青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.390
大化改新1
390編集 追加
NHK放映の新説「大化改新」に付いて。

この新説は次のような事でありました。

1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 後漢滅亡後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。

以上の内容であつたと思うが、少し新説は史実に偏りが見られる。

先ず綜合結論から言うと、蘇我氏側から見た見方と、天皇家から見た見方との違いである。
この違いはいまさら云う事ではない。以前から言われていたことなのである。

その意見の強いほうが「通説」と成っていた程度である。

そもそも、奈良期の大化前後の時代の状況から説明していくと判る。
先ず、聖徳太子の頃の主要5氏(葛城、巨勢、紀、物部、蘇我、平群)が天皇を中心にして運営されていて、親神主義と親仏主義の導入の争いがあり、親神主義の物部氏が負けて戦いの末滅びた。

その後、蘇我氏は全権力の3権を掌握し、第1度目の崇峻天皇を蘇我氏支配の武装集団の漢氏に暗殺させる。

天皇家の聖徳太子との軋轢の中で2大勢力時代になる。馬子との軋轢の中、聖徳太子は氏姓制度や憲法17条や冠位12階制度や官人制などの律令制の基礎をなんとか導入制定した。
何も天智天皇から始めたわけではない。そして、阿多倍一族の知識を基に桓武天皇のときに律令制度は完成する。(後述)

聖徳太子以後、2度目の天皇家の者を蘇我蝦夷や入鹿は聖徳太子の子供達一族(山背大兄王)を尽く抹殺した。天皇家のためであるなら何も殺す必要はない。
山背大兄王は蘇我氏に強く抵抗したわけではない。

その後、蘇我蝦夷と馬子は「東漢氏の軍事力」と、政治の「全3権(斎蔵、大蔵、内蔵)」と、経済の「部制度」を支配する。
これにより、女性の斉明天皇を操り、完全に全権を支配した。

このような状況から、2度の天皇家の者を抹殺し、全権を握られ傀儡政権となれば、天皇家の中大兄皇子にしてみれば次のような感情と猜疑心は生まれるが当然である。

天皇家側から見れば明らかに前の2度の暗殺を見ているので、前は未だ全権までは奪われていなかつたが、次は今度は次皇位継承者の自分が潰される。その事で全て奪われるという感情を持つは必定である。持たない方がおかしい。

現に、後に未だ安定しない状況の中で、直系の中大兄皇子は天皇に成らずに孝徳天皇に譲る懐柔策を採る。この時は未だ、蘇我氏分家は現存している。

しかし、蘇我氏側からすると天皇家のために国を護るという大義名分で全権を握ったというだろうが、其れまでの行動と殺戮に付いて、それを証明するには無理がある。
次々と権力のもたない飾りに過ぎない天皇などを暗殺する事はない筈。其の侭にしていても実質は同じである。
国内には天皇家を脅かす氏など何処にもないし、外国が攻めてくるとは言え、唐の前の隋政権は「来襲」は無かった。また、朝鮮半島にあったとは言え陸続きであり、海を隔てている事とは戦略上著しく異なる。
元寇の役の例にある様に同じで当時の軍事力では、そのリスクは大きすぎるのである。

実例を挙げてみると日本の歴史上で5度中4度外国軍が飛来しているが成功していない。
特にアジア系では成功していない。

先ず、1度目は応仁大王(天皇)の大船団が難波に上陸し大和朝廷と融和し、初代天皇となる。
2度目は鎌倉時代の元寇の役で殲滅して帰る。
3度目は江戸時代に英国とヨーロッパの軍船団が香港や遼東半島などを征圧して、日本に軍事圧力で開国を迫る。何とか不平等条約でくりぬける。
4度目はロシアが南下政策で朝鮮半島まで攻め込み後一歩のところで朝鮮に渡った日本軍が朝鮮より追い出し食い止める。日露戦争である。
5度目は「経済封鎖問題」で米国軍と戦い第2次大戦で敗戦し米国軍が占領した。

この5つを観ても4つは全て「朝鮮半島」が大きく関わっている。

特にアジア系は海を隔ててくるには軍事的リスクが大きすぎるからであり、そのリスク解消は朝鮮半島を経由する事で解消できるのである。日本はこのことに付いて戦略上理解しを知っている。
米国の件はこの軍事リスクを解消するもの(飛行機と戦艦)が出来た。(しかし硫黄島が関わる。)

だから、「中大兄皇子」は朝鮮に出向き出鼻を挫く為に「白村江の戦い」に決断したのである。

この時の事を追記するが、この軍の構成を見ると理解できる。
この軍は、後漢の帰化人の首魁の阿多倍の孫の阿倍氏(阿倍内麻呂、比羅夫)の配下で構成されていたのである。つまり、百済の救援を目的としているが本音は先制攻撃の印象を与える事である。

この時、阿倍は中国に戻り日本に帰ってこなかった事、 阿多倍の国の後漢は中国東部地区の遼東半島から朝鮮全域を支配していたが滅亡した。つまり、地元そのものである事、唐時代になっても東部地域国は充分には支配できなかった事。これ等の事を理解すると派遣した意味と目的が判るものである)

この阿多倍の子孫の阿倍氏は、この時代の歴史上人物には他に仲麻呂、比羅夫、内親王があるが、この人物を知ると、この阿多倍の子孫の朝廷内での基盤が判るので忠告は充分にあったはずである。

そして、その軍はこの目的の効果を出すために同じ要領の知る中国人をこの戦いに向けたのである。
結果は敗戦であったが、目的は「先制攻撃」としての強く効果は出ているのである。
だから、唐はそのリスクと「先制攻撃」の「強い印象」でその後に攻めて来なかったのである。

その理由として、都を攻めても、この長い列島である。左右前後から間違いなく挟撃される。食料は途絶える。結局、戦わずして全滅である。
応仁大王もこのことを判っていたから和睦し、融和政策(5氏での連合政府)で解決したのである。中大兄皇子も歴史を学んでいる。

戦いは感情では出来ない。要は戦略である。中大兄皇子はこの戦略を阿多倍らの忠告で実行して防いだのである。

これでは入鹿がいくら攻めてくると力説しても理解されないであろうし、なおさら天皇家側にすれば猜疑は更に生まれる。

現実には来ない。むしろ先制攻撃で百済を救援する事を名目にし白村江で戦った位である。

日露戦争も同じである。先制攻撃で負ける戦争が勝った理由があったのである。

史実として、先制攻撃を前提として、負ける筈の戦いに英国が仲裁に入り決着をつける外交手段を着けていたのである。
ところがこの時は二人の優秀な副官と司令官に恵まれた。
この二人の副官は徳島出身の秋山兄弟である。兄は陸軍、弟は海軍の参謀副官である。

兄は、有名なロシアの10万の騎馬軍を相手に、2万の騎馬軍と英国の指導での大砲と機関銃の近代戦と、「逆ハ作戦」で完全に追い返したのである。新しい戦法である。
(当時は騎馬軍には機関銃と大砲は使わない戦法であった)

参考として、 逆ハ作戦とは逆ハの形で軍を構える。敵は中央を突破してくる。そうすると逆ハが閉じる。再び開く。これを繰り返す。しかし、遂には大群であるので続かなくなり、敵は一団となつて突進する。そこで逆ハの中心に到達する。と突然、後ろに構えていた機関銃が火を開く。一団と成ってくるので敵の中心めがけて射掛ける。騎馬軍は中心には指揮官がいる。指揮官を失う。又指揮官が出来る。射掛ける倒す繰り返す。それでも中心は抜ける。中心の後ろには味方は居ない。中心の遠くに大砲隊が控えている。撃つ。殆ど指揮系統が崩れている。大砲で敵は戦う気力なくなる。逃走する。今度は、この時には味方の逆ハが集合している。逃走する敵を包み追走する。全滅になる。残った敵は馬を捨てる。列車でばらばら逃走する。昔の戦法の鶴翼戦法である。それに機関銃と大砲を組み入れた速度速い騎馬大群を相手の近代戦法である。
結果は10万の軍が3000人しか残っていなかつたのである。

弟は、3000メータも飛ぶ日本が開発した新式の黄銅(真鍮)の大砲を戦艦に取り付けて、砲弾は焔硝性の弾薬を開発し取り付けて、戦法はT字作戦で虚を突いた。ロシアの2500隻の戦艦が10隻にするまで勝利したのである。
(当時は砲弾で潰して鎮める戦法であったが、硝煙で船の中を高熱にして燃やして沈める戦法を編み出したのである)

参考として、 この海戦T字戦法は2500隻の大船団に対して、敵は大船団であるのでハの字型に船団を組む。先頭に指揮艦が来る。これに対して、逆ハで迎える。味方の戦艦は敵の中心をめがけて大砲を撃つ。次々と直線に並んだ戦艦が中心めがけて撃つ。撃てば敵に腹を見せて後ろに回る。T字になる。各艦はこれを繰り返す。敵の先端の旗艦は連続的に攻撃を受けるので沈む。又旗艦が出来る。これを繰り返す。味方も次の準備をして又元の位置に戻る。これを永遠に繰り返す。そうすると、あるところで敵が撃つ事が出来なくなる。先端の位置付近に沢山の戦艦が沈む。後ろが動けなくなり衝突して船隊が乱れる。大砲が飛んでくる。対馬の狭い海峡である。敵は無抵抗になる。味方は撃つ。
2500隻の戦艦が10隻になった。味方は損害が殆どない。体型は整っている。
しかし、ここで味方の弱点がある。敵の全ての艦に腹を見せる事になる。腹を見せることは戦艦の戦力が最も落ちる。味方が少ないと直ぐ終わる。ところが、この弱点を解決したのである。
それは敵の弾が届かない位置から腹を見せて問題はない事だ。それは上記の大砲の改良である。
敵からすると「遠い」し、「届かない」。船は大して壊れないが燃える。指揮が出来なくなる。火災になり沈む。この戦法である。逃げた10隻はロシア港に入る。港を封鎖する。撃つ。全滅したのである。

100%負けるといわれていた戦争である。

つまり、どちらも、「阿多倍」が連れてきた冶金の「鍛冶部」の技能集団(住金)の末裔が開発しそのなせる業なのである。
(当時の砲はせいぜい1500メータで、3000メータでは見えないところから飛んでくる程度である。)
このように、二つの戦いを見ても「先制攻撃」を加えることが効果があり、又地理的にも海峡を隔てている日本列島を奪うには難しいのである。天然の要塞なのである。一種の列島戦艦であるのである。
(真珠湾攻撃も先制攻撃であったが遠すぎた。空の戦いはこの戦法は効かない)

話を戻して。其れよりは、聖徳太子から始めた律令制度の完成を目指して後漢から帰化した阿多倍らの一団の力を借りて内政を立て直す事の方が先決とする見方の方が現実的である。
律令も出来ていない国情では長続きしない事は間違いない。

この感情からすると、蘇我入鹿が採った宮廷の周りの建物造りの行為は、丘の上下の位置や建物の軍事内容から察すると、天皇家から観ると「反逆行為」と観るのが普通であろう。

第一その程度で護れるはずはないし、既に博多付近から都まで登ってきた唐の軍隊の勢いを止められることは不可能である。
誰が考えても、もしその理屈を述べたとしたら普通は理解される事はないし、中大兄皇子は極めて聡明で用心深かったと言われている。
皇太子になったあとの孝徳天皇との軋轢の行動と周囲の粛清政策を観ても明らかであるし、成れる天皇にも成らなかった位である。

なにも、反逆するのであれば、大げさに絢爛的な館を作る必要はない。適度な軍事施設程度で充分である。まして、別に大宮殿があるのだから。
更に天皇の宮廷の上に立てる事はない。
外国が攻めてくるとは言え宮廷を固めても仕方がない。その時はもう遅い。天皇家を納得できる名文ではない。

もし、やるとすれば、天智天皇が採った九州地方までの要衝地を作る事の方が先ず必要があるし、中国の「万里の頂上」の様に、都を城壁で囲んだ方が現実的で良策である。天智天皇は後にこの二つを実行したのである。
入鹿は其れをしていない。

このところでも改新はなかつたとするのには無理が余りにもある。

中大兄皇子にしてみれば”そんな程度で護れるか”と思うはずである。

更に、この蘇我氏は、応仁大王(大和朝廷の初代の王)らが、難波に上陸してきた朝鮮系の百済王の枝葉末孫である。

応仁大王はこの大和の4氏(葛城、巨勢、紀、平群)と戦い、全てを制覇し大和の飛鳥に入国し結局争わずして5氏の上に立つ大王となつたのである。

この詳細は、上陸時は、この地を治めていた紀氏や葛城氏や巨勢氏ら3氏の連合軍の抵抗で飛鳥に侵入する事は出来ず、先ず、紀氏を「先制攻撃」して征圧して、紀伊路を南に回り、新宮から奈良には進入して征圧した。(各個攻撃)

この時代は、未だ奈良は盆地でも、中央には琵琶湖に並ぶ程度の湖があってその周りに生活圏をもち連合政治をしていた。それで各個攻撃された事で戦略上は堅く無かったので征圧された。

この時につれてきた、渡来人で物部氏(軍事)と共に百済王末孫系(鞍作)が蘇我氏であると成っている。

その証拠に、中大兄皇子が入鹿を暗殺したときに側に居た古人皇子はあわてて”渡来人が”と叫んで逃げている。当時は未だ、渡来人としてのイメージを持たれていたのであろう。

又、この蘇我氏の別の呼び名は日本書紀にも書かれている様に「鞍作りの入鹿」である。

「鞍作部」は馬の鞍などの馬具を作っていた技能集団で、朝鮮と中国からの渡来人で構成された集団
である。(鞍作は仏像も作った 奈良の大化期の「鞍作部止利」が日本最初の仏師である。)

この部集団に付いては、主には、後漢が潰れて後漢の末弟の献帝の子の石秋王の孫の阿多倍が引き連れてきた17県民の技能集団でもある。(蘇我氏はその前に入った応仁大王が引き連れて来たもの)

この様に渡来人がルーツである事が明らかに判る。

この子孫の蘇我入鹿らが勢力を持つたのであるから、聖徳太子の事もあり、当然に天皇家側は百済王の末孫が天皇家を乗っ取り、百済の国を大和の国に作ると言う戦略におびえていたはずである。

この様に、多分、NHKの新説には、この天皇家側からの客観的判断が不足している。

少なくとも、逆賊であるかどうかは別としても、全権を既に握った後の残る条件は中大兄皇子を暗殺する事で、客観的に観て、完全に牛耳ることが出来る一歩手前で、その実行は無力で飾りの皇子を潰すには何の努力も要らないところに来ていた筈である。
むしろ、それよりもその後に編成されるはずの朝廷側の「連合軍」の方が期になる。その備えが必要と考えるはずである。

潰さないという忠節心の精神が存在する根拠は薄く、反逆する根拠の方が状況判断から観て、高いし全てとの感がする。

新説根拠の武器庫でも入鹿が住む程度の館で充分である。相手が無力で飾りである。
私なら、そんな大それたものは作らない。攻めるに必要とする物を作り、そして住む体裁を繕う。

つまり、それよりは、天皇家を奪った後の国内の乱れと、天皇家を養護しようとするの「連合軍」の進入に気を配る。
現実に、入鹿は外国から侵略と見せかけての説として、この程度の防護でその配置をしていると説いているがおかしい。全体が飛躍しすぎている。多分この目的であった筈である。

実は、この2つから観た説は以前からあったもので何も新しい説でない。

以前からあつた韓国側の歴史認識の影響を大きく受けた国内グループの巻き返しであると観るのが適当ではないか。

その根拠には、最近、韓国で「日本世記」という資料が見つかったのであるが、この資料は大化改新の律令政治の指導に来ていた韓国人の者が朝廷内の事を日記にして遺したもので、この者が帰国する時に持ち帰ったとされるものです。

青木氏の仏像の件などもこの資料にも乗っているのです。細かいところが明らかになってきていることは事実ですが。
それだけに韓国側の蘇我氏に対する巻き返しグループが国内グループと共にこの新設を唱えています。

阿多倍の朝廷への律令政治完成の影響と東漢氏の行動のことも明らかに成っている事もNHKは以前(去年)に放送しているのです。

東漢氏が何故、攻めてこなかったのか。
何故、入鹿の父(蝦夷)が指揮せず、自殺したのか。
阿多倍はどうしたのか。

(日本書紀には、大隈の首魁として呼び寄せたり、伊勢北部伊賀に不入不倫の権の保護を与えて住まわしたりしているとか、何度も中大兄皇子と天武天皇にも会っている。これ等の勢力がどう動くかで決まる。)

とすると、中大兄皇子の暗殺で「連合軍が動いた時の備え」として今回の蘇我氏の施設を考えるとこの疑問も解ける。(少なくとも唐の来襲警戒ではない。)

つまり、この蘇我氏の最大の「頼り」の一つ軍事集団の阿多倍の支配下にある東漢氏が、阿多倍の指揮で動かず、抵抗しない旨を告げて去った事である。「戦う事」も出来ず、「連合軍の備え」も出来なくなった事による。
それ以後のこの阿多倍が率いる一団の動きを見れば理解できる。

この大化の改新の前後はこの一族の出方如何で決まるのである。
日本の平安後期までも政治、経済、軍事はこの一族の存在で決まるのである。(詳細は研究室の阿多倍関係、京平家などを参照)(この一族の末裔は日本人の15-20%を占めている)

蘇我氏にとっては、長い間の努力も「水の泡」で、言い訳が出来無かったのである。

これらを踏まえてこの新説を聞く必要がある。

これが、第1番目の実情である。

続きは第2番目の問題の解説です。史実から観て新説は矛盾が多く出ます。

続く。

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