青木氏のルーツ & 雑学研究室

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◆-天皇家と武田家の関係?Re: 天皇家と武田家の関係?

No.378
天皇家と武田家の関係?
378編集 追加
明けましておめでとうございます^^
さて質問なのですが、正月の一般参賀?で気になったのですが。。。天皇陛下らの後ろに武田家の家紋「武田菱」がありました。これは天皇家と武田家はどのような関係があったのでしょうか。
No.380
Re: 天皇家と武田家の関係?
380編集 追加
>明けましておめでとうございます^^
>さて質問なのですが、正月の一般参賀?で気になったのですが。。。天皇陛下らの後ろに武田家の家紋「武田菱」がありました。これは天皇家と武田家はどのような関係があったのでしょうか。

上州の青木さん 今日は。始めまして。

さて、早速ですが、ご質問ですが、結論から申し上げますと、全く関係が有りません。

武田氏は元々は陸奥の小豪族でした。藤原秀郷は武蔵、下野の国を領国として初代から東北北陸地方と北海道の治安を朝廷より任されました。これを「鎮守府将軍」といいます。代々この軍事最高位の職に任じられていました。

この時、藤原秀郷の2代目頃からこの陸奥(現在の青森県)に藤原秀郷流青木氏の護衛の下に護っていました。この時、土地の豪族の協力を得るために4代目位から血縁を結んで地盤を固めました。

この時の豪族としては、武田氏、小田氏、小山氏、花山氏などと血縁を結びました。

この時の武田氏の分家が、藤原秀郷の一族が甲斐の国の国司代に任じられた時に藤原秀郷流青木氏と共にこの武田氏も護衛役とし同行しました。(ここには光仁天皇の第6位皇子の皇族賜姓青木氏が領国として甲斐王として守護を務めていた)

この武田氏が甲斐の土地で勢力を持ち治安を保つ為にも甲斐の土地の豪族との血縁を結び続けました。この時に特に諏訪族との血縁がこの目的を達成させるには信濃の諏訪族との血縁を図ることでしたが、この諏訪族には朝廷から「不入、不倫の権」を与えられていた為に武力で攻めて支配下に入れる事が出来なく「由布姫の政略結婚」で解決して甲斐に確固たる地盤を築きました。
更に、藤原氏の後、皇族賜姓の清和源氏の宗家の「源の頼光」がもとより居た皇族賜姓青木氏を補佐する為に守護代として赴任しました。この時、武田氏はこの皇族賜姓青木氏との血縁をし家柄を高めました。又、この時に赴任してきた「清和源氏」とも血縁を結んで血筋を確実にしてきました。

つまり、この武田氏は皇族賜姓青木氏と皇族賜姓源氏の2つの第6位皇子の家柄の一族と血縁を結んだのです。

この時、この支流の源氏と成った武田氏は家紋を定めました。それが「菱紋」です。

さて、ここでこの「菱紋」の由来なのですが、次の通りなのです。
「菱紋」は織り文様を元としています。そして、この織り紋様は丁度菱の形に似ているところから菱紋と呼ばれる様になったのです。

初めから「菱」をデザインした訳では有りません。
元は、中国の皇帝などの高級官僚が用いていた紋様で、この紋様を「唐花」文様といわれます。

つまり、この「唐花」の文様が始まりで後に朝廷などの式典や襖や幔幕や屏風などの式典に用いる式具に使われるようになったものです。奈良朝頃から使われていて正倉院などの具に用いられています。

この唐花には大別すると菱紋と唐花紋に分けられ、この唐花は菱形の文様を4分割して模様を入れて花の形に見立てたもので、更にその花びらに細工する文様があります。

もう一つは菱形を4つに単純に分けたものです。色々な説がありますが武田菱はこのタイプです。
武田菱紋は一族で使い分けて6つもあります。上記の唐紋では有りません。

この文様にはこのような「縁起」を担いで140にもなるほど多く用いられています。

つまり、武田氏は上記した様に家柄を上げる事が出来て家紋を「権威ある家紋」にする必要から朝廷などで使われている唐花紋に似せて縁起を担ぎこの菱紋を用いたのです。当時は家紋は身分高い氏しか用いられないが、陸奥の小豪族であるので家紋はありませんでした。

武田氏の武田菱紋とこの天皇家が式典にて用いる唐花紋の菱紋とは少し違っています。
出所は同じ菱形です。

念の為に天皇家は奈良時代から平安末期までは確実に純血性を保つ為に近親結婚を繰り返していました。
また、当時は「氏家制度」のなか高い身分での血縁を繰り返していましたので、陸奥の小豪族出では絶対に無理です。現在と違い「氏家制度」という掟がありこの中での婚姻です。
平安期の朝廷では「八色の姓制度」という令を発して身分の統制を行いその律令制度の仕来りが残っている中でのことですので武田氏の様な一族は何らかの方法で身分を上げること以外にありません。(下記)

皇族賜姓青木氏と皇族賜姓源氏との血縁をしたとの事ですが、実は当時の当り前の習慣としてこの2つの氏のような行為の身分(朝臣)が訪れた場合は夜に一族の娘を差し出し子供を作り、その勢力傘下にはいり一族を護るという習慣がありました。
当然にこの2つの氏もいざ戦いとなるとその見返りとして参戦に駆けつけますし、年貢に近いものとして米や砂金などを献上する事に成っていました。

この方式が後の「荘園制」に発展していったのです。

生まれた子供が男子である場合は上位の2つの氏から認可を貰い、支流一族として名乗りを上げるのです。

この方式から血縁を結んだのです。時には娘がない場合は妻を差し出しても当然の行為としてこの習慣を維持したのです。現代では異常ですが、当時では当り前の慣習です。
この事を「戦地妻」と呼ばれていました。これでいざ戦いとなると血縁者が各地から駆けつけるのです。
例えば義経が強かったのは義経には家来達の戦地妻の子孫が義経の下に駆けつけて12000もの自らの軍隊を持ったことによります。(頼朝は北条氏始め坂東八平氏に頼り全く有りませんでした。)

武田氏はこの方式で甲斐源氏と成ったのです。参考に皇族賜姓青木氏と皇族賜姓源氏は家紋は「笹竜胆」紋です。源氏直系は「笹竜胆紋」ですから家紋が異なるので武田氏は足利氏などと源氏支流一族と言うことに成ります

天皇の後ろにあった文様は天皇家が式典に用いる唐花文様です。

武田氏はこの文様を真似て作ったもので花紋では有りません。当時天皇家が使う文様を勝手に使うことは出来ませんでした。(武田氏の6つの紋は模様のない菱形紋です。間違っている文書などが多い。)

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