青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.394
大化改新4
394編集 追加
NHK放映の新説「大化改新」に付いて。

この新説は次のような事でありました。

1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 後漢滅亡後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。

次は第4番目の”蘇我氏が外敵から天皇を護った。”という説である。

この説は大化改新1から3までの説でのレポートでお判りであろうと思うが、これを大儀明文にして「反逆」の印象を弱める事に努力していたのではないか。

大化改新1で、朝廷の立場から見れば持つ印象は異なると説いた。
その時の前後の蘇我氏の天皇家に対しての行動を見れば誰でも、”反逆”と印象を持つ事であろう。

このことは蘇我氏でも充分に気が付いていたと思われる。
ましてや、二人の天皇とその一族家族を問答無用で自分の思通りにならない人物を暗殺して来たのであるから充分に知っている。

宮廷を窪地に、自分の館を周囲の丘に4つ作ったのであるから、宮廷に勝るとも劣らずの蘇我氏の館を当時の軍略の常識を破って造営したのであるから、この軍略知識は蘇我氏でも知っている。

このように、内側では天皇家を潰し、外側で護るという説は矛盾している。

だから、この二つの事を捉えてさえも、この新説の様に成るだろうか。又、心のそこから”外敵で天皇を護る”等を口にしていただろうか。

現に、蘇我入鹿を討って後に、中大兄皇子は都を移している。”何故移したのであるか”を考えれば理解が出来る。

もう一つは、この蘇我の入鹿と父の蝦夷という人物とその生い立ちを調べることで、どのような性格や人格を持っていたかはおおよそ判る。

この二つの事柄で検証してみる。

乙巳の変、即ち入鹿が討たれた事件であるが、この時の宮廷は、飛鳥板蓋宮である。
この後、皇極天皇(594-661)は孝徳天皇に譲位し、中大兄皇子は直ぐに難波長柄豊碕宮(難波宮)に移ったのである。

この遷宮した理由は、矢張り蘇我氏の旺盛を極めた飛鳥で変のあった土地から離れたいとする意思は納得できるが、その前にこの根拠に付いては、前記した軍略上まずい配置の形態は将来の戦略上、好ましくないとの配慮が働いていたことは否めない。

なぜなら、これには次の四つの事が言える。

先ずその第1番である。
未だ、戦いをした訳ではないのだから、蘇我氏分家は100%現存しているし、本家の勢力を吸収する事で同じ勢力が成立する。

確かに、蘇我石川麻呂は中臣の鎌足に説得された訳であるが、変の時は躊躇して振るえて動かなかったのである。
だとすると、中大兄皇子の成功した直ぐ後の行動は決まっている。

それは、この軍略上逆転した地形と配置から脱する手配をする事が肝要である。
難波宮に遷宮した時は未だ充分に造営が進んでいたわけではなかった事が日本書紀の資料から読み取れる。それほど急いでいた事が覗える。

その証拠に、変の後3年後に、この蘇我氏の長の蘇我石川麻呂は謀反の嫌疑を掛けられて自決しているのである。
つまり、中大兄皇子は間違いなく警戒していた事を物語るものである。その為にもその蘇我氏の勢力を削いだと見られるのである。

次に第2番目である。
前記しているように、阿多倍の動向は抵抗しないとの伝達があったが、その東漢を含む軍事集団がこの後にどのような行動に出るかは不明確である。
(私は前レポートでも記述した通り、話をつけていたと見ている)

中大兄皇子等は眠れない程に疑心安儀した筈である。
先ずそれには、この地形から脱することであり、より港に近い地形を選び攻められた時は海に逃げる方策を考えていた筈である。

この海に逃げる策は当然に難波宮であるが、この難波宮は、蘇我氏の説であれば、最も外国から攻められ易い位置と地形である。
この遷都と遷宮でも、蘇我氏の説には殆ど信用せず耳を傾けていなかったことが判るのである。
海が近いから交易が出来やすいとの説があるが、交易は唐や朝鮮半島との事になるが、今唐や高句麗等の脅威を蘇我氏が述べている位であるのに、交易が云々ではない。

先ず遷して様子を覗う事としたとも見られる。
この時の様子に付いては、難波宮に遷宮する時は孝徳天皇に相談無しにある日突然に移動している。慌てて孝徳天皇は追ってきた様子が日本書紀にも覗えるのである。
それ程に急いでいたという事である。

第3番目である。
皇族一族と5氏の連合豪族の臣下の動きである。

突然に変を秘密裏に実行したのであるから、周囲の合意は無い。
母である皇極天皇や兄弟である古人大兄王たちも驚いて逃げ去ったとある位である。
蘇我氏の血筋を持つ兄弟や重臣たちがどのような態度に出るか見極めることが次の策として必要である。
ここが中大兄皇子の賢い所の所以である。
それには、飛鳥の位置を外して突然に別に移して周囲の動きを見る事が先決である。日本書紀にはこのことが詳しく書いてある。重臣すら連れて行かなかったと書かれている。

難波宮から様子を覗うことで、この3つの動きを洞察する事が出来るものである。
つまり、遷都ではない。遷宮である。
朝廷は各地に宮廷を造っているが、この時は難波宮に遷したのである。

これ等の行動を見極めた上で安全と見た場合には又元に戻す事をすればよい筈である。

現に、そうしているのである。
孝徳天皇の真正直な政治と自分の政治手法で対立して、直ぐに再びある日、突然に孝徳天皇をそのままに、又、「川原宮」に遷宮しているのである。
多分、この時の考え方の違いは、上記の事への対応の違いにあったと見ている。

そのまえには、既に「川原宮」の造営と「後岡本宮」の造営に掛かっているのである。
そして、周囲の様子を慎重に見極めてから”よし、これでいける”として造営にかかっているから、計算すると2年程度以内である。

この根拠として、「天智天皇」の後一段落したと見て後を引き継いだ「天武天皇」は「飛鳥浄御原宮」に遷宮した戻したのである。
この浄御原宮の所在は未だ確定していないが、飛鳥板蓋宮の上層遺構と見られている。

この3つの前提事が判断できれば、政治の実行即ち、改新政治に取り掛かれる。

そして、歴史は実行したのである。
先ず、蘇我氏残党の粛清である。手始めに蘇我石川麻呂である。

孝徳天皇の精神的病死後、再び、重乍(ちょうそ:再び天皇になる)して皇極天皇が斉明天皇
として皇位に着く。
これより改新が前改新レポートに記述した事柄が本格的に開始されるのである。
殆ど天皇家側では外敵などは意識していない。その前の状況の変化の対応であるから、「外敵」意識は殆ど無かつた事を意味する。
むしろ、”そんな事に騙されるか”程度であろう。
今までそんな事が歴史上でないのだから、有ったとしても、次の2つの経験から説明できる。

一つ目は、初代の天皇となつた応仁大王が難波に襲来した時の「融和」の経験がある。
二つ目は、「阿多倍」等の強力な集団の「帰化問題」の経験もある。

「外敵」新説の問題はある程度の判断と理解をしていた筈である。蘇我氏から言われる程度の話ではない。

このような事から「外敵から護ったという説」は納得できない。

それは次の問題である。
蘇我蝦夷と入鹿の生い立ちと資料から見られる性格判断である。

そもそも、蝦夷の父蘇我の馬子は聖徳太子と共に政治を仕切ってきた。
この時代は未だ、東北の方を大和朝廷は征圧して政権下に無かったのである。
この東北地方と蝦夷地方は清和源氏の源の義家のときまでは「アテルイ」らが支配していた一種の独立国であった。

天智天皇の時に、一応は東北部は坂上田村麻呂や阿倍比羅夫の阿多倍の子孫二人にて征夷大将軍として征圧した。
その後、藤原秀郷の一族による鎮守府将軍として藤原秀郷流青木一族が働き沈静化した。そして、最後に、源の義家がアテルイを騙まし討ちして征圧したのである。

この最初の東北部の戦いに蘇我馬子が自ら出陣して戦ったのである。この時、土地の蝦夷族の娘に子供を宿した。そして、連れ帰って養育したのが、蘇我蝦夷である。
名の通り、蝦夷(えみし)である。

この蝦夷は大変体格がよく大男で大暴れする性格で、大変気が荒く攻撃的で乱暴であつたと言われ、馬子は大変手を焼いたとある。

しかし、馬子の子孫は死に、この蝦夷が残って後を継いだとある。
この性格の蝦夷にたいして入鹿は乗馬と弓が美味く豪傑で大胆で、蝦夷の血を引き継いで、矢張り攻撃的性格を示したと記されている。

当時は、朝鮮人と朝鮮系の渡来人は子供に付ける名前は動物の性格を当てて名を付けるという習慣があったのである。これでも朝鮮系渡来人である事が明白である。

例えば、参考に、カタツムリ(でんでんむし)は朝鮮語である。”つむり”は「頭」という意味で、昔は頭の事を「おつむ」と呼んだ。この「つむり」から来ている。この時代に持ち込まれた言葉である。

それ程に後漢の民と合わせて、蘇我氏のように渡来系の朝鮮人も多かった事が覗え、中大兄皇子の周辺には支配されている人も多く居た事を意味するのである。
中大兄皇子の周辺は渡来人で一杯であった事が判り、非常に「警戒心」が強かった事が覗えるのである。

蘇我の蝦夷(えみし)を除き、入鹿はその名の通りイルカである。名は体を現すである。
この蘇我の親子の二人の性格をもってすれば、大化前後の蘇我氏の動きと政策は判るものである。

例えば、次の史実がある。

天皇の宮殿を凌ぐ自分の蘇我氏大邸宅を”上宮門(かみのみかど)と呼ばせていた事。つまり、天皇家気分で呼んでいたのである。そして、入鹿のことを王子(みこ)と呼ばせたとある。皇子を王子としたのである。
百済では皇子を王子と書くのである。
この多くの史実からも蘇我氏の本音のところは読み取れるし、天皇を外敵から護ったとする説には素直に納得できないのである。

もし、そうだとしても、上記の史実はどう説明するのか新説に聞きたい。それ以上の史実を示していないのである。
私には、きつい言い分であるが、歴史に興味の無い人々への煽動的新説にさえ見え、4つのレポートから見ても思えないのである。

NHK大化の新説は史実に基ずく根拠が極めて薄いとさえ考えられ、史実を曲げる疑義を感じる。

人は、その状況に応じて心理反応が働く。その心理の史実となった行動を調べたこの史実を下にしたレポートを読者はどうお考えであろうか。

続く。

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