青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.203
Re: 同じです!
203編集 追加
>青木研究員さん,お返事と詳細な解説ありがとうございます.
>
>先日実家(同じ神奈川県内)に帰った際に,親戚がお寺の過去帳を元に作成した家系図というものを見ました.
>それによると,過去帳に存在する一番古いご先祖は私から数えて12代前で元禄7年(1694年)に亡くなったようです.初代と書いてありましたが,これが実際に過去帳に書いてあるのか,家系図を作成した親戚が書いたのかは分かりません.
>
>ということは,私のご先祖は信長から逃げた際に横浜に来たのではなく,16XX年頃に移動してきた可能性が高いと思われます.恐らくいったん栃木に逃げ延びた中から,江戸時代になって一部が横浜に来たのではないでしょうか.
>
>ちなみに初代から7代目くらいまでは2種類の名前がほぼ交互に表れていました.家督を継ぐものは名前も継いでいたんでしょうが,区別が付きません.奥さんに至っては戒名だけで俗名が残っていないのはなんだかかわいそうでした.
>
>とりあえずボトムアップ方式で300年ほど遡れることが分かりました.いつか光仁天皇まで繋がったら面白いですね.
>本当の初代にあたる光仁天皇の第6皇子(皇位継承順でしょうか,第6子という意味でしょうか)の名前というのは判明しているんでしょうか?
横浜の青木さん お元気ですか。
先ず、お尋ねの件ですが、いくつかありますので順次ご説明いたします。

第1番目の過去帳の件ですが、皇族賜姓青木氏系24氏の一族は皇位の家柄であるために、室町期の下克上と戦国時代にほとんどは壊滅的な打撃を受けました。
又この様な家柄という事に対する反発もあり、焼き討ちに逢い宝物、家伝のもの、系譜、由緒書きやステイタスと成る物、ついには菩提寺や青木氏の神社などが焼失してしまいました。

したがって過去帳は昔の戸籍簿ですがなくなっているのが殆どです。
先ずは、江戸の中期ぐらいの過去帳しか有りません。
江戸中期と言うのは安定期の文化の栄えた時期でしたので此処からは大方の過去帳は残っているのです。
つまり、自分の家は皇族賜姓青木氏の武田系青木氏であると言う事がわかっていても又、言伝えがあっても証明する物は到底ある事などありません。命を守るのが精一杯でした。
其れと男はこの戦乱で跡目の多くが無くなり、男系の継承すらままならなかったのです。そう云うことから言い伝えそのものも途切れると言うことが起こったのです。
ですから判るところから江戸初期ぐらいから初代として扱い、家系譜を造るということが起こりました。
しかし、家の氏名と家紋と宗派程度は他の親族がいるために継承することが可能ですので青木姓と家紋と宗派は残ったのです。

次ぎに第2番目の横浜の件ですが、神奈川郡横浜から伊豆地方までには実は青木村が3つあり、この皇族賜姓青木氏の3つの氏が住み分けて存在しています。

西端の伊豆地方には平安期にはこの地方には清和源氏総宗本家の源頼光系が入り、一族の守護地でした。
此処には、この頼光系の血筋を引いた皇族賜姓青木氏(伊勢青木氏の支流)が定住しています。
この地の墓には全て笹竜胆の家紋がありこの墓石は青木氏のものです。

神奈川郡の横浜付近西よりには甲斐の武田系青木氏の一族が定住しています。
この一族は二つに分けられます。
一つは甲斐を兄の頼光から守護職を譲り受けた頼信は此処を基盤として東に勢力を伸ばしたのです。
4代後の源の義家や義光などの頼朝や義経の先祖が関東を制圧して此処を拠点として藤原秀郷と同盟して東北から北陸地方へと勢力を伸ばしました。
この時に付き従ったのが甲斐の武田氏系青木氏です。
したがってこの一部にはお家の諏訪族も含まれいるのです。
大体は付き従うのは分家筋の子孫がつき従います。
青木氏の宗家や支流の本家筋は確実に子孫を残すために地元に残るのが慣例でした。
ですから、先ずは此処に入る親族を頼ると言うことが起こったのです。
又、隣には藤原秀郷流の血縁を持つ青木氏がいますので逃げ延びるには格好の場所でした。(母方は藤原氏)
この青木氏には天皇から「不入不輪の権」が与えられてあり、これを破って東に信長は討伐に勢力を伸ばす事には背後を突かれるということもあり、且つ、この藤原秀郷一族とこの青木氏とお家の武田系青木氏それに伊豆の頼光系皇族賜姓青木氏がいますので無理というものです。
まして、伊豆と横浜との中間には頼信の東制に従ったお家等家元の甲斐の皇族賜姓青木氏の皇族賜姓青木氏が村を形勢しています。

この3つと藤原秀郷流青木氏と秀郷一族がいるところに信長は入れません。
したがって、此処が甲斐武田系諏訪族の青木氏の逃げ延びる最本拠地なのです。

更に東の奥に入れば縁者が少なくなるのですが、信長の勢力はより届かないところと成ります。
味方の縁者が多くいるところを選ぶか、より信長の勢力が届かないところを選ぶかの選択です。お家のおずか紋の一族の青木氏は子孫を確実に残すには両方に分けた方が確実です。其れは信長の比叡山攻めの印象や、武田氏の壊滅作戦や、東本願寺攻めの激烈な殲滅作戦から考えて、青木氏も例外ではないとしてこの様な選択をしたのでは無いでしょうか。

第3番目の戒名の件ですが、高位の皇族賜姓青木氏系の血筋を引く一族にはつぎの仕来りがありました。

それは、墓には男墓と女墓とがありました。
つまり、男系を主としていますし、妻には4階級のものがあり、皇后(本妻)、后(きさき)、妃(ひ)、優、と階級外に采女(うねめ)がありました。
これ等はその妻の実家の身分に寄ります。
皇位と高位であるので子孫を確実に遺すためにこの4つと一つの妻を認められていました。
よって、この者たちの女の墓は一つの墓に入れることは出来ませんので、妻の墓として「おんな墓」を作り、その横にその戒名だけの書いた大きな石碑を立てます。
当然、女墓があればその近くには男墓の本格的な大墓があるのです。
見られた墓は女墓であったはずです。

其れと、仏教では戒名が本当の名で、俗名は仮の名として扱います。
家柄の高位系の氏では昔は死ぬ前から官職を外れるとこの戒名で呼んでいました。江戸期から俗名に変わったのです。

筆者の伊勢の墓にはこの二つの墓があり、1年の宗教的行事には周囲と違う仕来りがありつい最近までこの仕来りをまもっていました。今でも少し違いがあります。

第4番目は光仁天皇の皇子の件ですが、先ず、第6位皇子の件ですが
その時の天皇から見て天皇の子供とその孫、天皇の兄弟の子供と孫を天皇の全ての子供とします。
そして、これをより高位の妻の子供から年齢に関係なく第1位とし続けて、次ぎに兄弟の子供として、これ等を並べて第6番目の子供を第6位皇子と呼び、この皇子から臣下します。
そして、この第6位皇子までを王と呼びます。この第6位王にだけ賜姓(氏名を天皇自ら与える。)を授け臣下させ侍として天皇の親衛隊とします。
そして、この第6位皇子(王)には青木氏としました。

第7位の元皇子は土地の名を採り氏名としました。
この第7位以降の者は天皇が代わるたびに、そしてその子供と孫が生まれるたびに順位が代わります。
世代で云うと、7位以降に関わらず第7世程度の者になりますから8世9世と下がります。この下がった一団は青木氏は名乗れませんので関東地方に移動して生活しました。
(この青木氏を名乗れる者は花山天皇までで全部で27人ですが実質18人となっています。名乗ったのは5人程度です。後は僧侶で終わったことに成ります。)
この一団のことを「ひら族」といいます。(平清盛の一族の「たいら族」とは異なる)
この集団を「坂東八平氏」と云い、鎌倉幕府の頼朝の後ろ楯となり2年後に頼朝はじめその一族を抹殺して鎌倉幕府を奪い取つた北条氏らの平氏8集団です。

この第6位皇子には各地の天領地の王として配置します。
これが伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王と成ります。
つまり、伊勢の青木氏、近江の青木氏、美濃の青木氏、信濃の青木氏、甲斐の青木氏です。
伊勢の青木氏は天智天皇の第6位皇子(施基皇子)が伊勢王となり氏名を青木氏として子孫を青木氏とした初代の青木氏です。
伊勢王は最初は天智天皇の敵の孝徳天皇の子供が伊勢王となりましたが、2年もしない内にこの王とその弟が同じ日に没します。そして、その直ぐ後に天智天皇の第6位皇子の子供の施基皇子が伊勢王に成ります。

この青木氏の祖の施基皇子は天智天皇の采女の子供です。
天智天皇には男女合わせて34人もの子供が居ました。内12人が男子の皇子です。この中には日本書紀を造った舎人皇子がいます。
施基皇子と川島皇子と大友の皇子と舎人の皇子(近親婚の弟)他にもう一人(近親婚の弟)がいます。
川島皇子は近江王となり、第7位皇子でしたが特別例外として賜姓を受けて初代の近江佐々木氏となりました。

伊勢青木氏は藤原系の血筋の無いただ一つの青木氏です。
他の4つは全て藤原氏を母方に持ち4階級の何れかの妻です。
この5つの青木氏のことを5家5流の皇族賜姓青木氏といい、天智天皇、天武天皇、聖武天皇、文武天皇、光仁天皇の5人です。
この天皇の間には女性の3天皇が在位します。

この様な方式は大化の改新によりこの反省(天皇を自ら守る親衛隊がなかったことと皇子達の家を維持する経済的費用の節約からから実施しました。蘇我氏に専横を許した原因)から行いました。
この方式を聖徳太子のときまでは第4世皇位第7世王としていました。これを第2世皇位第6位王に変更したのです。世と位との違いです。

第4世はその天皇の孫の子供まで、その天皇の祖父の親まで、兄弟の孫の子までを皇位の者としたのでしたが、これを兄弟の子供までを一つの子供とし上位から数えて第6番目までの子供を皇子として王とする方式で、以降の子供は皇位を外れて比叡山や門跡寺院や皇位賜姓青木氏の寺社の仏門に入ると決められていました。
この方式は光仁天皇まで行われ、この後に光仁天皇の子供の桓武天皇がこの方式を嫌い別のこと(たいら族に賜姓で後の平清盛)をしました。
しかし、この子供の嵯峨天皇は元に戻して第6位の皇子を青木氏と賜姓するのをの源氏(16代続いた)とする事をきめました。
そして、青木氏は皇族から下俗や還俗する時の氏名とすることを嵯峨天皇の詔令により決めました。
この嵯峨天皇は世継ぎの問題が起こったために少し方式を変更して第4世皇位第6位王方式に緩めました。(5位はどちらにも付かずとする)

第5番目の光仁天皇の子供の件ですが、子供は桓武天皇ですが、その他の第6位以降の皇子の名はわかっていません。其れが今でも歴史家の研究課題です。何れは判明するでしようが、資料が無いためにまだ墓さえ判明していないのです。

光仁天皇は伊勢青木氏の施基皇子の子供です。したがって甲斐の青木氏は伊勢の青木氏とは同じ血筋を持つ同族です。お家と筆者は最も古いところで血縁族です。
施基皇子のことは日本書紀に18回も出てきます。最も多い人物です。この皇子は有史来の極めて有能な人であり、日本書紀によると当時の各地で起こる大問題を天皇に変わってすべてを解決しています。何でも施基皇子を呼び出して解決していることが克明に書かれています。お家と伊勢の青木氏はこの皇子の血筋を引いていることに成ります。あげくには皇太子をさておき天武天皇の葬儀の責任者を務めています。天武天皇は兄の子供の施基皇子を自分の子供以上に可愛がっていることが書かれています。
天智天皇と天武天皇にも信頼されて皇太子より信頼されている様子が判ります。天智天皇や天武天皇の軍師役を演じています。

お家と伊勢の青木氏はこの皇子の血筋を引いていることに成ります。
伊勢青木氏は代々天皇家の軍略家として北畠氏と共に働き、秀吉との戦いに敗れるまでは務めていました。伊勢青木氏は1200年頃から「二束の草鞋作戦」を採り、一方では伊勢の豪商紙屋長兵衛としても名を馳せています。(NHKの大河ドラマにも3度もでてきました。余計なことですが、筆者の物の考え方もこの血筋の影響を受けている気がします。)

この時期の資料は殆どは日本書紀と古事記以外になく、歴史史書は戦国期の焼失などで判らなくなっています。
後は韓国の史書に日本の史書より詳しく載っている「日本世記」という史書があります。
この書いた人は大和の国の朝廷の行政指導をしていた人で韓国に帰って日本のことを書いた極めて詳しい日記を残しました

参考に、この時に施基皇子が伊勢王となって伊勢の青木氏を賜姓を受けた時の状況を詳しく書いており、この時にこの伊勢の青木氏の施基皇子に仏像を天智天皇は送ったと記されています。
歴史小説家の司馬遼太郎氏もこのことを調べてこの仏像の所在不明のことをかいていますが、実はこの仏像は1360年も続いている代々筆者のところにあります。
かなりの大きくきれいで保存の良い状態の仏像です。世間に出せば日本最古となるでしよう。
これが全ての5家5流の24氏の青木氏のステイタスです。

この時期の事を調べる事は国の専門家でも今でも研究しているのです。高松塚古墳群は誰の墓などと研究は続いています。
司馬遼太郎氏や黒岩重吾氏や山本惣五郎氏や松本清張氏などもかなり詳しくこの時期の事を調べていますので読んでみてください。
又、歴史写真マガジンなどの本もあり、各大学の専門研究家がプロの写真を添付して此処にその歴史的なことをレポートした本もあります。

筆者の経験からは室町期以後の史書は殆ど当てになりません。この時期の事は疑問をもち推測を立てて一つ一つを潰していくことの研究が必要です。

以上ですが、参考にしてください。

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