青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.389
大化改新の予備知識
389編集 追加
本日、NHKで「大化改新」で新説を発表しますが、この予備知識を若干レポートします。

大化改新は青木氏にとって全く無関係で有りません。
実は、日本最初の青木氏は伊勢青木氏として発祥したのです。つまり、皇族賜姓伊勢青木氏なのです。
この発祥の原因はこの「大化改新」そのものなのです。詳しくは研究室の主に「皇族賜姓青木氏」などに詳細をレポートしています。

大化の改新は645年ですが、この2年後に第6位皇子が伊勢王に任命されたと日本書紀に書かれています。
この任命の時、前の孝徳天皇の子供の伊勢王とその弟が突然、同日同時に病死します(暗殺?)。
この時、天智天皇と孝徳天皇との軋轢があり孝徳天皇系の子供の有間皇子ら殆どの皇子が抹殺されます。この有間皇子が蘇我赤兄に殺された所と墓が熊野古道の熊野神社の第一の神社の藤白神社より50メータ程度のところにあります。鈴木氏の発祥地でもあります。

直ぐに天智天皇の第6位皇子(施基皇子)が賜姓を受けて臣下し侍となり親衛隊を造り、先ず伊勢の天領地と守護神を護る役目を与えます。この時に伊勢王にして青木氏を与えて、仏像をステイタスとして与えたと書れています。これが伊勢青木氏の総本家です。

天智天皇は蘇我氏に政治、経済、軍事の3権を牛耳られていてもう少しで天皇の座も奪われる直前に改新劇です。この反省で 天皇を身内で護る親衛隊を造ったのです。これが第一幕の改新です。
これが伊勢を始めとして光仁天皇まで続いたのです。
この時の蘇我氏が握っていた軍隊は阿多倍がつれてきた
漢氏です。この漢氏の出方がこの改新劇のキーだつたのです。しかし、この蘇我氏に雇われた軍事集団は引き上げたのです。

経済は部制度を蘇我氏の管理から国の管理に引き取ります。「市場経済」ではなく技能集団が作ったものを一度朝廷に入れた後に市場に出す「部経済」でした。
これが、この官僚の国造(くにのみやつこ)を置き主要地5地の青木氏の配下に入ります。

第6位皇子のことは、天皇家の経済的負担は皇子が多くて負担になっていました。
天智天皇の皇子皇女で34人もいました。
他の皇族を数えたら50人程度もいましたので、第6番目の皇子皇女から僧侶や下族にすると言う方式を制定したのです。

政事は親皇政治に取り戻したのです。

伊勢青木氏は血縁関係のある藤原秀郷流青木氏も含めて全国の青木氏の元祖です。

伊勢青木氏は小説の「名張の小太郎」や「歌舞伎」にも出て来る伊勢豪商の紙屋(青木)長兵衛です。

実は、天皇家の宮廷と蘇我入鹿の館とは普通は丘の下側の家臣の館があるはずですが、宮廷より上で直ぐ目の届くところにあったのです。丘の上から宮廷が全て見下ろせる位置にあったのです。
このことから、入鹿を殺す状況は家来とその漢氏の軍は判って居た筈です。何故、直ぐにおりてこなかつたのか。?
当時は、貴族以上は自分で武力を使っては成らないと言う掟がありました。だから、なだれの如く降りてくればひとたまりも有りません。
つまり、このことは初めから判っていたはずです。でも、何故か、実行したのです。
つまり、軍事職能集団の漢氏との間で何かあったのでは?
事件後、暫くして上陸して帰化していたこの渡来系一族の阿多倍一族は瞬く間に出世して行きます。遂には、清盛の時代へと進むのです。

この後、漢氏は東漢氏(やまとあや)に更に文直氏と変名して改新後、阿多倍の長男の賜姓族坂上氏の朝廷の軍隊に組み込まれます。坂上田村麻呂です。そして、蝦夷地を征伐した征夷大将軍と成ります。後のことを考えると何かあったと考えるのが普通です。

これ等のことを次の家紋の笹竜胆の青木氏で詳しくレポートします。
これ等の事は研究室の皇族賜姓青木氏のレポートを見てください。

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