青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.391
大化改新2-1
391編集 追加
1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 漢の後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。

大化の改新のNHK新説に対して、前回は第1番目を検証した。結論的には新説の第1番目の説には「無理と飛躍と矛盾と情報不足」が目立つものであつた。

次は第2番目の「大化の改新」は無かったとの説である。
これは解説者の発言にあった。
このことに付いてはまったく史実を無視している。何故にあるものを無いというのであろうか。
言質の裏にある種の政治的イデオロギー的発言の感じがする。
以前からもこの種の歴史を否定する説を唱える政治グループがいた事は承知している。
ただ、NHKがこれに加担したことに大きな疑義が生まれる。昨年私はNHKモニターをしたがその内容から見て「受信料不払い」の原因の一つであろう。

兎も角も、大化の時代に改革が行われた史実とその内容などを述べる。

現代も同じ様に「平成の改革」が成されている。大正と昭和の時代の世の中のシステムが、生活方式を含めて全てものが替わり、変革し、加速的になったことから時代に合わなくなってきている。

聖徳太子の時代から大化の時代までにはも大きな変化が起こったのである。
時代を追ってその変化を述べる。

先ず、620頃から、漢の国が滅亡し漢民は南と東に逃げた。そうして、東に逃げた民の中に居た「光武帝将軍」が遼東半島と三韓を征圧して国を興して「後漢」が出来た。そして、21代末帝の「献帝」の時代に滅亡して「唐」が中国全土を制圧した。
この「後漢」の17の県民は「献帝」の孫で、「石秋王」の子供の「阿智使王」とその子供の「阿多倍王」と共に北九州に上陸した。
この漢民の17の県民の集団には国を形成する政治官僚を含む全ての職種の技能集団が同行していた。
当然に、軍事集団を先頭に博多、大宰府付近に入った。
しかし、進んだ先進国の漢の民である。戦いなどは当時の大和の民では相手にならない。
又、進んだ生活手段を持っていた為に民は、この集団との和合を図り、進んでこの漢民の技能を取り入れ生活のレベルを上げる事が出来た。

この阿多倍の集団は続々と上陸してくる。この渡来人の漢民は南下した。
この漢民の九州での状況を詳しく述べる。
当時、この地方では「肝付氏」と朝廷より派遣された「伴氏」とで統治されていた。
伴氏は「弁済使」で税の取り扱う官僚であるが、九州の北部に支配権を持っていた。
この高級官僚で朝廷の5氏の一つ「伴氏」と「肝付氏」が血縁し多くの末裔が広がっている。
更に「肝付氏」と「阿多倍」一族との血縁を結んだと成っている。
(九州地方での内容詳細に付いては別途レポートする。)

最終的には、この漢民は朝廷に対し帰化を申請する。

九州から中国地方へと上陸し同じく支配下に入れて進出し飛鳥に入る。朝廷はこの帰化した漢民の渡来人を更に未開地であった中部地方の信濃、甲斐国の開墾に送る。
これ等の民は200万とも言われている。

この漢民の首魁の阿智使王と阿多倍王は大隈付近に住み「大隈の首魁阿多倍」と呼ばれていた。
この事が日本書紀に詳しく書かれている。

この時代の唯一の歴史書である「日本書紀」にはこの「大隈の首魁」は4度出て来る。
そして、ここの「阿多倍王」に賜姓青木氏が守護する伊勢の国を分轄して、「伊勢北部伊賀地方」を与え「不入不倫の権」を付加して与えて保護した。
「阿多倍」はその九州から中国地方の民の生活向上に貢献した勲功で「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の娘を娶り3人の男子をもうけた。

「阿多倍」は「准大臣」の官職を与えられた。
この三人はの長男は賜姓を授かり、坂上氏を名乗り軍事担当を、次男は当時の朝廷の政治機構の3蔵の内、大蔵氏の賜姓を授かり、朝廷の財政担当を、三男は内蔵の賜姓を授かり、天皇家の財政担当を担った。もうひとつは斎蔵で祭祀を担い、これは賜姓族藤原の鎌足であった。

この進んだ「後漢の知識」で「阿多倍一族」を先頭に「大化の改新」の「政治改革」に臨んだである。

この末裔は代々九州の「太宰大監」を任命され、歴史上「錦の御旗」を個人に与えられた唯一の氏で大蔵氏である。
この大蔵氏は朝廷より「遠の朝廷」を任じられ、九州全土の「政治、経済、軍事」の全権を与えられたこれも歴史上の唯一の氏でもある。

これは遅れていた九州の未開地をこの一族に任して「3分野からの改革」を実行した証拠のひとつである。(この地には朝廷より当時の主要5氏の一つ「伴氏」が派遣されていた。)
其れも、現代までになかったすごい改革であった事は下記の進んだ後漢の民の集団の構成を見ても解る。
地域の生活生向上と、地域間の紛争がなくなり、軍事的安定が起こり、図りしえない変化のものであったことであろう。
日本書紀にも都に首魁を呼んで天皇の前で踊って祝ったとあり褒美を与えたとある。

昭和のバブルごとき変化ではない。

そして、この「阿多倍」の孫に当る伊勢北部の伊賀の「高野新笠」は「光仁天皇」の妃で「桓武天皇」の母である。
桓武天皇はこの母方の「大隈首魁の阿多倍」(別名 高尊王)一族で「伊賀の王」(高望王)を第6位皇子として賜姓し、「たいら族」(京平氏 桓武平氏、伊勢衆)とした。
これは、天皇家が代わるたびに発生する第7世族以降の皇族を「ひら族」(坂東平氏)として坂東に配置した八平氏になぞって、この「阿多倍」を「賜姓たいら族」としたものである。
この渡来族に対する当時の何らかの配慮があったものであろう。

伊勢伊賀には「高尊王」と「高望王」との違いと年数のずれがあるが、伊賀にはこの阿多倍の一族しか居ないのに「高尊王」と「高望王」の王が二人いることはない。何らかの理由(記述のミス)であろう。

この賜姓した「桓武天皇」は大化の改新1でレポートした「聖徳太子」の曽我氏の軋轢の中での改革からから始まり、「天智天皇」の「改新」を繋ぎ、最後に「律令政治」を完成した天皇である。
上記したその功績はこの阿多倍一族とその漢民の努力以外にない。

この漢民の民は「部制度」である技能集団の民「海部、磯部、鍛冶部、綾部、茜部、錦部、馬部、鞍作部、織部、弓削部、鵜飼部、山部、石作部、矢作部、土師部、陶部、舎人部、赤染部、依縫部、倭文部、麻績部、佐伯部、来米部、膳部、鏡作部、鍛師部、船部、物部、安部、漢部、工部、墨部....」など挙げればきりがないが、全てこの民は後漢の民で阿多倍の支配下にあった民である。

この進んだ技能を大和の民は指導を受けて会得したのである。
現代の北九州工業地帯の鉄鋼、造船、陶器、等の産業を考えればよくお判りと思う。
これで「改新」が無かったとの説は疑義の何物でもない。蘇我氏管理のもとではなかった事なのである。

この集団が作った物は一度朝廷に入れてそれから市場に出すと言う経済システムが当時の「部制度」であり、「市場経済」では無かった。

「朝廷」とは言え「蘇我氏」にである。これを「蘇我氏」から朝廷に「国造」(くにのみやつこ)という官吏を置き取り戻して経済システムを正常化したので動き始めたのである。
「改新」は「国の管理下」にした「行政改革」である。明治時代の改革と同じ「中央集権制度の導入」である。
これだけのことを実行する事態、未だ東北部地方の国が安定していない時期に、大変なことである。
これでも「改革」が無かったとの説はおかしい。

現代でもこの第一次産業はこの阿多倍率いる漢民の集団が引き継いできて現代の日本の主幹産業に成っている。この一団なくして現代の日本の全く地位はない。それほどである。

日本の国民の20%程度を占める漢民の末裔の方々に感謝申し上げたいくらいである。

この権利と管理を蘇我氏が握っていたのである。つまり、「朝廷の経済」は「蘇我氏」が握っていた事を意味し、国のため、民のために中大兄皇子は取り戻したとすればこれも「改革改新」である。
もし、これだけのことを今現在するとしたならば、果たしてできると思われるか?。無理と考える。

話戻して、上記にもある様に「阿倍氏」を頂点として、「物部、安部、漢部、鞍作部」等は軍事関係の集団である。
つまり、「朝廷の軍事」までも握っていたのである。

「朝廷の政治」はもとより、「大連」の蘇我氏であるから言うまでもない。
当然、この支配下に阿多倍も先ずは実力はあったが、蘇我氏に従う立場であつた。

これが大化改新1にレポートした「疑問点、キー」であった阿多倍の一団の出方が、「改新」の成功を握っていることは明らかである。
蘇我氏が全権を握っていたのは言うまでも無くこの漢民の17の県民の出方であった。

これだけの政治、経済、軍事の3権に能力のある集団を見方にすれば「改新」は充分に可能である事が理解できるし、出来ない方がおかしい。
「中大兄皇子」は味方にしたのである。つまり、味方にした事さえ改革改新である。これでも「改新はあった」事が筋道でさえも解る。

しかし、入鹿が暗殺されても未だ分家一族は沢山いるが、分家もこの反撃に出なかった訳はこの阿多倍の一団の後押しがなければ無理である事は明白である。

だから、首の蝦夷(えみし)は行き詰まり自殺したのである。阿多倍は裏切るとは計算していなかったはずである。

しかし、史実はこの阿多倍の一団は朝廷に一日後に去ることを伝えて出て来ず丘から去ったのである。

その後は上記した通りである。

これで、阿多倍一団の執った戦略は明らかにわかるし、「中大兄皇子」もこの阿多倍の集団の力の程度のことは知っていたはずである。孝徳天皇も含めて日本書紀にも書いている通り会っているのであるから。

蘇我氏の分家(蘇我石川麻呂:入鹿の従兄弟)に首謀者の中臣の鎌足が話をつけたことは史実でも証明されている。(改新後3年後に謀反の嫌疑がかけられ自殺)
暗殺のとき、この蘇我氏の分家は震えて動けなかったので、中大兄皇子と鎌足が自ら切って出て行ったのである。
この鎌足が蘇我氏の分家に話を通した事は「改新」の成功を計算した上である筈。
だとすれば、改新後のこの「進んだ知識と技能」を活かせれば成功すると見て、阿多倍一族にもこの話を通し、味方するように説得していると考える方が普通である。

阿多倍一族にとっても蘇我氏の管理下にいるよりは、政治の場に於いて進出して日本での基盤を築きたいとする考えは生まれたと見る。(後に現にその様にな成った。太政大臣までに成った。)
だから、東漢氏と蘇我氏分家は出て来なかったのである。

この改新のキーは「蘇我氏分家」と「後漢阿多倍一団」であったのである。
作戦、計画実行時はだれでもキーは何か、誰か、何処か、何時かを考えるのが普通である。
としたならば、この3つの事は先ず考えた事になる。
そう見るとこの要件即ちキーは入鹿暗殺前後の史実が納得できる。

蘇我氏の分家が味方したことの意味を理解すれば、NHK新説は矛盾する。
後は、阿多倍一人である。だから成功し、阿多倍は政治に関与し律令政治を完成させたのである。
後に、この「大蔵種材」という人物がでるが、九州の「太宰大監」となり、侍の神「麻利四天」のモデルにもなった豪傑が出て改革で国を安定させた有名な人物がこの阿多倍子孫からでている。

「孝徳天皇」と「中大兄皇子(天智天皇)」の改革に貢献した。これ等の事は日本書紀や多くの史書にも書かれている。

では、以上の事柄を念頭にして基礎理解を得た上で、阿多倍らの一団の働きにて行った天智天武期の大化期の改革の具体的な事柄を次に述べることとし、「大化改新」があったことを証明する。

予備知識の一端として一部拾い出して置くと次の様になる。
主だったことは次のレポートとする。
活躍した内容
参考として、仕事は次の様なものである
「全国の国領地の検地」    租税の安定した確保を図り朝廷の基盤を造る
「全国の武器の検査」     侍としての基本的な姿勢を確認する
「全国の税の見直し」     改新前の粗雑な税体制を改革する
「特定地への天皇からの特命」 治世などが乱れている各国に対する督励
「全国の争いの調停と平定」  改新前の勢力の修正
「全国の領地境目の確定」   領地争いの原因の見直しを実行
「重大行事の指揮」      朝廷内の神事や行事と国内外の使節団の指揮
「天武天皇の相談役」     政治の難題の相談と調査
「皇族間の調停役」      皇族間の勢力争いの調停
「斉明天皇への助言」     女性天皇の補佐役
以上が「日本書紀」から拾い出した内容である。仕事はこの内容の重複もある。
「日本書紀」であるからその信頼性から見て、この内容は半端ではない。
これは殆ど天智天武期の政治を動かしていたことを意味するのではないか。
編集者の「舎人皇子」も十分認めて信頼してこの働きを具体的に書き込んだものだと思う。

続く。

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