青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.392
大化改新2-2
392編集 追加
大化改新2の続き

活躍した内容
参考として、仕事は次の様なものである
「全国の国領地の検地」    租税の安定した確保を図り朝廷の基盤を造る
「全国の武器の検査」     侍としての基本的な姿勢を確認する
「全国の税の見直し」     改新前の粗雑な税体制を改革する
「特定地への天皇からの特命」 治世などが乱れている各国に対する督励
「全国の争いの調停と平定」  改新前の勢力の修正
「全国の領地境目の確定」   領地争いの原因の見直しを実行
「重大行事の指揮」      朝廷内の神事や行事と国内外の使節団の指揮
「天武天皇の相談役」     政治の難題の相談と調査
「皇族間の調停役」      皇族間の勢力争いの調停
「斉明天皇への助言」     女性天皇の補佐役
以上が大化期の「日本書紀」から拾い出した内容である。仕事はこの内容の重複もある。

実は上記の内容は天智、天武期に渡り、第6位皇子(施基皇子)が行った「改新」の仕事である。
この皇子は、私が調べた範囲では18回出て来る人物で日本書紀の中では段突である。

伊勢王として伊勢の守護を務めながら、天智天皇の「改新政治」を助けて全国各地に飛び回っている。
つまり、伊勢青木氏の元祖の働き具合である。

「日本書紀」を見ると皇太子がいるが、其れ以上に信頼されている人物がいる事が判る。

1 「軍略所」としての役職である。
上記の内容通り、天智、天武の葬儀等も含めて本来皇太子が行うところを代わって代行するなど、新しく天皇の執政を機動性良くし、全ての指揮をとる事を天皇より依頼され実行する実務補佐役が設けられたのである。

これ以外に次の「改新政治」が行われている。具体的に述べる。

2 「国博士」を置いて天皇の政治の補佐をさせる。
隋などで留学し大化改新の為に呼び戻された「高向玄理」や「みん」がこれを務めた。

3 「内臣」を置く。
「改新」を行う天皇を補佐する政治相談役で、鎌足が勤めた。後の藤原氏の摂関政治の基となる。

4 「東国国司」を置く。
改新を進めるに当って東国が未開発であり、「改新」の大きな障害と成っていた。これを専門に行う国司である。美濃、信濃、甲斐などに後漢の技能の民の渡来人を送りこみ開墾を進めた。

5 「男女の法」を定める。
生まれた子供の所属を定めたもので、「公地公民」の政策を進めるうえでの身分制度である。
上記した阿多倍の配下の漢民の技能集団の「部制度」の組織改革である。後漢の集団の民と一般の民との融合が進み、「部制度」を修正した。 

6 「薄葬令」を定めて身分に基づいた葬儀や墓の規模などを定めた。公地公民の前提を作り上げた。

7 「冠位の制」を改善した。聖徳太子の冠位12階より7色13階、19階、26階、48階とし位階制を定めた。大宝期には30階に戻した。

8 「改新の詔」を定めた。「大化改新」の「行政方針」を4つとして定めたものである。

4方針は次の通りである。

現在の行政方針を新しく敷いて公表したのである。今までにない画期的なことである。
おそらく民は当時としは政治は「お上」が行うものとの認識して疑わなかったはずなのに、方針を出した事が驚きであったはずである。真に民主主義の原点であるのだから。

公地公民制 
土地や民は全て国に所属する制度で、土地の官吏は「国司」、「部制度」の官吏は「国造」とし行政を明確にした。現在の行政の原型を定めたのである。  

統一的地方行政制度
国と地方の行政を分割してよりきめ細かく施政する様にしたもので、現代の「三位一体」の行革である。豪族の施政に任していたものを国管理の下にし、指揮系統をより効率よくより平均化した。
交通、情報機関のない時代にこの制度を敷いたことを考えると不思議なくらいである。

戸籍と計帳と班田の収受制度
民の正確な把握の為に戸籍調査を断行し、土地の測量を行い租税の正確な把握を行った。
官僚制度を整えて国の国体形態の基礎を築いた。
現代では当り前であるが、もし無いところから制度が出来たら驚きのなにものでもない。
上の2つの方針も実行されて多分半分はパニック状態であったと思う。

統一的税制度
上記の3つのことで正確に把握した国情を下に弁済使を置き租税の統一と正確の管理を図った。
大雑把な税体制から確実な計測等のデータで税が徴収されるのであるから、民は驚き、緊張し、期待も生活がどう代わるかで大きかったのではないか。

この頃、阿多倍の漢民の進んだ技能で民の生活が一変して潤っていた頃の最中である。
だから、朝廷もこれだけの事ができたのである。何も変化していない古代の生活環境の中ではこの施策を敷いても効果どころか朝廷の転覆に当るほどである。
朝廷の姿勢も下記に書く財政の無駄をはぶき毅然とした態度で施政方針を示したのである。
現代の改革と殆ど代わらない事が1500年も前に急に行われたのである。

9 「食封」(じきふ)を定めて経費の無駄を省いた。
官僚の俸禄制度を定めたもので、上級官吏に一定の戸指定(50)し、戸の租税の1/2と調庸2/2を与えた。下級官吏には布帛(ふはく)を与えた。

10 「防人」(さきもり)を定めて、職業軍人とは別に現代にもある徴兵制度を敷いたのである。
九州北部の西海の防備を司る兵制度である。阿多倍の子孫大蔵氏が司る「太宰大監」(遠の朝廷)
に支援し、唐の来襲の警戒に当った。
坂上氏や阿倍氏が率いる朝廷の軍隊と青木氏が率いる親衛隊とは別に一般の民の者で対外国防軍隊を編成したのである。蘇我氏が訴える対外防備のとのレベルが違う。

11 「水城、山城、大野城、さい城、高安城」等の防備要塞を築いて防衛拠点を作った。
唐の来襲を警戒して全国各地と都の周辺に防壁と城を築いた。

12 「近江令」を定め律令政治の完成を目指して律令を発した。
鎌足らが作ったとされる22巻から成る法令であるが、体系的な法典マニュアルとして作ったものとされている。つまり、いきなり法を作っても官僚の執政施行は難しい。そこで、急劇に増えた官僚の種類と数のためにその行動マニュアル的な心得を書き印したものである。

13 「御史太夫」を定めて太政大臣などの補佐として特別に補佐役を設けた。
「改新」の大きさと繁忙さから補佐役を特別にこの天智期に特別の作ったものである。
天皇の2つの補佐役や重臣の補佐役を設けるなど如何に大改革であったかを物語るしその思考が柔軟である事が覗える。

14 「八色の姓制度」を定めて身分を8つに分けて氏姓制度の充実を図った。
皇族とその重臣の身分を定めた。真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置である。
そして、その身分にあった行動と責任の所在を明確にしたのである。

5家5流の青木氏と11家11流の源氏は第6位皇子であるのでこの「朝臣」に当るがその中でも青木氏は上位である。
この身分制度は後には更に細分化される。

15 「皇位継承制度の変更」
皇位継承は大変な財政的負担と成っていた(天智天武の子供は34人もいたし、他の皇子も合わせると50人程度にもなり、天皇家の財政を担う内蔵では破綻寸前であつた。このため、この原因と成っていた「皇位継承制度」の変更を経費節減のために改革を断行し実行した。
多分、皇族関係者からの第6位以下は平民化するのであるから反発は大変なものであつたはずである。
この「改革」で第6位皇子から臣下して賜姓を受けて、初代の青木氏(伊勢青木氏)が発祥したのである。

其れまでは、第4世皇位継承、第7世下族の「世」方式で第5世はこのどちらにも属するとし、第7世は代替わりにて「ひら族」とし、賜姓して「平氏族」を形成し、坂東の守護としてに配置した。
これが、「坂東八平氏」族である。
これと比較して阿多倍末裔の渡来人系の「京平氏」の「桓武平氏」(たいら族)とは混同されている。

「第4世」方式から、第2世第4位皇子皇位継承として第6位皇子を臣下させ、賜姓(青木氏)して、親衛隊とした。この賜姓青木氏であり、伊勢の青木氏としたのである。
即ち、「第6位」方式である。
青木氏には「鞍作止利」作の「大日如来坐像」(伊勢青木氏の宗家保有)の仏像与える事とした。そして、王位は4世までとした。

16 「親衛隊の創設」
蘇我氏に牛耳られていた反省から、天皇自ら護る軍隊を創設した。上記のこれが第6位皇子の青木氏である。この青木氏は伊勢神宮のある伊勢国の王として守護とした。「不入不倫」の天領地とした。(後に、天武天皇が伊勢神宮を護り本尊として正式に詔を出して定めた)

この後、15の改革と共に、天武、聖武、文武、光仁天皇までこの制度は維持された。伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の国の戦略上の主要地の守護としたのである。

この開拓には阿多倍の支配下の漢民の技能集団(馬部、山部、磯部、鞍部等)を遷して大きい外来馬を飼育し開墾した。(日本書紀に記述)

17 「飛鳥浄御原令」を定めて律令制度を2度にて進めた。(天武期)
大宝律令の基となった。光仁天皇の子供の桓武天皇が律令制度を完成させた。つまり、律令制度の完成は初代の聖徳太子から7代の天皇がその方針を貫き引き継ぎ完成させたのである。
その後、嵯峨天皇から5代に渡り見直しの改革が行われて「皇親政治」の全盛期を迎えるのである。

以上が大化期の「改新」の改革項目である。

これだけのことを「入鹿」の前の政情にはなかったもので、空前の改革項目と大変な内容である。
普通では成し得ない質と量である。

これはその専門的な知識が無ければ出来ないことである。
前記の通り、その知識と能力は阿倍氏、坂上氏、大蔵氏、内蔵氏などの阿多倍の子孫とその漢民の集団によるもの以外にないのである。

これ等列記した17項目のものを良く理解してみれば、その根底にあるものが見えてくる。

つまり、平たく言えば、聖徳太子から始まり蘇我氏の改新前の反省からである事が見える。

それは、「3権」を奪われていたものを律令を通して、軍事、経済、政治を見直して、他氏に委ねるのではなく、天皇を中心とする皇族の「皇親政治」の基礎を作ったのである。
そして、国体の基盤を更正し、外国からの侵略と国内の安寧の為に「改新」を断行したのが中大兄皇子の目指す政治であつた。
だから「中大兄皇子」は「国体を変革」しなければとの思いで蘇我氏の体制を打破する必要があったのである。「思考の原理」の前提レベルが違う事が上記のことで解る。
決して、蘇我氏の我が物顔の政治でなかったのである。

突き詰めれば、「律令制度」を中心とする「政治、経済、軍事」の安定した「皇親政治」を目指したのである。

これは、蘇我氏が目指したものとは異なる。
故に蘇我氏を倒して天皇家に取り戻した事件の目的は明らかに「皇親政治」での「改新」である。

これでは、到底に、蘇我氏が唐が攻めてくるからの説には説得力はない。誰が見ても「蘇我氏の言い分」では納得できないはずである。

つまり、「政治システム」事態も代えたかったのである。
根本的にレベルが異なる。

”大化の改新はなかつた”の発言にはこの点にも納得できない。
誰が見てもこれを”改新は無かった”と思うだろうか。

前記の第1の問題と第2の問題とあわせるとNHKの新説は他の意味する歴史を否定する政治的な大きな疑義を感じる。

次は第3番目の問題に付いて述べる。

続く。

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