青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.395
Re: 大化改新5
395編集 追加
NHK放映の新説「大化改新」に付いて。

この新説は次のような事でありました。

1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 後漢滅亡後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。


このレポートはNO5に付いてである。

”蘇我氏が唐を意識していた”という説に対して、どの様な疑問を含んでいるかに付いて検証して見る。

唐は618年に出来た訳であるが、その27年後に専横を極めた蘇我入鹿を討ち645年「大化改新」が起こった。
その時の「唐に対する意識」が、天皇家と蘇我氏との間でどの様に理解していたか、承知していたかを調べる事で判る筈である。

中大兄皇子はどの程度知っていたかを示す証拠が2つある。

一つは4人の知識人が皇子の周りに居て助言をしている。

先ず、一人目は「阿倍内麻呂」である。

この人物は渡来人で、阿多倍子孫である。この阿多倍らは620年(唐に中国全土を制圧される前の隋建国で、漢民が朝鮮を含む東部地区に逃げて光武帝が後漢として独立国を作り上げた後、21代目で唐に征圧される。そして、大和国の博多地域に上陸し、瞬く間に九州全土を制圧して中国地方まで支配下に入れた。この時は孝徳天皇である。この間、27年間である。

この子孫が勢力を持ち朝廷内でも豪族として、重鎮と成っていた。左大臣である。
この人物の中国の唐の知識を中大兄皇子の側に居て進言し、これまでも影響与えていた人物である。
この人物は649年に没しているので「大化の改新」前後には充分に働いている。
この人物だけではない。

二人目は、「高向玄理」(たかむこうのげんり)である。

この人物はこの上記の渡来人の子孫である。608年の「遣隋使」として、又「留学生」として学び、改新前の640年に帰国した経歴を持った人物で前レポートで記述した「国博士」として活躍した。

640年は唐建国618年から22年も経っている。まして、唐の進んだ知識と情報を取得している「留学生」である。
そして、「国博士」として中大兄皇子に進講している役目である。

この人物は後に654年に再び唐に入り、「遣唐使」として入唐しているのである。この人物は唐の長安で客死したのである。
645年とは大化改新の9年後である。つまり、この9年とはどの様な意味を持つのであるかという事である。

中大兄皇子に進講し最も信頼されていた人物を手元から話すにはそれだけの意味が有ったことを示す。
改新後9年で再び唐に渡ったのであるから、この9年の意味は蘇我氏と周囲の問題が大方解決が見えて、次の問題に取り組まなければ成らない状況となったことを意味する。

次の問題とは「唐との取り組み問題」の解決に入った事を意味するのではないか。だから、大化改新計画に最も大事な人物をわざわざ唐に送ったと見える。つまり外交使節であろう。
ところが途中で客死(658-659頃)した事で交渉は頓挫したと見る。

この人物だけでも唐の情報は充分に把握していたことは確実である。知らなかったとする説のほうがおかしい。

「国博士」とは、大陸(唐)に渡った経験があり、その役目は「政治顧問」であり、唐の諸制度に通じている人物を言う。

三人目は、「僧のみん」である。

この人物は、遣隋使として608年から632年まで留学した人物であり、「国博士」に任じられており、中国唐の進んだ科学に精通していて大和朝廷の科学分野の進歩に貢献した人物である。

特に暦や天文には優れていて国の時刻の制定を果たし、この知識をもって地形と水と大理石とで標準時計を作ったことでも有名とされている。

この人物は653年まで朝廷に貢献している。大化改新の8年後まで生きている事から、大化の改新の事柄は全て知っている。
唐には24年間留学生としていた事になるので、軍事の進歩と科学の進歩の知識を中大兄皇子に大きな影響を与えた人物である。

四人目は、「南渕請安」(みなみぶちしょうあん)である。

渡来人の学僧で、608年の遣隋使として中国に渡る。
640年に帰国した。唐建国以後、22年間も唐にも居た事になる。

日本書紀にはこの人物の事が詳しく書かれている。
それによれば、中臣鎌足と中大兄皇子は「請安」に教えを受けている事が書かれている。
「大化改新」の計画に多大な貢献をした事が書かれている。
そして、この人物は645年頃没とされているので、蘇我氏の経緯も知っていて教授していたのである。

この4人の人物が中大兄皇子に唐の情報を詳しく伝えていた事は紛れも無く史実である。

この人物が居て中大兄皇子が唐の状況を知らない方が不思議ではないか。
天皇家側は唐の状況を充分に把握していた。わざわざ蘇我氏ではない。

天智天皇は626−671 皇位668−671であるので、中大兄皇子の皇太子執政で最も忙しい時期の前後に4人は貢献していることである。
斉明天皇在位で天智天皇に成ったのは3年間である。
この時、この天皇を補佐していたのは、弟の大海人皇子(天武天皇)と青木氏元祖の施基皇子である。
まして、これらの4人物は唐の時代に成っても20−30年近く唐にいたのである。数年ではその知識も疑う事も出来るが、直且つ、唐の官僚に混じって働いているのである。

その「唐が攻めてくるから認識云々」という蘇我氏の新説には中大兄皇子が聞く耳を持つだろうか。

そこで、今度は、蘇我氏の立場を見てみると判る事が出て来る。

百済は660年に唐と新羅の連合軍にて滅ぼされた。(大化改新は645年)
白村江の海戦は663年である。
大化の改新から18年後である。
大化の改新のときに言い始めたのではない筈で、建造物を周囲に立てる期間からみても10以上前からでないとその理由にはならない事が判る。

前記した通り、蘇我氏は百済の民で渡来人である事はほぼ事実である。

自分の先祖が潰されると言う「恐怖心」があるからと言って、30年(618)も先の事を予想して果たして計算する予測する事が、現実に出来るだろうか。

現代ではないのである。今から1640年くらい前の時代の緩やかな時代である。その時代に運輸手段や情報手段も無い時代に、30年も先の事を予想する事が出来るだろうか。
もし、30年先のことを予想して言うほうが少しおかしいのではないか。

今、読者諸君が30年先の事を、延々として述べても人は信用してくれるだろうか。

まして、相手が周囲の唐のことをよく知っている人から情報を得ているのである。大して理由にならない「故郷」だからと言う理由で述べても、なおさら信用は元からしない筈である。

645年頃は唐が建国して27年も経ち、日本の学僧や留学生が沢山居る。実質、遣唐使である。

唐と連合軍を創った「新羅」がやっと647年の乱で政権が定まったときである。(金春秋)

そんな時の前の乱のときに新羅と唐がやってくるだろうか。まして、海を渡って来るだろうか。
せいぜい、10年位は経って国が落ち着いてからのことでなくては動く事は出来ない筈であろう。
だから、660年である。
それを実行して国を安定させた建国の父とも言われる人物は661年に死んでいる。

このように時代は何が起こるか判らない30年も先のことに付いて論外である。

白村江の海戦の時代は663年である。つまり、新羅が一番弱っていた時で、唐と新羅が百済を滅ぼした疲れた時期である。

645年頃では、海を渡って大和に攻めてくるには、唐は新羅と戦い、潰して新羅と協定を結び、更に、そして、百済を滅ぼさなくては成らない限り、当時としては無理な事である。
まして、これだけのことをやろうとすれば10年は充分に掛かる。663年なのである。

まして、長蛇の遠征となり、食料、水、人馬疲れなどの多くのリスクを持っている。
まして、前記した様に、戦略上、戦艦列島である。
戦いの一番注意しなければならない「挟撃」である。間違いなく「挟撃戦」は起こるは必定である。

そんなリスクのあるところに、やってくるだろうか。

ここで、漢国が崩壊して後に、東に逃げた光武帝が何故に後漢を建国できたかお考え頂きたい。

光武帝が遼東半島と朝鮮半島を征圧しても隋は手を出せなかったからである。余りに東に長い遠征であるからである。現に遠征軍は途中まで何度も攻めて全滅して諦めたのである。これは食料と気候とえん戦気分とで全滅である。三国志や中国史書にも書かれている事である。

このようなことは唐も新羅も充分に知っている。
まして、それより更に長く海を隔てているのである。
戦いは、NHK新説のように、「新しい戦艦」だけでは戦えないのである。
戦いの要は「リスク」をどの様に見るかである。そして、どの様に対策するかである。
(典型的なリスク対策の見本は前レポートの日露開戦の秋山兄弟の作戦である。)

更にこのリスクに付いてはもう一つ証拠がある。
聖徳太子が中国に書簡を送った事である。

「日出ずる国より、日没する国に物申す」の下りである。
何故に小国が超大国にこれだけのことを言えたのかである。
中国は怒った。しかし、どうする事も出来ない。
この聖徳太子時代の書簡に付いては中大兄皇子は良く知っている。(20年位前)

攻めるには、余りにも遠くて、リスクの大きな戦いである事を聖徳太子は当時の戦いの知識から承知していたからである。

以上のように、NHK新説の「蘇我氏が唐が攻めてくると意識していた」の説にはどちらの立場から見ても史実の矛盾と無視とがあり、「疑問」という範疇とを著しく越えている。

次は大化改新6番目の説に付いて述べる。

続く。

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