青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.135
Re: 栃木の青木
135編集 追加
>住所地の昔の表示に〇〇町大字諏訪瀬という表示があり、菩提寺の名前にも諏訪山〇〇院の文字がありました。
栃木の青木さん それは本当によかったですね。
私も長年青木氏の研究をしていますが、青木氏は比較的に他の氏と異なりその家柄からか血統を横に広げなかった傾向があり、血筋は有力部族に限られています。
これは、嵯峨天皇期に出されてた令にて、青木氏は皇族の者か又は特別に藤原氏に対してのみ認められた姓であります。それ以外のも者は名乗る事を禁止しました。

皇族が天皇が代わるたびにどんどん増えてゆき、朝廷の財政を圧迫するのでこれを防ぐ事を目的として天智天皇が大化の改新で行ったことが最初です。
天智天皇期には皇子と皇女は34人もいました。(現代までの天皇の中で最も多い。)このために其れまでは第4世皇位第6世臣下方式をとっていました。
此れを天智天皇は覆し、第2世皇位第6位臣下方式にかえました。
これが第6位の皇子の施基皇子(しきのみこ)であり、伊勢王となり賜姓を青木氏と受けて臣下して伊勢の青木氏が誕生しました。この青木氏が初代であります。この方式が5代続きました。(天智、天武、文武、聖武、光仁)
そして、各地の守護として配置しました。(伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐)
の順です。

伊勢青木氏のときに特別に第7位の川島皇子も賜姓を受けて近江王となり土地の名前を採って佐々木氏となりました。
光仁天皇の子供の桓武天皇はこの方式をせず、自分の母方の(渡来系一族の阿多倍の孫に当る娘 前回のレポートの渡来人)阿多倍王又の名は高尊王又は高望王に賜姓をし、平氏(ひらぞく)の氏を使ってひきたてました。これが5代後には清盛の京平家になるのです。
次の天皇の嵯峨天皇は伝統を崩すこの方式を嫌い元の皇族に戻し、青木氏より変名して源氏(16代続く)としたのです。
この時にこの様な事がないように上記の令を発し天智天武期の方式に若干手を加えてを正式に発令したのです。

この時、第6位以下の皇子は殆どは比叡山か門跡寺院に入り学僧となりました。後にはこの皇子たちが還俗(俗世に帰る)する時は青木氏を名乗ることとし、皇族の者が下俗するときは青木氏として一族の姓の統一をはかりました。
この賜姓の受けない皇族の青木氏も確認出来るところでは5家(実際は15人ほど)ほどあります。
(門跡寺院とは天皇家の者が皇位を離れて僧になるときに入る独自の寺の事)

このように令により青木氏は血筋を護られてきたのです。
お家の賜姓青木氏の血筋を受けた武田氏系青木氏中の諏訪氏流青木氏は今日の情報でも裏付けられました。
そして、室町ころまで菩提寺は貴方の一族だけを祀るお寺であつた筈です。
門跡寺院と同じく何々院としていますので限定された菩提寺であつたのです

大寺の社主で青木氏と佐々木氏と藤原氏が多いのはこの理由からです。

間違いは有りません。一族の寺院を持つと言う事は大変な皇位の家柄を示し
その勢力も大きかったと想像できます。この様な寺を持つ一族は青木氏、藤原氏、佐々木氏などの限られた10氏程度の氏です。持ちたくても持てなかったということの方が現実でした。

この事から、現在の栃木のお住まいの所に貴方のお家のお寺があるかも知れません。この様な氏は必ず先祖を祭る寺も引き連れて移動しているのです。
逃げる状況にも依りますが、又、藤原秀郷氏の青木氏の寺もありますので難しいかも知れません。ただし藤原氏の青木氏の寺は浄土宗です。お家は天台宗ですのでこの点で見分けられると思います。
(下野武蔵国では殆ど浄土宗の中にいますので、お寺が元の浄土宗に戻していることも考えられますが)
地名も移していることが考えられます。面白い調査ですね

又、何かわかりましたらお知らせください。楽しみにお待ちしています。

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