置から脱する手配をする事が肝要である。
難波宮に遷宮した時は未だ充分に造営が進んでいたわけではなかった事が日本書紀の資料から読み取れる。それほど急いでいた事が覗える。

その証拠に、変の後3年後に、この蘇我氏の長の蘇我石川麻呂は謀反の嫌疑を掛けられて自決しているのである。
つまり、中大兄皇子は間違いなく警戒していた事を物語るものである。その為にもその蘇我氏の勢力を削いだと見られるのである。

次に第2番目である。
前記しているように、阿多倍の動向は抵抗しないとの伝達があったが、その東漢を含む軍事集団がこの後にどのような行動に出るかは不明確である。
(私は前レポートでも記述した通り、話をつけていたと見ている)

中大兄皇子等は眠れない程に疑心安儀した筈である。
先ずそれには、この地形から脱することであり、より港に近い地形を選び攻められた時は海に逃げる方策を考えていた筈である。

この海に逃げる策は当然に難波宮であるが、この難波宮は、蘇我氏の説であれば、最も外国から攻められ易い位置と地形である。
この遷都と遷宮でも、蘇我氏の説には殆ど信用せず耳を傾けていなかったことが判るのである。
海が近いから交易が出来やすいとの説があるが、交易は唐や朝鮮半島との事になるが、今唐や高句麗等の脅威を蘇我氏が述べている位であるのに、交易が云々ではない。

先ず遷して様子を覗う事としたとも見られる。
この時の様子に付いては、難波宮に遷宮する時は孝徳天皇に相談無しにある日突然に移動している。慌てて孝徳天皇は追ってきた様子が日本書紀にも覗えるのである。
それ程に急いでいたという事である。

第3番目である。
皇族一族と5氏の連合豪族の臣下の動きである。

突然に変を秘密裏に実行したのであるから、周囲の合意は無い。
母である皇極天皇や兄弟である古人大兄王たちも驚いて逃げ去ったとある位である。
蘇我氏の血筋を持つ兄弟や重臣たちがどのような態度に出るか見極めることが次の策として必要である。
ここが中大兄皇子の賢い所の所以である。
それには、飛鳥の位置を外して突然に別に移して周囲の動きを見る事が先決である。日本書紀にはこのことが詳しく書いてある。重臣すら連れて行かなかったと書かれている。

難波宮から様子を覗うことで、この3つの動きを洞察する事が出来るものである。
つまり、遷都ではない。遷宮である。
朝廷は各地に宮廷を造っているが、この時は難波宮に遷したのである。

これ等の行動を見極めた上で安全と見た場合には又元に戻す事をすればよい筈である。

現に、そうしているのである。
孝徳天皇の真正直な政治と自分の政治手法で対立して、直ぐに再びある日、突然に孝徳天皇をそのままに、又、「川原宮」に遷宮しているのである。
多分、この時の考え方の違いは、上記の事への対応の違いにあったと見ている。

そのまえには、既に「川原宮」の造営と「後岡本宮」の造営に掛かっているのである。
そして、周囲の様子を慎重に見極めてから”よし、これでいける”として造営にかかっているから、計算すると2年程度以内である。

この根拠として、「天智天皇」の後一段落したと見て後を引き継いだ「天武天皇」は「飛鳥浄御原宮」に遷宮した戻したのである。
この浄御原宮の所在は未だ確定していないが、飛鳥板蓋宮の上層遺構と見られている。

この3つの前提事が判断できれば、政治の実行即ち、改新政治に取り掛かれる。

そして、歴史は実行したのである。
先ず、蘇我氏残党の粛清である。手始めに蘇我石川麻呂である。

孝徳天皇の精神的病死後、再び、重乍(ちょうそ:再び天皇になる)して皇極天皇が斉明天皇
として皇位に着く。
これより改新が前改新レポートに記述した事柄が本格的に開始されるのである。
殆ど天皇家側では外敵などは意識していない。その前の状況の変化の対応であるから、「外敵」意識は殆ど無かつた事を意味する。
むしろ、”そんな事に騙されるか”程度であろう。
今までそんな事が歴史上でないのだから、有ったとしても、次の2つの経験から説明できる。

一つ目は、初代の天皇となつた応仁大王が難波に襲来した時の「融和」の経験がある。
二つ目は、「阿多倍」等の強力な集団の「帰化問題」の経験もある。

「外敵」新説の問題はある程度の判断と理解をしていた筈である。蘇我氏から言われる程度の話ではない。

このような事から「外敵から護ったという説」は納得できない。

それは次の問題である。
蘇我蝦夷と入鹿の生い立ちと資料から見られる性格判断である。

そもそも、蝦夷の父蘇我の馬子は聖徳太子と共に政治を仕切ってきた。
この時代は未だ、東北の方を大和朝廷は征圧して政権下に無かったのである。
この東北地方と蝦夷地方は清和源氏の源の義家のときまでは「アテルイ」らが支配していた一種の独立国であった。

天智天皇の時に、一応は東北部は坂上田村麻呂や阿倍比羅夫の阿多倍の子孫二人にて征夷大将軍として征圧した。
その後、藤原秀郷の一族による鎮守府将軍として藤原秀郷流青木一族が働き沈静化した。そして、最後に、源の義家がアテルイを騙まし討ちして征圧したのである。

この最初の東北部の戦いに蘇我馬子が自ら出陣して戦ったのである。この時、土地の蝦夷族の娘に子供を宿した。そして、連れ帰って養育したのが、蘇我蝦夷である。
名の通り、蝦夷(えみし)である。

この蝦夷は大変体格がよく大男で大暴れする性格で、大変気が荒く攻撃的で乱暴であつたと言われ、馬子は大変手を焼いたとある。

しかし、馬子の子孫は死に、この蝦夷が残って後を継いだとある。
この性格の蝦夷にたいして入鹿は乗馬と弓が美味く豪傑で大胆で、蝦夷の血を引き継いで、矢張り攻撃的性格を示したと記されている。

当時は、朝鮮人と朝鮮系の渡来人は子供に付ける名前は動物の性格を当てて名を付けるという習慣があったのである。これでも朝鮮系渡来人である事が明白である。

例えば、参考に、カタツムリ(でんでんむし)は朝鮮語である。”つむり”は「頭」という意味で、昔は頭の事を「おつむ」と呼んだ。この「つむり」から来ている。この時代に持ち込まれた言葉である。

それ程に後漢の民と合わせて、蘇我氏のように渡来系の朝鮮人も多かった事が覗え、中大兄皇子の周辺には支配されている人も多く居た事を意味するのである。
中大兄皇子の周辺は渡来人で一杯であった事が判り、非常に「警戒心」が強かった事が覗えるのである。

蘇我の蝦夷(えみし)を除き、入鹿はその名の通りイルカである。名は体を現すである。
この蘇我の親子の二人の性格をもってすれば、大化前後の蘇我氏の動きと政策は判るものである。

例えば、次の史実がある。

天皇の宮殿を凌ぐ自分の蘇我氏大邸宅を”上宮門(かみのみかど)と呼ばせていた事。つまり、天皇家気分で呼んでいたのである。そして、入鹿のことを王子(みこ)と呼ばせたとある。皇子を王子としたのである。
百済では皇子を王子と書くのである。
この多くの史実からも蘇我氏の本音のところは読み取れるし、天皇を外敵から護ったとする説には素直に納得できないのである。

もし、そうだとしても、上記の史実はどう説明するのか新説に聞きたい。それ以上の史実を示していないのである。
私には、きつい言い分であるが、歴史に興味の無い人々への煽動的新説にさえ見え、4つのレポートから見ても思えないのである。

NHK大化の新説は史実に基ずく根拠が極めて薄いとさえ考えられ、史実を曲げる疑義を感じる。

人は、その状況に応じて心理反応が働く。その心理の史実となった行動を調べたこの史実を下にしたレポートを読者はどうお考えであろうか。

続く。


  [No.99] Re: 大化改新 5
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/20(Tue) 17:25:36

Re: 大化改新5
副管理人さん 2007/02/12 (月) 21:40
NHK放映の新説「大化改新」に付いて。

この新説は次のような事でありました。

1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 後漢滅亡後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。


このレポートはNO5に付いてである。

”蘇我氏が唐を意識していた”という説に対して、どの様な疑問を含んでいるかに付いて検証して見る。

唐は618年に出来た訳であるが、その27年後に専横を極めた蘇我入鹿を討ち645年「大化改新」が起こった。
その時の「唐に対する意識」が、天皇家と蘇我氏との間でどの様に理解していたか、承知していたかを調べる事で判る筈である。

中大兄皇子はどの程度知っていたかを示す証拠が2つある。

一つは4人の知識人が皇子の周りに居て助言をしている。

先ず、一人目は「阿倍内麻呂」である。

この人物は渡来人で、阿多倍子孫である。この阿多倍らは620年(唐に中国全土を制圧される前の隋建国で、漢民が朝鮮を含む東部地区に逃げて光武帝が後漢として独立国を作り上げた後、21代目で唐に征圧される。そして、大和国の博多地域に上陸し、瞬く間に九州全土を制圧して中国地方まで支配下に入れた。この時は孝徳天皇である。この間、27年間である。

この子孫が勢力を持ち朝廷内でも豪族として、重鎮と成っていた。左大臣である。
この人物の中国の唐の知識を中大兄皇子の側に居て進言し、これまでも影響与えていた人物である。
この人物は649年に没しているので「大化の改新」前後には充分に働いている。
この人物だけではない。

二人目は、「高向玄理」(たかむこうのげんり)である。

この人物はこの上記の渡来人の子孫である。608年の「遣隋使」として、又「留学生」として学び、改新前の640年に帰国した経歴を持った人物で前レポートで記述した「国博士」として活躍した。

640年は唐建国618年から22年も経っている。まして、唐の進んだ知識と情報を取得している「留学生」である。
そして、「国博士」として中大兄皇子に進講している役目である。

この人物は後に654年に再び唐に入り、「遣唐使」として入唐しているのである。この人物は唐の長安で客死したのである。
645年とは大化改新の9年後である。つまり、この9年とはどの様な意味を持つのであるかという事である。

中大兄皇子に進講し最も信頼されていた人物を手元から話すにはそれだけの意味が有ったことを示す。
改新後9年で再び唐に渡ったのであるから、この9年の意味は蘇我氏と周囲の問題が大方解決が見えて、次の問題に取り組まなければ成らない状況となったことを意味する。

次の問題とは「唐との取り組み問題」の解決に入った事を意味するのではないか。だから、大化改新計画に最も大事な人物をわざわざ唐に送ったと見える。つまり外交使節であろう。
ところが途中で客死(658-659頃)した事で交渉は頓挫したと見る。

この人物だけでも唐の情報は充分に把握していたことは確実である。知らなかったとする説のほうがおかしい。

「国博士」とは、大陸(唐)に渡った経験があり、その役目は「政治顧問」であり、唐の諸制度に通じている人物を言う。

三人目は、「僧のみん」である。

この人物は、遣隋使として608年から632年まで留学した人物であり、「国博士」に任じられており、中国唐の進んだ科学に精通していて大和朝廷の科学分野の進歩に貢献した人物である。

特に暦や天文には優れていて国の時刻の制定を果たし、この知識をもって地形と水と大理石とで標準時計を作ったことでも有名とされている。

この人物は653年まで朝廷に貢献している。大化改新の8年後まで生きている事から、大化の改新の事柄は全て知っている。
唐には24年間留学生としていた事になるので、軍事の進歩と科学の進歩の知識を中大兄皇子に大きな影響を与えた人物である。

四人目は、「南渕請安」(みなみぶちしょうあん)である。

渡来人の学僧で、608年の遣隋使として中国に渡る。
640年に帰国した。唐建国以後、22年間も唐にも居た事になる。

日本書紀にはこの人物の事が詳しく書かれている。
それによれば、中臣鎌足と中大兄皇子は「請安」に教えを受けている事が書かれている。
「大化改新」の計画に多大な貢献をした事が書かれている。
そして、この人物は645年頃没とされているので、蘇我氏の経緯も知っていて教授していたのである。

この4人の人物が中大兄皇子に唐の情報を詳しく伝えていた事は紛れも無く史実である。

この人物が居て中大兄皇子が唐の状況を知らない方が不思議ではないか。
天皇家側は唐の状況を充分に把握していた。わざわざ蘇我氏ではない。

天智天皇は626−671 皇位668−671であるので、中大兄皇子の皇太子執政で最も忙しい時期の前後に4人は貢献していることである。
斉明天皇在位で天智天皇に成ったのは3年間である。
この時、この天皇を補佐していたのは、弟の大海人皇子(天武天皇)と青木氏元祖の施基皇子である。
まして、これらの4人物は唐の時代に成っても20−30年近く唐にいたのである。数年ではその知識も疑う事も出来るが、直且つ、唐の官僚に混じって働いているのである。

その「唐が攻めてくるから認識云々」という蘇我氏の新説には中大兄皇子が聞く耳を持つだろうか。

そこで、今度は、蘇我氏の立場を見てみると判る事が出て来る。

百済は660年に唐と新羅の連合軍にて滅ぼされた。(大化改新は645年)
白村江の海戦は663年である。
大化の改新から18年後である。
大化の改新のときに言い始めたのではない筈で、建造物を周囲に立てる期間からみても10以上前からでないとその理由にはならない事が判る。

前記した通り、蘇我氏は百済の民で渡来人である事はほぼ事実である。

自分の先祖が潰されると言う「恐怖心」があるからと言って、30年(618)も先の事を予想して果たして計算する予測する事が、現実に出来るだろうか。

現代ではないのである。今から1640年くらい前の時代の緩やかな時代である。その時代に運輸手段や情報手段も無い時代に、30年も先の事を予想する事が出来るだろうか。
もし、30年先のことを予想して言うほうが少しおかしいのではないか。

今、読者諸君が30年先の事を、延々として述べても人は信用してくれるだろうか。

まして、相手が周囲の唐のことをよく知っている人から情報を得ているのである。大して理由にならない「故郷」だからと言う理由で述べても、なおさら信用は元からしない筈である。

645年頃は唐が建国して27年も経ち、日本の学僧や留学生が沢山居る。実質、遣唐使である。

唐と連合軍を創った「新羅」がやっと647年の乱で政権が定まったときである。(金春秋)

そんな時の前の乱のときに新羅と唐がやってくるだろうか。まして、海を渡って来るだろうか。
せいぜい、10年位は経って国が落ち着いてからのことでなくては動く事は出来ない筈であろう。
だから、660年である。
それを実行して国を安定させた建国の父とも言われる人物は661年に死んでいる。

このように時代は何が起こるか判らない30年も先のことに付いて論外である。

白村江の海戦の時代は663年である。つまり、新羅が一番弱っていた時で、唐と新羅が百済を滅ぼした疲れた時期である。

645年頃では、海を渡って大和に攻めてくるには、唐は新羅と戦い、潰して新羅と協定を結び、更に、そして、百済を滅ぼさなくては成らない限り、当時としては無理な事である。
まして、これだけのことをやろうとすれば10年は充分に掛かる。663年なのである。

まして、長蛇の遠征となり、食料、水、人馬疲れなどの多くのリスクを持っている。
まして、前記した様に、戦略上、戦艦列島である。
戦いの一番注意しなければならない「挟撃」である。間違いなく「挟撃戦」は起こるは必定である。

そんなリスクのあるところに、やってくるだろうか。

ここで、漢国が崩壊して後に、東に逃げた光武帝が何故に後漢を建国できたかお考え頂きたい。

光武帝が遼東半島と朝鮮半島を征圧しても隋は手を出せなかったからである。余りに東に長い遠征であるからである。現に遠征軍は途中まで何度も攻めて全滅して諦めたのである。これは食料と気候とえん戦気分とで全滅である。三国志や中国史書にも書かれている事である。

このようなことは唐も新羅も充分に知っている。
まして、それより更に長く海を隔てているのである。
戦いは、NHK新説のように、「新しい戦艦」だけでは戦えないのである。
戦いの要は「リスク」をどの様に見るかである。そして、どの様に対策するかである。
(典型的なリスク対策の見本は前レポートの日露開戦の秋山兄弟の作戦である。)

更にこのリスクに付いてはもう一つ証拠がある。
聖徳太子が中国に書簡を送った事である。

「日出ずる国より、日没する国に物申す」の下りである。
何故に小国が超大国にこれだけのことを言えたのかである。
中国は怒った。しかし、どうする事も出来ない。
この聖徳太子時代の書簡に付いては中大兄皇子は良く知っている。(20年位前)

攻めるには、余りにも遠くて、リスクの大きな戦いである事を聖徳太子は当時の戦いの知識から承知していたからである。

以上のように、NHK新説の「蘇我氏が唐が攻めてくると意識していた」の説にはどちらの立場から見ても史実の矛盾と無視とがあり、「疑問」という範疇とを著しく越えている。

次は大化改新6番目の説に付いて述べる。

続く。


  [No.100] Re: 大化改新 6
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/20(Tue) 17:27:04

Re: 大化改新6
副管理人さん 2007/02/15 (木) 19:14
02:14
NHK放映の新説「大化改新」に付いて。

この新説は次のような事でありました。

1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 後漢滅亡後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。


さて、今度は第6番目の問題である。
この問題は上記の「日本書紀は書き足しの編集であった。」である。

先ずこの「日本書紀」について述べると次の様になる。
この「日本書紀」は次の書物から偏纂して構成されている。

第1番目は「帝紀」である。
古代の皇位継承を中心とし、6Cの欽明天皇期頃に成立した歴史書で又、一部に神話的内容が含まれた書物である。
この歴史書は天武天皇期に内容を再検討したといわれている書物である。
「天武天皇期」とは「日本書紀」を偏纂した時で、この時に再検討されたと言われているものである。

第2番目は「旧辞」である。
古代の伝承(歴史的内容)を中心として偏纂されたもので、神話的内容も記述されている。
この書物は「欽明天皇」期頃に成立したものとされているものである。

「日本書紀」はこの二つの歴史書を史実に基ずく部分を偏纂材料としたものである。

「日本書紀」は天武天皇期に「舎人親王」が中心となって偏纂したもので720年に完成している。
別名「日本紀」とも言う。
全巻30巻と系図1巻から成っている。
その内容は、神代から持統天皇(天武天皇の皇后)までのことを収録している。697年までである。

この偏纂者の「舎人親王」とはどの様な人物かと言う事と、又その周囲の出来事や構成や皇位関係なども把握した上で理解する事が、この時期の問題の解明に役立つのである。
これ等のことを充分に理解した上で、この第6番目の新説に対する重大な影響事であるので、その論評を読み判断して頂きたい。、次ぎに述べる。

そもそも、この「舎人親王」は676−735年まで生きた人物で、「天武天皇」の子供であり「天智天皇」の娘の子供である。つまり、姪を后にしたのである。

参考に、青木氏の元祖の「施基皇子」は天智天皇の子供で妥女(女官)が生んだ子供である。
この兄弟姉妹が「{天智天皇」の実の弟の大海人皇子と結婚して出来た子供であるから、「舎人親王」は中大兄皇子にとっては孫であり、甥と言う事になる。

当時は、天皇家の純血を護るために、近親結婚を常としていたのである。

この甥は、後の「淳仁天皇」の父に当る。この天皇は後に父の「舎人親王」を「崇道尽敬皇帝」と追号した。
それだけに偉人であったことを示す。

当時は、歌の最高歌人、名手として有名で、学に高く、その性格は極めて穏やかで、落ち着きのある人物と記されている。
本来ならば、皇位継承に絡む人物であるが、自ら敢えてこの渦中に入る事を好まず、学問に勤しんだとされ、皇子が14人も居た中で、歳を得ていて落ち着きのあるところから、「天武天皇」も大変信頼していた人物であると記されている。

天武天皇の皇子順位からすると、皇太子の草壁皇子、第2位の大津皇子に続き、舎人皇子は第3位の皇子である。

因みに、第4位は長皇子、第5位は弓削皇子(ゆげ)、第6位は新田部皇子、第7位は穂積皇子、第8位は高市皇子、第9位は忍壁皇子(おさかべ)、第10位は磯城皇子(しき)である。
ここで「天智天皇」が行った皇位継承改革の「第2世第6位皇子の臣下方式」により、後を継いだ弟の「天武天皇」は「天智天皇」の皇子も自分の皇子として扱い皇位の列に入れたのである。
本来で有れば僧になり比叡山に登る身分である。

当時は、天皇の妻は「4段階」(皇后、妃、夫人、賓[みめ:ひん])に別れており、次に第5番目として「妥女」(うねめ)である。
これに依って、「天智天皇」の皇子の生き残った二人の「施基皇子」(しき)と「川島皇子」は順位として妻の階級からは外れた「妥女」であるので、第6位と第7位に列せられたのである。

特に「天武天皇」はこの二人の皇子を本当の皇子以上に愛し、信頼し、皇太子の草壁皇子以上に「改新政治」に重用したのである。「日本書紀」の文脈から判る。

そして、この二人の兄弟姉妹の女性の「持統天皇」は「天武天皇」死後も、他の皇子を無視するほどに重用し、信頼し「天武天皇」の葬儀の指揮までも、皇太子をさておき、「施基皇子」に委ねるほどであった。
何か朝廷で問題が起こると直ぐに呼び出して解決させ居た事がこの書紀に書かれている。
私が調べた範囲では「日本書紀」に出て来る人物の中で段突で13回に及ぶ位である。

同じ天智系の皇子(施基皇子、川島皇子)として「舎人親王」も相互にこの兄弟従兄弟として信頼していた証拠である。

「施基皇子」は「伊勢王」として伊勢の青木氏、「川島皇子」は「近江王」として地名から近江の佐々木氏を賜姓したのである。それ程愛していた事が書紀から読み取れる。
(天智天皇のほかの子供は、詔の判別方式では、大派皇子(おおまた)と軽皇子(かる)と伊賀皇子(大友皇子)建皇子(たける)となるが死亡)以上12人(15人)皇子である。

因みに、皇族賜姓青木氏のサイトでもあるのでより詳しく書く。
当時は近親結婚であるのと、詔の皇族の娘は皇女として扱ったので、判別は難しいが、次の通りである。

皇女には、大田皇女、宇野皇女、沙羅皇女、御名部皇女、阿倍皇女、飛鳥皇女、山辺皇女、大江皇女、泉皇女、水主皇女、新田部皇女で、ここまでが天智天皇の11皇女である。

ここからは天武天皇の皇女で、大来皇女(おおくの)、新田部皇女、但馬皇女、紀皇女、田形皇女、十市皇女、泊瀬部皇女、話基皇子、阿閉皇女(あへ)の9人の皇女等がある。
(新田部皇女は重複するが「阿倍倉梯麻呂」の「橘娘」の子供であるので、同じく天武天皇の子にも名付けたと見られる)

これ等の天智天皇の皇女は殆どは天武天皇の妻となるので、その身分は母の身分に比例する。
特に天智天皇は4人の妻の近親婚を避けて全て女官の「妥女」より産ましている。

「施基皇子」は「越の道君伊羅都女」の子供である。つまり、越の国の豪首の娘が人質として女官として天皇家に仕えて子を産んだ事になる。(伊勢青木氏の元祖)

「川島皇子」は「忍海造小竜の色夫古娘」の子供である。つまり、地方豪族の海造(うみのみやつこ:海の官僚)小竜の娘である。(近江佐々木氏の元祖)

ここで、面白い史実を記する。
前レポートの一つの証明になる。

一番目は、「伊賀皇子」即ち、「大海人皇子」と皇位争いで戦った「天智天皇」の皇子の「大友皇子」は、この伊賀国の首長の娘の「宅子」を母親としている。
そして、その母は女官として朝廷に入り、「妥女」として中大兄皇子の子を産んだ。

つまり、何度も書いている事であるが、「伊勢北部伊賀地方」といえば、ここの国を与えられたのは後漢の17県民を引き連れて帰化して来た大技能集団の大隈の首魁「阿多倍」の国であり、その娘子の「宅子」である。
未だこの大化の時期は阿多倍は生きている。

結論としては「大友皇子」は「阿多倍」の孫に当る事になるのである。
天皇家のこの部分までその「阿多倍一族」の勢力は浸透しているのである。

二番目は、次に、中臣の鎌足の仲介説得を受けた、「中大兄皇子」と蘇我氏打倒の味方をした分家首長の「蘇我石川麻呂」は3人の娘を天智天皇に「妃」として差し出している。

一人目は、「遠智娘」で3人の皇女と皇子を産んだ。
「大日皇女」と「宇野皇女」と「建皇子」である。
この孫の建皇子は8歳で死ぬが、斉明天皇に大変に可愛がられて、死んだ後、暫く斉明天皇はうつ病的になるほどショックを受けた事が書紀に書かれている。
この石川麻呂は、「改新」より3年後に謀反嫌疑で自決するが、中大兄皇子は「蘇我石川麻呂」を確実に引きとめていたことが判る。

二人目は、「芽淳娘」で2人の皇女を産んだ。
「大田皇女」と「沙羅皇女」である。
ここで前レポートした「阿多倍」の妻は「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の「娘」を娶り3人の男子を産んだと記したが、その別の姉妹娘である。(賜姓族の坂上氏、大蔵氏、内蔵氏である)

改新後は、「阿多倍」はここでもこの様に網の目の様にどちらにも血縁を堅く結んでいたのである。

このことから、入鹿暗殺の後の行動は明らかに、蘇我石川麻呂も阿多倍も味方する事を事前に鎌足と話がついていたことをし示すものである。

三人目は、「姪娘」で2人の皇女を産んだ。
「御名部皇女」と「阿倍皇女」である。
ここでも、「阿倍」即ち「阿多倍」の一族の「阿倍氏」とのかかわりの娘であるから「阿倍」としたのであろう。
「阿倍」と言う地名から取った名である。そこで、「阿多倍」に関わる「阿倍」の地名は2箇所ある。
一つは、九州の鹿児島と熊本の県境に「阿倍」の地名がある。ここは「大隈の首魁の阿多倍」の館があったところである。
もう一つは、信濃の南の入り口に「阿倍」と言う地名がある。ここは「阿多倍」一族が信濃の開拓に廻された場所である。
では「蘇我氏石川麻呂」とすると信濃の「阿倍」で生まれた子供という事になる。
この「姪」の「郎女」はこの地元で子供を生んだと見られる。
このことも、何重にも3者で血縁を固めている事を意味する。

三番目は、「阿倍倉梯麻呂」即ち、「阿倍内麻呂」であり、「橘娘」である。この娘とには2人の皇女が生まれている。
「飛鳥皇女」と「新田部皇女」である。
「阿多倍」の子孫の渡来人の「阿倍内麻呂」は前記した様に大化期前後に重鎮として「中大兄皇子」に仕えて唐等の海外事情を進言して「大化改新」の立て役者の一人として働いた。
この人物の娘を娶り子供を生み血縁を更に硬くしていることしになる。
このことは「中大兄皇子」に唐の事情のことを進言している証拠である。

そして、この二人の子供は「天武天皇」の后に成っている。特にこの「新田部皇女」は「天武天皇」に可愛がられて居る事が書紀から読み取れる。

四番目は、「蘇我赤兄」の「常陸娘」のある。
子供は「山辺皇女」である。
「蘇我赤兄」は「中大兄皇子」と「孝徳天皇」の皇子の「有間皇子」とが皇位争いをして、「熊野古道」の「藤白峠」の入り口の「藤白神社」の50メーター手前で赤兄に依って絞殺された。この人物である。
「中大兄皇子」の命令である。
蘇我氏の分家筋を血縁で押さえ込んでいた事を示すものである。

蘇我氏の分筋の出方が鍵である事を説いたが、「蘇我石川麻呂」と「蘇我赤兄」との血縁でこの二人の立役者が真に取り込んでいたことがこれで証明出来るのである。

そこで、大化改新の一つである皇族に掛かる費用が朝廷を圧迫していて、この財政的改革を行ったと書いたが、天智天武期の皇族に掛かる費用としては、皇子皇女の数はなんと35人であり、第4世の66の各国に配置している王までの51を入れると86程度にもなる。またその家族を入れた場合は倍は超える。
この皇子皇女族を養うには経済的に無理がある。天皇家の財政(内蔵)は破綻寸前である。
これでは持たない。(それまでは第7世以降は臣下させ坂東に配置した方式であつた。)
これが全ての前記したレポートでの「財政的改革」の引き金に成っている。

そこで、第4世皇子方式から第2世第6位皇子臣下方式とばっさりと切った「行政改革」を実行した。

そこで、次の事を実行した
この第6位皇子に賜姓(青木氏)して臣下させた事。
第6位皇子以降は僧侶、学僧と成り、皇女は皇族系の神社の斎王と成った事。
この第6位皇子を天皇を護る親衛隊として編成して配置した事。
この時、その親衛隊の青木氏に「笹竜胆」の象徴紋を与えた事。
このステイタスとして「鞍作部止利」作の「大日如来坐像」を与えた事。
王位は第4世までとした事。(その前は第6世までであった)

但し、余りに厳しいので、6代後の嵯峨天皇期に、賜姓青木氏は皇族還俗者が名乗る氏とし、変名して第6位皇子には賜姓源氏とする事を決めた。そして、第2世を第4世第6位皇子臣下方式に変更した。
詳しくは以上の改革を行っている。

そこで話を戻すと、
この「日本書紀」を始めとして、「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」以上6つの漢文による天皇家に関わる史書がある。これを「六国史」(りっこくし)と言う。

「日本書紀」は−697年の史料を偏纂し、基本史料30巻で、舎人親王らが720までに編集。
「続日本紀」は697−791年の史料を偏纂し、基本史料30巻で、藤原継縄ら797年まで編集。
「日本後紀」は792−833年の史料を偏纂し、基本史料40巻で、藤原諸継ら840年まで編集。
「続日本後紀」は833−850年の史料を偏纂し、基本史料20巻で、藤原良房ら869年まで編集。
「日本文徳天皇実録」は850−858年の史料を偏纂し、基本史料10巻で、藤原基経ら879年まで編集。
「日本三代実録」は858−887年の史料を偏纂し、基本史料50巻で、藤原時平ら901年まで編集。

日本の史書は「帝紀」と「旧辞」を含めると「8史料から繋がり」をもって構成されているのである。
日本書紀だけ単独で史書と成っているわけではないのである。「繋がり」を持っているのである。

単独ならいざ知らず、連携した史書であるから容易にNHK新説の様には出来ない仕組みに成っているのである。
ここで、本題の「日本書紀」は「追記されていると」の新説であるが、その「追記の事柄」として「文章の変更」と「追記」であるとしている。
この説に対する経緯を述べると容易に理解されると考える。

この説は、1950年(敗戦4年後)の第2次大戦の敗戦で、国内の日本人が持つ「国粋主義思考」を押さえる目的で米国進駐軍(GHQ)が左傾主義の人物を教育界に入れた。
この結果、思わない方向に時代が進んだので、進駐軍は急遽このグループを逆に弾圧したのである。
この思わぬ方向とは、そのイデオロギーを達成するには、「国の歴史」を否定する事が必要で、これになくして「結果平等」を目途とした「共産革命」はなし得ない。そこで、先ずその歴史の基となる上記の史書の否定から入ったのである。
その狙い撃ちにされたのは「六国史」の基の「日本書紀」の否定であり、二つ目は日本民族の基は「アイヌ説」として、「民族の基」を否定したのである。

この二つを否定することで民族は「日本民族」説を否定する事が出来て、「結果平等」が達成し、その基となる「日本歴史」から来る「日本的規範」を乱す事が出来る。つまり、「軌範」は崩れて「民族の繋がり」は無くなり「革命」は可能となるのである。(ロシア革命の前提)
この時、日本史の「日本書紀」はまったく信用出来ない「嘘の史書」とレッテルを貼ったのである。

慌てた進駐軍はこの失敗を隠す為に弾圧したが間に合わなかったのである。
この失政が教育界に長く及び、現代に於いても未だ続いているのである。

しかし、このことを政府は30年掛けて研究し、遺伝子的に、論理的に証拠付けた。
「国体を揺るがす事態」であるので国は対抗策として研究したのである。

そして、先ず、「アイヌ原住民」説の激しい運動は、この研究にて「アイヌ説」は遺伝子工学的に完全否定されて消え、運動も消えたのである。(後日レポートする)
また、日本民族の本来の形を証明し「7つの民族融合から来る単族説」を証明して「民族否定論争」は消えたのである。(後日レポートする)
更に、この「日本書紀」の「デタラメ説」は発掘作業と古代史研究に国家予算をつけて証明が進み、かなり信頼性が高い史書である事が証明されて来たのである。

その証拠には「日本書紀」を改纂すると、上記した六つの史書の連携の矛盾が生まれるのである。
確かに天武期の編集中には一部修正したことが判っているが、後の修正は証明されない。

「間違いが多いとする説」には、大和の者が直接関わったものではなく、この「日本書紀」偏纂には「阿多倍」らが引き連れて来た「秦部」や「司馬部」等の事務官僚の漢民が直接携わって執筆されている事等から本職の者が実質偏纂しているのである。故にに当らないのである。
まして、この時には前記した渡来人の唐の4人の留学生「国博士」が側にいて歴史監修しているのである。
この様にプロ中のプロが集まって行っているのであって趣味的に偏纂したものではないのである。

しかし、ここで、韓国に於いて、決定的な「日本世記」と言う書物が最近見つかった。

この書物は、「中大兄皇子」の政治顧問として百済から派遣されていた(催氏)人物で、この者が「中大兄皇子」の日常の政務を「日記」にして細かく書き知るしていたものが発見されたのである。
この人物が国に帰るときに持ち帰ったものである。

司馬遼太郎氏らの歴史家と国は、この人物の書き記した物が遺されている事を予見して韓国に探すように求めていたのである。これが見つかれば「日本書紀」の内容を確認出来る。
結果、見つかり内容を確認したところ「日本書紀」に書かれている内容がより詳しく、不明点も判明したのである。そして、「日本書紀」の内容の信頼性が、「全面否定」から、8割から九割近い方向に証明されたのである。
またこれにより、韓国文化の日本文化への影響も明確に成る等の影響も出たのである。

NHKの大化改新番組での韓国人の研究者のインタビューの力説はこの点にあったのである。

残る不明点は今後の発掘等の作業から導かれる。

「日本世記」等がこの問題を解決しているのである。

故に、日本人の現代の一個人の者の知識レベルで「ここが間違っている」とする説には同意が出来ないのである。

「字句の前後を変えて間違えた」とのNHKの新説は、漢文専門家によると次の答えが出た。
「文章の強意するところは漢文的には前後する事が手法とする事がある」との判断もあり、日本文でも同じである。決して、間違いではないのである。

まして、「上記の背景」や「舎人親王」の人柄も含めて、我々マニアでさえも上記した様なことの知識は充分知っている。

一度、「日本書紀」を読まれると良いと思う。
NHK新説は、上記した戦後の彼等の常等手段と類似する言い分である。

いずれにせよ、筆者はイデオロギーに偏らず、史実は史実として扱い、それをどの様に配慮して伝えるかによると考えている。
故に、青木氏の歴史史実と由来のより真実を世に伝える努力をしている。

「日本書紀」は、決して「神話的内容」には成っていないし、後で「内容に手を加えた」とする説にも、文脈や文章の流れも字句、語句にも違和感を持ち得ない。むしろどちらかと言うと平易的過ぎるとも思う位であるとの感がする。

何れ近い将来には確率高く証明されると信じている。


  [No.101] Re: 大化改新7−1
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/20(Tue) 17:33:31

Re: 大化改新7−1
青木研究員 さん 2007/02/22 (木) 21:47
大化改新7に付いて検証する。

この新説は次のような事でありました。

1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 後漢滅亡後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。

今回は大化の改新に付いて第7番目の新説に付いてである。(18改革)と(10活動)

この新説は”大化改新は失政であった。”と言うことであるが、どんな根拠で「失政」としているのか明確に説明が無かった。

最早、大化改新1−6までのレポートで失政ででない事をそれを充分に証明していると思うが、あえて反論するならば次の要領で論じてみる事とする。

「失政」という限りは「失敗であった」と言うことなのであろう。何処が失敗なのか良く判らない。論処も無かった。

兎も角、主観的に ”「失政」でない”とするも意味が無い。論理的に検証して証明する。
その為には、次ぎのことを設定する事で立証する。

そこで、「失政」であるのであれば、ます゛次ぎの「2ポイント」に分けて考える必要がある。

ポイント 1
大化改新のきっかけとなった「蘇我の入鹿を討った事」が失敗であったというのであろうか。

ポイント 2
後に行う「大化改新」の「改革の事」が失敗であったと言うのであろうか。

もし、ポイント2の事を言うのであれば、それは次ぎの三つの要件について言えるが、どれが失敗で有ったと言うのであろうか。
     
3要件  1 人なのか、2 時なのか、3 場所なのか この3つが物事の要件(三相)となる。

そして、立証の条件は次ぎの事になる。

条件 1 
この「2ポイント」の事と「3要件」に付いて検証して「失敗」としての意味合いを持つものが出なければ、「失敗」でないと言うことになる。

条件 2
この「失敗」とする定義が、「後の世代に何らかの効果をもたらしている事」が「有るのか。無いのか」を立証すれば良い事になる。

付帯事項
つまり、「改革」がそのものがその時代に「失政」または「失敗」であったとしても、その事自身が後の世に大きな影響をもたらしているのなら、それは、基礎的な時代の礎として評価できる。
兎角、「初期の段階」の「成せる技」は「大きなリスク」を負う為に「リスク」に隠れて「失敗」と一般的に評価されやすい傾向があるが、果たしてどうであろうか。

「大化改新」は余りにも大きな「時代の変革」で有る。
まして、それまでは「原始的な社会」の中に、「律令政治」を導入し、「刑法」と民主的な伝達(「民法」=法令)で民衆を統治し、「行政」というある「一定の規律」で「政治」を行うシステムを敷くのである。

配慮点
それまではといえば、蘇我氏らの豪族の一人の考えで刑罰を決め、その主観で判断するもので、統一された物が無かった社会に、「法」に定めた要領(刑法と民法)にて統治する「客観的手法」を取り入れるのである。
それは、天地をひくっり返すほどであり、大騒ぎになったであろう事は想像出来る。
そのような改革である。現代でも、「改革」とは言え、これ程のものは無い。
「大化改新」とはこれ程の「大リスク」を負っての事であることを承知して、次ぎの検証を判断する事が必要である。

改新の目的
中大兄皇子はこの様な社会を創造したかったのである。それと正反対の「蘇我氏らの原始的な政治」を砕かなければならなかったのである。

では、先ず、どの様な改革を実行したかを前レポート(大化改新2−2)に述べたが、改めて概要を列記する。
(詳細は、大化改新2−2を参照)

活躍した内容
17の改革以外に次ぎのようなことも行われている。
仕事は次の様なものである。(10活動)

1 「全国の国領地の検地」    租税の安定した確保を図り朝廷の基盤を造る
2 「全国の武器の検査」     侍としての基本的な姿勢を確認する
3 「全国の税の見直し」     改新前の粗雑な税体制を改革する
4 「特定地への天皇からの特命」 治世などが乱れている各国に対する督励
5 「全国の争いの調停と平定」  改新前の勢力の修正
6 「全国の領地境目の確定」   領地争いの原因の見直しを実行
7 「重大行事の指揮」      朝廷内の神事や行事と国内外の使節団の指揮
8 「天武天皇の相談役」     政治の難題の相談と調査
9 「皇族間の調停役」      皇族間の勢力争いの調停
10 「斉明天皇への助言」     女性天皇の補佐役
 
以上が大化期の「日本書紀」から拾い出した内容である。

本格的改革は次ぎの通りである。(18改革)

1 「軍略所」としての役職を定める。

2 「国博士」を置いて天皇の政治の補佐をさせる。

3 「内臣」を置く。

4 「東国国司」を置く。

5 「男女の法」を定める。

6 「薄葬令」を定めて身分に基づいた葬儀や墓の規模などを定めた。公地公民の前提を作り上げた。

7 「冠位の制」を改善した。聖徳太子の冠位12階より7色13階、19階、26階、48階とし位階制を定めた。

8 「改新の詔」を定めた。「大化改新」の「行政方針」を4つとして定めたものである。

 4行政方針は次の通りである。

詔の意味
 現在の「行政方針」を新しく敷いて公表したのである。 「民主主義」の原点である。現在のマニフェストでもある。現在でさえも基本方針を発表したのはつい最近である。いかにすごい進んだ民主主義の考えを遅れた民を導く為に伝えたのかが判る。所謂、天皇を中心とする「中央集権国家」である。国を変えようとする心意気がわかるし、豪族による「原始的政治体制」を維持しようとする蘇我氏を倒さねば成らない事が理解できる。

 A 「公地公民制」 
 土地や民は全て国に所属する制度で、土地の官吏は「国司」、「部制度」の官吏は「伴造」「国造」とし行政を明確にした。現在の行政の原型を定めたのである。  

 B 「統一的地方行政制度」
   国と地方の行政を分割してよりきめ細かく施政する様にしたもので、現代の「三位一体」の行革である。

 C 「戸籍と計帳と班田の収受制度」
   民の正確な把握の為に戸籍調査を断行し、土地の測量を行い租税の正確な把握を行った。
   官僚制度を整えて国の国体形態の基礎を築いた。
 
 D 「統一的税制度」
   上記の3つのことで正確に把握した国情を下に弁済使を置き租税の統一と正確の管理を図った。
   大雑把な税体制から確実な計測等のデータで税が徴収(租庸調 歳役等) 

9 「食封」(じきふ)を定めて経費の無駄を省いた。
 官僚の俸禄制度を定めたもので、上級官吏に一定の戸指定(50)し、戸の租税の1/2と調庸2/2を与えた。下級官吏には布 帛(ふはく)を与えた。

10 「防人」(さきもり)を定めて、「職業軍人」とは別に現代にもある「徴兵制度」を敷いたのである。


11 「水城、山城、大野城、さい城、高安城」等の「防備要塞」を築いて防衛拠点を作った。
 唐の来襲を警戒して全国各地と都の周辺に防壁と城を築いた。

12 「近江令」を定め律令政治の完成を目指して律令を発した。
 鎌足らが作ったとされる22巻から成る法令であるが、体系的な法典マニュアルとして作ったものとされている。

13 「御史太夫」を定めて太政大臣などの補佐として特別に補佐役を設けた。
 「改新」の大きさと繁忙さから補佐役を特別にこの天智期に特別に作ったものである。

14 「八色の姓制度」を定めて身分を8つに分けて氏姓制度の充実を図った。
 皇族とその重臣の身分を定めた。真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置である。

15 「皇位継承制度の変更」
 皇位継承は大変な財政的負担と成っていた(天智天武の子供は34人もいたし、他の皇子も合わせると50人程度にもな り、天皇家の財政を担う内蔵では破綻寸前であつた。このため、この原因と成っていた「皇位継承制度」の変更を経費節 減のために改革を断行し実行した。

 其れまでは、第4世皇位継承、第7世下族の「世」方式で第5世はこのどちらにも属するとし、第7世は代替わりにて  「ひら族」とし、賜姓して「平氏族」を形成し、坂東の守護としてに配置した。
 「第4世」方式から、第2世第4位皇子皇位継承として第6位皇子を臣下させ、賜姓(青木氏)して、親衛隊とした。
  即ち、「第6位」方式である。

16 「親衛隊の創設」
 蘇我氏に牛耳られていた反省から、天皇自ら護る軍隊を創設した。
 この後、 15の改革と共に、天武、聖武、文武、光仁天皇までこの制度は維持された。2代後、賜姓源氏とした
 伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の 国の戦略上の主要地の守護としたのである。

17 「飛鳥浄御原令」を定めて律令制度を2度にて進めた。(天武期)
 大宝律令(701)の基となった。光仁天皇の子供の桓武天皇が律令制度を完成させた。つまり、律令制度の完成は初代の 聖徳太子 から7代の天皇がその方針を貫き引き継ぎ完成させたのである。
 その後、嵯峨天皇から5代に渡り見直しの改革が行われて「皇親政治」の全盛期の基礎を敷いた。

以上が大化期の「改新」の改革項目である。
追加として
18  「行政単位の設定」
 地方の行政の単位を「評」(こおり)と決めて、そこに国司を置き「改革」の新党の徹底を図った。
 「東国国司」の「10活動」の「改革の専門官僚」とは別に、通常の「一般行政の役所」の「単位区域」を定めたのであ る。
 それまでは、各国の守護王とその代理の官僚国司との「独断と偏見」で行っていたのである。
 「蘇我氏」の元ではこの体制「独断と偏見の政治」を維持していた筈である。
 この手法の違いが、「蘇我氏」と「中大兄皇子」との真実の原因「軋轢の違い」で起こったのである。

先ず、ポイント1に付いて。
「蘇我氏を討ったことが失敗である」事に就いて。

もし、大化改新1−6までのレポートの論説の通り、天皇家は勿論、朝廷の実権3権(軍事、政治、経済)を牛耳っている事は明らかで、その蘇我氏が生きていたとするなら、上記「18の政治的改革」と「10活動」は成し得ただろうか。

「3権を牛耳っている」中で、殆ど出来ないのが現実である。
急に、蘇我氏の態度が急変する事が有り得るか、又その要素の変化が起こるのであろうか。この様に事をさせないで置く為に3権を牛耳るのである。そうでなければ牛耳る事は無いし、中大兄皇子もそのような感情を持つことは無かった筈である。
生きていては成し得ない改革である。

中大兄皇子はこの過程で、分家の蘇我氏も血縁しながらも排除して、体制を固めたからこそ成し得た事業である。
その判断の基礎は現代の発想ではない。前にも記述した聖徳太子が始めたと言えど、原始に近い社会体制である。
大事を成すには、小事を排除する事は絶対条件の社会である。

では、蘇我氏が生きていたとして、「成し得た」とする改革があっただろうか。史実を並べてみても見つからない。
少なくとも、その存在する影響を受ける50年程度の半世紀の間に。
あるとすると、中大兄皇子と蘇我氏グループの二つの勢力が存在するのであるから、朝廷内が乱れている筈である。

そうすると具体的にはそれは次の事となる。

1 「乱」の有無であろう。
2 「政治の結束」の有無と言う事になる。
3 乱れていれば成し得ない「身分制度」等の政治改革であろう。
4 蘇我氏がいると出来ない改革であろう。

1は「蘇我石川麻呂の自決」は別として「壬申の乱」「白村江の戦い」だけである。蘇我氏が絡む何れも勢力争いではない。
「白村江の戦い」で負けたから「失敗で失政」だと言うのか。
良く考えて頂きたいものである。
   
解説
中大兄皇子に唐の実情を熟知した「国博士」等がいて、「阿多倍」の後漢の民らも政治の実務に携わっている。
まして、隋を潰して618年に唐という国を築いた勢力である。更に高句麗や新羅を潰して勢力下にいれた国である。唐を熟知していた筈で知らない方がおかしい。
しかしながら、極めてこの大リスクの大きい筈の相手の国まで攻め込んだのである。
だから、知って上での戦いである。こんな戦いは馬鹿でもしない。そんな勢いの有る国を連合軍を叩き潰す事などを思う事の方がおかしい。

つまり、だからするとすれば、前記の大化改新1−6で説いたが、戦略上の手段の「先制攻撃」を狙ったと見る。
勝負は別問題である。大和国に攻め込んでくれば「大リスク」を伴う事を念頭に、大和の国の「意思」と「心魂」を唐に示したのである。つまり、これを「大和魂」という。

唐にしてみれば、攻めるには「長蛇の戦列」と「挟撃」と「戦艦列島」の大きな障害があり、「大和魂」の「心魂」がある。これを解決しなければ、もし、失敗すれば、朝鮮半島と 失い、唐の国内の民衆の批判を受けることになり、得策ではない事を計算できている筈である。

だから、「先制攻撃」をしたのであり、これで「唐の脅威」を除いたのである。
その証拠に、直ぐに1年程度で博多から飛鳥までの戦列に防衛網を築いているし、民間の徴兵軍隊(防人)も準備している。反面、直ぐに遣唐使を続けて派遣しているのである。つまり、硬軟両面から対策を採っている。

この事で、唐の心を静めているのである。抜群の「軍略師」である。
「白村江の戦い」は後の時代の戦いの有名な「先制攻撃の見本」になったものである。
前レポートで書いた「日露戦争」はこれを見本にしているのである。
(結果的に、軍師つまり参謀がよかったので完全勝利したが、初期はこの目的である)
「失敗、失政」の話どころではない。極めて「頭脳的指導」であったと考えている。

2は 前レポートで記述した「皇親政治」として朝廷内が「一致結束の政治」を行ったのが何よりの証拠である。

3は「冠位階制度」や「八色の姓」等があり、江戸時代まで維持されたものがある。
4は 経済の実権を握っていた蘇我氏がこれをやらす事はない筈の全国の戸籍制度を2度(庚午年 鑑、庚申年鑑)に渡り作り上げた。

民主主義の無い中国でもいまだ出来ていない「戸籍調査」である。去年やっと行ったが信頼度が低いのである。
つまり、奈良時代の民主主義の根着かないところには成し得ない「調査」なのである。

そのような社会体制の中に、「18の政治的改革」と「10活動」を実行し、それが、55年後に「養老律令」を経て「大宝律令」として仕上がり、150年後の「桓武天皇期」には完成したのである。
そして、大化改新の改革は維持されている。
その後、全て時代に合った改善で、むしろベースにして追加改革が行われた。

結論として、ポイント1の蘇我氏が生きていた事により出来た事は史実上50年間にない。

ポイント2  ”「大化改新」の「改革の事」が失敗である。”に付いて。

「17の政治的改革」と「10活動」に対して、3要件=「人」「時」「場所」を検証して見る。

1 「軍略所」としての役職である。
改革を勧める天皇を補佐してこの役職を設置した。

「人」としては、最も信用できる身内である第6位皇子がこれを担当したが、これ以上の信用できる者はいないし裏切りはなかった。

「時」としては、この役職は光仁天皇まで5代も続き136年もの「皇親政治」で維持した。
しかし、「桓武天皇」は「京平氏」を賜姓したので、次ぎの天皇の「嵯峨天皇」が青木氏に替えて賜姓源氏としたが、結局、京平氏の台頭と律令政治の邪魔になる事も含めて青木氏は衰退する事でこの役務は無くなる。136年も続いたのであるから充分である。 

「場所」としては、天領地で軍略上の5つの街道の主要地を任した。そして「軍事的安定」は元より「主要穀倉地」として開墾させ天皇家の「財政的安定」を果たした。
この主要地は江戸時代までも戦略上、経済上の処点であった。「失政」では無い筈である。

「3相」何れにとっても「軍事、政治、経済」に影響して成功している。特に、その基礎には「10活動」に大きく貢献している。

2 「国博士」を置いて天皇の政治の補佐をさせる。
4人の「阿多倍」一族の者が隋と唐に留学生として滞在して進んだ知識を習得して帰国し、中大兄皇子に進講している。

このことは以前のレポートで述べたが、この「国博士」の人物登用が無くしては改新は成し得なかったし、それこそ日本の現在はなかった筈である。
多分、何時の時代にか蘇我氏らの豪族の「原始的政治体制」の未開の国の日本は他国の侵害を受けていただろう。
それだけの意味を持っている改革の役どころであったのである。
言い換えれば、漢民の「阿多倍」の子孫とその有能な集団なしでは「軍事、経済、政治」共に成し得なかった事である。

この場合は政治部門である。この何処が「失政」なのか。

先ず、「人」であるのか。
この「国博士」4人は「大化改新1-6」で前記したレポートの経歴を持っていた。これ以上で無くてはならないのか。そんな人物がどこにある。逆に何故に「国博士」以下の人物でなくてはならないのか。知る事に越した事は無い筈である。

次ぎに、「時」であるのか。
4人が帰国したのは偶然にも「大化改新」の直前である。私は偶然過ぎると思う。最優秀な人物が3人ともに確率的に偶然が起こるか。起こらない。故に、推測の域を脱しないが次ぎの推測を立てている。

この大化改新の計画を前提に、”事前に呼び寄せていた”と見ている。とすると、この人物無しでは「改革が成し得ない」とみて呼び寄せた考えとなる。「用意周到」である。故に間違いなくこれは「失政」ではない事になる。

そして、「場所」であるのか。
飛鳥板蓋宮から、難波宮、大原宮、後岡本宮、大津宮、浄御原宮と遷して機先を制していてこれに伴い「国博士」らの要人を伴っている。この5−6回もの「機敏な移動=遷宮」は気まぐれに移動したものではないと判断する。
その状況に応じて「臨機応変」に対応したものである。
その証拠に、最後には「浄御原宮」(飛鳥板蓋宮の跡地に遷宮説)に遷宮しているのである。
これだけの事をするには中大兄皇子の意味の無い気まぐれだけでは理解できない事で、間違いなく「国博士」らの「進言」に基づくものである。
(中大兄皇子は上記の「18改革」と「10活動」を実行しただけに「用意周到」と「警戒心」の強い人物で愚能ではなかった)

明らかに、3点から見ても上記の通りに「国博士」の施策と採用は「失政、失敗」ではなかつた事になる。

3 「内臣」を置く。
天智天皇の時期だけに置いた補佐役である。
「18改革」と「10活動」もの大改革と広範囲の改革を行うのであるから当然に必要である。
逆に、これだけの改革を推し進め様とする「強い意志」の現れである。
これを置いていることでも「失政、失敗」で無いことが判る。
自分の時代に何とか改革を行おうとする姿勢の現われであり、そして、その根底には構成に何とかその道筋をつけたいとする「心意気」であろう。

その証拠に、23年間の内、天皇に成った3年間で「後継者」を作ろうとしている。
つまり、「伊賀皇子即ち、大友皇子」に皇位継承を継がせて、自らの「改革意思」を継がせて成功裏にしようとしたのである。

この時代の皇位継承は「血筋」の濃い順位から継ぐ事に成っていたのである。つまり、実の弟の大海人皇子である。
しかし、この時、意思を重んじて「大海人皇子」は「天智天皇」に対し辞退したのである。
しかし、3年後に天智天皇死去後に「壬申の乱」が起こり「大友皇子」を倒して天武天皇となる。
(日本書紀に詳細記述 :しかし、大友の皇子は一時天皇に成ったと説もある)

然し、共に戦ってきて支えてきた「天武天皇」は「天智天皇」の「18改革」と「10活動」の意思を継いで、更に改革を推進している。
そして、その元なる人物を兄の「天智天皇」の皇子の有能な「施基皇子」と「川島皇子」の二人を自らの皇子より重んじて自らの皇子として扱い改革に取り組ませている。

「天武天皇」死後も10人もの皇子がいる中で、この二人の伊勢王と近江王の皇子が「持統天皇」の「行政補佐」をさせている。(以上は日本書紀の記)

「18改革」と「10活動」を維持しようとする姿勢の現れである。

これだけのことを見ても「3相」(人、時、所)からも[失政、失敗」では無かった事を意味する。

4 「東国国司」を置く。
外国、つまり、唐への備えも「硬軟懐柔」で充分にした。朝廷内の「政治改革」を断行した。
しかし、これだけでは改革の効果は生まれない。この改革を地方に浸透させる事が必要である。
この為に、この政治改革の浸透を担当する国司をおいたのである。

当時の始めての改革で未経験のものでありながら、本来なら「朝廷の権威」を背景に「強権」を持って実行させるのが普通であろうが、そうではないのである。専門の国司を派遣しているのである。
「用意周到」と想像を越えた配慮である。

「人」として、この「国司」は上級官僚を選出した。指揮は「施基皇子」「川島皇子」ら「内臣」等が担当する

「時」として、645年末、直ぐに「大化改新」(一年程度)後に各地方に派遣している。

「場所」として、先ず重要諸点の倭国6県に派遣し、その後、東国17県、坂東8県、(東北2県)に派遣している。

「職務」として、先ず、「人口の把握」「田地調査」「民間武器収公」など上記「1−6までの活動の徹底」である。

「18改革」の基礎となるこの職務を徹底して地方に浸透させているのである。

考えてみれば「原始的社会」から初期的な「民主主義」社会への移行である。
考えは正しいとしても基礎が出来ていないのに余りにも施行には無理があると考えるのが普通であろう。
しかし、そのリスクを無くす手法を屈指しているのである。
このことの指揮指導は「施基皇子」らの始動によるが、この「東国国司」を設定して浸透を図っているのである。驚くべき判断である。

「指揮系統」も含めて「職務」、「配置先」、「役職」も明らかに成っている。
今の時代から見ても驚くべき体勢である。今でもこれ程には出来ていないのではないか。

この事と比較して、更に、66国の中を「地方行政単位」として、「評」として定めて「一般行政区域」を行うようにしたのである。(18)
真に、「痒いところに手が届く」である。

これが、「失政、失敗」と見えるのか。見えるとしたら普通ではない。見えるとしたら、他に「心底」に「何か一物」を持っているとしか考えられない。

続く。

5 「男女の法」、6 「薄葬令」等の18までは大化改新7−2に続く。


  [No.102] Re: 大化改新7−2
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/20(Tue) 18:24:00

Re: 大化改新7−2
副管理人さん 2007/03/03 (土) 20:20
この新説に付いては後は次の4つ(7-10)の事が未だ残っています。
それは次ぎの様な事でありました。

(活躍した内容の「18改革」と「10活動」はレポート末尾を参照)
(大化改新の新説 1−6は解説済み 改新7−1は検証済み)


今回の検証
7 天智天皇は失政した。
この新説テーマの7−2です。

次回の検証(7−3終了後に記述します)
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。

今回は大化の改新に付いて上記第7番目の2の新説に付いて、「18改革」の第5番目以降の問題の検証である。
(第6番目から10番目までの項目は末尾に追記)

この新説は上記の”大化改新は「失政、失敗」であった。”と言うことである。

(大化改新1−6までのレポートで失政ででない事をそれを充分に証明しているが更に詳細に次の要領で論じている)


では、続きの第5番目から6番目までの改革に付いて述べる。(第7番目以降第18番目までは7−3で論じる)

次ぎの5番目の改革である。
5 「男女の法」を制定した。

この法令の制定が「失政、失敗」で有るのか、無いのかである。

先ず、この法の内容を記する。
現在の民法の「子供の認知」の法である。

この蘇我氏らの豪族が支配する原始時代に近い社会情勢の中にありながら、この子供の認知のことを定めたのだからかなり進んだ法令である事が判る。

一般の者は別に決めて欲しいと思う事は無かったと考えるのが普通ではないか。
そこを、系譜を定めて人との繋がりを明確にし、人としてのこの世に存在する意義を明確にしたのではないか。
もし、そうだとすると大変な進んだ考えを持っていた事を意味する。
通常の頭脳を持った人間が考えられる物ではない。それは後ほど証明される。

内容
生まれた子供の所属を定める基準を定めたものである。

1 良民の男女の子供の所属は 父に。
2 良民と奴婢の子供の所属は、奴婢に。
3 奴婢間の子供の所属は、奴婢に。

以上3つの基準を定めたのである。

ところで、「奴婢」とは「奴隷」であるが、この時代は「7つの民族」の「融合」から大和の民は構成されていたが、大和の国には近隣の混乱から中国、朝鮮、南アジア、ロシアなどから多くの難民が押し寄せて来たのである。
未だ、5世紀前は日本の全土を統一されていなかった。そのために国間の戦いで負けた民は奴婢となり扱われたのである。
又、外国の混乱から逃れてきた密入国人で各地に上陸した者等が「奴婢」として扱われたのである。

現代では「奴婢」は異常と判断されるが、この時代の「戦いの負け」は「死か奴婢」の選択であった。
特に、大化改新の前までは戦いの一つの「戦利品的内容」の意味合いを持っていたのである。

つまり、第一次産業の生産を高める為の労働力として扱われ国の国力を高める一つの手段であった。むしろ、他国から拉致して生産力を高めようとした時代でもあった。
このために「奴隷」というよりはこちらの「労働力=生産力」の意味が高かったのである。

例えば、天智、天武の皇子皇女は「妥女」(うねめ)より生まれた子供である。
「妥女」はこれも一つの「奴隷」の形であり、地方の小豪族から採った「人質」であり親元の発言の届かない「女官奴隷」であった。

当時の社会は「身分」という「細分化した階級」で維持されていたのである。
つまり、「労働」という括りで「二つの身分」が出来、それを「良民」と「奴婢」とに成って分けていた。この二つを更に細分化されていたのである。

この事の証として次に述べる大化改新7−3のところで述べる「公地公民」の制度がそれを物語るものである。

上記の「社会体制」を理解した上でこの施策の何処が「失政で失敗」であるのか検証する必要がある。

昔の「社会体制」を現代の社会体制の常識で考えれば全ての事が「失政で失敗」となるのではないか。
そんな論理があるのであろうか。
普通は、物事は「三相」(人時場所の条件)を統一したところに論理が成り立つのであろう。そうで無ければ「一物」を持った考え以外には普通は無い考え方である。

現代の「思考」で過去の社会を「評価」する事はそれは即ち、「歴史」そのものを否定する事になるのである。
現代の感覚で評価できるものではない。

「人」としては、「良民、奴婢」の括りが「戦いの掟」での当時の「社会の仕来り」である。
「部制度」等の充実の中、民の全ては「公の民」であり、民でない民は認めていない制度である「公民制度」を施行した事から理解すると問題は無い。

「時」としても、当時としては蘇我氏等の豪族の支配されていた状況の中では「奴婢」は「奴隷」そのものであるが、これを「公地公民」らの制度とあわせて時代を変革し施行したのは、適切であったと考えるのは、当然のことであり時代的錯誤は無い。
むしろ、この時期に蘇我氏を討った目的の一つでもあったのであるから、時期としては天皇の無力化の進行からみると限界を示している。

「場所」として、阿多倍らの後漢民らの渡来系の技能集団の働きで「30/66国の生活力と統治力」が上がり、未統治の蝦夷域を除き、中部以北を大和朝廷の支配下に入った統治地域の安定域の全域に敷いた事は適時適切である。

何処に問題があるかとすると、この「奴婢」で「歴史」を否定する事ぐらいであろうが、これは上記した「当時の社会体制」の所以である。

この事を理解する事とあわせて、次ぎのことを知り理解しておく必要があり、そうで無いと誤解が生まれる。
つまり、この時代の大和民族の「構成状況」とその「融合過程の経緯」を知るべきである。

大和民族の「構成状況」とその「融合過程の経緯」
日本は「単一融合民族」であり、この結果、民族の優秀性はこの「融合」の結果から来るのである。人類は交配するほど優秀な人類が出来る事は衆知の事実であるが、日本はこの交配の最多の民族でそれも「7つの民族」というものすごい数の融合である。2つでも難しくて現代でももめている国も多いのに大変な融合を成しているのである。

当時は、「封建社会」であり、大化期前は「原始社会」でもあり、未だ「7つの民族」が混生して「融合単一民族」に向けて「融合化」が進んでいる最中である。

この「7つの民族」とは、3世紀から6世紀までの間に、日本の各地に民族移動が起こり上陸してきた。

先ず、国がこの遺伝子的、歴史的に分類した「7つの民族」を列記してみる。

1 中国系の民族(15)。2 朝鮮系の民族(20)。3 太平洋系の民族(10)。4 ロシア系の民族(3)。5 アイヌ系の民族(2)。6 南アジア系の民族(10)。7 北アジア系の民族(40) 

以上の7つの「民族の融合族」である。

これだけの民族が融合して単一の融合民族を構成した例は他に無い。
現代世界の乱れの原因はこの「否融合民族」間の争いである。
そこで、先ずは「アジア系人類」の歴史的な移動経路に付いて述べる。

民族(人類)の移動経緯
アフリカで生まれた人類Aは、地球の地殻変動に伴い気候が変化して、アフリカからヨーロッパ南に移動して地中海の縁を経て、アジアに入った。
ここで2つに分流して海岸沿いを経て南アジアに移動して定住したグループAと、更に南下して海洋に出たグループA−1
イタリヤから北側に分流したグループが中央アジアを経てモンゴール経由して東岸に到達したグループBと、
このグループが沿岸を租って南下して朝鮮に到達したグループCと、
グループBの一部が北部に分流してシベリヤの最東岸に到達したグループDと、
このグループが半島を経て樺太に入ったグループEと、
このグループがアメリカ大陸に到達したグループFと、
更にこのグループがアメリカ大陸を横断してパナマを経由して南アメリカに到達したグループGと、
この一部か山岳部に移動したグループHと、
平野部に移動して定住したグループIと、
更に南下して最南端まで到達したグループKとになる。

所謂、コルボックス系の人類の移動経路であり、そこで定住し一つの民族構成を成したのである。


そこで参考として、アジア系人類を比較対照にして理解する上で大切であるので概要を記する。

人類の起源
アフリカで生まれた人類Bは人類Aとはその類人猿は異なる。(ネアンデルタール、ピネカントロプス)
つまりは、猿の本が違うのである。

ところで、猿系は最も進んだ人間、次にボノボ、次ぎにチンパンジー、次にゴリラ系と分かれる。
ボノボは一時、チンパンジーの一種と見られていたが、大変に人間に近い方の猿である事が最近になって判り、チンパンジーから分離された。
このボノボから人間に変化したのではないかと言う説が通説に成っている。顔もチンパンジーより人間に似ている。
原人とはこのような顔をしていたのではないかと思われている。

このボノボは人間の感情と殆ど同じ「喜怒哀楽」を持つ事が判っていて、チンパンジーと生活させて言葉の原語を教えて研究したところ、器具類の変化にて得た文明知識を除けば、人間の持っている本質の知能指数は人間に余り代わらない事が判っていて、チンパンジーに対し人間が猿に対する持つ「優越感」と同じ「優越感」を持って一所にいることへの不満を表し「優越感」を持っている事を原語を使って表現したと言われている事が判っている。
そして、驚く事に、人間に対しては自分ボノボは、何故人間に生まれなかったのかを残念に思っていることが判っているのである。

このボノボが移動中に進化して原人と成りつつ移動して人類と変化してきたと見られている。

一方ヨーロッパ系の移動経路は概ね次の通りである。

この人類Bはヨーロッパに進出し北岸側に移動してデンマーク付近に移動し、更に付近域の北ロシアに到達したグループLがある。このグループLの僅か一部が極寒の中生き残り、東海岸まで到達してカムチャッカ半島を経て北海道と北陸東北一部まで移動して入った。

一方海岸線に沿って移動したグループがとイタリヤ付近まで到達移動したグループとに別れる。

この2つのグループは夫々、地球の地殻変動に伴う激しい気温低下の気候変動で遺伝子と体格と骨格変化を起こした。
この時、北周りのグループは厳寒を避ける為に、食を肉食主体として暖かくして、住居は原野での毛皮のテント生活とし、骨格の額を前に出し奥目にして目を保護し、鼻から入る低温の空気を直接体内に入れないように高くし、下向きにし、長くした。そして、全体毛を深くし、血管を体内深くに入れた。だから、体が白く成る。歯茎は肉食から奥行きを大きくして食べやすくしたのである。所謂、北ヨーロッパ系の人類である。

イタリヤ側に移動したグループは体格、骨格は類似するが、草食生活を選び、岩窟に入り、移動を少なくして厳寒に絶えたが、必然的に熱と食料の絶対量が不足して絶滅に瀕した。

この人類は顎とその頭から顎にわたる筋肉が異常に発達し頭骨格が四角になり、草食にて熱が不足したので体毛は多くなった。
これがヨーロッパ系の2つの人類の民族構成の概略である。

さて、話を戻す。

人類の元は、縄文時代(紀元前4000年頃)の骨格のしっかりした四角頭格で毛深くて目が丸く眉の濃い縄文人(グループB)と、その2000年後に北アジアで進化した人類で、後に入った顔の細い背の高い目の吊りあがった弥生人(グループC)の二つの人類であり、これが原住民となる。
そして、その後の紀元年頃の後の進化した民の3つの民族で概ね構成されている。そして、この紀元前後の進化した民族は次に示す幾つかの地域で進化して日本列島に上陸してきたのである。

それは次ぎの通りであり概要を説明する。

1 中国系民族は、
広大な大陸であるので、南アジアAと中央アジアBと東アジアCのグループから構成されているが、現在に於いても余り融合化は進んでいないのが現実であり、三国志の書籍でも明らかなように民族の戦いの変化で統治者が変わる。

入国の経緯 1−6クループ
この民族は縄文と弥生時代と紀元前までに上陸したグループ1と、日本の国体が出来ていない時代の2世紀から3世紀前半の邪馬台国の卑弥呼の前までに移動して来たグループ2-3と、6世紀中ごろまでの阿多倍らに代表される渡来人より構成されたグループ(4-5)とになる。

3世紀後半は博多や下関付近に上陸したグループ3と、漢が滅亡して2つのグループに漢民は分かれて逃亡した。西に逃げた漢民は山を越えてネパールに入り定住し、一部は更に西に進みベトナム付近に入ったがここで戦いが起こり漢民の一部とベトナム民とネパール民の一部もが海に逃げボートピープルなり、インド洋から太平洋に出て黒潮に乗り長崎博多付近に上陸したグループ4と、更に一部は黒潮に乗り薩摩付近に上陸したグループ5とである。(580年頃)

その後、中国の東に逃げて光武帝が遼東半島と朝鮮半島を征圧して「後漢」を樹立したが、21代後の献帝の時に唐に滅ぼされた。
この時、石秋王の子供の阿智使王とその孫の阿多倍王は、九州北部に上陸し九州全土を無戦の状態で制圧、その後、下関から関西に入り中国地方も征圧して30/66の国を制したが、引き連れていた17県の漢民は帰化した。その後、中部地方の開墾に廻された。
この17県民の200万人もの帰化集団のグループ6とがある。(620-660年頃)

その後、朝鮮半島より下関、博多付近に難民が度々に上陸してきたが、朝廷は国情を配慮して阿多倍の末裔の「太宰大監」がこれを取り締まらせた。(1050年頃)

この中国系の民族は遺伝子的に区分けした結果、全体の15%程度を占めている。

2 朝鮮系の民族は、
この民族の移動経路の人類は主にグループC、D、(E)で構成されているのある。所謂、これ等が融合進化して後の弥生人と成ったのである。

その後2世紀の当時の朝鮮半島は3つ民族で構成されていて、古来、「馬韓」、「弁韓」、「辰韓」の三韓で構成されていた。
現在も地区は同じ分け方である。
その後、中国東部と朝鮮北部に出来た高句麗、朝鮮の中央部東に出来た新羅、中央部西に出来た百済での3つの国であるが、「倭人」として下関と博多と朝鮮半島の南部に交易諸点を割譲して設けた倭人(倭国の交易人を特別に呼んだ)が常駐した「任那」とがあり、この倭人の民は南部半島沿岸部に住み分けていた。

ところが、この朝鮮半島が2度に渡り混乱し、この時の難民が下関や博多に上陸して来た。

未だ、日本全土には統治機構は無く主に4つの域で独立国的国家体制であったので、上陸は統制されていなかった。
「倭人」が活躍している頃の3C末期4C前半頃に、この下関、博多域に入国してくる難民を任那の交易民の倭人の統治機構で海峡管理され始めたのが最初である。

先ず、その前に紀元前に北朝鮮系の民の弥生人が、この日本列島に2つのルートで上陸してきた。一つは下関、博多ルートで上陸してきたグループ1と、新潟、佐渡付近に上陸してきたグループ2とある。これが第1期である。

その後、上記3韓が乱れて、4世紀後半ごろ瀬戸内海を経由して堺港に入り、上陸してきた応仁(応神)王の大船団のグループ3がある。これが第2期である。

この応仁王は、当時、大和国は4つの部族の豪族から構成されており、この関西地方を連合統治していた。
その4つの部族とは、「巨勢族」、「紀族」、「葛城族」、「平群族」、等に依って首長を交代で統治していた。
上陸時、この連合軍との戦いで苦戦、その後、戦略を変更して各個攻撃に変更して、先ず、紀族を制覇した。
その後、紀伊半島を南下して、新宮から奈良盆地に入り、各族を制圧しようとしたが抵抗持久戦となり、結局、和睦した。
そして、この「応仁王」が率いる朝鮮族を加えた5つの族で大和国の域を「連合統治」したのであり、この初代の王と成ったのが、この「応仁王」(応神王)で「応仁大王」となった。所謂、「河内王朝」である。
この「応仁大王」で「初代天皇」として7C頃に定められた。
この時に上陸した「蘇我氏」や「物部氏」らがあり、後には上記関西域の豪族に「蘇我氏」と「物部氏」が加わったのである。

次に、7世紀初期から中期にかけて中国後漢に征圧されていた民の朝鮮族が、「阿多倍」に引き入れられて下関、博多に上陸して来たグループ4がある。これが第3期である。

以上、朝鮮系の民族は大量にはこの3期の民の上陸があつた。
この朝鮮系の民族は遺伝子的区分けした結果、全体の20%程度を占めている。

3 太平洋系の民族は、
所謂、アモイ族である。海洋族と言われる民族で、グループAが更に南下して海洋に出たグループÅ−1である。
ハワイなどの太平洋にある群島に定住した太平洋系の民族が黒潮に乗って2世紀前半ごろに更に流れ着いたところが南九州であった。これがグループ1である。

このグループ1と基からいた北アジア系民族(縄文人)との融合が起こった。

この後に、580年頃に南九州には、別に、漢が滅亡して民族が西側に逃げ海洋に出た一部がインド洋から太平洋の黒潮に乗って長崎、博多付近(中国クループ4)と南九州(中国グループ5)に上陸したが、この中国グループ5のグループ2がある。
この南九州に上陸した漢民と先に入ったこの太平洋族と基から居た北アジア系民族の3つの民族が争い無く融合したのである。
このグループ1とグループ2(中国グループ5)との融合民族は大変に強く、しかし、争いをあまり好まない民族であったとされている。

2世紀中頃は北九州地方に「倭国大乱」が起こり乱れていたが、グループ1と2この間に融合が起こり、その後3世紀中ごろの「邪馬台国」の「卑弥呼」が死んだ後に、グループ1と北アジア系民族(縄文人)の融合民はこの北九州に攻め上がってきて全土を制圧した。

しかし、この「融合民族」は不思議に北九州の土地(狗奴国と邪馬台国)を統治せずに南九州に戻った。これで「邪馬台国」は滅亡したのである。
ところで、征服される前はこの「狗奴国」は熊を守護神として崇め、国を閉ざし、戦う事を嫌う閉鎖的民族が定住していて「邪馬台国」と争っていた。
これが、周囲と融合を図らなかった元から居た北アジア系民族の(縄文人)の狗奴国(アイヌ系)民族である。

この民族は征服されてからは北九州から門司を渡り、中国地方を通過するときこの地を支配していた出雲国に追われて、名古屋地方に出て、元から居た北アジア系民族(弥生人)にも追われて、最後、滅亡寸前で蝦夷地に入り、元から居たコルボックスの東岸に到達したグループBと融合し定住したのである。

4 ロシア系の民族は、
この民族は2つのグループから成り立っている。
そのグループはグループBとヨーロッパ人類の北ロシアに到達した人類が東岸に移動したグループの2つから構成されている。

この民族は蝦夷地と北陸地方までの地域に定住した。
この民は2つの民族から構成されていたが、その一つは白系人(グループL)であり、もうひとつは黄系人(グループB)である。

現在でも、東北北陸地方の人の中には白色の肌をした人は多いがこれは寒いと言うことから起こる遺伝子的現象のみならずこの白系人の遺伝子をも引き継いでいる事からなのである。

北海道では良く”大楽さん”(だいらく)という氏名等のロシア人の名に似た人を見つける事が出来るが、これはこの白系人の遺伝子を持った氏なのである。私の埼玉の友人にいるが明らかにロシア系である。

清和源氏の゜源義家」が「征夷大将軍」となり、この東北北陸以北を征圧統治し勢力圏としていた首魁人物「アテルイ」を藤原氏の力を借りて騙まし討ちしてこの蝦夷域を征圧して鎮圧した。この「アテルイ」はこの系統の人物である。
この人物らの一団は体格が良く背が高く毛深く色白で異人的様相であったと記されている。

5 アイヌ系の民族。
この民族は上記した邪馬台国と対峙していた「狗奴国」の民が南九州の融合民に追われてこの地に逃げついた「縄文系民族」である。
この民族は熊を主神として崇め閉鎖的で他民族との融合を全く図らなかった。
この地に移動しても同じであり、一部グループBとの融合を図った。この二つは元を正せばグループBの縄文系であり、何れも融合を図らなかった事によりコルボックス系の原種とも言われている。現在までも行っていない事から殆ど絶えたに等しい。

ここで、グループBがアラスカを経て南アメリカに到達し山岳地域に移動したインカ帝国を築いたインカ人と、このグループBの遺伝子を色濃く持つ上記の狗奴国とグループBの融合縄文系アイヌ民族とは、国の調査の結果、遺伝子的にこのインカ帝国王の末裔と全く遺伝子が一致したのである。

つまり、閉鎖的な民族のアイヌ民族と、インカ帝国王の末裔も純血を護って王として子孫を遺したので、ともにどちらもグループBの遺伝子的純血を保っていた事になる。
つまり、東岸に到達した時にそこの地点で日本に上陸したグループと、アラスカを経て南アメリカ山岳部に入ったグループとは親子兄弟であったことを意味する。
この大陸のアジア東海岸のここで親子兄弟が左右に分かれたことを意味するのである。ともに純血を守った事による結果なのである。

この”アイヌ系民族が日本民族の原住民である”という運動が25年前頃(1980年頃)から長く学者を中心に起こった。
困った国はこの問題の研究に取り組んだ。
そして、判った結果が上記した「7つの民族」説と「単一融合民族説」と「アイヌ原住民説」を遺伝子的に最近に解明し証明したのである。そしてその民族割合を遺伝子的に出したのである。

この時、このアイヌ原住民説を上記の通り「インカ帝国」の末裔と一致する事を証明した。つまり、「グループBの子孫」と「狗奴国の民」(現代の熊本 狗奴=熊)とする事が解明出来て、「アイヌ原住民説」の左傾学者運動は解明されて消えたである。

6 南アジア系の民族。
上記した人類分類のグループAとグループÅ−1の人類が南アジアに到達して定住したが、この民族が更に移動して来た。
上記した西に逃亡した漢民により追い出されたベトナム民族やネパールなどの山岳民族がインド洋に逃げ黒潮に乗って南九州の薩摩と北九州の博多長崎付近に580年以降の頃に到達した難民である。

7 北アジア系の民族。
紀元前4000年に縄文人(人類グループB)と、その後、紀元前2000年頃の弥生人(人類グループC)が九州と中国、関西、中部地方に分布し各地に定住していた。この二つの民族は体格、骨格、頭格、性格など異なる民族で紀元前頃まで融合が進んでいた。
この2つの「原住民族」と2世紀−7世紀半までに6つの地域から移動してきた民族と融合をしながら「単一民族」化を進めた。

 以上である。

この「7つの民族」が構成されて奈良時代の大化期には5−7世紀半の民族を「渡来人」と呼び、同化には桓武天皇期まで掛かった事が書物による「渡来人」の言葉で判る。
しかし、この実態は、言葉としては残るが、「天皇家」との血縁等や朝廷の官職などの重要職域に成っていた史実から既に同化、融合は完了していたと見る。

このような「7つの民族」の構成中の対立を出来るだけ避けて「同化融合」の方向に向けて進んだ時代背景の中で、「良民と奴婢」の関係がどのような意味を持つかを考えた上で、この「男女の法」を評価すべきであって、安易に現代風に決して「失政、失敗」の説を唱えるべきではない。

6 「薄葬令」
この法令は、646年に発布されたもので、内容は次の通りである。

身分に基づいて墓の規模、葬送の形式などの儀式の要領と基準を定めたものである。

この法令の持つ意味は「身分」を基準に社会を構成し、統治しようとする「政治方式」であり、現代の感覚では理解が難しいが、上記した「7つの民族」で構成し「同化融合」を遂げようとしている社会では絶対的条件である。
何故ならば、この「7つの民族」の「同化融合」の初期段階では、「習慣、慣例、思考、常識」が全て異なるのである。
これは、国としての要件を最も欠けるものである。つまり、纏まり無く国が乱れる前提であるからだ。

それには先ず、上記の生活から来る基本の条件を統一化させる事が「同化融合」の基本戦略となる。
その為には、「男女の法」の「生誕」条件を定めて「身分」と言う「括り」を作って「常識」の一つとしたと事と同じく、逆の本法令の「死滅」の行為の「常識」を矢張り「身分」と言う「括り」で統一させた。

この「身分」と言う「括り」で「7つの民族」の、「習慣、慣例、思考、常識」を統一させて「同化融合」を国家としての方針で断行したのである。
現在ある日本の「単一融合民族」の社会の「習慣、慣例、思考、常識」はこの時代の法令から来るものであってその行為が現代の「世界に冠たる日本」を作り上げたのである。
決して、[失政、失敗」では無いことが判る。
もし、これが「失政、失敗」とするならば現代の日本を否定するに等しい事となる。
つまり、国会でも「命令放送」などで問題に成っているNHKの最近に見られる心に1物を持った歴史否定のイデオロギーに他ならない。

7−18までは大化改新7−3のレポートに続く。

7 「冠位の制」を改善した。
聖徳太子の冠位12階より7色13階、19階、26階、48階とし位階制を定めた。

参考 改革の下に概要を列記する。
(詳細は、大化改新2−2を参照)

「18改革」と「10活動」は次ぎの通りです。

仕事は次の様なものである。
(10活動)

1 「全国の国領地の検地」    租税の安定した確保を図り朝廷の基盤を造る
2 「全国の武器の検査」     侍としての基本的な姿勢を確認する
3 「全国の税の見直し」     改新前の粗雑な税体制を改革する
4 「特定地への天皇からの特命」 治世などが乱れている各国に対する督励
5 「全国の争いの調停と平定」  改新前の勢力の修正
6 「全国の領地境目の確定」   領地争いの原因の見直しを実行
7 「重大行事の指揮」      朝廷内の神事や行事と国内外の使節団の指揮
8 「天武天皇の相談役」     政治の難題の相談と調査
9 「皇族間の調停役」      皇族間の勢力争いの調停
10 「斉明天皇への助言」     女性天皇の補佐役
 
以上が大化期の「日本書紀」から拾い出した内容である。

本格的改革は次ぎの通りである。
(18改革)

(改革1−6は検証済み 次回は7以降 大化改新7−3に記する)

7 「冠位の制」を改善した。聖徳太子の冠位12階より7色13階、19階、26階、48階とし位階制を定めた。

8 「改新の詔」を定めた。「大化改新」の「行政方針」を4つとして定めたものである。
 4行政方針は次の通りである。

 現在の行政方針を新しく敷いて公表したのである。 民主主義の原点である。

 A 公地公民制 
 土地や民は全て国に所属する制度で、土地の官吏は「国司」、「部制度」の官吏は「伴造」「国造」とし行政を明確に  した。現在の行政の原型を定めたのである。  

 B 統一的地方行政制度
   国と地方の行政を分割してよりきめ細かく施政する様にしたもので、現代の「三位一体」の行革である。。

 C 戸籍と計帳と班田の収受制度
   民の正確な把握の為に戸籍調査を断行し、土地の測量を行い租税の正確な把握を行った。
   官僚制度を整えて国の国体形態の基礎を築いた。
 
 D 統一的税制度
   上記の3つのことで正確に把握した国情を下に弁済使を置き租税の統一と正確の管理を図った。
   大雑把な税体制から確実な計測等のデータで税が徴収

9 「食封」(じきふ)を定めて経費の無駄を省いた。
 官僚の俸禄制度を定めたもので、上級官吏に一定の戸指定(50)し、戸の租税の1/2と調庸2/2を与えた。下級官吏には布 帛(ふはく)を与えた。

(第10番から18番までの「18改革」項目は大化改新7−4に記述する)




  [No.103] Re: 大化改新7−3
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/20(Tue) 18:27:08

Re: 大化改新7−3
副管理人さん 2007/03/17 (土) 10:55
NHKの新説大化改新の番組の中で、10項目の新説の唱え、その第7番目の説で”大化の改新は「失政、失敗」”との説を唱えました。その説が余りにも根拠に基づかない新説であるので、「18改革」の夫々について検証して「失政、失敗」の是否を論理的に反論している。

中大兄皇子の大化改新は「18改革」と「10活動」を実行した。

(改革1から6は検証済みで、今回は改革7番目より9まで付いて検証する)

では、先ず中大兄皇子が実行した「第7番目の改革」に付いての検証を進める。

「第7番目の改革」

7 「冠位の制」を改善した。
天智天皇は生没年は626-671で、在位は668-671年である。つまり、天皇としては在位3年である。その間23年間は中大兄皇子として政務(18改革、10活動)をとったのである。
そして、この改革は第7番目の改革で647年である。
この身分制度を含む「7つの改革」は大化改新劇が始まって、2年間の間にその7つの改革までを実行したのである。

この時期は未だ、藤原入鹿の暗殺からまだ政情が不安定である時期である。

改新劇の時に中臣の鎌足の説得で味方に引き入れた分家の首魁の蘇我石川麻呂はこの時は未だ生きていた。
そして、中大兄皇子は石川麻呂の娘を妥女(女官奴隷)にして子供を産んでいる時期に当る。

そして、孝徳天皇との政治手法の違いで軋轢もあり混乱中の混乱でもある。
普通は、こんなときは改革が出来るものではない。

しかし、上記したように大改革の「7つの改革」が適時適切に実行に移されていたのである。
それも、豪族支配の原始政治の時代から未だ半歩も出ていない時でもある。
現代に於いてでさえ、三相(人、時、場所)を考えたら先ず出来ないだろう。

僅か2年間の間に7つもの改革を成し遂げた背景力を考えると、この「三相」が「適時適切」に行動が優れていた事を示すのではないか。

先ず、人である。

1 混乱の中、周囲の力のある人を説得し、そして、それを起案する優れた知識をもつ官僚、更には起案を実行する組織の阿倍内麻呂を代表とする阿多倍らの子孫となる渡来系の人々、
2 全体を指揮統括する国博士、天皇の直接手足となり相談役として働く施基皇子(伊勢青木氏)川島皇子らの「10活動」で活躍した身内の軍略師や内臣、
3 後漢から阿多倍らが引き連れて来た事務を本職とする技能集団の秦氏、司馬氏らの末端の役人、
4 そして、それらを保護するの漢氏、東漢氏、百済氏の阿多倍の渡来系の人々、
これ等の者が一致結束してこそ始めてできるものである。
人の問題だけを捉えてもこれだけの大プロジェクトとである事が判る。

それも「時の問題」としても、

この7改革が2年間の間に猛スピードで処理し実行した事を意味する。
現代でも一つだけでも起案、実行、監査をするに2年も掛かるところを7つもの改革を実行したのである。

そして、その改革を蝦夷地を除く60カ国近い地域に前記した「東国国司」を置いて、この施策を実際に「測量」、「人口調査」や「国境の確定」等の「10活動」など敷いたのである。

場所としての施政地域は次ぎの範囲である。

この時には未だ、東北、北陸、蝦夷地は未征圧である。危険を覚悟で実行している事になる。
最初にこの地域を制圧したのが15年後の阿多倍の長男の坂上の田村麻呂である。
その地域のまだまだ未開の土地でもあつた。
この未開の地域までの近い所まで「民主政治の原型」の政治体制を敷いたことを意味する。

この事はいかに、大改革で、実に多くの人員を投下して、多分、7つ以上のプロジェクトを組み、実行した事が覗える。

又、「国博士」が飾りではなく本格的の知識が最大限に生かされたことを意味する。
高くて広範で進んだ知識と豊富な経験が無くては出来ない
当然にどれだけ中大兄皇子が熱意を以ってして指揮したかが判るものでもあり、これだけ2年間の間の7つの改革を指揮できる人物はそうざらにはいないであろうと考える。
それを的確に、論理的、合理的、数理的に即決判断出来て指示する人物は秀才を超えている。

その間には、政治不安の対応もあったであろう。
現に、蘇我石川麻呂の謀反の嫌疑や孝徳天皇のと軋轢、その勢力下の子供や親族の抹殺、蘇我氏の血縁を持つ皇子の追い落としなども1年後に起こっているのである。と云う事は、既にこの時にはこの粛清の動きは始まっていたことを示す。
燻りから見ると、その時の状況はその真ん中にあった事を示す。真にすごい勢いで猪突盲信の如くである。

この2年間の政争混乱の末に生まれた直接天皇を護衛し、相談役の日本最初の元祖の皇族賜姓伊勢青木氏(647)らの一族もこれに参加したのである。もし、私なら無理である。
いかに相当で天才的な優秀な天皇であったことを証明している。

この様な背景から生まれた為政者のこの身分制度の持つ意味はどのようなものであったかを考えるに、大変重要な判断材料であり、この視点を欠いて判断すると違う結果が生まれる。

「冠位13階制度」
聖徳太子の冠位12階制度の意思を引き継ぎ、この冠位13と19と26冠位と状況に応じて追加をしているのである。
この状況には対応した夫々の意味を持って居たのである。
この政情不安の中、その反動は主に豪族の反動であり、それらを押さえる一つの手段として改新に力を発揮した豪族には、「名誉」という手段で応じた。
聖徳太子の冠位制度を改善して、この大化改新の豪族間の不安定な状況に対応したのである。
そして、これだけではなく、更にこれに姓制度を加味して安定を図ったのである。それが、次ぎの制度である。

「7色の姓制度」
それだけではなく、この時に「7色の姓制度」を新しく付帯して施行したのである。
この「7色の姓制度」は後に、天武天皇が更に充実させて684年に完成させたものである。
明治までこの冠位身分の制度は用いられた。「失政、失敗」であれば個々まで続く事は無いだろう。

それは、次ぎのとおりである。
真人族(まさと)  最上位で皇族出身の者で、第4世までの皇子らに与えられた冠位の姓である。
          皇位継承権の持つ皇子である。
          後の島左大臣の子孫といわれる丹治氏系青木氏がある。 
朝臣族(あそん)  第2位の姓である。
          皇族出身で臣下した第6位皇子らに与えられた官位の姓である。
          賜姓青木氏(伊勢)や後の嵯峨天皇期から生まれた賜姓源氏である。
宿禰族(すくね)  第3位の姓である。
          皇族系で天皇家と直接血縁を保持する一族である。
          元の連姓にあたえられた冠位の姓である。
          例えば橘宿禰として橘諸兄などがいた。
          皇族系の橘系青木氏がある。
忌寸族(いみき)  第4位の姓である。
          始めは直姓(あたい)の族に与えられた。
          各地に赴任する高級官僚に与えられた。
「国造」(くにのみやつこ)「伴造」(とものみやつこ)の冠位の姓である。
          後には、阿多倍らの渡来系の一族に与えられた。
          坂上、大蔵、内蔵、阿倍氏らである。
道師族(みちのし) 第5位の姓である。
          実際には与えられた氏の姓は少ない。
          天智天皇の子供を生んだ妥女の「越の道師君伊羅都女」の父親などがある。
          地方豪族が主体である。(この妥女は施基皇子の母)
          妥女から皇子を産んだ里親などに与えられた冠位の姓である。
臣族(おみ)    第6位の姓である。
          小族であるので確認の書籍が見つからない。
連族(むらじ)   第7位の姓である。
          小族であるので確認の書籍が見つからない。

(天武天皇期に追加)
稲置族       「隋書」の倭国伝の中に記されている。
          道師の更に小族で村などの里長である。
          この10人程度の集団で忌寸の配下に成っていた。
          小族であるので確認の書籍が見つからない。        

当時は氏家の制度を主体としている事から、この様な冠位と姓を受けることで、権威が上がり、官職も上昇し、権力も強くなり、俸禄もを増える。このことは氏一族の発展を意味するのである。
少々の不満があろうと、この一種の餌で収まるほどの不満である。確かに下記の「公地公民」があり、「土地と民」を奪われての不満があった。しかし、これを、「冠位と姓」で埋めたのである。

つまり、「土地と民」の不満>=「冠位と姓」の名誉、 「冠位、姓」の制=「公地公民」の制の方程式が成り立つのである。

冠位制度の変更の経緯は次ぎのとおりである。

聖徳太子の冠位12階制度より開始された。
大化改新の2年後(647)に中大兄皇子に依って変更された。
それが7色13階制度というものである。
その後、更に2年後(649)に19階の冠位制度とした。
そこから15年後(664)に26階の冠位制度とした。
19年後(685)の天武天皇期には48階の冠位制度した。
後に「7色の姓」から「8色の姓」に変更した

この様に次第に冠位を増やしたのは、矢張り、末端まで行き届く制度に変更して下記の方程式にしたのである。
「土地と民」の不満=「冠位と姓」の名誉

このことは、この制度が政治的「不満」という事に効果があったことを意味する。

では、不満という見地以外に、何故にこの「冠位制度」と「7色の身分と姓制度」を定めたのかと言う疑問が残る。
それを検証して見る。

上記したようにこの「7つの改革」時期は「混乱の時期」である。
その中でこの「混乱」を沈めるには「民衆」が納得する「論理的な区割り」をして、力の有無を原則として問わない新しい身分制度というシステムで政治的に統治しようとしたのである。

つまり、このシステムを方程式にすると次ぎのようになる。
「民衆の納得」=「論理的な区割り」<>力の有無 

「身分」や「冠位」や「姓」や「職業別」や「氏族」等で「括り」を作り、夫々に対して「権限」と次ぎに述べる「食封」などと共に、「公平に論理的分配」をする事で「人心の安定」を保ったのである。

これも方程式にすると次の様になる。
「人心の安定」={「身分」・「冠位」・「姓」・「職業別」・「氏族」}*{「権限」+「食封」}

その為には、「10活動」のような土地を政治的主体としている社会の中で、数理的な計測をする事で論理性を出し、衆知が得られるシステムを構築したのである。

現代でも、国会で問題に成っているこの政治的システムである。この時代にこの新しい計測システムを駆使して正確に区分けしたのであり、それも全国的である。

この計測さえも当時の文明では大変なのに、この2年間程度の中で行ったと言うことは脅威と言う以外にない。
不思議なくらいである。おそらく各地では上よ下へよの大騒ぎであったはずであるし、珍しさと未来に向けた期待もあり各地は祭りの如くであっと思われる。また、これを実行する官僚は今の「奉仕残業」どころの話では無かったと想像する。

蘇我氏らの豪族支配による原始的社会制度から、ある程度の民主的な新しい社会体制に移行して生まれ変わるのだと言う日本全国が熱気を帯びていただろう事が想像出来る。

現在の政治改革は過去の見本や履歴がありその延長上の改革である。しかし、この改革は全く新しい履歴の無いところでの改革で有るのだから、中大兄皇子のその指揮ぶりはどの様なものであったか知りたい気持ちに駆られる。
おそらく、人間離れした「機械的超頭脳人間」であったであろう。

この様な雰囲気の中を利用して民衆を掌握して、民衆が納得できる体制を確立したのである。
誰でもが同じと言う古来の原始時代に用いていた「共産主義的な括り」の延長ではなく、「冠位と姓制度」という手段でより進んだ民主主義的要素を持った天皇を頂点とする中央集権的な社会と政治の体制を確立したのである。

今の時代から考えれば、天皇を中心とするという政治体制は異質に感じるが、当時としては当り前の身分と言う括りに納得していたのである。

何故ならば、それは、前記した「民族構成」にある。
「7つの民族」からなる「融合単一民族」へと進んでいる最中なのである。
この「融合」をより進めて、一つにしてこそ政治社会の体制が確立するものであろう。
この「7つの民族」の「習慣や考え方や能力」などは全て違うと言う現象の中で、これを統治する手段はそう多くない筈である。
では、この「7つの民族」のを統治するとしたら、貴方ならどうするかである。

矢張り、私ならば、民衆の「集約的な要素」を分析して、「論理的、合理的、数理的」な「行動」で納得させる。
これを「身分」という「括り」で分類する。
それに、「冠位」と言う「権威」を与える。
「基本的権利」を分別する。
その区分けに相当する「働き」を義務化する。
それに見合う「俸禄(食封)」を与える。
主観的なものを排除した3つの「論理、合理、数理的」な「集約的手段」として納得させる。

そして、このベースとして、「民主的な義務の責任」=「税体制」(後述)の方程式を確立させる。

この「冠位と姓」制度と関連した「税体制」を調べると、実に合理的で細部までに配慮が届いている事が”よくもまぁなるほど”と判るのである。

以上から見て、NHK新設の「失政、失敗」は当らない。
以後、これを見本に、天武、聖武、文武、光仁、桓武、嵯峨の6代の天皇に引き継がれて、「皇親政治」により強固な律令国家は完成したのである。以後も1185年頃までは確実に続けられた。(開始645年)
「失政、失敗」であるのであればこれ程に続く事はありえない。

それこそ、NHK新説そのものがこれ程の客観的史実がありながら「失政」だとする事は、その新説そのものが「失敗」と言いたいところであろう。「新説」は平成の「大不思議」を超えて「平成の大失敗」である。

尚、これにそのすごさを更に証明する改革を用意する。

それでは、先に、第9番目の「食封」(じきふ)の改革から述べてみる。

9 「食封」を定めた。
「18改革」の内の第9番目に実行した改革である。

この改革は上級官僚等に一定の戸(封戸:ふこ)を指定して、その戸が納める租の半分と、調、庸の税の全部を受け取らせると言う俸禄制度で、下級官僚には布帛(ふはく)が支給された。
大化改新の際には大夫(たいふ)以上の官僚に支給したのが始まりである。
これ等のことを正式にこの令で裏付けたのである。

ここで税体制がどの様なもので成り立っていたかを述べると、次ぎのようになる。
税には13のものがあった。

これは天智天皇から天武天皇に引き継がれて完成された税制である。
実に内容が細かく再分化されてこの時代に決められたものかと思う程である。
そして、この細分化され納められたものを収納するシステムまで完成しているのである。

大化改新の税体系(13税体系と2収納方式)


律令下で田地面積に応じて課せられる税であり、田租である。
諸国の正倉に収納されるもので、地方行政の財源となつたものである。
上田(稲の品質を4等分した内の最上級)の1段に採れる公定の収穫量を72束として決めて、その2束と2把を税として徴収した。約3%である。

この3%の根拠は初めて採れる穂を神に捧げる農耕の儀礼を元としているのである。
現在の主税(3-6%)の根拠に近いのである。これは現在の税率が正しいとすると素晴らしい論理的根拠である。


労役、或いは歳役である。
年に10日と定めて、その労役が出来ない場合に納める税で、物納税である。
例えば、その物納は麻布が主であり、3段階に分けていた。個人の労力程度に分類して正丁(10日)、次丁(5日)、小丁(0)としていた。
正丁は2丈6尺である。次丁は1丈3尺。小丁は免除された。
これは、雇役して河川などの公共施設などの増設や修理作業等に支払う財源にしたのである。
目的財源である。現在の自動車税や通行税などの道路特定財源等に当るのである。
今と変わっていないとすると論理的根拠と言える。

調
地方の特産物を物納する税で、品目としては絹、綿、糸などの他に、鉄や海産物などを納めるものである。
正丁、次丁(正丁の1/2)小丁(正丁の1/4)で納税し、畿内は免税である。

歳役
労役そのもので、庸で物納税に代える事が出来る税である。

あしぎぬ
粗い絹織物で、全国から集められる。その内の調の一つでこれを官人に支給される物品税である。

雑徭
これも労役である。正丁(60日)、次丁(30)、小丁(15)地方の労役に従事する。

兵役
徴兵制である。正丁の3人に1人が平氏とする制度で、1戸で1兵士を徴兵する制度である。

衛士
宮廷警備の兵士制度で兵役の軍団から1年任期で選出された。

仕丁
これも労役である。中央の公的造営建設に従事する制度である。50戸に2人を選出した。

運脚
庸調を中央政府に送る運送労役である。食料は自弁である。

贅(にえ)
天皇へ貢納物であるが、山海珍味を納めるもので儀礼的な意味の役。

義倉
備蓄用の米麦粟の等級に応じて納入した。

出挙
稲種を貸付て、利稲をつけて返す制度。

正税
地方財源にする田租で国司が正倉で収納管理する。

以上の労役税、物納税、正稲税の3つに分けて、それを納める段階を3つに分けて、正丁、次丁、小丁に指定し、夫々に課税する方式を採用する方式である。

「消費形体」も確立していた。

労役税は賃金を支払われる事で、地方と個々の戸に貨幣を流通させて、経済の均等化を図っていた。
地方の労役は自弁を原則として消費活動を活発化させた。
労役が出来ないことでは柔軟に物納を代替させて労役の財源としたのである。

「経済方式」も確立していた。

基本的には技能集団による「部制度」で全物品を集めて管理(伴造)し、それを市場に出し、上記の労役で消費させる「基本的な市場経済」になる。
各地に「弁済使」の官僚を置き、税の徴収や稲の管理、収納と運搬の全体の管理をさせた。
担当した氏は主要官僚5氏の伴氏である。

「出挙」等は「国定財源」を恒久的に安定させるシステムであるが、市場経済的な合理的手法である。
この一つ一つの税を見てみると、現在の税の種類と同じである。
若干の手法は時代の進歩と付加価値では異なるが基本の税理念は同じである。
そして、それは「国税」、゜地方税」、「徴兵税」、「運輸税」、「物品税」、「消費税」等に当てはまる。

当時としては個々の物品の技能集団(阿多倍ら支配下)を形成して「部制度」を確立させて、それを「計画生産」させて、市場に出して「消費」させて、「国定財源」を確保安定させ、その税を再び「労役で戻す」方式である。

一部は「社会主義的な生産」をさせて、「消費は市場経済」を採用している事になる。

検証
極めて合理的である。現在でも出来ないのではないか。それを一部蘇我氏ら豪族の力のある者の消費に頼る「原始経済」の状況から、「国民全部」の「市場経済」を確立させたのである。驚き以外にない。

もし、これを「失政、失敗」だとすると、「成功」とはどんなものを言うのであろうか知りたいものである。
NHK新説の「成功」は共産経済を是として「失敗」としていると考える以外にないのでは無いか。

3管理システム
この上記の「13税種」の体系だけでは税は確立しない。
されには、「3つの管理システム」を確立させる必要がある。

それは、「収納」、「搬送」、「消費」である。

この「3管理システム」と「13税種」がうまく連携してはじめて機能は働く。

主要広域な消費システム

消費としての意味合いの強いこの労役税が多いが、これは労役を通じて「民衆の現金収入」と正税の「稲から得られる収入」の二つで生計を立てさせ、その上で消費活動を活発化させて経済システムを構築する為の労役なのである。
この労役は農繁期を外した時期に行われたので、問題は無い。

又、防人(さきもり)等の兵役も各戸の余剰の働き手を吸収しさせる事で、生計を潤させる事ができ、且つ消費が活発になり、国を守る意識を植え付ける事が出来るなどの政策効果を高められる重要政策の一つである。
兵役などは2年と言う短期間に限定して悪影響の出ない工夫をしているのである。

この様にむしろ、この時代では経済を大きく動かす事の出来る唯一の主要政策の位置付けであった。

「正倉」(しょうそう)
地方毎にある「収納倉庫」で、「正倉」(しょうそう)と言う倉庫。公的に財源とした正稲を収納した。

「官稲」(かんとう)
諸国の「正倉」に納められた稲の総称である。国定財源になる。これを運ぶ手段として上記の「運脚」税と「官稲」管理システムとを絡めていたのである。

このように現在の国が仕切る「税体系」と農協が行う「管理システム」とは余り変わっていない。この事から見ると、現在の税システム体系が正しいとすると、「失政、失敗」の改新ではない事になる。

そして、この税体系が次ぎの一定の「根拠」により形成されているのであり、思い付きでの税体系ではなかった。

そこで「根拠」として、次ぎの「8番目の改革」に付いて述べるとする。

民にこれから行う「政治改革」を事前に発表したのである。
現在のマニフェストである。
現在でもまともに出したのは10年前位からである。それを1365年前に発表したのであるから、驚きである。民主主義の原点を1365年前に実行したのである。
さて、その内容はどんなレベルのものであったのであろうか。

「8番目の改革」

8 「改新の詔」を定めた。
「大化改新」の「行政方針」を4つとして定めたものである。

4つの「行政方針」は次の通りである。

現在の「行政方針」に当る様なことを新しく敷いて公表したのである。真に、「民主主義」の原点である。

A 公地公民制 
土地や民は全て国に所属する制度で、土地の官吏は「国司」、「部制度」の官吏は「伴造」「国造」とし行政を明確にした。現在の行政の原型を定めたのである。  

それまでは、蘇我氏らの豪族の支配に有る半奴隷的所有であった民を国の民として位置付けて豪族から支配権を剥奪した。
そして、これ等の民を国の民として上記した労役や兵役、衛士として活躍させ、且つ、市場経済の消費の源としたのである。
更に、豪族が所有していた土地も剥奪して、国の管理の基にしたのである。
土地から来る豪族の利益は極めてなくなったことを意味するのである。
民も地とも国に取られたら、普通は豪族が結束して反乱を起こす筈である。
しかし、実行出来たのである。

当然、何かがあったから出来たと疑問が出る筈である。
この事に付いて、「日本書紀」に詳しく出ている。

この「改革」を推進し、この事を解決したすごい人物が、中大兄皇子と大海人皇子の2人の側に居たのである。それも、身内の子供である。
第6位皇子と第7位皇子である。つまり、「施基皇子」と「川島皇子」である。
各地で全ての争いや問題や揉め事が有ると呼び出している。調べた範囲では「施基皇子」は18回呼び出されて各地に飛んでいる。「川島皇子」もこれに近い程度で呼び出されている。そして、沈静化していることが書かれている。

後漢の「光武帝」より21代目の「献帝」の子供「石秋王」の子供の「阿智使王」と孫の「阿多倍王」らの帰化人が九州征圧して、中国地方と関西の一部を征圧して、この「豪族の反動」は鎮圧されてた。

更に、各地の経済も技能集団の民により「生活程度の向上」に貢献し、「民の不安」を取り除いた勲功で、薩摩を分轄して「大隈の国」と、伊勢国を分轄して「北部伊賀地方」とを作り「2つの領国」を与えた。

日本書紀には「大隈の首魁阿多倍」と「伊賀の衆」と呼ばれて3度朝廷から呼び出されて祝宴している。

この3人(伊勢青木、近江佐々木氏、阿多倍一族)の持つ「大勢力とその活動」が、「豪族達の反動」を押さえた事も言えるのである。

B 統一的地方行政制度
国と地方の行政を分割してよりきめ細かく施政する様にしたもので、現代の「三位一体」の行革である。
むしろ現代より、この時代の方が地方に行政を委ねているのである。
   
その例として、九州全土の政治を「阿多倍」の一族の3人の男子の内の次男の子孫に委ねたのである。
大蔵氏(後の九州永嶋氏)である。そして、現代までも例の無い一氏のこの大蔵氏に「錦の御旗」を与えたのである。
そして、その大蔵氏に対して「遠の朝廷」と呼んだ。どれほど地方に行政を委ねたかが判る。
南の守りとしては、官職として「太宰大監」を代々に与えた。
北の守りとしては、北海道の鎮圧の為に代々与えた藤原秀郷一族の「鎮守府将軍」と同じである。

C 戸籍と計帳と班田の収受制度
民の正確な把握の為に戸籍調査を断行し、土地の測量を行い租税の正確な把握を行った。
官僚制度を整えて国の国体形態の基礎を築いた。

この測量方式は秀吉の検地や江戸時代の測量に採用された方式である。
同じ方式を用いた江戸時代の伊能忠敬の日本地図の正確さを見れば、如何に正確であったかが判る。

現代の中国でさえ、今もまともに行われていない位の難しい難題を解決したのである。
如何にこの官僚と指導者の強い意志が有ったことを示す。
日本人の体質を物語ることである。つまり、”ここぞ”と思うときに出す根気の有る「精神構造」である。

D 統一的税制度
上記の3つのことで正確に把握した国情を下に「弁済使」を置き「租税」の統一と正確な管理を図った。
大雑把な税体制から確実な計測等のデータで合理的な税を徴収した。

この「弁済使」で有名な氏は「伴氏」である。地方の各地に子孫を配置してこの任を実行した。
各地に、この伴氏との血縁族が各地に多い。例えば、九州の最大勢力の「肝付氏一門」がある。
以上の内容である。

これ等の活動のことを、「日本書紀」に詳しく書かれている。

上記の「10活動」はこの政策を実行ならしめる為に、内臣で軍略師の伊勢青木氏の始祖の施基皇子、近江の佐々木氏の始祖の川島皇子が活動したのである。

この「18改革」と「10活動」は、多くの国民が国の変革の為に熱気を持って指示し支えている事が判る。

この改革は、中大兄皇子と大海人皇子の下に、この「3人の活動」から来るもので、現代の「日本の根幹」を作ったのである。

このように、多くの民に指示され、豪族の反動を押さえ、進んだ技術と国政のシステムを駆使して、現代の税体制に類似する政治体制を敷いたのである。

7−3の改革は、何処から見ても「NHK新説」の「失政、失敗」となるのか判らない。事の良し悪しを決める「人、時、場所」の三相の何処が「失政、失敗」なのか勉学の為にNHKに聞きたい位である。

では、次は第10番から検証する。
(18改革)と(10活動)の詳細は大化改新2−2参照

(第10番から18番までの「18改革」項目は大化改新7−4以降に記述する)


  [No.104] Re: 大化改新7−4
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/20(Tue) 18:28:57

Re: 大化改新7−4
副管理人さん 2007/03/27 (火) 21:51
NHKの新説大化改新の番組の中で、10項目の新説を唱え、その第7番目の説で”大化の改新は「失政、失敗」”との説を唱えました。
その説が余りにも根拠に基づかない新説であるので、「18改革」の夫々について徹底的に検証して「失政、失敗」の是否を論理的に反論している。


中大兄皇子の大化改新の概要は次の通りである。

「4つの行政方針」を発表した。
「18改革」と「10活動」を実行した。
「13種税」と「3管理システム」を断行した。

(改革1から6は検証済みで、今回は改革10番目より18まで付いて検証する 大化改新7−4)

では、次は続きとして、先ずは中大兄皇子が実行した「第10番目の改革」に付いての検証を進める。

「第10番目の改革」

10 「防人」(さきもり)を定めた。

職業軍人とは別に現代にもある民の「徴兵制度」を敷いたのである。

九州北部の西海の防備を司る兵制度である。
阿多倍の子孫大蔵氏が司る「太宰大監」(遠の朝廷)に支援し、唐の来襲の警戒に当った。
坂上氏や阿倍氏が率いる朝廷の軍隊と青木氏が率いる親衛隊とは別に、一般の民の者で「対外国防軍隊」を編成したのである。(蘇我氏が訴える対外防備とのレベルが違う。)

一部の豪族が国を守るのではなく、国民全てが国を守るという理念に立って編成されたものである。
これは「4つの行政方針」の一つ「公地公民」の理念から発想されたものである。

一部豪族の集合体で急遽編成する寄せ集めの国防意思の統一が成されない国防軍ではなく、それを専門とする軍隊である。これにより、その「目的と指揮命令系統の統一」が成されて本格的な国軍と見なされる。

鎌倉時代以降はこの国軍もなく蒙古襲来のときなどは、博多、門司付近の豪族の集合体がこれを護った程度で、幸いに台風で蒙古は全滅を余儀なくされた事となり、戦いは小さいもので終わったが、もし、「日本列島戦艦」を抜かれて、補給路がつながれ、全面的に攻め込まれていた場合は、国は護れなかった事であろうことは明らかである。

そのことを考えると、その「国軍」に対する配慮思慮は実に適切であった筈である。

明治初期に英国の援助で国軍が編成されて訓練されて、「南下政策」のロシアに対して、傑出の2兄弟秋山参謀がいて陸海のその巧みな用意周到の頭脳的戦略で、(100%勝てないといわれた)国軍を鍛えたことから日露戦争は幸いにも勝利したのである。(詳細は前レポート記述)

因みに、比較する為に現代はどうであろうか。現代に於いてでさえ未だ自衛隊の「隊」であり、第2次大戦の後遺症が残って50年経っても「完全確立」していない。
しかし、その「近代的戦備力」とそれを補う「工業力」では、「陸海空」では段突の世界第2位なのであるから、後は
「4情報衛星網」と「6隻のイージス艦」(米国24隻、スペイン1隻)と「ジェット戦闘機F105」の世界最高性能エンジンは三菱日本製であり、戦艦は明治以降のトップ造船性能のものである。
後は、「国防と言う意識の確立」だけにある。それは「自衛隊」では無い。意識の反映は名実共に「自衛軍」である。

この時代に、それまで無かった「国防」という意識を「防人」と言う「徴兵制」の専門の「国軍」という意識に変換させて民を納得させたのである。
それは真に、皮肉にも「蘇我さまさま」なのである。
何故か、中大兄皇子の「白村江の戦い」は、唐に対しての一つの「先制攻撃」であり、その「目的」は勝利ではなく攻撃そのものが目的とし、達成されていたことでよかったと以前のレポートで書いた。

蘇我氏が「唐」と騒げば騒ぐほどに中大兄皇子には都合はよいのである。
それは、「白村江の戦い」への「先制攻撃戦」の「民の賛同」は得られ、国民の「国防民意」は出来上がり、究極「公地公民」の「豪族達の反動」を潰す事が出来るという目算があつたのである。

だから、むしろ、どちらかというと「華々しく負ける」ことに意味があった。
勝てば、気が緩み油断が出来て民意はまとまらない。
しかし、負ければ、”これではいかん。何とかしなければ”となり、一致団結して、「国防」と言う意識が生まれて、「防人」の「徴兵制度」がやり安くなり、次に述べる「国防施設等の建設」に民意を得て、政治を改革の方向に誘導し振り向けられるのである。

だから、次の関連の改革が引き続いて出来たのである。
これは、この成功のポイントは「白村江の戦い」に始まり「負けて勝つ」の戦略にあったのである。

この様なことを「無から有」のシステムを生じさせた宰相はそうざらに無い。数えても浮かばない程である。
それが一つではなく、前記、上記から述べてきた「無から有」の「9改革」も実行したとなると、中大兄皇子以外にない。
「失政、失敗」どころの話ではない。政治的には右翼ではないが、実のところ書いていると余りにもNHKの「無根拠」に憤りを覚える。

では、上記の戦略からその国防策のもう一つの内容(改革11)を見てみるとする。

「第11番目の改革」

11 「水城、山城、大野城、さい城、高安城」等の防備要塞を築いて防衛拠点を作った。

唐の来襲を警戒して全国各地と都の周辺に防壁と城を築いた。

「負けて勝つ」の戦略の後に、民の心理作用が覚めないうちに、唐が攻めてくるルーツ上を想定して、そこに防備を効果的に整えたのである。上記した真に日露戦争と類似するのである。
大国唐に立ち向かう中大兄皇子という頭脳(日露では秋山兄弟)と、これから下記する戦略(海はT字作戦と近代砲の開発:陸は騎馬軍団の逆ハ作戦と大砲機関銃)とが一致するのである。

この防塞処置を築くにはその戦略の分析が必要である。先ずその分析に取り掛かったのである。

そのルーツとは、先ずは唐は陸を利用して朝鮮半島から海峡を隔てて門司又は博多付近に襲来する。
当然に戦隊は戦艦でも襲来する。陸は少なくとも補給を前提としてのルーツを使う筈である。
唐から来るには距離的に戦艦ではあり過ぎる。
このためには補給路を開く必要がある。それが朝鮮半島の先端である。
そうなると、この地点から戦艦が日本に向けて移動し始める。
都は奈良となると門司か博多を先ず制圧する必要があり、ここを通過して四国九州の間の沖を通過するには距離的に問題である。
だとすると、瀬戸内海を通過する以外に無い。左右の四国と中国地方の陸を控えて間を通過するには「挟撃」という戦略的に「最も弱い戦術」を覚悟しなければならない。
まして、周囲に島が多いと成ると「ゲリラ戦」を覚悟しなければならない。小回り利かない大きい船隊には弱点である。
更にここは、「潮の流れ」が強いし゜操船術も土地の海に「慣れた優れた者」がいるが全く居ない。
ここで手間取れば、食料や水の補給に欠く事になる。船隊が大きい故の欠点ともい言える。
しかし、ここを抜かれた場合は次は港である。大船隊が泊まれる港という事になる。摂津か堺港であろう。
ここに処点を築き、先ず周囲を征圧する事になる。
征圧する事で水と食料を調達する。
その上で奈良の都に登る事になろう。
直線的に激戦を覚悟で奈良に入るか、紀州から入り各個攻撃で食料と水を確保しながら、南から侵入する背後を突くルーツを使うかに決断を迫られる。
前者は開けたところと狭いところがある。つまり「挟撃と背後襲撃」を受ける可能性が高い。
ダメージが大きいが勝てば短期間で済む利点がある。失敗は全滅である。
紀州周りは船隊の背後を残る無傷の四国中国の軍に突かれる危険がある。

日本側の戦略は、この様に想定した「水理と地理」の必要とするところに兵を貯めて攻撃諸点と築き、見張台を作り、烽火による情報砦を置く。
水軍と地上軍を配備して「ゲリラ戦」を展開する事で防げる可能性はあり地理的、水理的に有利な事が多い。
主な戦術は、「水と食料」を消耗させる事で完全に勝てる。
それには被害の少ない「持久戦」に持ち込む事が必要である。
こちらは水と食料は問題ない。こちらの被害が少なくて相手の弱いところを突けば良いのであるから、当然に夜昼を問わず人馬の豊富なところを利用する「不断ゲリラ戦法」である。
「白村江の戦い」での「先制攻撃」で日本人の強さを知っている。
相手を眠らさないで、精神を弱らせて叩く戦術で、この「先制攻撃の印象」は生きて、相手に「厭戦気分」が芽生えてくれば、迎えれば勝てる。

ただ、欠点がある。持久戦の「兵の戦意」である。
国や家族を護ろうとする「熱意」である。
日本人には”パッと燃えてパッと咲く”という「根強い美的心理反応」がある。「融合単一民族」の欠点でもある。

だから、中大兄皇子は改革10で行った「遠慮深謀の戦略」があったのである。
彼の改革の内容を今まで検証してきてその能力はずば抜けている事を証明してきた。
凡人奇人では成し得ない能力をこの2年という短期間で「7つの改革」を政治的矛盾もなしに指揮して成し遂げているのである。
充分にその「遠慮深謀の戦略」の思考準備は、彼なら出来ると考えると頷けるはずである。

この3つの要素、即ち、「白村江の戦い」の「先制攻撃」と、「侵略経路」上に「防備要塞」を構築し、戦術はルート上での「ゲリラ攻撃の持久戦」の3段構えで待機すれば勝てると見ていたのである。

その根拠に、[過去の経験]から得られた重要な知識が実はあるのである。

日本の初代天皇とされている応仁(応神)大王(天皇)出来事である。(前レポートに記述)
4世紀後半に、朝鮮半島より、不意を突いて、この応仁王が率いる軍隊を含む大船団を組んだ戦隊が、瀬戸内から大阪湾の堺港に入った。
上陸戦は当初、直接飛鳥に入る作戦であったが、周囲の平群族、葛城族、巨勢族らの持久戦のゲリラ戦と挟撃戦に阻まれて食料も絶えつつ矢張り失敗したのである。
そこで、各個攻撃に出た。南端の紀伊半島の豪族「紀族」である。紀族は負けた。そして、ここから水と食料を確保して、案内人を作り、南紀から奈良に入る戦法を採った。

当時、未だ奈良盆地は中央に琵琶湖に匹敵する湖がありその周辺に民は生活圏を作っていたのである。
(後に湖は地盤沈下で無くなる)
そこを南から進入して各個攻撃で襲撃した。この場合は奈良盆地は地理的地形が最の弱点である。
周囲から潰されてきた。慌てた4族の連合軍が奈良飛鳥に集中し、湖を挟んで持久戦に持ち込んだ。
こうなると、応仁王の戦隊は「水と食料と疲労の厭戦気分」の問題が起こる。弱点が生まれた。
港にある船隊との連絡が取れなくなる。紀族が息を吹き返し背後を突かれる可能性もある。勝利に近いが急がなくては全滅の危険もある。
止む無く、停戦し、和合策に出た。
話し合いが始まった。結局、4族と応仁王族の帰化で決着し、その5族による「連合政府」を作り上げて、その「連合王」を「大王」として呼び、初代の大王にこの「応仁大王」が着いたのである。
後に、この5族との血縁関係を結び融合政策が成功した。そして、ここより応仁大王系の百済を始めとする朝鮮系の物部氏や蘇我氏の豪族が生まれたのである。続いて女性の仁徳天皇が誕生する事となったのである。

この歴史を中大兄皇子は150年程度後であるが学んで知っている。
この知識から「不意」を突かれ無くして「防備」をすれば、侵略は難しいことであると考えているのである。

しかし、現実は危険はあるが、前レポートでも書いたが、先ず来る事は無いと見ていたはずである。
これ程のリスクを覆う「侵略攻撃」は避けると見ていたと見る。

その証拠に、同時期に直ぐに遣唐使を合わせて中国に派遣している事が何よりの証拠である。

来ると見ていたなら、敵に派遣する事態が無駄である。
派遣した事は、来ないと見て遣唐使を出したのである。
つまり、「硬軟両面からの政策」である事が判り、これまた「改革実行」の上で都合がよいのである。
民には”来るぞ”と心理を働かせて緊張感を持たせて置き、前代未聞の「18改革」に移ることこそ、その目的に沿っているのであるから。そうでなくては18もの改革が成し得ない筈である。

現代まで、「無から有」の「政治的改革」で「18改革」も実行した宰相は居たか。否全く居ない。

このことから見ても「失政、失敗」の糸口すら見出せない。”よくもまあ”と感嘆そのものである。

次はその背景下での国造りの本題である。

国の中が、やるべき事はやって準備整えて掛からないとこの法令は法令で終わる。そうでなければ民は安心して法令を護れないであろう。法令というシステムにまったく未知の政治に慣れていない民にとっては”それどころの話か”となるは必定である。

「第12番目の改革」

12 「近江令」を定め律令政治の完成を目指して律令を発した。

668年に中臣鎌足等が作ったとされる22巻から成る法令集であるが、体系的な法典マニュアルとして作ったものとされている。つまり、いきなり法を作っても慣れていない官僚の執政施行は難しい。
そこで、急劇に増えた官僚の種類と数のためにその行動マニュアル的な心得を書き印したものであった。

律令の解説書である。
前レポートでも書いたが、律は刑法、令は民法、他に格は政令、式は律と格の細則規定で条例である。
これ等の施行細則で、施行する時の要領書である。
施行が疑問視されているが、要領書であるので施工は無い。

つまり、豪族の主観を主体として刑罰を科していたが、これを無くして律令政治に慣れていない社会にいきなり施行するのではなく緩衝的に導入しょうとしていたのである。
当然、施行する者、裁く者、裁かれる者、刑を実行する者など全てこれに関わる者は経験がないのである。
必然的に混乱は起こる。これを沈めるためのマニアル的な要領書である。
これも、用意周到で失敗のリスクを将来に於いて大きいことを計算の上で、この書を定めたのである。

特に天武天皇はこの辺の完成を目指した事が判っている。つまり、矢張り当然に問題が多くあったのであろう。

遂には、近江令から文武天皇に引き継がれて33年後の701年には修正して、本格的な「大宝律令」が完成して、30年で民は慣れたことを物語る。
これで民主政治の基幹が根付いたのである。
そして、120年後の桓武天皇の時に「皇親政治」による本格的な「中央集権的民主政治」が完成したのである。
6代の天皇に引き継がれて完成したのである。
(この間に5家5流の青木氏は最大の勢力を誇ったのであるが、これが災いして桓武天皇期には圧迫されて衰退した。)

以上のような目的をもって、この後に引き継がせるこの書の配慮も見事である。
「失政、失敗」を何とか無くす配慮であるからNHKの指摘は当らない。

軍事、経済、政治の3権を改革して行くのであるから、太政大臣だけでは繁忙すぎてそれこそ失敗を起こす。
それを、天皇の補佐役の「内臣」とあわせて、実務の大臣には次の補佐役が設けられたのである。
これが、次の改革である。

「第13番目の改革」

13 「御史太夫」を定めて「太政大臣」などの補佐として特別に補佐役を設けた。

「改新」の大きさと繁忙さから補佐役を特別にこの天智期に特別に作ったものである。
天皇の「2つの補佐役」や「重臣の補佐役」を設けるなど如何に大改革であったかを物語るし、その思考が柔軟である事が覗える。

これは直接の改革ではないが、「行政形態」としては大きな意味を持っている。
これだけの短期間で、且つ未経験の改革施行をするのであるから指揮指導は一人に限定する事は無理である。
別の意味でこの改革の位置付けが「戦略上極めて重要」な意味を持っている事に気付くのである。

つまり、初めての改革であり、失敗は次に行う改革の推進に大きな影響を持つ。民は懐疑的になり賛同を得られ無い事が起こり、むしろ過去の豪族支配の原始的政治形態の方に向かう事が、民に心理的に起こる。
これは場合に依っては、未来の日本の「政治形態の良悪」に関わる問題でもある。

その意味で、この「補佐役」は「忙しいから設ける」という問題だけではない重要な「政治形態」の「補佐役改革」である。
ここにも、「失政、失敗」の歯止め策が働いているのである。
確かに、「失政、失敗」の懸念があって、ただ改革を強引に導入すると言う手法では無かったのである。

この意味でNHKの新説「失政、失敗」の説は当らないのである。


次の改革は大化改新7−3で説明した「7色の姓制度」を、更に追加して進化した社会情勢に即応したのである。
天武天皇が即応してこれを定めたことは、天智天皇の「7色の姓」は成功して地に着いていたことを物語る。

「第14番目の改革」

14 「八色の姓制度」を定めて身分を8つに分けて氏姓制度の充実を図った。

皇族とその重臣の身分を定めた。真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置である。
そして、その身分にあった「行動と責任の所在」を明確にしたのである。
「社会の構造」を7つから8つに分けた「役割分担」でもある。

例えば、賜姓青木氏や賜姓源氏は「天皇」や「天領地」や「国体」を「保全する主要幹線国」を護る「親衛隊」の「護衛役」である。(伊勢、近江、信濃、美濃、甲斐の国等)他には、藤原秀郷一門の役割は「朝臣、宿禰」などの身分で24国地方に対する国司役や守護役を担ったのである。
(「青木氏の官位官職と職位の研究」を参照)

この様に「姓」(かばね)の身分のみを定めている事のみならず、その「姓の役目」を定めているものでもある。
この様にして社会の必要なところの「役目」を果たさせる事で「国の安定」と「民の安寧」を保とうとする政治形態なのである。
5家5流の賜姓青木氏と嵯峨天皇から始まった11家11流の賜姓源氏は、各代の天皇の第6位皇子であるので、この「朝臣」(あそん)に当るが、その中でも青木氏は上位である。

この身分制度は、後には社会の変化に対応して更に細分化されるのである。

この政治形態は江戸幕府まで続いたのである。「失政、失敗」でなかったから1000年も続いたのである。


「第15番目の改革」

15 「皇位継承制度の変更」

皇位継承は大変な財政的負担と成っていた。
(天智天武の子供は34人もいたし、他の皇子も合わせると50人程度にもなる)

天皇家の財政を担う「内蔵」では破綻寸前であつた。(行政単位は斎蔵、大蔵、内蔵の3つに分類されていた)
このため、この原因と成っていた「皇位継承制度」の変更を「経費節減」(天皇の護衛役含む)のために「財政改革」を断行し実行した。

多分、皇族関係者からの第6位皇子以下は、平民化するのであるから反発は大変なものであった筈である。
この「改革」で、第6位皇子から臣下して賜姓を受けて、初代の青木氏(伊勢青木氏 天皇家の守護神の伊勢神宮の守護)が発祥したのである。(伊勢青木氏は左右兵衛府の官位と民部尉官位)

これ等が、「第14改革」の「朝臣」に相当し、その役目を担ったのである。

其れまでは、第4世皇位継承、第7世下族の「世」方式で、第5世はこのどちらにも属するとし、第7世は代替わりにて「ひら族」とし、賜姓して「平氏族」を形成し、坂東の守護として配置した。
これが、「坂東八平氏」族である。
これと比較して阿多倍末裔の渡来人系の「京平氏」の「桓武平氏」(たいら族)とは混同されている。

「第4世」方式から、第2世第4位皇子皇位継承として第6位皇子を臣下させ、賜姓(青木氏)して、親衛隊とした。
この賜姓青木氏であり、伊勢の青木氏(始祖 施基皇子)としたのである。
即ち、「第6位」方式である。
第6位以降は下族(比叡山僧侶、門跡寺院僧、守護神の神社の斎王)した。
この方式は、嵯峨天皇期に一部変更修正されて実質上は花山天皇まで続いた。
(第2世から第4世第6位皇子に変更 青木氏は皇族系の宿禰族まで名乗れる氏とした 実質は室町中期まで護られた)
(青木と源氏の賜姓族は16代 人数17皇子18皇女)

初代の賜姓伊勢青木氏にはそのステイタスとして、「鞍作止利」作の「大日如来坐像」(伊勢青木氏の宗家保有)の仏像与える事とした。そして、王位は4世までとした。(これまでは6世まで王位であった。)

この様に財政的に負担を少なくすると共に、身内を下族させて侍として周囲に配置して、目配りして天皇を護る体制を作ったのである。
これで改革に対する周囲の民や豪族の反動を押さえる仕組みを作って推進していった。
都の付近(伊勢、近江、信濃、美濃、甲斐等)にはより親族(第6位皇子)を王位として、代々天皇の代替わりに発生する7世以降の親族には遠方の坂東地方に配置して国内を固めたのである。
西域は、この改革の中心種族の渡来系の大隈の首魁の阿多倍が率いる200万の集団に任せた。
この西域は32/66国に相当するのである。
九州はこの一族に「錦の御旗」を与え、「太宰大監」として官位を与え、「遠の朝廷」と名付けて3権を任したのである。(後には天皇家と血縁し賜姓を受けた)

改革は「行政」だけでは無く、「治安」という点でも改革したのである。

これで地方の豪族は手が出せない。この環境の中で「18改革」と「10活動」を安心して遂行したのである。

これがNHKの言う「失政、失敗」なのか。それが何処に存在するのかよく判らない。あるとすれば体制そのもの否定する左傾の社会システム以外に無い気がする。

「第16番目の改革」

第15番目の改革に伴って34人もの皇子や皇女がいる。
第6位皇子を含む彼等の処遇をどうするかで不必要な反発が生まれ、それに乗じて改革で利権を奪われた不満を持つ豪族達が騒ぐ可能性は充分にある。
阿多倍らの最大武力を保持している大集団を味方に引き入れての改革なので、豪族達は手が出せないで居るが、間違えれば皇子を味方に引き入れての内乱となり得る。
蘇我石川麻呂が大化より3年後に謀反で自決しているが、この改革は2年後であるとすると、この蘇我石川麻呂の謀反は明らかに成っていないが、上記の内乱の嫌疑を掛けられたのではないかと推測する。

その内乱とは次の事ではないか。
蘇我石川麻呂は3人の娘を中大兄皇子に妃として差し出している。そして、一人の皇子と5人の皇女を産んでいる。
この皇子は建皇子である。8歳で死んだ。(大化改新6で記述)この時点では5−6歳程度である。
この建皇子は祖母の斉明天皇に一番孫として特別に大変に可愛がられており、死んだ時には斉明天皇はうつ病に成った事が日本書紀に詳しく書かれている。蘇我石川麻呂にとっても孫の一番皇子である。
この皇子を担ぎ上げて”内乱を企てた”と嫌疑を掛けられたのではないかと推測している。

そのためには、皇子たちの上位に立ち行動力と指揮力のある有能な二人(施基皇子と川島皇子)に委ねて残りの6人の皇子を掌握させる必要がある。この6人の皇子を取り込んでおけば、豪族達は皇子を旗頭に祭り上げる事が出来ない。
その二人(第6位と第7位)に「権力と武力」を与えて天皇を護ると同時に、皇子達も見張らさせたのである。
それが、次の改革である。

16 「親衛隊の創設」
蘇我氏に牛耳られていた反省から、天皇自ら護る軍隊を創設した。
上記のこれが第6位皇子の青木氏である。
この青木氏は伊勢神宮のある伊勢国の王として守護とした。
伊勢を「不入不倫」の天領地とした。
(後に、天武天皇が伊勢神宮を護り本尊として正式に詔を出して定めた)

この第6位皇子には伊勢王(青木氏)として、天皇家の守護神を伊勢神宮と定めて、この地を任せてこれを護らせた。
第7位の皇子には近江王(佐々木氏)として、近江宮の近江神宮を守護させたのである。
(後には、賜姓源氏の清和源氏の守護神となった。)
大化期の宮廷と守護神があり、交通の要でもあり、天領地のある大事な2つの戦略上の政治ポイントを抑えさせたのである。
ここから6皇子達の動きを見張ったのである。

この二人の事は日本書紀に10−13回も出て来る。
この内容を見てみると、天智天皇や天武天皇は、皇太子を含む第5位皇子までの皇子よりも、この二人に対して実に信用し信頼して度々呼び出して役務を命じている(10活動)。本来は皇太子の役務であるのに。

その内容を分析すると上記の様な全体の思惑が理解できるのである。
舎人親王はこの様な思惑を忍ばせたかったのではないかと私は見ている。

この後、上記15番の改革と共に、天武、聖武、文武、光仁天皇までこの制度は維持された。
伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の国の戦略上の主要地の守護としたのである。
この開拓には阿多倍の支配下の漢民の技能集団(馬部、山部、磯部、鞍部等)を遷して大きい外来馬を飼育し開墾した。(日本書紀に記述)

5代も続いたこの制度が何故に「失政、失敗」なのか。
100年以上も維持しているのである事を考えも「失政、失敗」ではない。
NHKに教えて欲しいと言いたい。


「第17番目の改革」

17 「飛鳥浄御原令」(689)を定めて律令制度を2度にて進めた。(天武期)

701年完成の「大宝律令」の基となった。
天智天皇が没して後に、弟の天武天皇は都を元の飛鳥の浄御原に戻して政治を執り行った。
この説には他説があり、元の位置より違う所に立てたと言う説と、同じ位置に立てたという説の二つがあり現代でも確認出来ていない。天智天皇から4度目に遷宮している事になるが、これは政治上と地形上の考えがあり遷宮した。
しかし、ほぼ政情と律令国家の骨格が出来上がりつつある事から、天武天皇はこの出発点を歴史上の位置に戻して、ここでこの骨格完成の「飛鳥浄御原令」を発布したいと考えての事であろうと推測する。

その後、この「令」は嵯峨天皇から5代に渡り「見直しの改革」が行われて「皇親政治」の全盛期を迎えるのである。
そして、そして、その経緯は(中国の律令制度も参考に)「大宝律令」(701)の基となったのである。そして、「養老律令」(757)と続くが、この律令は一部修正された程度である。

更に「時代の変化」と共に、「修正追加」を加えて光仁天皇の子供の桓武天皇が「完全な律令制度」(794)を完成させた。つまり、律令制度の完成は初代の聖徳太子から7代の天皇がその方針を貫き引き継ぎ完成させたのである。(170年)

その後、「嵯峨天皇」から5代に渡り見直しの改革が行われて「皇親政治」の全盛期の基礎を敷いた。
(桓武天皇の母はこの阿多倍の孫に当り、「高野新笠」と言う。光仁天皇の妃である。光仁天皇は第6位皇子の施基皇子の子供である。施基皇子は伊勢青木氏の始祖 この桓武天皇の圧力で伊勢青木氏は衰退する)

この改革もNHKの新説「失政、失敗」の言い分は170間の時代の変化と共に修正追加を加えて更には中国の進んだ律令をも参考にして完成させたもので、何処に「失政、失敗」があると言うのであろうか。この長い期間に多くの人間の知恵が関わり、民と社会の変化に対応して仕上げたものを「失政、失敗」とするは不尊極まり無しである。
中国の律令も参考にし、且つ、阿多倍の子孫等の中国漢民が編成の実務に関わりて完成したのであるから、中国の律令も「失政、失敗」と成るではないか。


「第18番目の改革」

18  「行政単位の設定」

地方の行政の単位を「評」(こおり)と決めて、そこに国司を置き「改革」の浸透の徹底を図った。
「東国国司」の「10活動」の「改革の専門官僚」とは別に、通常の「一般行政の役所」の「単位区域」を定めたのであ る。
日本の「地方行政区域」は、「七道」制として、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海に分けた。
特に、畿内に対しては、「特別行政区域」として設定し、大和、摂津、河内、山城、(後に和泉)の4区域(5区域)に分けた。「5畿」と呼ばれた。

「国」と」「評(郡)」と「里」の単位であった。
「評(郡)」には「評(郡)司」(こおりつかさ)を置き、「里」には「里長」(さとおさ)を置いた。

これ等は「行政と司法」を担当したのである。
1里は50戸で、2−20里で評(郡)、4−5評(郡)で国を構成するとした。

「国」は大、上、中、下の「4区」に分け「国司」とし「中央官僚」が担当し「国府」を置いた。
「評(郡)」は小を加えた「5区」にして「地方豪族」を「評(郡)司」として「評(郡)家」を置いて任せた。
(地方豪族の権利を奪われた不満はこれで納まる)
「国司」は「守、介、えん、目」の四等官で構成し、任期は4年である。
「評(郡)司」は「大領、少領、主政、主帳」に分けられて四等官で構成し、任期は終身である。
「里長」は地方の「小豪族」で、郡司の監督支配下に於いて郡司の仕事を手伝った。
(これ等の国司、評(郡)司、里長は上記の律令格式で役務を裁いた。)

このことに付いて、「郡評論争」が1950年代に起こった。
この大化改新の時代には「評」は無かったという説である。「郡」はこれより50年程度後に定められた制度であるという説である。
つまり、国はあるが郡は無い。無い所に改革はできない。大化改新は故に「絵に書いた餅」の説である。”その施行する組織体制が確立無くして律令の原案を作っても効果は生ない”と言う説である。
この時代は果たして「郡」であったのか、「評」があったのかである。

結局、木簡が大量に発見されて解明の結果、大宝律令(701)までは「評」であった事が確定した。
この事は、大化改新の「18改革」「10活動」は順次「追加修正」が行われていたことを意味する。更に、改革が続けられていたのであるから「失政、失敗」で無かったことを意味する事になる。

つまり、歴史を否定するグループが唱えた戦術であったが、解明されたのである。
「アイヌ民族原住民説」と同じ歴史否定のグループであつた。これも遺伝子学的に否定された。

改新前は、各国の守護王とその代理の官僚国司との「独断と偏見」で「行政と司法」を行っていたのである。
蘇我氏の下では、この体制「独断と偏見の政治」を維持していた筈である。

この手法の違いが入鹿暗殺という結果として出た。
「蘇我氏」と「中大兄皇子」との「軋轢」の真実の原因は、この「政治手法の違い」でも起こったのである。

これをみても実に緻密である。現代と変わらない。
現代も「道州制」が叫ばれている中で、これでは既に三位一体どころかまだ出来ていない道州制も既に1640年前に実行されていた。
「行政域の分離」も市町村合併が進んでいる現在より昔の方が進んでいる気がする。
ただ違いは、担当官が選挙で選ばれているか否かの違いだけである。
現在の完全民主主義と昔の中央集権の民主主義との違いである。
昔に、この完全民主主義を敷いたらそれこそNHK新説の100%「失敗、失政」であろう。

これをもって「18改革」が断行されたのであるから、地方の末端まで浸透する筈である。

要は、この「行政域の分離単位」が「明確に細分割」されているかどうかの是非が、この改革の成功を占う最大要素であった。
もし、NHKが新説として唱える「失政、失敗」はこの一点に絞られて、もしこのシステムが出来ていなければ、「18改革」は「絵に描いた餅」となるであろうし、「失政、失敗」の指摘は妥当であろう。しかし、違ったのである。

現代にも勝るとも劣らず完全に近いし、今以上に細分化されている。
ここまで計算されて尽くされている事が「18改革」の内容の優秀さも、兎も角に、その条件は整っている。
何はともあれ、現代以上にその「指揮官と官僚」の「緻密さと実行力」が優れていた気もする。

故に、これをみる事でNHKに自信を持って指摘できるのである。

「第19番目の改革」(補足)

19  「伊勢神宮の守護神」の制定

それまでは聖徳太子時代には、特に固定されていなかった。というよりは、「民の精神」の置き所に対する認識が政治に無かった事による。ただ、仏教だけを導入する事で民を救おうとした事は事実であるし、仏閣を建ててこれに民の祈りを集めたが、朝廷が先導して民を導くシステムを引く程では無かった。
物部氏と蘇我氏との争いはこの神道と仏教の2者択一の選択でもあった。

天智天皇は「民」を治めるには、仏教はもとより「民の精神」即ち「民の心」の「よりどころ」(安寧)に注目したのである。
これは「仏教や神道の普及」による影響である。

天智天皇は「治世」は「衆上」と定めたのである。
「律令格式」の「行政」の上にあるものは、如何としてそれをこの「衆上」と置いたのである。
では、その「衆上」は何によって導けばよいかと問うた。
それは、「神」の導きにあるとした。その為には統一した守護神を定める必要があり、その守護神を奉る適切な人を導かねば成らない。
この二つの課題を解決する必要がある。

守護神としての要件は、”国の中央に位置し、国の主要地であり、豊かさを刻する土地でなくては成らない。
そして、そこを天領地として定め、適切な者に護らせねば成らない。
そこを永代的に侵することを禁ずる事で、その民の神聖な「心のよりどころ」とする事が出来る”とした。

その要件に合わすには、「伊勢の国」であり、それを祭祀する者を「皇族の皇女」として、不浄なき「斎王」と崇め、永代に奉らせて、護る者は「第6位皇子」として「賜姓」(伊勢青木氏)し、臣下させて「侍」とし、そこに、詔で「不入不倫の権」を与える事で可能となる。それを実行した。

「中央集権国家」の「民主主義体制」を「律令政治」で確立した。
その上に「民の心」の「よりどころ」として「伊勢神宮」を守護神とした。
「天皇家」がこれを「祭祀」し守護した。
「政事」を執り行う体制を「優秀な指揮官」と「有能な阿多倍らの進んだ知識の官僚」に委ねた。
この様に、この短い期間に「国家体制の根幹」(18改革と10活動)という形で造り上げたのである。

今まで述べて検証してきた「18改革」と「10活動」に対して論理的で、適時適切で、適材適所で、矛盾点当を見つけ出す事が出来ない程である。

以上を通して、NHKの新説「失政、失敗」の論所を到底見つける事が出来なかったのである。

もし、無理にでもこの「18改革」と「10活動」を「失政、失敗」とせよとの意見があるとするならば、ただ一つある。
それは、「歴史否定」を前提とする「結果平等」の「社会主義」思想であろう。所謂、左傾思想に他ならない。


「視聴料不払い」や「命令放送拒否」や「視聴料20%値下げ」や「不祥事の未改善」などで、現在でも国会で問題視されている現状下で、何故、公共放送のNHKが明らかにこれだけの無理を承知で新説論を放送したかの「背景」が気になる。
「世の中弱身に虫」の例え通りであって欲しくないのである。是非に「悪のスパイラル」から這い出してもらいたい。

次の大化改新の検証テーマは第8番目の新説に対する反論である。


  [No.105] Re: 大化改新8−1
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/20(Tue) 18:34:36

Re: 大化改新8−1
副管理人さん 2007/04/26 (木) 22:03
大化改新 新説 まとめNHKスペッシャル7−4の「失政、失敗」の反論は終わり次の新説に対する反論に入るとする。 

今度の大化改新の検証テーマは第8番目と最後の10番目の新説に対する反論である。

8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。

以上の3つであるが、9番目は既に大化改新は「18改革と10活動」が行われたことを述べ反論し出来たので割愛する。

では、先ず、8番目の「日本文化は朝鮮の文化」について反論する。
反論すると言うよりは影響受けた事は事実であり。問題は日本文化との影響比率が問題となる。
事実、100%とは言っていないので反論とはならない。
そこで、その比率とその影響の内容の具合が問題であるのでそれを解明したい。
このまま放置しておくと大化の改新の改革文化は内容全てが導入したとなってしまうので、ここで改めて文化の説明をしておきたい。

先ず、次の問題を設定する。
第1の問題は、その文化の影響を受けた期間をどのように設定するかである。
第2の問題は、どの範囲の事柄を文化と設定するかである。
第3の問題は、どの程度の人々のところまでの文化とするかである。
第4の問題は、主に影響を受けた外国を何処とするかである。

以上が検証するに必要とする設定であり、この4つの問題が不明確に論じると結論が変わるものと見て設定する。
論じる際には次の設定で分類しながら行う事とする。

第1の問題は、時代を大化としてその大化期とその前の期間が文化に影響するものとする。
そうすると、大化期を645年(650)として前期を半世紀の50年程度の文化として600年頃とし、後期は大化期を半世紀を経た期間までの700年頃までとする。

そして、前期は後漢の滅亡前の文化と、隋の滅亡前の文化と、唐の建国(618年)位の時代から大化前(645年)までの影響とし、大和では欽明天皇時代からの文化とする。
後期は唐の影響とし、大化改新から27年間の天智天皇と、天武天皇の14年間と、持統天皇の8年間の約50年間の文化とする。

第2の問題は、国の国体の構成要素を政治、経済、軍事、文化の4つとして前者3つは補完要素とする。
この補完的要素を政治的なことから影響した事柄を1 「政治文化」と呼称し、経済的なことから影響した2 「経済文化」と呼称し、軍事的なことから影響した事柄を3 「軍事文化」として論じる。
そして、その主体の文化は4 「宗教文化」と5 「科学文化」とに分ける事とする。
しかし、この時代には現代のような「科学文化」というものが進化していない事から特に特記する物が無い場合は論外とするが、現代のような科学を意味するものとは異なる場合がある。この場合は呼称名を作って説明する。

第3の問題は、この大化期は大化改新1から7までその社会状況を述べてきたが、特に「7色の姓制度」(8色)などの身分制度の存在する社会の中であるので、その文化の影響を直接受ける内容が異なるので、階級の範囲を「上流階級」と「下流階級」とに分けて論じる。
この時代の文化は現代と異なり身分制度がある以上各階級の文化は、平均化していないで異なっている場合があるので分けて分析する。

第4の問題は、外国の影響を主に中国と朝鮮国とし、中国は「隋」と「後漢」と「唐」の影響とし、朝鮮国は3韓(馬韓、弁韓、辰韓)の「百済」、「新羅」、「高句麗」の影響とする。

既に、これ等の内容の内で政治的、軍事的、経済的な事柄の影響文化に付いては、「失政、失敗」の所の検証で概ねの所を述べている。しかし、これを「文化」という点に絞って史実史料に基づき対比しながら論ずる事とする。

本件の限定した分野での結論の結果は、既に前レポートで次の様に記述した。
大化改新7の1−4までのレポートで、「隋と後漢と唐」の文化に「百済」の文化が「政治、経済、軍事的」には補完的影響として受けている事を既に述べている。
その中でも「後漢の文化」の影響が強かった事を3権の範囲で最も影響が強かった事を特記している。。

もとより、朝鮮国は618年までは後漢の占領下にあったし、その後の唐の影響を受けているので直接、間接的にも中国文化(主に前期は後漢の文化で、後期は唐の文化である)である事を注釈する。

では、その手法として「文化」という括りで史実として残っているものだけを取り上げて論じて行く。


1 聖徳太子の592年頃から起こった「崇仏論争」である。

即ち、「仏教」の導入に依って起こる「宗教文化」である。

「仏教」は中国を経て「百済」の「聖明王」から伝えられた。
この事に付いての経緯を次ぎに述べる。
4世紀後半に百済「応神王」に引き連れられて難波津の河内に上陸した。
この地を制して後、当時の「ヤマト王権」の「政治連合体」(4豪族)との戦いの末に、和議して出来た「ヤマト政権」の「合議体」が樹立した。
この初代大王に朝鮮の渡来人の「応神王」がなり、彼に引きつられて来た「物部氏」や「蘇我氏」らも勢力を拡大し、これに加わりそれらがヤマトの豪族となり、6大豪族(巨勢、紀、葛城、平群の4氏と物部、蘇我の各氏)等で構成する「ヤマト政権」、即ち「河内王朝」(ワケ王朝)が樹立した。
その後(6世紀半ば)政治的成長を遂げて「大和朝廷」が出来たが、ほぼその直後に「大和政権」を揺さぶる上記の豪族の間で2分して論争が起こった。

最終的に神の祭祀を担当する中臣氏と、軍事を担当する物部氏(百済系渡来人)の排仏派と、阿智使王と阿多倍(後漢系渡来人)が率いる武力集団の漢氏(東漢氏)を管理支配下に入れていた蘇我氏との崇仏派に別れて、利害関係の存在する戦いが起こり、結果として崇仏派の蘇我氏等が勝った事件があった。

この時、聖徳太子が加わり蘇我稲目、馬子の親子の大臣の時代であったが、崇仏派の努力で仏教は拡大し、同時にそのもたらす「宗教文化」が飛躍的に発展した。

このことでも判る様に、百済人の初代の応神大王らの率いるヤマト政権であったので「朝鮮文化」が拡大して、それまでの既存文化と合わせて「百済文化」の発展期となったのである。

しかし、この時は既に、後漢の21代末帝の献帝(子供の石秋王)の孫の阿智使王と曾孫の阿多倍王が17県民を引き連れて大技能集団が続々と帰化してきていた。(ピークは孝徳天皇期:大化改新期)

後漢のこれ等の帰化民は、最終日本全土の66国中関西以西の32国を無戦の状態で支配下に納めたが、後漢の渡来人の持つ技能が瞬く間にその支配下の民の生活に浸透して生活程度が上がり、その技能は益々ヤマト民の生活に吸収されて広まつている時期でもあった。

従って、上流階級には「仏教文化」が起因する文化が発展し、同時期には「民の文化」も「後漢の文化」が浸透していたと云う事になる。

つまり、「上流階級」の文化は「宗教文化」の「朝鮮文化」が普及し、「下流階級」の文化は「技能文化」(経済文化)の「後漢文化」が並存している時期でもあったのである。

念のために、当時は「民」とは、次の様に定義付けられて呼ばれていたのである。現在とは随分と異なる。

「民」の呼称を「百姓」と言い、当時は皇族と賎民を除く良民一般(公民、地方豪族、一部地方貴族を含む)の総称であった。
実際は農民だけではなく、山民、海民等を含めて調庸を負担する被支配民一般をさす語として用いられていた。
真に、百の姓(かばね)である。

この「百姓」の民に「阿多倍」の引き連れてきた高度な技能を持つ集団がそれを伝授して生活程度を向上させたのである。
それ故にむしろ進んでこの阿多倍らの支配下に入ったのである。

現在の第1次産業はこの集団が持ち込んだものであるが、つまり、大化改新のところで述べた「部制度」を維持した服部、磯部、海部、鍛冶部、陶部、土師部、...等の姓を持つ集団である。

そこから生まれた彼等の技能がもたらす事による文化、即ち「技能文化」(「経済文化」:「後漢文化」:「下流階級文化」)はこの「百姓文化」として大発展したのである。
もし、これが支配的な統治ではこの様な文化はこれ程までに生まれていなかった可能性がある。
例えば、現在の陶磁器(陶部:すえべ)や土器(土師部:しがらきべ)や鉄器(鍛冶部:かじべ)や織物(織部:おりべ)等の様に伝統芸能としてその文化は引き継がれて来ている。
(阿多倍の詳細は「大化改新」の所や研究室の検索で参照して下さい。)

ここで、忘れては成らない現代も長く続く最長の限定した文化が存在していたのである。
崇仏の争いに付いての上流階級の「仏教文化」とは別に、その中でもう一つの文化があったのである。

それは物部氏や中臣氏らの主帳する「天神文化」というものが元々「ヤマト」にはあった。
この事に付いては、このヤマト政権(王権)の樹立の経緯が大きく関わっているのである。

その経緯の事に付いて説明する
この「ヤマト王権」とは、大和川が形成している「大和平野」を支配した地域勢力(物部氏や蘇我氏を除く上記の氏族の勢力)が樹立していた王権である。

この王権は後の天皇を中心とする律令国家の前身であり、成立の時期(年代)の確定ははっきりしていないが、ここに百済の応神王らの渡来人が上陸し、進んだ生産技能や統治の方法を持ち込み、地域勢力はいち早くこの「朝鮮文化」(百済文化)を取り入れ勢力を増し、三輪山の祭祀を中心に結束し、この渡来人の応神王を大王としてその祖先を神とする伝承を作り上げたと述べたが、後に、朝鮮諸国との交流を進める中で、更に別に「天と神を中心とする伝承」(天神文化)を作り上げていたのである。

この「大和王権」(大和政権)の「天と神を祭祀する伝統」のこの神代の時代からの「伝承文化」を護ろうとする物部氏やこの祭祀を担当する氏の中臣氏(後の大化改新の立役者の「中臣鎌足」の先祖である。)等が「排仏運動」を起こしたのである。

これに対して、蘇我氏等は立場を失う事となり、この結果、崇仏派を立ち上げて対抗したのである。
当初は排仏運動派の方が優勢であったが、聖徳太子の気転(恵美押勝)で戦いでの勝敗が付いたのである。

しかし、この後、蘇我氏らの崇仏派は傀儡の聖徳太子を立てて「大和政権」を形成したが、この時、一方ではこの政権には崇仏する「仏教文化」が、他方では「天と神を祭祀する伝統」の「伝承文化」(天神文化)も妥協の産物として天皇家(大王家)が維持していたのである。

この結果、次の現象が起こった。
皇族階級は、「天と神を祭祀する伝統」による「伝承文化」(大和文化:天神文化)を発展させた。
政権と蘇我氏等の大豪族の上流階級は、仏教による「宗教文化」(朝鮮文化:仏教文化)を発展させた。
民の「百姓」の良民の下流階級は、技能による「経済文化」(後漢文化:技能文化)を発展させていた。
即ち、同時期に「三つ巴文化」(融合文化)の花を咲かせて次第に発展させて行ったのである。

そして、この3階級の身分の「三つ巴文化」は根付き「律令国家」に根ざし、国体を維持するに値する民を治める政権の「大和朝廷」が誕生したのである。この大和朝廷の天皇家の主幹文化として維持していた事になる。

聖徳太子等が、「中国」の中央集権的律令国家の政治的導入と共に、「百済」から「仏教文化」を導入したのであったが、結局は元の「中国」の隋(唐)から「仏教文化」と「先進文化」を積極的に摂取し、「三経義疏」(簡易解説書)を著して民に解り易く解説して浸透を図り、その信仰の場として四天王寺、法隆寺、発起寺、中宮寺等を建立したのである。
結局は上流文化(宗教文化)としながらも、この書の存在でも判る様に「政治文化」としての仏教を用いて当初は「民の安寧」を計っていたのである。

(「三経義疏」とは「法華経」、「勝曼経」、「維摩経」の3経の注釈解説書(義疏)を言う。)

この当初の初期の「三つ巴文化」は、上記の例に見る様に「分離」して文化が発展して行ったのでは無く、次第に「融合」しながら「融合文化」へと形成して行った。
これに基づいて、「政権」も成育し、「ヤマト王権」から「大和政権」へと、遂には「大和朝廷」へと生育して推移して行ったのである。

ここで「朝廷」とは、大王、天皇を中心とする政治機構で、大臣、大連を始めとして中央の豪族を含めた「合議体」の呼称なのであるが、真にこの「融合文化」と共に政治機構も「合議」(融合)へと「文化」の成せる技として進化して行ったのである。
これも政治が起因する「政治文化」の一つと言わざるを得ない。

だとすると、「政治文化」を加えて「四つ巴文化」とも言えるのではないか。
或いは、「三つ巴文化」を分離することなく上手くリードし上位に立つ「政治文化」が成立していたのであろうか。
これが当時(飛鳥前半期)の文化の構造であった。

大化改新の前レポートでのところでも述べたが、そもそも「日本民族」そのものが「7つの融合民族」なのである。
それ故に、これは我々日本人の持つ何でも「融合」してしまう「国民の特徴」でもある。
そして、この「融合」が全ての問題の解決手段として、現在までの世界に誇る優れた「国体」と「文化」を維持させてその奥深い国体と文化に成っている要素なのである。

歴史を顧みて、既に1400年前からの大化前後から政治と文化にその特長を発揮していることを知ると今さらながら真に驚きである。

この事が明治初期まで「三つ巴文化」が続き、多様性の持つ世界に誇る独自の「融合文化」を作り上げたのであるが、しかしながら、「分離」しようとして明治初期には再び廃仏(毀釈)の運動が起こった歴史をも持っているのである。

この様に決して「外国文化」をそのままに伝承した訳ではないのである。これを独自性の「融合文化」と呼称されている所以である。


2 「遣隋使」と「遣唐使」の文化の影響

この使節は大化期の文化育成に大きな影響を与えたのであり無視出来ない。

この「隋」は高句麗遠征に失敗して短命(581-618)に終わったが、小野妹子や大化改新の前レポートで記述した4人の国博士共に、遣唐使としては高向玄理、河内鯨、栗田真人、山上億良、吉備真備、石上宅嗣、藤原葛野麻呂、小野皇等が居る。
これ等の人物は650年前後と以降の大化期の人物も含まれているが、敢えて判りやすくする為にまとめて掲載して置く。

この時期としては、第1次遣唐使として犬上御田鍬、薬師恵日等が多くの先進文化を伝えた。

彼等は主に留学生、学問僧、技術者とで構成されていて、「文化」と言うよりは「文明科学」の航海知識や造船技術、建造物技術等の進んだ「科学文化」を伝えたのである。

大和国の文化に大きく貢献するその大切な派遣であるので、通常、”よつふね”と呼び確率から4隻の船を仕立てて唐渡した。かなりの犠牲を負っての遣唐(隋)使であった。
難波津から出て博多湾に立ちよりここから出た。
状況により3つのルート(北路、南路、南島路)を選択した。
唐の末期の政情不安と危険度から菅原道真が遣唐使の中止を建言して取りやめになった経緯がある。

ここで誤解されている傾向のあるものとして、日本の文化は隋唐からの遣唐(隋)使が持ち帰り直ぐにその文化が伝達させたと教科書で教わった。
ところが社会に出て技術士として経験して行くうちに疑問が湧いてきた。そこで、歴史に興味を持って良く調べて考えてみると社会システム上で理屈に合わない事に突き当たるのである。
物理的にこの教科書説には矛盾を持っているのである。この事は下記で説明する。

(余談として、ここで暫く息抜きの為に、ついでに時事放談をする。)
(ところで、学校教育にはこの矛盾が多い。原因は教師バカや教授バカである。つまり、ある「社会のシステム」を無視して限定された視野からしか見られ無く成った論法である。最近では判事バカや検事バカさえも出て社会の常識とズレが出たために、裁判員制度や検察員制度が設けられた。だから教育も同じ様な限られた世界であるのだから、やるなら一緒にである。教育問題も教諭員制度、教授員制度を設けてはどうかと思う。)


3 「慧慈」(高句麗人)、「慧聡」(百済人)の影響

「慧慈」は聖徳太子の仏教の師となり、仏教はもとより太子の人間像の育成にも大きな影響を与えた人物で、大和朝廷の「政治文化」の伝来に最大の貢献をした人物である。
615年に帰国し太子の死を知ると太子と同日の死を望んで622年の翌年同日に死亡したと言う有名な伝説が残っている程の人物であった。

また、百済僧の「慧聡」は「慧慈」と共に「三宝の棟梁」と称えられた人物で、学僧として二人(聖徳太子と中大兄皇子)に大きな影響を与えた。

大化前期のそれらの文化育成に影響を与えた書物として次のものが選択できる。
先ず、中国書では、「隋書」、「倭国伝」、「唐書」、「旧唐書」、「通典」、「唐会要」である。
朝鮮書では、「三国史記(新羅本記)」、「日本世記」(百済)である。
大和書では、史書「天皇記」「帝紀」、「帝皇日継」、「国記」である。

特に、百済の「日本世記」の発見は、それまでの通説を覆す史実が詳しく判明したことであり、大きな文化の影響を与えていた事が最近に判明したのである。
特に大化期の中大兄皇子が政務した日々の詳しい内容が日記形式で記載されていて、その百済文化の影響を色濃く反映している事が読み取れるものが発見された。
これは「慧聡」が皇子の側で政務をとりそれを日記にして帰国する際に持ち帰ったものとして考えられている。

確かに政務や書物に依って影響を与えただろう事は否めないが、文化まで影響したかは史実が無いので不明確である。

4 「干支の法」が与えた「生活文化」の影響

この法は、十干(じっかん)と十二支とこの二つを組み合わせた60通りの年月日を表す方法である。
この「干支の法」は言語に相当する文化文明のあらゆる基本と成るパラメータであり、これにて記述、記載、記録の文化は発達した。
この中国の法を取り入れたことで中国、朝鮮との文化文明の共通する価値が伝わり、普及発展に大きく速やかに寄与したのである。
この基本と成るパラメータが異なると、発達途上の国々のその原因にも見られる様に、現代の日本の文化文明の進展は遅れていたと考えられる。

それで中大兄皇子は、第10番目の新説のところで述べるが、この時刻、日の正確な設定の問題に取り組んだのである。これ無くしてこの手法は充分に使えないし、文化文明の発展はないと見たからである。皇子はこれを一つの儀式又は祭祀として利用したのである。

飛鳥文化では太陽の日時計を使っていたが正確度が悪く、これを「白鳳文化」(大化期の文化)では水時計を作ってこの問題の正確さを解決したのである。
古代会飛鳥の丘の上に鐘突堂を設けてこの正確な時刻を知らせていたと言うことである。
(第10番の答えはこの水時計である。「時」の重要性は文明と文化発展に重要である事は議論の余地は無い。)

現在に於いてはこの中国の法は殆ど消滅しているが、当時としては民の生活に必要不可欠な直接に浸透している基準であった。
これも直接の「文化」とは言い難いところもあるが、文明と文化構成上の基本としてその歴史上の影響として扱った。


5 「識緯説」(しんいせつ)の影響

この当時の中国の「政治思想」、又は民の「生活習慣思想」としても用いられたのである。

この思想は概ね次の通りである。
例えば、一つの説を採ると、干支で甲子の歳や辛酉の年には変乱が多いとし甲子革令説、辛酉革命説と呼ばれるものがある。
一種の統計学的な推理に基づく予想である。この様な多くの諸事に統計説が作られているのであり、中国の長い歴史から来る経験を統計的に論理つけたものである。

確かに、一概に無視出来ない推理法であるが、現在でも「10年一昔」と言う。
10年経つと社会構造が変化して一つの「節目」が出来て、これだけ科学が進歩してもそれにても解析できない何らかの変化、又は問題が起こる可能性は現在の人の社会でも充分考えられる。
この様な「言葉」や「伝説」や「言い伝え」等が、特に日本社会には多いことは今だ否めない。
これは一種の中国から伝わった「統計文化」と言える。

この方式が未だ科学が大きく発展していない時の社会としては、この当時の統計文化を構成していて人の「先の見えない不安」の「指針」として用いられたのである。
そして、一方では「仏教」で人の「心の不安」を解消したのである

因みに、「日本書紀」に記載されている「神武天皇」の即位の日が、変更されてこの辛酉の年(前660)を元号としたと記されている。
「日本書紀」にも書かれている事柄であるからして、諸事に対して朝廷や民の社会では充分に有り得たと考えられる。

現在でも、民衆の祝い事や祭事や旅行や生活習慣全般に於いてなども未だ田舎では充分に用いているのである。
また、現在に於いても企業の製造現場では「ミス」を無くす方法として「オルガノリズム」の近代的統計学での方法で人の諸事の変化を予測して、中国の甲子革令説や辛酉革命説なるものと同じものを見つけて注意して「ミス」を無くすると言う方法を採っているのである。

人の諸事の変化は「心の変化と体調の要素」にて統計学的には「Nパターン」(又はWパターン)を示す事が解っているのである。
つまり、「人の関わる諸事に於いて一定のリズムで周期を繰り返す」という統計説である。
現代のこの同じ統計説に比例定数やカーブの微分係数、積分係数を加えて人の個々のリズムに適応してを算定する方式が採られているのである。

参考として昔の識緯説に見合うものとして、現代での統計学では回帰分析法、標準偏差方式法、統計分散度法、比例平均法、Cp法、ヒストグラム法等の夫々の諸事に適合する多くの方式が確立している。

元は中国の「識緯説」、即ち人の「意識の経緯を論理的にしたものの意」であり、つまり「統計」であり現代のものとは少しも変わらないのである。

この様に科学が進んだ「現代社会」においでも「統計文化」は人の「生活文化」として当時は浸透して用いられていることを考えると、当時の大化期前の「飛鳥文化」では、生活の大半の決定事項がこの「統計文化」(生活文化)手法で決められていた事が判る。
これは最早、「民の生活」に完全浸透したことを意味するとすれば「生活文化」の何物でもないのである。
(「飛鳥文化」とは推古期から大化前までの文化を言う)

それ故に、この影響を記述したが、これも中国から導入された無視出来ない文化である。


6 「北魏様式」と「南梁様式」の影響

この時代は建築、工芸に中国の文化の色合いが大きく出ている。
「飛鳥文化」は即ち「仏教文化」である。

これには精神心理の「宗教文化」と、建築、造船、工芸の「科学文化」とが並存して「進化」までは届かないまでも「新化」したのである。

特に、ここでは特に顕著な新化を遂げたこの建築、造船、工芸に付いてスポットを当ててみる事とする。
この「飛鳥文化」の50年の間に建造されたものを列記してみると次の様になり、その中で日本最初の匠が各種の職種で出ている。
その有名な人物として、日本最初の彫り物師、又は仏師の「鞍作部止利」(司馬達等の孫)が上げられる。
この者は中国後漢の渡来人の鞍作部の者から鍛えられて日本人として最初に「鞍作り」を教わったのである。
当時の馬具の鞍は彫り物で作られていてこれを専門に彫っていたが、次第に仏像や建築物の建造にも関わるようになった。

彼の作として遺されている飛鳥遺産物の有名なものとしては、法興寺の安居院の釈迦如来像、法隆寺の金堂釈迦三尊像(北魏様式)などがある。(参考 賜姓伊勢青木氏に与えられたステイタスの「大日如来坐像」も鞍作部止利の作である)

この「鞍作部止利」が大きく貢献した「飛鳥文化」に関して推古天皇が発した詔がある。


7 「仏法興隆の詔」と「三宝興隆奨励の詔」(三宝とは仏、法、僧のことである)の影響。

これ等の詔を発してまでも仏教を基本としてその「心の教え」もさることながら、この仏教に関連する建造物や像などの新化をも狙ったものとして考えられる。
この宗教の伝播はその生活の行動にも関わる人の往来方法やその生活処式の道具等にも新化は進み、造船や工芸への発達にも大きく影響は広がったのである。

特に、大化前の50年の「飛鳥文化」の後半には、建築、造船、工芸品の年代を調べると、その進歩は目覚しい所があり集中している。

これは、阿多倍らが率いるの「後漢」17県民の渡来人の200万と言う技能と知識の大集団が帰化してきた事によるものである。

ここで、上記のバカ問題の解答をする。

考えても不思議ではないか。知識の吸収は遣唐使では可能であるが、いざ建造となるとそれを実行するに必要とする「経験」と「人数」と「設備」と「処具」と特異な「資材」が必要である筈で、その物が何処にあるのか。
当時のヤマトには元々は進んだ「科学文化」が無いのだから。遣唐使が中国から”よつふね”を何回も組んで持ち込んだとでも言うのだろうか。そんなことしていたら時間と浪費と危険がかさみ作業なんか出来ない。

当時のこれだけ多くて現在までの遺された優秀な建造物や諸具を作るのは素人では無理であり、且つそれを作るのは人海戦術であるから、大量で大変優秀な技能者が必要である。

ただ、遣隋使や遣唐使の10人程度の派遣では、「知識」は持ち帰ったとしてもその作る「手段」の「技能」の伝達は直ぐには出来ないのであるから、いくら詔を発してもこの様に伝播する事は無いはずであるし、優れた物を創造する事はできない。
そこにはそれを「理解」し「経験」し「高い技能」とそれを「指揮する能力」の「綜合力」が「絶対的要件」として必要である。

では、下記の寺群はもとより「飛鳥文化」を代表する綜合建築、工芸、処具の見本の「飛鳥大仏」はどのようにしてこれ等の技能技術者を準備したのであろうか。

この建造物は土木、建築、冶金、化学、機械、の設計、製造、施行、組み立て等の広範囲の進んだ大規模工事である。
この建造に関わった大勢の優れた知識と経験を持った人たちを中国からでも呼んで来たというのであろうか。
現在でも難しいのではないか。

私も40年程度の経験を持つ機械と冶金の専門技術士であるが、この「飛鳥大仏」を見てどのように作ったのか不思議なくらいに優れている。

中国から帰った技術者では到底に論外で出来ない事は判るし、帰ったからといって直ぐに出来るわけは無い。
設備も無し道具のも無いところで、又教えたとして直ぐに経験がつくわけでも無い。
建造の準備期間を入れると5年も経っていないのである。

では、その大変な数の「絶対要件」は短期間に何処から持ってきたのか、まさか中国からと云う事はないと思う。
しかし、出来ているのであるから国内にその「絶対要件」が既に備わっていた事になる。
また、この二つの詔を発する位にあるだから直ぐに出来ると見て出した筈である。

確かに遣唐使に唐が与えた技能者を史実で調べると最高で20人と成っているが、これは全て建築工芸の者だけではなく政治経済等の諸々の技能者である。

前期したように朝廷の中でも、遣唐使の派遣は危険である事から菅原道真が中止を建言したくらいである。

大量の道具と優れた技能者人数を確保して、4隻仕立てで確率で運ぶ時代であるし、且つ、遭難覚悟で中国から運ぶのでは人数が何人あっても足りないし、そんなことは不可能だし、唐政権が何せ物理的に危険である事から許す事はない。

しかし、「大和朝廷」期には全く”そのものずばり”の要件が既に備わった集団があったのである。

言うまでも無く「阿多倍」の後漢の200万という経験豊富で組織で統治された進んだ技能集団の帰化人が続々と上陸して来るのである。むしろ多すぎる位である。

後漢と言っても唐の建国と同時に618年に滅びて大和に帰化してきているのであるから、年数的には飛鳥時代では文化の年代差としても5−10年程度のものであり、建造物の技能には殆どその差はないと見てよい。
むしろ、どちらかというと、”遣唐使などいらない”と言うほどであるが。

そこで、余談だが、後に菅原道真の「遣唐使の中止の建言」はただ通説「危険」という単純な理由では無かったと考えている。それはこの阿多倍らの「有能な集団」の存在に関わっていたと見ている。
そして、それで周囲、特に藤原氏の施政との軋轢が生まれて道真は配流されたのではないかと見る。

話を元に戻す。
この阿多倍の集団が存在することでこの詔も効果を発揮したのであり、総合的な「飛鳥文化」が新化して発展したのである。
そして、それが大化期後の50年の進化の足がかりとなって向かったのである。

即ち、「飛鳥文化」の「宗教文化」と「科学文化」と「統計文化」と「生活文化」(生活文化)の「融合文化」は阿多倍の集団が成せる技であったと結論付けられるのではないか。

飛鳥期に建立された主な有名な寺
橘寺(橘氏)、飛鳥寺(蘇我氏)、太秦寺(秦氏 広隆寺)、興福寺(藤原氏)
法興寺、法隆寺、法輪寺、百済寺、中宮寺、法隆寺金堂、法隆寺五重塔

以上の寺が「飛鳥文化」を象徴する寺群である。少なくとも50年の間に今のようにスピーディーに建設器機を使ってやるのではない。一つの建物でも20年程度掛かっているものもある。これだけでも大変な数である。

この寺には中国の文化の「南北朝文化」を色濃く出ているのである。
その「南北朝文化」とは次の通りである。
この北と東と西と南の魏方式とは中国のどこの場所付近の文化なのであろうか。
言うまでも無く漢、後漢の地域帯である。
漢が滅ぶと一部の漢民は西に逃れ中国西域に文化を移動させたし、他方は東に逃れた光武帝に引き連れられた漢民は東に「漢文化」(後漢文化)を移したのである。
そして、東にだけ漢民による国を造り21代の献帝までに渡り「漢文化圏」を構築したのである

その一つは、北朝(6C)の北魏から東魏と西魏の時代の文化様式である。

もう一つは、南朝の「六朝文化」の影響の影響を受けた文化様式である。

この二つの文化にはエンタシス、大斗、雲形肘木、卍崩しの勾欄、一字形割束等が特長である。

この中国の「南北朝文化」の影響が飛鳥の文化に「大和文化」の「様式」として融合して確立して行ったのである。
それは特に、「伽藍配置」と言う形で現れているのである。

「伽藍配置」即ち、寺院を構成する塔、金堂、講堂などの配置の様式をいうが、次のものがある。
 
1 飛鳥寺式、塔を中心に東西北に3金堂が配置される。高句麗と同一
2 四天王寺式、金堂の前に塔を建てて南北一直線にした伽藍配置である。
3 法隆寺式、五重塔を西、金堂を東に配置する寺院伽藍配置の様式である。
4 薬師寺式、金堂の南に東西の両塔が建つ伽藍配置である。
5 東大寺式、東西の両塔が中門と南門の間に出る伽藍配置である。
6 大安寺式、東西の両塔が南大門の南に出る伽藍配置である。
以上の6つの様式に分類される。
この様に伽藍配置にしても大和方式に変化させて建造物に対しても「飛鳥文化」を創造させたのである。

(北魏様式とは「南北朝文化」の一つで、中国の南北朝の北魏の彫刻様式の影響を受け杏仁形の目、仰月形の唇、左右対称の幾何学的衣文などを現すのが特長である。)

つまり、中国の「南北朝文化」そのものを「ものまね」的に吸収したのではないのであり、独自の文化として吸収したのである。
金銅像
他に像に付いては「金銅像」と言うものがあるが、この金銅像に付いては、 青銅を方に流し込んで鋳造した像の上に金粉を水銀に混ぜたアマルガムを塗布して加熱して水銀を蒸発させて塗金したものである。
当時の「科学文化」としては考えられないほどの技法である。しかし、現実には実際は匠に使用されていたのである。
素晴らしい文化が醸成されていた事になる。

他にも高度な技法の文化がある。
「密陀絵」とは、油に溶かした絵の具に密陀僧(一酸化鉛)を加えた塗料で描いた油絵で、漆器の様な光沢が出る。
法隆寺「玉虫厨子」の絵は密陀絵或いは漆絵とも言う。

これだけの科学技術を屈指して作り上げる文化を飛鳥時代には独自の技法として確立したのである。
これは明らかに、中国の唐隋の文化から持ち込んだものではなく、後漢からの阿多倍らの渡来人らが持ち込んで醸成したものである。
その技能の高さでの匠技で、この現代でも難しい複雑な「科学文化」の新化が遂げられているのである。そのレベルが判る。

確かに中国で発展した文化技法であるが、後漢17県民200万人と言う帰化した渡来人の所以である。

中国の当時の経済方式は、中国では一族が中央に城を築き、そして、全周囲を城壁で囲い、その中に何万という一族民が住まう方式である。
その中は全て同姓である。そして、その中でこの様な一族の技法が発展して行ったのである。そして、その別隣の城の他族では別の技能の発展を起こして、それを交換し合う経済方式で進化と新化と進化を繰り返して文化を発展させたのである。
中国文化(後漢)を理解するにはこの経済方式のことを理解する必要があるので特記する。

これ等の17県民の数種の一族が渡来し、故に、そっくりとそのままの「綜合文化」を持ち込んだものであり、後漢の渡来人は優れた技能技術の総合力を保持していたのである。

大化改新8−2に続く。


  [No.106] Re: 大化改新8−2
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/20(Tue) 18:36:01

Re: 大化改新8−2
副管理人さん 2007/04/26 (木) 22:04
8 「飛鳥文化」に影響を与えた朝鮮人と宝蔵品の例品
(3に別分野での追加)
「曇徴」 610年に渡来した高句麗の僧で、「五経」の師である。また絵の具や紙墨製法にも精通して「紙墨の法」を表し指導した。
「観ろく」 602年に来日した百済の僧で、暦法、天文地理、の師である。多くの弟子を育てた。

7の「科学文化」を屈指してい宝贓品群
法隆寺金堂釈迦三尊像
法隆寺百済観音像
法隆寺夢殿救世観音像
法隆寺金堂薬師如来像光背銘
法隆寺金堂四天王像
広隆寺半伽思惟像
法隆寺玉虫厨子
玉虫厨子扉絵
捨身飼虎図
施身聞げ図
天寿国繍帳
忍冬唐草文様
法隆寺金堂灌頂幡
竜首水瓶
獅子狩文様錦

以上が「飛鳥文化」の代表宝蔵品として上げられる。

ここまでが「飛鳥文化」の史実に基づいての検証である。

結論
既に、検証の「朝鮮文化」の影響は「飛鳥文化」の初期にはあったことは否めない。そして、特にその功績の主な元は「人的貢献」による影響と言えるものである。

初代のヤマト政権期の「応神大王」の百済からの登場で、確かに進んだ文化を持ち込んでヤマトの民に影響を与えた。
しかし、この文化も中国の文化が朝鮮半島の陸を経ての伝達であり、その中国の「隋唐文化」も阿多倍らが率いる大技能集団の所以の「後漢文化」を越えるものでは無かったのである。

そして、その「後漢文化」の「政治文化」、「経済文化」、「軍事文化」、「科学文化」(統計文化、技能文化、生活文化)、「宗教文化」、「伝承文化」も日本という中で溶け込み「融合文化」を構成して、国民全階層の「三つ巴文化」を育み、独自の「飛鳥文化」を発展させ「新化と進化」を繰り返し、「50年文化」とも言い得る短い期間に中国の文化のレベルに到達しているのである。
否、それだけではない独自に発展させた文化をも育成したのである。

大化改新1−7のレポートでも記述したように律令国家体制の確立を短期に到達した事を書いたが、この進歩と平行して「飛鳥文化」もバランスよく進んだと言えるのである。
このことは国体を維持し高めるに当って不可避の条件でもあったが成し遂げられている。

現代ある日本文化はこの期間での発展が大きな原点と成っていると考える。
もとより、民の文化の発祥点ともなる「第一次産業」が、後漢の渡来人の成させる技でもある事を踏まえると、これはもう日本の文化の多くは彼等の功績と評価しても誤りではないのであろう。

そうすると、全レポートでの「律令国家体制」彼等の功績も配慮すると、「政治と文化」の日本の礎を築いたのは殆ど彼等であると言えるのではないか。この事が余り「教育の場」では評価されていないのは残念である。

この検証の論外にはなるが、次の検証の「白鳳文化」(熟成文化)と、日本最大の花開いた「独自文化」の「平安文化」へと繋がって行くのである。そして、この時も彼等の末裔の「京平家」が平家文化とも言える程に大きく関わっている事を忘れては成らない。

何はともあれ、しかしながらも、いまや彼等も「日本単一融合民族」の25%を占める国民であり、その優秀さに誇りと感謝を持つものである。

この検証は未だ「飛鳥文化」の範囲であり、次に検証する大化期の50年の文化(白鳳文化)は更に飛躍を遂げているのである。


大化期の「白鳳文化」の「50年文化」は次に続く。


  [No.107] Re: 大化改新8−3
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/20(Tue) 18:41:59

Re: 大化改新8−3
副管理人さん 2007/05/18 (金) 07:35
大化改新8−1の検証テーマの続きである。(NHKスベシャル新説に対する反論)

8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化

10 石と水の庭園は疑問とあった。

(以上2つである。9番目は既に大化改新は「18改革と10活動」が行われたことを述べ反論し出来たので割愛する。)

大化改新8−2として、大化期前50年間の「飛鳥文化」に続き、大化期50年後間での「白鳳文化」に付いて第8番の「日本文化は朝鮮文化」の新説に対して論じる。

そこでまず、「文化」と言うものの成立する「経緯」を掘り下げて見ると、次のような要件が出て来るのではないか。

そもそも、「文化」というのは、何かを「導入」して、それが直ぐに「文化」と言う形で現れて来ものではない筈である。



1 文化成立の「経緯」
「4つの視点」

第1には、「タイムラグ」と言うものが必要である

先ずは優先的に考える経緯である。「大化期前50年間」の中国や朝鮮から各種の文化が入ってきたとしても、それを「熟成」して自分の「文化」とするには時間が掛かるものと考える。(熟成過程)

第2には、「タイムラグ」があるとして、「生活に根づいて自分のものとする意思と力」が無ければ文化とはならない。

殆ど中国から「何らかの形」で「導入」し「吸収」し「発展」させた大化期前50年間の「飛鳥文化」は、大化期後50年間の「白鳳文化」に成るまでにはそれを推し進めるべき力が必要であった筈である。

第3には、文化の経緯には、「導入、吸収、発展、成熟」の過程が必要である。

「発展」が起こっても根付くとは限らない。立ち消えする事もあり得るし、「酒造り」と同じで、熟成して初めて「酒」として飲めるように成るのではないか。

第4には、「文化」と成るに必要とする「力」(推進力)が存在する事が必要である。

放って置けば「文化」になるわけではない。「熟成を推し進める力」又は「熟成を推し進める環境」があって、初めて円やかな「酒」が出来て、人はそれを「楽しめるもの」と成り、文化としての「遺す力」を宿すと考える。

50年間の「飛鳥文化」だけでは「遺す力」は無かったと評価し、「発展段階」までのものであったと考える。

その「力」即ち「推進力」(環境)が、出来上がるのに時間が掛かるのであるから、特にこの「白鳳文化」と言われるものに対しては、この「推進力」がどの様なものであったのかと言う点で「疑問」が湧く。

これを解き明かせば疑問は消える筈であり、「白鳳文化」の位置付けははっきりとし、テーマである「他国からの文化」の導入でなかったことを証明する事が出来る筈である。(大化改新8−1で先行して多少の影響を記述した)
次にそれを論じる。

2 「白鳳文化」の「推進力」(環境)

これらを総括して「飛鳥文化」と「白鳳文化」と比較しながら、先ずは「文化」の上記の「4視点(要件)」の範囲で論じてみる。

と言うのは、「飛鳥文化」と「白鳳文化」と次の「天平文化」には、他国の文化と比較して見ると、上記の要件が異なっているのである。
中国や朝鮮の文化の影響と決め付けられるものが少ない、或いは無いといっても良い程の事に気がつくのである。
(下記に遺産を列記)

この「推進力」の「疑問」は、「大化改新(8−1)」で述べた様に、「唐からの文化」が「遣唐使」と言う形だけでは導入されていない事だけではなく、日本独自の「三つ巴の文化」とも言うべき「融合文化」で生育した文化でもあった。

遣唐使の派遣中止の理由
後には菅原道真の建言で「遣唐使」が中止(894)に成った事にもよる影響から中国の影響だけではない事でも解る。
”よつふね”で物語る様に、遣唐使は危険であるからだけでは中止はならない筈で、それが国家の発展にとって必要であれば実行する筈である。しかし、中止したのは、既に後漢の渡来人は、もはや250年も経っていて”渡来人”の言葉は無くなっていた。その彼等の高い技能は、後漢の技能ではなく、日本の技能であり、最早「唐」を含む外国から文化を吸収する必要性は既に無くなっていたからである。
「渡来人」の言葉が書籍から消えたのは、桓武天皇期より少し経った頃(800)からで嵯峨天皇期では消えているし、史実から見ても「遣唐使」ではなく「貿易」の段階に達している。
更に、この事は、タイムラグを計算(100)すると、「白鳳文化」(650-700)の技能は、彼等の技能の貢献を意味するものである。

文化の「傾向分析」
ここでこれを解明する手法として「傾向分析法」を使って行う。

それより、多少、余談と成るが、しかし、専門書や教科書では「唐」ばかりを書き立てている。

私は学生の頃より”何かおかしい”と思っていた。
それは、上記した「4つの視点」の経緯で「文化」と言うものが起こり遺る筈であると考えていた。「文化」に関わらず全ての所業はこれに委ねられる。

中国の唐から入ったからと言って「導入、吸収、発展、熟成」が起こる事は先ず無い。現代でも同じではないか。

どんなにブームと成り得ても5年もすればすっかりと消えているのが殆どではないか。上記でも「酒」で例えた。
ところが、学者が答えを出すと必ずと言っていい程にこの様に成る。
(確かに、中国(後漢の渡来人の文化)ではあるが「唐」ではないことを大化改新8−1でも書いた。)

これは前レポート大化改新8−1でも記述した「判断視野が偏る」ことの結果としての「学者バカ」の所以である。

特に、多様化した社会では「視野範囲」が狭い事により、その差がこの現象と成って大きく起こる傾向がある。
だから、「唐」と拘らずに、その時代の史実をつぶさに調べて並べてみて、「傾向分析」して、それが社会に残存する要件即ち、「4つの視点」と「文化の経緯」(「導入、吸収、発展、熟成」)で篩い(ふるい)に掛けると、遺こる史実は必ず「長期性」を持っているものと成るである。

これは統計学の手法(傾向分析法)の一つであるが、特に「文化」というテーマで行うと「唐」のものは残らないのである。少なくとも、確かに「唐」では「吸収」のところまでは来る事はある。

日本以外の外国の文化の傾向は、この「熟成か発展」まで到達するのである。外国が吸収した「文化」は殆ど全てをそっくりそのままに「発展、成熟」まで入れて文化としているのが通常である。
ところが、「日本の文化」はそうでは無いのである。

では何故に、”「日本の文化」では「唐」の影響は「吸収」までに留まるのか”という疑問が出る。
その答えは、既に記述した「7つの融合単一民族」の所以に他ならないのである。これだけの民族が同居するにはこの「融合」の心が無くては成り立たなかったのではないか。それ故に、7つ民族が融合する事により一つとして稀にまとまった民族であるからだ。
外国は幾つかの民族があまり融合せずに分離して生活圏を造り国を構成している。

根本的にここに違いがあるのである。
何でも「融合」してしまわないと気が済まない「国民性」があるからである。
つまり、「融合文化」が原因しているからである。

例えば、端的に言えるのは、一つの例として「漢字」である。日本独自の当用漢字があり、ひらがながあり、カタカナがあり、英語に至っては日本英語が存在する。

文化として融合したものは、本を正せば漢詩から発展した「短歌」、「長歌」、「俳句」、「連歌」等、挙句の果てには、ある経過を経て「琵琶語り」から「民謡」「歌の演歌」や「講談」「漫才」文化まで入れると数えられない程にある。

これ等は、この「4つの視点」と「文化の経緯」(「導入、吸収、発展、熟成」)の条件が備わっていて、現在まで変化を遂げて遺産として「大衆文化」としてまでも遺されて大盛況な芸能と成っている。

これ等は、何を意味しているのかということである。
この答えは、「学者バカの定説結論ではない」と言う事である。


話を戻して、つまり、この事は、”「推進力」が一つの限定されたものではない”という事でもある。

「飛鳥文化」は、「国家建設の政治的意図」での背景と成って進み、夫々の階層に発生した「仏教文化」と「天神文化」と「技能文化」の3つが働き起こった。(大化改新8−1参照)
つまり、「18の改革と10の活動」から起こった「政治文化」と言えるものであった。

しかし、この次の「白鳳文化」というものがどのような「推進力」を得たかは、この事でも大方想像が着くというものである。

3 [文化の背景]

この「白鳳文化」の背景には、上記の「国家建設の政治的意図」(飛鳥文化)での文化を、「修正」をしようとした「大化改新」(1-7)という「政治的大改革」(「18の改革と10の活動」)が起って、これが基と成っている。

未だ、現代までに”「国が踊る」と言われるこれ程の改革がない”とされる大推進力の背景の「文化」であった。

これを解り易くする為に方程式にすると次の様になる。

「2文化の推進力と背景」=「飛鳥文化」+「国家建設の政治的意図」: 「白鳳文化」+「大化改新の政治的大改革」

「生育期」の「飛鳥文化」に較べて、この大化期後の50年の「成熟期」の「白鳳文化」は、「文化要素」としての基と成る「史実」による「外国からの導入」は少ないのである。

「飛鳥文化」=「生育期」 「白鳳文化」=「成熟期」

これはむしろ「大化改新」(1-7)そのものが、「推進力」になっていたといって過言ではない。つまり、「背景」でもあった。

「大化改新」=「背景」=「推進力」

しかし、「生育期」と「成熟期」のこの二つの文化にはよく分析して見ると「共通点」があるのである。

それは何れもが、後漢の「渡来人」らの「努力貢献」である。(詳細は前レポート参照)

その「努力貢献」がどのような形で現れたのかという点にも注目する必要がある。


それは結論から言うと、「努力貢献」は「技能文化」であった。
つまり、彼等が持ち込んだ「第一次産業の発展」に起因するのである。

「飛鳥文化」の「三つ巴文化」の内の庶民階層の文化、即ち「技能文化」が、他の二つ(天神文化、仏教文化)を越えて「白鳳文化」の大きな「推進力」となっていたのである。

「三つ巴文化」(飛鳥文化):「天神文化」=「仏教文化」<「技能文化」

「白鳳文化」に於いても政治大改革が起こって、より朝廷を中心とする「皇親政治」の基本が進み、そのためより強い「三つ巴文化」が現存したのである。(証拠は下記遺産に記載)

「飛鳥文化」=「技能文化」(努力貢献)=「白鳳文化」 :[総合力を持つ後漢の渡来人の努力貢献]
「飛鳥文化」=「三つ巴文化」=<「白鳳文化」

その証拠に、「仏教文化」が牽引車としての次の発展が顕著に起こった。


4 「白鳳文化」:[定説5つの発展]

1 「仏教寺院建築」の急増、
2 国家建設の「律令の制定」完備、
3 あらゆる技能の発展による「第一次産業」の各地の成長、
4 「文学の成育」と「史書の偏纂」の発展開始、
5 「情緒文化」と「詩歌」の発展開始、

以上、「史実」として「5つの発展」が起こったのである。
この5つが専門書や教科書では「白鳳文化」に起こった事としての定説史実と成っている。これには異論はない。

これ等全ては「技能文化」3の発展による「経済的効果」が裏打ちされているものであり、これ無くして、いくら「仏教」1といっても念じれば目の前に寺院が建つと云う事ではないし、法律2を作ったとしても民がこれに従う環境が出来ると云う事でもない。事ほど左様に他の二つ(4、5)にも言える事である。

建設物等の遺産の「質と量と範囲(土地)」に付いて、「飛鳥文化」に較べて比較にならない程のものがあったのである。

「質と量」に付いては、これは、民の生活が向上した「技能文化」の「経済的効果」によるものであり、土地の範囲は、各地に育った各種の技能から起こった「民の文化」によるものであり、故に限定せず大きく各地に広まったものである。

「飛鳥文化」<「白鳳文化」=「経済的効果」

「飛鳥文化」<「白鳳文化」=[質、量、範囲]

この方程式は「飛鳥文化」より「白鳳文化」の方がエネルギー即ち「推進力」が大きく、故に「熟成」している事を意味し、「成熟期」にある事を意味する。

では、次に示す遺産をつぶさに見てみると「白鳳文化」の上記の方程式の証明するものが見えて来る。
(史実に残されている有名遺産だけを記述)


5 「白鳳文化」期の史実に基づく主だった建築遺産

「官大寺」
伽藍の造営や維持の費用を国家が負担する寺院。官寺、大寺とも言う。
大宝期の四大寺(大官大寺、川原寺、法興寺、薬師寺)は平城遷都以降に東大寺、興福寺、法隆寺を加えて南都7大寺となった。

* この様に文化遺産を残すシステム(管理組織)が確立しているのは、「飛鳥文化」と大きく違うところであり推進力の最たる証拠である。
「量と範囲」の証拠ともなる。

「大官大寺」
百済大寺(高市大寺)と称する。天武期で大官大寺 平城京遷都後は大安寺改称した。東大寺建立前の最大の官寺である。

* その大きさ規模も格段の差があり「質」の点の証拠でもある。

「薬師寺」
天武天皇が皇后の病気平癒を願って藤原京に建立した寺院 後に奈良の西の京に移転。
東塔をはじめ白鳳期の重要な遺産文化財を最大保有する。

* 仏教と云う事から個別の目的で建立すると言うところまで、その「文化の広がり」(推進力)を見せている証拠でもある。
又、その「量と質」でも格段の差がありその証拠となる。

「薬師寺東塔」
各層に裳階(もこし)を持つ三重の塔。フェノロサはその美しさから「凍れる音楽」と称えた。頂上の水煙に天女12人と水煙の飛天像の透かし彫りがある。
裳階とは建物の軒下壁面の外周から庇(ひさし)を出し、柱で支えた部分。

* 第3者の外国の者がその遺産の美しさほ褒めた称えるくらいに、その技能(技巧)の進んだ所を認めている訳であるから、その「質」の」高さ」は飛鳥のもの以上を認めていることである。
後漢の渡来人の綜合技能は、多くの者を育て、ここまでに上げたことを意味する遺産である。

「山田寺」
改新の功臣 蘇我倉山田石川麻呂が創建 奈良桜井市 中大兄皇子に攻められてここで自決する。

* 蘇我氏の分家で鎌足の説得を受けて皇子の味方をした人物であるが、この寺の持つ意味は、この一個人が依頼して相当な遺産として遺しうる寺院を建立するまでに各地に「技能人の質と量」の範囲が広がっている事を証明するものである。

「川原寺」
奈良高市明日香村にある寺院。

* 特定の高位とか朝廷などの官位の人物が依頼して建立したものではなく、定説で白鳳時代の最も代表的特長を持つ遺産物といわれているものであり、「質と範囲」の高さを示すものである。

「興福寺仏塔」
東金堂本尊の台座内から発見された頭部のみの「金銅仏」である。

* 頭部だけでは証明とする訳にはいかないが、白鳳文化の特記すべき最大「質と量」の高さを物語るものなのである。
それは、「金銅像」であると言うことである。
「飛鳥文化」ではアマルガムの塗装の進んだ技能技術があったが、ここまで進んでいない。これを更に「白鳳文化」では、”ここまで進んだか”とするパラメーターでもある。

私の専門である冶金学的に見て、それは驚くべき「技能」と「技術」の「科学の進歩」ということを証明するものである。

* 「銅」を鋳込む技術と技能は現代に於いてでも難しいことである。
というのは、「銅」は本来他の金属にとっては不純物とされる金属で、例えば鉄に対する「銅」は0.03%に押さえないと「偏析」(セグレゲーション)と言う現象を起し、鉄は極めて脆くなり鉄でなくなるのである。
それだけに非常に特長を持った金属で、極めて進んで熟練した技能と高い「冶金学的技術」でこれをカバーする事が出来る金属である。
この像を作る事が出来る文化は、「唐」から入る文化程度のものではなく、「総合力」のある「長い訓練(技能)」と「研究(技術)」に裏打ちされたことを示す確固たる証拠である。
更に、これに「金を鍍金(塗布)する技能と技術」も専門的には「イオン化傾向」という「科学原理」に基づく条件があり諸悪の現象を起こして極めて同様に難しいものである。
それが、一つではなく白鳳文化の50年間に下記に示すとおりに、大変数が多く各地に遺産しているのである。
つまり、この一点だけでも、「白鳳文化」の「質と量と範囲」の証明に充分なものである。


6 「白鳳文化」期の史実に基づく主だった芸術遺産(彫刻)

「山田寺の薬師三尊像」保有
山田寺のところで述べたが、その像は白鳳文化の代表作と言われている傑作である。

* 寺と共に「質」の証拠と成り得るものである。

「薬師寺金堂薬師三尊像」(脇侍、日光菩薩像、月光菩薩像)
金銅像で白鳳時代を表す最高仏像とされる。

* 興福寺のところで述べた通りで、誰でもが知る像であるが、「質と量と範囲」(技能と技術)の真に証拠である。

「法隆寺阿弥陀三尊像」
大宝蔵殿にある金銅蔵で、橘三千代(橘氏:藤原不比等の妻)の念持仏とされる。

* 上記の証拠と共に、これが一個人が所有する事が出来るまでに、その「質と量と範囲」(技能と技術)の真に証拠である。

「法隆寺夢違観音像」
大宝蔵殿にある金銅蔵で、白鳳文化の代表的な像とされる。

* 更に説明をし証拠とするに及ばないが、誰でもが知る像であるが、「質と量と範囲」(技能と技術)の真に証拠である。

「宝慶寺十一面観音像」
唐の長安の宝慶寺から伝わったとされる石像である。

* これが、「白鳳文化」50年間にもたらされた「唐」の文化の遺産物であるが、この石像に類似し影響を色濃く受けたとする石像造はこの期間中には見当たらない。

「野中寺阿弥陀菩薩像」
大阪の野中寺にある金銅像である。

* 金銅像の、「質と量と範囲」(技能と技術)の真に証拠であるが、それを範囲として見ると、この都から離れた地方の無名の一寺にこの金銅像が存在する事はこの「範囲」を重ねて証明するものである。


7 「白鳳文化」期の史実に基づく主だった芸術遺産(絵画)

「葡萄唐草文様」
唐草を図案化した文様で、アッシリアを起源とし、ギリシャ、ローマで流行し、中国を経て伝わった。
薬師寺金堂薬師如来坐像の台座が有名。

「アジャンター壁画」
インド中部ポンペイの東北の地に29の石窟寺院の壁画の影響が中国を経て法隆寺金堂壁画に影響を与えた。

* 上二つは、全体に及ぼす影響ではないが、中国以外の文化の一端も垣間見る事が出来る。しかし、「中国文化」も「インダス文化」の影響を受けていたのであるから、日本古来の「融合文化」でありながらも、”「中国」”は初期段階の発展までの「文化」でもあり、「中国(唐)」と拘る必要性は無いと考える。

「法隆寺金堂小壁飛天図」
金堂内陣小壁20面に描かれた菩薩像である。

「聖徳太子画像」
百済の阿佐太子の筆とされる画像である。

「高松塚古墳壁画」
明日香村の高松古墳内部に彩色壁画である。

「上淀廃寺跡出土壁画」
鳥取県の上淀廃寺跡から出土した数百点に及ぶ彩色壁画の断片最古級の壁画である。

「法隆寺金堂壁画」
金堂の外壁に描かれた12面の壁画である。

* 上5つは、飛鳥文化でも遺産物を書いたが、壁面の絵画は無かった。「白鳳文化」では突然に、飛躍的に多く成っているが、「絵画」を技能として定義するには問題もあるが、「技能」の一つである事は間違いないので、「量と質と範囲」が一挙に拡大したもので証拠となる。


特記すべきは「技術」である。あまり、紹介されていないので特記するが、驚くべき「技術」が隠されているのである。

* 「壁画」はシックイに岩絵具と膠(にかわ:牛の皮を煮詰めたもの)とで書くものであるが、シックイの裏側は通称「みかげ石」(花崗岩、大理石)である。
この石は大変比熱に対して熱を伝え難い性質があり、表面が滑らかに加工する事が出来るし、質的に強く変形しないし、酸に対しても表面が円滑で且つ強いので劣化しない特徴を持っている。
又、スキンエフェクト現象で静電気で表面を粗面する事もない。また、湿度の吸収力も低いので膨潤しない。
このために、粘土質のシックイの付着も良い。
岩絵具は岩石を粉にして作ったものである。何れも自然鉱石であるので、夫々の鉱物に持つ電位反応差が少ないので科学反応の変質は起こりにくい。
シックイと岩絵具とみかげ石(三素材)の微妙な膨潤と比熱差がある。
しかし、ここで三つの問題が起こる。それは湿度と比熱による膨張と唯一有機物ニカワの量である。(三条件)

* 三素材の湿度に対する膨潤は異なる。
故に水分での膨張差が生まれてひび割れや剥離が起こる。
これを防ぐには20%位以下の2月頃の絶対湿度が最も低い期間で、低温であり一定保持出来る事の環境が必要であり、三素材の共通環境である事。
三素材の比熱に対する膨張は異なる。
石の比熱が問題で(他の二つは粘性を持っているので膨張は吸収)最低に保つ事が必要であり、5−10度以下の温度で保つ事をすれば、三素材のバランスを保つ事が出来る。
有機物ニカワの接着剤は三つの素材の接合に使われている。
岩絵具粉を固定する時と絵具と石とを接着するにも使用するが、この有機物のニカワの能力を保つにはある一定の温度範囲を保つ事が必要である。
高すぎると溶融し低すぎると固まるなど多質である。使う際は200度くらいで溶かして使用し、低温で固めて接着する。故に、保管10程度が必要である。

三素材と三条件を見極めて保存している技術は、理論が無い中で把握して1300年以上保つ事が出来ているのは、現代でも技術者としては驚くことである。

* 現在、カビの問題で壁画を駄目にしているが、ここには大変な物理原理が働いているのである。
特に、「みかげ石」に付いて、2つの原理が働いてカビを押さえていたのである。
先ず、電位反応である。この石は大きい電位を持っている。従って、この石の滑らかな表面にカビがつくとカビの電位と石の電位の差が大きく、カビは電位差で分解破壊されるのでカビが付着しない。(一定環境条件下で)

(この世の物体は、地球が巨大なマイナスの電位を保持している限り、全て電位を保持している。従って生きている事が出来る)

* 例えば面白い話がある。墓場で昔”人魂”がよく飛び交ったと聞いた事があると思う。これは事実で、その原理は次の通りである。
みかげ石に動物や虫などの死体からから出たリン(P)が付着しすると、電気反応(スキンエフェクト:表皮効果)により石の角にこのリンが集中する。そして、このリンが電位差でリークして発火して燃える。発火すると空気(28.8)より質量が軽くなり、電位差が無くなり石より離れて燃えながらふわふわと上昇する。そして、火の玉は受けた電位が燃え続ける事で無くなりリン(P)の発火は消える。この現象はある一定の条件下で起こる。
昔の人はこのことを知らずに”人魂”が飛んだとするのである

* 他にも例がある。
電車の椅子の横にパイプ柱があり、立っている人はこの柱を持ってバランスを保っている。そうすると、ばい菌が手に付着する。ところがばい菌は死滅するのである。何故であろうか。実は、このパイプの柱には金を合金しているのである。
金は鉱物上最も大きい電位を保持している。故に、この金と菌との電位差の電気で菌は死滅するのである。
菌の指輪や首飾りはこの効果を持っているのである。昔の権力者はよく手や首や至所に金の飾りをつけていたが、これは飾りや権威だけではなく、この殺菌効果も狙ったものであったのである。

話戻して。雨の降った後の石の表面がきれいに洗浄されて、後で上記の環境条件下で起こるのである。
つまり、この環境条件を保つ事でリンなどと同類のカビ菌も上記の電位反応で殺菌できるし、環境条件下では低電位の菌は増殖しないのである。
次は、石の「多孔質」で無い事にもあるが、詳しくはこれは次回のものとする。

* 高松塚古墳は、この環境条件を破壊したのである。本来、墓は永年空けないのが普通の考えであるから、1300年も持ったが、開くと壊れる。例え10度以下の低温低湿にしたとしても、上記の電位の物理学理論が成立していないから次から次えとカビが出るのである。更に空ける事で、一時、環境条件が、変化して三素材の多孔質性が高くなり、ここに電位の低いカビ菌などが吸着し生き続けてカビ菌を増殖させるのであり、電位による殺菌が成されないのでカビが出て来るのである。

カビ菌を殺菌して元の1300年前の環境に戻すには、閉めて上記の低温低湿にした後に、電気的に放電して、室内の電位を上げて殺菌して、安定保存する事で戻すことが出来るのである。

* 1300年も前の10度以下の低温低湿の環境条件は今のものとは異なる。特にそのカビ菌の存在量が異なる。
現在は周囲が建物や木々の存在で空気の流れが低くて多湿性が強く菌の繁殖能力が高まっている事、木々が少なく成っている事ことから酸素による温度の冷却能力が低下している事と、それによる酸素の殺菌能力が低下している事で菌の繁殖能力が高まっている事等、全く異なる。故に環境条件による左右される電位差による殺菌能力も現在と桁外れでは無いかと推測する。温暖化が進む中では余計である。
高松塚古墳の処理の失敗はこれ等の配慮が不足していたと考える。
オゾン液(O3)オキシドールでの酸素のマイナスイオン殺菌は全てを死滅させる事は不可能である。

* 1300年をキープしてきた経緯には、これだけの物理自然科学の理論が働いていたのである。
当時の後漢の帰化人の末裔は、いかに驚くべき「技術」を「経験」で把握していたかと言う証明なのである。
この様な総合力は、国内の技能経験から来るもので、50年の短期間で「唐」から持ち込む事は物理的に不可能である。
この時から、白鳳時代には、古墳群も増えるが、この技法が確立したことが原因であると言える。
次の敦煌の石室はそれを証明する。

8 「白鳳文化」期の史実に基づく唐の影響芸術遺産(絵画)

「敦煌石室壁画」
中国の敦煌にある莫高窟の石室に描かれている壁画で、この画の影響を受けていると言われている。

* この絵は兎も角も、石室絵の技法として、「唐」の前の「漢」と「後漢」の国の民の技能が、このときよりいくらかの上記の経験(自然物理学)をしていたことを示す証拠でもあり、且つ、この壁画は、上記の物理学理論を初期経験で把握していたことを示すのである。帰化した後にこの技法に磨きを掛けてきたと見られる。

9 「白鳳文化」期の史実に基づく主だった芸術遺産(仏教典)

「一切経(大蔵経」)」
仏教の経典の総称で、玄肪が5048巻を持ち帰ったものである。よく書写された。

「仏教文化」が「飛鳥文化」より吸収する動きがあったことを示す証拠と成り得る。

10 「白鳳文化」期の史実に基づく主だった文学遺産
(飛鳥文化に発見されていない文化)

「和歌」(やまとうた)
唐歌(からうた)又は漢詩に対して、和歌(やまとうた)と言う意味で、原流は古代の歌謡にある。
万葉集で定型化した。その後、「短歌」が主流になり「国風文化」で大成した。

* ”からうた”に対して、独自のものとして、”やまとうた”と呼ばれていた。
「漢詩」による「詩吟」なども漢詩そのものを文化して導入するだけではなく、和歌(やまとうた)という独自の文化と「融合」させて吸収し、「和歌」に対して「詩吟」と称して発展させた。
これは、経年後に「庶民の歌文化」と「成熟」させた文化の証拠である。

「短歌」
5.7調の和歌から短歌に変身し、万葉集で中心的形式となった。

* 「和歌」をより発展させるべき短くして、その極意を追及して、「やまとうた」を「発展期」にして「文化の経緯」に到達させた証拠である。

「長歌」
5.7調を繰り返し、最後を5.7.7で結ぶ形式の和歌で反歌で返す形式と変化した。

* 「和歌」をより発展させるべき長くして、その極意を追及して、「やまとうた」を「発展期」にして「文化の経緯」に到達させた証拠である。
長短の変化を与えて追及して、「やまとうた」を「発展」させたもので、真に文化の真髄の証拠になる。
然し、この「白鳳期」には一般の民までのものと成っていなかった。


11 「白鳳文化」期の史実に基づく影響した人物の遺産

「大津皇子」
天武天皇の皇子で、文武に優れ、「懐風藻」や「万葉集」に詩歌が収録されている「白鳳文化」に影響を与えた人物。

「額田王」
白鳳期の代表的女流歌人で、万葉集に長歌3首、短歌9首、が収められている。
大海人皇子との間で皇女を産んだが、後に天智天皇の妃となる。

「柿本人麻呂」
有力な官人で、白鳳期の代表的宮廷歌人である。万葉集には89首収録されている。

「大伴御行」
有力な官人であり、万葉集に収録されている人物

* 白鳳期の代表的人物として上流階級の歌として発展したが、次の「天平文化」では、「和歌(やまとうた)」の全盛期が起こり、万葉集には「読み人知らず」が記載がある事から、「民の歌」と成って「成熟」して「天平文化」と成った。


12 「白鳳文化」期の史実に基づく主だった祭祀遺産

「斎王」
伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女で、天皇に代わって皇祖の天照大神を奉斎した。鎌倉期まで続いた。

「式年遷宮」
神社で一定年数毎に新しい神殿を作り、神体を還す事を言う。「天神文化」である。

「大嘗祭」
天皇が即位後初めて行う新嘗祭のこと。

* 天皇家の「天神文化」も「飛鳥文化」より、以上の3行為が追加吸収されて「白鳳文化」の方が、より「発展期」に達している。
次の「天平文化」で成熟したのである。

13 「白鳳文化」期の史実に基づく主だった学問遺産

「大學」
官僚養成を目的とした中央の最高教育機関である。式部省に属し、学生は主に五位以上の貴族や東西史部(ふひとべ)の子弟であった。
大學の最終試験を通過すると、国家試験を受けて官職についた。
平安時代の天平文化では、教科は、紀伝[文章]、明経、明法、算道の四道が確立した。

「国学」
律令制下、諸国に置かれた地方教育機関である。学生は郡司の子弟である。

* 「白鳳文化」のその推進力は、「政治大改革」を基調として進んだが、この政治部門を推進する官僚を養成する機関を設立して、より推進力を一定のものとして発展させた。

この機関は、「天平文化」では庶民までのものとなり、多くの民の学僧や官吏が出た。
そして、「成熟期」に達して「学問」を基調とした「天平文化」が促進されたのである。


14 「飛鳥、白鳳、天平」の言葉の分析(古人の認識)

「白鳳」とは「大化」の次の年号の「白雉」の別称でもあるが、この時代は「白鳳時代」とも言う。

「飛鳥文化」は「鳥が飛び立つ様の文化」と書くが、「白鳳文化」(別称 白雉文化)は「その飛ぶ鳥が鳳凰の如く文化」と書く。
真に、この言葉通りである。「飛び上がった鳥が成熟して鳳凰と成って舞っている如き文化」と当時の人々は捕らえていたことを示している。

上記した経緯の文化を辿っていたことを当時の人々は理解していた事を意味するのではないか。

言い換えれば、古の人々が、「唐から文化」と言う認識が無いとしていて、「他国からの文化の影響」を色濃くなかった事を意味するのではないか。

これ等の発展期の「飛鳥文化」が、成熟期の「白鳳文化」に引き継がれて、次の完成期の「天平文化」へと繋がるのである。
そして、次の「天平文化」は、現世に飛交う「幸せをもたらす鳳凰が天に平和をもたらが如き文化」となったと、天平の人々は「2つの古の文化」を省みて理解したからと見る。

それは、「平和」をもたらす根源としての「楽しみ」(幸せ)を認めていたことではあると考える。
「平和」=「楽しみ」=「幸せ」

これは、上記したように「楽しみ」に到達してこそ「文化」と成り得た事を意味する。

この様に、上記した通り古人が定めた「文化の呼称」でも「3つの文化」には夫々特長と背景を持っている。そして、この背景は中国や朝鮮国の影響を受けていないところにもなる。



次は大化改新の新説に対する最後の反論 第10番目の新説に対する反論である。


  [No.108] Re: 大化改新9
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/20(Tue) 18:44:21

Re: 大化改新9
副管理人さん 2007/05/18 (金) 07:44
大化改新8−3の「日本の文化は朝鮮文化」の反論に続き、次の「石と水の庭園は疑問」の新説に対しての反論である。
(9番目の律令国家に対する新説は、「大化改新7」までに既に反論したので割愛する。)


10 石と水の庭園は疑問とあった。

これは大化改新8−1でも記述したが、「標準の時計」を製作したのである。
言わずもがな、時計は全ての「民の営み」の規準となるものである。1500年も経った現代でも同じである。
これ無くして「正しい生活」は崩れる。

上記した「飛鳥文化」と「白鳳文化」には、その「背景と推進力」は技能文化にあるとした。そして、「民の営み」は飛躍的に成長し豊かになり、その力を得て「余裕」が生まれ「豊かな文化」へと変身した。

「豊かな文化」の経緯と原因と成った事を改めて記述する。

経緯は、「隋」によって「漢国」が滅び、民は西と東へと二手に分かれて逃げ延びた。そして、東に逃げ延びた漢民の「光武帝」が率いる一団は、中国の東の国と朝鮮国を制圧して、「漢」の文化を持ち込み「後漢」を建国した。
しかし、600年頃に東の高句麗と後漢を制圧しようとし、失敗して衰退し遂には隋が滅び、「唐」国(618)が建国した。
この時、「後漢」も滅び、「光武帝」より21代の末帝の「献帝」の時、その子「石秋王」の子供の「阿智使王」と孫の「阿多倍王」が後漢17の県民の200万人を引き連れて、北九州に上陸した。その進んだ武力で北部は瞬く間に征圧し、直ぐに中部と南部も無戦で征圧下に納めた。
むしろ、九州の民は、その「後漢」の民が持つ進んだ技能を得て、生活程度が上がる事で進んでその勢力支配下に入った。
次から次えと上陸してくる「後漢」の人々は、中国地方へと進出しここも殆ど無戦で支配下に入った。彼等は帰化を申請した。
「大化改新」の起こった時期の孝徳天皇の朝廷は、この後漢の民の帰化を認めて、続々上陸する帰化人を中部の未開地に配置し開墾させた。
そして、九州の南部を分轄して大隈の国として半国を与えた。日本66国中32国までを支配下に入り、民の生活は飛躍的に向上させた。
遂には、その功が認められて、更に、「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の娘を娶り天皇家との血縁関係を結んだ。
「阿多倍」は准大臣の位を与えられ、その功に任じて天領地の伊勢国の北部伊賀地方を分轄して「不入不倫の権」を与えた。
その子は3子は、朝廷の3つの政治機構の3蔵の内、2蔵(大蔵と内蔵)を担当し、朝廷の軍事(天皇の護衛親衛隊は青木氏)も担うまでに勢力を保持した。
この3子は坂上氏と大蔵氏(永嶋氏)と内蔵氏とであり、天皇より賜姓を受けた。
技能ばかりの貢献ではなく進んだ後漢の政治手法でも貢献し、律令国家の基礎を築いた。
大蔵種材の頃には、九州全土の3権(軍事、経済、政治)を与えられて「太宰大監」に任じられ、現在までも有史来、正式に個人でただ一人「錦の御旗」を与えられて「朝廷」より「遠の朝廷」の称号も得る事と成った。
(藤原氏の北の「鎮守府将軍」と並んで、大蔵氏の西の「太宰大監」と呼ぶ)

結果は、この各地に普及した「技能」は、現在の日本の第一次産業の殆どを占め、彼等の持ち込んだものである。
(この技能者は姓の後字が、海部、服部などのように「・・部」と成る氏は殆どはこの末裔である。)

原因は、この「技能」により経済的活動が活発化して「経済的発展」を遂げて、その結果、その経済活動の基となる正確な時間に対する必要性に迫られた。
この為、朝廷は標準時間の制定を進め、その工事に関わり、明日香村の山懐にその時計と通報システムを築いた。
これが全体の経緯であり、この「石と水の庭園」でもあり、これを天皇家の「天神文化」の祭祀にも用いたのである。

このことは既に証明されていて定説と成っている。
しかし、だとすると、各地方の主だった所には少なくともこの様な設備があったと考えられるが、最近に発掘で明日香村にのみ発見されている。この事は、多分、歴年の後に、その目的の如何が忘れ去られ、時代の多くの混乱にて破壊されてきたのではとも考えられる。

では、その時計のメカニズムの概略を説明する。

[時計システム]
飛鳥の小高い岡の頂上付近に山から流れ込む枯れる事のない充分な溜池を造り、それより一定の勾配と距離をつけて定量の水を直線的に流す。この溝やプールなどの施設を大理石で造り、途中に平地にしたところに同じく大理石で作った一定の小さい丸型のプールを作り、ここに流し入れる。
この施設に溜まる水を定時定量の刻みを12筋入れる。そして、二つオーバーフローの水を流す口を作る。一つは上部から流れてきた水を継続的に定量分を直線的に流す口、もう一つは刻みの位置より定時断続的にオーバーフロー分を放流する口とする。
これ等の放流水の最初の口よりは同じく、下に向けて一定の勾配と距離をつけて定量の水を直線的に流す。これを上記の同じメカニズムで流す。
そして、更に一段下に向けて同じメカニズムとシステムで下に向けて放流し溜水する。
この上段溜池から4段で時間と分と秒を刻む事が出来る
これ等の全ての周囲は大理石で固めて熱による蒸発を防ぐ敷石を設け貼る。
(大理石は比熱を下げて水温度を一定に保つ性質がある。)
この施設と付随して大理石による日時計を作る。定点定時に日出と日没を確認する。
この二つの施設を組み合わせて正確性を期する時計とするのである。

この各四段の所と日時計部位には人を配置する。
「技能文化」は、銅や錫を入れて「大鐘を作る冶金技法」を開発して、その「鐘」を明日香村の丘の頂上には鐘突堂(鐘楼)を設けた。
一時(2時間)毎に「鐘」にて正確時刻を知らせ山々の「鐘楼」から伝達するシステムである。
大化改新の改革の一つとして、「烽火」システム(既述)があったが、このシステムを使っての鐘楼音での伝達となった。

[文化の推移]
この「鐘楼文化」の方式は確実には明治時代まで続いた。
この「標準時計」の作業は事務的行為だけではなく、「天神文化」の一つとして「朝廷の祭祀」の役割も持っていたのである。
「時刻」というものに対する現在の考え方とは少し異なり、「天神」という意味合いがあり、「天神」から「民」に与えられた「人」を「時」に導く「お告げ」として捉えていたのである。
現代の思考では理解が出来ないが、しかし、「仏教の教え」の中にもこの意味合いがある。

現に、昭和20年前までは全国の各寺院が鐘楼から鐘を突いて「仏教文化」として「時」を知らしていたのである。
ところが、第2次大戦で鉄が不足して鉄類は全て徴集されて戦艦大和や武蔵に変わってしまったので、鐘による時刻の伝達は、無く成った経緯がある。
現在でも僅かに大晦日に除夜の鐘の音を聞く仏教界での全国民の「伝統の習慣」が残っている。

この大元はこの「明日香村の祭祀(天神文化)」から来る「習慣」が、鐘楼伝達として、「寺院の文化」としてに引き継がれて来たのである。

つまり、この「水時計の祭祀」の日本独自の「天神文化」は、「技能文化」の飛躍的発展を遂げた結果、「仏教文化」と「融合」させた事を意味するのである。

ここでも上記の「技能」の「質と量と範囲」の影響を大きく受けている証拠でもある。

「鐘楼文化」=「天神文化」+「仏教文化」=「融合文化」

つまり、現代まで「仏教文化」に引き継がれて来たこの習慣は、「鐘楼文化」となり引き継がれて現代に至っている。

結論
これは、1300年以上続いたことは、文頭の「文化設立の経緯」の定義からも「文化」(鐘楼文化)を意味し、ただの「時計」ではなく「お告げ」の祭祀に使用する「神聖な設備」としても捉えていた事を示すものである。

第10番目の「水と石と庭園」のNHKの新説は、上記した「技能発展」による一つの「鐘楼文化」(実務と祭祀)としても受け継がれてきたものであり、甚だ無根拠で論外で、裏に歴史否定の思惑のある愚説である事が解る。
朝鮮文化の影響ではない事は重々明白である。

結び
以上で、「大化改新」のNHK新説に対しての反論は終わる。


総評
全体を通しての総評としても、これだけ明確な史実がありながら、新説としたのは驚き以外に何ものでもない。
第10番目の結論に尽きる。
結果として、反論で「大化改新」前後100年の歴史を細部に渡って論じてしまった事になったが、これもかえって「大化改新」の全体像を描けた事で良かったと考えている。
しかしながら、最近のNHKの「悪のスパイラル」化した左傾化を危惧する。これでは益々「視聴料不払い」は増加して5分轄案が更に浮上する可能性は高くなり、一般視聴者には大きな損失と成りはしないかはなはだ心配である。

終わり。