青木氏のルーツ & 雑学研究室
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◆-大化改新の予備知識
├大化改新1
├大化改新2-1
│└大化改新2-2
├大化改新3
├大化改新4
├Re: 大化改新5
└Re: 大化改新6
No.389大化改新の予備知識
本日、NHKで「大化改新」で新説を発表しますが、この予備知識を若干レポートします。
大化改新は青木氏にとって全く無関係で有りません。
実は、日本最初の青木氏は伊勢青木氏として発祥したのです。つまり、皇族賜姓伊勢青木氏なのです。
この発祥の原因はこの「大化改新」そのものなのです。詳しくは研究室の主に「皇族賜姓青木氏」などに詳細をレポートしています。
大化の改新は645年ですが、この2年後に第6位皇子が伊勢王に任命されたと日本書紀に書かれています。
この任命の時、前の孝徳天皇の子供の伊勢王とその弟が突然、同日同時に病死します(暗殺?)。
この時、天智天皇と孝徳天皇との軋轢があり孝徳天皇系の子供の有間皇子ら殆どの皇子が抹殺されます。この有間皇子が蘇我赤兄に殺された所と墓が熊野古道の熊野神社の第一の神社の藤白神社より50メータ程度のところにあります。鈴木氏の発祥地でもあります。
直ぐに天智天皇の第6位皇子(施基皇子)が賜姓を受けて臣下し侍となり親衛隊を造り、先ず伊勢の天領地と守護神を護る役目を与えます。この時に伊勢王にして青木氏を与えて、仏像をステイタスとして与えたと書れています。これが伊勢青木氏の総本家です。
天智天皇は蘇我氏に政治、経済、軍事の3権を牛耳られていてもう少しで天皇の座も奪われる直前に改新劇です。この反省で 天皇を身内で護る親衛隊を造ったのです。これが第一幕の改新です。
これが伊勢を始めとして光仁天皇まで続いたのです。
この時の蘇我氏が握っていた軍隊は阿多倍がつれてきた
漢氏です。この漢氏の出方がこの改新劇のキーだつたのです。しかし、この蘇我氏に雇われた軍事集団は引き上げたのです。
経済は部制度を蘇我氏の管理から国の管理に引き取ります。「市場経済」ではなく技能集団が作ったものを一度朝廷に入れた後に市場に出す「部経済」でした。
これが、この官僚の国造(くにのみやつこ)を置き主要地5地の青木氏の配下に入ります。
第6位皇子のことは、天皇家の経済的負担は皇子が多くて負担になっていました。
天智天皇の皇子皇女で34人もいました。
他の皇族を数えたら50人程度もいましたので、第6番目の皇子皇女から僧侶や下族にすると言う方式を制定したのです。
政事は親皇政治に取り戻したのです。
伊勢青木氏は血縁関係のある藤原秀郷流青木氏も含めて全国の青木氏の元祖です。
伊勢青木氏は小説の「名張の小太郎」や「歌舞伎」にも出て来る伊勢豪商の紙屋(青木)長兵衛です。
実は、天皇家の宮廷と蘇我入鹿の館とは普通は丘の下側の家臣の館があるはずですが、宮廷より上で直ぐ目の届くところにあったのです。丘の上から宮廷が全て見下ろせる位置にあったのです。
このことから、入鹿を殺す状況は家来とその漢氏の軍は判って居た筈です。何故、直ぐにおりてこなかつたのか。?
当時は、貴族以上は自分で武力を使っては成らないと言う掟がありました。だから、なだれの如く降りてくればひとたまりも有りません。
つまり、このことは初めから判っていたはずです。でも、何故か、実行したのです。
つまり、軍事職能集団の漢氏との間で何かあったのでは?
事件後、暫くして上陸して帰化していたこの渡来系一族の阿多倍一族は瞬く間に出世して行きます。遂には、清盛の時代へと進むのです。
この後、漢氏は東漢氏(やまとあや)に更に文直氏と変名して改新後、阿多倍の長男の賜姓族坂上氏の朝廷の軍隊に組み込まれます。坂上田村麻呂です。そして、蝦夷地を征伐した征夷大将軍と成ります。後のことを考えると何かあったと考えるのが普通です。
これ等のことを次の家紋の笹竜胆の青木氏で詳しくレポートします。
これ等の事は研究室の皇族賜姓青木氏のレポートを見てください。
No.390大化改新1
NHK放映の新説「大化改新」に付いて。
この新説は次のような事でありました。
1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 後漢滅亡後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。
以上の内容であつたと思うが、少し新説は史実に偏りが見られる。
先ず綜合結論から言うと、蘇我氏側から見た見方と、天皇家から見た見方との違いである。
この違いはいまさら云う事ではない。以前から言われていたことなのである。
その意見の強いほうが「通説」と成っていた程度である。
そもそも、奈良期の大化前後の時代の状況から説明していくと判る。
先ず、聖徳太子の頃の主要5氏(葛城、巨勢、紀、物部、蘇我、平群)が天皇を中心にして運営されていて、親神主義と親仏主義の導入の争いがあり、親神主義の物部氏が負けて戦いの末滅びた。
その後、蘇我氏は全権力の3権を掌握し、第1度目の崇峻天皇を蘇我氏支配の武装集団の漢氏に暗殺させる。
天皇家の聖徳太子との軋轢の中で2大勢力時代になる。馬子との軋轢の中、聖徳太子は氏姓制度や憲法17条や冠位12階制度や官人制などの律令制の基礎をなんとか導入制定した。
何も天智天皇から始めたわけではない。そして、阿多倍一族の知識を基に桓武天皇のときに律令制度は完成する。(後述)
聖徳太子以後、2度目の天皇家の者を蘇我蝦夷や入鹿は聖徳太子の子供達一族(山背大兄王)を尽く抹殺した。天皇家のためであるなら何も殺す必要はない。
山背大兄王は蘇我氏に強く抵抗したわけではない。
その後、蘇我蝦夷と馬子は「東漢氏の軍事力」と、政治の「全3権(斎蔵、大蔵、内蔵)」と、経済の「部制度」を支配する。
これにより、女性の斉明天皇を操り、完全に全権を支配した。
このような状況から、2度の天皇家の者を抹殺し、全権を握られ傀儡政権となれば、天皇家の中大兄皇子にしてみれば次のような感情と猜疑心は生まれるが当然である。
天皇家側から見れば明らかに前の2度の暗殺を見ているので、前は未だ全権までは奪われていなかつたが、次は今度は次皇位継承者の自分が潰される。その事で全て奪われるという感情を持つは必定である。持たない方がおかしい。
現に、後に未だ安定しない状況の中で、直系の中大兄皇子は天皇に成らずに孝徳天皇に譲る懐柔策を採る。この時は未だ、蘇我氏分家は現存している。
しかし、蘇我氏側からすると天皇家のために国を護るという大義名分で全権を握ったというだろうが、其れまでの行動と殺戮に付いて、それを証明するには無理がある。
次々と権力のもたない飾りに過ぎない天皇などを暗殺する事はない筈。其の侭にしていても実質は同じである。
国内には天皇家を脅かす氏など何処にもないし、外国が攻めてくるとは言え、唐の前の隋政権は「来襲」は無かった。また、朝鮮半島にあったとは言え陸続きであり、海を隔てている事とは戦略上著しく異なる。
元寇の役の例にある様に同じで当時の軍事力では、そのリスクは大きすぎるのである。
実例を挙げてみると日本の歴史上で5度中4度外国軍が飛来しているが成功していない。
特にアジア系では成功していない。
先ず、1度目は応仁大王(天皇)の大船団が難波に上陸し大和朝廷と融和し、初代天皇となる。
2度目は鎌倉時代の元寇の役で殲滅して帰る。
3度目は江戸時代に英国とヨーロッパの軍船団が香港や遼東半島などを征圧して、日本に軍事圧力で開国を迫る。何とか不平等条約でくりぬける。
4度目はロシアが南下政策で朝鮮半島まで攻め込み後一歩のところで朝鮮に渡った日本軍が朝鮮より追い出し食い止める。日露戦争である。
5度目は「経済封鎖問題」で米国軍と戦い第2次大戦で敗戦し米国軍が占領した。
この5つを観ても4つは全て「朝鮮半島」が大きく関わっている。
特にアジア系は海を隔ててくるには軍事的リスクが大きすぎるからであり、そのリスク解消は朝鮮半島を経由する事で解消できるのである。日本はこのことに付いて戦略上理解しを知っている。
米国の件はこの軍事リスクを解消するもの(飛行機と戦艦)が出来た。(しかし硫黄島が関わる。)
だから、「中大兄皇子」は朝鮮に出向き出鼻を挫く為に「白村江の戦い」に決断したのである。
この時の事を追記するが、この軍の構成を見ると理解できる。
この軍は、後漢の帰化人の首魁の阿多倍の孫の阿倍氏(阿倍内麻呂、比羅夫)の配下で構成されていたのである。つまり、百済の救援を目的としているが本音は先制攻撃の印象を与える事である。
この時、阿倍は中国に戻り日本に帰ってこなかった事、 阿多倍の国の後漢は中国東部地区の遼東半島から朝鮮全域を支配していたが滅亡した。つまり、地元そのものである事、唐時代になっても東部地域国は充分には支配できなかった事。これ等の事を理解すると派遣した意味と目的が判るものである)
この阿多倍の子孫の阿倍氏は、この時代の歴史上人物には他に仲麻呂、比羅夫、内親王があるが、この人物を知ると、この阿多倍の子孫の朝廷内での基盤が判るので忠告は充分にあったはずである。
そして、その軍はこの目的の効果を出すために同じ要領の知る中国人をこの戦いに向けたのである。
結果は敗戦であったが、目的は「先制攻撃」としての強く効果は出ているのである。
だから、唐はそのリスクと「先制攻撃」の「強い印象」でその後に攻めて来なかったのである。
その理由として、都を攻めても、この長い列島である。左右前後から間違いなく挟撃される。食料は途絶える。結局、戦わずして全滅である。
応仁大王もこのことを判っていたから和睦し、融和政策(5氏での連合政府)で解決したのである。中大兄皇子も歴史を学んでいる。
戦いは感情では出来ない。要は戦略である。中大兄皇子はこの戦略を阿多倍らの忠告で実行して防いだのである。
これでは入鹿がいくら攻めてくると力説しても理解されないであろうし、なおさら天皇家側にすれば猜疑は更に生まれる。
現実には来ない。むしろ先制攻撃で百済を救援する事を名目にし白村江で戦った位である。
日露戦争も同じである。先制攻撃で負ける戦争が勝った理由があったのである。
史実として、先制攻撃を前提として、負ける筈の戦いに英国が仲裁に入り決着をつける外交手段を着けていたのである。
ところがこの時は二人の優秀な副官と司令官に恵まれた。
この二人の副官は徳島出身の秋山兄弟である。兄は陸軍、弟は海軍の参謀副官である。
兄は、有名なロシアの10万の騎馬軍を相手に、2万の騎馬軍と英国の指導での大砲と機関銃の近代戦と、「逆ハ作戦」で完全に追い返したのである。新しい戦法である。
(当時は騎馬軍には機関銃と大砲は使わない戦法であった)
参考として、 逆ハ作戦とは逆ハの形で軍を構える。敵は中央を突破してくる。そうすると逆ハが閉じる。再び開く。これを繰り返す。しかし、遂には大群であるので続かなくなり、敵は一団となつて突進する。そこで逆ハの中心に到達する。と突然、後ろに構えていた機関銃が火を開く。一団と成ってくるので敵の中心めがけて射掛ける。騎馬軍は中心には指揮官がいる。指揮官を失う。又指揮官が出来る。射掛ける倒す繰り返す。それでも中心は抜ける。中心の後ろには味方は居ない。中心の遠くに大砲隊が控えている。撃つ。殆ど指揮系統が崩れている。大砲で敵は戦う気力なくなる。逃走する。今度は、この時には味方の逆ハが集合している。逃走する敵を包み追走する。全滅になる。残った敵は馬を捨てる。列車でばらばら逃走する。昔の戦法の鶴翼戦法である。それに機関銃と大砲を組み入れた速度速い騎馬大群を相手の近代戦法である。
結果は10万の軍が3000人しか残っていなかつたのである。
弟は、3000メータも飛ぶ日本が開発した新式の黄銅(真鍮)の大砲を戦艦に取り付けて、砲弾は焔硝性の弾薬を開発し取り付けて、戦法はT字作戦で虚を突いた。ロシアの2500隻の戦艦が10隻にするまで勝利したのである。
(当時は砲弾で潰して鎮める戦法であったが、硝煙で船の中を高熱にして燃やして沈める戦法を編み出したのである)
参考として、 この海戦T字戦法は2500隻の大船団に対して、敵は大船団であるのでハの字型に船団を組む。先頭に指揮艦が来る。これに対して、逆ハで迎える。味方の戦艦は敵の中心をめがけて大砲を撃つ。次々と直線に並んだ戦艦が中心めがけて撃つ。撃てば敵に腹を見せて後ろに回る。T字になる。各艦はこれを繰り返す。敵の先端の旗艦は連続的に攻撃を受けるので沈む。又旗艦が出来る。これを繰り返す。味方も次の準備をして又元の位置に戻る。これを永遠に繰り返す。そうすると、あるところで敵が撃つ事が出来なくなる。先端の位置付近に沢山の戦艦が沈む。後ろが動けなくなり衝突して船隊が乱れる。大砲が飛んでくる。対馬の狭い海峡である。敵は無抵抗になる。味方は撃つ。
2500隻の戦艦が10隻になった。味方は損害が殆どない。体型は整っている。
しかし、ここで味方の弱点がある。敵の全ての艦に腹を見せる事になる。腹を見せることは戦艦の戦力が最も落ちる。味方が少ないと直ぐ終わる。ところが、この弱点を解決したのである。
それは敵の弾が届かない位置から腹を見せて問題はない事だ。それは上記の大砲の改良である。
敵からすると「遠い」し、「届かない」。船は大して壊れないが燃える。指揮が出来なくなる。火災になり沈む。この戦法である。逃げた10隻はロシア港に入る。港を封鎖する。撃つ。全滅したのである。
100%負けるといわれていた戦争である。
つまり、どちらも、「阿多倍」が連れてきた冶金の「鍛冶部」の技能集団(住金)の末裔が開発しそのなせる業なのである。
(当時の砲はせいぜい1500メータで、3000メータでは見えないところから飛んでくる程度である。)
このように、二つの戦いを見ても「先制攻撃」を加えることが効果があり、又地理的にも海峡を隔てている日本列島を奪うには難しいのである。天然の要塞なのである。一種の列島戦艦であるのである。
(真珠湾攻撃も先制攻撃であったが遠すぎた。空の戦いはこの戦法は効かない)
話を戻して。其れよりは、聖徳太子から始めた律令制度の完成を目指して後漢から帰化した阿多倍らの一団の力を借りて内政を立て直す事の方が先決とする見方の方が現実的である。
律令も出来ていない国情では長続きしない事は間違いない。
この感情からすると、蘇我入鹿が採った宮廷の周りの建物造りの行為は、丘の上下の位置や建物の軍事内容から察すると、天皇家から観ると「反逆行為」と観るのが普通であろう。
第一その程度で護れるはずはないし、既に博多付近から都まで登ってきた唐の軍隊の勢いを止められることは不可能である。
誰が考えても、もしその理屈を述べたとしたら普通は理解される事はないし、中大兄皇子は極めて聡明で用心深かったと言われている。
皇太子になったあとの孝徳天皇との軋轢の行動と周囲の粛清政策を観ても明らかであるし、成れる天皇にも成らなかった位である。
なにも、反逆するのであれば、大げさに絢爛的な館を作る必要はない。適度な軍事施設程度で充分である。まして、別に大宮殿があるのだから。
更に天皇の宮廷の上に立てる事はない。
外国が攻めてくるとは言え宮廷を固めても仕方がない。その時はもう遅い。天皇家を納得できる名文ではない。
もし、やるとすれば、天智天皇が採った九州地方までの要衝地を作る事の方が先ず必要があるし、中国の「万里の頂上」の様に、都を城壁で囲んだ方が現実的で良策である。天智天皇は後にこの二つを実行したのである。
入鹿は其れをしていない。
このところでも改新はなかつたとするのには無理が余りにもある。
中大兄皇子にしてみれば”そんな程度で護れるか”と思うはずである。
更に、この蘇我氏は、応仁大王(大和朝廷の初代の王)らが、難波に上陸してきた朝鮮系の百済王の枝葉末孫である。
応仁大王はこの大和の4氏(葛城、巨勢、紀、平群)と戦い、全てを制覇し大和の飛鳥に入国し結局争わずして5氏の上に立つ大王となつたのである。
この詳細は、上陸時は、この地を治めていた紀氏や葛城氏や巨勢氏ら3氏の連合軍の抵抗で飛鳥に侵入する事は出来ず、先ず、紀氏を「先制攻撃」して征圧して、紀伊路を南に回り、新宮から奈良には進入して征圧した。(各個攻撃)
この時代は、未だ奈良は盆地でも、中央には琵琶湖に並ぶ程度の湖があってその周りに生活圏をもち連合政治をしていた。それで各個攻撃された事で戦略上は堅く無かったので征圧された。
この時につれてきた、渡来人で物部氏(軍事)と共に百済王末孫系(鞍作)が蘇我氏であると成っている。
その証拠に、中大兄皇子が入鹿を暗殺したときに側に居た古人皇子はあわてて”渡来人が”と叫んで逃げている。当時は未だ、渡来人としてのイメージを持たれていたのであろう。
又、この蘇我氏の別の呼び名は日本書紀にも書かれている様に「鞍作りの入鹿」である。
「鞍作部」は馬の鞍などの馬具を作っていた技能集団で、朝鮮と中国からの渡来人で構成された集団
である。(鞍作は仏像も作った 奈良の大化期の「鞍作部止利」が日本最初の仏師である。)
この部集団に付いては、主には、後漢が潰れて後漢の末弟の献帝の子の石秋王の孫の阿多倍が引き連れてきた17県民の技能集団でもある。(蘇我氏はその前に入った応仁大王が引き連れて来たもの)
この様に渡来人がルーツである事が明らかに判る。
この子孫の蘇我入鹿らが勢力を持つたのであるから、聖徳太子の事もあり、当然に天皇家側は百済王の末孫が天皇家を乗っ取り、百済の国を大和の国に作ると言う戦略におびえていたはずである。
この様に、多分、NHKの新説には、この天皇家側からの客観的判断が不足している。
少なくとも、逆賊であるかどうかは別としても、全権を既に握った後の残る条件は中大兄皇子を暗殺する事で、客観的に観て、完全に牛耳ることが出来る一歩手前で、その実行は無力で飾りの皇子を潰すには何の努力も要らないところに来ていた筈である。
むしろ、それよりもその後に編成されるはずの朝廷側の「連合軍」の方が期になる。その備えが必要と考えるはずである。
潰さないという忠節心の精神が存在する根拠は薄く、反逆する根拠の方が状況判断から観て、高いし全てとの感がする。
新説根拠の武器庫でも入鹿が住む程度の館で充分である。相手が無力で飾りである。
私なら、そんな大それたものは作らない。攻めるに必要とする物を作り、そして住む体裁を繕う。
つまり、それよりは、天皇家を奪った後の国内の乱れと、天皇家を養護しようとするの「連合軍」の進入に気を配る。
現実に、入鹿は外国から侵略と見せかけての説として、この程度の防護でその配置をしていると説いているがおかしい。全体が飛躍しすぎている。多分この目的であった筈である。
実は、この2つから観た説は以前からあったもので何も新しい説でない。
以前からあつた韓国側の歴史認識の影響を大きく受けた国内グループの巻き返しであると観るのが適当ではないか。
その根拠には、最近、韓国で「日本世記」という資料が見つかったのであるが、この資料は大化改新の律令政治の指導に来ていた韓国人の者が朝廷内の事を日記にして遺したもので、この者が帰国する時に持ち帰ったとされるものです。
青木氏の仏像の件などもこの資料にも乗っているのです。細かいところが明らかになってきていることは事実ですが。
それだけに韓国側の蘇我氏に対する巻き返しグループが国内グループと共にこの新設を唱えています。
阿多倍の朝廷への律令政治完成の影響と東漢氏の行動のことも明らかに成っている事もNHKは以前(去年)に放送しているのです。
東漢氏が何故、攻めてこなかったのか。
何故、入鹿の父(蝦夷)が指揮せず、自殺したのか。
阿多倍はどうしたのか。
(日本書紀には、大隈の首魁として呼び寄せたり、伊勢北部伊賀に不入不倫の権の保護を与えて住まわしたりしているとか、何度も中大兄皇子と天武天皇にも会っている。これ等の勢力がどう動くかで決まる。)
とすると、中大兄皇子の暗殺で「連合軍が動いた時の備え」として今回の蘇我氏の施設を考えるとこの疑問も解ける。(少なくとも唐の来襲警戒ではない。)
つまり、この蘇我氏の最大の「頼り」の一つ軍事集団の阿多倍の支配下にある東漢氏が、阿多倍の指揮で動かず、抵抗しない旨を告げて去った事である。「戦う事」も出来ず、「連合軍の備え」も出来なくなった事による。
それ以後のこの阿多倍が率いる一団の動きを見れば理解できる。
この大化の改新の前後はこの一族の出方如何で決まるのである。
日本の平安後期までも政治、経済、軍事はこの一族の存在で決まるのである。(詳細は研究室の阿多倍関係、京平家などを参照)(この一族の末裔は日本人の15-20%を占めている)
蘇我氏にとっては、長い間の努力も「水の泡」で、言い訳が出来無かったのである。
これらを踏まえてこの新説を聞く必要がある。
これが、第1番目の実情である。
続きは第2番目の問題の解説です。史実から観て新説は矛盾が多く出ます。
続く。
No.391大化改新2-1
1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 漢の後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。
大化の改新のNHK新説に対して、前回は第1番目を検証した。結論的には新説の第1番目の説には「無理と飛躍と矛盾と情報不足」が目立つものであつた。
次は第2番目の「大化の改新」は無かったとの説である。
これは解説者の発言にあった。
このことに付いてはまったく史実を無視している。何故にあるものを無いというのであろうか。
言質の裏にある種の政治的イデオロギー的発言の感じがする。
以前からもこの種の歴史を否定する説を唱える政治グループがいた事は承知している。
ただ、NHKがこれに加担したことに大きな疑義が生まれる。昨年私はNHKモニターをしたがその内容から見て「受信料不払い」の原因の一つであろう。
兎も角も、大化の時代に改革が行われた史実とその内容などを述べる。
現代も同じ様に「平成の改革」が成されている。大正と昭和の時代の世の中のシステムが、生活方式を含めて全てものが替わり、変革し、加速的になったことから時代に合わなくなってきている。
聖徳太子の時代から大化の時代までにはも大きな変化が起こったのである。
時代を追ってその変化を述べる。
先ず、620頃から、漢の国が滅亡し漢民は南と東に逃げた。そうして、東に逃げた民の中に居た「光武帝将軍」が遼東半島と三韓を征圧して国を興して「後漢」が出来た。そして、21代末帝の「献帝」の時代に滅亡して「唐」が中国全土を制圧した。
この「後漢」の17の県民は「献帝」の孫で、「石秋王」の子供の「阿智使王」とその子供の「阿多倍王」と共に北九州に上陸した。
この漢民の17の県民の集団には国を形成する政治官僚を含む全ての職種の技能集団が同行していた。
当然に、軍事集団を先頭に博多、大宰府付近に入った。
しかし、進んだ先進国の漢の民である。戦いなどは当時の大和の民では相手にならない。
又、進んだ生活手段を持っていた為に民は、この集団との和合を図り、進んでこの漢民の技能を取り入れ生活のレベルを上げる事が出来た。
この阿多倍の集団は続々と上陸してくる。この渡来人の漢民は南下した。
この漢民の九州での状況を詳しく述べる。
当時、この地方では「肝付氏」と朝廷より派遣された「伴氏」とで統治されていた。
伴氏は「弁済使」で税の取り扱う官僚であるが、九州の北部に支配権を持っていた。
この高級官僚で朝廷の5氏の一つ「伴氏」と「肝付氏」が血縁し多くの末裔が広がっている。
更に「肝付氏」と「阿多倍」一族との血縁を結んだと成っている。
(九州地方での内容詳細に付いては別途レポートする。)
最終的には、この漢民は朝廷に対し帰化を申請する。
九州から中国地方へと上陸し同じく支配下に入れて進出し飛鳥に入る。朝廷はこの帰化した漢民の渡来人を更に未開地であった中部地方の信濃、甲斐国の開墾に送る。
これ等の民は200万とも言われている。
この漢民の首魁の阿智使王と阿多倍王は大隈付近に住み「大隈の首魁阿多倍」と呼ばれていた。
この事が日本書紀に詳しく書かれている。
この時代の唯一の歴史書である「日本書紀」にはこの「大隈の首魁」は4度出て来る。
そして、ここの「阿多倍王」に賜姓青木氏が守護する伊勢の国を分轄して、「伊勢北部伊賀地方」を与え「不入不倫の権」を付加して与えて保護した。
「阿多倍」はその九州から中国地方の民の生活向上に貢献した勲功で「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の娘を娶り3人の男子をもうけた。
「阿多倍」は「准大臣」の官職を与えられた。
この三人はの長男は賜姓を授かり、坂上氏を名乗り軍事担当を、次男は当時の朝廷の政治機構の3蔵の内、大蔵氏の賜姓を授かり、朝廷の財政担当を、三男は内蔵の賜姓を授かり、天皇家の財政担当を担った。もうひとつは斎蔵で祭祀を担い、これは賜姓族藤原の鎌足であった。
この進んだ「後漢の知識」で「阿多倍一族」を先頭に「大化の改新」の「政治改革」に臨んだである。
この末裔は代々九州の「太宰大監」を任命され、歴史上「錦の御旗」を個人に与えられた唯一の氏で大蔵氏である。
この大蔵氏は朝廷より「遠の朝廷」を任じられ、九州全土の「政治、経済、軍事」の全権を与えられたこれも歴史上の唯一の氏でもある。
これは遅れていた九州の未開地をこの一族に任して「3分野からの改革」を実行した証拠のひとつである。(この地には朝廷より当時の主要5氏の一つ「伴氏」が派遣されていた。)
其れも、現代までになかったすごい改革であった事は下記の進んだ後漢の民の集団の構成を見ても解る。
地域の生活生向上と、地域間の紛争がなくなり、軍事的安定が起こり、図りしえない変化のものであったことであろう。
日本書紀にも都に首魁を呼んで天皇の前で踊って祝ったとあり褒美を与えたとある。
昭和のバブルごとき変化ではない。
そして、この「阿多倍」の孫に当る伊勢北部の伊賀の「高野新笠」は「光仁天皇」の妃で「桓武天皇」の母である。
桓武天皇はこの母方の「大隈首魁の阿多倍」(別名 高尊王)一族で「伊賀の王」(高望王)を第6位皇子として賜姓し、「たいら族」(京平氏 桓武平氏、伊勢衆)とした。
これは、天皇家が代わるたびに発生する第7世族以降の皇族を「ひら族」(坂東平氏)として坂東に配置した八平氏になぞって、この「阿多倍」を「賜姓たいら族」としたものである。
この渡来族に対する当時の何らかの配慮があったものであろう。
伊勢伊賀には「高尊王」と「高望王」との違いと年数のずれがあるが、伊賀にはこの阿多倍の一族しか居ないのに「高尊王」と「高望王」の王が二人いることはない。何らかの理由(記述のミス)であろう。
この賜姓した「桓武天皇」は大化の改新1でレポートした「聖徳太子」の曽我氏の軋轢の中での改革からから始まり、「天智天皇」の「改新」を繋ぎ、最後に「律令政治」を完成した天皇である。
上記したその功績はこの阿多倍一族とその漢民の努力以外にない。
この漢民の民は「部制度」である技能集団の民「海部、磯部、鍛冶部、綾部、茜部、錦部、馬部、鞍作部、織部、弓削部、鵜飼部、山部、石作部、矢作部、土師部、陶部、舎人部、赤染部、依縫部、倭文部、麻績部、佐伯部、来米部、膳部、鏡作部、鍛師部、船部、物部、安部、漢部、工部、墨部....」など挙げればきりがないが、全てこの民は後漢の民で阿多倍の支配下にあった民である。
この進んだ技能を大和の民は指導を受けて会得したのである。
現代の北九州工業地帯の鉄鋼、造船、陶器、等の産業を考えればよくお判りと思う。
これで「改新」が無かったとの説は疑義の何物でもない。蘇我氏管理のもとではなかった事なのである。
この集団が作った物は一度朝廷に入れてそれから市場に出すと言う経済システムが当時の「部制度」であり、「市場経済」では無かった。
「朝廷」とは言え「蘇我氏」にである。これを「蘇我氏」から朝廷に「国造」(くにのみやつこ)という官吏を置き取り戻して経済システムを正常化したので動き始めたのである。
「改新」は「国の管理下」にした「行政改革」である。明治時代の改革と同じ「中央集権制度の導入」である。
これだけのことを実行する事態、未だ東北部地方の国が安定していない時期に、大変なことである。
これでも「改革」が無かったとの説はおかしい。
現代でもこの第一次産業はこの阿多倍率いる漢民の集団が引き継いできて現代の日本の主幹産業に成っている。この一団なくして現代の日本の全く地位はない。それほどである。
日本の国民の20%程度を占める漢民の末裔の方々に感謝申し上げたいくらいである。
この権利と管理を蘇我氏が握っていたのである。つまり、「朝廷の経済」は「蘇我氏」が握っていた事を意味し、国のため、民のために中大兄皇子は取り戻したとすればこれも「改革改新」である。
もし、これだけのことを今現在するとしたならば、果たしてできると思われるか?。無理と考える。
話戻して、上記にもある様に「阿倍氏」を頂点として、「物部、安部、漢部、鞍作部」等は軍事関係の集団である。
つまり、「朝廷の軍事」までも握っていたのである。
「朝廷の政治」はもとより、「大連」の蘇我氏であるから言うまでもない。
当然、この支配下に阿多倍も先ずは実力はあったが、蘇我氏に従う立場であつた。
これが大化改新1にレポートした「疑問点、キー」であった阿多倍の一団の出方が、「改新」の成功を握っていることは明らかである。
蘇我氏が全権を握っていたのは言うまでも無くこの漢民の17の県民の出方であった。
これだけの政治、経済、軍事の3権に能力のある集団を見方にすれば「改新」は充分に可能である事が理解できるし、出来ない方がおかしい。
「中大兄皇子」は味方にしたのである。つまり、味方にした事さえ改革改新である。これでも「改新はあった」事が筋道でさえも解る。
しかし、入鹿が暗殺されても未だ分家一族は沢山いるが、分家もこの反撃に出なかった訳はこの阿多倍の一団の後押しがなければ無理である事は明白である。
だから、首の蝦夷(えみし)は行き詰まり自殺したのである。阿多倍は裏切るとは計算していなかったはずである。
しかし、史実はこの阿多倍の一団は朝廷に一日後に去ることを伝えて出て来ず丘から去ったのである。
その後は上記した通りである。
これで、阿多倍一団の執った戦略は明らかにわかるし、「中大兄皇子」もこの阿多倍の集団の力の程度のことは知っていたはずである。孝徳天皇も含めて日本書紀にも書いている通り会っているのであるから。
蘇我氏の分家(蘇我石川麻呂:入鹿の従兄弟)に首謀者の中臣の鎌足が話をつけたことは史実でも証明されている。(改新後3年後に謀反の嫌疑がかけられ自殺)
暗殺のとき、この蘇我氏の分家は震えて動けなかったので、中大兄皇子と鎌足が自ら切って出て行ったのである。
この鎌足が蘇我氏の分家に話を通した事は「改新」の成功を計算した上である筈。
だとすれば、改新後のこの「進んだ知識と技能」を活かせれば成功すると見て、阿多倍一族にもこの話を通し、味方するように説得していると考える方が普通である。
阿多倍一族にとっても蘇我氏の管理下にいるよりは、政治の場に於いて進出して日本での基盤を築きたいとする考えは生まれたと見る。(後に現にその様にな成った。太政大臣までに成った。)
だから、東漢氏と蘇我氏分家は出て来なかったのである。
この改新のキーは「蘇我氏分家」と「後漢阿多倍一団」であったのである。
作戦、計画実行時はだれでもキーは何か、誰か、何処か、何時かを考えるのが普通である。
としたならば、この3つの事は先ず考えた事になる。
そう見るとこの要件即ちキーは入鹿暗殺前後の史実が納得できる。
蘇我氏の分家が味方したことの意味を理解すれば、NHK新説は矛盾する。
後は、阿多倍一人である。だから成功し、阿多倍は政治に関与し律令政治を完成させたのである。
後に、この「大蔵種材」という人物がでるが、九州の「太宰大監」となり、侍の神「麻利四天」のモデルにもなった豪傑が出て改革で国を安定させた有名な人物がこの阿多倍子孫からでている。
「孝徳天皇」と「中大兄皇子(天智天皇)」の改革に貢献した。これ等の事は日本書紀や多くの史書にも書かれている。
では、以上の事柄を念頭にして基礎理解を得た上で、阿多倍らの一団の働きにて行った天智天武期の大化期の改革の具体的な事柄を次に述べることとし、「大化改新」があったことを証明する。
予備知識の一端として一部拾い出して置くと次の様になる。
主だったことは次のレポートとする。
活躍した内容
参考として、仕事は次の様なものである
「全国の国領地の検地」 租税の安定した確保を図り朝廷の基盤を造る
「全国の武器の検査」 侍としての基本的な姿勢を確認する
「全国の税の見直し」 改新前の粗雑な税体制を改革する
「特定地への天皇からの特命」 治世などが乱れている各国に対する督励
「全国の争いの調停と平定」 改新前の勢力の修正
「全国の領地境目の確定」 領地争いの原因の見直しを実行
「重大行事の指揮」 朝廷内の神事や行事と国内外の使節団の指揮
「天武天皇の相談役」 政治の難題の相談と調査
「皇族間の調停役」 皇族間の勢力争いの調停
「斉明天皇への助言」 女性天皇の補佐役
以上が「日本書紀」から拾い出した内容である。仕事はこの内容の重複もある。
「日本書紀」であるからその信頼性から見て、この内容は半端ではない。
これは殆ど天智天武期の政治を動かしていたことを意味するのではないか。
編集者の「舎人皇子」も十分認めて信頼してこの働きを具体的に書き込んだものだと思う。
続く。
No.392大化改新2-2
大化改新2の続き
活躍した内容
参考として、仕事は次の様なものである
「全国の国領地の検地」 租税の安定した確保を図り朝廷の基盤を造る
「全国の武器の検査」 侍としての基本的な姿勢を確認する
「全国の税の見直し」 改新前の粗雑な税体制を改革する
「特定地への天皇からの特命」 治世などが乱れている各国に対する督励
「全国の争いの調停と平定」 改新前の勢力の修正
「全国の領地境目の確定」 領地争いの原因の見直しを実行
「重大行事の指揮」 朝廷内の神事や行事と国内外の使節団の指揮
「天武天皇の相談役」 政治の難題の相談と調査
「皇族間の調停役」 皇族間の勢力争いの調停
「斉明天皇への助言」 女性天皇の補佐役
以上が大化期の「日本書紀」から拾い出した内容である。仕事はこの内容の重複もある。
実は上記の内容は天智、天武期に渡り、第6位皇子(施基皇子)が行った「改新」の仕事である。
この皇子は、私が調べた範囲では18回出て来る人物で日本書紀の中では段突である。
伊勢王として伊勢の守護を務めながら、天智天皇の「改新政治」を助けて全国各地に飛び回っている。
つまり、伊勢青木氏の元祖の働き具合である。
「日本書紀」を見ると皇太子がいるが、其れ以上に信頼されている人物がいる事が判る。
1 「軍略所」としての役職である。
上記の内容通り、天智、天武の葬儀等も含めて本来皇太子が行うところを代わって代行するなど、新しく天皇の執政を機動性良くし、全ての指揮をとる事を天皇より依頼され実行する実務補佐役が設けられたのである。
これ以外に次の「改新政治」が行われている。具体的に述べる。
2 「国博士」を置いて天皇の政治の補佐をさせる。
隋などで留学し大化改新の為に呼び戻された「高向玄理」や「みん」がこれを務めた。
3 「内臣」を置く。
「改新」を行う天皇を補佐する政治相談役で、鎌足が勤めた。後の藤原氏の摂関政治の基となる。
4 「東国国司」を置く。
改新を進めるに当って東国が未開発であり、「改新」の大きな障害と成っていた。これを専門に行う国司である。美濃、信濃、甲斐などに後漢の技能の民の渡来人を送りこみ開墾を進めた。
5 「男女の法」を定める。
生まれた子供の所属を定めたもので、「公地公民」の政策を進めるうえでの身分制度である。
上記した阿多倍の配下の漢民の技能集団の「部制度」の組織改革である。後漢の集団の民と一般の民との融合が進み、「部制度」を修正した。
6 「薄葬令」を定めて身分に基づいた葬儀や墓の規模などを定めた。公地公民の前提を作り上げた。
7 「冠位の制」を改善した。聖徳太子の冠位12階より7色13階、19階、26階、48階とし位階制を定めた。大宝期には30階に戻した。
8 「改新の詔」を定めた。「大化改新」の「行政方針」を4つとして定めたものである。
4方針は次の通りである。
現在の行政方針を新しく敷いて公表したのである。今までにない画期的なことである。
おそらく民は当時としは政治は「お上」が行うものとの認識して疑わなかったはずなのに、方針を出した事が驚きであったはずである。真に民主主義の原点であるのだから。
公地公民制
土地や民は全て国に所属する制度で、土地の官吏は「国司」、「部制度」の官吏は「国造」とし行政を明確にした。現在の行政の原型を定めたのである。
統一的地方行政制度
国と地方の行政を分割してよりきめ細かく施政する様にしたもので、現代の「三位一体」の行革である。豪族の施政に任していたものを国管理の下にし、指揮系統をより効率よくより平均化した。
交通、情報機関のない時代にこの制度を敷いたことを考えると不思議なくらいである。
戸籍と計帳と班田の収受制度
民の正確な把握の為に戸籍調査を断行し、土地の測量を行い租税の正確な把握を行った。
官僚制度を整えて国の国体形態の基礎を築いた。
現代では当り前であるが、もし無いところから制度が出来たら驚きのなにものでもない。
上の2つの方針も実行されて多分半分はパニック状態であったと思う。
統一的税制度
上記の3つのことで正確に把握した国情を下に弁済使を置き租税の統一と正確の管理を図った。
大雑把な税体制から確実な計測等のデータで税が徴収されるのであるから、民は驚き、緊張し、期待も生活がどう代わるかで大きかったのではないか。
この頃、阿多倍の漢民の進んだ技能で民の生活が一変して潤っていた頃の最中である。
だから、朝廷もこれだけの事ができたのである。何も変化していない古代の生活環境の中ではこの施策を敷いても効果どころか朝廷の転覆に当るほどである。
朝廷の姿勢も下記に書く財政の無駄をはぶき毅然とした態度で施政方針を示したのである。
現代の改革と殆ど代わらない事が1500年も前に急に行われたのである。
9 「食封」(じきふ)を定めて経費の無駄を省いた。
官僚の俸禄制度を定めたもので、上級官吏に一定の戸指定(50)し、戸の租税の1/2と調庸2/2を与えた。下級官吏には布帛(ふはく)を与えた。
10 「防人」(さきもり)を定めて、職業軍人とは別に現代にもある徴兵制度を敷いたのである。
九州北部の西海の防備を司る兵制度である。阿多倍の子孫大蔵氏が司る「太宰大監」(遠の朝廷)
に支援し、唐の来襲の警戒に当った。
坂上氏や阿倍氏が率いる朝廷の軍隊と青木氏が率いる親衛隊とは別に一般の民の者で対外国防軍隊を編成したのである。蘇我氏が訴える対外防備のとのレベルが違う。
11 「水城、山城、大野城、さい城、高安城」等の防備要塞を築いて防衛拠点を作った。
唐の来襲を警戒して全国各地と都の周辺に防壁と城を築いた。
12 「近江令」を定め律令政治の完成を目指して律令を発した。
鎌足らが作ったとされる22巻から成る法令であるが、体系的な法典マニュアルとして作ったものとされている。つまり、いきなり法を作っても官僚の執政施行は難しい。そこで、急劇に増えた官僚の種類と数のためにその行動マニュアル的な心得を書き印したものである。
13 「御史太夫」を定めて太政大臣などの補佐として特別に補佐役を設けた。
「改新」の大きさと繁忙さから補佐役を特別にこの天智期に特別の作ったものである。
天皇の2つの補佐役や重臣の補佐役を設けるなど如何に大改革であったかを物語るしその思考が柔軟である事が覗える。
14 「八色の姓制度」を定めて身分を8つに分けて氏姓制度の充実を図った。
皇族とその重臣の身分を定めた。真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置である。
そして、その身分にあった行動と責任の所在を明確にしたのである。
5家5流の青木氏と11家11流の源氏は第6位皇子であるのでこの「朝臣」に当るがその中でも青木氏は上位である。
この身分制度は後には更に細分化される。
15 「皇位継承制度の変更」
皇位継承は大変な財政的負担と成っていた(天智天武の子供は34人もいたし、他の皇子も合わせると50人程度にもなり、天皇家の財政を担う内蔵では破綻寸前であつた。このため、この原因と成っていた「皇位継承制度」の変更を経費節減のために改革を断行し実行した。
多分、皇族関係者からの第6位以下は平民化するのであるから反発は大変なものであつたはずである。
この「改革」で第6位皇子から臣下して賜姓を受けて、初代の青木氏(伊勢青木氏)が発祥したのである。
其れまでは、第4世皇位継承、第7世下族の「世」方式で第5世はこのどちらにも属するとし、第7世は代替わりにて「ひら族」とし、賜姓して「平氏族」を形成し、坂東の守護としてに配置した。
これが、「坂東八平氏」族である。
これと比較して阿多倍末裔の渡来人系の「京平氏」の「桓武平氏」(たいら族)とは混同されている。
「第4世」方式から、第2世第4位皇子皇位継承として第6位皇子を臣下させ、賜姓(青木氏)して、親衛隊とした。この賜姓青木氏であり、伊勢の青木氏としたのである。
即ち、「第6位」方式である。
青木氏には「鞍作止利」作の「大日如来坐像」(伊勢青木氏の宗家保有)の仏像与える事とした。そして、王位は4世までとした。
16 「親衛隊の創設」
蘇我氏に牛耳られていた反省から、天皇自ら護る軍隊を創設した。上記のこれが第6位皇子の青木氏である。この青木氏は伊勢神宮のある伊勢国の王として守護とした。「不入不倫」の天領地とした。(後に、天武天皇が伊勢神宮を護り本尊として正式に詔を出して定めた)
この後、15の改革と共に、天武、聖武、文武、光仁天皇までこの制度は維持された。伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の国の戦略上の主要地の守護としたのである。
この開拓には阿多倍の支配下の漢民の技能集団(馬部、山部、磯部、鞍部等)を遷して大きい外来馬を飼育し開墾した。(日本書紀に記述)
17 「飛鳥浄御原令」を定めて律令制度を2度にて進めた。(天武期)
大宝律令の基となった。光仁天皇の子供の桓武天皇が律令制度を完成させた。つまり、律令制度の完成は初代の聖徳太子から7代の天皇がその方針を貫き引き継ぎ完成させたのである。
その後、嵯峨天皇から5代に渡り見直しの改革が行われて「皇親政治」の全盛期を迎えるのである。
以上が大化期の「改新」の改革項目である。
これだけのことを「入鹿」の前の政情にはなかったもので、空前の改革項目と大変な内容である。
普通では成し得ない質と量である。
これはその専門的な知識が無ければ出来ないことである。
前記の通り、その知識と能力は阿倍氏、坂上氏、大蔵氏、内蔵氏などの阿多倍の子孫とその漢民の集団によるもの以外にないのである。
これ等列記した17項目のものを良く理解してみれば、その根底にあるものが見えてくる。
つまり、平たく言えば、聖徳太子から始まり蘇我氏の改新前の反省からである事が見える。
それは、「3権」を奪われていたものを律令を通して、軍事、経済、政治を見直して、他氏に委ねるのではなく、天皇を中心とする皇族の「皇親政治」の基礎を作ったのである。
そして、国体の基盤を更正し、外国からの侵略と国内の安寧の為に「改新」を断行したのが中大兄皇子の目指す政治であつた。
だから「中大兄皇子」は「国体を変革」しなければとの思いで蘇我氏の体制を打破する必要があったのである。「思考の原理」の前提レベルが違う事が上記のことで解る。
決して、蘇我氏の我が物顔の政治でなかったのである。
突き詰めれば、「律令制度」を中心とする「政治、経済、軍事」の安定した「皇親政治」を目指したのである。
これは、蘇我氏が目指したものとは異なる。
故に蘇我氏を倒して天皇家に取り戻した事件の目的は明らかに「皇親政治」での「改新」である。
これでは、到底に、蘇我氏が唐が攻めてくるからの説には説得力はない。誰が見ても「蘇我氏の言い分」では納得できないはずである。
つまり、「政治システム」事態も代えたかったのである。
根本的にレベルが異なる。
”大化の改新はなかつた”の発言にはこの点にも納得できない。
誰が見てもこれを”改新は無かった”と思うだろうか。
前記の第1の問題と第2の問題とあわせるとNHKの新説は他の意味する歴史を否定する政治的な大きな疑義を感じる。
次は第3番目の問題に付いて述べる。
続く。
No.393大化改新3
NHK大化改新の新説の第3番目の説である「蘇我氏館は実は兵舎と武器庫であつた」の問題である。
結論から言うと、大化改新1と大化改新2-1と2-2でもレポートした様にお判りと思うが、「兵舎と武器庫」で妥当なのである。
中国の軍略書には明確にこのことを明記しているのであり、正しいのである。
蘇我氏館の大豪邸は聖徳太子の頃から既にあり、その権威を示す館は2つも要らないし、私ならばむしろ、大御殿の館に武器庫や兵舎は似合わない事から、別の戦略上の土地に造営し、そこに適当な館を作り指揮する環境を設定する。
其れの方が「御殿館と兵舎」の目的を合理的に効率よく使えて当然のことである。
御殿は権威の象徴としての「行政所」として、兵舎武器庫は「軍事所」としての目的を果たす方が臨機応変に対応できる。
現に、現在に於いてまでも「行政所」と「軍事所」が一つに成っているところなどない。江戸時代までの城でも「城」を「行政拠点」にし、周囲に「山城や櫓」を築き「防衛網」を設けている。
この軍略書に付いてのこの場合の一角を述べる。
昔から戦いの基本を体系的に分けると、「六稲三略」(6つの戦術と3つの戦略)と言うものがあるが、この基本を実行する前提として「行政」と「防衛」の拠点に分けることを基本としている。
夫々個々に重要に成るのがこの2つを繋ぐ手段がポイントになるが、この「行政」と「防衛」の連絡方法を「烽火」と言う手段で行う事を定義されている。
現に、この大化期の時代には、「烽火」(とぶひ)と言う方式の情報伝達法が確立していた。
つまり、「行政拠点」からの指示を「防衛拠点」に伝える方法として、「煙火」により敵の襲来や命令を伝達する緊急通信施設(烽火所)を作るのが「戦いの構え」の「常道」とされていた。
「行政拠点」と幾つかの「防衛拠点」と幾つかの「烽火諸点」の設備を築き、そして、この3つの点から行動を起こす「六稲三略」を「三相」で「臨機応変」に行うと定義されているのである。
「三相」とは「人、時、場所」を適時適切に判断して指揮する事と説いている。
この時代の戦い方と言うか防衛システムというかは上記のシステムで行われていたが、これは江戸時代までも引き継がれたのである。そして、これ等のことを掌握していた者としてその国の将や軍師(軍略師、軍略所と呼ばれていた)が把握していた。
前記した「烽火」方式は「意思伝達」を充分に伝う行えるだけの「発信方法」と器具が完成していたのである。「のろし」は「煙火」と書く。
多分、NHKの大化改新を解説していた教授がこのことの知識を把握していなかつたのであろう。
考古学と歴史学とは専門域が異なるが、考古学者であつた事によるのではないか。
私は、この都の宮廷が地形の一番下の窪地にあり、臣下の館が前後左右の山手に4つ存在していたのであるので、少なくとも上記の定義から見ると、兵舎や武器庫や櫓や烽火の設備が無い事の方が不思議であった。
そこで未だ、発見されていないと見ると、定義から「兵舎、武器庫群」が周囲のどこかにあると見ていた。
都を作るのに、当時は全てこの軍略書を把握した上で専門的に造営されているはずである。
飛鳥、難波、近江、京の全ての都はこのシステムが働くように造営されている。
江戸時代までの主な城も同様である。
戦い方もその歴史書を見るとこの「六稲三略」に全てかなっているし、勝利した城より負けた方の城がこのシステムが弱い傾向があるのである。
歴史家やマニアは、この飛鳥の都のこれらの点の欠けている事象点を疑問視し、発掘は必ずこの「防衛拠点」の何らかのものが出ると予想されていた。
何故ならば、大化の改新には、この「防衛拠点」を飛鳥から博多までの瀬戸内を通る一線上に設けているし、「烽火」設備が設けられている。
また、前記の大化改新2-1、2-2の所でレポートした様に「防人や軍事設備」が定義通りにあり築城されている。このことから、この知識があった事が充分に解るのである。
だとすると、必ず、窪地にある宮廷であれば、周囲の山手には必ずこの防衛設備の兵舎や武器庫があるはずであると見ていたのである。(戦略上、窪地にある事が疑問だが)
歴史家までも行かずとも、マニア程度であればこのことは理解していたはずの程度ことである。
発掘の結果は矢張り「兵舎と武器庫程度」と指揮所の様な小さい館のものであった。
これでよいのである。
大して驚く程度の結果でなかったとの感想であった。
ただ、2つ疑問がある。
その一つ目は宮廷が下にある事(本来は上にある筈)
蘇我氏の牛耳る為の策と見られている
その二つ目は「改新」のキーの阿多倍(指揮下にある東漢氏)とのやり取りの事
(東漢氏が中大兄皇子に抵抗しない旨の木管端が見つかっているが、蘇我石川麻呂の様に「説得された」の証拠が見つからない事。つまり、この「無抵抗」とした「根拠」が見つからない)
(その三つ目は蘇我氏分家の出方に付いては、分家の長の蘇我石川麻呂が鎌足に説得されていた事が判明していた)
この二つの証が出てくれば完璧である。
実はあとはこの2つの何物かが出るのではとの期待をしていた。
その証拠が何か出るか?未だでない。
しかし、一つは確かに出た。しかし、未だ発掘すれば出て来るのではとの期待がある。
これで、第3番目の説は当然との結論が出る。
続く。
No.394大化改新4
NHK放映の新説「大化改新」に付いて。
この新説は次のような事でありました。
1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 後漢滅亡後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。
次は第4番目の”蘇我氏が外敵から天皇を護った。”という説である。
この説は大化改新1から3までの説でのレポートでお判りであろうと思うが、これを大儀明文にして「反逆」の印象を弱める事に努力していたのではないか。
大化改新1で、朝廷の立場から見れば持つ印象は異なると説いた。
その時の前後の蘇我氏の天皇家に対しての行動を見れば誰でも、”反逆”と印象を持つ事であろう。
このことは蘇我氏でも充分に気が付いていたと思われる。
ましてや、二人の天皇とその一族家族を問答無用で自分の思通りにならない人物を暗殺して来たのであるから充分に知っている。
宮廷を窪地に、自分の館を周囲の丘に4つ作ったのであるから、宮廷に勝るとも劣らずの蘇我氏の館を当時の軍略の常識を破って造営したのであるから、この軍略知識は蘇我氏でも知っている。
このように、内側では天皇家を潰し、外側で護るという説は矛盾している。
だから、この二つの事を捉えてさえも、この新説の様に成るだろうか。又、心のそこから”外敵で天皇を護る”等を口にしていただろうか。
現に、蘇我入鹿を討って後に、中大兄皇子は都を移している。”何故移したのであるか”を考えれば理解が出来る。
もう一つは、この蘇我の入鹿と父の蝦夷という人物とその生い立ちを調べることで、どのような性格や人格を持っていたかはおおよそ判る。
この二つの事柄で検証してみる。
乙巳の変、即ち入鹿が討たれた事件であるが、この時の宮廷は、飛鳥板蓋宮である。
この後、皇極天皇(594-661)は孝徳天皇に譲位し、中大兄皇子は直ぐに難波長柄豊碕宮(難波宮)に移ったのである。
この遷宮した理由は、矢張り蘇我氏の旺盛を極めた飛鳥で変のあった土地から離れたいとする意思は納得できるが、その前にこの根拠に付いては、前記した軍略上まずい配置の形態は将来の戦略上、好ましくないとの配慮が働いていたことは否めない。
なぜなら、これには次の四つの事が言える。
先ずその第1番である。
未だ、戦いをした訳ではないのだから、蘇我氏分家は100%現存しているし、本家の勢力を吸収する事で同じ勢力が成立する。
確かに、蘇我石川麻呂は中臣の鎌足に説得された訳であるが、変の時は躊躇して振るえて動かなかったのである。
だとすると、中大兄皇子の成功した直ぐ後の行動は決まっている。
それは、この軍略上逆転した地形と配置から脱する手配をする事が肝要である。
難波宮に遷宮した時は未だ充分に造営が進んでいたわけではなかった事が日本書紀の資料から読み取れる。それほど急いでいた事が覗える。
その証拠に、変の後3年後に、この蘇我氏の長の蘇我石川麻呂は謀反の嫌疑を掛けられて自決しているのである。
つまり、中大兄皇子は間違いなく警戒していた事を物語るものである。その為にもその蘇我氏の勢力を削いだと見られるのである。
次に第2番目である。
前記しているように、阿多倍の動向は抵抗しないとの伝達があったが、その東漢を含む軍事集団がこの後にどのような行動に出るかは不明確である。
(私は前レポートでも記述した通り、話をつけていたと見ている)
中大兄皇子等は眠れない程に疑心安儀した筈である。
先ずそれには、この地形から脱することであり、より港に近い地形を選び攻められた時は海に逃げる方策を考えていた筈である。
この海に逃げる策は当然に難波宮であるが、この難波宮は、蘇我氏の説であれば、最も外国から攻められ易い位置と地形である。
この遷都と遷宮でも、蘇我氏の説には殆ど信用せず耳を傾けていなかったことが判るのである。
海が近いから交易が出来やすいとの説があるが、交易は唐や朝鮮半島との事になるが、今唐や高句麗等の脅威を蘇我氏が述べている位であるのに、交易が云々ではない。
先ず遷して様子を覗う事としたとも見られる。
この時の様子に付いては、難波宮に遷宮する時は孝徳天皇に相談無しにある日突然に移動している。慌てて孝徳天皇は追ってきた様子が日本書紀にも覗えるのである。
それ程に急いでいたという事である。
第3番目である。
皇族一族と5氏の連合豪族の臣下の動きである。
突然に変を秘密裏に実行したのであるから、周囲の合意は無い。
母である皇極天皇や兄弟である古人大兄王たちも驚いて逃げ去ったとある位である。
蘇我氏の血筋を持つ兄弟や重臣たちがどのような態度に出るか見極めることが次の策として必要である。
ここが中大兄皇子の賢い所の所以である。
それには、飛鳥の位置を外して突然に別に移して周囲の動きを見る事が先決である。日本書紀にはこのことが詳しく書いてある。重臣すら連れて行かなかったと書かれている。
難波宮から様子を覗うことで、この3つの動きを洞察する事が出来るものである。
つまり、遷都ではない。遷宮である。
朝廷は各地に宮廷を造っているが、この時は難波宮に遷したのである。
これ等の行動を見極めた上で安全と見た場合には又元に戻す事をすればよい筈である。
現に、そうしているのである。
孝徳天皇の真正直な政治と自分の政治手法で対立して、直ぐに再びある日、突然に孝徳天皇をそのままに、又、「川原宮」に遷宮しているのである。
多分、この時の考え方の違いは、上記の事への対応の違いにあったと見ている。
そのまえには、既に「川原宮」の造営と「後岡本宮」の造営に掛かっているのである。
そして、周囲の様子を慎重に見極めてから”よし、これでいける”として造営にかかっているから、計算すると2年程度以内である。
この根拠として、「天智天皇」の後一段落したと見て後を引き継いだ「天武天皇」は「飛鳥浄御原宮」に遷宮した戻したのである。
この浄御原宮の所在は未だ確定していないが、飛鳥板蓋宮の上層遺構と見られている。
この3つの前提事が判断できれば、政治の実行即ち、改新政治に取り掛かれる。
そして、歴史は実行したのである。
先ず、蘇我氏残党の粛清である。手始めに蘇我石川麻呂である。
孝徳天皇の精神的病死後、再び、重乍(ちょうそ:再び天皇になる)して皇極天皇が斉明天皇
として皇位に着く。
これより改新が前改新レポートに記述した事柄が本格的に開始されるのである。
殆ど天皇家側では外敵などは意識していない。その前の状況の変化の対応であるから、「外敵」意識は殆ど無かつた事を意味する。
むしろ、”そんな事に騙されるか”程度であろう。
今までそんな事が歴史上でないのだから、有ったとしても、次の2つの経験から説明できる。
一つ目は、初代の天皇となつた応仁大王が難波に襲来した時の「融和」の経験がある。
二つ目は、「阿多倍」等の強力な集団の「帰化問題」の経験もある。
「外敵」新説の問題はある程度の判断と理解をしていた筈である。蘇我氏から言われる程度の話ではない。
このような事から「外敵から護ったという説」は納得できない。
それは次の問題である。
蘇我蝦夷と入鹿の生い立ちと資料から見られる性格判断である。
そもそも、蝦夷の父蘇我の馬子は聖徳太子と共に政治を仕切ってきた。
この時代は未だ、東北の方を大和朝廷は征圧して政権下に無かったのである。
この東北地方と蝦夷地方は清和源氏の源の義家のときまでは「アテルイ」らが支配していた一種の独立国であった。
天智天皇の時に、一応は東北部は坂上田村麻呂や阿倍比羅夫の阿多倍の子孫二人にて征夷大将軍として征圧した。
その後、藤原秀郷の一族による鎮守府将軍として藤原秀郷流青木一族が働き沈静化した。そして、最後に、源の義家がアテルイを騙まし討ちして征圧したのである。
この最初の東北部の戦いに蘇我馬子が自ら出陣して戦ったのである。この時、土地の蝦夷族の娘に子供を宿した。そして、連れ帰って養育したのが、蘇我蝦夷である。
名の通り、蝦夷(えみし)である。
この蝦夷は大変体格がよく大男で大暴れする性格で、大変気が荒く攻撃的で乱暴であつたと言われ、馬子は大変手を焼いたとある。
しかし、馬子の子孫は死に、この蝦夷が残って後を継いだとある。
この性格の蝦夷にたいして入鹿は乗馬と弓が美味く豪傑で大胆で、蝦夷の血を引き継いで、矢張り攻撃的性格を示したと記されている。
当時は、朝鮮人と朝鮮系の渡来人は子供に付ける名前は動物の性格を当てて名を付けるという習慣があったのである。これでも朝鮮系渡来人である事が明白である。
例えば、参考に、カタツムリ(でんでんむし)は朝鮮語である。”つむり”は「頭」という意味で、昔は頭の事を「おつむ」と呼んだ。この「つむり」から来ている。この時代に持ち込まれた言葉である。
それ程に後漢の民と合わせて、蘇我氏のように渡来系の朝鮮人も多かった事が覗え、中大兄皇子の周辺には支配されている人も多く居た事を意味するのである。
中大兄皇子の周辺は渡来人で一杯であった事が判り、非常に「警戒心」が強かった事が覗えるのである。
蘇我の蝦夷(えみし)を除き、入鹿はその名の通りイルカである。名は体を現すである。
この蘇我の親子の二人の性格をもってすれば、大化前後の蘇我氏の動きと政策は判るものである。
例えば、次の史実がある。
天皇の宮殿を凌ぐ自分の蘇我氏大邸宅を”上宮門(かみのみかど)と呼ばせていた事。つまり、天皇家気分で呼んでいたのである。そして、入鹿のことを王子(みこ)と呼ばせたとある。皇子を王子としたのである。
百済では皇子を王子と書くのである。
この多くの史実からも蘇我氏の本音のところは読み取れるし、天皇を外敵から護ったとする説には素直に納得できないのである。
もし、そうだとしても、上記の史実はどう説明するのか新説に聞きたい。それ以上の史実を示していないのである。
私には、きつい言い分であるが、歴史に興味の無い人々への煽動的新説にさえ見え、4つのレポートから見ても思えないのである。
NHK大化の新説は史実に基ずく根拠が極めて薄いとさえ考えられ、史実を曲げる疑義を感じる。
人は、その状況に応じて心理反応が働く。その心理の史実となった行動を調べたこの史実を下にしたレポートを読者はどうお考えであろうか。
続く。
No.395Re: 大化改新5
NHK放映の新説「大化改新」に付いて。
この新説は次のような事でありました。
1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 後漢滅亡後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。
このレポートはNO5に付いてである。
”蘇我氏が唐を意識していた”という説に対して、どの様な疑問を含んでいるかに付いて検証して見る。
唐は618年に出来た訳であるが、その27年後に専横を極めた蘇我入鹿を討ち645年「大化改新」が起こった。
その時の「唐に対する意識」が、天皇家と蘇我氏との間でどの様に理解していたか、承知していたかを調べる事で判る筈である。
中大兄皇子はどの程度知っていたかを示す証拠が2つある。
一つは4人の知識人が皇子の周りに居て助言をしている。
先ず、一人目は「阿倍内麻呂」である。
この人物は渡来人で、阿多倍子孫である。この阿多倍らは620年(唐に中国全土を制圧される前の隋建国で、漢民が朝鮮を含む東部地区に逃げて光武帝が後漢として独立国を作り上げた後、21代目で唐に征圧される。そして、大和国の博多地域に上陸し、瞬く間に九州全土を制圧して中国地方まで支配下に入れた。この時は孝徳天皇である。この間、27年間である。
この子孫が勢力を持ち朝廷内でも豪族として、重鎮と成っていた。左大臣である。
この人物の中国の唐の知識を中大兄皇子の側に居て進言し、これまでも影響与えていた人物である。
この人物は649年に没しているので「大化の改新」前後には充分に働いている。
この人物だけではない。
二人目は、「高向玄理」(たかむこうのげんり)である。
この人物はこの上記の渡来人の子孫である。608年の「遣隋使」として、又「留学生」として学び、改新前の640年に帰国した経歴を持った人物で前レポートで記述した「国博士」として活躍した。
640年は唐建国618年から22年も経っている。まして、唐の進んだ知識と情報を取得している「留学生」である。
そして、「国博士」として中大兄皇子に進講している役目である。
この人物は後に654年に再び唐に入り、「遣唐使」として入唐しているのである。この人物は唐の長安で客死したのである。
645年とは大化改新の9年後である。つまり、この9年とはどの様な意味を持つのであるかという事である。
中大兄皇子に進講し最も信頼されていた人物を手元から話すにはそれだけの意味が有ったことを示す。
改新後9年で再び唐に渡ったのであるから、この9年の意味は蘇我氏と周囲の問題が大方解決が見えて、次の問題に取り組まなければ成らない状況となったことを意味する。
次の問題とは「唐との取り組み問題」の解決に入った事を意味するのではないか。だから、大化改新計画に最も大事な人物をわざわざ唐に送ったと見える。つまり外交使節であろう。
ところが途中で客死(658-659頃)した事で交渉は頓挫したと見る。
この人物だけでも唐の情報は充分に把握していたことは確実である。知らなかったとする説のほうがおかしい。
「国博士」とは、大陸(唐)に渡った経験があり、その役目は「政治顧問」であり、唐の諸制度に通じている人物を言う。
三人目は、「僧のみん」である。
この人物は、遣隋使として608年から632年まで留学した人物であり、「国博士」に任じられており、中国唐の進んだ科学に精通していて大和朝廷の科学分野の進歩に貢献した人物である。
特に暦や天文には優れていて国の時刻の制定を果たし、この知識をもって地形と水と大理石とで標準時計を作ったことでも有名とされている。
この人物は653年まで朝廷に貢献している。大化改新の8年後まで生きている事から、大化の改新の事柄は全て知っている。
唐には24年間留学生としていた事になるので、軍事の進歩と科学の進歩の知識を中大兄皇子に大きな影響を与えた人物である。
四人目は、「南渕請安」(みなみぶちしょうあん)である。
渡来人の学僧で、608年の遣隋使として中国に渡る。
640年に帰国した。唐建国以後、22年間も唐にも居た事になる。
日本書紀にはこの人物の事が詳しく書かれている。
それによれば、中臣鎌足と中大兄皇子は「請安」に教えを受けている事が書かれている。
「大化改新」の計画に多大な貢献をした事が書かれている。
そして、この人物は645年頃没とされているので、蘇我氏の経緯も知っていて教授していたのである。
この4人の人物が中大兄皇子に唐の情報を詳しく伝えていた事は紛れも無く史実である。
この人物が居て中大兄皇子が唐の状況を知らない方が不思議ではないか。
天皇家側は唐の状況を充分に把握していた。わざわざ蘇我氏ではない。
天智天皇は626−671 皇位668−671であるので、中大兄皇子の皇太子執政で最も忙しい時期の前後に4人は貢献していることである。
斉明天皇在位で天智天皇に成ったのは3年間である。
この時、この天皇を補佐していたのは、弟の大海人皇子(天武天皇)と青木氏元祖の施基皇子である。
まして、これらの4人物は唐の時代に成っても20−30年近く唐にいたのである。数年ではその知識も疑う事も出来るが、直且つ、唐の官僚に混じって働いているのである。
その「唐が攻めてくるから認識云々」という蘇我氏の新説には中大兄皇子が聞く耳を持つだろうか。
そこで、今度は、蘇我氏の立場を見てみると判る事が出て来る。
百済は660年に唐と新羅の連合軍にて滅ぼされた。(大化改新は645年)
白村江の海戦は663年である。
大化の改新から18年後である。
大化の改新のときに言い始めたのではない筈で、建造物を周囲に立てる期間からみても10以上前からでないとその理由にはならない事が判る。
前記した通り、蘇我氏は百済の民で渡来人である事はほぼ事実である。
自分の先祖が潰されると言う「恐怖心」があるからと言って、30年(618)も先の事を予想して果たして計算する予測する事が、現実に出来るだろうか。
現代ではないのである。今から1640年くらい前の時代の緩やかな時代である。その時代に運輸手段や情報手段も無い時代に、30年も先の事を予想する事が出来るだろうか。
もし、30年先のことを予想して言うほうが少しおかしいのではないか。
今、読者諸君が30年先の事を、延々として述べても人は信用してくれるだろうか。
まして、相手が周囲の唐のことをよく知っている人から情報を得ているのである。大して理由にならない「故郷」だからと言う理由で述べても、なおさら信用は元からしない筈である。
645年頃は唐が建国して27年も経ち、日本の学僧や留学生が沢山居る。実質、遣唐使である。
唐と連合軍を創った「新羅」がやっと647年の乱で政権が定まったときである。(金春秋)
そんな時の前の乱のときに新羅と唐がやってくるだろうか。まして、海を渡って来るだろうか。
せいぜい、10年位は経って国が落ち着いてからのことでなくては動く事は出来ない筈であろう。
だから、660年である。
それを実行して国を安定させた建国の父とも言われる人物は661年に死んでいる。
このように時代は何が起こるか判らない30年も先のことに付いて論外である。
白村江の海戦の時代は663年である。つまり、新羅が一番弱っていた時で、唐と新羅が百済を滅ぼした疲れた時期である。
645年頃では、海を渡って大和に攻めてくるには、唐は新羅と戦い、潰して新羅と協定を結び、更に、そして、百済を滅ぼさなくては成らない限り、当時としては無理な事である。
まして、これだけのことをやろうとすれば10年は充分に掛かる。663年なのである。
まして、長蛇の遠征となり、食料、水、人馬疲れなどの多くのリスクを持っている。
まして、前記した様に、戦略上、戦艦列島である。
戦いの一番注意しなければならない「挟撃」である。間違いなく「挟撃戦」は起こるは必定である。
そんなリスクのあるところに、やってくるだろうか。
ここで、漢国が崩壊して後に、東に逃げた光武帝が何故に後漢を建国できたかお考え頂きたい。
光武帝が遼東半島と朝鮮半島を征圧しても隋は手を出せなかったからである。余りに東に長い遠征であるからである。現に遠征軍は途中まで何度も攻めて全滅して諦めたのである。これは食料と気候とえん戦気分とで全滅である。三国志や中国史書にも書かれている事である。
このようなことは唐も新羅も充分に知っている。
まして、それより更に長く海を隔てているのである。
戦いは、NHK新説のように、「新しい戦艦」だけでは戦えないのである。
戦いの要は「リスク」をどの様に見るかである。そして、どの様に対策するかである。
(典型的なリスク対策の見本は前レポートの日露開戦の秋山兄弟の作戦である。)
更にこのリスクに付いてはもう一つ証拠がある。
聖徳太子が中国に書簡を送った事である。
「日出ずる国より、日没する国に物申す」の下りである。
何故に小国が超大国にこれだけのことを言えたのかである。
中国は怒った。しかし、どうする事も出来ない。
この聖徳太子時代の書簡に付いては中大兄皇子は良く知っている。(20年位前)
攻めるには、余りにも遠くて、リスクの大きな戦いである事を聖徳太子は当時の戦いの知識から承知していたからである。
以上のように、NHK新説の「蘇我氏が唐が攻めてくると意識していた」の説にはどちらの立場から見ても史実の矛盾と無視とがあり、「疑問」という範疇とを著しく越えている。
次は大化改新6番目の説に付いて述べる。
続く。
No.396Re: 大化改新6
02:14
NHK放映の新説「大化改新」に付いて。
この新説は次のような事でありました。
1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 後漢滅亡後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。
さて、今度は第6番目の問題である。
この問題は上記の「日本書紀は書き足しの編集であった。」である。
先ずこの「日本書紀」について述べると次の様になる。
この「日本書紀」は次の書物から偏纂して構成されている。
第1番目は「帝紀」である。
古代の皇位継承を中心とし、6Cの欽明天皇期頃に成立した歴史書で又、一部に神話的内容が含まれた書物である。
この歴史書は天武天皇期に内容を再検討したといわれている書物である。
「天武天皇期」とは「日本書紀」を偏纂した時で、この時に再検討されたと言われているものである。
第2番目は「旧辞」である。
古代の伝承(歴史的内容)を中心として偏纂されたもので、神話的内容も記述されている。
この書物は「欽明天皇」期頃に成立したものとされているものである。
「日本書紀」はこの二つの歴史書を史実に基ずく部分を偏纂材料としたものである。
「日本書紀」は天武天皇期に「舎人親王」が中心となって偏纂したもので720年に完成している。
別名「日本紀」とも言う。
全巻30巻と系図1巻から成っている。
その内容は、神代から持統天皇(天武天皇の皇后)までのことを収録している。697年までである。
この偏纂者の「舎人親王」とはどの様な人物かと言う事と、又その周囲の出来事や構成や皇位関係なども把握した上で理解する事が、この時期の問題の解明に役立つのである。
これ等のことを充分に理解した上で、この第6番目の新説に対する重大な影響事であるので、その論評を読み判断して頂きたい。、次ぎに述べる。
そもそも、この「舎人親王」は676−735年まで生きた人物で、「天武天皇」の子供であり「天智天皇」の娘の子供である。つまり、姪を后にしたのである。
参考に、青木氏の元祖の「施基皇子」は天智天皇の子供で妥女(女官)が生んだ子供である。
この兄弟姉妹が「{天智天皇」の実の弟の大海人皇子と結婚して出来た子供であるから、「舎人親王」は中大兄皇子にとっては孫であり、甥と言う事になる。
当時は、天皇家の純血を護るために、近親結婚を常としていたのである。
この甥は、後の「淳仁天皇」の父に当る。この天皇は後に父の「舎人親王」を「崇道尽敬皇帝」と追号した。
それだけに偉人であったことを示す。
当時は、歌の最高歌人、名手として有名で、学に高く、その性格は極めて穏やかで、落ち着きのある人物と記されている。
本来ならば、皇位継承に絡む人物であるが、自ら敢えてこの渦中に入る事を好まず、学問に勤しんだとされ、皇子が14人も居た中で、歳を得ていて落ち着きのあるところから、「天武天皇」も大変信頼していた人物であると記されている。
天武天皇の皇子順位からすると、皇太子の草壁皇子、第2位の大津皇子に続き、舎人皇子は第3位の皇子である。
因みに、第4位は長皇子、第5位は弓削皇子(ゆげ)、第6位は新田部皇子、第7位は穂積皇子、第8位は高市皇子、第9位は忍壁皇子(おさかべ)、第10位は磯城皇子(しき)である。
ここで「天智天皇」が行った皇位継承改革の「第2世第6位皇子の臣下方式」により、後を継いだ弟の「天武天皇」は「天智天皇」の皇子も自分の皇子として扱い皇位の列に入れたのである。
本来で有れば僧になり比叡山に登る身分である。
当時は、天皇の妻は「4段階」(皇后、妃、夫人、賓[みめ:ひん])に別れており、次に第5番目として「妥女」(うねめ)である。
これに依って、「天智天皇」の皇子の生き残った二人の「施基皇子」(しき)と「川島皇子」は順位として妻の階級からは外れた「妥女」であるので、第6位と第7位に列せられたのである。
特に「天武天皇」はこの二人の皇子を本当の皇子以上に愛し、信頼し、皇太子の草壁皇子以上に「改新政治」に重用したのである。「日本書紀」の文脈から判る。
そして、この二人の兄弟姉妹の女性の「持統天皇」は「天武天皇」死後も、他の皇子を無視するほどに重用し、信頼し「天武天皇」の葬儀の指揮までも、皇太子をさておき、「施基皇子」に委ねるほどであった。
何か朝廷で問題が起こると直ぐに呼び出して解決させ居た事がこの書紀に書かれている。
私が調べた範囲では「日本書紀」に出て来る人物の中で段突で13回に及ぶ位である。
同じ天智系の皇子(施基皇子、川島皇子)として「舎人親王」も相互にこの兄弟従兄弟として信頼していた証拠である。
「施基皇子」は「伊勢王」として伊勢の青木氏、「川島皇子」は「近江王」として地名から近江の佐々木氏を賜姓したのである。それ程愛していた事が書紀から読み取れる。
(天智天皇のほかの子供は、詔の判別方式では、大派皇子(おおまた)と軽皇子(かる)と伊賀皇子(大友皇子)建皇子(たける)となるが死亡)以上12人(15人)皇子である。
因みに、皇族賜姓青木氏のサイトでもあるのでより詳しく書く。
当時は近親結婚であるのと、詔の皇族の娘は皇女として扱ったので、判別は難しいが、次の通りである。
皇女には、大田皇女、宇野皇女、沙羅皇女、御名部皇女、阿倍皇女、飛鳥皇女、山辺皇女、大江皇女、泉皇女、水主皇女、新田部皇女で、ここまでが天智天皇の11皇女である。
ここからは天武天皇の皇女で、大来皇女(おおくの)、新田部皇女、但馬皇女、紀皇女、田形皇女、十市皇女、泊瀬部皇女、話基皇子、阿閉皇女(あへ)の9人の皇女等がある。
(新田部皇女は重複するが「阿倍倉梯麻呂」の「橘娘」の子供であるので、同じく天武天皇の子にも名付けたと見られる)
これ等の天智天皇の皇女は殆どは天武天皇の妻となるので、その身分は母の身分に比例する。
特に天智天皇は4人の妻の近親婚を避けて全て女官の「妥女」より産ましている。
「施基皇子」は「越の道君伊羅都女」の子供である。つまり、越の国の豪首の娘が人質として女官として天皇家に仕えて子を産んだ事になる。(伊勢青木氏の元祖)
「川島皇子」は「忍海造小竜の色夫古娘」の子供である。つまり、地方豪族の海造(うみのみやつこ:海の官僚)小竜の娘である。(近江佐々木氏の元祖)
ここで、面白い史実を記する。
前レポートの一つの証明になる。
一番目は、「伊賀皇子」即ち、「大海人皇子」と皇位争いで戦った「天智天皇」の皇子の「大友皇子」は、この伊賀国の首長の娘の「宅子」を母親としている。
そして、その母は女官として朝廷に入り、「妥女」として中大兄皇子の子を産んだ。
つまり、何度も書いている事であるが、「伊勢北部伊賀地方」といえば、ここの国を与えられたのは後漢の17県民を引き連れて帰化して来た大技能集団の大隈の首魁「阿多倍」の国であり、その娘子の「宅子」である。
未だこの大化の時期は阿多倍は生きている。
結論としては「大友皇子」は「阿多倍」の孫に当る事になるのである。
天皇家のこの部分までその「阿多倍一族」の勢力は浸透しているのである。
二番目は、次に、中臣の鎌足の仲介説得を受けた、「中大兄皇子」と蘇我氏打倒の味方をした分家首長の「蘇我石川麻呂」は3人の娘を天智天皇に「妃」として差し出している。
一人目は、「遠智娘」で3人の皇女と皇子を産んだ。
「大日皇女」と「宇野皇女」と「建皇子」である。
この孫の建皇子は8歳で死ぬが、斉明天皇に大変に可愛がられて、死んだ後、暫く斉明天皇はうつ病的になるほどショックを受けた事が書紀に書かれている。
この石川麻呂は、「改新」より3年後に謀反嫌疑で自決するが、中大兄皇子は「蘇我石川麻呂」を確実に引きとめていたことが判る。
二人目は、「芽淳娘」で2人の皇女を産んだ。
「大田皇女」と「沙羅皇女」である。
ここで前レポートした「阿多倍」の妻は「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の「娘」を娶り3人の男子を産んだと記したが、その別の姉妹娘である。(賜姓族の坂上氏、大蔵氏、内蔵氏である)
改新後は、「阿多倍」はここでもこの様に網の目の様にどちらにも血縁を堅く結んでいたのである。
このことから、入鹿暗殺の後の行動は明らかに、蘇我石川麻呂も阿多倍も味方する事を事前に鎌足と話がついていたことをし示すものである。
三人目は、「姪娘」で2人の皇女を産んだ。
「御名部皇女」と「阿倍皇女」である。
ここでも、「阿倍」即ち「阿多倍」の一族の「阿倍氏」とのかかわりの娘であるから「阿倍」としたのであろう。
「阿倍」と言う地名から取った名である。そこで、「阿多倍」に関わる「阿倍」の地名は2箇所ある。
一つは、九州の鹿児島と熊本の県境に「阿倍」の地名がある。ここは「大隈の首魁の阿多倍」の館があったところである。
もう一つは、信濃の南の入り口に「阿倍」と言う地名がある。ここは「阿多倍」一族が信濃の開拓に廻された場所である。
では「蘇我氏石川麻呂」とすると信濃の「阿倍」で生まれた子供という事になる。
この「姪」の「郎女」はこの地元で子供を生んだと見られる。
このことも、何重にも3者で血縁を固めている事を意味する。
三番目は、「阿倍倉梯麻呂」即ち、「阿倍内麻呂」であり、「橘娘」である。この娘とには2人の皇女が生まれている。
「飛鳥皇女」と「新田部皇女」である。
「阿多倍」の子孫の渡来人の「阿倍内麻呂」は前記した様に大化期前後に重鎮として「中大兄皇子」に仕えて唐等の海外事情を進言して「大化改新」の立て役者の一人として働いた。
この人物の娘を娶り子供を生み血縁を更に硬くしていることしになる。
このことは「中大兄皇子」に唐の事情のことを進言している証拠である。
そして、この二人の子供は「天武天皇」の后に成っている。特にこの「新田部皇女」は「天武天皇」に可愛がられて居る事が書紀から読み取れる。
四番目は、「蘇我赤兄」の「常陸娘」のある。
子供は「山辺皇女」である。
「蘇我赤兄」は「中大兄皇子」と「孝徳天皇」の皇子の「有馬皇子」とが皇位争いをして、「熊野古道」の「藤白峠」の入り口の「藤白神社」の50メーター手前で赤兄に依って絞殺された。この人物である。
「中大兄皇子」の命令である。
蘇我氏の分家筋を血縁で押さえ込んでいた事を示すものである。
蘇我氏の分筋の出方が鍵である事を説いたが、「蘇我石川麻呂」と「蘇我赤兄」との血縁でこの二人の立役者が真に取り込んでいたことがこれで証明出来るのである。
そこで、大化改新の一つである皇族に掛かる費用が朝廷を圧迫していて、この財政的改革を行ったと書いたが、天智天武期の皇族に掛かる費用としては、皇子皇女の数はなんと35人であり、第4世の66の各国に配置している王までの51を入れると86程度にもなる。またその家族を入れた場合は倍は超える。
この皇子皇女族を養うには経済的に無理がある。天皇家の財政(内蔵)は破綻寸前である。
これでは持たない。(それまでは第7世以降は臣下させ坂東に配置した方式であつた。)
これが全ての前記したレポートでの「財政的改革」の引き金に成っている。
そこで、第4世皇子方式から第2世第6位皇子臣下方式とばっさりと切った「行政改革」を実行した。
そこで、次の事を実行した
この第6位皇子に賜姓(青木氏)して臣下させた事。
第6位皇子以降は僧侶、学僧と成り、皇女は皇族系の神社の斎王と成った事。
この第6位皇子を天皇を護る親衛隊として編成して配置した事。
この時、その親衛隊の青木氏に「笹竜胆」の象徴紋を与えた事。
このステイタスとして「鞍作部止利」作の「大日如来坐像」を与えた事。
王位は第4世までとした事。(その前は第6世までであった)
但し、余りに厳しいので、6代後の嵯峨天皇期に、賜姓青木氏は皇族還俗者が名乗る氏とし、変名して第6位皇子には賜姓源氏とする事を決めた。そして、第2世を第4世第6位皇子臣下方式に変更した。
詳しくは以上の改革を行っている。
そこで話を戻すと、
この「日本書紀」を始めとして、「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」以上6つの漢文による天皇家に関わる史書がある。これを「六国史」(りっこくし)と言う。
「日本書紀」は−697年の史料を偏纂し、基本史料30巻で、舎人親王らが720までに編集。
「続日本紀」は697−791年の史料を偏纂し、基本史料30巻で、藤原継縄ら797年まで編集。
「日本後紀」は792−833年の史料を偏纂し、基本史料40巻で、藤原諸継ら840年まで編集。
「続日本後紀」は833−850年の史料を偏纂し、基本史料20巻で、藤原良房ら869年まで編集。
「日本文徳天皇実録」は850−858年の史料を偏纂し、基本史料10巻で、藤原基経ら879年まで編集。
「日本三代実録」は858−887年の史料を偏纂し、基本史料50巻で、藤原時平ら901年まで編集。
日本の史書は「帝紀」と「旧辞」を含めると「8史料から繋がり」をもって構成されているのである。
日本書紀だけ単独で史書と成っているわけではないのである。「繋がり」を持っているのである。
単独ならいざ知らず、連携した史書であるから容易にNHK新説の様には出来ない仕組みに成っているのである。
ここで、本題の「日本書紀」は「追記されていると」の新説であるが、その「追記の事柄」として「文章の変更」と「追記」であるとしている。
この説に対する経緯を述べると容易に理解されると考える。
この説は、1950年(敗戦4年後)の第2次大戦の敗戦で、国内の日本人が持つ「国粋主義思考」を押さえる目的で米国進駐軍(GHQ)が左傾主義の人物を教育界に入れた。
この結果、思わない方向に時代が進んだので、進駐軍は急遽このグループを逆に弾圧したのである。
この思わぬ方向とは、そのイデオロギーを達成するには、「国の歴史」を否定する事が必要で、これになくして「結果平等」を目途とした「共産革命」はなし得ない。そこで、先ずその歴史の基となる上記の史書の否定から入ったのである。
その狙い撃ちにされたのは「六国史」の基の「日本書紀」の否定であり、二つ目は日本民族の基は「アイヌ説」として、「民族の基」を否定したのである。
この二つを否定することで民族は「日本民族」説を否定する事が出来て、「結果平等」が達成し、その基となる「日本歴史」から来る「日本的規範」を乱す事が出来る。つまり、「軌範」は崩れて「民族の繋がり」は無くなり「革命」は可能となるのである。(ロシア革命の前提)
この時、日本史の「日本書紀」はまったく信用出来ない「嘘の史書」とレッテルを貼ったのである。
慌てた進駐軍はこの失敗を隠す為に弾圧したが間に合わなかったのである。
この失政が教育界に長く及び、現代に於いても未だ続いているのである。
しかし、このことを政府は30年掛けて研究し、遺伝子的に、論理的に証拠付けた。
「国体を揺るがす事態」であるので国は対抗策として研究したのである。
そして、先ず、「アイヌ原住民」説の激しい運動は、この研究にて「アイヌ説」は遺伝子工学的に完全否定されて消え、運動も消えたのである。(後日レポートする)
また、日本民族の本来の形を証明し「7つの民族融合から来る単族説」を証明して「民族否定論争」は消えたのである。(後日レポートする)
更に、この「日本書紀」の「デタラメ説」は発掘作業と古代史研究に国家予算をつけて証明が進み、かなり信頼性が高い史書である事が証明されて来たのである。
その証拠には「日本書紀」を改纂すると、上記した六つの史書の連携の矛盾が生まれるのである。
確かに天武期の編集中には一部修正したことが判っているが、後の修正は証明されない。
「間違いが多いとする説」には、大和の者が直接関わったものではなく、この「日本書紀」偏纂には「阿多倍」らが引き連れて来た「秦部」や「司馬部」等の事務官僚の漢民が直接携わって執筆されている事等から本職の者が実質偏纂しているのである。故にに当らないのである。
まして、この時には前記した渡来人の唐の4人の留学生「国博士」が側にいて歴史監修しているのである。
この様にプロ中のプロが集まって行っているのであって趣味的に偏纂したものではないのである。
しかし、ここで、韓国に於いて、決定的な「日本世記」と言う書物が最近見つかった。
この書物は、「中大兄皇子」の政治顧問として百済から派遣されていた(催氏)人物で、この者が「中大兄皇子」の日常の政務を「日記」にして細かく書き知るしていたものが発見されたのである。
この人物が国に帰るときに持ち帰ったものである。
司馬遼太郎氏らの歴史家と国は、この人物の書き記した物が遺されている事を予見して韓国に探すように求めていたのである。これが見つかれば「日本書紀」の内容を確認出来る。
結果、見つかり内容を確認したところ「日本書紀」に書かれている内容がより詳しく、不明点も判明したのである。そして、「日本書紀」の内容の信頼性が、「全面否定」から、8割から九割近い方向に証明されたのである。
またこれにより、韓国文化の日本文化への影響も明確に成る等の影響も出たのである。
NHKの大化改新番組での韓国人の研究者のインタビューの力説はこの点にあったのである。
残る不明点は今後の発掘等の作業から導かれる。
「日本世記」等がこの問題を解決しているのである。
故に、日本人の現代の一個人の者の知識レベルで「ここが間違っている」とする説には同意が出来ないのである。
「字句の前後を変えて間違えた」とのNHKの新説は、漢文専門家によると次の答えが出た。
「文章の強意するところは漢文的には前後する事が手法とする事がある」との判断もあり、日本文でも同じである。決して、間違いではないのである。
まして、「上記の背景」や「舎人親王」の人柄も含めて、我々マニアでさえも上記した様なことの知識は充分知っている。
一度、「日本書紀」を読まれると良いと思う。
NHK新説は、上記した戦後の彼等の常等手段と類似する言い分である。
いずれにせよ、筆者はイデオロギーに偏らず、史実は史実として扱い、それをどの様に配慮して伝えるかによると考えている。
故に、青木氏の歴史史実と由来のより真実を世に伝える努力をしている。
「日本書紀」は、決して「神話的内容」には成っていないし、後で「内容に手を加えた」とする説にも、文脈や文章の流れも字句、語句にも違和感を持ち得ない。むしろどちらかと言うと平易的過ぎるとも思う位であるとの感がする。
何れ近い将来には確率高く証明されると信じている。
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