青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.186
Re: 同じです!
186編集 追加
>私は神奈川在住ですが,栃木の青木さんと同じ家紋です.(丸に抱き角)
>また宗派は浄土宗です.
>祖父からは「祖先は山梨で武田家の家臣をしていたが(何らかの理由で)現在の横浜市戸塚のあたりに一族郎党で移動してきた」と聞かされていました.
>実際,お墓のある戸塚の大運寺に行って見るとお墓が青木だらけでした.
>今日は「抱き角 青木」で検索してこのページを見つけました.
>詳細なルーツの解説があって驚きました.
>どうやら我が家のルーツは栃木の青木さんとほぼ同じようですね.
>青木研究員さんの説だと信長に滅ぼされて逃げ延びた先は武蔵国の埼玉と下野の国の栃木ということですが,横浜に落ち延びた一族もいるということで新説になりましたでしょうか?
抱き角の栃木の青木さんのご親類の方 始めまして。
当サイトに良くお越しいただけました。
これからも同じ青木氏としてこのサイトでお会いしましょう。

其れとお答えが非常に遅れました事をお詫びいたします。申し訳ありません。
実は栃木の青木さんのところに入っていたので気が尽きませんでした。
昨日、管理人さんから指摘を受けておどろきました。

抱き角紋の青木さんは言うまでもなく栃木の青木さんと全くの縁者です。
皇族賜姓青木氏の血筋を引くお家の方ですので、私とは元は同じルーツに成ります。私は伊勢青木氏の総本家です。

既に栃木の方のレポートをお読みと思います。そこで信長との戦いで逃げ延びる時に一族の一部の方は大勢の一族がかたまることは好ましくない事から多分神奈川郡横浜にとどまったもので、他の一族は藤原秀郷一族がいる奥手の栃木に逃げ延びたのでしょう。

信長はこの地域まで戦線を伸ばす事は戦略上は出来ず、又戦いになる場合はお家のご先祖の勢いを再び高めることにもなり、この結果、藤原一門の結束が起こり余計に複雑にする事にもなり、尚且つ、背後を突かれる可能性がありました。ですからこの方向に逃げ延びることを選択したのです。
そして、万が一のことを考えて子孫を残す目的のためにも両端に分けたものと思われます。
武田一族は風林火山の下に強い軍であったことは知られ、徳川家康も大量に家臣にしています。

一部は伊勢の青木氏を頼りに逃げてきています。そして、伊勢の桑原地域に留まっています。伊勢青木一族は天皇の伊勢不可侵の令の保護を受けていましたので逃げる事ができたのです。

信長はこの令を守りましたが、武家の出ではないので秀吉は守りませんでした。
私の家も3つの青木城に籠り戦いましたが、秀吉の命を受けた蒲生氏郷に
負けました。
しかし、無敗の武将で学者でもあった蒲生氏郷は青木氏とは清和源氏の血筋を持つ氏であったので、これを守り、これ等の青木を手厚くまもりましたので武田系青木氏も含む青木一族は生き延びました。徳川氏もこの令を守りました。

そのなかでも武田系青木一族の大半は藤原氏を頼ったことに成ります。

家紋に何らかの細工がないとしたならば完全な親族です。抱き角紋の本家筋と少し分家筋となると極めて小さい範囲で細工をして見分けられるようにしてあります。(一度細部に渡ってみてください。家紋掲示板を参照)
しかし。抱き角紋と同じは家族か兄弟か親類の人たちであったはずです。

そこで、横浜の件ですが、全く新説では有りません。
極めて歴史的な史実の中に居ます。

甲斐国の武田氏系の諏訪氏の青木氏は元を正せば武田氏は藤原秀郷の一族の者が陸奥国の守護(鎮守府将軍)として赴きました。この時、現地の豪族の武田一族との間で縁組が整い藤原秀郷の一族の血筋を受けました。
そして、この鎮守府将軍は次に甲斐の国の守護を命じられましたが、この時、この藤原の血筋を受けた武田の一族は護衛のために同行しました。
そして、この武田の一族が甲斐の国で勢力を持ち本家筋にも劣らない一門となります。
(研究室の皇族賜姓青木氏のレポートと藤原秀郷流青木氏関連のレポートをお読みください。)

この武田氏が其れまで、甲斐の国にて守護としていた皇族賜姓青木氏と縁組をし、更には後に守護代として入った清和源氏の分家源の頼信(本家は頼光)より8代目の者がこの武田氏の跡目に入ります。
上位からの跡目であるので家紋も家柄も上位の家柄と成ります。清和源氏の支流一門となったのです。
つまり、日本の上位2つの氏の両方から陸奥の豪族であつた武田族はついには、藤原秀郷の血筋と皇族賜姓青木氏の血筋と同じ皇族賜姓源氏の血筋をも持つ氏となつたのです。

そこで、逃げ延びる時に、このときは既に弱体化していたが藤原秀郷一門でしたが、武蔵国と下野の国を定住地としていたので一族で固められた土地に上記した縁を頼って甲斐の武田系青木氏の一門は逃げてきました。

この藤原秀郷の武蔵の国は埼玉県の入間郡を中心に現在の西は神奈川横浜、東は栃木の県境、南には葛飾郡まで、北は北埼玉郡まで丁度円を描く様に取り囲み内側より直系の青木氏、中段は直流の青木氏,外円は支流の青木氏と言う様に取り囲み防衛をしていました。

この藤原秀郷流青木氏は鎌足から8代目の秀郷の子供千国がこの護衛の役目を担いました。(平将門の乱の勲功で秀郷は公家に昇格したので武力を持つ事ができなくなり子供の戦国にこの役目を与え、皇族賜姓青木氏に習って青木氏と名乗らせたった。皇族賜姓青木氏も天皇を守る親衛隊の役目を担う)

以後、この青木氏は各地に赴任した本家の一族にしたがって護衛として各地に点在し、その分家筋が勢力を拡大するために赴任地に定住しました。
本家筋は上記の本国の守りと各地に送り出すための子孫を増やす目的から残りました。

元々は藤原一門の血筋を受けている武田系青木氏(母方の郷)はこのルートを使って逃げたのです。
鎌倉時代には藤原一門は衰退しますが、これらの本家筋は源の頼朝に合力して
御家人となつた者が多いのです。
室町期にも同じく武田氏と同じで藤原氏の血筋と皇族賜姓青木氏と皇族賜姓の清和源氏の血筋も受けている足利氏ですので、ある程度の力は保持していました。
そこを頼ったことに成ります。

神奈川郡の横浜はこの藤原秀郷の勢力圏内の西の入り口です。栃木は東の出口と成ります。

元を質せば、諏訪族は中国の後漢の光武帝から21代目の献帝の子供の阿智使王とその子供の阿多倍が引き連れてきたの民で、帰化して200万の一部がこの甲斐の国の開拓に入ります。
大型の外国馬を飼育しこれを糧として生きてきた一族です。640年代のことです。孝徳天皇期で大化の改新期です。
(お家のご先祖が日本書紀に度々出てきます。そして、天皇はお家のご先祖を守っていることも書かれています。)
そして、この渡来系の民の開拓を守る為に皇族賜姓青木氏(光仁天皇の皇子)がこの甲斐国に入ります。950年代には清和源氏の源氏本家の頼光が守護代として入り、その後970年頃には弟の頼信が守護代として入ります。
1120年代頃には武田氏が入ります。

ですから、栃木の青木さんとお家は大変な血筋を持つ一門です。武田系となつていますが、家柄からは武田系青木氏は武田氏より上位です。
当時はかなり丁重に扱われていたはずです。

正真正銘の浄土宗の皇族賜姓青木氏(光仁天皇と清和天皇と阿多倍王)の血筋を引き継ぐ一族です。
(皇族賜姓青木氏は5家5流でその支流一族にあたります。)
栃木の青木さんの所のレポートでも書きましたが、皇族賜姓青木氏の後は皇族賜姓源氏と変名しましたので何重にも皇族の血筋を受けている事に成ります。
この様な末裔ですので、是非多くの子孫を遺していただきたいものです。

これからも、このサイトに是非お越しください。又、ご質問があれば遠慮なく
同じルーツを持つ者として平易にお尋ね下さい。

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