青木氏のルーツ & 雑学研究室

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No.396
Re: 大化改新6
396編集 追加
02:14
NHK放映の新説「大化改新」に付いて。

この新説は次のような事でありました。

1 蘇我氏は逆賊ではない。
2 大化の改新はない。
3 蘇我氏館は武器、兵舎であつた。
4 蘇我氏は外敵から天皇を守った。
5 後漢滅亡後の唐を意識していた。
6 日本書紀は書足の編集であつた。
7 天智天皇は失政した。
8 日本文化は朝鮮(三韓)の文化
9 律令国家の導入
10 石と水の庭園は疑問とあつた。
これらを史実で検証してみる。


さて、今度は第6番目の問題である。
この問題は上記の「日本書紀は書き足しの編集であった。」である。

先ずこの「日本書紀」について述べると次の様になる。
この「日本書紀」は次の書物から偏纂して構成されている。

第1番目は「帝紀」である。
古代の皇位継承を中心とし、6Cの欽明天皇期頃に成立した歴史書で又、一部に神話的内容が含まれた書物である。
この歴史書は天武天皇期に内容を再検討したといわれている書物である。
「天武天皇期」とは「日本書紀」を偏纂した時で、この時に再検討されたと言われているものである。

第2番目は「旧辞」である。
古代の伝承(歴史的内容)を中心として偏纂されたもので、神話的内容も記述されている。
この書物は「欽明天皇」期頃に成立したものとされているものである。

「日本書紀」はこの二つの歴史書を史実に基ずく部分を偏纂材料としたものである。

「日本書紀」は天武天皇期に「舎人親王」が中心となって偏纂したもので720年に完成している。
別名「日本紀」とも言う。
全巻30巻と系図1巻から成っている。
その内容は、神代から持統天皇(天武天皇の皇后)までのことを収録している。697年までである。

この偏纂者の「舎人親王」とはどの様な人物かと言う事と、又その周囲の出来事や構成や皇位関係なども把握した上で理解する事が、この時期の問題の解明に役立つのである。
これ等のことを充分に理解した上で、この第6番目の新説に対する重大な影響事であるので、その論評を読み判断して頂きたい。、次ぎに述べる。

そもそも、この「舎人親王」は676−735年まで生きた人物で、「天武天皇」の子供であり「天智天皇」の娘の子供である。つまり、姪を后にしたのである。

参考に、青木氏の元祖の「施基皇子」は天智天皇の子供で妥女(女官)が生んだ子供である。
この兄弟姉妹が「{天智天皇」の実の弟の大海人皇子と結婚して出来た子供であるから、「舎人親王」は中大兄皇子にとっては孫であり、甥と言う事になる。

当時は、天皇家の純血を護るために、近親結婚を常としていたのである。

この甥は、後の「淳仁天皇」の父に当る。この天皇は後に父の「舎人親王」を「崇道尽敬皇帝」と追号した。
それだけに偉人であったことを示す。

当時は、歌の最高歌人、名手として有名で、学に高く、その性格は極めて穏やかで、落ち着きのある人物と記されている。
本来ならば、皇位継承に絡む人物であるが、自ら敢えてこの渦中に入る事を好まず、学問に勤しんだとされ、皇子が14人も居た中で、歳を得ていて落ち着きのあるところから、「天武天皇」も大変信頼していた人物であると記されている。

天武天皇の皇子順位からすると、皇太子の草壁皇子、第2位の大津皇子に続き、舎人皇子は第3位の皇子である。

因みに、第4位は長皇子、第5位は弓削皇子(ゆげ)、第6位は新田部皇子、第7位は穂積皇子、第8位は高市皇子、第9位は忍壁皇子(おさかべ)、第10位は磯城皇子(しき)である。
ここで「天智天皇」が行った皇位継承改革の「第2世第6位皇子の臣下方式」により、後を継いだ弟の「天武天皇」は「天智天皇」の皇子も自分の皇子として扱い皇位の列に入れたのである。
本来で有れば僧になり比叡山に登る身分である。

当時は、天皇の妻は「4段階」(皇后、妃、夫人、賓[みめ:ひん])に別れており、次に第5番目として「妥女」(うねめ)である。
これに依って、「天智天皇」の皇子の生き残った二人の「施基皇子」(しき)と「川島皇子」は順位として妻の階級からは外れた「妥女」であるので、第6位と第7位に列せられたのである。

特に「天武天皇」はこの二人の皇子を本当の皇子以上に愛し、信頼し、皇太子の草壁皇子以上に「改新政治」に重用したのである。「日本書紀」の文脈から判る。

そして、この二人の兄弟姉妹の女性の「持統天皇」は「天武天皇」死後も、他の皇子を無視するほどに重用し、信頼し「天武天皇」の葬儀の指揮までも、皇太子をさておき、「施基皇子」に委ねるほどであった。
何か朝廷で問題が起こると直ぐに呼び出して解決させ居た事がこの書紀に書かれている。
私が調べた範囲では「日本書紀」に出て来る人物の中で段突で13回に及ぶ位である。

同じ天智系の皇子(施基皇子、川島皇子)として「舎人親王」も相互にこの兄弟従兄弟として信頼していた証拠である。

「施基皇子」は「伊勢王」として伊勢の青木氏、「川島皇子」は「近江王」として地名から近江の佐々木氏を賜姓したのである。それ程愛していた事が書紀から読み取れる。
(天智天皇のほかの子供は、詔の判別方式では、大派皇子(おおまた)と軽皇子(かる)と伊賀皇子(大友皇子)建皇子(たける)となるが死亡)以上12人(15人)皇子である。

因みに、皇族賜姓青木氏のサイトでもあるのでより詳しく書く。
当時は近親結婚であるのと、詔の皇族の娘は皇女として扱ったので、判別は難しいが、次の通りである。

皇女には、大田皇女、宇野皇女、沙羅皇女、御名部皇女、阿倍皇女、飛鳥皇女、山辺皇女、大江皇女、泉皇女、水主皇女、新田部皇女で、ここまでが天智天皇の11皇女である。

ここからは天武天皇の皇女で、大来皇女(おおくの)、新田部皇女、但馬皇女、紀皇女、田形皇女、十市皇女、泊瀬部皇女、話基皇子、阿閉皇女(あへ)の9人の皇女等がある。
(新田部皇女は重複するが「阿倍倉梯麻呂」の「橘娘」の子供であるので、同じく天武天皇の子にも名付けたと見られる)

これ等の天智天皇の皇女は殆どは天武天皇の妻となるので、その身分は母の身分に比例する。
特に天智天皇は4人の妻の近親婚を避けて全て女官の「妥女」より産ましている。

「施基皇子」は「越の道君伊羅都女」の子供である。つまり、越の国の豪首の娘が人質として女官として天皇家に仕えて子を産んだ事になる。(伊勢青木氏の元祖)

「川島皇子」は「忍海造小竜の色夫古娘」の子供である。つまり、地方豪族の海造(うみのみやつこ:海の官僚)小竜の娘である。(近江佐々木氏の元祖)

ここで、面白い史実を記する。
前レポートの一つの証明になる。

一番目は、「伊賀皇子」即ち、「大海人皇子」と皇位争いで戦った「天智天皇」の皇子の「大友皇子」は、この伊賀国の首長の娘の「宅子」を母親としている。
そして、その母は女官として朝廷に入り、「妥女」として中大兄皇子の子を産んだ。

つまり、何度も書いている事であるが、「伊勢北部伊賀地方」といえば、ここの国を与えられたのは後漢の17県民を引き連れて帰化して来た大技能集団の大隈の首魁「阿多倍」の国であり、その娘子の「宅子」である。
未だこの大化の時期は阿多倍は生きている。

結論としては「大友皇子」は「阿多倍」の孫に当る事になるのである。
天皇家のこの部分までその「阿多倍一族」の勢力は浸透しているのである。

二番目は、次に、中臣の鎌足の仲介説得を受けた、「中大兄皇子」と蘇我氏打倒の味方をした分家首長の「蘇我石川麻呂」は3人の娘を天智天皇に「妃」として差し出している。

一人目は、「遠智娘」で3人の皇女と皇子を産んだ。
「大日皇女」と「宇野皇女」と「建皇子」である。
この孫の建皇子は8歳で死ぬが、斉明天皇に大変に可愛がられて、死んだ後、暫く斉明天皇はうつ病的になるほどショックを受けた事が書紀に書かれている。
この石川麻呂は、「改新」より3年後に謀反嫌疑で自決するが、中大兄皇子は「蘇我石川麻呂」を確実に引きとめていたことが判る。

二人目は、「芽淳娘」で2人の皇女を産んだ。
「大田皇女」と「沙羅皇女」である。
ここで前レポートした「阿多倍」の妻は「敏達天皇」の曾孫の「芽淳王」の「娘」を娶り3人の男子を産んだと記したが、その別の姉妹娘である。(賜姓族の坂上氏、大蔵氏、内蔵氏である)

改新後は、「阿多倍」はここでもこの様に網の目の様にどちらにも血縁を堅く結んでいたのである。

このことから、入鹿暗殺の後の行動は明らかに、蘇我石川麻呂も阿多倍も味方する事を事前に鎌足と話がついていたことをし示すものである。

三人目は、「姪娘」で2人の皇女を産んだ。
「御名部皇女」と「阿倍皇女」である。
ここでも、「阿倍」即ち「阿多倍」の一族の「阿倍氏」とのかかわりの娘であるから「阿倍」としたのであろう。
「阿倍」と言う地名から取った名である。そこで、「阿多倍」に関わる「阿倍」の地名は2箇所ある。
一つは、九州の鹿児島と熊本の県境に「阿倍」の地名がある。ここは「大隈の首魁の阿多倍」の館があったところである。
もう一つは、信濃の南の入り口に「阿倍」と言う地名がある。ここは「阿多倍」一族が信濃の開拓に廻された場所である。
では「蘇我氏石川麻呂」とすると信濃の「阿倍」で生まれた子供という事になる。
この「姪」の「郎女」はこの地元で子供を生んだと見られる。
このことも、何重にも3者で血縁を固めている事を意味する。

三番目は、「阿倍倉梯麻呂」即ち、「阿倍内麻呂」であり、「橘娘」である。この娘とには2人の皇女が生まれている。
「飛鳥皇女」と「新田部皇女」である。
「阿多倍」の子孫の渡来人の「阿倍内麻呂」は前記した様に大化期前後に重鎮として「中大兄皇子」に仕えて唐等の海外事情を進言して「大化改新」の立て役者の一人として働いた。
この人物の娘を娶り子供を生み血縁を更に硬くしていることしになる。
このことは「中大兄皇子」に唐の事情のことを進言している証拠である。

そして、この二人の子供は「天武天皇」の后に成っている。特にこの「新田部皇女」は「天武天皇」に可愛がられて居る事が書紀から読み取れる。

四番目は、「蘇我赤兄」の「常陸娘」のある。
子供は「山辺皇女」である。
「蘇我赤兄」は「中大兄皇子」と「孝徳天皇」の皇子の「有馬皇子」とが皇位争いをして、「熊野古道」の「藤白峠」の入り口の「藤白神社」の50メーター手前で赤兄に依って絞殺された。この人物である。
「中大兄皇子」の命令である。
蘇我氏の分家筋を血縁で押さえ込んでいた事を示すものである。

蘇我氏の分筋の出方が鍵である事を説いたが、「蘇我石川麻呂」と「蘇我赤兄」との血縁でこの二人の立役者が真に取り込んでいたことがこれで証明出来るのである。

そこで、大化改新の一つである皇族に掛かる費用が朝廷を圧迫していて、この財政的改革を行ったと書いたが、天智天武期の皇族に掛かる費用としては、皇子皇女の数はなんと35人であり、第4世の66の各国に配置している王までの51を入れると86程度にもなる。またその家族を入れた場合は倍は超える。
この皇子皇女族を養うには経済的に無理がある。天皇家の財政(内蔵)は破綻寸前である。
これでは持たない。(それまでは第7世以降は臣下させ坂東に配置した方式であつた。)
これが全ての前記したレポートでの「財政的改革」の引き金に成っている。

そこで、第4世皇子方式から第2世第6位皇子臣下方式とばっさりと切った「行政改革」を実行した。

そこで、次の事を実行した
この第6位皇子に賜姓(青木氏)して臣下させた事。
第6位皇子以降は僧侶、学僧と成り、皇女は皇族系の神社の斎王と成った事。
この第6位皇子を天皇を護る親衛隊として編成して配置した事。
この時、その親衛隊の青木氏に「笹竜胆」の象徴紋を与えた事。
このステイタスとして「鞍作部止利」作の「大日如来坐像」を与えた事。
王位は第4世までとした事。(その前は第6世までであった)

但し、余りに厳しいので、6代後の嵯峨天皇期に、賜姓青木氏は皇族還俗者が名乗る氏とし、変名して第6位皇子には賜姓源氏とする事を決めた。そして、第2世を第4世第6位皇子臣下方式に変更した。
詳しくは以上の改革を行っている。

そこで話を戻すと、
この「日本書紀」を始めとして、「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」以上6つの漢文による天皇家に関わる史書がある。これを「六国史」(りっこくし)と言う。

「日本書紀」は−697年の史料を偏纂し、基本史料30巻で、舎人親王らが720までに編集。
「続日本紀」は697−791年の史料を偏纂し、基本史料30巻で、藤原継縄ら797年まで編集。
「日本後紀」は792−833年の史料を偏纂し、基本史料40巻で、藤原諸継ら840年まで編集。
「続日本後紀」は833−850年の史料を偏纂し、基本史料20巻で、藤原良房ら869年まで編集。
「日本文徳天皇実録」は850−858年の史料を偏纂し、基本史料10巻で、藤原基経ら879年まで編集。
「日本三代実録」は858−887年の史料を偏纂し、基本史料50巻で、藤原時平ら901年まで編集。

日本の史書は「帝紀」と「旧辞」を含めると「8史料から繋がり」をもって構成されているのである。
日本書紀だけ単独で史書と成っているわけではないのである。「繋がり」を持っているのである。

単独ならいざ知らず、連携した史書であるから容易にNHK新説の様には出来ない仕組みに成っているのである。
ここで、本題の「日本書紀」は「追記されていると」の新説であるが、その「追記の事柄」として「文章の変更」と「追記」であるとしている。
この説に対する経緯を述べると容易に理解されると考える。

この説は、1950年(敗戦4年後)の第2次大戦の敗戦で、国内の日本人が持つ「国粋主義思考」を押さえる目的で米国進駐軍(GHQ)が左傾主義の人物を教育界に入れた。
この結果、思わない方向に時代が進んだので、進駐軍は急遽このグループを逆に弾圧したのである。
この思わぬ方向とは、そのイデオロギーを達成するには、「国の歴史」を否定する事が必要で、これになくして「結果平等」を目途とした「共産革命」はなし得ない。そこで、先ずその歴史の基となる上記の史書の否定から入ったのである。
その狙い撃ちにされたのは「六国史」の基の「日本書紀」の否定であり、二つ目は日本民族の基は「アイヌ説」として、「民族の基」を否定したのである。

この二つを否定することで民族は「日本民族」説を否定する事が出来て、「結果平等」が達成し、その基となる「日本歴史」から来る「日本的規範」を乱す事が出来る。つまり、「軌範」は崩れて「民族の繋がり」は無くなり「革命」は可能となるのである。(ロシア革命の前提)
この時、日本史の「日本書紀」はまったく信用出来ない「嘘の史書」とレッテルを貼ったのである。

慌てた進駐軍はこの失敗を隠す為に弾圧したが間に合わなかったのである。
この失政が教育界に長く及び、現代に於いても未だ続いているのである。

しかし、このことを政府は30年掛けて研究し、遺伝子的に、論理的に証拠付けた。
「国体を揺るがす事態」であるので国は対抗策として研究したのである。

そして、先ず、「アイヌ原住民」説の激しい運動は、この研究にて「アイヌ説」は遺伝子工学的に完全否定されて消え、運動も消えたのである。(後日レポートする)
また、日本民族の本来の形を証明し「7つの民族融合から来る単族説」を証明して「民族否定論争」は消えたのである。(後日レポートする)
更に、この「日本書紀」の「デタラメ説」は発掘作業と古代史研究に国家予算をつけて証明が進み、かなり信頼性が高い史書である事が証明されて来たのである。

その証拠には「日本書紀」を改纂すると、上記した六つの史書の連携の矛盾が生まれるのである。
確かに天武期の編集中には一部修正したことが判っているが、後の修正は証明されない。

「間違いが多いとする説」には、大和の者が直接関わったものではなく、この「日本書紀」偏纂には「阿多倍」らが引き連れて来た「秦部」や「司馬部」等の事務官僚の漢民が直接携わって執筆されている事等から本職の者が実質偏纂しているのである。故にに当らないのである。
まして、この時には前記した渡来人の唐の4人の留学生「国博士」が側にいて歴史監修しているのである。
この様にプロ中のプロが集まって行っているのであって趣味的に偏纂したものではないのである。

しかし、ここで、韓国に於いて、決定的な「日本世記」と言う書物が最近見つかった。

この書物は、「中大兄皇子」の政治顧問として百済から派遣されていた(催氏)人物で、この者が「中大兄皇子」の日常の政務を「日記」にして細かく書き知るしていたものが発見されたのである。
この人物が国に帰るときに持ち帰ったものである。

司馬遼太郎氏らの歴史家と国は、この人物の書き記した物が遺されている事を予見して韓国に探すように求めていたのである。これが見つかれば「日本書紀」の内容を確認出来る。
結果、見つかり内容を確認したところ「日本書紀」に書かれている内容がより詳しく、不明点も判明したのである。そして、「日本書紀」の内容の信頼性が、「全面否定」から、8割から九割近い方向に証明されたのである。
またこれにより、韓国文化の日本文化への影響も明確に成る等の影響も出たのである。

NHKの大化改新番組での韓国人の研究者のインタビューの力説はこの点にあったのである。

残る不明点は今後の発掘等の作業から導かれる。

「日本世記」等がこの問題を解決しているのである。

故に、日本人の現代の一個人の者の知識レベルで「ここが間違っている」とする説には同意が出来ないのである。

「字句の前後を変えて間違えた」とのNHKの新説は、漢文専門家によると次の答えが出た。
「文章の強意するところは漢文的には前後する事が手法とする事がある」との判断もあり、日本文でも同じである。決して、間違いではないのである。

まして、「上記の背景」や「舎人親王」の人柄も含めて、我々マニアでさえも上記した様なことの知識は充分知っている。

一度、「日本書紀」を読まれると良いと思う。
NHK新説は、上記した戦後の彼等の常等手段と類似する言い分である。

いずれにせよ、筆者はイデオロギーに偏らず、史実は史実として扱い、それをどの様に配慮して伝えるかによると考えている。
故に、青木氏の歴史史実と由来のより真実を世に伝える努力をしている。

「日本書紀」は、決して「神話的内容」には成っていないし、後で「内容に手を加えた」とする説にも、文脈や文章の流れも字句、語句にも違和感を持ち得ない。むしろどちらかと言うと平易的過ぎるとも思う位であるとの感がする。

何れ近い将来には確率高く証明されると信じている。

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